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ある経営者との対話 - 一橋大学経済学研究科

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ある経営者との対話 - 一橋大学経済学研究科
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第 3章
ある経 営 者 との対 話
「それじゃ、ここで、白 でも、黒 で
もいいから、『ホッピー飲 みながら』
ってのはどうだ。ホッピーに勝 つ
料 理 だったら、どうとでもなるだろ
う」という提 案 は、なぜか、私 に
は魅 力 的 に思 えた。
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昨 年 の居 酒 屋 でのことだったと思 う。長 い付 き合 いのある新 聞 記 者
は、白 ホッピーの入 ったジョッキを片 手 に「○×のオヤジと会 ってくれないか」
と私 にいった。○×は、都 内 の地 名 だったが、まったく要 領 を得 なかった
ので、「○×のオヤジって誰 だ」と聞 いた。そうすると、著 名 な経 営 者 の名
前 があがった。
「なぜ、俺 が? お前 知 っているだろう、俺 が、公 の場 以 外 では、経 営
者 にも、政 治 家 にも会 わないってことを。これは、俺 のポリシーだ!」と言 い
返 した。「何 を青 臭 いことをいって、なんで、そんな方 針 にこだわるんだ」と
いう彼 には、「会 って転 んだ優 秀 な研 究 者 を何 人 も見 てきたから」といい
かけたが、結 局 、「性 に合 わないのさ」とだけいった。
「高 級 料 亭 でうまいものを、たんまり食 いながらでもダメか」といってくるか
ら、「それでも、ダメだ。高 級 料 亭 ってところは、旨 い酒 は出 ても、それに見
合 う美 味 しい料 理 なんて出 て来 やしない」と、つれなく返 事 をした。ただ、
「それじゃ、ここで、白 でも、黒 でもいいから、『ホッピー飲 みながら』ってのは
どうだ。ホッピーに勝 つ料 理 だったら、どうとでもなるだろう」という提 案 は、
なぜか、私 には魅 力 的 に思 えた。「ジーパンでもいいか」と聞 いたら、「膝
のところが擦 り切 れて、ワッペンべたべたっていうのでもいいぞ」というものだ
から、この居 酒 屋 で経 営 者 と会 うことにした。
1 週 間 後 の 5 時 に同 じ居 酒 屋 で経 営 者 と落 ち合 うことになった。彼 は、
カジュアルな姿 で現 れたが、60 歳 代 半 ばぐらいだろうか(そうすると、私 より
10 歳 ほど 年 上 になる )。私 は、テレビで経 営 者 の顔 を 知 っていたので、
「会 長 、こちらですよ」と手 をあげた。経 営 者 は、「先 生 、会 長 は止 めてく
ださいよ。さん付 けでお願 いしますよ」と提 案 した。しかし、「そちらも、『先 生 』
だから、こちらも、『会 長 』でよいじゃないですか」という再 提 案 で、「会 長 」、
「先 生 」のままとなった。
経 営 者 は、「ホッピーとは、ひさしぶりだな」と、まんざらでもないふうに杯
を進 めていた。単 に愚 痴 を聞 いてほしいというのが、経 営 者 が私 に会 い
たがった理 由 らしい。もう少 し若 いころは、「なぜ、私 なんですか」と聞 いた
ものだが、歳 をとってきて、そういうことを聞 くのが面 倒 くさくなった。
「最 近 、政 府 がうるさくて、箸 の上 げ下 ろしにいちいち文 句 をいってくる」
と愚 痴 が始 まった。「賃 上 げのことですか」と聞 くと、「賃 上 げは、どうとでも
ごまかせる」とはっきりといった。たとえベースアップをしても、賞 与 のところで
調 整 できるし、それでも足 りなければ、正 規 雇 用 を非 正 規 雇 用 に切 り替
えればいいからだそうだ。「賃 上 げで政 府 に恩 を売 れるんだったら、いくらで
も政 府 に協 力 するよ」と笑 っていた。
経 営 者 の口 から出 てくる言 葉 は、労 働 者 にとって心 地 が良 いもので
はなかったが、5 時 からの飲 食 ということもあって、私 たちの周 りには、人 が
それほど多 くなかった。経 営 者 のあまりに屈 託 のない言 葉 に、正 規 と非
正 規 の区 別 をあまりに便 宜 に用 いていると、経 営 側 も、正 規 従 業 員 側
も、いつかしっぺ返 しを食 らうのでないかと、若 干 不 安 を覚 えたが、私 は、
あえて口 にしなかった。
「それでは、何 が」という私 の一 言 は、経 営 者 の愚 痴 の導 火 線 に火 を
付 けてしまった。
「『銀 行 からカネを借 りろ、借 りろ』と、政 府 の連 中 がうるさいんだ。日
銀 は、さすがに事 業 会 社 に直 接 いってこないが、民 間 銀 行 には、あれで
もか、これでもかって感 じで、融 資 を後 押 ししているっていうじゃないか。日
銀 は、民 間 銀 行 に低 利 で融 資 までしている。金 利 が、すでにとんでもなく
低 いのにだ」
「おまけに、カネの使 い道 にまで、口 をはさんでくる。××地 域 の方 に、
工 場 を建 てろ、○○の補 助 金 事 業 に見 合 うような設 備 投 資 をしろ、政
府 の成 長 戦 略 のシンボルになるような投 資 をしろと、とにかくうるさい。工
場 の規 模 縮 小 や撤 退 をしようものなら、△△の補 助 金 を付 けるから、残
ってくれといってくる。政 府 も、日 銀 も、一 体 全 体 、なんてことなんだ!」
経 営 者 の口 からは、政 府 や日 銀 を呪 う言 葉 が次 から次 に出 てきた。
黒 ホッピーの入 ったジョッキを片 手 に、「先 生 さ、企 業 が投 資 するって、
命 懸 けなんだよ。もちろん、人 間 様 の命 じゃなくて、たかが企 業 の命 にす
ぎないけれど、投 資 に失 敗 すれば、すぐに倒 産 さ」と弁 じた。「経 営 者 は、
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会 社 の行 く末 を考 えに考 え抜 いて、機 械 を導 入 する、工 場 を建 てる、研
究 開 発 をする。いったん決 めたら、おいそれと、撤 回 できない。『投 資 する』
っていうのは、未 来 にコミットメントするってことなんだ!」
私 が「投 資 が未 来 へのコミットメントですか、良 い文 言 ですね」と評 論
家 めいたことをいったら、「だから、大 学 の先 生 は、お気 楽 だな」と返 してき
た。「それで、会 長 は、財 界 の役 職 をすべて退 いたわけですか」というと、
「そう、全 部 辞 めた。なまじ、財 界 活 動 になんて足 を突 っ込 んでいると、政
府 や日 銀 に足 を引 っ張 られるだけだ。今 は、会 社 経 営 に専 念 している」
と声 を荒 げた。
「それで、先 生 は、俺 の話 をどう思 う?」と切 り出 してきた。私 は、不 意
を突 かれたように、「といわれても」と口 ごもってしまった。
「先 生 の新 書 『競 争 の作 法 』は、サブタイトルが、『いかに働 き、投 資
するか』じゃないか。競 争 、労 働 、投 資 を本 のタイトルにする先 生 に意 見
が聞 きたかったんだ。普 通 だったら、競 争 も、労 働 も、投 資 も、自 らの『幸
福 』のためにやるんだから、タイトルに、幸 福 云 々とした方 が、読 者 の受 け
が良 いに決 まっている。それを、みんなが敬 遠 しそうな競 争 がメインで、労
働 と投 資 がサブのタイトルだから、どんな奴 かって、興 味 が湧 いて、新 書
を手 に取 った。内 容 は、あれだな、納 得 するところもあったが、ちょっとばか
りというか、相 当 、ずれているなってところもあった。特 に、同 業 の経 営 者
に対 して、こっぴどくいう性 根 が気 に食 わなかった」と続 けざまにしゃべっ
た。
そういうことだったのかと思 いつつ、「そういっていただいた会 長 には恐 縮
なのですが、私 は、本 のタイトルに『ハピネス』という言 葉 を入 れたかったん
ですが、『柔 すぎる』と編 集 者 に拒 否 されたんですよ」と、やっと口 をはさめ
た。「それは、気 骨 のある編 集 者 だ。それで、どう思 うんだ」と再 び聞 いてき
た。
少 し思 案 して、「会 長 の話 と少 しずれるかもしれないですし、また、学 者
はお気 軽 だって落 胆 されるかもしれませんが、会 長 の会 社 の姿 が、日 本
経 済 の姿 とかなり重 なっているのかなと思 って、会 長 のお話 をうかがって
いました」というと、「どういうことだ」と聞 き返 した。「会 長 のいっていることっ
て、要 するに、金 利 が安 い、税 金 が低 い、補 助 金 を付 けるから、ってい
われても、将 来 のことを慮 れば、国 内 でおいそれと設 備 投 資 なんてできや
しないってことでしょう。会 長 のところだって、できれば早 く撤 退 したい工 場 さ
え持 っているわけですよね。実 は、ここ 10 年 のマクロ経 済 のデータを見 て
いると、会 長 のように思 っている経 営 者 の方 が、多 数 派 なんじゃないかな
と思 っているんですよ」と話 すと、「先 生 の話 が全 然 見 えてこない。どういう
ことだ」と再 び聞 き返 してきた。
「マクロ経 済 の企 業 動 向 というと、世 間 では、設 備 投 資 の水 準 がし
ばしば話 題 になりますが、私 は、あまり関 心 を持 っていません。設 備 投 資
水 準 がいくら高 くても、それが即 座 に資 本 設 備 ストックの拡 大 に結 び付 く
わけではありませんから。毎 年 、資 本 設 備 は、減 耗 するので」といいかけ
ると、「ゲンモウって何 だ」とたずねてきた。「資 本 設 備 が摩 耗 して、擦 り減
るから、減 耗 ですよ。企 業 会 計 でいえば、減 価 償 却 に相 当 すると考 えて
ください。資 本 設 備 が減 耗 する分 を上 回 る設 備 投 資 、すなわち、純 設
備 投 資 こそ、経 済 学 的 には重 要 な指 標 ですね」と話 すと、「ジュンって、
純 粋 の純 か」と聞 かれた。
「そうです。純 設 備 投 資 がポシティブであれば、資 本 設 備 ストックが拡
大 していくプロセスなので、将 来 、生 産 活 動 で生 み出 される価 値 も増 大
して、人 々は、より高 い水 準 の消 費 を享 受 することができます。逆 に、設
備 投 資 がネガティブであれば、将 来 、産 み出 される価 値 が縮 小 して、
人 々は、より低 い水 準 の消 費 を強 いられるわけです」
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「何 だか、先 生 から講 義 を受 けているみたいだな。設 備 投 資 水 準 が、
資 本 ゲンモウっていったっけ、そのゲンモウ分 とちょうど見 合 って、純 設 備
投 資 がゼロだったら、生 産 水 準 も、消 費 水 準 も、現 状 維 持 ってことだろ
う」と得 意 気 だったので、「さすが、会 長 、分 かりが早 い!」と茶 化 すと、
「馬 鹿 にするな」と笑 っていた。
「昨 日 の講 義 用 に準 備 したものなんですが、ちょっと面 白 いグラフを持
っていますよ」といって、鞄 からグラフ(図 3-1)を取 り出 した。「マクロ経
済 統 計 では、経 済 全 体 の純 設 備 投 資 に相 当 するのが、純 固 定 資 本
形 成 。この図 は、物 価 水 準 の変 化 を調 整 した実 質 純 固 定 資 本 形 成
について、1994 年 以 降 の推 移 を描 いています。実 線 は水 準 で、点 線 は、
右 目 盛 りだけど、実 質 GDP に対 する比 率 。すごい変 化 でしょう」と、経 営
者 に対 してグラフに注 目 するように促 した。
「確 かに、すごいな。実 質 GDP に対 して 10%近 くあったものが、1998 年
以 降 、急 激 に低 下 して、2002 年 以 降 、2%の水 準 を下 回 った。急 激 な
下 落 だ」と、経 営 者 はやや興 奮 気 味 だった。「やや大 雑 把 すぎるかもし
れませんが、対 実 質 GDP でプラス・マイナス 2%の範 囲 は、ゼロ近 傍 だと
すると、2002 年 以 降 は、日 本 経 済 全 体 の純 設 備 投 資 がほぼゼロで推
移 していることになりますね。2002 年 から 2007 年 は、『戦 後 最 長 の景 気
回 復 期 』ですが、好 景 気 でも、純 設 備 投 資 は、ほぼゼロ」、「ということだ
な」と、経 営 者 は私 の言 葉 を継 いだ。
私 は、「ただ、日 本 経 済 はすでに成 熟 していて、資 本 設 備 ストックの水
準 は非 常 に高 く、その結 果 、毎 年 の資 本 減 耗 分 も巨 額 なので、それを
打 ち消 すだけの設 備 投 資 水 準 は保 たれています」と解 説 をして、さらには、
「現 状 維 持 もなかなか大 変 ということになりますね」と感 想 めいたことも述
べた。
「いずれにしても、将 来 も、現 状 維 持 が相 場 っていうことか」「そうなりま
すね。先 ほど、会 長 の会 社 が日 本 経 済 と重 なるっていったのも、将 来 に
向 けて現 状 維 持 が相 場 観 のところで、政 府 や日 銀 に、カネ借 りて、投
資 しろと、いくらいわれても、うっとうしいだけですね」「そうだな。それでも、政
府 の要 請 に根 負 けして、政 府 の言 うなりに、経 営 者 たちが設 備 投 資 を
実 行 したらどうなる?」「余 分 な設 備 投 資 をするわけですから、投 資 収 益
も上 がらないままに、過 剰 設 備 の運 命 じゃないですかね」
経 営 者 は、「そうか…」といったかと思 うと、「ところで」と話 題 を転 じた。
「先 生 を紹 介 してくれた新 聞 記 者 がいっていたけど、先 生 は、経 営 者
にも、政 治 家 にも、会 わないんだって。もっと、いろいろな人 と頻 繁 に会 っ
て、今 日 みたくな話 をすればいいんだ。楽 しかったぞ」
「会 長 とは、今 日 一 度 きりだから、楽 しかったんですよ。会 長 が 60 年
以 上 生 きてきて、私 が 50 年 以 上 生 きてきて、居 酒 屋 でせいぜい 2 時 間
駄 弁 るだけですから、面 白 いネタも見 つかるのが当 然 じゃないですか。そ
れが、定 期 的 に会 うってことになれば、そうはいかないでしょう」
「それじゃ、先 生 は、象 牙 の塔 に籠 りきりで、実 社 会 とは没 交 渉 かい」
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「ほとんど毎 日 、大 学 の研 究 室 通 いなので、象 牙 の塔 には籠 ってい
ますが、実 社 会 に対 しては、野 次 馬 根 性 丸 出 しですよ。自 分 でいうのも
変 ですが、日 本 と世 界 のデータを、ここまで観 ている経 済 学 者 なんて、そ
んなにいないと思 いますよ」
「でも、出 し惜 しみしているじゃないか」
「全 然 。会 長 も、どうせ斜 め読 みでしょうけど、私 の書 いた本 を読 んでく
れたじゃないですか。読 者 に手 にとってもらえるほどには魅 力 があって、いざ、
読 みだすと、読 者 の気 持 ちを、ほんの少 し逆 なでして、彼 ・彼 女 の頭 の
中 に化 学 反 応 を起 こさせればいいわけですから。私 の書 いたものは、ベス
トセラーとはいきませんが、それでも、何 千 人 という読 者 が手 に取 ってくれ
るわけです。こうして一 対 一 で会 長 と話 しているより、本 っていうのは、ずっ
と影 響 力 があるわけですよ」
「そういうものか… 俺 には、よく分 からんな」
少 し前 から、運 転 手 らしい人 が居 酒 屋 の入 口 の方 で待 っていた。経
営 者 が、勘 定 を持 とうとしたが、私 は、割 り勘 をお願 いした。白 黒 のホッピ
ー1 本 ずつに、数 杯 だけ焼 酎 のお替 わりをして、ちょっとしたツマミを頼 んだ
だけだったので、一 人 2,500 円 にもならなかった。経 営 者 が「また、今 度 」
と笑 っていうものだから、私 も、「積 もり積 もった話 となると、せめて 10 年 後
でしょうか」と笑 って別 れた。
経 営 者 が政 府 への憤 懣 から財 界 の職 を辞 したわけではなかったことを
知 ったのは、その半 年 後 に彼 の訃 報 に接 した時 だった。
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〈定 常 〉で「投 資 する」とは?
と同 じである。
日 本 経 済 は、公 的 部 門 も含 めた固 定 資 本 形 成 (名 目 )は、1994 年 に 140
兆 円 あったものが、21 世 紀 に入 ると、120 兆 円 を切 り、2013 年 には 100 兆 円
を割 り込 んだ(図 3-2)。一 方 、固 定 資 本 減 耗 (名 目 )は、資 本 設 備 ストックが
「ある経 営 者 との対 話 」では、「会 長 」と「先 生 」の間 で、定 常 状 態 の近 傍
にある日 本 経 済 における設 備 投 資 のあり様 が、居 酒 屋 で「考 察 」というのも不
具 合 な表 現 かもしれないが、とにかく考 察 されている。
経 済 全 体 の資 本 設 備 ストックが定 常 状 態 にあるとは、ストックを引 き上 げる方
積 み 増 さ れ る に し た が っ て 、 9 0 兆 円 か ら 11 0 兆 円 に 緩 や か に 上 昇 し 、 2 0 0 8 年
をピークに 100 兆 円 強 の水 準 で横 ばいとなった。
固 定 資 本 形 成 と固 定 資 本 減 耗 の差 である純 固 定 資 本 形 成 (純 設 備 投 資 )
は低 下 傾 向 が続 き、1994 年 の 50 兆 円 から、21 世 紀 に入 ると 10 兆 円 強 の
向 に貢 献 する設 備 投 資 (マクロ経 済 統 計 では固 定 資 本 形 成 )と、ストックを引
水 準 まで低 下 し、2009 年 以 降 は、わずかながらだが、マイナスに転 じた。「会
き下 げる方 向 に働 く減 価 償 却 (マクロ経 済 統 計 では固 定 資 本 減 耗 )とがちょう
長 」と「先 生 」の対 話 にあったように、21 世 紀 に入 った日 本 経 済 は、資 本 設 備
ど釣 り合 って、資 本 設 備 ストックが一 定 の水 準 で推 移 するような状 態 である。
ストックの面 で定 常 状 態 の近 傍 にあるといってよいであろう。
資 本 設 備 ストックの水 準 だけで見 れば、経 済 が静 止 しているようにみえるが、そ
「会 長 」が苦 悩 するように、定 常 状 態 における投 資 決 定 は、非 常 に難 しい。
の背 後 で相 反 する力 がぶつかり合 って均 衡 が生 じている点 は、他 の定 常 状 態
経 済 が拡 大 する局 面 であれば、投 資 の失 敗 も、「企 業 の成 長 」の果 実 で尻 拭
いすることができる。しかし、定 常 状 態 においては、投 資 の失 敗 は、尻 拭 いする
余 裕 がなく、「企 業 の死 」に直 結 する。そうした可 能 性 が常 にあるので、低 利 、
減 税 、補 助 金 と設 備 投 資 推 進 のメニューを並 べられても、企 業 は慎 重 となる
わけである。
2002 年 から 2007 年 にかけての輸 出 主 導 の景 気 回 復 期 にあっても、固 定
資 本 形 成 が固 定 資 本 減 耗 を 10 兆 円 強 上 回 っただけであった。成 長 戦 略 を
考 案 するときには、設 備 投 資 の低 迷 が、つい最 近 に始 まったわけではないこと
を肝 に銘 じておくべきであろう。
「ある経 営 者 との対 話 」を理 解 する上 で、マクロ経 済 学 において、設 備 投
資 行 動 がどのように位 置 付 けられているのかをおさらいしておくことも、けっして
無 駄 でないと思 う。
マクロ経 済 学 では、「現 在 の投 資 は、未 来 の消 費 のため」と考 えられている。
本 書 の性 格 と紙 幅 の関 係 から詳 しい説 明 をすることはできないが、設 備 投
資 と消 費 には、以 下 の関 係 が成 り立 っている。
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将 来 の消 費 ―現 在 の消 費 =純 設 備 投 資 (純 固 定 資 本 形 成 )
ハイゼンベルク あることに意 味 があるとすれば、それは数 学 的 な意 味
です。
すなわち、設 備 投 資 が減 価 償 却 を上 回 って、資 本 設 備 が積 み増 される場
ボーア つまり君 は、数 学 が成 り立 っていれば、意 味 はどうでもいいと。
合 、将 来 の消 費 が現 在 の消 費 よりも改 善 されることが見 込 まれている。逆 にい
ハイゼンベルク 数 学 こそ「意 味 」なんです!それが、意 味 があるというこ
うと、将 来 の消 費 が現 在 の消 費 よりも改 善 されるかぎりにおいて、資 本 設 備 が
とです。
積 み増 される。
ボーア だが、最 終 的 には、いいかい、最 終 的 には、わたしたちはマルグ
純 設 備 投 資 がゼロ近 傍 である場 合 は、「経 営 者 」のいうとおり、将 来 の消 費
レーテに説 明 できなければならないんだよ!
は、現 状 維 持 ということになる。純 設 備 投 資 が負 であると、現 在 の消 費 に比 べ
て、将 来 の消 費 は低 下 する。
実 は、「会 長 」と「先 生 」の設 備 投 資 をめぐる対 話 は、2007 年 に日 本 経 済
少 し言 い方 を換 えてみると、「現 在 の投 資 のために犠 牲 となる現 在 の消 費 」
学 会 ・石 川 賞 を頂 いたときの受 賞 講 演 「家 計 消 費 と設 備 投 資 の代 替 性 につ
と「現 在 の投 資 によって可 能 となる未 来 の消 費 」を天 秤 にかけていることになる。
いて:最 近 の日 本 経 済 の資 本 蓄 積 を踏 まえて」(『現 代 経 済 学 の潮 流 』〔東 洋
もっと分 かりやすい言 葉 を使 うとすれば、現 在 の投 資 のコストは現 在 の消 費 で、
経 済 新 報 社 、2008 年 〕に所 収 )で論 じたことを下 敷 きにしている。
現 在 の投 資 のベネフィットは未 来 の消 費 である。
「投 資 」という言 葉 が、時 として輝 かしいイメージを人 々に与 えるのは、「(消 費
そんな論 文 の内 容 を、経 済 学 小 説 の素 材 に用 いたのも、『コペンハーゲン』
のボーアの台 詞 「だが、最 終 的 には、いいかい、最 終 的 には、わたしたちはマ
水 準 が向 上 するという意 味 で)豊 かな未 来 」を含 意 しているからであろう。「現
ルグレーテに説 明 できなければならないんだよ!」が、頭 のどこかに残 っていた
在 、将 来 の豊 かさのためであれば、現 在 の犠 牲 はいとわない」という殉 教 精 神
からなのかもしれない。
にも似 た信 条 をもって語 られることさえある。
しかし、「会 長 」が懸 念 するように、投 資 が失 敗 すれば、企 業 に「死 」がもたら
されるだけでない。経 済 全 体 としては、投 資 のために犠 牲 にした過 去 の消 費 も、
投 資 の果 実 として約 束 された現 在 の消 費 も、どちらも失 われてしまうのである。
おそらくは、「余 分 な設 備 投 資 をするわけですから、投 資 収 益 も上 がらないまま
に、過 剰 設 備 の運 命 じゃないですかね」と語 る「先 生 」の懸 念 は、むしろこちら
の方 にあるのであろう。
まったく別 の話 になってしまうが、マイケル・フレイン作 『コペンハーゲン』(小
田 島 恒 志 訳 、劇 書 房 、2001 年 )という演 劇 には、2 人 の物 理 学 者 ニルス・ボ
ーアとヴェルナー・ハイゼンベルクの間 で次 のようなやりとりがある。なお、マルグ
レーテはボーアの妻 である。
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