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明治学院大学機関リポジトリ http://repository.meijigakuin.ac.jp/
明治学院大学機関リポジトリ
http://repository.meijigakuin.ac.jp/
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アリスの童夢, 夢見る廃嘘
林, 完枝
明治学院大学英米文学・英語学論叢 = Meiji Gakuin
University, the journal of English & American
literature and linguistics, 126: 27-47
2011-02
http://hdl.handle.net/10723/780
Rights
Meiji Gakuin University Institutional Repository
http://repository.meijigakuin.ac.jp/
アリスの童夢, 夢見る廃墟
林
完
枝
I understood what humans would rarely admit: that they were driven less by
kindness or gain. . . than by the pure desire to see what would happen
next.(1)
I
Dreaming and Policing Alice
「あなたの夢は何?」 こんな問いかけをされるのは人生において一度や二度
にとどまるまい。 子どもの頃に尋ねられたら, 「将来何になりたいの?」 ある
いは 「無理かもしれないけど, やってみたいことは何?」 と問われていると質
問者の意図を忖度し, 本気かその場しのぎで 「プロ野球選手になりたい」 とか
「お嫁さんになりたい」 と返答することもあろう。 (すでにジェンダーにバイア
スがかかった返答である。) 年とってこう問われたら 「もう忘れた」 とか 「ま
だ諦めちゃいない」 と返答することもあろう。 ここで 「夢」 とは, 来るべき日
に実現したいと望むもの, それを目標に今を生き未来につなごうとするもの,
時間の延長を企むものである。 公民権運動のさなか, 1963 年 8 月, ワシント
ン行進を締め括るマーティン・ルーサー・キングの演説にある 「私の夢」 は,
今はまだ実現が困難であっても志を持続させ来るべき日に叶えられるべき目標
であった。 それは彼個人のみに帰するものではなく, 同じ理想に燃える同胞の
アメリカ人たちにも共有されるべきヴィジョンとして提起されている。 「夢を
叶える」 とか 「夢が叶う」 は使い古された表現ではあるが, 個人が発した 「言
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アリスの童夢, 夢見る廃墟
葉」 から 「行動」 に転換されるならそれは, 個人の持続する強い意志および周
囲の理解・協力, さらに運や 「ツキ」 などの 「賜物」 である。
まだ実現はしていないが将来実現させたい 「夢」 を問われて返答しないとい
う選択肢もあれば, 問われなくても我が夢を言い立てることもできる。 「有言
実行」, すなわち言葉に出して実行する, 言葉に実行を伴わせる, すなわち
「行為遂行的」 言語使用である(2)。 いずれにせよ, こうした 「夢」 は未来志向
である。 「夕食には何を食べたの?」 と同じ会話レヴェルで問われるかもしれ
ぬ 「昨夜はどんな夢を見たの?」 という問いかけは, 常識的に過去に向いてい
る。 言うまでもあるまいが, 精神医学や精神分析の現場ならともかく, 日常会
話において人びとは, 食事を話題にするほどに睡眠中に見た夢を話題にするこ
とは稀である。 目覚めた世界で会食や会話は可能だが, 個人が睡眠時に見る夢
は覚醒時において雲散霧消するか残像が滞留するばかりで, 同一の夢を見なかっ
た他人に向けて語りなおし再現することは困難を極めるからである。 睡眠時に
見た夢での会話や食事は, 覚醒時には再生し難い。 夢の主体であることが即,
夢の主人を担保するわけではないのである。 睡眠時の夢にまつわる秘儀が夢と
創作を結びつけるのも, 故なしとしないのである(3)。 夢をあますことなく記憶
に留めよう, 再生しようという試みは単なる妄想として一蹴されかねない。 し
かし, 夢を移植したり操ったりしようとする物語は作り出せる(4)。 個人の夢が
私有物であるならば, それは原理的には盗難, 移動, 回収, 変質, 遺棄などの
対象にもなる。 もっとも, 夢についてのこうした 「妄想」 にいつも亡霊のよう
につきまとう疑念は, いったい誰が夢を見ているのか, さらには, なぜ夢から
覚めると確言できるのか, ということである。
「邯鄲の夢」 であれ 「南柯の夢」 であれ, 説話にはしばしば, 睡眠時に見る
夢から覚醒し, 見た夢から 「教訓」 (例えば, 世の栄耀栄華も栄枯盛衰もなべ
て夢幻のごとく儚いものである, という教訓) を引き出し, これまでの人生を
反省しこれからの生き方に活かすという 「オチ」 が暗示される。 俗に言う 「夢
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アリスの童夢, 夢見る廃墟
オチ」 である。 この種の教訓説話では, 夢から覚めた人から, 永遠にこの夢を
見続けていたかった, 惨めな現実になんか目覚めたくなかった, という不満は
なかなか聞こえてこない。 夢から覚めるのは再び眠りに落ちる前の儀式という
より, 夢の場から退却し現実に帰還するためである。 約束事としての 「夢オチ」
はあくまでも, 夢と現を二分割し別物としてとらえ, 現の領域で覚醒したまま
語りを聞く人や読む人が, 語りの 「終わり」 を認識するように組織されている
からである。 「何だ, やっぱり夢オチだったのか」 と認識する人は, 語られた
夢から解放され, 「教訓」 を携えて語りの外に出られる。 「夢オチ」 は夢世界へ
の没我を許容せず, 夢と現の境界線を明確に引く。
ルイス・キャロルの代表作
リス
不思議の国のアリス
(1865) と
鏡の国のア
(1871) はいずれも 「夢オチ」 というフレームを持っている (5)。 アリス
は白日夢を見てから目覚めるのである。 その白日夢の場が不思議の国であり鏡
の国である。 ロナルド・ライハーツはその著書において,
アリス
本がそれ
以前の児童文学の伝統や慣習をどう利用し再編しているか詳細に論じている。
「夢オチ」 は, 「ドリーム・ヴィジョン」 という文学的慣習に包括されている(6)。
だが,
不思議の国のアリス
の結末は, アリスが白日夢から目覚め夢の内容
を姉に語ってから午後の紅茶に遅れないよう走りだし, 何て素敵な夢だったの
かしらと思い返すところでは終わらない。 安全な日常生活への帰還では終わら
ないのである。 結末では, もともとアリスが退屈のあまり午睡する一因となっ
た 「会話も挿絵もない」 本を読んでいた姉が, アリスから聞いた不思議の国の
冒険譚を追体験し, かつ, アリスの将来のヴィジョンを描くのである。 ライハー
ツはここにいわば 「ねじの回転」 を看取するとともに, 「さかしま世界」 でア
リスが絶え間なく味わうフラストレーション, 理不尽, 不快感, 困惑, 混乱
(それは, アリスが 「あんたたちなんかトランプの札に過ぎないじゃないの」
(AAW, p. 129) と叫んで 「ごっこ遊び」 の掟を破るとき最高潮に達する) に
も言及している(7)。 アリスの 「捨て台詞」 は, アリスの夢体験がただ楽しい冒
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アリスの童夢, 夢見る廃墟
険であったとは裏書きしないことになる。
「夢オチ」 のあと, 夢の主体が場を離れ (語りの外へと出て行き), 夢の聞き
手が新たにその夢に没入し再現するとともに夢内容を解釈する最終頁は, 「夢
オチ」 という文学的慣習を差し置いても, 一考に値する。 以下, 少々長いが
不思議の国のアリス
の最終頁ですでに絵本を卒業したはずの姉が見た夢を
引用する。
First, she dreamed about little Alice herself: once again the tiny hands
were clasped upon her knee, and the bright eager eyes were looking up
into hers − she could hear the very tones of her voice, and see that queer
little toss of her head to keep back the wandering hair that would always
get into her eyes − and still as she listened, or seemed to listen, the whole
place around her became alive with the strange creatures of her little sister’s dream.
The long glass rustled at her feet as the White Rabbit hurried by
− the frightened Mouse splashed his way through the neighbouring
pool − she could hear the rattle of the teacups as the March Hare and his
friends shared their never-ending meal, and the shrill voice of the Queen
ordering off her unfortunate guests to execution − once more the pigbaby was sneezing on the Duchess’s knee, while plates and dishes crashed
around it − once more the shriek of the Gryphon, the squeaking of the
Lizard’s slate-pencil, and the choking of the suppressed guinea-pigs, filled
the air, mixed up with the distant sob of the miserable Mock Turtle.
So she sat on, with closed eyes, and half believed herself in Wonderland, though she knew she had but to open them again, and all would
change to dull reality − the grass would be only rustling in the wind, and
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アリスの童夢, 夢見る廃墟
the pool rippling to the waving of the reeds − the rattling teacups would
change to tinkling sheep-bells, and the Queen’s shrill cries to the voice of
the shepherd-boy − and the sneeze of the baby, the shriek of the Gryphon,
and all the other queer noises, would change (she knew) to the confused
clamour of the busy farm-yard − while the lowing of the cattle in the distance would take the place of the Mock Turtle’s heavy sobs.
Lastly, she pictured to herself how this same little sister of hers
would, in the after-time, be herself a grown woman; and how she would
keep, through all her riper years, the simple and loving heart of her childhood; and how she would gather about her other little children, and make
their eyes bright and eager with many a strange tale, perhaps even with
the dream of Wonderland of long ago; and how she would feel with all
their simple sorrows, and find a pleasure in all their simple joys, remembering her own child-life, and the happy summer days. (AAW, pp. 13132)
引用箇所の最初の段落で, 姉が夢見るのは, 見た夢を語る目覚めたアリスの様
子・外見である。 つまり, 覚醒時にあったことが, 夢において反復再現される。
姉は愛くるしい妹の話を魅入られたように聴いているうち, 語られるアリス
(不思議の国のアリス) に自ら同化する。 聞き手が話し手/行為者に重ねられ
る。 第 2 段落は, 不思議の国でアリスが遭遇する生きものたちの様々な奇行を
反復し, いわば,
不思議の国のアリス
のあらすじである。 かくして, 夢か
ら覚めたアリスからじかに話を聞いた姉は, 話をするアリスを夢見, そして不
思議の国のアリスとなる夢を見る。 しかし, 第 3 段落で, 姉は半ば不思議世界
(アリスの夢, アリスという夢) に没入しつつ, それが夢であって現実ではな
いと認識している。 半ば眠り半ば覚醒している姉は, アリスの夢に登場する生
きものや声や物音が夢の外にある現実世界の生きものや声や物音に対応してお
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アリスの童夢, 夢見る廃墟
り, 姉が目覚めれば, あたかもシンデレラにかけられた魔法が解けるように,
それらも一挙に本来の味気ない日常風景に戻ってしまうと知っている。 ちょう
ど, ドン・キホーテが戦っている相手は邪悪な巨人ではなく単なる風車である
と認識するサンチョ・パンサのように。 とはいえ, ここで姉が 「あんたたちな
んかトランプの札に過ぎないじゃないの」 と叫んで彼女の夢を終わらせたかど
うかは記述されていない。 最終段落が目覚めない姉の夢の続きであるにせよ,
姉は夢世界の読者・観客や夢世界の主体・行為者であることはやめ, 未来のア
リスを思い描く脚本家となる。 姉の夢というより姉という登場人物に仮託した
ルイス・キャロルことチャールズ・ドッジソンの希望をかなり色濃く反映して
いるその夢では, 一人前の大人の女性に成長したアリスが子ども時代の純粋無
垢さを失うことなく, 幼い子どもたちに不思議の国のお話を聞かせて楽しませ,
不思議の国を創造するきっかけとなった懐かしき夏の日々をいつまでも記憶に
とどめていることになる。 すなわち, 姉が見る最後の夢の中では, アリスは語
り聞かせの主体であり, 将来そうなるきっかけは, 彼女が子ども時代に見た夢
である。 姉の夢で語られる, 周りの子どもたちに奇妙奇天烈なお話をして楽し
ませる大人の女性アリスは, 実のところ, 物語作者ルイス・キャロルの姿に重
なる。 最後の最後に作者キャロルが夢見るのは, かつていたいけな少女たちに
奇妙奇天烈な話を聞かせ楽しませた自分に重なる語り手として成長する語られ
た対象ではないか。 過去及と未来完了が妙な具合で調合されているのである。
物語の結末はそれほど重要なのか。 人が問われたことに答えるよう躾けられ
ているように, 物語の結末に, 読者は作者から最後のメッセージを送られ, そ
れを字義通りに受け取ったり, あるいは暗号化されていると仮定して解読作業
にいそしむよう要請されているのか。 オックスフォード版の編者ピーター・ハ
ントは, 「夢オチ」 は児童文学ではよくある手であるが
不思議の国のアリス
の結末に置かれる 「夢オチ」 は批判にさらされてきたと述べている。 姉が見る
夢はアリスが見た夢を大人らしく合理的に説明しており, それゆえドッジソン
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アリスの童夢, 夢見る廃墟
のファンタジーへの関わりについても取りざたされてきた, とも述べている(8)。
さらにハントは,
リス
不思議の国のアリス
の 「原形」, すなわち
地下世界のア
(Alice’s Adventures under Ground, completed 1863) の結末にある姉
の夢を, 「はるかに個人的」 な夢であると評している(9)。 というのも, 「原形」
には, 1862 年 7 月 4 日の出来事, リデル姉妹たちとテムズ川を上る舟遊びへ
の言及が懐古的になされているからである。 すなわち, 「原形」 には物語作者
となるアリスの将来像は不在である。 地下世界から不思議世界へと移行する途
上, 姉にもアリスに対する心情の変化, いや夢内容の変化が生じたのである。
不思議の国のアリス
で最初と最後に登場する姉は, 語られる不思議の国の
外部に位置し, 目覚めた妹が語る話から夢の中の不思議世界に入り冒険を反復
するとともに夢と現と峻別し現実世界を担保するが, また妹の行く末まで夢見
るという点では, 物語作者の領域に侵入する。 ここで夢見る作者が思い描く未
来のアリスは,
不思議の国のアリス
で次から次へと理不尽な状況に投げ込
まれ困惑するアリスとはだいぶ異なる, 過去を懐かしがる大人の物語作者アリ
スである。 テクストにおいても, しばしば 「後になって思う」 という懐古的記
述が挿入されるが, この過去及的な印象を与える未来完了的 「後」 はどれほ
ど後なのかさだかではない。 この 「後」 の 「いつか」 では, アリスも姉もキャ
ロルも個人性なるものを限りなく消却しているだろう。
ピーター・ハントは, キャロルとアリスを 「国際的な現象」, 「イギリスの国
民的銘柄」 とまで評している (10)。 諸外国語への原作の翻訳のみならず, 多数
の映像化, 翻案, スピン・オフ, キャラクター・グッズなど, 世の中にあふれ
ているからである。 英語からロシア語に翻訳したナボコフは自作のタイトルに
断頭台への招待 や キング, クィーン, ジャック とつけているし, ロリー
タ
や
アーダ
は固有名への偏執を自的に露出させている。 ここで私は,
先行者が後世に与える影響を云々したいわけでもないし, キャラクター・グッ
ズの流通に資本主義的搾取をいまさら認識したいわけでもない。 むしろ, 「素
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アリスの童夢, 夢見る廃墟
材」 (例えば, 児童文学の伝統・慣習, ヴィクトリア朝の上層中産階級の初等
教育観, アリス・リデル, チャールズ・ドッジソン, 19 世紀後半のオックス
フォード等) とは一見無関係に増殖する 「幻想」・「妄想」, その 「共有」 に関
心がある。 夢見る一読者は自ら作者になって, 語りなおす, 語りかける, 未知
の読者を物語に呼び入れる。
夢の子としてのアリスは絶えざる変異にさらされる。 キャロルのアリスは不
思議の国で大きくなったり小さくなったりしたが, 夢テクストの外にいったん
飛び出すと別のアリスが作られる。 アリスの読者は, キャロルが作り出したア
リスとは違うアリスの作者となる。 ティム・バートンのアリス・キンズリーは,
ヴィクトリア朝を生きる良家の子女であることをやめ結婚の申し込みを断り,
亡き父の友人の事業に参画し海外貿易をするため中国へと船出する。 不思議の
国を再訪しジャンヌ・ダルクのように勇敢にジャバーウォックと戦い勝利した
ことで子ども時代の気概を取り戻し, 現実世界での冒険の旅に出帆するのであ
る(11)。 バイオハザード のアリスは荒廃した黙示録世界に覚醒し, ジャンヌ・
ダルクのような救世主, 戦うヒロインとなる (12)。 エルム街の悪夢にうなされ
るアリスは, 未生の我が子とともに, 夢に現れる殺人鬼フレディ・クルーガー
と戦う。 思春期の少年少女たちが見る悪夢に神出鬼没するフレディは, 夢での
凶行を現実化する 「ドリーム・マスター」 である (13)。 後世のアリスたちは,
姉に言われたとおり従順に午後のお茶へと急ぐ上層中流家庭育ちのアリスとは
似ても似つかないが, 「アリス」 という名がキャロルのアリスによって特権化
されたとは言えよう(14)。
II
Parapraxis and Glossolalia
鏡の国のアリス
の結末はどうなのか。 今日私たちが入手できる版によっ
ては, 物語本体の前に, チェス盤におけるアリスの動き, チェスのコマと登場
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アリスの童夢, 夢見る廃墟
人物との対照表, 1893 年の広告, 1897 年版序文が置かれているが, テクスト
自体の結末は, アリス・プレザンス・リデルの名を行頭に置く 3 行×7 連のア
クロスティック詩である。 それはかつて舟遊びに同行したとき子どもたちが夢
中でドッジソンのお話を聞いてくれた夏の日々への追想を主題としている。 第
4 連にこうある。
Still she haunts me, phantomwise,
Alice moving under skies
Never seen by waking eyes. (TLG, p. 287)
「私」 にとって遠い日の幼い少女, 記憶に残像として留まるアリスは, 「亡霊」
のように生き続ける。 アリスは 「妄執」, 「妄想」 の産物である。
リス
鏡の国のア
第 5 章では, 白の女王が編み物をする羊おばさんに変貌し, 場所も森か
ら店へ, さらに小舟の中へとめまぐるしく転換するが, このとき漕ぎ手はアリ
スである。 香わしい灯心草が群生していることに気付いたアリスはしばし漕ぐ
手を休め, ドッジソンのお話に熱心に耳を傾けていたときのアリス・リデルと
同じく目を輝かせて, 灯心草を摘むことに熱中する。 しかし, 摘まれた灯心草
は 「夢の灯心草」 (TLG, p. 215) ゆえにあっという間にその香りも美しさも失
う。 夢の儚さに気づかないアリスに, 「他にも考えなきゃいけないへんてこり
んなことがわんさかあった」 (ibid.) という言い訳が与えられている。 夢の儚
さはしかしながらその儚さゆえに, 消えない喪失感をとどめたまま夢の 「死後
の生」 (afterlife) を生き延びるのである。 実在のドッジソン (183298) にとっ
てそうであったように, アリス・ハーグリーヴズ (旧姓リデル, 18521934)
にさえ, 夢の子どもアリスが遠い存在, 記憶の残滓, 「亡霊」 として取り憑い
たとしても不思議はない(15)。
アリス・リデルのフル・ネームで作られたアクロスティックは, 次のように
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アリスの童夢, 夢見る廃墟
締め括られる。
Ever drifting down the stream −
Lingering in the golden gleam −
Life, what is it but a dream? (TLG, p. 287)
かつてあった黄金時代を追慕するとき, あったことすら夢幻ではなかったか,
記憶からの落を辛うじて免れて寄せ集められ変容した夢の断片ではないのか,
そのようなキマイラめいた記憶はファンタズムとどれほどの懸隔があろうか。
「一期は夢よ」 と口をつくとき, ドン・キホーテの愛読者とともに 「ただ狂へ」
と応答する誘惑に駆られるかもしれない。 また, ジェラール・ド・ネルヴァル
とともに夢という一つの危うい人生を生きることになるかもしれない。 このア
クロスティックの直前に位置する章で, 夢から覚めたアリスは仔猫に一方的に
話しかけている。 先行する夢の中で女王アリスは 「赤の女王」 コマをまえ
「あんたを揺らして仔猫にしてやる, 覚悟おし」 (TLG, p. 280) と宣言し, 揺
らしているうちに仔猫をまえている自分を見出し, 夢から覚めたと知るので
ある。 不思議の国であれ鏡の国であれ夢世界から現実世界への移行を宣言する
のは, フラストレーションを抱えたアリスが付きつける最後通牒, 言葉であり,
夢を終わらせられるという意味では彼女は 「ドリーム・マスター」 である。 覚
醒した彼女の独白は, 居眠りしている 「赤の王様」 の夢についてトウィードル
ディーが発言したことを引き継ぎ, 締め括る。
“Now, Kitty, let’s consider who it was that dreamed it all. This is a serious question, my dear, and you should not go on licking your paw like
that − as if Dinah hadn’t washed you this morning! You see, Kitty, it
must have been either me or the Red King. He was part of my dream, of
36
アリスの童夢, 夢見る廃墟
course − but then I was part of his dream, too ! Was it the Red King,
Kitty? You were his wife, my dear, so you ought to know − Oh, Kitty, do
help to settle it! I’m sure your paw can wait !” But the provoking kitten
only began on the other paw, and pretended it hadn’t heard the question.
Which do you think it was? (TLG, p. 285)
アリスは夢世界に登場する生きものたちと噛み合わない会話をしたり彼らが仕
掛けた無理難題ゲームに付き合ってきたが, 日常次元の愛猫に問いかけたとこ
ろで答えは返ってこない。 夢の同伴者であったはずの仔猫は知らんぷりを決め
込む。 このように少女が猫に話しかけているイメージは, 児童文学にふさわし
く 「可愛らしい」 と言えるかもしれないが, 最後の一行 「どっちだと思います
か?」 は猫ではなくアリス読者 (人間の子ども, あるいはかつて子どもであっ
た大人) に向けられている。 問われた読者は誠実な読者として答えるよう期待
されているのか。 私たちは問われるときすでに正しい答えがあるという前提に
いつしか立たされているのか。 第 5 章で羊おばさんは店内でアリスに 「あんた
は子どもなの, 独楽なの?」 (TLG, p. 212) と問うが, アリスにはめずらしく,
返答しない。 読者とともにアリスは夢世界では自分を人間の子どもとしてしか
意識しない。 それ以前, 第 2 章でアリスは赤の女王からチェス盤で女王になる
ためにどう動くか指示される。 それらは鏡世界でアリスが女王になるためのゲー
ムの規則である。 したがって, アリスはゲームのコマである。 ゲームが彼女を
振り回すのであって, 彼女がゲームをするのではない。 ゲームの規則に支配さ
れて女王になれたので, 女王コマとしてゲーム終了を宣言できる立場にたてる
だけである。 終了宣言は夢世界からの離脱につながる。 離脱してなお, アリス
は質問ゲームをやめない。 それが人間主体の証しでもあるかのように。
アリスは赤の王様が自分の夢の一部だと主張しながら, なぜ, 自分も彼の夢
の一部だと譲歩するのか。 他者の夢の中の私と, 私の夢の中の他者とは, 両者
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アリスの童夢, 夢見る廃墟
ともに各自の夢の中へと移動できるのか。 あるいはまた両者ともに同一の夢次
元 (夢意識) を共有できるのか。
“He’s dreaming now,” said Tweedledee: “and what do you think he’s
dreaming about?”
Alice said “Nobody can guess that.”
“Why, about you !” Tweedledee exclaimed, clapping his hands triumphantly. “And if he left off dreaming about you, where do you suppose
you’d be?”
“Where I am now, of course,” said Alice.
“Not you !” Tweedledee retorted contemptuously. “You’d be nowhere.
Why, you’re only a sort of thing in his dream !”
“If that there King was to wake,” added Tweedledum, “you’d go out
− bang ! − just like a candle !”
“I shouldn’t !” Alice exclaimed indignantly. “Besides, if I’m only a sort
of thing in his dream, what are you, I should like to know?”
“Ditto,” said Tweedledum.
“Ditto, ditto !” cried Tweedledee. (TLG, pp. 19798)
アリスが夢見る鏡世界で夢見る王様 (あるいは王様の夢の中で夢見るアリス),
夢世界で覚醒しているアリスの視界内で登場人物として夢見る王様, チェス盤
で動かない王様コマについて, マーティン・ガードナーはバークリーの主観的
観念論とチェスのゲーム規則に言及し説明している (16)。 王様が見る夢の一部
なんだからきみは実在していないと承知しているはずだと言われて泣きだすア
リスは, この涙が本物だからあたしは実在すると言い張るが, 双子は一向に譲
らない。 涙が本物であることを確証しようもないからである。 双子は, 自らが
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アリスの童夢, 夢見る廃墟
夢の主体ではなく王様の夢の一部であることに平然としていられる。 対比的に
アリスは, 自分が夢の主体でなければ 「どこにもいない」 「何者でもない」 こ
とになると危惧する。 夢から覚めたと思えても, 彼女が (読者とともに) 現実
だと信じる場所に, 彼女は復帰できないことになる。 独楽はいつまでもどこで
もないところでまわりつづけることになる(17)。 (観客・読者は, 物語の外へ出
られない。) 「どこでもないところ」 とは, 夢テクストが紡ぎだされる場であろ
うか。
「異世界」 は安全だろうか。 それが夢だとわかっていればいつまででも夢を
見続けていられるだろうか。 それが夢だとわかっていれば都合悪くなったとき
にいつでも現実に目覚められるだろうか。 人は夢を見るとき自分を夢見る主体
であると信じたり, 夢世界の主人は他ならぬ自分だ, と何を根拠に主張できる
のか。 「もし王様がきみを夢見るのをやめてしまったら?」
ホルヘ・ルイス・
ボルヘスはこの問いかけを, 「円環の廃墟」 のエピグラフにしている(18)。 この
寓話の主題は, 南からやってきたある魔術師の夢である。 彼の夢とは, 夢の中
で人間を夢見, 夢見られた人間を現実世界へと差し入れることである。 したがっ
て, 魔術師の夢には, 私たちが夢という言葉から連想する二方向性がともに深
く刻まれている。 一つは持続的に堅固な意志をもって未来に向けて実現をはか
ることであり, もう一つは睡眠時の夢である。 後者の場合, 常識的には私たち
の下意識ないし無意識の領域にあって, 目覚めて過去となった時点で辛うじて
消失を免れた残像・残滓・断片である。 それはときとして予言や警告として解
釈されることもある。 この魔術師は, 円環の廃墟で睡眠中の夢を強い意志をもっ
て持続的に操作する。 最初は, 半円形劇場の中心にいる夢を見, 焼け落ちた神
殿であるその劇場に集う学徒から一人を選び, 夢見る魔術師の特徴をこの沈黙
せる学徒に再生産しようとするが失敗する。 試行錯誤と儀式を繰り返し, 不眠
症に悩まされながら, 今度は, 夢の子を創生するにあたって心臓から始めるこ
とにする。 1 年かけて骨格や瞼を作り出し, 丹精込めて青年の姿に完成させる
39
アリスの童夢, 夢見る廃墟
がそれはなお眠り続けたままである。 その後魔術師は, 火への信仰と犠牲の儀
式を執り行えば, 火および夢見る人以外いかなる生きものも, 眠れる幽霊 (魔
術師が夢の中で創造した生きもの) を生身の人間だと信じる, との夢のお告げ
を得る。 これに従い, 儀式を執り行うと, 夢見られた青年は夢見る男の夢の中
で目覚める。 眠ればいつでも我が子と会えるのである。 さらに 2 年をかけて,
目覚めた青年に教育を施し現実に慣れさせ, この修行時代を忘却させた上で,
ジャングルと沼地の向こうにある別の神殿へと送りだす。 彼は文字通り永年の
夢を実現したのである。 さらにその後, 魔術師はある真夜中に二人の船乗りに
起こされ, 火によって焼かれることのない魔術師が北の神殿にいるというを
聞かされる。 父の魔術師は, 息子の魔術師が自分に実体はなく夢見る男の投影
にすぎないと気づくのではないかと危惧する。 生涯かけて偉業を成し遂げた彼
は, 我が子が味わうかもしれぬ屈辱に思いを馳せる。 この寓話の最後では, 火
の神を祀る神殿が炎上し, 老いさらばえた魔術師はもはや廃墟からの避難を諦
め焼死を覚悟するが, あろうことか自分が火によって焼かれないことに気づく。
すなわち, この夢見る魔術師もまた夢見られる存在なのである。 記憶のキマイ
ラ, フィクション, ファンタズムである。 これは存在論が仕掛けた罠とも解釈
できようが, 説話論的には創世・創生・創作の秘儀 (のパロディ) である。 親
と子, トリとタマゴの倒錯である。
夢とは次元を異にするらしい現実世界で眠りつつ老魔術師を夢見ているのは
誰か, その人が目覚めれば老魔術師は消えてしまうのか。
鏡の国のアリス
のアリスはそう考えるかもしれない。 「夢オチ」 という文学的慣習に避難する
読者も, 自らの妄想に自縄自縛される危険を回避したがる不眠症患者も, 夢と
現を混同してはいけないと考えるかもしれない。
リグ・ヴェーダ
読者なら,
「世界を夢見るヒラニア・ガルバ」 と答えるかもしれない。 「円環の廃墟」 を
鏡の国のアリス
の最終数頁と合わせて読むとき, ボルヘスの寓話から私が
受け取るのは, 地上に存在するすべてを焼き尽くすことができる火でさえも,
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アリスの童夢, 夢見る廃墟
夢見られるものを消滅させられないという 「モラル」 である。 実体がないので
破壊できないのだ。 破壊できないがゆえに, 幽霊として生き延びるのである。
夢の主体にして対象である (自称か他称か) 魔術師は屈辱と眩暈を覚えつつ,
円環の廃墟で生かされることになる。
「夢ばっかりみてないで, いいかげん現実に目覚めなさい」 という叱責の慣
用表現は, 通常, 現実を夢と断続あるいは連続するものとは捉えていない。 別
の次元に属する, あるいは現が夢を囲い込む, という前提にたつ。 各自が確定
された領域を専有しているのである。 反対に 「夢をもって人生を生きなさい」
というお節介にも聞こえる助言や 「夢は実現してなんぼ」 という強がりの自己
鼓舞あるいは挑発は, 現実と夢をリンクさせる。 現実は夢を反映する場なので
ある。 この場合, 現実は, 夢が投影されたり転移して実体化したものである。
夢が記憶の残滓を増殖させたフィクションならば, その実体化である現実もフィ
クションの延長・拡大・投影である。
人は成長の過程で自他を分離し自我を形成し自己同一性を占有するに至る。
粗っぽく言えば, これが主体性のシナリオである。 文字を読めない幼児が大人
から読み聞かせられて物語を体験することに始まり, 徐々に読み書き能力を習
得し主体性や自己同一性を獲得していく言語習得および成長過程に着目するカ
レン・コーツは, 鏡像段階や主体性や欲望をめぐるジャック・ラカンの理論に
依って, 児童文学テクストにおけるイメージ界と象徴界を論じている。 彼女の
解釈によれば,
鏡の国のアリス
において, キャロルはアリスから夢見る主
体という同一性を解任し, ついには彼の曖昧な空間の一部にアリスを封じ込め
る。 王様の夢にアリスが封じられている, というトウィードルディーの主張を
裏書きしているのである。
As long as Carroll doesn’t leave off dreaming about Alice, as long as he
keeps her tucked away in his Imaginary, she will be denied otherness and
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アリスの童夢, 夢見る廃墟
subjectivity and will ever remain the objet (a)lice, cause of his desire.(19)
この解釈は, 夢見る王様と作者ルイスを類似的に重ね合わせる。 動かない王様
の夢が作り出した生きものでありつつ夢見る王様の傍らで動くコマであること
を自認する双子は, キャロルの共謀者となる。 アリスが王様=キャロルのイメー
ジ界=物語世界に封入されているかぎり, アリスは主体性と他者性を刻印され
た象徴界にりつけない。 アリスがキャロルの夢の子どもであり続けることが,
キャロルの欲望ということになる。 しかし私はむしろ, 夢の子どもが夢見る者
に取り憑くという見方に傾く。 しかも, 夢見られる者は, 夢の外 (それがいわ
ゆる現実であるとの保証もない) へと出てしまう, そこに双子の主張を読み取
りたい。 夢見る者は夢を完璧にコントロールできるマスターではない。 言葉に
多くの異なる意味を持たせることができるのかどうかが問題であると反撥する
アリスに, ハンプティ・ダンプティは, どっちがマスターであるかが問題なの
だと言い返す (TLG, p. 224)。 彼はアリスの要望に従い, 生徒に対する先生の
ように偉そうにあるいは模範的に 「ジャバーウォッキー」 の読解を開陳する
(TLG, pp. 22527)。 だが, あくまでもかばん語と言葉遊びの次元にとどまっ
た解釈である。 これが唯一絶対のテクスト解釈であるという保証はない。 私た
ちは経験的にも先験的にも言葉の伝達が他者の様々な意図に多重決定されるこ
とを知っている。 言語が私たちを伝達するのである。 伝承童謡から召喚された
ハンプティ・ダンプティもまた言語の効果であるが, 私たちは発話主体を人間
化するよう刷り込まれている。 だからこそ, アリスの方が鏡世界の一角獣たち
に, 「伝説の怪物」 (TLG, p. 241) と名指されるのである。 これは自分の夢だ
とアリスが主張したところで, 花たちや昆虫まがいのみならず伝説の怪物たち
までが発話主体となる場所では, アリスは単に人間の子どもという範疇に属す
るにすぎない。 生きものが言葉を操る事態は容易に, 言葉が生きものを操る事
態に反転する。
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アリスの童夢, 夢見る廃墟
円環の廃墟は, 夢見る者と夢見られる者の弁別が困難となり重なり合い, 現
と夢の境が曖昧化する場所である。 アリス本の結末は 「夢オチ」 で締め括ろう
とするが, すでに見てきたように綻びなく締め括れない。 過去及と未来完了
に引き裂かれて生じたこの綻びこそ, 夢の素材が滲出する亀裂である。
さて, これまで私は夢について紙幅を費やしてきた。 本論を締め括るにあた
り, 飲食についてひとこと言っておかねばならない。 飲食の主題は不思議世界
でも鏡世界でも頻出する。 アリスの体のサイズを変化させる飲食物は言うまで
もない。 彼女は, ネズミに話しかけるとき猫を話題に出してしまったり, タマ
ゴを食べるからには蛇だとハトから危険視され, お茶会も楽しめず, タルト泥
棒を裁く裁判に出席したり, 食べ物を意味する言葉からなる昆虫に遭遇したり,
セイウチと大工が牡蠣たちをして貪り食ってしまう歌を聞かされたりする。
決して, 愉快な冒険ではない。 女王アリスを歓迎する祝宴では, アリスは目の
前に出された皿に乗せられている (乗っている) 羊肉の足を紹介されるが食す
るには至らない。 次に紹介されたプディングからは, 「あたしがあんたをカッ
トしたらあんたどうするの?」 (TLG, p. 276) と抗議される。 これは 「カット」
(無視する, 切り分ける) という動詞に随伴する言葉遊びであるが, 伝説の怪
物たち同様, 食べ物もまた発話主体となるとき, 捕食関係の逆転可能性さえ示
唆される。 これを風刺や寓意とすれば, また別の読解に開かれる。
アリス本ではほとんどの場合, アリスは食べる側にいてもめったにまともな
ものにありつけない。 喉が渇いているときにビスケットを手渡される始末であ
る。 書かれていないのは, プディングの抗議に内包される。 人間を食べるもの
とは? この一見不快な質問はもちろん, 言葉遊びや難問奇問いっぱいのテク
ストには現出しない。 (アリスは自分がハートの女王に処刑されたりライオン
に食われたりする可能性には思い至らない。 不完全な意志伝達ながらも不思議
世界と鏡世界では標準英語が支配しているからであろうか。) 取りあえずの答
えは, 広義の夢である。 人間が食べるのも夢である。 夢という意味領域に包摂
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アリスの童夢, 夢見る廃墟
されるフィクションやファンタジーを栄養とせずして, 人間は未来完了的にあ
るいは過去及的に存在し始めない。
ジャクリーン・ローズは, 広義の意味での文学の 「効用」 として, 「読む」,
「立ち止まる」, 「忘れる」, 「拾い上げる」, 「下に置く」 といった作業・行為を
挙げている (20)。 文学に関わるとは, 受動的に一方向に流されていくのではな
く, 時間の中に立ち止まり考えあぐね自問自答することである。 絶えざる中断
と再考にさらされる経験である。 一つの言葉が一つ以上の意味を有すると発見
し, 意味生成の呪力に身をゆだねる場を提供するのが文学である。 このとき,
文学 (広義の創作, フィクション) と夢は鏡のように向き合う。 また別のとこ
ろで, ローズは ubuntu という語を取り上げ, その指向するところは, 「あな
たは現にあるあなたではない
実際, 他者を通じてでなければ, あなたはい
ない」 という倫理であり, 予め法制化された個人の主体性という西洋的概念へ
の批判, 防衛的・自己愛的・自己同一性への批判であると言っている (21)。 私
が存在するのは, 私によって存在することになるあなたが存在するからだ。 そ
れは, 過去及的にして未来完了的存在である。 私はいつかどこかで未生の私
と遭遇することになる。 自分が何者か何者でもないのかを知るのはいつかどこ
か, いつでもないどこでもないところである。 言語には否定数量詞さえ備わっ
ており, 無形 (あるいは夢) を生ぜしめる。 夢のお告げを吉兆ととるか凶兆と
とるかは, 私たち夢見る/見られる者たち次第である。
(1)
Cathy Malkasian, Temperance (Seattle, Wa: Fantagraphics Books, 2010), p.
209.
(2)
Shoshana Felman, The Scandal of the Speaking Body: Don Juan with J. L.
Austin, or Seduction in Two Languages, trans. Catherine Porter (Stanford,
Cal: Stanford University, 2002).
(3)
Sigmund Freud, ‘Creative Writers and Daydreaming,’ in Literature and
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アリスの童夢, 夢見る廃墟
Psychoanalysis, Edith Kurzweil and William Phillips, eds. (New York: Columbia University Press, 1983), pp. 2428.
(4)
Inception (2010), dir. Christopher Nolan.
(5)
テ ク ス ト は Lewis Carroll, The Annotated Alice, Martin Gardner, ed.
(Harmondsworth: Penguin, 2001) に依拠し, Alice’s Adventures in Wonderland については AAW と略記し, Through the Looking-Glass については TLG
と略記して, 引用頁を括弧内に示す。 なお, ノートン版およびオックスフォード
版の
アリス
も参照した。 Lewis Carroll, Alice in Wonderland, Donald J.
Gray, ed. (New York: Norton, 1971); Lewis Carroll, Alice’s Adventures in
Wonderland and Through the Looking-Glass, Peter Hunt, ed. (Oxford: Oxford
University Press, 1998).
(6)
Ronald Reichertz, The Making of the Alice Books: Lewis Carroll’s Uses of
Earlier Children’s Literature (Montreal: McGill-Queen’s University Press,
1997), pp. 6178. とはいえ, 「ドリーム・ヴィジョン」 は聖書の挿話にも中世詩
(例えば, パール ) にもある。 ウィリアム・ブレイクの詩はドリーム・ヴィジョ
ン満載とも言えるし,
フィネガンズ・ウエイク
は言うまでもない。 文学には
馴染みあるフレームである。 ライハーツ自身, チョーサーの著書を例に挙げてい
る。 したがって, なぜ文学は夢に取り憑かれているのかを問わねばなるまい。
(7)
Ibid., p. 70.
(8)
Lewis Carroll, Alice’s Adventures in Wonderland and Through the LookingGlass, Peter Hunt, ed. (Oxford: Oxford University Press, 1998), pp. 27475.
(9)
Ibid., p. 275. ただし,
アリス必携
の著者たちは,
地下世界のアリス
は未来 (after-time) のアリスについてのメモが添えられ, それが
のアリス
に
不思議の国
の結末に相似していることから, ここに自作が後世に残ることへの作
者キャロルの自信を見ている。 Jo Elwyn Jones and J. Francis Gladstone, The
Alice Companion: A Guide to Lewis Carroll’s Alice Books (New York: New
York University Press, 1998), p. 7. 私の関心は, 作品に対する作者の自信では
なく, 作品が作者を作り出す過程や作品が増殖・変異する機制である。
(10)
Lewis Carroll, Alice’s Adventures in Wonderland and Through the LookingGlass, Peter Hunt, ed. (Oxford: Oxford University Press, 1998), pp. vi
viii.
(11)
Alice in Wonderland (2010), dir. Tim Burton. この映画は子どもアリスが繰
り返し見る悪夢を父親に告げるところから始まるが, 19 歳になったアリスが
(再び) 穴に落ちて冒険を続けるなかで, 幼いときから見続けていたのは夢では
なく記憶の残滓であると認識する。 夢ではなく記憶であることの利点は, 記憶は
現実の出来事を基盤にしているという前提にある。 (しかし, 私には記憶と夢は
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アリスの童夢, 夢見る廃墟
相互乗り入れしていると思える。) 映画はアリス・キンズリーの船出の場面で締
め括られ, イモムシから蛹化を経て脱皮した蝶が彼女の肩にとまり, そして飛び
立つ。 過去は現在に再生され未来に変容するのである。 注目すべきは, アリスが
交易の拠点を東南アジアのみならず中国にも展開しようと, 亡き父の仕事を引き
継いだ友人に持ちかける個所である。 ダニエル・ビヴォーナは, 招かれざる客人
として不思議世界に勝手に侵入し対話に失敗し未知のゲーム規則を理解できない
アリスに, ヨーロッパ中心主義の欺瞞や帝国主義的搾取・策略 (の風刺・戯画)
を読み取っている。 つまり, 原作の少女アリスを, 19 世紀後半イングランドの
典型的中産階級の価値観の具現とみなしている。 Daniel Bivona, Desire and
Contradiction: Imperial Visions and Domestic Debates in Victorian Literature
(Manchester: Manchester University Press, 1990), pp. 5469.
(12)
Biohazard Resident Evil (2002), dir. Paul Anderson. これは, キャロルのア
リスが冒険ゲームソフトのアクション・ヒーローの名に付けられる一例である。
不死身のアリスを演じる女優は,
バイオハザード
シリーズ以前, すでに似た
ような役柄を演じている。 The Fifth Element (1997), Joan of Arc (1999), both
dir. Luc Besson.
A Nightmare on Elm Street 4: The Dream Master (1988), dir. Renny Harlin;
(13)
A Nightmare on Elm Street 5: The Dream Child (1989), dir. Stephen Hopkins.
(14)
Teresa de Lauretis, Alice Doesn’t: Feminism, Semiotics, Cinema (Blooming-
ton: Indiana University Press, 1984), p. vii.
(15)
Dreamchild (1985), dir. Gavin Millar.
(16)
The Annotated Alice, pp. 19899.
(17)
See the ending of Inception.
(18)
Jorge Luis Borges, ‘The Circular Ruins,’ in Labyrinths, Donald A. Yates
and James E. Irby, eds. (Harmonsworth: Penguin, 1970), pp. 7277.
(19)
Karen Coats, Looking Glasses and Neverlands: Lacan, Desire, and Subjectivity in Children’s Literature (Iowa City: University of Iowa Press, 2004), p. 89.
なお, 児童文学については以下の著書も参考にした。 Morag Styles, Eve Bearne
and Victor Watson, eds., After Alice: Exploring Children’s Literature (London:
Cassell, 1992); Marah Gubar, Artful Dodgers: Reconceiving the Golden Age of
Children’s Literature (Oxford: Oxford University Press, 2009). 児童文学の枠
でキャロルのアリスを語るとき, 彼の創造したアリスの斬新さや大人と子どもの
対比や両者間の緊張関係が論議の中心となる傾向にある。 ヴィクトリア朝・エド
ワード朝期の児童文学黄金時代を主題とする小説, A. S. Byatt, The Children’s
Book (London: Chatto & Windus, 2009) は, 親たちや大人たちによって作られ
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アリスの童夢, 夢見る廃墟
る子ども観・黄金時代イメージが, 「世界大戦」 によって粉砕される様を描いて
いる。
(20)
Antony Lerman, Henrietta Moore and Stephen Frosh, Supriya Chaudhuri
and Aveek Sen, Conversations with Jacqueline Rose (Calcutta: Seagull Books,
2010), p. 53.
Ibid., pp. 10405. ただし, ubuntu という語はポスト・アパルトヘイト南アフ
(21)
リカの 「真理と和解」 に援用された概念である。 私がこの用語を 「引用」 いや
「濫用」 するのは, あくまでもアイデンティティ・ポリティクスへの不満ゆえで
ある。
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