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1 帝政前期におけるオスティア参事会の変容

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1 帝政前期におけるオスティア参事会の変容
帝政前期におけるオスティア参事会の変容
――ラッセル・メグズの「社会革命」論をめぐって――
本間俊行
はじめに
オスティアは、ティベリス川の河口に位置する港町で、その立地から帝政前
期には首都ローマの食糧供給の拠点となった。クラウディウス帝による港湾の
整備、トラヤヌス帝による新港(ポルトゥス)の建設を経て、オスティアはロ
ーマの外港として繁栄する1。本稿の課題は、オスティア参事会の変容に関する
先行研究の整理をとおして、帝国統治下における都市の権力構造とその変容に
ついて、今後の研究に向けた一つの視座を提示することにある。まずはこの課
題の意義を明らかにするために、都市参事会をめぐる研究状況を簡単に振り返
っておきたい。
ローマ帝国の参事会員に関する研究は、1970 年代まで、法制史的研究が中心
であった。この研究では、参事会員をローマ帝国の行政を支える都市自治の担
い手として位置づけ、法典史料を中心に、その権限や義務を明らかにしてきた
2。しかし、1980 年代に入ると、法制史的研究の限界を指摘し、新たに社会史
的な研究が生み出されていく。この研究では、碑文史料の収集と分析をもとに、
参事会員層を中心とする都市名望家(あるいは都市エリート)の経済基盤、家
族関係、贈与行為などについて精密な調査を行ない、その社会的プロフィール
を明らかにしてき た 3 。2000 年代後半に なると、「都市の制度的日常( le
quotidien municipal)」を新たなキーワードとして、都市の権力構造の解明に
関心を移していく4。そこで論じられているのは、都市名望家が公職や参事会な
どをつうじて実際にどのような権力を行使していたのか、またほかの都市構成
員(皇帝礼拝委員(Augustales)、組合構成員(collegiati)など)がその権力構
1
オスティアの成立と発展については、毛利晶「オスティア――古代ローマの
港町」『世界史の研究 228 歴史と地理』646、2011 年、1-14 頁。
2 代表的な研究は、W. Langhammer, Die rechtliche und soziale Stellung der
Magistratus Municipales und der Decuriones in der Übergangsphase der
Städte von sich selbstverwaltenden Gemeinden zu Vollzugsorganen des
spätantiken Zwangsstaates, Wiesbaden 1973.
3 e. g. M. Cébeillac-Gervasoni et L. Lamoine (textes réunis par), Les élites
et leurs facettes. Lex élites locales dans le monde hellénistique et romain,
Rome / Clermont-Ferrand 2003.
4 e. g. Cl. Berrendonner, M. Cébeillac-Gervasoni et L. Lamoine (dir.), Le
quotidien municipal dans l’Occident romain, Clermont-Ferrand 2009.
1
造のなかでいかなる役割を果たしていたか、という問題である5。しかし、法制
史研究と異なり、碑文史料を活用し、都市名望家らの具体的な権力行使の場面
を論じている点に、この「制度的日常」研究の特色がある。
これらの先行研究が、都市の社会構造や権力構造の解明に多くの成果をあげ
ていることは確かである6。しかし、都市エリート研究や「制度的日常」研究は、
法制史的研究が皇帝をはじめとするローマ権力との関係を重視してきたことを
批判する立場から、地域的特色に力点を置く傾向にあり、その成果をローマ帝
国全体の動向と関連づける視点に難があることも否めない7。したがって、社会
史的研究の成果を踏まえつつ、その成果を帝国史の動向に結びつける議論が必
要となろう。
このような問題意識を念頭に、本稿ではローマ統治下の地中海世界のもとで、
都市の権力構造がいかに変容したのか、オスティア参事会員層の変容をめぐる
研究動向を整理するという作業をとおして考えてみたい。
参事会員層の変容を論じるにあたって、オスティアを取りあげる理由には次
の2つがある。第一に、この都市は碑文史料に恵まれているため、帝国諸都市
のなかでもとくに豊かな知見が得られるからである。しかし、前述のとおり、
オスティアは首都ローマの食糧供給を支える皇帝の港として発展した歴史をも
ち、したがって決して典型的な都市ではないとの批判もあろう。しかし、この
ような特質は、帝国の権力構造が地方都市の権力構造にどのような影響を与え
たのかを知るために、むしろ格好の個別事例を提供するように思われる。本稿
でオスティアを取りあげる第二の理由はここにある。
5
皇帝礼拝委員と組合構成員に関する重要な研究としては、A. Abramenko,
Die municipale Mittelschicht im kaiserzeitlichen Italien: Zu einem neuen
Verständnis von Sevirat und Augustalität, Frankfurt am Main 1993; N. Tran,
Les membres des associations romaines: le rang social des collegiati en Italie
et en Gaules, sous le Haut-Empire, Rome 2006 がある。
6
日本における研究としては、浦野聡「ローマ帝政期における帝国貴族と地方
名望家――帝国支配層と社会流動」『岩波講座 世界歴史』5、岩波書店、
1998 年、85-114 頁;新保良明「ローマ帝政前期における都市参事会員と都市
政務官職――参事会の変質を巡って――」『西洋史研究』31、2002 年、28-57
頁; 同「ローマ帝政前期におけるイタリア都市のエヴェルジェティズム――恵
与とその変遷――」『青山史学』26 号、2008 年、25-47 頁;中川亜希「古代ロ
ーマ帝国における皇帝像と名望家像:北イタリアの都市参事会決議に見られる
徳をとおして」『西洋古代学研究』58、2010 年、49-59 頁;藤澤明寛「ローマ
帝政時代における参事会」『西洋史論集』31、2009 年、61-71 頁。
7 皇帝権力と都市の関係性については、大清水裕『ディオクレティアヌス時代
のローマ帝国:ラテン碑文にみえる帝国統治の継続と変容』山川出版社、
2012 年;飯坂晃治『ローマ帝国の統治構造:皇帝権力とイタリア都市』北海
道大学出版会、2014 年。
2
オスティアの参事会員に関する先行研究として、まずは F・H・ウィルソン
の研究をあげることができるが 8、現在でも議論の出発点となるのは、R・メグ
ズの『ローマ時代のオスティア』であろう 9。メグズは同書で、後1世紀後半以
降、オスティア参事会に大きな変容が起きたと論じ、その変容を「社会革命
(Social Revolution)」と呼んだ。この「社会革命」の主要な担い手は、オステ
ィアの海港都市としての発展に支えられて台頭した「ミドルクラス」で、メグ
ズは帝政前期におけるオスティアを「ミドルクラスの都市(city of middle
class)」とさえ呼んでいる10。これに対し、先述した都市エリート研究が進展す
るなかで、H・ムーリツェンと M・セベイラック・ゲルバゾーニがメグズに対
する修正説を出している。両者の見解は、分析視角と結論において対照的であ
るが、その違いを整理することで、都市研究の今後の課題がより明らかになる
ように思われる。
第一章 R・メグズ『ローマ時代のオスティア』――「社会革命」論
メグズの『ローマ時代のオスティア』は、現在でもオスティア研究に不可欠
な文献の一つである。その第 10 章「支配階級(The Governing Class)」で、
メグズはオスティア参事会員層の歴史を4つの時期に分けて説明する11。
第一期 帝政初期の貴族層(共和政末期~ネロ失脚後の内乱の時代)
第二期 社会革命(フラウィウス朝時代~2世紀半ば)
第三期 古い家系の消滅(2世紀半ばから3世紀半ば)
第四期 帝政後期における元老院議員身分の居住者(3世紀半ばから西ロー
マ帝国の滅亡まで)
以下では、この時期区分にしたがってメグズの見解を辿っていくが、そのま
えに社会層に関するメグズの用語法について説明を加えておきたい。
メグズはオスティア参事会の歴史を、一方で共和政末期以来の「名門家族」
の衰退、他方で「ミドルクラス」を中心とする「新人(homo novus)」の台頭
として描いている。今便宜的にこのように説明したが、メグズは両者について
一貫した用語を用いているわけではない。さきに「名門家族」と記した家族に
ついて、メグズは「自由出自の貴族(aristocracy of free descent)」(192 頁)、
F. H. Wilson, Studies in the Social and Economic History of Ostia Part. 1/2,
PBSR 13, 1935, 41-68 / 14, 1938, 152-162.
9 R. Meiggs, Roman Ostia (2), Oxford 1973.
10 Idem, 77.
11 Idem, 189-213. オスティア参事会員のプロソポグラフィに関する修正は、
J.
H. D’Arms, Notes on Municipal Notables of Imperial Ostia, AJPH 97, 1976,
387-411.
8
3
「指導的家族(the leading families)」
(194 頁)、
「オスティアの古い家族(old
Ostian families)」(205 頁)などと表現している。その定義は明示されていな
いものの、メグズは共和政末期から帝政成立期(ユリウス・クラウディウス朝
時代)ごろまでにオスティアの公職者や参事会員を輩出した家族をこのカテゴ
リに含めている。
これに対する「新人」については、
「ミドルクラス(middle class)」
(189 頁)、
「オスティア起源ではない家族(families that were not of Ostian origin)」
(203 頁)、
「奴隷家系(servile blood)」
(204 頁)などの表現を用い、その実態
となると、個々の事例で少なからず違いがある。
「新人」たちのプロフィールに
ついて、メグズは個別に説明を加えているが、全体としての見取り図が十分に
示されているとは言い難い。本稿でみていくように、とくに後者の「新人」を
いかに理解するかが、オスティア参事会の変容を考えるうえで重要な論点とな
ろう。
第一期 帝政初期の貴族層(共和政末期~ネロ失脚後の内乱の時代)
メグズは第一期の特徴を「比較的狭い貴族層(aristocracy)への権力の集中」
と要約する。これを具体的に示すのは、名門家族による二人委員職の寡占、そ
して二人委員職の再任回数の多さである。
名門家族による二人委員職の寡占とは、二人委員のなかに、同じノメンをも
つ者がくり返し現れることを指す。ウィテッリウス家は前 47 年、前 46 年、前
35 年、エグリリウス家は後 6 年、後 34 年、後 36 年、ルキリウス・ガマラ家
は後 19 年、後 33 年、後 69 年、ナエウィウス家は後 31 年と後 33 年に二人委
員を輩出した。
二人委員職の再任について最も顕著な人物に、共和政末期に二人委員に8回
(そのうちの3回は、ケンソル職権をもつ五年目の二人委員)選出されたガイ
ウス・カルティリウス・ポプリコラがいる。そのほかに二人委員職を複数回務
めた人物として、ポストゥムス・プロティウス(5回)、プブリウス・ルキリウ
ス・ガマラ(4回)が挙げられる12。
以上の知見から、メグズはオスティアが比較的限られた名門家族がオスティ
ア市政で権勢をふるっていたと結論づけ、セベイラック・ゲルバゾーニもこの
見解に賛同する13。後1世紀のオスティア参事会員層が閉鎖的であった要因と
して、彼女はオスティアにおける土地所有の難しさをあげる。オスティアの周
辺領域(territorium)は限られているため、新たに土地を取得して、参事会員
Meiggs, op. cit., 191-192.
13 M. Cébeillac-Gervasoni, L’élite politique d’Ostie de la République à Néron,
in id. (dir.), Les élites municipales de l’Italie péninsulaire des Gracques à
Néron (Actes de la table ronde internationale de Clermont-Ferrand (1991)),
Napoli / Roma 1996(Cébeillac-Gervasoni, 1996a), 87-88.
12
4
層に加わることが難しかったのである14。この時代のオスティアの特徴を、セ
ベイラック・ゲルバゾーニは、「停滞、保守主義、平凡さ( immobilisme,
conservatism, médiocrité)」と表現する15。
第二期 社会革命
フラウィウス朝時代から2世紀前半にあたる第二期は、「富裕なミドルクラ
スの台頭、役職のより幅広い配分、被解放身分の人材(freedman stock)の政
府への浸透」を特徴とし、「社会革命」が進展した時代と要約される16。
第二期における名門家族の状況を、メグズは次のように説明する。第一期に
権勢をふるった名門家族のうち、エグリリウス家やナエウィウス家は、第二期
にも二人委員職を輩出しつづける。さらにエグリリウス家やファビウス家など、
元老院議員を輩出する家族もこの時期に登場する。ガイウス・ナセンニウス・
マルケッルス、アウルス・リウィウス・プリスクス、アウルス・リウィウス・
プロクルスなど、第一期に二人委員を務めた先祖が確認できないものの、ウォ
トゥリア区に所属し、おそらく名門家族に属すると思われる二人委員もみられ
る。したがって、オスティアの名門家族が全体的に衰退しつつあったとはいえ
ない。しかし、第一期に二人委員やウォルカヌス神官を輩出したウィテッリウ
ス家、パエトニウス家、カルティリウス家の痕跡は、この時期以降、確認でき
なくなる。
姿を消した名門家族に代わり、二人委員を務めたのは、交易事業で利益を得
て台頭した「新人」である。商人層の代表的な人物としては、グナエウス・セ
ンティウス・フェリクス、プブリウス・アウフィディウス・フォルティス、グ
ラニウス・マトゥルスが挙げられる(このうち、フォルティスとマトゥルスに
ついては、第三章で取り上げる)。フェリクスはテレティナ区、フォルティスと
マトゥルスはクィリナ区に所属し、オスティアの伝統的な家系ではない。そし
て、いずれも同職組合に所属していることから、交易事業で財を成した人物で
あったと考えられる。このような事例とともに、奴隷家系の参事会加入も確認
される。ファスティに記載された参事会員の名に、アウグスタリス、エウフェ
ミアヌス、オレステスなど、奴隷家系を暗示するコグノメンがみられるように
なるのである。
Cébeillac-Gervasoni, 1996a, 88; Abramenko, op. cit., 227-233 も、皇帝礼
拝委員層に被解放自由人が多い理由として、土地所有の難しさを指摘する。
15 M. Cébeillac-Gervasoni et F. Zevi, Pouvoir local et pouvoir central à Ostie,
in: M. Cébeillac-Gervasoni (dir.), Les élites municipales de l’Italie
14
péninsulaire de la mort de César à la mort de Domitien entre continuité et
rupture: Classes sociales dirigeantes et pouvoir central , Roma 2000, 23.
16 Meiggs, op. cit., 189.
5
第三期 古い家系の消滅
第三期の特徴は第二期と同様である。すなわち、名門家族の没落がさらに進
む一方、新人家族の台頭はめざましいものとなる。具体的には、ガイウス・ア
ンティウス・クレスケンス・カルプルニアヌス、マルクス・ロッリウス・パウ
リヌス、マルクス・ユニウス・ファウストゥスなどの名が挙げられる。メグズ
がこの時代の「おそらく典型的な人物」として取り上げるのは、マルクス・リ
キニウス・プリウァトゥスである 17。
詳しい出自は不明であるが、プリウァトゥスはおそらく奴隷の生まれであっ
たと推測される。彼はオスティアの上級書記(scriba cerarius)とファブリ・
ティグナリィ組合長を務め、参事会員標章を賦与された(正式な参事会員にな
らなかったことが、彼が奴隷家系と判断される根拠である)18。プリウァトゥ
スの息子たちは参事会員に、そして孫たちは騎士身分に達している。同様の経
歴を辿った人物として、ティトゥス・アンティスティウス・アガタンゲルス、
ルキウス・ファビウス・エウテュクスが挙げられる。これらの人びとは被解放
自由人か非嫡出子で、自らは参事会に加わることはできなかった。しかし、下
僚、皇帝礼拝委員、組合長(多くはファブリ・ティグヌアリィ組合)などの役
職を経て、息子や孫の世代に参事会員や騎士身分を輩出した19。
第四期 帝政後期における元老院議員身分の居住者
帝政後期にあたる第四期に入ると、碑文史料の数は減り、都市公職者の名は
確認されなくなる。参事会員による贈与行為に言及する碑文は残されておらず、
食糧供給長官(praefectus annonae)が公共建築物の修築は行なっている例も
ある。メグズはこれを名望家層の間で公共精神が欠如した証拠と解釈する20。
この時代のオスティアの社会生活で存在感を示すのは、オスティアに邸宅をも
つ元老院議員である21。
オスティアに居住していた元老院議員について、メグズが指摘するのは、北
アフリカとの関連である。マグナ・マテルの祭儀の一環として行なわれるタウ
ロボリウム(牡牛の供儀式)をオスティアで執り行った「プラエフェクトゥス
17
Idem, 210.
18
プリウァトゥスについては、拙稿「ローマ帝政前期における下僚
(apparitores)と都市社会――オスティアの事例を中心に――」『古典学研
究』57、2009 年、81-82 頁参照。
19 数世代におよぶ社会的上昇の過程については、S. Demougin, S., À propos
des élites locales en Italie, in L’Italie d’Auguste à Diocletien. Acte du
colloque international organisé par L’École française à Rome (Rome, 25-28
Mars 1992), Roma 1994, 373-375.
20 Meiggs, op. cit., 211-212.
21
オスティアと食糧供給長官の関連については、大清水、前掲書、58-78 頁。
6
歴任者、クラリッシムス級の人士ウォルシアヌス」は22、4世紀半ばに首都長
官や道長官を歴任したガイウス・ケイオニウス・ルフス・ウォルシアヌス・ラ
ンピディウスと推定される。そして、ランピディウスは北アフリカに地所をも
ち23、もともとの基盤は北アフリカにあったと推測される。また、北アフリカ
出身の有力な元老院議員であるアニキウス家も、オスティアに邸宅を構えてい
た可能性がある24。教父作家アウグスティヌスは 387 年、母モニカをオスティ
アで看取った。彼らの交友関係のなかにはアフリカ出身の有力な元老院議員家
系であるアニキウス家の人びとも含まれていた。
こ の ほ か 、 4 世 紀 の 著 名 な 元 老 院 議 員 シ ュ ン マ ク ス ( Q. Aurelius
Symmachus)も、オスティアの領域内に地所を有していた。また、シュンマク
スの知人で、首都長官を務めた元老院議員サッルスティウスも、同名の息子が
オスティアで結婚式を挙げており、この一族もオスティアに邸宅を構えていた
可能性がある25。
これらの元老院議員の存在は、確かにオスティアの急速な衰退を食い止めた。
しかし、元老院議員はオスティアに帰属意識をもたないため、共同体を維持す
るために積極的な役割を果たすことはなく、オスティアの衰退は免れることは
できなかった。
小括
メグズが描出したオスティア参事会の歴史は、共和政末期から後1世紀前半
における名門家族の寡頭政的な支配(第一期)から、名門家族の衰退と「新人」
の台頭(第二期~第三期)を経て、名望家層全体の衰退(第四期)へと至るプ
ロセスである。メグズの議論の中心にあるのは、おもに元奴隷家系である「ミ
ドルクラス」が、交易事業で得た利益を背景に参事会に参入していくという現
象である。メグズはこの現象を「社会革命」と呼んだ。
しかし、この過激な表現とは異なり、共和政末期以来の名門家族の一部が2
世紀以降も存続したことは、メグズ自身もくり返し指摘しており、オスティア
参事会に劇的な「革命」が生じたわけでないことは、十分に認識していたであ
ろう。にもかかわらず、メグズは「名門家族」対「新人」という構図を設けた
ために、既存の名望家層の衰退が強調される結果となってしまった。
さらなる問題は、この「新人」がどのような人びとであるのか、メグズの議
22
23
AE 1945, 55a.
CIL VIII, 25990.
アニキウス家については、M. Christol, À propos des Anicii: le IIIe siècle,
MEFRA 98, 1986, 141-164.
25 Ep. VI, 35, 3. J. H. Gaisser, The Fortunes of Apuleius and the Golden
Ass: A Study in Transmission and Reception, Princeton / Oxford 2008, 4546 は、この元老院議員の息子サッルスティウスが、4世紀末にアプレイウス
の著作の校訂を行なった、ガイウス・クリスプス・サッルスティウスであると
推測している。
24
7
論ではやや不明確なことである。一見したところ、交易事業により利益を得た
元奴隷の家系の社会的上昇を随所で強調しており、メグズは富裕な被解放自由
人を想定しているようにみえる。次章でみるムーリツェンの批判も、おもにこ
の点に向けられている。ところが、この「新人」には、元老院議員やほかの都
市からオスティアに移住した出生自由人も含まれている。たとえば、メグズが
「新人」の一人として名を挙げるガイウス・アンティウス・クレスケンス・カ
ルプルニアヌス(オスティアでウォルカヌス神官を務めた)はコンスル級の元
老院議員で、奴隷家系の参事会員と同列に論じることはできないことは明らか
であろう。メグズは各個人のプロフィールは説明しているが、全体的な見取図
が提示されているとは言い難い。
このため、オスティア参事会の「新人」に対する理解をめぐっては、その後
の研究も大きく二つに分かれている。すなわち、メグズが強調した被解放自由
人を主要な「新人」として捉え、その影響力について議論するムーリツェンと、
外来の出生自由人を重視するセベイラック・ゲルバゾーニである。
第二章 H・ムーリツェン 被解放自由人の社会的上昇について
H・ムーリツェンは、1997 年に発表したイタリア諸都市の社会移動に関する
論文で、オスティアやポンペイを取りあげ、被解放自由人の大規模な社会的上
昇に関する先行研究の理解を批判した。2001 年に刊行された論文集『オスティ
ア、古代ローマの門にして港』では、「帝政期のオスティア――社会革命?」と
題した論考を寄稿し、メグズが提示したオスティア参事会の変容に関して、よ
り直接的な批判を展開している26。以下ではこの二本の論文を中心にムーリツ
ェンの議論をみていく。ただし、ムーリツェンの論点の一つである、名望家層
の経済基盤の問題に関しては、別稿を期すことにしたい。
1 史料論
ムーリツェンがまず取り上げるのは、碑文の史料的性格である。多くの先行
研究は、体系的に収集された碑文史料を土台に、参事会員における奴隷家系の
割合を分析してきた。たとえば、被解放自由人の息子の社会的上昇に関する先
駆的な研究を著した M・L・ゴードンは、オスティアで確認される公職者・参
事会員のうち、3分の1程度が奴隷家系に属する「新人」とする推計を出して
いる27。しかし、ムーリツェンは、このような結論が史料上の錯覚であると批
H. Mouritsen, Mobility and Social Change in Italian Towns during the
Principate, in H. M. Parkins (ed.), Roman Urbanism: Beyond the Consumer
City, London / New York 1997, 59-82; id., Ostie impériale – une révolution
sociale?, in J. P. Descœudre (dir.), Ostia. Port et porte de la Rome antique,
Genève 2001, 30-35
27 M. L. Gordon, The Freedman’s Son in Municipal Life, JRS 21, 1931, 6526
8
判する。
碑文史料の解釈のためにムーリツェンが依拠するのは、碑文習慣論である。
碑文習慣論については、島田誠氏や大清水裕氏らによる詳しい紹介と分析がな
されているため28、詳細はそちらに譲り、ここでは簡単な整理にとどめておき
たい。
碑文習慣論は 1982 年にR・マクマレンが提唱した、碑文の増減の背景を説
明する理論である29。残存する碑文史料は、共和政末期以降、1~2世紀にか
けて増加傾向にあったが、おおよそ3世紀初頭のカラカッラ帝の時代を境に碑
文史料の数は激減する。従来はこれが「3世紀の危機」におけるローマ帝国の
衰退を反映していると解釈されてきた。それに対し、マクマレンは、碑文の作
成は固有のパターンをもつ社会的・文化的現象であり、したがって碑文数の増
減は政治的・経済的な動向には直接対応せず、また碑文史料で記録された対象
の実態を忠実に示していないと主張したのである。
この議論を踏まえれば、奴隷家系の参事会員に関する史料の増加だけを根拠
として、その人数が実態として増加したとの結論は導き出せない。そして実際、
ムーリツェンは、奴隷家系の参事会員が増加したようにみえるのは、オスティ
アの史料構成の変化によるものと指摘するのである30。
オスティアにおける史料構成は、概ね次のようにまとめられる。碑文数が比
較的限られた共和政末期から後1世紀前半(メグスの第一期に相当)にかけて
知られる参事会員の多くは、おもにファスティから名が知られる二人委員とウ
ォルカヌス神官(pontifex Volcani)である31。言い換えれば、参事会員層のな
かの有力者に偏っている。それに対し、フラウィウス朝時代以降(同じく第二
期から第三期)には、墓碑銘や顕彰碑の数が増加し、二人委員だけでなく、ア
エディリスや平参事会員、そしてウォルカヌス神官以外の祭司の名も知ること
ができるようになる。
この史料構成の変化、とくに墓碑銘の増加が、直近の先祖に被解放自由人を
もつ奴隷家系の参事会員の存在を多く伝える要因となった。ムーリツェンは、
オスティアを中心に、墓碑の建立者・被葬者の法的地位を分析した結果、被解
放自由人やその直近の子孫が、出生自由人に比べて墓碑を建立する事例が多い
77. 同 様 の 統 計 的 分 析 と し て は 、 P. L. B. de Quiroga, Freedmen Social
Mobility in Roman Italy, Historia 44-3, 1995, 326-348.
28 島田誠『コロッセオからよむローマ帝国』講談社選書メチエ、1999 年、
223-227 頁。大清水裕、前掲書、21-23 頁。
29 R. MacMullen, The Epigraphic Habit in the Roman Empire, AJPh 103,
1982, 233-246.
30 Mouritsen (2001), 32.
31 ファスティについては、B. Bargagli and C. Grosso, I fasti Ostienses:
Documento della storia di Ostia, Itineri Ostiensi 8, 1997.
9
ことを明らかにしている32。この背景については、主人の恣意に晒される奴隷
時代を経験した被解放自由人が、自らの身体や家族の自由を誇るために、墓碑
や墓所を積極的に建立したという心理的要因を推測している33。
このように、被解放自由人には特有の碑文習慣があり、そのために墓碑を中
心とする碑文史料を全体的に考えれば、被解放自由人は実態以上に高い割合を
示すことになる。実際、墓碑から確認される参事会員全体をみれば、
「新人」や
奴隷家系は 67%という高い割合を示すのに対し、ファスティで確認される 38
名の二人委員のうち、奴隷家系に属する者は 5 名だけである(そのうちの 3 名
は皇帝の奴隷の家系)。すなわち、墓碑はファスティよりも高い割合で奴隷家系
の参事会員を伝える。したがって、碑文史料全体のなかで墓碑が占める割合の
増加は、奴隷家系が高い割合で現れるという結果を招き、奴隷家系の参事会員
の割合が史料統計上高くなったと考えられる。
2
参事会内部の統制と構成について
第二の論点は、参事会の統制と内部構造に関する理解である34。ムーリツェ
ンによれば、メグズの「社会革命」論は、名門家族に対抗しつつ「新人」が参
事会に加わったことを前提としているが、これは誤りであると指摘する。
経済的に成功しても、参事会に加わるためには、所定の手続きを経る必要が
あった。ムーリツェンによれば、オスティアでは後1世紀半ばを境に、参事会
員の新規加入の主導権は、民会から参事会へ移行した。後1世紀半ば以前には、
民会における公職選挙を経て下級公職に就き、参事会員名簿の改訂を経て、正
式に参事会に加わっていた。しかし、後1世紀半ば以降、参事会への新規加入
の許可は、参事会による編入(adlectio)手続きをとおして行なわれるようにな
る35。この編入手続きで参事会に新たに加わるためには、参事会決議を必要と
するため、既存の参事会員の意向が大きく影響する。したがって、参事会を占
める名門家族の意向に反した人物が参事会に加入することは難しく、名門家族
をおびやかす形で新興家系が台頭することは考えられないという。
また、参事会に加わったとしても、その内部でどれだけ権力を行使すること
ができるのか、という問題がある。一概に参事会員といっても、その内実はか
なり多様で、顕職階梯のどの段階まで登りつめたのかにより、参事会員のなか
H. Mouritsen, Freedmen and Freeborn in the Necropolis of Imperial
Ostia, ZPE 150, 2004, 281-304.
33 同様の指摘は、L. R. Taylor, Freedmen and Freeborn in the Epitaphs of
Imperial Rome, AJPh 82, 1961, 129-130 にもみられる。
34 イタリア諸都市の参事会の構造については、H. Mouritsen, The Album
from Canusium and the Town Councils of Roman Italy, Chiron 28, 1998,
229-254.
35 オスティアにおける編入手続きについては、Mouritsen (1998), 250-254;
id., The Freedman in the Roman World, Cambridge 2011, 276-277.
32
10
にも序列があった。公職制度から推測して、オスティアの場合、五年目の二人
委員、二人委員、アエディリスの各公職経験者、そして公職経験のない平参事
会員という序列が存在したと考えられる36。そして、
「新人」が到達できたのは
多くの場合、平参事会員のランクで、参事会における影響力は決して大きくは
なかった。
「新人」が参事会に席を連ねること自体は、決して異例ではない。ローマ社
会における高い死亡率を考えれば、参事会の定員数を充たすためには、名門家
族の構成員だけでなく、
「新人」の構成員を参事会に新たに加入させる必要があ
る。そして、この欠員を埋めるために、
「新人」は一定の割合で参事会に迎え入
れられた。しかし「新人」は、参事会員に求められる諸負担に耐え切れず、多
くは一世代で参事会から脱落した。この結果として、参事会ではその上層を名
門家族が安定的に占めているのに対し、下層では激しい流動性が生じた。この
ような構造は、実は2世紀以前から変わらないもので、オスティア参事会は後
1世紀においても、メグズが考えるような閉鎖的なものではなかった。このた
め、名門家族の安定性と「新人」の社会的上昇は両立し、参事会に「新人」が
みられることを根拠に、名門家族の衰退という結論を導くことはできない。
3 被解放自由人の社会的立場
ムーリツェンの第3の論点は、被解放自由人の社会的上昇における保護者(奴
隷時代の主人)の役割である。皇帝礼拝委員を代表とする、経済的・社会的に
成功した被解放自由人は、保護者からの制約を離れた「独立した被解放自由人
(independent freedmen)」として描かれてきた。そして、この「独立した被
解放自由人」の特質をめぐっては、P・ヴェーヌとP・ガーンジィらによって
論じられてきた37。
奴隷は一般に、奴隷身分から解放されたあとも、忠誠義務(obsequium)や
労務契約(operae)などをとおし、元主人(保護者)との関係を維持した。し
かし、元主人の死亡などにより保護者をもたない元奴隷は、土地所有を重視す
る代々の名望家とは異なり、
「資本家」として商工業に従事し、ときにペトロニ
ウスの小説『サテュリコン』で描かれるトリマルキオのように、異例の財産を
築いた。このように、保護者からの独立性が、被解放自由人が社会的上昇を果
オスティアの都市制度の概観は、P. Sanchez, Les institutions de la
Colonia Ostiensis, in J. P. Descœudre (dir.), op. cit., 143-153.
37 P. Veyne, Vie de Trimalcion, Annales ESC 16, 1961, 213-247; P. Garnsey,
Independent Freedmen and the Economy of Roman Italy under the
Principate, in id., Cities, Peasants and Food in Classical Antiquity (edited
with addenda by W. Scheidel), Cambridge 1998, 28-44. 両者の議論について
詳しくは、島田誠「元首政期のローマ市民団と解放奴隷」
『史学雑誌』95-3、1986
年、289-324 頁。
36
11
たす条件であると考えられたのである。オスティアの文脈でいえば、D’Arms の
研究が重要である38。D’Arms は成功した被解放自由人として皇帝礼拝委員を
取り上げ、彼らが保護者の制約から解放された立場で参事会員層と並び立つ社
会層であったと結論づけている。
これに対し、ムーリツェンは保護者との良好な関係を維持することが、被解
放自由人が成功する要であったと主張する39。オスティアの参事会員層も商業
から利益を得ていたが、それは奴隷や被解放自由人による間接的なものであっ
た。そして、成功した被解放自由人の経済活動は、奴隷時代の主人のもとで築
いたノウハウや人脈に支えられていた。そのため、元主人と良好な関係をもた
ない被解放自由人は、社会的上昇に不利であり、皇帝礼拝委員に関してみても、
実際には参事会員層の家族とのつながりがあったと指摘している 40。
このような理解から、ムーリツェンは、被解放自由人の社会的上昇を、既存
勢力との「対立的な移動(contest mobility)」ではなく、「後見を受けた移動
(sponsored mobility)」と評価するべきであると主張する 41。すなわち、奴隷
身分から社会的上昇を果たした商人や金融業者たちは、参事会員層に属する元
主人(保護者)との関係を尊重し、その後見を得て初めて社会的上昇を果たす
ことができたのである。そして、このような保護者と被解放者の関係を考えれ
ば、社会「革命」が進展する余地はなかった。
4
小括
以上の議論から、ムーリツェンは次のような結論を出している。
オスティア参事会は安定した構造をもち、帝政前期に劇的な変化を経験する
ことはなかった。伝統的な参事会員の家族が市政から姿を消したようにみえる
のは史料的制約のためで、オスティア参事会上層は依然として名門家族が占め
ていた、と。ただし、
「新人」が参事会の下層に加わる余地は常に開かれており、
一定の流動性は保たれていた。そして、安定的な上層と流動的な下層という参
事会の構造は、2世紀以降に限られたものではなく、共和政末期から本質的に
変わりはなかった。
ムーリツェンの議論は、史料論や社会の特質に関する知見に支えられ、一応
の説得力をもつようにみえる。史料的に確認しえない名門家族の存続を主張す
る点で、その議論には実証性にやや難があるともいえるが、史料的制約を考え
れば、致し方ないかもしれない。しかし、ムーリツェンには、つぎのような限
界がある。
J. H. D’Arms, Commerce and Social Standing in Ancient Rome ,
Cambridge 1981.
39 被解放自由人に関するムーリツェンの理解については、M. Mouritsen, The
Freedman in the Roman World, Cambridge 2011.
40 ただし、ムーリツェンは具体的な事例は挙げていない。
41 Mouritsen, 2011, 277-278.
38
12
ムーリツェンは被解放自由人の社会的上昇について論じているが、このとき、
彼の視点はオスティア社会の内部に据えられている。すなわち、彼が論じる被
解放自由人の対象はオスティア参事会員層の奴隷で、彼らがオスティアにおけ
る商業の繁栄に利益を得て、社会的上昇を果たすプロセスに関する見直しに論
点が限られている。そのため、たとえば皇帝の奴隷(ファミリア・カエサリス)
の子孫から二人委員となった者は、例外的な存在として扱われている。しかし、
オスティアが商業港であると同時に、皇帝の港(portus Augusti)でもあった。
この側面に目を向けた場合、オスティア名望家層の変容はいかに考えられるの
か。この課題に取り組んでいるのが、つぎにみるセベイラック・ゲルバゾーニ
である。
第三章 セベイラック・ゲルバゾーニ アフリカから伸びる「支配の手」
セベイラック・ゲルバゾーニは、ローマ帝国の都市エリートに関する実証的
な研究を主導してきた研究者の一人で、オスティアの参事会員について論じた
研究も複数発表している42。彼女がおもに論じるのは、メグズの第一期と第二
期である。このうち第一期については、メグズと同様の結論に至っているため、
本章では取り上げない。
オスティア参事会員層に関するセベイラック・ゲルバゾーニの研究は、皇帝
による港湾整備の影響を重視し、2世紀以降のオスティア参事会に大きな変化
が生じたと指摘する点に特徴がある。彼女の基本的な主張は、以下のようなも
のである。後1世紀におけるオスティア参事会は閉鎖的で、
「新人」の加入は困
難であった。しかし、トラヤヌス帝による新港建設以降、ローマの食糧供給担
当部局と結びついた「アフリカ出身のローマ人(Les Romains d’Afrique)」が
一種のロビーとして、オスティア参事会の重要な一角を形成した。
セベイラック・ゲルバゾーニの主張は、
「新人」の台頭を主張するメグズに近
く、オスティア参事会の安定性を説くムーリツェンとは異なる。ただし、ムー
M. Cébeillac-Gervasoni, Ostie et le blé au IIe s. ap. J.-C., in Le
ravitaillement en blé de Rome et des centres urbains des débuts de la
République jusqu’au Haut-Empire, Napoli 1994, 48-59; ead., Gli 'Africani'
ad Ostia ovvero 'Le Mani sulla citta', in C. Montepaone (ed.), L'Incidenza
dell'Antico. Studi in memoria di E. Lepore (C. Montepaone ed.) 3, Napoli
42
1996, 557-567(1996b); ead. et F. Zevi, Pouvoir local et pouvoir central à
Ostie. Étude prosopographique, in M. Cébeillac-Gervasoni (dir.), Les élites
municipales de l’Italie péninsulaire de la mort de César à la mort de
Domitien entre continuité et rupture: Classes sociales dirigeantes et
pouvoir central, Rome 2000, 5-31; ead., Quelques familles et personnages
eminents", in J.-P. Descoeudres (dir.), op. cit., 154-160 ; M. Cébeillac-
Gervasoni, Les rapports institutionnels et politiques d'Ostie et de Rome de
la republique au IIIe siècle ap. J.-C., MEFRA 114, 2002, 58-86.
13
リツェン説に対するセベイラック・ゲルバゾーニの見解は、一つの註釈にみら
れるだけである43。そこで彼女は、ムーリツェンの研究が「理論的で表面上は
論理的」と一定の理解は示し、またメグズの「社会革命」という表現が大げさ
であったことも認めている。しかし、ムーリツェンが指摘する共和政以来の名
門家族の安定性という結論には賛同できないとコメントしている。
1
オスティアと騎士身分の食糧供給担当プロクラトル
首都ローマの食糧供給の安定のため、皇帝はオスティアに、官僚や下級役人、
消防隊の分遣隊などを配置した。食糧供給担当部局のなかでセベイラック・ゲ
ルバゾーニが重視するのは、オスティアを担当した騎士身分のプロクラトルで
ある。その議論についてみるまえに、まずは食糧供給部門を中心としたローマ
とオスティアの関係について簡単に確認しておきたい 44。
オスティアには、共和政の時代からクァエストル(quaestor Ostiensis)が配
置 さ れ て い た 45 。 ア ウ グ ス ト ゥ ス に よ る 騎 士 級 官 職 で あ る 食 糧 供 給 長 官
(praefectus annonae)職の設置以後、この2つの役職は併存したが、クラウ
ディウス帝が後 44 年にオスティア担当クァエストル職の廃止とオスティア港
担当プロクラトル(procurator portus Ostiensis)の設置を行なったことで、
食糧供給長官を中心とした体制へと再編される。その配下にいたオスティア港
担当プロクラトルは皇帝の被解放者が務めたが、トラヤヌス帝の時代以降はお
もに騎士身分の者が務めるようになる。
セベイラック・ゲルバゾーニは、112 年から 211 年頃までに確認される 14 名
のオスティア港担当プロクラトル(このうち1名は皇帝の被解放者)および1
名の食糧供給を臨時に担当した官僚をあげ、この 15 名のうち8名が北アフリ
カ出身であると指摘する46。ただし、彼女が食糧供給の特別な任務を担当した、
Cébeillac-Gervasoni (2002), 82, n. 101.
宮嵜麻子「アウグストゥス期における都市ローマの穀物供給制度」『古代文
化』51、1999 年、19-31 頁。
45 D. C. Chandler, Quaestor Ostiensis, Historia 27, 1978, 328-335.
46 Cébeillac-Gervasoni (1996), 559-561. オスティア担当プロクラトルの一覧
は、ead. (1994), 58. オスティアの食糧供給担当文書役(tabularius Ostis ad
annonam)を務めた T. Aelius Augg. Lib. Saturninus は、ここでは除外し
た。211 年以後のオスティア担当プロクラトルとして、H. G. Pflaum, Les
carriers procuratoriennes équestres sous le Haut-Empire romain, 2 vol.,
Paris 1960-1961 の索引(vol. 2, 1031)には、Sex. Acilius Fuscus(259 年な
いし 260 年)、 P. Bassilius Crescens(218-222 年)の名がある。また、同索
引には、両港のプロクラトルとして、L. Mussius Aemilianus(247 年)、オ
スティア担当か否か不明確な者として、Sallustius Saturninus もいる。
Pflaum がオスティア担当プロクラトルに分類した[Se]ptimus Po[…]の碑文は
断片的で、プロクラトルではなく長官の可能性もあるため、Cébeillac43
44
14
アフリカ出身の官僚として論じている Sex. Iulius Possessor は、このリストに
は含まれていない。しかし、後述するように、ポッセッソルもオスティア担当
プロクラトルも務めていたので、このリストに含める必要があろう。したがっ
て、アフリカ出身のオスティア港担当プロクラトルとして、次の9名があげら
れる(カッコ内の情報は、その人物を北アフリカと結びつけるもの。また、番
号は、プフローム『帝政前期における騎士身分のプロクラトルの経歴』におけ
るものである)47。
(1)M. Vettius Latro(トゥブルボ・マイウス出身 104 番)
(2)[…]quus(第1フラウィア・ムスラミ人部隊長 90 番)
(3)A[…](テウェステ地域担当プロクラトル 131 番)
(4)Annius Postumus(サルダエ出身 マウレタニア 132 番)
(5)Q. Calpurnius Modestus(クィリナ区所属)
(6)C. Valerius Fuscus(クィリナ区所属 280 番)
(7)T. Petronius Priscus(カルタゴ出身 212 番)
(8)C. Acilius Fuscus(トゥブルシク・ブレ出身 291 番)
(9)Sex. Iulius Possessor(マクタリス出身 185 番48)
そして、食糧供給担当プロクラトルではないが、食糧供給業務に関わったア
フリカ出身の騎士級官僚として、後述する T. Flavius Macer(98 番)がいる。
食糧供給を担当する騎士級官僚にアフリカ出身者が多く登用された理由は、
彼らが穀倉地帯である北アフリカの事情に通じ、食糧の調達や輸送といった業
務を遂行する能力が高かったためと推測する。この点を確認するため、次の3
名についてみておきたい。
(a)M. Vettius Latro
トラヤヌス帝の時代、おそらく 112 年頃に、騎士身分としては初めて「オス
ティアおよびポルトゥスの食糧供給担当プロクラトル(procurator annonae
Ostiae et in portus)」を務めた。ラトロはトゥブルボ・マイウスの出身で、カ
ルタゴで 99 年に第 137 年次ケレス祭司を務め、おそらくその後、騎士身分の
経歴を歩みはじめた。オスティア担当プロクラトルのほかにも、穀倉地域であ
るシチリアとマウレタニア・カエサリエンシスのプロクラトルを担当している。
Gervasoni のリストには含まれていない。
47 H. G. Pflaum, Les carriers procuratoriennes équestres sous le HautEmpire romain, 2 vol., Paris 1960-1961.
48 ただし、オスティア担当プロクラトルの職歴は、Pflaum の著作の刊行後に
刊行された碑文史料( AE 1983, 976)によるので、同書ではオスティア担当
プロクラトルの経歴については言及されていない。
15
(b)Sex. Iulius Possessor
マルクス帝とルキウス帝によって審判人団(decuriae)に編入されたセクス
トゥス・ユリウス・ポッセッソルの経歴は、バエティカのヒスパリスで船主た
ち(scapharii)が建立した顕彰碑、および彼自身がマクタリスに建立したアポ
ッロ・パトリウス・アウグストゥス像の台座から明らかとなる。
ポッセッソルの出身地について、プフロームは、ヒスパリスの碑文を根拠に、
バエティカであると論じた49。しかし、その後に発見された属州アフリカ・プ
ロコンスラリスの都市マクタリスで、父祖のアポッロ(Apollo Patrius)に対す
る奉納碑を建立していることを考えれば、出身都市はマクタリスと考えるほう
が妥当であろう。
オスティアに関わる役職として、食糧供給長官の補佐とオスティア担当プロ
クラトルがある。前者の役職について、ヒスパリスの碑文では、
「アフリカ産お
よびヒスパニア産のオリーブ油を点検し、食糧品(solamina)を輸送し、船主
に運賃を支払うための、食糧供給長官ウルピウス・サトゥルニヌスの補佐」と
呼ばれ、マクタリスの碑文では「オスティアとポルトゥスの倉庫専任の食糧供
給長官の補佐」と称している50。ポッセッソルはまた、アレクサンドリア担当
プロクラトル(proc(urator) Aug(usti) Alexandriae)も務めている。食糧供給
担当部局におけるポッセッソルの経歴は、オスティア、ヒスパニア、アフリカ
にまたがり、食糧供給制度に精通したことをうかがわせる。
(c)T. Flavius Macer
「神君ネルウァ・トラヤヌスによって選任された首都向け食糧供給のための
穀物買付担当官(curator frumenti comparandi in annonam Urbis facto a divo
Nerva Traiano)」という臨時の官職を務めた。この官職が設けられた背景とし
て、セベイラック・ゲルバゾーニは、エジプトで生じた食糧難のために、食糧
供給に支障が出たためと推測する51。
マケルは、属州アフリカ・プロコンスラリスの都市アンマエダラの出身であ
る。出身都市では二人委員と終身フラメンを務める有力な参事会員で、ムスラ
ミ人のプラエフェクトゥスも務めた。帝国の官職としては、先述した担当官職
49
50
Idem, 505.
CIL II, 1180 = ILS 1403: adiutor Ulpii Saturnini praef(ecti) anon(ae) ad
oleum Afrum et Hispanum recensendum item solamina transferenda item
vecturas naviculariis exsolvendas; AE 1983, 976: adiutor praefecti annonae
ad horrea Ostiensia et Portuensia.
51 T. Flavius Macer の職務については、H. Pavis d’Escurac, La prefecture de
l’annone, service administrative imperial d’Auguste à Constantin, Rome
1976, 125-127.
16
に加え、ヒッポとテウェステの所領を担当する皇帝のプロクラトル、属州シキ
リア担当の皇帝のプロクラトルも歴任した。このようにマケルは、アフリカ出
身であるだけでなく、その経歴のなかでも穀倉地であるアフリカや属州シキリ
アも担当した。このような経歴から、プフロームはマケルを「農業の専門家(un
spécialiste de l’agriculture)」と表現する52。
2「アフリカ出身のローマ人のロビー」
セベイラック・ゲルバゾーニは、食糧供給を担当したアフリカ出身の皇帝官
僚との関係を背景に、アフリカ出身の名望家たちが2世紀以降、オスティア市
政で影響力をもつに至ったと主張し、この新しい名望家を(さきの皇帝官僚と
ともに)
「アフリカ出身ローマ人のロビー」と呼ぶ。北アフリカ出身者の台頭を
示すのは、アフリカ出身者に多いトリブスである、クィリナ区、アルネンシス
区、パピリア区に所属する者がオスティアの二人委員にみられることである53。
この「アフリカ出身のローマ人」の代表的な人物は、ガイウス・グラニウス・
マトゥルスとプブリウス・アウフィディウス・フォルティスである。
(a)C. Granius Marutus
ガイウス・グラニウス・マトゥルスは、2世紀半ばの参事会員である。オス
ティア参事会の決議によって、顕職就任金(summa honoraria)の支払いを免
除された無償の参事会員として参事会に編入され、その後、二人委員も務めた
54。
マトゥルスが所属するトリブスはクィリナ区で、アフリカ出身と推測されて
いる55。彼は食糧供給に深く関わり、穀物商人組合(mercatores frumentarii)
の終身組合長、穀物計量人組合(mensores frumentarii)と海運船舶の監督者
団体(curatores navium marinarum, curatores navium amnalium)のパトロ
ヌスを務めていた(デンドロフォリ組合のパトロヌスでもあった)。
彼の友人には食糧供給部局やアフリカ出身者がふたりいた。ひとりは食糧供
給長官(のちにエジプト長官)を務めたマルクス・ペトロニウス・ホノラトゥ
スである56。マトゥルスは、ホノラトゥスのために顕彰碑を建立し、そこで自
らを「友人」と称している57。
もう一人の「友人」には、マルクス・ロッリウス・パウリヌスがいる58。パウ
Pflaum, op. cit., 230.
Cébeillac-Gervasoni, (1996b), 563.
54 CIL XIV, 362-364.
55 Cébeillac-Gervasoni, (1996b), 562-563; ead., (1994), 55. Cf. Meiggs, op.
cit., 203. cf. Royden, op. cit., 108-109.
56 経歴については、CIL VI, 1625a-b.
57 CIL XIV, 4458.
58 CIL XIV, 363.
52
53
17
リヌスについて、セベイラック・ゲルバゾーニは、クィントゥス・ロッリウス・
ウルビクスとの関係を推測する59。ウルビクスは、キルタ出身の元老院議員で、
アントニヌス・ピウス帝時代に長期にわたって首都長官を務めたことで知られ
る人物である60。彼の母はグラニア、オジはプブリウス・グラニウス・パウルス
という名で、マトゥルスと同じノメンをもっている61。ここからグラニウス家
とロッリウス家の関係が推測されるという。この推測が正しければ、北アフリ
カにおける関係が、オスティアにも持ち込まれていたことになる。
(b)P. Aufidius Fortis
プブリウス・アウフィディウス・フォルティスは、2世紀半ばから後半にか
けて、オスティアで大きな影響力をもった参事会員で、二人委員、公庫担当ク
ァエストル(五回)を歴任し、都市パトロヌスにも選任された 62。ファブリ・テ
ィグヌアリィ組合の担当官(praefectus collegii fabrum tignuariorum)も務め、
146 年には「名誉 honos」と「美徳 virtus」の像を奉納し、3日間にわたる競
技祭(ludos per triduum)を主宰している63。同名の息子も、アエディリス、
クァエストル、二人委員を歴任し、神君ティトゥス祭司とローマ・アウグスト
ゥス祭司も務めた64。
フォルティスはクィリナ区所属で、北アフリカの海港都市ヒッポ・レギウス
の参事会員でもあった。そのため、彼はオスティアではなく、ヒッポ・レギウ
ス出身である可能性が高い65。彼自身は穀物商人組合の終身組合長、また被解
放者も同じ組合の長や財務役を務めていた。フォルティスが自らの被解放者と
ともに、穀物の交易に深く関わっていたことがみてとれる。
マトゥルスと異なり、フォルティスと食糧供給担当部局との直接的な関係は
明らかでないものの、彼が属する穀物商人組合(フォルティスの被解放者が組
合長と財務役を務めている)がオスティア担当プロクラトルを務めたクィント
ゥス・カルプルニウス・モデストゥスを顕彰している 66。
セベイラック・ゲルバゾーニは、マトゥルスとフォルティスに代表される「ア
フリカ出身者」が台頭する一方、後1世紀までオスティア市政で権勢をふるっ
Cébeillac-Gervasoni, (1996b), 562-563; ead., (1994), 55. Tran, op. cit.,
286-288.
60 PIR, V-1, no. 327.
61 CIL VIII, 6705.
62 CIL XIV, 4620-4621.
63 Fasti, Pb, l. 5-6.
64 CIL XIV, 4622.
65 ただし、Royden, op. cit. , 109 は、アフリカ出身である可能性は否定できな
いにしろ、オスティア出身の可能性が高いと推測している。
66 CIL XIV, 161.
59
18
た名門家族は、オスティアの経済的役割の変化に対応することができず、エグ
リリウス家を除き、その影響力を失ったと主張する67。
3
小括――オスティア市政と食糧供給部局について
セベイラック・ゲルバゾーニは、北アフリカ出身の食糧供給担当プロクラト
ルと商人層の結びつきから、オスティアやローマ官界で大きな影響力をもつロ
ビーが形成されたと論じた。メグズが「第四期」について論じたことを想起す
れば、オスティアにおけるアフリカ出身者の存在は、帝政後期にも及ぶ長期的
な動向として考えることができるであろう。
しかし、食糧供給担当部局とオスティア市政と関係については、セベイラッ
ク・ゲルバゾーニの所論では分かりづらい点もある。食糧供給担当部局は、穀
物などの海上輸送と管理、ティベリス川をとおしたローマへの移送を監督する
役所である。その官僚自身や官僚と人脈をもつ人物が、オスティア市政に対し
てどのように、あるいはいかなる経緯で影響力をもったのかは、また別に論じ
られるべき問題であろう。そして、この問題について、セベイラック・ゲルバ
ゾーニの所論に詳しい分析はみられない。確かに、オスティアの主要な経済活
動を管轄し、騎士身分に属する食糧供給担当プロクラトルが、オスティア市政
においても何かしらの影響力をもった可能性はある。しかし、その影響力の性
格を明らかにしない限り、これらプロクラトルと結びついた「アフリカ出身の
ローマ人のロビー」がオスティア参事会で影響力を行使したという議論は、十
分な説得力をもたないであろう。
皇帝権力の代行者のオスティア市政の介入について、セベイラック・ゲルバ
ゾーニは、とくにコンモドゥス帝時代以降の強化に言及する68。ただし、その
一例として挙げるのは、食糧供給長官マルクス・アウレリウス・パピリウス・
ディオニュシウスが、189 年ないし 190 年に、オスティアのパン製造業者組合
のために、参事会の同意を得て、土地の割当てを行なった事例で69、これに先
立つ時代における食糧供給担当プロクラトルの役割についてとくに言及はみら
Cébeillac-Gervasoni, (1994), 82; 84.
Idem, 85-86.
69 AE 1996, 309. この碑文については、M. L. Caldelli, L’attività dei
decurioni ad Ostia; funzioni e spazi, in: Cl. Berrendonner, M. CébeillacGervasoni, L. Lamoine (éds.), Le quotidien municipal dans l’empire romain ,
Clermont-Ferrand 2008, 283-284. パピリウス・ディオニュシウスは、皇帝
の被解放者から近衛長官まで栄達したマルクス・アウレリウス・クレアンデル
の失脚に関わっている。カッシウス・ディオによれば(72, 13)、クレアンデ
ル失脚の背景には、190 年に生じた食糧危機に対する民衆の不満があり、そし
て食糧事情の悪化は食糧供給長官であったディオニュシウスにも責任の一端が
あった。この問題について論じたものとして、C. R. Whittaker, The Revolt of
Papirius Dionysius A. D. 190, Historia 1964, 13, 348-369 は重要である。
67
68
19
れない。
皇帝官僚と市政の関わりという論点について、 都市監督官(curator rei
publicae)に関する飯坂晃治氏や大清水裕氏の研究から教えられるところによ
ると70、都市監督官は、単に財政監督という職責だけではその意義を十分に評
価することはできず、皇帝に対して都市を代弁するパトロン的活動を行なった
点にも注目しなければならない。この指摘を踏まえれば、食糧供給担当プロク
ラトルもその職務行為だけでなく、オスティアに対するパトロネジや恩恵施与
行為(いわゆるエヴェルジェティズム)を考えてみる必要があろう。
この観点から改めて史料を検討すると、まずは組合から顕彰されている事例
が注目される。食糧供給に関わる組合としては、穀物商人組合(mercatores
frumentarii 1例)、穀物計量人組合(mensores frumentarii 2例)が顕彰
碑を建立している例がある71。このことは、オスティアの食糧供給関連の組合
も、担当プロクラトルとの関係を重視したことを示す。興味深いのは、ファブ
リ・ティグヌァリ組合(fabri tignuarii)が顕彰碑を建立した事例が4例みられ
ることである72。食糧供給に関わらない組合との関係は、食糧供給担当プロク
ラトルが、食糧供給制度を超える活動をしていたことを示唆する。
しかし、都市参事会によって食糧供給担当プロクラトルが顕彰された例はみ
られず、このプロクラトル職を務めた皇帝の被解放者 P. Aelius Aug. lib.
Liberalis が、オスティアの参事会員標章を授与され、またオスティアと密接に
関わる集落(Laurentes vici Augustanorum)のパトロヌスに選任されたこと
が注目される程度である73。
このように、食糧供給担当プロクラトルのオスティア市政に対する影響力に
ついては不明な点が多く、彼らや北アフリカ出身のオスティア参事会員の市政
における影響力を評価するためには、さらなる検討が必要となろう。
結びに代えて
本稿では、オスティア参事会の変容に関する研究史を跡づけてきた。最後に
本稿の内容をまとめ、今後の展望を述べておきたい。
メグズの研究は、碑文史料の幅広い収集・分析に裏打ちされた、実証性の高
い研究で、今でもオスティア研究の出発点となる。しかし、
「新人」に関する議
論は整理が不十分なままに残されていた(第1章)。
この問題を、ムーリツェンは、被解放自由人の社会的上昇という観点から論
70
飯坂、前掲書、43-89 頁。大清水、前掲書、30-40 頁。
穀物計量人組合が顕彰したのは P. Petronius Melior, Q. Acilius Fuscus、穀
物商人組合の場合は Q. Calpurnius Modestus である。
72 被顕彰者は、A. […], Annius Postimus, Q. Petronius Melior, […]
Lollianus の4名。Q. Petronius Melior は、穀物計量人組合とファブリ・ティ
グヌァリ組合からそれぞれ顕彰碑を献呈されている。
73 CIL XIV, 2045 = ILS 1534.
71
20
じた。その結果、被解放自由人の子孫が「新人」として参事会の上層に加わる
難しさを指摘し、名門家族の支配は、実際には安定的であったという結論に至
った(第2章)
。これに対し、セベイラック・ゲルバゾーニは、食糧供給を担当
する官僚と結びついた「アフリカ出身のローマ人」の台頭に着目し、オスティ
ア参事会員層に大きな変化が生じたと主張した(第3章)。
ムーリツェンとセベイラック・ゲルバゾーニはともに、オスティア参事会員
の名門家族と「新人」の台頭について論じ、異なる結論に至っている。しかし、
両者の取り上げている対象は異なるため、そもそも議論は噛み合っていないと
いえる。このことは、碑文史料の断片的な情報を組み合わせ、一つの社会像を
描き出す難しさを示しているが、ここでもう一つ注目したいのは、両者が前提
とするローマ帝国における都市の見方の違いである。すなわち、ムーリツェン
は、
保護者である名望家の被解放者に対する統制、参事会の内部統制を重視し、
オスティアをあたかも一つの自律的な社会として論じている。それに対し、セ
ベイラック・ゲルバゾーニは、ローマ権力と地方都市の関係、皇帝権力の代行
者がもつ権威、そしてローマ権力を背景とした他地域からの移民の存在に注目
し、ローマ帝国の統治構造を背景にオスティア社会をみている。名望家体制を
考えるにあたっては、この両者の視点を組み合わせ、ローマ帝国とオスティア、
両者の権力構造をともに論じていくことが、今後の課題となろう。
この課題を果たしていくために、ここで3つの論点を提示してみたい。
第1の論点は、北アフリカ出身者(より広くはオスティアへの移民)がオス
ティアの参事会員層に加わるプロセスである。さきにみたように、セベイラッ
ク・ゲルバゾーニは、食糧供給担当プロクラトルに代表されるローマ権力との
結びつきを背景に、北アフリカ出身者がオスティア市政で多大な影響力をふる
ったと指摘する。確かに、食糧供給担当部局の官僚との結びつきは、オスティ
アで参事会員となった北アフリカ出身者にとって重要な後ろ盾となり、またオ
スティアの人びとにとってもその人脈は貴重に思われたであろう。
しかし他方で、彼ら自身はオスティア社会では新参者でしかない。ムーリツ
ェンが帝国諸地域からオスティアへ移住した商人の存在を認識しつつも、その
意義を重視しないのは、オスティアの商業資源を活用しえたのは同市の名望家
層であったという理解による74。あくまでよそ者でしかない北アフリカ出身者
がオスティアの政治や経済活動に加わる際、何かしらの対立や葛藤は生じなか
ったのであろうか。
このような観点で、本稿で取り上げたグラニウス・マトゥルスとアウフィデ
ィウス・フォルティスについてみると、ある特徴がみえてくる。ふたりに共通
するのは、構成員やパトロヌスとして組合に関わっていたことである。すなわ
ち、マトゥルスとフォルティスは複数の食糧供給関連の組合に関わっていた。
このような組合との結びつきはまず、セベイラック・ゲルバゾーニが注目する
ように、彼らの経済基盤が食糧供給関連事業にあったことを意味する。しかし、
74
Mouritsen, 2001, 35.
21
前者はデンドロフォリ組合のパトロヌスを、後者はファブリ・ティグヌァリ組
合の担当官(praefectus collegii)を務めており、彼らのオスティアにおける活
動は、市政と食糧供給関連事業に限られていなかった75。このことは、オステ
ィアの「都市中間層」の支持を得るために、これら有力な組合との関係が必要
であった可能性を示唆している76。このような知見から、自由人移民のオステ
ィア社会への定着は、ローマ権力との関係だけではなく、オスティア社会の広
い文脈からも考えるべきである。
第2の点は、オスティアの人びととローマ権力の関係である。アフリカ出身
者がローマ権力を使ってオスティア市政に進出しえたように、オスティアの人
びともローマ権力に接近することができた。たとえば、オスティアの名門家族
のなかで最も成功したエグリリウス家は、2世紀初頭に元老院議員へ昇格し、
そして同時にオスティアの主要な役職を占めた77。この家族のオスティアにお
ける権勢や中央政界への社会的上昇について、詳しくは別稿を期したいが、ロ
ーマ権力とオスティアの関係が密になったことが一因としてあげられよう。す
なわち、騎士級の官僚と結びついたアフリカ出身者のオスティア市政への進出
と同時に、オスティア名望家層もローマ権力と接近し、その政治的立場を保持
することも可能であった。このように考えると、
「アフリカ出身のローマ人」が
オスティア市政に「支配の手」を伸ばしたというセベイラック・ゲルバゾーニ
の理解は、やや単純ではないかと思える。オスティアの権力争いという文脈で、
75
この点で、オスティアやルグドゥヌムの事例を中心に、組合の社会的統合機
能について論じているN・トランの研究が参考になる。Tran, op. cit., 285-294.
K. Verboven, Resident Aliens and Translocal Merchant collegia in the Roman
Empire, in: O. Hekster and T. Kaizer (eds.), Frontiers in the Roman World.
Proceedings of the Ninth Workshop of the International Network Impact of
Empire (Durham, 16-19 April 2009), Leiden, 335-348 も同様の視点から、移
住した商人の結社について論じている。
76 1世紀末から2世紀初頭ごろのオスティア参事会員であるグナエウス・セン
ティウス・フェリクス(CIL XIV, 409)は、多種多様の団体(船主組合、穀物
計量人組合、ワイン商人組合、若者組、デンドロフォリ組合、下僚デクリア、
公有奴隷・被解放公有奴隷団体(familia publica)、退役兵など)の会員やパト
ロヌスを務めた。彼はイタリアのルカニア地方の都市アティナから移住してき
たと推測されている。多くの団体に関与した背景に、オスティアの「新人」で
あったフェリクスがこれらの団体をとおしてオスティア民衆層の支持を得た可
能 性 が 考 え ら れ る 。 同 様 の 指 摘 は 、 A. Graeber, Untersuchungen zum
spätrömischen Korporationswesen, Frankfurt am Main / Bern / New York
1983, 15-16.
77 Meiggs, op. cit., 502-507; F. Zevi, Nuovi documenti epigrafici sugli Egrili
ostiensi, MEFRA 82, 1970, 279-320.
22
ローマ権力がいかなる役割を果たしたのか。
第3の論点として、このように複合的な権力構造が形作られる歴史的変化を
踏まえると、オスティアの権力構造を論じる際、公職と参事会に議論を限りが
ちな従来の都市研究の理解は不十分である。この点で、セベイラック・ゲルバ
ゾーニは、オスティアにおける「アフリカ人のロビー」の影響力を政治的・経
済的のみならず、文化的な側面にも及んでいたと論じていることは重要である。
F・コアレッリは 1989 年、オスティアの「アプレイウスの家」の所有者(L.
Apuleius Marcellus)が、北アフリカのマダウロス出身で、『黄金のロバ』な
どの著作で知られるアプレイウスであると主張した78。コアレッリはさらに、
アプレイウスが「アプレイウスの家」に隣接する「四つの小神殿(Quattro
Tempietti)」を管理し、同じく隣接する「七天球のミトラス堂(Mitreo delle
Sette Sfere)」のミトラス教の信徒たちの宗教観に影響を与えたと論じ、
「哲学
者」アプレイウスがオスティアでもちえた宗教的な影響力について論じる 79。
セベイラック・ゲルバゾーニは、この説に基づき、「アフリカ出身者」の文化
的影響を指摘したのである。
コアレッリの説はその後、ミトラス研究の泰斗 R・ベックに大筋で支持され
たが、M・ダスディアは批判し、現状では広く支持されているとはいえない 80。
確かに、
「アプレイウスの家」の所有者がアプレイウスか否かという問いに論点
を限るならば、現在の史料的状況を考えれば、説得的な結論を出すことは難し
いであろう。しかしこの議論は、オスティアの政治構造を考える際、参事会や
公職だけでなく、教養や宗教などをとおして権威を確立していた可能性に目を
向けさせるという点で重要な論点になりうる。
近年の都市研究が論じるように、ローマ帝国内の諸都市は皇帝権力の拡大に
よってもその活力を失うことなく、名望家層や民衆層は活発な社会生活を営ん
でいた。しかし他方で、諸都市における権力構造の変容に一役買っていたのは、
ローマとの関係、あるいはローマの統治構造とそれが覆う地中海世界の状況で
ある。このような理解に立つとき、都市名望家層に関する研究は、都市社会内
F. Coarelli, Apuleio a Ostia?, DArch 7, 1989, 27-42.
コアレッリは、『黄金のロバ』(XI, 27)に登場するローマのイシス祭司ア
シニウス・マルケッルスの名を根拠に、アプレイウスが、オスティアの都市パ
トロヌスを務めた元老院議員クィントゥス・アシニウス・マルケッルスの文学
サークルに所属し、彼を後ろ盾にオスティアに居住するにいたったと推測して
いる。
80 R. Beck, Apuleius the Novelist, Apuleius the Ostian Householder and the
Mithraeum of the Seven Spheres: Further Thoughts on an Hypothesis of
Filippo Coarelli, in: S. G. Wilson and M. Desjardins (eds), Test and Artifact
78
79
in the Religions of Mediterranean Antiquity: Essays in Honor of Peter
Richardson, Waterloo 2000, 551-567; M. D’Asdia, Nuove riflessioni sulla
domus di Apuleio a Ostia, ArchClass 53, 2002, 433-451.
23
部の様相と帝国の権力構造の特質、さらに地中海世界で生じていた人びとの移
動の影響を論じるためのテーマとして新たな重要性をもつだろう。
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