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副リ品
9.10
第21号
山形県の歴史と博物館
大
友
義
助
ここ数年来、 歴史ブームが続いている白 ただに
成立。 これらは単K政治史上の変遷に過ぎなし、。
戦争などの国家 的大事件や英雄偉人の事蹟を追う
この裏には、 名もない庶民の血の にじむような日
の ではなく、 自分の住む村や町の歩みを知り、 祖
々があった。 山形の風土 が生みだした、 これらの
先の足跡をたしかめようとする動きも盛んである。
幾多の光栄と悲惨、 よろこびとかなしみの上κ、
私 達の 今日がある。
この 動きは単κ懐古趣味とのみは言い切れないも
のがあるo む し ろ、 最近の余りにも激しい社会変
最近の調査研究によって、 多くの遺物,遺構、
動の中で、 ともすれば見失いがちな自己の位置を
文書,記録などが発見され、 徐々にではあるが、
確め、 将来 の 方向を定める手がかりを求めよう
山形県の姿が、 さらκ明らかにされつつ ある。 こ
とする意識が強いように思われる。 歴史は過去を
のような資料をもとにして、 私 達は如何なる新し
懐しむよりも、 明 日を生き抜くために必要なので
い山形県の歴史を構成すべ きで あろうか。 ここに
ある。
博物館の使命の一つがあるようι患われる円 つま
山形県に人が住 みはじめたのは、 数万年も前で
り、 祖先の歩 みを 語る確かな資料を収集し、 これ
あるとし、ぅ。 それから今日まで、 いくつかの断絶
を整理保存し、 一定の秩序のもとに展示して、 広
があるかも知れないが、 営々として人々の生が営
く県民K自らの足跡を読みとって貰うことである。
まれてきた。 長い石器時代、 古代出羽国時代、 中
これは容易なことではないが、 せめて特色ある山
世から近世にかけての武将の割拠と戦乱、 江戸時
形県の歴史を、 一つの流れとして把み侍る展示 だ
代諸藩政の展開、 やがて明治新政と統一山形県の
けは、 実現しなければならないと考える。
第2 1号
山形県立博物館ニュース
(2)
秋の催し展)
と
山
花
展
山形を語るKは、 山形県の諸高山をぬきにして
語ることができなし.、。 県民生活K密着し、 すく・ れ
た県民性を育 くんできた 日父なる山、、 も、 いま は
静寂を取り戻し、 原始のたたずまいのなかにある。
今 夏も、 この秀麗κして格詞ある連山に、 全国
各地の人々と多くの県民が、 山と花を尋ねてにぎ
わい、 そのすばらしさを満喫 した。
この催 しは、 山形県の「山と花Jを写真をとお
して、 県 民K紹介し、 山形県の「自然、の 美と価値」
を再発見していただくために開かれるもので、すo
おさそいあわせの上、 多数ご観覧 くださるよう
ご案内いたします。
|特 別 展|
日
本
の
石
斧
V
展
[ 1 0 . 1 5 ----11 .24 J
比較民族資料
尚本特別展において石箆・石鍬等も 広 い意味で
石斧の範暗にいれてあっかった口
l
擦切磨製斧
昭和 49 年の当館の特別展として「日本の石斧
展」が、 本館特別展示 室において 10月1 5日
(火)より閥催 されます。
石斧は特に新石器時代において日本は勿論世界
2
的に石銑とともに普遍的な石器 の一つであ り、 代
表的な石器の 1 つでもある口 文現在ニューギニア
の原住民は今もって石斧を使っている。 このよう
打製石斧
写真lは県内出土 の擦 切磨製石斧の1例である白
比較的大きな板状の火山岩を両側より挽き切り、
な我々にとって身近かな そして長い歴史の中にあ
刃部を磨き、 全体を整形 したものであるn その時
る「石斧」 とL、 う道 具にスポットライトをあて、
の磨切の痕跡が側縁K見られる。 東日本に特K分
山形県内κある石斧、 ひいては日本の主なる石斧
布し 、 本石斧(写真)は縄文時代前期頃のものと
を可能な限り一同に展示 し、
推測される口
「石斧」から見た先
史時代の人々の生活を考えてみたい。
I
山形県内出土の石斧
E
日本における各期・各地域の主要石斧
皿
石斧の形態・機能について
町
石斧の製作過程
写真2 は、 東北地 方に多く産出する頁岩(堆積
岩)製の 典型的な打製石斧である。大小種々の形
態があり、 機能 を考える好資料である。
極度な物質文明の昨今、 自然との 調和の中にあ
った生活の原点を見詰めてみたいものであるo
秋の l日をご案内いたします。
第 21号
(3)
山形県立博物館ニュース
山 形県のやきもの
小論文
最近の民芸ブームのなかで、 日用雑器であった
地 方窯の素朴な焼ものが人気を集めている。多く
見 かけ るこれらの焼ものは幕末から明治大正にか
けて焼かれ使用されてきたものだが、 文化・文政
・天保頃 にかけて県内に 多くの窯が聞かれ最盛期
には 22か 所にも及ぶ。し かし現在では山形市平
清水、 新圧市東山の 2か所を残すだけとなった口
これら却を越える窯がどのようにして聞かれたの
か系列や来歴、 その作 品などについては多く の研
究家の努力で次第K明らかにされつ Lあるが、 焼
ものはその土地の土の成分や自然紬薬の わずかな
違いが微妙に作用するので、 系列や歴史が文書の
上で明らかにされても焼もの それ自体には表現さ
れない場合もある。また代を重ねる古い窯では時
代とともに時に は京都或いは有固また益子といっ
た具合いκ方々の窯場の影響を受け一様ではなし、。
まして地理的 κも近い県内、 隣県窯との支流もあ
り複雑な様相を呈しているO ここでは紙数の都合
もあり既K消滅した窯をも含め、 現在見られる県
内の代表的な焼もの について類似点と相異点をあ
村 川信夫
て同系列と考えられる、成島系では分かれた白鷹
町十王焼,川西町京塚焼(小菅焼とも)があるo
成島と十王は特に似ていて、 頚が太くずんぐりし
た感じの頚から肩にかけて黒K白の灰紬を厚く流
しかけたすず徳利などは、 いずれか判別しがたい
ものがあるo 成島 にはロクロのよほど優れた人が
いたらしく、 細頚がすんなり伸び肩がなだらかで
極く薄手の見事なすず徳利があるが十王 にはなし、。
また両者の切立を比べると面白い、 成島の切立は
底部が聞いてガッシリ落っき角張っ て男性的 だが
(写真 1)十王の切立は底から丸味をおびて立ち
上り豊満で女性的な感じがあるo また十王の黒は
少しボソついて温かし、感じにみえる(写真 2)。
京塚焼は多くは残っていないが鉢類について成島
焼と比べてみると、 成島は厚手、 京塚はやや薄手
のようである。この系列のなまこはいずれも青 が
スーツとよく伸びる。
げながら考察を加え、 県内焼 もの鑑定の一助とし
fこ 、
ち白
1.
県内産焼ものを大別すると、 唐津を元とす
る「なまこ紬」の陶器 と伊万里風の磁器 とに分け
られる。なまこ紬では新庄東山,鶴岡大宝寺(白
灰紬も ある)があり、 飴又は黒になまこを流す米
沢成島,十王,京塚などがある。伊万里風の磁器
には山形平清水を中心κ展開した岩波.相倉門 伝
長根,東根猪野沢などの磁器 窯群があるo この
3クソレープ はそれぞれ非常κ近いよく似た作品を
作 るD これらとやL異質のものK白灰紬陶器の宮
内菖蒲沢,磁器の尾花沢上ノ畑がある白
3
3.
大宝寺焼すず徳利
4
5
東山焼土鍋
東山焼湯たムノぽ
東山・大宝寺なまこ紬κついて、 成島系の
ものとはその流れ方や色合いが全く違う ので混同
することはないが、 非常によく似た東 山と大宝寺
の聞に も微妙な違いがあるo ここのなまこ紬は、
1
成島焼 切立
2.
成島系なまこ紬について、 飴または黒氏ワ
2
十王焼切立
ラ灰とヌカ灰を流すなまこ紬は、 会津本郷焼K似
うっ すらと降った あわ雪のよう K、 白がムラムラ
と浮いた感じに見える。 湯たんぽ(写真5 )や湯
通しKは両者判別しにくいものがある。この場合
焼成温度の高い方が東山と考えてほぼ間違いなし、。
すず徳利を見ると大宝寺は船徳利型で特に頚κロ
クロ目が入り幾らか曲ったものが多L、(写真3.)
この手のものは大宝寺Kしかなし、。また土鍋(写
真4 )は東山の特産で大宝寺にはなし、。大宝寺に
はすず徳利、 片口などK白灰紬のものがある。貫
入の ものもあり一般に古びて見える。新潟県 太子
堂の白紬船徳利もあるが丸く大振りで貰入は無く
混 同することはなし、。(紙数の郁合で磁器は万IJの
機会κゆずる)
山形県立博物館ニュース
(4)
�
第21号
村山 市落合、 東根市猪野沢遺跡
考古資料
出 土の土器につい て
縄文文化は何と云っても絢嫡豪華 な 縄文式土器
で代表され、 中でも中期の土器 は その枠を極めて
し、る。当 館考古展示資料の数ある土器の中から今
回は次の2 点について紹介してみよう白
段積み上げたものであるo
E
東根市猪野沢遺跡出土の聾形土器
l寸縄文式土器ばなれしている土器である。 実
に曲線が美しし、。両さ60cm、 口径28cm、 底部12cmo
i
村山市土生田落合遺跡出土の深鉢土器
展示資料中最大の土器であるo 高さ 75 cm、 口
径51cmを計る。口縁部はやや外κ閥き 、 胴部が少
し張った エンタシス型の器形を呈する口 文様は地
文κ縄文を施し、 隆帯 による渦捲文や沈線によっ
て幾何的 文様が配されている。土器の製作は輪積
みによるものであり、 5
7cmr↑]の粘土帯を約10
頚 部VL4個の隆起する渦捲文を配し、 H両部以下底
婦にかけて微細な沈線が垂直に流れているo 特κ
頚部の渦捲文4個の 内l個だけは下に沈線が通り
その右側に経5mmη何突がある 口 美し い土器.、 見
せる土器であり、 どちらが正面(顔) VLなるので
あろ うか!輪 積 みによる土器である。
2 資料とも貯蔵 用の土器であろ う口
.....__
歴史資料
東根市薬師山 出土経塚遺物
東根市の東山麓、 花岡の地に薬師 寺がある白 慈
覚大師 の開基とい い、 古代出羽国の国分寺であっ
たよの伝 えすら残して いる口 国分寺はともかく、
村山地方でも古く聞かれた寺であることはたしか
である。お 堂の裏手の山は薬師山とよばれ、 頂上
からは村山盆地の大部分を眺望することができる。
この頂上附近には、 いくつかの経塚があったらし
い。写真の遺物はその一つから発見されたもので
ある。
経塚は仏教の経文を書写し、 これを地中に埋納
したものである口 この風習は平安時代の半ばごろ
から始まったといわれる白 当時、 世の乱れととも
K貴族の聞に末法意想が広がり、 釈迦の救えの失
わ れることを恐点、 これを紙や銅板・瓦などに書
き、 これを銅製・陶製などの筒に入れ、 さらにか
めとか石びつなどの容器κ 収め、 地中に石室をつ
くって埋納し、 弥動菩薩が誕生するまTの5 6億
7千万年の間保存しようとしたものである口
鎌倉・室町時代に至司て、 経塚を築く風はさら
に広まり、 江戸時代まで続 いた。時代とともK書
写する材料も変化し、 江戸時代Kは小さな河原石
(青 い石を選ぶ例が多 い)κ経文の文字を一字一
字写し、 里 から仰がれる高い山の頂上K埋納した
り した。い わゆる一宇一石経塚である。また、 経
塚を築く趣旨も変化し、 後Kは現世利益、 死後の
極薬往生を願うようになったといわれる。
経筒には、 経文とともに、 魔除けとして 銅鏡や
万子・銭などを収めることがある。ここKか かげ
た写真は、 この例である。右側の鏡は 11.3cm 、
鎌 倉時代のもの口 左側は鍍金した銅板κ阿弥陀如
来儀を線刻した御正体である0・
東根市大江亮清氏所蔵口
第21号
民俗資料
山形県立博物館ニュース
岩波焼
(5)
関東茶碗
一一一
山形市の平清水は幕末から陶磁器の生産地とし
て有名であるが、 その奥地にあたる岩波村(現在
は 山形市) も幕末からの陶磁器生産地で、あれ然
か も磁器生産にはじ めて成功し、 平清水焼の活路
を 生み出した所である。 山形市大字小立字鬼越κ
先祖代々藤十郎 を襲名している伊藤氏は陶器 製造
し た藤十郎氏から数えて五代自にあたる。 陶器を
造った藤十両は文化。年κ生れ会津・有 田の陶工
を招き弘化年聞に良質の磁器っくりに成功した。
初代藤十郎は「買石」の号や「圏」の崖号を生産
した磁器に書き付けてある。
二代目弥三郎は(後で藤十郎を継ぐ)号は碧山と
し、し、、 中皿などに美しい絵付をしており、 窯業の
みだ けで、なく、 岩波学校の教師を したといわれて
植物を絵付している所 から、 有田の瀬戸師から技
い る口 三代目の伊藤善作は号を太巌といい、 二 代
法を修得したと思われる円 しかし関 東茶碗の型は
目と同様に磁器の生産に努力したが、 工夫家で戸
県内の上の畑焼や平‘清水焼にもあるが、 岩波 焼K
車造りに成功してから四代目の兼吉氏も農業のか
は焼きあがった美しさが感じられる。 他に 博物館
た わらκ戸車の生産も大正初期に中止されるよう
κ寄託されている「山芸者の絵皿J (径己5cm)は
になった。 四代続いた岩波焼も交通の発達により
初代 藤十郎と弟子Z名が山芸者を囲みながら酒肴
大量の安い陶磁器が瀬戸方面より入って来たので
を汲み交わしている絵であり、 山形の代表的な
中止されるようになった白
「 いも煮会」の歴史を物語る ものと して貴重なも
写真のふた付茶碗は高さ9cm径llcmで一代目の
ので ある口 岩波で生産されたものは、 すず徳利、
作品である。 この茶碗は別名「関東茶碗」といわ
茶碗 、 皿、 鉢などがあり、 幕末からの磁器 生 産地
れ関 東武士が使用し、 高台も高く厚手に作られこ
として代表的なものであり、 山形県の窯業の歴史
われないような豪放なっくり方をした。 南方系の
に特筆されるべきものである口
4県内博物館めぐりb
一一一
天童民芸館一一一
県飛騨白川郷に在ったものを五箇山に移したもの
だと伝えられている。 山形県内にも飛騨K匹敵す
る回麦俣の多層民家や最上地方のま がり家 中津川
の中門造りなど優れた民家は少なくないが、 飛騨
白川の民家は珍らしし、。
建物内には天童市をはじめ村山地方の 民具や富
山県山間地帯の民具なE約3. 0 0 0点展示され中で
も車長 持、 六尺タンスは天童市の文化財に指定さ
れており天 童藩文 書や紅花に関する文書などもあ
り、 文化財の収集保存に大きな役割を果している白
左手の住宅は来客の応接にま た陶磁器類の展示
即売なども行い、 土地柄も あって終日見学者が訪
国道13号線を南進する と、 将棋駒で知られる天
れているが、 天童温泉もビル化ホテル化され昔日
童温泉の愛宕山を背に して建つ合掌造りの民家が
の面影を失いつ Lあるなかで、 天童民芸館の風情
見える 。 これは竹下善治氏が昭和的年富山県五箇
は人々の心をいやしてくれる白
山 から移築し、 天童民芸館を閥設したものだ 。 更
入場大人1 0 0 円、 小人5 0 円、 年中無休
に この建物は明治の初め、 多層民家 で名高い 岐阜
天童市小畑
TEL(3) 5 749 館長 竹下善治氏
(6)
山形県立博物館ニュース
*** 調査研究報告 ホ*ホ
第21 号
第1次高畠町大立洞穴遺跡、発掘調査概殺
昭和4
9年度、
当館の調査研究の一環として先史
時 代の生活及び縄文土器の起l京を探るべく高畠町
大字高畠字大立山3 578......_,湾昏地に所在する洞穴住
居祉の第1次発掘調査を7月8日から7 月 17日の
10日間、 高畠町 ・ 同町教育委員会の協力を得て実
施した。
本洞穴遺跡 は臼向洞穴遺跡の南方、 醸高8
2 0メ
ートノレの凝灰岩露頭地域にあり、 間口 1メ
4
ートノレ
奥行9メートノレの洞穴と岩陰からなり、
口する。
南方に開
今度は分j薗発掘を行ない、 地表下50セン
チメ- 1--.1レ迄掘り下げ、 歴史時代より縄文時代前
期の文必層を確認し、
を得fこ。
来年度は、 地表下1
多数の土器片、 石器、 石片
...._,
2メートル迄掘り下げ、
縄文時代早期及び草創期の文化l冨の確認を行なう。
古文書解読講座終る
「古文書講座が#自かれると山形に夏が来たと感ずる」
と、 受講者の誰もがし、ぅ。 今年で18曲目。県内各
地の市町村 史編さんの盛況を反映して、 今年は130
名の方々が集って、 8月l日から同生日まで、 熱
心に学習した。
今年のテーマは柏倉先生の「国絵図史料Jと工
先生の「武将文書」、
それに最後の自には拓本
藤
の実習も行なわれた白 いずれも、 身近かな史料を
教材としての興味深いものであった凸 そ ろ そ ろ20
回を迎えるので、 記念行事をとの声も挙 ってい る。
博物 館だ よ
画本館刊行物のお知らせ
山形県立 博物館研究報告
内
東北地区博物館研究協議会並びに東北地区
第Z号P. 96
博物館連絡協 議会総会の開催について
博物館の運営にあたって、 各館ともそ れぞれ創
容
・圧内浜の鳥類につ いて……一…高
・山形県の 革麹目…-一……………白
橋
畑
多 蔵
孝太郎
.山形県φ帰化植物……ー……吉野智雄・布施隆
・山 形県米沢市南東部地域の変成岩類………・
・…
…
…
…
菅 井
敬 郎
一
意工夫をこらして努力していると思いますが上記
の 件について、 下記の通り ご案内申し上げます。
記
1.
期日
10月22日 (火)、 23日(水)
2.
場所
当 博物館及び蔵王温泉こまくさ荘
3.
圃開催行事報告
・県史 近世部会研修会
・私 のコレクション展
り
4.
研究テーマ
歴史・民俗資料の展示の あり方
日程
7/10
第1日
講演会並びに研究討議
絵馬展 7/2----8 /30
第2日
総会,協議,茂吉記念館等 見学
7/2"""_'8/30
・夏休み学習展
・文化財講習会
8/20
・民俗学研究会
Y/1
・私の コレ クション展(12回)
「徳利(すず) J展 山形市
詳細は県立博物館までお問合せ下さし、百
7/30. 8/17
学習相談並びK映写会
9/3----9/30
塚田信五氏収集
山形県立博物館ニュース
第21号
昭和49年9月15日発行
山形市霞城町1番8 号 (〒990 )
山形県立博物館( TEL.32 -1 1 1 1 )
。
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