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愛の潮表紙題簽 NewR2

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愛の潮表紙題簽 NewR2
英 紅炎 作
えほん
潮 あ い の うしお
艶本 愛
淫斎白繚 画
千代乃とあおりの恋物語
改訂二版
表明
この物語は、パーソナルコンピュータ上で日本語ワードプロセッサーを使用して書かれ、Adobe Acrobat*1 を使用して電子的に
PDF(Portable Document Format) ファイル形式 *2 で編集され、インターネット上で公開することを意図した創作物です。従って、
PDF ファイルとして編集されたこの物語は、広い意味で、一種のソフトウエアと考えられます。
この物語をインターネット上でお読みになるには、お手許のパーソナルコンピュータに Adobe Acrobat Reader*3 が搭載されている
必要があります。
この作品のインターネット上での公開に至るまでには、著述、推敲、校正、編集構成 / 校正など、多段階に亙る長い時間と労力と、
費用がかけられています。従って、作品の出来不出来の如何によらず、そのことを念頭に置いてこの物語をお読みください。
なお、この物語をお読みになるに当たっては、以下の事項がご承認頂けていることをご確認ください。
○
先ず初めに、この物語は、現実の事象とは如何なる関係もなく、単に作者の想像の中で生まれた純然たる創作であり、
その意味で全くの「絵空事」であるということ。従って、現実に実在した ( あるいは実在する ) 人物または施設に類似する名称等が
あるとしても、それとは一切関係がなく、時代背景や地名なども単に物語の背景として仮借されているに過ぎないということ。
○
次ぎに、この物語の中では、現在の一般的に承知されている習俗や習慣と相容れない習俗や習慣が描かれている場合が
ありますが、何れも十分研究されていないにしても、史実として我が国の社会の中に現実として有った ( または行われていた − 作
者は、今なお残渣として行われていると疑っていますが ) ことであるということ。
○
冒頭で述べた理由で、この物語は有償で ( ソフトウエアの利用料を支払って )「講読」していただくことを意図していま
すのでご承認ください。但し、インターネット上で読むことの出来るダイジェストはその限りではありません。
「希望購読料」は、
物語の巻末の「奥付」で表明されています ( 何れも些少です )。その支払い方法は、別途ホームページ上の案内に従って下さい。
○
この物語の「講読」に当たっては、次の事項をお守り頂くことをご承認ください。
a)
物語は、児童福祉法が適用されない年齢層が対象であるということ、つまり「二十禁」であるということ。
対象外の人、および性の道徳主義者のアクセスをお断りします。
b)
筆者の事前の承諾なしに、
何らかの手段で勝手にファイルをダウンロードしないこと。
「講読」希望の際には、
ホームページ上の案内に従ってお支払いの上ダウンロードして頂くこと。
c)
この物語の「講読」に際して、一つの物語につき利用できるのは、一台のコンピュータシステムに限られる
ということ、従って、許可なくファイルを複製して同時に複数のコンピュータシステムで利用したり、第三者に頒布したりしては
ならないことをご承認頂くこと。
d)
この物語の (PDF ファイルの様態を含め ) 如何なる内容も改竄してはならず、また個人の非営利的な作品 /
執筆物の中での引用を除き ( この場合も事前に引用箇所をご通知ください )、如何なる方法でも、複写、複製、引用等に利用しては
ならないことをご承認頂くこと。
e)
著者は、この物語の「講読」に際してお手許のコンピュータシステムのハードウエアおよび / またはソフト
ウエア、あるいはインターネット上のシステムによって引き起こされる可能性のある一切の不具合または物理的な損害に対して責
任を負うものではなく ( 無害免責条件 )、筆者が責任を負うのは、あくまでも物語の筋と内容、構成、乱 / 落丁などに限られるとい
うことをご承認頂くこと。
f )
悪意のある、為にする批判、誹謗、中傷、非難キャンペーンなどに類いする一切の行為を行わないことをご
承認頂くこと。但し、筆者は、善意の温かいご批判やご指摘は、今後の改訂のために傾聴することは吝かでなく、大いに歓迎します。
この物語の著作権に関わる全権利は、作者の英紅炎が保有します。
平成戊子 八朔
平成庚寅 神無月 改訂
パーソナル オフィス テリントーク
英 紅炎
注 )*1,*2,*3 のソフトウエアは、何れも Adobe Corporation が知的財産権を保有する製品、登録商標またはプログラムシステム
の名称です。
英紅炎(はなふさこうえん、Ei Kohen/Ei Cohen はとも呼ぶ)はこの物語の著作権保持者の名称で、それ自体が商標(無登録)です。
パーソナル オフィス テリントークは、英 紅炎の個人事務所の対外的に使う呼称です。何れもこの名称を流用することを禁じます。
その男は、千代乃がそのドラッグストアに勤めだしてから暫くして千代乃の前に現れた。三十代中半くらいの精悍な顔つきの男で、古手の店員の
話だと、Y組系の若頭で、このドラッグストアチェーンの親会社の経営を取り仕切っているインテリヤクザなのだという。いつも黒いスーツで身を
固めイタリア製のぴかぴかの靴を履いている以外は、物腰や話しぶりも柔らかく、千代乃にはとてもそのような人には見みえなかった。幾つかある
チェーン店は、夫々店長に任せて、月に一度か二度、突然現れて店長に状況を聞き、周囲の要所要所に目配りして、居合わせた店員に「不自由はな
いか…、不満はないか…」など、優しい眼差しで声をかけ、店長にてきぱきと指示を出して三~四十分ほどで引き上げていくのが常だった。
千代乃は、実はそのドラッグストアの臨時雇いの面接の時にその男に一度会っていた。だがストア毎の臨時雇いの面接は店長が仕切っていて、そ
の男はただ黙って話を聞いているだけで千代乃とは直接話していなかったので、千代乃の記憶には殆ど印象が残っていなかったのだった。その面接
以来の千代乃の楚々とした立居振舞いがその男の注意を惹いたのか、しばらくして殊更のように千代乃に声を掛けることが多くなり、やがて勤務が
撥ねた後の予定などを訊いて、食事に誘うようになった。
千代乃は、初めは臆する気持ちが働いて、「子供らがお腹を空かせて待っているから…」などと、それらしい口実を設けて断っていたが、佐々は
いやな顔一つせずに、
「それじゃあ、またにしよう…」とあっさりと引き上げて行くのだった。だが、佐々は、以前にも増して頻繁に来るようになり、
来るたびに千代乃を誘うので、それが店員達の目を惹いて、「社長さんが吉行さんにご執心だ…」と噂をするようになり、千代乃を興味津々の目で
見るようになった。そのうちに千代乃の方でも、なんとはなしに誘いに応じたり、断ったりしていた。
「ゆっくりと落ち着けて、楽しかった…」
そんな食事の時にも、佐々は千代乃にいろいろと気を遣い、終わると、殊更に何処かに誘うでもなく、
などと云い、予定があるからと云って、その場で別れたり、時に黒塗りの車で千代乃を家まで送って行ったりするのだった。
*******
すがたかたち
千代乃は、明和薬科大を卒業すると、中堅の製薬会社に勤めた。面接に当たって、「近ごろ珍しいその 姿 容 や立居振舞い、話しぶりが何とも人の
心を和ませる…」という人柄が気に入られ、千代乃は難なく採用されて秘書課に配属され、主に受付で勤務することになった。
千代乃が勤めて一年ほどして、吉行秀造が現れた。秀造は、その製薬会社に出入りする薬種卸会社の営業員だった。秀造は、一目で千代乃を見染
1
め、千代乃の会社の営業部長に頼み込んで、結婚の仲立ちを依頼した。秀造は、謹厳実直を絵に描いたような男で、仕事人間だったが、多くの人の
ちりあくた
信頼が厚く、その営業部長の仲立ちで千代乃の両親を納得させ、千代乃をその気にさせて、話しがとんとん拍子に進んで、二人は一緒になった。
芥にまみれる…」のを嫌がり、千代乃は結婚と同時に会社を辞め、専業主婦に落ち着いた。ほどなく次々と一男二女
秀造は、千代乃が「世間の塵
をもうけ、ただ実直で仕事一途の夫との夫婦生活が義務的な域を出ないことを除けば、過不足なく、夫は、「オレは外で皆の生活を守る。おまえは、
内でオレのために家庭を守ってくれ…」と云って、経済的には何一つ不自由のない、「箱入り」主婦に徹していた。
さやか
「あれよ…、
」という間に大きくなり、早々と親離れをして、末娘のあおりを除いて皆自力で学資を稼いで、あおりがすぐ上の娘清香
子供たちは、
と家を出ると、多少の経済的な補助をする以外は、子供たちにほとんど手がかからなくなり、趣味の習い事をする以外にすることもなく、夫は相変
わらずの仕事一途で千代乃をあまりかまうこともないので、千代乃は、所在のなさを託つことが多くなった。
そんなある日、夫の秀造が突然仕事場で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。「過労死」の認定を受けたものの、修造が好んでそのような働き方を
したこともあって、会社からの幾ばくかの慰労金と、僅かばかりの生命保険が入った以外、収入の目処が立たなくなった。
そのような金は、すぐに底を尽き、不安に駆られていると、「母さんには資格があるんだから、また働いたら…、」と子供たちが云うので、新聞広
告を頼りに、今のドラッグストアに応募して、勤めることになったのだった。知識は古くなって錆びついていたが、「薬剤師」の資格と、何よりも、
千代乃が最初に就職したときの採用理由と同じ、「近ごろ珍しい何とも人の心を和ませるその容姿や立居振舞い、話しぶり…」が効いて、「即、採用
…」になった。
千代乃は、すぐに店の雰囲気にも慣れ、取り扱う薬品や化粧品、日常衛生用品など、多くの品目の知識を深め、法改正による「薬剤師を常時配属
する義務」が全ての薬局に課せられたことも追い風になって、すぐに店長以下、管理職の信頼を得ることになった。「近ごろ珍しい何とも人の心を
和ませるその姿容や立居振舞い、話しぶり…」は、当然面接当初からいち早く佐々の関心を惹いていた。
実際、千代乃は、その学歴や資格を頭上にちらつかせるでもなく、年齢より十歳以上も若く見えるその風貌と、何よりも薬局に課せられた「法的
義務」も追い風になって、初めに経営者の信頼を得る因になった「近ごろ珍しい何とも人の心を和ませるその姿容や立居振舞い、話しぶり…」によ
って、千代乃が世慣れない「おぼこ」な一面を保ち続けていて、男が「放っておけずに、面倒を見たくなる…」ような気持ちにさせた。
食事だけの、男の側の抑制の効いた「デート」が何度か続いたあと、ある日、佐々は、外からは車の中の様子が何も見えない「黒塗り」の車に千
2
代乃を誘い、運転席に乗り込むと、
「今夜はもう少しつきあってもらうよ…」と云って、千代乃の返事も待たずに、勢いよく車を発進させた。しば
らくして、押し黙ったまま、不安げな表情をしている千代乃に気付いて、「心配いらないよ。千代乃さんに心から素敵な気分になって貰えるところ
にお連れしますよ…」と、佐々は屈託なげに云って、前方を見詰めたまま、千代乃の気持ちを和らげようと、あれやこれやと話し掛けるのだった。
車は、やがて都心部のネオンの洪水を抜け、閑静な住宅街の続く郊外の地域を抜け、狭い登り道にさしかかった。「この右手の林の向う側には、
人口の湖水が幾つかある…」と、佐々は説明した。やや行くと、左手の林の中に、お休み処「アンネ」、
「ジュテーム」、「ジュリエッタ」などと名付
けたネオンの看板塔が次々と現れては、後に消えていった。車は、一番奥の「赤坂」という看板灯のある小徑を左に折れて、奥まった一角にあるガ
レージのようなところに乗り入れた。
千代乃は、初め、そこが和風割烹料亭か何かかと思ったが、さっき食事を済ませたばかりなので、訝しい気持ちで佐々に訊いた。
「何処ですか、ここ…」
「ほんとに知らないのか、この人は…」
佐々は内心驚いた。
「……、ここは、ラブホテルだよ…」
少し言い淀んで、佐々は単刀直入に答えた。
「ご休憩、お一人様二時間六、〇〇〇円」、
「お泊まり、お一人様一〇、〇〇〇円」
、
「満車」、
「空
千代乃は、さっき車窓越しに現れては消えていった、
室あり」などのネオン表示の意味がようやく呑み込め、少し身を硬張らせた。
「今夜は、その気になって貰えるね…」
佐々は、エンジンを止め、シートベルトを外すと、千代乃の方ににじり寄って、云った。
「もう判っていただろう…、…千代乃さんの悪いようにはしないよ…、承知してくれるね…」
佐々は、千代乃のシートベルトを外すと、千代乃の肩を左腕で抱き、右腕で千代乃の腰を抱え込んで引寄せながら耳元で囁いた。
「ずっと以前から気があった…」
「悪いようにはしない…」とは、どういう意味か、推し量りかねたが、男が何を求めているのかは、判った。佐々は、
こと、
「いつか男と女の関係になりたい…」と思っていたことなど、囁くように話しながら、千代乃の太股から腰の辺りに静かに愛撫を繰り返した。
千代乃には、佐々の話が遠くから聞こえてくる呪文のように響き、頭の中が痺れたように空白になっていくのを覚えながら、佐々を拒もうとする力
が萎えて、次第に男の右手の動きに反応するかのように、膝頭の力を弛めていった。
3
*******
佐々太輔は、大学を出るとすぐにひょんな縁から、山瀬又右衛門に出逢い、「極道ももう昔のような裏街道、暗闇街道ばかり歩いている時代やの
うなった…、しっかりした地道な事業に身を入れて、一人前の企業家にならなあかん…」というのを聞いて、興味を抱いてこの「極道」の道に足を
踏み入れた。道こそ違ったが、それは、多くの同年代の優秀な青年が、いかがわしいカルト教団の虜になって、世間を騒がすテロや殺人事件を引き
起こすに至ったことと軌を一にする。佐々には、カルト教団に走って、様々な事件を起こして、自らに責任を負うことをしない連中よりは、自らに
かたぎ
責任を負い、命がけで「男の道」を進む方が、余程潔いことのように思えた。
で頭角を現し、三〇過ぎで一躍その「気質の」事業を仕切る若頭に抜擢さ
佐々は、すぐに持ち前の才知で実績を上げ、関東一円の「気質の」事業
こわもて
れた。それも、いわゆる「民暴」法が施行され、極道も今までのように強面だけで、裏の世界で取締まり当局とのせめぎ合いを繰返していられる時
代ではなくなり、
「知恵と技量が要求される…」ようになった…、ということがある。
その主張は、従来型の古い世代の「親分衆」にも容易に理解できることだった。組織は、夫々こぞって「顧問弁護士」を雇い、不正を「正しいこ
と」のように見せかける一方で、かき集めた資金力を背景に、本気で「気質の」事業に、直接間接に、またインベーダーとして関わりを持つように
なり、丁度、日本の資本主義の黎明期のような様相を呈していた。裏を返せば、資本主義の体制そのものが、真しく、弱肉強食の金権主義の論理で
わ け
もって動かされ、時代を動かし、戦争へと突っ込んで行き、すってんてんに裸にされ、再び今日の姿に復活成長して来たその過程を忘れて、恥じ入
ることを知らないだけなのだ。
由があった。第一に高校時代から武道で鍛えた強靭な体力があった。それに加えて、生一本
佐々が山瀬又右衛門に重用されるには、それなりの理
で義侠心が強く、自分を惜しまない男気があった。それにもまして、佐々を他から際立たせていたのはその明晰で優秀な頭脳だった。
佐々は、東大法経学部の他の同窓生の優れた者のほとんどがそうするように、在学中に司法試験や上級職試験に合格していた。だが、佐々はそう
した同窓生の多くが大学を中退して官僚の道に入って行ったのを横目に、別の人生を模索していた。
そんな佐々に山瀬又右衛門が偶然出会った。
「この男なら、山瀬組を表に標榜せずに、企業家として山瀬産業を立派な企業に成長させてくれる…」山瀬又右衛門は一目で確信した。そうして、
云わば「文武両道に長けた…」佐々に自分の望みを託した。そんな山瀬又右衛門の山勘だけに頼った「丁半」の掛けが功を奏したのは、佐々が三十
4
代に入って、押しも押されもしない若頭に「出世」して、幾つかのドラッグストアを仕切り始めた頃だった。
それは丁度、佐々の親しい同窓生が夫々の官職で昇進して部長級、局長級の地位に就き始めたのと符合した。
ドラッグストアの経営に新機軸を打ち出し、全国展開して、地域の消費者の異なるニーズに密着した販売方針を貫かせた佐々は、夫々のチェーン
店の店長、副店長に部下の内の優れた時代感覚を持つ者を抜擢してその推進に当たらせ、それを本部で集中管理する体制を作った。それが山瀬産業
独自の経営管理研修制度だった。
そんなある日、佐々は、東大法経学部三十七回生の同窓会で、学部時代に最も親しかった二人の男、遠山敬太と岡部左右吉と親しく懇談した。
その時、佐々は、日本の水際作戦で押収される麻薬の種類と量について訊いた。佐々の関心があったのは、ヘロインではなく、阿片と精製純度の
粗悪なモルヒネだった。
二人は、正確な数字は機密として明かさなかったが、「粗悪なモルヒネは、その後ヘロインに精製加工されて高価な末端価格にして出回るので、
相当な量になるはずだ…」と、答えた。
「それで阿片の方はどうなのかな…」
「阿片は、大麻などと同様に、乾燥させた状態でもかなり嵩張る上に、今では市場に出回るのは大麻の方が主力なので、数値的にはそれほど多く
はないはずだが、それでも依然として根強い需要もあるようだ…」
二人はそんなやり取りをしていて、てっきり佐々がドラッグチェーンを利用して麻薬の取引に手を染めようとしているのではないかと怪しみ、目
を光らせた。だが、佐々の思惑は全く別のところにあった。
「ここから先の話しはおおっぴらには出来ないので、別のところで呑み直そう…」
そう云って、佐々は二人を赤坂の高級料亭「高瀬川」に誘った。
高瀬川は、赤坂の料亭でも小振りな方に属していたが、その分目立たなくて便利だった。もう五十代の半ばを過ぎるかと思われるお召しの和服を
上品に着こなした清楚な感じの女将が三人を出迎え、予め佐々から云われていたと見えて、何も言わずに奥まった離れ座敷に三人を案内した。
「学生時代
座敷には、誰が上座ということもなく、円座を組んで話せるように座布団が設えてあった。三人がそれを察して、思い思いに座って、
の高歌放吟が懐かしい…」と云いながら磊落に放談しているところへ、女将が改めて挨拶に出て来て挨拶し、三人の前に銘々膳で酒肴が運ばれて来
て、
「後は、呼ぶまで放って置いてください…」と佐々が云うのに応えて皆引き上げてから、酒を酌み交わしながら、佐々が本題を切り出した。
「押収した密輸の麻薬類は、その後どうするのかな…」
5
「当然、焼却処分されることになっているはずだ…」
「はずだ…、ということは、焼却処分されないものもあるってことかな…」
「その辺は、我々上層部には、実態がなかなか掴み難いんだよ…、密かに闇ルートに流されていないとも言い切れないのさ…」
「そんなに管理が大雑把で杜撰なのかね…」
「そう云われると身も蓋もなくなるんだが…、水際作戦といっても、相手は正規に税関を通してくる訳じゃあないから…、海保の警備艇だけでは、
抑え切れないし、抑えても、処理をするのは末端の人間だから…、新聞沙汰になるほどの大掛かりなものでないと、実態は上では掴み切れないのさ…」
「ふう~ん、そんなものなのかねえ…、ところで、我が国では、モルヒネは、医家向け以外には造られていないのだろう…」
「当然、正規の製品は医家向けだけだろう…」
「ところが、他所の国、特にアメリカなどでは、もう一つ消費者があるんだな…」
「ああ…、そうだった…、それを忘れていたな…」
「戦時中の日本でもそうだったが、戦争をしている軍隊は、モルヒネの大口消費者なんだそうだね…」
「戦後、朝鮮戦争以来、世界中に軍隊を派遣していて、小競り合いにせよ何処かで戦争をしていないことのないアメリカの派遣軍は、今でもかな
りのモルヒネを使っているらしい…」
「恐怖心を抑える目的に使うことも多いらしいね…」
「そのようだな…」
「その供給源は誰なんだい…」
「それは、当然精製技術を持っている先進諸国だろう…」
「いくら十把一絡げの戦闘員だって、自国の兵士に粗悪なものを使う訳には行くまいからなあ…」
「そこで今日の話しの核心なんだが…、どうだろう…、ものは相談なんだが、押収された阿片や粗悪モルヒネをうちの製薬事業部で精製加工して、
米軍なり、医家向けなりのモルヒネの管轄当局に納めさせてもらう…と言う案を検討して貰えんだろうか…;、当然、その内からの支払い代金は、
政府の特別会計として、機密費の勘定に繰り入れられるようにする…、また年に一回か二回、うちの製薬事業部の会計監査と精製現場監査を両省庁
の監督の下に厳密に行って、うちが陰で不正取引をしないことを検証してもらう…、水際からうちの製薬事業部までの原材料の搬送も、特別に我社
にシークレット サービスを設けて当たらせる…;、押収品だから、原価は当然ゼロだし、搬送業務を引き受けても相当安い単価で純度の高い製品
を供給できると思うんだがねえ…;、それに、密輸原料の動きもうちでネットワークを設けて随時、取締当局の特務課に知らせることによって、効
率良く原料を抑えられるようにする…、それによって歳入庁に入る歳入も増え、麻薬の水際作戦の効果も上がるというおまけの効果も見込める…と、
6
こんな構想なんだが…、検討してもらえないだろうか…」
やく
「アイデアとしては面白そうだな…、だが事は超極秘事項になるだろうから、おおっぴらに稟議を通して決済できないし、内閣府にまで話を通さ
なければならないから、実現するまでには時間も掛かるし、紆余曲折するだろう…」
「そんなことは百も承知さ…、それが実現するしないに関わらず、薬の密輸情報のネットワークは早急に確立するつもりだから、岡部の方で伝達
先を検討しておいてもらえないか…、これはうちの社の方針に邪魔を入れようとする対抗馬潰しのためにやるんでね…、そちらに適宜動いてもらえ
ないと、効果がないばかりか、うちが危なくなる…」
ほぼ、話し終えたところで、佐々は手水に立って、奥に連絡して、戻って来たところへ、赤坂の綺麗どころ三人が地方さん二人を連れて陽気に入
って来て、座は一気に雰囲気を変えた。岡部はもとより遠山もこのような高級料亭で芸者を揚げてのお座敷遊びには全く縁がなかった。
「それは少なくとも悪い効果は与えない筈だ…」と、佐々は踏んでいた。
それが直接効果を上げたと云う訳でもなかろうが、それから三年後に、内閣府と総務庁の極秘の稟議を経て、佐々のアイデア通りのプロジェクト
が実現して、山瀬産業は一気に急成長し、河口湖畔に最先端技術を使った万全のセキュリティ システムを備えた壮大な本社ビルを出現させるに至
った。それは、佐々が何時か何かやってくれると思っていた山瀬又右衛門を満足させ、佐々は山瀬産業の社長としての地位と信望を不動のものにし
た。その一方で、敵対する極道組織からは、嫉みと共に目の敵の対象にされた。
*******
佐々には、山瀬産業の若頭になってまだ日も浅い頃、丁度ドラッグストアーのチェーン店の展開を始めた頃に深い仲になった恵子という女がいた。
恵子は、色白で小柄な女だった。順調に行けば、恵子は、何れは組の中では周囲から「姐さん」と呼ばれる立場になるはずだった。そのような感覚
が残っていること事態は、依然として山瀬産業が旧来の「極道体質」を残している証左だった。三年ほどして恵子が佐々の子を宿して、それはほぼ
確実になったかに見えた。だが恵子は、切迫流産による後遺症で、呆気なく佐々を置き去りにしてこの世を去ってしまった。まだ正式には籍にも入
っていなかった頃の出来事だった。それ以来、佐々は、女には臆病になっていた。それは、子を宿すということが女に死をもたらしうるという、佐々
7
には思いもかけない厳粛な事実を知ったことによるものだった。
一方、セックス産業が爛漫の花盛りの時代にあって、佐々には、「性」に対して独特の思い入れと美学があった。佐々は、多くの経験を通して、
ただの欲望のはけ口として簡単に手に入れられる「性」には飽き飽きしていた。佐々が未だ学生だったころに、当時の若者世代の「性風俗」の傾向
を評して、
「陰部の陽部化」と喝破した評論があった。その傾向は、益々露骨に表面化し、無批判な若年世代に蔓延してきた。マスメディアは、こ
ぞって面白おかしく若年層の風俗を無批判に繰り返えし報道して、かえってその傾向を煽っている。そのような中で得られる「性」に、佐々は満足
さが
ごう
していなかった。現代の風潮に毒されない「普通の女」と見えた女が、「男と女」の関係になると瞬く間に、佐々には「卑しい」と見えるそのよう
な女達の群れの中に堕落していく姿を何度も経験させられた。それが女の「性」あるいは「業」なのか…。佐々は、そうは思いたくなかった。さな
がら「ドンファン」のごとく、佐々の期待を裏切らない愛しき女を探し求める心が働き続けていた。
ひと
「この女はどうなのだろうか…」
、千代乃の独特の楚々とした風貌と物腰が目に留まった時も、内心そのような「女達に対する不信」を表わす疑問
が佐々の頭を横切った。
*******
佐々の愛撫の手の動きに少しずつ反応しながら、千代乃は、受け口の口元を少し弛めて、「ああッ!」と小さく呻いた。千代乃の膝頭が弛み始め
たのを悟って、佐々は、右脚を千代乃の膝の間に差し入れて、ボタンを押して、シートを少し後に引き、背もたれのリクライニングを少し傾けた。
千代乃の膝が大きく割れて、スカートの裾から白くふくよかな太股が佐々の目に飛び込んできた。佐々は、千代乃の腰を更に手前に引寄せて、始め
て千代乃の小さく開かれた唇に接吻をした。千代乃は、「うッ!」と小さく呻いた。佐々は、千代乃の口の中に舌を差し入れて吸いながら、右腕を
スカートの内側に入れて、千代乃の腰と太股をゆっくりと愛撫した。千代乃の太股は微細に震えて、湿り気を帯びていた。
「うッ…ああッ…、いやッ…」と小さく叫んで、千代乃は、上体を後に反らした。だが、その「いやッ…」とは裏腹に、千代乃の膝元は、更に弛
んでいった。佐々は、ボタンを押して更にリクライニングを下げた。千代乃の股間が大きく割れて、白い下履きが曝け出された。佐々は接吻を止め、
8
千代乃の股間に目を移し、右手を千代乃のプーベの辺りにそっと押し当てた。
「あああッ…いやッ…」
千代乃は小さく叫んだ。が、その言葉とは裏腹に、千代乃は腰を前にせり出していた。佐々は右手を更に深く千代乃の股間に滑り込ませた。千代
乃の下履きの前には千代乃の愛液が染みだしていて、たっぷりと濡れていた。
「ああッ…いやッ…」
小さく叫びながら、千代乃は再び悶えるように腰を突き出した。それと同時に、佐々は右手を千代乃の下履きの中に潜り込ませて、千代乃の茂み
の中に手を押し当てた。
「ふあッ…、いやッ…」
と叫んで、千代乃は再び腰を前に突き出した。
千代乃の腰も太股も大きく震えていた。千代乃の茂みは薄かった。佐々は右手の親指で千代乃の敏感な小核を弄り、人さし指で柔らかい襞を愛撫
し、中指と薬指で円を描くように玉門の入り口を愛撫した。
「あッあッあッ…、いやッあッ…」
千代乃が叫んで、更に腰を突上げた。その動きで、佐々の二本の指は千代乃の玉門の中に滑り込み、いとも易々と千代乃のGスポットを探り当て
た。そこは既に固く膨らんでいた。千代乃の股間は、溢れ出る愛液でしとどに濡れてきた。佐々はしばらく千代乃のGスポットを愛撫して、千代乃
の腰が大きく震えだすと、そのぬめりを指で掬い取るようなしぐさをして、千代乃の口元に持っていった。
「ほら、こんなに濡れて…、したがってる…、啜ってごらん…」
そう云って、千代乃の口の中に指を差し入れた。
指を吸うった。艶いた臭いが、千代乃の嗅覚を刺激した。
千代乃は云われるままに反射的に佐々の
あらが
わないと見て、車を降り、左に廻って、助手席のドアを開け、千代乃を抱き抱えるようにして、車から降
それが済むと、佐々は、千代乃がもう抗
ろし、自動ロックを掛けると、ガレージに続く部屋に千代乃を抱え込んだ。千代乃は、興奮で足腰が立たないほど震え、目を閉じて、佐々の肩口に
凭れかかるだけだった。
佐々は、驚いていた。
「少しばかりの手技で、こんなになるほど興奮するなんて…、」
これまでにそんな女に出会ったことがなかった。
9
部屋は、窓の目隠しの隙間から漏れ入る光と自動調光を組合せて、何やら隠微な雰囲気を醸し出していた。佐々は、取り敢えず大きな円形のベッ
ドの端に千代乃の上体を横たえた。千代乃は、さっきの愛撫の余韻が冷めやらず、全身がじんじんと痺れたように痙攣を繰返し、目も開けられず、
受け口の唇の隙間から、時々小さな呻き声のような音を発するだけだった。千代乃の股間からは、未だ愛液が溢れ続けていた。佐々は、千代乃を抱
き起こして、ベッドの掛着を捲り、ベッドに巻き付けてある防水シーツの上に千代乃を再び横たえた。
「さすがは、愛の国の配慮か…、
」と妙
パリなどでは、下町にあるごく普通のホテルでもこのような防水シーツが丁度腰の辺りに巻き付けてあり、
なところで感心させられたが、
「日本でも、このようなラブホテルではそんな配慮がしてあるのだな…」と、そのお国柄の違いに思わず微笑みが漏
れるのだった。
まだベッドの端でぐったりしている千代乃を起こしもならず、佐々は、千代乃を横たえたまま、着衣を脱がせにかかった。履物を脱がせ、ストッ
キングを脱がせ、上衣とブラウスを脱がせ、スカートとぺティコートを脱がせると、ショーツとブラジャーだけの、西洋人形のような細身の、ふく
ししおき
よかで均整のとれた身体が目の前に現れた。佐々が腕を千代乃の背に回してフックを外してブラジャーを取ると、形の良い、まるで小娘のような乳
房がそこに溢れ出てきた。それは三人の子供を産み育てた専業主婦のものとはとても思えなかった。腰の縊れといい、腰から太股にかけての肉置の
張りと云い、弛れたところは一つもなく、見事に均整がとれていた。佐々は、自分も着衣を全部剥ぎとって、千代乃に覆い被さるようにして、耳元
で囁いた。
「とってもきれい…だよ…」
佐々の玉茎は、既に怒張していた。だが、自分の獣欲を抑えるかのように、千代乃に近付くと、千代乃を覆う最後の布切れ、スリップを脱がせに
かかった。これは、
「男が最も興奮を覚える瞬間…」だと、佐々は思う。
「どんな場合も、これだけは、女にさせてはならない…、」と云うのが佐々の美学だった。
千代乃のショーツは、色も形もシンプルだった。透通ってもいず、メッシュでもなく、「申し訳ばかりの布裂のような…」ものでもなく、白色で、
しっかりとプーベの茂みまで覆い隠れる形と大きさで、まるで乙女の着衣のようだった。これが、佐々にはいたく気に入った。
千代乃の縊れた腰に腕を回して、両足をベッドの上に抱え上げた。千代乃の下履きは、先程来の興奮であふれた愛液で、しとどに濡れていた。
佐々は、
佐々は、思わす唇をその股間に当て、その液を吸った。濡れた布切れの下で、千代乃の息遣いとともにプーベが細かく蠢いていた。佐々は、その布
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裂の縁に沿ってM字型に開かれた千代乃の太股の間を唇と舌で静かに愛撫した。
「あはッ…、いやッ…」
千代乃がまた小さく呻いて、腰を捩り、脚を大きく震わせた。佐々は、更に興奮した。
佐々は、千代乃の腰に回した両手でショーツのゴムの入った縁を掴み、千代乃の丸い尻を持上げるようにして、一気に引き下ろした。ショーツは
太股まで下りてそこで止った。
佐々の目の前には、千代乃のプーベの薄く亜麻色の陰りと、その下に続く、薄い陰りに縁取られた緋色がかった肌の細い肉丘と、その間から覗け
る鴇色の襞と、朱門と、アナルが、千代乃の息遣いとともに震えるように蠢いていた。ここでもまた、佐々は、驚き、感動した。「この女は、聖女か…」
じゃこう
と思うほどに、淫蕩さのかけらも見えず、まるで乙女のそれのように、千代乃のその部分は、楚々とした佇まいで息づいていた。それは、信じがた
い景観だった。その上、そこは、麝香の精気のような、淡く甘美で一種隠微な匂いが立ちこめていた。佐々の気持ちは、益々昂ぶっていった。
「きれいだよ…、千代乃さんの、オ・ソ・ソ…」
佐々は、やがて身体をのし上げるように千代乃の耳元に口を近づけて呟くように自分の感動を伝えた。 「それに、いい臭いだ…」
佐々は付け加えた。
千代乃は、自分のその恥ずかしい部分が、男によってじっくり観察され、男の舌と唇による愛撫を受けていることに中半戸惑い、恥ずかしくもあ
り、中半痺れたような感覚の中で、佐々のその言葉を聞いた。
「きれいだよ。千代乃さんのオ・ソ・ソ…、それに、いい臭いだ…」
佐々の言葉が、千代乃の頭の中で反復された。
千代乃は、夫との交渉の中で、一度もそのようにその部分を見詰められたこともなかったし、それについて「きれいだ…」と褒め言葉を聞いたこ
ともなかったので、その初めての経験に、恥ずかしさの中で、ひどく興奮を覚えるのだった。
「きれいだよ。千代乃さんの、オ・ソ・ソ…、それに、いい臭いだ…」
るつぼ の
) 中で、身
その言葉は、まるで千代乃が持って生まれた資質を賛えるかのように、何度も何度も脳裡に鳴り響き、千代乃は興奮の坩堝 (
もだえして、
「ああッ、きれいなのねッ…、私の…オ・ソ・ソ…」思いもかけず、恥ずかしいその呼び名を呟くように声に出して云った。
「ああ、きれいだよ…、こんなにきれいなのは初めて見た…、すごく興奮させられる…」
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佐々はそれに応じて念を押して云った。
おさね
佐々は、更にひとしきり舌と唇で千代乃のその部分の愛撫を続けた。時に小核を舌先で転がし、鴇色の柔らかい襞を唇に挟んで弄り、丸めた長い
舌を朱門に差し込んでGスポットを攻めた。小核を攻められるたびに、千代乃は、「ひいーッ…」というような悲鳴のような叫び声をあげ、襞を弄
られるときは頭の中が痺れるような感覚に陥り、Gスポットの時は、「いやッ…、やめてッ…、もうだめッ…、息がとまるッ…」などと叫びながら、
頭を左右に振り、両脚を震わせ、腰を左右に揺するようにして身悶え、何度も絶頂に達した。
佐々は、千代乃のそのような日ごろの物静かな居住まいとは裏腹な姿を内心楽しむかのように、執拗にその恥部への愛撫を続けた。千代乃が何度
目かの絶頂を迎えたあと、佐々は、ようやく千代乃の太股に絡みついた薄衣を膝から足先へと押し下げ、ぐしょぐしょに濡れそぼったそれを指先で
摘んで、千代乃の鼻先に押し当て、
「ほら、いい匂いだろう…、」と耳元で囁いた。千代乃は、それが何かを察すると、再び恥ずかしさで消え入りそ
うな気分になったが、その甘く、隠微な匂いが、千代乃の脳裡の意識を興奮させた。
防水シーツの千代乃の腰元の部分は、その間の千代乃の興奮で滲み出た愛液でしとどに濡れ、大きな粘液質の染みをつくっていた。佐々は、その量
の多さにも改めて驚かされた。
佐々は、その上から身体を滑らせるようにしてのし上がり、千代乃の膝を両腕で抱え、M字型に開いたその股間に怒張した雁首を押し当て、一気
に挿入した。千代乃は、「ひい~いッ…」というような、悲鳴にも似た叫び声をあげて、後にのけ反ろうとした。千代乃のそこは、
狭く締まっていた。
「こ
れが、三人の子を成した女の窒なのか…」と、ここでも佐々は驚かされた。それは子を産んだことのない乙女のそれだった。千代乃は、結婚生活に
よっても、出産によっても、女として「開発」されていなかったのだ。佐々は、そう判断せざるを得なかった。
佐々は、千代乃の玉門に太く長い怒張した肉塊を没入させたあと、ひと呼吸おいて、千代乃の両膝と腰を抱え込んで、徐々に前後の動きを加速さ
せていった。千代乃は、夫との時には感じたことのなかった、下腹部の膨満感に、押し潰されそうな感覚を味わっていた。佐々は、あるいは腰を深
く入れ、あるいは腰を浅く引いて、前後運動を繰返し、時には、腰を引いて、微細な前後運動や、円を描くような動作で太く柔らかい肉質の雁首で
Gスポットの辺りを攻め立てた。
「ああッ、ああッ、もうだめッ…、しぬわッ…、しぬっ…、しぬうッ~ッ…」
千代乃は、佐々の腰の動きに翻弄され、何処か天にも昇るような感覚に襲われ、叫び声を上げ続けた。
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佐々は、その声を聞いて、更に早く激しく腰を動かし、何度目かの、「もうだめッ…、しぬわッ…、しぬッ…、しぬうッ~ッ…」という千代乃の叫
び声とともに、二人同時に絶頂に上り詰め、ドットばかりに精を発した。
佐々の射精は二度、三度と続き、佐々は、千代乃のM字型に開いた股間に、自分のM字型に開いた股間を合わせ、千代乃の肩をかき抱くようにし
て伸し掛かり、二人とも果てた。千代乃の玉門の入り口は硬く締まり、佐々の怒張し続ける玉茎を銜えて離さなかった。それは千代乃が意識しての
ことではなく、絶頂感から自然に窒口の括約筋がそのような緊縛状態になるようだった。未経験の処女の場合、突き立てられた怒張した玉茎に反応
して、時にそのような状態になることがあると聞くが、この年代の女でこのような状態になるのは想像し難く、初めての経験で、これもまた佐々に
とっては驚きだった。
「くるしいッ…」と云って、千代乃は、佐々を突き放そうとするが、二人は離れることができなかった。
「しっかり銜えて…、離したくないんだろうッ…、」と云って、佐々は、千代乃の鼻をそっと摘み、そのままの姿勢で、千代乃を抱えて裏返しにな
り、千代乃を自分の腹の上に乗せた。千代乃はそのまま、佐々の胸元に頭を埋めて、だらりと身体を佐々の身体にもたせ掛けた。それは、千代乃が
一度も経験したことのない状態だった。千代乃は、内心気恥ずかしくなり、早く離れたいと思ったが、金縛りにあったように腰が動かず、どうにも
ならなかった。やがて二人は、そのままの姿で、重なって寝入った。
小一時間ほど眠って、佐々は、会陰部の強い緊張による痛みと、それに続く射精のあとの緊張からの開放による快感で目覚めた。猥褻な夢を見て
いた。それは、丁度少年期に初めて夢精を経験したときと同じような夢だった。我に返ると、佐々の腹の上には、千代乃が正体もなく、全裸でしな
だれかかって眠っていた。聖女のような、無邪気な寝顔だった。佐々は、五度、不思議さと驚きをないまぜた感覚に襲われ、千代乃がこよなく愛し
い女のように思えた。
佐々の玉茎は、未だ怒張したまま、千代の身体の中で脈動を続けていた。しなだれかかって緊張から解放されきった千代乃の柔らかい身体が、あ
たかも自分の身体の一部ででもあるかのように感じられた。佐々は千代乃の身体の下から腰を少し突上げてから引いてみた。千代乃の窒口の緊縛は
なくなり、玉茎の往復運動ができるようになっていた。佐々は、千代乃の身体を抱き締めて、両手で千代乃の頭をまさぐり、顔中に接吻の雨を降ら
せた。
千代乃は、
「うウッ…」というような声を発して、ようやく眠りから覚めた。そして自分がどういう状態にあるのかを悟り、小一時間前に目の前
の男と繰り広げた情交の一部始終が脳裡に甦り、千代乃は我に返った。千代乃は、佐々の硬く怒張した肉塊が、未だ自分の身体の中を占領して、辺
りを睥睨するかのように脈動しているのを感じた。
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千代乃は、上体を起こそうとしたが、逆に佐々の腕で抱きすくめられて、顔を佐々の首筋に埋めた。次に、佐々は、両腕で千代乃の尻を抱え込み、
下から腰で煽り上げるようにして、前後運動を繰り返した。千代乃の下腹部は、最初の情交で既に麻痺して無感覚な状態になっていて、ただ一杯に
何かを詰め込まれたような、重い感覚が支配していた。
佐々が腰を引いて、柔らかな肉感の太い雁首で千代乃の朱門の入り口近くを速い動きで攻め始めると、千代乃の間脳から全身にわたり鋭く痺れる
ような快感が走り、
千代乃は、「ああ~んッ…」と悲鳴にも似た叫び声を発し、上体を後に反らせた。なおも佐々が千代乃のGスポットを攻め続けると、
千代乃の快感は頂点に達し、佐々の二の腕を掴んでいた指にありったけの力を込めた。
「ああ~んッ…、だめッ、だめえッ…、いやあ~んッ…、いやあ~んッ…、しぬ~うッ…、しぬ~んッ…、しぬう~んッ…」
と叫んで、上体を弓なりに反らせ、全身を震わせて、絶頂を迎え、それと同時に、佐々も「うおお~ッ…」と叫んで、千代乃の太股をひしっと抱
き締めて、再び共に果てた。
千代乃の全身から力が抜け、ぐったりとなって、再び佐々の胸元に真綿のようにしなだれかかって、顔を首筋に埋め、激しい息遣いを繰り返した。
佐々は、腕を千代乃の上体に回して抱き締め、やがて頭から尻にかけて、優しく愛撫を繰返し、時に頬を両手でつかんで顔中に接吻の雨を降らせ、
次第に力を抜いて、共にぐったりとなって、濡れ雑巾のように重なって横たわった。二人は、全身汗まみれになり、二人の股間は、汗と千代乃の玉
門から溢れ出た愛液と精液で、ぬめぬめと濡れそぼっていた。佐々の玉茎は、依然脈動を続けていたが、徐々に収縮を始めた。千代乃の窒口の緊迫
は、最初の時ほど強くはなかったが、佐々はすぐには玉茎を抜き出せなかった。
しばらくして、佐々は、千代乃の髪の毛をまさぐり、頭に愛撫を繰返しながら、千代乃の顔を覗き込んで、
「どお、良かったかっ…、 云った通り、
素敵な気分になれたっ…」と訊いた。千代乃は、未だ痺れたような快感の余韻に浸りながら、こくりと、首肯いた。実際、千代乃は夫との間で、こ
のような激しく、めくりめく快感の伴う「性愛」を経験したことがなかった。仕事人間の夫との間の「性」は、子を成すための、云って見れば生殖
のためだけの夫婦の義務的な営みでしかなかった。千代乃は、なんとはなしに満ち足りないものを感じていたものの、「夫婦とはそんなもの…」と
納得して、夫に取り立てて不平を言うこともなく過ごしてきた。
千代乃は、佐々の誘いに応じなかったら生涯知ることのなかった「性愛」の真実、自分の「女自身」、女としての資質、「性愛」を通じた解放感と
満足感を初めて経験することになった。千代乃は、自分の股間がこれまでとは別の生き物になったような気がした。情交の際に自分があのような叫
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び声をあげるとは、思いもしなかった。「性愛の行為」は、夫との間では、いつも「寡黙な」営みに過ぎなかった。
千代乃は、ようやく我に返って、上体を少し起こし、佐々の二の腕を掴んでいた手を放して、両腕を佐々の首に回してその顔に自分の顔を押し付
けて、そのようなことを云った。
佐々は、微笑みながら、千代乃の髪の毛を弄り、自分が感じたことを話した。
「千代乃の「女自身」が、滅多にない特別な「資質」を隠し持っていたことに驚いた…」
佐々は付け加えて云った。
事実、佐々は、このような女に出逢ったことがなかった。しかも、三人の子を成して、四十の坂を越えた女がまるで処女のような道具立てを保っ
ていたことは、驚き以上の何物でもなかった。「凄いよ。千代乃さんの…、お・そ・そ…」と千代乃の耳元で囁くように云って、腰を突上げた。千
代乃は、未だ千代乃の「女自身」を占領している男の肉塊の動きを感じて、また大人になって初めて「お・そ・そ…」と云う隠微な響きを持つ禁語
を耳元で囁かれて、恥ずかしくなり、
「いやだ~んッ…」と少女のような甘え声をあげて、佐々の首に吸い付いた。実際、佐々は、千代乃が「女」
として全く「開発」されていなかったことを感じた。千代乃にそう話して、「これから、ゆっくり時間を掛けて、私が開発する…」と、千代乃に云
った。ただ、
「容姿や立居振舞い、話しぶりが何とも人の心を和ませる…」千代乃の居住まいだけは、失わせてはならない。「でなければ、何処にで
もいるただの淫婦だ…」と、佐々は思った。
佐々は、千代乃の縊れた腰を強く抱き締めて、腰を突上げながら…、「今日からこれは、私専用の…、お・そ・そ…だからなっ…」と、千代乃の
下腹部に押し付けた腰を回して、またその隠微な俗称を口に出して云った。
千代乃は、子供の頃に不用意に股を開いてしゃがんでいたりすると、男の子達に、「おまんこ、見えるぞお~ッ…」などと、冷やかされたことは
あったが、大人がこのような隠語を口にするのを聞いたことがなかった。口に出してはいけない禁句だとさえ思っていた。秀造との夫婦生活の中で
さえも、秀造は一度もそれを口に出して云ったことはなかった。第一、秀造は、千代乃のそこを眺めることもしたことがなかった。だが、自分でも
開いて見たことのないそこを、佐々の手や唇や舌で愛撫され、じっくりと観察され、その居住まいを「きれいだ…」と 褒
" められて、初めは恥ずか
しさが募ったものの、何度かその隠語とともに「きれいだ…」と繰返し云われているうちに、何やら全ての束縛やタブーから解き放たれたような、
ある種の解放感さえ覚えるようになっていた。「その、私の、お・そ・そ…の中を、まだ「この男の肉棒」が圧倒的な存在感を主張して、占領して
いる」現実を認識して、千代乃は、少し誇らしさを感じながら「ふふっ…」と微笑んだ。
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その「ふふっ…」に反応して、佐々は、「どうした」と、訊いた。
「ううん、何でもないわ…、でも、強いのね…、貴方のこれ…」
千代乃は腰をくねらせて佐々の腰に押し付けて、云った。
「さて、そろそろシャワーでも浴びて、引き上げるとしようか…」と、云いながらも、佐々は千代乃から離れようとはし
「程々にね…」と応じて、
なかった。そして、やおら千代乃の尻を抱えたまま、上体を起こしてベッドから降り立った。千代乃は両腕を佐々の首に巻き付け、長い脚を佐々の
腰に回して抱きついた。佐々は、そのまま千代乃を抱えて、バスルームに向かって歩き出した。佐々が歩を進めるたびに、得も言えぬ快感が千代乃
の下腹部を貫いて間脳に走った。その度に、千代乃は、下唇を噛むようにして、微笑んでいた。
佐々は、バスタブに入ると、千代乃を抱えてバスタブの中に座り込んで、排水溝の栓をしてから、シャワーとタブの給湯蛇口の両方を開いて湯を
出し、シャワーの出湯口を手に持って、千代乃の胸元に湯を掛け始めた。そして湯が胸元近くまで溜まると、千代乃の中に納まっていた玉茎を引き
抜いた。と同時に千代乃の中に溜まっていた精液と愛液の混じった粘液が溢れ出て来た。佐々は、千代乃を引寄せると、二本の長い指をそこに差し
入れて、中を洗浄するような仕草をした。湯が白濁し、隠微に艶いた臭いが二人の嗅覚を痺れさせた。千代乃は、佐々の指の動きにつれて、目を閉
じて、下唇を噛んで微笑みながら首を後に反らせ、「あはっ…」と、声を上げた。二人は、隠微な臭いの立ちこめるその白濁した湯の中で、激しく
抱き合い、愛撫し合い、接吻をし合った。千代乃の股間は、凛立した肉塊を挟んでいた。
佐々は、やおら両腕で千代乃を抱き締めると、排水溝の栓を抜いて、湯を落し始めた。二人は精液と愛液にまみれて、隠微な臭いに包まれて抱き
合っていた。その臭いは、二人の間脳を刺激して、佐々は再び千代乃の両脚を抱え込むと、その怒張した肉塊を千代乃の玉門に当てがい深々と差し
入れた。千代乃は、
「ああっ…」と叫んで、後にのけ反った。佐々は、千代乃の上体を抱え起こして、「ほらッ、見てご覧…、二人がどんなになって
いるか…、ほらッ」と云って、千代乃が目を開けるように促した。千代乃は、薄目を開けて、腹部を折り込むようにして、その部分を覗き込んだ。
千代乃の目には、佐々の黒々とした茂みと、根元近くまで千代乃のそれに差し込まれている男の肉塊が飛び込んできた。それは、千代乃が初めて目
にする、何とも猥褻な風景だった。興奮で薄い朱色に上気した千代乃の肉丘の間の鴇色の谷間の入り口で、男の肉塊が消えている。今まで、夫との
夫婦生活では想像さえしなかった、将に男と女の交接そのものの姿が、そこにあった。男と女が発情して、狂乱状態になっているのでなければ、平
常では正視できないような、猥褻な光景だった。「この瞬間は、二人は発情した雌と雄なんだ…」と、千代乃は思った。千代乃は、
「恥ずかしいわッ」
と云って、目をそらした。
「何も恥ずかしがることはない…、人前に曝しているわけじゃないんだから…、これは、愛し合う男と女の赤裸々な現実なんだ…、これは二人だ
けしか知らない、二人だけの本然の姿なんだ…」
16
佐々は妙に熱っぽく、千代乃を説き伏せようとするように云った。そして、再び千代乃が最も喜びを感じるGスポット中心にを攻めて、千代乃が
絶頂に達するのに合わせて、佐々も極楽に上り詰めて、果てた。
その後、二人はようやく離れ、立上って、ボディシャンプーを使って、お互いの身体を洗い、シャワーを掛け合い、タオルで拭い合って、部屋に
戻り、身支度をした。千代乃は、愛液で濡れそぼったスリップを水で洗って;ハンドバッグの底に忍ばせ、下履きを着けずにペチコートとスカート
だけで外に出た。これも初めての経験だった。ペチコートには目に見えない染みがついていたので少しばつの悪さはあったが、スカートは膝下の長
めのものだし、
どのみち佐々の車で送ってもらうだけだから、「いつか見た洋画の女主人公の気分を味わってみるのも悪くはない…」と腹をくくった。
いざなった
佐々に促されて、部屋の外に出ようとしたが、千代乃の股間は、何か詰物でもしてあるように、男の巨大な肉塊に占領されている感触が残り、また
ひと
何度も繰り返されたその行為の余韻で、ひとりで歩くのが困難だった。佐々はいち早く千代乃の様子を察して、肩を貸して千代乃を車に誘った。こ
こでも、佐々は千代乃の「ナイーブさ」に驚かされた。「この女は、何もかも少女のまま歳を取ったのだ…」と、認めた。
「腹が空いただろう…、」と、千代の顔を見て云い、瀟洒なレストランに千代乃を誘った。仕事でもそうだが、佐々は、千代乃だけ
途中、佐々は、
ひと
ひ と
でなく、周りの者のことを真っ先に気遣う。千代乃は、「どうしてこの男は、いつも他人に優しいのだろうか…」と、訝った。
静かで落ち着いて食事ができる。それにフランス産の美味しいワインを出してくれる…、」と、千代乃にそのレストランのことを紹介した。
「ここは、
事実、出される料理もワインも飛び切り美味しかった。フロアの片隅では、ピアノの生演奏もされていて、ゆったりした気分で食の楽しみを十二分
に味わえた。食事の間も、佐々は、微笑みを絶やさず、千代乃に何くれとなく気を遣い、世話を焼き、時には、手を休めて千代乃の顔を見詰めたり
した。このような「完璧な」エスコートを受けて、千代乃は夢心地になっていた。
「 千代乃さんに心から素敵な気分になって貰えるところにお連れしますよ…」と、初めに云った佐々の言葉が、千代乃の脳裡に閃いた。今日初め
て交わしためくりめく二人の情愛の締めくくりとして、如何にも卒の無いできだと、千代乃は内心思った。
「それにしても、この人が本当に極道の世界を渡る男なのだろうか…」
怪訝な面持ちで、千代乃は、佐々の顔や動作をまじまじと見詰めた。 「何を言いたいかは、想像できるよ…、でも、それは気にしない方がいいよ…、
もうどうにもならないことだから…、誓って千代乃さんの悪いようにはしないよ…」
それに気付いて、佐々が云った。
「…千代乃さんの悪いようにはしない…、」
17
佐々は、また同じことを云った。
それは、何を意味するのか。千代乃には、計りかねた。人目につかないラブホテルでの、あのめくるめく「性愛」の狂乱にも似た悦楽とリラクゼ
ーションと、そして佐々の優しい眼差しと気遣いと、このレストランでの素敵な夜食…
確かにどれ一つとして千代乃にとって悪いようなことは何もない。それに、もしこのまま破局が来て、元の現実に戻っても、千代乃には、一つの
人生経験として既に十分満足だった。この上何を期待すればいいのか…、
そのレストランでの食事が済むと、千代乃は再び佐々の助けを借りて車に乗せられ、家の前まで送られた。千代乃がシートベルトを外すと、佐々
くちづけ
は千代乃の方ににじり寄って、千代乃の肩と腰に腕を回し、千代乃の唇に長い接吻をした。佐々の右手は、千代乃の素肌の腰と太股を緩やかに撫で
さすった。だが、それ以上のことはせず、千代乃から身体を離すと、「もう遅い…、またこちらから連絡する…」と云って、千代乃を解放した。既
に夜中の二時を廻っていた。車を降りるときに、千代乃は、「とても疲れているので、二、三日お休みを頂きたい…」と云い、「店長には、明日の朝
ご連絡いたします…」と云った。佐々は、ただ、「あ、そう…」と首肯いた。ドアを静かに閉め、あちこち掴まりながら玄関まで辿り着き、鍵を開
けて千代乃が玄関の中に入るまで、窓越しにその姿を目で追い、千代乃が視界から消えると、車を静かに発進させて、走り去った。
*******
千代乃の下半身は、鉛のように重く、気だるかった。下腹部は、未だじんじんと疼くように、男の巨大な肉塊の存在感を反芻していた。部屋には
いると、身に着けているものを全て脱ぎ捨て、薄いベージュのワンピースのネグリジェだけを着けてベッドに倒れ込み、そのまま朝まで正体もなく
眠りこけた。
尿意を催して目覚めると、既に九時を廻っていた。大急ぎで店に電話をして、「体調が悪いので、二~三日お休みを下さい…」と、告げた。千代
乃の声がかすれていたので、店長は、特に詮索もせず、「ああ、そう、お大事に…」と行って、向こうから電話を切った。その後、用を足すと、ベ
ッドに潜り込んで、再び眠った。次に目を覚ますと、既に午後の二時を廻っていた。まだ多少の気だるさは残っているものの、活力が戻ってきてい
るのを実感して、ベッドを抜け出し、バスタブに生温い湯を張り、ラベンダーのアロマ油を垂らして、ゆっくりと全身を沈めた。千代乃は、湯の中
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でゆっくりと両腕を動かし、両腕や両腋、首筋から胸元、乳房から腹部、腰の縊れへとマッサージをするように静かに擦った。千代乃の肌は、これ
までと変らず、若い時のままの張りを保っていた。右手を更に下に向けて動かし、プーベの茂みに移し、まだ膨満感の残るプーベの肉丘を掌でゆっ
くりと揉みしだいた。昨夕のめくるめく悦楽の時が脳裡に甦ってきて、千代乃は顔を赤らめた。千代乃は、これまでとは全く違う異次元の世界に身
をおいたような、複雑な思いに取り憑かれた。それは、千代乃にとって想像だにしなかった非日常的な出来事だった。あの、痺れるような絶頂の瞬
ひと
間と余韻、これまで漏らしたことのない狂喜の叫び声、口に出すのも憚られる隠微な響きの女性性器の呼び名、悦楽のあとの解放感、そして歩くの
も困難になるほどの脱力感…、
「それを、あの男は、一時に私にもたらした…」
千代乃は、更に右手を下の方に移し、薄い陰りに縁取られた細いラビアの谷間にそっと指を忍ばせた。ぴぴッと、静電気に打たれたような刺激が
走った。千代乃は、そこに触れるのを止めて、細い二つの肉丘を合わせて、その上をゆっくりと揉みしだいた。更に、膝を少し立てて、内腿から外腿、
腰と臀部、脹脛から足先まで、片側ずつ入念にマッサージを繰り返して、湯を抜いたあと、抽出から手鏡をとりだして足元に立てて、鏡に向かって
股を開いてしゃがみ込んだ。触れると鋭い刺激の走るその谷間の部分がどうなっているのかを看てみるためだった。昨夜の激しく長い情交で、多少
ひと
充血して膨れたように見えるものの、医師の診察を仰ぐほどのこともなさそうだった。千代乃は、右手の中指を窒口に当ててみた。千代乃の朱門は、
何事もなかったかのよに、堅くしっかりと閉じていた。「あの男は、ここを眺めて、[きれいだよ、千代乃さんの…お・そ・そ…]と、云っていたん
だわ…」と、千代乃は、佐々の言葉を反芻するように口に出して云い、「きれい、なんだって…、私の、…お・ソ・ソ・さん!」と云って、笑いか
けてから、急に恥ずかしくなって、目を逸らした。千代乃は、これまで、このように自分の「女性自身」をしげしげと眺め、観察したことは一度も
なかったので、初対面の挨拶をしたくなるほど、ある種の驚きと感動を覚えた。
ひと
確かに、プーベの膨らみや薄い陰りといい、両脇の薄い陰りに縁取られた細く朱の差した肉丘といい、薄い朱色の粒のよな小核や谷間の鴇色の襞
といい、堅く閉ざされた小さな朱門といい、淫猥という感じはせず、全体として楚々とした佇まいで、「きれい…」という表現が、「相応しいのかも
知れないな…、
」とも思った。窒口を指の腹で擦ると、淫液が漏れ出てきた。「この狭い入り口から、年長組の幼稚園児の腕ほどもある、あの男の
肉塊が侵入していたのだ、
」と思うと、千代乃は改めて驚きと恥ずかしさの綯い混ざった感情に支配されたが、千代乃の指は、ぬめりにのって誘わ
れるように、中に没入していった。千代乃に快感の予兆が走り、思わず目を閉じて、「ああっ…」と声を立て、微笑むような顔で、下唇を噛み、首
筋を後にのけ反らせた。千代乃は、自分の一番感じやすいGスポットを捕え、そこを中指の腹で擦ると、快感が腰椎の辺りから背筋を通って電気の
ように間脳に走り、両脚をぶるぶると震わせて、思わず「来てっ、あなたっ…」と小さな声で叫んでいた。その声に千代乃は我に返り、恥ずかしさ
を誤魔化すように、
「さっ、これでおしまいっ…」といって、指を抜き、立ち上がってシャワーを浴びて、バスローブに身を包んで一旦部屋に戻り、
それからキッチンの冷蔵庫から買い置きのチーズだの、トマトだの、フランスパンだのと適当に引っ張り出して盆に乗せてダイニングに戻り、それ
19
を食べて、歯を磨いて口を濯いだあと、充血していた「女性自身」の谷間に適当な軟膏を塗り込んでから、再びベッドに潜り込んで、また眠った。
「履
電話のベルで目を覚ますと、既に午後十時を廻っていた。向う側の声の主は、佐々だった。驚いた。「教えてないのに…」と訝し気に訊ねると、
歴書のデータがあるよ…」と云って、
「気分はどうかね…」と訊いた。
「よく眠って、身体を休ませたので、だいぶすっきりしてきました…、」
千代乃は答えた。
「少し虐め過ぎたようだな…ごめん…、でも、千代乃さんがそれだけ魅惑的だったからだよ…」
佐々はまた千代乃を褒めた。その褒め言葉で、また千代乃の股間が疼いた。千代乃が、あと一日休ませてくれるように云うと、「身体を大事にす
るように…」と云って、向こうから電話を切った。千代乃は、多少の空腹を覚えたが、起きて食事を用意するのも面倒だったので、用を足すと、す
ぐまたベッドの潜り込み、そのまま次の朝まで眠り続けた。
*******
次の朝、再び電話のベルで目覚めた。今度の声の主は、末娘のあおりだった。
「お母さん、昨日も、一昨日も家に居なかったでしょう…、何処へ行っていたのぉ…、怪し~ぃ…」
あおりは、咎めるような、からかうような口調で、いきなり云った。
「一昨日は、夕方家に行ったけど、お母さん、居なくて。寂しかった…」
次の瞬間、少し泣きべそをかいたような声音になった。
「十時ごろまで待ってたけど、帰ってこないので、お姉ちゃんのとこに戻った…」
あおりは続けて云った。
「そう、そうだったの…、一昨日は、仕事で遅かったし、昨日はその疲れで眠りこけていたので、電話のベルも聞こえなかったみたいね…」
多少のバツの悪さと、まだ幼い娘に嘘を言う後ろめたさを感じながら、云った。
「そう、それならしょうがないわ…、お母さん、少し声が嗄れてるしね…、無理しちゃ、だめだよ、お母さん…、もう歳なんだから…」
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あおりはあっさり言い訳を信じて、引いた。
「なに生意気云ってるの…、それで、用は何だったの…、お小遣いはあげたばかりでしょう…」
千代乃は母親の声になって、訊いた。
「そうじゃないの…、お姉ちゃんと少し仲違いしてホームシックになって…、お母さんの匂いを嗅ぎたかっただけ…、でも、お姉ちゃんとは、仲
直りして、もう平気だよ…」
あおりは気張ったように答えた。
「そうだったの…、生意気云って出て行ったけど、やっぱりまだ子供ね…、それで、清香の方はどうなの…、しっかり勉強もできているの…、
」
千代乃は、また股間に疼きを覚えながら、それを振り払うようにして、母親の声で云った。
「さやか姉ちゃんは、頑張り屋さんだから、バイトも勉強もばっちりだよ…、本人も合格間違いなし…って云って、自信満々だし…、それより、
私の方が問題かもね…」
あおりは他人事のように云う。
「他人事みたいに云ってたら、だめでしょ…、何が、問題なの…」
千代乃はたしなめる。
「問題はねえ~、離れていると、お母さんのことが時々恋しくなること…、かな…、でも、いつも一緒だと、小言多いし…、「うざったく」なるん
だよねっ」
「だったら、どうしたいの……、今度の土曜日にでも、泊まりがけで帰ってらっしゃい、あおりのこと、しっかり抱き締めてあげて、ホームシッ
クの因がなくなるように、あなたの話を聞いてあげるから…」
「ウン、そうするっ…、お母さんの声聞いたら、少し気が楽になったしねっ…」
あおりは、千代乃の誘いでもう中半けろっとして電話を切った。
「なんだかんだ云って突っ張っていても、未だ乳離れしきれない「ねんねえな」あんな娘なんだし…、なのに私ったら、おんなじ「おぼこい」娘
みたいに、
「恋」にのめり込もうとしているんだわ…、と、現実の中に、まだ、あのめくるめく性愛の中で我を忘れ切っていられない事情があるこ
とに、千代乃は思いを新たにするのだった。その一方で、未だ残る股間の疼きが、千代乃に母親であることを忘れさせようとする別の現実のあるこ
とを主張する。
21
その夜もまた佐々から電話がかかってきた。
「どうですか…、体調の方は…」
佐々は先ず始めに千代乃のことを気遣った。
佐々のバスバリトンのその声に、千代乃は、あの疼きが胃の腑にまで貫いて、鳩尾を収縮させた。
「ありがとうございます…、もうだいぶ回復しましたので、明日は仕事に戻れそうです…」
千代乃は上司と部下の関係の声に戻って答えた。だが、千代乃の頭の中には、初めてあのように自分を狂わせて、今に至ってなおその余韻を残し
て行った男に対する情念が確実に育っていた。千代乃は、自分の目が潤んでくるのを感じた。
「いや、無理しなくてもいいんだが、出勤したら店長から話があると思うが、君には来週から別のプログラムが始まることになるのでね…、それに」
上司の口調で云って、佐々は言い淀んだ。
「それにい…」
千代乃が訊き返す。
「いや、いつまた千代乃さんと会えるか…、と思って…、」
佐々は言葉をつないだ。
ひと
「まだ、
「千代乃さん…、
」と、丁寧な呼び掛けをするんだわ、この男は…」
千代乃は、佐々の正体が掴みかねる思いでその声を聞いた。
ひと
「いつ会えるか…」と云ったって、その気になればいつだって会えるはずなのだ。千代乃の家に来ることだってできる。なのに、千代乃に遠慮す
るかのように、一度も強引に立ち寄って行くようなことはしていないし、押しかけて来ることもしない。千代乃の身体を求めたときのあの強引さに
ひと
比べると、何処か佐々のちぐはぐな遠慮がちな姿勢が目に付いた。
「周りの人たちが云っているように、この男は、やはり極道の世界で渡世を張っている男で、千代乃を公然と「極道の女」にすることに躊躇して
ひと
いるのだろうか…、だとしても…、私は、この男によって、確実に別の女に生まれ変わらされたことは事実なのだ…」
千代乃の思いは別の方向に向いた。
「千代乃さん、どうした…、何を黙っているんだ…、また気分が悪くなったのか…、聞こえているのか…」
22
佐々の畳み掛ける声に千代乃は、想念の世界から現実の世界に引き戻された。
「いえ、何でもありません…、明日は確実に勤務に戻れますから…、大丈夫です…」
「それならいいんだが…、とにかく、元気な姿に戻って、会えるのを楽しみにしているよ…」
そう云うと佐々は電話を切った。
翌日、千代乃がドラッグストアの勤務に就くと、すぐ店長に別室に呼ばれた。
「吉行千代乃さんには、来週から本社の方に研修に行っていただくことになりました…、今朝、本社の方からそのように連絡が入りました…」
店長は、座るのももどかし気に、早口で千代乃に告げた。
「行く先は、河口湖にある本社薬事事業所で、研修期間は一ヶ月とのことです…」
と云って、店長は千代乃に辞令と書類一式、本社事業所のある周辺の案内図その他の書類の入った封筒を千代乃に渡した。
「今回の研修は、特別研修で、滞在のために近くの河口湖グランドホテルに部屋が用意されているそうです…、一ヶ月という長期間ですので、そ
の用意その他、お家の留守の管理の手配など準備もあるでしょうからということで、明日から今週一杯は、早出四時間だけでよいことになりました
…「、他に何かありましたら、私に訊いて下さい…」
と云って、店長は千代乃に部処に就くように促した。
千代乃は、驚きでただ目を丸くして店長の言うことを聞いているだけだった。
君には来週から別のプログラムが始まる…」と佐々が云っていたのは、このことだったのか。
「何もかも特別尽くしだ…」と、店長は云う。
「千代乃さんには悪いようにはしない…」と佐々の云うのもまたこれの伏線だったのだろうか…、ともかくも、ここには、千代乃の意志の働く余
地は全くなかった。
「全て、恐らくあのひとのお膳立てなのだ…」
千代乃は思った。
「箱入り専業主婦」から二十年ほど経て、急に何やらキャリア ウーマンへの道が用意されているような、そんな予感がして、千代乃は空恐ろしさ
を感じた。
23
千代乃は未だ臨時雇いだった。千代乃のドラッグストアは、年度末の棚卸の二日間を除いて、
年中無休で営業していた。
店の営業時間は、
実のところ、
朝八時から夜十一時までで、各人の出勤日の勤務は八時間、早出、中出、遅出の順で二日置きに順繰りに交代して営業時間をカバーしていて、休み
を取るのは遅出明けの一日だけだった。規模の大きい構えの店で、各交代班で常時八名から十名の店員が、客の応対、レジ、商品の整理整頓、万引
きの防止などに追われて、多忙を極めた。店の管理は、店長と二名の副店長に任されていて、店長と副店長は、ほとんどの場合、レジに立って客の
応対をしながら、客の動きに目配りしていることが多かった。だが、この三人は、管理職として責任も重く、誰か一人は必ず店に出て居なければな
らず、勤務時間も長かった。薬剤師の免状をもつ千代乃など数名の店員には、客の漠然とした質問への応対、適切な薬の推奨など、別の役割もあった。
*******
土曜日の昼過ぎに仕事が引けて、買い物をして家に戻ると、もうあおりが来ていた。朝出るときに書き置きをしておいたので、早く戻ることは判
っていたはずだが、居間に入ると、あおりはソファに横になっていて、
「あら、もう帰ってきたの…、随分早いのね、お母さん…」と素っ気無く云って、
起き直った。
「なに云ってるの…、あなたこそ随分と早く来たじゃないの…、それに、書き置きしておいたから、判ってたでしょ…」
千代乃は応じた。
千代乃は、結婚してすぐに年子で三人の子を次々ともうけた。上の二人は、乳離れが早かったが、末娘のあおりだけは少し事情が違っていた。上
さやか
の子達が「自立してやっていく…」と云って、家を出て行ったのにつられて、長女の清香の後を追うようにして出て行ったものの、何処か未だ母親
に甘えたいようなところが残っていた。
「自立」と云っても、まだ姉と一緒に居るので、その効果はそれほどには現れていないようだった。その分、清香の方が母親代
あおりの場合は、
わりの役で、世話を焼いたり、小言を言ったりしているのだろう。
紅茶とケーキを出して、テーブルに向かい合って、話を聞いてやろうとするが、あおりの方ではこれといった問題があったわけでもなさそうで、
学校のこととか、姉との生活のこととか、「お姉ちゃんがお母さんみたいに小言こうべえで、むかついて言い合いになった…」こととか、とりとめ
24
のない話に終始した。
いさかい
「要するに姉との些細な諍いが因でホームシックに罹って、母親の胸が恋しくなっただけなんだわ…」
千代乃は安心した気持ちになった。
千代乃の方は、来週から研修のため河口湖にある本社に一ヶ月間行くことになったこと、後で辰也と清香にも電話で伝えるけれど、三人で相談して、
その間誰か交代で家の留守を守りに来てもらいたいことなどを告げた。
その後、千代乃は部屋の後片づけをしたり、出発の準備をしてスーツケースに詰め込んだりして、少し汗ばんでキッチンに戻ってきて、夕飯の支
度にかかった。あおりは、キッチンに続く広い居間のソファーに横たわって雑誌などを読んでいたが、千代乃があちこちに移動するたびに伝わって
くる母の匂いに気付いて起き直った。懐かしい母の匂いだったが、それとは何処か違う甘い香りも加わっていた。あおりは、千代乃の動きを目で追
いながら、
「お母さん、勤めだしてから、きれいになった…、」と思った。あおりは、千代乃がヘチマコロンを使い口紅を差す以外に、化粧などほと
んどしたことがないのを知っていた。
「今もそうだ…」と思った。なのに、母が動くたびに成熟した女の匂いが辺りに漂ってくる。
「お母さん、この頃キレイになった…」
あおりが千代乃に向かって云った。
「それに、女のフェロモンをぷんぷん撒き散らしてる…、あやしいっ…」と付け加えた。
「年頃の女の子の鋭い勘なのかな…」
一瞬千代乃は思った。
「今、お部屋の掃除や、月曜からの出張の支度などして、少し汗をかいたからね…、お部屋が臭うようだったら、エアコンをドライにして換気し
たら…」
千代乃は、まともに取り合わずに応えた。
「ねえ、お母さん、勤め先で、男の人たちがお母さんを放っておかないでしょう…、恋人、できたんじゃない…」
あおりは畳み掛けて訊いた。
」と、
「なにバカなこと云ってるのよっ…、そんなことより、エアコンを回して、テーブルの上を片づけて、夕飯の用意を手伝ってちょうだいっ…、
千代乃は、またも取り合わずに、云った。
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「お母さん、ほんとにキレイになった…、娘の私が、何だか妬けてくるみたいっ…」
ひ と
夕食の間もずっと、あおりは千代乃の身体を調べるようにしげしげと眺め回しながら、、拘わって云った。
「母親と綺麗を張り合おうって云うの…、でも、安心なさい…、もう二、三年もしたら、貴方も綺麗が匂い立ってくるわ…、私のは、キレイと思わ
れるところがあったとしても、だんだん衰えていく残り香のようなものよ…、それにあなたは、わたし似だから、わたしの若いときのように、姿容
の綺麗な女性になるわよ…、それより、夕食の後片づけをしたら、久しぶりに、一緒にお風呂に入ろうっ…」
千代乃は、あおりの眉間の間を人さし指でつついて、あおりの気持ちを逸らすように云った。
「ええっ、お母さんとおっ…」と、あおりは一瞬予期しない誘いに戸惑ったような表情を見せたが、「なに云ってるの…、ついこの間まで一緒に入
っていたじゃないのお…、いいでしょうっ…」と重ねて、誘われると、素直に首肯いた。
裸でバスルームに二人並んで立つと、あおりは、背丈はまだ千代乃の耳の辺りまでだったが、全体としてはもう千代乃とほとんど変らないくらい
に成長していた。
「一寸見ない間に、もうこんなに大人になっちゃって…、たとえ一年でも、もう一寸手元に置いておくんだったかな…」
少し距離の遠くなった末娘を眺めながら悔やまれた。
バスタブに温めの湯を張って、ハーブのボディシャンプーとラベンダーのアロマ油を垂らして母娘で前後に並んで座った。千代乃の股間で膝を立て
て座っているあおりの腰は、もう千代乃と遜色のない、一人前の女のそれだった。
「随分成長したねえ…、あおりをこうやって抱き締められるのも、もう何度もないかも知れないね…、お母さん、少し寂しいなっ…」
千代乃は、長い腕であおりを背中から抱き抱えながら、あおりの耳元で囁いた。あおりは、自分の腰の辺りに感じる千代乃の細身の太股や、お尻
の辺りに感じる母のプーベの淡い茂みや、背中に感じる母の乳房に、さっき感じたのと同じように、成熟した大人の女を感じ、少しバツの悪い思い
をして、押し黙っていた。千代乃は、あおりを抱き締めながら、感慨深げにあおりの頬に自分の頬を押し当てて押し黙った。
「ねえ、お母さん、…、男の人って、どうしてすぐエッチしたがるの…」
しばらくして、あおりは切り出した。
「そうか、あおりはただホームシックに罹っていたのではなかったんだわ…、女が人生で一度はぶつかる問題で、答えを探していたんだわ…」
千代乃は、抱き締めていた腕の力を少し弛めて、電気に打たれたような思いで、我に返った。
「それで、誰かに身体を求められたの…」
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千代乃は、すぐには質問に答えずに、訊ねた。
「もう、おれたちそろそろいいんじゃないっ…」って…」「何がっ…」って、云うと、
「決
「付き合ってる男の子達が、次々に同じように云うのよ…、
まってんだろ~、だいぶ長いこと付き合ってんだし…、エッチしてもいいんじゃないかって、云ってんだよっ…」って…、乱暴な言い方するのよ…」
「皆同級生だし、ただの友達だと思ってて、わたしにはそんな気なんて全然ないのに…、わたし、勉強に余り身を入れてないから、安っぽい女に
見られてるのかしら…」
あおりは千代乃の腕にしがみついて、頬を擦り寄せてきた。
「そう…」
千代乃はまたあおりを強く抱き締めた。
「ただでさえ気持ちの不安定な年頃なのに…、そんな不愉快な思いをさせられているのか…」
娘への愛おしさが募った。
「それで、あなたは、なんて答えたの…」
「ただの友達同士で、好き合ってるわけでもないし、そんな気ないわっ…て…」
「そしたらっ…」
「なんだっ、オレ、こけにされてんのかよっ…」って、凄い剣幕で、人が変わったみたいになって…、もう、いやだっ、あんな人たちの居る学校
「
に行くのっ…」
あおりは泣きだしそうな声になって、千代乃の腕に更にしがみついてきた。
「そうなのだ…、この年代の子達は、ちょっとした相手の仕草や、言葉遣いを、自分に気がある証拠だと解釈して、勝手に思い込みがちなのだ…」
千代乃は自分の経験を振り返って思う。当人がそれに気づけばいいが、そうでないと、自尊心が傷付いて、恨みに思って、ストーカー行為や、レ
イプや、時には殺人にまでエスカレートすることだってある。
「わたしの可愛いあおりに、そんな思いはさせたくないわ…」
千代乃は、あおりの頭を撫でながら、どうしたものかと考えた。
「そうね、どの人もみんな、あおりのこと誤解しているみたいね…、誤解が因で、勝手な思い込みで、相手が自分の恋人だと思ったりしがちなの
よね…、あおりの方も、相手に接するときに、仕草や、目つきや、言葉遣いや、相手に誤解されるような行動を取らないように気を付けないとね…、
さが
その人たちには、もう一度はっきりと言うことね…、誰の恋人でもない、ということを…、そして勉強や他のことに身を入れ始めたことを、みんな
に判る形で見せることよね…、それから、なぜ男の子がエッチしたがるか…、だけど、それが「性」だから…、としか云えないわ…、
27
大人になる過程で心と身体の発達のバランスが取れていない思春期には特にそうよ。これは何も男の子に限らないのよ…、ただ、女の子の方は、
身を守ろうとする心理が働くので衝動の現れ方が少し違うだけなのよ…
できるのよ…、理性だけでは、コントロ
衝動だけで人生を渡ろうとする人もいるわ…、知識を増やして、理性的に物事を考えるようになって、衝動を旨くコントロールできるようになる
人も大勢いるわ…、だから、あおりが今ぶつかっている問題は、人生をどう生きるか…、という問題にもつながっているのよ…」
「お母さんも…、したくなること、あるの…」
「もちろん、あるわよ…、でも、ちゃんとした知識を身に着けて、仕事をしていれば、旨くコントロール
ール しきれないこともあると思うけど…」
この辺りから、千代乃は、再びあのめくるめく悦楽のあの時間が頭に甦り、あおりにこのような話をすることの後ろめたさから、歯切れが悪くな
るのを覚えるのだった。
「大人同士でも、男の人って、いきなりエッチしようって、云うのっ…」
「大人同士だと、そんなこと滅多にないわね…、以心伝心で、それとなく誘われて…、それから男と女の関係になる…、そのような場合がほとん
どね…」
「お母さん、お父さん死んでから、ずっとひとりで寂しかったっ…」
]
といえば嘘になるわね…、でも、普段から、お父さんは仕事人間だったから、
ほとんど独りでほっておかれたので、
「そうねえ…、[寂しくなかった…、
それほどのことはなかったわ…、気を紛らす術も身に付いていたしね…」
「お母さん、勤めだしてから、男の人に誘われたことないのっ…」
「ほら来た…、やぶ蛇だったかな…」
千代乃は内心[やばい…]と思った。
「お母さん、誰かとエッチしたくなることないのっ…」
「やっぱりここに来たか…」
と、千代乃は思い、答えを探した。
「清香ともあおりとも、今まで[性]の問題でほとんど何も話してこなかったわね…、失敗だったかな…」
て、千代乃は方向を逸らした。
あおりを優しく抱き締えめ
っち
わい
あい
」なことでも「Y」なことでもないわ。[I]なことだわ。」
に、
[性]は、
「H
「そあれ
い
「
[I]なことお…」
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あい
[I]なことよ…、愛がなければ、誰とも[したい]とは思わないわ…、だからエッチなことではなくて、アイなことなのよ、女にとっ
「そうよ、
てはね…、 ほとんどの女にとっては衝動は男ほど強くわないはずよ…、大切なことは、最初に愛を感じることよ…、
自分の…、ではなく、相手の男の人の自分への思い遣りやひた向きな愛を…よ…、
女は、大抵自分を守ろうとするものよ…、それは、赤ちゃんを生んで育てる役目を負った女の本性だからよ…、
[お母さんと子供たちの幸を絶対守る…、]と言って、仕事人間になったのよ…、あの人は大きな愛をみんなに注いでいたのよ…、だ
お父さんは、
から、お母さんにはお父さんしか居なかったわ…、
あおりも[あなたを絶対守る…]と云ってひた向きにあおりのこと思ってくれる男の人が現れるまで、自分を大切にしなさい…、それに、そんな
人が現れるのは、もっと先のことのはずよ…、今は自分の人生の方向を決めるため知識や技能を蓄える時期よ…」
そう言って、千代乃は更に強くあおりを抱き締めた。
「さっ、少しは気持ちが落ち着いたかな…、少し身体をタオルで擦ってあげよう…」
「いやだっ、くすぐったいから…、自分で擦るっ…」
「そうかっ…、もう身体のあちこち、感じ易くなっているんだ…」
千代乃はあおりの女としての成長を実感した。
二人は、ボディシャンプーの泡とアロマ油の香りの立ちこめるバスタブの中で、思い思いに身体を擦ってから立ち上がり、湯を抜いてシャワーを
掛け合った。あおりの胸は、乳首がぴょこんと上を向いて固く締まっていた。腰は、もう千代乃とほとんど同じくらいに発達して、腰のくびれから
お尻と太股を通って膝に至るラインが滑らかに伸び、千代乃のそれと相似形をなしていた。プーベからデリケートゾーンを覆う陰りも、千代乃のそ
こ
れと同じく淡く亜麻色をしていた。
は、顔形から姿まで、何もかも私に似ているんだわ…、背丈ももう少しで私と並びそうだし…」
「この娘
こ
ひと
千代乃は自分の若いころを思い出しながら、思った。違うところがあるとすれば、それは、穏やかで控えめな千代乃と違って、あおりの性格が前
へ前へと押し出していくところだった。
「この娘も、あの男のような男性に巡り逢えて、女としてめくりめく悦楽を経験できるのだろうか…」
湯から上がると、千代乃は、ローズの香りのするボディローションを全身に擦り込み、あおりにもそうするように云い、背中はやりにくそうだっ
千代乃はふと思った。
29
たので千代乃が手伝ってやった。娘の肌に触れているうちに、まだ小さかったころの記憶が脳裡に戻り、急に愛おしさが込み上げてきて、娘の肩を
抱き締めずにはいられなかった。
ちょっとへ~ん…」と云いつつも、あおりはしばらく千代乃の腕にしがみついて、うな垂れていた。と、いきなり振り向きざま、
「きょうのお母さん、
「お母さん…」と云って、あおりは千代乃の首に両腕を巻き付けて、顔を首筋に埋めてきた。
「あおりのことは、お母さんが守ってあげるからね…」
千代乃は、静かに、娘の肩を擦りながら、云った。
「あのひとがみんなのことを守ってくれたように、何かあれば、子供たちのことは私が守らなければならないのだわ…」
と、千代乃は思った。あおりは、こくりと首肯いて顔を上げた。
「さっ、今夜はこれを着なさい…」と、あおりには淡いピンクのショーツとネグリジェを出してやり、自分はラベンダーミストのショーツとネグ
リジェを着け、千代乃の部屋の大きなベッドに並んで横たわった。千代乃は、あおりの首を腕に抱き取り、掌で娘の頭を撫でさすり、あおりは千代
乃の脇に頭を擦り寄せて、身体を千代乃の身体に押し付けていた。
「お母さん、誰かとレズしたことあるうっ…」
あおりは不意に顔を千代乃の方に向けて訊いた。
「ないわ…、学生時代には、何人かそんな誘いをかけてくる人もいたけどね…、そんなのいやだったから…、お母さんのお家はとても古風で、厳
格だったのよ…、だから、勿論男の人との性的な関係なんて、滅相もないことだったのよ…、
薬大に入ってからも、当然、生理学的な知識もあったけど、お父さん、詰まりあおりのおじいちゃんによると[不貞な]関係と云われるようなこ
とは何も起こらなかったわ…、
大学を出て、勤め初めて間もなくして、お父さんと出会ったのよ…、その会社は製薬会社だったけど、私は薬学とは関係のない庶務課で受付に回
わされていたのよ…、
]と云って、私にではなく、いきなり営業部長に仲立ちをお願いして…、初めにその部長さんからお父さんに…、
お父さんたら、私を[見初めた…、
おじいちゃんのことよ…、内々で打診があって…、二人でお家にやって来てね…、
[おまえ、それでいいなっ…]って、いきなり私に云って…、
[話
[お嬢さんをお嫁に下さい…]って…、お父さんたら…、おじいちゃんのことよ…、
しはそこまで煮詰まっているんだ…]って思って、会社で出会ってから、[好感の持てる人だ…]とお父さんのこと思ってたし…、何となく、[はい
それからは、あれよあれよという間にお式を挙げて…、椿山荘っていう老舗の旅館の結婚式場でね…、式の後そのまま二人はそこに泊まって…、
っ]って…、
30
次の間付きの大きな部屋で、窓の障子を開けると、大きな庭園が目の前にあってね…、そのお部屋には、新婚用の特別に分厚い朱色の縁取のあるお
布団に枕が二つ並べてあって、真っ白なシーツと枕カバーが掛かっていて…」
「いざ、初夜の床に入る段になって、二人向かい合って正座して、指を突いてお辞儀して、[今後とも、いつ久しくよろしくお願いします…]って
…、挨拶するのよ…、面白いでしょう…」
あおりの顔を覗き込んだ。あおりは、感銘を受けたような顔をして、黙って聞いていた。
そこまで話して、千代乃は
む く
[千代乃のことは一生大事に思って、守るからね…]って、
「それからね、私が全く無垢で、初めてだって判って、お父さんたら、とっても驚いて、
感激して上ずったような声で云うのよ…、それからたった十六年、でも全身全霊で働いて、私と三人の子供たちを守って、お父さん燃え尽きちゃっ
たわ…」と、千代乃は付け加えて云い、あおりの額に接吻をした。
「それで、何でレズのこと訊いたの…」
「うん…、もういい…、おやすみ…」
あおりは千代乃から少し身体を離して仰向けになり、しばらくして静かな寝息を立て始めた。
*******
成行きで、図らずもそうなった佐々との関係が、今娘に話して聞かせたこれまでの現実とひどく懸け離れていることに千代乃は後ろめたさを拭い
きれなかった。自分の脇には、これから女として成熟して行く過程で様々な問題に遭遇して複雑に揺れ動く心をを抱える娘が、まだあどけさの抜け
こ
ない屈託のない寝顔で静かな寝息を立てている。
が私と佐々との関係を知ったら、どんなに傷付くだろうか…、まだ、これまでの母親とは全く別の顔を持つ女として対面してはいけない
「この娘
のだわ…、でも、いつか子供たちにこの現実を判って貰える日が来るのだろうか…」
身も心も佐々の巧みな「性技」の虜になってしまっている現実と、未だ成長しきっていない子供たちとの関係を取り繕っていかなければならない
もう一つの現実との狭間で、千代乃の心は大きく揺れ動き、なかなか眠りに就けなかった。
次の日、少し朝寝をして、夫々シャワーを浴びてから遅い朝食を食べ、「ついでに清香にも会いたい…」と口実を設けて、あおりを二人のアパー
31
トまで送って行った。休日のこととて、清香はようやく起き抜けのシャワーを浴びたばかりだった。
「どう、あおり、お母さんのおっぱいたっぷり吸わせてもらって来たかい…」
清香はあおりをからかった。
「お母さんのおっぱいねえ、とってもセクシーなんだぞ~…、 お姉ちゃんだったら、お母さんとレズしたくなっちゃうかもよ~…」
あおりは清香を挑発する。
「なにバカなこと云ってるの…、清香は、この間来たときよりも随分と大人っぽくなったわね…、それで…、入試の準備はうまくいってるのかい…」
千代乃はあおりをたしなめてから、清香の方に向き直って云った。
[恋はご法度でござんす…]って云って、独りエッチと、私とのレズでかわして、勉強に打ち込んでるからねっ…」
「そりゃ~、おねえチャンたら…、
あおりが清香にからかい半分に云う。
「こらあ~、あおり~、つまらないことお母さんにばらしたな~…、もう、かまってあげないからな~…、」と、清香はあおりに攻めかかろうとする。
と同じ情景が展開されるが、二人の娘が既に成熟していることだけが違った。辺り
あおりは、さっと身をかわして逃げる。みんなが家にいたとき
くすぐる
に成熟した妖し気な女のフェロモンが舞い立ち、千代乃の間脳を 擽 る 。何だか、好き者の男達の好餌の対象にされかねない危うさを感じて、千代
乃は戸惑う。
「あおりは家に来てくれたし…、清香の顔も見られたし…、二人とも夫々問題はありそうだけど、元気に頑張ってるので安心したわ…、電話で話
したように、お母さん、明日から一ヶ月ほど研修で河口湖の方に行くことになっているので、辰也と三人で相談して、家の留守を守ってちょうだい
ね…、清香…」
千代乃は清香に向かった云った。
「辰也兄ちゃんは、バンドだか何だかで、あちこちツアーして廻ってるとかで、ほとんど居所掴めないし…、大勢変なのをごろごろ連れ込まれて
も困るでしょう…、お母さん…、だから、私とあおりが二人でしばらく家の方に戻ってるよ…、いいでしょう、それで…」
「それは願ってもないことだけど、二人ともアルバイトだの学校だの、通うのが大変じゃないのっ…」
「どうってことないよ…、それに十日ほどで、学校は休みに入るし…、バイトだって、適当に間引くこともできるし…、それにあおりも私も、こ
の辺で少し息抜きして、ゆっくりした方が良さそうだし…、お母さん出張しなくても、そうしようと思ってたのよ…」
清香はこともなげに云った。
「そんなこと、私思ってなかったよ…、お姉ちゃん独りで決めてえ~…」
あおりはむくれたような顔をする。
32
「君はね~、何やかんやでもう少しで不登校になりそうなんだろ~…、そう言うことも考えて、そう決めたの~…、お母さんに抱っこしてもらって、
ぶうぶうに入れてもらって、少しは気が落ち着いたかい…」
清香はまたあおりをからかう。
「さやかっ…、もうおよしなさいっ…、あおりは傷付いているのだから…」
「さやか姉ちゃんって、いつもこうなんだから…」
「あおりのこと、励ましているの、判らないのっ…、傷付いたところをいつもなめなめしてもらいたいのかい…、落ち込んだままでいないで、少
し陽気にやろうよ…」
「清香の言うことも一理ありそうだわね…、そうしてくれるかい、あおり…」
「いいよっ…、あおりもほんとはそうしたかったの…、そうすれば、しばらくはあんなキモイ奴らの顔を見なくてもすむし…」
「それじゃ、早速今夜から行こう…」
清香はあおりを促して、スーツケース一杯の荷物をまとめて、「何だか、海外旅行に行くみたいだね…」と屈託なく笑う。
と云うわけで、千代乃は二人を連れて家に戻った。
*******
翌日、千代乃は早起きして家を出た。二人の娘達も「バスターミナルまで見送る…」といって、朝食も摂らずに、一緒にタクシーに乗って新宿ま
で従いて来た。チケットは予め会社で用意していて、書類一式と一緒に渡されていたので、ターミナルまで身一つで行けばよかった。十分ほどして、
バスは八時定刻に出発した。娘達にくれぐれも火の始末に厳重に注意するように云って、もう一度留守をしっかり頼み、慌ただしく車中の人になる
と、もう千代乃の心は今日から始まる富士山麓での特別研修のことで頭が一杯になった。バスは中央高速に乗ると快調にスピードを上げ、二時間余
りで河口湖口に着いた。
会社から迎えが来ていて、何から何まで佐々の手回しの良さを感じた。また、迎えの社員達の丁重な応対の様子からも、自分が特別待遇を受けて
いることを感じた。同時に、これから始まろうとする研修と、その過程で自分の意志とは関わりなく自分が何かに作り替えられていく不確な予感に、
千代乃は内心の不安を覚えていた。
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十五分ほどで、車は会社の異様な佇まいの建物に着いた。
「山瀬産業薬事事業本部」と、ビルの前の大きな石碑と車寄せの上の大きな庇の端面に読めた。ビルは最高が十六階建てで、全面黒く光っていて、
中は見通すことができず、窓があるのやらないのやらも判らない造りになっていた。
「人事部での話しがすんだら、ホテルの方に案内するので、スーツケースは車に積んだままで良い…」
出迎えの女子社員に言われて、千代乃はハンドバッグと予め渡されていた書類一式の入ったブリーフケースだけをもって車を降り、入り口が何処
にあるかも判らない黒いガラスの壁に向かって、女子社員に言われてその女子社員と肩を並べて進んだ。ガラスの壁に五メートルほどに近付くと、
その中央に放射線危険マークのような文様が刷り込まれているのが目に入った。更にその文様に向かって近付くと、ガラスの壁が音もなく割れて開
き、屋内に入ることができた。その女子社員によると、予め登録されている二人の顔写真を参照して、その文様から信号が出されて、入り口が開い
て屋内へのアクセスが可能になるのだと云う。
二人が入ると、即座に入り口は閉じた。中に入ったら、出口で別の手続で認証されないかぎり、外には出られないのだそうだ。
中は適度に空調が効いている大きなドームのようなフォイエだった。中に入ると、受付の秘書の一人が立ち上がって、心得顔に二人に向かって歩
いて来た。
「吉行千代乃さんをお連れしました。人事部にご案内下さい…」と、同伴の女子社員がその秘書に向かって云い、「後ほどホテルにご案内しますので、
人事部と薬事部での打合せが終わるころに、出口側のフォイエにお迎えに上がります…」と千代乃に云って、去って行った。千代乃は、受付の秘書
に連れられて、初めに人事部の応接室に通された。間もなく人事部長と人事課長を名乗る共に四十代ぐらいの男二人がにこやかに入ってきて、バス
旅行の労をねぎらった後、今度の研修について簡単な説明をした。
やはりこの研修は佐々の指示による特別の研修だった。続いて、必要な書類上の手続をし、一般通行証としてのIDカード用の写真とよりセキュ
リティの厳しい部屋に立入るための顔の血管文様写真を撮る手続をして、課長がその文様写真を撮る部屋に案内し、写真撮影がすむと、三階の薬事
事業部に案内された。
「佐々社長の特別の肝煎による…」こ
薬事事業部でも、部長の他、課長と女性係長が千代乃を迎え、この研修の趣旨と目的を伝えた。ここでも、
とが強調された。
「研修の日程と内容の詳細は、課長と係長から説明させます…、今度の研修は、一ヶ月間この二人が吉行さんに張り付いて行いますが、結構きつ
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いものになりますので、頑張ってください…」
部長は、簡単な説明を済ませると、そう云って、席を立って行った。
千代乃が緊張して立ち上がり、その背に向かって、「よろしくお願いします…」と一礼するのを見て、二人は、「まあ、まあ、そうしゃっちょこ張
らないで…」と、両手を振って、座るように合図し、「何しろ、社長命なのでね…、私たちとしても、今度の研修は失敗に終わらすわけにはいかな
いのです…、部長はそれを暗に云いたかったのですよ…」と、千代乃の不安を和らげようとした。
その後二人は、スケジュール表を千代乃に渡して、三十分ほどで細かい研修日程と研修内容、研修の行われる場所などを千代乃に説明した。
研修内容は、薬事法や公衆衛生法、麻薬取扱関連法規、製薬業界の現状、薬価の算定法から医薬品や医薬品外商品、化粧品、漢方薬などの流通経
路、ドラッグストア経営の要点など、多義に亙っていた。最後に、「今日は、これから一ヶ月間滞在していただく河口湖グランドホテルのチェック
インのあと昼食を済ませていただいてから、当事業所付属の薬草園にご案内します…」と云い、この建物への出入りの仕方を説明して、午前中のス
ケジュールを了えた。
この会社の建物は、徹底したセキュリティ管理がされていた。建物は、巨大な八角形の錐柱状のタワーが五棟互いに少しづつずらして連結された
ようになっていた。東西両端のタワーは七階建ての高さがあり、五階部分までがドーム状の吹抜けになっていて、六階から上がオフィスとして使わ
れていた。中の二棟はそれぞれ十二階建てで、真中の一棟が十六階建てになっていた。建物の出入り口はそれぞれ別になっていて、東側のフォイエ
は入口専用で、西側のフォイエが出口専用になっていて、出入りの方法が違っていた。
入口は、予め顔写真が登録されていないかぎり、扉が開かないように仕組まれていて、来客は、門の脇にある守衛室で写真撮影をして登録するよ
うになっていて、退所用のIDカードもそこで渡される。エレベータ室は真中の三棟の中央部分にあるが、上りと下り専用のエレベータがそれぞれ
八基づつ、入口と出口の専用フォイエの側に配置されていた。入口は、東側一箇所だけだが、出口は、西側と北側に二箇所づつ配置されている。
入口は登録顔写真の認証式だが、出口は登録IDカード認証式で、入口のと同じような放射線危険マークに似たマークに向かってIDカードをか
ざして、認証されると内ドアが開くようになっていた。また、室内からは、外が良く見えるが、外からは中を伺い知ることができないようになって
いた。その他、入口には、武器・凶器その他の危険物の携行が検知されると瞬時にスチール製の格子状シャッターが降りて通行を遮断する装置も備
えられていて、警察官と云えども、丸腰でないと中へは入れないようになっていた。
千代乃は、出口側のフォイエで、先ほどの女子事務員からIDカードと専用の携帯電話を渡され、事務員の後に従って、西側の出口から外に出た。
外に出ると、その山根総子と名乗る事務員は、千代乃を手招きして、建物の南側に案内した。建物は緩やかに湾曲して、湖水に面して、富士山の方
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角に向いて建っていた。湖岸までは八十メートルほどで、芝生が敷き詰められ、そこここに花壇と小さな池が配置されてあり、その外側に踏石の小
径が湖岸に向かって続いていた。湖岸から眺めると、建物は全体が黒に近いチョコレート色をして、まるで黒水晶の錐柱で富士を模ったように見え
る。目を凝らしてみると、所々上下二段に色が別れていて、一組で各階の高さに相当するということが判った。
千代乃がそれを指摘すると、総子は、「上の窓の部分は、出入り口と同じ素材の分厚い樹脂パネルで、腰の部分が樹脂パネルに太陽電池パネルが
張り合わせになっているのよ…、だから上下で少し段差があるため、全体として、カットした水晶の柱のように光を反射して見えるの…」と説明し
た。この事業所の電力は、建物全体の壁面の半分以上を占める太陽電池と湖岸の西側に点在する風力発電機からの供給によるもので、地下の二階分
を占める大きなコンデンサー室に蓄電して、各室に供給されているのだと云う。余った電力は、一部は電力会社に売り、一部は近隣の林間学校など
の公共施設に、無償で配給されているのだという。
この事業所の敷地は、広大で、特に西側が建物のある東側の倍の広さの庭園になっていた。その西側には、あちこちの自治体の林間学校が点在し
ていて、その敷地に面する湖岸は、ほとんどこの事業所の専用みたいになっていて、そこからの眺望を独り占めしている。だがその開けた南側にも
二重三重のセキュリティ装置が目に付かないように配置されているのだと云う。その西側の湖岸から敷地の西の端を回って建物の北西部分に亙って
風力発電機が八塔、白亜の威容を誇るように立っている。
十分ほどこの事業所の外観の案内を受けた後、出口側玄関口の車寄せに待機する今朝出迎えを受けた車に乗ってホテルに行き、ホテルでチェック
インしたあと、簡単な昼食を摂ると、薬事事業部の課長と係長が迎えに来て、車で忍野の近くの富士山嶺の一角にあるこの事業所の薬草園に案内さ
れた。この薬草園は、凡そ一万坪の面積を有し、三〇〇〇種類余りの薬草が栽培されていて、その北西の端に位置する事務、研究棟で、日夜、分析
調合の実験が行われているのだという。ここへ来ると千代乃の専門分野で、薬科大学卒業後一度も活用しないまま専業主婦になって約二十年の間に
分目が云った。
わんめ
すっかり錆びついてしまったとはいえ、千代乃の専門知識が急に活性化されたように、千代乃の目が生き生きと輝き始めた。
「ここでやっていることは、吉行さんの専門分野でしょう…」
それに気が付いたかのごとく、千代乃の顔を覗き込むようにして、小柄な課長の
「そのはずでしたけれども…、もうすっかり錆びついてしまっていますわ…」
そう云って、千代乃は、平穏な「箱入り専業主婦」の生活の代償に失った知識や技量に思いを馳せた。
約三時間を掛けて、広大な薬草園の一部と、各試験室での仕事を見学し、研究所長以下各研究室の室長ほか、研究員等との初対面の挨拶をし、分
析調合試験の内容の説明などを聞いた。
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研究所長を除くと、ここのスタッフの多くは女性で、副所長も五十代中半くらいの穏やかな表情をした女性だった。そのあと、分目課長と池部係
長の二人にホテルまで送り届けてもらい、三人でホテルのラウンジで夕食を摂ってから別れて、研修第一日目の日程を了えた。
部屋に上がると、今日一日、早起きしての移動だの、初対面のスタッフとのやり取りの緊張だの、薬草園で長時間歩き回ったことだので、千代乃
は急に疲れが出てきた。部屋は次の間付きのセミスイートが当てがわれていた。これも佐々の配慮だと察しが付いたが、その過ぎた扱いに千代乃は
戸惑った。千代乃はバスタブに温い湯を張って、持参してきたローズのアロマオイルを垂らしてゆっくり時間を掛けて湯に浸かり、一日の疲れを癒
した。一時間余りして湯から上がったあと、ラウンジにグラス一杯のワインをルームサービスで頼んで、それを少しずつ呑みながら今日渡された研
修日程と資料に目を通した。内容は多技に亙っていた。その多くは、薬事法だの、医事法だの、公衆衛生法だのといった法規関連の事項と、医薬品
その他医薬品外商品や化粧品などの流通関連の事項と、その管理運営の方法に関する事項が占めていた。しかし、千代乃の専門分野に関することで
は、今日見学した薬草園と試験場での業務に関することも全体の四分の一ほどを占めていた。またどういうわけか、麻薬の取扱いと管理運用に関す
る事項も少し入っていたのが目についた。研修は、薬事事業本部と薬草園試験場と、もう一箇所まだ見ていない管理職研修所の三箇所で行うことに
なっていた。
そうこうしている内に、十時を回った頃に、携帯電話の着信メロディが鳴った。携帯電話は、電話機能だけの簡単なものだった。ボタンを押して
応答すると、相手は佐々だった。
「どうですか、疲れませんでしたか…」
佐々は相変わらず初めに千代乃のことを気遣った。
「ええ、よく歩き回りましたので、少し疲れましたわ…、でも、アロマ湯にゆっくり浸かって身体を休めたら、すっきりしましたわ…」
「アロマ湯って…、そんなサービスがあるのかね、そのホテルに…」
「いえ、私がローズのアロマオイルを持ってきていて、バスタブに垂らしたんですのよ…」
「そうか、アロマ湯ねえ…、それはいいことを聞いた…、あれ以来しばらく逢ってないから、今すぐにでも逢いたいところだが…、千代乃さんの
今度の研修は、日程が短いわりには中身が濃いから、かなりハードだと思う…、身体を壊さないようにしないといけない…、週末には、忍野の外れ
の韓国エステのアロマテラピーを受けてから近くの温泉に行って、完全にリラックスできるようにしよう…、土曜日の午後ホテルに戻った頃までに、
何処に行くか決めておくよ…」
佐々はまた千代乃を気遣うようなことを云った。
37
「アロマテラピーで、わたくしをぴかぴかに磨いてなさりたいのね…」
ひと
千代乃は佐々の真意を見透かしたように、そう云った。
「あははは…、そう、そうだよ…、何でも東南アジアで古来から使われている薬草を使った、文字通り身体の隅々まで、キレイにしてくれるアロ
マテラピーがあるそうだよ…、楽しみにしてて…」
「この男は、私に何処までも丁重で、私にとことん入れ込もうとしてるみたいだわ…」
千代乃は、気後れとこそばゆい気持ちで、思った。と同時に、この間のあの悦楽が脳裡に蘇り、心の何処かでまたそれを期待して、佐々を愛おし
く感じ始めている自分に気付いた。
「ええ…、でも、あまり気をお遣いにならないでね…」
「いや、おおいに気を遣わせてもらうよ…、それが楽しいんだから…、」
「何だか、気恥ずかしいわ…」
「そんな遠慮がちなところが千代乃さんのいいところでもあるが…、云っただろう…、私のぴったりの「雌型」だって…、二人の間ではもっとも
っと積極的になって貰えるよう、私の方が一生懸命になるつもりでいるよ…、千代乃さんにぞっこんなんだって、感じて欲しいな…」
佐々は何だか泣きださんばかりの口調で云った。
「………」
千代乃は、胸からプーベにかけてジーンとなって、思わず屈み込むようにして右手でそこを押さえて、無言のまま佐々の声を聞いていた。
「まあ、とにかく明日から本格的な研修が始まる…、ハードだが、あまり緊張しすぎて身体を壊さないように、無事に日程をこなしてもらいたい…、
週末のリフレッシュのためのスケジュールは、私がアレンジさせてもらうよ…」
「何から何までありがとうございます…、何だか申し訳なさの方が先立ちますわ…」
「いいんだよ、そんなことは…、すべて自分が決めてやっていることだから…、妙に気にし過ぎないでもらいたいな…、それでは、今日はこれで…、
ゆっくりお休み…」
佐々は自分から電話を切った。
研修は、肉体的にも精神的にも予想した以上にハードなものだった。残業はなかったが、千代乃は夕方自室でもう一度資料を見直したりしなけれ
38
ばならなかった。与えられた知識をしっかりと頭に畳み込む努力が必要だった。ホテルでのリラックスタイムは、専らバスルームでのアロマ湯でゆ
っくり寛いだ。
「アロマオイルを持ってきてよかった…」
千代乃は自分の狙いが的中したことを喜んだ。
佐々は毎日決まった時刻に電話をしてきて、労いを云ったり、慰めを云ったり、励ましたりして、言葉で千代乃を愛撫し続けた。だが、その口ぶ
りからは、佐々のリビドーが相当高まっているのが感じ取れた。逢えばすぐにでも飛び掛かってきそうな、そんな気配が感じられた。
「もし何処にも捌け口を求めず、千代乃のために耐えているのだったら、あのタフネスなのだから、無理もないことなんだわ…」
千代乃は思い、千代乃の方も、そんな佐々との電話でのやり取りで、だんだんリビドーが高まってくるのを感じた。
佐々は、ことあるごとに「今すぐにでも逢いたい…」と云った。そんな佐々の焦れた様子に、千代乃は股間に疼きを感じ、ショーツが潤いで濡れ
てきて、もう一度シャワーを浴び直さなければならなかった。だが、佐々は、決してホテルに千代乃を訪ねて来ることはしなかった。事業本部での
研修の時でも、ほとんど事業本部で席を温めていることがないとはいえ、同じ建物の何処か上の階に社長室があるはずなのだが、佐々は千代乃の様
子を見に降りて来ることもなかった。
土曜日の日程は、午後一時まで決まって薬草園と試験場での研修だった。特にその必要はなかったが、願い出て調合試験の手伝いをしたり、自分
でも簡単な調合試験をさせてもらったりもした。土曜日のアテンドは、各週に薬事部の分目課長か池部係長の何方かが交代で努めることになってい
た。
( がたかたち や
) 立居振舞い、話しぶりが
研修では、千代乃が社長命で特別の研修を受けていることと、例によって、「近ごろ珍しいその容姿 す
何とも人の心を和ませる…」と感じさせる千代乃の独特の人柄によって、すぐに多くのスタッフの共感と自発的な協力を得ることができ、居心地の
悪い思いをすることがなかった。千代乃の傍に居ると「癒される…」とて、昼食の時など、多くの職員が千代乃の周りに集まってきた。千代乃自身も、
自分の将来の役割を十分理解して、
誰彼分け隔てなく積極的に交流するように努めた。「社長命による特別研修」というだけで、当然多くの職員が佐々
と千代乃のプライベートな関係を推測するのに十分な出来事だったが、誰もそれを言葉に出したり、噂をしたり、千代乃に好奇の目を向けたりする
ことはなかった。それだけでも千代乃は気が楽だった。
39
*******
最初の土曜日、昼食を了えて三時過ぎに部屋に上がると、佐々からの電話が入った。
「富士急ハイランド駅で五時に落ち合いたいのでハイヤーで出て来て欲しい…」
千代乃に手短に伝えて、佐々はすぐに電話を切った。
佐々に言われた時刻に駅前でハイヤーを降り立つと、ハイヤーが出て行くのとほとんど入れ違いに黒塗りの車が静かに寄ってきて、助手席のドア
が開き、中から佐々の声で、急いで乗るように告げた。挨拶もそこそこに車が動き出し、広い道路に出てスピードを上げる。
解放とリフレッシュ の
" プログラムラムが始まるよ…」
「さあ、これから丸一日余り、二人の "
佐々が少し華やいだ大きな声で言った。
「あら、ホテルにはちょっと出てくると伝えただけで来てしまいましたわ…」
千代乃は、部屋が十分片付いておらず、スーツケースや資料などが置きっぱなしになっていることを不安げに告げた。
「大丈夫。ホテルの支配人にもう伝えてあるから、何の不安もないよ…」
千代乃の不安を取り払うように云い、「これから、初めに韓国エステで、リラックスとリフレッシュのプログラムだ…」と付け加えた。
車は東京で使っているものとは違っていたが、窓には全て同じように外からは中の様子が判らないようなコーティングが施されていた。車の中は、
更にデラックスな感じでゆったりした雰囲気の内装になっていて、そこはかとない梅の花の香りが漂っていた。
「いい香りがしますわね…」
すぐそれに気付いて千代乃が云った。
「これねえ、匂い袋の入った籠が吊してあるんだ…、前は、ゴールデンデリシャスやスターキングなどの林檎を置いていたんだけどね…、この間、
千代乃さんがアロマオイルのことを云っていたので、思いついてこれにしたんだ…、掛け香というんだそうだよ…」
佐々が説明した。
「思いのほか繊細な感性と嗜好の持ち主だわ…」
た風に、千代乃は佐々の理知的で端正な色白の横顔を眺めていた。
感じ入ひっ
と
ひと が
) ほんとに「極道」と呼ばれる人たちの仲間なのかしら…」
「この男 (
また千代乃は訝しく思った。佐々の顎は、ヒゲを剃った跡が青々としていた。
40
「の顔に何か付いていますか…」
私
千代乃の視線の磁力を感じて、佐々は前を見たまま訊いた。
「いえ、そうじゃあないんですのよ…」
い
千代乃は感じたままを率直に話した。
「はははっ…、確かに日本の男は粗雑な感性の持ち主が多いねえ…、まあ、私の場合は「氏より育ち…」かな…、私の母親は東京の下町育ちの
あ
生粋の江戸っ子のもつ「粋」を尊ぶ感性の持ち主でねえ…、その薫陶よろしきを得て、「心意気」だの「粋」だのと云う感性を大切にするように育
ったんだな…
花柳界の出だもんだから、舞いだの、お茶だの、お花だの、お香だのと、日常生活の中に、日本の伝統文化が習慣的に取り入れられていてね…
私自身は法経学部に進んで、実業の世界に裸一貫で乗り出したんだが…、その子供も頃からの習慣が自分の感性や美意識の根底に刷り込まれてい
るんだろうな…」
さ
「あ、着いたぞ…」
佐々は客観的な視点から自分の行動について説明した。
佐々は車を林の奥に通じる細い道に導いて、云った。
林の中の切り開けた一角には、変形八角形の形に回廊で結ばれた二階建ての円形の建物が点在していた。ここも予約制で、いつぞやのラブホテルの
ようにピットイン式の車庫に通じる入口から入るようになっていて、ここに来ていることが外部の第三者に知れないように、プライバシーの徹底し
た保護が配慮されていた。
中は、銭湯のように男女別々の入口から奥に入るようになっていて、中は個別に他から隔離される状態になっていた。一般的なエステサロンとは
違って、常時専門医が居て、問診と検診を経て、各々の ク
< ランケ の
> 生理的身体的状態を判断したうえで美容マッサージとリラクゼーションの
プログラムラムを処方して実行する体制が採られていた。
中に入ると、受付があり、小柄な女医と女性看護士が千代乃を笑顔で出迎えた。先ず女性看護士が予約をチェックして簡単な問診票の記入を求め、
それに応じて女医が更に詳しい問診を行い、血液の酸性度や流動性、肌の状態など細かな項目の検査をした。
奥様は、身体の状態が年齢に比べて十才以上お若いですわ…、何か日ごろ注意をなさって実行されていますか…」
「
女医が云った。
41
「にこれといったことはしていませんが、強いて云えば、野菜食を中心にして肉よりは魚貝類を好んだ食べることと、毎朝簡単なヨーガ体操を
特
続けていること、よく歩き、よく身体を動かすこと、時々プールに行って水泳をやることぐらいでしょうか…、それに、化粧品は肌が荒れるので、
口紅と香水以外はほとんど使いませんの…、親譲りの処方の素朴な自家製へチマコロンを専ら愛用していますわ…」
「かなかよいお考えですね…、他に何かサプリメントや栄養剤をお使いですか…」
な
特に使っていませんわ…、できるだけ食事で摂取するようにしています。鉄分やカルシュウム分を強化した低脂肪乳や豆乳、濃縮生トマトジュ
「
ース、納豆や豆腐その他の大豆を原料にした食材と、もろみ酢や黒酢、リンゴ酢、エクストラ バージン オリーブ オイルや茶油なども日常的に摂取
け
「っこう気を使った食生活をされているじゃありませんか…」
していますわね…」
「うでしょうかねえ…、生活習慣化しているので、特にそうしているという感じではないのですが…」
そ
体脂肪の蓄積も女性としてはほぼ理想に近い状態ですし、お肌の張りも申し分なくお若く保たれていますよ…」
「
「門の方にそういわれると、嬉しいですわね…」
専
夜は、よく眠られますか…」
「
ア
< ロマテラピー
と
> 称する処
「よくよ悩まない性格ですので、寝つきも良いですし、何があっても朝までぐっすり眠れていますわ…」
く
判りました…、何れにしても四十代はちょっとした油断が身体全体の老化を早めますのでね、健康と食餌と運動の適度なバランスを考えてこれ
「
からもこれまで通りの生活習慣をお続け下さい…、それにご主人との満ち足りた夫婦生活も大切ですよ…、その点は問題なさそうにお見受けしまし
たが」
女医とのやり取りがすむと、十五分間のサウナを皮切りに、アロマオイルを使った全身マッサージなど、一連の
「えっ、あらっ…」
千代乃は思わず頬を染めて言い淀んだ。
方が行われた。これは単なる美容マッサージではなく、 ク
< ランケの了承を得て行われる一種の テ
< ラピー つ
> まり医療なのだという。確かに、赤
外線照射の下で全裸で行われるオイルマッサージといい、その間に何度か飲まされる香草や薬草の入ったジュースとも香草茶ともつかぬ飲料といい、
普通の美容マッサージのようではなかった。佐々からは、ただ 韓「国エステ」としか聞かされていなかったが、自分自身の薬剤師としての知識に照
して、特に拒否するような要素もなかったので、云われるまま、されるままにプログラムを了えたところで、幾つかのアドバイスがあった。それは、
日常的に香草類を多く料理や飲料として摂取することだった。その中に、インドネシアやタイなどで広く使われているという聞きなれない薬草があ
42
った。帰り際にそのサンプルと次回のプログラムラムが渡された。
出迎えてくれたときと同じスタッフに見送られて室外に出ると、時間を計ったように、隣のドアから佐々も出てきた。
「あ、どうですか、すっきりしたでしょう…」
や
佐々もさっぱりした顔で云った。
千代乃は、黙って首肯いた。
その後、佐々は森林の中にひっそりと佇む割烹料亭に千代乃を誘った。出て来た料理は山菜と渓流や湖の魚と猪や山鳥の肉などを食材にした懐石
料理で、どれも美味しく料理されていた。食事中、佐々は、過密なスケジュールの研修で千代乃が疲れていると気遣ってか、仕事の話は一言も話題
にせず、河口湖畔にある「自然の森美術館」に収納されている絵画の話だとか学生時代に読んだ文学書の話だとかを能弁に語り続けて、千代乃を退
屈させまいと気を遣っているようだった。佐々の千代乃に対する言葉遣いや態度は、まるであんなことなどなかったかのような、始めてのお見合い
の相手に対するときのように、どことなくしゃっちょこ張った感じがして、千代乃は時々悪戯っぽそうな目をして笑いを噛み殺して聞いていた。こ
んなときの佐々は、 ど「ことなく世慣れない文学青年のような、子供っぽい一面を見せる…」と、千代乃は思った。
料亭を出て、車に乗り込むと、佐々は、すぐには車を出さず、千代乃の方に躙り寄って、千代乃の肩と腰を抱いて自分の方に引寄せ、無言で接吻
をした。 千代乃は、ある程度予期していたので、特に驚きもせず、佐々の接吻に身を任せた。やがて接吻は次第に激しさを増し、右手が千代乃の
くびれた腰から膝にかけて愛撫を繰り返すようになった。千代乃の感覚は、佐々の手の動きと、進入してくる佐々の舌の動きに反応し始め、あ
「はっ…」
と声を出し、膝頭が次第に弛んでいった。
佐々は、手を千代乃の膝の間に滑り込ませて、千代乃の左の腿を揉みしだくようにしながら上に滑らせ、ショーツの上から千代乃のプーベの辺り
を掌で押し包むようにして掴んだ。千代乃のデリケートゾーンは、既に濡れていた。佐々は、千代乃の舌に自分の舌を絡めて吸いながら、右手の拇
指丘と中指を使って二箇所を押えて揉むようにデリケートゾーンに振動を加えた。
あはっ…、あはっ…、
」
「
千代乃は、また声を出して、下半身をのけ反らせた。
「日は、いいんだね…」
今
それを合図に、佐々は、接吻を中断して、訊いた。
43
「こでは、いや…」
こ
千代乃派、ムードのない状態で行うその行為に抵抗を感じて答えた。
そう、それじゃ、これから真っ直ぐ温泉に行こう…、この間約束したように、勝手にアレンジさせてもらった…、行き先は箱根の強羅だ…、白
「
い濁り湯で有名な旧い和風の宿で、露天風呂付きの離れを予約してあるんだ…」
そう云いながら起き直って、車を動かした。
車は山中湖の畔を走って南に向かい、御殿場を経て乙女峠の隧道を抜け、仙石原を経て、葛折れのアップダウンの多い狭い道を下って行き、二時
間ほどで強羅に着いた。
「花心」と云い、旧い出城の城門のような壮大な門構えながら、中に入ると主屋から廊下伝いに平屋の離れが放射状に繋がっていた。通さ
宿は、
れた部屋は、前の間付きの落ち着いた和室で、南に面して開けた窓から箱根の外輪山の遠景が望め、その広縁の外に専用の露天風呂が設えてあった。
「夕食は途中で済ませてきているので、遅くなってから軽い夜食程度のものを出してもらいたい…」
部屋に案内されて挨拶に出て来た女将と部屋付きの仲居とのやり取りが済むと、佐々がそう云って」二人が出て行くと、佐々は「もう待ちきれな
い…」といった様子で忙しな気に千代乃を包み込むように抱いて頬擦りし、接吻をしながら、両手を使っての愛撫を繰り返した。その動作は次第に
テンポが速くなり、激しさを加えていった。佐々の両手は、愛撫を続けながら少しずつ千代乃の着衣を脱がせに掛かった。千代乃の股間に押し付け
られた佐々の股間のものは、既に固い大きなボールのようになっていた。ブラジャーを外したところで、佐々は身体を千代乃に密着させたまま、自
分の上着を脱ぎに掛かった。佐々の筋肉質の上半身が現れると、それを千代乃の胸に押し付けて強く抱き締め、同時に自分のズボンを脱いでブリー
フ一つになり、
一つの流れのような動作で千代乃のスカートをたくし上げてショーツの上から千代乃のプーベに怒張した股間を押し付けると同時に、
千代乃の臀や太股やくびれた腰や背中に、あるいは強く激しくあるいは柔らかく、愛撫を繰り返した。
千代乃は、高まり来る快感の中で、目を半眼に閉じて、時に軽い呻き声を発しながら、初めて自ら佐々の胸元に唇を押し付け、探り当てた佐々の
乳首を銜えて吸い、両手で佐々の腰を擦った。佐々は千代乃の臀を押し付けた両の掌に力を加えながら、腰を細かく回転させていった。
二人はしばらく首を左右に振り分けながら、激しい愛撫と接吻を繰返し、やがて二人の最後の着衣のブリーフとショーツのゴム紐の間に互いの両
指を差し込んで、それぞれ脱がせに掛かった。千代乃のショーツが下がり、佐々のブリーフが膝まで下がると、佐々の怒張した玉茎が一気に弾け出
て、千代乃の太股の間に割って入り、千代乃は馬に跨がったような姿勢になり、そのまま二人は激しく揉み合った。しばらくして、二人は一旦離れ
て、それぞれもどかしげにソックスとショートストッキングを脱いで、床に落ちたそれぞれの衣類をまとめると、佐々は、千代乃を軽々と抱き上げ
て、広縁の外に出て、露天風呂に運んだ。
44
佐々が浴槽の中で千代乃の腰に手を掛けて千代乃を前向きにさせると、千代乃のすぐ目の前には佐々の黒々とした茂みの間の巨大な三つの肉塊が
脈打ちながら乳房の間に押し付けられていた。佐々が千代乃の片足を肩の上に乗せて千代乃の股間に顔を埋めて千代乃のデリケートゾーンを唇と舌
を使ってひとしきり愛撫し、千代乃を逆向きにして浴槽の縁に足を掛けさせると、自らは千代乃の空割を舐め擦り、溢れ出る淫液を啜り、一方それ
に合わせて千代乃は逆さまになって佐々の怒張した玉茎を両手で包み、唇と舌を使って雁首を愛撫し始めた。それは千代乃にとって初めての経験で、
かわし
夫との房事では一度もなかったことだった。千代乃は、佐々の愛撫で何度も上り詰めそうになったが、その度に佐々の玉茎への愛撫に気を移してそ
れを躱した。千代乃は次第に玉茎への愛撫に積極的になり、雁首を頬張り、玉茎の裏側を指で愛撫するまでになった。
しばらくそのような愛撫を続けたあと、佐々は千代乃を抱え上げて前向きにさせ、千代乃の下腹部に接吻をしながら、溢れ出る淫水を啜った。千
代乃の下半身は空割を中心に何か別の生き物にでもなったかのように蠢き、両脚を佐々の首に絡めようとした。
浴槽の中で二人の狂おしいような愛撫が長々と続いたあと、佐々は千代乃の尻を抱え上げて自分の凛立した雁首の先に千代乃の朱門を当てがって
から、一気に千代乃を降ろした。千代乃は、 あ
「あっ…」と、声を上げて、両脚を緊張させて上体をのけ反らせ、次いで佐々に促されるまま、両腕を佐々
に首に絡ませ、両膝を立てて、佐々にしがみついた。佐々も両脚を引寄せて、踵で千代乃の尻を抱え込んで引き付け、両腕で ひ「っし…」と千代乃
を抱き締めた。
佐々の雁首の先は、千代乃の子宮口に押し付けられていた。二人は完全に密着した状態で、互いに抱き締め合いながら、しばらくじっと動かずに
接吻だけを続けた。やがて佐々は、千代乃に腰を上下に動かすように促した。初め千代乃の腰が下に沈むと、鈍い痛みのような感覚が千代乃の延髄
を貫いて走った。だが、上下動を繰り返しているうちに、その痛みの感覚は痺れるような快感に変わっていき、千代乃は両膝をわななかせ、 あ
「あ
あっあっああ…」と声を上げて、最初の絶頂に達した。その様子を眺めていて、佐々は、 き
「れいだ…」と思った。そう思うと同時に佐々のリビド
ーが一気に高まり、両腕で千代乃を抱えるようにして、中腰で上下運動を繰り返して、雁首で千代乃のGスポットを攻めた。
あ
「ああっ…、あああっ…、もうだめ~っ…、もうだめ~っ…、しぬわあっ…、しぬわあっ…」
きれいだよっ…、千代乃っ…、きれいだよっ…、千代乃っ…」
「
佐々は、無意識のうちに千代乃の耳元で叫びながら動きを加速していった。
千代乃は絹を切り裂くような声を上げてのけ反り、それと同時に佐々も一気に上り詰めて、二度三度と噴射して、二人同時に果てた。だが、佐々
は、太股と両腕で千代乃を支え続け、湯の中に千代乃を沈めることはなかった。
千代乃の内襞は、また無意識のうちに佐々の怒張した肉塊を締めつけていた。やがて、佐々は、浴槽の縁に頭をもたせ掛けて、千代乃を自分の腹
45
の上に抱え込み、千代乃の全身を両腕で愛撫し、締めつけ、顔や首や髪の毛に接吻の雨を降らせた。千代乃は、痺れるようなめくるめく快感の余韻
の中で、佐々の身体の上にぐったりとしなだれ掛かっていた。
「千代乃、凄いよ…、君のオソソは…、また、私のをしっかり締めつけているよ…、凄いっ…」
佐々は、千代乃の耳元で囁いた。
「文句なしに、君は天から与えられた私の雌型だっ…」
佐々は千代乃の耳元で続けた。
千代乃は、佐々の首筋に顔を埋めたまま、朦朧とした感覚の中で、それを聴いていた。佐々の玉茎は、根元で千代乃に締めつけられたまま、怒張
して脈動を続けていた。朦朧とした感覚の中でも、それは千代乃にもはっきりと意識されていた。やがて感覚が少し現実に戻ると、千代乃は、腕を佐々
の首に巻いて、何度も佐々に接吻を返した。二人が身体を動かす度に、佐々の柔らかな茂みが千代乃敏感な蕾を刺激して、再び千代乃を悦楽の第二
ラウンドに誘って い
( ざなって い
) るようだった。千代乃の中に挿入されている佐々の怒張した肉塊は、絶えず細かな脈動を繰り返して、千代乃の
Gスポットに心地よい振動を与えていた。その快感が次第に高まってきて、千代乃は、 は
「ああっ…」と小さく息を吐くように呻いて、下腹を一層
強く佐々の下腹に密着させ、両腕を佐々の首に巻き付けて頬を佐々の肩口に埋めた。佐々は動こうとしたが、千代乃は、 そ
「のまま…、動かないで…、
そのまま…、がいいの…」と囁くような声で佐々の耳元に云った。
「…………、こうしているだけで…、十分気持ちいいの…、」と付け加えた。佐々は、千代乃が持続する軽やかな快感を楽しんでいるのを悟り、千
代乃を一層強く抱き締めて自分に密着させた。千代乃は、目を閉じて、下唇をかるく噛むようにして、微笑んでいるような表情をしていた。
「きれいだ…、きれいだよ、千代乃のその表情…」と、佐々は千代乃の耳元で囁いて、耳朶を唇で鋏んでから、耳の穴の中に舌を差し入れて、舐
めるようにして愛撫した。ぞくっとするような快感が、千代乃の全身を貫き、「はああっ、…」と、大きな声を上げて、更に強く佐々にしがみついた。佐々
は、それを合図にしたように、膝を立てて下から突上げるようにして、小刻みに腰を上下に振動させた。千代乃は、佐々にしがみついたまま、頭を
前後に振って眉間に皴を寄せて、微笑みの表情から、更に高まり来る快感を堪えるような、険しい表情になっていった。しばらくそんな仕草が続い
たあと、
「もう…、もう…、だめっ…、あああっ、もう、だめっ…」と、細い叫び声をあげて、頭を左右に振った。それを聞くと、佐々は更に一層
激しく早い上下運動を繰返し、
「あああっ…」と叫んで、両膝を緊張させて千代乃の腰を挟み付け、一挙に上り詰めて、二人は互いに全身で締め付
け合って同時に果てた。佐々の怒張した肉塊は、二度三度と痙攣するように発射を繰り返したあとようやく静まり、二人はしばらく湯の中で折り重
なって長々と横たわった。千代乃の身体からは完全に力が抜け、俯せになって佐々の腹の上で身じろぎもせずぐったりと伸びていた。佐々のそれは、
まだ千代乃の中で蠢いていたが、少しずつ怒張を弱めていった。佐々は、千代乃が湯を吸い込まないように気遣いながら、肩から太股に湯を掛けて
優しくマッサージするように千代乃に愛撫を続けた。
46
千代乃の感覚が現実に戻ったところで、佐々はようやく千代乃から離れ、二人前後に並んで座った。千代乃のそこから精液と淫水の混じった淫液
が溢れ出て、辺りに強い栗の花の匂いが立ちこめた。佐々は、膝を立てて、千代乃を背後から抱え込むようにして、両腕で千代乃の肩から腰に愛撫
を続け、千代乃の膝を抱え上げて自分の太股に座らせて、千代乃のデリケートゾーンを掌で愛撫しながら、指を千代乃の朱門に差し入れた。千代乃
は、ぴくっと身体を緊張させて佐々の太股にしがみつき、 そ
「こは、自分で洗います…」と云った。だが千代乃のそこは緊迫して、挿入された佐々
の二本の指を締め付けてきた。
千代乃のここは、ほんとに敏感で緊迫が強い…、」と、千代乃の耳元で呟くように云った。そして、「…;これは男殺しのオソソだ…、素敵なオ
「
ソソだ…、綺麗で可愛いオソソだ…、誰にも渡さない…」と、付け加えた。しばらくそうして抱き合い、愛撫し合ったあと、立ち上がって湯を流し、
外に出てシャワーを浴びながら身体を洗い合い、部屋に戻って浴衣と丹前に着替えたところで、「お夜食の準備が出来ました…」と云いつつ、仲居
が入って来た。
二人が仲良く並んでひっきりなしに互いを慈しみ合いながら夜食を摂り了えて、もう一度湯に浸かっている間に、仲居が膳部を片づけて床を延べ
て出て行き、後は二人だけの世界になった。
今日は、これ以
佐々は左腕で千代乃の肩を引寄せて、千代乃を自分の腹の上に乗せようとした。千代乃は、佐々の胸の上に頬を載せただけで、 「
上はもう蛇足になるから…」と佐々を制した。だが、佐々の玉茎は凛立していたものの、佐々のリビドーが高まっていなかったと見え、 君
「 を腹の
上に抱いていたいだけさ…」と、千代乃と同じように既に満ち足りている口ぶりで云った。
佐々は全身で千代乃の全身の愛撫を続けた。二人の、噴き出るような情欲は、湯から上がって閨に入ってからも続いた。二人は、全裸で抱き合っ
たまま眠り、欲情の昂まりで目覚めては互いを求め合い、果てしがなかった。 翌日、 仲 居 の 声 で 目 覚 め、 急 い で 湯 に 浸 か っ て か ら 朝 餉 を 摂 り、 十
時過ぎに強羅を後にした。久方ぶりの欲情の繚乱で千代乃はかなり疲れていたが、佐々は気振りも疲れた様子がなく、千代乃がうつらうつらし掛か
るのも構わず、相変らず能弁に話し続けながら、車を走らせていた。途中、山中湖の湖岸にある湖山苑で遅い昼食をとってから、山中湖畔の道路を
ドライブ観光しつつ、佐々は、四時前に千代乃を河口湖グランドホテルの近くまで送り届けた。直接ホテルまで車を乗り付けなかったのは、佐々の
配慮だった。
佐々は、目立たない角に車を停めて、また名残惜しそうに千代乃を抱き締め、長い接吻を繰り返した。
「ゆっくり寛ぐつもりが、逆に疲れさせてしまったかも知れないな…、久しぶりだったからね…、ホテルに戻ってゆっくり休んで、また明日から
頑張って研修を続けてください…」
千代乃を労い、励ましたあと、車から降ろして、千代乃がホテルの玄関の自動ドアを抜けて中に姿を消すまで見送ってから佐々は去って行った。
47
部屋に戻ると、一息入れてから千代乃は家に電話を入れた。出たのは、あおりだった。
「お母さん…、昨日夜遅く電話したのよ…、どこに行っていたの…、怪しいっ,お母さん…」
あおりは、のっけから、詮索がましく訊いた。
「何を云ってるのっ…、あおりったら…、何をそんなに私の行動を詮索したがっているのっ…、いい加減にして頂戴っ…、お母さんは、あおりの
子供じゃあないのよっ…、それより家の留守はしっかり守れているのっ…」
千代乃は些か気を悪くして、叱り付けるような口調で云った。そこには、めくりめく佐々との性愛で自分の「女」を黙らせてきた、話すに話せな
い女の秘密の部分を隠しておきたい…と云う心理がはたらいていたことも確かだった。
「ご免なさい、お母さん…、お母さんがいつも居る筈と思っているところに居ないと、私不安になるの…、それに、お母さんに恋人が出来たみた
いに感じて、お母さんがだんだん遠くに行ってしまいそうで…、ついついお母さんの行動に余計な口出しをしたくなるの…、お母さんが離れて行っ
てしまったら、まだ私寂しい…」
あおりは悄気返ったように、半ば泣き声で初めて自分の本心を素直に話した。
「あなたの気持ちは、良く解っているわ…、だから、あなたの手の届かないところに行ってしまったりはしないことよ…、あなたが自分から離れ
て行かない限りね…、それは清香にだって同じことよ…、
それよりも、あおり…、妙に私のことに拘っていないで、もっと自分のことに一生懸命になりなさい…、勉強のことよ…、
この一週間、家の方は変わりないのっ…」
千代乃はまた母親に戻って云った。
「家の方は、別に変わりないよ…、清香姉ちゃんともうまくいってる…、
お姉ちゃんはバイトを休んで、家か図書館で勉強しているわ…、図書館には私も一緒に従いて行って勉強するようにしてるよ…
お兄ちゃんも、北海道かどっかから電話してきて、あちこちツアーして回っているって…云ってた…、
「お金無いけど元気にやってるって…」、恋人出来て一緒にボーカルやってるらしいよっ…」
「それなら安心だわ…、それから…、土曜日は、午前中で研修が終ったら、何処か息抜きの一拍の慰安旅行に連れて行ってくださるので、ホテル
に居ない可能性が多いから、何か連絡することがあったら、日曜日か平日の夕方以降に電話してきなさい…」
千代乃は、本当のところを明かせない苦しい言い訳の説明をして、電話を切った。
48
千代乃の一ヶ月の研修は、こうして、過密な研修プログラムの平日と、週末の一時のリラクゼーションと、佐々との狂おしい情交であっという間
に過ぎた。ただ、三週目の週末は、まだ妊娠の危険があったので、 体
「調が悪い…」と言い訳をして、佐々の誘いを断わり、湖畔の散歩などをする
だけで、ゆっくりホテルで過ごした。
この一ヶ月の間に、千代乃は、充実して満ち足りた女の全身から発散する色香で、一層輝きを増した。特別の化粧やドレスアップなどはしていな
いのに、皆が皆それを口に出して云った。
千代乃は、独りで入浴したあと、控えの間の大きな姿見に自分の裸の全身を映し、あちこち向きを変えながら、ポーズをとって見て、どのような
変化が起こっているのか確かめようとした。このように自分の全裸を晒して、しげしげと見るようなことも、曾ては絶えてないことだった。だから、
どのような違いが現れているのかはよく判らなかったが、全体の印象として、この前…、そう、佐々との初めての、あのめくりめく情交のあと、自
分の全裸を鏡で見たときより、いくぶんほっそりと引き締まっているものの、そこはかとない柔らかでふくよかな質感が全身に現れてきたような気
がして、千代乃はなんとはなしに納得したのだった。
最終日の4週目の土曜日も、スケジュールは午前中で終わり、事業本部で、人事部から辞令の入った封筒を渡された。電話機能だけの携帯電話と、
これからもこの本部への通行証になるIDカードはそのまま持っていて、紛失しないようにとの指示が伝えられた。分目利夫と池部智子に山根総子
の三人にホテルまで送られて、一緒に昼食をとったあと、沢山の研修資料は、宅配便で家まで送ってもらうことにして、世話になったことへの礼を
述べてそこで別れた。
「いつものように富士急ハイランド口の駅前で四時に待っている…」
千代乃がチェックアウトをしようとしているときに、佐々から携帯電話に連絡が入った。
「これから箱根の堂ケ島温泉の秘湯に行って、二人で一泊してゆっくり骨休めして、明日の夕方、家まで送って行く…、いいだろう…」
ええ…」と答え、 そ
「れじゃあ、四時に…」と云って、佐々は電話を切った。
と付け加えた。千代乃は、素直に、 「
富士急ハイランド口の駅前でハイヤーを降り、ハイヤーが走り去るのと入れ違いになるようにして、佐々の黒ずくめの車が千代乃の脇に滑るよう
に寄ってきて停まり、助手席側のドアが音もなく開いた。佐々の車は毎回違っていた。ただ、黒ずくめで、外からは中が見えないというところだけ
が同じだった。また、いつものことなのだが、佐々の車の後には、黒づくめの車が二台、間隔を一定に保って随いて来ていた。そして、目的地に着
くと、その二台の車は千代乃の気付かないうちに姿を消していた。千代乃には、それが佐々と関係があるのかどうかも判らなかった。
49
道中、例によって佐々は多弁だった。佐々は知識が豊富で、話題は様々な分野に亙っていた。千代乃は、ただ聞いているだけだったが、その知識
の幅の広さに驚かされた。また、千代乃に気を遣ってのことか、次から次へと巧みに話題を変えて、飽きさせない。そして、ユーモアとエスプリ
の利いた喋り口で、始終千代乃を笑わせた。「東京の下町育ちで、母親が花柳界の出…」というだけあって、気っ風のいい、端切れのよい 江
" 戸弁
標
< 準語
は
> 好きではない…」
で喋るので、人工語の 標
「佐々の話は堪能して
< 準語 な
> どに比べて、余程聞いていて耳にもハートにも心地よく…、人間味のある暖かさを感じ、
聞ける…」と、千代乃はいつも思う。
「あはははっ…、私も
千代乃が率直にそういう感想を述べると、吐き出すように云った。
「私にとっては、今の喋り方が根っからの喋り方で、生理的に最も自然なんだな…、日本には方言が沢山あるが、みんなもっと自分の育った地域
の自然な話し方を大切にすべきだと思うよ…、そうだろう、言葉は生活に根差した文化の表象なんだからね…、 標
< 準語 で
> は、 本 当 に お 互 い を 理
じ
> ゃあない、東京の山の手訛り
解し合えない…、と私は思っているよ…、今は少し気取って丁寧に喋っているがね…そういう君だって、 標
< 準語
の上品な言葉で喋っているじゃないか…」
「の喋り方は、この肌の柔らかさと温もりを体現して
佐々は熱っぽく続けた。そして、佐々は左手を千代乃の太股の上に置いて少し力を込め、 君
いる…」と付け加えた。
車は快調に進んで箱根の山の中に入り、最初の週末に行った強羅温泉郷に向かって下って行き、二時間余りで堂ケ島温泉郷に着いた。宿は早川の
渓谷沿いの切り立った崖の中にあった。夕闇迫る早川渓谷の対岸には、宮の下温泉郷の光がそこかしこに点滅し始めていた。通された部屋は、渓谷
沿いに渡り廊下を下って行った離れで、細い渓流の脇に湧き出す露天の秘湯が内湯のようになっていた。渓流のそこここで河鹿が鳴き、覆い被さる
ように切り立った巌と、そこにへばり付くように鬱蒼と生えている木々の濃い蒼と渓流の音が、得も云えぬ幽玄の空間を創っていた。
「どお、いいだろう…、ここなら、ゆっくりと落ち着けて、身も心もリラックスできるよ…」
「ほんとに…、幻想的だわ…、よくこういう場所をご存知でしたのね…」
「なあに、秘書らに調べさせたのさ…」
周囲の環境のせいか、部屋の空気はひんやりとして寒いくらいだった。
やがて、女将が仲居頭と連れ立ってやってきて挨拶をし、担当の仲居を紹介し、
"
50
「この部屋のお湯だけは特別で、自然のままの岩の中の湧湯ですのよ…、」と云った。
「渓流の水が流れ込んで、ちょうどいい湯加減になっていますので、手間いらずです。泉質も炭酸泉ですので、石鹸など使わなくてもお肌がすべ
すべになりますし、身体の芯まで暖まりますよ…」
と付け加えた。
「お部屋の中も冷房なしで涼しいですし、ご覧の通り回りの雰囲気も落ち着いて幽玄な空間になっていますので、皆さん「とても落ち着ける…、」
とおっしゃって、お喜びいただいています…、浴衣だけでは寒いようでしたら、担当の仲居におっしゃって下さい…、丹前羽織をご用意いたします
ので…」
仲居が茶菓子を運んできたところで、千代乃は羽織を注文した。
「私にも貰おう…」
佐々が付け加えた。
「それでは、幽玄の秘湯をごゆっくりとご堪能下さいませ…」と云って、二人は立ち去った。
暫くして入れ替わりに仲居が浴衣と羽織を持ってきた。
「先にお湯で一汗お流し下さいませ…、その間にお膳の用意をしておきますので…、
脱衣所は、奥の間のテラスから降りたところにあります…、
巌湯はその奥からお入りになれます…、
何処からも見えませんので、こんなところに…、と、皆さん驚かれます…、」
仲居が説明した。
「じゃあ、そうしようか…、千代乃さん…」
佐々が誘った。千代乃は、仲居の手前ちょっと気後れしたが、結局佐々に従った。
テラスの下の脱衣所で男も女も白い湯文字を腰に巻いて行き、岩場をつっと下った尖っ突きに巌湯はあった。
辺りの岩場から垂れ下がった樹々の枝で巧みに目隠しされていて、内側が薄暗いので外からは見えないようだった。巌湯は、頭上から張り出した
ごつごつした大きな岩盤の中にくり貫かれた天然の岩室のようになっていて、湯の湧き出し口はかなり高温のようだったが、岩盤からの湧き清水や
細い沢から流れ込む水で、中ほどは程よい湯加減になっていた。岩湯の下手は自然の流れで細い沢につながっていて、下の大きな渓流の方に流れ込
んでいた。辺りには、河鹿が盛んに鳴きさんざめていた。
51
「いや~、これはいい按配の湯だ…、千代乃さん、もっとこっちの方においでよ…」
佐々は年寄のような声を出して、満足げに云った。その言い方がおかしくて、千代乃はにッと笑って、佐々の方に身を寄せた。夜の帳が下りかか
り、下の渓流の対岸の旅館街の灯が蛍のように明滅していた。
「ここを見付けもらえてよかったな…、何だかいろんな稀少ミネラルがいっぱい溶け込んでいるようで、ちょっと浸かっているだけで、生き返え
ったような気分だ…」
佐々は盛んに腕を動かして身体中を擦りながらご満悦の態だった。千代乃も、自然に腕が動いて佐々と同じような動作をしていた。湯は炭酸泉独
特のすべすべした感触で、肌がつるつるした感じになるのが判った。
「背中を擦ってあげよう…」
佐々は千代乃の背後に回って、両手を滑らせるようにして千代乃の肩から背中へと擦った。湯に入って血の巡りが良くなってすっかり開放された
気分になったせいか、千代乃はさっきから少し大胆な気分になっていた。そして、腰を浮かせて、つっと佐々の両膝の間に身体を押し入れた。千代
乃の動作を合図にしたかのように、佐々は千代乃を背後から大きく抱き締めた。
佐々のそれは、既に硬くなっていた。佐々は、千代乃の腕や胸を愛撫するかのように優しく擦り、千代乃の湯文字の結び目を解いて、次第に腰か
ら太股へと手を下ろしてゆき、千代乃の膝を立てて、太股の内側からふくらはぎへ、そして足の先から爪先へと丁寧に擦った。
千代乃は感覚が次第に鋭敏になり、佐々の手の動きと掌の感触に恍惚となりはじめ、目を閉じて首を後に反らした。千代乃は、佐々の硬直した肉
塊の上に後ろ向きに馬乗りになっていた。
佐々の手の動きは再び上の方に移り、右手で太股の内側から千代乃の女性自身とプーベの茂みを揉みしだくように擦り、左の掌で千代の両の乳首
を交互に包み込むようにして、柔らかく揉み擦った。
千代乃の身体は、全身敏感な性感帯に変わり、佐々の両の手の刺激で千代乃の背筋を快感が走った。千代乃は、いつも自然にそうなるように、下
唇を噛んで微笑むような表情になっていた。
やがて、佐々は、千代乃の腰を浮き上がらせるようにして、千代乃の向きを変え、そのまま両腕で千代乃の両膝を抱え上げて引き付け、千代乃の
唇を吸い、しばらくして唇と舌の愛撫を首筋から胸へ、胸から腹へ、そしてプーベの茂みから千代乃の女性自身へと移していった。
」
「あああ~っ…、
52
」という気持
千代乃は、思わず細く甲高い声を出した。だが、千代乃の意識の何処かで、「上の座敷では、仲居達が夕餉の膳の支度をしている…、
ちがはたらいていた。
「あら、いけない…」
千代乃は我に返って、呟くように云った。
「大丈夫だよ、沢の流れの音や河鹿の鳴き声や何かで部屋までは聞こえやしないよ…、そんなこと気にしていたら気分が削がれて、心底リラック
スできなくなるよ…」
佐々は、その千代乃のちょっとした情感の昂ぶりの中断を咎めた。だが、佐々はすぐまた千代乃の口を吸い、千代乃の肌に触れるとも触れないと
もつかないような優しい愛撫を繰返し、千代乃の両膝の間に腕を差し入れて抱え上げ、だんだん千代乃の身体の下の方に向かって口を移していき、
ついにプーべを覆う柔毛の茂みの中の小核を捉え、唇と舌の間で転がすようにして愛撫し続けた。
千代乃の盆の窪の感覚は痺れたようになり、佐々の頭の上から覆い被さるようにしなだれかかって、腰も尻も太股も小刻みに激しく震わせて、千
代乃は絹を裂くような声を上げて悶え、切ながり、絶頂に達してそのままぐったりとなり、大きく弾む息につれて下腹部を波打たせ、ただ全身を震
わせていた。
おさね
千代乃の息遣いが少し落ち着くのを待って、佐々は、肩に担ぎ上げていた千代乃の身体を抱え降ろして、両腕を千代乃の膝の間にいれたまま、怒
張する自分の太棹で千代乃の谷間の襞の間を擦り始めた。佐々の雁首は、いわゆる「畉摩羅」で、大きく鰓が張り出していて、怒張して芯が硬くて
も鰓は柔らかかった。その柔らかい雁首の鈴口の辺りの鰓で火床口から小核に向かって擦られる感覚で、ようやく最初の絶頂から解放されかかって
いた千代乃の情感は再び高まっていった。
佐々は、雁首で千代乃の谷間の襞を擦り上げ擦り下げ、火床口の周りを円を描くように擦りながら、雁首の先を浅く火床口の中に挿し入れて、そ
の周辺をぐじった。これまでにない快感に千代乃の脳幹は痺れ、佐々の 腕にしがみついて「しぬうっ…、」と細く長い声を上げて上体をのけぞらせた。
佐々は、雁首を更に深く挿入して、千代乃の泣き所をを小刻みに攻めた。そこは既に膨らんでいて狭くなっており、佐々の雁首の前後の動きに応
じて、その鰓で微妙に擦られて、更に強い快感を千代乃に与えた。
千代乃は、もう堪えられなくなって、自分から腰を押し出して佐々に全身でしがみついていった。それと同時に、佐々の玉茎は、ずぶりと千代乃
の窒深く差し込まれ、佐々の鈴口が千代乃の子宮口に突き当たり、強い衝撃を千代乃に与えた。千代乃の子宮口が膨らんで前に突き出していて、周
囲に浅い溝を成しており、そこから盛んに淫液があふれ出していた。佐々は、少し腰を引いて腰を回しながら、その溝の周りを雁首でなぞるように
して擦った。佐々の雁首の鰓の複雑な動きに呼応するかのように、千代乃は無意識のうちに腰をくねらせていた。
佐々の腰の廻転が早まるに連れて千代乃の快感は極限に達し、千代乃は、全身を震わせて佐々にしがみついていった。
53
「あああっ…、もうだめっ…、もうだめ…、しぬわっ…、しぬわっ…、あなたっ、もっときつく掴まえていてえっ…、何処かへ飛んで行くわっ…、
だめっえ~っ…、だめっ…、来て…、来てえっ…」
千代乃は呻くように叫んで、全身で佐々にしなだれかかって果てた。その千代乃をきつく抱き絞めたまま、佐々は、浅腰を使って千代乃の火床口
近くの泣き処を攻め、追い討ちを掛けるように奥を攻め、ついに自らも絶頂の極に達して、どっと発射して、千代乃の腰を両の踵で締め付けた。千
代乃の腰も尻も太股も、追い討ちをかけられた快感で打ち震えていた。
二人はしばらくそのままの姿勢でじっと抱き締め合っていたが、やがて佐々は千代乃の全身を撫で擦り始め、千代乃の顔や胸や腹に接吻の雨を降
り注いで、
「とっても良かったよ…」と、千代乃の耳元で何度も言い続けた。
千代乃の身体の中で一旦萎えかかった佐々の玉茎は、再び勢いを取り戻し、強く怒張して脈動を始めた。千代乃は、佐々の愛撫と接吻の中で、今
までにない強い快感の余韻に浸りながら、一方で、佐々の男自身の脈動を感じ取っていた。やがて千代乃の中で目覚めた「女自身」の欲情が昂ぶり
始め、佐々を求めたいという飽くなき衝動の昂ぶるのを覚えて、佐々の玉茎の脈動の蠢きに応じるように、無意識のうちに腰をくねらせながら前後
に動かしていた。
ひ と
「この人も見違
佐々は、千代乃を抱えたまま、もっと渓流の水が多く流れ込む方に身体を寄せて行き、千代乃の腰の動きをじっと味わいながら、
えるほど女として進化した…」と、感じていた。
性の眠っていた女の感性を見抜いて掘り起こし、明るみに曳き出したのは、満足すべきことだ…」
「この女
。
佐々は思っていたひ
と
ひ と
「もう、この ps9
女性は、俺からは離れられない…、この女人は、俺専用の雌型だ…」
佐々は固く信じた。そして、佐々は、座ったまま抱き合いながら、千代乃の腰の動きに呼応して腰を前後に動かし始め、次第に速度を速めていった。
千代乃は、佐々の肩口に顔を埋めて首筋に吸い付いて、佐々の腰の動きに合わせて腰の動きを早めていき、次第に高まり行く快感に身悶えし、絹
を裂くような声で啜り泣くが如くに呻き、今度は、佐々も千代乃の声に併せて快感を昂ぶらせ、やがて二人同時に絶頂に達して果て、一つに溶け合
えとばかりに、座って結合したままひっしと抱き締め合った。
二人はようやく満ち足りた思いで離れ、千代乃は、下流に向かって窒を洗浄した。と、何やら小魚が弾けるような音が渓流の岩場で跳ね返り始め、
しばらく続いた。
「いやだわ…、何なんでしょう…」
千代乃は薄気味悪がって佐々にしがみついた。
54
かじか
「あはははっ…、流れ出て来た精液の混じった淫水を、鰍などの小魚達が奪い合って食べてるんだろう…、滅多にないご馳走なのかも知れないよ…」
佐々は推量して云った。
「まあっ…」
思いもかけない説明に、千代乃はあきれて顔を赤らめたが、それは暗闇の中で佐々の目には映らなかった。
その後千代乃は、佐々の玉茎を両掌でおし包むようにして擦ってぬめりをとってきれいにし、再び佐々の両脚の中に尻から身体をすっぽり入れて、
二人並んで冷たい渓流の水の中で身体を冷やした。目の前には蛍が光を点滅させながら飛び交い、その光景は、遠く眼下の渓流の彼方まで続いていた。
この瞬間、千代乃の念頭からは、家のことも家族のこともすっかり消えていた。ただあるのは、知りえなかったはずの至福の時を味わうことがで
きた、満ち足りた幸福感だけだった。
「お食事の用意ができていますが、お客様、そんなに長湯されて大丈夫ですかあ…」
あまりに長い時間が経ったとみえて、上の方から仲居が声をかけてきた。
「ああ、済みません、あまりにいい湯だし、蛍の飛び交う夜景もきれいだしするので、つい長湯をしてしまいました。今すぐ上がります…」
佐々が答えた。
「この露天湯は、自然の要塞のようになっていて、何方様もすっかり開放されたご気分になられるようで、良く長湯されて十分に堪能されるよう
でございますよ…」
部屋に戻ると、佐々の後から見え隠れに俯き加減に恥ずかしげに入ってきた千代乃の様子や、仄かに残る淫液の移り香からすぐに気付いたと見え
て、仲居は、上気して潤んだ千代乃の目を意味深な目つきで覗き込みながら云った。
「いやあ~、久しぶりに夫婦揃ってリラックスさせてもらい、いい湯を堪能することができました…、命の洗濯とは、このことですなあ…」
佐々は落ち着き払って、仲居の言葉をはぐらかすようにして応じた。
二人は、ゆっくりと時間を掛けて夕食をとった。「給仕はいいから…」と云って、仲居を遠ざけ、取り留めのない会話をしながら、二人だけの文
字通り「水入らず」の食事の時間を楽しんだ。食膳一杯に用意された料理は、山菜とキノコの精進揚げを中心に、イワナやヤマメの塩焼きに、鯉の
洗いや鯉こくなど、いずれも新鮮で生きの良いものばかりだった。酒も「酔心」と云う普段聞き慣れない地酒の銘柄の生酒で、辛口ながらコクのあ
る味の良い酒だった。
55
夕食が終わり、仲居が奥の間に寝床を設える間に、二人は、もう一度岩風呂に浸かりに行った。湯には湯文字を着けずに入り、渓流の流れの多く
入り込むぬるい湯加減の手ごろな岩場に場所を決めると、佐々は千代乃を後ろから包み込むように抱きかかえて座り、千代乃の身体を優しく擦りな
かじか
がら、飛び交う蛍の光の点滅と眼下に遠くきらめく温泉場の光の夜景を二人そろって飽きることなく眺め続けた。時折佐々の太棹が千代乃の中で怒
張を強めて激しく脈動するのを千代乃は感じていた。あたりに聞こえるのは、ただ河鹿のさんざめく恋の唱以外には何もなかった。
まどろ
やがて佐々は、千代乃の両脚を抱えて、交接したまま千代乃の身体の向きを変え、二人は「居茶臼」の形で向き合って、互いに腰を突き出して互
いの顎を互いの肩口に埋め、互いの踵で互いの仙骨のあたりを締め付け合って、長いこと身じろぎもせずに抱き合っていた。そして二人は、そのま
まいつしか微睡んだ。
どれほど時間が経ったか、佐々は肩の辺りの冷えを感じて目覚め、二人が岩風呂の中で一つのダルマのようになって抱き合っていることに気付い
た。
「あら…、眠ってしまっていたのね…、ああ~、身も心も寛いで、ほんとにいい気分だわ…」
佐々が千代乃の腰のくびれの辺りを手の指で擦ると、千代乃も目覚めて、呟くように云った。
千代乃の身体の中で佐々のそれは、膨らみをさらに増して、しきりと脈動を繰り返していた。その蠢きに応じるように、千代乃の内襞が佐々の玉
茎を押し包むようにして、絞めたり緩めたりしていた。そして二人はどちらからともなく腰を前後に突き動かし始め、次第にその速度を速めていっ
た。佐々は、腰を回すようにして、さっき発見したばかり千代乃の新たな泣き所を雁首の張り出した鰓で擦り回した。
「あああ~…、あああっ…、もうだめっ…、だめっ…、しぬわっ…、しぬ、しぬう~っ…、助けてえ~っ…、」
千代乃の快感が一気に高まって、千代乃は、絹を裂くような声を上げて、上体を後ろにのけ反らせた。なおも佐々が責め続けると、千代乃は上体
を前後に揺すり、尻と腰を激しく震わせて、佐々に一層激しく抱きついた。その千代乃の声に呼応して、佐々も気を高めていき、千代乃が佐々にし
なだれかかるのと同時に一気に精を爆発させ、二度、三度と放出を繰り返し、二人は息も絶え絶えに互いの肩口にうなじを埋めてひしっと抱き絞め
合った。
しばらくして呼吸が整うと、互いの身体を労るように擦り合い、項や首筋や耳たぶに接吻をし合い、互いの唇を吸い合った。辺りに聞こえるのは、
ただ河鹿の恋の唱だけだった。
千代乃は、これほどまでに激しく欲情の赴くままに性愛の交歓に身を任せたことはなかった。二人は、離れることなくいつまでも抱き合ったまま、
二度、三度と互いを求め合い、疲れると抱き合ったまま微睡み、目覚めると再び互いを求め合った。夜更けて二人がようやく抱擁を解いて離れる頃
になると、すでに臭いを嗅ぎつけて寄って来ていたのか、鰍などの小魚が先を争って千代乃の窒口から流れ出る淫液を貪り食んだ。それは千代乃に
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は不思議な光景だった。
多数の小魚が身を翻して思わずありついた「おいしい」餌を食みながら千代乃の内腿に触れるたびに、千代乃は、「ああっ…」とか「いやっ…」
などと叫んで佐々の首にしがみついた。中には、千代乃の火床口の中に、頭から押し入ろうとするものさえあった。佐々は、そんな千代乃の怯えた
様子を眺めて微笑みながら、長い指で千代乃の膣の中から淫液をきれいに洗い出したやるのだった。千代乃は、そんな佐々にしなだれかかって、佐々
の成すがままに身を任せきっていた。
二人が部屋に戻ったのは、すでに一時を回っていた。部屋に戻ると内風呂で身体を清めてから、二人は一糸纏わず重なり合って綿のようになって
眠りこけた。
翌朝、仲居の声で目覚めた千代乃と佐々は、全裸で抱き合って眠っていたことに気付いて、慌てて浴衣を羽織って、手水を使って前の間に出て仲
居らと挨拶を交わし、
「よくお休みになれましたか…」と云う問いに、千代乃は、
「夕食後またすっかり長湯をしてしまって…、声を掛けられるまで、
ぐっすり眠りこけていましたわ…、ほんとにすっかりリラックスさせていただきました…」と、気取られないように答えた。
帰りさに、千代乃は、女将を初め仲居たちの見送りに応えて、岩風呂が殊の外気に入ったこと、料理や仲居たちの歓待を褒め称え、「機会があっ
たらまた寄せてもらいたい…」と、偽りのない感想を述べた。
佐々は、来たときは車を宿の者に預けたのに、帰りは、千代乃が女将たちと挨拶を交わしている間に、自ら車をガレージから乗り出して来た。
千代乃は、佐々の運転する車が、河口湖から乗ってきた車と違っていることに気付かなかった。車はいつものように全面のガラスが暗視コーティ
ングされていた。そして、佐々が宿の私道から出ると、佐々の車と相前後して全面黒ずくめの車が一台ずつ付かず離れず随走していたことも、千代
乃は知る由もなかった。
*******
車は、堂ケ島温泉郷を出ると、山崎インターチェンジで箱根新道に入り、さらに小田原厚木道路に入った後、厚木インターチェンジで東名高速道
路に乗って、一路東京へ向かった。途中、千代乃のために厚木インターで小休止を取った。千代乃は、用を足したあと初めて現実の世界に戻って、
家に電話を入れた。が、誰も応答しないので留守番電話に帰宅の途中だと云うことを吹き込んでおいた。千代乃の用が済むと、佐々は一気に東京へ
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向かった。
「千代乃さん、お腹が空いたでしょうけど、高速を抜けるまで我慢してください…、昼食は、砧公園の近くでしましょう…」
佐々はしばらく走ってから云った。
「朝が遅かったので、それほど空いてもいませんわ…、どうぞお気遣いなく…」
千代乃が応じた。
脇に乗っていたのでは、それほどにも思わなかったが、佐々は車を猛スピードで走らせていた。佐々は時々、誰かとモバイルフォンで交信しなが
ら運転しているようだった。千代乃は、佐々の車の前後に随走する車には気付いていないので、それが誰なのかは分からなかったが、気に留めもし
なかった。
厚木インターから小一時間も走らない内に車は砧総合グラウンドの上で多摩川を渡って、左手に砧公園を見ながらしばらく進んで用賀の出口で一
般道路に抜け、Uターンしてしばらく走って砧公園の近くの林の中にある瀟洒なフランス レストランに千代乃を案内した。
レストランの中は、濃いワインレッドを基調にした落ち着いた意匠で統一した内装が施されていて、奥の裏庭に面した隅で淡いベージュのサテン
か何かの透けたドレスを纏った女性ピアニストが、ショパンの小曲をメドレーで生演奏していた。店内はさほど混んではいなかったが、それでも六
組ぐらいの客が、思い思いに陣取って、雅な手つきで食事をとっていた。中に入ると、これも濃いワインレッドのお仕着せの制服制帽を着けた接客
係が寄ってきて、佐々の名前を聞いて、裏庭に面した左奥の席に二人を案内した。すぐに別の給仕がワインメニュウを持ってきて、ワインを勧めた
が、佐々は「車を運転するから…」と云って断り、千代乃にだけ勧めた。だが、独りでワインを飲むのも気が引けたので千代乃も断り、二人そろっ
て生ジュースを注文した。
佐々は、女性がこのような雰囲気の店で食事をするのを好むと思うのか、千代乃をよくあちこちの落ち着いたこじんまりしたレストランに案内し
た。 佐々はいつものように食事中は多弁になり、千代乃の知らない世界での経験や知識を面白おかしく披瀝して、よく千代乃を笑わせ、会話に引
き入れ、決して飽きさせることがなかった。
二時間ほど掛けて遅い昼食が終わると、後はここからそう遠くない千代乃の自宅に千代乃を送り届けるだけだった。
千代乃の自宅は、自由が丘にあったが、名にしおう高級邸宅街ではなく、それに向かう商店街の外れの住宅街だった。車は、砧公園を出ると、再
び用賀に出て、環状八号線を多摩川沿いに走り、ものの三十分もかからずに千代乃の自宅前に着いた。
吻をしてから、「昨日渡された書類の中に
くちづけ
千代乃の家の少し手前で車を止めると、佐々は、いつものように千代乃の身体を引き寄せると、長い接
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は辞令が入っていて、新たな職場が指定されているが、明日はとりあえずこれまでの店に出勤してください…、」と云った。
うかつでしたわ…、
今日の夕方の時間指定で宅配便で送ったスーツケースに入れてしまって、
私、
まだその辞令に目を通していませんわ…」
「あら…、
と、千代乃は狼狽えた口調で言った。
「後で荷物を受け取ってから確かめればいいさ…、店は今度新しくできた砧店になるはずだよ…、明日十時ごろ私がいつもの店に行って、砧店の
方に案内して、そこのスタッフに紹介します…、昨日、今日と大分疲れたろうから、ゆっくり休んで、心機一転元気に新らしい職務に就いてくださ
い…、大いに期待しています…、それでは、今日はこれで…、」
、佐々は、助手席のドアを開けて、千代乃を見送り、千代乃が玄関に入って姿が消えると、静かに走り去って行った。
「お母さん、お帰りなさいっ~」と云いながら、あおりに続いて清香が飛び出してきた。そして、短めにカットした髪を
千代乃が玄関に入ると、
こざっぱりとまとめ、
ローズのアロマの香りを漂わせて入って来た母親の姿を見て、二人とも唖然とした様子で目を見開き、
口元を開いて立ち竦んだ。
「どうしたのよ…、二人とも…、何をそんなにびっくりしてるの…」
と云いながら、千代乃は二人の肩を抱きかかえながら奥に入って行った。あおりは、すぐさま千代乃の腕に顔を埋めて匂いを嗅いだ。
「いつものお母さんの匂いじゃなあ~い…」
乃はそれを許さず、さらに腕に力を込めてあおりを胸元に抱き寄せた。 と云って、母親の腕を振り払おうとした。だが千代
ひと
たった一ヶ月見ない間に別の女になったとでも云うの…、今日はずっと車に乗り詰めだったから、
埃っぽいんだわ…、きっと…」
「何を云ってるの…、
千代乃はあおりの注意を逸らそうとするかのように云った。
「………」
リビングに入ると、あおりも清香もただ押し黙って、千代乃を遠目で見るように見つめていた。
「どうしたのよ…、二人とも…、私の人が変わったとでも云いたいの…」
千代乃は二人の反応の仕方に戸惑いながら云った。
「うん、お母さん変わった…、前よりずっと綺麗になった…、キャリアウーマンと云うより、女優さんみたい…」
清香が云った。
「何云ってるの…、うふふ…、そんなお世辞言っても、たいしたものは何もでないわよ…、スーツケース届いたでしょう…」
千代乃は二人の関心を逸らそうとした。
「……まだ届いてな~い…、お母さん、恋人できたでしょう…、前よりももっと女のフェロモンぷんぷん撒き散らしているもの…」
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あおりは執拗に話題を変えようとしなかった。
「吉行千代乃様、クロネコ便です、ご本人様からのお荷物二個口をお届けに上がりました…」
そこへ玄関のチャイムが鳴り、
インターフォンの声がした。
「はーい…」と声を掛けて、玄関のドアを開けスーツケース二個を受け取って印を押し、「ご苦労さま~っ…」と、配達員を送り出してドアのロッ
クを掛け、
スーツケースをリビングに引き入れた。 「あおり、すまないけど、その小さい方のスーツケースを、私の部屋に入れておいてちょうだい…、
中は私の身の回り品ばかりだから…」
大きいほうのスーツケースを開けながら、あおりに云った。
大きい方のスーツケースには、研修の書類やら資料やら、参考書やらがぎっしり入っていて、その中に辞令の入った書類入れが無造作に入れてあ
った。それらをテーブルの上に積み上げると、後は、二人の娘と息子らへのお土産の袋が出てた。
「さあ…、これはみんな、あなた達へのお土産よ…、名前を書いたタグが貼ってあるから、それぞれ自分で取りなさい…、お兄ちゃんの分は、後
で電話して、取りに来るように云うわ…」
「これごらんなさい…、こんなにぎっしり詰まった盛り沢山の内容を一ヶ月で頭に詰め込まされてきたのよ…、分かるでしょ…、容易なことでは
ないって…、おまけに、週に一回アロマテラピーの実体験講習まであったわ…、それですっかり垢抜けたのかもね…」
千代乃は事実を少し曲げて話した。それでもあおりは、まだ納得しきれていないような訝しげな目で千代乃を見詰めていた。
「うわ~っ、たいへん…、私、明日から新しいお店の店長さんになるんだわっ…」
辞令を開いて目を通してから、千代乃は素っ頓狂な声を出して云った。
二人の娘たちは、その声に翔んで来て千代乃の肩越しに首を突き出して一緒にその辞令に目を落した。
「お母さん、すごいっ…、やったじゃん…、これが一ヶ月の研修の成果なのね…、やっぱりお母さん頑張ったんだあ…」
二人とも素直に喜んで千代乃の肩に抱き付いて、千代乃の頬にキッスの雨を降らした。
「……というかあ…、
初めからそう仕組まれてあって、それが目的でお母さんが研修を受けさせられたんじゃあない…、
絶対にそうだっ…、お母さん、
誰か会社の偉いさんに好かれてるんだっ…、絶対間違いないっ…、よお~し、お母さんのフェロモンぷんぷんの原因、必ず突き止めてやるぞお~っ」
あおりは、あくまでしらっとした目で千代乃を見続けていた。
「いつまでもバカなことに拘ってるんじゃないのよ、あおり…、そんな暇があったら、自分のことにもっと一生懸命になりなさい…、前にも電話
で話したでしょう…、後で、無駄なことした…と、悔やまないようにね…」
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窘めては見たものの、千代乃は内心忸怩たる思いを禁じえなかった。
「ところで、今日は、お夕飯はあなた達が作ってくれるんでしょう…、私はこれから書類の山を整理した後、シャワーを浴びて旅の汗を流してく
るから、その間にお願いね…、正直云って、ようやく疲れが出てきたわ…」
しといて…、お母さん…、私が普段磨いた腕によりをかけちゃうから…」
「任
さやか
清
香が自信あり気に云って、キッチンに立って行った。
「あおりは、手伝わなくていいから、お母さんの手伝いをして、その後一緒にぶうぶに入れてもらいなさいっ…」
いったん閉めたキッチンのドアから顔を覗かせて、云って、消えた。
「また、云ったなあ~っ…」
あおりは、拳を振り上げるまねだけして、後は追わず、かつて秀造が使っていた書斎に千代乃が書類を運び込んで整理するのを手伝い、浴室で千
代乃と一緒にシャワーを浴びた。
「ねえ、お母さん…、私もお母さんのようにいい匂いがするう…」
シャワーを浴びながら、あおりはしきりに千代乃の腋の下や首回りの匂いをかぎ回りながら、訊いた。
「あなたの方が、新鮮で若々しく甘い香りがするわ…」千代乃は、少し戸惑ったが、あおりの乙女らしい新鮮な果実のような匂いを認めて答えた。
「そうなのお…、自分ではよく分からないけど…、体育の後なんか、着替えをするとき、匂いのいい人と、そうでない人がいるでしょう…、なぜ
かなあ…、と思って…、お母さんは、もう歳なのに、ずいぶんいい匂いがするでしょう…、私も大人になって、お母さんぐらいになっても、お母さ
んのようにいい匂いでいられるのかなあ…」
「人の身体の臭いは、生まれつきの体質よ…、大抵の人は、汗腺だけしかなくて、汗の臭いだけど、中には、汗腺の脇に臭線と云う分泌腺があって、
そこから微量のホルモンや匂いの物質が出てくる人がいるのよ…、腋臭と云うのは、腋の下の臭線から出てくる分泌液の臭いなのよ…、その匂いが
甘い香りの人もいるし、中には我慢できないほどひどくきつい臭いの人もいるのよ…、甘い香りの人も、若くて成熟した年ごろの内だけで、だんだ
ん香りが薄れてなくなって行くか、悪い匂いに変わって行くのよ…、だから私もしょっちゅう気を遣って、アロマ湯に浸かったりして、悪い臭いを
消すように努力しているのよ…、臭いがひどい人は、あまりお風呂に入らないで、臭線や汗線の周りに細菌が繁殖して、腐敗臭が強くなっている場
合が多いのよ…、だからいつもお風呂に入ったり、シャワーを浴びたりして、腋の下や、下のデリケートゾーンの周りを絶えず清潔に保っている必
要があるのよ…、あなたは、まだ大人の女になりきっていないから良くは分からないけど、私似だから、心がけさえ良ければ、私ぐらいの歳になっ
ても、いい匂いでいられるかも知れないわよ…」
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長々と説明してから、千代乃は、あおりの肩を抱き寄せて首筋に顔を押し付けた。
「あなたは、まだ少女らしい清潔で甘い香りがするわ…、今から、清潔に心がけてこの匂いを大切にしなさい…」
千代乃は諭すようにいった。
千代乃はサテンの薄いスリップを着けて、裾にフレアの掛かったゆったりした薄いベージュのワンピースを着て、あおりにも似たようなものを着
せて二人でダイニングに降りて行くと、千代乃の成熟した女の色香が清香の脳幹を擽って、 清香は思わず母親の姿に見とれ、「お母さん、きれ~え
…、
」と云った。
「あおりにまで、お揃いの格好させて…、ずいぶん差をつけてくれるなあ…、しゃくだから、私もシャワー浴びて来ようっと…、それまで、お食事は、
お預けっ…」
清香はそう云いながらキッチンを飛び出して二階に上がって行った。
それを見て、妹のあおりや、母親の千代乃とも「女」を張り合おうとする清香の心の動きを感じて、千代乃は思わず苦笑した。二人の娘たちは、
肉体的にも精神的にももう確実に「女」になろうとしているのだと思った。
それから十五分ほどして、二人とそっくりおんなじ格好をしておりてきた清香を見て、千代乃は思わず吹き出してしまった。
「何がおかしいのよお…、お母さん…」
清香は些かむっとしたような表情をして、抗議するように云った。
「ごめんなさい、笑って気を悪くさせたりして…、でもね、あなたも、あおりと同じように私と一緒にお風呂に入りたかったんだ…って、あなた
の気持ちが分かって、お母さん、嬉しかったのよ…」
そう云って、千代乃は清香の側に寄って行き清香の肩を抱きしめて、清香の頭に接吻をした。清香は、急にしおらしくなって、千代乃の乳房の脇
に顔を埋めて、肩を震わせて泣きじゃくっていた。
「この子も、日ごろは強がり言って、肩ひじ張っているけど、まだまだあおりとおんなじで、母親の私が時々抱きしめてやらなければいけないん
だわ…」
千代乃は二人がまだ完全に自分から離れ切っていないことを内心喜んだ。
「えぇ~んだ…、お姉ちゃんだって、まだお母さんのパイパイが吸いたいんじゃん…、人のこといつもそう云うくせにい~ぃ…」
清香の様子を見て、あおりが清香にやり返した。
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「私は少しワインをいただくけど、あなた達はジュースね…」
みんなが食卓に着くと、千代乃が云った。
「私もワインが呑みたいな…」
「私も…」
「だめだめっ…、二人ともまだ未成年なんだから…」
「でもね、お姉ちゃん、時々缶ビールかなんか買ってきて呑んでるんだよ…」
「こらあ~っ、人のこと親にちくったなあ…、許さん…」
清香はあおりをねめつけて、テーブルの下で、あおりの脚を蹴った。
「目には目、脚には脚だっ…」
あおりがやり返す。
「もお~、二人ともおよしなさい…、お食事がまずくなるでしょう…、それに、何ですっ、清香、そんなちんぴらが使うような言葉は使うもんじ
ゃあありませんよっ、せっかく姿形が美しく生まれてきても、台無しでしょう…」
「ほ~ら、お母さんのお小言が始まった…」
あおりが不満そうに云った。
「ただのお小言ではありません…、美しさは姿形だけで表すものではありませんよっ…、態度や物腰、言葉遣い、そういうものを全部合わせて表
わされるのですよっ…、
あなた達がそういう品のない言葉を良いと思って使うのなら、どうぞお使いなさい…、でも私の前では使わないでちょうだい…、
自分の可愛くて美しい娘たちが、そんな下品な言葉を使うのを聞いたら、私の心が痛んで傷つきますから…」
千代乃は真剣な眼差しで二人に向かって強い語調で云った。
「ごめんなさい、お母さんを傷つけて…、これから気を付けます…」
清香は素直に謝った。
「さあ…、それじゃあ、お食事にしましょう…、食べ終わったら少し話したいことがありますから、聞いて、意見を言ってちょうだい…」
食事が終わって、グレープフルーツのデザートと紅茶が出たところで、千代乃が話し始めた。
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「さっき、あなた達も見たように、私は、明日から砧に出来た新しいドラッグストアの店長として、責任の重い仕事に就くことになったわ…、忙
しくて、時間も不規則になると思うわ…、家の管理もままならなくなるかも知れないわ…、お手伝いさんを頼むということも考えてみたけど、誰も
いないところでお手伝いさんを頼むのも不都合な気がするでしょう…、そこで、二人にもう一度この家に戻ってきてもらいたいと思うのだけど…、
どうかしらねえ…、
」
「私は、来年どこの大学に受かるかによっては、家を出て寮に入るか、一人暮らしをしなければならなくなるかも知れないけど、それまでは、戻
ってきてもいいわよ…、
」
「私も、お姉ちゃんが戻ってくるのなら、戻ってくるわ…、ストーカーみたいな連中が付き纏って来るし、不安だから…、たった一人で生活する
のはいや…」
「それにお母さんのパイパイまだ吸っていたいしね…」
清香が混ぜ返した。
「お姉ちゃんだってそうなくせに…、さっき見ちゃったんだから~…」
あおりが遣り返す。
「ほれ、また始まった…、寄ると触るとこれだから…、これだけが頭痛の種だわ…、もう少しお互いを労り合えないの…、嫌みばかり云い合っても、
傷つくだけでしょうに…、
それじゃあ、とりあえずは二人ともいいのね…、勝手ばかり云うようだけど、清香も家から通えるような範囲の大学に受かってくれると助かるん
だけどねえ…、それでどこの大学の何学部を狙っているの…」
「それはまだ発表の段階ではありませえ~ん…」
「学費や入学金などのこともあるから、早く決めてちょうだい…、落ちたら浪人したって構わないから…」
「お母さんに迷惑はかけません…、浪人なんてカッコ悪いから、落ちないよう一生懸命励んでいます…、最終的にここっ…と決まったら話すわ…、
必ず受かるところをたった一ヶ所しか受けませんから…」
「自分で受かると思っても、落ちることもあるでしょう…、」
「その時は、お勤めします…、コンピュータの操作はお手のものだし、英語はトーフェル七百三十点だし、英検準一級をもう直ぐ取るから…、こ
の美貌と容姿なら勤め先は選り取り見取りよ…」
「お姉ちゃんって…、すごい自信家でしょう…、嫌みなくらい…、」
「清香って、そんなに英語の実力あるの…、知らなかったわ…」
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「能ある鷹は爪を隠す…、知識や技能をひけらかしたりしませんざあ~ますわあ…」
「分かったわ、あなたがそれなりの覚悟と努力をしているようだから、もう何も言いません、決まったら教えてちょうだい…、それじゃ今夜から
ここにいてちょうだい…、荷物は、週末にでも、まとめて運んでもらったらいいわ…、とりあえず必要なものがあれば、取りに行けばいいし…、管
理人さんと不動産屋さんには前もって引き払うことを云っておいた方がいいわよ…」
結局、千代乃自身の一人暮らしの不安も解消できたし、まずは一安心ついた。
********
翌日千代乃が出勤すると、すでに店長に話が通じていて、他のスタッフにも知れていた。みんな、羨望と嫉みと、裏があるんだろうと勘ぐる目と
で千代乃を迎えながらも、表向きは、異例の抜擢を喜び祝う言葉を口々に云った。
「吉行千代乃さんの抜擢研修の成績がきわめて良かったので、試験官全員の推挙を得て、急遽ちょうど完成したばかりの砧店の店長に抜擢されま
した…、わが社には、このような抜擢制度がありますので、皆さんも日常の研鑽おさおさ怠りなく、勤務に励んでください…」
親会社の山瀬産業の社長の佐々が幹部二人をつれてやってきて、千代乃にはいささか面映ゆすぎるような挨拶をした。
それがすむと、今までの同僚たちと思い思いに挨拶を交わして、佐々ら一行に伴われて、「ドラッグストア砧」に向かった。
「ドラッグストア砧」では、十月一日を期して開店する予定で開店準備中で、佐々を初め営業部長らの陣頭指揮で、まだ店のレイアウトなど細か
な手直しが行われているところだった。店の計画書では、最終的に店長以下総勢五十名規模のスタッフになる予定だったが、他の店舗からの応援組
を含めて、五~六名の薬剤師資格保持者の幹部職員と同程度の新規採用の一般店員だけが集まっていた。
社長を初めとする経営幹部一行に伴われて入ってきた千代乃を見て、みんな一斉にどよめいた。佐々は、そのどよめきは意に介さず、全員の前に
立って、新しくこの店の店長になったと云って、千代乃を紹介した。そして、自由が丘店の時と同じように、抜擢された理由と、抜擢制度があり、
山瀬産業薬事事業部のチェーン店網が、毎年五−六店舗づつふえているので、努力の報われるチャンスがあることを改めて話した。
「十月一日の開店を期して、吉行店長の下に力を結集して良い成績を上げていただけるよう期待します…、なお吉行店長は、たいへんユニークな
発想の持ち主なので、きっと面白い企画の販売方針を打ち出して来ると思いますので、皆さんもそれを良く理解して、営業実績の向上に総力を結集
65
してください…」と付け加えて、千代乃と交代した。
千代乃は、そのほんわかと人を包み込むような優しげな姿で佇んで、にこやかに微笑みながら、何も言わずに一渡り全員の顔と名札を照合するよ
うに見終わってから、やおら改めて自己紹介から口を切り出した。
「私が、ただいま佐々社長からご紹介のありました通り、この「ドラッグストア砧」の初代店長を務めさせていただきます吉行千代乃でございま
す、思い掛けない抜擢を賜って、私自身もまだ何から手を付けてよいやら…、白紙状態ですが、幸いお店の方も出店準備中で、云わば白紙状態です
し、その上経験豊かな幹部スタッフも配属されて見えていらっしゃいますので、その方々の助言も得て、開店と同時に、追々エンジンの回転をあげ
て参りたいと存じております…、まずは皆様、よろしくご協力お願いいたします…、
振りではいかに
なりふり
仕事の方は、明日からと云わず、ただ今から早速、皆様とご一緒に開店準備の仕事に加えさせていただきます…、その前にこの形
も不都合ですので、ちょっと失礼して、動きやすい服装に着替えて参ります…」と言って、佐々たちの方に目礼した。
スタッフの中から、店長代行 沢田恭子と名札のついた年嵩の女店員が進み出て、「店長のお部屋にご案内いたします…」と云った。
着替えて出てきた千代乃を見て、また一同がどよめいた。黒地に脚と腕にそれぞれ二本の赤のストライプの入った、バレーボール選手の着るよう
なジャージーを着て、髪の毛をベージュのネッカチーフで包んで、簪のようなピンで留めただけの、
「野暮ったい…」と思う格好のつもりだったので、
そのような反応に、千代乃が逆に驚いた。ジャージーは、開店準備の「汚れ作業」予想して、予め用意してきたものだった。
「店長は、とってもお洒落え~っ…、」
新入りの二十歳前ぐらいの女店員が云った。
「いや、吉行さんは、さすがにどんな格好をしても様になりますなあ…」
営業部長が云ったが、佐々が目顔で制したので、それ以上の饒舌は云わなかった。
「吉行さんには、お店で陣頭指揮に立っていただくことも重要ですが、辞令と一緒にお渡ししてある、
「ドラッグストア経営幹部の職務規程」に書
いてあるように、ドラッグストア経営幹部会議に出席して、報告や提案をするなど、マネージャとしての経営管理の仕事がたくさんあります…、こ
こ一週間は、スタッフと親しくなる必要もあるでしょうから、良いとして、平常は、沢田店長代行にお店の陣頭指揮は任せて、こちらの方で張り切
りすぎて、体力を消耗してしまわないようにしてください…」
営業部長が千代乃の張り切りように釘を刺した。
「そうでしたわね…、まだ慣れないものですから、その辺の兼ね合いやら呼吸が分かりませんので、お気付きの点は、ご教示ください…、今日は
皆さんの自己紹介を受けて、早く親しくなれるようにいたしましょう…」
千代乃は、昨夜大急ぎで目を通した「幹部職務規程」の中の自分の職務の膨大な内容を思い返した。
66
*******
こうして、千代乃の新しい仕事が始まった。千代乃は、開店準備期間中にアンケート調査を行って、近隣の消費者のニーズの動向やマインドを把
握しようとした。が、アンケートの答えに現れた消費者の姿は不定形で、「これ」と云えるはっきりした様態が見えてこなかった。そこで、千代乃
は、世間一般の「美容と健康指向」の動向に的を絞って、その関連の製品の、コンサルティングも含めた積極的な総合販売戦略を「ドラッグストア
砧」の要に据えることを経営幹部会議で提案した。
佐々は千代乃の提案を入れて、本社に専門の「調達供給チーム」を組ませて、サポートしてくれた。千代乃は、この戦略で講習会や相談会
を地域毎に開いてピーアールに努め、健康器具、家庭用医療器具、介護用品までを含めて展開した。千代乃のアイデアは、図に当たり、大きな成果
を挙げた。千代乃のその成果の報告を受けて、佐々は、全国の店舗でこの戦略を展開する方針を出して、指示した。
千代乃の仕事は多忙を極めた。だが、佐々は、千代乃に専用の黒ずくめの車を運転手付きで配車し、そのため移動には比較的手間取らなかった。
その後そのような車をあてがわれるマネージャの数が限られていることが分かった。「経営幹部会議」は、月に一回最後の金曜日の午後に河口湖の
本社で行われ、その出席者は皆黒ずくめの専用車で来ていた。それには全部のドラッグストアの店長が来るのではなく、主要な地方の重要指定店舗
の店長だけで、三十人に満たなかった。中でも女の店長は、千代乃を入れて三人しか居なかった。他のドラッグストアの店長は各地方毎に集まり、
そこで本社のまとめた成果を知らされ、その後の方針の指示を受けるだけだった。
月一回の会議と云っても、基本的なデータは、全部毎日会社専用のPOSシステムによって、本社のデータベースで集約管理されて、あらかじめ
結果のデータシートが配布されているので、各店長が逐一報告する必要はなく、各店の際立った特徴の所見と今後の方針のアイデアの提案が要求さ
れた。この点では、佐々は容赦のないシビアな立場をとり、時には、激しいディベートが展開されることがあったが、佐々は問題ありと見た所見や
時
1 間の立食による昼食を入れて会議は六時間で終わり、後は銘々思い思いに散会した。
提案も全否定することはなく、交わされた議論を踏まえて、所見の再考と改善した提案を次回に行うように指導した。各人に与えられた発言時間は
きっかり十分で、途中、中央棟の宴会場での親睦会を兼ねた
千代乃が初めて出た九月末のこの会議では、「月一回の本社での会議は、時間的にも経費的にも不経済で、特に遠方から来る店長には負担が多す
ぎるので、三半期かせめて四半期に一回にして欲しいという以前出された提案を再検討してもらいたい…」との要望が再び出された。その件につい
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て佐々は、A社のビデオカメラ内蔵の大型ディスプレー付きデスクトップ コンピュータによるイントラネットを通したテレビ会議システムを導入
することを考えているが、各店端末のセキュリティの問題もあるので、もっか慎重に検討中だ…」と云うに留めた。
その月に一回の会議が佐々と千代乃の唯一の「息抜き」の機会になるようにも仕組まれていた。会議が終わると、千代乃は、いったん河口湖グラ
ンドホテルに行き、そこで専用車の運転手を解放した。運転手の任務は、その週はそこで終わり、次週の月曜日に千代乃を自宅に迎えに行くところ
から再開した。河口湖グランドホテルで千代乃は、シャワーを浴びるなどして休憩を取るだけで、カジュアルな服装に着替えて、ホテルを出て、研
修の時と同じようにタクシーで富士急河口湖駅前に行き、待つまもなく佐々の車に乗り換えて、忍野の韓国エステに始まる二泊三日の「恋の道行き」
となるのが定番になった。
その「道行き」の先は、決まって温泉地だった。堂ケ島の「秘湯」は二人とも気に入って、何度も足を運んで、すっかり「お馴染さん」になった
が、山梨や長野、群馬などの保養温泉地にも行き、時には、南紀白浜や山形、秋田の「秘湯」と呼ばれる人里離れた温泉場にも足を運んだ。
*******
その時二人は、伊豆の稲取温泉郷にいた。宿は、旅籠「稲取荘」という古めかしい名前がついていて、見るからに古めかしい外観を呈していたが、
中は黒光りがして歴史の古さを感じさせる荘厳な佇まいの造りになっていた。この宿には、中庭を隔てて海岸寄りに一戸建ての離れがあり、その二
階の寝室の海よりに内湯として露天岩風呂が付属していた。
まだ人の起きやらぬ朝まだき、岩風呂に浸かる二人の目の前には霞に包まれた海が広がっていた。遠く行き来する汽船の船体が淡い十月の朝の日
差しに映えて霞の中にその存在をぼんやりと現わしていた。その遥か彼方には、大島の島影らしい陸地が霞の間から見て取れた。
やがて千代乃は岩の脇の洗い場に上がり、横向きにしゃがんで、身体を洗い、踵の辺りを軽石でしきりに擦り始めた。佐々は、その千代乃の様子
を眺めながら、
「実に美しい…」と思った。
千代乃の身体は、尻と太股を構成する最大の円を中心に、上は尻と腰から脇腹や背中を経て、肩から肘を通って先に伸び、手首、さらには首から
頭に向かい、下は太股からふくら脛を経て踵に向かう大小の円をいくつも組み合わせて構成されていた。それは滑らかで一ヶ所も淀みのない見事な
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輪郭を描いて、大理石の泰西彫刻の像が血肉を吹き込まれて存在しているような趣があった。
その肌の様子は、繭作りの準備の整った七令の蚕の肌のように青みを帯びたベージュ色の肌に細い血管が青く透き通って見えた。ただ、身体をよ
じって踵を擦りながら、太股とふくら脛の崩れてできる隙間から時折覗けて見える千代乃のプーベの辺りの薄毛の陰りが唯一、生身の女の存在を示
していた。その時折見え隠れする千代乃の秘所の動きに誘われて、佐々は、激しく求め合った昨夜の二人の性愛の余韻が脳裏に蘇り、佐々の玉茎は
再び佇立した。
千代乃は、踵を擦りながら、佐々の視線を感じていた。そして反対側の踵を擦るために身体の捻りを変えた際に、膝頭が崩れてデリケートゾーン
が佐々の目に曝されたのを意識し、昨夜の激しい情交が思い出されると共に、火床口の辺りに疼きを覚え、淫液が自ずと漏れ出て来るのを止めもな
らず、気持ちが乱れ昂ぶった。千代乃の目は潤んでいた。
その千代乃の様子を見て、佐々は、千代乃の気持ちが高まってきているのを知った。そして千代乃の居る洗い場の方に身体を沈めながら近寄って
行き、洗い場の端に飛び乗るようにして腰掛けた。近寄ってきた佐々を全身で感じて、千代乃の身体は、わなわなと震え出した。佐々は、両腕を伸
ばして、
横座りに蹲った状態の千代乃を抱え上げて、佐々の凛立する玉茎を跨がせるようにして、前向きに自分の膝に抱え込んだ。千代乃が「あっ…」
と小さく声を発したときには、佐々の凛立する玉茎は千代乃の空割の間に押し付けられていた。佐々は二の腕で千代乃の両膝を内から抱え上げるよ
うに持ち上げ、自分の膝を垂直に立てた。佐々が鈴口で千代乃の柔らかい襞の間を掻き分けるように二、三度玉茎を前後させると、千代乃は、腰と
膝をわなわなと震わせて、もう耐えられないといった風情で絹を裂くような細い声を上げて、佐々の首にしがみついた。
その千代乃の動作によって、佐々の鈴口がすでに固く勃起していた千代乃の小核に突き当たり、濡れそぼった小核は難なく佐々の尿道口の中に埋
没した。千代乃小核は、興奮すると5ミリぐらいの長さに勃起し、非常に敏感になる。佐々は鈴口の中に千代乃の小核を埋没させた状態で、静かに
腰を回転させた。
「ああ~っ…、だめっ…、わたし、もうだめっ…、からだがっ…、からだが、どこかに飛んで行くわっ…」
千代乃は、佐々のその僅かの動作で、すでに二度三度と絶頂に達して、身体を前後に揺り動かしながら、細く低く喚くように叫んだ。
佐々は、千代乃のその様子を見て、小核を鈴口から解放して、雁首で空割の襞の間を撫で擦りながら玉茎を下に向かわせ、千代乃の火床口をその
鈴口で捉えて、ゆっくりと円を描きながらそこを撫で擦った。そこは、未通の少女のように固く締まっていたが、千代乃の感度の良いもう一つの泣
き所での鈴口の愛撫によって淫液が溢れ出し、何時しか佐々の雁首はすっぽりと中に収まり、張り出した柔らかな鰓で千代乃のGスポットを撫で擦
り始めた。
「しぬわ…、しぬわ…、もっときつく抱きしめていてっ…、あなた…、往くわ…、往くわ…、どこかに往くわ…、わたしを離さないでっ…」
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そのGスポットの愛撫で、千代乃は狂ったように頭を前後左右に振り、いつものごとく乱れに乱れて、佐々の首にしがみついて、腰を前に突き出
していった。
千代乃の動作で、佐々の雁首はさらに奥まで突き入り、膨らんで前に突き出していた子宮口に突き当たった。佐々は、すでに勝手知った手順とて、
その突き出した子宮口の周辺を雁首の回転運動で撫で擦り、千代乃を三度四度絶頂に誘った後に、ついに自らも頂点に昇り詰めて、二度三度と精を
発して、千代乃の身体が砕けんばかりに両の腕と脚で絞め付けて、果てた。
佐々の玉茎は、昨夜の奮闘の後とて、さすがに徐々に萎えかかったが、もとの硬度を保って千代乃の身体の中を占領して、脈動を続けていた。そ
んな状態で、佐々は、さも愛しいげに千代乃の全身を撫で擦った。千代乃は、ほとんど失神状態で、佐々に全身を預けて、しなだれかかっていた。
早朝の寒気を感じて、佐々は、硬度を失わずにいる玉茎を千代乃の朱門から抜いて、温泉の湯で千代乃の窒と自分の玉茎を良く洗い、千代乃を抱き
かかえて、浴槽に深々と身体を沈めた。千代乃は、顔を佐々の肩口に埋めて、まだ荒い息遣いで、佐々に身体を預けたまま、身動き一つせずに、目
を閉じていた。佐々は、湯の中で千代乃の全身を愛撫しながら、耳元で囁くように、「千代乃さんのここは、何度しても、素敵だよ…、
」と、千代乃
の女性自身を揉みしだくように擦って云い、「君のオソソは本当に僕の専用のオソソだ…」と、付け加えた。
う言葉を、遠く彼方からの声のように聴いていた。そして、佐々の言葉に反応するかのように、左手で佐々
千代乃は、夢うつつの中で、佐々の言
ひと
いざな
の股間の道具を弄り ま
「
( さぐり 、
) この男のこれは、私を極楽浄土に 誘 ってくれる…」と、実感していた。
こうして佐々と千代乃の月に一度の逢瀬は、まるで発情期の雄と雌のように、心行くまで情交に耽溺した。ただ、時折、まだ妊娠の可能性がある
ため、千代乃は、基礎体温を測りながら警戒を怠らず、その可能性のあるときは膣内挿入をやめてもらった。コンドームやペッサリーの使用や、体
外射精などの方法もあるにはあるが、完璧な方法ではないので、
「思わぬ妊娠もありうる…」と千代乃は思っているので、
「安心できない…」と、佐々
に云った。
「できたらできたでいいじゃあないか、その時は僕が責任を負うから…」
佐々は云う。
「微妙な感情を持つ年頃の女の子たちの手前、そうはいきませんわ…」
千代乃は、そのときばかりは最大限に警戒する。
「子供たちが立派に成長して、独立して一家を構えるまでは、私は、自分の満足のためだけで、幸せな家族関係を崩すようなことがあっては絶対
にいけない…、と思っていますのよ…」
千代乃は、この点では佐々に譲る気配はなかった。
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「千代乃さんの悪いようにはしない…」と宣言しているし、佐々は狭量な男でもないので、千代乃の良いように、千代乃の「申告」に従った。
*******
翌年三月、清香は、図らずも千代乃と同じ明和薬科大学に合格し、千代乃を驚かせた。千代乃は、清香が千代乃の背中を見て育ち、密かに千代乃
の後を追おうとしてくれていたことを知り、いたく感激した。
「この頃性的に少しませてきているように見える次女のあおりはどうなのだろうか…」
さて、それで、
あおりも清香同様にどんな進路をとろうとしているのか話そうとはしなかった。
「なるようにしかならないよ…、お母さん…、でもそれなりの努力はするつもりよ…」
それがあおりの口癖だった。
「お祝いは何もいらない…」
清香は云う。
「前にも話したように、二つも資格を取ってあるから、バイトも選り取り見取りだし、お母さんには経済的な負担はかけないわ…、家から通えるし、
遊び呆けるつもりもないから、アルバイトで稼いだお金で、お母さんに時々素敵なプレゼントをしてあげるね…」
清香は健気なことを云う。
こ
「母の涙を誘うようなことを云うようになってえ…、この娘は…」
千代乃は、清香の独立心の強さを頼もしく思う。
「お祝いはいらない…、
」と云っていたが、「一生持っていられる物を…」と考えて、千代乃は、男物のオメガの腕時計コンステレーションをプレ
ゼントした。さすがの清香も、男物だと云うことに感激して、千代乃の胸に顔を埋めて、涙を流して喜びを表した。
あおりは、冷ややかな目でその様子を眺めているだけだったが、何を考えているのかは掴めなかった。
あおりは、学校を女子高に変えたが、元の級友たちのストーカーまがいのしつこい嫌がらせからは、完全には開放されていないようだった。
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「そんなことがあおりの勉強に影響しなければいいが…」
千代乃は内心気掛かりでならなかった。
*******
千代乃が研修を受けて、思わない店長への抜擢を受けてちょうど一年経った、八月の半ばに、その事件は起こった。
その日千代乃は、地域の店長会議にオブザーバーとして招かれていて、店には居なかった。一方、佐々は、千代乃の店長就任一周年を個人的に祝
うことを口実に、先に砧店に来ていて、店長代理の沢田恭子やこの店の幹部職員らと話をしていた。
かねがね公言していたように、「母親の[フェロモンぷんぷん]の原因になっている恋人の存在を不意を突いて突き止めてやろう」
その時あおりは、
と、当然千代乃が居るものと思って「母の店」に客を装ってやって来て、店の中をいろいろ物色して回っていた。だが、店員たちの立ち話から、千
代乃が他所に行っていると知って、あおりはいきなり身を翻すようにして、店から出て行った。その様子を店の奥で見ていた佐々は、直ぐその後を
追い、多摩川堤通りを越えて、多摩川に注ぐ疎水の脇で追い付いて呼び止めた。
「君い…、ちょっと待って…」
「何ですか…、私何も盗っていませんけど…」
あおりは少し驚いて立ち止まり、振り返って云った。
「分かっているよ…、心配しないでも良い…、君の名前、吉行さん…、と云うんじゃあないのかい…」
佐々は、穏やかな調子で、あおりの気持ちを宥めるように訊いた。
「……、どうして知っているんですか…」
しばらく訝しげに佐々を見詰めた後、あおりが聞き返した。
「やっぱりそうか…、吉行千代乃さんと顔つきや姿形がそっくりだったから、もしや…、と思って追って来たんだよ…、驚かして、ご免、ご免…」
「それで、おじさんは誰なの…」
あおりは、まだ訝しげな視線を崩さずに訊いた。
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「私は、吉行さんのお店の親会社の社長で、佐々と云います」
佐々は妙に改まった調子で答えた。
「………」
あおりは、しばらく何か思い出そうとするような顔付きになって、しばらく押し黙っていた。
「ああっ…、分かったあ~、おじさんねぇ~っ、お母さんの恋人はあ~…、」
あおりがすっとんきょうな調子で、佐々に云った。
「そうだ、絶対に間違いない…、いつかお母さんが見せてくれた辞令とやらに、佐々と云う社長の署名と印が押してあった…、私が睨んだ通り、
このおじさんがお母さんのことを好きで、無理に研修を受けさせて、店長にしたんだ…」
あおりは、ほとんど確信していた。
「あはははっ…、恋人は良かったな…」
佐々は、女の子の鋭い感に内心たじろいだものの、大人の老獪さで笑いで誤魔化した。
「誤魔化してもだめよ…、おじさん…、私、お母さんが勤め出して、しばらくしてから急に綺麗になり出して…、家の中で女のフェロモン撒き散
らすようになってから、絶対恋人ができたんだ…、と思ったの…、お母さんに云うと、
「何バカなこと想像してるの…」、なんてはぐらかしてたけど、
私は「いつか、必ず突き止めてやる…」って、宣言してたのよ…、それで、そのために、今日このお店を偵察に来たの…、お母さんがいないらしく
て、
「失敗だ…、また出直そう…」って思ってたら、おじさんが目の前に現れたってわけ…、
私、今思い出したのよ、お母さんが見せてくれた、辞令とか云う紙に佐々て云う社長の署名と印が押してあったのを…、だから、間違いないわ…、
おじさんが、お母さんの恋人なんだわ…、おじさんがお母さんのこと好きで、それで急に店長に抜擢したんでしょう…、潔く白状なさい…、おじさ
ん…」と云いながら、あおりは佐々の横顔を真剣な目で見詰めた。
「…、やっぱりおじさんだわ…、お母さんをあんなに生き生きと輝かせられる男は、おじさんに間違いない…、
おじさん素敵だから、盗っちゃおかな…、…なんて、うそ…、お母さんの幸せは奪えないわ…、それに私のタイプとはちょっとずれてるし…」
あおりは付け加えた。
「君、名前なんて言うの…」
佐々は、この娘の推理力と感の鋭さと物おじしない大胆な物言いに驚きながらも、なお言い逃れの道を探ろうと、方向を変える質問をした。
「あおりよ…、知らなかったの…、おじさん…、社長さんでしょう…、お母さんの履歴書に三人の子供の名前が書いてあったでしょうに…」
「ああ、残念ながら、覚えていないな…、とにかく、全国で何千人もの従業員がいるのでね、社長と云えどもその履歴書の中身をいちいち覚えた
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りはしないのだよ、君…、そういう人事の問題は、必要なときに人事課に聞くんだよ…、そう…、君、あおりさんって云うの…、それで吉行さんの
何番目のお子さんなんだい…」
佐々はうまく話題を逸らすことができて、内心にんまりした。
「三番目…」
「そう、それで上は、お姉さんかい…、お兄さんかい…」
「直ぐ上が姉で、一番上が兄です…」
「君は、見たところまだ高校生だろう…、お兄さんとお姉さんは何をしてるんだい…」
「兄はミュージシャンで、全国ツアーをやっているって云ってますけど…、まだあまり芽が出てないみたいです…、姉は今年薬大に入ったばかり
です…」
「そう、お姉さんは、お母さんの後を追ってるのかな…、
それで君は、どうしようとしてるのかな…、まさか探偵になりたいわけでもないのだろう…」
「………まだ、何も決めてません。先になりたいものを決めないで、なれるものになろうと思います…」
「そう、
最近そういうこと云う人、
多いんだよね…、夢が持てないんだねえ…、今の若い人たちは…、私などは、夢を持ってそれを追いかけて努力して、
だめだったら、また別の夢を持って努力する…、そういう生き方の方が好きだな…、そうでないと人生味気ないだろう…、君のお兄さんは、芽が出
てなくても、ミュージシャンとして大成することを夢見て、苦労している…、それは立派なことだと思うよ…」
そこまで話したときだった。
「おえっ…、そこにいるのあおりじゃあねえの…、どこかへ転校したって、聞いてたけど、こんな所に居るのかあ…、それに、どうもおれたちに
つれねえと思ってたら、そんなおやじとできてたのかよお…、ファザコンって奴かあ…」
近づいて来た茶髪の三人の与太者風の若い男達の中の一人が、佐々の居ることは無視して、あおりに声を掛けた。
「誰なんだい、この男達は…」と、佐々は容易ならぬ雰囲気を察知して、あおりに小声で訊いた。
「前の学校の同級生…、ストーカーみたいにしつこく言い寄ってくるので、転校したんです…、しばらく見ないので、ほっとしていたら、またこ
んなところで出会うなんて…、
」
憂鬱な気分になってあおりも小声で佐々に答えた。
「おえっ…、何をそんなとこでぶつくさ言ってんだよ…、いいから、そんなおやじほっといて、こっちへ来いや…」
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またその男が云った。
「君たちには、はっきり言ったはずよ…、全然興味がないって…、ストーカーみたいにしつこくされて、いい迷惑だわ…、もう、私のことなんか
ほっといて…」
あおりは気丈に答えた。
「そんなおやじと援交するんだったら、いいじゃねえか、おれたちと遊んだってえ…」
「しつこいわねえ…、援交でも何でもないわ、将来勤めるかも知れない会社の偉いさんに、アルバイトの相談をしていたのよ…、それに、第一遊
び女以下の目で見られて、不愉快だわ…、私の目の前に二度と現れないで…」
口から出任せを言って、あおりは負けずに言い返した。
こ け
仮にされたんだ…、仕返しに三人でなぶり者にしてやらなけりゃ、腹の
「うるせえんだよお…、あおりい…、さあ、こっちへ来いやあ…、散々虚
虫が収まらねえんだよお…、そっちから来なけりゃ、腕ずくでも連れて行くぜえ…」
頭に血が上ったその男が乱暴に吠えた。理屈の通らない、箸にも棒にも掛からない度し難い連中だと見て取った佐々は、あおりの前に出て、その
男達の前に立ちはだかった。
「本人に気がないと云っているじゃあないか、犯罪者になりたいのか君らは…、悪いことは云わない…、さっさと引き上げて、二度とこの人の前
に姿を現さないようにしなさい…」
それでもなお佐々は諭すような口調で言った。
「うるせえんだよお…、おやじい…、おらあ、そこどけえ…、痛え目に遭わねえ内にとっととすっ込んでろいっ…」
一番前の男が、ジャックナイフを引き抜いて、佐々の前で身構えると、後ろの男達も、ジャックナイフを引き抜いて身構えた。
「あおりさん、危ないから、ずうーっと上の通りの方まで下がっていなさい…」
「SSP」と呼ばれる、佐々専任のシークレット サービス パーソンに通じる非常ポケベルのスイッチを押して、再び身構えた。
そう云いつつ、
SSP達の駆け寄ってくる靴音が聞こえてきた。前の男がジャックナイフを前に突っかかってきた。その構えはプロの極道のそれではなかった。
男の切っ先が佐々の一尺手前に達する前に佐々は一歩踏み込んで男の右腕を両手で抱え上げて捻じり、跳ね上げた膝頭に男のひじを思い切り叩き付
けた。
「ごきっ…」という鈍い音がすると同時に、男は苦痛に顔を歪めて蹲り、持っていたナイフを取り落とした。佐々は男を土手の端に蹴転がして、
さらに身構えた。
「やろうっ…、やってくれるじゃあねえか…、おやじい…、」と後ろの二人が同時に前に進み出ようとしたが、何分土手の幅が狭かった。一人が佐々
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の前に躍り出る隙に、もう一人が一旦土手の切端を駆け降りて佐々の左脇に駆け上がり、佐々が前の男の腕を捻じって、ナイフを取り落とさせてい
る隙に、佐々の左太股の臀部の辺りにナイフを突き立てた。それと同時に佐々は前の男を突き倒し、すぐさまナイフを突き立てた男の腕を捩じ伏せ
た。無理な姿勢からナイフを突き出したので、急所を外し、男は、ほとんど土手の切端に腹這いになったような姿勢でナイフを握っていたので、簡
単にナイフから手を放した。そこへ三人のSSPが道路脇から躍り込んできて、
「ボスっ…、遅れて申し訳ありません…」と云いつつ、一人が佐々に駆け寄って佐々を支え、後の二人が三人の男達を容赦なく痛めつけた後、疎
水に投げ込み、転がっていたジャックナイフも疎水に投げ捨てた。佐々は、生まれて初めて受けた刃傷にも拘わらず、気丈にナイフを引き抜き、ズ
ボンを脱いで、腹に二重に巻いていた上の晒を解いて、アルコールティッシュを傷口に当ててから、臀部を覆うように太股に巻き付けた。佐々は、
あおりに付いて来るように云って、二人のSSPに両側から支えられて、店の駐車場に止めてある、車に戻り、一人を残して、「店長が戻るまで、
この娘を、見守るように…」と命じて、二人のSSPに付き添われて、慈恵医大病院の救急外来に向かった。
病院に向かう途中、佐々はことの次第を会長の山瀬又右衛門に報告した。
「不始末を起こして申し訳ありません…、ただ傷は急所を外れているのでご心配には及びません…」
と云って、電話を切った。また、千代乃の専用携帯に接続して、「娘さんは相当心を傷つけられているはずだから、しっかり掴まえていて上げる
ように…、
」と云い、
「私のことは心配いらない…、せっかくの一周記念を祝えなくなって、申し訳ない…」と詫びて、電話を切った。
「刃先が斜めに入ったために、骨や動脈には重大な損傷を受けていないが、大腿筋につながる臀筋の靭帯の一
病院では、レントゲン診断の結果、
部が断裂している…、手術でつながないと体重が支えられないため正常歩行ができなくなるので、明日にでも整形外科手術を受けてもらうことにな
る…」と言われ、
「とりあえずの処置として、破傷風の予防処置と傷口の化膿予防と、敗血症の予防の措置を行います…、整形外科の先生がなんと
いうか知れないけれど、おそらくリハビリを含めて、一ヶ月くらいの入院加療が必要かと思われます…」と云うことになった。佐々は、警護付きの
VIP特別室への入院手続きを頼んだ。
病室に入る前に、佐々は着ているものを全部はぎ取られ、入院患者用の貫頭衣だけを着せられた。動かしてはいけないと云うことで、排尿のため
の導尿カテーテルを挿入するよう指示が出された。
「あれまあ~、社長さんともなるとさすがにお道具がご立派なこと…、」と、中年の看護婦が、導尿カテーテルの挿入の際に、佐々の一物を見て、
さも感に堪えないと云った口ぶりで云い、しばらく佐々の一物を眺めてから、やおらラテックスの手袋を付けた手で佐々の玉茎をつまみ上げると、
鮮やかな手つきでカテーテルを挿入し、脱落しないように管を太股のあちこちにテープで止め着けた。
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「ちょっと待ってください、看護婦さん…、そいつは私の意思に反して、夜中などに勝手気ままな行動を取るんですけど…、そんなにがっちり留
められちゃあ、そんなときにどうにもならなくなりますよ…」
佐々は抗議した。
「あら、そうだったわねえ…、一〇センチぐらい余裕を残した方が良いのかしらねえ…、」
「いや、なかなか…」
佐々はからかうように云った。
「まあ、いやだわ、社長さん、私をからかってるのねえ…、じゃ二〇センチにしときましょう…」
看護婦は顔色一つ変えずに、処置をし直した。
VIP特別室へは、専用のエレベータで行くが、予め許可証をもらわないと、病室には入れないようなシステムになっていた。その夜は、とりあ
えず、今日のSSPに付いてもらうことにしたが、交代のSSPへの連絡と、食事や飲み物の手配をして来るように勧めた。
千代乃が自分の店に戻ると、みんな通常通りの来客の応対はしているものの、気色ばんだ様子で千代乃の来るのを待っていた。奥の店長室に入る
と、そこに黒いスーツを着こなした若いSSPと店長代理の沢田恭子の間に挟まれるようにしてあおりがうなだれて座っているのを見て、千代乃は
驚いた。
千代乃は詳しいいきさつを佐々から何も聞かされていなかったので、なぜ佐々が自分の娘のことを云ったのか、意味が呑み込めていなかった。
「あら、あなた、あおり…、どうしてこんなところに居るの…」
千代乃は驚いて訊いた。
「お母さん…、ごめんなさい…、佐々のおじさんが、私のせいで大けがしちゃったの…」
そう云いながら立ち上がり、あおりは千代乃の胸に顔を埋めて取り縋って泣き出した。
「さ…、佐々のおじさん…って、あなた、どうして社長さんのこと知ってるの…」
「私ね…、お母さんの働いている姿見たくて、ぷらっと来て、お店の中を見て回っていたの…、そしたら、お店の人たちが「今日は店長、地域の店
長会議に行ってて、遅くなるらしいわよ…」って、話してたのを聞いて、がっかりして、直ぐお店を飛び出したの…、
そしたら黒いスーツのおじさんが私の後を付けて来て、その先の小川の脇で、「待ちなさい…」って、私を呼び止めたの…、
「私何も盗ってません…」って云ったら、「分かってる…」って云うの…、 「だったら、なぜ私を追い掛けて来て呼び止めたんですか…」
だから、
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って聞いたら、
「顔や姿形が良くにているから、もしかしたら吉行店長の娘さんじゃあないかと思ったから…」って云うのよ…、
「自分がこのお店の本社の社長で、佐々と云うんだが、従業員の家庭のことなど、
「おじさん、何でそんなこと気にするんですか…」って訊いたら、
ほとんど何も知らないから、ふっと興味が湧いたんだ…」って云うのよ…、
それからお兄ちゃんやお姉ちゃんのこと訊かれて、私が将来何したいか…、なんて訊かれたりして、お話していたの…、
そしたらあいつらが、ふっと目の前を通りかかって、一緒に来い…、って云って、「三人で散々いたぶって、今まで虚仮にされた恨みを晴らして
やる…」って、おじさんのことなんか構わずに、私のことを卑しい女のように云って…、無理にでも連れて行くって…、すごい剣幕になって…、
そしたら、おじさんがたまりかねて、本人がその気がないと云ってるんだから、おとなしく引き下がって帰りなさいって、諭したら…、
おやじ、怪我したくなかったら引っ込んでろって…、私に襲い掛ろうとするから…、おじさんが中に割って入ったら…、あいつらみんなナイフ取
り出して構えるから、おじさん、私を遠ざけて、あいつらと対決したの…、
一人は簡単にやっつけられて、肘かなんか折られて、ナイフを落として、転がされたら、他の二人がもっといきり立って…、おじさんに襲い掛か
ったの…、一人が直ぐに腕を捻られてナイフを落として突き落とされたけど、その隙に横からもう一人がおじさんの腰をナイフで刺したの…、そこ
へこのお兄さん達がおじさんを助けに来て、三人を小川に放り投げて…、おじさんと私を救い出してくれたの…、
だから、おじさんが怪我をしたのは、私のせいなのよ…、お母さん…、私怖かった…、ほんとにあいつらに連れて行かれて、ひどい目に遭わされ
るんじゃあないかと思って…、怖かった…、まるでテレビ映画の中のことが、私の身の上に起こっているようだった…、私、もういやだっ…、いつ
まで、あんなやつらに卑しめられ、責め苛まれなければならないの~…、おかあさん…、助けてえ~…」
ってしま
や っ て
経緯を全く見ていない若いSSPの吉沢昌平は、口をヘの字に歪めて、感情を必死に押し殺して、「そんなことなら、本気でやつらを殺
えば良かった…」と思いながら、あおりの話を聞いていた。
「娘さんは、相当心が傷つけられている…」
佐々がそう云った理由が、ようやく千代乃には呑み込めた。
「云ったでしょ…、あおり、私はあなたのことを必ず守るって…、でもね、あなたも、もっと慎重な行動を取るように気を付けなければいけないわ…、
狙われているのが分かっているのだから、夕方になって辺りが寂しくなるこんな所をうろつくことはないでしょう…、まるで、狼達に襲ってくださ
いって云ってるようなものじゃあないの…、狼は、何もあなたのいう三人組ばかりじゃあないのよ…、
それに私の働く姿を見たいのだったら、初めに私にそう云って、いつ来れば私の姿を見られるのか訊けば良かったでしょう…、私が忙しく飛び回
っているのは知っていたでしょうに…、いいわね…、これからはもっと慎重に行動して…、余計なことは考えずに、自分の将来のことを真剣に考え
なさい…、今日は、私と一緒に帰ろう…、だからもう少しここにいてちょうだい…」
78
千代乃は、あおりがここに不意に来たわけを見抜いていたが、一言もそれを口に出さずに、あおりを優しく抱き締めた。
「それで、あなた、なんて仰るのかしら…、私の娘をお護りいただいたようで、ありがとうございました…、佐々社長のお言い付けでしたか…」
千代乃は、あおりと沢田店長代理の脇にいる黒スーツのリーゼントヘアの若い男に礼を言ってから問いかけた。
「はい、自分はSSPの吉沢昌平です…、吉行店長とお嬢さんをご自宅まで護衛するようにと言い付かっております…」
その男は答えた。
「そうですか…、ご苦労さまです…、私は、これからまだ少し店の幹部とここで打ち合わせがございますので、終わるまで、ご面倒でも隣の部屋で、
娘の話し相手になってやっていただけませんか…」
そう云って、千代乃は、沢田恭子に二人を隣の部屋に案内させた。
店長室の隣のさして広くもない部屋に座らされて、あおりも吉沢昌平も気詰まりだった。殊に吉沢昌平は、武道一辺倒の男だから女の子に対して
は初心そのもので、どう接していいのか皆目見当もつかないようなタイプの青年だった。初め二人は、顔も合わせようとはしなかったが、やはりあ
おりの方が物怖じしない点で一枚上手だった。
「お兄ちゃん、かっこ良かった…、道路の上からポーンと土手に飛び降りて、あっという間に二人を川の中に投げ込んじゃって…、まるでテレビ
映画の柴田恭兵や三浦洋一みたいだった…」
あおりが口火を切った。
「あんなこと、かっこ良くもなんともありませんよ、お嬢さん…、自分の役目は、番犬と同じ役目です…、自分の主人とその関係者に危害を及ぼ
しそうな奴に襲い掛って、危害が及ばないようにするだけですから…、何にも考えずに、身体で感じて身体で反応するように訓練されているだけで
す…、頭を使う人の方がよっぽどかっこ良いです…」
「でも、私はそうは思わないわ…、他人の安全を守るってお仕事…、かっこ良くないわけはないわ…、一瞬の内に感じて反応するのに頭を使わな
いはずないし…、それにその時、自分の身の安全なんて、考えてないでしょう…、そういうのって、大抵の人はできないわ…、まず最初に自分のこ
とを考えるのが普通でしょう…、だから余計かっこ良く見えるのよ…」
「………」
「私、佐々おじさんとお兄ちゃん達に助けられたんだ…って、心から実感できたもの…、誰も助けてくれない…って、思ってたけど…、もうそん
な考え、捨てるわ…」
「………」
79
吉沢昌平は、さっきから一人で喋っているあおりの顔をただ黙って見詰めていた。
「結構大人びた口をきいているけど、まだあどけない子供っぽい顔をして、母親の胸に取り縋って、「怖かった…」と云って泣くような一面がある
かと思えば、無警戒で大胆に行動したり、初対面の「見ず知らずの」俺の前でも警戒する風でもなく、
「お兄ちゃん、かっこよかった…」なんて云
ったりして、危なくて見ていられない…、それにしてもこの娘は不思議な娘だ…」
吉沢昌平は頭の中で思っていた。
「お兄ちゃん、さっきからただ黙って私のことばっかり見詰めて、何も喋らないからつまらない…」
あおりは不平を言った。
「さっき云ったでしょう…、自分は番犬と同じだって…、ボスから命令が出ない限り、命じられた対象をただ見ているだけ…、それが自分に与え
られた役目です…、
「吉行店長は、娘の話し相手になってください…」と仰いま
勝手に考えて命じられないことをしてはいけないのです…、お喋りもそうです…、 したが、店長は自分のボスではないし、ボスはそんな命令は下しません…、だから普通は「何も喋らない…」のが正しいのです…」
吉沢昌平がやむなく答えた。
「ねえ、お兄ちゃん…、一つ訊いてもいいぃ…」
「訊いてもいいですが、答えられないこともあります…」
「普段もしょっちゅう格闘の技を訓練してるの…、何時、何処で、どんなことをやって訓練するのお…」
「自分たちは、プロのシークレット サービスですから、任務の終わった後や、非番の日、つまり休日にやります…、場所は決まっていません…、
プロですから基礎訓練はやりません…、たいてい実戦訓練と云って、フィールド、つまり野山、でやります…、組に分かれて互いに攻撃し合い防
御し合うのです…、攻撃されたらそれをかわして直ぐ攻撃する…、それの繰り返しです…、すごくきつい訓練です…」
「ふーん、聞いてるだけで、身体が緊張して、ぞくぞくしてきちゃうわあ…、なんか、忍者みたいね…」
「そうです、自分らは、現代の「忍者」ですから…、ただ昔の忍者と、今の自分たちの違いは、昔の忍者は休憩や食事の時にも眠っている時にも
攻撃を受けたのに対して、今の自分らは、偶にしかそんな訓練はしなくて、たいていは和気あいあいと休憩し、食事をとります…、」
「へえ~、毎日が映画の中の格闘シーンの連続なんだあ…、みんな本気でやってるのお…」
「映画の格闘シーンは、ただ振りを付けてるだけっすが、自分たちのは、「真剣勝負」の訓練です…、気を抜いたりしたら、かえって怪我をしたり
します…、ごく稀にですが、良くても車いすの生活になったり、命を落としたりすることになりかねません…」
「へえ~、面白そう…、益々ぞくぞくしてきたわ…、それで、女のシークレットサービスもいるのお…」
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「います…、主に女性やお子さんの身辺警護に当たっています…」
「その人たちも、お兄ちゃん達と一緒に訓練してるのお…」
「いや、女性は女性だけで訓練しています…、第一、フィールドでの実践の格闘訓練はしてないと思います…、男とは体力が違いますから…、
女性のシークレットサービスの任務はもっとおとなしい任務に限られていますから…、結構激しい訓練は受けていると思いますが、それでも自分
たちが受けてきた基礎訓練の範囲の内容だと思います…」
「私もシークレットサービスになれるかしら…」、
「いや、無理です…、身体が華奢すぎます…」
「だめえ~っ、せっかく興味が出てきたのになあ~…、一生懸命訓練しても、だめえ~…」
サービスの職業は、お嬢さん芸では勤まりません…、見たことないですか…、女性でも、シークレット サービスの人たちは、み
「シークレット
んな「ごつい」ですよ…、骨太で、ちょっと身体をぶつけられただけで、大柄でも大抵の男が簡単に吹っ飛ばされちゃいます…」
「だめえ~、ねえ~、お兄ちゃんに稽古付けてもらって、今度あいつらが酷いこと云ってきたら、みんなぶん投げてやろうと思ってるのにい~、
「駄目もと」で稽古付けてもらえないかなあ~、ねえ~、おにいちゃあ~ん…」
あおりは、鼻から抜けるような甘え声で云った。
「お嬢さんは、
元々そんなことに向いてないっすから…、無茶なこと考えるのはよした方がいいっす…、「生兵法は怪我の因…」って云うでしょう…、」
「わあ~っ、お爺さんみたいなこと云うんだあ~、かっこ悪う~」
「云った通り、恰好良くないことが分かったでしょう…、ああ~…、お嬢さんと話すのは、疲れる…」
吉沢昌平は肩を落として云った。
千代乃は、打ち合わせが終わると、一人店長室に残って、佐々の直通携帯にコールを入れた。
「ああ、千代乃さんか…」と、いつものプライベートなときの千代乃を愛撫するような佐々の穏やかな声が飛び込んできた。
「社長さん,この度は、私の娘のせいで、とんでもないことになってしまって、お詫びのしようもありません…、明日にも、早速娘を連れて、お
見舞いかたがた、改めてお詫びを申し上げに参ります…、何時ごろから面会が許されましょうか…」
千代乃は当然のように畏まった口調で切り出した。
「何もそんなに改まることはないよ…、千代乃さん…」
「そうは参りませんわ…、社長さん…、山瀬産業第一の重要な方が入院するような怪我をなさったんですもの、私情を挟んでものを申し上げるこ
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とは許されませんわ…」
「千代乃さんの気持ちは分かった…、私としては、せっかくの臨時の水入らずのデートが流れて残念なだけだよ…、それだけに君に合えるのは嬉
しい…、明日は、三時過ぎに会長以下幹部が見えるから…、五時…、できたら六時過ぎが良いかな…、
特別室だから、面会受付で予めカードを発行してもらわないと専用エレベータにも乗せてもらえないし、病棟のゲートも通してくれないから…、
私の方から前もって六時と云うことで二人の名前を伝えておく…、娘さんはあおりさんと云ったよね…、彼女、あの連中に酷い云われ方して心を傷
つけられているだろうから、心配している…、今彼女どうしてる…」
「はい、あおりはここに突然来た理由は話していませんが、想像は付きます…、私を見て、初め私にむしゃぶりついて「怖い思いをした…」と云
って泣いていましたが、
「社長さんとSSPの方に助けていただかなかったら、もっと怖い思いをしたはずだ…」と云って…、少しは目が覚めたよ
「はっはっはっ…、吉沢は、SSPの中でも一番仁侠肌の堅物でねえ…、娘さんのお守りにはちょうど良いと思って残したんだが…、おそ
うです…、私が幹部職員と打ち合わせをしている間、SSPの吉沢さんに話し相手になっていただいています…」
らく話の接穂に困っているだろう…、 しかし、あおりさんと云うお嬢さんは、顔付きや姿形は千代乃さんにそっくりで優し気だが、率直では
っきりものを言う、強い性格の娘さんだねえ…、
どうもその辺りがトラブルに巻き込まれた遠因かも知れないねえ…、だが、私は気に入ったよ…、気持ちのいい、良い娘さんだよ…、優しくガー
ドしてあげるといい…、いずれ私の方でもトラブルが遠のくような対策をとらせてもらうよ…、君と君の家族の安全は私が必ず守るから…」
「お志は誠にありがとう存じます…、でも、今度のことは、私の家庭の私事が原因で起きたことですから、お言葉に甘えてばかりは居られませんわ…、
当然のケジメは付けなければならない…と思っています…」
「ケジメって…、おい、千代乃さん…、辞めるなんて言い出すんじゃあないだろうなあ…」
「その辺りのことは、明日お伺いしたときにご相談させていただきます…」
「それはないからね…、千代乃さん…、私は、君を離さない…」
」
「では、明日お目にかかって…、
千代乃は、佐々の言葉ですでに、目が潤み、下履きが淫液で濡れ始めているのを感じながら、振り切るようにして電話を切り、電源をオフにした。
千代乃が隣の部屋に行くと、あおりはもうけろっとした顔をして、いつもの好奇心に満ちた目で何やら質問攻めにしていたらしくて、隣でSSP
の吉沢昌平がげんなりした表情で肩を落として座って居た。
「あおりは簡単にめげないところがいい…」と思いながら、「さあ、帰りましょう…、吉沢さん…、この娘相手では気疲れなさったでしょう…」と
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云って、千代乃は二人を伴って裏の駐車場に出た。
千代乃が黒ずくめの専用車に近づくと、いち早く運転手が気付いて車を降り、後部座席のドアを開いて千代乃を先に乗せてからあおりを乗せ、丁
寧にドアを閉めて運転席につくと、もう一度自動でドアを閉め直してからロックを掛けて車を静かに発進させた。
「拙宅まで…、」と千代乃が運転手
に向かっていうと、
「承知しております…、」と短く答えた、後は無言で通した。
「外からは中が何も見えないのに、中からは外が全部はっきりと見えるのね…」
車に乗るとあおりは、例によって好奇心一杯の目をして、キャビンの中をきょろきょろと眺め回しながら、誰に言うともなく云った。そして、千
代乃の左腕を抱えると、
「お母さんって…、ヴィップなんだ…」と思いながら、千代乃の胸に顔を埋めた。
SSPの吉沢は、千代乃の車と一定の間隔を空けて追走し、指令通り律義に千代乃の自宅まで「護衛」した。二台の車の間に他の車が割り込もう
としても、決して割り込ませなかった。千代乃の自宅に着くと、吉沢はその間隔を保ったまま停車して、自分の車の前に出て警戒の態勢を取った。
千代乃の車の運転手が、降り立ってドアを開け、二人が外に降り立ち、千代乃が「今日も一日ご苦労さまでした…、」と運転手に丁寧に頭を下げて
礼を云い、あおりを伴って玄関の中に消え、千代乃の専用車が走り去るまで、吉沢はその姿勢を崩さなかった。あおりはもとより千代乃もその姿に
気付いていなかった。SSPはみんな昔の隠密と同じように物陰や木陰、人込みの中に存在を「消し」て、
姿を現さないように訓練を受けているのだ。
「任務完了しました…」
店長専用車が走り去ると、吉沢は、車に戻り、専用モバイルフォンの受話器を取り上げて、一言云った。
「ご苦労さん…、明日三時に会長ご一行が病院に行かれるので、同道してくれ給え…、行先は追って伝達する…」
受話器の向こうから低い声が聞こえてきた。
「承知しました…、吉沢、本日の任務完了しますっ…」
吉沢は受話器を置いて。車を夜の闇の中の喧騒に向かって走らせて行った。
*******
「この儂を犯罪者みたいな扱いをしおって、写真まで撮らな通行証も発行しおらなんだ…」
83
翌日、会長の山瀬又右衛門は、ぷりぷりしながら一行を従えて佐々の病室に入ってきた。
「はっはっはっ…、会長、不愉快な思いをさせて申し訳ありません…、最近は、我社の薬事事業本部と同じで、大きな病院は何処も、特別室に入
った患者の病室に出入りする者に対するセキュリティが厳重になって来ているようです…、この部屋は、他の特別室とも切り離されているので、な
おさらです…」
「まあ、安全が確保されることはええこっちゃがなあ…、それで社長…、どないやねん…、なんでこないなことなことになったんかは、昨日聞い
たよって、繰り返さんが…、あんたもそんなチンピラ相手に立ち回りするやなんて…、不用意すぎるやないかあ…、第一、SSP三人も付いとって、
何してたんや…」
「不甲斐ないことになって、なんとも面目ありません、会長…、SSPには離れて付いて居てもらうようにしていた上に、チンピラ風とはいえ相
手は高校生の少年だから、説得しようとしたんですがねえ…、刃物持っても屁っぴり腰だし…、場所が狭かったもんだから一度に襲い掛られること
はないと見て、非常ベルを押すのが遅れたもんで…、二人目の腕をねじ上げて刃物を取り上げている隙に、残りの一人が土手の切端を伝って脇に回
って刺して来たのに思わぬ不覚を取ってしまったと云うわけです…、「自分としたことが…」と、ただ恥じ入るばかりです…」
「ううんもう…、社長、あんたももうそんなチンピラと立ち回りやってられるほど軽い立場の人間やないねんでえ…、もっと気い付けてやあ…」
「実際、
重々反省しています、
会長…、相手を単なる高校生の不良グループと見たところが第一の間違いでした…、
彼らを、我社と対立する組織の「テ
ッポウ」かも知れないと考えるべきでした…、今後セキュリティ態勢をもっと厳重にするよう考え直します…」
「折角順調に伸びてきているところで社長の首取られたら、我社は、信玄の居らんようになった武田軍とおんなじ道を辿るでえ…、みんなもその
辺をよう考えて、社長を中心とするセキュリティ対策を考え直してもらいたい…、わが社は、「組」の組織を基盤とするさかいに、経営首脳陣に外
部から人材を入れ難い面があって、経営体質が脆弱や…、「組」は「組」でも、極道を脱却した永続性のある経営体質を持つように、経営首脳陣以
下の社内での人材育成を含めた抜本的な経営体質の改善を急いでもらいたい…、儂の云いたいことはそれだけや…、
それで社長の怪我の方の治療はどないなるんや…」
「今日、病理臨床検査を終わりまして…、異常な点は何もないと云うことで…、明日断裂した臀筋の靭帯と腱の接合手術をすることになりました…、
術後は二週間ばかり腰回りをギブスで固定するそうで、その後リハビリで、下半身の筋肉強化と機能回復に二週間ほど掛けて日常生活に戻ると云う
段取りになるそうです…」
「下半身の筋肉強化と機能回復う…て…、歩行訓練するだけやろう…」
「そうなんですが、接合手術をした後、筋肉の筋自体が成長して自己修復するらしいんですよ…、そうならないと、一気に体重を支えられるよう
にはならないので、筋肉の状態を見ながら負荷訓練と機能訓練をするのだそうです…、臀筋の筋全部がやられているわけでないので、思いの外早く
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回復できるかも知れません…」
「その間の経営の方は、どうないするんや…」
「通常医薬品については、従来通り、専務や常務以下首脳陣の合議で進めてもらえるので問題はありません…、必要に応じて、携帯で合議に加わ
ることもできます…、医家向けの特殊医薬品については、私の専権事項なので、この間は休業にするか、よほど緊急の場合には、面倒でも客先から
出向いてきていただいて合議することになりますが、今のところその必要はないと思います…、すでに皆さんに連絡してあって…、週末に皆さん見
舞いにお見えになると仰るので、その時に方針が出ると思います…、何れにしても、何ヶ月もの長い期間ではないので、何も問題にならないと思い
ます…」
「まあ、社長らしくない不細工なこっちゃったが…、大事に至らんでまずは重畳…、と言うことにしとこう…、
ところでSSPの諸君…,二度とこんなことが起こらんように、社長のプライベートな時間帯での問題の対象の監視と身辺警護の態勢の強化に、
必要な予防措置の方…、呉々も宜しう頼んまっせ…、今のところ社長に代わるもん居らんよって、社長の身の安全が第一の優先事項やと肝に銘じて
もらいたい…」
「承知いたしました…、今日中にも早速対策を練ります…」
SSP部長の陣内が答えた。
「ほなら、儂は、云いたいことは全部云うたさかい、今日はこれで帰るでえ…、社長…、日ごろ超多忙やから、天の与え給うた休養やと腹をくく
って、しばらくギブスで固められとりい…、最もなあ…、
「青年は柔らかき四肢を持ち堅き一肢を持つ、老人は堅き四肢を持ち柔らかき一肢を持つ…」
と云うから、社長にはまだちょっと辛いかも知れんがなあ…」
会長は、暗に仄めかして冗談を言って立ち上がった。
「並み居る連中は、一瞬何のことか意味が解らない様子だったが、暫くして解ったと見えて、どっと笑った。一番歳の若い吉沢昌平だけは、最後
まで意味が解らず、笑っているみんなの顔を見回していた。
一行が立ち去ってから十五分ほどして、佐々はSSP部長の陣内を直通携帯で呼び出した。佐々は、自分の警護の人員を増やす必要がないことを
告げ、現在非番組を含めて八名居るSSPから一名、吉沢昌平を引き抜いて、当分の間吉行砧店長の娘のあおりさんの専任警護に回すように頼んだ。
「使用する車両は、
特別車ではなく、
高校生ぐらいの娘さんの気に入りそうな洒落たスタイリングとカラーリングの一般的なセダンを選んで購入し、
私の個人費用として経理部を通して請求してくれるように…、経理部長には、連絡しておく…」
佐々は付け加えて指示した。
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「社長のご意向は承知しました…、ただ社長の警備体制については、会長のご意向も伺って最終決定したいと思いますので、自分にご一任くださ
い…」
陣内が答えた。
「君の立場を尊重しなければならないのは当然だから、一任する…」
佐々は手短かに言ってSSP部長との会話を終えた。
*******
「母親として、また店長として責任を感じますので、辞表を書いて参りました…、お受け取りください…」
千代乃は、あおりを伴って病室に入って来るなり、床に跪き、娘も脇に座らせて、平伏し、「この度の不祥事を引き起こした娘の軽率な行動…」
を詫びる口上を述べ、
「辞表」と書いた白い封筒を前に差し出した。
「吉行砧店長、まあ、そんなところに跪いていないで、とにかくこの椅子に腰掛けて、娘さんは奥のソファに掛けさせてあげてください…」
佐々は、一瞬憮然とした表情になったが、感情を押し殺して優しく切り出した。
「あおり…、こちらに来て、自分の口から社長さんにお詫びを云いなさい…」
千代乃は、辞表を手に取り、云われるままに佐々のベッドの脇の椅子に素直に腰掛けて、あおりに向かって云った。
「昨日は、何も考えずにお店に行って、社長さんだとも知らずに失礼な口をきいて、社長さんが酷い怪我をする原因をつくって申し訳ありません…、
私、もう…、どうしていいか分らない…、ごめんなさい、おじさま…」
あおりは、素直に母親の言葉に従って、佐々の枕辺で腰を折り曲げて頭を下げると、ぼろぼろと涙を零しはじめた。
「君の気持ちは痛いほど分るから、もう泣くのはおよし…、落ち度は、君にではなく、大人気なくチンピラと立ち回りを演じた私にある…、もっ
と早くSSPを呼んでいれば、怪我などせずとも良かったのだから…」
「今どき珍しい…」と評判になって採用され、自分のの思い人になった千代乃の娘のあどけなく純真な姿に胸を詰まらせながら佐々は云った。
「おじさま、脚、まだ痛むう…」
あおりは もうけろっとした顔つきになってそう云いながら、右側に横向きになって横たわっている佐々の腰の辺りに恐る恐る触れて、訊いた。
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「いまは、痛み止めを打ったり、処置をしてもらっているから、少しも痛まないよ…、明日、手術して、切れた筋をつないだら、暫くして元通り
になるそうだから、何も心配はいらないよ…、さあ…、もう泣くのは止めて、奥のソファに掛けて休んでいなさい…、私は、お母さんと話をしなけ
ればいけないから…」
佐々は、あおりの気持ちを気遣って、優しく慰めるように云った。
「何処までも、ひとを気遣って、優しいのだわ…、私、この人と本気で離れられるのかしら…」
千代乃は思った。
「さてと…、この辞表は受け取れないよ…、吉行さん…」と云いつつ、「辞表」の封筒を目も通さずに四つに切り裂いて、後でひとの目に触れない
ように自分で処分してください…」
千代乃は、頭を抱え込むようにしてうなだれて、な
佐々はその紙切れを千代乃に渡した。佐々は、その間終始千代乃を目で愛撫し続けていた。 ろうことなら今にも佐々の胸に取り縋って泣きたい思いを必死に堪えた。監視カメラで監視されているこの病室では、どんな場合でも、そのような
私情に駆られた行動は取れないのだ。
「それでは、社長さん…、私を、普通の社員に降格して、配置転換してくださいませんか…、まだ子育てが完全に終わっていない私には、今の職
務は荷が勝ちすぎます…、
今回のような事態が起こった上は、そのようなご処分があってしかるべきだと存じます…、私一人が厚遇を賜るのでは、他の鋭意の職員に示しが
付きませんので、ぜひ私の考えをお聞き入れください…」
千代乃は、あくまで自分の立場をわきまえた発言をした。
「………」
佐々は、千代乃の言葉をただ無言で聞いていた。
「吉行さんの意見はもっともな節もあるので、後で役員会で検討しましょう…、ただ、私が退院して職務復帰するまでは、現状通り職務を続けて
ください…、
娘さんから目が離せない状況があることは十分判りましたから、会社として、吉行さんが職務に専念できるような対策も講じました…、まだ至ら
ない面がありましたら、別途意見を上げてください…、
とにかく、就任以来赫々たる成果を挙げている吉行さんの能力を失うことは、会社として問題が多すぎますので、その点は十分理解してください」
佐々は千代乃の現職任命が役員会の決定事項であることを強調して、千代乃の処遇を当面ペンディングにした。
「私は、君を離さないよ…」
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佐々の言葉が千代乃の脳裏に蘇った。
「ところで、これは吉行さんの家庭内の日常生活に多少影響することなのだが、会社として必要と判断した上でのことなので、ぜひ了承していた
だきたい。あおりさんにも関係することなので…、あおりさん、こちらに来て、お母さんの脇の椅子に掛けて一緒に聞いてください…」
佐々は、あおりを近くに呼び寄せた。
「私が、昨日あおりさんと例の三人組の不良高校生のやり取りを聞いていた限り、彼らの行為は、ストーカー行為に当たると判断できます…、ただ、
彼らがまだ未成年で高校生だと云うことで、直ちに警察など司直の手に委ねることも問題が多いので、当面は、会社の系列の探偵社を通じて、彼ら
の行動を監視することにしました…、これは、吉行さんのご家庭からすると、非常に僭越なことでしょうが、先ほど云った通り、吉行さんが職務に
専念できる環境を作る上で、会社としては避けられないことだと思いますので、お許しください…」
「……………」
「それから、もう一つ、あおりさんには、慣れなくて窮屈かも知れませんが、私の専任のSSPの中から、昨日の一番歳の若い吉沢昌平君をあお
りさんの身辺警護に回すことにしました…、
何か不幸なことが起きてからでは、後悔しても始まらないので、これもぜひ了承してください…、
どんな任務が与えられるかと云うと、あおりさんの登下校の送り迎え、あおりさんのプライベートな外出時の目立たない距離を置いた身辺警護、
あおりさんが一人で家に居る時のお宅の周辺の警護などです…、あおりさんの送迎には、VIP専用車ではなく、普通のセダンにします。高校生が
ああゆう黒ずくめの車で送り迎えされたんでは目立ちすぎますからね…、
それに吉沢君の服装も私服になり、あおりさんと一緒に居たとしても違和感のない今時の若者風なスタイルで決めてもらい、髪もリーゼントでは
ない普通の髪形に変えるように指示します…」
「お母さん、やっぱりVIPなんだあ…、それも普通の社員じゃあないから、娘の私の安全にまでこれほどまでに気を遣ってくださるんだあ…、
うふっ、私、VIPのお嬢様かあ…」
佐々の話を聞きながらあおりは思った。
「ということで、吉行さんも、あおりさんも承知していただけますか…、こういう措置をとる理由は、今まで話した通りです…」と、佐々は二人
の承諾を確認した。
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「何から何までお気遣いいただいてしまって…、ただただ恐縮するばかりですわ…、ほんとにどうしましょう…、私としては、娘に無理強いもな
りませんので、娘の気持ちをお確かめくださいませんか…」
千代乃はそれだけ云うのがやっとだった。
「そう、それじゃあ、あおりさんはそれでいいだろう…」と、佐々は、さっきから例の好奇心に満ちた生き生きと輝いた目をして、佐々の話を聞
いているあおりを見ていて、確信を持った口調で言った。
「うん…、
お兄ちゃんなら、
昨日助けてくれたし…、話していて怖くない人だったから…、私のプライバシーさえ守ってくれるなら、私、構わないわ…」
と、佐々が予測した通り、あおりは直ぐに同意した。
*******
こうして、次の週から、気まぐれなあおりに振り回される吉沢昌平の身辺警護の生活が始まった。
初日の早朝、吉沢は、いつもの黒ずくめのスーツにリーゼント ヘアーではなく、濃紺のスーツに同系色のシャツとネクタイ、髪は浅く脱色して
今風にカットしたダンディーな姿で現れ、あおりは目を丸くして吉行を見詰めていた。居合わせた家族に挨拶した後、吉行はポケットから専用携帯
電話を取り出してあおりに渡した。
「あおりさん、これはあおりさんの身辺警護をするSSPとの間の連絡のための専用携帯フォンです…、これは外部との通信には使えません…、
普段SSPと話す時は、初めに3838と交信専用番号を押してから上にある緑色のボタンを押すと、自分なり自分の代役のSSPなりにつなが
ります…、
SSPから連絡する時は、震動音を伴ったコール音が鳴ります…、その時も3838と数字を押してから緑のボタンを押すとSSPと交信できま
す…、
あおりさんに何か非常事態が起こった時は、下の大きな赤いボタンを力いっぱい押してください…、あおりさんの専用ID番号が自動的に発信さ
れて、その時の担当SSPとSSP本部にあおりさんの非常事態が伝達され、一分間あおりさんから通話がなければ、あおりさんの居場所の探査が
自動的に始まります…、この携帯電話は、あおりさん以外の第三者に見せたり、渡したりしないでください…、また、電源は決して切らないでくだ
さい…、どこかに置き忘れたり、無くしたりしないように、必ず身体のどこかにチェーンでつないでおいてください…、
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おしまいに、SSPに身辺警護を受けて、一日中監視されることは、うっとうしく辛いことです…、自由気ままに行動したくなることもしょっち
ゅう有ると思います…、
しかし、長い間連絡が取れずに居る間に、あおりさんに万一のことがあった場合は、SSPが責任を問われます…、そのことをよく頭に入れてお
いて、あおりさんの行動の予定が変わるたびにSSPに知らせてください…、
あおりさんの登下校の警護は、原則として不肖吉沢昌平が担当いたします…、警護の車には、あおりさん以外の方を乗せることができません…、
ですから、放課後にどこかへ行かれる場合でも、必ず一旦ご自宅までお送りして、その後目的の場所まで送迎するか、他の交通機関で行くことにな
りますが…、目的地とそこでの行動予定は、必ずSSPにお知らせください…、
以上、主な注意点をお知らせしました…、煩わしいとお考えでしょうが…、あおりさんの身の安全を脅かす疑わしい対象が客観的になくなったと
判断されるまで、暫く辛抱して、身勝手な行動は極力慎んで、自分や他のSSPとお付き合いください…」
「ふ~ん、簡単に考えていたけど、ずいぶんと面倒なのね…」
あおりは不服そうな顔をして云った。
「あおりさんの不満は分りますが、あおりさんの安全が最優先されますから、ある程度あおりさんのプライバシーにまで踏み込まなければならな
い場合も有ります…、その辺りをよく理解して、警護を受けてください…、
自分の考えでは、女子高に通っているあおりさんは、学校にいる間は、比較的安全です…、
今「比較的」と云った理由は、学校の女生徒の誰かが、連中と通じていて、手引きをしてあおりさんに危害を加える助けをしないと云う絶対的な
保証がないからです…、
それはともかくとして、あおりさんが危険に曝されやすいのは、むしろ、あおりさんが一人になって行動する機会が多くなる放課後や休日です…、
また人には大抵それぞれ一定の行動パターンがあります…、同じ道を通る…、同じ店に立ち寄る…、同じ時間に電車やバスに乗る…、など、数え
上げたらきりがないほどみんなそれぞれ一定の行動を取っています…、誰かを意識的に狙う奴は、そういう人の行動パターンを監視して、狙いやす
い時と場所を探し出します…、そんな時にこそSSPが役割を果たせるようにしておかなければなりません…、ですから、当分の間は、自分らとの
コンタクトを絶やさないように心がけてください…」
吉沢昌平があおりに説明している間、千代乃も清香も黙って話を聞いて、あおりの反応を観察していた。そして二人とも、熱さが喉元を過ぎたら、
あおりがSSPを翻弄するような行動を取るようになるだろうと感じていた。
登校の時間が来て、吉沢は、少し離れたところに停めてあった車を門の前まで動かして来て、辺りに目配りをした後、左の後部座席のドアを開け
てあおりを招じ入れた。
90
「わあ~、キレイで素敵な車…」と、あおりは一目で気に入ったように云った。車は、ベージュ掛かった白を基調にして、両サイドに前から後ろ
に向かってブルーのグラデーションの掛かったストライブのカラーリングが施されているスポーツ車で、いかにも「女の子向け…」と云ったっスタ
イルに仕上げてあった。気に入ったと云えば、吉沢の今日の服装とヘアスタイルも気に入っていた。千代乃も清香も、車もSSPも黒ずくめでなく
てほっとしていた。
「ねえ~…、お兄ちゃん…、私お兄ちゃんの隣に座っちゃあだめえ…」
車が走り出して暫くしてあおりが云った。
「だめです…、警護対象者は、SSPのすぐ後ろに座ることになっています…」
吉沢は、素っ気なく答えた。
「つまんないのお~…、……、ねえ~…、お兄ちゃん…」
あおりがまた何か言おうとした。
「お兄ちゃん」と呼ぶのは止めてください…、自分を呼ぶ時は吉沢と云ってください…」
「
間髪を入れず遮った。
「それに警護中は、やたらに自分に話しかけないでください…」
と付け加えた。
「つまんないのぉ…、……、ねえ~…、携帯で友達と話してもいい~ぃ…」
「構いませんけど…、やたらとあちこち自分の所在を触れて回らない方がいいと思います…、それとSSPに警護されていることは云わないでく
ださい…」
「……、あ、かなええ…、おはよう…、……、ごめん…、お母さんがねえ…、私に見張り付けるって…、今日から当分の間車で送り迎えしてもら
うことになったのお…、ええ~っ、理由う…、前に話したじゃない…、そう、そいつらのせいよ…、……、後で…、もっと時間が経ったら話すわ…、
今は思い出すのもいや…、………、意地悪言わないでよお…、わたし…、とっても心が傷つけられてるんだからあ…、
………、だから云ったでしょう…、今は何も思い出したくないし、何も言えないわ…、…………、友達だったら静かにそっとしといてくれたらい
いでしょう…、………、そんなこと云うのお…、信じられない………、」
車は宮の下から渋谷駅を抜けて青山に入った。この辺りは文教地区になっていて、数多くの中学、高校、大学が踵を接している、国学院大学の前
を抜けて坂を登り切るとそこは広尾、日赤医療センターの前に出る。その向かい側にあおりの通う中等学部と高等学部併設の女子学院が在る。車は
91
その正門前に横付けされた。歩道には、三々五々女子学生が通り、門の中に吸い込まれるように入って行く。道が狭いので吉沢は、急いで車を降り
かしずく
歩道側に回って辺りに目配りした後、後部座席のドアを開け、あおりに下車を促した。車から降り立つあおりに気付いた何人かの女学生が駆け寄っ
てきて、あおりに 傅 く ようにしてドアを抑えている長身のハンサムでスタイルの良い吉沢を人気俳優でも見るようにうっとりした眼差しで見上げ
ていた。吉沢はそれには目もくれず、あおりだけに注意を注いで、「それでは、四時に迎えに上がります…」と云って、あおりが同級生らしい五、
六
人の女学生に取り囲まれながら、ゲートを潜り、石造りのブリッジを抜けて中の校舎の方に消えるまで見送ってから、車に戻って走り去って行った。
「ねえ、ねえ、あおりぃ…、あの人誰え…、ちょお~イケメンでかっこ良いじゃん~、何処で知り合ったのよお~、私にも紹介してよ…」
あおりを取り囲む同級生達が口々にあおりを質問攻めにしながら、自分らの教室の在る校舎の方に押し進んで行った。あおりは、やり切れない気
分になっていた。
「私もよく知らないの…、お母さんが私をストーカーから守るために、付けてくれた護衛の人よ…、私は当分監視される身…、自由に何もできな
くなってるのよ…、気が滅入ってるの…、気にしないで静かに放っておいてえ…」
あまりしつこく訊かれるのであおりは素っ気なく答えた。
あおりの通う女子学院は、原則として車での送り迎えを禁じていた。千代乃は、学院長に電話を入れて事情を話し、車での送迎の許しを請うた。
「ストーカー」と聞いて、学院長はいたく驚き、動揺を隠さなかった。
「 良 家 の お 嬢 さ ん 」 だ け を 預 か っ て 女 子 教 育 を し て い る 平 穏 な 女 学 校 だ と 信 じ 切 っ て い た 学 院 長 に は、 あ お り の 直 面 し て
明治以来の伝統を誇り、
いる現実は、開校以来の動天驚地のことのように思えたのだ。そして、クラスルームの時間に、特別にあおりのクラスに行き、あおりが悩まされて
いるストーカーの話をした。
「皆さんも、吉行あおりさんの周囲に変な男の人が寄って来ないか注意してあげてください…」
話の締めくくりに学院長は、あおりへの協力を呼びかけた。それが功を奏したのか、同級生達はいつもあおりを庇うような行動を取るようになり、
車での送迎のことも、吉沢のことも気にしなくなり、あおりのことをそっとして置くようになった。
そんなあおりの規則通りの生活も、一ヶ月と続かなかった。いつの間にかあおりの送迎はあおりのペースになり、吉行のことを「お兄ちゃん…」
と呼ぶようになり、送迎の行き帰りに吉行をあれやこれやと質問攻めにするようになっていた…」
あおりの行動も次第に自由奔放になり、時には携帯の電源を切ったまま、行く先を吉行に連絡せずに学校から直接級友とどこかに出かけたりして、
吉行は所在を掴めずに翻弄された。だが所在不明になったままでもなく、結局は吉行に連絡を入れて、吉行に所在を知らせて家まで送ってもらうの
92
だが、そのような報告が何度か続くと、SSP部長の陣内も放っては置けなくなり、佐々を通じて、千代乃に注意を促してもらわざるをえなくなった。
千代乃は、佐々から連絡を受けて、平謝りに謝って、かつてなくきつくあおりに小言を言った。
「あおり、あなたに護衛を付けることは、あなたの身の安全を心配して、社長さんが特に配慮してくださっているのよ…、それが窮屈で耐えられ
ないからあなたが身勝手な行動するのだったら、私は社長さんにお話して、護衛を付けていただくのを止めていただくわ…、それであなたの身に
万一のことがあってもそれはあなた自身が責任を負うのよ…、それで良くってぇ…、
私が悲しい思いをしても私の勝手だと思うんだったら、そうしましょう…、いつまでも子供じみたことをしてないで、よく考えて、ご自分で決め
なさい…」
だが、あおりがそのような行動を取るのは、護衛が付くのがいやだったからではなかった。それは、吉行がSSPとしての垣根を取り払って、別
の意味で吉行にあおりにもっと注意を向けてもらいたい…と云う、この歳ごろの娘独特の心理の現れだった。
「護衛してもらうのが嫌だからじゃないの…、何聞いてもいつもお兄ちゃんが素っ気なくて、「SSPにはやたらと話しかけるもんではありません
…」なんて、無愛想に私を無視するから…、時々意地悪したくなるの…」
あおりが答えた。
「そうか…、あおりはもしかしたら吉行さんに「恋して」いるのかな…、初恋か…」
それを聞いて千代乃は思った。
「それは、吉行さんとしては任務だから、そう言う風に接しなければならないのよ…、どんな場合も決して護衛対象者と私情を交えて接してはな
らないの…、仮に…、仮によ…、吉行さんがあおりのことを好きだと思っても、そうしなければならないのよ…、それでも、あなたが吉行さんに護
衛を続けてもらいたい…と思うのだったら、続けてもらうようにお願いするわ…、嫌なら、止めてもらうわ…」
「嫌じゃないわ…、ただもっとしっかりと支えてもらいたい…と思うだけ…」
「ははあ…、これはいよいよ本物か…」
千代乃は内心で微笑んだ。
「そうか…、娘さんも歳頃だから,そんなことが有っても不思議はないかな…、第一、最初に助けに来た時の印象が強かったんだろうしねえ…、
ただ吉行君は、SSPの中でもとびきり堅物で、融通が利かないからな…、夢にも気付いていないだろうし…、気付いたとしても彼の立場では、
93
どうしようもないだろうけどねえ…」
佐々は、千代乃の話を聞いて云った。
佐々の回復は早く、予定より早くギブスを外し、すでにリハビリに入って歩行訓練に余念が無かった。以前にSSP隊に参加してサバイバル訓練
に近い訓練にも加わっていただけに、強靭な肉体を持っているので、断裂した筋肉の再生も早いようだった。
場所が場所だけに、千代乃は、個人的には見舞いに行かず、もっぱら携帯電話で話をするだけだった。千代乃は、佐々の声を聞くたびに、プーベ
の辺りに疼きを覚え、スリップの中が自然に濡れてきて、自分の「女」が佐々の「男」を強く求めているのを感じ、どうしようもなかった。千代乃
は、自分が佐々の「女になり切っている…」のを悟って、身も心もそれに任せ切っていた。それで千代乃は満ち足りて幸せだった。
*******
こうして、吉沢によるあおりの警護は続けられた。ただ違ったのは、これまでのような気まぐれな行動はめったに取らなくなり、やたらに吉沢の
心の領域に入って行こうとするようになったことだった。
」
「ねえ、お兄ちゃん…、
あおりがそう切り出すたびに、吉沢は眉をしかめた。
「ねえ、お兄ちゃん…、お兄ちゃんには恋人いないのぉ…」
「………」
突然の思わない質問に吉沢は戸惑って、黙っていた。
「ねえ、どっちなのよお…、いるのぉ、いないのぉ…」
「今日は、やけに車が混みます…、事故でもあったのかな…」
吉沢はあおりの注意をよそに逸らそうとした。
「ずる~い、お兄ちゃん…、私の質問に答えずに「しかと」する気い…」
あおりはむくれたようにほっぺたを膨らませた。
94
「あおりさん…、あおりさんのような若いお嬢さんがどうしてそんなチンピラの使う言葉を使うんですか…、少なくとも自分は嫌いだな…、お嬢
さんの口からそんな言葉を聞くのは…、聞いていて悲しくなります…」
吉沢はあおりの気持ちを主題から逸らせようとして、意識的に強調して云った。
「……、ごめんなさい…」
「嫌いだ…」と吉沢に言われて、一瞬あおりは悄気返って、素直に謝った。
「お母さんも、前にそんな風に云ってた…」
「当たり前ですよ…、お母さんや自分でなくても、まともな教育を受けた人なら誰でもそう思いますよ…、
さあ、着きました…、どうやら遅刻せずに間に合ったようです…」
「ずる~い、お兄ちゃん…、結局、私の質問はぐらかしちゃってえ…、
今度、また聞くからねえ…」と云いながら、あおりは級友達と、いつものように校門を潜って校舎に消えた。
帰りにあおりはまた同じ質問をした。
「どうして、そんなことを聞きたいんですか…」
「だって、お兄ちゃんみたいにかっこいい男に女の人の匂いが感じられないのは変だと思うからよ…」
「では、はっきり言いましょう…、女はいません…」
「どうしていないのよ…、女嫌いなのお…、それともホモなのぉ…」
「女嫌いでもホモでも有りません…」
「それじゃあ、なぜなのよお…」
「私は仁侠の道に生きているからです…」
「仁侠…ってえ…」
「それは、ある人の人柄や生き方に共鳴して、その人に命がけで従って行く道を選ぶことです…」
「ふーん、よく解らないけど、その「仁侠」とかに生きていると、どうして恋人がいないのぉ…」
「それは説明できないし、説明しても解らないことです…」
吉沢は、近ごろ妙にあおりが挑発するような態度を取ることに気付いていた。あおりは、母親の千代乃の習慣に感化されてか、めったに化粧品は
95
使わなかったが、それだけに、汗をかいている下校時や、とりわけメンスの期間中など、キャビンの中がこの年ごろの娘達独特の生々しく艶いた臭
いに包まれるのには閉口していた。また、朝は朝で、時折、母親のローズのアロマを胸元に付けてきて、ことさらのように前の座席に身を乗り出す
ようにして、話し掛けてきたりした。だが、吉沢は、この歳頃の娘にはありがちなことだから…と、気にも留めないようにしていた。「そう言うこ
とに気を逸らせて、肝心の任務が疎かになるようではSSP失格だ…」
それが吉沢の信念だった。
ある時、あおりは、一旦帰宅してから、買い物に行くと云って電車で外出した。そんな時吉沢は、五メートル以上の間隔を空けて、あおりが視野
に入っているような位置で監視するのが常だった。
二軒見て回り、何も買わずに出て、青山の方に向かって渋谷駅前のスクランブル交差点で信号待ちをしている時だった。
渋谷に出て、百貨店を一、
左前方にいるあおりに「ねえちゃん、付き合わない…」と云って、遊び人風の若い男が声を掛けてきた。吉沢が警戒態勢に入った時、あおりは直ぐ
にす~っと身体を横に滑らせて、尻からすっぽり身体を差し入れるような仕草で吉沢の前に入り込んで、吉沢の股間に尻を押し付けて来た。
それは、若い娘達が自分の特定の恋人の存在を示したり、その男に頼り切っていることを態度で示したりする時に取る行動だと、吉沢は理解して
いた。あおりの後を追ってきた男は、あおりの後ろにぴったり寄り添うような形で立つ大柄な吉沢を見て、
「チッ」と舌打ちして群衆の中に消えて
行った。どちらの意味があったにせよ、あおりが場の状況を利用して、大胆に直に吉沢に身体を接触させて行ったことだけは確かだった。吉沢は、
否応無しにあおりの吉沢に対する気持ちを意識せざるを得なかった。吉沢は、本来の自分の任務に殉ずる気持ちと、あおりとの距離の縮まって行く
現実の狭間で、心が揺れた。
*******
それから一月程して、吉沢昌平は、SSP部長の陣内に配置替えを申し出た。
陣内は、暫く吉沢の心を読むように吉沢の目をじっと見詰めて、「ふっ…」と一息吐いてから、理由を訊いた。
「若い娘の気紛れに振り回されて、ほとほと疲れてしまい、十分任務を果たせないと覚ったからです…」
吉沢は率直に答えた。
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「それだけか…」
陣内は、もう一度吉沢の目を見詰めて、訊いた。
「はい…、最近自分の任ではない…と、つくづく思い知らされるようになりました…」
「あおりさんがどうやら吉沢に恋心を抱いているらしい…」
陣内は、佐々社長から、聞かされていた。
いかに厳しい訓練を受け厳しい規律に縛られているSSPだとは云え、また性格がいかに堅物だとは言え、吉沢はまだ二十代前半の青年だから、
あおりのあからさまな気紛れな行動を通して知らされるあおりの気持ちに気付かないはずはないだろうし、それに心を動かされないはずもないだろ
うと、陣内は思っていた。
「惚れたのか…」
陣内はぽつりと云った。
「そ…、そんなんじゃあありません…」
吉沢は、陣内の思わぬ言葉に狼狽えて云った。
「図星か…、どうやら吉沢自身、SSPをやめるかどうかを考えなければならないような、のっぴきならない気持ちにさせられているようだ…、
そうならない内に逃げを打とうとしてるのだろう…」
陣内は思った。
「まあいい…、何れにしても今の吉沢の任務は、社長命令だから…、私一存では決め兼ねる…、社長に吉沢の申し出を伝えて、お考えを聞いておく…、
と云うことで良いな…」
「是非ともお聞き入れ頂くようにお願いしてください…」
吉沢は真顔になって云った。
「よし…、吉沢の言い分は解った…、社長の判断が出るまでは、引き続き今の任務を遂行するように…」
吉沢を促して、陣内はその話を打ち切った。
陣内から吉沢の申し出の話を聞いて、佐々は苦笑した。
「流石のあの堅物も、あおりさんの裏技のアタックで、気持ちがぐにゃぐにゃにされそうになっているようだな…、近頃の娘は積極的だからなあ…、
それで、君自身はどう思う…、陣内部長…」
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「はあ…、吉沢自身SSP身分を維持できなくなる危険を感じているようですなあ…、逆に吉沢の心の中に芽生えた恋心に火が着かないとも限り
ませんが、一先ず他の対象に配置替えして見るのもいいかとも思います…」
陣内が進言した。
「そうか…、それじゃあ、吉沢を例の三人組の監視班に回すなり何なりて、あおりさんには、今の吉沢の非番の日の代役の山岡を専任に当てるの
はどうかな…、山岡なら大分年上だし、あおりさんも気紛れな行動は取りにくいだろう…、
吉行さんには、唐突な印象を与えないように、配置転換をすることを適当な理由をつけて予め伝えておいてもらいたい…」
「承知しました…、今週中に吉沢のあおりさん警護の任務を終了させます…、
丁度、今度の日曜日が吉沢の非番に当たり、山岡が代わりますので、それ以降山岡を専任にしましょう…、そうすれば交代も唐突には思われない
でしょう…」
「その辺りは、君に任せる…」
「あおりさんががっかりするかな…」
その後佐々はぽつりと云った。
*******
「SSPの通常の人事異動で、吉沢が別の部署に移り、吉沢の非番の日の代行の山岡志郎があおりさんの専任になり、この日曜の交代から引き続
いて山岡をお宅に伺わせます…」
陣内は、予め千代乃に伝えた。
吉沢は、普段から自分の任務を初め、SSPの組織内のことは何も話さないので、日曜の朝に家族が揃っている所に山岡が尋ねてきても、あおり
は、これまで通り吉沢が非番なのだと思った。
「今日から自分があおりさんの専任になりました…
自分の非番の日には、主に谷沢孝一と云うSSPが交代してくれます…」
山岡の口から聞かされて、あおりはひどく悄気返った。
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「もう、お兄ちゃん…、吉沢さんとは会えないの…」
あおりは半べそをかくようにして訊いた。
「はい、吉沢だけではなく、自分らSSPは、警護の対象者と個人的に会ったり、連絡を取ったりはしません…、
それが公正な警護をする上での鉄則ですから…」
山岡はあおりの気持ちを知らぬ気にあっさりと話した。
千代乃は、あおりの様子をじっと見詰めながら、あおりの花開かずに終わる淡い恋心のことを思い、あおりのことが大層愛しく思えた。結局その
日あおりは、
「今日は外出する予定がない…」と云って、自室に篭り切りなって一度も部屋から出ようとはしなかった。
山岡が車に戻って通常通り待機姿勢の警護に戻ると、千代乃は、あおりと話そうとして部屋のドアをノックして声を掛けたが、あおりは部屋のロ
ックをしたままそれにも答えようとしなかった。
「初恋は、春の淡雪のように消え去るもの…、直ぐまたもとのあおりに戻るだろう…なかなかめげない娘だから…」
千代乃は敢えてあおりに構わないことにした。
「体調が悪い…」と云って、登校しなかった。
結局あおりは、週が開けて三日間、
半年以上にわたってほとんど毎日吉沢と接していて、あおりは特に自分の心の中の変化を意識したことはなかった。あおりにとって吉沢は、自分
の日常とは全く別の世界からやって来る、かっこいいけど武骨で、無愛想な、しかしなぜか「ちょっと気になるお兄ちゃんで…、時に父親に代わっ
て我儘を言って甘えたくなる…」と云った程度の存在のはずだった。
だが、急に目の前から居なくなって、会いたくても自分から会う術もないと分ると、あおりは、自分の心の中にそれ以上の感情…、
「恋しい…」
と云う感情が育ってきているのに気付いた。そして、吉沢が来なくなってから日を追ってその感情が大きくなってくるのに自分自身で戸惑っていた。
「お兄ちゃんに会いたい…」と云う気持ちが強くなると同時に、「自分を外界から閉ざしたい…」と云う気持ちになって、あおりは、自分がどのよう
に行動したら良いのか判らなくなっていた。
「対象は、
「気分が優れない…」と云うことで、今日で三日目登校せず、家からも一歩も外に出ておりません…」
そんな報告を山岡から受けて、陣内は佐々にそれを伝えた。
「あ、そう…」と云っただけで、特に何も云わなかった。
それを聞いて佐々は、
「三日間登校してないと聞いたが、あおりさんの様子はどうなんですか…」
99
その後千代乃に連絡した時に佐々が訊いた。
「それが、私にも判らないんですの…、何しろ部屋に閉じこもったなりで、開けてくれないものですから…、昼間誰も居ない時に、下に降りて何
か適当に食べているようなので…、今のところ身体に異常があるとは思えませんけど…」
「SSPの山岡の話だと、三日間家から一歩も出ず、専用携帯も電源を切って応答しないらしい…、いきなり吉沢が居なくなったのがよほどショ
ックだったのかな…、家の人にも顔を合わせようとしないのが気になるなあ…、
とにかく今夜辺り何か手を打って、あおりさんと直に話せるようにして見た方がよくはないかな…、状況によっては、警護の方でも、対応を考え
てもらうから…
君とも暫く会っていないから、会いたいけれど…、そんな状態の娘さんを放ったらかしには出来ないだろうから、今は敢えて何処にも誘わないよ」
そう云って、佐々は電話を切った。
「私と一緒にお風呂に入ろう…」
その夜帰ると直ぐに、千代乃はあおりの部屋のドアを叩いてあおりを誘った。
「あおりに四日もそうやってお部屋に閉じこもっていられると、お母さん、もう心配で、心配で…、夜も眠っていられないのよ…、
ローズのアロマオイルを買って来たから、一緒にアロマ湯に浸かりながら、あおりの今の気持ちを聞かせて頂戴…、
お願いだから、ドアを開けて顔を見せて頂戴…、そしてお風呂に一緒に入ろう…、あおり…」
眠っているのか、起きているのか、部屋の中では「ことり…」とも音がしなかった。千代乃は、何度も懇願するように同じことを云って、何とか
あおりの反応を引きだそうとした。
それから小一時間も経った頃、
「かちっ…」と云う、ドアのロックを外す音が聞こえて、すう~っとドアが開いて、千代乃の目の前に、白いサテ
ンのネグリジェを着けて、髪の毛はぼさぼさに乱れて、青ざめた顔色のあおりが、まるで幽霊のようにぬう~っと姿を現した。
千代乃は一瞬ぎくりとしたが、千代乃の肩に倒れるようにしなだれかかるあおりを力任せに抱き締めるた。
「ああ~っ、良かった…、生きて居てくれて良かった…」
涙目になって云いながら、千代乃はあおりの背中を擦り回した。そして、肩に抱えるようにしてあおりを浴室に連れて行き、あおりのネグリジェ
を脱がせた。あおりは、ネグリジェの下に何も肌着を着けていなかった。四日間風呂に入っていなかったと見えて、あおりの薄い下草の辺りから、
100
饐えたような艶いた女の匂いが千代乃の鼻を突いた。
千代乃は、自分も裸になると、朦朧とした様子で裸で突っ立っているあおりを抱えるようにして、予め用意しておいたバスタブの中に入った。ボ
ディーシャンプーを入れて泡立てたバスタブの中で、柔らかくしたヘチマであおりの身体を擦って、四日分の垢を落としてやった。あおりは、初め
は擽ったがったが、黙って千代乃のするがままに任せた。湯を抜いてシャワーで身体を濯いで、再びバスタブに湯を張り、ローズのアロマオイルを
滴して、湯の中に座り、自分の膝の間であおりを後ろから抱きかかえながら、あおりが自分から何か言いだすのを待った。あおりは、自分の身体を
後ろから抱きかかえる母の腕を抱えて、俯き加減になって、ただ黙っていた。
「お母さん…、お父さんと結婚する前に、誰かを好きになったことあるぅ…」
暫く経ってあおりがぽつりと訊いた。
「もちろんあるわ…、丁度あおりぐらいの頃に…、相手の人は随分大人だったから、片思いで終わったけどね…」
「その人とは、何もなかったの…」
「だらら云ったでしょ…、片思いだったって…、大学の先生で、結婚して子供もいたのよ…、その内にアメリカの大学に客員教授に招かれて、家
族連れで行ってしまったわ…」
「それで、その人に会いたくならなかったあ…」
「初めの内は、会いたくなったけれど、直ぐ勉強の方が忙しくなって、そんな気持ちは、いつの間にか消えてしまっていたわ…、今では淡い想い
出よ…、あおりに訊かれるまでは、思い出しもしなかったわ…」
「私ねえ…、お母さん…、吉沢さんって、かっこいいけど、武骨で無愛想だし…、そんな風に思っていると思っていなかったの…、そしたら急に
別の所に移って、もう会えないって訊いたら、急に気がついたの…、吉沢さんのことが好きなんだって…、
何処に移って行ったのかも判らないから自分から会いにも行けないし…、会いに来てくれる理由もないって判ったら…、急に恋しくなって…、会
いたくて…、会いたくて…、こういうのが恋なのかなあ…、会えないと分ると余計会いたくなるし…、切なくて…、切なくて…、私、自分がどうか
なっちゃうんじゃあないかと云う気がして…、誰とも口を利きたくなくて…、閉じ篭もったの…、お母さんを心配させてごめんなさい…」
「あおりが吉沢さんを好きになってるって…、お母さんには判っていたわ…、
吉沢さんは特別なお仕事についてらっしゃるし、あおりはまだ未成年で高校生だから、普通の男と女のような訳にはいかないけど…、あおりの吉
沢さんを思う気持がずう~っと長く続いて行くようだったら、吉沢さんはまだ独身だから、将来あおりの恋が成就しないとも言い切れないわねえ…、
101
ひ と
武骨で無愛想でも、正義感が強い人のようだから、女には頼りになる男性のような気がするわ…、
でも、そんなことよりも、今のあおりにとって大切なことは、人を好きになれる心を大切にすることと…、その思いをエネルギーに変えて、人と
して成長して、人から本気で好かれるような中身のある女になることだわ…、恋煩い…、なんて、今時流行らないでしょう…」
千代乃は、これを機にあおりが本気で自分の人生を見詰めて生きて行ってくれることを願いながら、云った。
そこへ、清香が帰ってきて、浴室のドアを開けて、顔を覗かせた。浴室の中がローズのアロマの良い匂いが立ち込めていて、千代乃があおりを抱
きかかえるようにして一緒に浸かっているのを見て、清香はまたいつものように軽口を利いてあおりをからかおうとしたが、あおりの様子がいつも
と違うのに気付き、千代乃が目顔で制したので、口を噤んでドアを閉めた。
「あおりのやつ、四日も閉じ篭もりをやるなんて…、本気であの武骨で無愛想な年上の男を好きになったのかなあ…、見掛けによらず随分と乙女
チックな性分なんだ…、私よりよっぽどデリケートにできてる…、
ストーカー騒ぎもまだ完全に終わってないことだし…、何かと気持ちが揺れやすいんだ…、
まっ、ああやってお母さんに抱かれてアロマ湯に浸かっている内に、またいつもの元気なあおりに戻るさ…、
それにしても、あおりのやつ、私より先に恋心の遣る瀬無さを経験するなんて…、ませてるなあ…」
清香は、口の中でぶつくさ言いながら、遅い夕飯の支度に取りかかった。
「あおりがようやく閉じ篭もりを辞めて、今日から登校するようになりました…」
翌日、千代乃は出社する前に佐々に知らせた。
「ああ、もう山岡からの報告が私にも届いているよ…、まあ、あおりさんは元々気が強くて快活な娘さんだから、その内閉じ篭もりは止めるだろ
うとは思っていたが、自閉症になったり、拒食症になったり、果ては自殺するなんてことにならずに良かった…、
暫く様子を見て、必要なら、また対策を考えよう…」 それにしても、千代乃さんも随分気をもんだろう…、四日間夜もおちおち眠っていられなかったんじゃあないかな…、察しがつくよ…、
あおりさんの生活が元通りになったら、定例の店長会議の後、また何処か温泉に誘おう…、私の方も恋煩いしそうだ…」
「まあ…、ご冗談を…、何れにしても、あおりのことでまたまたご心配をお掛けして申し訳ありませんでした…、あおりもその内元通りの生活に
戻ると思いますので、もうお気に掛けないようになさってくださいな…」
千代乃自身も佐々と心置きなく逢える日を待ち焦がれる気持ちを押し殺して、云った。
102
あおりは、一週間もするとまたいつもの快活で好奇心の強い娘に戻った。初め、級友たちはいつもの「いかすお兄さん」でない人があおりをエス
コートするようになったことを訝った。
「うん…、会社の人事異動で別の部署に就いたんだって…、一人の人に長いこと張り付いているのは、警戒心に緩みがでるから警護の勤めには良
くないんだって…」
あおりは自分も拘泥ってないような顔をしてあっさり云った。
これで一先ずは落ち着けると判断して、定例の店長会議の後、千代乃はいつものように佐々の誘いに応じた。千代乃の女自身もそれを待ち焦がれ
て、絶えず濡れていた。
佐々の車に乗り込むと、千代乃はいつになく積極的に佐々の肩口に顔を埋めて、「私も恋しかったわ…」と云った。
さあ、これでやっと久しぶりに二人で骨休めができそうだ…」と、佐々も千代乃との逢瀬を待ち焦がれていたことを言外に匂わせて云った。
「
いさわ
和温泉という、山梨では一番大きな温泉郷の宿に、専用の露天風呂つきの部屋を予約してあるから、誰にも気兼ねなくゆっくりでき
「今日は、石
るよ…、
」
佐々は、千代乃が当然反対しないと決めてかかって、何もかも一人で予定を立てていた。
「ら、何から何まで一人でお決めになったのね…」
あ
千代乃は、言外に自分の意志が無視されていることへの不満を匂わせるように云った。
あっ、これは悪かった…、初めに了解をとるんだったかな…、どうも、これまでの習慣が抜けていないようだな…、千代乃さんの気持ちを確か
「
めずに計画して気を悪くしたんだったら…、ごめん…、」
佐々は、素直に謝った。
いろいろ気を遣ってよくしていただいているのだから、別に責めるつもりはないんですのよ…、ただ、あまり何もかもだから、…」
「
「れはそうだ。一生懸命良くしようと気を使って、かえってそれが気持ちの上で負担を掛けてしまったんでは、虻蜂取らずだ…、これは私が悪
そ
かった…、まあ、今日のところは、機嫌を直して…、千代乃さんとの逢瀬を待ち焦がれていたもんだから…」
私、本当のところは、嬉しいんですのよ…、あなたを見たら、私の娘も会議中から濡れ始めて…、会議も上の空でしたわ…」
「
103
正直に云って、千代乃は佐々の方に向き直って、にっと微笑んだ。
ああ~、よかった…、どれ…、どんなになってるの…、もっとこっちに寄ってご覧よ…」
「
佐々は千代乃を促して、ワンピースの裾をたくし上げて、掌を千代乃の股間に当てた。千代乃はその佐々の手の動きに合わせて自然に膝頭を緩め
て、佐々がプーベをとらえ易いように左膝を開いた。
「ほんとだ…、もう、こんなにうるうるになってる…」
佐々は、佐々は千代乃のプーベを掴んで、中指で千代乃の小核を弄った。「あああっ…」と、千代乃は小さく叫んで、身体を痙攣させて、かなり
千代乃が兆していることを教えた。佐々は、安堵の表情を浮かべて、千代乃に微笑み掛け、「それじゃあ、急いで行こう…」と云って、車を発進さ
せた。
石和には、二時間足らずで着いた。その間、佐々は終始、インターネットの旅行情報から仕入れたネタだと云って、石和温泉郷の沿革だとか、温
泉の効能だとか泉質だとか、千代乃に話して聞かせていた。それを意識の底で聞くともなしに聞きながら、千代乃はいつしか微睡んでいた。
さあ、着いたぞ…」
「
千代乃の方を向き直って、佐々は初めて千代乃が眠っていいるのに気付いた。
「代乃さん、着いたよ…」
千
佐々は千代乃の肩を揺すった。
「ら、眠ってしまっていたのね…、ごめんなさい、失礼なことをして…」
あ
「このところ、だいぶ疲れが溜まってたようだね…、あおりさんのことで夜も眠れないと云っていたし…、無理もないな…、さあっ、ここの温
こ
泉は溜まったストレスの解消に良く効くんだそうだぞっ…」
佐々はいたずらっぽい眼差しで、千代乃に微笑み掛けながら云って、千代乃に降りるように促した。
「いらっしゃいませっ…」
何人かの和装の仲居や、法被姿の男衆が車寄せに飛んで出てきて、二人を丁重に迎え入れた。男衆の一人に車を目立たないように車庫に入れてく
れるように云ってから、佐々は千代乃の肩を後から支えるように、玄関口に入った。
おいでなさいませ、さあさっ、お待ちしておりました…」と云って二人を招じ入れた。
中に入ると、女将や仲居頭が上がり框まで飛んで出て来て、 「
そこは、佐々の馴染みの旅館のようだった。
「蒲の間にご案内して…」と仲居頭に云い、 私「も後ほどお部屋にご挨拶に伺います…」と佐々に向かって云って、奥に引
女将は万事心得顔で、 菖
104
っ込んだ。
二人は、沢山の真鯉や緋鯉の泳ぐ池のある大きな中庭を横切るガラス張りの廊下を突っ切って別館三階の一室に案内された。別館は二棟、大きな
和風庭園に面して、飛行場のサテライトのような形で突き出して建てられていた。部屋は、控えの間を入れて三部屋あった。前の間の中央には縁に
唐草模様の彫り込んである丸い大きな茶卓が置いてあり、上に置いてある盆に二人分の茶菓の用意がしてあった。
「もなく女将がご挨拶に参ります…」と云って、出て行った。
仲居頭は、急須から湯飲みに香りのよい緑茶を注いでから、 間
二人は、お茶を啜りながら、無言でお互いを見詰めていた。やがて、佐々は目で千代乃を労い、愛撫し始めた。千代乃は、少し面映ゆい気持ちで、
俯いた。そこへ、 入ります…」と、声を掛けながら、女将が入ってきた。
「
ようこそおいでなされました…」と云った。
女将は、茶卓の下手に正座して、三つ指ついて額を畳に擦り付けんばかりに平たく頭を垂れて、 「
頭を上げると、 宿「帳にご記入をお願いします…」と云って、古風な感じの宿帳控えを佐々の前に差し出した。
妻・千代乃」と書いた。
佐々は、自分の名前の横に、 「
ま「あ、佐々様、しばらくお見えにならないと思ったら、こんな綺麗な奥様をおもらいになっていたなんて…、ちっとも存じ上げませんでしたわ…、」
それを見て、女将は、悪戯っぽい目で佐々を睨むように見て、云った。
」
「日は、ちょっとした慰安でね…、長逗留はできないんだが、何れまたゆっくり寄せてもらうよ…、
今
佐々は、女将の皮肉っぽいお上手をはぐらかすように云った。
「佐々様の浮いた話しはついぞ聞いたことがありませんでしたのに、いつの間にこんなお綺麗な方をお探しになったんですの…」
佐々をからかうように女将が云った。
[待てば海路の日和あり…]かな、わあっはっは、これはちょっと古風だったかなあ…」
「、私も木石ではないのでね…、
ま
佐々は笑いで女将を煙に巻こうとした。
何はともあれ、おめでたいことで、今宵はごゆるりとお寛ぎ下さいませ…、ただいまお食事の用意をさせますので、その間に奥の寝間のベラン
「
ダにあります露天風呂で汗をお流し下さいませ…」
女将は再び深々と頭を下げて、すり足で後に下がってから出て行った。
「うさせてもらおう…」と云って、佐々は立ち上がった。
そ
私は、一人で外湯の方に参りますわ…」
「
千代乃は、そう云って、宿の浴衣と羽織と手拭を持って出て行った。
105
「それでは、私もそうしよう…」と云って、佐々も浴衣とタオル一本だけを持って千代乃の後を追い、二人肩を並べて大浴場に向かった。脱衣所
で衣服を脱いで、浴室の中に入ると、入口こそ男女別々になっていたが、中は混浴だった。
「こんなことなら、離れのベランダの風呂を使うんだった…」
「部屋の風呂の方が良かったんじゃあないの…」
千代乃は思ったが、もう遅かった。佐々も混浴に気付いて、直ぐに千代乃の側に身体を寄せてきて、
と千代乃に囁くように云った。
浴槽の中には、左手に中年の女性客の一団が、湯煙に霞んで見える以外は、男性客は遠くにちらほら、煙って見える程度だった。それでも、千代
乃は、
「長居は無用…」と、
「汗を流すだけにして上がりましょう…」と、佐々に寄り添うようにして湯に浸かった。そして、「あなた以外の他の男
の人に裸を見られるのは嫌…」と云って、ものの五分と経たぬ内にさっさと上がって、脱衣所に消えた。佐々も千代乃に同調して上がった。
脱衣所で、千代乃は、下履きの換えを持って来なかったことに気付いた。千代乃は、「ままよっ…」とばかり、浴衣を素肌に羽織り、丹前を腰巻
きに着て、汚れた下履きをさっと水洗いしてタオルに包んで、外に出た。廊下には、既に佐々が出て待っていて、千代乃の丹前を腰巻きに着た姿を
「うふふっ…、言わぬが花…」
見て、
「どうしたんだい‥」と、訝しげに訊いた。
悪戯っぽい目付きで、流し目で佐々を見上げて、千代乃は云った。
「そうか…、今ではそんな風習はすっかり廃れているが、昔は、打掛を腰巻きに着るのが、少なくとも上流階級では普通だったんだ…」
佐々は、遠い昔に見た「お市の方の腰巻姿の肖像画」を思い出して、独り言ちた。
「上が絹の重ね着で、緞子の打掛の腰巻き姿だったら、ずっと雅に見えて素敵だったろうね…」
佐々が千代乃の耳元で囁いた。
「あらっ…、そんなことご存知でしたの…、昔は、腰巻きと云えば、腰に捲くようにして着る上衣のことだったんですのよ…」
千代乃は、佐々の意外な知識に驚いたように云った。
「知っていたと云うより、昔の上流階級の女性たちの腰巻き姿の肖像画を思い出しただけさ…、そんな優美な女性の姿を見る機会は、今はもうな
いけどね…」
佐々は素直に云った。
部屋では、丁度夕食の配膳の最中だった。千代乃が寝間の外の縁側のた手拭掛けにタオルと洗った下履きを掛けて、腰巻きにした丹前を肩に羽織
って食膳の間に戻ると、丁度食膳の準備が終わった所だった。仲居たちは、千代乃が丹前を腰巻きに着ていたのに気付いていなかった。
106
「ご苦労さまです…、後は、こちらで勝手にやりますので、お構いなく…」
「それではごゆるりとお召し上がりください…」
千代乃が云うのに答えて、
深い一礼をして仲居たちが出て行くと、やっと二人だけの世界がやってきた。
千代乃が佐々の左側に座るのを待つのももどかし気に、佐々は、千代乃の唇を吸い、すかさず右手を正座している千代乃の浴衣の裾に挿し入れて
きた。
「あら…、随分とせっかちなのね…、折角の食膳が冷めて不味くなりますから、先にお食事を済ませましょう…」
千代乃は軽く佐々の気持ちをいなした。
だが、佐々は、それには構わず、千代乃の腰を引き寄せて、正座を崩させて、掌を千代乃のプーベに押し当ててきた。千代乃の自制心とは裏腹に、
千代乃のそこは、また潤いに溢れていた。佐々の掌が千代乃のプーベを掴み、谷間に沿って長い中指で擦って、小核をとらえると、千代乃の自制心
も利かなくなっていた。千代乃は、目を閉じて「うう~ん…」と軽い鼻声を上げて、佐々の肩口に顔を埋めて、首筋に噛み付くように吸い付くと、
千代乃は自ら佐々の腰の上に伸し掛かって行った。そして千代乃が左手で佐々の浴衣の裾を捲ると、そこには既に怒張した佐々の肉塊が聳え立って
いた。
千代乃は、それを掴むと、自ら腰を割って佐々の腰に跨がり、その肉棒を自分の手で朱門に当てがい、腰を沈めた。
佐々は、千代乃がそのような積極的な行動に出たことに驚いていた。そして、それほどまでに千代乃が昂ぶっていて、いかに千代乃の強い欲求が
押さえつけられていたかを知った。その日の千代乃には、いつものような長い手続きは必要なかった。発情した野獣のようにいきなり性を交えたか
った。後は成り行きだった、上体で佐々の首筋に齧り付き、膝を使って腰を激しく上下に動かして、自分で敏感なスポットに佐々の雁首を誘い、激
しい息遣いでそこを激しく擦り、更に腰を落として、雁首を奥に誘い、腰を回して、そこを弄り、やがて「もうだめ…、もうだめ…、往くわ…、往
く…、往くう~っ…」と、野獣のような叫び声を上げて、頂点に達することを佐々に告げて、全身を佐々の身体に伸し掛けて、佐々にしがみ着いて
果てた。佐々も、その千代乃の絶頂に合わせて精を二度三度と発射して、千代乃をしっかりと抱き締めた。
荒い呼吸が治まると、千代乃に急に恥ずかしさが込み上げてきた。千代乃が初めから終いまで自ら主導権を取ってした野獣のような情交に、、千
代乃自身も佐々も驚いていた。
「恥ずかしいわ…、私がはしたないことをした…と、お思いになったでしょう…」
千代乃は佐々の耳元で囁いた。
「それほど、私を恋い焦がれていた…ということだ…、女性でもそういうことがある…ということを初めて知った…、
107
それで、千代乃は、満足できたかい…」
「それが…、いつもと違うのよ…、満足した…と云うよりも…、ただ気ばかりが逸って…、それを鎮めるのに夢中だった…みたいなの…、やっぱり、
あなたがリードしてくれる方が心から満足できるみたいだわ…」
「性欲が押し殺されていると、君のような淑やかな女性も、こんな風になるんだと分ったよ…、正直云ってただ驚いている…」
佐々は千代乃の髪の毛を弄りながら、千代乃の顔中に接吻をした。そして、「さあ…、君の娘を押し宥めた所で、一先ず休んで、食事にしよう…」
「今日の君のオソソは、淫乱な顔付き
そう云いながら、佐々は、起き直って、まだ怒張の続いている玉茎を千代乃の火床から抜き取ろうとして、
をしているな…、これはオソソではなくてボボだな…」と付け加えた。
「嫌だわ…、あなたにそんな風に思われるの…、私、なんてはしたないことをしたのでしょう…、取り返しのつかないほど恥ずかしいわ…」
千代乃は心底自分の思い掛けない行動を後悔し、恥じ入るばかりだった。
「狂ったような性欲に身を任せるのは、男ばかりではないということさ…、女はそうなってはならない…と思い込まされてきただけだよ…、昔の
上流社会では、女は絶頂に達しても「聲一つ上げてもいけない」と教えこまれていたそうだからね…
しかし、女に至福の喜びを与えるのは、やはり男の役目で、女が自分でそれを追求するものじゃあない…と思うから、今後は出来るだけ千
代乃に主導権を取られないようにしよう…」
その後、二人は浴衣の淫液で汚れた部分を水で摘み洗いして、座布団に着いた汚れを濡れタオルで拭き取ってから、食事にした。そして仲居たち
が後片づけに来る前に閨に入り、外のデッキにある岩風呂に入って心ゆくまで睦み合った。今度は、佐々が主導権を取って、千代乃は何度も頂点に
達して、心ゆくまで至福の喜びを味わった。
「やっぱり、私が主導権を取って愛している時の方が、千代乃さんは綺麗で可愛らしい…」
佐々は、可憐に喜びを表現する千代乃の姿を見て、云った。
こうして、二人は、食事の時以外は寝間から起き出しもせずに、久方ぶりに心ゆくまで睦み合って、二泊して帰途についた。
「社長さん、新婚さんみたいでしたわね…」
帰りさに、佐々が女将から冷やかされながら、二人は石和を後にした。
*******
108
その事件の知らせがSSP部長の陣内から佐々に伝えられたのは、石和からの帰途だった。それは、佐々を護衛する車のSSP達にも伝わった。
日曜日の非番と云うことで、あおりの護衛は山岡に代わって谷澤が代行していた。
その日、「咽元過ぎれば熱さを忘れ…」易いあおりが、また例によって気紛れな行動を取った。買い物に行くということで、電車に乗って渋谷に出た。
谷澤はSSPの鉄則に従って、少し離れた位置からあおりを見張っていた。だが、谷澤は、あおりの気紛れな行動に慣れていなかった。
あおりがとあるブティックに入って、なかなか出て来ないので、中に入って訊くと、「つい今しがた反対側の出口から出て行った…」と店員が答えた。
谷澤が慌ててその出口から出てスクランブル交差点の近くまで行くと、交差点の手前で対象が今しも大柄な茶髪の男二人に腕を掴まれて車に押し
込まれようとしている所だった。あおりは、大きな叫び声を上げて周りの人に助けを求めながら、捉まれている相手の男の腕に噛み付いたりして、「お
兄ちゃん助けてえ~」と叫んで必死に抵抗していた。
周りの通行人は、ただ驚くばかりで、遠巻きに身を避けて眺めているだけだった。駅前の交番の巡査が様子に気付いて、駆け出して来ようとした
が、あいにく赤信号で地団駄を踏んでいた。その間にあおりに噛み付かれた男は血が頭に上って、あおりを張り倒した。
あおりは、勢い余って通行人が身を避けて出来た歩道の空間に膝から崩れ落ちた。それが却って谷澤に幸いした。
「このやろうっ…、今度は何が何でもいたぶり尽くしてやる…」
男は、凄みながらあおりに近付こうとした。そこへ谷澤が飛び込んで行って、男の腕をねじ上げて、あっという間に男を歩道に叩き付けた。
「このやろう…、余計な手出しをするんじゃあねえ…」
それを見たもう一人の男が、ジャックナイフを取り出して、谷澤に襲い掛ろうとした。だがそれも所詮SSPの谷澤の敵ではなかった。あっとい
う間に腕をへし折られて、ナイフを取り落とし、その上に歩道に叩き付けられてしまった。
その瞬間、周りで我が身の危険を避けながらただ見ていただけの群衆が一斉に拍手をした。
「全く、現金な奴らだ…」
苦々しげに吐き出しながら、谷澤はあおりに近付いて、屈みこんで名前を呼んだ。あおりは気絶していた。谷澤の見た限り、あおりは膝から崩れ
て倒れつつ腕を付いた筈なので、頭は打っていなかったと思ったが、念のため頭を調べた。頭には打撲や裂傷の後は見られなかった。
「何ぐずぐずしてんだよお…、早くしろよお~っ」
109
車を運転していた男が、叫んでいるところで、信号が歩行者用の青に変わり、二人の警官が駆け出した。
「あっ、やべえ~…」
と云いながら、その男はやにわに車をもと来た方向に猛スピードで後退させた。
谷澤は、あおりの頭を自分の広い肩で支えて両脚を揃えて抱きかかえたところへ、二人の警官が駆け付けて来た。
「急いで救急車っ…」と、谷澤は、警官に向かって叫んだ。群衆の足元に投げ出されていたブティックの紙袋を、誰かが拾ってあおりの腹の上に
乗せた。
「あなたは…」
警官の一人が谷澤に訊いた。もう一人の警官はトランシーバーで救急車を呼ぶ手配をした。
」
「この女性の護衛の者です。今そこのブティックで捲かれてしまって、後れを取ったためにこの事態になりました。
別の警官は、苦痛で顔を顰めながら蹲っている二人の茶髪の男達に向かって、「おいっ…、大丈夫か…」などと、のんびりした口調で、様
子を訊いていた。
「何を悠長なことを云ってるんだ…、早くそいつらを婦女子誘拐未遂の現行犯で逮捕せんかあ…、もう一人、車を運転していた奴がいる…、その
車の番号は控えたのかあ…」
谷澤は、激高した口調でまくし立てた。
「あなたは…」と、またその警官が訊き直した。
「だから云ったでしょう…、この女性の護衛を勤める民間のシークレット サービスの者で、谷澤孝一と云います…、この女性は、まだ高校生ですが、
そいつらのストーカー行為に悩まされていたんです…、だから私が護衛として派遣されていたのですが…、不覚にも、この女性の気紛れで、この有
り様です…」
谷澤は落ち着きを取り戻して名乗利、事情を説明した。
「今の車のナンバーはこれです…」
その時、群衆の中から、車道脇に居た一人が、紙切れを警官に渡した。遠くから、救急車のサイレンの音が次第に近付いてきた。
「お兄ちゃん…」
あおりが気付いた。そして誰かに抱きかかえられているのが分かって、「誰え…、お兄ちゃん…」
と云いながら、顎を上げて、谷澤を見た。
ややあって、
110
「ああ…、谷澤さん‥」と云って、また目を閉じた。谷澤は、歩道に跪いた姿勢であおりを抱きかかえていた。
十五分ほどで救急車がやって来た。二人の白衣を着た救急隊員が折り畳み式のストレッチャーを引き出して、近付いて来た。
「私はこの女性に付いて病院に行きます…、取り敢ず名刺を渡しておきますが、後で渋谷署の方に伺います…、それと一部始終を見ていた、群集
の中から証言者を今すぐ募ってください…、車のナンバーを控えていてくださった方には、必ず証言者になってもらってください…」
谷澤は、立ち上がってあおりをストレッチャーに乗せると、警官にそう云い、救急車に同乗して、病院へ向かった。
*******
「お兄ちゃん…、私を助けに来てえ…、ずっと私を守ってえ…」
「救急病院へ向かう車に揺られながら、あおりは、、心の中で呟いていた。
佐々は、千代乃に事件のことを伝えるかどうか、一瞬迷った。事件の知らせが入ったのは、折角気分良く週末を過ごして上機嫌で帰る途中でのこ
とだからだった。この後、例によって砧のレストランで食事をして締め括る予定だった。が、そんな場合ではないと思い、先にレストラン砧に予約
のキャンセル伝えた。
そんな佐々の顔を千代乃は訝しげに見詰めた。
「千代乃さん…、今日は砧のレストランに寄らずに、まっすぐ青山に行くことになった…、
どのように話そうか、少し迷ったんだが…」
佐々は、口を噤んで少し間を空けた。千代乃は、いつもの佐々らしくない様子に、何か不安な影を感じた。
「千代乃さん…、あおりさんがまた事件に巻き込まれたようだ…」
佐々は意を決して切り出した。その佐々の言葉で、千代乃は一瞬にして凍った。
「……どんな事件ですの…」
千代乃は不安に駆られて訊いた。
111
「今、陣内部長から連絡が入ったんだが、あおりさんが渋谷に買い物に出て、危うく例の三人組に車で拉致されそうになったらしい…
今日の警護は、非番の山岡SSPに代わって、谷澤SSPだったようだが、あおりさんはブティックに入った後、そのまま谷澤SSPを捲こうと
したらしい…、谷澤SSPが不審に思ってそのブティックに入ったら、もうあおりさんは反対側の出口から出て行った後だったんだと云う…、谷澤
SSPが直ぐその出口から出て後を追ったところが、スクランブル交差点の近くで、拉致しようとする男達にあおりさんが激しく抵抗して居るとこ
ろだったそうだ…、一人の男の腕にあおりさんが噛み付いて、その男があおりさんを張り倒したのが逆に幸いして、谷澤SSPが現場に到着して、
二人の男の腕をねじ伏せて放り投げたので、あおりさんは難を逃れたようだが…、あおりさんは、喉元を過ぎると何もかも忘れてしまうタイプの娘
さんのようだなあ…、今度のことはちょっと厄介になりそうだ…」
話し終えると、佐々は渋い顔をして口を噤んだ。
「………」
千代乃は、頭の中が真っ白になって、言うべき言葉が見付からなかった。
「今、砧のレストランの予約をキャンセルしたのは、これから千代乃さんを、あおりさんが運ばれて行った青山救急医療センターに直接お連れす
るためです…」
「…………」
千代乃は、佐々の声を遠くに聴いて、あおりがなぜそんな行動を取ったのかを考えていた。
「誰かの注意を自分に向けさせたいのか…、誰かってぇ…、それは言わずと知れたことだわ…、吉沢さんしか居ないわ…、困った娘だこと…、と
にかく早く行って、あおりを抱き締めてやるしかないわ…」
「千代乃さん…、大丈夫か…」
佐々は虚空を見詰めて口の中でぶつぶつ云っている千代乃を見て、心配げに千代乃の顔を覗き込むようにして云った。
「…………はあっ…、私どうかしてましてえ…」
千代乃は我に返って、佐々に訊ねた。
「ああ…、空を見詰めて、何かぶつぶつ呟いていたようだったよ…、よほどショックだったんだねえ…」
「あら…、そうでしたの…、何か急に頭の中が真っ白になって…、何も意識してませんでしたわ…、ごめんなさい…太輔さん…」
「あはははっ…、千代乃さん、初めて私の名前を口にしたねえ…」
「そうでしたかしら…、いつもはなんて呼んでましたかしら…」
「あなた」だよ…」
「社長さん…か、
112
「あっ、そう…、そうでしたわねえ…」
千代乃の頭はまだ混乱しているようだった。
「私、あおりが拉致されそうになったって聞いて、頭が変になってしまってますわねえ…、あ、そう…、私、今、あおりがなぜそんな行動を取ったのか、
考えていたのですわ…、あの歳頃の娘のすることって、突飛もないことが多くて…、理解に困りますわ…」
「答えは単純だよ…、吉沢SSPの注意を惹きたい…、吉沢SSPに見守って居てもらいたい…、そんなところだろう…」
「私も今、そんなことを考えていましたわ…、でも本当のところは、まだ謎…だと思いますわ…」
「とにかく、難しい歳頃だからなあ…、親はみんなそれで苦労するんだ…、「もっか乳離れ中」みたいなもんだからなあ…、
さあ、渋谷に着いたぞ…、ガードを潜って坂を上がれば、青山救急医療センターは直ぐだ…」
「社長さんに、またご迷惑をお掛けして…、何とも申し訳ありません…、私は、あおりがこんな問題児になるとは思いませんでしたわ…、父親が
早くに亡くなって、どーんと受け止めてくれる人がいないせいですかしらねえ…」
「それほどでもないと思うよ…、高校卒業を前にして、進路を決め兼ねている時に、少し精神的に不安定になっているからだよ…、進路がはっき
り決まれば、落ち着くさ…」
「そうだといいんですけどねえ…」
「さあ、着いた…」
佐々は車を地下駐車場に入れて、エレベーターで二階の正面玄関受付前に千代乃を連れて行った。千代乃が受付であおりの入れられている病室を
聞いている間に、
佐々の車の後にぴったり着けて来たSSPの一人が佐々に近付き佐々と車のキーを交換した。SSPは二人から三人に増えていて、
その一人が吉沢だった。吉沢は、渋谷警察に行って事情を話している谷澤の代わりだった。佐々は、三人の大男に囲まれるようにして、携帯電話で
陣内と話をしていた。千代乃が佐々を探してあたりを見回しながら近付いてきたので、「詳しくは後で訊く…」と云って電話を切った。SSP達は
さっと身を翻して佐々から離れたので、千代乃は吉沢の存在に気付かなかった。
「幸い膝小僧を擦り剥いた程度で、大した外傷もないようで、念のため一晩入院させることにしたのだそうですわ…、ただ精神的には大変ショッ
クを受けていて、今は安定剤で落ち着かせているようですわ…、社長さん、お忙しいお体でここまでお送り頂いてありがとうございました…、後の
ことは、私一人で大丈夫ですから、どうぞお引き取りくださいな…、詳しい成り行きは、明日お店に出てからご連絡いたします…」
「そうさせてもらうよ…、谷澤SSPは今渋谷署の方に行っているようで、代わりに吉沢SSPが付いてくれる予定です…」
「あおりがびっくりするかしら…」
「いや、安心するんじゃあないかな…、それじゃあ、明日連絡を待って居ます…、お疲れさまでした…、あおり君のことが心配でゆっくりもして
113
いられないかも知れないが、出来るだけ英気を養って、明日からの仕事に精を出してください…、ではまた…」
佐々はそれだけ云うと、身を翻して、エレベータの方に歩いて行った。二人のSSPが直ぐ後を追ったが、千代乃はそれがSSPだとは思ってい
なかった。
千代乃は、病棟三階のナースセンターに寄ってあおりの部屋を訊き、「主治医の先生にあおりの様子をお尋ねしたいのですが…」と云った。
「吉行あおりさんの先生は…と、…ああ、松田先生ですね…、病棟の先生ではなくて、救急外来の先生です…、もう少ししたら、様子を見に上が
って見えると思いますので二十五号室でお待ちください…三人部屋です…」
応対したナースが云った。
千代乃が二十五号室に行くと病室の前のベンチに吉沢SSPが座っているのに気付いた。
「あらまあ…、吉沢さん…、またあおりのお守りをしていただけるのですか…」
千代乃は、挨拶抜きで、屈託なげに普通の母親の声で云った。
「いや…、自分は、今日だけ、渋谷署に事情を説明しに云っている谷澤に代わって、あおりさんの護衛を言い付かっただけです…」
吉沢が答えた。
「あおりには会われたのですか…」
「いや…、自分らSSPは、護衛をする対象の方と個人的に接触したりはしません…」
吉沢はぶっきらぼうに云った。
「でも、一度ぐらい顔を見せてやっていただけません…、精神的に酷いショックを受けてるようですから…、きっと励みになりますわ…」
「話は聞いてますし、お気持ちは分りますが、自分らは、命令が出ない限り、それは出来ないのです…」
「随分と頑固なんですのねえ…」
千代乃は諦めて部屋のドアをノックして、中に入った。
あおりは、右端のベッドに横たわって眠っていた。三人部屋だと云っていたが、真ん中のベッドは空いていた。千代乃は、両腕を掛け具の中に挿
し入れてあおりの右手を両手で握った。
「お、お母さん…」
暫くしてあおりが気付いて、訊いた。
「そうよ…、お母さんよ…、随分心配させてくれたわね…、話を聞いて頭の中が真っ白になったわ…」
114
「お母さん…、ごめんなさい…、私、ほんとにバカだったわ…、あんなところでまたあいつらに出逢うなんて思いもしなかったのよ…、だから堅
物ばっかりのSSPを少しからかってやれと思って…、ブティックの反対側の出口から出たのよ…、
「もう一瞬自分が気付くのが遅かったら、ほんとに拉致されて酷い目に遭わされていた筈だぞお…、甘えるのも
谷澤さん、後でぶりぶり怒って、
いい加減にしなさあ~ぃ…」って、大きな声で怒鳴られちゃったわ…、その後、ここに寝かされて…、
うとうとっと眠ったら…、とても怖い夢を見たわ…、あいつら三人に代り番こに乱暴される夢よ…、うなされて…、いやだ…、いやだ…って、悲
鳴を上げて目が覚めたら、看護婦さんやら、先生やらが飛んで来て…、何か注射されて…、また眠っちゃってたの…
お母さん…、経験したこともないのに、どうしてあんな夢を見るの…、私、汚らわしくて…、汚らわしくて…、死んでしまいたかったわ…、
私、砧であいつらに酷いこと云われてから、頭がどうかしちゃってるのかなあ…」
「いろんなことが云えるわ…、あおり…、でも、何を言っても今のあおりには役に立たないわ…、前に云ったでしょう…、あおりが油断していれば、
あおりを襲って来るのはあの三人だけじゃあないって…、あなたがそんな風に自分を大切にしないで、無警戒に好き勝手な行動を取るんだったら…、
周りでいくら一生懸命守ろうとしても、守り切れないわ…、
あなたを護衛しているSSPの方たちは、本来の任務に就いている訳ではないのよ…、佐々社長の命令だから、我儘で気紛れな娘でも全力で護衛
して、守ろうとなさっているのよ…、SSPの護衛が鬱陶しくて厭だったら…、もう護衛をしていただくのは止めましょう…、その時は、もう自分
で自分を守るしかないわ…、その方が却ってあおりには良いかも知れないわね…、
折角のガードを、勝手気侭に外してしまって…、無防備な自分を曝け出すなんて…、お母さんには信じられないことだわ…、それであおりにどん
な得があったのか…、さっぱり解らないわ…、最初に吉沢さんから護衛される立場の心得をいろいろ話していただいたでしょう…、それをあなたは
しょっちゅう反古にしてきたわ…、吉沢さんがどんなに困っていらっしゃったか…、あなたには分らないでしょうけど…、お母さんの耳には全部届
いているのよ…
今度のことで、あなたは自分の気侭で軽率な行動がどんな結果を招くか、良く分ったでしょう…、
あなたは怖い夢を見た…と云っていたけど、あなた自身、実際に連れ去られていたら、どんなことになったか想像がついたからそんな夢を見たの
でしょう…、お母さんだってそんなこと想像しただけで身の毛がよだつわ…、自分にではなくて、あおりにそんなことが実際に起こっていたら…、
お母さんは狂い死んでしまうわ…、
お母さんが今どんな気持ちであなたを見ているか…、あなたには分らないでしょうけど、困り果ててただ泣きたい気持ちよ…
とにかく、お家に帰ったら…、今後どうするか…、清香と三人でじっくり話し合いましょう…」
115
丁度そこへ、担当の松田医師が、看護婦を伴って入ってきた。
「ああ…、お母さんですか…」
松田医師は、千代乃を見て云った。
「はい、この娘の母です…」
「娘さんには、特に目立った外傷はありませんでした…、手首に近い腕を強く掴まれていたと見えて、圧迫による内出血が見られましたが…、そ
れほど酷いものではなく、二、三週間で青痣も消えるでしょう…、後は膝や足首に何ヶ所か軽い擦り傷がありましたが…、転んだ時についた傷でし
ょう…、これも問題にはなりません…、
頭のほうですけど…、娘さんについて見えたシークレットサービスの谷澤さんと仰る方の話では、頭は打っていなかったようですが、一時気絶な
さっていたと云うことでしたので、念のためエックス線だけでなくCTでも調べて見ましたが、何処も異常はありませんでした…、ただ頚椎に軽い
鞭打ち症状が見られましたので、暫くネックガードを着けていた方が良いかも知れませんね…、
外傷はそんなところで、明日退院できますが…、問題は、精神的なショックと、心に受けた傷ですね…、入院当初に眠った時に悪い夢を見たらし
くて、大声で叫んだり喚いたりして、助けを呼んだようで…、病棟の看護婦が医師の指示で安定剤を投与して、一先ずは落ち着きましたが…、これ
は、尾を引く可能性がありますので、精神内科の方でカウンセリングを受けながら治療する必要があります…、
精神内科の専門医に見てもらうように依頼は出してありますので、後ほど看護婦がそちらに連れて行ってくれると思いますが…、それで宜しいで
すか…」
「私も娘が心に受けた傷が一番心配ですのよ…、もうかれこれ一年以上もストーカーまがいに娘に付き纏われて…、私の仕事の上司の伝手で、護
衛の方を着けて頂いていたのに…、この娘の気紛れのためにまた怖い思いをさせられてしまって…、」
「今、仕事の上司…と仰いましたが、お母さんは昼間働いていらっしゃるのですか…」
「はい…、大きなチェーン店の一つのドラッグストアで店長として働いておりますの…、それに娘の父親が早くに亡くなっていますので、親子四
人の母子家庭ですの…、ですからこんな時、母親として、終始側に付いていてやれませんので、私もほとほと困り果てていますの…」
「それでは、お母さんも娘さんと一緒にカウンセリングに同席していただいた方が良いかも知れませんねえ…、精神内科の方には伝えておきます
ので、後で娘さんと一緒に外来にいらしてください…、娘さんの入院を続ける必要があるかどうかは、精神内科の方で判断すると思います…」
それだけ云うと、松田医師は出て行った。
116
千代乃は、また両腕を掛け具の下に挿し入れて、あおりの手を握り、あおりの胸元に額を俯せた。千代乃心は千々に乱れた。自分が働いていなか
ったとしても、あおりは次第に親離れをして、独立して生きて行かなければならない。その出口のところで、このような忌まわしい目に遭っている
娘をただ不憫がっている訳にはいかない。
「あの三人組もまだ未成年だし、今度のことも未遂に終わったから、刑事訴追されるかどうかも分らない…、「少年院で矯正…、」ということにな
るのではないか…、仮に刑事訴追されたとしても…、重い罰は課せられないだろう…、何れにしても、短い期間隔離されるだけで、また大手を振っ
てのさばるに違いない…、二度も痛めつけられただけに、一層あおりへの憎しみを募らせて、一層執拗に意趣返しをしようとするに違いない…、児
童福祉法で保護される年齢だと云っても、身体つきはもう大人並だし…体力は有り余っている…、精神の発育とのアンバランスが甚だしいだけに手
がつけられない状態で己の想念に向かって突っ走るだろう…、
そんな野獣と化した男達から、まだ身体も心も幼いあおりをどうやって守ればいいのだろうか…、まかり間違えば家にいることだけでも危ない…、
いつ押し込んできて、あおりだけでなく、居合わせた清香や私にまで危害を加えないとも限らない…」
千代乃の思いは、果てしなく悲観的な方向に傾いて行く。千代乃は、仕事で思わぬ抜擢を受けて、佐々との恋に夢中になり、自分が舞い上がって
いて足が地に着かずに、娘たち、特にあおりのことを十分支え切れていなかったことが悔やまれた。
「お手洗いに行く…」と云った。あおりは白い貫頭衣のような入院着を着せられていた。
暫くして、あおりが起き上がり、
「吉沢さんがいるのに気付いて、少しは気が晴れるだろうか…」
吉沢との対面であおりがどんな反応を示すか…を想像しながら、あおりの後について病室を出た。が、病室の前には吉沢の姿はなかった。
「多分お手洗いか、隊との連絡のためかで、暫し持ち場を離れなければならなかったのだろう…、SSPを付けていただいたとしても、このよう
な監視の目が途切れる空白の時間があるのだわ…」
千代乃は改めて、監視の目が及ばない瞬間は探せばいくらでもあることに気づいた。
手洗いから戻ってくると、吉沢SSPは元のように病室前のベンチに腰掛けていた。あおりは、病室の近くに来るまで、それが吉沢だと気付かず
にいた。
「お兄ちゃん…」
それが吉沢だと気付くと、一瞬立ち止まって、、あおりは千代乃の側を離れて、吉沢の方に飛んで行こうとした。だが、理由は分らなかったが、
吉沢の座っているベンチの側で、急に目眩みがしたように、ふわ~っと、崩れるように倒れかかった。
117
「あおりっ…」と叫んで、
吉沢は、倒れかかるあおりの頭の下に咄嗟に身体を投げ入れて、あおりが直に床に昏倒するのを防いだ。千代乃が驚いて、
近寄った時には、あおりは既に吉沢の腕の中に抱きかかえられていた。
あおりは気絶していた。一人の看護婦が気付いて、慌ててナースステーションから飛びだして来た時には、既に吉沢があおりを抱えて病室に運び
うわごと
込むところだった。千代乃はただおろおろして、囈語を言うように吉沢に礼を言っていた。
あおりを病床に横たえると、吉沢は無言で病室を出て行った。入れ替わりに看護婦が駆け込んで来て、あおりの腕を取って脈を計った。あおりの
脈拍は力強く、正常だった。看護婦があおりの頬を軽く叩きながら、何度かあおりの名前を呼ぶと、あおりは「うう~ん…」と呻くような声を発し
て、息を吹き返した。
「ああ、良かった…、あおりちゃん…、私が分るかな…」
看護婦があおりに向かって、意識の確かさを確認しようとした。あおりは、無言で、こっくりと首肯いた。
「そう…、大事はないと思うけれど、今先生に診てもらいますからねえ…」
そう云って、看護婦は出て行った。 看護婦と入れ替わりに、病棟の医師が入ってきて、あおりの脈を取りながら、あおりや千代乃に状況についていろいろ質問した。
「外見からは異常は見られないし、状況を聞いた限りでは、単なる心因性の目眩みでしょう…、極度に喜んだり、悲しんだり、興奮したりした時に、
ままそういうことがあるんですよ…、安定剤も投与されているようだから…、心配はありませんよ…」
そう説明した後、医師は出て行った。
「こんな幼気ない娘に…」陵辱的
吉沢は、腕に残ったマシュマロのようにふわふわと柔らかい、腕にかかえた時のあおりの感触を反芻しながら、
な雑言を履いたり、白昼公然と拉致までして、己の獣欲を満たそうとした連中に猛然と腹が立って来て、歯噛みをして虚空を睨み付けていた。
そうこうしている内に、看護婦が車椅子を押して、精神内科の外来に行くから…と、あおりを迎えに来た。
「吉沢さん、これから精神内科の外来でカウンセリングを受けに参りますので、その間にお食事なとして、息抜きをされたらどうですか…」
出掛けに千代乃は吉沢に云った。
「いや…、自分らは、警護の時には、それなりの対策を立てていますので、ご心配なく…」
二人の後をつけて、一緒にエレベータに乗ってきた。
「お兄ちゃんが守りに来てくれたんだ…」と思い、嬉しくて仕方がなかった。そして両脇に立つ千代乃と吉沢の夫々の上衣の裾をしっ
あおりは、
118
かりと掴んでいた。
「この方、あおりちゃんの恋人…」
その様子を見て、看護婦が誰に言うともなく訊いた。
「いや…、自分は警護のものです…」
吉沢は、慌てて打ち消した。
「でも、よっぽど便りにしているみたいね…」
看護婦はほほ笑ましげにあおりを見て云った。
「自分は、ここで待機しています…」
神経内科の外来待合室まで来ると、吉沢は、あおりの手を掴んで、掴まれているスーツの裾を振り解いて、千代乃に向かって云った。名前を呼ば
れて、親子がカウンセリング室に入って行くと、また吉沢の脳裏に、今掴んだあおりの華奢で柔らかな手の感触が甦り、吉沢は、「あんな風に自分
を頼りにしてくれているのに、直に応えられない…」もどかしさを覚えた。
「何を考えているんだ…、あの娘はまだ十七歳で、未成年じゃあないか…」
慌てて脳裏の中でふっと起こった邪念を打ち消して、吉沢は元の頑固な警護の姿勢に戻った。
「歳頃の女の子…」と云うことで、あおりのカウンセリングには、女医が当たった。
初め、あおりは、なかなか心を開かなかった。それは、初めから分っていることなので、女医は、結論を引き出すことを急がなかった。
程よい室温が保たれていて、明るくもなく暗くもないような採光が施されているカウンセリング室には、何か果てしなく広がる宇宙空間を思わせ
るような、リラクゼーション ミュージックが静かに流れ、馥郁とした香の匂いが漂っていて、ゆったりとした時の流れを感じさせていた。
女医は、直接あおりと対面せず、あおりをゆったりしたリクライニングシートに、半ば横臥するような姿勢で座らせて、あおりの頭の後ろに千代
乃と共に座って、とりとめのない話から始まって、時々あおりに質問したり、千代乃に質問したりし、その間に交えて幾つかの心理テストを行った。
その後、女医は、あおりの両目にマスクを当てさせて、「肩や肘、腰や膝の関節の力を抜いて、ゆったりとした状態で、この音楽を聴いていてく
ださい…」と云って、BGMを何か不思議な気持ちを起こさせるような音楽に替えた。そして、暫くして、
「私の声が聞こえますか…」と、あおり
その声は、あおりには、何処か宇宙の彼方から聞こえてくるように思えた。あおりは声を出して答えようとしたが、眠気が先に立って、声が出ず、
の耳元でくぐもったような声で訊いた。
119
ただこっくりと首肯いた。次に女医は、「瞼の裏に何が見えるか教えてください…」と、あおりの耳元で云った。
「………」
「何も見えませんか…」
また女医が尋ねた。
「お父さんが見える…」
あおりが云った。
「お父さんは、何をしていますか…」
「高い高い…」をしながら笑っている…」
「私を抱いて、
「まだ、お父さんが見えますか…」
女医は暫く経ってから訊いた。
「………」
あおりは、首を横に振った。
「それでは、今度は何が見えますか…」
また女医が訊いた。
「白い馬に乗ったお兄ちゃんが見える…」
あおりが答えた。
「お兄さんは、あなたの実のお兄さんですか…」
女医が尋ねた。
「………」
「ここに書いていただいたご家族の辰也さんの他に、何方か「お兄ちゃん」と呼ばれている方がいらっしゃるのですか…」
女医は、小声で千代乃に尋ねた。
サービスの方だと思いますわ…」
「それは、多分半年あまり警護をしていただいたシークレット
千代乃が答えた。
「そのお兄さんは、何をしていますか…」
女医はまたあおりの耳元で訊いた。
120
「鎧を着て、兜を被って、長い槍を持って、お馬さんを鎮めようとしている…、ドン・キホーテみたい…」
「お馬さんは何をしているのですか…」
いなな
かざし
「前脚を高く上げて、嘶いている…、ああ~っ、大きなおちんちんを出して、お腹を叩いて、嘶いているわ…、ああ~、お兄ちゃんが、槍を翳して、
馬を走らせて行ってしまったわ…」
あおりは、催眠術にかかった状態で答えていた。そして、今あおりが云ったことは、千代乃を驚かせ、千代乃は赤面した。それは、あおりの云っ
たことが、あおりの深層心理の底に潜んでいる願望を表しているように思えたからだった。
「まだ何か見えますか…」
暫くして女医がまた訊いた。
「………」
「もう何も見えないのですか…」
念を押すように女医が訊いた。
「………」
あおりは答えずに、ただ首を横に振った。そして、目尻から涙を滴らせた。
「どうしました…、何が悲しいのですか…」
それを見て女医が尋ねた。
「行ってしまったわ…、お兄ちゃん…、ずっと側で護っていて欲しかったのに…」
「あおりさんは、お父さん子でしたか…」
女医は千代乃に訊いた。
「上の二人の子らに比べたら、そうでしたわねえ…」
「それで、まだもっと甘えていたい歳頃なのに、亡くなられてしまった…、だから、代わりの力強い後ろ盾が欲しい…、そう云うことでしょうか…」
「…のようですわねえ…」
「ストーカー行為に悩まされるようになって、ますますその願いが強くなった…、その願いの対象が、お父さんからその「お兄ちゃん」に移って
行った…、と云えば、少し浅薄皮相な分析ですが…、その傾向は否定できませんね…」
121
そう云いながら、女医はBGMの曲を替えて、あおりを現実の世界に呼び戻しに掛かった。
「明日の朝、退院の前にもう一度カウンセリングをして、暫くカウンセリングによる治療が必要なのかどうか判断したい…」結局、女医は、
そう云って診療を終えた。
*******
一方、拉致未遂を起こした三人の少年の方は、二人は渋谷署に現行犯逮捕された後、病院で手当てを受けた。車で逃げたもう一人は、協力者の書
き留めてくれたナンバーのお陰で直ぐに所在が突き止められ、やはり渋谷署に連行された。三人は、何れも親が社会的な地位の高い、裕福な家庭の
子で、連絡を受けた親たちは、自らの地位に関わるとて、皆青くなって弁護士を伴って飛んで来たが、直ぐに接見が認められなかった。
特に、その内の、半年ほど年嵩の少年の親は、民政党の幹事長の孫だと云うことで、直ぐに弁護士を介して刑事犯にしないようにとの裏工作にか
かった。
三人は、夫々刑事の取り調べに際して、悪びれる様子もなく、一様に、言い訳を捲し立てた。その後弁護士の立ち会いのもとでもそのような態度
に終始したので、見かねて「それでは、少年法を適用して、刑事犯扱いを免れる情状を判断してもらえないから、もっと神妙に非を認める姿勢にな
るように…」と、弁護士が助言しなければならなかった。
佐々は、谷澤が自ら出頭して積極的に事情聴取を受けたこともあり、刑事事件になれば、裁判であおりがまた辛い思いをしなければならなくなる
ことを慮って、直ちに二人に弁護士を立て、千代乃にそれを伝えた。
千代乃は、あおりが自らの軽率な行為のために事態が大変なことになりそうなのを感じて、憂鬱になった。
「何…、心配はいらないよ…、先方の親たちは何れも社会的地位があるので、刑事事件にはしたくない筈だから、こちらも刑事事件にしてあおり
さんが辛い思いをすることのないように極力努めるよ…、あおりさんには、なかなか辣腕の女性弁護士を頼んだから…、篠山しのぶさんと云う、
122
三十代のまだ若い弁護士だよ…、
「先に渋谷署に行って三人の事情聴取の様子を訊いて、谷澤SSPとも話した後であおりさんに会いに行く…」と云っていたから、暫くしたらそ
ちらに行くと思うよ…、 それより、あおりさんの様子はどうだい…、二度目だし、今度は現実に拉致寸前まで行ったから、相当深い傷を心に負ったのではないかと気に掛
かっている…」
「また社長さんにご迷惑をお掛けしてしまって…、あの娘ったら…、ほんとにいつからあんな風になったのかしら…、もっと聞き分けの云い素直
な娘だったのに…、
入院させられた後、暫くして眠って、三人にレイプされる夢を見たんだとかで、大声をあげて泣き叫んだらしくって……、直ぐに安定剤を注射し
ていただいようです…、その後は落ち着いて…、先ほど精神内科でカウンセリングを受けたばかりですのよ…、
心に受けた傷がどの程度深いのか…、一回程度のカウンセリングでは分らないらしく、明日の朝も退院の前にもう一度カウンセリングを受けるこ
とになっています…
ただ、今日のカウンセリングでは、父親と早くに死に別れたことが心の深いところでトラウマになっているらしいことが分ったようで、それが吉
沢さんに傾いている理由のようでしたわ…、吉沢さんが来ていただいているのが分ったら、精神内科の外来に行く途中、ずっと吉沢さんの裾を掴ん
で、離そうとしないんですのよ…、吉沢さんったら、随分お困りの様子でしたわ…」
「ふう~ん、そう…、そんな夢を見たのか…、相当危機感を募らせているみたいだな…、そんな不安が凝りにならなければいいが…、それで外傷
はなかったのかな…」
「外傷の方は、何ヶ所か軽い擦り傷を受けた他、軽い鞭打ち症になっているようですけど、特に問題はなかったそうですわ…」
「今度のことでは、千代乃さんも随分とショックを受けただろうから、それが心労になって寝込んだりしないように…、私にとっては、千代乃さ
んは公私共に大切な人だからね…、自分も労って大事にして貰いたい…」
「あおりのことでは、どうしていいか分らなくて…、ほとほと困り果てていましたので、そのように励ましていただいて…、気持ちがいくらか楽
になりましたわ…」
「こんな時に、側に居てあげたいが、そうもいかない関係でいるのが辛いところだね…、ま、状況を見ながら、出来るだけ早くプライベートに何
処かで会えるようにしよう…、それでは、またこちらから連絡します…、千代乃さんも余り思い詰めないようにね…」
そう云って、佐々は電話を切った。
123
あおりの病室の前まで戻ると、吉沢SSPはまだ車椅子に乗ったままのあおりの側に無言で立っていた。あおりも無言だったが、またその吉沢の
裾をを掴んでいた。吉沢がそのあおりの手を上から握ってやっているのが今までにない光景だった。武骨で無愛想な吉沢がそんな繊細な心配りで、
あおりを陰で励ましていることを態度で示してくれていることが千代乃には嬉しかった。
「自分はこれで今日の任務を終わります…、三人が警察に留置されて取り調べを受けている…と云うことですので、暫くは危険がない…と云う判
断ですので…、三人が保釈にならない限り、SSPは付かない…と云うことです…」
千代乃が近付くと、吉沢はそう云って立ち去ろうとした。
「いや…お兄ちゃん…、私を見捨てないでぇ…、しっかり掴んで、見守っていてぇ…」
あおりは、今にも泣き出しそうな声で云って、吉沢の裾を掴んで離そうとしなかった。
「安心してください…、あおりさん…、上からの命令があれば、いつでも飛んで来ます…、あおりさんを恐ろしい目に遭わせようとした連中がの
さばっていて、あおりさんの危険がなくならない限り…、そうします…、だから、その手を離してください…」
吉沢は、あおりの手の甲を軽く叩いて、あおりを促した。
「きっとだよ…お兄ちゃん…、私をずっと護っていて…」
あおりは意外と素直に手を放した。
「はい、きっとです…、ですから、過ぎたことは早く忘れて、元気を取り戻して、学校に行って、いつものようにお友達と騒いだり、勉強に打ち
込んだりして…、思いっきり青春を楽しんでください…、そんな風に沈んでいるあおりさんを見るのは、自分には辛いです…、それより、気紛れだ
けど、いつものように快活に振る舞っているあおりさんを見る方が好きです…、その方があおりさんには似合っていますから…、いいですね…、き
っとですよ…」
そういって、吉沢が立ち去ろうとするのを、暫し制して、千代乃が礼を言った。
「ありがとう…お兄ちゃん…、きっとだよぉ…」
踵を返して立ち去ろうとする吉沢の背に向かってあおりが大きな声で云うのに応えて、吉沢は立ち止まって振り向き、微笑みながら右手を挙げて
指を開いたり閉じたりしながら、
「早く元気を取り戻してください…、きっとですよ…」と云って、再び踵を返して大股で立ち去った。
吉沢は、あおりが時と共にだんだん自分に寄り掛かって来て、否応無しに次第にあおりが身近に感じられるようになって来て、いつも心の片隅に
あおりが居るのに気付いて内心戸惑っていた。
124
*******
吉沢が立ち去って暫くしてから、弁護士の篠山しのぶがやって来た。篠山しのぶは、ベッドに横たわっているあおりを見て、「こんな幼気ない少
女が…」
、それが篠山弁護士の第一印象だった。
少年だとは云え、大柄な男三人のストーカー行為に悩まされ、揚げ句の果てに白昼公然と拉致されようとしたことに、篠山しのぶは改めて怒りを
覚えた。
あおりと面談する前に、篠山しのぶは、精神内科外来の医師、岡島照代に会って、あおりが精神的に受けた傷の程度について話を訊いていた。
「今日の、催眠法による一回だけのカウンセリングでは受けた心の傷の深さまでは分らりませんが…、これまでの経過と今日拉致されかけた以降
の状況からして、決して浅くはないはずです…」と、岡島医師は云った。
「今は安定剤の投与で、落ち着いていますが…、入院した後、三人の男達に次々とレイプされる夢を見て、大声で泣きわめいて「お兄ちゃん」と
呼んでいる方の助けを求めたということや、多少自閉症の状態になっていることなどからしても、はっきりとそういえます…、
このまま放って置けば、重い自閉症や、鬱病になり、他の内臓疾患に悩まされるようになることは目に見えています…」と岡島医師は付け加えた。
「弁護士として、吉行あおりさんに接見して、いろいろ訊ねたいと思ってきたのですが、そう云う状況なら、場所を選ばないといけませんねえ…、
こちらのカウンセリング室を使わせていただけませんでしょうか…」
「普通ならお断りするところですが、場所を選ばないといけないと判断されたことは正しいと思いますので、私も立ち会うと云うことで、同意い
たしましょう…」
岡島医師が云って、篠山弁護士のあおりとの接見は、カウンセリング室で行うことに決まった。
岡島医師が三階のナースセンターに連絡して「吉行あおりさんをもう一度カウンセリング室に連れて来てくれるように…」と云い、十五分ほどし
て、あおりが依然青ざめた顔色で看護婦と、千代乃に付き添われて車椅子でやって来た。
あおりがカウンセリング室に入って行くと、さっきの女医の他にもう一人、濃いブルーのセパレーツのスーツをきっちりと着こなした、いかにも
精悍そうな女性が一緒にいたので、あおりは一瞬怪訝な顔付きをした。
125
その様子で、あおりの気持ちを察した篠山しのぶがすっと立ち上がってあおりの方に近寄ってきて、千代乃とあおりに向かって「佐々太輔さんの
依頼であおりさんとご家族の方に面談に来た弁護士の篠山しのぶです…」と云って、自己紹介をした。
こ
篠山弁護士は、背のすらりと高いファッションモデルのような顔立ちと体形の女だった。あおりの篠山弁護士から得た第一印象は、「わあ~、綺
麗で素敵ぃ~…」だった。と言うことは、第一印象で、あおりが篠山弁護士を受け入れたと云うことを意味していた。一方、篠山弁護士の見たあお
りの印象は、
「歳の割には、何とも幼気な、可愛いお嬢さんだこと…、こんな娘に刑事裁判の場で何度も辛い思いをさせられないわ…」だった。
篠山しのぶのあおりはの最初の質問は、「今、何処か痛いところはないですか…」と云うものだった。
「膝小僧と、肘と…、それに頭が少し痛いだけ…」
やや間を置いてあおりが答えた。それから後は、篠山弁護士の質問は、もっぱら三人の加害者の少年たちとあおりがどんな関係だったのかを探り
出すことに集中した。あおりは、どの質問にも素直にはきはきと答えていた。篠山弁護士のあおりの答えから得た印象は、あおりが「見掛けに寄ら
ず芯の強い性格の娘で…その一方で初心で怖い物知らず…、」だった。
「三人の加害者について、思っていることを話してください…」と云った。
最後に、篠山弁護士は、
「最低…、独り善がりで、身勝手で、野蛮…、人の皮を被った獣…、静かに放っといいてくれればいいのに…、しつこく付き纏って…、酷いこと
云って辱めただけじゃなくて…、大勢人の見ている前で、暴力で連れ去ろうとしたりして…、もう二度と姿を見るのもいや…、あっちが私の目の前
から消えてくれなければ、
私の方があいつらのいないところに行きたいわ…、思い出すのも嫌だから…、もうあいつらのことを訊かないでください…」
あおりは憎しみを露にして云った。
篠山弁護士も、岡島医師も、千代乃も、「あおりが心の中に相当深い傷を負ったには違いがないけれども、それに打ち拉がれていなくて、果敢に
打ち勝とうとしている…」ように思えた。
「そう…、プライベートなこと訊かれて、嫌だったろうと思うのに、思っていることをはっきり言ってもらって、ありがとう…、一遍にいろんな
ことが起きて、大分疲れたかな…」
「………」
あおりは、黙って首を横に振った。
「そう…、見掛けに寄らずしっかりしてるわね…、山瀬産業の佐々太輔社長の依頼できたんだけれど…、あおりさんがまだ未成年だから、今回は、
吉行千代乃さんとあおりさんのお二人が直接のご依頼人…、と言うことにさせてもらうわね…、あおりさんの望みが叶うように精一杯活動させても
らうわ…、安心して任せておいて頂戴…、
126
あなたがそれほどめげてないところが、いっそ頼もしいわよ…あおりさん、その調子で、早く学校に戻れるようになって、一心不乱に勉強に打ち
込んでいて欲しいな…、その内に良い知らせを持ってくるからね…、
ということで、これであおりさんとの接見を終わります…、あおりさんに素直に質問に答えてもらえたので、大体の方向が見えてきまし
た…、これから先方の弁護士たちに会って、加害者側がどんな方針でいるのか確かめて、こちらの方針を決めますが…、事案の進行に連れて、その
都度、吉行さんには必ず内容をお知らせします…、それではまた…」
「早く元の通りに元気になってね、あおりさん…」とあおりの肩に軽く触れてから、岡島医師に協力してもらえたことの礼を言い、
千代乃に云って、
篠山弁護士は帰って行った。
篠山しのぶは、
道々、
佐々に連絡を入れてあおりとの接見の様子を話し…、大体の方向を伝え、「吉行千代乃さんとあおりさんの二人を依頼人として、
事案を進める…」と云った。
「全て君に任せるよ…、私には逐一報告はいらないよ…、大船に乗った気でいるから…、よろしく頼むよ…」
「太輔君にそう云ってもらえて、私も光栄だわ…、
ところで、吉行千代乃さんを一目見て、あなたの最後の恋人だ…って思ったわ…、流石は太輔君…、お目が高いわね…、あなたにぴったりの素敵
な女性じゃない…」
「おいおい…、勝手に気を回さないでくれよ…」
「隠してもだめよっ…、私の目は節穴じゃあなくってよ…、もしわたしの感が外れていたら…、あなた何処に目をつけてんの…って、云いたいわ…、
あなたの感性を持ってすれば、あの人の心を掴んでいない筈はないわ…、百パーセント間違いなしよ…、
祝言には呼んでねっ…、うんと怨言を言って、みんなを笑わせてあげるから…」
「………」
佐々は、ただ苦笑するばかりだった。
そう、篠山しのぶは、大学時代の佐々の二年後輩で、曾ては一時恋人同士だった。だが、若い頃のしのぶの性格が余りにも固いことと、佐々が極
道の道に入って、人生の進む方向が違ってしまったために、いつとはなしにどちらからともなく別れてしまったのだった。
極道の世界に身を置いているとは云え、何も佐々が切った張ったの強面と闇の世界の人生を歩いている訳ではなく、知識の最大限を使って、傘下
127
のドラッグストアチェーンを全国展開する大きな製薬会社を運営して、表の世界で極道達を全うな生業に就かせていると云う点で、大いに世のため
人のために貢献している…と、篠山しのぶは今ではそんな目で佐々を見ていられるほど、世間で練られて大きな目で人と社会を見られるようになっ
ていて、互いに忙しすぎて滅多に会うこともないけれども、佐々と篠山しのぶは、「親友」と云っていいほど、人間的な信頼関係に根ざした友情を
保ち続けていた。
*******
車椅子を千代乃に押して貰いながら、あおりは佐々のことを考えていた。
「こんなにまでして、いろいろと気遣いをしてくれている佐々のおじさんは、よっぽどお母さんのことが好きなんだ…、私のことまで気を遣って
くれている…、それも最大限の力を尽くして…、次々と早手回しに人を動かして、私たちのことを支えてくれている…、好きでなかったら、こんな
にまでは出来ない筈だわ…」
あおりが何か考え込んでいる様子なのに気付いて、千代乃は車椅子を停めて、あおりを背後から抱き締めた。
「何沈んでるの…、後のことはあの素敵な篠山弁護士に任せて、済んだことをくよくよ考えずに、前を向いて未来に向かって歩いて行こう…」
千代乃は、娘の想念とはずれたことを云ってあおりを励まそうとした。
「お母さん…、佐々のおじさんって、本気でお母さんのこと好きなんだねっ…」と、あおりはあからさまに云った。
「あら…、そんなこと考えていたの…」
「だって、そうでしょう…、好きでなかったら…、それも本気で好きでなかったら…、どんなに大金持ちのお人好しでも、誰もこんなにまで良く
してくれはしないはずよ…」
「そうね…、お母さんのことだけでなく、あおりのことも好きなのね…」
千代乃はあおりの想念を逸らせようとした。
「違うわ…、お母さんのことが好きだから…、私が不幸な目に遭うのも放っておけないのよ…、私が不幸になれば…、お母さんも不幸になるって
判ってるからよ…、佐々のおじさんは、お母さんが幸せになるように一生懸命に尽くしてるんだわ…」 「………」
128
千代乃は、無言であおりを抱きかかえる腕に力を込めて、あおりをしっかりと抱き締めて、もう隠しおおせない事実が表に出てきているのを認め
ざるを得なかった。
「とにかく、私には、三人の子供たちのことが大切…、みんなに幸せな人生を送ってもらうことが第一の願いよ…、だから、こうやってあおりの
ことを庇ってくれている、佐々社長には感謝しているわ…」
千代乃はあおりに頬ずりをした。
「お母さん…、私たちは、もうじき独り立ちして、お母さんから離れて自分たちの人生を歩き始めるわ…、だからお母さんは私たちのことばかり
気にせずに、自分の幸せを考えるべきよ…、私は、平気よ…」
「母親と云うものはねえ…、あおり…、自分のことはさておいて、子供たちのことを考えるものなのよ…、あなたもいつか人の母親になったら分
るわ…、だから、子供たちがどんなに大きくなっても、自分のことだけを考えることは出来ないのよ…、例え目の前に幸せがぶら下がっていてもよ
…、だからあなたは私のことを考えるより、自分のことを考えて頂戴…、その方がお母さんには嬉しいのよ…、私はあおりが不幸な目に遭うことだ
けは断じて許せないわ…、だからあなたもそのことを好く理解して、これからの行動をもっと慎重にして頂戴…」
あおりは、千代乃の腕をしっかり掻き抱いて、顔を押し付けて静かに涙を流していた。
*******
三人組の親たちは、刑事事件になることだけは何としても避けたい…とて、地裁審理を回避して、家裁での審理を経て、少年院での矯正教育と被
害者への示談を申し出て来ていた。佐々は、交渉を有利に進めるためとして、佐々が入院していた慈恵医大病院の特別室にあおりを暫く入院させて、
心の傷の治療をしてもらうように千代乃に勧めた。
岡島医師の二度目のあおりのカウンセリングの結果も、あおりが安心できる環境で心に受けた傷の治療を受ける必要があると診断した。幸い、岡
島医師が慈恵医大の出身で、付属病院でもカウンセリングと治療を行っていることが分り、千代乃もあおりを説得して、佐々の勧めに従った。あお
りの学校には事情を話して一ヶ月ほど休学させることを伝えて、了承を得た。
千代乃の話を聴いた吉見雅世学院長以下、担任の関根静代教諭も気が動転せんばかりに驚くと共に、「未遂に終わって不幸な目に遭わずに済んで
よかった…」と、一様に安堵したが、これを機に全校の生徒たちにあおりの遭遇した事件を伝えて、「気を引き締めて、警戒心を持って日常生活を
129
送るように指導して行く…」ことを誓った。
三少年の側には夫々違った家庭の事情があったが、何れの親も社会的な地位が高いと云うことが特徴だった。殊に一番年嵩の少年の父親は、厚生
保健省の政務次官であり、祖父が民政党の幹事長、田之浦恒三だった。
ストーカー行為が一年以上にわたって続いていたこと、拉致未遂を起こした場所柄多くの目撃者がいて、車のナンバーを控えていた人の他複数の
証人が確保されていたこと、谷澤孝一の活動によって二人が現行犯逮捕され、三人目も車の無免許運転の上、運転していたのが盗んだ車だったこと
など、余りにも不利な条件が揃いすぎていたため、刑事事件相当と見做されていたが、親たちの懸命の裏工作の結果、家裁送致による審判…という
ことになった。
家庭裁判所での審理では、三少年とも十六歳を超えており、重大事犯未遂と云うことで、当人たちの身柄を保護観察処分とし、「二度と吉行あお
りに接近しないことを保証するよう…」親たちの監督保護責任を義務づけた上で、特別少年院での半年間の矯正教育が相当と審判された。
一方、加害者少年らの親たちは、自らの社会的身分に影響することを慮って、早くから被害者のあおりへの精神的慰謝料と治療費の全額負担を申
し出て、示談交渉に臨もうとした。
夫々の親を代表する四人の弁護士間の折衝の結果、「今後二度と吉行あおりはもとよりその家族に接近しないように保証すること…」を親の監督
保護責任として夫々の親たちに誓約させて、治療費の全額負担と相当額の精神的慰謝料を支払わせることで、示談が成立した。
あおりは、岡島照代医師の適切なカウンセリングによる治療と、あおり自身の「喉元過ぎると熱さを忘れる…」好い意味での健忘症と、吉見学院
長や関根教諭を初め多くのクラスメートたちの頻繁な見舞いのお陰で、取り敢ずは重い精神的障害に至らずに、「退院後も定期的に岡島医師のカウ
ンセリングを受けること…」を条件に、約一月後に退院して復学し、正常に授業を受けて何とか保護者抜きで日常生活が送れるところまで回復した。
しかし、あおりが受けた心の傷は、屈辱感として、心の奥底の癒しえない古傷として残った。
千代乃も、あおりが元気を取り戻して、快活な日常生活を送れるようになったとはいえ、心配はなくならなかった。そして、職務を解くか、軽減
して定時で家に戻れるように配慮願えるように佐々に申し出た。
佐々は、千代乃の職務を解く気は更々なかった。その代わりに、地域と本社での店長会議のある時以外の日常勤務での定時退社を認めた上で、三
人の加害者少年が少年院に収容されている間は差し迫る危険がないにも拘わらず、あおりを安心させて千代乃の心配を軽減するよう、再び吉沢をあ
おりの護衛の任務に戻すことを提案した。
130
佐々の決定が陣内部長から伝えられると、吉沢は一瞬渋い顔になった。吉沢にとっては佐々の護衛に就いている方が性に合っていた。だが、「命
じられた任務に就くのがSSPの役目…」とあらば、不服は申し立てられなかった。
吉沢がまた護衛に付いてくれることを知って、誰よりも喜んだのはあおりだった。だが、あおりは以前のように我儘勝手な振る舞いをして、吉沢
を困らせるようなことはなくなった。相変らず「お兄ちゃん…、お兄ちゃん…」と呼んではいたが、あおりにとって吉沢はもうただの護衛ではなく、
一番頼りになる一人の男だった。吉沢を見る時、以前のようにあおりの心の中の何か訳の分らないもやもやとした気持ちがなくなり、吉沢は将来を
約束し合った男のような存在になっていた。吉沢の側に居るとあおりは安心し切っていて、従順だった。そんなこととは露知らず、吉沢は、あおり
が「随分大人になった…」と思っていた。
「お兄ちゃん…、聞いてえ…、私ねえ…、進路を決めたの…」
「そう、それは良かった…、それで何を目指すことにしたんですか…」
「この間付いてくれた弁護士さん…、とっても素敵だったんだった…、きりっとして恰好いいのっ…、女優さんか、モデルみたいだったのよっ…、
とても厳しい感じなのに優しいのっ…、その時のことを思い出して…、私もああゆう職業に就こうって決めたの…、ねえ…、どお思うっ…、私も弁
護士か検事に成れると思うっ…」
「何事も努力次第ですよ…、あおりさん…、努力して、希望通りの道に進めるといいですね…、あおりさんがそういう風に目標を決めて歩いて行
く気になったのは、何よりも明るいニュースですよ…、お母さんも喜んで、安心すると思いますよ…、自分も嬉しいです…」
「ねえ…、弁護士って、弱い立場の人の味方をするんでしょう…」
「いつもそうだとは限りませんよ…、依頼人の立場を最大限に護ろうとするのが弁護士ですから…、依頼人が被害者なのか、加害者なのか…、大
金持ちか、貧乏人か…、依頼人の立場によって違ってきます…、
中には、弱い立場の人だけの弁護を引き受ける弁護士もいれば、大金持ちの弁護だけを引き受ける弁護士もいます…、大きな会社の顧問弁護士に
なって、何かの利害を回って他の個人や会社との間に争い事が生じた時に、会社の利益を最大限に護ることを仕事とする人もいます…」
「ふ~ん…、複雑なんだな…、弁護士の仕事って…、でも、私、篠山弁護士のように、弱い女の立場を護ることに力を尽くしているような弁護士
になりたいな…、私が味わった屈辱と心の傷を土台にして…」
131
*******
それからのあおりは、人が変わったように勉強に打ち込み始めた。学校が引けると、図書館に通って夜八時の閉館ぎりぎりまで粘って勉強した。
曾てのようにあおりの気紛れな行動が無くなっただけ、吉沢たちSSPには、楽な任務になった。
あおりは、篠山弁護士と同じようになりたいと考えて、東大法学部を狙ったが、目標を立ててからの準備期間も短く、結局不合格になり、一年浪
人して、再度挑戦することにした。
この間に、例の三人組は半年で少年院から出所して、両親と公認の保護観察士の保護観察の下に置かれることになったが、相変らず勝手気侭な行
動を取るため、
仕事で多忙な父親たちはもとより、一人の保護観察士では目が届き兼ね、母親たちには手の施しようもなかった。そして、
しばしば「親
父狩り…」と称して、繁華街での酔っ払い相手の喝上げ事件や、婦女暴行事件をしばしば起こして警察沙汰になったが…、その都度親たちの裏工作
で微罪で放免されていた。
その様子は、佐々が怪我を負わされた事件以来、三人組の特別監視チームによって細大漏らさず把握されていた。その内に、三人揃って山
テッポウ
瀬産業に反感を持ち敵対している関東笹山会の幹部の手下として、麻薬の売人になり、その「鉄砲」として目を掛けられていることが判り、その報
告が陣内部長から会長の山瀬又右衛門の耳に入った。
「そら、あかんなあ…、そんなしょうむない連中に掛かって、うちの幹部、特に社長に万一のことがあったら、えらいこっちゃ…、火が着かん内
に早いこと揉み消さなあかんでえ…」幹部会の席上で、山瀬は、憮然とした表情で白くなった顎髭をシゴキながら一言そういった。それはSSP特
務班の全員に内命が下ったも同然だった。
ぶつ
SSP特務班の対応は迅速だった。その対策は、警視庁特捜班による関東笹山会の笹山繁造会長以下、主立った幹部らの一斉検挙の形で現れた。
容疑は、麻薬の密輸と密売だった。一斉家宅捜査の結果、組の事務所を初め、自宅や彼らの経営する飲食・風俗産業の店から、大量の麻薬類が押収
された。それは、関東笹山会にとっては、まさに「青天の霹靂」だった。
「 物」が押収されたと云う事実
麻薬特捜検事の厳しい尋問に、笹山会長をはじめどの幹部も「身に覚えがない…」の一点張りで抗弁していたが、
の前には、抗すべくもなかった。
「身に覚えのある」
裁判の結果、何れも長期の実刑が言い渡され、組は解散させられ、その資金源だった各所の飲食・風俗店も閉鎖させられた。
132
他の組も、一斉に鳴りを潜めた。根っ子を断たれた末端の「チンピラ」達は、元の根無し草の「チンピラ家業」に戻った。そんな中に例の三人組も
いた。連中は、また元のように恐喝や女を使った美人局などの「親父狩り」に活路を求めた。そして放縦な行動を欲しいままにしていた。
*******
し け
それは十月の初めだった。大型の台風が接近していて、関東近海は大荒れに時化ていた。夜半になって、そんな荒天の中を盗み出された一艘の水
上バイクが江ノ島のアリーナから嵐を突いて出ていった。同じ頃、葉山のヨットハーバーから一艘の小型ボートが密かに出ていった。
小型ボートが相模湾の外洋に出て、接触すれすれで水上バイクの舳先を掠めて、高波の波頭を切って西に向かって去って行ったのは、それから
三十分と経っていなかった。水上バイクは、目の前に突然現れたボートを交わそうとして無理な操舵をしたために、大波にもろに呑まれて水中に消
えた。
小型ボートは、一路西に向かい、駿河湾に入って西伊豆に至り、堂ケ島近くの高島付近で小さな岩礁に激突して、木端微塵になった。それから
三十分ほどして、堂ケ島のヨットハーバー近くの浜にウエットスーツに身を包んだ男が這い上がり、近くに停まっていた黒塗りの車に乗り込んだこ
とは、嵐の中の真夜中のこととて、誰も気付く者はいなかった。
くげぬま
沼海岸の浜に何れも二十歳前後と見られる男の水死体が流れ着いた、付近には、水上バイクの破片
それから半月後に、稲村ケ崎と、七里ヶ浜、鵠
と見られる器物も流れ着いて、江ノ島のアリーナから盗み出された物だと断定された。付近一帯の海岸を隈無く捜索したにも拘わらず、三人の身元
を割り出す個人的な所持品は何も見付けられなかった。解剖の結果三人は何れも溺死と断定され、夫々の管轄の自治体によって荼毘に付されて、夫々
家出人リストに載せられた。三人の若者が一緒に行動していたのかどうかも判然とせず、新聞には、「嵐の中の水上バイクによる無謀な「サーフィン」
の結果の溺死」として、簡単な三行記事が載っただけだった。
駿河湾で見付かったボートの破片は謎だった。誰の持ち物だったのかも判らず、何処から来て、誰が操縦していたのかも判らなかった。だが、
一方、
一週間後に田子の浦近くに、一人の全裸の若い男の水死体が打ち上げられた。男の身元が分らず、警察では、簡単に二つの事件を結びつけて、嵐の
中の無謀な行為の結果としてしまった。こちらの方の事件は、地方紙に短い記事が載っただけだった。
133
三人の男親たちは、頻繁に悪事を働く息子に辟易していたため、姿が見えなくなっても特に心配していなかった。ただ、母親たちだけは、夫々捜
索願を出したりして、行方を探そうとしたが、警察では、繰り返しの前科があることを知って、「その内また何処かで何か事件を起こして捕まるだ
ろう…」と見て、一般の家出人扱いにはしなかった。そして、夫々別のところで無縁仏になっている三人の遺骨に到達することはなかった。
こうして、偶然が重なった結果、世の中の無関心な風潮が山瀬産業にとって由々しき事態を「一件落着」させてしまった。
*******
翌年三月、あおりは、東大を諦めて必勝を期して望んだ慶応大法学部に合格した。「弁護士か検事を目指す…」として法学部を選んで、その第一
歩を踏み出したあおりを見て、千代乃は、「あおりの前に向かって行く性質に相応しい…」と、喜んだ。
慶応大学の入学式の日に、吉沢は、護衛として、入学式に出席する千代乃と清香と共にあおりを慶応大学のキャンパスまで運んだ。入学式が終わ
り、周囲が華やいだ雰囲気の中で賑わっていた。
「自分があおりさんの護衛をするのは、今日が最後です…、理由は分りませんが、指導部では、もう客観的な差し迫った危険がなくなった…と判
断したようです…」
吉沢は、千代乃に云った。
「そうですか…、それが本当なら良いのですが…」
一言云って、千代乃はあおりの気持ちを慮り、一瞬あおりの方を見遣った。清香もあおりがどんな反応をするか…と思って、あおりを見た。
三人とも背丈も、姿貌も好く似ていた。背はまだ少し低いが、あおりはほとんど千代乃の引き写しで双子の姉妹のようだった。吉沢には、親子で
並んでそのように見える千代乃の若々しさが不思議だった。
「いいですよ、お兄ちゃん…、何処へでも行くといいわ…、その内私が検事になったら…、必ずお兄ちゃんを逮捕するから…」 「吉沢昌平さん、あなたを逮捕します…、私をお嫁さんになさいっ…て、逮捕状を広げて見せるから…」
134
それまで唇を歪めて吉沢の話を聞いていたあおりは、そう云うなり、吉沢の胸元に取り縋った。
「お兄ちゃん、長い間私を護ってくれてありがとう…、でも、検事になったらもっと危険な目に遭うかも知れないから、その時には、また私を護
ってえ…、私を見捨てて遠くへ行ってしまわないでえ…」
そう云いながら、暫し嗚咽に噎んだ。吉沢は戸惑いを隠せないで突っ立っていた。
「吉行あおり検事に逮捕されるんだったら、いいかな…、でも自分はSSPだから、指導部の命令ならいつでも護衛に当たりますから…、それよ
りもあおりさんは一生懸命学んで初志を貫徹してください…、検事になったあおりさんを見るのは、自分にとっても嬉しいです…」
ようやくそれだけ言って、吉沢昌平あおりの肩を優しく抱いた。
千代乃も清香も、あおりのその思い切った「告白に」驚きと戸惑いを隠せないでいた。
後日、千代乃は、佐々と会った時に、その話をした。
「いかにもあおりさんらしい…、吉沢はさぞ困ったでしょう…、」と云って、佐々は笑った。
*******
それから三年、千代乃の家庭には平穏な生活が戻って、皆思い思いの道に精進していた。辰也のグループサウンズも、苦節十年、ようやく独自の
サウンド構成に人気が出始め、ミュージシャンとして注目されるようになっていた。
あおりは、学部三回生の終わりに司法試験に合格し、大学の卒業を待たずに、飛び級で大学院に進んだ。一方、清香は、M薬科大学を首席で卒業
して、就職せずに大学院に進んだ。
翌年あおりは、上級職試験に合格して、大学院卒業とともに法務省に入庁して最高検察庁に配属され、待望の検事になった。
これには、佐々も千代乃も唖然とした。一番驚いたのは、それを知った吉沢昌平だった。
清香も負けじとM薬科大学大学院を休学して、得意の英語を頼みにマサチューセッツ工科大学の薬学スクールに留学し、「難病」と一口に括られ
る遺伝子の振る舞いに端を発するさまざまな病気の治療に役立つ薬の開発研究チームに加わった。
135
検事になって専ら社会的に地位の低い女性に対する犯罪、セクハラ事件やストーカー事件、婦女暴行や婦女子拉致・監禁事件などを担当すること
を望んだあおりは、程なく東京地検に配属された。現実の事件を担当していて、あおりが知ったことは、今なお女性の社会的地位が事実上低いとい
う現実だけではなく、事件の裏にある「別の顔」だった。それは特にセクハラ事件などに現れる「女性の側から仕掛ける一種の冤罪」と云う側面も
あるという事実だった。曾て自分がストーカー行為に悩まされ、その結果心に受けた深い傷が今なお心の奥底に凝りとして残るゆえに一重に「女性
に対する犯罪」を憎む気持ちだけで事件の審判に臨むことの危うさにあおりは気付いた。あおりは、女性に対する犯罪とともに、女性の低い社会的
地位を逆手にとって、妻子がいて社会的地位のある「分別盛りの」男性をいわれなく貶めて、一家を破滅させる意図を秘めて行われる「女の犯罪」
も憎むようになった。
検事になって暫くして、あおりは「個人的にSSPの吉沢昌平さんに会えるように計らってもらいたい…」と、佐々に手紙で申し入れた。
奇抜な方法で吉沢に愛を告白した…」話を思い出し、今なおあおりの心の中の思いは消えていないことを覚った。
佐々は、「慶応大学の入学式の日に、
「あおりさんの思いをかなえるには、吉沢にそれに応える気持ちがあるかどうかを確かめることもさることながら、吉沢を組から脱会させて、別
の生計の道を考えてやらなければならない…」
佐々は「どうしたものか…」暫し考えた。そして、意を決したようにSSP部長の陣内に連絡して、趣旨を話し、「吉沢SSPを社長室に寄越し
てくれるように…」伝えた。
*******
「君、吉行あおりさんをどう思う…」
吉沢を案内してきた秘書が出て行くと、佐々はいきなり吉沢に訊いた。
「はあ、自分はあおりさんがあれほどの努力家で、こんなに短期間で自分の目標を達成するとは思いませんでした…」
佐々に呼ばれた理由が分らない吉沢は、訝しげに眉を八の字に寄せて、取り敢ず差し障りのない範囲で答えた。
「そう言うことを聞いているんじゃあないよ…、君の目から見て、女としてのあおりさんをどう思うかと訊いているんだよ…」
136
佐々は吉沢に核心に触れた質問をした。
「不肖吉沢はSSPとして上司の命令に従ってあおりさんの護衛を担当しましたが、女性としてのあおりさんを特別な目で見たことはありません
…」
吉沢は憮然とした表情で答えた。
「そうか…、だが君はあおりさんが大学の入学式の日に君に言った言葉は覚えているだろう…」
「はあ、覚えていないと云えば嘘になりますが…、あの時は、またいつものあおりさんの気紛れが始まった…、ぐらいに思っていました…、
あおりさんはまだ未成年でしたし…、自分はそれを本気に受け止める立場にもありませんでしたから…、今、社長に訊かれるまで、思い出しもし
ませんでした…」
「しかし、未成年だとはいえ、君も女心が分らないほど無粋でもなかったろうに…」
「いちいち女心に動かされていたのでは、SSPとしての任務は勤まりません…」
「まあ、君がSSPとして優れた働きをしていることは認めるがねえ…、今日来てもらった理由なんだが…、吉行あおりさんから「個人的に君と
合わせて欲しい…」と、手紙で云ってきたんだよ…、君に生涯護ってもらいたいらしいよ…、あの時のは、冗談でも気紛れでもなく…、どうやら本
気だったみたいだ…、
それで、君が非番の日にでも自発的に会いに行くか…、それとも上司の命令で護衛の任務を兼ねて会いに行くか…、どちらを選びたい…」
「自分としては、上司の命令に従う方が気が楽です…」
吉沢はいつでも逃げを打てる方を選んだ。
「それで君自身は、あくまでも仕事上の範囲に止めておきたいのかね…、つまり永年心に抱き続けてきたあおりさんの恋心に応える気持ちはない
のかね…」
佐々は更に一歩突っ込んで訊いた。
「自分には、まだ心の準備がありません…、それに…」 「それに…、仮にあおりさんの気持ちに本気で応えれば…、SSPの仕事も、組との関わりも断たなければならなくなる…と、云いたいのかね…」
「社長の仰る通りです…、自分はSSPの仕事に命を懸けてきました…、この道以外に自分は生きて行く道を知りません…」
「それはいいとして…、それで生涯その道を行く気なのかね…、悔いは残らんのか…、偶には人らしい感情に浸りたいとは思わんのかね…」
「SSPの仕事をしていれば、そのようなことは心に浮かびません…、そのような迷いが生じれば…、警護に緩みが出て、いざと言う時に抜かり
が出ます…、それは、SSPとしては自殺行為です…」
137
「それで、幾つまで続けられる…」
「それも考えたことがありません…、燃え尽きた時が潮時だと思います…」
「よし、判った…、陣内部長には、君を吉行あおり検事の警護に当てるようにと伝えてある…、検事の仕事には多くの危険が潜んでいる…、犯罪
者の恨みを買って、命の危険に曝されることだってありうる…、殊に女性検事が危ない…、過去に幾つか忌わしい事例がある…、あおりさんは、そ
れを既に承知している筈だ…、
あおりさんがずっと望んでいたように、君に護ってもらえれば、彼女はよほど安心だろう…、私は、君があおりさんの警護として燃え尽きてくれ
ることを願う…、陣内部長から辞令が出たら、部長の指示に従って任務に就き給え…以上…、何か言うことはあるかね…、
」
佐々は畳みかけるように云って話しを締め括った。吉沢には、全てが既定方針だったことが判った。
「特にありません…、失礼します…」
*******
吉沢は、社長室を後にして、SSP控室に行って、「気の晴れない思い…」を抱きながら、マグカップにコーヒーを注いで、自席に座ってゆっく
りと啜った。
吉沢昌平は、高校時代からさまざまな武術に傾倒していた。だが、学業も疎かにはしなかった。生まれついての強靭な体力で、武術の訓練でど
んなに疲れていても、二、
三時間も眠れば回復して、徹夜で勉強しても平気だった。そして、中央大学法学部に現役で入学した。中央大学法学部は、
東大学法学部と並んで、その卒業者多くが法曹界の重要な役職につくエリートコースだった。だが吉沢昌平は、そのような「役人の道」を選ばなか
った。ひたすら、総合武術に打ち込んで、在学中にネバダのサバイバル訓練にも参加して、アメリカの三軍からの参加者の多いグループの中でも「ア
ニマル・ショウ」と仇名されるほどの強靭な粘りを発揮して好い成績を上げていた。
吉沢は、大学での法律の勉学はそこそこにして、司法試験を受けることもなく、上級職試験にも関心を示さなかった。大学を出ると、吉沢昌平は
直ぐに山瀬産業のSSP隊に応募し、同時に組にも加わった。その強靭な体力と秀でた武術の腕と義侠心の強い頑固一徹な気性を見込まれて、すぐ
さま社内のVIP専属の特務警護班に配属された。
山瀬産業のSSP隊は、一応山瀬産業からは独立した組織の体裁を採っている警護を専門とする独立の会社で、一般のVIP警護なども請け負っ
138
ていたが、山瀬産業VIP専属の特務警護班があることによって、山瀬産業とは強い結び付きを持っていた。吉沢は、そんな特務警護に命を張る仕
事に生き甲斐を見いだしていた。
そんな吉沢が、思いもかけず、民間の一少女、吉行あおりの警護の役を言い付かったのは、一重に社長の佐々と千代乃との個人的な関係の故だっ
た。その出逢いは、佐々の警護に就きながら、佐々のSSPを呼ぶ判断の遅れにより一歩の後れを取って、佐々が与太者少年に怪我をさせられたこ
とに端を発していた。
華奢で幼気ない姿貌をしていながら気が強く好奇心旺盛で物怖じしない美少女あおりは、硬派一徹の吉沢にはどちらかと云うと苦手な警護の「対
象」だった。だが、そんな吉沢の内心の思惑とは裏腹に、あおりは吉沢に関心を募らせ、我儘一杯の振る舞いで吉沢の気持ちを翻弄し、積極的にモ
ーションを掛け、吉沢に対する恋心をあからさまに示すようになった。
そんなあおりの気持ちが分らない訳ではなかったが、あおりは未成年だし、吉沢は職務に殉ずる方に関心が強かったために、あおりの大学の入学
式の日の思い掛けない仕方での「告白」も一時的なこととして受け流したまま五年が過ぎていた。
あの時のあおりの「告白」は「一時的なことではなかった…」のだと、昌平は改めて知らされた。それも、自分の第一の警護対象である佐々の口
から…。佐々の問いにも答えたように、五年の間顔を合わせることのなかったあおりの気持ちを受け止められるだけの、心の準備は吉沢にはなかっ
た。だが、あおりは佐々を通して、
「個人的に会いたい…」と云ってきている。それはとりもなおさず吉沢に「一つの決断を迫ってきていることに
ほかならない…」と、吉沢には思えた。あおりの気持ちに応えて行くことは、人生の生き方を根本から変えることを迫られることにほかならなかっ
*******
た。
「社長も言外にその決断を迫っている…」ように吉沢には思えた。
コーヒーを啜りながらそんなことをとりとめもなく考えているところへ、いつものようにSSP部長の陣内から、専用携帯に口頭の辞令が入った。
それは、
「特務警護班から列外に移り、東京地検の吉行あおり検事の警護に当たること…、取り敢ず今日は、一先ず佐々社長の警護隊に合流して砧
139
まで行き、そこで別れて、自由が丘の吉行家に向かい、六時までに吉行あおり検事を訪ね、検事の行動予定を訊いて警護の概要を決める…、その後
の詳細については、追って沙汰する…」と云うものだった。吉行あおり検事の警護の期間は触れられていなかった。と言うことは、「無期限」と言
うことだった。
それは、吉沢には「不思議な」指令だった。だが、どんな指令であれ、一旦指令が出れば、吉沢は反射的にその指令の任務を遂行するように習慣
づけられていた。
直ちに地下のSSP隊専用車庫に行き、専用の車のキーを渡されると、三台の黒塗りの車の最後尾につけて一路東京の砧に向かった。
車列は、河口湖から東富士五湖道路に乗り、山中湖を経て御殿場から東名高速に乗って、一気に砧を目指して走った。そして砧公園近くの東京イ
ンターチェンジで東名高速を降りると、佐々から、「君はまっすぐ、そのまま指定の場所に行くように…」と専用携帯で連絡が入った。吉沢は、「了
解しました…」と云って、一般道路に降りて左折して砧公園に向かう車列を横目に見ながら、真っ直ぐ自由が丘を目指して行った。
吉沢があおりの家に着いたのは、六時少し前だった。案内を乞う吉沢の声に応えて、ドアを開けて出迎えたのはあおりでなく、休暇で帰国してい
た姉の清香だった。清香は、短く挨拶し、スリッパを調えて吉沢を招じ入れ、ドアの施錠をして吉沢を応接間に案内し、茶菓を勧めた後自室に引き
取った。
暫くしてドアが開き、あおりが入ってきて、後ろ手でドアを閉めながら、把手を握ったままその場に立ち尽くして、言葉もなくじっと吉沢を見詰
めていた。吉沢も六年ぶりに会うあおりを見詰めながら、曾ての記憶を手繰り寄せようとした。当然のことながら、背丈も若干伸びて、全体の雰囲
気が理知的で大人びた色香を漂わせていた。
「ますます母親似になってきている…」
吉沢は思った。
あおりは、襟ぐりの開いたベージュ色の薄手のゆったりしたワンピースの腰に細紐を前で蝶結びにして、ほとんど化粧もせずに素顔のままで居た。
以前よりふくよかになった分、余計に色白に見えた。頬は仄かに上気したようにうっすらと紅に染まり、唇も血の気で朱色に輝いていた。吉沢の目
の前に居るのは、検事としての吉行あおりではなく、一人の「恋する女」としてのあおりだった。そこにはあの堅苦しい検察官の雰囲気は微塵もな
140
く、あるのはまさに普段着の女の姿そのものだった。
あおりは、切り出す言葉に窮していた。ただ五年間堪えに堪えた感情が込み上げてきて、今にも溢れ出んばかりの泪眼になってなおも吉沢をじっ
と見詰め続けていた。
「お兄ちゃん…」
次の刹那、曾て呼び習わしていた呼び名を声に出した。その途端、極度の興奮であおりは気が遠くなり、その場に頽れそうになった。
それを見た吉沢の反応は速かった。一瞬の内にあおりのそばに跳んで行って、今しも頽れんとするあおりを抱き留め、抱え上げてテーブルの脇の
ソファまで運んで座らせた。あおりは、失神したようにぐったりとなっていた。
「誰かっ…、水っ…、水をくださいっ…」
吉沢昌平は、咄嗟にドアの外に出て、、大声で呼ばわった。
それを聞き付けて、清香が跳んで降りてきて、「どうしました…」と、訊いた。
「あおりさんが失神しました…、水と冷たい濡れタオルをください…」
吉沢が云った。
清香が水を入れたグラスと濡れタオルを持って入ると、吉沢は、清香の脈を取っていた。あおりの脈は極端に遅くなって、顔色が蒼ざめていた。
「あおりさんっ…、あおりさんっ…」と
吉沢が濡れタオルをあおりの額に乗せ、グラスの水を手に注いであおりの両頬をぴたぴたと叩きながら、
あおりに声を掛けるのを見ていた清香は、思い出したように隅にある小さなワインバーの棚からブランデーの瓶を取り出して、ハンカチにブランデ
ーを含ませて、あおりの鼻腔に当てた。暫くして、ブランデーの匂いの刺激であおりは正気に戻った。
「私、どうしたのかしら…」
心配そうに覗き込んでいる清香と吉沢に気付いて、云った。
「お兄ちゃん…」と云って、自分に声を掛けた時に、ふっと頽れかかったんですよ…」
「
吉沢が説明した。
「そうなんだわ…、お兄ちゃんに会えて…、嬉しくて…、声も出せないでいたら、息が詰まって…、ふう~っと気が遠くなったんだわ…」
「まあ、お嬢様だこと…、そんなんで検事が勤まるのぉ~っ…、あおり…、そんなに思い詰められたら…、吉沢さんがかえってお困りになるわ…」
清香が吉沢の前も憚らずあおりを揶揄した。吉沢は、その間ずっとあおりの脈を取っていた。
「もう大丈夫です…」
141
脈拍が正常なところで落ち着くと 手を放して云った。
「お兄ちゃんとの再会が嬉しい…」
あおりはようやく独りで起き直って身繕いをして、そう云って、改めて吉沢に挨拶をした。
「自分は、吉行あおり検事の身辺警護をするように…との辞令を受けて、本日ご挨拶に伺いました…」
吉沢はしゃっちょこ張った挨拶を返した。
「知っているわ…、佐々おじさまから聞いたの…、でも今の検事の仕事では、私には警護は要らないわ…、私がお兄ちゃんに護っていて欲しいのは、
今日みたいに普通の女に戻った時だけ…、仕事でどんなに強い立場でいても、一人の女に戻った時は、女は弱いものだわ…、だからお兄ちゃんのよ
うに強い後ろ盾が欲しいの…、お兄ちゃん、分ってぇ…」
吉沢は、図らずも身体ごと投げ掛けられて、抱きかかえて介抱する羽目になって、腕に残ったあおりのしなやかでふくよかな身体の感触を反芻し
ながら、あおりの話を半ば上の空で聞いていた。
吉沢を見詰めるあおりの目は、再び生き生きとしてきらきら輝いていた。清香は、そんなあおりを見ながら、「司法試験や上級職試験に難なく合
格するだけの知性を備えながら、もう一方で一人の男に身も心も投げ掛けようとする繊細な感性を持っているあおりをある意味で「羨ましい…」と
思っていた。
「自分には真似の出来ないこと…」のように清香には思えた。
吉沢はあの時のあおりの一方的な告白の続きを聞かされているような気持ちになって、気まずい思いをしていた。姉の清香がまだ自室に引き上げ
ずに側に居てくれることで、多少とも救われた気がしていた。
「自分には、SSPとしての職務に忠実であることが生き甲斐でした…、ですから、自分にはあおりさんの気持ちに応えるだけの心の準備が出来
ていません…、自分の仕事は特殊任務ですから、他にも複雑な事情もあります…、簡単には解決できない問題も沢山あります…」
吉沢は意を決して話し出した。
「自分は、今日付けで山瀬産業の重要な役員を警護する特殊警護班から外されて、一般の警護班に回され、三度あおりさんの警護を言い付かりま
した…、
具体的な細かな指示はまだ受けていませんが、あおりさんには以前のように目的もなく出歩く暇もなくなるでしょうから、自分の任務は、主にあ
142
おりさんの出庁と退庁の際のご自宅と東京地検の間の送り迎えになると思われます…、
それで何かご不満がありましたら、SSP本部の方に申し出てください…、今、自分に言えることはそれだけです…」
「分ったわ…、ただ、私は平の検事ですから、公に車で送り迎えをされる立場には居ません…、ですから、霞ヶ関の本庁に直接送り迎えしていた
だく訳には参りません…、それに、判で押したような役所勤めはほとんどありません…、公判があったり、実地検証に出かけたり…、行動も勤務時
間も不規則です…、ですが、朝だけは必ず霞ヶ関の本庁に参りますから、虎ノ門か日比谷公園辺りまで送っていただくということにしましょう…、
帰りはその都度、連絡して何処かで待ち合わせするか、遅くなる時には送っていただくのを止めることにしましょう…、
とにかく今は、またお兄ちゃんに会えて、少しの時間でも、毎日お兄ちゃんの側に居られるだけで幸せ…、
そうだわ…、少女時代のようにいつまでも「お兄ちゃん」でもないでしょうから、「昌平さん」と呼ばしていただいていいかしら…」
「いや、自分は「お兄ちゃん」の方が聞こえがいいです…」
「あら、そうなのお…、それなら「お兄ちゃん」のままにしておこうかしら…」
「それで、朝の出庁は何時ですか…」
「八時過ぎには出庁していることにしていますから…、七時過ぎに家を出られるようにしていただけるとありがたいわ…」
「では、渋滞を考えて七時ということにしておきましょう…」
********
こうして、吉沢昌平は、また、吉行あおりのお守り役を引き受けることになった。
あおりは、吉沢との接点が復活したことで差し当たり満足した。
あおりの仕事は、結構多忙を極めた。東京地裁の裁判管轄権の及ぶ地域だけでも、ストーカー事件、婦女子拉致監禁事件、婦女暴行、未成年者の
売・買春事件や淫行、果ては職場内でのセクシャル ハラスメントなどに至る女性に関わる性的な犯罪は、事件として表面に現れたものだけでも毎
年相当の件数に上っている。このような犯罪は、申告罪である上に、警察の「民事不介入の原則」に阻まれて、なかなか捜査に乗り出してもらえな
いと云う側面があり、被害者の女性が後難を恐れたり、裁判での子細にわたる尋問による「辱め」を回避して訴え出なかったりするために、傷害致
143
死傷など何らかの刑事事件として表面化しない限り、多くの場合被害者の泣き寝入りに終わることが多い。更にこのような犯罪に、他でもない警察
官自身が関わっていることも少なくない。また、加害者が未成年者の場合、ことは更に厄介になる。
あおりは、自分自身がストーカー行為に悩まされた経験を土台に、怨念にも似た感情を内に秘めて、公判に臨んで厳しく被告人を追求して、当然
の量刑をもって罪の償いをさせることに心を砕いている。
吉沢は、一度あおりに覚られないようにあおりの担当する公判を傍聴して見た。時に厳しく理詰めに、時に激しい感情を露にして加害者を追求す
る時のあおりは、その姿といい、物言いといい、吉沢が平素見ている優しくたおやかなあおりとは似ても似付かない、まるで別人の感があった。
吉沢には、それが、あおり自身が心の奥底に凝りのように残っている傷を癒そうとする姿でもあり、被害者の女性に代わって被害者の受けた心の
傷を癒そうとうする姿でもあるように思われた。
ほだ
そのような「厳しい」職務を離れた時のあおりは、あの十七、八の少女時代と少しも変わらず、吉沢に頼り切っていた。それどころか、日が経つ
に連れて、休日に何処かドライブに行くような予定を立てて警護を依頼したりして、吉沢があおりとの間に設けている心の障壁を取り除いて、普通
の男と女のように、もっと身近な間柄になろうとした。
されそうになって、全ての垣根を取っ払いたくなるのを必死に堪え
そんな健気なまでに男としての吉沢を求めてくるあおりに、吉沢も時として絆
なければならなかった。それは、簡単なことのようでも、単純なことではなかった。あおりの気持ちを受け入れるためには、吉沢は、今の身分を捨
てなければならない。さもなければ、あおりの検事としての身分に大きな災いをもたらすことは必定だった。あおりはそれを知らない。だから、あ
おりには、今の吉沢の頑なまでの姿勢が理解できなかった。
こうして、一年が経ち、二年が過ぎようとしていた。あおりは、検事と云う「お堅い」職業に就き、厳しい尋問と理詰めな弁説で加害者に呵責な
い量刑を求める姿勢を貫いてはいたが、その優し気でたおやかな姿貌で、「検察庁始まって以来の美人検事」と誉れ高い…とあって、絶えずあちこ
ちから縁談が持ち込まれるが、あおり自身は、そのどれにも見向きもしなかった。あおりの心はひたすら吉沢に傾いたままだった。しかしそれは、
誰も知る由もなかった。庁内では、あおりが縁談話に全く興味を示さないことが七不思議の一つだった。庁内の若手の独身検事らは、あおりが「近
付き難い…」とて、プライベートなことでは敬遠しがちだった。あおりを実の娘のように可愛がっている検事長や副検事長は、あおりが担当する事
件はさておいて、あおりが縁遠いことにやきもきし通しだった。
144
「偶には食事でもしよう…」
それぞれがそれぞれの立場であおりを誘って、身を固める気があるのかないのか…探りを入れようとする。
「私も、私なりに考えておりますのよ…、そろそろそういう歳頃と思われているようですから…、でもこればかりは縁のものでしょう…、意中の
男性がない訳ではありませんが、先様には先様なりの事情もお有りですし…、なかなか簡単には形になりませんわ…、検事と云う仕事をしながらの
ことですし…、また検事の職務を全うする…と云うことが先決条件になりますから…、尚更ですわ…」
あおりは当たり障りなく答える。
「その意中の男性…というのは誰なんだね…」
「プライベートなことですし、先様の事情もございますから、今は申し上げられませんわ…、ただ、ここでは、「逞しくて頼りになる男性…、私の
仕事での疲れを癒して下さりそうな男性…」とだけ申し上げておきますわ…」
あおりは当たり障りなく煙幕を張るのだった。
だが、地検庁内のあおりに対する見方とは違って、あおり付きの検察事務官の服部芳枝は別の見方をしていた。それは、あおりが何か別の理由で
心の傷を負い、男を簡単に受け入れられないのだ…というものだった。
それは、一方で服部芳枝自身のことでもあった。芳枝は学生時代に既に許嫁が居た。芳枝は、裁判官を父に持つ厳格な家庭に育ったため、処女性
は結婚するまで大切にするものと思い込まされていた。
だが、待ちきれなくなった許嫁が、ある日いやがる芳枝を強引に犯した。そのやり方は暴力的で一方的に獣欲を満たすだけの、ほとんど強姦に等
しものだった。芳枝は、信頼していた許嫁に自分の意思に反して、陵辱され、人格を傷つけられたという、言い様のない屈辱感と不信感を深い心の
傷として抱いた。結局許嫁に対する深い不信感から、婚約を解消した。以来、芳枝はずっと男に対する不信感から抜け出られず、今日まで独身を通
していた。その服部芳枝の見方は的を外れていたが、芳枝は、あおりにも同様の心の傷が有り、それが原因で男を寄せ付けないのだと信じて疑わな
かった。
そんな庁内の雰囲気とはかかわりなく、あおりはひたすら吉沢昌平を思い続けていた。
話しをしたいから、今日夕食を付き合って欲しい…」
「個人的に真剣いに
ちょう
なまめ
日比谷公園の銀杏の葉が黄金色に色づき、ぎんなんの実を包んだ黄色く過熟した実をあちこちに落として周囲に艶いた臭いを撒き散らしはじめた
145
晩秋のある日、あおりは出庁途上に吉沢に云った。
「あおりさんの警護…ということにして、お供します…」
そう云って、吉沢は首肯いた。
「いつものようにぶっきらぼうに、かたくなな姿勢で断られなくて良かった…、これで少しはきっかけが掴めるわ…」
あおりはほっとした。
その日あおりは、久しぶりに定時に退庁すると、虎ノ門交差点でタクシーを拾い、日比谷公園付近で遊弋してあおりを待機している筈の吉沢に、
直通携帯でタクシーのナンバーを告げて、後を従けて来てくれるように頼み、「砧公園に行って…」くれるようにタクシーの運転手に行く先を告げた。
砧公園の入口でタクシーを乗り捨てて、タクシーを遣り過ごすと、吉沢の車が近付いて来てあおりの前で停まり、外に出て後部座席のドアを開け
た。あおりは吉沢の隣に座りたかったが、こんなことで押し問答しても仕方がないので、いつものように後部座席に座ると、公園の中に入って左奥
の取っ突きの林の中にある「レストラン砧」に行ってくれるように頼んだ。そこは、図らずも佐々が「千代乃とのレクレーション」の帰りに必ずと
言っていいほど頻繁に立ち寄って夕食を共にするレストランだった。吉沢は、あおりをレストランの車寄せで下ろしてから、勝手知った駐車場の目
立たないところに車を停めて、レストランの中に入って行った。
吉沢は、ここへは佐々の警護で来るだけだったので、店の中に入るのは初めてだった。臙脂色の制服制帽を身に着けたフロア担当のウエートレス
が近付いて来て、予約の有無を訊いた。「吉行さんの同伴者」と答えると、「ああ、今お見えになった方ですね…」と云って、奥の庭園寄りの一番隅
の二人用のボックス席に吉沢を案内した。右奥の演台でベージュのドレスを身に纏ったピアニストが弾くサン・サーンスのピアノ協奏曲が微かに聞
こえる程度に伝わって来て、硝子越しに見える花のように様々に色づいた葉を付けた樹々に取り囲まれた晩秋の庭園の情景に合って、いい雰囲気を
醸し出していた。
「こちらでございます…」と云うウエイトレスの声と共に吉沢が席に近付くと、あおりは一旦席を立って吉沢を奥の方に招じ入れた。座席は、二
人並んで庭園に向かえるように、巻貝型の衝立の陰になるように設えてあった。
あおりは、何処で着替えたのか、いつもの白と黒を基調にした検事の仕事着とも云えるツーピースのスーツではなく、肌色に白い桜の花を散りば
めたような柄のゆったりしたワンピースを後ろで蝶結びにした絹の腰紐で腰にアクセントを付けて身に纏い、肩にベージュ色の薄いパシュミナのス
トールを掛けていた。いつも通りの純白のシャツに黒のスーツを着てリーゼントスタイルの髪形の吉沢とは、いささか不釣り合いなカップルだった
が、あおりは気にする風もなく、検事から普通の女に戻って、きらきらと輝く目で吉沢を見詰めていた。
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こういう時のあおりは、実に綺麗だった。吉沢は、このようにして身近で見詰められるあおりの輝く目が眩しく、身の置き所に困った。
ウエートレスが注文を訊きに来て、二人にメニュウを渡した。
「何か特に食べたいものがあるかしら、お兄ちゃん…」
あおりは、メニュウを一通り繰って見て、吉沢に訊いた。
「お兄ちゃん…」を聞き咎めたウエートレスが、怪訝な顔をして吉沢を見た。
「いや…、あおりさんにお任せします…」
吉沢が応えた。それで、ウエートレスはますます怪訝な顔付きになって、二人を代わる代わる見ていた。
「それでは、この「本日のお任せメニュウ」というのを二人前くださいな…」
あおりはメニュウをウエートレスに渡しながら云った。
「承知いたしました…」
出て行くウエートレスと入れ替わりに、同じ臙脂色のお仕着せの制服にベストを着て蝶ネクタイをしたソムリエが入って来て、「食前酒を何かお
召し上がりになりますか…」と吉沢に訊いた。
「いや…、自分は車の運転がありますので…、あおりさん、何か呑むんでしたら、どうぞ…」
と云って、ワインメニュウをあおりに渡した。
「それでしたら、今日ボージョレ ヌーボーの中でも熟成前のパラディが届きましたので、それをお召し上がりください…、アルコールの度は極弱
いので、ジュース代わりに召し上がれますよ…」
ソムリエが云った、
「パラディ…、ですか…」
あおりが訊いた。
「はい、本来は、ボルドー地方のワインだけについてボージョレヌーヴォーを公称することが許されているのですが…、何処の国のワイナリーで
も収穫のお祝い用に造るのです…、ワインの醸造の季節の初めに、云わば「一番搾り…」みたいにして造られる半熟成のワインが市中にも出回りま
す…、その期間は極短くて、現地でも呑む機会があるのは三、四日間ぐらいのものです…、今回のは、当店が契約しているイタリアのワイナリーか
ら特別に「果実酒」として取り寄せたもので、正式にボージョレヌーボーと呼ぶのは憚られるのですが、当店では、便宜的そう呼んでいます…、滅
多にない機会ですから、お試しください…」
「それでは、そのをパラディを一杯ずつ頂きましょう…、いいでしょう、お兄ちゃん…」
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ワインメニュウを吉沢から受け取って、ソムリエに渡した。
食事中は、専らあおりがお喋りをした。吉沢は、例によって寡黙だった。だが、大学時代に武道に打ち込んだことや、ネバダ砂漠でのサバイバル
訓練のことになると、
俄に話に熱を帯びた。中央大学の法学部を出ている吉沢だが、「法律のことは程々にしか勉強しなかった…」
と笑って屈託がない。
「お兄ちゃん、私が嫌いなの…」
一通りコースが終わって、デザートに続いてコーヒーが出されてから、あおりは真顔になって切り出した。
「いや…、嫌いだったら、ドライブにお供したり、食事を一緒にしたりなどしません…」
「それじゃあ、私はお兄ちゃんにとって魅力のない女なの…」
「いや、十分魅力的な女性です…、あおりさんを「魅力のない女だ…」などと云う男はいないと思います…、理知的ですし、姿貌は美しいし…、
性格は多少頑固できついけれど、人には優しいし…、何よりやんちゃなところが可愛いし…、そんじょそこらには見付からない女性だと思います…」
「随分と持ち上げてくれてるけど、お兄ちゃんは私を警護の「対象」としか見てくれなくて、私との間にいつも垣根を設けて、少しも私に近付い
てくれないわ…、
ずっと前に告白したように、私はお兄ちゃんのお嫁さんにして欲しいのに、お兄ちゃんはちっとも取り合ってくれないわ…、何処に住んでいるの
かも分らないから、押しかけ女房になりたくてもなれないわ…、
「花の色は、移りにけりないたずらに、わが身世にふる、眺めせしまに…」という小野小町の歌があるけれど、私もその内にそんな心境になりそ
うよ…、
私にこんな思いをさせて…、知らん顔してるなんて…、お兄ちゃんずるいっ…、なぜそんな態度を取るのか、理由を説明して、白黒はっきりさせ
てえ…、お願いだから…」
「あおりさんの言うことは至極尤もです…、自分としても情けないです…、なぜそうなのか…と、理由を訊ねられれば…、あおりさんのことを大
切に思っているから…としか言い様がありません…、
自分は、SSPとしての人生に命を張っています…、ですから組織との断ち難いしがらみがあります…、こんな状態で、あおりさんに私情を交え
て接近すれば、あおりさんに検事としての名誉に関わる迷惑が掛かります…、それは間違っても避けなければなりません…、それがあおりさんを護
る自分の至上命令ですから…、 そう云うあおりさんは、なぜ自分をそれほどまでに思ってくださるのですか…」
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「それは、お兄ちゃんが好きで、お兄ちゃんに替えられる男性がいないからよ…、私の心の中ではずう~っと以前からそう…、下世話な言い方を
すれば、私はお兄ちゃんにぞっこん…、私が検事からただの一人の女になって身も心も投げ掛けられるのは、お兄ちゃんだけ…」
「そこまで云われてしまうと、自分は酷く切ないです…、あおりさんの気持ちに応えるには、あおりさんが検事を辞めて法曹界から身を引くか、
自分がSSPを辞めて組織から離れるか…、二つに一つしかありません…、初めの案は、あおりさんの才能を考えれば、問題外の選択肢です…、二
番目の案は出来ない相談ではありませんが、自分は生きるよすがを無くした唯の木偶の坊になります…、そんな男は、今を時めく吉行あおり検事に
は相応しくないことは明らかです…」
「そうとも限らないわ…、大学院で法律を勉強し直して、刑事になる…という手もあるわ…、そうすれば、検察と捜査の両面でお互いに助け合い、
補い合えるでしょう…、そうだわ…、われながらなかなかいい考え方だわ…、そうは思わないっ…、お兄ちゃん…、そうすれば、私がお兄ちゃんの
お嫁さんになって、一緒に生活をしながら、お兄ちゃんが大学院で法律を勉強して刑事を目指し、部長刑事から警察署長を目指すことも出来るわ…、
お兄ちゃんの鍛えた身体なら、訳ないことだわ…」
「………」
その一見突拍子もないが一理あるあおりの考え方に、吉沢は内心苦笑を禁じえなかったが、「今の八方塞がりで動きの取れない状態を抜け出す手
として考えられなくはない…」と、昌平は心を動かしかけた。
「あおりさんの考え方は分りました…、少し考えさせてください…、上司とも相談して見ます…」
吉沢はそのあおりの考え方を前向きに考える姿勢を示した。
「良かった…、お兄ちゃんに私の考えを取り上げてもらえて…、これで行かず後家にならないで済みそうだわ…、早く晴れてお兄ちゃんのお嫁さ
んになりたい…」
あおりは潤んだ目を輝かせて吉沢を見詰めた。そのあおりの視線は十分刺激的で、吉沢は思わずあおりを抱き締めたい衝動に駆られたが、そこは
訓練したSSPとしての自制心の方が勝った。
次の週、吉沢は、山瀬産業本社の社長室に居た。SSP部長の陣内も同席していた。
吉沢は、吉行あおりの求愛を受け入れて、SSP隊を辞めて組からも脱会したいこと、所帯を持って、自分は母校の大学院に入って法律を勉強し
直し、刑事畑を目指して、捜査の面で吉行検事に協力する道を選びたいことなどを話した。
「そうか、ようやく決心がついたか…、どうやらあおりさんが考えついたことだな…、君独りではそういう考えに行き着かなかったろう…、
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とにかくあおりさんを女として中途半端な状態にしたままにならなくて良かった…、何れは君自身に転機が訪れることは必定だから、良い潮時だ
…、幸い君は企業の機密に関わる職務に就いていないから、手続きは簡単だ…、後継の隊員が補充できた段階で、陣内部長から辞職と脱会の辞令を
出してもらおう…、それで問題はないだろう、陣内部長…」
「はい、問題はありません…」
「それまでの間今暫く、吉沢君には、吉行検事の身辺警護を続けてもらう…、こちらのアンテナにかかった情報によると、吉行検事が今担当して
いる事件の公判を巡って、被告の一族に不穏な動きがあるらしい…、吉行検事は、結審まで当分自宅には戻らず、警備の厳重な検察の官舎に入るよ
うだ…、従って君の任務は、警備の手薄な地裁と地検の周辺、そこへの出入りの空間での吉行検事の警護を厳重にしてもらうことになる…」
*******
あおりが地裁で担当しているその事件は、十九歳の少年による犯罪ではあったが、「近来稀に見る凶暴且つ凶悪な…」犯罪だった。被告の少年は、
十四歳当時既に少女暴行と監禁で告発され、少年院に送られていたが、出所後も繰り返し同様の事件を起こし、今回の事件はその中でも最もおぞま
しいものだった。被告は十九歳のOLを拉致して繰り返し暴行した揚げ句、ガソリンを掛けて火を点けて焼死させたうえに、遺体をコンクリートで
固めて埋め、婦女暴行殺人と死体遺棄の罪に問われていた。この事件は、遺体の遺棄」を手伝わせられた少年が行為の余りのむごたらしさに耐えか
ねた末の自首によって明るみに出た事件だった。
捜査から検察尋問、実地検証、公判に至る何れの段階でも被告の少年には、微塵の反省の色もなく、昂然と自己主張を続け、情状酌量の余地は些
かもなかった。
あおりは、
「これは、類似の犯罪を重ねた上で行き着いた冷血非道な犯罪であり、このような被告には更生の余地はなく、少年とはいえ成人並の
極刑をもって罪を償わせるのが世人の心情に叶う…」として、最終論告で死刑を求刑した。
この時、傍聴席にいた被告に心酔する弟が、「兄貴ぃ~っ、この検事は俺が殺ってやる…」と大声で叫び、直ちに退廷させられた。
そして、日を経て、結審で、裁判長は、求刑通り死刑の判決を下した。判決理由は、あおりが論告した内容とほとんど軌を一にしていた。
150
その事件は、その日、地裁から出て、帰ろうとする折に起こった。あおりは、検察事務官の服部芳枝と、二人の事務官見習いを伴って、地裁の出
口の短い階段を下り掛かった時だった。右前から「やろ~っ、死ね~っ」と大声で叫んで若い男が細長いナイフを突きかざしてあおりに向かって突
進してきた。あおりは、階段を下り切ったところで、驚いて立ち止まった。階段を下り掛かっていた服部芳枝と二人の事務官見習いはその場で固ま
った。
丁度階段を下り切った右端で待機していた吉沢は、その男の声に反応して咄嗟にあおりの前に身体を挿し入れて、男に立ちはだかった。男のナイ
フが吉沢の右下腹に突き刺さった。吉沢は、男の利き腕を掴んで捻じり下げて拘束し、同時に右足の踵で男の首筋を殴打した。男はその場に転がっ
た。四方から警備員が駆け付けて男を取り押さえた。
吉沢は、尻餅を着いたが気丈にもナイフを抜き取った。吉沢は、いつもの習慣で腹に晒を幾重にも巻き付けていて、その上に防弾チョッキをシャ
ツの下に着込んでいた。それが幸いして、ナイフはさほど深くは刺さらなかったが、どうやら細い動脈を切ったと見えて、鮮血が吹き出て来た。
「いあ~っ、おにいちゃあ~ん…」
それを見たあおりは、動転して思わず悲鳴を上げて、吉沢の背中を抱きかかえた。吉沢は、上着のポケットからティッシュペーパーの袋を出して、
全部まとめて出してくれるようにあおりに頼んだ。ティッシュを受け取るとパンツのベルトを緩めてティッシュを持った手をパンツの中に差し込み、
傷口の辺りを思いきり強く押さえ付けた。
その間に別の警備員が事態を察知して救急車を呼んだ。救急車は十五分ほどして到着して吉沢を収容した。
「私が救急車に同乗して行きます…」
あおりは、服部事務官に云って書類鞄を渡して後を頼み、「病院から連絡します…」と云って、救急車に乗り込んだ。
救急隊員は、吉沢の手から鮮血に染まったティッシュを取り除いて、消毒されたリンネルを当てて結縛した。吉沢は、目を閉じていた。あおりは、
吉沢の左手を握って「お兄ちゃん、死なないで…」と心の中で呟いた。救急隊員は、二人の関係を訊いた。
「私は東京地検の検事で、こちらは私の警護に当たっていたシークレットサービスの隊員の方です…」
あおりが答えた。
救急車は、五分ほどで虎ノ門救急医療センターに到着した。
救急隊員の情報で、予め待機していた外科医や看護婦が吉沢を受け取り、慌ただしく手術室に運び込んだ。直ぐに外科医が出てきて、
「出血が酷
いので、輸血が必要だが患者の血液型がAB型で血液が足りない…」と、あおりに云った。
「O型なので、私の血液を輸血してください…」
あおりは、迷わずに申し出た。
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「それはありがたい…」
医師は、一応あおりの血液検査をしてO型であることを確かめてから、二人を並べて直結で緊急の枕元輸血をしながら、吉沢の傷口を開いて、切
れた動脈を吻合して傷口を縫合した。術中あおりも一時意識が朦朧となり掛かったが、暫くして平常に戻った。術後、二人は集中治療室に並べて入
院させられた。
あおりは、看護婦に服部事務官と千代乃の携帯電話を教えて、現状を連絡してくれるように頼んだ。服部事務官は程なくして駆け付けてきたが、
感染防止で集中治療室には入れず、ガラス戸越しにマイクロフォンとイヤホンで対話することになった。あおりは、服部事務官に事情を話して、今
週一杯休職扱いの手続きを取ってくれるように頼んだ。服部事務官は、自分の身の危険を救ってもらったとはいえ、シークレットサービスの隊員に
自分の血液を提供したあおりの大胆さに驚いた。
一方、病院から連絡を受けた千代乃も、酷く驚き、取るものも取り敢ず、駆け付けて来た。千代乃は、ガラス戸越しのあおりとの対話で、初めて、
あおりの身代わりになって大怪我をしたのが吉沢SSPで、その吉沢SSPを助けるためにあおりが自分の血液を提供したことが分り、「二人の縁
がこれでまた一つ深まった…」と思った。
「事態の詳細を直ぐに佐々おじさんに知らせてあげてくれるように…」
あおりは、千代乃に頼んだ。千代乃は、直ぐに病院の外に出て、佐々に事態を告げた。佐々は地裁で起こった事件をテレビの報道で既に知ってい
た。 「二人は、これでいよいよ離れられなくなるな…」
佐々はその被害者があおりと吉沢昌平だということを知って、屈託ない調子で千代乃に云った。
吉沢の負傷は、佐々から直ぐに陣内SSP部長にも伝わった。
事件の報道は、初め新聞報道が先行した。これより以前、十九歳の少年Aによる稀に見る残虐で凶悪な性的犯行として、論告求刑の頃から、俄か
に報道の関心が強くなっていたが、テレビは見せ場の少ない地裁の判決申し渡しのこととて、カメラが入らず、新聞報道の後を追随する結果となっ
た。 だが事件の真相が明らかになるに連れて、急に事件の発端に戻ってのテレビの後追い報道が過熱した。
死刑判決を受けた少年Aと、あおりを殺傷する目的で襲おうとした弟の少年Bが共に麻薬の大量隠匿が摘発されて解散させられた広域暴力団関東
笹山会の笈田組組長、笈田均の長男と次男だと分って、検察が黙っていなかった。
152
「これは、検察全体に対する挑戦と受け止め、今後このような事態の起こらないよう万全の措置をもって臨む…」
先ず検察庁長官が、声明を出した。
「このようなことは、法治国家にあってはならないことであり、司法全体、ひいては法の支配する民主国家に対する挑戦と受け止め、今後断固と
した措置をもって臨む…」
次いで、法務大臣が声明をエスカレートさせた。
「自らの身体を張って女性検事の命を守ったのみならず、重傷を負いながら果敢に犯人をねじ伏せ、逮捕に協力した功績により、シークレットサ
ービスの吉沢隊員に警視総監賞を贈ることを決定しました…」
その後、警察庁長官が、声明した。
「命を救われた女性検事が、今度は自ら献血して、お返しに吉沢隊員の命を救った…」と云う美談が追加されて、一時は、報道の取材攻勢
更に、
で虎ノ門救急医療センターはごった返し、病院側は特別な体制を組んで対応に追われた。
だが、佐々の命による陣内部長の機転で病院側と交渉して、先ず順調に体力を回復しているあおりを特別室に移して、直接の取材を防ぐと共に、
吉沢をなお集中治療室に留めて…、病院側の主治医による日に一度の公式の経過報告だけに限ったため、ようやく報道の関心は冷めて行った。事件
現場にテレビカメラが入っていなくて、「いあ~っ、おにいちゃあ~ん…」という、あおりの叫び声が録音されていなかったことも幸いした。
あおりは、佐々の提案で、更に一週間入院して、報道の沈静化を待つことになり、あおりにとっては、思い掛けない良い休養になった。
一方、吉沢は、驚異的な回復力を示していた。合併症も併発することなく、順調に傷も癒着していて、一週間後には、集中治療室から出ることが
出来るようになり、こちらも特別室に移った。
喜んだのは、あおりだった。自分はいつでも退院できる状態だったので、始終吉沢の部屋に出入りして何くれとなく世話を焼き、退院直前にはほ
とんど入り浸りで世話をした。それは、吉沢があおりをより身直に感じられるようになる良い機会になった。吉沢は、主治医の説明から、自分が命
を守ったあおりによって、どうなっていたか分らない命を救われたことを知り、あおりとの生命のぎりぎりのところでの強い結び付きを感じていた。
吉沢の側では、あおりは検事の衣を脱ぎ捨てて、普通の「恋する女」になっていた。
「傷はまだ痛むウ…、何処か他に痛いとこはないぃ…、何かして欲しいことはないぃ…」などと、しきりに吉沢を労り、気遣い、吉沢の腕を取っ
て撫で擦り、時に吉沢の胸に頬を埋めて、「お兄ちゃんが死ななくて良かった…」と、泪を流して云い、「退院したら、直ぐお嫁さんにして…」と甘
153
え、吉沢はそんなあおりを自然に受け入れて、あおりの首筋や頭を抱きかかえて、撫で擦るまでになっていった。
そして、週末にあおりは一足先に報道陣に覚られぬように密かに退院して自宅に戻り、次の週から職場に復帰した。
相変らず、あおりの服装は白と黒の取り合わせのスーツ姿だったが、以前とは違ってふくよかで柔らかな雰囲気で戻って来たあおりを見て皆不思
議がった。ただ、あの事件の瞬間に「いあ~っ、おにいちゃあ~ん…」と叫んでシークレットサービスの男の肩を抱き、救急車に同乗して病院に随
行し、献血を申し出てその命を救ったと聞くあおりのことを覚えていた服部芳枝だけは、あおりの「女らしくなった」理由を察知していた。それは、
おくび
二人が昨日今日の間柄ではないことを暗示していた。そして、服部芳枝は、あおりが自分の予想していたような女ではなかったことを覚って、嫉妬
を覚えた。だが、検察事務官として有能で年季の入っている服部芳枝は、そんな感情は噯にも表さなかった。
あおりの警護には、吉沢に代わって曾てのように山岡と谷澤が交代で就いた。
あおりは、いつも制服のようにしてきている地味なスーツを、退庁時に薄いワンピースの服に着替えて、帰宅途中必ず吉沢を見舞い、果物や谷澤
の好物の食べ物を持って行って一緒に食べたり、たわいのない談笑をしたり、退院後の結婚式の手配や、新居の家具調度の調達のことなどを話し合
って、一時を過ごすようにしていた。それは、近い将来始まる二人の日常生活の予行演習のようなものだった。帰り際には、決まった挨拶のように、
あおりは、吉沢の胸の中に抱きすくめられて、吉沢の身体の匂いを嗅いで、安心してから病院を出て行くのだった。
吉沢は、リハビリテーションのために更に一ヶ月病院に滞在し、その間に大学院に入るための法律の勉強を始めた。あおりは、吉沢から特に何か
質問されない限り、その法律の勉強には何も口出ししなかった。それどころか、あおりは吉沢の側では、いつも唯の女で居たがった。吉沢の傷のこ
とを慮って、情を交わすことはなかったが、傷に差し障らないように吉沢の腕の中に包み込まれているのを好んだ。そうして、お互いにお互いへの
愛おしさが増して、離れ難い感情を抱くようになって行った。
*******
三月の末に、吉沢も密かに退院した。退院に際して、主治医からここ一年ぐらいの間は激しい運動をしないように、徐々に腹筋の筋力を回復させ
るように注意された。
154
吉沢が退院して間もなく、二人は少数の親族と知人友人だけのささやかな式を挙げて、佐々が予め手配してくれていた警備の厳重な麻布台のマン
ションに新居を構えた。
あおりの式には、清香がMITで知り合って間もなく結婚した電子工学の研究を続けている幸沢慎二朗を伴って急遽帰国して参列した。辰也も自
はじめ
分の率いるバンドのメンバーを連れて参列した。辰也は、そのメンバーの一人でボーカルの一しのぶと良い仲だった。
千代乃は、この式で初めて公然と佐々と連れ立って出て来た。千代乃は、お召しの紋付の裾模様に金糸銀糸織込み亀甲模様の西陣帯できっちりと
着付けて、一種凄みさえ感じさせる着こなしだった。佐々も紋付袴の出立ちで、どうやら二人が示し合わせての装いのようだった。
吉沢の方は、参列者は文字通り親族だけだった。父親の吉沢源之丈は、名前の通り何処やら古武士然とした風貌の長身の男で、母親の静香は対照
的に小柄で、連れ合いの陰に隠れているような風情の色白で清楚な美人だった。他に二人の妹が居た。二人とも母親似の清楚で可愛らしい美人だっ
た。加乃と千世といい、奇しくも加乃は清香と、千世はあおりと同い年だった。夫々既婚者で、夫の早見優介と、橘宗太郎を同伴していた。
千代乃は、感慨深かった。一人立ちして世に出る前から多難な道を強いられ、はらはらドキドキ続きのあおりが、その中で「自分の守護神はこの
男性…」と決めて、永年恋心を燃やし、その男性があおりの身代わりになって傷つき、あおりが輸血によってその男性を助けるという、波乱のおま
と
ひ
けまで付いて、ようやく初心のゴールに辿り着いてくれて、言うべき言葉も見付からないほど嬉しかった。これからは、その守護神に護られながら、
思う存分に才能を発揮して、協力して幸せな人生を送ってもらいたいと心から願わずにはいられなかった。
式が終わると、仕事の関係上、新婚旅行は先送りにして、佐々と千代乃が用意してくれていた必要最小限の家具調度だけの麻布台の新居に入った。
新婚初夜は、あおりにとっては文字通り「初夜」だった。何度も危機に曝されながらも、あおりの「新鉢」は、
「お兄ちゃん」のために今日まで
大事にとって置かれていた。昌平は、文字通りの童貞ではなかったが、大した感慨も得られなかった初体験以降の吉沢昌平の生き方を考えると、ほ
とんど童貞も同じだった。
さして盛大にはしなかった披露宴が終わり、そのまま皆がどやどやと二人の新居に押し寄せてきて、ひとしきり呑んだり唄ったりして騒いだ後、
一組去り、二組去りして、最後に千代乃が「昌平さん…、昌平さんだけを一途に思い続けてきたあおりを幸せにしてやってくださいな…」と云って、
155
佐々と連れだって帰って行くと、大きな空間は二人だけのものになった。
暫く気詰まりな時間が流れた。
「お兄ちゃん…、私が後片付けをしている間に、お風呂を遣ってくださいな…、浴衣の寝巻きと下帯を用意しておきますから、それを着て先に床
に入っていて…」
「後片づけは、自分も手伝おう…」
「いいのよ、大したことではないから…、それに順序があるでしょ…、今夜は私には文字通り新婚初夜…、それなりの心の準備も…、」と言いかけ
て、少し間を置いて、
「女心を察して…」と、云って、あおりは昌平に先に入浴するよう促した。
あおりは、昌平がまだ入院中に、新婚家庭の設えを準備すると同時に、千代乃に夫婦の性の営みについていろいろと教わっていた。しかし、いく
ら口で教わっても、やはりいざ事に臨んで、具体的に実感できている訳ではなかった。あれほど積極的だったあおりだが、いくら心から好いていて
も、気恥ずかしさや気後れを覚えない訳にはいかなかった。
あおりは、キッチンで後片づけをしながら、昌平が風呂から上がって閨に入るのを待って、それから湯を遣った。丁寧に身体を洗い、その後、母
の千代乃に真似て、ローズのアロマ湯にゆっくりと浸かって、気持ちを落ち着かせようとした。湯から上がると白の絹の下帯を着け、白綸子と朱の
京鹿子の長襦袢を二枚重ねにして、その上から江戸紫の花の模様の入った浴衣を羽織り、簡単に細い腰ひもを締めただけの姿で、昌平の待つ寝室に
向かった。長襦袢と浴衣には、母に教わった通りにジャスミンの香が薫き込められていた。
二人の閨は、十畳ほどの洋間で、真ん中にダブルベッドが設えたあった。ベッドの裾側の壁の中央には片開きのスライド式の扉があり、その両側
には、小さなウオークイン クローゼットが設えてあった。右端の窓際の台には、洋風の化粧台が据えられてあり、左端には、小さな液晶テレビが
置かれていた。部屋の四隅と左右両側の支柱には、下から天井に向けてライトアップするように水芭蕉形の笠付きのライトが灯り、臙脂色の天井と
四辺の壁をほの明るく照らしていて、艶冶な雰囲気を醸し出していた。
昌平は、まだベッドには入らず、据置の丸いストールに腰掛けて液晶テレビの深夜放送を観るともなく見ていた。
「お兄ちゃん、お待たせ…、退屈してたあ…」
昌平に声を掛けて入って来たあおりを見て、昌平は顔を輝かせてにっこりと微笑んであおりを迎えた。
アロマ湯に浸かって上気したあおりの若い肉体から発散されるフェロモンと、着衣に薫き込められたジャスミンの香の匂いが部屋に漂って、昌平
の鼻腔と間脳を刺激し、昌平は自ずと発情した。
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あおりは、ベッドの裾側に上がって正座して、「初夜を迎えるに当たって、少しばかり古風な儀式をしたいから…」と云って、昌平にベッドに上
がって対面してくれるように促した。それは母千代乃の新婚初夜の話を思い起こしてのことだった。
「お兄ちゃん…、長いこと思い続けた願いが叶い、ようやくお兄ちゃんのお嫁になれて私は嬉しいわ…、これから末長く私を可愛がってください
な…、家では、仕事のことは忘れて、身も心もお兄ちゃんに預けて、何時も睦み合っていたから、よろしくね…」
あおりは、両手をついて、きらきらと輝く瞳で昌平を見詰めながら云った。
「自分としては、
「瓢箪から駒…」の思い掛けない結果になりましたが、最近の出来事で、あおりさんが自分の生涯無二の伴侶だと覚りました…、
公私共にあおりさんを一生懸命支えて行きますので、こちらこそよろしくお願いします…」
昌平も真剣な眼差しであおりを見つめ返して、しゃっちょこ張った挨拶を返した。
そんな儀式めいた挨拶が済むと、あおりは細紐を解いて浴衣を脱ぎ、膝を崩して、上体を昌平に投げかけた。あおりの白綸子と朱の京鹿子の長襦
袢が妙に艶いて見え、昌平の興奮を掻き立てた。
にじ
あおりの動きに応じて昌平も膝を崩して、あおりの身体を抱き留めると、あおりの全身から立ち込める若い女のフェロモンと薫き込められた香の
入り交じった得も言われぬ匂いで、昌平は、目の眩むような感覚に襲われ、ひっしとあおりを抱き締めた。
あおりが身体を躙らせて、長襦袢と下帯の裾から剥き出しなったあおりの白くほっそりとした内股が薄明かりの中に浮かび上がると、SSPの仕
事で堪えることに慣れた昌平の自制心も流石に緩んで、思わず右手を裾の間に差し入れて、あおりの下半身を引き寄せ、自らも細帯を解いて浴衣を
脱ぎ、身体を躙らせて横たわり、あおりに添い寝する姿勢になった。
「お兄ちゃん…」
あおりは、甘えるように躙り寄って、上体を昌平の左胸に埋めた。その姿は、女学校時代のあおりと少しも変らなかった。昌平は、左腕であおり
を掻き抱き、あおりの頬や額や頭に接吻をし、挿し入れた右手であおりの太股を撫で擦った。
あおりは、自ら長襦袢の腰ひもを解いて襟元を開いた。昌平の大きな掌にすっぽりと納まりそうなふっくらとした小振りの乳房が零れ出て、あお
りはそれを昌平の胸に押し付けた。昌平は首を屈めるようにして、あおりの左右の乳房に接吻を繰り返し、乳首を口に含んで舌の中で転がし、同時
にあおりの下帯の紐を解いて、右手を太股から上に擦り上げて行った。あおりは、下帯の下には何も着けていなかった。昌平の掌に直にあおりの丸
いふっくらとして柔らかな尻が触れた。
昌平は、意を決したように、掌をあおりの両膝の間に差し入れてあおりの生え際に押し当てた。
昌平の乳房への接吻と尻の愛撫に、あおりは初めは擽ったがっていたが、次第にそれが快感に変わって行ったと見えて、目を閉じて鼻をすーすー
と鳴らし始め、更に身体を小刻みに震わせ始めた。
157
「ああ~、いやっ…」
小さく叫んで、あおりは少し身を引くような素振りをした。それでかえって前が開いて、昌平の指先があおりの空割に直に触れた。その途端、あ
おりはまた「ああ~、いやっ…」と叫んだが、逆に自分の腰を前に突き出した。それで、昌平の親指が易々とあおりの小核を捉え、中指が空割の襞
を滑ってその腹で火床口を捉えた。あおりの空割の襞も火床口もまださほど濡れてはいなかった。
あおりの生え際の毛は、まだ少女のように薄かった。昌平の小核と火床口の愛撫で、あおりの気が昂ぶり、あおりは頻りと太股や尻を小刻みに震
わせてはいたが、あおりのデリケート ゾーンには淫液は溢れ出ていなかった。
昌平の玉茎はもう固く凛立して、下帯の合わせ目から外に突き出て、あおりの鳩尾辺りに当たっていた。それが熱いので、あおりは何気なしにそ
れを左手で握った。昌平の玉茎は、特に太くはなかったが、長かった。そして、火のついたように熱かった。
「こんなに長いものが私の中に入ってくるのかしら…」
あおりは内心訝った。
あおりの空割の襞も火床口もなかなか十分に濡れてこなかったので、昌平は、意を決して接合を果たそうとして、あおりをベッドに仰向けに横た
え、右足を抱え上げて、雁首を火床口に当てて一気に押し込もうとした。
「ああ~っ、痛いわっ…お兄ちゃん…、もっと優しくしてっ…」
あおりは蚊の鳴くような声で不服を訴え、身体を上に乗り上げて、逃れようとした。それで、昌平は一瞬気後れした。
「無理をすれば、悪い記憶が甦って、心理的に夫婦生活を嫌悪したり、避けたりするようになる…、だが、これであおりがずっと俺のことだけを
思い続けて、この歳まで生娘のままだったことが分った…、「あおりを護る…」と云った以上、身も心も共に幸せにしてやるのも俺の務めだ…、一
度は通らなければ成らない関門だとは云え…、苦痛を与えてはいけない…、さてどうしたもんか…」
昌平は、自分自身が経験が浅いため、こんな時どう扱っていいか判らず、強いて情交を続けることを躊躇して、玉茎の怒張が萎え始めた。
「ごめん…あおり…、自分自身経験がほとんどないに等しいし、あおりが初めてだってことを忘れていた…、あおりがどうして欲しいと思ってい
るのか判らなくって…、つい先を急いでしまったみたいだ…、ほんとにごめん…」
「初めての時は、誰だって痛いものだって…」お母さんに聞いていたんだけど…、まだお兄ちゃんを受け入れる準備が
「いいのよ…お兄ちゃん…、
出来ていなかったみたいだわ…、
一回ではなかなかうまくいかないことがあるから、そんな時は、手や唇を使って身体中を愛撫してもらいなさいって…、女の身体は、全身が性感
帯みたいなものだから、愛撫し合っている内に、全身が痺れたように昂ぶって、自然に受け入れられるようになるって…、夫婦の間では、羞恥心を
158
捨てて、タブーを設けないようにして、文字通り身も心も真っ裸でお付き合いしなさい…、とも言っていたわ…」
「そうか…、夫婦和合の道はそう単純なものではないと云うことだな…、初夜だから、初めからあおりを幸せにしなければいけないと思って、お
れが焦りすぎたようだ…、初めから仕切り直しだ…
それはともかく、いろいろと危険な目に遭いながら、俺のために今日まで操を守り通してくれて、ありがとう…、あおり…、そんなあおりを誓っ
て大事にして、必ず幸せにするよ…」
「嬉しいわ…、お兄ちゃん…、私のためなら自分を犠牲にすることも厭わないお兄ちゃん…、だから私は、お兄ちゃんの前でなら身も心も真っ裸
になれるわ…、お兄ちゃんに出逢えて良かった…」
そうして、二人はあおりの脱いだ長襦袢と下帯の上で、文字通り素っ裸で睦み合い、撫で合い、擦り合い、吸い合い、互いに情感を高め合った。
二人は汗まみれになり、あおりは情感の昂ぶりに連れて、呼吸が荒くなり、全身がぴりぴりと感じやすくなり、声を発して快感を表現するように
なって行った。昌平も、タブーを設けるのを止めて、どんな行為があおりを幸せな気持ちにさせるのかを探りながら、次第に唇による愛撫を乳房か
ら鳩尾へ、鳩尾から臍の周囲へ、そしてビーナスの丘の生え際から、内股へと進めて行き、遂にあおりの両膝を抱え上げて、その内股の付け根であ
おりの激しくなった息遣いに連れて蠢いている楚々とした佇まいの空割に唇を押し付けた。
「あおりがそれを幸せと感じるなら厭わ
そのような行為は、これまでの昌平の行動規範からは考えられない「不届きな」ことのように思えたが、
ない…」そんな覚悟で昌平は自然にそこに唇と舌を匍わせて行った。昌平が、あおりの小核と空割の襞に唇と舌を匍わせ始めると、あおりの反応が
変わった。
「ああ~っ、お兄ちゃん…、変だわっ…、とっても変な気持ち…、何処か、何処かに翔んで往きそう…、頭が痺れて、くるくる廻って…、何処か
へ連れて行かれそうよ…、私を掴まえて、お兄ちゃん…、掴まえてっ…、往くわっ…、翔んで往くわっ…、お兄ちゃん、私を掴まえてっ…、来てえ
っ…、一緒に来てえっ…、お兄ちゃん…、早く、私を掴まえてっ…、一緒に来てえっ…」
あおりは頭を左右に振りながら、うわ言のように叫び続けた。そしてようやく、あおりの空割の襞からも、火床口からも、透明な淫液が溢れ出て
きた。昌平が火床口に唇を押し当ててあおりの淫液を吸い始めると、あおりの興奮は極度に達した。
昌平は、それが潮時と見て、玉茎を握って雁首を火床口に当て、用心深く腰を突き出した。あおりは、初め「ああっ…痛いっ」と一段高い声を発
して、少し抵抗する素振りを示したが、直ぐに逆に腰を突き上げて、昌平を迎え入れようとした。それで、昌平は難なく破瓜に成功し、玉茎はずぶ
りとあおりの朱門の中に姿を没した。
昌平はそれでようやく安堵し、一呼吸置いて、徐々に腰を前後に動かし始め、次第に速度を速めて行った。初めは、余り深く突き入れずに火床口
に近いところで雁首を前後に摺動させた。すると雁首二つ分ぐらいの深さのところの膣壁が膨らみ始め昌平もあおりも一気に快感が昂ぶり、あおり
159
は悲鳴にも似た絹を裂くような叫び声を上げて、全身を震わせて、悶えた。
「ああ~っ、お兄ちゃん…、もうだめっ…、気が変になりそうよっ、何処かへ翔んで往くわっ…、掴まえてっ,往くわっ、何処かに翔んで往くわっ、
私を掴まえてっ…、往くわっ…、往くわっ、お兄ちゃん…、来てっ…、一緒に来てっ、ああ~っ…、ああ~っ…、もうだめっ…、ああ~っ…」
あおりは全身を揺すって叫び、遂に気絶したように首を横にうな垂れて、ぐったりとなった。昌平は、そのあおりの叫びに合わせて腰を動かし、
あおりが悶絶する寸前に一気に腰を突き入れて精をどっと発射して、あおりをひっしと抱き締めた。あおりは噴射される昌平の精を子宮口で感じ取
り、この時名実ともに二人が「宿世の夫婦の契り」を果たせたことを実感し、幸せな気持ちで正平にしがみ付いて、その腋に顔を埋めた。
昌平の玉茎は、依然萎えることなくあおりの中で蠢いていた。昌平は、両腕の中にあおりを抱えて、あおりの全身を撫で擦り、顔中に接吻をし、
唇を吸い、髪の毛を掻き撫でて、愛撫を続けた。
昌平がひとしきりそうしている内に、ようやくあおりの興奮が冷めて、下から昌平にしがみ付いて来て、昌平の胸の筋肉や乳首に吸い付き、愛撫
を返してきた。そして昌平の首筋に顔を埋めて、呟くように云った。
「私、嬉しい…、私たち、これでようやく身一つになれたのね…、お兄ちゃん、私、とても幸せ…」
あおりは些か古風な表現をして云った。
「あおりさんが幸せなら、俺も幸せだ…、何時もあおりさんに幸せでいてもらいたいな…」
あおりは、初め「長い」と思った昌平の大きな玉茎がまだ自分の中を占領して、蠢いているのに気付いた。
一方、昌平は、あおりが絶頂の頂点に達した時、あおりの火床口が膣痙攣を起こして、昌平の玉茎の根元を緊迫し、それが緩むまで暫くは動けな
いことを知ったが、あおりの方はそれに気付いていなかった。昌平がその事実を伝えると、あおりは初めて気付いた。
「お兄ちゃんのことを離したくないから、そうなったんだわ…」
二人がどちらからともなく目覚めて、置き時計を見るともう九時を廻っていた。
良い方に解釈して云った。昌平は、そのあおりの言葉に苦笑したが…、あおりの肉体の特徴が分り、一層あおりが愛おしく感じられた。
その後、二人は三度愛し合い、そのまま離れることなく抱き合って朝まで眠った。
「もう起きてシャワーを浴びなければ…、もう少ししたら、母が訪ねて来るわ…」
あおりは、直ぐにその日の予定を思いだして、云った。
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「寝室と部屋続きで浴室がないのが少し不便だわね…」
あおりが云った。
昌平は、そんなことに頓着なく、まだ繋がったままの二人の腰回りにあおりの下帯ごと自分の下帯を巻き付けて、あおりを抱えて部屋を出て浴室
に運び込んだ。その昌平の行動があおりに新たな快感を教えた。浴室に運ばれる間、あおりは昌平の首筋に噛み付くようにして、その快感を味わった。
二人は大急ぎでシャワーを浴び、汚れた夜着やシーツを洗濯機に掛けて、身支度を整えてから、軽い朝食をとっているところへ千代乃がやって来
た。二人は千代乃と連れ立って、区役所に婚姻届を出して入籍し。吉行あおりは、吉沢あおりになった。
その後、昌平は、元の宿舎に戻って自分の荷物を運び込む手筈になっており、あおりは千代乃と連れ立って、まだ足りない調度器具を買いに行く
ことになっていた。
千代乃は、曾てあおりが「お母さん、女のフェロモンぷんぷん振り撒いてる…」と云ったようにあおりが穏やかで福よかな顔付きをして匂い立つ
ような艶気を発散させているのを見て、新婚初夜から昌平との相性の良い幸せな夫婦生活を始めることが出来たことを覚り、心底安堵した。
*******
翌日、出庁すると、あおりは直ぐに人事部に新しい住民票を持って行き、結婚して姓が変わったことを告げて、必要な手続きをしてもらい、その
足で検事長と副検事長を訪ねて、結婚したことを報告し、内々で簡素な式を行ったので何方も招待しなかったと云って、非礼を詫びた。二人とも、
ようやくあおりが身を固めたのを大層喜んだが、披露宴に出られなかったことを残念がった。
自室に戻ると、あおりは、事務官を集めて、結婚して、姓が吉行から吉沢になったことを簡単に告げた。事務官らは、僅か三日の間に、あおりが
これまでと違って穏やかでふくよかな眼差しになったことに驚いていた。殊に服部芳枝は、あおりが匂い立つような艶気を発散させていることに気
付いて、また嫉妬心を募らせ、
「自分も負けてはいられない…」と思い始めた。
あおりは、プライベートな空間にいる時と、公の場にいる時で昌平の呼び方を変えた。公の場では「昌平さん」と呼び、人にもそう云って紹介し
161
た。二人だけの時や、親しい親族や友人だけのいるところでは、呼び習わした「お兄ちゃん」で押し通した。昌平は、何時までも「お兄ちゃん」で
もないだろうと思ったが、名前で呼ばれるとよそよそしくて、そぐわないことが判り、結局あおりの気持ちに任せた。
「
「お兄ちゃん」と呼ぶと、二人ががより近しく感じられて、そこはかとなく情感が昂ぶるの覚え、自然に身体を触れさせたくなるの…」
あおりは、
といった。昌平が堅苦しい法律の勉強に倦んで、身体を休めている時など、暇さえあれば昌平の身体の中に自分の身体を投げ掛けて、相変らず昌平
に甘えたがった。千代乃が来ている時でも、一向に気にしなかった。
昌平にはありがたかった。家にいて、妻のあおりを検事として意識する必要がなかったし、対外的には、「昌平さん」
このようなあおりの振る舞いは、
と呼んで立ててくれるので、変な劣等感を持たずに済んだ。
夫婦生活でもあおりは夫唱婦随を貫いた。と云うより、永年の習慣で、どちらかと云うと堅物で気働きの利かないところのある昌平を、目をくり
くりと動かして挑発し、
自分の情が昂ぶってきているの知らせて昌平を巧みにリードして、昌平の情を昂ぶらせ、結果として夫唱婦随に持って行った。
二人の生活に慣れるに従って、昌平の方でも次第に女としてのあおりの気持ちの有り様を察知できるようになって行った。その意味では、あおり
が昌平に甘え掛かってくるさまざまな姿態に意味があり、それが判るようになったことが助けになった。
こうして、昌平はあおりと生活を共にするようになって初めて真の意味で「女」を知るようになった。その意味でも、昌平にとってあおりは実に
巧みで優れた伴侶だった。しかも、昌平に「自分の方がリードされている…」と感じさせないところがあおりの賢さだった。
閨での夫婦生活では、あおりは常に身も心も素っ裸になって少女のように振る舞い、昌平の色情を昂ぶらせるようにリードした。閨では、あおり
は毎日違った女になるように演出したが、基本的には、あおりが昌平にとって大切で愛しい唯一人の女になることがあおりの願いだった。そして、
概ねあおりの願いは叶えられていた。
昌平は、医師の忠告も有り、SSP時代ほど過酷な心身の鍛練こそしなくなったが、それでも尋常でない体力を維持するだけの鍛練を怠らなかっ
た。大学院での講義やゼミナールに通う傍ら、柔剣道や空手道、合気道の訓練に精を出し、家でもさまざまな器具を一室に持ち込んで、筋肉トレー
ニングを続けた。それは、あおりにとっても「護ってもらえる…」と云う安心を得るよすがだった。
162
*******
こうして、昌平とあおりの新婚生活は、順調に軌道に乗って行った。昌平は、持ち前の体力に物をを言わせて、深夜遅くまで難解な法律書に取り
組むこともしばしばだった。それでも夫婦生活であおりを「幸せにする」ことを怠らなかった。あおりは、心身共に解放され、満ち足りて、文字通
り「幸せ」だった。
昌平との結婚は、あおりの検事としての活動にも変化を与えた。幸せで満ち足りている者の常として、何よりも人に対する姿勢が穏やかになった。
被告人の尋問や、公判での口頭弁論や証人尋問でも、可能な限りの慈悲の気持ちを表現するようになった。しかし、それは「人当たり」の問題にす
ぎず、自己中心的で手前勝手な犯罪者、特に弱い立場に置かれた女性に対する犯罪に対しては、仮借ない処断を求めることには変わりなかった。
一方、殺傷することを目的に刃物であおりを襲おうとしてシークレットサービスの昌平に大怪我を負わせた少年、笈田次男は、自らも昌平の反撃
で利き腕の肘を複雑骨折させられ、ギブスで腕を固めて、別の検事によって尋問を受けたが、その態度は終始反抗的で、その犯行の意図が「凶悪犯」
の兄の笈田太一に対する検察の論告求刑への不法な手段による挑戦と受け止められて、少年ながら成人並に地裁で刑事裁判に掛けられた。そして、
第一審で三年六ヶ月の実刑判決を受けた。「この次は必ず仕留めてやる…」と公判の証言台で公然と発言するなど、笈田次男は、検察への挑戦的な
態度に終始し、情状酌量の余地がないと判断されて、高裁への上告も棄却され、最高裁への上告を断念して、仙台拘置所に服役した。
この事件が起こってから、SSP隊の特務班は、解散させられて散り散りになった関東笹山会の主立った組員の動向を再び監視し始めた。殊にこ
の事件は、旧関東笹山会の中でも尤も強硬派と目された笈田組組長、笈田均の息子が絡んでいただけに、笈田組の組員全体が特に厳重な監視の対象
になった。
笈田次男は、裁判中の拘留期間の約一年を差し引いて、二年六ヶ月で拘置所から釈放されることが判っていた。そのため、父親の笈田均と
共に、次男の服役中から、様々な手段で次男への直接の接触が図られ、不穏な動きに出そうな時に即座に対応できるように態勢が取られていた。
163
*******
昌平とあおりの私生活は、平穏そのものだった。新婚二年目にあおりが妊り、昌平に大学院での研鑽にも一層熱が入った。あおりは臨月ぎりぎり
まで出庁するつもりでいた。しかし、妊娠六ヶ月以降は、起訴不起訴の判断材料や公判維持のための書類作成などで他の検事を支援する庁内勤務に
廻って、公判には出なくなった。
千代乃は、あおりの結婚後は、子供たちのいない一人暮らしになったが、仕事が忙しくて、寂しがっている暇もなかった。また、以前よりも頻繁
に佐々と共に過ごすようになっていて、事実上夫婦も同然だった。
そういう折しも、あおりが妊ったと知らされて、千代乃は頻繁にあおり達の新居を訪れるようになった。マサチューセッツにいる清香には、既に
二人の子供がいるのだが、遠く離れている上に、夏とクリスマスの休暇以外は滅多に行き来がないために、千代乃には、「おばあちゃん」になった
実感がなかった。あおりが妊ったことで、初めて「おばあちゃん」になる実感が湧いてきて、何くれとなくあおりの世話を焼きたがった。
双子を妊っていて早産の可能性があるとて、翌年、小正月が過ぎた頃に、あおりは早めに住いに近い日赤産院に入院し、月足らずで可愛らしい双
児の赤ちゃんを生んだ。珍しい男の児と女の児の二卵性双生児で、女の児の方がやや発育が好く、先に生まれた。その二時間後に生まれた男の児の
方は未熟児ぎりぎりの二〇〇〇グラムに満たない体重しかなかった。大事を取って初めから、二人並べられて保育器に入れられ、慎重な看護保育が
なされた。あおりは、直ぐに赤ちゃんを抱いて授乳できないのを残念がったが、自分自身の産褥病予防のケアも必要だと聞かされて、納得した。
しかし、二人の児は特に併発症もなく順調に育って、二ヶ月ほどで相次いで母親のあおりのベッドに移されて、母乳保育に切り替えるまでになっ
た。男の児は昌平似で、女の児はあおりに似ていた。昌平は、男の児に「源太」、女の児に「かほり」と名付けた。
昌平は、一挙に二人の子の父親になり、戸惑うやら喜ぶやら、複雑な気持ちで二人と直接対面し、初めて二人一緒に抱きかかえて、そのいかにも
心もとな気な、小さくふわふわと柔らかい身体に宿る命が自分とあおりの愛の結晶なのだと実感して、満足すると同時にあおりを含めて三人がひと
しお愛おしく感じられ、護らなければならない「対象」が三人に増えたことで、更にやる気を出していた。
164
三ヶ月過ぎてあおりの体力の回復も二人の子供の成育も順調だと判断されて、ゴールデンウイークを前に三人揃って退院した。そうなると育児の
「手」が問題になってきた。今や、山瀬産業で「要職」に就いている千代乃には、「おばあちゃん」として孫の育児に掛かり切りになる訳にはいかな
かった。さりとて昌平の母親の静香も、遠方に住んで居るうえに、昔気質の源之丈を一人残して長期間留守にすることは出来かねた。あおりはあお
りで、一年までは産休を取ることが出来たが、それ以上となると、差し障りがあった。あれこれ思案した揚げ句、結局、授乳期間中はあおりが産休
を取って専ら育児に当たり、子供の病気の時など、非常の場合には、どちらかの「おばあちゃん」の手を借りることにして、離乳が始まって母乳か
ら加工乳に完全に切り替え、離乳食を与えるようになったら、誰か信頼のおける伝手でベビー シッターを頼んで、あおりが徐々に仕事に復帰する
ことにした。
「按ずるよりは産むが易し…」の例え通り、丁度都合のいいことに、昌平の妹であおりと同い年の千世が比較的近くに住んでいるうえに、
だが、
子供がなく、
「夫の宗太郎が近々アメリカの支社に単身赴任で駐在することになって、寂しくなる…」とて、手助けをしてくれることになり、その
問題もほぼ解決した。
双子が産まれて、一番大きく変化したのは昌平だった。武骨で、余り気働きのしない性質の昌平だったが、状況が今までのようにはしていられな
いことを覚らせられたと見えて、昌平は、自ら積極的に育児や家事に手を貸すようになった。それは、あおりには願ってもない変化だった。
秋に入って、昌平は、刑事になるための考査を受け、一発でそれに合格して、警部補待遇の本庁の刑事として警察庁の特捜一課に配属された。そ
れは、主として、検察庁の特捜部に協力して、経済事犯の捜査と摘発に当たる部署だった。
丁度その頃、あおりは、二人の子供の授乳を徐々に加工乳に切り替える時期に来ていたが、順調に成育しているとはいえ、二人とも標準より小さ
く生まれたため抵抗力が弱く、加工乳の量が多いと下痢をし易く、なかなか思ったほど順調に離乳が進みそうになかった。二人とも、同月齢期の平
均に比べると、依然として体重、身長共に小さく、言語機能の発達も遅いようだった。そのため、あおりは職場復帰を急ぐのを止めて、ぎりぎり一
年まで休職することにして、子供の成長を優先させることにした。
*******
165
一方、笈田の二男の次男は、二年半の刑期を終えて仙台刑務所を出所した。次男の出所を出迎えたのは、父親の笈田均と母親の竜だけだった。次
男は服役中に成人していた。出所した次男は、不機嫌そうな顔で両親に迎えられた。「筋もん」の妻とはいえ、やはり人の母親、涙ながらに手を差
し伸べて慰めの言葉を掛けながら息子を出迎えたが、次男はその手を邪険に振り払った。その様子の一部始終とその後の行動は、SSP部長の陣内
の配下の特務隊の笈田組一統監視班の者らに密かに観察されていたが、三人はそれを知る由もなかった。
笈田親子は、東京には戻らず、石巻にある竜の実家に一先ず落ち着くことにした。日を経て笈田均が動き出した。均は、息子を妻の竜と共に竜の
実家に預けて、
「くれぐれもも勝手な動きをしないように…」と息子に言い含めて、東京に向かった。笈田の目的は、あおりの所在を探ることだった。
均は最初に東京地検に探りを入れたが、何の手掛かりも得られなかった。
曾て、女性検事に求刑されて、刑期を終えて出所した筋もんの男が独り身の女性検事の家を訪ねて居座り、「俺は女に支配されるのは大嫌いなん
だ、男を支配しようとするとどういうことになるか、たっぷりと思い知らせてやる…」と云って、殴るけるの暴行の末に、素っ裸にして、欲しいま
まに陵辱を加え、揚げ句の果てに「シャブ」を打って性的な奴隷にさせ、その結果その検事が自殺したという、検察にとっては痛恨の事件が起こっ
た。以来、男女を問わず検事の動向と個人情報は一切外部に漏らさないようになっていた。
地裁での裁判日程でも担当検事の中に吉行あおりの名前は見当たらなかった。それもそのはずで、あおりは結婚して姓が変わった上に、出産して
休職中だった。
笈田均は、次男と共にあおりを目の敵にしていた。長男太一は、おぞましい犯罪を犯した事件での裁判で裁判長にそのような犯行に及んだ理由を
訊かれて、
「俺は女に反抗されたり、いちいち指図されたりするのがでえきれえなんだよお…、それをあの女は、引っ掻いたり噛み付いたりしてあ
くまで反抗して、俺の一番きれえなことをしやがったから、思い知らせてやったんだ…」と、平然と答えた。息子らは、二人共同様の性質の均の考
え方を受け継いでいた。
笈田は、一審での判決の後、高裁でも最高裁でも上告を棄却されて、網走刑務所に収監されて死刑執行を待つ長男太一の一審の判決の発端になっ
たあおりの求刑を遺恨に思い、次男以上にあおりへの意趣返えしを望んでいた。地裁での傷害事件の判決に際して、「この次は必ず仕留めてやる…」
と叫んだ次男の言葉は、そのまま父親の均の思いであり、また、おそらくは母親の竜の思いでもあった。それが笈田の筋もんとしての「掟」だった。
166
笈田均の東京での動きは、常に把握されていた。SSP特務班では、「笈田が次男に代わってあおりへの意趣返しの下準備にかかっている…」と
判断して、最高度の警戒態勢に入っていた。
笈田にとって間の悪いことに、双子の育児に手間取って、仕事への復帰が遅れている間に、あおりが再び妊ったことだった。そのため、一時職場
復帰したものの、表立った仕事には就かず、内勤だったことと、出退庁はSSPの護衛付きで隠密裏に行っていた上に、エコー診断の結果またもや
双子らしいと云うことで、翌年春先に臨月を待たずに入院してしまったために、笈田にはあおりの陰すら見る機会が無くなっていた。
笈田は、撒き餌のつもりで、自分の配下の子分にかなりあくどい婦女監禁暴行傷害事件を起こさせてあおりが裁判に出て来るのを期待して、傍聴
席に姿を見せたりしたが、それは功を奏さなかった。
そんな笈田には、終始密かに尾行が着いていた。笈田は、そんなことは露知らず、一旦石巻に戻ることにした。
次男は、服役中もずっと復習の鬼と化して、心の中で怨念を燃え立たせていた。父親の笈田均や兄の太一同様に、この男も己が法治国家に生きて
いるという意識も自覚も微塵も持ち合わせてはおらず、罪を犯せば法の裁きでその償いをしなければならないと云う社会の掟を理解できなかった。
次男は、獄中でも罪を犯したことを反省する気持ちは更々なく、処罰を決定した執行当事者への恨みだけを募らせて出所してきていた。その意味で、
次男も、慕っていた死刑囚にされた兄同様に、更生することの出来ないタイプの男だった。家にいても、まるで怨念に憑かれたように、「今度は必
ず仕留めてやる…」と、頻繁に呟いたり、叫んだりして辺りの物に八つ当たりをしていた。
母親は、そんな男でも可愛いと見えて、ただ腫れ物に触るような思いをしながら、「もういい加減他人を恨むのは止めにして、真っ当な生計を立
てて行くようにしなさいよ…」と諭しはするものの、それは次男には母親の空しい戯言に過ぎなかった。
父親の均も、長男太一の死刑判決については心情で次男と軌を一にしていた。笈田は、死刑判決を下した地裁の五人の判事や、上告を棄却した高
裁と最高裁の夫々五人の判事に対して恨みを抱くのではなく ー それも、その中には三人の女性判事がいたにも拘わらず ー 女性に対する極悪非道
な犯罪を繰り返して、行き着くところまで行ってなお些かの反省の色も見せなかった長男を激しい言葉で糾弾して「死刑判決以外に道がない…」と
死刑を求刑したあおりにだけ恨みを一点集中させて、報復心を根深く抱いていた。
「大願成就せずに」終わることを
笈田は、次男がお先走りで、あらぬ方向で犯罪を繰り返して、再び獄に繋がれるか長男同様に死刑囚にされて、
恐れていた。それゆえに、前回の特捜班による急襲捜査の結果、自分の経営する多くの風俗産業が潰されて、実入りが少なくなっていたにも拘わら
167
ず、女房の竜と共に始終次男をあちこちと気晴らしの行楽に連れ出していた。
*******
その日笈田は、女房の竜を東京や横浜の風俗店などの経営状況の点検のために上京させて、自らは、次男を連れて松島に行き、松島巡りと松島湾
外での釣りやスキンダイビングを楽しむ六人乗りの観光釣り船に乗った。船には船長の他に二人の先客がいた。船長は、もう一人分の空きを埋めよ
うとして、暫く待ったが船宿からは連絡がないため、舫っていた船の舫い綱を解いて船に納めようとするところへ、ウエットスーツに身を固め、酸
素ボンベと足びれ一式を抱えた一人の男が駆け寄ってきた。
「船長、まだ一人乗れるかい…」
「ああ、丁度一人分空いてるだ…」
「そりゃあ、丁度良かった…、じゃあ、乗せてもらうよ…」
男は身軽に乗り込んできた。男は、肩幅が広く胸板が厚く張り出ていて、腰が括れて尻が張り出し、太股はがっしりと太く、均整のとれた身体付
きで、いかにもスキンダイビングに練達している…と云った出立ちで、精悍な風貌をしていた。
その男が乗ると、船長は、解いた舫い綱を納めて船を出し、初めに小一時間ほど松島湾内の名所と云われる島を廻ってから、船を外洋に向けて操
った。
島巡りの時には、船長は島の呼び名やその云われなど一通り、時に冗談口を交えながら説明した。
「今日は、えかくベタ凪だで、いい漁場が見付かるとええがなあ…」
外洋に向かい始めると、船長が云った。海上に在りながら風はそよとも吹かず、空気がやけに生暖かく淀んでいた。
「こんな日にはよく地震が起こるって言い伝えられているだが…、そんなことがなけりゃあええがのう…」
船長が湾外の空を眺めながら云った。
「おいおい…、船長、縁起でもねえことは言わんでくれよ…」
乗客の一人が不安そうに云った。
「まあ、それは古来からの言い伝えだで…、何の根拠もねえだわさ…、しんぺえしねえで、お客さん、しっかり仕掛けの準備をしておくんなせえ…」
168
そんな話が続いて、船の中の雰囲気が和やんで来る頃、それには関心がないような風にして、ウエットスーツの男は入念に装備の点検や調節に暇
が無かった。
「船長、俺もスキンダイビングとやらをやって見てえんだが、装備の貸し出しはしないのかい…」
それを見ていて、次男が船長に言った。
「おらんが予備のスーツがあるにはあるだが、酸素ボンベはねえよ…、そのかわりシュノーケルを使って、海の底を見るくれえはきるだよ…、ス
ーツがお客さんの身体に合うかどうか知らねえが、それでも良かったら、貸さねえでもねえ…」
そう云う船長は、初めからキャップを外して首までウエットスーツに身を包んでいた。
「酸素は、貸さねえのかい…」
次男は不服そうに訊いた。
「お客さん、酸素は深く潜る時に必要なんだ…、五メートルぐれえの浅いところだったら、シュノーケルで息を止めて潜るだよ…、でえいち初め
てでは、ボンベを背負って潜るのは覚束ねえ…、暫くスクールに通って、プールかなんかで潜り方を教わらねえと…、下手に潜れば一発で溺れ死ん
じまうだ…」
「そんなに難しいのかい…」
「初めてのもんが一発で潜れるほどそんなに甘えもんじゃねえなあ…」
「そう云われると、意地でも「やってやろうじゃあねえか…、」って気になるぜ…、少しの間船長のボンベを貸してもらえねえかな…」
「そりゃあだめだ…、万一事故になったら、おらが罰せられるだよ…」
「俺が自分で責任を負うから…、いいだろう…」
「そんな問題じゃあねえだよ、お客さん…、ちゃんとした規則があるだよ…、ボンベの扱い方も潜り方も知んねえもんに装備を貸したとあっちゃ…、
事故があれば、いやでも貸したもんが罰せられるだ…」
「けっ…、体裁のいいこと云いやがって…、ほんとは惜しくて貸したくねえんだろう…」
次男は、あくまで自己中心的に解釈して、云った。
そのやり取りの様子を、ウエットスーツの男は黙って聞いていた。
船が松島湾の狭い水路を抜けて外洋に出ると、船頭は取り舵を取って、船を宮戸島の内湾寄りに散在する岩礁の近くに向け、程なくして錨を下ろ
した。
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「宮戸島は南松島地区にある一番大きな島で、昔はもっと深く海に沈んでいたらしく、島の頂上付近に、縄文時代の貝塚が有り、かなりの数の人
骨も発見されていることで知られているだ…」
船頭は乗客に説明した。
船頭の選んだ漁場は、宮戸島の松島湾寄りの突端で太平洋に面したメカル崎、中ノ島、唐島、木ノ島、大根島などが散在する岩礁地帯だった。漁
場に着くと、船頭は錨を下ろして、適当に撒き餌をして魚を呼び寄せる手を打った。
笈田均を含め三人の釣り客は、思い思いに釣り糸を垂れた。間もなく三人とも当たりがあったが、うまく魚を釣り上げたのは、海釣りのベテラン
らしい五十年配の男だけだった。他の二人は、魚をばらしてしまった。
ウエットスーツの男は、間もなく肩から海に落ちるようにして海に潜って行った。
「船頭さんは流石にベテランだ、この辺りの岩礁が一番魚影が濃いよ…、漁探もないのにうまく漁場を当てている…、皆さん豊漁間違いなしですよ…」
十五分ほどして、その男は、船縁に浮き上がってきて、誰に言うともなく云った。 次男は、相変らず望みが叶わないのを不満そうにして、釣りにも加わらず、所在な気にしていた。
「君い…、シュノーケルでもいいから、借りて海に潜って見なさいよ…、岩礁の周辺を泳ぐ様々な魚を見たら気も晴れるよ…、岩礁にはアワビや
トコブシやウニが動き回っているから、それを獲るのもいいよ…、少し慣れたら五メートルぐらい直ぐ潜れるようになるよ…、間違いないって…」
ウエットスーツの男は笈田次男に向かって云った。
ウエットスーツの男は、SSPの高田だった。笈田親子の間近に迫って、二人の採る今後の行動を探るのが目的だった。そして、そのように次男
に声をかけたのは、一種の「挑発」だった。
「次男…、何時までも不貞腐れていねえで、こん人の云う通りにして見たらどうだ…、けえるまでその調子じゃあ…何のために連れて来たんだか
判らねえじゃあねえか…、一つ事に何時までも拘泥っていねえで、気持ちを転換させろ…、そんな調子で気持ちに余裕がねえんじゃあ、またし損じ
る…、ちったあ、大人になれっ…」
それを聞いただけで、高田には笈田親子が次の「攻撃」の時を虎視眈々と狙っていることが判った。次男が渋々父親の云う通りにして、だぶだぶ
のウエットスーツとシュノーケルを借りて、船縁からそろそろと海に身を浸したのを見て、高田は、再び深く潜って行った。
170
高田は、山瀬産業のSSP隊では吉沢昌平と同期だった。
*******
「いろいろと技術が身に付く」と云う宣伝に乗って、高田は高校を出ると直ぐ防衛隊に入った。だが防衛隊の訓練は高田にはもの足らず、三年で
除隊すると、アメリカ海兵隊のサバイバル訓練に応募して、専らフロッグマンを対象とする海中でのサバイバル訓練を受けた。そこで高田が身に着
けたのは、深く静かに潜行して、探知されずに敵艦に爆薬を仕掛けたり、海辺の重要施設を急襲攻撃する技術で、そこで重要なのが最小限の酸素消
費量でその任務を遂行する術だった。
だが、平和な日本では、そんな技術は何の役にも立たないことを覚り、「最も危険を顧みない仕事…」として、山瀬産業のSSP隊に応募したの
だった。
この日の高田の狙いは、笈田親子、特に次男の海難事故を誘発させるように誘導することによって、危険の芽を摘むことだった。
*******
そんな見も知らない男の腹積もりなど、思いもよらない次男は、初めは船縁に掴まりながら恐る恐るシュノーケルの付いた水中眼鏡で水中を覗き
見ていたが、次第に興が乗ってきたと見えて、船長に頼んで陸よりの舳に重りの付いた、ロープを垂らしてもらってそれを伝って、水深の浅いとこ
ろを息を止めて潜り始めた。
「初めは無理して深く潜らずに、水面に顔を出すまで息を止めていられる程度に、二~三メートル位から徐々に慣れるように…、水面から顔出す
時には、息を吸うのではなく、一気に吐き出すようにすること…」などと言う船長のアドバイスに従ってやっていたが、それでも次男は海水の滴を
吸い込んで、何度も咳き込んだ。だが次男は、生来意地っ張りな性格で、止めようとはせず、興が乗ってきて、三~四メートル位の深さの岩礁から
トコブシなどを獲って上がってきたりしていた。
171
*******
ビルの四階分ほどもありそうな真っ黒な大波が目の前に迫っているのに船長が気付いたのは、丁度そんな頃だった。
だが、その大波の波頭を見たとき、それが暴風による高波ではないことを船長は直ぐに察知したが、もう遅かった。
「あっ…」と叫ぶ間もなく、海面に浮き上がってきたばかりの次男と、四人の乗った船は、その大波に一気に呑み込まれて行った。それは津波の
第一波だった。
その少し前に三陸沖のいつもの地震の巣で、マグニチュード七を超える地震が発生していたのだった。あいにく船長は海上でつり客の世話に余念
がなく地震に気付かず、無線ラジオの音量を絞っていたため、地震発生の知らせを聞き漏らしていた。そしてその直後に津波が発生して、三陸地方
の海岸を波状に襲った。
笈田均の乗っていた船は近くの岩礁にぶつかって木端微塵に砕け、五人は石浜水道を抜けて松島湾に入り、松島海岸を襲う波に揉まれて行った。
船長を除く四人は、即死だった。松島湾の内外に展開していたほとんどの釣り船が同じ運命に遭った。
船長は、潜りの名人だった。咄嗟の機転で取ろうとした酸素ボンベは取り損ねたが、三分以上息を止めていられる特技のために、慌てずに息を止
めて岸に向かう波に身を任せ、途中高く聳える岩礁の天辺に生える松の根株に取り付き、四肢で抱え込んでしがみ付くことに成功した。そして、岸
に向かう第一波の大波を遣り過ごし、湾内の海と岸にあったありとあらゆる物をぶち壊して引いて行く様子を眼下に見ながら一息吐き、第二波、第
三波の大波に備えた。船長がウエットスーツを着込んでいたことも幸いした。大きな怪我をせずに済んだのだ。
小一時間余りして津波が一段落したところで、船長は取り付いた岩礁から降りて、適当な所から海に飛び込んで、波に浮かぶ瓦礫と溺死者の間を
かい潜りながら」泳いで岸に戻った。岸の状態は惨憺たるものだった。自分の船宿も大破して、波に浚われていた。だが、家族は地震発生と同時に
高台の瑞巌寺に逃れ、無事だったことが後で判った。船長は釣り船を失い、船宿を壊されて、大損害を被ったものの、家族が全員無事だったことだ
けが救いだった。
*******
172
一方、高田の方は、曾て習い覚えた技法で酸素の消費を最小限に絞って大根島の先の太平洋の海溝で三十メートル以上深く潜って、海中散策を楽
しんでいて、当初は何も気付かなかった。そして、少し上に戻りかけた時に、外洋に向かって引き込んで行く浪の力に巻き込まれた。それが津波に
よる引き潮だと咄嗟に判断して、マウスピースをしっかり加え、四肢を抱え込むような姿勢になって沖に引かれて行くのに身を任せた。適当な所か
ら水面に浮かび上がり、陸の方を見た。宮戸島を初め、松島湾の島々が、まるで高いビルの屋上から見るように眼下に広がっていて、遠く松島海岸
付近で潮が巻き込むように引いて行く様子が見て取れた。高田は、自分の居るところが第二波か第三派の津波の頂上付近で次第に岸に向かって速度
を速めていると覚って、咄嗟に沖側の谷に向かって潜って行った。
ル位の深さのところで方向を転換してその深さのまま岸に向かった。高田が向か
出来るだけ深く潜ってしばらく時を稼いでから、ニ~三十メーのト
びる
ったのは、島や岩礁が多く水道の細い松島湾を避けて、陸前の野蒜海岸の方だった。酸素節約術のお陰で、ボンベの酸素はまだ十分残っていた。
高田は、岸に向かう方法として、津波そのものに乗って、その速度を利用することにした。初めの何波かを遣り過ごせば、それほど高い浪にはな
らないだろうから、引いて行く浪に巻き込まれる力も強くなかろうと判断した。
高田の狙いは正しかった。高波に乗って陸に打ち上げられると、直ぐに付近の岩にしがみついて、浪に引かれるのを逃れた。引く浪を遣り過ごす
と、直ぐに足ビレを外して、更に高台に逃れた。付近は、地震と津波のダブルパンチで惨憺たる有り様だった。危なくて素足では歩けないため、ま
た足ビレを付け、野蒜駅を越えて更に北に進み、付近の高台の空き地に辿り着いて、岩に座って、水深一〇〇メートルまでの圧力に耐える防水ケー
スから専用携帯電話を取り出して本部に連絡を入れて状況を伝えした。
受話器の向こうから、陣内の乾いた声が返ってきた。
「そうか、それは大変な目に遭ったな…、ともかく無事でよかった…、ご苦労さん…、テレビもラジオも三陸沖震源の大地震で三陸海岸の被害状
況の報道で大わらわだ…、
それで笈田親子はどうした…」
「自分は見ていませんので、良く分りませんが…、あの大津波では、おそらく浪に呑まれて溺死しているでしょう…、
酸素ボンベを付けて水中深く潜っていなかったら、自分もやられていたかも知れません…」
「では、確実に確認できるまで、現地に留まって居てくれ給え…」
「当然そのつもりですが…、何しろ今自分が身に着けているのは、ウエットスーツと足ビレと酸素ボンベだけですから、陸上では、行動が思うに
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任せません…
衣類や身の回り品は、松島海岸の宿屋においてありますんで…、そこまで戻ってからでないと、調査もままなりません…、
それに、三陸鉄道も線路が瓦礫の山に覆われて、どうやら運休しているようで…」
「そうか、それじゃあ、石巻にいる根岸か野添をそちらに行かせる…、現在地から動かずに待って居てくれ給え…
連絡がついたら、折り返し知らせる…」
「了解しました…」
専用携帯電話の不便な点は、本部と、それも陣内としか通話が出来ないことだった。高田は、今回は特命で派遣されてきているため、SSP間の
通話が出来る携帯を携行していなかった。
しばらくして、陣内からのコールが入った。
「野添がそちらに向かう…、国道も県道も至る所津波の被害を受けているらしいから、道路の状況にもよるが三、四〇分か一時間ほどで到着する筈
だ…、予期しない事態だったが…、その中で無事生還できたことを再度祝う…、君の昔の訓練が図らずも生きたようだな…、ちなみに、松島海岸で
投宿した宿は、津波の被害を免れたようだ…、運の強い男だ、君は…、では、その後の連絡を待つ…」
そう云って、陣内は通話を切った。
*******
こうして、津波の中から無事に生還できた高田は、一時間余り待って、まで迎えに来た野添の車で松島海岸の宿に戻った。
宿では、てっきり津波の犠牲になったと思っていた高田がウエットスーツ姿で無事に戻って来たのを見て喜んだ。津波は、高台にある宿の直ぐ下
まで押し寄せたのだと云う。そんな状況を語る宿の人達のこの地方の方言の訛りが高田には妙に暖かく感じられた。
高田は、取り敢ず、湯に浸かって疲れを癒し、宿の用意してくれた食事で腹拵えをして、ようやく人心地が付いた。サバイバル訓練の時とは違っ
て、高田は、初めて遭遇した天災の猛威の中から無事に生還して、文字通り「生きている」事を現実のこととしてしみじみ実感した。
174
一眠りした後、高田は、野添と手分けして、笈田親子の行方を探すことにした。が、取り敢ずは、早朝に乗った釣り船の大盛丸がどうなったかを
探ることにした。
高田は、ウエットスーツに身を包んだ精悍な身体つきの五十がらみの海の男、大盛丸の船長が無事に生還していることを期待していた。三陸鉄道
を越えた先から下の海岸は、依然繰り返し起こる余震を警戒して、立入り禁止になっていた。辺りは消防団員や警察官らが慌ただしく往き来して、
余震の合間を縫って、津波の犠牲になった人達を次々と担架に乗せて引き上げていた。
「海岸に居たほとんどの人が津波に浚われ、湾内に浮かんでいた釣り船や観光船の乗客も被災して未曾有の大惨事になった…」
高田の質問に答えてくれた消防団員は云う。
「大盛丸と云う釣り船の船宿が何処か知りませんか…」
高田はその消防団員に訊いた。
「釣り船の船宿は数も多いから判らないっす…、釣り船はほとんどが海岸近くにあったで、津波を被って壊されたり、引いて行かれただあ…、う
んだでえ…一つとしてえ…まともな形では残っていねべよ…」
それが消防団員から返ってきた答えだった。
高田は野添を伴って、朝方飛び乗った釣り船の大盛丸が舫ってあった辺りの方に向かった。辺りは様相が一変していた。あった筈の多くの船宿が
ほとんどなくなって、木材の破片が散乱して瓦礫の山をなしていた。
*******
二人は、あちこちにある犠牲者の遺体安置所を廻って見たが、笈田親子や大盛丸の船長らしい遺体は見当たらなかった。夕方に入り、取り敢ず捜
索を打ち切って、宿に戻った。
その後数日して、犠牲者名簿で、行方不明の笈田親子の存在を確認しようと、地元の警察署を訪れた時に、当時の事情聴取に応じてその警察署に
来ていた大盛丸の船長に出会った。
船長は、高田もてっきり犠牲になったと思い、警察には五人が行方不明だと話したと云う。
「そらまた運の強い人だなもす…、おらも背の高い岩の天辺の松根っ子にしがみついて、大波を遣り過ごして助かっただ…、海の潜りで鍛えてっ
175
から、出来たようなもんだで…、普通だったら御陀仏だったべえ…、他の乗客はまだ行方不明のままだ…、
あんたも潜水のベテランだとは思っていたが…、よく酸素がもったなあ…」
「酸素の使い方に多少は心得があったからね…、まあ、何れにしても運が良かったからでしょう…」
高田は多くを語らなかった。
「船も木端微塵になったし、船宿も壊されちまったで…、当分は仕事も出来ねえだよ…、
家 族 が 瑞 巌 寺 の 高 台 に 逃 げ て、 全 員 無 事 だ っ た の が せ め て
災害保険と借金で同じ商売を続けるかどうか…、ここは思案のしどころだわね…、 もの慰めだあ…」
船長は、さしもの精悍な顔付きも何処へやら、意気消沈の態だった。
笈田親子の遺体が上がったのは、それから一ヶ月以上経ってからだった。津波に巻き込まれて外洋に押し出されたらしく、石巻と塩釜と、全く方
向違いの別々の海岸に打ち上げられていた。それを最初に知らされたのは、石巻に戻っていた笈田の女房の竜だった。
丁度その頃、網走刑務所で長男の死刑が密かに執行されていて、その通知を受けたばかりだった。
竜は、一挙に三人の家族を亡くして、茫然自失の状態で、発狂寸前だった。それが高田と野添に知らされたのは、石巻に居た根岸から陣内を通し
てだった。
陣内は、高田を東京に呼び戻し、野添は根岸に合流させて、その後の竜の動向を見張らせた。
「筋もんの道から足を洗って、
一年後に、竜は笈田が子分たちに経営させていた風俗店や呑屋などを全部処分して、その金を子分たちに分け与え、
真っ当な生業に着くように…」と云って、組を解散し、自らは、石巻に戻って、頭を丸めて、尼寺に隠棲した。
「不安材料は全部払拭されました…」
陣内は、その一部始終を確認した後、佐々に伝えた。
*******
176
栄枯盛衰は人の世の常…、三陸沖大地震による津波の被害で組長を失い、笈田組が文字通り一家の解散に追い込まれ消滅したその翌年、あおりは
二度目の出産をした。
「子宝ばかりは天からの授かり
最初の出産以降まだ本格的な職場復帰を果たしていない状態での妊娠に次ぐ出産で、当初は流石に気が引けたが、
物…」と、さして気に留めずに再び早めに休職に入っていた。
春爛漫の四月の末に、また双子が産まれた。今度は一卵性で、ほとんど同じ大きさに育って出て来た女の児だった。二人とも色白で瓜二つだった
が、よく見ると左右対称で、鏡で映し見るような感じだった。二人とも一見あおり似のようだったが、どちらかと云うと千代乃の方に良く似ている
ようだった。
先に生まれた二人の児もようやく平均並に育ってきているとはいえ、まだ目の離せないところへもって来て、一挙に乳飲み子が二人増えて、子育
ての忙しさは並大抵ではなく、あおりと千世だけでは手に余った。
刑事として検察官のあおりを側面支援する筈だった昌平は、当てが外れて子育ての方で手助けしなければならない機会が一気に増えた。
千代乃も流石に見て見ぬふりもならず、佐々に頼んで、仕事の負荷を減らしてもらい、あおりの子育ての手伝いをする時間を増やさざるを得なか
った。
千代乃は、年齢も五十六歳になって、これを機会にそろそろ仕事から引退することを考える必要があるような気になっていた。だが、佐々は頑と
して聞き入れようとはしなかった。佐々は、年の割には、身体の若々しさを保ち続けている千代乃を手元から離す気は更々なく、孫が二人増えたか
らと云って仕事を辞めて、千代乃が気持ちの上で老け込んでしまうことを肯んじなかった。
*******
佐々も五十歳になって、以前ほど頻繁に千代乃の身体に執心することはなくなって来てはいたが、肌を合わせば、千代乃は、依然、佐々にとって
唯一無二の「雌型」だった。
六月の末になって、千代乃にまた一つ椿事が起こった。
清香が幸澤慎二朗と別れて、二人の男の子を連れて帰国して来て、「当分この家に住まわせてもらう…」と云って、千代乃の元に転がり込んで来
177
たのだ。それで千代乃は、
「どっちを向いても孫だらけ…」になった。いつものように、定例の幹部会の後の逢瀬の帰りに、いつもの砧公園のレス
トランで夕食を摂りながら、千代乃がそのように云うと、佐々は、大きな声だ笑った。
「千代乃さんには、おばあさんは似つかわしくない…、孫だと思わずに、息子や娘だと思えばいいじゃないか…」
佐々は真顔になって云った。事実、千代乃の容色は一向に衰えていなかった。いつものエステや温泉の効果もあるのだろうが、一点の染みもない、
細い血管が透けて見えるような滑らかで艶やかな肌色は、さながら女優のように美しかった。
「仕事を辞めて、日常の生活の惰性に浸り切れば、一気に老け込んでしまうよ…、そんなのは、私はいやだね…、千代乃さんがありふれた主婦で
はないから、私たちはこうして続いているんだ…、仕事から引退する…なんて、絶対に認められないからね…」と言い、「千代乃さんを手放す気は
ないから…」と、付け加えた。
*******
真剣な目をして千代乃を見詰めながらそう云う佐々の青年のような物言いに、千代乃は苦笑しながらも、一人の男にそんな風に思ってもらえるこ
とは悪い気はしなかった。少なくとも佐々と二人だけで水入らずにこうしている時は、「女」でいられて、六人もの孫が居ることは忘れていること
が出来た。
帰国して、清香が長男の日本の小学校への転入手続と次男の保育園の手配を了えると、そのタイミングを待っていたかのように、清香に母校の明
和薬科大学から講師として招聘したいとの依頼が入った。日本の薬大では、清香がMITで研究中に発表した一連の研究論文が注目を集めていた。
清香には、アメリカの幾つかの大学からも講師としての招聘が来ていたが、清香はそれを断って、取り敢ず日本に戻って二人の息子の日本人として
の教育を施す方を優先させた。清香の研究は、「ある種の遺伝子病を誘発させる染色体異常または遺伝子の欠損ないしは突然変異の発現を抑制する
特定の抑制因子の化学的構造の解明」…と云う、非常に難しいテーマで、それが解明されて薬剤として合成できるようになれば、ノーベル賞級の発
明として評価されうるものだった。
清香の研究テーマが非常に高度で難解なものだけに一般の学部生を対象とするには不向きだったので、清香は大学側と協議して、対象を大学院生
として、学外の院生や研究者も聴講できるようにして、自由闊達なディスカッションを可能にするようなオープン レクチャーとして週に一コマ二
時間の講座を受け持つことを提案した。
178
大学側では、清香をそれほどの研究者だとは思っていなかったようで、もっと軽い講座を想定していたが、清香の提案を聞いて驚いた。その上、
M薬科大学には、清香がMITで続けていたような研究を続けられる設備も研究スタッフも整っていないことも問題になった。
清香は、何れ子育てが終わったら、MITに戻って気心の知れたスタッフと共に研究を続けるつもりで居たので、その事はそれほど重要視してい
なかった。
大学側は、清香がこれまで「ネイチャー」や「サイエンス」、「ファーマソーティカル サイエンス」その他専門の学会誌に発表した研究論文に改
めて一通り目を通して、そのテーマの重みを改めて認識し直し、取り敢ず清香に一任してどんな講座になるか見てみることにした。
こうして清香の日本での学究生活が始まった。
*******
千代乃から清香の話を聞かされて、佐々は目を輝かせた。佐々は直ぐに一計を案じた。それは、河口湖畔の山瀬産業薬事事業部の本社社屋に隣接
して、遺伝子病治療薬開発研究所を設けて、清香を所長として招聘する…と云う構想だった。そして、すぐさま千代乃を通して清香と会ってその話
をした。
清香は、佐々のその大胆な発想に驚かされた。しかし、山瀬産業にどれほどの資産があるにせよ、到底一私企業が取り組んで、投資した資金と労
力を回収できるような生易しい研究でないことは、当の清香が一番良く知っていた。
「MITのような国家的な規模の、採算を度外視して将来の夢の実現を目指すような施設でないと、持ち堪えられませんわ…」
清香は、率直にその話をして、云った。
「初めから大掛かりなことでなくてもいいから、とにかく先鞭を付けたい…」
佐々は簡単には引き下がらずに云った。
「要は、何かを始めて、少しずつでも続けて行くことが重要だと思ってます…」
佐々は付け加えた。
「それに、皆が尻込みするようなことをリスクを度外視して手掛ける…、そこに企業家としての心意気と醍醐味があるんですよ…」
あくまで佐々は翻意する気はなさそうだった。
179
採算の取れる結果に繋がるとは限らないし…、結局投入した資金を無駄に捨ててしまうことになる確率の方が高いですから、
「必ず成果が上がって、
お勧めできませんわ…、少なくとも、私には責任が持てません…、どんなに潤沢な資金が有っても、今まで関わったことのない人が手掛けるような
プロジェクトではありませんので、手を染めない方がいいですわ…」
清香はにべも無く言い放った。
だが、何もせずに引いたのでは、佐々の企業家としての沽券に関わった。
「最小規模の基礎研究でもいいから、発足させたいので…、協力してください…、清香さんの講座に出ている研究者の中から二~三人研究員とし
て勧誘する…と云うことでどうですか…、協力してもらえれば、早速工事に掛かり、来年中には基礎研究所として発足させます…」
佐々も一向に引っ込む気配はなかった。
結局、清香の方が根負けした。
「山瀬産業の研究所では基礎研究の指導だけをすること、何らかの実質的な成果を期待してもらわないこと…、大学での講座は続けること…、何
れ折りを見てMITに戻って自分のテーマでの研究を続けることを承知して居てもらいたいこと…」などを、条件として清香は、佐々の提案を受け
入れ、
「二足の草鞋を履く」ことになった。
「いいでしょう…、MITに戻られる時には、所長待遇のまま行っていただき、その間の報酬はずっと支払い続けましょう…、
MITで何か成果が上がったら、山瀬産業に何らかの還元をしていただくかどうかについては、その段階でご相談する…と云うことにしておきま
しょう…」
佐々は清香の条件に同意した。
その後、佐々も現実に戻って考えた上で、本社社屋に隣接して研究所を建てる案は止めて、忍野の薬草園の研究室に隣接してこのプロジェクトの
基礎研究所を建てることにした。
だが、佐々の思惑は、簡単には実現しなかった。その第一の理由は、清香が初めに云ったように、基礎研究レベルでさえ、その設備に膨大な投資
が必要だったため、採算に合わないことが判り、役員会でこのプロジェクトから「撤退」の方針が出されたことだった。それに、関連の研究をする
優秀な人材は、二、
三の国立大学の研究室にいる研究者を除けば、ほとんどがアメリカの大学で研究を続けていて、「人材不足」は否めなかった。世
界中の優れた論文の追試をするのもままならない設備状況のため、清香が「比較的有望」として、連れて来た三人の研究者も結局早々と辞めて行っ
てしまった。
清香自身も国内で自分の研究を続けられないことを知っているため、明和薬大でのオープンレクチャーでは、結局研究の進展のネックになってい
180
る問題点を提示して、その攻略を勧めるのが精一杯だった。主として英文で書かれている膨大な関連の論文に、目を通すだけでも、清香のように堪
能な英語の能力が必要だった。そういう資料を入手するだけだも、絶えず関連のインターネットのサイトにアクセスして、少しでも目新しい論文に
目を光らせている必要があった。
*******
結局、佐々は、自分のアイデアを引っ込めて、半ば閉鎖状態にして、清香だけを引き止めておこうとしたが、清香は、「無為に報酬を得ることは
出来ない…」と云って、
三年目に山瀬産業の「プロジェクト」から手を引いて、明和薬大を初め、幾つかの大学での講座で教鞭を取ることに集中した。
一方、あおりと昌平の家族にも新しい変化が生じていた。女児の双子を産んでから三年目に、あおりは男児を生んだ。その児は月満ちて生まれ、
昌平によく似た精悍な顔付きの元気の良い児だった。昌平は、その子を次郎太と名付けた。
順調に育ってきているとは云え、長男はどちらかと云うと虚弱な体質で、殊に胃腸が弱かったことと、言語の発達の多少の遅れがあったため、昌
平は元気な自分似の次男の誕生を殊の外喜んだ。
この年、奇しくも長女かほりと長男源太が揃って小学校に入学したことも明るいニュースだった。あおりは、二人が他の子供たちの中で揉まれて
いる内に、次第に問題を克服して、他の子らと遜色ない成長を遂げてくれることを確信していた。
その翌年には、昌平が考査に合格して、警部に昇進し、特捜部次長になった。この年千代乃が還暦を迎え、佐々を加えて家族全員とともに盛大に
お祝いをした。還暦を迎えたとはいえ、千代乃は、外見では十歳は若く見えた。五十四歳になってますます恰幅がよくなって貫録が付いて来た佐々
と並ぶと、歳の差が逆転して見えた。
更にその翌年、あおりの次女ゆかりと三女しほりが揃って小学校に入学した。この頃になると、かほりと源太もようやく歳相応の成長を遂げて、
二人の妹たちを庇いながら一緒にに登下校する姿がほほ笑ましかった。
181
次郎太が完全に離乳を果たし、保育園に通わせることが出来るようになると、あおりは本格的に検事の職に復帰した。
担当する事件は、相変らず女性に対する性的な犯罪が大きな比重を占めていたが、「高齢化社会」という時世を反映して、高齢化して子供たちの
手足まといになりがちな祖母や母親に対する家庭内暴力や虐待、その揚げ句の果ての殺人事件など、何ともやり切れない事件も増えてきていた。そ
の大半に遺産相続や金銭のトラブルが絡んでいて、内在する「骨肉の争い」がおぞましくも顔を覗かせていた。
そこには、社会の個人主義化と教育や家族を通した血族関係の認識の希薄化があった。家庭内の生活における早期の親子関係の崩壊、親の世代が
生活を通して人間関係の中の最も基本的で重要な事柄を子供たちに教育できなくなってきている現状、子供を叱れなくなって来た親達の「親として
の重要な役割」の放棄、
「親の背中を見て育つ」子供の減少、効率と金銭的価値に偏重した個人評価の世相…、それらが渾然一体となった因果関係
を形成する、教育の場を含めた社会的風潮がこのような事件の根底と背景に存在していた。
それは、逆に子供たちへの暴力と性的犯罪を含めた大人達による殺傷事件と同時に、あおり自身が経験したストーカー事件や殺傷未遂事件に見ら
れるように、子供世代の中の生命そのものの軽視の傾向の結果として生じる子供たち自身の犯罪にも反映されていた。
「このような違った現象として現れる犯罪は、どれも同一の世相の同一の根っ子に元を辿れる…」と、あおりは考えていた。
それゆえに、
「社会の中の価値基準が、
「効率と金銭的価値への換算」から「生命と人間性そのもの」に戻って置かれない限り、この手の犯罪は減らな
従って、
い…と、あおりは思い始めていた。
「刑罰を科することによって、同一犯罪者による犯罪の再発を防げるような犯罪者の矯正は、社会の現状がこう
である限り期待通りに効を奏さない…」とも考えていた。
あおりは、必ずしも厳罰主義者ではなかったが、「自己中心的で残忍且つ極悪非道で情状酌量の余地のない犯罪者に対しては、曖昧な「無期懲役」
ではなく、具体的な「終身刑」と云う刑罰が日本の法律にない限り、「死刑」と云う極刑をもって排除する以外に社会の安寧は保てない…」と云う
信念は依然として持ち続けて、公判に臨んでいた。その点では、昌平も同じ信念を持っていた。こうして、あおりは、検察庁の中でも「厳しい検事」
として知られる存在だった。
あおりは厳しかった。子供たちが「欲しい…」と云うものを何でも買い与えたりしなかった。
「本当に欲しい物なら、
家庭内での子供たちの躾けでも、
あなた達が大人になってから自分で働いて得たお金で買いなさい…」と云って、子供たちに曖昧な妥協はしなかった。 そ の 点 で は、 昌 平 の 方 が
182
甘かった。千代乃になると更に甘かった。
としばしば千代乃に抗議した。大人たちに礼儀正しくなかったり、他人を傷つけたり、危険な行為をしたりすると、
あおりは、「孫たちに甘すぎる…」
厳しく叱り付けて、それがなぜいけないことなのかを納得するまで、徹底的に話し合うようにした。それもその行為をした子だけだなく、子供たち
全員を集めてそうするようにした。
学校も公立ではなく、躾けの厳しいと言われる私立校に通わせて、しばしば教師たちと子供を含めて、躾けについて話し合いをした。その代わり
に、子供たちとのスキンシップは大切にし、一緒に入浴したり、家族全員で温泉に行って一緒に湯に浸かったり、旅行や文化的な催し物に行ったり、
極力行動を共にするようにした。
次男の次郎太が生まれた翌年、昌平は考試に合格して警部になると同時に、警察庁特捜部の次長に昇進した。昌平も四十歳になって、この地位に
昇進すると、以前のように身体を使う任務には就かなくなったが、身体が自然に要求するのか、相変らず武術の鍛練は欠かさなかった。
「何時まで
も大きくて逞しい、あおりと子供たちにとって頼りになる夫であり父親で居たい…」と云うのが本音だった。
この年、警視総監が自宅のある高層住宅街で、何者かに狙撃されて重傷を負うという、警察庁始まって以来の不祥事が起こった。特捜部は、経済
事犯を扱う部署だったが、この事件は部署の役割の如何を問わず、本庁の刑事全員を大いに緊張させた。昌平の脳裏には、曾ての忌まわしい経験が
脳裏に甦えって血が騒いだが、自ら捜査に乗り出して行く立場にないため、しばらくは欲求不満に陥った。
当然あおりも昌平とは別の意味で緊張した。「三陸沖大地震の結果、懸念材料が自然消滅した…」と、佐々から聞かされて以来、あおりの一家は
公私共に平穏な日々を過ごしていたので、この事件によって、「いつ何時何が起こるか判らない…」という、心の警鐘を鳴らすのに十分な衝撃を受
けた。あおりは、いつものように昌平の分厚い胸板に取り縋りながら、寝物語で昌平に「十分以上の注意をしてくださいな…」と云うのが口癖にな
った。
その翌年、次女のゆかりと三女のしほりが揃って小学校に通い始めると、次男の次郎太を保育園に預けて、あおりの育児の負担は大分軽くなり、
仕事に多くの神経と時間を割けるようになった。それでまた、あおりは次のステップに向けて本腰を入れ始めた。
更にその翌年、清香が二人の子供達の日本での教育に見切りをつけて、再びMITの古巣の研究室に戻るために、二人を連れてマサチューセッツ
に旅立って行った。そしてその秋、清香の長男の純はハイスクールに入学した。清香は、再び精力的な研究活動に入った。それから二年後、清香の
183
「長女由里亜がハイスクールに入り、それによって清香は更に研究活動に没頭できるようになった…」と、伝えてきた。
清香一家の渡米により千代乃は再び独り住まいになった。仕事が忙しいため、寂しがっている暇はなかったが、空いた時間は、佐々と過ごすので
なければ、あおりの子供たちの相手をしに行って、十分気が紛れた。だが、「老後をどのように過ごすか…」も、そろそろ考え始めていた。
清香一家の渡米から三年後、あおりの二男次郎太が小学校に入った。そしてその翌年、かほりと源太が中学校に進学し、あおりは、考試に合格し
て一級検事になって、同時に東京地検特捜部の次席検事に推任された。
三人で始めた辰也のグループサウンズもボーカルの一しのぶと二人の女性ギタリスト兼セカンドボーカルのナオミとサオリが加わって、六人のコ
ンビで俄然人気が上がって一躍スターダムにのし上がり、新しい楽曲の録音だの、日本だけでなくアメリカでのツアー演奏会だので忙しく飛び回っ
ていて、曾てその日のパン代にも事欠いたことが遠いセピア色の夢のように、辰也も今では兄妹の中で一番の稼ぎ頭になっていた。そして、正式に
結婚していないにもかかわらず、しのぶとの間に一男一女をもうけて、他の二人の仲間、哲と秀も夫々ナオミとサオリの間に一女と二女をもうけ、
全員家族連れれで世界を駆け巡っていた。
みんな思い思いに違った時空で生活をしていて滅多にないことながら、全員がクリスマス休暇などを利用して一堂に会すると、九人の孫たちと辰
也の仲間の娘三人の総勢十二人の子供達に取り囲まれて、千代乃だけでなく佐々も、目が回ってのぼせてしまいそうなほど賑やかで目まぐるしい思
いをさせられた。
こうして、子供達が思い思いに栄達し、躍進して生き、その次の世代が成長してくるに及んで、千代乃は自らの「老後」を真剣に考えるようにな
った。
。千代乃がそんな今日この頃の心境を明かすと、「なあに、まだそんなことを考える歳じゃあないよ…」と、佐々は屈託なく云うのだった。
佐々との関係は、以前に比べたらかなり淡泊になってきてはいるものの、肌を合わせれば、まだ十分満足させてもらえた。
「千代乃さんの身体の出来は特別だ…、若い時のままの艶と潤いを保っている…」
佐々は千代乃の全身を撫で擦りながら云う。千代乃は佐々を迎え入れたまま、佐々の愛撫に身を任せ、次第に気が昂まり、恍惚境へと昇り詰めて
行く。
近頃は、それまでの道程に随分と時間が掛かるようになってきている。佐々は、それでも焦れずに丁寧に優しく愛撫を続ける。やがて千代乃の全
184
身が小刻みに震え出し、
「あああっ~、太輔さん、往くわ~っ…」と、千代乃が咽の奥から絞り出すように呻く。そこでようやく、佐々が腰を動か
し始め、勝手知った千代乃の泣き所を深く浅く、満遍なく攻める。千代乃は、全身を激しく震わせて、佐々の身体に長い両手両足を絡めてしがみ付き、
「あああっ~、太輔さん、往くわ~っ…、来てっ…」と、一段と高い声で叫ぶ。その声に合わせて、佐々は一段と腰の動きを早めて、自らも頂点に達し、
どっと精を発して千代乃にしがみ付き、共に果てる。
二人は、互いに激しい息遣いをしながら恍惚の中に身を委ねる。千代乃の中の佐々の肉塊は直ぐには萎えはしないものの、流石の佐々も直ぐに再
び動こうとはしない。二人は、全身汗まみれになって、互いに手を絡め、足を絡めて、撫で擦り合い、接吻を交わして、長い時間慈しみ合い、時に
はそのまま眠る。そして一時の微睡みから目覚めて、アロマ湯に浸かって慈しみ合い、時には居茶臼で抱き合い、心から開放された時を過ごし、満
足し合って日常の活動に戻る。その頻度は次第に少なくなってきてはいるものの、互いに暗黙の内にそれで了解し合い、「互いが必要な存在だ…」と、
口には出さずに認め合っている。
佐々は、若い時に何れは「姐さん」と呼ばれる筈の存在だった恋人に切迫流産で死なれてからずっと独り身だった。千代乃を知って一重にのめり
込んでも、
「姐さん」と呼ばれる存在にするに忍びなかった。
千代乃にとって佐々は今日の今日までそんな「そんな暗い印象の付き纏う」存在ではなかった。唯ひたすら自分を思ってくれて、自分に女として
の真の喜びを教えてくれた、心から慈しみ合える唯一人の男だった。
千代乃は、そんな佐々のために子供を産んであげられなかったことを心の片隅で悔いることはあったが、それで自分の子供たちと縁遠い存在にな
らずに済んだことで自分を納得させていた。
佐々は何時も千代乃の気持ちを尊重して、自分の思いを千代乃に強いることは一度もなかった。千代乃がありのままの千代乃で居てくれる方を大
切にした。千代乃とプライベートな空間に居る時には、今でも「千代乃さん」と呼び、千代乃もそれに応えるように「太輔さん」と呼んで、互いを
尊重し合っている。それでいて、互いに目に見えない縁の糸で結ばれて、互いに魅かれ合っている…、それこそが二人にとって大切なことだった。
「おそらく、こんな形で二人が歳を取っていって、老後を迎えるのだろうな…」と、千代乃は、自分を優しく見返す佐々の目を見詰めながら、漠
然と考えていた。
185
完
186
[作者後書き]
この物語の主題も、作者の他の物語と同様に「性愛」である。
えどもようなさけのりょうらん
一つ違う点は、この物語の時代背景が比較的新しい「現在進行形」の世相になっていることである。しかしながら、現在巷に見られる風俗をその
まま「既成の事実」として受け入れていないところが、作者の「真骨頂」だと自負している。
えほん
もう一つ云えることは、この物語では、他の古典的な時代背景をもつ作品、例えば、「艶本江戸模様艶情繚乱」などの場合と違って、風俗習慣の
入念な時代考証を行っていないことが揚げられる。それは、冒頭にも述べたように、時代背景として「現在進行形」の世相が模せられているために、
多くを「時代考証」する必要がなかったことによる。
この物語では、少なくともここ三十年ほどの間に作者が見聞きしたことを引用として綯い交ぜてあること以外に、描写される人物や施設、団体、
組織のいかなるものも、現実に存在するものとは何の関わりもなく、あくまでも作者の想像上の創作物以外の何ものでもない。
この物語では、
主体を為す人物や組織があたかも「極道」あるいは「筋もん」、もしくは広域暴力組織と関わりが有るかの如き設定になっていて、
また、
取りようによっては、それを「美化している…」かの如くに見えるが、これも単なる思い付きによる設定であって、現実のそう云う団体・組織や人
物とは何の関わりもなく、それを「美化する」意図も更々ないことを断っておく。
さて、この物語の主題も、冒頭に述べたように、作者の他の物語の主題と同様に、「性愛」である。各所に十五年前には公然と著すことが憚られ
たような、微に入り細に亙る性愛の描写が為されているが、それゆえにこの物語も、平成の艶本戯作者、英紅炎の、江戸時代の艶本を模した「艶本」
そのものの現代版であり、当然、児童福祉法で保護を受ける対象の満二十歳未満の未成年者や性の道徳論者を対象に書かれてはいない。
[因みに、
「艶
本」は、
「えほん」と読むのであり、
「えんぽん」と読むべきではない。]従って、これに該当する者は、この物語を読んではならない(少なくとも、
読むことを勧めない。
)そ
れは、赤裸々な微に入り細に渡る性愛行動の描写の部分のみを切り出して、実際に「淫情」をそそられたり、そそられる
と理解する故に公序良俗にとって有害だと考える者には性愛は語れないと考えるからである。
相手に対する思い遣りのない、愛おしみ慈しむ気持ちのない性愛は、単なる欲情に過ぎない…と、筆者は考える。そのような性愛行動からは、互
いに満ち足りた幸せな気持ちは得られないし、英紅炎の一連の物語の中で語られるような「極楽浄土の喜び」の関係は築けない…、というのが筆者
の性愛に対する主張の真髄である。従って、それとは対極にある真の性愛は、卑下したり、卑しめたり辱めたりすべきものにはあらず、また明け透
けに表現され、語られて何ら恥ずべきものでもない…と、筆者は考える。そのような性愛こそ、筆者の一連の「艶本」で赤裸々に語られる物語の主
題であり、そこに表わされる「世の仲 」[ つまり、男と女の愛の種々相 ]の真の姿である。
英 紅炎
記
平成戊子 霜月
「艶本」という以上、本来なら挿絵が豊富に入っていなければならないのだが、こと志と相違して、様々な理由によって挿絵の準備が疎かになっ
たままであるのが、残念である。
[改訂二版の後書き]
英紅炎の他の作品と同様に、初版を上梓してから二年余りが経った。その間に気が付き次第その都度、誤字脱字誤変換等の校正をしてアップデー
トしてきたが、その種のバグは、なかなか一掃できないでいた。それは、言い訳がましいが、独りで何から何まで手がけなければならないことによ
る煩雑さにもより、バグの修正や、加筆、削除の結果別のバグが生じるということもあり得たためでもある。
そこで、初版の上梓後ほぼ二年半を期して、全編の推敲と編集をやり直して、(改訂第二版』として公開し直すことにした。殊に、頁番号が漢字
の序数詞を採用する時代物を除いて、編集は、主としてアドビー社のイン・デザインを使用することによって、寸法のずれのないようにしたことが、
記
英 紅炎
平成辛卯 水無月
第二版の特徴になっている。本編でも、内容や筋書きには根本的な変更はないが、かなりの部分で、削除、あるいは加筆が行われていて、若干のニ
ュアンスの違いが現れている。
えほん
アドビー イラストレータ CS3で描画
神田 拓
パーソナル オフィス テリントーク
〒二〇ニー〇〇〇二 東京都西東京市ひばりが丘北四ー五ーニ四
平成二十三年六月十五日
神田 拓
平成二十二年三月十五日
パーソナル オフィス テリントーク Web 初版公開 第二版公開 英 紅炎
淫斎白繚
艶本 愛
の潮 ー 千代乃とあおりの恋物語 − 電子版 改定二版 希望購読価格 二百円 税( 込 )
著者 表紙作画 発行者 電子版発行所 PDF編集作成
著作権の表明
務所のパーソナル オフィス テリントークに帰属します。何人も、その正規
英 紅炎の作品の著作権に関わる全権利は、作者の英紅炎、並びにその個人事
英 紅炎 右 表明す パーソナルオフィステリントーク に表明された許諾なく作品の全部または一部を流用してはなりません。
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