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モデルの誕生

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モデルの誕生
モデルの誕生
――『忘れじの面影』における嘘と自意識について――
玉 田 健 太
はじめに
マックス・オフュルス監督による1948年の映画『忘れじの面影(Letter from an
Unknown Woman)』は、ジョーン・フォンテーン演じるリザという女性が、ピア
ニストのステファン(ルイ・ジュールダン)への熱烈な愛情を一途に抱きなが
ら、結局、ステファンからは多くの愛人の内の一人という存在としてしか認識さ
れず、彼の息子の母親でもあるにもかかわらず、顔と名前を覚えてもらうことさ
えできなかったという物語を描いている。映画の冒頭で、翌朝に控えた決闘から
逃亡しようとするステファンの前に、死の床でリザが書いた手紙が召使いのジョ
ンによって届けられる。その手紙を彼が読み始めるところから、リザのヴォイス
オーヴァーによるナレーションが始まり、ステファンと初めて出会った彼女の少
女時代から始まる回想シークエンスとなる。上映時間の大半を占めるこのシーク
エンスの冒頭で、リザは自分の回想を次のように始めている。「人には二つの誕
生日がある。一つは生まれた日、もう一つは意識の始まりの日」。ここで言う「意
識」とは、後に語られることになるステファンへの思いから遡って考えるなら
ば、ステファンへの恋心であり、彼に対する意識であるとひとまず言うことがで
きる。しかし、ここでリザによって語られている、第二の誕生としての「意識」
とはそれだけに限られるものなのだろうか。「意識」とは果たして何に対する意
識なのだろうか。この「何」にはステファンはもちろんだが、他のワードも入り
得ると考えることができるだろう。人間の意識は何も人生で一つのものだけに、
一回きりで芽生えるものではなく、それは何度も対象を変えて生じるものである
(また意識の誕生は同時に無意識の誕生、ひいては新たな「意識」の対象となり
得るものの誕生でもあるだろう)。本論文の目的は、この「第二の誕生」につい
て考察を加え、本作においてこの「第二の誕生」が指し得る他の具体例、具体的
なシーンを示すことである。また、その結果として得た視座からこの映画を見る
ことで、本作に対する一つの解釈を示すことができればと思う。
まず、リザのステファンに対する意識として先述した「第二の誕生」につい
― 15 ―
て、ロビン・ウッドは、リザがステファンに実際に会う以前から彼に恋している
ことに着目し、彼女はステファン自身を愛しているというより、自らの理想的な
自己をステファンに投影してそれを愛している点を指摘している(Wood“Letter”
215)。また、小松弘はリザがステファンの引越しのシーンに登場する彼の持ち物
を見ている場面に着目し、彼女は彼の属性(美しい家具をもっている音楽家)に
憧れているとしている(小松 109)。ここで注意すべきは、彼の属性に理想の自
己を見出すリザは、単に上流の優雅な生活に憧れている女性でもなく、さらに
理想を現実のステファンと取り違えているだけの愚かな女性でもない点である。
むしろ、彼女が投影する自らの理想的な自己は、多くの愛人との遊びの日々で
忘れられているステファンの見出されるべき潜在的な自己と一致しているのだ
(Wood“Letter”215)。なぜなら、彼女は理想的な自己に近づくため服をきれいに
し、ダンスのレッスンを受け、さらに図書館でモーツァルトについて学ぼうとし
ているのだが、ステファンこそがモーツァルトの再来と言われ、将来を嘱望され
た音楽家だったのである。そして、そのような自己になろうと努力するリザは、
理想化された自己を彼に投射しつつ同一化し、その彼になろうとしているのだ。
このように冒頭の「第二の誕生」の内実をまとめた上で、次節からは、その後の
いわば二回目の「第二の誕生」と呼び得る場面について見ていきたい。
1.リザの欲望と嘘
本作は先述したとおり、リザの手紙による回想が映画の大部分を占める。そし
て彼女が語る物語の当事者であるはずのステファンは、彼女のことを映画のラス
ト近くでやっと思い出すのである。よって、彼女の物語に反論することのできる
人物はおらず、彼女のヴォイスオーヴァーを聞き、手紙がおおよそその内容に
沿った形で視聴覚的に実現された映画を見る観客にとって、彼女の手紙が真実の
出来事を告げており、嘘をついていないということが前提となっている。そして、
彼が思い出すとき、そのフラッシュバックに現れる女性はまさしくリザであり
(他の女性が現れたら私たち観客はどう思うのだろうか?)、手紙の真実性は遡及
的に証明されている。さらに、「あなたがこの手紙を読むころには、私はもう死
んでいるでしょう」という言葉で始まる手紙のラストが、書きかけの文章のまま
途切れて、彼女を看病していたらしい第三者の手によって彼女の死とその様子が
記されていることも、この手紙の内容の真実性をより強調している。
したがって、彼女は嘘をつくような人ではないということが重要な前提となっ
ている本作では、逆説的に彼女が嘘をつくシーンはそれだけで注目に値すると思
われる。ここで注目すべきは、シュテファン・ツヴァイクの原作『未知の女から
の手紙』にないリンツのシーンである。母親の再婚によって、ステファンが住む
― 16 ―
ウィーンを離れざるを得なくなったリザは、引越した先のリンツで若い中尉であ
るレオポルドと互いの親の下で会わされることになる(小説ではインスブルック
であり、レオポルドという人物や、彼女がプロポーズされるというエピソードは
登場しない)。
そして中尉から、結婚という言葉そのものは使われないものの、事実上のプロ
ポーズを受ける。彼は街の広場にある、周囲を遮る木々や柵に囲まれたベンチに
彼女を連れてきて、そこで結婚を前提とした交際を申し込むのだ。それに対し、
彼女は体を硬直させ、震えるようにそわそわしている。その顔も困惑の表情その
もののままで固まってしまっている。そして彼女は彼の言葉を途中で遮り、「ご
めんなさい。無理なの」と言う。中尉は茫然としつつも理由を尋ねる。すると、
はじめは「説明できないの」と言うものの、「誰か他にいるのか」という問いに、
硬直と震えと共に「婚約しているの(I’m engaged to be married)」と唐突に発する。
さらに、相手は音楽家でウィーンにいることを言い、「親の知らない人と婚約し
ているのか」という中尉の問いに、彼女はうなずいて答える。
スーザン・M・ホワイトが述べるとおり、「彼女の驚くべき嘘は中尉を茫然と
させる」(White 156)のだが、では、この言葉はリザ自身にとってどのような意
味を持ち、いかなる働きをするものなのだろうか。ジョージ・M・ウィルソンは、
リザのこの言葉について、真実ではないにもかかわらず、リザの欲望に完全に
適ったものであるとしている(Wilson 111)。確かに、彼女の発言は嘘であるに
もかかわらず、彼女のステファンに対する欲望の表現となっている(彼女は破談
の原因を詰問する親から「何を言ったの?」と聞かれ、「真実を言ったのよ」と
答えている)。だが、ウィルソンの指摘のみでは、このシーンに映るものとその
意味を十全に把握することはできない。「婚約しているの」という思わず発され
た言葉を耳にしたとき、観客は彼女の欲望(彼への同一化)が現実では嘘にしか
ならないことを認識させられる。これまで観客は彼女の欲望の推移を見てきてお
り、例えばリンツに引越す直前、ステファンに会いに行くシーンで「親なんかど
うでもよかった。あなたに会ってあなたの胸に飛び込みたかった」というヴォイ
スオーヴァーを聞くとき、その言葉が嘘であるかどうかという問題は浮上してこ
ない。にもかかわらず、その欲望が物語世界内の現実において言葉になって第三
者の中尉の前で発された瞬間、この中尉がこの「嘘」をいかに受け取るのかとい
う点が物語上重要となり(この「嘘」が通用するのかどうかが、小さなサスペン
スを生んでいる)、この同一化の欲望は現実世界の中尉にとって意味のある形(婚
約)となって表現されたときには、現実離れした嘘にしかならないことが明白に
されてしまう。そして、嘘を訂正することもできず、それに合うように慌てて言
葉を繋いで取り繕う際の彼女の口調や表情が示すように、嘘をついてしまったこ
― 17 ―
とを彼女自身も自覚している点が重要である。自らの内で行われていた同一化が
現実の世界においては嘘にすぎないこと、つまり自分とステファンとの同一化
は、現実の世界の他人にとっては否定され訂正されるべきものにしかならないこ
とを自覚しているのだ。よってこのシーンはリザに、自分ひとりで育んでいた欲
望と、他人が介する現実の間にある隔たりに対する「意識」が生じる場面なので
あり、言い換えれば、他人から見て自らはどのように見られているのかという点
への「意識」の誕生であると言える。映画の構図も彼女の発言の重要性を強調し
ている。「婚約しているの」と彼女が言うショットは、リザがバストショットで
言葉を発する最初のショットなのだ。それまではバストショットになったときも
彼女は何も話さない。逆に話すときはせいぜい腰上ほどのショットで撮られてい
る。周囲の環境を切り離し、さらに顔の強ばった表情を明確に示すこのショット
は、心の内に秘められた欲望の突然の表出と、それに対するうろたえを同時に示
すショットとなっているのだ。
2.正しく見られること
そして、この二回目の「第二の誕生」は映画の中で、一回目の「第二の誕生」
と同じほど重要な変化を彼女に与えているからこそ「誕生」と言えるのだ。まず
物語の展開上、この次のシーンからリザは親元を離れて就職し、一人で生活する
ようになる。ウィーンにまだ住んでいたころ、リザがステファンへの思いに耽っ
ているとき、母親はリザを呼びつけることでその邪魔となっていたし、そのうえ
母親の再婚によってステファンと引き離された彼女にとって、ステファンへの没
頭を常に妨げる存在である母親から離れることは、彼女にとって大きな変化であ
ると言えるだろう(彼女はヴォイスオーヴァーで「新たな人生の始まり」と述べ
ている。また、この婚約の嘘による「意識」の誕生から、親からの自立へと至る
流れは、彼女の台詞によって強固に結び付けられている。彼女は中尉に対して
何を言ったのかと尋ねる親に「私は自由じゃないと言ったわ(I told him I wasn’t
free)」と言う。「I wasn’t free」の部分には婚約の意と親からの抑圧の意を読み取
ることができる)。そして、ここで問題にしたいのは、この「意識」の誕生と一
人で生活するための糧として、リザがモデルという仕事を選んだことの関連性で
ある。この映画はなぜリザを歌手でも女優でもなくモデルにしたのだろうか。も
ちろん、リンツで着させられていたごてごてした服装から、モデルという仕事上、
着る服の質が異なる点で親からの自立をより強調するという意味もあるが、それ
以上に重要な点がここには見出されるのである。
前節で述べた「意識」の誕生は、周囲の人から自分がいかに見られているのか
という意識の誕生として考えることができる。そのように考えたとき、モデルと
― 18 ―
いう職業の選択は彼女にとって重要なものだったと言えるだろう。モデルとなっ
た彼女は控室の鏡で自らを見てその姿を確認し、また、客前に出たときには自ら
の姿勢をコントロールしようとしている。さらに、彼女が室内で作業をしている
とき、男がふたり窓の外に立ってガラスをノックし、彼女に向かって帽子のつば
を持ち上げて誘うかのように挨拶をすると、ステファンしか目にないため当然そ
の誘いに乗る気はない彼女はその窓のカーテンを閉めて男たちから自らを見えな
くする。その一方で、モデルとしての仕事場にステファンがやってきたときには
嬉々として自らの姿を、いかにもモデル的なポーズをまじえつつ彼に見せている
のだ。このような描写がある中で、自立した彼女のシーンの最初のヴォイスオー
ヴァーが「マダム・スピッツァーの店でモデルとして働くことになった。ここは
多くのことを学べる場所だった」という言葉であることは重要である。彼女は自
らの姿を見せる/隠すためのよりよい術を学んでいるのだ。
この点は、二回目の「第二の誕生」前のリザと比較する必要がある。その当時
も彼女はステファンへの思いから、服をきれいにし、ダンスを習い、図書館で
モーツァルトについて学んでいたからだ。これらも他人からどのように見られる
のかを気にしていることの表れとも言えるが、これらはすべて、上流階級の人物
でありモーツァルトの再来とも言われたステファンに「なろう」とするものであ
る。それに対し、モデルはステファンになることとは全く関係がない。むしろ、
ステファンが客として来るシーンに見られるように客とモデルという形で二人の
違いが鮮明になっているのだ。
したがって、彼女の欲望は二回目の「第二の誕生」によって微妙に、しかし
確実に変化している。彼女はステファンと自分を同一化し、ステファンのよう
になりたいと思っていたのだが、いまやステファンに自らのイメージを「正し
く」見てもらうことが彼女にとって重要になっているのだ。その後、彼女は自分
のイメージをより正しく見てもらうこと以外に、何も要求しなくなる。ステファ
ンの息子の誕生さえ彼女が知らせなかった理由は「あなたに何も要求しない女で
ありたいから」なのだ(彼女は彼と肉体関係になるのであり、その点では性的及
び肉体的な要求をしているかに思える。しかし、彼女は遊園地のシーンでステ
ファンと話している途中、彼が向かいの席から彼女の隣に座り直すと、彼の体か
らできる限り距離を取るかのように、そして窓の外の絵画という視覚的イメージ
の方へ身を寄せるかのように、彼とは反対の方向に体をのけぞらせている。そし
て唯一の要求である正しく見ることとは、彼女を他の多くの愛人とは違い、昔は
ステファンの隣の部屋に住み、それ以来ずっと彼に恋い焦がれており、しかも一
度は一夜を共にしたリザという一人の人格を持った女性として認識し覚えてもら
うことなのだ。ステファンに自分のことを思い出してもらうために彼女が自らの
― 19 ―
姿をコントロールしている例として、彼女が最後にステファンの部屋を訪れる
シーンが挙げられる。ステファンに自分との時間を思い出させようとするかのよ
うに、以前、ステファンと会った時に彼がくれたような白いバラを持ち、彼が身
に着けていたようなトップハットによく似た帽子を被って彼の眼の前に現れるの
である。また、リザは自らの服装に関してもリンツのシーンより後では、室内で
は白いシャツにスカートは黒、屋外では常に黒いコートをまとっており、ステ
ファンが自らの同一性を認識しやすいように一貫性を持たせている(反対に、ス
テファンに会うと予期していないオペラのシーンでは白いコートを着て外出し
ている)。さらに、オペラ劇場でリザとステファンが再会するシーンも重要であ
る。ボックス席に座る彼女とステファンの切り返しがあるのだが、このときのス
テファンのショットは彼の目をクロースアップにして彼の視線を強調しているに
もかかわらず、タニア・モドゥレスキが指摘するように、あたかも一般的に映画
のヒロイン(見られる対象)を撮るときのようにソフトフォーカスになってお
り、映像を見るだけではどちらがどちらを見ているのか分からないようになって
いる(Modleski 257)。しかし、リザは自分が見ていることよりも、見られてい
ることに意識的であることを示すかのように「あなたの目があって、そこから私
は逃れられない」と感じたとヴォイスオーヴァーで語っているのだ。したがって、
この映画は他人から見られる自らの姿に意識的であるリザという女性が、それを
コントロールしようとし、それがいかに成功ないし失敗したかというテーマの映
画でもあると考えることができるだろう。スティーブン・ヒースはこの映画が、
見られることと古典的な映画一般を含めたイメージをめぐる映画であることを指
摘しているが、彼はリザがモデルをしていることに対して、彼女をあくまで受動
的に見られる対象としてしか記述していない(Heath 224-225)。また、ウィルソ
ンもこのマダム・スピッツァーの店を、彼女が男に買われる商品となる危険性の
ある場所として記述している(Wilson 120-121)。しかし、むしろ危険性と隣り
合わせであるからこそ、これまで論じてきたように、彼女はこのマダム・スピッ
ツァーの店でのモデルという仕事を通じて、いかに自らを見せるのかを学んでい
るのである。さらに、ホワイトは兵士たちの視線をカーテンで遮る箇所のみを指
摘して「男性の眼差しのコントロール」をしていると述べている(White 159)。
しかし、リザのコントロールは単に男性に見せないことだけに関わるものではな
く、男女の区別なく(リザを見ている客は男性だけではない)他人に自らをいか
に見せるか、他人にいかに見られているのかということへの意識に関わるもので
ある。このようにこの映画を捉え直したとき、他の様々な問題はいかに見られう
るのだろうか。これに関して次節では「階段の二つのショットの反復と差異」に
ついて考察する。
― 20 ―
3.存在かつ不在
一つ目の階段のショットは、リンツ行きが決まったリザが、駅から抜け出し、
夜中にステファンに会いにいくシーンで、
「愛人」になる見知らぬ女性と共に彼
がアパートの階段を上がって部屋に入っていくのを目撃するショットである。二
つ目は、リンツからウィーンに戻ったリザが、ステファンと夜の遊園地などを
デートし、彼の「愛人」となるべくステファンと共に部屋へと入っていくショッ
トである。アパート内の階段を上がる男女を捉えたこの二つのショットは、全く
同じ構図で撮られている。扉を開けてアパートの中に入ってきた男女が階段を
上って彼の部屋に入るまでを、彼の部屋の階より階段を上がった位置から俯瞰で
撮影しており、90度ほどパンする。唯一の違いは、一つ目はリザがカメラの傍ら
にいて、彼女が見る方向に合わせてパンがなされており、観客が見る光景は、ほ
ぼ彼女も見る光景であったのに対し、二つ目はカメラの傍らには誰もおらず、リ
ザ自身がステファンと階段を上っているという点である。この二つのショットの
反復と差異に、リザに対する皮肉を見て取るウィルソンは次のように書いている。
この明白な皮肉は、彼女も同じ男(ステファン)と共に同じ階段を上った一
連の女性たちの一人になってしまったところにある。彼女は自分が心痛と共
に見ていた見知らぬ若い女性と取り替わっただけなのだ。(中略)一つ目の
ショットと比較して、この光景の観察者としてのリザが視覚的に不在である
ことで、いまや彼女は観客の知覚の対象でしかなく、一つ目で位置していた
視点から明確に排除されている。(Wilson 103)
このように、このシーンはリザが愛人の一人にすぎないこと、さらにその事
実に階段を上る彼女は気づいていないことを鮮やかに描き出しているのだ。ま
た、ウッドもこの階段のシーンで、観客は彼女には許されていない視点に立ち、
( 1)
彼女から皮肉な距離を取ることになるとしている(Wood“Letter”212)
。そし
て、「彼女は愛人の一人にすぎないことに気づいていない」という主張の前提に
は、この作品がリザの手紙に沿った物語を語っていながら、時折、彼女の知りえ
ない事実や彼女の手紙が伝える以上のことを描くことで、彼女の視点から距離を
取っているということがある(Wilson 105-106、Wood“Letter”207)。例えばウィ
ルソンはこの階段のショットを映画がリザの視点と距離を取る戦略の代表例と見
なしており、他の例としてリザが最後にステファンに会いに行くシーンで、不意
に彼女の夫であるヨハンの視点から見た彼女のショットが入ることを挙げている
(Wilson 119)。またウッドは遊園地での「列車」のシーンで、ステファンが車窓
― 21 ―
の風景を動かすためにお金を払い、その「幻想」を生み出す装置の裏側を(観客
と共に)見ているのに対し、彼女はそれを目にしていない点を挙げている(Wood
“Liebe Glück”158)。
階段のシーンに関するこの主張に対し、ジルベルト・ペレスは、手紙を書いて
いるリザに着目することで、異なった解釈を提示している。ペレスによれば二つ
目のショットに登場するステファンと一緒に階段を上がるリザは、ウィルソンら
の言うとおり確かに皮肉な事実に気づいていないが、その一方でこの手紙を書い
ているときのリザはこれに気がついているのだ(Perez 77-78)。
ウィルソンらの主張においては、手紙を書いているリザの視点は、先述したヨ
ハンや遊園地の例と同じく、このショットに存在していないものとされている。
つまりウィルソンらによれば、このショットは過去と現在どちらのリザも知りえな
い光景であり、映画が彼女の手紙による語りから距離を取った瞬間の一例なのだ。
どちらが妥当性のある解釈なのだろうか。この二つの主張の双方とも、この映
画ではリザの視点が二つ(階段を上るリザと手紙を書くリザ)あることを認識し
ている。その上で、ウィルソンらの側は先述したように、この映画でリザの視点
から外れる他の瞬間を具体的に挙げており、彼らの主張の補強となっている一方
で、ペレスは一度目の階段のショットに手紙を書くリザのヴォイスオーヴァーが
被さっていることに着目し、このカメラの視点は、手紙を書くリザの視点であり、
よって同じ構図と動きを反復する二度目の階段のショットも手紙を書く彼女の視
点から見られているのだとしている(Perez 77-78)。さらに、前節で論じてきた
ことから分かるように、リザは自らの姿に、自らが周囲からどのように見られて
いるかに意識的であった人物なのであり、ステファンについに認識されることが
なかったからこそ自分の生涯を振り返った手紙を書いているリザが、「愛人の一
人にすぎなかった」という事実に気づいていないとは考えづらい( 2)。また、ウィ
ルソンらが挙げたリザの視点から離れる他のショットと、この階段のショットに
は大きく異なる点がある。ウィルソンやウッドが挙げる例では、その光景を見る
ことのできるリザ以外の人物がいる一方で、一つ目のショットでリザという人物
の視線の動きにパンがぴったりと一致していたゆえに、全く同様のパンを行う二
つ目のショットでも誰か人物の視点の存在が暗示されているにもかかわらず、二
4
4
4
4
4
つ目のショットの画面上には誰もいないのだ。さらに、他の場面でも階段はリザ
にとって男女の情事を目撃する場所として機能しており、階段上部から下に向け
られた視線はリザの視線と強く結び付けられている。カーペット掃除の日、リザ
は忍び込んだステファンの部屋から慌てて階段に出たとき、階段の下に自分の母
親が男性といるのを目撃するのだ。これらの理由から、二つ目の階段ショットに、
手紙を書く彼女の視点を見るペレスの分析の方が適当だと思われる。
― 22 ―
ここで注目すべきは、このショットが「彼と一夜を過ごせることになった喜び
で自分が愛人の一人にすぎないことに気づいていないことに気づいている後の
リザ」という複雑な意味を簡潔に表現することができているのは、この二組の
ショットでカメラが全く同じ構図で全く同じ動きをする点を、彼女の視点の存在
の暗示として見ることができると同時に、ウィルソンらのように対比による彼女
の視点の不在の強調として見ることもできることによるものだという点である。
「不在かつ存在」というリザの存在様態は、「この手紙をあなたが読むころには、
私は死んでいるでしょう」というヴォイスオーヴァーのある映画にとって自明の
ことかもしれないが、それが映像としてこのショットで明確に表現されているの
である。そして、この存在様態は映画の結末で再び明確に映像として現れ出てく
ることになる。
4.言葉と手紙
その映像とは手紙を読み終えてリザを思い出したステファンが、決闘に向かう
ために門を出ようとする直前、ふとアパートの玄関のドアを振り返ると、ステ
ファンの隣に住んでいたころのリザの姿が二重写しによって、まさに存在と不在
の間であるかのように、半透明のままぼんやりと浮かび上がる場面である。しか
し、この場面の意味について考える前に、この「思い出し」を可能にした手紙は、
リザにとって何を意味するのかという点について考えておくべきである。彼が彼
女を思いだしたということは彼にとって意味があるだけでなく、死後といえども
彼女にとっても何かしらの意味があるからだ。さらに、このショットは、どこか
余分な表現に思える。なぜなら、彼が思い出したということは、このショットの
前のフラッシュバックのショット群によって、すでに過剰なまでに示されている
からだ( 3)。この節ではこの二つの点について考えてみたい。
レスター・H・ハントは、リザにはステファンに自らの名前と彼との関係を打
ち明けるチャンスが何度かあったにもかかわらず、なぜか彼女は自ら打ち明け
ないように話題を変えたり話を打ち切ったりしている点を指摘している(Hunt
63)。確かに、最後にステファンの部屋を訪れた時、彼女は「私たちのことにつ
いて話すために来た」と言っているものの、結局ステファンの愛人を扱うような
態度に絶望し、だからこそ言葉で自分の正体を伝えることに意義があるにもかか
わらず、彼女は話をせずに部屋を後にしてしまう。しかし、このような事実は、
彼女にとって重要なのはステファンに自らをリザとして認識させることではな
く、彼が彼女の言葉を介さずにリザという女性の姿を思い出し、目の前の女性の
姿との一致を認識することにあるということを示している。つまり彼女の言葉に
よって彼が彼女の姿を「正しく」見ても、リザにとって何も意味がないことにな
― 23 ―
る。これまで述べてきたように、彼女は自分について説明することではなく、自
分を見せることに意識的なのであり、言葉を介さずとも彼が自分の姿を見るだけ
で自分がいかなる人間であるのかを認識することにリザは自らの人生を賭けてい
るのだ( 4)
(もしそうでなければ、彼女が自らの正体を言葉にしない理由がない)。
よって彼女にとって手紙を、しかも自らが写った写真と共に送ることは、賭けに
負けたことを意味する(だからこそ死ぬ間際にやっと書いたのだ)。したがって、
手紙によってステファンは彼女を思い出し、それにより彼女は死後に救われたと
理解するだけでは誤りである。この手紙を読んでステファンがリザを思い出した
としても、それは彼女にとって賭けに勝ったことを意味しないのだ。
しかし、リザは本当に賭けに負けたのだろうか。ここで手紙を読み終えた直後
の、彼が思いだしたことを示すフラッシュバックのショット群に登場するリザ
と、決闘に出かけるときに振り返って見られるリザの姿との差異を考える必要が
ある。手紙を読んだ直後のショット群は、リザの書いた手紙に合わせて展開する
物語の中の彼女の姿を示している。つまり、このフラッシュバックはまさに手紙
の言葉を介して彼が想起した彼女の姿なのだ(回想シークエンスと同じショット
を使っており、想起されていることを示す渦巻きの特殊効果が二重写しされて
いる)。そして、その姿はその他大勢の登場人物も目にすることができる輪郭の
はっきりした実体のあるリザである。その一方で、ステファンによって門から振
り返って見られる彼女の姿は、彼と彼女の最初の出会いの場面と似てはいるもの
の、そのシーンにはなかった、彼女が半透明になっているうえに、そこから消え
るという特徴と変化が付け加わっている。したがって、この半透明のリザは手紙
によって直接的に想起されたものではなく、ステファンが記憶を材料にしつつ自
ら作り上げたものであり、よって他の登場人物には見えない彼だけに見えるリザ
の姿である。ウッドはラストシーンで、ステファンはリザと結び付けられている
白いバラを胸に忍ばせ、死を受け入れることで序盤とは反対に彼が彼女に同一化
しており、彼は死をもって彼女が作り上げた理想の自己になるとしている(Wood
“Letter”224)。したがって、半透明で見られるリザは彼が思い描く理想の自己で
あり、序盤で理想の彼を彼女だけが見ることができていたのと同じく、彼だけが
見ることのできるリザの姿なのだ。しかも彼が作り上げると同時に目にした半透
明の姿は、現在の彼女の存在様態、つまり、この世に不在でありつつ理想として
存在しているということを正確に表している。まとめて言えば、自らを説明する
のではなく言葉から離れたうえで、「正しく」しかもステファンだけに見られる
ことを目指した彼女の自らの姿のコントロールは、ここで成功したと言えるだろ
う。しかも彼女は二回目の「第二の誕生」から生じた賭けに勝つと同時に、一回
目の「第二の誕生」の際の欲望、彼との同一化をも果たすことができたのである。
― 24 ―
おわりに
この映画でステファンよりもはるかにリザを「正しく」見ていた人物として、
ステファンの召使いであり、話すことができないジョンを挙げることができる。
先行研究でもこの点は指摘されており、リザをジョンだけが認識している点など
から、ウィルソンと小松は彼を監督オフュルスの代理人として、またウッドはス
テファンの守護天使として見ている(Wilson 124-125、小松 116、Wood“Letter”
222)。ジョンはステファンとリザが最後に会ったときに彼女をリザとして認識し
ているだけでなく、リザがカーペットの掃除と称してステファンの部屋に忍び込
んだのを見つけたときにも、その姿を目にしただけで彼女の心情を悟ったかのよ
うな笑みを浮かべて彼女を見つめている。彼はステファンと違い、見ることを通
じて知ることのいわば達人のような人物なのであり、言葉を介せずに姿だけで自
らの正体を伝えようとするリザとは、言葉を話さないという共通点を持ち、見る
ことと見られることの間で補完的な関係性を築けるはずの相手であったのだが、
リザとジョンの協力関係によってステファンに彼女を思い出させるといったよう
なことはリザの生前には実現しておらず、賭けに勝ったころには死んでいるとい
う彼女の悲劇を防ぐことはできなかった。
しかし、失われた可能性よりも、ジョンとリザの協力関係が異なる形であれ実
は築かれていたことが、二人の間で交わされる「会話」によって暗示されている
ことを指摘して本論文を終わりたい。ステファンに出会う以前に、冒頭で彼女は
引越しの指揮を取るジョンに出会い、そこで彼女の落としたスカーフを彼が拾い
上げると、リザは「ありがとう」と言う。その後、カーペット掃除の日に、ステ
ファンのカーペットを部屋まで運ぶジョンを彼女が手伝うと、彼は感謝の意味で
会釈をし、それに対してリザは「どういたしまして」と答える。彼と彼女の間で
は「ありがとう」と「どういたしまして」の相互の協力関係が成り立っているの
だ。ウィルソンや小松が述べるように、彼を監督の代理人と見るならば、リザの
存在と手紙を中心にして映画を作ることのできた監督と、監督の働きによって自
らの秘められた思いとその姿を、観客の前に開示することのできたリザとの間の
相互への感謝の意をここに見ることができるかもしれない(興味深いことに、リ
ザの「どういたしまして」は画面内のリザの声というより、どこか物語世界の外
から、ヴォイスオーヴァーのように後から付け加えられた声のような響きに聞こ
える)。このとき二人の間の協力関係の可能性は、様々な幸福への可能性とその
実現と消滅の複雑な交錯そのものを描く、映画『忘れじの面影』という具体的な
形で実現したのである。
― 25 ―
注
( 1)服装の観点からすれば、見知らぬ愛人は白い服を着ており、階段を上るリザは黒い
服を着ているので、この点で彼女は自らが愛人にすぎないことを否定しようとして
いるようにも思えるが、しかし、この強固なショットの反復はそのような否定が無
意味になるほど、彼女が愛人にすぎないという事実を伝えている。
( 2)原作小説において、リザは手紙の中で、それを読むステファンが自らのことをどう
思うかという点を常に気にしている様子で、彼の反応を予測し修正しようとしてい
る(例えば、ツヴァイク 94-95)。
( 3)ステファンが門から振り返るとリザの姿が見えるという演出は、当時のフォンテー
ンの夫であり、本作のプロデューサーであるウィリアム・ドジエの発案によるもの
で、オフュルスは陳腐だとして反対していた(Bacher 190)
( 4)したがって、リンツのシーンより後のリザは、ステファンとの駅での別れのシーン
で彼が帰ってこないことを悟っている点などに見られるように、彼が理想の男性で
あることを盲目的に信じているのではなく、むしろ彼が理想の男性にいつか変わっ
てくれるであろうという可能性を信じているのだ。
引用文献
Bacher, Lutz. Max Ophuls in the Hollywood Studios. New Brunswick: Rutgers UP, 1996.
Heath, Stephen.“The Question Oshima.”Virginia Wright Wexman and Karen Hollinger eds.,
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大学出版部、1997年、102-117頁。
Modleski, Tania.“Time and Desire in the Woman’s Film.”Virginia Wright Wexman and Karen
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Perez, Gilberto. The Material Ghost: Films and Their Medium. Baltimore: Johns Hopkins UP, 1998.
ツヴァイク、シュテファン「未知の女の手紙」内垣啓一訳、
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White, Susan M. The Cinema of Max Ophuls: Magisterial Vision and the Figure of Woman. New York:
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Wilson, George M. Narration in Light: Studies in Cinematic Point of View. Baltimore: Johns Hopkins
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Wood, Robin.“Letter from an Unknown Woman: The Double Narrative.”Sexual Politics and Narrative
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