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Instructions for use Title 一九世紀ウイッグの精神構造(1)

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Instructions for use Title 一九世紀ウイッグの精神構造(1)
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一九世紀ウイッグの精神構造(1)
小川, 晃一
北大法学論集, 45(1-2): 17-63
1994-07-29
DOI
Doc URL
http://hdl.handle.net/2115/15572
Right
Type
bulletin
Additional
Information
File
Information
45(1-2)_p17-63.pdf
Instructions for use
Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP
、
〆
J'
,
-EE
晃
フォイエルバッハの﹃キリスト教の本質﹄が翻訳され(五四年)、F・ W- ニュ l マンの﹃魂﹄(四九年)、グレッグの﹃キ
﹃エッセイとリヴュ l﹄ 六O年)
スペンサ l の
第
リスト教信仰﹄(五一年)、聖パウロの書簡についてのジョウエットとスタンレイの注釈(五五年)、 バックルの ﹃イギ
リス文明史﹄(五七│六一年)、ミルの ﹃自由論﹄ (五九年)
原理﹄(六二年)、シ l リl の ﹁エケ・ホモ﹄ (六五年)、科学的な著作としてチャマ lズの ﹃創造の自然史の退化﹄
と
四年)、 ダl ウィンの ﹃種の起源﹄ (五九年) な ど が 公 け に さ れ た 。 こ れ ら の 著 作 が 六0年 代 大 学 で 学 ん だ 人 た ち に 問 題
四
と 出 版 さ れ 、 翻 訳 さ れ て い る 。 異 端 的 な シ ュ ト ラ ウ ス の ﹃ イ エ ス の 生 涯 ﹄ が G ・エリオットによって翻訳され(四六年)、
イ ギ リ ス の 知 的 雰 囲 気 は 一 八 四 五 年 か ら 二 0年 間 に 大 い に 変 化 し た 。 六0年 代 半 ば ま で に 新 し い タ イ プ の 著 書 が 次 々
九世紀ウイッグの精神構造
一
/
園
、
、
説
を投げかけたことは否定すべくもない。
北法4
5(
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2・1
7
)1
7
論 :
i
説
論
﹂うした有名な著作の動向からみると、
(1)
(一九O 五 年 ) の
一九世紀、少なくともその半ばすぎの時代思潮において、自由思想や功利主
義 的 傾 向 が 支 配 的 と な っ た よ う に み え る 。 ダイシ l も 有 名 な ﹃ 一 九 世 紀 イ ギ リ ス に お け る 法 と 世 論 ﹄
一般の人々により、またがいして正当にも、ベンタムの名と結びつけられた一連の
中 で 、 二 五 年 か ら 七O 年 ま で の 時 期 を ﹁ ベ ン タ ム 主 義 な い し 個 人 主 義 の 時 代 ﹂ で あ る と し て 次 の よ う に い っ て い る 。
﹂の時代は功利主義的改革の時代である。立法は
見解によって支配された。ベンタムが創出者といえなくとも確実に予言者となったとはいえるその運動は、何よりも法改革のための運動
である。それは英国法のすべての箇所にそのてい度は実に様々であれ影響を及ぼした。それは議会の不断の活動を刺激し、個人のエネル
ギlに対する制約を除去し、実際的な妨害を含んだり、あるいは何らかの仕方で個人の自由に抑制を加えるように恩われるあらゆる歴史
的な異物と残存物に対し計画的な敵意をあらわにした。
六0 年 代 初 期 ま で に ミ ル の 影 響 は 一 言 論 界 に 圧 倒 的 だ っ た と い え る 。 広 範 に 亘 る 彼 の 思 想 分 野 、 論 理 学 、 形 而 上 学 、 政
治学、経済学は保守的伝統の濃いオックスフォードにさえその影響を及ぼしている。こうした思潮の広がりの背景をみ
ると、世は世俗的で物質主義的となり、人々の性格も利己的で軽薄となったかのごとくみえる。そのように時代を批判
マシウ・ァ l ノ ル ド や カ l ラ イ ル は そ の 典 型 で あ る 。
一九世紀半ばすぎ功利主義的傾向が支配的になったとか、 さ ら に 世 は 世 俗 的 に な り 物 質 主 義 的 に な っ
し、痛罵する知識人にもこと欠かない。
しかしながら、
たとかと、単純にいうことはできまい。ミルの影響は大学にも大きな影響を及ぼしつつあったことは確かであるが、旧
大学が彼の思想に圧倒されてしまったとはいえまいし、 また世俗化が進んだとはいえ、宗教心がなくなったともいえま
いし、国教会にさえ自由主義の影響が広がるものの、国教会が解体されることはなかった。
ミ ル は 五 九 年 ﹃ 自 由 論 ﹄ を 公 に し た し 、 同 じ 年 ダl ウィンは ﹃ 種 の 起 源 ﹄ を 公 に し た 。 ミ ル が ﹃ 自 由 論 ﹄ を 公 に し た
と主¥ それは世のマジョリティの意見の脅威、 と り わ け 世 の 道 徳 感 情 を 支 配 し が ち と な っ て い る 宗 教 家 や 宗 教 的 感 情 の
北i
去45(
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8
一九世紀ウイァグの精神構造(1)
脅 威 を 痛 切 に 感 じ て い た か ら に 外 な ら な か っ た 。 ﹃ 種 の 起 源 ﹄ の 出 版 は │ │ ダl ウ ィ ン 自 身 は そ う 考 え な か っ た が
││一般的に、 キ リ ス ト 教 信 仰 を 掘 り 崩 す も の と し て 、 科 学 者 と 教 会 と の 聞 の 摩 擦 の 始 ま り を な す と み ら れ た 。
六0 年 代 キ リ ス ト 教 信 仰 に 対 す る 知 的 挑 戦 が 活 発 と な っ た こ と は 確 か で あ る が 、 そ れ を 直 ち に 社 会 の 世 俗 化 と つ な げ て
みることは危険であろう。その知的挑戦がかえって宗教的論争を活発にした面がある。タイムズ紙が﹁科学と宗教との
戦い﹂を論説に掲げ論争を刺戟したのは六四年である。キリスト教信仰や教会があからさまに攻撃をうけたとき、しば
J-s ・ ミ ル 自 身 、 イ ギ リ ス に お け る 功 利
し ば 反 作 用 の パ ネ が 働 ら き 、 ︿ 教 会 の 危 機V の 叫 ぴ が 現 わ れ 、 挑 戦 に 対 し て ︿ 潜 在V す る 宗 教 心 が 活 発 に 現 わ れ る 。 少
(2)
な く と も イ ギ リ ス 社 会 に お い て 、 八 世 俗 化V が 直 線 的 に 進 ん だ こ と は な い 。
主 義 の 位 置 に つ い て 七0 年 代 初 め こ う い っ て い る 。
あなたは、多くのフランス人と同じように、功利主義はイギリスで有力な哲学であるという意見をもっておられるように思われます。
だが、功利主義は決してそのようなものではありません。人々はその学説の中にイギリス国民の精神とのある類似性を見出しているよう
ですが、実際には功利主義はイギリスでは非常に評判が悪いし、殆ど常に悪評を、つけてきたのです。イギリスの評論家は殆ど功利主義を
拒否するだけではなく、それを軽蔑しています。ベンタム派は常にとるに足りない少数派とみられてきたのです。
寸 心 に 訴 え る 宗 教 に 対 す る 信 仰 を 広 げ よ う と す る 刺 戟 は 、 一八六O 、七0 年 代 に お い て と り わ け 強 力 で あ っ た 。 そ れ は 、
リノサイエイ
(3)
科学上の発見や聖書批判が大々的に報道された結果として、宗教の性質についてそれまでなかったような関心がもたれ
た が ゆ え で あ っ た 。 そ の 年 代 、 ど の 時 代 よ り も 、 八 社 交 会V と 質 の 高 い 新 聞 が 宗 教 上 の 問 題 に か か わ っ た ﹂ の で あ る 。
一日に、教会のサービスに出
一般の人々もそうである。教会のサービスに
一八五一年三一月三十日、
一人で一日一度以上サービスに出席する人がいるであろうから、こ
一八五一年の国勢調査によれば、
宗教問題が重要であったのは知識人や社交会の上層の人々のみではなく、
出席する人の数は非常に多い。
席した人数は人口の六一%に当たるほどであった。
北j
去45(
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)1
9
五
説
論
のパーセンテージほど高くはないことになろうが、 そ れ で も 人 口 の 半 数 ほ ど が 、 出 席 し て い た こ と に な る 。 ヴ ィ ク ト リ
ア 時 代 の 宗 教 心 の ︿ 復 活V が様々に説かれるゆえんである。
﹁勤勉な中産階級﹂ や職人の賞賛は一九世紀、 ノンコンフォ l ミ ス ト と 結 び つ け ら れ る の が 普 通 で あ る 。 そ れ は 、 大
(4)
土 地 所 有 ア リ ス ト ク ラ シ ! の ︿ 上 層 一 万 の 利 己 的 利 益V 追 求 に 基 づ く 特 権 の 壁 に 対 抗 せ し め ら れ 、 そ こ に は ﹁ 勤 勉 な 中
産階級﹂ の 中 か ら 生 ま れ て く る 能 力 あ り ハ l ド ワ ー キ ン グ な 個 人 へ の 機 会 開 放 へ の 要 求 が あ っ た 。 こ れ ら の 人 々 は し ば
しば狭溢な自己利益を追求し、物質財の獲得と消費を最大にする権利をもっとされるという。しかしこうした見解はヴ
ィクトリア時代人の性格を著しく歪めている。当時、欲求の限りなき満足のみでなく感覚的で動物的な本能や感情を、
何 よ り も 意 志 の 力 で 越 え よ う と す る 八 強 固 な 性 格V が 重 ん ぜ ら れ た 。 禁 酒 法 制 定 へ の 努 力 は こ の こ と を よ く 現 わ し て い
る。謹厳(禁酒)、自助、節約、勤勉、義務感、独立などの諸徳は最も一般的なヴィクトリア朝中産階級の徳目であった。
これら徳目は小実業家によくみられた。世俗的成功は賞賛されたが、 そ れ は 努 力 と 節 倹 に よ る と き で あ り 、 幸 運 に よ る
(5)
場合ではない。この時代盛んにつくられた友愛団体や貯蓄銀行にもこれらの徳目は現われている。しかもこれらの自発
的 H自助的団体は、 ス マ イ ル ズ の い う よ う に 、 ﹁ 最 も 高 い 意 味 で 自 分 を 援 け る こ と は 隣 人 を 援 け る こ と を も 意 味 す る ﹂
という考えを示している。これら個人的徳目の実行は、同時に社会の進歩に役立つともされた。人間の善性への確信に
基 づ きll時 た ま 逸 脱 が あ る も の の │ │ 封 建 的 で 軍 国 主 義 的 な 時 代 は 去 り 、 個 人 間 、 及 び 国 民 間 で 協 調 の 時 代 が こ よ
ぅ、と信じられたのである。このようなヴィクトリア朝中産階級││リスベクタブルな熟練労働者を含めて││のモ
ラルはノンコンフォ l ミ ス ト に よ く 体 現 さ れ 、 促 進 さ れ た の で あ る 。 グ ラ ド ス ト ン の 八 道 徳 主 義 的V 政 治 も こ う し た 時
代の背景なしには考えられない。
マシウ・ア l ノ ル ド は 、 富 裕 な 中 産 階 級 に つ い て 、 ﹁ つ っ け ん ど ん で 、 絶 対 的 で 、 外 国 の こ と に 暗 く 、 いく分下劣で、
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5(
I-2・20)20
一九世紀ウイッグの精神構造(1)
(6)
こ っ け い な こ と を し て い る と き に も 、 そ れ に 気 づ か な い ほ ど 鈍 い ﹂ と 悪 罵 を あ び せ な が ら 、 そ の ︿ ま じ め さV にだけは
(7)
敬意を払っている。﹁わが中産階級はいやしく下劣にみえるけれども、その主要な美徳、まじめさをもっている。軽薄
さというもの、 そ れ が 洗 練 さ れ た も の で あ ろ う と な か ろ う と 、 そ れ を 全 く も た な い 。 ま じ め さ 、 こ こ に 望 み が あ る ﹂ と 。
(
8
)
ヴィクトリア時代中期はまじめさの時代であり、まじめな人聞が立身出世する時代であった。イギリスの中産階級につ
いて、テ l ヌ は こ う 書 い て い る 。 ﹁ 彼 ら に と っ て 幸 福 な 生 活 と は 、 夕 方 六 時 に 帰 宅 し て 、 愛 想 の よ い 、 貞 節 な 妻 に お 茶
をいれてもらい、膝の上へ這いあがる四、 五 人 の 子 供 た ち に 固 ま れ 、 う や う や し く 召 使 い に か し ず か れ る よ う な 状 景 で
(9)
あ る こ と が 、 私 に は 容 易 に 見 て と れ る ﹂ と 。 実 際 王 室 は 国 民 の 模 範 で あ り 、 そ れ は 完 全 な ま で の 性 的 ︿ 純 潔V と 、 家 庭
生 活 へ の 全 面 的 な 献 心 で あ っ た 。 皇 太 子 は ロ ン ド ン 八 社 交 会V に 一 度 な ら ず セ ン セ ー シ ョ ン を 巻 き 起 し た が 。
(日)
マシウ・アi ノ ル ド は 十 九 世 紀 半 ば 、 当 今 の 貴 族 を 一 八 世 紀 の 貴 族 と 比 較 し 、 ﹁ 私 的 家 庭 的 徳 性 、 道 徳 や 礼 儀 作 法 ﹂
(日)
の 面 で は 、 ﹁ よ い 方 向 へ の 変 化 ﹂ が あ っ た こ と を 認 め る 。 決 闘 、 賭 、 女 遊 び は 一 八 世 紀 ア リ ス ト ク ラ シi の 生 活 中 の 不
一八世紀生れのジェントルマンや政治家もこれ
可分の一部であり、決闘、賭、自殺は、ジェントルマンの三大悪徳といわれた。決闘は日常茶飯事であり、政治家の間
の決闘もごく普通であった。女遊びは三大悪徳にさえ含まれていない。
ら の 悪 徳 を う け 継 ぐ 。 ウ ォ ル ポ l ルは晩さんの後、﹁張談をしたし、 チ ャ ー ル ズ ・ フ ォ ッ ク ス は 賭 博 が 大 好 き だ っ た し 、
ピットさえ熊いじめに夢中になったし、 お祭の時焼けたコルクがぶつかって顔を真黒にしたし、 キ ヤ ニ ン グ は 不 ま じ め
な詩を書いたし、 メルボ l ン は ま じ め な 人 達 の 議 論 を 聞 き な が ら 、 羽 毛 を ふ っ と 吹 き と ば し 、 突 然 場 違 い な 冗 談 を 云 っ
(
ロ
)
たし、ダービーは競馬場でおそろしく不まじめな振舞いをしたし、パーマ l ストンは演壇で肉屋を怒らせる演説をして
一八世紀と一九世紀のイギリス貴族を比べたア l
喜んだ﹂。これら政治家は真剣な野心をもち、執務中はけん命であったが、解放感を欲した。国民も彼らが仕事の合い
聞に賭事や狩猟や競馬や女遊びをするのを悪いこととはみなかった。
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(日)
ノルドも﹁私的家庭的徳性、道徳や礼儀作法﹂では粗野な所がある一八世紀貴族には、当今の貴族には失われている﹁公
的で際立った徳性、即ち、高遇な精神や堂々たる性格や立派な教養﹂があったと、嘆いている。まじめなジョン・ブラ
(U)
イト(クエーカー)は、パーマ l ストンのことを﹁年老いた山師、白髪の罪人﹂といい、﹁時代を動かしているが、時代、
及び現代のまじめさを共にしていない﹂という。パーマ l ストンは、偉人がまじめさの神殿に身を捧げる必要がなかっ
たともいえる一八世紀の生れ撮政時代のだて男であった。
(日)
女 遊 び は ︿ 悪 徳V で さ え な か っ た 。 選 挙 法 改 革 の 一 貫 し た ︿ 闘 士V グレイ首相は、 デ ヴ オ ン シ ャ l公 の ロ ン ド ン 邸 に
で入りしていた若い頃、公夫人のあのジョージアナと関係をもち、子供までつくり、故郷の母親にひきとってもらった。
(凶)
ジ ェ ン ト ル マ ン に も 女 遊 ぴ は 許 さ れ て い た 。 ロ ン ド ン に は イ ギ リ ス 人 の 生 活 の ﹁ 不 潔 な 啓 部 ﹂ と テ1 ヌ が 呼 ん だ あ の 性
的不純が存在した。 ロ ン ド ン に は 売 春 婦 が 一 万 八000人 も い る と も さ れ た 。 ま じ め な グ ラ ド ス ト ン は 彼 女 達 に 身 を 改
めるよう、夜な夜な街に出て説いて廻ったのであった。彼はウエスト・エンドに苦り切っていた。売春は広く行われ、
ジェントルマン達が彼女達と遊ぶことはごく普通のことであった。上流階級の殿方は女と遊び、情婦を囲った。
たが。ヴィクトリア時代の上流階級の殿方はいかがわしい女と遊び、情婦を囲い、このことは、労働と自助と純潔を旨
(げ)
女 騎 士 の ︿ じ ゃ じ ゃ 馬 馴 ら しV ス キ ッ ト ル に い れ あ げ 、 情 婦 に し た 。 二000ポ ン ド の 終 身 年 金 を 手 切 れ 金 に し て 分 れ
、 ハイド・パ l クで馬を乗り廻している貸し馬車屋の一展われ
御 曹 子 若 き ハ l テ ィ ン ト ン 侯 、 八 ハ l ティ・タ 1 ティV は
と 馬 の 育 種 の 伝 統 を 捨 て 去 る こ と は な か っ た 。 六0 年 代 グ ラ ド ス ト ン の リ ー ダ ー シ ッ プ に 抵 抗 し た デ ヴ オ ン シ ャ l公の
紀上層階級の子弟は学問に励むようになった、 と は い え 、 彼 ら が 福 音 主 義 的 活 動 を 行 っ て い る 者 と い え ど │ 女 遊 び
九
あ っ た 。 ヴ ィ ク ト リ ア 時 代 の 男 性 は 晩 婚 で あ っ た し 、 アリストクラットの本拠は地方にあり、 ロ ン ド ン で の 生 活 は 仮 の
と す る 中 産 階 級 の 人 々 の 批 判 の 的 で あ っ た 。 が 、 そ れ は 上 層 階 級 の 殿 方 と 一 し ょ に い る 娘 た ち に と っ て は ︿ 安 全 弁V で
世
説
論
北法45(
1
2・
2
2
)
2
2
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ものであって、途方もなく貞節な妻をそこに残して、 ロンドンで仮の生活をしなければならなかったのである。
だが、.﹁まじめきが政治家に対する新しい要求項目となった﹂ことは否定できない。 グ ラ ド ス ト ン は ま じ め さ の 典 型
(時)
であった。﹁ピ 1 ル は ま じ め な 人 物 で あ る 。 だ が 、 グ ラ ド ス ト ン は 、 自 分 が 神 に 選 ば れ た 道 目 円 で あ る と 信 じ た 最 初 の 首
相 で あ っ た ﹂ 。 彼 の ま じ め さ に は 屈 折 と 思 わ れ る と こ ろ が あ る 。 し ば し ば ︿ 偽 善V と い わ れ る ゆ え ん で も あ る 。 若 い 頃
人 目 を 魅 く ヴ エ ル ヴ エ ッ ト の 派 手 な 服 装 で 人 前 に 出 て い た ︿ 偽 悪 家V の デ ィ ズ レ リ (一八O 四l 八二) も 議 員 に な っ て
ユダヤ人のディズレリは宗教
ほどなく黒っぽい身なりに変る。グラドストンや、彼のややのちの世代の政治家のまじめさには信仰に裏づけられたも
のがあろう。 ア リ ス ト ク ラ シ ! の 人 達 に あ っ て は よ り 直 接 的 に 出 て く る で あ ろ う 。 他 方 、
に無感覚であったように思われる。世紀半ばすぎの政治家としてはこれが不利に働いたに違いない。
﹁ヴィクトリア朝の最初の二一0年 間 、 ジ ェ ン ト ル マ ン 達 は 理 想 的 な 人 間 類 型 と し て 、 ま じ め で 、 良 心 的 で 、 道 徳 的 に
(日)
無 欠 な 性 格 を 追 い 求 め た 。 ヴ ィ ク ト リ ア 朝 の 最 後 の 三0年 間 、 こ れ ら の 徳 は ハ イ ・ ソ サ イ エ テ ィ で は そ れ ほ ど 魅 力 あ る
ものではなくなったが、中産階級によって厳格に模倣されることになった﹂ のである。上層階級のイギリス人の大部分
一八世紀や撮政時代の彼ら
も外面的な行動パタンにおいてはこの徳目に服した。トランプでインチキをしないことは彼らの鉄則であった。名誉は
何よりも守るべきものであった。世紀半ばにおける上層階級の理想的な人間類型の変化は、
の 行 動 様 式 に 対 す る 八 世 代 の 反 動V で も あ っ た 。 キ ン グ ズ レ イ は 上 層 階 級 に お け る こ の ﹁ 高 尚 な 変 化 ﹂ が 福 音 主 義 及 び
国教会での信仰の影響や﹁共通の人間らしさや正義に基づく﹂自由主義的原則の広まりによるとしている。
世 紀 半 ば の 最 大 の 争 点 で あ っ た 自 由 貿 易 の 問 題 は 五0年 代 決 着 し た と い え る 。 対 外 問 題 を 除 き 、 世 紀 半 ば す ぎ 重 要 な
争点であった選挙法改正の問題は一応六七年の改正で決着がつく。この改正においては、自由、保守両党の立場の相違
北法4
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)
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3
説
吾
"
百
聞
(初)
(幻)
は殆どなく、 そ の プ ロ セ ス は 著 し く ︿ テ ク ニ カ ルV な も の で あ っ た 。 ま た 、 社 会 問 題 に お け る 対 処 に お い て も 、 国 家 が
一 定 の 積 極 的 役 割 を 呆 し て ゆ く と い う 観 点 で の 八 合 意V は三0年 代 以 後 お お 方 で き た と い え る 。 で は 、 自 由 、 保 守 両 党
l労 働 組 合 の 組 織 化 が 進 む と と も
の 対 立 は 全 く ︿ テ ク ニ カ ルV な も の と な り 、 原 理 的 な も の で は な く な っ た と い え る で あ ろ う か 。 否 で あ る 。 労 働 者 の 運
動 は チ ャ ー チ ズ ム 運 動 の 死 滅 と と も に 激 し い も の で は な く な っ て い た 。 そ れ で も│
にl │ それは重要となりつつあり、デモクラシー化への恐れも広がっていたが、選挙法改正によって一定の対処がな
されたし、 ま た 政 党 組 織 の レ ベ ル で み れ ば 、 労 働 運 動 は 自 由 党 内 の 問 題 と し て 対 応 が で き た ( ︿ 自 由 労 働 主 義V
ピσICE的 自 ) 。 世 紀 半 ば す ぎ 、 最 大 の 政 治 的 争 点 と な っ て く る の は 、 宗 教 ・ 教 会 問 題 と こ れ に 関 係 す る 問 題 で あ る 。 こ
﹂に自由、保守二党の立場の原理的相違が現われる。
宗教や教会の問題が重要な政治的争点となるということは、宗教的関心がなまぬるいものではないということからす
れば、ごく自然だともいえる。われわれは世紀半ばすぎにおいても、宗教への関心が薄くなり、世俗的関心が支配的に
なったとはいえないことをみた。しかし、宗教・教会問題が政治問題化するのはそのためばかりではない。イギリスで
(幻)
は 国 教 会 制 が 維 持 さ れ て お り 、 そ の こ と が 問 題 を 一 層 尖 鋭 化 す る 。 莫 大 な 財 産 を も っ 国 教 会 の 八 腐 敗V と い う 問 題
ーl こ れ は 現 に ︿ 改 革 の 時 代V の 改 革 の 対 象 で あ っ た 。 ー ー が あ る が そ れ だ け で は な い 。 国 教 制 で あ る が ゆ え に 、 国 家
や 政 治 が 直 接 教 会 の 事 が ら に 干 与 す る (主教たちは、政府が国王の承認の下に任命するということに端的に現われる)。
反 対 に 、 主 教 達 は 上 院 議 員 で も あ る か ら 、 僧 侶 が 政 治 に 直 接 関 与 す る の で あ る (選挙法改革の時に僧侶の介入が決定的
(お)
な 結 果 を も た ら し た こ と に 、 端 的 に 現 わ れ る ) 。 こ う し て 政 治 的 立 場 が 教 会 H宗 教 に 、 教 会 H宗 教 の 立 場 が 政 治 に 反 映
される。そればかりではない。国教会に属しない強力なノンコンブォ l ミストの勢力が存在するのである。彼らは国教
会と信仰の在り方が異なるばかりではなく、二八年審査律・自治体法が廃止されたにもかかわらず、社会的に差別をう
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)
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4
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けている ( 国 教 会 墓 地 で の 埋 葬 と か 、 旧 大 学 へ の 入 学 ・ 学 位 取 得 と か 等 々 ) 。 こ の 差 別 の 廃 止 の 問 題 は ノ ン コ ン フ ォ l
ミスト自身の運動として展開されるばかりか、自由、保守二党の、 ま た 国 教 会 内 で の 高 教 会 派 と 広 教 会 派 の 立 場 の 対 立
をもたらす争点になる。国教徒でないにも拘らず彼らが国教会(修理など)のために納税しなければならないという︿不
都 合V も あ る 。 ま た 宗 教 ・ 教 会 問 題 は 教 育 の 問 題 と 密 接 に 関 係 し て く る 。 宗 教 教 育 の 必 要 性 の 問 題 は 避 け て 通 る こ と の
世俗的専門職のための教育機関とされるのは世紀も
できない事柄であり、これも政治的争点となる。大学においてもそうである。旧大学の使命は、教養を身につけさせる
(M)
ことを別として、何よりも国教会僧侶の養成の制度であったのだ
サプスクリプンヨン
終りに近くなった頃である)。審査律が廃止されたにもかかわらず、大学入学の際に三九ヶ信仰箇条と祈祷書の
正式受諾が条件とされ続けたのもこのためである。
宗教・教会問題はこの時期アイルランド問題とからんで最も尖鋭な問題となる。 アイルランドは圧倒的にカトリック
の多い極貧地域であり、 二 九 年 カ ト リ ッ ク は 解 放 さ れ た が 、 そ れ で も プ ロ テ ス タ ン ト の 国 教 会 制 が 維 持 さ れ 、 こ の 国 教
会は豊かな財産をかかえていた。またダブリンにある大学も圧倒的に優位した地位を占める豊かなプロテスタント大学
であった。こうした矛盾と困難をかかえるアイルランドで、イングランドにあった宗教・教会問題と大学問題が最も尖
鋭化された形で現れてくる。ここでは国教制いかんが直接問題になってくる。
一九世紀半ばすぎ重要な争点となった教会問題に対処した議員や政治家たち、 ま た 彼 ら の 重 要 な 供 給 源 で あ る ア リ ス
トクラシ l の 精 神 構 造 を み て み よ う 。 こ こ で 特 に 着 目 す る の は ウ ィ ッ グ の 人 達 で あ る 。 世 紀 半 ば の イ ギ リ ス は よ く 功 利
主義の時代といわれた。半ばを過ぎれば確かに知的潮流は著しく功利主義的になったろう。とはいえウイッグやアリス
トクラシーがそうなったとはいえまい。少なくとも功利主義と対極にある思想が彼らの思考にまじっている。パリ教授
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説
論
(お)
一 八 六 七 年 以 後 の ウ イ ッ グ の ︿ イ デ オ ロ ギ ーV の 特 徴 を 最 も 強 く 代 表 す る 五 つ も の 、 あ る い は そ れ ぞ れ を 典 型 的 に
の
(二九│九四年) が典型。
二 六 │ 九 七 年 ) が典型。
という信条、ご﹂のために、 ウ イ ッ グ は 賢 明 で 道 徳 的 な 政 府 に よ る 統 治 と 、 自 分 の 利 己 的 利 益 の 追 求 に 耽 ろ う と す る 人
人が神の前で自分の義務を見定めることができるように、個々人の道徳的性格を向上させることによって促進される
た。にも拘らず、同じパリ教授はそこに共通な信条の枠の存在を認め、 それをこう要約している。﹁国の発展﹂は、各
(幻)
リスト教社会主義者、 ア カ デ ミ ッ ク な 自 由 主 義 者 、 理 神 論 的 知 識 人 等 。 ウ イ ッ グ に も こ の よ う に 様 々 の 思 想 傾 向 が あ っ
(お)
様 々 な 階 級 の 古 く か ら の ウ イ ッ グ 、 自 由 主 義 的 地 方 ジ ェ ン ト ル マ ン 、 アl ノ ル ド 的 教 育 主 義 者 、 広 教 会 派 の 人 々 、 キ
ウィッグはこうしたサークルの中で様々の色合いをもって動いたという。
⑤ コ モ ン マ ン の 精 神 的 能 力 へ の 確 信 に 抜 か れ た ラ テ ィ テ ュ デ ィ ナ リ ア ン 。 ハットン
容 で 楽 観 主 義 的 な ラ テ ィ テ ユ デ ィ ナ リ ア ン 。 アl ノルド (二一一│八八年) や ス タ ン レ イ (一五八一年)。
④ 罪 の 意 識 を 殆 ど も た ず 、 伝 統 や 美 へ の ワ lズ ワ l ス 的 あ る い は ニ ュ l マ ン 的 尊 厳 を 吹 き 込 ま れ た こ と の 殆 ど な い 寛
J ・スティ!ヴン
③カ l ラ イ ル 型 の 、 世 俗 的 で 頑 固 な 悲 観 主 義 の 人 々 。 フ ル l ド(一八│九四年)、ハックスレ l (二五│九五年)、 F ・
ム 伯 ( 一 五l O二年)。
② シ ャ フ ツ ベ リ (一八O 二│八五) に よ く 現 わ れ て い る よ う な 純 粋 な 福 音 主 義 的 傾 向 を も っ 人 達 。 フ イ γ ツ ウ イ リ ア
(一八O 四l 八五)、 ウ エ ス ト ベ リ (一八00│七三)。
) が代表的、外にサマセット
傾 向 を も っ ︿ 織 政 時 代V の ウ イ ッ グ の 流 れ を ひ く 人 た ち 。 ク ラ レ ン ド ン (一八00│七O
① 懐 疑 的 な 古 い ウ イ ッ グ 心 情 。 ﹁ 多 分 ヴ ォ ル テ l ル的懐疑と快楽主義、 そ し て 恐 ら く あ る 物 質 主 義 的 な 快 楽 主 義 ﹂
表現する五組の人たちを次のように分類している。
l
ま
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一九世紀ウイッグの精神構造(1)
一八一五年以前に生れた先輩達と、 そ れ 以 後 生 れ た 後 輩 達 と が 区 別 さ れ る と い
問の欲望によって国民の道徳的水準がおちるのを防ぐ国法の有用性を弁護する﹂ということである。
新しいウイッグを体現する世代には、
ぅ。前者は功利主義の洗礼をうけながら、 そ れ に 反 対 し た り 、 乗 り こ え て い っ た 世 代 で あ る 。 後 者 は 前 者 の 先 達 に 従 つ
スプリング・ライス
初代男爵) たち、二O 、三0年 代 に 成 年 に な る 人
た 世 代 で あ る 。 先 輩 の 世 代 に 属 す る 人 達 と し て は 、 グ レ イ 首 相 の 長 男 の ホ ウ イ ッ ク (一八O 二│九四、三代目伯)、
ル ソ1 プ (一七八二│一八四五、三代目伯)、
達である。彼らは、世紀初め、福音主義の復活の衝激と、この衝激に刺戟されてそれに対抗しようとした国教会僧侶の
由 主 義 的 国 教 徒V と よ く い わ れ る 人 々 は 彼 ら の ︿ 仲 間V で あ る 。 そ の 中 で も 、 ト マ ス ・ ア l ノ ル ド ( 一 七 九 五 │ 一 八 四
(お)
努力の復活の衝激の下で、二疋の宗教的ヴィジョンによって強い影響を、つけた。著作、国教会、教育問題で活躍する八白
オ
る
と:
:
i
、
工
あ公半
。す
ぎ
の
ウ
ー
可
イ
ツ
ぅ。﹁私が一番感動した弁士は、 そ の 意 見 に は 殆 ど 一 語 ご と に 不 同 意 で あ っ た け れ ど も 、 歴 史 家 で 、 後 に 聖 デ ィ ヴ イ ツ
からロンドンのチャンサリ通りでオ l エン主義者と開いていた討論会にほどなく彼が加わってきたのである。ミルはい
い 評 価 を 与 え て い る 。 サ l ルウォ l ルについての彼の評価を﹃自伝﹄ の 中 か ら 紹 介 し て お く 。 ミ ル た ち が 二0年 代 半 ば
(初)
この世代のウイッグが若い頃、影響を受けたそうした人達には、 J - S ・ ミ ル も 、 自 分 の 思 想 と 異 な り は し た が 、 高
の世
で紀
ド 教 区 の 主 教 に な っ た サ l ルウォ l ルであった。当時は大法院の弁護士で、 オ │ ス テ ィ ン や マ コ l レl の 時 代 よ り 前 に
グ
一一)とサ l ルウォ l ル (一七九七 l 一八七五) が 最 も 有 名 で あ る 。 こ う し た 人 達 は 四O、五0年 代 若 き ウ イ ッ グ 達 に 多
よ
れ
ば
、
大 の 影 響 を 与 え る 。 六0年 代 政 治 的 に 有 力 に な っ て ゆ く の は 後 者 の こ の 世 代 ( 後 輩 ) で あ る 。 ウ イ ッ グ の 主 体 を な し て
ゆくのは、この世代と、前世代の人達(クラレンドンが典型)
教
授
ー自由党の立場﹂は﹁大部分一八一五年から三五年の問に生れた人々によって表現される﹂
ノ
ミ
ケンブリッジ大学学友会で能弁のほまれが高かったという以外、無名の士であった。この男の演説は、私の演説の一つ
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で
あ
る
説
論
L
ミル達のこの討論会には﹁堂々たる顔ぶれがそろったが、その中には議員数名とならんで、ケンブリ
に答えたものであったが、彼が文章にして十こととは言わないうちに、私はこんなすばらしい演説はまだ聞いたことが
ないと考えた。
ッジ大学の学友会やオックスフォード連合討論会の最も著名な演説家達も殆ど全部入っていた。当時の傾向を奇妙に物
(幻)
語っているのは、われわれが会員を集めるにあたって一番大きな困難が、保守党系の弁士を十分にそろえるという点に
あったことだ。むりにでも集めえたのは、質やていどの差こそあれ殆ど全部自由主義者であった﹂。討論会の設置には、
(後のシドナム卿)、
マコ i レ ー や 上 述 の ホ ウ イ ッ ク 卿 ( グ レ イ
ミル、 ロミリ、 チ ャ ー ル ズ ・ オ ー ス チ ン と と も に 、 上 述 の ク ラ レ ン ド ン 伯 と な る ジ ョ ー ジ ・ ヴ ィ リ ア 1 ス や 彼 の 弟 達 が
当 っ た 。 会 に 加 わ っ て き た の は 、 こ れ ら の 人 々 の 外 、 ウイッグ自由主義者、
の長男)、 またプレイド、 ウイルパ l フォ 1 ス (後にオックフォード主教)、 チ ャ ー ル ズ ・ ト ム ス ン
ブ ル ワl 兄 弟 、 フ ォ ン ブ ラ ン ク 達 で あ る 。 多 く の 者 は や め て し ま う が 、 後 、 二 八 、 二 九 年 に は コ l ル リ ッ ジ 主 義 者 の モ l
リスやスターリングが加わってくる。
一八世紀の哲学に対するヨーロッパでの反動の原理や考え方が持ちこまれ、したがって
これは第二の自由主義系、時には急進主義系でさえある党派というべく、ベンタム派とは全然違う根拠に立って、激しくべンタム派に
反対していた。彼らによってわれわれの討論に、
(幻)
一八世紀合理主義に対抗して生れつつある
第三の非常に重要な戦闘的党派を加えたことで、われらの論戦は今や新しい世代の最も教養ある人たちの中の思想の動きを相当忠実に代
表するものとなった。
ミ ル 自 身 二0 年 代 後 半 、 育 て ら れ た ベ ン タ ム 主 義 の 原 理 に 懐 疑 的 に な り 、
思想の潮流のインパクトを、つける。
二0 年 代 知 的 環 境 に 変 化 が 起 り つ つ あ っ た 。 変 化 は 学 校 に も 現 わ れ る 。 世 紀 初 め の 大 学 の 知 的 雰 囲 気 に は ま だ 啓 蒙 主
義 的 で あ り 、 功 利 主 義 的 な も の が あ っ た 。 少 な く と も ケ ン ブ リ ッ ジ で は そ う で あ る 。 こ こ で は ペ イ リ ! の ﹃道徳及び政
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一九世紀ウイッグの精神構造(1)
(お)
治哲学の原理﹄ (一七八五) が 長 く 道 徳 哲 学 の 教 科 書 と し て 使 わ れ て い た 。 ﹁ ベ ン タ ム が 世 に 知 ら れ る 前 に 、 も う 一 人 の
功 利 主 義 哲 学 者 が 名 声 を え た 。 そ れ は ペ イ リ l [僧侶] である L。 彼 は 道 徳 哲 学 の 中 に 幸 福 H功 利 の 概 念 を ひ き い れ た
の で あ り 、 こ れ が 、 予 期 せ ぬ こ と な が ら 、 学 生 に ベ ン タ ム の 教 義 へ の 共 感 と 理 解 を 準 備 し た の で あ る 。 二 0年 代 チ ャ l
ユニオン
ルズ・ォ l ス テ ィ ン 、 チ ャ ー ル ズ ・ ブ ラ l 、 そ の 外 活 動 的 な 若 者 達 は 学 生 の 聞 に 活 発 な べ ン タ ム 主 義 グ ル ー プ を 形 成 し
た。ォ l ス テ ィ ン は 学 友 会 で 指 導 的 な 役 割 さ え 果 し て い た 。 ド ン た ち が こ の 傾 向 を 憂 え 、 ロックの ﹃人間悟性論﹄とペ
一八二O年 T ・キヤン
イリ l の ﹃ 原 理 ﹄ を 有 害 と み 、 こ れ に 反 論 を 加 え る よ う に な っ た こ と に は こ う し た 背 景 が あ っ た 。 功 利 主 義 的 潮 流 は 制
度的にも具体化される。それはゴア街のロンドン大学の創立である。この大学の創立の着想は、
ベ ル が ド イ ツ の ボ ン の 教 授 達 と 討 論 し た 際 に 生 れ 、 大 学 は 、 ド イ ツ の 大 学 を 範 と し 、 こ れ を ベ ン タ ム 主 義 者 、 ウイッグ
の者、ディセンターが支持することによってつくられた。彼らがつくろうとした大学は、宗教教育がなく、 より現代的
な教育に力を注ぎ、旧大学よりも安あがりであり、中産階級の子弟を対象とする高等教育の場であった。二五年に大学
の 具 体 的 な プ ラ ン が 提 示 さ れ 、 そ れ は │ │ 旧 大 学 で の よ う に 、 学 寮 制 や チ ュ ー ト リ ア ル 制 に 力 点 を お か ずll 教 授 制
を原理とし、宗教教育も共通の礼拝も全く行わず、 いかんともなし難い宗派的対立を避けることとし、 か つ 組 織 は 株 式
(鈍)
会 社 に よ る と し た 。 大 学 は 、 当 初 、 学 位 を 与 え る 権 利 ま で は 求 め な い が 、 自 治 組 織 と し て 公 認 さ れ る よ う 求 め た (これ
も 当 初 ト l リl政府に拒否される)。
大学におけるこうした功利主義的傾向に対し、反対が起る。ケンブリッジでは反論はまず地質学教授セジウィッ夕、
(お)
次 い で よ り 有 能 で 活 気 あ る ヒ ュ l ウ エ ル 教 授 に よ っ て な さ れ た (当時道徳哲学教授のポストは有給閑職となっていた)。
セ ジ ウ イ ッ ク の 立 場 は 先 天 的 な 道 徳 感 に 立 つ も の で あ っ た 。 こ の 頃 は 知 的 雰 囲 気 は 変 っ て く る 。 二 0年 代 ワ lズ ワ l ス
やコ 1 ル リ ッ ジ 、 あ る い は ド イ ツ 神 学 が 読 ま れ 始 め 、 福 音 主 義 の 復 活 に よ っ て 精 神 的 熱 情 が 鼓 吹 さ れ た の で あ る 。 こ の
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説
Z孔
員
繭
(お)
変 化 は ケ ン ブ リ ッ ジ の ︿ 最 良V の コ レ ッ ジl l世 紀 代 り 目 か ら 一 九 世 紀 に か け あ ま た の 人 材 を 送 り 出 し た│ l トリニ
(幻)
テ ィ ・ コ レ ッ ジ の 中 に 現 わ れ て い る 。 三O年 頃 学 寮 長 ワ ! ズ ワ l ス に 招 か れ た 卒 業 生 た ち の 集 り で な さ れ た 会 話 の 記 録
ヒュ l ウエル、 ヘ ア の 教 え の 方 に 称 賛 が 向 け ら れ て い る 。 会 話 に 加 わ っ た 人 達 に よ れ ば 、 二0年 代 末 ケ ン ブ リ
は変化をよく示してくれる。この集りで功利主義者は嫌悪の念をもって語られ、功利主義に反対している人達、セジウ
イ 4 ツ均ノ、
ツ ジ で 反 功 利 主 義 は フ ァ ッ シ ョ ン に な っ た と い う 。 F ・D-モl リ ス に よ れ ば 、 彼 が 二 五 年 入 学 し た 時 ﹁ 若 々 し い 賢 い
(お)
学 生 の 間 lll特 に ト リ ニ テ ィ で は ベ ン タ ム 主 義 が 広 ま っ て い た 。 : : : 私 が 属 し た あ る 小 さ な 会 で 、 私 は 功 利 主 義 の 教
J-s ・ ミ ル と 対 立 す る 立 場 で あ っ た が 、 親 友 で も あ っ た コ i ル リ ッ ジ 主 義 者 の ス タ ー リ ン グ も こ の 変 化
説 に 対 し て コ l ルリ yジ や ワ lズ ワ l ス を 弁 護 せ ね ば な ら な か っ た 。 ﹂ と こ ろ が 程 な く べ ン タ ム 主 義 優 位 の 雰 囲 気 が 変
るのである。
(お)
の 促 進 者 で あ っ た 。 功 利 主 義 の 環 境 の 下 で 教 育 さ れ た ミ ル 自 身 、 二0 年 代 の 後 半 ﹁ 精 神 の 危 機 ﹂ に 見 舞 わ れ 、 ワ l ズ ワ l
(
ω
)
スやコ 1 ル リ ッ ジ に ひ か れ た 。 三0年 代 末 に は 彼 は ベ ン タ ム と 並 ん で コ l ル リ ッ ジ を イ ギ リ ス 思 想 の 二 本 の 支 柱 で あ る
とまで評価する。
、 ドイツ神学、復活した福音主義の情熱は神学的自由主義の上にも大きな影響を与えてい
二0年 代 既 に コ ー ル リ yジ
た。ここからくる思想、即ち、有機的な国民的統一、再生した伝導固により鼓舞される国民的教会、国民の教化にたず
さわる知識人(コ l ル リ ッ ジ ) と い う 観 念 は 自 由 主 義 的 な 人 々 の 心 を 強 く 動 か し て い た 。 ﹁ こ の プ ロ セ ス に お い て 、 ま
た他の知的潮流に対する反作用において、これら神学的自由主義の観念は微妙に異なる多様な形態をとる。これらの観
(位)
念を広め、 そ れ ら を 再 構 築 す る の に 最 も 責 任 あ る 二 人 の 人 物 は 、 相 互 に 極 め て 異 な り 、 政 治 的 に は 極 め て 異 な る 仕 方 で
大 き な 影 響 を 与 え る 人 物 、 ト マ ス ・ ア ! ノ ル ド と ト マ ス ・ カ l ライルであった﹂。ァ l ノ ル ド は ト l リl の 痛 烈 な 批 判
者であり、 カl ラ イ ル は ど ち ら か と い え ば ト l リ ー で あ り 、 二 人 の 立 場 は 相 違 し た が 、 二 人 の 影 響 は 絶 大 で あ っ た 。 こ
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・ 30)30
一九世紀ウイソグの精神構造(1)
のことはア l ノ ル ド が 反 対 す る ニ ュ l マ ン に つ い て も い え 、 オ ッ ク ス フ ォ ー ド 運 動 が 若 い 世 代 に 及 ぼ し た 影 響 は 一 見 し
たよりもはるかに根深い。
一九世紀のパ l ブ リ ッ ク 校
貴 族 の 子 弟 は 一 八 世 紀 中 し だ い に 学 校 で の 教 育 を 重 視 す る よ う に な っ た 。 別 の 機 会 で 述 べ た よ う に 、 彼 ら は 111と
(必)
り わ け 政 治 家 に な る た め に l!1パl ブ リ ッ ク 校 に 送 ら れ 、 ま た 大 学 で 学 ぶ よ う に な っ た 。
についていえば、 ト マ ス ・ ア l ノ ル ド 博 士 に よ っ て な さ れ た ラ グ ビ ー 校 の 改 革 、 及 び こ の 学 校 が 果 し た 大 き な 役 割 は あ
ま り に も 有 名 で あ り 、 今 さ ら 述 べ る ま で も な い 。 彼 は 二 八 年 か ら 、 オ yク ス フ ォ ー ド に 移 る 頃 の 四 二 年 ま で ラ グ ビ ー 校
一つは古典教育の在り方、また一つは生徒の間の監督生制度の改革にあったが、それ
の権威ある校長であった。彼はパ l ブ リ ッ ク 校 の 偉 大 な る 改 革 者 で あ り 、 改 革 の 精 神 は 聖 書 の 中 に あ る の で あ っ た 。 ア ー
ノルド博士の改革の大きな柱は、
(必)
0年 代 の イ1 ト ン 校 と の 相 違 は 著 し い 。 ﹁ 宗 教 教 育 は ゼ ロ に 等 し く な っ て い た 。 へンリ l六 世 の 古 く
以上にさえ重要であった柱は宗教・道徳教育の強化であった。これは当時までのパ l ブリック校をみればよい。例えば
キl ツ在学中の一
敬 虞 な 荘 厳 さ は 公 的 な 英 国 教 会 の 上 塗 り に よ っ て 様 変 り し た 本 質 的 に 異 教 以 外 の 何 も の で も な い ﹂ 。 二0年 代 前 半 イi
(
ω
)
ト ン 校 に 入 っ た グ ラ ド ス ト ン は 、 四O 年 後 に 回 顧 し つ つ 、 ﹁ キ リ ス ト 教 の 教 え そ の も の は 死 ん だ も 同 然 で あ っ た 。 幸 福
(必)
に も そ の 形 式 は い さ さ か も 崩 さ れ て い な か っ た が ﹂ 。 ァ l ノルドはラグビーを﹁同県のキリスト教教育の場﹂にしたかっ
たのであり、チャペルの説教は週の道徳的宗教的教育の絶頂となった。監督生制度はこの教育の手段ともされるように
なった。
(M叩 )
アl ノ ル ド 博 士 は 改 革 の 精 神 を 聖 書 の 中 に 見 出 す 。 だ が 、 そ れ は ﹁ 伝 統 に よ っ て 理 解 さ れ る 聖 書 で は な く て 、 学 問 、
研究、特に政治的洞察を通じて理解された聖書﹂の中にである。教えられる教課は科学よりは、ギリシア・ラテンの古
典である。﹁アリストテレス、プラトン、 ツ キ ジ デ ス 、 キ ケ ロ 、 タ キ ト ス を 昔 の 著 作 家 と み る の は 全 く の ま ち が い で あ り 、
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説
論
(U)
彼らは実際に我らの同胞であり、同時代人なのだ﹂。古代の著作家は現代文明の一時代に相当する著作家であり、古代
ギリシア・ロ l マ は 一 九 世 紀 の 人 間 に よ っ て 、 政 治 問 題 を 解 決 す る た め の 、 あ る い は 政 治 問 題 を 自 由 に か つ 雄 弁 に か っ
(必)
底深く論ずる際の異に有益な実例となるものとされた。﹁キリスト教徒であり英国人たる者が学ぶ必要のある学問は、
キリスト教、道徳、政治哲学のみ﹂(ア i ノ ル ド 博 士 ) で あ り 、 博 士 は キ リ ス ト 教 を 柱 に し つ つ も 、 ギ リ シ ア ・ ロ l マ
思想、 とりわけその国家思想がイギリスの直面する社会の問題に重要な関係があると考え、 ギリシア・ロ l マの著作と
歴史の勉学を課したのである。
L)
。彼に
キリスト教とギリシア・ローマ思想との博士の二本柱は息子のマシウにもうけ継がれる。彼は有名な著作﹃教養と無
秩序﹄ の 中 で 、 こ れ を ヘ ブ ラ イ 主 義 と ギ リ シ ア 主 義 と し て 論 ず る ( 特 に 第 四 章 ﹁ ヘ ブ ラ イ 主 義 と ギ リ シ ア 主 義
よれば、 ギリシア主義とは、 も の を 在 る が ま ま に そ の 異 実 の 姿 で と ら え る こ と (﹁その最高の観念は事物を如実にみる
(必)
こと﹂) であり、 ヘ ブ ラ イ 主 義 と は │ │ 神 の 教 え に 従 い 正 し くll行 為 す る こ と っ そ の 最 高 の 観 念 は 行 為 と 服 従 で あ
る﹂)。さらに具体的にいえば、ギリシア主義は明瞭に考えること、事物をそれらの本質と美においてみることが人聞が
なしとげるべき雄大で貴い業績であると語る。他方へブライ主義は、罪を意識すること、罪の意識に目ざめることがこ
の種の所業である。[行為の中で人間の努力への妨げが罪の意識となり、ここから神への目が聞かれる] ギ リ シ ア 主 義
とへブライ主義は一見全く別のように思われるが、﹁人間の知的衝動と道徳的衝動、事物を如実にみようとする努力と、
自己克服によって平和をえようとする努力であり﹂、人間精神は柔軟なこの相互浸透によって完成に向って進んでゆき、
共 に ﹁ 目 標 と し 目 的 と す る と こ ろ は 一 つ で ﹂ あ る 。 人 間 精 神 が 向 う べ き な の は ﹁ 全 人 格 の 円 満 な 完 成 L、即ち﹁教養﹂
である。中産階級のノンコンフォ l ミストはヘブライ主義に傾きすぎ、 ギリシア主義の﹁優美と慧知﹂に著しく欠け、
﹁教養﹂を欠く﹁俗物﹂(後述)、他方貴族階級はヘブライ主義的宗教・道徳心を欠く﹁野蛮人﹂であり、何れも教養に
~1:1去45 (
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一九世紀ウイッグの精神構造(1)
(印)
おいて不完全であり、人格の完成からは遠い。
アl ノルド博士は三一一一年﹃教会改革原理﹄ を 公 に し た 。 そ の 結 論 は 一 八 世 紀 の ラ テ ィ テ ユ デ ィ ナ リ ア ン (一八世紀の
低教会派) の も の に 近 い 。 核 心 は デ ィ セ ン ト を 包 み 込 め ' る よ う な 論 理 に あ る 。 国 教 会 は 急 進 派 と デ ィ セ ン ト と の 同 盟 に
よって脅かされているが、国教会は国民の健全な生活のためには必要なものである。したがってディセンターが国教会
に入れるようにし、 そ の 基 盤 を で き る だ け 広 げ ね ば な ら な い 。 そ の た め に は 意 見 と 礼 拝 形 式 の 多 様 性 が 認 め ら れ ね ば な
ら な い 。 教 義 は 妥 協 的 に し 、 本 質 的 と す る も の を で き る だ け 少 数 に せ ね ば な ら な い し 、 それも現にできる。神への信仰、
救 世 主 と し て の キ リ ス ト へ の 信 仰 、 聖 書 が 人 間 に 向 け ら れ た 神 の 意 図 を 含 む と の 信 仰 、 正 と 邪 の 観 念 の 信 仰 、 である。
日曜の午前中の礼拝は正式のものでなければならないが、 そ の 外 の 礼 拝 は 自 由 な 形 式 の も の で あ っ て よ い 。 カ ト リ ッ ク
とユニテリアンとクエーカーについては国教会の外にいることを認める。司教区を増やし、大都市には総て主教をおき、
各主教は俗人をも交えた会議を聞くべきである、
アl ノ ル ド 博 士 が イ ギ リ ス の 宗 教 ・ 教 会 、 思 想 ・ 思 潮 ・ 学 校 ( パ l ブ リ ッ ク 校 や 旧 大 学 ) 、 そ の 外 も ろ も ろ の 側 面 に
おいて及ぼした影響は計り知れないほど大きい。それは彼自身の思想や行動によってのみでなく、弟子たちゃ、団結の
堅いラグビー校卒業生を通じてであった。そしてその影響は一定の自由主義的な方向へのものであった。弟子たちには
すぐれた人達が多く、彼ら自身思想家であり教育者であり、彼らは師の思想を発展させ、広めた。彼に最も近い弟子は
A・ p ・スタンレイ (一五 l 八一年) で あ り 、 ラ グ ビ ー 校 卒 業 の の ち ベ リ オ 1 ル・コレッジに入り、 オ ッ ク ス フ ォ ー ド
自 由 主 義 者 の う ち 最 も 目 立 つ 存 在 と な っ た 。 驚 異 的 な 成 功 を 収 め た 著 書 ﹃ ア l ノルドの生涯﹄(四四年)は、その︿英雄V
を今は世を去ったが、 な お 力 強 く 語 り か け て い る 予 言 者 と し て 描 い て い る 。 事 実 、 四 二 年 で の 死 去 後 も 博 士 は オ ッ ク ス
フォード内で、保守主義者に挑戦している自由主義陣営での導きの星であった。スタンレイはユニヴァシティ・コレッ
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と
5
見
論
(日)
c
- テイト(一一│八二年)と F ・
ジのフエロウとなり、オックスフォード自由主義のために多大の霊力をなした。 A ・
テンプル(一一一 l 一九O 二年)、何れもラグビー!ベリオ l ル の 出 身 で あ る 。 前 者 は ベ リ オ 1 ルのチュ l タl の時、ニュ l
(三四年ベリオ!ルへ
は ベ リ オ l ルのチ
マ ン の 小 論X C号 攻 撃 の 先 障 を 張 り 、 や が て ラ グ ビ ー 校 に 移 っ て 博 士 の あ と を 継 ぎ 、 後 者 は 四 九 年 テ イ ト の あ と を 継 い
c
- レイク
(三六年ベリオ l ルへ) はオリオ l ルのチュ l ターになり、 ラ グ ビ ー 精 神 を 発 酵 さ せ 、 ラ
でラグビー校に移った。何れもカンタベリ大主教となった。 w ・
ユ1 タl に
、 A ・H ・クロウ
グピ l校 に 劣 ら な い ほ ど そ の 精 神 を オ ッ ク ス フ ォ ー ド に 広 げ た 。 R- コングリ 1 ヴ (三七年ウォダムへ) も ﹁ 宗 教 原 理
で の 偉 大 な アl ノ ル ド 主 義 者 ﹂ で あ っ た 。
ヘイリベリ、 チ エ ル ト ナ ム な ど の パ l フ リ ッ ク 校 は そ う し た も の の 典 型 で
こ れ ら ラ グ ビ ー 校 出 身 者 の 影 響 は 絶 大 で あ っ た 。 ラ グ ビ ー 校 の 在 り 方 は 彼 ら に よ っ て 他 の 学 校 に 広 げ ら れ る 。 ハl ロ
ウ、モ l ルパラ、 ブレアトン、 クリプトン、
(臼)
ある。ラグビー校の卒業生のまとまりは固く、彼らは卒業後もよく母校にきた。校長となったテイトの下のラグビー校
は卒業生のみではなく、 オ ッ ク ス フ ォ ー ド 、 特 に ベ リ オ l ル の 八 植 民 地V に な っ た ほ ど で あ る 。 卒 業 生 や 彼 ら の 友 人 た
ちは、ここにきて、学校や大学の問題、 そ れ に 世 界 の 問 題 に つ い て ま で 論 じ た 。 卒 業 生 に は 、 政 界 は じ め 、 教 会 、 学 会 、
法曹界、軍人、実業界など多くの分野で活動的な者が多く、政治家になった者には自由主義者が多い。急進主義者やキ
リ ス ト 教 社 会 主 義 者 ( フ レ イ ザ l主 教 や ト ム ・ ヒ ュ ー ズ ) さ え お り 、 彼 ら は 八 階 級 と 大 衆V と を つ な げ る 橋 と も な っ た 。
ラグビー校は自由主義の温床であり、また神殿であった。
(日)
二0 年 代 に お い て 既 に 政 治 は 新 し い 方 向 に 動 き 、 三0年 代 、 政 治 は ︿ 改 革 の 時 代V に 入 る 。 思 想 の 新 し い 潮 流 も 始 ま
っていた。とはい、ぇ、 そ れ は 全 く の マ イ ノ リ テ イ で あ っ た 。 国 教 会 や 旧 大 学 、 特 に オ ッ ク ス フ ォ ー ド 大 学 は 著 し く 保 守
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3
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一九世紀ウイッグの精神構造(1)
的であった。
主教達をみるとこのことはすぐわかる。=二年秋下院を通過した改正選挙法案は上院で審議され、採決がなされ、
(
M
)
一票差で否決されてしまった際(一 O 月 八 日 ) 、 主 教 達 は 圧 倒 的 に 否 決 の 側 に 廻 っ た の で あ る 。 支 持 は 二 名 の み で あ り
(日)
﹁大部分の者は特に教会の秩序を守ろうとしたのではなく、国家の、したがってまた教
大 主 教 一 名 ( ヨ l ク大主教は欠席) と二O名 の 主 教 は 反 対 し 、 他 の 六 名 は 何 ら か の 理 由 で 欠 席 し た (ロンドン主教ブロ
)0
あのイギリス的な保守主義によって、国教会は教義と礼拝形式を変えつつ宗教改革を行ってきたが、 その法的枠組はな
bL
ここに指摘されている腐敗の例は誇張されたものであるとはいえ、改革さるべき腐敗が種々あることは明らかであった。必
去
これをとりあげ、三一年に﹃特別ブラック・ブック﹄としてまとめて出版し、三五年までに五万部も売れたほどである。十
(同)託
国 教 会 は 既 に 様 々 の 観 点 か ら 批 判 さ れ て お り 、 そ の ︿ 腐 敗V は仮借なく指摘されていた。 J ・ウエ l ドは二0年 代 早 々 川
教と二二名の主教がこれを支持したのである。
会では一一一名の主教が法案支持にまわるようになった。それでも五月ト l リl側 か ら 修 正 案 が 出 さ れ た 時 、 三 名 の 大 主
の勤めに身をいれるようにさせるべきだ、とされた。国王やグレイ首相達が彼らを説得し、このため翌年四月の第二議
さが使徒達の質素さや素朴さと比べられ、上院から主教の席をとり去り、彼らに政治に関与させず、 ひたすら僧として
しえなかった。民衆は、法案否決後、上院議員、特に主教達への攻撃に激しさを加える。新聞では、国教会の富と壮麗
ンド教会が非国教化されてしまうのではないかということであった。グレイ内閣はこうした上院での審議の結果を予測
ド で 政 治 権 力 が カ ト リ ッ ク に 移 りll︿ カ ト リ ッ ク 解 放V の 時 に は お か れ た 歯 止 め が は ず さ れ て し ま い 111アイルラ
が選挙権をうることによって非国教化が進められるのではないか、とりわけカトリック教徒が圧倒的に多いアイルラン
会の古き憲法をば、法によって確立されたものとして守ろうとした﹂のである。彼らが特に恐れたのは、ディセンター
今ィールドは父の死で欠席
四
説
論
J
永キュア
お中世的なものであった。教区牧師職の自由保有権、教会裁判、有給関職、聖職欠員時の教区聖戦録の一時保有、兼職、
ハ
hu
nhu
、
qυ
J司
'
v
u
イ
法
a
a
A
Fhd
噌 EES
信者が殆どいないにも拘らずふんだんの掠のある教区、僧職任命権の売買、教会のポケット・パラなとの問題であった。日
選挙法の改革が行われつつある時にも教会改革の声が叫ばれるようになり、改革される議会は大規模な教会改革を行わ
ねばならず、教会贈与、兼職、任地不居住、主教職、政治的教区牧師の問題は存分に改革されねばならないとされた。
(幻)
こうしてグレイ首相は選挙法改革案の成立直後直ちに国教会収入検討委員会をつくり、改革につながる教会収入の現状
の調査を始めさせる。改革は教会内部から進めらるべきだとする彼は、委員の多くを教会人から選び、また委員会の結
論をあえて忙がせなかった。新選挙法下での最初の選挙でも教会改革問題は最も尖鋭な争点といえるほどになった。委
員 会 で の 検 討 は 内 閣 の 交 代 に も か か わ ら ず 続 け ら れ 、 メ ル ボ l ン・ウイ yグ内閣でいくつか実現される。
二八年の審査律・自治体法の廃止、それから選挙法の改革と、ディセンターは活発に動いた。三三年にはプレスビタ
(回目)
リアン、会衆派、 パプテイスト一一一派の代議員は連合委員会を作り、﹁現在ディセンターが矯そうと努力している不満を
考察﹂し、 五 月 委 員 会 は 五 つ の 不 満 項 目 を 特 定 し 、 政 府 に 提 出 し た 。
一、教会と国家の完全な分離。
二、主教に上院内の席を与えるチャールズ二世の法の撤廃。
三、財政的支持のために金銭を徴収する強制的権限をあらゆる教会に与える法すべての撤廃。
四、大学改革、宗教審査全廃、大学での平等な権利。
玉、結婚や公的埋葬に関し、登録の平等な権利のための法の改正。
他方、 トl リ ! の 牧 師 は デ ィ セ ン タ ー の 行 き 方 に 激 し 、 八 教 会 の 危 機V を 叫 び 、 国 教 会 を 護 持 し よ う と す る 。 ﹁ 高 教
会 派 の 人 と い う 言 葉 が 英 国 教 会 に 組 す る 強 硬 派 を 意 味 す る 限 り 二 八 三O年 か ら 三 四 年 ま で の 僧 侶 は ま す ま す 強 硬 と な ﹂
一九世紀ウイッグの精神構造(1)
(印)
り、並の人達とはコミュニケーションができないほどとなった。﹁一八三四年の初めの数カ月、教会とディセンターの
裂け目は英国史上かつて例がないほど深刻となった﹂。高教会主義への揺れはニュ l マン達のオックスフォード運動の
(
ω
)
形 成 ( 三 三 年 夏 ) に 典 型 的 に 現 わ れ る 。 オ yク ス フ ォ ー ド は そ も そ も 高 教 会 と トl リl の 牙 城 で あ っ た の だ っ た 。
(日)
旧大学は保守的であった。全国政治についての立場が保守的であったばかりか、大学の諸制度においても保守的であ
り、与えられ、維持されてきた特権と寄付財産を頑固に守りとおしてきた。ホジスキンはこういっている。
われわれはわが旧き大学をばわが憲法の構成要素とみており、それを修正したり、こわしたりすることは聖所の冒漬にも等しいとする
ことに慣れているけれども、大学のうき沈みは、創設者の生命ほどの短きであり、まことに不思議に思われる。変化のたやすさは制度が
君主の意志の単なる泡沫であるということからくる。:::したがってドイツの大学はイギリスの大学と本質的に異なる。イギリスの大学
は白からの法によって規制され、膨大な財産をもち、国の法以外のいかなるものからも独立した団体である。社会の教育に対する主権者
のコントロールを悪と考えるあの哲学は、こうした状態にあるドイツの大学制度をまことに残念なことがらとみている。しかしながら生
yク的な規制にしがみつ
ける人聞が変えうる大学は、世紀から世紀へと眠り込み、あらゆる所で起っている改善に全く注目しない大学よりはよい。:・:・ヨ l ロッ
パ中どこにも、イギリスにおけるほど膨大な基金が大学教育のために用いられているところはまずないし、ゴチ
いているおかげで、これだけの基金をもちながら成果をあげていないところはどこにもない。
(臼)
旧大学は公認された特権を排他的に維持しようとし、ロンドン大学が政府から自治組織の公認をうけ、また学位授与権
の認可を、つけようとした時、これを妨げるべく動いた。改革の時代旧大学も批判をうける。前述の﹃ブラック・リスト﹄
71
H 講 義 制 の ﹁ 基 奪 ﹂ 、 い わ ば ︿ 私 的V 施 設
71 ン テ ィ プ ロ フ ェ サ リ ア ト レ ク チ
の批判もあったが、より筋の通ったものは、大学の行政組織についての批判を別にし、一つは、ディセンターの入学や
コレ y ン チ ュ ー ト リ ア ル ユ 二 ヴ
(臼)(引開)
学位授与の問題、もう一つは、学寮と個人指導制による大学と教授
による正式の施設の制度の﹁纂奪﹂である。ミルも学寮制に批判を加えている。旧大学における学問・研究の衰微はよ
北法4
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2・3
7
)
3
7
くこうした基奪によるともされた。専門(職)教育も、僧職を除き、殆ど行われなくなっており、僧職教育さえ十分で
はないと批判されていたのである。旧大学の保守性は国のレベルでの保守性以上であり、これはディセンターの扱いを
みればよくわかる。国のレベルでは二八年審査律・自治体法が廃止され、 デ ィ セ ン タ ー の 地 位 は 改 善 さ れ た が 、 旧 大 学
では依然として差別が維持された。また、 カ ト リ ッ ク 解 放 を 成 就 さ せ た オ ッ ク ス フ ォ ー ド 大 学 選 出 議 員 で も あ っ た ピ l
ルは大学で手ひどい扱いをうけた。特にオックスフォードは保守的であった。ケンブリッジでもディセンターは学位を
サプスクリプンヨ〆(白山)
と る こ と は で き な か っ た が 、 入 学 は 、 │ l 国 教 徒 と し て の │ │ ︿ 宣 言V を す る だ け で よ く 、 三 九 ヶ 信 仰 箇 条 と 祈 幡 圭 百
の正式受諾をする必要がなく、比較的容易にできた。他方オックスフォードでは、正式受諾は必須であり、学位取得
(以W )
はおろか、入学もできなかった。そのためケンブリッジは、オックスフォードに入れない︿懐疑主義者
V 総てをうけい
れ る こ と に な っ た と い う 。 三0年 代 の イ ギ リ ス の 改 革 期 、 大 学 の 改 革 も 叫 ば れ る よ う に な り 、 正 式 受 諾 を ケ ン ブ リ ッ ジ
並 の ︿ 宣 言V に 代 え よ う と の 動 き も あ っ た が 、 そ れ も 実 ら な か っ た 。 主 教 職 に 空 席 が で き た 時 、 政 府 は オ ッ ク ス フ ォ ー
(肝)
ド と ケ ン ブ リ ッ ジ か ら か わ る が わ る 選 ぶ と い う 慣 習 が あ り 、 三0 年 代 ウ イ ッ グ が 政 府 を 荷 う よ う に な っ た と き 、 首 相 メ
(同叩)
ルボ l ン は こ の 慣 習 を 破 る ま い と し た が 、 そ れ が で き な か っ た 。 ﹁ オ ッ ク ス フ ォ ー ド に は あ ま り に も 自 由 主 義 の 適 任 者
(
ω
)
一時的だがその色合いをさらに強めたのである。それだけに、
と、明言した。事実彼の任命はオックスフォードの四名に対し、 ケ ン ブ リ ッ ジ の 九 名 で あ っ た 。 オ ッ ク ス フ ォ ー ド 運 動
はオックスフォードのこうした保守的土壌から生れ、
オ
ン
が少なく、この大学のメンバーから主教を選ぶのがむずかしかった﹂からであった。このためヨ l ク大主教はメルボl
ン首相が大部分の主教をケンブリッジの人聞から選んでいるとして、彼を批判したことがあるほどである。
ボ
O名 有 名 な 人 聞 を 生 む と す れ ば 、 オ ッ ク ス フ ォ ー ド は 五 名 し か 生 ま な い と し 、 大 主 教 に 向 い 、 交
メ
互 の 任 命 と い う 古 く か ら の ル l ルは悪しく不合理である、 そ れ に よ れ ば 首 相 は 劣 っ た 人 物 し か 任 命 で き な い こ と に な る
は、ケンブリッジが一
j
レ
説
論
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)
3
8
一九世紀ウイッグの精神構造(1)
(拘)
ツクスフォードでは、自由主義的勢力が増し、大学改革が問題となったとき、主流の保守派との抗争は蟻烈となった。
ケンブリッジはより静かであった。
とはいえ、旧大学何れも世紀半ばまでは著しく古い制度を依然として維持していた。チャペルへの強制的な出席、
エロウの独身制と、僧職に就く義務(世俗的な専門研究のポストはコレッジの中にはないて三九カ条の正式受諾や宣言。
またカリキュラムの性格と内容(大学公認のものか、 そ れ と も チ ュ ー ト リ ア ル 制 の 形 式 の も の で よ い か 、 公 認 の 場 合 の
半正夫﹂
内 容 は ) 。 さ ら に 、 大 学 は 本 来 的 に ︿ ジ ェ ン ト ル マ ンV 教 育 の 場 で あ り 、 研 究 の 場 で は な い と い う 観 念 や 制 度 ( 教 授 制
や講義制の軽視、古典文学科以外のものの比重の軽さ)。これらはやがて問題にされ検討されざるをえない。
主 と し て ウ イ ッ グ 政 府 に よ り 国 の レ ベ ル で 自 由 主 義 的 改 革 が 進 め ら れ て い た に も 拘 ら ず 、 オ yクスフォードは、
にそれゆえに、保守性を強化したように思われる。ピ l ルがカトリック解放にふみ切った二九年初め、オックスフォー
ドに議員辞退を申しいで、補欠選挙が行われた。ピ i ルの再選を推す側には、それまでピ 1 ルを選んできた有力者とと
(
η
)
(東インド会社重役) の 息 子 で ウ ル ト ラ 高 教 会 派 の イ ン グ リ ス で あ っ た 。 大 学 の 有
もに、 オリオ l ル の 学 寮 長 ホ l キ ン ズ ヤ セ ン ト ・ オ ル パ ン ズ の 学 寮 長 ウ エ ト レ l達 、 自 由 主 義 的 な 人 々 が 加 わ っ た 。 対
抗したのは、 サ1 ・H ・イングリス
(
η
)
名 人 は 圧 倒 的 に ピ 1 ル の 側 で あ っ た に も 拘 ら ず 、 勝 利 を 収 め た の は イ ン グ リ ス で あ っ た ( 七 五 五 対 六O 九)。﹁保守党政
府、ウイッグ、急進派の一致した努力﹂にも拘わらずであった。オックスフォードの大勢がいかに保守的であったかが
(
η
)
わ か る 。 学 長 グ レ ン ヴ ィ ル が 死 去 し た 後 、 一 二 四 年 学 長 に 選 ば れ た の は 、 三O 年 に 選 挙 法 改 正 反 対 を 断 言 し た た め 政 権 を
(九)
潰 し 、 改 正 過 程 で も 再 三 グ レ イ 内 閣 を 苦 し め た あ の ウ エ リ ン ト ン 元 首 相 で あ っ た 。 学 長 就 任 式 に は ト l リl の 貴 族 達 は
ア ス コ ! ト (競馬) に も 行 か ず 、 歓 呼 の う ち に 参 列 し た と い う 。 ウ エ リ ン ト ン は デ ィ セ ン タ ー の 入 学 に 反 対 し 、 ま た ロ
ンドン大学に反対するキヤンペインを強力に指導することを約束した。とはいえオックスフォードにも改革の兆しが現
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9
)3
9
フ
説
τi
a
岡
わ れ る 。 ウ ェ リ ン ト ン は ︿ ウ ル ト ラV ではあったが、 カ ト リ ッ ク 解 放 問 題 に み ら れ る よ う に 、 リ ア リ ス テ ィ ッ ク な 適 応
(お)
の心構えをもち、大学の超保守的なドン達に対し、﹁普通の人間として﹂世間の空気を伝えるという役割をも演じよう
とした。三三年から三四年にかけてディセンターの運動が昂揚し、請願運動が活発となる中で、新学長は正式受諾の制
(河)
度でケンブリッジとの相違があることを問題とし、 ケ ン ブ リ ッ ジ 並 に す る よ う 意 見 を 述 べ た 。 余 り に も 古 く さ く 時 代 に
そぐわないような慣行や制度はなおしてゆくべきだとし、大学制度の検討を議会でとり上げたいとさえした。三三年一
(W)
一月には、 ウ イ ッ グ の あ る 学 寮 長 が 正 式 受 諾 に 加 え 、 反 対 の よ り 少 な い 何 ら か の テ ス ト を 採 用 す る よ う 学 寮 長 会 議 に 提
(沌)
案した。提案に反対の一四名に対し、賛成は七名にもなった。ディセンターの入学には反対であっても、正式受諾の制
度の緩和を支持する者は少なからずいたことになろう(若い層はいつものように!強い緩和反対の態度であったが)。
(乃)
アI ノ ル ド 博 士 の ラ グ ビ ー 校 は 三 三 年 、 デ ィ セ ン タ ー を 国 教 会 に 含 め る 案 を 出 し て い た が 、 翌 年 彼 は 彼 ら を 大 学 に も 入
学させるべきだという案を公にした。
しかしオックスフォードの保守性は、 ウイッグが政権をとって改革を強化し、 その波が国教会と大学に及んでくると、
それへの反動として一ときさらに強化される。オックスフォード運動がその典型的な現われである。運動を起した人達
(ω)(
別)
は 、 彼 ら の い う 八 回 教 会 の 危 機V に 直 面 し て 高 教 会 主 義 を ぎ り ぎ り ま で ー ー や が て 儀 式 主 義 に ま で │ │ 強 化 す る の で
ある。当初の三三年彼ら (
キ l ブル、 ニュ l マン、フル l ド、パ l マl達 ) は 次 の よ う な 基 本 原 則 を 掲 げ た 。
(回)(お)
u
v使 徒 伝 承 の 教 説 の 堅 持 。 宗 教 改 革 の 意 味 が 問 わ れ る の も こ の た め で あ る 。 極 端 な 者 ( フ ル l ド ) は 宗 教 改 革 を 否 定 さ
えする。ニュ l マ ン も 国 教 会 を 八 プ ロ テ ス タ ン トV と は い わ な か っ た し 、 や が て │ l ピ ュ ゼ イ 達 と 違 い i │ 宗 教 改 革
エラスティアニズム
が教会を改悪したとして、それを庇しめる意見を明らかにした。宗教改革が教会自身の手によってでなく、国王により
押しつけられたという国家至上主義に対する批判もある。彼らが教会の権威を高くみるからである。
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一九世紀ウイッグの精神構造(1)
口国教会の成員でない者に意図的に霊的事項に関与させることは罪であるとすること。
臼国教会をより民衆的なものにするのが望ましいこと。
側非国教化の可能性をも熟慮し、それに準備しながらも、教会を国家から分離しようとする試みには抗議してゆくこと。
三 三 年 秋 に 始 め ら れ た 彼 ら の 小 論 文 の 公 刊 は 、 年 の 終 り ま で に 二O に 、 翌 三 四 年 の 終 り ま で に 五O に 、 三 五 年 七 月 ま
で に 六 六 に 達 し た 。 三 六 年 欽 定 神 学 講 座 教 授 パ 1ト ン が 死 去 し 、 後 継 者 と し て メ ル ボ l ン 首 相 が 教 会 問 題 で の 彼 の ア ド
(例)(目別)
パ イ サ ー で あ る ダ ブ リ ン 大 主 教 ウ ェ ト レ ! の 奨 め に よ り │ │ 1 国 王 の 承 認 を え て 1 1 セ ン ト ・ メ ア リ ・ ホl ルのハンプ
デン学寮長を指名した時、ニュ l マ ン 達 の 反 対 運 動 は 著 し く 盛 り 上 が っ た 。 ハ ン プ デ ン は 三 九 カ 条 の 公 式 受 諾 の 制 度 を
単 な る 宣 言 に 代 え よ う と し た 博 士 で あ る 。 ハンプデンは結局就任するが、 オ ッ ク ス フ ォ ー ド 運 動 が 絶 頂 に 達 す る の は こ
の頃である。若者たちはニュ l マンの呪縛にかかった。﹁学生は彼が年長者の聞で評判が悪いがゆえに、彼の名が刺激
0
セ ン ト ・ メ ア リ (大学関係者がよく行く教会) に 行 き 、 こ の 上 な く 美 し い 言
的であるゆえに、彼が欽定講座担当教授を打のめすがゆえに、彼の所にまず行き﹂、自分達にふ慣れな吟味をするよう
(お)
導く論理的な力にで遭い、師を尊敬した
(幻)
葉で説かれる彼の説教によって学生は服従、清浄、捧身、聖礼典、精進苦行を学ぶ。ゥェトレ!大主教によれば、三八
年一 O 月 勉 学 に 励 む 学 生 の 三 分 の 二 は ピ ュ ゼ イ 主 義 者 だ と い う 。 こ の 数 字 は と も か く 、 三 七 │ 八 年 ニ ュ l マンを追う者
の数は大学史上稀にみるほどのものになった。学生達は彼の説教をきき、彼の仕ぐささえまねた。三七年学寮のあるフ
エロウ達は訪問者に、ピュゼイとニュ l マ ン が オ ッ ク ス フ ォ ー ド を 支 配 し て お り 、 彼 ら に 抵 抗 し う る 者 は 誰 も い ず 、 大
∞)(鈎)
(
学 の 精 神 の 帝 国 に 対 す る ニ ュ ! マ ン の 勝 利 は 完 壁 で あ る と い っ て いω
る。彼の影響が最も広がった時である。グラドスト
A斗 A
A 斗b
n〆臼
J E寸
L
r
u
ンが宗教的立場を最初に明らかにした有名な著書﹃教会との関係における国家﹄(三七年)を公にしたのもこの頃である。相
法
三二年以後の六年間に彼はもともとの福音主義の立場に、 さ ら に 、 オ ッ ク ス フ ォ ー ド 運 動 の 影 響 を う け て 、 英 国 教 会 が
(卯)
(﹀旬。∞門戸内印)
歴 史 的 な 普 遍 教 会 の 一 分 岐 で あ り 、 自 身 の 教 義 と 組 織 を も っ │ │ ︿ 国 家 か らVll独 立 し た 結 社 で あ る と い う 見 解 を
加 え た の で あ る (彼は数年にしてこの立場も離れる)。
オ ッ ク ス フ ォ ー ド 運 動 ほ ど で は な か っ た が 、 ケンブリッジにも同じような動きがあった。﹃使徒﹄
教
はなかった。 や が て は 彼 は 博 士 も オ ッ ク ス フ ォ ー ド の 欽 定 講 座 教 授 に 推 す よ う に な る 。 が 、 そ れ は 混 乱 を 起 す 可 能 性 の
た。ト l リ ! の 新 聞 は 博 士 の ﹁ 悪 意 の あ る 人 達 ﹂ を と り あ げ て 攻 撃 し 始 め て い た 。 首 相 の メ ル ボ l ン は 面 倒 を 起 し た く
なく、ましてハンプデン問題で敏感になっていた国教会や旧大学の空気の中ではょういに受けいれられるはずもなかっ
あった。それだけに、彼を重要なポストに就けようとすれば、高教会派から非正統的な人物として攻撃をうけるに相違
の道を遮った時、彼はこれと戦おうとしたのである。博士はウイッグにとりーーーハンプデン以上に││貴重な人物で
(引)
の 思 想 │ │ 真 面 目 で 熱 心 な 人 々 に は こ の 思 想 に よ っ て し か 国 教 会 は 維 持 ﹂ で き な い と 思 わ れ た ー ー が アl ノ ル ド 博 士
始 め た と き 、 こ れ に 対 抗 し て ︿ 伝 来 のV 教 会 理 論 を 護 ろ う と し た 。 ﹁ オ ッ ク ス フ ォ ー ド 運 動 の 端 初 を な す 異 な っ た 一 連
の性格、構造、機能についての理論を既に発展させていた﹂のであり、教会についてのニュ l マン達の思想が着目され
って極端な高教会派を痛罵したのである。彼はウェトレ!とともに、﹁力強さと大胆さとで衆目を集めており、国教会
人達﹂(三六年) を 書 い て こ れ に 介 入 し た 。 彼 は そ こ で ニ ュ l マ ン 達 を 陰 謀 、 狂 信 、 邪 悪 、 腐 っ た 良 心 を も っ 人 々 と い
ハンプデン問題が尖鋭化した時、ラグビー校のアl ノルド博士はエディンパラ評論に﹁オックスフォードの悪意ある
そ う で あ り 、 彼 は ほ ど な く ﹃青年英国党﹄ の 一 員 と し て デ ィ ズ レ リ l に 従 っ て 行 動 す る こ と に な る 。
へ の 捧 身 に お い て 一 途 で あ り 、 新 た な 騎 士 道 崇 拝 に 心 を 寄 せ て 大 学 を 出 た 。 ラ ト ラ ン ド 公 の 息 子 ジ ョ ン ・ マ ナl ズ 卿 が
し、中世の忘れられた礼拝をよみがえらせ、高教会の正しい礼拝形式なるものに関心を抱いたし、前者は同じく高教会
ES-SEm) の運動がそうであり、 四0 年 代 大 学 は 宗 教 論 争 の 温 床 と な っ た 。 後 者 は 教 会 の 記 録 を 掘 り 起
会学者﹄(肘R
や
説
論
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42)42
一九世紀ウイッグの精神構造(1)
(位)
ある神学教授のポストではなくて、近代史講座のポストであった。それも政権の終りが近づいているとみた四一年にな
ってからであった。混乱が起っても痛くはないと考えたのであろう。アl ノルド博士はそれまではオックスフォードか
ら離れたラグビーにいた。オックスフォードの教授になったが、 ほ ど な く の 翌 年 の 四 二 年 死 去 し て し ま う 。 彼 の 死 は オ
ツクスフォード自由主義には大きな痛手であった。だが彼の教えは弟子や卒業生、 さらに彼らの友人達によって広げら
れるのである。
ニュ l マ ン 自 身 が 書 い た こ の 号 が 大 き な 問
四0年 代 初 め は オ ッ ク ス フ ォ ー ド 内 で の 各 派 、 各 層 の 争 い が 泥 沼 化 し た 時 で あ る 。 ま さ に こ の 時 ニ ュ l マ ン 達 ( 八 ト
ラ ク タ リ ア ンV
) が 発 行 し て い る ﹃時代のための小論文﹄ の﹁第九O 号﹂、
題をひき起したのである。彼はここで、総ての国教会僧侶が正式受諾をしている三九カ条が伝統的カトリック信仰に反
しないことを論証しようとした。ここからすると、 カ ト リ ッ ク も 国 教 会 に 入 れ る こ と に な る 。 こ れ は 正 統 的 な 立 場 に 相
(mm)
い反する。しかも論証は牽強付会であった。(しかも三九ヶ条はより完壁なものとするために手を加えられなければな
ら な い と も さ れ た ) 。 学 寮 長 達 は 九O号 に 対 し 極 め て 強 く 反 発 す る 。 こ の 号 そ の も の の 糾 弾 は 控 え た が 、 ﹃ 小 論 文 ﹄ 刊 行
の 続 行 自 体 を 禁 じ て し ま っ た 。 ニ ュ l マ ン が 近 辺 の 村 に 白 か ら 作 っ た 礼 拝 堂 に 引 込 み (四二年)、さしもの運動も下り坂
(例)
となる。 し か し 抗 争 は 続 く 。 詩 学 教 授 キ l ブ ル の 後 任 問 題 で 大 学 は も め た ( 四 二 年 ) 。 票 数 計 算 で 、 対 立 候 補 へ の 支 持
は九二一で多数を占めたが、 ト ラ ク タ リ ア ン 側 の 候 補 も な お 六 二 三 も あ る と み ら れ た 。 四 三 年 に は ピ ュ ゼ イ が 異 端 の 弾
O年以上に百一って続いたオ
yク フ ォ ー ド 運 動 は │ │ 消 え 去 る こ と は な
劾をうけ、二年間大学内での説教を禁ぜられた。ニュ l マンは四三年秋セント・メアリ教会で最後の説教を行い、四五
年に正式にカトリックに改宗する。こうして一
かったが││下火となった。
九O号をめぐるオックスフォード大学当局の処置はトラクタリアン派に対する大学当局の戦いの宣言であった。疑惑、気づかい、反感、
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2・4
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3
説
論
羨望といった権力の側にある人達の中にくすぶっていたものが最後に問まり一定の行動となって現われた。それは運動の歴史での転換点
であった。これ以後運動はそれまでのものとは同じものではなくなる。それはその限りで英国教会内での、現にその昂揚と改革のための
運動ではあるが総ての段階で深い尊敬の念をもって権威を呼ぴ求め、無条件的であり過度でさえある条件での支配者への服従を認め、そ
してこの服従をば、現に献身という一言葉や古典文学に表わされる限りの総てのものに文字通りなそうとする運動であった。しかし九O号
をめぐる出来事の後は変化が起った。派は公的追放と刻印のもとにおかれる。不正に追放されたと考える派というものはますます自分を
顕示しようとする。心は分裂し、感情は昂ぶる。と、当局の態度は一層固まり敵意にまでなる。:::法王主義の脅しi 根 の な い も の で
はなく、また脅しに対する反作用も根拠のないものではないは最も賢明な人達のバランスを失なわしめてしまう。ましてや賢明でも
ない人は。熱狂した当時、ウインター博士、フォ lセ yト博士、サイモンズ博士を神学において異端者、気質において、迫害者、キリス
ト教的献身と自己否定の蔑視者であるとみないトラクタリアンはまずいない。学寮長の派の中で総てのトラクタリアンを、最も厳粛な約
東を暖昧にし、過去を呼ぴ返そうとする子供じみた迷信の無知な犠牲ではないと考えない者はいない。双方の側で激越さの時代であった。
四七年ハンプデン教授のへリフォード主教就任問題等)。
生活の礼儀が忘れられ、謎責、嫌悪、反対の弱々しきを恐れ、古くからの友情は破れ、二、三年前までは愛し、賞賛した人達の極悪を信
(
%
)
じた。
まさに敵意の時代であった。それはまだ続く
オックスフォード運動が山を越え、各派各層の入り乱れての抗争が収まるようになるとともに、 より幅広い見方、自
(%)
由主義的立場が浮ぴ上ってくる。チャドウイックによればこうである。
二O O年 前 宗 教 的 抗 争 に よ る 疲 弊 は ラ テ ィ テ ュ デ ィ ナ リ ア ン な 神 学 を 生 ん だ 。 今 や 同 じ 疲 弊 は 自 由 主 義 者 を 利 し た 。 ト ラ ク ト 主 義 を め
ぐる争いがどんな結末をもたらしたとしてもそれはオソクスフォード大学の旧態を明らかにし、改革への自由主義者の要求を強化した。
[オリオ1 ルのホ lキンズに対する攻撃が失敗して後]自由主義神学、また自由主義的な大学改革の綱領はゆっくりとだがオックスフォ I
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4
一九世紀ウイッグの精神構造(1)
ドではっきりとしてきた。ウォ lドやニュ l マンに従わなかったが以前捧身的であったトラクタリアン l l M・パタソンや J ・A-フ
ルlド[上記フル lドの弟]のような人達ーーはためらいがちにだが、自由主義へと改宗した。:::ピュゼイは地方の牧師の中ではな
お知られる名であったが、オックスフォードでは彼の学派は衰退し、滅亡へとひきずられていった。
(仰)
四0年 代 半 ば 以 後 大 学 の 雰 囲 気 は か な り 変 わ る 。 コックスは有名な文章で、 ド ン 達 が 神 学 論 争 か ら い か に 鉄 道 株 に 情
(mm)
熱 を 移 し た か を 語 っ て い る 。 ニュ l マ ン が オ ッ ク ス フ ォ ー ド を 去 っ た と 同 じ 頃 ( 四 二 年 ) ア1 ノ ル ド が オ ッ ク ス フ ォ l
ド の 教 授 に な っ た こ と は 象 徴 的 で あ る 。 ﹁ ト ラ ク ト 主 義 の 崩 壊 は オ yク ス フ ォ ー ド 自 由 主 義 者 に 新 た な 名 声 を 与 え る ﹂ 。
スタップスによれば、常識ある人聞は﹁一、宗教心にとんだ人達、二、古典派の人達、三、無信仰の人達﹂であり、最
(
ω
)
後 の 人 達 は ﹁ ラ グ ビ ー ﹂ と ﹁ウォダム﹂に分けられるという。﹁ラグビー﹂と ﹁ ウ ォ ダ ム ﹂ は オ ッ ク ス フ ォ ー ド 自 由 主
(胤)
義の二大要素であった。アl ノルドはオックスフォード自由主義者の大集団の父であった。彼は四二年死去するが、直
接 間 接 の 有 能 な 弟 子 H後 継 者 を 数 多 く 残 す の で あ る 。 弟 子 達 は 師 よ り も 一 層 自 由 主 義 的 と な る 。 と は い え 、 オ ッ ク ス フ
ォl ド で 自 由 主 義 者 が 勝 利 し た わ け で は な い 。 オ ヅ ク ス フ ォ ー ド 運 動 は 衰 退 し た が 、 保 守 的 傾 向 は 依 然 続 く 。 高 教 会 派
の勢力は著しい ( ト ラ ク ト 主 義 も 消 滅 し た わ け で は な い ) 。 大 学 外 で も 、 国 教 会 内 部 で さ え も 、 政 治 的 抗 争 と か ら ん で
(則)
激しい対立がある。ハンプデン教授の主教任命ゃ、ゴ l ラムの牧師任命をめぐる主教との対立と枢密院司法委員会の裁
決問題(四九│五年)などは典型的なものである。
そ も そ も 国 教 会 や 旧 大 学 で の ウ イ ッ グ は 多 く は な か っ た 。 有 力 な 人 物 と し て は ウ ェ ト リ l 、 アl ノ ル ド 、 ミ ル マ ン で
あ る 。 ホ l キンズ博士(学寮長)、 ウ ェ ト リl 、 アl ノ ル ド は オ ッ ク ス フ ォ ー ド 大 学 オ リ オ l ル ・ コ レ ッ ジ の ト リ オ と
し て トl リl の 槍 玉 に あ が っ た 三 人 で あ っ た 。 ホ l キ ン ズ は 鈍 い 人 間 と し て 軽 く み ら れ 、 彼 ら の ほ こ 先 は 主 に ウ ェ ト リl
に 向 け ら れ た 。 ゥ ェ ト リ ー (一七八七i 一八六三) は 、 オ ッ ク ス フ ォ ー ド で 論 理 学 の 研 究 を 復 活 さ せ た 人 物 と し て 著 名
北法45(
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)
4
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説
論
(閉山)
一見僧侶にはみえなかった
v
e
-フス
(大学での揮名は白
である。深いというよりは器用といった方がよかったが、大学では気むずかしい人間として通っていた。体が大きくマ
ナーが粗野で、学寮での大食いであり、通常の仕きたりを全く無視し、
熊であった)。会話は戦闘的で、考えは論議で練った。カトリック解放問題、 アイルランド問題、国教会問題で、
テ ィ ッ ク な 改 革 が 必 要 と い う 立 場 で あ り 、 ウ イ ッ グ 側 の 最 も 鋭 い 僧 侶 的 信 条 の 人 物 と し て 通 っ て い た 。 三O 年 あ る ジ ャ ー
(問)
V と い っ て い る 。 ジ ョ ン ・ ブ ル 紙 に よ れ ば 、 ウ ェ ト リl は オ リ オl ル・
ナ リ ス ト は アl ノ ル ド を ウ ェ ト リl の ︿ 介 添 人
グ ル ー プ の 頭 で あ り 、 自 分 以 外 の 総 て の 人 間 を ば か と 思 っ て い る 人 物 で あ る と い う 。 二 五 年 セ ン ト ・ ォl パ ン ・ ホl ル
メ ル ボl ン 内 閣 の 時 に は 、 彼 は 首 相 の ア ド バ イ ザ ー と な っ た 。 彼 に 比 べ る と 、
アl ノ ル ド は ﹁ よ り 謙 虚 で あ
の学寮長となり、二九年にはN ・シニオアの後を継いで経済学教授となった。三一年グレイ首相は彼をダブリンの大主
教に任じ、
り 、 よ り 歴 史 的 で あ り 、 より尊敬心があった﹂。
ウェトリーは解剖学者のように宗教の真理を分解するが、ア l ノルドは畏怖の気持をもち、かっそれを伝える。しかし政治思想におい
てではない。オックスフォードを去って後教師となり、著述には教訓のトl ンを付する。忠言や批判には謙虚に耳を傾けるが、さればと
いって自分の考えを変えようとはしない。少年たちの面倒をみるのに忙がしく、ウェトリl以上にさえ世間から離れ、隔った所におり、
世事に疎いが、世俗的人間を惹きつける問題については堂々と発言することを厭わない。論理的熱情がすぐに発露し、ヒュ l マlがウエ
ト リ ー よ り も ず っ と 少 な く 、 こ う し た 発 言 を 熱 を 帯 び た 激 し い 道 徳 的 情 熱 を も っ て 発 す る 。 説 教 壇 上 で は 効 果 は ノ l プルである。ウェト
リーは後世の人々がのこしたいと考えるような説教を残さなかったが、ア1 ノルドは世紀中最も立派な説教を多く残した。学識への愛と
'-0
一面性、熱情、エネルギーが支配し、ア lノルドは導きとはならな
精神の広さとは、キリスト教信仰と行為をば学校と国民の中に高く掲げさせる論理的エネルギーと稀にみるほどの調和をもって人を動か
した。しかし政治においては、世俗のものにせよ教会のものにせよ、
﹀
(刷)
・刀て丈
北法4
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1
2
・4
6
)
4
6
一九世紀ウイッグの精神構造(1)
と )
のちウエストミシスター寺院の参事会議員に
一五年)、 四 九 年 に は ロ ン ド ン の セ ン ト ・ ポ ー ル の 副 主
、ルマン (一七九一 l 一八六八) は オ ッ ク ス フ ォ ー ド の ブ レ ズ ノ l ズ ・ コ レ ッ ジ の 出 身 で あ り 、 詩 学 教 授 ( 一 一 一 │ 三 一
zd
なで
。た
(揃)
す に す ぎ な い ﹂ 。 オ ッ ク ス フ ォ ー ド の 改 革 に 積 極 的 な 役 割 を 果 た す べ リ オi ルの B ・ ジ ョ ウ エ ッ ト (一七│九三年)
1
O年、
一八四八
、 のち近代史欽定講座
オリオ l ル
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、 A ・G- パ ト ラ l、,
が特に行政面で彼を支える)。ジョウエットの外に、ヒューズ、ヴォ l ン
十
ば れ 、 ま た ジ ョ ウ エ ッ ト の 友 人 た ち 、 ゴ ー ル ト ウ イ ン ・ ス ミ ス (二三 l 一九一
息 子 の ア l ノルド、 A ・V- ダ イ シ l (三五│一九一一一一) な ど 数 多 く の 有 名 な 人 物 は ラ グ ビ ー 校 に 直 接 間 接 に 密 接 に 結
l ラグビー、ベリオ l ル
頃 ま で に は ペ リ オ l ル の 半 分 以 上 の フ エ ロ ウ は 彼 の 弟 子 と な っ て い た ( 彼 が 学 寮 長 に な っ た の は 七O 年 。 弟 子 グ リ ー ン
(問)
義的改革の先頭を切る。五四年、 ま さ に 大 学 改 革 の 真 最 中 に お い て は 彼 は そ こ の 学 寮 長 に は 選 出 さ れ な か っ た が 、 こ の
よ り 任 命 さ れ る 教 授 陣 に あ っ た 。 彼 が 大 学 改 革 の 足 場 と し て 築 い た 学 寮 は ベ リ オl ル で あ り 、 こ の 学 寮 が 大 学 の 自 由 主
後、残った人達の結びつきを強化したのは彼であった。彼の拠点は大学内のイスタブリッシユメントではなく、国王に
外 で は な く な る 。 大 学 改 革 で も 重 要 な 役 割 を 果 た す 。 オ ッ ク ス フ ォ ー ド 自 由 主 義 の 導 き の 星 で あ っ た アl ノルドの亡き
(胤)
家 論 ﹄ と ベ ー コ ン の ﹃ノヴァム・オルガノン﹄ で あ っ た 。 ク リ ス チ ャ ン と し て は ﹁ 意 図 と い う 点 で の み ﹂ そ う で あ る 以
年の革命に登場するドイツの自由主義的教授に最も近い存在であった﹂。彼が用いるテキストといえば、プラトンの﹃国
共 に ド イ ツ 旅 行 を し た (四回、 四 五 年 ) 後 は 、 熱 烈 な へ l ゲ ル 主 義 者 と な っ た 。 ﹁ オ ッ ク ス フ ォ ー ド の 中 で 、
(即)
ス タ ン レ イ の 親 友 で あ り 、 共 に 仕 事 を し た 。 若 い 頃 既 に 正 式 受 諾 の 制 度 に 反 対 す る よ う に な っ て い た が 、 スタンレ!と
l
ま
友人関係を通じてそのインフレンスを広げる。実際彼らは﹁オックスフォードでは大きな自由主義者の一群の一部をな
オ ッ ク ス フ ォ ー ド 自 由 主 義 は ラ グ ビ ー 校 卒 業 生 か ら 多 大 の 影 響 を う け る 。 アl ノ ル ド 自 身 そ の 旗 印 で あ っ た 。 彼 ら は
教年
説
吾ム
両岡
教授)、 パ デ ン ・ ポ ウ エ ル (幾何学教授)、 フ ラ ン シ ス ・ ジ ュ ー ン (ペンブルック学寮長)、
イスト・チャーチ) などは、自由主義的な改革において大学で積極的な役割を果した。
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改 革 の 進 め 方 に つ い て 政 府 の 役 割 を 積 極 的 に 考 え る よ う に な っ た グ ラ ド ス ト ン ( ア バ デ ィ l ン内閣の蔵相)は、ジヨウ
{凶)
強化する案であった。正式受諾は委員会の検討事項ではなかった。報告内容の実行はさし当り大学側の問題であったが、
(山)
とりいれ、学寮長会の編成がえ、学寮制と個人指導制を維持しつつ、教授・講義制を││試験制の再編とともに││
(出)
こ れ に ス タ ン レ l が書記役、 G- ス ミ ス が 副 書 記 役 と し て 加 わ っ た 。 報 告 書 が 出 さ れ た の は 五 二 年 夏 で あ る 。 代 表 制 を
とし、テイト、ジューン、 J - L ・ダンピア、 B- ポウエル、 H - G・リデル、 G - H ・ジョンストンが委員となり、
フォード自由主義の際立ったチ l ムを編成してしまう (
五 O年)。 ウ ェ ト リ l の 古 く か ら の 友 ノ リ ッ ジ 主 教 ヒ ン ズ を 頭
(出)
委員会設置に反対するが、議会は採決でこれをおし切る。評議会が委員の推せんをも縫ったため、ラッセルはオックス
(山)
オ ッ ク ス フ ォ ー ド 選 出 の 議 員 と な っ て い た ピ l ル派のグラトストンも﹁地方制度における独立の地方的原理﹂を主張し、
(
m
)
内部から改革が容易に進まないのをみて、議会内に改革検討委員会を作ろうとする。大学の評議員会はこれをも旋った。
った。事実大学改革もちちとして進まなかった。こうして四六年政権をとり戻したウイッグのラッセル首相は、大学の
四0 年 代 オ ッ ク ス フ ォ ー ド で オ ッ ク ス フ ォ ー ド 運 動 は 衰 退 し 、 自 由 主 義 勢 力 は 確 か に 伸 び た が 、 そ れ は 勝 利 で は な か
た者がかなりいる。
ともいうべきインパクトを与える﹂のである。世紀後半の自由主義的政治家・議員にはベリオ l ルに直接間接に関係し
(川)
義の潮流が形成されてゆく。﹁ヴィクトリア朝のベリオ l ルの伝統はイギリスのアカデミックな制度の歴史にユニーク
る 他 学 寮 へ の ︿ 植 民V が急速に進み、 そ れ と と も に 自 由 主 義 的 な 影 響 範 囲 が 広 が っ て ゆ く 。 こ う し て 支 配 層 内 の 自 由 主
こ う し て ラ グ ビ ー 校 は 旧 大 学 、 特 に ベ リ オ l ル の 中 に そ の 影 響 を 広 げ る 。 そ し て 五0 年 代 後 期 ベ リ オ l ル の 人 達 に よ
ク
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)
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8
一九世紀ウイッグの精神構造(1)
(山)
ng賞 品 住 吉 を お き 、
エット達とともに、いくつかの立場を加味した妥協的なオックスフォード大学改革法案を練った。その骨子は次の通り
(
m
)
カンスル
である。付学寮長会をより民主的に改組し、学生を除く広範囲の大学関係者で組織する会議体
ホル
それが選挙母体となって選ぶ評議会とする。口宣誓は廃止はされないが、制限され、また副学長の認可のもとに私的な
宿泊施設をおきうることとする。臼フエロウシップの半分は公募とする。四フエロウシップの四分の一まで僧侶職につ
か な い 俗 人 に 割 当 で 、 コ レ ッ ジ に 住 ま な い 者 に は 制 限 を 設 け る 。 回 フ エ ロ ウ は カ レ ッ ジ に 居 住 す る だ け で な く 、 チ ュ タl、
役職者、近辺の牧師、研究者としての証明をもっ者などでなければならない。∞コレッジ収入の最大限五分の一は教授
職の資金に当て、 ま た フ エ ロ ウ シ ッ プ の 数 な ど を 減 ら し 、 年 二 五0 ポ ン ド ま で フ エ ロ ウ の 収 入 を あ げ 、 新 建 築 を な し 、
(
m
)
ホールをつくることができる。この法案は五三年三月外相ラッセルによって議会に上程され、たいへんな迂余曲折を経
ながら、五四年その骨子においては殆ど修正されることなく可決された。法案作成に当りグラドストンが力説したのは、
(印)
コレッジのフエロウの一部を僧職就任の義務から切り離し、新しい研究に従事する限り聞かれたものにしようとするこ
(
m
)
と で あ り 、 そ う し た 八 世 俗 的 フ エ ロ ウV を 四 分 の 一 ま で 増 や し て よ い と す る こ と で あ っ た 。 自 由 主 義 者 は そ れ で も 僧 職
に偏りすぎると強硬に反対した。旧大学のフエロウが僧職と切り離されるのは世紀半ばすぎであり、学生の個人指導は
それまでは僧職に就くことになっているフエロウ達が行ったのである。
は加われない。
ケンブリッジでは、 五 六 年 法 に よ り 、 神 学 以 外 で の 学 位 取 得 に は 宗 教 テ ス ト は 廃 止 さ れ る 。 た だ 、 大 学 行 政 に は 、 国
教会の者と違い、 ノ ン コ ン フ ォ l ミストの M A 文 学 修 士
五四年と五六年の立法により、旧二大学の教育と学位にはどの宗派の者にも開かれるようになった。ただ大学と学寮
の行政は国教徒でなければならなかった。奨学金も競争的なものとなった。大学のカリキュラムも新しい傾向をうけい
れるようになった。それは大学の外で発展していた新しい学問領域をうけいれることであった。オックスフォード哲学
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説
言
命
l-w ・ ハ ミ ル ト ン の 哲 学 は 学 部 で 流 行 し 、
は、以前ひき離されていた知的潮流に追いつく。サ
(印)
アリストテレスの研究
は ド イ ツ の 言 語 学 と 接 触 し て 科 学 的 な 土 台 を つ く っ た 。 こ れ ら の 変 化 はll 五O 年 に 制 定 さ れ た 試 験 法 令 の 結 果 と あ
いまち││改革によって刺戟されたのである。
(邸)
オ ッ ク ス フ ォ ー ド で 改 革 は 進 ん だ も の の 、 自 由 主 義 が 勝 利 し た わ け で は な い 。 ﹁ 五0 年 代 初 め の 激 し い 論 争 は オ ッ ク
1高 教 会 派 と の 抗 争 は 決 着 が つ
スフォード内の力の均衡に驚くほど小さい変化しか惹起させなかった﹂。合理主義の穆透に反対して戦っていたピユゼ
イは孤軍奮闘であったが、 そ れ で も 人 々 を ひ き つ け て い た 。 自 由 主 義 ! 改 革 派 と 保 守 派
(似)
け ら れ て い な い 。 大 学 の ユ ニ オ ン や コ レ ッ ジ の コ モ ン ル l ム の 雰 囲 気 は ト l リl的 で あ り 、 ブ リ リ ア ン ト な 若 者 は ト l
へ邸)
リ ー で あ り 、 高 教 会 派 で あ っ た 。 六0 年 代 半 ば に な る と 、 改 組 さ れ た 評 議 会 は じ め 、 大 学 の 各 層 で 、 自 由 主 義 は 勝 利 ど
こ ろ か 、 勢 力 を 失 墜 し た 。 G- ス ミ ス さ え 、 六 九 年 、 若 き オ ッ ク ス フ ォ ー ド が 自 由 主 義 的 で あ ら ね ば な ら な い と い う 幻
想を放棄してしまったほどである。
オックスフォード自由主義者の希望は、オックスフォードにおける戦いにはない。そこの通路は余りにも狭く、敵側がながい間圧倒的
(凶)
に強力な勢力で固めてきたし、今もそうである。希望はより広い場にある。国の立法府を自由主義化せよ、そうすればこの立法府は時を
浪費することなく、また慢性的な苦しみもなく一気にオックスフォードを自由主義的にするであろう。
六O 、 七0 年 代 政 治 家 や 議 員 と し て 活 動 す る 人 達 の 中 に は 、 四0 年 代 半 ば 以 後 、 旧 大 学 、 特 に オ ッ ク ス フ ォ ー ド で 学 ん
だ 人 達 が 多 い 。 二0 年 代 半 ば 以 後 に 生 ま れ た 世 代 ( パ リ 教 授 の 新 世 代 の 中 の 後 半 の 世 代 ) で あ る 。 彼 ら は 大 学 教 育 を 重
視するようになったインテクチュアリズムの世代であって、同時に、 トラクタリアンの勢力が衰えて自由主義的な勢力
が伸び、この勢力が依然として強固な保守派や高教会派と争ったオックスフォードの中で学んだ人達である。こうした
抗争の中で彼らは l │ トラクト主義者によってさえも││政治的立場を鍛えられたのである。
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一九世紀ウイッグの精神構造(1)
(m)(
邸)
ブロードチャチ
アl ノ ル ド の 宗 教 思 想 の 流 れ は 、 オ ッ ク ス フ ォ ー ド の 他 の 思 想 の 流 れ と 合 流 し 、 八 広 教 会 派V と い わ れ る 人 々 の 教
会理論をつくる。それは、
yグi自由主義者の俗人で一八三五年から一八五五年まで大学に在った者は、ア lノルド及び彼の弟
一八六0年代までに、国教会や学校や大学や新聞ヤ政治に流れ込む強烈なラティテュデイナリアニズムの洪水をつくりあげたように思わ
れる。広教会僧侶の大部分及びウイ
子たちのうちの誰かから影響を、つけた。
自 由 主 義 的 国 教 会 派 の 教 会 論 は 多 く は 、 僧 職 に あ る 者 に よ っ て で な く 、 アl ノ ル ド の よ う に 、 知 識 人 i 教 師 に よ っ て
(凶)
発 展 せ し め ら れ 、 八 広 教 会V の 理 論 と な っ た 。 そ れ は 一 八 世 紀 ウ イ ッ グ の と っ て き た 低 教 会 派 の 理 論 の 流 れ を ひ き 、 高
教 会 派 の 僧 侶 に よ っ て ︿ 国 家 至 上 主 義 的V と い っ て 非 難 さ れ た も の で あ っ た が 、 八 広 教 会 派V は 一 九 世 紀 の 様 々 の 影 響
一九世紀半ば以後、このグ
をうけながら、 そ れ を 思 想 的 に よ り 深 め た と い う こ と が で き よ う 。 三0 年 代 以 後 国 教 会 の 改 革 を 進 め る 重 要 な 発 条 と な
ったのは彼らであり、 そ の 源 流 が ア l ノルドたち、 ま た さ ら に コ l ルリ yジたちであった。
(
m
)
ル ー プ の 戦 士 と な っ た の が 博 士 の 弟 子 で あ り 、 そ の 伝 記 作 者 で あ っ た A ・ ス タ ン レ イ (ウエストミンスタ l寺 院 の 副 主
教 と な る ) で あ っ た こ と も こ の こ と を 示 そ う ( 八 広 教 会 派V と い う 言 葉 が で き た の は 四0 年 代 で あ っ た と い う ) 。 彼 ら
は自由主義的神学を信条とし、僧侶より学者に多く、教会内部でよりはその外で大きな影響力をもっ。人数は多くない。
彼らは教会の行財政の改革において自由主義の側に立ち、 ウ イ ッ グ を 支 持 し た 。 こ の 点 で 彼 ら は 高 教 会 派 や 福 音 主 義 者
(削)
と異なるし、 オ ッ ク ス フ ォ ー ド 運 動 や ニ ュ l マ ン 達 と は 鋭 く 対 立 し た 。 ア l ノルドの ﹃教会改革原理﹄ は 、 高 教 会 派 の
(問)
行 き 方 に 対 立 し 、 広 教 会 派 の 信 条 の 基 本 を 示 し た も の で あ り 、 デ ィ セ ン タ ー を 国 教 会 内 に 包 織 し よ う と し た が 、 スタン
レ イ も こ の 線 に 沿 っ て 議 論 を 展 開 す る 。 彼 は ﹃ 非 国 教 化 と は 何 ぞ や ﹄ と い う 論 説 ( 七 一 年 ) のム中でこ、ついう。
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1
一、許容しうる教義の領域を広げること。
二、儀式や礼拝形式の中で不人気なものを除くこと。
三、教会行政・組織において僧侶の発言力を縮減すること。
(問)
息子のア1 ノルドやスタンレ lは、これら一二つの事がらにおいて、宗教的慣行を国民生活の知的精神的な潮流と調和さ
(印)
せ る の が 国 家 の 役 割 で あ る と い う 。 二 人 は 国 教 会 の 祈 稽 書 と 教 会 規 律 さ え 保 持 さ せ え さ え す れ ば 、 ノ ン コ ン フ ォ 1 ミス
ト を 、 彼 ら 自 身 の 条 件 で 国 教 会 の 中 に う け い れ て よ い と し た 。 た だ 、 アl ノルドの方は彼らの偏狭さにより厳しい。
(邸)
われわれは既にピュ lリタニズムがこそどろ式の組織をもつために偏狭に陥ったことをみた。それでピュ lリタニズムを国民生活の主
流に接しめることによってそれを匡正しようとした。
中 産 階 級 ノ ン コ ン フ ォl ミストの宗教・道徳主義的偏狭さに、 ギ リ シ ア 主 義 的 優 美 と 慧 知 を 疹 透 さ せ る こ と に よ っ て 、
人間性の完成(教養) へと近づけようとするのである。そしてこれは国家の役割を示唆するのである。
(別)
教養は国家の観念を示唆する。われわれは日常の自己の中には強固な国家権力の基礎を見出さない。他面、教養は我々の最善の自己の
中にそれがあると示唆する。
﹁全社会、即ち国家の観念にまで向上し、 そ こ に 我 々 の 慧 知 と 権 威 の 中 心 を 見 出 す ﹂ ぺ き な の で あ る 。 国 教 会 と は そ う
し た 慧 知 と 権 威 を 含 む 存 在 で あ り 、 こ こ に ノ ン コ ン フ ォ 1 ミストをひきいれようというのである。
(印)
広教派会の考えには福音主義者(主に低教会派) も賛同する。﹁キリストにおいて﹂堅固なプロテスタントの統合に
は
達するためには外的特権を喜んで犠牲にしようというのである。僧侶の印や過剰な儀式を嫌う彼らにはこのことはたや
すいことであったろう。他方、高教会の人たちは広教会派に真向から対立する。彼らにとって教義と礼拝(形式)
質的なものである。
本
説
論
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)
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2
一九世紀ウイ、ノグの精神構造(1)
(郎)
確定された教義をもたないか、殆ど全くもたない宗教、何としても教えられ、そのために悩まれねばならない絶対的真理の定めがなく、
内面に厳しく迫る戒めであるが、にも拘らず罪人にとってこよなく暖かい慰めとなる言葉のない宗教は全く宗教とはいえない。 (H・Pけ'ド'ン
高教会派の人達にとって定った教義とその教義の遵守とは宗教にとって不可欠のものであった。また彼らは││最も
サクラメント
論争の的となる││聖さんにおけるキリストの現在の観念を護持し、悔い改めた人がキリストのからだの中にうけ容
(即)
れられる儀式の役割に特別の効力を与える。この儀式の受容は、共同(体)的行動とみられる時、最も心をひきたて
るものとみられる。キリストの中に集まることによって﹁一つの聖なる真理の統合﹂となるからである。こうした教義
と 礼 拝 に 裏 づ け ら れ た 国 教 会 観 は ︿ 国 家 至 上 主 義 的V 広 教 会 派 の 立 場 と 際 立 っ て 対 立 す る 。
ウイッグの大勢はこのような広教会主義をうけいれた。それは国教会をそのようなものとして堅持し、 そのためにも
国教会をその方向へと改革してゆこうとする。国家は国民の生活をあずかるものであり、 その知的精神的変化に適合す
るよう、教会の在り方を変えてゆくべきなのである。ウイッグは国家権力を通じてでも教会問題に関与してゆくことを
た め ら わ な い 。 国 教 会 が 八 腐 敗V し 、 僧 侶 が 余 り に も 教 会 の 物 質 的 側 面 に 関 心 を も ち す ぎ る と 思 わ れ た と き 、 ウイッグ
は
二
一0年 代 国 教 会 の 改 革 を 進 め た 。 ウ イ ッ グ は デ ィ セ ン タ ー と 共 通 の 主 張 を 多 く も ち 、 ま た 現 に 彼 ら の た め に 動 い た が 、
国教会の改革を実行したとはいえ、国教会の堅持ということでは、彼らの主張とは質的に異なる。余りにも教会と国家
を結びつけることに反対であるとはいえ、彼らは非国教化には反対なのだ。少なくともイングランドではそうである(ス
コットランドについては多数派の長老派の国教会を認めたし、国教徒が住民の小数派であったアイルランドについては
少数派の国教会の非国教化を認めるようになる)。大部分のウイッグは国教会制が国民全体の精神的な側面において有
用なはたらきをなしているし、 ま た 国 の 社 会 的 安 定 の 確 保 と い う 実 際 的 な 有 用 性 に つ い て は 、 誰 一 人 認 め な い 者 は な か
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説
吾
白岡
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ったといってよい。ウイッグは、教会の精神的側面を力説しつつ、 そ の 教 義 的 、 組 織 的 排 他 性 を で き る 限 り 緩 和 し よ う
とした。即ち、伝統的な教義や礼拝形式に疑問をなげ、 そ れ ら が 、 理 性 的 な 信 者 で あ れ ば い つ か は 一 致 し て う け 容 れ る
ようになるキリスト教の基本的な真理を蔽いかくしているとした。この基本的な真理さえ堅持していれば、他の事がら
は多様で緩いものにしてもさしっかえなく、 そ の こ と に よ っ て ま た 、 国 教 会 と ノ ン コ ン フ ォ l ミ ス ト と の 聞 の 障 壁 が 除
去され、彼らも国教会に入りうるであろうし、少なくとも同胞の意識で国教徒とともに動くようになるであろう。これ
が広教会派の議論であり、 ウ イ ッ グ の 国 教 会 観 で あ っ た 。 そ の 骨 格 は 、 本 質 的 な 信 仰 箇 条 の 一 致 さ え あ れ ば 、 他 の 事 が
らに多様性があっても国教会に入りえ、このことによって国の精神的支柱と一体感が確されるということにある。した
が っ て 無 意 味 な ︿ 儀 式 主 義V に こ だ わ っ て 、 排 他 的 に な り な ち な 高 教 会 主 義 に 反 発 す る 。 外 面 的 儀 式 な ど は 多 く は 宗 教
に 本 質 的 な こ と で は な く 、 国 教 会 は そ れ に 固 執 す る こ と は な い と い う の で あ る 。 ノ ン コ ン フ ォ l ミストと同様、ウイッ
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、
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グは、三九ヶ条の信仰箇条の受容のル 1 ルや画一令の適用を緩和すべきであると考えてきた。
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一九世紀ウイソグの精神構造(1)
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(8) 印
Z自由PF-n-∞ニト芯 S て芝24Sト。‘尽き(早叶 ω)・ 社 本 ・ 三 ツ 星 訳 二 ニ 七 八 ペ ー ジ 。 こ の テ │ ヌ の 言 葉 に つ い て 、 著 者 は
だいたい当っているか、主に上口問ぶった下層中産階級や暮し向きがよく世間体を気にする労働階級の一つの生活様式を表
わしているにすぎないとしている。
(9) 同一一一一七ページ。 ζR胃ZDpm-Sミミsashp旬。円呂守(呂∞。)
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DhaS(円。。∞)・山下・中野・同和田訳二七三│四ページ。
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(日)むミ守著書,同ミ日哲也君(弓∞吋)一色白﹃ F ﹄(リ?岡高史的phRE?﹄qhwhw﹄
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ミK C芯予 (HmwmwO)・2)HNlω・
(日)シ l マン、同一四九ページ。
(げ)同一五O│一ページ。
(四)の FFユ凹門戸名門誌・官 -NωH
(叩)玄白石尽き PD
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も・円札?官官・。c
(却)本稿第二章参照。
(幻)拙者﹃英国自由主義体制の形成﹄三六0 ページ以下。
(詑)同第六章第四節参照。
エラスティアニズム
とって前者は︿国家至上主義V とうつる。
(幻)ウイソグと広教会派は国家が教会に関与することを肯定し、ト lリ!や高教会派はそれを否定する傾向がある。後者に
・印 mwlφ
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は他の制度に委ねられることになった。専門職としては僧侶になるのが主流であった。
(民)伝統的に古典文学科、その B - Aの試験、そのための学科目の履修が主流であり、法律家、 医師養成のための専門教育
(
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(部)﹂吉弘司・印 ω
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1967),p, 321
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。ミミミ首切﹄白込町SFとして公刊された。
(回)同一二三六ページ参照。
(日)上掲拙著第六章四節参照。
り、かっ、﹁承認された憲法慣行に違う﹂ものであるとして、反対の請願を行う。 CE53芹
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あ り 、 も う 一 つ は 評 議 会(
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八月までに本論にあるような線を原則的にまとめていたのである。
し 、 フ ル l ドとパ l マl は オ ソ ク ス フ ォ ー ド に 帰 っ て 結 果 を ニ ュ l マ ン と キ l プ ル に 話 し た 。 オ ソ ク ス フ ォ ー ド の 四 人 は
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O 一l 九 O)、 ピ ュ ゼ イ ( 一 八 O O l八二)、ロ l ズ、 W- パl マl ( 一 八 一 一 - │ 七 八 ) が と り あ げ ら れ る が 、 外 に 、 Hフル l ド ( 一 八 O 三 l 一二六)、ー・ウィリアム(一八 O 二!六五)、 c ・ マ リ オ ッ ト ( 一 八? l五八)、特にフル l ド が 重 要
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うとし、フルlドはそれをなかったものとみようとする。
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(∞∞)}可児匡目的角川 g 担問コ巾口門戸]{∞ ZO者 e H∞
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(児)の﹃2ニ-Pゎ-n戸吋どの喜言宗ミ偽善23・EFω可申円﹃巾可自己何?﹄一向。﹃pcy円)Nめ寸一︿ケ︻)?のF包室内}F口市・3F'U司-HHω-HNω
(幻)三九箇条にはプロテスタントとしかいえない条項があるのである。例えば、﹁教会は総て聖書から信仰をうる﹂とか、
か、﹁パンとぶどう酒とは自然の物体にとどまるとか﹂、等々である。
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またニュ l マンは、信仰箇条が修正されうるのは教会の手によってのみであって、議会にはそれができないともいう。
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(朋)福音主義者で、幼児洗礼典での無条件的再生を問題にするゴ l ラ ム を 僧 職 に つ け る べ き か 百 か が 、 所 管 の 主 教 ( フ ィ ル
た(四九│五O年)。そこで教会問題が係争となるときは・千教がくわえられることにはなったが、宗教問題、なかでも教義
ポッツ)とウイッグ政府との問で問題となり(四七年)、やがてこの異端問題は枢密院司法委員会に上訴されることになっ
の問題が世俗色の濃い枢密院で論ぜられ、決着がつけられてよいのかどうかということが問題となり対立点ともなった。
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裁決は、ゴ l ラムが国教会の教義に反していない、という︿包括主義的V(広教会的)なものとなったonFE5nF名門デ
百
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の 形 成 ﹄ 一 九 九 三 、 四 三 六0 ページ参照)。ウエトレ lは、オックスフォード運動を興したニュ l マンがオリオ│ルのフ
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胆) J - s ・ ミ ル は ウ エ ト リ l の﹃論理学綱要﹄巴2S3
なミ p h F EN∞についてウエストミンスタ l評論の中で書評してい
る(﹁ウエトリ!の﹃論理学綱要﹄﹂一八二八)。ミルはこの本を批判的に高く評価している。矢島杜夫フ、、ル﹃論理学体系﹄
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一九世紀ウイッグの精神構造(1)
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偽札。円宣言。﹃同窓河内丘、苫足寄ぬ(同∞印印)'右目コ ωa 斗一N H 一可申﹃﹁可aSHK
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(﹁ウイッグの衰退と終駕﹂第三節の一部にあたるものであったが,
本稿は故荒木俊夫教授の追悼のために書きおろしたものである。
一応独立の形をとるよう書きかえた。)
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