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2008年度部落史連続講座講演録 (PDFファイル 6MB)

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2008年度部落史連続講座講演録 (PDFファイル 6MB)
京都部落問題研究資料センターは、前身の京都部落史研究所が部落史編纂のために収集した図書・資料を
生かしながら、部落問題・部落史についての情報発信を主な業務とするセンターとして二〇〇〇年七月に発
足しました。
部落史連続講座は、一九九五年に完結した『京都の部落史』(全十巻、京都部落史研究所刊)の成果を広
く生かしていくことを目的として二〇〇二年度から開催しています。
日・
日)と、京都府部落解放センターで開催しました部落史連続講座の講演
この講演録は、「地元で学ぶ地元の歴史」と題し、三条コミュニティセンターで開催しました二〇〇八年
度部落史出張講座(6月
27
日
近現代の東三条
封建制の地固めとなる天部村
尚、所属は講演当時のものです。
6月
6月 日
―信長・秀吉・家康にみこまれて―
元京都文化短期大学教授 京都精華大学・立命館大学非常勤講師
教育史を中心に 奈良大学准教授 ―失業対策事業・被差別部落・女性―
地域福祉センター希望の家職員 京都部落問題研究資料センター運営委員
京都市市政史編纂助手
オール・ロマンス事件の虚構と真実
京都における在日朝鮮人の形成
杉本
中西
河内
修
弘幸
将芳
ミチ子
前川
襄作
宏次
金森
辻
記録をもとに各講師に加筆訂正していただいたものです。講演の行われた月日とテーマは次のとおりです。
13
7月 日 戦国時代の祇園祭 月7日 『ニコヨン』の都市社会史
月 日
月5日
1
13
11 27
21
11
12 11
目
次
教育史を中心に ‥‥‥‥‥ 中西
― 信長・秀吉・家康にみこまれて ―
封建制の地固めとなる天部村 ‥‥‥‥‥‥‥ 辻
近現代の東三条
戦国時代の祇園祭 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 河内
『ニコヨン』の都市社会史 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 杉本
― 失業対策事業・被差別部落・女性 ―
オール・ロマンス事件の虚構と真実 ‥‥‥‥ 前川
京都における在日朝鮮人の形成 ‥‥‥‥‥‥ 金森
ミチ子
宏次
将芳
弘幸
修
襄作
3
17
49
71
111
125
2
封建制の地固めとなる天部村
ミ
― 信長・秀吉・家康にみこまれて ―
辻
チ
子
3
すがこの余部が使われることも多くあります。ここの地域
代の終わり頃は、資料①の文書名に「余部文書」とありま
らかなで「あまへ」とか「あまべ」と書かれます。室町時
天部村というのは江戸時代の呼び方です。それ以前はひ
があります。あのあたり一帯です。ここにも書いています
にあたるのかというと、現在の高島屋の南に大きな駐車場
こから「四条あまべ」と呼ばれたのですが、では今のどこ
は、四条綾小路図子が室町時代の終わり頃の表記です。そ
は図子とよんでいました。ですので、「あまべ」の場所
うのがありますが、こういう道をつなぐ小さい道を京都で
は鴨川より西の方から移転させられてきたといわれていま
ように、天正一五年にその地が大雲院というお寺に与えら
1 「四条あまべ」に禁制が
すが、どこからかという時に、時代によって表記が違いま
れ、あまべは三条大橋よりも東の地域に移転させられたと
ぞうしき
す。資料③をみてください。「雑色要録」からとっていま
なります。それ以前のことで、まだ四条の河原もずっと広
で、そこが寺町、また北の方では、寺の内という呼び方に
るのは秀吉がお寺を移動させて一筋にお寺ばかり集めた時
うのがこの地域を表わす用語です。寺町という町名ができ
寺町という通りはできておりません。四条綾小路図子とい
きたとありますが、ひらかなの「あまべ」が存在した頃は
乗り出していくわけです。当時の京都は上京・下京の二つ
長のような勢力は、抑えるべきところを抑えて京都支配に
つくって生活をしておりました。京都に入ってくる織田信
の四条あまべというのは指導者の下に一つの大きな集落を
ような地域だったという話をしていきたいと思います。こ
料がありませんが、信長の禁制があります。禁制をもらう
では、移転するまではどんな状態だったのか、あまり史
いう歴史をもっています。
がっている状態で、今大繁華街になっている河原町通りな
の町だとヨーロッパ人がいうような状況でした。境目は二
往古は寺町四条下ル」からやって
どはまだ出来ていないときです。四条通りとその南に綾小
条あたりで、あのへんは家もないようなところだったので
す。「天部村由緒の事
路通りというのがあります。この通りと通りとの間の小さ
すが、上京・下京には町内がたくさんあって、そういう町
きんぜい
い道を京都では図子と呼びます。露地という言葉は江戸の
内を抑えるということになります。京都の人たちは応仁の
ず し
言葉です。京都の場合は平安時代の頃から大路、小路とい
4
封建制の地固めとなる天部村
かというと、資料の①にあります。あまべに対してもし乱
献金なんですが、お金を出せば禁制をくれる。禁制とは何
うのは信長に献金をする、賄賂ではないんです、堂々たる
ことをきいたら禁制をくれるんです。いうことを聞くとい
あまべという地域に禁制をやるというのです。信長のいう
ました。下京はそのまま擁護しました。そういうときに、
信長は上京に対して何をしたかといいますと、焼打ちをし
した。上京は信長の体制を拒否ということになりまして、
ことになったら損するから賢くいこうかと地子銭を出しま
町なんですが、信長がどんな大将か知らんが争って大変な
出せといってきたのを拒否しました。下京の方は、商業の
が信長なんかのいうことを聞くかということで、地子銭を
時、上京の町の連合ができかかっていて、町の有力者たち
大変な問題として考えなければならなかったのです。その
その信長に対して、反抗するか、どうするかということを
そうしたときに室町幕府を支えるということで入ってきた
いうことで大迷惑しております。だから町が団結します。
乱を経験して武士には戦火にあわされる、町を焼かれると
の地域に出来た学校は本能小学校といいます。現在の本能
京都の町内では本能寺町という町名を使っていますし、そ
学的な調査をして、いろんな事がわかりかかっています。
は燃えてしまっていてわからなかったのですが、最近考古
は堀川高校に近い方向です。どんな寺だったのかというの
出来たわけで、それ以前はもっと西にあって、目安として
掘されています。今の本能寺はその後移転して寺町の所に
よって殺されます。本能寺の変です。現在、本能寺跡は発
も考えられます。そして、一五八二年に信長が明智光秀に
ついていた、経済的には皮の仕事で儲けていたということ
の頃からいろんな武家の社会の底辺を支えるような要職に
した地域だったということです。ということは、室町幕府
いったものをあまべはもらえるような経済的にもしっかり
です。これは永禄一一年、一五六八年のことです。こう
もらった方が自分の共同体は大変安穏になる、ということ
べを守ってやる、ということです。あまべとしてはそれを
る。こういうような事があったら自分が厳科に処してあま
る輩があまべへ入ってきたらそれもちゃんと成敗してや
る。もし竹や木を伐採して道に外れたことを申しかけてく
し せん
暴狼藉するような軍があれば信長がちゃんと懲らしめてや
寺は河原町にあるのに、本能小学校は堀川高校の近くにあ
じ
る。陣取りをして放火するような輩があったら守ってや
5
すと、この人は信長のやってきたことを踏襲していくこと
が、三日天下の明智光秀を葬り去って秀吉が天下をとりま
ります。この本能寺で信長が亡くなってしまいました。
を一つの地域に集めさせました。鴨川のほとりの寺町、こ
焼打ちをしました。秀吉は、一揆を起こした日蓮宗のお寺
りました。信長はお寺の勢力をやっつけるために比叡山の
てお寺を集め寺町をつくりました。北の方は寺の内をつく
そこで、次に出てくるのが徳川家康です。その時代にな
をやりだします。②の資料ですが、秀吉も禁制をあまべに
の統一者、天下人になっていくような人が京都の中でも目
るとあまべは現在の川東の東三条の地域に移されています
こに洪水よけにお寺を集めるとか、いろんなことをやるわ
をつけた地域であるわけです。自分らが支配するときに使
けれども、資料③にありますように、「三条橋東三町目」
出して地域を守ってやるといっているわけです。天正一九
える地域として考えていたのかもしれません。この秀吉は
これは江戸時代になってからの町内の表記ですが、ここに
けです。ところがその秀吉も途中で亡くなってしまう。
信長のあとを継いだだけかというと、京都では大きなこと
移されたということです。寛政元年の資料です。このあま
年にもらっています。ですから、あまべという地域は天下
をやっています。京都の都市改造です。平安時代から中世
べというところは、川東に移って幕府の京都支配に都合が
私は、戦争中に師範学校にいっていまして軍国主義の教
まで一条、二条といった道がずっと続いていました。しか
いくということをしました。京都の力の強い町人が住んで
育をうけていました。戦後になり民主主義といわれるよう
良いように、支配がうまくいくように上手に使われる地域
いるところは昔のままで、秀吉のいうことを聞くような所
になって、教員になるにあたって教員免許状より大切なの
しこれでは通りと通りの間が広いので具合が悪いというこ
には小さく通りがつけられていきました。便利ではあるの
は戦争犯罪者でないという証明でした。軍国主義から民主
になります。
ですが、京都の町の様子をころっと変えたのは秀吉です。
主義になったわけですが、その頃から、日本国中が封建制
とでその間に道を造る、町割りといって道を新たに造って
宇治などでは宇治川を付け替えてしまい、巨椋池の存在価
はだめだ、民主主義が良いんだということになって、封建
おぐらいけ
値を変えてしまいました。京都の場合ですと、鴨川に沿っ
6
封建制の地固めとなる天部村
やっている、他の村とはちょっと違うということを重視し
人たちは自分達の名誉なこととして、昔から小法師の役を
きました。あまべは天部村になるというわけです。天部の
をやって、ここからここまでは何々村という風にきめてい
ともあり、非常に支配が難しかった。そういう中で村切り
特に中世では荘園制があってそれが崩れていったというこ
どこまでがどこの村の領地かということがわかりにくく、
代に村切りという事が行われました。それまではどこから
前も天部村となりました。なぜかといいますと、家康の時
いくのかということですが、移転してきて、時が経って名
させられたといえます。では、あまべはどんな風になって
封建制の社会をつくっていく上で、あまべは大きな役割を
んな角度から研究する必要があると思います。そういった
会にした、その基盤に封建制があったといえるので、いろ
が出て封建制のもとで日本国中を二六〇年間戦争のない社
し、封建制全てが悪いわけではなく、戦国時代から天下人
制というと悪のもとのような考え方をもつわけです。しか
ですが、その人からぼたもちをもらったといったことも書
事務方の仕事をしていた女官の一番上を長橋の局というの
ます。千本の方の資料をみますと、長橋の局、女官の中の
法師が箒を進上したこととかがきちっと書かれて残ってい
き初めをしたということです。江戸時代になってからも小
です。「御はきそめ」、正月二日に小法師がやってきて掃
ばれたということです。そこの女官の記録が残っているの
呂場の近くにあった詰め所なのでそこは「お湯殿上」と呼
所があったのですが、その近くに風呂場がありました。風
います。天皇が住まいしている清涼殿の近くに女官の詰め
書いている日記です。小法師のことが克明に毎年書かれて
殿上日記」は「おゆどのうえにっき」と読みます。女官が
いるということで鼻が高かったのです。④の資料名「御湯
の掃除をおこなうというのが役目でした。朝廷につかえて
に箒を進上する、自分達で箒を作って差し上げ、御所の中
ついては資料の④、⑤にあげておきました。小法師は禁裏
室町時代から小法師の仕事を受け継いできました。内容に
法師役を勤めていました。二つの地域の年寄クラスの人が
し
ていました。天部の由緒の中で小法師役は村として重要な
かれています。そういうのをみると、えらい親しくしても
ぼ
ことと考えていました。ただ、小法師は天部村だけではな
らっているということになるのですが、それが自慢の種で
こ
くて、かつて野口村といった、今は千本ですが、ここも小
7
いくということになります。
して、封建的な徳川幕府の政治の元にきっちり治められて
誉なことをもちながらも、江戸時代になると村は天部村と
になるわけです。こうして朝廷との関わりということで名
部村としたら小法師役というのは名誉のある役ということ
ありました。それはまたもどってきたのですけれども。天
れ、一度天部の役の人は小法師役を取り上げられることが
にいわれて、そんなことはしませんといったりしておこら
反抗するところがあったようで、犬の死体を掃除するよう
あったわけです。ところが、天部の年寄格の人はちょっと
この宗旨改め、キリスト教徒ではないという証明を仏教の
治がおこなわれます。この禁制は所司代から出ています。
の場合は西町奉行と東町奉行という二つの奉行のもとで政
代といいます。もう少したったら町奉行ができます。京都
領で幕府の直轄地でした。その出張所の一番偉い人を所司
は幕府の出張所と思ってください。京都・大坂・長崎は天
ることがこの文書で明らかになりました。所司代というの
時に所司代から天部村にもキリシタン禁制の触れが出てい
た。資料⑥です。江戸幕府が成立してごく初期です。この
いては長い間わかりませんでしたが、史料がみつかりまし
寺がするという改帳が提出され、これが早い時期からなさ
の方が偉いなんていわれたら幕府政治がもちませんので、
く時の一つの政策になったんです。徳川幕府よりキリスト
めということが江戸時代の封建制を確固たるものにしてい
う時に、やっぱりキリスト教が怖かったんですね。宗門改
とで村切りをされて新しく各村・町の政治が行われるとい
近世の天部村の状況についてお話します。徳川幕府のも
町にある寺ですが、お寺も封建制の時代ですので、上の
寺です。この円覚寺というのは現在の今出川寺町の柳風呂
がだしています。この蓮沢寺は長光町にある東本願寺のお
されていたということです。それは円覚寺の下寺の蓮沢寺
天部村です。この西町では借家人の宗門請状もちゃんと出
です。尚、東町は長光町で、南町は巽町です。この三つで
拠になる文書です。この余部村西町というのは今の教業町
れています。⑦は天部で宗旨請状が出されていたという証
キリスト教を禁止するということで封建制を固めていこう
寺、下の寺ということで天部のお寺は下の寺になっていま
2 「天部村」の成立
とします。天部村で宗門改めをやっていたのかどうかにつ
8
封建制の地固めとなる天部村
ていたということも分かります。⑩の資料です。借家人を
ことがわかります。さらに借家人も五人組の証明をもらっ
残っていました。⑨の資料で五人組の定めがあったという
十人組をつくったのですが、この十人組のことも資料が
なかったのですがこの資料でわかりました。幕府は当初、
も五人組をつくっていたのかどうか、これも長い間わから
時代に民衆を治める時にてこにしたのが五人組です。天部
を知っておいてほしいと思います。そして、もう一つ江戸
いうことです。それが天部村でも行われていたということ
れているというくらい、徹底的にキリスト教を禁止したと
に借家人もいる。その借家人ですらちゃんと寺請状が出さ
いうことになっています。その手下も家持ちです。その下
仕事をするとき、年寄は上に立ち、手下が一生懸命働くと
下という言葉がでてきます。これも天部の特徴で、お上の
れを役所に天部村が出す、という形でした。⑧の資料に手
はキリスト教徒と違いますといって証文を出す。そしてそ
いいますが、そういう形で天部村に従うという体制がとら
の傘下にあるという差配関係の元でお金を出す、夫役とも
人たちが順番に行っていました。遠い所の人たちは天部村
行くのは天部村、六条村、川崎村などの牢屋敷に近い所の
で、実際に行く代わりに天部村にお金を払います。実際に
時代ですから、牢屋敷へは簡単には行けません。ですの
広い範囲の村々に割り当てるわけです。でも自転車もない
の穢多村へ指図をする、長の役割をするということです。
なったものと考えられます。番に行く人々を天部村が各地
なりました。これは幕府の直轄の仕事をさせられる道筋に
そのかわりに牢屋敷外番役という役目につかされることに
村文六が亡くなったあと二条城の掃除役はとりあげられ、
に、下村勝助のもとで二条城の掃除役をしていたのが、下
という役割を果たしたわけです。③の資料にありますよう
幕府が続けていこうとする中で一番基本的な仕事に携わる
ていくという特異な状況があったことです。封建制を江戸
この天部村が他の村とは違うというのは、役人村になっ
3 「役人村」への道
監視していたということです。そういう日本国中でやって
れます。この仕組みが江戸時代中期あたりからしっかりと
す。その蓮沢寺のお坊さんが天部村に対して、この借家人
いたことを天部村でもちゃんとやっていたということで
なっていきます。幕府もしっかりするし天部村もしっかり
そとばんやく
す。
9
いった刑吏の仕事というのが大きな仕事でした。この資料
村の年寄りたちが処刑にあたったという文書です。こう
で粟田口で処刑されました。そして六条村、天部村、川崎
のおかみさんが不義をしたということで女中までまきこん
る暦をつくる仕事をする京都での有力者なのですが、そこ
のはお経や巻物の表装をする、また朝廷との関わりからく
で逮捕され処刑されるという有名な話です。大経師という
た、そして下女がそれを知っていて黙っていたということ
師のおさんとそこに勤めている茂兵衛が不義をはたらい
演されてものすごく有名なお芝居になるわけですが、大経
いうものです。このおさん・茂兵衛というのは歌舞伎で上
村、天部村、川崎村が、おさん・茂兵衛の処刑にあたると
なります。資料⑪です。有名なものをあげました。六条
座雑色の下について刑吏役をするというのが大きな仕事に
なりましても町奉行所のもとで室町時代から続いてきた四
役につくということがありましたが、そのまま江戸時代に
になっていくわけです。もう一つは、室町幕府の元で刑吏
するので他の村々はいやいやながらも金を出すという体制
は大変大事な役ですが、民衆からうらまれる役でもありま
土手の刑場との関わりで成立しています。刑吏役というの
とえば北小路、今の西三条だったら、円町のほうにあった
いうのは粟田口の処刑場との関わりが強いです。ほかにた
ての働きをしてきました。天部が東三条のこの地に来たと
ます。他の村からは出ていません。こういった役人村とし
いとできない仕事です。これは大体天部、川崎からでてい
ように斬らないといけないのです。ものすごく腕が立たな
格です。又次郎は首の皮一枚を残して頭がポトンと落ちる
飛ぶシーンがありますが、あんなことをしたら又次郎は失
が確かでないと出来ません。よく漫画などで首がぽーんと
ら、とても立派な人です。役としてさせられるだけで、腕
なったといわれますが、一人の人間としての又次郎を見た
なことをするから人に嫌がられるようになる、差別が強く
ではありません。刑吏の仕事にあたって人の首を斬るよう
人が選ばれてなるわけです。なかなか誰にでも出来る仕事
になるかといいますと、肝っ魂の太い、すかっと腕の立つ
やっています。京都では又次郎です。どんな人が又次郎役
です。実際に首をはねる役です。江戸だったら下級武士が
し
けい り
の下のほうに小さい字で「又次郎天部伝三郎」と書いてあ
した。しかし、その役にあたる個人は、大変しっかりした
ざ ぞうしき
りますが、又次郎というのは人の名前というより役の名前
10
封建制の地固めとなる天部村
というものをちゃんと調べないといけないと思います。
ちゃんと先生方が調べて論文までちゃんとあります。人間
人でないとできないということです。これはドイツでも
す。ここは太鼓屋さんが有名ですごい太鼓をつくります。
武具になったのですが、この時代ですと主に太鼓になりま
条村とかでするということになります。室町時代でしたら
二条城の時を告げる太鼓などの仕事、お寺や神社の太鼓な
てなんて複雑なんだろうと思います。皮から革になめす時
革の仕事になると日本でも町人が扱ったりします。人間っ
する人はヨーロッパでも厳しい差別をされています。でも
す。そしてなめして何かに使える革にします。皮の仕事を
同じだとつくづく思ったのですが、斃牛馬の皮を削ぎま
の処理をするというのが大きな仕事です。ヨーロッパでも
でした。その始まりは斃牛馬の処理です。死んだ馬牛の皮
です。経済的に室町時代の末から地域を裕福にさせた仕事
とレジュメの4になります。一番大きい仕事は皮の仕事
携わりました。では、日常の生活はどうなのか、という
天部村はこういった役人村として幕府のもとで仕事に
が、それまでに大坂の札差にお金を借りているのです。そ
ことがあります。領主も村人を疲弊させたら困るわけです
頼っている村々は飢饉や領主の年貢の取り上げで疲弊する
らい立派な仕事をしていました。江戸時代、農業だけに
七年というような保証期間をいれて張替えをするというく
とでした。それが時代が下がりますと、⑮のように五年、
張り替えます、そんなちゃちな仕事はしません、というこ
で、⑭の資料にありますように、三年間は破れたら無償で
でした。そして太鼓の革を張り替える時は、自信作ですの
くる、木の枠は近江の人がつくると皆が思っているくらい
昔から有名で、⑬の資料にあるように太鼓は天部の人がつ
えだけでやっていけるという状況でした。天部村の太鼓は
ど需要がものすごく多かったのです。その太鼓の革の張替
とても臭いそうです。臭いというのが差別の元になったの
れを米のローンで返すということにしているので、飢饉に
皮の仕事
ですが、この皮が地域の経済をうるおします。江戸時代に
なっても返さないといけないのです。そのために村は疲弊
4
なりますと、普通の町内では皮干しをしてはいけないとい
します。が、天部でも六条でも千本でもあまり疲弊しませ
へいぎゆうば
う資料⑫のような文書も出てきて、皮の仕事は天部とか六
11
ん。なぜか、皮の仕事があるからです。天部でしたら橋村
さんの所が儲けているだけと違うかというと、そうではな
いのです。地域で皮の仕事があるということは、中心で儲
けているところがあっても、革を張ったりするのは村中の
仕事になっているのです。村中の人が食っていける保証が
結び
ある、それだけの助け合いがあるということです。
5
お寺の話や、大将軍神社と天部村の人々との関わり、江
戸時代になると氏子になって疲弊している神社を盛り立て
ているのですがそういった関わりとか、芸能の面での蝉丸
神社との関係とかについて、もっとくわしく調べられたら
いいなと思っています。
これから幕末に向かっていきますと世の中が変わって
いって、村の人たちの生活レベルを上げるということに天
部村をはじめとして各地で年寄などの指導層の人たちが力
を入れるようになります。封建制からの脱却という動きに
なるのですが、次回部落史講座はそういう話につながって
いくと思います。
12
封建制の地固めとなる天部村
2008 年度部落史連続講座
第 1 回(2008 年 6 月 13 日)
封建制の地固めとなる天部村 ~信長・秀吉・家康にみこまれて~
辻
きんぜい
1
「四条あまべ」に禁制が
(1)信長の禁制
①
(2)秀吉の禁制
②
(3)あまべの由緒
③
(4)小法師役
④⑤
2
「天部村」の成立
(1)天部村の由緒
③
(2)宗門改め
⑥⑦⑧
(3)五人組
⑨⑩
3
「役人村」への道
(1)二条城内掃除役
③
(2)牢屋敷外番役
③
(3)刑吏役
⑪
4
皮の仕事
(1)へい牛馬の処理
(2)牛馬毛皮の商い
⑫
(3)太鼓の製造、革の張り替え
⑬⑭⑮
5
13
結び
ミチ子
資料Ⅰ
14
封建制の地固めとなる天部村
資料Ⅱ
15
資料Ⅲ
16
近現代の東三条
教育史を中心に
中
西
宏
次
17
の教員だけでやっていたのですが、二冊目からは大学の先
て、その研究会から二冊ほど本をだしました。最初は高校
をひっくり返しまして「教育解放研究会」という名前にし
育の研究会をやっていました。それが、ある時に解放教育
いう名前だったのですが、現場の先生たちと一緒に解放教
まして、最初は解放教育の研究会で北摂解放教育研究会と
だきます。私は若い頃からずっとサークル活動をやってい
ことをお引き受けしたかということからお話しさせていた
勉強しようと思っています。では、なぜこういう場に立つ
てきたかというとそうではありません。これからもう少し
年の三月に退職しました。その間、ずっと部落史を勉強し
私は長年、大阪府で高校の教員をやっておりまして、去
究開発センター紀要』に載せていただきました。今日お話
中尾健次先生にお世話になって『大阪教育大学教職教育研
通なのですが、枚数が多くて載せられないということで、
らった論文は『部落解放研究』という雑誌に載せるのが普
―京都・東三条を中心に―」という論文です。奨励金をも
えました。それで書きましたのが、「被差別部落と小学校
ただきまして、そこで東三条にしぼってやってみようと考
いう制度があるのですが、それに応募しないかといってい
声をかけていただきました。原田伴彦部落史研究奨励金と
見ていただいた秋定先生から、この続きをやりませんかと
三条の有済小学校と粟田小学校です。そして、この論文を
の崇仁小学校、田中の養正小学校、千本の楽只小学校、東
いうことを考察した論文です。ここで取り扱ったのが七条
の境界がもっている意味が歴史的にどう変わってきたかと
生も入ってこられて共同研究メンバーも増えました。そし
させていただきますのは、この論文を書く過程で勉強した
はじめに
て、三冊目が『学校の境界』という本です。二〇〇三年に
前回の辻先生のお話をうけまして、江戸時代の終わり頃
ことが中心になります。
住さんが編著者になっていまして、共著者が一三人ほどい
の天部の様子からお話ししていきます。資料1―2の「雑
阿吽社からだしていただきました。京都精華大学の中島勝
ます。研究会の名前も「教育の境界研究会」と変えまし
色要録」にありますように「三条橋東三町目にて、南北九
ぞう
た。この本で私は「学区界の変容」という論文を書いたの
十六間余東西七十六間余、四方堀切場所替地仰付られ」、
しきようろく
ですが、京都市内の被差別部落を校区とする小学校の学区
18
は大体一・八二mですので換算すると一七五mくらいで
移転をしてきます。四方を堀で囲まれた南北九六間、一間
お寺の用地になるからと替地を命じられて今のこの場所に
と天正一五年に寺町四条下ルにあった天部が大雲院という
園社の氏子で、宗門も天部は浄土真宗ですが、寺裏は浄土
ました。天部の氏神は大将軍神社ですが、寺裏の場合は祇
ていますが、寺裏は岡崎の悲田院の年寄の支配をうけてい
部村の場合、役人村として四座雑色という所の支配をうけ
のは、他にもいろいろ例がありまして七条もそうです。天
をみていただくと、四角い天部の西側に②として寺裏とい
したということではないかと思います。資料1―1の地図
するために、そういう外観からみても周囲とは違う一角に
です。これはやっぱり被差別地域であるということを明示
そういう四角い狭い土地の中に天部が移されたということ
先ほどの南北一七五m、東西一三八mくらいになります。
規で測りまして縮尺をかけて実寸をだしてみますと、ほぼ
はっきりしていまして、堀のあとがわかります。それを定
からは分からなくなっていますが、航空写真でみますと
通りのところにあったようです。堀の跡ですが、今は地上
を堀で囲み、出入り口は一ヵ所で天部の場合は北側の三条
当時、被差別地域に対する都市計画の一つの形態で、周り
当てていたということです。近くの村からは実際に作業に
六条村が頭村となって畿内の村々に対して掃除番役を割り
仕事としては、二条城の掃除番を下村家が差配して天部や
ありまして、穢多身分の人たちを従えていました。そして
は天部の出身ではないかといわれているのですが、領地も
くなりまして御家断絶になりました。この下村家というの
(一七〇八)年に下村家が断絶しています。当主が急に亡
なっていたということがわかります。この少し前、宝永五
れらの村々も天部及び六条村からの皮田村改めの対象と
料に「岸部村家数廿四五軒、四人分」と出ていまして、こ
下を派遣し摂津の皮田村改めを行なう」という1―3の資
いたのかという質問がありましたが、「天部・六条村、手
前回大阪の岸部の方から天部の支配がどの地域に及んで
ざ ぞうしき
す。東西が七六間ですので一三八mくらいです。堀で囲ま
宗です。
う地域があります。天部は穢多村ですが、寺裏は非人小屋
出るのですが、遠くの村は行けないのでお金で済ませてい
し
れた一角に天部が移転させられたということです。これは
地区です。穢多村に隣接して非人小屋地区ができるという
19
教育史を中心に
近現代の東三条
牢屋敷の外番、刑吏の仕事を従来の仕事に代わって負担せ
なったのです。それで天部や六条は、掃除番役ではなくて
深かったようで、下村家がなくなったので役を負担しなく
家は断絶していまして、摂津の村々は下村家との繋がりが
ます。ところがこの一七一八年皮田村改めの時点では下村
村の頭村としての地位をずっと保っていたということで
方にも催促に行ったという史料もあります。そういう皮田
この天部は六条とならんで、摂津の村々だけでなく近江の
いかということです。しかしながら、江戸時代を通じて、
ですが、それが後者のほうに一本化されていったのではな
か
す。
て
よと言うのですが、それは断られます。役人村としての牢
屋番役は出せないと言うので、天部・六条村の手下が催促
段々低下していったのです。それで文六という当主が死ん
う業務を通して皮田村を支配していた下村家の必要性も
皮田村にやらせる必要もないということになり、掃除とい
いうような状態になってきていまして、幕府の方も掃除を
を誇りにしてその業務のために免税の特権も与えられると
て、御所の西側にできた町々が御所の清掃を担当し、それ
のですが、この時代になりますと、禁裏六丁町といいまし
きたということです。もともとは賤民の仕事とされてきた
というと、掃除という職務が必ずしも賤視されなくなって
思います。江戸時代中期になってなぜ下村家が断絶したか
八月二八日です。ところが1―4の資料を見ますと、これ
治四年になり、解放令がでます。史料にもありますように
部と寺裏だけが取り残されたということです。その後、明
編入されます。この時点では、①②は残されています。天
花街の一帯もありますけれども、それらがまず京都市部に
前、祇園村です。ここは知恩院や祇園社の門前町、新地、
口村は青蓮院の領地、粟田神社の氏子です。⑤は知恩院門
元年に京都市中という扱いになります。同じ様に④の粟田
町の延長です。江戸時代までは洛外だったのですが、明治
京に編入されました。③の三条川東は洛外ですが、洛中の
明治元年に、資料1―1の地図の中の③④⑤が京都の下
1.明治維新と天部村
だときに断絶させてしまった。従来、皮田村の支配は下村
は京都府史ですが、明治四年の八月二五日、解放令のでる
に行き、それぞれの村の人数を再確認したという史料だと
家の系統と役人村としての四座雑色の系統と二つあったの
20
村、悲田院に出された布告があります。一斉に穢多身分を
のでした。資料の1―5に解放令をうけて京都府から天部
のであって、一斉に穢多、非人身分を平民にするというも
です。ところが実際に出された解放令は非常に革命的なも
績のある人とかから平民身分に引きあげるべきということ
身分に抜擢すべきであるとの上申をしていたようです。功
部の人たちは政府に対して、穢多身分の人たちを順次平民
す。別の史料によりますと、槇村さんや当時の京都府の幹
うで従来どおりのスタンスの布告をわざわざ出していま
解放令が出されるということにはタッチしていなかったよ
いうことを命じています。この時点では京都府は二八日に
に、少し間を置いて付記すること、必ず穢多と書くことと
きであるが、しかし当面はそれぞれの町内の来住帳の巻末
本来なら天部から市中にでることはよくないことで帰るべ
出身者が奉公に行ったりして居住しているケースがあり、
中仮寓の穢多共…」とあります。この頃は京都市中に天部
断戸籍の儀は天部年寄より大年寄へ差出すべき事。但、市
り穢多は穢多であるということです。二項目目に「一、同
改訂するという通達を出しています。その内容は、従来通
わずか三日ほど前に京都府が改めて穢多に対する取扱いを
条ということで次第に衰退していきました。天部に関して
うこともあるかと思いますが、皮革の産業も天部よりも七
す。あちらには鉄道が開通して交通の便が良くなったとい
が、これについてもだんだん七条に中心が移っていきま
いっているのです。天部の場合は皮の仕事がメインです
の業務はしなくていい、その他の業務は一層精を出せと
相成り候様出精致すべく候事」とあります。役人村として
は即ち平民の職業に付、相改むるに及ばず、弥以て盛大に
部廃止するといっているのです。最後に「但、是迄の職業
いたのですがそれは払わない、と要するに従来の特権を全
としての業務の見返りとして年間三百両のお金が渡されて
人村としての業務を一切免ずるということ、また、役人村
戸籍のことや辻芸や門芝居を禁止すること、あるいは、役
ちゃんと税金を負担せよということをあげています。次に
議相勤めさせ、村地は納税申付くべく候」ということで
取調べの上、町村の分界相定め、町地は軒役其外一統の町
のほうでいっていまして、「当時住居村々の内、無税地は
かったといわれていますが、この史料でもそのことを最初
無税地が多い穢多村に税金を負担させるべきとの意見が強
平民にしたという太政官布告の原動力の一つは大蔵省に、
21
教育史を中心に
近現代の東三条
いったといえると思います。
ます。しかし、明治維新を境に非常に経済的には衰退して
の仕事で、貧乏な人もいますが、金持ちも多くいたと思い
いいますと、江戸時代までは役人村として、また、皮関係
1の二重実線の部分を見てください。これが元々あった境
町が二五番組に編入されたということです。資料7―1図
分、今の巽町と寺裏です。天部の北町、今の長光町と教業
五番組に編入されました。二四番組のほうには天部の南半
界線です。これは辻ミチ子先生から教えていただいたので
下京二四番組、二五番組がすでにありまして、天部と寺裏
によって京都の没落を防ぐという施策です。この地域では
ういわば地域のセンターでした。これを新しくつくること
言えば警察の派出所であり、保健所の出張所であり、とい
してそこが町組の会所であり、消防の詰め所であり、今で
ですが、その三年も前に京都で小学校がつくられます。そ
られたのが番組小学校です。学制が出されたのが明治五年
都でなくなったために危機に瀕し、その振興策として考え
くられています。明治元年に天皇が東京に行ってしまい首
すが、すでに明治二年に京都では番組小学校が六四校つ
編入せざるを得なくなったわけです。そのされ方なので
解放令がでましたので、先ほどの①②の地区も下京に
差別地域の比重が大きくなりすぎるのです。そこで二つに
す。この天部と寺裏を全部一つの番組小学校区にすると被
分される遠因になったと考えられ」る、と書かれていま
『解放令』後、市中の町組への編入に際して、天部村が二
部分で、「天部村の北町・南町の地域差は、明治四年の
辻先生は、資料2―1にある『京都の部落史4』の解説の
を政治的に分断するためであるという説もありましたが、
の天部はもともと皮田村として力があった村なので、それ
られたということについてはいろんな説がありまして、こ
があったということです。この旧天部が二つの学区に分け
いるのですが、その中でもまた差別があった、上下の構造
だったわけです。穢多村ということで一般から差別されて
分割していたかといいますと、北側が優位で、南側が下位
すが、もともと天部の中にあったもので、部落の中をどう
をこのどちらかの番組に入れるということです。そこで、
分けるに当って、ちょうど天部を南北に分ける境界線、も
2.番組小学校への編入と天部の分断
天部が二分割されまして、その半分が二四番組、残りが二
22
とか異論が出たという史料は残っていません。もともと北
南町の方は従来から従属的な地域ですから、文句をいった
まして、二五番組になったほうは優越感をくすぐられる。
ではないかと思います。非常にこれは巧みなやり方であり
ようということでつくられたのが協同夜学校です。詳しく
そこで天部の南町の指導者だった竹中庄右衛門が何とかし
もをやれないわけです。就学率は低い状態がつづきます。
うに非常に天部も寺裏も貧しいものですから、学校に子ど
番組小学校に編入されたものの、先ほどもいいましたよ
3.地域の学校としての協同夜学校
町の年寄が天部全体を支配していまして、南町にも年寄は
は先行研究をごらんになっていただきたいのですが、この
ちろん眼には見えない境界線ですが、これに気がついたの
いたのですが、それは南町をまとめるだけのものでした。
度も失敗します。なぜ竹中さんの最初の頃の取り組みが失
竹中庄右衛門さんは元武士だったということです。事情が
このように明治四年の解放令が出た時に二つの番組小学
敗したかということですが、端的にいって天部全体の取り
南町は皮革の仕事も許されていなかったようで、南町の人
校区にわけられました。京都の学区というのは大きな意味
組みになっていなかったからだと思います。しかも竹中さ
あってこの天部に来られて南町の指導者になったわけです
をもっていまして、行政の最末端組織です。これだけ学校
んは南町の人です。最初は北町の有力者の人たちは冷やや
が皮の仕事にタッチしたことがあって、それについて北町
の統廃合の進んだ今でも、元学区という単位は厳然と残っ
かにみていたようです。それを思わせるような史料もあり
が、子どもが学校に行けない状況のなかで、最初は自分が
ていまして、体育振興会や社会福祉協議会などは全部元学
ます。何度も失敗するのですが、竹中さんはそのことに気
の年寄への詫び状が残っているということがあります。随
区単位で残って活動しています。この時点で旧天部が二分
がついて北町の有力者に話しを通しまして、資料2―2に
先生になり夜に子どもを集めて教えました。ところが、何
割されたということは、とても大きな意味があったといえ
ありますように明治三一(一八九八)年五月の時点になっ
分南北の差があったようです。
ます。
てようやく北町の有力者の賛同も得られるようになったと
23
教育史を中心に
近現代の東三条
協同夜学校の校舎を建てます。この時点で、協同夜学校は
が集まれる公共のスペースでした。その境内に最終的には
ちにとってはとても大事な場所でして、唯一天部の人たち
味があったと思います。大将軍神社というのは天部の人た
には大将軍神社の境内に移します。これは非常に大きな意
一時、北町の長光町に家を借りてそこでやります。最終的
いうことです。学校の場所も最初は南町だったのですが、
わり頃か明治の初め頃に神社縁起がつくられていきます
たのが始まりではないかと思います。それが江戸時代の終
鬼門ですから、天部の人たちが村の鬼門に氏神さんを祭っ
ちょうど四角い村の東北の隅にきっちりあります。これは
かと思います。航空写真を見たときに大将軍神社の森が
天部の鎮守の社を大将軍神社ということにしたのではない
するのです。その後天部の人たちがその名跡を受け継いで
などにそう書いてあります。ところがこのお宮さんが廃絶
が、この時古くからの大将軍神社の縁起を継承したのでは
軌道に乗ったといえるのではないかと思います。
この大将軍神社の縁起については、自分なりの意見を
所にあります。そこは古い神像などたくさん残っていて間
が変わらず、今も西大路の白梅町の南の方、大将軍という
すと、大将軍八神社がまず出ています。これは昔から位置
はない。多分岡崎です。江戸時代の都名所案内の類を見ま
社は都の鎮めの古い社だったと思いますが、場所はここで
ちょっと違うのではないかと思っています。元々大将軍神
ます。地域の方々もそうおっしゃっているのですが、私は
るための古いお宮さんの一つだったと駒札に書いてあり
校に行くべき子どもです。ところが行っていないので夜、
す。ここに来ていた子どもは本来、有済小学校か粟田小学
にあります。一番多いのは一九一五年、一五二名とありま
であることを明記しています。生徒数の推移は資料3―2
元八組教業町、長光町の三ヶ町を区域とす」と天部の学校
館に保存されています。設置区域は「下京区元七組巽町、
の3―1は認可されたときの資料です。京都府立総合資料
場所でありまして、そこに協同夜学校ができました。資料
いずれにしましても、天部の人たちにしましては大切な
ないかと私は考えています。
違いないです。しかし、東の大将軍社は多分岡崎の方に
協同夜学校に行くということです。有済学齢数というのは
持っています。大将軍神社はもともと平安京の四隅を守
あったのだと思います。『扶桑京華誌』(一六六五年刊)
24
せるという意味ももっていたのではないかと思います。
時に明治四年に分断された伝統ある天部の共同体を復活さ
さんは頑張って夜学校を作ったわけですが、この事業は同
夜学校にこの時期はあったということだと思います。竹中
地域のいろんなコミュニティセンターとしての役割が協同
はないかと思います。他の地域では番組小学校が受け持つ
す。いわゆる地域の学校が協同夜学校だったと言えるので
に代わる役割をしたのが協同夜学校だったということで
たしていくのですが、天部ではそうはならなかった。それ
の人たちがそこに集ってコミュニティセンターの役割を果
期は普通でしたら番組小学校というのが地域の学校で地域
仕事が終わってから夜学校に来るということです。この時
です。この差が不就学ということです。その子たちが夜、
二年ですと九〇八となっていますが、有済児童数は六六三
本来学校に行くべき学齢の子どもの数です。例えば明治四
思います。同じやり方が田中でもなされます。ではお金は
九〇四年)。その手法は、竹中さんが先鞭をつけられたと
思います。協同夜学校も私立学校として認可されます(一
れている学校ということで箔がつくということもあるかと
というとわずかですが補助金がつくということと、認可さ
がありまして、そういう形で認可してもらうと何がいいか
もらうわけです。「小学校に類する各種学校」という範疇
法を考えたかというと、夜学校を私立学校として認可して
ないので、被差別地域の人たちは教育のためにどういう手
か就学猶予になるのでしょう。行政は冷たいです。仕方が
ら、粟田小学校や有済小学校に行っていない子は、督励中
就学猶予や免除という扱いができるようになります。だか
とか免除というシステムができまして、家が貧乏な場合は
全体の就学率も上がってくるのですが、この時に就学猶予
学校四年制で授業料をとらないとされました。この頃には
どうするのかというと教育講をつくります。地域の人たち
この頃、行政は何をしていたかといいますと、非常に消
にある吉祥院での取り組みがあります。明治三四(一九〇
営資金に使うというやり方です。資料4―1に京都の南西
がお金をだしあって講を組織する。その講の利益を学校運
極的でした。学用品の補助金制度をつくったり、その程度
一)年に不就学児童夜学校設立申請書というのが出されて
4.「貧民教育」のネットワーク
のことでした。明治三三年に改正小学校令がでまして、小
25
教育史を中心に
近現代の東三条
ネーミングの意味を考えたことはなかったのですが、これ
です。私はこの三条の協同夜学校についてそんなに深く
同夜学校とあります。開業が一八九八年とちょうど同じ頃
行きましたときに偶然発表を聞いたのですが、この表に協
道大学の院生の若い人の研究で、昨年の秋に教育史学会に
や上野の貧民窟の教育、この資料を見ますと、これは北海
また、最近知った事ですが、資料4―2にある東京の浅草
長がなったという形のようです。この場合も夜学校です。
育講に出資した人たちの人数だと思います。その代表に村
るのですが、村民三七二人というのは全村民ではなくて教
いまして、これをみますと、村長さんの名前で申請してい
というように、最初は小学校を新設するという話だったの
「京都市、不就学児童に対し隔日夜間の教育を計画する」
るのですが、これは実際どうなったかというと隣の資料の
のための市立小学校設立を計画する」というニュースが出
と、資料の4―3にありますように「京都市、不就学児童
会立協同夜学校になります。大正期から昭和期になります
たりします。そういう動きの中で、協同夜学校も同盟一心
三条は米騒動のときは何事もなくて、内務省から表彰され
ちが住民が行動を起こそうとしたときに抑えた。その結果
これは同盟一心会というところが動きまして、幹部の人た
荒れたのですが、三条はほとんど動きがなかったのです。
ると行政も動き出しまして、さっきの3―2の表にありま
ですが、実際には夜間学級を開設するにとどまります。有
協同夜学校については、だんだん融和的な性格が強く
すように夜間学級の欄の数字が増えていき、それに反比例
は単なる偶然の一致なのかどうか調べてみる価値はあると
なっていきます。竹中さんが亡くなったあと、京都市教
して協同夜学校の生徒数は減っていくという経過をたどり
済・粟田小学校に夜間学級が設けられ、やっとこの頃にな
育会というところが運営をします。京都市の外郭団体で
ます。昭和一三年頃には協同夜学校は活動を停止していま
思います。
ありまして半分行政のようなところです。そのあと、同盟
酬恩夜学校のことですが、協同夜学校は天部の学校で
す。
すが、会長は北田さんという松原警察署長です。米騒動の
す。寺裏の子どもは隣接していますが通えません。自前で
一心会というのができます。これはこの地域の組織なので
時も三条は非常に平穏だったわけです。七条や田中は随分
26
係が現れているのではないかと思います。
別の二つの夜学校があったというところに地域の微妙な関
うことです。距離的にはそんなに離れていないのですが、
ことで、これらの夜学校がむしろ地域の学校であったとい
況です。天部の中は協同夜学校、寺裏は酬恩夜学校という
が少し関係しています。7―1の図2は一九〇九年頃の状
夜学校は2―2に資料があります。これは浄土宗の知恩院
やろうということでつくられたのが酬恩夜学校です。酬恩
もの籍だけを親戚かどこかへ移しまして、合法越境といっ
校に子どもをやるのを嫌がる親が越境をさせました。子ど
一部が有済小学校区になります。そこの人たちで有済小学
中学になります。その時に旧弥栄小学校校区だった地域の
です。戦後、学区制が改編されまして、弥栄小学校が新制
書かれています。資料の5―2は有済小学校の越境の問題
の人たちの力を借りて教育を復興していこうということも
葉もでてきます。新教育への決意が語られています。地域
ていたのですが、その結果有済小学校の児童数が減って学
校は国民学校になります。この時期の被差別地域の教育史
協同夜学校がなくなり、一九四一年に国民学校令で小学
す。当時、京都市教育委員会はこのことには熱心でなく
校に子どもを返してくれという運動をしたという記事で
動き、越境をしている親たちに働きかけて本来の有済小学
級減になる恐れがでてきたというので、PTAの人たちが
の研究はあまり進んでいません。私自身が不勉強なだけか
て、「関係学校長の話し合いで解決すべき問題」とつきは
5.戦後「同和教育」の出発
もしれませんが、これからの課題だと思います。急に戦後
この頃になると、粟田小学校も有済小学校も子どもは大
なした対応をしています。差別越境という扱いがされてい
もない時期にでたものです。これをみますと、敗戦までの
体学校に来ます。まるまる不就学の子は少ないです。そう
に飛んでしまいますが、資料5―1、粟田小学校の研究報
軍国主義教育に対する反省、引き出す教育、気づかせる教
すると、その子どもらに手こずりまして、遅刻するとか、
ません。
育、今までのような無力な言葉の教育ではあかん、とこう
よくいなくなるとか、動き回るとか、学力が低いとか、部
告特集号をご覧ください。一九四七年ですから、終戦後間
いう反省が書かれています。また、「同和教育」という言
27
教育史を中心に
近現代の東三条
んで、出席者が有済小学校の教諭だった中村拡三さん、粟
月号に座談会が載っていまして、その司会者が東上高志さ
などが行政と交渉しました。雑誌『部落』の一九六〇年七
しい先生たちの声があります。そういう声を集めて京教組
都部落問題研究資料センターにありまして、そこには生々
す。有済小学校の先生たちが書いた白書の原稿コピーが京
り、一九五九年くらいから教育白書運動が取り組まれま
落の子どもたちの抱えている問題に振り回されるようにな
田小学校、弥栄中学校、三条保育所の四つです。その後
八年、四校園連絡協議会、このメンバーは有済小学校、粟
がでてきたのがこの東三条同推協だったようです。一九七
て、学校のほうも地域と連携してやっていこうという機運
こう、と大同団結していく動きがでてきます。それをうけ
ですが、それらが子どもの教育については一緒にやってい
いいまして、いろんな運動の潮流があって大変だったわけ
これが一つのエポックです。この頃この地域は五色豆とか
いますと、一九七四年に東三条同和教育推進協議会設置、
番組小学校期から粟田と有済に分かれてきましたが、
田小学校の教諭だった大同啓吾さん、そして池田正太郎さ
す。その結果、昭和三五年度から京都市ではフリー教員と
元々は天部の子どもであり、あるいは寺裏の子どもです。
ずっと参加団体が増えていって今は十いくつだそうです
いう今で言う加配教員が六名つくという成果も得ていま
学校は分かれているけれども情報交換しながら実践を進め
んという第三錦林小学校教頭、こういった方々が一堂に会
す。ただ、この頃は部落の子ども達の現実に振りまわされ
ていかなければならないという動きがやっと軌道に乗って
が、この名前はこのまま使われているそうです。
て、それに対応するのが精一杯というのが実状だったと思
きたということではないかと思います。ただ、先生方にき
して、しんどい状況をどうしていったらいいか話していま
います。
きますと、この頃学校で部落問題はあまりやっていなかっ
問題を子どもたちと一緒に考えるという動きがでてきたの
たということです。それがやっと学校の場で正面から部落
ようやくこの地域の先生たちが同和教育を主体的にやっ
が、九五年、弥栄中学の文化祭での人権劇の取り組みで
6.地域・学校間連携の進展と小学校統合
ていくように変わっていったのは、資料6―2の年表でい
28
分の一の命」、伊勢参りのときの話をやろうと、先生が脚
た。演劇が得意な先生が中心になったのです。最初は「七
たもんや」と思わせなくてはならないと演劇を始めまし
懸命やる、それに目をつけて、先生たちを生徒に「たいし
あったそうで、むちゃくちゃやる子でも文化祭とかは一生
この学校は生徒の自主活動を大事にしようという伝統が
中で、どうしてそれを立て直して行ったかというと、元々
ごく荒れていたそうです。先生がばたばたと倒れていった
では、十数年間ここの校長をされていたのですが、ものす
す。当時校長先生だった森田恒雄さんにお聞きしたところ
れで6―
欲しいという要望が地元から出されたということです。そ
に、これは暫定統合であり、大きな統合に含みを持たせて
校と有済小学校が統合し白川小学校となりました。その時
局、同和校どうしの統合ということになります。粟田小学
同和校と一般校が統合した先例はありませんでした。結
も統合の動きが出てくるのですが、この時点では京都で旧
のは今では一桁になっています。そういう中でこの地域で
して、番組小学校が六四あったなかで、単独で残っている
こういった中で、京都市全体で学校統合がどんどん進みま
に四八名になります。少子化の進行で急減していきます。
の年表の一番下にありますように、白川、清
本を書いて生徒が演じる、というあたりから、子どもたち
い先生たちが劇をやられたのを見せていただきました。二
権劇はずっと続いているようで、去年、ここの体育館で若
が変わっていったという話をしてくださいました。この人
です。
二〇一一年四月の開校予定です。一気に校区が広がるわけ
の学校が統合され小中一貫校になることがきまりました。
水、六原、新道、東山小学校及び弥栄・洛東中学、これら
ます。ただ部落問題そのものを教育課題として子どもたち
に投げかけて学校教育の中でやっていくという動きは、京
境界2から4が一般的な学区の境界のもつ意味です。学区
最後に、資料7―1の図の説明をしておきます。凡例の
この一方、子どもの数がだんだん減っていきます。6―
研究というジャンルがありまして、学区のもっている意味
都に比べて大阪のほうが早かった気がします。
7.「境界」がもつ意味の変容について
〇〇〇年には、協同夜学校の竹中さんの劇も上演されてい
2
1にありますように、有済小学校では二〇〇〇年にはつい
29
教育史を中心に
近現代の東三条
されたあとの白川小学校の校区界ですが、この時点では一
段々と線の数が減っていっています。図4というのが統合
れです。見ていっていただいたらおわかりになるように、
界にどんな意味があったのかということを図にしたのがこ
界、というふうに考えまして、それぞれの時期に学区の境
「旧同和校区界」、境界7は天部を中で二分していた境
校区の境界は、行政区画界でもあったわけです。境界6は
すから柳原町立柳原小学校、今の崇仁小学校ですが、その
とか天部村とか。柳原町では独自で小学校をつくっていま
は部落が同時に行政区でもあったわけです。例えば柳原町
界5として、「行政区画界」をあげました。明治の始め頃
通学区界は違ってくるということです。私はそれに加え境
すが、本校と分校があるときは、本校の通学区界と分校の
す。「通学区界」というのは普通「設置区域界」と同じで
地域を対象にこの学校が設置されているかという境界で
番組が設置主体でした。「設置区域界」というのは、どの
しているかということです。今だと自治体ですね。当初は
が三つあります。「設置主体界」、その学校をどこが設置
す。
の努力を今後も続けていかなければならないと強く思いま
出てくるということがありますので、差別をなくするため
が、潜在的には差別意識をもっていて何かのときにぱっと
れでいいと手を緩めると、若い人たちでも皆ではないです
ンプルになっていったのではないかと思います。ただ、こ
果、学区の境界に付与されていた何重もの意味が次第にシ
その時その時に関係した人たちが一生懸命努力された結
います。ただこれは自然になくなっていったのではなく、
のように開き直ったようなひどい差別は少なくなってきて
図の次には一番外側の線がなくなると思います。やはり昔
意味合いは薄れていくだろうと思います。そうするとこの
のですが、これだけ校区が広がりますと、旧同和校という
的な書き込みがあったりしました。だから予断を許さない
ターネットなどをみますと下京中学が発足する前から差別
いわれているのかどうか、私も調べていませんが、イン
を含んで広域の中学校区ができています。これが同和校と
すでに下京中学というところで、旧同和校である皆山中学
番外側に旧同和校区界という意味が残っています。しか
し、今度の二〇一一年の統合は相当広い校区です。これは
30
近現代の東三条
教育史を中心に
1―1(A)
地域
地域の性格
領主又は支配者
1、天部村
穢多村
四座雑色
2、寺裏
非人小屋
悲田院
3、三条川東
洛外町続き町
町奉行所
祭礼・宗門
大将軍社
浄土真宗
祇園社
浄土宗
祇園社
多様
粟田神社
4、粟田口村
一般農村
青蓮院
5、知恩院門前
門前町、新地(花街)
知恩院、祇園社
祇園社
一般農村
他
浄土宗他
祇園村(町)
白
他
多様
岡崎
川
三条通り(大津路)
③
②
④
①
粟田口
卍
青蓮院
小川(現白川)
卍
知恩院
⑤
四条通り
祇園社
32
近現代の東三条
33
教育史を中心に
34
近現代の東三条
35
教育史を中心に
和暦
663
645
641
625
635
626
615
636
12
11
11
11
12
11
12
13
1
0
1
0
187
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
6
6
11
28
0
119
5
13
督責中
908
906
852
818
936
808
841
1132
3
0
0
0
13
0
0
0
0
695
0
0
943
16
1
0
16
1064
16
16
2
2
0
831
654
753
769
980
980
有済学齢数 有済児童数 有済学級数 就学猶予 就学免除
100
95
107
156
108
*106
*173
137
*137
*152
*144
139
87
95
94
87
79
74
58
68
42
*45
57
47
62
97
96
96
22
52
19
23
24
14
1422
1240
1259
1306
1193
1192
1241
1382
1426
1234
913
996
1015
963
936
969
1012
1073
14
15
16
16
16
16
16
17
19
19
19
983
895
21
1344
1149
21
21
21
22
1107
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
1
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
協同夜学校 酬恩夜学校 有済夜間学校級 粟田学齢数 粟田児童数 粟田学級数 就学猶予 就学免除
0
53
45
59
46
90
72
65
54
54
53
督責中
10
28
34
20
50
粟田夜間学級
3―2(A) 表 - 1 東三条地区を校区とする公立小学校・同夜間学級、及び私立夜学校児童数等の推移(1906~1928) 主として「京都市学事要覧」による。
西暦
1906 明治 39
40
1907
41
1908
42
1909
43
1910
44
1911
1912 大正1
2
1913
3
1914
4
1915
5
1916
6
1917
7
1918
8
1919
9
1920
10
1921
11
1922
12
1923
13
1924
14
1925
1926 昭和 1
1927
2
1928
3
・同年9月 「一心青年会」9)結成、事務所を協同夜学校内におく。
・1919(大正8)12月 婦人会結成。協同夜学校内に託児所開設。
・1920(大正9)3月 赤十字京都支部、トラホーム施療所を協同夜学校内に設置。
・1921(大正10)8月 一心青年会、「同盟一心会」に改編。11月、協同夜学校の経営
を引き継ぐ。(「同盟一心会付属私立協同夜学校」と称する)
・1917(大正6)5月 協同夜学校創立二十周年記念式典
式当日は教業、長光、巽三町の人々は午後より仕事を休み「同夜は同所界隈に於ける
未曾有の殷賑を極めたり」(『日出新聞』)
協同夜学校の在籍数のうち *印は京都市学事要覧による。それ以外は中島智枝子『協同夜学校の歩み』(『京都部落史研究所紀要7』1987.3による)
竹中は1911(明治44)年3月に死去。協同夜学校の経営は京都市の外郭団体である京都
市教育会8)が引き継いだ。1912(大正元)年秋から校舎の全面改築を行い翌年一月に完
成。落成式は京都市助役、府市視学なども列席し盛大に行われた。以後協同夜学校は、
天部における不就学児童教育の場のみならず「地域センター」としての役割を担っていく
ことになるが、1918(大正7)年の米騒動をはさんで、次第に融和主義的諸施策の拠点と
しての位置づけも増強されていく。この間の経緯については中島智枝子「協同夜学校の歩
み」(『京都部落史研究所紀要』7 1987・3)に詳しいので参照されたいが、ここでは
トピカルな事跡のみピックアップしておく。
36
近現代の東三条
教育史を中心に
4―1(A)
明治三十四年二月五日
村長
岡崎清右衛門(村長公印)
不就学児童夜学校設立申請書
今般別紙規則ニヨリ不就学児童夜学校設立致度候間御許可相成度別紙規則及該地校舎ノ圖面ヲ添此段願上候也
設立者 紀伊郡吉祥院村民三百七拾弐人総代
岡崎清右衛門(私印)
不就学児童夜学校
一、目的
昼間就学スル事ヲ得ス已ニ就学猶豫トナリタル学齢児童ヲ就学セシメ尋常小学校教科ヲ授クルヲ以テ目的トス
二、名称
不就学児童夜学校ト名ヅク
三、位置
紀伊郡吉祥院村尋常小学校内ニ設立シ尋常小学校々舎ヲ仮用ス
四、学則
一、修業年限四ヶ年
学年十月一日ヨリ翌年四月三十日ニ至ル七ヶ月間ヲ以テ一学年トス
学期ハ二学期トシ十月一日ヨリ十二月二十五日ニ至ヲ第一学期トシ一月八日ヨリ四月三十日ニ至ルヲ二学期ト
ス
休日 日曜日 祝祭日
神事
年末年始 十二月二十五日ヨリ一月八日マデ
二週間
農煩 十一月十五日ヨリ十二月十四日マデ
一ヶ月間
二、学科課程及用書及ビ授業時間
学科ハ修身国語算術ノ三科トシ程度ハ尋常小学校ニ準ス
用書 尋常小学校用書ヲ以テ之ニ充ツ
(壱行挿入)
授業時間ハ午后七時ヨリ九時半トシ別表ノ通之ヲ定ム
三、試験ハ之ヲ用ヒス平素ノ成績ニヨリ認定ス
四、入学ハ就学猶豫トナリタル時ニ入学セシメ退学ハ学齢ヲ了リタルモノ及卒業認定
可セス
五、授業料入学料ハ之ヲ徴セス
六、賞罰
賞 学業進歩著名ナルモノ及精励ナルモノニ賞品ヲ與フ
罰 訓戒留置ノ二種トナシ性質不良ニシテ他ノ妨害トナルモノハ停学ヲ命スル事
アルヘシ
1
37
他地方ニ轉住セル他之ヲ許
七、職員ノ職務ニ関スル事
校長ハ生徒入学ノ調査督促ニ関スル事其他教授上ノ統一ヲ計ルモノトス
教員ハ教授ニ関スル事ヲ
理し及ヒ生徒ノ出欠調査ヲナス
五、教授用図書及器械
教授用図書及器械ハ尋常小学校ノモノヲ仮用ス
六、生徒定員
生徒定員ハ五十名トス
七、職員定員及俸給額豫定
職員弐人
俸給壱ケ月壱人ハ五円五拾銭壱人ハ四円五拾銭
八、経費豫算
一、歳入豫算ハ壱ケ年百円ノ豫算ニシテ設立者三百七十二人ヨリ支出ス
二、支出豫算
一、給料
七拾六円
一、教員給七拾円
二、使丁給料六円
一、備品費
拾円
一、消耗品費
八円
一、生徒通学ノ世話人報酬三円
一、雑費三円
但し各項流用妨ナシ
一週間時間割
修身
国語
算術
第一学年
科目
一時半
九時
四時
第二学年
一時半
九時
四時
第三学年
一時半
九時
四時
第四学年
一時半
九時
四時
2
38
近現代の東三条
39
教育史を中心に
40
近現代の東三条
41
教育史を中心に
東山区北部5小学校における学級・児童数の推移
1980
1985
1990
1995
2000
48
1975
67
132
1970
6
124 7
81
1965
117
6
78
1960
6
7
95
6
1955
198
154
6
93
100
6
7
7
113
6
128 6
14 414 12 396 12 340 12 299
241
6
167
6
752
8
223
6
176
18
7
231
6
959
13 418 13 398 13 348 13 328
7
283
21
661
12 440 12 340 11 318 10 287
8
924
21
840
12 419 13 484 12 425 12 403
27 1302 28 1374 24 1094 20 623 16 536 15 460 14 401
21
876
22 1032 18
723
16
17
941
21 1043 16
926
20
948
昭和 25 年度~平成 9 年度)』
平成 12 年』京都市教育委員会調
1950~1995 は
『教育調査統計 京都市立学校(園)統計年表
20
1950
6―1(A)
有
済
粟
田
新
道
六
原
清
水
各年度の左列=学級数 右列=児童数
により作成。
京都市教育委員会調査課 平成 10 年 2 月 2000 年度は『教育調査統計 5 月 1 日学校現況調査
査課
42
近現代の東三条
43
教育史を中心に
44
近現代の東三条
45
教育史を中心に
7―1(A)
㊫二十五番組小学校
㊫二十四番組小学校
図-1
1872 年
旧天部他が番組小学校区に編入されたときの状況
設置主体=番組
㊫粟田小学校
㊫協同夜学校
㊫有済小学校
図-2
1909 年頃の状況
公立小学校の設置主体=学区
夜学校の設置主体=地域の教育講
46
近現代の東三条
教育史を中心に
㊫粟田小学校
㊫有済小学校
図-3
1941 年~2004 年 3 月まで
設置主体=京都市
㊫白川小学校
図―4
2004 年 4 月~
設置主体=京都市
〔凡例〕
47
48
戦国時代の祇園祭
河
内
将
芳
49
スト的なところをわかりやすく話をさせていただきたいと
す。今日は、この本に書かせていただいたことのダイジェ
ていろいろな所で話をさせていただくようになっていま
本を出させていただきました。今年、祇園祭が近づきまし
昨年度、角川学芸出版より『祇園祭と戦国京都』という
あったということです。
を神輿が動いたとありますので、まさしく冬の祇園祭が
いありませんし、実際史料を読んでいましても雪の降る中
月は旧暦ですので現在とは違うのですが、それでも冬に違
一二月に行われたことが確認できます。この一一月、一二
代、大永三(一五二三)年を始めとして十一回も一一月や
ジが強く出来上がっていくこととなるのですが、今日の話
五〇年代に紙芝居がつくられて戦国時代の祇園祭のイメー
ご了解ください。題名は「戦国時代の祇園祭」です。一九
落史のところにたどり着く前に終わってしまいますので、
また、部落史の連続講座ということですが、私の話は部
多々あり、いろんな時期にお祭があったことが明らかにな
る。あるいは、八月・九月・一〇月に行われるケースも
げましたように、十一回も一一月から一二月に行われてい
ぶしに調べ上げたものです。こうして調べてみると今申上
戸時代の始まるまで、いつ祇園祭があったのかをしらみつ
資料の表1は私が作成しましたもので、室町時代から江
みこし
思っています。
は、むしろそれはイメージの方が強くて、細かく史料をみ
りました。
冬の祇園祭というのは何年か前に京都新聞に記事を書か
ていくとちょっと違うのではないかというお話になりま
す。
せていただいた時につけた題名で、冬に行われたというの
で冬に行われるというのはこの時代以外にありません。な
が戦国時代の祇園祭の特徴になります。祇園祭の歴史の中
戦国時代の祇園祭に限らず祇園祭といいますと、ちょう
ぜこの時代に起こったのかということをポイントとしてお
はじめに
ど今の季節、これからが祇園祭ですし、日本全国でも祇園
話していきたいと思います。
もう一つは、先ほど話しました紙芝居を発端として始
祭の報道が様々なされていますように基本的には梅雨、夏
の祭のイメージが大変強いものです。しかしながら戦国時
50
戦国時代の祇園祭
の祭といわれていますが、これはイメージが強いというこ
礼というイメージが大変強いとされています。今でも町衆
ば、時の権力、室町幕府ですが、これに抵抗する町衆の祭
まったもう一つのイメージで、戦国時代の祇園祭といえ
する町衆の祭」というものです。紙芝居は長く本物が発見
くことになります。このイメージというのは「権力に抵抗
くられて、これによってこのイメージが非常に広がってい
とにして小説の『祇園祭』、さらに映画の『祇園祭』がつ
す。これがもとで紙芝居の『祇園祭』が作られ、それをも
「幕府が祇園祭の中止を命じたので、神輿は渡らないかも
渡りの事を神事といいまして、それに対しての山鉾です。
も、山ホコ渡したき」という言葉を出しました。神輿のお
があります。それに対して町衆たちが「神事これなくと
二(一五三三)年に室町幕府が祇園祭の中止を命じたこと
このイメージができた事件というのがありまして、天文
す。紙芝居を白黒でおさめて、その下にせりふをおさめて
制作、林屋辰三郎述、東京大学出版会から出されたもので
書でしか買うことが出来ませんが、民科京都支部歴史部会
としたものが売られました。赤い表紙の本です。今では古
は現存していないようなのですが、この紙芝居の映像を本
すが、その写しがいくつか発見されました。紙芝居の実物
されず、今回調査したところ本物は発見されなかったので
まちしゆう
とをご紹介したいと思います。
しれないが、山鉾だけは渡したい」と町衆たちが主張して
紙芝居自体は、林屋先生の町衆論に共感を得た京都の大
いる本です。
抵抗する町衆の祭礼というイメージができた元とされてい
学生や大学院生が作成をして様々な所で上演をしたという
この年、山鉾巡行を行ったとされています。これが権力に
ます。ここではこういうことが実際にあったのかというこ
ます。西口克己という京都で有名な小説家ですが、この人
歴史が知られています。そして、それを元に小説が作られ
このことに注目されて、戦国時代の祇園祭を学問的に研
が『祇園祭』という小説をかきます。これをさらに六〇年
とも詳しく見て行きたいと思います。
究されたのが林屋辰三郎先生です。先生が主張された町衆
代に映画にしたのが『祇園祭』という映画です。
萬屋錦之助、三船敏郎、田村高広という三人がでている
論のなかでこの祇園祭が高く評価されるようになりまし
た。この町衆論の研究が出たのがちょうど一九五〇年代で
51
は年間一回か二回しか上映されません。京都文化博物館で
て、すごい映画です。大ヒットしたそうです。ただ、現在
面では、美空ひばりが何の関係もなく走ってくるとかあっ
員が出ているといっても過言ではない映画です。最後の場
ことからもわかるように、この映画は当時の映画スター全
神輿渡御は夕方ですから、同時に行われる事はありませ
りまして、山鉾巡行は戦国時代には早朝に行われまして、
ていることは間違いありません。ただこれには絵空事があ
すから戦国時代においても二つの祭事によっておこなわれ
洛中洛外図でも神輿渡御と山鉾巡行が描かれています。で
よって構成されています。戦国時代の京都を描いた上杉本
まず神輿渡御のほうをご紹介しますと、神輿は今でも三
年に一、二回のみ上映されています。こういう映画がつく
戦国時代の山鉾巡行の担い手は、基本的には現在と同じ
つございます。戦国時代は大宮、八王子という神輿と少将
ん。これは絵の都合で一緒に描かれています。
で京都の下京の町人です。これを、林屋先生は町衆という
井という神輿がありまして、御旅所が別でした。二つは
られてイメージがさらに広がっています。
言い方をされていますが、近年の研究ではこの町衆という
大 政 所 御旅所、少将井は少将井御旅所というところでし
おお まんどころ
しようしよう
呼び方自体は当時はなくて「ちょうしゅう」であるとか、
た。旧暦の六月七日、現在の七月一七日に神幸、神輿迎え
まちしゅう
そのもとになる町の共同体の研究や身分の研究が進展しま
というのがありまして、簡単にいうと八坂神社から御旅所
かんこうさい
おたびしよ
して、林屋先生がおっしゃったように町衆そのものが祇園
に行くお祭、今でも神幸祭というのが行われています。七
い
祭山鉾巡行を担っていたかどうかについては近年、疑問視
日間御旅所にいた後に、還幸祭、史料ではこれを祇園会と
まして、一つは神輿渡御で平安時代の後期から確認ができ
なって現在の寺町京極になったので、戦国時代とは状況が
現在御旅所は一つですが、これは秀吉の時代に一つに
旅所から八坂神社に戻ります。
いうのですが、旧暦の六月十四日、現在の七月二四日に御
しんこう
されているということもあります。
また、当時は祇園祭という言葉は史料にはでてきませ
ん。全て祇園会としてでてきます。二つの行事でできてい
ます。もうひとつは山鉾の巡行、これは鎌倉時代の終わり
違います。神輿の形はみな違いまして、大宮は六角形、八
とぎよ
頃から出てきます。現在も同じですがこの二つの行事に
52
戦国時代の祇園祭
ルートは大政所は南の方にありますので、四条通りを南へ
のが原則でした。神輿渡御の先頭にいるのが犬神人です。
では、神輿は四条大橋を渡らずに仮の浮橋をつくって渡る
王子は四角形、少将井は八角形です。江戸時代が終わるま
がおっしゃっています。鎌倉時代から何百年と左折したこ
いているものは傷みが激しいと民俗学で調査されている方
が、現在は左折のみで動かしています。そのため車輪の付
下をしていますので右折のみで動く仕組みだったのです
ではずっと二つあったということです。元来は山や鉾は南
いぬ じ にん
下る、少将井は北の方ですので北へ行きます。少将井の
とがないものを今させているということになります。
七日後の十四日山々、後祭と呼ばれていますが、旧暦の六
五条通りのルートです。南下するのが前祭のルートです。
基、以後は二六基です。ルートは四条通りから寺町通り、
ので七日山鉾と史料にでてきます。応仁の乱以前は三二
して、中世では七日山鉾といいます。六月七日に巡行する
山鉾巡行は、江戸時代以降は前祭といわれる祭がありま
いる疫神たちを集めるのが巡行、最後は疫神が集まってき
す。山の場合も松に疫神が集まってくるらしくて、下京に
もと人間に見せるものではなくて疫神を集めるものなんで
のですがそういうものを喜んでよってくる。ですからもと
ラしたものを好んでよってきたり、ここで歌舞音曲をする
所だとされています。疫神というのは、鉾のようなキラキ
と違うのは、疫神と呼ばれる疫病を起こす神々が集まる場
えきしん
ます。これは民俗学の話になりますが、山や鉾が神輿渡御
上杉本洛中洛外図では前祭の山や鉾の一部分を描いてい
あったところは今は京都新聞社の社屋になっています。現
在のお神輿は非常に複雑なルートをたどっていますが、中
世から江戸時代までは基本的にこのルートです。
月十四日、現在の七月二四日に行いました。応仁の乱以前
たのを捨てるのが本来の姿です。毎年作らないといけない
さきのまつり
は二八基、以後は一〇基です。ルートは三条通りから寺
のです。疫神を集めて人々が住んでいるところから出て
条通り、河原町通りを北上しまして御池を巡行していま
ちなみに現在は全部で三二基、七月の一七日に合同で四
作り変えているというのはそういう意味があります。京都
やっている祇園山笠などがその姿をのこしています。毎年
いっていただくというのが本来の山や鉾の姿です。博多で
あとのまつり
町、四条というルートです。
す。これは昭和四一年に合同になっていますので、それま
53
の場合は巨大化したので毎年ということはできません。
と意味がなかったのです。一体ではありませんでした。
では、どこかで一体となる画期がないといけません。そ
止になったとしても山鉾は渡したいと町衆たちがいったの
「神事これなくとも、山ホコ渡したき」、神輿渡御が中
に行われる、これを延引とか追行とかいいますが、そうい
七日と一四日に行われた年と、その日が変更されて別の日
いただければ結構です。中世の祇園祭には式日とおり六月
こで考えてみたのが表の1です。黒丸のところだけを見て
で、祇園祭は権力に抵抗する町衆の祭だといわれてきまし
う年がありました。これが黒丸の部分です。応永四(一三
室町・戦国時代の祇園会
た。この前提としては、神輿渡御が中止になったら当然山
九七)年から文安五(一四四八)年まではほぼ式日通りに
(一四四九)年から元亀二(一五七一)年までは途中に応
ついこう
鉾も中止になるというように、一体でないといけません。
行われています。黒丸は少ないです。ところが、文安六
ところが、室町時代の史料にこういうのがでてきます。
仁の乱で三三年間の中断があったとしても、延引と追行が
えんいん
一体でなければこういうことをいう必要はありません。
史料1ですが『満済准后日記』という史料で応永二二(一
頻繁にあるということがわかると思います。
まんさいじゆごう に つ き
四一五)年六月七日です。「祇園会延引、祭礼の儀一向こ
渡りました、ということです。ということは室町時代では
んでした。にもかかわらず、庶民たちが用意した鉾だけが
ます。この年、祇園会が延引し、神輿渡御が全くありませ
料2には次のようなことが書かれています。『康富記』、
通りに行われなくなっています。これを裏づけるように史
室町・戦国時代の祇園祭は大きく変化をしています。式日
になるということは明らかです。ここを境目として中世・
とすれば、境目はどこかといいますと、文安六年が画期
神輿渡御があろうとなかろうと山鉾は渡っていたというこ
中原康富という下級の公家が書いた日記です。この日は、
渡るばかりなり」とあり
とがこの史料からわかります。室町時代では明らかに疫神
延引して追行した日です。「去る六月山門訴訟により延引
れなし、地下用意ホコ等、酉末
を送り出すにふさわしい季節でないといけなかった。ちょ
せしむるものなり」、山門というのは延暦寺のことです。
やすとみき
うど梅雨の季節です。疫病が非常にはやる時期にやらない
54
戦国時代の祇園祭
になったということがわかります。まさしく冬の祇園祭の
節に関係なく一二月に神輿が延期になれば一緒に渡るよう
とあります。即ちこの年を境として山や鉾も六月という季
様に一二月一四日にも「風流山笠桙已下三条大路を渡る」
鉾と山も一二月七日に一緒に渡ったということです。同じ
風流先々のごとく四条大路を渡るとうんぬん」と、つまり
延暦寺が訴訟をおこしたことで延引しました。「桙山以下
延暦寺の末社でした。ですからそこで行われる祭は単独で
は全く縁がありませんが、室町・戦国期、江戸時代までは
強い祭です。現在、北野天満宮も祇園八坂神社も延暦寺と
祭が行われまして、これら四つとも延暦寺の大衆の影響の
祭です。日吉小五月会は五月、六月に祇園会、八月に北野
は非常に深い関係があります。日吉祭は四月に行われるお
を受けるかというと、この日吉祭と日吉小五月会と祇園祭
体の祭りでした。四月や五月の祭りが中止や延期になる
成り立っているのではなくて、日吉祭や日吉小五月会と一
では、なぜこのようなことが行われるようになったかと
と、当然六月の祇園会は後ろに送られて八月の北野祭りも
出発点はここになります。応仁の乱の直前です。
いうことですが、「山門訴訟」がポイントとなります。別
どんどん送られることになって一一月や一二月になるとい
(これは今はやっていませんが同じ坂本でやっていた祭で
ています坂本でやっている山王祭です)と日吉小五月会
に、しばしば彼らの影響力の強い日吉祭(これは今もやっ
でもって圧力をかけると自らいっていますから、当然祇園
をやったとしたら延暦寺大衆がだまっていません。軍事力
いいと思うのですがそうはいかないのです。もしこれだけ
では、二つの祭ができないのならば先に祇園祭をやれば
だいしゆう
名、山訴といわれまして、延暦寺の大衆、僧兵たちが室町
うのが室町戦国時代の祇園祭の状況でした。
す)、これらを延期するぞと脅しをかけるわけです。幕府
社は祇園会を中止、延期して、北野社も延期してどんどん
さんそ
幕府に訴えごとをするのです。自分たちの要求を通すため
はこの二つの祭が延期になると困るので最終的には延暦寺
後に送られていきます。戦国時代におよそ六〇年のうち二
こ さ つ き え
のいうことを聞くのですが、こういう風な圧力をかけると
七回にわたって延引や追行があります。単純にいうと二年
に一回は延引や追行されるという異常な状態が戦国時代に
いうことがありました。
なぜ日吉祭と日吉小五月会が延期されると祇園会が影響
55
した。実際その前年の天文元年も六月に行われていませ
園会は戦国時代では特別なものではなくて、普通のことで
ました天文二年の祇園会、室町幕府が中止をしたという祇
ていなかったことです。紙芝居以来、非常に注目されてき
は続いていました。こういうことがこれまであまり知られ
都におれない状態、逃げていた状態です。
はおりませんでした。近江の湖東の桑実寺にいました。京
た。第一二代将軍です。ただこの人は将軍ですが、京都に
と言い出したのは誰かというと、時の将軍の足利義晴でし
ることがわかります。まず天文二年の祇園会を六月にやれ
したといわれているのですが、史料をみると大分違ってい
くわのみ
ん。この表をつくる中で、これらのことを知っておく必要
は江戸時代を通してなくなります。ということは、室町時
のですがこれ以降、祇園会が六月に行われなくなったこと
す。これは下京に本能寺がありましたので、延期になった
一度だけあるのは天正一〇年、本能寺の変があった年で
た祇園会は元亀二年を境として全く黒丸がなくなります。
亀二(一五七一)年です。二年に一度は六月にできなかっ
後に延暦寺は織田信長によって焼き討ちをされます。元
がわかるのは、明応九年と永正三年の前例にまかせてや
り強い意向をもってこの年の祇園会をやらそうとしたこと
んとやれといっていることになります。特に、義晴がかな
府が止めようとしたというのは全く逆で、幕府の方はちゃ
です。これまでいわれているように、この年の祇園会を幕
園会の行われる十日ほど前にこういう命令をだしているの
ちゃんとやれ、というものです。五月二二日ですから、祇
がなくても明応九年と永正三年の前例にしたがって六月に
どういう命令かといいますと史料3です。日吉社の祭礼
代、戦国時代に、祇園祭にとって常に前に立ちふさがって
れ、という言葉からもわかります。
があるということがわかってきました。
いた存在は室町幕府ではなくて明らかに延暦寺の大衆とい
では、紙芝居や小説・映画に描かれた天文二年の祇園会
大衆は強力な圧力をかけて祇園会をやらせないようにして
た年です。この年も日吉社の祭礼が行われなくて延暦寺の
戦国時代の中でも明応九年は応仁の乱後、初めて復興し
というのは実際どうだったかということですが、室町幕府
います。ところが室町幕府が強行した年です。永正三年も
われた人々です。
が中止に追い込み、それに抵抗して町衆たちは山鉾を巡行
56
戦国時代の祇園祭
無理矢理、幕府が押し切りました。両年に押し切ったの
ときは祇園社と呼ばれて、事実上お寺です。ここにいる人
寺とは何の縁もゆかりもなくなっているのですが、中世の
です。「日吉祭がないので延引の予定だったがこの日、細
通という人が書いた『後法成寺関白記』という公家の日記
政元と祇園会の関係は史料4からもわかります。近衛尚
神輿渡御を行ったら延暦寺の大衆たちは祇園社へ軍隊を派
のくじとりの日です。「明日もし祇園社で神事、すなわち
様子が書かれています。六月六日ですから祭の前日で前祭
行といいます。その執行の日記に天文二年の時の祇園会の
し
は、当時の幕府を実質上握っていた管領の細川政元でし
は多くは僧侶で、江戸時代に至るまで祇園社のトップを執
川京兆が、これは細川政元のことですが、見物することが
遣することになる。それを聞いた執行たちは驚いて明日の
ぎよう
た。この人の強い意向で祇園会が再興されたのです。
きまったので山鉾祭礼がありました」ということです。山
神事の延引を決めました。そういうことを将軍のいる近江
こ の え ひさ
王祭がなかったので神輿渡御はなかったのですが、細川政
へ伝えようとしましたが、同じ頃に近江の将軍義晴から手
ご ほうじようじかんぱく き
元が見物することが触れられたので山鉾の祭礼だけはあっ
紙がつきました。それには、明日の神事は延期しろといっ
みち
たということです。
というのが実態です。神輿がなくても幕府の実力者が押し
幕府が、前日になって延期をいってきたということがわか
あれだけ強い意向を持って六月七日にやるといっていた
てきた」ということです。
切れば山鉾祭礼だけはできるということがわかります。義
ります。幕府は強い意向を持ってやらせようとしていまし
戦国時代の祇園祭の山鉾と室町幕府は非常に関係が深い
晴は細川政元の強い意思にあこがれてこの年にやらせよう
た。それに対して延暦寺大衆は日吉祭をやっていないので
しようとしていっているのではありません。彼らの理屈が
としたということです。この点が、紙芝居や映画などとは
では、実際どうなったかということをみていきます。山
あって、日吉祭を行った後で祇園祭を行うのが道理であ
やめるようにいってきました。延暦寺大衆は祇園祭を邪魔
鉾巡行だけが行われたのかどうかです。史料5です。祇園
る。日吉祭を行っていないのに祇園祭をするのは道理にあ
大分違います。
社に残された史料です。現在の八坂神社は神社です。延暦
57
分はそういうことは知らない」ということです。
これからわかることは、室町幕府が中止をいってきたか
わないというもので理路整然としたものです。無理難題を
押し付けていたわけではありません。やるとするならば延
ら彼等が来たのではなくて、しかも祇園社に来ているとい
ます。ちなみに、なぜこういう町人たちの言葉が残された
暦寺のいうとおり日吉祭を行ってからやればいいのです
結局、幕府はぎりぎりのところで大衆の圧力に屈しまし
のか、めずらしいことなのですが、それは六月六日までや
うことは、祇園社の上の延暦寺大衆にむかって自分たちは
た。つまり天文二年の祇園祭を中止に追い込んだのは幕府
ることが決まっていてその日に延期になったというのはこ
が、それを飛び越えて祇園会をやらそうとしたので問題な
ではないのです。これは当時の史料にも書かれています。
の時が初めてだったからです。山鉾巡行直前ですので、何
こうしたい、ということをいっていることが明らかになり
三条西実隆という有名な公家がいまして『実隆公記』とい
が何でもやりたいという意向でこういうことをいったので
るということです。
う膨大な日記を残していますが、その六月七日条に「祇園
はないかと思われます。それまでは、もっと早めにわかっ
役人たちなのですが、それらが祇園社にやってきてこの時
もと室町幕府の下級役人です。祇園会に大変ゆかりの深い
ことです。六十六町の代表者と触口、雑色、これらはもと
二年の翌日のものです。月行事というのは各町の代表者の
そして史料の6です。先と同じ『祇園執行日記』の天文
問答の場面がでてきます。ドラマチックなことに押し問答
しようとします。山鉾を押す人々と幕府の役人たちの押し
府の役人がやってきます。前をふさいで動かさないように
とても迫力のある場面で、巡行している山鉾の前に室町幕
が行われたとされてきました。映画ではこの巡行の場面が
こういうことを元にして紙芝居や映画では山鉾巡行だけ
さねたか こ う き
会山訴により停止」とかかれています。当時の人々からす
ているのでこういうことはありませんでした。
にいった言葉が「神事これなくとも、山ホコ渡したきこと
をしている最中に一本の矢が飛んできて主人公の萬屋錦之
さんそ
ればこのことは明らかだったのです。
ぢゃけにそうろう」です。これを聞いた祇園執行は何と
介の胸にあたります。主人公が矢がささったまま扇を動か
ふれくち
がちぎようじ
いったかといいますと、「この方は知らず」、つまり「自
58
戦国時代の祇園祭
最後のクライマックスです。
人たちは後ずさりをし、山鉾巡行が行われるという場面が
して巡行を進め、その迫力に負けて立ちふさがっていた役
ちはできませんといったのです。ところが幕府は、山鉾が
は今の迷惑とは違って困り果てるという意味です。自分た
人たちは「迷惑」だといいました。この「迷惑」というの
会山鉾渡る」すなわち、一二月二一日に神輿渡御がおこな
です。『親俊日記』には次のようにかいています。「祇園
園会は延引します。その年の一二月二一日に追行されるの
かります。これから五年後の天文七(一五三八)年にも祇
はこの年にできていたことは考えられないので、この「重
ほど史料をみましたように、五年後さえできていない以上
とはできないということだといっていました。しかし、先
す。従来は、六月に一回やったのでもう一回八月にやるこ
この史料の難しいところは「重ねて」というところで
ないとけしからんといって絶対やるようにといいます。
われたのですが、それとセットで山鉾も渡ったということ
ねて」は、すでに六月六日に準備万端ととのっていた山鉾
しかし、実際には巡行が行われていないということがわ
です。冬に山鉾が渡ったのです。五年後の天文七年に山鉾
を一旦解体したのにそれをまた一から準備するのは難し
ちかとし に つ き
だけが関係なく渡ることができない以上、これから遡る天
い、という意味に考えた方が分かりやすいと思います。
先ほどもいいましたように、山鉾は当時、骨格は別とし
文二年だけ六月に山鉾が渡ったと考えるのは難しいだろう
と思います。天文二年に強行突破で巡行していたら七年に
て基本的には全部を作り変えないといけなかったのです。
出来なかった時は、全部捨ててしまったはずです。それを
もやるはずです。
ほかにも根拠となる史料があります。史料7です。天文
いきなり八月にもう一度つくれというのはできない、とい
これだけ迷惑だといっているのですが、予想に反して
二年六月に中止に追い込まれた祇園会を、八月に再び幕府
祭が行われたということがあります。ですので無理なく八
『後法成寺関白記』には八月二三日に「祇園会今日執行な
うのがこの「重ねて」という意味だと思います。
月にやれと幕府がいったのです。幕府は日吉祭が行われた
り」とあります。この年は八月二三日に祇園会が行われた
がやれといいだしています。この前提には六月の末に日吉
ので八月に前祭をやれ、といいました。この時、下京の町
59
が、「執行なり」と書いている以上、この時に山鉾も渡っ
ということです。神輿渡御があったということもあります
に対立している、二項対立的に捉えすぎたことが問題の出
思いますが、町衆と権力、この場合は室町幕府ですが、常
市民は権力と対立する関係にあるんだという事を投影する
発ではないかと思います。町衆という言葉に林屋先生は市
旧暦の八月というのは盂蘭盆が終わってひと月経った頃
ことになりました。その時に対抗する権力が室町幕府、そ
たはずです。五年後も一体として動いていますから、「迷
で秋風が吹くころに祇園会は神輿渡御も山鉾巡行も行われ
の対立している市民たちの団結や示威行動に山鉾巡行が
民と言うイメージを重ねておられます。一九五〇年代とい
たということになります。つまり天文二年の祇園会は八月
あったのだと考えられておられます。そういうことが出発
惑だ」といっていましたが、この時も当然八月二三日に山
に追行されたということになります。紙芝居から映画に描
点となったところに、見方としては問題があったのではな
う時代背景のなかで町衆という言葉に市民を重ね合わせ、
かれてきたことは相当事実とは違うことが史料をみていく
いかと思います。
鉾も巡行した可能性が高いです。
とわかってきます。
こうなってくると、延暦寺大衆は入ってこないのです。
せん。明らかに当時の人々の認識の上でも祇園祭の前に立
実際、紙芝居でも映画でもほとんど延暦寺大衆は出てきま
紙芝居を出発点として小説、映画で語られてきたイメー
ちふさがるものは延暦寺大衆なのです。これを抜きにして
おわりに
ジと事実とは相当違うことが分かると思います。こういう
では、この対立関係に延暦寺大衆を入れたらいいのかと
いる事が問題なのです。
をつくることで全体像がわかってきました。従来の研究で
いうとそうではありません。それでは同じ事になるので、
ことはあまり注目されてこずにきました。史料を探して表
はそういうことがなされてこなかったということがひとつ
むしろ、山鉾の担い手の町人たちと室町幕府と延暦寺、祇
園社という戦国時代の祇園会を成り立たせている様々な関
のポイントです。
もう一つは、一九五〇年代という時代が影響していると
60
戦国時代の祇園祭
暦寺大衆も決して邪魔するのではなくて、彼等には彼等の
きるわけではなく、幕府も強い意向をもっていますし、延
かということです。決して、町人たちだけで山鉾巡行がで
係に注目してみていくことが本来大事なことなのではない
ことを我々は考えなければいけないと思っています。
はどういう豊かなイメージがあるのかということを伝える
て、違うのであればどう違っていて、戦国時代の祇園祭に
ていて、何が違うとかここが違うという言い方ではなく
論理があって日吉祭、日吉小五月会、祇園会という順番で
やれれば問題はないということです。町衆と、室町幕府と
延暦寺大衆の三者の関係でどう成り立っていたかをみる必
要があるだろうと思っています。
中世に祇園会をやっていたのは京都だけではなくて各地
にありました。にもかかわらず、戦国時代に華やかになり
今に残っているものはほとんどありません。京都の場合、
ある時は対立し、ある時は協調するという風に非常に緊張
関係をもってやっていたわけです。その緊張関係があった
からこそ祇園会は盛大化して続いていったのだろうと思っ
ています。この関係でどこかがくずれると途中でできなく
なったのではないかと思います。
最後に申上げておきたいのは、決して林屋先生とか紙芝
居、映画がやられたことを頭から否定するということでは
なくて、一九五〇年代というのは歴史学の成果をできるだ
け多くの人に理解してもらいたいというところから始まっ
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戦国時代の祇園祭
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戦国時代の祇園祭
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戦国時代の祇園祭
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戦国時代の祇園祭
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70
『ニコヨン』の都市社会史
本
― 失業対策事業・被差別部落・女性 ―
杉
弘
幸
71
化するというのは非常に困難なことでありまして、その困
ないはずです。特に極めて不安定な失対労働者として主体
いるとか主体形成しているとかいえる人はそんなに多くは
そう簡単にできるものではありません。自分が主体化して
のです。主体化とか主体形成とかよくいわれるのですが、
してどういうふうに目覚めていったかを検証するというも
主体化過程、基本的な人権を守る主体、生活を守る主体と
従事する失対労働者のありようから、マイノリティの権利
ろ諸説があります。今日の報告の目的は、失業対策事業に
われていることです。金額は二四〇円だったとか、いろい
「ニコヨン」ということでそう呼ばれたというのがよく言
たときの日給が二四五円だった、お札が二枚と硬貨四個で
般的に言われているのは最初の失業対策事業の募集を行っ
諸説あります。どれが正しいというのはないのですが、一
すが、ニコヨンというのがどういう意味なのかというのは
タイトルが「『ニコヨン』の都市社会史」ということで
発です。なぜ部落だけに事業がいっぱいあるんだとかいっ
るというものです。反発としては、マジョリティからの反
正のために当該マイノリティに社会資源を集中的に配分す
対するアファーマティブアクションなどのように、格差是
提唱しています。これは同和対策事業とか、特定の民族に
とえば岩田さんは「ターゲット型特別政策」という概念を
ティを組み込んだ社会政策の研究を提起されています。た
況が変わってきて、岩田正美さんや武川さんがマイノリ
会政策史とか社会都市研究はいまだほぼ皆無です。最近状
はじまります。しかし、マイノリティを組み込んだ都市社
れていたんですが、それではよくないということで研究が
うと労働運動とか工場の現場とか労働政策の問題に限定さ
年代の半ばに問題提起をしました。それまで社会政策とい
社会政策を労働や生活過程全般に及ぶ問題として一九八〇
んという研究者がいらっしゃいまして、この方たちは都市
という研究の系譜があります。武川正吾さん、玉井金五さ
を 説 明 し た い と 思 い ま す。
「都市社会政策とマイノリティ」
失対労働者について、これまでどんな研究があったのか
難さを問うことにもつながると思います。いわば、変革主
た反発や、黒人じゃないけれど貧しい人はお金がもらえな
はじめに
体ではなく、権利主体としての主体化過程を問うことが目
いのかというように、政策から洩れる層に新たな社会的排
1
的です。
72
『ニコヨン』の都市社会史
と、江口英一さんという方が一九六〇年代に東京の失対労
しいです。この報告の対象である失対労働者を事例にする
しかし、そもそもマイノリティを分類するというのは難
とか、特定の居住地域別に分類する方法をとっています。
とえば大阪の大正だったら沖縄、西成だったら被差別部落
水内俊雄さんが、特定のマイノリティの居住地域別に、た
被差別部落の事例研究をされています。一方、地理学者の
では岩田さんとか、大西祥恵さんという方が大阪の和泉の
いない、今後のテーマだといっています。戦後の実証研究
会政策とマイノリティという研究は全く位置づけがなって
除が創出されるということです。玉井さんは特に戦後の社
対事業労働者全体の三割から四割程度が女性で、大半は
五〇年代社会を見ていくことにもつながります。また、失
重要です。そうすると様々なマイノリティの組み込まれた
けですから、高度経済成長の前提である五〇年代の分析が
る必要があります。高度経済成長に伴って滞留していくわ
らを組み込んで彼ら/彼女らの権利主体化の過程を検証す
るし、その中に格差や社会的差別も当然存在します。それ
ます。失対労働者自体にもさまざまな揺らぎやゆがみがあ
のマイノリティは相互に連関しているし、重なり合ってい
らという風に分類することが非常に難しいわけです。全て
みると、この人が部落民だからどうだとか在日朝鮮人だか
表1をご覧ください。一九五〇年から一九六五年にかけ
「未亡人」とか母子家庭ですが、彼女たちに焦点をあてる
や在日朝鮮人といった社会的マイノリティの人々が急速に
て女性の比率が二四・八%から四八・三%になります。失
働者の実態調査や分析をされています。その分析を見てい
増加する。それまで失対労働をしていた人々は景気が良く
対打ち切りの頃には七割近くになります。高齢の女性がど
ことでさまざまなジェンダーとかマイノリティ間の階層性
なると他のもっとよい仕事に転業していきます。そうする
んどんふえていくことを示しています。戦後失業対策事業
ると、高度経済成長が進行すると、彼らは高齢化が進み、
と失対事業には、他の産業や仕事に就労できない社会的マ
の研究では、失業対策、福祉政策として一時期は役に立ち
とか社会的差別の問題を論じることが出来るわけです。
イノリティとか高齢者とか女性が集中して、滞留していく
ますが、高齢者、女性などが滞留しているので彼らの自立
高齢者や女性の比率が上昇していく、さらに被差別部落民
ということを実証されています。このように失対労働者を
73
すが、いつ裏切るかわからないようなルンプロは研究対象
いうと、ルンペンプロレタリアートという言い方がありま
のは断片的にしかとらえられてきませんでした。なぜかと
会運動史や労働運動史の研究では、自由労組の運動という
降に集中しています。一九四〇、五〇年代を対象とした社
らが集まった自由労働者組合についての研究も六〇年代以
り、私が最初なのではないかと思っています。彼ら/彼女
除いてはほとんどありません。特に歴史学では、管見の限
外の失対労働者関係の研究というのは同時代の社会調査を
た「寄せ場研究」というのはたくさんありますが、それ以
業対策事業の全国的な政策史研究とか調査研究とかを使っ
とか山谷などにいる人たちの研究はたくさんあります。失
ります。一方、寄せ場研究というのがありまして、釜ヶ崎
に重要な役割を果たしているんだという研究がたくさんあ
ういう産業がない地方では、打ち切り直前においても非常
失業するためその代用として失対事業をするんだとか、こ
方、例えば福岡の筑豊のように炭鉱がだめになって大量に
対策事業の打ち切りが開始されるのですが、産業のない地
反対する人たちも当然います。一九六二年に本格的に失業
のために失対事業をやめようという結論がでます。それに
ています。大羽さんは、高齢女性の失対事業への固定とい
連れの母子世帯の女性失対労働者の問題を大きく取り上げ
ない、男女の雇用機会が著しく阻害されているとして、子
う方が先駆的に、民間産業があまりにも女性を雇用してい
という研究段階です。女性史研究者では大羽綾子さんとい
んとした典拠が明確な資料で調べていかなければならない
る府議会の対応が中心です。ほとんど研究がなくて、ちゃ
です。京都府議会史などもありますが、失対労働者に関す
もほとんどなくて、組合がどう闘ったかということが中心
日自労の京都支部の記録もあるのですが、これも出典とか
が、常傭労働者、正規雇用者中心の運動史叙述で、一応全
ではありません。京都においてはどうかということです
てたくさんあるのですが、「多かった」という以上のもの
在日朝鮮人が非常に多かったということがエピソードとし
史とか全日自労の各府県支部の記録に、被差別部落の人や
とんどされてきませんでした。わずかに各府県の失対事業
失対事業などに滞留しているような人々の運動史分析はほ
形成をしている市民とかに分析が集中されてきたわけで、
たから、企業に勤めている正規労働者とか、自立的に主体
にならないというようなマルクス主義的な観念がありまし
74
『ニコヨン』の都市社会史
究では、井上としさんが、戦前からの共産党の活動家で、
人びとであるということを指摘しています。地域女性史研
う問題があってそのうちの九〇%が「未亡人」といわれる
ならない人たちでした。したがって、京都の事例は産業の
のない人々です。他の地域でも全く民間産業の雇用対象と
京とかに行っても雇われることのできない、ほかに行き場
失業対策事業の形成と自由労組
少ない地域の代表的な事例として普遍化が可能です。
2
戦後全日自労の婦人部長になった大道俊さんという方の評
伝をお書きになっています。京都でやると、古都京都、日
本の伝統都市の典型ということで、現代都市の普遍的にも
一九四〇年の後半、京都に引揚者が多数入ってきます。
阪とかのように大きな被害を受けていないので、京都に行
つ排除の構造がクリアになります。また、部落問題の関係
失対事業の歴史的位置についてですが、一九五〇年代の
けば何とかなるのではないかという人々が市内に流入して
引き上げ港として舞鶴がありますので、舞鶴に帰ってきた
京都では民間産業への転業が全然できません。西陣織など
きました。となると、非常に人口が増加して、流入を食い
資料が大量に発掘されていて研究目的なら誰でも利用でき
の伝統産業は戦時期に贅沢品が禁止になり、その影響で全
止めないといけないという方策がとられます。さらに、失
人たちが大量に京都市内に入ってきます。京都は、「非戦
く駄目な状態でした。民間産業がだめなので、就労日数な
業者が増加する中で、一九四九年五月に緊急失業対策事業
るという全国的にも希有な環境で、非常に多くの実証的な
ども東京や大阪などに比べて少ないわけです。ですから、
法が出来て、失対労働者の組織が始まります。最初は、進
災都市」として喧伝されていました。実際は空襲を受けて
失対事業に頼らざるをえませんでした。しかも失対労働の
駐軍の工事を請け負っていた大林組の組合が京都土建産業
研究の蓄積があります。このことでも京都を事例に研究す
大半は地元の人です。新規流入者がいない。京都の失対労
組合というのを結成します。これは、各企業から解雇され
いるのですが比較的小規模な被害ですんでいて、東京や大
働者はほとんど地元の人で、高齢者、女性、部落民、在日
た人たちが中心の組合です。さらに自由労働組合など七つ
る意味が非常に大きいものがあります。
朝鮮人とマイノリティが中心になっています。大阪とか東
75
支部あって、京都市内と福知山、舞鶴なのですが、そこに
最終的には一九五〇年一二月に「円山事件」というのが
くらいの組合ができます。これらの組合を一九四九年七月
一九四九年から一九五二年のあたりをみていただきたいの
おこりまして、円山公園での集会で労組員と警官隊が衝突
市内区別の分会を設置しました。一九五〇年の初めには組
ですが、委員長の灘井五郎は共産党員でした。はじめは七
する事件なのですが、自由労組はその事件でも主要な役割
に組織して京都地方自由労働者組合協議会ができます。こ
条千本と西陣の職安で組織していました。当時すでに失業
をはたします。それによって警察による圧力が強化し集会
織化が終了していて、当時産別会議という共産党系の職業
者が一万人を突破していまして、職安で座り込みや就労要
も規制されるようになります。その後も職安職員や民生局
の自由労組は共産党系勢力の牙城でした。すでに江口英一
求をしたり暴力沙汰などもありました。当時の市長は高山
長を殴打といった暴力事件がおこり、大きな社会問題とし
別組合の組織があるのですが、これの有力労組として、市
義三で、市電割引券を交付したりしましたが、市役所や府
て報道されるようになります。その翌年の年末には、梅津
さんが指摘されていますが、レッドパージによる解雇者が
庁の本庁を失対労働者が囲んだりデモが頻繁におこなわれ
と原谷の作業現場で職安職員をおどして二、〇〇〇人が働
電に無賃乗車をしたり、府庁事件といって府庁に乗り込ん
ました。そういう中で、不正就労事件が多発します。これ
いていないのに給料をもらうという事件がありました。職
失業対策事業就労者になったためです。いろんなところで
はどういうことかというと、手帳をもらって就労するので
員が背任容疑で捕まり、自由労組員は恐喝で捕まるという
でいって荒らしてしまうとか、そういう事件をおこすよう
すが、それを一人二〇冊くらい持っていて二〇人分給料を
事件でした。五〇年代の初頭というのは自由労組の社会的
組合運動をやっていて会社を解雇された人たちが自由労組
もらったりするというような不正事件が多発しまして、失
圧力が強くて、府や市は暴れられたら困るので早めに要求
な社会的圧力がありました。
対就労適格者基準の厳格化などがなされます。自由労組は
を聞くというような妥協がされたりしていました。
の幹部になりました。表2は京都府支部の役員一覧です。
京都府内で五、〇〇〇名近く組織していました。本部と五
76
『ニコヨン』の都市社会史
3
失対労働者とマイノリティ
もたくさんあって、市民の間には失対労働者は役にたたな
二時半にまた休憩、三時半には帰り支度をする」というこ
まって一時半までかかる。それから午後の仕事にかかり、
なかの二、三人がタキ火を始める。昼食は十二時にはじ
せいに休暇、再び仕事に就き、十一時半を過ぎると、その
す。京都御所で草刈をしている人たちはみんな女性の失対
半で生活保護をもらいながら就労をしているという状況で
西陣方面の織工場が不振なので失職者が増え、未亡人が大
うものなのかということですが、西陣職安の事例ですと、
そういう中で、女性失対労働者の存在というのはどうい
いなまけものだという意識が非常に強くあります。労働力
とです。京都市会でも自由党の議員が「街路を清掃するの
労働者です。これをみてみると、市内の女性失対労働者が
では、京都市民に失対労働者はどういうふうにみられて
に小さい車に五六人も押してあるくことは遊惰な国民のす
三、〇〇〇名いるなかで、二〇〇名くらいが御所で草刈を
としても劣位であり他都市に比べて就労日数は少なく、民
ることである」「国際観光都市に役に立つような、ドライ
しています。その中で、未亡人・未婚者が四二%、そのう
いたのでしょうか。「京都新聞」の投書欄によると「市役
ブウェーや山科のトンネルなどに使え」「ドブコをあけた
ち未亡人が二八%。三〇代が圧倒的に多く、七〇代の女性
間産業の少なさも指摘されています。自由労組の闘争に関
りしめたりするようなことではなく、観光都市建設の希望
もいました。学歴は小学校卒業が約五割です。また京都御
所の人夫が、私の近くの道路の修繕に来たが、十一人が一
造成に使うべきだ」というような質問をします。これに対
苑の現場に保育所ができます。子持ちが多いのでこういう
する反感もあり、社会にとって迷惑なニコヨンという意識
して市長が、「御所掃除や草刈で金をはらうことの批判は
対策をとっています。女性の失対労働者の実態をみてみま
台の車をひいて来て、仕事に着手するのが、九時半、子供
承知している」「自由労働者では本格的な土木工事はでき
すと、朝早い過酷な労働で、未亡人が多く、子供がいるの
を京都市民がもっていたのは明白です。
ない」と答えています。また、市電の割引乗車券の発行を
で民間産業へいけず失対しか働き場所がないという状況で
の砂遊びのような仕事をちょっとして、十時になると、一
批判する新聞記事が載ります。こういった投書などはとて
77
した。このように未亡人問題との深い関連があり、戦争の
いたのです。
支部が賃上げ要求をし、部落解放委員会が様々な支援をし
す。さらに京都市の竹田の部落でも、自由労組の竹田深草
も解放委員会が侵食しているという報告をおこなっていま
もみんな共産党で、青年会長が解放委員会に入って青年会
と部落解放委員会地元支部の幹部がつながっている、しか
館の館長が京都市福利課長にあてた書類の中で、自由労組
次に被差別部落と失対労働者についてですが、錦林隣保
落解放同盟との共同闘争がしばしば成立していたというこ
あったことがわかります。さらに京教組、朝鮮人連盟、部
などのマイノリティと失対労働者は非常に強い相関関係が
をしたりしています。このように被差別部落・在日朝鮮人
朝鮮人団体教育連盟の四団体が京都府、京都市に共同要求
ありますし、部落解放委員会、全京都自由労組、京教組、
盟、部落解放同盟が並んで陳情文を提出したということが
市役所の市長室に陳情で乗り込み、自由労組、朝鮮人連
では、運動の形態はどうだったのかということですが、
ていて、三木一平や梅林信一が斡旋しているということが
とがわかります。
被害者ということが出来ると思います。
「解放新聞」に載っています。この背景には、竹田深草地
区の有業者一、二八二人中、日雇いが五三六人という状況
道俊も一九五一年に失対に入っているのですが、「三分の
うに認識しています。先ほどあげた共産党員の活動家の大
聞」では、京都市の自由労働者の大半が部落民だというふ
田部落で闘争が盛り上がった背景だったのです。「解放新
業はありません。失業対策がほとんどです。新聞記事に次
す。さらに紹介者数を見ると、ほとんど民間産業、公共事
一年から六〇年まで有効登録者数は一万人を越えていま
対労働者を雇用していました。表3にありますように、五
民間産業をもたない中で、ほとんど京都府、京都市で失
京都府・京都市の失業対策と自由労組
一が朝鮮人で三分の一が同和地区の出身で三分の一が戦争
のような職安の一風景が出ています。職安に朝行くと、広
4
未亡人や引揚者」と回想しています。これは正確ではあり
場には露店がでていて朝六時四〇分には現場の割当が始
がありました。半数近くが失対労働者だということが、竹
ませんが、少なくとも当事者でもある彼女はそう認識して
78
『ニコヨン』の都市社会史
までの殺気立った雰囲気がなくなり市民に好感の持たれる
ます。作業現場の空気が、リンチ事件が起こってからこれ
す。この組合リンチ事件以降、静かになったと言われてい
るのに職安職員は見てみぬふりをしている」と訴えていま
警察のひもつきの労働者が自由労組の役員に暴行をしてい
パイの近藤がヒロポンを労組内にまわした。西陣職安では
業対策係と警察が手を握っている。自由労組に送られたス
については灘井五郎が京都府会で質問をしています。「失
五二年九月におきた自由労組内でのリンチ事件です。これ
中で、「京都自労千本事件」というのがおこります。一九
とけん制しあって」と指摘されています。こういう状況の
働者の層も多種多様で「右翼の実力家たちが左翼の理論家
日くらい働ける、仕事は道路の補修や河川の修理です。労
まっています。八時には紹介が終了します。一ヵ月に一五
略)東高瀬川現場近くの交番からポリが来て、役員の動き
調べにくるし、わしの立場はないど』とこぼしている(中
し、聞いたら上からしめられる。ケイサツは何やかんやと
しめている。課長は『組合のいうことも聞かねばならない
合の用事で役員が出て行くと、ポリ公は課長を締め上げ苦
松原署からポリ公がきて、なにをやつたか調べている。組
ニュースの記事には「役員や共産党員が仕事に行くと必ず
さらに警察の圧力も強化されます。全自労千本支部の千本
いるという状況認識を自由労組の人々はもっていました。
働組合もやってほしいと申し入れました。非常に孤立して
めに役に立つのだから、失業反対闘争をちゃんと普通の労
しない。自由労組の闘いというのは最低賃金制の確立のた
た、就業労働者は全然共闘してくれない。闘いが全然進展
す。これまで、失業反対闘争は自由労組だけでやってき
すきもならん』このようにどこの現場でもポリ公の干渉が
を調べている。主任の渡辺さんは『このごろ現場同士でつ
さらに、共産党系の産別会議があったのですが、共産党
きつくなつている」とあります。自由労組内のリンチ事件
労働者になろうという意欲が感じられた、というような新
のひきまわしについていけなくなり、産別会議が崩壊しま
である「京都自労千本事件」のあとに産別会議が崩壊する
つき合いをしているので、ほんとにやりにくい。ゆだんも
す。そうなると自由労組は総評に加盟することになりま
過程で、自由労組が総評に加盟しますが、自由労組が他の
聞報道がされています。
す。一九五三年五月に総評の京都地評に加盟を申し入れま
79
な闘争がやれなくなりました。表4にあるように、五二年
が圧力を現場でかけるという中で、それまでのような派手
運動から孤立しているという状況認識がされていて、警察
合が四〇%くらいになります。ほとんどが彼ら/彼女らは
ますが、給料が低く、五四、五年くらいになると女性の割
にすらなれませんでした。京都市は年末特別就労などをし
対策事業が生活保護の補完のようになっていました。ま
戦前は仕事についていたのですが、戦後の経済変動での失
こういう状況で、失対労働者はどういう人たちだった
た、一般外国人比率に比べて失対労働者の外国人の割合が
一〇月に「京都自労千本事件」が起こったすぐあとは「極
のでしょうか、戦前戦後を通じての従事者は非常に少な
三倍でした。京都府、市は「ニコヨンは働かない」という
業者です。就職できる層は就職してしまっているので、一
く、多種多様な職業経験者が集まっていました。また、
不評の一掃のために、「特別失対事業」というのを始めま
左系推定労務者数・共産党員数」が七二四人だったのが一
高齢者や朝鮮人が多いことが、京都府の『日雇労働者実態
す。労働者からは好評でした。この政策は給料を上げて
般産業に就労できない高齢者や女性が残り、その割合が多
調査』でわかります。また、五大都市で組んで雇用希望者
もっと働くようにしようという政策なのですが、蜷川知事
年くらいで一八三人になっています。さらにこの時期、伏
をどう常用労働者化していくかということで、政府に陳情
の府会での「働く方との間にいろいろ矛盾のございまし
くなっています。そのうち二割以上が生活保護をうけてい
活動を行うようになります。京都府、市だけではどうしよ
て」という発言にもあるように、労働者の間に葛藤があり
見職安や西陣職安に第二組合ができます。西陣自労といい
うもない状況になっていたのです。この五四年前後になる
ました。特別失対事業に行って、
「普通の失対事業よりたく
て、失対だけでは生活ができない状況にありました。失業
と、失対事業にも新規参入が不可能になってきます。失業
さん金を稼ぎたい」という思いと、
「組合の人たちは悪いといっ
ます。共産党系の組合が分裂したということです。
対策事業への就労を希望すると、「体力」「生計を営む主
ているしどうしたらいいのか」といった葛藤でした。
このような厳しい状況を打開するために五五年八月に
たる者であるか」「完全失業者であるか」などを職安の係
員が家庭までいって調査をします。ほとんど「ニコヨン」
80
『ニコヨン』の都市社会史
す。また、失対労働者集団としての共同性が徐々にでてき
賃金不足のために非常に刹那的な生活態度が並存していま
世間からの同情や社会的差別の存在をひしひしと認識し、
出願望がありながらもあきらめもあり、相反しています。
という人が六一名です。これを見ると、失対労働からの脱
職につきたいという人が五七名、この仕事でいくしかない
か、というのが表5です。失対労働者をやめたい、ほかの
の人々はこんなどうしようもない状況で何を考えていた
時の訓練生の平均年齢は五二歳でした。当時の失対労働者
クリートブロックの製造所で訓練をします。しかし、この
局労働対策室は失対労働者の常雇い化をはかるためにコン
市の関係当局が補助の拡大を要求しています。京都市民生
国の失業対策審議会の会長が府の視察にやってきて、府、
て失業対策事業に考慮して欲しいという意見を出します。
に働きかけていろんな条件を出し、国会議員なども協力し
設したいということでした。また、一九五八年にも府会で
五六年段階で五、〇〇〇人以上で飽和状態であり、是非開
でも調停をしたが不調に終わっているが、出町の出張所が
たが、理由はないが反対だと言う声があがり、労働委員会
ます。これに答えて、地元と理事者が協議して懇談会をし
○ヶ月も放置されているということが府会でとりあげられ
出町の職業安定所の設置に関して地元の反対が猛烈で、一
るということがあり、地元が再三陳情しています。また、
つめは露店が二〇軒あまり出て、食中毒を何度もだしてい
なく、四、〇〇〇人分の糞尿がたれながしであること、三
労働者が集まるという状況でした。二つ目は、公衆便所が
を要望しますが実現しません。四、〇〇〇人あまりの失対
道されています。一つは治安の問題です。地元はすぐ交番
が、この地域は「一躍ニコヨンタウンに変貌」と新聞に報
みます。西ノ京円町に失対の労働出張所があったのです
では、失対労働者への社会的差別について具体的にみて
失対労働者の「滞留」とマイノリティ
ています。これまで失対労働者は常に移動していたわけで
質問がでています。当時の国際会議場建設の論議のなか
5
すが、この時点で失対労働者集団の共同性の存在が指摘で
で、京都職業安定所出町出張所への地元住民の反対がどの
「府市失業対策委員会」というのが設立されます。市が府
きます。
ようなものだったかということがでてきます。その内容
81
労働自体がやる気の出ないような環境だったということは
低さや市民の蔑視などを問題にしています。しかし、失対
を指摘して改善を求めているのに対し、市長は労働能力の
議をみると、失対事業では工事に時間がかかるという事例
などから考えると仕方のないことでした。また市会での論
いけない状況や、栄養状態の悪さ、仕事のやりがいのなさ
さと蔑視があったのだが、早起きをして仕事を取らないと
政の担当者も使いたくないといい、失対労働者の能力の低
上の理由から地域住民に非常に忌避されています。労働行
町・出町の出張所をめぐる議論を見てみると、衛生・治安
といったものでした。こういった意識がありました。円
飲んで騒ぎ喧嘩などがおこる、観光地にふさわしくない、
は、糞尿をたれながす、焚き火をする、盗みをする、酒を
れた日雇い労働者が坊主につかまって赤いヨダケカケをか
建立するはずだった地蔵が、生臭坊主のため建たず、あぶ
します。その内容は、「世界一の観光都市をめざす某市で
六月に自由労組千本が「日やとい地蔵」という芝居を上演
のは官公系や大企業の劇団でした。その中で、一九五五年
月のレッドパージ以降多くの自立劇団が崩壊して、残った
労働者演劇は自立演劇と呼ばれているのですが、五〇年六
なったけれども何とか生きていこうとしています。当時、
ルタール塗りを選び市内をかけ回る」と、失対労働者には
都から「蚊」と「ハエ」をなくそうと職種もゴミ箱のコー
労働者の文化向上に走り回っている。また文化観光都市京
春自労演劇サークルを七条職安千本分室に創立して、自由
いう経歴です。彼は「自ら「ニコヨン文士」を名乗り、今
た蕎麦屋も失敗して妻子と別居して自由労働者になったと
す。梅小路に住んでいる村上さんは、奥さんがかつて満映
人だったりします。新聞でとりあげられた一例をあげま
す。失対労働者たちも失職するまでは職人だったり、商売
していったのでしょうか、まず文化運動についてふれま
そういう状況の中で、失対労働者たちはどういう運動を
常な努力を要求されるが、自労の場合のそれは一段とその
というと、「通常職場演劇はいろんな点で困難が多く、非
というストーリーでした。これがどのように評価されたか
地蔵様の言葉で市長が日雇い労働者の要求を受け入れる」
者、観光宣伝に浮き身をやつす市長などが現れ、ついにお
けて地蔵を演じる。ホームレス、酔っぱらいの軍国主義
ママ
押さえておかねばなりません。
の女優でしたが、満州からの引揚げで転落し、その後始め
82
『ニコヨン』の都市社会史
気持ちで演劇サークルを作ったかということですが、慰安
もツルハシ・スコップなどといったものでした。どういう
をしていたかというと、衣装も仕事着で音楽もなく小道具
書記長などもつとめていました。彼らはどういう風に練習
中心になった権大奉という在日朝鮮人は組合の教宣部長や
演劇発表会で「ガード下」という芝居を発表しています。
続けるが…」という話です。一九五六年六月には京都自立
たいと思っている。夫婦は「産む」「産まない」の口論を
は堕胎を決意し、費用のため売血する。しかし正子は生み
共稼ぎをしている。妻の正子が妊娠した。四人目だ。櫻井
婦は別居し、表向き分かれたことにして、失業対策事業で
容は、「日雇いには夫婦共稼ぎが許されていない。櫻井夫
んの唄」という芝居をします。優秀賞をとっています。内
年一一月の勤労者文化祭において自由労組千本は「にこよ
クル活動にも大きな階層間格差があったのです。一九五五
で高齢者の多い組合は珍しい存在でした。こういったサー
大企業の青年層が中心で、自労のような日雇い労働者のみ
の中で、自立演劇に参加をしました。自立演劇は官公労や
こと自体大きな成果」とされています。非常に困難な状況
努力はなみなみならぬものであり、自立演劇に発表された
上昇可能性のない滞留した失対労働者たちの活動です。こ
動は出てきません。まとめると、ニコヨン劇団はほとんど
一月に「いつの日か」という芝居をして以降は資料上、活
で激励されたりしています。しかし、最終的には五六年一
祉の施設を慰問して、「日雇いさんを見直した」と大喜び
間に六十余人の同行者が集った」ということです。社会福
うるおいをもとうと劇団結成の話がもちあがり、またたく
が、この苦しみの中に楽しみを見出し、金はなくとも心に
争を闘っている中で、「給与改善もわれわれには大切だ
伏見職安でも栄光会という劇団がありました。年末の闘
会を開いて「にこよんの唄」
「ガード下」を上演しています。
という座員もあったということです。七月には、演劇発表
のです」と訴え、無報酬で続けるため酒もたばこもやめた
てほしい。世間の認識を、この演劇活動を通じて改めたい
住する気はないが、日雇も立派な労働者であることを知っ
が、芝居が飯より好きという人たち。われわれは日雇に安
員は元呉服店主、工員、戦災の理髪店主などとりどりだ
をする、七人でせりふなども決めるということです。「座
自分たちで芝居を、というのが動機です。夜に演劇の勉強
会の時、お金がないため映画も芝居も見られない、せめて
83
まで構成員の流動性が高かった自由労組が逆に滞留するこ
に自主的な運動路線に転換せざるをえないのですが、これ
闘争路線も警察の弾圧などによって終焉します。このよう
重なり合いながら滞留していくのですが、五〇年代前半の
対事業にしか就労できない高齢者、女性、被差別部落民が
文化活動が続けられていたのだろうといわれています。失
文殊九助」という劇が上演されています。組合活動の中で
された全日自労十周年京都府支部文化祭で「伏見義民伝
活動はその後確認できないのですが、五九年一〇月に開催
確立や滞留していくなかでの主体化していく過程でした。
越えた、職安と自由労組を中心とする労働者間の共同性の
によって生活を振り返っていったということです。地域を
コンクールなどでも優良賞をとったりするのですが、演劇
ル運動の中で、自由労組の存在は特殊な存在でした。市の
ありました。通常の職場でも続けるのが困難な演劇サーク
ことで、自主的な活動や生活の質ややりがいを求める姿が
人々です。日々の労働のほかに生きていく糧が必要という
こでは脱出もできず失対事業でしか生きていくほかのない
ます。共産党系の組合とそうでない組合と二つになるので
た出町公共職業安定所では、女性だけの分会になっていき
いません。組合活動と生活の葛藤があったりもします。ま
ういった主体化のなかでも、揺らぎやゆがみはなくなって
利主体化していったということがわかります。しかし、こ
す。滞留によって運動経験が蓄積されて主体が成長し、権
で相当な額がかかりました。これもカンパで行っていま
んが世界婦人労働者会議へ出席するのですが、当時のお金
ワークも形成されていきます。一九五六年五月に大道俊さ
言葉や実践で行うようになります。また相互扶助のネット
以降、生活改善や市への要求も組合の枠を越えて自分達の
的な活動のありようをみることができます。五〇年代後半
があります。こういった史料から、女性失対労働者の主体
ない給料からお金を出し合ってドラムを買ったという記事
す。また、京都御所の中の児童保育所にお母さんたちが少
一五人が出席し、市長に自ら陳情したという記事もありま
記事があります。また、高山市長を囲んで自由労組の婦人
くなった時に、自主的にカンパが集められたという新聞
どが徐々に自由労組に登場しています。職安の係長が亡
すが、活動は全く一緒にやっています。賃上げに成功した
とによって主体化していくということです。
このような中で、表2によると女性や朝鮮人の幹部な
84
『ニコヨン』の都市社会史
ます。しかし、その中でも、運動を担う層が生まれて、女
差別の現状が顕在化し、主体の揺らぎやゆがみがあらわれ
者の比率が多くなるにつれて、婦人部の運動の停滞や女性
自由労組の執行委員になったりしています。女性失対労働
をしたりしています。被差別部落出身の女性失対労働者も
り、就労日数をふやしたり、購買部を設けて積極的に活動
亡人は一六三人で九三・七%です。ほとんどの女性失対労
また、一七四人中、一四人、全体の八%が在日朝鮮人、未
で、部落を含んだ学区の出身者が九七%を占めています。
のほかの学区地域出身者が一四名で京都市の出身者の中
八人、そのうち養正学区の人が一二〇人で八七%です。そ
す。その結果をみると、一七四人中、京都市出身者が一三
ます。先ほどの出町公共職安で、彼女達に調査をしていま
年一二月に自労の京都府支部が決起大会をひらきますが、
性だけの職安である出町出張所では、対立する二つの組合
そして、西日本では一九五〇、六〇年代、部落解放同盟
その中で京都府下の日雇いのうち、七割、八割が部落の
働者が中年の未亡人で日雇いに沈殿しています。一九六〇
と全日自労は強い相関関係がありました。京都では六〇年
人々だという話をしています。こうすると被差別部落・失
の枠をこえて一緒に活動をしています。
三月にも統一交渉が成立していますし、六一年一月にも三
都市内六割」とかいわれていますが、実際は表7にあるよ
業対策事業従事者・女性失対労働者というマイノリティの
京都における女性失対労働者がどうなっていったかとい
うに京都市内全体の三割くらいです。表8をみると、南区
者で対市交渉をしています。自由労組もメーデーや様々な
うことですが、表6を参照してください。これは職安の失
は女性失対労働者比率が五割です。女性失対労働者の比率
集約点ということができます。ただし、失対労働者中の被
対労働者の名簿から女性失対労働者の居住地をカード分布
は被差別部落のほうが京都市全体より高い割合です。高齢
集会に参加していますが、実際の自由労組に対する支援は
でとったものです。まず、中心部より周辺の学区に集中し
者・被差別部落民・在日朝鮮人などのマイノリティを含み
差別部落居住者は「ほとんど」とか「七、八割」とか「京
ていて、生活困窮者層は周辺部に多いです。女性日雇労働
こんだ貧困かつ社会的上昇可能性のほぼない人々が五〇年
解放同盟と京教組でした。
者の集住学区は被差別部落やその周辺の学区に集中してい
85
このように、失対労働者たちは滞留しつつ凝集し、運動
め感からの生活改善志向を持っているといえます。
がゆえに集団として凝集し、そして主体として成熟し、揺
経験を蓄積し共同性を保ちながら主体化をとげたのです
86
代を通じた交渉過程のなかで運動経験を蓄積して滞留した
らぎやゆがみや葛藤や様々な問題を抱えつつも権利主体と
て、掲載されています。興味のある方はそちらもご参照下さい。
本講演の内容は『日本史研究』五四七号(二○○八年三月)に圧縮し
照ください。
を示しているでしょう。今後の課題などはレジュメをご参
す。失対労働者としての権利主体化がいかに困難であるか
が、このように成長と揺らぎが併存しているということで
むすびにかえて
しての主体化を果たしていったのです。
6
最後に千本自労医務室の調査をみてみましょう。これは
南病院が千本自労と共同で診療所を開設したもので千本の
職安内にあります。自分たちの生活と健康を守るための成
果です。表9をみると、支持政党がでています。社会党、
共産党がそれぞれ二〇から三〇%です。このように失対労
働者の支持政党もさまざまでした。また、全日自労が「宗
教団体に対する我々の態度」という見解をだしているの
ですが、創価学会とかの新興宗教が浸透しているという
危惧をもっています。京都の前尾繁三郎の『政治家の方丈
記』という回想録には「京都府には当時、政府の失業対策費に
よって、府庁の息がかかっている日雇労働者には創価学会の会員
は信仰についての調査です。創価学会の信者が三
が多く、その動向は選挙を大きく左右」という記述がありま
す。表
割くらい占めています。信者になる人は絶望感とかあきら
10
『ニコヨン』の都市社会史
京都部落問題研究資料センタ-講演
『ニコヨン』の都市社会史-失業対策事業・被差別部落・女性-
2008/11/7 rep 杉本弘幸
Ⅰ はじめに
目的→一九五○年代の京都市における都市社会政策である失業対策事業の展開と、様々なマイノリティ1を含みこんだ失業
対策事業労働者2(以下、失対労働者と省略)という「弱い主体」3の権利主体化過程検証。それは主体化の困難さ
を問うことにもなるだろう
①都市社会政策とマイノリティ→①武川正吾4・玉井金五5→都市社会政策を総合的な労働=生活過程全般に及ぶ存在と再
評価。
「マイノリティ」を組込んだ・主体とした社会政策史/社会福祉史研究ほぼ皆無。今後の課題6。岩田正美7、武
川正吾8、マイノリティを組み込んだ社会政策研究提起→特に岩田正美による「ターゲット型特別政策」の提唱→限ら
れた社会資源。当該マイノリティに集中的投入。社会的包摂。デメリットは、
「マジョリティ」からの反発や、政策か
ら洩れる層に新たな社会的排除創出。玉井金五→戦後社会政策とマイノリティの関係→位置付けが不十分、マイノリテ
ィの機能と役割に関する究明必要。社会政策的に非常に重大なテーマと指摘9。
「戦後日本」対象の実証研究→岩田正美、
被差別部落民、在日朝鮮人、日雇労働者、女性などとマイノリティを分
大西祥恵10など。一方で水内俊雄に代表される被
政策対象別・特定のマイノリティの居住地域別に分類して分析する方法 1。しかしそもそもマイノリティを分類するこ
とは可能か? 分析対象としての失対労働者。
先駆的な江口英一の綿密な社会調査による東京の失対労働者の実態分析
12
→高度経済成長の進行→高齢化・女性比率上昇・被差別部落民、在日朝鮮人割合上昇→「滞留」
。このように全
全ての
マイノリティは相互に連関し、重なりあっている。そこで様々なマイノリティが含み込まれた「弱い主体」である失
対労働者に、ゆらぎやゆがみ、格差・社会的差別などをくみこんだ彼ら/彼女らの主体化過程の解明。また経済成長
に伴い「滞留」する失対労働者の特質を捉えるには、高度経済成長の過程の五○年代の分析が必要→様々なマイノリ
ティが含みこまれた失対労働者を通じた五○年代社会をみていくことにもつながろう13また失対事業には全体の三-
四割程度、女性(大半が未亡人や世帯担当者)が就労。彼女たちに焦点→「戦後的」なありようと、ジェンダーやマイ
ノリティ間の階層性、社会的差別の問題も論じえる。従来の研究で分析のないマイノリティの集約点としての失対労
働者をめぐる分析→マイノリティ・階級・ジェンダーの問題をも串刺しにできるだろう。
1私は被差別部落民、在日朝鮮人、女性、
「沖縄人」などといった個別対象を絶対的に「マイノリティ」と定義する構えを取っていない。あくまで「マイ
ノリティ」は社会的関係において流動し、
「マジョリティ」と「マイノリティ」は相互往復的に入れ替わる可能性があると考える。また「マイノリテ
ィ」内及び「マイノリティ」間における階層性や社会的差別の在り方をも問題化したいという意図をこめている。その問題意識の一端は、拙稿A「一
九四○-六○年代の都市社会政策と地域住民組織」(『歴史学研究』八二四、二○○七年)で示した。
2本報告の失対労働者とは、一九四九年に制定された緊急失業対策事業法で、職業安定所に失業対策事業従事者として登録、就労しているものである。
3ここでの「弱い主体」とは、目的や自分のあり方を自己決定できる「強い主体」ではないものをさす。人間はそもそもなんらかの主体性をもつが、そ
のままではただの行為主体である「弱い主体」にすぎない。ここでは、
「強い主体」を獲得する過程を主体化としておく。変革主体ではなく、どのよう
に権利主体としての主体化を行いえるのかという点を重視している。ただし、既に述べているように、
「マイノリティ」そのものを「弱い主体」と措定
してはいない。
4武川正吾『社会政策の中の現代』第一章(東京大学出版会、一九九九年)
。
5玉井金五『防貧の創造』
(啓文社、一九九○年)
。
6戦前期都市社会政策史研究の研究史は、拙稿B「日本近代都市社会政策と『下層社会』研究の再構成」
(『新しい歴史学のために』二五六号、二○○五
年)参照。
7岩田正美「政策と貧困」
(岩田正美『貧困と社会的排除』
、ミネルヴァ書房、二○○五年)
、同『戦後社会福祉と大都市最底辺』
(ミネルヴァ書房、一九
九五年)
。
8武川正吾「福祉国家と個人化」
(『社会学評論』五四-四、二○○四年)
。
9玉井金五「課題と方法」
(玉井金五・久本憲夫編著『高度成長の中の社会政策』ミネルヴァ書房、二○○四年)
10大西祥恵「マイノリティの労働市場参入についての一考察」(『経済学雑誌』一○六-四、二○○六年)など。
11水内俊雄「戦後大阪の都市政治における社会的・空間的排除と包摂」
(『歴史学研究』八○七号、二○○五年)などの諸研究。
12江口英一『現代の低所得層』(上)(中)(下)(未来社、一九七九、八〇年)など。
13ここで一九五○年代論とは、中村隆英・宮崎正康編著『過渡期としての一九五○年代』
(東京大学出版会、一九九七年)
、浅井良夫『戦後改革と民主主
義』
(吉川弘文館、二○○一年)
、雨宮昭一「一九五○年代の社会」
(同『戦時戦後体制論』一九九七年、初出一九九○年)
、中村政則「一九五○―六○
年代の日本」
(『日本通史』第二○巻、岩波書店、一九九五年)
、森武麿他編『地域における戦時と戦後』
(日本経済評論社、一九九六年)
。森武麿「一
九五○年代の地方都市と農村」
(『人民の歴史学』一四九号、二○○一年)などを念頭においている。
1
87
②戦後失業対策事業研究→全国的制度変遷、事業経過→失業対策+福祉政策として一時期は役だつが、高齢者、女性など
の「滞留層」の「自立」のために打切り結論。研究論文、全国対象の研究14。→一九六二年開始の失対打ち切り路線反発
→産業のない地方では打ち切り直前においても「滞留層」の救済に重要な役割を果たしているという研究。
戦後の失対労働者や失業対策事業の研究は、①六○年代以降の釜ヶ崎、山谷などの「寄せ場」研究15。②失業対策事業の
全国的政策史研究③六○年代以降の実証的な調査研究。日雇労働運動関係→「寄せ場」研究のみ。自由労働者組合→史
料的制約、六○年代以降集中。一九四○-五○年代の社会運動史・労働運動史研究→自
自由労組の運動無視、あるいは断
片的1 →正規労働者/自立的な市民・労働者偏重の分析の弊害。自立した「強い主体」対象の運動史分析では捨象される
対象17。各府県失対事業史18全日自労各府県支部記録19→被差別部落、在日朝鮮人「多かった」以上の指摘なし。
③一九五○年代の京都における研究皆無。通史的記述もわずか20。常庸労働者/正規雇用者中心史観が強く影響。全日自労
出典なく、組合の組織展開や様々な闘争の経緯中心。京都府議会史が詳細22。京都府議
京都府支部の記録と年表存在21。出
会中心に、府市失業者対策の対立、自労出身の灘井五郎や他府議会議員の質問、府当局の反応言及。失対労働者の生活
状況→府議会議論と失対労働者の状態、被差別部落など指摘のみ。被差別部落史研究や在日朝鮮人史研究同様23。京都府
→史料的制約が大きいが、できるだけ典拠の明確な史料による実証が必要な研究段階。
政・京都市政研究も概略のみ24。→
④戦後の失対事業に関わる女性史研究→大羽綾子の全国的な問題としての民間産業の女性賃金の低さ、子連れの女性失対
労働者の問題、高齢女性の失対事業への固定、その内九○%未亡人と指摘25。表
表一、女性失対労働者数の全国的上昇。
具体的な研究は全日自労婦人部通史26。地域女性史研究→京都から選出された全日自労婦人部長大道俊評伝27
⑤近代京都研究→「古都京都」
・
「国際文化観光都市京都」という言説が隠蔽するもの/とりのこされるもの28。強固な自治
日本の「伝統都市」の典型→
の主体と排除されるマイノリティの存在→辻ミチ子29、小林丈広30。近代京都研究の課題→日
都市構造の典型としての京都。現代都市が普遍的に持つ排除の構造をクリアに分析可能31。部落問題関係史料が豊富に発
掘、研究目的なら誰でも利用が可能な全国的に希有な環境/実証的な多くの研究蓄積32。
14中原弘二「戦後失業対策事業の矛盾」
(『佐賀大学経済論集』一四-一、一九八一年)
。加瀬和俊「失業対策の歴史的展開」
(加瀬和俊・田端博邦編著『失
業問題の政治と経済』日本経済評論社、二○○○年)
。中野雅至「戦後の失業対策事業の意義」
(『現代社会文化研究二一』
、二○○一年)など
15詳細は日本寄せ場学会編『寄せ場文献精読三○六選』
(れんが書房新社、二○○四年)参照。現在「寄せ場」=「釜ヶ崎」
「山谷」などは、一九六○-
七○年代に、人為的に作り出された地域である。特に「釜ヶ崎対策」と、
「寄せ場」の形成過程は、原口剛「
『寄せ場』の生産過程における場所の構築
と制度的実践」(『人文地理』五五-二、二○○三年)参照。
16全日自労編『全日自労の歴史』
(労働旬報社、一九七七年)のみが通史として存在する。
17三宅明正は、
「『戦後革新』運動は、進学者、非進学者の問題やさらに、臨時工、社外工、女性の問題、企業間あるいは地域間格差の問題などを棚上げ
して結集していく傾向が強く」
(「労働運動・市民運動」一四四頁『日本通史』第二○巻、岩波書店、一九九五年)と指摘している。このような状況
は、
『戦後革新』運動に連なる対象に分析を集中してきた戦後労働運動史・社会運動史研究の状況にも大きく影響していると思われる。
18大阪市、岩手県、長野県、滋賀県、尼崎市、神奈川県、鹿児島市、徳島県など。
19北海道、長野県、三重県など。
20京都信用金庫『京都地方労働運動史
前編』
(一九八○年)
、
『総評京都地評三○年運動史』
(一九八一年)
、湯浅晃『戦後京都労働運動の歴史』
(かもが
わ出版、一九九九年)
、京都府労働経済研究所『京都労働運動史年表』
(一九六五年)
、同『京都労働運動史年表(一九五六-六五年)
』
(一九七○年)
など。
21『全日自労京都府支部二五年のあゆみ』(一九七四年)、
『全日自労京都府支部二五周年年表』(一九七四年)。
22『京都府議会史 総説編 昭和二十年八月-昭和四十六年三月』
(一九七七年)第五章労働行政の部分(生瀬克己執筆)
。
23京都部落史研究所編『京都の部落史』二(阿吽社、一九九一年)
、部落問題研究所編『現代京都の部落問題』
(部落問題研究所出版部、一九八七年)
。
24京都府政研究会編『戦後における京都府政の歩み』第四章三節(川口是執筆)
(汐文社、一九七三年)
、三宅一郎・村松岐夫編『京都市政治の動態』第
一一章(森田久男執筆)
(有斐閣、一九八一年)など。
25大羽綾子『変わりゆく婦人労働』(東洋経済新報社、一九六五年)二九-三○頁、同『男女雇用機会均等法前史』(未来社、一九八八年)三六-五二頁。
26全日自労婦人部編『おふくろ達の労働運動』
(労働旬報社、一九八八年)
。は、座談会と、全日自労機関紙『じかたび』の収録記事が中心。
27井上とし『深き夢みし-女たちの抵抗史』
「第一章
大道俊 愚直の革命家」
(ドメス出版、二○○六年)
。
28高木博志『近代天皇制と古都』
(岩波書店、二○○六年)
。
29辻ミチ子『転生の都市京都』(阿吽社、一九九九年)。
30小林丈広『明治維新と京都』(臨川書店、一九九九年)、
『近代日本と公衆衛生』(雄山閣出版、二○○一年)。
31詳細は拙稿 B 参照。
32部落問題研究所編『現代京都の部落問題』
(部落問題研究所出版部、一九八七年)
、京都部落史研究所『京都の部落史
2
二』
(阿吽社、一九九一年)
。
88
『ニコヨン』の都市社会史
⑥失業対策事業史上の歴史的位置→一九五○年代の京都は、民間事業への転業がわずかで、就労日数、東京、大阪などの
大都市に比べて少ない。失対事業に頼らざるえない。失対労働者の大半が地元に居住している人々で、京都地域以外か
らの新規流入者は少ない構造。京都の失対労働者は、ほとんど地元出身で高齢者、女性、マイノリティが徐々に中心に。
他の地域でも、雇用の対象にならない人々が多数。多くの産業の少ない地域の代表的な事例として普遍化可能。
Ⅱ 失業対策事業の形成と自由労組
① 一九四○年代後半→京
京都は引揚者と生活難。戦災未亡人の問題。
「非戦災都市」という虚構。引揚失業者対策苦慮。ド
ッジライン企業整備による失業者増大→一九四九年五月緊急失業対策事業法成立→失対労働者組織。進駐軍の工事を
請負の大林営繕工廠労組の組合が、工事打切呼応、一九四九年五月、京都土建建築業組合を結成(灘井五郎委員長、
組合員一四六名)
。各企業解雇者中心。京都建設自由労働組合や京都産業別自由労働者組合など、合計七つの組合設立。
同年七月三十一日にこれらを組織し、京都地方自由労働者組合協議会設立(灘井五郎33議長)
。
(京都府労政課「自由労
組結成の動きについて」一九四九年八月三○日、京都府労働経済研究所『京都労働運動史資料』(一九八五年)九三―
九四頁)
② 京都有数の大労組、共産党系勢力の牙城34。既に江口英一35が指摘→レッドパージによる解雇者が失業対策事業就労者
になる。組合運動に経験のある人々が自由労組の幹部、組合を指導と指摘36。表
表二参照。当初は七條千本職安と西陣職
安で組織。一気に失業者一万人突破。府市連合態勢の失業対策。アブレ続出し、紹介所への座り込み、就労要求。就
労時に割り込みや暴力沙汰が多発。様々な対策が求められる。高山市政も失業対策を重点課題とし、市電割引券交付
などの対策。職業紹介所、市役所や府庁の本庁にも、
『労働攻勢』開始。
③ 不正就労事件が多発、
「労働ボス」の排除→失対就労適格者基準の厳格化。自由労組の職安所、市役所への交渉続く。
共産党系牙城で、産別会議参加の有力労組、社会的圧力高い。自
自労→府内で五千名近く参加。本部と五支部(京都三
職安所・福知山・舞鶴)
、市内各区別分会設置、分会-支部-本部の組織化昨年完了。産別傘下有力労組→昨年の千本
職安、市電無賃電車、府庁事件→左派攻勢の大衆動員戦術(
『毎日京都』一九五○年一二月二日)対策として就労枠ア
ップ計画、民間事業で全く吸収できず。自由労組の大衆動員戦術→完全就労ともち代獲得「年末攻勢」が開始。
◆自由労組と警官隊が激突した『円山事件』
(一九五○年一二月八日)→警察や暴力団などの自由労組に対する圧力強化。
集会も大規模な規制。
「円山事件」以後、市当局は本庁でのデモに対し交渉に応じずと言明。日雇労働者の就労拡大と、
日雇専門の円町職業紹介所設置などの改革→『円山事件』後も、民生委員、職安職員や市民生局長に対する暴力事件が
続発し、大きな社会問題。夏の「お盆手当」闘争の結果を受けて、
「年末攻勢」警戒喚起、早めの妥結と交渉目指す。
◆二年目の自由労組の「年末攻勢」
・
「総決起大会」→一二月九日円山公園自由労組主催の越年総ケッ起大会参加した梅津、
原谷両作業現場の自由労務者約二千人過剰賃金を支払い問題、市警捜査二課では十一日あさ、府職業課職員三人を事情
聴取。両現場→自由労務者二千人のうち数人同事務所浸入、賃金窃取、恐喝暴行。
(一九五一年一二月一二日夕『京都』
)
自由労組員に恐喝容疑、府職員に背任容疑。自由労組の大衆動員戦術による社会的圧力の強さが発揮された。翌年も年
末闘争を未然に防ぐため、府・市は早めの妥協、自由労組の騒擾は続き、交渉が続けられた。
Ⅲ 失対労働者とマイノリティ
1 失対労働者に対する都市社会の反応
33灘井五郎は、一九二一年朝鮮生まれ、第三高等学校卒業。東京帝大文学部宗教学科を生活のために中退。一九四六年一○月占領軍京都営繕工廠に管理
人兼通訳として勤務。翌年工廠自体が大林組京都支店所属となる。生活擁護闘争に立ち上がり、大林組営繕工廠労働組合を結成。初代組合長就任。同年
京都産業別労働組合会議に加盟。副議長。一九四九年、占領軍直接命令で指名解雇。同年四月、京都地方労働委員。また全京都自由労働組合結成し、初
代委員長就任。一九五八年まで委員長。一九五一年-五九年京都地方労働組合総評議会常任幹事。一九四九年四月、日本共産党入党。同党京都府委員、
北地区役員などを歴任。一九五一年四月京都府議会議員当選。五九年三選。その後全日自労京都支部、全京都建築労組顧問。
(京都府議会歴代事務局『京
都府議会歴代議員録』
、一九六一年、一八五-一八六頁、以下『議員録』と省略)
。
34『京都の歴史』九巻、三○三頁。
35江口英一「全日自労―『じかたび』の旗のもとに―」
(朝日ジャーナル編『日本の巨大組織』勁草書房、一九六六年)
。
36『失業対策年鑑』昭和二八年度版、三二八頁。
3
89
①「市役所の人夫が、私の近くの道路の修繕に来たが、十一人が一台の車をひいて来て、仕事に着手するのが、九時半、
子供の砂遊びのような仕事をちょっとして、十時になると、一せいに休暇、再び仕事に就き、十一時半を過ぎると、そ
のなかの二、三人がタキ火を始める。昼食は十二時にはじまって一時半までかかる。それから午後の仕事にかかり、二
時半にまた休憩、三時半には帰り支度をする。私達農家は働けど働けど過酷な税金とばく大の支出がどこまでも追いか
けてくる。これら市役所の人夫達は、私達の税金と過酷な供出の米で食っているのである。市長さん、なんとか考えて
ください。
」
(一九五○年二月二八日夕『京都』
)
◆京都市会一九五一年三月五日福田関次郎(中京区選出・自由党)失業救済事業の用途について①「街路を清掃するのに小さ
い車に五六人も押してあるくことは遊惰な国民のすることである」②国際観光都市に役に立つような、ドライブウェー
や山科のトンネルなどに使え。③「ドブコをあけたりしめたりするような」ことではなく、観光都市建設の希望造成に
使うべきだ。
(市会議録(定例会)二号一七二-一七三頁)高山義三市長→福田に答えて。①御所掃除や草刈で金をはら
うことの批判は承知している。②自由労働者では本格的な土木工事はできない③土木事業資材の経費がない。④京都に
は大規模な工業・港湾がない。実に九一パーセント京都市で負担。⑤他市では二十日就労、京都は十四日まで行きたい
(市会議録(定例会)二号一八四-一八六頁)
②自由労働者の「職よこせ」戦術。対策→自由労働者に対する市電割引制度決定、全国初実施。自由労働者対象→一般勤
労者から選ばれた市長として問題。一般勤労者には一応職があり、
「職よこせ」戦術にでないが、生活苦深刻。一般勤労
者は「給料あげろ」運動をしない。今回の自由労働者市電割引→ドロナワ的対策。一般労働者にも最低一ヶ月の割引サ
ービス必要(一九五○年三月二三日夕『京都』
)
→投書欄に投書、市会議論「ニコヨン」役に立たない・なまけものという市民の意識。労働力として劣位。他都市に比
べて、就労日数も少ないし、民間産業の少なさ指摘。自由労組の闘争に対する反感と社会にとって迷惑な「ニコヨン」
2 女性失対労働者の存在形態
① 西陣職業安定所日雇女子労務者数四百四十八人→毎日求職二百六十人程度、就労者百五十人程度。アブレ→毎日七、
八十人。年齢→二十歳-六十歳。最
最近西陣方面職工場不振→工場閉鎖失職、一月→二百五、六十人増加。労務者ほと
んど未亡人で幼い子供を抱え、民生委員の保護を受けつつ、就労。朝の四時半起起床。安定所まで電車賃節約のため
歩く 。安定所→午前六時半職場カード配給。一時間前安定所に到着しないとアブレ。女子仕事→御所や嵯峨の草刈り、
道路の清掃、現場のモッコかつぎ、バラスまきなど。午前七時半-午後五時半(春夏一時間休けい)日給百八十七円。彼
女達要望→①「子供の教育に一番頭が痛めます、安定所に託児所をつくるとか、民生委員で適当な託児所を作って欲
しい。最近求職者が増えてきたけれど、人が増えることは、自分が職を脅かされることで、世帯主で本当に困ってい
る人を採用して欲しい。若い女でおしろいをつけて仕事を見つけに来る人や、家庭に余裕があつて子供の服をかうた
めに働きに来る人は仕事を与えないで欲しい。
」②「百五、六十人の働きたい女にもつともつと仕事を与えて欲しい、
民間の人達は安定所を通じて人を求めたい、女だてらに人夫のような仕事をしなくてもすむように、子供達と共に家
にいて出来る収入の多い内職を与えて欲しい。
」彼
彼女達は、主人亡き後、大勢の子供を抱え、子供があるために、どこ
の職場からも閉め出される。
(一九五○年二月一五日夕『京都』
)
◆京都御所で雑草刈りをしている女性失対労働者。市内の女性日雇失対労働者は三○○○名→京都御所女性失対労働者は
西陣安定所から一九○名、伏見安定所から二○名。未
未亡人・未婚者は四二%、未亡人二八%。三十代圧倒的に多く、七
○代の女性も。学歴は専門学校卒、女学校卒もいるが、小学校卒が五○・五%と高率。仕事にあぶれた日は内職三三・
五%。何もしないが六六・五%。理由→「手のかかる子供が沢山居るので、家事に追われて金になる仕事はやつていら
れない」
「仕事がない」が理由(京都府労働部労政課『京都労働新聞』四-九、一九五○年九月)
② 中京区社会福祉協議会、同区未亡人会連合会→五二年十二月十五日-五三年一月三十一日、民生安定所、民生委員会
遺族会連合会協力、同区内在住未亡人母子世帯生活実態調査→①
①千五世帯→約半数が小学生のいる家、年齢は三十五
歳-四十五歳多数、平均年齢四十一歳。母子世帯原因→一般病死、戦傷病死が八十四㌫、職業は内職的な和洋裁、行
商などが半数、失業者二十八%。収入→三千円-八千円大部分。②住居→借家住まいがほとんど。子供の養育費不足
4
90
『ニコヨン』の都市社会史
が最大の悩み、ほとんどが育英資金借入を希望。再婚を希望する者は、四十一人のみ。
(一九五三年三月八日朝『京都』
)
◆一九五○年設立京都府児童会館保育所→京都府が失
失業対策事業京都御苑現場に設立。年間経常費四○、一○○○円。午
前七時半開所-午後五時閉所。二歳-学齢期の日雇労働者子弟収容。定員五十名。無料。母
母親達の反応→保育所や幼稚
園には入れられない。お昼休みに子供と一緒に給食を食べるのがたのしみ。子持ちのものが現場で働けるように、一つ
でも多くこういう保育所を(
「子連れの失対おばさんの喜び」
『職業安定広報』一九五四年五月、二八-二九頁)
→女子失対労働者の存在形態。朝早い過酷な労働。中年以上の未亡人が多い。子供がいることもあり、失対しか働き場
所がない。未亡人問題との深い関連。戦争の犠牲者が多い。保育所建設強い要望。
3 被差別部落と失対労働者
①一九五一年二月一日には、錦林隣保館長の橋本尚が京都市福利課長に、自
自由労働者組合と部落解放委員会地元支部の幹
部がほとんど重なり、日本共産党が解放委員会支部を最後の合法拠点、青年会長が最近解放委員会入会、青年会も解放
委員会の色に染まりつつあるとの報告 。
◆京都市竹田深草部落→市電軌道工夫の全京都自由労組竹田深草支部(百十人)四月七日現在賃上げ要求、無期限スト半
月。日雇日当二百六十円。一日四百円値上げ要求、市交通局拒否。三月十一日午後一斉職場放棄、交通局へデモ、徹夜、
時間手当十五万円獲得。十九日団体交渉四百円要求。市決裂。同夜支部大会「四百円とるまでの廿日から無期限スト」
「共産党非合法化反対」決議。部
部落解放委員会京都府連様々な支援。府連三木書記長、全官公梅林信一斡旋①日給三百
三十円②三百三十円一月に溯り支給③首切り撤回の調停案通る(
『解放新聞』一九五一年四月一五日)
◆竹田、深草地区全有業者一二八二人中→登録日雇労働者五三六(常傭一九)人。一九三八年度失業救済事業労働者は五
六名と約十倍。全体人口ほぼ同じ(京都府労働経済研究所『未解放部落における労働経済事情―京都市伏見区竹田深草
地区の実態調査―』一九五一年四月)
◆自労越年闘争→京都市約八千人の自由労働者は大半が部落民。どこの部落でもモチ代一万円の話題
(
『解放新聞』一九五一年一二月二○日)
◆「大道(俊-杉本)一九五一年に失対に入った(中略)朝五時ごろ職安にいくと、くらやみの中にシラミをつけたまんまで、
ベルトがないから縄の腰ひもをつけた人たちがワーッといる(中略)そ
その三分の一が朝鮮人、三分の一が同和地区の出
身者、三分の一がその他の戦争未亡人や引あげ者」38
②「二月二十五日午前中市役所市長室は六団体が相次いで陳情に乗り込み(中略)自由労組、朝鮮人、部落解放同盟などから
も失対就労のワク拡大、貧しい家庭に対する教科書配布などの陳情文提出」
(一九五三年二月二六日夕『京都』
)
◆部落解放委員会京都府連・全京都自由労組・京教組・朝鮮人団体教育連盟の四団体→教科書無償化・就学奨励費・給食
代国家負担・朝鮮人子弟への民族教育と教育費国家負担案反対を京都府・京都市に共闘要求(
『解放新聞』一九五三年三
月一○日)
→被差別部落・在日朝鮮人などのマイノリティと失対労働者の強い相関関係。京教組・朝鮮人連盟・部落解放同盟などと
は共同闘争が成立、結びつき強い。
Ⅳ 京都府・京都市の失業対策と自由労組
1『労働攻勢』
・諸事件・府市対立
①「他都市の如く民間産業をもたぬ本市の労働市場の狭隘性は民間事業え(ママ)の期待を絶たれ、失業者をして失業対
策事業に殺到せしめる結果となり、
『職よこせ、就労枠拡大』の労働攻勢は特に政治問題、治安問題に迄発展するに到っ
た」(京都市民生局『民生局事業概要』
、一九五二年九月、三○-三一頁)→表
表三参照。ほとんど京都市・京都府で失対労
働者を雇用。
◆女性比率と、高齢者多い。民間事業での就労者少ない、アブレ解消されず。一九五二年三月現在失対労働者は約一万人。
37『京都市民生局所蔵史料』
『隣保事業一件昭和二六年度』
「錦林地区に於ける部落解放委員会及び自由労働者組合の最近の動向について」一九五一年。
38全日自労編『おふくろたちの労働運動』(労働旬報社、一九八六年)三○頁。
5
91
下京区の一職業安定所→朝、広場には一杯十円なりのそば屋さんやパン屋さんなど露店。朝六時四十分各現場割当紹介
開始。紹介八時終了。男二千七百四十人、女九百三十人、就労可能日数一人一五日平均。アブレ→四日目に失業手当百
四十円。失業手当資格→前二ヶ月就労日数が二十八日以上に限定。賃金は男二百五十円、女二百二十三円、就労印紙代
三円。仕事は道路の補修、河川修理が多い。喧嘩は多いが、友情は厚い。婦人労務者の方が男達より元気。労務者→多
種多様で、
「右翼の実力家たちが左翼の理論家とけん制しあって真中に立つ大衆のバランスを保っているといつた格好」
「女労務者は後家さんが多い」
(
『京都』一九五二年三月三日夕刊)職安所も民間事業の参入希望。そして生活保護世帯
も失対労働者世帯が最も多かった。お盆手当要求が続く。府会と灘井自由労組委員長との交渉が行われる。府会が市会
にお盆手当要望。自由労組お盆手当問題で露呈。府市の方針対立が顕在化。
②『京都自労千本事件』→一九五二年九月一○日、自由労組内でのリンチ事件勃発。一九五二年一二月一七日京都府会 灘
井五郎(中略)失業対策係と警察の関係→失対係と京都市警、中立売署との非常に密接な関係指摘。①自由労組にもスパイ
近藤をおくりこみ、ヒロポンを供給し、片っ端からヒロポンを打って内部の混乱起こす。②西陣職安では十月九日と十
三日にかけて、日雇労働者でない「外部の警察の紐付きの労働者」が三十人から百人で殴りこみにきており、自由労働
組合の役員に暴行する。しかし職安の係員は見てみぬふりをする。
(
『府会議録』第三号一二七-一三二頁)知事蜷川虎三
→灘井に答えて(中略)警察に特別に連絡して登録労働者を取り締まろうとする意図は持っていない。私が責任を持って日
雇諸君に何らかの圧力を加えることは断じてさせないので、信用して欲しい。
(
『府会議録』第三号、一三二-一三六頁)
◆「組合のリンチ事件から静かになつたといわれる」日雇労務者現状→左京区役所管理課→日雇現在平均二百四十七人(う
ち女子六十六人)約十班ぐらい別れる。主として道路補修や清掃、砂利採集などの労働継続。作
作業現場の空気は組合内部
のリンチ事件が発生して以来、今までの殺気だつた雰囲気なし、よく働いて市民に好意の持たれる労働者になろうとい
う意欲が強い。
(一九五三年五月二二日朝『京都』
)
◆産別会議の崩壊とともに、自由労組が総評に加盟。自由労組が孤立していたという状況認識→総評京都地評大会において、
一九五三年六月三日書面で総評京都地評に加盟を申し入れ。①総評の運動方針に失業者の問題を取り上げ②自由労組の
総評加盟③自由労組の五大要求→①アブレ反対・完全就労②月最低八千円(日最低三百円)③アブレた日から失業保険
要求、保険金増額④日雇健康保険要求⑤手帳取上げ・首切り反対「
「失業反対闘争が自由労組のみにまかされ、就業労働
者から切り離されている限り、この闘いは決して進展しませんし、又全国で一千万京都で二十万にのぼる失業者半失業
者の問題をぬきにして就業労働者の最低賃金制の確立も望めません」
(
「全京都自由労組、総評加盟の訴え」一九五三年
六月、京都府労働経済研究所『京都労働運動史資料』二二一頁)
◆警察の圧力強化→各現場で監視。
「東山管理課(中略)役員や共産党員が仕事に行くと必ず松原署からポリ公がきて、な
にをやつたか調べている。組合の用事で役員が出て行くと、ポリ公は課長を締め上げ苦しめている。課長は『組合のい
うことも聞かねばならないし、聞いたら上からしめられる。ケイサツは何やかんやと調べにくるし、わしの立場はない
ど』とこぼしている(中略)東高瀬川現場近くの交番からポリが来て、役員の動きを調べている。主任の渡辺さんは『こ
のごろ現場同士でつつき合いをしているので、ほんとにやりにくい。ゆだんもすきもならん』このようにどこの現場で
もポリ公の干渉がきつくなつている。
」
(全京都自由労働組合千本支部『千本ニュース№五』一九五三年一一月三○日)
。
→お
お盆手当要求が続く。府会と灘井自由労組委員長との交渉が行われる。府会が市会にお盆手当要望。自由労組お盆手
当問題で露呈。府市の方針対立が顕在化した。自由労組内でのリンチ事件である『京都自労千本事件』後、産別会議
の崩壊とともに、自由労組が総評に加盟。これまで自由労組が、他の運動から孤立していたという状況認識。警察の
圧力強化もあり、自由労組の闘争一本槍路線の終焉。表四参照。共産党員の大幅減少。自由労組内の共産党勢力退潮。
この時期に西陣職安・伏見職安で、共産党への反発から第二組合が出来、分裂→西陣自労に
③市側も自由労働者の利用法変化、市民のニーズに応える失対事業を目指し、
『年末攻勢』などに対応し、年末特別就労。一九五
二年一一月一日-末日府下六職業安定所の全日雇労働者中、一万三千五百八十六名中一万一千五百八十六名(男七二二四名・
女四二八三名)実態調査→①離職理由→戦
戦後の経済変動など。男子調査人員七二二四名→六三・七%企業整備・仕事完了・企
業閉鎖、任意退職、自家営業の廃止加えると九四%。戦前戦後通じての従事者は非常に少ない。②男子土工が一番多い。次い
で雑役・荷役・事務員・仲仕など。女子は雑役・荷役・女中など。
「多種多様な職業経験者が集合」→筋肉労働に適さない人々。
6
92
『ニコヨン』の都市社会史
軽労働従事可能者→男七二二四人→三九四三人(五四・六%)
・重労働従事者九四○人(一二・五%)女四三八三人→四一三六
人(九六・六%)
・同上一一人(○・三%)③学歴→男女共小学校・高等小学校卒業者大部分。不就学者相当数。中学校、高校、
旧制専門学校大学の順。大学出は男三二名、女一名。④高
高齢者多い。男六十歳以上、一二・八%・五十歳以上、二七%・三十
歳以上、一六・六%、四十歳以上、女六十歳以上、五・一%、五十歳以上、二三・五%、四十歳以上、三六・二%、三十歳以
上、二六・九%→失業対策事業定着化⑤収入、就労日は一ヶ月平均一五・二%、一ヶ月一人平均五千六百十円、二
二四・七%が
生活保護受給→一般府民の適用率の七・五倍。京都では産業なく収入源がない。⑥家族、扶養家族は一人平均二・四名、独身
者、扶養家族四名が大多数。高齢者、男女独身者多数⑦国
国籍、朝鮮人男九・四%、女七・六%。中国人男○・一%、女なし→
』一九五三年)
一般外国人比率二・六%→失対労働者九・五%、約三倍(京都府『日雇労働者実態調査(昭和二七年一一月)
④さらに梅雨時就労対策が確立。しかし両者の財政難から、失対費用・お盆手当割り当てによる府市対立が起こり、自労
からは、府市一体の政府要求求められるが、対立はやまず。①転職できる力のある就労者の転業続く。昨年の反省から、
府市共同で年末対策に。府、市、労組の三者会談がはじまる。府、市別々の回答。あらかた雇用希望者が常用労働者化
と他に転業できない人々の固定化続く。他の五大都市と組んで政府に陳情活動を行うようになった。
◆ニコヨンにも新規参入不可能に→西陣公共職業安定所登録日雇労務者は五千余人。就労者→従来一日平均三千人近く、
就労日数男子一ヶ月約二十日、女子約十六・六日。政府緊縮財政→去る十七日から就労枠一日三千人→二千五百人に縮
小。
「ニコヨンのニューフェイス」従来一日平均十人内外→最近四十人と急速増加。新旧日雇希望者→同所、就労枠と相
談、
「体力」
「生計を営む主たる者であるか」
「完全失業者であるか」などを係員各家庭出張、厳密に調査決定。ほとんど
ニコヨンになれぬ現状。日当→朝八時半-午後五時男子二百九十円草刈り)、三百二十円(土砂運び)、女子二百七十円か
ら三百円。月収→男子六千七、八百円(左官、石工などの技術者は七千五百円位)女子五千五百円程度。職種→従来は民営
事業一○㌫、失業対策事業九○㌫程度、企業不振か民営事業ほとんどない、現在は失業対策九十八㌫以上、街路、下水
の整備や草刈りなどに従事。
(
『京都』一九五四年八月二七日)台風や雨アブレなどで騒擾。対策→去年に引き続き「年末
就労増加制」採用で年末攻勢を抑える方向と、仕事もいろいろな造成に従事。
→市側も自由労働者の利用法を変化させ、市民のニーズに応える失対事業を目指し、
『年末攻勢』などに対応し、年末特
別就労を開始した。失対労働者のこの時期の実態①給料低い。②女性の割合が四○%以上を占める。③ほとんどが戦
後の経済変動での失職者。④就職できる層が就職し、老齢者や女性が残る。従って割合が多くなる。⑤二割以上が生
活保護も受けており、失対のみで生活できない状況だった。⑥一般外国人比率に比べて、失対労働者内の外国人比率
は約三倍。失対労働者の思想としても右翼と左翼がけん制しあっている状況。さらに梅雨時就労対策が確立した。しか
し京都府・市の財政難失対費用・お盆手当割り当てによる府市対立が起こり、自労からは、府市一体の政府要求求め
られるが、対立はやまなった。①転職できる力のある就労者の転業続く。昨年の反省から、府市共同で年末対策にあ
たる。府、市、労組の三者会談がはじまる。府、市別々の回答。あらかた雇用希望者が常用労働者化と他に転業でき
ない人々の固定化続く。他の五大都市と組んで政府に陳情活動を行うようになった。ニコヨンにも新規参入不可能に
なり、台風や雨アブレなどで騒擾も引き続き起こっていた。その対策として、去年に引き続き「年末就労増加制」採
用で年末攻勢を抑える方向、仕事も様々な造成に従事。
2 特別失業対策事業・職員登用と府市失業対策委員会
①「ニコヨン働かない」という不評一層狙い、特別失対事業が開始。労働者からは好評。しかし様々な葛藤も→その反面
一九五七年一二月一三日京都府会にける知事蜷川虎三の発言→特別失対は増やしているが、
「これが働く方との間にいろ
いろ矛盾もございまして」という発言(
『京都府会会議録』第二号八八-八九頁)
◆「
『おまえは特失にいくのか』と聞く仲間、
『子供が小さいから少しでも金になるよう働かんと仕方がない』と答える仲
間、又、
『組合は悪いように行っているが、行ってからケンカしようや』
、
『いや、わしらだけではあかん、組合に話し
をして一緒にやるべきや』
『今、組合では府や市に要求している、これが決まってからでもおそくはない』などと仲間
の中にも行きたいし、行くにしても不安」
(『全日自労京都府支部二五年のあゆみ』
、一九七四年、五五頁)
◆失対労働者の状況は①高齢化急速に進む②低収入。③稼働日数一七日程度。五大都市最低→京都市民生局→九月二日、
二十九年度日雇労働者生活実態調査公表。①
①構成と従業の状態→男女の比率は男六二㌫、女三八㌫。二五年調査結果男
7
93
七三㌫、女二七㌫、女子漸増目立つ。年齢層→五○歳以上が四六㌫、四○歳以上二九㌫、三○歳以上一四・七㌫、二○
歳以上一○・○㌫と、二五年比較→五○歳以上一三㌫増加、二○歳台年齢層七・七㌫減少、高年齢化傾向。②住居→住
居のない者はなし、一人当りの広さは一畳ないし二畳半が三二㌫、③収入→世帯別(平均一世帯三・五人)収入額一万円未
満四九・五㌫。二万円以上六・三㌫。家族一人当たり収入換算三千円程度、低収入。④支出→一世帯当り支出割合→食
料費六三・四㌫、住居費六・三㌫、被服費三・七㌫。一般勤労世帯比較、食料費高く、被服費極めて低い。⑤稼動日数
→月間平均就労日数毎年増加、職安紹介、その他合計一七・九日、五大都市中最も低い。民間企業の吸収率が悪い関係、
アブレが多い。紹介されなかった四七・三㌫、働き先休み四五・五㌫(京都市民生局労働対策事務室・市長公室統計課
編『京都市日雇労働者生活実態調査結果報告書 昭和二九年一一月実施』
、一九五五年)
② このような状況を打開するため、一九五五年八月一○日府市失業対策委員会設立される。市の府への働きかけで、①
国庫補助増加②完全就労財源要求。③就労日数の増加が最大の課題④しかし市の怠慢という声。補助が出ても、市負
担分の増加に耐られない財政要因。また政府への大規模な陳情も。地元選出国会議員国会議員も超党派で当る。府市
との緊密な連絡要請もあり、失対事業の効率化要求。全国的にも京都地方の就労日数の少なさは注目、様々な要求。
◆京都、岡山、広島地方の失業対策事情を視察中の内閣失業対策審議会会長有沢広巳東大教授ら三名→一一月二日午前十
一時京都府庁で京都府失業対策事情聴取。審
審議会→京都、広島、岡山地方を視察地方選定理由→京都府は就労日数全国
水準極端に低い。府、市関係当局は→①国直営失対事業重点的実施②国庫補助率引上げ補助対象範囲拡大③事務種目拡
大要望(一九五五年一二月三日朝『京都』
)
③また就労の新たな開拓など、自由労組と市が共同で共済事業計画。優秀な失対労働者を職員登用する。一九五八年一一
月、府職員労組、民主診療機関など五団体→府下日雇労務者実態調査→日雇労務者約一万七千人。全雇用労務者の六・
一%。千二百名医学調査、二百例生活実態調査①
①日雇歴七年以上六○%、賃金六千二百円余、赤字世帯は六二・五%。
一番多いのは二四・二五年頃。デフレ政策で西陣織・友禅染の伝統産業がつぶれた頃。②四、五十歳の人が多い。六○
歳以上三割近く。女子は全体の三分の一。七五%夫と死別。③就労日数平均月一八・九日、賃金六千二百三十三円。支
出食費が七三・四%。アブレタ日なにも食べず。赤字世帯は六二・五%。生活保護一七・二%。借金、内職多し。④高
校進学率一%以下。⑤住居一人あたり一・六畳、畳破損五五%。壁破損五二%。ガス無七八%。水道無三○%。水道共
用四二%。台所共用三○%。便所共用四三%。寝具一人二枚未満。⑥日
日雇いから一般の労働市場への復帰が難しい。四
十歳以上の若い人たち、景気上昇転業機会。事実、三十一年下半期-三十二年上半期の神武景気で三百人近い転職。一
般の労働市場就職無理→特に高齢女性の場合深刻。四十一歳以上新規日雇従事多数(京都府民医連・京都教職員組合・
同志社大学社会学科・西京大学児童福祉研究室・全日本自由労働組合京都府支部編『日雇労働者の実態』一九五九年)
④京都市民生局労働対策室は、昨夏から、失対自由労働者の常傭い化をはかるため、特殊技術の訓練指導をしていたが、
三十一日午後四時から伏見区下鳥羽広長町、市コンクリートブロック製造所で初の訓練生終了式、訓
訓練生は平均年齢五
十二歳(
『京都』一九六○年三月三一日朝)
→「ニコヨン働かない」という不評一層狙い、特別失対事業が開始される。労働者からは好評のようであった。しかし、
生活をまもるための葛藤や矛盾は存在していた。失対労働者の状況は①高齢化進行②低収入。③稼働日数一七日程度。
五大都市最低。このような状況を打開するため、府市失業対策委員会設立される。市の府への働きかけで、①国庫補
助増加②完全就労のための財源要求。③就労日数の増加が最大の課題④しかし市の怠
怠慢という声。補助が出ても、市
負担分の増加に耐えられない財政が大きな要因だった。また京都府・京都市が協力して、政府への大規模な陳情も行
われた。地元選出国会議員国会議員も超党派で当る。府市との緊密な連絡要請もあり、失対事業の効率化も求められ
る。全国的にも京都地方の就労日数の少なさは注目されており、様々な要求を行った。また就労の新たな開拓も模索
や、自由労組と市が共同で共済事業計画も立てられた。そして若年労働者は一般労働市場で就職。優秀な失対労働者
を職員登用するが、その一方で大量に残る失対労働者達は①著しい高齢化②女性比率の上昇③就労者の病気、不健康。
④雨天就労制導入後もアブレ対策と騒擾は続き、ひたすら滞留していく。⑤失対労働から抜け出せない。⑥高齢化進
む⑦女性比率高まる。七割以上、夫と死別。このような状況では①失対労働者からの脱出願望とあきらめ。②世間か
8
94
『ニコヨン』の都市社会史
らの同情や社会的差別の存在。③賃金不足と刹那的な生活態度の併存。④失対労働者集団の共同性の存在(表五参照)。
府市行政は技術者養成事業・職員登用で、
「自立化」を目指す、平均年齢は五二歳。
「滞留」した失対労働者には効果
のない政策。
Ⅴ 失対労働者の『滞留』とマイノリティ
1 失対労働者への社会的差別
①昨年西陣公共安定所円町労働出張所(中京区西ノ京円町)設立以来、
「一躍ニコヨンタウンに変ぼう」①治安問題→同出
張所開設以来、即座に要望、交番所設置。日雇労務者平均一日四千人多数。市警→予算面実現不可能回答、将来実現希
。③開
望。②衛生問題→公衆便所ゼロ。四千人用便。朝早く「小便がカゲロウのように立ち昇り、付近は臭気プンプン」
設と同時、露天商二十軒余り→食品衛生、風紀問題。保健所、警察相当注意。成果なし地元不満。④丸太町線円町以西
の道路舗装→同所西側に京連タクシー駐車場、連日砂ボコリ掃除。四千人の砂塵周囲真白。地元民再三陳情(一九五三
年四月一七日朝『京都』
)
②京都府会一九五六年三月一三日細川馨(自民党系)→出町職業安定所設置39に関する地元の反対が猛烈なために→十ヶ月
放置。
(『府会議録』第一一号、二七五頁)労働部長本城寛→細川に答えて①出町職業安定所設置、地元とこちらの理事
者が協議→昨年十一月頃地元三、四十人と懇談会では理由なき、絶対反対②労働委員会の調停不調。京都市の失業対策
上、絶対必要。出町の出張所が五千人以上で飽和状態。出張所を増加する必要。④開設は、どこでも同じような反対を
受ける⑤地元の方と交渉して開設したい。
(『府会議録』第一一号二七六-七頁)細川馨→①職業安定所支所必要。②出
町は、観光面でよくない。③京都市全体を客観的にみて、出町支所をはふさわしくない。④理事者の当初の目的達成を
ではなく、地元の要望や一般的な立地条件から解決必要。
(
『府会議録』第一一号二七八頁)
◆京都府会一九五八年一二月一五日松村政雄(自民党系)→国際会議場建設地の議論→京都御所の苑内活用→①京都職業安定所
出町出張所が付近住民の反対で、長い間業務開始できず。②付近住民の反対理由は①
①失対労働者が糞尿を垂れ流す。②付近の
家や木材を盗んで焚き火をする。③生活に困ったときに商品盗難④酒を飲んで騒ぐから、喧嘩や強盗や強姦、殺人事件などが
起こる。⑤観光地なので、薄汚く感じるし、観光客に犯罪の恐れ。というもの。③行き場がないのであれば、京都御所内に日
雇の支所を作ればよいと思った。
(
『府会議録』第四号一六六-一六七頁)灘井五郎→松村に答えて、自由労組の代表として非
常に不愉快な発言なので取り消し求める。出町支所には五百人の労働者がいる。どのような事実があるか、知事から明らかに
してもらいたい。
(『府会議録』第四号一八三―一八四頁)
③ 西陣職安、朝七時から四千二百名が殺到、仕事は三千二百人のみ。京都の場合一ヶ月平均一四・四日。名古屋二二日、
横浜二一・一日、大阪一八・五日、神戸一七・八日などかなり少ない。一日男二百七十人、女二百四十円を支給、ア
ブレタ日は百四十円支給。月収一人大体五千三百円。他都市と比べ三割方安い。
「のんびり働いてるな-とは一般の人
達が彼等の仕事ぶりを見てのいつわらぬ声で、中には某労働官庁の人のように、
『労働行政にたずさわる私でさえ日雇
を頼む気がしない』という人もある」平井市失業対策事務室主査談→公共事業日雇労働者就労は他都市より一割ほど
多い。京都→民間事業吸収非常に少ない、民間事業就労無理、斜陽都市のなやみ(
『毎日京都』一九五三年三月七日)
④ニコヨン→「一、二年前に比べてよく働くようになつた」
、西陣安定所→昭和二十五年ごろ登録者数は一万二千余人(就
労日数男子二日乃至三日目一回、女子三日目に一回。今年登録者数は四千七百人、その後一進一退の横バイ状況。登録
者が徐々に就職。新規失業者→定業就職、現在男子就労日数一ヶ月十八・五日、女子十六日、失業保険受給資格者必要
日数クリア、アブれても生活出来る「そ
それだけに一ころの粗暴さがなくなり、真面目な就労者がおおくなった」と関係
者談。四千七百余人登録者中二千人女子、全国的な傾向、子供を抱えた未亡人→民間の事業より収入がいい」
(一九五三
年八月一七日朝『京都』
)
◆一九五七年三月一二日富部五郎(伏見区選出・無所属)→①失対事務室の設置歓迎。単独民間請負で十日間二十五万円の
39当初左京区出雲路に建設予定であったが、反対運動で、左京区周辺の女性のみの安定所とし、一九五七年左京区荒神橋東詰上ル京都府工営所前に新設
9
95
予算で出来る事業→失対なら三カ月六十数万円かかる事例。失対事務室設置無駄を省く②一九五七年一月末就労紹介適
格者一万七百十八名。市が一日三千八百名、府が千九百名→一日合計五千七百名。月平均十七日就労可能。③不適格者
排除を強力に行えば二二、二三日以上の就労可能では。府と協議して実現する意思あるか質問(市会議録(定例会)五
号五三九-五四○頁)高山義三市長→①自由労働者は、労働能力、技術面の能力は皆無である。②自由労働者組合の幹
部にも怠けていて市民感情がよくなく、お盆手当てや年末手当を出せといっても市民が承知せぬぞといっている。③働
けるだけ働いて欲しいと個人的に思っているが、ある一部の人間が扇動して働かさないようにしてしまった。④最近は
昔よりも働くようになった。しかし一部にはまだ働けば仕事がなくなると扇動する人間がまだいる。自由労働者を使う
のは、障害や盲点がある。⑤
⑤こういう制度は一種の生活保護者の中にいる人を使っている。生活保護者の中で働けるも
のに、働いてもらっているとみないといけない。
(市会議録(定例会)五号、五四二-五四四頁)富部五郎→①一世帯一
人しか就労できないのに、不正をして、一家五人で就労しているような例があり、真に必要な人がはねられている②市
の失対事業費のほとんどを管理課が消費。道路費は全部で五百四十五万三千八百円にすぎず、後の金は失対事業でまか
なっている。③失対事業も道路整備などばかりではやる気をなくし、怠けている光景が目立つ。仕事もどぶさらいや清
掃だけでなく、失対事業の成果として、
「いかに自由労働者とはいえ、ある程度労働をやった感激を持てるような仕事を
与えられるようなお考えは願えぬだろうか」
(市会議録(定例会)五号五四五-五四六頁)
→円町・出町出張所をめぐる議論。衛生・治安上の理由から地域住民に忌避。失対労働者への忌避意識も、①労働行政担
当者も使いたくない②日雇労働者の能力の低さと蔑視。仕事を取るための早起き、栄養状態の悪さ、仕事のやりがいの
なさなどが原因だった。その後、
「ニコヨン」蔑視意識も、一定の改善が行われる。しかしその後も職業安定所職員によ
る暴行事件などが起こる。③市会での富部-高山の討論。富部が失対では工事に非常に時間がかかるという事例指摘し、
改善もとめる。不適格者排除で就労日数増加も。市会での議論でも高山市長は自由労働者の労働能力の低さ、蔑視する
市民意識を指摘。富部は失対労働自体のあり方を問題にした。
2 失対労働者の文化運動
①下京区梅小路西日影町、村上喜代司さん(四五)→かつては美国章子と名乗り、新興キネマのスターであつた妻とみさん(三
四)との華やかな生活も、二二年満州引き揚げで転落、二五年六月には四人の子供、三条橋下仮寝の宿。旧友に借りて始
めた中華そば屋も失敗、借家も狭く、妻子別居、自由労働者に。自
自ら「ニコヨン文士」を名乗り、今春自労演劇サーク
ルを七条職安千本分室に創立して、自由労働者の文化向上に走り回っている。また文化観光都市京都から「蚊」と「ハ
ヱ」をなくそうと職種もゴミ箱のコールタール塗りを選び市内をかけ回る。仕事にあぶれた者もくわえるほど。 (一九
五五年九月三日朝『京都』)
②基本的に京都の自立演劇は、一九五○年六月のレッドパージ以降、多くの自立劇団が崩壊。残ったのは、府職労、水道
局、市職労、全逓簡保、貯金局など官公労や大企業の劇団がほとんど。
(薗田義雄「第十三回京都自立演劇コンクール」
、
『テアトロ』一三六号、一九五四年九月、三一頁)
。
◆一九五五年六月二六日第一五回京都自立演劇コンクール(京都自立演劇協議会主催・労働会館)→自由労組千本「日やと
自労演劇サークルが生れ、創作を発表したことだ。通常職場演
い地蔵」40(作・演出 安藤大吉)「今年の特徴点(中略)自
劇はいろんな点で困難が多く、非常な努力を要求されるが、自労の場合のそれは一段とその努力はなみなみならぬもの
であり、自立演劇に発表されたこと自体大きな成果」(「第一五回自立演劇を見て」
『京都労働月報』九二号、七頁、一
九五五年七月)
◆「だが一方で自由労組の演劇サール(ママ-杉本)が自作品をもってはじめて参加したことは注目してよい日々の困難
な生活条件の中でこうした演劇サークルが生れ、しかもこれに出演したひとたちは、他の多くの劇団が青年層を中心に
40
『日雇い地蔵』は、世界一の観光都市をめざす某市で建立するはずだった地蔵が、生臭坊主のため建たず、あぶれた日雇い労働者が坊主につかまって
赤いヨダケカケをかけて地蔵を演じる。ホームレス、酔っぱらいの軍国主義者、観光宣伝に浮き身をやつす市長などが現れ、ついにお地蔵様の言葉で
市長が日雇い労働者の要求を受け入れるというストーリー(北川鉄夫「第十五回自立演劇サークル 八つのサークルの競演」
『テアトロ』一四七号、
一九五五年九月、八八-八九頁)
。
10
96
『ニコヨン』の都市社会史
しているのに対して、こ
ここではかなりの年輩の人々が加わっているのである。この劇団の参加したことは、当日の観客
が従
従来の事務系が多くが占めたのと変わって、子供づれのがっちりしたオッサン、オバハンたちによって早くから占め
られていたことからもみられる特徴であった。当初この劇団は参加が確定しなかったが、
『日やとい地蔵』の作者安藤大
吉君が中心となって、困難な条件の中でサークルを統一していき、結局参加をみることになった。
」
(北川鉄夫「第十五
回自立演劇サークル 八つのサークルの競演」
、
『テアトロ』一四七号、一九五五年九月、八八-八九頁)
→非常に困難な状況の中で、一五回目でやっと自立演劇に参加が可能になる。自立演劇も官公労や大企業の青年層中心、
自労のような日雇労働者のみで、高齢者の多い組合は非常に珍しい存在。サークル活動にも大きな階層間格差 。
③一九五五年一一月二○日第六回京都市勤労者文化祭、第一六回京都市立演劇コンクール→自由労組千本「にこよんの唄」
(作・演出 安藤大吉)→優良賞受賞、一九五六年六月一七日第一七回京都自立演劇発表会(京都自立演劇協議会主催・労
働会館)→自由労組千本「ガード下」(作・演出 安藤大吉)42出演
◆七人の役者→衣装ボロ仕事着、音楽なし、小道具もツルハシ、スコップなど、
「顔を塗ったドーランがなければ、これが
演劇サークルの人々とは受取れない。だがみんな真剣そのもの。冷たい北風が戸のスキ間から吹きこむが、みんなの顔
がジットリ汗ばんでいる」日雇演劇団→自由労組千本支部演劇サークル(安藤佐延会長)稽古風景。昨年五月サークル
誕生→慰
慰安会の時、お金がないため、映画も芝居も見られない、自分たちで芝居と思い立ったのが動機、女子一人を交
えた七人でケイコ開始。激しい日曜仕事の余暇に演劇勉強→同労組員、安藤大吉43(二五)中心、セリフや動作研究継
続。付近寺院座敷借りケイコ。ストーリーの構成も、セリフもすべて七人で意見を出し合って決め、安藤さんが台本に。
全員が役者であり、監督でもあり、演技をしながら、欠点を修正し合う。昨年は、二本の台本で七回公演したが、十一
月十七日の京都市主催の「京都勤労者演劇コンクール」には「ニコヨンの歌」44を上演、市長賞の「優良賞」を獲得し
た。座員は元呉服店主、工員、戦災の理髪店主などとりどりたが、芝居が飯より好きという人たち。
「われわれは日雇に
安住する気はないが、日雇も立派な労働者であることを知ってほしい。世間の認識を、この演劇活動を通じて改めたい
のです」と座員はこう訴えている。昨年十二月争議中の日本レース労組に応援公演、見物の女子組合員から「おっさん
また来てネ」といわれた時は涙が出るほどうれしかったと述懐。無報酬で芝居を続けるため、酒もたばこもやめたとい
う座員も(
『朝日京都』
、一九五六年一月七日)
◆ニコヨン労働者たち→八日、自作、自演の珍しい演劇発表会を行う。同日午後零時と五時からの二回京都市下京区寺町
四条下ル労働会館二階ホールで開く『自治労演劇発表会』で劇作者の安藤大吉、演出、装置の水谷一雄、キャスト岡山
博也、川西正隆さんら十二人のすべてが現在西陣職安のニコヨン。演し物の『ニコヨンの歌』
『ガード下』45の二作品も
夫婦共かせぎの許されぬ日雇労務者の悲哀や、組合活動と家庭生活の相コクなど恵まれぬニコヨン社会の実相描く。
『ニ
コヨン・サークル』は他の劇団と違って資本力、練習時間も乏しく、疲れた身体を引きずって毎夜おそくまで舞台道具
の製作、演劇の猛訓練。
「興行ではない」と入場料を廃止。自
自治労府連(占部秀夫委員長)や京都自立演劇協議会も全市一
万余人の日雇労務者に呼びかけ『ニコヨンの歌を守る十円カンパ』をはじめ、府、市側も積極的な後援に乗り出す(一
九五六年七月七日朝『京都』
)
◆伏見職安所労働課内の伏見自由労組事務所を仮の楽屋の劇団『栄光会』塩川栄治会長(五三)。昨年末→「
『もち代よこせ』
41近年サークル運動の研究は、天野正子、水溜真由美、成田龍一、大串潤児、三輪泰史などの研究があるが、このような階層間格差については、管見の
限り、言及されていない。三輪がサークル運動に対する「アカ」攻撃及び職場内における職場秩序の再編などについて言及しているのみである。
(三
輪泰史「一九五○年代のサークル運動と労働者意識」
、広川禎秀・山田敬男編『戦後社会運動史論』
、大月書店、二○○六年。同「紡績労働者の人間関
係と社会意識」
『歴史学研究』
)
42京都自立劇団協議会編『語りもの京都新劇史 その四 二○年代の職場演劇のあゆみ』(京都新劇団協議会発行、一九八一年)五九-六一頁。
43権大奉という在日朝鮮人。
(『全日自労京都府支部二五年のあゆみ』
、一九七四年、六一頁)表二のように、五九年教宣部長、六○日書記長と全日自労京
都府支部の幹部も勤めている。
44『にこよんの歌』は日雇いには夫婦共稼ぎが許されていない。櫻井夫婦は別居し、表向き分かれたことにして、失業対策事業で共稼ぎをしている。妻
「産まない」の口論
の正子が妊娠した。四人目だ。櫻井は堕胎を決意し、費用のため売血する。しかし正子は生みたいと思っている。夫婦は「産む」
を続けるが 。(『部落』九-五、一九九七年五月、四五-五九頁)
45『ガード下』は組合活動に奔走する一人の男が主人公。組合活動の中で子供達や妻の家庭がある。しかし、活動のためほとんど家にいることが出来な
い。当然失対労働者からも足を洗いたい。しかし苦しい生活をしている仲間達のことをおもうと 葛藤を描いた物語。(京都自立劇団協議会編『語り
もの京都新劇史 その四 二○年代の職場演劇のあゆみ』(京都新劇団協議会発行、一九八一年)五九-六一頁)。
11
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『年越しできぬ』と日雇仲間は猛り狂っている折だった。も
もちろん給与改善もわれわれには大切だが、この苦しみの中
に楽しみを見出し、金はなくとも心にうるおいをもとうと劇団結成の話がもちあがり、またたく間に六十余人の同行者
が集った。
」劇団の名称も『現在のしいたげられた生活の中に光を求め、栄える途と栄光会と名づけ、会費は月三十円と
決めて、早速発足。会員達は、夜間の三時間余、同事務所に集って互に励まし合いながら、練習。食べるのが精一杯の
会員達→舞台衣装、台本を印刷する費用もない。会員の結束は固く、働き先の理解ある事業主達の協力もあって次第に
充実、いまでは舞台衣装二、三組も整い、簡単な舞台装置も設置。演芸も多彩で、時代、現代劇、落語、浪曲、歌謡曲、
民謡、舞踊と多彩。練習を兼ねてと先月三十日には醍醐の同和園など社会福祉施設を慰安訪問し、慰問された側では『日
雇さんを見直した』と大喜びで激励。こんど公演は八日午後五時から伏見公会堂で開催。今後は府下一円なら無料出張。
(一九五六年九月四日朝『京都』
)
◆一九五六年一一月一八日、第七回京都市勤労者文化祭、第一八回京都市立演劇コンクール→自労千本分会「いつの日か」
(作・演出 安藤大吉)に出演46。しかし、その後、目立った活動は史料上検出できなくなる。
→ニコヨン劇団の活動。ほとんど上昇可能性のない「滞留」した失対労働者達。脱出もできず、失対事業で生きていくほ
かない人々。日々の労働の他に、必要な生きる糧、目的の様々な発露。自主的な活動。生活の質ややりがいを求める姿。
通常の職場でも続けるのが困難な自立演劇。しかしこのようなサークル運動内でも、官公労、大企業中心で、自由労組
のような存在は特殊な存在。市のコンクールで優良賞もとる。演劇によって自らの生活を振り返る。自己表現のありよ
う。地域を越えた職安と自由労組を中心とする「失対労働者」間の共同性の確立。「滞留」していく中での主体化過程。
『ニコヨン演劇』に対する自治労連や、自立演劇協議会の援助もこの時初めて始まる。その後、活動の困難からか、史
料上活動が把握できない。一時期に過ぎないが 確かな「主体」の成長。但し、一九五九年一○月一一日に開催された
全日自労一○周年京都府支部文化祭で、伏見分会の「伏見義民伝 文殊九助」が上演され、各分会で漫才、歌、踊りな
どが披露されたとあり、対外的活動はないものの、組合活動の中ではこのような文化活動が続けられていたと思われる47。
これまで述べたとおり、経済成長が始まると、失対労働者から脱出出来る層が抜け出る。さらにその後は、失対ぐらい
しか就労できない、高齢者、女性、被差別部落民などが重なり合いながら、流入し、
『滞留』していく。また五○年代前
半の賃金獲得闘争、直接闘争路線も、京都府・市の財政難(双方とも財政再建団体になる)や警察などの弾圧によって、
うまくいかず終焉。このような状況も重なり、自主的な運動路線に転換せざるえない。しかし、これまで構成員の流動
性が高かった自由労組が逆に『滞留』することで、運動経験が蓄積され「主体」として成熟していくことにより可能に
なる活動。徐々に女性幹部や、在日朝鮮人幹部が、自由労組にも登場(表二参照)。
3 女性失対労働者の成長とゆらぎ
①「
『高橋さんが(一九五五年二月-杉本)六日午後七時、おなくなりになりました。
』今までざわめいていた場内の約四百人
の婦人労務者が係員の報告に一瞬息をのんだ。
『ニコヨンの父』として慕われてきたあの高橋さんが…沈
沈黙の列の中から
婦人部長の渡辺千代さん(四五)の提唱で黙祷がささげられ、直ちに資金カンパ約五千円が集められた。高橋寛二さん
(四一)は七条職業安定所千本出張所の労働紹介係長(中略)日雇同士のもめごとや苦しみをよく理解し、導いてもき
た高橋さんはデフレ下ますます困難になってきた日雇業務に三年前からの胸の病をおして過激な仕事に当たっていたが、
去月二十八日亡くなった。自由労組千本分会でも、八日午後一時から自宅(中略)で執行されるお葬式に花輪を送り、
高橋さんの死を悼む」
(『朝日京都』一九五五年二月八日)
◆「十二日午後二時半から、京都市役所で高山市長を囲んで自由労組の婦人十五人が出席、懇談会が開かれた。
(中略)市
側からは高山市長、小川労働対策事務室長、労組からは京都自由労組婦人部長大道俊さん(四七)ら十五人が出席。
(中略)
▽私達の就労日数は月に僅か十五、十六日、だからアブれた日にはせめて内職などでカバーできるようにしてほしい。
そして婦人の文化向上もかねて内職講習会の開催や教師のあっ旋をしてほしい。▽私たち日雇は仕事の関係上、すぐ服
46京都自立劇団協議会編『語りもの京都新劇史
その四 二○年代の職場演劇のあゆみ』(京都新劇団協議会発行、一九八一年)五九-六一頁。京都の一
九四○-五○年代の自立演劇運動については同書参照。自立演劇運動全般は大橋喜一・阿部文勇編『自立演劇運動』
(未来社、一九七五年)
。戦後初期
の演劇運動については、高岡裕之「敗戦直後の文化状況と文化運動-演劇運動を中心にして」
(『年報日本現代史』二号、一九九六年)
、小川史「戦後
初期における労働者の演劇実践-生活の演劇的形象化をめぐって-」
(『早稲田大学大学院教育学研究科紀要 別冊一二-一』二○○四年)など参照。
47『全日自労京都府支部二五年のあゆみ』(一九七四年)、六六頁。
12
98
『ニコヨン』の都市社会史
が汚れるので、市電に乗っても市民の方に悪感情を与えやしないかと心配です。衛生面も考えて電気洗たく機がほしい
が- 高山市長は『就労日数については内職の面でカバ-できるよう今年から力を入れたい。私としてはできるだけみ
なさんの力になってあげたい考えで、みなさんも日雇は遊んでばかりいるといった非難を受けぬよう市民の感情を頭に
入れて元気に働いて下さい』
」
(一九五七年四月一三日朝『京都』
)
◆京都府支部→一日の賃金は二十円上がったが、物価や交通費が値上り(中略)五月二七日西
西陣支所の婦人労働者達が、嵐
山現場でバスの送り迎えか、交通費支給を迫り、この日はいつもより三十分、賃金支払いを早くさせた。③翌五月二十
八日→同じ現場で、四十人の婦人労働者が、朝から所長と交渉して、
「すぐにできなければ、市電間で歩くので三時に賃
金をはらえ」と要求。所長は上と相談して三時半までに賃金支払いすると返答。(『じかたび』一四六号、一九五七年六
月一日)
◆「失対事業に働く日雇のおばさん達の子供を預っていることで全国でもただ一つの京都府立児童保育所(京都市上京区
京都御所内、園児二十八人、伏木敏郎所長)に二十四日朝、直径八○ミリ、朱ぬりのスマートな大ドラムが寄贈され、
園児たちを喜ばせた。(中略)楽器も十分にそろえることができず、
(中略)これを聞いた同園母の会のお母さん達は、昨
年四月から、月々二十円ずつの積立をはじめ、今年の三月で六千円になつたので、府の婦人児童課とも相談、五千七百
円でドラムを買い、この寄贈となつたもの。この朝、母の会代表の吉田きみさん=京都市中京区七本松丸太町、大崎ゆ
きえさん=同区柳馬場六角西入ル=の二人が府民生労働部長を訪ね、ドラムを寄贈したいと申入れ」
(一九五八年三月二
四日夕『京都』
)
◆「深草加賀屋敷町の中村菊次郎さん(五一)の親子六人がこの悲運の一家。愛の運動のきっかけになったのは、同町の
日雇人夫沢井キシさん(四七)で去る四月上旬、深草下河原町の高瀬川改修工事現場で休暇中貧しい身なりをした幼い
兄妹がたたずんでいるのを見、手招きをして昼食用に持っていたパンを与えてやさしく話しかけた。たどたどしく語る
兄妹たちの身上はなしはあまりにもあわれだった。父は失業の身、しかも病気がちで母は去る三月『働き口をさがす』
と出たまま音信不通。十八歳になる姉の収入で暮らしているが、飲まず食わずの日が多く、学校へもいけないという。
キシさんをはじめ、立
立ち聞きしていた日雇仲間たちも『同じ逆境の身にあっても、私達は働けるだけましだ』と同情、
わずかなかせぎのなかから十円、二十円と出し合い、集まった二百余円を『これでお米でも』と中村さん宅を訪ねて贈
った。
(中略)人の情に接した菊次郎さんは、不運にくじけそうだった過去をふりかえり、
『本当になんといってお礼を
申上げてよいかわかりません。なんとか立派に更生し、みなさんの好意におこたえしたい』とせめて日雇の職でもと手
続きする」
(『京都』一九五八年六月一八日朝)
→女性失対労働者の主体的な活動のありよう。五○年代後半以降、生活改善や市への要求も自分達の言葉や実践で行うよ
うになる。そして、女性失対労働者をめぐる相互扶助のネットワークの形成。また一九五六年六月の大道俊の世界婦人
「主体」の成長。
労働者会議への派遣カンパ運動など、女性失対労働者中心に展開 「滞留」による運動経験が蓄積され、
一定の権利主体化。
②全日自労婦人部女性の悩み→京都支部婦人部発①「毎日子供をほっておいているのでたまの日曜日だと子供がつきまと
います」②組合の役員になってから、仕事にあぶれても組合の仕事で家にいないので、
「何で組合へばかりいくのや」と
小学二年の子供がいつもおこる。③しかし婦人部の役員が少ないので、
「結局少数の人で何事も婦人部のことはやらねば
なりません。この様な分会はどうすればよくなるのでしょう」(『自労婦人しんぶん』№六四、一九五九年八月二十日)
◆京都千本分会婦人部八○二名がメーデー参加→①メーデーを有給休暇にする要求×、組合幹部の心配をよそに多くの婦
人が参加「
「そしてその整然として力強いデモは、かって、組合カンブの中にある老人、夫人を軽視する大衆不信の考え
方を改めさせるもの(中略)組合給与の日当やベントウをもらっての参加ではない全くの手ベントウの動員だ。
」(『自労婦
人しんぶん』№七九、一九六○年五月二○日)
◆出町公共職業安定所→女
女性だけの分会、失対事業従事者四五○人。全日自労京都府支部出町分会三五○人加盟。西陣自
由労働者組合一○○名加盟。組合長以下婦人ばかりで組織。一九五八年度の活動成果→①政治意識を高めるための討論。
そして再軍備反対、原水爆禁止、砂川・沖縄両基地の署名やカンパ②一日あたり二八二円から、平均二五円の賃上げに
48詳細は大道俊『ニコヨン世界の旅』(三一書房、一九五九年)、前掲井上とし著など参照。
13
99
成功③就労日増加要求、一月平均一四・五日(一九五四年)から一月二-三日増加さ④日雇健康保険傷病手当要求、一九五
八年一○月から実施⑤京都市・国庫補助金合わせて六百万円の予算で、子供の修学旅行費や、生活資金の貸し出し制度
つくる。現在府市の保障で労働金庫から借り出し金額は四○○万円。⑥出町分会購買部を設け、出町公共職業安定所に
日雇婦人に日用品を安価に販売。毎日組合幹部が出張(「日雇婦人労働者の一側面」京都府労働経済研究所 浅野浩山『京
都労働月報』一三五、一九五九年七月、一一-一二頁)
「戦後間もなく亡くなった母代わりに長女は一家の主婦代わりとなって家事をやりつつ自ら職
職安日雇にでている。而も、
自由労組の執行委員」
(『京都大学部落問題研究会資料A 京都田中部落総合調査生活の一段面』一九五八年、三頁)
→女性比率が多くなることによって、顕在化する自由労働者組合内での婦人部の運動の停滞や女性差別の現状。
「主体」
のゆがみやゆらぎ。しかし、その中で女性失対労働者のなかにも、運動を担う層が生まれる。女性だけの出町分会の活
発な活動。被差別部落出身の女性失対労働者も自由労組の執行委員。女性が表舞台にでない戦後部落解放運動との違い
4 失業対策事業・女性失対労働者・被差別部落
①「全
全日自労には部落民が多い。半数以上が部落の仲間の分会も多い。②「解放同盟の幹部が自労を組織してくれたり、
今も分会の中心になって闘っているところは多数あります」③本当に部落問題を理解しているものは少なく、部落民は
朝鮮人の子孫だと本当に信じるもの多数。朝鮮人だから差別してよいわけではない。部落民はみんなと同じ日本人。④
『解放同盟の要求は差別反対の他は、全日自労の要求と同じ。
」(『じかたび』一六五号、一九五七年一二月一一日)
◆全日自労部落対策研究集会→五月七、八日、兵庫県宝塚市中山寺開催。①出席府県支部は、高知、香川、兵庫、大阪、
奈良、京都、三重、愛知、神奈川の四十名。②関
関西から西の方では部落民が多い。高知分会七割、奈良分会八割五分、
三重県支部七割、京都市内六割、西宮分会四割、香川善通寺分会三割、姫路六割という比率③普段はないが、酒席やト
ラブルがあったときに差別的言葉が出る。
「よその職場より多いがやはり差別はある」という意見多い。④逆に部落の仲
間から差別されているとの声。部落の仲間の方が体力もあり、若い人が多く、人数も多い。また監督にたくさんなって
いるところが多かった。⑤
⑤三重、奈良、高知では部落民が自労の主軸だが、一部の地方では監督にたくさんなって組合
のいうことをきいてくれないという正反対の状況。努力する必要 (『じかたび』二一○号、一九五九年六月一日)
◆京教組、部落解放同盟、自労が市教委と統一交渉をおこなう。①義務教育無償化②生活保護子弟の高校進学保障③統一
交渉の結果が出るまで教科書早期発売中止求める(
『共斗ニュース第一回』京都教職員組合・部落解放同盟・全日自労京
都府支部、一九六○年三月ヵ・部落問題研究所蔵『三木一平氏所蔵資料』1-3-13-13-1281)
→全国的レベル、特に西日本では部落解放同盟と自由労組の強い相関関係。常に社会的差別が問題視されてくる。京都
でも一九五三年二-三月に続いて、六○年三月にも京教組、部落解放同盟、自由労組の市教委への統一交渉が成立。六
一年一月二六日にも三者で対市交渉。
(「対市要求書」京都教職員組合協議会・解放同盟京都支部・全日自労京都支部、
一九六一年一月二六日、部落問題研究所蔵『三木一平氏所蔵資料』1-1-61-1-93)自由労組もメーデーや、
様々な集会に参加はしているが、具体的な自由労組に対する運動支援は、この程度しかみられない。
表六参照。七条職安千本出張所と日雇職安名簿に登録された婦人全員の居住地をカード
②京都における女性失対労働者→表
分布。一九五五年八月調査。①
①京都市の各方面に居住しているのではなく、大きな偏りがある。中心部より周辺の学区
に集住。生活困窮層は中心部より周辺部に多い。②婦人日雇労働者集住学区→被差別部落やその周辺学区。
◆一九五八年五月京都市内日雇労働者九七七人→男五五七○人(五六・六%)
、女四二○二人(四三%)→左京区居住の女
性のみ対象の出町公共職業安定所→全国で初めての女性だけの分会、失対事業従事者四五○人。全日自労京都府支部出
町分会三五○人加盟。西陣自由労働者組合一○○名加盟。組合長以下婦人ばかりで組織。一九五八年五月-一○月末ま
での半年間、四五○人中一七四人を任意抽出して個別調査。①
①出身地一七四人中京都市出身者一三八人→養正学区出身
9前掲拙稿Aなど参照。現在のところこのような問題に対する歴史学からの応答は、黒川みどり「被差別部落と性差別」
(秋定嘉和・朝治武編『近代日本
と水平社』
、解放出版社、二○○二年)参照。拙稿Aでも検討したが、一九五○年代の京都市内における部落解放運動において、自由労組のように、女
性が婦人部の活動以外で、行政交渉や、運動の幹部として活動した事例は管見の限りみることができない。
14
100
『ニコヨン』の都市社会史
者が一二○人で八七%を占める。その他の学区地域出身者→錦林・楽只・壬生・崇仁・竹田・三条・深草と各二人で一
四人。合計一三四人で、京都市内出身者の中で被差別部落を含んだ学区出身者が九七%とほとんどを占める②一七四人
中→一四人、
全体の八%の朝鮮人女性失対労働者③一七四人中→未亡人は一六三人で全体の九三・七%→死別一三四人、
離別二九人。夫があるのは、一一人、全体の六・三%。ほとんどの女性失対労働者が未亡人。死別離別した年齢は五九・
五%が三○歳以上であり、中年の未亡人が日雇に沈殿。④八割以上が専業主婦が日雇に。⑤学歴→不就学が三割。小学
校卒が六割程度。⑥年齢は五○才以上の者が四-五割。日雇従事期間は、平均六年半と転職ほぼ不可能。⑦平均家族人
数は約三・一二人。三人世帯平均月収六五九七円。生活保護世帯保護費→三人世帯で月収八九七三円。生活保護以下賃
金50(「日雇婦人労働者の一側面」京都府労働経済研究所浅野浩山『京都労働月報』一三五、一九五九年七月、五-八頁)
◆一九六○年一二月二一日全日自労京都府支部→「失業と貧困をなくす政策確立要求決起大会」府庁内広場で五百名を集
め開催。府下→一
一万二千人いる日雇の内、七割から八割が部落の人々。一日は男子→三百八十五円、女子で三百二十円
という生活保護世帯なみの安い賃金。大会→日雇賃金を六百円の賃上を中心に闘いを進める事が確認。知事交渉は①京
都府下全体失業者、貧乏人の最低生活保障②失対賃金府費で処理③生活補償費二倍④国民年金延期、年金事務拒否の四
項目要求。越年資金八千円不満、前日の府庁交渉で一二○円追加支給(
『解放新聞』一九六○年一二月一五日)
◆「府庁での団交の折に母親たちは必死にうったえている。
(中略)一万六千円の要求も八千円でおさえられた。しかし『八
千円しか闘いとれなかった。そやけど、もっと大切なことは、日当がやすいのや。これからの闘いは、日当をあげさす
ことや。これで来年もがんばらんナ』と激しい闘いの意欲 (中略)『親子五人を女手で一つでやしなつているのに八千円
でどうしてやつていけます。ゲタと肌着と借金でしまいです。うちの上の子供がやつと高校を卒業ですのや。どっかえ
えとこへ就職さしたいのやけどやっぱりあきまへんわ、将来性のない小さな工場です・・・』と八千円の越年資金の問題か
ら子供たちの将来へつきることなくおばさんはかたりつづける。門松もモチもない 一月はたらいて七千円程度、これ
で親子五人が生活しなくてはならない。はたらきながら生活保護をうけなくてはならないやすい賃金」
(『解放新聞』一
九六○年一二月二五日)
→京都市における実態も、婦人失対労働者が集中している学区は、被差別部落やその周辺学区であった。特に女性だけで
ある出町公共職業安定所は、田中地区が近いこともあり、被差別部落を含んだ学区出身者比率が九割以上であった。そ
して、未亡人も九割以上であり、中年以上の未亡人の比率が非常に高かった。そして八割以上が元専業主婦で、日雇い
の前は職業についたことのない人々だった。被差別部落・失業対策事業・女性失対労働者というマイノリティの集約点。
ただし、
「ほとんど」
「七割から八割」
(『解放新聞』
)
「京都市内六割」
(『じかたび』
)失対労働者中、京都市内被差別部
落居住者→表七のように実際は約三割 。地域によっては、表八→南区に至っては女性失対労働者比率約五割。南区・下
京区・東山区でも約四割。女性失対労働者比率は被差別部落の方が京都市全体より高い割合。高齢者・被差別部落民・
在日朝鮮人・女性などのマイノリティを含みこんだ貧困かつ、
『滞留』し社会的上昇可能性がほぼない人々→五○年代を
通じた様々な「交渉」過程の中で、運動経験を蓄積し、
「滞留」したがゆえに、集団として凝集する。そして「主体」と
して成熟し、ゆらぎやゆがみを伴いつつも、権利主体としての主体化を果たしていく。
Ⅵ むすびにかえて
1 展望
①千本自労医務室の調査。
「南病院は千本自労と共同で診療所を開設」
「千本自労医務室は千本自労職安構内に設置」自ら
50ちなみに一九五三年の京都市内被差別部落一六歳以上人口就業者は四九・九%、無職者は五○・一%だった。無職者の六一・五%は、家事で忙しく就
労不可能、二○・五%は求職中。
「働けない」者が一五・六%だった。特に女性の就業率は各年代とも、二○―三○%にすぎない(京都府民生部『京都府
同和地区の生活実態』一九五三年一○月、三七頁)。また、一九五五年八月の田中部落及び周辺の女性失対労働者数は、二八八名である(『田中』
、一六頁)。
一九五四年以降に失対労働への新規参入は難しく、就労者は固定化していた。出町出張所では、田中部落と周辺地区からの失対事業就労者が、半数以上
を占めていたことが推測できよう。
51「同和地区における失業対策事業就労者数」一九六二年、
『三木』一―二―六二―一三―一三八。なお、部落問題研究所編『現代京都の部落問題』(一
九八七年、部落問題研究所出版部)、二○一―二○二頁に、京都市労働対策事務室『同和地区における失業労務者調』(一九六二年六月)が出典としてあげ
られているが、残念ながら部落問題研究所を含む、各史料所蔵機関で所在不明であり、利用することができなかった。
15
101
の生活と健康を守る一つの達成。表
表九→社会党・共産党支持層がそれぞれ約二○-三○%、支持・回答なしも三割。
◆「宗教団体に対する我々の態度(上)(下)」①創価学会などの新興宗教が組合活動浸透。②「創価学会の活動が組合の組織
の強化と戦いを前進させるためにマイナスをもたらしている事実に対しては放任しておくことはできない。
」強制加入、
脅迫行為。特に創価学会では「入会して信ずることによって生活は楽になり賃金もひとりでに上がると教えている」④
「我々の無知と生活の苦しさにつけこむ悪どいやり方であり、心から怒りをおぼえるとともに我々の組合活動の弱さの
あらわれであることを自己批判しなければならないだろう」信者になる人は真面目に自己の生活向上を願って信者にな
っている⑤対策→やり方を徹底的に暴露。無知や弱さにつけこむところから、組合こそが、生活と平和を闘いとる唯一
の組織であることを示す。また現場や、居住先で話し合いを深め、一掃。宗教団体とも懇談を、賃上げなどの要求獲得、
話合い必要。(『じかたび』一五六号、一五七号、一九五七年九月一一日、九月二一日)
◆一九六五年三月京都府知事選→「京都府には当時、政府の失業対策費によって、府庁の息がかかっている日雇労働者に
は創価学会の会員が多く、その動向は選挙を大きく左右」(前尾繁三郎『政治家の方丈記』
、理想社、一九八一年、一二
五-一二六頁)
「弱い主体」の成長とゆらぎ
→表
表一○、創価学会が失対労働者の主要な宗教の一つ。絶望感、あきらめ感。生活改善志向。
失対労働者達は、
「滞留」しつつ、
「凝集」し、運動経験を蓄積し、共同性を保ちながら、権利主体としての主体化を遂
げた。しかし、彼ら/彼女ら「弱い主体」の成長とゆらぎ、ゆがみは、常に併存していたのである。
「失対労働者」とし
ての権利主体化がいかに困難であるかを示しているだろう。
②一九六一年九月二八日京都市長高山義三、失対打ち切り言及。全日自労西陣分会が、分会財政問題を機に分裂。共産党
批判も理由。同年一二月二四日、社会党の指導、円町自由労働者組合設立。一
一九六二年第一次失対打ち切り闘争へ。
2 問題提起と課題
① 戦後社会政策史・社会福祉史→マイノリティの存在を常に組み込んでいく事の重要性を提起した。失対労働者に即せ
ば、被差別部落史や女性・ジェンダー史などとの接合が必要不可欠であることも示した。そして、被差別部落・在日
朝鮮人・女性の存在などが、都市全体の社会政策形成を規定していることも明らかにした。被差別部落史・ジェンダ
ー史・在日朝鮮人史の成果を援用することなしに、今後の都市社会政策史・社会福祉史研究を構築しえないことも示
した。マイノリティの動向をほとんど無視してきた戦後社会政策史・社会福祉史研究自体の枠組みを再検討すること
ができたと考える。
②社
社会運動史研究→マイノリティが行う社会運動内も、マイノリティ間にも常に社会的差別や矛盾が存在する。マイノリ
ティを分類し、分析する方法では、階層間格差や、ジェンダー秩序、社会的差別の問題を串刺しにしてとらえられない
ことを示すことができた。様々なゆらぎやゆがみを組み込み、主体化の契機をみていくことも提起できた。今後も戦後
民主主義の深度や質を、マイノリティの運動のありようから、問い続ける試みを継続していくことが必要であろう。
③五○年代論→「経済成長」が進むと逆に様々なマイノリティを含み込み「滞留」していく人々である失対労働者からみ
れば、高度経済成長を下支えする膨大な「生活保護以下賃金」層の段階的な形成の前提として、五○年代は独自の位置
を占める。ただし彼ら/彼女らの『滞留』による運動経験の蓄積と、失対労働者としての共同性の確立による『凝集』
が、六○年代以降の失対打ち切り路線に対抗する主体化につながるという意味でいえば、五○年代を通じて、ゆらぎや
ゆがみを伴い、権利主体としての主体化をとげた時期であると位置づけることも可能であろう。ただし、それは常に主
体化の困難を抱え込んだものであった。
今後の課題→①報告時間とレジュメの紙数の関係で、実証を大幅に省略。②生活保護制度との関連。失対事業の肥大化
は、生活保護制度給付金寡少のため、失対事業へ。今後は生活保護制度自体の運用実態や失対事業との関連の検討必要。
③女性失対労働者主軸の未亡人や母子家庭の存在形態の検討。④在日朝鮮人の存在についても史料的制約から断片的。
⑤自由労組における社共対立の問題なども興味深いが今後の課題とせざるえない。
16
102
『ニコヨン』の都市社会史
年代
男性対象者数 女性対象者数 合計対象者数 女性対象者比率
1950年
212840人
70187人
283027人
1955年
200616人
112444人
313060人
1958年
206658人
128492人
335150人
1959年
212832人
134660人
347492人
1960年
208621人
141589人
350210人
1961年
200726人
145407人
346133人
1962年
188432人
146658人
335090人
1963年
171869人
139770人
311639人
1964年
146639人
128957人
275896人
1965年
131262人
122661人
253923人
(出典)『失業対策年鑑』各年度版 ※各年9月末調査
103
24・8%
35・9%
38・3%
38・8%
40・4%
42・0%
43・8%
44・8%
46・7%
48・3%
年 代
表2 全日本自由労働者組合京都府支部役員一覧
メ
ン
バ
ー
1949年 第1回大会 委員長 灘井五郎(西陣) 副委員長 永田呑海(西陣) 副委員長 水谷一雄(千本) 書記長 斉藤恒雄(西陣)
1951年 第3回大会
委員長 灘井五郎(西陣) 副委員長 永田呑海(西陣) 書記長 高橋亀(千本) 執行委員 篠原善吉(千本) 山本(千本) 吉村芳太郎(西陣) 田中(西
陣) 松井(西陣) 藤田重次郎(西陣) 福島幸一(大工) 川崎(西舞鶴) 三橋金二郎(伏見) 書記 尾頭誠治 松浦 斉藤恒雄 荒木信一
委員長 灘井五郎(西陣) 副委員長 永田呑海(西陣) 副委員長 岩井一之進(千本) 副委員長 荒木信一(伏見) 書記長 斉藤恒雄(西陣) 財政局長
高橋亀(千本) 西陣支部長 吉村芳太郎 千本支部長 篠原善吉 土建支部長 湯川幸男 竹田支部長 藤田重次郎
1950年 第2回大会 委員長 灘井五郎(西陣) 副委員長 永田呑海(西陣) 書記長 斉藤恒雄(西陣)
1952年 第4回大会
1953年 第5回大会 委員長 灘井五郎(西陣) 副委員長 永田呑海(西陣) 書記長 高橋亀(千本)
1959年 第11回大会
1958年 第10回大会
1957年 第9回大会
1956年 第8回大会
1955年 第7回大会
委員長 中林芳一(西陣) 副委員長 青木幸次郎(千本) 書記長 権 大 奉 ( 千 本 ) 財政部長 森谷健三(伏見) 教宣部長 大村慶一 執行委員 太田
美太郎 大槻俊輔(西陣) 平松範治(西陣) 北条松之助(西陣) 武 笠 千 鶴 子 ( 西 陣 ) 松 本 コ ト( 西 陣 ) 関根芳夫(千本) 田中知博(千本) 西村京一
(千本) 上本愛蔵(千本) 林 つ ね ( 出 町 ) 島 本 ハツ( 出 町 ) 外尾英範(伏見) 田中佐市(伏見) 高島富太郎(伏見) 林田岩太郎(東舞鶴) 谷口次郎
(西舞鶴) 福井茂一(福知山) 堀 三郎(宮津) 畑中勉(綾部) 並河賢一(亀岡) 塩見伊一郎(宇治)
委員長 田原勲(西陣) 副委員長 太田美太郎(西陣) 書記長 青木幸次郎(千本) 財政部長 外尾英範(伏見) 教宣部長 権 大 奉 ( 千 本 ) 婦人部長
佐 野 操 ( 西 陣 ) 執行委員 中林芳一(西陣) 清野敏雄(西陣) 平松範治(西陣) 灘井五郎(西陣) 関根芳夫(千本) 田中知博(千本) 西村京一(千本)
上本愛蔵(千本) 森谷健三(伏見) 出口勇(伏見) 百井嘉二郎(伏見) 川 本 初 子 ( 出 町 ) 林 つ ね ( 出 町 ) 鈴木秀夫(宇治) 大槻国二(綾部) 林田岩
太郎(東舞鶴)
委員長 関根芳夫(西陣) 副委員長 姜 判 世 ( 千 本 ) →10月10日辞職以降 青木幸次郎(千本) 書記長 清野敏雄(西陣) 財政部長 中北秀次(西陣)
教宣部長 中井昇(伏見) 常任執行委員 中林芳一(西陣) 南松志(千本) 奥 田 春 枝 ( 伏 見 ) 藤 井 み つ 枝 ( 出 町 ) 執行委員 太田美太郎(西陣) 中島
宏海(西陣) 平松範治(西陣) 田原勲(西陣) 梶原尚義(千本) 田中知博(千本) 吉村歳雄(千本) 外尾英範(伏見) 木 村 た ね ( 出 町 ) 友次寿男(両
丹地協)
委員長 関根芳夫(西陣) 副委員長 田原勲(西陣) 副委員長 田中知博(千本) 書記長 南松志(千本) 執行委員 平松範治(西陣) 吉村歳雄(千本)
梶原尚義(千本) 山角徳一(不明) 舟橋成四郎(不明) 関根芳夫(千本) 藤 本 ユキノ( 出 町 ) 藤 井 み つ 枝 ( 出 町 ) 林 つ ね ( 出 町 ) 島 本 ハツ( 西 陣 )
大槻俊輔(西陣) 櫻 井 房 枝 ( 西 陣 ) 渡 辺 千 代 ( 千 本 ) 中北秀次(西陣) 萩 野 つ ね ( 西 陣 ) 大 道 俊 ( 西 陣 ) 伊集院秀夫(不明) 菅 原 春 美 ( 千 本 ) 灘
井五郎(西陣) 川端清(不明) 森谷健三(伏見) 外尾英範(伏見) 吉田紀三郎(伏見) 国府義輝(八木)
委員長 中林芳一(西陣) 副委員長 田原勲(西陣) 副委員長 田中知博(千本) 書記長 南松志(千本) 執行委員 灘井五郎(西陣) 吉田政七(西陣)
大槻俊輔(西陣) 中北秀次(西陣) 平松範治(西陣) 大 道 俊 ( 西 陣 ) 荻 野 つ ね ( 西 陣 ) 関根芳夫(千本) 吉村歳雄(千本) 篠原善吉(千本) 伊集院
秀夫(千本) 菅 原 春 美 ( 千 本 ) 吉田紀三郎(伏見) 山角徳一(伏見) 川端清(伏見) 舟橋成四郎(伏見) 的場良太郎(綾部) 嶋田松治郎(福知山) 谷
口次郎(南舞鶴) 友次寿男(東舞鶴)
委員長 灘井五郎(西陣) 副委員長 中林芳一(西陣) 副委員長 南松志(千本) 書記長 関根芳夫(千本) 財政部長 大 道 俊 (西
西 陣 ) 組織調査部長
篠原善市 情報宣伝部長 平松範治(西陣) 教育文化部長 中井昇(伏見) 青婦対策部長 田原勲(西陣) 救援厚生部長 田中知博(千本) 執行委員
吉田政七(西陣) 大槻俊輔(西陣) 中北秀次(西陣) 上本愛蔵(千本) 森谷健三(伏見) 外尾英範(伏見) 西 村 は まえ(伏
伏 見 ) 友次寿男(東舞鶴) 福
林貢(福知山) 的場良太郎(綾部) 書記 西村高一(千本) 中島広海(西陣)
1954年 第6回大会 委員長 灘井五郎(西陣) 副委員長 南松志(千本) 書記長 関根芳夫(千本)
1960年 第12回大会
(出典)『全日自労京都府支部 25年史年表』(1973年)133-135p なおカッコ内は所属分会名である 太字は朝鮮人幹部 太字下線部付は女性幹部
104
『ニコヨン』の都市社会史
表3 京都市失業対策事業一覧(1951-60年)
紹 介 者 数
窓口アブレ 平均稼働日数
15・0日
窓口求職者数
57099人
17・5日
17・1日
適格者
125855人
50571人
有効登録者数
2500人 114318人(73242人)
1376190人
年月日
5648人 120078人(78088人)
合計
182954人
11893人
57096人
69980人
公共事業 失業対策(市吸収分) 特別失対など
10530人
188190人
139520人
155029人
9037人
1951年11月
10613人
125601人(不明)
7997人 133121人(86889人)
民間
1952年4月
7931人
13911人
5988人
196116人
225009人
8977人
11131人
1953年4月
1952年10月
129868人
143160人
65560人
76366人
59220人
69210人
16・4日
16・3日
15・6日
17・0日
17・6日
5305人 116210人(72061人)
1117人 129755人(83107人)
147130人
156814人
19・0日
8353人
12228人
3022人 138605人(90041人)
8811人 136718人(87130人)
49209人
189008人
212370人
5503人
11285人
18・3日
53213人
9215人
233180人
65149人
18・9日
136959人
10010人
212690人
172086人
58807人
19・3日
147338人
10475人
172921人
58850人
19・8日
1948人 123407人(78700人)
12375人
11548人
10708人
1119人 164342人(106010人)
13213人
236102人
63466人
19・8日
1815人 132259人(83431人)
11816人
6625人
896人 154515人(97270人)
15416人
237507人
59608人
20・0日
11604人
1955年4月
1954年10月
11736人
237236人
4297人
2603人 152746人(97962人)
8961人
170846人
61747人
19・9日
13264人
1955年10月
10501人
231788人
6487人
809人 159136人(100167人)
18780人
155955人
55103人
186168人
1956年4月
11277人
10108人
236102人
5139人
3518人 144110人(92989人)
5471人
158325人
200551人
1956年10月-57年
9月平均
10920人
10093人
237507人
3438人
2361人 145509人(94119人)
20401人
8954人
1957年10月-58年
9月平均
10978人
9897人
230454人
2614人
3509人 131033人(84294人)
8881人
1958年10月-59年
3月平均
10572人
9773人
217702人
3383人
10606人
1959年4月-59年9
月平均
10475人
9427人
213428人
10289人
1959年10月-60年
3月平均
10020人
9241人
1954年4月
1960年4月-60年9
月平均
9883人
1953年10月
1960年10月-61年
3月平均
(出典)『京都市事務報告書』各年度版
105
表4 京都市内日雇労働者共産党員数
年月日
極左系推定労務者数・共産党員数 配布されるビラ・機関紙など
1952年4月
解放新聞・ヒヤトイ新聞・民族の鐘
1952年10月
724人
闘いの旗・ひやとい新聞・市労連情報・京都の
ハタ・アカハタ・共同デスク
1953年10月
183人
ひやとい新聞・アカハタ・じかたび
(出典)『失業対策年鑑』各年度版
表5 日雇労働者の社会意識調査(1959年)
なんとかして他の職につきたいと思う者-57名 この職(日雇)でよいと思う者-61名
人生観
社会観
個人観
職業観
生活観
集団観
もっと規則正しい行き方をしたい-48名
自由にのびのび生きられる-9名
もっと楽してボロもうけしたい-9名
もう自分には就職する力がない-52名
社会はこの仕事の価値を認めない-28名
われわれはちゃんとした労働者である-39名
世間は我々を差別して毛嫌いする-29名
世間の人はわれわれにいろいろと同情してくれる-22名
自分がだらしないように思える-23名
自分はできる かぎりのことはして生きている-46名
自分の性にあわないし、えらい- 34名
自分の生活や力にあっている-15名
将来のみこみがないし、不安だ-42名
屋外の労働が適している-26名
もっときれいな人目にたつ仕事がしたい- 15名 探したが職がなかった-35名
家族の者がいやがる-29名
安月給より日給の方がいい-30名
収入がぜんぜん足りない-38名
この収入でどうにかやっていける-31名
仲間とうまくつきあえない-25名
仲間と協力して我々の生活を守っていく義務がある-35名
弱い者はいつも損ばかりする-32名
助け合える仲間が大勢いる-26名
(出典)全日自労京都府支部・同志社大学社会学科研究室・西京大学児童福祉学研究室・京都民医連・京都府職労『日
雇労働者の実態』1959年、20頁
106
『ニコヨン』の都市社会史
表6 京都市元学区別生活水準比較表(1955年10月)
行政区 学区
北区
紫明
元町
出雲路
待鳳
紫野
鳳徳
柏野
紫竹
楽只
衣笠
大将軍
上賀茂
大宮
鷹ヶ峰
中川
小野郷
雲ケ畑
上京区 成逸
室町
乾隆
西陣
翔鸞
壽楽
桃園
小川
京極
仁和
正親
聚泉
中立
出水
待賢
滋野
春日
左京区 錦林吉田
同川東
同岡崎
同聖護院
同東山
同浄楽
新洞
北白川
養正
養徳
下鴨
葵
修学院
松ヶ崎
岩倉
八瀬
大原
静市野
鞍馬
花瀬
久多
中京区 梅屋
竹間
富有
教業
城巽
龍池
初音
柳池
銅陀
乾
本能
明倫
日彰
生祥
立誠
朱雀第一
朱雀第二
朱雀第三
朱雀第四
朱雀第五
107
婦人失対事業適格者数
3
4
7
13
21
6
10
7
172
8
13
34
5
10
0
0
0
8
26
4
4
32
4
7
8
6
112
13
25
18
63
11
7
13
31
4
31
7
146
30
20
24
311
72
15
16
53
0
0
0
0
0
0
0
0
2
4
1
12
7
2
1
1
3
4
4
0
2
0
2
34
44
44
129
57
生活保護世帯数 生活保護被保護人員数
72
189
37
93
61
147
185
603
257
705
116
346
137
512
48
150
229
781
92
277
72
196
147
556
59
192
26
73
6
23
12
32
2
8
85
262
180
493
44
127
70
143
252
687
23
53
48
119
109
308
52
105
434
1269
127
360
92
245
51
129
185
495
75
208
57
143
66
143
151
398
37
75
98
238
50
85
162
509
95
245
97
175
98
255
373
1414
225
896
78
229
75
144
208
797
18
40
44
76
8
25
20
62
7
17
8
16
14
58
6
19
39
89
28
55
24
50
43
113
36
82
13
26
14
34
24
53
23
45
50
116
32
56
11
36
16
39
15
31
29
46
135
372
132
384
95
248
193
663
165
651
朱雀第六
朱雀第七
朱雀第八
東山区 有済
粟田
弥栄
新道
六原
清水
貞教
修道
一橋
月輪
今藤野
山椿
鏡山
音羽
歓修
下京区 郁文
格致
成徳
豊園
開智
永松
淳開
醒泉
修徳
有隣
柏柳
尚徳
稚松
菊浜
安寧
皆山
光徳
七条
七条第三
崇仁
大内
梅巡
南区
梅巡
九条
九条弘道
九条塔南
南大内
七条第二
陶化
東和
山王
吉祥院
上鳥羽
右京区 花園
太秦
安井
嵯峨野
西院・西院
第二
山ノ内
高雄
嵯峨
梅津
西京極
松尾
桂
川岡
大枝
58
70
30
9
49
0
2
6
14
40
26
60
16
19
17
19
4
4
2
1
0
2
0
0
16
5
0
0
7
2
4
19
14
16
19
29
16
207
40
1
0
36
47
45
24
42
39
39
119
61
29
65
22
33
8
125
204
112
115
184
30
67
116
81
117
120
241
161
142
122
117
46
41
48
31
13
22
30
26
86
91
14
38
88
15
68
77
36
131
133
194
105
617
128
28
69
83
127
197
162
162
321
227
463
245
102
310
182
119
55
399
722
277
290
424
40
135
260
198
281
248
683
543
398
362
353
144
110
165
78
36
56
68
51
203
222
25
105
230
33
147
147
99
288
330
646
350
1849
375
69
217
246
482
673
556
598
1387
914
1519
1049
325
1128
695
457
238
110
265
1090
22
1
0
23
16
5
17
12
0
142
13
114
99
148
40
73
12
5
503
31
368
394
646
143
313
150
10
(出典 『京都大学部落問題研究会資料A 京都田中部落総合調査
田中部落概観資料』(1958年)21‐24頁。調査は職安カード。
1955年10月調査。伏見区は職安管轄の違いでデータなし
表8 千本職安登録労務者分類
行政区
南区
学区
合計
地区別
男
女
合計
148名
153名
301名
楽只
102人(37・8%)
168人(62・2%)
270人
陶化
83名
87名
150名
養正
119人(34・7%)
224人(65・3%)
343人
九条塔南
61名
56名
117名
錦林
69人(37・7%)
114人(62・3%)
183人
吉祥院
44名
60名
104名
東和
壬生
80人(41・7%)
112人(58・3%)
192人
52名
36名
88名
九条弘道
三条
101人(64・3%)
56人(35・7%)
157人
47名
41名
88名
南大内
川田
36名
43名
79名
七条第二
44名
30名
74名
崇仁
上鳥羽
34名
28名
62名
九条
20名
24名
44名
合計
569名
538名
1107名
51・4%
48・6%
崇仁
453名
320名
773名
七条第二
139名
52名
191名
67名
47名
109名
大内
1人(100%)
1人
396人(57・6%)
292人(42・4%)
688人
吉祥院
9人(69・2%)
4人(30・8%)
13人
唐戸
6人(46・2%)
7人(53・8%)
13人
1人(100%)
1人
19人
清井町
青木元
中野
6人(31・6%)
13人(68・4%)
松尾
4人(44・4%)
5人(55・6%)
9人
竹田
123人(32・2%)
259人(67・8%)
382人
皆山
75名
23名
98名
深草
100人(33・4%)
199人(66・6%)
299人
光徳
60名
18名
78名
辰巳
19人(36・5%)
33人(63・5%)
52人
植柳
48名
16名
64名
納所
7人(50%)
7人(50%)
16人
菊浜
36名
21名
57名
上樋爪
1142人(43・3%)
1494人(56・7%)
2636人(27・9%)
5200人(55%)
4250人(45%)
9450人
梅経
47名
3名
50名
久世
淳風
12名
28名
40名
地区合計
醒泉
24名
5名
29名
京都市内全体
安寧
6名
11名
17名
15名
尚徳
13名
2名
豊園
4名
3名
7名
稚松
2名
1名
3名
七条第三
3名
3名
開智
1名
1名
開文
9名
2名
1名
合計
995名
551名
1545名
64・4%
35・6%
下京区男女割合
東山区
表7 京都市内被差別部落失業対策事業就労者数(1962年)
女子
山王
南区男女割合
下京区
男子
一橋
241名
74名
315名
粟田
110名
38名
148名
106名
有済
70名
36名
六原
48名
20名
66名
月ノ輪
48名
16名
64名
修道
42名
21名
63名
今熊野
35名
17名
52名
山階
26名
20名
46名
鏡山
24名
6名
30名
新道
20名
2名
22名
音羽
13名
6名
19名
観修
15名
4名
弥栄
14名
(出典)部落問題研究所蔵『三木一平氏所蔵資料』1-2-62-13-138
19名
14名
清水
7名
3名
10名
合計
750名
298名
1048名
東山区男女割合
71・5%
28・4%
総数
2314人
1387人
全体男女割合
62・5%
37・5%
3701人
(出典)京都南病院院長 竹沢徳敬・千本自労医務室所長 斉藤惇生『千
本自労医務室における日雇労働者の診療-1960年度の報告』第三章
108
『ニコヨン』の都市社会史
表9 千本職安日雇労働者調査(政党支持)
支持政党
男(98人)
割合
女(89人)
割合
自民党
13人
13・7%
3人
3・4%
社会党
23人
23・5%
20人
22・8%
1人
1・1%
27人
27・6%
32人
36・2%
社共両党
4人
4%
6人
7%
その他
2人
2%
支持なし
22人
22・4%
23人
26・1%
解答なし
7人
7・1%
4人
4・5%
民社党
共産党
(出典)京都南病院院長 竹沢徳敬・千本自労医務室所長 斉藤惇生『千本
自労医務室における日雇労働者の診療―1960年度の報告』第8章
表10 千本職安日雇労働者調査(信仰)
信仰
男(98人)
割合
女(89人)
割合
(出典)京都南病院院長 竹沢徳敬・千本自労医務室所長 斉藤惇生『千本自労医務
室における日雇労働者の診療―1960年度の報告』第8章
109
110
川
オール・ロマンス事件の虚構と真実
前
修
111
はじめに
いう交渉―が第2巻に書かれていないのかという質問をす
清一です。この「特殊部落」という小説は、部落差別の小
部落史研究会刊、一九九五年一二月)に書いた「『オー
最初に書いたのは『部落解放史ふくおか』八〇号(福岡
ると、師岡さんは「いくら史料を探してもないんだよ」と
説といわれてきました。私も部落差別の小説だと思い込ん
ル・ロマンス事件』と『オール・ロマンス行政闘争』の史
「オール・ロマンス事件」は、部落問題を学習する時の
できたのですが、初めて原文を読んだ時は、イメージした
実を求めて」というものです。この八〇号には、史料とし
言うのです。師岡さんは実証主義なので、史料のないもの
ものと全然内容が違うので愕然としました。原文を読まれ
て「特殊部落」の原文を掲載したために非常に売れ行きが
キーワードのように扱われるものです。この「オール・ロ
ないで差別小説だといわれている小説は、「特殊部落」だ
良かったということです。ここでは、「オール・ロマン
は歴史として書かなかったわけです。このような、驚くよ
けだと思います。また、「オール・ロマンス行政闘争」は
ス事件」つまり「特殊部落」という小説についてのこと
マンス事件」は、カストリ雑誌といわれた『オール・ロマ
同和行政の転換点になったといわれていますが、『京都の
を、内容面についても掘り下げて考えてみました。また、
うなことがいくつもありました。そういうものを出発点と
部落史』第2巻が出たときに、当時の京都部落史研究所所
「オール・ロマンス事件」(小説「特殊部落」)と、その
ンス』誌の一九五一年一〇月号に「特殊部落」という小説
長の師岡佑行さんに、なぜ「オール・ロマンス行政闘争」
後に行われる「オール・ロマンス行政闘争」の非連続性を
して「オール・ロマンス事件」と「オール・ロマンス行政
で有名な「地図を広げた交渉」―行政交渉をした時に、大
考えました。次に書いたのは、「もう一つの『オール・ロ
が掲載されたことがきっかけとなった事件です。小説を書
きな地図を広げて、例えば消防車が入れないところはどこ
マンス行政闘争』」という文章で、大阪人権博物館でおこ
闘争」を調べようと思い立ったわけです。
かと丸をつけさせる、不就学の子どもがいるところはどこ
なわれた「戦後の部落問題」という研究会の成果をまとめ
いたのは、京都市職員の杉山清次で、ペンネームでは杉山
かと丸をつけさせる、すると全部が同和地区に重なったと
112
オール・ロマンス事件の虚構と真実
た『戦後部落問題の具体像』(大阪人権博物館刊,一九九
七年三月)に発表しました。これまで「オール・ロマンス
ス行政闘争」について書きました。
「『オール・ロマンス事件』の再検討」を発刊したので
め、現在は発売中止となり、その代わりに解説書として
事件」と「オール・ロマンス行政闘争」を描いているた
てのビデオでは、従来の古い認識で「オール・ロマンス
博物館が編集・発行した「オール・ロマンス事件」につい
ス事件」再考』という冊子に書きました。かつて大阪人権
〇〇二年に大阪人権博物館が発行した『「オール・ロマン
「『オール・ロマンス事件』の再検討」という文章を、二
すが、保守系の市会議員を長くされた方です。最後に、
は、オール・ロマンス事件当時は議員ではなかったので
らの地元の有力者を中心にした住民運動でした。熊野さん
ロマンス行政闘争は京都府連とは対立する熊野喜三郎さん
たのかを焦点にしながら書きました。東七条でのオール・
舞台とされた東七条(崇仁学区)の地元はどんな反応をし
委員会京都府連が主導したものだといわれてきましたが、
ちなのです。「砧うつ洗濯女」というのはまさしく朝鮮の
「裸体に近い風俗でたわむれる」のは、朝鮮人の子どもた
ロクをつくっている所となるのです。史料2の原文では
もたちや臓物などがいっぱいあり不衛生で、みんながドブ
う」とあります。これを読むと部落には裸で走り回る子ど
と、生き生きとした実感で彼の差別感を裏付けてゆくだろ
臭が鼻をつく』『そして至るところがドブロク密造所』
ず、方偶(隅)にハエのちょうりょうにまかされきって悪
でたわむれる空地がある。』『昨日のぞう物は仕末もつか
はみっちゃのハナたれ子たちが、ほとんど裸体に近い風俗
くります。そこには「部落には『目やに、とうそう、はて
「オールロマンス差別糾弾要項」を一九五一年一二月につ
を見てください。「オール・ロマンス事件」で解放運動が
地名があり、そこを「特殊部落」だとしています。史料1
かですが、小説「特殊部落」には舞台として東七条という
本論に入ります。「オール・ロマンス事件」とは何なの
一、
「オール・ロマンス事件」について
す。私としては、それまでに考えてきたことをまとめるも
伝統で叩いて洗濯するのです。「長煙管」というのも朝鮮
行政闘争」は、朝田善之助さんを中心とした部落解放全国
のとして、「オール・ロマンス事件」と「オール・ロマン
113
ような話に書き換えられてしまっているのです。そして、
かれています。それが、糾弾要項では部落で密造している
ころで、「鮮人仲間」でも金や力をもっている男として描
でもでてきますが、原文では、それも朴さんの経営すると
ところ」とあります。ドブロク密造所というのが糾弾要項
ように「部落にあるドブロク密造所は、朴根昌の経営する
り変えているのです。そして、史料2の最後のほうにある
いるのです。この場面を部落の場面として糾弾要項では作
人のおじいさんの描写です。全員が朝鮮人として描かれて
んな家に立ち入り消毒液をまいたりする仕事をし、仕事を
書いた杉山さんは京都市職員で九条保健所に勤務し、いろ
条でドブロク密造をおこなっていたわけです。この小説を
東七条の中でドブロク密造をしているのではなくて、東九
部落でドブロクをつくっていたことは出てきていません。
のは、ドブロクを造っていたのは全てが朝鮮人で、被差別
た、という話を聞いたことがあります。新聞記事でわかる
を造っていた甕が割れてすごいにおいが何週間もしてい
ましたら警察がきて隣の朝鮮人一家が逮捕され、ドブロク
そして、東九条に住んでいた私の友人からも、朝、目を覚
健所です。九条保健所が管轄するのは、東七条の南側の東
小説を全部読んでみて、出てくる登場人物はほとんど朝鮮
このように数行読んだだけでもわかるように、彼の描
九条なのです。杉山さんが仕事を通して取材したのである
通して取材をしたと言われてきました。糾弾要項では東七
いた「特殊部落」は、かなりリアルなものです。空想で
ならば、取材した場所は、東七条の南側の東九条です。新
人です。杉山さんが描いたのは「特殊部落」で、その「特
描いたわけではなくて、朝鮮人のドブロクの密造などの
聞記事にあるようなドブロクを密造する朝鮮人の姿を仕事
条を管轄するのは九条保健所だと書かれているのですが、
生活実態を知っていたわけです。史料3を見てください。
を通して知っていたわけで、それを小説の中に盛り込んで
殊部落」は暴力と非合法なドブロクで金を稼ぐ無法地帯
一九五〇年九月二六日、大阪朝日新聞の京都版にでた記事
いったわけです。小説の中には、闇米の手助けをしている
それは違います。当時、東七条を管轄していたのは六条保
です。この時期の新聞検索をすると、密造酒を朝鮮人がつ
場面もありますが、史料4の「昭和廿六年度オールロマン
で、訳のわからない世界なのです。
くっていて検挙されるという記事がたくさんでてきます。
114
オール・ロマンス事件の虚構と真実
だったと思います。最初から「小説として読まれない小
別の小説にいつの間にかされてしまったということが実態
争のなかで原文の一部だけを取り出されて使われ、部落差
「特殊部落」として描こうとしたのだと思います。行政闘
だけを描いたわけではなくて、彼は自分とは違う世界を
こっていることも含めて描いているわけです。在日の生活
日の集落のことだけを描いたのではなくて、東七条で起
て没収されないようにしていたそうです。このように、在
向けてライトで合図して、闇米を一斉に列車から放り投げ
入ってくるので、京都駅に警察がいる場合は鴨川で列車に
と没収・逮捕されてしまうわけです。列車は鴨川を越えて
京都駅に運び込むのですが、京都駅では警察が張っている
当時、米は統制されていましたが、滋賀や奈良から闇米を
の住民が闇米の運搬の便宜を図っているということです。
見てください。隣保館の主任から得た情報として、東七条
ス事件関係」という京都市民生局福利課がつくった資料を
す。京都市行政が主導した行政闘争ともいえるため、師岡
す。従来の戦後部落解放運動史を大きく塗り替えるもので
きっかけに取り払おうとしたのであろう」と記述していま
同和行政をすすめるうえで障害になるものを、この事件を
て、京都市行政内部にいた中川さんらが「京都市のなかで
の同和行政の方向転換は運動の主導でなされたのではなく
要な役割を果たしています。そして、師岡さんは、京都市
ん(企画調整室主幹)や鈴木さん(民生局福利課長)が重
助さんと親交のあった京都市の幹部職員である中川忠次さ
政闘争」は京都府連だけが展開したのではなく、朝田善之
都の部落史』第2巻を要約すれば、「オール・ロマンス行
オールロマンス事件関係」が初めて使われたのです。『京
ほどの史料4にあげた民生局福利課の資料「昭和廿六年度
これまで運動側の史料だけで語られてきたわけですが、先
ル・ロマンス行政闘争」を見ているかということですが、
ことが書かれています。師岡さんがどういうふうに「オー
と思います。『京都の部落史』第2巻には、かなり大切な
有名な「地図をひろげた交渉」ですが、史料6にあげて
作自演だ」とも言われていました。
さんは後に「『オール・ロマンス行政闘争』は京都市の自
説」という宿命を背負ってきた小説なのです。
二、
「オール・ロマンス行政闘争」について
次に、「オール・ロマンス行政闘争」について考えたい
115
事があったということがでてきます。本当に竹田で一九五
きたわけです。東上さんの『差別』の中に、竹田部落で火
歴史ではないものを歴史であるかのように今まで書かれて
こっそり書き換えるのはまずいのではないかと思います。
回も調査が行われているからです。何十年もたってから
京都市内の不良度の高い地域を八大不良住宅地区として何
て八箇所にしています。八箇所だと整合性が出てきます。
章を引用した文章を書いていますが、その際には書き換え
ても矛盾のある文章です。最近、東上さんは自らのこの文
に編入されることで、同和地区は一八箇所になります。と
町が京都市伏見に編入され、一九五九年に久世村が京都市
ん。京都市は戦後の合併によって、一九五七年に久世郡淀
一年当時の京都市内の同和地区は一八箇所ではありませ
八箇所、全部未解放部落だということです。ただ、一九五
活難、低位性のある地域に丸をすると全部重なったのが一
多く住んでいる地域、不就学児童の多い地域、といった生
い狭い道、結核患者の多く住んでいる地域、生活困窮者の
地、水道のない地域、下水道のない地域、消防車の通れな
いう本の中の文章です。京都市の中の、不良住宅の密集
います。東上高志さんが一九五九年に書かれた『差別』と
をきっかけに同和事業が着手されたわけです。一九五三年
いた時に、この「オール・ロマンス事件」が起こり、それ
積み重ねの中で戦後の同和行政のスタートをきろうとして
開始されたわけではなく、戦前からの京都市の同和行政の
と思います。地図を広げた交渉によって戦後の同和行政が
同和行政を転換するなどという話の作り方は歴史ではない
論したかったのです。たった一回の交渉によって京都市が
転換したか、同和行政がそこで前進したかということを議
いのではなくて、地図を広げた交渉によって京都市行政が
すが、私はあってもなくてもいいのです。それを議論した
交渉はなかったと言い張っている」といわれているわけで
行政が転換していったといわれているわけです。「前川は
その交渉によって京都市の差別性が明らかになって、同和
て京都市の同和行政が大きく転換したとされてきました。
られてしまっているのです。この地図を広げた交渉によっ
から起こった出来事をその時起こったかのように付け加え
一年には消防署がかけつけた火事はありませんでした。後
竹田の部落で火事があったのは一九五三年でした。一九五
小さなボヤまで全部統計にあげている本があるのですが、
一年に火事があったのか調べました。京都市には消防局が
116
オール・ロマンス事件の虚構と真実
さんがくわしく書いていますが、戦前に京都市社会課が京
こなっていたからです。『京都の部落史』第2巻にも師岡
た。なぜ錦林だったのかというと、戦前から土地買収をお
計画案をたてて、候補地として最終的に錦林が残りまし
京都市民生局福利課は膨大な資料をつくって国と折衝し、
京都市はこれを受けて、市内に改良住宅を建てるために、
ル事業として改良住宅をつくることを明らかにしました。
ることです。一九五〇年に、国は全国で三つの地区でモデ
九五三年に住宅を建設出来ないことは冷静に考えればわか
ましたが、一九五一年の後半に起こった事件によって、一
も「オール・ロマンス行政闘争」の成果として語られてき
に錦林地区に最初の改良住宅が建てられるのですが、これ
ではないのです。
渉」のようなたった一回の交渉で、同和行政が進んだわけ
いつかは建っていただろうと思います。「地図を広げた交
ば、錦林の住宅建設は遅くなっていたかもしれませんが、
だったわけです。もし「オール・ロマンス事件」がなけれ
和行政の実施を確約しますので、民生局としては追い風
いても反対する人がいなくなってきます。高山市長まで同
ロマンス事件」のようなきっかけがあれば、行政内部にお
わけではないのですが、行政事業を進める上で「オール・
「オール・ロマンス行政闘争」の結果によって建設された
年に建設決定をおこなうのです。錦林地区での改良住宅は
れを受けて大きな空き地を持っていた錦林地区に一九五二
都市全体の同和地区を莫大な予算をたてて全面改良をする
て、京都市行政から見たら、いつかそこに改良住宅を建て
た。戦前から同和地区の中にはかなりの空き地が出来てい
している地域で地区外移転をして空き地をつくっていまし
ため段々規模が縮小していくのですが、土地を買収し密集
の反省文の中から、杉山さんはどういう意識で小説を書い
も掲載されています。三木一平さんに宛てたものです。こ
年度オールロマンス事件関係」の中には、作者の反省文
たのかをみます。さきほどから引用している「昭和廿六
次に、杉山清次さんが部落問題をどのように考えてい
三、
「崇仁学区差別事件」から「オール・ロマンス事件」に
ようという意識をもっていたわけです。そして国からのモ
たのかが見えてきます。三木さんは杉山さんに対して「あ
というような計画を立てました。戦時下で予算が付かない
デル事業として公営住宅を建てたいという意向があり、そ
117
す。だから杉山さんは、「ハッキリした線をつかめたよう
もとづく部落問題というものを説明したのだろうと思いま
のは杉山さんが書いているようなものではなく、身分制に
がわかります。そして、三木さんは「特殊部落」というも
どを読んでみるようにすすめ、アドバイスしていったこと
なたの書いたものはおかしい」と指摘し、「解放教育」な
たということです。
れてしまい、誰もその内容を検討することなくきてしまっ
扱った小説なのにいつの間にか部落差別の小説に固定化さ
事件」になってしまう、つまり「特殊部落」というものを
いつの間にか、「崇仁学区差別事件」が「オールロマンス
う意識から、部落差別をしたという意識になってきます。
な気がします。或はまたピントが外れているかも知れませ
件」になったわけです。ある時期から、「オールロマンス
となんかない」という思いですから、「崇仁学区差別事
「ドブロクなんか造っていないし、ピストルで人を殺すこ
ちは自分たちのことを悪く書かれたと感じたわけです。
「崇仁学区差別事件」とされていました。崇仁学区の人た
ます。「オール・ロマンス事件」は、行政資料では最初、
いたわけです。この文章は、大変重要なものだと思ってい
れている「特殊部落」とは違うということに初めて気がつ
たり朝鮮人がたくさん出てくるというのは、世の中でいわ
トはずれだったことがわかったわけです。ドブロクを造っ
箇所を調べてみると同和地区は六箇所だけで、他は同和地
箇所を危険地域としてリストアップしています。その四四
和施策」と題した調査報告書があります。京都市内の四四
消防局長が民生局長に一九五二年一月に出した「今後の同
京都市の各局は京都市内の低位な個所を調査しています。
実態は東七条の南側にある東九条だったわけです。当時、
ました。しかし、杉山さんが書いたドブロクを造るなどの
ます。「功」の部分です。部落の低位性、実態が改善され
ス行政闘争」によって生み出されたことは明らかだと思い
の画期的な前進が今述べてきた意味での「オール・ロマン
最後に、レジュメ3の「功罪」についてです。同和事業
おわりに 「オール・ロマンス行政闘争」の功罪
事件」となってきます。杉山さんの意識も、崇仁学区に対
区以外の地域でした。衛生局は、環境衛生上問題となる地
んが…」と、「特殊部落」という題名で書いたものがピン
して自分の偏見からとんでもないヘンなことを書いたとい
118
オール・ロマンス事件の虚構と真実
しょうか。私は社会福祉の仕事をしていますが、福祉がな
はそうではないといわれてきたのですが、果たしてそうで
います。「部落の貧乏」は差別の結果だが、「他の貧乏」
外の地域の問題を京都市行政は見ようとしなくなってしま
解決しなければならない問題を部落だけに集中し、部落以
いうことです。「オール・ロマンス行政闘争」によって、
民地支配と侵略戦争の傷跡を京都でも色濃く残していたと
あったり、引揚者の住む住宅であったりします。日本の植
ある町内を調べてみると、朝鮮人が多く住んでいる地域で
だと思わされてきました。不良住宅があり衛生面で問題が
ロマンス行政闘争」によって、低位性があるのは部落だけ
す。それが実態だったと思います。ところが、「オール・
のであるならば、京都市内の各地に丸が付けられたはずで
なかったわけです。「地図を広げた交渉」がおこなわれた
内の低位性を調査した結果、問題になるのは部落だけでは
にあてはまるのは三〇町だけでした。このように、京都市
域として二四一の町名をあげています。その中で同和地区
奪われるようなことが当たり前のようにあったのに、抜本
に低かったり不良住宅が密集していたり、火事で人の命が
た。東九条では、高校進学率などは同和地区に比べて格段
は「京都では無理だ、部落があるから」という対応でし
きるよう交渉したことがあります。当時の京都市の担当者
が密集していた地域なので、「住宅地区改良法」を適用で
よって改良住宅を建てているのですが、東九条も不良住宅
が、市内の部落では「住宅地区改良法」という一般法に
かないということがあります。二〇年くらい前になります
渉をしなければなりませんでした。同和事業のようにはい
が市営住宅を建てています。京都市と長い期間をかけて交
いている東九条では、不良住宅が多いということで京都市
うとしてこなかったという現状があると思います。私が働
い様々な問題があるのに、同和対策優先で他の問題を見よ
ということで、状況は同じです。自己努力では解決できな
「部落の貧乏」も「他の貧乏」も、その人の責任ではない
ないため、それを解決するために福祉が存在するのです。
「オール・ロマンス行政闘争」によって部落の問題点は
的な解決はされずに今まできてしまいました。
気をしたりいろんな自分の望みとは違うものが起きてきま
全て行政責任におきかえられ、住民が果たす役割を行政に
ぜ必要かということです。人生の中で仕事を失ったり、病
すが、それはその人の責任ではなくて、自分では対処でき
119
任せてしまったと思います。現在、隣保館がコミュニティ
センターになり、コミュニティセンターからの市職員の撤
退がいわれていますが、同和対策の終結がこのような形で
良いのか疑問に思います。同和施策に対する市民的な批判
に耐えられなくなった結果だと思います。同和行政はまだ
必要な部分があると思いますが、必要なものまで全て終わ
らせなければならないほど、市民的な反感を持たれるよう
な同和行政に誰がしてしまったのかということを冷静に考
えていかなければならないと思います。現在の同和行政、
同和施策のあり様の出発点が「オール・ロマンス行政闘
争」にあったのではないかと思います。
120
オール・ロマンス事件の虚構と真実
オール・ロマンス事件の虚構と真実
2008.11.21
前川
①オール・ロマンス事件とは何か
小説「特殊部落」が描いた「特殊部落」とは
部落差別小説にされた小説「特殊部落」
最初から小説として読まれなかった小説「特殊部落」
②オール・ロマンス行政闘争とは何か
京都市行政が主導した行政闘争
地図を広げた交渉の有無
地図を広げた交渉によって同和事業は開始されたのではない
③オール・ロマンス行政闘争の功罪
同和事業の画期的な前進
低位性は部落だけにあるわけではない
行政責任論の顛末
121
修
史料① オール・ロマンス差別糾弾要項
1951 年 12 月
部落には「目やにとうそう、はてわみっちやのハナたれ子たちが、ほとんど裸体に近い風
俗でたわむれる空地がある。」「昨日のぞう物は仕末もつかず、片偶にハエのりょうにまか
されきって異臭が鼻をつく」「そして至るところがドブロク密造所」と、生き生きとした実
感で彼の差別感を裏付けてゆくだろう。
『京都の部落史』8史料近代3(京都部落史研究所、1987 年3月)
史料② 小説「特殊部落」の原文
1951 年 10 月
東海道本線のガードに近い加茂川提は、塵挨の山で埋つていた。近くに、いつも朝鮮の
目脂癖瘡果ては痘痕の洟たれつ子たちが、殆ど裸体に近い風俗で、砧うつ洗濯女や長煙管
を喫かす老人の間を縫つて、遊び戯れている空地があり
部落にあるドブロク密造所は、朴根昌の経営するところ。特殊部落に盤据する鮮人仲間
でも、金力を持つことでは指折りの男だつたから
『京都の部落史』9史料補編(京都部落史研究所、1987 年9月)
史料③ ドブロク密造
1950 年9月
京都下京税務署では二十五日午前八時九条署員の応援を得て東九条一帯のドブ酒密造部落
を急襲、ドブ酒四石、ショウチユウ一石、モロミ六斗、ジョウリユウ機十個その他密造機
などトラック四台に押収、同区東九条柳ノ下町許仁陸(五八)ら二十名を酒税法違反容疑
で連行した。
『大阪朝日新聞』京都版(1950 年9月 26 日)
史料④ 闇米の運搬
1951 年 11 月
(崇仁)隣保館主任からの情報によれば現在一部地元(東七条)民の中には本小説に書か
れている闇米運搬屋に便宜を図っている者も一部あって、又当地域の環境が非常に悪い状
態にあることも事実である以上、この際反省もしなければならないという声もある。
『昭和廿六年度オールロマンス事件関係』(民生局福利課、1951 年)
史料⑤ 杉山清一の反省文
1951 年
どうも訊弁なので、思った事を書いてみます。先日は御足労をかけ恐縮でした。あれから
丸二日、解放教育や、その他いろいろのものを読んだり聞いたりして真剣に勉強してみま
した。そして漠然としたものから、一つのハッキリした線を掴めたような気がします。或
はまたピントが外れているかも知れませんが……。
それは「差別」という事でした。今迄の全ての関係の人は特定地区を差別して来ました。
僕も差別していました。しかし、それなら何故何を根拠にして差別しているのか、という
問題にぶつかりました。そして、いろんなものを研究しましたが、結論は本質的には、何
122
オール・ロマンス事件の虚構と真実
ら差別されるべき理由がないという事でした。ただ人は漫然として、まるで言い伝えか不
文律かのように差別しているんです。成程これでは現地の人が生命の問題として重要視す
る理由が僕にもはっつきりと分ります。
そこで、では理由も根拠もないのに、何故そんな眼でみるのだろうという問題にぶつか
って、何とか解決したいと勉強しています。今までの所では、ただそういう風にしなけれ
ばならないらしいから、そうしてるのだというような非常に不安定の気持で、悪気で迫害
をやっているのです。そこには根本的な大きな誤謬があると思います。それをもっと掘下
げて研究してみます。若しどうしても釈然としなかったら、具体的にお教えを乞いに行き
ます。
そこで僕のあの小説ですが、今にしてはっきりと「どうして悪かったか」という事に対
して、次の事が言えると思います。
一、あれは、読者に誤った差別観念を大きく助長する。
という点が一番重大な悪影響を招くものと思います。従って
イ、既に伝説化しつつあった部落意識をむし返してしまった。
ロ、しかもその地区が、犯罪と悪疫の巣のように誤認させた。
ハ、惹いては地区に恐怖感さえ与えた。
二、そして社会全般に対しても、このような悪観念を再燃させた。
即ち、結論として同和問題を阻害し、破壊するものと思いました。その気がついた時、
不用意に投じてしまった私の一石が如何に悪かったかという事を再協議して唖然としまし
た。ここに謹んで、今一度陳謝します。同和問題を阻害してしまった罪の大きさは、全く
申訳の言葉もありません。
何とか具体的な方法で、あの小説により差別してしまった事を陳謝したいと考えていま
す。
尚、もっともっと研究し、努力します。
杉山清次(印)
三木先生
『昭和廿六年度オールロマンス事件関係』(民生局福利課、1951 年)
史料⑥ 地図を広げた交渉
1959 年7月
行政闘争の中では、各行政部門ごとに詳細をきわめた「請願書」が出されて、その差別
性が追求されたのですが、解放運動の面目を躍如たらしめたものは市長との話しあいでし
た。差別を観念としてしかとらえられない市長に対して、差別は市政の中にあることを認
めさせたのは、今では語り草にさえなっている次のような会話でした。
「市長、水かけ論では駄目だから、具体的に話しあいましょう。各行政の担当者である
部課長を全部ここに呼んで下さい。そして我々の質問を、その担当部課長に答えさせて下
さい。それで行政の差別性は充分証明出来るのだから……」
123
「市長、ここに京都市の地図をひろげて下さい。そう、一番大きなのを、その地図の上
に、われわれの質問に該当する地域があれば、担当部課長に丸印を入れさすのです。いい
ですか。まず、住宅問題です。京都市で不良住宅の密集しているところはどこですか。そ
う、あるだけ入れたらいいのです。」
住宅課長の手ににぎられた赤鉛筆は、さき程の東三条部落に、そして東七条に、さらに
田中にと入れられて行きました。こうして、第二に水道のない地域、第三に下水施設のな
い場所、第四に消防自動車も入らなければ、消化栓もない場所、第五にトラホーム患者の
多い場所、第六に結核患者の多い場所、第七に生活困苦者の集っている地域、第八に不就
学児童の多い地域、第九に失対事業に集中的に行っている地域、第十に市民としての生活
すべてに劣悪な条件を強いられている場所、等々……。
各担当部課長の手によって赤丸が市内の各所に入れられて行きました。どうでしょう。
それが全部、見事に重なっている場所が市内に十八ヵ所あったのです。東三条部落でした。
東七条部落でした。田中部落でした。そうです。全部が全部とも未解放部落だったのです。
消防局に対して糾弾が行われたときのことです。消防局長はこういいました。「うちには
差別などありませんよ。うちは火災予防と消火が任務だから、火事がおこったら、部落だ
ろうがどこだろうが、差別なしに出動するのですから……」局長は平然と云いました。と
ころが、その一週間ほど前に竹田部落で火事があり、消火栓がなくてバケツリレーで消し
とめた事情があったからごまかされません。同じようにして、京都市の地図の上に、消防
自動車の入れない密集住宅地区、消火栓のない地区、火災報知器のない地区を記入させま
した。やっばり部落にそれが重なっていくのです。たまたま、火災報知器の所在を追求し
ていたときに、めずらしく七条部落の中にそれが一本あるのをみつけた局長は、ほっとし
て「ここにあります」とややとくいそうに云いました。しかしどうでしょう。しらべさせ
てみるとそれは郵政省の郵便物整理倉庫にある私設の火災報知器だったのです。「やっぱり、
一本もありません」消防局長はさっきの元気はどこへやら、首をうなだれてしまいました。
これは偶然でしょうか。
東上高志『差別』(三一書房、1959 年7月)
124
京都における在日朝鮮人の形成
金
森
襄
作
125
いても、市内全体としてはまだ問題化していなかったので
年頃には三%に達しますが、その地域の中では問題化して
す。一九三〇年頃に一%を少し超えたくらいで、一九四〇
め、資料はほとんど残されなかったということになりま
す。つまり京都の場合、朝鮮人の人口がまだ少なかったた
政や研究者・マスコミも調査や研究を始めるということで
の人口の三%ちかくになると大きな社会問題がおこり、行
せん。ヨーロッパでいわれているのですが、外国人が都市
冊かをみつけたにすぎず、これでは具体的な研究はできま
どに付随して在日朝鮮人について書かれているものなど何
られているのはわずか一冊でした。部落の不良住宅調査な
が、京都市社会課の報告の五〇冊の内、在日朝鮮人に触れ
書館など二、三年間資料を探して歩いたことがありました
すので、京都の在日朝鮮人についてくらいは、と大学や図
問題についてはほとんど素人です。長岡京市に住んでいま
た。植民地時代の「反日民族運動」が専門で、在日朝鮮人
私は大学を卒業して、八年ほどソウルに留学していまし
も仕方のないことだったといえます。
う意味で、今日まで京都の朝鮮人研究が行われなかったの
ありました。ここまで大阪市はやっていたのです。そうい
燃料にしているのですが、これも朝鮮人が働く場合が多く
という調査まであるのです。他にも風呂屋、ここは古材を
屋が十数戸建ち、これが全部朝鮮人によって行われていた
いるのです。たとえば、西淀川に全国一の大きな炭焼き小
阪の産業は成り立たないという視点から、精力的に調べて
える重要な労働力として、即ち、朝鮮人の労働力抜きに大
のは単なる社会問題としてだけではなく、大阪の産業を支
くあります。しかも大阪市の報告は、一九三〇年以降のも
す。内鮮協和会の年次報告もあれば、新聞記事も非常に多
ム・ホーロー・印刷等各種の部門の報告が出されていま
すから大阪の場合は非常に社会部の報告が多く、硝子・ゴ
で一〇%、労働力でいうと一五%前後に達しています。で
鮮人で占められていたのです。西成でも一九三〇年代後半
いので労働力からみると二〇%程と、実に五人に一人が朝
成」に対して何か報告せよとのことで、仕方なく数少ない
ところが今回の講座で、ともかく「京都の朝鮮人の形
大阪では、一九三〇年頃に三%、一九三〇年代の後半に
社会課の報告を読み返しながら考えました。そして、京都
す。
なると七%にもなります。生野区では十数%、単身者が多
126
京都における在日朝鮮人の形成
以降の日本では、米騒動が起こったように、米不足が続い
況の波が大きく影響していきました。朝鮮を植民地にして
恐慌が起こった年です。この年は朝鮮国内でも、日本の不
ていきます。一九二八年というのは、不況の時代で金融
です。一九二八年から京都市の朝鮮人の人口が急に増え
まず、戦前の朝鮮人人口をみていきます。それが表1
う。それでも、一九三二年になると一五、〇〇〇人から二
は工場が少なく、受け入れる余地が少なかったためでしょ
的な急増からみると京都は少ない方です。おそらく京都に
不況の二八年には一挙に二三万人と急増したのです。全国
一三万人、二六年が一四万人、二七年が一七万人、それが
ところは大阪でした。全国的に見ますと、一九二五年が約
日本における朝鮮人の定着化の要因なのですが、一番多い
あれ、このような状況下で朝鮮の農村は農業危機に陥り、
ていきます。そのために朝鮮を米生産基地にして、その不
三、〇〇〇人へと急増しています。それは世界大恐慌の朝
の資料だけでは無理でも、大阪と対比させれば京都の定着
足分を朝鮮で生産する「産米増殖計画」が、一九二〇年代
鮮への影響のためです。低くなっていた米価がまた半額に
朝鮮農民たちの生活もパンク状態になって、貧乏化した多
の朝鮮総督府の植民地施策の根幹に据えられていったので
まで下落し、まさに朝鮮経済が破綻状況に陥りました。こ
過程の特徴が摘出でき、簡単な概要ならば話せるのではな
す。即ち、将来日本米が三〇〇万石、約四五〇万トン不足
こに大量の「満州流民」や渡日の急増となったのです。全
くの農民が日本にやって来るようになったのです。これが
するようになるからそれを朝鮮で生産しようというもので
国で一九三一年の三一万人が三二年には三九万人と急増し
いか、ということに気付いて今日の発表となりました。
した。しかし、今述べた大不況は朝鮮では農業危機となっ
たのに比較すると、まだ京都の増える割合は少なかったと
次に、表2です。これは「市内在住朝鮮出身者に関する
て現れ、産米増殖計画自体が挫折してしまいます。元々米
された計画だったため、その米価が下がれば計画自体が挫
調査」からの数値です。京都市が出している唯一の朝鮮人
もいえます。
折します。しかも日本への移出が増えると、日本米との衝
の調査報告ですが、この表によると在京朝鮮人住居が、吉
騒動で急にはねあがった時点の高い米価を基準にして策定
突も起こり、また米価を下げることになったのです。とも
127
は実態調査が行われ、その様子がわかるのですが、戦前は
一の朝鮮人密集地になっていったということです。戦後に
に、その周辺に沢山のバラック小屋が作られていき、京都
め、その後在日朝鮮人の融和団体が長屋を建てたのを契機
建っても空き家が多かったのです。そこに朝鮮人が住み始
す。従って京都駅に近くても住宅は少なく、何軒か長屋が
す。大きな堤防を作ると、逆に水はけが悪くなるからで
元々湿地帯でそのほとんどが畑地で、田んぼは少ないで
期、鉄道を作る時に鴨川に大きな堤防を作った場所です。
とんどありません。ここは東海道線のすぐ南側です。明治
口の約三割を占めたと言われていますが、戦前の調査はほ
条、ここは京都の在日朝鮮人が最も多く住む地域で町内人
んが分析されているのでそちらを参照してください。東九
は砂利採集業の関係者ですが、これについては高野昭雄さ
祥院では一一四戸、東九条が一八四戸ありました。吉祥院
うなれば、大阪は部落とは全く無関係にバラック小屋で大
所、一九三〇年代終りには一〇〇箇所を越えています。い
に三〇戸以上が三〇箇所、一九二〇年代終りには数十箇
と、極めて小規模なことです。大阪では、一九二四、五年
とです。しかも、第二に、その戸数が一〇戸から三〇戸
うことです。これは他の府県でみられない京都の特異なこ
集地のほとんどが部落の中か、その周辺に形成されたとい
ともあれ、この表2から分かることは、第一に、朝鮮人密
た所です。壬生下溝町、ここは部落に近い周辺地域です。
かつての紡績会社の跡地に長屋を建て、朝鮮人を入居させ
業したのではないかと推察されます。壬生神明町、ここは
を運んでいたものが、山陰線ができて馬がいらなくなり廃
朝鮮人が住みだしたというのです。多分、かつては炭など
屋や倉庫なども建てられていたそうです。それが廃業して
集地でした。ここは、運送業者が住んでいた場所で、馬小
表3は、高野昭雄さんが作成されたもので、被差別部落
密集地を独自に形成していた、ということです。
る地域と異なり、長屋住居ではなく、大阪などと同じよう
における朝鮮人の数をまとめたものです。八大部落のうち
これ以上はわかりません。ただ、吉祥院と東九条は後述す
なバラック小屋が多く、また部落とは接しない朝鮮人密集
養正、楽只、壬生、崇仁、竹田の五つに朝鮮人が集中して
います。また、高野さんの崇仁地区に関する研究による
地です。
中京区西ノ京南原町に関していえば、部落よりひどい密
128
京都における在日朝鮮人の形成
対して朝鮮人の方は二七四%も増大しています。これは朝
どまって、建てられた長屋はうまりませんでした。これに
したが、表4―2のように日本人の増加率は一〇三%にと
際、滋賀県から二〇七人、奈良県から一三五人入ってきま
くるだろうと見越して部落内に長屋が建てられました。実
と、交通の便利が良く、滋賀県・奈良県から多く移入して
きます。
う京都の特殊性を示していますが、これはすぐ後でみてい
とを考えるなら、「部落と関係した朝鮮人の定着化」とい
ていきます。全国的にみるとほとんどが大阪型であったこ
の違いが、双方の朝鮮人の定着の仕方の大きな違いとなっ
阪の場合は八〇%がバラック小屋住まいでした。この両者
で、借家・借間を合わせると実に八〇%を越してます。大
さて、京都の部落周辺に定着した朝鮮人の職業は土木関
鮮人をその空き長屋に入居させた結果ではないか、という
ものです。具体的な場所は崇仁地区の鴨川と高瀬川にはさ
これらの人々から運送業に転じる場合も多くありました。
係者が圧倒的に多く、具体的にいうと大工や左官などの下
表5です。これは大阪の朝鮮人の職業別の表です。ここ
大阪では一九二一年から市街地の拡大工事が始まりま
まれた川端町と屋形町ですが、誰も考えなかった小学校の
に「下宿業」というのがでてきますが、表6の京都市の統
す。京都は一九三一年からです。ただ、大阪の工事費は京
請の仕事で、親方の下働きや、リヤカーなどで土や材木の
計には全く出てきません。これが大阪と京都の決定的な違
都の三倍程の大規模工事でした。即ち、戦前は大阪の工業
学齢簿を使った見事な分析で、高く評価されます。ただ、
いで、これについては後で述べます。表7は京都市内の朝
生産高が東京の二倍に達する日本工業の中心地で、第一次
運搬などを行う業種です。これも部落の人の職業と関係
鮮人の住宅調査です。一番多いのが借家住まいです。この
大戦によって製薬などの化学工業が発展していきました
他の交通の不便な部落でも同じであったといえるのか、少
借家は造作付と造作無とに分類されていますが、合わせる
が、その薬などを入れる硝子やゴム工場を建てる土地が不
し、これについても後述します。一九三〇年代後半期には
と借家暮らしが五四%を占めています。しかもこの借家の
足し、この工業地確保のために市外地拡大工事となってい
し課題も残ります。
一部屋を「また貸し」する「借間」が二六・八%あるの
129
らの工事には多くの労働力を必要としますが、日本では一
る所だったのですが、新たな工業地域となりました。これ
とは、今の西成区、阿倍野区、住吉区で、そこも水がつか
区、東成区、平野区の三つの新区となったのです。西成郡
ようになり、日本一の蓮根の生産地でした。ここが、生野
たのです。まず生野郡、ここは湿地帯で、雨が降ると湖の
渡日の始まりでした。
はいくらでもいたのです。これが大阪への大量の朝鮮人の
では、農民たちの暮らしも破綻しており、出稼ぎを望む者
く使いました。先にいったように、農業危機に陥った朝鮮
らい仕事の多い冬期の工事には、出稼ぎの朝鮮農民達を多
鮮人の手によって行われたのです。とりわけ、夏期の倍く
彼らは出稼ぎにとどまりませんでした。一時的な出稼ぎ
内二〇円程を飯場代に払うため、冬期四ヶ月の出稼ぎで何
九一〇年代後半から土木人夫は不足していました。工業が
一九二〇年代前半の大阪市拡大工事では、土木人夫の不
とかためることができる額でした。これでまず家を建てま
の収入だけでは一家の家計維持が困難で、それならば家族
足を今度は朝鮮人で補っていったのです。朝鮮を併合した
した。この少額な資金で家が建つかというと、安い古材を
発展し始めた大正時代、神戸港だけでは足りず、大阪港の
後、朝鮮の道路や鉄道をつくるために、日本のゼネコンは
使うから可能だったのです。材料さえ集めれば、三~四日
全員で日本に移住・定着しようと考える者が続出したので
朝鮮に渡って工事で儲け、会社も大きくなり、また大阪に
ほどでバラック小屋が建ったといいます。もちろん、その
拡大と倉庫地造成を目的に埋めたてられて出来たのが大正
戻ってきてこの大工事を引き受けたのです。その代表が大
ほとんどが不法住宅です。平野川や木津川などの河川の堤
す。この場合まず、六〇~七〇円くらいの現金を必要とし
林組です。大阪での労働力不足に対応し、朝鮮で土木の親
防の周辺は、かっては河原で、工事後、市有地に編入され
区ですが、この工事で使われたのが沖縄の人たちでした。
方をしていた下請け業者を引き戻して工事をさせたので
た所です。そこに不法に建てれば土地代がいらないので
たのですが、当時の土方の賃金が一ヶ月四〇円強で、その
す。彼らなら朝鮮でいくらでも人夫を調達できたからで
す。一軒建ったと思うと、あっという間に何軒ものバラッ
工事が終わった後、彼らの多くは沖仲仕になりました。
す。このようにして、拡張工事の半数が日本人、半数が朝
130
京都における在日朝鮮人の形成
倍にもなります。日本人の工場労働者よりも、夫婦合わせ
す。その一部屋は自分たち家族で使い、残りの三部屋を下
ゼネコンは工事が終わると他所へ移っていくので、定着
るとその収入は多くなり異郷の地での生活を可能にしたの
ク小屋が作られていったといいます。猪飼野のように、そ
希望の朝鮮人労働者は、今述べたバラック小屋建築資金と
です。これが、大阪での朝鮮人の定着化の主たるパターン
宿部屋にするわけです。夏場の労働者が少ない時には一部
共に、継続して働ける工場労働者になる準備もしていたと
です。一九二〇年代に数百戸の下宿屋が生まれ、朝鮮人の
の数一千戸を越え、一旦入ったら抜け出られなくなるほど
もいわれます。このようにして硝子やゴムの労働者の半分
大きな職業の一つになり、一九三〇年代には一、四〇〇軒
屋二人位、多い冬場には四人をいれます。ひと月の下宿代
以上を朝鮮人が占めるようになったのですが、その賃金は
にも増加していったのです。少なくとも数千人の下宿人が
の迷路の巨大密集地さえ出現していったのです。これが大
月三〇~四〇円と、土方より低かったのです。ただ、これ
常時いたわけで、出稼ぎや単身で大阪に職を求めに来た者
は二〇円程で三食付、一人当たり五円程の利益があったそ
らの工場は、小規模の零細企業が大半で、低賃金のみなら
たちほとんどがこの下宿を利用したものと思われます。ま
阪での定着化の実態で、実にこのバラック小屋に在阪朝鮮
ず、今でいう3K労働のアウトサイダー的部門で、日本人
た、夫婦合わせると比較的収入が多かったことが、他地域
うで、六人の下宿人なら三〇円の儲けです。冬場ならその
は就業を嫌ったため朝鮮人であっても比較的容易に就業で
より早く被雇用者から自立して家内企業に、そして小企業
人の八〇%が住んでいたのでした。
きたといわれます。
〇~四〇円の夫の収入だけでは生活できません。そこで女
子供を呼び寄せ、一家の新たな生活を始めるのですが、三
れますが、統計によると、驚くべきことに多くの者が五円
合、夫だけの給料だけでは家族の生活維持は困難だと思わ
この下宿業が無く、賃貸の長屋暮らし中心の京都の場
へとなっていけた理由でもあったのです。
房に下宿屋をさせたのです。これが「下宿業」です。今、
から一〇円程度貯蓄していました。それは二間ある長屋の
このようにして、バラック小屋が建つと、本国から妻や
建てたバラック小屋に四畳ほどの部屋が四つあったとしま
131
一間を他の朝鮮人に「また貸し」し、家賃を低く抑えるこ
じめ、職業的に一番多くなっていった西陣織の朝鮮人につ
この土木従事朝鮮人と異なり、一九三〇年代に急増しは
これで、吉祥院や東九条以外での朝鮮人の定着化過程は
とで可能にしたと考えられます。借家の半数がこの「また
大阪では一九二〇年代後半に早くもゴムや硝子の家内工
実証できたと思います。要約すると、まず崇仁から始まり
いては、今述べた経過とは全く別の様相を持つ故、「京都
業が現れ、一九三〇年に入ると一〇人から三〇人を雇う資
ました。もし彼らの入居がなかったなら、そこの長屋経営
貸し」だったのです。一部屋に三~四人の家族ぎゅうぎゅ
本家まで生まれ、朝鮮人の階級分化さえ起こり始めます。
も不可能でした。ただ、入居した朝鮮人の収入があまりに
部落問題研究資料センター通信」第一四号で、別途発表し
一九三〇年代中程になると、下宿業さえ減って一家族だけ
も低収入であった故に、「また貸し」は認めざるをえませ
う詰めの貧窮生活、それが京都の朝鮮人の生活実態だった
で住む者が増えていくのです。京都は表7にあるように最
んでした。それはともかく、朝鮮人の入居によって長屋の
たいと思います。
後まで借家や借間のままの状態が続いていきます。勿論、
収益は確保でき、そのことが新たな長屋の建築につながっ
のです。
大工・左官などの手間仕事に従事する者の内には親方から
ただけでなく、崇仁地域以外の他の部落の朝鮮人向け長屋
片言の日本語しか喋れない朝鮮人に容易に仕事はあるは
独立していく者も多く現れますが、これはまだ企業家とは
ていたものが、一九三〇年代後半の市街地拡大事業後、右
ずがありません。しかし、土方の手伝いならばできるわけ
の建築へと広がり、五つの部落の二〇%にまで朝鮮人人口
京区や北区、南区など市街地が拡大するに従って、朝鮮人
で、部落の親方たちは次々に雇っていきました。おそら
いえず、独立してもやはり長屋住まいのままが多い状況で
の長屋も京都全体に広がります。即ち、大阪よりも市周辺
く、払う賃金を安く抑えられたためだったと推察されま
が増大していった、ということです。
部に広く、薄く点在して広がっていったのです。これも京
す。技術がない、言葉も十分でない、だから賃金も少しし
した。ただ、朝鮮人長屋は、当初五つの部落周辺に局限し
都の特徴の一つのです。
132
京都における在日朝鮮人の形成
か払わない、それが不服なら雇用しないということです。
くあり、他府県の人よりも恐慌下での生活維持は有利だっ
から市街地拡張工事が始まり、そこで仕事に就けた者も多
慌前よりも工業の生産高は上っていきました。この中で、
なんとしてでも日本に定着したかった朝鮮人にとっては選
このようにみる時、被差別という立場から作られてきた
朝鮮人も急速に生活が安定していきます。大阪では、硝子
たよう思えます。それはさておき、一九三一年に「満州事
今日までの部落史像とは異なった別の姿が浮かんできま
やゴムの工場などの経営者になった者が増えていきます。
択の余地がなく、その親方の下で働かざるをえなかったと
す。即ち、昭和初期からの部落では、人口の約二〇%を占
日中戦争が始まって長期化すると、どんどん若者が兵隊
変」が起こり、三二年に「満州国」が作られます。三三年
めている朝鮮人からは長屋で儲ける、また別途、土方労働
にとられ、労働力不足が深刻化していきます。大阪では、
いえます。このようにして朝鮮人労働力が部落全体の二
者に雇用してそこからも儲けるという関係が生まれ、拡大
多くの朝鮮人が機械工業部門にも進出し、その経営者にな
になると戦争の結果、急速に経済は回復し、三四年には恐
していく。そして、その収益が京都の部落の人々の生活を
る者も増えていきます。太平洋戦争開始以降には、大企業
〇%に達していったのでした。
支える要素の一つになっていたのではないか、ということ
いったのです。京都でも工場を朝鮮人に貸し出すようにな
への就業どころか、府や市の職員にもなっていきます。徴
世界大恐慌下で、朝鮮人労働者の大多数が失業状況に陥
り、農業部門でも朝鮮人を小作にすることさえ生まれ、敗
です。ともあれ、対朝鮮人の観点からみた部落史の再検討
ります。失対事業などに従事した者が、当初、失対事業全
戦後の農地改革で農地所有者になった者も生まれますが、
兵にとられなかった分だけ良かった、という時代になって
体の二〇%程を占めました。失対事業というのは実質三日
戦時下の朝鮮人実態の資料はほとんどなく具体的には不明
の必要性があるのではないかと私には思えます。
に一度くらいしか仕事が回ってきません。飢えない程度の
です。
戦前の京都における朝鮮人の定着過程に対して、私はこ
最低の収入でしたが、一九三四~五年には四〇%に上がっ
ていきます。ただ、幸いなことに京都の場合、一九三一年
133
れくらいのことしか話せず、今後の新たな研究が出てくる
のを待つのみです。
134
京都における在日朝鮮人の形成
135
136
京都における在日朝鮮人の形成
137
138
京都における在日朝鮮人の形成
139
二〇〇八年度部落史連続講座 講演録
発 行 日 二〇〇九年三月三一日
編集・発行 京都部落問題研究資料センター
京都市北区小山下総町五の一
京都府部落解放センター三階
電話 〇七五(四一五)一〇三二
140
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