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1972-1988

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1972-1988
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北大探検部部報
1972年−1988年
川下り顛末記(天塩・十勝編)
釧路から藻琴へ縦走計画失敗記
武泰三
…・5
條哲也
…・12
野晴也
橋和宏
…・18
瀬廉二
井健二郎
42
91
2
3
釧路湿原
瀬廉
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●
気候変動と氷河の振るまい
123
熱気球“あほうどり"l.2号機の話
田宏
安上浅高成平能
第 1 部 本 編
々保
●●
●●
●
●
●
●●
●●
●
あいさつ
雄明二
探検部との13年
佐岡成
「テラ」に寄せる
宏彰
武四郎の足跡を追って
浅野
カルカッタ案内
長田
上海拳撃倶楽部
伊藤
一
74
05
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3
韓国学生ノー│、
●
●.●
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●
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●●
●
●●
西村
夫也樹
フィリピンi堂征のこと他
英晴俊友
第2部海外紀行
…・57
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南米(アンデスと日系人と)
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第 3 部 随 想
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編 集 後 記
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1989年度のボート研
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第 3 部 随 想
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EVA.EVA-1979∼1985湿原
トンガ、カラコルムー国 分 英 彦
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編集後記
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「テラ」に寄せる
元部長・理学部名誉教授佐々保雄
「テラ」の第3号を出すので、何か一筆をと乞われた。2号の出たのが1973年だから、大分経ってい
る。その間の探検部の活動はかなりのものに違いないと思って目次を見ると、やはり国内はもとより、
北大雪・支湧別岳('86.3)
海外の記録も少なくなく、また陸、川、海のみならず、空もその舞台となっている。その多くは学業
の余暇に行うのだから時間も経費も充分な筈もないが、そこは若さのなすところで、何とかこなして
いるところが感心させられる。その成果も学生のこととて今一つと言うところもあるが、未知のもの
に対する熱意はうかがえると思う。それよりもそうした実行を通して多くのものを学んだに違いない
ことに部活動の意義があったと言えよう。また部を通じて得た友人とその友情、それが何よりも尊い
泊川鐘乳洞('88.9)
ということは私の学生時代から今日までの経験から言える。
ここに部報を通じて若い日の記録が残されたことを喜び、部の一層の発展を祈るものである。
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知床('86.3)
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探検部との13年
前部長・文学部教授岡田宏明
北大探検部の顧問教官になったのは、私が東京から札幌に移ってまもなくの1976年だった。それか
ら昨年4月に成瀬先生に交替していただくまで、13年の歳月が流れたことになる。端的にいって「コ
部長・低温科学研究所助教授成瀬廉二
1
時の流れとともに、畷検』の中身も変わってゆく。しかし、『探検』の奥は、深く、広い。将来、ど
んな分野へすすんでも、『探検的精神』は活力有る新鮮な行動を生み出す源となるに違いない。
ンパ部長」にすぎなかった感じ力溌く、それ以上の貢献をなし得なかったことにほろ苦い反省の念が
昨春、探検部とは直接かかわりのなかった私が、顧問教官をお引き受けすることになりました。フ
伴う。それでも、私自身の北大生活とほぼ重なる長い年月にわたり、毎年新しい部員諸君を知ること
ィールド調査などで不在が多く、部員諸君にご迷惑をかけたり、たいした力になれずも申しわけなく
ができたのは貴重な収種だった。幸いに今でも、かなりな数の0.B諸君と交流を保ちつづけているし、
思っています。ただ一つ、堅実かつ意義深い計画が次々と生まれてくることを願っています。
今後O.B会の一員としておつき合いをつづけていきたいと心から願っている。
や仁←
「テラ」2号が1975年に刊行されて以後、探検部は大きな悩みを抱えることになった。日本経済の高
度成長下で、海外渡航は年をおって盛んになり、かつては組織的な活動によってのみ実現されたこと
が個人の力で容易に達成されうる時代が到来したからである。これはなにも北大探検部だけの悩みで
はなく、全国の大学探検部もほぼ同じ状況にあったと考えてよかろう。しかし、そのように困難な状
況の下で、各年度の部員たちはそれぞれ自分たちの目標を設定し、訓練と準備を重ねながら、その実
行に情熱を傾けてきた。熱気球、川下り、雪原踏破等の道内の遠征。フィリピン、トンガ、インド、ヒ
マラヤ等の海外遠征の記録が、今回の「テラ」3号に掲載されており、それぞれの計画の一端を知るこ
とができる。多くの行事、とりわけ部の公式行事については、すでに個別の報告書が出版されており、
臨場感がうすいという御批判も当然あることだろう。本号の刊行に15年の月日を要した責任者の一人
として、初代部長の佐々先生およびO.B諸兄姉には心からお詫びを申しあげ、どのような御批判も甘
受したいと思う。
1987年ヒマラヤと余市で起こった二度の悲劇による挫折と衝撃をようやく克服した北大探検部は、
事故原因の究明と徹底した話し合いをへて、再生への道を力強く歩みはじめている。成瀬先生という
最適の指導者に恵まれことは部にとってなによりも幸運なことだったと思う。今後の方向は、現役部
員のこれからの活動が証明してくれるだろう。私は、O、B諸氏とともに、若い諸イ1の側,性と行動力に信
頼をよせ、深い関心をもって見守らせていただく。
私の専門とする人類学の分野でも、未開社会の消滅によって研究k、,象か没入したと:,術Fllで久し
い。だが、伝統的な観察・調査・分析の方法を修正、変革し、未知の領域に踏みこむことを池で人
類学は測上する環境に自己を適応させてきた。野外における踏査.観察.記録を原点とする探愉舟│Iの
活動も、今後の日本、そして世界が向かいつつある方向をし力、っ(7と見据え、その認識の,に│1L」変
革を繰り返すことを通じて今後の方針を策定すべきであろう。本号"),11『を契機として、過ムネ)よび
現在の探検部員の間に活発な議論が湧き起こることを心から望むものである。
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第1部本編
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あ まどうり
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フプ 機 の 話
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1970年入学安武泰三
1.探検部の熱気球のはじまり
私が熱気球とはじめて出会ったのは今から11年前のことで話は少々古くなるのだが、当時は70年
安保と大学闘争が混在する中で騒々しい時節だった。ただこういう流れとはまったく蹄の次元で日本
初の熱気球の開発が、北大探検部熱気球研究グループと京都のイカロス昇天グループと共同で行なわ
れていた。
事の発端は当時日本に熱気球を作ろうというグループが2つあり、名古屋大学の樋口教授力輔気球の
共同製作を呼びかけ、イカロスグループが球皮とゴンドラを、北大がバーナーを含む燃焼系統の開発
を担当することでスタートした。この熱気球は2200㎡の容積の2人乗り気球で、球皮はオレンジ色の
、
テトロンタフタ(ポリアクリルコーティング加工)、ゴンドラはアルミ合金の変形箱型(今から思えば
変な形だが)であり、バーナーはコイルの形をした、プロパンガス強制気化式のものを2基使用していた。
この気球は数回使用した後イカロスグループ及び北大の熱研グループの実質的解散で数回の自由飛
行後使用されることなく熱気球の第1ピリオドが打たれた形となった。その後北大探検部によって2,
3度この気球は係留されたことはあったが球皮の疲労と製作上の安全性にもうひとつ難点があって使用
されなくなった。
一方北大では当時アフリカのサハラ砂漠遠征を計画していた乾燥地研チームが気球技術をひき継ぎ
新しい気球作成プランを考えて実行に移すこととなった。早川、飽津、荊田、伊藤歌江子(旧姓佐藤)、
横山といった顔ぶれと私を含めた6名が、リーダーの早川さんの下宿へ集って計画を検討したり、農学
部の旧資料室で球皮のミシン縫いなどしながら新しい気球を製作した。この気球は1970年9月に完成
し、早川さんが古い書物をあれこれめくって『信天翁(あほうどり)』という名前を気球に与えようと
提案し、この名前が現在のグループ『あほうどり』のはじめとなった。
そしてこの年の秋から係留実験などを行なった後いよいよ初飛行を何度か試みたが、気球を打ち上
げるという日に限って天候が思わしくなく結局初飛行に成功したのは1970年12月、厳寒の長沼の某
小学校の校庭からの離陸で当時のパイロットは飽津。伊藤(歌)氏の2名であった。
翌年の1971年になると伊藤(千尋)、山本、杉本、野崎といったメンバーカ惨加することとなりチー
ムの充実が一段と増してきて、この年から何度となく飛行合宿がくり返されることとなった。思えば
当時の合宿はなかなか大変だった。たとえば『あほうどり』号の初期のバーナーは現在の強力バーナー
と比較するとその燃焼特性は必ずしも良くなく、そのため飛行はしばしば不安定となることがあった。
たとえば私が飛行した時は操縦技術の未熟さもあり山の中に不時着してしまった。そのためひとまず
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球皮をコンパクトにまとめて、球皮、ゴンドラ、プロパンボンベというふうに機材をバラバラにして
近くの林道まで運び出すのに半日かかったことを覚えている。(その後私は罰として川の中に放りこま
総浮力:
気球諸元形状:自然形
(4T=50℃)
れる破目になったが)。あるいは低高度飛行中にバーナーの燃焼が不安定になり湖の上に着水し気球の
体積:4001.5㎡
浮力でゴンドラは湖面をチャプチャプ漂いながらまたバーナーを燃焼させて上昇するというような事
表面積:1211.6IIf
もあった。
実効浮力:623蛇
自重:96.9蛇
したがって『あほうどり』号の訓練飛行は言いかえると燃焼特性の良いバーナーの開発・改良のく
り返し、検証するものと言っても良いものだった。しかしいろいろな苦い経験のおかげで1973年以降
のバーナーは非常に高性能なものとなりこの基本設計内容は現在の『あほうどりⅡ』に使用している
強力バーナーにも充分反映されている。
(面密度:80g/㎡)
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張力
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2.新大型熱気球計画の誕生
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6年間に渡る『あほうどり』号の飛行停止とともにグループ『あほうどり』も実質的に解散して、し
ばらく気球活動も空白状態が続いた。しかし気球に乗って青い空をふわふわ飛び回る快感はなかなか
忘れがたく、再度気球をしかも4∼5人乗りの大型熱気球を作る気運がノ│まれ できた‐そこでかつての
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メンバーが集まり、気球を本当に作ってみるか?、分散したマンバrノー鶇,'"!トルハノ》、資金は足
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りるだろうか?、作るにしても製作力浸くなり計画はつぶれないたる劃1か‘ノ(はと人と|メ、一が社
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渡る『あほうどり』号を使用したすべての気球に関する技術を集大成するために最後の気球活動のひ
とつとして『熱気球の最適設計と飛行技術』と言う本(300ページ弱)を書き上げた。さらにこれから
探検部の活動として再び気球がとりあげられた時(ガス気球であれ熱気球であれ)その気球の設計の
手段として役立つようにと北大の計算機センター(FACOM-230-75)に使用可能な球皮幾何形状
計算コード『ANGEL』を作成しそのマニュアルとプログラムリストを上記の本の添付資料としてつけ
加えた。そしてこの本は今までに援助していただいた関係者を含めて30部ほど配布した。
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ア大学へ留学、飽津さんはフィリピンへ、杉本君は南米へ、山本君は就職で東京と言った具合で各自
がバラバラの場所で動くような状態に移行していった。さらに道内にいるメンバーも各自の指向する
分野へ精力を向けて行き気球活動にひとつのピリオドを打つ時期がやって来た。そこで今まで6年間に
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1975年以降になるとチームメンバーがそれぞれ独自の道を歩み始めるようになり、グループ『あほ
うどり』にも一つの曲がり角がおとずれてきた。メンバーが1人、2人と卒業し、横山さんはジョージ
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なにはともあれ1976年の冬から札幌にいる小林君とANGELコードを使用して4000㎡の大型熱気
されるといった調子で進められた。
球の概念設計を開始した。設計と並行して気球に使用する布地の検討と張力実験、布地の価格交渉、気
1979年の正月は富士山のふもとの別荘を借りることが出来、ここで今まで作ったバラバラの球皮の
球のカラーデザイン等の検討をした。気球のデザインはあれこれとさまざまなアイディアが飛びかっ
たが、結局現在のカラフルで奇妙な?形に落ち着いた。さらにこの年の冬から球皮、ゴンドラ、バー
ナー及び燃焼系統に関する詳細設計が始まった。この間各開発部門を担当するメンバーの共通のフ
リータイムをうまくあわせてミーティングを行っていたのでなかなか作業は進まず最終的に製作マニ
各パーツを縫い合わせることになり“正月合宿"力垳われた。又この合宿は3つのステーションのメン
ュアルが出来上がったのは78年の夏であった。
たところで皆さんひと息ついて、夏の初飛行合宿がいよいよ現実味を帯びてきたところで3月に札幌で
バー(全員ではなかったが)が初顔合わせする機会でもあった。
この合宿で製作プロセスは大いに進み4台のミシンと1週間のスケジュールでほぼ90%の完成とな
った。その後この球皮は札幌へ送られ最終完成目標を5月というふうに決めた。この球皮のヤマを越え
スキーをしながらメンバー全員が集まって総会を開くことになった。下旬に札幌のビール園でほぼ全
3.気球の製作作業
員が顔を合わせてあれこれと語り合った。この時はまだ気球は完成していなかったがこの場所に出席
気球の製作マニュアルが出来上がってから東京、札幌、帯広、の3つの地区で安い中古の工業用ミ・シ
ンを買いこんでいよいよ準備力篭った。しかし各作業ステーションともマンパワーが全く不足して作
業を継続出来る状況ではなかった。思えば机上のプランでどんどん大きな気球作成プランは進行して
いったのだがこれと反比例するように各スタッフが年間につぎ込む気球のための時間数は少なくなっ
ていった。これは各スタッフが社会人である以上ある程度予想してはいたがしかし頭を悩ます大きな
成チームだなぁと実感した。多分これはあほうどりの時間の流れのようなもので羽の毛も充分生えて
問題となっていった。そこで私はこの旧『あほうどり』の残党で組織されているチームを再編成する
このスキーミーティングが終った後、5月のゴールデンウイークの時に球皮の最終的な縫合作業が行
ことを思い立った。
しているメンバーは昔のあほうどりの初期に見られるようなピカピカの探検部現役の学生集団ではな
くて、探検部のOB、現役、その妻、友人、恋人、息子、娘などなど、新生あほうどりにふさわしい混
いないあほうどりがパタバタやっているうちに自分の息子や娘もひきつれて大きく空に舞い上がって
いく本当の『海の巨烏』に成長するかのように感じた。
われ遂に気球は完成した。続いてこの大型気球のために特に作成した強力バーナー2基とゴンドラも出
『あほうどり』の古いからを破って、新しい気球の誕生とともに組織も生まれ変わる方が自然である
と考えた。そこで各ステーションに新気球プロジェクトに強く興味を持ち参加を希望する人がいたな
らば一緒にやって行こうと呼びかけた。
来上がり、いよいよ準備力灌ったところで7月中旬にバーナーを実際に燃焼させて気球をふくらますこ
とになった。当日は札幌チームが中心となって江別のグラウンドで行ったのだが運悪く風が強く係留
するところまでには至らなかった。しかし充分気球がふくらむと、もう5∼6人では押さえる事が出来
その結果、東京、札幌などでぞくぞく、ニューフェイス力澄場し、気球の作業が実質的に軌道に乗
るようになってきた。この新生チームは20名以上の顔ぶれとなり400d㎡の大型気球らしく人数もふ
ない程の力で気球が勝手に動き回り、巨大な気球の威力をみんな実感した。
くれあがった。ただ気球の製作に関してはメンバーの住んでいる所が偏在しているため、東京、札幌、
帯広の3地点でそれぞれ球皮作成部分を分担して最後に東京で“ひとつの気球”に作り上げることにな
4.気球の初飛行合宿
1980年8月はいよいよ初飛行を行う事となった。思えばこの日のために4年もの歳月と200万円近
った。
この球皮作成の手順は実に単調で時間を消費するばかりの事項ばかりてとでt加倒<さく早く終わ
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い資金と20名以上ものマンパワーを投入してきた大きな計画であった。ただこの時までひとつやり残
していたものがあることに気がついた。それはこの気球にまだ名前がついていないことであった。い
ろいろ意見はあったのだが結局決定打的な名案がなくとりあえず『あほうどりⅡ号』ということにし
たのだがいつのまにかこの名前のままで現在に至りたぶんこのままになるような気がする。
飛行地は十勝平野に決め10日間合宿ということにした。合宿参加者が30名を越える大がかりなも
のとなったため昔のあほうどりのテント合宿という訳にはいかず、帯広郊外の公民館を借りて生活を
することとなった。初飛行の朝は4時半に起床して気球のセットアップを行った。この日は天候もおだ
やかですべて順調に気球は垂直にふくれあがった。この処女飛行には小林、佐藤、長尾、黒崎、河合
(当時)の5名に私がパイロットとして乗りこんだ。気球は1時間ほど北西へ飛行した後無事に軟着陸
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気球が安全に飛んでいることによる安堵感がこみ上げるかな、それとも10年前に初めて空に舞い上が
った時のような興奮かな、等々であった。しかし実際は今まで経験していた2人乗りの気球とは一味違
う6人乗りの大型気球の操縦に注意を取られっ放しで楽しむ間もなくあっという間の飛行だった。どう
も夢と現実は今ひとつ一致しないなぁ、というのが感想であった。まあこれはある程度パイロットの
宿命みたいなもので他のクルーはゆっくりしたゴンドラの中でウロチョロ動きながら上空の景色を楽
しんだり、底にしゃがみこんでビールのカンを開けたりといった具合である。さらに初飛行の後東京
ステーションのメンバーで婚約中であった杉本千尋君と泰子さんの結婚式と祝賀飛行も行われた。
こんなふうにドタパタと騒ぎながらも計5回の自由飛行を行って無事に初飛行合宿は終了した。
◆ ■
心
5.アンデスヘ飛べ!
新しい気球には上に述べなかったひとつの大きな夢力籟み込まれていた。それはいつの日か気球を
あやつるメンバーが南米の地で再び集合しパンパスより浮かび上がりアンデスの山々を飛行する夢で
ある。しかしこの夢の実現には多くの困難が横たわっている事も目をそむけることの出来ぬ事実であ
る。時間が経過すればする程気球メンバーの集まれる共通の自由な時間が急速に減っていくことをこ
の気球の製作を通じて私は痛感した。また私自身も今年の夏から長期に渡ってアメリカで生活をする
ことになりその感を強めている。ちょうど新しい気球プロジェクトが生まれ変わるたびに組織も生ま
れ変わっていったように今後の気球のすべてについても組織力洞編成される時期に来ているのかもし
れない。私もこの愛すべき“あほうどり”の将来についてまだ名案が思いつかない。しかし私は髪が
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白くなった時でも良いから南米の地で気球プロジェクトの最後の夢が実現することを信じたい。
(1981年5月記)
陸宙轡色
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した。私は離陸する前に飛んでいる最中のことについていろいろ想像していた。たとえば設計通りに
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川下り顛末記(天塩・十勝編)
った。
ここまでは序論でこれから本論になる。大丸がいなくなってから小生は、カヌースポーツ店に資料
を請求し、その返事のされ方から推察し、良心的であろうという事でトーエースポーッからファルト
1980年入学上條哲也
小生カツll下りについて書こうとしている今、どうしても書いておかねばならない事がある。ちょっ
と長々と書いてしまう事になるかもしれないが、今はなき大丸に登場してもらおう。
4注カサll下りを始めた切っ掛けは、大丸なしにはあり得なかったと言っても過言ではなかろう。そ
れは、ちょうど今から1年前大丸がイタリー製のポータブルカヌー(2人乗り)を買った事から始まる。
部室で大丸の誘いを受けた私は、彼の下宿へ行き実物を見せてもらい部屋の中で膨らませ、中に坐っ
てパドルを握らせてもらったりしているうちに、夢はどんどん広がり、黄河を下ったら云々とかそれ
以上に発展して中央アジア(騎馬民族のいるあたり)を馬で走破し、次に黄河をカヌーで下り東シナ
海に出て、おまけに日本までそのまま帰ってきちまおうなんて地図を見ながら熱っぽく話しこんだの
を記憶している。カヌーの進水式に行こうという事になり、桂沢湖でそれを行うことにした。その時
ボートの自作キットを購入し、製作し、完成したのは7月2日であった。茨戸での2回のカヌー練習、
その間に函館に後藤さんのカヌーを取りに行く事をはさむうちに夏休みは近づいてきた。
口
天塩川andサロベツ川
黒.心
’
member上條哲也(理Ⅲ2)
伊藤友一(水産2)
平野高司(理I2)
天塩川を下ったあとは、サロベツ川を測ってパンケ沼・ペンケ沼まで行こうとした。
8月19日∼8月23日
1980.10.24
’
AM10:00部室集合
十勝川
l
member上條哲也(理Ⅲ2)
11:50札幌Start
須田一弘(文・3)
l2:39岩見沢Reach
4樺泰司(理Ⅱ1)
13:19"Start(幌内線に乗り換え)
’
月15日であった。その計画を記すと、
8月9日∼8月17日
の記録を記すと、
’
計画を部会で話したのは6月下旬それ以前におしゃべり程度に話したりはしたがb計画書提出日は7
|
十勝川を下り、天塩の日本海に次いで太平洋をも見ようとした。
13:49幾春別Reach
桂沢湖へ着いたのは、もう夕暮れ、人のいない湖畔にはカラスの群れが目についた。夕日が明日の
私達の行動の成果を約束しているかのように見えたのは、私だけだったのだろうか。翌朝、天は我ら
の期待を裏切り雨を降らせた。しかし、我らはカヌーに空気を空気ポンプで片足が痛くなったら逆足
で、それでも疲れたら交代してオイショオイショと入れていった。当然ウキウキしながら。空気充填
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今年の8月は、大変な大雨で各地に多大な被害をもたらしたが、その雨もなんとか収まり我々は、計
画通り天塩に向け出発した力瀧路が不通であったりして、士別に着いたのは晩の7時、予定を変更して
剣渕川に向かうが、そこすら行き着くことなく途中でテントを張った。
8月’0日、朝、霧雨。止んだところを見計らって剣渕川に向かう。日数もあるところなので、今日
はカヌー練習とする。午後から小雨が降りだし、これからの天候にあまり期待をもてないような感を
抱かせる。夜、また雨が降り増水する事を恐れて交代で起きておく事にした。
8月11日、曇り、ついに旅立ちの日である。6時50分出発。伊藤が船出の歌を口ずさんでいたよう
に、私も含めてみんなウキウキしながら下り出す。8時前に多寄の堰堤に着く。増水のため、ゴウゴウ
と音をたてて水が水門を通り抜けていく。水門を通過する事に恐怖を感じる。伊藤と平野は左岸をま
くことにするが、自分は思いきって水門に突っ込んでみる。少し上流に戻ってから思い切りパドルを
水に突きさし、手元に引き寄せる。最初の一掻きは恐ろしかったが、それ以降は別段何も感じ無かっ
た。結果は無残。何も抵抗する事なくわが愛艇は、あっさりと魚の白い腹の如く、カヌーの底を上に
−12−
−13−
さらしてしまう。流されている時、パドルを水中で持っていたため水流によってパドルをつなげるパ
イプカ寝ん中から折れてしまった。パドルはすぐ、水上に出した方が良い。また岩に背中をぶつけて
背転みたいな形にもなったが、結構転覆の際は、冷静で、船につかまらなくては、とか細引きを早く
つかんで岸に着かねばならないと思い、焦りながらも岸に着く事ができた。空は今にも泣き出さんば
かりで、ひどく寒い。荷物もいくつか流してしまった。中の水を出し、最後の水をスポンジで出して、
また乗れるように準備していると伊藤と平野が下ってきた。ここで一時間弱時間を費やす。いくつか
瀬を通過して名寄まで10kmの看板が見えた時には夏の日差しが戻ってきた。ここで平野が瀬を避けよ
うとして横向きのまま瀬に突っ込んで転倒、しばらく待つ。西風蓮の堰堤にさしかかる。多寄の事も
あったので、偵察。一番右寄りを下れば行けそうだ。船に乗りパドルで漕ぎだすと、先程昼食をとっ
たばかりなのにやけに空腹感が強い。ここはたいした事もなく通過できた。あと少しで名寄であるb
釣りをしているおじさんに声をかけられた。ここはもう流れは緩い。両岸では、ブルトーザーの音が
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〆 守一
ると大分機嫌が悪そうである。小生も結構疲れたが、メンバーよりも早く行って様子を見ておかれば
と思い漕ぐ。雄信内に上陸。大変寂しい所である。しかし店はあった。竹内商店である。幕営する。
カップラーメンを畷りビールを飲む。散歩がてら国道まで20分位の距離を歩いてみると、名寄まで
100kmと示されていた。
8月16日、前日暖かかったので油断したのが失敗の因。朝、熱がでた。漕いでいるうちに快方には
向かわず寒気すら感じてくる自分の非力さが情け無いoAM10:05に天塩大橋に着く。これから先、天
gjllはサロベツ原野を流れ、海に注がれる。サロベツ原野は、剣脇湿原に準じる北海道第慈わ湿原。し
かし、小生はもう漕ぐ気がしない。早く横になりたいと念ずるのみである。メンバーに無理を聞いて
貰い幕営する。バッファリンを飲んで厚着してシュラフカバーにもぐりこむ。ボンテンの中はムつと
する熱さだが、小生にはそれすら心地良い°2時間位寝たがこの間、平野は釣り§伊藤はスケッチと思
い思いに時間を過ごした様である。ここではラジオはモスクワ放送onlyである‘。
うるさい。鉄橋が見え名寄大橋も見えた。PM1:20、今日のテン場はここにする。
’
8月17日、今日で天塩の川下りも終わりだ。寒くなるのを用心してジャージを着て漕ぎ出す。網で
8月12日、朝から大雨、河川敷の幕営地に水が押し寄せてくるので、テントを移す事4回、我等が
も仕掛けているのか大きな船が見える。サロベツ川との合流地点を過ぎると川は南に向かい、天塩の
安住の地は橋とコンクリの土台との間と相成り、車の音は耳障りだがどんなに雨が降っても大丈夫と
町までは一直線。町の電波受信塔がぼんやり見える。右手の丘を越えれば日本海である。カモメカ唾
を飛び、川に浮かんでいる。AM10:30頃天塩の町に着く。利尻富士の五合目から上力境える。
帰りの車中から天塩川を見ながら、あそこは流れが緩かったの、大変だったのと言い合う。漕ぎ下
っていた時より川が小さく感ぜられる°川を下ってくる人は見あたらない。車中から見ると、自分達
が今下ってきた川と同じ川とは思えない。川下りによって我々は自然の生を身体で感じれたのかもし
いう安心からよく眠れた。
8月13日、薄曇り、水位は2m近くも上がりもう少しで河川敷に達する。朝、出発するかどうか話
し合うが停滞とする。この停滞は正解だった。というのは、美深付近で川にワイヤーが張ってあった
ため増水時には、これに引っ掛かる危険があるからである。昼過ぎ買いだしから帰ってくると、一見
やくざ風の人力戦等の幕営地から出てきた。この人達は、実は先生らしく我等の幕営地は名寄の非行
場所だそうである。水位の方は、本当に見る間に減って行き、明日は出発出来そうである。
8月14日、曇り、名寄の7m下流の智東の瀬に不安を抱きつつ一時間弱で達するが、別段なんの事
|
’
れない。
8月18日、AM2:30に一人で新得駅に着く。伊藤と平野ととは、滝川まで一緒であったが、そこで
別れ小生は『狩勝』に乗換えたのである。
はない。非常にがっかりさせられる。これでは裏切られたも同然である。この日は2日間の停滞の苛立
外は雨、待合室で夜を明ける。朝、外はまだ雨が降っていたが、待合室にいるのもいやなのでテン
場を捜す。佐幌川辺に幕営。終日、本を読んだりラジオを聞いたりして過ごす。8月19日、須田さん
と小津がPM3:45『狩勝』で到着。タクシーで十勝川に向かう。川は雨で増水していて、茶色〈濁っ
ちを爆発させる勢いで音威子府まで漕破する。時速10km以上は出ている計算である。下ってくる途中
目に映る景色は、大雨の残した傷が生々しく地面をえぐり、崖には、はっきりとまるで樹系図をそこ
に見るような跡がくっきりとついている。夕食は外食とし、駅前の食堂に人#)A、川を7i文したが、そ
の天丼は正に音威子府版天丼といえるもので他の天丼と区別すへきもJ)てある‘│Iを二tに‘把す。
8月15日、朝から4雨模様。もう夏とは思えない肌寒さである。初臥を恩わせる人気Ur)!I!、我々は
ている。カナディアンとカヤックを持ってきている人達が対岸でテントを張っている。明日の用意を
して寝る。
静かに水面にパドルを差し入れ、水に乗る事を念じながら進む。、│え野は牛とコミュニケーションを試
みている力灘しそうである。佐久では、道路が100m位にかけて崩れ、そこには崖があるばかりであ
る。昼前に天塩中川につき、ここで昼食。問寒別で幕営する予定だったが、地図が実際の川の様子と
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8月20日、雲は垂れこめているが、出発。十勝川は流れが早い。増水のせいでもあるだろうが、天
塩川とは比べものにはならない速さである。スリルも倍加される。瀬の波も正面、左右と3方向から来
るので、艇の上下も激しい。すぐに身体はびしょ濡れ、波に隠れた岩があったり、1m位の段差がある。
一人で面白がっているうちに、二人を大分引き離してしまった。着岸して待つ。すると水量が急に少
なくなる。しばらくすると再び元の量に戻った。ダムのせいであろうか。待ち時間が二時間を越えた。
心配になっている所へ小津が下ってくる。須田さんの姿がない。パドルが折れ、キールも折れてしま
−15−
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い行動を中止したらしい。やはり最後を下るか、先を下ってもせいぜいlOm間隔位でくれば良かった。
昼食をとり、1時過ぎに小津と二人で下り出す。佐幌川合流点まで続く右手が崖になっている所は、川
てきたとの話。行動は中止にして明日引き上げる事にする。
8月21日、快晴、行動を中止したらこの上天気である。太陽がジリジリと膚をさす。荷物をまとめ、
ファルトを分解して帰り支度である。ピッチで御影駅まで連れていっていただく。新得∼御影間の運
いた。
今夏の川下りは、これで終了である。今夏の川下りは、まず経験してみるというだけでそれ以上の
ものではない。ここで、4注力覗在カヌーに関して考えている事を記してみたい。やや自己中心的に
今、考えている計画を記してみる。それは、支笏越えである。昔、アイヌの人達は、ホタテ貝等を
運ぶため、また人の行き来に、勇捌1lを美々までさかのぼり、今の千歳(昔は、支笏と言った)まで
陸道を通り、また舟に乗り千歳川、石狩川と通って日本海側に抜けるルートを利用していた。和人に
よる蝦夷探検の記録にもでてくる。
このルートを通るだけでなく、できれば報告書にまでまとめたいが、どんなものになるか幟、お楽
どんなものになるか幟、お楽
(1981年10月記)
しみ。
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賃は230円である。この駅の駅員さんは親切でお客さんも人力浪い°小津のジャ−ジの穴を縫うよう
に針と糸を貸してくれたり、それを縫ってくれるというおばさんもいる。小生は、ニヤニヤして見て
要なのである。
llllllIlIlⅡ14■■Ⅱ。Ⅱlbl11IIⅡ81IlIIIlIIIIlll︲IJI宮■I卜blqI︲I
と昨日対岸にいたパー最イーに会う。佐翻ll合流点で見かけたとの話。新得橋まで車を取りに行くか
らついでに、佐側II合流点まで連れて行ってくれるとの事、厚意に甘えて乗せて行ってもらう。合流
点に小津の姿はない。もう帰ったのかも知れないと思い帰りの車に乗せてもらい、テン場に戻った時
はすでに夕暮れ暗くなり始めている。4蝉は、すでに着いていて、大声で小生の名を呼んでいる。聞
いているうちにおかしくなってきたが、その声にこたえて大声を出す。カヌーは乗艇不能のため置い
!
IIIjI1HIIIIIIdⅡ■7←I︲111JⅡ■ⅡⅡPbⅡⅡⅡⅡ1111111トー
幅力峡いので崖に流れが向いている所にさしかかると思わず不安の念がよぎる。瀬の波も高い。テク
ニックもない小生としては、ただただパドルを思い切り漕ぐだけ。それでも何とか切り抜けたが、ま
た小津と離れてしまった。そろそろテントを張らねばならないので、御影に通ずる橋の少し下流でテ
ントを張り焚き火を作り4樺を待つ。この時刻PM3:00.4時を過ぎてもまだ来ない。上流に向かう
I
lIlIllIll1l
−
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’
なる傾向はあるが。
現在、クラブ内でカヌーをやろうと考えている人間は小生だけであろう。ただでさえ層の薄い探検
部でダイビングチームみたいなグループを作る事は、今無理である。人と一緒にやろうとすると相手
の都合だなんだで面倒くさいので、一人で当分の間やってみようと思う。幸いな事に今、ホ吠のカヌー
部
②
鳥
畑
さ
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と
知
り
合
い
に
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た
。
こ
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方
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、
7
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前
か
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始
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程
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技
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を
や
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て
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人
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F戸一・一二万一・‐.〃.
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釧路から藻琴へ縦走計画失敗記
らいに無数に立っている。それらをなぎたおして構は進む。鶴は市販されているプラスチック穂を4つ
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連結させ、3人が牽引力となってひっぱる(注1)。残りの1人は鶴の進路を決める。、私達力揃進しよう
とすると、なぎたおされた植物の枯れ跡が摩擦力となるので、私たちが全力を出して引っ張ってもな
1977年入学浅野晴也
1979年入学高橋和宏
『やっぱりだめだったか。』私たちは念をおされたようだった。まだ3月だというのに幅5m位の
雪裡川が氷っていないのだ。『雪裡川が氷っていないらしい』ということは、出発前の情報で知ってい
た。そして、釧路についてからも、釧路市立博物館へ釧路湿原のようすを聞きにいくと、『今年は暖か
いので、湿原を流れているどの川も、結氷していない』ということであった。
I
かなか進まない。しかし、結氷した河川等の上は鶴と氷面との摩擦力が小さく、少しの力でも鶴は動
’|
くので、たいへん楽だ。
I
ちは荷物を置いて、雪裡川の偵察に行ったのだった。
l
本日は行動をここまでとし、これからどうするか検討することにする。
ヨシやスケの類が枯れたまま無数に立っている。そして、ところどころにヤチ、ハンノキなどが小
そもそも私たちの最初の計画は次のようなものだった(注2)。新富士駅(釧路駅の西どなりの駅)か
さな樹林帯を形成している。その中を、川が大きく蛇行しながら流れている。そしてただ広い。キツ
ネ、ウサギ、ネズミや鶴に、春にはシベリアへ帰ってしまう白鳥などがいる。これが、1980年3月に
’
私たちが見た釧路湿原だった。
’
’
2時間とたってない所で幕営した。まだまわりには家や工場が見え、夕方には学校のチャイムが聞こえ
次の日は曇天だった。何かおこりそうな予感のした日だった。私たちが懸命に鶴を引いて2時間近く
たつころ、カモメやカラスが何千羽と群れている光景に出会った。これだけ鳥がいると不気味である。
そして急に磯の臭いがしてきた。廃棄物だ。トラックで何かの廃棄物を捨てにきているのだ。そして、
その廃棄物を鳥がえさにしているのだ。確かに道路にはトラックのわだち力曠っている。道の果ての
行して山をこえ、美羅尾山と万計札山の間を通って屈斜路湖に達する。屈斜路では中島を経て氷上を
l
l
い縦走計画であった。
一応縦走をやりとげるかどうか。やりとげるなら徒歩で通すか、バスを使うか。話し合いの結果、一
ある。それは釧路湿原を縦断すること、屈斜路湖の氷上横断、そして藻琴山に登ることである。とり
あえず明日は湿原を北上して鶴居村まで行き、釧路湿原縦断を終了させようということになった。
3月3日今日も快晴だ。雑木林がうるさいので私たちは観を解体し、ザックの背中にくくりつけてい
る。北東へまっすぐのびている幅1m位の水路にそって進むと、大きな水路に出た。結氷していて対岸
に渡れたが、渡り終えてから脇本が川に落ちてしまった。脇本の下の氷が急にぬけ落ちたのだった。あ
方に目をやると、トラックの影が見えた。トラックはここで廃棄物を捨て、少し休んで走り去った。私
たちも立ち去ろうとして、高圧電線下のほんの50cm位のどぶ川を渡っていた時、高橋がこのどぶ川に
落ちてしまった。ここをこえるとやっと湿原らしい景色になってきた。高さ10m位の木が茂っている
わてて脇本は氷の上に上がったが下半身はびしょ濡れだ。
林の申にテントを設営する。
呂川が完全に結氷している。途中からこの水路を離れて湿原のまん中へ進もうとするが、すぐに幅1un
晴
れ
た
日
の
朝
は
す
ご
く
冷
え
込
む
。
氷
点
下
2
0
℃
位
に
は
下
が
る
だ
ろ
う
。
し
か
し
日
中
に
は
+
3
℃
く
ら
い
に
ま
で
気
温
は
あ
が
る
。
こ
の
日
の
朝
は
冷
え
込
み
が
厳
し
く
、
一
日
中
風
が
強
か
っ
た
。
と
こ
ろ
ど
こ
ろ
に
あ
る
林
が
遠
く
か
ら
み
る
と
、
木
の
壁
の
よ
う
に
見
え
る
。
そ
の
よ
う
な
木
の
壁
の
間
を
ぬ
っ
て
進
む
。
雪
は
5
0
c
m
位
し
か
つ
も
っ
て
い
な
い
。
植
物
の
わ
ら
の
よ
う
な
枯
れ
跡
が
、
そ
ん
な
雪
の
中
か
ら
高
さ
1
m
く
ほどの大きな川にぶつかった。まったく氷っていないので、向こう岸へ渡ることができない。私たち
−18−
.‐';jl,
コタン岬からは国鉄釧網線とだいたい平行に五十石まで行き、そこからオソツベツ川とその支流を遡
応3つのおもな計画には挑戦してみようということになった。この縦走計画の中にも3つの主な計画が
るようなところだ。
=1ルウ
ら湿原に入る。そこから北北東に進路をとって幌呂川、雪裡川を渡り、キラコタン岬をめざす。キラ
横断し、藻琴山に登って、浦士別川あるいはオンネナイ川を下降して、最後は涛沸湖に至るという長
などをまわって、釧路湿原の西南にある鶴野というところに着いたのは、14時頃だった。ここで、と
’
の合流点である。10cmも雪がつもっていないじゃり道の旧道を鶴を引きながら2時間近く行くと、車
量が多い。雪裡川が結氷していなかったことにより、釧路湿原縦断の最初の計画は挫折してしまった。
を通る弟子屈一釧路を結ぶ旧道に荷物を積んだ観を置いて、雪裡川を偵察に来たのである。
っておきのプラスチック橘を連結させた後、北北東に進路をとって出発した。1泊目は、出発してから
偵察から帰ってきて私たちは温根内へ向かった。温根内は釧路一弟子屈を結ぶ道路の旧道と新道と
の音が聞こえてきた。温根内についたのだ。新道の方は雪がまったくなく、道路は乾いていて、交通
軽く走るような速さで雪どけの水を運んでいる雪裡川をあとにして、私たちは引き返した。湿原内
札幌を私たちが出発したのは2月29日の夜であった。3月1日の朝に釧路に着き、釧路市立博物館
出発してから2時間後の8:30にやっとのことで釧路一弟子屈線旧道に着いた。そしてすぐに私た
この大きな水路は幌呂川をショートカットしてつくられたものらしい。この水路の横に蛇行した幌
は再度挫折した。しかたなく私たちは弟子屈へ通ずる道路を歩きはじめた。
アシベツ川以北は完全に開墾されていて、湿原の姿をとどめていない。シヤベルカーでいたるとこ
ろを堀りかえされた工事のつめあとがいたいたしい。結局、舗装された新しい道を第3下雪裡雀で歩い
二19−
「
た。第3下雪裡に一泊した私たちは、その翌日、バスで弟子屈へと向かった。
リッチな食事をし、ジンをのみ、明日ピークへと向かうためにエネルギーをたくわえる。夜はぐっす
鶴居村∼仁伏温泉
りと眠れるとおもったが、あまりにも小屋は広すぎておそろしく、水滴の音が耳についてなかなかね
吹雪の吹き荒れる中、朝の八時半頃のバスに乗り我々は弟子屈へと向かった。寒さからくる睡眠不
足のため、我々は車中でぐっすりと眠った。車中で我々に席を譲ってくれた鶴居村の中学生たちの優
むれなかった。
しい心遣いが忘れられない。
でかわかした。待合所で待つこと数時間の後に我々は再び車中の人となり和琴へと向かう。屈斜路湖
は晴れ渡った青空がブタのようにかぶさった峰々の底に静かに凍りついて横たわっていた。付近の家
で湖を渡れるかどうか尋ねると、今年は氷がうすいのでやめたらいいとのこと。どうしたものかと考
えながらその家の裏へ行くと、オリの中には大きな罷が二頭じっとしている。屈斜路湖の中島には熊
が渡っている可能性もあるし、我々はその二頭の熊におじけづき、氷も薄いらしいので氷湖横断はあ
I
’’’11︲11110︲1IIPIIIIjIIIl07llII甲llllllljIIIII︲11111111ⅡⅡⅡ0011ⅡⅡ
正午前頃に我々は弟子屈に到着した。すぐさまバスの待合所に行き、各々にぬれたものをストーブ
|
’
|
’
斜里の方や、美幌力哩むことができ、眼下には氷ついた屈斜路湖が静かに横たわっている。氷の湖面
やまわりの山々の雪に光が反射してまぶしい。すばらしいの一言につきる。湖の氷には大きな裂け目
のようなものが見える。湖を渡らなくて良かったのだと思う。我々は景色を楽しんだ後、4情水へと
向けて下る事にする。林道に出たところで昼食とする。全員の顔にやれやれという表情力壊れている。
昼食後は林道スキーを楽しみながら下る。やっと牧場のある付近までくると、赤いヤッケやズボンを
ことにする。そして再び藻琴山をめざして進みはじめる。途中、湖面にでて少し時間をかせぐことに
し
た
、
氷
は
い
が
い
と
し
っ
か
り
し
て
い
る
。
万
が
一
の
こ
と
を
考
え
、
各
々
は
距
離
を
お
い
て
進
み
、
湖
を
渡
り
藻
’
琴
山
に
と
り
つ
き
は
じ
め
る
。
雪
質
は
ザ
ラ
メ
で
ど
う
も
シ
ー
ル
が
き
か
な
い
。
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よ
う
と
昼
頃
、
脇
本
さ
ん
の
ビ
ン
デ
イ
ン
グ
の
ビ
ス
が
と
れ
て
し
ま
い
、
ビ
ス
一
本
が
な
く
な
る
。
仕
方
な
く
こ
こ
で
昼
食
と
し
て
、
脇
本
さ
ん
は
ス
キ
ー
の
応
急
処
置
を
お
こ
な
う
。
昼
食
後
ピ
ー
ク
を
め
ざ
し
て
上
り
は
じ
め
、
ピ
ー
ク
下
の
道
路
へ
と
出
る
。
非
常
に
風
が
強
く
、
そ
る
そ
'
ろ
行
動
を
打
ち
切
る
時
間
な
の
で
幕
営
す
る
こ
と
に
し
た
が
、
風
力
職
い
し
、
適
当
な
場
所
が
な
い
。
地
図
を
譲
る
と
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こ
し
下
が
っ
た
所
に
ヤ
ン
ベ
ツ
ノ
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壜
と
い
う
の
が
あ
る
の
で
、
清
水
、
高
橋
の
二
名
で
偵
察
に
行
く
。
小
屋
は
無
人
⑳
よ
う
'
で
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り
と
'
し
毒
か
@
し
た
つ
く
り
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あ
り
鍵
が
か
か
っ
て
い
な
い
の
で
、
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の
こ
と
を
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野
さ
ん
に
連
絡
し
、
我
々
は
ヤ
ン
ベ
ツ
小
屋
を
今
夜
の
寝
所
と
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る
。
小
屋
の
内
部
に
は
ト
イ
レ
ま
で
あ
り
な
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な
か
立
派
な
つ
く
り
で
あ
る
。
部
屋
数
も
た
く
さ
ん
あ
る
。
我
々
は
さ
つ
捲
く
黒
ト
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プ
を
た
き
、
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れ
た
も
の
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こ
と
に
す
る
。
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つ
と
今
痩
は
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ち
'
つ
い
て
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そ
う
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気
分
だ
し
、
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レ
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あ
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の
で
や
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や
れ
で
あ
る
。
我
々
は
そ
の
夜
は
一調一
=趣一,ー
着用しているので牛が集まってくる。この時は少しヒャッとした。我々は、1時過ぎごろにバスの通り
まで出た。ここでスキーをぬぎ、店屋で我々は思い思いに好きなものを飲んだ。私はビールを飲んだ。
とてもうまかづた。
バスの時刻をみるとまだかなり時間があるので歩くことにする。この歩くのがきつかった。10キロ
|
|
’
’
6
’
以上は歩いたと思う。体が疲れているのでよけいにこたえる。途中かわいい犬コロが道中を共にして
くれ心がなどむ。静かで平和なところだと思う。
やっと東藻琴に到着し、そこからバスに乗り藻琴へとむかう。途中のバス停の名前には驚いた。「○
○さん前」というバス停がかなりあった。田舎だなあと我々は痛感する。日も落ちた頃に藻琴に到着
4111111トーlfI︲llllIlllllI■Illl11IlI1
’
立っていたのでツボ足で進んだ。短時間で藻琴山ピークに到着した。雪のない時は車で登れるところ
だけあって、売店はあったし、ベンチなどがあって、少々興ざめしたが、展望は抜群であっ蝿遠く
きらめることとなり、本計画をやめようかどうかという問題がおこる。浅野リーダー、清水、高橋両
君はここで計画を中止したかった。しかし、脇本サブリーダーの計画を続行しようという強い意志に
より計画は続行される。我々は鱈からパスに乗り、仁伏温泉へと向かう。湖岸の道路を通って行く
とところどころ湖の水面が出ているところがあり、わりと暖かいし、やはり氷は薄いのだろうと思う。
その夜は温泉の旅館近くの湖岸にて幕営する。とても寒かった。高橋(自分)は酒を飲み過ぎてテン
トの中で眠り込んでしまう(ああ札幌へ戻りたいと心中強く思う)。
翌日はいつものごとく朝早く起きて行動を始める。ツボ足で道路を約1キロ程歩き、そこから林道へ
と入りスキーをはく。今日は天気がいい。我々はラッセルを交代しながら前進を続けた。川湯付近で
清水君が先頭となったとき、倒壊した橋にぶつかった。我々はスキーをぬいで渡河をすることにする。
その時清水君が足を踏み外して靴を水につけてしまった。しかたがないので、ここで小休止をとる
翌日は天気にめぐまれた。我々は一路ピークへと向かう。ピーク直前の所は少し傾斜が急で、切り
’
して酒やジュースを仕入れ、そこの人に教えてもらった海岸で幕営することにして、その夜は流氷に
おおわれて、波の音が全くしない海岸で幕営し、眠りにつく。
翌朝は9時頃にごそごそと起きてリッチな朝食をとり、流氷見物をする。事もあろうに私は流氷から
落ちて靴がびしょぬれになる。しかし天気もいいし暖かいのでまったく気にならない。その後、我々
が網走行きバスを待っていると、バス停の所の家の人が我々にコーヒーを御馳走してくれた。なんと
心やさしい人ではないか。奈良岡とも子に似た中年の美しいおばさんでした。我々はコーヒーのお礼
I
をいい、車中の人となり網走へとむかった。
’
(注1)最初は部室においてある観を使おうと思いましたが、この計画では樹を使えるのは釧路湿原
だけしかないので、途中で捨てていける橇はないものかとかんがえました。その結果五百円位で市販
されているプラスチック橇を使うことにしました。プラスチヅク観は雪の上ではやはりすべりはいい
のですが、荷物をのせてすべらすと、ちょっとしたことでもすぐに横転してしまいます。この横転を
防ぐため私達は、一人一個4人で4個のプラスチック翰を図のようにたて2列よこ2列にして連結させ
−21−
「r一=宰一.-J
1
1
1
’
ました。これによって横転することはほとんどなくなりました。
あとがき
f-・
釧路湿原を縦断し終えた時、この計画を成しとげたいという望みは、リーダーであった私の心の中
から消えてしまい、そのかわりに早く札幌へ帰りたいという気持ちが強くなってきていました。それ
は、まず第一に最初の縦走計画を変更せざるをえなかったからです。この計画の行われた1980年の冬
は暖かく、釧路方面では積雪量も少なくて、2月29日の朝、釧路駅に降り立った私達は春のよ『うな暖
かさに驚きさえ感じました。このような暖冬のおかげで、雪裡川や釧路川など湿原内を流れる大きな
lllflllllIlll
I
|
’
〃壬
(注2)計画したコースと実際に行動したコースとを下図に示します。
ロ
いたずらのせいだけではありません。それ以上に私たち人間のせいだと思います。河llがショートカ
ットされ、川の流れが大変速かった。其に、湿原らしい姿をよくとどめているのは広い釧路湿原の中
でも、キラコタン岬や宮島岬やその周辺あたりのみです。湿原内では人工的に作られた水路をよく見
たし、北側から流れ込んでくる川筋にそった湿原地帯では、湿原の開墾が進んでいま・した。結氷して
いなかった河川や開発されていく湿原を見て、徐々に私たちは、この計画に対するやる気を失ってい
蜜
11
きました。そして屈斜路で挫折した時には、もうほとんどやる気などありませんでした。なさけない
しだいです。
伸職島
F
一 一 一 一
徒歩
。。・・・・バス
、
− ● − ● −
。●
曹種剛
’
河川のほとんどは、結氷していないという話でした。しかし、河川が結氷しなかったのはこの自然の
息個眼.R
’
0
、
からもうすでに私は意気消沈していたのかもしれません。
しかし、途中でバスを使ったものの、釧路から入り、釧路湿原を縦断し(屈斜路湖はだめでしたが)
藻琴山に登って、最後は国鉄藻琴駅の近くに幕営して流氷をみることができ、一応は計画をなしとげ
たつもりですけれど、私は、この計画は失敗に終わったんじゃないかと思っています。他のメンバー
一一
帆即呵重一下雪樫︾
鬘
それともう一つ私にとってやる気を失わせている理由がありました。それは全行程を私たちの力に
よる徒歩で通すか、それともバスなどを使うかということでした。最初は、この計画を全部徒歩で、太
平洋からオホーツク海へぬけようということでしたが、しかし、太平洋からオホーツク海へぬけるの
が目的だったら、何もしんどいめをして徒歩にしなくても、国鉄釧網線に乗れば、3時間あまりで目的
は達成されてしまいます。また、なぜ徒歩でなければだめなのかということや、この縦走計画の3つの
主な計画をやってみたいということなどが、頭の中でごちゃごちゃになって、出発前までに考えを整
理できなかったので、何か中途半端なまま出発してしまいました。こういう状態だったので、出発前
釧畷鞭
3人もそれぞれにこの計画遂行について、何らかの批評をくだしていることでしょう。
熊腱嶋
|
’
*本手勢
−22−
■』iJ:ー一言---:…一一、‐≦‐ゞ"。=ゞ−−−一=−:___ー.
なお、この原稿の釧路湿原縦断及びあとがきは浅野が担当し、鶴居村から最終地点の藻琴までは高
橋が担当した。最後に気持ちがめいっていた私を励ましてくれた他のメンバー3名(脇本、清水、高橋)
にお礼を申し上げます。(1981年記);
−23−
ー』
「「
気候変動と氷河の振る舞い
鑓
探検部部長成瀬廉二
I
-1‘はじめに
識
最
近
、
大
気
中
の
炭
酸
ガ
ス
鋤
ロ
に
と
も
な
う
地
球
温
暖
化
の
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念
が
マ
ス
コ
ミ
等
で
賑
や
か
に
報
じ
ら
れ
て
い
る
。
…家ズ完
一
方
、
ア
メ
リ
カ
、
カ
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ダ
、
南
米
・
パ
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ゴ
ニ
ア
、
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ー
ロ
ッ
パ
・
ア
ル
プ
ス
・
ヒ
マ
ラ
ヤ
等
の
氷
河
地
域
で
は
、
大
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の
氷
河
が
近
年
わ
ず
か
に
あ
る
い
は
急
激
に
後
退
、
綱
、
し
て
い
る
。
地
球
上
に
現
存
す
る
氷
と
雪
の
総
量
は
、
2
9
X
1
0
鱈
ト
ン
と
見
種
も
ら
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て
い
る
。
こ
の
量
を
、
面
積
3
6
×
1
0
週
㎡
の
全
海
洋
に
均
等
に
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ら
ま
く
と
、
海
水
面
は
約
8
q
n
上
昇
す
る
こ
と
に
な
る
。
過
去
の
氷
期
一
間
氷
期
一
氷
期
の
変
動
の
過
程
で
は
、
津
軽
海
峡
が
陸
続
き
に
な
っ
た
り
、
北
海
道
が
石
狩
低
地
帯
で
二
分
さ
れ
て
い
た
こ
と
も
あ
っ
た
。
こ
の
よ
う
な
こ
と
が
、
近
い
将
来
(
我
々
の
孫
、
I
’
q…聯
図1.谷氷河の縦断面模式図。矢印は氷の流動ベクトル。
さて、気候が変化すると、氷河の酒養量または消耗量、あるいはその両者とも変化する。その結果、
氷河の形、規模、位置が序々に変化する。
ひ
孫
、
…
●
、
孫
の
世
代
)
に
果
し
て
起
こ
り
う
る
だ
ろ
う
か
?
ま
た
、
近
年
の
著
し
い
氷
河
の
後
退
が
、
「
異
常
気
象
」
いま、気候の各要素のうち、酒養の源である降雪量と消耗に大きな影響をおよぼす気温をとり上げ
あ
る
い
は
「
地
球
温
暖
化
傾
向
」
と
深
い
か
か
わ
り
が
あ
る
の
だ
ろ
う
か
。
結
論
を
先
に
述
べ
よ
う
。
気
候
が
変
化
す
る
と
そ
れ
を
反
映
し
て
氷
河
の
振
る
舞
い
も
変
化
す
る
こ
と
は
確
か
で
あ
る
。
し
か
し
、
そ
の
氷
河
の
変
動
の
仕
組
み
は
単
純
で
は
な
く
、
地
球
上
の
さ
ま
ざ
ま
な
氷
河
地
域
に
て
将
来
の
姿
を
簡
単
に
予
測
す
る
わ
け
に
は
行
か
な
い
。
さ
ら
に
、
氷
河
が
気
候
変
化
に
応
答
す
る
タ
イ
ム
ス
ケ
ー
ル
は
、
氷
河
の
規
る。図2を見ていただきたい。気温が下がるか降雪量が増すと、氷河は拡大する。したがって、ある氷
’
−−−1■■■{■■■
模
に
よ
り
数
十
年
か
ら
数
千
年
と
長
い
。
し
た
が
っ
て
、
過
去
2
0
∼
3
0
年
間
の
氷
河
変
動
の
傾
向
と
、
そ
の
間
の
気
候
推
移
と
は
何
ら
関
連
性
が
認
め
‘
ら
れ
な
い
こ
と
も
十
分
起
こ
り
う
る
の
で
あ
る
。
本
稿
で
は
、
ま
ず
気
候
が
氷
河
の
挙
動
に
お
よ
ぼ
す
メ
カ
ニ
ズ
ム
に
つ
い
て
簡
単
に
ふ
れ
、
さ
ら
に
南
北
両
極
地
に
膨
大
に
存
在
す
る
氷
の
量
と
質
の
変
化
か
ら
、
過
去
の
気
候
変
動
が
ど
の
よ
う
に
明
ら
か
に
さ
れ
て
き
た
か
に
つ
い
て
述べる。
|
’
偲調
韮哀志〕=一・一・−---
鶏
託・蕊o5・託・5.6寺忍砂品容舞・・・.壷・ずずざ・;・試零託03狩誇篭。識
図2.気候変化による氷河の消長。
2
.
気
候
が
変
化
す
る
と
氷
河
は
ど
う
応
答
す
る
か
?
氷
河
は
そ
の
上
腱
降
り
樹
も
る
雪
に
よ
っ
て
養
わ
れ
る
。
そ
の
量
を
、
獅
餐
(
か
ん
よ
う
)
愚
と
い
う
○
一
方
、
氷
河
表
面
の
融
解
や
、
‘
氷
河
の
末
端
が
崩
壊
し
氷
山
と
な
っ
て
流
出
す
る
こ
と
に
よ
」
1
了
ノ
k
/
I
I
I
I
J
/
i
'
i
粍
す
る
。
極
地
の
氷
河
で
姓
融
解
が
あ
ま
り
起
こ
ら
な
い
の
で
、
氷
山
と
し
て
の
流
出
戯
か
全
体
の
消
耗
型
の
人
鮴
"
を
[
!
j
め
て
い
る
。
こ
河の前進、後退の現象を観測しても、その原因力鞘もる方にあるのか融ける方にあるのか速断はでき
ないことに注意しなければならない。さて、ある年を境にして、気温は変わらず、年間降雪量だけが
’
こ
で
賎
海
や
湖
に
擁
れ
こ
ま
な
い
普
通
の
谷
氷
河
を
考
え
よ
う
。
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股
に
氷
河
②
止
読
域
は
下
流
域
に
比
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降
雪
量
が
多
く
、
か
つ
(
雨
で
は
な
く
)
雪
で
降
る
}
│
数
か
多
い
。
一
方
、
融
解
蕊
は
気
温
の
高
い
下
銃
鐵
ほ
ど
多
い
。
こ
の
た
め
、
氷
河
の
│
流
域
に
は
年
々
雪
が
積
み
か
さ
な
り
、
下
流
域
で
は
年
々
氷
力
梢
耗
し
て
い
る
。
し
か
し
、
氷
河
の
形
、
厚
さ
は
毎
年
著
し
く
は
変
化
し
な
い
。
こ
れ
は
、
氷
河
上
流
域
(
酒
義
域
)
の
過
剰
分
の
氷
が
氷
河
の
流
れ
に
よ
っ
て
下
流
域
(
消
耗
域
)
に
運
ば
れ
、
不
足
分
の
氷
を
補
っ
て
い
る
か
ら
で
あ
る
。
こ
の
様
子
を
模
式
的
に
図
1
に
示
し
た
。
「
少し増加したと仮想しよう。年間の総消耗量は変わらず総酒養量が増えたので、一年後には氷河は少
しだけ厚くなる。つまり質量が増えたので、重力により斜面上を流動させる駆動力が増す。その結果、
流動速度がわずかだけ大きくなる。年々質量の増加が続くと、流速が次第に増加し、氷河は全体の形
を変えつつ下流へ伸びる。しかし下流域(低高度)では、気温力塙いので融鵬が増す。すなわち、「負
のフィードバック機構」が働き、氷河はいずれ安定な形、位置のところに落ちつく。それは、降雪量
I
増加以前の氷河に比べ、厚さと長さが増し、平衡線と氷河末端高度力岻くなった状態である。
気温だけが変化した場合も、同様なこと力湛こる。これが、気候変化に対する氷河の応答機構であ
る。応答がほぼ完了するには長い年月がかかる。応答時間は、中規模の谷氷河で百年、南極氷床で数
-‐24‐‐
=−−−−−−−−−−Ⅱ"一¥−−℃−−。薑---
−25−
L
1
ヨ
−
−
一
■ 一 一 _ _ − − −
一
−
−
一
その現象が最近の気候変化の反映とは必ずしも結びつかないのである。
280
氷河の存在がその周辺の気候を 変え、その影響が地球規模の気候、 環境、海水準の変動におよぶので
ある。
一・乏Ea丘一m○○
さらに、長い時間尺度でながめたとき、谷氷河が氷原氷床へ、あるいはその逆の変化が起こると、
︷。。︶卜
260
240
一古気候復元と氷期原因論一
一・誤己四E昌忘ヨのロ
3.極地の深層氷コアは何を語る?
0
南極やグリーンランドの極地域には、数万年から数十万年にわたって降り積もった雪により、巨大
な氷河(氷床という)が形成されている。その両者の合計は、地球上に現存する氷と雪の総量の99%
に達する。南極氷床の断面の一例を図3に示す。氷床の直径は4,000km、平均の氷の厚さは約2,000m、
−2.5
−5.0
220
1
11
I
200
111
180
I
聯
−7.5
南極断面図
−490
南極点
(m)
04
05
06
07
08
0
3
−420
2.5
4
4
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一4
一4
一4
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-10.0
2000
ー
−500
ヌ
イ
’
0
I
0
−2000
40
80120
160
Age(kyrBP)
図4.ボーストーク氷コア中のCO2および2H溌度変化
図3.南極大陸の断面図(黒く塗った部分は岩盤)。
最も厚い所は4,000mに近い。この氷床上に雪が降る時まわりの空気も一緒に堆積するので、氷床内部
の氷には、過去の大気環境に関する諸情報の歴史が連続して記録されている。
このような氷床で1950年代から氷コア掘削が試みられ、氷の試料が採取されるようになった。1965
年
グ
リ
ー
ン
ラ
ン
ド
の
キ
ャ
ン
プ
・
セ
ン
チ
ュ
リ
ー
で
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さ
1
,
3
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7
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、
つ
い
で
1
9
6
8
年
西
南
極
の
バ
ー
ド
基
地
で
2
,
164mの基盤への深層掘削に成功した。
南
極
氷
床
中
央
部
の
ボ
ス
ト
ー
ク
基
地
(
海
抜
3
,
4
8
8
m
)
に
て
、
1
9
8
0
年
に
掘
削
さ
れ
た
2
,
0
8
3
m
深
の
氷
コ
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の
化
学
的
分
析
が
、
フ
ラ
ン
ス
・
ソ
連
の
共
同
に
よ
っ
て
詳
細
に
行
わ
れ
た
。
最
深
部
の
氷
は
、
氷
の
流
動
モ
デ
ル
計
算
に
よ
り
’
6
万
年
前
、
す
な
わ
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最
終
間
氷
期
初
期
と
決
定
さ
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た
。
こ
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ら
の
分
析
結
果
の
一
例
を
示
し
た
の
が
図
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で
あ
る
。
氷
中
の
デ
ユ
ー
ト
リ
ウ
ム
(
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H
)
濃
度
か
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た
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の
気
温
の
変
動
パ
タ
ー
ン
は
、
最
終
間
氷
期
か
ら
現
代
に
至
る
ま
で
、
海
洋
底
の
堆
積
物
解
析
か
ら
得
ら
れ
て
い
た
気
候
変
動
傾
向
と
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常
に
良
く
一
致
し
た
。
さ
ら
に
、
氷
結
晶
の
気
泡
内
に
含
ま
れ
る
C
O
2
濃
度
も
周
期
的
に
変
動
し
、
そ
の
傾
向
は
気
温
変
化
と
驚
く
程
よ
い
相
関
を
示
し
た
。
こ
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ら
の
分
析
と
、
諸
パ
ラ
メ
ー
タ
の
変
動
の
周
期
解
析
の
結
果
、
フ
ラ
ン
ス
の
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究
者
等
は
、
洪
積
世
氷
期
の
主
原
因
は
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靭
鱈
と
獅
由
の
傾
き
の
変
化
(
M
n
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k
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v
辻
c
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説
)
に
あ
り
、
大
気
中
の
C
O
2
濃
度
変
化
に
よ
−26−
(Barnolaetal.,1987)
︵動E●竺學︶cg誌﹄芒“・匡○○因○○
ロー一
千年と見積もられている。したがって、ある氷河が年々著しく衰退していることを観察したとしても、
0
図5.極地の氷に含まれるCO2濃度の変化
(Nefteletal.,1985)
−27−
11
r一
る温室効果の差がそれを増幅させたと考えている。
釧路湿原
また、近年注目されている大気中のCO2濃度の急激な増加傾向は、極地の氷の気泡中に閉じ込めら
れたCO2を詳しく分析することにより明らかにされた。図5に、測定結果の一例を示す。楕円形は測定
1981年入学平井健二郎
値の誤差の範囲を表す。産業革命以後、全地球的なCO2濃度の増加が著しいことが認められる。CO2
の温室効果のみを考えると、今後は地球の温暖化がすすむことになるが、温暖化にともない降水塁・降
釧路湿原は、探検部員にとっては、一度は、行ったことのある、又は行きたいと思ったことのある
雪量の鋤ロが予想され、単純に氷河・氷床の衰退、世界の海水面の上昇を引き起こすかどうか、現時
フィールドの一つであろう。私力靭めて釧路湿原を訪づれたのは、大学生活7年目、大学院に入ってか
点では判断できない。
らのことであった。どちらかというと山岳より、平地、湖沼の好きだった私は、サロベツ湿原などへ
(1990年2月記)
は、夏一回、冬三回通い、大変気に入っていた。サロベツ湿原が内陸から海岸線までに、高層湿原・低
参考文献
寒木林、沼、砂丘林、長沼群と変化に富んだ姿を見せるのに対し、釧路湿原は、だだっぴろく、単調
で、まったく興味がわかなかった。ところが、自分の研究のフィールドとして釧路湿原を選び、2年間
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3
8
0
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.
通ううちに、この湿原の本当の味がわかるような気がしてきたのである。
1987年5月、私は、気象観測機材をいっぱい積んだワゴンに乗り釧路へやってきた。市内から、道々
鶴居一弟子屈線を北上し、市営の湿原展望台をこえて少し行くと、有料の展望台よりも、湿原の良く
|
’
111日110●ⅡFlIIjiIl0lqIIJllII1I10−II6I0I0。﹄F1lFIIlIjI11L2IiI1●Ⅱ01ⅡⅡ1日01Ⅱ︲1iqI■lI1Ill1IIpdIl■I■I■IIrlIlfI4lllll11l1jⅡIトーIjlIIl●I︲
I
’
1
1
見える道路わきのパーキングがある。細岡などからの展望に比べればもの足りないが湿原を一望でき
る
。
釧路湿原を紹介する場合、大抵高いところから一望した川の蛇行が美しい風景が使われる。私も初
めて見る釧路湿原の大きさに一応感動しつつも、なんか地味な風景だなというのが本音であった。一
度見ればそれでいいような景色であった。
パーキングをあとにして、湿原坂を下りていくと左手に環境庁の監視センターがある。ここは昼間
だけ委託の監視員がおり、夜は無人だ。湿原での泊まりには、ここをよく利用させてもらった。たた
み部屋、ストーブ、台所、水洗便所付きだ力噛念ながら水道は止められている。近くに湧き水がある
ので、坂をおりて水汲みに行かなくてはならない。この監視センターを過ぎると、すぐ濁根内のバス
停があり、ここから湿原内を横断する堤防道路に入ることができる。全面ダートで、よく開発局のケー
トが閉まっていたが、今はたぶんないだろう。この堤防道路をしばらく走ってから、湿原の奥へ入っ
ていったところが私のフィールドである。湿原は上から見るのと、実際に足を踏み入れるのでは大違
いだ。教官の勧めどうり、長めの長靴をはいてきたが、とんでもないことだった。胴付が必要である。
5月の湿原は、雪どけ水の洪水で、水位はOmどころかマイナスである。とくに泥炭は、地面があっ
てないようなものだ。ひざ上まで泥炭の泥沼につかり、両手に水に弱い電子機器をかかえ、背丈以上
のヨシ原を進んでいくのは、さながら、ベトナム戦争の海兵隊員が小銃をかかげ沼の中を行軍するよ
うであった。こんなところで2年間観測するのかと思うと前途が思いやられた。しかし初めの印象が
悪かったわりには、四季を通して通ううちに、湿原はいろいろな顔を見せてくれた。
−28−
−29−
)
〆
春の洪水のあと、夏の草いきれのシーズンがやってきた。2mは越そうというヨシ、下草は複雑にか
らみあって地面力現えない。といっても地面などないようなものだ。どこまで力潭でどこからが土か
の境目がない。そう、泥炭なのだ。空も見えないうっそうとしたヨシ、ひざ上までの水、蚊の大群に
囲まれ爆発しそうになる。ここは人の入る場所ではないのだ。
秋になると、ヨシは黄金色にかわり、水は引きヨシ原を渡る鳥などを見る余裕もでてくる。そんな
秋の日、この湿原では数少ない高層湿原群落を見にでかけた。ヨシ原の低層湿原に比べるとずっと歩
きやすく、プルテと呼ばれるミズゴケの小丘でさえもたのもしい。又、ワタスゲの名残りや、ヒメシ
ヤクナゲなどの高山植物もいじらしい。ここは釧路湿原のオアシスだ。奥に赤沼という沼がある。遠
くから見ると水色の美しい沼だが、近くに行くと泥炭地特有の鉄分、フミン酸を含んだ紅茶色の水を
たたえている。
Il1lIlI
11!
守か言,;F〒 一弓手T
武四郎の足跡を追って
1.はじめに
ぼ解明されている。しかしながら、大まかなルートでは解明されているものの、詳細な道筋に関して
は、未だはっきりとした定説の定まらない箇所が数多く存在する。これらのルートの解明を現地に直
接入ることで解明できるのではなかろうか、そのような期待が小生の中に浮かんできた。たしかに、今
た。それはサロベツから見た利尻であり、そして黄金色のサバンナから見たキリマンジャロであった。
冬
に
な
る
と
低
層
湿
原
は
ぶ
厚
い
氷
の
ス
ケ
ー
ト
リ
ン
ク
に
な
る
。
釧
路
は
、
降
雪
量
が
少
な
く
、
日
照
が
多
く
、
又
気
捌
〈
低
い
土
地
で
あ
る
。
多
分
降
っ
た
雪
は
日
差
し
で
溶
か
さ
れ
、
す
ぐ
又
凍
る
た
め
、
こ
の
よ
う
な
氷
の
層
が
で
きるのだと思う。
1
月
に
、
岬
ま
で
の
縦
断
を
試
み
た
。
は
じ
め
、
ス
キ
ー
で
行
く
こ
と
を
考
え
た
が
、
積
雪
が
少
な
く
谷
地
坊
主
な
ど
の
凹
凸
も
け
つ
こ
う
あ
る
の
で
、
冬
の
湿
原
は
歩
き
や
す
く
、
夏
で
は
考
え
ら
れ
な
い
ペ
ー
ス
で
進
め
た
が
、
途
中
雪
"
l
l
が
凍
結
し
て
お
ら
ず
渡
渉
で
き
な
い
の
で
岬
を
前
に
し
て
ひ
き
返
し
て
き
た
。
帰
り
道
、
巾
2
m
ぐ
ら
い
の
枝
川
が
あ
っ
た
の
で
、
ド
リ
ル
で
穴
を
あ
け
氷
厚
を
は
か
っ
て
み
た
。
水
深
2
m
弱
の
川
で
、
氷
厚
が
な
ん
と
7
0
c
m
あ
っ
た
。
シ
ベ
リ
ア
だ
か
、
ア
ラ
ス
カ
で
、
飛
行
機
が
不
時
着
し
た
湖
の
氷
厚
が
5
0
c
m
だ
っ
た
と
い
'
う
か
ら
、
こ
の
厚
さ
は
お
ど
ろ
きだ。
日まで、武四郎研究家の多くも、フィールドに赴くことにより、机上で解くことのできなかった問題
1.11111Ⅱ■ⅡⅡⅡPllPll1IjⅡ9.LIIII0qljI4dPLⅡr0Ij1lIIIlPIIL■lⅡlIllIIbI■01,1卜hJ・日Ⅱ111■IⅡI■lPIILl8lILI?II0IIIllIIiIdDI︲1fll
|
幕末の北方探検家として名高い、松浦武四郎に関する業績は、彼の著した数々の紀行文において見
ることができる。今日、その多くの著書の解読作業は完了し、また、合計6回にわたる踏査ルートもほ
ふと見上げると雌阿寒岳力靭冠雪している。「あっ、この風景、どこかで見たことがある。」と思っ
’
1985年入学能宏彰
’
l
い
存
在
な
の
か
、
思
い
知
ら
さ
れ
た
。
こ
こ
は
入
間
の
力
の
及
ば
な
い
、
人
間
を
拒
否
す
る
大
地
な
の
だ
。
こ
の
湿
原
の
く
り
返
し
て
き
た
営
み
に
比
べ
れ
ば
、
自
分
の
小
さ
さ
が
よ
く
わ
か
る
。
現
在
、
多
く
の
自
然
環
境
が
人
の
手
に
よ
っ
て
破
壊
さ
れ
つ
つ
あ
る
。
使
い
道
の
な
い
大
地
、
お
も
し
ろ
味
の
な
い
大
地
と
し
て
、
今
ま
で
環
境
破
壊
を
ま
ぬ
が
れ
て
き
た
こ
の
湿
原
も
例
外
で
は
な
い
。
今
回
の
私
の
研
究
は
、
湿
原
の
気
象
観
測
と
と
も
に
、
も
し
湿
原
が
乾
燥
し
も
、
い
つ
か
は
、
サ
サ
原
に
化
し
つ
つ
あ
る
サ
ロ
ベ
ツ
の
よ
う
に
な
っ
て
し
ま
う
だ
ろ
う
。
実
際
に
富
栄
養
化
に
よ
る
と
み
ら
れ
る
ハ
ン
ノ
キ
林
の
増
大
は
報
告
さ
れ
て
い
る
の
だ
。
こ
の
偉
太
な
る
不
毛
の
大
地
が
、
ち
っ
ぽ
け
な
人
間
の
た
め
に
汚
さ
れ
る
こ
と
な
く
将
来
に
残
っ
て
ほ
し
い
と
思
う
の
で
あ
る
。
(1990年2月記)
’
01︲111︲l︲lliI4l4rlLl砧
た
ら
気
象
条
件
は
ど
う
変
化
す
る
か
と
い
う
シ
ミ
ュ
レ
ー
シ
ョ
ン
を
行
う
こ
と
だ
っ
た
。
サ
ロ
ベ
ッ
湿
原
で
は
、
実
際
に
、
乾
燥
が
原
因
の
一
つ
と
み
ら
れ
る
低
温
現
象
で
、
エ
ゾ
カ
ン
ゾ
ウ
の
花
が
咲
か
な
か
っ
た
と
い
う
こ
と
が
報
告
さ
れ
て
い
る
。
釧
路
湿
原
の
場
合
、
多
く
の
水
を
た
た
え
た
低
層
湿
原
の
お
か
げ
で
大
き
な
変
化
は
起
き
に
く
い
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し
て
IIJ■IUlIjf1jj0hlIrl90■F1︲,IIJI11’0︲Il1IIjI’91j0lbII0HI1l
こ
ん
な
ふ
う
に
、
2
年
間
の
夜
間
の
気
球
観
測
で
は
、
ツ
ル
に
お
ど
か
さ
れ
な
が
ら
も
、
釧
路
湿
原
は
な
ん
と
奥
の
深
l
l
を解決してきた。しかしながら、武四郎の歩いた足跡の中には、沢づたいに峠越えをした箇所も少な
くなくあり、そのような一般に行くことが容易ではない所に研究家が足を踏み入れたことは、ほとん
どなかった。このような地点において、我々探検部の持つ登はん技術をもって沢に入ることにより、今
まで不明なルートの解明力呵能となるのではないか、このような発想に基づき1985年6月に『武四郎
研究グループ』を部内に発足させるにいたった。
2.調査地の設定、および、調査前の資料の検討
以上に述べたようなことを念頭に、候補地をさがすこととなった。とはいっても、膨大な武四郎の
残した日誌から、我々の望むような地点を見付けだすことは必ずしも容易ではなかった。しかしなが
ら、偶然にも、山田秀三著『アイヌ語地名の研究2』のなかの、北海道の峠の地名に関して考察してい
る記述の中で、武四郎の峠越えに関して多く触れられていることを知った。我々は、山田氏のこの著
作の中から興味深そうな箇所を幾つか選び、さらに、武四郎研究家である小林和夫氏(当時、北海道
大学文学部助手)に相談した。そして、安政3年、武四郎にとって四度目の北海道探検の際、現在の雨
竜町面白内付近より増毛町信砂へぬけた「ヌプシャ越え」と呼ばれる地点の調査を勧めていただいた。
というのは、「ヌプシャ越え」の話自体が武四郎の著作のなかに数回登場し、大変に有名であること、
また、山田氏の『アイヌ語地名の研究』のなかの「ヌプシャ越え」のルートに関する見解と小林氏の
見解とは一致せず、学問的見地からも興味がもたれるとのことであった(図1参照)。
調査地点が定まってから、「ヌプシャ越え」について触れられている武四郎の著作(『竹四郎廻浦日
記』や『西蝦夷日誌』)の読み込みを行った。また、武四郎の作成した『東西蝦夷山川地理取調剛、明
治年間に作成された地形図、そして現在の地形図などをもとに、武四郎力渉いた可能性のある沢を選
定していった。しかしながら、武四郎の日誌および地図にある地名や沢の名前の多くが現在まった
ID
−30−
l蕊--ー
−31−
一一一二
一戸
その晩は岡部氏のお宅に泊まらせていただいた。
翌29日より、北竜町竜西の公民館前をベースキャンプとし、武四郎が通ったと想定可能な石油沢と
恵岱別川付近の沢を1本1本くまなく入り、隅3丈の滝」を捜すこととした。その結果、ある程度の
高さのある滝を2か所(約5mと約6m)、石油沢のなかで見つけ出せた(図2)。なお、それぞれの滝
|
’
I’
く
使
わ
れ
て
な
く
、
そ
れ
ら
が
ど
こ
に
該
当
す
る
か
は
何
通
り
に
も
解
釈
力
河
能
で
あ
る
。
た
だ
、
実
際
に
雨
竜
町
面
自
内
か
ら
増
毛
町
信
砂
へ
抜
け
る
た
め
に
は
、
恵
岱
別
川
本
流
を
い
く
か
(
小
林
説
)
、
石
油
沢
に
入
っ
て
い
く
か
(
山
悶
説
)
の
ど
ち
ら
か
し
か
な
い
。
結
局
の
所
、
現
地
に
赴
き
、
日
誌
の
表
現
に
近
い
地
形
を
捜
し
だ
す
こ
と
、
特
に
峠
の
手
前
で
登
っ
た
は
ず
の
「
高
3
丈
の
滝
」
を
捜
し
だ
す
こ
と
が
も
っ
と
↓
」
f
)
幼
な
「
段
と
い
う
結
論
に
落
ち
着
い
た
。
3.調査概要
LljoIIl1I1j0lp0qI●Ⅱ型11jIlll04I1Ij。。︲1JりりI,■110ワ!︲111■HIlⅡ1dl10Il1l1IIl︲1︲ll4l●111,︲Of0IlI︲I口早110︲l︲︲4
幽僅
図 1
図 2
をF]、
F2とよぶこととする。しかしながら、恵岱別川本流にそそぐ沢のいずれも、 滝らしい滝を見出
l P
二で
は
で
か。
っ
た
。
れ種
ら
の
収
得
て
、
たし
ん
、
にっ
戻
る
こ
と'
し
た
。
すことは
き
なき
かな
った
こ
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の収
を
得
て種
、を
いつ
7
こ
んい
、っ
ノ『
蝿
0札
,幌
-床
‘
こと
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7
こ
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乎
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年
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8
日8
月
2
日
に
お
こ
な
、
た
。
メ
ン
バ
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億
、
鮴
Ⅲ
"
《
当
時
4
年
目
)
を
’
リ
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ー
と
し
、
吉
田
憲
悟
(
1
年
目
)
、
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生
(
1
年
目
)
0
)
3
人
で
あ
っ
た
。
7
月
2
8
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二
│
に
卜
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幌
を
出
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し
、
ま
ず
、
雨
竜
ロ
確
慰
、
》
郷
土
裏
研
究
家
の
岡
部
伊
治
氏
を
尋
ね
た
。
岡
部
氏
は
、
か
っ
て
山
田
秀
二
瓜
か
↑
ヌ
プ
シ
ャ
越
え
」
に
!
札幌に帰り、調査結果と資料との再検討を行った。武四郎の日誌を忠実に解釈すると、石油沢でな
く、恵岱別川本流を上って信砂にでた、と考える方がどちらかといえば自然である。また、楽な峠越
えをするためには恵岱別川本流を使ったほうがよいことは、地図から判断しても、また、実際に歩い
てみても確かである。しかし、恵岱別川にそそぐ沢の1本1本を確かめた結果、滝らしい滝はまったく
存在しない。よって、恵岱別川を通った可能性は無いといえる。武四郎が石油沢を上っていったとし
た場合に、滝らしい滝はF,とF2のみであったことから、このどちらかの滝を上ったと考えるのが妥当
関
し
て
調
査
す
る
彪
め
、
こ
の
地
を
訪
れ
た
際
に
行
動
を
供
に
し
て
お
り
、
我
々
に
と
っ
て
、
大
い
に
参
考
に
な
る
話
’
を
う
か
が
え
た
。
岡
部
畷
の
考
え
る
武
四
郎
の
歩
い
た
ル
ー
ト
も
、
山
田
氏
と
同
じ
、
現
在
の
石
油
沢
で
は
な
い
か
と
’
い
う
こ
と
で
あ
っ
た
。
た
捲
岡
部
民
自
身
、
蝋
四
郎
力
噛
え
た
「
高
3
丈
の
滝
」
の
存
在
は
確
認
し
て
い
な
い
と
い
う
。
−32−
−33−
I
‐
−
_.‐=
である。しかし、武四郎の日誌によれば、滝は3丈(=9m)でなくてはならない。F1、F2のどちらに
しても、低すぎる。もっとも、武四郎の日誌の特徴として、長さに関しては必ずしも正確ではなく、多
に嬉しかったと記憶している。もっとも、この後、私自身は武四郎に関する調査を行ってはいないが、
後輩の坂本純科君、汐崎文君が、武四郎に興味を持ち、足跡を訪ねて歩いていることを聞いて、妙に
めに記されている傾向があるという。このことを考え合わせれば、5∼6mというのは許容範囲であろう。
では、どちらの滝を通ったのであろうか。改めて、日誌を読んでみると、以下の理由により、F2の
また足跡調査をやってみたくなっている。120年前のロマンを追い求めて…。
最後に、全くの素人集団であった我々が、このように松浦武四郎の足跡を解明することができたの
は、まわりの方々、特に小林和夫氏、岡部伊治氏の御協力なしではあり得なかったと思う。篤く御礼
方がより適当と思われる。
①F
を
登
っ
たっ
とた
する
④
f,
、
,
を
登
とと
す、
ると、その先にかなり急な土崖を登らなくては峠にはでられず、そのことが日誌
(1990年2月記)
申し上げたい。
にかかれていない。
②日誌によれば滝を越えた後すぐに峠に出るが、F,を登っていったとすると、時間がかかり過ぎる。
③日誌によれば滝を越えた後すぐに二股になっているが、F1を越えたあとにおいてはそのような地
形はなく、一方F2においては二股とは言いがたいものの、弱い沢形が流れこんでいる。
このようにして、我々はF2を「高3丈の滝」と判断し、武四郎の「ヌプシヤ越え」のルートを解明
するに至った。さらに、日誌に描かれている途中の風景などとの整合性を確認するべく、第2回の調
査
を
1
9
8
5
年
9
月
2
9
日
∼
3
0
日
に
行
っ
た
。
そ
の
時
の
メ
ン
バ
ー
は
、
前
回
の
3
名
に
藤
田
耕
一
(
1
年
目
)
を
加
えた4名であった。この調査は、我々の期待を十分満足させるものとなった。
-F2の滝一
4.最後に
こ
の
計
画
は
5
年
前
に
行
っ
た
も
の
で
、
過
去
の
感
傷
に
ふ
け
り
な
が
ら
、
こ
の
原
稿
を
書
い
て
み
た
。
当
時
、
「
探
検
部
の
独
自
性
」
と
い
う
課
題
を
、
常
に
意
識
し
て
い
た
私
に
と
っ
て
、
一
応
の
成
果
を
あ
げ
る
こ
と
が
で
き
、
大
変
−34−
−35−
1−口■−−−毒
−
弓
一
一
一
-
−
■■■Ⅱ■■■■■■■
−
一
ー
一
第2部海外紀行
一 一
−
ー ー - 一 ー 一 一 口 ・ ・ ■ ー 画 =
二
弓
一
−
1−−
− 一 一 一 一 ・ − 一 一 口 号 一
フィリピン遠征隊のこと他
1972年入学西村英夫
1981年である。かつて北大探検部にフィリピン踏査隊というものがあったのは、すでに7年前のこ
ととなりつつあり、部の裏面史へと塗りこめられてしまったのであろう。(表面史ではなくだ!!)こ
の計画は1974年の8月から9月にかけての一ケ月弱がその遂行の日々であった。そしてその立案はな
んと6月であったのだ。今にして思うと実にまあよくとにかくやったものだと思う。独立愚連隊の様相
であった。メンバーは、L.宮元均(農土木3)SL・西村英夫(物理3)三沢英-(農生3)橋本松吾
(理類1)大居考好(文類2)の計5名であった。フィールドはフィリピン国のミンドロ島であった。し
かし、今思い起こしても何でミンドロ島になったのかわからない。不思議である。当時のメンバーは
すべて社会に出て役人、教師、新聞記者となり、唯小生が大学に寄生しておる次第である。
当時の状況をかいつまんで述べよう。当時すでにあの輝かしきアリューシャン列島への遠征の話が
密やかに語られていた。又、モンゴルへ行こうという話がどこからかでて又どこかへ消えていってし
まうという日々であった。当時、海外遠征・海外旅行というのはやはりかなり勇気のいるものであり、
かなりそれだけで魅惑的なものであった。カラハリ遠征、マレー遠征は一世代前の話であった。クラ
ブ内に少数であるがインド方面からの帰還者がおり、何やら海外を語るのは、届きそうで届かない夢
でもあった。その中で企画されたこのプランは、目的としての海外脱出という的はずれのものがあっ
たことは否めない。この無計画的な行動に対してクラブの長老といわれる人々からの批判があり、我々
は首をうなだれたものである。
しかし、とにかく我々は行った。海外渡航の経験のある者はわずか一名、それも韓国という状況で
あったがとにかく現地へ飛んだ。それもフィリピン航空のノーマルチケットという、今では考えられ
ない切符を購入してである。東京で初めて、カードというものを手に入れたがこれは使う機会がなか
った。現地での活動は試行錯誤そのものであった。特にクラブの文人派と武人派の混成チームであっ
たために意見のまとまりがつかないことがあった。しかし、とにかく若いので話し合いが行われ、あ
ちこち角をぶつけながらも対政府のパーミツション取りに1週間をマニラでついやした。その間、
UNESCO関係の人の紹介で行ったのでなぜかフィリピン大学の教育学音脹のところへつれていかれ、
面くらったこともあった。なにやかやで現地ミンドロ島のカラパンヘと上陸した。当地ではすでにユ
ネスコ・フィリピンから連絡がきていたらしく市長の歓迎パーティなどがあり、よく朝食に招待され
た。さて、そこでどこの部落へ入ろうかということで我々は、はたと困ってしまった。我々にしてみ
れば未知なる山岳民族マンギャン族なのであるが、当地の人間にとっては、山の方に住んでいる文化
的に隔絶された隣人にすぎず、彼らは又、low-lander(平地に住む者)にとっては土地定着の意識
−37−
ー
一
'島=一・二一アーニーーーーマーーーーー一一一一-−−−−−-
.
一
一一
一
-一一一一一一=一〒一‐−−
-
=
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一
一
一
=
−
一
-_画=-一一一一一一一一_=−
のない格好の搾取の対象であった.彼らは一様にあんなやつらの所に行って何になるということを言
った。我々は現地にいた平和部隊の日本人との接触をもち、やっとマンギヤン族の部落を把握し、後
戦争が未だドンパチやっている。首都マニラの高層ホテルだけは立派になったが、田舎はあんまり変
ほどそこへと散っていった。
わっていないなというのが印象でした。最初の遠征のとき泊まったYouthHostelにはいつも世話に
かしフィリピンでもマニラを一歩離れて中部や南部の島々にはおだやかな人々がいた。南部では宗教
我
々
は
散
る
以
前
に
5
人
一
緒
に
カ
ラ
パ
ン
近
郊
の
マ
ン
ギ
ャ
ン
族
の
集
落
や
か
な
り
南
部
の
オ
ラ
ン
ダ
人
の
宣
教
師
や
日
本
人
の
学
者
、
ナ
ー
ス
等
が
い
る
大
集
落
に
も
お
邪
魔
し
た
。
こ
の
時
点
で
の
我
々
の
行
動
は
行
つ
た
は
良
い
が
なっています。7年前に知り合った清水さんが正式に日本大使館に務め、今年現地のフィリピン女性と
結婚するということを書いて、かつてあったフィリピン遠征隊の話はおしまい!
何
を
し
た
ら
よ
い
か
が
わ
か
ら
な
い
と
い
う
目
的
意
識
の
薄
さ
が
き
わ
め
て
ク
ロ
ー
ズ
ア
ッ
プ
さ
れ
た
時
期
で
山
の
中
の
部
落
の
伽
渥
の
中
で
重
苦
し
い
論
議
が
な
さ
れ
た
。
や
が
て
こ
の
ま
ま
で
は
い
け
な
い
と
い
う
こ
と
で
先
述
の
よ
(1981年8月記)
う
に
各
部
落
へ
1
∼
2
名
の
小
人
数
で
散
る
こ
と
に
な
っ
た
の
で
あ
る
。
’
’
I
I
l
’
’
私
個
人
力
勅
問
し
た
の
は
ミ
ン
ド
ロ
島
の
以
前
の
首
都
プ
ェ
ル
ト
ガ
レ
ラ
か
ら
山
中
に
1
0
k
m
ば
か
り
入
っ
た
集
落
で
あ
っ
た
。
私
は
唯
一
の
l
o
w
l
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n
d
e
r
で
あ
る
フ
ィ
リ
ピ
ン
人
の
小
学
校
教
師
の
家
に
寄
宿
し
た
。
彼
は
快
活
で
あ
っ
た
が
や
は
り
人
種
的
な
考
え
の
違
い
を
思
っ
た
一
週
間
で
あ
っ
た
。
そ
の
集
落
は
古
く
か
ら
あ
る
と
い
う
こ
と
で
も
あ
り
、
ふ
ん
ど
し
一
枚
の
人
々
は
い
な
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た
。
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ン
ギ
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ン
族
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の
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山
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中
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の
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へ
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密
…
ら
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服
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シ
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ツ
に
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ン
で
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5
"
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A
n
h
=
墓
蒻
壼
篭
二
二
基
鴬
で
票
し
一
歩
家
屋
内
に
入
る
と
ほ
と
ん
ど
何
も
な
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と
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よ
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主
食
は
と
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こ
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で
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r
と
、
山
岳
民
族
で
あ
る
マ
ン
ギ
ャ
ン
族
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の
間
に
は
、
は
っ
き
り
し
た
区
別
が
み
ら
れ
、
小
学
校
教
師
は
か
な
り
特
権
的
に
ふ
る
ま
っ
て
い
た
。
彼
は
私
に
は
親
切
で
シ
ョ
ー
チ
ュ
ー
に
い
わ
し
の
酢
漬
け
で
よ
く
酒
を
飲
ん
だ雪雲雰驚空手の全イスクール細て教師‘垂:たみ軍《雌漁董:鼠蝋
こ
こ
で
の
一
週
間
を
終
え
、
我
々
は
カ
ラ
パ
ン
に
集
合
し
、
こ
こ
か
ら
マ
ニ
ラ
へ
と
渡
り
関
係
各
方
面
へ
の
挨
拶
を
すまし、帰国の途についた。
DilJ1Ii・fl101IflllI︲11Pb,●71110,DIjlpDlIjlI匡IⅡ11日II1I1IlllⅡⅡ1h.ⅡⅡⅡ01F17111トー■︲01011711!︲1111︲Illu1I︲︲F1︲j←︲.1・p0lll8・jlIi︲01
’
一
枚
で
走
り
回
っ
て
い
る
温
和
な
民
族
に
出
会
っ
た
と
き
、
我
々
は
ほ
っ
と
し
た
も
の
で
あ
っ
た
。
こ
れ
ら
に
関
す
る
詳
し
い
報
告
は
唖
細
亜
』
と
題
さ
れ
た
小
冊
子
が
1
2
∼
1
3
号
ま
で
出
し
た
中
に
R
e
p
o
r
t
と
し
て
部
内
及
び
関
係
者
に配布した。
11
l
我
々
力
訪
問
し
た
大
集
落
は
か
な
り
大
き
な
も
の
で
百
人
以
上
の
マ
ン
ギ
ャ
ン
族
が
い
た
。
な
ん
と
自
家
発
電
の
電
灯
ま
で
あ
り
我
々
は
た
ま
げ
て
し
ま
っ
た
も
の
で
あ
る
。
こ
こ
で
の
マ
ン
ギ
ャ
ン
族
は
ま
だ
焼
畑
農
業
に
主
を
な
し
て
お
り
、
以
前
横
浜
国
大
の
人
類
学
グ
ル
ー
プ
が
入
り
込
ん
で
い
た
と
こ
ろ
で
あ
る
。
初
め
て
接
す
る
4
柄
な
ふ
ん
ど
し
は
た
し
て
蕊
血
気
に
は
や
る
5
人
の
若
者
の
行
動
は
失
意
の
失
敗
て
あ
っ
た
の
か
?
そ
れ
は
言
え
な
い
と
思
う
。
結
局
探
検
ご
つ
こ
を
し
て
し
ま
っ
た
の
で
は
と
い
う
思
い
が
私
に
は
強
い
。
し
か
し
、
個
人
的
に
は
、
み
な
そ
れ
ぞ
れ
こ
の
遠
征
を
通
し
て
さ
ま
ざ
ま
な
こ
と
を
学
ん
だ
と
思
う
。
我
々
は
レ
ポ
ー
ト
を
1
0
数
号
出
す
と
い
う
こ
と
と
、
お
世
話
に
な
っ
た
現
地
高
校
へ
百
景
園
の
社
長
さ
ん
か
ら
寄
贈
さ
れ
た
ブ
リ
タ
ニ
カ
を
送
っ
た
と
い
う
こ
と
で
活
動
は
終
わ
っ
て
し
ま
っ
た
。の
私
は
あ
の
あ
と
ラ
イ
リ
ピ
ン
を
2
度
訪
問
し
た
が
物
価
は
'
8
0
年
に
は
'
7
4
年
の
2
倍
以
上
に
な
っ
て
い
た
。
そ
し
て
我
々
の
遠
征
隊
の
時
分
、
そ
の
片
鱗
を
見
せ
た
歓
楽
旅
行
が
い
ま
や
花
盛
り
と
ば
か
り
な
っ
て
い
る
現
実
を
見
た
。
し
−38−
-39-
1
1
」
--======一一一一−−,−−
,1
1F二
11
、
I『
韓国学生ノ
卜
ー
2人の女学生は手を打ってたいへんよろこんだ。
A:あなたは延世大学にいかねばならないの?
I:いいえ、別に行く必要はない。
1977年入学浅野晴也
A:それではこのまま話をしましょう。
私
は
過
去
2
回
韓
国
へ
行
き
ま
し
た
が
、
そ
の
時
話
を
し
た
韓
国
人
の
多
く
は
大
学
生
で
し
た
。
会
話
は
ノ
ー
ト
を
通
し
て
筆
談
で
行
っ
た
も
の
が
ほ
と
ん
ど
で
す
。
さ
い
わ
い
に
そ
の
ノ
ー
ト
が
残
っ
て
い
る
の
で
、
そ
の
会
話
の
一
部
を
これから話がはずみ、いろいろな話をして楽しい時間をすごすことができた。しかし、この時私は
ノートをもっていっていなかったので、彼女たちのノートで筆談した。
日本語に訳して書いてみたいと思います。
B:あなたはなぜ韓国に興味をもったのですか?
私は少し考えて答えた。
①
ソ
ウ
ノ
肺
内
の
大
学
で
女
学
生
2
人
(
A
,
B
)
と
話
す
。
I
は
私
。
I:たくさんの韓国人が日本にいるからです。学生のデモはありましたか?
A:はい
A:先日ソウル大学でありました。旅行の目的は何?
I:すいません。英語わかりますか?
I:観光です。平和市場はどこにありますか?
I
:
延
世
大
学
は
ど
こ
で
す
か
?
私
は
日
本
人
で
韓
国
語
が
よ
く
わ
か
り
ま
せ
ん
。
私がソウル市内の地図をとりだすとBさん力激えてくれた。そして、そこへ行くバスのことも教え
私
は
こ
う
言
っ
て
メ
モ
帳
を
差
し
出
す
と
、
B
さ
ん
が
地
図
を
書
こ
う
と
し
て
く
れ
た
。
私
が
日
本
人
の
大
学
生
で
あ
る
こ
と
を
わ
か
っ
て
も
ら
う
た
め
に
、
私
は
自
分
の
学
生
証
を
彼
女
た
ち
に
見
せ
た
。
彼
女
た
ち
は
楽
し
そ
う
に
、
も
の
め
ず
ら
し
そ
う
に
そ
れ
を
見
て
、
私
に
返
し
て
く
れ
た
。
そ
し
て
A
の
女
性
が
も
っ
て
い
た
本
に
つ
い
て
私
は
尋
ね
てくれた。
A:何か買物があるの?
I:はい。そして雰囲気も知りたい。
た
。
1
A:あなたはガールフレンドがいますか?
I:この本はどんなこと力漕いてあるの?
I:いません。あなたはボーイフレンドがいるの?
Aさんは涙を流すそぶりをした。
A:知らない。彼女はボーイフレンドがいる。
I:労働者の悲惨状況?
’
こう言ってAさんはBさんの方を見て、ひやかすように言った。彼女たちは、話しあっている間に
A:はい。
もジュースやみかんを買いに行って私にすすめてくれる。
I:あなたたちは何を勉強しているの?
B:韓国の印象はどうですか?
A:韓国近代史の資本主義。
I:韓国の人々はたいへん親切です。ソウルはたいへん活気のある町です。
A:私はおなかがへりました。あなたはどうです?
B:社会学。
私
は
あ
た
り
を
見
回
し
て
A
さ
ん
に
尋
ね
た
。
I:私もへりました。
I
:
マ
ル
ク
ス
の
資
本
輪
を
読
ん
だ
こ
と
は
あ
り
ま
す
か
?
A:それじゃいっしょに食べに行きましょう。
愚
問
を
し
て
し
ま
っ
た
。
韓
国
で
は
共
産
主
義
関
係
の
本
は
持
ち
込
め
な
い
し
、
手
に
入
ら
な
い
(
注
1
)
。
ま
た
、
日
本
か
ら
私
が
持
ち
込
も
う
と
し
た
、
週
刊
プ
レ
イ
ボ
ー
イ
、
平
凡
パ
ン
チ
も
税
関
で
没
収
さ
れ
た
。
A
:
田
中
角
栄
に
つ
い
て
ど
う
思
い
ま
す
か
?
I:オーケー。
11日IIJも1FfIJr01Ill11J11lllll1hJ1l164■11111
A:ありません。
I:悪い奴だ。
I
:
北
韓
に
つ
い
て
は
よ
く
知
ら
な
い
け
れ
ど
、
私
は
南
北
が
統
一
さ
れ
る
こ
と
を
望
み
ま
す
。
−40−
〆
一
│
、
.
[
II0l.■,1.1,口NfpIpr1Ⅱ可jBrIlIlD.・1IlIIl1T︲﹄Jj■If︲︸・︲lトーh︲︲わ’rI●JUrⅡ■I■巳ローⅡrh■甲卓
A
:
j
噸
(
注
2
)
に
つ
い
て
ど
う
思
い
ま
す
か
?
私は2人の女学生に夕食をおごってもらい、Bさんの弁当までいただいてしまった。ほんとうに楽
しい時間だった。
②ソウル市内で私は1人の女子学生(C)と話すことができた。
I:こんにちは。ゆっくり話せる場所に行きましょう。
廷=
私が少し韓国語を書いたので彼女はこう言った。
−41−
’I
"ゞ−−−−−−…一---_−−℃−−一℃_雫一一_』
一筆===一−−
一
一
−−−−
−−−−−−−一
C:韓国語勉強したの?
C:8万ウォン(注5)。
I:少し。夏休みはいつからいつまでですか?
C:7月22日∼8月19日。
これは韓国内で考えてみればすごい高額である。労働者の1ヶ月の賃金なみだ。
I:日本では1ヶ月16時間教えるとして、2万円ぐらいです。
I:短い。私は7月23日∼9月13日。
C:あなたはなにかアルバイトしているの?
C:すごい長い。-だけど冬休みは約3ヶ月あります。
I:別に。しかし韓国へくるために工事のアルバイトをした。1日5000∼6000円です。
I:長いですね。私は12月24日∼1月7日です。
C:なぜ家庭教師をしないの?
C:暖房費、光熱費力塙いので冬休みが長いのです。あなたはた’
I:きらいだから。
吸わない‘
A:なぜ?
彼女はもう’度なぜと聞きかえした。私ももう1度きらいだからと答えた。
C:韓国では大学生は地位力塙ぃです。そして肉体労働を軽視する。
I:吸いたくないから。兄弟は何人?.
I:どうして?
C:5人。男2人女3人。私は末っ子です。
C:誤った考えです。
I:私は妹とふたりきりです。
I:私もそうおもいます。私は大学を卒業しないかもしれない。今やっている化学が好きじゃないの
I:はい、吸いません。
’
’
’
彼
言
っ
て
驚
い
た
。
韓
国
で
は
界
弟
が
多
いい
のの
がが
善普
揺通
.で、9人兄弟という人にも会った。
奴女
呈は
偲シ
ンン
ノプ
フル
ルと
と
言
っ
て
驚
い
た
。
韓
国
で
は
兄
弟
が
多
C:あなたは一生工夫だけしてもいいのですか?
I:いいえ、いません。韓国の女性は全員結婚しますか?
I:工夫をしてもいいけど、社会科学を勉強したい。あなたは大学院へ行くのですか?
C:しない人も多いです。
C:はい、そのつもりです。
I:だいたい何才くらいで結婚するの?
I:どうして?
C:20∼40才。23,24才が多い(注3)。
C:勉強したいからです。
I:韓国の女性は結婚すると料理や洗たくなどをしますか?
I:日本の大学生は知識を悪く使う人が多いです。大学卒業は一種の資格なのです。
彼
女
が
昼
食
を
食
べ
て
い
な
い
と
言
っ
た
の
で
、
私
た
ち
は
食
事
を
し
に
言
っ
た
。
か
つ
て
韓
国
で
私
は
朝
鮮
人
と
い
う
こ
と
ば
を
使
っ
て
い
や
が
ら
れ
た
こ
と
が
あ
る
の
で
、
彼
女
に
聞
い
て
み
た
。
I:朝鮮ということばについてどう思いますか?
C:意味がいいと思う。
I
:
私
の
友
人
で
朝
鮮
史
を
勉
強
し
て
い
る
人
力
蝿
国
の
歴
史
地
図
を
ぱ
し
か
−
,
と
、
‘
る
の
で
、
買
う
の
に
つ
い
て
き
てくれませんか?
そ
う
い
っ
て
私
た
ち
は
本
を
買
い
に
い
っ
た
後
、
続
け
て
話
し
た
。
jⅡ■,IⅡ011︲lllllllllll94jflllllllll
|
I
I:韓国では、売春は法律で禁止されていますか?
I巳■■■B■■Ⅱ0ⅡqlLⅡⅡⅡ41Ⅱ1ⅡⅡ00口IⅡⅡJⅡⅡⅡⅡⅡⅡ,LⅡⅡⅡⅡⅡ8■11■lII8IhHⅡⅡⅡⅡⅡⅡⅡlb1ⅡⅡlL74■Ⅱ!Ⅱ016,.Ⅱ0701■■■l■■11■■■pBUb9p4Ddlp上りⅡI1bV1PlI︲■ⅡⅡ!ll4
■I■炉ロ■■■■■1114
C:あなたは恋人がいますか?
C:.もちろん。
胴
です。
C:出世?
I:出世して、下の人々を酷使する。
もう夜の8時に近かった。ごめんなさい、もう家に帰らねばなりませんと言って、彼女はパスに乗
つた。
③関釜フェリーの中で知り合ったTさんと私は、ソウル大学へ行き、芝生の上でひまそうにしてい
る男子学生2人に声をかけた。Tは私の友人。Dはその2人のソウル大学生。
I:すいません。私は日本の学生ですけれど、あなた方と話をしてもいいですか?いまひまですか?
こういって私たちは話はじめた。
C
:
は
い
。
I:何学部ですか?
I:しかし日本人は韓国へ売春しにくる。
D:師範大(注6)1年生です。
C
:
法
律
で
禁
止
す
る
、
し
か
し
社
会
の
構
造
が
悪
い
の
で
売
春
婦
が
多
い
。
T:ソウル大に入るのは難しいですか?
I:アルバイトで家庭教師(注4)はいくらぐらい?
一総一
−42−
︲昼
卜r0j●8141少69凸
−−−−=二
D:比率=菫美鑑識器一命
一一一合.、-−1
−.−−も出、−−へ−‐-.-一一一
ー三三三三=
I:学内に棚R刑事がいますか?
I:誰が主催したの?
D:不確実だがいるかもしれない。
D:友だちです。
I:夏休みは?
I:あなたは彼女とデートしますか?
D:7月2日∼8月23日。私たちはあなた方のことを知りたい。
I:私は大学生で北海道大学工学部です。23才です。
D:もちろん。
I,T:ガールフレンドは恋人とは違いますか?
T:私は法政大学法学部卒業。27才です。
I:もしガールフレンドが一人できたら、他にガールフレンドは作らないの?
I:山岳部はありますか?
私たちの質問が彼らにはわからないらしい。
D:はい。
I:ガールフレンドは女性の友だちとはちがいますか?日本ではガールフレンドはただの女性の友だ
I:社会科学研究会は?
ちと違います。特別な意味があります。韓国では?
D:あります。
’
D:意味は不特定です。
I:ソウル大学には何人の人がいますか?
I:大学で軍事教練がありますか?
D:全学生15000人。
D:1週間2時間(120分)。1,2学年の時に。
I
;
今
年
5
月
ソ
ウ
ル
大
学
で
自
殺
者
(
注
7
)
が
あ
り
ま
し
た
か
?
日
本
の
新
聞
で
知
り
ま
し
た
が
。
I:兵役にいつ行きますか?
D:韓国へ来た目的は?
D:卒業後2年6ケ月。(注8)
I:観光。
I:男性は全員いきますか?
D:キム・テフン、経済学科4年生です。
D:はい。(注9)
I:もし軍隊に行かなかったらどうなるの?
D:兵役法によって処罰される。一定期間刑務所に入れられる。
I:あなたは日本語を勉強していますか?
l
I
l
I
D
:
は
い
。
一
般
の
大
学
生
は
個
別
的
に
学
ん
で
い
ま
す
。
I:どうして日本語を勉強するの?
I:日本では徴兵はない。
D:自衛隊の現状況、位置は?
I:自衛隊はゆっくりと大きくなっている。
D:日本に恐怖はあるか?
D
:
最
近
の
国
家
、
そ
の
他
多
く
の
関
係
の
た
め
。
そ
の
時
私
は
、
朝
日
新
聞
コ
ラ
ム
の
天
声
人
語
の
文
庫
本
を
日
本
か
ら
持
っ
て
き
て
い
た
の
で
、 彼らに見せた。
そ
こ
に
は
金
大
中
氏
の
こ
と
も
書
か
れ
て
い
た
。
’
I:どんな恐怖?
D:政事的、軍事的、共産主義などの。
I:共産主義はない。しかし独裁の恐怖はある。
T:卒業後どれくらいの金をかせげますか?
D:はい。
I:女子大生?
。■■■I,日日91100■IⅡl■ⅡⅡ00■IⅡ日日1口■■I0FLrd70■0114■Ⅱ9101196Ⅱll00■dB0Ill1jIIlllIIBI0日←申■1ヶObqJ1bIF■10Ⅱ・OFI,
lllIllll
I│
I
:
こ
れ
は
天
声
人
語
と
い
う
朝
日
新
聞
の
コ
ラ
ム
で
す
。
韓
国
の
こ
と
が
の
っ
て
い
ま
す
。
T
:
あ
な
た
は
金
大
中
氏
に
つ
い
て
ど
う
思
い
ま
す
か
?
D
:
ご
め
ん
な
さ
い
。
そ
の
質
問
に
は
答
え
ら
れ
な
い
。
I
:
あ
な
た
た
ち
は
ガ
ー
ル
フ
レ
ン
ド
が
い
ま
す
か
?
D:淑明女子大生です。
I:どうして知りあったのですか?
D:大学入学後、そういう会をもった。
玉のための主‘
ー
D:20万∼30万ウォン。教師は15万∼20万ウォン。
I:卒業に何単位必要ですか?
D:140単位。工学部150、法科大145。
I:日本では週1講半年で2単位。最低124単位です。家庭教師ありますか?
T:特別なレッスンを受けたがっている人に数学、英語などを家で教える。
D:法的に禁止されている。
−45−
I
一T■ア5口-−一一口ロー■ロー−
L__
I
F
〆一=牙一竜二
I:きょうは、博物館と無等山を見に行って、あした済州島へ行きます。
I:ソウル大学には、日本人留学生がいますか?
D:わからない。
博物館行のバスに乗るために光州駅まで彼らは私を送ってくれた。バスを待つ間に彼ら力泓に質問
I:私たちは旅館に帰ります。
してきた。
T,I:どうもありがとう。
E:あなたは光州事件について知っていますか?
D:気をつけて、さようなら。
I:日本の新聞で読みました。
E:私たちは、多くの人が殺されるのを見て、涙をぼろぼろ流して泣きました。そして私たちも軍隊
11J
④私は光州で、お互いが友人どうしの大学生3人と知りあうことができた。彼らとの会話はノート
をみてもよくわからないので、思いだしながら書くことにする。Eは彼ら。
に石を投げたりしました。
I:ここ(光州駅前)でも戦闘はあったのですか?
I:あなたの大学の生徒の数は?
彼らは銃をかまえるかっこうをした。
E:15000∼20000人。韓国の印象はどうですか?
E:あなたは全斗煥についてどう思いますか?
I:人々はたいへん親切で、女性はかわいいです。
I:悪い。
私
は
次
の
予
定
と
し
て
、
済
州
島
に
行
こ
う
と
思
っ
て
い
た
の
で
、
そ
の
こ
と
を
聞
い
た
。
|
ちょうどその時バスがきた。
I:気浦から済州島へ行く船は何時出航ですか?
E:知らない。ワンドからも船がある。
’
I:今夜また話をしましょう。
E:はい。
そして、彼らはバスの車しょうさんにこう言ったように思う。車しょうさん、この人日本人で韓国
E:光州からパスで約2時間。
語がわからないから、博物館の所で降ろしてあげてくれ。
I:船代はいくら?
案の定、博物館の前で降ろしてくれた。
E:2年前で6000ウォン。
I
:
済
州
島
で
最
近
世
界
一
長
い
洞
く
つ
が
見
つ
か
っ
た
と
聞
い
た
け
ど
?
E:知らない。
I:済州島ではまだ泳げますか?
E
:
泳
げ
る
け
ど
、
寒
い
。
来
年
私
は
ソ
ウ
ル
市
内
の
大
学
に
行
こ
う
と
思
い
ま
す
。
I:今の大学は退学するの?
E
:
今
の
学
科
よ
り
、
政
治
、
経
済
を
勉
強
し
た
い
か
ら
て
す
人
,
学
試
験
は
l
l
H
J
.
l
l
i
、
合
格
発
表
は
1
9
8
2
年
2
月です。
私
は
光
州
市
内
を
見
て
回
ろ
う
と
思
っ
て
質
問
し
た
。
I:無等山にはどういけばいいの?
’’’411.JⅡ︲リー・lllhIIpひ11も
lllIIIl
I
E:謎践に通ったら退学する。
I:なぜ学校をかわるのですか?
由0・日8ⅡIIlIIlⅡ,−10ⅡIJIⅡIIIIIfIIIIlJ1fjB0ⅡDIB16IIj8■39I0Tl081b0l1l41I■llllII1llやI81i6jIfj1I13Fl14j7ll卜0070#Ⅱ且aⅡIIl0lItj0幸■りJl0l4
11..11■11■11■■LqdIIIIIIh0111
I:ワンドってどこ?
E:Nq18のパスにのります。
I:終点?
E
:
そ
う
で
す
。
山
頂
付
近
は
軍
の
基
地
が
あ
る
の
で
、
民
間
人
は
出
入
り
で
き
ま
せ
ん
。
彼らには、また夜に会って話をした。
I:博物館の近くにある遊園地みたいなのは何ですか?
E:子供公園です。
I:KCIAはたくさんいますか?
E:むかしに比べれば、少なくなった。名前も中央情報部から国家安全企画部にかわった。あなたは
韓国の内閣についてどう思うか?
I:悪いと思う。
E:たとえ悪いと思っていても、人に聞かれたら、悪いと言ってはいけない。政治の話はやめにしよ
う。天皇についてどう思うか。
I:だいきらいだ。
E:暗殺された伊藤博文(注10)はどう思うか?
I:見方によってちがう。
E:私たちは2000年後、南北統一されているだろうと楽観的に考えている。
I:私も統一を望む。
E:この時計は?
I
−47−
−
1
1
蝿一
I
工一竺一竃エ
I:10罰王防水のものだ。
あとがき
E:このラジオはいくらだ。
ここに書いたのは、その時話あった会話のすべてではありません。ところどころ抜き取ってありま
I
:
6
5
0
0
円
。
光
州
事
件
で
あ
な
た
た
ち
の
友
人
が
死
ん
だ
か
?
す。それは、私の思いすごしかもしれませんが、現在の韓国の政治状況のきびしさを考慮してのこと
E:死んだ。政治の話にはもう答えない。
です。だから文脈のおかしいところもあります。御容赦下さい。
こ
れ
か
ら
彼
ら
は
話
題
を
か
え
、
ア
パ
知
っ
て
い
る
か
、
ピ
ン
ク
フ
ロ
イ
ド
知
っ
て
る
か
と
い
う
よ
う
な
ポ
ッ
プ
ス
の
話
と
な
っ
た
。
そ
の
後
ポ
ル
ノ
映
画
の
話
に
な
り
、
そ
の
夜
は
別
れ
た
。
饗
囎
空
空
二
人
が
、
ワ
ン
ド
へ
行
く
バ
ス
の
出
て
い
る
哀
患
タ
ー
ま
で
送
っ
て
く
れ
た
。
E
:
こ
れ
は
韓
国
の
歌
手
で
ジ
ョ
・
ヨ
ン
ピ
ル
と
い
う
人
の
カ
セ
ッ
ト
テ
ー
プ
だ
け
ど
、
あ
な
た
に
あ
げ
る
。
I
:
あ
り
が
と
う
。
ほ
ん
と
う
に
お
世
話
に
な
り
ま
し
た
。
バ
ス
の
終
点
が
ワ
ン
ド
か
?
E:そうだ。
I
:
最
後
の
政
治
に
質
問
を
し
て
い
い
か
?
き
の
う
な
ぜ
政
治
の
話
を
し
な
く
な
っ
た
の
か
?
E:韓国には言論の自由がない。
彼
が
す
ご
く
悲
し
そ
う
な
顔
つ
き
で
言
っ
た
こ
と
が
印
象
的
だ
っ
た
。
’
1
1
(
注
1
)
最
近
共
産
主
義
関
係
の
本
で
も
そ
れ
に
批
判
的
な
も
の
だ
け
は
少
し
売
ら
れ
た
ら
し
い
。
(
注
3
)
韓
国
で
は
日
本
で
い
う
か
ぞ
え
年
を
も
ち
い
る
の
で
、
1
0
才
の
人
は
1
1
才
に
な
る
。
(
注
4
)
あ
と
で
も
で
て
く
る
よ
う
に
、
韓
国
で
は
家
庭
教
師
は
法
律
で
禁
止
さ
れ
て
い
る
。
(
注
2
)
ゴ
潮
鮮
の
こ
と
を
韓
国
で
は
j
鯛
と
か
、
北
魁
と
か
い
う
。
|
’
’
I
(
注
5
)
私
力
韓
国
を
訪
れ
た
時
1
円
=
3
ウ
ォ
ン
だ
っ
た
。
(
注
6
)
日
本
で
い
う
学
部
の
こ
と
を
○
○
大
学
と
い
う
ふ
う
に
言
う
。
Illlll1ll
よ
い
。
そ
の
場
合
の
期
間
は
大
学
で
軍
事
教
練
が
あ
る
た
め
、
2
1
1
6
r
l
l
(
z
I
M
<
な
る
。
(注
注
9
9
))実躍1-・藩睡皿●宗'●一.●‐−
(
麺
0
)
‐.''ー、/ジ、畠‘10‘rノlに)M<なる。
実
際
、
上
流
階
級
な
ど
で
は
、
徴
兵
制
の
抜
け
道
か
あ
る
ら
し
い
。
日
韓
併
合
を
お
し
進
め
、
1
9
0
9
年
1
0
月
、
′
、
ル
ビ
ン
駅
で
、
朝
鮮
人
民
族
|
垂
苛
の
安
重
根
に
よ
っ
て殺された。
11
hⅡ■Ub5Il■Ⅱ11■Ⅱ可,D︲#r■IuBDPbⅡ凸90.11f■01Ⅱ■■Ⅱiql可lⅡⅡ’1−Ⅱ01■■P︲凸自■lhjlhlr
IIIII︲1−里lJlIIllqI4ldⅡ’111$‘IJ6lIlVj10l910
I
(
注
7
)
1
9
8
1
年
5
月
2
7
日
、
光
州
出
身
の
経
済
学
科
4
年
金
泰
勲
君
が
「
全
斗
煥
打
倒
」
、
「
国
風
8
1
反
対
」
を
五
回
ほ
ど
叫
び
、
図
書
館
の
5
階
か
ら
投
身
自
殺
し
た
。
全
斗
煥
は
韓
国
の
現
大
統
領
。
国
風
8
1
と
は
韓
国
政
府
が
学
生
を
集
め
て
催
そ
う
と
し
た
祭
り
。
《
注
.
)
よ
鷲
謬
鱒
寧
=
,
才
岫
墹
州
曜
?
‘
峨
榊
業
し
て
か
ら
行
。
て
、
−48−
」
・
I
O
L
=
?
−49−
(1981年記)
一
=
=
群:鞘
れている。生まれて初めて、飛行機からダムダム空港周辺を見下ろしたとき、緑の多さにびっくりし
カルカッタ案内
たのを覚えている。飛行機はその緑の中の滑走路に降りる。これが本当に国際空港なのかと思えるほ
ど、ダムダム空港は閑散としており、最近はインド国内便の増発に伴って、結構ジェット機も見受け
1974年入学長田俊樹
られるが、1978年当時はほとんど他のジェット機を見ることがなかったように思う。飛行機を降り、
カルカッタ。全く現実とは
入国審査を受ける。ここからが、もうすでにインドなのだ。なお、81年のアジア大会以後は、トラン
思えない。にもかかわらず
ジツトの場合でもvisaが必要なので、注意されたいO」・・;・
まず、入国審杏官の英語に誰しもとまどうだろう。かなり英語に自信のある人でもわからないし、ま
まぎれもない現実なのだ。
してや英語ができない人にとっては、"Yes,YeJを連発するしかない。入国審査と税関をなんとか堀
り抜けると、タクシー運転手が群がる出口力特っているbこれから先、「ヘイ、マスター」という掛け
声を、日本人旅行者の多くは聞かされることになる。タクシー運転手の群がる出口をかき分けて、ま
一ラッセ・ベルグ、リサ・
I
ベルグ「インド鵬の革命』
と『赤い革命』より」一
ず空港内で両替し、空港の外にある市内バス乗り場へと急ぐ。
初
め
て
、
イ
ン
ド
へ
行
っ
た
の
は
今
か
ら
5
年
前
(
1
9
7
8
年
1
月
)
、
探
検
部
の
「
イ
ン
ド
部
族
民
調
査
隊
」
に
参
加
し
た
と
き
で
あ
る
。
そ
の
時
の
報
告
書
は
す
で
に
刊
行
さ
れ
て
お
り
、
こ
こ
で
改
め
て
報
告
書
に
類
似
し
た
文
を
書
く
気
に
な
れ
な
い
。
一
つ
に
は
、
か
な
り
記
憶
が
薄
れ
て
し
ま
っ
た
と
い
う
こ
と
も
あ
る
が
、
何
よ
り
も
あ
の
当
時
の
感
動
を
今
こ
こ
で
再
現
す
る
の
は
も
う
無
理
だ
、
と
感
じ
て
い
る
か
ら
で
あ
る
。
そ
こ
で
、
筆
者
の
好
き
な
街
、
カ
ル
カ
ッ
タ
に
つ
い
て
書
い
て
み
よ
う
と
思
う
。
と
言
っ
て
も
、
専
門
的
に
カ
ル
カ
ッ
タ
の
歴
史
を
調
べ
た
こ
と
も
な
く
、
名
所
旧
跡
を
訪
ね
歩
い
た
こ
と
も
な
い
の
で
、
き
わ
め
て
個
人
的
な
体
験
を
も
と
に
し
た
、
カ
ル
カ
ッ
タ
の
紹
介
に
終
始
’
’
空港から市内への交通機関はいろいろとある。まずタクシー。今年(1983年)4月に、市内からメー
ターで空港まで行ったが、24ルピー(1ルピー=Rsl=25円83年4月現在)だった。しかし、イ
ンドではタクシーは交渉して値段を決める場合がはるかに多く、メーターではなかなか行ってくれな
い。普通、空港一市内はRs30が相場のようだ。ふだん値段交渉に慣れていない日本人の多くは、よく
ボうれる。筆者の聞いた話では、最高100ドル(100ルピーではない。約2万4千円)とられた人がい
︲■III011IIIIIIIIIb■日日。■Ⅱ■研1111
たらしいので、面倒臭がっているとひどい目に合う。
す
る
こ
と
と
な
っ
た
。
筆
者
は
こ
れ
ま
で
四
度
イ
ン
ド
へ
行
っ
た
。
第
1
回
、
1
9
7
8
年
1
月
∼
5
月
、
第
2
回
、
1
9
7
9
年
7
月
∼
1
0
月
、
第
3
回
、
1
9
8
1
年
5
月
∼
9
月
、
第
4
回
、
1
9
8
3
年
3
月
∼
4
月
。
い
ず
れ
も
カ
ル
カ
ッ
タ
を
起
点
と
し
、
特
に
、
第
3
回
、
第
4
回
の
旅
行
は
ほ
と
ん
ど
カ
ル
カ
ッ
タ
に
滞
在
し
た
。
原
稿
を
書
く
に
あ
た
り
、
時
間
的
制
タクシーの値段交渉力糠な人にはリムジンバスがある。空港一市内間RslOo大きなホテルやターミ
ナルで降ろしてくれるが、本数が少ないのが問題である。ただし、前述のタイ航空には必ず接続して
いるので、利用できる。タクシーとリムジンパスは空港内から発着しているが、空港の外へ出ると路
約
も
あ
り
、
事
実
誤
認
等
が
あ
る
か
も
し
れ
な
い
が
、
そ
れ
は
全
て
筆
者
の
責
任
で
あ
る
。
カ
ル
カ
ッ
タ
の
案
内
と
し
線バスがある。
ダムダム空港から市内へ
路線バスには、ミニバス、スペシャルバス、普通パスの三種類あり、この順に値段が安くなってい
る。ミニバスは最近走りだした路線バスで、車体力岻<、25∼6人分の席しかない。開設当時は、全員
力唾れるというシステムで、満員になると停留所に止まらず、いわば急行バスといった感じだったが、
80年頃からは超満員になるまで乗せるようになり、以前のミニバスから、車体も高くし、ゆっくり立
て、気楽に読んで頂ければと願うしだいだ。
イ
航
空
は
、
月
・
水
・
土
の
週
三
便
、
バ
ン
コ
ク
朝
8
:
0
(
)
発
、
カ
ル
カ
ッ
タ
8
:
5
0
着
(
タ
イ
と
イ
ン
ド
の
時
差
が
1
時
間
半
あ
る
)
で
、
A
3
0
0
が
周
航
し
て
い
る
。
カ
ル
カ
ッ
タ
の
空
港
は
、
市
内
か
ら
バ
ス
で
約
3
0
分
ほ
ど
行
っ
た
所
に
あ
り
(
約
1
3
k
m
)
、
ダ
ム
ダ
ム
空
港
と
呼
ば
L4g■凸﹄■Bl1ll申brfO■0■〃■りり60︲lIjrD91llⅡIもIrrl■IⅡ︲日日4.71
カ
ル
カ
ッ
タ
着
が
午
前
2
:
0
0
頃
と
真
夜
中
な
の
で
、
′
〆
コ
ク
か
ら
タ
イ
航
空
を
利
用
す
る
人
が
は
る
か
に
多
い
。
タ
111
合
に
は
、
バ
ン
コ
ク
で
飛
行
機
を
乗
り
換
え
る
の
か
側
!
'
/
ご
・
前
述
の
エ
ア
.
イ
ン
デ
ィ
ア
の
直
行
便
は
週
一
便
の
上
、
っていられるミニパスが増えた。その分、運賃の値上げは行われておらず、5年前と同じ空港一市内$.
B
.
D
B
A
G
)
は
、
R
s
l
.
9
5
で
あ
る
。
(
R
s
l
=
P
.
1
0
0
,
P
は
パ
イ
サ
)
スペシャルバスと普通バスの違いは、座席がクッション付ビニールシートか、板かにある。ヌペシ
ヤ
ル
バ
ス
は
、
行
先
表
示
板
に
③
マ
ー
ク
の
番
号
が
つ
き
、
車
体
は
オ
レ
ン
ジ
色
。
一
方
、
普
通
パ
ス
は
、
行
先
表
示
板に番号だけがつき、車体はくすんだ緑色をしている。空港から市内までは、スペシヤルバスはSlO,
S
1
5
に
乗
り
、
運
賃
は
今
年
3
月
に
改
定
さ
れ
R
s
1
.
5
0
に
救
っ
た
。
普
通
パ
ス
は
、
8
0
B
,
蝿
に
乗
り
、
運
賃
は
P.50である。なお、ミニバスは市内の中心地、州政府ピル(ライタニズ・ビルディング)前の,B.B.
14
lIllllIlllⅡIl1lIhⅡ01lIIIIIll4lllIP︲11トーllII01lIl1lIIlⅡIILIIIJllIIl9jl0l︲l■−1︲︲lトーllI1I414Il1lql■111
日
本
か
ら
イ
ン
ド
へ
行
く
場
合
、
直
行
便
は
ボ
ン
ベ
イ
券
併
i
榊
州
I
と
す
る
航
空
会
社
が
多
く
、
カ
ル
カ
ッ
タ
に
直
行
す
る
洲
テ
機
は
、
唯
一
エ
ア
・
イ
ン
デ
イ
ア
だ
け
で
あ
る
。
以
I
j
i
l
に
は
、
ス
カ
ン
デ
ィ
ナ
ビ
ア
航
空
や
日
航
も
カ
ル
カ
ッ
タ
に
乗
り
入
れ
て
い
た
の
だ
が
、
採
算
が
取
れ
な
い
の
か
、
廃
止
さ
れ
た
よ
う
だ
。
そ
こ
で
カ
ル
カ
ッ
タ
に
行
く
場
一副一
−50−
111
■鍵=-些一“』
ト
T
H
−
−
雷
一
と
麦
一
二
や
一
宇
一
戸
一
F
1
D
.
B
A
G
(
ダ
ル
ハ
ウ
ジ
ー
・
ス
ク
ウ
ェ
ア
と
言
っ
た
方
力
噛
じ
る
)
を
起
着
点
と
す
る
の
が
ほ
と
ん
ど
で
あ
る
が
、
後
シツコクつけまわされる。勿論、安宿以外にも、りっぱなホテルもたくさんある。ツアーならそうい
者
二
路
線
は
、
カ
ル
カ
ッ
タ
の
北
か
ら
南
ま
で
、
中
心
地
を
必
ず
し
も
起
点
と
は
し
な
い
し
、
こ
れ
ら
の
バ
ス
タ
ー
ミ
ナ
ル
は
、
B
、
B
.
D
.
B
A
G
か
ら
南
に
あ
っ
た
E
s
p
l
a
n
d
e
に
あ
る
の
で
、
注
意
す
る
こ
と
。
筆
者
は
、
た
い
て
い
ミ
ニ
バ
ス
に
乗
る
。
空
港
か
ら
し
ば
ら
く
は
、
中
央
分
離
帯
の
あ
る
大
き
な
道
路
(
V
L
P
.
R
o
a
d
)
ったホテルに泊まるし、フリーでも空港で予約できる。
旅行客の多いSudderSt.力輔いな人々には、空港から市内へのバスが最後に通るBowRaza'・St.
付近にも宿はある。この辺には、ムスリム(イスラム教徒)、中国人、チベット人が多く住み、賄い付
を
通
る
。
両
側
に
は
人
家
は
あ
ま
り
な
く
、
池
や
水
路
で
水
浴
び
し
た
り
、
洗
濯
し
た
り
す
る
人
々
を
み
か
け
る
程
度
だ
。
し
ば
ら
く
行
く
と
、
陸
橋
を
越
え
、
ア
パ
ー
ト
群
力
泣
ち
並
ぶ
新
興
住
宅
地
に
入
る
。
日
本
で
よ
く
み
か
け
る
公
で泊めてくれる場所がある。その一つが、Tibetanboardinghouseだ。BowBazarSt・から路地
を入り、レンガ造りの三階立てのビルの三階にある。もともと、早稲田大学の「ブータン研究会」の
団
ア
パ
ー
ト
風
な
団
地
な
の
だ
が
、
こ
こ
に
入
れ
る
人
は
イ
ン
ド
で
は
か
な
り
裕
福
な
人
達
で
あ
る
。
疑
う
人
は
、
公
団
の
上
に
林
立
す
る
テ
レ
ビ
ア
ン
テ
ナ
を
見
れ
ば
わ
か
る
だ
ろ
う
。
(
テ
レ
ビ
普
及
率
は
人
口
千
人
当
た
り
、
1
.
0
台
、
1
9
7
9
年
)
。
団
地
を
過
ぎ
、
鉄
道
の
ガ
ー
ド
を
く
ぐ
る
と
、
い
よ
い
よ
カ
ル
カ
ッ
タ
の
市
街
地
だ
。
市
電
の
走
る
u
p
p
e
r
d
ェ
℃
u
l
a
r
x
o
a
d
を
越
え
る
と
、
両
側
に
古
い
家
屋
が
立
ち
並
ぶ
旧
市
街
地
を
通
る
。
こ
こ
ま
で
く
る
と
、
や
け
に
人
の
多
さ
だ
け
が
目
に
と
び
こ
ん
で
く
る
だ
ろ
う
。
そ
こ
か
ら
左
折
し
て
、
現
在
地
下
鉄
工
事
の
行
わ
れ
て
い
る
C
e
n
t
'
Q
a
l
人々が泊まるようになったのが、日本人が泊まるようになったきっかけだそうで、今ではかなりの日
本人旅行客力荊用するようになった。一泊三食つきRs30。
筆者は前回のインド行以来、ベンガル仏教協会に泊まっている。知人に紹介されて行ったのだが、
BowBazar.St・から少し南に入った所にあり、あたりにはリキシヤ置場があったり、ムスリム居住地
の独特なシシカバブーを焼く臭いがたちこめていたり、SudderSt.とはまた違ったカオスを感じる。
ベンガル仏教協会は、三階立ての建物で、三階にお坊さんの寄宿舎、二階が巡礼客のための宿泊施設、
A
v
e
n
u
e
(
q
l
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t
t
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x
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n
j
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A
v
e
n
u
e
)
に
入
る
。
カ
ル
カ
ッ
タ
市
内
に
は
珍
し
い
大
き
な
道
幅
も
、
地
下
鉄
工
事
で
か
な
り
狭
め
ら
れ
、
し
ば
し
ば
交
通
渋
滞
を
引
き
起
こ
す
。
C
e
n
t
r
a
l
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v
e
n
u
e
を
右
折
し
て
、
B
o
w
R
a
"
T
・
S
t
I
℃
e
t
1
一階は長期滞在者のための宿泊施設となっている。原則として、長期滞在は認められないが、幸いに
も筆者は勉強するということで、前回はほぼ三ケ月、今回も一ケ月半滞在させて頂いた。宿泊費は、特
驚驚管理且D.BAGにつく。このあたり臆、前垂刷雛j感慰麗ざ房
央
郵
便
局
)
、
国
立
銀
行
な
ど
力
泣
ち
並
ぶ
官
公
庁
街
で
あ
る
。
パ
ス
か
ら
み
る
異
様
な
光
景
(
と
、
初
め
て
イ
ン
ド
に
来
た
日
本
人
な
ら
誰
し
も
そ
う
思
う
だ
ろ
う
)
を
か
み
し
め
る
前
に
、
宿
を
探
さ
ね
ば
な
ら
な
い
。
にとらないが、一応お布施を払うのが礼儀であろう。
カルカッタ市内点描
多くの日本人旅行客の行動範囲は意外と限られている。SudderSt・周辺のインド博物館、ニュー・
マーケット(ブラック.マーケットでもある)、ParkSt.とChowxingheeSt・の繁華街、それとB、
’
宿 泊 地
l
11
h
|
’
日
本
人
旅
行
者
の
多
く
は
S
u
d
d
e
r
S
t
x
℃
e
t
に
あ
る
安
宿
街
へ
向
か
う
。
イ
ン
ド
各
地
を
旅
行
す
る
と
、
必
ず
日
本
’
|
|
’
P
’
’
−52−
言一一'.強五一一一一一一と』.全,.‐.さ,.←‐一一一一一・厚一一一
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凸 ■ − − −
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い
て
い
の
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ン
ド
人
な
ら
教
え
て
く
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る
。
S
u
d
d
e
r
S
t
.
は
こ
の
イ
ン
ド
博
物
館
の
北
側
に
沿
っ
た
通
り
に
あ
る
。
こ
の
界
隈
が
便
利
な
の
は
日
本
人
旅
行
客
は
じ
め
外
国
人
旅
イ
r
者
が
多
く
、
英
語
が
話
せ
な
く
て
も
苦
労
し
な
い
し
、
情
報
交
換
が
で
き
る
こ
と
、
付
近
に
中
華
料
理
店
も
多
く
、
西
洋
料
理
店
が
あ
る
P
a
r
k
S
t
l
も
e
t
に
も
近
く
、
辛
い
カ
レ
ー
に
憧
れ
ぬ
日
本
人
に
と
っ
て
、
イ
ン
ド
食
を
食
べ
ず
に
す
む
こ
と
、
土
産
物
屋
が
並
ぶ
ニ
ュ
ー
マ
ー
ケ
ッ
ト
に
近
い
こ
と
嫁
ど
が
挙
げ
ら
れ
る
。
し
か
し
、
そ
の
反
面
、
旅
行
者
慣
れ
し
た
バ
イ
ヤ
ー
達
が
て
ぐ
す
ね
を
引
い
て
待
ち
か
ま
え
て
い
る
。
と
り
わ
け
、
日
本
人
は
金
持
ち
だ
と
み
ら
れ
て
い
る
し
、
だ
ま
さ
れ
や
す
い
性
格
だ
と
思
わ
れ
て
い
る
の
で
B.D.BAG周辺の銀行や郵便局などがその主な行動範径だ。事実、筆者も1回目、2回目の旅行では
それほど動かなかった。そこで、中心部だけでなく、市内の北から南を、筆者の体験に即して簡単に
紹介していこう。
カルカッタの市電の北の終点GalifSt.から、南に少し下ると、チヤンドラーポースカ潟にまたがっ
b■I■■■■■01■■■5■f0■■5■I■■■JqⅡ0Ⅱ4■q■IⅡⅡ召■?■Ⅱ09ⅡⅡIⅡⅡ■■■砧■IIqjJJL■■D■L■6日rb■■甲﹄p6IlU0iiLjI■l■・凸・﹄0且■■1面■■、■Flj0Ⅱ0
人
旅
行
者
力
喫
ま
る
と
こ
ろ
が
あ
る
。
そ
れ
は
ひ
と
え
に
ガ
イ
ド
ブ
ッ
ク
の
お
か
げ
だ
。
少
し
前
な
ら
「
イ
ン
ド
を
歩
く
」
、
今
は
剛
球
の
歩
き
方
」
を
持
っ
て
旅
行
す
る
人
が
多
い
。
こ
れ
ら
の
ガ
イ
ド
ブ
ッ
ク
に
必
ず
載
っ
て
い
る
の
が
、
S
u
d
d
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r
S
t
.
に
あ
る
、
S
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,
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g
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H
o
t
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l
で
あ
る
。
ほ
と
ん
ど
同
じ
値
段
で
ド
ミ
ト
リ
ー
(
大
き
な
部
屋
に
ベ
ッ
ド
が
5
∼
1
0
ほ
ど
お
い
て
あ
る
)
で
R
s
7
∼
8
,
シ
ン
グ
ル
R
s
l
O
ぐ
ら
い
で
物
価
高
の
昨
今
、
珍
し
く
5
年
間
変
動
が
な
い
。
前
述
の
B
、
B
.
D
.
B
A
G
か
ら
S
u
d
d
e
r
S
t
.
ま
で
歩
い
て
も
2
0
分
ほ
と
だ
が
、
市
電
で
も
バ
ス
で
も
行
け
る
。
初
め
て
の
人
で
も
、
m
d
i
a
n
M
U
s
e
U
m
(
イ
ン
ド
博
物
館
)
へ
1
r
き
た
い
と
言
え
ば
、
ど
う
や
っ
て
行
け
ば
い
い
か
、
た
I
た像が建っている五叉路がある。この一帯はSymbazarと呼ばれ、ちょっとした繁華街だ。一番大き
な
B
h
u
p
e
n
d
r
a
B
o
s
e
A
v
e
n
u
e
は
地
下
鉄
工
事
の
た
め
道
幅
が
狭
く
な
っ
て
い
る
が
、
C
o
n
e
g
e
S
t
.
に
通
じ
る
BidanSammの両側には、商店力泣ち並んでいる。筆者はここで奇妙な体験をしたことがある。ある
インド紳士がじっと小生の顔をながめたあげ<、「お前はアルメニア人か?」と真顔で聞かれたのだ。
アルメニアと言えば、トルコとソ連の国境あたりだったように記憶していたのだが、思いもよらぬ名
前にずいぶんとまどいを覚えたものだった。後に、インドにアルメニア人が移住したという歴史的事
実を知り、なるほどとうなずいたり、驚いたりしたのだが。(なお、カルカッタには、アルメニア通り
な
る
も
の
が
あ
る
。
)
こ
の
S
y
m
b
a
z
a
r
に
限
ら
ず
、
カ
ル
カ
ッ
タ
で
は
、
た
い
て
い
同
じ
品
物
は
同
じ
場
所
に
軒
を
連
ね
て
売
っ
て
い
る
。
−53−
一 一 一 一 一 . i ー
r空..'.,-=.
服でも布地でも買う時は、連続して立ち並ぶ店を一々のぞいて値段を聞いてみた方が良い。となりで
次に、筆者の好きなムスリム風味付けの店「Aminia」。ニューマーケットの北側にあり、値段もさ
の交渉を耳にしている場合が多いので、たいてい隣の店よりも安くしてくれる。しかし、なかには隣
Iごサインを送って同じ値段を告げる場合もある。その時は、別のバザールヘ行けばよい。おおむね、カ
ルカッタでは、中心から遠ざかるほど、値段は安くなる。したがって、このSymbazarは、かなり安
ほど高くない。ここでのおすすめ品はAminiaSpeciaICuITyだ。トマト、ニンジン、ジャガイモ、
タマゴ、肉がまるごと柔らかく煮込んであり、かなり辛いカレーだが、筆者はこれがとても好きで、必
ず日本人に会えば奨めている。
カルカッタの繁華街ParkSt.には高級料理苫が並んでいる。その中から「Olympia」のステーキを
いように思う。
BidanSaxaniをさらに南下すると、市電の三叉路にぶつかる。このあたりは、M1111iCkBazarと
紹介してみよう。周知のように、インドではなかなか牛肉力浮に入りにくい。ムスリム地区の定食屋
呼ばれ、映画館が何軒かあり、衣料品を中心としたバザールになっている。とりわけ、若い女性のア
クセサリーや下着を売る店が10数軒並んでいる。筆者はいつものようにボケーッと歩いていて、この
あたりで珍しく若い女性の集団にぶつかり、やたら白い目でにらまれた。不思議に思って店をのぞい
には牛のカレーがあり、一番安く味もなかなかいいのだが、ステーキとなるとなかなか食えるレスト
ランがない。「Olympia」ではRsl3で牛のステーキが食える。ボリュームもあり、インド食に飽きた
日本人にはうってつけだ。ただ、味付けが若干辛めなのでペッパー嫌いの人にはあまりお薦めできな
て、なるほどと納得したことがあった。
い
。
このParkSt・では、ヒンディー語、ベンガル語を聞くことはあまりない。英語をしゃべる人達が多
く、サリーを着た女性より、西洋的なファッショナブルな服を着た女性が目立つ。そういった人々が
こ
の
B
i
d
a
n
S
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n
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を
ど
ん
ど
ん
南
下
し
て
い
く
と
、
M
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m
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(
H
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l
T
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R
d
.
)
に
ぶ
’
11
」
’
’
1
1
憩う場所が「FluITy」だ。ここでは、ケーキなど洋菓子を作り、店内の半分はケーキ屋さん、半分を
喫茶店にしている。日本では、どこでもみかけるケーキ屋さんの喫茶室といった所なのだが、カルカ
ッタではめったにお目にかかれない高級な店だ。冷房が完備し、冷えた水が飲め、紅茶一杯で涼める
ところはあまりない。日本から行って、あまりカルチャーショックを覚えないですむ数少ない場所か
もしれない。もっとも、ドアを一歩でると、恐ろしい熱気と哀れな老婆のコジキとイセイがよくシッ
さ
て
、
カ
ル
カ
ッ
タ
大
学
の
前
に
は
古
本
屋
が
立
ち
並
ぶ
。
露
店
の
古
本
屋
が
道
の
両
側
に
ず
ら
っ
と
並
ん
で
い
る
のだが、他の商店街と違うのは、呼び込みの声を聞かないことであろう。昨今の紙不足で本の値上が
り
力
職
し
く
、
古
本
を
1
k
g
い
く
ら
で
買
う
光
景
が
み
ら
れ
な
く
な
り
、
現
在
は
1
冊
、
1
冊
値
段
が
つ
け
ら
れ
て
い
る
。
この古本屋街は学生が主な客なので教科書の類が多い。高価な古書を扱う商人は、自分の家に店を構
え
て
い
て
、
つ
い
最
近
ま
で
、
十
九
世
紀
出
版
の
本
な
ど
も
か
な
り
安
く
手
に
入
っ
た
の
だ
が
、
こ
こ
二
、
三
年
あ
た
り
か
ら
、
古
本
自
体
が
な
く
な
っ
て
き
た
し
、
あ
っ
て
も
す
ご
く
高
く
な
っ
て
き
た
、
と
日
本
人
留
学
生
が
さ
か
ん
に
コイだけがとりえの子供のコジキが待ち受けているのだが。
その他中華料理店も数多くあるが、ここでは紹介しない。次に南の方へ眼をむけてみよう。
こぼしていた。
学
生
街
か
ら
さ
ら
に
南
に
下
る
と
、
B
o
w
B
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z
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S
t
.
に
ぶ
つ
か
り
、
こ
こ
を
東
に
行
く
と
シ
ア
ル
ダ
ー
駅
、
西
へ
行
く
と
前
述
の
B
.
B
.
D
.
B
A
G
に
通
じ
る
。
今
、
北
か
ら
中
央
部
ま
で
B
i
d
a
n
S
a
r
a
n
i
C
o
n
e
"
S
t
.
沿
い
に
み
て
き
た
が
、
も
う
一
本
、
こ
の
道
路
と
東
側
に
並
行
し
て
、
市
電
の
走
る
道
路
が
あ
る
。
こ
れ
が
、
C
h
i
t
p
o
r
e
R
o
a
d
で
あ
る
。
こ
の
道
路
沿
い
に
つ
い
て
は
、
世
界
の
国
シ
リ
ー
ズ
1
3
.
i
イ
ン
ド
.
南
ア
ジ
ア
」
(
講
談
社
)
所
収
の
『
イ
ン
ド
近
代
化
の
諸
相
一
カ
ル
カ
ッ
タ
の
軌
跡
』
臼
田
雅
之
に
詳
し
い
紹
介
が
あ
る
の
で
、
興
味
の
あ
る
人
は
読
ん
で
下
さい。
次
に
、
市
内
中
央
部
に
つ
い
て
は
、
ガ
イ
ド
ブ
ッ
ク
に
必
ず
載
っ
て
い
る
の
で
省
く
こ
と
に
し
て
、
一
つ
だ
け
レ
ス
'トラン②紹介をしてみたい。
ま
ず
、
イ
ン
ド
料
理
の
=
番
お
い
し
い
店
と
し
て
名
尚
い
「
A
m
b
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r
」
。
市
電
の
タ
ー
ミ
ナ
ル
で
あ
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p
l
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d
e
か
ら
少
し
北
へ
入
っ
た
と
こ
ろ
に
あ
り
、
店
内
は
い
つ
で
も
混
ん
で
い
る
の
で
、
予
約
し
た
方
が
よ
い
。
こ
こ
で
は
タ
ン
ド
リ
・
チ
キ
ン
と
厚
い
ナ
ン
を
頼
め
ば
充
分
だ
。
最
近
、
札
幌
に
も
次
々
と
イ
ン
ド
料
理
店
が
開
店
し
た
が
、
や
は
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「
A
m
b
e
r
」
で
食
べ
た
タ
ン
ド
リ
'
・
チ
キ
ン
カ
堀
高
だ
。
−54−
宇謹ニー皐謹ニョニーと一■・垂=』==・一二且F皇.、'一.・−−=・−
’
且■■Br叩■■且■■F1■■■■山里9■■■EJ10bq0I8■0日■■■■■0ⅡⅡIⅡ84口■︲■lIUIlIb7uI0J日︲bP0gI91DⅡ11hJ、0b﹄J■q︲1r4︲blLⅡjと︲IJI︲凸l1illIl・P4◆ID0I11UI0F,心土
幽選塗急■碧程
つ
か
る
。
こ
こ
か
ら
南
は
C
o
U
e
g
e
s
t
.
と
呼
ば
れ
、
文
字
通
り
カ
ル
カ
ッ
タ
大
学
通
り
に
あ
た
る
。
C
o
n
e
"
S
t
・
に
至る間にも市場(バザール)があり、カルカッタは商業の街といった印象をもつであろう。
L
P
a
r
k
S
t
.
と
並
ぶ
繁
華
街
C
h
o
w
r
i
n
g
h
e
e
S
t
.
を
南
に
下
っ
て
行
く
と
、
ビ
ル
ラ
・
プ
ラ
ネ
タ
リ
ウ
ム
が
あ
り
、
市電は地下鉄工事のため、今ではここが一つの終点となっている。この西側には、広いマイダン公園、
そしてビクトリア記念館など、かなり怠惰な人でも一度は足を運ぶ静かな観光地がある。そして、こ
の
マ
イ
ダ
ン
の
南
を
走
る
L
o
w
e
r
C
i
x
℃
u
l
a
r
R
o
a
d
で
旧
市
街
地
は
一
応
終
わ
る
。
こ
こ
か
ら
南
は
、
新
興
住
宅
街
である。厳密に言えば、西南側のアリポールや真南のカリガート付近はまだまだ古い町並みがあり、東
南
側
力
注
な
新
興
住
宅
地
と
な
っ
て
い
る
。
な
か
で
も
B
a
n
y
g
a
n
g
e
C
i
x
℃
u
l
a
r
R
o
a
d
沿
い
に
は
、
り
つ
ぱ
な
1
0
階
近い高級アパート群力泣ち並んでいる。日本人留学生が下宿するのは、煩雑な旧市街地ではなく、こ
うした閑静な南の住宅地が多く、とりわけ、さらに南へ行ったラマクリシユナ・ミッションのゲスト
ハウスには、現在、四名の日本人留学生が住んでいる。このケストハウスの良さは自家発電磯があっ
て、停電の多い昨今、勉強する人にはもってこいなのだろう。しかも、この周辺には北カルカッタの
旧市街とは違い、きれいな高級商店も立ち並び、日本から初めて行った人達でも割りと違和感なくす
ごせるところだ。このラマクリシュナ・ミッションの南に、日本山妙法寺がある。この寺は、日本人
旅行者の麻薬パーティ等が発覚し、最近は旅行者を泊めない方針なのだそうだ。妙法寺の西側一帯に、
−55−
一 一 一 一 一 一
池
を
中
心
と
し
た
公
園
が
拡
が
り
、
格
好
の
散
歩
場
所
で
あ
る
。
裕
福
な
イ
ン
ド
人
は
、
犬
を
車
に
乗
せ
て
こ
の
公
園
へ
や
っ
て
き
て
、
散
歩
さ
せ
た
後
、
ま
た
車
に
乗
せ
て
帰
る
の
だ
と
か
、
会
員
制
の
ス
イ
ミ
ン
グ
ク
ラ
ブ
が
あ
っ
た
り
、
こ
の
一
帯
は
日
本
人
力
鞄
く
カ
ル
カ
ッ
タ
の
イ
メ
ー
ジ
か
ら
ほ
ど
遠
い
別
天
地
で
あ
る
。
I
上海拳撃倶楽部
1980年入学伊藤友一
以
上
、
簡
単
に
北
か
ら
南
へ
筆
者
が
よ
く
行
っ
た
場
所
を
中
心
に
紹
介
し
て
み
た
が
、
カ
ル
カ
ッ
タ
は
も
つ
と
も
っ
と
広
い
し
、
ち
ょ
っ
と
街
並
み
が
変
わ
れ
ば
雰
囲
気
も
変
わ
る
の
で
、
カ
ル
カ
ッ
タ
へ
行
か
れ
た
ら
、
ガ
イ
ド
ブ
ッ
ク
に
は
な
い
街
へ
ぜ
ひ
足
を
運
ん
で
ほ
し
い
。
そ
う
す
れ
ば
、
ま
た
新
し
い
カ
ル
カ
ッ
タ
を
発
見
で
き
る
は
ず
だ
。
留学先の上海外国語学院で、ボクシング部のコーチを引き受けたのは1985年10月、生まれてはじ
めて中国大陸に足を踏み入れて、ちょうど一ヵ月後のことだった。
ボクシング部のコーチは、私の他に二人いた。というよりこの二人が正式のコーチで、私はいわば
最 後 に
客員という立場である。二人のコーチは馬さんと石さん。馬さんは40歳。職業は市場の八百屋さんだ。
イ
ン
ド
に
つ
い
て
何
力
魯
い
て
く
れ
と
頼
ま
れ
、
何
を
書
こ
う
か
と
迷
っ
た
あ
げ
く
、
カ
ル
カ
ッ
タ
に
つ
い
て
書
く
こ
と
に
し
た
。
カ
ル
カ
ッ
タ
と
言
え
ば
、
最
初
に
あ
げ
た
ベ
ル
グ
夫
妻
の
言
う
「
現
実
」
が
ま
ず
頭
に
残
り
が
ち
だ
。
つ
元上海チャンピオンである。ボクシングを始める前は拳法を修行していた。子供はなく病弱な奥さん
と二人で暮らしている。馬さんの家に遊びに行ったことがある。玄関わきに、おそろしく硬い手製の
ま
り
、
多
く
の
カ
ル
カ
ッ
タ
体
験
記
に
は
、
そ
の
作
者
の
感
情
移
入
ば
か
り
が
目
に
つ
き
、
カ
ル
カ
ッ
タ
へ
行
っ
た
こ
と
の
な
い
人
に
は
説
明
不
足
が
目
立
つ
場
合
が
多
い
。
筆
者
は
な
る
べ
く
事
実
の
描
写
に
心
掛
け
、
ガ
イ
ド
ブ
ッ
ク
に
は
あ
ま
り
載
っ
て
い
な
い
カ
ル
カ
ッ
タ
を
ガ
イ
ド
ブ
ッ
ク
風
に
紹
介
し
た
か
っ
た
の
だ
が
、
あ
ま
り
い
い
出
来
ば
え
と
は
言
え
そ
う
に
な
い
。
こ
れ
か
ら
カ
ル
カ
ッ
タ
へ
行
か
れ
る
人
の
資
料
と
な
っ
て
く
れ
れ
ば
と
思
っ
て
い
る
。
サンドバックがつるしてあった。馬さんはやはり手製のパンチングミットでこれをたたき鍛えてきた
のである。石さんは36歳、独身。親父さんが有名な@噸で、そのため特に仕事につかなくても食って
いける。時々、化粧品のテレビコマーシャルなどに出演している6以前はウエイトリフティングをや
っていたそうだ。親分肌で友人も多く、上海でなにかもめごとに巻き込まれても、石さんに頼めばな
んとかなる。
(1983年記)
二人と初めて会ったのは、外国語学院拳撃隊(中国ではボクシングを“拳撃”という。拳撃隊はし
たがってボクシングチームということである。)第一日目の練習日だった。日本人留学生の友人二人と
私は、英語学科二年生の凌君に連れられて、練習場がわりのホールへ出かけた。同行の日本人二人は
私の空手仲間でそれぞれ三段と初段。留学中は三人でいつも組手をしていた。三段の彼とはどういう
’
I
顕
ー
’
ロ。j■■■■■ⅡF94IUIT0R0r0Ⅱ9DB■H8DrL■守rff0Ⅱ!■且b田Ⅱ〃■■5,口■・■iPJ■■卓Ⅱ■■J■乱141〃■0II0l6qj14Ild︲qj0“ⅡⅡFl0hljql︲114F︲■!■01
ー
縁があるんだか、現在一緒に農業修行をしている。凌君は通称ポール。拳撃隊のキャプテンである。
"ポール”などという呼び名を持っているのは、彼だけではない。英語学科の多くの学生(もしかした
ら全員)が英語名を持っている。例えば三段の友人が空手を教えていた学生はジャクソンといった。な
んでそんな呼び方をするんだ、とたずねたところ、・英語をより身近なものとして学ぶためだという答
えが返ってきた。それでは他の学科、ロシア語科や、日本語科、スペイン語科の連中がイワンだの太
郎だのサンチョだのと呼び会っているかというとそうではない。要するに彼らの英語名は、アメリカ
合衆国へのあこがれであろう。現代中国の若者の多くは、合衆国を自由の国と信じている。だから、彼
らが一番行ってみたい国はアメリカ合衆国である。
凌君と一緒にホールで待っていると、入部希望の学生たちが集まってきた。二十人ほどにもなった
頃
、
二
人
の
先
生
が
姿
を
現
し
た
。
二
人
を
初
め
て
見
た
時
は
、
正
直
言
っ
て
ち
ょ
っ
と
恐
か
っ
た
。
馬
さ
ん
は
1
7
5
c
m
、
8
0
k
g
,
石
さ
ん
は
1
8
0
c
m
,
9
0
k
g
で
あ
る
。
(
私
は
1
7
1
c
m
7
2
k
g
b
)
二
人
と
も
頭
を
短
く
刈
り
、
馬
さ
ん
は
眼
光
鋭
く、石さんは皮ジャンとサングラスで決めている。凌君は以前からこの二人の弟子である。我々を二
人に紹介してくれた後、上海語でなにやら二人と話している。(上海語は公用語の北京語とは完全に異
−57−
一デー乏暉・-÷---二一丁
稲
・│
’
なる発音体系で、古代の中国語に近いらしい。したがって日本に伝わった漢字の音読みに似た発音が
多い。例えば“人”は北京語では“レン"、上海語では“ニン”と発音する。)そのころの私には北京
語さえもままならず、ましてや凌君たちの上海語など耳をそばだててもまったく手掛かりがつかめな
かった。ただ彼ら力儲しながら私の方を見る目付きとか語調から、少々不安な気分にさせられた。案
の
定
、
凌
君
が
「
馬
老
師
が
、
君
と
お
手
合
わ
せ
し
た
い
と
言
っ
て
い
る
。
ご
く
軽
い
打
ち
合
い
で
い
い
か
ら
や
っ
て
ン、ツーときたらどうするのだ?」とか「インステップしたとたんカウンターが飛んできたらどうす
る?」などと必ずいちゃもんをつけてくる。コーチの言うことをただ弱呑みにするということはない。
こちらが「そりゃ確かに実戦においては、君らのいうような場合があるだろう。しかし今は特定の動
作に限って、基本的なテクニックを身につけようとしているのだ」と答えて、始めて納得してくれる。
’
く
れ
な
い
か
?
」
と
言
っ
て
き
た
。
凌
君
に
以
前
「
俺
は
学
生
時
代
、
北
海
道
の
ボ
ク
シ
ン
グ
界
じ
ゃ
、
ち
ょ
っ
と
し
た
も
ん
だ
っ
た
ん
だ
ぜ
、
は
っ
は
っ
」
な
ど
と
吹
い
て
い
た
報
い
で
あ
ろ
う
。
し
か
し
私
は
空
手
で
も
ボ
ク
シ
ン
グ
で
も
お
手
合
わ
せ
は
お
断
り
し
な
い
と
い
う
こ
と
を
原
則
と
し
て
い
た
の
で
、
び
く
び
く
し
な
が
ら
も
承
知
し
た
。
勝
ち
に単発で連打が不足している学生にそのことを指摘すると、吟日はカゼ気味で体調がわるいのだ」だ
の「さっき鼻を打たれて痛くて動けなかった」だのと訴えられる。
このように彼らは事あるごとに自分の理屈を持ち出すが、では彼らの行動力狸に適ったものである
負
け
は
と
り
あ
え
ず
関
係
な
い
。
日
中
友
好
で
あ
る
。
二
人
の
空
手
仲
間
は
他
人
事
な
も
の
で
「
い
や
あ
、
が
ん
ば
っ
て
も
ら
い
た
い
も
の
で
す
な
あ
」
な
ど
と
言
っ
て
に
や
に
や
笑
っ
て
い
る
。
学
生
た
ち
が
並
ん
で
輪
を
つ
く
り
、
即
席
の
リ
ン
グ
が
出
来
た
。
床
は
コ
ン
ク
リ
ー
ト
だ
。
ダ
ウ
ン
し
た
ら
危
険
だ
な
、
と
思
っ
た
。
重
い
グ
ロ
ー
ブ
を
渡
さ
れ
る
。
異
民
族
に
と
り
囲
ま
れ
て
い
る
、
と
い
う
恐
怖
感
を
強
く
覚
え
た
が
、
グ
ロ
ー
ブ
を
つ
け
て
相
手
と
向
き
合
う
と
打
た
な
か
っ
た
の
で
は
な
く
、
打
て
な
か
っ
た
の
だ
と
映
っ
た
ら
し
い
。
し
か
し
元
上
海
チ
ャ
ン
ピ
オ
ン
の
馬
さ
ん
と
、
と
に
か
く
互
角
に
や
り
合
っ
た
と
い
う
こ
と
で
、
私
を
認
め
て
く
れ
た
よ
う
で
あ
っ
た
。
馬
さ
ん
は
後
で
凌
君
に
「
あ
の
日
本
の
青
年
は
、
遠
慮
し
て
結
局
一
発
も
本
気
で
打
ち
込
ん
で
こ
な
か
っ
た
よ
」
と
言
っ
た
そ
う
で
あ
る
。
こ
の
時
か
ら
、
私
と
上
海
外
国
語
学
院
拳
撃
隊
の
二
年
間
に
渡
る
つ
き
合
い
が
始
ま
っ
た
。
’|
中
国
語
の
簡
単
な
日
常
会
話
さ
え
全
く
で
き
ぬ
状
態
で
留
学
し
た
の
で
、
コ
ー
チ
を
す
る
と
い
っ
て
も
言
葉
が
出
て
こ
な
い
。
始
め
の
二
、
三
ケ
月
は
実
際
に
動
作
を
示
し
、
「
跡
!
(
こ
の
よ
う
に
)
」
ば
か
り
を
く
り
返
し
て
い
た
。
留
’
|
学
生
活
も
四
カ
月
を
過
ぎ
る
と
、
日
常
会
話
に
は
不
自
由
し
な
く
な
り
、
旅
行
に
も
気
軽
に
出
か
け
ら
れ
る
よ
う
に
な
る
。
中
国
人
の
学
生
た
ち
と
、
わ
り
と
抽
象
的
な
内
容
を
論
し
合
え
る
よ
う
に
な
る
の
も
こ
の
頃
か
ら
だ
。
つ
ま
り
、
中
国
の
若
者
が
ど
う
い
う
思
考
回
路
を
持
っ
て
い
る
か
が
わ
か
る
よ
う
に
な
る
わ
け
で
、
当
然
む
こ
う
も
こ
っ
ち
の
考
え
方
を
蝕
み
込
ん
で
く
る
。
次
第
に
表
面
的
な
「
日
中
友
好
」
は
薄
れ
、
お
互
い
の
批
判
も
で
き
る
よ
う
に
な
っ
て
い
く
。
中
国
人
は
理
屈
を
好
む
。
例
え
ば
相
手
の
左
ス
ト
レ
ー
ト
に
対
し
、
ス
ウ
ェ
イ
バ
ッ
ク
か
ら
す
か
さ
ず
イ
ン
ス
テ
ツ
プ
l
き
'
て
左
ス
ト
レ
琴
卜
を
返
す
、
と
い
う
テ
ク
ニ
ッ
ク
を
教
え
よ
う
と
す
る
と
、
「
相
手
が
左
の
ワ
ン
パ
ン
チ
で
な
く
、
ワ
たらまず走れ、と何度言っても彼らは高度なテクニックの習得をまず第一とし、地味なランニングな
ど続ける学生は一人もいなかった。彼らの理屈好きは、おそらく民族的なものであろう。多くの他民
族と良くも悪くもつき合ってきた歴史の中で、単純に相手の言うとおりしていたら命が危ない、とい
う状況が生み出した、生き延びるための一つの方法なのかもしれない。
bIjl〃、■■■j雨I︲11.1ⅡI③りあ。■斥吟L・け■
’
1
.
i
.
4
・
1
か、というとこれはまた別の問題に属するようだ。ボクシングの基本は走ることだ、強くなりたかっ
日llIllllIllll1Ⅱ110Ⅱ01〃‘LIII1lllpll1Il1111l9I11115.1101︲11︲02
’
す
ぐ
に
気
に
な
ら
な
く
な
っ
た
。
石
さ
ん
の
「
開
始
!
」
の
声
で
、
ス
パ
ー
リ
ン
グ
は
始
ま
っ
た
。
馬
さ
ん
は
本
気
で
パ
ン
チ
を
振
り
回
し
て
き
た
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だ
い
だ
い
こ
う
い
う
“
お
手
合
わ
せ
”
の
場
に
お
い
て
は
、
“
軽
く
や
ろ
う
”
か
ら
は
じ
ま
っ
て
、
言
葉
通
り
に
終
わ
る
こ
と
は
ま
ず
な
い
も
の
で
あ
る
。
馬
さ
ん
の
太
い
腕
か
ら
繰
り
出
さ
れ
る
パ
ン
チ
は
か
な
り
の
迫
力
で
あ
る
。
相
当
な
ハ
ー
ド
パ
ン
チ
ャ
ー
と
見
た
。
し
か
し
、
ス
ピ
ー
ド
が
今
一
つ
で
、
攻
撃
も
単
調
だ
っ
た
の
で
、
相
対
し
て
み
る
と
意
外
に
や
り
や
す
い
相
手
で
あ
っ
た
。
私
は
極
端
な
左
半
身
に
構
え
、
左
腕
を
下
げ
た
フ
ォ
ー
ム
か
ら
、
い
わ
ゆ
る
フ
リ
ッ
カ
ー
ジ
ャ
ブ
で
相
手
を
け
ん
制
し
、
ス
ウ
ェ
イ
バ
ッ
ク
と
フ
ッ
ト
ワ
ー
ク
で
、
馬
さ
ん
の
攻
撃
を
か
わ
し
た
。
馬
さ
ん
に
対
し
て
パ
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チ
を
当
て
る
こ
と
は
あ
え
て
し
な
か
っ
た
。
学
生
た
ち
に
は
、
私
が
−58−
ユー
アドバイスに対しても、それを素直に受け入れることはまずない。スパーリングの時、攻撃があまり
拳撃隊とつき合った二年間の間、私は何度か小さなエキジビジヨンマッチに参加し、またセコンド
としても試合に臨んだ。ところで、学校でコーチをしている時も、エキジビジヨンマッチに出ている
時も、学生たちにしばしば疑問視され、また時には誤解されていた事がある。私の闘い方だった。私
は試合中も軽くジャブを出すだけで、右のパンチは一度も使わなかった。後は様々なディフェンスの
技術とフットワークで、ひたすら防ぎ、避けていた。中国の若者を殴ることが、どうしてもできなか
ったのである。
かつて日本が中国で犯した罪を思う時、中国人に拳を振るう自分の姿が旧日本軍と重なってしまう
のだ。ボクシングはスポーツなんだから、そんな風に感じるのはおかしい、とよく言われた。そうか
もしれない。しかしボクシングはかなり特殊なスポーツだと私は思う。例えI鹸リ道や柔道の勝ち負け
は、あくまでも負随.柔道の“技術”の対決によるものだ。ところが湘手の顔面を殴る”というボ
クシングの場合、多分に人格対人格という要素が入り込んでくるのである・増して相手が異民族、そ
れも中国人となると、よけい話はもつれてくる。そういった意味で、1986年の暮れ、私力温後に参加
したエキジビジョンマッチは、民族の感情という問題を実にはっきりと示してくれた。
十二月の上海の街は、大規模な学生デモの余韻が残っていて「俺はあの時、デモに参加した学生五
人をタグで学校まで送ってやったぜ」と誇らしげに語る個人タクシーの運転手に出会ったりした。
さて、試合は外国語学院の講堂を会場として、上海体育学院を相手に迎えて行われた。両校各三人
ずつ選手を出す。私は体調をくずしていて懸命に出場を断ったのだが、押し問答では到底中国人に太
刀打ちなどできない。結局承諾させられてしまった。体育学院の学生は、もともと運動神経のいい連
−59−
声一〒−−r−.万P一戸声
・│
’
中
力
鱈
り
す
ぐ
ら
れ
て
お
り
、
練
習
時
間
も
た
っ
ぷ
り
あ
る
。
ボ
ク
シ
ン
グ
技
術
も
か
な
り
の
レ
ベ
ル
に
ま
で
達
し
て
い
る
。
そ
れ
に
比
べ
る
と
わ
が
外
国
語
学
院
は
ど
こ
か
線
力
棚
く
、
二
人
の
代
表
選
手
は
圧
倒
的
な
実
力
の
差
を
見
せ
つ
け
ら
れ
敗
れ
て
し
ま
っ
た
。
三
番
手
は
私
で
あ
る
。
馬
さ
ん
と
石
さ
ん
は
、
い
つ
も
の
私
の
闘
い
方
を
知
っ
て
い
る
追 記
私をダウンさせた学生は、その後行われた全中国ボクシング大会で準優勝した。私を倒したことが
彼の自信の一助になっているかもしれぬと想像するのは結構楽しい。
の
で
「
い
い
か
、
今
日
こ
そ
本
気
で
打
て
。
相
手
は
体
育
学
院
だ
、
遠
慮
す
る
こ
と
は
な
い
。
打
っ
て
や
る
の
も
彼
ら
に
と
っ
て
は
勉
強
な
ん
だ
。
」
と
い
う
。
凌
君
も
「
外
国
語
学
院
の
名
誉
が
か
か
っ
て
い
る
ん
だ
ぜ
」
な
ど
と
嫌
な
こ
と
優勝者は武装警察隊員だったという。
(1988年10月記)
を
言
う
。
か
と
思
う
と
体
育
学
院
監
督
の
張
さ
ん
に
は
「
う
ち
の
学
生
も
ま
だ
ま
だ
初
心
者
だ
。
手
加
減
し
て
や
っ
て
く
れ
。
」
と
言
わ
れ
る
。
張
さ
ん
は
五
十
八
歳
、
上
海
体
育
学
院
の
教
授
で
あ
る
。
1
9
5
0
年
代
に
は
全
中
国
チ
ャ
ン
ピ
オ
ン
だ
っ
た
。
馬
さ
ん
の
先
生
で
も
あ
る
。
文
革
時
代
に
禁
止
さ
れ
た
中
国
の
ボ
ク
シ
ン
グ
を
支
え
続
け
、
1
9
8
5
年
解
禁
に
こ
ぎ
つ
け
た
功
労
者
だ
。
解
禁
の
記
念
に
ア
メ
リ
カ
合
衆
国
か
ら
モ
ハ
メ
ド
ー
ア
リ
が
エ
キ
ジ
ビ
ジ
ヨ
ン
マ
ッ
チ
に
来
た
時
に
は
、
張
さ
ん
と
馬
さ
ん
力
湘
手
を
し
た
。
(
も
っ
と
も
こ
の
時
、
ア
リ
も
張
さ
ん
も
す
で
に
相
当
の
パ
ン
チ
ド
ラ
ン
カ
ー
と
な
っ
て
い
た
。
)
と
も
あ
れ
私
は
、
周
囲
の
人
々
の
言
葉
に
な
ま
返
事
を
し
な
が
ら
、
マ
ッ
ト
の
し
か
れ
I
1
’
11
た
ス
テ
ー
ジ
に
上
が
っ
た
。
レ
フ
ェ
リ
ー
は
張
さ
ん
で
あ
る
。
京
劇
に
使
う
銅
蝿
が
ゴ
ン
グ
が
わ
り
に
鳴
ら
さ
れ
、
試
合
が
始
ま
っ
た
。
相
当
ス
ピ
ー
ド
の
あ
る
相
手
だ
っ
た
。
全
力
で
打
ち
込
ん
で
く
る
。
時
お
り
放
た
れ
る
ボ
デ
イ
フ
ツ
ク
が
見
事
で
あ
る
。
ス
テ
ー
ジ
の
袖
で
は
凌
君
が
マ
イ
ク
で
観
衆
に
向
か
っ
て
解
説
を
し
て
い
る
。
「
み
な
さ
ん
、
ご
ら
ん
下
さ
い
。
わ
が
外
国
語
学
院
の
日
本
人
留
学
生
伊
藤
友
一
君
で
す
。
彼
は
一
九
八
三
年
北
海
道
の
優
勝
者
で
す
。
」
相
手
の
ジ
ャ
ブ
が
思
い
の
ほ
か
的
確
で
、
何
度
か
顔
面
を
と
ら
え
ら
れ
た
。
こ
ち
ら
も
カ
ウ
ン
タ
ー
気
味
に
左
を
合
わ
せ
て
い
く
。
観
衆
の
反
応
は
は
っ
き
り
し
て
い
た
。
私
が
打
た
れ
た
時
に
は
沸
く
。
私
が
打
っ
た
時
に
は
静
ま
っ
て
い
る
。
’
第
一
ラ
ウ
ン
ド
は
、
な
ん
と
か
無
難
に
流
す
こ
と
が
で
き
た
。
再
び
銅
鰯
が
な
り
、
第
二
ラ
ウ
ン
ド
に
は
い
っ
た
。
凌
君
の
解
説
力
瀧
〈
。
「
さ
あ
、
伊
藤
友
一
君
の
見
事
な
動
き
を
ご
ら
ん
下
さ
い
。
軽
い
フ
ッ
ト
ワ
ー
ク
。
素
早
い
バ
ン
チ
。
そ
し
て
的
確
な
デ
ィ
フ
ェ
ン
ス
…
」
と
、
こ
こ
ま
で
聞
い
た
時
、
顔
面
に
ガ
ン
と
衝
撃
を
受
け
、
背
骨
ま
で
き
し
み
、
一
瞬
わ
け
が
わ
か
ら
な
く
な
っ
た
。
観
客
は
波
の
よ
う
な
大
喝
采
。
す
ぐ
さ
ま
張
さ
ん
が
カ
ウ
ン
ト
を
と
り
は
じ
め
た
。
か
ろ
う
じ
て
倒
れ
こ
そ
し
な
か
っ
た
も
の
の
、
り
っ
ぱ
な
ダ
ウ
ン
で
あ
る
。
敵
な
が
ら
素
晴
ら
し
い
右
ス
ト
レ
ー
ト
だ
っ
た
。
ボ
ク
シ
ン
グ
を
知
ら
な
い
友
人
は
、
ぐ
ら
っ
と
し
た
だ
け
で
倒
れ
て
も
い
な
い
の
に
な
ぜ
カ
ウ
ン
ト
を
と
っ
た
の
か
わ
か
ら
な
い
、
と
言
っ
て
い
た
が
、
も
う
一
発
ち
ょ
っ
と
軽
い
,
ボ
/
手
を
《
<
‘
、
て
い
た
ら
完
全
に
寝
て
い
た
ろ
う
。
も
う
賦
合
は
途
中
で
止
め
た
く
な
っ
た
が
、
ボ
ク
サ
ー
の
悲
し
い
習
性
か
、
カ
ウ
ー
’
3
‘
ご
フ
ァ
イ
テ
ィ
ン
グ
ポ
ー
|
’
Ⅱ18Ⅱ84ⅡⅡⅡJ凸Ⅱもり01■0■f■■J7■jD■U・■J1q・もJI0aD■1卜■h■DlHbbIflrja■・lf1jU各可h9ljI
ズ
を
と
っ
て
し
ま
い
、
再
び
打
ち
合
い
を
始
め
た
。
本
気
を
出
し
て
や
ろ
う
か
、
と
も
一
瞬
,
〃
=
た
が
、
そ
れ
は
や
め
て
お
い
た
。
頭
は
ま
だ
く
ら
く
ら
し
て
い
た
が
、
観
客
の
大
歓
声
は
は
っ
き
り
と
聞
こ
え
て
,
‘
た
,
本
来
こ
の
日
の
試
一
J
}
71
合
は
、
外
国
語
拳
院
対
体
育
学
院
と
い
う
形
式
で
あ
っ
た
。
観
客
も
す
べ
て
外
国
語
学
院
関
係
者
で
あ
る
。
し
か
し
私
の
試
合
に
関
し
て
は
、
ま
ぎ
れ
も
な
く
中
国
対
日
本
と
い
う
I
X
I
に
変
わ
っ
て
い
た
。
当
然
の
事
だ
と
思
う
。
二
度
目
の
ダ
ウ
ン
は
な
ん
と
か
“
れ
ず
に
試
合
は
終
わ
っ
た
。
馬
さ
ん
と
石
さ
ん
は
「
あ
ー
あ
、
ま
た
か
」
と
い
う
よ
う
な
顔
で
私
を
見
る
し
憲
凌
君
は
雌
ん
で
本
気
で
打
た
な
い
ん
だ
!
」
と
お
こ
っ
て
い
る
。
生
ま
れ
て
は
じ
め
て
く
ら
っ
た
ダ
ウ
ン
賎
劇
噛
蕊
と
呼
ぶ
に
は
少
々
き
つ
か
っ
た
が
、
「
や
っ
ぱ
り
打
た
な
く
て
よ
か
っ
た
」
と
し
み
じ
み
思
っ
た
。
−61一
−80−
I
I
戸〒『ー芦
、‐事 急一’
カイロに て
百キログラムはあろうかという大男が大きな海老を十数匹持って遊びに来た。「イッサラームアレー
クム」「ワレークムイッサラーム」「これは、今日、地中海でとれたものだ。今、市場で買ってきた。」
「サンキュー!サンキュー!お、うまそうだねえ。俺が料理してやろう。」彼はキッチンに行き居間
1983年入学久保英之
では雑談が始まる。
日
本
を
出
発
し
て
か
ら
四
ヶ
月
力
渦
ぎ
た
。
カ
ル
カ
ッ
タ
ー
デ
リ
ー
ー
ペ
シ
ヤ
ワ
ー
ル
ー
ク
ン
ジ
エ
ラ
プ
峠
一
カ
シ
ュ
ガ
ル
ー
北
京
一
モ
ス
ク
ワ
ー
ヘ
ル
シ
ン
キ
ー
ギ
リ
シ
ャ
ー
シ
リ
ア
ー
ヨ
ル
ダ
ン
ー
イ
ス
ラ
エ
ル
と
目
の
ま
わ
る
よ
う
一体、この集まりは何なんだ。俺はこんなとこに居ていいのかな。何、この大男'9才?信じられん。
でも、そう言われてみれば、あどけなさもあるな。
な
旅
行
は
、
自
分
の
対
応
能
力
の
限
界
に
近
づ
い
て
い
る
。
多
く
の
旅
行
者
は
「
な
ん
で
そ
ん
な
に
急
ぐ
の
?
何
も
分
旅行の話も混ぜながら自己紹介するも、皆話好きで、話があっちこつちにとんで紹介にならない。そ
か
ら
な
い
じ
ゃ
な
い
。
」
と
い
う
。
そ
り
や
あ
そ
う
か
も
し
れ
な
い
。
のうち"God"という言葉が頻繁に出てくるようになった。ギリシヤ人の奥さんは生来、キリスト教徒
で
も
、
今
、
ま
る
で
タ
イ
ム
マ
シ
ー
ン
に
乗
っ
て
い
る
か
の
よ
う
で
、
素
晴
ら
し
い
こ
と
が
起
こ
っ
て
い
る
。
な
ん
だった。が、コーランと出会ってから改宗したという。彼女は一つ一つの行動に対し"Goざの立場を
解釈し、生来イスラム教徒である彼らに一々同意を求めるが、彼らは面白がってはぐらかし、彼女を
怒らせる。すると彼女は、はいているスリッパを取って二人を追いまわし、一発なぐってからこちら
て
い
っ
た
っ
て
、
世
界
の
い
ろ
ん
な
所
を
自
分
の
目
で
見
て
い
る
の
だ
か
ら
。
パ
ス
は
国
境
を
越
え
た
。
再
び
ア
ラ
ブ
だ
。
バ
ス
は
海
岸
線
を
ひ
た
走
る
。
何
も
な
い
。
右
に
地
中
海
、
左
は
ひ
た
I
す
ら
砂
漠
だ
。
ス
エ
ズ
運
河
を
越
え
て
カ
イ
ロ
へ
近
づ
く
と
、
辺
り
は
一
変
し
て
水
と
緑
に
な
っ
た
。
森
の
向
こ
う
に
陽
が
沈
む
。
高
校
の
地
図
帳
で
は
、
エ
ジ
プ
ト
の
茶
色
一
色
の
砂
漠
の
中
で
ナ
イ
ル
デ
ル
タ
だ
け
が
緑
色
に
な
っ
て
い
た
け
ど
、
あ
れ
っ
て
本
当
な
ん
だ
な
あ
、
と
嬉
し
く
な
っ
た
。
カ
イ
ロ
の
中
心
部
に
バ
ス
は
着
い
た
。
も
う
9
時
を
ま
わ
へ来て、ニコッと微笑んで話を続ける。そうこうしているうちに台所から声がかかった。食堂は、玄
関を入ってすぐ正面にあり、その向こうに居間がある。食堂といっても幅一間ぐらいの廊下で、左半
分をテーブルが占めている。両側には窓があるが、マンションの中にある空間で、お向いさん達が見
っ
て
い
る
が
、
人
も
車
も
う
じ
ゃ
う
じ
ゃ
い
て
片
付
く
気
配
が
な
い
。
あ
ち
こ
ち
で
騒
ぎ
立
て
る
ク
ラ
ク
シ
ョ
ン
は
、
も
えるだけだ。
う、公害というより合唱だ。
テーブルには、海老フライに味付きマカロニ、そして、ローソクの立ったケーキに、オレンジ、ブ
さ
て
、
安
宿
へ
行
く
か
。
テ
ル
ア
ビ
ブ
で
書
い
て
も
ら
っ
た
地
図
を
頼
り
に
、
バ
ス
ス
テ
ー
シ
ョ
ン
か
ら
放
射
状
に
I
1
ドウ、ザクロがのっていた。
昔コックをやっていたという主の食事は、次から次へと口に入る。二人が毎晩来る訳が分かった。皿
伸
び
る
道
の
一
本
を
選
ん
で
歩
く
。
急
に
ひ
っ
そ
り
と
し
て
し
ま
っ
た
が
、
す
ぐ
に
繁
華
街
に
出
る
。
え
−
つ
と
、
こ
れ
が
こ
こ
だ
か
ら
、
あ
そ
こ
を
通
れ
ば
近
道
だ
ろ
う
。
道
を
渡
っ
て
少
し
左
に
行
っ
た
と
こ
ろ
の
4
埴
を
入
っ
て
ゆ
く
。
4
埴
は
古
汚
い
ピ
ル
に
挟
ま
れ
、
カ
ギ
型
に
く
ね
り
、
少
し
行
く
と
ゴ
ミ
置
き
場
に
あ
た
り
、
そ
の
向
こ
う
力
雛
貨
屋
をたいらげて果物を食べ始めたはいいが、皆、カスを窓からボンボン投げ捨て始めた。
「ここはゴミ箱よ・」のぞいてみると、各部屋に囲まれたその空間の下はゴミの山ができている。そ
して間を置くことなく、どこかの窓からいろんなものがほうり投げられては音を立てて積み重なって
の
裏
口
で
あ
る
。
仕
方
な
く
店
を
通
っ
て
大
通
り
に
出
る
。
「
や
あ
。
」
後
か
ら
日
本
語
が
聞
こ
え
た
。
振
り
向
く
と
、
店
の
中
か
ら
紺
の
ガ
ラ
ベ
ー
ヤ
を
着
て
白
の
帽
子
を
か
ぶ
っ
た
若
く
て
細
い
、
東
洋
系
の
男
と
、
背
は
低
い
が
黒
の
サ
ン
グ
ラ
ス
と
ネ
ク
ダ
イ
寺
す
る
強
面
風
の
ア
ラ
ブ
人
が
こ
ちらに微笑みかけている。
彼
は
大
き
な
デ
コ
レ
ー
シ
ョ
ン
ケ
ー
キ
を
買
っ
て
か
ら
、
ま
た
店
に
戻
っ
て
来
た
。
彼
の
家
は
、
裏
の
小
道
を
少
し
行
っ
た
左
手
の
ア
パ
ー
ト
の
9
階
だ
。
ブ
ザ
ー
を
押
す
と
中
か
ら
、
英
語
で
怒
っ
た
女
性
の
声
が
聞
こ
え
て
き
た
。
『
あ
れ
、
奥
さ
ん
日
本
人
じ
ゃ
な
い
ん
で
す
か
。
」
「
う
ん
。
ギ
リ
シ
ャ
人
だ
。
」
い
つ
も
好
物
の
ケ
ー
キ
を
買
っ
て
帰
る
ら
し
い
。
二
人
と
も
イ
ス
ラ
ム
教
徒
だ
。
し
ば
ら
く
す
る
と
、
さ
っ
き
の
強
面
風
の
男
と
百
八
十
セ
ン
チ
メ
ー
ト
ル
、
一
q11﹄巳冒r・I←!■“可巳■49﹄、1dB■0凸・Fq
−62−
4■■■■■■■■■■■■■■け■6■IdJFbⅡ0■■Fp0■■■0,bもⅡⅡ0,申ⅡVll96FDU■Ⅱ611“lof心寸6010.01J可?80︲●Ⅱ0P■B1l89IごDで︲40b令〃09・申F1︲もも卜f■︲06■Ih0
「
こ
ん
に
ち
は
。
ど
こ
へ
行
く
の
?
」
東
洋
系
の
男
が
尋
ね
る
.
「
あ
れ
、
日
本
の
ノ
ノ
で
す
ノ
ノ
‘
)
い
や
、
イ
ス
ラ
エ
ル
か
ら
着
い
た
ば
っ
か
で
、
ホ
テ
ル
を
探
し
に
行
く
と
こ
ろ
で
す
。
!
「
ど
こ
?
ふ
−
ん
。
オ
"
ノ
‘
7
ア
ー
7
オ
ー
ド
か
。
そ
れ
な
ら
こ
こ
を
真
直
ぐ
行
っ
て
左
手
に
あ
る
よ
。
」
「
あ
、
そ
う
で
す
か
。
ど
う
も
有
難
う
ご
さ
(
ま
し
た
。
」
「
で
も
、
よ
か
っ
た
ら
う
ち
へ
遊
び
に
来
な
い
?
鐘
さ
ん
と
二
人
暮
ら
し
な
ん
だ
。
」
いく。
I
なんて習慣だ。下の階の連中は、残飯が落っこって来るのを見ながらメシを食うってわけか。でも、
窓から思いっ切り捨てるってのは、面白いもんだな。あれま、椅子まで落ちてるんじゃねーか。
居間の窓からの風景は、林立するカイロ中心部のビル群が見渡せるのだろうが、今はオレンジ灯が
ぼやけて見えるだけだ。砂が街中を漂っている。人も車も見えず音も届かない。オレンジ灯をじっと
見つめていると、砂の舞っている姿が分かる。日常を離れた時間と空間の申でのこの光景は、心身と
もに、おとぎ話の世界へ誘い込む。
「こっちへ来なよ・」いつものお喋りが始まる様子だ。インドでの話をする。カンジス川の河岸で死
体が焼かれ灰は川に流される。イスラエルでの話をする。城壁で固まれたエルサレムの旧市街は、何
か起こると一斉にすべての門が閉まり、次の瞬間にはイスラエノ暉が何十人と門に集まる。ユーゴス
ラビアでの話をする。日本で−つ屋根の下で枕を並べて寝てた奴と偶然会った。四人ともニコニコし
-63!--
1
一ー、
−J--一ヨ.ー弓F=T===雪盲左三一丁ニョーー
ながら聞いている。
南米(アンデスと、日系人と)
「
イ
ス
ラ
ム
教
を
ほ
ん
の
僅
か
で
も
感
じ
た
く
て
中
近
東
へ
来
た
。
」
そ
う
い
う
と
、
四
人
で
か
わ
る
が
わ
る
説
明
し
始
め
た
。
:
そ
し
て
関
心
が
あ
る
な
ら
ば
、
と
に
か
く
コ
ー
ラ
ン
を
読
め
、
と
言
う
。
翌
朝
5
時
。
礼
拝
を
告
げ
る
ア
ザ
ー
ン
カ
噛
中
に
こ
だ
ま
す
る
。
薄
目
を
開
け
る
と
1
9
才
の
彼
が
す
つ
く
と
立
っ
て
い
る
。
男
性
は
礼
拝
所
へ
行
く
の
だ
け
れ
ど
、
彼
は
行
か
な
い
様
子
だ
。
声
を
か
け
る
の
に
た
め
ら
い
、
じ
っ
と
見
て
1985年入学吉田憲悟
南米には、アマゾン、アンデス、アタカマ、パタゴニアと、あらゆる気候区がおさまっていておも
い
る
と
、
台
所
へ
通
じ
る
廊
下
の
扉
を
閉
め
て
、
左
斜
め
方
向
を
向
き
、
一
礼
を
奉
げ
た
。
再
び
眠
気
が
襲
い
、
遠
い
しろい。一方人種は、先住民のインディヘナ(インディオ)とラテン系を主とする移民、そしてその
所で彼がネ牌しているような気がしてくる。
混血、言語はほとんどがスペイン語(ポルトガル語もスペイン語の親戚である。)と、そういう面では
極めて単純で、旅行するには楽だが、かえってつまらないという者もいる。
あ
−
あ
、
よ
く
寝
た
。
も
う
昼
か
。
昨
日
は
不
思
議
な
気
分
だ
っ
た
な
。
自
分
が
何
処
に
居
る
の
か
分
か
ら
な
か
っ
た
。
さ
て
、
と
に
か
く
ホ
テ
ル
に
荷
物
を
置
き
に
行
く
か
。
そ
う
思
っ
て
用
意
し
て
い
る
と
夫
妻
が
戻
っ
て
き
た
。
昼
1987年休学し、ヒマラヤ、メラピークでの事故で帰国した後どうしようかと思っている時、おもわ
食
を
と
っ
て
、
し
ば
ら
く
身
上
話
を
す
る
。
何
で
二
人
と
も
イ
ス
ラ
ム
教
徒
に
な
っ
た
の
か
。
今
こ
こ
で
何
を
し
て
い
るのか。
ぬ所からアンデス登山の話が舞い込んだ。兵庫県立伊丹高校OB山岳会による、県伊高倉位85周年記
念アンデス登山隊。仰々しい名前だが、種を明かせば1人の教師が山好きの教え子をかき集め、そのバ
辺
り
は
暗
く
な
り
だ
し
た
が
、
熱
心
に
二
人
の
話
を
聞
い
た
。
凄
い
人
生
だ
。
ックアップの為にOB山岳会を名のっただけのことである。組織を利用するという点で、彼のやり方は
し
ば
ら
く
し
て
強
面
風
の
男
が
帰
っ
て
来
た
。
「
イ
ッ
サ
ラ
ー
ム
ア
レ
ー
ク
ム
」
二
人
に
挨
拶
す
る
。
「
ワ
レ
ー
ク
ム
イ
ッ
サ
ラ
ー
ム
」
二
人
は
挨
拶
す
る
。
シ
リ
ア
を
旅
行
し
て
い
た
時
に
、
あ
る
若
者
か
ら
、
「
君
は
イ
ス
ラ
ム
教
徒
で
は
な
い
の
だ
か
ら
、
イ
ッ
サ
ラ
ー
ム
と
は
言
っ
て
は
い
け
な
い
」
と
言
わ
れ
た
こ
と
が
あ
る
。
そ
れ
以
来
使
わ
な
い
よ
う
に
し
て
い
る
が
、
皆
と
違
う
挨
拶
も
妙
だ
。
「
ハ
ロ
ー
」
も
し
か
し
て
、
こ
の
挨
拶
は
た
だ
の
挨
拶
言
葉
じ
ゃ
な
い
?ごI謹酎見世う冒葉をロにするだけじゃ瀬くて、ご垂=曇首麟茎塵冒篭墓
’
’
大したものだ、と思った。我々も見習うべきである。南米は是非とも行きたかった所だが、往復の飛
行機代だけで最低25万円。でも山という付加価値があるから、ということで、話にのった。
11月25日、ロサンゼルスからサンチアゴまで飛び、バスでアンデス越えをしてアルゼンチンのメン
ドーサという街に入ったのが11月30日である。この街力澄山の基地だ・目指す山は南米最高峰アコ
ンカグアがメインで、その他に高度順化もかねて、付近の5000m級の山を登ろうという計画だ。俺一
も
っ
と
凄
い
共
有
空
間
が
で
き
る
ん
じ
ゃ
な
い
か
。
そ
ん
な
気
が
し
て
き
た
。
一
体
、
彼
ら
は
ど
ん
な
気
持
ち
で
挨
拶
人で先にメンドーサに入り、情報収集をすることになっていたので、出発時に渡されたメンドーサ山
岳会の住所の紙切れ1つをたよりに街をさまよった。半日かけてようやくそのオフィスを発見、と思っ
たら、closed。また出直してくるか、と帰ろうとした時、変なオッサンがしゃべりかけでくる。「ニイ
チヤン、山岳会に何か用か?」「この辺の山の情報知りたいんやけど」「ワシは今から出かけるけど、今
日の夕方ウチに来いや。いろいろ教えたるで」「ほな今晩6時頃また来るわ」おそらくこんな会話がか
わされたように思う。何しろこのオッサンの英語力は俺以下。俺は英語がしゃべれない。ちなみにス
ペイン語はNHKのラジオ講座2ヶ月分である。このオッサンの名前はカルロス。この夜から、登山中
を交わしているんだろう。
そ
う
考
え
る
と
、
強
い
好
奇
心
と
一
緒
に
、
単
語
に
な
ら
な
い
よ
う
な
、
何
か
圧
倒
的
な
も
の
を
感
じ
、
自
分
が
押
11
し
潰
さ
れ
る
よ
う
な
気
に
さ
え
な
る
。
こ
れ
は
一
ヶ
月
も
居
た
ら
凄
い
こ
と
が
起
こ
る
か
も
し
れ
な
い
。
「
イ
ツ
サ
ラ
ー
ム
ア
レ
ー
ク
ム
」
1
9
才
の
大
男
が
帰
っ
て
来
た
。
も
は
や
そ
の
場
に
同
化
し
つ
つ
あ
っ
た
が
、
「
イ
ッ
サ
ラ
ー
ム
」
の
語
だ
け
は
使
わ
ず
に
カ
イ
ロ
で
の
3
週
間
が
動
き
始
め
た
〆
│
I
I
I
恢
後
、
紅
海
で
泳
ぎ
、
シ
ナ
イ
山
に
登
り
、
ア
レ
キ
サ
ン
ド
リ
ア
を
観
光
し
、
と
う
と
う
エ
ジ
プ
ト
を
出
発
す
る
|
│
か
j
k
た
。
1
0
月
2
2
日
、
カ
イ
ロ
の
国
際
空
港
ま
で
彼
ら
男
3
人
で
わ
ざ
わ
ざ
見
送
り
に
来
て
く
れ
た
。
強
面
風
の
男
が
別
れ
際
・-.64−.
I
監坐言一一二一一一…_.ー≦_?■_‐〒…
’,
ー
」
.
ずつとお世話になることになる。
スペイン語は日本人にとって便利な言葉だ。発音とスペルが一致するから、何と相手の言うわから
ない単語が辞書で引けるのである。西英、燕ロ辞典を駆使して手頃な山の話を聞き出す。日本での情
報では、付近には未踏峰がごろごろ転がっていて、初登頂した者には山の命名權があるから、県立伊
丹高校峰と名付けよう、と同窓会に約束してきたのだが、実際'ケ月もキャラバンにかければ未踏峰な
どいくらでもあるが、,週間や,0日で行ける所にはそんなもん芯い。未踏峰で較い趣ら適当な山教え
たるし、車で行ける所まで送ってやるぞ、とのことだった。はっきりいって正体不明の‘このオツサン
を信用していいのか不安であったが、このオッサンしか知らんし、まかした、ということにした。す
−65−
IJI、4lIIIIjlI41141Ⅱ14Ⅱ14111Ⅲ111︲︲4︲114口・咽11︲1■I1Jo4IⅡ1口■4411101︲
(1990年2月記)
I■BLr■■■■■■■■IF■Iqli6■■■IR8fllB0■■H1■DTB0019db・T4F■lqIfAqLⅡ11tトーb・jbⅡ01日.’■J1︲■I1I4d0U︲lⅡ︲●1114﹄ら,..■・寺“!L︲jb5判り.。ⅡbJ︲1
に
言
っ
た
。
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N
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・
M
o
n
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n
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t
h
i
n
g
.
Y
Q
u
a
r
e
a
b
r
o
t
h
e
r
。
”
意
味
は
わ
か
ら
な
い
け
ど
、
あ
、
カ
イ
ロ
で
3
週
間
生
活
し
た
ん
だ
な
、
と
思
っ
た
。
午
後
1
0
時
、
ナ
イ
ロ
ビ
行
の
待
合
室
は
人
影
が
ま
ば
ら
だ
。
寝
る
時
間
を
過
ぎ
た
子
供
が
眠
そ
う
に
母
親
の
服
を
ひ
っ
ぱ
っ
て
い
る
。
カ
フ
ェ
の
カ
ウ
ン
タ
ー
に
座
っ
て
残
り
の
エ
ジ
ブ
ト
ポ
ン
ド
で
オ
レ
ン
ジ
ジ
ュ
ー
ス
を
た
の
む
。
あ
た
り
が
次
第
に
ざ
わ
め
い
て
き
て
い
よ
い
よ
出
発
時
刻
。
明
日
の
朝
は
サ
バ
ン
ナ
だ
。
お
わ
り
。
’
|
−
一
−
一
IJ
るとホテルの手配から後発隊の空港への出迎えまで、よくめんどうを見てくれる。よく考えると、要
するにアルバイトでガイドの様なことをやってるんやな、とやっと気付いたのであった。それにして
RJ.lk
,
t
r
u
l
・
(
1
n
.
d
!
′
(
、
l
ノ
』』
4ヱさ
もカルロス、親切に、家族ぐるみでつきあってくれて、飯とかも食わしてくれて、なかなかいいおじ
さんである。
と
い
う
こ
と
で
、
後
発
隊
3
人
と
合
流
、
1
2
月
1
2
日
に
カ
ル
ロ
ス
の
ト
ラ
ッ
ク
で
チ
リ
国
境
近
く
ま
で
送
っ
て
.
も
ら
い、入山。樹木もなく、触ると痛いブッシュと雪渓が点在する河原をさかのぼっていく。道路近くで
は
馬
が
放
牧
さ
れ
、
奥
に
ま
で
踏
み
跡
も
あ
る
。
し
か
し
ウ
サ
ギ
が
は
ね
る
の
を
2
度
程
見
た
だ
け
で
、
ま
さ
に
荒
涼
と
し
た
風
景
だ
。
目
指
す
山
は
ト
ロ
ッ
サ
峰
と
い
う
山
だ
が
、
カ
ル
ロ
ス
か
ら
も
ら
っ
た
地
図
は
手
書
き
で
、
尾
根
と
川
と
ピ
ー
ク
し
か
書
か
れ
て
い
な
い
。
2
.
5
万
分
の
1
の
地
図
に
慣
ら
さ
れ
て
い
る
俺
は
さ
す
が
に
と
ま
ど
う
が
、
そ
ん
な
正
確
な
地
図
が
あ
る
こ
と
自
体
異
常
な
の
だ
、
と
思
い
直
す
。
こ
う
い
う
地
図
だ
と
、
地
図
読
み
と
い
う
よ
り
も
地
図
感
と
で
も
い
う
も
の
が
重
要
に
な
っ
て
く
る
が
、
と
も
か
く
翌
日
の
昼
頃
、
と
り
つ
き
の
尾
根
の
末
端
に
着
く
。
途
-I
吃
IM"ロ血ノ
← =
中
で
1
泊
す
れ
ば
ピ
ー
ク
に
届
く
と
い
う
こ
と
な
の
で
、
こ
こ
を
B
.
C
.
と
し
、
の
ん
び
り
高
度
順
化
す
る
こ
と
と
す
る
。
2
日
間
ブ
ラ
ブ
ラ
し
て
、
3
日
目
、
尾
根
上
の
雪
渓
に
C
,
(
C
4
3
0
0
m
?
)
、
翌
日
ア
タ
ッ
ク
に
出
る
。
が
、
と
に
か
く
岩
が
も
ろ
い
。
1
ヶ
所
、
少
し
急
な
部
分
が
あ
り
、
少
し
登
っ
て
み
る
も
、
ボ
ロ
ボ
ロ
の
岩
の
上
で
立
往
生
、
あ
っ
さ
り
断
念
す
る
。
カ
ル
ロ
ス
の
話
で
は
歩
い
て
登
れ
る
は
ず
だ
っ
た
の
に
、
仕
方
な
い
か
ら
写
真
で
も
と
る
か
、
と
風
景
を
な
が
め
直
す
と
、
な
ん
か
お
か
し
い
。
あ
れ
、
尾
根
を
1
本
ま
ち
が
え
て
る
!
あ
れ
、
地
図
の
尾
根
が
1
本
余
分
や
1
1
地
図
が
ま
ち
が
っ
て
い
た
の
だ
っ
た
。
ま
あ
高
度
順
化
も
で
き
た
し
、
こ
う
い
う
わ
け
の
わ
か
ら
ん
所
を
さ
ま
よ
う
の
も
探
検
的
で
い
い
ね
。
あ
あ
お
も
し
ろ
か
っ
た
、
ち
ゃ
ん
ち
ゃ
ん
、
と
。
さ
っ
さ
と
荷
物
を
ま
と
め
、
ピ
ッ
チ
で
メ
ンドーサに帰ったのであった。
ト
ロ
ツ
サ
峰
に
比
べ
、
ア
コ
ン
カ
グ
ア
は
あ
ま
り
に
メ
ジ
ャ
ー
な
山
で
あ
る
。
ア
プ
ロ
ー
チ
も
徒
歩
2
日
と
近
く
、
キ
ャ
ラ
バ
ン
用
の
馬
も
た
く
さ
ん
い
る
。
こ
の
辺
の
交
渉
も
カ
ル
ロ
ス
が
万
事
う
ま
く
や
っ
て
く
れ
た
。
1
2
月
2
2
日
、
さ
ら
に
後
発
の
3
人
を
加
え
て
出
発
。
キ
ャ
ラ
バ
ン
で
す
れ
ち
が
う
人
も
多
い
。
B
.
C
.
は
立
派
な
テ
ン
ト
村
だ
。
ざ
っ
と
見
トロッサ峰及びアコンカグア周辺の地図
積
も
っ
て
1
5
0
人
は
い
る
と
見
た
。
ま
ず
ア
ル
ゼ
ン
チ
ン
人
の
遭
対
部
隊
力
い
る
。
登
山
人
数
の
チ
ェ
ッ
ク
等
を
し
て
い
た
様
だ
が
、
そ
れ
よ
り
ギ
タ
ー
な
ど
を
持
ち
込
ん
で
ワ
イ
ヮ
イ
や
っ
て
い
る
。
ビ
ー
ル
な
ど
も
金
を
払
え
ば
わ
け
て
く
れ
る
。
南
壁
登
は
ん
の
為
の
高
度
順
化
に
来
て
い
る
精
鋭
ク
ラ
イ
マ
ー
た
ち
が
い
る
。
パ
ラ
パ
ン
ト
で
飛
ん
で
来
る
奴
も
い
る
。
自
転
車
を
か
つ
い
で
い
る
者
も
い
る
。
グ
ラ
イ
ダ
ー
で
テ
ン
ト
村
に
墜
落
す
る
者
も
い
る
(
ウ
ソ
じ
ゃ
な
い
。
テ
ン
ト
に
あ
た
ら
な
か
っ
た
の
が
不
思
議
だ
っ
た
ぜ
)
。
里
か
ら
登
山
者
に
つ
い
て
来
た
犬
も
い
る
(
シ
ー
ズ
ン
中
は
こ
こ
の
方
が
エ
サ
が
豊
富
ら
し
い
。
ち
な
み
に
そ
い
つ
も
ア
コ
ン
カ
グ
ア
に
何
度
も
登
頂
し
て
い
る
そ
う
だ
)
。
日
本
か
ら
の
ツ
ア
ー
客
も
、
日
光
浴
を
し
に
来
て
い
る
者
も
い
る
。
だ
か
ら
B
.
C
.
に
い
る
だ
け
で
も
楽
し
い
。
基
本
的
に
、
高
閲
'
頂
化
の
為
に
B
.
C
.
に
い
る
の
は
ヒ
マ
な
奴
ら
が
多
い
か
ら
、
近
く
の
岩
で
ボ
ル
ダ
リ
ン
グ
ご
っ
こ
を
し
た
り
、
人
の
テ
ン
ト
に
茶
を
飲
み
に
行
っ
た
り
で
、
い
っ
ぱ
い
友
達
が
で
き
る
。
思
い
浮
か
ぶ
だ
け
で
,
0
ヶ
国
以
上
の
連
中
が
い
た
なあ。
−66−
弓
j1﹄
己
四 一 F
一 一 マ ー ー ー ー ー ー ザ ー ー ー ー 司 守
ー
− −
一÷
−ー
−−…一‐
=一室
・1J■
‐ー蚕‐三:一
命乱Ⅱr︲︲Ⅱ1.IIIIIIIJ研ⅡIIIJI
F戸
凱
菖
体
憾
北
ル
ー
ト
臆
技
術
的
に
総
難
し
《
な
い
。
踏
伽
上
蔑
で
あ
る
し
、
雪
織
少
帆
、
結
局
ア
イ
ゼ
|
ン
、
ピ
ッ
ケ
ル
を
使
わ
ず
に
登
っ
て
し
ま
っ
た
。
た
だ
し
さ
す
が
に
体
力
は
い
る
。
そ
れ
と
あ
と
は
高
度
と
天
気
で
あ
|
に来ても日本人の印象が強く残るということは、やはりイ
やはり俺はあらゆる面で日本人なのである。
ユバ農場のみなさん、本当にありがとうございました。
る
。
1
週
間
周
期
く
ら
い
で
天
気
力
蜜
わ
る
ら
し
く
、
我
々
は
ラ
ッ
キ
ー
だ
っ
た
力
糎
天
に
つ
か
ま
る
と
か
な
り
苦
労
で
、
1
凍
傷
に
な
っ
て
馬
に
乗
せ
ら
れ
下
山
し
て
い
く
者
も
い
た
。
あ
と
、
こ
こ
も
正
確
な
地
図
は
な
い
し
、
ガ
ス
る
と
踏
み
i
跡
も
わ
か
ら
な
く
な
る
か
ら
、
地
理
感
も
必
要
。
と
も
か
く
高
脚
頂
化
に
時
間
を
か
け
、
天
気
の
い
い
日
に
の
ん
び
り
|
登
っ
て
下
さ
い
と
い
う
こ
と
だ
。
そ
れ
に
し
て
も
7
0
0
0
m
級
の
山
で
こ
ん
な
に
楽
に
登
れ
る
山
も
め
ず
ら
しだ
ろ
う
。
|
登
頂
日
は
1
月
1
日
。
ピ
ー
ク
か
ら
の
な
が
め
は
、
世
界
最
大
の
山
脈
が
果
て
し
な
く
続
き
、
最
高
で
あ
る
。
I
南
米
は
移
民
国
家
で
あ
る
。
日
系
移
民
も
各
地
に
お
り
、
小
さ
な
街
で
T
O
K
Y
O
な
ど
と
い
う
商
店
の
看
板
に
出
会
|
っ
て
、
つ
い
立
ち
寄
っ
て
み
た
く
な
る
も
の
だ
が
、
ブ
ラ
ジ
ル
は
そ
の
中
で
も
特
別
で
あ
る
。
現
在
日
系
人
人
口
は
7
0
,
‘
万
と
も
8
0
万
と
も
言
わ
れ
、
サ
ン
パ
ウ
ロ
の
東
洋
人
街
は
日
本
よ
り
日
本
的
で
あ
る
(
下
町
っ
ぽ
い
)
と
言
う
人
も
い
,
る
く
ら
い
だ
。
日
系
の
新
聞
も
4
紙
あ
る
。
た
だ
し
雑
誌
、
書
籍
は
船
便
で
来
る
。
商
社
の
駐
在
員
な
ど
と
は
ち
が
い
、
’
人
々
は
こ
ち
ら
で
暮
ら
し
て
い
る
の
だ
か
ら
、
物
価
の
格
差
を
考
え
れ
ば
航
空
便
で
は
庶
民
の
手
に
届
か
な
く
な
る
の
I
|
’
だ
ろ
う
か
。
本
屋
に
憾
3
ヶ
月
遅
れ
の
雑
誌
が
並
ん
で
い
る
。
日
系
人
も
2
世
か
ら
3
世
、
4
世
が
増
え
、
日
本
に
出
か
|
せ
ぎ
、
あ
る
い
は
留
学
な
ど
と
い
う
形
で
日
本
を
見
続
け
る
者
、
日
本
を
離
れ
て
プ
ラ
ジ
ル
と
の
同
化
を
選
ん
だ
者
様
々
|
で
あ
る
。
日
本
人
っ
て
何
な
の
か
、
と
本
当
に
考
え
込
ん
で
し
ま
う
。
’
1
俺
が
ブ
ラ
ジ
ル
に
行
っ
た
年
(
1
9
8
8
)
は
ち
ょ
う
ど
移
民
8
0
周
年
で
、
日
系
社
会
は
そ
の
式
典
の
話
な
ど
で
も
ち
き
,
り
だ
っ
た
.
そ
ん
な
話
の
中
で
な
ん
と
か
の
間
l
l
良
一
氏
力
澄
場
す
る
。
何
か
の
寄
付
の
見
返
り
に
8
0
周
年
記
念
式
典
│
の
万
歳
の
音
頭
を
と
る
と
か
、
と
ら
な
い
と
か
で
、
日
系
紙
が
2
つ
に
分
か
れ
て
論
争
し
て
い
る
の
で
あ
る
。
こ
ん
な
所
,
に
ま
で
名
前
が
出
て
く
る
と
は
、
さ
す
が
で
あ
る
。
そ
れ
は
と
も
か
く
、
式
典
に
は
絶
対
天
皇
陛
下
が
来
る
べ
き
だ
と
主
張
し
て
い
た
お
じ
い
さ
ん
。
そ
し
て
俺
が
帰
国
し
て
か
ら
行
わ
れ
た
8
0
周
年
の
式
典
に
関
す
る
皇
太
子
の
動
き
を
中
心
に
し
た
わ
ず
か
,
段
分
の
新
聞
記
事
。
こ
の
遠
,
く
か
ら
日
本
を
見
つ
め
て
い
る
日
本
人
と
、
そ
の
存
在
を
ほ
と
ん
ど
ダ
ル
‘
な
,
‘
1
,
,
イ
ー
ノ
、
の
対
比
が
、
う
ま
く
言
え
な
い
!
け
ど
、
胸
に
残
る
も
の
が
あ
る
。
8
0
年
の
歴
史
が
あ
り
、
戦
争
か
あ
り
、
そ
れ
そ
れ
の
国
家
が
あ
り
、
そ
こ
に
人
が
お
!
‘
り
、
簡
単
に
言
い
表
ぜ
る
は
ず
が
な
い
。
し
か
し
、
ブ
ラ
ジ
ル
に
多
く
の
日
系
人
が
い
る
、
と
い
う
こ
と
を
知
っ
た
こ
|
’
と
は
自
分
に
と
っ
て
大
き
な
蝿
だ
っ
た
し
、
な
ぜ
か
わ
か
ら
な
い
が
、
多
く
の
人
に
そ
の
こ
と
を
知
っ
て
ほ
し
い
と
I
’
サ
ン
パ
ウ
‘
画
州
画
'
扉
聯
索
ン
力
と
い
う
所
に
あ
る
ユ
バ
農
場
を
i
;
方
ね
た
。
旅
行
者
を
気
軽
に
泊
め
て
く
れ
る
と
い
う
話
で
、
突
然
荷
重
膳
俺
を
気
総
よ
く
迎
え
入
れ
て
く
れ
た
。
彼
ら
も
日
本
人
と
し
て
、
ブ
ラ
ジ
ル
で
暮
ら
し
て
い
る
。
子
供
達
は
謀
ず
圏
誰
語
を
憶
恋
磯
に
ボ
ル
ト
ヵ
ノ
聡
を
習
う
そ
う
だ
。
い
き
な
り
ピ
ク
ニ
ッ
ク
に
連
れ
て
い
っ
て
も
ら
っ
て
人
な
つ
う
軌
ハ
手
供
達
と
遊
ん
だ
り
、
農
作
業
を
手
伝
わ
せ
て
も
ら
っ
た
り
、
短
い
期
間
だ
が
、
妙
に
印
象
に
残
っ
て
い
る
。
言
葉
の
障
壁
が
な
い
せ
い
も
あ
り
、
ブ
ラ
ジ
ル
で
の
日
本
人
と
い
う
こ
と
も
あ
る
の
だ
ろ
う
が
、
海
外
思う。
j二〃11口Pもbrl44中’←〃0千5291■lⅡ61申今bPbPppf8Ⅱ1.60J迅日甲型’10409
−68−
一
トロI
乱 ∼
−69−
(1990年2月記)
−
第3部随想
字
lll
l1
I
’
111
■
﹁
ー
’
1
ー−−−−.--
F 己 ー 甲 ■ = = ■ ■ P ■ で ■ ■ ー ■ ー 竜 一
-==- -=____.__−一一一一一−−−f
‐
一
一
一
一
一
=
一
・
−
−
二
.
。
一
.
‐
∼
=一一
−
−
一‐
‐ 一=
一
‐
-一
一
一
一
一
=
一
一
一
一
』
山派的探検部論
1973年入学大江靖雄
探
検
部
あ
る
い
は
探
検
的
行
為
に
と
っ
て
「
山
」
と
は
何
か
、
ま
た
ど
う
把
え
る
べ
き
か
と
い
う
問
い
か
け
は
常
に
古
く
て
新
し
い
問
題
で
あ
る
。
そ
こ
で
、
こ
こ
で
は
山
派
と
い
う
ひ
と
つ
の
方
法
論
の
視
点
か
ら
探
検
部
と
探
検
的
行
為について考え、山派の位置付けを試みてみたいと思う。
ただ以下の議論はあくまで私個人の私論=試論一つまり「である」という現状認識と「であって欲
し
い
」
と
い
う
私
的
な
価
値
判
断
が
多
分
に
ミ
ッ
ク
ス
さ
れ
た
も
の
ー
で
あ
る
と
い
う
こ
と
を
あ
ら
か
じ
め
明
記
し
て
おきたい。
そ
も
そ
も
探
検
部
に
あ
っ
て
は
探
検
的
行
為
自
体
が
多
様
な
対
象
を
持
ち
う
る
こ
と
か
ら
、
ア
プ
ロ
ー
チ
の
仕
方
が
様
々
で
あ
る
の
は
む
し
ろ
当
然
の
こ
と
で
あ
り
、
決
し
て
驚
く
に
あ
た
ら
な
い
と
い
う
よ
り
も
望
ま
し
い
こ
と
で
さ
え
.
あ
る
。
や
み
く
も
に
対
象
限
定
し
方
法
論
を
一
本
化
し
よ
う
と
す
る
こ
と
程
、
非
生
産
的
で
無
意
味
な
試
み
は
な
い
だ
ろ
う
。
な
に
し
ろ
、
多
様
性
の
標
桟
こ
そ
が
探
検
部
力
需
り
う
る
(
も
の
が
あ
る
と
す
れ
ば
)
唯
一
無
二
の
取
柄
で
あ
・
り、まさに偉大なる発想の源泉なのだから。
た
だ
周
知
の
と
お
り
多
様
性
と
混
沌
と
は
し
ば
し
ば
コ
イ
ン
の
両
面
を
成
し
て
お
り
、
多
様
性
指
向
の
な
か
に
は
カ
オ
ス
の
泥
沼
へ
と
は
ま
り
込
む
危
険
性
が
常
に
並
存
し
て
い
る
の
で
あ
る
。
こ
こ
で
い
ま
混
沌
(
カ
オ
ス
)
と
い
っ
た
が
、
こ
れ
は
具
体
的
に
は
パ
イ
オ
ニ
ア
ワ
ー
ク
へ
の
指
向
性
を
見
失
っ
た
日
常
的
マ
ン
ネ
リ
ズ
ム
の
状
態
で
あ
り
(
「
パ
イ
オ
ニ
ア
ワ
ー
ク
」
と
い
う
言
葉
自
体
に
多
少
時
代
め
い
た
色
合
を
感
ぜ
ず
に
は
お
れ
な
い
が
、
こ
こ
で
は
創
造
的
で
あ
る
た
め
に
は
ど
こ
か
精
神
に
お
い
て
保
守
的
で
な
け
れ
ば
な
ら
な
い
、
と
い
う
認
識
に
も
と
づ
き
多
少
の
気
恥
ず
か
し
さ
を
覚
悟
で
使
用
さ
せ
て
頂
く
。
)
、
ひ
と
つ
最
近
す
っ
か
り
定
着
し
た
「
レ
ジ
ャ
ー
化
」
と
い
う
言
葉
に
置
き
換
え
てもよいだろう。
い
ま
や
レ
ジ
ャ
ー
化
は
社
会
の
隅
々
ま
で
広
汎
に
浸
透
し
、
勿
論
大
学
内
に
お
け
る
ク
ラ
ブ
の
存
在
も
決
し
て
こ
の
現
象
を
抜
き
に
し
て
は
語
れ
な
く
な
っ
て
し
ま
っ
て
い
る
ど
こ
ろ
か
、
大
学
そ
の
も
の
が
レ
ジ
ャ
ー
ラ
ン
ド
と
言
わ
れ
始
め
て
す
で
に
久
し
い
こ
と
は
周
知
の
と
お
り
で
あ
る
。
し
か
し
、
こ
こ
で
の
目
的
は
、
し
た
り
顔
で
大
学
の
レ
ジ
ャ
ー
ラ
ン
ド
化
を
嘆
い
て
み
た
り
、
空
っ
ぽ
の
頭
を
か
か
え
込
ん
だ
り
す
る
こ
と
で
は
な
い
。
問
題
は
こ
う
し
た
レ
ジ
ャ
ー
化
の
波
に
探
検
部
は
比
韓
的
洗
わ
れ
易
い
体
質
を
持
っ
て
い
る
と
い
う
こ
と
な
の
で
あ
’
る
。
そ
れ
は
い
う
ま
で
も
な
く
こ
の
多
様
性
に
帰
因
す
る
と
こ
ろ
の
も
の
で
あ
り
、
探
検
部
の
枠
組
あ
る
い
は
土
台
そ
のものに関わっているのである。
’
11
こ
こ
で
ひ
と
つ
の
反
論
(
ま
た
は
疑
問
)
が
予
想
さ
れ
る
か
も
し
れ
な
い
。
「
で
は
な
ぜ
、
レ
ジ
ャ
ー
ラ
ン
ド
化
し
た
大
学
は
い
け
な
い
の
か
。
」
無
論
そ
れ
は
個
人
の
選
択
の
問
題
で
あ
り
、
良
い
悪
い
の
価
値
の
問
題
で
は
な
い
。
た
だ
、
私
個
人
の
立
場
を
こ
こ
−71−
三一
■■■ロ−−−両.■.□、■争一■一一÷巳■■■ご■ー=七一Fq=己■■
F=否!
一一一-一百一一毛言言・-一雨'や一=卓P=−_q_
I
一一
=ー=三一一一一一一一.−−−−−−‐
|
で
明
確
に
し
て
お
け
ば
、
残
念
な
が
ら
レ
ジ
ャ
ー
派
に
は
組
み
出
来
な
い
と
い
う
こ
と
で
あ
る
。
梅
棹
忠
夫
氏
は
読
書
に
は
知
的
消
費
の
た
め
の
読
書
と
、
知
的
生
産
の
た
め
の
も
の
が
あ
る
と
述
べ
て
い
る
が
、
こ
れ
を
今
の
レ
ジ
ャ
ー
と
パ
イ
オ
ニ
ア
ワ
ー
ク
の
議
論
に
適
用
す
れ
ば
、
一
方
で
レ
ジ
ャ
ー
は
創
造
性
へ
の
ベ
ク
ト
ル
を
持
た
な
い
(
あ
る
い
は
の希求、絶えざる知的好奇心そして未知への憧れ等々の言葉で漠然と表現している一に他ならない。ロ
持
ち
え
な
い
)
知
的
消
費
行
為
で
あ
り
、
他
方
パ
イ
オ
ニ
ア
ワ
ー
ク
は
知
的
生
産
行
為
で
あ
る
と
い
う
こ
と
に
な
る
。
そ
し
て
、
つ
い
で
に
言
え
ば
私
の
指
向
し
よ
う
と
す
る
も
の
は
消
費
的
行
為
で
は
な
く
、
あ
く
ま
で
生
産
的
行
為
な
の
で
あ
る
。
し
た
が
っ
て
、
探
検
部
は
常
に
知
的
生
産
者
の
集
団
で
な
け
れ
ば
な
ら
な
い
と
い
う
の
が
、
私
個
人
の
根
本
に
し
て
最
大
の
偏
見
で
あ
る
。
以
後
、
秘
ま
こ
の
偏
見
を
よ
り
ど
こ
ろ
と
し
て
議
論
を
進
め
る
こ
と
に
な
る
の
で
、
あ
らかじめ断っておきたい。
い
る
の
で
な
け
れ
ば
な
ら
な
い
。
な
ぜ
な
ら
、
対
象
は
異
な
っ
て
い
よ
う
と
も
相
互
の
ロ
マ
ン
テ
ィ
シ
ズ
ム
を
確
認
し
認
め
合
う
と
い
う
作
業
が
、
わ
れ
わ
れ
の
多
様
性
を
保
障
す
る
う
え
で
の
欠
く
こ
と
の
で
き
な
い
ス
テ
ッ
プ
と
な
っ
て
い
る
と
考
え
ら
れ
る
か
ら
で
あ
る
。
い
い
か
え
れ
ば
、
ロ
マ
ン
テ
ィ
シ
ズ
ム
が
一
見
無
秩
序
に
見
え
る
わ
れ
わ
れ
の
雑
さ
て
、
知
的
生
産
者
の
集
団
で
あ
る
は
ず
が
、
い
つ
の
間
に
か
消
費
的
行
為
に
の
み
の
繰
り
返
し
に
陥
っ
て
し
ま
う
と
い
う
の
が
先
の
議
論
だ
っ
た
が
、
で
は
そ
れ
を
脱
却
す
る
た
め
に
は
如
何
に
し
た
ら
よ
い
だ
ろ
う
か
。
ま
た
如
何
な
大
き
く
貢
献
し
て
き
た
こ
と
は
い
う
ま
で
も
な
い
。
そ
こ
で
は
、
単
な
る
経
験
主
義
や
行
動
主
義
納
一
ダ
ー
シ
ッ
ブ
マンティシズムはわれわれに共通する基本的な性向なのである。.
それゆえに、われわれの活動は相互のロマンティシズムを認め合うということが前提条件となって
を
取
る
の
で
は
な
く
、
ロ
マ
ン
テ
ィ
シ
ズ
ム
を
身
を
も
っ
て
体
現
で
き
る
発
想
豊
か
な
者
力
填
の
リ
ー
ダ
ー
シ
ッ
プ
を
る
試
み
が
な
さ
れ
る
べ
き
だ
ろ
う
か
。
勿
論
私
個
人
の
力
で
こ
う
し
た
問
題
に
対
す
る
決
定
的
で
明
解
な
回
答
を
与
え
と
る
こ
と
が
で
き
る
の
で
あ
る
。
つ
ま
り
、
サ
ロ
ン
的
雰
囲
気
の
底
流
に
は
ロ
マ
ン
テ
ィ
シ
ズ
ム
至
上
主
義
と
い
っ
た
る
こ
と
な
ど
で
き
な
い
し
、
そ
も
そ
も
答
え
る
者
に
よ
っ
て
そ
の
回
答
は
さ
ま
ざ
ま
で
あ
る
に
違
い
な
い
。
そ
こ
で
、
私
な
り
に
ひ
と
つ
の
議
論
の
題
材
と
し
て
こ
こ
で
提
供
し
た
い
の
が
山
派
的
方
法
論
で
あ
る
。
そ
れ
は
い
今
暗黙の前提が認められるのである。
こ
の
こ
と
か
ら
探
検
部
を
改
め
て
見
直
し
て
み
る
と
、
ロ
マ
ン
テ
ィ
シ
ズ
ム
を
抱
い
た
個
人
が
形
成
す
る
知
的
倉
慥
集
団
、
あ
る
い
は
創
造
的
世
界
に
遊
ぶ
こ
と
の
喜
び
を
知
り
そ
れ
を
共
有
す
る
集
団
と
い
う
こ
と
が
で
き
る
だ
ろ
う
。
こ
こ
で
「
集
団
」
に
ド
ッ
ト
を
打
っ
た
の
は
、
集
団
の
持
つ
意
味
に
つ
い
て
多
少
の
説
明
を
要
す
る
と
思
わ
れ
る
か
ら
で
あ
る
。
重
要
な
点
は
探
検
部
は
集
団
で
あ
っ
て
、
組
織
で
は
な
い
と
い
う
こ
と
で
あ
る
。
‘
で
は
集
団
と
組
織
は
ど
こ
が
ち
が
う
の
か
。
ち
が
い
は
組
織
力
蝿
固
た
る
階
級
性
と
固
有
の
秩
序
と
を
持
ち
そ
の
構
● ●
う
ま
で
も
な
く
(
ま
た
言
い
古
さ
れ
た
よ
う
で
も
あ
り
)
方
法
論
と
し
て
は
最
も
オ
ー
ソ
ド
ッ
ク
ス
と
い
わ
れ
る
も
の
で
あ
り
、
か
っ
て
の
地
理
的
探
検
へ
の
回
帰
を
指
向
す
る
も
の
で
あ
る
。
そ
れ
は
単
に
山
と
い
う
存
在
あ
る
い
は
フ
ィ
ー
;
!
;i
,
|
;
:
’
:
:
:
:
.
:
I
|
;
:
:
i
:
}
● ●
ル
ド
に
技
術
修
得
や
ト
レ
ー
ニ
ン
グ
の
場
と
し
て
の
意
義
を
認
め
る
ば
か
り
で
な
く
(
勿
論
体
系
化
さ
れ
総
合
的
な
技
術
の
容
易
な
収
得
を
可
能
に
す
る
と
い
う
点
で
そ
の
意
義
は
今
も
っ
て
大
き
い
も
の
が
あ
る
。
こ
の
意
味
で
日
常
的
行
為
は
必
要
な
の
で
あ
っ
て
、
問
題
は
日
常
的
行
為
の
み
に
埋
没
し
て
し
ま
う
こ
と
な
の
で
あ
る
。
)
、
積
極
的
に
こ
れ
ら
成
員
を
拘
束
す
る
の
に
対
し
て
、
集
団
は
そ
う
し
た
束
縛
か
ら
は
一
切
自
由
な
(
そ
し
て
自
由
で
あ
る
べ
き
)
存
在
で
あ
る
こ
と
で
あ
り
、
組
織
と
は
逆
に
メ
ン
バ
ー
の
意
志
が
集
団
の
あ
り
方
を
決
定
し
方
向
づ
け
る
と
考
え
ら
れ
る
と
こ
ろ
に
あ
る
。
し
た
が
っ
て
、
組
織
の
内
部
で
は
個
性
は
抑
圧
さ
れ
個
人
は
一
面
的
な
人
格
の
関
わ
り
し
力
持
ち
得
な
い
の
に
対
し
、
集
団
で
は
個
性
の
発
露
力
澗
待
さ
れ
多
面
的
な
人
格
の
関
わ
り
が
成
さ
れ
る
こ
と
に
な
る
。
こ
の
点
か
ら
す
れ
ば
、
本
来
奔
放
な
ロ
マ
ン
テ
ィ
シ
ズ
ム
が
個
人
主
義
に
も
と
づ
い
た
も
の
で
あ
り
、
相
互
の
協
調
と
競
合
が
信
頼
を
生
み
樹
成
員
相
互
を
結
び
つ
け
て
い
る
の
で
あ
れ
ば
、
探
検
部
が
組
織
で
は
な
く
集
団
で
あ
る
の
は
!
;
:
’
の
フ
ィ
ー
ル
ド
に
活
動
の
場
を
求
め
て
行
こ
う
と
す
る
方
法
論
と
い
っ
て
よ
い
だ
ろ
う
。
い
い
か
え
れ
ば
、
野
山
に
お
い
て
創
造
的
行
為
を
な
そ
う
と
す
る
こ
と
に
他
な
ら
な
い
。
;i
’
多
な
指
向
性
を
結
び
合
う
基
本
的
な
絆
の
役
割
を
果
た
し
て
い
る
と
い
え
る
だ
ろ
う
。
そ
し
て
、
独
特
の
サ
ロ
ン
的
雰
囲
気
が
ロ
マ
ン
テ
ィ
シ
ズ
ム
を
は
ぐ
く
み
、
新
た
な
パ
イ
オ
ニ
ア
ワ
ー
ク
の
誕
生
に
し
か
し
こ
の
こ
と
は
一
見
す
る
と
こ
ろ
矛
盾
に
も
み
え
、
ひ
ど
く
誤
解
を
州
"
i
!
り
き
ノ
ノ
で
も
あ
り
、
事
実
そ
う
し
た
誤
解
に
も
と
づ
い
た
不
毛
と
も
い
え
る
様
な
議
論
が
従
来
か
ら
し
ぱ
い
↑
綴
:
、
&
、
イ
、
、
そ
れ
は
一
方
で
野
山
に
お
け
る
無
心
の
行
為
と
、
他
方
で
書
斎
で
行
な
わ
れ
る
べ
き
知
│
γ
順
l
l
!
世
!
=
:
'
)
I
,
J
L
,
r
イ
げ
M
[
i
,
f
,
j
、
た
つ
の
結
び
付
き
が
引
き
起
こ
す
も
の
の
様
で
あ
る
。
か
つ
て
み
ら
れ
た
行
動
孝
!
}
我
批
判
と
書
斎
主
義
批
'
1
'
&
〆
』
'
1
1
/
I
の
応
酬
は
、
こ
I
;
1
自明のことといえる。
う
し
た
一
面
的
思
考
に
陥
っ
て
い
る
も
の
と
し
て
共
に
し
り
そ
け
ら
れ
な
け
れ
ば
な
ら
な
い
。
し
か
し
集
団
は
多
様
性
を
保
持
す
る
に
は
都
合
良
く
と
も
、
機
能
的
な
行
動
い
わ
ば
能
率
と
い
っ
た
点
で
組
織
に
大
き
く
劣
っ
て
い
る
こ
と
は
事
実
で
あ
る
。
多
数
の
構
成
員
を
擁
す
る
サ
ー
ク
ル
が
し
ば
し
ば
機
能
的
に
行
動
し
て
い
る
l■■■■■■■0”gI0HU8BB■■■lIIjI■011Ⅱ111ⅡP︲l巳■。l■rl0fl11lI1ll4J■■■■■且Bll■qdIl
わ
れ
わ
れ
が
求
め
る
の
は
単
な
る
冒
険
や
危
険
で
も
な
け
れ
ば
、
安
禁
な
夢
想
の
み
で
も
な
い
│
l
l
t
l
と
創
造
の
世
界
へ
の
飛
躍
で
あ
り
、
そ
れ
は
思
考
と
運
動
の
絶
え
間
な
く
続
く
前
進
す
る
フ
ィ
ー
ド
バ
ッ
ク
(
ハ
過
桿
で
あ
る
。
こ
の
意
味
で
自
由
は
パ
イ
オ
ニ
ア
ワ
ー
ク
の
前
提
で
あ
る
と
と
も
に
、
ま
た
そ
れ
自
体
が
目
的
と
も
な
っ
て
い
る
と
い
え
る
だろう。
で
は
一
体
、
わ
れ
わ
れ
を
こ
う
し
た
行
為
に
駆
り
立
て
る
も
の
は
何
な
の
だ
ろ
う
か
。
そ
れ
は
誰
も
論
理
的
で
明
解
な
説
明
な
ど
加
え
る
こ
と
は
で
き
な
い
け
れ
ど
、
た
だ
心
の
深
淵
か
ら
沸
き
上
が
る
把
え
ど
こ
ろ
の
な
い
、
し
か
し
確
固
と
し
て
存
在
す
る
情
勤
一
ひ
と
は
そ
れ
を
ロ
マ
ン
テ
ィ
シ
ズ
ム
あ
る
い
は
杼
惰
性
へ
−72−
|
:
:
1
1
,
■ 。
:
!
│
r
l
l
.
:
−
1
i
:
:
l
の
を
目
の
当
り
に
す
る
時
、
一
見
怠
惰
に
も
見
え
る
わ
れ
わ
れ
の
行
動
と
比
べ
て
組
劉
上
の
も
た
ら
ず
能
率
性
と
画
一
性を痛感せざるをえないだろう。
こ
う
し
た
点
か
ら
す
れ
ば
、
探
検
部
は
そ
も
そ
も
小
規
模
な
寄
り
合
い
に
止
ま
ら
ざ
る
を
え
な
い
の
で
あ
ぃ
集
団
と
し
て
の
自
己
拡
張
を
目
指
す
こ
と
は
必
然
的
に
組
織
化
の
制
度
と
画
一
化
を
生
み
、
ひ
と
り
'
歩
き
を
始
め
た
組
織
は
や
が
て
ロ
マ
ン
テ
ィ
シ
ズ
ム
そ
の
も
の
の
窒
息
を
招
来
し
か
ね
芯
い
と
い
え
る
。
し
た
が
っ
て
、
い
た
ず
ら
に
構
成
員
の
人
数
を
増
や
す
こ
と
に
の
み
精
力
を
傾
け
る
こ
と
は
、
集
団
と
し
て
の
本
来
の
あ
り
'
方
か
ら
い
え
ば
本
末
転
倒
芯
あ
−73−
:
I
F h
1
!
』 = 』 一 ロ ー ー ー ー
!
り、そうした行為は最小限に止めるべきである。
みを求めて野に出るのではない。危険はあくまで料理の味を引き立てるいわば調味料なのであるから、
危険のみを求めることはいくらそれが料理に不可欠の要素であっても、料理を味わわずして調味料だ
けを口の中に放り込む様なもので、まさに無謀な行為といわねばなるまい。したがって、危険はでき
と
い
っ
て
も
、
こ
こ
で
は
集
団
と
し
て
の
排
他
性
を
主
張
し
よ
う
と
し
て
い
る
わ
け
で
は
な
い
。
た
だ
自
己
拡
張
を
求
め
る
際
に
そ
う
し
た
組
織
化
へ
の
危
険
性
を
十
分
認
識
す
べ
き
で
あ
る
と
言
い
た
い
だ
け
な
の
で
あ
っ
て
こ
の
点
誤
解しないでいただきたい。
る
限
り
最
ノ
N
上
す
る
と
い
う
の
が
本
来
の
姿
で
あ
る
べ
き
で
あ
る
。
(
し
か
し
、
こ
の
こ
と
は
危
険
か
ら
逃
避
を
意
味
す
る
も
の
と
解
釈
さ
れ
る
べ
き
で
は
な
い
、
危
険
を
た
と
え
剥
、
限
に
で
き
て
も
、
決
し
て
完
全
に
回
避
で
き
る
わ
け
で
● ●
lllIIl
1111111
1
1
111111
●..IIp■・・.叩.・1町id●.d4.●.叩.●⋮非部Ⅱ1脈詫碓印●#●.r●許叩艸酔咄盟貼●●●..●咄.●⋮.●●●●●㎡..●⋮小...●.。.●......・叩..⋮...
I
以
上
、
探
検
的
行
為
と
は
ロ
マ
ン
テ
ィ
シ
ズ
ム
に
発
す
る
も
の
で
あ
り
、
探
検
部
は
ロ
マ
ン
テ
ィ
シ
ズ
ム
を
抱
い
た
者
た
ち
力
注
体
的
に
構
成
す
る
集
団
で
あ
る
と
述
べ
た
。
そ
し
て
、
集
団
が
組
織
化
す
る
こ
と
に
よ
り
ロ
マ
ン
テ
ィ
シ
は
な
い
。
そ
し
て
、
最
後
に
残
さ
れ
た
危
険
に
対
し
て
は
、
わ
れ
わ
れ
は
自
己
の
知
力
と
体
力
を
賭
け
て
そ
れ
ら
に
立
ズムへの干渉を生み出すことの危険性を指摘した。
ち向かわなければならない。)
し
か
し
実
際
の
問
題
(
つ
ま
り
日
常
的
マ
ン
ネ
リ
ズ
ム
か
ら
脱
却
す
る
と
い
う
問
題
)
と
し
て
は
、
組
織
化
の
弊
害
よ
り
も
、
む
し
ろ
方
法
論
上
の
混
乱
に
つ
い
て
考
え
て
み
な
け
れ
ば
な
ら
な
い
。
そ
こ
で
、
以
上
の
議
論
を
踏
ま
え
、
改
さ
ら
に
水
平
指
向
に
つ
い
て
考
え
て
み
よ
う
。
垂
蔵
旨
向
が
点
的
行
為
で
あ
れ
ば
、
前
者
は
面
的
行
為
と
い
っ
て
よ
い
。
つ
ま
り
長
さ
と
幅
を
持
っ
た
も
の
で
あ
る
。
垂
直
指
向
が
あ
る
一
点
で
ク
ラ
イ
マ
ッ
ク
ス
に
達
訴
鐙
の
に
対
し
、
水
めて山派的方法論について考えてみよう。
平
指
向
は
設
定
し
た
目
標
は
勿
論
の
こ
と
そ
の
過
程
ま
で
も
行
為
の
視
野
に
収
め
よ
う
と
す
る
も
の
と
規
定
で
き
る
。
そ
れ
ゆ
え
に
、
如
何
に
そ
の
過
程
を
ユ
ニ
ー
ク
に
案
出
す
る
か
と
い
う
こ
と
が
行
為
の
重
要
な
ポ
イ
ン
ト
に
な
り
、
こ
こ
に
発
想
の
ユ
ニ
ー
ク
さ
が
求
め
ら
れ
る
所
以
が
あ
る
。
そ
の
際
、
誰
も
未
だ
や
っ
て
い
な
い
と
い
う
の
は
ひ
と
つ
の
ま
ず
山
派
的
方
法
論
と
い
っ
て
も
、
具
体
的
に
は
何
を
指
向
す
る
の
だ
ろ
う
か
。
山
岳
部
の
よ
う
に
未
踏
の
ピ
ー
ク
に
向
か
っ
て
収
束
す
る
こ
と
を
目
的
と
す
る
の
も
ひ
と
つ
の
指
向
性
で
あ
ろ
う
と
思
わ
れ
る
が
、
わ
れ
わ
れ
が
求
め
る
の
は
そ
う
し
た
一
点
収
束
主
義
で
は
な
い
。
わ
れ
わ
れ
が
あ
え
て
山
岳
部
的
な
山
を
指
向
す
る
な
ら
ば
、
そ
れ
は
所
詮
客
観
的
な
基
準
と
な
る
こ
と
は
事
実
だ
が
、
む
し
ろ
主
観
的
条
件
つ
ま
り
自
己
に
と
っ
て
の
未
知
と
い
う
基
準
力
Ⅷ
わ
っ
て
い
る
こ
と
も
見
逃
す
こ
と
は
で
き
な
い
。
地
理
的
空
白
地
帯
力
泄
界
地
図
の
上
か
ら
ほ
と
ん
ど
消
滅
し
て
し
ま
っ
た
現
在
で
は
、
単
に
空
白
地
帯
を
踏
査
し
た
と
い
う
だ
け
の
行
為
は
も
は
や
成
立
し
が
た
い
。
し
た
が
っ
て
、
主
観
的
二
番
煎
じ
に
す
ぎ
ず
セ
カ
ン
ド
ク
ラ
ス
と
し
て
の
地
位
に
終
始
す
る
こ
と
に
な
る
こ
と
は
、
そ
の
技
術
的
水
準
と
組
織
性
か
ら
み
て
も
明
ら
か
で
あ
る
。
そ
れ
は
日
常
ト
レ
ー
ニ
ン
グ
と
し
て
の
意
義
は
認
め
ら
れ
て
も
、
も
は
や
わ
れ
わ
れ
の目指す創造的な行為とはいえない。
動
機
づ
け
が
次
第
に
重
き
を
な
す
こ
と
は
や
む
を
え
ぬ
趨
勢
と
い
え
よ
う
。
で
は
わ
れ
わ
れ
自
身
の
山
と
は
、
ど
う
あ
る
べ
き
か
。
そ
れ
は
明
ら
か
に
山
岳
部
の
そ
れ
と
は
異
質
の
も
の
で
あ
る
。
垂
直
登
は
ん
へ
と
精
鋭
化
し
、
ア
ク
ロ
バ
チ
ッ
ク
な
技
術
を
要
求
さ
れ
る
行
為
は
す
で
に
わ
れ
わ
れ
の
目
指
す
も
の
か
ら
余
り
に
も
偏
っ
て
い
る
と
い
わ
ざ
る
を
え
な
い
。
は
じ
め
に
述
べ
た
よ
う
に
、
探
検
部
に
お
け
る
山
派
的
行
為
は
地
理
的
探
検
へ
の
回
帰
願
望
の
あ
ら
わ
れ
と
い
っ
て
よ
い
の
で
あ
る
。
そ
れ
は
か
つ
て
未
知
へ
の
憧
撮
か
ら
人
々
を
T
E
R
R
A
I
N
C
O
G
M
T
A
へ
と
駆
り
立
て
た
情
熱
と
執
を
一
に
し
て
い
る
(
j
z
'
、
ヌ
ヲ
.
↑
I
孔
,
過
ぎ
だ
ろ
う
か
)
。
そ
し
て
そ
こ
に
お
け
る
彼
ら
の
行
為
は
登
山
・
旅
行
・
探
検
・
放
浪
と
い
」
た
↓
,
し
′
,
γ
,
,
,
上
か
ピ
=
イ
、
分
化
な
状
態
に
あ
り
(
そ
れ
ら
の
名
称
を
彼
ら
に
付
与
し
た
の
は
後
世
の
人
々
の
仕
業
て
あ
る
。
)
、
そ
れ
は
地
即
,
“
;
’
す
,
る
一
点
に
向
か
っ
て
収
束
し
た
と
い
う
よ
り
も
む
し
ろ
平
面
的
な
拡
が
り
を
求
め
る
と
い
う
意
味
で
拡
散
的
で
あ
1
,
ノ
、
嘔
直
を
指
向
す
’
’
こ
の
意
味
で
探
検
的
行
為
と
は
、
と
か
く
社
会
生
活
の
な
か
で
多
面
性
を
失
い
が
ち
な
人
間
性
を
健
全
な
か
た
ち
で
回
復
し
よ
う
と
す
る
営
み
で
あ
る
、
と
言
っ
て
は
多
少
大
袈
裟
過
ぎ
る
だ
ろ
う
か
。
そ
し
て
、
わ
れ
わ
れ
が
そ
う
し
た
知
的
伝
統
の
な
か
に
あ
る
と
す
れ
ば
、
そ
れ
は
守
ら
れ
る
べ
き
も
の
で
朧
な
く
、
生
活
の
な
か
に
生
か
さ
れ
る
こ
と
に
て
、
わ
れ
わ
れ
の
目
指
す
山
は
山
岳
と
い
う
よ
り
も
む
し
ろ
、
山
派
的
ア
プ
ロ
ー
チ
が
な
さ
れ
る
対
象
と
い
う
広
汎
な
概
念
と
し
て
把
え
る
必
要
が
あ
る
。
こ
の
点
で
わ
れ
わ
れ
の
活
動
の
拠
点
で
あ
る
こ
の
北
海
道
は
、
本
州
の
急
峻
な
山
鷲
憲
鷲
望
鷆
豐
雲
童
『
壹
雪
群
琴
=
“
原
と
い
う
、
霞
譽
に
水
李
毒
筒
産
堯
基
翼
篁
麗
十
分
備
え
た
地
理
的
特
性
を
有
し
て
い
る
と
い
う
こ
と
が
で
き
る
。
こ
れ
ら
の
領
域
こ
そ
ま
さ
に
山
派
的
方
法
論
が
う
っ
て
つ
け
の
フ
ィ
ー
ル
ド
で
あ
り
、
わ
れ
わ
れ
の
独
埴
場
と
す
る
の
に
格
好
の
フ
ィ
ー
ル
ド
な
の
で
あ
る
。
勿
論
こ
う
し
た
行
為
に
は
危
険
は
つ
き
も
の
で
あ
っ
て
避
け
る
こ
と
は
で
き
な
い
。
し
か
し
、
わ
れ
わ
れ
は
危
険
の
●
I
た
が
、
わ
れ
わ
れ
の
発
想
の
空
間
は
無
限
で
あ
る
。
豊
か
な
発
想
が
あ
る
限
り
探
検
的
行
為
が
終
る
こ
と
は
な
い
は
ず
で
あ
る
。
こ
の
意
味
か
ら
も
探
検
的
行
為
は
危
険
の
度
合
に
よ
っ
て
評
価
さ
れ
る
べ
き
で
は
な
く
、
そ
の
発
想
と
行
動
力
と
に
よ
っ
て
評
価
さ
れ
る
べ
き
な
の
で
あ
り
、
今
後
そ
の
必
要
性
は
増
々
高
ま
る
に
相
違
な
い
。
以
上
、
山
派
的
方
法
論
と
水
平
指
向
に
つ
い
て
書
い
て
き
た
が
、
勿
論
水
平
指
向
は
山
派
の
み
に
限
ら
れ
る
も
の
で
は
な
い
。
さ
ま
ざ
ま
な
方
法
を
も
っ
て
行
な
う
こ
と
が
で
き
る
は
ず
で
あ
る
。
そ
も
そ
も
知
的
好
奇
心
に
専
門
分
野
や
限
界
な
ど
な
い
は
ず
で
あ
る
し
、
ま
た
自
ら
制
約
を
設
け
る
も
の
で
も
な
い
は
ず
だ
。
自
ら
作
り
出
し
た
制
約
に
(
意
識
す
る
に
し
る
無
意
識
に
し
ろ
)
自
ら
を
束
縛
し
、
い
つ
の
間
に
か
ロ
マ
ン
テ
ィ
シ
ズ
ム
を
倭
小
化
さ
せ
て
し
ま
う
こ
と
程
滑
稽
な
こ
と
も
な
い
は
ず
で
あ
る
。
は
じ
め
に
ロ
マ
ン
テ
ィ
シ
ズ
ム
あ
り
き
な
の
で
あ
る
。
そ
こ
で
、
結
論
を
先
取
り
し
て
い
え
ば
こ
こ
で
改
め
て
提
唱
し
た
(
』
{
の
が
こ
の
水
平
的
指
向
性
で
あ
る
。
し
た
が
っ
』、
今
し
か
し
こ
の
こ
と
は
行
為
の
倭
小
化
を
直
接
に
意
味
す
る
わ
け
で
は
な
い
。
地
理
的
空
間
は
す
で
に
埋
め
尽
く
さ
れ
るよりもむしろ水平的指向であったといえる。
’
1
よ
っ
て
継
承
さ
れ
る
べ
き
は
ず
の
も
の
で
な
け
れ
ば
な
ら
な
い
。
あとがき
「
…
…
論
」
と
題
す
る
割
に
は
幾
分
ボ
リ
ュ
ー
ム
不
足
の
気
が
し
な
い
で
も
な
い
が
、
今
さ
ら
鱗
悔
し
て
も
も
う
遅
い
。
−74−
‐‐75‐‐
軸
,0.,1︲、︲rJ
E・・・■十・■・・・・・・・・・・・・
︲︲l11IfFDpp■10.06■
← r で
&
益
一
望
圭一
’
‘
言いたいことは大体言い尽したように思う。
直田さんとの山行
探
検
部
な
り
探
検
的
行
為
に
つ
い
て
、
多
少
ア
イ
デ
ア
ル
に
描
き
過
ぎ
た
か
も
し
れ
な
い
が
、
そ
れ
も
得
意
の
多
様
性
の
う
ち
で
あ
る
。
こ
の
小
文
が
今
後
さ
ま
ざ
ま
な
方
法
論
に
関
わ
る
議
論
の
契
機
を
提
供
し
、
そ
れ
が
や
が
て
新
た
● ●
1968年入学
な
企
画
に
結
び
つ
く
こ
と
に
少
し
で
も
役
立
つ
な
ら
ば
望
外
の
喜
び
と
す
る
と
こ
ろ
で
あ
る
。
.
最後に、倉慥的集団への切な系同嬉の田,.、左ミス酷一也ロ…』画…、、エー
倉慥的集団への切なる回帰の思いを込めて、 組織人間から送るこ
のメッセージをおわりた
い◎
一
内野和顕
僕が入部した当時、探検部には個性的な先箪力揃っていた。その中で探検部の厳父といった存在だ
(1982年4月記)
ったのが直田恒夫さんだった。
直田兄はゴリラのボスを思わせる風格(失礼!)と、ナイーブな感性、ストイックな精神を持ちあ
わせた不思議なお方であり、山行でふらちな部員がゴミを山に残したりすると、烈火の如く怒り、ガ
ミガミ小言を言われ、かつ愛情の篭もった説教を順々と説かれるのが常だったからである。山の技術
「
の
方
も
松
本
兄
と
並
ぶ
、
部
内
の
第
一
人
者
で
あ
っ
た
。
し
か
し
そ
の
登
山
は
、
松
本
兄
が
あ
ぐ
ま
§
憩
然
に
逆
ら
わ
ぬ
山
行
で
あ
っ
た
の
に
対
し
、
直
ヤ
ン
(
カ
ゲ
で
我
々
は
こ
う
呼
ん
で
い
た
)
の
山
行
は
豪
快
で
、
少
々
強
引
に
自
然
に
立
ち
向
う
と
い
っ
た
も
の
で
あ
っ
た
と
思
う
。
僕
も
数
回
直
田
さ
ん
の
山
行
に
同
行
さ
せ
て
戴
い
た
が
、
そ
の
中
で
特
に
今
で
も
印
象
に
残
っ
て
い
る
山
行
が
あ
る
の
で
、
十
余
年
も
以
前
の
こ
と
で
は
あ
る
が
、
遅
ま
き
な
が
ら
記
録
に
残
そ
う
と
思
い
た
っ
た
。
古
い
事
な
の
で
正
確
さ
に
欠
け
る
点
も
多
い
で
し
ょ
う
が
、
皆
様
お
許
し
下
さ
い
。
噸四千四年十=月十五日朝、札幌駅前のパスターミナル集合。参,唾リニ孝竺富国兄密運
原
、
飽
津
、
島
根
の
諸
兄
に
小
生
の
合
計
五
名
。
今
回
の
山
行
は
中
山
峠
か
ら
4
寝
茂
5
幅
、
喜
茂
呂
幅
、
中
岳
を
縦
走
し
、
部
の
冬
期
合
宿
地
で
あ
る
無
意
根
小
屋
を
め
ざ
す
の
で
あ
る
。
予
定
で
は
全
行
程
に
三
目
。
十
八
国
に
薄
別
か
I
・・.・・LL・・・.・・・.・・・・・・・・叩・■■■■.・・叩・・.。.・LL。.・砧・・・・・■・・■・・.。■・叩・晤弔■■■.。...。■・・
泓驍●●●●●●●●唖.●●●催●緋明惟●臘碓臘臘朧騨曜蕊が蕊
ら
入
山
す
る
他
の
部
員
達
よ
り
一
日
早
く
小
屋
に
つ
く
は
ず
だ
。
バ
ス
が
中
山
峠
を
越
え
る
と
降
雪
あ
り
‘
積
雪
も
か
な
り
だ
ぅ
た
。
我
々
は
予
定
し
た
地
点
よ
り
更
に
バ
ス
で
十
分
ほ
ど
峠
を
下
っ
た
地
点
よ
り
入
山
す
る
こ
と
に
な
っ
た
。
と
言
う
の
は
、
バ
ス
の
窓
よ
り
ボ
ン
ヤ
リ
外
を
な
が
め
で
い
た
直
田
さ
ん
の
頭
に
ヒ
ラ
メ
キ
カ
起
っ
た
ら
し
く
、
そ
れ
が
急
に
プ
ラ
ン
を
変
え
さ
せ
た
の
だ
。
直
囲
兄
は
こ
鰯
様
に
急
に
計
画
を
変
更
す
る
ク
セ
を
除
け
ば
信
頼
で
き
る
傑
出
し
た
リ
ー
ダ
ー
だ
っ
た
。
無
理
侭
バ
ス
を
止
め
で
も
‘
ら
っ
た
地
点
で
ス
キ
ー
に
シ
ー
ル
を
つ
け
国
道
の
右
手
の
、
だ
ら
だ
ら
し
た
斜
面
に
と
り
つ
い
た
。
種
雪
は
膝
ぐ
‘
ら
い
ま
で
だ
し
、
降
雪
も
ひ
ど
く
は
な
い
。
雑
木
林
の
間
を
い
い
ペ
ー
ス
で
登
壱
て
ゆ
く
と
、
野
ウ
サ
ギ
の
は
ね
る
姿
が
み
え
た
。
昼
1
1
■■■■■■■■■■81L■■■■■■■■■■■■ⅡⅡ■BBUf0H1II凸■■■■■■■■BB1II4■■■■■■■■■■■ⅡⅡ6■ⅡⅡⅡ91ⅡⅡ01Ⅱ日。l■■日日日日ⅡIII0■■■B■■■■日︲lⅡIrl4FLIⅡ!︲j■■ⅡⅡU■UⅡリー■■
lilI
I
'
す
ぎ
よ
り
吹
雪
模
様
と
な
る
。
視
界
が
き
か
な
い
の
で
、
四
時
頃
に
は
も
う
テ
ン
・
朧
設
営
し
た
。
こ
の
分
は
あ
す
取
り返そうと直田さんが言った。
十
二
月
十
六
日
(
二
日
目
)
。
朝
起
き
る
と
吹
雪
は
ま
だ
続
い
て
い
た
。
心
も
ち
昨
日
よ
り
激
し
く
な
っ
た
よ
獣
だ
b
そ
れ
に
も
め
げ
ず
、
か
つ
昨
日
の
遅
れ
を
取
り
も
ど
す
べ
く
午
前
七
時
前
に
は
出
発
し
た
。
だ
ん
だ
ん
斜
面
は
急
に
な
り
、
ラ
ッ
セ
ル
す
る
菰
雪
も
腰
ほ
ど
の
深
さ
と
な
詞
て
き
た
。
先
頭
は
ラ
ッ
セ
ル
で
消
耗
す
る
の
で
頻
回
に
交
代
し
な
い
と
も
た
な
い
。
直
田
さ
ん
の
話
割
凝
れ
を
登
り
き
れ
ば
、
喜
茂
別
山
頂
と
の
事
だ
が
、
肝
腎
の
山
頂
に
な
か
な
か
至
ら
な
い
。
全
員
に
少
々
焦
り
の
色
あ
り
。
蕊
暗
に
な
つ
で
も
登
り
つ
づ
け
*
郷
、
そ
の
・
日
は
と
う
と
う
山
頂
に
は
出
ら
れ
な
か
っ
た
。
暗
闇
の
中
で
テ
ン
ト
を
張
り
、
雪
を
融
か
し
て
遅
い
夕
食
を
つ
く
っ
た
。
皆
1:凸,
卜・イ'
I
L■■■且■■。■■■■r9IIlllL“■■1rJaⅡB■Ⅱ日9
一褐
ー
ロ■.■p
g
'
,
密
.
*
l‐#.:.:.、
1
.
.
.
財
:
:
:
・
・
乳
l
釧I
−77−
瞬饒叢蹴磯臘熟聡
;
鵜
ロ』:、山
・・・今
■h己
一
・一
季
一二
邑争坐_=
垂
律
甦与・出口
一F・一
一 呉 - =
←=−
当
−.口■等一口一
一
生・
﹂一
や
一
ゆ
望
三
一
舎二
一
L
一
二
〃
功
”
や
4
4
戸
且﹃
は
L’
二
全面■由■■=
一LF1"∼■
一 一
’
I
’
l
l
1
1
1
雫
不安だった。我々の取りついている斜面が喜茂別岳とは別の尾根ではないかとの発言が、皆の不安を
一層かきたてた。直田氏も敢えてそれを否定しないものだから、冬山経験不足の我々は絶望的な気持
一
グ雪
総括“ダイビトン?=
、 G J ヘ ー
' 1 〃 勺 , . Ⅱ ←
に
な
っ
た
。
今
に
し
て
思
え
ば
笑
い
話
だ
が
、
万
一
を
考
え
て
下
宿
を
整
理
し
て
来
る
ん
だ
っ
た
と
本
気
で
悔
や
ん
だ
。
結
局
、
「
ノ
側
が
た
喜
茂
別
に
取
り
つ
い
て
い
る
と
思
う
」
と
の
直
田
さ
ん
の
言
葉
を
信
じ
て
、
こ
の
ま
ま
登
る
こ
と
に
1983年入学』永汐一勝
した。
1.初めに
十二月十七日(三日目)。吹雪。視界も悪し。
私
が
探
検
部
に
入
っ
て
初
め
て
行
っ
た
の
は
、
今
、
こ
こ
に
こ
れ
か
ら
書
こ
う
と
し
て
い
る
ダ
イ
ー
ピ
ン
グ
を
利
用
し
た
無
意
根
大
沼
調
査
で
あ
る
。
そ
れ
か
ら
、
三
年
。
夏
は
ス
キ
ュ
ー
バ
・
ダ
イ
ビ
ン
グ
を
主
に
行
っ
て
き
た
。
し
か
し
、
自
分
が
ダ
イ
ビ
ン
グ
に
つ
い
て
書
い
て
く
れ
と
言
わ
れ
、
ニ
ー
応
承
諾
は
し
た
も
の
の
、
う
ま
く
書
け
た
か
朝
起
き
る
と
飽
津
が
い
な
い
。
テ
ン
ト
か
ら
山
頂
方
向
に
ラ
ッ
セ
ル
の
あ
と
あ
り
。
日
頃
平
静
な
彼
も
焦
っ
て
い
る
ら
し
い
。
食
事
が
で
き
上
が
る
頃
、
飽
津
力
涙
っ
て
来
た
。
ど
う
や
ら
山
頂
が
近
そ
う
だ
と
の
事
。
食
後
す
ぐ
出
発
。
し
ば
ら
く
は
飽
津
の
朝
の
ラ
ッ
セ
ル
で
楽
だ
。
吹
雪
が
止
み
ガ
ス
が
晴
れ
て
ほ
し
い
と
思
う
。
そ
う
す
れ
ば
周
囲
の
地
形
を
確
認
で
き
不
安
も
解
消
す
る
。
今
は
全
く
の
盲
目
行
で
あ
る
。
昼
す
ぎ
や
っ
と
ピ
ー
ク
ら
し
き
も
の
に
出
た
。
こ
の
頂
が
喜
茂
別
で
あ
っ
て
ほ
し
い
と
念
じ
た
。
神
仏
に
す
が
り
つ
き
た
か
っ
た
。
夕
方
ま
で
に
も
う
一
山
を
越
え
た
コ
ル
1’
1
’
今
2.探検部ダイビング課の一年
’1111
三
時
頃
あ
れ
ほ
ど
激
し
か
っ
た
吹
雪
が
ピ
タ
ッ
と
止
ん
だ
。
急
に
周
併
│
が
見
渡
せ
る
よ
う
に
な
っ
た
岻
意
根
に
違
い
あ
ら
へ
ん
で
」
と
直
田
さ
ん
が
叫
ぶ
。
見
わ
た
せ
ば
、
左
手
に
見
覚
え
あ
る
無
意
根
の
山
体
が
あ
る
て
ぱ
な
い
か
!
今
我
々
は
無
意
根
山
の
山
腹
を
巻
い
て
い
た
の
だ
っ
た
。
直
田
さ
ん
あ
し
)
か
と
う
。
ス
グ
ヤ
ン
は
正
し
か
シ
た
!
助
か
っ
たと思った。
(
1
9
8
3
年
記
)
111︲lIlIIll
#●f轆哩鰯:
い
。
視
界
が
晴
れ
れ
ば
正
否
は
砧
認
で
き
る
。
万
一
違
っ
て
い
た
ら
と
の
恐
i
f
i
)
で
顔
か
ひ
き
つ
る
.
I
われているダイビングについて書いてみたい。
うなったら、ひたすら直田兄を信頼するしかないと思った。
し
く
思
え
て
く
る
。
い
ろ
い
ろ
頭
で
考
え
な
が
ら
全
員
黙
々
と
歩
き
つ
づ
け
る
。
目
出
帽
を
忘
れ
て
来
た
飽
津
の
頬
が
青
白
く
透
き
徹
っ
た
よ
う
に
な
っ
て
い
る
こ
と
に
気
づ
く
。
み
る
か
ら
に
痛
々
し
い
。
凍
傷
の
一
歩
手
前
だ
。
今
日
中
に
4
壜
に
つ
け
な
い
と
頬
に
穴
が
あ
い
て
し
ま
う
か
も
知
れ
ぬ
。
恐
ろ
し
い
I
ル
ポ
す
き
、
、
I
』
'
た
か
ま
り
に
つ
い
た
。
三
日
前
に
取
り
つ
い
た
斜
面
が
違
っ
て
い
な
け
れ
ば
、
ま
も
な
く
無
意
根
の
は
す
た
L
k
i
:
1
!
│
│
着
,
1
そ
う
あ
っ
て
ほ
し
春
、
新
歓
合
宿
も
終
わ
り
、
新
入
部
員
た
ち
も
ク
ラ
ブ
に
槙
れ
て
く
る
頃
、
我
々
は
ま
ず
札
幌
近
郊
の
種
丹
半
島
に
あ
る
ダ
イ
ビ
ン
グ
ス
ポ
ッ
ト
へ
行
く
計
画
を
数
多
く
出
す
。
大
学
に
入
る
ま
で
お
そ
ら
く
一
度
も
や
っ
た
こ
と
の
な
か
っ
た
で
あ
ろ
う
ダ
イ
ビ
ン
グ
を
新
入
部
員
に
紹
介
し
、
そ
の
面
白
さ
を
理
解
し
て
も
ら
う
の
だ
。
そ
し
て
、
6
月
下
旬
か
ら
7
月
上
旬
に
か
け
て
ダ
イ
ビ
ン
グ
を
な
ら
い
た
い
と
い
う
部
員
た
ち
に
プ
ロ
ダ
イ
バ
ー
の
西
沢
国
昭
さ
ん
と
我
々
に
よ
る
講
習
を
行
う
。
夏
休
み
に
な
る
と
講
習
を
終
え
、
一
人
前
と
成
っ
た
ダ
イ
バ
ー
た
ち
と
共
に
大
き
態
計
画
を
行
う
。
こ
の
場
合
、
道
東
の
阿
寒
.
摩
周
国
立
公
園
内
の
湖
の
調
査
に
な
る
場
合
が
多
い
。
そ
し
て
秋
、
山
も
ま
だ
雪
が
降
っ
て
お
ら
ず
、
す
る
こ
と
を
無
く
し
た
我
々
は
、
シ
ブ
シ
ブ
と
も
う
冷
た
い
支
笏
湖
、
オ
コ
タ
ン
ペ
湖
へ
と
向
か
う
の
で
あ
る
。
時
に
そ
れ
は
鮭
の
朔
上
を
見
る
た
め
、
川
へ
と
向
か
う
こ
と
腱
な
る
場
合
も
あ
る
。
そ
し
て
冬
、
札
幌
の
街
に
も
雪
が
降
り
始
め
、
近
郊
の
山
々
も
白
い
衣
装
に
着
が
え
る
頃
、
探
検
部
か
ら
ダ
イ
バ
ー
は
ぞ
の
姿
を
消
す
。
腹
腱
慰
山
登
り
一
筋
で
し
た
。
」
と
い
う
顔
で
冬
山
へ
と
向
か
う
の
で
あ
る
。
そ
し
て
、
北
海
道
に
流
氷
が
や
っ
て
来
る
と
、
雪
山
で
そ
の
肉
体
を
き
た
え
た
寒
冷
地
仕
様
の
ダ
イ
バ
ー
が
出
現
し
、
流
氷
の
下
を
潜
ろ
う
葱
ど
と
言
い
始
め
る
の
で
あ
る
。
そ
し
て
、
そ
の
流
氷
さ
わ
ぎ
も
終
わ
る
と
そ
れ
で
我
々
ダ
イ
バ
ー
の
皇
宅
年
は
終
わ
る
の
で
あ
る
。
I
3
.
感
覚
的
表
現
方
法
に
よ
る
ダ
イ
ビ
ン
グ
そ
の
も
の
の
面
自
さ
。
I
次
に
ダ
イ
ビ
ン
グ
、
そ
の
も
の
自
体
の
面
白
さ
に
つ
い
て
書
い
て
み
た
い
。
§⋮
人
間
は
、
地
球
と
い
う
一
つ
の
惑
星
に
住
ん
で
い
る
の
で
あ
る
が
、
そ
の
3
割
力
糎
で
あ
る
。
そ
の
た
っ
た
3
割
と
い
う
陸
上
に
し
か
人
間
は
住
め
な
い
と
い
う
こ
と
。
又
、
我
々
は
呼
吸
を
し
な
け
れ
ば
生
き
て
い
け
な
い
と
い
う
こ
と
。
こ
の
当
然
の
こ
と
で
あ
り
な
が
ら
、
日
常
あ
ま
り
意
識
し
な
い
こ
と
を
ダ
イ
ビ
ン
グ
は
改
め
て
我
々
に
自
覚
さ
し
て
く
れ
るのである。
一補一
−78−
Ⅱ10h.IⅡ01,
.・T・・・
.・・...。.●.。..●..叩.⋮・輻叩処..即●●●●闇
・・・・・・rI・・:・・Ⅲ二・・・・、砧・叩・詔狩野
日日1.・卜.:ふ
。dJ・gf11Tr三
111
言.:.千い此凹■・ . 卜 . . ・ ・ 1 1 . ・ 叩 鄙 。 , 弘 十 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ m i l 印
i︲Ⅱ判丸
!!
111111
I.’
調
f
f
;
*
錨
テ
ラ
に
、
ダ
イ
ビ
ン
グ
に
関
す
る
記
事
文
章
が
載
る
の
は
、
今
号
力
靭
め
て
の
様
な
の
で
も
ま
ず
現
在
ク
ラ
ブ
で
行
に
テ
ン
ト
を
張
っ
た
。
食
後
、
直
田
兄
が
「
我
々
は
多
分
予
定
の
ル
ー
ト
に
乗
っ
て
い
る
に
違
い
な
い
の
だ
」
と
皆
を
元
気
づ
け
た
。
し
か
し
皆
口
数
力
沙
な
い
。
き
つ
い
ラ
ッ
セ
ル
や
遭
難
の
恐
怖
で
物
を
言
う
元
気
も
出
な
い
の
だ
。
こ
十
二
月
十
八
日
、
四
日
目
だ
。
合
宿
の
始
ま
る
日
だ
と
言
う
の
に
我
々
は
八
方
ふ
さ
が
り
の
雪
の
中
だ
。
吹
雪
は
相
変
ら
ず
。
視
界
も
悪
い
。
薄
別
か
ら
の
部
員
達
は
無
意
根
4
屋
に
入
っ
て
い
る
頃
だ
。
我
々
の
こ
と
騒
い
で
い
る
だ
ろ
う
か
?
我
々
の
パ
ー
テ
ィ
ー
が
始
め
か
ら
全
く
ト
ン
チ
ン
カ
ン
な
尾
根
に
取
り
つ
い
て
い
る
可
自
駐
も
否
定
で
き
な
い
。
そ
う
な
る
と
誰
も
我
々
を
救
え
な
い
だ
ろ
う
。
こ
こ
は
一
体
ど
こ
な
の
か
?
直
田
兄
の
バ
ス
で
の
き
ま
ぐ
れ
が
う
ら
め
1
1
どうか不安であるが、知拙な文章ではある力輪んでもらいたい。
1
山
一 空
虻
一
一
一
一 一 一 ' 一
'、1城:塀認可軍…−−−=
ー
私の川下り変遷史
の
驚
異
の
世
界
で
ク
ス
ト
ー
が
教
え
て
く
れ
た
世
界
と
全
く
同
じ
で
あ
る
。
そ
し
て
そ
れ
は
、
陸
上
で
し
か
生
活
で
き
な
い
人
間
に
少
な
か
ら
ず
感
動
と
驚
樗
の
念
を
起
こ
さ
せ
る
の
で
あ
る
。
少
な
く
と
も
私
は
そ
う
で
あ
っ
た
。
底
に
着
き
上
を
見
あ
げ
る
と
、
限
り
無
い
“
青
”
が
頭
上
に
充
満
し
て
い
る
。
自
分
の
吐
息
が
透
明
な
泡
と
な
っ
て
私が入学してから現在までの川下りを振り返ってみたいと思う。私力潔検部に入部したのは1985
年
、
そ
の
当
時
は
山
派
・
ダ
イ
ビ
ン
グ
派
が
2
大
勢
力
で
あ
っ
た
。
川
下
り
は
ダ
イ
ビ
ン
グ
派
の
メ
ン
バ
ー
(
3
年
目
で
あった永汐・菅原等)を中心に行われ、その形式はウエツトスーツを着たチューブ下りが中心であっ
た。チューブ下りは当時5年目であった平井・4蝉、4年目であった後藤らが始めたとされるものであ
る。それは布を巻き丈夫にしたトラックのタイヤチユープに掴まって川を下っていくもので、足にフ
る
方
向
へ
の
移
動
、
浮
遊
物
に
で
も
な
っ
た
よ
う
な
感
覚
に
絶
頂
感
を
覚
え
る
の
で
あ
る
。
4.探検活動ダイビングのかかえる諸問題
イ
ン
を
は
く
こ
と
に
よ
っ
て
姿
勢
を
制
御
し
た
り
推
進
力
を
得
て
い
た
。
ゴ
ム
ボ
ー
ト
も
あ
っ
た
が
麺
鋤
投
に
立
た
’
1
あ
る
力
現
状
を
維
持
す
る
の
が
や
っ
と
で
、
何
一
つ
新
し
い
こ
と
も
奇
抜
な
こ
と
!
」
i
j
'
す
る
‐
↓
マ
オ
で
き
な
か
っ
た
。
今
後
、
ダ
イ
ビ
ン
グ
を
や
っ
て
い
く
諸
君
、
そ
の
柔
軟
な
頭
で
効
率
的
に
ク
イ
ヒ
ン
ク
を
使
い
、
上
、
ん
と
ん
探
検
活
動を
広
げ
て
い
く
こ
と
を
希
望
す
る
。
.・IⅡ11.111J.’︲・IIIJII︲.J
(1986年記)
lIIII1111
188ⅡI0brlIⅡ0JⅡI印ID■日IIj8IJ8Ⅱ。︲0●1口11■IIL召914111
こ
の
よ
う
に
ダ
イ
ビ
ン
グ
は
現
在
、
様
々
な
問
題
を
か
か
え
て
い
る
。
私
も
、
今
1
り
│
、
#
I
R
I
一
│
イ
や
〕
た
つ
も
り
で
は
111
巳Ⅱ0911←I︲IIL■0■l■JⅡ8日刊19■9日91
b
」
1
●
1
I
欲
し
く
な
り
オ
カ
モ
ト
理
研
の
R
V
2
0
0
0
購
入
長
期
計
画
を
始
め
た
。
4■ⅡⅡⅡⅡ8■Ua9j■■■■■■■。■n8l8ⅡⅡ044Ⅱ08Ⅱ■Ⅱ8Ⅱ1h.■■88■qIp
.・・Ⅱ﹄。..J・・・■1.J■
J・lll︲︲︲11︲IIJ●ⅢⅢri︲印川J1Ⅲj訓ⅢⅧ叩訓ⅢI川ⅡIFⅡlIIIIJIIflll.︲︲rl︲︲r
1
9
8
6
年
に
な
る
と
2
年
目
に
な
っ
た
私
・
浅
野
・
味
知
等
に
中
心
が
移
り
、
新
し
く
ゴ
ム
ボ
ー
ト
を
買
っ
た
た
め
、
形
態
は
ゴ
ム
ボ
ー
ト
を
中
心
に
チ
ュ
ー
ブ
下
り
を
行
う
と
い
う
複
合
形
式
に
な
っ
た
。
こ
の
頃
ま
で
は
車
や
バ
イ
ク
で
並
走
す
る
事
が
普
通
で
あ
っ
た
が
、
そ
の
当
時
、
こ
の
こ
と
に
疑
問
を
も
っ
た
我
々
は
、
数
々
の
問
題
は
あ
っ
た
が
道
東
の
風
蓮
川
に
お
い
て
ゴ
ム
ボ
ー
ト
に
全
荷
物
を
満
載
し
て
下
る
こ
と
に
成
功
し
た
。
こ
の
頃
か
ら
い
い
ゴ
ム
ボ
ー
ト
が
■■■■P。.111
ないものであった。
は
こ
ば
ざ
る
を
得
な
い
の
で
あ
る
。
し
か
し
な
が
ら
探
検
部
の
自
動
車
所
有
者
数
は
少
な
い
。
5.最後に
’'
I
11
11︲.41F1113■■1,口PIbβIIIrⅢrIIrII印11.IJ1JlrIlIIⅡ111課I罰IJI..IIJJI・lIfI0f服.IJIJJ0flIIJ︲Ⅱf,JII︲1..J︲
ま
ず
、
ダ
イ
ビ
ン
グ
の
所
持
す
る
器
材
の
少
な
さ
で
あ
る
。
ダ
イ
ビ
ン
グ
の
器
材
は
そ
の
一
つ
一
つ
の
値
段
力
塙
い
。
そ
れ
に
よ
り
、
ク
ラ
ブ
と
し
て
講
習
を
行
っ
て
い
る
時
期
、
ダ
イ
ビ
ン
グ
に
よ
る
別
の
計
画
は
ま
ず
だ
せ
な
い
の
で
あ
る
。
又
、
ダ
イ
ビ
ン
グ
に
は
車
が
必
ず
必
要
で
あ
る
と
い
う
こ
と
で
あ
る
。
タ
ン
ク
は
危
険
物
で
あ
る
の
で
自
動
車
で
次
に
ダ
イ
ビ
ン
グ
の
ス
ポ
ー
ツ
ダ
イ
ビ
ン
グ
化
。
こ
れ
は
ゲ
レ
ン
デ
ス
キ
ー
と
山
ス
キ
ー
と
の
関
係
と
似
か
よ
っ
て
い
る
。
ダ
イ
ビ
ン
グ
は
そ
れ
自
体
、
我
々
の
目
的
で
は
な
く
、
探
検
活
動
と
い
う
目
的
を
達
成
す
る
た
め
の
手
段
で
あ
る
こ
と
を
い
つ
も
念
頭
に
お
い
て
お
か
な
い
と
、
つ
い
つ
い
ダ
イ
ビ
ン
グ
そ
の
も
の
の
面
白
さ
に
引
か
れ
ス
ポ
ー
ツ
ダ
イビングへと流れてしまうのである。
卜
1985年入学藤田耕一
“
青
”
の
彼
方
に
競
う
よ
う
に
上
が
っ
て
い
く
。
底
に
着
け
な
い
様
な
所
で
は
、
潜
っ
て
い
る
と
あ
ら
ゆ
る
方
向
か
ら
“
青
”
が
ダ
イ
バ
ー
の
か
ら
だ
を
つ
つ
み
、
上
下
左
右
の
感
覚
を
た
ち
切
ら
せ
る
。
そ
し
て
“
青
”
を
身
に
ま
と
っ
た
ダ
イ
バ
ー
は
「
も
し
、
こ
こ
で
何
か
起
こ
れ
ば
死
ぬ
か
も
知
れ
な
い
。
」
と
い
う
恐
怖
と
地
上
で
は
味
わ
え
な
い
、
あ
ら
ゆ
/
●11︲︲OIL21.8,︲4IIB■■■Ⅱ80jⅡⅡl■ⅡⅡⅡⅡ79口・山■ⅡⅡⅡ1h日Ⅱ9jHP8“911119Ⅱ‘
マ
ス
ク
を
つ
け
て
海
に
飛
び
込
む
。
海
は
い
ま
ま
で
と
全
く
違
っ
た
面
を
披
露
し
て
く
れ
る
。
そ
れ
は
昔
、
テ
レ
ビ
翌
1
9
8
7
年
は
探
検
部
に
と
っ
て
大
変
な
年
で
あ
り
、
勿
謝
I
1
下
り
派
(
既
に
ダ
イ
ビ
ン
グ
派
の
一
部
と
は
言
え
な
か
っ
た
)
に
と
っ
て
も
同
様
で
あ
っ
た
。
私
は
4
月
か
ら
川
下
り
脚
ヒ
チ
ー
ム
を
作
り
夏
に
ビ
ッ
グ
な
事
を
し
て
や
ろ
う
と
考
え
て
い
た
が
、
春
の
ヒ
マ
ラ
ヤ
事
故
に
よ
り
部
が
活
動
停
止
期
間
に
は
い
っ
て
し
ま
っ
た
た
め
断
念
せ
ざ
る
を
え
な
か
っ
た
。
7
月
に
再
び
再
開
さ
れ
た
後
は
、
か
つ
て
か
ら
の
課
題
と
し
て
い
た
空
知
川
い
か
だ
下
り
大
会
に
出
場
し
た
"
北
の
国
か
ら
”
世
代
で
あ
る
私
に
と
っ
て
は
非
常
に
感
動
的
な
物
で
あ
っ
た
が
、
同
時
に
い
か
だ
に
対
す
る
認
識
を
深
め
る
こ
と
が
で
き
た
の
は
ラ
ッ
キ
ー
で
あ
っ
た
。
こ
の
年
、
ゴ
ム
ボ
ー
ト
川
下
り
は
一
剛
上
し
、
並
走
は
し
な
い
の
が
I
I
│
1
普通となっていった。
1
9
8
8
年
は
昨
年
末
に
起
こ
っ
た
ダ
イ
ビ
ン
グ
事
故
の
影
響
を
受
け
、
7
月
ま
で
活
動
す
る
こ
と
が
で
き
な
か
っ
た
。
R
V
2
0
0
0
購
入
計
画
も
進
ま
な
か
っ
た
た
め
、
私
は
い
か
だ
の
使
用
を
必
然
的
に
思
い
つ
き
、
今
ま
で
に
無
い
長
期
の
計
画
を
行
う
こ
と
に
し
た
。
こ
の
当
時
台
頭
し
て
き
た
3
年
目
の
豊
岡
、
2
年
目
'
の
沢
田
‘
野
村
等
を
加
え
、
天
塩
川
を
フ
ィ
ー
ル
ド
に
沢
登
り
.
チ
ュ
ー
ブ
下
り
・
い
か
だ
下
り
を
併
用
し
て
、
源
流
か
ら
河
口
ま
で
と
い
う
一
大
プ
ロ
ジ
ェ
ク
ト
を
計
画
し
成
功
す
る
こ
と
が
で
き
だ
。
今
考
え
る
と
こ
の
計
画
が
私
に
と
勺
で
の
川
下
り
の
集
大
成
で
あ
っ
た
よ
う
な
気
が
す
る
。
そ
の
後
1
9
8
9
年
に
は
念
願
の
R
V
2
0
0
0
を
買
う
こ
と
が
で
き
た
が
、
既
I
ご
時
代
は
次
世
代
の
’
(1990年2月龍)
者たちへと変っていたのである。
F
1口BPjLdl1且Bql■︲
−81−
〃Ⅱ洲N邸蝿脚眺鰯
I
』
−80−
q
:
.
。
苦 = 一 卸 . Q ー 一
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堂上.一一、2句一二-一・_卓==』.可も、在争吟.、星
ユ
=−.−−ヱーーー=
一 宇
晶 一
・与守!=
一
I ■ ー
望=b二一一
一
|
I
l︲11J1炉トー︲lIlflⅡOII■lII0pI
’
1989年度のポート研り、それに向けて進みはじめた。?『』"、■、f&…
その道程の前途は大いに楽しく、ちょっぴり苦しく、洋々たるものと思っていた。彼らの思惑通り
に中間地点までは進んだ。過去を振り返りながら前途に希望を抱き、自信は指数関数的に大きなる°
1986年入学豊岡匡之
’
I
「
俺
は
別
に
来
て
も
来
な
く
て
も
、
ど
っ
ち
で
も
よ
か
っ
た
ん
だ
。
」
メ
ー
ト
ル
あ
ま
り
の
巨
岩
は
水
中
に
没
し
、
荒
れ
狂
う
川
の
波
高
は
人
の
背
丈
を
優
に
超
え
て
い
た
。
我
々
が
初
め
て
「
あ
な
た
た
ち
の
何
が
悪
か
っ
た
の
か
。
ど
う
す
れ
ば
い
い
の
か
を
よ
く
話
し
合
い
な
さ
い
。
'
そ
う
す
れ
ば
こ
こ
か
ら
見
る
本
当
の
激
流
の
姿
だ
。
水
が
引
き
は
じ
め
、
も
う
少
し
で
も
と
の
水
位
に
下
が
ろ
う
と
し
は
じ
め
た
頃
、
我
々
は
の
脱
出
は
可
能
と
な
り
ま
し
ょ
う
。
」
吉
野
に
チ
ャ
レ
ン
ジ
し
た
。
結
果
は
惨
敗
に
終
っ
た
。
核
心
部
に
も
入
れ
な
い
有
様
た
、
た
。
協
議
の
末
、
イ
ン
ダ
ス
そう言って女神は消え去った。
・1.J・・・I・日11日■f日日。
LlB■日■■日日ⅡⅡPIIf1111.1︲160ⅡH70l0071Q■巳︲111トーIⅡ11Ⅱ911日日日08ⅡⅡ卜Ⅱ■■BI■Ⅱ■B901
上
流
部
は
中
止
。
代
わ
ン
ダ
ス
中
下
流
部
を
下
る
こ
と
に
な
る
。
そ
I
−
'
,
i
l
'
i
;
萄
一
ゞ
各
う
に
撤
退
し
、
楽
園
早
速
話
し
合
い
は
は
じ
ま
っ
た
。
そ
し
て
数
日
後
、
話
し
合
い
は
終
っ
た
。
そ
も
そ
も
鶴
偉
が
い
'
け
な
か
っ
た
の
があ
る
は
ず
の
四
万
十
川り
へに
とイ
向っ
た
。
9月には全員帰札。だ、という意見と、鍬あがまずかったのだ、という意見の2つに帥た.その瞬間彼ら賊郷"if
戻
っ
て
い
る
こ
と
に
気
付
い
た
。
砂
漠
で
の
体
験
を
生
か
し
、
稗
飢
派
の
者
は
稗
を
と
り
払
っ
て
行
動
し
、
枠
あ
り
イ
ン
ダ
ス
中
下
流
部
の
計
画
は
残
っ
た
が
、
1
人
ぬ
け
2
人
ぬ
け
、
紀
局
、
解
散
と
な
っ
た
。
派
は
よ
り
良
い
稗
を
つ
く
っ
て
行
動
す
る
こ
と
こ
そ
が
最
上
で
あ
る
と
考
え
る
よ
う
に
な
っ
た
。
稗
糺
派
か
稗
鋤
派
か
。
こ
れ
を
十
分
考
え
さ
せ
て
く
れ
る
計
画
だ
っ
た
。
こ
れ
は
探
検
部
に
も
深
く
関
わ
る
問
今
か
ら
思
う
に
、
こ
の
チ
ー
ム
に
は
結
成
当
時
か
ら
問
題
点
が
た
く
さ
ん
あ
っ
た
。
そ
れ
に
気
付
き
な
が
ら
も
、
我
々
題だと思っている。
は
目
に
見
え
ぬ
操
り
糸
に
よ
っ
て
途
方
も
な
い
大
砂
漠
に
連
れ
ら
れ
て
行
っ
た
の
だ
。
殺
伐
と
し
た
妙
の
世
界
は
非
情
今
回
の
計
画
を
通
し
て
得
ら
れ
た
も
の
は
私
に
は
大
き
か
っ
た
。
後
に
も
多
大
な
影
騨
を
も
た
ら
し
た
こ
の
計
画
に
の
国
で
あ
り
、
不
毛
の
地
だ
。
潭
身
の
力
を
こ
め
て
戦
、
考
え
な
い
と
抜
け
出
せ
な
い
。
吉
野
川
敗
退
で
我
々
は
初
感
謝
す
る
。
めて
こ
の
大
砂
漠に
足
を
踏
み
入れ
は
じ
め
て
いた
こ
と
を
知
っい
た。
●
︲・︾、■E・凸■I■16■IrdjrQ自gP
肌巾珊揮蝦狐雛畦
−82−
(1990年2月記)
1
‘│
’
’
!
hⅡ940■IlLO■■Ⅱ■U4I1lI1Ijも甲,
我
々
は
自
由
で
気
ま
ま
で
我
が
ま
ま
で
、
納
得
せ
ず
に
行
動
す
る
の
を
潔
し
と
し
な
い
。
こ
ん
な
連
中
が
自
ら
あ
る
決
め
ら
れ
た
枠
を
持
つ
“
プ
ロ
ジ
ェ
ク
ト
・
チ
ー
ム
”
を
自
ら
つ
く
っ
た
。
自
由
で
気
ま
ま
で
我
が
ま
ま
な
者
た
ち
が
自
分
の
か
ら
だ
と
思
考
を
縛
り
だ
し
た
の
だ
。
こ
の
自
白
茅
饒
綻
L
紗
ル
ニ
ラ
は
1
つ
の
目
標
を
持
つ
よ
う
に
な
|
|
今
4 J ■ ’ 四 Ⅱ I I l l j Ⅱ Ⅱ■
ⅡⅡ
41
1I
1 BlbI1ⅡL−I・JI001fflj1jfILI1ill甲JItIl14lI1II凸I■7ⅡⅡ!ⅡrI︲lJlI●14IjLIJIIl1l4ⅢI1llJ1ufjlIf1lr11ll眼凸!︲1︲!.帆●i1.J−011帆11●I・︲。Ⅱ.6
D4
D18
ⅡI︲..JI1lIlI︲.。.JIIr・︲ⅢⅡ11●MII,狂吋︲ず腓︲ⅢJ1川︲.1111︲JIII0J︲
︲︲r︲・JIiI■JIfrIIlIIIdⅡP■Ⅱ日LJI1IIAI1ff1IJlJII0flIIII
JIJIIIIIII■■pII4rJL■FILⅡ811旧rIIIII■ffIJⅡJf・・・lJIlfⅡJf.r鵬I研IIIJIIII
iⅡrLIlIrLfj!■‘・日11︲11︲︲Ij1l
つ
つ
く
余
市
川
は
た
い
し
た
こ
と
は
身
に
つ
か
ず
、
石
狩
川
神
居
古
潭
は
道
内
屈
指
の
激
流
の
名
に
反
し
て
そ
の
衰
退
遥
か
彼
方
ま
で
砂
丘
が
連
な
っ
て
い
る
。
進
退
窮
っ
た
。
ぶ
り
を
呈
し
た
。
メ
ン
バ
ー
間
に
は
に
わ
か
に
不
満
が
募
り
つ
つ
あ
っ
た
。
そ
れ
に
拍
車
を
掛
け
る
よ
う
な
7
月
の
豊
平
「
こ
の
計
画
は
ど
う
も
う
ま
く
行
か
な
い
よ
う
な
気
が
し
て
た
ん
だ
。
」
と
誰
か
力
這
っ
た
。
'
猛
暑
の
本
州
は
水
不
足
で
利
根
川
は
ボ
ツ
。
こ
れ
は
予
想
通
り
だ
っ
た
が
四
国
三
郎
の
異
名
を
も
つ
吉
野
川
に
対
す
「
ケ
ケ
。
そ
ん
な
風
に
思
っ
て
る
な
ん
て
、
全
然
気
が
付
か
な
か
っ
た
ぜ
。
」
る
不
安
は
残
っ
た
。
深
く
切
り
立
っ
た
四
国
山
地
の
山
間
に
エ
メ
ラ
ル
ド
グ
リ
ー
ン
の
吉
野
川
は
流
れ
て
い
た
。
下
見
「
そ
ん
な
風
に
情
熱
が
欠
け
て
た
か
ら
こ
ん
な
ハ
メ
に
な
っ
た
ん
だ
。
」
の
段
階
で
我
々
は
早
く
も
吉
野
川
の
迫
力
を
目
の
前
に
し
た
。
数
日
後
、
台
風
の
通
過
と
共
に
吉
野
の
形
相
が
急
変
。
3
意
見
が
飛
び
交
っ
た
。
そ
の
時
、
灼
熱
の
太
陽
か
ら
黄
色
の
女
神
が
現
れ
た
。
i
I
結
成
後
間
も
な
く
我
々
は
行
動
に
移
っ
た
。
天
気
は
人
の
心
を
左
右
す
る
。
6
月
の
豊
平
川
で
は
救
助
訓
練
と
急
流
下
砂
丘
が
あ
る
。
目
も
く
れ
ず
一
気
に
駆
け
登
っ
た
。
中
腹
を
目
前
に
進
行
速
度
は
徐
々
に
遅
く
な
る
。
足
は
砂
に
と
ら
り
の
初
歩
が
実
施
さ
れ
た
。
太
陽
は
早
く
も
夏
の
日
差
し
を
感
じ
さ
せ
、
目
を
閉
じ
て
傭
く
と
、
辺
り
に
は
一
面
春
の
れ
、
体
中
に
汗
が
送
る
。
こ
れ
は
イ
カ
ン
と
思
っ
た
と
き
に
は
も
う
遅
か
っ
た
。
そ
こ
は
蟻
地
獄
だ
つ
鰡
渥
。
ふ
と
香
が
漂
っ
て
い
た
。
そ
ん
な
中
で
の
初
練
習
は
望
外
の
成
果
が
得
ら
れ
た
。
好
調
な
出
だ
し
を
き
っ
た
か
に
見
え
た
。
振
り
返
る
と
、
先
程
ま
で
あ
っ
た
山
や
海
や
草
原
は
い
つ
の
間
に
か
な
く
な
り
、
周
り
は
す
べ
て
砂
漠
に
な
っ
て
い
た
。
川
、
鵡
川
の
ボ
ツ
b
そ
の
不
満
の
埋
め
合
わ
せ
を
内
地
遠
征
に
託
し
て
我
々
は
北
海
道
を
あ
と
に
し
た
。
l
I│
し
か
し
こ
の
頃
、
こ
の
稗
の
存
在
は
知
り
つ
つ
も
そ
の
真
意
に
つ
い
て
は
ま
だ
気
付
い
て
い
な
い
者
が
、
こ
の
グ
ル
ー
1989年5月。ボート研究会はプロジェクト・チームを結成した。
プ
の
や
り
方
に
少
々
の
不
満
と
不
安
を
持
ち
だ
し
た
。
だ
け
ど
一
緒
に
行
け
ば
お
も
し
ろ
い
し
楽
し
い
。
愉
快
と
不
愉
こ
の
チ
ー
ム
の
最
終
目
的
は
イ
ン
ダ
ス
川
上
流
部
の
航
行
。
期
間
は
1
9
9
0
年
3
月
の
1
ケ
月
。
メ
ン
ツ
は
4
年
目
の
快
の
混
在
し
た
奇
妙
な
状
況
に
巻
き
込
ま
れ
て
わ
け
の
わ
か
ら
ぬ
ま
ま
、
と
り
あ
え
ず
同
行
ま
る
方
を
選
ぶ
こ
と
に
す
豊
岡
、
3
年
目
の
野
村
、
2
年
目
の
西
野
、
1
年
目
の
岡
部
の
4
人
。
1
9
8
9
年
6
月
∼
8
月
を
訓
練
期
間
に
、
9
月
以
降
る
。
を事務処理期間に充てることになった。
海
を
越
え
、
山
を
越
え
、
川
を
下
り
草
原
を
抜
け
て
目
の
前
に
砂
漠
力
溺
れ
た
。
そ
し
て
行
く
手
に
は
や
や
大
き
な
j
i
・
q
l
I
−83一
ル
L■
!
1
ー
一 一 二
1111
’
EVAEVA-1979 1985、湿原、トンガ、カラコラムー
物
よ
り
遙
か
に
若
い
。
チ
ャ
パ
テ
ィ
は
も
う
食
べ
て
し
ま
っ
た
の
で
、
残
っ
た
ダ
ル
は
指
で
す
く
っ
て
食
事
を
終
え
た
6
1.EVAPE.
イ
を
コ
ッ
プ
に
注
い
で
く
れ
る
。
私
は
席
を
立
っ
て
肖
像
画
に
近
寄
っ
た
。
チ
ヤ
イ
を
注
ぎ
終
え
た
親
父
も
肖
像
画
に
近
寄
っ
た
。
か
っ
て
本
国
の
中
国
で
は
、
あ
れ
ほ
ど
氾
濫
し
て
い
た
こ
の
肖
像
画
も
今
で
は
ほ
と
ん
ど
見
か
け
ぬ
と
聞
い
て
い
る
。
「
彼
は
、
マ
ウ
ジ
ト
ゥ
ン
グ
。
」
と
い
う
偉
大
な
中
国
人
で
す
。
チ
ヤ
イ
が
注
が
れ
た
コ
ッ
プ
に
は
漢
字
力
漕
い
て
あ
る
。
親
父
は
、
ま
だ
熱
い
チ
ャ
イ
を
受
け
皿
に
少
し
移
し
て
飲
ん
で
い
る
。
「
親
戚
は
中
国
に
も
た
く
さ
ん
"
E
V
A
E
V
A
"
と
は
、
強
い
て
日
本
語
に
訳
せ
ば
、
「
ち
ょ
っ
と
、
散
歩
で
も
。
」
と
い
う
こ
と
に
な
る
の
だ
ろ
う
か
。
世
界
で
最
も
早
く
朝
を
迎
え
る
国
、
ト
ン
ガ
の
人
々
が
よ
く
往
来
で
か
わ
す
言
葉
で
あ
る
。
ト
ン
ガ
の
人
々
の
生
活
を
よ
く
"
M
O
H
E
P
E
,
K
A
'
I
P
E
.
T
A
R
A
N
O
A
P
E
.
"
と
云
っ
て
表
現
す
る
。
順
番
ど
お
り
訳
せ
ば
、
「
寝
て
、
食
べ
て
、
お
し
ゃ
べ
り
を
し
て
。
」
と
云
う
こ
と
に
な
る
。
E
V
A
E
V
A
の
楽
し
み
は
、
出
会
う
人
と
の
お
し
ゃ
べ
り
に
あ
る
。
1
9
2
6
年
以
来
、
中
パ
国
境
の
ク
ン
ジ
ェ
ラ
ー
プ
峠
は
閉
鎖
さ
れ
て
い
る
。
イ
ン
ド
か
ら
パ
キ
ス
タ
ン
の
国
境
を
越
え
往
来
で
出
会
う
人
に
“
A
L
U
幻
F
E
?
(
ど
こ
へ
行
く
ん
だ
?
)
”
と
聞
く
と
大
方
"
E
V
A
E
V
A
"
と
い
う
答
え
が
返
っ
て
来
る
。
私
も
い
つ
し
か
"
A
L
U
K
I
F
E
?
”
に
は
"
E
V
A
E
V
A
"
と
答
え
る
よ
う
に
な
っ
た
。
彼
ら
は
、
。・・・出と11...1・・図■Ⅱ111111
た
頃
、
三
日
月
が
一
等
星
を
抱
え
込
み
、
そ
れ
は
ち
ょ
う
ど
パ
キ
ス
タ
ン
の
国
旗
の
よ
う
だ
っ
た
。
こ
こ
で
鳧
る
月
は
、
既
に
十
分
満
ち
、
過
飽
和
し
た
光
は
、
月
の
輪
郭
を
は
み
出
し
、
針
峰
群
の
影
は
黒
く
谷
間
を
横
断
し
て
い
る
。
部
屋
の
ラ
ン
プ
は
調
子
が
悪
い
。
ホ
ヤ
が
煤
け
て
し
ま
い
炎
の
光
は
ガ
ラ
ス
を
通
ら
な
い
。
扉
を
開
け
れ
ば
幸
い
今
それを聞いて"SA'I"(それは結構なことだ。)と云う。
11
私
が
居
候
し
て
い
た
の
は
、
ト
ン
ガ
の
主
島
か
ら
北
へ
船
で
2
0
時
間
ほ
ど
ゆ
ら
れ
た
所
に
あ
る
F
O
A
島
の
、
そ
の
てやって来る。
i
’
こ
ん
な
こ
と
が
あ
っ
た
。
昼
時
、
バ
ス
は
客
を
乗
せ
た
ま
ま
運
転
手
の
家
の
l
i
i
l
て
i
l
ま
r
ゞ
」
伽
,
「
は
、
い
つ
も
横
に
乗
せ
て
い
る
子
供
を
連
れ
て
バ
ス
を
降
り
た
。
再
び
彼
が
戻
っ
て
来
た
(
J
/
)
は
、
約
3
0
分
後
て
あ
く
)
班
"
拝
は
、
こ
の
間
、
な
ん
と
な
く
時
間
を
つ
ぶ
し
て
い
る
。
彼
は
昼
食
を
食
べ
て
来
た
ら
し
い
。
こ
ん
な
バ
ス
に
、
窓
‘
;
』
,
外
を
見
た
り
、
乗
客
と
お
し
ゃ
べ
り
を
し
た
り
し
て
1
日
中
乗
っ
て
い
る
女
の
子
が
い
る
。
聞
け
ば
こ
れ
も
"
E
V
A
E
V
A
"
だ
という。こんな"EVAEVA"もあるのだ。
’
│
1
!
│
・・I・・・I・・勺OrI・・・lIIII4Ⅱ。︲■l・︲■■■ⅡⅡⅡIJIIIIII
カ
ラ
コ
ラ
ム
ハ
イ
ウ
ェ
イ
、
ま
た
中
国
名
で
「
友
誼
道
路
」
と
も
云
う
。
首
都
イ
ス
ラ
マ
バ
ッ
ド
の
ダ
ウ
ン
タ
ウ
ン
、
ラ
ワ
ル
ピ
ン
デ
ィ
の
北
約
1
3
0
k
m
に
あ
る
ハ
ザ
ラ
地
区
タ
コ
ト
か
ら
イ
ン
ダ
ス
川
を
北
上
し
パ
キ
ス
タ
ン
と
中
国
と
の
国
境
ク
ン
ジ
ェ
ラ
ー
プ
峠
(
4
9
3
4
m
)
を
結
ぶ
総
延
長
6
4
5
血
に
お
よ
ぶ
道
路
で
あ
る
。
更
に
そ
の
先
は
、
中
国
領
に
入
り
カ
シ
ュ
ガ
ル
を
経
て
新
彊
ウ
イ
グ
ル
自
治
区
の
首
都
ウ
ル
ム
チ
に
至
る
。
パ
ス
ー
村
は
、
国
境
の
峠
か
‘
ら
南
へ
1
2
0
k
m
程
下
っ
た
所
に
あ
る
。
私
達
に
無
条
件
で
定
め
ら
れ
た
折
り
返
し
地
点
で
あ
る
。
こ
こ
か
ら
先
は
、
あ
の
薄
暗
い
『
1
!
'
ロ
’
’
●■■!IIIIIIIL■巳Ⅱ81.・課11■ⅡⅡ■0・・・ⅡIlII0IIIII・・・・・■111..1.Ⅱ60・・・・・’11・iI
キ
ス
タ
ン
最
奥
の
村
で
あ
る
。
バ
ス
は
更
に
4
0
k
m
ほ
ど
北
に
あ
る
ク
ダ
ハ
ル
か
ら
ワ
ハ
ン
語
を
話
す
人
ば
か
り
を
乗
せ
:
'
1
︲岬p94IIF卜し■rLNq・・.・・.・・.。...1111Ⅱ1用。.・・1.1■・・㎡1■・可
小申.。.●.f・⋮⋮●●●忠に昨●咄●●●に酢恥昨匪盟耶稚ぷむ嘩守催い咄
る
F
O
A
島
は
、
隣
の
島
で
あ
る
L
I
F
U
K
A
島
と
同
じ
珊
瑚
礁
上
に
あ
る
。
し
た
が
っ
て
そ
の
間
の
海
は
極
め
て
浅
い
。
そ
し
て
そ
こ
を
埋
め
た
て
て
作
っ
た
一
本
の
道
で
両
島
は
つ
な
が
っ
て
い
る
。
こ
の
両
島
の
村
々
は
、
一
本
の
道
の
両
側
に
プ
ッ
シ
ュ
を
切
り
開
い
て
点
在
し
て
い
る
。
だ
か
ら
こ
の
道
は
バ
ス
通
り
で
も
あ
る
。
バ
ス
は
ど
こ
か
の
ス
ク
ラ
ッ
プ
置
場
か
ら
拾
っ
て
来
た
風
で
、
ど
こ
か
ら
で
も
乗
れ
る
し
、
ど
こ
で
も
降
り
ら
れ
る
。
運
転
手
は
、
自
分
の
生
活
に合わせてバスを運航する。
「
!
.
:
1
.
今
朝
は
陽
光
を
遮
る
雲
も
な
く
岩
肌
が
吸
収
す
る
光
を
十
分
上
回
っ
て
い
る
。
シ
ム
シ
ヤ
ル
の
針
峰
群
す
ら
光
を
反
射
す
る
。
そ
の
尖
頭
の
遥
か
下
、
バ
ッ
ー
ラ
氷
河
の
舌
端
を
ぐ
る
り
と
巻
い
た
カ
ラ
コ
ラ
ム
ハ
イ
ウ
ェ
イ
を
満
艦
色
の
バ
ス
が
や
っ
て
来
た
。
こ
の
辺
に
住
む
人
に
と
っ
て
街
道
沿
い
の
一
村
に
過
ぎ
ぬ
こ
の
パ
ス
ー
も
私
達
に
と
っ
て
は
、
バ
ト
ン
ガ
王
国
は
、
南
太
平
洋
に
散
ら
ば
る
2
0
0
程
の
小
さ
な
島
々
か
ら
な
る
。
こ
の
内
H
A
'
A
P
A
'
I
群
島
に
位
置
す
i
:
’
ざ:#;
日は月の光を頼りにホヤの掃除もできる。
中ほどに位置するLOTOFO'A村である。
唱.r3..011.・︲I︲I・・・・・・︲︲■q・・・・・・4・・・・・・.L・﹃・・・砧・・・・・︲
’
います。祖母はカシュガルの人だから。」
’
︲●■Ⅱ■LP。d80011..J!■Ⅱ日もJIII.・・・■酉Ⅱ■・︲LⅡFIb8IjⅡF四q・砧︲I■日Ⅱ。■1140・da■Fが■ⅡⅡ■ⅡI
今
日
は
4
つ
あ
る
部
屋
の
3
つ
は
誰
も
泊
ま
る
こ
と
が
な
い
。
一
緒
の
食
事
を
終
え
た
ホ
テ
ル
の
親
父
が
職
簡
を
持
っ
て
来
た
。
栓
の
か
わ
り
に
丸
め
た
ビ
ニ
ー
ル
が
詰
め
て
あ
る
。
親
父
は
ビ
ニ
ー
ル
を
引
張
り
出
し
ト
ロ
リ
と
し
た
チ
ャ
1979年入学國分英彦
壁
に
か
か
っ
て
い
た
肖
像
画
を
運
ん
で
来
た
道
と
な
る
。
(
1
9
8
2
年
現
在
)
’
3.カラコラムハイウェイ
食
堂
で
は
、
カ
ソ
リ
ン
ラ
ン
プ
を
置
い
た
机
だ
け
が
ひ
ど
く
明
る
い
。
光
は
そ
の
机
を
離
れ
る
と
一
気
に
弱
く
な
り
、
一
番
近
く
の
壁
さ
え
も
薄
暗
い
。
薄
暗
い
壁
に
は
肖
像
画
が
か
け
ら
れ
て
い
る
。
肖
像
画
の
顔
は
、
私
の
知
る
同
一
人
こ
の
水
は
、
き
っ
と
、
私
に
帰
る
道
を
教
え
て
く
れ
た
月
あ
か
i
り
に
ぼ
ん
や
り
i
と
浮
か
ん
で
い
権
、
カ
ラ
ヨ
ラ
ム
の
私
は
、
水
の
流
れ
に
の
っ
か
っ
て
パ
ン
ジ
ャ
ブ
に
帰
り
つ
い
だ
。
I
−‐84−
.−85(一
|藍与『
。1日凸.。。..・ニイ4日.。.。J里1..
2.折り返しの村
今
日
は
、
雨
あ
が
り
な
の
で
景
色
も
水
っ
ぽ
く
、
私
は
そ
の
中
に
浮
か
ん
で
い
る
。
イ
ン
ダ
ス
は
、
き
っ
と
水
っ
ぽ
い
空
気
を
流
れ
に
逆
ら
っ
て
運
ぼ
う
と
す
る
の
だ
ろ
う
。
いない。
h
蕊
│,1識.『
、4勺Iエ
:
咄
・
・
・
・
弓
.....■
m
二一■-−−■全■−−今
= 可 =
吟押:エ..・・者
ー■−−1−−今
=
ご
今
・
手
.
一
一
,
.
.
,
二
愛
=
=
咄。■・・咄⋮。.︲IdI1・︲・・・・vplI・・・LI・f1II・・・119.111IIL日..叩訂亘・・トー・’1111.勺︲・’111■日L・’111訂可訂JTiI・・Ⅱ■ⅡⅡⅡ81.丁■qq.・I・・・■.■Bi︲q・可・I・・凸二則咽守子ト
原
ポ
リ
ネ
シ
ア
の
民
族
が
、
大
洋
に
向
け
て
カ
ヌ
ー
を
漕
ぎ
出
し
た
時
、
彼
等
は
何
を
目
指
し
た
の
た
ろ
う
。
東
へ
西
へ
、
島
か
ら
島
へ
と
渡
る
按
等
に
、
“
A
L
U
皿
F
E
?
”
と
尋
ね
た
ら
、
き
っ
と
"
E
V
A
E
V
A
"
と
答
え
た
に
違
五
一
三
=
一
一
一
111
11
1
もっと奥の、ヤクのふんだ大きな氷の道から産まれたのだろう。
いつしか箱はいっぱいで、私も小さくなってぐるぐるまわっている。
ll9Ill11■Illrl00pfl1lIIIlI1I01j■・﹄ⅡJ1
水の道は、毎日何度もあの痛そうなドロマイトやナイスの頂きから、ギシギシと渋滞しながらも、こ
流れは水ではなくて砂や岩ばかりだ。それがゴロゴロ音を立てて私達を運んで行く。毛布をかぶり
の水を生んでいるのだな。
じっとうずくまっていた人達が空に向ってひざまずく頃、あるものは高く高く壁のてつぺんから、あ
’
るものはところどころの草の根元 から再び水が顔を出す。
ド
ロ
マ
イ
ト
や
ナ
イ
ス
の
痛
そ
う
な
頂
き
は
、
も
っ
と
高
く
グ
ラ
ニ
ッ
ト
の
台
に
乗
つ
か
っ
て
天
に
と
ど
こ
う
と
し
あとはこの 流れに乗っていってください。
てインダスの流れを困らせる。
そ
う
す
れ
ば
今
晩
は
雨
が
降
っ
て
明
日
の
景
色
は
濃
密
に
ゆ
が
ん
で
ぼ
ん
や
り
見
え
る
は
ず
で
す
。
こ
ん
な
に
狭
い
谷
の
奥
の
シ
ム
シ
ャ
ル
村
に
は
、
い
っ
ぱ
い
ヤ
ク
が
居
て
、
人
々
は
こ
の
狭
い
谷
か
ら
時
々
顔
を
出
す
。
’
4
.
’
I
l
l
今
日
は
ク
ン
ジ
ェ
ラ
ー
ブ
の
向
こ
う
の
カ
シ
ュ
ガ
ル
あ
た
り
か
ら
客
が
来
て
い
る
。
木
だ
っ
て
草
だ
っ
て
こ
ん
な
所
に
住
み
た
く
な
い
の
に
、
皮
い
つ
ぱ
い
に
水
を
つ
め
た
ロ
バ
を
連
れ
、
円
い
ひ
ら
た
い
帽
子
を
か
ぶ
っ
た
子
供
が
、
今
木に登っても見えるのはササの原ばかり
足もとがぴちゃぴちゃ冷たくなっても
日も川原の向こうの砂漠の方にかげろうとなって消えて行く。
I1161
・・・・・・・・・・・・’11・・咀■■畠叩勺■■TⅡ■刊咽q叫ぶIq刊刊畠詔酔叩
私
も
今
日
は
こ
の
流
れ
に
乗
っ
て
き
っ
と
青
い
キ
ャ
ン
パ
ス
に
描
か
れ
た
ラ
カ
ポ
シ
の
絵
を
買
い
に
行
こ
う
。
今
水色のしみのある地図もあてになりません
あてになるのは水のように歩くことだけです
︲I■q・・・・ⅡI■日L・・・・0JⅡ・・・・■IJIL
サ
サ
の
原
が
ぶ
つ
つ
り
と
ぎ
れ
る
と
、
足
元
は
ふ
わ
ふ
わ
し
て
く
る
。
水
が
い
っ
ぱ
い
あ
る
の
に
ぴ
ち
ゃ
ぴ
ち
ゃ
冷
た
く
な
い
。
や
わ
ら
か
い
大
地
、
こ
れ
は
詩
人
の
産
物
じ
ゃ
な
い
の
で
す
ね
。
本
当
に
や
わ
ら
か
い
の
で
す
。
カ
ラ
カ
11
ラカポシのこの白い点の下に三角の大きな壁があるでしょう
この壁に何本も描いてあるすじだけで5キロもあるのです
IO1Illll4Tl,。■11101︲0bⅡIll90llI中トーdⅡIllld︲j︲ⅡⅡIBllIlj,
ラ
や
わ
ら
か
い
ん
じ
ゃ
な
く
て
ぽ
し
や
ぽ
し
や
し
て
い
る
ん
で
す
。
こ
ん
な
こ
と
は
本
当
は
予
想
し
て
た
こ
と
だ
け
ど
、
予
想
は
知
性
の
産
物
、
今
は
感
性
が
知
性
を
一
瞬
に
し
て
お
お
い
つ
く
し
て
し
ま
っ
て
い
る
。
そ
う
な
っ
た
ら
サ
サ
の
原
に
か
こ
ま
れ
た
ぽ
し
や
ぽ
し
や
し
た
大
地
を
ふ
ら
ふ
ら
歩
く
の
で
す
よ
。
そ
れ
だ
け
で
う
れ
し
い
の
だ
か
ら
。
自
然
と
言
う
物
を
私
達
は
、
そ
の
長
大
な
時
の
流
れ
の
中
の
ほ
ん
の
一
瞬
、
こ
れ
も
言
い
過
ぎ
か
も
'
し
れ
ぬ
。
微
分
係
数
d
t
に
よ
っ
て
し
か
と
ら
え
る
事
が
出
来
な
い
。
こ
れ
は
人
間
の
運
命
、
文
字
を
使
っ
て
初
め
て
記
述
を
成
し
得
る
人
間
の
運
命
で
あ
る
。
記
述
し
た
瞬
間
か
ら
、
接
線
が
曲
線
か
ら
ど
ん
ど
ん
離
れ
て
行
く
力
珈
く
記
述
は
取
り
残
さ
れ
ラ
カ
ポ
シ
の
絵
は
や
め
に
し
て
、
あ
の
フ
ン
ザ
の
人
々
の
頭
に
も
乗
っ
力
、
る
き
イ
{
ぃ
r
今
か
"
l
M
I
,
や
‘
罰
っ
て
帰
る
ことにしよう。
フ
ン
ザ
の
水
は
色
が
つ
い
て
い
て
、
こ
れ
を
飲
む
と
何
百
年
も
か
か
っ
て
イ
1
垣
を
作
っ
た
り
、
頭
の
|
:
,
}
ノ
ノ
に
用
水
路だって作れるのです。
’
て
し
ま
う
。
で
も
、
生
物
は
、
感
覚
と
い
う
と
て
つ
も
無
い
武
器
を
も
っ
て
い
る
。
こ
れ
を
も
っ
て
生
物
は
、
は
じ
め
み
ん
な
ア
プ
リ
コ
ッ
ト
を
食
べ
な
が
ら
ロ
バ
を
連
れ
た
少
年
と
毎
日
坂
道
を
|
っ
て
ラ
カ
ポ
シ
の
絵
を
兇
r
い
っ
ぱ
ラ
カ
ポ
シ
の
絵
も
あ
き
ら
め
た
の
だ
か
ら
、
キ
ラ
キ
ラ
と
い
っ
ぱ
い
色
の
つ
い
た
箱
に
乗
り
、
水
と
一
緒
に
流
れ
て
行こう。
私
は
こ
の
箱
の
中
で
ぐ
る
ぐ
る
ま
わ
り
な
が
ら
、
の
ど
が
渇
い
た
っ
て
水
だ
っ
て
の
め
や
し
な
い
。
岩壁のすきまからカサカサした女の人が子供をおぶって箱に乗る。
頭から毛布をかぶり、うずくまっていた人も箱に乗る。
■lⅡ・・1町
て
、
取
り
巻
き
か
ら
主
体
性
を
狸
得
す
る
。
も
っ
と
も
活
字
や
コ
ン
ク
リ
ー
ト
の
圧
力
に
よ
っ
て
押
し
潰
さ
れ
て
も
は
や
瀕
死
の
私
の
感
性
は
、
悲
し
い
か
な
磁
石
が
く
る
く
る
回
っ
た
だ
け
で
知
性
の
動
揺
に
取
り
込
ま
れ
て
し
ま
う
。
そ
ん
な
ち
っ
ぽ
け
な
感
性
で
は
あ
る
が
、
ポ
ッ
と
突
然
私
の
存
在
そ
の
も
の
を
規
定
し
て
し
ま
う
と
き
が
あ
る
。
そ
れ
が
ぽ
し
や
ぽ
し
や
し
た
大
地
を
歩
か
し
う
る
衝
動
に
な
っ
て
い
る
。
私
が
常
に
絶
望
的
な
抵
抗
を
挑
む
「
時
間
」
に
、
こ
の
時
は
す
っ
か
り
乗
つ
か
っ
て
流
さ
れ
て
い
る
事
さ
え
忘
れ
て
し
ま
う
く
ら
い
に
流
れ
に
同
化
し
て
い
る
。
絶
望
的
に
時
間
に
抵
抗
し
て
い
る
自
分
に
気
づ
く
事
を
人
は
「
我
に
か
え
る
」
と
い
う
。
一
旦
、
我
に
か
え
っ
て
し
ま
う
と
「
知
性
」
が
私
を
支
配
し
始
め
自
然
の
流
れ
か
ら
取
り
残
さ
れ
て
、
意
識
的
に
そ
の
流
れ
に
追
い
つ
こ
う
と
努
力
す
る
。
で
も
記
述
さ
れ
な
い
知
性
と
い
う
の
は
少
し
は
偉
大
で
あ
る
。
d
t
を
‘
い生きるのです。
’
I
’
くるくる回る磁石はあてになりません
ほら見てごらんなさい
1'
l
:
:
鋤
;
・
ア
部
やっぱりササの原
もって帰るのは大変でしょう
|
湿 原 幻 想
ああいやになっちゃうな
この絵は日本にもって帰れますか
I
’
1
1
−86−
−87−
‘‐!:
:
.
.
.
:融’
・ 弓 J
P:咄.。.・1
b・郡_...
,:軋.■:'
11:藻:f
1−詐.晴..;』‘
蕊
垂:・許
I
一口一
ヨ . . − 画
声え_=
一 一 二 一
−−割
君 一
I
−−−W
tくらいには認識できる。
湿原はいいなあ。湿原の一生はAtにおさまるのだから。
強烈なササのブッシュにぎっちりと取り囲まれた湿原を見て、埋もれかかった沼を見て、どうして
時
の
流
れ
を
感
じ
え
な
い
で
あ
ろ
う
。
数
字
で
表
わ
す
事
に
よ
っ
て
初
め
て
認
識
で
き
る
自
然
の
姿
よ
り
、
も
つ
と
身
近
に
感
覚
を
い
と
も
簡
単
に
認
識
に
置
き
か
え
る
こ
と
が
出
来
る
。
長
大
な
自
然
史
の
流
れ
、
そ
の
流
れ
に
比
べ
れ
ば
、
す
ご
く
短
い
時
間
の
中
で
完
結
し
て
し
ま
う
。
湿
原
は
容
易
に
そ
の
絶
望
的
な
相
手
の
時
間
に
少
し
抵
抗
し
よ
う
と
す
る
衝
動
を
与
え
て
く
れ
る
。
湿
原
と
い
う
物
が
、
な
ん
の
因
果
か
世
に
生
ま
れ
た
そ
の
時
か
ら
時
の
流
れ
に
取
り
込
ま
れ
て
、
行
き
着
く
先
を
完
全
に
知
覚
し
な
が
ら
進
ん
で
行
く
の
で
あ
る
。
湿
原
は
開
放
さ
れ
た
系
で
は
あ
る
が
、
そ
の
追
悼
開
放
を
常
に
受
動
的
に
受
け
止
め
て
い
る
。
ど
ん
ど
ん
挟
ま
っ
て
行
く
あ
る
空
間
の
中
に
内
在
さ
れ
た
あ
る
種
の
力
を
適
応
さ
せ
て
、
そ
の
瞬
間
瞬
間
に
自
己
同
一
性
を
保
ち
な
が
ら
極
相
と
い
う
終
え
ん
に
向
か
っ
て
も
は
や
必
然
と
な
っ
た
流
れ
に
乗
つ
か
っ
て
い
る
の
で
あ
る
。
私
達
は
も
は
や
湿
原
が
あ
れ
ば
容
易
に
そ
の
空
間
の
行
き
着
く
先
を
知
る
こ
と
が
出
来
る
。
そ
し
て
そ
の
誕
生
の
契
機
と
な
っ
た
き
っ
か
け
の
出
来
事
ま
で
摩
知
る
こ
と
が
出
来
る
。
湿
原
は
、
私
達
の
△
t
の
中
に
す
っ
ぽ
り
と
納
ま
っ
て
し
ま
う
の
で
あ
る
。
湿
原
は
、
自
己
増
殖
力
を
持
た
な
い
。
た
だ
、
た
だ
自
然
史
の
中
の
一
回
性
の
み
を
孕
ん
だ
空
間
で
あ
る
。
流
れ
の
途
上
に
あ
る
空
間
的
に
も
時
間
的
に
も
自
己
完
結
性
を
持
つ
お
か
し
な
存
在
な
の
で
あ
る
。
自
然
史
と
い
う
の
は
、
そ
の
様
相
を
d
t
に
お
い
て
し
か
捕
え
る
事
の
出
来
な
い
一
回
性
一
の
物
で
あ
る
が
、
そ
れ
ら
は
私
の
感
覚
の
許
容
す
る
△
t
を
遙
か
に
越
え
て
し
ま
っ
て
い
る
。
湿
原
は
、
そ
の
許
容
に
お
さ
ま
り
う
る
実
に
身
近
な
自
然
史
の
流
れ
の
一
部
で
あ
る
。
私
達
力
抵
抗
す
る
具
体
的
手
段
を
持
ち
得
な
い
時
間
に
対
し
、
あ
る
種
の
感
覚
を
も
っ
て
立
ち
向
か
う
べ
き
自
然
に
人
知
れ
ず
私
達
に
訴
え
か
け
て
い
る
ひ
と
つ
の
光
明
で
あ
る
。
’
湿
原
の
な
か
を
妨
僅
す
る
事
に
よ
っ
て
、
私
は
あ
る
幻
想
を
い
だ
い
た
。
常
々
「
森
羅
ノ
フ
象
(つ
い
て
想
い
を
巡
ら
し
な
が
ら
臓
気
な
が
ら
す
ら
そ
の
輪
郭
を
掴
み
切
れ
ず
に
い
た
。
湿
原
の
な
力
て
抱
、
ナ
歩
勺
Z
I
轡
'
ま
、
│
場
炎
の
如
く
モ
ヤ
モ
ヤ
と
そ
し
て
遠
に
見
た
物
で
は
あ
る
け
れ
ど
も
確
か
に
何
か
、
森
羅
ノ
ノ
象
へ
の
道
を
っ
力
み
ズ
‘
ナ
た
よ
う
な
気がした。(199012月記)
l
l
I
I
−88−
=
■
ご = 一 呂 訶 ‐ 一 一 一 ー
■
-----=_−−−−−≦−−−−−‐ー_=‐ー
▲
百
一
三
=
一
一
一
=
一
一
一
一
一一
一
一
一
一
一
写 一 一 一 一 −
−
−
−
’
−
−
−
や
座座
q
凸
賦馴
旬
画
L
〆一
0
『グ
0
〃〃PP
,ノ〆
ノ
L1
、
雷
、
ミ
ミ
■
ン
b
▲
e
Jj
メ
1987年1月摩周湖にて
今 ロ ニ ョ
マーー宇一■一・
一一
■
皇
一
一
一
一
一
一
‘
・
≦
一
=
一一
・
一
ロ
−
戸 頭 置 弔 山 守 一 勺 哺
B■宅
ー冤一=一℃一
L
l
’
「金森との半年間」
遠
征
を
半
年
後
に
ひ
か
え
た
夏
休
み
明
け
の
ミ
ー
テ
ィ
ン
グ
か
ら
彼
と
の
つ
き
合
い
が
始
ま
っ
た
。
新
サ
館
や
石
室
を
う
ろ
つ
い
て
い
る
特
徴
あ
る
顔
が
ぼ
く
の
記
憶
に
あ
っ
た
こ
と
や
、
他
の
連
中
と
は
共
に
バ
イ
ト
な
ど
を
し
て
打
ち
と
け
て
い
た
こ
と
も
あ
り
、
違
和
感
は
な
か
っ
た
。
そ
し
て
、
遠
征
に
つ
い
て
話
し
合
い
を
進
め
て
い
く
中
、
生
え
抜
き
の
探
検
部
員
に
は
な
い
精
密
な
考
え
方
を
す
る
彼
の
存
在
は
と
て
も
心
強
く
感
じ
ら
れ
、
い
い
パ
ー
テ
ィ
ー
が
で
き
略 歴
1964年7月1日
名古屋市にて出生
1971年4月
仙台市立南小泉小学校入学
1977年3月
新宿区立愛日小学校卒業
、佐野雄三
〃牛込第三中学校卒業
1983年3月
東京都立青山高等学校卒業
1983年4月
北海道大学理Ⅲ系入学
1983年4月
ワンダーフォーケル部入部
で
あ
る
が
、
そ
の
大
胆
さ
と
う
ま
さ
、
特
に
大
胆
さ
に
舌
を
巻
い
た
の
を
憶
え
て
い
る
。
小
細
工
を
弄
す
る
こ
と
な
く
、
1985年9月
ワンダーフォーゲノ脚退部
果敢に突っ込んでいた。コケた時も豪快だった。
1985年10月
理学部化学第二学科移行
1
1986年9月
探検部入部
:
1987年3月
ネパール、メラピークにて遭難
rllI・・・・︲︲︲d日出Ⅱ■J■r・・・・し■・﹄..。.4
1980年3月
劇
|
たと思ったものである。
1
0
月
は
中
途
半
端
な
時
期
で
あ
り
何
も
な
か
っ
た
が
、
1
1
月
に
な
る
と
活
動
を
共
に
す
る
よ
う
に
な
っ
た
。
月
は
じ
め
の
連
休
に
は
、
別
パ
ー
テ
ィ
ー
で
あ
っ
た
が
同
じ
旭
岳
に
登
っ
た
。
こ
の
時
初
め
て
彼
の
滑
り
を
見
た
の
鋼叡織
末
に
は
2
人
で
赤
岩
へ
行
っ
た
。
ア
イ
ゼ
ン
を
は
い
て
ガ
チ
ャ
ガ
チ
ヤ
と
岩
を
登
る
の
は
心
地
い
い
も
の
で
は
な
か
っ
た
が
、
登
り
終
え
た
時
の
充
実
感
が
何
と
も
い
え
ず
、
翌
週
に
は
塩
谷
丸
山
を
計
画
し
た
。
そ
れ
は
、
1
泊
2
日
で
、
初
日
は
頂
上
に
あ
る
岩
場
ま
で
偵
察
を
兼
ね
た
ル
ー
ト
作
り
を
行
い
、
2
日
目
に
登
り
ま
く
ろ
う
と
い
う
も
の
で
、
ス
ケ
ー
ル
は
比
較
に
な
ら
な
い
も
の
の
ヒ
マ
ラ
ヤ
を
妨
佛
さ
せ
る
と
こ
ろ
が
あ
り
、
思
い
入
れ
が
あ
っ
た
の
だ
が
、
雪
が
少
な
;
.
:
.
:
3
:■.
:..
:■.
:..
、
:
.
:
1
.弔:蝿:酔
蕊
i
赤岩(人工登塞)
1986年10月
赤岩
1986年11月
大雪、旭岳
1986年11月
赤岩
1
2
月
に
入
り
、
春
香
山
に
行
っ
た
。
メ
ン
バ
ー
は
金
森
と
我
ら
が
隊
長
田
中
、
そ
れ
に
ス
ギ
と
カ
キ
エ
が
加
わ
っ
た
5
人
で
あ
る
。
こ
の
山
行
は
余
裕
緯
々
、
問
題
と
な
る
よ
う
な
こ
と
も
な
か
っ
た
の
だ
が
、
彼
と
ぼ
く
は
所
々
で
実
に
よ
く
意
見
が
食
い
違
っ
た
。
そ
の
内
容
は
細
か
い
こ
と
で
、
お
そ
ら
く
ど
ち
ら
の
考
え
も
誤
'
り
と
は
い
え
な
い
よ
う
な
も
の
だ
っ
た
と
思
う
の
だ
が
、
彼
は
そ
ん
な
こ
と
に
で
も
自
分
の
考
え
を
自
分
の
言
い
方
で
語
っ
た
。
L■.:■■■
1
.
.
.
:
.
:
:
:
.
.
:
i
F
、
.
:
:
:
:
:
:
1986年11月
謝
ニセイカウシュッペ山南稜(大槍のIi>
1986年12月
小樽丸山
1986年12月
春香山
1986年12月
赤岩
1986年12月
手稲山(ザイルワーク訓練)
1987年1月
中山峠一元山(ヒマラヤ予備合宿)
摩周湖(スキューバダイビング)
・・.:.
|
篝
正
月
に
は
、
遠
征
隊
合
宿
と
し
て
中
山
峠
か
ら
轆
峠
ま
で
の
縦
走
を
試
み
た
。
こ
の
山
緑
憾
。
こ
の
冬
一
番
の
低
気
圧
"
が
入
山
初
日
に
通
過
す
る
と
い
う
、
遠
征
隊
合
宿
と
し
て
は
ま
こ
と
に
結
雛
条
件
の
元
で
行
わ
狐
メ
ン
バ
ー
3
人
が
凍
傷
を
つ
く
っ
て
し
ま
う
ほ
ど
ぼ
く
ら
に
と
っ
て
は
と
て
も
厳
し
く
、
粟
、
価
値
②
あ
る
も
の
だ
っ
た
。
そ
の
後
、
山
へ
は
行
く
こ
と
も
な
く
、
共
に
行
っ
た
の
は
ス
キ
=
練
習
と
ア
イ
秀
ク
ラ
イ
ミ
ン
グ
艫
と
塔
ま
り
、
遠
山
や
遠
征
隊
の
話
し
合
い
以
外
で
は
一
緒
に
い
る
こ
と
は
少
な
か
っ
た
。
そ
の
少
な
い
時
間
の
中
で
睦
山
の
こ
と
ば
か
り
話
し
て
い
た
。
そ
ん
な
彼
と
の
山
行
の
ほ
と
ん
ど
が
こ
ん
な
ふ
う
に
書
く
こ
と
が
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き
て
し
ま
う
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あ
ま
り
に
も
:■.■.LL■■
: : .
]:::::.:
灘
:■.■
|
鐸
:
:
:
:
l
篭
|
蕊I
群.:::I
霧|
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:■.::
、
.
.
.
■:■.
.::::
1
.
.
.
.
.
.
.
: :
:
:
.
.
.
:..・
i:...
。::
.
.
:
.....』
1987年1月
1......│
i:、囎・1
.....1
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剛
1987年1月
手稲山(山岳スキー訓練)
1987年1月
赤岩
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1987年1月
征へと出発した。
アシリベツの滝(アイスクライミング)
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る
こ
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く
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ッ
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と
引
き
返
す
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い
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結
果
に
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わ
っ
て
し
ま
っ
た
。
そ
の
晩
、
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部
屋
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、
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何
し
に
行
っ
た
の
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わ
か
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の
間
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雪
で
大
丈
夫
だ
と
思
っ
た
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だ
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ど
な
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「
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し
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ゃ
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群
だ
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対
雪
が
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る
。
気
を
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り
直
し
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探検部活動歴
1986年9月
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故金森竜一郎君
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グもやってみたいという抱負、ブータンや南米への夢なんfを船っ澪〆聡戸こ.γ,舞確.‐〈
らにと’て出発点となるはずだったのに…。残念でばらない。せめて、鈍’..細・亀一ァ,趣『F,
飛び画毒ているのだと思いたい.
〈『ネパールと→ぅ、蛾噌●藷'菌.!』-‘ノ睡蔽
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1986年8月日高にて
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川寛樹君
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1984年9月
富良野岳一美瑛富士:
1984年9月
白水沢一無意根山
1970年4月
江別市立江別第三小学校入学
1984年11月
薄別一無意根山
1976年3月
富良野市立富良野小学校卒業
1984年12月
迷沢山
1979年3月
富良野市立富良野西中学校卒業
1984年12月
定山渓天狗岳(熊の沢一山頂)
1982年3月
道立旭川東高等学校卒業
1984年12月
ニセコ山系(冬合宿)
1982年 4月
北海道大学理Ⅲ系入学
1984年12月
ニセイカウシュッペ山
1984年2月
探検部入部
1984年10月
農学部農業工学科(農業土木)移行
1986年10月
休学
1987年10月
復学
1987年11月
余市町白岩海岸にて遭難
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1985年1月
北日高(札内岳一十勝幌尻岳)‘熱職,
1985年1月
丸山岩登り
1985年3月
奥手稲山
1985年3月
南
日
高
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古
岳
一
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)
1985年3月
羊蹄山
1985年5月
大雪山系(春合宿)
美国ダイビング
1985年5月
探検部活動歴
1984年2月
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赤岩
定山渓天狗岳(熊の沢-WESTコル手前)
1985年5月
余市川下り
1984年2月
奥手稲山
1985年6月
沙澗ll下り
1984年4月
積丹岳
1985年6月
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1984年4月
元山一千尺高地(春合宿予備)
1985年7月
赤岩
1984年4月
大雪山系(春合宿)
1985年8月
赤岩(芦別岳予備)
1985年12月
1985年12月
空
沼
岳
(
冬
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宿
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春
香
山
(
冬
合
宿
予
備
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1985年12月
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山
系
(
冬
合
宿
)
1985年12月
芦別岳
〃
〃
〃
芦別岳
1985年12月
ダイビング講習(白岩)
1986年1月
〃
1986年2月
〃
1986年3月
見市川一遊楽部岳一平田内川
1986年3月
ポンシヨカン川一暑寒別岳一群別岳
1986年3月
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略 歴
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白井岳
1986年5月
大雪山系(春合宿)
1986年6月
道南、瀬棚(サバイバル)
1986年7月
恵庭岳、滝の沢
1986年8月
幌内府川一余月幅
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1986年4月
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気
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も
な
っ
た
の
だ
ろ
う
か
。
そ
の
後
、
僕
ら
山
党
は
ヒ
マ
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ヤ
遠
征
、謡山麓懸顯趣鰯驚蔽.競駕駕鰯
た
よ
う
だ
。
そ
し
て
秋
に
は
札
幌
を
離
れ
1
年
間
の
農
業
実
習
に
旅
立
っ
て
い
っ
た
。
彼
が
深
い
思
索
を
併
せ
も
っ
た
行
動
人
で
あ
る
こ
と
を
誰
も
が
知
っ
て
い
た
か
ら
、
彼
の
こ
う
し
た
転
回
を
僕
ら
朧
り
あ
砂
論
理
的
思
考
で
突
き
詰
め
て
い
っ
た
結
論
”
に
違
い
あ
る
ま
い
と
、
そ
う
思
っ
た
の
だ
っ
た
。
も
う
じ
き
石
川
マ
ロ
が
帰
っ
て
く
る
、
こ
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ら
の
間
で
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し
い
話
題
と
な
っ
て
い
た
。
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た
し
て
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年
の
後
、
彼
は
札
幌
に
帰
っ
て
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た
。
冬
は
ど
う
し
ま
し
ょ
う
か
、
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り
日
認
へ
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又
行
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か
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話題となった。ところが、帰ってきて一度飲んだきりで彼は11月、余市の寒い海から帰ってこなかっ
E,C、H・Diary
た
。
依然として日高は僕らの憧慣そのものである。鋭鋒1839m峰は主稜から少しはずれて屹立してい
る。主稜から39に至る支稜は細く雪崩やすい。ナナシとサッシビチャリからの吹上げによる両面雪庇
1月‘6目−13日風蓮湖、・野付半島遊歩
[国内分]
倦国袋一東梅一槍誉−本木一別
1972年度(前期プレジデント丸山博)
(後期プレジデント丸山博)
4月30日∼5月5日春山合宿(大雪愛山
にも気を付けなければならない。ザイルを出すところも数箇所あるそうだ。
それから……………
今となって詮ない事だが、又一緒に日高に行きたかった。
海一ポンニッタイー竜神岬)
M飽津東‘.
1月9日∼15日サロベツ原野踏査(豊
溪
)
富一ペンケ沼一音類橋一下沼)
A:L三井SL熊本M丸山近
(『ダイビング事故報告割より転載)
M中野,鋤…瞥.‘漁
藤利満三沢中野
B:L本郷SL飽津M仲宇津
木須賀杉本村上栗原田中
2月28日スキー大会(手稲山)
1973年度(前期プレジデン卜熊本寛見)
長尾
(後期プレジデジド近藤憲久)
5月14日∼15日100キロ遠足M飽津
4月22日千尺高地M近藤
4月3.01日∼5月5日春合宿
近藤
6月2日∼4日積丹釣行(余別一沼前一西
5月19日∼20日署寒月幅M飽津三沢
6月7日∼11日日高山行(千露呂川)[
ノ河原一余別)M飽津増田
8月4日∼15日プロペラ船による釧路湿
M熊本三沢中野加地利満
原
牛田栗原先川
M清水三井熊本丸山栗原
6月9日∼10日千歳川下りM丸谷
斉藤三沢
6月9日−10日気球(奇f鰯)
6月30日∼7月3日穂丹半島探検(イカ
10月16日∼20日サロベツ川下り(兜
沼一パンケ沼一下沼駅)
ダ使用)M栗原高橋
1
0
月
2
9
日
ア
ホ
ウ
ド
リ
熱
気
球
飛
行
(
石
狩
平
〆
7月21日=25固,岩手洞窟探検:伽ノホ
洞にお勝る鑑物調査),
野
)
1
0
月
2
9
日
無
意
根
山
(
元
山
一
無
意
根
山
一
無
rIⅡJ・FlイーIIFfI.・J01I
7月25日垂8月'6日渡島大島踏査
名紐j9︲■四90︲IIL,1︲01︲f︲
意
根
小
屋
一
薄
別
)
M
近
藤
利
満
1
2
月
2
1
日
∼
2
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日
冬
合
宿
(
無
意
根
山
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A:L本郷SL熊本M利満栗
M熊本栗原宮本藤元飽津
近藤長尾小野
8.月!#圏' 20個’知床'(オシネベツ岳=知
原伊藤中野
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:味岳)IM丸山‘
B
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飽
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山
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9月231図−28日十勝岳山行
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崎須賀三沢
I、七羽dH110q0Lもロ日■0︲、■二.1ql
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∼寺.-r二LF=
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毎pr-PF二
三._妄..._−−=上辞
一︲∼
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L牛田M村上三沢加地関根
L丸山M岡村中野小林吉田
I
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舗
6月29日∼30日赤岩
(
浩
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7月23日∼30日屈瞳川下り
10月10日∼11日熱気球(洞爺湖)
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10月9日∼10日100キロハイク(札幌一
10月20日∼23日長沼M近藤
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鋪
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余市)
10月27日一年目空沼ハイキングM小野
加地吉田(浩)大江高橋小
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M吉田(全)大江
10月10日∼13日サロベツ原野
林大久保岡村
調
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12月14日∼15''¥/?{iW嘩咋、ルベチ
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2月16日∼17日スキーツアー(元山一
中山峠)M丸山須賀
IIl(全)
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I
12月1411∼15日無意根山("MIL-i)
2月26日∼27日無意根山
09U咽110■Lt4IIIlIl4・hJ0,rJIlq,P4,︲︲101Ⅱトー1101やIIllIbIlI1r4bⅡdJ1d1q1IIljI
蕊熱願謝熱熱熱繍議譲鯛識溌熱熱翻蕊熱識鯛議熱鍵
3月25日∼4月1日奥尻島
(後期プレジデント 栗原努)
松
12月30日∼1月2日ニセコスキーッアー
M岡村宮元小野林
6月21日∼22日ガマノ沢
M加地高橋4淋沢根
1月5日∼12日道北(稚咲内一日本海一
温泉一富良野岳一十勝岳=鶏岳一
オプタテシケ山一白銀荘)
M三沢小笠原小野ススキノの
9月30日∼10月i冒無意想山
M小劉颪河│閏
10月7日空沼岳一札嬢雷M沢根森圏
10月9,目'=13固曇ペソツ山
M加地甲斐小称高構:吉閏
(卿,鐘辺
1:0月25i日∼26日無意根山
M岡村宮元林
一”1一
蕊
←一手ら匙・−
M三沢小林村上渡辺
6月20日∼21日札幌岳
−100−
司一
8月10日千歳川M吉田ほか1名
8月22日∼28目上磯洞窟
9月21日∼24日十勝‘(白銀荘一十勝岳
M三沢村上森田佐藤林平
関根吉田(全)中野大江
5月23日赤岩
M栗原高橋甲斐
6月13日∼15日上磯洞窟探検
12月29日∼1月5日根釧原野M丸山
近藤憲久)
8月8日∼1'5日南日高
M甲斐吉田 武井
M栗原甲斐吉田(浩ノ中野
M近藤丸山
7月21日千歳川M沢根森田
ママ
M丼大江小笠原〃ll)│
12月15日春香山
M加地西村三沢
M三沢小林渡辺
崎
ルート)M三沢大江沢根
7月18日神威岳(木挽沢)
jj
11月30日∼12月1日奥手稲山
三加笠M市湖・
周
トト宿小
岳余
岳一
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ジジM川路半
I
ンン合別野根張股
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しし日署元日1
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斜屈付
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期期月7
挽月
M近藤岡村加地藤木
1974年度(前期プレジデント
|
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生
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M林長田増井
三沢大江吉田(全)小笠原
前後51村木6日根日日
(美生川)
F
L三井SL丸山M近藤栗原中野
11月30日∼12月1日無意根山(薄別
1月10日∼15日エゾ鹿トレッキング
笹岡林森鯛"蕊)
7月13日∼19日サバイバル(雄冬)
岬一羅臼)
M吉田(全)小林小野
M丸山
l
下
7月6日∼7日無意根山(白水川)
M三沢加地宮元小野葛井
2月23日∼3月13日オホーツク流氷原
踏査(網走一斜里一ウトロー知床
くくへ
一岡−7沢87
日日M日日一M一一
度
1
6
日
年0
31
3日
3
5日
56
パンケ沼)M吉田(全)イ淋
1月26日∼29日根釧原野ソリ旅行
M加地甲斐
7月6日手稲山(発寒川)M高橋甲斐
M加地吉田(全)
’
月
月6
月6
月6
月
4月
5月
55
1月10日∼14日サロベツ原野(兜沼一
l
’
L丸山SL中野M大江吉田
11月23日無意根山(薄別ルート)
M林(信)林(ハ)
2月23日無意根山(千尺ルート)
1
井
7月4日∼6日ガマノ沢
2月10日スキー大会
11月22日∼25日羊蹄山
(全)沢根小笠原
6月29日定山渓天狗岳M三沢西村
M三沢沢根
5
7
9
11月23日∼25日十勝山行(ビバーク実
験)M近藤飽津丸山宮本直
M加地高橋森田佐藤
1月9日∼13日ニセコスキーツアー
一文野
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沢地
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M岡村関根
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6月22日赤岩、
M吉田(浩)小林高橋
M村上
11月3日∼4日暑寒別岳(暑寒一雨竜沼)
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蔦
霧
|
|
’
L丸山ほか4名
M中野近藤
:
:
:
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§
:
6月21日神威岳M長田増田
クッチャロ湖一オホーツク海)
8月3日∼11日知床
10月13日∼14日芦別岳
リ{
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6月15日∼20日熱気球
’
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一
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一
一
一
;M高橋小林甲斐沢根長田
(
清
)
林
6月13日赤岩M加地
11月2日∼3日芦別岳M甲斐加地
M宮元岡村小笠原増井
11月28日札幌円山洞窟
M森田佐藤高橋古藤
6月26日千歳川下りM森田沢根
8月20日∼26日日高(コイカクシュサ
6月26日白井川一余市岳’
8月29日∼9月4日クワウンナイ川
M古藤
M葛井小野加地小林佐藤
12月28日∼1月3日風蓮川走破
M小林高橋
M甲斐吉田小保方前川佐藤
7月16日漁岳M沢根井上
高橋
7月22日∼24日サバイバル(赤岩).
三沢
12月21日∼24日冬合宿(無意根山)
1月1日∼3日スキーツアー(倒菌峠一へ
ルベチアーエリコ山一春香山一春
香
)
L三沢M浅野
7月31日∼8月8日知床(半島一周、羅
山峠)
M甲斐高橋吉田
12月10日∼i順無意根山
12月17日∼18日'無意樫山
M加地大江甲斐森田井上
へルベチアー余市岳一無意根山一中
1月10日∼15日朱鞠内湖氷結調査
12月3日∼’4日無意根山‘
7月28日∼8月5日北日高
3月26日∼30日スキーツアー(桂岡一
L三沢M加地’│、保ノノ
1月14日氷渡ケービング
2月11日∼12日定山渓天狗岳(中央ル
臼岳)
ンゼ、東尾根)|
M前川細川浅野
M加地甲斐浅野後藤沼沢
8月1日∼5日日高
2月10日∼11日スキー大会
1977年度(前期つ│-'-│{'1ill/i郎)
1976年度(前期プレジデント吉田浩正)
4月14日千尺高地
M吉田大江前川井上高橋
9
月
2
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日
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2
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日
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雲
峡
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M沢根小笠原山口浅野
M後藤吉岡山ロ小林杉本
L浅野”沼沢東
吉田(浩)正田
ムラウシートムラウシ温泉)
M古藤佐藤前川井上高橋
4月29目−5月4日春合宿
5月5園∼6固翻蛎北尾根
10月1日熱気球係留
6月2日∼5日トムラウシ山(天人峡一ト
5月28日∼30日上磯洞窟
(後期プ'レジデン‘卜持田二郎)
M細川.石井
5月15日赤岩
M加地甲斐浅野後藤
5月1日∼6日春合宿(大雪愛山溪)
5月21日∼22日100キロハイク
1978年僅|(前期プレジデント高橘清孝)
旭
岳
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雲
岳
一
高
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温
泉
)
4月29日∼5月41]春合宿(大雪愛│'│溪)
持田小保方
M大江浅野’山口
井上
4月24日手稲オリンピア
(後期プレジデント甲斐秀一)
3月6日∼13日戦ロベツ原野縦断
M大江加地長田甲斐森田
(後期ブレシデント仏勝ll'lll)
1
鋤
,
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『
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,M佐藤増弁吉岡
M前川浅野細川
12月19日∼23日冬合宿(ニセコ)
M栗原古藤佐藤森田渡辺
11月5日∼6日空沼岳
M後藤正田吉岡東他3名
12月11日∼12日プレ合宿(無意根山)
1月5日∼13日アツカ村洞窟
L浅野並山│画佐藤征)正田
7月16日∼8月2日天塩筏下り
11月20日∼23日十勝
林
10月29日∼30日空沼岳一札幌岳
M井上高橋古藤渡辺他1名
7月2日豊平川下り(幌平橋一雁来橋)
M前川後藤東正田浅野
L加地M大江井上小保方
12月6日手稲オリンピア
岳=糟毛》4'
L大江M小保方;'後藤
M加地甲斐浅野後藤細川
ツナイ岳一ペテガリ岳)
12月6日∼7日無意根山(プレ合宿)14名
12月19日∼22日冬合宿(ニセコ)
10月9日∼110日署割り岳侭竜二署寒別
6月26日赤岩
8月16日∼20日石狩川下り
11月23日∼24日雷電海岸磯釣り
佐藤(正)山口浅野
M浅野細川
M古藤
M小林高橋武井
》
L佐藤(浩)班増井高橋↓吉岡
6月19日木挽沢一神威岳剣、。
7月3日∼4日無意根山(白水川)
11月22日∼24日無意根山
トムラウジ山些天人峡)
M佐藤増井渡辺、浅野
思月:12i固∼順圃I摩周湖屈斜路湖
’0月2日定山渓天狗岳東尾根
M高橘東
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M大江加地小保方後藤
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6月2日∼4日桂沢湖一の沢釣り山行
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M大江浅野
森田
5月21日千歳川下り
8月27日∼29日砂金掘り(百人浜)
M高橋沼沢須田
M須田脇本石田清水大淵
9月22日∼26日北アルプス(上高地一
5月21日ダイビングM吉岡
今井田国分
前穂一槍一双六一笠ケ岳一新穂高温泉)
5月31日∼6月4日知床
6月1日∼5日石淵I1下り
6月2日∼3日夕張岳(金山一山頂一夕張)
L大江M小保方岩田
10月1日豊平川下りM須田
6月7日∼9日サバイバル(沙流川)
10月7日∼8日ニセコ沼巡り
M高橋(清)蔵野宮原高橋(和)
6月16日風不死岳(大沢一山頂一大沢)
10月29日気球係留(札商大)
6月4日気球係留(北大構内)
6月17日∼18日余市岳(白井川本流一
6月30日∼7月1日無意根山(白水沢)
L大江M森田宮原
M浅野国分今井田
11月25日∼26日無意根山
7月16日∼21日釧路湿原
M持田佐藤
L浅野M沼沢佐々木蔵野
7月23日∼30日十勝連峰縦走(幾寅一
シーソラプチ川一カミホロ岳コル一
M沢根佐藤高橋長田吉岡
M岩田林他2名
12月21日∼23日冬合宿(無意根山)
M浅野沼沢後藤山口大江
加地
7月22日無意根山(白水沢一山頂一薄
11月25日元山M高橋
12月19日∼24日冬合宿(ニセコ)
1980年度(前期プレジデント須田一弘)
M浅野蔵野宮原今井田国分
1979年度(前期つし、‐|筏野晴也)
M山口大江沼沢森田
8月20日∼25日ダイビング合宿
(
後
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坐
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4月2911-ブし合宿(豊判ノLllill[I)
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森田
M浅野杉谷今井田|玉│分
M清水今井田
5月20日「歳川下り
8月5日∼10日利尻山
8月19日∼25日南日高(ソエマツ岳一
,
0
月
6
日
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,
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一
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壽
一
忠
別
石
室
一
中ノ岳)
5月27日百松沢山
M浅野蔵野国分高橋(清)
1
L大江M桟野山口(俊)沼沢
6月2日∼3日漁岳
5月11圖赤岩
M浅野清水高橋伽)高橋(清)
5月18目−19圖赤岩M宮原国分
5月24日−25日手稲山(発割IIII)
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6
月
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M須田今井田大淵国分
清水国分
I
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11.rI
−104−
L高橘1鯖)賊蔵野相原
6月3日∼7日サバイバル僕副附
mal臨本雌須田宮原吉本上条
6月3目∼噺圏霧多布湿原,
Ⅱ11曲寺早FrllJIJ4IIlq印IJrJJ0II。.’︲JI1●■ⅡJⅢトーPL
M佐藤(弟)蔵野
5月2日∼6日春合宿(大雪愛山溪)
L浅野M国分
10月2日∼3白ニセコ沼巡り
M須田脇本石田大淵今井田
’
Ih酬岨uFjJ●ⅡhJな■韻︲11Ⅱ41
L大江M浅野沼沢山口(俊)
4月27日プレ合宿元山
M浅野澗水俊藤平野
M須田石田
5月18H赤岩
(後期プレジデント脇本和幸)
5月17g-18目山菜取り',(ヘルベチア)
9月19日∼20日空沼岳札幌岳縦走
5月2日∼611春合宿(愛山溪)
7月29日∼8月2日積丹半島横断
1
11月23日−25日芦別岳
プタテシケ山一白金温泉)
別
)
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一
富
良
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一
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宮原脇本石田蔵野
6月25日赤岩
M浅野高橋(清)高橋(和紗喜原
清水
12月9日∼10日無意根山
6月17日無意根山
11月17日∼18日無意根山
M浅野今井田脇本宮原国分
M今井田国分高橋(和)大淵
12月2日∼3日無意根山
山頂一左股)
今井田高橋(和)国分
M浅野今井田国分
11月3日∼4日芦別岳(北尾根)
M正田小林佐藤(弟)野崎
1.1月3日∼4日.赤岩
M浅野宮原脇本岩田清水
M大江浅野森田
L山口M須田森田
’
10月19日赤岩
M杉谷清水高橋(和)国分
6月5日∼8日利尻山
M浅野沼沢
L高橋M浅野沼沢須田
M浅野今井田清水国分
IIIII
山口後藤宮
雲岳一小化雲岳一天人峡一
6月5日∼10日天塩川下り
M須田宮原蔵野
5月21日神威岳M岩田
五色岳一化雲岳一トムラウシ岳一化
M高橋(清)蔵野脇本
;
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…
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劇
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茜. ーP一一三吋一へ一ロ’一‘∼‘.−=’し-∼
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一 韻
一 卓
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L国分M大淵平野大丸
6月3日∼7日ニセコ(雷電山一朝日温
泉
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11月8日∼9日無意根山(薄別一シャンツ
ク岩一山頂一登山口)
ェー薄別)
L国分M清水大丸
L脇本M清水国分上条
l肥.●k#
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7月6日ダイビング(美国)
岩一夕張岳一ガマ岩一滝ノ沢本流)
L浅野M脇本清水国分上条
︲l︲。■J00I0U0JQ6h1勺日r0II19ⅡI0IIII■dH0rl︲l︲1111ロ■I卜・4︲j︲’01。■・■■1.lbP←6︲申lJIIhIII曲■・■・L1Itq04頷卜も
M高橋(清)浅野宮原脇本
L国分M平野
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日
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12月13日∼14H空沼岳(登ll」口一山
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12月14日手稲山ケレンデ練習
L蔵野M清水吉本伊藤
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6月3日∼7日大雪スキーツアー
L脇本M稲園
M高橋(和)清水脇本宮原
浅野伊藤平野相原
6月20日露22{目雨竜沼湿原
L国分M積水湊野吉本平野
6月24圖∼291圓摩周湖ダイビング
ゞL高橋(鋤清永|脇本宮原浅
野伊藤平野相原
7
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、f浅野M平野相原和泉
相原
12月14日元山
−106−
L国分M伊藤低)止条
1
16月18日支笏湖ダイビング
3月8日百松沢山M相原上条
L脇イミM坂井平野
相原清水平野伊藤
M浅野高橋(和)清水国分
10月9日∼10日100キロハイク
2
月
2
8
日
∼
3
月
1
日
円
山
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練
12月7日|'│松沢山(源八沢)
国
)
10月5日恵庭岳
沼一豊富)‘
LI敗ⅢI;『Ⅶ,I;I'│、ii,│JIjノ
8月27日∼9月2日ダイビング合宿(美
6月3日∼7日サロベツ原野踏査(兜沼=
L浅野M国分
L清水M相原上条
:l
1噸櫛眼雅聰繋糀催雁脚認蝿Ⅲ蝦1判側蛆蝿騨認叫1冊別n期Ⅲ●1冊
国分上条
L平野M伊藤(友)吉本平井
L高橋(清)M高橋(和)相原
12月6日∼711flT'M
岳一楽古岳)L浅野M脇本宮原
6月3日∼71日サバイバル'噸丹幌内聞ll)
サロベツ川一落合=西豊富一パンケ
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岬
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M浅野脇本宮原国分上条
7月28日∼8月2日日高(トヨニ岳一野
塚岳一オムシヤヌプリ一日高十勝
6月3日∼7日摩周湖
頂一薄別)
L蔵野M清水吉本伊藤上条
7月25日赤岩
L清水M浅野蔵野宮原
2月19日∼23日宗谷丘陵(小石宗谷
馬ケ谷
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脾出眼肚昨恥稚ふぃ腓缶巳。.●●●.⋮唖●dL.が日恥,叩咋■rL
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7月17日∼18日夕張(白金川一ガマ
、黄山一岩尾別)蝿。。.‘‘鞠
1月30日焼山M国分滑水
11月22日∼23日無意根山(薄別一山
M宮原脇本清水
5月1日∼5日春合宿(大雪愛山溪)
6月3日∼7日知床(岩尾別一羅臼岳一硫
L吉本M伊藤中西平野上条
M宮原石田国分
i
4月27日阿部山
薄別)
11月21日∼23日冬合宿偵察(ニセコ)
M国分清水
上条
’
11
1
1
1月9日∼10日無意根山(薄別一小屋一
L脇本M伊藤平野
7月5日樺戸山札的沢登り
4月27日…プレ山行(元山)&.
、M和泉.,f小津.脇本須田宮原
分
11月15日∼16日無意根山
L浅野M宮原国分上条
リ
12月28日∼30日十勝岳(白銀荘一山
頂一白銀荘)M浅野大江蔵野国
L浅野M岩田
〔;.,」;:(後期プ膳ジデンド国分英彦)
L浅野M国分相原、
L坂井M平野上条。
11月15日∼16日樽前山
川一化雲岳一忠別岳一沼ノ原一石狩
岳一音更岳一十勝三股)
別−中山峠)
1981年度(前期プレジデン・ト‘清水孝)
111
6月24日∼28日東大雪(クワウンナイ
‘
12月28日∼31日スキーツアー(朝里一
余市一長尾一無意根一中岳一喜茂
本
6月21日定山渓天狗岳(登山ローローソ
…
12月21日∼25日冬合宿(ニセコ)
M清水伊藤(友)坂井浅野吉
(
和
)
l
原
11月1日∼3日熱気球(帯広)
L浅野M山口持田清水高橋
l
L高橋(清)M高橋(和)岩田相
10月24日∼25日桂沢湖カヌー試乗
−・=ローーーー…ロロ…酉ロロロロ理Ⅱ一…ーーⅡ曲Ⅱ和、1−Ⅱ乳L酉ロロロ唱:一砧ⅡⅡ・・曲斗咄も酌HII坐
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7月11日∼12B100キロハイク
L平野M相原吉本上条
M清水相原和泉杉山松村
9月29日∼10月1日天塩岳(ヒュッ
7月25日ローソク岩ダイビング
7月26日赤岩
’
10月30日赤岩
M浅野伊藤(友)松村小津
M杉山
7月28日∼8月1日日高植性調査
津
叩詔詔貼守叩詔詔守・貼・・貼・・守宅叩
8月7日∼10日大雪(黒岳一北鎮一鋸一
別)
比布一安足間山一愛山溪)
LLL。.L叩LLL叩咀、LLL■■■■■.。■LL・・唱貼叩・
■110卜Ⅱ1L■と11国■Ⅱ■ⅡⅡ日
L浅野M清水高橋(和)
2月6日∼7日無意根山(薄別一山頂一簿
11月15日元山(無意根山荘一千尺一無意
8月9日∼16日天塩川カヌー下り(士
別
)
根山荘)
月卜天塩)
Jo1110■1411111卜141弘01401110口I■llPrlP︲IIIO4I101iⅡI︲lI11111rllll9■qpljof44“Ⅱ1ⅡI91p︲lidⅡⅡ■■P0.011.11.四Ⅱ■1100.4P。、blq・P叩
詮轆爵零壗●撰難Tf離韻鞭●唖端●静●封謝謝騨盟●慰溌●蝋蟻●貼蝿憩燕弾野熟蕊蹴舘鴬●盟熱●寺●ず●、盟・・⋮J1、患無斑群群尊戦亀迂、恥●盟盟●咄●盟盟許盟.●●●撒侭、●●削斗¥.⋮、●醗写、●●瀧盟●髭盟●咄●認●咄●咄●蕊静●●●●盟稲稚囎●野
2月11日∼14日ニセコM浅野
2月26日∼3月1日芦別岳(新道コー
上条稲田小津
8月18日∼19日十勝川カヌー下り(新
得一御影)
11月20日∼23日樺戸(鳥越山一樺戸
山一クマネシリーマチネシリー砂金
沢林道一避難ノ1,│学W「II'慣川)L国
L上条M須田小津
8月28日∼31日ダイビング合宿(積丹
神威岬)
M高橋(和)清水伊藤平野上
条稲田平井小津
M浅野平野脇本
9月5日∼6日佐々保雄先生日本山学会会
長就任記念コンパ(ヘルベチア)
9月10日∼12日カムイエクウチカウシ
ガ
山M清水高橋(和)相原平野
9月16日∼17日ニセコ目国内南麓
・
洞
)
L平井M稲田
6月3日∼6日十勝連峰縦走(十勝岳一カ
6月12日∼13日サバイバル(謡寒川)
M国鈴小津上条吉本平野塙)
6月20目ダイビング'(美国)
M平葬平野!(高)稲田
6月26目'−2:7日狭薄山峡簿沢一二狭簿
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ミ、
ミ
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.
1
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山一漁入沢)
1982年度(前期プレジデント上条哲也)曙…、
L│国分測偉平井百瀬
.、″
頂一薄別)
(
後
期
プ
レ
ジ
デ
ン
ト
平
野
高
司
)
L伊藤(友)M上条松村
12月5日∼6日無意根山
4月25日プレ合宿(元山)
!
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j
7月3樹−4'目余市岳(富井鎧股一余市
L国分SZ,松村M沢田猛一冒鐙曲面)li
L脇本M吉本相原伊藤(和)松
猛一冒鐙曲面)
L上条M百瀬
rIL●104J膵照、、・・詔・・・・貼・時・山●.m守輻
L
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野
(
高
)
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)
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百
瀬
7
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1条
11
目
赤
岩賊小津懸村吉圏
村平井
9月26日∼27日空沼岳一札幌岳縦走
L国分M平野(高)松井吉田
L松村M小津
11月22日∼23日無意根山(薄別一山
M国分滴水高橋(和)
田
)
L浅野M上条平野
3月12日∼16日十勝(原始ケ原)
L浅野M蔵野国分上条
頂一白銀荘)
6月1日∼5日瀬棚海岸調査(鵜泊一太
ミホ画一富良野岳=原始ケ原)
レ岳一小漁一漁一空沼)
L平野M上条松村
11月21日∼23H十勝岳(日銀荘一山
田、
ス
)
3
月
4
日
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7
日
ス
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(
中
山
峠言
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プ
分M札lll;!'l,/I!
5月15日百松沢植物調査
6月2日∼6日ケーピング仲頓別鍾乳
L上条M稲田
L相原M国分吉本平野浅野
L上条M伊藤(友)平野
I
稲田平井
L脇本M相原上条平井小津
吉田
L国分M平野塙)松井吉田沢
1月23日∼24日無意根山L小津M
11月7日∼8日無意根山(薄別一小屋一薄
L平野(高)SL伊藤(友)M平井
5月23日岩登り(手稲山南壁)、鋤;‘,:蝋
12月28日∼1月2日朱鞠内湖
L国分M吉本平野
L国分M吉本松村
L上条SL吉本M稲田
L上条M国分沢田
M上条
10月31日∼11月3日朱鞠内湖
L宮原M国分伊藤(正)栗田小
1
i
滝
)
平野
Iト
’
12月19日∼24日冬合宿(ニセコ)
12月27日∼31日スキーツアー鮭岡一
銭函峠一奥手稲山一迷沢山一平和ノ
M浅野伊藤吉本平野
湖
)
L国分SL松村MzI蝉沢田
12月13日百松沢山M須田石田
10月18日赤岩
7月28日∼30日クツシー探索(屈斜路
5月1日∼5日春合宿伏雪愛山測
L浅野M国分
M浅野相原平野
M宮原国分4樺栗田上条
L上条SL吉本M稲田
12月8日∼10日冬合宿下見(岩内岳)
テー旧道一前天塩岳一天塩岳一新道)
L高橋(和)M清水伊藤上条
4月29日プレ合宿(元山)
L国分M平野小津稲田
12月5日∼6日狭薄山
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平井吉田
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7月19日∼28日知床(相泊一ウナキベ
L沢田M国分高橋
L平野(高)SL小津M稲田平井
7月31日∼8月1日積丹岳(ウエンド
川一積丹川一登山口)
川島百瀬
8月4日∼11日北日高縦走(札内八ノ
沢一カムエクーエサオマントッタベ
ルBC−北鎮岳幸BiC−旭岳温泉)
6月2日∼5日サロ、ベツ川フローティング
チューブ下り(下沼一パンケ沼一ペ
2月26日∼27日定山渓天狗岳(南尾
C1000m付近一上越)
根-C740m-南尾根)
L上条M稲田小津川島
L上条SL川島M百瀬石山
ンケ沼)
L平井SL吉田M後藤蝉"‘糾
一6月11日∼I2日100キロハイク(札
3
月
2
5
日
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2
7
日
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山
(
西
尾
12月5日無意根山(薄別一小屋一薄別)
’
幌一余市一札幌)
ツーエサオマン入ノ沢一新冠川一七
L吉本SL平井M松村百瀬石山
根一山頂一西尾根)
ツ沼一トッタベツーセツ沼一幌尻一
M吉田永汐川島後藤平井
吉田平野(忠)
L稲田SL小津M川島
津下角田菅原佐野.森松
幌尻山荘)
12月11日∼12日余市岳(湯の沢一南
L小津M稲田吉田
つ
県8月4日∼13日十勝川源流調査(天人
峡一クワウンナイ川一黄金ケ原一ト
平和の滝)
市一札幌)
10月22日∼23日神威岳(木挽沢一山
頂一木挽沢)
L上条SL稲田M小津
一薄別)
L小津SL津下M佐野
5
月
2
9
日
ダ
イ
ビ
ン
グ
(
美
国
)
M稲田沢田和泉相原
L上条SL稲田M小津吉田
L平野(高)SL稲田M小津沢田
7月9日−10日無意糎山!(自水川一山頂
(
御
料
橋
一
白
川
橋
)
BC2-'fJ/ケヌシ川出合)
10月2日∼4日ダイビング合宿(泊)
M津下和泉‘、
1月12日∼14日サロベツ原野横断(下
沼一パンケ沼一海岸一ペンケ沼一豊
l
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L稲園S塾吉田M百瀬後藤
佐野
6
月
1
日
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日
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グ
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)
L相原SL沢田M和泉角田
L川島M平井
菅原永汐
7月9‘固一10日無鐵概、沼ダイピンダ
M相原i松村吉奉平野幅)’
7月1'5圖∼221圓短床半島縦断(知床大
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月
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CI(1{)11m二股(BC2)-ji令崎一
M上条
7月9'日岩登り鯛山東壁)’
11
9月29日∼10月4日釧路川下り
、角田永汐
L相原SL沢田M吉田
12月3011∼1月5日北日高((′『メ/
L平野(高)M稲田小津沢田
L平井SE'沢田M後藤菅原
M津下和泉後藤石山永汐
5
月
2
1
日
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2
2
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無
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根
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備
調
査
L、│'川SL小津M"<│││
9月12日ダイビング(オコタンペ湖)
6
月
2
6
日
ダ
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ビ
ン
グ
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=
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ク
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)
、
5月8日ダイビング講習会
mll)
M上条小津百瀬沢田稲田
−6月26'日赤岩M稲田吉函’
4月24日元山M吉田百瀬後藤
12月18日無遠眼││「「11-111頂一
’
’野
M平井津下
L平野(高)SL,P丼M石山吉田
9月3日∼5日100キロハイク(札幌一余
6月25'目赤岩.M稲田津下後藤佐
4
月
3
日
∼
1
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日
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イ
ビ
ン
グ
(
屋
久
島
)
12月12日迷沢山(平和の滝-C600m-
L国分M上条松村石山
L相原M4蝉沢圏,
(
後
期
プ
レ
ジ
デ
ン
ト
稲
田
信
史
)
L上条SL稲田M川島沢田
ムラウシ川枝沢一化雲岳一天人峡)
6月12日泊原発予定地予備調査
1
9
8
3
年
度
(
前
期
プ
レ
ジ
デ
ン
ト
沢
田
洋
一
)
沢一ガレー南沢一湯の沢)
!
、息L川島、gL稲田M和久井、
M上条
12月3日∼5日チトカニウシ山(上越一
L小津SL稲田M吉田
''『′、泉会姿見の池一旭岳一熊ケ岳とのコ
L川島SL吉田M百瀬平野(忠)
2月6日札幌岳(冷水沢一山頂一冷水沢)
スー薄別)
L稲田M平野塙)原田平野徳)
6月2日∼5日’大雪ズキーツアー(旭岳温
ンッェー薄別)
11月27日∼28日無意根山(薄別一テラ
岬
)
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l︲lllil︲111︲lli︲11︲!,︲!!︲ll1lll城川ⅢM川川川川Ⅳ叫州川ⅡⅢ仙岬Ⅲ噸川棚Ⅲ川川川Ⅲ川Ⅲ噸州側岬附臘川叫Ⅲ川棚Ⅲ叩ⅡⅢⅢ側Ⅲ州側ⅡⅣ脾川棚川Ⅷ川棚Ⅲ川川岬淵胤楜⑱判︲側川端川︲1吋淵l訓川蠅耐搬戦冊脚蝿副酷
ツー知床沼一ウナキベツー赤岩一
L国分SL稲田M平井
§−,基
・塾-J:'">]、L小津SL津下M佐野
L上条SL平野(高),M松村
1月22日∼23日無意根山(薄別一シヤ
11月19日∼21日芦別岳(新道ルート)
7月19日∼26日知床(相泊一ウナキベ
.‘”ー穂別)、:
頂一薄別)卸.’『
L平井SL川島M吉田
11
Ⅱ111・rlIIIfI,IJIIIIIII0III.’ⅡIIIIIJI
ッー知床岳一ウナキベツー河口)
…6月1日∼‘5日鵡川ドラムカシ下り(富内
1月14日∼15日無意根山(薄別一山
11月3日神威岳(木挽沢一山頂一登山口)
=弓=ご_一FローL一一・・口q・−■.、一一・=ママ邑壺
朝
I
I
11
橋一ルシャ河口一テパンベツ河口一
原角田脇本
コタキ川一知床岳一知床沼一ウナキ
10月8日∼9日支笏湖ダイビング
ベツ川一赤岩一知床岬一文吉湾一ウ
トロ)L百瀬M後藤
|
L相原M稲田平井菅原
7月16日赤岩L小津SL稲田M和
ンベツ川一山頂一暑寒荘)
佐野
I
7月26日∼8月3日阿寒湖沼群ダイビン
湖
)
|:
卜
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l
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L小津SL稲田M和泉菅原
山頂一白井二股)
角田
L稲田SL百瀬M小山田中
一珊内村)
一珊内村)
角田
800m二股一ソエマツ岳一中ノ川
奥二股一神威岳一登山道一ニシュオ
マナイ林道)
9月28日∼10月1日ダイビング合宿
=山頂=共同牧場)
L後藤SL佐野M石川
4月25日プレ合宿(元山)
L吉函SL佐野M永汐
4月25目プレ合宿掴際スキー場)
M百瀬
1
月
2
1
日
∼
2
2
日
厳
冬
期
長
感
捗
行
訓
練
11月26日∼2711朝里岳(札幌国際ス
キー場一朝里岳一札幌国際スキー
12月3日∼4日積丹岳(登山口一東尾根一
4月7日∼8日積丹岳供同税場一北尾根
1月13日∼16日霧多布踏査.
L稲IIISL佐野M小山菅原
L稲田SL百瀬M石山吉田
(後期プレジデント佐野雄三)
1月11日∼15日道東歩き
M稲田小津川島
田中
11月27日長尾山(元山一長尾山一元山)
1984年度(前期プレジデント後藤茂元)
L川島Si,稲闘M片桐菅原
(札幌=岩見沢)
4月29’圏プレ合宿(元山)
L百瀬Sm,上条班角潤
M後藤
2
月
1
1
日
百
松
沢
山
(
職
、
沢
一
山
頂
一
源
八
L和泉S│L平群M函車‘小山
L擁藤SL4"M石山看沢:
沢
)
L百瀬SL佐野獄11
唾、●.mT輻貼智1砧●唱、●●●.咄貼貼●●、叩1●●●●●.01●.咄砧、.唱貼。.●甜貼●.m・.●把弔・・貼貼鄙・・・4羽・・・■。.。.41勺砧●●.・咄■9
L沢田SL相原M小津稲田
平井和泉後藤石山津下菅
睦野
L平井SL和泉M吉本佐野
L平井SL津下M後藤永汐
L川島SL後藤M永汐
L稲田SL小津M石山後藤
パンケ沼一海岸一稚咲内)
ンツェー獅別)
津下
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腸
I
)
1
月
1
0
日
∼
1
2
日
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ベ
ツ
原
野
(
下
沼
一
L相原SL吉田M後藤片桐
11月22日∼23H雌芭限lllli"ll-シャ
場
)
岳-BC−カミホロ手前-BC−布
冬合宿
L小津SL川島M角田
L吉田SL小津M稲田石山
前富良野岳一原始ケ原BC−富良野
L吉本SL和泉M角田久保
ンッェー薄別)
800m二股一ピリカヌプリー
3月2日∼28日十勝連峰(本幸一旭岳一
(薄別一山頂一簿別)
11月19日∼20日無意根山(薄別一シャ
8月3日∼9日南日高(ヌピナイ右股一
L相原,SL小津M佐野永汐
L平井SL津下M石山佐野
12月10日∼11日プレ合宿無意根山
L平井SL相原M小津稲田
和泉石山後藤津下菅原
lIlI
口
L吉田SL石山M佐野
頂一大滝村)鯛‘き,:熱
錘蕊轤眼繩鰯職珊堺齢叫蝿叫慨罷諜鵡鋤錦鯉醗蝉轆辮鵡癖蝿噺轆癖鶴蠅需叫酎蠅咄轆誕騨舞硝蝿緯嘩噸轆や癖噛が串鐙魏抵甜偲唾雫篭篭哺琴蕊瓜’暇増蕊蝉誌揮郡守赴■卍1mm出、●判■1貼魂叩●●●、4、蝿●●●︲寿溺唖軸●群可刊荊●州M患恥唖叩叫刈利Ⅷ●叫叩叩●和
L小津SL稲田M後藤津下
7月27日∼29日珊内岳(余別川一三ノ
沢左股一珊内岳一スサノ沢一珊内沢
3月14日∼16日徳舜別山(大滝村一山
山一千尺高知一山頂一簿別)
L相原SL吉田M後藤
10月27日∼30日摩周湖ダイビング
沢右股一珊内岳一スサノ沢一珊内沢
-M片桐小山角田菅原永汐
12月10日∼11日プレ合宿無意根(元
M佐野永汐
L相原SL平井M和泉沢田
7月27日∼29日珊内岳(余別川一三ノ
l
際スキー場)
井二股一林道一朝里と余市のコルー
10月23日岩登り(円山東壁)
グ(摩周湖阿寒湖太郎湖次郎
│
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i
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:
│
2月28日∼3月2日スキー合宿(札幌国
12月10日∼11日プレ合宿余市岳(白
10月22日∼23日支笏湖ダイビング
1
L佐野SL田中M石川
L小津SL川島M菅原
角田
L小津SL稲田M後藤津下
’
一銭図
キー場)
L相原M小津津下後藤永汐
7月23日∼24日暑寒別岳(ボンショカ
2月28日∼29日奥手稲山(銭函一山頂
12月10日∼11日プレ合宿余市岳(林
道一南尾根一山頂一朝里岳一国際ス
グ
泉佐野
L稲田SL小津M佐野石川
L小津SL後藤M佐野
10月15日∼16日オコタンペ湖ダイビン
’
WESTコノ斥前一熊の沢)
登山口)
4月30圖∼5月6嘱春合宿,伏勤
2
月
1
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日
定
山
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818■且PBFⅡ■pIlILII1lj■bIfⅡJⅡI
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L百瀬
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菅原
L永汐SL菅原M角田虻川
L和泉SL平井M田中小山
ulll7llq︲,I︲︲→11.IIhllllI・IILI︲IIIllllII︲。’︲I︲。■■日日■011J■■■Ⅱ■plIIrllL︲■.、810︲
藤M和泉石川
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荘
)
5月19日∼20日羊蹄山(真狩一山頂一
真狩)
り橋一南暑寒別荘)
L佐野M片桐
7月7日∼8日無意根山(白水沢一山頂一
山頂一ユーフレ本谷)
L後藤SL百瀬M田中田村
L稲田SL後藤M和泉石川
佐野
7月15日∼17日遊楽部岳(見市川一
C
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見
市
川
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沢
一
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田
国
)
5月19日∼20日赤岩L稲田SL後
藤M石川平井佐野
5月26日∼27日赤岩L稲田SL後
藤M石川
M平井和泉後藤稲田小津
内沢)
石川虻川
L小津SL佐野M石川久保
6月17日熱気球(北大陸上競技場)
M角田永汐菅原
5月26日∼27日支笏湖ダイビング
’
6月22日∼24日サバイバル(幌内府
M和泉角田菅原平野相原
川
)
岩坂柳沢
L小山SLirllll{│1]lf',
5月26日∼27日手稲山(発寒川一山頂
一オコタンペ湖)
M佐野
L百瀬M佐野
M和泉石川
’
6月23日∼2411{魚"『(側八↓〃(,lil
一ネオパラ)
6月2日∼3日赤岩L稲田SL後藤
|
沢
)
山小屋一オシドマリ)
L佐野SL石IllliM田中
L後藤M小山園村
11月23日∼25日樺戸山地《砂金沢林道
←一ピンネシリニマチネシリー砂金沢
別)
L上条M圀中
L稲田SL後藤1噸川、
12月8日唇9'圓空沼岳(登山│ローマミス沼
一登山口)
L和泉M閏恥
12‘月8'目∼9日シマフクロウ探索予傭調査
(北大苫小錬演習柳'
5
日
∼
1
6
日
無
意
樫
山
(
白
水
川
一
山
柳沢
L津下SL,魚圏剛il'鳩石垣
12月15圏迷派曲(平和の滝-C56'@m
頂一簿別)
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丸駒温泉)
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2
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周
湖
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−平和の湖,
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一簿別)
9月1
(滝沢ルート)(丸駒温泉-F9-
L川島M田中
11月17日∼18日無意根山I簿別一山頂
12月1圏一2日無意根山(薄別÷山頂÷簿
岳一十勝岳).
M佐野石川
L永汐SL菅原M岩坂田村
6月5日∼7日利尻山(オシドマリー長官
M菅原永汐、
L佐野│SL和泉M永汐
L稲田SL後藤M石川
8月9日∼17日穂高岳岩登り
ト)(登山口一山頂一登山口)
L佐野M田中
11月3日‘∼4日1支笏湖ダイビング
林道)
L佐野SL上条石川
7月31日∼8月4日赤岩合宿
6月24日恵庭岳集中登山(夏道ルー
翻曇:、!:幾
M石沢田中田村
一群別川一幌)
9
月
2
日
∼
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美
瑛
6月23日∼2411ダイビング講習会
、余市ご札幌)‘‐‐
(薄別一小屋一薄別)
7
月
2
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日
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2
7
日
暑
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一
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一
幌
|
M和泉イ,川虻川久保
6月3日百松沢山(常次沢一南峰一常次
11月3日−4日血00キ瞳ハイク(札幌一
薄別)
6月16日∼17日ダイビング講習会(美
L川島SL小津M久保田中
L川島M津下小津
6月30日∼7月1日ダイビング講習会
M平井和泉久保石川虻川
6月7日∼10日芦別岳(ユーフレ本谷一
L上条.SL小津M川島
‘;・ナイ湖)…r
L露崎SL百瀬.M佐野(:
L平井SL小津
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1
山荘一西尾根一山頂一西尾根一山
永汐
10月27日∼28日川下り僕々川=ウト
6月30日∼7月1日白老岳植性調査
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今川石沢岡田田村
6月7日∼8日暑寒別岳(南暑寒別荘一吊
5月12日∼14日ペテガリ岳(ペテガリ
L和泉M津下後藤角田菅原
L後藤M稲田小津田中片桐
口
)
5月12日∼13日赤岩L稲田SL後
10月21日.支笏湖ダ詔ビングヲ.;
6月30日∼7月1日赤岩岩登り講習会
6月6日∼10日サバイバル(知床金山河
L後藤SL小津M石川石沢
.│L平井SE和泉-費M久保佐野
L後藤SL小津M稲田
6月6日∼8日余市川下り(大正橋一然別
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岳一浮島峠一上越)
12月15日無意根山(薄別一オロチケ原一
薄別)
L百瀬M上条
2月23日スキー大会(荒井山)
L田中SL永汐M片桐市川
12月18日∼22日ニセコスキーツアー
L田中SL石川M永汐片桐
市川
L佐野SL川島M田村
(美笛)
M後藤川島小津津下片桐
佐野久保
2月24日∼28日芦別岳(18線沢一北
尾根一キレツトー北尾根二18線
4月29日∼5月5日春合宿(大雪)
沢)
5月11日赤岩M津下百瀬石附
L上条SL後藤M佐野
岬
)
一石狩岳一十勝三股)
L後藤M上条
L川島M平井
12月28日定山渓天狗岳(熊の沢一山頂一
熊の沢)
L百瀬SL石川M佐野小津
L上条SL百瀬M石川
L佐野SL石川M久保
2月9日∼11日スキーツアー(中山峠一
喜茂別岳一中岳一薄別)
L佐野SL稲田・藤田能
M浅野吉田石川永汐菅原
5月24日赤岩M石川渡部
’
一楽古岳北尾根一楽古岳一十勝岳一
オムシヤヌプリ一野塚岳一トヨニ南
峰一ピリカヌプリートヨニ南峰一豊
L上条SI'後滕Mイj'''{/!lll:
|
6月15日∼16日赤岩L田中M浅野
味知吉田石山囲村石附
玉川
6月16日美国ダイビング
L永汐M菅原看附和泉
5月25日∼26日余市川下り
6月22日∼24日100キロハイク
M玉川佐藤樺山吉田'看附
M樺山石沢石川菅原永汐
5月26日赤岩M田中小津浅野
真狩)
藤囹|浜津渡部石山
6月23日赤岩M後藤|田中稲田
L佐野SL石山M能吉田
佐藤玉川浜津和泉
3月29日∼3111羊蹄山(真狩-llll"
池田石川石沢能浅野味知
5
月
2
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日
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6月23圓ダイビング
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月
5
日
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下
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‐
日
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3月29日∼31IIピツシリ岳1,向瀬
M上条佐野石川
リ山頂一一ノ沢源頭一三股=林道)
5月12日赤岩M和泉佐野吉田
M石川
L後藤SL津下M石川
1月27日円山岩登り
林道一三股一本流一山頂÷クマネシ
M菅原味知角田
5月19日ダイビング(美国)
似川一林道騨似,
1月7日∼13日北日高(ピリカペタン沢
一札内岳一東西尾根一十勝幌尻岳一
北尾根一オピリネップ川一八千代)
6月15日∼16日樺戸山札的沢(柵駅,
5月11日ダイビング(美国)
M菅原和泉永汐佐野
7月6日−7日ダイ{ビング
一富川)
M石関知床(ウトロー遠音別岳一
L菅原
知西別岳一知床峠一ウトロ)
浅野藤田
M小津
占巳■■■固珊、且■ロロいPい,甲︲凸■■〃trも巳ロ■■服bp2■■、■○0回BG■PRワ909日■?■■■f︲・凹凸
2月11日∼16日天塩岳チトカニウシ
山(天幕一岩内川一南方尾根一天塩
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壁
浜津吉圃佐野看附藤圏
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6
月
6
日
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6
月
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日
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L後藤M石川
M永汐菅原和泉浅野味知
SL永汐M石川石関
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川
)
L川島M渡部
藤田
中一銭函)
IIlll1llli
(清川一西尾根C1743m−清
岳温泉):
5月17日∼19日岩登り講習会(赤岩)
3月16日∼24日南日高(札楽古一林道
12月29日∼1月3日二セイカウシュペ山
熊ヶ岳、比布岳、北鎮岳一石室一旭
藤田石山川島
3月5日∼6日奥手稲山(銭函一尾根の途
M片岡
‘,泉一石室一旭副上斜面BC−旭岳、
L佐野SL石山M石沢
一天狗のコルーニペンツー岩間温泉
12月26日∼29日宗谷丘陵(富磯一宗谷
一石狩岳一ニペンツ山一三股)
6月6日∼9日大雪スキーツアー(旭岳温
一浜益御殿一床丹一札幌)
3月4日∼11日東大雪(十勝三股一杉沢
L津下SL角田M小津半田
6月5日∼10'日大雪〔三股一ユニ石狩岳
4月2日∼7日暑割腱峰(幌一浜益岳一
群別岳一浜益岳一浜益御殿一雄冬山
111
12月22日∼25日シマフクロウ探索調査
M池田
1985年度(前期プレジデント百瀬奏)
(後期プレジデント田中秀実)
冊乍脈脈酢脈酢脈邸酢酢酢叶吐恥詐眠歴い卜逃酢私酢酢酢酢酢酢座倭酢い柾吐匪酢酢酢酢附ぷぴ碓圧旺圧圧匪酔い昨酢腓隅TJド昨辰心呼矛●酢吐&酢恥能P昨酢雅脹鵬が酢酢酢酢匪昨酢酢眠畦脈酢酢詐昨依眠服いい唖廿俳吐睡昨酢叫酢酢ぼ酢匪酢郡酢暇吐吐■都酢昨■Ⅱ邸は昨畦
■■■■ⅡP日日■11Ⅱ■8凸日LI1IIa91・■91も11ⅡⅡⅡⅡ0Ⅱ01
L佐野SL石川M田村
一、=公一 勺邑・'1.
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L後藤SL津下M田中小山
幌尻東カールー新冠川本流一エサオ
7月20日∼21日神威岳(木挽沢一山頂
|
マン入りの沢一エサオマン北カール
;・一夏道一百松橋)
’
'Ⅲ.LM田中:稲田藤田吉田
田
10月12日∼14日100キロハイク(札幌÷余市
一エサオマントッタベツ岳一北東
一札幌),
L佐野SL藤田M吉田三次
カールーエサオマントッタベツ川一
M能浅野
能片岡味知
林道一八千代)
7月23日∼27日大平山ヒヤミズ沢(大平橋
一林道一ヒヤミズ沢一山頂一泊川)
’
L佐野SL久保M石関吉田
’
8月14日∼18日熱気球(西春別)
L後藤SL津下M田中
’
M三次石山藤田味知田村
7月26日∼8月3日摩周湖ダイビング
’
1
8月28日∼31日クワウンナイ川(天人峡一
|
’
クヮウンナイ川一黄金ヶ原一クワウ
L後藤SL能M吉田
ンナイ川一右岸台地一クワウンナイ
7月30日∼8月1日クワウンナイ川(天人峡
田樺山玉川
咄●︲■114屯ど川11,■上PL︲■ⅡⅡ9℃PL屯Ⅱ。﹄Ⅱ日日■JF41咽●咀℃bI■ⅡⅡⅡ■I4ffLd5FL●暇Iq墹侶︲砧巳叶・
峰基部ウエストコルー“苓一東尾
L佐野M百瀬
根一済魚択ノ
8月6日∼14日中部日高(農屋一コイボク
シュシビチャリ川一カムイエクウチ
L佐野MIII中川島
9月29日∼30H松浦武四郎足跡調査(北竜
●叱正frT咄Jも・・.︲L■﹃、晶匹
カウシ山一札内川八ノ沢一七ノ沢一
一石油"ll上竜)
1823m峰一コイカクシュサツナイ岳
L後藤SL能M藤田吉田
一夏尾根一中札内)
10月6日赤岩M稲田
L後藤SL石川M田中石山
10月12日熱気球(上士幌)
8月13日∼18日北日高カール巡り(幌尻山
M藤田後藤能浅野三次味
荘一額平川一幌刷ヒカールー幌尻岳
1宮1L006Jトー■.FLIb.●11
13■詞曲■■Jl4●●LL﹃.咄。¥r■■且■イ4、、Ar■■Ⅱ■■■Ⅱ夙母1..FⅡH8fJrm・■召■
’1︲GⅡ■Ⅱ1■1叩刷
山頂−セツ沼カールー新冠川本流一
(登山口壷マミス沼-C1100m
付近一登山口)
屋一真狩)
L後藤SL和泉,M三次,能吉
L石川SL田村M玉川池田
12月7日∼8日冬合宿プレ山行百松沢山
田
(福井堰堤一山頂一福井堰堤)
12月14日迷沢山(平和の滝睾林道一送電
線下一平和の滝)
知
10月13日赤岩M稲田能玉川石附藤
12月14目−15日冬合宿プレ山行春香
11月17日美国ダイビング
L石川SL和泉閏村‘池圏,玉
1
1
月
2
3
日
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2
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日
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岳
(
無
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根
大
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一
中
岳一無意根大橋)
L佐野SL池田M吉田能
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1
月
3
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1
日
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岳
(
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山
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一
川
12月18日∼24日冬合宿1膳セコ)
L石川sm,和泉M圏討韮川
池圏
山頂一登山口)
L圏津Si"浜津M能溌扉望
L佐野SL永汐剛、山能
月韮浪
1
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月
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日
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1
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日
春
香
山
(
桂
岡
一
山
L佐野S甦看沢M石関石附
頂一桂岡)
藤圃
L後藤SL石関M三次宇仁
f
…L小曲』$魁百瀬,M持櫓吉田
浅野
樺山
1
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月
1
日
春
香
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(
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M永汐
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L佐野SI,石関M右附宇に
M津下吉田佐藤望月
9月22日∼23日定lll浪人VII!」!'ri鮒沢一Ⅱ
鰯
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f
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熱
、M佐野石関石沢石附藤田
11月17日スキー練習(中山峠)
9月15日赤岩M佐野イilll
一ペテガリ岳一東尾根一林道)
山
)
11月9日∼10日羊蹄山(真狩−9合目小
M田中石附
111︲lllIl1lllll︲l︲llllllll卜111111︲liqjⅡl︲jl1■01j■■■■81111111︲︲111︲Illl︲︲lIbIllIl10..0︲011l︲1.1’︲ID7lll︲︲1111︲llllトー11︲←・OII可4
一ペテガリ沢一中の岳一ペテガリ沢
(元山一千尺一大沼西岸一山頂一元
12月7日∼8日冬合宿プレ山行空沼岳
11月10日札幌岳ハイキング
9月12日赤岩M後藤津下稲田和泉
8月3日∼8日中部日高沢登り(静内一農屋
12月7日桧8日冬合宿プレ山行無意程山
叩と、●●:沙r小山。..
一天人峡)
宇仁
⋮⋮龍
M佐野百瀬和泉三次能吉
M小山浜津味知
’
川一ヒサゴ沼一化雲岳一天人峡)
一クワウンナイ川一ヒサゴ沼一化雲岳
10月20日赤岩M稲田後藤石附玉
L後藤SL佐野M能樺山
L稲田SL和泉M川島石附
沢、信砂川)
田 中 i
Ⅱ日Ⅱ・・・・・・・・・・吋・・・・・.●酢咄.・詔.●.。.詔詔.●●●●●●●記鵬
背牛一面白内沢一恵袋別川本流一石油
L永汐SL三次M吉田味知
10月19日赤岩M稲田吉田::佐野‘樺山
頂一姿見=旭岳温泉)
薄別)
7月28日∼8月2日松浦武四郎足跡調査(妹
'
、
ロ
)
11月2日∼4日旭岳(旭岳温泉一姿見一山
8月24日∼25日無意根山(白水沢一山頂一
佐藤石附石沢味知
”、パ-w!(登山ローマミス沼豈山頂一登山
川
山口
L永汐SL菅原M浅野藤田玉川
12月7日∼8日冬合宿プレ山行空沼岳
配
味知
M百瀬石関斉藤(哲)
沢一北尾根−18線沢一山部)
L百瀬SL石川M北沢佐野
プ岳一コイカクシュサツナイ岳一夏
L石関SL宇仁M望月.
M能吉田藤田
尾根一札内川一中札内)
3月25日∼26日樺山(奥手稲沢入口一
奥手稲山山頂一奥手稲小屋一禅山一
M百瀬佐野石関能
C.一北尾根一富良野岳一北尾根-B.
3月29日∼4月4日積丹半島(幌内府川
M佐野小津
C、−,尾根一十勝岳-D尾根-B.C.
一余別岳一我呂ノ沢源頭一ポンネア
一白金温泉)
ンチシ山一積丹岳一積丹岳東尾根一
M後藤石川田中
登山口)
林道一幌尻山荘一幌尻岳一トッタベ
ツ岳一神威岳一北東尾根一トッタベ
3月5日∼10日二セイカウシュペ山
ツ川一トツタベツヒュッテ一八千
代
)
M百瀬北沢石川
1月6日∼14日裏十勝(岩松一曙橋一
茂別岳一中岳一無意根山一元山)
岳手前一相泊一ラウス)
M石沢能玉川
L後藤SL石川M佐野石関
997m台地一オプタテシケ山一
3月8日∼15日斜里岳(川湯一摩周外輪
997m台地一下ホロ湿原一トウヤ
山一摩周展望台一養老牛馬一標津岳
ウスベー布礼別)
一サマツケ内峰余│!IWi!│!"-斜里
岳
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尾
根
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1
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L佐野SL後藤M吉田
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1月9日∼14日原始ケ原
M田中浜津
1月18日百松沢山(平和の滝一宮城ノ沢
1986年度(前期プレジデント石沢裕)
(後期プレジデント浜津友紀)
4月19日∼20日プレ合宿朝里岳(国
際スキー場一山頂一国際スキー場)
L吉田SL味知M石附近藤
L佐野SL白瀬M三次汚職
(哲)子仁
4
月
1
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日
百
松
三
山
(
源
八
沢
出
合
一
百
松
本
峰
一
南
峰
一
烏
帽
子
一
神
威
一
源
八
沢
出
3月9日∼1411宗谷丘陵縦断(小石樺
一山頂一平和の滝)
下前大地ケナシポロ川上流モi′
L百瀬M斉藤(哲)
マ山一宗谷川上流一宗谷岬)
合
)
L藤田SL浅野M樺山
M田中浜津
1月19日アイスクライミング(アシリベ
ツの滝)
M田中味知
1月25日∼29日ピツシリ山(蕗ノ台一
山頂一蕗ノ台)
寒別岳一ホンジヤマ平一暑寒別岳一
函峠一小屋一山頂一桂岡)
ホンジャマ平)
L永汐SL浅野M藤田玉川
M石沢能玉川
江川
−1雛=
−120−
一
一 ゴ ー F 一
一
や −
一
盛
l:
|,:
福田
蹴
:
i
:
¥
漁
4月29日∼5月5日春合宿(大雪)
L石関SL百瀬M片岡宇仁
L吉田SL石川M味知石附
福田
L石沢SL久保M三次斉藤
僧)樺山
L藤圏SLE"M斉藤僧)
豊岡
L永汐SL浅野M蚕川劉illl
L後藤SL稲田M和泉石山
5月10日∼11日スキーツア-(羊蹄
|
山
)
1
1
1
L能S'L川島M吉闘味知
5月10日∼11日羊蹄山(登山口一夏道
一ソスケ大浪出合二北峰÷登山口)
L佐野M浅野
4月20日春合宿予備春香山(桂岡一銭
3月12日∼19日増毛山地(山の神一暑
;・I
L浜津SL能M池閏佐野
3月30日∼4月12日知床半島(ラウ
スールサ川一東岳一ルシヤ川一知床
3月6日∼9日スキーツアー(中山峠一喜
■ I
望月
M百瀬三次吉田
M石川浜津
l
i
. 1
4月27日プレ合宿白井岳(高原橋一
L吉田SL石川M味知石附
L能SL藤田M吉田
一ローソク岩一朝里・定山渓線)
1月3日∼13日北日高(振内一額平川一
L石関SL片岡M宇仁望月
C1100m−高原橋)
奥手稲沢入口)
2月26日∼3月4日十勝(白金温泉---B.
狩一山頂),
14.11.・・・・・・・・・・・・・・・・・貼貼・・・・・貼・・貼叩・・・.11・・・・貼貼1J■■JJ・・・■F・’1.・貼貼・・・・。.4■0トトーIF4IILⅡ11・・・・貼貼.L#・・と■ILⅡⅡ■■■・OJ0III。Ⅱ111︲︲︲︲︲︲︲︲
1月1日∼2日定山渓天狗岳(岩魚沢出合
4月26日∼27日プレ合宿羊蹄山慎
M後藤石川浜津小津田中
チヤロマツプ沢林道出合一大函)
石川
’
尾根一中の沢)
別岳一ニセイチャロマップーニセイ
12月31日ザイルワーク訓練(円山)
|
頂一薄別)
2月25日∼3月3日北大雪(白滝一支勇
木崎
4月20日プレ合宿無意根山(薄別一山
ガリ山荘一ペテガリ岳一ヤオロマッ
2月24日砥石山(福井堰堤一砥石山一東
12月26日∼30日芦別岳(山部−18線
’
3月16日∼25日中部日高(農屋一ペテ
l︲・IIIIIlIIIB■■■屯■1コ811︲︲60︲IPI・IIIIIⅡIIIlIIIIII0II︲︲b■9.・IDIIII︲・・1..41...............11ⅡI
L永汐SL後藤M三次宇仁
﹁9口︲トーL・・・曲・・r●■ぱ■几・貼口■R酢...m・︲1JⅡL■品服貼化■■qJⅡR、叩0口BL隈世Ⅱ凧北上啓LL出吋叩貼dⅡn口Ⅱ・・囎叩叩叩叩貼■鵬、哩軋・貼貼叩吋.唱貼トー14ⅡIhL・砧11砧L可I91Lm酔貼貼貼IrTL・炉宙fIL4
0
5月12日赤岩M龍吉圃’
5月17日鐘山渓天狗岳脳合一イ毒蕊ト
コルルンゼニI峰二幽翻
L佐野s魁魑庫M浅野舞藤
’
一
..-:.・・::.:士・型当:謝鐸謹錘・:・篭
0
M稲田和泉能
5月24日∼25日100キロハイク(札
幌一余市一札幌)
別
)
5月31日∼6月1日山菜取り(発寒川)
L能SL浅野M藤田吉田樺
M佐野石山
−1346峰一林道)
山一芦月晒コルー芦別岳一ユーフレ
M佐野百瀬
小屋一登山口)
野花南)
6月5日∼8日芦別岳(第1稜・第5稜)
L後藤SL和泉M能吉田
6月14日∼15日神威古潭岩登り
M稲田和泉石沢能
l
l
沢
)
|
M吉田樺山
I
8月2日∼3日幌小川沢登り
7月9日赤岩MII川能lil'l!
M吉田豊岡
M菅原斉藤(豊)小林、│:jl
野能
10月26日∼27日ヒマラヤ予備山行富
』
士山
L後藤SL佐野M田中久保
浜津
11月1目∼3固剰尻山鬼脇稜
M後藤稲田
11月1日∼3周犬雪旭岳周辺
L佐野M浅野石附福函
Fもl0l白山■qLlL
頂
)
L圏中M金森吉函豊岡味知
L石川SL石関
斉藤(雷)
8
月
1
4
日
∼
2
0
日
日
高
南
部
や
ぶ
こ
ぎ
縦
走
7月18日∼19日道北政和五線川釜尻山
’
10月19日赤岩M稲田田中後藤佐
8
月
1
3
日
∼
1
5
日
余
別
岳
(
幌
内
府
川
一
山
M石附中山
6月22日石山岩登り
田中
M
浅
野
斉
藤
(
豊
)
佐
藤
小
林
8
月
1
1
日
∼
1
4
日
歴
舟
川
砂
金
掘
り
M吉田斉藤(哲)藤田福田
7月11日∼14日利尻山
M味知浜津小谷
10月6日赤岩M後藤佐野望月能
一中村)
M能稲田石沢和泉
6月22日オコタンペ湖ダイビング
10月7日赤岩M能石沢
8
月
1
0
日
∼
1
6
日
四
万
十
川
下
り
(
江
川
崎
7月10日神威古潭岩登り
M藤圏浅野玉川
10月5日赤岩M能田中和泉金森
L百瀬SL能M玉川小谷
(哲)11川
6月15日豊平川チューブ下り
M後藤百瀬
8月2日∼8日北日高
福田猪股望月小谷斉滕
’
I
M味知浜津久保
7月9日∼lOllダイビング(美国)
6月14日∼15日発寒川(四ノ沢一滝の
10月4日∼5日漁川沢登り,
津猪股WATANABE
7月9日美国川イワナ釣り
M後藤!iilll
M菅原石附味知浜津
10月1日赤岩M能望月
L川島SL三次M石附駒崎
石山後藤菅原味知藤田浜
7月9日黒岳択
6月15日ダイビング(ローソク岩)
9月赤岩M稲田和泉田中金森
査
M百瀬
,
鋤
"
‘
》
‘
,
熱
M望月小谷
7
月
3
1
日
∼
8
月
8
日
渡
島
大
島
総
合
科
学
調
7月5日美国川下り
M石川望月石附斉藤(哲)
9月28日ダイビング
M能玉川小谷吉田
M池田藤田石附江川斉藤
1
M江川
7月30日∼31日樺戸山札的沢登り
(豊)森松望月
6月5日∼8日サバイバル(瀬棚海岸)
1
9月27日∼29日ニペソツ山
態壗埼●叩●鐙群舞哩蕊輯
味知斉藤僧)豊岡福田
9月26日赤岩M能望月福田
M佐野宇仁
6月30日ダイビング(白岩・美国)
L浅野SL藤田M永汐菅原
M吉田,,
7月29日∼30日雷電山
M吉田
「
I
7月24日赤岩M能玉川小谷
西ノ河原一沼前一神威岬)
6月4日∼8日空知川下り(金山林田橋一
9月17日∼27日知床森林調査
M吉田宇仁
6月29日∼30日積丹海岸歩き(川白一
L石関SL浜津M樺山
M吉田宇仁
7月23日∼28日釧路湿原踏査
M味知浜津斉藤(哲)豊岡
斉藤(豊)江川小林福田
7月23日∼25日雄冬赤岩川
6月29日∼30日黄金沢(林道一黄金沢
一夕張岳一鉢盛山一ポントナシベツ
I
9月10日∼11日積丹伊佐内川沢登り
M石川能
山宇仁福田
6月4日∼9日夕張・芦別(夕張岳登山口
’
L浜津SL味知M樺山
7月20日支笏湖滝沢.
6月22日無意根山(白水川一山頂一薄
5月27日赤岩M稲田後藤
.‐野塚岳)
L佐野SL百瀬M吉田
L佐野SL百瀬M後藤
M江川斉藤(豊)福田
(広尾一楽古岳一十勝岳一双子山一
東面直登沢
6月22日朝里岳岩登り
’1..0111.111・・・・・・’’’1..1111.1・’1
(
哲
)
I
’
“■jqqd・︲二r■勺Ⅱd9口Ⅱr■・dI
−1認一
−122−
一
一▲ごP、−−
r
一一一rタ室
−■子
L害一一.=_-虹一:望凸寺,F胃−4・弓
塾
へ
些 埜
一I
9
L能M藤田望月
電線下一平和の滝)
稜大槍の肩)
L能SL池田M高村江川
L後藤M石関金森吉田
11月11日赤岩M後藤能
11月15日∼16日無意根山(薄別一小屋
講師宮下M田中金森佐野後
L吉田(憲),SL宇仁中俣沢
山一無意根山一4糧一薄別)
藤久保石沢浜津江川藤田
田江川野村汐崎
L浅野M斉藤(哲)望月
望月
12月14日春香山(桂岡一山頂一桂岡)
一薄別)
12月18日∼24日冬合宿(ニセコ)
樺山豊岡福田三次佐野
L味知SL平井M小林豊岡
11月16日無意根山(薄別一小屋一薄別)
L浅野SL和泉M望月小谷
11月22日∼24日十勝岳(白銀荘一三段
屋一豊平峡)
11
野村
I
1987年度(前記プレジデント能宏彰)
(後期プレジデント望月杉)
7月19日赤岩岩登り講習会
L能SL池田M高村江川
11月23日∼24日朝里岳
12月26日∼1月1日下北半島恐山調査
L浅野M和泉望月高村
L能SL吉田(窓)M稲田内
田宇仁石附江川野村吉田
M吉田藤田福田
11月赤岩M佐野金森
12月28日∼1月3日狩振山
12月6日∼7日岩登り(小樽丸山)
L佐野SL石附M猪股宇仁
L金森M佐野
10月31日∼11月2日沙流川下り(二風
L浅野SL田中M斉藤(哲)望
L宇仁SL福田M中俣
L田中SLI/!1IIM"。:YJII
月小谷
L藤田SL福田M猪股斉藤
僧)
12月赤¥│M(i関金森
12月ヒマラヤ予備山行ザイル『ノー、
12月6日∼7日春香山
L味知SL樺山M豊岡小林
石関平井
別
)
#
:
:
田
11月3日赤岩L内田SL江川M汐崎
「[
#
11月7日∼9日釧路川下り(標茶一塘路)
L豊岡SL福田
J
r
11月7日∼8日ダイビング講習会(白岩)
L望月SL小林M石川味知
小谷高村野村吉圏(裕)沢田
和
函
;
L吉田(憲)M福田石附沢田
M田!'11榧}:後藤金森イ1関
汐崎
11
1988年度(前期プレジデント石附雅子)
沢霞実)
7
月
2
9
日
∼
3
0
日
赤
岩
岩
登
り
講
習
会
’(後期プレジデント書圏憲梧)
M宇仁吉田(窓)福田
1月8日∼11日ヒマラヤ予備山行(中山
8
月
6
日
∼
1
0
日
サ
ロ
ベ
ツ
川
下
り
講
習
会
(豊徳一天塩)
久保石沢浜津吉田
(余別一沼前一西ノ河原一)順)
L吉園(WSL坂本蝿瀕埼,
M藤田福田
出■001Ⅱ1
−1溺一
−124−
id・賂・田弔苫・・・・・・・・⋮⋮・貼貼●唱伊・・414世曲!.・・・た..白・.■P記偉牟判●託守
M田中佐野後藤金森石関
7月16日鐘17'白戟丹半島西海岸歩き
●I︲。.4︲。Ⅱjlq・
12月6日∼12月7日迷沢(平和の滝一送
:龍
,1鞘
1
訓練'f稲│II)
峠一元山)
M吉田
:}
1
i
i
−590峰)
久保石沢浜津吉田
12月6日∼7日無意根山(元山一山頂一薄
L斉藤(哲)SL石附M小谷福
7月27日∼18日安瀬山沢登り講習会
(
安
瀬
一
滝
の
沢
一
安
瀬
山
一
5
5
7
峰
猪股
’
11月2日∼3日倶多楽湖ダイビング
i’
7月26日神威岳沢登り講習会(百松橋一
神
威
沢
一
滝
の
沢
一
木
挽
沢
一
林
道
)
岡
)
L豊岡SL北野
沢田樺山
(裕)沢田猪股
12月春香山(国際スキー場一山頂一桂
12月6日∼7日空沼岳
観
、
ぅ
、
*
鋤
M味知藤田浅野
谷大橋一河口)
(
豊
)
石沢
:
1
L佐野SL浅野M望月江川
L藤田SL福田M猪股斉藤
L田中SL浜津M久保吉田
、
│
8月24日∼27日別寒辺牛川下り講習会
L三次SL能M樺山江川猪股
斉藤(哲)
山一白銀荘)
僅岳台一豊平湖一がま沢一冷水小
L三次SL味知望月江川
3月11日∼17日原始ケ原
樺山
L能M金森高村味知平井
・8月21日∼22日札幌岳沢登り講習会
1月21日∼25日摩周湖ダイビング
L石附M金森浅野池田相原
1月31日赤岩L後藤M金森
1月31日∼2月1日奥手稲山
L能SL池田M高村江川
L浅野M小谷猪股斉藤(豊)
ロー幌別一ウトロ)
訓練(手稲山)
12月13日∼14日無意根山(元山一長尾
’1..111..........﹃■.。..
11月7日∼10日二セイカウシュペ山(南
8月9日∼11日知床沢登り講習会(ウト
1月20日ヒマラヤ予備山行山岳スキー
1
生か−令-雀-鼎、-.管−−∼-"要---;,ゞ齢当、陽_偽士_-…セ,-吾.---..挙〆‘….一_.
ー 、 司 凸 今 _ ム ー ー
卦
?
_
皇
曇
=
−
−
雲
=
二
…
一
J
一
■
〆
J
−
?
=
峠
一
旦
■
−
−
…
?
−
"
−
よ
…
皇
皇
=
…
と
3
=
電
延
I
7月24日∼8月1日雄冬西海岸踏査(大
別刈一歩古丹一雄冬一千代志別一送
L江川SL沢田M吉田
12月17日股下山
毛一厚田)
M江川吉田沢田汐崎
L吉田SL汐崎M坂本
97月24日∼8月14日天塩川全域イカダ
1980年3月∼4月ヒマラヤ・メラピーク
12月22日∼28日冬合宿(ニセコ)
下り(天塩岳一河口)
L江川SL吉田M沢田汐崎
L藤田SL豊岡M沢田野村
L藤田M野村大楠
西野
L佐々Dr・相川SL沼沢M先
川小野宮原高橋(雅)小寺
M汐崎
8月19日∼27日知床ダイビング(赤岩
付近)
行(豊富一ペンケ沼一豊富神社一日
北大パタゴニア遠征隊(探検部関係)
本海一ペンケ沼)
後藤(一)石橋小寺
1987年2月∼4月ヒマラヤ・メラピーク
L野村SL藤田M豊岡西野
L田中SL佐野M後藤(茂)
3月1日∼5日旧増毛山道踏査(増毛一別
L小林SL小谷M福田和田
一知来岳西面直筆沢一知来岳一徳富
刈一天狗岳一岩老)
金森久保石関浜津石沢吉
L吉田SL宇仁
田(憲)
3月17日∼21日宗谷丘陵地形調査(小
川本流一南暑寒月幅一暑寒荘)
石一林道一下苗太路川源頭一モイマ
L宇仁SL吉田M汐崎
山一時前川源頭一宗谷岬)
9月24日∼25日第1回フォトデゥポァソ
[
E
.
C
、
H
・
D
i
a
r
y
付
記
]
1
9
8
7
年
、
探
検
部
は
2
件
の
死
亡
事
故
を
起
こ
し
た
。
L沢田SL藤田M和田
こ
れ
ら
の
事
故
に
よ
り
、
探
検
部
が
持
っ
て
い
た
多
く
の
問
題
点
が
露
呈
し
、
そ
れ
ら
を
根
底
か
ら
見
つ
め
直
す
必
要
に
せ
ま
ら
れ
た
。
活
動
の
停
止
、
そ
し
て
多
く
の
話
し
合
い
で
我
々
は
探
検
部
の
存
在
意
義
を
問
い
直
す
こ
と
か
ら
始
め
、
部
に
何
を
求
め
、
部
で
何
を
し
た
ン・ダイビング日本大会舶村沿岸)
L浅野SL小林M小谷福田
10月2日∼7日知床原生林伐採跡地調査
(ウトロー幌別川一伐採跡地一ウト
ロ
)
い
の
か
か
ら
話
し
合
い
を
始
め
た
。
そ
し
て
や
る
気
の
[海外分]
L宇仁SL汐崎M坂本
10月6日∼10日泊川鍾乳洞ケービング
あ
る
部
員
だ
け
力
曠
り
、
そ
れ
ぞ
れ
が
部
の
必
要
性
を
1974年811∼9月フィリピン民レウ』Ij.(IIル崎
L藤田SL野村M豊岡
感
じ
た
か
ら
こ
そ
活
動
を
再
開
す
る
に
至
っ
た
の
で
あ
る
。
そ
う
い
う
意
味
で
事
故
後
の
探
検
部
は
新
た
な
再
いきノLSL西村M〃橘本
12月3日支笏湖ダイビング
人膳
L小林SL浅野
出発をしたと言える。
1975年6月∼9月アリユーシヤ/"ll島踏
12月3日∼4日春香山(国際スキー場一春
香沢林道一山頂一銭函峠一桂岡)
GL佐々L増田SL近藤M牛
L江川SL吉田M沢田汐崎
田野崎吉田(全)斉藤平野
12月9日10日無意根山(元山一長尾山一
事
故
か
ら
活
動
再
開
ま
で
の
話
し
合
い
の
経
緯
の
詳
細
は
2
件
の
事
故
報
告
書
に
ゆ
ず
る
。
反
省
点
を
大
別
査隊
す
る
と
、
探
検
部
の
組
織
の
問
題
、
部
員
そ
れ
ぞ
れ
の
意
識
の
低
下
、
そ
れ
ら
に
伴
う
活
動
の
レ
ジ
ャ
ー
化
と
小出山森
1
体何なのかもという根本問題に話が至り、探検
部とは探検をする部であるという当然といえば
当然の部員の共通認識を確認してから部の改革
が始まったのであるbi:‐‐
活動を再開してから1年半がたつ。具体的に
探検部がどう変わったか思いつくままに私なり
まず部会の出席の義務化により出席率は以前
よりも高まり、また欠席時にも連絡を取り鰄尉
様になった。これは組織としての探検部の基盤
の第一歩であり、また部員としての意識の高ま
りと言うこともできる。また実際の活動は計画
承認までのプロセスが多くなった。当初そのプ
ロセス段階での不手際により計画の中止を余儀
なくされたこともあったが、面倒になる分安全
性をチェックする場が増えたということで評価
できる。また部活動と個人活動もはっきり区別
11
8月22日∼28日増毛山地(滝の沢林道
いったものがあげられた。そして探検部とは一
に現状を述べてみる。
1981年10月∼82年2月
12月29日∼1月5日サロベツ原野ソリ旅
8月9日∼10日赤岩L宇仁SL吉田
’
1978年2月∼4月インド部族民調査隊
L沢根長田M佐藤(浩)増井
1980年2月∼4月トンガ王国遠征隊』
L須田SL国分M今井田大淵
山頂一元山)
1
1
『
できる様になった。
一方活動の件数は事故前に比べ減少した。こ
れをただの過渡期と見るか、活動への熱意の低
I
下と見るか、活動までのプロセスの繁雑さから
起因するものか、はたまた反レジャー化と見る
かは私にもよく分からない。しかしそれぞれの
計画には各人が思う探検的内容が盛り込まれて
いる。これは部の活動は原則として探検とその
予備活動のみとするという方針からである。こ
の方針は、漠然と活動をせず、その活動の意裳、
目的をはっきりさせることにより活動のレジ
ャ
ー
化
を
防
ぎ
、
活
動
を
探
検
部
ら
し
く
さ
せ
た
。
た
だ
こ
の
方
針
に
よ
り
、
“
探
検
"
の
解
釈
に
よ
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て
朧
活
動の制限になる場合もあり、ある活動が探換で
−127−
−126−
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ないと考える場合は個人の判断により個人活動
はいつの時代にもあることなのだが、山派、ダ
にしてしまう例もある。これら探検のとらえ方
イビング派の活動も続いているのだから部とし
については今も部会で断続的に話し合いが行わ
て技術伝達がうまくいかなかったのは残念なこ
れている。部会で、探検とは何か、という議論
とである。まあ現在の技術レベルで活動し、力
が出ることは、少なくとも1985年以降事故まで
をつけていくしかない。
はあまりなかったことで、そのこと自体いい傾
向だと思う。
まず、「TERRAINCOGMTA」3号の発刊が、大幅に遅れてしまったことを皆様にお詫び申し上げ
ます。2号以来、実に15年ぶりの発刊になってしまいました。これだけ長い間を空けてしまったため
最近は学習会である探検講座も充実してきた。
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関
し
て
は
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不
備
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生
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出
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こ
と
と
な
っ
て
し
ま
い
ま
し
た
。
ま
た
、
原
稿
も
ず
い
ぶ
大きな計画、日常の活動にかかわらず、探検
部員の減少により、また休部の影響もあり、特
に山脈、ダイビング派の技術レベルは低下し、現
にこだわって活動していこう、という方向性は
ん昔に書いていただいたものも含まれ、内容の持つ新鮮さを失わせてしまいました。誠に申し訳ござ
今後も失いたくない。
いません。
在の主力は川下り派である。この様な栄枯盛衰
,
罰
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吋
(1990年2月吉田憲悟記)
私
が
直
接
に
知
っ
て
い
る
探
検
部
は
1
9
8
5
年
か
ら
1
9
9
0
年
の
間
で
す
が
、
そ
の
間
に
決
し
て
忘
れ
る
事
の
で
き
粒
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ぃ
遭
難
事
故
を
2
度
経
験
し
ま
し
た
。
そ
の
後
、
部
内
に
お
い
て
は
ク
ラ
ブ
運
営
に
関
し
て
活
発
な
議
論
が
交
わ
さ
れ
、
『
探
検
部
の
あ
る
べ
き
姿
』
に
向
い
、
活
動
を
再
開
し
て
い
ま
す
。
現
在
の
現
役
部
員
の
半
数
は
す
で
に
、
2
つ
の
遭
難
事
故
後
に
入
部
し
て
き
て
い
ま
す
。
し
か
し
、
決
し
て
2
度
の
遭
難
事
故
を
過
去
の
も
の
と
す
る
事
無
く
、
こ
れ
ら
の
経
験
を
綱
に
、
北
大
探
検
部
の
一
層
の
飛
躍
を
期
待
し
て
止
み
ま
せ
ん
。
ま
た
そ
れ
が
北
大
探
検
部
の
2
人
の
同
志
に
対
す
る供養になると考えています。
最
後
に
、
出
版
費
用
に
対
し
て
多
大
の
資
金
援
助
を
し
て
い
た
だ
い
た
O
B
,
O
G
の
諸
兄
諸
姉
の
皆
様
、
有
難
う
ご
ざ
い
ま
す
。
ま
た
、
編
集
に
関
し
て
は
0
.
B
の
浅
野
晴
也
氏
、
国
分
英
彦
氏
に
多
く
の
御
協
力
を
い
た
だ
き
ま
し
た
。
さ
ら
に
、
多
大
な
労
力
を
惜
し
み
な
く
提
供
し
て
く
れ
た
現
役
部
員
の
吉
田
憲
悟
君
、
豊
岡
匡
之
君
、
汐
崎
文
君
、
西
野
正
史
君
、
松
原
憲
彦
君
、
岡
部
朋
洋
君
に
感
謝
し
ま
す
。
1990年4月
TERRAINCOGNITA3号編集長能宏彰
|
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−129−
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瞳_.=_−,−一…__≠−−−,_…←_…_"雲一=_…−−…_=−−
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[追記]TERRAmCOGMTA2号に於いて、重要な正誤訂正がありましたので、ここに記します。
ページ
誤
正
目次
イランの山域調査
イランの山城調査
55
イランの山域調査
イランの山城調査
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1
今
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