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亡命ロシアの子どもたち ―モラフスカー - Doors

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亡命ロシアの子どもたち ―モラフスカー - Doors
 亡命ロシアの子どもたち
―モラフスカー・トシェボヴァーのロシア・ギムナジウムをめぐって―
諫 早 勇 一
0.モラフスカー・トシェボヴァーという町
モラフスカー・トシェボヴァー Moravská Třebová、人口は現在約1万人、
ローカル線しか通らないチェコ東部の小さな町だ(現在のチェコは西のボヘ
ミアと東のモラヴィアからできているが、モラフスカー[モラヴィアの]と
いう名前のとおり、モラヴィアに位置する1)。とはいえ、1920年代から30年
代にかけて、亡命の子どもたちが学ぶロシア・ギムナジウム2が置かれたこ
の町は、亡命ロシア文化を語る上で、忘れてはならない重要な地位を占めて
いる。モラフスカー・トシェボヴァーの名は、亡命ロシア文化史のさまざま
な局面で登場するが、本稿では、1)チェコスロヴァキア政府の亡命ロシア
人援助政策を受けて実現したコンスタンチノープルからの大移動、2)ここ
で亡命の子どもたちに課された作文、 3)思い出の場としてのトシェボ
ヴァー、という三つのテーマを中心に、この町の遺した意味について考えて
みたい。今では忘れられようとしているこの町を、亡命ロシア文化史のなか
に、いま一度きちんと刻みこむために。
1.コンスタンチノープルからの大移動
ロシア革命後の内戦で一時は優勢を誇った白軍も、しだいに赤軍に圧倒さ
れはじめ、1919年4月以降大量の難民が黒海沿岸から船で脱出を開始した。
つづく1920年 1 月のデニーキン軍の敗北、同11月のウランゲリ軍の敗北に
よって白軍は壊滅し、20万ともいわれる大量の難民が、当時連合軍が支配し
ていたコンスタンチノープルとその周辺に集結することとなる3。その難民
『言語文化』12-1:277−291ページ 2009.
同志社大学言語文化学会 ©諫早勇一
278
諫 早 勇 一
のなかには兵士の家族もいたから、そうした子どもたちの教育のために、
1920年12月この地に最初のロシア・ギムナジウムが設立された。生徒数は当
初321名、翌年には500人を超えたという4。
しかし、大量の難民を抱えたコンスタンチノープルの生活条件は劣悪だっ
たし、ケマル・アタテュルクの革命運動などで当時のトルコの政治情勢も緊
迫していたから、難民たちが長期にわたってこの地に暮らすことは望めな
かった5。そこでコンスタンチノープルの第一ギムナジウムの創設者だった
アデライーダ・ジェクーリナは、ロシア人亡命者に好意的だと言われるチェ
コスロヴァキア政府に、ギムナジウムの受け入れを打診し、粘り強く交渉を
続けた結果、外務大臣ベネシュはチェコスロヴァキア政府の名において、ギ
ムナジウムの完全な受け入れ(生徒だけでなく、教職員も全員受け入れる)
を約束してくれた6。こうして1921年12月16日から、生徒数500人を超える一
つの学校を、コンスタンチノープルからいくつもの国を鉄道で通過して、遠
くチェコスロヴァキアの小さな町モラフスカー・トシェボヴァーまで引っ越
しさせるという、壮大な移動計画が開始された。
1921年10月初めにチェコスロヴァキアのビザが届いた後、トルコ、ブルガ
リア、セルビア、ハンガリーの通過ビザも無事に下りて、移動の準備は整っ
た。大移動に参加した人のなかには、500名を超える生徒のほか、55名の教
職員と30名のその家族、さらには(同年コンスタンチノープルのギムナジウ
ムを卒業し、大学入学資格を取得した)約50名の卒業生もいた。そして、教
科書などの荷物は船でイタリアのトリエステに運ばれた後、鉄道でチェコス
ロヴァキアに運ばれたという7。
600名を超える人々が鉄路で一度に移動することは当時不可能だったから、
生徒たちの移動は45名ずつ12のグループに分かれて行われた。最初の出発が
12月16日で最初の到着が12月24日、全員が集合したのが翌1922年1月5日と
いうから8、1グループの移動にかかった日数は1週間以上、全体でおよそ3
週間を要している。10歳前後から20歳過ぎの生徒まで、さまざまな年齢層の
子どもたちを、見知らぬ国々を経由して見知らぬ国へと集団移動させた、付
き添いの教職員らの苦労は並大抵ではなかったろうし、親元から離れて大移
動に参加した子どもたちの心細さは、のちのちまで長く彼らの心に残された
亡命ロシアの子どもたち―モラフスカー・トシェボヴァーのロシア・ギムナジウムをめぐって― 279
にちがいない。ただ、参加した一生徒の回想は思いのほかのんきである。後
にチェコ語作家に転じた亡命ロシア人ニコライ・テルレツキー 9の『履歴書』10
から引こう。
「チェコスロヴァキア共和国には、ふたつの長い列車に分乗してむ
かった。ブルガリアを横断したとき、駅ではボルシチで歓待され、ユー
ゴスラヴィアではボルシチにくわえ、良質のブドウが出されたが、オー
ストリアでは誰も出てくることはなかった。もう夜で、バケツをひっ
くり返したかのように雨が降っていたからだろう。そして、モラフス
カー・トシェボヴァーに到着し、わたしたちは目的地に着いたのだ。
」
(20 − 21)
こうして全員が集合し、寄宿舎に落ち着くとただちに授業が再開された。
なお、モラフスカー・トシェボヴァーのロシア・ギムナジウムの創立記念日
は、この再開の日ではなしに、コンスタンチノープルでギムナジウムが開設
された日が祝われつづけ、1930年12月 5日には創立10周年記念式典がここで
盛大に催されている11。
2-1.ギムナジウムの生活
ギムナジウムの場所としてモラフスカー・トシェボヴァーが選ばれた大き
な理由は、第一次大戦中にオーストリア・ハンガリー帝国がつくった戦争捕
虜収容所がここに遊休施設として残されていたことにある12。町の南にある
丘の北斜面には30以上のバラックがあり、これらの建物は教室・寄宿舎とし
て使われただけでなく、教職員の宿舎、教会、診療所、工房などとしても利
用された。また、この町はいわゆるズデーテン地方に属していたため、町の
人口のおよそ80%はドイツ人で、チェコ人は少数派だったが13、逆に同じス
ラヴ人であるロシア人生徒たちを歓迎してくれたという14。
さて、ギムナジウムが移転した1922年は「ロシア行為」(Ruská akce)と呼
ばれる亡命ロシア人援助法案15が可決された年であり、ギムナジウムにも積
極的な金銭的援助が行われた(ギムナジウムの 1 か月の予算は、1,500人以
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諫 早 勇 一
上の生徒を抱えるフィンランド・エストニアのロシア・ギムナジウムの予算
総額の約3倍だった16というから、生徒1人あたりで換算すると、約10倍の
予算が割かれたことになる)
。教科書や服をはじめ、教育にかかる費用や寄
宿舎費用がすべて無償だっただけでなく、食べ物や衛生状態もよかったし17、
図書館の蔵書数も1万冊を数えていたという18。プラハから遠く離れたこの
地に数多くの若者たちを誘った理由は、すぐれた教師陣とともにこの恵まれ
た環境にあったことは疑いない。そして、ここでは生徒たちのサークル活動
(科学・文学・芸術・スポーツ)も充実しており19、芝居やコンサート、ダ
ンスパーティーもしばしば催されたほか、ソーコルと呼ばれる一種のボーイ
スカウト、ガールスカウトの活動も盛んだった20。また、1925年からは毎年
6月上旬に「ロシア文化の日」の祝典21も盛大に執り行われている。
ギムナジウムには7つの学年と入学準備学年が1学年、合計8学年が置か
れたが、創立当初は1904-08年生まれの子どもたちに交じって、革命や内戦
のために22中断した教育をふたたび受け直したいと願う1899-1903年生まれの
子どもたち(当時17歳から21歳)も少なくなかった23。さまざまな年齢層の
子どもたちが寝起きをともにするギムナジウムの生活が、彼らにとって青春
の思い出の場となったことは容易に想像できる24。なお、1922 − 26年の5年
間、ギムナジウムはチェコスロヴァキア外務省の管轄下にあって、革命前の
実科ギムナジウム25のカリキュラムに沿った教育が行われていたが、1927 −
32年になると国民教育省の管轄となり、むしろチェコスロヴァキアの中等教
育に近づいて、外国語の授業科目が増え、ロシア語、チェコ語のほかにフラ
ンス語も教えられるようになった26。また、チェコスロヴァキア政府の厚意
で、当初からギムナジウムの卒業生は、チェコスロヴァキアの学校を卒業し
たのと同じ大学受験資格を与えられたので27、当初はかなりの数(1922年に
は173人)が高等教育機関に進学したが、しだいに進学者も減り、ギムナジ
ウムの教育も実践的な職業教育の色彩を強めたという28。だが、新たな亡命
者の波もないまま、しだいに生徒数が減少すると、モラフスカー・トシェボ
ヴァーのギムナジウムは、1935年プラハのギムナジウム29と統合され、この
地での歴史を閉じることとなる。幾多の思い出を残しながら。
亡命ロシアの子どもたち―モラフスカー・トシェボヴァーのロシア・ギムナジウムをめぐって― 281
2-2.『亡命の子どもたち』
さて、モラフスカー・トシェボヴァーのギムナジウムの名前を知らしめた
もう一つの契機は、ここで生徒たちにある作文の課題が与えられたことだっ
た。1923年12月12日、2コマの授業をつぶして全生徒に「1917年からギムナ
ジウム入学日までの私の回想」(Мои воспоминания с 1917 года по день
поступления в гимназию)と題した作文が課された30。その結果は翌24年プ
ラ ハ で2冊 の 小 冊 子(「 ロ シ ア か ら の 難 民 の 子 ど も た ち の 回 想 」
Воспоминания детей-беженцев из России、「500人のロシア人の子どもたちの
回想」Воспоминания 500 русских детей)として刊行されるが31(未見)、こ
れが評判を呼んだため、同年から規模を広げて、15のロシア・ギムナジウ
ム32の2403人の生徒33に同様の課題が課される34。そして、翌25年その結果を
編集したものに、識者のさまざまなコメントが付された単行本『亡命の子ど
もたち』Дети эмиграцииが世に出た。幸いこの本は2001年にモスクワで再版
されて、容易に目を通すことができるようになったから、革命・内戦という
未曾有のできごとが子どもたちの目にどのように映っていたのか、それが彼
らの心にどんな傷を残したのかを、今日われわれは身近に感じることができ
る。その意味で、モラフスカー・トシェボヴァーで行われたことの意義は大
きい。もちろん、『亡命の子どもたち』に収められた作文はモラフスカー・
トシェボヴァーの生徒たちが残したものとは限らないが、亡命の子どもたち
の心を知る手がかりとして、以下少し紹介してみよう。
前述のように、この本はただ子どもたちの作文を並べたものではなく、識
者によって編集されたものだから、生の声を聞くにはやや物足りなさも覚え
るが、全体の傾向が随所にうまくまとめられており、膨大な作文を要領よく
概観させてくれる。たとえば、生徒たちを学年によって分類すれば、3つの
グループに分けることが可能で(第1グループは入学準備学年と1年生の前
半、第2グループは1年生の後半と2,3年生および4年生の一部、第3グルー
プは残りの学年)35、第1グループは亡命者というより、亡命した両親の子ど
もにすぎず、祖国の記憶はあいまいで、祖国はロシアより、たとえば、セル
ビアだという36。一方、第3グループは事件への直接の参加者であり(ただ、
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諫 早 勇 一
女の子たちは戦争にあまり触れていないようだ37)、ボリシェヴィキとの戦
いも生々しい。これに対して、第2グループにはさまざまなタイプが見られ、
もっとも興味深いグループなので、編者の細かい分類をやや詳しく紹介した
い。
第2グループに見られるタイプを編者は5つ挙げる。1つはデータによっ
て事件を書きとめようとする「旅行者」であり、彼らは「町や場所をデータ
や事実を引きながら列挙し、しばしば作文を履歴書に変えている38」。この
グループでなによりも興味深いのは、彼らにとって人生が旅や放浪に変わっ
ていることだろう。ある少年は作文を「これがぼくの旅のすべてです」と結
んでいるし、一人の少女は「短い伝記」と書く代わりに、自分の作文をわざ
と「短い地理」と題したという。編者が語っているように、「多くの子ども
たちにとって、彼らの伝記は〈地理〉に変わっていたのだから39」。2つ目は、
体験した事件をコメントなしに穏やかに描きつづける「語り手」であり40、
3 つ目は年長のグループの子どもたちと同じように、事件に直接参加した
「ヒーロー」である41。このほか、編者は4つ目として「感覚が麻痺した子ど
も42」を、5つ目として「目撃したことが心に深く刻まれた子ども43」を挙げ
ている。ここでは作文の実例を引くことはしないが、革命・内戦という人生
を激変させたできごとを目の当たりにした子どもたちのさまざまな反応は、
こうした分類からもいくらかうかがえるにちがいない。
なお、モラフスカー・トシェボヴァーでは、作文を課したさいに、同時に
絵も書かせているが、そこで「故国の自分の家を描いたのは、たった一人の
子どもだけ」で、「大多数は汽船や、異国の風景が含まれた絵」44を描いたと
いう。息つく暇もない移動の連続とめまぐるしく移り変わる環境、子どもた
ちの心のなかで、時間の流れが空間の移動と見分けがつかなくなったとして
も不思議ではない45。
では、このように運命に翻弄された子どもたちは、ロシア・ギムナジウム
にたどり着いてどう感じたのだろうか。最後にそれを少し引用してみよう。
「もしギムナジウムに入らなかったとしたらどうなったのか、私たちにはわ
からない。きっと飢えで死んでいたことだろう」、「学校は、故郷から遠く離
れた私たちに残されたすべてだ。ここに入ると、ありとあらゆる心に懐かし
亡命ロシアの子どもたち―モラフスカー・トシェボヴァーのロシア・ギムナジウムをめぐって― 283
いもの、ロシア的なものが、私たちの魂に吹き込まれるのを感じる」、学校
は「私たちにとって故郷という島みたいなものだ。もしロシアが遠くに去っ
たとしても、私たちの学校は、私たちを過去から完全に切り離すことはな
い46」。亡命の地におけるロシア文化の継承というギムナジウムの大きな課
題は、生徒たちに実感として捉えられていたのかもしれない。
3.тржебовцы – トシェボヴァーの人々
さて、モラフスカー・トシェボヴァーのロシア・ギムナジウムが記憶に残
されているもう一つの要因は、ここで亡命詩人マリーナ・ツヴェターエワの
娘アリアドナが学んだことにある。アリアドナは1923年9月、両親とともに
はじめてここを訪れ、面接を経て入学を許された47。ただ、翌24年の夏休み
に両親の住むプラハに帰ると、肺に影が見つかったので、母の反対にあって
学業は1年で中断せざるをえなくなる48。そして、ツヴェターエワ自身がこ
の町を訪れたのは、娘の入学のときと1923年のクリスマスから正月にかけて49
の2回だけだった。
アリアドナがこのギムナジウムの生活をどのように感じていたかは、かな
らずしも明確ではない。「寄宿舎の町の細長く白いバラックに〈幽閉され〉、
うつろな煉瓦の壁で周囲から隔絶された子どもたちの運命は、単調なまでに
気ままで、果てしなく寂しいものだった50」とつづられ、12月に母が来て町
に連れ出してもらうと、「 4 か月にわたる逃げ場のない寄宿舎の後なので、
町は私には天国に見えた51」と語る彼女の口調には、寄宿舎生活への嫌悪感
が読み取れるが、
「あなた気に入った?」とギムナジウムの感想を尋ねる母に、
「とっても!」と「心の底から答えた52」彼女のことばも簡単に否定はでき
ないからだ。ただ、ツヴェターエワ自身がこの町に好感を抱いていなかった
ことは確かだろう。アリアドナの回想にも「ドイツ的な俗物根性53」という
母の言葉が引かれているように、ツヴェターエワはドイツ人の多いこの町に
どうしてもなじめなかったようだ。
とはいえ、娘がモラフスカー・トシェボヴァーのギムナジウムに入ったこ
とは、ツヴェターエワの人生において、たんなるエピソードには終わらなかっ
た。たとえば、後にアルフレッド・ベームの率いる文学サークル〈庵〉54に
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諫 早 勇 一
参加する女流詩人アッラ・ゴロヴィナーは、このギムナジウム在学時から詩
を書いていたが、アリアドナを訪ねてきたツヴェターエワとここで知り合い、
その後も文通を続けただけでなく55、パリ在住後は個人的にも親しく付き合
うようになった。そして、ツヴェターエワがソヴィエト・ロシアに帰国する
前には、「毎日[強調はゴロヴィナー]会って」いて、ツヴェターエワは自
分の書類をゴロヴィナーに託したいと願ったほどだったが、ゴロヴィナーは
あまりの責任の重さからそれを固辞したという56。
また、同じくこのギムナジウムで学んだゴロヴィナーの兄アナトーリイ・
シテイゲルも、妹同様に詩人ツヴェターエワを尊敬していたが、後に結核を
病んでスイスのサナトリウムで療養していたころ、恋多き女性といわれたツ
ヴェターエワの心を燃え立たせ、彼女から大量の手紙を受け取ったという57。
なお、シテイゲルのように、卒業後チェコスロヴァキアを離れたものは別だ
が、モラフスカー・トシェボヴァーのギムナジウムを卒業し、文学に志した
ものの多くは前述の〈庵〉に籍を置いていた。すでに挙げたゴロヴィナー、
テルレツキーのほか、ミハイル・イワンニコフ、ワジム・モルコーヴィン、
マリヤ・トルスターヤらのように58。そしてさらに、このモルコーヴィンも
ツヴェターエワと浅からぬ因縁を持っている59。
ギムナジウムでシテイゲル兄妹60と親交を結んでいたモルコーヴィンは、
1945年5月末、ツヴェターエワの伝記のなかで重要な位置を占めるチェコ人
女性アンナ・テスコヴァーと知り合う。そして、彼女の死後、その妹からツ
ヴェターエワ関連の資料を託された。以来ツヴェターエワ研究に没頭した彼
は、1969年に『マリーナ・ツヴェターエワ:アンナ・テスコヴァー宛て書簡』
Марина Цветаева. Письма к Анне Тесковойと題された本を刊行するが、これ
は「マリーナ・ツヴェターエワの書簡をはじめて本の形で刊行したものだっ
た61」。ただ、その後かつての同窓生アリアドナは、国外で母の研究が進む
ことを快く思わず、協力を求めるモルコーヴィンの依頼を冷たく断ったとい
う後日談も伝えられている62。
さて、テルレツキー同様に、モルコーヴィンもモラフスカー・トシェボ
ヴァーのギムナジウムの体験を含む回想記を残している。つぎに、そこから
少し引用してみよう。1923年秋、母といっしょにチェコスロヴァキアにやっ
亡命ロシアの子どもたち―モラフスカー・トシェボヴァーのロシア・ギムナジウムをめぐって― 285
て来たモルコーヴィンは、翌24年母に頼んでモラフスカー・トシェボヴァー
のギムナジウムに入れてもらうが、「そこには最良の教師たちがそろってい
た」63。ここで生涯にわたる友アナトーリイ・シテイゲルと知り合った彼は、
1926年に卒業してプラハに移り、工科大学で学びながら文学活動をはじめて、
1931年からベーム率いる〈庵〉のメンバーとなった64。その後の文学活動は
ここではあえて触れないが、興味深いのは1930年代の終わりに、当時亡命ロ
シア文化の中心だったパリを訪れたときのエピソードだ。亡命ロシア詩人ド
ヴィド・クヌートの妻ナターシャ・オボレンスカヤら、かつての級友たちと
再会したモルコーヴィンは、「すべてのトシェボヴァーの人々 [тршебовцы]
と同じように」、「ほかの人たちとは離れて、わたしたちのギムナジウムでの
で き ご と に つ い て 話 し な が ら、 一 晩 じ ゅ う 過 ご し た65」 と い う。 こ の
тршебовцы、あるいはтржебовцы66という言葉は、このギムナジウムを卒業
した人たちが好んで用いた言葉だったらしい。チェコスロヴァキアにおける
亡命ロシア文化研究の第一人者、コプシヴォヴァーはこう語る。「人生は彼
らを世界中のあらゆる国々へと散らばらせた。しかし、それでもなお彼らは
たがいに連絡を取り合い、誇らしげに自分たちを〈トシェボヴァーの人々〉
тржебовцыと呼んでいる67」と。さらに、コプシヴォヴァーによれば、多く
の卒業生はギムナジウムの教会で結婚式を挙げ、町の墓地には正教の十字架
も見えるという(墓地の使用料は、2000年にいたるまで、ギムナジウムの卒
業生が出し合っていた)68。モラフスカー・トシェボヴァーというチェコの
小さな町に置かれたロシア・ギムナジウムの思い出は、多くの卒業生の心に
長く残りつづけていたにちがいない。
4.終わりに
2009年3月、かつて「亡命ロシア最大の中等教育機関69」とも称されたモ
ラフスカー・トシェボヴァーのロシア・ギムナジウムを訪ねるべく、ローカ
ル線しか通っていないこの町に降り立った。「丘の北斜面70」という記述だ
けを頼りにした危うい調査だったが、幸いプラハで購入した地域の地図や地
元の人々のご厚意で、おおよその場所は見当がつけることができた。ロシア・
ギムナジウムがプラハのギムナジウムに統合された後、そこはチェコの改革
諫 早 勇 一
286
軍事ギムナジウムčeské vojenské reformní gymnáziumとなったが71、現在は中
等技術学校střední technická školaとなっているらしい72。思い出の場所がすっ
かり荒野になっていることを危惧していたので、とりあえずホッとして町を
後にした。あとはこの町についての記事を残さなければと、ささやかな使命
感に燃えながら。
本研究は科学研究費補助金基盤研究B(課題番号19320053、平成19年度−
平成21年度)「RUSSIAN PRAGUE―両大戦間のプラハにおける
文化の交錯の研究」(研究代表者 諫早勇一)の助成を得た。
注
1 後に触れるツヴェターエワの娘アリアドナの回想で「ドイツとの国境の町」
(Эфрон, А. Страницы воспоминаний. Воспоминания о Марине Цветаевой . М.:
Советский писатель, 1992, С. 231)と書かれているためか、ツヴェターエワの評
伝を著したカーリンスキーも、この町の場所を「ドイツ国境近く」としているが
(Karlinsky, S. Marina Tsvetaeva: the woman, her world, and her poetry. NY.: Cambridge
UP, 1986, p. 145)、しいていえば「ボヘミアとモラヴィアの境」に位置するだけで、
当時のドイツ国境(現在のポーランド国境)に近くはない。なお、いわゆるズデー
テン地方に属するこの町は、Märisch Trübauというドイツ語名も持っていた。
2「ロシア人学校」という訳語もありうるが、
「亡命ロシア人」と総称される人々も、
ウクライナ人、ユダヤ人、アルメニア人、グルジア人、カルムイク人など人種は
さまざまだったから(см. Будницкий, О.В. Материалы по истории российского
еврейства в эмигрант ских архивах. История и культура ро ссийского и
восточноевропейского еврейства: новые источники, новые подходы . М.: Дом
еврейской книги, 2004, С. 206)
、「ロシア語学校」のほうが適当かもしれない。本
稿では「ロシア・ギムナジウム」で統一する(なお、「ギムナジウム」は小学校
ではなく、中高等学校に当たる)。
3 см. Йованович, М. Обзор переселения русских беженцев на Балканы. Русский
исход . СПб.: Алетейя, 2004, С. 167-172.
4 Копрживова-Буколова, А. Русская реальная гимназия в Моравской Тржебове.
Культурное наследие российской эмиграции 1917-1940 . Кн. 1. М.: Наследие, 1994.
С. 378. なお、その後さらに2つのギムナジウムが開校し、合計3校に900名以上
亡命ロシアの子どもたち―モラフスカー・トシェボヴァーのロシア・ギムナジウムをめぐって― 287
の生徒が学んでいたという。см. Степанов, Н.Ю. Средние учебные заведения
русской эмиграции в начале 1920-х годов: эвакуация и размещение. Русский исход ,
С. 279.
5 Степанов, С. 279.
6 Копрживова-Буколова, С. 379. なお、ほかの2つのギムナジウムの生徒は、おも
にブルガリアに送られた。см. Степанов, С. 280.
7 Копрживова-Буколова, С. 379.
8 Там же.
9 テルレツキーについては、阿部賢一「「亡命」という選択肢―ニコライ・テルレ
ツキーの『履歴書』をめぐって―」、Slavic Studies No. 52, 2005, pp. 99-117がくわ
しい。
10 原題はTerlecký, N. Curriculum vitae(Praha: Torst, 1997). なお、ここでは武蔵大学人
文学部阿部賢一准教授のご厚意により、阿部准教授の訳(私家版)を引用させて
いただいた(以下、この本からの引用は私家版のページ数を本文に記す)。記し
て感謝申し上げたい。
11 cf. Běloševské, L. (red.) Kronika kulturního, vědeckého a společenského života ruské
emigrace v Československé republice. Díl 2. Praha: Slovanský ústav AV ČR, 2001, p. 39.
12 Копрживовва-Буколова, С. 379. なお、この年の9月、プラハにもギムナジウムが
設置されるが、適当な用地がなかったため、現地の学校の校舎に間借りしたとい
う(Петрушева, Л.И. Русская акция правительства Чехословакии и эмиграция из
России . http://www.rusarchives.ru/evants/exhibitions/minsk_p.shtml)。遊休施設がある
ことは、モラフスカー・トシェボヴァーが選ばれた大きな理由と考えてよいだろ
う。
13 テルレツキーは「チェコの町で、そこにはドイツ人が住んでいた。チェコ人で知っ
ていたのは、理髪師、郵便配達人、駅長の三人のみ。他のチェコ人は町で見かけ
ることはなく、どこか面目がなかった」(27)と書いている。
14 Степанов, С. 289.
15 これについては、拙論「同化と共生――中東欧諸国における亡命ロシア文化序
説――」、『言語文化』第9巻第1号、2006年、p.100、同じく拙論「亡命ロシアの
新聞・雑誌――中東欧諸国における第一次亡命ロシア文化試論」、科学研究費補
助金研究成果報告書「スラヴ世界における文化の越境と交錯」、2007年、pp.2-3を
参照。
16 Копрживова-Буколова, С. 380.
17 Там же.
18 Кондратьева, М.А. Русская гимназия в условиях эмиграции: основные ценности
образования (20е годы XIXв.) http://pedagogics.narod.ru/obzor/zarub7.txt
19 Копрживова-Буколова, С. 381.
諫 早 勇 一
288
20 Степанов, С. 289.
21 1925年よりプーシキンの誕生日を「ロシア文化の日」と名付けて、亡命ロシア
全体で祝うようになった。なお、1925年の「ロシア文化の日」には、スポーツの
祭典、コンサートのほかに、生徒たちによってオストロフスキイの『森』が上演
されている。Běloševské, Díl 1, 2000, p. 206.
22 実際直接内戦に参戦した子どもたちも少なくなかった。後述の『亡命の子ども
たち』の解説によれば、4年生以上では23%以上の生徒が内戦に参戦したという
(Цуриков, Н. Дети эмиграции . Зеньковский. В.В. (ред.) Дети эмиграции:
Воспоминания. Сборник статей . М.: Аграф, 2001, С. 33)。
23 Копрживова-Буколова, С. 378.
24 テルレツキーはギムナジウムにおける恋愛について、こんな記述を残している。
「学校には恋するカップルがひそかに出会う場所が数多くあった。教会の裏手の
柵には、修理してはいつも元通りになってしまう穴が開いていた。この穴を抜け
て、森や畑に出ることができた。サッカー場の下のほうにある同じような穴を抜
けて、町のドイツ人の女の子たちと知り合いになろうと、皆、小径に出たものだっ
た。」(23)
25 古典ギムナジウムに対立する概念で、古典ギムナジウムがギリシア語、ラテン
語など古典語の教育を重視したのに対し、より実際的な科目が教えられた。なお、
ブルガリアにはこの時代でも古典ギムナジウムが存在していたという。см.
Кондратьева.
26 Копрживова-Буколова, С. 377, 380.
27 Степанов, С. 288.
28 см. Кондратьева.
29 チェコスロヴァキアにはプラハとモラフスカー・トシェボヴァーの2個所にロ
シア・ギムナジウムが設置されていたが、1923年の統計によれば、在学生数はプ
ラハが141名、モラフスカー・トシェボヴァーが523名(教員数もプラハが20名で、
モラフスカー・トシェボヴァーが30名)だから、モラフスカー・トシェボヴァー
のギムナジウムのほうがかなり規模は大きかった。cf. Dokumenty k dějinám ruské a
ukrajinské emigrace v Československé republice, 1918-1939. Praha: Slovanský ústav AV
ČR, 2000, p. 38.
30 Цуриков. Дети эмиграции , Зеньковский, С. 25-26.
31 Фараджев, К. Предисловие , Там же, С. 5.
32 内訳は、トルコ2、ブルガリア1、ユーゴスラヴィア10、チェコスロヴァキア2。
Цуриков, С. 29.
33 年齢は8歳から24歳までにおよんでいたという。Цуриков, С. 27.
34 課題は学校ごとに少しずつ異なっていた。たとえば、「ロシアに滞在していた最
後の時期の私の回想」Мои воспоминания о последних годах пребывания в России
亡命ロシアの子どもたち―モラフスカー・トシェボヴァーのロシア・ギムナジウムをめぐって― 289
や、「1917年から…に到着する日までの私の回想」Мои воспоминания, начиная с
1917 года по день прибытия в Nのように。Цуриков, С. 25.
35 Цуриков, С. 96.
36 Цуриков, С. 97.
37 Цуриков, С. 111.
38 Цуриков, С. 100.
39 Цуриков, С. 101.
40 Там же.
41 Цуриков, С. 103.
42 Цуриков, С. 105.
43 Цуриков, С. 106.
44 Фараджев, С. 12.
45 なお、ユーリイ・ラキーチンという亡命ロシア人演出家について紹介した論文
があるが、そこで論者はさまざまなヨーロッパの国における彼の活動を追った後、
「彼にとって〈地理の終わり〉がやって来た。それと同時に〈歴史の終わり〉も」
と結んでいるから(Иванов, В.В. Некоторые проблемы функционирования русского
театра в диаспоре. Художественная культура русского зарубежья 1917-1939:
Сборник статей . М.: Индрик, 2008, С. 290)、歴史と地理の重なり合いは、子ども
たちだけでなく、亡命という運命そのものにかかわるものかもしれない。
46 Цуриков, С. 46-47.
47 アリアドナの回想によれば、8月末にモラフスカー・トシェボヴァーを訪れた
ことになっているが(Эфрон, С. 231-232)、現在の研究では、ツヴェターエワが
娘を連れてこの地を訪れたのは、1923年の 9 月 7 日から17日までとされている。
Лубянникова, Е.И. Марина Цветаева в Чехословакии. Хронотоп(1922-1925).
«Чужбина, родина моя!». Эмигрантский период жизни и творчества Марины
Цветаевой. М.: Дом-музей Марины Цветаевой, 2004, С. 43.
48 Эфрон, С. 243. なお、アリアドナがギムナジウムに滞在していたこの時期は、ちょ
うど前述の作文が課された時期だったので、『亡命の子どもたち』の解説は、彼
女の参加についても触れている。Фараджев, С. 8-9.
49 1923年12月23日から24年1月9日まで。Лубянникова, С. 44.
50 Эфрон, С. 232.
51 Там же, С. 233.
52 Там же.
53 Там же. なお、このмещанствоという語はKarlinskyも評伝のなかで引用している。
cf. Karlinsky, p. 145.
54 このサークルについては、拙稿「プラハのロシア文学――ベームと〈庵〉を中
心に」、『言語文化』第10巻第1号、2007年、101-119ページ参照。
諫 早 勇 一
290
55 Баранова, Л.Г. Головина. Литературная энциклопедия Русского Зарубежья 1918-
1940: Писатели Русского Зарубежья . М.: Росспэн, 1997, С. 128.
56 «Скит» Прага 1922-1940: Антология, биографии, документы . М.: Русский путь,
2006, С. 441. また、ゴロヴィナーはソヴィエト・ロシアへの帰国を企てるツヴェ
ターエワに対して、帰国を思いとどまるよう説いたともいわれる。см. Головина,
Анна. Душа моя – моя кариатида . Журнальный зал, http://magazines.russ.ru/nov_
yun/2003/4/golov.html
57 前田和泉『マリーナ・ツヴェターエワ』、未知谷、2006年、340 − 341ページ.
58 なお、〈庵〉のメンバーのなかには、プラハのギムナジウムの卒業生もいた。ウ
ラジーミル・マンスヴェートフ、タチヤーナ・ラートガウス、エヴゲーニイ・ゲッ
セン、ニーナ・ミャコーチナのように。см. «Скит» Прага 1922-1940 , С. 425, 518,
588, 607.
59 モルコーヴィンは、
〈庵〉の詩人ヴャチェスラフ・レーベジェフの家でツヴェター
エワに会ったことがあり、ツヴェターエワはその後彼と文通していたという。
Стенина, Н.А. Чешское окружение Марины Цветаевой. «Чужбина, родина моя!» , С.
33.
60 ゴロヴィナーは結婚後の姓で、モラフスカー・トシェボヴァー時代はアッラ・
シテイゲルだった。
61 «Скит» Прага 1922-1940 , С. 567.
62 Стенина, С. 39-40.
63 «Воспоминания» Вадима Морковина (публикация Д.В. Базановой). Русская
литература , 1993 №1, С. 197-198.
64 Там же, С. 198-202.
65 Там же, С. 228.
66 チェコ語の文字řは、ロシア語表記ではふつうржもしくは発音にしたがってрш
と表わされる。
67 Копрживова-Буколова, С. 382.
68 Там же.
69 Цуриков, С. 25.
70 Копрживова-Буколова, С. 379.
71 Turistická mapa: Zábřežsko. 2001より。
72 Лубянникова, С. 44.
亡命ロシアの子どもたち―モラフスカー・トシェボヴァーのロシア・ギムナジウムをめぐって― 291
Children of Russian Emigration – Russian Gymnasium in Moravska Trebova.
Yuichi ISAHAYA
Keywords: Russian emigration, Russian gymnasium, Czechoslovakia, Tsvetaeva
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