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1000 年の歴史を誇る小正月のツクリモノ

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1000 年の歴史を誇る小正月のツクリモノ
ポップカルチャー学会『A.P.O.C.S.』第 5 号(2009 年)
Association of Pop Culture Studies, A.P.O.C.S., No.5, Tokyo, Japan : 2009
http://apocs.web.infoseek.co.jp/index.html
1000 年の歴史を誇る小正月のツクリモノ
―「削りかけ」、「削り花」、「掻き花」―
池田 智
●はじめに
東京近県で質の良い和紙の産地と言えば、埼玉県小川町の右に出るところは
ないだろう。この町は幕末・明治の政治にかかわり、また剣術家としても知ら
れた山岡鉄舟と関係が深い「忠七飯し」や 19 世紀中葉の安政時代から続く「女
郎ウナギ」でも知られる土地である。その町を知人数名と、春まだ浅い時期に
紙漉の見学を目的に訪れることになった。
ところが、小川町へは筆者が何度も足を運んでいることを知っていた一人が、
小川町からバスでしばらく行った東秩父村に「和紙の里」があるからそちらへ
行くのもいいのではないか、と提案された。すでに足を踏み入れたところより
は初めて行くところに関心が向くのは当然のことで、間髪を容れず賛成した。
この小さな旅が、昨今の大学改革の波のなかで「比較文化学科」という新し
い学科に所属することになった筆者に新しい課題を与えてくれることなど、「和
紙の里」にあるそば屋「すきふね」1 に昼食を摂りに入るまで予期していなかった。
「すきふね」に入ってすぐに筆者の眼に飛び込んできたものは、とても不思
議な装飾品であった。二種類あった。最初に目に飛び込んできたのは、店を入っ
た正面にしつらえられた床の間に置かれた古木の根に、褐色の細い巻き毛状の
ものが垂れ下がっているものであった(図 1)。同じものがもう一つ床の間の
脇に竹を組んで造られた格子に掛けてあった。もう一種類は、その格子を支え
る柱に竹の節々に花が上向きに咲いているように、表皮を削り留めてあるもの
だった(図 2)。
いずれも工芸品と称して差し支えないほど繊細な造りの民藝で、筆者にとっ
ては初めて見るものであった。「竹の節々に」と書いたが、実は竹ではなかった。
後に知ることになるのだが、スイカズラ科の落葉樹ニワトコ(接骨木)であっ
- 1 -
た。造られてから時代を経ていたため、飴色に変色し、しかも竹に見えたので
ある。
以前から民藝に関心があり、アメリカの民藝と日本の民藝との比較を試みて
きている関係から、すぐにそれがいったい何かを店の人に聞いてみたが知る人
はいなかった。お客さんが持ってきてくれたので飾っているということだった。
「求めよ、さらば…」ではないが、前者のものは三つあるのだから一つ譲っ
てもらえないか、と聞いてみた。
「店長さんに聞いてみないとわかりません」
という。
店長さんは和紙の里で紙漉の仕事をするかたわら、観光客に和紙を漉く技術
を教えている方であった。
「一つなら、差し上げます」との返事。お客さんか
らいただいたもので値段がつけられないから、差し上げるしかない、とのこと
であった。何度も頭を下げていただいてきた。しかし、そのまま飾って個人的
に楽しむだけで終わりにするわけにはいかない。まだまだ調査・研究が不十分
であるため論文として の体をなさないが、民間に伝わりながらも果てしなく消
えゆく運命にある民藝との出会いに感激すると同時に、その存在を多くの人た
ちに知ってもらいたい気持ちから拙稿を敢えて本誌の末端に掲載してもらえる
ようにお願いする次第である。本会誌の論考はすべて査読され、掲載許可がお
りなければ活字になることはないが、拙稿はその範疇に入らないことを敢えて
申し添える次第である。
●削りかけ/削り花/掻き花
帰宅してすぐにしたことは、東秩父の役場に電話をしたことだった。いただ
いてきたものをあれこれ説明し、その名称を尋ねた。
「『削り花(けずりばな)
』とか『削りかけ』といって、よくはわかりません
がこのあたりでは『小正月』のときに飾りとして使っていたようです。しかし、
今ではどうでしょうか?」ということであった。それでも秩父郡東秩父村御堂
で小川和紙を代表する「細川紙」を漉いている鷹野禎三さんが、今でも小正月
のために手がけているということがわかった。鷹野さんの話では「先祖が代々
してきたことを私の代で止めてしまうわけにはいかないから」ということで
あった。
今では小正月を東京で祝う人たちはまず数少ないのではないだろうか?それ
−2−
よりなにより、「小正月」なるものがいったい何かを知らない世代が今や生じ
ていている。勤務先の学生に尋ねても、知っているものは少ない。極端な言い
方をすれば、いないと言ってもいいクラスさえある。かつては年末から正月に
かけて多忙だった女性がこの頃に年賀に出かける習慣から、「女正月」とも呼
ばれた習俗である。
手元の広辞苑によれば、
「旧暦の正月 15 日、あるいは正月 14 日から 16 日
までの称。元日を大正月というのに対する」と解説されている。また農村では
(あわぼひえぼ)3
「農の正月」と呼んで、
「繭玉」
(まゆだま)2 や「粟穂稗穂」
など「ツクリモノ」4 を飾って養蚕や五穀の豊穣を祈る、いわば予祝行事であっ
た。地方によってはこのほかに農具の模型をつくるところもあるようで、群馬
県利根郡みなかみ町で農業を営む河合洪太郎さん(85 歳)は今なおこうした
ものを造られ「ボク市」5 に出されている。
この養蚕や五穀豊穣を予祝するための「繭玉」や「粟穂稗穂」といった「小
正月のツクリモノ」のなかに「削り花」と呼ばれたり「掻き花」と呼ばれる文
化が存在した。そのためか正月の松飾りのある間の大正月を「松の内」と呼ぶ
のに対して「削り花」を飾る時期を「花の内」と呼ぶ習わしもある。
「削り花」にしても「掻き花」にしても、いずれも「ヌルデ」や「ニワトコ」
、
あるいはその若芽が山菜の王様とよばれる「コシアブラ」の木を、秋の干し草
刈りの時期から 12 月の中旬にかけて切り出してこしらえ始めるようだが、か
つては「山入り」とか「若木迎え」といって元日の朝、除夜の鐘が鳴ると山へ
入って祈りをあげた後、木を伐ってきたそうである。群馬の河合さんのところ
では、昨今では山に行っても適当な木が少ないので畑でヌルデの木を育て、こ
の文化を守っているということである。山形県米沢市にある「笹野民藝館」の
話では、仏壇などに飾る「削り花」の作製は 12 月 15 日あたりからだとのこ
とである。また一説には冬至に神苑吉方に自生するニワトコで、五穀豊穣、家
内安全を神々に祈願して造り、正月を迎えるにあたって授与するという説もあ
る6。こうした木が使われるのはその白さと、削る(掻く)上での削り(掻き)
良さがあるからだろう。また河合さんが送ってくださったできたての「削りか
け」は材料がヌルデで、部屋にその良い香りが漂うようになった。
「削り花」と呼ばれるのは上述の木を「削って」造る花のことだが、人によっ
てこれを「削りかけ」と呼ぶのは図(3)に見られるように、木を削るといっ
ても、米沢特有の工芸品で知られる「お鷹ぽっぽ」という名称の一刀彫りの鳥
−3−
の尻尾というか翼の部分を木を途中まで削っては留めて本物の鳥のそれらのよ
うに見せる技法だからである。この技法の「削る」を「掻く」と置き換えた呼
称が「掻きはな」なのである。本稿ではその形からすべてが花とは言えない形
状をしていることを主たる理由として「削りかけ」7を、以降引用文以外におい
ては使用する。
●いつ頃、この文化は始まったのか
その技法から日本の先住民族アイヌの神事に用いられる「イナウ/イノウ」8
と結びつける人が多い。筆者の手元にある「削りかけ」の中でも特に群馬県利
根郡みなかみ町の河合洪太郎さんが削られるものを見る人は異口同音に「アイ
ヌ民族のイナウに似ていますね」と感想を洩らされる。アイヌ民族の文化が日
本人に伝わったとする説を主張する人がいることは、民俗学を国文学に導入し
たことで知られる折口信夫が指摘している(
『折口信夫全集第』16 巻:418)が、
なぜか折口はこの説を否定している。
けづりかけは、けづり花が最初で、けづり花は、尾佐竹さんもあいぬ(原文
0
0
0
私は、
却っ
では傍線アリ)のいなを(ママ)から出たとせられて居る様であるが、
て内地の削り掛け系統の作り花、粟穂・稗穂などという類の稲穂、といふ語が
あいぬ(原文では傍線アリ)の方へ這入ったものと見てゐる。率直に言へば、
0
0
0
0
0
けづりかけが近世の名で、けづり花が元の名であらう。
折口がこうした考えを著したのは、
「いなを(イナウ/イノウ)
」と「イナホ」
との音関係からではないだろうか? 兵庫県明石の地名「アカシ」を北海道厚
岸の地名「アツケシ」の音変化、すなわち「アツケシ」→「アッケシ」→「ア
カシ」と結びつけようとした学者がいたという話を聞いたことがある。なんと
もこじつけとしか受けとめようがないが、完全に否定できるともできないとも
言えない。かつて青森県戸来村(現・新郷村)の村名「へらい」とイスラエル
民族の名称「ヘブライ」とを結びつけるとか、京都太秦の大闢(大酒)神社の
」の支那字とするような、いわゆ
「大闢」(だいびゃく)を「ダビデ(David)
る「日猶同祖論」を説いたキリスト教伝道者や研究者9ほど的を外れてはいな
いかもしれない。しかし、疑問が残るのは「削りかけ」の技法を用いた民藝品
−4−
「お鷹ぽっぽ」で知られる山形県米沢市笹野町にアイヌ民族の遺跡があるとい
うからだ10。しかし、このアイヌ遺跡について米沢市教育委員会に連絡をとっ
たところ、昭和 30 年代に高橋建二さんという郷土史家が、笹野町に位置する
「なだらやま」という名称
標高 660m の笹野山(地元住民には「なでらやま」
が馴染み深く、笹野山と呼称する人が少ないそうである)にあった「笹野山館」
、
すなわち「砦」がアイヌ民族が築いた「笹野チャシ」(地元では「チャシツコ」
と呼ぶ人もいたそうである。因みに「チャシ」とは『広辞苑』によればアイヌ
語で「砦」のことである)とする論文を発表したということだ。しかしその「笹
野チャシ」からはアイヌ民族に直接関係する遺物が何も発掘されていないため、
高橋の説は、考古学的には否定され、ただ民間伝承としてアイヌ民族に連なる
俗説が伝えられているようである。
「けづりばな」という名称については、古くは江戸時代の考証随筆家喜多村
均庭のいわば百科事典『嬉遊笑覧』
(三:361-2)にも引かれているように『古
今和歌集』第十、物名や『奥義抄』に見られるのである。
「二条の后、春宮のみやす所と申ける(ママ)時に、めどにけづりばなさせ
りけるをよませ給ひける、文屋やすひで、花の木にあらざらめども咲にけりふ
りしこのみなる時もがな」
。『奥義抄』に「蓍(めどき)という草をゆひ集めて、
それにけづり花をさす事」といへり。蓍は『和名抄』に「女止(メド)
」とあり。
『史記亀策伝』にも見えて、其茎は筮(ぜい)とする物也。削り花は木を削り
かけて花に作る也。『延喜式』図書寮に、
「金銅花瓶二口削花二」
(左右各進一枚、
近衛寮受供之)と有(アリ)
。仏名(ぶつみょう)の時に削り花を供養に備ふる
事多くみゆ。その引歌ども『余材抄(よざいしょう)
』に委しく出たり。『夏山
雑談』云、
「今も西国辺にては蓍に作り花を付て神仏にさヽぐる所も有」とい
』
、
「常磐の松のかヽりあくよや、霞くむ台
へり。『西武独吟(さいむどくぎん)
のものには削り花」
。
『寛永ごろの画』に檜物師が家に削り花立る洲浜あり。今
も芋の台・何くれの台というものみな削り花也。
こうしたことから、その歴史は 1000 年に及ぶほど古いことがわかる。しかし、
材料が木であるうえ、つくりが非常に繊細で、傷みやすいし、また神事に利用
する11ことが多いため使用した後は焼却してしまい、年々歳々作り替えるため
か保存率が非常に低い。だが、調べているうちにわかったことは、群馬県立歴
−5−
史博物館に所蔵されている小正月のツクリモノ資料のうち 737 点が「上州の
小正月ツクリモノ」として平成 6 年 12 月 13 日に、国の重要有形民俗文化財
に指定され、
『国指定重要有形民俗文化財 上州の小正月ツクリモノ』として
まとめられている。
●手元にある「削りかけ」
今、筆者の手元にある「削りかけ」は、大きく分けて 5 ヶ所で造られたもの
である。最初に出会ったものは既に紹介したように、埼玉県秩父郡東秩父村で
造られたものと鷹野禎三さんが造られたものである。鷹野さんのものは図(5)
をご覧いただきたい。それをきっかけに次に入手したものが山形県米沢市の
「笹
野民藝館」から購入したもので、
図(4)に見られるように花とつぼみだけを「削
りかけ」の技法で作り、それを実際に山から切り出したツゲの木に刺してある。
秋田県湯沢市にいる教え子に「削りかけ」の話をしたところ、早速湯沢市内
の「にごう商店」から送ってくれたものが図(6)。これは秋田県横手市にお住
まいの高橋幸一さん(77 歳)が造られるもので、花も木もすべて削りかけの
技法が用いられている。花の部分は笹野のものと同じように見えるが、色の付
け方が異なっていることと、こちらの方にはドロノキ(白楊)12を鉋で薄く削
り出した経木状の板を材料にした菖蒲が添えてある。色の付け方が異なってい
ると述べたのは図にみられるように、笹野のものはまったく色をつけていない
か全面的に色づけをしているのに対して横手のものは花の周囲、もしくは花の
中心部に色づけしている。
笹野のも横手のも、いずれも冬期に生花を手に入れにくかった時代、仏壇用
に造られ始めたというのが世間一般に伝えられている説である。したがって、
仏壇用の花を送ってよいものか、と湯沢の教え子から連絡があったことが印象
的であった。筆者にしてみれば民藝の一部としての価値を認めるばかりである。
笹野のものは 2 ヶ月ほどでツゲの木の方が枯れてしまうため、筆者は花の部分
だけを保存している。
2008 年 1 月 29 日の『岩手日報』に、岩手県下閉伊郡川井村小国の農業、湯
沢 孝さん(80 歳)が「なり木」と呼ばれているものを立てていることが報
道された。早速、岩手日報社と連絡をとり、また湯沢さんにも連絡をとって写
。
「なり木」も豊作と無病息災を祈るために行われてきた
真を拝借した(図 7)
−6−
風習だそうだが、こちらは冬のため葉を落とした本物の栗の木に、クルミの木
とコメの木(ミツバウツギ)で造った「削りかけ」とドロノキを材料にした経
木状の板三枚を貼り合わせて造った「カナガラ花」と呼ばれる花を刺したもの
である 13。笹野のものと「なり木」との共通点は、葉があるかどうかは別にし
て本物の木に「削りかけ」を刺している点である。ただ、多くの「削りかけ」
がニワトコやコシアブラ、あるいはヌルデの木を用いているのに対して湯沢さ
んの「削りかけ」はクルミの木とコメの木を使っている点が大きく異なってい
る。クルミの木の皮と云えば、東北ではこれを編んでつくるカゴが良く知られ
ている。しかも高価なものだ。
「カナガラ花」とはその材料に由来する名称で、
「カナガラ」とは、宮沢賢治
の作品『春と修羅』詩稿補遺「葱嶺「
(パミール)先生の散歩」に、次のよう
に表されている 14。
向ふかがやく雪の火山のこっち側/何か播かれた四角な畑に/鉋屑(カナガ
ラ)製の 幢幡とでもいふべきものが/十二正しく立てられてゐて/古金の色
の夕陽に映え/いろいろの風にさまざまになびくのは/たしかに鳥を追ふため
の装置であって/別に異論もないのであるが/それがことさらあの高山を祀る
がやうに/長短順を整へて/二列正しく置かれたことは/ある種拝天の遺風で
あるか/山岳教の余習であるか/とにかく誰しもこの情景が/単なる実用が産
出した/偶然とのみ看過し得まい
このように「カナガラ」とはドロノキを鉋で薄く削った板状のもの、つまり
「鉋屑」を指すそうで、上に引いた詩にあるように地域によって「カナガラ」
とか「カンナガラ」と呼んでいるようである。
カナガラと直接関係する「削りかけ」が福島県郡山に伝わる「彼岸花」であ
る。「削りかけ」という表現を敢えて用いたが、この郡山のものは「削り花」
と言った方が良いかと思う。その理由は(図 8)に見られるように「削りかけ」
てはいないからである。これは湯沢さんが造る「カナガラ花」に赤、緑、黄の
鮮やかな色つけがしてあるものと、材料は同じカナガラを使ったチューリップ
である。チューリップは元来西洋から伝えられた花だから「カナガラ花」を現
代的に応用したものである15。
本稿で「削りかけ」という用語を使うことにした主たる理由は、既に紹介し
−7−
た群馬県利根郡みなかみ町東峰で農業を営まれている河合洪太郎さんと連絡が
その種類の多さ(図 9)と、
取れ、河合さんが「ボク市」16に出す「削りかけ」の、
すべてが必ずしも花でありながら花の形をしているわけではないためである。
「粥掻き棒」(図 11)と
図 10 に見られるように「穂垂れ」というのもあるし、
、小正月に小豆粥を食べるための「孕
呼ばれるもの17、あるいは「鶴」とか「亀」
み箸」などがある。
「孕み箸」と云えば、秋田県横手市の「削りかけ」に「ぼ
。これはお嫁さ
んでんこ」、
「ぼんてんこ」
、
「御祝棒」というのがある(図 12)
んのお尻を叩いて子孫繁栄を祈る風習に基づくものだそうである。もともとは
横手市郊外にある旭岡神社で行われる「梵天奉納祭」で売られていた「祝儀棒」
だが、本来は「御幣」のことで現在呼ばれている「ぼんてんこ」とは関係がな
いようである。しかし、現在の「ぼんてんこ」の使い道について、畑野栄三が
(1813)から引いている。
次のように山東京伝の『骨董集』
あるいは、ぼうたけ棒、又祝儀棒ともいふとぞ、これは羽州(今の秋田県)
にいにしへよりつたへて造る杖なり。毎年正月十五日道祖神のまつるとて、男
のわらはこれをもつを祝儀とす。むかしは女の腰を打しとぞ。これもかゆ杖の
遺風也。(畑野:73)
「梵天」については、折口信夫が次のように述べている。
「梵天には更に御幣の要素をも具へて居るのである。京阪では張籠(ハリコ)
のことをぼてと謂う。此はぼて/”
\と音がするからぼてと謂うのか、と子
供の時は考へてゐたが、此もどうやら梵天と関係がありそうだ。我々上方育ち
の者には、梵天と謂へば直ちに芝居の櫓などに立てた、床屋の耳掃除に似た頭
の円く切り揃へられた物を聯想するが、関東・北国等の羽黒信仰の盛んな地方
では必しも然らず、ぼんてん即幣束の意に解して居り、其形状も愈削り掛け又
はいなうの進化したものヽ様に見えて参る。
(図 13)と呼ばれる「削りかけ」の一つは「みずひき」で作
花でも「棚花」
られているような印象を与えるもので、
「御神酒口(おみきぐち)
」を連想させ
る竹で作られた民藝品に似ている。
「御神酒口」とは、正月の神棚を飾るため、
左右一対で御神酒徳利の口に挿すもの(図 14)で三百年以上の歴史を持つと
−8−
云われている。長野県松本地方に伝わる御神酒口は、1961 年 9 月 20 日「重要
有形文化財」に、1998 年 10 月 20 日には「選択無形民族文化財」に指定され
ている。これは「御神酒口」と呼ばれる以外に「みきぐち」、「みきどめ」
、
「く
ちさし」、「おみきのくち」など伝承地方により、その名前、形状、そして材質
も異なるようで、「竹」ばかりか「檜(ひのき)
」、
「水引(紙)
」と多様な材料
が使われるそうである。とすれば、上の「棚花」がこれにあたると考えても良
いであろう。「御神酒口」も五穀豊穣、家内安全 を願い、また先祖に感謝し、
心新たに新年を迎えようとして作られ、飾られるそうである18。
またこれに非常に良く似た、竹の「削りかけ」に「万年青」と呼ばれる民藝
。
品があることもここに添えたい(図 15)
●「削りかけ」が行われている(た)主な地域いくつか
『朝
そろそろ会誌原稿の〆切りが近づいている、と思った 2009 年 1 月 17 日、
日新聞』朝刊の‘be on Satuday e3’で高橋睦郎氏が担当されている「花をひ
ろう」というコラムに「餅花」というエッセイが寄せられている。そこに本稿
に直接関係する俳句が二首紹介されていた。以下に引くのがそれである。
「正月も影はやさびし削りかけ」
蓼多
「素麺の看板ちかし削りかけ」
素丸
蓼多は江戸中期の俳人大島蓼多(1718-87)のことであり、素丸は本名を溝
口勝昌(1713-95)といい、幕府に仕えて御書院番を勤めた幕臣の旗本で、俳
諧に親しんだ人物という。いずれも江戸で活躍していたことを考慮すると、か
つては現在の東京でも「削りかけ」が行われていたことがわかる。笹間良彦著
『復元江戸生活図鑑』(1995 年初版、柏書房)には、江戸にみられた「削りかけ」
の復元図が紹介され、後述するが「削掛売り」までいたことも紹介されている。
また江戸における文化は東京にまで引き継がれ、大正 12 年(1923 年)9 月 1
日の午前中に突如として発生した関東大震災以前まで遺っていた(折口、第
16 巻、418)。
これまで「削りかけ」を小正月特有のこととして論を進めてきたが、素丸の
句に「素麺」を見て、
「削りかけ」は小正月に限ったものではないのか、という
−9−
疑問が湧いてきている。このことについては東京のところで触れることにする。
「
『削りかけ』が行われている(た)主な地域いくつか」などという極めて心
許ないタイトルにしたのは、今、こうして原稿を書いている間にも新たに「削
りかけ」文化があった地域が現れてくるからにほかならない。神奈川県などは
その好例である。
△北海道
アイヌ民族の「イナウ」は現在もアイヌ民族の間に、神事に使う道具として
受け継がれてきている文化だけによく知られている。また本州にその文化が維
持されてきていないためか、多くの人たちは本州の削りかけの大本をアイヌの
イナウと位置づけている人が多い。これについては先に触れた。この考えを否
定している折口信夫の論「稲穂」
(いなほ)が「イナウ」へという考え方にも
まだ疑問が残ることについても上で触れた。
カナダの先住民ハイダ族に伝わるトーテムポールにカラスがあしらわれてい
ることがあるが、岩手県早池峰の神楽の面によく似たものがある。が、偶然似
ているだけで直接の関係があるわけではないだろう。そう考えてみるとアイヌ
民族のイナウが先か本州の「削りかけ」が先かなどを論ずることはないかと思
われる。重要なことはそのいずれもが神仏に供えられ、五穀豊穣、収穫豊作、
子孫繁栄、魔除けなどと関係する、日常使われる道具の一つとしての「民藝」
ということだろう。今、この技術が阿寒湖のアイヌコタンにある「デボの店」
のオリジナル作品「イナウ人形 オテナ」のヒゲや髪の毛に活かされている(図
16)。
△埼玉県秩父地方
筆者が最初に眼にした「削りかけ」は「はじめに」で述べたように埼玉県秩
父郡東秩父村だったわけだが、群馬県立歴史博物館の学芸員神宮善彦によれば、
「特に西北部の秩父地方を中心とする山間部に濃厚に伝承」されているそうで
ある。また「群馬県奥多野地域と共通するものが多く見られる」と記されてい
る(神宮:7)。
、先を二つに割っ
手元にある「削りかけ」の内、東秩父からのものは(図 1)
た竹の一方に「削りかけ」が刺さっていて、もう一方には削らないままのヌル
デの木が刺さっている。神宮によれば、二つに割った竹は「アワガラ」と呼ば
れ、また削らないままのヌルデの木は「穂」を表しているとしている。またこ
− 10 −
のほかに紙漉職人の鷹野さんから寄贈されたもの(図 5)は、白い曼珠沙華に
似た削りかけと皮を剥いただけのニワトコの木が先を二つに割った竹に刺さっ
ている。また鷹野さんが寄贈してくれた「削りかけ」には「十六はな」(図 2)
と言って、一本のニワトコの節々に削りかけを入れているおよそ一間(180cm)
ほどのものである。この種の削りかけには長いものでは 2 メートルを越すもの
まであるという。なぜ 16 個の削りかけが付けられているかは鷹野さんも知ら
ないというが、神宮の調査では、蚕の足が 16 本あることに由来し(神宮:
162)、蚕の神様「おしら様」のもので、特に大きいものを神棚近くの鴨居に
掛けたり、お勝手にあげられたりしたようである。地域によっては歳神様、大
神宮様、床の間に供えるところもあるという。また麻の畑に立てる地域もある
という。折口信夫によれば、山の神が人間化して山人として考えられるように
なり、時を定めて里に出てきて農作物の豊作を祝福するようになったという。
その山人が「杖を衝き、土地を踏んで、土地の精霊を圧服し、先が裂けた杖を
倒さに立てヽおく。これを花と見て、翌年の田畑の作物の豊凶を占。此杖は、
削り花、削り掛けの起りをなすものであり…」
(折口、第 15 巻、109-10)と
いうことである。
「十六はな」は一本のニワトコの木に削りかけされるばかりでなく、二本の
ニワトコの木、それぞれに八段削りかけを施し、二本で「十六はな」にするこ
ともあるという。一対にするのはおそらく豊穣を祈る上で、それぞれが男女を
象徴しているのかもしれない。
「道祖神」や「カドニュウドウ」
(門入道)19の
ように昔からの信仰には男女を並べて子孫繁栄を祈るものが多いからである。
神宮によると「十六はな」以外に「十二ばな」や三段、五段、七段に削りか
けをのこしたものもあるという。松飾りは昔なら元日から 15 日まで、現在なら
普通 7 日まで飾った後取り外すが、削りかけは、神宮によれば「19 日の風に当
筆者のようにこれを民藝の資料として扱い、
てるな」
といって 18 日までに片付け、
また評価する者にとってはなんとももったいないことだが、焼却してしまうとこ
ろが多いそうである。神宮の調査によれば北群馬郡子持村上白井では、神棚に
。
供えた後、蚕を飼うときに囲炉裏で燃やしたそうである(神宮:166)
△群馬県
群馬県については既に紹介した『国指定重要有形民俗文化財―上州の小正月
ツクリモノ』に紹介されているように、かなりの種類の「削りかけ」が作られ
「削り掛けを中心に 200 件 463 点が『け
ている。この報告書(p. 6)によれば、
− 11 −
ずりばなコレクション』として群馬県指定重要有形民俗文化財となった」と記
されており、また昭和 58 年には県教育委員会によって『群馬の小正月ツクリ
モノ』の映画制作が行われ、また昭和 61 年からは、5 年間にわたり小正月の
ツクリモノの緊急調査も実施された、と記されている。そのことからも群馬県
にこの文化が広く行き渡っていたことが推測される。県立歴史博物館には、現
在、収蔵数が 2,000 点をはるかに上回るという。
利根郡みなかみ町の河合さんについては既に触れた。
△山梨県
山梨県南都留郡富士河口湖町にある湖「西湖」に設けられた「西湖いやしの
里根場(ねんば)野鳥の森公園」では毎年園長の三浦征治朗さんを中心に 1 月
24 日に、神棚に供えるための花として「削りかけ」を教え、また販売する行
事が行われているそうである。このことからこのあたりにもこの文化があった
と考えてよいだろう。このことについてはテレビ番組『遠くへ行きたい』で放
映されたそうである20。
筆者が三浦氏と直接連絡をとったところ、2009 年もこの伝統を維持すると
のことであった。目下、氏の削りだしたものが届くのを待っているところであ
る。飯田龍太、他が監修した『新日本大歳時記』の「削掛け」の項には、何本
かの薪を竹のタガでくくり、そこに赤い実のついた南天と赤と白の餅玉(繭玉)
を飾り、てっぺんに「削りかけ」を添えたものが民家の玄関前に置いてある写
。いつ頃撮影された写真か説明書きがないが、
真が掲載されている(本誌 p.34)
「削りかけ」の使い方の一つの例である。
△秋田県
既に述べたように筆者と直接連絡が取れている秋田県の「削りかけ」師は横
手市神明町にお住まいの高橋幸一さん(77 歳)で、この技法を継ぐ最後の人
と言われている21。この高橋さんについて、畑野は次のように記している。多
少引用が長くなるが、現在の高橋さんでこの伝統文化が途絶えることを考える
と敢えて紹介したい。
「初代の高橋権治は南部藩の家中に生まれたが、天保四年(1833 年)の大飢
饉に脱藩し横手に来て岩崎藩の家中となり、高橋姓を名乗った。小禄であった
ので祝儀棒や造花を手内職に作ったのが始まりといわれる。初代はアイデアマ
ンだったらしく、削り掛けの縮みの手法は、一つは道具によるもので、当時道
− 12 −
具類は他見を許さぬため、自分で工夫して作ったと伝えられている。85 歳の
長寿で、明治四十四年に亡くなったが、その手法は権治の子市五郎から、寅蔵、
幸蔵、そして幸一さんへと継がれた」
(畑野:72)
湯沢市の「にごう商店」は高橋幸一さんの「削りかけ」を 3 月の彼岸のとき
に商っていて、
「削りかけ」を「削りっぱな」と呼んだり「彼岸花」と呼んだ
りしているそうである。後者の呼び方をするのは 3 月のお彼岸にかけて仏壇用
に販売するからかと思われる。ただ、興味深いことは、すでに触れたように福
島県郡山のと同じように、高橋幸一さんがドロノキを鉋で経木状に薄く削った
材料を使って菖蒲の花を添えていることである。高橋さんの造られる「削りか
け」を扱う店は花屋ではなくおせんべいなどを商っていると「にごう商店」の
奥さんが語っていた。宮城県などでも現在では花屋も扱うようだが、元来は
八百屋が一手に引き受けているそうである。その理由は、花屋はもともと八百
屋から分離して成立した過程があるからだそうだ22。
秋田県大館市出身の方の話では、ずいぶん以前には大館あたりでも、いわゆ
る色をつけたカナガラ花(地元では彼岸花と呼んでいる)を墓前に供えたとい
うことである。ところが大館市ではこの文化が今でも受け継がれ、大館市田代
では高齢者生産グループ「寿会」が会員 20 名で 1 日およそ 1000 本のカナガ
ラ花を造っているという。作り始めるのは小正月の 15 日からで、3 月のお彼
岸まで造るそうである。その形は福島県郡山のものとほぼ同じものである。
△青森県
青森県については五所川原、中里(中泊)あたりの知人を頼りに調べたが、
なかなか情報がつかめなかった。ところがこの秋田県大館の出身の方は現在青
森県青森市にお住まいなのだが、その方の姑が十和田のご出身で、十和田あた
りでは色をつけたものと色をつけないカナガラ花の他に嘴に色をつけた鳥も供
えたということである。そうした花や鳥は青森県六ヶ所村(上北郡)倉内(字
石神)の農家の老人が野良仕事がない冬に作っていたとのこと。
△山形県
山形県で「削りかけ」が行われていたことが明らかなことは、既に触れたよ
うに笹野一刀彫で知られる「おたか(鷹)ぽっぽ」にその技法が用いられてい
るからである。笹野一刀彫が一般に知られるようになった 23のは、米沢の藩主
上杉鷹山が財政建て直しのために工芸品の製作を奨励してからと言われてい
− 13 −
る。鷹山の「鷹」を象徴するために基本的にはタカの形をした鳥を「削りかけ」
の技法で削り出し、それが現在では尾長鶏やフクロウ、あるいは花鳥(図 17)
に応用されているのである。材料はもっぱらアブラッコ、つまりコシアブラを
使うようだ。
戸田によれば笹野一刀彫は歴史的に、坂上田村麿呂が蝦夷征伐の際、戦勝祈
願に開基した千手観音と共に信仰玩具として興したということで、
「削り花」
の由来について既に触れた『古今和歌集』よりも遙かに古い歴史をもつことに
なる。
△福島県
福島県については既に紹介したように、
郡山を中心にドロノキからつくる「カ
ナガラ花」に鮮やかな色つけをしたものが現在にいたるまでモダンな意匠を加
えられて、「削りかけ」の伝統が続いている。またスーパーなどでも彼岸に販
売されているそうで、筆者の手元にあるものも市内のスーパーを経由して購入
したものである。その後、郡山市内にあるスーパーマーケット、ヨークベニマ
ルの生花部の方が見本に入ったという彼岸花を送って下さった。現代的なセン
スで造り、赤、黄、緑に色づけしたカナガラ花である。 △岩手県
写真に見る「なり木」として「削りかけ」の伝統が遺されてきたが、2009
年 1 月 17 日に湯沢 孝さんが造られたというクルミの木の削り花、コメの木
の削り花、それにドロノキのカナガラ花が送られてきた。同封の手紙によれば、
今年は二本の「なり木」は無理で一本だけにしたそうである。湯沢さんが造る
ことを辞めると、岩手県からはこの文化が消滅すると考えられる。
ただ、本稿を執筆中に岩手県下閉伊郡川井村にある国指定重要有形民族文化
財北上山地民俗資料館と連絡を取ったところ、2008 年 2 月には子どもたちに
「削りかけ」の文化を伝えるプログラムを組んだということであった。ただ、
残念なことに 2009 年にはその予定がないという。
岩手県の「削りかけ」については、民俗学者柳田国男が日本民俗学の祖と呼
んだ江戸中期の国学者で民俗学者の菅江真澄(本名 白井英二、1754-1829)が、
「かすむこまかた」に、次のように書きのこしている。
前沢ノ駅(胆沢郡前沢町)になれり。此のあたりの家々に、水木の枝に蚕玉
とて、玉なす餅を、つらぬき附て梁にたてり。勝軍木24ノ菊ノ削花を幾英となく、
− 14 −
某の木の枝ならん、それにひしひしととりさしたり。また、こと木の枝をおし
曲ヒ(ママ)て、青小竹の箭の三尺ばかりなるを矧て、その弓の上彌より白麻
を乱し附て、艮門の方にはなたんさまして、削花の木の中つ枝に結ひ添へて門々
たてり。こは十五日にしつる歳の祭ながら、いまはた残りける也。延喜式に、
御仏名とき、菊の削花なン(ママ)ど聞え、また正月門戸に削花挿むは、いと
。
いと古きためしにこそあらめ(菅江:336)
下閉伊郡川井村と胆沢郡前沢とではずいぶん離れた位置にあることを考える
と、
「削りかけ」文化は東北地方ではかなり広範囲に行われていたと考えてよ
いかと思われる。
△宮城県
冬期、生花が手に入らない時代にコシアブラを 11 月下旬には山から伐りだ
して、年末から墓参り用の花として造り、小正月に売り出す文化があったとい
う。造る人たちはもっぱら農閑期にある農家の人たちであった。宮城県の「削
りかけ」も花の部分だけで生のツゲの枝に刺したものを販売した。その点では
山形のものと同じである。仙台出身の知人の話では、現在でも仙台市から三陸
にかけては 3 月のお彼岸によく使われているという。
宮城県における「削りかけ」について、財団法人宮城縣史刊行会が 1957 年
10 月 20 日に刊行した『宮城縣史 民俗 3』(21 巻)に論文「誕生と葬制:削
り掛(削り花)」が掲載されているそうである25。
その要約に「盆や彼岸になると、寺街の花屋に色とりどりの造花が売り出さ
れる。これを『削り掛』
『削り花』という。死花が立てられぬと、死人があの
世に行けないといわれ、豪華な花を手向けられない庶民が、その代わりに『削
り掛』や紙花を供えたのであろう。
」とある。
仙台市の(有)八丁堀生花店の話では、現在でも 3 月の彼岸のころになれば
八百屋を始め、一般の花屋でも扱う店があるということだ。写真で見る限り、
他県のものと比較してその花の削り方にきめ細かさがあるように思われるが、
ツゲの生木に削りかけを刺すところは米沢のものと似ている。早く実物を入手
したいものである。
△新潟県
「削りかけ」の文化が日本のどの範囲で行われているのかを調べるために、
「削
りかけ」ではなく「削掛」でネットサーフィンをしたところ、新潟県長岡市立
− 15 −
中央図書館が「ながおかネット・ミュージアム」という題目で所蔵する「貴重
資料」を公開していることがわかった。その中に「長岡城下年中行事図絵 削
掛 鬼木とも勝軍木(樗)を用ふ」があった。その図(本誌 p.34)にはどの
ように「削掛」を式台口(表座敷と玄関などとの間に設け、客にたいして送迎
の挨拶をする部屋)や玄関口に設けるかを図解したものである。
「解説」には「1
月 14 日、家の中に繭玉を、そして門前には削掛をつるすと、邪気を払い、福
を招くといわれています。鬼木も同様に門前にたてかけるといいます。削掛と
鬼木は勝軍木(ぬるで)からつくられるもので、お歯黒に使う五倍子を取る木
です」とある。したがって長岡にも「削りかけ」の文化があったことがわかる。
因みに「五倍子」とは「附子」とも呼ばれるヌルデの若芽・若葉などに生じる
瘤状のものでタンニン材となる。
△京都
京都八坂神社の神事に、大晦日から元旦にかけて行われる白朮祭(おけらま
つり)がある。鑽火で朮を交えたかがり火を焚き、参拝者がその火を火縄に移
、
して持ち帰り、雑煮を煮るという習俗である。江戸後期の天明 7 年(1787 年)
秋里籬島が『都名所図会』
(1780)の続編として出版した『拾遺都名所図会』
に「祇園削掛」として紹介されているものだそうで、そこに次のように「削り
かけ」が紹介されている26。
祗園削り掛けの神事(元朝寅の刻なり。社説に曰く、天照大神の御祭事とか
や。
)毎歳除夜子の刻より社参の諸人雑言を恣にし(ぞうごんをほしいままに
し)、他人を誹謗(ひぼう)す。仮令(たとい)その声を聞き、その人を知る
といへどもこれを争はず、これを恨みず。邪義の祓ひにして勧善懲悪の意(こ
ころ)ならんか>その雑言に勝ちたる方、迎年の吉兆なりとし、また参詣下向
の道条(みちすじ)にても放言するを、世俗謬って(あやまって)これを削り
掛けといふ。
しかし、ここでの「削りかけ」は、
「おけら火」を移すためのものとして木
を削った「削り屑」を指している。上述の「カナガラ」と関係するが使い方に
大きな違いがあるが、神事という点では共通点がある。
京都では、当時、
「削掛」神事とも言われ、参詣人が人の悪口を言い合い、一
年中ムシャクシャしていた腹の虫を吐き出して気を晴らす風習だったようだ。
− 16 −
また舟屋で知られる京都府伊根町の浦嶋神社(通称宇良神社)では毎年 3 月
17 日に「削り掛け神事」が行われるそうである27。この神社における「削り掛
け神事」は、役場の方と浦嶋神社の宮司さんの話によると、「コシャブラ」つ
まり「コシアブラ」の木を刃に丸みをつけた鉋で幅 5mm ほどの長い削り掛け
をつくりそれを繭を想定した俵型のものと、さんだわらぼっち(俵の蓋のこと)
を想定し、輪切りにした竹を軸に丸く巻き付けたものとを造り、いずれもその
上に真綿を巻き付け、チシャ(萵苣)の木にそれぞれ 45 個ずつ吊すそうであ
る(本誌 p.33)。繭が蕾を象徴し、さんだわらぼっちが咲いた花を象徴するそ
うで、吊された木を立花(たちばな)と呼んでいる。この立花を 3 月 16 日の
夕日が沈む頃に神社に納める花納め行事が行われ、翌日、
「明神花」として参
拝客に福餅と一緒に振り撒く習わしがあるという。
このほかに浦嶋神社ではくす玉その他のものを飾りつけ、五穀豊穣や商売繁
盛・家内安全など、長寿や豊漁・招福などを祈る福棒(大きいものは直径
15cm から 18cm、長さ 50cm、小さいもので直径 5cm から 6cm、長さは同じ)
を 12 本造り、これを当てるための御籤が行われる。そのためこの神事は福棒
祭とも呼ばれ、福棒が当たった人は一年の幸いを独り占めにしないように隣近
所の人たちを招いてお振る舞いをしなければならないそうである。
△奈良県
〔信仰〕山の神に供える削掛。
十津川郷民族語彙28に「ケズリバナ(削り花)
山の神様のカンザシだという。
(上湯川・西川筋・平谷・折立・神納川筋・谷
垣内・那知合・葛川筋・高瀧・樫原・小原・小森・猿飼・旭迫・旭中谷)」と
ある。現在ではおこなわれてはいないのだろうが、かつてはこの文化があった
ということだろう。
△東京都
「鷽替へと神事と山姥」に「東京邊も、地震の為に、
折口信夫全集第 16 巻、
習慣や文献が失われたが、地震前には京橋・日本橋邊に、けづり花を軒にかけ
て居る家をよく見かけた。鷽は此けづり花から出たので、初はあんな形ではな
かったらしい。鷽の領の切り込んで、さヽがした部分は、けづりかけの痕跡を
残したものである。が、けづり花・けづりかけとは、どうして発生したもので
あろう」と述べ、既に案内した京都、八坂神社の「お朮参り」に触れている。
因みに東京における「鷽」は亀戸天神社や湯島天神で「鷽替え神事」として毎
年 1 月 24 日~ 25 日に守られている。亀戸天神社の「鷽」は尾羽に単純な削
− 17 −
りかけの技術が取り入れられている(図 18)
。
また『復元江戸生活図鑑』には「削掛売り」の後ろ姿の図(本誌 p.35)が
示され、
「正月 15 日には柳の枝の茎を削ってチリチリの房のようにした削り掛
けを軒先に吊して縁起としたがこれを流し売りする削掛売りもあった」と解説
している。またその「削掛売り」のことだが、京極夏彦は『前巷説百物語』
、
『巷
説百物語「帷子辻」』に登場させる小悪党の林蔵に二つの名前を与えている。
「靄
船の林蔵」と「削掛の林蔵」で、後者の役柄では林蔵は江戸で縁起物を商いな
がら損料仕事を請け負う人物として描かれている。縁起物のなかに「削りかけ」
が入っていたのだろう。しかし、それにしても「削掛売り」という商売が成り
立つならば、「削りかけ」が果たして小正月特有のものだったのだろうか、気
になる。既に朝日新聞朝刊から引いた素丸の句「素麺の看板ちかし削りかけ」
は一年のいつ頃詠まれたのだろうか? 俳句の世界では素麺は夏、秋、冬の季
語である。筆者は俳句のことは分からない。したがって素丸の句はどのような
情景を詠んだものなのか? 『新日本大歳時記』の「削掛の甲(けずり甲)」の
項に「削掛の甲の檜の香部屋ごめに」
(上野章子)という句が引かれている。
五月の節句を詠んだ句である。この項の執筆を担当する俳人辻田克巳は、
「削
掛の甲(けずり甲)」について「五月の節句の飾り物の一つで、邪気払い、招
福の印に、柳や檜で造った削掛を甲の挿頭とした」と説明している(飯田:
418)。「削りかけ」は小正月に限られたものではなかったようである。
△神奈川県
秦野市今泉、足柄上郡山北町中川あたりで「削りかけ」、「粟穂稗穂」が行わ
れていたことは、2008 年 5 月 10 日現在の神奈川県立歴史博物館常設展示品
目録から分かる。2009 年 1 月 28 日に訪れたところ山北町で蒐集された「削
りかけ」3 本と「粟穂稗穂」3 本とが展示されていた。そのほかにも収蔵され
ていることは学芸員から聞いている。
展示されていた「削りかけ」は、いずれも 30cm ほどのヌルデの木の中心に
ある節に向けて削りかけを施したものである。東北学院大学の鈴木通大29によ
れば、
丹沢山麓である山北町地域ではカツノキ(勝軍木)
、すなわちヌルデの「細
い部分や枝の部分などは粟・稗・稲の穂などを形取った粟穂稗穂、削り掛け、
粥掻き棒などの信仰・儀礼用具に使われた」ということで、関東近県で行われ
ていた(いる)ものとほぼ同じものと考えてよい。 − 18 −
●材料
「削りかけ」に用いられる木の種類はほぼ決まっているようである。かつて
は冬至に神苑吉方に自生するニワトコが良いとされていたようだが、やはり基
本的には縮れを出しながら削る上で削りやすく、また皮を剥いだ木肌が白く香
りが良いもの、あるいは魔除けや厄払いなどのためには、棘のあるものや臭い
の強いものも選ばれたようである。
△アイヌ民族
ミズキやヤナギ(阿寒工芸協同組合の秋辺日出男さんの話では、アイヌ語で
は「ススニ」と言って「イナウ」にも用いるそうである)
、ハシドイ、キハダな
どを用い、病気払いや魔除けにはタラノキ、センなどの棘のある木、エンジュ
やニワトコなどの臭気のある木も、
用途によって使いわけされているようである。
△本州
、
コシアブラ、ニワトコ、トネリコ、クルミの木の皮、ヌルデ(オッカド)
ヤナギ、コメゴメ(ミツバアオイ)、カズガラボウ(楮の皮を剥いたもの)
、カ
、マユミ、カショウシン、
ズガラ(楮)
、ミズブサ、コメの木(ミツバウツギ)
ムラサキシキブ、マメンブチ(ハナ木)
、ハギ、ミズキ、エンジュ。
因みにエンジュは昔から魔除けや鬼門除けとして、また幸運を招く木として
床柱に使用された縁起のいい木と考えられている。またヤナギは一般に生命力
がある木と考えられている。
●道具
マキリ:いわゆるキリダシとかキリダシナイフと一般に呼ばれる「切出小刀」
(キリダシコガタナ)で、主に漁師や、職人が魚をさばいたり木を削ったり、
小細工をしたりするコガタナ(小刀)のこと。また、アイヌ民族や東北地方の
マタギや、日本海側の猟師たちが使うナイフも「マキリ」と呼ばれる類の小刀
がある。漢字で表すときには「間切り」
「魔切り」
「魔斬り」などと表記される
ことがある。
マキリにはその形によってかなりの数の種類があるようで、以下にその名前
をあげておく。
イナウケマキリ:これはアイヌ民族に伝わるナイフでイナウを造るのに都合
− 19 −
がよいように先が鷹の嘴のように曲がっている。そのほかアイヌ民族に伝わる
マキリには次のようなものがある。
レウケマキリ=曲がった小刀で皿や鉢などを造るのに用いる。
リマキリ=動物の皮を剥いだりするときに用いる小刀。
メノコマキリ=女用小刀。男性のものに比べて小型で山菜や木の皮を剥ぎに
使う。
花掻き鉈:普通の鉈の刃の部分の幅が狭く、先端が曲がっている。
(図 19)
これはハナカギガマ、マガリセン、ハナナタなどとも呼ばれている。河合洪太
郎さんが譲ってくださったものである。
この他に山形県米沢ではサルキリやセン(図 20)とかチヂレなどがあると
いう。「などがあるという」と非常に曖昧な言い方をしたのは、
「削りかけ」を
する人が自分の使いやすいように工夫し、また独自に鍛冶職に注文するため現
代風に言えば「企業秘密」的なところがあって、一般には詳細な写真を撮った
りすることが許されないと言われれている。図 20 は米沢出身の学生、平井庸
子さんが知り合いに頼んで撮影させていただいたものである。
●「削りかけ」の目的と種類
さまざまな形があるものの大方は既に述べてきたように、上に紹介したコシ
アブラ、ニワトコ、トネリコ、ヌルデ、ヤナギなど、加工しやすい木の枝を削り、
茅花(ツバナ、茅の穂)の形などに似たものにして養蚕、五穀豊穣、子孫繁栄
を祈ったり、邪気を払い福を招くことが主たる目的で、家の内外の神仏に供え
た。茅花の形以外にも、その種類は多い。以下に主なものを挙げる。
△「花」
山形県米沢市や秋田県横手市、あるいは岩手県下閉伊郡川井村小国、群馬県
利根郡みなかみ町、埼玉県秩父郡東秩父村御堂の「削り花」のように花の形が
明確なものがある一方、
一本のニワトコの木に十六段のはなを削りかけた「十六
はな」に代表されるように、
「花」の形が不明確だが一本の木にいくつもの「削
りかけ」を付ける「段花」
、
コメの木に一段の削りかけを縮れるように入れた「な
げはな」
(なげばな)
、ヌルデの木を鉈割にしたものに左右対称に削りかけを施
す「はな」などが「削り花」
、
「掻き花」と呼ばれるもので、一般に生の花が手
に入らない時代に神棚やその他、家の内外の神仏に供えるものとして造られた。
− 20 −
その中に、既に記した「粟穂稗穂」が含まれ、また後述する「穂垂れ」などが
含まれている。
家の内外の神仏といった曖昧な表現をしたが、仏壇、神棚、歳神棚、恵比寿様、
釜神様、井戸神様、その他、便所、馬小屋、門口、納屋、倉、物置、墓地の入り口、
墓地、堆肥場、堆肥舎、稲荷様、屋敷稲荷、馬頭観音、庚申様、薬師様、道祖
神様、おしら様(蚕神)
、虚空蔵様、地蔵、鎮守様、村の神様、床の間、玄関、
山の神、機神様、氏神様、石造物などさまざまなものに神を見ていたのである。
△「車花」
「車花」は菊や曼珠沙華、その他の花に似せて削りかけたもので、多くは竹
の先を二つに割った「アワガラ」と呼ばれるものに刺し、二本一組で歳神様に
供えたり、小正月飾りとして鴨居の一カ所に飾ったり、神棚にあげたり、仏壇、
屋敷神、蚕神、荒神様、土蔵に備えたり、さまざまに用いられた。また、門松
を片付けた後に飾ったりもした。
△「縮れ花」
「縮れ花」は削る部分が縮れるようにしたもので、繭玉と一緒に飾るところ
が多い。「穂垂れ」ともいう。小正月が終わり、蚕を飼い始めるときに縁起物
としてマブシ(蚕具の一つで、糸を吐くようになった蚕を移し入れて繭を作ら
せるための用具)に備えたり、
「花」や「車花」とおなじように用いられている。
また門松を片付けた後のしめ縄のところに吊す「門穂垂れ」として用いられた
り、あるいは繭玉を刺したボク(木)に掛け、神棚に供えた。その他、
「花」
、
「車
花」などと同じようにも用いられた。
△「穂垂れ」
「縮れ」を造るときは手前から向こうへ削るのに対して、手前に向かって削
りかける方法をとるということである。一回りしたら木を輪切りにして仕上げ
る。長いものは 1m にも及ぶ。
△「粥掻き棒」
「粥掻き棒」は小正月の 15 日、小豆粥(十五日粥ともいう)を掻き混ぜ、そ
の年の豊作を祈ったり、棒についた粥の付き方で作高を占った。普通、粥がつ
いたまま半紙に包んで水引きで縛り、神棚に上げる。田植えのときに水口へ柳
の箸と一緒に立てる。
△「孕み箸/孕み棒」
「孕み箸/孕み棒」は小正月の 15 日に小豆粥、粥(十五日粥ともいう)を食
− 21 −
べる際に用いた。神宮によれば、家族の分以外は神棚、仏様、床の間用とする。
蚕の「コシリ」(蚕糞)を取ることにも用いたという。
△のし花(伸し花))
「縮れ花」と異なって縮れをまったくつけずに削りかけたもので、玄関口に
長く吊されるもの。縮れを出さないようにするためには、削るそばから手で抑
えて縮れないようにするのが一苦労のようである。ただ造る人にとっては縮れ
を出すよりは楽なので「削りかけ」を習得する上では習い始めにするという。
△投げ花
家屋外の神仏や墓地に供えるための「削り花」
。
△男根
五穀豊穣、子孫繁栄のために造られる「削り花」
。
△「削りかけ」
京都、八坂神社の「おけら詣」に用いられる「削りかけ」は柳と檜のいわば
鉋屑で、聖火を移すための材として用いられた。
△「まゆだま」「さんだわらぼっち」
京都府与謝郡伊根町本庄浜の浦嶋神社における「削りかけ」は表面からは「削
りかけ」が見えない状態になっている。削りかけはあくまでも繭玉やさんだわ
らぼっちの中身として使われている。
●おわりに
昨年の 3 月に埼玉県秩父郡東秩父村で見かけた民藝「削り花」は、世間が狭
い筆者にはまったく初めてのものであった。それがきっかけであれこれと調べ
てみたくなった。その経過中のことをまとめたのが本稿である。〆切りが近づ
いた今また、新しい情報を手がかりに地方のある町の役場に電話をしている次
第である。
筆者の年代では文献にあたるとかフィールドワークを行うことがまずしなけ
ればならないことだが、
「けずりはな」
、
「削り花」
、
「けずりかけ」
、
「削りかけ」
、
「削り掛け」
、「削掛」などをキーワードとしてネットサーフィンするといくら
でも情報が出てくることがわかった。しかし、現在にまでこの文化が生きてい
るところがどれだけあるかまでは、なかなかつかめないし、またどのような人
がこの技術を受け継いできているのかについても、まだまだ調査が行き届いて
− 22 −
いない。あるいは誰がこの文化を引き継いでいくのかについても調査がなされ
ていない。が、その一方で、これを国指定重要有形民俗文化財としている部分
もある。かつては大衆文化として社会に浸透していただけに、時代のなかで廃
れてしまっていることに気づいたときには、その技術も消滅してしまっている
ことに気づくのだ。あるいは昨今の門松のように簡略化されたり、モダンなデ
ザインが取り入れられたりしているうちに本来の姿が消えてしまっている。あ
るいはその材料すら消えてしまっていることに気づくことになる。
今後の課題として、地方へ出かけるたびにこの文化があったかどうかを尋ね
ては記録するように努力したいと考えている。また本稿を読まれた方で上述の
記述に間違いを見つけられたり、この文化は上述以外の場所にもあることをご
存じであったりした場合は、どうぞご連絡くださいますようお願いいたします。
註
1. 「すきふね」とは「漉舟」、つまり和紙を漉くための原料となるコウゾと
ミツマタ、それにトロロアオイを混ぜたものを入れる木製の大きな直方
体の桶のことである。
2.
小正月の飾り物。柳、榎、山桑、アカメガシワなどの枝に餅や団子など
をつけたもので、繭が豊かにできることを祈った。
3.
小正月にヌルデなどの木を途中まで削ったものを粟穂。皮をつけたまま
のものを稗穂として割って細くした竹に刺して庭や堆肥に立てて豊作を
祈った。呼称には各地の方言があてられるようで「アーボヒーボ」、
「ア
ボヘボ」、アーボヘーボ」
、
「アワボヒエボ」
、
「カッカラボッコ」
、
「コンコチ」
などがある。大方、神棚、釜神様、堆肥の上、家の入口、屋敷神様 、 作
神様、稲荷神社、仏壇、トボグチ(玄関)
、墓など家の内外の神仏に供えた。
4.
さまざまなものの形を模して造った飾り物で、かつては農家だけでなく
5.
養蚕や五穀豊穣を祈るための繭玉飾りや削り花を売るために 1 月 11 日に
一般家庭などでは大方五穀豊穣、子孫繁栄、魔除けなどに用いる
開かれる市。かつては関東地方各地で行われていたようだが、現在では
群 馬 県 中 之 条 町 だ け の よ う で あ る。http://www.raijin.com/rensai/
watashi/kiji/342.htm(1/4/ ’
09)
− 23 −
6.
http://www5e.biglobe.ne.jp/~hikawa-j/hikawanomori/niwatoko.htm
(1/4/ ’
09)
7. 「削りかけ」を「ケーダレ」(掻き垂れ)と呼ぶところもある。神宮によ
れば群馬県甘楽郡下仁田町上小坂あたりではそう呼び、「ジュウロクケー
ダレ」
(十六掻き垂れ)などと呼ぶ。なお折口信夫は「鷽替と神事と山姥」
0
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「古今集物名に、めど―馬道だが、平安宮廷では、
(全集第 16 巻、418)で、
殿中の建て物の中の薄暗い通い路を言ふ―にけづり花がかけてあったの
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を詠んで居る」として「率直に言へば、けづりかけが近世の名で、けづ
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り花が元の名であらう」と記している。
8.
アイヌ民族の神事に用いられる「削りかけ」で、①神への捧げ物、②神
へ伝言を伝える、③魔除けや清め、④それ自体を神とする、などいくつ
かの用途に分かれている。材料は、一般にミズキやヤナギ、キハダなど
を材料としている。魔除けや清めにはタラノキ、センなどの刺のある木、
エンジュやニワトコなどの臭気のある木を用いる。
9.
酒井勝軍(さかいかつとき、1847-1940)
、佐伯好郎(1871-1965)
、他、
天津教の教主竹内巨麿(1875?-1965)が秘蔵していたという神代起源と
称する古文献・神宝類に基づく『竹内文書』の影響を受けた人たち。
10. 笹野一刀彫実演販売家六代目戸田寒風「千数百年の伝統を守る古代笹野
一刀彫」の説明書による。このことについては調べたが、すでに土地改
良の際に遺跡関係のものを他へ移してしまい、現在では移した先も分か
らないということである。このことについて、米沢市の教育委員会と連
絡をとった上での話は本論に紹介した。また、戸田氏によれば「お鷹ぽっ
ぽ」の「ぽっぽ」とはアイヌ語で「おもちゃ」という意味だそうである。
11. 神事との関係については畑野栄三がその著書『全国郷土玩具ガイド』第 1
巻(pp. 108-9)で「本来、削りかけの手法は紙以前の四手であり、幣で
あると言われており、神の依代(よりしろ)として信仰の対象にされ、
日本古来から伝えられてきた習俗である」
と説明している。
「四手」
とは
「し
で」
(「垂」とも書く)
、すなわち神前に供する玉串、注連縄などに垂れ下
げるもの。かつては木綿(ゆう)を用い、後には今のように紙を用いる
ようになった。したがって「紙垂」とも記す。
12. 広辞苑によれば、ヤナギ科の落葉高木。ポプラと同属で、寒地に自生。軟
材で、箸・経木などの細工用。デドロヤナギ、ドロヤナギとも呼ばれている。
− 24 −
13. 「なり木」について、宮城県あたりには、「なり木責め」といって次のよ
うな言い伝えがあるという。 http://www.pleasuremind.jp/COLUMN/
COLUM011D.html (1/11/09)
「農家にはたいてい柿の木が植えられているものですが、小正月に家の主
人とその長男、または男の子と女の子というように二人が組になって柿
のところへ行き、
『成るか成らぬか、成らねば切るぞ』
、『成ります、成り
ます』などという掛け合いをしながら一人が木の幹に傷をつけ、もう一
人がその切り傷に小豆粥を入れます。これも柿をはじめとする果実の豊
作を祈る行事の一つでした。もともとは傷をつけるのではなく、小正月
の行事用にヌルデやヤナギの木で造った『祝い棒』でたたいたものでした。
この祝い棒は粥をかき混ぜたり、
『嫁たたき』
『鳥追い』にも使われました。
」
14. 新修『宮沢賢治全集』第 5 巻(1979 年、筑摩書房)
15. 新潟県三島郡与板町にある鉋類の製作所「舟広製作所」の奥さんが、静
岡県御殿場に組織された「けずろう会」の大会で出る鉋屑を利用して、
バラの花などを造ることを奨めていることをご本人から 2009 年 1 月 17
日に電話で伺った。与板町では「削りかけ」の風習はないが、リサイク
ルの観点から新たな「削り花」が造り出されているのである。
16. 1 月 11 日に催される初売り市だが、役場の話や河合さんの話では年々訪
れる客が少なくなり今後、続くかどうか分からないという。2009 年 1 月
現在 85 歳の河合さんはここで小正月のツクリモノを伝統を維持するため
に努力されてこられたという。
17. 「粥掻き棒」とは「粥占(かゆうら)」という神事に用いる棒のことで、
この棒に粥が付着する仕方で、農作物の豊凶を占い、後にその棒を田畑
に立てる風習があった。
18. http://www.max.hi-ho.ne.jp/matuki/ (1/4/09)
19. 正月、門松代わりに、ヌルデの木に、目・鼻・口を彫って人形のように
してから立てる風習がある地域がある。それが門入道(カドニュウドウ)
と呼ばれる夫婦の木偶である。
20. http://www.to-ku.com/midokoro/1895.htm (1/4/09))
21. 筆者が 2009 年 1 月 18 日に電話で高橋さんの奥様と話をしたところ、「ぼ
んでんこ」は特別なものなので話は別だが、仏さんに供える花なら六代
目が現れないこともない、といったことを洩らされていた。ご子息には
− 25 −
別に務めがあるようだが、是非、削り花だけでも継いでもらいたいと思っ
ている次第である。
22. 宮城県仙台市太白区の(有)八丁堀生花店の話。
23. http://www.japanese-doll.biz/jp/group/carving.html (1/5/09)
24. 「勝の木(カチノキ)」ともいい、「ヌルデ」のこと。聖徳太子が蘇我馬子
と物部守屋の戦いに際し、ヌルデの木で仏像を作り馬子の戦勝を祈願し
たとの伝承から「勝の木」と呼ばれるようである。
25. http://www.nichibun.ac.jp/YoukaiCard/C0410331-000.shtml(1/9/09)
26. http://homepage1.nifty.com/torisin/ohanasi/0901/001/9912SUB4.HTM
(1/10/09)
27. 京都府与謝郡伊根町字日出 651 番地 伊根町役場の須川清広さん、浦嶋
神社の宮司宮島さんの話。
28. http://www.totsukawa-nara.ed.jp/bridge/guide/voca/voca_ke.htm
(1/10/09)
29. http://www.komakino.jp/touhoku-minzokugaku/suzuki-sizenboku.htm
(1/27/09)
参考文献
.
『新日本大歳時記』
.
(講談社)
飯田龍太、他監修.(2008)
.
『折口信夫全集』第 2 巻、第 15 巻、第 16 巻.
(中
折口博士記念会編.(1956)
央公論社)
.
『嬉遊笑覧』
(三)
(岩波書店)
喜多村均庭著(長谷川 強、他校訂)
(2004)
.
『復元江戸生活図鑑』
(柏書房)
笹間良彦.
(1995 年初版.2004 年第 6 刷)
未来社 初版 1981、9、20
菅江真澄著.内田武志・宮本常一編.
(1971 年第 1 刷、1981 年第 3 刷)
.『菅
江真澄全集』 第 1 巻(未来社)
(1995).
『国指定重要有形民俗文化財―上州の小正月ツクリモノ』
(群
神宮善彦.
馬県立歴史博物館)
戸田寒風.「千数百年の伝統を守る古代笹野一刀彫」(戸田の作品「花鳥」に添
えられている解説)
− 26 −
畑野栄三.(1992 年初版.2005 年 3 版)
.
『全国郷土玩具ガイド』1.
(オクター
ブ)『さきがけ on the Web』
ご協力いただいた方々や組織:
「なり木」について
岩手県川井村小国の農業 湯沢 孝さん
「削りかけ」について
群馬県利根郡みなかみ町東峰須川 河合洪太郎さん
群馬県安中市松井田町五料「五料茶屋本陣」上原富次さん
西湖いやしの里根場(ねんば)野鳥の森公園園長三浦征治朗さん
山形県米沢市 笹野民藝館
埼玉県東秩父村和紙の里「すきふね」
秋田県横手市神明町 高橋幸一さん
秋田県湯沢市 にごう商店 秋田県湯沢市 田尻裕子さん
埼玉県秩父郡東秩父村安戸 鷹野禎三さん
宮城県仙台市太白区の(有)八丁堀生花店の話
山形県米沢市教育委員会
新潟県三島郡与板町舟弘製作所
北海道釧路市阿寒町 阿寒アイヌ工芸協同組合 秋辺日出男さん
京都府与謝郡伊根町本庄浜 191 浦嶋神社
京都府与謝郡伊根町字日出 651 番地 伊根町役場
青森県青森市 長久保恵津子さん
福島県郡山市 (株)ヨークベニマル
「削りかけ」の道具について
群馬県利根郡みなかみ町東峰須川 河合洪太郎さん 平井庸子さん(玉川大学文学部比較文化学科 4 年生)
「サルキリ」「サ
ン」の写真を撮影していただいた。また「削り花」を利用した「鳥花」
を提供していただいた。
− 27 −
図1「すきふね」で見かけた「削りかけ」
図2 飴色になった十六花の一部
図3 お鷹ぽっぽ(戸田寒風作)
図4 笹野民藝館のもの
図5 鷹野禎三作
図6 高橋幸一作
図8 郡山のカナガラ花
図9 河合洪太郎作
図 10 穂垂れ(左)とのし花(右)
河合洪太郎作
− 29 −
図 11 粥掻き棒右の 4 本(河合洪太郎作)
左の 4 本は孕み箸
図 12 ぼんてんこ(鈴木幸一作)
図 13 棚花(河合洪太郎作)
図 14 竹で作られた御神酒口
図 15 竹の削りかけ
図 17 花鳥(笹野・戸田寒風作)
図 16 イナウ人形(秋辺日出男作)
図 18 鷽(亀戸天神社)
− 30 −
図 20 サルキリ(上)とセン(平井庸子撮影)
図 19 花掻き鉈(黒ずんだ方は河合洪太郎氏が使い込んだもの)
男根(河合洪太郎作)
棚花(河合洪太郎作)
十六段花の一部(鷹野禎三作)
十六花(河合洪太郎作)
− 31 −
「すきふね」で譲っていただいた
削りかけの上部
花車(河合洪太郎作)
− 32 −
図7 岩手県下閉伊郡川井村大字小国の湯沢孝さんが拵えるなり木
なり木につける削り花。
上のものをかながら花という。
− 33 −
京都府浦嶋神社の削りかけ神事
真綿で包む前の削りかけのさんだわらぼっちと
繭上が真綿をかけたもの
これを木の枝に吊したものが左の写真に見られるもの。
− 34 −
元日の削りかけの飾り方を記した資料(長岡市立図書館蔵)
山梨県の削りかけ(講談社)
ボク市で「削りかけ」を売る河合洪太朗さんご夫婦
西湖・三浦征治郎作
江戸時代の削掛売りの図
(『復元江戸生活図鑑』柏書房)
− 35 −
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