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Page 1 京都大学 京都大学学術情報リポジトリ 紅

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Page 1 京都大学 京都大学学術情報リポジトリ 紅
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死の倫理 : 古代哲学における安楽死の問題
国方, 栄二
古代哲学研究室紀要 : HYPOTHESIS : The Proceedings of
the Department of Ancient Philosophy at Kyoto University
(1997), 7: 1-19
1997-12-06
http://hdl.handle.net/2433/70977
Right
Type
Textversion
Departmental Bulletin Paper
publisher
Kyoto University
死 の倫 理
古 代 哲学 にお ける安楽死 の問題
国方栄二
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KATA
Ⅰ
耳
今 日しば しば論 じ られてい る 「
安楽死 」 とか, あるいは近年では む しろ 「
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y)とい う吉葉のほ うが好まれているけれ ども, こ うした
厳死 」(
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問 題 は現 代 の 医療 技 術 の 進 歩 に とも な い, 人 工 的 な延 命処 置 (
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の是非をめ ぐってます ます切実な ものになっている。現代医
学の発展に よって, ひ との生 命は以前に ま して伸 長可能になったが ,反面, こ
のことは患 者やその家族の苦 しみを増加 させ る結 果 ともな り,医療 措置が単に
生命 を伸長 させ る効 果 しかな いのであれ ば,む しろ死を選 ぶ ほ うが 個人の専厳
のためには よい とも考えられ る。安楽死 は,ひ とが権利 と してみず か らの死 の
時を決定できるか否かをめ ぐって争われ るのである。
安楽死は どのよ うな場合に も許容 され るのでは ない。延 命処置に よって死の
遅延をはか った としても,単 なる生命的 存在 として生きな が らえるだけで,哩
性的な能力 が もはや 失われて しまった ときにだけ認め られ る と考え られ る。つ
ま り,一個 人の人格 の同一性 が保持できない場合 にかぎられ るわけである。 こ
の ように人間の 「
尊厳」は 「
人格」 (
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n)の保持を第一条件 としている。た と
えば,カン トは
己の人格 を他人 の選択意志に委ね る以外に は,己の生命 を一層長 く保持
しえない人は, 他人の選択意 志に物件 として身を委ね る ことによって,
己の人格 の うち なる人間性の尊厳を汚す よ りは,む しろ己の生命を廃棄
2
す るよ うに義務づ け られている。 1)
と述べ てい る。 ここでは人間 の尊厳性は 人格 に も とめ られ ているの であるが,
われわれが 注 目した いのは, か りにカン ト的な立 場か ら 「尊厳死」 を とらえよ
うとす るな らば,現 代のいわ ゆ る積極的 安楽死 と消極的安 楽死 との 区別,つ ま
り医師が薬 物 を患者 に注入す るこ とによ って死 に いた らしめるケー ス と,患者
に対 しては 直接手 を加 えるこ とな く,治 療 を放棄 す るこ とによって 患者の死 を
導 くケース との区別 に もとづ いてい うと,ただ消 極的な安 楽死 のみ が認め られ
るこ とにな る とい うこ とであ る。言 うま で もな く,カン トは 「
汝殺 すなかれ 」
とい う命法 を至 上 とす る義務 論的な (
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)
見地にたって 自殺 を禁止す る
ので,他者 に よる直 接的措置 として安楽 死 させ る こ とも同 じ理 由か ら許 されな
い よ うに思 われ る。 つ ま り, カン ト的な 人格主義 は直接手 を くだ さない こ とに
よってのみ 守 られ るわ けであ る。そ して , この よ うな考 えかたは, 消極的安楽
死 と積極的 安楽死 との倫理的 差異 につい て疑念 を表 した J ・レイチ ェルズな ど
の少数 の例 外 はある ものの, 今 日ではお おかたの 支持 を うけている と言 うこと
がで きるで あろ う。 しか しな が ら,われ われが注 目したい のは,舌 代 の哲学者
たちに 目を むける とき, ス トア派の哲学 者たちが カ ン トと同じよ うに死 を前 に
しての人間 の 「
尊厳 性 」 を主 張 していな が ら, しか し消極 的 と積極 的の よ うな
区別は さほ ど重要で はな く, 多 くの場合 には消極 的安楽死 は問題 にす らされな
か った点で ,われわ れ現代人 の見方 とは かな り隔 た りがあ るよ うに思われ るこ
とである。 われわれ が古代 に 立ちかえっ て,あ らためて この間題 について考 え
なおそ うとす る理 由 もこのあた りにある2
)
。
ところで , この安 楽死 は 自殺 とはむろん異なる 問題であ る。 自殺 とは, 自己
が 自己を死 にいた ら しめるこ とであるの に くらべ て,安楽 死は 自己 の死 を他人
にゆだね る こ とだか らである。そ して一 般 には, 自殺 につ いては, 古代 におい
てはたいて いの哲学 者たちが これ を否認 して,た だ例外的 にス トア の学徒たち
が これ を許 した と考 え られ ている3)
。他方 ,今 日 しば しば論議 の対象 とな って
1
)
小西 ・永野訳 『カン ト倫理学講義』2
0
0頁 (
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6)
2
)
消極的安楽死と雑種的安楽死 との倫理的差異を認めない点でわれわれの立場は J ・レイ
チェルズのそれに近い。しかし,本稿の意図は J ・レイチェルズを擁護することにあるの
ではないし,氏のその他の見解を支持するものでもない。
鹿野治助 「
ス トア哲学においてちょっと怪許なことは自殺を許 したことである。ス トア
哲学の理想の賢者とも言うべきソークラテ-スは,自殺を肯定しなかった。」 (
1
21
貢)
「
ス トア哲学の、またエピクテー トスにおいても例外でない特色は、神意に沿い、自然に
3)
死の倫理 /3
いる安楽死 について は とい う と, こち らのほ うは おお くの 哲学者た ちに よって
認め られ て いた とい うのが, 哲学史の常 識的な見 方の よ うにな って い るのであ
る。われわ れが この 小論 にお いて論証 し よ うとす るのは, この よ うな一般 の主
張 の うちに み られ る一種 の言 葉 の混 同に 関す る ものである。 とい うの も,安楽
死 と自殺 に 関す る今 日的な理 解 とは異な って,古 代哲学 に おいては 安楽死が 自
殺 の一種 と してみな されてい る よ うに思 われ るか らである。そ して ,以下の議
論は この点 について の検討に あて られ る。 ところ で,安楽 死 の問題 は この よ う
な歴史的考 察だ けで は最終的 で十全な解 答があた え られ る とは言 え ないであろ
う。 しか し, これ ま で安楽死 についてか わ され た 論議 をみ るかぎ りではこの方
面の研究が いかに も少ない とい うのが現 状である ので, こ の問題そ の ものを正
しく理解す るために も,われ われ が試み よ うとす る考察 もけっ して 無益ではな
い と思われ る4
)
0
Ⅰ
Ⅰ
言 うまで もな く,安楽 死(
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a)はギ リシア語 に由来す る吉葉 である けれ
ども, もとも とは文 字通 り 「よき死 」 の意味 であっ て 5), これ が治癒 不可能 で
非常な苦痛 に悩 まされ ている患者が安 らかな死 を むかえる ために, 死期 を早め
860
年代 にはいっ てか らの こ
てや る とい う意味で もちい られ るのは,英 語で も1
とであ るこ とに注意 しなければな らな い6)。 日本 ではお そ らく森鴎外 が 『高 瀬
舟』の稿末 に付 したあ とが きが最初の用例ではないか と思われ る。
従来 の道徳は苦 しませ て置け と命 じている。 しか し医学 社会 には これ を
非 とす る論があ る。即 ち死 に 顔 して苦 しむ ものが あ った ら,楽 に死なせ
かなった自殺であった。」 (
1
24頁)ショーペンハウエル 「
ところで,ス トア派の書いた
ものをみると,私たちは,彼 らが自殺を高貴で英雄的な行為として賛美しているのをみい
だす 」 (
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4
)ここで論 じようとするケースは,病気の末期的な状態にある人間に対する処置に関する
事例にかぎられる。安楽死にはたとえば嬰児殺しのような事例もむろん含まれるが,後に
述べるように,古代において非任意的なケースが倫理的問題としてあっかわれることはほ
とんどなかったからである。cf
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oEDによるならば, eut
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46年,今日ではあまり用いられないeut
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が1633年になっている。
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869を初出にあげている。
4
て,その苦を救 ってやるのが よい とい うのである。これ をユ ウタナ ジイ
とい う。楽に死なせ る とい う意味である。 (
現代表記に改める) 7)
鴎外が述 べている事例は 自殺ではな く他殺であ る。 自殺 は, くりかえし言 う
けれ ども, 自己自身によって自己を死にいたらしめることであるのにたい して,
安楽死は他 者が当の人間にか わって,そ の人を死 にいた ら しめるこ とである。
しか も,死 なせ るのが当の人 間以外のほかの人間 である点 に,安楽死問題の難
しさがある と考えられ るわけである。 ところが, 安楽死 と自殺 とは歴史的にみ
る とかな らず Lも明確に区別 されているわけでは ないようである。 その理由に
ついて考え てみたい。まず第 一に考えられるのは,いま述べたよ うに,近代に
いたるまで 今 日問題 にされる ような 「
安 楽死 」 を表す青葉 が存在 しなかったこ
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a) あるいはその形容
とである.古代ギ リシア語にはユ ウタナシアー (
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)や動詞エ ウタナテ ィン (
e
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αT
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) といった語
詞エ ウタナ トス (
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形がた しか に存在す る。 しか し,それ らは英語で最初につかわれて いた意味 と
同じように,安 らか な死 を意 味するのみ で,医療 に限定 され るような言葉では
なか った ようであ る。 それ ほどおお くは ない用例 の中か らい くつか をみ ると
8
)
(1)
極悪人 の リュキ スコスが りっぱな死 をむかえたために, 当然なが ら
たいていの人々 はこ う言って運命を とがめ た。善きひ とが うけるべき算
であるよき死 (
e
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拍av
aGt
C
E
V) を時には もっとも悪 しきひ とにあた えて し
ま うと。 (
ポ リュビオス 『
歴史』32.
4.
3)
(2)
人間が神 々にもとめて祈ることで は, よき死 (
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Oav
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)にまさ
8)
るものはなにもない。 (
ボシデイ ツボス断片1
(3)よき老年 とよき死 (
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a) こそ人間のあずかる善の最たるもの
だが,不老に して不死なる本 性のもの [
神 ]は, これ らのいずれ ももっ
ことは ない。 (
ユダ ヤの フイ ロン 『アペ ル とカイ ンの供物 につ いて』
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)
)
(4)
神はわれわれに数えきれな いほどの性質をお く りたもうたが,神ご
7)
「
附 高 瀬 舟 縁 起 」, 1
91
6年 [
大 正 5年 ]
8
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(
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W はギリシア語文献のデータベースであるので,ラテン帝文献のCi
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1
6.
7のような用例は検索できない。)
死の倫理 /5
自身はそのいず れに もあずか るこ とはない のだ。すなわ ち,不生であ り
なが ら生成を, 欠けるところがないのに養 いの糧を,等 しさの うちにあ
る の に増 大 を , 不 死 に して 不 老 で あ る の に よ き老 年 と よき 死 (
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) をお くりた もうたのだ。
(
クレメンス 『
雑録集 』5.
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)
これ らをみ る と,エ ウタナ シアーはよき老年 とともに神に よって人 間にあたえ
られる もの であって ,患者の死期を早め てやる とい うような意味で はない。ギ
リシア哲学者による用例 もい くつかあるので,念のためひろってみ ると,
(5)
す ぐれた人だけが よき老 年をむか え, よき死 をえる (
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v)
こ とができる。 よき老年をむかえるこ ととは徳にかな った しかたでなん
らかの老年をお くり, よき死 をえることとは徳にかな った しかたでなん
らかの死をむかえることだか らである。 (
ク リュシボス断片601)
(6)よき死をむかえるひ と (
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)の場合に魂が平静に肉体か
0.
36)
ら離れてい くように-0 (
マルクス ・ア ウレリウス 『自省録』 1
といった使 われかた を してい るが, これ らは上記 の もの とほ とん ど違いはない
といってよいであろ う。他方 ,安楽死 について明確 に述べ た個所 と して もっと
もよく知 られている例は,プ ラ トンの 『国家』で 医術のあ りかたについて論 じ
たなかにあるが, ここではエ ウタナ シアーは用い られていない。
内部のすみずみ まで完全に病 んでいる身体 に対 しては, 養生によって少
しずつ排推 させ た り注入 した りしなが ら,惨めな人生をいたず らに長び
かせ ようとは試 みなかった し,また,きっ と同じよ うに病弱に違いない
彼 らの子供を生 ませなか った のである, と。そ してむ しろ,定め られた
生活の過程 に従 って生きて行 くことのできない者は,当人 自身のために
も国のためにも役に立たない者 とみな して,治療 を施 してやる必要はな
Ⅰ
Ⅰ
Ⅰ
407
D)
い と考えたのである, と。
. (
つま り.患 者 自身に健康を回復するだ けの力があればまた もとの仕 事に復帰す
るこ とに な るが , そ の 力が な い場 合には, 「
死 んで 面倒 か ら解 放 され る」
(
4
06D) ほ うが 賢明であると考 え られているわけで, ここでは任 意的な安楽死
が想定 され ている と言ってよいであろ う。 しか し, これは 明 らかに これ までの
エウタナシアーの文脈 とは異 なっている ことがわ かる。後 にみ られ るように,
6
プラ トンは 安楽死 の この明白な事例 をむ しろ自殺 の議論の なかで と りあつか っ
ているのである。
今 日のわ れわれが 任意的で はない,つ ま り当人 の意志に もとづ くのでない安
楽死 の典型 的な例 とす るのは,言 うまで もな く嬰児殺 人(
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である。上
07Dの一文で は,プラ トンは国 家の福利のためだ けでな く,個 人の幸福のた
の4
めに も,いたず らに延命処置を施す ことは よくない ととしているよ うであるが,
基本的には全体の利益が個人のそれ よりも優先 され る とみ られている。 したがっ
て,生まれて くる子供について も,その子に欠陥がある と判断 された ときには,
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OC) も同 じ思想 にもとづいて いる。同時に
処分 され るべ きだ とい う発言 (
この間題 については,古代で はボ リスの安寧をは か るため には この ような嬰児
を生きなが らえさせ ることが 事実上不可 能であった とい う事情 も考 慮 しなけれ
ばな らない .エーゲ 海のケオス 島では食 糧 を確保 す るためにの歳 を超 えた市民
は す べ て服 毒 自殺 を命 じ られ た した とい うス トラポ ン が 伝 え て い る記 辛
(
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5.
6)は,同 じよ うな視点か ら考えなければな らないであろ う。 ところ
で, この嬰 児に関す る処分は言 うまで もな く現代 の医療に とって重 要な論題の
ひ とつに数 えあげ られているのであるが ,われわ れの論及 か らはむ しろはず さ
れ るべき問 題である。 とい うのは,古代 ではこの よ うな非 任意的安 楽死のケー
スは,今述 べたよ うに,多 くの場合ポ リスの存続 上不可避 的な事柄 とみな され
て, この間題が倫理 的問題 と して狙上に のぼるこ とはほ とん どなか った と言 っ
てよいか らである。 したが って, ここで は患者本 人の意志 に もとづ いた 自発的
な安楽死 のみ を問題にす ることに したい。
Ⅰ
Ⅰ
Ⅰ
第二の よ り重要な理由 として考え られ るのは, 今 日的な 意味での安楽死の思
想は 自殺の 問題か ら完全に独 立 した もの ではな く,む しろ 自殺の一 種 として,
これに包含 され るかたちで論 じられていたことにある。 s
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自殺) とい う言
葉は, ラテ ン語に由来す る語 形を とって はいるが ,実際に はこのよ うな語は古
典 ラテン語 にはない (
おそ らく昔の ローマ人には s
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kは豚殺 しに聞こえたであ
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の意味であって古典語 よりもはるかに意味がせ まい こ
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とが注意 されてよい であろ う。有名な社 会学者デ ュルケムは, 自殺 の意味 とし
て 「
犠牲 となる者 自身の手に よってはた され る, 積極的あ るいは消 極的な行為
か ら直接的 ない し間接的に結 果 し, しか も犠牲者 がその結 果をつ く りだすべ き
死 の倫理 /7
ことを承知 している よ うな あ らゆ るケ ースの死」 9)を考え ているが, このデ ュ
ルケムの定 義はむ しろ古典語 にあてはま るもので あって, た とえば祖国のため
にあえて死 を選ぶ とか殉教死 な どは今 日の 自殺の意味か らははみで る もの と考
えるのがふ つ うであ ろ う。 「自己自身に対す る義 務 を遵奉 す るため に己の生命
を賭 して 敵に相対 し,己の 生命を も犠牲 にす ることは 自殺で はない 」 10)と述べ
たカン トの ほ うが, む しろ今 日の用法に ちかい とみ ることができる。他方, ラ
テ ン語で 自殺 をあ らわす表現 として,た とえばキケ ロが もちいた
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は 自発的,任意的な死 を一般 に意味す る言葉であった し,あるいは,
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)に して も,かな ら
ず Lも自分 の手でみ ずか らを死 にいた ら しめるこ とを合意 してはい なか った。
ギ リシア語 の場合に は, 自殺 に相当す る語形が確 定す るの は古典期 よ りもあ と
であるが 13),その言葉の用い られかたに関 して言えば, ラテン語 と同様 である。
要す るに, 古代にお けるその用法は今 日では 自殺 とはみな されない よ うな死 を
も含み,ひ とが任意 的に選ぶ 死 にかた全 般 を指す よ うな広 い意味で あ った とい
うことであ る。そ して,任意 的安楽死 と現代では よばれて いるもの も,古代で
は自殺 の一種 とみな されていた。 この点について以下において確かめてみたい。
自殺 につ いては, プラ トンは 『パイ ドン』 と 『法律』の 二個所で これ を論 じ
ている。 まず, 『パ イ ドン』 では ピュタ ゴラス派 の ピロラオス (
前 5世紀)の
説 として 自殺の禁止を語 る。
この問題 [自殺 ]に関す る秘 教的な教義 に よる と,われ われ人間はひ と
つの囲いの中に 見張 りをされ ているもので あって,けっ してか ってに自
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・永野訳 192頁 (
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. ただし,ス トア派について述べる文脈では,キケ
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2b)
ソクラテスやクセノボンがもちいたのははるかに一般的な表現であった。もっとも古い
ネキュイア」
自殺の用例をさがすと,ホメロス 『
オデュッセイア』第 11歌のいわゆる 「
におけるエビカステ (
イオカステ)の自殺 (
271
f
f
.
)やアイアスの自殺 (
54
8f
f
.
)があげら
1
3)
れるが,自殺をあらわす直接の表現はない。
8
分 をこの監視下 か ら解放 した り,逃亡 した りしてはな らないのだ と言わ
れてい る。 --われわれ は神 々か ら見まも られてい るの であって,われ
われ人間は神々の配下にある家畜のひ とつだ とい うこ とだ。 (
62B)
この秘教的 教義が ピ ュタゴラ ス教 団の教 えである とす る と, この説 は ピロラオ
ス個人の もの とい うよ りは, む しろ教団 その もの に帰せ られ るべ き か もしれな
い。デイオ ゲネス ・ラエルテイオ ス (
Ⅶ1
85) に よれば, ピ ロラオ ス は ピュタゴ
ラスの教説 をは じめ て一冊の 書物 に した とされ て いるか ら, ここで は じめて 自
殺禁止の思 想がおお や けに されたのだ と考 えるこ ともでき る。ただ し, この対
話欝についての古代の注釈家たちは この点についてなんの言及 もしていない し,
また この作 品に登場 す るケべ スが, 自殺 禁止の詳 しい理 由 について は ピロラオ
スか ら直接はなに も聞いてい ない とい う発言 を しているか ら (
61
DE) ,上に引
用 した理 由づけは ソクラテス (
あるいはプ ラ トン)の創作 とみ るこ ともできる。
つ ま り, こ の説が ど こまでが ピュタゴラ ス派に属 す るのか を明確 にす るこ とは
できないわ けである。われわ れは この よ うな詮索 について は これ以 上立ちい ら
ない こ とに して, 『パイ ドン』で語 られ ているこ とだ けで 考 えてみ るほ うが賢
明であろ う。 ところ で, この ソクラテ ス の発言は かな らず Lも自殺 の全面的な
否定 には な ってい ない ことに注意 しなけれ ばな らな い14)。上栂 の個所 のす ぐあ
とでは,
dvd†叩 )を神が下
げんに今ぼ くにあたえ られているよ うな運 命の必然 (
62C)
したま うまではみずか らのいのちを絶 ってはな らない。 (
と語 られ て いるか らである。 ここでい う 「
今ぼ くにあたえ られ てい るよ うな運
命の必然」 とは, ソ クラテス 自身の刑死 の こ とで なけれ ば な らない か ら,かれ
は 自分の運 命 を自殺 とみてい たこ とにな るのであ る。われ われ はふ つ う刑死 を
自殺 とはみ な さない 。 けれ ど も, 当時の アテナイ では刑 の 執行は毒 人参 をす り
つぶ した もの (
h
eml
oc
k)を死刑囚が 自分で飲 む とい う形態でお こなわれ てい たか
ら,そ こに どの よ うな宗教的 意味づ けが されてい るのかは わか らな いけれ ども
1
5)
, ともか
く刑死は みずか らの手で死ぬ とい う意味で ,広義 の 自殺 とみな され
1
4)これを全面的な否定と見る解釈者もいる
(
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)。誤解の淵源は新
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.
M.
3
0
3
2。
プラトン派にあるようである。c
1
5
)
ぁるいは,たとえ女性でも楽に死ぬことができる方法として開発されたのかもしれない
死の倫理 /9
ていた言わなければな らな いであろ う16)。 さらにまた, この62
Cの発言か らソク
ラテスは 自殺が許 され る場合 のあるこ とを認めて いた こ とになるが ,その よ う
な 「
運命の 必然」 の 具体的な 例は,プ ラ トンの晩 年の作で ある 『法 律』第九巻
にみ るこ とができる。 ここで は対話者のアテナイ か らの客 人が, 自殺者に対す
る刑罰 を語 っているが, ここで もやは り自殺 を全 面否定 していない のは 『パイ
ドン』の立場 と同 じである。
わた しが言 って いるのは,天 か ら定 め られ ている寿命 を無理や りに奪い
去 って, 自殺 した者の こ とです。つ ま りそれは,(a)
国家が裁判 に もとづ
いて これ を科 したので もなければ, ま た恥)
ひ じ ょうに苦 しく逃れ るこ と
のできない運命 に見舞われ て,やむをえず に (dvc
(
yKa血 i
G) そ うしたの
で もな く, さらには(
C)
救 われ る見込 もない し,生 きて もい られないほ ど
の辱 しめをなにか受 けたか らとい うの で もな くて,(
d)
怠惰や男 らしさに
欠けた臆病 のた めに, 自分 自身に この不 当な罰 を科 した 者の こ となので
す。 (
873C)
ここで 自殺 もや むをえない と され ている場 合の うち, ソ クラテスの刑 死 は(
a)に
相当 し,われわれが問題 に している安楽死は(
b)に含まれ ることは明 らかである。
『法律』で は 自殺が とくに国 家に対す る犯罪行為 のひ とつ とみ られ ている点が
新 しく注 目 され る点 であろ う。ただ し, 国家に対 す る犯罪 は同時 に 神々に対す
る罪である と考 え られている のであるか ら,基本 的な立場 は 『パイ ドン』のそ
れ と変わ らない と言 うこ とができる17)。
I
V
つぎにス トアの思 想家たち について, 彼 らが ソ クラテスや プラ トンの立場 と
(
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1
7)この点はア リス ト
テレスの場合も同様であって,
『ニコマコス倫理学』でも自殺を遵法
として,貧乏や恋愛やなんらかの苦しみから逃れて死ぬことは勇気がないためで,悪しき
ことからの逃避でしかないと断じている (
Ⅰ
Ⅰ
Ⅰ7,111
6
a1
2f
f
.
)。これも逆に青えば,自殺の
許される例を認めていることになるであろう。ただし,ア リス トテレスには明確な発言が
みあたらない。
1
0
異なるのか ど うか検 討 してみ たい。 まず ,ス トア 哲学の前 身 とも言 うべ きキュ
ニコス派の場合を一 瞥す るこ とにす る と,プラ トンでは 自殺が市民 としての犯
罪行為であ る ととらえ られて いたのに くらべて, 前三世紀 以降では ,独立共同
体 としての ボ リスが 次第 に意 味を うしな い,政治 か らはなれた一個 人 としての
生きかた, あるいは死 にかたがむ しろ重 要にな って くる。 キュニ コス派では個
人の 自由が もっとも尊重 され るよ うになるのであるが (
DL.ⅤⅠ71
), これは 自
由に対 して否定的な発言を くりかえ したプラ トン と対照的 とも言える。つま り,
彼 らが 自殺 の問題 に対処す る とき,個人 をポ リス の単位 と して考え るプラ トン
的な理念 に訴 える必 要はなか ったわけで ある。 しか し,彼 らも軽少 な理由か ら
自殺 を奨励 したわけではない 。デイオゲネ ス ・ラエルテイオスによ って伝 えら
れている言葉 を引 くと,
(1)
人生を生きるためには,理性をそなえるか,それ とも (
首 を くくる)
輪索を用意 しておかなければな らない。 (
DL.Ⅵ 24)
.
(2)
愛欲の情 (
エ ロス)をお さえるものは,飢 えか, さもなければ,時。
しか しもし, これ らの もの も役 に立 たな いの であれば ,首 吊 りの 索。
(
DL VI86)
と述べ られている。(1)
の引用はシノペ のデイオゲネスで , (2)はス トアの祖ゼ
ノンの師で あるクラテスの言葉であるが ,安易に 自殺 を薦 めているのではない
とい うのは , このデ イオゲネ スが病 をえ て苦 しん でいる ときに,なぜ死んで楽
にな らないのか と問われ る と,
(3)
この世にある間になすべ きこと,言 うべきことを心得ている人間は,
生きていて しかるべきなのだ。 ・-・
言 うべ きこと,なすべきことが分かっ
ていない君な どは,死んで しま うのが結構 なことだが, それ らのこ とを
心得て いるわた しは ,生 きて いなければ な らぬのだ。 (
ア イ リアノス
『ギ リシア奇談集』 xll)
と返答 した と伝 えられているか らである。 これ らの言葉は,理性的 な人間のみ
が生きるに価 し,そ の他の人 間は 自殺が 似つかわ しい とい う意味で読 まれ るべ
きではない。む しろ,人間に とっては理性的であることが もっとも肝要であ り,
理性 を失 っ た人間は 生きるに価 しない とい うことで,安易 な 自殺に対す る警鐘
に もなって いる。キ ュニ コス派の立場が ,理性的 な人間には 自殺が ふ さわ しい
死 の倫理 /ll
とするス トアの思 想 と正反 対であ るとみる解釈 もあ るけれ ど も18), これは まっ
た くの誤解 と考えられる。
自殺の問題が とくにス トア の哲学者た ち との関 連で語 られ るわけは,その開
祖 と目され るキティオ ンのゼ ノンか ら, 拳闘家だ ったクレアンテス, タル ソス
のアンティパ トロス (
DL.
I
V6
4),セネカにいたるまでの, じつに四人の哲学者
が 自殺を遂 げているか らであ ろ う。 この うち舌ス トアにつ いてみ る と,老年に
なったゼノ ンはつまづいて倒 れ,足の指 (
または 手の指) を折 った。そこで彼
は大地を拳 で叩いて, 『ニオ ペ』の中か ら, 「
い ま行 くところだ。 どうしてそ
うわた しを呼び とめ るのか」 とい う一行 を口に して,その場で 自分 で息の根 を
とめて死んだ とい う (
DL.
ⅥⅠ
28) .クレア ンテスもまた, 歯茎の病気のため絶食
していたが ,医者か らもう食 事を とるこ とを許可 された とき, 自分 はすでに人
生の道の りをあま りに も遠 くまで歩みす ぎて しま った と言 って,絶 食 をつづけ
死んだ とい う (
DL.
Ⅴ
Ⅲ1
76)。われわれ がこの ような記事を読むか ぎ りでは,そ
こには自殺 の賛美の ような ものはみいだ せない よ うである。古ス トアの自殺に
ついての見解にふれているのは次の個所である。
賢者は,理性にかなった しかたによってな ら,(
1
)祖国のためにも友人た
ちのためにも,みずか らの命を断つであろ うし,また(
2)激 しい苦痛に襲
われ る とか,手 足を切断 され る とか,不治 の病にかかる とか した場合で
も,そ うす るだろ う。 (
DL VI
I1
30)
ゼ ノンは明 らかに自分に起きた出来事を,死ぬべ き時がきた とい う,神か らお
くられた合 図 と解 しているが , このような運命の必然が神 によって あたえられ
た ときにかぎって 19), 自殺 を認めようとするわ けであ る。ス トア派の人 々は,
自分たちの思想の典 型をソク ラテスの うちにみて,その生 きかた, そ して とく
にその死 にかたを理 想 としてお り, 自殺 について の見解 もまた, 当然なが らそ
の基本的な ところでは一致 していると考えられ る。
ところで ,ス トア 派につい ては次のよ うな疑問 がおきる。 もし理 性的な人間
には自殺がふ さわ しいのだ とすれば, 自殺はただ 賢者につ いてだけ許 され,,
その他の一 般の人た ちはどの ような状況 にあって も生きて いなけれ ばな らない
1
8)
たとえば,Ri
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,
∫.
M.
,2
40.
ゼノンはDL.
Ⅷ 28の記事を信用するならば9
8
歳で死んだという。クレアンテスもDLⅦ
1
9)
1
76によるとゼノンと同年齢で死んだことになっている。
1
2
のではないか。つま り,彼 らの自殺論は ただ少数 の者の特 権 として語 られてい
るにすぎな いのでは ないか とい う疑問で ある。 これは後- /二世紀 のプルタル
コスが 『ス トア派の矛盾につ いて』にお いて提起 した問題 点であるが,ス トア
派の言 う理 性的な人 間すなわ ち賢者をあ る特定の人間に限定す る必 要はない。
df
i
ci
a
)
2
0
)
に関連 させて論 じているが ,
キケロによれ ば,彼 らは自殺を 「
義務」(
)
。つま り, 自殺は
これは賢 者,愚者 の区別な しに適 用 される ことが らである21
あ らゆる義 務 (
あるいは, 「
ふ さわ しい こと」) のひ とつ として,すべての人
間によって はたされ るべ きものだ とい うことにな る。賢者 とは万人 が もつ理性
を十分に発 揮 した人 のことで あ り,愚者 とはその 力を発挿せぬままにおわって
しま う人の ことであ り,そのいずれにな るかの可能性はす べての人 間にふ くま
れているのである。
Ⅴ
ローマの ス トア派 の哲学者 の議論には,共和制 末期に保 守派を代 表 しカエサ
ルに対抗す るが,敗 れて自殺 した政治家小カ トー の死が, ソクラテ スに比肩 し
うる もの と して しば しば賛 美 され なが ら登場 す る。 そ のひ とつ は キ ケ ロの
5) で,彼 自身はス トア派 とはいえないが,若
『トウスクルム荘対談集』 (Ⅰ71い ときにパ ナイテイオスのも とで学んだ こともあ って,中期ス トア 派を知る う
えで貴重な 資料 とな っている。プルタル コスを信 用す るな らば,小 カ トーは死
の直前 に 『パ イ ドン』を くりかえし読んだ とされて いるか ら (『カ トー』67
8) ,ソクラテスの死をみずか らの死の モデル として考えていた と十分に想像で
きる。キケ ロは,神 の許 しな しにはなん ぴ とも死 ぬことを許 されな いが,小カ
トーにはそのような正当な理由(
C
a
us
ai
us
t
a)
があたえられたのだ と言っている。
新ス トア で同じよ うに小カ トーをす ぐれた自殺 の例 として言及 しなが ら, 自
殺について くりかえ し語 った思想家は言 うまで もな くセネ カである。 このこと
は, ローマ の政争の ただなか で彼が生きたことを考えれば 当然 とも言えるが,
皇帝ネ ロの命によってセネ カは後65年 自殺 している2
2
)
。新ス トアが古ス トア と
ちが うのは なん とい って も資料がまとま ったかた ちで残 されている ことである
2
0
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1
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56.
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そのあ りさまは歴史家タキ
ている。
トウス 『年代記』1
5.
6
2
4やカ ッシウスのデイオ6
2.
25が伝 え
死 の倫理 /1
3
が,新ス トアがおこなった こ とは,古ス トアの思 想 のいわ ば通俗化 であ り, し
ば しば諸家 によって指摘 され る両者のちがいは, 表面的な ものある いは強訴点
の相違で しかない ものが少な くない よ うに思われ る。いまセネカの 著作や書簡
か ら, 自殺 について見解 を述べ た個所 をい くつか列挙 してみ る と2
3
)
,
出口は開いてい る。おまえた ちが戦 いた くないな らば, 逃げだ して もよ
いのだ。だか ら,わた しがお まえたちに必 要だ と考 えた あ らゆ るのこ と
の うちで,死ぬ こ とよ りも容 易な こ とはな にひ とつつ く らなか ったので
.
7
)
ある。 (『摂理について』6
われわれの言い たいことは, どんな屈従的 な状況にあって も, 自由の道
は開かれている とい うことで ある。心は悲 しんで も,み ずか らの過誤ゆ
えに悲 惨 であ って も, 自分 で 悲 惨 を終 わ らせ る こ とが でき る のだ。
(『怒 りについて』3
.
1
5.
3)
ひ とが新ス トアにつ いて述べ る ときに, セネカの 立場をス トアの伝 統的な見解
を逸脱 した特別な もの とみ る傾 向 があるけれ ども24),上記の 発言は古 ス トア に
み られ るもの と大きなちがい はない。そ して,セ ネカの場 合に も, どんな 自殺
も是認 され るわけで はな く, 無分別な死 がやは り諌め られ ているの は他の哲学
者 と変わ らない と言える。
わた しは苦痛の ゆ えに自分の 身に手 をかけ ることは しな いであろ う。そ
のような場合に は死 に負けて いるのである。 けれ ども, わた しが永久に
苦 しまなければな らないことがわかれば, この世か ら出てい くであろ う。
それは苦痛のせ いではな く, わた しがその ために生きて いるいっさいの
ものに とって. そのことが妨 げ となって しま うか らであ るO (『道 徳 書
簡集 』5
8
.
3
6
)
つま り, 自殺にいたるためには必要な条件がみた されねばな らないわ けである。
新 ス トアで セネカ と並んで注 目すべ きは エ ピクテ トスであ る。エ ピ クテ トス も
新ストア派の発言を集録したものとしては,Gr
i
s
6
,Y.
がもっとも詳しい。以下にあげる
23)
のはその一部である。
2
4)
cf
,
Ri
s
t
,
J.
M.
,
2
4625
0 このような見方に対するいくつかの有効な反論は,Gr
if
f
i
n,M.
,【
1】
,
374376,
38
3388にみられる。
1
4
また他のス トア派 と同様 に,神意 に沿い, 自然にかな った 自殺 を容認 している。
もしわた しがそ れほ ど悲惨で あるな らば,死ぬ ことは (
難 をさける)港
である。 この もの,すなわ ち死は,あ らゆ るものか ら逃 れ る港であ り,
1
0.
27)
避難所である。 (『
談論 』4.
神が合図 して,君たちを この奉仕か ら解放 して くれ る とき,その ときこ
そ神の ところ- 立ちさるがい い。だが,現 在の ところは我慢 して,神が
君た ち を酉己置 した そ の場 所 に とどま って い るのが い い。 (『談 論 』
1.
9,
1
6)
すでにみた よ うに, 自殺は 「ス トア独特 の」 (
鹿 野)特色 ではない。 ソクラテ
スが 自殺 を認めているのは神が人間に運命の必然 (
e
wdyq)をお くる場合であっ
たが,ゼ ノ ンは 自分 の指の骨 折 をその よ うな 「
神 の合図」 とみな して 自殺 した
し,エ ピクテ トス も同様であ る。 この点 はセネカ において は完全に無視 され て
いる と一 般にみ られている25)
。た しか に,セネ カは神の 合図の必要性について
エ ピクテ トスほ ど明確 に主張 していないが,彼が 認める自殺はつね に 「
そ うす
るのが よい と思われたかぎ り(
cum vi
s
um e
i上
r
)での退却」 26)でなければな らなか っ
たわけで, その意味 においてセネカ もま た正統な ス トア学徒のひ と りであった
と言 うことができる。
新ス トア 派か ら自殺の肯定 され るべ き条件 を選 びだ してみ る と, 大体 におい
て三つのケースにわ けることができる。
(
1
)国や友人たちのために自己を犠牲 に しなければな らない とき。 これ は古ス
トアにおい て もあげ られてい るケースで あるが, 「
祖国の ために死 んで, 自分
とひき換 えにすべ ての同市 民の安 全を買 う」
2
7)
ことは,
自殺のひ とつにか ぞえ
2
5
)
cf.
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,
J.
M.
,2
47.
2
6
)
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7,
21 このような留保とみられる個所は,同書簡集の69,
6(
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tいつか事態が強
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t事情がそのように薦めるのであれば),2
4.
2(
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o理性が強要するさいには),2
4,2
4(
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要するのであれば), 1
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1
〕
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e理性が生を終わらせるように説得するさいには)がある。c
5,Gr
is
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,
Y.
211n.
91ただし,これらの吉葉は神の合図を 「
暗示」するにとどまるもの
3
7
4-
である。
2
7
)
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,
死の倫理 /1
5
あげ られている2
8
)
0
(
2) 慢性的で苦痛を ともな う病気や老年による衰弱に悩むな どの場合。 これ も
古ス トアが すでにあ げていた条件であ り,安楽死 が合意 されている。セネカ も
『
道徳書 簡集』の うちのいつかの手紙のな かで 29)くりかえ し請 って いたことで
あるが, これは病床 にあるものに安易な 自殺を薦 める意味 の もので はな く,上
に引用 した 『
道徳書簡集』5
8.
3
6で言われていたよ うに, 「
苦痛のせいではな く,
わた しがそのために生きているいっさいの ものに とって,そのことが妨げ とな っ
て しま う」 ケースにかぎ られる。
(
3)死によって個人の尊厳が失われ るのを防 ぐこ とができる場合。古ス トアで
は言及 されていないが, これ もすでにプラ トンがそのひ とつにかぞえていたケー
スである。 これには た とえば 女性が 自殺 のほかに辱めをまぬがれ る ことができ
ないよ うな 場合が考 えられ るだ ろ う。 ローマ人のル クレテ ィアの自殺が当時 よ
く知 られ ていた例 であ り, ア ウグステイヌ ス30)をして悩 ましめた問題で もあっ
た。セネカ はこれ とは別に, 奴隷 となる ことを強 い られて 自殺 した スパルタの
be
r
t
as
)を語 っているけれ ども,
青年の例をあげている3
1
)
。ここで もセネカは自由oi
その自由 とはその個人の尊厳(
di
gni
t
as
)を守るためのものであって,無抑制な 自由
のことで はけっしてない 32)。そ して, これ こそが 「
わ た しが そのため に生きて
いるもの」 にほかな らないであろ う。 このようにみ ると(
3) のケースは三つのな
かのひ とつ であるよ りは,む しろそれ らに根拠を あたえる もの と考 えることが
er
p
s
ona)
によって示 され ると
できるのではないか と思われ る。個人の尊厳は人格 (
い う思想 は,中ス トアのパ ナイテ イオス 33)によって 詳細に研 究 され, キケ ロな
どを とお して新ス トアの哲学 者たちに影 響 をあた えたので あるが, 後にふれ る
よ うにエ ピクテ トスもまたそのひ とりであった34)。
2
8
)
用例としてはLycur
g
us
,Con'
r
a・
L
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at・
8
4
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・Ma
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A・
W・‥2
7参照。
2
9
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30)
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W・
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3
3
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S
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O71
21
・
ス トア派がしめしたこれらの条件を整理したものが 『
未刊行資料集』 (
cr
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me
rAne
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d.
pa
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s
.T
V40
3-SVF7
6
8) にあるので,念のために以下に示しておきたい。ひとがこの世を
)としてここで考えられているのはつ
去るための 「
理にかなった自殺」 (eLLoyo;立ちay叩 i
ぎの五つである。
34)
1
6
VI
次により重要な問題 につい て考察 しな ければな らない。 ス トア派 が 「
エ ウロ
ゴス ・エク サゴーゲ ー」 として承認 した これ らの ケースは , どの よ うな根拠 に
もとづいて いるのか とい う問 題である。 つま り, 安楽死 も含めて自殺はいかな
る理由か ら認め られ たのか とい うこ とで ある。 この間題 に ついては い くつかの
理由を想定す ることができる。
まず,第 一にはス トア派で は死は生や ,快苦, 健康や病 気 とな らんで,善悪
d8t
doop
a) とみな され ているこ とがあげ られ る。死
とは直接に無 関係な もの (
がそれ 自体 として悪 でなけれ ば,死 を恐 れ る必要 もない とい うことになる。そ
して,死が 恐怖 され るべ き ものでない とすれば, 自殺が是 認 されて も不思議は
ない と思わ れ るか らである。 しか しなが ら,ス トア派はす べての 自殺 を認める
わけではな いか ら, 特定の 自殺 を許可す る理 由 と しては十 分ではな いであろ う
3
5
)
。死が恐 ろ しい ものではな く, 自然死 と自殺 とにお おきな相 違がな い として
エ ウロゴス」であるための根拠 にはな らないか らである。
も36), 自殺が 「
第二に考え られ る理由は,人間の 自由意志が 自殺を保証 している とい うこと,
言いかえれ ば, 自殺 によって 人間は 自由 であるこ との証 しがえ られ る とい うこ
とである。 とくに新 ス トアの 哲学者たちが生きた弱肉強食 の時代に あっては,
どんな隷属 的な状態 にあって も唯一ひ らかれ た出 口はみず か らの死 であったか
ら, 自殺 こ そ 「自由 の証 し」 として真に魂 を解放 させ るものだ とい うことにな
る37)。 ところ で, この 自由は新 ス トア において は じめて 自殺 との 関連で論 じら
(
1
)祖国に危機が迫って,身を犠牲にすることをピュティア (
神託)が命じるような
場合。
(
2)独裁者によって恥ずべきことをなしたり,語るのもはばかるようなことを言うよ
うに強要されたような場合。
(
3)病気が長びいて,精神がその道具である身体をもちいるのにおおいに障害がしょ
うじた場合。
(
4)貧困のため。
(
5)正気を失ってしまった場合。
3
5)
また,死が悪でないということだけに限定して言うならば,ソクラテスもまた
『
弁明』
(
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9
AB)において主強していたことでもある。
「
死がわれわれにくるのも,あるいはわれわれが死にいくのも,なんら変わりはない」
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37)ここで言 う自由とは,自分で行動することができること
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死 の倫理 /17
れ ている とい うの が一般の 見方で ある 38)
。た しか にキュニ コス派や 古ス トアに
おいて 自由 は 自殺 とは直接にむすびつい てはお らず,新ス トアにな ってか ら自
。 自殺に よってえ られ
殺 こそ 自由意志の発現であ るとい う思想が あらわれ る39)
る自由-
これは激 しく変動 す る政界を前に してセネカや エ ピクテ トスが とっ
た処世法に含まれ る もの とも考 え られ よ う。ただ し,古ス トアは新 ス トアに く
らべて資料 がさ
まるか にす くな いか ら簡単 には断定 できない 。 とくに エ ピクテ ト
スの個所は , 自分の言葉 としてではな くキュニ コス派か らの引用 と して語 られ
ていることに注意 しなければ な らないで あろ う。 また,セ ネカはち ょうどソク
ラテスが死 が魂の身体か らの 「
解放 」 で ある と言 ったの と同 じような意味で 自
由 とい う言葉をもちいてい るよ うである40)O とにか く,新 ス トアにお いてそ れ
が強調 され ているのは事実で あるが,それが新ス トアにお ける新 しい思想であ
る と断定す るこ とは むずか しい ように思 われ る。 さて, この自由は 自殺にいた
るための根 拠た りうるか とい うは じめの 問題にか える と, これ も十 分な根拠で
ある と言 うことはで きないで あろ う。た しかに自殺によって 自由は え られ る と
して も,ス トア派の哲学者た ちが これだ けのため に自殺を是 として いないこ と
は明 らかだ か らであ る。それ が十分な根 拠であるためには ,上にあ げたい くつ
かのケースをよ り根本的に説明 しうるものでなければな らない。
ス トアの哲学では,人間 ら しい生きか た とは理 性 をそな えた人間 として生き
ることであ るが,それは人間 としての 「尊厳 」を保持 しつ つ生きる ことにほか
な らない。 エ ピクテ トスが髭 を剃れ, さ もなけれ ば首を切 ろ うと言 われた ら,
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7
mV)にかなったこ と
首を切 られ るほ うを選ぶ と答え るのが, 「
人格」 (7
だ と述べている (『談論 』 1
.
2.
27
30) 。そこで,第三の,そ して もっとも正 しい
理由 として 考え られ るのは, この尊厳や 人格が失 われなければな らないことが
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明 白である場合 に, 自殺が認め られ る とい うこ とであろ う。7
お りには 「マスク」 であるが ,そのひ との本来の 人間性を指 し,同 じくマスク
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onaによってラテ ン語化 され て,キケ ロな どをつ うじて後に近代
を意味す る p
の人格概念 - と受 けつがれ るが,上記の条件 も, 基本的に は このよ うな尊厳の
喪失が個人 の存在意 義の喪失 を結果 させ る とい うことを意 味す るもので しかな
い。そ して, この尊 厳を失わ ないための最後の手 段が 「
自殺」であ った。 この
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隷属とはその欠如をいう (
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場合の自殺 は,今 日的な意味 よりも広 く,祖国の ために身 を犠牲に して戦 うよ
うな場合 も,あるいは治癒不 可能な病気 にたい してただ生命を長び かせ ること
な く,む しろ安楽死 を選ぶ とい うような場合 も含 むような意味でもちいられて
いる。
以上にお いてわれ われは, まず医療において問題にされ る安楽死 が古代では
自殺の文脈 のなかで あっかわれているとい うことを確認 した。この ことは古代
における安 楽死がほ とんどの場合には,任意的か つ耕極的 な安楽死 であった と
い うことを意味する。消極的 な安楽死は問題にされることはほ とん どなかった
し,非任意 的な安楽死のケー スはす くな くとも倫 理的な議論 とみ られ ることは
なかった とい うことである。 また,われ われは舌 代においては例外 な く任意的
かつ鎌極的 な安楽死 が肯定されるべき自殺のひ とつ として認められ ていること
を見た。そ してス トアの哲学か ら,安楽死が肯定 される論拠 としては人間の生
命の尊厳性が もっとも適当な ものではないか と想定 したのである。
安楽死の問題は,生命の尊厳(
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の二律背 反をいかに解 くかにかかっていると言 うことができる。そ して,
古代の哲学 者たちは,生命をいたず らに伸長 させ ることに批判的で ある点では
軌を一にしていた。 今 日では生命の専厳 を絶対的 な原理 として,生命の質のほ
うはむ しろ相対的な原理のよ うにみなされる傾向があるけれ ども,舌代ではそ
の逆のほ うが当ては まると言 ってよいで あろ う。 生命の質 が主観的 な判断を許
す ように思 われるのは,個人 の福祉すなわち幸福 を今 日のわれわれ が もはや絶
対的価値 とすることができな いか らにほかな らな い。 しか しなが ら,何がその
個人にとってもっとも善であ るか, もっ とも利益 なもの となるかは, ソクラテ
スが不断に問いかけた問題で あったが, それは も ともと容易に解答 がえられる
とい うようなものではなかったはずであ る。セネ カには, 「
ただ生 きることが
善ではな く, よく生 きることが善である。 したが って,賢者 とは しかるべき長
さだけ生きた者たちであって,生きるこ とができ るだけ生 きた者た ちのことで
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」 41
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とい う言葉があるが,これによってひ とは直ちに
「
生きるこ とが大切 なのではな く,善 く生きるこ とが大切 なのであ る」 と育っ
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4
8B) のソクラテスを想起するであろ う。個人の甘厳 を守るこ
とは,何が もっともその人間に とって善いかの考察をぬきにしては語 られない。
安楽死の問題は,患者本人の利益を単純 に語るこ とができない とこ ろにその困
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死の倫理 /1
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難 さがある と言われ ているが ,有益性や 善を論 じるこ とを避 けて とおるこ とは
できないだ ろ う。す なわち, この間魔が 難解 であ るのは, 利益 を語 ることその
ことが困難 であるか らではな く,われわ れがたえず真筆 に問いかけ ていかなけ
ればな らない問題であるか らだ と思われ る。
(
関西大学非常勤講師)
参照文献
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メンツア一編,小西 ・永野訳 『カ ン ト倫理学講義』三修社 ,1
968年 (
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鹿野治助 『エ ピクテ- トス-
ス トア哲学入門-
』岩波新書 ,1
977年
J ・レイチ ェルズ著,加茂直樹監訳 『生命の終わ り- -安楽死 の道徳』晃洋書
991年 (
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本文中の翻訳については,プラ トン 『パイ ドン』 『国 家』 (
藤 浄訳) , 『法 律』 (
加来
釈),デイオゲネス ・ラエルテイオス 『ギ リシア哲学者列伝』 (
加来訳),ア イ リアノス
『ギ リシア奇談集』 (
松平 ・中井訳)を拝借 した。
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