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(中国名:釣魚島)の国有化により、2012年9月15、16 両日と

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(中国名:釣魚島)の国有化により、2012年9月15、16 両日と
Shiroyama Hidemi
はじめに―なぜ暴徒化し拡大したのか
日本政府による沖縄県・尖閣諸島(中国名:釣魚島)の国有化により、2012 年 9 月 15、16
両日と、満州事変の発端となった柳条湖事件から 81 周年を迎えた同月 18 日に、大規模な反
日デモが中国各地で吹き荒れた。賈慶林全国政治協商会議主席は 9 月 27 日、
「9 月 18 日には
(1)
100 万人近い人々によるデモが起こり、強い憤慨を表明した」
と述べたが、実際にはこの 3
日間で、全国約 200 都市で、約 200 万人が大型デモに参加した(2)。
現在の中国社会はミニブログ「微博」
(中国版ツイッター)時代である。5 億人以上が利用
するこの情報ツールにより、反日デモの様子は参加者によって写真付きで書き込まれた。
筆者が調査したところでは、18 日は少なくとも 125 都市で反日デモが発生したことも確認さ
れた。それは北京、上海、広州などの大都市だけでなく、市の下の行政単位である県にも
広がった。北京や上海はまだ理性的なほうで、西安(陝西省)、長沙(湖南省)、青島(山東
省)など地方都市では日本企業や日本車への破壊・放火行為が起こった。暴徒化した「悪性
事件」は 30 件余り(3)で、戦後最大と言われる反日デモ全体の規模と広がりから言えば、総
じて理性的だったというのが中国政府の見解である。
よく議論されるのは、尖閣問題に起因した「反日感情」だけでなく、貧富格差や就職難
など社会矛盾に対する鬱憤を晴らそうと、愛国主義教育で「反日=愛国=正義」という認
識が染み付いた若者たちが不満を日本にぶつけた、という問題だ。また 11 月 8 日からの第
18 回共産党大会を前にした権力闘争が反日デモと密接につながっている、という説もよく
聞く。
尖閣問題・反日デモをはじめとした日中関係は中国にとって単なる外交問題ではなく、
政治や社会に影響を与える核心的テーマになった。また微博上では、日中関係をめぐり狭
隘な反日論ばかりが展開されているわけではなく、非理性的な中国社会を憂える知識人や
網民(ネット利用者)から過激な対日観を戒める意見も多く寄せられている。微博という即
時かつ伝播性の高い言論プラットフォームは確実に中国の対日感情に影響を与えている。
「なぜここまで大規模な反日デモに発展したのか」という命題について、「社会階層と地
域格差」
「共産党大会と維穏(安定維持)体制」
「社会の分裂と対日世論の変化」という観点
から考察するのが本稿の目的である。
国際問題 No. 620(2013 年 4 月)● 29
反日デモの社会構造―中国社会の「分裂」とその背景
1 社会階層と地域格差
(1) 北京・日本大使館前のケース
今回の反日デモに関して総じて、在留邦人が多い北京、上海など大都市と、長沙、西安、
青島など地方の都市で様相が異なったことに注意しなければならない。つまり前者は大使
館・総領事館への投石、ペットボトルや生卵の投げ付けなど非理性的行為があったものの
極端な暴力行為は抑えられ、後者では青島市の「ジャスコ黄島店」や湖南省長沙市の日系
百貨店「平和堂」
(本社:滋賀県彦根市)への略奪・破壊行為、青島のパナソニック電子部品
工場への破壊・放火行為などに代表されるように暴徒化した。
筆者は 2012 年 9 月 15 日、16 日、18 日、北京の日本大使館前の最前線で取材した。この 3
日間、各 1 万― 2 万人が反日デモに参加した。実は大使館前での反日デモは、日本政府が尖
閣諸島国有化を決定した翌日の 11 日から続いており(4)、公安当局は、デモ管理のため参加者
を十数人ずつのグループに分けたうえで、大使館前で「釣魚島は中国のものだ」
「日本軍国
主義打倒」とお決まりのシュプレヒコールを上げさせ、抗議が終わると、次の十数人がや
って来て同じことを繰り返す、という光景が展開されていた。
公安当局は 15 日も同様にしようと考えたようだ。午前 8 時半に始まったデモは当初、数
十人ごとのグループが同様のシュプレヒコールを上げる理性的なものだったが、開始から
30 ― 40 分が経つと、若者たちは公安当局の対応に不満を募らせ、大使館目掛けてペットボ
トルやゴミを一斉に投げ始めた。デモ隊の列は崩れ、十数分後には 1000 人規模に膨れ上が
った。デモ隊は大使館とその前の大通りを隔てていたラインを突破し、一気に大通りを占
拠し、公安当局もデモ隊を制御することを放棄せざるをえない事態となった。
その後、デモ隊は大使館内への乱入を目指し、一部の若者たちは大使館の正門を乗り越
えようとした。そこで当局は初めて、国内の治安維持を目的とする準軍事組織「武装警察」
を投入する。それでも若者たちは興奮し、次々と乱入しようとし、大使館周辺で待機してい
た武装警察1000 人以上が大使館前に移動し、高さ 2 メートルのバリケードも築かれた。殺気
立つ若者たちは前へ前へと押し寄せ、バリケードを乗り越え、乱入一歩手前まで迫った。武
装警察は「外国公館乱入」という最悪の事態を何とか回避しようと躍起だったが、決してデ
モ隊には手を出さず、また公安当局も若者らがペットボトルや石を投げようとも容認した。
9 月 11 日から続いたデモと、15 日のデモでは何が違ったのか。15 日は国有化後初めての
週末で、デモに参加する若者らは「大規模」なものを期待していたようで、実際に微博上
では「日本大使館に生卵を投げよう。無料で配る」との書き込みがあった。また筆者は 15
日朝、中国人のふりをして、まだ統制がとれていたデモ隊のなかに紛れ込んだが、
「日本製
品をボイコットしよう」と書かれた紙を渡された。デモ隊には子供連れの姿もみられ、明
らかにどこからか動員された人たちだった。
11 日以降に関して言えば、
「保釣」
(
「釣魚島」の主権を断固守ると主張するグループ)の活
動家らと、彼らのネット上での呼び掛けや転送されたデモの予告をみて集まった若者が多
かった。例えば、比較的若い利用者が多く、愛国・反日的傾向の強い大手ミニブログ「騰
国際問題 No. 620(2013 年 4 月)● 30
反日デモの社会構造―中国社会の「分裂」とその背景
訊微博」では、「童増」(中国民間保釣連合会会長、北京)や「梁智」(河南省)、「湘軍五百」
(湖南省)
、
「
糊
」
(福建省)など保釣活動家らの情報がかなり広くフォローされており(5)、
デモ予告なども転送されていた。それでも北京の日本大使館前での参加者は延べ数百人だ
ったと思われる。保釣活動家は、公安当局からマーク・監視されており、デモを起こす際
も公安当局と相談しながら行動するのが通常だ。
15 日の反日デモは以前より規模は大きくなったわけだが、参加者は次の 4 つのタイプに大
きく分類される、とみてよいだろう。①保釣活動家、②ネットでデモを呼び掛けた若者と、
転送されたデモ予告をみて集まった若者、③何らかの組織によって動員された人たち、④
ピクニック感覚で集まった民衆。
参加者のうち石やペットボトルを投げたり、大使館前の木によじ登って「対日宣戦」な
どと連呼したりしたのは②の若者たちが最も多かったとみられる。現場ではペットボトル
や生卵を配布するグループもおり、背後に何らかの組織の存在も感じられた。
結局、日本大使館に乱入しようとする一部若者と、何とか阻止しようとする武装警察の
攻防は、15 日の正午までには収まり、あとは一連のデモが終結する 18 日夜まで、大使館前
の大通りが開放され、大通りでは数百メートルに上るセンターラインを挟んで、数十人単
位のデモ隊がぐるぐると回り、大使館前を通り掛かった際にペットボトルや石、生卵を一
斉に投げ、大使館を通り過ぎると、次に大使館前に来るまではシュプレヒコールを叫び続
けるということが繰り返された。これは、公安当局からみれば、
「維穏」
(安定維持)が実現
された状態だったのである。
筆者は、小泉純一郎首相(当時)の靖国神社参拝などで日中関係が悪化した 2005 年 4 月に
起こった反日デモも北京で取材したが、2005 年と 2012 年では何が変わったのか。今回の一
連の反日デモには大学生はほぼ参加しなかった(6)。大学生は校内にとどまるよう通知されて
いたし、中国政府幹部は 17 日に大学幹部と会見し、18 日は校内で対日行動を起こすよう徹
底した(7)。1989 年の天安門事件につながった民主化運動時のように学生が主体となったデモ
は社会的な影響力が大きく、体制批判につながると懸念を強めているからだ。2005 年のデ
モでも、北京の主要大学ではデモに参加しないよう通知されていたものの、参加した大学
生は多かったとみられる。筆者がデモ参加者の外見などから推測したところでは、2012 年
のほうが、より出稼ぎ労働者ら地方出身者の割合は多かったし、そうした見方は正しいと
言える。また前出④で「ピクニック感覚で集まった民衆」と指摘したが、家族連れでの参
加者は確かに多かった。父親に肩車された子供も多くみられたし、投石している小学生も
いた。以上の点から、2005 年に比べて「反日層」が広がっていることが指摘できる。
2001 ― 06 年まで毎年繰り返された小泉首相の靖国神社参拝の結果として鮮明になったの
は、中国社会に確実に「反日層」が根付いた、ということだった。例えば、今回も日本大
使館周辺の道路に座り込んでいた父親は、3 歳の息子に中国国旗をもたせ、「私は中国人、
名前は××。国家の領土を守り抜くことは一人一人に課せられた責任です」と書いた紙を
息子の前に置いた。2001 年からの継続的な反日感情の醸成により、そうした対日観は親か
ら子へ受け継がれていることも伺えた。
国際問題 No. 620(2013 年 4 月)● 31
反日デモの社会構造―中国社会の「分裂」とその背景
今回の尖閣問題により「反日=愛国=正義」という民衆の認識はいっそう深まり、
「反日
をやって何が悪いんだ」という、歪んだ正義感とある種の開き直りはより強まったと言え
る。大使館前では「釣魚島は中国のもの」という旗を掲げてバイクに乗って暴走する若者
もいたが、日本大使館前は「無法地帯」となり、
「愛国無罪」の風潮は広がっていることが
わかった。デモ参加者は「反日デモがあるからみんなで行こう」という感覚なのだ。
「日本は悪。反日は正義」と考える風潮が強まった背景には、1990 年代半ば以降、抗日戦
争の歴史を重視した愛国主義教育がよりいっそう本格化したことも一因としてある。また
デモに参加した若者は、生卵やペットボトルを日本大使館内に掲揚された日の丸などに当
てれば、周辺から大きな喝采が起こり、
「英雄」扱いされることに酔いしれていた。もしそ
れを制止すれば、彼ら彼女らの不満が公安当局に向かってくることも危惧されていた。だ
から公安当局は現場では、ペットボトルや石を投げる若者を丁重に扱った。
反日デモ参加者が普段の生活の鬱憤を「日本」にぶつけていることは、北京の現場を取
材していてわかった。貧富の格差、都会での差別、就職難、横暴な警官・役人への怒りな
ど、人によって理由はさまざまだろうが、共産党・政府にとって若者の不満の矛先が「日
本」に向かっているうちは安心である。つまり反政府でない反日行動は政権にとって無害
であり、愛国主義を利用し、国内にあふれる社会的危機から人々の注意をそらそうとして
いるとの見方も強い(8)。反日デモを利用し、彼らの不満をガス抜きすることで、共産党・政
府への不満を防ぎたいという思惑ももっているのだ。
(2) 長沙・平和堂のケース
ここで考察するのは、湖南省の日系百貨店、平和堂のケースだ。破壊行為や略奪などが
横行し、長沙市の 2 店舗と株洲市 1 店舗で、テナントも含めて 30 億円以上の被害を受けた(9)。
平和堂が襲撃されたのは 9 月 15 日だが、長沙市では前日夜から数百人規模の反日デモが
行なわれた。平和堂では「14 日に公安当局から店は閉めたほうがいい」と言われ、3 店舗と
も 15 日は閉店にした。だが、各店には昼から深夜まで相次いでデモ隊が押し寄せ、略奪・
破壊が繰り返された。計数千人が店内外にあふれた(10)。
長沙の平和堂は 2005 年にも反日デモ隊の標的になったが、デモ隊が店内にまで押し寄せ
たのは今回が初めてだった。中国に進出した日系企業にとって、安全を確保してくれる地
元公安当局との関係構築は不可欠だ。最初は公安当局がデモ隊への対応にあたり、途中か
ら武装警察が投入されて、ようやくデモ隊を押し戻すことができた(11)。ここに公安当局の
「維穏」に対する危機管理の甘さがみえる。あるいは最初から、デモ隊の不満の高まりを考
慮し、
「店内乱入」まで想定していたのか、真相は不明だ。容疑者はどういう人物だったか。
公安当局はデモから 1 週間ほどが経ち、防犯カメラから割り出した約 20 人を特定し、市民に
情報提供を呼び掛けた。その後、1 週間以内に 10 人以上が拘束された。そのなかに学生はお
らず、ほとんど無職で、一部職に就いている人もいた(12)。
一方、長沙と同じ内陸の大都市・西安でも 9 月 15 日に大規模な反日デモが起こった。日
本車を運転していた李建利氏は、21 歳の蔡洋に U 字型の鈍器で殴られ、半身不随の重傷を
負った。蔡は河南省南陽市の出身で、学校を退学し、2009 年に 18 歳で西安に出稼ぎに来た。
国際問題 No. 620(2013 年 4 月)● 32
反日デモの社会構造―中国社会の「分裂」とその背景
抗日戦争ドラマの視聴とインターネットの銃撃ゲームが趣味で、経営者が乗る高級車「ア
ウディ」の上から小便をまき散らしたとネットでつぶやき、
「爽快だった」と書き込んだ。
15 日のデモで日本車を壊した後、ネット上で「明日もデモがある。
(故郷の)村で『小日本
打倒』と絶えず叫んでも、抗日ドラマの世界と想像上の憎しみでしかなかったが、今回は
完全に違う。周りで運転されている車の多くが日本製だ」と興奮した。15 日夜に電話で話
した姉には戒められたが、
「これは愛国行動だ」と反論した(13)。
ここから、なぜ若者たちが反日デモで暴徒化したのか、その理由の一端がわかる。人間
関係の希薄な都会で孤独な生活を送り、ネット世界に生きている姿がみえるとともに、普
段の生活への鬱憤を抱え、
「日本車を壊すことが愛国行為だ」と認識し、反日デモに快感を
感じていたのだ。反日デモが暴徒化した都市で、逮捕・起訴された若者は、無職だったり、
農村から都会に出てきた出稼ぎ労働者であったりするケースが多かった(14)。
2 共産党大会と「維穏」体制
(1) 公安当局の対応
では、長沙や西安など地方都市でデモが暴徒化し、北京ではそこまで暴徒化しなかった
のは、前者のほうが社会への不満が強かったから、と言えるのか。必ずしもそうとは言え
ない。それよりは、暴徒化の程度は、その都市の公安当局がどこまで本気でデモ隊を抑え
込む必要性があったかにかかわっている。つまり 10 年に一度の最高指導部交代が行なわれ
る共産党大会を控えた首都・北京では「維穏」
(安定維持)が強化された。周永康党中央政
法委員会書記は「社会の大局と和諧・安定の確保は、第 18 回党大会の順調な開催の重要な
前提であり、各地・各部門・各単位の最も重要な任務であり、重大な政治責任だ」と指示
しており、首都は、民族問題を抱える新疆ウイグル自治区、チベット自治区と並び「維穏
工作」の重点地区に指定された(15)。
北京での反日デモの拡大や暴徒化は、党大会の順調な開催に直接影響する。一方、地方
都市では暴徒化しても、党大会に与える影響は限定的だったうえ、デモに参加した若者ら
の根深い社会不満に配慮し、ガス抜きを北京などより認める対応をとった可能性もある。
一方、9 月15、16、18 日に反日デモがほとんど起こらなかった地域が天津と大連(遼寧省)
だった。天津については胡錦濤国家主席が 18 日に天津を視察していた(16)ため、公安当局は
反日デモを徹底的に抑え込んだ。また大連では日系企業が多く、親日的な市民も多いから
との指摘もあるが、それよりも重慶市共産党委員会書記を解任された薄熙来の存在と関係
しているとの見方が強い(17)。1990 年代に大連市長を務めた薄は、日系企業を誘致するなど
して大連を開放的な都市に育て上げ、今も市民の間で人気が高い。当局はデモが発生すれ
ば、薄熙来を評価する声が上がると危惧した可能性が高い(18)。同様に重慶市でも反日デモ
はあったが、大規模なものではなかった。
一方、広東省深
では 9 月 16 日のデモで一部が暴徒化し、市共産党委員会の建物に侵入
しようとしたため、武装警察と衝突した。警察側が放水し、催涙ガスを発射したが、これ
は矛先が「反日」から「反共産党」に変わり、
「維穏」を脅かす事態になったため当局が強
国際問題 No. 620(2013 年 4 月)● 33
反日デモの社会構造―中国社会の「分裂」とその背景
硬手段に転じたケースだ。深
ではデモの最中に「自由、民主、人権、憲政」という赤い
横断幕も登場し、目的が反共産党に変わる動きもあった。
「維穏」の観点から言えば、北京の反日デモ対応は成功と評価されている。領事関係に精
通した北京の外交官は「うまく管理した。デモ隊の分断の手法が巧みだった」と評価した(19)。
反日デモ開始直後の 9 月 15 日午前は混乱したが、同日午後からは一定の維穏は保たれ、デモ
隊への対応は丸腰の警官、大使館防御は武装警察という役割分担をはっきりさせた。前線
の警官には婦警を多く投入し、ペットボトルや生卵を投げたら前に進むよう笑顔で促し、
既述のように、大使館前の大通りをぐるぐる回らせた。最後の一団が疲れ果て、納得する
まで途中で切り上げさせることなく、デモを夜まで続けることを容認した。
ここには 2005 年の反日デモの教訓がある。同年 4 月 9 日、インターネット上で北京市西北
部の中関村で反日デモを行なうとの呼び掛けがあり、公安当局は保釣のリーダーと相談し、
付近の北京大や清華大周辺を一周してデモを終了させる計画だったが、デモ隊は警官の制
止を振り切り、中心部の建国門外にある日本大使館に向かい、ペットボトルや石を投げ続
けた。それでも収まらないデモ隊は次に、東部の日本大使公邸に向かったが、その途中の
日本料理店や日系銀行を次々と襲撃し、看板を壊すなど暴徒化して大きな被害が出た。当
時の日本大使館の建物は、目と鼻の先に道路があり、窓ガラスが割られるなどした。
しかし日本大使館は 2012 年 2 月に東部の亮馬橋に移転した。新大使館は 6 階建てで、門前
の大通りとの間にもかなりの空間がある。公安当局は、反日デモの実施場所を大使館前に
集中させた。
「保釣」関係者も、微博で北京での反日デモ予告を流したが、それはほぼ「地
下鉄亮馬橋駅集合」となっていた。これも公安当局と連絡をとった結果とみられ、これら
書き込みは削除されなかったことからも間違いないだろう。さらに同館前の大通りを開放
し、疲れるまでぐるぐる回らせた。いわばその空間を「大きな鳥籠」にし、そのなかでな
ら自由に羽ばたかせ、その外にある日本料理店や日系企業に被害を及ぼさないようにした
のだ。
北京市の公安当局は 15 日以降のデモも、数十人ごとが大使館前で抗議するきわめて秩序
立ったものを想定していたが、わずか数十分間で制御できなくなり、デモ隊が大使館前の
(20)
大通りにあふれたのは既述のとおりである。それは公安当局にとって「想定外だった」
が、
近くに 1000 人以上の武装警察部隊とバリケードを用意しており、
「大使館内乱入」という最
悪の事態を回避するための策を講じていた。さらに警官が 15 日以前に、日系企業を個別に
訪問し、15、16 両日と 18 日は休業にするよう要請したほか、日本料理店には看板を外し、
デモ隊に襲われないよう「釣魚島は中国のものだ」と書いた紙を店に貼るよう指導した。
さらに公安当局は、18 日には反日デモ抑制に転換している。中央政府は 17 日夜に、全公
務員に対してデモに参加しないよう指示する緊急通知を出した(21)。18 日については全国で、
15、16 両日を上回る規模の武装警察を動員し(22)、各地で暴徒化する動きを抑え込んだ。長
沙では市中心部のスタジアムに 1 万人規模の武装警察が待機した。19 日になると北京市公安
局は完全に阻止する方針を決めた(23)。北京市公安局は 19 日未明、市民向け携帯電話ショー
トメッセージで「理性的な愛国感情の表現」を求めたが、同日朝になるとあらためてショ
国際問題 No. 620(2013 年 4 月)● 34
反日デモの社会構造―中国社会の「分裂」とその背景
ートメッセージを送り、こう告げた。
「(デモとは)違った方法で愛国の熱情を伝えてほしい。
関係部門と協力して共に交通・社会秩序を維持しなければならない。抗議活動は一段落し
た。大使館地区を再び訪れて抗議活動を行なってはいけない」
。その結果、19 日には前日ま
での熱狂が嘘のようにデモは起こらず、デモ隊も来ず、20 日以降も同様だった。ほかの都
市でももはや大きなデモは起こらなかった。
(2) デモの性格―「自発」なのか「官製」なのか
なぜ「反日デモ」は起こるのか。日中間の複雑な近代史に対する中国民衆の怒りが大前
提にあり、そうした怒りに逆らえない中国政府は、歴史認識や尖閣問題などにおいて日本
側に対して自国民衆の感情を理解させようとの意図をもっていることは間違いない。そう
いう点から、野田佳彦首相が国有化の方針を表明したのは日中全面戦争の契機となった盧
溝橋事件 75 年の記念日(7 月 7 日)当日であり、国有化そのものも「国恥の日」である柳条
湖事件記念日(9 月 18 日)の一週間前に行なわれたという事実は、中国政府の目には日本政
府は中国民衆の「敏感性」を理解していないと映った(24)。
こうした点からも果たして、反日デモは「自発的なものか」
「後ろで政府が操る官製なの
か」という疑問が生じるだろう。
中国憲法は 35 条で「デモや示威行動の自由」を認めているが、原則として公安当局の許
可がないデモを行なうことは不可能だ。しかし、中国外務省報道官は一貫して理性的な対
(25)
応を求めながらも、
「日本の誤ったやり方に対する強烈な義憤は理解できる」
と述べ、反
日デモを容認する発言を繰り返した。中国紙も、今回はこれまでと違い、反日デモを報じ
る異例の対応をとり、
「理性的態度がとられた」などと理解を示す報道を行なった(26)。
なかなか決定的な証拠がないため、大規模な反日デモがなぜ発生したか検証するのは難
しい。しかし証言や状況証拠を集めた結果、反日デモのアクターとして、先述したように
「保釣」メンバーの存在があり、同メンバーらが「微博」などで広めた反日デモ予告が転送
に転送を重ね、かなりの範囲に情報が共有されたという事実がある。一方、警備状況をみ
てみると、多くの場合、公安当局はどこでデモを起こすかも決定している。日本大使館・
総領事館前は、デモ隊の「反日」への欲求を満たせるうえ、警備・管理しやすいため、デ
モ開催場所として選ばれた。デモ開始時点では公安当局が認めないと、大規模な反日デモ
は起こらない仕組みになっている(27)。こうした点を踏まえると、反日デモは官製的要素がき
わめて強いと言わざるをえない。共産党・政府は、反日デモをコントロールできる「自信」
があるから、デモを容認しているのだ。
一方、政府はインターネットなどで沸き上がる愛国・反日感情という民のナショナリズ
ムをもはや抑えられないことも熟知している(28)。歴史認識・領土主権問題での日本政府への
不満と、経済規模で日本を抜いて世界第 2 位になったことに伴う「大国意識」の高まり、
「日本にばかにされた」という怒りは、前述したように普段の生活への鬱憤も重なり、公安
当局の想定を超えたものになるというのは、各地のデモでみられた光景だった。
(3) 路線をめぐる権力闘争からの考察
11 月 8 日から開催される共産党大会を前にして起こった反日デモは、党指導部内の対日政
国際問題 No. 620(2013 年 4 月)● 35
反日デモの社会構造―中国社会の「分裂」とその背景
策ばかりか路線闘争とも密接なかかわりをもっているというのが筆者の仮説である。この
ため今回の大衆行動に関して政治面から検証は不可欠であるだろう。
政治面からの考察の前に、9 月 18 日の日本大使館前での 2 万人規模の反日デモの最中、ま
たその後、中国社会の「分断」を象徴する事件が起こったので紹介したい。キーワードは
「毛沢東」である。左派系サイト「烏有之郷」発起人の一人で、北京航空航天大学経済管理
学院の副研究員である韓徳強は 18 日、日本大使館前での反日デモに参加した。河北省固安
県から来て反日デモを組織していた 500 ― 600 人の集団に混じり、1 時間近くスローガンを
叫んだ。その後、帰宅するため最寄り駅の地下鉄亮馬橋駅に向かおうとしたところ、
「毛主
席、我們想念
」
(毛主席よ、われわれはあなたを懐かしむ)との標語を記したプラカードを
もった青年 2 人と交流した。その時、
「くそったれ」と罵る老人の声が聞こえた。毛沢東を
侮蔑する言葉を並べたため、
「デモ隊全体に対する嘲笑と挑発」と感じた韓は、老人を平手
打ちにした(29)。
この「事件」はまたたく間に微博などで伝わり、韓の暴力を批判する声と、毛主席への
尊敬の念から韓の行為に同情する声に二分し、韓自身も「一般の民衆は私を支持している
と思うが、メディアや知識分子は私に反対する傾向がある」と認識した(30)。こうした社会
の分化現象に関して韓は、「中華民族が再びバラバラの砂に変わると、また日本を含めた
人々にばかにされてしまう。それを不安に感じる」と解説した。韓に代表される「左派」
の考えは、毛沢東時代のように強いリーダーの下で、人民が団結して日本や米国などにも
強く立ち向かえ、というものだ。
北京の日本大使館前でもそうだったが、各地の反日デモの現場では、若者の多くは毛沢
東の肖像を掲げた。北京の大使館前では 15 日時点でその数は少なかったが、16 日、18 日に
なるにつれ、毛沢東の肖像画を掲げる若者はどんどん増えた。若者たちはなぜ毛沢東をも
ち出したのか。日本のメディアの論調は、デモ参加者には労働者や無職が多く、背後には
格差を広げた改革開放政策への不満があるとの見方(31)も多いが、実際に毛沢東を信奉する
左派の論客はどう考えているのか。
「改革・開放から 30 年以上が経過し、われわれの無数の腐敗高官が一家で海外に逃げ、内
政・外交上で投降しやすい状況をつくり出した。その結果、三十数年間の外交政策は全体
的に軟弱となり、若者は特にそれを強烈に感じていた。その一方で、毛主席は当時、清廉
潔白な幹部を率いたから、彼らは(対外的に)強硬になることができた。
小平でも江沢民
(韓徳強)
。
でもない。人民・群衆の目には毛主席は光り輝いている表われだ」
また自らを毛沢東主義者と称し、1990 年代から「保釣」運動に携わった宋陽標は「民衆
は強大な国家、強大な指導者を望んでおり、中国を引っ張ることができる指導者が国際的
に皆(他国)から尊重されるべきだと考えている」と語る(32)。つまり尖閣諸島を国有化され
た中国の外交政策に不満なのであり、毛沢東のような強いリーダーを求めて肖像画を掲げ
た、というのだ。
この「毛沢東」をめぐる路線対立には「前段階」があるという見方が強い。薄熙来は
2007 ― 12 年の重慶市党委書記時代、「唱紅」「打黒」「共同富裕」という 3 本柱の政策で、
国際問題 No. 620(2013 年 4 月)● 36
反日デモの社会構造―中国社会の「分裂」とその背景
「毛沢東化」を進めた。毛は政敵打倒を目的に文化大革命(1966 ― 76 年)を発動したが、薄
熙来は徹底的に毛の政治スタイルをまね、大衆を動員して毛時代の革命歌(紅歌)を歌い
(唱紅)、法を無視してまで「黒社会(マフィア)一掃」
(打黒)を行なって腐敗の名の下に
「政敵」を倒して、庶民の喝采を浴びた。両親が都市に出稼ぎに行き、農村に取り残された
「留守児童」に卵と牛乳を送るなど格差是正策(共同富裕)も推し進めた。深刻な貧富格差
や不公平な社会、就職難など数え切れない社会の矛盾を配慮し、平等だった毛沢東時代へ
の郷愁を強める庶民を取り込もうとした薄熙来の政治スタイルは幅広い庶民の支持を得た。
この薄のスタイルに直接反発したのが温家宝首相だった。温は 2012 年 3 月 14 日、全国人
民代表大会(全人代)の閉幕記者会見で「文革の誤った『遺毒(残された有害思想)』がまだ
完全に取り除かれていない」と批判し、薄熙来は翌 15 日に重慶市党委書記を解任された。
この背景には、党大会を前にして薄熙来の権力が増大したことへの温らの危機感があり、
薄が政治局常務委員に昇格すれば、党内が保守的思想に毒されると危惧したことが「薄打
倒」につながった。薄熙来事件というのはいわば、毛沢東が進めた文革路線に戻るの
か、
小平の改革路線をさらに深化させるかの路線闘争と言える(33)。こうしたなか、当局
(34)
も閉鎖した。
は薄解任と同時に左派サイト「烏有之郷」
中国のメディア界・知識人は、2012 年 2 月に薄熙来の腹心であった王立軍重慶市副市長
(兼公安局長)が公安局長を解任され、四川省成都の米総領事館に駆け込んで以降の一連の
「薄熙来事件」を通じ、社会が分裂している現実をはっきり認識した。その後の反日デモ参
加者の多くが、毛沢東を支持し、毛時代に郷愁を抱き、格差社会への不満を訴え、強いリ
ーダーシップで日本に対峙することを求めた。デモでは「薄熙来は人民のものだ」という
横断幕も現われたことは注目に値する。薄熙来事件と反日デモは社会の分裂という観点か
らつながっているとの見方が出ている(35)。
一方、胡錦濤指導部の対応はどうだったか。
「薄熙来」や、庶民が支持する「毛沢東」の
存在が大きくなることを警戒した。党中央指導部は、大規模な反日デモを通じて左派が勢
力を拡大させ、毛沢東像を掲げたり、薄熙来を支持する横断幕さえも登場したりするのを
みて衝撃を受けた。文革の再来を回避する必要性を感じ、「毛沢東思想」が与える影響を
徐々に除去していくことを決めた(36)。
共産党は党規約上、胡錦濤総書記が誕生した 2002 年の第 16 回党大会後、
小平理論と江
沢民元国家主席の「3 つの代表」思想を中心的な指導指針と位置づけ、党の重要会議で毛沢
東思想を省くケースが増えているが、その傾向は進み、第 18 回党大会直前の 10 月 22 日の政
治局会議でも毛思想に言及しなかった。特に薄熙来事件と反日デモを受け「毛沢東」への
「毛沢東」は複雑な問題であり、党規約から「毛沢
「淡化」の動きが起こったとみられる(37)。
東思想」が消えることはないが、時代によって毛思想の位置づけは変化する(38)。同時に「毛
沢東」は「諸刃の剣」であり、党指導部にとって「政治的知恵」であるとともに、薄熙来
が利用したように政治的に相手を脅せる「ナイフ」にもなる(39)。薄事件や反日デモでは後者
が際立ったが、
「毛沢東思想」はそう簡単に消せるものではないというのが結論となった。
本節の最後に、指導部の対日政策が、反日デモの対応に与えた影響について考えてみた
国際問題 No. 620(2013 年 4 月)● 37
反日デモの社会構造―中国社会の「分裂」とその背景
い。11 月 8 日に開幕した共産党大会は当初、10 月中旬の開幕が想定されていたが、政治局常
務委員会人事の難航や薄熙来への処分、そして尖閣問題への対応をめぐり党大会の日程は
ずれ込み(40)、結局、党大会の日程が決まったのは9 月 28 日の政治局会議においてだった。同
会議では薄熙来の党籍剥奪と刑事責任追及も決定した。
胡錦濤国家主席は 2012 年に入り、日本への対応を次期トップの習近平国家副主席に任せ
ていた(41)。国有化問題以降、胡錦濤、温家宝ら政治局常務委員は対日強硬発言を繰り返し
ていたうえ、対日政策を統括する習は、民衆から対日で「弱腰」とみられることを警戒し
た。党大会を受けて共産党総書記に就任した習は「中華民族の偉大な復興」を訴えるなど
「強国路線」を主張しており、習には反日デモを抑え込む選択肢は存在しなかった(42)。
3 社会の分裂と対日世論の変化
反日デモでの社会分裂現象について触れたが、本節では韓徳強ら左派勢力とは逆に、暴
力的な反日デモを憂えた知識人たちの声を聞いてみたい。対極の考えを知ることで、世論
を二分した反日デモの社会構造がより理解できるだろう。
崔衛平(女性作家、北京電影学院元教授)は、10 月 4 日、インターネット上で「譲中日関係
回歸理性」
(中日関係に理性を取り戻そう)との署名活動を発起した。声明への署名者は毛沢
東を支持する「左派」とは違い、自由や民主を信奉する「右派」に属する改革派がほとん
どだ。声明は暴力的な反日デモについてこう訴えている。
「われわれは非常に心を痛めてお
り、特別の非難を加える。これはきわめて少数の人がやったことであり、両岸の大多数の
人たちの釣魚島問題での一般的な見方ではない」
。
崔は 1 月 5 日から 1 ヵ月間、日本に滞在し、理性的な日中関係構築や民間交流の重要性を
訴えた。この期間の崔の指摘(43)は参考になるので紹介したい。
暴力的な反日デモがなぜ起こったか考えた崔は、
「独裁の結果なのか、自由の結果なのか」
と問題提起している。まず「9 月 15 日に中国の多くの都市で発生した街での暴力行為の背後
には政府の関与、そそのかし、奨励があったという見方に反対しない。政府は当然、ナシ
ョナリズムが諸刃の剣であることを知っている。必要な時に開放を許し、不必要な時には
制限ないし封じ込めを行なう」と語り、
「官製」としてのデモの実態を指摘する。
さらに「百パーセント独裁ならば民意は必要ないが、彼ら(共産党)は自身の合法性に危
機感をもっており、表面的には民衆に迎合した姿勢を示すためにもボトムアップの民意は
不可欠だと知っている」と述べたうえで、反日デモで「民意がどのように利用され、コン
トロールされたか」と問い掛け、共産党が民意を利用したデモの側面も取り上げる。
しかしその「民意」は必ずしも、共産党の意向だけではない現実を指摘するのだ。
「反日
感情というのは嘘でつくり上げられたと言えるのか。街で起きた暴力事件を取り除き、そ
の背後に何が存在するか探す必要がある」と述べ、それは終戦から 65 年以上が経っても消
えるどころか累積する「民間的怨気」
(民間の怒り)だとする。
「今日、インターネットなど
で民間は自分たちの意見を伝達するルートが開拓され、それが広がり、民間社会の力が強
くなるにつれ、累積した怒りは開放され、日本社会は実際には初めて中国民間からの圧力
国際問題 No. 620(2013 年 4 月)● 38
反日デモの社会構造―中国社会の「分裂」とその背景
を感じ始めているかもしれない」
。
今も中国民衆には「怒り」が存在し、両国の和解は実現できていない。それは、中国社
会で民間の怒りがこれまで抑圧されてきたからとし、崔はその原因として、①「冷戦」で両
国の社会はお互いに顔がみえず、日本社会は中国民間からの戦争損失に関する圧力を受け
ず、中国民間も日本社会の声を聞くことができなかった、② 1972 年の国交正常化以降も多
くの交流が政府主導で行なわれてきた、③中国では絶えず抗日戦争のドラマが放映され、
今日の中国人の対日理解は非常に制限されている、ことを挙げた。抑えつけられた怒りが、
今、ネット時代で「自由」の幅が広がり、反日デモというかたちで一気に噴き出したとい
うわけだ。だからこそ、怒りの存在する「民間」同士の交流の重要性を説くのだ。
一方、作家の野夫は「最近 10 年ほどの間に、2000 年以前にはみられなかった激しい反日
感情を煽る宣伝が本格化した。中国の国内問題から目をそらすため、こうした宣伝が活発
化したと考えている」と述べたうえで、
「故郷の友人の話」を紹介した。
「友人は失業し、困
窮にあえぐなか、9 月 15 日の反日デモの話を聞き、生き生きとして『日本は許せない。俺は
デモに参加する』と話した。私は友人を罵倒し、
『解決できない自分の問題から目をそらし
てはいけない』と話した」
。そして野は「私は反日デモに参加したり、参加して暴力行為を
行なったりする馬鹿者を批判することは、日本製品ボイコットより大切だと思う。中国の
主流の人たちと、メディアで報道される反日デモ参加者は違う」と訴えた(44)。
芸術家で人権活動家の艾未未も「中日がお互いを嫌って断交し、お互いに相手にしない
ことは可能だろうか。不可能だろう。
(中日は)お互いに必要なのであり、関係改善すると
かしないとか考える必要はない。戦争も断交もできないのに、毎日朝から晩まで罵り合っ
ている事態は全世界を笑わせている。もっと理性的になるべきだと思う」と語った(45)。こ
うした改革派知識人が反日デモを憂えるのは、
「今後、中国で大きな社会変動が起こった際、
今回の反日デモのように暴力的になれば、社会混乱を起こしてしまう」と懸念したからだ(46)。
一方、中国メディアの論調はどうか。国有化に関しては政府はメディア規制も行なわず、
中央テレビなど国営メディアを中心に一様に反日論調を続けたが(47)、反日デモに関しては
暴力に反対し、理性的な態度を求めるものがほとんどだった。
反日論調で知られる『環球時報』ですら 9 月 17 日付の社説で「ここ数日で発生した破壊
(48)
と伝え、
『人民
行為は当面の対日闘争を弱体化させるだけであり、中国の汚点でもある」
(49)
日報』も 17 日付で「合法かつ秩序をもって愛国感情を伝えよう」
、18 日付でも「愛国に理
(50)
とそれぞれ 1 面で伝えた。
由は必要ないが、理智は必要だ」
共産主義青年団機関紙『中国青年報』は一貫して「理性」の重要性を訴えた。9 月 17 日付
で「鬱憤晴らしの愛国では釣魚島を守り抜けない」
「愛国と害国は紙一重で、両者の境界線
(51)
は理性だ」
、20 日付でも「中国のイメージを損ない、日本の右翼を愉快にさせるものだ。
(52)
と断罪した。19 日付では、15 日の西安のデモ
こんな愚かな行動は愛国ではなく、害国だ」
で「前方で車を破壊している。日本車は U ターンしてください」と段ボールに書き、被害を
食い止めようとした青年の物語を掲載し、
「理智と良善を表わしたものだ」と強調した(53)。
デモを容認した公安系新聞も同様だった。『人民公安報』は 17 日付で「日本製品破壊は
国際問題 No. 620(2013 年 4 月)● 39
反日デモの社会構造―中国社会の「分裂」とその背景
(54)
(党中央政法委機関紙)は「
『愛国』の名で法律を踏みにじ
『非愛国』の挙だ」
、
『法制日報』
(55)
り、同胞の私有財産を破壊したならば、さらなる国家団結にマイナスとなる」
と訴えた。
新聞の論説委員も記者もいわば知識人であり、
「暴力的デモ」の問題と弊害を認識してい
るが、これが一般民衆に伝わらないところに中国社会の乖離が存在する。
しかし 2010 ― 11 年に急速に普及したミニブログ「微博」は、発信者が情報を一方的に伝
達するだけのブログとは違い、発信者の情報が即時に不特定多数のネット利用者に伝達さ
れるという点で、反日デモ予告情報を迅速かつ広範に伝え、デモの拡大に一役買った。一
方で「反日意見」が集中して一方的に伝わることが多かったインターネット上の対日世論
とは違い、過激な反日意見が表われると、すぐにそれに反対する理性的な意見が出て、微
博というプラットフォームで議論が行なわれるように変わった(56)。
2012 年 8 月 27 日に丹羽宇一郎駐中国大使の乗った公用車が中国人に襲撃され、車前方に
掲げられた日の丸が略奪される事件が発生した後、
「騰訊網」がアンケート調査したところ
容疑者の行為を「英雄」などと支持する意見は 82% に達したが、なかには「こんな狭隘な
国家主義が起こると、中国人はかつての日本軍国主義の道を歩むのではないか」と懸念す
る意見が多数寄せられていたことに注目したい。さらに香港の保釣活動家による尖閣諸島
上陸事件後の 8 月 26 日に広東省東莞市で起きた反日デモでは、ある参加者がラーメン店を襲
おうとしたところ若い女性が店の前で「打ち壊しはやめよう」と制止したという(57)。
中国では共産党が歴史の解釈権と主要メディアを支配している。このため、中国の若者
に伝わる日本情報というのは歴史教科書や抗日戦争ドラマ、政府系メディアが報じる公式
情報などに限られてきた。しかし若者らは比較的自由に情報が交換できる微博を通じて幅
広く、かつ客観的・理性的に「日本」に接することができるようになり、少しずつではあ
るが、中国の若者の対日感情に影響を及ぼすことを可能にした(58)。
おわりに―日本がなすべきこと
筆者は反日デモをめぐり、より強硬な対日行動を要求する人たちと、暴力的な行為に反
対して理性的になるべきだと訴える人たちの意見をそれぞれ取り上げ、反日デモを通じて
「社会分裂」が鮮明になったと解説した。もちろん中国社会は 2 つに分類されるほど単純な
ものではないが、注目しなければならないのは、前者の人たちは後者を「漢奸」(売国奴)
と呼び、後者は前者を「反日デモで暴徒化したのは主流ではない人たちだ」とお互い相手
に「レッテル」を貼ったことだ。
例えば中国人女子テニスプレーヤーの李娜が、尖閣国有化直後に東京で開催された東
レ・パンパシフィック・オープンに出場したことに対して「騰訊網」のアンケート調査で
は 82% が反対を表明し、李娜は漢奸扱いされた。これに対して『中国青年報』は「少数の
人が発する『漢奸を追放しろ』との騒がしさは非主流派の思考であり、大きく社会に危害
を与えるほどのことはないと信じるが、その背後にある狭隘かつ極端な亡霊はわれわれが
常々警戒・用心、反省しなければならないものだ」と呼び掛けた(59)。
中国社会では、少しでも「日本寄り」「日本びいき」の発言・行動をとれば、そうした
国際問題 No. 620(2013 年 4 月)● 40
反日デモの社会構造―中国社会の「分裂」とその背景
人々が「対日強硬派」によって「漢奸」と罵られる風潮が強まっているのは事実だ。一方、
「理性派」は 3 日間の反日デモに参加した 200 万人という数字が 13 億人中国人からみれば、
「ほんの一部であり、主流ではない」と強調し、理性派のインテリ(知識人)層の多くから
は「反日デモに行ったのは地方の出稼ぎ労働者だ」という差別的な発言も聞かれた。反日
デモを通じて双方がお互いに理解し合えない中国社会の溝の深さが浮かび上がった。
では、日本政府または日本人としてこうした中国社会の複雑性にどう向き合い、中国と
の和解を進めるべきなのか。
1972 年の国交正常化交渉において、毛沢東と周恩来は強力なリーダーシップを発揮し、
「国民」不在のまま戦争賠償も領土問題も「小異を残して大同につく」の原則に基づき曖昧
に処理された。中ソ対立のなかで対日関係の正常化を急いだからという側面が強いが、日
中両国の指導者の間に信頼関係があったという面も忘れてはいけない。しかし現在の中国
政府の立場は、日本政府の尖閣国有化により「係争棚上げという合意」を日本側が一方的に
破棄したのだから、中国側も尖閣周辺海域で自制する必要はなくなった、というものだ(60)。
つまり信頼はなくなったということだ。
さらに日中関係を取り巻く中国の現状も 1972 年当時とは大きく異なる。愛国教育の強化
や抗日戦争ドラマに代表される歪んだ対日イメージの押しつけ、さらに大国意識の台頭な
どにより、民間のナショナリズムが高まり、ネットの発展によって日本に向かっている。
曖昧に処理された歴史・領土問題が今、政府のコントロールを離れ、吹き出している。
こうしたなかで日本政府・国民は、
「反日デモは社会に不満をぶつけたもので、地方の労
働者らがやったことだ」とだけみるのではなく、やはり本質である民間の反日感情に目を
向けることは不可欠であろう。そのうえで、尖閣問題を受け共産党・政府そのものが「反
(政府)だけでなく、理性的な日中関係を構築しようとする中国の民
日」に転じた「官方」
間の人たちと対話を重視するとともに、より多元的な「日本」を発信する努力が必要だ。
中国で言論の自由が完全に保証されない現状で、国民の対日観に影響を与える抗日戦争
ドラマの制作などがなくなることはないだろう。しかしネットや微博の発展によって世論
空間は広がり、そのなかで共産党が支配できる空間は徐々に狭まり、民間の発言権は確実
に増している。日本はこの民間空間との接点を広げるのだ。
中国に真の言論の自由など民主化が実現すれば、日中間で共通の価値観が生まれ、友好
的な協議が可能になる(61)との楽観論の一方、今の状態で民主化すれば、反日感情はもっと
噴き出すと悲観する声も多い(62)。しかし民間の言論空間を広げる微博の普及は、日中関係
にとっていわばプラス材料である。共産党・政府だけを相手とするのではなく、中国の民
間知識人や国民を新たな相手とすべき時にきている。日本にとって今は、理性的に両国間
の問題を語れる土台をつくるチャンスなのである。
(肩書きは原則として当時、敬称略)
( 1 ) 9 月 27 日に予定されていた日中国交正常化記念行事は尖閣問題で中止になったが、日本の日中友
好 6団体会長が訪中し、北京の人民大会堂で行なった中国側との会談で賈慶林主席が表明した。
( 2 ) 中国外務省高官の証言。
( 3 ) 同上。
国際問題 No. 620(2013 年 4 月)● 41
反日デモの社会構造―中国社会の「分裂」とその背景
( 4 ) 反日デモは香港の活動家が尖閣諸島に上陸したことを受け、8 月 15 日から北京の日本大使館前な
どで発生。上陸した活動家が沖縄県警に逮捕され、週末の 18、19 両日には中国各地で大規模なデ
モが展開され、断続的に 26 日まで各地で行なわれた。国有化後の 9 月 11 日からのデモ・抗議活動
は「第2 波」の動きである。
( 5 )「童増」の「騰訊微博」のフォロワーは 100 万 1595 人、
「湘軍五百」は 8 万 5831 人(2013 年 2 月 7
日現在)
。
( 6 ) 前掲、中国外務省高官の証言。
( 7 ) 同上。
( 8 ) 浦志強弁護士への筆者によるインタビュー(2012 年 9 月 21 日、北京)
。以下、インタビューはす
べて筆者による。
( 9 ) 時事通信「中国進出インタビュー 第 334 回『反日デモ被害、総額 30 億円以上に』平和堂専務取
締役 古川幸一さん」2012年 12月10 日。
(10) 時事通信による平和堂中国・寿谷正潔総経理インタビュー(2012年 10月 24日、長沙)
。
(11) 同上。
(12) 同上。
(13)「
車者蔡洋生存碎片」
『南方週末』2012年10月 11日。
(14) 例えば広州市公安局の「微博」によると、9 月 16 日に広州で行なわれた反日デモで日本車を破壊
するなど違法行為を行なったとして拘束された 11 人のうち年齢などが明らかにされた 3 人は 22 ―
30 歳で、いずれも無職だった。時事通信(2012 年 10 月 17 日)によると、広州での反日デモで逮捕
された5 容疑者は18― 39歳で、広東省東部、湖南、甘粛両省などの出身で出稼ぎ労働者とされる。
(15)「堅定信心決心科学応対挑戦紮実作好維穏工作為十八大勝利召開創造平安穏定祥和的社会環境」
『法制日報』2012年7 月18 日。
(16)「創新駆発展 津門再奮起――記胡錦濤総書記在天津考察工作」
『人民日報』2012年9 月 20日。
(17) 北京の外交筋の解説。
(18)『朝日新聞』2012年9 月23 日。
(19) 2012年10 月26 日に北京でインタビュー。
(20) 北京市公安局関係者にインタビュー(2012年9 月 15日、北京)
。
(21) 時事通信、2012年 9月 18日。
(22) 中国人権民主化運動情報センターによると、9 月18 日に投入された武装警察は約30万人。
(23) 時事通信、2012年 9月 19日。
(24) 中国外務省高官の証言。
(25) 例えば、2012年9 月 11日の中国外務省定例記者会見での洪磊副報道局長の発言。
(26) 例えば、
「北京群衆理性抗議活動継続」
『京華時報』2012 年 9 月 17 日、
「上千民衆日使館門前理性
保釣」
『新京報』2012年 9月 17日。
(27) 中国誌編集幹部へのインタビュー(2012年11 月1 日、北京)
。
(28) 中国外務省当局者の証言。
(29) 韓徳強へのインタビュー(2012年11 月27日、北京)
。
(30) 同上。
(31) 例えば、
『毎日新聞』2012年9 月17 日、
「社説」
『読売新聞』9 月19 日。
(32) 2012年10 月29 日に北京でインタビュー。
(33)「打黒」を徹底的に批判した陳有西弁護士は、
「重慶事変是政治路線闘争」
『亜洲週刊』
(2012 年 3
月)のなかで、
「重慶事件を中国共産党内の権力闘争の産物、太子党と共青団の闘争とみる海外の
分析があるが、単純化させすぎている。これは非常に浅薄かつ表面的な見方だ。そうではなく真
の政治路線の争いであり、中国の発展方向にかかわる路線闘争だ」と指摘している。
国際問題 No. 620(2013 年 4 月)● 42
反日デモの社会構造―中国社会の「分裂」とその背景
(34) 韓徳強によると、
「烏有之郷」の基本的考えとして「毛沢東時代は崇高な精神時代であり、団結
して祖国建設へ邁進したが、その後の
小平時代は各自が金儲けに走って富を築き、道徳が喪失
した暗黒時代になった」というものがある。
(35) 中国誌編集長へのインタビュー(2012年10月 23日、北京)
。
(36)「中共十八大去毛化軍委換届出現大翻盤」
『亜洲週刊』2012年11月 4 日。
(37) 中国社会科学院元研究者へのインタビュー(2012年10月 30日、北京)
。
(38) 共産党中央研究機関研究者へのインタビュー(2012年10 月27日、北京)
。
(39) 前掲、中国社会科学院元研究者へのインタビュー。
(40) 中国共産党関係者の証言。
(41) 日中外交筋の証言。
(42) 中国外交当局者や中国紙編集長の証言。9 月 1 日以降、公の場から姿を消し、負傷・病気説の出
ていた習近平が、大規模な反日デモ初日の同月 15 日、中国農業大学視察のため登場したのは、デ
モが起こるなか、自らの存在感を示すため、との見方もある(共産党元幹部の証言)
。また反日デ
モが暴徒化した湖南省や広東省などの党委書記(それぞれ周強、汪洋)が胡錦濤の支持母体であ
る共産主義青年団(共青団)の出身者であることから、権力闘争の観点からの臆測が流れている。
(43)「民主之前」と題した崔衛平の講演(2013年 1 月17日、東京)
。
(44) 野夫の講演(2013年 1 月17日、東京)
。
(45) 艾未未へのインタビュー(2012年9 月22 日、北京)
。
(46) 崔衛平インタビュー(2012年 10月 8日、電話)
。
(47) 例えば、
『人民日報』は国有化後、
「日本応停止玩火」との論評、
『環球時報』は国有化決定後、
社説で「釣魚島、中国的“国有”地位不会変」
(2012年9 月11 日)
、
「莫再幻想友好、認真対付日本」
(同12 日)
、
「対抗中国是日本 21 世紀最大敗筆」
(同13 日)などと報道した。
(48)「反対一切街頭暴力、中国須堅定不移」
『環球時報』2012年 9 月17日。
(49)「用文明法治凝聚愛国力量」
『人民日報』2012年 9月 17日。
(50)「文明理性展現中国力量」
『人民日報』2012年9 月 18日。
(51)「愛国和害国、只有一歩之遥」
『中国青年報』2012年9 月17 日。
(52)「呵擁愛国熱情厳懲打
暴行」
『中国青年報』2012年9 月20日。
(53)「拐点」
『中国青年報』の付属週刊誌『氷点週刊』2012年 9月 19日。
(54)「打
日貨並非愛国之挙」
『人民公安報』2012年9 月 17日。
(55)「愛国、必須以法律為底線」
『法制日報』2012年 9月 17日。
(56) 中国の対日当局者の証言。
(57) 時事通信、2012年 8月 26日。
(58) 張鳴中国人民大学教授へのインタビュー(2012年8 月30日)
。
(59)「
“漢奸”標簽下的極端幽霊」
『中国青年報』2012年9 月 25日。
(60) 中国外務省高官の証言。
(61) 賀衛方北京大学法学院教授へのインタビュー(2012年11 月11日、北京)
。
(62) 前掲、崔衛平の講演。
しろやま・ひでみ 時事通信社北京特派員
[email protected]
国際問題 No. 620(2013 年 4 月)● 43
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