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ソフトウェア技術者協会
SEA Mail Vol.16
No.4
ソフトウェア技術者協会
2016年4月11日
チ ャ プタ 1
前書き
編集部から
SEA Mail 4号号です.これで終わると三ヶ月坊主になります.
今回は,岸田さんから頂いた記事で構成しました.
博識の岸田さんの文をお楽しみ下さい
(事務局)
1
チ ャ プタ 2
SEA をめぐる断想
なかった.日本でも,これまでソフトウ
岸田 孝一
ェア・シンポジウムやいくつかのフォー
昨年の暮れの SEA 30周年記念 Forum に
ラムあるいはワークショップ(最近では
雑文を書いて参加者のみなさんに配布し
ソフトウェア科学会の FOSE 2015)
たのだが,ページ数の制約もあって書き
で,このテーマをとりあげて議論を喚起
足りなかった点も多かったので,あらた
したのだが,それほど盛り上がらなかっ
めてここにまとめてみたいと思う.
たという苦い 記憶がある.
1. 無形労働について
そのことのひとつの理由は,この概念の
数年前,ACM SIGSOFT 主催の Future
トニ・ネグリをリーダとするイタリア過
of Software Engineering Research とい
激派の思想グループに属しているからで
うワークショップに,「無形労働の考え
はないかと推測される.ソフトウェアま
方を取り入れないかぎりソフトウェア工
わりの仕事と無形労働との関わりについ
学は崩壊するだろう」という趣旨のペー
ての鋭い論考 “Free Labor: Producing
パー “Through the Looking Glass of Im-
Culture for the Digital Economy” を発表
material Labor” を何人かの仲間たちと
した社会学者ティツィアナ・テラノヴァ
一緒に投稿した.査読者たちの評価はま
も,やはりこのグループに属していて,
ずまずだったのだが,ワークショップで
ソフトウェア・コミュニ ティとはなんと
提唱者マウリツィオ・ラツアラートが,
は特に議論の話題としては取り上げられ
2
なく肌合いが合わないような感じがする
クリスチアヌ・パウルという女性研究者
のは,はたしてわたしの杞憂だろうか.
(ネット検索をすると同姓同名のドイツ
の美人女優の記事が最初にヒットされ
ほかの分野に視線を移してみると様子は
る ! ) が寄 稿 し た エ ッ セイ が見 つ か っ
少し異なる.たとえば芸術の世界では,
た.そのタイトルは “Sustainable Art
数年前のイスタンブー ル・ビエンナーレ
Practices - Producing Art in the 21th Cen-
の際に何人かのアーティストを集めて行
tury”.この世界自体が維持可能 (sustain-
われた議論がおもしろい.中心人物は
able) かどうか疑わしい時代に,あえて
MIT Media Lab 出身で,インターネット
芸術活動の維持可能性を論じるという姿
上でのインスタレーションとでもいうべ
勢が気に入って,思わず全文を読んでし
き ”My Pocket” を発表して有 名になった
まった.冒頭に次のような問題提起がな
Burak Arakan.この討論記録は Columbia
されている:
大学の Online Journal で読むことがで
- How can we define and understand
きる.
a sustainable art and culture?
- How does art address the sustainabil-
http://interventionsjournal.net/2012/01
ity of culture?
/26/notes_on_immaterial_labor/
- How can art practice itself be sustainable?
どう や ら , 無 形 労 働 の 問 題 を 論 じる に
は,ソフトウェア・コミュニティの外側
パウル女史のこの問いかけの “art” を
に目を向けることが必要なように思われ
“software” に置き換えてみたら,われわれ
る.以前 Net Surf をしていたら,現代芸
にはどのような回答ができるだろうか?
術関連の記事を中心とする ART PULSE
としばし考えさせられた.
というWeb Magazine に,ニューヨーク
また,建築の分野では,“The Architect
の大学でメディア・アートを教 えている
as Worker“ という論集が,昨年の9月
3
2. SEA 誕生以前の
に出版された(Bloomsbury Publishing).
この本は,サブタイトルに Immaterial
こと
Labor, the Creative Class, and the Politics of Design” とうたっているように,
幅広い視点からの現状分析を試みている
SEA の前身(母体)となった旧・ソフト協
ようである.編者は,イェール大学建築
の技術委員会 (SIA-STC) は,一風変わっ
学科教授の Peggy Deamer 女史.建築業
た感じの組織であった.
とソフトウェアは,仕事のなかに有形労
ふつう,こうした業界団体の委員会は,
働(レンガ積みや壁塗りなどの人工作
団体幹部の意思を受けて活動するかたち
業)と無形労働(概念作りや設計などの
なのだが,SIA-STC では,委員全員がソ
創造的作業)の両面を含んでおり,また
フトウェア技術や業界のあり方について
産業の形態としても複雑な多重下請け構
それぞれ思うところを述べたポジショ
造を抱えているという点できわめて似通
ン・ステートメントを提出し,それらの
っている.その意味で建築の仕事を分析
意見を総合的に判断して委員会の活動計
することは,ソフトウェアという仕事の
画を定めるというスタイルで運営された
本質を考える上で有用であろう.この本
のである.技術者たちが決めたそうした
の背後には architecture-lobby と称する
方針を「いいじゃないか,好きなように
組織があり,その力を利用して,多くの
やったら」と承認してくれた当時のソフ
研究者や実践技術者などの執筆陣が集め
ト協会長・服部正(故人)の度量の大きさ
ら れ た ら し い. そ の 組 織 の 公 式 w e b
に, いまさらながら感謝したいと思う.
page には,現代社会における建築とい
う仕事についての Mnifesto (宣言文)
1960 年代末の NATO Workshop で提案
が掲示されていて,SEA のこれまでのあ
されたソフトウェア工学の概念につい
り方と比較すると,興味深いものがあ
て,日本の学会や業界がまだほとんど無
る.
関心であった時代に,この委員会では,
4
要求工学ツールの草分けである PSL/
ルについて議論し意見交換を行うための
PSA の開発者ダニエル・タイクロー教授
ネットワークを構築するという見えない
や,ソフトウェア開発のコスト・モデル
成果をもたらしたのであった.
を提案したバリー・ベーム博士などの著
1981年に東京で開催された6th ICSE
名人を招いてセミナーを開催したり,
も,その企画・運営の舞台裏での下準備
1979年にミュンヘンで開催された4th
は,ほとんど SIA-STC および JSD のメ
ICSE に団体ツアーを組んで参加したり
ンバーが手がけたのであった.当時の情
した(途中でロンドンの Imperial Col-
報処理学会は,まだこうした国際会議の
lege やチューリッヒの ETH を訪問).
扱いに慣れておらず,さまざまなドタバ
その背景には,政府(当時の通産省)の
タ騒ぎが生じたが,そのことについては
肝いりで1970年代半ばに設立された国
書かないでおこう.
策会社 JSD (協同システム開発)にお
3. ソフトウェア・
ける業界のジョイント・プロジェクトの
存在があった.PPPDSと名付けられた
シンポジウム事始め
このプロジェクトの公式の目標は,再利
用可能な各種の機能モジュールを組み合
そうした SIA-STC の象徴的イベントと
わせてソフトウェア開発の生産性向上を
してのソフトウェア・シンポジウムは,
図るということだったが,最初の企画か
1981年の暮れに第1回が 開催された.第
ら実現までに要した時間が長すぎたせい
2回は1982年の2月,以降は毎年6月の
もあって,具体的な成果物はほとんど実
開催となった.1984年にソフト協がセン
用に供されなかった.その意味では失敗
ター協と合体して,新団体 JISA(情報
プロジェクトだった.しかし,参加した
サービス産業協会)が作られた.SIA/
各社のエンジニアたちが日常の業務を離
STC はしばらくのあいだ JISA の技術委
れて,ソフトウェア工学や開発支援ツー
員会として活動したが,業界団体の内部
5
に留まっていることに飽き足らないとい
ろやや陰りがみられるのは気がかりであ
う主要メンバーの意向もあって,1985年
る.
の暮れに SEA としてスピンアウトした
のである.
4. UNIX について
ソフトウェア・シンポジウム(SS)も,
1950年代後半,わたしは,大学での勉
翌年からは SEA 主催の年中行事となっ
強(天文学)を放棄して,真剣に画家に
て今日に至っている.ちなみに SIA-STC
なるための修行を積んでいたのだが,偶
が運営していたころの SS の海外招待講
然のきっかけで,昼間はプログラマそし
演者をリストアップすると:
て夜はムーンライト・ペインターという
二重生活を送る羽目になった.半年ほど
1980: Tom Gilb
フリーランスとして働いいたあと,職業
1982: M.M.Lehman, P.J.Plauger
的プログラマとしての生活を数年過ごし
1983: Tom DeMarco
たが,なんとなく飽き足らない気分にな
1984: Nico Haberman
って,「何か面白いことをやろうよ」と
1985: Bob Blazer
いう軽い気持ちで,1967年に友人たちと
いずれも,当時の国際的ソフトウェア工
独立系ソフトウェア・ハウス SRA を立
学分野での中心的な人びとであった、
ち上げた. 後述するが,SS を手掛かりとして世界
UNIX というシステムの名前を知ったの
のソフトウェア・コミュニティとのつな
は,1970年代初めに当時の通産省(い
がりを強化するという試みは,その後運
まのMETI)の肝いりで,ソフトウェ
営の主体が SEA に移ってからも続いて
ア・モジュール研究組合を結成したとき
いる.しかし,リーマン・ショック以後
である.SRAもそれに参加しようとした
なぜか世をあげて引きこもり状態になっ
が,まだ弱小企業だったので,プロセス
たこの国の状況を反映してか,このとこ
制御のグループしか席が空いておらず,
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しかもそれまで会社としては工業プロセ
られていた.国産の制御用コンピュータ
スの分野はまったく未経験だった.シス
を用いたわれわれのOS試作(追試)は
テム・プログラミングに関してはいくら
一応成功したが,ハードウェアの性能が
か自信があったので,「OS はコンピュ
あまりに貧弱だったので,その上でいろ
ータの内部におけるプログラム実行プロ
いろなアプリケーションを動かすまでに
セスを制御するのだからそれを研究する
はいたらなかった.
ことは広い意味でのプロセス制御ソフト
UNIX との第2次接近遭遇は,1976年に
ウェアのモジュール化に寄与できる」と
サンフランシスコで開かれた 2nd ICSE
いう理屈をつけて,新世代のOS試作開
であった.この会議で AT&T BELL 研究
発を行うというかたちでプロジェクトに
所の人びとが Programmer’s Work
参加できることになった.
Bench についてのいくつかの論文をまと
そのとき,世界における OS 研究開発の
めてプレゼンテーションしたのを聞い
文献をひとわたり調査したなかに UNIX
て,OS としてではなく,さまざまなツ
が含まれていた.しかし,UNIX は先行
ールを乗せてプログラマの仕事を支援す
するMULTICS からいくつかの機能を取
る環境を構成する土台としてUNIXを利
り除いただけで,新しいOSのモジュー
用するというアイデアに感心した.SRA
ル化という観点からはほとんど魅力が感
にも同じようなシステムを導入したいと
じられなかった,結局われわれがモデル
考えたが,それが実現するにはさらに何
として選んだのは,デンマークのブリン
年かの時間が必要だった.
クハンセンさんが開発した RC4000 シ
そのころわたしは JSD (協同システム開
ステムであった.この OS はモジュール
発)で行われていた国策プロジェクト
間のメッセージ交換をシステム制御の主
PPDS (ソフトウェア生産技術開発計画)
要な手段とするという(いわばオブジェ
に途中から参加して,開発支援ツールの
クト指向的な)アイデアにもとづいて作
研究に加わっていたのだが,アメリカで
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NSF がスポンサーになって始まっていた
評で,「ぜひ使ってみたい」という引き
Toolpack というプロジェクトに興味を
合いが某証券会社からあったので,ミラ
持った.これは,当時コロラド大学にい
ーさんの会社に依頼して COBOL 向けの
たリー・オスターワイルさん(のちにプ
テストカバレージ計測ツールを急いで作
ロセス・プログラミングの理論を提唱し
ってもらい,第2次証券オンラインシス
たことで有名)が中心になって進めてい
テムのテストにいきなり応用するという
たプロジェクトで,UNIX PWB の発想
離れ業を試みた.このプロジェクトの成
を本格的にソフトウェア開発支援に向け
功が日本の業界にカバレージ計測という
て各種のツールを統合しようという試み
技法を定着させるきっかけになったのだ
であり,「環境」(Environment) という
と思う.
概念がソフトウェア工学の世界に導入さ
そんなことをしているうちに,会社の経
れたのはこれが最初だったと思う.JSD
営基盤もなんとか固まってきたので,そ
プロジェクトは,自らの成果を携えてコ
ろそろ UNIX を導入しようということに
ロラド大学を訪問し技術交流を行ったり
なり,ミラーさんに仲介の労をとっても
した.
らって UC バークレイにコンタクトし,
1978 年春の第3回 ICSE にわたしは仕事
BSD 版を入手した.搭載するハードウ
の都合で参加できなかったが,そのとき
ェアは当初 PDP11 を考えていたのだ
テスティングのチュートリアルを担当し
が,ちょうど DEC が VAX を発表したの
たエドワード・ミラーさんがわれわれと
で,どうせなら新しいマシンにしようと
同じ名前の会社をやっているということ
VAX11-780 を買うことになった.東大
を知って,その秋の日米コンピュータ会
大型センターと日立システム研究所もほ
議のさいにサンフランシスコで会い,か
ぼ同時に VAX を導入しているが,あち
れの専門であるテストカバレージのセミ
らは研究用であって,実務に使うために
ナーを東京で開催した.幸いきわめて好
8
VAX-UNIX を入れたのは SRA だけであ
メリカでは,TRW社のバリー・ベーム
った.1980年夏のことである.
さんたちが,やはり同じように UNIX 上
でのアプリケーション開発に成功した成
会社の規模から考えると分不相応な買い
果を ICSE で報告して有名になったが,
物をしたので,なんとか早く投資を回収
われわれの実験はそれに1年以上先駆け
する必要があった.たまたま上海の宝山
たのだった.
製鉄所の建設を新日鉄が引き受けたプロ
ジェクトがあり,SRA はその孫請けで
このプロジェクトの成果報告は,1981
溶鉱炉制御プログラムの一部を請け負っ
年初めにいくつかの学会やその他の場で
ていた.当然ながらターゲット・マシン
公開した.業界関係の雑誌や技術誌に
は制御用のミニコンピュータであり,開
も,「UNIX を用いた開発生産性向上」
発ツールは FORTRAN コンパイラだけ,
を主題とする記事がいくつも掲載され
しかもそのマシンを使うためには東京郊
た.そして,それを見た関係業界や学会
外の工場までパンチカードを運んで往復
の人びとが相次いで SRA の平河町オフ
しなければならない.「よし,この開発
ィスを見学に訪れるという一種のブーミ
に UNIXを使おう」と決め,Yacc その
ング現象をもたらした.ソフトハウス,
ほかのメタツールを利用して,UNIX上
コンピュータ・メーカー,ユーザーを含
でのコンパイラやモジュール・テスト環
めて100社以上の訪問客があったよう
境(カバレージ計測やアサーション処理
に思う.しかし,UNIX 導入に踏み切っ
など)を整備した.300ボーの社内電話
たわたしの真意は,生産性向上ではなか
回線を利用したタイムシェアリングとい
った.「開発環境」という新しい概念を
う劣悪な環境条件にもかかわらず,結果
日本のソフトウェア界に普及し,アプリ
は予想通り大成功,ターゲット・マシン
ケーション開発に従事する多くのプログ
上での開発チームと比較して生産性・品
ラマたちに,ただ単に与えられた仕様を
質ともに数倍という成果を達成した.ア
満足するすソフトウェアを作るだけでな
9
く,まずその仕事に必要なツールが何か
の成功をソフトウェア業界全体に広める
を考えてそれらををまず整備すること,
ことを狙ったのである.
そのためには UNIX 上に公開されている
UNIX という仕掛けを用いた業界内遊園
OS およびその他の基本ツールのソース
地(UNIX-based Amusement Park for
コードを自分の目で読んで勉強するこ
Software Industry) といういささか誤解
と,の重要性を教えたかったのである.
を招きそうな表現を国際会議などでは使
いわばそれは,ソフトウェア開発パラダ
ったりしたが,ICSE in シンガポールで
イムの転換を目指したのであった.
のわたしの基調講演を聞いたヨーロッパ
5. 遊園地の思想
の研究者からは(半分お世辞だろうが)
1981年に MITI (いまのMETI) からJSD
クト運営で面白い」というお褒めのこと
での PPDS に続く次期プロジェクトのリ
ばをいただいた.本人としては,それほ
ーダをやってくれという依頼があり,
ど大げさな気持ちではなく,学生時代に
UNIXベースの環境作りをテーマにする
経験した素人演劇の舞台監督役の延長線
という条件を呑んでもらって引き受ける
上で,UNIX を舞台装置とする即興演劇
ことにした.プロジェクト名は SMEF
をプロデュースする気分で動いていただ
(Software Maintenance Engineering Fa-
けのことであった.
「技術革新のためのユニークなプロジェ
cility), Software Evolution Dynamics
その後,イタリア過激派の論客たちが書
の理論にしたがえば,ソフトウェアの保
いたいくつかの本を読んで,かれらが提
守は開発フェイズのすべてを含むという
唱している新しい社会学上の概念(ネオ
ことなので,何をやってもよいという幅
モナドロジーやマルチチュードなど)
広い解釈が成り立つ.業界各社から参加
も,当時わたしが考えていたことと近い
する若手エンジニアたちに UNIX 環境の
ような感じがする.たとえば,マウリツ
洗礼を受けさせて,SRA での環境開発
ィオ・ラツァラート『出来事のポリティ
10
クス』(洛北出版)や,パオロ・ヴィル
ソフトウェア工学のメイン・コンファレ
ノ『マルチチュードの文法』(月曜社)
ンスである ICSE の初期に継続して日本
を参照されたい.20世紀ロシア最高の
から参加していたのは宮本勲(日本電気
思想家といわれるミハイル・バフチンが
のちにハワイ大学)とわたしの二人だけ
フランス中世の文学を分析して発見した
であった.M.M.レーマン先生の紹介で
「カーニヴァル」の概念.すなわち普通
4th ICSEで初めてセッション・チェアー
の劇場と違って舞台と観客席を隔てる仕
をつとめたあとの数年間,わたしはプロ
切りが取り除かれ,役者と観客とが入り
グラム委員会に席を置いていたが,論文
乱れて芝居の公演が進行するという仕掛
など一
けも,UNIX やそれに刺激されて生まれ
らず, 9th ICSE (1989年,カリフォル
た GNU あるいは LINUX といったソフ
ニア)のプログラム委員長をボブ・バル
トウェアの発展してきた状況を分析する
ザー さんと一緒に勤める羽目になっ
のに好都合だと思う.
た . ち ょ う どそ の こ ろ 政 府 ( M I T I &
も書いたことがないにもかかわ
IPA)とシグマの運営方針をめぐって対立
1980年代半ばに,SMEF プロジェクト
したわたしはプロジェクトから脱退する
の後継として,わたしたちが企画してい
ことになり,思いがけず時間の余裕がで
たアイデアはネットワーク+ワークステ
きてしまった.
ーションを組み合わせた未来のソフトウ
ェア・オフィスのプロトタイピングだっ
そこで 旧知のビル・リドルさんの提案
たのだが,それが MITI + 大手メーカに
をもとに,国際産学連携の新しい運動を
乗っ取られて「シグマ計画」に変貌して
始めようと考えたのだった.SEAの仲間
しまい,最後は SONY + SRA 連合軍 vs
であ る 熊 谷 章 ( P F U ) , 深 瀬 弘 恭
シグマという戦いになだれ込んだという
(ASCII),野村敏次(日本電子計算)ほか
事件の始末はみなさんご承知の通り.
の方々の賛同を得て各社から寄付を募
り,鳥居宏次(大阪大),斎藤信男(慶応
11
大),片山卓也(東京工大)ほか顔見知り
に紹介して強固なヒューマン・ネットワ
の大学の先生方にも声をかけて,未来の
ークを構築したことだといえるであろ
設計支援環境のイメージを議論する連続
う.1998年の ICSE を京都で開催するこ
ワークショップ形式の新しいプロジェク
とができたのは,台本が未定のままの芝
ト SDA (Software Designer’s Associates)
居を多国籍の雑多な俳優陣を起用して上
をスタートさせた.まだ世の中には「モ
演するという国際的な即興演劇公演シリ
デルベース」という概念は存在しなかっ
ーズがもたらしたひとつの成果であっ
た時代に,このプロジェクトは,ソフト
た.
ウェア設計プロセスのモデルを考えてそ
6. 中国へ
れにもとづく未来の設計支援環境のイメ
ージを構築するというのがテーマだっ
1980年代初めにロンドンで開かれた
た.運営形態は,日本およびアメリカを
ICSEプログラム委員会で北京のソフト
交互に移動しながら年4回の連続ワーク
ウェア工学センター所長の鐘錫昌さんと
ショップを繰り返すというかたち.最初
知り合い,「機会があれば中国へ行った
は3年で終わるはずだったが結局は6年
みたい」という会話をかわした.そのこ
続いた.
とはすっかり忘れていたのだが,SEA が
「モデルベースの設計支援」などという
設立されてまもなく,鐘さん招待状が届
難しい課題に取り組んだせいで,プロジ
いた.1981年に始まった5カ年計画の国
ェクトの初年度に ICSE in シンガポール
家プロジェクトが終わり,その報告を兼
で発表した論文以外に,具体的なプロダ
ねた国際ワークショップを開くので参加
クトは生まれなかったが,このプロジェ
してほしいという趣旨であった.
クトの最大の成果は,それまでソフトウ
そこで,1986年夏に北京で開かれたその
ェア工学の分野とは無関係だった日本の
会議に参加し,せっかくの機会だから
大学の先生がたを国際的なコミュニティ
と,帰りに西安,上海を訪問した.その
12
際,上海でホストをしてくれた組織から
とは SEA の誇るべき成果 であったと考
の提案を受けて,国際交流の会議をやろ
える.
うということが決まり,それ以来20年
20年のあいだにさまざまなことがあっ
以上にわたって,中国・韓国・インドそ
たのは熊谷さんが書かれた通りである
のほかのアジア諸国をまきこんだ年中行
が,わたしがいま思い出すもっとも印象
事が始まったのである.
的な出来事は,1989年6月の天安門事件
後年,国連大学の協力を得てソフトウェ
が発生した直後の SS in 東京に,中国科
ア技術の未来 (Future Software
学院の長老・唐稚松先生を基調講演者と
Technology)に関する会議と名称を変え
してお招きし,ほかに多数の中国人研究
たこの会議だが,最初の3回は日中ソフ
者をゲストとして招待したときのことで
トウエア・シンポジウムとしてスタート
ある.はたしてみなさんが日本へ飛んで
した.当時はまだ文革の混乱がおさまっ
来られるのかどうかが当日まで危惧され
ておらず,中國内で開かれる国際会議は
たのだが,なんとか全員無事にやってこ
ほとんどなかったので,われわれの会議
られたのは,奇跡だったとしかいいよう
には中国の大学や研究所の高名な研究者
がない.SS が終わったあと,わたしの
の多くが,した.こちらもその期待に応
オフィスを訪問された何人かの先生方
えて欧米の研究者を何人か招待し国際交
が,北京から届いた事件後の状況をしら
流のきっかけを作ってさしたのであっ
せる電子メールの画面を興味深げに覗き
た.それは,これから国際社会に復帰し
込んでおられた姿がなつかしく思い出さ
ようとしていた中国の研究者たちに新し
れる. い刺激や情報を提供し,アジア全体のソ
フリー・ソフトウェア運動の主導者リチ
フトウェア・パワーを向上させる連続即
ャード・ストールマンと知り合ったのは
興劇の公演として大きな成功を収めたこ
ある雑誌のインタビュー記事をかれが飛
行機の中で読んだのがきっかけだった.
13
のちに南京で開かれたこの国際会議にか
品の創造にさいして通っていった道を探
れを基調講演者として招待したとき,会
ろうと努めるのである.こうした(プロ
場のホテルのロビーで鐘錫昌さんと差し
セス指向の)アプローチをとることによ
向かいで夜遅くまで熱心に語り合ってい
って,われわれは,芸術作品を何か固定
た姿が思い出される.鐘さんが Set-top
不変なものとして理解するという誤りか
BOX の OS開発で マイクロソフト (ビ
ら免れることができる.贋作者たちのよ
ル・ゲイツ) を出し抜くという快挙を成
うに,忍び足で作品に近づき,目につい
し遂げた背景には,あのときの会話の影
たものだけをすばやく盗み取って逃げ出
響があったのだろうと思う.
すというような行為を避けることができ
るのである」.
7.プロセスへの視点
このクレーのことばは,プログラマとし
1921年の秋,画家パウル・クレーは,ワ
ての生活を始めたわたし自身にとっても
イマール・バウハウスの造形講義の開講
大いに有用であった.1960年代末から
にさいして『概念としての分析』と題す
70年代初めにかけて構造化プログラミン
る短い前置きのスピーチを行っている.
グの嵐が吹き荒れ,わたしもそれに巻き
こまれていた.最終的なプロダクトを見
対象物を構成要素に分解し,それぞれの
れば,構造化プログラミングの成果物
持つ性質を検討して行くのが自然科学に
は,世の中の教科書が示す通り階層化さ
おける分析の概念であるが,そうしたプ
れた機能モジュールの集まりとしてのプ
ロダクト指向のアプローチは芸術におけ
ログラムであった.しかし,そこに至る
る塑造的活動には役立たない.「われわ
道筋(ソフトウェア設計のプロセスと動
れは,分析対象の作品を構成要素に分け
機)は,それぞれ異なっていたのであ
てそれぞれの働きを調べるというような
る.そのことは,ととえば E.ダイクスト
ことはしない.われわれは,自らの足で
ラや M.ジャクソンあるいはわたしが当
歩き出すために,先人たちがかれらの作
14
時書きのこしたドキュメントを読めばわ
言語学者エウジェニオ・コセリウはその
かる.そうしたプロセスの違いに気付か
主著『言語変化という問題 - 共時態,通
ず,機能的モジュール化というプロダク
時 態 , 歴 史 』 ( 岩 波 文 庫 ) に お いて ,
トの特性だけに着目して,以後の SA/
「変化すること自体が言語の本質であ
SD からオブジェクト指向へというソフ
り,変化することによって言語は言語で
トウェア設計方法論の流れは,ある意味
あり続ける」と述べている.言語におけ
でまちがっていたのかもしれない.
る変化とは自然科学でいわれるようなず
れや損壊ではなく, システムの建て直し
1980年代以降,わたし自身の関心は,
であり,修復であり,その連続性と機能
M.M.レーマン先生の影響を受けたせい
性を維持させるものである.言語は変
もあるだろうが,ソフトウェア開発プロ
化することによって創られ,変化をやめ
セスから少し離れ,開発が終わって実行
るときにはその状態のままで死滅してし
フェイズに入ったあと,社会との相互作
まう.ソフトウェアもまた,変化するこ
用によって生じる進化プロセスのほうに
とによってソフトウェアであり続けると
移っていった.80年代なかばにスター
いう意味では,言語と同様の本質を備え
トしてほぼ10年間続いた ISPW(国際ソ
ている.そのことは,上述のコセリウの
フトウェア・プロセス・ワークショッ
主張において「言語」を「ソフトウェ
プ)は,そうした議論の中心に位置して
ア」と置き換えてみれば明らかであろ
おり,プロセス・プログラミングやプロ
う.
セス支援環境など,さまざまなことがら
を学ぶ機会であった.北海道・大沼公園
しかし,これまでのソフトウェア工学は
での第6回ワークショップのローカル・
ソシュール流構造主義言語学と同様に,
アレンジメントをしたときのことなどが
変化をとりあえず無視した「共時態とし
なつかしく思い出される.
てのソフトウェア」 を科学的研究の対
象として扱ってきたように感じられる.
15
そのことは,1960 年代末の NATO ワー
要求仕様もプロダクトの構造も,開発プ
クショップによってソフトウエア工学の
ロセスも,そしてさまざまなレベルのユ
概念が提唱された直後における最初の技
ーザを巻き込んだシステム進化のプロセ
術的な流れが「構造化プログラミング」
スも,それらすべてが絶え間ない変化に
に代表されるように,静的なプログラム
さらされている.にもかかわらず一 般に
の構造を研究するというかたちで開始さ
は,そうした変化に惑わされない要求仕
れたことからも明らかである.
様の確立や,変化に対応して容易に変更
しうるアーキテクチャの設計などが追求
その後レーマンによる Software Evolu-
され,プロジェクト環境の変化に応じて
tion Dynamics 提案や,それを受けたか
フレキシブルに抵抗できるようなプロジ
たちでの C.フロイドによるパラダイム変
ェクト管理のあ
化の指摘などが
り 方 や プロ セ
登場したが,ソ
フトウェア工学
の主要な関心は
変化がソフトウェアの本質で
ス ・ モ デル が
あるとはどういうことか?
求 め ら れて い
たりする.こ
依然としてプロ
う し た ア プロ
ダク ト と しての
ーチは,いずれも変化を望ましくないも
ソフトウェアを研究することに置かれて
のとして考えようとする態度に由来して
おり,ソフトウェアの変化(あるいは進
いる.
化)は副次的な扱いしか受けていない.
ソフトウェアはあくまで変化すべきでな
近ごろ流行しているアジャイルの方法論
いものと考えられ,止むを得ず発生する
は,変化を中心として考えるパラダイムで
変化やそれに対応する(いわゆる)メイン
あるかのように見える.しかし,そのマ
テナンスの問題は不当に軽んじられてい
ニフェストを読んでみると,背後にはや
るというのが現状である.
はり変化を邪魔なものと考え,変化がな
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ぜ起こるのかという原因をソフトウェア
したように 「同じものごとが繰り返さ
の外部に求めてその影響を最小限に止め
れることは決して起こらない.ただ差異
ようという意識が見え隠れする.
だけが反復される」という事実を忘れな
いことであろう
変化がソフトウェアの品質的な属性であ
るとすれば,その原因をソフトウェアの
ソフトウェア・プロダクトやその開発・
外に求めることは間違いであろう.ソフ
進化のプロセスに大規模な革新をもたら
トウェアは本来,さまざまな変化を可能
すような大きな変化は,あらかじめそれ
にしそれを支援するためのメカニズムを
を予想することが不可能な場合が多い.
「その内部に」備えているのだと考える
そのような変化に対応するうえで有効な
べきなのである.ソフトウェアが,も
手段は遊牧型文明の基本としての狩猟・
し,ある一定期間変化せずにいたとすれ
採集パラダイムではなかろうかと推測さ
ば,それはむしろ異常な状態だと捉え
れるが,この点については,さらに文化
て,なぜ変化しなかったのかという理由
人類学の助けを借りる必要があるだろ
を外部に探し求めるほうが正しいアプロ
う.
ーチだと思われる.そのように視点を変
プロセスの革新については,ドゥルーズ
えることによって,要求工学やプロセ
&ガタリが共著『千のプラトー』で提案
ス・マネジメントなどの議論に新しい展
したリゾーム型の概念モデルが有用では
開が期待できるのではないだろうか.
ないかと予想される.プロジェクト・マ
変化といっても,その形態はヴァラエテ
ネジメントの新しいかたちとしては,ア
ィに富んでいる.もっとも一般的なかた
ジャイルの人びとがすでに実践している
ちは,ある程度前もって予想される変化
ネオモナドロジーの組織論が有用な候補
が繰り返し発生するという現象であろ
のひとつとして挙げられるであ ろう.
う.そうした変化を扱う際に重要なこと
がらは,哲学者ジル・ドゥルーズが指摘
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