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新年号 - 法然上人鑽仰会

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新年号 - 法然上人鑽仰会
.
第
L 巻
ハ
十
苛1
d
口町
一
新年号
。。信 仰の歩みを進 め るた め に 00
{ こ百 五二
喜以哲以毒以 事以
ヌ酔辻
上上上上
で
ー 豆 一玄
糊~ 2.1. 目 仏 至
}一~ 蓄の受 25 日
品ちにたつのる
法川
2 答品 :2
振然区
替
上程 A
語 体 4 3・
東 上 高一 五
験対
京 人一 干版
八
=
しる
の
著
門
3・ 6
き
す人
価六
ては価六
を信
十版
十・
円三
包ず五 .
むる円
変心
〒十
七会
八ー
か八六
役円買ら
円頁
の
順子 残
番
-
著
フ
表紙
・
扉絵
・カット
土
正月号
結城天童
匡:・(2)
(潟)
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(
M)
雄
・:
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和
・:
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俊
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(
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位
加藤金一
弁
問
秀郷・ :(8)
空
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外:・
俊
浄
・
武
推
山
・
尾
ト!
さし絵
-ji--ji---:::
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本
ク
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年頭所感
j
橋
子君放談:::・ ji--
選択の社会
赫
大
良
••
••••••••••
・・・・・・
昭
••••••••
・
挙
子
博
森
高
古川
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伊
藤
輪島岡戸尼伝
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東
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1 ・:
順
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上
〒十
死に対するもの
横川への道・
イシド紀行
話
••••••••••••••
K
ド
佐
--
村
・ji- -:-j i--
••••••
童
をいたお祈り
法然上人の感化
新編育機経〈1):
相
:::::-ji---ドド
::::: ・ji
:;::::
雄: ・(鎚)
賢
仰
談
浄土の 三部経
-雨脚の御法話
:;-ji--: (
幻) 一重心仏心
佐
--:;:
釈尊の生涯公ハ)::ji
藤
信
浄 j
べ生定 B
ニ版
一八
円頁 賢泰
2事
佐
事l
中討み藤
入 信に
ち賢 土
常て
ぴ順 ト i
わず定 B
.
の
の慾
竹不の
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M烹生 4い4 阿ニ佐藤 武森きと
八÷十
回
世と
仰 ー
七
結界ろ
藤
既
え 霊童々
次
李 2. 1 次 仰 李
る 信世人み水
ののと校 教 数料
ヘ
護
授願慈
詞号l 書明分
し
y
仰 界のとを
引引引東五をか 心ま欽
~
目 イ言査
目
次
土
•
乱の治まり総きに付ても
、
一向に本顕を仰くべし。散
が為山。妄念の止め難きに付て
元広は乱心止み難き者を化せん
円ら生ずる山出。何に況や本.ぬの
、
として 妄念も自ら止み 願心 も
先づ名号を唱れば 、名 号の徳
月
に名分を唱うベぎ也。
一
批
法然上人御法籍
向
1
正
も
-
浄
年
,
所
・
併 1色
頭
•
感
尾
、
殊にぬげ国無哀変一
、
、
々進歩し改造される。阿弥
それでは浄土は竪 闘 でも古屋である 。真 の浄土は 一と
まま残れる古屋敷のように思う人があるかもしれぬ
立古今然の句もあって法蔵さまが姥て終ってから共の
も、 天親以来の組釈にも出ており
弥陀成仏以来今に十却なりとは 大小の無量寿経に
病むので新年号の巻頭を替けと編集間人に促されて。
、
志 匡
、
陀経には艇楽に生ずる衆生一が不退転であるというが
きも止どまっておらぬ。刻
ー
2
-
弁
(文学
~
本誌「浄土」創刊に骨折った中村君は逝き良野君 は
椎
dv
と
ものが多いから、普いと思う伊土でもニ行健も比較す
、
その結日聞は単なる
美中の美が択ぴ出される。兆歳、氷却
、
、
、
朝の四時から南無阿弥陀仏に次々と応後する一
、
、
法然上人の八十年 議ロ導大師の六十九
、
、
天親電樹の念仏 釈尊の生涯へと測りゆけば未だ
、
発、を感じる。
陀仏して。
、
に持仏現前 に授記し給う」ロ
と 何事にも先ず南無阿弥
畳の諾仏を見奉る。無量諸仏をみ怒る ζとを得るが故
仏身観には、「無量点仏を見ボる者は 即ち十方抑制
、
省みられぬ玉光金銀の光が明日の仏法を教ゆるもの多
年
進む。いま
自の行車は仲々移る。三百六十五日一年経る毎に仲々
十五
火山や氷海の雄鉱肘土とは違う。老納今年数えて八
の修献でねりあげられたとすれば
筈中の善
何人も共処では進歩向上するというので 終夜運転す
、
γネでもよい
ノイローゼになりはせ
、
赤子はネ
、
一切の菩龍諸仏の悲願を満足
いたづら小
、
、
れば
、
る特急車に寝静まっておる乗客のようでなく 各々罷
。
と
、
ねるねるとねむらせておるうちに精簿 無能か
放務のカミナリ族に仕上げることになるから
、
、
め進むのは弥陀如来の選択本願力に依り南無阿弥陀仏
するのである
それでは客は眠るときなく
、
ぬ?。御尤も、ねる予は丈夫
が
軽卒
、
如米は健全に行つ追を歩く。それが二百一十億の浄土
から選び出される浮土
。
郷里の燦村で愛せられ乍ら
、
どそ
滋悶に泥
、
母に
(大本山増上寺法主)
ー
3
させた健楽道となる
顧みるに
、
、
暑い立の自に川にとび込
おづおづ足を説した憶病者は
、
川憎から幾歩か離れて 荒患を飛び廻るのや
、
まみれになるのを眺めたり
む河童のわ舎で
、
も十歳まで掛川たぬ弱子と思われたそうだ。が次の十
年には発育の満点に述した。そこに放任も干渉も程が
あるととを知る。今の枇相には片手落ちで改善すべき
•
-
•
ちゃ
尺
く
i!
外
また背少年が不良になるのは社会の制度の罪だといった
、
、
経済問題にしても道徳問題にしても 社会制度に
、
、
る。かくして何もかも社会の制度をあてにする制度偏向にも
、
ζ ろで
一指すととろは直接には制度上の改革であるな
がるほど制度
、
一一地はあるがしかしいかに制度を改市してみたと
、
さらにそれ以上に必
一的社会の改革も必援にはちがいないが
そ利
うし
一会」のほうは忘れられているかのようである。社会迎動の
回た立を仮してゆこうとする線に立っているからであ
ぐあいに
か
ばわれわれが食乏で図るのは社会の制度が思いからであると
〈文学時士・一
広島大学教授〉
フ't:r
44 』
||新年に望むもの
、
ニ工二
左h
、
、
、
たとえ
「選択の社会」 のほう
一より制度的社会の改ぷも急を要するはずであるがさらにそ
一れにもまして忽bz寓wするはずなのは
一の改革とわたくしは言
断した い。 なぜであるか。
いったい社会運動が制度の改革を目指すゆえんは
わたくしは巧える
これを 「選択の社会」と名づけるのである。
、
か。そうしてこのほうの社会こそわれわれの社会生活の大部
、
分を成している主内容なのではないかと
のであって
「選以の社会」という名称はわたくしがはじめて用いる吉
ー
本
社
一要なのは「選択の社会」のほうの改革ではなかろうか。 その制度的社会ではどうにもならない社会があるのではない
と
4
山
の
現代は社会運動の発達いちじるしく ために制度的社会に
一服を戸線われ勝ち制
で度では到底手の及び縫い「選択の社
、
32S
も
-
選:
一
、
一楽であるから 何のととかと思われるかもしれないが
、
一択」とは二字のいずれも「えらぶ」という怠味であって
自
て
は
、
主内海
われ われ一人一人の具体的に生きている社会そのもの
「選択の社会 」 を
、
った
その一人一人のえらびと
その家庭 は父の友人
、
各人各様になってくる わ けである。閉じ社
、
、
ハスのえらびとった職業により
、
また父のえらびきめた配偶者によって
会制度のうちにありながら
とするからこそ
、
「週 あるが、そうした一体にあてはまる社会制度のうちにあっ
、
万人科闘の社会生前の主内容
一人 一人の自由怠志で決
一己の忠志一つでえらびとってゆく社会のととを「選択の社
、
一会」 と称するわけである。とうした
、
また各自の幸福の決定権を握る鍵で
も
一定しねる「選択の社会」とそ
一を形成するとと もに
、
、
ために人によって貧閑に泣き
と
、
った職業により
病弱に苦しみ
、
、
、
、
題や道徳問題その他が社会制度によってのみ解決されるもの
和を来し 悲惨を招く方而も少くないと考えるとき 経演問
不
弟とはふれく別の「選
、
に し て同 じ家庭 に育 ち な がら兄のえらび
一ある。そうした「選以の社会」の浄化のみが今日の社会辺助とは全く別の「選択の社会」を生活するととにもなり 間様
一の危機を救い得もする理念であるとわたく し は思うのであっ
、
一て との狸念にれ恕したれ以刊の宗教・米は突に法然上人にほま
かた兄のえらびをめた配偶者によって
そと
であって
一ならない。法然上人の主著が「選択本願念仏集』と名づけら 択の社会」宏生活するととにもなろう。すべてかくのどとし
、
一れるゆえんでもあろう。本願の念仏を選択するととるに浄土
、
一への道が聞け 浄土の生活が約束されもするのであり
、
一に「選択の社会」としての伊土が力説され 提唱されたので
、
今日にいたるまで南
の社会」の周辺として一律に関係するにすぎないもので
、
一
一ある。したがってまたそれを選択して浄土への生活を愛楽も と断ずるのは早計であろう。制度的社会はただ個人の「選択
、
一し 精進した門弟が数知れず総出して
学生もいる。その事件が
、
人をねたみ
、
、
世をのろう前に
、
、
む
mm
女共学のなかに恋愛する
ζの学生の一生 を決定す る ほ どの結
愛の制度があるわけではないが
大学という制度にしても一一律に学生にあてはまるので恋
しろ自己の「選択の社会」を内省すべ舎ではなかるうか。
のではない。したがって
一無阿弥陀仏を知らぬ人はおそらく一人もいないで・あろうと思 々、 個人内郵の「選択の社会」にまで決定権を発動し得るも
、
、
一われるほど圏中にひるまり続けているととは 世界の国々に
一その例を見ない。
、
々にすべてそうなので
一社会の制度のほうは誰にでも一律にあてはまるもので
選
、
一挙の制度 納税の制度 学校の制度等
ー
5
-
、
、
る形
ζともある場合を思うても 制度的社会の乎の及ぼ 体的内実を形成し 制度的社会のほうはその外側を律す
一回米を来す
、
向 分 の愛している女学
、
、
て利己的な「選択の社会」に生舎ている人ほど
、
、
、
本人
、
阻 害する
そうした乱
って、ために社会の挙制を
って
って直ちに改められ得も
制度的社会とちが
、
内省を正すことによ
、
、
一ない「選択の社会」がいかに重大な・怒義を帯するか式
はに
拾M
をか
は
まならない。後者は万人を一律に規定するもので 簡
一たない。人聞の生、診る社会は決して制度的社会のみでな
くは改革できず また改 めてみてもその運営の仕方いかん
単に
一むしろ大
いわんやその拡にあたる政
半は「選択の社会」にあるととを知らなければならでは利容相半のとともあろうし
一ないとわたくしは思う。かくして不幸にもなりそうしてそ
のや宮支などの「選択の社会」が不浄なる場合には 乱用
治家
一不幸を幸福へと転ぜしめ得るのも亦「選択の社会」にね
うるとととも少くないであろう。各自の自分勝手
され
したがっ
一とろ大であるといわねばならない。
、
用をも敢てするととにな
っ ても
の自覚を深め
その「選択の社 会 」ならば
一たとえば先の恋愛を例にと
、
勉 学 もでき総くなり
遂には
ものである。
、
、
やがて他の男性と仲良
一生が自分を好いて〈れる聞はよいが
一くしたりすると、気持も沈 み
、
れば
、
、
ζの師弟関係も閉じく社会関係であるが
、
その「選択
、
の社会」からはかえって相手の女性を殺すどとろか むしろ
。
なぜかというと
、
、
っ
こうした生命の深き自覚は その女性
ったおかげで弁えられるにいた
ー
6
-
一相手を殺して 自殺してしまおうかとも考えるかもしれな
一ぃ。とうい ったととは程度を異にし、また問題を別にして諸するものなのである。たとえば前例に学げた背年学徒にして
、
その恋愛の相手を殺し、自己の生命をも断たんとした発
、
も
、
一方面にさまぎまな形態をとって生じ来るものでたとえ社会
、
作に悩む社会関係からして 師と仰ぐ教授にでも相談して
、
一の制度が資本主義から社会主義にきりかえられても それに
、
失恋してもそういう勾持にはならない
、
っては
そ
一よってはどうにもならない社会問題ではなかろうか。社会主一以て人生観 ・世界観を煽り下げ 生命の尊さの自覚を深め得
一議の制度にな ったら
、
一とはいえない。それどとろか その学生自身にと
ぅ
拝んでもよいような浄らかな心持ちさえ党えてくるである
一の問題の解決除、制度の改革以上に近大明と与えるととでも
一あろう。
がわが立のままにならなか
ともかく一人一人の「選択の社会」が各自の社会生活の兵たのでもあるからである。
一
一
一
け るもの
まさに世界宗教史上にそ
(了)
日食
付
経
ィソ ッ
たんすの
ζやし
、
、
近時
所の道陣決で「孫
引払が吉野山にいた
っ
、
、
って自分の子供
の赤子の時の、制刷物-m子 ・玩具などを
、
、
も
般の中に
いか に多い乙とよ。
、
水害地の人々にでも、間るなりしたら
、
、
っと有効花 利用できたものを
は、たんすの乙やしの
馬鹿と知りつつ
、
、
、
は損ですョ あれだけの 店を緩営して
、
、
っていくし
、
いるんですからね 馬鹿なもんですヨ」
、
儲けていく それだけやる者が払って
や
あれだけの緩貨をかけ
、
「鶴岡紛でパ
もチンコでも 結局長い間で
弘の近所の T さんは
、
たが 、そ れならもっと早くに 戦災者なり、
、
一つも役にたたず 結局 くず 昆ゆきとな
、
孫ができたが、そ れらの物は
さてその子供が
小噺九十八路を、集 めたもので
績をだした。
、
、
丹念にと
文
、
っておいたが
プ物諸式の、面白 いも のだが、 今そ れに
、
「一番
「
新 編百後経」、 と名付けたり
、
。
嫁を災い
、
-もののあじ
、
、
春日の局は 家光から
、
、
ると
た。「では一審まずいものは::
:」といわ
れたとき
、
あまい
、
などというほかに、
、
海かげん一つ
、
家光が不思議に思って たずね
まずいも
、
でどざいます」
、
、
と答えたそうだが 鈴木時士は
すい
、
、
る乙とを、知るべきだろう。
物質だけで無い 人情という
、
、
。
(
伊東挙位)
味の都内のあ パチンコにでかけて行 った
、
そも
う知っていて 今日も袋君に叱られつつ、
味の索を発見したのだそ・つだが、人の倣
うまい、という味のある事に、気がついて
からい、にがい
、
うまいものは:・」といわれた抑
時制を出し
むかし
て
よく似た、実耳拍・寓僑 な ど 小結を牧め
、
し、国官喰 が生れたら入用だ」 とい
百喰経 は、 僧伽 餌刑務が擦をた
百
浄土への道はとうした「遇択の社
て とそ聞
しかもそれは「述」かにである。
、
会」の浮化によっ
で
また
もしな
、
そと が制度としての資本主義や社会主
義の検討批判と相違するので
一
「速」かでなければ間に合
い
い。 何 とな ればわれわれの心臓は今日
止まってしまうかもしれないからであ
、
人生も社会も結局観念の米
る。かくも生命に真剣に取り組むので
なければ
Fに走って路頭に迷うのほかあるまい。
一それでとそ『無量必経」 も「いのち」
一と取り組んでいるではないか。その本
新
編
一一願の念仏を選択して浄土宗を朗創した 局「うまいも
て法然よ人は『選択本願念仏集』におい
、
一て「速」の一字に全宗教観を集約なさ
一れたととは
」 の頬を見ない高温な悟境といわねばな
、
らない。われわれの新春の党情もとの
思われる。
一本の・省に出るものはけだしなかろ
うと
一
- 7
一
一
一
一
{
子
示N
搬はねずみである。名前はない。しかし
、
俊聞では芥鍛の閥族を総称して ネズ公とか
チ ュウ助などと失礼な呼び方をしている。本
、
年は異口訟の年なのであるから
そういう失礼
ζとを「ヨメサマ」とか「アネ
な呼び方はしないで貰いたい。
われわれの
、
尊敬を以
って呼んで下れる地方が
特に
、
サマ」とか「ムスメ」とか 、非常に親しみ深
く
しかし
、
昭びすでにしないの
、
秀
郷
、
そう呼んでくれる心持ちをくんで
田
では一月の七自に
ふズミのヨメイリとい
、
っ
てお祝いをしてくれると ζろもある。日本人
、
く ら
いのもの
凶を判断するのである。だから お供餅 はむ
しろわれわれが峨 った方がよい
って分るのだからね。
である。われわれのおかげでその年の吉凶綴
認が前以
、
コ ?不ズ
ζとを『ネズミ」のようだとい
よく立働くものの乙とを「
ル悼の
dq芯い
うし
、
、
ほど休は大きくはない。だが た
r
ミ」のようだというが 会くわれわれはよく
働く。な
とえにもいうだろう。山出酬は小粒でもピリリ
、
と辛いと。会くそのとおり 体の大小で簡単
に判断して貫いたくないものだ。 イソップ物
ぽっとをしていたら
っ
、
ヒ
ョ
イと押
その前肢のと乙ろにチ
、
た。小ねずみは一生懸命声を
ヨロチョロと出て来たねずみを
、
へつけてしま
張り上げて
も ζういうよい風習は真似をして貧いたいも
のである。
いつかき
、
ζんなちっぽけな奴
っと恩がえしをしますか
とたのんだ。ライオンは
、
「ライオンさん ど-っか助けて下さい。そ
の代り
お正月に人間の家に飾られるお供餅はわれ
、
われわ
、
ζ つてはいけな
われの大好物である。だから時々そのはじ
をかじるのである。しかしお
、
っ思
れの鴫った併の鳴り方によって その年の士円が何をえらそうな懲がえしなとと:::は
8
一
一
イ オンが口向
正月には Aり
M騒がない乙とにしている。巾問 路の中にも山山て来るだろう。ラ
、
武
だから
員炎
い。これも地方によっての ζとだが
り
放
関西に多い。もっともこれは正月だけに限つ
てのととだが
」ー
君
ところ
。
、
が図っていると
った
そのまま逃がしてや
、
チョロチョ
、
チョロチヨロと出て来 た のが
ったチピ会。
前
、
いま助けて上げるよ」
ζ
ライオンを助けたんであ る。 ライオン
あなた方入閣さえ助けた
、
維でも知っている有名な
、
ロと出て来たの
いわずと知れたわれわれの先視である。
が
ので
、
ミコ
、
一応あらましを述べようなら 大
ベ
l
ζれ拳いとばかり
さ
またチョ
火の消えるのを待っ
、
、
、
シ ャ王という王がお供
、
・ウ
ュと眠叩いたので 蛇はおどろいて首
、
上からわが訟の先祖の一匹が降りてきて チ
ュウチ
、
ζして危きをまぬが
さすが袋紛のま織も阪がさ
おどろいて身を起
、
また鳴く。そん江 ζとを二 三度くりかえ
をひき込めた。様子をみてまた廿をのばす
と
、
しているうちに
めて
、
その代り山のねずみを村人に養わした。
れた。そこで王様は山の下の村の年立を免
じ
ζとのついでにもう一つ
というのである。
、
、
今度は仏
、
そしてその村を迦孤陀即ちねずみ村と命名し
た
さて
織をも助けた諮を御被露してみよう。仏様が
けようと
して
、
センシ
ャ
マナキという女にい
の乙とである。外遊共が仏様ぞ何とかして却
、
おさとりを闘いて悶もない頃 まだ六飾と呼
、
、
更に 玄ロ山政の学のある
ζろ
とを示めそうな
、
ばれる外滋異見がさかんに行われていたとろ
らば
て
、
、
った。-お供の女逮は、
王が限
ってい
、
。
、
附脱却即に草の包みをかくして
は毎日まじめな顔で仏様の説法をききに遜っ
ているうちに
、
、
が同道して 仏様をつかまえて お前が
ζの
臨月のように大きくした。その時外道の一人
、
摘平か何かを始め それを傷口少しづっふくらましてれ取後には
、
、
一人もいなくなってしまった。その時
るのでチりヂリになって
てしま
て樹陰で休んでいるうちに うとうとと殴っ
の女速をつれて山遊びに出かけた。遊び疲れいふくめて仏械の説法をささに辺わした 女
ぅ。その第六に
主
持兄姉作箆袋沙諭という とほうもな
ったわけである。
タシと岨相成
る。乙れでミコトはスセリ鋭とメデタシメデ
がしていた欠をくわえて来てくれたのであ
ロチョロと現われて来た。しかも口には
た。やが て穴から出ようとしたら
その中にもぐり込んで
、
は足もとの地面をとんと踏んだ
ト
『内はホラホラ 外はズプズプ」と教えた
そして
、
オンが猟物を擦がしまわ ってい
イ
、
、
丁度その時はお腹も一杯でたべたくな て行くと 四方から甘舶に火をつけた。ミコト うとした。正にもう一寸というところで
樹
、
ったので
たが
か
、
し うて もと
猟飾の わなにかか ってしまった。
、
そのラ
が
るうちに
でど
躍脚箆で絹んだ紛が足にからん
れない。さすが百獣の王といわれるライオン
、
も身動き出来ずにへたばってしまった。その ら小さな穴があいたので
足もとに
に助けてや
、
藤斑を一本一本かみ切って下
、
「ライオンさん
そういって
、
れたという絡である。どおです e休は小さく
ても
ばかりではない
ともある。乙れも
、
話。といっても古い訴で若い人にはなじみで くむづかしい仏典を引用してみることとし
ないから
そうしたらむすめをやろ
、
コトは弓に矢
そのお父さんのスサノオのミ コトの
、
国主のミコトがスセリ援を奥さんに貰おうと
って
った。スサノオのミ
患
と乙ろ へ行
、
、
これを大野の災ゅに川刷込んで
をつがえて
「矢をとって来い
、
う」といった。大問主のミコトが野原に入つ 制倒の終の穴からお蛇がぢを出して王を吹も
9一
.
、
、
、
ζとである。大国主のミコトとわれわ
、
エ
一縦
もちろん
、
ある。ドブネズミ
ハツカネズミ
、
ζ
ノネズミ
武ネズミ
、
毛色ではいわゆる
、
、
ど
ζ の闘でも
って甲絡を鈍ると自 く なるので
、
白
抱朴子とい
、
いのが出て来ると縁組がよいと官ぶ。年をと
大将クラスに当るわけで
である。中でも白ネズミは兵際の位でいうと
白 ネ ズミ 、中 央アジアには金色のもいるそう
ネズミ色のが一務多いが 、 その外
イ エネズミ等身であるが
、
われわれの中にも色々の餅級が
乙の近辺の舗には蚤がつかなくなった
、
って 大明仙仰に紀られたわけで 不思議な
、
る。大黒線の日本版は 先にも申し述べたよ
、
一ぺん
女の裾から附肢にもぐり 法大簡が大国というのを大黒と容さ改められ そうである。
、
凶明を苧ましたのだろうと 悪口雑言をわめき
、
とに
その時
うに大国主のミコトで ものの本によると弘
。
m に一匹の策
帝釈天がhち
散らした
ねずみに療をかえて
、
たとの
草を引きずりおとしたので
、
ζ んで
l
かつてミ
7ピ
その悠がえ
、
れとの関係ば 先に述べたように
、
に惑だくみがパレてしまったというのであ
、
コトの命をたすけて スセリ姫とハ
、
る。 ζれは菩獲処胎経というお経にちゃんと
、
った後も われわれをお使
大泉州僚にな
、
ンドに結ばせて上げたのだから
に
告いである。
し
いとして持格させてくれたのだろう。
人間共は 、寄拍車迷がとんなに良い乙とをし 段々自慢話になって来て、恐縮な気もする
、
神秘のお使いから
、
お正月の乙とだから 我慢してきいて貰
、
が
自の敵にして追いまわす
てやっているのに
おう。われわれは
、
のは突に忘恩も甚しいものである。われわれ
日本にも立派にある。羽後の七盛山に
ジアのトルキスタン近辺にあるとの ζとであ
ζのネズミをとらねばお前の体の
てて
、
いうが
く
裕く人に患って下る。名を伸
、
ζれは
、
その家の主人を大黒にみた
、
その使者であり 主人のために利には
、
わが同では府間家の務碩のととそ内ネズミと
ならぬかと思っている。
る云身」と山ている。}合唱#の外怒ら尽くれく
長』い・っ
一。年巾の宮内及び千箆外の
ζとを知
る時は色n
ぞただの小動物とあなどっていると今に術が軸押2 としてあがめられる場合もある。中央ア う中国の木には「鼠寿三百歳なり。百織に濁
当るぞ。われわれはただのネズミじゃないん
、
るが
大間掛さまのお使いなのであ
、
だ。勿体なくも
「動向胤大明神」という狗がャ
チントあるんで
、
、
る。もっとも仏数の本家のインドでは ガネ
、
管 七度の神にA
叩じられて
、
ある。乙れは
ャは日本に来て
シャのお使いであ る。 ガネシ
、
座の神が
、
泌が出て来て仲々出米ない。そ ζで七
、
相艇に穴をあけて湖の水を聞野町札減そうとし
、
虫天様と呼ばれるようになった神様だが 象
、
そのいき
ャがどおして大
の磁をして われわれ同族の背中にのってい たが
るのである。インドのガネシ
、
、
、
げむと乙ろから山山た名前でわれわれの名に
ζんがらがったか
査を全線とってやろうと。猶にいったので
烈織とゴタゴタ
あやかった目出度い名称である。
わが
、
猶はネズミの仕事を邪魔しなくなり、一 夜の
、
さつは残念ながら割愛するが とに角
ζの辺で失礼。
うちに悶闘に泌水したとの
先づは
国ではわれわれは大黒織のお使いなのであ
ζと。その功によ
10 ー
-
ー
一
一
土
、
経
藤
賢
JI原
r一
制
H供
Wが訳した「観無量、寿
」
四経
世紀
のと
終り頃 、官
- 11 ー
佐
の
•
ーーー・4・.
-田」‘
__..‘
部
、
、
、
、
、
、
って
り経
ます。一
時代の善導大舗の思似や信仰を指南として選んだ三
つおの
いま
典であります。法然上人は釈尊が説いた多くの経典で
のは中、との三郷のうちでは、どれが一番重要かとい一
とれによっ
すと 宗派 によ っては そのうちのどれか一つを特に重要一
で、最も重要な経典はこの三部であるとして
閉じ値
て浄土京を聞いたのであります。とれを所依の経典で
とあ
いる
いとしますが、厳密にいえば、むしろ三部とも一
b現
z
なす味と 一
親謙 二 遍などの浄土教系の 位を持ち、三部相資けて浄土教のほんとうの
ます。法然の門流を継ぐ証空・
宗派 はみなとの三部経を所依の経典とするのであります。 見るのが適切であります。法然上人は「一一一経ともに念
選紀
んの
で以って宗致とす」といっております。一ニっとも
今 浄土教系の宗派で用いられている三部経は三位
経
と
五世
紀」
の中
頃、臨 往生のことを説いて・中心の教えとしているのであります
中邸、駅間総が訳した「無量、舟
、
「で
観あ
無り
畳ま
一し
浄土の三部経とは 無量寿経 ・観無量点付経・阿弥陀経の 船併が訳した「阿弥陀経」の一ニつ
三都でありまして、日本浄土教の組、法然上人が山中間の店 々経」のほかは 別の献択もありますし 党文の経典も残一
海
、
罪の深さに目覚めて戦きます。そして釈尊の
のはかなさ
遣った角度か
、
、
しかし内 容はそれぞ れ趣を異にし ていて
教えを請い
、
宗教的な立場からの人間論でありまずから
、
との
如来の救済に深〈帰依して 南無阿弥陀仏に
ら念仏往生を説いて それぞれの特色を発揮しておりま
よって救われる!という筋であります。ととに説かれてい
、
す。まず「 無量持経」ーーと れは分誌からいって、他の 二
るのは
、
つを合せたよりもはるかに多いのですが|卜は、「本願の
お経は「人聞の哲」とか「人聞の経典」とかいうべきであ
、
書 」とか「本願の経典」とでもいいましょうか 無畳持仏
主に宗教の主観的方面を説いているのでありま
、
りまして
仏の救
、
、
すなわち阿弥陀仏の衆生救 済の約束 を中心として
、
最も大切な 言葉を一つずつ引いて
結経といわれてお
、
、
、
三つのお経か
それぞれのお経の
、
僅かの時
宗教生活 をそれぞれの角度から説 いているのでありま
、
、
特色をお話してみようと思います。
ら
間にとうてい 詳 しいお話はできませんから
す。これから三部経の内容をお話 するのですが
て
三部のお経は以上のような異った特色を持っておりまし
あります。
ります。とこでは信仰による宗教生活が説かれているので
「観無量寿経」との結論 でありまして
とれは 「
無量寿経」と
す。第三番目の「阿弥陀経」は 分畳からいって最も少く
というのであり
絶対者である如来が衆生を救済しようとする働きかけ 朝夕 読むのに手頃なお経ですが
、
ζのお経を「本願の書」
との客観 と主観
、
いにあずかる道が説 かれているのです。阿弥陀仏の本願と
は
、
、
、
宗教生活 というものを便宜上 客観的な方面す な
、
でありまずから
まして
主観的な方面すなわち人間と
、
生活 との三つに 分 けて
とのお経は主に 客観的方面を説い てい
った方 面す なわち僑仰
、
たいへん面白くドラマテイカル
ζれが提婆という悪逆な
いうまでもなく
A
約束です
、
。
、
それは
如来の誓願
、
ということでありま
まず「無量寿経」からーーとのお経で綴も大切言な葉
、
は
と
安
、
す。誓願 は 採 い
、
12 ー
-
わち仏と
とが一体とな
考えるとしますと
、
るといわれるでしょう。それから第二の「観無量寿経」 は
ほかの二つに比べますと
、
に構成されているお経であります。
マカダ国の王合城に阿
関世という王子がありましたが
、
出家にそそのかされて 父のピシパジゴフ王と母の意提希
、
、
しみの 底に悩み続け て
人間
夫人とを亡き者にして 自分が王の位を奪おうとたくらみ
と苦
ます。との物語が展開していく聞に 意提希夫人は
してまた 母 として 悲しみ
一一
一
ー
ー
て
、
しゐ ぜ 49
至心に信楽し
、
して 乃至十念せんに、もし 生ぜ ず
「もしわれ仏を得たらん に 十方の衆生
わが国に生ぜんと欲
、
、
ば正覚を取らじ よ というのであります。その意味は、心か
、
ら私の名を呼ぶ者 すなわち南 無阿弥陀仏を 唱 える者宏
H
V
必ず助け導いてやろう 、と いうのです。そしてまたとのお
、
その名号を聞いて
衆生を救済している、という
ように 説か
信心歓喜して乃至
、
ζとが 次の
、
世自在王仏の説法を開い
て
、
大に感動 山
、
世自在王仏という仏があらわれました。その時
L人
Vヤ』、
人の国王があって
自分 もまた 線上の悟りを得て仏となりたいと発願し w
、
、
国を棄て家を捨て王の位を捨てて沙問となって法蔵 日
、
して
て
、
っ て 、と
う問いま
日
叫
比丘と名のったのです。たいへんにすぐれた索質の沙山
問で
国土を作って
苦 しみ 悩むすべての衆生を救いたいと思い 叩
、
「私はとれからいかなる修行でも為し遂げて 理想の仏 一
した。
e
a
ありました。ある時世自在 王仏の所に行
経にはとの約束が果されて如来は現に注ます緩楽沖土の仏
として
れてあります。
「あらゆる衆生
、
、
山
一
向
しかもなお一一脳疲れた理想国土を
日
、
そのための条件 設計図 、理想 国土の 向
の地上の天悶のように
w
m
物質的な条件だけが満た怠れて い w
、
ζ とがでをるので
精神的な条件が満 たされていなければな
、
それでこそ 初め て理恕 国土 となる
る闘ではなくて
、
、
すから、法府比丘はそれを満たすための条件を長い帯
問勺え
らず
日
ます。いかなる修行を い たし 、いかなる 理想の国土を作っ w
彼の国に生ぜんと願ずれば、すな
、
。
二百一十億 という沢山の仏の国
。」この願 いに答えて世自在王仏
、
患 い所を眼前に現 わして見せてくれました
特別の仏力を以って
、
、
、
い所 を 悉 く取り入れて
法蔵比丘はこれらの国 々の 長短両所を比較し考究 して、よ
々の普い所
は
一念し至 心に廻向して
というのでありま
とのお経の中心となっている阿必陀仏の本願と
、
たとえ一戸の南無阿体陀仏 であ
たらよろしいでしょうか
、
」 の意味は如来の救いを信
わち往生を得て不退転に住す。そ
じて心から念仏する者は
、
ろうとも、極楽へ生れるととがでみqる
す。
ととで
。仏教では仏とい
作ろうと心に容い
ょう
。
五十三の仏が世に出たその
13 ー
-
一
考えぬいたのであります。理想国土 はただ 日
いうととについて簡単にお 話しまし
現れ
原理を 長 い問
、
、
ょう
説くのであります。仏教は人間が仏になる教えであり
、
のお経によりますと 速い昔
ますから、 無数の仏があらわれるはずでありまし
ると
も無数の仏が・ありますし これからもまた沢山の仏が
うのは釈尊や阿弥陀仏に限ったととではなく、釈以
尊前に
と
、
理想の国を
、
、
とは象徴的な表現にほかならない
、
そういうと
というととを忘れては
、
N
町
なりません。極楽は精神的な理想の国ですからその中心 一
、
たのであります。これを五劫思惟というのです。そしてそ いても差支えないわけですが 今の場合には
如来となり
、
の精神的な条件を満たして狸想の国土を作るために 実に
、
長い長い修行を為しとげて 仏
必ずとれ
ζ
日
第十八願が王本願といって本願の中心である w
、
とされます。それがさきほど読んだ経典の一句でありま
のうちでは
作り上げたのであります。法政比丘は窓口醸の願行を成就し
は精神の救済ということでなければなりません。四十山
八願
、
、
、
衆生に対して働きかけるその一
、
す。本願は何ク条あっても差支えないわけですがそれが 一
、
と約束されたその客約が
、
すべてとの第十八願に結集されているのであります。真実四
、
とれを法蹴比丘の四十八願とも阿弥 位
と慈悲と しての大生命が
とれに四十八
理想の国を作り上げるためには
、
て阿弥陀如来となり 西方緩楽滞土を作り上げました。
の法政比丘が
とれの条件を備えるであろう
、
事願とか宿願とか本願とかいわれるもので
ケ条あるところから
つずめていうと智態と慈悲の修行でありま
、
、
釈尊の生涯が好まし一
もともととのお経に説かれている法蔵比丘の四十八一
願の
四
陀仏の四十八願ともいうのであります。そして法蔵比丘が 救済の営みを表わすには とれよりほかに表わし方がなか 一
、
仏となるための菩醸の行として行なった修行はいろいろあ ったのでありましょう。
りましたが
誰れでもすぐ気ずくように
、
説話は
、
す。智慧は物事の真実の姿を把えるとと 慈悲はこの真実
釈尊もまたそとから w
、
、
絶対的な大生命を 相対的な形をか…
、
リーではなくて
い姿で拡大されて絶対化されたものです。しかしそれは之町
、
トー
の智慧に基いて多くの人々を助けるととでありまして ζ
、
現れ てきた根源的な
のニつが 一体となって成就された姿が 悲智円満であり忌 だの空想的なス
ほと Mq
す。仏はとの大智慧と大慈悲との 一体となっての実現であ
。
むろん理想の 国 ですから物質的満足が勘定に入
って
、
らしくないのであります。
W
8ますと 司
次 に「観無量寿経」に移ります その 一節を引・
。
経典にはこういう象徴的な表現が一
珍
りて象徴的に表現したのであります。形のないものw
を形を
とれによって作り上げられた理想の閣が極楽浄
中には
りまして
、
かりて表わしたので
‘・
土なのであります。
ます
物質的な条件を満たすことを目 的 としたものも幾つかあり
さてその四十八願の一つ一つを調べてみますと
、
14 ー
-
、.
•
っよロ間中生日
間的笑存の探求であります。 よ白岡上生に始まて
・ 逆十悪を作りて諸の不蓄を具
「下品下生の者とは・・・・五
、
、
、
、
のお経はな提希とい うか弱
ζ
、
そ
それは三輩九品
、
、
そ の中で
、
、
、
、
問
四
ム痛に没し常に派転して出般の一
緑あ
、
つ いに自ら のあるがままの姿は界恐生死の凡夫である
凡夫として把えたのです。替 準大 部 は法然上人
よりも
、
善導の
年も前の人で 、しかも速く緩れた中国の人ですが
一
五百 一
一
ことに目覚めたのであります。主体的に自己を罪悪一
生死の
て
るととなしとごと響いております。自己の哀の姿一
を追及し
り。舵新
よりと のかた
「決定して深く信ず 自身は現に是れ罪悪生死の凡夫な一
、
府の善導大師は「観無量舟経」の註釈苦を響いて
一おりま
人逮の救済とそ必要なのであります。
頼り台るより他に救われる道のな い人述であります。との 吋
、
・上
下く
生 ・それから小品では中品上生・中口問中生・中品 一
す。かくの如を懲人:::まさに忠道に堕して:::苦
を品受
・
下品中生 ・下品下生 l! この九 一
るとと務まりなかるべし。かくの如き愚人命終の時に臨 下生 ・下品では下回開上生
間に
区誠
別さ一
れ るというので す。伶土教は上品 一
の階
伎ら
が 人ず
んで:::苫に温められて念仏r
す
減
あ
。
告る
げ につ
や中品 の人 のため の教えではなく 下品のための教えであ 一
て言わく 汝もし念ずること能わずば まさに無量寿仏
ります。上品や中品は生れながら優れた繁質を持一
った人達
陀仏〉た称すべ しと 。是の如く至心 に声をして絶え
(阿弥
で あり 放 って泣いても自分の力で修行をして 迷いを転 一
ざらしめ +念を具足して南無阿弥陀仏と称す。仏名を称
下口聞は如
来 の本願 力に 一
するが放に念念の中において八十億却の生死の罪をじ
除て
く悟
。りを開くとともできますが
、
命終のとき一念の開、が
如極く
に界に往生すると
即ち
楽世
。
とを 得 」
前 にも 惜しましたように
、
、
自らの人間としての 醜い姿 に気がついて
、
平凡な一女性のことですから 向分で難しい修行 をす
、
すが
い一女性が釈尊の教えを受けて救われる過程を描いたも
の
で
る力もなく
、
、
がとの物 語を繰り鉱げて
「観純量寿経」
人間論が説かれます
独特のい
。
の無力を知って 如来の救演の力 本願の力に一切を委せ
、
たのであります
いく問に
さらに細かくその三つを各 々また上中下の一ニつに分
のの人裂を分
とい って大き く分けて上・中下の三つの類型聞
、
、
、
、
、
思想 とくにこのお経の注釈容は 法然に深い影響を与え 一
その一つ一つに
け 合せて九つの型の人間型を区別して
、
由を標傍
法然上人をして「偏に善導に依る」というとと
て 人
ついて観察し反省するのです。とれは今日の言葉でいう
け
15 ー
-
させたほどでして
自分を十悪
、
、
、
、
「.狐悩蛾盛罪恵
、
、
愚
深虫のわ
日本仏教独特のもので
、
、
いや幾 百代
一般にそれまでは
幾十代も
、
、
罪 は自分の心のうち
、
というのが
このようなはかない人聞の救いこ
て真に主体的となったので
。
如米の本願力によらなければならない
日
日
一
N
一
回
一
いかんぞ彼の仏を何が故 一
終りに「阿体陀経。」
、
「舎利卵よ 放が窓において
、
ょ
、
w
川
是の放に 日
、
」
。
かの仏の寿命および其
、
目弗の答えを待た 一
とれは釈尊がみ口利弗に聞をかけて品利
の人以汲底知辺阿伯紙劫なり 放に阿弥陀と名ずく
た舎利弗
にして十万の同を照らして陣礎するととろなし
ぞ阿弥陀と川引けたてまつ、るか。
合
弗
の仏
の利
光明
知ょ
章 一
、
「観無量殺経」 の教えであります。
、
に見出されたのです
法然上人の人間探求もそっくりとの注目 教におい
、
、
「十悪
導の歩んだ道を歩いたのであります。法然上人は
って
が念仏して往生せんというなり。愚痴の法然防がそ
の法然 mw
とい
念仏して往生 せんというなり 。」
、
痴として反省しました。「智践の古
限い 行法の足なえ
法然の・
たるとの頃のわれら」ともい っております。親憶は
、
人間観におい
晩年の円曲知した人格から深い影響を受けて
と歎 いております。
ても師の 法然と同 じように
が身」
、
「観無量寿経」を過しての法然上人や親鷲聖人のこの
よて阿弥陀と す 。ま
号け
うな人間観は
、
罪悪は過去の宿業である 幾代も
一
、
自ら答えている形式のお経で 大へん感動的な場面の
、
ず
、
同
罪業を背負っているのがわれわれであって
も前からの
一つであります。「阿弥陀経」は阪奈の依報正報すなわち
、
その意味で人間の罪業は深いというのでありました法が
国土の山えしさとそこに在す仏
や菩薩のめでたきを 説 いたお 一
、
将来の罪悪の民任
然や親晴・の罪悪観はそれだけではなく
経です。言い換えますと宗教生活の楽しさ
を 説 いたお経で 一
、
というととろまで 反省したのでしょう 。法
、
が自分にある
山
あります。そこでまず版柴の教主である阿弥陀仏とは如何 日
、
その 仏の光明 が限りない
まる人述の H命
Nもともに限りがないから阿弥陀と名ずける叩
、
から阿弥陀というのであり またその仏のが命もそとに生 一
、
然上人は自分を「十恐の法然回」といっていますす
がで
どのような罪をも犯
という人間のほ知れぬ愚か
むしろいついかなる所で
、
、
なる仏であるかを説くのですが
、
に自分が数々の罪 宏犯したという 罪苦 に悩まされているの
ではなく
、
、
だ仏 という怠味です。 阿弥陀仏は阿弥陀裟(アミタプハ
自分の頼りなきに戦いているのです。罪悪観は岡の本
しかねないともわからない
さ
16 ー
-
、
「舎利列よ 衆生
、
一
聞かん者はまさに発願して彼の国に 一
、
と阿弥陀民新〈アミタユス〉の両凝があるとされてい生きるととが往生極楽であります。「阿保陀経」には
i)
ます。相川抵光仏と無H
量H仏という附 つの意味です。阿弥陀
、
これは無 限の空間と無限の時間というと
、
と です。燦
。
人と川酬に一処に会するととを得ればな」り
一
世界に生きようと願うがよろしい。多くの優れた人逮と共一
上に述べた宗教的世界の築しさを閥くであろう者は その一
、
一
仏 は限りのない光と限りのない命の仏であるということで生れんと願ずベし。ゆえはいかん。かくの加きの諸のよ協同
すが
、
擬光といって何物にも陣えられない光とは無限の空間を
、
。
ととを説いています。宗教生活は日常のわれわれの浅はか一
、
「阿弥陀経」の後半の殆んど全部は 信仰の大切である 一
ります。・一
無限の時間を意味するのです。そとに生きる人遣 に一つの処に生ぎるととができるからである、と いうであ一
意味するのですし 無量寿といって量り知れない命を持つ
ものは
、
、
法雌比丘は数々の苔蝿行b成
z
もまた無限の生命に生きるととがでぎるというのです。
前にも申しましたように
、
。
発動さると いうととに 他なりません 今の言葉で い
、
、
「四十
って作り上げ
この仏が作りあげて
高 い知性に必ずけられた愛の災践であります。阿弥
、
、
との世界に
、
って
、
如来の本願力を信じて一
、
一
「 この招ひろく 一
ということを教えております。法然上人は日常一
、
思議というととであります。これによらなければ
。
宗教生一
、
活の清らか な幸福 を得る ととは で 、ぎ
ないのであります。一
より放送の要旨)
ζれで三部経の概略をお話しました
(N HK 第二
(悠者 ・大正大学教授〉
­
して広大の信心なりごといっております。これが本願の不一
のたんなる人間的な知性を超えた臼仰を
いれない
これに帰依するのでなければ とうてい宗教の生活にはは
的な計らいを超えた信仰によ
官
抑は
制相
がそのまま慈悲 な知識ではとうてい計ることはできない そのような常識 一
智抑制と慈悲の修行でした。仏道
就して仏となったのでありますがその修行は一口にいえ
ば
として
えば
陀仏は悲智円満の仏でありまずから
、
いる世界 極楽浄土は正しく智訟と慈悲によ
られている心 の世界に他なりません。法然上人は
よ って出
ご と言っております。浄土は衆
宝の楼閣 、何一 つとして本 願の力に
、
八闘が浄土を荘厳する〈飾 って作り上げる)のである。浄
土の蓮の池
来たものでないものはない
よ って如来に導かれ謹られて
生救済の愛の働きで出来ている世界に他ならないのです。
衛総阿弥陀仏に
- 17-
…
、
近代高 僧伝
間
土戸
、
、
、
送
て降伏を勧めた。しかるに城主
は之を斜
っ
、
、
ε
、
頼みとした砲ムロも火を吹かず城下は冷
否したために杭仰と段との枠組攻にあえなく陥落
し
、
た
e
終にのがれたが 放下 町 柄引山
し
は灰織 にnm
裂だしい惨舗は回ぞおうもの があっ
と子」の生由来
品何度も例外ではなかった
開れ
、
、
、
、
かねて
朝棋の姿 飢 に泣く子をいだ いて途方 にく れる
無常を目のあたり見た「ζと子」は
、
聞く仏の世岡本にあこがれ
和問後門について
、
e
は必に名州酬について殺えを叉けたいと父母の
の一-一女として・住戸を穆げた「こと子信
」は 二年十八訟の時のことてある。同九年四月に
、
、
同上
向一
院点
例制問行織の門を
続相続の戸を子守歌として仏と相棋のいつくし 仲町しを何時て凶伸身
、
災の尼僧が「川崎主さん」と仰
い淡い父仰のあたたかい手に育てられ念仏
路の奥深くまでvU
透させた努力も必めなけれ
ばならないが
、
う愛称のもとに 自由の天地をあたえられて
F り
、
、
、
本所以ゐ品すに即位する
ζとにな
、
った。
以来同年間乙乙から行績のもとに巡って勉学
行線も京都
江戸がポ京と改めら
、
、
勝れた才能に動かされ 遂には
、
と修行にはげんだが ひるまず続ける熱窓と
、
主ゆ
犬山烈政陀反対
、
叩いて必チとなり 史をおろしてれも聞戸と
、
政彼合の大号令が
ったのも徳川封建制の時代 みの小に侠 HX
活凶慨するようにな
して いっ た。しかし訟やかな平
内回点
改め
、
、
、
そ脱し 明治の品目が必づれてからの乙とであ 和な住祁仙も円附くは鋭か
紅ず
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が間開城され E
、
、
た。中でも久哉書問 給ね関戸
っ
、
れ 部は東京に移されても
、
出u W 仰木WH 同時川氏 八幡結銀 久依成殺
、
、
遊学をすすめ 知恩院山内の京学校に入学さ
府政治の再現を拶見ていた‘草山川の海第副治
する心なさ人たちは徳川家の蒋興を計り
、
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氷原円降という人述の活躍は 夫々の分野に
おいてめざましいものがあった
、
乙
-夫げに別妥
れを失い 白寸の行方を求める尻町
ー「
浄土宗尼僧の歴史はたく 危抽出の数化が家 氏の城下町稲山の旧祭給自民に 父太左衛門 ー学淡学を修める傍ら 仏典を学んだ 明治
島
、
ζの年の五月十五日 、北海道の西南柏駅
制化的
明けともいうべき開港の前年に当っていた
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、
、
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む前一行立に使者を 師事し
笠そみいて日間川ぞ脱出し北海道国企に夜
、
、
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、
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M五年・〈一八五二〉といえば
せた
日以の夜 伸品綴・本武拘も其の一人であった‘役は原
鑑八京都では参巡にめぐまれ 当時仏数学
の箔一入者と言われた泉涌寺の佐伯旭般にも
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18 ー
-
輪
、
、
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、
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似合唯判酬を学んだのであった。然し
恕拍吋m
ζとなく喰一人の女性としてあまえ る ζ とも
なしに
、
法悦の生活に入る
及んで女子教育興隆のためにつくされた育英
の生活にピリオドをうち
ζとになった。
鎌合の一川谷に間四戸市店というさ
てい る近 なのであ る。此の篠宮が厄の生波に
、
、
したたる 血 を もっ て 党綱
、
念仏をとなえ自行の策励にもっとめ 時には
山内の特筆設にお乙もりして毎日百万遍のお
ζとになったのである。成時には知聞紙恥
、
m・中唯一の尼仰ということで 尼仰なるが放
「回向ばかりが仰としてのつとめて
はない。女子教育に立たなければならない。
、
間引門的山が八締結観厄と共に小石川伝沼山の
する
否やかな雌をつくって 静かに念仏 三昧を修
前日って
、
おけるバックボーンになっていたという。
苦労も人一倍であったらしく
、
にひけをとったと古われるのは心もとない
と
、
たった一人だったから管労をし
、
「白分が女でもって 似合峨同酬の制義を聞き 山内に
に怠ったが
た。だから尼衆学校というようなものを立て 女子教育にも自分の士山をたてたい」という大 給額をきりとり
、
二十五年九月 ・四
十一怠の時であ
った。創立
、
たい。女性にも勉強させたい」と口ぐせのよ 悲願をお乙して淑徳女学校を設立したのは同経 拙中厳経普賢行願ロ聞をし
ぬ、
げ文
容法務経十
ζとである。その結果
八巻も血書したととがあったという。前者は
っていたという
うに語
ζめて
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、
ってしたればこそ女子教育
、
に挺身するととが出来 尼僧の頂点に立ち
た @ζ の信念をも
まてやりぬくというのが法氾の併念であ
ζ・っと心に答えば万般をはいして
、
浅手寺に現存しているということであり 後
、
時の知恩院門跡稲田行械の援助によって知恩 当時の学校は生徒僅かに五 六人という寂し
者は竹生nM
の弁財天に納められたと伝えられ
っても先生もやれば
、
拭
名は蛇叫Uとい
、
さで
、
院山内入信院に尼品部教邸を創立した間
がと
ているが
も大変苦労なされたというととである。
有為な人間になれよ」と懇変を
、
、
きHW
怜もやるとい・勺状告で、法師応は純飛的に
役立僅かニケ月が行殺の
、
仰ぐ行政も口ならずして向廿一年同月廿玄白
退化せられたから
るな
被道下にあったわけである。こ乙にも然枠内の常に口ぐせのように「進み行く般におくれ
、
風がふ・きすさんでいた。行減の寂そ
後の経
、
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、
ζにも汲みとる ζ と
、
徳婦人会を設立する
ζ と が でき
た ので あ る。
営を法姉内閲良品目にゆだね白からは上京し きとされ「まど乙ろを ζめて」教育の逃に専念 諮問会をつくり 諸名士の夫人方を彼して淑
、
、
今
、
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ゐ
(大橋俊雄 〉
恕社静抗上人念阿弥陀仏関戸法記という。
、
の大学関をつくるぽ一ふと 比の世を 去って浄土に紛られた。法名を荻
其の中心となって沼町された凶戸厄の
った学校から
師川行銭より ができるのである。されば玖人しか披しなか おしくも大正九年四月三日六十七践を一期に
、
て荒れはてた自坊感応寺の住聡となったが
ったのは
問官聞の耳にはなれなか
、
生省の嘗知識となって仏人間に契・つことを
して
受けた復古『亡者の滞仰にのみ伍することな
く
つとめよ」という行策であった。死省をのみ 崎氏は刈く符仰さるべきであろう。同四十五年
、
同巾うζとに終始するの が、 品川侶にあたえられ 五月監管としての聡を訴し 二十年の阿武きに
- 1
9-
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ζれが容宮 と グルになっ
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ているのだから面白い。 とんなと
い容さかの絞代をかせどうと
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、
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乙んどは面白いポン引きに出会った。 ζ
、
さてお金をお求するわけである。その後
、
に乗り込んで探してくれ 荷物も運んでくれ
て
、
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、
いう。女の子は如何です。日本の女でも
、
ハネを やって
さして%にも倒めず
、
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中間の女でも
るとは思わなかったし
、
云うわけでもあるまいが、 インドでは兎に角
という。まさか日本の女が ζんなところにい
、
役人というと怒れでも待遇がいいし 怒れも
がはりたいと願っている身分であって、どん
ζとは残念であった。或は日本の
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〆
、
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って見たら日本語を片言喋べる女であ
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ぃ。 ζれはカルカッタでマドラスと同じ港町
の 乙とであ る。
、
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、
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、
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が近いせい か
ζれ は暑いベ
ナレスに
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い。
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ζ 乙でいく ら
全く有難い。そして中議料理店がある
ζとが
大きな魅力である。・中
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ζとにな
、
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の進出のすばらしさを物経っ
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皆それぞれに喋る。北
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、
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る。マドラスでは 大抵 のやつ が英路を認す。
、
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釈鮒売り
ンドはそうは通じないが
始めて四洋人の上段ぞ印した地であり
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女がいたかも知れない。人口いの手で外国に 怒る。そして又物が総体的に安い。コ
な下級な役人でも食っていかれるようになっ にしまった
ている。だから役人になる乙とは 大 したもの
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(食事なし)で約まれる。乙れはベッド・ハ
、
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も一回二行問位
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像早く 仮出健作怯る怒気があるというのであ
感じがする。だから n本の・不必みを日比ると小
、
そして赤い土であった。荷ももっと商へ
、
して いた南インドは総の訟に包まれた 初日々 る。乙の有楽は今までの私の南インド観をく
、
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、
下り 一火に京海山に行くと南何らしい風訟に
はり外礼的に杓がおくなく 不正むなと
会本部を訪れたりしたが
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縦して北インドに比べたら絡琵だと
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いう感じがする。マドラスの女の人は立派な り博物館であった。
、
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、
これは会く気候的な拠出によ 女はまれである)はロ儲で宛郎停車を合図
ドは北インドに比べ人は凡ていいように云う 服装そしていても傑足で歩いている。線足は
。
、
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、
、
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るらつまり北には焼けつくようなおさがある する。車掌になるためには 乙れはどうして
が
が南にはそれがないことである。
、
、
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、
他の都会もそう
、
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、
、
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これはどうにもならない。 した不潔な町になる。レストランもmmが郊の
、
インドには大きな迷いがある。大 が
、
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、
っぽりとれはいける。やはり大きな途いは述に絞れも知らずに包み込まれている。
っている。インド音楽の単調さに民べたらや いもので動か・されている。インド的なもの
今私の泊まっている宿ではラジオがそれをやう中でインドは動いている。何か知らない強
しかし滅多に商洋音楽なんて聞けないのに
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多数の人は裸足で歩いているし 額に色々一粉 だが
そうだが
忘れさせる。もっとも大都会の悦絡か・りし私
てはやはり日本人と云って貰いたかったのだ
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出だとマドラスはインドを 内人の込山の迅しさをわ跨るものであろう
21 ー
-
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一悩みであり また只剣な疑いでありまし一
一している時でも
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が起きていたり一
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一上人花賞ねました。お念仏は妄念を去り義一
一ん。フト気がつくといつか妄念(い
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一念)にとりつかれています。あるお弟子が一
一議 でも自分で自分の心が自由になりませ一
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米なかったのではないかと思う。彼女の母
他にもありま一
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と静かに死と対決出米る場を持つことは山山た@(決答佼手印疑問紗)一
た ζとだろう。しかし不ゃにしてゆっくり一
恐らく彼女は失明のその日から死を考え
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一一さふるに起きて 、 止み難く 、倣乱いよいよ一
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一凹まして般かならず
そのあまりい処が一落必要としている銭丙の型光房と砲党のお二九が上へに質ね一
れば 、向殺を するのではないかと 陣内
ろさ慌
るのだろうと似測し
いつのまにか ζの織な相絞を・つける程、 線は、黙っていれば一体敏は何を考えてい- す。(十六門担)それによれば、 「妄念お一
いいと答えていた。
一 しながら、私は死なせておやりに
火明帆Gの先品市絡になっている弘自身
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一
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、
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、
一辺 謙でもなんでもない、木当 KE はそ う 的かな死との対決の場さえも心なくかき乱たとあります。これに
一
対して上人は
思っていた言葉なのである。死にたいもの していたので はないだろうか。わけもな「願主の心の少なきにも南無あみだ仏 散 一
ォロオロと勤きまわるその母規の姿を乱の増すときも南無あみだ仏安念の起る一
一 には死なせてやる乙と、乙れが 一見冷酷嗣な
想像しながら弘は、子会 息 つ
・ 母の姿としてときも南無あみだ仏
善心の起る ときも南一
一 ょうで当人 K対してはもっともあたたかい
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一一浄の時も南悦ハ
、
、
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一ば 、いつでも死ねる静寂と自由があった 近頃 、 もは外 出をあまりしないのでス支一一も南無あみだ芯
、三心成就するにも南無あみ
だ仏
、
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すくなった。するときまって 一一みだ仏
g に、ほ のかな花の呑をかいだよう 塁 2 ひきや
一一見えぬ
のまだ生きている自が痛烈にいたむので一一乙れすなわち決
うと
一な記憶もある。多分そっと私を慰めよ左
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る。恐らく性惑なビールスかなにかが気一一
乙納
とめ
なて
か忘
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一して般かが活けてくれたものだったかあ
も知
備が
一う
一と巾されました。m心
のどうあ ろう一
一れない。私は死のうと思えばいつでも死
息ね
斗汁判刈の自の神経をおかすのであろ
一れ
一なとも、自分の環境がどうであろうと、お念一
が、ひと皮乙れにやられると、たえら
一たのである。
、
、
ら、まったくケロッとして郷くもかゆくも一一にならぬとお
い念
う仏
ば陀
か微
り一
でなく
、
いような術みを覚え、涙がポロポロ出る。一一仏を由申す詳しには、何
生中
きで
一しかし私はそういう静かさの
ζ
をき
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ています。かかと
る が問題一
ζと
と
た
一る ζとを緩んだ。実に何気なくも う少し それにひきかえ死んだ右自の方
一生きていようと恩った。
、
数乱 自ら静り
、
コ韮自ら渇い一
、
願
て
心自らお乙るなり」一
その苦痛もあじわえな一一
、
、
一一するならば滋が自ら聞け すべてが解一決し
死んだ伺と生一一
ていくのであります。一
仏名の徳として妄一
、
ないのである。
勿命現b はないが
、
、
やみ
わ一 一念明ら
生 今た 毘花いまだにさいなまれているけ
名す
称れば
きた回の 二つながらを持っている。そして
一一「もし能く
弘は
一 そんなものなのであ る。だから私は向分
一の身を板りかえって、死にたいと思,つもの
。
一には死なせておやりなさい :::と凶の恨母
一鏡花いったのであった。
、
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、
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が免れ脊ってゆ
、
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女 昭和品川一年に失明 後務ノ 一一心が生ずる
「女 優 」その他が 一一一あり、仏さまのおカであるのです。一
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何故なら、愁は生きる乙とがいい乙 一述生活に入る。官官
一する。
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一とだと思
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一ぱ無辺である。私が母親なら路鍛の
死を線
、信仰
に
や っぱり淋しい乙と 一く頂くと乙ろ
したら そのとき初めて彼女の行為らない: そのときは
一ぃ。そう
にかく生き る成いは生きて 一一のあります。
一
一を源氏すば
れい いのだ。死のうとしても死だと思う::・と
いづれにしても苦しい 一一 特に訴の御法穏には 妄念に悩み 乱心一
ると
うこ
とを
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一なせない。今度とそ本当に冷い飴
ない作
吹
しかし私はやっぱ 一一に苦しむ者ζ
をそ化すととを目的に あみ一
にる
は巡いないが:::
←生つづければいい。但し、その母棉酬乙がと生
、は
きり申され一
ってい るのであ 一一だ仏の本願があるの
だっと
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一 ζとがいいととだという強い磁信がなけ
額が
一やみ
一一ています。名号の徳として妄、念
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がまか
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つかや って ζないとも限 一一とも申されていますの
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23 ー
-
、
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道
横川
、
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急に思い立って
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、
その後ケーブルが京都からと 坂本
、
行は坂本から的っさの探をのぼった人た
ちも
今日
、
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それだ
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ζの頃は根本中堂機 に
からついたのでよほど歩かなくてすむと思
っていたのに
大型の観光パスが駐車する
、
、
汚されたとかという
よほどでないとジ
1
プなどが出ない
も・ウ人恩はなれて
ζとには変りは
忙しい人たちゃ 鮫光客
、
、
便利なものであるが
ないのである。
、
そ乙で検川となると
いて
、
にはなんといっても便利な
ばも出るものの
け俗化したとか
、
常になっか
残しているだろうと思うからである。
、
最近の比叡山はとても便利になって全
、
問明品酬に行
く パスがひっ
ζ のひまをみ
立など夜の比叡山への
、
浴衣がけで
、
、
京都市内と同じように 京都駅から比叡
く
山 の根本中堂ゃ
きりなしに出るし
納涼パスも出て
和
ハ・中外日報記者〉
良
であるから
乙
橋
れは横川が北uながらの比叡山のおもかげを
、
私は脅から横川という ζとばを問くと非
に行く乙とにした。
述絡があったので
比叡山の横川ヘジ
J
I
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想、
し く感じているのであるが
高
、
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の比叡の療にふれたいと忠・っと
、
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、
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、
、
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京は
港
の下に十六の谷があ
、
比叡山は
、
つい横川と口に山山るのである。
御存知のように
、
十六谷に分れているので
、
その橋治の悠大怠におどろくのであ
、
品百でいう三千坊が配置されていたの
西培 検川といい
り
て
、
元 三大阪の由緒ある大柏崎であ
その中心となる四
落雷で焼けた横川中堂奇跡は首将般
、
、
即ち元三大師堂はどっしりと脅の
、
、
ったととろを走らなければならないので
うっかりするとふりおとされてしまう。
プに採って横川についたときに
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ある。というのは
のお守々に移り
私は仕事の関係で方々
、
各宗祖郎の修行の柚喝を紡
どの谷
、
なんといっても比叡山は法然上人
、
、
の傍・山討の地であったから
どの崎
ねても
、
は本当にやってきてよかったと思 ったので
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、
きは川のなかに采り入れたり 逃 が 川にな
、
ジープの泡だってとても鍵関で ときど
ままに自炊されているのである。
李総堂
院の磁石などがあるが
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ろであって
績川は坂・本から約五十丁北にあたるとと
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山 田ー- "・ H ・ ;1 ' ; .. _- ,;";,,,;, ーー_ ,・ H ・
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訪ねてもたまらなく組簡のみあと ばらく休ませてもら った。総川という名は
、
比叡山の歴史のよでよく知られてはいる
を眺め
をおう気持が一ぱいににじみ出るのであ
実際との綴川を訪ねる人は天台宗でも
が
、
る。
比叡山の一山の mmm
が給品物
、
珍らしいので
との頃で
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桃川へ やってきたのもその一つであ
、
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ζの横川の当容 にあたるので
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、
歩く人はいよいよ少くなったので
、
給容とはなしをしているとかえりのジー
ある。
その石にあたたかい出酬の速いを感じ るので
、
大木の械の苔むした石を眺めても
て
は月何回かのその往復にジ 1プが m いられ
、
乙に法然上人が坐られたのではないかと思
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るのである。
比叡山には法然上人遺跡がそうあるわげ
みんなをピ
「とめてくれ||・」
と開聞をたてたe
「どうかしたのですか
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ジープを巡転している坂本の人はそうい
った 。ギユ
ープから私は思わず
、
割払は大きならわじの足跡に自分の靴を
おどろいてみている同然の人たちの
で
あわせてみたのである。
そのらわじの跡を
つくづく思ったのであ っ
、
勿論 、雨あがりのわらじの跡は私の靴よ
、
ある。うれしかった。だからやっぱり私は
の心にはっきりと写 ったように感じたので
八百年の歴史を餓える今法然上人が肉分
とかわかる管がない ζとである。
忍いであ ったが、他の間乗者にはなんの ζ
度的でみた。身体の血がわくわくと旅れる
かもしれない。そう思うとぎゅっともう一
た。ひょっとしたら法然上人のわらじの跡
靴で踏んでみて
プがまた山をおりるというしらせがあっ
ゆ っくりと 怒 った のだ が、自分の足で
ではない。わずかに名が残っているのには
、
た。桃川を紡ねるのは何年ぶりかだったの り大きいのであったが
で
法然堂がある。然しその建物より山全体か
ζ ょなくう
プのカを借りなけ
i
その合法然上人が品少か 五十丁の坂逃それに雨あがりの山道では然
、
らうける宗祖へのなつかしさが
れしいのであって
またジ
涯であるので
、
れた乙の遂を今自分が歩いているととによ
ればならない。
プにはもう五六人の人たちが乗って
l
いた。私も杢定されていたので、ジー プの
ジ
って、上人のわらじのあとに今自分の歩い
ている靴あとの一つがぴったりとはまって
いるように思うからなのである。
、
。
、
総川の冬は波の谷々より一月も二月も早 助手席に腐を占め て 下りの道をつかまり
いのである。だから木々が紅紫するのも早 ながら下 った のである
途中ジ 1プは何度か傾いて
比叡山がすきなのである。ジープに乗 って
いかもしれない。了皮四季鳩堂を凶む木々
ックりさせた 。そのとき私はその遣に大き
赤とす っかり絡 にとけて、も う冬
いる人たちは
、
は黄色
なわらじのあとをみつけたのである。とた
とれてい るのであ った。
、
不思緩そうに弘の機子にみ
の用意を終ってしまっている。
ん、
、
A
古い回答・鵠
訟で葬札を終えて 特慌てし
25 ー
-
||
蜜
参
兼
を始める。
容はよいものである
けと共に眠くなる。
た。
、
。
、
、
九身の心も 雪ど
、
時は
、
法然上人は
、
った。
かかる風聞をきかれると大
なぞとしていると云うにあ
防相ぷ法然上人が大往 れる。
、
、
生せられる七 八年前 元久
て二年頃の晩務の一日の出
、
そのすすむるお念
、
「上一人、心伯仲驚怖す」
、
来ごとであった。
変に健かれた。御伝記蛸酬には
当時、上人は 北世相南却聞の
諸山から
、
、
、
つ
、
、
、
、
、
七ケ条の起務官人を作られ 所在の高第
の暗中が潟三であった北倣山徒が鯵起したのの二尊院で心身を清められ念仏をとなえつ
である。
、
八十余人ついで百十名ほどが述器相共に
かの後白河法皇さまさえも、怠のままに
教団の自鎗自戒と検問から、そのような虫
、
える何ものもない
。
念仏教聞が
、
、
、
放逸であって 仏
、
ら苦行しては もとのもくあみに反ってい
、
巡と云われたととは 刑事道門の人々は 自
、
、
、
門下のうち浅
衆徒を叡織すると乙ろがあった。
、
自総を仰げた。後鳥
霊年十二月竹九円には、前
wm
興徳島守衆徒
も J
〈不自のζ とあり
師同酒をほしいまま行 として
知口の者
の界なり」
「法然上人の界ではない
、
教徒の「つらよごし」と云うにあった。政羽上円以は立行ぞ下して
歩を口昂たのである。昨夜の夢は明らかに 彼らは
脳組にある
きても不思議よ。
法然上人の令名は、きいてはいるけれど
、
ことを行 っても 念仏の功徳によって救わ である。
う。文お念仏さえ唱なえていれば、悪るい浄土宗にとっては内変外出応の秋っで
たあ
の
広戒行なしとして
そのお念仏信仰とまでは行かなかった るつまらなさよと窓口を云う。或は念仏門
、
と、 改めて思うのであ った。
さでも不思議よ
のである。
も
、
務眠 あかつきを覚えず
ならぬもの三つあり
一は山徒、こは加茂
間島るとすれば充分「いましめる」として
と云・っ。乙の時多段兼陸は 夜半からう 川の水 一は
-一
すど六のさいであると浅ぜ ら
山後の首箆良性府主民に巾滋ったのである 。
とうととしただけで、籾を迎えたのであっ れたと伝えられる山総であろ。彼らをおさ
。
仏は道徳を破るものなり 速かに宣旨を下
時退泊中たんぽぽの花は
かれんであり美し して停止すべしと きつい迫害を・つけてい と伝えられている まさに位立に水の癒き
であ った。十一月七日 京都(洛筒〉綴織
いものである。はる風が野面を訪
た。とうとう元久元年十月になると
っ
・ と合奏
不湿
、
夢
議
•
- 2
6-
法然上人の感化
Lし
滞
人
、か かる状態と
兼山隠は
大勢力のある旧
、
、
教関人から正式の圧力とを克ては法然 上
人の念仏が、来して往生し得る ものなる や
多は
。
ζれに対して
、
否やと、心中ひそかに疑っていた釈であ
る
ζれ
人ありておほきなる隻紙を披見す。
ゃ ある
ζ 乙ろにぞすむ
月影のいたらぬ翠 は相 関けれども
挑むる人の
除法然上人のみ教えをよく示している。爾
る ζとを端的に物
後の人々は、 唱-つれば往
生出来るから、往
生 人の名を 記さない とす
語 ってい る。
、
さでかかる元久 て二年 の関に 治然上
、
称名
、
て
e 乙に「信」
上人は、一 日と錐も休む乙とな く
念仏の弘通に精進されていた
の有撲さを見る。
、
建暦二年五月廿五日 東山大谷の機房に
、
正念入寂せ られた のである。兼
、
於いて 上人大往生の時 光明週照のす〈を
、
、
策的障は とれから念仏の行者とな
った。
降が七 ・八年以前見た夢告の通りであ
った
人の教団では 、元年十 一月品川自に前怠一太唱
后えて
、
宮大夫従一ニ位藤原俊成二年二月廿七日前
、
ζ
、
の年小倉上人〈蘭悶智明)等が
一
頭北部穏 と
、
両
一
る 乙とが出来たのである
。
〈村上 憾了)
会員各位にお願い
省。
支 部には
2
支雌W鉱開策用としてお備し
、
会員五名以上で支部をど結成下さ
1
伝え
郎拶じらせの事を諸人にもおおらかに諮り
原総季、十 一月十五日鎌合御家人相相馬次又
、
ー
一
3
りします
。
二十名以上の支部には
mm
智M
正しま す。
、
得月浄土を
一 込み次第無料で見本「浄土」をお送
{
一
~一
一 幻 ー
、
と 乙ろ
防常
、
念仏を効
、
選択 附泌を授けられてい
.
を見れば 諸人の往生をしるせり。もし 右京総大夫藤原隆信 五月十一 日従二位藤
法然 上 人の往生を 、し るす
と、見もて ゆくに、は るかのおくに 、上
、
称名念仏但往生している。中でも篠原範季
光明遍照 、十 万世界 念
、
人臨終の時は
、
五色の糸をひき 、如訟の臨終行儀を行
は
ζとは注目されてよい。
。
病者にとらせ
、
,
る
阿弥陀地球(又は邸像)を病床のみぎハ酋の
、
当時の記録によるなれば 臨終行儀は
って いる
、
て、 往生し
仏然比て摂取不捻の文をぬし
給べし とし るせり。
として いる。
、
今 は臨終と怠われる時は
、
、
五色の糸をひき
なった毅惣よ人に
上 人 は四月十五日に は、 後に一向宗祖と
期日するととであった
、
する〉に安底 -桜花を供え 御仏の手から
往生の抑制を示している兼経の心中の疑 方
然 を決定された訳である。
法
、
法然 上 人
乙の草紙は 、諸行往生するも、
のお念仏は、阿弥 陀如来の本願を信じて
。
ひたすら 一心に ロ称念仏する時は、捻でも
往生出来る
、
ー・
一
一
た
.
.
1
、
・
l ..
•
•••
‘
・
.
.,・.・
•
1
.
ー
、.
・・
j
.
・
-
回
お 祈 り
き い
、
加藤金一
さ し絵
位
挙
東
伊
むかしある所に
、
、
たいしたかし
派なお坊きんの
、
との
とく
その日
、
、
ζ とに
d
日
~
【
一日 ζの大僧正 日
、
、
その悦教を 聞く
、
法話を悶聞とうとして乙の L
?
、
、
的正は あかい衣で 域へ上り
、
、
家臣の人々に 話をしました。
、
とがあ るのかね」
、
、
した心で 怒 せます」
殿『では
、
貧しい 怒しも
、
、
、
、
心ゆたかに
めくらの目が明いたり
、
、
、
{
~
}
、
、
し
いざり
たのしく円を すどす乙 とになります」
を治し
れます。心のもち方により 心の病気
、
僧「仏は 心の病気 心の貧乏を救ってく
金持にしてくれるかね」‘
鮫「仏は 病気を治したり 貧しい者吾
、
僧「すべてを仏さまにおまかせして 安心 【
、
m
取『では仏さまを信じたらどんな良いと叫
寂緩や
、
ζとを聞いた殿様は
つの国 がありました。 考花祭ってきました。
殿様は
、
乙い方でもなく とい を 城にむかえて
、
平凡な方で
、
ってべつにおろかな方しました。
でもなく
した。国の中も
良い人も
、
べつにりっぱというわ
けでも なく
しとく
少 し怒 いやっ
、
、
と
何や
、
大僧
、
、
そ のような寄せきは
、
い一
た
が治って 歩けるようになったり
、
ないものかね」
的「仏さまは
、
さと る ζとが
、
仏の教・えです」
、
しません。心の自を開き 世の中の乙
とを
-28-
いれば
もいるという
、
火事もあっ
、
あたりまえの国で
、
水も出たりす
きどきは
、
たり
る
ζと
ありふれた所で
す。
ある年の
ら宗の本山から
正という坊さんが、此
、
この立
、
の城下の町へきて 大
e
、
きなお寺に泊り 説教
をしました
町の人々は
•
,、、,、,同凶
.
~、
、
殿「それでは 何かものた
、
り
ぬが」
かえってやっかいでど
、
何だか
のばし
色の黒い
、
。
自
さっ
男 「ハ
γ :;:
、
」
、
、
ながい閥
、
、
見まわしました。
」
:::
、
神
左手が不自由で 蔚
、
、
みえますよくみえま
良く見えます。
、
みえます
何もかも
l
、
、
国
列は こ
わごわ あたりを
見えます
男「オ
す。ありがとうございます
mm
って行きました。
、
間刀は大よろζぴ で、たく さんのお金を
」
-:
た:::さあ
、
」
:::
左の手をあげてどらん・:
ニャムニャムニャエイッ:::それ治つ
ζ へおすわり:::ムニャム
より上に手がよりません」
裟「私は
行「おばあさんは 何のお願いだね」
婆「はい私でどまいま す」
行「次は 」
わか さまに供えて
、
、
僧「仏にお祈りして、人々の願い辺り に な
ったりしては
る ζとが幸せでしょう」
ざいましょう。それより自分の心が
うつくしくな
、
家臣たちも
わからないような心でした。
、
乙んな話がすんで 大僧正は帰っていきま
、
したが、 殿織も
ったよ うな
、
く
行者堂に 、何 とか教の行者
、
さてそれから半年ほどした時 乙の城下の
、
男がやってきて。
、
獲の毛を長
町はずれにある
という
のギラギラ 光る
、
行「何でも願い事があったら、神織にお祈 行「よしょしそ
した 。それを聞くと
りして上げ ます 」
と、ふれ歩きま
そくお祈りの人がやってきました。
、
、
行「そうだ それ上ったろう 」
男「私は此のように、自は削聞いているが 婆 「ハイハィ、とうでございますか
、
何も見えないのですが 治していただ
、
お金をたくさんあげて
婆「ハイハ ィ、 たくさんいたします」
々と
、
、
、
解ばんが ますますたか
、
いろいろな者が たずねて
、
帰っていきました。
、
おばあさんは
そいそと
次
願い事が
、
、
、
立ち上って
いろいろな願い事をいたします。
、
さあとうなると
、
くなり
きて
いざりが きました。帰 り には
かけ治して mm
えりました。
に
にmm
っていきました。
う
、
きいてもらえ
ると
祈る人が出てきました。
呉服屋
、
何分にも町に 呉服 d
、
、
とんどは病気ばかりでありません
、
此のよ
ると
ろいろなととを
、
でどざいますが
くるようにおねがいします」
:::ム
れませんので 、どうぞお客がたくさん
J
農が多いので、なかなか思うように売
~
、
O 「私は乙の町の 金兵衛という
行「・おまえば何をお願いするのかね」
な
つに
行「よしよし神様にお祈りして やる
ツ
き長
b、
元さ
気つ
イ
左手は 、ら くらくと上め方へ、上
ぷ
エ
、
も人
さあとれでよい帰ってどらん」
ヤ
なる程
てお
、
ζ 、
治
ム
けますか」
リむ 、
とす 、
ヤ
、
ロ、
ム
裟「ああ あがりました。ありがとうどざ
ケが
ヤ
:::
れ 1お
ム
、
います」
、
治 った、見てごらん :::」 行「納税のおかげだ お供物をしておいで」
、
ζfこ
ヤ
行「それは、そ乙ひというのだろう。よしげられました。
さあ
がて
ム
- 29-
まい
し問
たね
ヤ
よし神線花 おいのりしてやるぞ
、
ムニャムニャムニャムニャムニャエイ
ッ
,、内....,
て
、
おムニ
ので
、
、
たちまち町中にひろまった ­
、
いよいよ綿織へは いろいろな乙とを 日
一ぱいの人だかりとい 乙んな乙とは
うぐあいです。
、
つぶれるように
、
、
守
すので
、
国の中はたいへんです。
、
O 「あいつは、し ゃくにさわるやつです
、
、
、
きちがいにして下
、
それと知った男は
、
}
{
『
­
いのられた個別はめくらになっ V
どうそめくらにしてください」
というと
てしまいましたが
m 「どうぞ 、 あの mm
を
さい」
、
抽併殺はたちまち臨時いを
、
大ぜいの間で
くりかえさ
、
、
一
めくらにな
、
~
たいへんな乙とに一
、
おたがいに折りあい 日
、
、
いざりが出たり
国の中は
、
火事になったり
、
、
きちがいにしてしまいました。
、
とたのみますと
ささとどけ
、
ζ んな ζとが
れたので
ζの児のったり
、
綿が
織は何でもさいてくれま
}
そのうち一人の呉服由民が級みにきます
かんがえました。それは
、
吋自分の店だけ残って、ほ
かの川が
してやれ」
すぐ行者の所へきて
、
呉「他の店が みんな焼
むねがいしま
けてしまいますよう
す」
ャ ムニ
行「よしよし :::ムニャ
ムニャムニ
があり
方 々に火wv
、
ヤッさあ紛ってどらん」狂人が出たり
ャ
mm
りの逝で
、
さっそ家だけが熊本で ほかの呉服屋は みな袋りなりました。
、
金兵衛がnm
って見ると 、店は一ぱいの
客機でした。
ζんどは
此の店へ
、
ほかの店
、
日行者にたのむと
金兵と詔みましたのて
、
、
、
いろおべさせました
e
そして
た殿様は、役人をやって
け人
ない
のど主
が病人になりな世の中になって しまいました。
そ乙で金兵術が、又行者の所へ行・きます。・「あの店う
、
一
す
ると金兵衛の店に、お客がやってきます。ますように」乙の事を知っ
そ乙で又
山
い
神紋がよくいうこ
、
、
、何 となく安心の一
お析りに行きます。するとてしまいました。そのため国の中の人々は
く 、行者の所 へ、
いや}
お客が集まります。乙れ がわか ると 、ほかの呉服肢はできない。人の綴子ばかりをみている
所が、 ζれを聞いたほかの店でも
Iζ
、術や、他の広の芥が 、いなくなりその店だけなってしまいまし六、ヌ「行者の祈ることを
- 30 ー
治E
「仏綴は 金持にしたり
病気をなおし
、
、
心をゆたかにして たの
、
まな
しえ
たる
、
、
とんな放の中になる
神や仏が 入閣の願い事を 何で
、
、
の
、
、
そのとうりか」
さとどけてくれます」
行「はい私の祈りは 神様がかならず
、
、
き
殿「おまえは 神への祈りをするそうだが
殿様は さっそく行者を呼び出しました。
た。」
のだった。やはり仏の教えは正しかっ
もさきいれでは
ど
::j: なるほ
しいくらしがで・きるのだ
たりしない
、
に事
、
、
殿「しかしそのために 大ぜいの者が 人
ぇ
、
人をきずっけ 人を の ろう乙とを
、
、
、
抽仰がきさ届けたために大ぜいの
:: おまえの祈り
抽仰に祈るとは何事だ
を
、
、
乙のもの
者が 不豊中なめにあっているのだ。そ
の界はゆるされぬ ・・・・役
・・人
な
、
ζ
てま
とにな る。 私たち
たいへん
くと
いし
、
くださる教え乙そ
、
心に安心をあたえて
は
、
れ
たえていたら
。くはて
(おわり)
ようになりました。
正しい仏の教えを信じる
、
し仰
を苦しめあうではないか」
織しう行入
や者れ
がた
人ま
、
あ
」ば
はん
い
っ
た
。の
い
、
をに
り三
。」の
なを
どぎりま
りいはって
やど
~1.. .
.
:
か公
りか
たiE
、
ど E震な落
4 だ
の閉
まの
、
だま。世
行「それは私の知ったζとでは
ら
りと
仏で
、
、
ののん
さい
と
ζ
中い
しえ
、
31 ー
-
通わて中入it.
りれみは れ よ
とよ
、
い
て牢
、 に
やし
、
仏まよ
法然人上鎖仰会
,園、-‘・'‘
いわそ町牢 し
うれしのにき
ん
lましうい
せん。私はただ たのまれるままに
々し
「もた乙
神安のう
機心でしを
年
たなて
恩
、
新
と殿しのを
を織まよさ
時告乙と
神様へ 祈るだけでどぎいます」
賀
のの報
ζ
、
謹
教
え 此と
殿「たわけ者 たとえ信者のねがいとはい
…
4筒、-、,,_.、.-..;--
、_____,.、,hdhd、,周回......,
d司‘'“, .-、,司‘'、,、_--跡、,胸、ー
-、,臥d・-‘ー'
お念仏 がム
不当に生かされてない。
い うわけで
思います。それに 長い乙とではない 、約
、
人がよくなるまでの
設が閤
も 、何となく憎らし くなると
、
絵を符う乙とが余けいの乙とのよう
、
。
、
乙れも先 K3 きましたよ うに
う。
ょ
らだったら、案外スムースにうけとって預
、
、
その 前に
一度 一絡にお守の講へでもおいでになる
いてとや角い っておいでですが
ば分らぬもの。京女もお姑さんの信仰につ
えてならないのです。四国心はしてみなけれ
始さんの白からみるとみんな不信心おにみ
第こには
乙の乙とを解決するにはこつの方 けるでし
、
、
ゃい毎月お今へ
姑さんの「市心ぼこり」をお
法があると思います
きには
とす乙とです。それには
お寺の
、
ζとです。先にも
、
るのは
ζとに
よく隠そして頂く
、
お参りにおいでとのことですから
、
hw
往ぷにお競いをして 木当のお念仏につ
いて
ζとなのだら
す。はっきりそうと臼党しないでも
心の
口女のいわれるように口先き丈けのお念仏
隅にそういった感品川が秘んでいて、それが
るのも同じだということそ織りまぜて話し
自分の幼い頃は幼稜箇なんて と
、
になっているようです。行Hhの
m信仰は非常
たり
てもぜいたくなものだったことを思い出し
、
たまたま
、
に微妙なものでありまして 素直おな気持
ζ ともありま
ちで如来のおはからいを・つけるのでない
と、大 変な問ちがいになる
余りそのような
、
に思えたりするのではないでしょうか。で
他人
す。お妨さんはどうもそのように思われま
、
すから
、
自分でも一生懸命にお念
仏 して
す。お考でありがたいお説教を沢山きいた
り
、
今度はそれが自慢の鞄に
、
ζとですが
にも信仰の活をして上げるというのは大変
給機な
ると
、
如来械の
真宗でいう「信心ぽ乙り」にもな
、
だけ熱中す
なって
りかねない のです。そうなると
いくら内政や看護で い そ がしい
巾しましたように
ζとです。
お念仏の本当の気持ちも忘
、
姑さんと
、
といっても月に一回 半日のひまぐらいは
う。 そして
革手-つないでを
向揃えてお 念仏を唱えてみ
t
好き同時などの心の校卒』
ζお
さ
、
るととです。そうすれ ば、鈴女も姉さん の
、
、
、
ζわれた自転亦で坂
ζとが大切です。併心深い方
n分が噂敬してい
気持が少しは分りますし
ぬようにする
、
始さんもまた良
のようですか ら、 常々
、
食女を始め
、
う。
t
女のそうした心待ちを悠しく感じられると
それにつらな る孫さん
ζ ん ζんと話して
、
姑さんからみると
えとひいき
如来線のおカを信ずるととなのですから
お念仏の心は深山おに
かかと
均何乙
ただ 熊やみやたらにお念
、
う
、
見つけられるでし
、
存わ。
、
ありがたさも
掠れそ
守るう
の とい
伎
言す
まづ第 一花 平常の心をおだ やかにし て
、
すかい
、
非常に紅険です。
、
人に話をしたり するようにな
れてしまって
、
の他と
で人,思
るお寺のお坊さん から
道を怠るのと同じで
るのです。ブレーキの
仏をしたり
感下急れ
世間の人が不信心者にみえてならないので
、
を自 t lす
とでし
う。そうして
ょ
きっと
がらま
、
い
や
て
きかせて上げれば、きっと分 って貰える と
し
33 ー
-
じのば
る者よ
も
頭
、
織
i立
反
一一
一
一
一ー 一
五
、
出家の生活
(僧伽 ) について
イシドでは山家者の教団の
の
ζ と
涯
(六〉
たは僧侶というが
、
これは中国と日本の特純な用い方であ
比丘サ
、
一
っ
一
ニ純に分ん
女性を比丘尼と い…
Yガと比丘尼サシガとの
男性の山m家者を比丘といい
、
、
、
仏教の僧は本来はサシガ(伯伽)であり 人のととでは…
、
雄
、
、
三
サツガとしての機能は認め
、
、
両者お のおの独立した律制 一
一
仏
、
-
イシドの 宗教 階級である.ハラモ
γの人び…
妻もともなう出家もあったようであるが
、
、
比丘尼ナシガは従属的である。しかし 両者の出…
、
との出家には
出家生活の原則
をも って 、それに基ずいて 運営されている。
間するようなことは認められず
的 であり
ぅ。品yyガもまた
仏教では
なかったのである。
て
密
団の意味であるが
仏教々団はナシガと称した。とれがやが
藤
かれる。ニ輔のなかで 実際は比丘サシガが断然大倉 〈支配一
、
佐
て日本などでは、伯または仰 侶という言諜で仏教の出家者を
、
yガとしての援後をもっ集団をいうのであ っ て
って
出家者一人々々を伯ま
、
- 34-
生
宏、ガナ〈伽那)またはすシガ(伯伽〉と呼ぶ。いずれも集
サンガ
尊
γガ〉または略して僧という場合は 四人
伯伽〈・タ
、
呼 ぶよ うになった。
本来
以よのナ
人以下では単なる集会であ
ないのである。また現在の日本では
•
L
釈
、
陀時代の非パラモγの出曲家者たちは
原 則として 出家 とは妻
食し
、
独身生活であった。生産的なこ
、
食物は乞食 してあたえられたものを
、
子家族と離れることであり
とは一 切せずに
、
仏教ナシガに
まずとの四依の法を守り
、
そのうえ
、
、
社~
伝道の行先に精舎の事納されたもの…
、
そこに宿泊することが多くなってきた。また
なった。住についても
があれば
、
、
…
、
会的な状勢も 王各回城や会術城などが経済的に発展す
とる
一
、
そとで雨期九十日間を安居する場合も 大会な精舎があり
ょうである。…
仏陀の晩年に
、
、
、
、
仏教比丘の生活…
った。その実際上の理由はとに
、
かくとして表而上の分続の理由は 提婆が
一
いととで仏陀の弟子である提婆が 仏教か 一
あって 、原則的な生活がむしる特種に思われるま胞もあった
一
牛を神聖視するためかその小便を 信者の招待の日現が多く 安居の終るとさには新衣の寄進が
一
、
ζの生活を原則として守り
医薬も
、
衣類 は一般社会人の捨てた衣料で とれを満たした 。住処は樹
下などに坐臥し
もちいていた。
仏教の出家者も
、
入団して比丘となるときには まずこの乞食などの四種を守
、
って生活するととを替わされる。とれを仏教では四依の法と
ら分離独立 してサシガをつく
呼 ぶ。比丘たるものは
、
、
ラモ
ζの原則の生活がそのままおとな
、
四依の生活はいわば出家生活の原則で 非パ
ナ派の出家生活に近い主張であるが 、 当時の厳粛主義者であ
一
糸認しなかっ たためであるといわれる。察官の主張はデャイ
、仏
一
を守る生活に還ろうとするととを主張した
が陀がそれを
一
に仏教で定められた二百五十の紫律を守る生活を要求され
がる
出家者の原則的生活から総れつつあるのを改革し、
て原則一
のである。
しかし
γの出家の発生時代には
、
、
、
国家に労役その他の義務…
仏教の出家者である比丘は 、満二十歳に逮し 一
精舎などが出来て野外に臥床するととがすくなくなん
るすっていたのではないかと汚えられる。
比丘の資格
身体の欠陥の ないもの
、
一
われたものと考えられる。しかしのちには信者の寄進などっが
たデャイナ派の出家者は 乞食などの原則の生活を厳重に…
あり
、
ような場合があって 原則のみの生活ではなくなったとみら
、
一
、他Aに対して借金その他で果すべき義
を負っていないもの
れる。仏陀が各方面に信者 をもった.墳は大部分の出家教団 たもので
、
も同じであったようである。衣食住は 原則的生 活 が基礎で
- 35-
、
、
、
、
あったが 食事の招待をうけたときは乞食せずにそれをう務を負っていないもの
および出家するについて両親の承諾…
衣服の寄進があれば棄てた衣料を拾って作るとともをな
えく
たものなどの条件にかなったものが
仏教で定めた具足 け
•
。
戒という二百五十の祭戒を遵守することを将つてなるのであ
る
、
弟子
円以足戒とは 通常二百五十戒といわれているものである。
、
、
淫 と盗と殺人と教法上の虚言宏犯した
、
ζれを犯したものは
との四つのなか
、
一
も
サジガ宏除名されて再び比 …
仏教に帰依するには出家 …
出家は具足戒をまもるものだ一
一
第一の淫は比丘は不淫であって …
、
、
筏距押(波縦英知〉となる。と
れ は品川聞の死刑に類す一
具足戒のなかで
のは
、
るもので
仏陀が
たる必要はないのであるから
、
けとされるのである。
しかし
絶体に女性との交渉を認 めない。もし淫を犯すようなと 一
、
一
とれば仏教にはじめからあったものではなく
ζ とからはじ
、
虚言なとを策ずることや 金銭を所持
、
て
、
丘となるととはでぎない。もちろん比丘であること、
と宗教
盗み
、
いくたの項目をあげ
の救いにたよることとは別であり
の比丘たちに出家としてふさわしくない行ないのあるたび
、
ってはいけないという
今後をいましめられたそのいましめを犠戒としたもので
、
殺人
、
、
、
、また一
とがあれば 、比丘たる生活をやめなければならないが
と など
余分の衣料などを貯えないこと 食物の貯蔵を
しないとと
、
てとれそ禁じている。現代には あるいは災行不能のととも
つつしんで具足戒をうけて比丘となることがでま る。仏教 で …
、
出家生活の実際に即して 二百五十の紫戒をなしてい
、
で ある。
とれを受
、
他人に
nH
足成なまもっているとと
、
とれを犯したならば
び
、
四つの緩重罪について
、
になったとするのである。
重罪として十三の僧残罪
と
い
う
の…
一
一定期間の拘留生活をさせられ一
、
つよqに三十ク条の衣服 持もの 、…
乙
て 、 のちに二十人以上の比丘ナシガで界をゆるされれm
ば
、
サシガを分 裂 にみちびくような行為が十三あげられてい …
、わ
がある。とれば女性との性的な震をもっ交
際るい遊
、
生活のほかに 他 人 の安を犯すどときを禁ずるのである。 一
、
あるが
、
と なるの
只足戒を受持するととを将う
はじめて比丘
、
は一般の仏教道徳として邪淫を祭ずるが とれば正しい夫婦 一
比丘の禁徳
、
によって比丘たるのであって
、
さっそく自分からサシガに閉し
比丘である抗日絡がなくなるの る。とれを犯したものは
まったく知られない場合でも
である。そのような組合は
、
戒という。受戒をなした比丘は
俄式をお とな い
仏教の比丘は
るのである。
土地を揺らないと
し ないとと
まって
ある。はじめに異性と交
に
、
。
、
、
比丘である資格を保持するようつとめねばならな 金銭などに関する不当所持の桃川戒があるがとれは不当所持
一
定められた機悔(さんげ〉の方法をおこなっ て罪を浄
、
めて
でて
よ
- 36-
ぃ
したものを捨ててす
、
Yガに 罪を謝す
、
ただち
れば 清浄とな る。これら
、
、
める場合も 比丘尼となるまえに
、
、
二年間の式叉臨時那の生一
活
そのようなととのないよう碗めるためである。一一一
…十
歳以上の男子で出家して比丘となる希望のものについ、ても
一
このようにしてみると
四つの援重 罪
、
ほかの 宗教から仏教 へ改宗させる ものについては
ただちに悔いて
、
のちのいまし
、
いろ
、
、
一
拝火教徒と業論者は 仏教に近かい思恕をもつの …
との四週間の単備期聞は免除される。
、
受戒して比丘となるように定められている。しかし ζ の一
、
、
その供養をうけたものを正午までに食べ終える…
、
一へ乞
比丘や比丘尼は一回一食である。相以〈起きて町や村
で
場合にも
に
郡山側期間を沙弥と同じ生活をして思恕上の勉強をしたのち一
四 週間の 川
そのほかは大体制はゆるやかである。
、
しかし 比丘尼 は女性であるため
、
、
それを 気付いた ならば
とれは比丘も人間であって祭戒を犯しやすい
、
を必 要 とする 。た とえば雄知中であれば出家にふ怠わしくな一
ζで
のほかの邦を犯した場合は 犯したと思ったときに
そ
いので
。
にほかの比丘の数人もしくは一人にむか つて罪を悔ゆ ればよ
いとされる
、
おそらく
の罰則はきびしいが
が
、
女性の出家である比丘尼の禁戒も大体
めに重点をおいたものと考えられる。
比丘以外の出家者
比丘と同じであるが
いろな点で部品げな生活を犯される危険がおおい。それを予防食に出かけ
一
そと …
のである。食べ残して保存してはいけない。僧房もしくは宿一
、
三百三十八戒ある。比丘と比丘尼
、
、
併さ れないのである 。後世
っ て乞食
。
ζれは
一
原…
、
中国や日本で
、
に出る前にそれを食べる ことがあ った。 しかし
、早
では食事をつくることができた。たとえ
ば朝に粥をつく
一定の抑制所にかダっ
て
泊先 で 食物をもって夜宏過したり、食事の料理することは 一
、
、
、
満 二十厳 に速したものが受戒してなるのであるが ニ
、
するためにも禁戒が多く
とは
、
男性を沙弥といい
、
十成以下のものが出家して 比丘または比丘尼となるまえ に
サ γガのなかに見瑚円い生活をするのを
、
女性を沙弥尼というのである。との人びとは 出家の見習い
。
の修行者である 沙弥はそのまま二十歳に述して受滅して比 則として 乞食に よる一日一 食で ある
、
、
二十政 以上のものが出 家を
出家は食をかんがえず修行に精進するとと
…
、
一
一
比丘の衣服 比丘の衣服は三ぶとい。う
下豹と上
衣と外衣
を求めたからである。
ィシドの社会は
丘となるのであるが 女性の沙弥尼は十六惜敗から二十絞までおこなおうとしても不可舵なことであって実れ
行な
さいが、一
、
もと
をとくに式叉 摩郡 〈学生)と名づけて 生理上の体質が出家
女性の場合は
、
に適当かどうかを試す期間としている。
も っ とも
37 ー
-
とである。三種ともに日本の僧侶が
袈裟(クサ)といってい
、
日本の伯 侶の袈裟のなかで五条とよばれるものに相当
るものである。下着はあたかも姉人のスカートのようなも
ので
、
、
一
出家者に対して一般社会んを白衣とい
一う。日
を比丘の三衣の総称とした。
イシドでは
一
をもちいた
一
って一般人を・怒味
…
、 イγドでは一般社会人
白衣をも
イジドの出家はすべて脱色した謬委
…
とれに対して捜色しない白衣などを着るのは一般社一
会
、
、
本では自若者るのは僧侶であるが
、
、出家でない人を白衣といったのであろう。
、
金銭については仏教比丘はまったくとれを手にせず 喜捨 一
人であったため
から
するのは
は主としてお日からかけて上半・斗を低うものでが白ぷを多くもちいた。しかし
する。上 KA
、
着物をきてそのょに衣(と
、
日本の場合に強いてあてはめるならば
二十五条である。
、
dA
本の場合は七条といわれるものにあたる。外
衣iパ
は!
g
、
ともいえるもので
九条
もちろん日本の僧侶のように
、
その上に外衣をつけるのであ
ととは 詳され
この三衣を身辺から縦して
、
、
、
しかし
仏陀時代をすぎて金融経済時代に…
、
、
ナンガにも金銭は不可欠の時代がくるが その場合 一
しての沙弥
、
一
比丘は金銭にタッチしない原則を守ったのであ…
、
、
、
一
合せて五衆の一
そのほかに見科の出家者と
、沙弥尼 、 式叉修那の三種があり
完成した山家者ともいうべきで
一
尼は
ζのように、サシガにいる山家者である比丘と比丘、
る。
りあっかい
でもす Yガに浄人という山出家でない使用人がいてこれがと 一
なると
。
一
がつあっても受取らない。とのことは出家一般にそうであっ
た
るも)を泊るようなことはなく 楳・凶河の上に五条の下訂を
、
七条のよ官棋をかけて目指の仕事なり坐禅をするのであとも巧えられる
、
へ出かけるときは
、
も衣料 も所有する
いかなる場合にも
、
、
ζれに泌色と茜色をもちいて附制色に
、
、広持のぷ味の仏教ナシガの七衆
女性を使婆夷〈クパイ〉という。一
一
、
これと出家の 五衆を合せて
一般人の好まない色とするととである。た 婆謹(クパソク)といい
行色の生地は
、
域色とした色合いを袈裟という。中国や白本ではとれとするのである。
、
- 38-
け
る。村や町
、
る。との三種のほかには 衣類
ない。また
、
、
際ぶ街という郊にとわれるのであ
はならない。もし外衣ひとつでもど ζかへ置きわすれて
復を過すととがあると
"。。
して
とえば
地の色を消して
裟とは三衣の色で とれは淡色という意味である。衣料の生出家者となる。この出家者に対して 在俗の信者の男性 を優…
比丘や比丘尼の三衣は 中国や臼本では袈裟というが 袈
一
信者の財務
仏教の在家信者
、
仏
、
すなわちクパソクとクパイ
とは 、一
ニ宝に帰依して五戒を 受けた人をいう。 三宝 とは
ζとは 当然 であるが
さらにサ
、
、
具体的
とれに対して
、
陀 と仏陀の 教 とその教を信 議す るサツガとである。仏陀とそ
、
、
。
比丘の夜食そのほかの僧伽維持の資材
、
サシガから仏 陀の教の伝送 ・
をうけて
等敬の 怒
・ 味 はもちろんあるが
の教に帰依し信 伸をささげる
、
ソガに帰依するとは
には
信者の方から僧伽へ
ζ とをいうのである
、
。
、
、
、
邪淫 妄語 殺生
、
仏教信者が 信者として各自守らねばならな
を献ずることの義務を負う
信者の五戒
、
邪淫 は正常な夫婦生活のほかの男女関係 を 犯す
飲酒の五をいうのである
、
い道 徳上の 祭戒を五戒という。これ は
盗取
とのなか
、
仏教で
ことでよくいましめている 。妄語 はいつわるとと。 殺生は戸
ャイ ナ教などは絶体に生 きものを殺さないというが
ことしも楽しい年で
、
、
、
隣の家には ・本
物のピア ノがあり
ます。一人娘のF
先生
子ちゃんが
、
に来てもら って毎
ありますように
日練習をしていま
す。家族の人は それぞれの生活が忙しいのか 乙れは全然無
関心。
、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
「廿同い月絡を払てっ
い るのに まだ 、そ れっぽちしかひけない
のよ
おかあさんの ζの雪国禁です。
たまにいうのが
F子ちゃんのピア ノを見て
さて 哀の家の A子ちゃん は
ねだって ねだって と うとうおもちゃのピアノを貿ってもら
いました。
、
、
、
糸
、
住し
はととさらに 生命 を 一線
わないととである。水中に虫の いると
出家族の人は隣の家と巡 って和気あいあい。 A子ちゃんの雨
お
だれ式的側奏
Kあわせて 系朴な合唱。おとう・5んの低い戸
かあさんの高い戸
A『ずちゃんの弟の可愛いが
戸 冬のつめた
い夜風そ過して間 ζえてきます。
本物のピア ノ と おもちゃのピア ノ。 家族ぐるみの楽 しい 楽
器として どちらが楽俸を活か し ているでしょうか。
今年も 家族調和の 楽しい なごやかな 笑い芦 K満ちた
家庭でありたいものです。(桐
)
信
者
一応の努力
、
2E い依で
22 ぉ帰ず
よ うに
5 を 22
きは水を布烏などで 漉 して 使 用するという
会生三れ
があるくらいで
Iとめ
、 ら
る場合
公日
ま?言
薬 として 服用す
の認
、
る警なと
は
あをにと
をし て、不殺生を心がけるようすすめるのである。
あたえられないものはとってはいけ
(心〉
のこ.fg う
でと 者な
g
£めと
殿るも
とに
、
るるによ
39 ー
〈童)
き持よ・ そ
れすうの
-
(仏 〉
十士
。いる
盗 みは絶体に 祭 じて
ないとおしえる。飲酒のなかには泊を売るとともいけないと
とれも精神を錯乱して不党にするのを楽ずる
要 をとろ
と受のん
に
。 鍛
ニ
、
EE てすあ
A
るが
つるるー
とと
懸ふ五
(心〉
、
会
されてい
が ため である。比丘の場合でも体質などで必要 とする場合に
必戒ち
•
目
O O 円
一月号
(送料不要)
金六
〈送料四円)
定価金五十円
土」 購読規定
会山一カ年
廿
- 40 ー
則和 十年五月
可
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幡市三 組血便物認
昭和 三十四率十二司廿五日印刷
喝行
八 仰 2
品
日
ま会
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粗利三十五 平 -n-
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五十円
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定価
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編集人
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発行人
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印刷人
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神谷印刷株式会社
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ro
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れ・
た・
渉透するバクテリア廊を完全淘汰する
恐るべき耐性磁を1M綾淘汰する
実
高血圧で脳純血の品川険状態を好
転恢復されている報告。
心臓病特に危険な狭心疾の危篤
を好転依復している報告。
癌阪の進行を 阻止し癌 細胞を溶
解淘汰して食道筋、四円郷、舌癒
を依復している朗報告。
肺結核の治情獄中に耐性悪化した
曹祭器の剥作用を好転して依復さ
れている報告。
肝臓を股らし胆嚢を痛めた危篤
の入院患者が好転依復した報告
胃潰務で食事も出来ず手術を要
する危篤怠者が好転依復した殺
比回。
、
臨問臓糖尿病で入院すれど全治
せぬ状態から好転全快の報告。
関節リュウマチ並に神経痛で入
.
院しても全治不能の難症が好転
転して百%全治した報告。
る病原と副作用の海容を解務好広に総入
本監事雑記
止ロな名下
稽息で注射するほど発作してく をつをさ
伽問た御
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京都市東山 区給町五条南
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して楽に歩行できる報告。
泡銭抵闘(6)2364 ・ 0522番
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全治に実力作用する批判
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中村医学にて鍾腐の治る真理
の浴遺から再生作用!
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姑術院
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第二十六巻
第
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老子次右術門翁
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大阪ヨリ,-五分(総 rn Vr治大映鎖東へ一丁治似.IJ)
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