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南大東島 第三百二十三設営隊

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南大東島 第三百二十三設営隊
には軍艦など入っていたので擬装していた艦艇も大部
は全部やられて丸焼だった。軍港が空襲された時、港
ンバンガラとは違って何とか空腹はしのげ、これも運
った。山中での生活は大部粗末になっていたが、コロ
自動車班の長は上等兵曹で、十八人ぐらいの編成だ
九月一日予備役編入、一等機関兵曹に任ずとありま
が良かったわけです。
分やられたらしい。
海兵団は軍港の側にあったので、爆弾や焼夷弾を受
け、数は当時つかめなかったが、犠牲者は相当あった
難させた。そこまで三、四十分ぐらいかかるから、そ
ラックで運んで、山向こうの神山峠を越え、熊野へ避
でないので一応皆元気でいて、これも運が良かったと
し、慶応生まれの祖母も元気、弟は兵隊に取られる年
留守宅では父が元気でボチボチ農業をやっていた
すので、その日に復員となったわけです。
のため軍港の方の様子は余り良く判らなかった。私た
いえましょう。ただ、胸の傷は今でも腕の上げ下げに
と思います。われわれ自動車班は逃げまどう住民をト
ちは軍港や海兵団を守るというより、住民を守ったわ
不自由している。
南大東島 第三百二十三設営隊
今何でも無いから大丈夫だったのでしょう。その後引
編入されたということですが、入隊の経緯を聞か
︱岸川さんは経歴を見ますと陸軍から海軍へと転籍
けです。
広島原爆の時 はわれわれは 自 動 車 を 分 散 し て 神 山 峠
が他のことは判りません。呉︱広島間は、当時汽車で
福岡県 岸川甚一 の山の中で生活していた。山から原爆の入道雲は見た
四十分ぐらいかかる距離ですから、海兵団の中には救
き続いての福山は空襲でほとんど全滅したみたいだっ
せて下さい。
護に行った隊もあったようです。 私は放射能の被害は、
た。
年六月でしたが、相の浦海兵団に入団させられ、陸軍
補充兵となりました。陸軍に臨時召集されたのは十九
五尺二寸で寸足らずというか、九年十二月一日に第二
種合格だったのですが、 いわゆるクジのがれというか、
私は大正三年四月二十一日生れ、昭和九年徴集で甲
た。
私は酔わないので伝令となり船の中を走り廻りまし
しました。 船 が 小 さ い の で 大 揺 れ で 皆 船 酔 い で し た が 、
材を降ろし、小さな機帆船に積み替え南大東島へ出発
翌日出発したが、空襲がはげしいので奄美大島に機
私は乙種の建築工業校出のため、工作兵として佐世
製糖会社の私有地で、島内は砂糖黍畑、周囲は岩礁地
共々吊り上げて上陸しました。南大東島は当時、日本
八月二十九日着、製糖会社のクレーンで、人も機材
保鎮守府施設部へ派遣され、そこで教育を四十日ぐら
帯 、 中 が 凹 ん で い て そ の 真 中 に 大 き な 池︵ 幾 分 塩 気 あ
から海軍に籍が移されたわけです。
い受けました。工作上の技術教育中は年配者が多く、
り︶があった。
佐か中佐でしたが、我々は兵器は 一 切 使 っ た こ と は な
十∼二百六十人が入った。今川部隊といって隊長は少
そこに仮兵舎を作り、第三百二十三設営部隊約二百
ほとんどが建築、土木、大工、漁師等、施設関係の職
種の人たちでしたが、本職業は別として団体的共同訓
練では相当絞られました。
私たちは、派遣のまま第三百二十三設営隊付を命ぜ
したが、﹁ 兵 器 を 渡 す ﹂ と い う の で 取 り に 行 っ た ら 、
で行けず大牟田から ﹁ 萩 川 丸 ﹂ に 設 営 機 材 を 積 込 み ま
となった。しかし、そのころは負け戦の最中で、先ま
は珊瑚礁なので、土を運んで埋めるが、作業中にまた
地が海面すれすれのため直ぐ水が濁ってしまう。地面
ょっ中爆撃され、二十メートルぐらいの穴があき、土
設営隊の仕事は、飛行場滑走路の修理でしたが、し
かった。
六連発の鴨射ち猟銃を六人に一挺ぐらい渡されまし
爆撃を受ける。
られ、全部の職種の者をそろえ、沖縄飛行場補修要員
た。
一番高い丘の上に大神宮というお宮があり、年に一度
に角、 東 西 南 北 四 × 七 キ ロ ぐ ら い の 小 さ な 島 だ っ た が 、
ぐらいなので穴は相当深かった。施設もやられた。と
めか爆弾を落して行く。爆弾は二十五キロ∼五十キロ
沖縄の往き帰りに、行きがけの駄賃と残飯整理のた
きりしないで大失敗でした。
にも弾痕が沢山あったが、防風林ごしで敵味方がはっ
日本のだと思って手を振ったら銃撃された。倉庫の中
をし倉庫に乾していたら、飛行機が低空で来たので、
十一月十日ごろだったか、私は半袖半パンツで洗濯
砂糖と内地の米等とバターで、食料は内地にたよって
い。島の中にはトロッコの線路が敷いてあった。島の
島は先に申したとおり、全島砂糖黍畑といってもい
の子の代用、一番有難かったのは岸壁のくぼみに溜っ
って食うが、蛇は一匹もいなかった。ビンロー樹は竹
茶は笹の葉を石油缶で焚いて飲む、バッタを火であぶ
のは食糧でした。主食は唐芋、葉は汁の中に入れ、お
そんな具合で南大東島は完全に孤立し、まず困った
いた。島民は老人だけであったようで、若者は疎開し
た海水が夕方には塩となり、砂糖とともに貴重な調味
秋祭があったらしい。
ていなかった。軍は陸軍が主力であったようで、通信
この辺は台風銀座といわれる所で、年に二、三度、
料となったことです。
︱戦争が後期になると補給が充分でなかったでしょ
植物は汐風で葉が全滅するが、一週間もすれば新しい
所などもあった。
う。砂糖黍だけ噛ってもいられなかったでしょう
葉が出るし、甘蔗も大きくなる。自然はうまく生物を
ある程度通信所で受けていたろうが、私は機材倉庫
知っていましたか。
︱フィリピンや台湾沖の海戦も終ったころの情報は
生かしているとその時つくづく感じました。
し、空襲や艦砲射撃は。
私は甘党でしたので噛っていたため、歯を悪くしま
した。十一月一日ごろ、潜水艦で食糧を運んで来たけ
れど、天候が悪く陸揚げが出来ず引き返し、その後空
襲が激しいため食糧の補給が無くなった。
い、 クレーンは爆撃されているので荷揚げは出来ない。
いて行っても作業が出来ない。艦船も 全 然 立 ち 寄 れ な
場滑走路に穴があくのだが、トラックも車もない。歩
かった。沖縄戦の時 は空襲 は 激 し か っ た 。 爆 撃 で 飛 行
長で物品の貸出しなどでしたので、余り良くわからな
状が多く出ました。
ので湿気が身にこたえて、神経痛やリューマチ性の症
にあったためです。しかし、そこに寝泊まりしている
三百人ぐらいも収容出来る鍾乳洞のような洞窟が所々
のは、入り口は一坪ぐらいでも、下へ降りると二百∼
このような孤立無縁の島の戦いで命があって帰れた
終戦の時、米軍が来て、兵器を点検するという情報
また十一月過ぎれば波が荒くて船は寄り付けない。心
理的にも不安で、いろいろなデマが飛ぶ。米軍が上陸
銃を射ったようで、敵機を撃墜した。すると敵が同僚
空襲の時、陸軍にも高射砲はあったらしいが、機関
故で死亡したことです。十一月に、帰ると家に手紙を
念だったことは、製材中の不注意のため戦友二人が事
とうとう米軍は来ませんでした。終戦になってから残
があったので、 秘密の物は岸壁から海へ投げ捨てたが、
を助けにきた。日本は玉砕だ玉砕だというが、米軍は
出した人だったので、周囲の戦友は家族にどう言って
するとか。
人命を大切にしていた。
弾は見ておれば大体見当がつくが、艦砲は島が小さい
乗って行って艦砲射撃をされたときです。飛行機の爆
兵は使えず一緒に仕事をした。だから階級の上下はな
係は良かった。試験があって階級が上がっても、同年
私たちの設営隊は技術者の集団だったので、人間関
いいかと随分困っていた。
から右から射っているのか、左からなのか判らない。
しで、炊事当番も一緒にやった。だから、その事故死
一番恐ろしかったのは、滑走路の補修でトラックに
弾は音がドオン∼ヒューと気味悪い余韻を残して落ち
にしても心を痛めていたわけです。
引き揚げは海防艦が来たが、甘蔗だけ食べているの
てくる。 得 体 の 知 れ ぬ 怪 物 み た い で 、 爆 風 で 私 も 右 の
耳が聞こえなくなった。
で体力が無くなり船酔いしたこともない私をはじめ皆
船酔いした。船は鹿児島に着いたのだが埠頭には着か
ず浜の石垣に筏で着いた。石垣を登るのだが体が弱っ
て荷物を捨ててやっと登った。
汽車は満員でなかなか乗れず、窓から乗って夜中佐
賀駅に着いた。
家に帰ったら皆びっくりした。佐世保海兵団へ問い
合 わ せ た ら﹁ 島 へ 行 っ た か ら 全 滅 だ ﹂ と い わ れ た と い
う。自分も早目に出発して沖縄へ行っていたら命はな
かったろう、それが運命の別れだったと今も思ってい
ます。
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