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朝鮮民族美術館の設立と浅川巧を中心として

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朝鮮民族美術館の設立と浅川巧を中心として
成果報告書
氏
名 :安中 茉美
留学先国名:韓国
所属機関
:慶煕大学校国際教育センター、ソウル大学校人文大学考古美術史学科
留学期間
:2009 年 3 月 ~ 2010 年 3 月
研究テーマ:植民地期における近代朝鮮工芸史
― 朝鮮民族美術館の設立と浅川巧を中心として ―
私は2008年3月から約1年間、松下国際財団の奨学を頂き韓国ソウルにおいて研究を行った。
民芸論を唱えた柳宗悦に大きな影響を与えた浅川巧が、朝鮮においてどのように朝鮮工芸品
を評価したのか、また朝鮮工芸品への美意識についての研究を行う中、留学先では特に浅川巧
を中心として柳宗悦と共に設立した朝鮮民族美術館の経緯、背景及び蒐集品の行方を追うという
研究を主に史料から探ってきた。植民地期の歴史と朝鮮美術史の間に挟まれた朝鮮民族美術館
の経緯や朝鮮民族美術館で蒐集した工芸品を明らかにすることで、彼らの美意識、及び工芸に
対する視線、植民地政策への提言を明らかにできると考えたからである。
1.朝鮮民族美術館
浅川巧、柳宗悦が中心となって設立した朝鮮民族美術館は1924年に景福宮(李王朝期に建
てられた王宮)の敷地内にある緝敬堂に開館した。終戦後はアメリカ軍政がその価値を認めその
所蔵品を民俗学者である宋錫夏の民俗博物館に吸収させた。展示品は古代時代から三国時代、
高麗時代、朝鮮時代までの金属類、石材類、木工類、陶磁器類、書画など千点あった。
大韓民国政府が樹立し、その後は朝鮮戦争勃発などの混乱があり、民俗博物館は1950年12
月に国立博物館の南山本館に統括吸収された。1951年に釜山に避難し移ったあと、1953年の
遷都のときには李承晩大統領の指示によって景福宮内の前博物館に戻らずに再び南山本館に
戻った。
1950年末の戦時状況で国立博物館は1955年6月に徳寿宮に移るときまで南山本館を現勤
務地とする職員たちが残っていた。その後、国立博物館が徳寿宮に移り民族博物館は建物さえ
無くなってしまった。
なお、この民族博物館であるが1960年代中盤期に入って民族博物館設立の必要性が高くな
り文化財管理局は1966年10月景福宮の修政殿に韓国美術館を設け、1975年4月にはこれを
格下げさせた韓国民俗博物館を現在の場所に建てた。1979年4月に再び国立中央博物館機構
に編入され国立民俗博物館として現在に至っている。
2.朝鮮民族美術館の所蔵品とその後
このように美術館は様々な混乱を経てきたのだが、それと共に蒐集品はどのように移動したの
だろうか。朝鮮民族美術館では、浅川巧ら誰が何の工芸品を蒐集し陳列したのだろうか。私は主
に文献収集と整理を行い、工芸に関する史料、また新聞などから当時の人々の視線と共に可能
な限り実際の美術品を把握することで幻の朝鮮民族美術館の再生を試みた。史料が全て明確に
わかっていなかったこともあり、美術館の全ての作品を網羅することは困難であったが、その中で
朝鮮総督府が発行した「朝鮮古蹟図譜 第15巻 朝鮮時代陶磁篇」という史料から、朝鮮民族美
術館に所蔵されていた64点の作品を確認することができた。
なお、この報告書では作品名などを記述することは避けるが、作品一つ一つの写真と共に(当
然白黒写真であるが)所蔵者の名前や作品のサイズなど細かく記載されておりこれは大変貴重な
史料であった。ただし、この史料が所蔵してあるソウル大学校の図書館内にある古文献資料室で
は、持ち出し厳禁でありしかもスキャナーがなかったために、仕方なく史料に掲載されている写真
をデジタルカメラで撮影して記録し検証するほかなかった。
さて、その後、朝鮮民族美術館の蒐集品の行方を追ったのだが、上記に記載したように朝鮮民
族美術館は国立民族博物館になった。国立民族博物館の所蔵品について言及すれば、所蔵品
は1950年12月に「旧民族博物館 所蔵品収入命令書」によって国立博物館遺物管理係によっ
て引き継がれたとある。
この時の遺物は1963年度「国立博物館所蔵品目録」の中の「南山分館蒐集品目録」に記録さ
れていた。この史料をちょうど探しているときに偶然私が所属していたソウル大学考古美術史学
科の図書館で発見した。旧民族博物館所蔵品として、金属製品1570点、玉石製品622点、土陶
製品1344点、骨角・貝殻品148点、木・竹・草・漆製品466点、皮・毛・紙・織製品230点、書
画・拓本162年、武具4点、その他9点など、総4555点は現在国立中央博物館に所蔵されてい
る。
さらに、現在国立央博物館に所蔵されている中で、明確に「朝鮮民族美術館所蔵」だとわかるも
のは、7点あることが確認できた。ただしこれらがどこから来たなどという経緯などは明記されてい
ない。
ここでは作品の写真の掲載は省くが、これらの工芸品は現在国立中央博物館に展示されてい
るのではなくあくまで所蔵という形で保管されていた。そのため、実物を見たいと申し出て大学にも
協力を求めお願いしたのだが、「修士の学生という身分の方には見せられない」の一点張りでどう
にもこうにもできなかった。結局写真を頂くことができ、検証するのみとなった。実物を見たかった
私としてはこの点は心残りである。
朝鮮民族美術館の跡地は景福宮の敷地内の緝敬堂であるが、広い敷地内の中では公開され
ているところと公開されていないところがあり、朝鮮民族美術館のあった敷地は公開されていない
場所であった。しかし滞在中の2009年に1月にその場所が公開されたので実際に伺い、職員に
も話を聞くことができたのは幸いであった。
3.工芸品の受容
朝鮮民族美術館の経緯などを探ると同時に、それはどのような位置付けで機能していたのか、
という朝鮮民族美術館や当時の美術館の受容、及び当時の人々の美意識や工芸品の受容にも
関心を持って研究を進めた。
当時の新聞や雑誌の調査から、誰が何を言っているのか、という作業を試みたが、その中で気
になった記事の一つがある。
「やはり柳氏が朝鮮民族美術館という看板の下に朝鮮に残った雑多な美術品以外のものを調
べて行くのかそうではないのか、ということを私たちは精神を強く持って見なければいけない。また
私たちには柳氏に対して感謝すると同時に自ら反省し恥ずかしさを感じる。」
(1922年10月15日発行 雑誌「東明」)
これらの記事を始めとして明らかなことは、朝鮮内のモノを扱う日本人に対して朝鮮の人々は
日本人への「感謝」と同時に、朝鮮の人々が自らのモノを蒐集できないことに対する「反省」の二
つの複雑な気持ちを持っているということだ。朝鮮総督府博物館なども含め美術館の設立や目的
という観点から見ると、日本人がどのように朝鮮に在るものを扱っていたのかという視線が明らか
になる。現在の浅川巧を対象とする研究において「浅川は朝鮮を愛した日本人」という言われ方を
されているが、留学先での研究を通してもまた美術史的な観点からの研究の意義を改めて感じた。
また感情論に終結しない日本と朝鮮半島の在り方について課題を与えてくれたと考える。
4.調査全体を振り返り
まず一番明らかにしたかった朝鮮民族美術館の設立経緯や背景、そして所蔵品を明らかにで
きたことは大きな収穫だった。植民地政策や朝鮮総督府に関わる事項から歴史的にアプローチし
なければならない問題が多くその検証については考察に未熟な点があるにせよ、私が関われる
美術史の範囲で美術館の設立を対象として歴史の再構成を行うことができた。また今回は記載で
きなかったが、ほぼ同時期に設立された朝鮮総督府博物館の設立経緯や背景の史料からも、植
民地政策と朝鮮民族美術館以外のその他の美術館にも焦点をあて探っていきたい。
反省点も含めていえば、資料体が最初から明確ではなかったために、1年間という限られた時
間でありながら調査は遠回りしたというのが事実だが、しかしそれ故に直接朝鮮民族美術館の設
立経緯に関わっていない資料からも、当時の朝鮮工芸品の存在価値や美意識を知ることができ
た。
またもう一つは、工芸品を身近で触れる機会が多くあったことは朝鮮工芸品の受容を知る上で
絶好の機会であった。というのは、いわゆる美術館に展示される美術品と違い、工芸品とは極め
て扱いにくいものだと滞在中にも改めて強く感じた。日常的に使われて生活に根づいてきたものだ
からこそ、工芸品として扱われていながら美術品としても扱われているし、またそうではない部分
でもある。雑多なものでありながら、美しいものともいわれる。しかし私は文化を構成する生活感
覚が最もよく表れているものが工芸品だと考える。生活であり、文化であり、それが歴史を形成し
ている。そのため、研究自体はそのモノの考察よりは歴史的事実や歴史的背景からのアプローチ
を基礎としていたが、日常的に使用者の工芸品への視線を窺うことからも韓国の文化と韓国美術
の特色を探ることができ、またそれらの経験は工芸品の把握や分類に関しても大いに意義のあっ
たことだと思う。
余談であるが、例えばチムチルバンと呼ばれるサウナに行って、たまたま隣にいた見知らぬお
ばさんと話が盛り上がり「うちにも膳があってねぇ・・・」と使用者自らの声を聞くことができ、友人の
家に遊びに行ってその家の歴史に触れることもあった。安東(アンドン)という未だに両班(ヤンバ
ン)階級の子孫が多く住む地域に行き知り合いの紹介で寝泊まりさせて頂いた際には、代々伝わ
る両班の文化と生活について直接知ることができた。これらは直接的な研究ではないにしろ、日
本にいれば絶対に知ることのなかった貴重な声を拾うことができた。
そのほか、「工芸」と聞けば地方の美術館に行くなどして、1年間はとにかく知らなかった工芸品
の知識をインプットすることができた。これらがなければ朝鮮工芸に関して資料のほとんどない日
本で研究対象を理解することは難しかったであろう。今後は留学中の調査と収集した資料を基に
修士論文を完成させたい。
≪留学全般の感想≫
私は実際の滞在期間は1年であったが、最初の半年は慶煕(キョンヒ)大学校国際教育センター
に所属し韓国語を学ぶことを前提として勉強し、残りの半年はソウル大学校人文大学考古美術史
学科に所属した。最初の半年は、毎日韓国語を学ぶ授業に参加したあと、国立国会図書館に通
っていたのだが、韓国語の授業の予習復習と史料収集の両立に加え、国会図書館までの距離が
片道1時間以上かかり遠かったために少々大変であった。また調査方法にかなり戸惑い国会図
書館の職員さんには随分お世話になった。すんなりとはいかず四苦八苦していたことが思い出さ
れる。しかし結局ソウル大学校に所属先を移動したときにその時の蓄積を活かすことができたの
で、結果的に最初の半年の苦労はしてよかったのだと思う。さらに前半の半年で韓国語も大きく上
達できた。
また、3月に渡航してからストレスやホームシックにかかったことはほとんどなく、楽しく生活して
いたのだが、だんだん暑くなるソウルの気候や人の多さのせいなのか、または水のせいなのか
(?)本来健康な私も体調面では辛かった。最初の半年は顎関節症や胃痛に苛まれ、毎週病院に
通っていた。顎関節症の方は毎回の電気マッサージやマウスピースを作り半年ほど治療をした。
恥ずかしい話だが、最初の一カ月は病院に行って泣きながら症状を説明していた。痛くて泣いて
いるのではなく、本当に自分の言葉が通じているのか、どんな治療がされるのか、というわけのわ
からない不安に襲われ気がついたら毎回涙がでていた。しかも大学病院であったため、研修医の
方数名が毎回こぞって私の横で見学しているのも不安を増大させた。(それから、この時保険は
絶対に入っておくべきだと本当に強く感じた。)しかしこれら病院通いの経験から、主張すべき時に
主張する韓国語力とタフさ(?)は養われたのではないかと思う。
9月にソウル大学校に移ってからは、韓国美術史などの授業も履修した。そこで発表をし、レポ
ートを提出する機会もあり、大変ではあったが非常に有益な経験であった。授業で知り合った人と
仲良くなり、多くの友人にも恵まれた。授業が終わると皆、自然と一緒に図書館に向かい各自勉
学に励むというように勉強熱心で、私も良い刺激を頂いた。
住居はソウル大学校に移動した際に引っ越しをしたのだが、どちらとも下宿で過ごした。管理人
のおばさん(アジュンマと呼ぶ)がいて、食事を提供してくれるという住居スタイルである。私の留
学生活はなんといっても下宿のアジュンマ、そして共に過ごした下宿の友人がいてこそあるものだ
った。いつも私たちを気遣ってくれ喜怒哀楽を共にしてくれたアジュンマと友人の温かさ。辛いこと
があり家に帰ったときには、私が何を言わなくても「何かあったのか?」と察してくれたアジュンマ。
ご飯を食べながら色々な話をしてくれた友人。彼らのお陰で私の毎日をさらに楽しいものにしてく
れた。
もちろん、もともとの知り合いである多くの友人にもいつも支えてもらった。楽しいときも辛いとき
も一緒にいてくれた友人に感謝してもしきれない。そして好奇心旺盛な私は彼らに「韓国人より韓
国に詳しい」と(もちろん冗談で)言われることがあったが、友人を巻き込んで多くの文化経験に触
れる機会を頂きとても恵まれていた。このように、人に恵まれた私の留学生活は「縁と感謝」の一
言に尽きるといえる。
・・・・・・
最後になりましたが、これら充実した留学生活を送ることができたのは、何といっても松下国際財
団の方々のお陰です。まだまだ未熟な私を奨学して頂いたことに改めて感謝申し上げます。財団
の方々のご支援がなければ私の留学生活も、貴重な経験もなかったであろうと思います。私はこ
の1年間の留学生活を通して学んだことを土台として、さらに韓国文化への関心を深め勉強して
いきたいと思います。ありがとうございました。
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