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『国防政府査問録』に見る籠城下のパリ市民の精神状態 <そのⅠ>

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『国防政府査問録』に見る籠城下のパリ市民の精神状態 <そのⅠ>
『国防政府査問録』に見る籠城下のパリ市民の精神状態 <そのⅠ>
横浜市立大学名誉教授 松井道昭
以下に紹介する史料は、『国防政府査問録』(Enquête parlementaire sur les actes du
gouvernement de la Défense Nationale ; Déposition des témoins, 4 tomes, Versailles, Cerf et fils. 18721873. )に収録された諸証言のなかから、普仏戦争(1870-71 年)籠城下のパリ市民の精神状態
に関する証言を抜粋したものである。
『国防政府査問録』は、国防政府の行動に関して何がおこなわれたかを確認する目的で、国民
議会内につくられた査問委員会が事件の関係者の一人ひとりに尋問した結果をまとめたものであ
る。証言台に立ったのは、国防政府の閣僚、各省庁の各級の官僚、パリの区長・助役、軍人など
である。
引用にあたっては、パリ市民の全般的動向、政府・諸党派・市民の関係、行政府の諸施策への
市民の反応、諸事件に対する市民の反応にしぼった。一方、諸事件の細かな経緯および証言者の
心境についての証言は、主題(パリ市民の精神状態)に係わる場合に限定し、それ以外は引用を
極力割愛した。詳しくは本史料末尾の解説を参照されたい。
ティエール
ピエトリ
シュヴロー
トロシュ将軍
ファーヴル
フェリー
ガルニエ=パジェス
ウジェーヌ・ペルタン
ピカール
ドレオ
ヴァーブル
ド・クリスノワ
エマール
アルノー・ド・ラリエーズ
ヴィノワ将軍
ファルシイ
コルボン
アンリ・マルタン
ヴァシュロー
デュフレス
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凡例
(1) 引用の順序は『査問録』に収録されている証言の順序に従った。証人の陳述が複数回行われ
る場合もあるが、『査問録』はこれらをまとめて収録しており、したがって、引用の順序は必ず
しも陳述の年代順になっていない。
(2) 証言者の氏名の後の略歴は訳者によるものである。
(3) 引用に先立って、その内容の要約を見出しとして表記した。これも訳者のまとめである。
(4) 引用符「 」は省略した。改行は『査問録』の原文に従った。
(5) 引用にあたっては、原則的に主題にかかわる内容のみに限定し、その内容を含む段落の最初
から始め、主題から離れたところで打ち切った。しかし、あまりに他の事柄に言及していて冒頭
から引用するのが適当でない場合は、途中から引用し、引用の冒頭に[…]で示しておいた。
(6) 引用は原則的に証言者の発言機会ごとの陳述で区切った。しかし、証言者の陳述の途中で、
質問者が質問したり意見を述べたりして陳述が暫く中断したのち、陳述がまた同じ主題に戻って
いる場合は、後述(8) の表記法により、分断された2つの発言をつないだ。
(7) 引用にあたっては原則的に内容上、ひとまとまりとなっているところで区切った。証言者が
他の事柄に言及したのち、再び主題に戻るときは、一行を空けてつづけた。その場合、主題と無
関係の陳述部分は[…中略…]の形で示した。
(8) 質問を受ける形で返答となっている陳述で、予め質問内容を示したほうが分かりやすいと判
断される場合は、訳者が質問内容を要約し、[質問:……?]の形で引用文の前においた。
(9) ) 引用文の途中で注記が必要と判断される場合は、[訳注:……]の形で説明文を挿入した。
(10) 引用文の末尾の( )内は、『査問録』の巻数およびページを示している。
アドルフ・ティエール (1871 年 9 月 17 日の証言)
Louis Adolf Thiers、1797-1877 年。ジャーナリスト出身の政治家。1830 年より代議士。七月
王政下、内務大臣として 1834 年のパリ暴動の鎮圧(トランスノナン虐殺事件)を指揮。1848 年
ルイ=ナポレオン大統領に一時協力したが、まもなく大統領のクーデタの意図を知り離れる。ル
イ=ナポレオンのクーデタとともにスイスに亡命。1863 年に立法院選挙に当選し野党議員して政
界復帰。国防政府の全権大使として普仏戦争の休戦のために諸外国に仲裁要請の旅に出るが、目
的を果たしえず。国民議会選挙で議員に選出され、ここで行政長官に就任し、事実上の首相とし
てパリ・コミューンの叛乱の勃発およびその鎮圧に責任をもつ。対プロイセン戦後賠償問題を解
決し、議会から「国家功労者」の表彰を受けるが、1873 年 5 月に失脚。
好戦熱を煽ったのは帝政政府である
われわれはその日の夕方、まったく心乱れた状態で別れた。プロイセン側から何の譲歩も得ら
れないということが納得できなかったのである。多数の集団が大通りに溢れていた。前代未聞の
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ことだが、警察官の群れが「ベルリンへ、ベルリンへ!」と叫びながら走っていた。大多数の住
民はこの示威行進に批判的であった。私はといえば、通りがかりの馬車でダリュー(Daru)氏
およびビュフェ(Buffet)氏といっしょに通りを駆け抜けたが、われわれは事態の真実をつかむ
ことができた。それは、住民が戦争を欲しているどころではなかったということだ。したがって、
皇帝ナポレオン3世が、戦争に引き摺られたのはフランスのほうだ - 彼が思い違いをしている
のか、あるいは騙されているのが知らないが - という口実に訴えるとき、彼は真実を語ってい
ないことになる。実際、彼が戦争を望まず、そしていやいやながら譲歩したとすれば、彼が譲っ
たのは彼の党派に対してであり、フランスに対してではないことになる。(第1巻, p. 9 )
ピエトリ (1872 年 6 月 20 日の証言)
Joseph-Marie Pietri 1820-1902 年。コルシカ生れのボナパルト派政治家。兄 Pierre-Marie
Pietri とともに第2帝政下で皇帝に協力。オルシ-ニ事件で辞任した兄の後を受けて警視総監と
なり、共和派による反体制運動を弾圧。彼は普仏戦争が勃発したときも警視総監の地位にあった。
九月四日革命でウジェニ-皇后のパリ脱出行を指揮。第三共和政下 1879-85 年の上院議員。
開戦前は世論のほうが好戦的であった
私は、先ほどダリュー伯爵[訳注:尋問官]が指示した順序に従って以下の事柄に答えたい。
すなわち、宣戦布告時の人々の精神状態、この布告の後に起きた諸事件、わが軍の最初の敗退
がもたらした世論への影響、われわれの危惧する不測の事態に備えるため当局によって取られた
措置、9月4日の大破局についてである。
ホーエンツォレルン事件が勃発したとき、パリはまったく平静であり、非常に大きな繁栄が国
全体を覆っていた。この残念な出来事はすべての者を驚かした。皇帝が平和を望んでいたことを
個人的に私は知っている。彼の政府も同じく心底から平和を願っていた。しかし、公衆の感情が
直ちにまったく反対の方向に突っ走り、開戦に向かって有らんかぎりのエネルギーを発散した。
この当時、熱烈な主戦論を主張した者は緒戦の敗退を迎えるや、態度を翻し責任を免れようとし
た。歴史はこの不公平さを許さないだろう。1870 年 7 月にパリで発刊されたあらゆる種の新聞の
束と立法院における討論の議事録はまさしく、当時の世論が開戦を望んでいた事実を明らかにす
る。(第1巻, pp. 251-252 )
私は委員長に、自分が話しているのはパリについてだけだということを言っておきたい。私は
地方諸県の状態を述べているのではない。知事報告書という形でまとめられた、非常に重要な情
報が直接に内務大臣シュヴロー(Chevreau )氏の許に届いたのだが、それは今朝、本委員会に
よって読み上げられであろう。しかし、これらの報告が何であれ、パリ市民の開戦への熱狂を覆
すことにはならないだろう。
この熱狂は決して煽られたから生まれたものではなく、激しいと同時に自然発生的なもので
あった。
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あるとき、当時の法務大臣オリヴェ(Olliver)氏はあまりに平和的解決に与しすぎると疑われ
た。彼はすぐに侮辱を受けたし、法務省を襲うべく騒然たる群衆がヴァンドーム広場に向かった。
警察はこれに干渉し、示威行進を止めさせねばならなかった。ティエール氏に対しても同様のこ
とが生じた。彼の平和的態度、彼の演説は住民の一部の怒りを買った。そのために、政府はティ
エール氏の私邸を警護しなければならなかった。われわれは、群衆の脅威を受けたプロイセン大
使館やドイツ人商人および銀行家の私邸も保護しなければならなかったのだ。彼らはその倉庫を
狙っていたのである。
平和の対抗デモを試みたインターナショナルのメンバーのうちの幾人かは群衆の激怒の的と
なった。これに干渉し、彼らに向けられた暴力行為を妨げることがわれわれの仕事であった。
開戦への動きはこのように激昂する一方だったので、私は沈静化の手段を取らざるをえなかっ
た。すなわち、私は7月中に出した布告においてパリ市民の自重を訴えた。
オペラ座の観客のような、大衆世論の力にふつうは無縁な人々でさえ憤激し荒れ狂っていた。
ある夕べの開演で、俳優フォール(Faure )は「ドイツのライン」を歌えと要求された。その歌
を彼は歌ったことがないと舞台監督が返答すると、劇場全体が怒りと好戦熱に包まれた。俳優は
なおも躊躇したが、騒動があまりに大きくなったので、彼は万止むをえず要求された歌を朗読し
なければならないはめになった。
そのとおり、パリの住民は戦争を欲していたのだ。警察にけしかけられたからではなく、野党
は 1866 年以来、フランスがプロイセンによって辱められ、サドヴァで敗北したものとみなして
いたから、住民は戦争を欲したのだ。警察はもはや、われわれの前でサドヴァの敗北者の名を汚
す演説家をもたなかったし、敵対的で和解しがたい諸新聞に、その当時の世論を煽る激烈な記事
を書かせるようなこともしていなかった。
警察は街の示威行進も、公共の場での騒動も好まない。フランスはプロイセンの挑戦に応じる
べきだと要求するために、広場という広場、公道という公道を埋め尽した群衆は、あるいは遺憾
なことかもしれないが、さりとて曲げたり非難したりしてはならない誘惑を受けたのである。
警察に関していえば、比類なき沸騰の真直中において忠実かつ誠実にその義務を全うしたのだ。
なぜなら、1859 年と 1854 年において、つまり、クリミア戦争およびイタリア戦争のときと同じ
く、パリは示威行動において、1870 年に劣らないほどの激烈な態度を示したことがあったから
だ。(第1巻 ,p. 252 )
敗報とともに左派が煽動を始める
わが連隊がパリを離れたときの熱狂状態については、すべての者が証言しうる。歓呼の声はあ
まりにも大きかったから、皇帝が出征のため出発しなければならなかったとき、パリを横切るの
避けたほどだった。
陛下の諸宣言はあまりに慎ましやかであった。悲観論者でさえ、わが軍の凱旋行進を信じてい
たほどだ。
勝利が当てこまれていた。だが、最初の電報は敗北を知らせてきた!
感情は奥深くかつ悲痛なものであった。しかし、これらのニュ-スが圧倒的大多数の国民の愛
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国心を高揚する一方で、わが軍の敗退はいくつかのグループの革命的感情を刺激した。警察はこ
れらグループの動静を完全に掌握していた。これらのグループは外国すなわちロンドン、ブ
リュッセル、ジュネーヴに通信員をもっていた。彼らは立法院の左翼、革命派新聞、インターナ
ショナル、公共集会の煽動者たちと手を結んだ。こうしてスルドリエール通りは革命的煽動の中
心および温床となった。(第1巻, p.253 )
8 月 9 日、革命は流産した。なぜなら、それと対決し粉砕せんと決意を固めた軍隊に出会した
からだ。
数日後、2度目の試みがヴィレットで行われた。ブランキ派の陰謀のことだ。8 月 12 日、私は
2度に及ぶ家宅捜査をさせた。最初のものは、後にコミューンの将軍になるところのウード(
Eudes)某の住居であり、2度目はその名前は忘れたが、靴直し職人の住居である。[質問:そ
れはヴァルラン(Varlin)か? それともガイヤール(Gaillard)か?]
いやちがう、彼はモンマルトルに住んでいた。われわれはまったく新しい武器庫を差押え、外
国製の拳銃、大きな剣、かなり多くの赤旗、いくつかの危険物を押収した。(第1巻, p. 253
)
8 月 14 日と 9 月 4 日の間に、事態を転換させた一つの事実がある。それについて私は本委員会
の注意を喚起しなければならないと考える。
8 月 18 日、皇帝により任命されたトロシュ将軍はルーヴル宮に陣取り、パリ総督の職務を掌握
した。
革命的煽動が最高潮に達している中でのパリ総督の宣言と彼の士気に関する説諭、そして遊動
隊のパリ帰還とその帰還に与えられた理由等々は、帝政のあらゆる敵対勢力に大きな信用を与え
るところとなり、秩序と公安の尊重の監視という特命を帯びた当局にとって重大な打撃となった
-このことは何人も否定できないであろう。
私は事実の指摘だけに止め、評価は避けたい。
戦争のニュ-スがより大きな不安となりつつある一方で、すでにインターナショナルの指導者、
クラブ演説家、革命派新聞の編集者と合流していた急進的左翼の集会は増えつづけ、これらすべ
てが一つの行動にまとまっていった。敗戦が待たれた。そして 9 月 3 日が訪れたのである。スダ
ンの致命的ニュ-スに引き続いて、その日の夕方、謀反の叫びと行動が起った。(第1巻
p.254 )
帝政政府は警察の諜報活動により民衆の動向を正確に把握していた
政府の影響力は 1870 年 9 月以前には完璧であった。民衆煽動的な情熱は無力であり、ヴィク
トル・ノワール(Victor Noir)の葬儀のときを思い出させるような示威行動は当局の力を大いに
証明するところであった。
われわれは公共集会の制度を敷いていた。出版検閲は極度に厳格であった。だが、一つの不幸
が訪れた! ヴィクトル・ノワールが殺害された。革命的諸派は戦端を開き政府を転覆するため
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に状況を利用しようと欲した。これらの諸事実の証人の面前で私は語っているのだ。その証人と
は、当時内閣に加わっていたダリュー(Daru)伯爵である。葬儀のおこなわれた日、つまり1
月 10 日、私は閣議に呼ばれた。私は諸派の革命計画、夜間に与えられた合言葉、日中に行われ
るべき企図について報告した。
閣議は私が提案した措置について討議をし、それを承認した。フルーランス(Flourens)氏は
その前夜、仲間の集会において「明日のこの時刻に帝政は打倒されるであろう」と語った。夥し
い数の群衆がヌイイの犠牲者[cf. 訳注:ヴィクトル・ノワール]の自宅に押しかけた。暴動の
檄が宣言された。これらの群衆はパリに戻ったとき、何の障害もなくテュイルリー宮と立法院に
向かって行進できるものと信じていた。
警視と鼓手の判断はまったく正しかった。なぜなら、シャン=ゼリゼのロータリーで2度目の
解散勧告がなされたとき、帽子と、仲間のなかで動作のにぶい幾人かだけがその場にとり残され
たのだから。
1869 年も同様であった。ロシュフォールがベルヴィル地区の真直中で逮捕された 1870 年 2 月
もそうであった。彼は、彼の歓迎のために準備された公共集会の入口で逮捕されたのである。革
命的な行動を熱烈にけしかけていた煽動家らは意気沮喪した。彼らは成功についてまったく自信
を失ったのである。(第1巻 ,pp. 261-262 )
(次 http://linzamaori.sakura.ne.jp/watari/reference/mentalstate2.pdf)
(c)Michiaki Matsui 2014
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