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平成 27 年度 苫小牧市非核平和事業 苫小牧市総合政策部政策推進課

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平成 27 年度 苫小牧市非核平和事業 苫小牧市総合政策部政策推進課
平成 27 年度 苫小牧市非核平和事業
苫小牧市中学生広島派遣事業体験感想文集
広島平和記念公園内『原爆ドーム』前にて
苫小牧市総合政策部政策推進課
平成27年度
中学生広島派遣事業を終えて
平成 27 年度中学生広島派遣団
団長 川合
基央
(苫小牧市政策推進課 主査)
本事業は、次の世代を担う子供たちが、被爆地である広島を訪問し、原爆体験者の講
話や原爆関連施設の見学などを通して、戦争の恐ろしさや平和の尊さを考える機会とす
るために平成7年から行われており、今年で21回目を迎え、派遣された団員は、今回
派遣された3名を加え112名となりました。今年は、戦後70年という節目に当たり、
このような年に団長として広島を訪問することができ、大変貴重な経験をさせていただ
きました。
今年の派遣事業は、7月28日から30日までの3日間の日程で行われました。
研修1日目は、早朝に市役所を出発し、羽田空港で飛行機を乗り継ぎ、広島空港に到
着したのは正午近くでした。その後、広島市内に移動し、最初の研修場所となる「広島
平和記念資料館」を訪れました。
資料館では、原爆の凄まじさや恐ろしさを物語る展示物などを目にし、それまで伝え
聞くだけの遠い存在であった原爆が、現実の出来事であったことを実感させられました。
団員たちも資料の生々しさに圧倒され、言葉少なげに真剣に見ておりました。
その後、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の研修室で、原爆体験者である語り部の
豊永恵三郎さんの講話をお聞きしました。当時、豊永さんは、広島でお母さんと幼い弟
さんの3人暮らしをしており、原爆が投下された8月6日の朝は、豊永さんは通院のた
め爆心地から9キロ離れた場所にいて爆撃を直接受けることはありませんでしたが、お
母さんと弟さんを探しに行った際に、残留放射能により被爆したそうです。お母さんと
弟さんは、爆心地のそばで作業を行っており、お母さんは熱線により顔と右手に大やけ
どを負い、外傷の見えなかった弟さんも大量の放射線を浴びたことにより、下痢で衰弱
していったそうです。幸いにも、一家が身を寄せた祖父母宅で、周りの方のご厚意に助
けられ、何とか一命を取り留めたとの話でしたが、原爆の恐ろしさを改めて痛感しまし
た。
現在、豊永さんは原爆の後遺症と向き合いながら、自らの体験を我々のような若い世
代に語り継ぐ活動をすることによって、原爆と戦争のない平和の尊さを伝えてくれてい
ます。豊永さんから渡された「平和のバトン」は、3人の団員がしっかり受け止め、周
りに伝えていってもらえるものと考えております。
研修2日目は、まず、平和記念公園内にある原爆死没者の名簿が納められた慰霊碑に
献花をした後に、「原爆の子の像」に向かいました。市民の皆さんや今回参加した団員
が通う学校の生徒達による、平和への祈りを込めて折った千羽鶴を奉納してまいりまし
た。
その後、世界遺産である原爆ドームの横を通り、
「本川小学校平和資料館」を訪問し、
ガイドの岩田美穂さんの説明を聞いたり、当時を知ることのできる多くの展示品を見学
しました。
岩田さんのお母さんは、工場にいる時に原爆が炸裂し、自宅が爆心地の方向であった
ため、爆心地の反対側の方角にある非常時の集合場所に向かい家族を待ったそうです。
結局、家族は誰一人来ることはなく、後日、自宅と思われる場所で黒焦げになった家族
が見つかったそうです。
岩田さんのお母さんは、被爆体験をあまり語りたがらなかったそうです。きっと、思
い出して語るには、あまりにも辛い体験をされてきたのだろうと思いますが、その少し
ずつ語られる生の証言をつなぎ合わせ伝えている岩田さんの想いを大切にしていかな
ければならないと感じました。
その後、市電とフェリーで宮島へ移動し、広島が誇るもう一つの世界遺産である厳島
神社を見学しました。普段、北海道では見ることのできない歴史的社殿や仏閣、門前町
といった世界に誇る日本文化を肌で感じてまいりました。
戦後70年を迎え、実際に戦争を経験され、それを語っていただける方が少なくなっ
ている中で、広島派遣研修を通じて、聞いて、学べたことは、3人の団員にとって、貴
重な経験となったと考えております。今回の経験を、周囲に伝えていって欲しいと思う
ともに、将来につなげていってもらいたいと願っています。
最後に、今回の広島派遣事業を実施するにあたり、ご理解とご協力をいただいた皆様
にこの場をお借りして感謝申し上げます。
「平和のバトン」をつないで
和光中学校3年 佐藤
颯空
8 月 6 日午前 8 時 15 分…。
70 年前のこの日どんな事が起ったのか、
それを知るために 7 月 28 日から 3 日間、戦
争を知らない次代を担う者として、苫小牧
市の「中学生広島派遣事業」で原爆の被害
を受けた街「ヒロシマ」に行ってきました。
まず、最初の研修として平和記念資料館
に行きました。8 時 15 分で止まった時計。
原爆によってボロボロになった建物や衣服。
皮膚が溶けだした人々を再現した人形など、
様々な資料が展示されていました。どれも
が、戦争・原爆の惨禍をそのまま映し出していました。その重苦しい空間は、言葉で表
現できない程怖くて身震いしました。
次に、原爆慰霊碑に献花をして国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に向かいました。
死没者を追悼した後、実際に原爆を体験された豊永さんの講話を聞かせていただきま
した。当時 9 歳だった豊永さんは母と弟の 3 人で、原爆投下の翌日に家族を捜しに行き、
残留放射線を浴びて被爆したそうです。その後、原爆による後遺症に悩まされましたが、
周囲の人々の助けもあり 79 歳となった今でも語り部として「第二のヒロシマ」をつく
らない為に、体験談とともに平和へのメッセージを伝えていらっしゃいました。そして、
そこで僕も「平和のバトン・ヒロシマの心」を託されました。
翌日は、苫小牧市民の方々や学校の生徒の皆さんが、平和への祈りを込めて折って下
さった千羽鶴を奉納しました。他にもたくさんの千羽鶴が奉納されていて、平和への強
い願いを感じました。
その後、本川小学校平和資料館を訪問しました。ここは爆心地から最も近い学校で、
旧校舎は一部しか残っていませんでしたが、それだけ大きな被害を受けたのだろうと思
わせる風貌でした。中には学校ならではの資料が数多くあり、平和記念資料館とは違っ
た資料を見学することが出来ました。また、ガイドの岩田さんは被爆二世で、母親の体
験や学校の当時の様子についてお話して下さり、講話から絵本を作成し多くの人々に語
り継がれているそうです。
僕の中では戦争はもう遠い過去の出来事のように考えていましたが、研修を通して感
じたことは、この 70 年の間に様々な人々が犠牲となり守ってきた平和ですが、いつ乱
れいつ崩れるかわからないということです。残念なことに、民族の対立や核兵器の保持
は終わりを見ません。
研修中、多くの外国の方々が「ヒロシマ」を訪れていました。平和記念館で行われて
いた署名活動や対話ノートには、世界各国の言葉で平和へのメッセージがびっしりと書
き込まれていました。僕は、多くの戦争を知らない僕ら世代の人々に、今回の研修で見
たこと聞いたことを伝えていかなければならないと感じました。
僕達は、今という平和な時代を生きるランナーです。その足を休めることなく、豊永
さんや岩田さんから託された「平和のバトン」を、一人でも多くの人に繋いで行けるよ
うに今後も活動していきたいと思います。
「平和のバトン」を繋ぐ
青翔中学校3年 塩尻
彩月
平成 27 年 8 月 15 日、日本は終戦から 70 年
が経ちました。今は当たり前のように学校に
通って、美味しいご飯を食べ、友達と遊んだ
りできる生活を送っています。そんなごく平
凡な生活を 70 年前の広島では送ることがで
きなかったのです。
私が今回の派遣事業で訪れた広島は、昔原
爆が落とされたとは思えないほどきれいな街
でした。しかし、平和記念資料館を見学した
り、語り部の豊永さんや岩田さんのお話を聞
いているうちに、本当にこの場所で悲惨な出
来事が起こったのだと痛感し、とても心が痛みました。
平和記念資料館で見た当時の光景は教科書やテレビでは伝わらない生々しいもので
した。真っ黒に焦げ、皮膚が垂れ下がった被爆者を再現した蝋人形。ボロボロになった
制服。真っ黒に焦げたお弁当…。たった一発の原爆で、ほんの一瞬にしていつもの生活
が、見慣れた広島の街が奪われ、地獄へと変えられてしまったのです。広島の時間は 8
時 15 分で止まり、絶望、孤独、そして怒りの街へと姿を変えました。もし今このよう
なことが起こったら…。そう考えると、言い知れぬ恐怖と不安が襲いかかってきました。
語り部の豊永さんは、その悲惨さを見ていない私の頭にも鮮明に光景が浮かんでくる
ほど詳しく話して下さいました。列車から出てくる人々は皆真っ黒に焦げ、皮膚が垂れ
下がり、服もボロボロ。幽霊が列車から降りてきたみたいで怖かったそうです。また、
七十年たった今でも被爆による病気を発病したり、後遺症に苦しんでいる人、心の傷を
背負っている人が多くいると話していました。
本川小学校で聞いた被爆二世の岩田さんのお話では、当時は校庭には多くの被爆者が
地面に並べられ、次々と亡くなっていき遺体が焼かれ、現在でも少し地面を掘ると、遺
品や骨がたくさん出てくるそうです。
お二人のお話の中で、当時の人々はその悲惨な光景が日常の一部になっている、とい
うことがとても印象に残りました。地獄のような光景も日が経つにつれて、それが当た
り前に思えるほど感覚が麻痺してしまっていたのです。戦争は、体や心に傷を負うだけ
ではなく、その人の思考や感性までも狂わせてしまう恐ろしいものなのだと改めて思い
知らされました。
終戦から 70 年たった今、戦争・原爆を経験した人が少なくなっています。平和な毎
日を送っている私たちにとって戦争はとても遠いものに感じられると思います。しかし
未だに戦争は起こり、核兵器は世界中にたくさんあるということが現状です。戦争や核
兵器をなくすためには、原爆の被害を受けた日本がその恐ろしさや平和の大切さを世界
に発信していく必要があると思います。私たち若い世代が戦争や原爆について学び、未
来へ伝えていかなくてはなりません。私は今回の派遣事業を通して実際に見たり聞いた
りして学んだ「ヒロシマの心」を受け継ぎ、「平和のバトン」を家族や友達、そして未
来へ繋げていきたいと思います。そして、70 年前にこの地で戦争があったこと、原爆に
よる大きな被害があったことを決して忘れず、平和な世の中が続くように、世界から戦
争や核兵器がなくなることを祈っています。
広島研修の感想
勇払中学校3年 北村 雄大
原爆ドームを除けば、広島はかつてここに
原爆が落とされたことなど全く分からないほ
どきれいになった。戦争をよく知らない子ど
もは、
「戦争は本当はたいしたことなかったの
ではないか」と思うだろう。自分も原爆や戦
争の本当の恐ろしさを知らない。それを知ろ
うと思い、本研修に臨んだ。
一日目、最初の研修で平和記念資料館を見
学した。そこには写真や原爆にあった人たち
が身に着けていたものや建物の一部、原爆の
恐ろしさを伝えるパネルなどが展示されてい
た。思わず顔を背けたくなるようなものもたくさんあった。見学者の中には「酷い。」
と口に出す人もいた。しかし、本当はこれだけではないはずだ。被爆者は、つまずきそ
うになるほどの黒焦げの死体があったという。そしてこれが、ほんの少し前まで私たち
と同じように生活していたニンゲンだったということを忘れてはいけない。
見学後、語り部の豊永さんから話を聞かせていただいた。豊永さんは当時9歳で、母
と3歳の弟と暮らしていた。豊永さんが少し離れた町の病院に向かう途中に原爆が投下
された。広島には戻ることができなかったため祖父の家に行き、翌日、祖父と一緒に、
広島にいた母と弟を探しに行ったそうだ。真っ黒い人間がたくさん幽霊のようにさまよ
っていたらしい。8月8日、ようやく母と弟を見つけることができた。弟は母にかばわ
れて無事だったが、母は顔をやけどしていて、弟がいなければ確認できなかったという。
最後に豊永さんは私たちに「平和のバトン」を託された。これは、このようなことが
二度と起こらないようにという思いが見えない形となって次世代につなげていくバト
ンである。
2日目は、本川小学校へ行ったが、ここでも「平和のバトン」をつないでいる人がい
た。ガイドの岩田さんである。岩田さんは母が被爆者で、母を含め、かつて本川小学校
に通った人の話を伝えるボランティアをしている。本川小学校の旧校舎は震災に備え丈
夫に作っていたため、原爆を受けた後でも長い間使われた。今は、新校舎を建てるため
に壊されて、旧校舎は一部だけが残っており、資料館として使われている。そこには、
一つ、平和記念資料館には無かったものがあった。それは、かつて本川小学校の校庭で
燃やされた人の骨だった。土と石灰の中の骨をしゃがみこんで見た。この骨となった人
も自分に「二度とこんなことを繰り返すな」と言っているように感じた。
こんなことがあったにも関わらず、世界のどこかではまだ戦争をしている国がある。
世界平和というのは存在しない。しかし平和な時代を作る。私たちにはそれができる。
世界で唯一原爆を受けた「日本」で生まれ育った私たちだからこそできるのだ。本研修
で自分は原爆の恐ろしさは経験者しか知ることができないことを知った。でも、それで
よいと思う。今後原爆の恐ろしさを知る人が一人も増えないようにするために、自分は
広島の人々と死んでしまった人々から受け取った「平和のバトン」を多くの人に託して
いきたい。そう思えた。
7月14 日(火)
平成 27 年度中学生広島派遣団結団式・事前研修
結団式は、派遣団員である中学生3
名の初顔合わせの日です。最初は緊張
した面持ちでしたが、次第に打ち解け、
自己紹介ではそれぞれハキハキと研修
に応募した理由などを話してくれまし
た。
その後、旅行日程の確認やリーダー
決めなどの役割分担を行ったほか、団
長や市担当者から派遣に対する心得と
原爆被害に関する説明を受けました。
最後に、原爆記録映像「ヒロシマ・
母たちの祈り」を鑑賞し、派遣への意
識を高めました。
▲自己紹介をする派遣団員の様子
7月 17 日(金) 岩倉市長へ表敬訪問
7月17日、出発前の報告のため、
派遣団員3名そろって市長への表
敬訪問を行いました。
団員たちが自己紹介と派遣研修
に対する決意を述べ、岩倉市長か
ら激励の言葉をいただきました。
▼広島へ奉納する千羽鶴
戦後 70 年となる平成 27 年度も、市民の皆さんに
作成していただいた折り鶴がたくさん集まりました。
ご協力いただきありがとうございました。
派遣研修日程
《1日目》7月 28 日(火)
*語り部・豊永恵三郎さんによる被爆体験講話を受講
(国立広島原爆死没者追悼平和祈念館にて)
*広島平和記念資料館見学
《2日目》7月 29 日(水)
*広島平和記念公園内「原爆の子の像」へ千羽鶴を奉納
*本川小学校平和資料館見学、
ガイドの岩田美穂さんによる解説
*世界遺産「厳島神社」見学
《3 日目》7月 30 日(木)
*帰苫
▲広島平和記念公園の被爆アオギリの
木。被爆し幹の半分が焼け焦げたが、翌
年の春、枯れ木同然だった幹から新芽が
芽吹き、人々に生きる希望を与えた。
7月 28 日(火) 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館・平和記念資料館
1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分。広島に世界で初めて原子爆弾
が投下され、その年の12月末までに約14万人の人々が亡くなりました。広島平和
記念資料館は被爆の実相を伝え、核兵器のない平和な世界の実現へ貢献するため設置
されました。資料館では黒こげになった弁当箱、8時15分で止まった時計、被爆し
た動員学徒の学生服、高熱でとけたガラス瓶などの被爆資料を展示しています。
▲語り部の豊永さんと
▲真剣なまなざしで豊永さんの
講話に耳を傾ける派遣団員
7 月 29 日(水) 広島平和記念公園
団員の在籍する各中学校の生徒が作成した千羽鶴と、市民の皆さんから寄せられた
折り鶴で作成した千羽鶴を『原爆の子の像』へ捧げました。
▲慰霊碑への献花の様子
▲原爆の子の像への千羽鶴奉納
7月 29 日(水) 本川小学校平和資料館の見学
本川小学校は爆心地から350メ
ートル離れたところにあり、原爆に
よって約400人の児童と校長先生
のほか10人の教師が一瞬にして命
をうばわれました。
この平和資料館は、昭和3年に広
島で初めて建てられた鉄筋3階建て
の校舎の一部で、被害を受けた状態
をそのまま残し、被爆の「証」とし
て保存されています。展示されてい
る写真や遺物には、多くの人々の悲
しみや願いが込められています。
▲ガイドの岩田さんの解説
8月 15 日(土) 平和祈念式典
▲平和の誓いを朗読する派遣団員
『平和の誓い』
一九四五年八月六日、午前八時一五分、大きな音と閃光によってヒロシマの街は闇
に覆われました。
街や人など何もかも燃やしつくした熱線。
建物や家の屋根を吹き飛ばした爆風。
見えない恐怖に人々を陥れた放射能。
絶望と孤独の中、被爆した人々は大切な家族や友人を探して変わり果てた街を歩き
続けたのです。
心身共に傷を負った彼らは七十年たった今でも後遺症に苦しみ、心の傷を背負い続
けているのです。
私たちは過去に日本でこのような悲惨な出来事があったことを忘れず、今のこの平
和な生活を守っていかなくてはなりません。
終戦から七十年たった今、戦争の恐ろしさを知る人は少なくなっています。
戦争の悲惨さを聞いた者がその恐ろしさを伝えていかなくてはなりません。
私たちはヒロシマで受け継いだ「平和のバトン」をたくさんの人に渡し、世界から
戦争、核兵器がなくなることを祈り、意志を受け継ぐことを誓います。
◀塩尻さんの体験感想文の発表
終戦記念日に行われた平和祈念式典では、塩尻さんが派遣団員を代表して広島派遣
の体験感想文を発表し、佐藤さんと北村さんを含めた団員全員で平和の誓いを朗読し
ました。
苫小牧市非核平和都市条例
わたしたち苫小牧市民は、安全で健やかに心ゆたかに生きられるように、平和
を愛するすべての国の人々と共に、日本国憲法の基本理念である恒久平和の実現
に努めるとともに、国是である非核三原則の趣旨を踏まえ核兵器のない平和の実
現に努力していくことを決意し、この条例を制定する。
(目
的)
第1条 この条例は、本市の平和行政に関する基本的事項を定め、市民が安全で健やかに心
ゆたかに生活できる環境を確保し、もって市民生活の向上に資することを目的とする。
(恒久平和の意義等の普及)
第2条 市は、日本国憲法に規定する恒久平和の意義及び国是である非核三原則の趣旨につ
いて、広く市民に普及するように努めるものとする。
(平和に関する交流の推進)
第3条 市は、他の都市との平和に関する交流を推進するように努めるものとする。
(その他平和に関する事業の推進)
第4条 市は、前2条に定めるもののほか、平和の推進に資すると認める事業を行うように
努めるものとする。
(平和の維持に係る協議等)
第5条 市長は、本市において、国是である非核三原則の趣旨が損なわれるおそれがあると
認める事由が生じた場合は、
関係機関に対し協議を求めるとともに、
必要と認めるときは、
適切な措置を講じるよう要請するものとする。
(核兵器の実験等に対する反対の表明)
第6条 市長は、核兵器の実験等が行われた場合は、関係機関に対し、当該実験等に対する
反対の旨の意見を表明するものとする。
(委
任)
第7条 この条例の施行に関し必要な事項は、市長が定める。
附
則
この条例は、公布の日から施行する。
(平成14年4月1日公布)
※平成 24 年 11 月 29 日開催・泉野小学校「命と平和の集会」で
当時の 6 年生がわかりやすく表現した「苫小牧市非核平和都市条例」です
苫小牧市が決めた核のない平和な町(世界)にするためのきまり
∼はじめの文∼
わたしたち苫小牧市に住む人たちは、安全で元気で心ゆたかに生きられるように、
平和を大切にする世界中の人たちといっしょにとりくみます。日本のきまりのもと
でいつまでも平和がつづくそんな世界をめざします。核という戦争につかう武器を
「もたない、つくらない、もちこませない」というやくそくを大切にします。核兵
器のない平和な世界にしていくことをしっかりと心に決めて、このきまりをつくり
ました。
(めざしていること)
第1条
このきまりは、苫小牧市の平和についてもとになることを決めました。苫
小牧市に住んでいる人が安全で病気をしないで心がゆたかに生活できるような
町づくりをしていきます。苫小牧市に住んでいる人の生活がよりよくなることを
めざしてこのきまりをつくりました。
(いつまでも平和がつづくための意味やわけを広めること)
第2条
苫小牧市は、日本のきまりにあるいつまでも平和がつづく世界をめざすこ
とや、核兵器を「もたない、つくらない、もちこませない」というやくそくを守
っていくことを苫小牧市に住む人たちみんなに知ってもらうようにがんばりま
す。
(平和についていろいろな町と知らせあったりすることをすすめること)
第3条
苫小牧市は、いろいろな市や町と平和について知らせあったり、教えあ
ったりすることをすすめるようにがんばります。
(そのほかの平和についてのしごとをすすめること)
第4条
市は、第2条のほかに、平和を広めるためのしごとだとみとめたら、そ
のしごとをがんばります。
(平和がいつまでもつづくことに関係する相談など)
第5条
苫小牧市の市長さんは、日本のきまりの核兵器を「もたない、つくらな
い、もちこませない」というやくそくをやぶられそうになった時は、いろいろ
な人たちと集まって相談します。もし、ひつような時は、いちばん正しいと思
うことをしていきます。
(もし核兵器の実験をした時は反対の考えを発表すること)
第6条
苫小牧市の市長さんは、もしどこかの国で核兵器の実験をした時は関係
のあるところに核実験に反対の考えを発表します。
※第7条(委任)及び附則は省略
【 発 行 】
苫小牧市総合政策部政策推進課
所在地:〒053-8722 苫小牧市旭町4丁目5番6号
電 話:0144-32-6039 FAX:0144-34-7110
E-mail:[email protected]
(平成 27 年 8 月 31 日)
《非核平和事業に関する市ホームページ URL》
⇒http://www.city.tomakomai.hokkaido.jp/shisei/shisei/shiseihoshin/kikaku/hikakuheiwa/
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