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海外留学以前の元良勇次郎 - 福島大学学術機関リポジトリ

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海外留学以前の元良勇次郎 - 福島大学学術機関リポジトリ
佐藤達哉二海外留学以前の元良勇次郎
25
海外留学以前の元良勇次郎
福島大学行政社会学部佐藤達哉
概要:後に東京帝大心理学教授となる元良勇次郎の少
ス大学に転学した経緯を追っていて大変に興味深い。
年期(旧姓杉田)を記述する。勇次郎は武士の子ども
だが,本人も認めるように彼の前半生には未だ不明な
として明治維新前を過ごし,儒学も学んだ。維新後は
点や曖昧な点が多いとされている。
洋学を学び没落士族となった父の死後は,苦学をしな
以下では,元良勇次郎の前半生にあたる留学出発前
がらキリスト教徒として勉学を重ねた。新島裏が設立
の活動について伝記的に明らかにしていく。留学にか
した同志社に入学した勇次郎はさらに勉学に励み,上
かわる活動や留学の内容については別稿で詳細に検討
京して教育職に就く。海外留学の大志をたてながら教
する。
育職に従事した勇次郎は結婚後ついに私費にて留学す
るに至るのである。
キーワード:元良勇次郎,杉田勇次郎,
1 出生からキリスト教受洗まで
同志社,キリ
スト教,心理学史
そもそも,日本で最初の心理学者・元良勇次郎とし
て名高い人は,杉田姓として兵庫県三田(さんだ)に
生をうけた。つまり,出生時の氏名は杉田勇次郎だっ
目
次
たのである。以下,本稿では彼のことを主として勇次
郎と呼ぶことにする。勇次郎は兄・丑の助(後に潮)
はじめに
に次ぐ次男であった。杉田家に伝わる由緒書きによれ
出生からキリスト教受洗まで
ば,杉田家の初代は九鬼水軍として名を馳せた九鬼守
心理学との出会い:学生から教師ヘ
隆の幼少時の学友であった杉田市郎右衛門であるとい
キリスト者としての活躍伝道・投稿
う。九鬼家が志摩から三田に移封された後も九鬼家に
書簡にみる勇次郎の大志 徳富猪一郎との書簡か
仕え,7代にわたって代々60石の知行取りであったと
ら
5 おわりに
いう。父・泰は藩校・造士館の教授を務めた儒学者で
あった。
注
父が儒学者であったことから,幼少期の勇次郎は7
文献
歳の時から三田藩藩校である造士館で儒学及び洋学を
謝辞
学んでいたが,一時神戸にて書道に励む。明治維新後
付録 カーペンター『精神生理学』目次
の1869(明治2)年,13歳の時に三田にて洋学の英蘭
塾に入る。この塾は,江戸幕府蕃書調所教授筆頭の職
0 はじめに
にあった川本幸民(1810(文化7)∼1871(明治4)
年)が幕府解体の混乱期(1868(明治元)年)に彼の
本稿では,本邦で初めて職業的心理学者として心理
故郷三田に戻って開いたものであり,翌年に政情が安
学の教授職について研究・教育・行政を行った元良
定して川本が江戸に帰ることになって閉塾となる(京
(もとら)勇次郎について,その少年期の生育史をた
極,1980)。そもそも,小藩である三田藩出身の川本
どるものである。
が幕府において蕃書調所教授という重職についたのは,
最近になってアメリカ留学中までの元良勇次郎に関
藩命によって江戸で物理学や化学などを学んでいたか
して一次資料を用いた荒川(2000)の業績が現れた。
らである。このような政策をとるところに当時の三田
この論文では,これまでに使用されていない資料を利
藩の開明的な雰囲気を読みとることもできる。また藩
用しており,幼少期の元良勇次郎が心理学と出会う契
校の造士館(1818(文政元)年設立)では,蘭学が主
機からボストン大学留学,さらにジョンス・ホプキン
流だった時期には珍しく英学も教えられていた。
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2001年13月
福島大学生涯学習教育研究センター年報 第6巻
1871(明治4)年,父・泰は廃藩置県に伴い帰農す
出版し,化学という名称が入った初めての書を出版
る。しかし,身体をこわして翌年に病没した。家督は
(『化学新書』)するなど,当時の洋学者の中にあって
兄の潮がついだ(泉・鏑木,1978)。父が死んだあと,
も一流の学者のうちのひとりであった。また日本で初
勇次郎は,当時の三田の青年たちが招いていた神戸の
めてビールを醸造し試飲した人でもある川本幸民著
キリスト教宣教師ディヴィス(Davis,J、D.;1838−
『化学新書』下巻第488章はr麦酒」である)し,マヅ
1910)の説教を聞く機会を持つ一1。やがて勇次郎は神
チや写真術の導入にも一役買っている。その川本幸民
戸のディヴィスの家に住み込み,ボーイとして働きな
が維新混乱時にごくわずかの時期とはいえ,勇次郎が
がら英語と聖書を学ぶようになるのだが,荒川(2000)
暮らす三田で塾を開いてたのである。そのわずかの時
はこび)時の住み込みの体験は後の勇次郎の人生に対し
期に川本の教えに接することがてきたのは勇次郎にと
て大きく3つの意味を持ったとしている。
っては幸運だっただろう。r気海観瀾広義』は川本の
第一に勇次郎がキリスト教の強い影響を受け,信徒
師にして義父にあたる青地青林の『気海観瀾』を読み
にな一)たことである。第二に,ディヴィスがアメリカ
下し文にした書である。この「気海観瀾』は日本で最
から大量の本を日本の青年の教育のために取り寄せて
初の窮理学(物理学)書というべきものであり(溝口,
いてその本に触れることができたこと。第三に英語を
1985),力学の初歩ではあるが西洋物理学について紹
日常的に使用する環境を得たこと。荒川〔2000)が指
介したものであった。川本はその内容を理解した上て
摘するこれら3つのことは相互に関連しているが,こ
r気海観瀾広義』を著したのであるから,西洋の物理
こで重要なのは,勇次郎がカーペンター(Carpenter,
学についての知識が,英蘭塾において勇次郎少年に伝
W.B)の『精神生理学の原理』(The Principles of
えられた可能性は小さくない。これはあくまで憶測に
mental physiology)やスマイルス(Smiles,S)の『自
すぎないが,この時点で得た物理学の知識が,エネル
助論』(Self−help)に出会って読みふけっていたこと
ギー保存則に基づく心理学説を後に唱えるきっかけに
である。このうち前者の目次を巻末に付録としてつけ
な一)た可能性もある。
るが,その構成は心理学の本のようにさえみえるもの
最後に,キリスト教。1日三田藩は,1日藩主である九
であった。後者,r自助論』は後に中村敬宇によって
鬼氏自らが受洗した例として近代日本キリスト教史に
翻訳され明治期の青年に大きな影響を与えた,生き方
著名であり,藩(地域)内に親キリスト教的な雰囲気
に関する書であった。
が満ちあ、挙れていたと想像される。(旧藩主たる)九
1874(明治7)年5月,勇次郎は摂津第一神戸教会
鬼隆義は1872(明治5)年に夫人と共にキリスト教に
にて受洗する。その後,勇次郎は熱心なクリスチャン
入信している。
となり,伝道なども行っていた(後述)。そして,デ
儒学者というある意味で旧来的な知識階級家庭に生
ィヴィスが新島裏(184H890)に協力して同志社英
まれた勇次郎が,洋学を通じて自然科学や数学という
学校が設立されると,勇次郎は同校に進むことになる
新しい学問に接することがてき,さらにはキリスト教
のである。
を通じて西洋の文化を知るに至るのには,勇次郎だけ
このように,勇次郎は幕末に武士・儒学者の家に生
の力ではない,いくつかの社会状況が影響したと見る
まれ,明治維新を経験し,英学塾に通い,キリスト教
べきであろう。もちろん,以上の過程には勇次郎自身
徒となった。このようなプロセスは幕末・維新期の日
の超人的な努力があったことを否定する必要はない。
本ではそれほど奇異なことではないと映るかもしれな
この頃の勇次郎の猛勉強ぶりは仲間たちの語りぐさで
いが,やはり特殊な状況も関与していた。以下でそれ
あり,それは同志社でも続けられた。もっとも,父・
を3点にまとめておく。
泰の死後,猛烈な労働で家計を切り盛りしつつも,子
まず,儒学者の家に生まれたこと。国民の8割が農
どもたちに勉学をさせた母・寿賀の力も大きなものが
民であった時代のことである。勉学をする上では非常
あったという(佐野,1984)。杉田家はある意味で没
に有利な条件を最初から与えられていたと言える。
落士族の典型例とも言え,それがまた勇次郎はじめ家
次に,英蘭塾で川本幸民の教えを受けたこと。英学
族の奮起を促したと言えるかもしれない半2。
に関する塾は数多いとはいえ,川本は当時の日本語
そして,勇次郎はキリスト教を通じて,このような
(翻案)窮理(物理)学書としての画期をなしたr気
自分の履歴や興味をさらに伸ばすことのできる人物と
海観瀾広義』を1851/嘉永4)∼1858(安政5)年に
出会うことになる。新島嚢である。
佐藤達哉:海外留学以前の元良勇次郎
2 心理学との出会い 学生から教師へ
27
キリスト教の宣布に対して熱意を失っていたわけでは
なかったものの,宣教師よりは学問の道に進みたいと
1875(明治8)年には新島裏が創立した同志社英学
考えていたようである。伝道活動は続けていた特が,
校に最初の生徒の一人として入学する。ディヴィスは
その説教の内容は,r説教と云うよりは数学や,物理
同志社英学校創設を目指す新島に協力するために京都
学や、心理学の話であ一)た」というぐらい学問的なも
に転居しており,勇次郎も同行したのである。新設間
のだったという証言もある/小崎,1913)。
もない同志社英学校には性理学という科目があっ
後者について,勇次郎の場合,おそらく東京・学農
た半3。担当者はディヴィスであり,ア・ソパム(Upham,
社での就職が決まってかρ)退学したと思われるのであ
Th.)の『Menta1Philosophy』とヘヴン(Haven,
る。学農社は1876(明治9)年にキリスト者・津田仙
」.)qの『Mental Philosophy』をテキストに使って講
(1837−1908)によって作られた学校で,学生は西洋人
義をしていた。勇次郎がこれを受講していたことは中
のためのホテルに野菜を供給する仕事をしながら学ぶ
島力造q913)の証言から確実であろうから,そうで
というものであった(1883(明治16)年にその役割を
あるならばこの授業こそが,勇次郎が学問としての心
終えたとして解散した)。いずれにせよ,当時の同志
理学に初めて接した機会だったと考えられる〔荒川,
社において,卒業ということには殆ど意味が無かった
2000)㌔
という事情が大きいようである幸9。勇次郎は,学農社
また,同志社では新島から代数を,ギューリ・ソク
に就職していた中島力造のアメリカ留学に伴い,その
(Gulick,J.T;1833−1923)から生物学と進化論を学
後任となるために上京した(1879)。担当した科目は
んだ。当時キリスト教系の学校で進化論を教えている
英学及び数学である。なお,1880(明治13)年9月か
ところは珍しかったが,これには新島の履歴や興味が
ら東京大学の選科生として物理・数学を学び始めたが
関係している。即ち,新島はアマースト(Amherst)
翌年1月には退校している。
大学の理学コースで学び,物理学,化学,生理学,植
学農社での教職にあまり満足できなかった勇次郎は
物学,地質学,鉱物学など自然科学の科目に興味を持
その後,耕教学舎の校長兼教師として学校運営に関わ
っていた。さらに,アンドーヴァー(Andover)神学
りつつ教鞭をとることになる。耕教学舎はその後,東
校においてクリスチャン・ダーウィニズムに接して,
京英学校,東京英和学校と名称を変え最終的に青山学
進化論受容後の比較的新しい神学教育を吸収していた
院となるが,1881(明治14)年3月に行われたr東京
のである(荒川,2000)。このような経歴や関心をも
英学校開業申請」には勇次郎がr学術及数学教員」と
つ新島だったからこそ,自らが主宰する学校において
して名簿に掲載されているし,教員の履歴にも名を連
進化論の講義を可能にしたのであろう幸6。進化論の講
ねている柵。
義は,元良の愛読書であったカーペンターのr精神生
申請の翌月1881(明治14)年4月には東京英学校が
理学の原理』とあいまって,後の勇次郎の学問的生活
改称発足した。正確には耕教学舎が廃されて東京英学
の方向づけをするのに影響を及ぼしただろう。
校が設置されたのだが,その背景には経営者交替とい
勇次郎は1879(明治12)年,同志社英学校を中途退
う側面があった。内容的には連続性が認められる。耕
学する。この理由として荒川(2000)は1、勇次郎が
教学舎時代の生徒は5名ほどだったのが,東京英学校
求めた科学的な知識を与える事のてきる教師が不足し
になってからは100名を超える生徒が学ぶようになり
ていたことや,2.当時の同志社英学校に限らず多く
分校を開く必要さえでるほどであった。勇次郎たちの
の学校では就職などの機会があれば退学する者が多か
経営能力が高かったことをうかがわせるものである。
ったことをあげている。
さて,この時期の勇次郎の思考や行動に一貫性を与
前者について,当時の同志社英学校は,新島の意識
えていたのはキリスト教である。学生として同志社に
からすると自らを校長とする西欧の知識伝達のための
学び,後に,キリスト教系の学校で教師として後学を
学校という面を持っていたが,その運営資金を出資す
指導する。また,教会活動にも積極的に関与し,そこ
るアメリカンボードから見るならば,宣教師デイヴィ
でも指導的な立場に立っていた。さらに,r六合雑誌』
スを校長とする宣教師訓練所=トレーニングスクール
という当時としては有数の知的学術誌と関わりをもっ
に他ならず,必ずしも学問的充実を目指していたわけ
ことができたのも,勇次郎がキリスト者だった故であ
ではなかったと考えられるのである札。勇次郎自身,
ろう。『六合雑誌』は1880(明治13)年に創刊されて
28
2001年3月
福島大学生涯学習教育研究センター年報 第6巻
おり,この雑誌上に発表された論文は勇次郎の知的好
『六合雑誌』に教育に関する論考を連載で寄稿してい
奇心を大きく刺激したと考えられる。そして,この雑
るのが目をひく。
誌は勇次郎自身の論文発表の場ともなった。この点に
表1 勇次郎の論考(留学以前)
ついては次節で扱う。
杉田勇二郎
1876 火事のはなし1投書1
『七一雑報』
杉田勇二郎
1878 紀州和歌山伝道の景況
『ヒー雑報ゴ
積極的に行った。『七一雑報』3巻26号(1878)には
と ラ ニ
1881 Fバ7テリヤー黴菌ノー一種ノ
@六
杉田勇次郎
⊥ハ
ムロムロ
1881 動物喫食の説1訳述l
コ 、 ワ
同志社在学中の勇次郎は,新島に従って伝道活動も
杉田勇次郎
誌誌
雑雑
1教会新報〕
3 キリスト者としての活躍伝道・投稿
説1抄詠
勇次郎をはじめとする8人の学生が夏期休暇を利用し
元良勇次郎
1882 普通教育を論ずt連載!
『小学雑誌』
て各地で伝道活動をする予定であることが報じられて
元良勇次郎
1883 知識交換論/連載1
7六合雑誌』
いる。この記事で勇次郎は美濃担当であったが,実際
には和歌山に赴くことになり,その報告をr紀州和歌
そして,元良はおそらく『小学雑誌』の原稿をまと
山伝道のありさま」として『七一雑報』で伝えている
めて『教育新論』という単著を出版している(元良,
(杉田,1878)。この年の伝道では成果をあげることは
1884)。この著書は彼の初めての著書である。この書
できなかった(茂,1986)ものの,勇次郎は伝道活動
は「教育の原理を示すの目的(p3)」で著されたもの
は続けていたようで,『七一雑報』6巻15号によれば,
であり,付録としてr知識交換論」が収録されている。
東京に移ってからも長浜伝道に関わって演説会て演説
教育活動に携わっていく中で心理学的な考えに興味を
を行ったという記録がある。1881(明治14)年のこと
もち,実際に教育を行う立場から子どもたちの心理状
である。
態を知る必要性を訴えた書である。なおこの書の出版
この1881(明治14)年の6月には,津田仙の紹介に
は米国留学とほぼ同時であるが,内島(1994)は序文
よって元良米(よね;1866−1940)との婚儀が整った。
や版権免許の日付が前年であることから原稿完成は留
米は江戸日本橋の商家の生まれであり,キリスト教系
学前であるとしている。本稿で指摘したとおり,元に
の海岸女学校で学んでキリスト教徒となった。勇次郎
なる原稿が雑誌論文として(一部)既刊されているか
は彼女との結婚と同時に元良家の養子となり,それま
ら,筆者も同意見である。
での杉田姓を脱して元良姓となり,身分も士族から平
この『教育新論』に見られるのは,知識・教育とい
民に変わった。キリスト教の宗派もそれまでの組合派
う営為への反省的思考である。この時期,教師は勇次
からメソジスト派に変更している(米がメソジスト派
郎以外にもたくさんいた。しかし,彼のように自分が
であったため)。結婚式は小崎弘道q856−1938〉の結
行っている行為について書き著す者が多かったかと問
婚式と同時に行われrダブリユ・マリッジ(二組同時
われればそれは違う。経験から帰納的に議論を構築す
婚)」として世間の注目を集めたそうであるが,それ
るというスタやレを留学前の勇次郎は既に獲得してい
は別にしても勇次郎青年にとってこの結婚は,姓,身
たと言えるのである。
分,宗派,全てが変わるような結婚であった田。
時間は前後するが,三田から上京した後の勇次郎が
キリスト教関係で取り組んだのは東京青年会の発足で
あり,在京のキリスト教信者たちと共に1880(明治13)
4 書簡にみる勇次郎の大志
徳富猪一郎との書簡から
年五月に発足をみた。会長には小崎弘道が推されて就
ここでは,留学にかける意気込みを勇次郎自身の言
任した。この会は同年10月に「六合雑誌』を創刊し,
葉からたどってみたい。勇次郎が徳富猪一郎(後に蘇
キリスト教信者のみならず当時の知識界に対して大き
峰)判2にあてた手紙が徳富蘇峰記念館に保管されてい
な寄与をしたのである。勇次郎も投稿している。
る。このふたりは同志社の学友であり,(勇次郎の米
さて,表1は勇次郎が当時の雑誌などに寄稿した文
国留学前の時期に限れば)徳富から勇次郎あてが1通,
章についてまとめたものである。r七一雑報』のもの
勇次郎から徳富にあてたものが2通残されている(表
は広い意味で布教に関するものであり,『六合雑誌』
2)。これらは伊藤(1999〉によって復刻されている。
の初期2本は生物学に関する翻訳である。r小学雑誌』
佐藤達哉:海外留学以前の元良勇次郎
表2 元良勇次郎と徳富猪一郎の書簡
29
た苦労と工夫の後が偲ばれる。何より,この時点での
i 徳富猪一郎から杉田勇次郎へ 1879年9月4日付 和文
勇次郎が心に関して興味を持っていたことは重要な点
2 杉田勇次郎から徳富猪一郎へ 1879年12月13日付 英文
だろう。
豆 元良勇次郎から徳富猪一郎へ 1882年4月11日付 和文
また,この手紙には,新島を通じて留学の道を開き
つつあり,その成果を待一)ているところだとも記され
麺じは,勇次郎が東京に行ったあとの様子を徳富が記
したものであり,その寂しさを訴える内容にもなって
ておi),留学にかける勇次郎の意気込みが伝わってく
る。
いる。
②勇次郎が英文で書いた手紙(図1〉は,まず,手
紙を書かなかったことを詫びることから始まっている。
5 おわりに
そして,神の仕事即ち真実を知るために学問に一生を
新島を通じての留学は結局のところ首尾よくいかな
捧げる目標は変わっていないが,その手段が少し変わ
かったものの,元良は1884(明治17)年にボストン大
ったと述べている。つまり,数学が全ての科学の基礎
学留学に向けて出発することになる。そして,ボスト
であり,自然哲学が知識の最初のステ・ソプであること
ン大学に2年間滞在した後,彼はジョンズ・ホプキン
が分かったので,人生をこうした科学を学ぶために捧
ズ大学の大学院に転じて心理学者・ホールに師事する
げると決心したのである。ナポレオンの名前をあげた
ことになる。ホールは哲学史・教育学・心理学の3教
うえで,彼のように個人的な野心のために世界を征服
科を担当していた。そういった意味で勇次郎の興味に
するのではなく,精神的(spirituaD,知性的(in−
合致していたことは間違いない。留学の経緯や留学中
tellectual)世界を征服するという熱望を持っている
の様子についてはいずれ別稿で扱うので参照されたい。
とする勇次郎は,偉人の伝記を読むことが非常に有用
注
だと述べている。最後に,自分がその目的のために東
大理学部で物理学を学ぼうとしているので,徳富も上
京して,一緒に東大で学ぼうと呼びかけている。
*1 明治政府は当初,江戸幕府の政策であるキリス
最後に③も②1と同様,勇次郎の考えがよく分かる。
ト教禁止を踏襲していた。キリシタン禁制の高札
r思慮の向う所は真理を求むるの一点」であるとして
が撤去されたのは1873(明治6)年2月だが,そ
おり,その実現のために留学を視野にいれていること
れ以前からキリスト教宣教師の活動は黙認される
が興味深い。そして,彼自身の勉学をもとに,デカル
傾向にあった。
トやカント,ヘーゲルを超える哲学をうち立てたとも
*2 このような努力・奮起は他のきょうだいも同様
伝えている。その名は整合哲学であり,西洋の哲学と
であった。兄・潮は前橋の共愛学園の創始者であ
違って理解するために準備などがいらない平易なもの
り後に浪速教会の牧師としても名高い。弟・平四
であるので,小中学生に教えることもできるとしてい
郎は後に山口県立山口中学校の校長となった。日
る。小中学生が相手であるから,デモンストレーショ
本を動かしている旧長州藩の中等教育のトップ校
ンを行って哲学的思考をさせるというのが勇次郎の考
である。妹・真子は大阪天満教会牧師の長田時行
えである。「考える」のではなく,本を見せた上でr諸
(東京英学校などで勇次郎と協力した人)の妻と
て他の考えを取り去」るならば,彼らにr唯書が有る
なった。また,母・寿賀は同志社の寄宿舎の舎監
との心の感じのみ是を我心に知る又疑うべからず」と
として働いていたこともあった。
いうことが教えられるというのである。ここで勇次郎
*3 たとえば,同志社設立に先だって入塾者を募る
は自身の唱える哲学がr器械哲学」であるとしている。
目的もあって制定された同志社仮規則(1875(明
心について考える際に物(勇次郎の言うところの器械)
治8)年l l月)のr教授する科目」の中に性理学
を使って実体験させるという手法を用いるが故である。
がある(r同志社百年史』)。
この考え方はヴントの心理学のデモンストレーション
*4 ヘヴンについては児玉(1984)による詳細な研
に類似しているし,彼の心理学理論の最終的到達点の
究がある。
1つとも言える「主我系統と主自然系統」という考え
*5 この点について,荒川(2000)はr元良が接し
方にも近い。また,哲学的な科目を教えるようになっ
た初の西欧近代心理学」だったとしているが,ア
30
福島大学生涯学習教育研究センター年報 第6巻
2001年3月
■/
グ」噛.翫/匝ノ艀ラ.
・、辺_、伽隔.、,
図1 杉田勇次郎から徳富猪一郎へ宛てた手紙の一部(2=1879年12月13日付)(徳富蘇峰記念館蔵)
佐藤達哉:海外留学以前の元良勇次郎
31
・ソパム(Upham,Th.)やヘヴン(Haven,」.)の
していったのかもしれない(たとえば家制度な
『Mental Philosophy』というものが近代心理学で
ど)。
あるかどうかは議論の分かれるところであろう。
*12 徳富猪一郎〔とくとみ・いいちろう) 1863(文
*6 1889(明治22)年,米国留学からの帰国後に勇
久3)一1957(昭和32) 熊本英学校,同志社英
次郎は東京英和学校の教壇に立つのだが,進化論
学校で学ぶ。民友社を設立,『国民の友』『国民新
に関する講演を企画(講演者は箕作佳吉)したこ
聞』を創刊するなどジャーナリストとして活躍し
とがもとで同校を辞任に追い込まれている。1889
た。(『近代日本哲学思想家辞典』より)
/明治22)年の時点でもこのような学校があった
のだから,新島の試みがいかに先進的であったか
文
献
は理解できよう。
*7 本井康博が1999年10月2日に行ったNEESI−
MA ROOM公開講演会rボストンから見た京都
荒川歩 2000 ジョンズ・ホプキンズ大学入学以前の
スタールー同志社の国籍一」による。ただし,こ
Carpenter,W.B.1874 Principles of Mental Phys−
の内容については荒川(2000)の注26によってい
iology、 Henry S.King&Co・
る。
伊藤彌彦 1999 新資料 徳富蘇峰・元良勇次郎往復
*8 『七一雑報』6巻15号は勇次郎が長浜伝道に関
書簡類(三通) 同志社談叢,19,110−122。
わり,1881(明治14)年3月に演説会を行ったと
泉丈・鏑木路易 1978 同志社人物誌・杉田潮 同志
いう記事を掲載している。
社香里中・高等学校教育研究誌,6,44−55。
*9 この件に関して,入学の対概念は退学であるこ
小崎弘道 1913 元良博士の事ども 新人 14,2月
元良勇次郎 心理学史・心理学論,2,17−24。
とを指摘しておく。つまり,そもそも卒業という
号,62−64。
のは退学の1つの形態に過ぎないことに注意を促
京極三朗 1980 上方歯科医伝(その2) 佐治職伝
したい。たとえば筆者は明治後期の小学校の記録
中谷(編) 神戸・三田英学史史料 非売品。
において,退学の理由として「卒業」と記されて
児玉斉二 1984 r異般氏心理学』の原著者Joseph
いるのを見たことがある。つまり,記録には「退
Haven(1816−74)について 日本大学創立90周
学欄」があり,その理由を書くようになっていた
年記念出版 日本文化の原点の総合的探求3 日
のである。卒業が退学の1形態であることを脱し
本評論社刊 Pp.105−132。
て社会的意味を持つには,卒業生の質を高めると
溝口 元 1985科学の歴史 関東出版社。
いう意味での学校制度自体の成熟及び卒業生を受
元良勇次郎 1884 教育新論 中近堂。
け入れる社会情勢の成熟が必要なのであり,勇次
中島力造 1913 同志社の故博士 故元良博士追悼学
郎が同志社に通っていた時期にはそのような情勢
術講演会(編) 『元良博士と現代の心理学』
はなかった。
弘道館,Pp.122−127。
*10 この資料は青山学院大学に現存している。また・
茂 義樹 1986 r七一雑報』における日本基督伝道
『青学の100年』p8に掲載されている。ここで勇
会社 「七一雑報』の研究 同志社大学人文科学
次郎が数学教員であったことは,1879〔明治12)
研究所,175−198。
年12月13日に彼が当時の仲間であった徳富猪一郎
(蘇峰)に送った手紙に書かれているr私は数学
杉田勇二郎 1878 紀州和歌山伝道のありさま 七一
雑報,3(34),4。
が,一生を捧げると決めた全ての科学・自然哲学
(明治13)年に一時期,東京大学にて理学部(数
資
の基本であると信じている」ということや,1880
料
学)の選科生をしていたことと無関係ではないだ
『青山学院100年』 青山学院 1975年
ろう。
『同志社百年史』同志社
*11 このような感想は,現代からみた明治時代に対
する偏見かもしれない。この時期はおおらかだっ
たものが,その後の時代(大正・昭和)で硬直化
32
2001年3月
福島大学生涯学習教育研究センター年報 第6巻
謝 辞
章V・知覚と本能
章V[・観念化と観念一モーター行動
元良の経歴について,筆者からの問い合わせに対し
章通・感情
て丁寧にお答えいただいた鏑木路易先生,アメリカで
章∼皿・習慣
の調査に際して便宜をはかっていただいた,ジョンズ
章]X・意志
・ホプキンズ大学資料館アシスタントアーカイビスト
・ラロ氏,ボストン市立大学・出口真紀子氏,立正大
BOOK■
学・溝口元先生に感謝いたします。
特殊生理学
また,同じ研究グループのメンバーとして様々な機
章X・記憶
会に心理学史に関して様々なご指導を賜っている諸先
章X I・常識
生(北海道大学・西川泰夫先生,放送大学客員教授・
章X∬・想像(イマジネーション)
大山正先生,立正大学・溝口元先生,山野美容芸術短
章X皿・無意識な思考
期大学・高砂美樹先生)に感謝いたします。
章XIV・幻想と抽象:電気生物学
章XV・睡眠,および夢想,および夢遊病
付録 カーペンター『精神生理学』目次
章X▽・催眠術と精神主義
章X∼皿・酩酊と精神錯乱
BOOK I
章X珊・精神異常
一般生理学
章XP(・精神的な状態の有機的機能への影響
章1・精神と身体の間の一般的関係
章XX・自然における精神と意志
章1・神経系およびその機能
章皿・注意
章]V・感覚
付録 フェレリ博士の脳についての実験的な研究
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