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鶴鳴女子高校バスケットボール部の歩み

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鶴鳴女子高校バスケットボール部の歩み
鶴鳴女子高校バスケットボール部の歩み
H17.03.19修正
昭和初期から戦前までの鶴鳴女学校時代には、バスケットボール優秀校として名を
なし、神宮大会(今のインターハイ)にも出場したと言い伝えられている。戦後10
年ほど消滅していた時代があったが、昭和32年に再び活動を始めた。
昭和32年
前田英昭監督で再出発。
前田先生は長崎東高校(コ−チ:川崎周之先生)→大阪商業大学を通じ
て本格的にバスケットをやった人だ。そこに原田鶴代校長代行が目を付
けた。
校長「前田先生、あなたはバスケットの専門家のようだから、バスケッ
ト部の顧問をやってくれませんか」
前田「ハア … ところで、部員は何人ぐらいいるんで…」
校長「いないんですよ。それはあなたがこれから集めて下さい」
前田「エッ それじゃあ練習はどこでやるんでしょうか」
校長「それもあなたがこれから考えてくれませんか」
というぐあいで鶴鳴のバスケット部は再出発したのだった。前田青年
はさっそく部員集めから始めた。ようやく八人の部員が集まったが、ま
ずやらなければならないのはコート作りだった。彼は中庭(現在の東中
庭)に目を付け、そこにコートを作ることにした。
中庭の片隅には電柱が一本立っていた。その電柱にバックボ−ルドらし
きものを取り付けた。リングは鉄工所に頼んで作ってもらった。しかし、
バックボールドの下には砂場があった。ランニングシュ−トの練習は幅
跳びの練習でもあった。そして、バックボールドは1対ではなく1個だ
けしかなかった。雨が降れば川になる。そんなコートで練習に励んだ。
当時、そのにわか作りのバスケットコ−トの近くに雨天体操場があった。
それは、一般の教室に少し毛が生えた程度の屋内練習場で、天井の高さ
は一般の教室より数十センチ高いだけだった。しかし、その雨天体操場
はバレ−部が使っていて、バスケット部が入り込む余地はなかった。当
時は鶴鳴バレ−部の全盛期だったのである。
昭和36年
待望の体育館落成。県高校総体3回戦進出。
電柱にくくりつけたリング、砂場つきのコ−トから、屋根つき板張りの
体育館で練習できるようになった。コ−トの中央を川が流れることはな
くなった。
新設の体育館は屋根がちょっと変っていた。明るくするために、屋根の
中央部分を、ステ−ジ側から玄関の方までド−ンと半透明のプラスティ
ック板にしてある。確かに室内は明るかったが、夏はビニ−ルハウスの
中で練習しているようだった。おかげで、猛暑の中のインタ−ハイには
強いチ−ムが育っていった。
昭和37年
県高校総体ベスト4進出。
この年から、三菱造船の山口良行氏を技術指導の顧問に迎え、本格的な
強化に乗り出す。
昭和38年
県高校総体準優勝。
昭和39年
念願の県高校総体初優勝
昭和40年
九州大会優勝
鶴鳴バスケットは破竹の勢い。前年県大会で初優勝した翌年は九州大会
でも優勝してしまった。しかし、優勝したのはいいが………
「まことにすみませんが、優勝するとは思ってもいなかったものですか
ら宿泊の用意もしてきていませんし、もうお金もないんです。で、次ぎ
の汽車に乗らなければ帰れませんので、男子の決勝戦を待たずに今ここ
で女子の表彰式をやってもらえないでしょうか」と、前田先生は大会関
係者に頼む。むかしというものは実にみんなおおらかなもので「あゝ、
そういうことならいいですよ」と、大会関係者はふたつ返事で承知して
くれた。そこで鶴鳴のチームは、まだ男子の決勝戦は終っていないのに
途中で表彰式をしてもらい、優勝旗を手にするやいなや「ソレッ」と駅
へダッシュ。ユニフォームのまま汽車にとび乗ったのでした。
さらに1ケ月後、長崎市でインタ−ハイが開催。
前田先生は、晴れの舞台で選手に着せるユニフォ−ムを一新。
今でこそ、バスケットのユニフォームといえばノースリーブにショート
パンツが当り前になっているが、当時はダボダボの半袖シャツに提灯ブ
ルマーで試合をした時代だった。そんな時代に、鶴鳴は目のさめるよう
な黄色のノースリーブでさっそうと登場。ステ−ジにならんだおじさん
たちは試合の内容ではなく。鶴鳴のユニフォ−ムばかり見ていた。
それから15年後。全国的にノースリーブ時代が訪れるとは誰も予想は
できませんでした。前田先生先見の明あり。
昭和41年
猛将 中村和雄監督就任(元・全日本チームヘッドコーチ)
文字通り『猛将』率いる鶴軍団は猛練習に継ぐ猛練習で一気に舞い上が
り、たちまち全国トップランクチ−ムにのし上がった。
昭和43年
昭和43年広島インタ−ハイ。初の全国ベスト8入りで全国の注目を浴
びた。みんなから「いいチ−ムですねえ」と誉められた。しかし猛将中
村監督は負けた試合の内容が気に入らなかった。試合会場から宿舎へ帰
る途中、怒りは頂点に達し、彼は選手たちの目の前で帰りの汽車のキッ
プを破って川へ捨てた。「おまえら情けない試合をしやがって、これか
ら長崎まで歩いて帰れっ!」当然そんなことはできるわけがなく、彼は
自前でまた帰りのキップを買わなければならないハメになった。
昭和44年
長崎国体開催。
鶴鳴は天皇杯の得点獲得の最有力種目。しかし、当時史上始まって以来
といわれる好素材を集めた名古屋の名古屋女子商業高校が眼前に立ちは
だかり、全ての大会2位止まりだった。その悔しい思いが後の全国制覇
へとつながる。
昭和45年
川崎周之先生
昭和46年
高松インターハイ。ベスト8に勝ち残った時点で鶴鳴の初優勝はほぼ確
定的となった。準決勝を前に、部長の前田先生がひと足先に長崎へ帰り
祝勝会の準備をすることになった。ところが、祝勝会の準備ができて高
第5代校長に就任
松に電話を入れてみると、鶴鳴は決勝で伏兵大曲高校に負けていた。
結果が出るまでは他のことに心を奪われてはならないという見本のよう
なできごとだった。取らぬ狸の皮算用。
昭和47年
全国で初の三冠王
前年の苦い経験を生かし、春の選抜・夏のインターハイ・秋の国体の三
大タイトルを手にした。
昭和49年
中島正信監督就任(現:三菱電機名古屋チーム監督 H7.10.24時点)
中村監督が実業団へ移籍し、後任に東京教育大学から新任の中島監督が
着任。しかしながら、チームは全盛期を過ぎ苦難の時代へと移行。
昭和52年
川崎周之校長退任
山崎純男監督就任
昭和53年
春の全国高校選抜大会で準優勝。インタ−ハイベスト8。関係者に「鶴
鳴復活か?」と期待させる。
昭和54年
山崎監督腎臓出血で長期入院。
復活の夢は断たれ、逆にチ−ムの歴史最大の危機が訪れる。
昭和56年
山崎監督復帰。
前田部長の東奔西走による選手募集と志岐先生(当時布津中学校の監督)
の協力でチームの命がつながる。。チームに活気が戻る。しかし、以後
の選手募集がままならず、この後数年間危機は続く。
昭和61年
鶴鳴の歴史始まって以来の出来事が起こる。
低迷続きとはいえ、高校総体になれば必ず挽回し、起死回生の勝利をも
のにしてきた鶴鳴であった。しかも、今年度は春季選手権で優勝してい
る。夏は鶴鳴のものだと多くの人が思っていた。ところが、初戦におい
てノーシードの大村高校に苦杯をなめさせられたのである。これを契機
としてプツッと糸が切れたように、鶴鳴バスケットは県大会でさえ優勝
できない状態が続くことになる。
平成元年
5年ぶり、県高校総体21回目の優勝成る。
昭和63年に、それまで不調だったリクル−トが成功し有望新人が入部
してきた。その選手達を中心に鶴鳴は復活。
平成3年
インターハイ優勝。19年ぶり、2回目。悲願達成。
山崎監督の報道陣に対しての第一声。「もう、死んでもいい」
平成4年
ライバル校にス−パ−新人(永田睦子:西有家中出身 177㎝)現わる。
超がつくス−パ−ル−キ−の出現で鶴鳴はまたまたピンチに見舞われる。
全国大会の出場権はすべてライバル校に奪われる。
平成6年
3月31日
前田英昭校長
定年退職
監督歴:昭和32年∼36年
部長歴:昭和37年∼59年
教頭歴:昭和60年∼ 元年
校長歴:平成 2年∼ 5年
地区新人戦・県新人戦優勝。九州春季大会準優勝。3年ぶり。
平成7年
8月中旬アメリカ遠征。ウィスコンシン大学オシュコシュ校のキャシ−
ベネットコ−チのクリニック受講。
10月。福島国体準優勝。
平成8年
鶴鳴女子高校創立百周年目。山梨インターハイ準優勝。小さい選手ばか
りでよく動き、風軍団と呼ばれた。
平成9年
校名が鶴鳴学園長崎女子高校に変わる。
高校総体は負け。選抜予選は勝ち。2冠取れず。
大野慎子エバンズビル大学へ留学。
平成10年
前年とまったく同じ。2冠取れず。
8月中旬2回目のアメリカ遠征。エバンズビル大学
大野慎子MVC新人王獲得。
エバンズビル大学MVCカンファレンスで優勝
平成11年
ウィスコンシン大学リバーフォールス校招聘。
前2年とは全く逆で、県総体は勝つも選抜予選は負け。2冠取れず。
平成12年
8月中旬3回目のアメリカ遠征。インディアナ大学。
県総体優勝。選抜予選優勝。九州国体2位。本国体2位。
久々の全国トップランク。
平成13年
8月中旬4回目のアメリカ遠征。ウィスコンシン大学リバーフォールス
この年の新入生は3年後の長崎夢総体を睨んで県下の優秀選手根こそぎ
獲得。県総体・選抜予選ともに優勝。九州総体優勝。本国体3位。
平成14年
ハワイミニバスケットボールチーム(HOOPS IMUA)招聘
主力選手の病気やさまざまなトラブルで、県総体3位、選抜予選3位と
さんざんな目に遭った。
平成15年
ハワイミニバスケットボールチーム(HOOPS IMUA)招聘
長崎夢総体。諫早の小野体育館が女子のメーン会場。
鶴鳴学園の特別措置で山崎監督の定年を延長し、夢総体上位入賞に臨む。
主将の立川美礼が選手宣誓。
全国優勝を狙うためにはどうしても長身選手が必要なのでセネガルから
の留学生(Diatou Ngom184㎝)を獲得。
九州総体優勝 インターハイ3位 国体3回戦 全国選抜大会3位
平成16年
8月中旬5回目のアメリカ遠征。ハワイ(HOOPS IMUA)
山崎監督長崎女子短期大学へ移籍。高校の監督はそのまま継続。
インターハイ3回戦 本国体3位
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