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中国語 ・ 中国現代文学を専門としている者が、 美学美術史 を

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中国語 ・ 中国現代文学を専門としている者が、 美学美術史 を
凌 叔 華 と中 国 画
中 国 語 ・中 国現 代 文 学 を 専 門 と し て いる者 が 、 美 学 美 術 史
を 学 ぶ 女 子学 生 と 連 帯 し よう と し て、︿女 性 ﹀ ・ ︿中 国 現 代 文
学﹀ ・ ︿美 術 ﹀ と いう 三 つのキ ー ・ワード を並 べ て みた と き 、
ま っ先 に思 い浮 か ぶ の は凌 叔華 (
ピぎαQωげロ歩轟 本名 凌 瑞 棠 、
一九 〇 〇∼ 九 〇 ) の名 前 であ る。 凌 叔 華 の作 家 と し て の活 動
は、 短 篇 小 説 と 中 国 語 の "散文 " す な わ ち評 論 ・随 筆 が ほ と
んど で、 いわ ゆ る大 作 家 と は言 いが た いが 、 彼 女 自 ら 本 格 的
な中 国 画 を描 く と いう 点 で、他 の作 家 と は異 な る際 立 った 特
凌 叔 華 の文 学 に つ い ては 、戦 前 の 日本 で同 時 代 的 に読 ま れ
徴 が あ る。
たあ と 、 社 会 主 義 国 家 の成 立と いう 中 国 の歴 史 的 な 事 情 や 、
彼 女 の結 婚 と 夫 お よび 夫妻 の社 会 的 立 場 、 ま た 四〇 年 代後 半
に渡 欧 し て以 来 、 一貫 し て 国外 にあ ったと いう 個 人 的 な 事情
池
上
貞
子
な ど さ まざ まな 要 因 から 、 八〇年 代 に 入 る ま で は、 台 湾 や 香
港 は 別 と し て、 中 国 大 陸 や 日 本 で は あ ま り深 く 研 究 さ れ る こ
と は な か った。 し か る に改革 開 放 の波 が 学 問 分 野 にま で及 ん
ヨ
で いる今 日 で は、 中 国 はも と よ り 日本 でも 彼 女 を テ ー マにす
る研 究 者 が 多 く な って いる。
筆 者 は近 年 、 張 愛 玲 (一九 二〇∼ 九 五) と いう 作 家 を 研 究
テ ー マに し て いる が 、 同 じ く後 半 生 を外 国 で暮 ら し た 女 性 作
家 と いう 共 通 点 を も ち な が ら、 生 き 方 や文 学 上 の作 風 な ど で
非 常 に対 照 的 な こ の凌 叔華 に つ いて、 ひそ か に関 心 を も ち つ
づ け てき た。 だ か ら 研究 の方 法 と し て は、 こ の両 者 を 比 較 す
る 方 法 が 考 え ら れ る し 、 ま た V ・ウ ル フや K ・ マ ン ス フ ィ ー
ルド な ど 英 文 学 と の関連 を考 察 す るも の、 あ る いは フ ェミ ニ
ズ ム の 観 点 か ら の ア プ ロー チ な ど い ろ い ろ 考 え ら れ う る が 、
一1一
こ こ で は先 ほど のキ ー ・ワー ド を押 さ え て、 ︿凌 叔 華 :人 と
文 学 と 絵 画 ﹀ と いう 部 分 に焦 点 をあ て て考 察 し てみ た い。
て い る の で はな く 、 そ れ な り の努 力 や 素 養 が あ って の こと だ 。
そ し て李 成 (五代 宋 初 の文 人画 家 。 ?∼ 九 六七 ) の寒 林 、
米菷 (
北 宋 の書 家 ・画 家 。 一〇 五 一∼ 一 一〇 七 ) の雲 山 な ど 、
歴代 の大 家 の学 ぶ べき 特 質 に つ いて、 具 体 的 に列 挙 し て いる 。
凌 叔 華 が 真 正 面 か ら 中 国 画 を 論 じ た "散 文 "に、﹁我 們 怎 様
国 画 をど う 見 る か﹂ と ほと ん ど 同 じ時 期 に書 かれ た ﹁泰 山 曲
す る関 心 の強 さ や 造 詣 の深 さ が如 実 にあ ら わ れ て い る 。 ﹁中
一、 文 学 作 品 乏 絵 画
看 中 国 画 ﹂ (﹁
中 国 画 を ど う 見 る か﹂ 一九 三 四) が あ る 。 これ
阜 紀 游 ﹂、 あ る いは そ れ よ りず っと 以 前 の 一九 二七 年 、 日 本
ま た凌 叔 華 の紀 行 文 に は、他 の作 家 に増 し て、 中 国 画 に対
は、 中 国 画 が わ か ら な いと 言 う 人 や、 わ から な さ を 悪 用 す る
が 、 何 と い っても 美 術 と 深 い関 わ り を も つ凌 叔 華 ら し い
滞 在中 に書 い た ﹁
登 富 士 山 ﹂ は 、描 写 のあ ま り の克 明 さ に、
エ ッセイ は、 ﹁重游 日本 記 ﹂であ ろう 。こ れ は戦 後 復 興 期 の日
読 者 も い っし ょに 一歩 一歩 、 歩 を進 め て いる よう な 錯 覚 にと
似 " ⋮ ⋮形 が そ れ ら し く あ る こ と よ り は、 作 品 全 体 が かも し
本 を 再訪 し た とき の印 象 であ る が 、戦 前 の自 信 に み ち て い た
人 間 が い る状 況 を 憂 え て、 中 国 画 を見 る た め の基 礎 知 識 を ま
"布
ら わ れ る。
だ す 気 品 、 あ る い は趣 き の ほう が 大 切 で あ る 。②
や名 画 を引 き 合 い にし な が ら 解 説 し て い る 。 ① "気 韻 与 形
局 " ⋮ ⋮中 国 画 にと って構 図 は 非 常 に 重 要 で あ る が 、 ﹁画 尽
日 本 の雰 囲気 を知 り、 か つま た イ ギ リ スで の生 活 を経 た彼 女
と め たも のだ 。 以 下 の 五 つ のポ イ ント に つい て、 歴 代 の大 家
意 在 ﹂、す な わ ち そ こ に詩 情 が なけ れ ば な ら な い。③ "用 筆 用
には 、 日 本 の 西洋 模 倣 の部 分 だ け が 目 に つ いた ら し い。 強 い
代 中 国 の文 人 画家 。 一八九 九 ∼ 一九 八 三) や ニ ュー ヨー ク か
調 子 で ﹁欧 米 に な いも のだ け を 見 に いこ う﹂ と決 意 を表 明 し
ら き て いた 済 遠 と いう 人 から 連 絡 が あ り 、 行 動 を と も にす る。
墨" ⋮ ⋮筆 つ か い墨 つ か い は形 や 気 骨 を端 的 に表 す も の で、
一∼ 七 四) あ た り は絵 と は ﹁
胸 中 の逸 気 ﹂ を 写 し、 自 ら 楽 し
鎌 倉 瑞 泉 寺 へ梅 を 見 に い った り 、 上 野 の 国 立 博 物 館 で 梁 楷
て いる 。 折 し も 移住 先 の南 米 から 東 京 に来 て いた張 大 千 (
現
む も のと考 え た の で、 意 が 余 って題 辞 を つけ る よう にな った。
(南 宋 の画 家 ) や李 龍 眠 (
公 鱗 、 北 宋 の文 人 画家 。 ? ∼ =
ま し や かだ ったが 、 倪 雲 林 (
贋 、 元 代 の 文 人 画 家 。 一三 〇
⑤ "士 大夫 画家 与 文 人 画 " ⋮ ⋮ 官 職 に つ いて いる者 と 、 形 に
書 に通 じ る。 ④ "画 題 及 落 款 " ⋮ ⋮ 元 以 前 は画 題 や署 名 も 慎
と ら わ れ な い者 と いう 違 い はあ るが 、 と も にで た ら め に や っ
一2一
〇 六) な ど の、 中 国 絵 画 の名 品 の数 々を特 別 に見 せ ても ら っ
と も 動 こ う と し な い 。 そ の た め い っそ う 誇 り 高 く 見 え る の
引 用 者) に
だ。
ど う し た わ け か 霄 音 (主 人 公 の女 性 の名ー
た り し て い る。 同 じ く 京都 や奈 良 でも 、 寺 院 見 物 の ほか に京
都 博 物 館 な ど に行 って 、特 別 に蔵 画 を見 せ ても ら った こと を
は、 今 日 は 海棠 のこ う し た様 子が と ても ぶ ざ ま に思 え た 。
三〇 年 代 前 半 に書 か れ たと 思 わ れ る ﹁倪 雲 林﹂ が あ る。 詩 、
ゆ る や か に春 風 に の つて、 緞 子 のう え を 旋 回 す る。 黒 い鳥
そ こ に た ま さ か 雪 の よう に白 い柳 絮 が 飛 び か い、軽 や か に
仰 向 く と 、 今 の空 は淡 い青 色 のす べす べし た 緞 子 のよ う だ。
書 を も 能 く し 、 山水 画 にす ぐ れ て いた 倪 雲 林 、字 讚 に凌 叔 華
一方 、 小 説 で美 術 そ のも の を テ ー マと し た の では 、 や は り
記 し て いる 。
はよ ほ ど 関 心 を よ せ て い たら し く 、 散 文 で も折 り に ふれ て言
の手 に な るも の やら 。﹂
が数 羽斜 め に よぎ る。 そ の影 の麗 し さ !
一
ヨ
さ なが ら絵 そ のも のを 見 る よ う な 感 が あ る。 同 じく 彼 女 の
[
ど こぞ の絵 描 き
及 し て いる。 こ の短 篇 で は、 詩 ・書 ・画 のた め に実 生 活 に無
頓着 な倪 と、 そ れ に つけ こ ん で彼 の絵 を得 よう と 躍 起 にな っ
得 意 な若 夫 婦 も の の ひと つ ﹁
病 ﹂ (一九 二七) は、病 気 の夫 の
こう し た直 接 的 な 形 では な く、 小 説 のな か の情 景 描 写 な ど
て いる俗 人 た ち の姿 を 描 い て いる。
に友 人 宅 へ通 う が 、 夫 はそ れ を 浮気 を し て い ると 誤 解 し て悩
転 地 療 養 の費 用 を 稔 出 す る た め 、妻 は夫 に内 緒 で偽 画 を 描 き
み憤 ると いう 、 ﹁
賢 者 の贈 り 物 ﹂風 の小 話 。話 と し て はた わ い
に、 そ の素 養 を 偲 ば せ る例 は枚 挙 に いと まが な い。 た と えば
﹁
春 天 ﹂ (﹁春 ﹂) は新 婚 の妻 の憂 欝 を描 い たも のだ が 、原 文 で
い った い に彼 女 の作 品 は、 若 夫 婦 や 若 い女 性 、 子 ど も のこ
な いが 、 妻 が 絵 を 描 く 女 性 で あ ると いう の は作 者 自 身 の姿 を
﹁彼 女 はあ いか わ らず 窓 の外 を 見 て いる 。 灰 褐 色 の空 に は
と を 扱 った も のが多 いが、 これ は当 時 活 躍 し て いた女 性 作 家 、
二〇 〇 字 く ら い の、あ る 二段 落 のう ち に、 さ ま ざ ま な 色 と形
す で に淡 い青 色 が 塗 ら れ 、 蜜 色 が い っそ う 濃 く な った、 中
た と えば 謝冰 心 な ど と も共 通 す る特 徴 で、 一見何 と いう こと
彷 彿 さ せる 。
庭 のひ と もと の海 棠 は、 ま る で春 の野 に あ そ ぶ妙 齢 の 乙女
も な い話 だ が 、凌 叔 華 研 究 者 の大 槻 幸 代 の 指 摘 す る と お り 、
が 凝 縮 し て いる 。
のよ う。 葱 翠 (
青 緑 ) 色 の衣 を 身 に つけ て 、髪 にあ ふれ ん
﹁核 家 族﹂ と いう 形 が 、 儒 教 的 な 大 家 族 か ら離 れ て個 人 を確
ア
ば か り に細 い花 技 を さ し て いる よ う な 風情 が あ る。 蝶 や 蜂
立 す る た め の ひと つの メ ル ク マー ルだ った とす れぼ 、 今 日 で
が数 知 れず 幹 を めぐ って飛 び か って いる のに、 彼 女 は ちら
や 時 に は メ ル ヘン的 な要 素 を加 え て スト ー リ ーを 仕 立 て た が、
う し た骨 組 み のう え に、 詩 人 でも あ る 謝 冰 心 は フ ァ ンタ ジ ー
は 考 え ら れ な い く ら い強 い 意 味 を も っ て い た は ず で あ る 。 こ
かな り期 待 の的 にな った。 最 初 繆 笥 と いう 女 性 画 家 の手 ほど
子 であ った よ う だ が、 彼 女 に絵 の才 能 が あ る こ と が わ か ると 、
に受 け る のと は様 子が ちが って い た。 お と な し い目 立 た な い
は 一〇番冖
目) が たく さ んあ り、 核 家 族 のな か で 父 の愛 を じ か
凌 叔 華 の場 合 は ス ト ーリ ー は借 り物 の要 素 が 強 く 、 そ の情 景
き を受 け 、 のち に王竹 林 や赫 漱 玉 (
女 性 ) な ど と いう 画家 た
一〇歳 前 後 の ころ 、 何 年 間 か京 都 に住 んだ 経 験 が あ り 、 日
ち に師 事 し た。
描 写 の絵 画 的 写 実 性 に真 骨頂 が あ る よう に思 う 。
二、 中 国 画 と の関 わ り
本 の文 化 や 生 活 にも 親 し ん で いた よう だ 。
り は 、 も ち ろ んそ の必 然 性 が あ って のこ と であ る。 まず そ の .
にな って 、新 聞 の文 芸 欄 な ど に短 編 小 説 や論 文 を投 稿 す る よ
中 を契 機 に でき た新 月 社 と いう 文 学 サ ロンに出 入 りす る よう
日 語 を 学 ぶと と も に、 一九 一=二年 イ ソド の詩 人 タゴ ー ル の訪
大 学 は ミ ッシ ョ ン系 の燕 京 大 学外 国語 学 部 に 入り 、 英 、 仏 、
血 筋 。 父凌 福彭 の外 祖 父 謝 蘭 生 (一七 六 〇∼ 一八 三 一) は広
こ れ ま で見 てき た よう な 凌 叔華 の文 学 と 絵 画 と の深 い関 わ
東 の著 名 な書 画 の大 家 で、 父 自 身 も 、 現 在 の北 京 市 長 や 河 北
う にな った。
二六 年 六 月 大 学 を卒 業 す ると 、 当 時 開 設 さ れ たば か り の故
省 長 にあ た る 要職 を 歴任 し て引 退 し た後 は 、 ﹁北 京 画 会 ﹂ を
勤 め た。 直 接 美 術 に関 わ る 仕事 を し た こ の時 期 の詳 し い状 況
宮 博 物 館 の書 法 ・絵 画 部 門 に 勤 務 。 七 月 に は 新 月 社 で 知 り
に つ いて は調 査 が 間 に合 わ ず 、 今後 の課 題 と せざ るを え な い
の画 家 た ち と 交 流 を も ち、 斉 白 石 (近 代 中 国 の著 名 な文 人画
組 織 し て陳 衡 恪 、陳 年 (
半 丁) や 王 雲 (竹 人) と い った多 く
母 は 六人 い た父 の妻 のう ち の第 四夫 人 で、 生 んだ 四人 の子
のだ が 、 いず れ にし て も 先 に 紹 介 し た ﹁中 国 画 を ど う 見 る
合 った陳 源 と 結 婚 。 九 月 に は 母校 燕 京 大 学 の ﹁美 術 学義 務 助
ど も はす べ て女 の子 (凌 華 は 三番 目) だ った た め、 儒 教 思 想
か﹂ と いう よう な 文 章 は、 こう し た裏 づ けが あ って の こと で
手 ﹂ (日本 の大 学 の非 常 勤 助 手 に相 当 ?) にな って、 一年 ほど
の強 い当 時 の大 家 族 のな か では 弱 者 で し か な か った。 慈 母 で
あ る。
家 。 一八 六 三∼ 一九 五 七) など も 凌 家 に出 入 り し て いた と い
は あ ったが 、 妻 あ る い は女 と し て は 屈 辱的 な こと も あ った よ
う。
う だ 。凌 叔華 に は異 母 兄 弟 (父 の子 ど も 全体 の な か で は彼 女
湘
一4一
二七年 から 北 京 大 学 の研 究 費 を得 て、 夫 と と も に 二年 近 く
京 都 に滞 在 し て、 日 本 文 学 の研 究 な ど を お こな った。 先 にふ
れた ﹁
登 富 士 山 ﹂ や 日 本 を 題 材 と す る 二、 三 の短 篇 小 説 が こ
そ の後 、 二九 年 か ら 夫 の武漢 大 学 赴 任 にと も な い武 昌 に行
の時 期 に書 かれ て いる 。
く が 、 創 作 は続 け 、 前 年 創 刊 さ れ た文 芸 雑 誌 ﹃新 月 ﹄ にせ っ
せと 投 稿 し て いる 。 や が て 日中 戦 争 の た め、 さ ら に奥 地 の四
川 省 楽 山 へと 移 動 す る が 、 さ まざ ま の要 因 が 重 な って精 神 的
七 八年 、大 陸 に行 き 、敦 煌 の 石窟 を 参 観 。帰 国後 、﹁敦煌 礼
賛 ﹂ の 一文 を 書 いた 。
八 三年 一 一月 に、 オ ック ス フ ォード 大 学 所 属 の ア シ ュモリ
ア ン博 物 館 が ﹁凌 叔 華 お よ び そ の友 人 画 展 ﹂ を 開 催 、博 物 館
設 立 三〇 〇 周 年 記 念 の行事 の 一つと し た。
三 、 凌 叔 華 に と って の 中 国 画
凌 叔 華 が 中 国 画 の素 養 をも って い たと いう こと は 、彼 女 に
のプ ラ スが 大 き か った こと は言 う ま でも な い。 し か し凌 叔 華
に消 耗 し 、 V ・ウ ル フに窮 状 を訴 え る の は こ の時 のこ と だ。
そ の人 に ひき つけ て考 え ても 、 九 〇 年 に及 ぶ 彼 女 の長 い人 生
と ってど んな 意 味 が あ った のだ ろう か。 も ち ろ ん作 家 と し て
年 前 ま で、 ず っと 国外 に いた。 そ の間 、 シ ンガ ポ ー ル の南 洋
で、 そ の時 々 の時代 を反 映 し たさ ま ぎ ま の意 味 あ いをも った
四七 年 に、 ユネ ス コの仕事 です で に イギ リ ス に住 ん で いた
大 学 (五六 ∼ 六 〇) や カ ナダ の大 学 な ど で、 中 国 の現 代 文 学
に違 いな い。 た と えぼ 、 幼 児 期 に は父 親 に認 めら れ る た め の、
は、 感 性 や 対 象 観察 の鋭 さ 、 描 写 力 の確 かさ な ど 、技 術 面 で
に つい て講義 し た り 、演 劇 や芸 術 に関 す る 論 文 を雑 誌 に発 表
夫 のも と へ渡 った あ と は 、 九 〇年 に北 京 の病 院 で亡 く な る半
し た り し て いる 。 ま た絵 画 に関 わ る活 動 も 活 発 で、 以 下 の よ
言 葉 を か え て 言 えぽ 、 他 から 抜 き ん でる た め の強 力 な武 器 で
あ った と も 言 え る。
う な も のが あげ ら れ る。
一九 六 二年 一二月 か ら 翌 年 二月 ま で、 パ リ の チ ェ ル ヌ ス
ま た 晩 年 の異 国 で の展 覧 会 は、 今 日 的 な言 葉 で言 え ば 、 国
際 交 流 のも っと も よ い手 段 であ った ろ う 。 中 国語 文 化 圏 は別
キ ー博 物 館 が 漢 学者 ルネ ・グ ル ッセ逝 去 一〇 周年 を記 念 し て、
凌 叔 華 所 有 の元 明清 の文 人 画 二〇 数 点 お よ び 叔華 本 人 の近 作
と し て、 祖 国 を離 れ母 国 語 以 外 の世 界 にあ って は、 か つて彼
は思 え な い。 そ の点 、 絵 画 は より 普 遍 性 を も って いる。
女 の表 現 手 段 であ った小 説 や 散 文 が 、 そ れ ほど有 効 だ ったと
三〇 点 の展覧 会 を お こ な った。
七 〇 年 六 月 台湾 で中 山博 物 館 主 催 の ﹁中 国古 画討 論 会 ﹂ に、
欧 米 、 日韓 の博 物 館 関 係 者 や国 内 外 の専 門 家 と と も に参 加 。
匚
一J一
珈 山 にあ り 、 時 々北京 とも 行 き 来 しな が ら 、 創 作 活動 を続 け
は武 漢 大 学 教 授夫 人 と し て キ ャ ンパ ス のあ った 武 昌郊 外 の珞
いう こと であ る。 こ の文 章 が 書 かれ た 一九 三 四年 当時 、 彼 女
た ﹁中 国 絵 画 を ど う見 る か﹂ を、 な ぜ あ の時 点 で書 いた かと
し か し 、筆 者 が も っと も 興 味 深 く 感 じ る の は、先 に紹 介 し
の関 係 に つい ては 、 そ の後 の 日中 戦 争 の時 期 の凌 叔華 の具体
紙 を 書 いた ﹂ と いう事 情 があ ったら し い。 こ の 丁玲 と凌 叔 華
な ど と い った 女 性 作家 か ら原 稿 を引 き 出 し て ほし いと いう手
めざ し た 。 友 人 の沈従 文 に凌 叔 華 や 謝 冰 心 、 袁 昌 英 、陳 衡 哲
た って、 ﹁丁玲 は独 立 した 不 偏 不 倚 の質 の 高 い文 学 刊 行 物 を
の生 活 を モデ ルに し た短 篇 を載 せ て い る。 ﹃北 斗 ﹄ 創 刊 にあ
誌 ﹃北 斗 ﹄ に、 ﹁
晶子﹂ (
後に ﹁
生 日﹂ と 改 題) と いう 日本 人
的 な 生 活 の状 況 な ど と あ わ せ て、 筆 者 の これ か ら の課題 であ
お
て いた 。 四 月 に は短 篇 小 説 ﹁
千 代 子 ﹂ を 北 京 の ﹃文 学季 刊 ﹄
週 報 ﹄ に、 同 じ く 一〇月 に こ の ﹁
中 国 画 を ど う 見 る か﹂ を天
るが 、 こ こ にこ の異質 な 二人 の女 性 作 家 の、 ひと つ の接 点 が
は
に、 一〇 月 に は 先 に紹 介 し た ﹁
泰 山 曲 阜 游 ﹂ を 天津 の ﹃国聞
津 の新 聞 ﹃大 公 報﹄ の文 芸 欄 に、 そ し て 一二月 には素 心と い
でき て いる こと は 確 か だ。
こ こ で改 め て時 代 様 相 に 目 を転 じ ると 、 三 一年 九 月 には満
う 筆 名 で、 武 漢 大 学 で出 し て い た ﹃珞 珈 月 刊 ﹄ 文 学芸 術 特 集
号 に ﹁読 詩 札 記﹂ を発 表 し て い る。
本 土 に侵 攻 し よ う と し て いた。 そ の後 、 三七 年 に日 中 戦争 が
民 党 と 共 産 党 の対 立 が激 化 し、 日本 はそ の ス キを つ い て中 国
州 事 変 が お こり 、 翌 年満 州 国が 成 立 し て いる 。 そ の 一方 で 国
責 任 編 集 に当 た って いた総 合 雑 誌 ﹃現 代 評 論 ﹄ に、 ま た 二八
始 ま ると す ぐ 、 南 京 に あ った 国民 党 政 府 が そ こ に移 って いる
と ころ で、 凌 叔華 は初 期 に はそ の作 品 の多 く を 、夫 陳 源 が
いず れ にし ても 新 月 派 と呼 ば れ る範 囲 のな か で発表 し て いた。
年 三月 に文 芸 雑 誌 ﹃
新 月﹄ が 創 刊 さ れ ると そ ち ら を中 心 にと 、
こと を 考 え ても 、 当 時 、 内陸 の武 漢 にも 緊 張 し た 落 ち 着 か な
こう し たな か で、 三 一年 = 月 、 文 学 のう え でも ま た 私 的
し か る に 三〇 年 代 に 入 る と、 時 代 の要 請 から 、 中 国 近代 文 学
にも 親 し か った 徐 志 摩 が 不慮 の 死 をと げ た こと も 一因 にな っ
い空 気 が 漂 い はじ め て いた こ と は想 像 に難 く な い。
が 成 立 し、 文 学 界 は 左 傾的 な風 潮 が 主 流 にな った 。凌 叔 華 個
の流 れ を 大 き く 取 り ま と め る よう な形 で上 海 に左 翼作 家 連 盟
人 に関 し て言 え ば 、 中 国 の現 代 女性 作 家 と いう カ テゴ リ ーで
て い る かも しれ な いが 、 三 二年 、 三 三年 と 凌 叔 華 に は目 立 っ
﹁
千 代 子 ﹂ を はじ めと す る 三 四年 の作 品 群 であ る。
め
括 ら れ て、 謝 冰 心 や 丁玲 な ど他 の女 性 作 家 と と も に、 時 には
た作 品 が な い。 そ う し て 再 び 筆 を と った の が 、 先 に 述 べ た
ほ
比 較 さ れ な が ら 論 じ ら れ る よ う に な って い た。
三 一年 一〇 月 には 、 左連 の機 関 誌 の ひと つで 丁玲 主 編 の雑
。
〇一
一
﹁千代 子﹂ は京 都 の下 町 の小 学 生 の女 の子 千代 子 を通 じ、
時 期 に新 聞広 告 で見 る な り急 に思 い立 った のも、 そう さ せ る
のこ ろ か ら訪 れ て み た いと 願 って いた こ の地 への旅 を、 こ の
る 曲 阜 は 、中 国 の伝 統 文 化 の象 徴 と も 言 え る 場所 だ 。 一〇 歳
何 か 雰 囲 気 的 な も のが あ った のだ ろう 。 旅 では中 国古 来 の家
にな って いく 、中 国人 蔑 視 の風 潮 を 描 いて いる。 先 にあ げ た
族観念と安土重遷 (
住 み な れ た土 地 への執 着) の思想 を確 認
上 海 事 変 (一九 三 二年 ) 以 後 日 本 の庶 民 の生 活 のな か で顕 著
﹁晶 子 ﹂ も 同 じ 日本 の庶 民 の暮 ら し のな か のひ と こ まだ が 、
﹁﹃論 語 ﹄ の言 葉 に想 いを致 す と 、中 国 人 の生 活 は い つも苦
そ し て帰 路 、 車 中 で 目 を 閉 じ て、 孔 子 の言 葉 を 思 う。
し、 これ は 世 界 で も ま れ な こと だ と 述 べ て いる 。
幼 子 に対 す る 父 母 の愛 が 淡 々と 描 かれ る だ け で、 と く に反 日
と いう こと では な い。 いず れも 二七 年 頃 の京 都 で の生活 体 験
が も と にな って いる と 思う のだ が 。 ﹁晶 子 ﹂ が 三 五 年 一〇 月
しく 、 孔 子 は何 の助 け にも な ら な いよう な 気 が す る。 し か も
発 行 の第 三短 編 集 ﹁小哥 児倆 ﹂ に収 め る にあ たり 、 タイ ト ル
を ﹁
生 日﹂ (
誕 生 日)と 改 め た のは、何 か考 え ると ころ が あ っ
つぜ ん、 そ のゆ った り し た 衣 を 脱 いで、 二〇世 紀 の服 装 を し
彼 は何 千 年 の問 帝 王 の食 客 と な ってき た の に、 こ こ にき てと
ろと 要 求 さ れ て い る。 こ の こと を考 え ただ け でも 、 こ のお 人
た の かも しれ な い。
一方 、 二七 年 当 時 書 か れ た エ ッセイ ﹁
登 富 士 山 ﹂ のな か で
好 し の先 生 に は気 の毒 な こと だ ﹂
ま た、 同 じ こ ろ ﹁
読 詩 札 記 ﹂ を書 いて 、中 国文 学 の原 点 と
は、 と う に 日本 人 に対 す る 違 和感 を 示 し て い る。 茶 店 の娘 た
も言 う べき ﹁
詩 経 ﹂ の、 そ のな か でも 最 も 民意 を反 映 し て い
ち や馬 方 の 口吻 に中 国 人 蔑 視 を感 じ 、 せ っかく の山 の神 秘 性
も失 せ て、 ﹁形 に な ら な い失 望 感 と 、 旅 に つき も の の 疲 労 感
る と 思 わ れ る諸 国 の民 謡 の ア ンソ ロジ ー ﹁国 風﹂ に つい ても
論 じ て いる。
だ け が残 って、 胸 隔 のあ いだ を 徘 徊 し て いる﹂ 状 態 にな った
﹁泰 山曲 阜 紀 游 ﹂ で は 日本 への言 及 は 少 な いが、 山中 最 大
こと を 記 し て いる。
から 浮 かび あ が って く る も の をす く いあ げ てみ る と 、 そ れ は
と す る と 、 こ れ ら に 共通 す る コ ンセプ ト は何 か 。素 直 に こ こ
﹁中 国 画 を ど う見 る か﹂ は こう し た流 れ のな か で書 か れ た。
白 玉 (は くぎ ょく) の碑 に大 き な亀 裂 が 入 って いる のは 、﹁日
﹁
中 国 文 化 と は何 か﹂ と いう問 いかけ にな り はし な いだ ろ う
の寺碧 霞宮 にあ る、 明 の万 歴 年 間 に建 て ら れ た 銅 の碑 が 傾 き 、
し、 ﹁
真 偽 の ほど はわ から な いが ﹂と し て いる 。紀 行 文 全 体 は
か。 そ し てそ の担 い手 であ る中 国人 と いう も のを 、 忍 び 寄 る
本 人 が 持 ち 去 ろ う と し た から だ ﹂ と いう 寺 の人 の言 葉 を紹 介
き わ め て写 実 的 か つ記 録的 であ るが 、 泰 山 そ し て孔 子 廟 のあ
厚
人 内 部 でも っと広 く 共有 さ れ なけ れ ば な ら な い。 そ れ は け っ
のも のだ った 。 こ の自 国 の文 化 の伝 統 を 守 る た め には 、 中 国
と く に、 いわ ゆ る 中 国 画 は従 来 ど ちら かと 言 え ば 特 権 階 級
必 ず 現 実 生 活 が描 くと こ ろ の牢 獄 のな か にと ら わ れ て いなけ
も ま た 一種 の ﹁
解 放﹂ であ ると 言 う 。 そ し て 曰く ﹁人 は なぜ
相﹂(
俗 世 間 脱 出 )の気 味 が あ る の は確 か だ が 、 一方 で は こ れ
古く は ﹁
隠 逸 ﹂、 近 代 で は ﹁
逃 避 ﹂ と 呼ば れ て 、 や や ﹁出 世
仕 組 み やき ま りを めざ す な か に、 彼 女 特 有 の清 逸 な 趣 き と 精
し て抽 象 的 な 意味 に とど まら ず 、 差 し 迫 った 現実 的 な問 題 も
れ ば な ら な い のか。 われ わ れ が 無 限 に対 し て何 か を追 い求 め、
敵 軍 侵 攻 の予 感 の前 に、 自 己 に も他 者 にも 確 認 を 迫 り た か っ
あ った 。 こ の論文 のな か で は、 先 に紹 介 し た 中 国 画 を見 る た
現 実 世界 の上 に現 実 世 界 に代 わ る も の、 も し く は そ れと 明 暗
緻 な感 性 が 吐 露 さ れ て いる﹂ とす る。 そ の画 風 の示 す 生 活 は 、
め の 五 つ のポ イ ント の前 に、 ま え お き 風 の彼 女 の現 状 分 析 が
の対 照的 な境 地 を創 造 し よう と す る こ と は 、 よ り能 く 人 類 の
た の で はな い かと 思 う の であ る。
述 べ ら れ て いる。 そ こ で は よく わ か ら な いの に中 国 画 を あ り
精 神 な価 値 の高 さ を 証 明 でき る ので は な いだ ろう か。
本 論 を ま と め る に あ た り、 V ・ウ ル フ に つ い て、本 学英 文
凌 叔 華 にお け る 中 国 画 のあ り よう を端 的 に示 し て いよ う。
も の であ る﹂
具合 は多 く な いが 、 伝 わ って く る意 味 はす ぐ れ て意 味 の深 い
彼 女 の書 く 小 説 は絵 と 同 じ く淡 々と し た描 写 で、 墨 の つけ
が た が って や たら に買 い付 け よ う と す る 日本 人 や欧 米 人 の存
在 と、 そ れ ら に つけ こむ 投 機 的 な 動き が 横 行 し て い る こと を
凌 叔 華 は洋 風 の教 育 を う け 、 周 囲 に は欧 米 留 学 帰 り が 多 く 、
憂 え て い る の であ る。
自 分 も そ の雰 囲 気 を 謳 歌 し てき た ひと り で はあ った が 、彼 女
画 を ど う 見 る か ﹂ は 、 民 族 の危 機 に臨 み、 凌 叔 華 が 同胞 に む
は ま た自 己 の内 に中 国 画 と いう伝 統 を か か え て い た 。 ﹁中 国
け た 自 己 確 認 を 促 す メ ッセー ジ であ り、 か つま た彼 女自 身 の
て、 深 く 感 謝申 し 上げ る。 今 回 は テ ー マの関 係 上、 そ れら に
つい て余 り 言 及 でき な か ったが 、 今 後 こ の英中 の女 性 作 家 の
学 科 の村 松 加 代 子教 授 に多 大 のご 教 示 を 受 け た 。 こ こ に記 し
翌 年 出 版 の ﹃小哥 児倆 ﹄ に は当 時 の武 漢 大 学長 で、 西洋 の
交 流 に つ いて、 分 野 お よび 学 科 を こえ た 共 同研 究 が 実 現 でき
自 己 確 認 であ った ので は な いだ ろう か。
そ れ を ふ ま え た中 国 の美 学 の創 始 者 と 言 わ れ る朱 光 潜 (一入
る こ と を望 ん で い る。
な お 、凌 叔 華 の作 品 の テ キ ス トは 以 下 を使 用 し た。
九 七 ∼ 一九 八 六) が 序 を寄 せ て いる 。彼 は凌 叔 華 の絵 を ﹁元
・明 の諸 大 家 の文 人 画 師 を 継 承 す る も の﹂ と 認 め 、 ﹁古 典 の
一
一8一
① ﹃凌 叔 華 小 説 集 1﹄ ﹃凌 叔 華 小 説 集 皿﹄ (
台 湾 ・洪 範 書 店 、
一九 九 二版 ⋮ ⋮ 第 一短 編 集 ﹃花 之 寺﹄ 初 版 一九 二入、 第 二短
編 集 ﹃女 人 ﹄ 一九 三〇 、 第 三短 編集 ﹃小哥 児倆 ﹄ 一九 三 五お
よ び未 所 収 のも の数 編 を 含 む )
あわ せて最近 の凌 叔華研 究 に ついて﹂
② 柳紅 、夏 暁 非 編 ﹃凌 叔 華 陳 西 漢 散 文 ﹄(北京 ・中 国 広 播 電 視
飯塚容 ﹁
凌叔華 の死1
出 版 社 、 一九 九 二)
注
1
(
﹃夏 天﹄ 創刊 号、 一九 九 二、 一二) に よ ると 、 翻 訳 は単 行 本 と し
て桃 生 翠 (沢 田瑞 穂 ) 訳 ﹃
花 の寺 ﹄ (
伊 藤 書 店 、 一九 四〇 ) と村 田
孜 郎 訳 ﹃お 千代 さ ん﹄ (
興 亜書 局 、 一九 四 一)が あ る ほ か、 二〇年
代 から す で に 、 か な り の作 品 が 原 文 発 表 と あ ま り 時 を お か ず に 日
凌 叔 華 の夫 陳 源 (西潼 、 一八九 六∼ 一九 七 〇 ) は ロ ンド ン大 学
本 の雑 誌 に 翻 訳 掲載 さ れ 、 ま た ア ンソ ロジ ー に収 め ら れ て いる。
2
で博 士 号 を と り 、 北 京 大 学、 武 漢 大 学 の教 授 を つと め 、 の ち に 国
民 党 政 府 のた め に外 交 を 担 った 人 物 で あ る 。 か つ て ﹃現 代 評 論 ﹄
(一九 二 四∼ 二 八) と いう 総 合雑 誌 に関 わ り、 当 時 の 社 会 運 動 や
学 生 運 動 を めぐ って、 雑 誌 ﹃語 絲﹄ を 主宰 し て い た魯 迅 と 熾 烈 な
ら れ てき た。
日本 で の主 な研 究 と し て は、 a飯 塚 容
(
﹃中 央 大 学文 学部 紀 要 ﹄文 学 科 第 五十 一号 ︹
通 巻 第 一〇 六 号 ︺、昭
﹁
凌 叔華1ー 人 と作品 ﹂
プ もプ チブ ル的 と さ れ て、 社 会 主 義 中 国 で は 否定 的 な 評 価 を 与 え
論 争 を かわ し た。 また 夫 妻 が 属 し て いた新 月 派 と い う 文 学 グ ル ー
3
和 五 八年 所 収 )、 b大 槻 幸代 ﹁
凌 叔 華 と ︿新 月 社 サ ロ ソ>1
恋愛
結 婚 ・核 家 族 制 度 お よ び マン ス フ ィ ー ルド の 受 容 を め ぐ ってー
1 ﹂ ﹃日本 中 国 学 会 報 ﹄ 第 四 十 六集 、 一九 九 四)、 c大 槻 幸 代 ﹁レ
ポ ー ト ⋮ ⋮凌 叔 華 ﹃﹀コO圃
①昌け7
自Φ一
〇住一
①ω﹄と V ・ウ ル フ﹂ (
﹃小 冷 賢 一
に き た V ・ウ ル フ の甥 ジ ユリ ア ン ・ベ ルと 極 め て 親 し い関 係 に
凌 叔 華 は武 漢 大 学 時 代 、 一九 三五年 秋 か ら 同大 に 英 文 学 を教 え
ど が あ る。
郎 君記 念 論 文 集 ﹄東 大 学 生 友 人 一同 、代 表 鈴 木 将 久 、 一九 九 三)な
4
三九 年 に か け て ウ ル フと 文 通 し 、 戦 争 のた め に 思 う よう に書 け な
な った 。 三 七年 に ベ ルが ス ペイ ン戦 争 で 死 ん だ あ と 、 三 八 年 か ら
いと 悩 み を う ち あ け、 自 分 自 身 の こと を書 く よ う アド 。
ハイ スさ れ
た 。 五 三年 に は ウ ル フゆ か り の ホ ーガ ス社 か ら 、 ウ ル フ の助 言 と
励 ま し を 得 て書 き た め て い た 幼 年 時 代 の 自 伝 小 説 集 ﹃﹀琴 δ葺
ノ
凌 叔 華 の小 説 に は マ ン ス フ ィー ルド の作 品 と の類 似 点 が 多 い と
ζΦδ臼Φω
﹄ を出 版 し て いる 。
5
たと え ば 中 本 百 合 枝 ﹁
凌 叔華 の ﹃
女 人 ﹄ に つ い てー ー 男 社 会 に
言 われ る。 注 3 の諸 論文 と く に b に詳 し い。
仕 組 まれ た罠 ﹂ (
国学院大学 ﹃
漢 文 学 会 報 ﹄ 三十 六輯 、 一九 九 〇 所
6
あ る い は冰 心 、 本 名 謝 婉 瑩 。 一九 〇 〇∼ 。 五 四運 動 の影 響 を 受
収)など。
7
ア メリ カ に留 学 し たが 、 四六 年 か ら 五年 間 、 夫 とも に 日本 に滞 在
け、 家 族 や 子ど も を テ ー マと す る短 篇 小 説 や詩 を書 く 。 若 い こ ろ
(
岩 波 文庫 ) など が 出 さ れ た が 、最 近 のも のと し ては 竹 内 実 訳 ﹃
女
し 、東 京 大 学 でも 教 鞭 を と った 。 当 時 、倉 石 武 四郎 訳 ﹃お冬 さ ん﹄
のひ と に つ いて﹄ (
朝 日新 聞 社 、 一九 九 三) が あ る。
^
一y一
8
注 3 b参 照 。
13
一九 〇 二∼ 八 八。本 名 沈 岳 煥 。作 家 。湖 南 省 鳳 凰 県 の出身 で、漢
.苗 .土 家 族 の血 を 引 く と 言 わ れ る 。新 月 派 の代 表 的 な 作 家 と 目
さ れ るが 、 二九 年 に上 海 で 丁玲 ら と 一緒 に雑 誌 を 出 し た り し た 。
注 3 b で、 チ エー ホ フや マ ン ス フ ィー ルド の作 品 と の類 似 を 例
そ の叙 情 的 な 小 説 は 日 本 に も愛 読 者 が 多 く 、 ﹁
辺 城 ﹂ は有 名 だ 。新
9
証 し て いる が 、 他 にも た とえ ば ﹁
旅途﹂ (
原載 ﹃
文 季 月刊 ﹄ 一九 三
テキ ス ト ﹃
凌 叔華 小説 集 ∬﹄ 付 録 の泰 賢 次 ﹁
凌叔華年 表﹂ によ
一八 九 七 ∼ 一九 三 一。本 名 は徐 章 埣 。詩 人 。 一八年 渡 米 、後 に イ
る。
1
4
そ の成 果 と し て 、 ﹃中 国古 代 服飾 研 究 ﹄ (一九 八 一) が あ る 。
中 国 成 立 後 は 故 宮博 物館 に 勤 め、陶 磁 器 や 服 装 史 を 研 究 し て いた。
六) な ど は 、 志 賀 直哉 の ﹁
網 走 ま で﹂ に酷 似 し た 内 容 であ る。
徐 志 摩 く注 15参 照) が イギ リ ス留 学 中 に交 遊 のあ った ブ ル ー ム
ズ ベ リ ー ・グ ルー プ に倣 って、 陳 源 そ の他 の友 人 た ち と 作 った 文
10
芸 サ ロン。 二四年 タ ゴ ー ル来 華 の折 、 メ ン。
バーが 関 わ った 一連 の
歓 迎 行事 に 女 子大 生 の凌 叔 華 も 接 待 役 のひ と り と し て参 加 し 、 当
時 北 京 大 学教 授 だ った陳 源 と 知 り 合 った 。
ソ連 を訪 問 、 そ の後 反 共 的 立 場 を 明 確 に し た。 二八 年 上 海 で ﹃新
た新 月 社 を興 し、 タゴ ー ル来 華 の折 には 通 訳 を つと め た 。 二 五 年
ギ リ スに留 学 し、 詩 作 を姑 め る。 帰 国 後 、 二三年 に 注 10 に紹 介 し
1
5
年 三 月 に結 成 さ れ た左 翼 文 化 運 動 最 大 の組 織 。 日中 戦 争 開 戦 前 夜
略称 、左 連 。 無 産 階 級 革 命 文 学 の ス ロー ガ ンの 下 に、 一九 三 〇
の 三 五年 末 に解 散 さ れ た が 、 中 国 三 〇年 代 文 学 の主 流 を 成 し た 。
月﹄ 月 刊 を発 刊 し、 魯 迅 や 革 命 文 学 運 動 を批 判 し た た め 、 注 11 に
11
凌 叔 華 の拠 った雑 誌 ﹃新 月 ﹄ (二八 、 三 ∼ 三 三、 六) の同 人 た ち は
年 = 月 、 飛 行 機 事 故 で不 慮 の死 を とげ た。 マ ンス フ ィー ルド を
中 国 に紹 介 し、 翻 訳 ﹃曼 殊 斐 尓 小 説集 ﹄ も あ る。
述 べ た よう に当 時 の文 学 運 動 の主 流 と敵 対 す る形 に な った 。 三 一
"
新月派
" と 呼 ぼ れ 、 欧 米 留 学帰 り を中 心 に西 欧 的 リ ベ ラ リズ ム
とデ モ ク ラ シ ー実 現 の思想 を根 底 にも って い たが 、 こ う し た 動 き
一九 〇 四∼ 八六 。 本名 は蒋 冰 姿 。 五 一年 度 ス タ ー リ ン文 学 賞 を
のな か で否 定 的 に見 ら れ た。
受 け るな ど 女 性 党 員作 家 の代 表 的 存 在 であ るが 、 五 〇 年 代 半 ば か
12
ら 批 判 運 動 の対 象 と な って、 五七 年 から 七 九 年 ま で農 場 労 働 や 投
獄 な ど 悲 惨 な 体 験 を し た。 二 七、 入年 の創 作 初 期 に は 女 性 の 自 我
や 内 面 の苦 悩 な ど を描 い て い たが 、 左 連 に加 盟 す る 頃 か ら 革 命 と
恋 愛 と の相克 な ど を描 く よう にな る。 三 一年 一月 に 夫 胡 也 頻 が 逮
捕 処 刑 さ れ 、 生後 間 も な い子 ど も を 郷 里 の母 に あ ず け て 、﹃北 斗 ﹄
(ゴ= 年 九 月創 刊) の編 集 に当 た った 。こ の頃 入党 し 、そ れ と前 後
し て 作 風 も 社会 的 なも の に変 わ って いる 。
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冖 ⊥u一
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