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グローバル化時代の台湾メディア:アイデンティティとジェンダーの視点から

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グローバル化時代の台湾メディア:アイデンティティとジェンダーの視点から
グローバル化時代の台湾メディア:アイデンティティとジェンダーの視点から
東京大学人文社会研究科博士課程
阿部
るり
はじめに
幾世紀に渡り諸外国による支配が、東シナ海に浮かぶ小さな島、台湾を横断していっ
た。国民党政府が台北に中央政府を移転させた 1949 年以来、1987 年までの 38 年間、台湾
は戒厳令下にあった。戒厳令を経て現在に至るまで台湾社会は政治的には民主化、経済的
には輸出型経済による急激な経済成長といった大きな変容の只中にある。そうした変化の
なかで台湾メディアもまた変遷を経てきた。
本論では戦後台湾社会の解題にメディアの視点からアプローチする。その際、(1)グロー
バライゼーションの時代における台湾メディアとアイデンティティ(2)台湾メディアにおけ
るジェンダー的断面という二点から考察する。これらの視点を通して台湾メディアの置か
れた現状を描き、文化的側面からみた台湾におけるアイデンティティのあり方を問う。
(1) グローバライゼーションの時代におけるメディアと台湾アイデンティティ
はじめに、民主化を経て 90 年代以降急速に国際化、多様化していった台湾メディアの現
状について考える。民主化を経た現在、台湾はこれからどこへ向かおうとしているのか。
台湾の文化的アイデンティティは、
「変容し躊躇するアイデンティティ」(若林 2001)と形容
されるように、台湾は両岸関係、また国際環境のなかで自らの進むべき道を模索している。
自己を国際社会に向けてどのように表象していくか、また国内の問題としては中国との統
一か、あるいは台湾の独立かといった政治的命題をめぐってどのような方向性を志向して
いくのか、これらはすべて文化的アイデンティティに大きく関連する事柄である。
台湾のマス・メディアは、戒厳令下においてはイデオロギー装置としての色彩が強かっ
たが、やがて民主化とともに市場原理に支配されるメディアへと移行してきた。
戒厳令下のマス・メディアは政府の管理下に置かれるか、または党資本によって運営さ
れた。メディアは国民党政府の正統性を台湾の人々に確認させ、国語(北京語)の徹底に
よって「中国意識の注入」1を行い、社会の結束を高める役割を果たしてきた。
「中国の正統
な政府」であるとの立場を放棄しなかった国民党は、台湾の歴史、台湾語、歌謡、文芸と
いった台湾の文化的アイデンティティの記述、実践を公の空間において否定した。こうし
た台湾アイデンティティの実践は国民党の立場とは相容れないものであり、それはメディ
アの運営、内容にも反映されていた。
このように戒厳令下、対内的、対外的に閉鎖的構造を呈していた台湾のメディア産業は、
80 年代後半のメディアに対する政府の規制緩和、民主化政策により、高度経済成長を背景
に構造的、質的に大きな変化を遂げていく。その変化は主に、①国内メディア産業の拡大
②メディア言説における政治的多様性の確保③台湾メディアのグローバルメディアシステ
ムへの組み込みの三点に集約される(Hong 1999)。こうしたメディアの変化は台湾の文化的
アイデンティティ構成にも影響を与えている。90 年代以降、メディア産業が拡大するにし
たがって日常生活における人々のメディア接触は増加傾向にあり2(世新大学許)、台湾は情
報化の一途にある。台湾メディア産業のグローバルメディアへの組み込みについては、具
体的な現象として(a)メディアソフトの海外流通の活性化(b)広告の国際化の二点が挙げられ
る。(広告の国際化については、女性雑誌を例に第二節で扱う。)
①両岸(中台)関係とメディア
ソフトの海外流通は輸出、輸入とも 90 年代以降急増傾向にあり、台湾メディアの国際化
を表す一つの側面である。多チャンネル化に伴い、増加するソフト需要をカバーし、多様
化した視聴者のニーズに応えるためにアメリカや日本、韓国等からのソフト輸入が増加し
ている。一方で、台湾製のソフトは中国や東南アジアに広がる華僑向けに輸出が増加して
いる。マレーシア、香港、フィリピン、シンガポール、中国の順に輸出量が多い(Hong 1999)。
シンガポール、中国の二国に関しては両国の規制により輸出量が少ないが、将来的には台
湾のメディアソフトにとって有望な市場であると考えられている。
特に、中国と台湾間のメディアプロダクツの流通の歴史は、両岸(中台)関係を反映し
ている。香港経由でメディアソフトの密輸は 70 年代から続いていたが、公的に交流のなか
った 70 年代、80 年代においては双方のメディアは「我こそは中国の正統な後継者である」
と、自国のメディアを政治的プロパガンダとして利用してきた。70 年代末、中国で鄧小平
が政治的復活を遂げ、国政方針の大転換を図っていく中で、台湾に対しても新たな政策が
打ち出されていく。78 年に金門島への砲撃中止、79 年に米中国交樹立が実現され、「台湾
同胞に告げる書簡」が発表された。その中で中国は台湾との「三通、四流」を呼びかけた
が、書簡において「一国家二制度」構想を明示した中国に対して、台湾は「三不政策」を
もって対抗した。それは共産党とは妥協せず、接触せず、交渉せずの方針で、台湾は中国
の「祖国の平和統一」路線に断固たる拒否姿勢を示した3。その一貫として、両岸関係の雪
解けが始まる 87 年まで、台湾は中国製のメディアプロダクツの輸入を禁止していた。しか
し水面下ではメディアソフトや物品の流通は香港を経由した密輸や衛星放送を通して広範
に行われており、民間レベルでは「三不政策」は形骸化していた。やがて国民党政府はこ
うした現状の追認を余儀なくされ、対中国政策は徐々に融和されていく。87 年に台湾では
民間人の中国への渡航が許可され、中国で出版された本の輸入が許可されるなどメディア
ソフトの流通規制も緩和される。
90 年代の流通を概観すると、中国から台湾への輸出よりも台湾から中国への輸出がはる
かに多いという点で流通のアンバランス、情報としては娯楽ソフトが圧倒的に多いという
二つの特徴があげられる(Hong 1997)。このように実質的交流は着実に進んでいる。しかし
依然緊張の解けない関係にある中国、台湾はメディアソフトの流通による経済的利益の恩
恵には浴したいが、自国の政治的イデオロギーとは相容れないメディアの言説や表象まで
もが流入し、民衆に浸透していくことへの危惧を隠せない。この点で、メディアソフトの
流通について双方ともジレンマを抱えている。
しかし、近年では CATV や海賊版ソフトの普及によって外国番組や台湾、香港、中国の
番組の流通が盛んになり、政府が国際的なメディアソフトの流通を管理することはますま
す難しくなっている。例えば、CATV で放送されるアジア版 MTV は台湾、香港、中国のポ
ピュラーカルチャーが混交する場を提供している(Gold 1996)。
「大陸中国というのは、台湾のメディアやポピュラーカルチャーにおいてこれまでノス
タルジアの対象であったが、それは今では自分たちの好奇心を充足させる場、しかしそれ
以上に大量消費と経済的機会の場へと変容している。(Gold 1996:1107)」「本省人にとって
すらかつて幻想化された祖国であった大陸中国はいまや(幻想から呼び覚まされた)市場
へと変容した(Weiming 1996:1119)」という分析にもみられるように、両国の政治的思惑を
よそに、国境を超えて流通するメディアコンテントは脱政治化し、むしろ消費との結びつ
きをより強めている。
②台湾アイデンティティの台頭をめぐって
グローバライゼーションとメディアに関する議論では、文化帝国主義論に代表されるよ
うにアメリカで生産されたメディアソフトが世界を席巻し、それらの受容を通して本来多
様であった文化の均一化、アメリカ的文化の世界的拡大という帰結を招くと想定された。
その後、批判的オーディエンス論が登場することで、メディアの画一的影響に一石が投じ
られる。これによりグローバルなメディアは、画一的、一方的に受容されるのではなく、
ローカルな文化的コンテキストにおいて批判的に受容されると、文化帝国主義論に対する
批判的議論が展開された。メディアのグローバル化の流れにおいて、ローカルなアイデン
ティティ(台湾アイデンティティ)が台頭するという近年の台湾メディアをめぐる景観は、
グローバリゼーションとメディアの関係を考える上で興味深いケースを提供している。
1980 年末には政治的民主化が進むにしたがって、美術、文学、歴史などを台湾の視点か
ら描きなおそうという動きが台湾社会のなかででくる(Chen1998:15)。新たな台湾アイデン
ティティの発現である。具体的には、台湾語で話すことが人気を得、これまで公に記述さ
ることが憚られてきた 2.28 事件への言及、研究機関における台湾研究の実践も許容される
ようになっていく。これらは民主化がメディアにもたらした変化の一つとして先に述べた
「メディア言説における政治的多様性の確保」に並行する現象である。
台湾アイデンティティ、台湾人意識といった場合、アイデンティティや意識というもの
が本来的に存在するというようにそれを本質的、一枚岩的に捉えるべきではない。それは
歴史的過程において構築され、変化するものであり、状況によって現われ方も異なる。こ
こで述べる「アイデンティティ」は、集団的な意識を指し、いわば写真におけるネガ像の
ようなものを想定している。そしてアイデンティティが発現してくる過程には、必ずなん
らかの対抗的アイデンティティの存在がある。
ここで台湾人意識形成の歴史的経緯を振り返ってみよう。当初、台湾人意識は日本の植
民地支配時代に日本や日本人を対抗相手として形成されたものだった(若林 2001,Weiming
1996)。戦後、大陸から国民党とともに渡来してきた外省人との対抗関係のなかで台湾人意
識は抑圧されたが、それは潜在的に存在し続け、やがて変容を遂げていく。戒厳令下、中
国の正統な後継者であるとの立場を放棄しない国民党政府は、本省人へのテレビや教育を
介した中国化政策を通して外省人との同化を図った。70 年代から社会の底流に潜在してい
たものの、80 年代以降の民主化の流れのなかで顕在化していった台湾人アイデンティティ
は、外省人や中国を対抗的なアイデンティティとして形成されたものである。それは「台
湾には「中国人」とは異なるネイションとしての「台湾人」が存在している、あるいは存
在すべきである、として「台湾文化」の独自性を主張する、ないしは形成しようとする(若
林 2001:174)」意識や動きであり、言い換えれば「ネイティブ化」の傾向である。
さらに 90 年代以降、「ネイティブ化」の傾向は主流化したが、メディアがグローバル化
していくなかで台湾におけるアイデンティティの模様は多様化の傾向をみせている。
80 年代には中国、本省人、国民党への対抗として現れた台湾のネイティブなアイデンテ
ィティは 90 年代に入り台湾社会において主流化する。それと同時にメディアのグローバル
化を背景に、メディアを介して諸外国の文化が台湾社会に入ってきた。そうした諸外国の
文化は台湾社会に確実に影響を与え、台湾アイデンティティの模様を多様化させている。
例えば、近年「恰日族」(Ha-Ri-Zu)の言葉にみられるように、ファッション、ライフスタイ
ル、言語という点で日本文化を積極的に取り入れる若者の増加が目立つ。その背景にはテ
レビを中心とするマス・メディアの存在が大きい(Su 1999)。1993 年にテレビにおける日本
の番組放送禁止が解除されるや、アニメ、ドラマ、ヴァラエティ番組等が次々に放映され
ていった(合法化以前には海賊ビデオが主流だった)。なかでも一般家庭への普及率が8
0%を超える(1998 年時点)CATV は日本文化を台湾社会に媒介する主要なメディアとな
った。こうした若者を中心とした日本文化との自己同一化現象は、メディア接触と消費の
密接な結びつきを表す証左である4。
「ネイティブ化が(台湾社会において)主流な言説になるや、一方で外国から輸入され
たあらゆる商品やソフト、多国籍化する資本主義が(台湾に)遍在し、それがアルタナテ
ィブな言説を生み出したことは皮肉である。一見、そうしたアルタナティブな言説とネイ
ティブ化という流れは非対称的であるかのようにみえるが、ここに新たな文化の渦が創造
される (Weiming 1996:1121)。」この言明に現代台湾の文化的状況が表されている。
2000 年に行われた総統選に続き、昨年 12 月「一つの中国」を巡る姿勢が大きな争点と
なった行政院選挙では、
「一つの中国」受け入れに反対した民進党が勝利した。連合政権に
向けた課題は山積しているものの、民進党の勝利は台湾の人々が台湾アイデンティティを
志向する意思の表れと読み取れるだろう。
ただ、筆者が台湾訪問中に出会った中山大学の女子学生(本省人)が「選挙になると本
省人・外省人の省籍問題が浮上してくるが、普段は本省人・外省人という区別は関係なく、
結婚する際も自分も友人達も気にしない。地方の町に住む両親は私が外省人と結婚するの
は絶対許さないと言っているが、自分にとっては外省人・本省人の区別はどうでもよい」
と話しているように、若い世代では本省人・外省人の区別が意味をもたなくなってきてい
る。
アイデンティティに関しては世代による認識の違いは依然あるものの、かつてのように
本省人であることが政治や経済分野からの排除に結びついていた時代は終わろうとし、本
省人・外省人であることの意味が失われつつある。選挙や政治の場面で「台湾人意識」を
前面にだす本省人と「中国人意識」を前面にだす本省人の対立を軸にアジェンダが設定さ
れ、そのことによって本省人・外省人というエスニックなアイデンティティが動員される
ことがある。その際、本省人・外省人アイデンティティは一時的に活性化するものの、政
治的な言説に云われる程の実体はなく、「本省人・外省人アイデンティティ」はむしろ言説
として創られたアイデンティティになりつつある。
いまや民主化を経た台湾において国民党版の中国を中心とする言説は減退し、台湾アイ
デンティティが主流化したが、そのアイデンティティの内容は流動的な状態である。もは
や中国か台湾かという二者択一として台湾アイデンティティが選ばれるのではなく、台湾
アイデンティティのあり方自体がグローバル化の中で多様化、変容していく可能性を秘め
ている。
(2) 台湾メディアのジェンダー的諸相
次にここではジェンダーの視点を取り入れながら、台湾のメディア状況を考えてみよう。
具体的にはグローバルメディアへの台湾メディアの組み込みという状況を、女性雑誌を例
に考える。メディアの多様化、国際化という文脈のなかで90 年代の台湾では女性雑誌の発
行が相次いだ。雑誌メディアの多様化については台湾の経済発展、民主化とともに多様な
需要や読者層が生まれ、それぞれに特色を有する雑誌が刊行されてきた。1986 年には 70
部、1993 年には 101 部の女性雑誌が刊行され、近年でも女性雑誌市場は拡大傾向にある
(Shaw1999)。
雑誌購読傾向についても、男性、女性、若者では購読雑誌に顕著な違いがみられ、女性
については「ノンノ」
「美人誌」
「WiWi」といったファッション系女性雑誌が人気を集めて
いる(世新大学許)。全般的な雑誌購読者の特質としては都市部在住者、高学歴、女性であ
る点が挙げられる。男性の雑誌購読が減少傾向にあるのに対して、女性の雑誌購読が増加
している背景には働く女性の増加、女性性の商品化などの理由が考えられる(女性性の商
品化については後述する)。このように、雑誌購買で女性の購読が顕著であること、また女
性のインターネット利用が男性に比べて少ないなど、ジェンダーによるメディア接触の違
いが明らかにあるように、台湾メディアを考える上でジェンダーは重要な視点を提供して
いる。
過去数十年の間に台湾社会やメディアが大きな変化を経験してきたように台湾の女性雑
誌もまた変化の渦中にある。言い換えれば女性誌における変化は台湾社会の変化を反映し
ているともいえる。女性誌においては以下二つの点で主な変化がみられる。第一に雑誌に
描きだされる女性像の変化。第二に女性誌産業の国際化である(前節で述べたメディア産
業の国際化にも関連する)。
女性誌における女性像を理解することは、女性が女性自身をどのようにイメージするか
という点、また同時に社会が女性をどう見るかという点で社会における女性イメージを知
る手がかりになる。70 年から 94 年までの女性誌二誌における女性像の変遷を分析した研究
(Shaw 1999)によると、中間階層を読者層とする女性誌「Woman」では台湾の社会変化に
伴って変化する女性像が提示されてきたことが示されている。70 年代以降台湾に輸入思想
として入ってきたフェミニズムを積極的に紹介するなど、
「解放された」女性像を描き、フ
ェミニズムや女性の権利といった考え方を部分的ではあるものの、社会に媒介する役目を
担ってきた。しかし女性誌は手放しにフェミニズムを礼賛したわけではなかった。一方で
西欧でのフェミニズム運動の負の帰結を特集するなど、当時台湾で芽生え始めていた女性
運動に対してネガティブなパブリシティを与え、女性運動にマイナスの影響を与えたこと
も否めない。他方、労働者階級を購読者層とする女性誌「New Woman」では、中間階層を
購読者層とする女性誌とは対称的に一貫して「受身」で伝統的な女性像が提示されてきた。
このように中間階層に限定的ではあるが、女性誌は 70 年代以降台湾に入ってきたフェミ
ニズムを紹介し、新たな女性の生き方や女性イメージの提示を行った。ただその際、女性
誌はフェミニズムに対して懐疑的であった。こうした女性誌のフェミニズムに対する懐疑
的な態度は雑誌独自の判断ではなく、当時の台湾におけるフェミニズムのあり方を反映し
たものであった。
台湾におけるフェミニズムの位置づけについては、Yenlin が「女性学とフェミニズムの
容易でない結婚」と評価しているように、台湾に 80 年代以降登場した女性学は研究テーマ
として女性を扱うものの、必ずしも「女性の地位向上を目指す」フェミニズムを代弁する
ものではなかった。学界には女性学のあり方をめぐって長い間、女性学をフェミニズムと
結びつけるべきか否かにについて立場が二分していた。こうした学界でのフェミニズム受
容をめぐる紆余曲折や女性誌がフェミニズムに対して懐疑の目を向けてきたことは、台湾
社会自体が「輸入思想」としてのフェミニズムへの疑義を隠しきれなかったことを示して
いる。
70 年代から 90 年代にかけての女性誌は、女性の新たな生き方やイメージを提示するなど
ある意味で「社会派」を志向していたともいえるが、近年の女性誌では、商品化された女
性イメージが目立ち、雑誌自体が商品化されてきた。それは台湾自体が消費社会へと移行
したことの証でもあるが、その影には女性誌の国際化という別のファクターが存在する。
女性誌の国際化は台湾女性誌産業の構造やひいてはそこで創り出される女性イメージの変
化にも関連している。
台湾における女性誌の国際化は、具体的にはエル、ヴォーグ、マリクレールといった外
国系女性雑誌の雑誌市場での拡大、外資系広告の増加という現象に示されている。女性誌
産業の外資系広告収入源への依存体質は構造化され、もはや女性誌産業は外資系広告なし
には経営が成り立たなくなってきた。例えば、女性誌の広告における外国製品の占める割
合(1995 年)は、マリクレール 92%、コスモポリタン 76%、ノンノ 82%、New Woman39%
(Shaw1999)となっており、外資系広告収入源の割合の高さが伺える(New Woman のみ台湾
系雑誌)。
台湾女性誌の国際化について論じた蕭(Shaw)は、こうした女性誌の国際化は購読者、内
容、女性誌自体の「商品化」を招いたと指摘している。より多くの広告収入を得ることで
利益をあげるべく、女性誌自体が市場における商品と化している。
さらにこうした状況下、広告における女性像の提示もまた変化してきたことを蕭は述べ
ている(Shaw2001)。近年の広告では伝統的な女性の役割から「解放された」女性が描かれ
る傾向にあるが、「解放」は消費とワンセットで提示される。それは言い換えれば「フェミ
ニズム」の商品化であり、
「解放」されたかのように見えた女性像は、相変わらず「女性性」
の中に閉じ込められたままだという。つまり、かつて社会思想として登場したフェミニズ
ムは、こうした情報化、消費社会という流れのなかで商品化され、脱政治化するという局
面に置かれている。フェミニズムはもはやイデオロギーではなく、むしろ商品に付加され
た「フェミニズム」の消費を通した個人のライフスタイルとしての側面を強めている。
音楽や番組ソフトの中国語圏内での流通が盛んなようにこれから台湾女性誌もまた、中
国、香港といった中国語圏での女性誌市場でのパイの拡大に向けて動きだしていくだろう。
その際、どのような女性をめぐるイメージや文化を作りだしていくのだろうか。女性誌や
女性をターゲットとする広告は女性イメージを社会に媒介する上で、今後とも見逃すこと
のできない存在である。
おわりに
これまで現代台湾メディアの文化的諸相をみてきた。ここでいえるのは、メディアを介
した情報が現代台湾社会におけるアイデンティティのあり方に深く関連しているというこ
とである。民主化、経済発展といった社会の変化とともに、台湾メディアは戒厳令時代の
政府のイデオロギーを反映するメディアから、創造的な文化の担い手としてのメディアへ
と変遷した。しかしながら、メディアとしての成熟に向けては依然、いくつかの問題点が
残されている。①メディアに関する法規制の点では民主化は進んだが、メディアの運営体
制の点ではまだ十分な民主化が行われていない。1998 年に公共電視が開局し、公共放送が
導入されたが、その他の地上波テレビ局はいずれも政党や政府による運営である。また新
聞に関しても依然、党派性が強い。さらにメディア産業の多くが外省人系の資本によって
運営されていることも挙げられる。②メディアに従事する者やメディア機関の倫理の欠如
(Hong 1999)③メディア産業は多様化、国際化したが、メディアのクオリティの劣化、寡
占化という帰結を招いている。メディアが多様化することで台湾の言説空間は確かに多様
化したが、一方で過当競争が生じた結果、メディア産業は寡占化し、質が劣化するという
矛盾のなかに台湾メディアは置かれている。④競争が激化するなかでメディアがコマーシ
ャリズムへと偏向する傾向にある。これらの問題や矛盾を乗り越えることが、今後の台湾
メディアの課題といえよう。
<注>
1
若林(2001)p.21
世新大学許人杰教授の発表に拠る。
3 若林(2001)p.136-38
4 日本文化に対する台湾人の態度は一様ではない。日本の植民地統治時代から現代に至るまでの台湾社会
において「日本」がいかに歴史的、文化的に構築されてきたかについては鄭秀娟「台湾における文化市場
における『日本』の歴史的構築」「思想」2002 年 1 月に詳しい。
2
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