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藩政の推移と改革

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藩政の推移と改革
第二章
藩政の推移と改革
第一節 元禄期の藩政
一
天和期の藩政動向
■一.藩政機構の整備
すみなが
て あい
。家老
天和元年(一六八一)九月十五日、四代藩主大村純長は藩政を担う家老の職務について次のように定めた (1)
へ申し上げることがあれば、責任者が十分に検討し、手合奉行と四奉行に相談して申し上げ、家老の指図を受けるこ
と(第一条)、家臣の訴訟は手合奉行が取り次いで家老に申し出ること(第二条)
、家老の発言に理屈に合わないこと
があっても、すぐに返答せず手合奉行に相談すること(第三条)、ささいなことであっても家臣や領民への触れ流しは、
担当役人だけで行わず家老の指図を得て行うこと(第四条)、郡代・町奉行等の下役への申し渡しは家老の指図を得
て行うこと(第五条)、評定所では関係の役人以外は相談所へ出ず、用事があって出たものも用事が終わればすみや
かに退出し、家老も給仕のものを必要以上に近づけないこと(第六条)。
手合奉行とは、評定所の訴訟内容を整理する奉行のことで、家老に次ぐ権限を有していたが、三日後の同月十八日
には、手合奉行の職務についても次のように定めている (2)
。家臣の願いの家老への取次は手合奉行以外に行っては
ならない(第一条)、役所からの願いも手合奉行が取り次ぐこと(第二条)
、家老と同組・組下であっても、勝手方や
知行方の願い・訴訟は手合奉行が家老に取り次ぐこと(第三条)、家老と同組・組子の願いを家老が自分で受け取っ
て評定所に持ってきてはならない(第四条)、手合奉行も家老へ申し出ることは、事前に元締・相役と評定所で相談
したうえで家老に取り次ぐこと(第五条)、定日の大寄合の前日に諸役人は役内で内寄合をし、そのうえで大寄合で
第二章 藩政の推移と改革
近世編
213
協議を行うこと(第六条)。また、十月十四日には、普請奉行・郡代・町奉行・船奉行・宗旨奉行・山奉行は、毎月
ね ぎしろくろう ざ
え もん
十日と二十一日の二回集まり、十分にその職にかかわることを調査するように命じている (3)
。
翌天和二年には新たに出納増減奉行を置き、根岸六郎左衛門を任命した。出納増減奉行は、諸役人の上に立って藩
財政を担当する役職で、家老と手合奉行の間に位置するものとされた (4)
。元禄二年(一六八九)十二月には出納増減
奉行は元締役と改められ、別に出納役が置かれた (5)
。
天和三年九月には次のように評定所の規程が定められた (6)
。評定所寄合のときは奉行・役人は残らず一座・一所
に集まり意見を述べること(第一条)、別座を構えることは堅く禁止する(第二条)
、寄合のときは互いに思うことを
述べても返答の仕方が不届きであるので、すべてを聞いて全体の考えを決めること(第三条)
、言葉荒く言い争うよ
うに協議するものは不忠である(第四条)、家老の申し付けも一人の考えだけで申し付けるのではなく、
何事も寄り合っ
て協議をしてから申し付けること(第五条)、協議をして決めたことは破棄することがないように何度も協議をして
決定し、その後は改めたり破棄したりしないようにすること(第六条)。
こうした藩政担当諸役に関する規程の制定は、家老―手合奉行―各奉行といった各藩政担当者の職務内容や権限を
明確にし、評定所における合議を重視することによって、藩政の運営を合理化し、その権威を高めようとするもので
あった。また、藩財政を主管する出納増減奉行(のちの元締役)の新設は、寛文期(一六六一~七三)以降顕著となっ
てきた藩財政と家臣の窮乏が重要な政治課題となってきたことを示すものであった。
■二.諸士列座の制定
もちづつ
やり
か
ち
。これは、年始・五節句・月次礼日などに家臣が
天和三年(一六八三)十二月朔日には「諸士列座」が定められた (7)
藩主に拝謁する際の座列の順番を示したもので、次のようになっていた。
なが え
つかいや く
家老・城代・家老嫡子・旗奉行・城代嫡子・持筒足軽大将・諸手足軽大将・鑓奉行・使番・歩行頭・中小姓頭・
船奉行・長崎聞番役・町奉行・組付長柄奉行・馬廻・歩行組頭・横目役・中小姓・組付使役給人・城下給人・
214
歩行(古先新後)・諸村給人・小給
これは基本的な座列の順を示したものであり、同じ役の場合は先に役に就いたものが上座、同時に同じ役に就任し
た場合は知行高の高いものが上座、知行高が同じであれば年齢が高いものが上座となった。また、ここに記されてい
ない手合奉行・江戸聞番役は者頭(持筒足軽大将等)より上座、出納奉行・寺社奉行・大目付・普請奉行・宗門奉行
は者頭・物奉行の加役なのでその座列のとおり、無役の馬廻からこれらの役を命じられた場合は使番の次となってい
た。また、藩主に拝謁するときは、者頭から町奉行までは一人ずつ、組付長柄奉行から馬廻までは二人ずつ、給人は
三人ずつとなっていた。
このような「諸士座列」の制定は、藩政担当諸役の職務内容や権限の明確化を踏まえて定められたものであり、家
臣団の身分制秩序を確定し、その安定化を図ろうとするものであった。
■三.
「郷村記」の編纂
やす だ
よ そう ざ
え もんながつね
、純
一方、農民支配政策についても、この時期新たな展開がみられるようになる。延宝九年(天和元・一六八一)
長は安田与惣左衛門長恒に「郷村記」の編纂を命じた (8)
。天和二年三月に村部諸左衛門が作成した各村の旧記が完成
すると、針尾九左衛門・安田総左衛門・村部諸左衛門・飯笹平六左衛門・渋江善助等が編集に当たり (9)
、翌三年に
一応の完成をみた ( )
。
「闕謬非 一
」(誤りが多い)との理由によって、元禄元年(一六八八)、村
レ
しかし、このとき編纂された「郷村記」は、
部諸左衛門長英等に校閲修正が命じられ、純長もみずからその添削を行っている ( )
。元禄十五年(一七〇二)二月に
は大村弥五左衛門を郷村記撰述総奉行とし、富永五郎左衛門・大村三郎太夫・村部諸左衛門・浅川六之丞・根岸六右
11
衛門を選者、稲田兵五郎を筆者として編纂が進められたが ( )
、宝永元年(一七〇四)に天和以来編纂の中心となって
すみまさ
すみつね
いた村部諸左衛門長英が死去したため ( )
、完成するには至らなかった。
12
「郷村記」は、五代藩主純尹、六代藩主純庸のときにも編纂が企図され、更に天保六年(一八三五)にも一〇
その後、
13
第二章 藩政の推移と改革
近世編
215
10
すみよし
代藩主純昌によって編纂が命じられたが完成せず、文久二年(一八六二)にようやく完成することになるのである。
「郷村記」は、村の広狭をはじめ村境・他領境・海辺、往還道筋、川流、朱印高・蔵入地・私領(知行地)の内検高
及び田畠畝歩数・本年貢・小物成、知行(住居知行・懸持知行)、村入用・村加勢、種子積・出来高(生産高)、農業
経営、農具・村出目米・公役賃米、堤・井手・川淵・滝、浦湊・船数、海草・山林・土産・売出物(商品生産)、竈数・
男女数(人口)・牛馬数、夫役・夫米・夫銀、運上・納物、寺社、由緒、古城・古寺・古墓、火災、境目論所、手代
附知行など、領内各村のあらゆる事項について記した全国有数の領内調査書である。
最終的な完成は幕末になるが、大村藩がこの時期にこうした詳細な領内の調査書を作成しようとしたのは、藩財政
が窮乏化する中で領内の生産力を最大限に把握しようとしたことを示している。
■四.
「諸村制法」「町制法」の制定
、翌貞享二
貞享元年(一六八四)には新田開発による耕地の増加を正確に把握するため検地が開始されたが(後述)
年六月十四日には「諸村制法」三七ヵ条が発布された ( )
。
「百 姓 中 心 得 之 趣 」
(寛文四年正月)( )など、これ以前にも農民に対する法令は出されていたが、今回
大 村 藩 で は、
の法令は、第一条で公儀(幕府)の法度を守ること、第二条でキリシタン宗門を厳重に改めることを命じたのに続いて、
14
るものであった。
などとあることからも分かるように、これを通じて農業経営の安定をはかり、年貢収入の確保・増大を目指そうとす
可 レ譲 之
」
(第一三条)、
「百姓之妻・女・娘かいこをかハセ、布・木綿をおらせ、其すきはひ仕候様可 仕
」
(第三七条)
レ
レ
なとに心かけ、耕作無念之百姓者、五人組相改、庄屋ニ可 相
断 」
(第七条)
、
「百姓子共多持候共、田畑者惣領一人ニ
二
一
が、なかでも、
「常々耕作ニ精を出、百姓之身持入念、兼而代官・庄屋方より教如 申
候」(第六条)、
「身持不 レ宜、商売
レ
農民の生活全般について細かく規定したものであった。これは、農村秩序の再編強化を目的に出されたものであった
五人組、堤・川除普請、年貢の収納、夫役・郡役、倹約、水論・山論・野論・境論、徒党の禁止、博奕の禁止など、
15
216
「町制法」三四ヵ条も発布されている ( )
。
「諸村制法」同様、第一条で公儀(幕府)の法度を守ること、第
同 日 に は、
二条でキリシタン宗門を厳重に改めることを命じたのち、五人組、倹約、徒党の禁止、博奕の禁止、長崎・他領への
■五.城付米
と
大村藩にも備蓄が命じられたのである。
しろつけまい
東 海 道 の 宿 駅 な ど 全 国 六 八 ヵ 所 に 四 四・二 万 石 の 城 付 米 が 備 蓄 さ れ る こ と に な り、
られ、江戸城・大坂城・二条城・駿府城といった幕府直轄地の城や譜代諸藩の城、
幕府の成立以来各所に備蓄されていたが、貞享二年(一六八五)にはその増加が命じ
府が直轄地からの年貢米の余剰を兵糧米として全国各地に備蓄した米のことである。
17
―
を築いた。翌年三月二十七日、御米船が板敷に着船。
このため、大村藩では、大村城南堀下手の板敷にあった水主屋敷を移転させて、
桁三間・梁一三間・高さ一丈三尺と桁三間・梁一〇間・高さ一丈三尺の二棟の蔵を
建築し、波戸(新蔵波止)写真
〇〇俵)を受け取っている ( )
。
お しろまい
じょう ま い
写真2-1 新蔵波止跡(玖島1丁目)
貞享三年(一六八六)八月、老中大久保加賀守忠朝から大村藩に城付米三〇〇〇石を預けることが申し渡され、明
年三月二十九日に筑前国怡土郡の代官所から受け取るように指示された ( )
。城付米は、御城米、城米ともいい、幕
い
とともに、城下町の秩序の維持・安定を図ろうとするものであった。
法 一、大酒を好、夜あるき無礼之町人有 レ之候ハヽ可 申
出 一」
(第二一条)などとあるように、商家経営の安定をはかる
二
人之子共幼少之時、手習い・読物・算勘、其外家業之益に成候様、そたて可 レ申事」
(第 六 条 )
、
「家業を不 レ勤、背 二作
旅行、旅人の宿泊など、町人の生活全般について細かく規定しており、
「常々家業を励、商売之儀可 二心懸 一、
(中略)町
16
二十九日までに筑後国三原郡代官所(松崎御料支配)の米三〇〇〇石(四斗入り七五
1
享保十五年(一七三〇)八月には、城付米は災害の救助を目的とするようになり、
第二章 藩政の推移と改革
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2
18
名称も御用米と改められた ( )
。当初は兵糧米として軍事目的のために備蓄されていた城付米であったが、次第に飢
十六日、病気を理由に嫡子を廃され、二男の純尹が世子に指名された ( )
。純尹は、五月十日に将軍に拝謁し ( )
、十
すみまさ
純長の嫡子純真は、延宝二年(一六七四)に一三歳で将軍家綱に拝謁し、延宝六年には備後守、貞享元年(一六八四)
には民部少輔に任じられ、父純長と共に参勤交代を務めるようになっていた。しかし、元禄二年(一六八九)四月二
すみさね
二
元禄検地と藩財政
■一.大村純真の廃嫡
る。
饉などの災害の救済や臨時の出費の際の財源に流用されるようになっていた現状に応じたものであったといわれてい
19
21
や
そ
べ
え
廃嫡となったため婚約は破棄された。
二月二十七日には従五位下に叙され、筑後守に任じられた ( )
。純真は三河刈谷藩主稲垣重昭の娘と婚約していたが、
20
ので、一門・幕閣に相談して純真を廃嫡としたと、純真を廃嫡にした理由を説明した ( )
。
秋ナリ」と、古来からの名族である大村家を他家から入って継いだ自分の子どもの代で滅ぼすほど不孝なことはない
ナルモノニアラスヤ、吾因テ之ヲ一門ニ議シ、詳ニ閣老ニ告ケ、次子ヲ以テ之ニ代ヘリ、正ニ是レ吾及ヒ汝等至慶ノ
嫡に至るまでの事情を説明し、
「蓋シ大村ハ故家ナリ、吾他族ヨリ来リ嗣キ、前世子ニ至テ家ヲ滅サハ、豈不幸ノ大
六月七日、純長は小佐々弥総兵衛を大村に遣わし、大村彦右衛門・大村十郎兵衛に命じて、純真の不行跡は世人の
広く知るところで、はじめは少し行動を改めれば約束していた結婚をさせようと思っていたが、取りやめにしたと廃
22
23
これよりさき、純尹は旗本大田原隼人の養子となることが決まっていたが、延宝六年(一六七八)二月二十九日の
書 状 に は、
「ちと様子御座候付而」( )
、大田原家と相談のうえ純尹に替えて三男大助(清勝)を養子とすることにした
とあり、既にこの頃から純真の廃嫡が検討されていたと考えられる。
24
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。以後、純真は
九月二十四日、純真の乗った船が箕嶋に到着し、翌日純真は前船津に建設された別館に入った ( )
正徳二年(一七一二)に死去するまでここで暮らした。
■二.元禄検地
を増すことを提案して実施されたものである ( )
。
この検地は、貞享元年正月、出納増減奉行(元締役)根岸六郎左衛門が、近年各地に溜池(堤塘)等の灌漑設備が造
られ、以前の下田が上田となるなど生産性が増しているので、検地を行って年貢収入を増し、家臣の知行地は知行高
、慶長十
元禄八年(一六九五)、貞享元年(一六八四)に始まった検地が終了した。大村藩では慶長四年(一五九九)
七年(一六一二)、寛永八年(一六三一)に次いで四回目の検地であった。
25
することなど、検地に際しての細かな指示を与えている ( )
。
いたところはその高を差し引いて家臣に渡すこと、猪の被害によって荒れ地となったところを開いた田は「俵成上け」
すること、屋敷の囲いの中に開いた田は検地の対象外とすること、荒れた蔵入地の古田・古畠を家臣が許可を得て開
四月二十九日、根岸六郎左衛門は検地奉行今道源五左衛門・岩永二郎助の質問に答え、評定所に願書を提出せずに
開いた田は「上之切田」とすること、屋敷に付属した囲いの外の畠を許可なく田としたものは畠高を引いて「切田」と
26
一斗七升五勺増加している。
「元禄年中御物成都合之目録之事」( )によれば、元禄検地後の大村藩の総石高は五万三七石九斗一升一勺となって
おり、寛永検地の四万二七三〇石余より約七三〇○石、寛文改高の四万四五四八石七斗三升九合六勺より五四八九石
27
寛永検地の際は一万四七五六石余の打ち出しが行われていたことと比較すると増石は半分以下であり、大村藩の幕
末における総石高が五万九〇六〇石七斗六升五合三勺四才であったことを考えると ( )
、新田開発による増石が既に
限界に達しつつあったことを示している。
第二章 藩政の推移と改革
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28
29
■三.元禄八年の藩財政
元禄検地が終了した元禄八年(一六九五)、藩主純長は浅田三郎兵衛・朝長郷左衛門を大村に下し、困窮した藩財
政についてその対応策を協議させた。これに対し城番・者頭・惣馬廻は、五月十八日、家老大村彦右衛門・浅田三郎
兵衛に対し次のように上申している。
財政難のため資金の調達方法について数日協議を行ったが良案がないということで、城番・者頭が評定所へ呼ば
れ説明をうけた。これをうけて、城番・者頭に馬廻全員が加わって相談したが、特別いい案は思いつかなかった。
今回の財政難は特にひどいということは家臣一同承知しており、藩財政のためになるのであれば拝領した知行は
飢をつなぐだけを残して召し上げられてもかまわない。藩財政が苦しくなることはかねてから予想されたことで
あり、こうした事態を招いたのは油断があったからと思われる。恐れ多いことではあるが、今後は、格式を定め
て藩財政を運営するようにしてほしい。これまでのとおりでは重大な事態に立ち至ると考えられるので、抜本的
な対策を立てていただきたい ( )
。
門が藩財政の運営に大きな力を有していたことが分かる。
■四.元禄期の財政構造
り、新高の内訳は新田二四三三石余、改出一五二九石余、私領新地一五二五石余となっ
五万三七石余で、このうち古高が四万四五四八石余、新高が五四八九石余となってお
こ
こで、元禄検地終了後における大村藩の藩財政収入について考察しておこう。元
禄検地後の元禄十年(一六九七)における大村藩の石高(内検都合)は、 表 ― のように
1
表2-1 元禄検地後の石高
石 斗升合勺
古 高
44,548.7396
新 高
5,489.1705
新 田
2,433.7287
改 出
1,529.9815
私領新地 1,525.4603
内検都合 50,037.9101
【註】 「御領内御物成諸運上都
合目録」
(
『大村見聞集』
552頁)から作成。
31
石 高
区 分
2
儀 一と存候」と、根岸六郎左衛門はなんとしても江戸に行かなくてはいけないと述べている ( )
。元締役根岸六郎左衛
また同時に、手合衆・奉行衆に対し、家老の大村彦右衛門が元締役根岸六郎左衛門を連れて江戸に登って対応に当
たるように述べ、彦右衛門が江戸に行くのが難しいようであれば、
「六郎左衛門儀者兎角不 レ被 二差越 一候而者不 二相叶
30
220
表2-2 元禄検地後の支配別石高
ている。
これを支配別にみると、 表 ― のように、蔵入二万六一四四石余、新田二
四三三石余、水主地三八七石余、私領(知行高)二万一〇七二石余となってお
2
表
―
のように扶持切米として家臣に支給
3
される一万六七七三俵余や諸役所の経費八一一〇俵など合計三万一二六七俵
二〇俵余となっており、これから
したがって、蔵入からの年貢収入は、本石・夫石・口米を合わせて八万八一
水 主 銀、 納 銀 高 諸 運 上 納 所 ニ 記 ス」と あ る よ う に、 運 上 と し て 処 理 さ れ た。
その納籾(年貢)八三六九俵余は蔵入とは別に扱われていた。また水主地は「但
地ではあるが、新田は「出納方ニ納、御蔵方ニ不 入
」と出納方の管理下にあり、
レ
り、私領の総石高に対する比率は四二㌫となっている。新田と水主地は蔵入
2
余を差し引いた二万八四二六俵が最終的な蔵入収入となる(ただし、実際に
88,120.093
16,773.075
980.000
1,454.000
8,110.000
3,950.000
31,267.075
28,426.160
俵 斗升合
蔵 納
知行代(扶持切米)
日扶持方
水主切米
諸役所渡り
不定払*1
合 計
引 残
【註】 「御 領 内 御 物 成 諸 運 上 都 合 目 録」
(『大村見聞集』 552頁)から作成。
*1 但江戸行御合力、御在所御合力
并村普請庄屋賄、其外色々ニ入
字とは合わないが、ここでは史料に従っ
ておく)
。
表 ― は、この最終的な蔵入米を一俵
=銀一五匁で銀に換算したものに小物
4
れ ば、 こ の 年 の 全 財 政 収 入 は、 蔵 入 米
の 全 財 政 収 入 を 示 し て い る。 こ れ に よ
成・諸運上を加えた元禄十年(一六九七)
2
1,546.107
142.186
88,120.093
8,369.170
2
の 代 銀 四 二 六 貫 目 余 に 小 物 成・ 諸 運 上
第二章 藩政の推移と改革
近世編
221
籾 数
区 分
俵 斗升合
9,256.057
96.282
26,144.6943
2,433.7287
387.3331
21,072.1540
17,121.4610
1,404.9969
392.7117
428.1282
50,037.9101
77,317.229
7,717.002
俵 斗升合
蔵 入
新 田*1
水主地*2
私 領
侍 中
長柄足軽
諸職人
寺 社
合 計
合計三万一二六七俵を差し引いた残りは五万六八五三俵余となり、史料の数
表2-3 蔵納からの支出内訳
口米納
俵 斗升合
俵 斗升合
夫石納
本石納
納 籾
石 斗升合勺
石 高
区 分
【註】 「御領内御物成諸運上都合目録」
(『大村見聞集』 552頁)から作成。
*1 出納方ニ納、御蔵方ニ不入
*2 但水主銀、納銀高諸運上納所ニ記ス
項 目
銀
備 考
貫 匁 分厘
蔵 入 米
426.398.00
切 畠 小 麦 納 19.886.45
日 干 茶 納
1.048.50
戸町切畠納
1.435.63
塩 釜 納
934.27*
水 手 銀 納
13.944.87*
郡 役 銀 納
23.226.40*
胡 麻 納
2.346-40
煎 茶 納
390.00*
藺 畳 納
394.00*
萱 畳 納
626.40*
家 別 苧 納
2.196.07*
地 料 納
2.096.13
山林運上納
5.925.62
樹木運上納
2.340.00
薪山手銀納
6.495.55
駄 口 納
1.010.30
酒場運上納
2.681.00
椛場運上納
910.45
帆 別 納
1.576.37
豆腐運上納
125.00
十 分 銀 納 20.944.48
不 定 万 納 17.878.10
皿山釜運上納
1.545.00
皿山荷運上納 11.438.40
突鯨運上納
9.460.00
役 目 銀 納 26.292.48
177.147.87
計
41.712.01
残
135.435.86
合 計
561.833.86
米28,426俵1斗6升(1俵15匁替え)
小麦1,729俵7升7合(1俵11匁5分替え)
日干茶4,194斤(1斤2分5厘替え)
蔵方ニ納
塩406俵6升1合(1俵2匁3分替え)
郡役夫23,226人4合(1人前1匁)
胡麻29石3斗3升(1升8分替え)
茶195斤
畳197枚
畳783枚
苧175貫686匁(1斤2匁替え)
山方・船方より納、5分充
外海・内海網釣色々
色々ニ而納分( *印)
銀納分
【註】 「御領内御物成諸運上都合目録」
(『大村見聞集』
552頁)から作成。
の銀納分一三五貫目余を加えた
銀 五 六 一 貫 目 余 と な っ て い る。
小物成・諸運上は銀一七七貫目
余が計上されているが、このう
ちの約四分の一の銀四一貫目余
は現物等で納められ、銀で納め
られるのは残りの銀一三五貫目
余となっている。これらの貨幣
収入は商品生産・流通を前提と
しているが、その内容をみると、
切畠の小麦に賦課される切畠小
麦納や山方・船方から納められ
る十分銀納、山林の生産物に賦
課される山林運上納・樹木運上
納・ 薪 山 手 銀 納、 外 海・ 内 海 で
の漁業や捕鯨業に賦課される不定万納・突鯨運上納、波佐見村の陶器業に賦課される皿山釜運上納・皿山荷運上納な
どが主なもので、酒場運上納・椛場運上納・豆腐運上納などの商業や駄口納・帆別納といった運送業からの収入は多
くない。
元禄期は全国的に商品貨幣経済が大きく発展した時期である。しかし、大村藩領においては、財政収入からみる限
り、林業や水産業、波佐見村の陶器業などの発展はうかがうことができるものの、農村における商品作物の栽培やそ
表2-4 元禄10年(1697)の藩財政収入
222
の商品化はあまりみられず、農村商業の
る。具体的な年代は不明で、収入も元禄
十年と大きく異なるなど検討を要する点
が多いが、財政収支のおおよその傾向は
う か が う こ と が で き る。 こ れ に よ る と、
収入は共に納方都合八四六貫目余と山
方・炭方一〇〇貫目を合わせた九四六貫
目余の同額で、支出も江戸借銀一〇年賦、
表2-5 在城の年銀入目請払
貫 匁
【註】
「純長公御代御在城・御在府之御入箇御積之事」
(
『大村見聞集』
907頁)から作成。
表2-6 在府の年銀入目請払
貫 匁
【註】
「純長公御代御在城・御在府之御入箇御積之事」
(
『大村見聞集』
907頁)から作成。
■五.大村藩財政と深澤家
分かる。
るのに対し、江戸在府の年は銀一二九貫目余の不足となっており、江戸在府時の財政負担が極めて大きかったことが
府・大村留守入目は八〇〇貫目余と大きく異なっている。その結果、大村在城の年は銀一三五貫目余の余銀が出てい
どは同額であるが、大村在城の年の江戸留守・大村在城入目が五三四貫目余であるのに対し、江戸在府の年の江戸在
江戸買掛一〇年賦、大坂借銀一〇年賦な
846.600
100.000
946.600
534.560
20.034
26.040
70.000
140程 20.000
135.966
納方都合
山方・炭方納
合 計
江戸留守・大村在城入目
江戸借銀10年賦
同 利払
江戸買懸10年賦
大坂借銀10年賦
同役所入目
引残 余銀
発達も低位であったことが分かる。
と
こ ろ で、 表 ― と 表 ― は、 そ れ ぞ
れ純長代の大村在城の年と江戸在府の年
6
の藩財政の収入と支出を示したものであ
2
こ の 時 期、 こ う し た 厳 し い 大 村 藩 の 藩 財 政 を 支 え て い た の は 捕 鯨 業 者 の 深 澤 家 で あ っ た 。
「新撰士系録」によれば、
初代深澤儀太夫勝清( 巻頭写真)は、肥前杵島渋江氏の出で、波佐見村中尾に住み、中尾次左衛門と称したという。紀州
第二章 藩政の推移と改革
近世編
223
5
846.600
100.000
946.600
800.397
20.034
26.040
70.000
140程 20.000
129.871
納方都合
山方・炭方納
合 計
江戸在府・大村留守入目
江戸借銀10年賦
同 利払
江戸買懸10年賦
大坂借銀10年賦
同役所入目
引残 不足
銀
区 分
銀
区 分
2
たい じ
太地で捕鯨法(突捕法)を学び、寛永二年(一六二五)に壱岐勝本、大村領松島で突組による捕鯨業を始め、大村領平島、
えんゆう じ
江島、五島魚目にも漁場を拡大し、更には筑前や長門にまで進出して、全国屈指の財をなした。
ほうえん じ
慶安三年(一六五〇)には金二八〇〇両を投じて大村に天台宗円融寺を建立したほか、浄土宗長安寺の本堂・石塀・
鐘を寄進し、池田郷真言宗宝円寺の堂宇を改修した。また、万治年間(一六五八~六一)には大村に間口四五間五尺、
裏口四二間、奥行き三六間三尺の本陣を建設し、寛文元年(一六六一)には野岳に大堤の築造を開始して、四〇〇〇
石ともいわれる新田を開発した。深澤の姓は、これらの功により四代藩主純長から与えられたものである。
あみかけつきとり
初代深澤儀太夫勝清は寛文三年(一六六三)三月十七日に八〇歳で死去したが、子供がなかったため、弟の勝幸が
跡を継いだ。第二代深澤儀太夫勝幸( 巻頭写真)は、延宝六年(一六七八)五島魚目で網掛突捕法を試行し、貞享元年(一
六八四)には壱岐勝本で本格的に網掛突捕法を開始した。網掛突捕法は突捕法と違って早く確実に鯨を捕ることがで
きたため、莫大な利益をあげることができた。また、延宝七年には郡村本倉に堤を築いて新田を開発し、延宝八年に
は江戸外桜田備前町の水野氏宅地一七八三坪余を購入して藩に献上した。
藩財政とのかかわりにおいても、天和二年(一六八二)六月に家臣が集まって藩のために銀二〇〇貫目を借り入れ
ることを協議した際には、勝幸親子も呼ばれてその工面を依頼され、勝幸は、銀八〇貫目は大坂・長崎の自分の屋敷
を書き入れて借り入れることが可能で、残りの一二〇貫目もなんとか借り入れることができると述べている ( )
。
に申し付けられた ( )
。貞享二年(一六八五)七月、勝幸は、この年までの六年間、純長の四男幾之進(純庸)と五男万
じょう う け ぎ ん
これより二年前の延宝八年(一六八〇)には、大村藩が長崎で借用した銀一〇〇貫目を返済するため、江島・平島・
松島・崎戸の鯨組四組の鯨運上を、翌年から五年間、定請銀として毎年銀三〇貫目ずつ(計一五〇貫目)納めるよう
32
その間、不漁により運上銀では不足したため、銀七〇貫七九九匁を深澤家が負担したと述べている ( )
。
之丞(寿員)の御用銀を含めて、毎年銀三〇貫目ずつ上納し、大村藩が長崎から借り入れた銀一〇〇貫目を皆済したが、
33
このほか大村藩が深澤家から借り入れた借銀は、現在証文が残っているものだけでも膨大な額にのぼっている。貞
34
224
享三年(一六八六)三月に「江戸御作事并若殿様御祝言為 御
用意 」
借り入れた銀一〇〇貫目は、財政難のため当分返
二
一
済できないとして、上鈴田村の蔵入地二〇〇石を預け置き、その年貢で利息のみ支払い、元銀一〇〇貫目を返済した
ときにその二〇〇石を返させることにしている ( )
。
目と検地によって打出された物成によって行われることになっていた ( )
。
貞享四年十一月には銀一三五貫目と米五〇〇〇俵を借用し、銀一三五貫目は年に一割の利息を加えて翌年から三年
間で元利を返済し、米五〇〇〇俵は翌年からの三年間で返弁することにしたが、これらの返済は家臣が納める二部役
35
元禄二年(一六八九)正月には銀一五〇貫目を年一割の利息で借用し、松原村の御蔵入地一〇〇〇石と出納方の繰
り合いによって返済することとしたが ( )
、同年九月に借用した銀二〇〇貫目は、すぐに返済することができず、五
36
ている ( )
。
年後の元禄七年から同九年までの三年間で返済することとし、この間、利分として上鈴田村の蔵入地四〇〇石を預け
37
、元禄九年十二月には「おすて様御縁組」のため七〇〇両 ( )
、元禄十
更 に、 元 禄 六 年 十 二 月 に は 銀 二 〇 〇 貫 目 ( )
年丑正月には「御姫様御用銀」として銀四八貫目 ( )
、元禄十年閏二月には銀三五貫目 ( )と、毎年のように深澤家か
ら借銀をしているのである。
41
42
40
第二代深澤儀太夫勝幸は元禄七年(一六九四)に八三歳で死去した。勝幸の長男勝直は本家を継いで平島を拠点とし、
次男儀平次重昌は初代儀太夫勝清の養子となって蠣浦を拠点とし、長女の婿今井源太左衛門勝直の二男与五郎幸可は
■六.深澤三家の成立と家臣への取立
諸運上銀を入れて銀五六一貫目余であったから、深澤家からの借銀がいかに大きなものであったかが分かる。
このように、この時期の大村藩の深澤家からの借銀は、現在証文が残っているものだけでも膨大な額にのぼってお
り、総額では恐らく銀一〇〇〇貫目をはるかに超えていたものと思われる。元禄十年の大村藩の財政収入は小物成・
39
元禄八年に平島から松島に移り、深澤三家が成立した。
第二章 藩政の推移と改革
近世編
225
38
一方、次女の婿深澤貞右衛門勝之(澤田右衛門兵衛頼利の四男権十郎)は、元禄六年(一六九三)四月に勝幸に与え
られていた三〇人扶持を相続して馬廻に取り立てられ、のちに波佐見村において請地三八石を与えられた ( )
。
更に、貞享四年(一六八七)には、
「汝等積年公ニ奉公スル其志感スルニ勝ヘス、弥二兵衛(勝直)嘗テ其拓地ニ子一
人ヲ置ント請ヘリ、今之ヲ許シ士族ト為ン」( )と、第三代儀太夫勝直の子浅井次右衛門(のち深澤弥次右衛門勝貞)
43
ど か い こ う しゅう き
、去ドモ礼法ヲ不 レ背、義理ヲ正シクス。
レ
元禄期に編纂された「土芥寇讎記」は、四代藩主純長について、「文武ヲ不 学
才智ニシテ、短慮也。家民哀憐ノ心ナシ。女色ヲ好ミ、遊覧昼夜ニ不 レ限ラ」( )と記している。しかし、純長は慶安
■七.純長の学問奨励
はより密接なものとなっていった。
が拝領した一五〇石を相続して馬廻末席となるなど、三家からも次々と家臣に取り立られ、深澤家と大村藩との関係
〇〇石を与えられて馬廻末席となった。また、深澤与五郎幸可の女婿惣兵衛興勝(根岸六右衛門直矩の二男)も幸可
に江串村・千綿村の新田二三四石を与えて馬廻末席とし、深澤儀平次重昌の子深澤清助昌往も江串・三浦村の新田二
44
するまで、三五年間にわたって素行と交流があり ( )
、決して学問に関心がなかったわけではなかった。
三年(一六五〇)、一五歳のときに父伊丹勝長とともに山鹿素行を訪問して以後、貞享二年(一六八五)に素行が死去
45
貞享四年(一六八七)十二月、純長は一〇石以上の給人の一二歳から二〇歳までの嫡子の習字を検分することを達し、
翌年正月十四日までに習得した技術や読んだ書物を詳しく書き上げさせている ( )
。
46
元禄五年(一六九二)四月には「従来士族年少輩失言多シ、自今更ニ相誡ムヘシ」と江戸から達し、十月十八日には
四〇歳以下の家臣に「文学ヲ勉メ」るように達している ( )
。十一月二十三日には、四〇歳以下の城代以下給人までの
47
となどを命じている。これをうけて、円融寺の僧(第三世格方)が講義を行うことになり、十二月朔日に書院におい
と、城において毎月二回日を定めて講義を行うこと、長崎に講義ができるような儒者がいれば呼んで講義をさせるこ
家臣は読書に励むこと、読書数を毎日帳に仕立てること、四書を読み終わったものは好みの箇所を一章ずつ講じるこ
48
226
て「大学」の講義が行われ、家老以下馬廻の家臣がこれを聞いている。翌年からは朔日・十五日・二十八日の三回講
義が行われることになった ( )
。
元
、同年
禄六年(一六九三)二月、純長は江戸城において将軍綱吉みずから「中庸」の首章を講じるのを聞いたが ( )
七月には大村城内において志村三左衛門に「論語」を講義させ、家老以下長柄奉行以上にこれを聞かせている ( )
。
49
50
せいじゅえん
元禄七年五月には、若い家臣の言葉遣いや立ち居振る舞いについて数十年来指導してきたが、いまだに言葉遣いが
よくないのは不届きであり、翌年大村に帰国後調査して改まらないものは厳しく処分すると江戸から達している ( )
。
51
怠 一執行」するように命じている ( )
。
また、この年には寛文十年(一六七〇)に創設した集義館を静寿園と改め ( )
、翌年四月には「学文武芸口上等弥無 二懈
52
53
元禄十四年(一七〇一)八月には家老以下城下給人以上の一二歳から一六歳までの子弟の習字を検分するとともに、
読書の品目を提出させ、優秀者には純長の書を与え、一層勉学に励むように達した ( )
。十月には三〇歳以下の馬廻で、
54
している ( )
。
うに命じている ( )
、十一月には一六歳から三〇歳までの家臣の弓槍術を検分し、十二月中旬に言葉を検分する旨達
まだ江戸に行ったことがないものは、毎月六回大村内匠・大村弥五左衛門・熊野六八の屋敷に集まって言葉を学ぶよ
55
藤橘之差別、平家物語、曽我物語、六十六ケ国之名、道中宿々之名、謡、給仕立廻、あやとり、言葉」となっている ( )
。
治物語、平家物語、太平記、甲陽軍鑑、信長記、太閤記、関ヶ原記、大坂記、島原記」
、一五歳以下の子供は、
「源 平
ている。それによると、一五歳以上の馬廻が稽古すべきものは、
「使者口上、小袖・太刀積様、馬槍、読書、保元平
共子共江之物教無 レ之、育様悪敷故」であるとして、純長みずから稽古させるべきことを記して江戸から大村に送っ
翌元禄十五年五月には、はじめて江戸へ召し連れてきたものについて、立ち居振る舞いもできず、当然知っている
だろうと思われることを尋ねても知らないのは、そのものたちだけの責任でなく、
「御在所之風俗柄ニ而有 レ之、親々
56
このように、純長はたびたび家臣の学問を奨励し、みずからそれを検分しているのであるが、そこには単に学問を
58
第二章 藩政の推移と改革
近世編
227
57
すみなが
奨励するという以上に、家臣の言葉遣いや立ち居振る舞いを矯正しようという強い意志がみられるのである。大村の
言葉や振る舞いは江戸出身の純長にとって粗野でがまんならなかったものと思われる。
宝永期の藩政
三
■一.純長の死と五代藩主純尹の襲封
すみまさ
宝永三年(一七〇六)八月二十一日、慶安四年(一六五一)以来藩主の地位にあった四代藩主純長は江戸外桜田備前
町の上屋敷で死去した。七一歳であった。嫡子純尹は大村に帰国していたが、帰国に際し万一純長の病気が重くなっ
た場合は許可を得て江戸に登って看病したいと幕府に申し出ており ( )
、許可を得た純尹は八月二十九日に大村を出
60
月朔日に三〇〇〇石を分与された ( )
。
■二.江戸の菩提寺
よしあき
じょうきょう じ
十月二十九日、純尹は家督を許され、五代藩主となった。純長は遺言により、純尹の弟の純庸に波佐見村のうちに
おいて三〇〇〇石を分与すること、純尹に実子がないときは純庸を養子とすることを指示しており ( )
、純庸は十一
すみつね
老中の伝言を聞いて東上し、二十五日江戸に着いた。純長死去の知らせは九月六日に大村に届いた ( )
。
発した。九月三日、純尹は周防小郡(山口県山口市)で純長の訃報と行き会ったが、そのまま江戸に登るようにとの
59
61
。大村家は純忠の代はキリシタ
八月二十三日夜、純長は芝二本榎(東京都港区高輪)の長祐山承教寺に葬られた ( )
ンであったが、喜前の代に肥後熊本藩主加藤清正のすすめで法華宗となり、大村に本経寺を建て、肥後から日真上人
62
を招いて開基祖師とした ( )
。承教寺も日蓮宗で、その関係から江戸の菩提寺となったと思われるが、いつから菩提
63
三月に芝二本榎に移転したという ( )
。
65
承教寺には純長をはじめ、慶安三年(一六五〇)に江戸で亡くなった純長の父の三代藩主純信(常照院)や純長の子
すみのぶ
寺となったかは不明である。寺伝によれば、承教寺は正安元年(一二九九)芝西久保に草創され、承応二年(一六五三)
64
228
すみまさ
すみもり
すみやす
の五代藩主純尹(寛長院)、八代藩主純保(高耀院)など江戸で亡くなった藩主や藩主の正妻、江戸で亡くなった子供
たちが葬られている。
り、借金の相談をすることもできないというものであった ( )
。
ただます
かずのり
た だ あきら
すみよし
のため毎年一万石余が不足して在所の繰り合いができなくなった。このため、江戸・上方での借金が五万両余にもな
とができない。⑤以前は領内の者の長崎での商売が好調であったが、近年は商品が減少して長崎が衰微し、商売不振
捕鯨業を営む町人に頼って藩財政のやり繰りをしていたが、近年は鯨が捕れず捕鯨業者も経営が苦しくなって頼るこ
〇〇人余、三〇〇〇石余を負担しているが、近年は物価が高くなり、その費用も増大している。④一〇年前までは、
屋敷、異国船番所一九ヵ所番所、遠見番の維持、人夫・水主等の賄い、唐船挽船など、長崎警備のため毎年四万四〇
の費用が一万五〇〇〇石必要であるが、一〇年来の不作のため困窮し、救済のための費用が増加している。③長崎蔵
その理由は、①大村藩の朱印高は二万七〇〇〇石であるが、内検高は「浮所務」まで入れて六万石余ある。しかし、
近年は「浮所務」が以前のように納まらなくなった。②家臣が多く、知行地が三万石程もあり、蔵入からの在所一切
うきしょ む
兄で老中を退いたばかりの秋元但馬守喬知に、老中大久保加賀守忠増に倹約を願い出ることを打診した。
たかとも
純長が死去する前年の宝永二年(一七〇五)五月、純長は財政難のため家臣の知行の二部を上納させ、倹約を命じ
ていたが ( )
、純長の跡を継いだ純尹は、藩主に就任した翌年の宝永四年九月、旗本戸田土佐守忠章を通じて忠章の
■三.純尹襲封直後の藩財政
位牌殿」は大村家の位牌所であったと推測される。
「見聞集」所載の「承教寺御墓所之図」( )
は、九代藩主純鎮(宝暦十一年〈一七六一〉~享和三年〈一八〇三〉
)の時代
のものと考えられるが、正面の本堂・食堂の後ろに「御位牌殿」「他之位牌」と記された建物が二つ並んでおり、この「御
66
68
これに対し、戸田忠章から純尹の叔父(純長の継室亀の弟、越前丸岡藩主有馬一準の叔父)の旗本有馬内膳純珍に
秋元喬知の内意が伝えられ、純珍は純尹にその内容を伝えた。戸田忠章によれば、秋元喬知は純尹の伺いを認めない。
第二章 藩政の推移と改革
近世編
229
67
理由は、新たな物入りとなるようなものが一つもないというものであった。純長の代には父子で参勤交代を行ってい
たが、いまは純尹が行っているだけで、純長のときよりも財政的には楽になっているはずであり、家督直後で何の負
担もないのに不如意を申し立てているのではないかと不信感を示したというのである ( )
。
■四.宝永五年の財政危機
を行うことにしたのである ( )
。
と純珍に内情を説明したが、秋元の意向を知った純尹は老中大久保忠増に願い出ることは取りやめ、
「内 証 ニ 而 倹 約 」
これに対し純尹は、
「亡父代ニ用事相達候者共、借金多候付而代替ニ大形断申、其上知行納等已前之通無 レ之」と、
純長代に藩財政を支えていたものが代替わりを機に出銀を断り、そのうえ年貢の収納が以前のようにできなくなった
69
宝永四年(一七〇七)の財政難は、詳細は不明であるが、同年冬にはなんとか克服されたようである。ところが、
翌年三月には再び資金繰りが苦しくなってきた。宝永五年三月十八日付けの助松屋三郎太郎の書状 ( )によれば、前
70
一四〇貫目余がまだ届いていなかった。このため、助松屋は、塩屋善五郎から銀三〇貫目、川端屋三右衛門から銀四
また、昨年冬の根岸六郎左衛門との話し合いで、今年の春に国元から送られるはずであった、米代五二貫目余、田
島助次郎が昨年七月中に送ることになっていた延引銀三〇貫目、神戸・二ツ茶屋・播磨三所の前納銀六〇貫目の合計
られたため不足して江戸御月賄には使えない状態になっていた。
ることになっていた。しかし、金屋吉右衛門取次の借銀三〇貫目はまだ調わず、炭方前納四〇貫目は余分に取り立て
前年の冬に約束した金屋吉右衛門取次の借銀三〇貫目、助松屋利兵衛からの借銀二〇貫目の九〇貫目などが充てられ
宝永四年冬に見積もられた宝永五年の必要経費は、江戸御月賄い銀二〇〇貫目と「鴻池方御証文仕替之節御渡被遊
筈之御利足、深澤殿家質之利、御役所銀三口之入用」の銀六〇貫目の合計二六〇貫目で、これには炭方前納銀四〇貫目、
国元からの資金が約束どおり送ってこないので、江戸への送金ができないというのである。
年の冬に元締役根岸六郎左衛門と資金繰りについて相談し、今年の春に返済する借銀や国元からの送銀を確認したが、
71
230
表2-7 宝永5年(1708)3月の大坂借銀
【註】 「大坂借銀之覚」
(大村市立史料館所蔵 彦右衛門文書103-33)から作成。
〇貫目、播磨屋太兵衛から銀二〇貫目、小橋屋三郎太兵衛から銀五〇貫目、
1,380.800
計
150余
利
1,530.800余 合 計
合計一四〇貫目を借用し、その利息一一貫目を加えて銀一五〇貫目余を負担
( マ マ )
しなければならなくなっていた。
これに対し、大村藩は銀七〇貫目を助松屋に渡すことにしたが、それでも
八 〇 貫 目 が 不 足 し、 こ れ に 御 炭 方 前 納 銀 四 〇 貫 目 を 合 わ せ る と 合 計 銀 一 二 〇
貫目、更に御高役金の三三貫目余を合わせると銀一五三貫目余が不足し、来
月からの江戸への送金はできないので、国元から送金するようにしてほしい
というのである。
宝 永 五 年 三 月 に お け る 大 坂 で の 借 銀 は 表 ― の よ う に 銀 一 三 八 〇 貫 目 余、
利息を加えると銀一五三〇貫目余に及び、そのうちの半分近くが助松屋三郎
太郎からの借銀であった。また、小橋屋・塩屋・川崎屋・播磨屋の四軒から
の借銀のように大村藩のために助松屋が自分の名義で借り入れたものもあり、
助松屋としても国元からの送銀(実際は深澤家からの出銀)がないことには経
営が破綻する恐れがあったのである。
ま
た、 宝 永 四 年 冬 か ら 翌 年 に か け て は、 宝 永 四 年 十 月 四 日 の 宝 永 大 地 震、
十月十三日の札遣い禁止令、十一月二十三日の富士山の大噴火と翌宝永五年
項 目
銀
7
閏正月七日の灰除け金として石高一〇〇石につき金二両を徴収する諸国高役
第二章 藩政の推移と改革
近世編
231
助松屋三郎太郎方
同 利兵衛方
小橋屋・塩屋・川崎屋・播磨屋四軒之御借銀
鴻池屋方口々
平野屋又兵衛方
助松屋利兵衛・村岡千右衛門方
助松屋三郎太郎方当暮迄鴻池方深澤家質之利払役所銀入用之分
618.500
300.000
151.000
175.000
63.800
27.000
45程
貫 目
2
金令の公布によって、大坂の金融市場が収縮し、助松屋も資金を調達することが極めて困難な状態になっていたので
ある ( )
。
72
■五.深澤家への借銀返済計画
一方、大村藩の深澤家からの借銀は元禄期に一〇〇〇貫目を超えていたが、宝永期には
貫目を超える借銀が新たに加わっていた。
このうち、宝永元年(一七〇四)九月二日の銀二八〇貫目は、年五分の利息
で、翌宝永二年から毎年御蔵方から一五〇〇俵、出納方から四〇〇〇俵、計
五五〇〇俵を大坂の米値段の平均で精算して元利を返済するというもので
あったが、翌宝永二年九月九日に借り入れた銀三三〇貫目は、前年に借り入
れた銀二八〇貫目の元利返済が終わった次の年から返済することになってい
た。
こ
のように、この時期も、大村藩は毎年のように深澤家から大量の借銀を
行っていたのであるが、こうした借銀状況からみてそのほとんどは約束どお
り返済されることはなかったと思われ、深澤家は純長の死を機に新たな出銀
表
―
のように銀一〇〇〇
50
御隠居銀
江戸御入用
御城附米5000俵代
55
200
60
70
30
100
1,125
を拒否したものと思われる。
このため、宝永五年(一七〇八)五月九日、大村藩は、宝永元年九月二日か
ら宝永四年九月十八日までの深澤家からの借銀を一括して銀一〇〇〇貫目の
(富)
表2-8 宝永元年(1704)~宝永4年(1707)の深澤家からの借銀
2
8
大村家史料209-38
大村家史料209-39
大村家史料209-66
大村家史料209-65
大村家史料209-17
大村家史料209-32
大村家史料209-24
大村家史料209-40
大村家史料209-7
御用
御用
50 若殿様御用
若殿様江戸御急用御登
大坂繰合
貫
両
280
330
宝永元年 9 月 2 日
宝永 2 年 9 月 9 日
宝永 3 年 7 月23日
宝永 3 年 8 月27日
宝永 3 年 9 月16日
宝永 4 年正月 4 日
宝永 4 年 4 月11日
宝永 4 年 5 月24日
宝永 4 年 9 月18日
合 計
出 典
(数字は所蔵番号)
目 的
借銀高
銀
金
年月日
借銀とし、この銀一〇〇〇貫目を返済するまで、毎年利息として下鈴田・黒
丸(竹松村の内)
・竹松・福重・皆同(福重村の内)
・今留(福重村の内)
・松原・
)
。 と り あ え ず 直 近 の 借 銀 一 〇 〇 〇 貫 目 の 利 息 だ け を 支 払 う こ と に よ っ て、
千綿の八ヵ村から一村につき二五〇俵ずつ合計二〇〇〇俵を渡すことにした
(
深澤家から新たな借銀を引き出し助松屋の要求に応えようとしたのである。
73
【註】 出典の大村家史料は、大村市立史料館所蔵。
232
こ
れによって、大村藩は深澤家から借銀を行うことが可能となり、新たに五分の利息で儀太夫勝行から銀六〇貫目、
叔父の助次郎(与五郎)幸可から銀三〇貫目を借り入れ、その元利を返済するため儀太夫勝行には上彼杵・下彼杵・
長与・時津四ヵ村から毎年一村につき二五〇俵ずつ合計一〇〇〇俵、助次郎幸可には西川棚・宮ノ村両村から一村に
つき二五〇俵ずつ合計五〇〇俵を渡し、この借銀の元利返済が終了したのちに、この一〇〇〇俵と五〇〇俵を銀一〇
〇〇貫目の借銀の返済に充てることにした ( )
。
宝永五年二月には、天和二年(一六八二)以来元締役として大村藩の財政を担当してきた根岸六郎左衛門が「及 二極
老 一、就中歩行不自由」として家老職を許されて家老末座となっていたが ( )
、九月には「深澤一家ニ罷成取遣り之相談、
分が破棄されたものと思われる。
ところで、元禄以前における深澤家からの借銀は、既にみたように銀一〇〇〇貫目を大きく上回っていたと思われ
るが、宝永期の大村藩の借り入れ状況からみてこれらが順調に返済されたとは考えられず、恐らくこのときその大部
74
■六.大坂銀主と藩財政
と考えられる。
不相応」として召し放たれている ( )
。深澤家に依存する財政運営が破綻したことの責任を問われてのことであった
又大坂仕繰彼是心ニ不 二相叶 一」と、隠居を命じられた。また、深澤儀太夫の娘を妻としていた根岸六右衛門も、
「役儀
75
いた ( )
。
その子供で純尹の養嗣子となった純庸のための費用も含めて銀五二八貫目余、翌宝永七年は五七二貫目余にのぼって
宝永五年(一七〇八)の財政危機は、深澤家への借銀返済計画を策定することによって深澤家からの借り入れが可
能となり、当面の危機は回避されることになった。しかし、宝永六年の江戸経費の見積もりは、純長の妾の円了院や
76
き
た
このため、宝永七年五月には、深澤家から年一割の利息で銀二一〇貫目を借り入れ、元銀返済まで毎年利息として
銀二一貫目ずつ、上・下両波佐見村からの年貢米一二〇〇俵で渡すことにしたが、この証文の奥書には元締役の喜多
第二章 藩政の推移と改革
近世編
233
77
助右衛門・小佐々源兵衛とともに助松屋三郎太郎代治兵衛が署名し、
「一切之御物成大坂助松屋三郎太郎江請取、御
用相勤候」
( )
と記されていた。これは、この借銀が深澤家からの借り入れの形を取っているものの、実際には助松屋
役目が実施されたのである ( )
。
えて五厘の増役目を申し付けることにした。助松屋からの資金提供がなくては藩財政が破綻するため、やむをえず増
節減したが、それでも不足したため、翌年の正徳元年(一七一一)の一年間、家臣に対しこれまでの三部の役目に加
同年秋には、家老の大村五郎兵衛と元締役の小佐々源兵衛が大坂に上って助松屋に出銀を依頼したが、助松屋は資
金繰りが難しいとして出銀を拒否した。このため、両人は江戸に上って藩主純尹に報告し、純尹は江戸の経費を更に
からの借り入れであったことを示すものであった。
78
同年十二月には、財政難のため、江戸御供のものには定められた合力米等以外は援助できないので分限相応に務め
るように達せられ ( )
、翌正徳二年八月には、役目を納めない家臣は知行地を取り上げて蔵米とすることを達してい
79
かけ や
る( )
。藩財政の窮乏が家臣団へ転嫁され、家臣の窮乏を深めることになったのである。
80
元禄八年(一六九五)三月に大村藩が阿波の鵠屋甚兵衛以下一四〇人を招いて茅瀬山で炭を生産させたときにも、
助松屋利兵衛が銀主としてかかわっている ( )
。炭は、元禄期の財政構造において山方・炭方の収入が銀一〇〇貫目
塩干魚商から両替商に転じたと思われ、新靱町(現大阪市西区靱本町一丁目)に屋敷を有していた。
し ん うつぼ
和泉郡助松村(現大阪府泉大津市助松町)から名付けられたと考えられるが、出自など詳しいことは分かっていない。
七〇)に幕府の御用を命じられる十人両替に選ばれており、大坂の有力な両替商であった。屋号の「助松屋」は和泉国
助松屋は、貞享四年(一六八七)十一月十五日に助松屋利兵衛が大村藩の掛屋として銀四〇貫目の預かり手形を振
り出しており ( )
、この頃までに大村藩と密接な関係を有していたことが分かる。助松屋利兵衛は、寛文十年(一六
82
■七.助松屋三郎太郎
81
と見積もられていたように、米についで重要な収入源となっており、助松屋は大村藩の藩財政に密接にかかわってい
83
234
たものと思われる。
元禄十五年(一七〇二)利兵衛は三〇歳で急死した。利兵衛には養子分の久松がいたが、前年十月に利兵衛が従弟
分の孫左衛門の子三郎太郎を引き取って育てようとしたため家督争いが生じ、久松が利兵衛家の家督を相続すること
になった ( )
。しかし、宝永四年(一七〇七)以降、大村藩は江戸への仕送りの交渉は三郎太郎と行っており、利兵衛
家の家督は久松が相続したものの、大村藩の掛屋業務は別家として独立した助松屋三郎太郎が引き継いだものと思わ
れる。
か い ちゅうな に わ すずめ
には海部堀に架か
85
されていて、ここに蔵屋敷があったことが分かる。
ざ
こ
ば うおいち ば
海部堀は木津川の上流、京町堀と阿波堀の間にあった海部堀の両
岸にあった町で、もとは材木商人が多くいたが、新靭町・新天満町
の塩干魚商人が荷物を運ぶ道筋にあたり、雑喉場魚市場にも近いこ
とから塩干魚商人が増え、享保期(一七一六~三六)には材木商人は
ほとんど姿を消したといわれる。
諸藩の大坂蔵屋敷は、その多くが土佐堀川両岸や中之島周辺にあ
り、海部堀に蔵屋敷があるのは珍しい。深澤家は場所は不明である
写真2-2 「新撰増補大坂大絵図」
〈貞享4年・1687〉に見られる大
村藩の大坂蔵屋敷(赤線で囲んだ部分)
(大阪府立中之島図書館所蔵)
■八.大坂蔵屋敷
かい ふ ぼり
―
大村藩の大坂蔵屋敷は、延宝七年(一六七八)の「懐中難波雀」に
よれば海部堀三丁目(現大阪市西区靱本町三丁目)にあり ( )
、貞享
四年(一六八七)の「新撰増補大坂大絵図」写真
2
る海部橋と阿波堀に架かる岡崎橋を結ぶ道路の西に「大村因幡」と記
2
が大坂に屋敷を持っていたことが分かっており、塩干魚商人が多い
第二章 藩政の推移と改革
近世編
235
84
海部堀に大村藩の蔵屋敷が置かれたのは、鯨という海産物を扱っていた深澤家との関係によるものではないかと推測
される。また、海部堀の東隣の新靱町には大村藩の掛屋を務めていた助松屋利兵衛の屋敷があったが、助松屋との関
係も深澤家との関係による可能性も考えられる。
元禄元年(一六八八)に堂島川の揚土によって堂島新地が造成されると、ここにも諸藩の蔵屋敷が置かれるように
なり、大村藩の蔵屋敷も、元禄三年に海部堀から堂島新地に移っている。海部堀の屋敷は不便で、屋敷の裏の川も浅
くなり、小船の往来も不自由になったため、堂島新地に売り地があることを聞いた大坂役人の針尾兵部左衛門が調査
し、藩主純長が参勤途中に検分して購入を決めたのである。同地は町屋敷四ヵ所分、口二〇間、入四〇間、坪数八三
〇坪で、代銀は一一三貫目余であった ( )
。
された ( )
。
済 に 充 て ら れ、 残 る 六 貫 目 余 は 新 蔵 屋 敷 の 御 用 に 使 用
敷を入手する際に深澤儀太夫から借り入れた借銀の返
銀一二〇貫目のうち、一一三貫目余は堂島新地に蔵屋
87
の 手 代 松 屋 正 左 衛 門 が 務 め る こ と に な っ た。 し か し、
正左衛門の子供が出奔して家が断絶したため、助松屋
三郎太郎が名代に任じられた ( )
。
こっ か まんよう き
89
元禄十年(一六九七)の『国花万葉記』(摂津難波丸)に
写真2-3 「増修改正摂州大坂絵図」
〈文化3年・1806〉
に見られる堂島新地四丁目、田蓑橋の東の
大村藩の大坂蔵屋敷(赤線で囲んだ部分)
(大阪府立中之島図書館所蔵)
海
部堀の屋敷は、深澤家の一族に与えられようとしたが、深澤家が辞退したため助松屋利兵衛に与えられ、助松屋
はその礼として銀一二〇貫目を献上している ( )
。この
86
新しい蔵屋敷の名代はこれまでどおり亀屋九兵衛に
命じられたが、取込の不正が発覚し、助松屋三郎太郎
88
236
かんこうもく
せ っ しゅうお お さ か ず
は、大村藩の蔵屋敷は堂島新地四丁目、蔵元なし、銀掛屋助松屋利兵衛とあり、宝永四年(一七〇七)の「摂州大坂図
鑑綱目」には、堂島川に架かる田蓑橋の西、鍋島備前守(鹿島藩)の蔵屋敷の西に「大村因幡守」と記されている(現在
写真
―
。
大阪市福島区福島一丁目)。しかし、この蔵屋敷は享保元(一七一六)年の火災で焼失し ( )
、同じ堂島新地四丁目の
田蓑橋の東(現大阪市北区堂島三丁目)に移転した
3
90
延享期(一七四四~四八)の「延享版『改正増補難波丸綱目』」には、堂島新地四丁目(堂島新地中三丁目掛屋敷)
、留
守居は井村仁右衛門、名代は堂島四丁目の松屋庄左衛門、蔵元・掛屋は新靱町の助松屋三郎太郎 ( )
とあり、安永期(一
2
91
(5) 「九葉実録」巻四(大村史談会編『九葉実録』第一冊 大村史談会 一九九四 九七頁)
(6) 前掲註(1) 七六頁
(柴多一雄)
七七二~八一)の「安永版『難波丸綱目』」には、同(堂島)四丁目、留守居は雄城五郎右衛門、名代・蔵元は堂島中三
丁目の助松屋利兵衛となっている ( )
。
註
(3) 前掲註( )
(4) 前掲註(1) 七五頁
(1) 「九葉実録」巻三(大村史談会編『九葉実録』第一冊 大村史談会 一九九四 七二頁)
(2) 前掲註(1) 七三頁
92
(7) 長崎県史編纂委員会編『長崎県史』史料編 第二(長崎県 吉川弘文館 一九六三 五五頁)
(8)「郷村記」首巻(藤野 保編『大村郷村記』第一巻 国書刊行会 一九八二 二頁)
(9) 前掲註(1) 七四頁
) 前掲註(8) 一頁
) 前掲註( )
第二章 藩政の推移と改革
近世編
237
2
10
(
(
11 10
(
(
(
(
(
(
(
(
) 前掲註(5) 一一八頁
) 前掲註(8) 二頁、
「九葉実録」巻五(大村史談会編『九葉実録』第一冊 大村史談会 一九九四 一二七頁下)
) 前掲註(7) 六九頁、
「見聞集」三十二(藤野 保・清水紘一編『大村見聞集』 高科書店 一九九四 五二三頁)
) 「見聞集」三十二(藤野 保・清水紘一編『大村見聞集』 高科書店 一九九四 五一七頁)
) 前掲註(7) 七一頁
) 前掲註(1) 八四頁
) 「見聞集」二(藤野 保・清水紘一編『大村見聞集』 高科書店 一九九四 五頁)、
「郷村記」大村(久原・池田)之部(藤野 保
編『大村郷村記』第一巻 国書刊行会 一九八二) 八四頁
) 「九葉実録」巻十二(大村史談会編『九葉実録』第二冊 大村史談会 一九九五 二〇頁)
) 前掲註(5) 九三頁
) 前掲註( )
) 前掲註(1) 八二頁
) 前掲註(1) 八三頁、大村市立史料館所蔵 大村家史料「(御用達銀子返済方ニ付覚)」
) 前掲註(1) 七五頁、大村市立史料館所蔵 大村家史料「諸事要集素書」二
) 大村市立史料館所蔵 大村家史料「五年元捨銀借用仕候事」
) 前掲註(5) 一〇八頁
) 前掲註(5) 一〇九頁
) 「見聞集」三十四(藤野 保・清水紘一編『大村見聞集』 高科書店 一九九四 五五二頁)
) 「郷村記」首巻(藤野 保編『大村郷村記』 国書刊行会 一九八二 二四頁)
) 前掲註(1) 七八頁
) 前掲註(1) 七九頁
) 「見聞集」五十一(藤野 保・清水紘一編『大村見聞集』 高科書店 一九九四 八四七頁)
) 前掲註(5) 九五頁
) 前掲註(5) 九七頁
) 前掲註(5) 九四頁
20
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
18 17 16 15 14 13 12
35 34 33 32 31 30 29 28 27 26 25 24 23 22 21 20 19
238
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
) 大村市立史料館所蔵 大村家史料「借用申銀子之事」
) 大村市立史料館所蔵 大村家史料「預り申銀子之事」
) 大村市立史料館所蔵 大村家史料「(銀子借用ニ付覚)」
) 大村市立史料館所蔵 大村家史料「銀子借用ニ付覚」
) 大村市立史料館所蔵 大村家史料「(御縁組ニ付金子借用ノ覚)」
) 大村市立史料館所蔵 大村家史料「(御姫様御用銀請取ニ付覚)」
) 大村市立史料館所蔵 大村家史料「預り申銀子之事」
) 前掲註(5) 一〇二頁
) 前掲註(1) 八七頁
) 金井 圓校注『土芥寇讎記』〈史料叢書〉(新人物往来社 一九八五)
) 河野忠博「大村純長と山鹿素行」(大村史談会編『大村史話』中巻 大村史談会 一九七四)
) 前掲註(1) 八八頁
) 前掲註(5) 一〇二頁
) 前掲註( )
) 前掲註( )
) 前掲註(5) 一一七頁
) 前掲註( )
) 前掲註(5) 一〇七頁
) 前掲註(5) 一〇八頁
) 前掲註(5) 一〇三頁
) 前掲註(5) 一〇六頁
48 48
) 前掲註( )
) 前掲註(5) 一一八頁
55 55
) 「見聞集」五十七(藤野 保・清水紘一編『大村見聞集』 高科書店 一九九四 九五三頁)
) 「九葉実録」巻五(大村史談会編『九葉実録』第一冊 大村史談会 一九九四 一三二頁、一三三頁)
第二章 藩政の推移と改革
近世編
239
(
(
60 59 58 57 56 55 54 53 52 51 50 49 48 47 46 45 44 43 42 41 40 39 38 37 36
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
) 「見聞集」五十六(藤野 保・清水紘一編『大村見聞集』 高科書店 一九九四 九四五頁)
) 前掲註( ) 一三七頁
) 前掲註( ) 一三二頁
) 「見聞集」三十(藤野 保・清水紘一編『大村見聞集』 高科書店 一九九四 四八四頁)
) 勝田直子「大村藩江戸の菩提寺」(大村史談会編『大村史談』第四十七号 大村史談会 一九九五)
) 前掲註( ) 四八五頁
) 前掲註( ) 一二八頁
) 前掲註( ) 九五四頁
) 前掲註( ) 九五五頁
) 前掲註( ) 九五六頁
) 大村市立史料館所蔵 彦右衛門文書「(借用銀子催促ニ付口上)」
) 前掲註( )
) 大村市立史料館所蔵 大村家史料「(元金利子分返済米ニ付覚)
」、大村市立史料館所蔵 大村家史料「(銀子借用ニ付覚)」、大
村市立史料館所蔵 大村家史料「(銀子借用ニ付覚)」
) 前掲註( )
) 「九葉実録」巻六(大村史談会編『九葉実録』第一冊 大村史談会 一九九四 一三九頁)
) 前掲註( ) 一四〇頁
) 大村市立史料館所蔵 彦右衛門文書「丑寅卯三ヶ年中江戸入目」
) 大村市立史料館所蔵 大村家史料「(元金利子分米返済方ニ付覚)」
) 前掲註( ) 一四八頁
) 前掲註( ) 一五六頁
) 前掲註( ) 一五七頁
) 境 淳 伍「【史 料 紹 介 】十 人 両 替「助 松 屋 利 兵 衛 家 」文 書 に つ い て 」
(大 阪 市 史 編 纂 所 編『大 阪 の 歴 史 』
大 阪 市 史 編 纂 所 二〇〇一)
57
(
60 60
59 59 59 60 64
71
73
75
75 75 75
( ) 前掲註(5) 一〇八頁
(
73 72 71 70 69 68 67 66 65 64 63 62 61
82 81 80 79 78 77 76 75 74
83
240
(
(
(
(
(
(
(
(
) 前掲註( )
) 大阪市史編纂所編『難波雀・浪花袖鑑』〈『大阪市史史料』五三輯〉(大阪市史料調査会 一九九九 二六頁)
) 「見聞集」三十六(藤野 保・清水紘一編『大村見聞集』 高科書店 一九九四 五六九頁)
) 前掲註(5) 九七頁、前掲註( ) 五七〇頁
) 大村市立史料館所蔵 史料館史料「大坂長崎御蔵屋鋪(複写)」
) 前掲註( )
) 大 澤 研 一・ 古 市 晃「堂 島 の 蔵 屋 敷 藩 名 わ か り ま し た!」
(財 団 法 人 大 阪 市 文 化 財 協 会 編 大 阪 市 文 化 財 情 報『葦 火』
号 財団法人 大阪市文化財協会 二〇〇〇)
すみまさ
) 野間光辰鑑修、多治比郁夫・日野龍夫編輯『校本 難波丸綱目』(中尾松泉堂書店 一九七七 七七頁)
) 前掲注( ) 三七五頁
一
享保の改革
■一.六代藩主純庸の襲封と大村藩の参勤交代
第二節 享保の改革と飢
(
86
同年十二月、純庸は従五位下伊勢守に叙任された。純庸は、純長の遺言により純尹から三〇〇〇石を分与されていた
純尹は、父純長の遺言に従い、宝永七年(一七一〇)五月、異母弟の純庸を養子とすることを幕府に願い出て許され、
すみつね
として次子ではないとされ (2)
、藩主就任後の宝永五年に生まれた源之助は翌宝永六年五月に死亡した (3)
。このため
総領と認められず、翌六月に死亡した(1)
。宝永二年に純尹が召し使っていた女が生んだ十五郎は、「密通不儀之上出生」
正徳二年(一七一二年)十月十四日、五代藩主大村純尹が四九歳で死去した。純尹には三人の子があったが、藩主
就任前の宝永元年(一七〇四)五月に部屋女中おつやが生んだ亀次郎は純尹四一歳の厄入りのときの子であったため
86
82
87
91
が、純尹の嫡子となったため純尹に返還した。
第二章 藩政の推移と改革
近世編
241
90 89 88 87 86 85 84
92 91
正徳二年十二月七日、純庸は家督を認められ、六代藩主に就任した。正徳四年十一月、純庸は幕府に二月御暇、翌
年九月の参勤を願い出た (4)
。三代藩主純信の代までは二月に帰国を許され、翌年九月にオランダ船の帰帆を見届け
てから大村を立って十一月に参府していたのが、四代純長以降、他の外様大名同様、毎年四月の交代(四月御暇、四
月御参勤)となっていた。
「二月御暇、翌年九月異国船帰帆以後参府」を願い出ると、
「先例之通可 被
心
得 一候」との
レ
二
翌正徳五年正月、純庸は、
回答があり、二月二十八日に帰国を許された (5)
。同年十月、純庸は参勤の時期について幕府にうかがったところ、「来
年秋中阿蘭陀船帰帆以後、被 レ成 二御参府 一候様」との回答を得た (6)
。それまで二月に大村を立っていたのを、秋に大
村を立つように指示されたのである。
お
ぎ
これ以後、大村藩は九月に長崎に赴いてオランダ船の出帆を見届けてから大村を立ち、十一月に将軍に拝謁して、
四ヵ月間ほど江戸に滞在し、翌年二月に帰国の許可を得て、五月に帰国し、一年半ほど大村に滞在して長崎警備に当
たることになった。
■二.正徳・享保期の財政政策
正徳五年(一七一五)十月二十二日、藩主純庸は、元締役雄城弾右衛門・根岸六郎右衛門・喜島助右衛門に対し、
財政難のため純長以来元締役を置いてきたが、毎年困窮して参勤交代に支障が生じることもしばしばあった。そのた
びに深澤三家に頼ってきたため、深澤三家の力が大きくなり、家臣のなかには深澤家の一族となって威勢を張り、藩
主の意向よりも深澤三家の方が大事だというようなものも出るようになった。これは元締役の働きに問題があるから
で あ り、
「此節何も肝要之了簡を相極、家相続之儀申談候迄、右之曇相晴、下々会得之様互ニ可 レ仕節ニ候」と達して
いる (7)
。
また、宝永五年(一七〇八)の借銀整理後に借り入れた借銀が返済できなくなったのであろう、それまでの深澤三
家からの借銀のうち銀一三七〇貫目は利息のみを支払い、残りの借銀(享保三年時点での残銀三四二貫五〇〇目)に
242
項 目
貫 匁
24.660 未(正徳5年)暮新借利、未暮御借銀四ツ宝銀1,370貫目、
戌(享保3年)正月より同6月迄6 ヶ月分の利銀
2.367 上の利銀
102.500 酉(享保2年)暮新借
15.974 上の利銀、月1分、13 ヶ月分
105.201 酉(享保2年)暮御米登り渡し
16.411 上の利銀、月1分2厘、13 ヶ月分
32.980 江戸御賄銀、戌(享保3年)正月より同3月迄大坂仕出銀
4.706 上の利銀、右段々銀出月より12月迄ノ分
37.500 戌(享保3年)盆払銀、田嶋千太郎方大坂ニ而繰合出候銀
3.625 上の利銀、戌(享保3年)6月より同12月迄、閏共に8 ヶ月分
72.500 戌(享保3年)夏新借、浅井弥次兵衛長崎ニ而繰合出ス四ツ宝銀290貫目分
7.540 上の利銀、月1分3厘、6月より12月迄、閏共ニ8 ヶ月分
425.964
合 計
【註】 「御借銀年賦證文」
(大村市立史料館所蔵 大村家史料209-52)から作成。
50.000
8.000
342.500
25.000
12.600
438.100
項 目
寅(宝永7年)春借元、助松屋三郎太郎方仕送加入銀
辰(正徳2年)春借元、出納方より肝煎差出候銀
未(正徳5年)暮借元、年々引合残銀
申(享保元年)夏借元、申夏御賄銀
酉(享保2年)秋借元、江戸大風ニ付御修復銀
合 計
【註】 「當分金銀御借居證文」
(大村市立史料館所蔵 大村家史料209-60)
から作成。
てん にょ
11
書面を差し出したいものはこの三人のほ
9
か 原 典 女・ 村 津 竹 林・ 山 口 清 八 等 へ 割 り
2
印をして差し出すように達している ( )
。
の よ う な 整 理 を 行 っ た。 こ れ に よ る
第二章 藩政の推移と改革
同 年 十 二 月 十 五 日、 大 村 藩 は 深 澤 三 家
から借り入れた借銀について、 表 ― ・ 表
―
と、正徳五年(一七一五)以降、利息のみ
を支払っていた銀一三七〇貫目の利息が、
享保三年正月から六月までの六ヵ月間支
)を、 上・ 下 両 波
近世編
払 う こ と が で き な く な り、 こ の 利 息 と こ
―
243
の利息を借り入れた利息に享保二年暮れ
表
9
から享保三年までの借銀の元利を加えた
銀 四 二 五 貫 目 余(
2
2
10
10
儀何分ニも可 レ被 二仰付 一」と、知行はどのようにでもしていただきたい
貫 匁
と答えている ( )
。
借銀
(新銀)
同月十五日には藩主純庸みずから惣馬廻・者頭・御城代に対し、意
見 が あ る も の は 村 部 源 五 右 衛 門・ 片 山 仲 右 衛 門・ 田 川 半 内 に 申 し 出、
表2-10 享保3年(1718)借銀据え置き分の内訳
ついてのみ返済を行うという借銀整理を行っている (8)
。
借銀
(新銀)
享保三年(一七一八)五月三日、宝永四年からこの年までの「出納会計」が完成した (9)
。累積した借銀の返済方法に
ついて家老から意見を求められた惣馬廻・者頭・御城代は、同月十三日、集まって相談したが妙案はなく、
「知 行 之
表2-9 享保3年(1718)借銀返済分の内訳
表
―
)は、銀四二五貫目余の返済
佐見村・宮村の二〇〇〇石の年貢米三〇〇〇俵で返済し、正徳五年から返済していた借銀の享保三年時点での残銀三
四二貫五〇〇目と宝永七年から享保二年秋までの借銀を合わせた銀四三八貫目余(
が終わるまで返済を停止することにしたのである。
2
おん と
また、この借銀整理と同時に、家臣に増役目を課して財政計画を策定し、元締役音門快酔(大村音門)が大坂に登っ
て助松屋と交渉を行い、助松屋もこれを了承して江戸への仕送り行うことを約束したのである ( )
。翌享保四年四月、
る。
された借銀も約束どおり返済されることはほとんどなく、深澤三家の経営に大きな影響を与えることになったのであ
、享保三年(一七一
このように、大村藩の深澤三家からの借銀は、宝永五年(一七〇八)以降、正徳五年(一七一五)
八)と、返済が滞るたびに返済方法の見直しが行われ、大村藩の年間の返済額はそのたびに軽減されたが、その軽減
この借財整理において具体的な言及はなく、借銀そのものが棚上げ(破棄)されたのではないかと考えられる。
銀四三八貫目余の計二二三三貫目余となった。しかし、利息のみを支払うことにしていた銀一三七〇貫目については、
この時点での大村藩の深澤三家からの借銀は、正徳五年以降利息のみを支払うことになっていた銀一三七〇貫目、
享保三年から毎年返済を行うことになった銀四二五貫目余、この銀四二五貫目余の返済が終わるまで返済を停止した
10
13
〇割増、三ツ宝銀は一五割増、四ツ宝銀は三〇割増とし、享保七年までの五ヵ年で行うように命じた。このため、通
に命じ、新旧の銀の引き替えは、慶長銀・新銀一〇貫目につき、元禄銀は二割半増、宝字銀は六割半増、永字銀は一
しかし、翌享保四年(一七一九)になると幕府が実施した貨幣政策の影響によって藩財政は大きな影響を受けるこ
とになった。享保三年閏十月、幕府はいわゆる新金銀通用令を布告し、同年十一月から新金銀建てで取引を行うよう
■三.蔵米知行制の実施
財政はなんとか再建の目処をつけることができたのである。
この一連の財政再建策を担当した元締役音門快酔は藩主から賞され、衣装代金三枚を拝領しており ( )
、大村藩の藩
12
244
貨量が収縮し、それに応じて「諸色ハ高直、米ハ不相応ニ下直有 レ之ニ付、忽御取続可 被
遊
様無 御
座 」
( )
状態となっ
レ
レ
二
一
たのである。
高率の役目を賦課するよりも蔵米知行とする方がよいと考えられたからである ( )
。
これは、「高部之役目被 二召上 候
よりも本高之御蔵米被 二下置 候
所、世上之聞江も宜有 二御座 一と奉 存
候」とあるように、
一
一
レ
このため、家老・元締役はじめ諸役人が話し合い、享保四年四月二十五日に、
「家中一円御蔵米ニ被 二召成 一、只今
迄取来候地方知行請地ニ被 二仰付 一被 二下置 一候様ニ奉 レ願候」と、地方知行を廃止して蔵米知行とすることを願い出た。
14
これをうけて藩主純庸は、翌二十六日、
「外ニ助力之思案も無 レ之時節之旨ニ候得者、各了簡之通相任候間、蔵米
ニ レ可被 二申付 候
」( )と、地方知行を廃止して蔵米知行を実施することを達した。もっとも、
「繰合成就以後、知行之
一
15
とになっていた ( )
。
口 米 を 上 納 し、
「古来上納被 二仕来 一候本役目最合」、
「中奥被 二相納 一候江戸役目」の両役目のほか五厘役目を負担するこ
八・八㌫)となる。また、知行地は直請として家臣に預けられるので、蔵入地と同様高一石につき一斗のほか夫穀・
五月三日には蔵米制の具体的な内容を示し、家臣への支給額はもとの知行高の三ツ五部(三五㌫)とした。ただし
通常の蔵米は「通用枡」を使用するのに対し、今回は以前使用していた「納枡」で計算するので、
実際は三ツ八分八厘(三
知行の実施は非常時における一時的な措置と考えられていたのである。
地方ニ而只今之通可 二差返 一候」とあるように、財政状態が改善すれば地方知行へ復帰することを約束しており、蔵米
16
■四.畝合検地と定免制の検討
せ あわせ
蔵米知行が実施されることになったため、知行地の書出を申し付けたところ、畝高が不明な土地が多く出てきた。
これは元禄検地以来二〇数年を経過して土地の状態が変わったためであり、享保四年(一七一九)七月には、翌五年
春から蔵入・私領とも畝合検地を実施することを代官に達した ( )
。この検地は、畝高を明確にするためのもので、
「聊
以御所務之筋ニ而無 レ之」と断っているが、元禄検地の要領で行うようにと達していることからも明らかなように、
18
第二章 藩政の推移と改革
近世編
245
17
年貢の増徴をまったく考慮しなかったと考えることはできない。
享保六年(一七二一)八月には、塩納の方法、郡役の徴収、櫨実の売買について改正が行われた。塩は、それまで
塩焼から直接郡代部屋に納めていたが、今後は所々の手代へ納め、手代から郡代部屋に納めるように改められた。郡
役はそれまで実際に人が出ていたのをやめて銀で納めさせ、郡役夫を支配する桜木(小)屋で配分するようにしたも
じょう め ん せ い
のであった。櫨実はそれまで役方に納めさせていたのを自由に売買することを認め、一斤につき売り主・買い主双方
から五厘ずつ納めさせるようにしたのである ( )
。
調査させてほしいと代官が上申している ( )
。翌享保九年二月にも、
「定成納俵数不足なしニ取立候儀、十年之内一両
るしかない、蔵米知行を実施してまだ三年しか経っていないので年貢収納の基準を出すのは難しく、五年間は収量を
また、この時期には幕府などで実施されていた定免制の採用が検討されたが、享保八年(一七二三)八月には、こ
れまで行ってきた土地による出来不出来の調整が難しくなり、少しでも年貢を増徴しようとすれば村全体の免を上げ
19
ないと上申している。
年も可 レ有 二御座 一哉」( )と、定免制では不足なしに年貢を収納できるのは一〇年のうち一、二年あるかどうかわから
20
( )
と、更に検討を続けるように指示し、定免制の実施は見送られた。
これをうけて、朝山文左衛門は、収穫の上中下と正徳三年(一七一三)から享保七年(一七二二)までの一〇年間の
収入を比較して藩主純庸に提出した。この結果、純庸は、
「今稟申スル所ニ三・五年間試ミ行ヒ、然ル後之ヲ取捨セン」
21
。
享保九年(一七七四)五月には、朝山文左衛門とともに土肥藤九郎が郡奉行に任命されて郡奉行が二人となった ( )
土肥藤九郎はそれまでの外海押役に加えて郡奉行を命じられたもので、外海・内海・向地の村を支配することになっ
22
村支配の強化が図られたのである。
島はいままでどおり指方衛士に支配が任された。全藩を地方と外海・内海・向地の二地区に分けることによって、農
た。ただし、浦上から壹岐力(伊木力)までは長崎御用場なので、地方の村々を支配する朝山文左衛門が担当し、江
23
246
■五.深澤家の衰退
享保八年(一七二三)二月、大村藩は江戸からの帰国費用が手当できなかったため、深澤儀太夫勝昌から「他借才覚
を以て」銀五〇貫を借用した ( )
。
「他借才覚を以て」とあるように、この銀五〇貫目は儀太夫勝昌が他から借り入れて
大村藩に用立てたものであった。
翌九年には深澤儀太夫勝昌と深澤儀左衛門幸層(与五郎幸可の子)はそれぞれ銀二五〇貫目ずつを上納し、その功
を賞してそれぞれ采地五〇〇石を拝領した ( )
。このとき儀太夫勝昌が実際に大村藩に上納したのは、享保七年の「才
覚銀」の元利六七貫目と采地五〇〇石の年貢米代銀一〇貫目を差し引いた銀一七三貫目であったが ( )
、享保七年の
25
中より年々修理可 二取繕 一」と達した ( )
。
御用ニ相立候」として五人扶持を与え、
「只今迄之宅長崎往来之駅場ニ而連々御用ニ相立候間、内外破却無 レ之様一家
こうしたなかで、享保十二年(一七二七)十二月、深澤儀平次重昌の子太郎右衛門永興が、不如意のため大村の本町
宅に住むことは難しくなったとして、森園の家来のところに移ることを願い出た。これに対し藩は、
「亡父儀平次段々
当たらないかの額であり、深澤家にとっては経済的な負担の方が大きかった。
また、采地五〇〇石の拝領は極めて名誉なことであり、武士にとっては経済的にも大きな意味をもっていたが、采
地五〇〇石からの一年間の収入は、銀一〇貫目と見積もられているように、銀二五〇貫目の一年間の利息に当たるか
ていたことを示している。
貸付銀も「才覚銀」とあるように、儀太夫勝昌が他から借り入れたものであり、既に深澤家に資金的な余裕がなくなっ
26
意 一」と、
「先祖御用ニ相立候勤功を以」、勝豊に五〇人扶持と深澤の名字を与え、勝豊が成長するまで一族の尾道勇右
「近年内証不勝手ニ罷成、御本陣修理等
享保十六年九月六日には、本家の深澤儀太夫勝昌の子浅井金五郎勝豊が、
之儀難 レ仕」と、本陣役を辞することを願い出た。これに対し藩は、
「願之通被 二仰付 候
而者深沢家及 二断絶 候
儀無 二
本
一
一
27
衛門と浅井新左衛門が後見し、本陣役を勤めるように命じた ( )
。
28
第二章 藩政の推移と改革
近世編
247
24
翌享保十七年八月九日には、本家をしのぐほどの力を有していた深澤儀左衛門幸層の弟でその跡を継いでいた与五
郎幸曹に対し、祖父以来御用銀を差し出し、当年の飢饉に際しても出銀を命じたので、「家業之繰合も成兼可 申
候」と、
レ
江島一島の物成・諸上納一切・鯨運上・民家の支配を命じた ( )
。
すみつね
すみひさ
臣の人事についても前もって相談があれば意見を述べること(第四条)など、二四ヵ条にわたって指示を与えた ( )
。
中仕置きについては前もって相談があれば意見を述べること(第三条)
、役替え・立身・家督・隠居・縁組みなど家
養子となった純長の三男清勝への合力金は清勝一代の間はこれまでどおり差し上げること(第二条)
、 公 辺 勤 方・ 家
享保十一年(一七二六)九月二十四日、隠居を決意した六代藩主純庸は、江戸に上るに当たって世子純富に書を与え、
純庸の生母円了院の隠居料四五〇〇石はこれ以上減少しないこと(第一条)
、五代藩主純尹の代わりに大田原隼人の
二
享保の飢饉
■一.純庸の隠居と七代藩主純富の襲封
このように享保十年代に入ると、それまで大村藩を財政的に支えてきた深澤家は、一転して藩の庇護を受けなけれ
ばならなくなるのである。
29
翌享保十二年閏正月、純庸は隠居と嫡子純富への家督を幕府に願い出て許され、純富が七代藩主に就任した。一七
歳であった ( )
。同月、純庸は大村に住むことを許され、三月三日に江戸を立ち、四月九日に大村に帰城、向屋敷に入っ
30
た( )
。四月二十一日、皆同・鈴田(上・下)・上波佐見・宮村の五村が純庸領とされた ( )
。六月二十一日には、純
31
33
し度」
( )
と、純富に代わって藩財政を再建することに意欲を示している。
候而者年若成河内守前後了簡も附兼可 レ申候、然上者我等隠居なから心之及形合を引かへ何とそ繰合仕居候様ニいた
庸は家老に書状を送り、
「近年元締方繰合混雑、就中去年以来村部源五右衛門大坂不埒絡 二言語 一候、隠居幸ニ引取居
32
一方、純富は享保十二年二月二十八日、初めて帰国を許され、四月朔日に江戸を立ち、五月二日に帰国、翌三日に
34
248
長崎に赴き、翌四日帰城し、家臣に対し、
「代替り家中制法之儀、只今迄被 二相極置 一候通被 二申付 一候間、先例之通可
相守 候
」と、純庸の政治方針を踏襲することを達している ( )
。
一
■二.山林政策
二
「我等存生之内者山林制禁之通可 二申付 一候事」( )と、山林の
純庸は隠居するに当たって純富に送った書のなかで、
取締りを行うことを述べている。純庸は、藩主在任中の享保三年(一七一八)五月に、これまでの財政難のなかで山
35
林を残らず伐採したがその効果がなかったと述べ ( )
、同年八月には、近頃諸木が払底し、このままでは御用にも差
36
し支え、薪にも不自由するとして、山方での諸稼ぎを禁止している ( )
。また、享保七年二月には代官に対し、木を
37
39
ないので場所を決めて願い出るようにと達し、それが分かるまで山林の指図は行わないと伝えた ( )
。このため、家
享保十四年(一七二九)二月、財政難のため、家老の大村織部と大村勘解由が、毎年一〇〇貫目程の伐採であれば
山林に支障はないとして山林を伐採することを純庸に願い出た。しかし、純庸は、きちっと見積もらなければ分から
隠居後も山林の育成に力を入れることを伝えたのである。
粗末にすることなく、山林を仕立てるように達するなど ( )
、 藩 主 在 任 中 か ら 山 林 の 保 護 育 成 に 力 を 入 れ て い た が、
38
出た ( )
。これに対し、純庸は、同月二十四日、必要になったときは家老が山林を担当し、必要がなくなれば純庸に
作願いなどの処理が滞ったため、四月十七日に大村織部と大村勘解由は木願・家作願は家老が担当すると純庸に申し
40
世話をさせるようなものだと不満を示し、
「此以後之儀山之儀我等方より不 二相構 候
間、其通相心得候様ニ」
( )
と告げ、
一
二十六日には山林のことで処罰されたものをすべて許した ( )
。
42
と と も に、
「御隠居様只今迄山仕立させ被 レ遊候思召と我等之存念、乍 レ恐御同然之儀ニ候条、此以後弥以先御代被 二仰
「当春以来山之儀ニ付段々思召不 レ被 レ叶儀被 レ成 二御座 一候故、向後山之儀表江
このため藩主純富は、五月十一日、
被 二差出 一候旨此間各江被 二仰出 一御書付之趣此節拝見、乍 レ憚御尤至極候」と、山林は家老が管理することを承認する
43
出 一候御制法の通けんみつニ相守、下々心得違無 レ之様堅可 被
申
付 」
( )
と、山林の管理を厳密に行うことを達した。
レ
二
一
44
第二章 藩政の推移と改革
近世編
249
41
このため、享保十五年四月には、黒瀬の横目中島甚兵衛が海浜に漂う木を自分のものとし、勝手に木を伐り、許可
を得ず人に家を造ることを許可したとして崎戸に流され ( )
、七月には木場の伐山奉行上野平助が禄の半分を没収さ
れて小給とされ ( )
、九月には西海の伐山奉行今富次郎左衛門が崎戸に流され、横目田添三郎が罷免のうえ采地を没
45
収され、手代岩永文蔵に杉一〇〇株、山ノ口堀内孫左衛門・一瀬兵左衛門に杉各五〇株を植えさせるなど ( )
、山林
46
■三.農村政策
せることになった ( )
。
にかかわり厳しく処罰されるものが相次ぎ、享保十六年九月には、純庸の番頭雄城九右衛門を用人とし山方を兼ねさ
47
享保十二年(一七二七)十月、蔵米知行の実施によって請地となった知行地の年貢納入が延引しているとして、請
地の年貢納入期限を十一月限りとし、万一期限を厳守しなかった場合は請地の支配を取り上げることにした ( )
。
48
ついて細かい点に至るまで支援に当たらせることになった ( )
。
とに作奉行を置き、代官・手代と相談して、春の田おこし、田の植付、水くばり、草さらえ、収穫など、耕作一切に
享保十五年四月には、近年、田畠に作物が十分にできず、年貢に落米が多く、農民に作徳がないのは、農民の生活
が苦しくなって地ごしらえや適期に作付する余裕がなくなっているからであるとして、蔵入地・知行地を越えて村ご
49
享保十七年(一七三二)正月には、近年は村方の諸公役が多く耕作の妨げとなり、年貢上納にも支障をきたすとして、
定夫を増して公役を軽減し、農民の負担軽減がはかられている ( )
。
50
あった。
■四.享保の大飢饉
享保十七年(一七三二)は、閏五月二日から二十五日まで毎日のように雨が降り続き、二十日過ぎからウンカ(粉糠
こ ぬか
このように、この時期の農村政策は、年貢の徴収を厳密に行う一方、農民の公役などの負担を軽減し、耕作の便宜
をはかるなど農業経営に対する支援を積極的に行うことによって、年貢の増徴を図ろうとしたところに大きな特徴が
51
250
むし
さねもり
ほ
ら がい
虫、実盛)が発生した。藩は神社仏閣に祈祷を命じ、村では郷ごとに念仏を唱え、仏名を書いた旗を差して太鼓・鉦
を打ち鳴らし、法螺貝を吹き、神社仏閣をはじめ田の畦で毎日虫追いを行った。しかし、その効果はなく、最初三〇
〇坪(一反)のうち二、三坪であった被害は、七、八畝から一反に拡大した。虫はどんどん増え、羽が生えて飛び立ち、
その抜け殻は水口に溜まってフノリを煮たようになり、魚肉の腐ったような臭いがした ( )
。
地 の こ と だ け で、 知 行 地 は 種 子 不 足 の た め 植 え 付 け が 行 え な い 田 圃 が あ っ た ( )
。大村藩では捕鯨が盛んで鯨油の入
鯨油を田に撒いたところ、虫を駆除することができ、とくに鈴田・皆同・今富・松原の各村ではかなりの田が残っ
た。これは翌年の種子籾とするため村々の庄屋蔵に預けられ、一反に一斗二升ずつ渡された。もっとも、これは蔵入
52
、七月には、
「先 御 代 数 年 来 御 世 話 ニ 而 御 立
六月十五日、藩は被害を受けた田に蕎麦・蔬菜を植えるように命じ ( )
被 レ遊候山之儀ニ候得共、此節下々為 二御救 暫
之間下払被 二差免 一候」と、山林の利用が許可された ( )
。
一
そ さい
手は容易であったが、享保の飢饉における鯨油利用の効果は限定的であったと思われる。
53
「皆無程之損失」、
「委細収納以後御届可 二申上 一候」と幕府に届け出たが、十月八日には高二万
六月二十八日、藩は、
七九七三石余の内損毛高は二万六六四三石余、残りは一三三〇石余と届け出ている ( )
。
55
幕府は九月二十八日に、被害にあった諸藩に石高に応じて、無利息、二年後の享保十九年から五ヵ年賦という条件
で、拝借金を貸し渡すことを達し、大村藩は十二月に大坂において三〇〇〇両を受け取った ( )
。
56
また、幕府は大坂から西国、四国、中国筋へ米を送って売却することを決定し、九月二十三日から米の積み出しが
始まった。しかし、十月中旬から吹き荒れた暴風のため、米が大村に着いたのは十一月晦日のことであった ( )
。大
57
三〇〇〇石を買い入れることを留守を預かっていた純庸に告げたところ、純庸は、
「当所之儀者夏毛畑物有 レ之、其上
六七一匁余)を買い入れた。大村藩の担当役人は、幕府が高一万石に米一〇〇〇石を送ろうとしていたことを参考に、
村藩は、十二月十一日にはじめて五〇九石余(代銀三四貫九一〇匁余)を買い入れ、次いで一一七一石余(代銀九六貫
58
於 二山海 一之渡世莫太ニ有 レ之、今年之飢饉ニ応候而者、餓死之者無 レ之」と、被害はそれほどひどくないので、一五〇
第二章 藩政の推移と改革
近世編
251
54
〇石以上は願い出ないように指示し、最終的に買い入れた米は一六八〇石余であった ( )
。
五匁から五七匁にまで上がった ( )
。
米一俵の値段は、五月から七月までは銀一九匁五分、七月から十一月は銀二三匁、十一月から十二月は銀二八匁、
十二月から翌年八月は銀三四匁となった。このため、八月晦日から銀二四匁五分に値段を定めたが効果はなく、銀四
59
食料を手に入れることができない者のために、享保十八年の三月十五日から四月七日まで、池田村の堤近辺に飢え
人を救済する場所が設けられた ( )
。栄養が不足したためであろう、この年の夏から秋にかけて各地で風邪が流行し
60
た( )
。この飢饉による大村藩の飢え人は一万二二〇〇人余、餓死者は一人もなかったという ( )
。享保十八年の宗門
61
63
64
65
ばんしょこう
66
甘藷が救荒作物として普及するには、青木昆陽の著した『蕃藷考』が大きな役割を果たしたといわれるが、大村藩
こんよう
江戸の大村藩邸はこのことを直ちに大村に伝え、連絡を受けた大村藩は、二月五日に三〇〇斤の甘藷を八個の箱に
詰め、徒士一人、卒一人を付けて江戸に送り、二月二十九日に大岡越前守に差し出した ( )
。
それでは六俵程なんとか取り寄せてほしいとのことであった。
ように依頼された。大村藩の役人は、傷みやすいので一〇俵取り寄せることができるかどうか分からないと答えると、
せることができるかどうか分からないと回答すると、十日に再び呼び出され、種芋にするので一〇俵ほど取り寄せる
このため、享保十八年(一八三三)正月七日、江戸町奉行大岡越前守忠相の用人が大村藩の役人を呼び出し、甘藷
の有無について確認し、国元から取り寄せることができるか尋ねた。大村藩の役人は、傷みやすいので無事に取り寄
ただすけ
「常々琉球芋沢山ニ作仕候」
( )
とあるように、甘藷(琉球芋・八里半芋・大村芋)
大村藩で餓死者が出なかったのは、
が広く栽培されていたからであった。
■五.甘藷栽培
十七年の春から翌年の春にかけて流行った疱瘡で亡くなったものが多く、餓死人はなかったとしている ( )
。
改めでは、例年千三、四百人内外であった死者が、一九六八人(男一四一一人、女五五七人)と増えているが、享保
62
252
から送られた種芋もそれに劣らぬ重要な役割を果たしたのである ( )
。
■六.飢饉後の状況
飢饉から二年後の享保十九年(一七三四)八月五日、大村藩は幕府に対し、
「当夏麦作出来以後、渡世無 二別条 一取続
申候」
( )
と報告している。
67
しかし、月日は不詳であるが、同じ享保十九年に、大村藩領は田畠が少なく、野山が多く、海が広いので、以前か
ら漁業を藩財政の助けとしてきたが、近年は漁獲量が少なく、そのうえ長崎も不景気で漁獲物の商売が振るわず、漁
業に従事するものは困っている。特に捕鯨業は不漁で先年の一〇分の一も捕れない(第一条)
。陶磁器を焼く皿山も
近年衰微している(第二条)、野山で諸稼ぎをする者が大勢いるが、資源が減少して続けることができない(第三条)
、
塩焼き・瓦師・炭焼き等も、樹木が払底して以前のように生産することができない(第四条)
、先年来疱瘡が流行し
て領民が難儀している(第五条)、これらのため、凶年時には余分の費用が必要で、特に享保十七年の飢饉の際は大
変な苦労をした。去年は豊作のため米価が下落し、その上前年の被害もあって、
「勝手向必止ト差詰」り、去年正月に
焼失した江戸白金の中屋敷もすぐには再建できないと報告しており ( )
、財政的に困難な状況にあったことが分かる。
三
元文~安永期の藩政
■一.前藩主純庸の死
69
右衛門・茂左衛門・儀右衛門・嘉右衛門・高以良惣内が三郎右衛門の与党として遠島・所替えなどに処せられた。純
左衛門と妻、二人の男子、一族の六郎左衛門も獄に繋がれ、二人の娘は池島に流された。八月には北川原嘉平次・悦
元文三年(一七三八)五月十三日、前藩主純庸は大村の向屋敷で死去した。同年七月、純庸の家老村津三郎右衛門は、
「家中之害を催し、壱人之我意を以万人之難渋ニ及」( )んだとして知行を召し上げられ、牢舎を命じられた。父九郎
70
庸在世中は、純庸と藩主純富の家臣との間で様々な問題が生じたが、その責任を問われてのことであったと思われる。
第二章 藩政の推移と改革
近世編
253
68
■二.八代藩主純保の襲封
すみひさ
すみもり
寛延元年(一七四八)十一月十六日、七代藩主純富は三八歳で死去し、十二月二十七日、長男純保が家督を継いで
八代藩主に就任した。一五歳であった。翌寛延二年三月朔日、純保は帰国を許され、同月二十七日に江戸を出発、五
月四日治所に至り、五日長崎に赴き、六日に帰城した。同日、純保は、
「我 等 代 ニ 至 テ 家 中 法 令 之 儀 只 今 迄 之 通 申 付
げんたく
ぬ
い
候条、此節分而條目不 二差出 一候」
( )
と達し、従来の政治方針を踏襲することを示した。純保はまだ若かったため、側
72
すみなり
すみやす
すけとも
とは認められないと告げられ、十二月二十三日に純鎮を嫡子とすることを願い出た ( )
。 翌 宝 暦 十 一 年 正 月 十 一 日、
岡藩主有馬孝純の子純養)を養嗣とすることを老中秋元凉朝に問い合わせた。しかし、実子がいるのに養子を取るこ
たかすみ
八代藩主純保は、宝暦十年(一七六〇)十二月十六日、二七歳で死去した。純保には、長男純将がいたが、妾腹の
ため嫡子とはされず、次男の純鎮は前年八月に生まれたばかりであったため、純保の死を秘して有馬吉太郎(越前丸
■三.九代藩主純鎮の襲封
正常化していなかったが、入部祝いとして家臣の役目が一部免除されている ( )
。
用人片山多宮・医師江頭元琢が常に詰め、使番兼大村縫殿右衛門が毎日登城した。七月二十八日には、まだ藩財政は
71
保までの法令を守り、忠節を尽くすことが肝要であると達した ( )
。
家老たちは、純保の訃報を大村領内に告げ、新しく藩主となる純鎮は幼年であるので、歴代の家法、特に純富から純
73
長崎警備を務めることになった ( )
。
宝暦十一年二月十六日、純鎮が家督を継いで九代藩主となった。三歳であった。五月七日、純鎮が幼少であるため
長崎警備について幕府に問い合わせたところ、これまでどおり務めるようにとの指示があり、家老が純鎮に代わって
74
六月十二日には、純鎮は成人するまで江戸に留まるため、この間の規式帳を改め、年始の儀式は一回とし、八朔は
省略することになった ( )
。
75
。翌安永四年三月
安永三年(一七七四)十二月四日 純鎮は元服し、同月十八日、従五位下信濃守に叙任された ( )
76
77
254
十五日、純鎮は帰国を許され、五月十七日に彼杵に着き、十八日に長崎に赴き、十九日に入城した ( )
。安永五年七
月二十八日、入部祝いとして役目のうち半分が免除されている ( )
。
註
79
(
(
(
(
(
(
(
(
(
) 九六〇頁
) 九六一頁
)
) 「九葉実録」巻九(大村史談会編『九葉実録』第一冊 大村史談会 一九九四 二二二頁)
) 前掲註( ) 二二一頁
) 前掲註( ) 二二三頁
) 前掲註(
) 前掲註(
(7) 前掲註( ) 一七七頁
(8) 大村市立史料館所蔵 大村家史料「御借銀年賦證文」
(9) 「九葉実録」巻八(大村史談会編『九葉実録』第一冊 大村史談会 一九九四 二〇四頁)
)
(5) 前掲註(
(6) 前掲註(
(3) 「見聞集」五七(藤野 保・清水紘一編『大村見聞集』 高科書店 一九九四 九五七頁)
(4) 「九葉実録」巻七(大村史談会編『九葉実録』第一冊 大村史談会 一九九四 一六八頁)
(
(1) 「見聞集」五六(藤野 保・清水紘一編『大村見聞集』 高科書店 一九九四 九四二頁)
) 前掲註( )
1
3
3
4
9
9
(柴多一雄)
78
『大村見聞集』 高科書店 一九九四 一〇一〇頁)
) 前掲註( ) 二二二頁
) 前掲註( ) 二二六頁
) 「見聞集」六〇(藤野 保・清水紘一編『大村見聞集』 高科書店 一九九四 一〇一〇頁)
) 「九葉実録」巻九(大村史談会編『九葉実録』第一冊 大村史談会 一九九四 二二一頁)、
「見聞集」六〇(藤野 保・清水紘一編
12 12
12 12
第二章 藩政の推移と改革
近世編
255
2
16 15 14 13 12 11 10
18 17
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
) 「九葉実録」巻一〇(大村史談会編『九葉実録』第一冊 大村史談会 一九九四 二四〇頁)
) 前掲註( ) 二五六頁
) 「九葉実録」巻一一(大村史談会編『九葉実録』第一冊 大村史談会 一九九四 二六四頁)
) 前掲註( ) 二六五頁
19
葉実録』第二冊
) 「九葉実録」巻一三(大村史談会編『九葉実録』第二冊 大村史談会 一九九五 三四頁)
) 前掲註( ) 二八九頁
大村史談会 一九九五 二三頁)
) 前掲註( ) 七頁
) 大村市立史料館所蔵 大村家史料「(浅井金兵衛江五十人扶持并深沢名子被下置ニ付覚)」、「九葉実録」巻一二(大村史談会編『九
) 「九葉実録」巻一二(大村史談会編『九葉実録』第二冊 大村史談会 一九九五 九頁)
) 大村市立史料館所蔵 大村家史料「(借用残銀月割返済ニ付覚)」
) 前掲註( ) 二六八頁
) 大村市立史料館所蔵 大村家史料「(道中御用達金返済方ニ證文)」
21 21
25
編『大村見聞集』 高科書店 一九九四 九七〇頁)
)「九葉実録」巻一二(大村史談会編『九葉実録』第二冊 大村史談会 一九九五 四頁)、前年九月二十四日の純庸の書状では七ヵ
村で五五七七石余とある(大村史談会編『九葉実録』第一冊 大村史談会 一九九四 二九〇頁)
) 前掲註( ) 二頁
) 「九葉実録」巻一一(大村史談会編『九葉実録』第一冊 大村史談会 一九九四 二九四頁)、
「見聞集」五七(藤野 保・清水紘一
25 21
) 前掲註( ) 二九五頁
) 前掲註( ) 四頁
) 前掲註( ) 二八九頁
) 「九葉実録」巻八(大村史談会編『九葉実録』第一冊 大村史談会 一九九四 二〇四頁)
) 前掲註( ) 二一〇頁
21 25 21
) 前掲註( ) 二四六頁
) 「九葉実録」巻一一(大村史談会編『九葉実録』第一冊 大村史談会 一九九四 二九五頁)、「九葉実録」巻一二(大村史談会編『九
19 37
(
(
(
(
28 27 26 25 24 23 22 21 20 19
32 31 30 29
33
40 39 38 37 36 35 34
256
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
葉実録』第二冊 大村史談会 一九九五 一一頁)
)「九葉実録」巻一一(大村史談会編『九葉実録』第一冊 大村史談会 一九九四 二九六頁)、「九葉実録」巻一二(大村史談会編『九
葉実録』第二冊 大村史談会 一九九五 一一頁)、
「見聞集」六〇(藤野 保・清水紘一編『大村見聞集』 高科書店 一九九四
一〇〇六頁)
) 「九葉実録」巻一一(大村史談会編『九葉実録』第一冊 大村史談会 一九九四 二九七頁)、
「見聞集」六〇(藤野 保・清水紘一
編『大村見聞集』 高科書店 一九九四 一〇〇六頁)
) 前掲註( ) 二九八頁
) 前掲註( ) 一一頁
) 前掲註( ) 九八七頁
) 前掲註( ) 三三頁
) 前掲註( )
) 「九葉実録」巻一三(大村史談会編『九葉実録』第二冊 大村史談会 一九九五 三〇頁)
) 「見聞集」五九(藤野 保・清水紘一編『大村見聞集』 高科書店 一九九四 九八六頁)
) 前掲註( ) 二三頁
) 前掲註( ) 六頁
) 前掲註( ) 一七頁
) 前掲註( ) 一七頁
) 前掲註( ) 一九頁
) 前掲註( ) 二〇頁
25 25 25 25 25 25 25 21
) 前掲註( ) 九八九頁
) 前掲註( ) 九九一頁
) 前掲註( ) 九九二頁
) 前掲註( ) 九八七頁
) 前掲註( ) 九九〇頁
) 前掲註( ) 九八八頁
52 52 52 52 52 52 54 51 52
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
第二章 藩政の推移と改革
近世編
257
41
42
61 60 59 58 57 56 55 54 53 52 51 50 49 48 47 46 45 44 43
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
) 前掲註( ) 九九一頁
) 前掲註( ) 四三頁
) 前掲註( ) 九九〇頁
葉実録』第二冊 大村史談会 一九九五 四四頁)
) 松 井 保 男「享 保 の 大 飢 饉 と 大 村 藩 ― 救 荒 作 物 甘 藷 の 普 及 と 利 用 ―」
(大 村 史 談 会 編『大 村 史 談 』第 四 十 九 号 大 村 史 談 会 一九九七)
) 前掲註( ) 九八六頁
) 「見聞集」五九(藤野 保・清水紘一編『大村見聞集』
「九葉実録」巻一三(大村史談会編『九
高科書店 一九九四 九九三頁)、
52 52 51 52
)「九葉実録」巻一三(大村史談会編『九葉実録』第二冊 大村史談会 一九九五 五〇頁)、
「見聞集」五九(藤野 保・清水紘一編
『大村見聞集』 高科書店 一九九四 九九七頁)
) 「九葉実録」巻一三(大村史談会編『九葉実録』第二冊 大村史談会 一九九五 五二頁)、
「見聞集」五九(藤野 保・清水紘一編
『大村見聞集』 高科書店 一九九四 九九八頁)
) 「九葉実録」巻一四(大村史談会編『九葉実録』第二冊 大村史談会 一九九五 七〇頁)
) 「九葉実録」巻一六(大村史談会編『九葉実録』第二冊 大村史談会 一九九五 一一〇頁)
) 前掲註( ) 一一二頁
) 「九葉実録」巻一七(大村史談会編『九葉実録』第二冊 大村史談会 一九九五 一五五頁)
) 前掲註( ) 一五六頁
71
) 「九葉実録」巻一八(大村史談会編『九葉実録』第二冊 大村史談会 一九九五 一六六頁)
) 前掲註( ) 一六九頁
73
) 「九葉実録」巻二〇(大村史談会編『九葉実録』第二冊 大村史談会 一九九五 二二一頁)
) 前掲註( ) 二二二頁
) 前掲註( ) 二二四頁
75
77 77
(
(
(
66 65 64 63 62
67
68
69
79 78 77 76 75 74 73 72 71 70
258
第三節 寛政改革と化政改革
一
寛政改革
■一.幕府寛政改革と大村藩
すみやす
寛政元年(一七八九)八月七日、九代藩主純鎮は城代以下の諸役人を集め、将軍の代替わりを機に幕府では改革が
行われ、全国に「御仁徳」が行き渡るようになったのは、新たに任命された老中松平定信をはじめとする諸役人のは
たらきによるものであると幕府の寛政改革の成果を賞賛し、大村藩においても、
「小吏之面々ニ至迄潔白清廉ニ心を用、
私曲奸佞を制シ、諸士万民正道ニ導キ候者、国家之風儀も立直り可 レ申事ニ候」と、諸役人のはたらきによって藩の
体制を立て直すことは可能であり、家老以下諸役人が心を合わせて職務に励むことが必要であると説いた。特に藩財
政を担当する元締役は、領民の利害にも関わる重要な役職であると指摘し、
「奢者国家之費、賄賂者政事之妨」となる
ので、
「用 二制法 一人心廉直ニ帰シ、上下一致之儀専要ニ候」と達した。幕府の寛政改革が成果をあげているのをみて、
大村藩においても改革を行うことを告げたのである。
「奢を省キ倹約を用候者国家永久之本源」であるとして、衣食住をはじめ万事にわたり質素
これに続いて、家老は、
倹約に努め、賄賂と紛らわしい音信は一切行わないように命じた (1)
。
■二.御教諭
寛政元年(一七八九)十二月、「四民江之御教諭」が出された。「総論」五ヵ条、「諸士江之御示」四三ヵ条、「農民江之御示」
五一ヵ条、
「工匠江之御示」八ヵ条、
「商人江之御示」三八ヵ条からなり、これまで出された同様の法令としては最も整
備されたものであった (2)
。
、政治向きに限らず気
このうち、武士への教諭は、四民の長として、文武に励み、孝悌忠信を守ること(第一条)
付いたことは申し出ること(第二条)、文武、勤め方の心得について互いに話し合うこと(第三条)
、勤め方に精勤す
第二章 藩政の推移と改革
近世編
259
ること(第四条)などを述べ、乗馬の所持、従者の召し連れ、願書・披露状の認め方や質素倹約の具体的内容等につ
いて細かく示している。また、武士の商売を禁止し(第二八条)、武士が百姓地を取り上げ耕作することを禁じてい
る(第二九条)のは、農業を直接営む在郷家臣が多数存在する大村藩の家臣団構造に対応したものであった。
、商売をしたり
農民への教諭は、農業は「国家第一之務」であるとして農民は農業に専心するように命じ(第一条)
農業以外に手を出すことを禁止し(第五条)、田畠を売るときは代官・手代が調査して横目の添書をもって願い出る
ようにし(第三条)、武士・町人に売り渡した土地は年賦をもって請け返させるとともに、以後武士・町人へ土地を
売り渡すことを禁止している(第四条)。また、農村商業の発展に伴う商業高利貸資本の浸透に対応して、高利の貸付、
非道の取立てにより田畠を取り上げることを禁止し(第六条)、「村方ニ而質屋有 之
候得は、所之衰微と相成候」として、
レ
新規の質商売を一切禁止するとともに、質の利息を月二分(二㌫)に定め(第二三条)、私の揚酒商も村方困窮の原因
であるとしてこれを禁止している(第二四条)。このほか、武士への無礼・不作法を禁止し(第二条)
、親子・兄弟・
親類が睦まじくするように命じるなど(第七条)、農民生活全般について細かく指示している。
「商売之道は、国中ニ無 レ之候而不 二相叶 、
国家之便利を足かゆへに被 二立置 一候」と述べ、利欲を
一
商 人 へ の 教 諭 は、
貪ることなく正路に商売を行うように命じ(第一条)、大名その他旅人への無礼・不作法(第二条)、武士への無礼・
不作法を禁止し(第五条)、市中を美しく保つため常に掃除するように命じているほか(第六条)
、衣服、諸職人や日
雇いの賃銭、往還筋の墓所などについて細かく指示している。また、高利の貸付、非道の取立てによって家屋敷を取
り上げることを禁止し(第一二条)、質屋に対しては低利の貸付を促し、質の利息を月二分(二㌫)に定め(第二三条)、
魚屋が漁民への前貸しや沖買によって漁獲物を独占し、高利で販売する行為(第二七条)や米屋が仲間と申し合わせ、
米不足のときに高利で販売する行為を禁止し(第二八条)、
「〆売之儀は、一統之御法度ニ候」と、独占販売行為を禁止
以上のように、四民への教諭は、農村商業の発展に伴う商業高利貸資本の浸透によって農民の階層分化が進行し、
している(第二九条)。
260
家臣の困窮や藩財政の窮乏が深刻化して藩体制が動揺するなかで、武士・農民・職人・商人の四民が、それぞれの身
か りんけん
ご こうかん
じ しん
分に応じてその職分を果たすように諭したものであり、武士を頂点とする身分秩序を維持し、藩体制を再編・強化し
ようとしたものであった。
■三.五教館の設置と文武の奨励
けん
寛政二年(一八九〇)二月五日、純鎮は、花林軒の北に設けた講学所と演武場を、それぞれ五教館( 巻頭写真)、治振
軒と名付け、十五日に開校し、十八日から講義を始めるので、家臣はもちろん農民・町人も志あるものは自由に出席
するように達した (3)
。
二月十五日、治振軒において一刀流剣法そのほかの武技が演じられ、五教館が開校した。また、一三ヵ条からなる
「学規」が制定された。
「学校は聖人・孝悌・五倫の教を明に示し、士太夫より庶人に至るまで、材徳を養育して登庸
し玉ふ場所ニ候」
(4)
とあるように、五教館は、儒教思想を備えた有能な人材を養成する場として設置されたのである。
「一郷一邑より四海に至る迄、其治は文徳武威之両道にして別に治術あるに
二月十八日、純鎮は五教館にのぞみ、
あらず」と、政治における文武の重要性を述べ、
「文武ハ上下の大本にて、如 二車之両輪 一 く
「文 武 共 に 行 れ て 威 徳 」
」、
が備わるものであるが、入部以来領内の様子をみるに、学問・武芸は年々衰え、世情もよくなく、藩を保つ志も立て
ることができないように思われる。そのため、五教館・治振軒を建てて、文武両道に取り組むように申し付けるので
せきてん
あり、文武はもちろん技芸に至るまでひろく行われ、万民が豊楽の思いをすれば、本懐の至り、満足するところであ
ると訓令した (5)
。
。しかし、しだいに講議への出席者が減り、
翌寛政三年八月五日には、はじめて孔子を祀る儀式(釈奠)が行われた (6)
出席者がひとりもなく講議を中止することもあったため、寛政七年八月には、それまで毎月三日、九日、十四日、十
九日、二十三日、二十八日の月六日であった講議日を八日、二十日、二十八日の三日とし、御用・病気等で出席でき
ないもの以外は出席するように命じた (7)
。翌寛政八年二月には五教館で素読を行うものが少なくなっているとして
第二章 藩政の推移と改革
近世編
261
二男・三男でも願い出るように達している (8)
。
■四.藩財政の窮乏と寛政期の財政政策
寛政三年(一七九一)十二月、純鎮は、藩財政はまだ十分改善されたわけではないが、長年役目を申し付けて家臣
が困窮しているとして、翌寛政四年から五年間、役目を半部用捨し、上米も割合をもって減少することを達した (9)
。
しかし、寛政六年(一七九四)正月には、江戸外桜田備前町の大村藩の上屋敷が類焼し、備前町の土地は御用地と
して召し上げられ、上屋敷は永田町に移転することになった ( )
。こうしたこともあって、寛政九年(一七九七)七月
には「公室貧困連債既ニ二万三〇〇〇両ニ及フ」( )と、多額の借金をかかえるようになり、翌寛政十年九月には、五
10
年間にわたって一部半の増役目が命じられることになった ( )
。
11
元」を探すように命じた ( )
。大村藩の「蔵元」は長年助松屋が務めていたが、藩財政の悪化とともに借銀の返済が滞っ
寛政十二年(一八〇〇)二月、純鎮は家老大村織部に対し、大坂において年貢米を引き受け藩財政の資金繰りを担
当する「蔵元」がいないため、
「江戸・御在所御繰合被 二差迫 、
大造之御借金不 及
御
手 一」状況になっているとして、
「蔵
一
レ
二
12
人は六月四日に帰藩した ( )
。
と元締役大村十兵衛・福田幸右衛門は大村を立って大坂に上り、蔵元を定めて、織部は五月二十三日に、元締役の二
たため、
「蔵元」を務めるものがいなくなり、大坂からの借銀が困難になっていたのである。三月二十四日、大村織部
13
15
この申し渡しに先だって家老大村織部の屋敷で協議が行われたが、者頭・惣奉行は当勤非番の実施に異議を唱え、
以前の話し合いの結果に従い「半部尺之増役目」を実施すべきとの意見書を提出した。更に者頭・惣奉行は、家老の
れたものと思われる。
施 す る こ と を 達 し、 当
非番ハ取続第一ニ心懸可 レ申 よ
。 家 臣 を 当 勤 と 非 番 に 分 け、
一
「勤者弥致 二出精 、
」 うに命じた ( )
非番の家臣の収入の一部を藩財政に取り込もうとしたもので、新たに就任した大坂の蔵元との契約に基づいて実施さ
翌七月二十八日、純鎮は城下大給以上の家臣団を集めて藩財政の窮状を説明し、当年から五年間当勤非番の制を実
14
262
説得にも応じず、再び意見書を提出したため、家老はやむなく藩主純鎮に報告したところ、純鎮は意見書を提出した
安田志津摩等に対し、
「累世譜代之家人」とも思えないとして、今回当勤に指名する者から除くと達した ( )
。
「家柄格別之旧臣」として、八朔の賀が終わった二日に謹慎を命じた ( )
。
このため志津摩等は、
「衆並之通」指名されるように願い出るとともに、
「不行届之儀申上、奉 レ違 二背尊慮 重
々奉 二恐
一
入 一候」と、差し控えを願い出た。これに対し純鎮は、安田志津摩等一四人に謹慎を命じ、今道央・朝長図書の両名は、
16
八月七日には、安田志津摩以下の謹慎が解かれ、九日には、
「類世御譜代之儀を無 忘却 、忠精を専とし、安危を
二
一
共ニする之志」に立ち返れば、これまでどおり少しも分け隔てなく召し使うことを達した ( )
。最終的には反対意見
すみよし
ものに至るまで、一軒につき一日三銭、一ヵ月に九〇文ずつ、三年間上納するように達した ( )
。大坂での信用を失っ
同年十一月、世子純昌が将軍に拝謁するため江戸に上ることになり、その費用を大坂から借り入れようとしたが、
返済計画を立てることができず借り入れることができなかった。このため、十一月十九日には、家臣以下領内末々の
のである。
が押さえられ、当勤非番の制が実施されることになったが、財政難への対応策をめぐって藩内に大きな亀裂が生じた
18
すみやす
十一日大村領に入り、直ちに長崎に赴き、翌二十二日大村城に入城した ( )
。
すみよし
享和三年(一八〇三)正月二十一日、九代藩主純鎮は隠居願いを提出、二十三日には純鎮の隠居と長男純昌の家督
が許され、純昌が一〇代大村藩主に就任した。二月二十八日に帰国を許された純昌は三月六日に江戸を立ち、四月二
二
化政改革
■一.純鎮の隠居と一〇代藩主純昌の襲封
た大村藩は、臨時の費用を借り入れることができず、領内の各層からその費用を集めるしかなかったのである。
19
同年十一月十九日、城下大給以上の家臣が登城して入部の祝いが行われた。また、入部祝いとして、寛政十年から
20
第二章 藩政の推移と改革
近世編
263
17
実施されていた一部半増役目を、半部軽減して当年から五年間一部増役目とすることを達し、蔵入地・浮地などに賦
課されていた加勢穀についても一俵につき七勺五才軽減して、当年から五年間一俵につき一升四合二勺五才の上納と
した ( )
。
一方、純鎮は、二月二十五日に帰国を願い出て、翌日許され、三月十四日に江戸を出発、途中伊勢の内宮・外宮、
奈良の春日大社に参詣して、四月九日に大坂から乗船、二十五日帰城し、直に花林軒に入った ( )
。十一月十一日に
21
■二.江戸商人からの借入
五六歳で死去した。
は完成したばかりの中尾御殿に移った ( )
。以後、純鎮は中尾御殿に暮らし、文化十一年(一八一四年)七月十六日に
22
弁給シ、且ツ致仕・襲封ノ際ニ献貨シ、又太公西下ノ旅資ヲ供」したことを賞してのことであった ( )
。
純鎮が江戸を立った前日の享和三年(一八〇三)三月十三日、江戸の財主橋本長左衛門が、五人扶持を加増されて
一〇人扶持を与えられ、手代の紀伊国屋仁兵衛も三人扶持を加増されて五人扶持を与えられた。
「平 常 実 直 ニ 財 貨 ヲ
23
大坂での長崎公銀返済を依頼し、毎年大村から米五〇〇〇俵を送る。公銀の返済は来年から六年で皆済となるので、
する、③寛政九年に年賦とした借金は、来年暮れから二朱半ずつの返済とするというものであり、これを承諾すれば、
年(一七九七)に利下げを行った借金は、今年暮れまでの元利を元金とし、来年暮れからは毎年二朱ずつの元入れと
翌十四日、家老大村直江と元締役原玄蕃は、江戸藩邸に財主三谷勘四郎を招いて借金の交渉を行った。その内容は、
①現在の借金は、今年暮れまでの元利を元金とし、来年暮れからは毎年二朱半の利息のみの支払いとする、②寛政九
24
26
ちりめん
翌十五日には橋本長左衛門等一〇人を饗応して小袖を贈り、十六日には魚籃寺の役僧鸞嶺を饗応して縮緬を贈り、
信州屋文右衛門・加島屋吉兵衛を饗応している。また、十六日には橋本長左衛門に、
「此末不 二相変 一差掛之節者、御
らんれい
この五〇〇〇俵をこれまでの借金の返済に当てるというものであった( )
。また、この日には、
井田伊右衛門を招き、「勝
手方兼而不 行
届 及
御
相談 一候時々弁給過分ニ被 存
候」と、二人扶持を与えている ( )
。
二
一
二
レ
25
264
弁給侯様被 頼
入 候
」と、五人扶持を加増して一五人扶持を与え、十七日には諸問屋を饗応している ( )
。
二
一
ていた ( )
。
しかし、二年後の文化二年(一八〇五)には、これら江戸の財主もほとんど「御手切」となり、橋本長左衛門ひとり
に頼るようになっていたが、橋本長左衛門に対しても全く「御下金」がなく、
これ以上は借り入れることができなくなっ
大坂の商人から借銀することができなかった大村藩は、江戸の商人からの借り入れによって藩財政を維持していた
のである。
27
こうした状況のなかで、同年十二月二十五日、元締役須田増右衛門は江戸の財主を集め、本年から三年間借金の返
済は行わないことを告げた ( )
。そのため、翌文化三年九月には、江戸町奉行根岸肥前守から、本両替町勘四郎が享
31
関係者への見舞金五〇〇両、類焼した金主への見舞金一〇〇〇両も必要となっていた ( )
。 し か し、 商 人 か ら の 借 り
ため、幕府から借り入れた公金二〇〇〇両を返済するようにとの催促があり、江戸の火災で類焼した藩主の親戚など
が手当できない状態となっていた。また、これとは別に、三月四日に発生した江戸の大火(江戸三大大火の一つ)の
田原出雲守友清に嫁ぎ、のち帰家)の娘の屋敷の建設費六〇貫目、八月の江戸への送金一一七貫目、合計二五五貫目
なんとか手当できるが、参府後の藩主純昌の婚礼費用四八貫目や善知院(六代藩主純庸の六女藤、下野大田原藩主大
すみよし
一方、大村では、文化二年(一八〇五)に寛政十二年から五年間の期限で実施していた当番非番の制を更に五年延
長するなど厳しい財政状況が続いていたが ( )
、翌文化三年四月には、同年秋の参府費用や五月の江戸への仕送りは
■三.加勢銀の賦課
のである。
て提出した訴状を渡され ( )
、対処するように指示されるなど、大村藩は政治的にも厳しい状況に追い込まれていく
和二年七月から文化二年九月の間に大村藩に貸し付けた金六一〇〇両(元利金九一二五両余)を返済するように求め
29
30
入れは困難なため、家臣は高一〇〇石につき銭一〇貫文ずつ(二〇石以下は銭二貫文ずつ)
、小奉公人や蔵入地・知
32
第二章 藩政の推移と改革
近世編
265
28
行地の農民・町人・浦人は、総竈数約二万軒に対し、その財力に応じて、二〇〇軒は銭二〇貫文ずつ、三〇〇軒は銭
一〇貫文ずつ、五〇〇軒は銭七貫文ずつ、三〇〇〇軒は銭二貫五〇〇文ずつ、八〇〇〇軒は銭一貫八〇〇文ずつ、八
〇〇〇軒は銭一貫八〇文ずつの加勢銀を賦課することにした。その合計見込額は、家臣からが銭三一二〇貫文、領民
からが銭四万一〇四〇貫文の合計銭四万四一六〇貫文、銀にして四一二貫目程となっていた ( )
。
文化五年(一八〇八)十月には、純昌入部時の享和三年に一部となっていた家臣への増役目を更に五年間延長する
ことが達せられたが ( )
、同年十二月には、ロシア船の来航やフェートン号事件などによって家臣の負担は増してい
33
〇軒は銭三〇〇文ずつ、合計七九一〇貫文の見込みで出銭を命じた ( )
。
〇軒は銭三貫分ずつ、五五〇軒は銭二貫文ずつ、三二五〇軒は銭一貫文ずつ、三二五〇軒は銭五〇〇文ずつ、三二五
るが、農民・町人にはその負担がないとして、武器充実のため蔵入地の農民・町人の竈数一万六二〇軒に対し、三二
34
六日にも、同月二十五日までに上納するように命じている ( )
。
文化六年二月六日には、江戸から帰国費用が用意できないとの書状が届いたため、寛政十三年から三年間上納が命
じられていた日三銭の未納分四〇貫目について、未納者は同月二十五日までに上納するように命じ ( )
、更に翌月十
35
36
また、六月三日には、文化三年に上納が命じられた加勢銀の未納者数十人の名前を書き出して、十五日までに必ず
納めるように命じ ( )
、七月二十八日には、日三銭の未納者数十人にも同月中に納めるように命じ、納めない場合は、
37
39
文化六年(一八〇九)八月二十日、家臣に対し、所務高一〇〇石につき銭七貫文ずつ(二〇石から一〇石までは銭一
貫四〇〇文、九石九斗以下は銭一貫文)、総額二〇〇貫文を三年間上納するように命じた ( )
。商人から借り入れるこ
■四.大坂蔵元の就任と上納銭賦課
蔵米知行のものは八朔知行代から差し引き、地方知行のものは暮れの役目米に加えて取り立てると達している ( )
。
38
その返済を求められていたが、公金の返済は商人からの借り入れのようにうやむやにするわけにはいかなかった。こ
とができなかった大村藩は、領内各層から資金をかき集める一方、江戸・大坂・長崎などで幕府から公金を借り入れ、
40
266
のため、前年冬に家老と元締役が大坂に上って公金の返済について交渉し、八人の銀主がこれを引き受けたが、その
ためには毎年米三万三〇〇〇俵を大坂に送らなければならなかった。既に家臣は、増役目・御加勢銀・日三銭等を賦
課され、長崎警備による負担も重なって極めて厳しい状況にあったが、公金返済のために大量の米を大坂に送れば藩
財政に大幅の不足が生じるため、それを補填するために上納が命じられたのである。
十月八日には、米三万三〇〇〇俵を確実に大坂に送るため、それまで十二月二十九日までであった年貢の上納期限
が、十二月二十五日までの皆納に改められた ( )
。また、農民・町人・浦人には、十二月十五日までに加勢銀を上納
42
じ ふく
文化八年(一八一一)三月十五日、藩主純昌は、大村に下った大坂財主大坂屋佐兵衛を城内の内居間に招いてみず
から時服を与え ( )
、同月二十三日には家老大村堯夫と元締役大村十兵衛に上坂を命じ、借銀について協議させた ( )
。
■五.蔵米知行の実施
三九軒(三九㌫)は五〇〇文で、その合計見込額は銭一六五貫五〇〇文となっていた ( )
。
は五貫文、五軒(五㌫)は三貫文、五軒(五㌫)は二貫文、一〇軒(一〇㌫)は一貫五〇〇文、三〇軒(三〇㌫)は一貫文、
するように命じられた。その割合は、竈一〇〇軒につき、三軒(三㌫)は一〇貫文、三軒(三㌫)は七貫文、五軒(五㌫)
41
44
。文化六年から三年間上納銭
同年九月十七日、地方知行を一年間蔵米知行とし、役目を増すことが達せられた ( )
を命じることによって公金の過半を返済したが、更に地方知行を蔵米知行とすることによって残りの公金をすべて返
43
た( )
。また、九月二十二日には、知行地の農民に一年間、年貢米一俵に加勢米一升を課した ( )
。
〇〇石以上は八部、一五〇石以上は七部半、一〇〇石以上は七部、五〇石以上は六部半、四九石以下は五部半となっ
五㌫)であったが、今回は三ツ(三〇㌫)平均とし、蔵米取の家臣も三ツ平均とした。役目は当勤非番の区別なく、三
済しようとしたのである。蔵米知行による家臣への支給額は、享保四年(一七一九)の蔵米知行実施時は三ツ五分(三
45
47
、同年七月には享和三年
この結果、翌文化九年には「江戸表公金并山内金・日田御郡代所公金御皆済ニ相成」り ( )
以来賦課してきた一部増役目を同年から五年間、半部増役目に軽減した ( )
。農民・町人・浦人等には、なお一年間
49
48
第二章 藩政の推移と改革
近世編
267
46
)
銭の上納を命じたが ( )
、享和三年以来一俵につき一升四合二勺五才となっていた加勢穀は、七勺五才軽減して、五
年間一升三合五勺ずつの上納とした ( )
。しかし、
「莫大之御借財高ニ候得 者、悉御弁付候儀 者、容易ニ出来兼候」(
■六.文化十一年の知行制改革
とあるように、公金以外の借銀はまだ大量に残っており、財政状態が改善されたわけではなかった。
51
「役座之高下ニ随ひ知行高之増減其外之儀も致 二改
―
のように定め、
表
―
のよう
えば六〇石以上を知行する無役の馬廻の知行高は
のみ
【註】
「九葉実録」巻40(『九葉実録』第3冊 289頁)から作成。
格 一」ことを達した ( )
。
具 体 的 に は、 諸 士 の 座 列 を 改 正 す る と と も に、
同 年 か ら 三 年 間、 地 方 知 行 を 蔵 米 知 行 に 改 め、 文
化八年と同じく家臣への支給額を三ツ(三〇㌫)と
し、
「諸士知行、采地・御蔵米之無 二差別 、
是迄之
一
持高其儘被 二差置 、
役席之高下ニ依而、自今以降、
一
表
知行高平等ニ被 二相極 」
という方針のもとに、役職
一
ごとに知行高を
12
な 役 目 割 を 制 定 し た の で あ る。 こ れ に よ っ て、 例
2
六 〇 石 と な り、 六 〇 石 は 二 部、 そ れ 以 上 は 残 り の
12
20
10
10
7
6
両家
御家老
御城代
武者奉行
御中老、御用人、江戸聞番
者頭、宗門奉行
近習頭、郡奉行、勘定奉行、町奉行、山奉行、出納役、御側詰
御供頭、書翰奉行、記録奉行
御納戸頭
平馬廻
御匕医
医者
内用方、大納戸、右筆、組頭、中小姓、
吟味役、元〆方吟味役、勘定方吟味役、目付、台所頭、用番、
元〆付勘定組頭、馬奉行、長崎在番、代官、宗門手合、茶道、
惣船頭
御料理人頭、家大工棟梁、船大工棟梁
御城下平給人
村大給
御料理人
小給
足軽
15
役 席
知行高
石
500
300
250
200
100
80
50
40
30
60
50
40
20
2
石高に応じて五部から七部半の役目を負担するこ
とになった。
表2-11 文化11年(1814)役高割
「三霊」(純庸・純富・純保の位牌)を本経寺から大村城内の広間上段に
文化十一年(一八一四)三月十九日、純昌は、
移し、拝礼焼香して三汁九菜の料理を供え、城下大給以上の家臣団に対し、「旧法耳ニ依り候 而者万民之撫育届兼候」と、
52
50
53
11
268
か ち そ う ちゅう
、
しかし、翌文化十二年九月には者頭中・歩総中が改革に反対する建白書を提出し ( )
十月八日には武役馬廻中・馬廻中・与力中が改革に反対する建白書を提出した ( )
。
「武 備 者 就 中
このため純昌は、十一月二十八日、広間に城下大給以上の家臣を集め、
大業候得者、新制之通ニ 而者国家之費」( )になるとして、備方及び諸士の座列を旧制
重い負担を更に増すだけのものでしかなかったのである。
えるものであったが、困窮した家臣にとっては急を要するものではなく、ただでさえ
うした軍備の増強は、当時頻繁に起こるようになっていた異国船の長崎への来航に備
者頭中が指摘した備方の問題とは、文化五年に隠居した前藩主純鎮が遊軍として創
出した後機を充実し、それ以外の表の軍団も新たに役職を増やしたことであった。こ
求めるものであり、他の建白書もその内容はほぼ同様であった。
旧政ニ被 レ為 レ復被 二下置 一候儀共ニ者被 レ為 レ在 二御座 一間敷哉」と、旧制に復することを
旱魃・大風で凶年となっており、他領の批判もあるという風聞もある。したがって、「御
者頭中の建白書は、前年の改革は「御永久御治安之御裁制」で、少しもその命に背く
ものではないが、時世は静謐で備方の改正は急を要するものではない。家中は疲弊し、
54
に復することを申し渡し、役目を一部半免除することを達した。備方については、表
2部
1部半
1部4厘
1部2厘
1部
3部
2部半
2部4厘
2部2厘
2部
55
表2-12 文化11年(1814)役目割
の軍団は文化十一年以前になかった役名はすべて廃止し、後機は幕府へも届け出ていたため士大将一手、大砲者頭一
手を残してすべて廃止された。
【註】
「九葉実録」巻40(『九葉実録』第3冊 291頁)から作成。
6部半
6部
5部半
5部
4部半
4部
7部半
7部
6部半
6部
5部半
5部
蔵米
余 高
地方
知行高
石
400 ~
300 ~
200 ~
100 ~
50 ~
49以下
蔵米
御 定 高
地方
知行高
石
500
300
250
170 ~ 200
100以下
2
13
第二章 藩政の推移と改革
近世編
269
56
更に翌文化十三年九月二十四日には、役職に応じて定められた知行高を停止して旧制に復すとともに、三ヵ年の予
定で実施されていた蔵米知行も一年短縮して中止され、役目割も当勤非番の制を実施して、 表 ― のような役目割が
制定されたのである ( )
。
57
■七.文政二年の役高改正
先祖の位牌を移すなど、強い決意のもとに「永久之改格」として実施された文化十一年の改革
は、家臣に負担を求める一方で、軍備の増強もはかろうとしたため、家臣の強い反対をうけて
失敗したが、藩財政の厳しい状態は変わらず、家臣の負担の不均衡も続いていた。
)
と、再び役高を改め、
表2-14 文政2年(1819)役高割
「唯今之通爵禄不 二平均 一候而ハ、上下一統永久安
このため純昌は、文政二年(一八一九)七月、
堵 相 続 之 儀 無 二覚 束 一候 」
(
当勤・非番の役目を制定
して家臣の負担の公平化
をはかることを達した。
今回制定された役高は、
表 ― の よ う に、 文 化 十
一 年 に 比 較 す る と、 城 代 以 上 の 上 級 家 臣 に は
変化がないが、御中老が三〇石、者頭が二〇石、
御 近 習 番 頭・ 郡 奉 行・ 勘 定 奉 行・ 町 奉 行・ 山
奉 行・ 出 納 役・ 御 側 詰・ 吟 味 役・ 勘 定 方 吟 味
12
15
10
7
役 が 各 十 石、 御 内 用 方・ 大 納 戸・ 御 目 付・ 御
15
用 番・ 勘 定 組 頭・ 馬 奉 行・ 長 崎 在 役・ 代 官・
20
【註】
「九葉実録」巻42(
『九葉実録』第3冊 349頁)から作成。
宗 門 手 合 及 び 村 大 給 が 各 五 石、 御 料 理 人 頭・
20
14
3部半
3部
2部
1部半
300石~
200石~
199石以下
58
2
蔵 米
当 勤
非 番
地 方
当 勤
非 番
3部半
5部
3部
4部半
2部半
4部
知行高
家 大 工 棟 梁・ 船 大 工 棟 梁 が 各 三 石、 そ れ ぞ れ
60
50
40
25
両家
御家老
御城代
御家老嫡子
御城代嫡子
御中老
御用人、江戸聞番、者頭
宗門奉行、長崎聞番、大坂聞番、船奉行
御近習番頭、大目付、郡奉行、勘定奉行、町奉行、出納役、
山奉行、御側詰
馬廻
御匕医
医者
書翰奉行、御内用方、大納戸、御側詰、吟味役、勘定方吟味役
徒士組頭、中小姓、御目付、御用番、勘定組頭、馬奉行、
目付使役、長崎在役、代官、宗門手合、記録方
御城下給人
御役所目付、茶道、御料理人頭、惣船頭、家大工棟梁、
船大工棟梁
新徒士
村大給
横目、坊主、御料理人
小給
60
役 席
知行高
石
500
300
250
200
150
130
100
80
表2-13 文化13年(1816)役目割
【註】
「九葉実録」巻43(『九葉実録』第4冊 14頁)から作成。
270
表
―
増加している。また役目も、
大 非 番 を 定 め、
表
―
2
三
農村政策の展開
■一.定免制の採用
け
み
じょう め ん
文化十二年(一八一五)八月、年貢収納方法が検見制から定免制に改
められた ( )
。免率はそれまでの一〇年間の免率を平均して決定され
た。これによって、これ以後大村藩では検見は行われないことになっ
たが、
「皆 否 之 田 が
」 あるときは、その田を耕作しているもののすべて
の田を検見して年貢が決定された。大村藩では、享保期に定免制の実
施 が 検 討 さ れ た が、 そ の と き は 代 官 の 間 で 否 定 的 な 意 見 が 強 く 実 施 さ
れなかったのであるが、ようやくこの時期になって定免制が実施され
ることになったのである。
さ ん ちょうぶ ん
しもだけ
小物成は、寛永以来村高に応じて胡麻・茶・堅炭などが現物で上納
さ れ て い た が、
「地方」以外では、西海・三町分・下岳・横瀬浦の四ヵ
村しか小物成を上納しておらず、
「地方」の村も村によって差があった
表2-15 文政2年(1819)役高割
【註】
「九葉実録」巻43(
『九葉実録』第4冊 15頁)から作成。
表2-16 文政2年(1819)役目割
余 高
7部
5部半
のように当勤・非番以外に両役目・
のように地方知行と蔵入知行の別や当勤・非番
15
など勤務状態を細かく反映するものに改められているのである。
2
ため、文政六年(一八二三)に蔵入地・浮地の物成高に賦課することに
【註】
「九葉実録」巻43(『九葉実録』第4冊 15頁)から作成。
16
よって増徴をはかり、更に品ごとに値段を定めて銀で上納させること
になった ( )
。
第二章 藩政の推移と改革
近世編
271
非 番
大非番
御広間御 幼年、
番・夜廻 長病、
等一通相 無勤
勤者
両役目
当 勤
御家老、出座中、御近習番頭、御側 両家、御城代、武役(大給以上)、宗
詰、加番、御番医、書翰奉行、御内 門奉行、長崎聞役、在番、御備方、
用方、大納戸、吟味役、勘定方吟味役、 五教館御目付、文武師範、御境方、
中小姓(馬廻大給)
、御目付、御用番、 御武具方、盗賊方、御稽古頭取、五
勘定組頭、代官、記録方、諸役所目付、 教館学頭、馬奉行、町与力、宗門手合、
茶道、新徒士、坊主組頭、御料理人頭、 山手代、鎖口番、村方吟味役、御普
御料理人、坊主、旅勤
請手代、御道中方、横目、
(古国)徒士、
惣船頭、地島村役、諸年番、諸所番所、
勘定人、諸組小頭
大非番
4部
3部
非 番
3部
2部
当 勤
2部
1部
両役目
1部
半部
地方
蔵米
59
60
また、大検見による増籾を、天明二年(一七八二)に蔵入地・浮地・新地の年貢一俵に籾一升五合を賦課するよう
に改め、加勢穀と称していたが、文化十四年(一八一七)には土地方普請料と名付けて普請会所へ納めるようにして
いる。更に、文化七年に切畠一段につき小麦二升ずつ、五年間蔵入地・知行地に賦課したが、文化十四年には小麦普
請料と名称を改め、普請会所へ納めるようにした ( )
。
匁を納めさせた ( )
。郡役夫は享保六年(一七二一)に銀納とされていたが、文化期になって全面的に代米納化・代銀
石につき籾二升を納めさせるとともに、蔵入地・知行地とも、竃一軒につき日数三日と定め、三日の賃銀八〇文銀三
郡役夫は、一五歳から六〇歳までの男子に賦課される労働課役で、日数を決めて使役されていたが、文化十二年(一
八一五)には物成高と竃数に対して賦課されることになり、蔵入地・浮地・請地高は一石につき籾四升、新地高は一
■二.郡役夫の改正
て小物成の代銀納化を実施したのである。
以上のように、十九世紀に入ると大村藩は、定免制の採用によって一定額の年貢を確保して財政収入の安定化をは
かるとともに、各種目の賦課貢租を新設して収入の増加をはかったのであり、農村での商品貨幣経済の発展に対応し
61
つ徴収された ( )
。
郷内の労働に使役される郷役夫も、一五歳から六〇歳までの男子に賦課される労働課役であったが、これは幼年・
頭人・女頭人・倒着・明竈等を村の竈数の一割五分とみなして実際の竈数から差し引き、残りの竈一軒につき三日ず
納化されることになったのである。
62
実際に労働に出ない場合は銭四〇文を徴収することにした ( )
。
て銭四〇文を徴収し、手代加勢夫も、蔵入地の農民一軒につき年に二日徴発していたのを、同じく年半日に改正して、
横目・手代が使役する加勢夫については、横目加勢夫は、旗組足軽以下蔵入地・知行地の農民一軒につき年に二日
ずつ徴発してきたのを、課役対象を在郷家臣である村大給・小給へも拡大して、一軒につき年に半日の加勢夫賃とし
63
64
272
諸役所の雑用には、従来詰定夫のほか詰日雇夫として各村から二五名を徴発し、足らない場合は三浦村から松原村
までの城下周辺の村から臨時に徴発していたが、文化十一年(一八一四)には大村に請負人を置いて日雇夫を手配す
ることになり、その支給米七〇俵のうち四〇俵を領内各村に賦課することになった(三〇俵は藩が支出)。また、文
化十二年の改正によって郡役夫が代米納化・代銀納化されたため、普請会所の労働力として新たに三浦村から松原村
までの城下周辺の村から日雇夫を徴発して使役していたが、文政七年(一八二四)には定夫一五名と定めて大村に親
方を置き、年間の足留賃米七五俵を蔵入地に賦課するようになった ( )
。
の油屋が営業を認められるなど、次第にその数を増し ( )
、酒屋も、天明八年(一七八八)には城下町大村と農村を合
年(一七五二)に新たに城下町大村の二名の油屋が営業を認められ、天明四年(一七八四)には農村を含めて更に五名
大村藩においては、十八世紀前半までは漁業・林業・皿山を除いて、農村での商品流通はあまりみられなかったが、
十八世紀後半になると、元文三年(一七三八)以降、城下町大村の一商人が領内販売を独占していた油屋は、宝暦二
■三.商品流通政策の転換
商品貨幣経済の発展による農民の階層分化に対応する賦課方式へと再編成されたことを示すものであった。
こうした労働課役の代米納化・代銀納化は、商品貨幣経済の発展に対応したものであり、日雇夫の請負化は、商品
貨幣経済の発展によって分解した貧農層の賃労働者化を反映したもので、藩権力の個々の農民に対する賦課方式が、
65
わせて三九軒が存在するなど ( )
、農村商業の発展がひろく認められるようになった。
66
「九州列藩悉ク検場ヲ設ケ、商売ノ物件ニ口銭ヲ課スル」状況を
こうしたなかで、寛政九年(一七九七)十二月には、
受けて、大村藩でも領内に出入りする荷物に口銭が課せられるようになった ( )
。しかし、享和元年(一八〇一)二月
には、
「近年市中一統商売方不景気」となり、領内への入船も大幅に減少したため、新たに賦課された日三銭を納める
68
ことができないと、城下町大村の商人たちが口銭の免除を願い出たため、領内の商人の荷物は口銭が免除され、領外
の商人の荷物にのみ口銭が賦課されることになった ( )
。
69
第二章 藩政の推移と改革
近世編
273
67
( )
、同年
文化十一年(一八一四)正月、前年閏十月に元締役兼用人に任じられた大島兵衛が国産方用掛を命じられ
三月の郡奉行への達において、
「産物方被 相
立 候
付、追々国産之品出来候ハヽ、御領内一統成丈国産ニ而相弁可 レ申」
二
一
えんとう
の薬屋から販売させたほか、焼物や田植え簑・田植え笠など具体的な商品をあげて、他国産の使用を禁止し、国産の
と、産物方を設置したので今後は極力国産品を使用するように命じ、紀伊国器物は産物方から渡し、富山の薬は大村
70
類など、各種の他国産商品の販売を禁止した ( )
。
使用を命じた ( )
。また、町奉行への達においても、被笠・髪飾・縮緬紙のほか、煙筒・男女雪駄・裏付下駄、焼物
71
註
(柴多一雄)
73
(
) 「九葉実録」巻二三(前掲註(
) 「九葉実録」巻二三(前掲註(
) 三二〇頁)
) 三四一頁)
1
(
(
) 長崎県史編纂委員会『長崎県史』史料編 第二(吉川弘文館 一九六四) 七七頁
)「九葉実録」巻二三(前掲註( ) 三一〇頁)
(1)「九葉実録」巻二三(大村史談会編『九葉実録』第二冊 大村史談会 一九九五 二九八頁) 以下の註において『九葉実録』第二
)と頁数を記す。
冊を参照している場合、
( )には前掲註(
領国経済の再建・強化をはかるようになっていくのである。
このように、大村藩においては、文化期になると産物方を設置して、他国商品の流通を排除し、国産品の奨励とそ
の流通をはかっていくのであり、同年七月には、櫨役所を産物会所に改め、商品作物である櫨の専売制を実施して ( )
、
72
1
) 三一一頁)
) 三一三頁)
) 「九葉実録」巻二三(前掲註(
)「九葉実録」巻二四(前掲註(
1
) 三四六頁)
) 三二四頁)
1
(
(
) 「九葉実録」巻二四(前掲註(
) 「九葉実録」巻二三(前掲註(
1
1
1
1
(
(
(
9 8 7 6 5 4 3 2
274
) 三三八頁)
) 「九葉実録」巻二四(前掲註(
) 三七七頁)
) 三七七頁)
1
(
(
) 「九葉実録」巻二四(前掲註(
) 「九葉実録」巻二五(前掲註(
1
) 三六〇頁)
) 三七一頁)
) 「九葉実録」巻二五(前掲註(
) 「九葉実録」巻二五(前掲註(
1
) 三七九頁)
) 三八〇頁)
1
(
(
) 「九葉実録」巻二五(前掲註(
) 「九葉実録」巻二五(前掲註(
1
) 三八一頁)
) 三八二頁)
1
(
(
(
(
) 「九葉実録」巻二五(前掲註(
) 「九葉実録」巻二五(前掲註(
1
) 「九葉実録」巻二五(前掲註( ) 三八八頁)
) 「九葉実録」巻二七(大村史談会編『九葉実録』第三冊 大村史談会 一九九六 三頁) 以下の註において『九葉実録』第三冊を
1
参照している場合、
( )には、前掲註( )と頁数を記す。
) 「九葉実録」巻二七(前掲註( ) 一三頁)
) 「九葉実録」巻三〇(前掲註( ) 七五頁)
) 「九葉実録」巻三一(前掲註( ) 九八頁)
) 「九葉実録」巻三一(前掲註( ) 一〇二頁)
) 「九葉実録」巻三〇(前掲註( ) 八二頁)
) 「九葉実録」巻三〇(前掲註( ) 八八頁)
) 「九葉実録」巻三一(前掲註( ) 一一三頁)
) 「九葉実録」巻二七(前掲註( ) 九頁)
) 「九葉実録」巻二七(前掲註( ) 一〇頁)
) 「九葉実録」巻二七(前掲註( ) 一一頁)
) 「九葉実録」巻二六(前掲註( ) 四一一頁)
) 「九葉実録」巻二七(前掲註( ) 一一頁)
) 「九葉実録」巻二七(前掲註( ) 二頁)
20
(
1
1
20 20 20 20 20 20 20 20 20 20 20 1 20
(
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(
(
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(
(
(
第二章 藩政の推移と改革
近世編
275
20 19 18 17 16 15 14 13 12 11 10
33 32 31 30 29 28 27 26 25 24 23 22 21
(
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(
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(
(
(
(
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(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
) 「九葉実録」巻三三(前掲註( ) 一四九頁)
) 「九葉実録」巻三四(前掲註( ) 一六九頁)
20 20 20 20 20 20 20 20 20 20 20 20 20 20 20 20 20 20 20 20 20 20 20 20
) 「九葉実録」巻四二(前掲註( ) 三四七頁)
) 「九葉実録」巻四三(大村史談会編『九葉実録』第四冊 大村史談会 一九九六 一三頁)
) 「九葉実録」巻四一(前掲註( ) 三二〇頁)
) 「九葉実録」巻四一(前掲註( ) 三二三頁)
) 「九葉実録」巻四一(前掲註( ) 三二六頁)
) 「九葉実録」巻三九(前掲註( ) 二六一頁)
) 「九葉実録」巻三九(前掲註( ) 二五八頁)
) 「九葉実録」巻四〇(前掲註( ) 二八三頁)
) 「九葉実録」巻三九(前掲註( ) 二五七頁)
) 「九葉実録」巻三九(前掲註( ) 二六〇頁)
) 「九葉実録」巻三九(前掲註( ) 二六〇頁)
) 「九葉実録」巻三八(前掲註( ) 二四二頁)
) 「九葉実録」巻三八(前掲註( ) 二四三頁)
) 「九葉実録」巻三八(前掲註( ) 二四五頁)
) 「九葉実録」巻三六(前掲註( ) 二〇五頁)
) 「九葉実録」巻三八(前掲註( ) 二三八頁)
) 「九葉実録」巻三八(前掲註( ) 二三九頁)
) 「九葉実録」巻三六(前掲註( ) 二〇二頁)
) 「九葉実録」巻三六(前掲註( ) 二〇二頁)
) 「九葉実録」巻三六(前掲註( ) 二〇四頁)
) 「九葉実録」巻三五(前掲註( ) 一七八頁)
) 「九葉実録」巻三五(前掲註( ) 一八三頁)
) 「九葉実録」巻三五(前掲註( ) 一九一頁)
58 57 56 55 54 53 52 51 50 49 48 47 46 45 44 43 42 41 40 39 38 37 36 35 34
276
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
(
) 「九葉実録」巻四一(前掲註( ) 三一九頁)
)「郷村記」附録下(藤野 保編『大村郷村記』第六巻 国書刊行会 一九八二 四二八頁) 以下の註において『大村郷村記』第六
巻を参照している場合、
( )には前掲註( )と頁数を記す。
) 「郷村記」附録下(前掲註( ) 四二九頁)
) 「郷村記」附録下(前掲註( ) 四二九頁)
) 「郷村記」附録下(前掲註( ) 四三〇頁)
) 「郷村記」附録下(前掲註( ) 四三三頁)
) 「郷村記」附録下(前掲註( ) 四三四頁)
) 二八一頁)
) 二八七頁)
) 「九葉実録」巻二四(前掲註( ) 三六二頁)
) 『九葉実録』巻二六(前掲註( ) 三九六頁)
) 『九葉実録』巻四〇(前掲註( ) 二八二頁)
) 「九葉実録」巻二二(前掲註(
) 「九葉実録」巻二二(前掲註(
60
) 『九葉実録』巻四〇(前掲註( ) 二九一頁)
) 『九葉実録』巻四〇(前掲註( ) 二九四頁)
) 『九葉実録』巻四〇(前掲註( ) 三〇四頁)
将軍綱吉(延宝八~宝永六年在職)はキリシタン宗門改めを強化し、旧信徒の子孫を網羅的に登録する類族改令を
施行。潜伏信徒の摘発と、旧信徒子孫への監視体制を一段と強化した。
一
潜伏信徒発見と大村藩
第四節 潜伏キリシタンの発見と長崎警備
(
20
60 60 60 60 60
1
1
1
20 20 20 20 1
諸国に残されたキリシタン宗団は、幕府諸藩の強権策により多くが孤立し、漸減への途を余儀なくされたが、大村
第二章 藩政の推移と改革
近世編
277
60 59
73 72 71 70 69 68 67 66 65 64 63 62 61
藩など西九州の一部では幕藩の禁教体制に「順応」しながら独自の宗教観を護持し、自存の途を堅固に歩んだ。そう
したキリシタン信徒の一群として、寛政年間(一八〇〇年前後)に始まる一連の浦上崩れや五島移住などで、隠(閉鎖
的「秘教」)から顕(他者への「伝道」)へ多様な動きを見せた大村藩信徒が存在した。
■一.大村藩の類族改め
延宝元年(一六七三)四月、幕府は「預」に処した領内宗徒について「近き親類縁者」、死亡者の諸データ(出身地・
年齢)、
「ころひ候者」が何人訴人し赦免とされたか、差口した者の妻子・親類を含めた書付の作成を命じ、隔年の「証
文」
提出を命じた( )
。右は後年の類族改めの先例となるが、大村藩では翌二年春
「邪教の徒死刑及ヒ赦免ノ九族ヲ録上」
( )
したとする記録を残している。文中に見える「九族」については高祖父から玄孫までの血統を指すか、傍系を含め
1
)
3
年号月日
名 両判
一領中在々所々家来之下々又者ニ至迄、若此以後不審成者於有之ㇵ、早々可申達候、以上
一切支丹転之者並類族之者迄、常々行跡疑敷儀無御座候事
一切支丹宗門、従前々無懈怠今以相改申候、先年被仰出候御法度書之趣弥相守、私領中在々所々ニ至迄、遂穿
鑿、家中之者下々迄、是又致詮議候処、不審成者無御座候事
〔史料1〕宗門改之証文案 (
幕府は、天和元年(一六八一)三月諸国の切支丹宗門改について、従来の隔年から毎年報告に改め、四~十一月
中の証文提出を諸大名・旗本に命じた。大名提出の証文案については、次のようである。
一.一紙証文の提出
とを期している(『九葉実録』第一冊 七八頁)。
では貞享元年(一六八四)朝長郷左衛門を宗門方となし、江戸で幕府の宗門改役と折衝させ、藩の施政に遺漏なきこ
た総称か未詳であるが、字義どおりに解すると、郡崩れを経た大村藩では大部の書類を作成したこととなる。大村藩
2
278
何之誰殿
何之誰殿
右は藩主名で幕府の宗門改役(大目付・作事奉行兼役)に提出する文書の雛形であるが、文面からキリシタン類
族令(貞享四年)施行後の書式となる。大村藩では幕令に従い、その後も毎年同証書を提出したが、宝暦五年(一七
かん お もとかず
五五)の提出文書について問題が生じた。少し時代が下るが、大村藩を含め諸国諸藩の宗門行政に関わる問題として、
この一件を見ておく。大村藩は慣例に従い、この年幕府宗門奉行(大目付)の神尾元籌に一紙証文を提出したが、
すみもり
同紙文言に「此以後と申所之以之字落字有之」とする一字欠落の注意を受ける事態が生じた。江戸藩邸を通じて同
件を知らされた在国中の藩主純保は不快感を示し、提出文書の作成について従来の手続きを改定。
「右 筆 方 作 成 →
書翰奉行改め→宗門奉行立合い、藩主署名」から、新たに「二季届帳・一紙証文の清書・控作成→一同評定所に持参、
か
し
家老立会改め→藩主署名」へと、手順を改定している(『九葉実録』第二冊 一三一頁)。
この一件は文書の瑣末な「瑕疵」であったが、以下のような歴史的意味を派生したと見られる。一紙証文は形式上、
藩主が両判(据判・印判)を認めて幕府に提出した文書であり、文中で「家中之者下々迄、是又致詮議候処、不審成
者無御座候」〔史料 〕と確言した誓文である。他方で、上記の瑕疵問題は「一字」の過誤も看過しないとする幕府重
職の監督姿勢が、類族所在の諸藩と公領代官に示されていたことを意味する。宗門改証書の三条では「若此以後不
審成者於有之ハ、早々可申達候」とする条文が付されていたが、諸大名が毎年提出した一紙証文には歴史的な重圧
感が年々付加されたことであろう。以降のキリシタン問題について諸国諸藩では、幕府への報告義務を極力不透明
化させ「隠匿」しようとする反作用の傾向を胚胎させたことが推察される。藩領の事例については後述する。
二.類族改令
幕府は貞享四年(一六八七)六月二十一日類族改を発令し、旧キリシタンの掌握とキリシタン容疑者について全
国的に追跡した(『御触書寛保集成』所収一二三九号)。同令は、キリシタン宗徒とその身内について、本人・本人
第二章 藩政の推移と改革
近世編
279
1
同前・類族に区分し、本人の「ころひ」(転宗)時期と「訴人」の状況、転宗後の檀那寺・宗旨に関する委細書上げ、
「こ
ろひ」前の子供(本人同前)・
「ころひ」後の子供(類族)について、人別に書上げることを制令している。ほか、類族
ぶ っ き りょう
各人の「忌掛り候親類並聟舅」の吟味と書付の提出を規定している。忌掛りは、近親者の死穢を忌む服喪期間のこ
とで、前年幕府が諸大名に命じた服忌令では高祖父母から曽孫玄孫、伯叔父姑、兄弟姉妹、従父兄弟姉妹、甥姪ま
で忌服の日数を規定していた(『御触書寛保集成』所収九五〇号)。
類族改令は、キリシタン本人・本人同前の子孫を類族と認定し、その数代にわたり出生から死亡まで、人別の登
録と切支丹奉行(宗門改役)への届出を命じた監視令となる。この段階で幕府がキリシタン子孫の追及と把握を意
図した背景については、信徒根絶策が未達成であるとする幕閣の認識と、貞享二年(一六八五)マカオからポルト
ガル船が長崎に来航したことなど内外の諸状況があろう。また諸国諸大名に命じて、折々書き上げさせていた二代
三代にわたる宗徒子孫の処置について、政策課題を集成させる思惑があり得たろう ( )
。
4
同令はキリシタン本人の血縁者について「忌掛り候親類」を類族としたが、類族の範囲や書式について諸国諸藩
から切支丹奉行への質疑が続発したことが推測される。貞享四年の幕政は、
「賞罰厳命」を基本とする将軍綱吉の統
治下にあった。
そのため幕府は元禄八年(一六九五)の規定(三
五 条)で 細 則 を 示 し、 父 母 転 び 前 の 男 女 子 は 本 人
写真
―
〕。
父母兄弟、当人の縁組・離別・義絶、転居、宗旨替、
(国立公文書館所蔵 内閣文庫(架蔵番号)
180-74「憲教類典」 第九十一冊)(5)
写真2-4 類族の範囲
同 前、
「男段々続」の場合玄孫まで類族とすること
などのケースを定めた〔
4
類族は、 出生から死去まで、 存命帳・死失帳の
作 成 が 諸 国 諸 藩 に 命 じ ら れ、 名 前・ 住 所・ 年 齢、
2
280
97
115
212 2
68
26
94 出家・遁世・剃髪、死去など、節目の出来事を人別に記入し、七月・十二月の各十日を限り二
無記入
季の届とされた。
(盛朗)
三.諸国と肥前の類族数
3027以上
類族帳の全国的な集計値については未詳であるが、海老沢有道が紹介した京都町奉行所の記
録『元禄四辛未年京都覚書』( )
所収の「切支丹帳数」(一〇八藩・代官所、陸奥~薩摩)から、そ
3027 無記入
の一端が知られる。同記録には欠損部分があるが、収載の国々と肥前国の類族について数量的
10
〕となる。
(盛佳)
・
五嶋万吉
―
5338 表
1717
に概括すると〔
3621
九州では存命・死失の合計数が最多となるが、類族最多の藩領は豊後臼杵の稲葉家領で、存
命・死失数併せて二万一三九八人であり、三四冊に記載している。
(存命)二千三百□□人、
(死失)千百七十七人 大村因幡
大村藩に関しては「拾参(冊)、
守」と記載されており、存命・死失を併せると藩の類族数は三四七七人以上となる。
同上の数字と併せ、肥前国の類族数を掲出すると〔 表 ― 〕となる。存命に関していえ
ば、大村藩領では平戸・五島藩領より少ない。ほか長崎の数字は不明であるが、元禄六
年町年寄高木作兵衛が長崎奉行宮城越前守に「六櫃」提出している ( )
。長崎では大部の
26
松平主殿頭
2
帳数が作成され、江戸送りとされたことが推察される。以上から、キリシタン時代にお
(棟)
6
ける大村藩の「前史」を踏まえると、同藩が提出した類族数は肥前の諸藩のうちでは少な
松浦壱岐
(忠房)
い観がある。
第二章 藩政の推移と改革
近世編
281
3477以上
五嶋兵部
7
18
地域 藩・代官所 帳数 存命人数 死失人数
本州
89 214 18476
8019
四国
5
10
191
183
九州
14 127 39760 15048
合計
108 351 58427 23250
合 計
1177
(純長)
18
四.元禄三年の大村藩届帳
9
存命
冊数
領 主
2
幕府に提出した文書の一部複本として、元禄三年(一六九〇)の「肥前国彼杵郡大村牢
内御預古切支丹存命並死亡帳」( )がある。片岡弥吉が学界に紹介した ( )
。同帳は、郡
8
表2-17 元禄 4 年(1691)の諸国の類族帳数(7)
死失
13 23□□
大村因幡守
17
表2-18 元禄 4 年(1691)の肥前の類族帳数・人数
崩れ関係者の存命・死失帳と、寛永年間以来の古切支丹書上げなど三部からなる。それぞれ、次のようである。
南蛮人(名・年齢不明、寛文五年牢死)
、
南蛮人みける(年齢不明、元禄
㊀「大村牢内御預古切支丹覚」 大村領以外の「御預」切支丹の書上げである。存命、男一人、死失一六人(男一〇
人、女六人)を記録している。存命之者は、 山三郎(長崎浜ノ町、追記・元禄九年牢死)。死失之者では、2南蛮
人(名・年齢不明、寛永十九年牢死)、
4
1
女(名・年齢不明、長崎船津町、慶安四年牢死)、
長左衛門(年齢不明、長
新蔵(長崎今魚町、年齢不明、承応元年牢死)
、
たつ(年齢不明、長崎浜ノ町、寛文八年牢死)
、
長三郎(年齢不明、長崎豊後町、
11
三郎兵衛(年齢不明、平戸領生属村、慶
ふぢ(年齢不明、長崎桜町、寛文十一年牢死)
、
いきつき
仁兵衛(年齢不明、平戸領生属村、慶安二年牢死)、
13
不明、長崎筑後町、寛文六年牢死)、
崎丸山町、寛文十年牢死)、
延宝五年牢死)、
9
6
し も こしき
女(名・年齢不明、平戸領生属村、慶安
を図ったルビノ Rubino Antonio
の一行九人は穴吊りの刑で殆ど死去したが、姉崎正治は同上の一行と見るべきであ
るとしている ( )
。ほか、牢死者は長崎奉行に報告され、死骸焼却・海中投棄に処された。
三年牢死)となる。うち、2~4は寛永十九年(一六四二)「薩摩国え漂着」した者と伝える。同年薩摩下甑島に潜入
16
つる(年齢
三年牢死)、 忠兵衛(年齢不明、長崎本大工町、慶安二年牢死)、 女(名・年齢不明、長崎豊後町、慶安四年牢死)、
3
善左衛門(年齢不明、平戸領生属村、慶安三年牢死)
、
17 15
12
8
5
安二年牢死)、
14
10
7
、
㊂「領内古切支丹死失之者」
合計六人(男一人、女五人)を収める。1ふく(寛文元年牢死五〇歳、在牢三年)
2まん(寛文三年牢死五七歳、在牢5年)、3伝四郎(万治元年牢死二〇歳、在牢一年未満)、4こま(寛文二年牢死
七五歳、在牢六四年)。うち、1は矢次村兵作の子である(『九葉実録』第一冊 一六三頁)。
左衛門(元禄十六年牢死五〇歳、在牢四五年)、7千松(享保四年牢死七四歳、在牢六一年)、8ちよ(享保七年牢死
在牢四五年)、4六左衛門(宝永七年牢死六六歳、在牢五二年)、5いせ(享保五年牢死七四歳、在牢六二年)
、6五
㊁「領内古切支丹存命之者」
合計八人(男六人、女二人)を収める。1長次郎(追記・正徳三年牢死七二歳、万治
元年から在牢五五年。以下同)、2伝之助(元禄四年牢死六〇歳、在牢三三年)、3九郎助(元禄十六年牢死六八歳、
10
282
二一歳、在牢四年)、5すぎ(元禄三年牢死七八歳、在牢三二年)、6ふく(寛文元年牢死六三歳、在牢三年)
。うち、
1は矢次村兵作の女房で、長崎送りを経て大村牢内に戻され、牢死後、長崎奉行の命で「死骸焼海中」投棄の処分
とされた。6は、子供の源六が切支丹本人であることにより収容された「尊属」の例となる。
同上の書付㊀㊁㊂は、同年十二月幕府宗門改役の藤堂伊予守良直(大目付)・小幡三郎左衛門重厚(作事奉行)等
に提出された。末尾の集計と差出・宛先は次のようである。
〔史料2〕元禄三年十二月二十三日付大村純長報告書末文(『御触書寛保集成』所収一二三八号)
領内古切支丹 合拾四人 内 男七人 六人存命
壱人死亡
女七人 弐人存命
五人死亡
(純長)
惣合 三拾壱人
右ノ通遂僉議相違無御座候、且又存命九人ノ者常々行跡唯今迄疑敷儀無御座候、以上
元禄三庚午年十二月二十三日 大村因幡守
小幡三郎左衛門殿
藤堂伊予守殿 五.大村藩の切支丹類族
ろ けん
元禄四年十一月大村藩は「寛永・万治二次ノ邪教ノ胤子百二十三人ノ内四十三人既ニ滅フ、現存八十人ノ本支類
族ヲ詳録シ、存命簿六冊・死亡簿六冊、在獄簿一冊」を作製し、幕府に提出したと記録を残している(
『九 葉 実 録 』
第一冊 一〇一頁)。すなわち大村藩は自藩の類族について、寛永年間(一六二四~四五)の露顕信徒と明暦三年
(一 六 五 七)の 郡 崩 れ の 関 係 者 に 限 定 し た こ と が 知 ら れ る。 寛 永 年 間 の 宗 徒 に つ い て は、 藩 主 純 信 が 寛 永 十 二 年
第二章 藩政の推移と改革
近世編
283
(一六三五)
「余党七十一人を捕へてたてまつる」とする記録を残している ( )
。関係史料については大村市立史料館
に「史料袋」
( )
のみが所蔵されており、遺憾ながら内実は不明である。
11
見聞集』
七〇四頁)。前掲の〔
表
―
〕と比べると、
「六〇〇人」減少していることとなる。
18
大村藩の類族については、元禄三年幕府に届け出た類族帳の複製本 ( )が残されており、片岡千鶴子の研究があ
る( )
。複製本は前半が失われている和綴本で、見出し用の「札」が付されている。原本には末尾の記載から「本人
2
その総数と身分・家職については、元禄十二年(一六九九)とみられる卯ノ正月晦日付覚の時点では「切支丹宗門
親類帳面之者」、
「存生之惣人数凡男女千八百人程」とし、類族の多くが「百姓其外商人・諸職人」としている(
『大村
郡崩れについては、同一件を摘発した長崎奉行黒川正直が「切支丹之一門搦候者大村ニは一人も人残り有間敷」
(
『大村見聞集』 六三八頁)と藩側に痛言していたが、大村藩は幕府への類族報告を冷静に限定したこととなろう。
12
13
、五兵衛系(一四人、子)
、五郎作
市蔵系(七人、曾孫)、勘左衛門系(二六人、孫)、九郎助系(九人、妻の甥姪)
系(一一人、甥姪)、才十郎系(二〇人、甥姪)、十助系(二三人、孫)
、仁右衛門系(二二人、妻の甥姪)、助左衛門
類族は本人・本人同前を「類祖」とする家系であるが、同人数と追記の下限を摘記すると以下のようである。
妙宣寺旦那
元禄十五午六月大村之内池田百姓与四左衛門ニ嫁ス
一きよ 肥前国彼杵郡郡村 当年十四歳 元松原 池田
市蔵孫伊之助四女 法花宗
複製本冒頭の記載は、次のようである。
となっている。
その後のデータが追記されており、下限は明和四年(一七六七)左記のとじ系の孫吉太夫の娘里うが死去した記録
弐拾九人」「本人同前三拾八人」の子孫「四百拾人」が記されたと見られるが、前半逸失により二三七人の名が見える。
14
284
系(二六人、曾孫)、伝右衛門系(八人、子)、とじ系(一九人、曾孫)
、兵作系(八人、孫)、まき系(一〇人、孫)、
まつ系(六人、孫)、孫次郎系(一五人、曾孫)、諸兵衛系(七人、子)。
ひと や
郡崩れにより信徒の多数は斬罪に処されたが、助命された者には終生の牢舎か、類族の名を付された政治的・社
会的「人屋」体制が待ち受けていたこととなる。
天保三年(一八三二)大村藩は幕府の宗門奉行に類族切証文を提出した。
六.大村藩の類族切証文
〔史料3〕天保三年十二月廿五日付類族切証文
此度類族死失御届申達候通拙者領分肥前国彼杵郡江串村之内木場之百姓古切支丹角内玄孫吉三郎倅利平儀去卯
十二月晦日七十九歳ニ而病死、同郡同村之百姓古切支丹角内玄孫六三郎伜幸七儀当辰五月五日八拾弐歳ニ而致
病死候、然上は拙者領中在々所々家中之者下々又者ニ至る迄類族之者壱人も無御座候、依而類族切証文如件
辰
天保三 年十二月廿五日 大村丹後守 両判
じ そん
村上大和守殿
(『九葉実録』第四冊 一四二・一四三頁)
神尾備中守殿 「類族切」を報告し
すなわち江串村木場の百姓角内の耳孫二人が死去し、藩内の類族が絶えたことを幕府に報告、
たこととなる。角内については「江ノ串ノ角内」であろうか。但し、角内の妻と娘は明暦三年十一月末佐賀送りと
され翌年斬首されている ( )
。角内を類祖とする図については、次のようである。
角内─子某─孫某─曽孫某─玄孫吉三郎─耳孫利平
郡崩れ前後の禁制と、その後に強化された藩のキリシタン探索により、大村領内の潜伏信徒は絶対的な窮地に陥っ
…玄孫六三郎─耳孫幸七
■二.大村藩内の潜伏信徒
第二章 藩政の推移と改革
近世編
285
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たが、宗儀の価値観と習俗は地下で脈々と保持され、幕末~維新期に及んだ。世にいう潜伏キリシタンである。潜伏
信徒は宗教的な隔絶と閉塞により、それぞれが秘儀化し「変形」を余儀なくされたが、他方では伝承の維持と他者へ
の「宣教」により、個人・個々、家族を核心とする「家文化」の形成と、同親縁者から「外部」に繋がる同心円状の自存
宗団を形成し存続したと見られる。
潜伏信徒の「宣教」については、大村藩でも宝暦十一年(一七六一)「古来段々書留」を集約し、次のように述べている。
〔史料4〕宝暦十一年巳年付一冊抄
一切支丹宗に勧め入候ニハ、譬は諸芸ニかたどり近道なる様ニ申なし、或ハ一旦ニ合点可仕様なる道を教へ、時
ニ至て其人の憂・困窮何事ニよらす届有之節、折を伺ひ奇妙なる事を申、術を致し人をだまし候付、村々ほか
奇妙之儀申ものニ心を付可申事
(
『大村見聞集』 七〇九頁)
一欲ニ迷わせ金銀を取らせ、又ハ病人等有之候得者薬をあたへ祈念等仕、懇ニいたし頼母敷おもひ入候様ニ致し、
則ち其薬ハ邪宗之妙薬と云、祈念ハ邪宗之奇特と勧め入候事有之ものゝよし、心を付可申事
一狂気・病気におかされ候へハ切支丹之事申出る儀可有之候間、心を付可申事
右から潜伏信徒は、日常生活の中で様々な知見や工夫を伝え、隣人の困りごとには手を延べ、金品の用立てや投薬・
祈念のほか、病気の患いがあると切支丹の教えを説くことがあったこと等が知られる。
大村藩の領内におけるキリシタン宗徒の潜伏状況については解明の途上にあり、全貌を描き切れてはいない。関連
する研究として、キリシタン遺跡や遺物に視点をあてた志田一夫・加藤十九雄・田中 誠・大石一久 ( )ほか、黒崎
地方(三重~神浦村)など、
「お帳中心の潜伏キリシタン」)に関する田北耕也・古野清人 ( )
、五島地方を中心とする宮
17
16
﨑賢太郎 ( )ほか、多くの蓄積がある。本節では、浦上地方も西彼杵半島の島嶼部・沿岸部に存続した潜伏信徒につ
いて、大村藩の記録に残された記事から潜伏状況を点描する。
18
286
一.浦上崩れと大村藩
浦上地方は有馬晴信からイエズス会に寄進され、近世初頭の公領時代においてもキリシタン信仰が重厚に培われ
た地帯である。慶長十年(一六〇五)には浦上の一部が大村領と交換されたが、元和九年(一六二三)七月には武士
身分と見られる山口常八・樹口作右衛門・田川常右衛門・西田丑五郎・門田忠太郎・野中六太夫とそれぞれの妻子
一八人が「改宗致難」
「断罪不苦」と、外海代官冨永次左衛門に訴えており、次左衛門から藩の宗門方に上書「覚」が
差出されている ( )
。同地方にはその後も信徒が潜伏し、寛政二年(一七九〇)、天保十三年(一八四二)
、安政三年(一
八五六)、慶応三年(一八六七)と四次にわたり崩れが生じた。本書では同上のうち、一番崩れと大村藩の一部領民
や関係者の動向について点描する。関係史料については、長崎歴史文化博物館に「異宗徒」第一號 ( )
等の簿冊や同
上の関係文書類が収蔵されているほか、片岡弥吉による翻刻がある ( )
。
浦上一番崩れ
20
ては、
「三十年」程前〔宝暦十年(一七六〇)頃か〕の鴻ノ浦切支丹崩れで失われたとしている。切支丹の「鴻ノ浦崩
盗候、銭ニ仕候付りニ而盗取申候」
(「異宗徒」第一號(甲第二号)
)などと供述した。それらのうち「異仏」につい
年)九月段階の牢問では、異仏について「三十年已然切支丹事にて鴻ノ浦崩れ候付其後は所持仕候者無之」
、
「邪仏
藩領への「異教浸入」
(『九葉実録』第二冊 三一七頁)に備えたが、以降「宗旨疑敷」藩領民が拘束され、長崎奉行
所の取調べを受けた。大村藩を出奔した作次郎(四一才、前名万次郎)は無宿者として収容されたが、戌(寛政二
寛政二年 大村藩では、同年十月九日藤田雄右衛門を藩領浦上の横目として増員。役所造設と扶持米を給付し、
経て庄屋罷免・収牢者釈放で落着したが、同四年二月再度事件が蒸し返され、同八年まで被疑者が拘禁された。
寛政二年七月庄屋高谷永左衛門は、浦上村山里の山王社に八八体の石仏造立を企画したが村内に異論が生じた
ことにより、村民の一部を「宗旨疑敷者」と告発。一九名が長崎奉行所に拘禁された。同一件は、双方の対決を
21
れ」について、片岡弥吉は神ノ浦「外海町」
(長崎市神浦)としているが、当時の信徒露顕については未詳である。
第二章 藩政の推移と改革
近世編
287
19
異仏(切支丹聖具)が「銭」になったことにより、作次郎は賞金稼ぎを目論んでいたこととなろう。なお「崩」が、
キリシタン露顕の歴史用語として既に使用されていることが知られる。ほか作次郎は、大村領浦上と自身の家族
について「大村領浦上村ハ□之外道を用ひ申候、私親も信仰し城下に被捕申候」と内情を暴露している。
寛政五年 この年、公領浦上と三重村(長崎市三重町ほか)の住民に関わる事件がいくつか生じた。その一、
長崎奉行所は、この年四月浦上村家野郷の庄五郎を取調べた。同人は数年前綿商売で大村領三重村(長崎市三重
町ほか)に滞在し、仮寓先の久五郎から「宜宗旨」を勧められ受洗した ( )
。庄五郎はその後「不宜宗旨」と気づき、
寛政五年四月廿六日付で「耶蘇宗門転書物之事」( )と題する改宗血判証文を、船番左崎逸平に提出。長崎奉行は
22
(
)
。その後の追及で久五郎一族は、五島男鹿浦に居付いたことが判明し、五島藩が一家を捕えて訊問した。妻
庄五郎が供述した三重村久五郎の身柄拘束を大村藩に指示したが、久五郎は同年八月一族一六人と出奔している
23
で訴状 ( )を奉行所に差出した。同件はその後審理されたが、仙左衛門は吟味筋御預に処され、同年十一月三日
その二は、三重村の仙左衛門(六一歳)の一件である。仙左衛門は、中野郷源左衛門所持の「サンタマリヤテウ
スキリシタン」などと記載された「異法之書物」を入手し、高谷永左衛門に提供。永左衛門は、同年九月廿二日付
(千)
法を布教・授洗した事例となるほか、五島がキリシタン宗徒の逃亡先の一つであったことが知られる。
子は、久五郎が死去しており「何事も不相弁」と答えたという。この一件は、三重村民が浦上から来た商人に宗
24
26
して知られている。この一件については、大橋幸泰の研究がある ( )
。奉行と大村藩士は、幕府宗門奉行からの
さだ え
その三は、大村領民三名(後掲)に関する処置である。同扱いについて、幕府の宗門改役を念頭においたと見
られる思惑と通信が、長崎奉行平賀貞愛と大村藩士横山元右衛門との間で交わされており、
「八月」付文書 ( )と
門は、奉行所から「逆転」処分を受けたこととなる。
死亡。身柄を預かった大村藩用達の品川慶次郎が死亡を届け、奉行所から検使が送られている。原告側の仙左衛
25
問合せについて、信徒については「宗風」不詳として対応するとしている。宗門改の「空洞化」への兆しが看取さ
27
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れる。
)
寛政七年 大村領浦上では、吉兵衛、勝五郎、次平、利平ら四名が被疑者とされ、寛文四年(一六六四)頃か
ら長崎奉行所、ついで大村藩庁で取調べがなされた。藩側からは、寺請などを保証する文書提出がなされ、この
年大村藩御用達預に処されている。
〔史料5〕卯正月十六日付品川慶次郎願書 (
乍恐口上書 一大村領□□吉兵衛・勝五郎・次平・利平私御預之侭ニ而大村城下え差帰被置被下度旨先達而役人方より追々
奉願置候ニ付今般御帰シ可被下候条御用等御座候節者前々日被仰出候ハヽ御用御間ニ合候様取計差出候様
可仕候、此段就御尋以書付申上候、以上
卯正月十六日 大村御用達 品川慶次郎印
御奉行所
寛政の浦上崩れは、紆余曲折の末「庄屋対村民」の村方騒動の形で落着したが、幕藩体制下のキリシタン禁制
が形式化・形骸化の様相を顕著に見せ始めた一件となった。
二.年未詳「外目沖島」の邪宗問題
「外目沖島之者邪宗方口書之事」と文題が付されている(『大村見聞集』 七一二頁)。
この一件の記録については、
藩役所でなされた取調べ記録を抄録したものと見られ、年月を欠落させるなど、年次・場景を見えにくくさせる加
おおひき
工が採録時になされた観がある。
「外目沖島」については、文中に見える「松嶋」と「当嶋」との通行記事から、最初
に大蟇島(長崎市池島町)が想起される。ただし、同島は神浦村(長崎市神浦江川町ほか)沖合の池島南西の小島で
あり、一時期開墾されたがその後耕作放棄された島である(『大村郷村記』第六巻 六一頁)。ほか文中で「沖島」の
住民(「百四拾壱軒」
「御番所・山伏」)について言及しており、表題の「外目沖島」が大蟇島となるか疑義が生じる。
第二章 藩政の推移と改革
近世編
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28
関連史料の発掘が待たれるが、
「沖島」については平嶋(西海市崎戸町平島)の可能性があろう。同島は大村領の西端
に位置し、江島の西で五島(中通島・頭ケ島)に近い。島の家数は幕末期の竃数で「百七拾軒」
「山伏一軒」であり、
平嶋在番所が置かれていた(『大村郷村記』第六巻 四〇一頁)。
「頭取」など宗団の要務にあった四人の女性の証言が記されている。頭取しや、関右衛門母せき、七五
本文には、
郎母つや、文太郎母頭取きんなどである。
(市)
頭取しやは「私生名まどれんな」とし、幸兵衛の子には「じわんな」と名付けたほか、孫左衛門の姥が「紙」を持参
し「仏ニたまし入れ」を乞われ、家の竹藪に「朝夕茶湯唱」をなしたと証言している。
関右衛門の母せきは、平嶋の勝左衛門の叔父一郎次が存生のうちに「切支丹巻物」を持っていたと証言。久七の
家内とめが同巻物を見せられ、唱事を習ったとし、次の一節を伝えている。
ウヤマツテモヲスワガユクサキハ切支丹デツガナクシキヤウニカイリイリベキタノムツヽシンニタタノミタテ
マツリ候カゼノヤクナミノヤクヲフナダマニ御チカラヲイレテ一ノミナトニ御引入ナサレテクタサレ奉願候
「船魂」入力の祈祷句が見えると
難解であるが、冒頭で、我が行く先は「切支丹」であること、中途で「風波の厄」
ころから、宮﨑賢太郎が指摘する創作儀礼の一つであり、海上における無事を祈った唱事となろう。
七五郎母つやは、平嶋勝左衛門の妹はせが神浦に嫁いだが、はせから婚家も同じ「仲間」であると聞いたこと等
を証言している。勝左衛門について、つやは「ごしやうき」の節には朝からの精進を人々に勧め「自分は役儀も有之
付而昼迄は致精進」と話談したという。すると、勝左衛門は藩の役務に関わる身分であったろう。ほか唱事として「十
一月十五日晩唱」「人ニ咄ノ節咎晴し」「死人宿元出立之時唱」「死人導」「葬送之節墓ニ而」「入より四十六日 日之間之
唱」「夜分休時身之祓ひ」「朝起之時身之祓ひ」「旅立之時之唱」などがあったと証言している。
文太郎母で頭取のきんは、二~三年前「村中」から「頭取」を頼まれたこと。引継ぎにあたり「書物と申もの一向
無御座」としており、祝祭日を規定する重要な日繰帳等はなかったようである。このため節目の行事として、
「年々
290
冬之土用さめ之翌日を入と定、其日卵を食う、四十六日目を晴として又々玉子を喰ひ申候」とする。同記事は、年々
相異する陽暦と陰暦の降誕祭、移動聖日から算定される祝日(復活祭)について、隔絶状態の島の信徒が大よその
目安として算定し、後世に継承されたものであろうか。死者の葬送について「髪ハ無残剃り申候、尤十文字を紙ニ
縫付、塵を十文字にニ結ひ紙に包、棺之内ニ入申候」とする。拝所については、城山、恵美須之脇、同所かんかけ
を挙げ、生月の人々が来て拝礼したという。ほか、死者へのその他の唱様について「我等ガレイウスサンタクルス
ノ御印ヲ以、我等ガ敵ヲノガセタマウレイウスバアテルヒイリスヒヾリス」と伝える。例年藩が実施した絵踏の節
には「頭を不踏と申儀者承居候得共、御役人様前ニ而左様ニは仕得不申、心ニおもい候侭ニ而帰り候上ニ而右御断申、
神酒備候事」と、絵踏には心理的な抵抗感があり償いの神酒を捧げたとしている。さらに、この島では「御番所山
伏仲間 ニ而無御座候」とし、役人・番所以外の島中がすべて信徒であったことを述べている。
「沖島」の潜伏信徒は中年女性が「頭」もしくは重要な役を担当し、信仰生活の中心的存在となっている点で興味
深い。頭は世襲的ではなく、村人の推挙で宗団の「頭取」となり、切支丹の巻物もしくは口伝えで唱事を習い、日
常生活のなかでは子どもに「邪名」(洗礼名)を授け、人々の望むものに「魂入れ」をなし「聖物」とした。そのあり方
が正統的なキリシタン儀礼といえるか否か関連史料の発掘が待たれるが、同宗団が自らの信心について「切支丹」
と意識していたことは注目される。死人導や「旅立之時之唱」にも幕藩制下で絶対的禁句というべき「切支丹」がち
りばめられている。
「外目沖島」の邪宗一件は郡崩れのような展開を見せず、主要人物の回心と「家別ニ諸道具」回収、
島民改宗などの措置により、決着が図られた。ただし、文中で頭取らが証言した松嶋などの関連情報は、藩内に波
紋を及ぼしたことが推察される。
三.文化元年七月の松島「異教」一件
大村藩は、文化元年(一八〇四)七月十九日の出来事として「小目付兼密用掛田川伊兵衛及ヒ、宗門手合一人松島
ニ往キ、嶋中人民ニ血誓セシム、是ヨリ先キ、松島異教ヲ奉スト告クルモノアリ、尓来百方密捜ストイヘトモ証迹
第二章 藩政の推移と改革
近世編
291
ナ シ、 尋 テ、 其 首 魁 ニ 類 ス ル モ ノ 四 人
しゅかい
ヲ監倉ニ置キ、厳ニ詰問ス、遂ニ首伏シ、且ツ、島中人民悉ク其事ニ干
六月 十一日
渉スルヲ告ク、故ニ此挙アリ」
(『九葉実録』第三冊 二八頁)とする記録を残した。すなわち松島(西海市大瀬戸町
松島)で「異教ヲ奉」じる者について告訴があり、藩の密用掛田川伊兵衛と宗門手合により厳重な捜索がなされたが
証跡はなかったこと。次いで「首魁」四人を収監、首服させ、島民に「血誓」させたとしている。
松島異教については、
「異教」がどのような宗教であったか問題が生じる。幕府は元禄四年(一六九一)日蓮宗につ
いて不受不施派に加え悲田宗を「邪義」として禁止している(『御触書寛保集成』所収一二四〇号)
。ほか寛保元年
(一七四一)には、同宗の三鳥派を加え「法を勧候者」
(『古事類苑』宗教部 一〇三二頁)を遠島に処すと制令してい
るが、大村領へ同上諸派が伝法されたか未詳である。但し、大村藩では松島「異教」問題について真宗の正法寺(法
き
ど
頭)( )
と同末寺が収拾に動いており、日蓮宗系「邪義」の可能性は低い。他方で、浄土真宗の「異法」として、長 忠生は元禄十一年(一六九七)長崎奉行所が取調べた肥前国基肄郡城戸村(対馬藩田代領、佐賀県三養基郡基山町)
の事例を報告している ( )
。また御蔵門徒(御蔵秘事)がキリシタン宗門まがいの秘密結社とされ、明和四年(一七
29
六七)教主善兵衛(江戸日本橋按針町)以下が遠島 ( )などに処されており、浦上一番崩れの折に大村藩士と長崎奉
30
行間で話題とされているが、真宗系の上記「邪義」が大村領松嶋 ( )
に伝法され、島民を教化し得たか未詳である。
31
掛を隠密機関としている(『九葉実録』第三冊 四五頁)。伊兵衛は「松嶋異教」徒を探索し、
「首魁」
(宗団頭取)四名
を捕えて「首伏」させ、島民全てから「血誓」(血判証文)を徴して改宗に導いたこととなろう。
た。密用掛について河野忠博は「大目付の支配下、重要な秘密を要する内容の捜索など情報収集」の役職とし、同
は
「異教」としてこの一件を概要する。藩庁では異教探索のため、小目付兼密用掛田川伊兵衛と宗門手合を松島に送っ
に潜伏キリシタンに関わる人的交流ルートがあったことから推論される。関係史料の発掘が待たれるが、現段階で
「異教」について、キリシタン宗門と解する可能性はある。前記の「外目沖島」一件で関右衛門母せきが松嶋西泊
の大工郡平次・四郎兵衛兄弟に言及し、四郎兵衛の母が「松嶋頭取役」であったことを証言しており、
「沖島」と松島
32
292
さき
この一件は、その後波紋を広げた。文化八年九月二十六日大村藩は「曩ニ異教ノ事ヲ以テ監倉ニ拘留スル瀬戸ノ
上野俊蔵・立木領右衛門・小佐々丈助ノ士跡ヲ除キ、俊蔵ヲ崎戸ニ、領右衛門ヲ黒瀬ニ、丈助ヲ江嶋ニ竄ス」
(『九
葉実録』第三冊 二四五頁)とし、松島の対岸瀬戸(西海市大瀬戸町)
で拘禁した三名の士籍を剥奪。それぞれ崎戸(西
海市崎戸町)・黒瀬(西海市大島町黒瀬)・江嶋(西海市崎戸町江島)に配流した。上記の松島異教一件と瀬戸におけ
る上野俊蔵ら三士拘束までの過程は未詳であるが、松島から瀬戸に「異教」露顕が続いたことが推測される。ほか、
きっきょ
士籍にある者が「異教」に関わっていたことで、藩庁には衝撃を与えたことであろう。
次いで、同年十月十五日「此日正法寺末寺等瀬戸異教ノ事ニ桔居セシヲ以テ、光照寺・信行寺ニ白無垢ヲ賜ヒ、
真光寺・浄満寺ニ住職ヲ許シ、安養寺・西福寺ニ褒詞ヲ授ク、又瀬戸ノ小佐々利助・土肥左平次・石橋新左衛門・
小佐々平助・小佐々四郎兵衛、異教ニ誘動セラレサルヲ以テ褒詞ヲ授ク」
(
『九葉実録』第三冊 二四六頁)と記載を
残している ( )
。文中に見える寺院は浄土真宗であり、正法寺末寺の光照寺(神浦村)
・信行寺(崎戸浦村)
、真光寺(雪
浦村)・浄満寺(式見村)、安養寺(千綿村)・西福寺(多以良村)などが「異教」問題の衝に当たり褒賞されたこと。
瀬戸の小佐々利助等四士が「異教ニ誘動」されなかったことなどが知られる。
異教は、松島に止まらず瀬戸にも広がりを見せ、宗旨の「宣教」がなされていたことが看取される。
四.三重・神浦「先非」一件
松島・瀬戸に「異教」が生じた事実は、藩に衝撃を与えた。更には一件処理の過程で、三重村・神浦村で新たな
露顕が発覚した可能性がある。同一件については史料上定かでないが、藩の密用方の動きと藩主大村純昌が残した
文書から類推される。
大村藩は文化十一年(一八一四)四月十五日「三重・神浦押役二人ヲ廃シ、加藤左司馬ニ兼帯セシメ、又瀬戸・松
嶋・池嶋ノ密事方を併管」
(『九葉実録』第三冊 二九六頁)させた。加藤左司馬は、出羽国秋田出身で諸国を遍歴し
大村家に仕えた異色の経歴を持つ藩士である ( )
。左司馬は三重・神浦の番所支配のほか、瀬戸・松嶋・池嶋の密
34
第二章 藩政の推移と改革
近世編
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33
事方を兼ねたほか、同月二十七日廃止された六嶋目付にかわり、改めて松島・福嶋・瀬戸・池嶋・三重・神浦の密
用方を命じられた。さらに藩庁では、浅田有右衛門に平嶋・江嶋・蠣浦・崎戸四ヵ所の密用方を命じている(『九
葉実録』第三冊 二九七頁)。密用に関係した者には誓詞提出が命じられたほか、
「類役之儀一統」停止、六島寄合は
無用と制令され、上記の「異教」露顕とその問題が外海地方で広域的に封印され、内外に秘匿されたことが類推さ
れる。
)
藩の一連の措置のうち、三重・神浦が密用方の加藤左司馬の差配下におかれた経緯は不明であるが、藩主純昌が
残した文書から僅かに読み取れる。同文書は年欠文書であるが、
「九葉実録」巻四十二所収文化十三年八月朔日の条
に、次の文書を収載している。
〔史料3〕(年欠)大村純昌書状 (
(『九葉実録』第三冊 三四〇頁)
段、是全用懸申付候其方共兼而心懸を以引廻し方宜敷、役先之面々出精相励候儀令感悦候、依而此段相賞候
三重・神浦之儀従先年密用示方心痛候処、先般従加藤左司馬相諭候趣意ニ依而両村一統先非を悔正道ニ元付候
35
大村藩の領内では、潜伏信徒の宗団が政治的・社会的環境の変化に応じて変異の相貌を見せつつ、幕末・維新期
五.大村藩の潜伏キリシタン
されていたことなどが挙げられよう。
となる。背景として、大村藩には郡崩れの折辛酸を嘗めた経験があったほか、一紙証文〔史料2〕の呪縛性が充積
リシタン宗門であれば、藩は幕府に届け出る法的義務があったが、実態は隠密裏に処理し、公儀には秘匿したこと
が所管した事案となろう。この一件は、松島・瀬戸に類する「異教」に関わりがあることが推察される。
「異教」がキ
文中では「三重・神浦之儀」について密用方加藤左司馬が村民を説諭し「両村一統先非を悔正道ニ元付」いたこと
を賞した文書となっている ( )
。
「先非」については具体的でないが、村方騒動に類する廉であれば村横目、郡奉行
36
294
まで各地で存続した。潜伏信徒が存続しえた背景については、以下のように概括できよう。
その一は、大村純忠~喜前時代(前半)に伝道され培われたキリシタン宗門の価値観がある。同上価値観は「きり
したんの心」として藩政時代を生きた人々の死生観に関わるものであり、禁教時代においても、士・民の間で個人、
家文化、個々のネットワーク、宗団として継承された。原義や由来が希薄になった後世、潜伏信徒のなかには伝統
宗教と混淆の傾向を帯びたが、同上の宗風は習俗として根強く残されたほか、他者への「宣教」がなされた。
こう や
さ ん みゃく
いぬい
はんこう
その二として、大村藩領の地政学的形状がある。同藩四八ヵ村の概観について『大村郷村記』首巻では「夫大村は
大山・曠野多く、田畠も又広大にして、中央に入海を湛へ、其形状宛も湖水の如し、乾の方に一帯の迫門あり、是
たにだに
大洋の海口なり、四方は高山連綿として入海を囲繞し、其山脉支別して、数千の峰尾となり、村里海浜に蟠亙す、
渓谿多く、平坦の地寡く、村里田畠大概渓間及海辺にあり」(『大村郷村記』第一冊 六頁)
と要録している。
領内の山々
や湾岸、遠方に点在する諸島は藩庁から遠く、キリシタン禁制の施行にも権力の行使に強弱の差が生じたろう。寛
政八年二月大村久原の快行院(真言宗)は同寺系修験への絵踏免除を藩に求め「村々波濤ニ罷在候輩以来宗門心得違
表2-19 絵踏実施藩(37)
ニ而疑敷筋も及承候ハヽ宗法を以実否相糺」し、藩役所に協力するとして許可を得ている。藩政の急所を巧みに押
えた主張であった(『九葉実録』第二冊 三四五頁)。
その三は、領内の一部に佐賀領が点在し、大村藩の宗門行政にも影響が及ぼされたと見られるこ
とである。佐賀領の飛地については黒崎村(長崎市上黒崎・下黒崎町)で顕著であったほか(『大村
郷村記』第六巻 一〇一頁)、三重村(前掲)にもあり、領地・領海について相互に境界問題が生じ
ることがあった(同上九五頁、一四二頁)。それらの村内飛地では、佐賀領住民への宗門改としての
表
〕。特に黒崎村出津では、三集落の住民殆どがキリシタンであり、幕末維新期に露顕し弾圧事
絵踏などが実施されることはなく、宗門行政の一律施行を阻む要因となったことが推察される〔
―
第二章 藩政の推移と改革
近世編
295
島原、平戸、大村、五島
久留米
木付、竹田、臼杵、府内、日田
延岡
肥前
筑後
豊後
日向
19
件が生じている ( )
。
38
2
■三.藩領民の五島移住
江戸後期、大村藩領から五島へ移民が多数渡海した。移民のうちには多数の潜
伏キリシタンが含まれており、幕末~維新期に至るまで五島の各地で農業や漁業
に従事し、独自の信仰と宗団、宗教文化を形成した。
があり、寛政九年(一七
大村藩民の五島移住問題については先行研究の蓄積 ( )
九七)以前の初期段階と、同年以降になされた「正規」移住の段階に大別できるこ
ている ( )
。この時の移住者は、大村藩発給の外し証文(除籍・宗門証明)を持たず、
西部の三井楽でなされた大村領百姓への居付許可が五島福江藩での初見記録とし
とが知られている。前者について岩﨑義則は、安永元年(一七七二)七月福江島北
39
られ、往来手形持参の渡島者が増えたようである〔
写真
―
〕。
5
写真2-5 (参考)大村藩の往来切手(手形)(大村市立史料館所蔵)
などが垣間見える。
への移住を伝える。文意から、神浦住民の村外への移住志向と動向が感得されるほか、背景に同村の農耕地不足問題
崎市上大野・下大野町)・大中尾(長崎市神浦北大中尾・神浦上大中尾・神浦下大中尾町)から、大嶋(西海市大島町)
すなわち神浦村では、寛政初年頃から移民五〇〇人余が五島に移住したこと。移住は五島側の「所望」によるもので、
同村から人数を送り神浦居付集団が数ヵ所となっていると伝える。文政三年(一八二〇)の記述では、神浦村大野(長
大中尾南郷より男女九拾七人、大嶋新地に移る、其後猶亦連々徒住す(『大村郷村記』第六巻 七三頁)
大村藩では神浦村(長崎市神浦江川町ほか)について、次の記録を残している。
一寛政の始より当村百姓五嶋へ徒住せしもの凡五百人余、彼地にて段々人数相
殖へ、当時神浦居付数ケ所有之由、尤先年彼方より百姓所望ニ付、当村より人数遣すなり、文政三庚辰年、大野・
2
五島藩の事後承認であったという。その後、五島での受入れ状況が大村藩に伝え
40
296
大村・五島両藩の協定については、次のようである。五島藩では、寛政四年(一七九二)幕府が奨励した荒地開墾
む かた
き しゅく
策を実現すべく大村藩と交渉。その後、成立した両藩協定により百姓移住が実現したという。中島 功はこの年の移
住問題について、大村藩家老片山浪江が移送を指揮し、黒崎・三重の百姓一〇八名が寛政九年十一月二十八日福江の
北六方(五島市増田町)の浜に上陸。奥浦村平蔵・大浜村黒蔵・岐宿村楠原(五島市平蔵町・黒蔵町・岐宿町)に居付
宗カ
いたとする。一行中には潜伏キリシタンが多く「五島ニ於ケル天主教徒ノ発展ノ第一歩」
( )
と記す。
五島移住大村領民については、寛政十一年の「修切手」が知られているが、典拠を明確にし得ない ( )
。
具体的な大村藩移住民の年次と人名については、五島観光歴史資料館所蔵「年代不明福江掛居付百姓帳(部分)
」か
ら知られる ( )
。同書については宮島一徳が複製版を作製し、年次を文政四年(一八二一)と推定。岩﨑義則により学
41
42
界に紹介された。同年次と文書の性格については、同書末尾に「筆者頭取宮崎善兵衛、筆者磯野厨平、出口兵助」と
あり、前年五島藩が施行した人別改の「控」であることが推測される ( )
。
44
同帳から、人名・出所、入居地を見ると〔 表 ― 〕となる。
右のうち、1~ が五島の各地、 ~ が「吉久木御茶園居付」となる。
36
42
20
2
〔 表 ― 〕となる(文政四年から逆算)。
五島渡海の経年数を見ると、
〔 表 ― 〕のようである。
出発地と、移住した地名については、
35
2
2
22
牧野(長崎市新牧野町)は神浦に次ぐ数字となっているが、出津川の源流地のあたりであろうか(
『大村郷村記』第六
からの五島移住者は多数であり、前述した郷村記の記載と一致する。
出発地については、神浦が二七件で、全体の過半を占める。神浦(長崎市神浦江川町ほか)は、彼杵郡の地名で黒
崎村(長崎市上黒崎・下黒崎町)の北部、雪浦村(西海市大瀬戸町雪浦)の南に位置する大村藩領の村落である。同地
21
すくな
巻 一七三頁)。
三江村は、三重村(長崎市三重町ほか)であろう。同村は彼杵郡に属し、三方山野で「村中田畑は寡く山林に乏しい」
第二章 藩政の推移と改革
近世編
297
43
表2-20 「年代不明福江掛居付百姓帳(部分)」所収家別データ
番号
人 名
出 所
入 居 地 等
1
金三郎
大村領神浦生れ、八年前移住
一家四人、小船一艘保持
2
又左衛門
大村領神浦生れ、一七年前以前移住
一家五人、浜頭居付願、小船一艘
3
善五郎
大村領神浦生れ、・七年前移住
一家三人、浜頭居付願
4
忠五郎
大村領神浦生れ、六・歳、八年以前移住
一家六人、丸頭一艘、浜頭居付願
5
平三郎
大村・、・歳、十七年以前移住
6
喜太右衛門 大村領・浦生れ、・一歳、一七年以前移住
一家七人、
・頭一艘保持、
・居付願
7
弥五右衛門 大村領神浦生れ、二八歳、一七年以前移住
一家三人、
・
8
・次
・・浦生れ、・三歳、八年以前移住
一家四人
9
伝兵衛
大村領・生れ、八年以前移住
一家三人、浜頭居付願
10
十助
・村神浦生れ、四六歳、八年以前移住
大
一家三人、浜頭居付願
11
岩蔵
大村領神浦生れ、五二歳、八年以前移住
一家五人、浜頭居付願
12
磯右衛門
大村領・浦生れ、四一歳、八年以前移住
一家四人、浜頭居付・
13
伊助
大村領神浦生れ、五八歳、八年以前移住
一家九人、丸頭一艘保持、浜頭居付願
一家九人、丸頭一艘保持、小田河原居付願
神
神
神
一家七人、浜頭居付願
14
旦五郎
大村領神浦生れ、七○歳、一七年以前移住
15
虎蔵
大村領神・生れ、二二歳、一七年以前移住
16
要蔵
大村領牧野生れ、五七歳、二○年以前移住
一家四人、浜泊居付願
17
要助
大村領牧野生れ、四○歳、二○年以前移住
一家二人、浜泊居付願
18
善作
大村領牧野生れ、三○歳、二○年以前移住
一家四人(うち方来女性一人)
、浜泊居付願、
丸頭一艘
浦
一家四人、丸頭一艘保持、大泊居付願
19 ・七
大村領牧野生れ、三六歳、二○年以前移住
一家五人、浜泊居付願、丸頭一艘
20
大村領牧野生れ、五五歳、二○年以前移住
一家三人、浜泊居付願、丸頭一艘
一家二人、浜泊居付願
三蔵
21
友八
大村領牧野生れ、五八歳、二○年以前移住
22
常次
大村領・・生れ、四二歳、二○年以前移住
一家四人、浜泊居付願、丸頭一艘
23
市十郎
大村領三江村生れ、四九歳、七年以前移住
一家五人、半泊居付願
24
又市
大村領三江村生れ、四三歳、七年以前移住
一家七人、半泊居付願
25 ・兵衛
牧力
大村領三江村生れ、六四歳、二五年以前移住 一家六人、半泊居付願
26
太郎次
大村領三江村生れ、三四歳、三年以前移住
一家二人、浜泊居付願
27
乙松
大村領神浦生れ、五○歳、一六年以前移住
一家三人、宮原居付願
一家七人、宮原居付願
28
多蔵
大村領神浦生れ、五一歳、一六年以前移住
29
五平
大村領神浦生れ、五八歳、八年以前移住
一家八人、宮原居付願、丸頭一艘
30
乙平
大村領神浦生れ、五一歳、七年以前移住
一家三人、宮原居付願
一家四人、宮原居付願
31
七五郎
大村領神浦生れ、三三歳、一八年以前移住
32
茂吉
大村領・浦生れ、・歳、一六年以前移住
一家三人、宮原居付願
33
政五郎
大村領神浦生れ、四四歳、一七年以前移住
一家一○人、宮原居付願
34
多助
大村領神浦生れ、二七歳、八年以前移住
一家五人(うち方来男性一人)
、・居付願
35
野四平
大村領三江村生れ、六○歳、一○年以前移住
一家三人、半泊居付願
吉久木御茶園居付
36
嘉蔵
大村領神浦生れ、二七歳、一五年以前移住
一家三人、御茶園居付願
37
源四郎
大村領神浦生れ、六五歳、二一年以前移住
一家四、黒蔵居付願、一五年以前・茶・居付願
38
半蔵
大村領神浦生れ、五六歳、一四年以前移住
一家三人、御茶園居付願
39
虎平
大村領長与村生れ、五七歳、一四年以前移住 一家六人、御茶園居付願
40
為吉
大村領神浦生れ、二二歳、一四年以前移住
一家一人、御茶園居付願
41
留次郎
大村領神浦生れ、・歳、一四年以前移住
一家二人、御茶園居付願
42
徳次郎
大村領神浦生れ、三二歳、一四年以前移住
一家三人、御茶園居付願
神
六方
*読み取りが難しい箇所を「・」表示したほか、一部にルビを付した。
298
表2-22 出発地と移住した地名
〔表 ― 〕
( 、 、 ~ 、 ~ 、
な お、
)記載の「丸頭」や同表の典拠である史料末
岳 曠 野 多 く、 山 脈 所 々 に 蟠 屈 し、 郷 里 田 畠 其
地勢で、神浦には同じく海上三里の距離であっ
1、7、8、34
2 ~ 4、6、10 ~ 13
14
15
28 ~ 33
34
36 ~ 38、40 ~ 42
37
16 ~ 22
23 ~ 26、35
27
39
5、9
2
20
4
6
13
15
20
記』第四巻 四〇頁)と伝えられる。
29
培されたという「野菜」については未詳である
に記載がある御茶園で茶と合わせ上納用に栽
18
際に散在す、土地亦肥良広太なり」(
『大村郷村
た(
『大村郷村記』第六巻 一〇六~一四四頁)
。
長与(長与町)は、西彼杵郡に属し、
壱岐力村・
浦上木場村・浦上家野村・時津村に隣接、
「山
神 浦 →不明
→浜頭
→小田河原
→大泊
→宮原
→六方
→御茶園
→黒蔵
牧 野 →浜泊
三江村 →半泊
→宮原
長 与 →御茶園
不 明 →浜頭
が、下窄 忠・荒木貞美(新上五島町在住)の示教から、丸頭は舳先が曲がっている「ゾウマ作り」の船 ( )で、四丁
艪ほどの漁・運搬用船であること。
「野菜」については、大根の可能性がある。
25年前(寛政 8 年、1796) 25
21年前(寛政12年、1800) 37
20年前(享和 元 年、1801) 16 ~ 22
18年前(享和 3 年、1803) 31
17年前(文化 元 年、1804) 2、5 ~ 7、14、15、33
16年前(文化 3 年、1806) 27、28、32
15年前(文化 3 年、1806) 36
14年前(文化 4 年、1807) 38 ~ 42
10年前(文化 8 年、1811) 35
8 年前(文化10年、1813) 1、4、8 ~ 13、29、34
7 年前(文化11年、1814) 23、24、30
3 年前(文政 元 年、1818) 26
〔史料 〕文政五年今井才記・深沢多仲口上覚
御領内一統末々不如意之者共取続難相成節者親類方え分散仕相互助合育罷在候、此儀者左様ニ可有御座筈ニ而分
五島に移住した大村領民の背景として、藩内における窮民の増加があろう。文政五年(一八二二)閏正月廿六日付
で宗門奉行今井才記・深澤多仲らが藩庁指導部に上申した「口上覚」から、藩領民の切迫した状況が知られる。
45
(
『九葉実録』第四冊 五〇頁)
候、依之御差閊之儀不被為在候ハヽ以来分散帳入之儀御差留被下間敷哉、左様御座候ハヽ当宗門御改之節村々え
散仕候先之家内え帳入相願前方より相済来居候、然処隠子其外不宜筋も有之、間々於宗門方吟味方行届兼当惑仕
6
其旨厳重相達可申候、此段奉窺候、以上
第二章 藩政の推移と改革
近世編
299
表2-21 五島渡海の経年数配列
すなわち窮乏化した領民に分散化傾向があり、相互扶助と移住先の「帳入」で済ましてきているが、出産による「隠
子」ほかの問題が生じ、結果として宗門吟味不行届が派生すると藩庁に訴え、分散帳入の制限などを建議した文書の
五頁)などがあり得たろう。貞享四年(一六八七)大村藩では薩摩に無断移住した二家族を厳罰に処していた
記録である。窮民の分散と「隠子」の背景には、人口増による農耕地不足、人口抑制を図る堕胎への圧力(
『九葉実録』
第五冊
が(
『九葉実録』第一冊 八四頁)、安永期の一七七〇年代では、藩外への移住取締りも消極化の傾向にあり、五島藩
との領主間・藩間の移民協定に途を開いたことが推察される。
五島列島の大村移住民
福江島に入植した旧大村藩民は、その後の移民流入もあり、次第に列島を北上する形で島々に移住した。その跡
について、長崎県教育委員会編の『長崎県のカクレキリシタン』
( )
から、分布図を掲出すると〔 図 ― 〕となる。
2
1
(南松浦郡中通島、新上五島町) 縦長の和装本。田北耕也、海老沢有道が旧蔵し、
㊀「五島青方村天主堂御水帳」
現 在、 立 教 大 学 で 海 老 沢 有 道 文 庫 デ ジ タ ル ラ イ ブ ラ リ と し て 公 開 さ れ て い る ( )
。一八七七年九月十日~十五日に
今回の市史編さん調査では、明治十年(一八七七)の洗礼台帳を二点閲覧することができた。
動を大筋たどることが可能である。
洗礼台帳は「御水帳」と題された縦長の用紙(唐紙・石版刷)であり、本人の名と授洗名・生所(男児上欄・女児
下欄)、父母の名・授洗名と住所、祖父母の名・授洗名・出身地などの記入欄から、大村の地名を含め幕末期の移
お み ず ちょう
こうせき
それら集落形成の軌跡を辿ることは本書の課題ではないが、大村藩民とその子孫が幕末・維新の激動期を新天地
で生き抜いた旅路の行迹である。史料面での展望については、明治期の洗礼台帳の活用があろう。
46
(上五島町若松郷、新上五島町土井ノ浦教会付属資料館所蔵) 縦長の和装本(タテ三五・五㌢㍍×
㊁「洗礼台帳」
ヨコ一五・五㌢㍍)。下野 保(新上五島町)によると、同帳は、宣教師の指導を受けた役員(教方、水方)が授洗し、
記録され、二九二名の授洗者と両親・祖父母、水方まで六八七名のキリシタンが知られている。
47
300
図2-1 五島列島のカクレキリシタン分布図
【註】 長崎県教育委員会編『長崎県のカクレキリシタン―長崎県カクレキリシタン習俗調査事業報告書』
〈長崎県文化
財調査報告集 第153号〉 40頁から転載
301
近世編
第二章 藩政の推移と改革
歴代の役員が大切に保管していた洗礼簿である。御水帳は大平教会の歴代の教方(浜口仙吉、森下伸夫、下峰済吉)
が保管していたが、下峰勝敏が付属資料館に提供したという。台紙は九項に分けられ「一御降生以來一千八百七十
□年 □月□日」に始まる。授洗日は一八七七年(明治十年)八月二十九日から九月二日。人数は大平一〇四名、わ
らつか二九名、わらつかはる木七名、せとわき、わかまつじま二五名、やけ崎五一名、あをき一七名、計二三三名
となっている。
」( )を基に、
右の御水帳から知られる大村藩領の地名について、海老沢有道が掲出した「出生地別表(外海地区)
若干加筆すると、次のようである。
一七九九年(寛政十一)特許期限を満了し解散したが、蘭船はその後も来航し近世日本との交易を維持した。北方では、
十八世紀以降、欧米・ロシアのアジア進出が加速され、近世日本を取り巻く東アジアの国際環境にも大きな変化が
生じた。オランダ(蘭)は東インド会社により商業活動を維持したが、十八世紀に入ると商勢を衰退させた。同社は、
二
江戸後期の渡来船と長崎警備
住。厳しい環境のなかで、たくましく生き抜いた事跡が知られる。
以上、明治十年の御水帳二冊の旧大村藩領の地名を見た。当然、明治初年~十年までの五島渡海旧大村藩民が含
まれていると思われるが、江戸後期に五島渡海を決行した潜伏キリシタンとその家系が多数であり、五島各地に居
野町)、三重(長崎市三重町ほか)、三重田(長崎市三重田町)。
、大村、樫山(長崎市樫山町)
、黒
赤首(長崎市赤首町)、池島(長崎市池島町)、大野(長崎市上大野・下大野町)
崎(長崎市上黒崎・下黒崎町)、神浦(長崎市神浦江川町ほか)、出津(長崎市東出津・西出津町)
、牧野(長崎市新牧
48
ロシア(露)のピョートル一世(
、在位一六八二~一七二五)が西欧化策により国力を増強。国土膨張策を推進し、
Petr
アジア東北部にも版図を広げて南下策をとり、元文四年(一七三九)には房総半島に接近した ( )
。
Ⅰ
49
302
他方で、南アジアにおいては、一七〇九年新旧東インド会社を合同したイギリス(英)が急速に台頭した。英本国
では、一八世紀後半以降、産業革命による工業化が進められ、インド亜大陸での権益確保のほか、七年戦争(一七五
六~六三)を経てフランス(仏)を凌駕し、北アメリカ(米)における覇権を確立した。
北米はイギリスの植民地とされたが、一七七六年(安永五)には東部一三州が独立を宣言して英本国と抗戦。共和
政体のアメリカ合衆国(米)を立国し、北米大陸西部への領土拡大と太平洋への進出策を推進した。
長崎に来航した外国船に対し、幕府は既定の唐蘭船を除く交易要求をすべて拒絶したが、十九世紀に入り外国船の
出没が続くと長崎警備を強化したほか、ロシア船、次いで外国船に対する打払令を布達した。
■一.寛政~享和期の渡来船と長崎警備
寛政初年(一七八九~)幕府は老中松平定信を中心とする幕政改革を断行し、長崎貿易のほか、ロシア船の来航を
契機とする長崎警備の強化策を進めた。長崎貿易について幕府は寛政二年国産銅の減少に対応すべく「唐紅毛商売方
改正」(『通航一覧』第四 三〇七頁)を命じ、来航船数について唐船年々一〇艘(三艘減)
・蘭船一艘と通達した。いわ
ゆる貿易半減令であるが、木村直樹は蘭船の遭難やその後の内外状況などがあり、数値的には半世紀を要したとして
いる ( )
。以降、唐蘭船との貿易は次第に先細り傾向を鮮明にする(第一章第三節第四項参照)
。以下、外国船の来航
状況に沿いながら大村藩の長崎警備の状況を見ていく。
一.ラクスマンの根室渡来
ロシアは日本との通商を目的とし、カムチャッカで保護した漂流民大黒屋光太夫一行の送還と併せ、一七九二年
しんぱい
お しま
(寛政四)ラクスマン A. K. Laksman
を根室(北海道東部)に渡航させた。松平定信はロシア側の要求に対し、寛政五
年六月廿七日付で日本側の原則について古来の「通信通商」関係を重視すると記した「異国人に被諭御国法書」と、
長崎入港を許可する文書(信牌「おろしや国の船一艘、長崎に至るためのしるしの事」)を松前(渡島半島)で付与し
た(『通航一覧』第七 九三頁)。
第二章 藩政の推移と改革
近世編
303
50
のぶとみ
同一件は幕府から長崎奉行に通達され、長崎聞役を経由し十四藩に連絡された(『通航一覧』第七 九九頁)。大
村藩では、聞役の岩永十太夫が同件を藩庁に通報。おろしや船入津の際の藩の対応について、九月七日付で
「領内所々
番所」における初動対応と「人数・船・大筒」差出の心得を記し、長崎奉行平賀貞愛・高尾信福に答申している(『九
葉実録』第二冊 三三〇頁)。その後の長崎警備は、ロシア船入港を想定した検証がなされた。梶原良則によると、
長崎番役の福岡・佐賀両藩は、翌年二月西泊・戸町両番所備付けの公儀石火矢・大筒三五丁を「百年余」ぶりに実
こうたいよりあい
ゆきたつ
射検分。実用に耐えない二七丁を含め、寛政十年(一七九八)全三九丁を両藩で鋳造し配備した。長崎湾口の火力は、
格段に増強されたこととなる ( )
。
二.五島漂着の安問船
唐人との筆談により「御禁制国」の呂宋 ( )
から近国へ商売に出て遭難したらしいことが判明。長崎奉行は同船に薪
ル ソン
享和元年(一八〇一)九月二日幕府の交代寄合(旗本の家格の一つ)、肥前富江の五島右膳運龍領の黒瀬(五島市富
江町黒瀬)に、蘭船風の船一艘が漂着し男女九人が救助された。同船員との通話は難しかったが、乗り組んでいた
51
大村藩では同問題が生じた直後、藩主純鎮が蘭船出帆に立ち会うべく九月十九日長崎入りし、長崎奉行の肥田頼
常・成瀬正定等と会談。同問題の処置を申し出た ( )
。藩側の主張は「外舶ノ事往昔以降我藩特命ヲ受ク」とするこ
すみやす
しい旗本領(三〇〇〇石)である。さらに漂着船は、既に自力で帰航することが危ぶまれる状態であった。
認めないことを通達した。同上の決定は富江五島家の陣屋に伝達されたこととなるが、同家は外国船への扶助が難
水を給与し「早々出帆」を命じるとし、同月十四日長崎詰の諸藩聞役に、同船が自藩領内に接岸した場合、繋留を
52
村藩は難船の出航に備え、同月二十一日には平島と伊王島に医師を含む者頭(内海采記、内海波門)配下の一隊を
先例吟味と警備の規模などが検討された。難船の曳航については、富江五島家の本家福江の五島藩が担当した。大
二項)。共議の段階では、長崎奉行が代案とした伊王嶋(長崎市伊王島町)
への回航と大村藩への番船委嘱が提示され、
とにあり、寛永十年代以降の鎖国令に記された船番役とその後の異国船仕置役を根拠としている(第一章第三節第
53
304
送り待機。十月五日五島から出発した難船に内海采記の船が追尾・護衛して松島、小瀬戸を経て木鉢浦に入港。
「船
底毀壊」により、同月二十日遭難者を長崎出島に、船を長崎港に繋留している。
しょう しゅう
異国船についてはその後の長崎奉行所の吟味により、マカッサル―広東往復の交易船であり、寄港地での乗船者
を含む四四人が「安問」へ赴く途中烈風で遭難。漂流中、船内では死者が続出し、生存者は二一歳のマリヤほか男
女児四名、安南・漳州人(唐人屋敷収容)など若者ばかりであった ( )
。同船乗客の送還は、幕府の裁許を経て「安問」
への男女七人は享和二年の蘭船により、安南・漳州人は翌三年の唐船により帰国した。
「安問」については、史料中
ハ ワイ
に 見 え る マ カ ザ ル Makassar
、 チ モ ル Timor
な ど の 地 名 か ら セ ラ ム Seram
島 近 く の ア ン ボ ン Ambon
の宛字であ
ろう。同船に生き残った九人の出身地から、当時の東南~東アジア海域における交流の広域性が知られる。
三.アメリカ船の来航
「呱哇」人九二人。
享和三年(一八〇三)七月八日、広東出航の米国船が長崎に入港した。乗員はアメリカ人一二人、
日本来航については、船頭「ステワルド」が巳年(寛政九年か)・申年(同十二年)の紅毛船(蘭船)で来日し脇荷商売
(船員交易)の免許を取得。本国で仕立てた船で「ニウエヨルク」から出発。広東に渡航後、来日したという(
『続長
崎 実 録 大 成』
三〇一頁)。長崎奉行肥田頼常は「通商御免無之国」の船として同月十三日帰帆を命じたほか、大村
藩には浦々警戒を指示した(『通航一覧』第八 二三七頁)。藩では船九艘を出し、米船が抜錨するまで長崎警衛に
の乗船が仙台の津太夫ら漂流民四人を伴い、長崎港外に
N. P. Rezanov 従事している(『九葉実録』第三冊 三頁)。以降、アメリカ船は断続的に日本に渡来することとなる。
■二.文化~天保期の渡来船と長崎警備
一.レザノフの来航とロシア船打払令
文化元年(一八〇三)九月六日、レザノフ
到達した(『通航一覧』第七 一〇八頁)。レザノフは一七九九年(寛政十一)設立された露米会社の支配人である。
彼は一八〇三年(享保三)国策として東洋貿易を開拓すべくバルト海を出航し世界周航を目指したロシア海軍のク
第二章 藩政の推移と改革
近世編
305
54
ルーゼンシュテルン A. J. von Krusenstern の指揮する船で、遣日使節・枢密院議員兼侍従の肩書を帯びて来日 ( )
。
伊王島付近では、乗船してきた長崎奉行の検使に、渡航目的を露日修交にあるとし、ロシア皇帝の親書とラクスマ
ンに交付された前記の信牌を提示した。
により右情報を承知して対応。翌日ロシア船の武装を
長崎奉行成瀬正定は、この年「子七月」付の和蘭風説書 ( )
解除したほか、上掲の信牌を請け取ったことなどを幕府に急報した。
55
日本人四人を含む八五人の同領、梅ケ崎(長崎市梅香崎町)上陸を許可した。幕府は、目付遠山景晋 ( )
を翌年春長
かげもと
ロシア船への対応は、幕府の裁定を要したことにより長期化した。ロシア船からは乗員の上陸休養と船の修理が
要求された。長崎奉行は、九月二十二日幕府領、木鉢郷(長崎市木鉢町)に昼間限定の上陸を許可。十一月十七日、
56
ロシア船は日本海を北上しカムチャッカに帰航したが、ロシア側には日本に対する不信感が残された。文化三年
ロシア海軍はサハリンで松前藩の番所を襲うなど敵対姿勢をとったことにより、幕府は翌年四月「おろしや人不埒」
に引渡し、繰出した人数を引き揚げている。
役所・西役所門前の番所固に従事(『続長崎実録大成』
。ロシア船の退帆後、梅ケ崎番所を長崎町年寄
五 七 九 頁)
年の参府を免じられ、ロシア船と使節一行の警備に専従した。目付景晋とレザノフが会談した三月六日には、立山
一覧』第七 一一八頁)。次いでロシア船員の上陸に備え、囲の矢来内番所のほか、梅ケ崎大番所・小番所を長崎
町年寄から移管され番所を警備した。このため、物頭二手・火消一手、人数二二五人を出動させた。大村藩主は同
大村藩に対し長崎奉行は、ロシア船入港後の九月十日ロシア船への番船固めと、異変時に備え大浦への藩船待機
を指示した。このため藩では、物頭一隊・大筒支配一隊、船九艘、人数一五八人を大浦に繰り出している(
『通 航
ザノフは、幕府の通達を受け三月十八日乗船。翌日、長崎を出航している。
ロシア側に伝達。日本側の通交国について「唐山朝鮮琉球紅毛」とし、
「再来る事」なかれと来航禁止を通告した。レ
崎に派遣し、レザノフの要求を却下した。会見は立山役所で三度行われたが、景晋は三月七日「御教諭御書附」を
57
306
とし、海辺領分の諸大名にロシア船打払令を触れ出している ( )
。以降の日露関係は「戦争状態」に入ることとなり、
司は「穏便・海上封鎖・焼討・帰帆」と変転したとする ( )
。
が応じたことにより蘭人が一人ずつ解放された(『通航一覧』第六 三九八頁)。要求を満たしたフェートン号は、
十七日未頃(午後二時)長崎を出航した。事態の展開は急であったが、その間の長崎奉行の判断について、梶嶋政
同日夜英船は、端舟三艘を降し番所前を往返したほか、十六日には水・食料と蘭人交換を要求。十七日奉行康英
していたことにあろう。このため康英は、長崎付一四藩聞役に非常事態を伝え人数差出を命じた。
程遠い状態にあった。大村藩は、佐賀藩兵の人数について「二営ニ在ルモノ僅ニ百五六十人」
(『九葉実録』第三冊 一五九頁)と記している。背景として当番の佐賀藩には同年内の蘭船欠航の判断があり、この年の番所人数を減ら
船フェートン号 Phaeton
が蘭国旗を掲げて長崎湾に入港し、定例の旗合で沖合に出た蘭人二名を捕えた。
長崎奉行松平康英は、急遽、当番の佐賀藩・非番の福岡藩に出動を命じたが、両藩の駐兵人数は少数で即戦力と
B. 戦い、東アジアの海域にお
イギリスは、ヨーロッパ(欧州)制覇をめざしたフランスのナポレオン Napoleon と
いても仏国と同盟関係にあった蘭国船を追跡し、索敵行動を展開した。文化五年(一八〇八)八月十五日英国の軍
二.フェートン号事件
らが実施に移される前に英国船の長崎侵入事件が生じた。
長崎でも文化四年(一八〇七)十二月防備体制の策案が作成され、奉行から老中に伺書として提出されたが、それ
58
は解放された蘭人の英船情報として、乗組員三五〇人ほど、石火矢二段四八挺以上装備、
蘭館長ドゥーフ H. Doeff
弁柄 Bengala
(インド北東部)出航船であることなどを奉行所に報じた(『続長崎実録大成』
。
三一六頁)
「船手固」への動員令に即応する口上覚
大村藩は英国船入港の速報を受け、十六日付で藩主大村純昌が「陸地固」
を送付。手勢を率いて急行したが長崎には十七日英船出帆後の着到となり、緊張感が残されていた大波止を固めた
(
『続 長 崎 実 録 大 成 』
三二一頁)。その後、奉行康英は大村藩の「陸手固」を解除。十九日夜、江戸への注進状を記
第二章 藩政の推移と改革
近世編
307
59
ひっそく
し切腹している。フェートン号事件は、武装船が長崎に不法侵入し乱暴を働いた前代未聞の出来事であり、幕府・
諸藩に強烈な衝撃をあたえた。同年十一月九日、幕府は当番の佐賀藩主鍋島齊直に逼塞を命じた。同藩の番頭二人
が切腹している。大村藩の派兵は英船出航後の長崎到着となったが、同月十日付で藩主純昌の「心掛宜敷」
(
『通 航
一覧』第六 四五三頁)として、上意による褒詞が老中奉書で伝えられている。
三.長崎台場の増強
フェートン号事件を機として長崎湾口砲台の新・増設と、狼煙などの通信手段が検討され、長崎警備体制が大幅
に強化された。梶原良則によると文化十年(一八一三)の段階で、在来の古台場(七ヵ所)に大砲など五〇挺、新台
場(五ヵ所)には石火矢など二〇挺、増台場(一二ヵ所)には同じく六四挺が配備。二四台場の火砲合計は、常備
一三四挺(福岡・佐賀両藩の火砲七四挺を含む)となり、寛政十年の「三九挺」と比較すると大規模な増強が実現さ
れたこととなる。
四.大村藩の長崎警備
大村藩は長崎異変時の緊急動員体制と通報体制を整備し、文化六年(一八〇九)四月二十六日発令した。藩士動
員の合図は、大村城の「鐘三ツ続少間置撞立」と円融寺・長安寺の同撞鐘とし、同時点で諸士はすべて出動準備(『九
葉実録』第三冊 一八六頁)。
「先渡」として、家老・用人各一人、聞役二人、大浦者頭・福田大番頭が最寄り場所か
ら渡海。総勢は十番隊まで順次渡海とし、大小給から足軽まで手頭宅集結などが制令された。領内へは、狼煙によ
り通報された。
五.大村藩の通報体制
藩の非常時の通報体制については、文化六年(一八〇九)四月から城下と領内で整備された。大村城下では、城内、
円融寺・長安寺の鐘撞についで、郡村下河原「狼煙」挙げの手順とされた。藩領内では、ほぼ全域を網羅する形で、
狼煙の請継が策定された。狼煙については、寛永十五年(一六三八)老中松平信綱が長崎を検分。
「近 国 ニ 急 ヲ 告 ル
308
表2-23 大村藩狼煙場(番所、遠見番所を加えた)
村 名
狼煙場ほか
出 典
1 福重村(大村市寿古町・福重町)
郡村下河原、文化6年定、妙宣寺
『大村郷村記』第二巻123頁
脇
2 鈴田村(大村市岩松町・陰平町・中
里町)
三か所、岩松城山・惣原の辻土居
『大村郷村記』第二巻307頁
の内・日焼の辻井の上
3 彼杵村(東彼杵郡東彼杵町)
粒崎、川棚村牛高野に請継、文化
『大村郷村記』第三巻120頁
6年定
4 川棚村(東彼杵郡川棚町)
牛高野、彼杵村粒崎の火を請継
5 波佐見村(東彼杵郡波佐見町)
二か所、つゝ屋嶽、文化6年定、
『大村郷村記』第三巻308頁、
平瀬田原庄屋門前、川棚村牛高野
383頁
の火を請継
6 宮村(佐世保市)
白岳頂上 川棚牛高野辻に請継、
『大村郷村記』第三巻449頁
文化6年定
7 伊木力村(諫早市多良見町)
琴の尾嶽半腹狼煙竃址、平戸錐先
『大村郷村記』第四巻25頁
へ、文化6年から飛脚
8 面高村(西海市西海町面高郷)
嶽の城の辻、大田和村虚空蔵嶽の
『大村郷村記』第五巻297頁
火を請継、文化6年定
9 大田和村(西海市西海町太田和郷)
虚空蔵嶽、多以良高帆嶽の火請継、
黒口・天久保・面高・横瀬・河内浦・『大村郷村記』第五巻352頁
畠下・伊の浦に通、文化6年定
『大村郷村記』第三巻227頁
同村庄屋門前空地、多以良村日宇
10中浦村(西海市西海町中浦北郷・南郷)
『大村郷村記』第五巻374頁
嶽から請、文化6年定、中浦番所
309
11多以良村(西海市大瀬戸町多以良)
高帆嶽頂上、松嶋遠見嶽の火を請
継、七ツ釜・大田和・江の嶋・平 『大村郷村記』第五巻396頁
嶋に通、文化6年定
12七ツ釜浦(西海市西海町七釜郷)
多以良高帆嶽の火請継、文化6年
『大村郷村記』第五巻417頁
定
13神浦村(長崎市上大野町)
大野岳の辻、三重御嶽の火を請け、
『大村郷村記』第六巻72頁
文化6年定
14三重村(長崎市三重町)
御嶽、式見鶚岳の火を請け、文化
『大村郷村記』第六巻135頁
7年定、天保13年修理
15式見村(長崎市向町)
鶚岳賀衆賀峰、長崎異変、福田岳 『大村郷村記』第六巻195頁
から三重岳に請継
16大嶋村(西海市大島町)
遠見岳頂上、文化6年定
17黒瀬村(西海市大島町黒瀬)
遠見岳、松嶋・多以良高帆岳の火
『大村郷村記』第六巻285頁
を請継、文化6年定
18崎戸浦(西海市崎戸町)
遠見岳、文化6年定
19松嶋村(西海市大瀬戸町松島)
岳の頂上、神の浦大野岳の火請継、
『大村郷村記』第六巻359頁
多以良高帆岳に請継、文化6年定
20江嶋村(西海市崎戸町江島)
干切の辻から、弘化元年さそふら
『大村郷村記』第六巻382頁
の辻へ
21平嶋村(西海市崎戸町平島)
中郷辻、江ノ嶋さそふら岳の火を 『大村郷村記』第六巻408頁
請け、文化6年定
近世編
第二章 藩政の推移と改革
『大村郷村記』第六巻261頁
『大村郷村記』第六巻329頁
の ろ し
狼煙」挙げのため、番所を設営したとされる(『長崎実録大成正編』
三五頁)。大村藩でも、その頃三重村の三重嶽
に「烽燧場」
(『大村郷村記』第六巻 一三五頁)を構えたとされているが、長崎を起点とする狼煙体制は、形骸化し
ていたこととなる。
文化六年整備された狼煙場と、請継関係は〔 表 ― 〕のようである。
表から読み取れる狼煙の請継ルートは、概略、次のようである。長崎奉行管轄の狼煙については放火山(長崎市
烽火山、木場町・鳴滝三丁目・本河内三・四丁目境)で、そこから佐賀藩の多良嶽(多良岳、佐賀県藤津郡太良町)
2
に移され、諸藩に通報された ( )
。同山は、大村藩の後背地となる。
23
大村藩内湾の東岸(地方)では、断片的であるが、宮村6→川棚村4→彼杵村3→川棚村4→波佐見村5の順が
知られる。外海には、式見村 →三重村 →神浦村 →松嶋 →多以良村 →黒瀬村 、江嶋村 →平嶋村 。
60
11 14
13
19
ほか、太田和村9→面高村8。多以良村 →七ツ釜浦 となる。
15
11
17
20
21
文政八年(一八二五)二月十八日幕府は、蘭船以外の異国船打払令を沿海の諸大名に命じた(『御触書天保集成』下
。同令は江戸初期の南蛮船、中期の不法唐船、後期
六五四一号)。異国船の渡来がその後も続いたことによる ( )
のロシア船の打払いに続き、通交不認可の異国船全てに対し「無二念」の打払いを命じる強硬策となった。大村藩は、
六.異国船打払令
同上の狼煙がどのように実地運用されたか未詳であるが、大村藩の士民には非常時における通信手段と意識され、
藩の求心力を高めたことが推察される。
なお、気象次第で通信が難しいことが想定された伊木力村(諫早市多良見町)では、飛脚便通報とされた。江嶋
村では、狼煙場を弘化元年(一八四五)変更しており、狼煙通信体制は幕末期まで維持されたこととなろう。
12
銃手の臨機配置を措置している(『九葉実録』第四冊 六八頁)。
同年七月「拾匁筒」五挺と弾薬を崎戸浦・蛎浦・松島浦に、同三挺を平島浦、九挺を江島浦、二挺を池嶋に配備し、
61
310
幕府の鎖国体制下の打払令は天保十三年まで継続されたが、天保八年(一八三七)米船のモリソン号事件に対す
る渡辺崋山などの論説に見られるように、同上体制を時代遅れとする思想家が生み出されていた ( )
。
大村藩は長崎警備・沿岸警備に従事し、異国船の来航に対応した。そうした過程で、西彼杵半島にあって海上生
活に慣れ親しんだ大村藩士や領民のなかには、長期にわたる内外隔絶に違和感の芽生えが生じ、潜伏キリシタンや
幕末期に緒方洪庵の「適塾」に学んだ長与専斎など、蘭学・洋学を志向した藩士などの動向にも、深層部で影響を
与えていたことが推察される。
七.唐人屋敷の騒動
貿易高の減少傾向に伴い、在留唐人の間では不満を覚える人々が生じた。大村藩は、文化九年(一八一二)本牢(玖
島城下本小路)に唐人牢を設けている(『大村郷村記』第一巻 一六六頁)
。また文政三年(一八二〇)六月から同六
年四月まで「長崎市中平常之備」に加え、唐人屋敷門外勤番所の取建と、家来差越などが命じられていた(『九葉実録』
第四冊 五六頁)。
天保六年(一八三五)唐人屋敷滞在船員の一部が捕囚され、大村牢に収容された。同経緯は、午年(天保五)入港
した唐船主が病死し、十二月十三日興福寺に葬送された。その途上で葬列が乱れ、抵抗した唐人五人が召し捕りと
される騒動となり、唐館の門や番所などが壊された。このため長崎奉行は、福岡藩に命じ唐館で一八〇人を召し捕
り、暴徒と認定した七〇人と、葬列の途上で召し捕りとした五人の七五人収牢を大村藩に命じた。大村藩では身柄
を引き取り牢内「差置」としたが、阿片煙草吸引の唐人が数多で「身命」に関わるとして町年寄高島四郎兵衛が牢外
での煙草使用許可について藩に書通している(『九葉実録』第四冊 一六七頁)
。同一件は在館唐船主の赦免願いな
どで多くが釈放され、その後に残された一八人も天保八年釈放されたが、唐人騒動の背景には貿易状況の減少に伴
う取締りの強化と、唐人側の反発があったこととなろう。
第二章 藩政の推移と改革
近世編
311
62
■三.幕末の長崎支配と戸町村上知
安政元年(一八五四)三月三日幕府は日米和親条約を神奈川(横浜市)で締結。下田・箱館の開港に道を開いたほか、
英蘭露国とも同様の条約を結んだ。同五年六月十九日江戸で日米修好通商条約を締結し、翌六年六月五日(陽暦一八
英蘭露四ヵ国との先年の条約により外国船員の「上陸遊歩」を許可すると大村藩に伝え
た。藩側からは同月二十日戸町村の横目が、通行の道路に「中黒之限杭」を打ち込んだ
ことなどを届け出ている(『九葉実録』第五冊 一六〇頁)。そうした動きの一方で、こ
表2-24 開国後の長崎奉行あて黒印状・老中下知状 【註】 「御黒印下知状之留」
(国立公文書館所蔵 内閣文庫(架蔵番号)151-213)から作成。
鎖国制下の黒印状・老中下知状(第一章第三節第四項〔表1-16〕)参照。
五九年七月四日)神奈川と同時期の長崎開港を取り決めたほか、蘭露英仏国とも同様の条約を結んだ(安政五ヵ国条約)。
一.長崎奉行宛て渡物
。
「長崎御屋敷」まで一
戸町村は、東西五五町・南北三二町余、石高は五二四石余 ( )
里(四㌔㍍)の至近地であるほか、大村藩と福岡・佐賀二藩が隔年勤番した戸町番所が
二.戸町村上知
事が発令された。
関係のなかで、大村藩は戸町村の上知と、藩主に対する長崎奉行・同惣奉行任命の人
ており、同藩には従来どおりの公儀役が課された。鎖国から開国へ、急展開する対外
老中下知状で「他之湊え異国船出来之時長崎警固は大村丹後守所え可申遣事」と制令し
(純煕)
した変化が感得されるが、
「耶蘇宗門」は制禁とされている。ほか大村藩主に対しては、
に関する禁止・死罪条項が「日本人猥に異国え不可遣之事」と改定され、開国段階に即
五ヵ国との条約の締結後、幕府は長崎奉行に対し従来どおりの文書を将軍黒印状・
老中下知状として発給した〔 表 ― 〕。将軍の黒印状では、鎖国時代の日本人の出入国
2
設置されている長崎湾の要所である。安政四年(一八五七)六月十七日長崎奉行は、米
63
長崎奉行
黒印状 下知状
荒尾成允・岡部長常
○
○
岡部長常・高橋和貫
○
○
大久保忠恕
○
○
服部常純・能勢頼之
○
○
服部常純・能勢頼之・徳永昌新
○
○
長崎奉行中
○
○
将軍
家定
家茂
家茂
家茂
家茂
慶喜
年月日
1安政5年7月28日付
2文久元年7月1日付
3文久2年6月21日付
4慶応元年9月15日付
5慶応2年4月15日付
6慶応3年9月19日付
24
312
まさよし
の年九月四日老中堀田正睦は大村藩の江戸留守居に戸町村の上知を伝えた。代地の提示はされなかったが大村藩は
同年十月絵図を提出し、代官高木作右衛門に引き渡している。ほか、同藩が「異国船渡来之節異変手当并七口固市
る( )
。
すけもと
それぞれの補任状は、次のようである。
〔史料1〕(文久三年)五月廿六日付老中連署状〔
写真
―
〕
6
一筆令啓候、其方事長崎奉行被 仰付旨被仰出候、入念可相務旨上意ニ候、
此段為可相達如此、恐々謹言
五月廿六日 板倉周防守 花押
(大村市立史料館所蔵 大村家史料(架蔵番号)103-69)
写真2-6 大村純熈の長崎奉行補任状
中廻番牢屋警固」などに任じた経緯を訴え、代地について「長崎手近之場所」とする願書を提出している。
代地については翌年十月二十七日老中太田資始が「肥前高来郡之内」四四八石
余と伝え、同年十一月一日幕府領、高来郡古賀村が指定され、幕府の勘定組頭
と大村藩留守居との間で目録の授受がなされた(『九葉実録』第五冊 一六八頁)
。
古賀村(長崎市古賀町)は現在の諫早市多良見町と境を接する内陸部であり、大
すみひろ
村藩が代地として臨んだ長崎近傍とは相違がある。藩内には少なからず、違和
感が残されたことであろう。
三.長崎奉行、長崎惣奉行
文久三年(一八六三)大村純熈〔 写真 ― 〕は五月二十六日付で長崎奉行に任命
されたが、在任二ヵ月後の同八月八日辞任した。理由について純熈は「持病之
5
脚疾」としているが、幕府は辞任を認めず、同日付で長崎惣奉行に任命してい
4
水野和泉守 花押
第二章 藩政の推移と改革
近世編
313
2
64
大村丹後守殿
〔史料 〕同年八月八日付老中連署状
幕府は、直ちに純熈の長崎惣奉行職を八月八日付で発令した〔史料2〕。家茂は江戸に戻っていたが、この時も
純熈に対する将軍黒印状・老中下知状〔 表 ― 〕は補任状に付加されることはなく、奉行と惣奉行について職務・職
妙な段階にあり、辞任表明は賢い選択肢であったといえる。
島両家は称姓松平)など同地に蔵屋敷を置く列藩の統制が多難であることは明白であった。加えて藩内の動向も微
後、帰参を命じられている。国内の攘夷問題と列強軍艦の長崎来航の状況下で、福岡・佐賀の両藩(藩主黒田・鍋
常純に発給された形跡はない。加えて大村純熈にも黒印状の発給はなされなかったほか、
常純は純熈に
「御用向引継」
る。相役の服部常純は同年四月二十六日家茂滞在先の大坂城で任命されていたが、長崎奉行を権威づける黒印状が
奉行職発令後、二ヵ月で辞任した藩主純熈と大村藩の思惑は次のようであろう。当時将軍家茂は上洛し、攘夷を
めぐる難題について朝廷と折衝を繰り返していたが、純熈の長崎奉行任職はそうした倉皇過程でなされた人事であ
板倉周防守 判
大村丹後守殿 (『九葉実録』第五冊 二三〇頁)
長崎奉行の人事については、江戸初期の段階で発令された豊後府内城主竹中重義(寛永五~十年)の古例があるが、
その後は旗本限定の役職とされており、純熈は外様大名として、実に二三〇年ぶりに任用されたこととなる。
一筆令啓候、其方事長崎奉行被 仰付候得共長崎惣奉行と可相心得旨被仰出候条可被存其趣候、恐々謹言
(正直)
八月八日
井上河内守 判
(勝静)
2
2
崎土地に関係致候儀ハ長崎奉行申談時宜次第処置可被致、尤平常之差定候儀且諸家人数差引等之儀ハ都而先前之通
のため純熈は、老中井上正直に十一月朔日付で職務について伺書を提出。老中正直は「書面勤品之儀ハ非常の節長
権がどのように相違するか大村藩には不明であった。長崎惣奉行は幕政上前例がない職名であったことによる。こ
24
314
でんせき
ふ よ う の ま
可被心得候」
(『九葉実録』第五冊 二三二頁)と通達している。すなわち、純熈は非常時の長崎政務に関与し平常時
は従来どおりとする回答を得たことになる。このため純熈は、元治元年(一八六四)九月二十一日まで、一年余り
(清水紘一)
と触れ(近世史料研究会編『正宝事録』第一巻 日本学術振興会 一九六四所収三六六号)。
)「元禄八乙亥年六月 切支丹類族一件」(近藤正斎編「憲教類典」第九十一冊第四之一六「切支丹之部」 国立公文書館所蔵 内閣
文庫(架蔵番号)一八〇―七四)
) 石井良助校訂『徳川禁令考』前集 第三(創文社 一九六八)所収一六一一号
) 寛文五年正月江戸では「旧冬も申付候通二代三代以前ニ吉利支丹ニ而ころひ候者の孫子」について名主五人組が吟味・書上げ
) 高柳眞三・石井良助編『御触書寛保集成』(岩波書店 一九七六)所収一二三八号
) 大村史談会編『九葉実録』第一冊(大村史談会 一九九四) 五一頁
長崎奉行・同惣奉行は、寛永鎖国以降の大村藩が公儀御用として積み上げた究極の長崎御用であったといえる。
長崎惣奉行職を務めている。江戸城中の殿席は、奏者番や町奉行など幕府要職が詰める芙蓉間と指定された。
註
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) 海老沢有道『地方切支丹の発掘』
(柏書房 一九七六) 一五頁。その後、鎌田道隆「京都覚書」
(原田伴彦編集代表『日本都市生
活史料集成』第一巻「三都篇Ⅰ」
(学習研究社 一九七七 二六七頁)。海老沢は「切支丹帳数」の年次を元禄元年と推測したが、
人名から元禄四年と推定。
) 林 復斎(韑)他編『通航一覧』第五(国書刊行会 一九一三) 二一三頁
) 大村市立史料館所蔵 史料館史料(架蔵番号)一〇九―一五七。紙背文書を合冊し和綴じ。
こう ち
) 片岡弥吉編「大村牢内御預古切支丹覚」
(宮本常一他編『日本庶民生活史料集成』第十八巻「民間宗教」
三 一 書 房 一 九 九 〇 七三一頁)
) 姉崎正治『切支丹伝道の興廃』
(国書刊行会 一九七六復刻) 七二六頁。一六四三年三月十七日のオランダ側記録では、交趾
人が棄教したが同日死去したと伝える。村上直次郎訳『長崎オランダ商館の日記』第一輯(岩波書店 一九八〇) 二一三頁
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) 高柳光寿・岡山泰四・斎木一馬編『新訂 寛政重修諸家譜』第十二(続群書類従完成会 一九六五) 二〇一頁
) 七三六頁)
) 大村市立史料館所蔵 大村家史料(架蔵番号)二一一―三八「寛永年中切支丹方書付」
) 原本「無題」。純心女子短期大学キリシタン文庫(現長崎純心大学博物館併設)所蔵(架蔵番号)K―D―二七三。東京大学史料
編纂所所蔵「類族帳(豊後大分郡、肥前五島福江村、郡村)」(一九八〇撮影、合冊六九一九―一一)八四枚以下。片岡弥吉編「大
村郡崩れ関係者類族帳」(前掲註(
係者類族帳」(前掲註( ) 七四四頁))。
) 加藤十九雄・田中 誠「キリシタン(切支丹)ゆかりの地」㈠㈡㈢(大村史談会編『大村史話』上巻 大村史談会 一九七四 二八八~三〇七頁)。満井録郎「大村藩キリシタン研究の歩み 志田一夫先生の足跡を中心に」
(大村史談会編『大村史話』続編
衛門の例がある。伊左衛門は本人同前とされたが「宗門ノ儀曾テ不存」として赦免、池田村に居住(片岡弥吉編「大村郡崩れ関
) 片岡千鶴子『大村「郡崩れ」関係者類族帳の研究』(長崎純心大学博物館 二〇一四)
)「江ノ串ノ角内女房壱人年五拾三、娘壱人同拾壱」
(藤野 保・清水紘一編『大村見聞集』 高科書店 一九九四 六六二頁)。
本例では、角内の男系が助命されたこととなる。同様の例については、切支丹本人とされ斬首された勘左衛門夫婦の嫡男伊左
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Ⅰ 大村史談会 一九八六 一二〇~三頁)。ほか森崎兼廣編「『大村史談』内容総項目 キリスト教」
(大村史談会『大村史談』
第六十号 大村史談会 二〇〇九 二一〇~一頁)所収論文
) 田北耕也『昭和時代の潜伏切支丹』(国書刊行会 一九七八) 五七頁、古野清人『隠れキリシタン』(至文堂 一九五九)
) ①長崎県教育委員会編『長崎県のカクレキリシタン』―長崎県のカクレキリシタン習俗調査事業報告書―〈長崎県文化財調査報
告書 第 集〉(長崎県教育委員会 一九九九)。②宮﨑賢太郎『カクレキリシタンの信仰生活』(東京大学出版会 一九九六)。
) 東京大学史料編纂所所蔵「類族帳(豊後大分郡、肥前五島福江村、郡村)」(前掲註( )写真帳、一七三枚)
) 長崎歴史文化博物館収蔵 (オリジナル番号)一一 二七―一「異宗徒」第一號(甲第二号~第六号)ほか
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) 片岡弥吉編「浦上異宗徒一件」(前掲註( ) 七六一頁)
) 洗礼について「茶碗に水を入持参唱事いたし庄五郎額え懸け、右唱事は一向相分不申、朝暮にはコンチイサン又はアベマルヤ
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と申儀を唱候得は、末々宜事有之由其外唱事も習候へ共年経候故覚不申」(前掲註( ) 八二五頁)
( ) 転書物の文体は、南蛮誓詞・日本誓詞に続き、浦上村一里塚家野郷 浄土宗庄五郎と署名。宛先は、山本物右衛門・左崎逸平
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(船番)。東京大学附属図書館所蔵 (架蔵番号)〇〇―四六八二 藤田季荘筆録「耶蘇教叢書」上
) 長崎歴史文化博物館収蔵 (オリジナル番号)一一―一七一―一―九八「卯三月付福田伝六書状」
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) 長崎歴史文化博物館収蔵 (オリジナル番号)一一―一七一―一―八〇「丑九月廿二日付乍恐口上之覚」
) 長崎歴史文化博物館収蔵 (オリジナル番号)一一―一七一―一―九〇「口述之手覚」、
(オリジナル番号)一一―一六九―一「演
述手覚并応御尋申上候覚」
) 大橋幸泰「浦上一番崩れにおける大村藩と長崎奉行」(大村史談会編『大村史談』第五十九号 大村史談会 二〇〇八)
) 長崎歴史文化博物館収蔵 (オリジナル番号)一一―一七一―一―一三二
) 今回開示を願えた正法寺所蔵文書に「異教」関係史料は見えない。但し、寛政三年(一七九一)八月付「御書附写」の一節で、大
村藩は宗法の重要性と僧侶の精進を説き、一向宗の「旦家之内背御法者」に、
「改先非」「心得違無之様」に穿鑿を正法寺看坊に指
示した書付があるが、本文の「異教」と関係があるか明確ではない。同上書付は、浦上一番崩れに関わる措置の一つであるまいか。
) 長 忠生『内信心念仏考』佐賀県きやぶ地域における秘事法門(海鳥社 一九九九) 二二頁
) 小栗純子「文献解題『庫裡法門記』」
(蓮如他著、笠原一男・井上鋭夫校注『日本思想大系』 「蓮如・一向一揆」
岩 波 書 店 一九七二 五二四、六七〇頁)
) 松島では寛永五年(一六二八)開創の浄土宗正定菴が知られているが、間もなく長安寺境内(大村池田)に移したが、明和九
年(一七七二)に再び島内に移され、現在、正定院として存続している。同島の幕末期の竃数は三九七軒、男女二〇〇七人で、
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宗旨は浄土宗一八三人、法華宗一六人、真宗一八〇八人(藤野 保編『大村郷村記』第六巻 国書刊行会 一九八二 三五五頁)。
) 瀬戸には寛永十四年(一六三七)光明寺(浄土真宗)が創立され同村民の大部分と、周辺村民の教化を担当(藤野 保編『大村郷
村記』第五巻 国書刊行会 一九八二 四四九頁)。
) 大村市立史料館所蔵 史料館史料(架蔵番号)一〇二―六三「新撰士系録」巻之五十一 複写
) 大村市立史料館所蔵 史料館史料(架蔵番号)一〇五―一五「神浦密用精勤ニ対シ上様御満悦ニ付書状」
) 寺院にも褒賞・優待がなされた。天保五年二月二日吉祥院「数年密事方ニ勉労スルヲ以テ一世限観音寺子院上班トナス」
(大村
史談会編『九葉実録』第四冊 大村史談会 一九九六 一五一頁)
) 熊野正紹編、森永種夫・丹羽漢吉校訂『長崎港草』(長崎文献社 一九七三) 八三頁
) 黒崎村出津の佐賀領では里組・中組・白木組の三集落の殆どがキリシタンであり、慶応三年(一八六七)田植時期の頃弾圧
事 件 が 生 じ た(野 中 騒 動)。 片 岡 弥 吉「キ リ シ タ ン の 復 活 と 明 治 の 弾 圧」
(外 海 町 役 場 編『外 海 町 誌』 外 海 町 役 場 一 九 七 四 四一二頁)
( ) 浦川和三郎『五島キリシタン史』(国書刊行会 一九七三、初版一九五一)。木場田直『西海の灯 五島切支丹秘話』(聖母の騎士
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社 一九七五)、木場田直『移住二百周年記念 大村領から五島へ渡った人達の家系』(私家版 一九九八)ほか
) 岩﨑義則「五島灘・角力灘海域を舞台とした一八~一九世紀における潜伏キリシタンの移住について」
(九州大学大学院人文科
学研究院編『史淵』第一五〇輯 九州大学大学院人文科学研究院 二〇一三)
) 中島 功『五島編年史』下巻(国書刊行会 一九七三) 七二三頁
) 浦川和三郎『五島キリシタン史』(国書刊行会 一九七三) 八八頁によると、
「修切手」は次のようである。但し原拠については
不記。
江掛居付百姓帳(部分)」、
「文政四年福江掛居付百姓帳(一部欠損)」など。
そま お ぶね
) 五島観光歴史資料館所蔵 (架蔵番号)〇三―一五―二 太田新五右衛門写「継志系図写 地」。同書は、
「従 文 化 六 巳 年 至 文 政
四巳年」までの五島藩の重要事項を記録。
) 類似用語、杣小舟。
) 前掲註( )① 四〇頁から転載
) 立教大学海老沢有道文庫デジタルライブラリ (請求番号)RDC: =OM
) 海老沢有道「幕末明治迫害期における切支丹社会の考察 五島青方天主堂御水帳の分析」
(海老沢有道『維新変革期とキリスト
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教』 新生社 一九六八 一四五頁)。但し、大村藩領外の地名は省略。
( ) 林 復斎(韑)他編『通航一覧』第七(国書刊行会 一九一三) 八一頁
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(
村相 村添作太夫
( ) 五島観光歴史資料館所蔵 (架蔵番号)〇八―二七―原、全三五丁。通常の冊子とは異なり、千切れた紙片の貼付跡・修復跡
が随所に見られる。五社文書・襖の下張の復元とされるが、受入台帳が不備で出所は不明。同書の複製本として「年代不明福
五島御領人御役 大村郷黒崎村横目 宮原一兵衛
寛政十一年未六月
右男女五人之者共此度渡世のためその御領え罷越候、仍て修切手一札件の如し
幸作五十八才、りく五十四才、惣助二十五才、乙右衛門十八才、甚六二十六才
真宗
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) 木村直樹『幕藩制国家と東アジア世界』(吉川弘文館 二〇〇九) 二一六頁
) 梶原良則「寛政~文化期の長崎警備とフェートン号事件」(福岡大学人文論叢編集委員会編『福岡大学人文論叢』第三七巻第一号
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(通巻第一四四号) 福岡大学研究推進部 二〇〇五)
) ルソン船について大村藩は、貞享四年呂宋国内のカべッタ船が紀州に漂着。生存者三名のうち長崎回送中二人病死。残る一人
は牢死したが、その間漂流船を警固している。藤野 保・清水紘一編『大村見聞集』(高科書店 一九九四) 八二五頁
) 大村史談会編『九葉実録』第二冊(大村史談会 一九九五) 三九九頁
) 小原克紹編、丹羽漢吉・森永種夫校訂『続長崎実録大成』(長崎文献社 一九七四) 二九九頁
) 羽仁五郎訳註『クルウゼンシュテルン日本紀行』上巻(雄松堂書店 一九七〇改訂復刻版第二刷) 一六〇頁
) 佐賀県立図書館編『佐賀県近世史料』第一編第十巻(佐賀県立図書館 二〇〇二) 五二頁
) 遠山景晋については、荒木裕行・戸森麻衣子・藤田 覚編『長崎奉行遠山景晋日記』(清文堂出版 二〇〇五) 二二七頁
) 高柳眞三・石井良助編『御触書天保集成』下(岩波書店 一九七七第三刷)所収六五四〇号
) 梶嶋政司「フェートン号事件と長崎警備」(九州大学九州文化史研究所編『九州文化史研究所紀要』第五〇号 九州大学九州文化
史研究所 二〇〇七)
) 前掲註( )
) 林復斎(韑)編(原典)、箭内健次編『通航一覧続輯』全五巻(清文堂出版 一九六八~七三)各巻 55
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) 渡辺崋山「慎機論」(渡辺崋山他著、佐藤昌介他校注『日本思想大系』 「渡邊崋山・高野長英・佐久間象山・横井小楠・橋本佐内」 岩波書店 一九七一 六九頁)
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) 大村史談会編『大村藩戸町村郷村記』(大村史談会 二〇一〇)
)〔 写真2― 〕
(文久三年)五月廿六日付文書。大村市立史料館所蔵 大村家史料(架蔵番号)一〇三―六九「丹後守純熈公長崎奉
行被為蒙仰候御奉書并御別紙 写」。ほか、山路彌吉編『臺山公事蹟』
(田川誠作 一九八五 大村芳子復刻)
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