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江戸時代における吉野林業の木 材生産流通機構

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江戸時代における吉野林業の木 材生産流通機構
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吉野林業研究 (その4) : 「江戸時代における吉野林業の木
材生産流通機構」
泉, 英二
京都大学農学部演習林報告 = BULLETIN OF THE KYOTO
UNIVERSITY FORESTS (1973), 45: 120-136
1973-12-15
http://hdl.handle.net/2433/191556
Right
Type
Textversion
Departmental Bulletin Paper
publisher
Kyoto University
120
吉 野 林 業 研 究(そ の4)
「江戸 時代 にお け る吉野 林業 の木材生産流通機 構」
泉
英
二
Studies on Forestry in Yoshino (4)
System of the Timber Production and the Timber
Circulation in the Edo Period
Eiji Izumi
要
旨120
3.和
歌 山 問 屋
は じめ に121
4.和
歌 山 仲 買 商 人
第1章
5.和
歌 山 船 手 方
6.大
阪 問 屋
山 元材 木 商 人121
1.奥
郷材木商人
2.口
郷材木商人
第2章
一材 木 仕 入 問 屋 一
あ と が き134
流 通 機 構127
引 用 文 献134
1,筏
師
Resume..........................................136
2.中
継 問屋
要
従 来,明
旨
らか に され る こ とが 少 なか った 吉 野 山 元 材 木 商 人,及 び吉 野材 流 通 担 当者 に つ い て,
江 戸 時代 後 期 を 中心 と して実 証 的 解 明 を 試 み た。
1.一
概 に 山元 材 木 商 人 とい って も,「 奥郷 」 に お いて は 「重 立 商 人 」 「小 前 商人 」 な ど,「 口
郷 」 に お いて は 「仕 入 問 屋 」 な ど,性 格 の 異 った もの が存 在 した。
2.「
小 前 商人 」 は小 規 模 な伐 出業 者 で あ り,村 民 の 半 数 近 くを 占め る程,広 汎 に展 開 して お
り,彼 らが 木 材 生 産 の 主 た る部 分 を 担 った 。
3・ 「重 立 商人 」 「仕 入 問 屋 」 は 「小 前 商 人 」 へ の 「仕 込 み」(金
4.山
融)を 主 た る役 割 と した。
元 材 木 商 人 は,村 段 階 で 村 方 商 人 組 合 を 組 織 し,さ らに郷 段 階 で戒 講,郡 段 階 で 郡 中 材
木 方 とい う商 人 組 合 を 組 織 した 。 この 組合 は 流 送路 の確 保,流 通 担 当者 ・諸 役 所 と の交 渉,労 働
者 の賃 金 協 定 な どに あ た った 。
5・ 吉 野 材 の流 通 は 筏 師,中 継 問 屋,和 歌 山 問屋 ・仲 買,船 手 方,大 阪 問屋 ・仲 買 な どに よ り
担 わ れて い た 。
6.流
通 過 程 のイ ニ シ アテ ィヴ は 山 元材 木 商 人 が把 握 して お り,そ れ ぞ れ の流 通 担 当者 は 単 に
流 通 過 程 の 一 環 を 担 い,そ れ に 見合 った賃 金 あ る い は手 数 料 を取 得 す るに と どま って い た。
121
は
じ
め
に
吉 野 林業 が,わ が 国 の 最 も先 進 的 民 間 林 業 で ある こ とは,い う ま で もな い こ とで あ ろ う。 この
吉 野林 業 に つ い て は,す で に数 多 くの 事 実 が 発 掘 さ れ,さ
らに そ の事 実 に基 い て吉 野 林 業 の性 格
究 明 の た め の努 力 が 積 み 重 ね られ て きた 。 この 結果,蓄 積 さ れ た成 果 は他 の 林 業 地 を は るか に凌
、
ぐ とい って よい だ ろ う。 そ れ に もか か わ らず,い まだ 解 明 さ るべ く残 され て い る課 題 も決 して少
な くは ない 。 吉 野 林 業 の 生 産 お よ び 流 通 の担 い手 に 関す る 問題 も そ の ひ とつ で あ る。 す な わ ち,
査 野 山元 に お い て どの よ うな 主 体 に よ って木 材生 産 活 動 が 遂 行 され たの か,ま た 吉野 材 の 流 通 の
担 い手 とそ の性 格 は どの よ うな もの で あ った か,さ らに吉 野 材 の生 産 お よび 流 通 臼昇 い手 はお互
い に ど の よ うな 関 係 を と り結 ん で い た の か。 これ らの点 に触 れ た 論 稿 も存 在 す るが,ま だ 解 明 す
べ き点 は多 い 。 これ らの 諸 点 を 明 らか に す る こ とが,ひ い て は吉 野 にお け る林 野 所有 の 形 成 の把
握 ・理 解 を よ り深 め るで あ ろ う し,さ らに吉 野 林 業 の 全 構 造把 握 へ と連 な る もの で あ ろ う。
本 小 論 は,吉 野 林業 の形 成 ・確立 期 と考 え られ る江 戸 時 代 後 期 を 中心 と して 上 述 の課 題 に実 証
的 に 取 り組 ん だ もの で あ る。
第1章
山 元 材 木 商 人
吉 野 林 業地 帯 の範 囲 は,吉 野 郡 全 体 とす る説 もあ るが,一 般 的 に は吉 野 川 の流 域 地 方 と考 えて
よい 。江 戸時 代 の この地 方 に は,100以
上 の村 々が存 在 し,そ
れ らが数 ケ 村 ず つ集 ま って18の 郷
を形 成 して い た。 これ らの郷 は そ の地 理 的 位 置 に よ り 「奥郷 」と 「口郷 」 に わ け られ る。 川上 郷
小川 郷,黒 滝 郷 な ど に代 表 され る 「奥 郷 」 は 吉 野 川本 ・支 流 の最 上 流部 に位 置 し,耕 地 は ほ とん
ど存 在 せ ず,森 林 にお おわ れた 深 い 山 々 よ り成 って い た 。 これ に対 して 中荘 郷,池
田郷 な どに よ
って代 表 さ れ る 「口郷 」 は奥 郷 の下 流 に あた り,山 も浅 く耕 地 も少 なか らず 存 在 して い た。 さ ら
に 「口郷 」 に は上 市 や 下 市 な ど の在 郷 町 も中 世末 期 に は成 立 して お り,こ こで は古 くか ら流 通 商
人 の 活躍 もみ られ た。 さて 江 戸 時 代 後 期,文 化11(1814)年 に吉 野 川 を流 下 した木 材 に 占 め る各郷
の割 合 を み る と,川 上 郷47.1°o,小 川 郷17.300,黒
滝 郷14.0%と
「奥郷 」 が 全 体 の 約80%を
て お り,中 で も川 上 郷 の割 合 が 非 常 に 大 きい 。一 方 「口郷 」 の 中荘 郷,池
占め
田郷,国 櫟 郷 に お い て
2)
は3郷 を合 計 して も5%に
満 た ない の で あ る。吉 野材 の生 産 は 「奥 郷 」 を主 た る場 と して 遂 行 さ
れ た こ とが理 解 で き よ う。 こ の よ うな 木 材 生 産 は山 元 材 木 商 人 層 が 主 と して 担 った。 そ の主 力
は,「 奥 郷 」 に居 住 して伐 採 ・搬 出 に あ た った商 人 達 で あ る。 だ が 材 木 商 人 は 「口郷 」 に も存 在
して い た。 彼 らは 直 接 「奥 郷 」 に お ける伐 出 に は従 事 しなか った が,吉 野材 の 生 産 ・流 通 に果 し
た役 割 は決 して 小 さ くはな か った 。以 下,吉
野 山元 材 木 商 人 を,「 奥 郷 」 材 木 商 人 と 「口郷」 材
木 商 人 と にわ けて み て い こ う。
1.奥
郷材 木 商 人
江 戸 時 代以 前 の吉 野 地 方 の木 材 生 産 の実 態 につ いて は,さ ほ ど明 らか とは な って い な い が,建
保6(1218)年
に は 「吉 野 杣 は近 世 伐 尽 し杣 山制 止 」 に 至 った との 記 述 もみ られ るよ うに,か な り
古 くか ら活発 に 木 材生 産 が行 な わ れ て い た と考 えて よ いだ ろ う。 しか し,そ の木(の)材
生 産 を担 った
山元 生 産 組織 に つ い て は ほ とん ど 明 らか に され て いな い 。一 説 に は 「山地 の生 産 は総 有 林 地 を 対
象 と して 郷 の首 長 た る庄 屋 の統 率 の下 に行 わ れ た 」 と もい わ れ て い る。 吉(の)野
地 方,特
に奥 郷 の 状
況 や 材 木 商人 の動 向 につ い て史 料 的 に明 らか に しう るの は江 戸 時 代 中 ・後 期 に な って か らで,お
おむ ね以 下 の ご と くで あ る。
122
奥 郷 の 村 々に お い て は,「 当村 は極 山 中 に て 困窮 の 村 に て 家 業 か せ きの儀 山 か せ き第一 村 方 に
て 御 座 候 諸 木 伐 出 し畑 作 々間 に は 炭焼 御 用 仕 候 其 上 猪 鹿 猿 多 出 立 毛 喰荒 し申に 付 切 畑 井 山 々崖 々
迄 杉 檜 苗 木 を持 植 付修 理 加 之弐 拾 年 よ り3拾 年 ほ と下 刈仕 育伐 出 し先 送 り植 付共 小前 の 内 よ り売
買 に仕植 付 下 刈 井伐 出 し等 の御 用 第 一 のか せ き に渡 世 仕 候(の)」,あ
るい は 「全 体 奥 郷 々 の儀 は百 姓
6)
作 間 の渡 世 山稼 井材 木 商 ひ の外 他 の事 無 之 場 所 柄 」 の よ う な状 態 で あ り,焼 畑 ・山畑 で雑 穀 類 を
作 る以外 は ほ とん どを 林業 に依 存 して生 活 して い たの で あ る。 「山稼 井材 木 商 ひ 」 とい う とき の
材 木 商 い を 行 な った もの が,こ
こで い う奥郷 材 木 商 人 で あ る。 ま ず,そ の 種 類 を み る と,「 奥 郷
の 在 々に 住 居 候者 重立 候 者 は格 別 身 薄 き小 前 商 人 井百 姓 共 必至 に難 渋 仕 候(の)」,「
重 立 候 商 人 は不 申
及 小 前末 々細杭 買 に至 迄 難 渋 仕 候(む)」
とあ り 「重 立 商 人 」 や 「小前 商 人 」 が存 在 して い た こ とが わ
か る。 で は 「重立 商 人 」 や 「小 前 商 人 」 と は どの よ うな 商人 で あ った の だ ろ うか 。 次 の史 料(の)を
み
よ う。
「材木仕込きわめ一札の事」
一.上 多古村領むかへ 山と申所右材木山○○権兵衛 山に御座候所我等方へ買受候所此度其元様へ角○〇
三百本右角○○壱本 に付弐匁つ もりメ六百 目其元様へ仕込御頼可 申候右の銀子返済の義は来 る十月廿
日迄に右角三百本其元様和可 山大坂へ送 り御売梯仕切銀 にて元利共御引取可被成万一右銀子不足相成
候得者銀子以御返済可 申候為後 日材木仕込きわめ一札よ って如件
文政六年 未七月
銀子借用主
上谷村浅右衛門
⑳
同断中間内 上多古 村兵助
㊥
請 人
㊥
上谷村角兵衛
大瀧村庄右衛門殿
こ こに お け る浅 右 衛 門 ・兵 助 は 「材 木 山」 を買 得 し,み ず か ら伐 採 ・搬 出 ・加 工 過 程 を 担 った
の で あ る。 資 金 的 に 零 細 だ った の で,こ の例 の ご と く2人 で 共 同 した り,あ るい は 「仕 込 」 を 有
力 者 に頼 ん だ りす る場 合 が 多 か った 。彼 らは 「小 前 商 人 」 と考 え て よい だ ろ う。 この 例 に お い て
「仕 込 」 を 行 な った大 滝 村 庄 右 衛 門 は直 接 伐 出過 程 は 担 当 せ ず,「 小 前 商 人 」 へ の 山 林 買得 資金
そ の他 諸 入 用 金 の 資付 けな どを主 と して 担 当 して いた 。 ま た,み ず か ら山 林 を 買得 す る こ と もあ
っ たが伐 出 過 程 は 下請 け させ た のが 通 例 で あ った 。 彼 は 明 治 初 年 に郡 中材 木方 行 司 と して も名 を
連 ね て お り,「 重 立 商 人 」 と考 えて よ いだ ろ う。(彼
はま た 土倉 庄 三 郎 の 父 に あ た る人 で もあ っ
た)。
そ れ で は,こ れ らの材 木 商 人 は村 落 に 何 人 位 存 在 し,ど の よ うな位 置 を そ れ ぞ れ 占 め て い た の
だ ろ うか 。 川 上郷 白 屋 村 の材 木 商 人 に 関す る史 料(ユの)に
よ って み て み よ う。 白 屋村 の 材 木 商 人 の 数
は,文 化12(1815)年,35人,文
37人,明 治5(1872)年,54人
政5(1822)年,37人,安
政5(1858)年,41人,文
で あ る。 一 方,白 屋 村 の 戸 数 は寛 政6(1794)年
久3(1863)年,
に84戸,明
治8(1875)
年 に は79戸 で あ る。 戸 数 は この80年 間 に大 きな変 化 は 無 か った と思 わ れ るが 多 少 幅 を持 た せ て
70∼90戸 程 度 と考 え て よ いだ ろ う。 とい う こ とは村 民 の半 数 近 くが 材 木 商 人 と して 活 動 して い た
こ とに な る わ けで あ る 。 明治8(1875)年
の 場 合 に は,7割
近 くに も達 して い る。 材 木 商 人 が 予 想
外 に広 汎 に展 開 して い た よ うで あ る。 この こ とは次 の こ とか ら も裏 付 け られ よ う。 文 政11(1828)
年 に 「奥 郷 」 材 木 商 人 と,「 口郷 」 の一 部 材 木 商人 とが 厳 しい対 立 関係 に お ち い っ たが(こ
の点
]ll
に つ いて は次 節 に お い て詳 し くみ る),そ の 時 の史 料 に よ る と 「全 体 奥 郷 の儀 は… 古 来 よ り商 人地
方 の差 別 無 御 座 候 」 と あ り,材 木 商 人 と地 方 百 姓 の 区別 が な く,同 一 人 格 が 担 当 して いた こ とを
示 唆 して い る。 ま た,こ の時 の 奥 郷 の 「材 木 商 人取 締 書(ユの)」
は 「村 々 に て小 前 商 人 不 洩 様 連 印 致 さ
せ 」 るよ うに したが,白 屋 村 に おい て は95人 が 連 名 連 印 した ので あ る。 これ は,ほ とん ど全 村 民
123
だ った と考 えて よ い。 通 常 は村 民 の うち半 数 近 くが
「材 木 商 ひ」 に従 事 して い たが,全
村民が
「材 木 商 ひ」 を 行 な う可 能 性 を持 って いた こ とを 示 して い る とい え よ う。
さて,こ
の よ うに多 数 存 在 して いた 材 木 商 人 の 構 成 は どの よ うで あ った ろ うか 。同 じ く文 政11
(1828)年 の史 料(ユの)に
よ る と,「 身 元 宜 敷 商 人 も元 手 無 之 商 人 多 人 数 に羅(せり)上
られ 自然 不 引合 山 林 買入,
其 上 稼 人 迄 も無 数 相 成 候 」 との 記 述 が み られ,山 稼 人(一
山林 労 働 者)が 存 在 しな くな る ほ ど元
手 無 之 商 人(一 「小 前 商 人 」)が 広汎 に 展 開 し,身 元宜 敷 商 人(一 「重 立 商人 」)を 下 か ら突 き上 げ
て い る状 態 を 示 して い る。 当 時 の農 民層 の分 化 の程 度 が低 か った こ とな どを 考(む)え
あわ せ る と,奥
郷 材 木 商 人 の う ち重 立 商 人 は ご く一 部 に 限 られ他 の大 部 分 は小 前 商 人 で あ っ た と思 わ れ る。 これ
らの 小 前 商 人 層 が 奥郷 に お け る木材 生 産 を主 と して担 って い た ので あ ろ う。 か くの ご と き小 前 商
人 層 の 予 想 外 と も思 え る広 汎 な 展 開 の 基 礎 は何 で あ ろ うか 。 この こ とを 念 頭 に 置 き な が ら,以
下,材 木 商 人 の 活 動(ユの)に
つ い て み て い こ う。
ま ず,彼
らの 立 木 買 入 方 法 は,「 春 伐 り山秋 伐 り山 入 札 の儀 は高 札 落 しの 筈 也 尤一 貫 目迄 の入
札 は 弐歩 限 持 参仕 一 貫 目 よ り上 は金 三 両 持 参 可 仕 筈 」,「青 山井 に伐 り付 丸 太 共 先 引合 よ り再 引合
は 相 成 不 申 筈 若 先 引合 之 人 へ商 内行 届 き不 申候 上 は商 人 中立 会 入札 に 致 させ 可 申筈」,な どに み
られ る ご と く,あ
るい は 商 人 達 の取 極 事 項 に従 わ な い者 に対 す る制 裁 と して,「 入札 は 勿 論諸 商
ひ等 も一 緒 致 不 申候 」 とあ る ご と く,入 札 が 一 般 的 で あ った。 材 木 商 人 は お 互 い に か な り 自由 な
競 争 を 行 な って い た とみ る こ とが で き よ う。 しか し,黒 滝 郷 の例 で あ るが,「 当郷 材 木 商 内 の儀
は組 合 の もの 渡世 に付 組 外 の もの商 用 相 な らざ る筈(ユの)」
と い う よ うに,入 札 へ の 参 加 は組 合 商人 だ
け が 許 され て お り,他 郷 ・他 村 の入 込 み は排 除 して い た の で あ る。 文 久3(1863)年
に 白 屋村 に お
き た事 件(エの)か
ら も,そ の こ とが うか が わ れ る。 す なわ ち,細 徳 とい う人(村 外 山 林 所有 者 か?)の
下伐 り(間 伐)材
に 関 して,「 右 下 伐 り村 方 商 人 申合 せ 数 度 細徳 殿 方 へ掛 合 に及 」 ん だ の で あ る
が,す で に武 木 村 の吉 右 衛 門(彼 は 白屋 村 の 甚 右 衛 門 と仲 間 で あ った)へ 売 って しま って いた 。
そ こで村 方 商 人 一 同 「掬 々残 念 存 居 候 処 此 ま ま 打 置候 義 は 一 切成 堅 」 い とい う こ とで,吉 右 衛 門
・甚 右 衛 門 に対 して 執 拗 に 白屋 村 商 人 に 転 売 す る よ うに迫 った が,結 局 彼 らが塩 谷 村 の商 人 へ 転
売 して しま った の で,怒 っ た 白屋村 商 人 連 中 は 「甚 右 衛 門壱 人 水 魚 ま じわ り一 切 不 仕 筈 」 とい う
措 置 を とった ので あ る。村 方 商 人 は 村 落 共 同 体 的 結合 を基 礎 と して,村 方 商 人 組 合 を 組 織 して,
みず か らの テ リ トリー を 確 保 して で き るだ け他 郷 ・他 村 の材 木 商 人 を排 除 しよ うと して い た こ と
は,こ の ことか らも理 解 で き よ う。 しか し,同 時 に この史 料 は江 戸 時 代 も後 期 に な る と,村 落共
同体 的 結 合 もゆ るみ は じめ て,村 方 商人 の努 力 に もか か わ らず 他 郷 ・他 村 の 商 人 が 入 り こみ は じ
めた こ と も示 して い る。
で は次 に 川 上郷 白屋 村 の村 方 商人 組 合 の 「極 書 」 「取 締 書(ゆ)」
に よ りな が ら,こ の組 合 の 活動 ・
性格 に つ い て 詳 し くみ て い こ う。 まず 組 合 に加 入 す る に は 「新 右 衛 門平 七両 人 は 今度 よ り金弐 歩
宛 出 銀 に て 加 入 可仕 候 但 し両 人 は再 加入 に御 座 候 間 金 弐 歩 にて 相 済 候得 共 新 加入 の儀 は金 壱 両 宛
の筈 也」 とい うよ うに,組 合 は 決 して身 分 的 に閉 鎖 され て はお らず,ま た 株 な どに よ って規 制 さ
れ て い た わ け で もな く,た だ金 一 両 を納 めれ ば 誰 れ で も加 入 で きた の で あ る 。組 合 の重 要 な仕 事
と して は,ま
ず村 内 の流 通路 の確 保 が あ った。 「平 岩 ぬ け大 い に 損 し候 間 当 寄合 にて 相 談 の上 床
賃 銀 八 拾 目有 之 候 間右 八 拾 目村 方 へ 出銀 致 余 は何 程 入 用 相掛 り候 と も村 方 よ り出銀 被 下 右 ぬ け根
継可 致 様 相談 相 極 め 申候 」 と い うよ うに 村 方 と協 力 して 流 送 路 の確 保 に あ た って い た ので あ る。
この 費用 と して,「 平 岩 上 下井 臼 岩 ぬ け尻 共 筏 壱 床 に付 壱 匁 五 分 宛 床 懸 り 他 所 の 商 人 取 之 可 申筈
也 尤 村 方 商 人 は何 角 入 用賄 と して 毎 年 壱 匁 宛 出預 致 置候 猶 此 已 後 に て も差 迫 り入 用 何 程 出来 共 出
預 い た し相 賄 ひ可 申候 是 迄 も度 々壱 人 前 に 三 五 匁 宛 も出預 いた し候 事 も御 座 候 得 は此 已後 漣(とて)も
堅
124
相 守 り申
(ママ)
可 筈 也 」 と い うよ うに 他 所 の 商 人 か らは通 行 料 と して,ま
た村 内商 人 か らは,ひ
と りあ
た りい く ら とい う形 で 徴 収 して いた の で あ る。 この場 合,村 方 商 人 各 人 か ら均等 額 の 金 を徴 収 し
て い た と い うこ と は,彼
らの 活 動 に さほ ど大 きな差 が な く,等 質 的 だ っ た こ とを 示 して い る と考
えて よ い だ ろ う。 この こ とは 商 人 組合 の 年行 事(そ の仕 事 は 「毎 年 初 寄 合 の 節 年 中 諸 入用 帳 井 床
賃 受 取 方 帳 面 共 御 一 統 様 へ 御 覧 に 入 可 申 筈 也 」で あ る)が 年 ご とに 持 ち まわ りで 担 当 され た と思
われ る こ とや,初 寄合 の 「宿 本 の儀 は商 人 の 内順 番 相 勤 可 申筈 」 とい う規 定 な どに よ って も裏 付
け られ る。 さ らに 組合 は 「山 日雇正 月 一 二 月 分 壱 工 に付 壱 匁 八 分 宛」,「同 二 月 よ り十 二月 迄 壱 工
に付 弐匁 宛 」,「内 日用 壱工 に付 代 壱 匁 四分 宛 」 と い う よ うに伐 出,加 工 賃 の 協 定 を行 な い,さ
ら
に 「筏 師 日雇 乗 り 日用 壱 工 に付 三 匁 宛 」 の よ うに 筏 師 の乗 り賃 に対 す る協 定 も行 な って い た。 こ
の こ とは,当 時,一 部 にす で に 山稼 人 ・筏 師 な どの専 業 的賃 労 働 者 が析 出 さ れ,雇 用 主 で あ る材
木 商 人 が賃 金 を協 定 す る必 要 に迫 られ る程 度 にま で成 長 して い た こ とを示 す もの で あ ろ う。 さ ら
に,材 木 商 人 と山稼 人 ・筏 師 と の間 には 人 格 的 な 支配 ・被 支配 の 関係 は存 在 して い なか った こ と
も示 して い よ う。
この他 に取 締 事 項 で 重 要 な も のに,吉 野材 の流 通過 程 とそ の担 当者 につ いて の もの が あ る。 詳
し くは 次章 で み るが,大 阪 ・和 歌 山市 場 に 関 す る こと,仕 切 銀 に 関 す る こ と,出 役 に 関 す る こ と
な ど詳 細 に と りき め て お り,流 通過 程 を 重要 視 して い た こ とが わ か る。
この よ うな 村 方材 木 商 人組 合 が各 村 に存 在 して いた が,こ の 組 合 を 基 礎 と して さ らに 「毎 年 正
月 両 郷 寄 と 申川上 黒滝 其 外 郷 の商 人 共 出会 致 諸 事 取 締 仕 猶 又 銘 々郷 々に お い て戎 講 と称 し出会 致
商 内売 買 筋 井 諸取 極一 統 評 談 の上 連 印 を以 取 締 仕 候 差 掛 りの 義 は 年 行 事 へ沙 汰 に及 取調 候(ゆ)」
とあ
る よ うに郷 段 階 に お い て は戎 講 と称 す る材 木 商 入 組 合,郡 段 階 に お い て は 両郷 寄=郡 中材 木 方 が
組 織 され て い た の で あ る。 これ らの組 合 は そ れぞ れ 流 送 路 の 確保,山 稼 人 ・筏 師 ・加 工 職 人 の賃
金 協定,村 方 材 木 商 人 組 合 間 に生 じた紛 争 の 調 停 に あ た る こ とな ど を重 要 な仕 事 と したが,さ
に 「他 国 他 郷 掛 合 一 般 に 申 し談 じ来 り候( の)」
とあ る よ うに,対 外 的 な活 動,特
ら
に流 通 過 程 担 当 者 や
幕 府 ・紀 州 藩 の諸 役 所 な ど との 折 衝 に 大 きな 役 割 を果 した の で あ る。 この よ うに,村 段 階,郷 段
階,郡 段 階 に おい て そ れ ぞ れ 組 織 さ れ た 山 元材 木 商 人 組 合 の存 在 が,零 細 な,一 人 ひ と りで は微
弱 な力 しか 持 ち得 な か った 小 前 商 人層 の広 汎 な展 開 の有 力 な支 え にな っ た と考 え られ る。
おわ りに 材 木 商人 と育 林過 程 の 担 い手 との 関係 を みて お こ う。 笠 井 氏 に よ る と,川(ぬラ)上
郷 高原 村
に お いて 寛 保2(1742)年
ら9ケ 所,六
の1年 間 に,上 市 村 与 助 は村 内 の11人 か ら18ケ 所,上 市 村 平 次 は9人 か
田村 七 右 衛 門 は7人 か ら8ケ 所 の杉 桧 山 を購 入 して い る。 この3事 例 だ け で も高原
村 内で 個 人 所 持杉 桧 山 を郷 外 者 に売 却 した もの は実 人 員23人 に及 ん で い る(こ の 頃 の高 原 村 戸 数
は70∼80戸 と考 え られ る)。 郷 外 所 有 者 全 員 に つ い て 調 べ る と この 人 数 は か な りに の ぼ る と思 わ
れ る。 この こ とは 当 時,村 民 の大 部 分 が 杉 や 桧 を村 持 山 に植 林 して,そ れ を個 人 有 林 化 して いた
こ とを 示 して い よ う。一 方,材 木 商 人 は小 前 商 人 層 を 中 心 と して村 民 の 半 数近 く も存 在 して いた
こ とは,す で に み た通 りで あ る。 材 木 商 人 は伐 出 過 程 を 担 うの み で な く,育 林 過 程 を も一 方,担
って い た と考 え られ よ う。
2.'口 郷 材 木 商 人
一 材 木仕 入 問 屋一
口郷 は地 理 的 にみ る と奥 郷 の 咽 喉 を拒 す る位 置 に あ る。 口郷 は,奥 郷 と比 較 す る と農 業 へ の 依
存 度が 高 く,一 方 木 材 生 産 量 は 先 に み た よ うに,わ ずか で あ った。 奥 郷 を純 山 村 地 域 とい うな ら
ば,口 郷 は農 山村地 域 と い って よい だ ろ う。 この よ うな 口郷 のな か か ら,中 世 末 期 よ り,在 郷 町
た る上 市 ・下 市 が発 達 して きた 。 それ ぞ れ 本 善寺,願 行 寺 の寺 内町 的 性 格 を持 ちな が らも,そ の
名 の示 す 通 り この地 域 の 商工 業 の 中 心 と して発 展 して き たの で あ る。 上市 村 の 文化11(1814)年 の
125
zz>
石 高 所 持 を み る と,5石
∼2石52名,1石
以 上9名,4∼5石6名,3∼4石3名,2∼3石11名,1
以 下153名,0石116名,計350名
下 を 加 え る と全 体 の8割
で あ り無 高 が%を
近 くに な る 。 階 層 分 化 が か な り す す ん で お り,ま
依 存 が 少 な い こ と が 理 解 で き よ う 。 当 時350軒
占 め,こ
れ に1石
以
た全 体 と して農 業 へ の
の 家 の う ち 屋 号 を 有 して い る も の が231軒(商
工的
23)
屋 号135,地
名 的屋 号69,抽
象 的 屋号28)に
もお よん で い る。 これ ら屋 号 の あ る 家 は ほ とん ど
が商 業 な い し手 工 業 を 営 ん で い た と考 え て よ い 。 そ の他 は筏 師 な ど賃労 働 に 従事 して い た もの で
あ ろ う。 商 人 の うち材 木 商 人 は何 人 位 存 在 した の で あ ろ うか 。 文 化6(1809)年
に 上市 村 の 庄 屋
24)
が 役 所 へ 提 出 した 「材 木 問 屋 荷 主 印 鑑 帳 」 に よ る と,20名 の材 木 問 屋荷 主 が 連 名連 印 して い る。
これ らの 屋 号 の う ち 「木 屋 」 が5軒
と一番 多 いの は当 然 だ が 「魚 屋 」 が3軒
もあ る の は興 味 深
い。 日用 品 商 人 か ら材 木 商 人へ の転 化 が み られ た証 左 で あ ろ う。 この他 口郷 諸 村 には,そ れ ぞ れ
材 木 商 人 が存 在 して い た が,な か で も前 述 の上 市 村 材 木 商 人 に は有 力 な 者 が 多 か った と考 え られ
る。 で は これ らの 口郷 材 木 商 人 は ど の よ うな活 動 を行 な って いた の で あ ろ うか 。 か な り長 文 に な
25)
るが文 化11(1828)年 の 「組 合 取 締 書 」 を まず み よ う。
一
「組合取締書」
当地郷々の儀 は極 山分 にて百姓作間等に材木 商ひ井 山代銀○○等 に至迄郷々へ仕 入致 し相互渡世致
候場所に御座候故郷 々よ り商人買入材木 山代銀井諸入用等相頼候 二付仕入致候処近年人気悪敷相成
候て銀主 方仕切不足二相成候得 ば断申のべ勘定不将の人霧敷有之候て仕入方甚難儀 に付此 度相談の
一
上以来仕入方左 の通 り
何れに限 らず材木へ仕入候節 は銀高に応 し根質 山林取之仕入可 申事無左候ては如何程髄成 人にて も
決 して仕入不仕事猶又 根質 山林元手無 之人 二仕入不致 候はば稼 ぎ百姓を第一 に致候所御年貢御上納
または渡世 も出来無 く候 て身上無之人に不取締之出来致遣 し候故損失に相成沽却人等彩敷 出来却 っ
て不為相成仕入方 も供 に難成猶また身元宜敷商人 も元手無之商人多人数に羅(セリ)上
られ 自然不 引会 山林
買入其上稼人迄 も無数相成候故供難儀 は眼前事右は銀主方 の銘 々欲 に迷ひ不取締の銀主致 し候故御
上様の奉懸御苦労候段恐多 き次第就ては銀主 も雑費等相掛 り自然百姓 も疎 に相成候得は以来身上無
之人に決 して銀主 仕間鋪候乍併身薄人 にて も其村において身元宜敷 入引請若不足銀出来候節本人に
不抱返済仕 り候程の儀 は格別の事
一 是迄銀主方へ借用銀不足仕置候て先繰先 々へ参 り銀主相頼商 ひ致候仁霧敷有之候得共然 る上 は是迄
銀主方へ不足銀訳立不仕不垢の人此組 内へ参 りたとえ今更根質差入 候共元銀主方への訳立 出来い不
申内は決 して銀主仕間鋪事元銀主の訳立候はば早速此組 内へ其沙汰 二可及候然 る上は応対次第向後
不婚 の人は右同断に相心得候事訴詔に不相成請執斗可仕事
一 不実不堵の人有之候て若公事公辺 に相成候仁は此組 内何方へ参 り銀主相頼候 とも決 して取○不申候
事
右 の通取締仕候上 は是迄銀主方へ不将仕候人々此組 内へ廻文衆名前相記 し通達可致 候面 々其名前知へ
置其者名執斗可仕候左候得は御上様 の御苦労無数 に相成難渋不仕 自然人気 も直 り実に相成 り百姓相続渡
世 も穏 に相成候儀 は決定に御座候前書 の通 り取締仕候上 は此組中相互 に義理を立情弱無之儀可仕候事
右の條の通 り承知 の御方印形可被成事
已上
文政十一年
国櫟郷
子正 月
中庄郷
池 田郷
樫尾万平
喜作谷九兵衛
猶井与兵衛
立野尾伝治郎
同 宇兵衛
上市惣八
同 治兵衛
増 口村与助
同 十助
同
同 与兵衛
六 田村清九郎
同 大右衛 門
左曽甚兵衛
か し尾善 右衛門
矢治新助
飯貝左助
源右衛 門
ユ26
口郷 材 木 商 人 は 「郷 々 よ り商 人 買 入 材 木 山 代 銀 井諸 入 用 等 相 頼 に付 仕 入 致 候 」 と あ る よ うに,
奥郷 の材 木 商 人 に対 す る金 融 を その 主 た る活 動 と して い た 訳 で あ る。 これ は先 にみ た 奥 郷 に お け
る,「重立 商 人 」 と ほぼ 同 じ活 動 とみ て よ い だ ろ う。 さ て,こ の文 書 で 口郷 材 木 商 人 一 材 木仕 入 問
屋 が述 べ て い る こ とは,ま ず 山 林 買得 資 金 や そ の他 入 用 金 を貸 す 時 に は 山林 を質 に と る とい う こ
と,さ
らに,以 前 に 資 金 を 借 りな が らま だ 返 して い な い奥 郷 材 木 商 人 に は今 後 資 金 を 貸 さな い と
い うこ とで あ る。 これ は 逆 に言 えぱ,今
ま で 口郷 材 木 仕 入 問 屋 は 金 融 す るに あ た って 質 も と ら
ず,ま た 前 に 貸 した 資 金 が 返還 され て い な く と も,さ らに貸 し付 け を行 な って い た とい う こ とを
示 して い る。 これ は 奥 郷 材 木 商 人 へ の金 融 の有 利性 を前 提 とす る材 木 仕 入 問 屋 間 の激 しい 競 争 の
結 果 と考 え られ る。 「材 木商 ひ」 は流 送路 の整 備や 流 通 機 構 の確 立 に 伴 な い,口
郷 商 人 に と って
安全 で有 利 な 金 融 対象 とな った の で あ ろ う。 この結 果,奥 郷 で は小 前 商 人 達 が 比 較 的 自由 ・簡 単
に材 木仕 込 み な どの 金 融 を 受 け る こ とが で き た と考 え られ る。 この よ うな活 動 を 行 な った 口郷 材
木 商 人 一 材 木 仕 入 問 屋 の 存 在 が 資 金 的 に 零 細 で あ った 奥郷 小 前 商 人 の重 要 な存 立 基 盤 で あ った こ
とが 理 解 で き よ う。 口郷 の仕 入 問 屋側 が か か る不 利 な状 態 か らの脱 却 の た め仕 入 問 屋 の組 織 化 を
図 り,も って 奥 郷 の 小 前 商 人層 と対 抗 し,さ らに は彼 らを支 配 下 に お さ め よ うと意 図 した の が こ
の 「組合 取締 書 」 だ った の で あ る。 この よ うな 動 き は 奥郷 の 「小 前 」 層 を中 心 とす る材 木 商 人 に
と って 彼 らの 基盤 を お び や かす もの とな る。 彼 らは これ に対 して,ど の よ う な対 抗策 を と った で
あ ろ うか 。 次 の史 料(めラ)を
み て み よ う。
一
「商人方取締書」
当郷の義は極山中に付往古よ り杉桧植付諸木伐り出 し売買致候分夫 より和歌山堺大坂其外津々浦 々
へ運送致是を以百姓作間の渡世 に致罷在候依之に毎年正月両 郷寄 と申川上黒滝其外郷の商人共 出会
致諸事取締仕猶又 銘々郷 々において戒講 と称 し出会致商内売買筋井諸取極一統評議 の上連印を以取
締仕候○時差掛 りの儀は年行事 へ沙汰 に及取調候事古来よ りの規格 に御座 候然る処今般 国櫟郷 中庄
郷池 田郷
樫尾村万平
喜佐 谷村九兵衛
上市村宗八
増 口村与助
同 村源右衛門
同
宮滝村新兵衛
宮滝村佐右衛門 猶 井村与兵衛
立野村伝治郎
立 野村治兵衛
同 村定兵衛
六 田村清九郎
六 田村六右衛門
左曽村甚兵衛
樫 尾村善右衛門
矢作村新助
飯貝村佐助
上市村作兵衛
市与平
増 口村重助
右の者共利欲に迷 い不正の儀取 目論小前商人地方百姓迄取潰候様組合取締書 の趣を以 内々連印致荷担
当郷中 にも長立候者へ も夫 々内分加入致候様相進 申候猶又仕入問屋中継問屋に限 らず 口銭の儀床壱分宛
先規 より極之処右連名 の㌍仕入問屋 の内には荷主 へ無相対床弐分宛又は三分宛 も相掛 引取候者 も御座候
右体○○相 目論み候 は○金彼等猶 口郷 当時身分相 応に暮候故小前商人井 に地方百姓難渋仕候儀不省唯銘
々の利欲 に心を寄自然材木商人株立候様の 目論に御座候左 様成行候聞 は奥郷の在 々に住居候者重立候者
は格別身薄 き小前商人井百姓共必至 に難渋仕候儀難 ケ敷次第に御座候全体奥郷 々の儀 は百姓作間の渡世
山稼井材木商ひの外他 の事無之場所柄 に付古来よ り商人地方の差別無御座候別 して奥郷 は材木売 買筋 は
根来 の処却 って近年 山林 も無之口郷の者共被制動(やや)も
すれ は右体新規身勝手の儀 共取 目論郷中間 々混乱為
致奥郷の小前の者迄取遺 し候様仕候右等の儀 捨置候ては奥郷の衰微 と相成 り御太切の百姓相続難 出来終
には潰百姓 と成り行候儀難ケ敷次第 に御座候.,..a評
議の上 向後右名前の者共 へ材木仕込等相頼候義
向後立会商 ひ山林入札場所へ決 して着合仕間敷候万一右名前の者 より内 々仕込等相頼候か又は歩合商 ひ
いた し候者有之候はば郷中商人 中間諸着合等皆相省可申候右の趣此度一統 評定 の上連印を以 て取締仕候
U5て如件追て書入 申候去 る亥歳右廿人の衆中よ り仕込請 候秋伐 り丸太の義は夫 々銀主へ筏差 送 り可 申極
侃之尚子年春伐り丸太 より本文極 め通 り一切仕込請不申極めに御座候若万一内分 にて も仕込請 候者御座
候はば川上小川両郷商人着合相省可 申候 以 上
右一件村 々にて小前商人不洩様連 印為致 左の惣代の方へ預け置可 申候極めに御座候
以上
12?
文政十一年
子三月 日
(以下95人連名連 印)
口郷 仕 入 問 屋 側 は 「材 木 商 人 株 立 候 様 の 目 論 に御 座 候 」,さ らに 「当郷 中 に も長立 候 者 へ も夫
霞 内分 加 入 致 候 様 相 進 申候 」 とい うよ うに,奥 郷 の重 立 商 人 層 と連 合 して,材 木 の売 買 を担 当で
き る ものを 株 仲 間 に す る こ とに よ って彼 らだ け に限 定 して,奥 郷 の 小前 商 人 層 を 「材 木 商 ひ」 か
ら排 除 し,そ の 支 配 下 に 組 み こ も う と した もの で あ る。 仕 入 問 屋 の この よ うな 動 きは 「奥郷 は材
木 売 買 筋 は 根 来 の処 却 って 近 年 山林 も 無 之 口郷 の者 共 に制 せ られ」 との記 述 に もみ られ る よ う
に,彼
らが 次 第 に 力 を 蓄積 して き た こ とを基 礎 と して いた ので あ る。 これ に 対 して奥 郷 材 木 商 人
は,① 連 名 した 口郷 の20人 の材 木仕 入 問 屋 か ら資 金 を 借 りない こ と,② 立 会 商 い や 山林 入 札 場 所
ヘ ー 緒 に 行 か な い こ と,を と りき め た の で あ る。 この 場 合,川 上 郷 白屋 村 に お い て は前 に も述 べ
た よ うに全 村 民 と思 わ れ る95人 が取 締 書 に名 を連 ね て お り,奥 郷 の全 村 民 が 一 致 して この問 題 に
あた った こ とが わ か る。 奥 郷 の 重立 商 人 の利 害 は 口郷 の仕 入 問 屋 と一致 す る と考 え られ る に もか
か わ らず,奥 郷 の対 応 が小 前 商 人 の利 害 を中 心 と して 行 な わ れ た こ とは奥 郷 の材 木 商 人 組 合 の主
導権 は小 前 商 人 が 把 握 して い た こ とを 示 して いる とい え よ う。 さ て,こ の争 い の結果 は ど うな っ
た の で あ ろ うか 。
27)
「口
上」
一 樫 尾万平始め十 人組一件 当春以来破談 におよび罷在候処先達 って より段 々詫 入候 に付右廿 人共不残
此度書付差入和談仕候之 により是迄仕込斗子受候衆 中中継 口銭壱 分より上被引取 候衆中は夫 々相対
を以って請取可 申事
川上小川行 司
郷 々商人中
口郷 材 木 仕 入 問 屋 は 力 を 次 第 に蓄 積 して きて い た とは い え,奥 郷 材 木 商 人 の村 落共 同 体 的結 合
を基 礎 とす る一 致 した 反撃 の 前 に,こ の よ うに敗 退 せ ざ る を得 なか った の で あ る。村 持 山 の分 解
傾 向 にみ られ る よ うに,奥 郷 の村 落 共 同体 的 結 合 は,ゆ る みを み せ は じめ て い た が,し か しまだ
強 固 に存 続 して い たの で あ る。 この こ とが,材
木仕 入 問 屋 の敗 北 の最 大 の 原 因 で あ ろ う。 さ ら
に,仕 入 問 屋 側 の 組織 化 の 不 充 分 さ も原 因 と して あげ る こ とが で き よ う。 た とえ ば,上 市 村 に は
先 に み た よ うに20人 の材 木 問屋 が存 在 したが,こ の 争 いに 加 わ った の は,そ の うちの わず か2人
で あ った 。 上市 村 に は 口郷 屈 指 の木 屋 又 左 衛 門,あ る い は木 屋源 右 衛 門 な ど もい たが,彼
らを 参
加 させ る こ とは で きな か った 。 さ らに奥 郷 重 立 商 人 との 連 合 に も失 敗 した。 ま た 奥郷 小 前 商 人 は
この よ うな 時 に は 和歌 山 ・大 阪 問屋 の前 渡 金 制 度 を も利用 で き た の で あ る。
結 局,口 郷 材木 仕 入 問屋 は,奥 郷 材 木 商 人 に と って 有 利 な金 融機 関 た る位 置 に とど ま らざ るを
得 な か った の で あ る。
第2章
流
通
機
構
江 戸 時 代 以 前 か ら吉 野地 方 で は活 発 な 木材 生 産 が行 な わ れて い た こと はす で に述 べ た が,林 産
物 の 流 通 ル ー トに つ いて は,「 上市 ・下 市 へ 吉 野 山地 の特 産 物 た る桧 物,曽
貨 さ れ」,ま た 「桧 物 な ど始 めは 原 木 を大 和平 野 の 田原 本 に送 り,そ
木,材
木,紙 な ど集
こで 製 品 化 され 坂 手座 衆 が
販 売 す る仕 組 みで あ った 」 と述( の)べ
られ て い る。 この こ とは,吉 野 林 産 物 は 上市 ・下市 が 中継 地 と
な り陸 送 に よ り,大 和 国 中方 面 へ運 搬 さ れて い た こ とを 示 して い よ う,ま た文 禄3(1594)年
に秀
128
吉 は伏 見 城 の 普 請 の た め に,北 山郷 か ら桧 の大 材 を 「伯 母 峯 を 引越 吉 野 川 ヲ下 シ,桧 垣 本 村 ヨ リ
芦 原 坂 を 引 越,夫
ヨ リ木 津 川 へ 引 出 シ筏 下 シ仕 候 テ淀 ヨ リ登( の)」
らせ て い る。 この こ とは 当時,吉
野 川 流域 に桧 材 が す で に欠 乏 して い た こ とを示 す と同 時 に,奈 良 ・京 都 方 面 へ の禾 材 流 通 ル ー ト
も示 して い る。 中 世 に お け る木 材 需 要 は,神 社 ・仏 閣 や 住 家 の 多 く存 在 した京 都 ・奈 良 を 中心 と
して いた の で,吉 野 地 方 か らの木 材 は上 述 のル ー トで 商 品 化 され て い た と考 えて よ い だ ろ う。 や
が て,大 阪 が 秀吉 に よ って政 治 的 中心地 と して選 ば れ,そ の立 地 条 件 の良 さ を生 か して 後 に 「天
下 の 台 所 」 と称 さ れ る よ うな商 業 都 市 と して の発 展 の 道 を歩 み は じめ る 。材 木 に 関 して は,17世
紀 初 頭 に本 格 的 に木 材 市 場 も成 立 し,諸 国 の 材 が大 阪へ 集 ま る よ う に な った ので あ る。 吉 野 山 元
側 も この大 阪木 材 市 場 の成 立 に 対 応 す る必 要 に迫 られ る こ とに な った 。 「上 木 の 類 大 阪 表 向 々の
品 に挽 き崩 し陸 荷 物仕 河 州 辺 ま で人 力又 は牛 馬 に て差 贈 大 和 川 へ 差 下 し大 坂 表 に て 売捌 き候 へ共
30)
右 等 の儀 は商 人 共 不 引 合 は 申す に及 ばず 然 運 賃 多 分 相 嵩 候 山 代 銀 も無 数 に 相 成 り」 と,こ れ は嘉
永7(1854)年
の事 実 だ が,当 初 も この よ うなル ー トに よ り大 阪 へ 出 材 した もの も存 在 した で あ ろ
う。 しか し運 賃 も高 くか か るの で,よ
り有 利 な ル ー トの 開拓 が 必 要 とさ れ た の で あ る。 そ こで 考
え られた の が 材 木 を筏 に組 み,吉 野 川 を 和 歌 山ま で 流 下 させ,そ こか ら大 阪 へ廻 送 す る と い うル
ー トで あ る。 しか し,こ の た め に は流 送 路 の 整 備 とい う難 問 題 が あ った。 この こと に つ いて は以
下 の ご と く述 べ られて い る。 す な わ ち 「吉 野 川 及紀 ノ 川 と も慶長 年 間(1596∼1614)ま で は川 路凌
諜 の 方法 な か り し も,紀 ノ川 以 東 吉 野 川 筋 漸 や く川 凌 工 事 を起 し寛 永 年 間(1624∼48)に 下市 を 経
て 飯 貝前 に進 み,寛 永 元 年(1661)東 川 領 字滑 らまで 其 後 西 河 音 無 川 出 合 字 別 当 淵 に す す め り,其
頃万 治 三 年(1610)よ り寛 文 三年(1663)迄 四 ケ年 間 に大 滝 の岩石 を 切 り割 り而 して高 原 前 を経 て井
戸 鍛 治 屋 淵 に 進 み延 宝 八 年(1680)に 和 田大 島 に達 せ り。 其 当 時 川凌 工 事 は 容 易 の事 業 に非 す 。 至
る所 奇石 快 巌 川 路 の 中 流 に横 は り此 一 巌 を取 り除 くも数 十 の 人夫 を要 し或 は轄 櫨 を以 て之 れ を曳
き取 り又 は 数 百貫 目 の薪 炭 を以 て巌 を焼 き油 を注 きて 玄 翁及 び堕 を以 て 之 れ を 割 り尤 も浅 き は掘
り或 は堰 を為 し種 々 の工 夫 を尽 せ り。 又 其 後 元 文年 間(1736∼46)に 伯 母 谷 川 出谷 字 長 殿 まで 宝 暦
三 年(1753)に 入之 波 ま で其 工 事 を進 め た り。 蓋 し数百 年 の 久 し き苦 心 労働 と巨万 の金 を費 して以
31)
て 漸 く吉 野 川 の本 川 入 之 波 よ り以 西 紀 の 川 和 歌 山港 に入 る筏 の通 路 を得 た り」 の ご と くで あ る。
非 常 な る努 力 の結 果,流 通 ル ー トが 開設 され た の で あ る 。 この筏 流 路 の整 備 に あた った 主 体 に つ
い て記 述 は な いが,山 元 材 木 商 人 が 主 と して あ た った こ とは間 違 い ない と思 わ れ る。 この結 果,
吉 野材 は,ほ
とん ど筏 に 組 ま れ吉 野 川 を流 下 す る こ とに な り,安 政4(1857)年
床,代 銀 に して約5千6百
に は,約5万1千
貫 に も達 す る筏 が 流 下 した の で あ る。 一(ヨの)方
この 年 に 陸 送 され た の は杉
丸 太 ・小 角 ・板 な ど50貫 程 度 と,わ ず か な もの で あ った 。 で は以 下 に お い て,吉 野 材 の流 通 担 当
者 達 を み て い こ う。
1.筏
師
吉 野 山元 か ら和歌 山 ま で,筏 の流 送 を担 当 したの が筏 師 で あ る。 筏 は 同一 人 が上 流 か ら和 歌 山
ま で 乗 り下 る の で は な く,川 上 郷 の場合,和
田村 か ら東 川 村 まで を 「上 み 乗 り」 と称 し,和 田村
及 び そ の近 辺 の筏 師 が 乗 り,東 川 村 か ら口郷 の 飯貝 村 ・上 市 村 ま で を 「中 乗 り」 と称 して,東 川
村 あ る いは 大 滝 村 の筏 師 が これ を 担 当 した 。 こ こか ら和 歌 山 ま で を 「下 乗 り」 とい い,上 市 村 周
辺 の筏 師 が 担 当 した 。 筏 乗 りに は 高 度 の技 能 が要 求 され るた め,一 人 前 に な るた め に は少 な くと
も3∼4年
の修 業 が 必 要 と され た 。 この よ うな場 合,筏 師 の 間 に は親 方 従弟 制 の存 在 が 予想 さ れ
るが,大 正 期 に つ い て の 聞取 りに よ る と,そ の よ うな 関(ヨの)係
は存 在 しな か った 。江 戸 時 代 に お い で
も同 様 と考 え て よ い だ ろ う。
さて,吉 野 山 元商 人 に とって,筏 師 の 賃 金 は 前述 した よ うに非 常 に大 き な 関心 事 で あ った が,
129
文 政11(1828)年 の材 木 商 人 の願 書( ラ)に
「筏 士 共 近 年 十 三 組 と 申す 組 々を立 て や や もす れ ば組 々一 同
申合 多 人 数身 勝手 の み 申立 歎 ケ敷 義 に御 座 候 」 と あ り,あ るい は 慶 応1(1865)年
の史 料(おラ)に
は 「近
年 狼 りに 賃銭 直 増 の 儀 申 出荷 主 共承 知不 致 候 は ば筏 乗 留等 申合 川下 ケ差 支 致 させ,又 は商 人 共 寄
会 の 席 へ 多 人 数 結掛 ケ 過言 等 申掛 ケ不 法 ヶ 間 敷 所 業 に 及 び 押 て 賃銭 直増 等 申 出候 」 とあ る。筏 師
は,当 初 山 元 材 木 商人 に対 して従 属 的立 場 に あ った と考 え られ るが,江 戸 時代 後 期 に な る と こ の
よ うに 団 結 して 組(村 単 位 と思 わ れ る)を 結 成 し,さ らに13の 組 が 連合 し,一 致 して 材 木 商 人 に
対 して 賃 金 引 上 げ を要 求 す る ま で に な った。 あ る時 は 「筏 乗留 」 を した り,ま た 「商 人 共 寄会 の
'席
へ 多 人 数 結掛 」 けた り して 要 求 を 通 そ う と した の で あ る。 この よ うに 材 木 商人 と 筏 師 の間 に
は,筏 師 の 成 長 に 伴 な って,厳
しい経 済 的対 抗 関係 が 存 在 す る よ う にな った が,身 分 的 ・人 格 的
関 係 は存 在 しな か った ので あ る。
2.中
継 問屋
中 継 問 屋 は,筏 の 乗 り継 ぎ地 点 で あ る 口郷 の上 市 村 や 飯 貝 村 に発 生 した もの で,そ の仕 事 の 内
容 は,上 流 か ら送 られ て きた筏 の整 備,木 数 ・床 数 ・荷 主 ・送 り先 の 確認,下
流へ の筏 師 の手 配
な どで あ った 。 これ らに従 事 す る ことに よ り筏 一 床 に 付 い く ら とい う形 で荷 主 よ り口銭 を受 け と
って収 入 と した の で あ る。
さ て 「筏 中継 問 屋 の義 此 度 飯貝 口役 所 様 よ り 被 仰 渡 候 義 左 の 通 り,前 年 は 中継 問 屋 五六 軒 に
て 相 済 来 り候 処 近 年 来 は八 拾 軒 に も相 成 候 間 役 所 大 に 混 雑 致候 間(ヨの)」
と,材
木 商 人 極 書 の 文 政5
(1821)年 の項 に み え る が,筏 の流 下 量 の増 大 に伴 い,中 継 問 屋 が 非 常 に増 加 して き た こ とがわ か
る。事 実,文 化11(1814)年 に は川 上 郷東 川村 に も発 生 した の で あ る 。
さ て,吉 野 川 を少 し下 る と五 条 村 が あ る。 この 付近 に は賀 名生 川(吉 野 川 支 流)か
た筏 の 中継 問屋 が あ った。 この 中継 問屋 の う ち6人 が 上 流 の材 木荷 主 へ 弘化2(1845)年
た 「差 入 申議 謎 の事(ヨの)」
に よ る と,中 継 問 屋 が 「近 来狼 に 相 成」 って きた が 自分達6人
支無 之 様 実体 に相 勤 」 め るか ら,6人
ら下 って き
に提 出 し
は今 後 「差
の 他 に 中 継 問 屋 が で きて も,そ の もの 達 に筏 を 送 らない で
ほ しい。 そ うす れ ば 「仕 出 し屋 者 共(自 分 達 の こ と)自 分 に材 木 商 ひ一 切 仕 間敷 候 」 との 申 し入
れ を行 な っ た ので あ る。 これ に よ り,中 継 問 屋 の な か に次 第 に 「材 木 商 ひ」 に手 を 出 す もの の 出
て き た こ とが わか る。 こ の よ うな傾 向は他 郷他 村 の商 人 を で き る だ け排 除 しよ うと し℃ い た奥 郷
商 人 に と って は,は な はだ 大 き な問 題 とな った こ とで あ ろ う。 しか し,こ の場 合,奥 郷 材 木 商 人
に と って都 合 の よ い6人 の 中継 問 屋 が 新 た に 登 場 した わ け で あ る。 あ る い は,奥 郷材 木 商 人 が登
場 「させ た」 と考 え て も よ い。 こ の よ うな 問 屋 が登 場 す るか ぎ り,「 材 木 商 ひ」 に手 を 出 す 中継
問屋 は排 除 され る こ とに な る。 結 局,単 に筏 の 中継 を して 口銭 を受 け と る問 屋 に と どま らざ る を
得 な か ったの で あ る。 また 中 継 問 屋 は,筏 師 を支 配 下 に組 み込 む こ とに よ って,奥 郷 材 木 商人 と
も対 抗 しう る強 大 な流 通 担 当者 とな る道 も充 分 予想 さ れ る こ とで あ るが,事 実 と して は 前項 に お
いて み た よ うに,そ の よ うな こ とは存 在 しなか った の で あ る。
3・ 和歌 山材 木 問屋
和 歌 山材 木 問 屋 の成 立年 代 は 明 らかで は な いが,17世
紀 の 中 頃 か ら吉 野 材 の流 下 量 の増 大 に伴
って 大 阪 へ の 中継 問屋 と して 出発 した と考 え られ る。 寛 政5(1793)年
屋源 右衛 門,升 屋 市 郎 右 衛 門,中 屋 九 右 衛 門,岡
頃以前 か ら吉野材 鱒
の史 料(
)に,笹
屋 孫 六,吉 野
田屋 万 助 の5名 連 名 の文 書 が あ り,す で に この
門に扱 う5軒 の株問屋(=吉 騰
隙
が成立 して いた と思われ る・撒
山 問 屋 の仕 事 の 内容 に つ いて は,ま ず 次 の 「材 木 送 り状 案 文 」 を み よ う。
130
「送
り
状」
何郷何村 山林よ り出
一 杉
何拾何本
幾才
一
同
何拾本
幾才
一 桧
何十本
幾才
本数メ
何百何拾本
此才メ
何拾何才
右は大坂何屋誰方へ木数才数共御改の上早 々御廻 し可被下候
荷主
何村
何村
誰乗 り
以上
何何月
和州吉野郡何村
問屋か
誰印
荷主か
紀州若 山
何屋誰殿
これ は文 化6(1809)年
に役 所 が 手 本 と して 示 した もの で あ る が,こ の よ うな場 合 に は,吉 野 山
元 荷 主 の指 示 に従 って 問 屋 は廻 船 業 者 た る和 歌 山船 手 方 を手 配 して筏 を船 に積 み こみ,大 阪 そ の
他 へ 廻 送 した の で あ る。 この 場 合,彼
らの 果 す 機能 は,ま
さに 中継 問屋 の そ れ で あ る。 一 方,大
阪 へ 廻送 す る ばか りで な く,荷 主 の 委託 に よ り和歌 山 で 仲 買商 人 へ 販 売 す る こ と もあ っ た。 この
よ うな場 合,「 仲 買衆 木 場 へ 立 会 筏 にて 附 売 商 内致仕 切 銀 直請 取 に仕 来 り候( の)」
とあ るよ うに,仲
買 に 附売 り(e入
札 売 りとみ られ る)を して,そ の場(むラ)で
代 金 を受 け と るの で あ る。 そ して吉 野 山
元 の 荷 主 へ 明 細 を記 した仕 切 状 とと もに代 金 を送 った 。 この場 合,「 御 口銀 井荷 主 方 仕 切 銀 問屋
よ り請 取 道 中 に て封 印等 を切 不 屠 成 致 方決 して仕 間 敷 事( の)」
と の定 めが筏 師 取締 書 に み られ るよ う
に 筏 師 が送 金 を 担 当 した 。大 阪 問 屋 が,1年
に5回
しか 精 算 しな か った こ とを考 え る と,和 歌 山
で 材 を売 る こ とは 山 元材 木商 人 に と って資 金 の回 転 上 有 利 で あ った 。
この よ うに,和 歌 山 問 屋 の機 能 は,大 阪 廻 送 材 の 中 継 と,和 歌 山 に お け る受 託 販 売 に あ り,こ
れ らに 従事 す る こ とに よ る手 数 料 を収 入 源 と して いた の で あ る。 江 戸 時代 末 期 の 安 政4(1857)年
の 場 合,吉 野 川 を流 下 した筏 数 は5万1千
床 で あ り,う ち大 阪へ 廻 送 さ れ た の は2万1千
床,和
歌 山 で 仲買 へ販 売 さ れ た の が3万 床 で あ っ た。 次(るヨラ)第
に 和 歌 山 で売 却 さ れ る木 材 量が 増 大 して きた
こ とが わか る。
さて,嘉 永7(1854)年,郡
中 材 木 方 よ り和 歌 山 藩 へ提 出 さ れ た木 場,筏
置場 に関 す る願 書(なラ)を
み
る と,「 御 当 国(和 歌 山)川 並 悪 敷 筏 繋 げ 場 所少 く相 成 りい さ さか 出水 の 節 にて も流 木 仕猶 又木
場 荷 つか え 等 に付 問 屋 共 よ り度 々筏 下 し留 申 出 候 に付 … 海 土 郡 土 入 川 筋 吉 野筏 置場 所 に 御下 被 為
成 下 候 」 と い うよ うに,吉 野 山 元 材 木 商人 が 和歌 山 の筏 置場 の 確 保 に も乗 り出 して い た こ とが わ
か る。 この 時,和
歌 山 問 屋 は 「添願(おラ)」
と して 同 じ趣 旨の 申 し入 れ を して い る。 この添 願 に は,
「(以前)御 材 木 御 置 場 所 井丹 波 江 子 共川 凌 可 仕 旨御 諭 に 付 吉 野郡 中 井 私 共 よ り雑費 相 納 金 千 両 余
も 出方 に相 成 候 」 との記 述 が み られ,以 前 か ら筏 置 場 の 確 保 な ど に吉 野 山 元 商人 が 積 極 的 に あた
って いた の で あ る。 筏 置 場 は 問屋 に と って 重 要 な存 立 基 盤 で あ った ろ う。 そ の確 保 を みず か らの
手 で 行 な い得 な か った こ とは,和 歌 山問 屋 の力 の弱 さの あ らわ れ とみ て よ い だ ろ う。
ま た,弘 化4(1847)年
に吉 野 講 問屋5軒
の うち,亀 屋万 吉 が経 営不 振 に お ち い り 「問屋 相 続 」
が で きな くな り休 業 す る こと に な った 。2年(イの)が
経過 して も休 業 した ま ま な ので,吉 野 山 元 と して
131
は 「出水 の 節 流 木等 多分 出 来 」 る し,ま た 「四軒 にて は荷 物 売 捌 方 井 大 坂 廻 し等 自然 手 余 り」 に
な るか ら非 常 に 「難渋 」 す る事 態 に な った。 そ こで,「 御 当地(和 歌 山 の こ と)に て 身 元宜 敷 御
見 立 の 上 右 問 屋 株 相 続 被仰 付 」 る よ うに和 歌 山藩 に願 い 出,も
しそ れが うま く行 か な い 場合 に は
「右 問 屋 株 壱 軒郡 中 へ 御下 げ被 成下 候 様 」 と 申 し出た ので あ る。 吉 野 山 元 に 和 歌 山で 問 屋 を開 業
す る意 志 の あ る こ とが この こ とか ら理 解 で き よ う。 しか しこの 場合,和 歌 山 に 「出店 」 を作 ろ う
と い う積 極 的 な 意 志 は 感 じ られず,む
しろ和 歌 山 で 適 当な 人 が 見付 か った らそ れで よ い,い な い
場 合 に は 「出店 」 しよ う とい う程 度 の よ うに 思 わ れ る。 材 木 の流 通 路 の確 保 に非 常 に 熱 心 で あ っ
た 吉 野 山 元 が 和歌 山 「出店 」 に対 して さ ほ ど執 着 を持 た な か った とい う こ とは,和 歌 山 問屋 の在
り 方 が吉 野 山元 に と って 問 題 と な る点 を あ ま り持 た な か った とい う こ とを示 して い よ う。 吉 野 山
元 に と って は和 歌 山に お いて 問 屋 が5軒 そ ろ って存 在 し,役 割 を果 して くれ る な らば 誰 が 問 屋 に
な って もそれ 程 問 題 とは な らな か った の で あ る。
岡屋 栄 蔵 は1800年 頃 に 吉 野 屋 源 右 衛 門 の 問屋 株 を買 得 して 開 業 したが,文 政2(1819)年 の 山元
・
材 木 商 人 の取 極 めの な か に 「若 山 岡 屋栄 蔵 ○ 問屋 の儀 一 同御 改 の通 り郡 中 株 問 屋 の儀 に 付 商人 申
合 銘 々分 け 荷 仕 格 別 の 御 ひい きを以 荷 物 差 贈 り 問 屋 相続 可致 様 仕 度 依 之 荷 物 銘 々御 差 贈 り 被 下
候 事(るの)」
と あ り,こ の 頃営 業 が苦 し くな った ら しい こ とが わ か る。 そ れ を 吉 野 山 元材 木 商 人 が 問屋
相 続 で き るよ うに 援 助 した の で あ る。 この結 果,天 保13(1842)年 の 史 料(ぬよ)に
る と 「世 話 方 の義 は
吉 野 目明 し問 屋 岡 屋栄 蔵 殿 へ 相 頼 置」 と あ る よ うに 吉 野 山 元 の 出 先 き問 屋 の形 に な っ て い る。他
の 問 屋 も同 じよ うな ことで あ ったの だ ろ う。 わ ざ わ ざ 「出店 」 す る ま で の こ とは なか った ので あ
る。 ま た先 の 亀 屋万 吉 問 屋 は14貫600匁 に達 す る末 払 銀 を 山元 に対 して 残 して いた の で あ るが,
「跡 問屋 開店 の節 右 仕 切 不 足 銀 半 分 通 りは 商 人共 夫 々 へ御 渡被 成 下 残 半 分 通 は5ヶ 年 賦 に御 渡 被
成下 候 」 とい うよ うに,す で に2年 間 も経過 して い る に もかか わ らず 寛 大 な 返 済 の 仕 方 を 許 して
い る。 これ は吉 野 山 元 の 資 金 的 な余 裕 ぶ りを示 して い よ う。
この よ うに み て くる と,和 歌 山 問 屋 は通 常 述 べ られ て い る ご と く,特 権 的 に 流 通 過程 の 一 部 を
独 占 した り,さ らに は 前渡 金制 度 を テ コ と して 莫 大 な 前 期 的 商 人 利 潤 を 蓄 積 して い た とは考 え ら
れな い。 た しか に 和歌 山 問 屋 の場 合,前 渡 金 制 度 は有 して いた が,前 章 で述 べ た よ うに 比 較 的 に
資 金 が豊 富 で あ った吉 野 山元 に と って は この 制 度 は材 木 仕 入 問 屋 の補 完 的 意 味 しか持 ち得 なか っ
た と思 わ れ る。前 渡 金 制 度 が有 効 に機 能 し得 ない 受 託 販 売 問 屋 は,単 に流 通 過 程 の一 環 を担 う 口
銭 問 屋 と して の性 格 しか も ち得 な い と考 え て よい だ ろ う。
最 後 に,吉 野 山元 商 人 の和 歌 山出 先 機 関 に つ い て み て お こ う。 和歌 山か ら大 阪 そ の他 へ 廻 送 す
る材 に つ いて は 極 印 を打 つ こ とに な って いた 。 これ を 担 当 した の が 極 印 方 で あ るが,あ
わせて
「当地 木 場 常 々心 掛 け若 不 堵 の 品 等 見 付候 へ ば 早速 に御 惣 代 中へ 相 届 け可 申候(るの)」,さ
らに 「吉野
郡 中 よ り相 下 り候 材 木筏 床 数 舟 板 長 物 上荷 類共 相 改 にて 名前 等 内 々相 記 置 月 々帳 面 相 認 め御惣 代
中へ 差 出可 申候 」 とい う仕 事 に 従 事 して い た。 ま た 「材 木 商 人 方 極 書 帳(らの)」
の 文 政3(1820)年
の項
に は 「和 歌 山 木 場 井 大 坂 其 外 荷 物 小廻 し共 怪 敷 儀 も粗 有 之 哉 に相 聞 へ 申候 に 付 此 度阿 波 屋 六兵 衛
内 目附 役 為 勤 め 申筈 」 とあ るよ うに,内 目 附役 をお いて 監 視 に あ た らさせ て い た こ と もわ か る。
さ らに,天 保4(1833)年
に 「上 市 治 平 殿 高 原 米 蔵 殿 郡 中 材 木 方 惣 代 と して先 達 って よ り若 山表 へ
毎 々御 出張 被 成 若 山近 江 屋忠 右衛 門 と申人 へ 御 頼 被 成郡 中 材 木方 支配 と唱右 の人 へ 永 々筏 壱 床 に
付 三厘 つ つ の益 を御 渡 被 成 候(うつ)」
と あ る よ う に支 配 人 を 置 いた の で あ る。支 配 人 の役 割 は大 正 時代
の 実 態 か ら類 推 す る な らば,流 下 して きた 筏 の 数 と送 り状 に 記載 され た数 の確 認,及 び 木 場 で の
販 売 に 従事 して い た と思 わ れ る。 問屋 の機 能 を補 助 しな が ら,あ わせ て不 正 の監 視 に あ た って い
た の で あ る。 この よ うに,吉 野 山 元 は 和 歌 山 に お い て二 重 三 重 の厳 しい監 視 体 制 を敷 いて,流 通
担 当者 の不 正 を許 さ なか った の で あ る。
132
4.和
歌 山仲 買 商 入
江 戸 時代 初 期 に は,吉 野 材 は大 部 分 が 大 阪 へ 廻 送 され て い た とみ られ るか ら,和 歌 山 に お いて
52)
は仲 買商 人 は成 立 して い なか った と考 え て よい だ ろ う。享 和2(1802)年
の文 書 に 「吉 野 郡 中 よ り
相 下 り候 材 木 当地 よ り大 坂 堺 兵 庫 其 外 国 々相 廻 し候 」 とあ るよ うに流 通 ル ー トの拡 大 が み られ た
こ とや地 場 消 費の 増 大,加 工 業 の発 生 な どが,仲 買 商 人 の成 立 を うなが した ので あ ろ う。 史 料 的
に は文 化4(1807)年( の)が
初 見 で あ るが,そ れ よ りか な り以 前 にす で に 成 立 して い た と考 え られ る。
和 歌 山 に お いて 売 りさ ばか れ る材 木 は,た
とえ ば 「大 坂 井諸 方 廻 り和 歌 山売 木 と其 向 々の 木 筋
54)
か らみ分 け差 送 り」 と あ る ご と く,あ る い は,「川 上 郷 小 川 郷 筏 の 義 は若 山 湊 に て 売捌 候分 は木 肌
光 深 木 を 売 候 義 に 付 山元 にお い て筏 か らみ立 候 上 みが き粉 を以 悉 洗 い立 大 切 に仕 差 下 し候 丸太 の
55)56)
義 に御座 候 」,あ る いは,「 無 拠 上木 の類 大 坂 表 向 々の 品 に 挽崩 」 とあ る よ うに,銘 木 な い し高 級
木 が 主 で あ った とみ られ る。 この よ うな材 の流 通 加 工 ル ー トを 和 歌 山 仲 買 商 人 が 育成 確保 して き
た ことが 存 立 基 盤 の ひ とつ に な った と考 え られ る。
さて,仲
買 商 人 が 問 屋 か ら材 木 を 買得 す る時 は 前 述 した よ うに,「 仲 買 衆 木場 へ立 会 筏 にて 附
売 商 内致仕 切 銀 直請 取 に仕 来 候 」 で あ ったが,文
化4(1807)年
に は,「 当郡 よ り差 下 し候 材 木 和
57)
歌 山 に て市 売 出来 候 様 雑 賀 屋 弥 平 次 よ り和 歌 山 御役 所 へ願 出候 」 とい うよ うに,新 た な要 求 を 持
ちだ した。 これ に対 して,吉 野 山 元 は 「新 規 市 売 の儀 は郡 中一 統 不 得 心 」 と反対 した ので 実 現 し
な か った。 こ の問 題 は 天 保13(1842)年 に も再 び起 きた 。 「今般 公 儀 様 よ り御 趣 意 に は若 山仲 買 の
輩 弐 割 下 げ の儀 申出 … 惣 代 若 山 表 へ 出張 い た し… 仲 買 方へ 及 応 対 に候 処 最 初 に は弐 割 下 げの 儀 申
募 り候 得 共 中途 よ り弐 割 下 の 儀 者 不 申売 木 の 筋 は木 場 に て弐 歩 五 厘 宛 裏 と表 に致 浮 売 仕 引 方 の 儀
者 大 坂 並 に 引去 り買取 可 申様 申 出 候 …右 市 売 の儀 者 若 山仲 買 の輩 俄 に思 ひ附 候 儀 に は 無 之 六 七 ヶ
年 茂 以 前 よ り相 企 て 目論 見 居候 様子 に候 得 ば 中 々手 強 く申張 候 … 成 損 益 に不 抱 往 々の 為 方 ○ 疎 に
不 被 致 候 に 付 大 坂 廻 しの 儀者 銘 々勝 手 次 第 に差 送 り可 申候 得 共 右 一 条 相 行 付 候 迄 は 若 山表売 木 の
筏 は差 留 り可 申様 評談 決 … 若 山 仲 買 よ り岩 出 近所 の材 木 屋 を相 頼 専 買 入 候 由 聞 取 候 間 若 山 表売 木
58)
留 め仕 候 て も何 の 無詮 事 に 候故 道売 の儀 茂 差 留 り可 申」 と い う次 第 で あ った 。 仲 買 商 人 が これ ほ
ど まで に市 売 の実 現 に 執着 した の は,「 引方 の 義 は 大 坂 並 に 引去 り」 と あ る よ うに市 引 制度(大
阪 に おい て は 材 価 の1割 を販 売 奨 励 金 と して 仲 買 に渡 して いた)の 導 入 が 主 目的 だ った の で あ ろ
う。 この市 売 り要 求 を みて も和 歌 山 の仲 買 商 人 が 次 第 に 実 力 を蓄 積 して きて,江 戸 時代 末 期 に は
吉 野 山元 を圧 迫 す る ま で に成 長 して き た の を 知 る こ とが で き る。 事 実,安 政4(1857)年
川 を 流 下 した筏5万
に は吉 野
ユ千 床 の うち の6割 に あ た る3万 床 を 和 歌 山 仲 買 商人 が 買得 す るに至 って い
た の で あ る。 この よ う な仲 買 商 人 の上 昇 に 対 して,吉
野 山 元 は あ る時 は,「 若 山表 に て是 迄 材 木
59)
大 下 りの節 は谷 行 事 衆 中立 会 相 談 致 郡 中 箱 元 よ り買 廻 しに 若 山 表 へ参 り丸 太能 相成 候 様 致 候 」 と
い う よ うに材 価 が 不 当 に安 くな らな い よ うに 買 い支 え を 行 な った り,ま た利 害 が厳 し く対 立 した
場 合 に は先 に み られ た よ うに 「若 山表 売 木 の 筏 は差 留 り可 申 」 とい う手 段 で対 抗 して い たの で あ
る。 和歌 山仲 買商 人 が 扱 う吉 野 材 が 増 大 す るに つ れ て,吉 野 山元 と仲 買 商 人 との 直 接 的 対 抗 関 係
は ま す ます 激 化 して い った とみ られ る。
5.和
歌 山船 手 方
和 歌山 か ら大 阪 へ の 木 材 の 廻 送 は 「小 廻 し」 と呼 ば れ,そ れ を担 当 した のが 和 歌 山船 手 方 で あ
る。 使用 され た船 の 大 き さは 「石 数 に て は 三百 五 拾 石 積 方 にて は 下 床 三 拾 五 床 つ つ 」 とい う程 度
で あ った 。 船 は居船 頭(瀦 船 主),沖 船 頭(一 船 長),水 主(一 水 夫)に
よ り構 成 され て い た。
60)
さて,和 歌 山船 手 方 は天 保13(1842)年 の史 料 に よ る と 「往 古 よ り吉 野 材 木 方 の手 先 き同 然 に て
大 坂 廻 り荷 物 積 方渡 世 仕 来 に候 」 とあ る よ うに,当
初 は吉 野 山 元 商 人 に 従 属 して い た が,「 近 年
133
運 賃 増等 の 義 頼 出 候事 間 々有之 …荷 支 の折 柄 舟 手 一 同 申合 せ 積 止 りを 申立畢 寛 運 賃増 ○ 取 り同様
の 致 方 も有 之 又 は よ しの の差 支 を不 顧 自儘 に 外 々の 荷 物 積 取他 国 行 致候 事 も有 之 」 とあ る よ う
に,江 戸 時代 も末 期 に至 る と,従 属 的 地 位 か ら脱 し山 元 材 木 商 人 に 対 して,団 結 して 運賃 の 引上
げ を 要求 し,実 現 しな い場 合 に は 「積 止 り」 を 行 な うま で に な った の で あ る。 運 賃 は 売 上 高 の 約
13.5°0を占(むラ)め,こ
の よ うな 運賃 引上 げの 要 求 は 山元 材 木 商 人 に 対 して 影 響 は大 な る もので あ っ
難 。 さ て,同
じ史 料 に よ る と,山 元 商 人 は和 歌 山 の船 頭 に対 して 新 船 建 造 の た め に130両 もの 大
金 を 融資 した こ とが わ か る。 この こ とは,山 元 商 人 の 資 金 の豊 富 さ を示 す と と もに,彼
らの船 手
方へ の巻 返 しと受 け取 る こ とが で き よ う,融 資 を受 け た 治 郎右 衛 門,定 助 両 人 は 「向 後 小 廻 し仲
間如 何 様 の事 を 相 企 致 相 談 候 共 よ しの の差 支 に不 相 成 義 は格 別 い さ さか にて も山方 の 差 支 え に相
成 候 義 は治 郎 右 衛 門 定 助両 人共 右等 の事 に不 致 同意 」 の ご と く,取 りき め られ た。 この よ うに,
山元 は手 先 き同 然 の船 手 を創 り出 した ので あ る。 さ らに,「 今 般 郡 中に て 新 舟 拾 そ うば か り も造
り度 哉 に も申 居候 」 とあ る よ うに,山 元 商 人 直 属 の船 団 の 保 有 も企 図 して い たの で あ る。 この よ
うな 山 元 商 人 に対 して船 手 方 は結 局,従 属 に 近 い立 場 に お しと どめ られ た と考 え られ よ う。
6.大
阪材 木 問屋
大 阪木 材 市 場 が 成 立 す る の は,秀 吉 に よ る大 阪 城,大 仏 殿,伏 見 城築 城 な どに よ って木 材 の 需
要 が激 増 して 諸 国 か ら大 阪 へ 木 材 が 廻 送 され て き た こ とに よ る。 そ の後 元 和 末 年(1620年 頃)に
な って,土 佐 藩 が 藩 財 政 の 確 立 を膨 大 な森 林 資 源 の商 品化 に求 めて,幕 府 に 出願 して 立 売 堀 川 に
市 売 市 場 を開 設 し,こ れ を契 機 と して,大 和,吉 野,紀 伊,新 宮,阿 波 お よ び九 州 諸 国 の木 材 が
入 荷 され,次 第 に市 場 は賑 わ って く るの で あ る。 この 頃 の材 木 商 人 は,ま だ 問屋 兼 仲 買 兼 小 売 商
,的性 格 を 持 って い た 。 や が て宝 暦2(1752)年
を一 般 的 契機 と して 材 木 商 人 の 問屋 と仲 買 の職 能 分
化 が 起 った 。
さて,大 阪 に お いて 吉 野 材 を取 り扱 って いた 問 屋 は 吉 野 講 を 結 成 して い た が,寛 政12(1800)年
に は10軒 に よ り構 成 さ れて い た。 これは 決( の)し
て 固 定 され て お らず,数
もか な り変動 して い た と思
わ れ る。 この 問(おラ)屋
は先 にみ た よ うに 市 売 問 屋 で あ った 。 す な わ ち山 元 荷主 の 委 託 を受 け て,浜 で
材木 を仲 買商 人 に市 売 販 売 し,そ の手 数 料 と して 問 屋 口銭 を 取 得 した の で あ る。 代金 は,「 材 木
商人 大 坂 へ 参 候 事 は年 分 に は五 ケ 度 節 季 節 季仕 切 銀 受取 に参 候( の)」
とあ る よ うに,山 元 か ら材 木 商
人 が節 季 ごと に大 阪 ま で 受 け と りに 出 か けた の で あ る。 吉 野 山元 が 次第 に 和歌 山 で売 却 す る材 の
量 が 増 大 した ひ とつ の 原 因 を,こ の よ うな大 阪 問屋 の代 金決 済 方 法 や 送 金 方 法 に求 め る こ とが で
き よ う。
さて,「 大坂 出役 の儀 は是 迄 郷 々 よ り 年 中月 毎 に替 りに相 勤 め来 り候 所 去 歳 正 月 初 寄 会 席 に て
一 統 相 談 相 決 し正 五 六七 八月 荷 物 無 数 時分 故 相 除 残 り七 月 矢 張 是 まで 通 り順 番 に 出役 可 致 取 締 候
所 当 卯 年 初 寄 会 の 瑚 一統 相談 の 上以 前 の通 り正 月 よ り極 月 迄 の 内七 月 分 相 除 き残 り月 順 番 に 出役
人 柄撰 郷 々よ り出勤 の筈 に相 決 候 事( の)」
と あ る よ うに,大 阪 に は 吉 野 山 元 材 木 商 人 の代 表 が 常駐 し
て い た の で あ る。 彼 らは 木材 相場 そ の他 の情 報 を 山元 へ 送 った り,流 通 の 不 正 な どの監 視 に あ た
った の で あ ろ う。 ま た,前 に もみ た天 保8(1837)年
の 「会 席 評談 記( ラ)」
に よ る と,大 阪支 配 人 と し
て小 泉 屋覚 兵 衛 と い う ものが 存 在 した こ とが わ か る。 彼 の役 目は 和 歌 山 に お け る支 配 人 と同様 だ
った と考 え られ る。 大 阪 に対 して も,和 歌 山 と同 様 に厳 しい 監視 体 制 を,吉 野 山元 は敷 い て いた
ので あ る。
さて,前 述 した よ う に,大 阪 問 屋 は 山 元 荷主 か ら委託 を受 けて 販 売 す る問 屋 で あ った が,こ の
よ うな受 託 販 売 問 屋 と吉 野 山 元 との 関係 に つ い て は,す で に和 歌 山問 屋 の 項 に お い て み た 通 りで
あ る。 大 阪 問 屋 も単 に 流 通過 程 の一 環 を担 うの み に お しと ど め られ て い た と考 え られ る。
134
あ
以 上,江
と
が
き
戸 時 代 後 期 を 中 心 と す る吉 野 林 業 の 生 産 流 通 機 構 に つ い て み て き た 。 か な り 大 胆 に ま
と めて み る と以 下 の ご と くで あ る。
一般に
,流
通 担 当 者 は 常 に 「商 人 」 た ろ う とす る 性 向 を 有 す る が,吉
山 元 材 木 商 人 に よ り こ の よ う な 性 向 の 発 現 は 封 じ ら れ,結
を 単 に 担 い,そ
野 材 流 通 過程 に お い て は
局 流 通 担 当 者 は,そ
れ ぞ れ 流通 の一 環
れ に 見 合 っ た 賃 金 あ る い は 手 数 料 を 取 得 す る の み に と ど ま っ た 。 か な り 「近 代 」
を 思 わ せ る 流 通 機 構 が,山
元 材 木 商 人 の イ ニ シ ァ テ ィ ヴ の も と に 成 立 して い た の で あ る。 か か る
流 通 機 構 の 成 立 に よ っ て,大
れ る こ と に な る 。 ま た,流
阪 あ る い は和 歌 山市 場 で の木 材 価 格 が 直 接 山 元 の 山 林価 格 へ 反 映 さ
通 機 構 の 成 立,特
小 木 ・末 木 ま で 商 品 化 で き る こ と,3)材
て す み代 金 が 早 く手 に 入 い る こ と,な
植 林 活 動 を 展 開 し,ま
に 筏 流 路 の 整 備 は,1)運
賃 が 安 くな る こ と,2)
木 の い た み が 少 な く な る こ と,4)輸
ど を も た ら した 。 こ の 結 果,奥
送 日数 が少 な く
郷 の 農 民 は,一
方 で旺 盛 な
た 一 方 で 小 前 商 人 と して 伐 出 過 程 を も把 握 す る よ う に な っ た 。 ま た,こ
よ う な 生 産 流 通 機 構 の 確 立 に 伴 い,奥
の
郷 の 「材 木 商 ひ 」 は 口 郷 に お い て 日 用 品 な ど の 流 通 に よ り
資 金 を徐 々 に 蓄 積 し て い た 商 人 に と って 比 較 的 有 利 な 投 資 対 象 と な っ た 。 そ こ で 彼 らの 一 部 は 材
木 仕 入 問 屋 と して 活 動 を 開 始 し た 。 こ の 仕 入 問 屋 の 発 生 は,ま
た 奥 郷 小 前 商 人 を よ り一 層 広 汎 に
展 開 さ せ る こ と に な っ た の で あ る 。 そ し て 奥 郷 の 「小 前 」 層 を 主 と す る 材 木 商 人 は 村 落 共 同 体 的
結 合 を 基 礎 と し,口 郷 の 仕 入 問 屋 を 金 融 機 関 と し て 活 用 し な が ら,吉
い た の で あ る 。 こ の よ う な 関 係 に お い て 江 戸 時 代 末 期 に は,筏
っ た 。 こ れ は 明 治 期(明
治10年5万2:F床,明
野 林 業 生 産 の 中 枢 を 担 って
に して5万1千
治17年3万6千
床,明
床 を 生 産 す るに 至
治30年6万2千
床(けラ))
の 木 材生 産 量 に 匹敵 す る もので あ った。
な お,本
小 論 の 作 製 に あ た り一 部,谷
せ て い た だ い た 。 ま た,収
弥 兵 衛 氏 が 収 集 さ れ た 史 料(引
用 文 献9,37)を
集 史 料 の 解 読 に は 京 大 大 学 院 文 学 研 究 科 に 在 学 して お られ た 上 野 洋 三
氏 を煩 わ した 。 記 して 謝 意 を表 した い。
引
用
文
献
1)笠 井 恭 悦 吉 野林 業 の発 展 構 造,宇 都 宮 大 学 農学 部 学 術 報 告 特 輯
2)同
上70頁
の表 よ り算 出
3)西 川 善 介
林業 経 済 史 論(3),林
第15号,(1962)
業 経 済137号25頁
4)松 島 良 雄 吉 野 の ス ギ林 業,佐 藤 弥 太 郎 監 修 「ス ギ の研 究 」所 収,688頁
5)前 掲1),3頁
6)川 上 村 白屋 区 横 谷家 文 書:「 国櫟 郷 中庄 郷 池 田 郷〇 二 付 川 上 小 川取 締 書 」 文 政11(1828)年
7)同
上:同
上
8)前 掲1),60頁
9)土 倉 家 文 書:「 材 木 仕込 きわ め一 札 之 事 」 文 政6(1823)年
10)④
横 谷 家 文書
「材 木 商 人方 極 書 帳 」 文 化12(1815)年
◎
⑪
同
同
上
上
㊥
同
上
㊥ 同
上
㊦ 白屋 区有 文書
㊦ 同
上
11)前 掲6)
使用 さ
「材 木 商 人方 極 書 帳(表 紙欠)」 文 政1(1818)年
「商 人 初 寄会 取 締 之 事 」 安 政5(1858)年
∼ 文 政5(1822)年
「極 メ書 之事 」 文 久3(1863)年
「商 人 初 寄諸 事 取 締 書 」 明 治5(1872)年
「好 キ 寄 組 極 め書 覚 帳 」 寛 政6(1794)年
「字 図 」 明 治8(1875)年
12)同
上
13)小 川 郷 木 材 林 産組 合 文書:「 国櫟 郷 中庄 郷 池 田 郷組 合 取 締 書 」文 政11(1828)年
135
14)岡
光 夫:私 有林 に お け る市 場 の展 開 と商 業 資本
農 業 経 済3号(1958)4頁
半 田良 一 ・森 田学 ・山 田達 夫:吉 野 にお け る借 地林 業 の 形 成 と展 開,京 大演 報,39(1967)187頁
15)前 掲10)
16)林 業 発 達 史 調 査 会:吉 野 黒 滝 郷 林業 史
17)前 掲10)e
18)前 掲10)
19)前 掲6)
20)前 掲16)
21)前 掲1)31∼35頁
22)永 島福 太 郎:在 郷 町上 市 ・下 市 の発 達,「 奈 良 県総 合 文 化 調 査 報告 書 吉 野 川 流域 」 所収
23)同
上:同
上
24)小 川 郷 木 材 林 産組 合 文 書:「
25)前 手
昌13)
26)前 掲6)
27)小 川郷 木 材 林 産 組 合文 書:「
口役 銀一 件 控 」 文 化6(1809)年
口上 」 文政11(::)年
28)前 掲22)
29)前 掲3)25頁
30)小 川郷 木 材 林 産組 合文 書:「 乍 恐以 書付 御 歎 奉 願上 候 」 嘉 永7(1854)年
31)森 庄一 郎:吉 野 林業 全書
32)前 掲16)
33)川 上 村上 垣 氏 よ りの 聞取 り
34)小 川 郷木 材 林 産 組 合 文書:「 乍 恐以 書附 御 願 奉 申上 候 」 文 政11(1828)年
35)同
上:「 乍 恐 奉 御歎 願 候 」 慶応1(1865)年
36)前 掲10)◎
37)西 吉 野森 林 組 合 文 書:「 差 入 申議 謎 之事 」 弘化2(1845)年
38)小 川 郷 木材 林 産 組 合 文書:「 一 札 之 事」 寛 政5(1793)年
39)前 掲24)
40)小 川郷 木 材 林 産 組 合 文書:「 材 木 商 人取 締 一 札 」 文化4(1807)年
41)山 林 局:室 蘭 外十 六 市 場 木 材 商 況 調 査書,(1909)
42)小 川 郷木 材 林 産 組 合 文書:「 一 札 」 天保7(1836)年
43)前 掲16)
44)前 掲30)
45)小 川郷 木 材 林 産組 合文 書:「 乍 恐 添願 奉 差 上 候 口上 」 嘉 永7(1854)年
46)同
47)前 掲10)◎
上:「 願 書 之下 書 控 」 嘉 永2(1849)年
48)小 川郷 木 材 林 産組 合 文 書:「 和 歌 山舟 手 定 助 治 郎右 衛 門 江 よ しの材 木 方6銀 子 貸渡 候訳 諸 事 控 書」 天
保13(1842)年
49)同
上:「 御免 極 印打 方 之 事 」享 和2(1802)年
50)前 掲10)㊥
51)小 川郷 木 材 林 産組 合 文 書:「 郷 中小 前 商 人 頼書 」天 保4(1833)年
52)同
上:「 和 歌 山 船手 出入 之 願書 写 」 享 和2(1802)年
53)前 掲40)
54)同 上
55)小 川 郷 木 材 林 産組 合 文 書:「 飯 貝 御 口役 所 願 書 」文 政11(1828)年
56)前 掲30)
57)前 掲40)
58)小 川 郷 木 材 林 産組 合 文 書:「 若 山 仲 買舟 方 一 件 会談 帳 」 天 保13(1842)年
59)前 掲10)⑳
60)前 掲48)
61)前 掲1)565頁
62)小 川 郷 木 材 林 産組 合 文 書:「 大 坂寺 嶋 一 件 始 末 書記 」 寛 政12(1800)年
63)前 掲10)◎
64)前 掲52)
65)前 掲10)◎
66)小 川 郷 木 材 林 産組 合 文 書:「 会席 評談 記 」 天 保8(1837)年
67)笠 井恭 悦:林 野 制度 の発 展 と山村 経 済,282頁
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Résumé
In this paper, the author discusses the timber merchants of Yoshino district, called
`Yoshino-yamamoto-shonin', and the persons in charge of timber circulation in the
latter part of the Edo period.
The facts found in this study are as follows;
1. `Yoshino-yamamoto-shonin' consist of three kinds of timber merchants: Omodachishonin, merchants on a large scale in the central area of Yoshino; Komae-shonin,merchants
on a small scale, also in the central area, and Shiire-donya,a sort of financial merchant in
the outer area of Yoshino.
2. Almost half of the villagers worked as Komae merchant, and played an important
part in timber production.
3. Omodachi merchants and Shiire-donya merchants provided sufficient finances for
Komae merchants.
4. The timber merchants had union to look after their interests, in the village, in
the Go (consisting of several villages), and in the Gun (consisting of several Go).
5. The timber products made into rafts were floated to Wakayama where some of
them were sold to brokers. The rest were transported to Osaka by ship and were sold
there.
6. The timber merchants at Yoshino took the lead in the entire process of timber circulation.
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