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第4号 - 安田女子大学図書館

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第4号 - 安田女子大学図書館
安田女子大学図書館報
第4号
2004年(平成16年)
10月15日
安田女子大学図書館運営委員会 発行
〒731
0153
TEL
(082)
878
8578
広島市安佐南区安東6丁目13番1号
目 次
1.閑話:大学歌「まほろば」考(続)
… ………………………………… 1
図書館長 藏野 嗣久 2.
―リチャーズとデューイ― ……
2
大学教授 楠 幹江 3.青年時代に読書して感銘を受けた
… ……………… 4
図書、この一冊
図書館運営委員ほか … ………… 7
4.展示コーナー見聞録
中国金石拓本展(桂園文庫)
大学助教授 萩 信雄 … …………… 8
5.新着図書の中から
図書館 … …………………… 8
6.図書館短信
図書館 閑話:大学歌「まほろば」考(続)
図書館長 藏野 嗣久 前号に記した安田女子大学歌は、
上欄の通りである。
一般に校歌の作詩は表現にそれ
なりの制約があって難しいが、さ
すがに大原三八雄先生の作品であ
ると感心させられる出来栄えであ
る。しかし、この作品は残念なが
ら大原先生原作のままではないよ
図書館長 藏野 嗣久
うに思う。それは何故か。
前号で述べたように、この作品は学友会主導で作成された
大学歌であり、長らく日の目を見なかった。学生が自主的に
作成するという話は早くから耳に入っていたが、それはあく
までも学生歌であって公式の場で歌うものという認識は私に
もなかった。実際作曲者に近い人の間ではいざ知らず、私が
初めて聞いたのも数年後のことであると前号に書いた。
最近このことを記録に残そうと調べてみると、この歌詞の
現存最古の記録は、作詩6年後の学友会誌『をみなご』第3
号(昭和49年7月初旬頃発行)である。
『学生便覧』には昭和
51年度版に作曲者の升田先生から頂戴した楽譜をそのまま学
生歌として掲載した。歌詞が固定化したのは『学生便覧』昭
和56年度版からである。そこでは何故か「萌え」(萌芽)と
なっているが、ここは「燃え」(燃焼)の意であろう。
ところで、
『をみなご』の命名は創刊号に三好達治の「甃の
うへ」が機関紙名決定のもととあるが、これは大学歌がまだ
無名であったからで、学生たちが自主的に作成した大学歌が
意識の底にあり、それを名詩に託つけて説明したのであろう。
そこではわざわざ「おみな」はお婆さんの意であるから「お
みなご」ではなく「をみなご」とすると断っている。
歴史的仮名遣い「をみなご」を歌詞に使用したのであれば
言葉に敏感な大原先生が現代仮名遣いを混ぜて表現するとは
思えない。歌詞には冒頭の「まほろば」をはじめ、古語がい
くつか用いられており、原作は歴史的仮名遣いで表現されて
いたと思われる。恐らく次のようであったろう。
1.まほろばに 白く見ゆる 2.安川の 遠く見ゆる
学び舎 わが学び舎 学び舎 わが学び舎
朝ごとに 登りきて 豊かなる キャンパスに
知る教へ 究める真理 咲く花よ 我らをみなご
とこしへ
永久
の 光かがよふ 謙譲の 心忘れず
青空に ああ友よ 人の世に ああ友よ
青春の夢をひらき 新しき灯をかかげ
武田の山の 緑に燃えなん 世界を結ぶ 理想に生きなん
柔しく剛く 柔しく剛く
なお勝手な推測であるが、
「青空に」と「人の世に」の繰り
返しは原作にはなく、作曲の都合で加えたものであろう。
また、「学び舎」は『をみなご』第3号による。「燃え」は
杜甫の『絶句』に従って「然え」としたいところであるが…。
(2)2004年(平成16年)
10月15日 安田女子大学図書館報第4号
WHAT
S IN A NAME?
――リチャーズとデューイ――
大学教授 楠 幹江
大学教授 楠 幹江
本年4月、本学に家政学部が
した時代であった。都市に人口が集中し、水・空気・土壌と
新設され、その英文表記に
いった物質的環境は汚染され、社会的環境も退化の状態に
が綴
あった。女性として初めて (
られた。
;マサチューセッツ工科大学)に入学し、化学の
一方、日本家政学会の英文表
学位を得たリチャーズは、自らの化学の知識を基に、環境を
記は、
改善する方策を構想した。リチャーズは、物質的環境と社会
である。
的環境は互いに関連していると考え、環境退化の連鎖反応は
と
民衆の無知が原因であるとした。また、家庭は物資的環境の、
、この二つの名称の
家族は社会的環境の基礎単位であるとし、環境全体はこれら
意味を探りながら、名称の命名
諸分野の総体であると考えた。そのため、環境全体を改善す
に関わった二人の人物の紹介をしたいと思う。
るためには、家庭と家族から修正を始めなければならないと
日本において家政学が成立したのは、戦後のことである。
し、家庭における実質的な管理者であった女性を教育する必
1947年、教育改革によって学制は六・三・三制となり、男女
要があると考えた。
「女性に高等教育など不要」という当時の
共学を基本にした9カ年の義務教育が取り入れられた。翌年
風潮と戦いながら、彼女は精力的な活動を行い、1892年に環
アメリカ教育使節団の勧告により、家政学部が大学の学部と
境の科学、すなわち の提唱を行った。産業
して認められ、1949年の新制大学発足以後、多くの大学に家
化が進行する中、環境を改善して、環境と人間との相互作用
政学部が開設された。
である生活をよりよくしたいという学問の提唱である。
この家政学を学問として確立させたのは、アメリカ家政学
は、ド イ ツ の 生 物 学 者 エ ル ン ス ト・ヘ ッ ケ ル
会の創立者エレン・リチャーズ(
、結婚後
、1834∼1919)が、1866年に『自然創造史』
(
となる。1842∼1911)である。また、彼女に多大な
の中で初めて用いた語である。 はドイツ語では
影響を与え、終始家政学の発展を願ったのが、アメリカ図書
と綴るが、ドイツ語に堪能であったリチャーズは
館学会の創立者であり、今日、世界中で活用されている図書
(家)から発生
その語源を調べ、 がギリシャ語の 分類法(
、略して 法)
し、は「家」を普遍的、世界的にするものであることを指
を発案したメルブィル・デューイ(
、1851
摘した。このため、
は「すべての人の家=環境」と解釈
∼1931)である。
した。
二人はどのように出会い、どのように影響を与え合ったの
リチャーズが を提唱した時点で、
に関し
であろうか?
て、二つの解釈が成立することとなった。一つは、ヘッケル
として出発した家政学
が提唱する、
「生物とそれを取り巻く環境の相互関係を研究し、
生態系の構造と機能を明らかにする学問」であり、他方は、
い わ ゆ る「家 政 学」と い う 名 称 は、ア メ リ カ に お け る
リチャーズが提唱する「人間を生態系を構成する一員として
の日本語訳である。
はいうまでもな
とらえ、人間と自然環境・物質循環・社会状況などとの相互
く家庭を意味するが、
は経済を意味する 関係を考える科学」である。
に、科学を意味する をつけたものである。
のも
リチャーズは、 の本質と目的を、次のように述べ
(家)と
との言葉はギリシャ語の すなわち ている。
(管理)から成り立っている。このため、 「正しい生活に関する学問のために、私達は新しい名称を捜
だけでも家政の意味を持つが、家政学を の慣用語
してきました。……神学が宗教的生活の科学であり、生物学
訳である経済学と混同しないように を冠して家政学と
が物質的生命の科学であるように……これからは、 した。
後に、
アメリカ家政学会を生む原動力となった第1回レ
を私達の日常の科学としましょう。…… を、すべて
1889年)
において、 イク・プラシッド会議(
の応用科学のうち、健康で……幸福な生活がその上にうち立
は家政学の一般的総称として採用されることとなった。ここ
てられるべき諸原理を教える、もっとも価値ある科学にしよ
まで述べると、家政学の出発は であると
うではありませんか。」
いった意味合いになるが、現実は異なっているのである。
産業化に伴って物質的には豊になった時代に、リチャーズ
アメリカ家政学の母と称されるリチャーズが活躍したのは、
は「豊かな生活よりは正しい生活」を主張した。この「正
19世紀後半である。当時、アメリカは第二次産業革命が進行
い
生
活」こ
そ
が 目
的
価
値
と
す
る
も
の
で
あ
る。
し
が
2004年(平成16年)
10月15日 安田女子大学図書館報第4号(3)
は、ただ単に物質的環境や社会的環境など目に見
えるものの改善だけでなく、もっと根本的に、生命・健康・
安全・創造など、家族・個人として、人間が自己実現する上
かの文豪シェイクスピアは、名著『ロミオとジュリエット』
で必要不可欠な「生活の価値」や「意志の力」といった倫理
の中で、「おお、ロミオ、ロミオ、どうしてあなたはロミ
的なものを含んでいる内容である。
オ?」
「名前ってなに?バラと呼んでいる花を別の名前にして
リチャーズにとって、
はあくまで、「人間」と「環
みても美しい香りはそのまま」
(小田島雄志訳)とジュリエッ
境」とその「相互作用」の科学であった。このため、
トに言わせ、名前(ここでは、家柄)の持つ意味のない重さ
を冠して とし、学問としての第一歩を踏み出
を嘆かせた。
した。
家政学の名称もまた、ジュリエットの想いに似ているかも
デューイの助言と に転換し
しれない。
から て出発したアメリカ家政学会であるが、1994年に、 リチャーズの伝記によると、彼女とデューイが最初に出
に改名されている。改名にあたって、
会ったのは、1880年代であるという。リチャーズ自らが組織
焦点の統一化が述べられているが、そこには、「
した大学女性卒業者協会の会議において、デューイは、教育
は、個人、家族、地域、およびそれらが
を受けた女性の職業として司書の話を解説している。女性教
機能する環境との間の関係性に対して統合的アプローチを用
育に熱心だったデューイは、女性の無知を正そうとするリ
いる。」とある。この精神は、リチャーズの精神であり、本質
チャーズを励まし、惜しみない援助を与えた。
は少しも変わっていない。今後も、改名問題は起こるかもし
リチャーズが を提唱した6年後の1898年、
れないが、リチャーズの精神は変わらないものと確信してい
彼女はレイク・プラシッドにあるデューイの別荘に招かれた。
る。ち な み に、日 本 家 政 学 会 は、設 立 当 初 か ら 現 在 ま で
学校教育における家庭科学の問題を話し合うためである。
を保守している。
を提唱し、科学の応用を家庭や学校教育に導
図書分類にみる家政学は、 法では、600 入すべく努力していたリチャーズであったが、その成果は芳
(
)のもとにあり、640 しくない状態であった。教育現場においては、題材そのもの
に位置している。本学図書館では、日
は広く普及していたが、それをどのように教え、どのように
本十進分類法(
、略して
実践すべきか明白ではなく、主題そのものについても合意が
法)が採用されており、500 技術・工学のもとにある。
なされていない状態であった。また、名称も なお、500 技術・工学の要目のうち、590 家政学、生活科
に統一されたわけではなく、家事科学(
)、
学 593 衣服、裁縫 596 食品、料理 597 住居、家具
)、
家政(
)、家庭経済学(
調度 に家政関係の項目がみられる。
)、家事経済学(
家庭科学(
専攻のいかんに関わらず、多くの人達が、家政学の知識に
)などが使用され、混乱が起こっていた。
ふれてくださることを真に願う。なぜなら、家政学は、「人
種々な議論の後で、 の名称について、
間」と「環境」とその「相互作用」の科学であり、健康に生
デューイは、次のような助言を行っている。
「
は既に
きるための科学であるからである。リチャーズは、
「あらゆる
生命科学者たちのものです。科学のヒエラルキーができあ
知識の最終的な価値は、その知識が人間の健康とそれを取り
がっているのだから、その現実を受け入れなさい。名称のこ
巻く環境とによって、好ましいものであるか否かによって決
とより大切なのは、あなたが新しい知識に対する需要を創出
まる。」と述べている。21世紀の現在、環境問題はますます複
したことであり、多くの人々の興味と活動力を喚起したこと
雑化している。人類が幸福であるように、知識を有効に活用
です。 を生産と消費に関する社会科学、すなわち
したいものである。
(経済学)に変えて使用すべきです。」
リチャーズはデューイの助言を受け入れた。なぜなら、二
つの科学、
と は同じ起源を有していたか
らである。
(
は生産と消費の行われる全ての人の家で
あり、
は生産と消費に関する全ての人の体系であ
る。)そして、この新しい学問 が、社会科学とし
て分類されれば、より多くの人々がこの学問に参加し、環境
を改善すると理解したのである。リチャーズは、経済的手段
によって家庭環境を改善することとし、その改善のために科
学を使用する決心をしたのである。ここにおいて、 は となったのである。
(4)2004年(平成16年)
10月15日 安田女子大学図書館報第4号
青年
時代に読書して感銘を受けた図書、この一冊
青年時代に読書して感銘を受けた図書、この一冊
アンデルセン著・大畑末吉訳『即興詩人』
(1960年・岩波書店)
当時高校生だった私は、ルビとしてふられたイタリア語の
新鮮な響き、そして古都ローマの独特な風土描写が心に焼き
付けられた。主人公アントニオは神に守られた子として、多
感な少年時代を過ごす。神学校卒業後、人気絶頂の美しい歌
姫アヌンツィアータと運命的な出会いをする。ところが、幸
せな日々もつかの間、思いがけない事件から、逃亡してしま
う。しかし、天性の素質に恵まれ即興詩人として人々の心を
とりこにしていく。やがて、ヴェネツィアにあるうらぶれた
劇場でアヌンツィアータと劇的な再会をするが、大病した彼
女にはかつての栄光は消え失せ、零落の果て寂しい死を遂げ
てしまう。
繰り広げられる南イタリアの風土描写は写生的で、まるで
読者はその光景をまのあたりにするようである。登場人物は
運命的な出会いや別れを次々と繰り返すが、その人間関係が
不思議にも目に見えない一本の糸としてつながってくる。
ローマ・ナポリの明るく強い日射し、カタコンベに象徴され
るような暗い死の世界、静かな聖職者たち、それらが重複し
調和しながら物語が叙情的に展開していく。
人生への影響といえば、後に慢性となる私のオペラ病を悪
化してしまったことだろうか? (日本文学科 伊藤真弓)
シュリーマン著『古代への情熱』
(1976年・岩波書店)
シュリーマンは子供の頃、古代ローマ都市・ポンペイの滅
亡やギリシアとトロヤの戦争の話を、父親からよく聞かされ
た。七歳のクリスマスに、父からプレゼントされた本には、
燃えあがるトロヤを描いた銅版画が入っていた。それを見た
彼は決意する。「いつかトロヤを発掘するんだ」
いつの時代でも子供はよく夢を抱くものである。ただシュ
リーマンは普通の子供とは違った。七歳の時の夢を生涯抱き
続け、実現させたのである。彼は漫然と夢を追い続けたので
はない。発掘という目標達成に必要な二つのものの獲得に精
進した。その一つは資金で、四一歳までに巨万の富を築きあ
げた。もう一つは語学力で、暗誦・朗誦による方法で十数ヶ
国語を修得したのであった。
この『古代への情熱』は、シュリーマンの死後、友人に
よって遺稿を基にまとめられた伝記である。この伝記から
我々は何を学ぶことができるであろうか。それは、人生には
夢(目標)とそれに向う情熱がなくてはいけない、というこ
とではなかろうか。
ビジョンを描き、強く念じ、その実現に必要なものを一つ
一つ獲得してゆく。あわてる必要はない、着実に目標に向っ
て前進すること。平坦な道ばかりではあるまい。シュリーマ
ンも幾度となく災厄を乗り越えている。艱難に耐え、高みへ
と登り行くことも人生の妙味に違いない。
(追記)
『美の源流を尋ねて』や『清代の瓷器』の著者で、日
本のシュリーマンともよばれる田路周一先生の思い出も、別
な機会にお話したいと思います。先生は日本有数の清朝陶磁
のコレクターであり、四十代前半までに材木で一財産を築き、
以後、事業をやめて古美術研究の道に入られた方です。
(日本文学科書道文化専攻 内田誠一)
伊藤静雄著『伊東静雄詩集』
(1957年・新潮社、1989年・岩波書店)
これは私が青年時代に出会い、今なお年に1回は開いてみ
る書物である。日本的な(?)
抒情が、鮮烈で張りつめた言葉
となって輝いているのは驚きだった。
「わが死せむ美しき日の
な
汝
が白雪を 消さずあれ」。
ために 連嶺の夢想よ! かて
とり い
「四月のまつ青き麦は はや後悔の
糧
にと
収
穫
れられぬ」。こ
れほどヴォルテージの高い日本語は、それまで知らなかった
し、その後も出会ったことがない。意味はよくわからないが、
すごい表現だと確信した。
伊東静雄の初期の詩は難解で息苦しい。とても続けては読
めない。しかしその詩句は私の心に住みついた。心が鬱屈し
た時、私は「行つて お前のその憂愁の深さのほどに 明る
こ
くかし処
を彩れ」と呪文のように唱え、希望を失いかけた時
には、
「私は言ひあてることが出来る……いつたい其処で お
前の懸命に信じまいとしてゐることの 何であるかを」と自
分につぶやいた。私は勝手な思い込みをしていたのかもしれ
ないが、彼の詩は大いなる励ましであった。これらの心打つ
言葉は、日本が暗い時代に向かっていた1930年代、作者の失
意と苦境から絞り出すように歌われたものにちがいない。
じつは私は中学・高校時代、伊東静雄が生前暮らした土地
(大阪府堺市)に住んでいた。その頃は春先よく雪が降った。
春の雪は花のように暖かく輝き、陽の匂いがしそうに思える。
春の雪はすぐに溶けるが、やがて野に咲く野ばら、咲きつぐ
き ぐさ
あわゆき
木草
沫雪
」という美しい詩は、少年
の
花々の先触れである。「
時代の私の思いを正確に描いている。だが最後に思わぬこと
きそ
が歌われている。
「はや庭をめぐりて競
ひ
おつる樹々のしづく
ゆき ど
なれ
の 雪解
け
のせはしき歌はいま汝
を
ぞうたふ」。彼の詩はあな
たのことを歌っている。
(英語英米文学科 植田和文)
溝口謙三著『へき地の子ども』
(1970年・東洋館)
確か、大学三年生の時、教育社会学の講義で使用したテキ
ストだったと記憶している。著者は、山形大学教育学部に所
属する教育学者である。内容は、東北地方のへき地をケース
スタディとして取り組んだへき地教育の成果である。目次を
見ると次のような構成である。「一、へき地のくらし」「二、
ものいわぬ子ら」
「三、集団の中の子どもたち」
「四、へき地
の学校」
「五、へき地の子どもらの道」。人口や産業に関する
各種統計を始め子どもたちの作文など、さまざまな記録や資
料を基にして叙述されている。元々、私自身がへき地出身で
あり、将来へき地学校の教師になりたいという希望を抱いて
いたので、この本にとても親しみを感じていた。
はしがきに記されている「へき地の子どもをほんとうに識
2004年(平成16年)
10月15日 安田女子大学図書館報第4号(5)
るためには、へき地社会の生活の様式や社会の構造と結び付
けて考えてみる必要があろう。」という著者の意見に、教育学
を学ぶ姿勢を見い出したような気がした。いま、社会事象と
しての図書館を研究対象としている。実証科学としての教育
学研究・図書館研究への取り組みを喚起させる一冊である。
(児童教育学科 中島正明)
アインシュタイン・プロジェクト著
「 アインシュタイン・ロマン」シリーズ(全6巻)
(1991年・日本放送出版協会)
私は、今は臨床心理学を専門にしているが、実は高校生の
頃は、心理学よりも物理学や宇宙論(!)に興味関心があっ
た(決して物理や数学の成績がよかったわけではないが…)。
つまり、「光の正体は何だろう?」「宇宙は、なぜ、どのよう
に生まれたのだろう?」といったこと考えるのが好きで、と
りあえず易しそうな入門書を探しては読んで科学の最新の成
果を少しでも知ろうと努力した。それでもやはり複雑な数式
や専門記号が出てくることが多く、消化不良をおこしては不
全感を抱くことが多かった。
そのような中で出会ったのが、
「 アインシュタイン・
ロマン」シリーズ(全6巻)であった。このシリーズは、テ
レビで放映された番組をまとめなおしたものである。
《知の冒
険》を共通テーマにして、現代科学のもっとも高度な成果、
すなわち相対性理論、量子力学、宇宙論などを数式や記号を
極力使わずに、きれいなイラストや写真を多用して、平易に
説明している。とにかく、それらの重要な本質が伝わるよう
に工夫されている。この本によって、私は、最先端の物理学
や宇宙論でさえ解明できない光や宇宙の謎や矛盾に触れた気
がして、とてもゾクゾクした。
ご存知のように、現代の心理学は科学の一分野という位置
づけにある。臨床心理学でも、近年はエビデンス・ベース
ド・カウンセリング(有効性が実証された理論や技法に基づ
いたカウンセリング)の重要性が強調されて、研究方法に自
然科学のような厳密さが求められている。
しかしながら、お手本とされる自然科学もこのようにまだ
まだ完成されていない(すなわち、最上級の理論でも謎や矛
盾を内包している、複雑化する理論に実証が追いついていな
い)ことを知ると、なんとなくホッとする(?)ものである。
(心理学科・人間科学科 瀬戸正弘)
城山三郎著『辛酸』
(1979年・角川書店)
これは、田中正造の生涯を小説仕立てにしたものである。
田中正造といっても今では知らない人の方が多いことだろ
う。日本で最初の大型公害事件といえる足尾銅山鉱毒事件の
解決に生涯を捧げたその人こそが、田中正造である。
時は、藩閥政府が一定の政商と結び付いて私利私欲を貪っ
ていた明治時代。足尾銅山も、払い下げを受けた古川が銅鉱
の排水を垂れ流し、地域住民の財産と健康を蝕んでいた。住
民は、その被害を県や国に訴えるが、古川の後ろには藩閥政
府の大物が控えているため、すべて握り潰されてしまう。勘
善懲悪の時代劇なら、ここで黄門様の登場でしゃんしゃん、
ということになるが、現実世界とは無縁な話。
しかし、何時の時代にも正義漢はいるもの。土地の庄屋で
国会議員であった田中正造は、その不法・不正を暴くべく、
立ち上がる。鉱毒で汚染された村に移り住み、地位も財産も
投げ打って裁判闘争を起こすものの、結局は敗れ去る。村の
家々は強制的に取り壊される。万策尽きた彼は、最後の手段
として、天皇に直訴に及ぶ…
巨像のような国家権力を相手に、彼と村人の人生を賭けた
悲壮な戦いぶりは、圧倒的な力で読者の正義感に迫ってくる。
こうした壮絶な人生を送るような勇気のない私は、それで
も学生当時、彼らを支えることのできるような弁護士になれ
たら本望だと心の中で誓ったものである。
題名の辛酸とは、田中正造が好んで揮毫した『辛酸入佳境』
(辛酸をなめた後、佳境に入るの意)から採ったものである。
この境地、俗人の私には、生涯味わえぬものであろうが…
(現代ビジネス学科 水鳥能伸)
長田一臣著『スランプに挑む』
(1976年・講談社)
スランプとは、
「物事にある程度熟練した段階で、一時的に
不振に陥ること。また、その状態。」と日本語大辞典には解説
してある。青年時代は、社会の動きに対してがむしゃらに自
己発言を試みるようになり、色々と心動くときである。従っ
てスランプとは無縁であるはずの青年時代にこの本に出会い、
感銘を受けたなどとはおこがましいのではあるが…。
著者はスポーツ心理学の第一人者で、
「人生は波である」を
持論としている。スポーツの世界は記録や戦績に好・不調が
あり、それは一つの「波」に左右されるものがあるのでは、
という仮説の基に研究を続けてこられた。
著書の中で、広島県出身の織田幹雄氏は日本人初のオリン
ピック金メダリストであるが、丁度オリンピックの開催に合
わせて最高のコンディションが巡ってきたと分析している。
練習の時は良い成績を出すことができるが「本番ではうまく
いかない」ことは、逆の例になる。また、いつも努力している
が成績が上がらないこともある。それには、視点を変えて本番
に望むことの継続が、成績向上につながると実証している。
人は自分の「波」をうまくコントロールできれば、人生を
楽に生きていくことが可能ではないか。肩の力を抜いて生き
ていくことを教えてくれた一冊である。
(生活デザイン学科 折本浩一)
阿部次郎著『三太郎の日記』
(1950年・角川書店)
「その本は旧制高校の学生は皆読んだ本で、所謂バイブルも
のだ。俺なんか、大学に入る前に読んだぜ。」、私が一生懸命
読みふけっているのを斜に見ながら、私の友人は吐き捨てる
ように言った。今から三十数年前、私が大学1年の時の話で
ある。当時、学園紛争の嵐が吹き荒れる中、毎日のように行
われるクラス討論、学生運動家との激論。およそ理論立てて
話をするという訓練を受けていなかった私には完膚なきまで
に打ちのめされた。激しいカルチャーショックであった。そ
んな私に一人の先輩がそっと一冊の本を渡してくれた。その
(6)2004年(平成16年)
10月15日 安田女子大学図書館報第4号
本こそ、阿部次郎の「三太郎の日記」である。この本の1
ページ目をめくると、そこには今までに見たことのない別の
世界が広がっていた。これが哲学か。これが自己を見つめる
心か。と、目から鱗が落ちる思いであった。それほどに私の
人生に対する姿勢、あるいは人生観の形成そのものに大きく
影響を与えてくれた一冊である。
阿部次郎は夏目漱石に師事し、多くの文人に影響を与えた
明治生まれの哲学者である。明治の末期から大正の初めにか
けてその青春の魂の彷徨をあからさまに、かつ真摯に深く掘
り下げて前人未到の精神世界の広がりを披露した。当時の学
生の評判になり、多くの文人にも影響を与えたようである。
有島武郎が自決する前にこの「三太郎の日記」を読みふけっ
ていたというのは有名な話である。
私の知らなかった精神世界を教えてくれたという意味では、
有難い、また、いつでも人に勧めることのできる一冊である。
現代のように自由主義や自己主義が謳歌されている世の中に
こそこのような思索をし、人生を模索する態度というものが
求められているのではないであろうか。今、壊れかけている
日本の文化や思想に警鐘を鳴らし、真に意義ある人生を導い
てくれる一冊であると思う。若い学生さんには是非読んでい
(管理栄養学科 坂本俊治)
ただきたい一冊である。
波多野誼余夫・稲垣佳世子著『知的好奇心』
(1973年・中央公論社)
「知的好奇心」、今では心理学の基礎用語のひとつとなった
この言葉も、出版当初は人々に奇妙な感じを与えたのではな
いでしょうか。なぜなら当時の日本の心理学では、人間は食
べていくために働くのであって自分から働きたくて働くわけ
がない、勉強にしてもおもしろいわけがない、叱られるのが
怖いからイヤイヤやっているのだ、という「人間怠けもの説」
が最も有力だったからです。本書はこれを実証的に覆しなが
ら、人間は生まれつき旺盛な知的好奇心を持ち、
「自分の能力
を発揮するためにすすんで働きたがり、好奇心にかられて知
的探索を行なうというかたちで勉強するものだ」という新し
い人間観を鮮やかに描き出し、その普及に貢献した一冊です。
小学校教員養成課程で学んでいた大学1年の時、教育心理
学のレポート課題として紹介された文献のひとつが本書でし
た。私はこれを読んで正直、ほっとしたのです。教育に関心
を持ちつつも鞭を振りかざす大人にはなりたくないと思って
いた時に、労働や学習には「喜び」が内在していることを教
えてくれたからです。
久しぶりに読み返してみて、卒業論文で子どものやる気を
テーマに選んだのも、その後、人間がものを覚えたり理解す
るしくみに関心を持って研究者になったのも、この本との出
会いにルーツがあったのだと気づきました。未だにレポート
課題のメモが挟まれたままのこの本は、私にとって人生の羅
(保育科 中村 涼)
針盤なのかもしれません。
アガサ・クリスティー著『クリスティー短篇集』
(2004年・早川書房)
人生に大きな影響を与えるような読書体験ではないが、今
でも思い出すと楽しくなるのである。数十年も前の高校時代、
テスト期間になると逃避したい気持ちからであろうか、何故
か無性に映画が観たくなったり、小説が読みたくなったりし
たものである。その時に、よく手にしたのはアガサ・クリス
ティのミステリであった。殊に短編は気分を転換させる効果
があった。ポアロ・マープル・クイン・パインなどの登場人
物や話の展開の面白さは勿論であるが、私にとって魅惑的に
思われたのは、背景に描写されている二十世紀のはじめの頃
のイギリスの富裕階層の生活文化であった。美しい庭のある
広い住まい、着飾られた服装、初めて知る食卓の献立、正装
をしての夕食、保養地で過ごす休暇など、それまでは知らな
かった世界が細かく美しく表現されており、イギリスで暮ら
してみたいという憧れを抱いたものである。読書を通しての
異文化体験であった。その記憶が現在の服飾関係の授業の中
で蘇って、ヨーロッパの服装文化を取り上げるときに物語の
一部を使って説明することがある。
さらにアガサ・クリスティのミステリを印象深い思い出とさ
せることになったのは、大学の教養部での英語のテキストに
短編が用いられたことである。正確な題名は記憶していない
が、それまでに読んだことのないもので、二人の探偵が活躍
する謎解きの物語は興味深く、早く先へと読み進みたい気持
ちが強いものの、辞書を引きながら悪銭苦闘したことを覚え
ている。手軽に読める翻訳本の有難さを知る機会でもあった。
その後は生活の変化によってほとんど読む機会がなくなって
しまっていたが、今回改めて書店の書架を見てみると、様相
が新たになり、多くの作品が文庫として並んでいた。
(生活科学科 前原優子)
か しん
司馬遼太郎著『
花
神
』
(1976年・新潮社)
『花神』を読み、司馬遼太郎氏の著書に出会えたことで、ま
た人生の新しい恩師に出会うことになった。
『花神』は、周防
の村医から一転して討幕軍の総司令官となり、わが国近代兵
制を創始した大村益次郎の生涯を描いた歴史小説である。花
神とは中国で、花咲爺を意味する。大村は、明治維新の花神
であったといわれ、また日本を回天する契機をつかんだ人物
といわれる。
『花神』を読んで、明治維新という大革命の技術者大村を
知った。私にとって、特に忘れられない大村の言葉に、
「戦術
のみを知って戦略を知らざる者は、ついに国家をあやまつ」
がある。国家経営の重要性を唱えた、大村の真髄がここにあ
る。
『花神』を読み終えてからというもの、司馬遼太郎氏の歴
史小説をすべて買い求め、赤鉛筆を右手に持ちながら、時間
を見つけては読破したものである。
『花神』と出会ってから、それ以後の読書人生が変わり、ま
た人生の恩師たる、歴史上の多くの人物に会うことができた
のである。斉藤道三、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、吉田
松陰、高杉晋作等等である。これからも仕事と読書等を通し
て、自分なりの教育観、歴史観、人生観、人間観等を鍛え、
確固とした戦略思考ができるように努めていきたい。
(秘書科 大下英藏)
2004年(平成16年)
10月15日 安田女子大学図書館報第4号(7)
中国金石拓本展 (桂園文庫)
とう も ほん
本
るが、それは
搨
であり拓本であったりする。書道範本の
おうようじゅん
ぐ せいなん
ちょすいりょう
ベストセラー、初唐の三大家(
欧陽
詢
・
虞
世
南
・ 遂
良
)
きゅう せいきゅうれいせんめい
こう し びょうどう ひ
の作品群の中から、試みに「
九
成
宮
醴
」
「
孔子
廟
堂
」
泉
銘
碑
がんとうしょうぎょうじょ
「雁
聖
教
序
塔
」
をあげれば、それらは全て石刻(碑刻)であ
り、したがって我々が三大家の書法を学ぼうとする時、利用
平成16年5月15日∼平成16年9月30日
大学助教授 萩 信雄
するのは碑刻の複製、つまり拓本なのである。宋代より以降、
明・清になると、数えきれないほどの真蹟資料が存在するか
ら、何も好んでレプリカである拓本を範本としなくてもよい
今期は、御遺族から寄贈を賜った故井上桂園先生旧蔵の、
が、書道の古典時代に於けるそれは、碑刻の文字造形をその
中国書道史上に於ける著名な碑刻の拓本を展示した。秦より
まま写し取った複製(拓本)を利用するのである。
唐に至る金石拓本十六件、及び北魏墓誌銘の原石とその拓本
中国・日本を問わず、このような重要文物である、金石拓
の計一八品よりなる。
本を酷好する文雅の士は歴来多く、ここに桂園井上政雄先生
中国書道史を通観すると、殷周より唐代に至る古い時代の
遺愛の品々を、文庫設立を記念して展覧に供したことは、規
かんとく
簡牘
にみられるように、一部に真蹟(肉筆)
資料は、漢代の
模小なりといえどもまことに意義深いといえよう。それぞれ
が
雑
るが、その大部分は
複製
である、といってよい。書聖
王
の簡介は以下の通り。
まざ
ぎ
レプリカ
おう
し
羲
之
といえども例外ではなく、伝来する作品は数百点にのぼ
1. 宇文氏妻韓氏墓誌名
北魏・煕平三年(518年)
2. 山刻石 伝李斯
秦・始皇二八年(前219年)散佚
3. 開通褒斜道刻石
後漢・永平六年(63年)漢中市博物館
4. 石門頌
後漢・建和二年(148年)漢中市博物館
5. 乙瑛碑
後漢・永興元年(153年)山東・曲阜孔子廟漢魏六朝碑刻陳列館
6. 武栄碑
後漢・建寧元年(168年)山東・済寧市教育局漢碑亭
7. 爨宝子碑
東晋・義煕元年(405年)曲靖第一中学爨碑亭
伝
8. 鄭羲上碑 鄭道昭
伝
北魏・永平四年(511年)山東・天柱山崖
9. 當門石坐題字 鄭道昭
北魏・無年月 山東・雲峯山
10. 始平公造像記 朱義章
北魏・太和二二年(498年)洛陽・龍門古陽洞
11. 張猛龍碑
北魏・正光三年(522年) 山東・曲阜孔子廟漢魏六朝碑刻陳列館
12. 賈思伯碑
北魏・神亀三年(520年)山東・ 州
13. 晋祠銘 唐・太宗(李世民)
唐・貞観二〇年(646年)山西・太原市晋祠
14. 王居士磚塔銘 敬客
唐・顕慶六年(658年)散佚
15. 集字聖教序 王羲之
唐・咸亨三年(672年)西安碑林
16. 李思訓碑 李
唐・開元八年(720年)陝西・蒲城
17. 争坐位稿 顔真卿
唐・広徳二年(764年)西安碑林
[補記]井上家より寄贈を賜った書籍類は、二千数百件にのぼるが、鋭意目録を作成中で、その一部は現在整備中の七号
館三階の書道文化資料室で公開の予定である。なお、文庫の貴重書は図書館で配架される。
1.宇文氏妻韓氏墓誌名
2. 山刻石 伝李斯
9.當門石坐題字 伝鄭道昭
(8)2004年(平成16年)
10月15日 安田女子大学図書館報第4号
新着図書の中から
・「図書館」号館表示
開学以来約4
0年、1号館からス
・『
タートして大学内には多くの建物
(ワイ
が林立しています。この度、施設案
マール共和国期=ナチス期の政治と政党)』1セット
内時等に位置を明確にするため、建
ワイマール共和国期及
物自体に号館表示がされました。図
びナチス期におけるドイ
書館の南側正面玄関前のピロ
ツの政党政治に関する重
ティー上壁面に、安田学園のシン
要資料を集成したコレク
ボルカラーのひとつ「パルム(むら
ションで、ワイマール期
さき)」で「図書館」のサインが表示されました。
「図書館」のサイン
の3大政党の主要機関紙
・視聴覚資料の配架
(マイクロフィルム)、当
該時期の内部文書(マイ
ーヒトラー著『わが闘争』(上下2巻)1934年ー
これまで貴重資料室に保管し
クロフィッシュ)、ナチ党指導者A.ヒトラーの著書・演説
ていたビデオ・・ 等の
集、関連の史料集で構成されています。
視聴覚資料のうち映画などの一
これらの史料をまとめて所蔵する大学は稀で、このコレ
般的な内容のものを中心に、2
クションはきわめて大きな学問的財産となることでしょう。
階カウンター横のキャビネット
に配架しました。
・『介護入門』
『空中ブランコ』
『邂逅の森』文芸春秋 2004年
これらの資料は館内の視聴覚
第131回芥川賞受賞作、モブ・ノリオ氏の『介護入門』と、
室(ブース)で視聴できます
第131回直木賞受賞作、奥田英朗氏の『空中ブランコ』と熊
ので、どうぞご利用ください。
谷達也氏の『邂逅の森』を購入しました。
・新書、文庫、ブックレットのご案内
図 書 館 短 信
・「黒田文庫」収蔵
図 書 館 で は、岩 波 ブ ッ ク
レット、岩波新書、岩波文庫、
岩波現代文庫を継続して購入
平成16年8月23日豺、
しています。その他の新書・
段ボール箱1
05箱の近現
文庫とあわせて、3階閲覧室
代文学約6
000冊の貴重古
の西南にコーナーを設けて配
書が、雨の中、岡山から
ヤマト運輸の4トン車ア
架しています。
ルミバンで無事到着しま
・図書館活動報告
4月15日まで 第4回特別展−中国古陶磁展−
した。これらは、明治期
から昭和戦後期に至るま
での貴重単行作品集類で、
5月8日 第6回安田女子中学校土曜講座開講
谷崎潤一郎著『瘋癲老人日記』『鍵』初版本
保存状態も良く往時の装丁が見て取れ、原典に遡及しての
近現代作家研究資料として価値が高い図書資料です。
これは、元本学教授赤羽学先生を仲介役として、岡山市
(1年生26名)
5月15日 第5回特別展
∼9月30日 −中国金石拓本展(桂園文庫)−
5月27日 図書館運営会議開催
6月5日 第7回安田女子中学校土曜講座開講
在住の黒田昌弘氏より、同氏御尊父馬三氏所蔵の古書を寄
贈したい旨連絡があり、藏野嗣久図書館長と伊藤眞一郎日
本文学科長が現地に出向き、本学図書館に貴重文庫として
受け入れたもので、
「黒田文庫」と命名することに決定しま
した。
大量の貴重な古書を快く寄贈し、本学まで搬送して頂い
た黒田様、仲介の労をとって頂いた赤羽先生には、館報紙
(1年生21名)
★ 平成16年度図書館運営委員
藏野嗣久(委員長)
杉本好伸(日本文学科)、谷口邦彦(書道文化専攻)、
濱本サト子(英語英米文学科)、中島正明(児童教育学科)、
春日キスヨ(心理学科・人間科学科)、水鳥能伸(現代ビジネス学科)、
前原優子(生活デザイン学科・生活科学科)、坂本俊治(管理栄養学科)、
藤田牧子(保育科)、吉田行宏(秘書科)
面を借りて厚くお礼申し上げます。
図書館ホームページ
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