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160KB - 京都精華大学

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〈不在〉を通じて〈実在〉を表現する手法をさぐる
〈不在〉を通じて〈実在〉を表現する手法をさぐる
陳 維 錚
TAN JuiChen
はじめに
近年公開されているアメリカ映画の中で,現実世界の存在そのものへ懐疑的な問いかけを示
す作品が多く見られる。例に挙げれば「ファイトクラブ」
(原題:Fight Club),
「マトリックス」
(原題:The Matrix)や「トゥルーマン・ショー」(原題:The Truman Show)などがある。
「ファイトクラブ」は極端な性格の持ち主である2人が対峙する原因が,実は同一人物の精神
分裂による多重人格障害にあったという内容である。特定人物の精神病という切り口に対して,
一方「マトリックス」は私たちが生活する日常がコンピュータープログラムの一部にすぎない
と説かれているため,鑑賞後に人々がまわりの現実世界のあらゆる存在に異様な不確かさを覚
えたのではないかと容易に想像できる。「トゥルーマン・ショー」は,主人公の身のまわりす
べてが巨大なスタジオのなかで操作され,すべての人が俳優かエキストラという演技された世
界の中で,彼1人のみそれを知らずに生きているという破天荒なストーリー設定である。
「ファイトクラブ」は実際ありうる精神病の例を通して,自己存在への認識に対する問いか
けを提示したのに対して,後者の2作品は一見荒唐無稽な設定に思われたに違いない。しかし,
後者は巨大な力をもってきたメディア装置に対する疑念をあらためてもたせるし,いま生きて
いる世界はもしかしたらつくりものかもしれないという問いまで生じさせている。なぜなら私
たちの日常世界は人工的に作りなおされた自然と構築物にますます多く支えられているし,模
造あるいは虚構の世界と現実の世界との境界を識別できない精神状態において引き起こされた
と思われるさまざまな事件が相次いで起きているからである。「現実とは何か」という問いは
古くから哲学の問題として抗論されてきたが,人工物に囲まれたバーチャル時代に,私たちに
とっての現実はもはや当然そこにあるものと思って安心していられなくなったのではないかと
思われる。
キャンヴァスに取って代わり,映画やテレビといったメディアのプラットフォームを介した
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空想世界(ファンタジー)の表現が多々ある今日において,それらの供給がもはや(幻想に対
する)私たちの欲求よりもはるかに過多であることを,どれほどの人が気づいているだろうか。
文化のマスメディアは,刺激に慣れた大衆に特に顕著に応えているかのように見えるが,現代
美術表現もまた,見たことのない世界の提示によって群集の目を引かせようと窮地に追い立た
されているようにすら感じられる。このバーチャル時代になりつつある社会におかれている私
たちの感受性が追いつくのにあるべきペースをとりもどすことが,必要なのではないかと思わ
れる。そのためには非現実への想像を掻き立てるフィクションの手法ではなく,ノンフィクシ
ョンのモチーフのリアリティ表現を探ることが不可欠である。
リアリティをテーマとした芸術表現の手法は数多く挙げられるが,私は〈不在〉を通じて
〈実在〉を表現する手法を模索している。つまり,主体(モチーフ)の実在を意識してもらう
ために,あえてそれを不在にする手法である。また,本稿はその手法を自らの創作活動で実践
するために書かれたものである。
客観的実在
「実在性」という語を「現実」,「事実」,「リアリティ」などほかの言葉と併用して語られて
きたが,それぞれがこの研究主題の対象となる〈実在〉との定義の違いをあらためて留意しな
ければいけないことがある。本稿において扱われる「実在」は,「観念論」が精神や理念を本
源とする存在に対して,「実在論」が前提とする(人間の主観から独立して)客観的に存在す
るものをさしている。
まず,実在論(realism=リアリズム)と仮想現実(vitual reality=バーチャルリアリティ)
がこのように和訳されたとおり,「実在」は「リアル」と「現実」とは同じ意味であるのは明
らかである。しかし,違う図式においてはそれぞれ異なる用語が適用されるのである。例えば
〈バーチャル対リアル〉図式においてのリアリティという語に含意されている客観的な実在性
の側面は捨てられ,「実質的に」機能する「現実」を指している。この場合に相応する用語は,
注意深く用いるならアクチュアリティ(actuality)になる。「カントからヘーゲルに至って,
リアリティ(reality)は主として観念性(ideality)と対応した現実の客観的実在性の側面をあ
らわし,アクチュアリティは『現実的なもの相互の関連・総体』をあらわすものとして用いら
れたのである。」(吉田千秋 2000)といわれているからである。
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〈不在〉を通じて〈実在〉を表現する手法をさぐる
感覚器官を通して認識する環境のことを「現実」とする一般的な常識の図式において,リア
リティは現実感その実感(主観的感覚)にほかならない。つまり,錯覚を含めて,「現実」の
誤認が内包されていることを忘れてはならない。それに対して,本稿で扱われる「実在性」と
は,観測者の認識のあるかいなかにかかわらず,客観的な存在である。
作品「紙と光」:現実の確信
「存在シリーズ」と名づけた私の一連の作品は,最初にモチーフの一時的な消失や不在を演
出する手法が用いられている。2003年に発表したインスタレーション作品「紙と光」(写真1)
を例に,その手法を検討することとしよう。
この作品は高さ180cmの巨大な紙の塊が暗室の中に置かれている。塊の内側から微弱な光が
放たれていて,光が呼吸しているようなリズムを繰り返して明滅する。この薄暗い空間の中に
入る鑑賞者は塊の正体を見ることができない。塊のディテールをよく見ようと物体に近づいた
途端,センサーが動作して光は一瞬にして極めて眩しい(4千ワットの)スポットライト光に
変わり,また2秒間のうちに消えて暗室を完全な闇へと変える。そのとき鑑賞者の目に「見え
る」のは塊の正体ではなく,眼に焼き付けられて残像と化した塊のシルエットのみとなる。
これは物質(紙)の存在の信憑性を問いかける仕掛けである。光が消えた闇の中で,感覚器
官としての眼はすでに〈不在〉となったモチーフをとらえることができないはずである。しか
し,直前までとらえたものが眼に「残像」として焼き付けられたように,脳内にも記憶として
残されている。それを頼りに,人は闇の中で見えなくなっても塊が確かにそこに〈実在〉する
のを確信するようだ。ゆえに,この現象からいえることは,〈不在〉のときでも記憶の喚起に
よって〈実在〉を確信することができるのである。もはやモチーフがそこに実質的に存在して
いなくても,〈実在〉が認識上で完結している。
この現象が成り立つ条件の1つは,肉眼を通して確認できたものが〈現実〉であることを信
じて疑わないところである。言い換えれば,目の前に現れる事象がすべて現実であり,眼で確
認できれば実在だと確信できるのであろう。それは〈実在〉を認識する上でもっとも本能的な
感性だと思われる。
夢も含めて,蜃気楼(注1)のような錯視,幻覚,イリュージョンを経験した人が眼を通して
京都精華大学紀要 第三十一号
写真1:「紙と光」Pepers and Light
/インスタレーション
/紙銭,ハロゲンライト,パソコン
/2700×1200×300
/京都精華大学院芸術研究科修了制作展2002
/2003年2月19日貉 ―2月23日豸
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〈不在〉を通じて〈実在〉を表現する手法をさぐる
確認した〈現実〉に疑問を持つこともありうるであろう。〈非現実〉という概念を持つのであ
れば,実在を疑うこともできる。実在を確信して意識してもらうために,まず疑われる要素と
しての〈非現実〉を考察することから始めてみる。
〈非現実〉のあらわれ
文明が誕生する以前の人類を想定して,当時の環境と生活様式からみて彼らにとっての現実
とはどういうものなのか考えるとしよう。〈現実〉が相対的な存在であるゆえに,それをとら
えるために,その対比である〈非現実〉が必要である。しかし,当然ながら石器時代以前は人
工物とでもいえるものがなく,社会集団生活もなければ文化や幻想(思想)もなく,言語(表
現)もなければ〈非現実〉という概念はそもそも存在しえない。つまり,生活の環境そのすべ
てが彼らの〈自然=現実〉である。
科学史家の伊東俊太郎は文明の始まりに起きた〈人類革命〉の内容として,1)手の使用か
ら生じた道具の製作と使用と,2)集団行動のなかで生じた言語の使用,の二つをあげている
(『文明の誕生』1988)。この人類革命から生まれた2つの内容はまさに,〈非現実〉そのものの
誕生ではないかと思われる。
その一,人間は,自分自身がその一部である現実界の中で,その環境(現実環境)との間に
相互作用を営んでいるが,その際に,道具を初めとするメディア(媒介物)を介在させている。
保温のために裸の体を纏う衣服もあるし,建物を造り食器家具に囲まれた生活もする。そうい
った衣服や家屋,家具,農地,栽培植物,調理された食品などはすべて,人間と環境との相互
作用のメディアだということができる。それらは彼らの自然性の中に初めて現れた「人工物」
である。
その二,人間は,肉体的な存在としての側面に加えて,精神的な存在の側面ももっている。
精神的な存在としての人間は,その環境(情報環境)との間に,情報の授受という意味での情
報的相互作用を営んでいる。いわゆる「言語」とは,人間がその精神の中にもっている観念あ
るいは表象を,対自的に反省して,あるいは対他的に外部化して「表現」したものにほかなら
ない。社会集団生活とともに言語の使用が始まると,人類は共同体の行動パターンと価値観を
築き,共同幻想から擬似現実まで複雑に発展していく。つまり,宗教(信仰),設計(理想),
ひいては「いつわり」などの概念がはじめて誕生し,「人工物」の増加が加わって〈非現実〉
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的な世界があらわれたのである。
原始人でも夢はみるであろう。しかし言語と思想を持たない彼らはそれを表象できずに,結
局実生活の一部としてとらえて,それを含めてすべてが現実だととらえたと推測できるであろ
う。言語と思想が発展した文明にのみ,人は夢を非現実としてとらえて,現実とそうでない領
域を区別(分かつ)することができたのである。その思考の方法を手に入れた人間は次第に意
識対象を細分化することをすすめていく。
〈非現実〉の多次元化
伊東俊太郎は人類文明の歩みは,人類革命,農業革命,都市革命,精神革命,科学革命の5
段階を経て発展したものとしているが,この革命の歴史の中で,人間の思考の方法は絶えずに
変遷を遂げていくのである。厳しい自然環境を生き抜くために超越的な存在である〈神〉が作
り出されるが,物的証拠が勝る科学の説得力によって,地動説を受け入れるのに天動説への裏
切りも起きた。人は自らの過去の歴史を知っているからこそ,ますます現時点の思考の基盤を
疑わざるをえないであろう。実は,現実はつねに疑われる対象であるかもしれない。
言語と思考の方法によって,「夢」,「神」や「空想」が記号として表象され共有されるもの
となってあらわれた。科学の方法によって,認知科学上の「錯覚」の生理的構造の解明から
「イリュージョン」が意図的に生産・操作可能なものまでになった。まして,仮説だが,形而
上学的な存在や「物自体」など感覚器官の知覚範疇をはるかに超えた実に多くの〈非現実〉を,
私たちは手に入れようとしているのではないか。ほとんどのアミューズメントパークで体験で
きるバーチャルリアリティ施設で仮想現実だと知っていながら覚えた「現実以上の現実感」経
験を含めて,固有で唯一の〈現実〉に対して私たちが今受け入れている〈非現実〉は実に多種
多様で,多次元であることに気づくのである。
客観的事実を現実として受け入れてもらうために,作品「紙と光」はまずわずかな光の中で
モチーフの塊の物質的な存在を気づかせた。その後,闇の中で不在となったモチーフが残像と
化して現れたことが鑑賞者に〈非現実〉を示唆して,〈実在〉をより強く意識させることがで
きた次第である。
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〈不在〉を通じて〈実在〉を表現する手法をさぐる
〈自然性〉がゆがむ生活環境
客観的実在をいかに認識し,その実在性をどのようにとらえられるかを考える上で,もっと
も単純な図式〈自然対人工〉から考えてみるとしよう。周知のように,「自然性」とは不変に
強固で固定したものである。しかし,例えば医療技術の変遷,メディアの変遷に対する私たち
の対応を考えてみても,「自然性」とは相対的であり,歴史的である。今日ではパソコン通信
やインターネットなどの電子的通信,電話,テレビ,ビデオなどは「自然な」メディアと化し
ているが,過去の人にとってはきわめて「不自然」だったであろう。したがって,新しい技術
が登場するたびに,「それは自然ではない」と反論するのは,自分にとっての「自然なもの」
を固持する「保守性」の表明にすぎない(黒崎政男1999)。つまり新たな技術によってもたさ
れた「人工的なもの」があたりまえのものとして,違和感なく受け入れられるということであ
り,「自然」という語は主観的な精神的構えをあらわすものになった。ふりかえてみるなら,
科学技術と産業の急速な進展によってもたされた「人工的なもの」の氾濫が,人間の「自然性」
と齟齬し,変質や破壊をもたらすのではないかとも指摘されている。例えば,町並みにはコン
クリートの箱がひしめくようになり,舗装された道路,機械の騒音や汚染もあたりまえになっ
てきた。その中で生活する私たちがこれらの「人工的」現実に慣らされ,あたりまえだと受け
入れてしまうのは人間の感覚や身体がもっている「可塑性」ともいうべきだろうか。実際の季
節と関係なく「旬」の食べ物をあたりまえのように食すことを例に,私たちの〈自然性〉の危
機を垣間見ることができるであろう。
作品「あっ あふれた」
:構造と機能の不在
〈自然性〉が侵食されたように,〈日常〉もまた定義の難しい概念である。普遍的な〈日常〉
を演出するのに,その絶対的な条件が見当たらないことに気づくのである。私は「存在シリー
ズ」作品において次に〈日常〉を解剖して,実在を構造と機能に分解する手法を試みた。
2004年に発表したインスタレーション作品「あっ あふれた」(写真2)はアニメーションの構
造から「人物」と「背景」を分離することから始まった。必要最小限の線で描かれた「人物」
の少女のアニメーションが光として壁に投影され,そのアニメーションから抜き取られた「背
景」(テーブル,コップなど)が舞台セットのように実際の物質として会場内に設置されてい
る。つまり〈日常〉の物語の「機能」を極力に削り落として,「構造」だけを提示した。
京都精華大学紀要 第三十一号
写真2:「あっ あふれた」oops!
/キャラクターアニメーション&空間インスタレーション
/ミルク紙パック,カップめん包装,木製机,蛍光灯,電源タップ,木枠窓,スポットライト,米
/「あっ あふれた」陳維錚・劉珊二人展/2004年2月10日貂 ― 15日豸 Neutron 京都 B1F
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〈不在〉を通じて〈実在〉を表現する手法をさぐる
しかし,来場者の感想によると,人物のパントマイムのような動きからキャラクターの「生
命」が読み取れるし,何げなく配置されているただの「背景」と小道具から人物の「気配」も
感じられたそうである。それが〈実在〉しなくても「構造」に内包されうる情報として読み取
られたようである。そのどれも〈不在〉な「機能」はなぜ知覚されるのか。また,ここで違う
観測者に想起される物語はどこか普遍的な〈日常〉に思えてならない。
シュルレアリスムの表現
リアリティを見出すのに〈日常〉の観察から展開するシュルレアリスム運動を参考にしよう。
現実の延長でもなく,現実の超越でもなく,ただ単に意識の裏に既存の現実を見つめて,そし
て顕現化するシュルレアリスムを,塚原史は以下のように語った。
「昨日のように今日があり,今日と同じ明日がやってくるように思えるとしても,同じ日
は二度と繰り返さないのであり,『現実』は無数の不可視の差異を生み出しながら,絶え
ず変化しているのだ。この変化が目に見えるかたちをとるとき,『現実生活』への信頼は
不意に失われてしまうだろう。人々が何の疑いもなく過ごしてきた『現実』を問いなおし,
日常生活をしのびよる不安と揺らぎの位相のもとに『同時に複数の生を生きる見とおし』
の探求のうちにもとめようとしたのである。」(『シュルレアリスムを読む』1998)
芸術表現の歴史の中で,現実を主題にして問いかけ続けるもっとも大きなムーヴメントとし
てシュルレアリスムを挙げれば近代の現実のありかたを知ることができる。第一次大戦直後の
パリで出発したこの芸術と思想と生活の革命をめざす運動は,アヴァンギャルド諸派による既
成の価値と秩序への反抗を引き継ぎながら,人間の精神と世界の現実に未知の地平をひらく実
践を主導した。「近代」という理性と主体の支配する時空から,シュルレアリストたちは狂気
と客体(オブジェ)を誘い出して言語とイメージとエロスの想像力を解き放ち,非言語的媒体
(写真,映画,デザインなど)や非西欧文化(「未開」社会やクレオールなど)のさまざまな要
素を彼らの表現に導入した。彼らが,理性と狂気,意識と無意識,日常と夢,内面と外面とい
った二項対立の検証を繰り返し,生きることの意味そのものを問いなおす大きな冒険をめざし
た。
しかし,シュルレアリスムからうまれる自動記述などの表現方法は,その一見「非現実」的
なイメージによって人々は果たして「現実」を認識できたのであろうか。作者にとって内省的
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な作業であり,鑑賞者にとってはけっして〈実在〉を共感できる表現ではないことだけは確か
である。私の作品「あっ あふれた」は鑑賞者との共有(客観的)認識をもとに,より普遍的
な〈日常〉の要素を提示することによって共感を得ている。人々は共有する共通項を認めると
同時に,それが自らの日常とのズレに気づき,〈不在〉している何か現実味のようなものを求
め始める。「もの足りなさ」を感じたときに,はじめてその「もの」を意識するのである。
作品「括弧」:実体の不在
あるものの存在を示すのに,実物を用いずにストレートに表現することがそのものの説明や
定義だとすれば,ポートレートのような手法が考えられるのではないか。2005年に発表した作
品「括弧」(写真3)はカタログのように,半無限的な枚数のスライドショーの説明・定義によ
って,ある〈実在〉を鑑賞者に示唆した。ポートレートと思わせる1枚1枚の写真・画像の下
部に,一律に「陳維錚」という名前が表記されている。また,その名前の後部に括弧“()”表
記記号で括ったそれぞれ違う「属性」が記されている。「存在とは実体と属性から成る(『広辞
苑』釈)」とあるように,名前が人(もしくは物)の存在のアイデンティティだとすれば,括
弧で示される属性の集合体が説明であり,本質なはずである。ポートレートというものは,そ
もそも〈実体〉がそこに〈不在〉しているが,鑑賞者は記された属性と画像と照合して,「陳
維錚」の「実体」をより正確に捉えようとする。
しかし,実はこの作品の中で表記されている「属性」のほとんどがその画像とまったく関係
がなく,偽りである。鑑賞者が次第にその矛盾や偽りに気づき,「属性」が信憑性に欠けた途
端に,脳内に結像しつつある「陳維錚」の〈実在〉が破滅するのである。
そのときにはじめて何も実在していなかった,あるいは素材としての写像,名前,文字だけ
が整然とそこにあることに気づく次第である。
3つの眼
人間が世界をとらえるために3つの様式=3つの眼があるという渡辺恒夫の論説はとても興
味深い。それは空間・時間・物質からなる外部世界を知覚するための「肉体の眼」,哲学・論
理,そして心そのものに関する知識を得るための「理知の眼」,様々な超越的現実の知識に達
するための「黙想の眼」である。(渡辺恒夫 1998)
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〈不在〉を通じて〈実在〉を表現する手法をさぐる
写真3:「括 弧」(スライド一部)Parentheses
/スライドショー/ノートパソコン,スライドショーアプリケーション/240W×340Hmm(画面)
/京都精華大学留学生展覧会2005/京都精華大学ギャラリーフロール/2005.7.2 貍 ― 7.8 貊
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ある宗教に対する人間の信仰が定着するのはまさしくこの3つの眼を通じて内的世界と外的
世界が一致した場合に成り立つのではないか。身内の死を目前にしたときに,「肉体の眼」が
死体(物質)の崩壊を知覚し,「理知の眼」で生(時間)の終焉(倫理)を照合して理解し,
「黙想の眼」で死後の世界(超越的現実)への幻想が加わり,1つの世界が完結するからであ
る。客観的実在の表現において,鑑賞者も必ずこの3つの眼を通じてとらえるであろう。美術
作品の造形ないし事象を「肉体の眼」で知覚し,筋書き(意味や価値)を「理知の眼」で論理
と照合し,そして「黙想の眼」で意識の中で私的な世界像を構築して完結する。
おわりに
見る者が能動的になるのはどんなシチュエーションが必要なのか。客観的実在の認識を成り
立たせる表現とは具体的にどういう方法が有効的なのか。表現主義の誇張され歪められる像で
もなく,シュルレアリスム表現のごく私的な無意識による超現実でもなく,意味を廃棄したモ
ダニズム表現の純粋な物的存在でもない。〈実在〉の表現において必要なのはデフォルメされ
た現実ではない。少なくともそれは空間上のみでの加工を避けるべきだと私は考える。なぜな
ら,加工されたモチーフはもはや〈実在〉ではなくなったからである。
〈実在〉と〈不在〉を考えるきっかけは,そもそも私の根源的な「不安」からきている。笠
原芳光の言葉を借りて説明すれば「死を自覚することによって人生は活性化される。死は人生
の終わりだと思われているが,実は人生の中にある。(『宗教論講座』2005)」とあるように,
〈実在〉をより実感するために,消滅や〈不在〉を考えるのが最も必要である。
もとより「芸術表現の機能は何か」という問いに答えるとすれば,現実世界の解釈のバリエ
ーションを与え,世界を受け入れるための感受性をより豊かにするところにあるのではないか
と私は願っている。本稿の考察は諸事象からより確信的な現実感を得るための表現手法を探ろ
うとした。また,それを作品創作に実践することで芸術表現の機能を果たすことが目的である。
歴史ないし哲学的見地からの省察と,決定的な方法論を今後の課題にしたい。
注
1)下層大気の温度差などのために空気の密度に急激な差が生じて光が異常屈折をし,遠くのオアシスが
砂漠の上に見えたり,船などが海上に浮き上がって見える現象。
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〈不在〉を通じて〈実在〉を表現する手法をさぐる
出典および参考資料
「ファイトクラブ」
(原題:Fight Club)監督:デビッド・フィンチャー,製作国:アメリカ,2000年
「マトリックス」(原題:The Matrix)監督:アンディ・ウォシャウスキーとラリー・ウォシャウスキー,
製作国:アメリカ,1999年
「トゥルーマン・ショー」(原題:The Truman Show)監督:ピーター・ウィアー,製作国:アメリカ,
1998年
吉田千秋「ヴァーチャル時代のリアリティ問題」,末永ほか編著『文化と風土の諸相』,文理閣,2000年,
p.14
伊東俊太郎『文明の誕生』
,講談社学術文庫,1988年,p.66
黒崎政男『情報の空間学―メディアの受容と変容』,NTT出版,1999年
塚原史『シュルレアリスムを読む』,白水社,1998年,p.39
渡辺恒夫『オカルト流行の深層社会心理』,ナカニシヤ,1998年,p.189
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SUMMARY
The function of speech in turn-taking
—a comparitive study of Japanese native speaker and learner dialogue—
YOSHIMOTO Yuko
In this paper, strategies used to develop discourse in the Japanese language will be investigated
by focusing on speech function at the point where the speakers take turns. Analysis of how the
speakers take turns will be used as the basis for finding effective strategies for dialogue development. Examination of dialogue between native speakers and learners of Japanese is used to investigate the characteristics of discourse development in turn-taking.
Analysis resulted in clarification of the following:
Both substantial and adjunctive speech are speech functions observed in turn-taking. For native
speakers, adjunctive speech accounts for 50.7% of all speech, demonstrating that in Japanese,
adjunctive speech plays an important role in turn-taking. Learners of Japanese used adjunctive
speech to a similar extent. Adjunctive speech accounted for 50.9% of all speech for learners; illustrating that such speech patterns are easily assimilated by non-native speakers.
Within adjunctive speech, both single function and combination (mono- and polyfunctional)
speech are observed. Use of single function speech accounts for 78% for native speakers and 86%
for learners, suggesting that single function speech is also the more basic form of adjunctive
speech. Back-channels (aizuchi, short verbal response) are most frequently used by native speakers; accounting for 69% of all speech, followed by dialogue initiation, attention indication and
attention request, in that order. The frequent use of back-channels was characteristic of native
speakers. Thus, back-channels are recognized as an important indicator, allowing for a smooth
exchange of speaking rights and are an effective strategy for dialogue development. Learners of
Japanese use back-channels much less frequently at 58% and do not request attention as much as
native speakers do. Concerning polyfunctional adjunctive speech, it is revealed that native speakers combine various functions of speech and many ways of taking turns while learners are characterised by less frequent and unvaried use of polyfunctional adjunctive speech. Mastery of these
uses of speech is thought to be a major hurdle in Japanese language acquisition.
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発話権交替時における発話機能について――日本語母語話者と日本語学習者の談話資料から――
発話権交替時における発話機能について
――日本語母語話者と日本語学習者の談話資料から――
吉 本 優 子
YOSHIMOTO Yuko
1.はじめに
日本語の談話において話者はどのように談話を展開しているのだろうか。本稿では、談話展
開を考察する手がかりとして、発話権交替時の発話機能に注目したい。発話権とは、一人の話
者が話す権利で、談話形成上何らかの意味・機能を持った発話の単位を指す。この発話権交替
を適度に繰り返すことによってスムーズに談話が展開すると考えられる。それでは話者はどの
ようにして発話権を交替しているのだろうか。基本的な展開の方法としては、質問・応答によ
る発話権の交替が認められている。まず発話権を持っている話者が、もう一方の話者に対して
情報を要請する質問を行う。それに対しもう一方の話者が情報を提供する応答を行うことによ
って、発話権の交替が起こる。しかし、日本語母語話者の談話を分析すると、質問・応答によ
る発話権交替より、自発的な情報提供や意思表示の発話によって発話権を交替する事例が多く
認められた。また、これらの発話の直前には実質的な内容を伴わない付属的な発話が多く認め
られた。スムーズな発話権交替にはこの実質的な内容を伴わない付属的な発話が重要な役割を
果たすと考えられる。(吉本2004)
本稿では、上記の研究をさらに進め、日本語の談話における談話展開ストラテジーについて
考察を深めたい。発話権交替時の発話機能に注目し、日本語の談話の発話権交替がどのように
行われているのかを分析し、談話展開に有効なストラテジーを考察する。方法としては、日本
語母語話者と日本語学習者を対象に談話調査を行い、発話権交替時の発話機能の特徴を探る。
また、日本語母語話者と日本語学習者の談話を比較することによって、日本語学習者の談話展
開の特徴そして問題点を探り、今後の日本語指導に応用したいと考える。
京都精華大学紀要 第三十一号
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2.発話権交替時における発話機能
2―1発話機能
発話権交替時における発話機能を分析するに当たり、ザトラウスキー(1993)の発話機能の
定義を参考にする。ザトラウスキー(1993)は発話機能を12種類に分類しているが、日本語の
発話権交替時における発話機能の分析に当たっては十分ではなく、さらに細かい分類が必要で
ある。そこで本稿では発話機能を「実質的な発話」と「付属的な発話」に分類した。「実質的
な発話」とは実質的な内容を伝える発話を指し、「付属的な発話」とは実質的な内容を持たな
いが談話形成上機能を持つ発話を指す。
2―2実質的な発話
まず実質的な発話として以下のように定めた。各発話機能は上記に挙げたザトラウスキー
(1993)の発話機能の定義を参考にした。
①情報要求
②情報提供 1)質問に対する情報提供
2)自発的な情報提供
③意志表示
④同意要求
⑤自己への情報要求
⑥単独行為要求
⑦共同行為要求
⑧言い直し要求
⑨言い直し
⑩関係作り・儀礼
①の情報要求とは、情報を求める発話で、「質問」の類が多い。②の情報提供とは、実質的
内容を伝える発話で、客観的事実に関する質問に対する答えも含む。1)と2)の2分類は本
稿において新しく設けた分類である。1)質問に対する情報提供とは、相手の質問に答えるこ
とにより情報を提供する発話を指す。2)自発的情報提供とは、相手からの働きかけのない自
発的な情報提供の発話を指す。③の意思表示とは、話し手の感情、意思等を表示する発話で、
それらに関する質問の答えも含む。④の同意要求とは、相手の同意を求める発話で、「でし
ょ?」・「よねえ」・「じゃない?」で終わることが多い。⑤の自己への情報要求は本稿において
新しく設けた機能である。自問を指し、相手に対して直接的には情報を要求しないので①の情
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発話権交替時における発話機能について――日本語母語話者と日本語学習者の談話資料から――
報要求とは区別して分類する。⑥の単独行為要求とは、話し手が参加しない、聞き手単独の行
為を求める発話で、「依頼」・「勧誘」・「命令」等がある。⑦の共同行為要求とは、
「勧誘」等の
ように、話し手自身も参加する行為への参加を求める発話である。⑧の言い直し要求とは、先
行する発話がうまく聞きとれなかった場合の発話である。⑨の言い直しとは、言い直し要求に
先行する発話を繰り返す、あるいは、多少言い換えてもう一度述べる形の応答である。⑩の関
係作り・儀礼とは、「感謝」・「陳謝」・「挨拶」等の良い人間関係を作る発話である。
2―3付属的な発話
次に付属的な発話について考える。日本語母語話者の談話を観察すると、発話権交替時には
実質的な発話だけでなく、その直前に付属的な発話を伴う発話が多く認められる。
付属的な発話とは、実質的な内容を持たないが談話形成上機能を持つ発話を指し、本稿では
次の4項目を定めた。
①相づち
②談話表示
③自己注目表示
④注目要求
①の相づちとは、「発話権が行使されている間、または発話権が終了した直後に、発話権を
持たない聞き手が送る談話形成上機能を持った短い表現」を指す。相づちの機能は、継続、理
解、同意・共感、否定、感情の表出の5つが認められる。②の談話表示とは、談話の展開その
ものに言及する「接続表現」で、「だから」・「それで」等を指す。③自己注目表示とは、思案
中であることを示す「そうですねえ」「うーん」などの発話を指す。④の注目要求とは、「呼び
かけ」の類で「もしもし」「あのね?」などを指す。
付属的な発話の例を日本語母語話者の談話資料から見てみよう。*は発話権交替時を示し、
ゴシックの部分は付属的な発話を示している。
①相づち
談話資料1
J5 そのコマーシャル あもう見ることないわ 発売されたら
J6 *そうやな
ャルあんまり好きじゃないねんけどな 自民党のやつ 私あのコマーシ
京都精華大学紀要 第三十一号
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②談話表示
談話資料2
J4 勉強するより料理作るほうが 今 今楽しい笑
J3 笑*でも一週間のうち 夏休みなっちゃ
ったからあれやけど どのぐらいのあれスケジュール ③自己注目表示
談話資料3
J9 へー えっ フェイオンってどの人やったっけ
J10
*えとあのー
後半の方で あのーあのー
トニーレオンの部屋に物を増やしていく女の子
④注目要求
談話資料4
J2 こんなんだよってつかめないですかねえその 言葉は覚えられなくても
J1 *やっぱりほら
言葉が入らなかったんちがう なかなか 談話資料1ではJ6の「そうやな」というJ5の発話に対する同意を表す相づちによって、
談話資料2ではJ3の「でも」という接続表現によって発話権を交替している。談話資料3で
はJ10の「えとあのー」と思案中であることを示す発話によって、談話資料4ではJ1の「や
っぱりほら」という相手の注目を引く発話によって発話権を交替している。これらの発話は発
話権交替の有効なストラテジーと考えられ、談話展開に重要な役割を果たすと考えられる。本
稿では発話権交替時における発話機能の1つである付属的な発話に注目し、分析と考察を行い
たいと考える。
3.分析資料
20代から40代までの関西在住の日本語母語10名・日本語学習者10名を対象に談話調査を行っ
た。日本語学習者は日本語能力試験1級レベルの日本語能力を有する者である。日本語母語話
者5組10名・日本語学習者5組10名の自由会話を録音し、文字化した談話資料を分析資料とし
た。談話時間は各組10分程度で、対話相手は初対面ではない。録音の結果、日本語母語話者は
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発話権交替時における発話機能について――日本語母語話者と日本語学習者の談話資料から――
計50分7秒、日本語学習者は計52分40秒の談話資料が得られた。以下、各日本語母語話者はJ
1∼J10、日本語学習者はN1∼N10と記す。また、日本語母語話者は「母語話者」、日本語
学習者は「学習者」と記述する。
4.結果と考察
4―1実質的な発話と付属的な発話
分析の結果、母語話者は計396回の発話権交替、学習者は計328回の発話権交替が認められた。
談話時間は母語話者が計50分7秒、学習者が計52分40秒とほぼ同じだが、母語話者のほうが発
話権交替が多く行われていることが分かる。母語話者は学習者より頻繁に発話権を交替させな
がら談話を展開していることが窺える。それでは、それぞれの発話権交替時にどのような発話
機能が用いられているかを見てみたい。
上述のように、発話機能には実質的な発話と付属的な発話がある。母語話者の発話権交替時
の発話機能を分析すると、396回のうち実質的な発話は195回、付属的な発話は201回であった。
付属的な発話が全体の50.7%を占め、日本語の発話権交替には付属的な発話の使用が重要な役
割を果たしていることが分かる。一方、学習者についても同様の結果が認められた。328回の
うち実質的な発話は161回、付属的な発話は167回であった。付属的な発話が全体の50.9%と母
語話者とほぼ同率で使用されており、学習者の発話権交替においても付属的な発話が多用され
ていることが分かった。
4―2付属的な発話分析
以下では、具体的にどのような付属的な発話が行われているかを分析したい。分析の結果、
単一の機能のみを用いる発話と複数の機能を組み合わせた発話があることが分かった。本稿で
は前者を「単一機能発話」、後者を「複数機能発話」と呼ぶことにする。以下に発話例を挙げ
てみる。*は発話権交替を示し、ゴシックの部分は付属的な発話を指す。
(1)単一機能発話
談話資料5
J5 3時間15分
J6 *あーすごい そこまではいかへんと思う笑 タイタニックまではいかへん
と思うけど
京都精華大学紀要 第三十一号
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71−
(2)複数機能発話
談話資料6
J1 それで買ったことではじめて分かった
J2 *そうか
じゃあ
あの時点では じょう 情報
とも言えないですね
(1)単一機能発話の談話資料5では、J6の「あー」という単一の相づちによって発話権が
交替している。(2)の複数機能発話の談話資料6では、J2が「そうか」という相づちと
「じゃあ」という談話表示を組み合わせた複数の機能によって発話権を交替している。
分析の結果、母語話者は付属的な発話201例中、単一機能発話が157例、複数機能発話が44例
認められた。単一機能の発話が全体の78%を占め、多用されていることが分かる。複数機能発
話も22%を占め、母語話者は複数の機能を組み合わせて発話権交替を行っていることが特徴と
考えられる。一方、学習者は付属的な発話167例中、単一機能発話が143例、複数機能が24例認
められた。単一機能発話が全体の86%と多く、母語話者に比べ複数機能発話の使用が少ないこ
とが分かった。
次に、単一機能発話と複数機能発話を更に詳しく分析し、母語話者と学習者がどのような機
能を用いているかを考察したい。
【単一機能発話】
表1・2は母語話者と学習者がそれぞれどのような機能を用いているかを示したものであ
る。表中の「相」は相づち、「談」は談話表示、「自」は自己注目表示、「注」は注目要求を指
す。
分析の結果、母語話者は相づち108回、談話表示26回、自己注目表示13回、注目要求10回で
あった。相づちが全体の69%を占め、他の機能に比べ使用率が非常に高いことが特徴である。
日本語の談話の発話権交替においては相づちが重要な役割を果たし、発話権をスムーズに交替
する談話展開ストラテジーとして機能していることが分かる。一方、学習者は相づち83例、談
話表示19例、自己注目表示40例、注目要求1例であった。学習者も相づち使用率は58%と高い
が母語話者と比較すると低い。一方、自己注目表示の使用率が28%と高いことが特徴と言える。
自己注目表示とは「そうですねえ」「うーん」などの思案中の発話を指すが、学習者はこのよ
うな発話機能を発話権交替のストラテジーとして用いていることが窺える。また、注目要求の
使用が1例と少ないのも特筆すべき点である。相手に呼びかけ注目を求める発話機能は上級学
習者にとっても高度なストラテジーと考えられ、習得していないことが窺える。
−72−
発話権交替時における発話機能について――日本語母語話者と日本語学習者の談話資料から――
表1 日本語母語話者
表2 日本語学習者
相
談
自
注
相
談
自
注
J1
006
06
00
02
N1
13
01
05
0
J2
007
05
00
00
N2
08
02
04
0
J3
011
06
02
01
N3
06
02
01
0
J4
016
03
02
02
N4
13
01
03
0
J5
018
03
01
03
N5
10
02
02
1
J6
018
00
01
00
N6
04
05
01
0
J7
009
00
01
00
N7
06
02
04
0
J8
008
01
00
02
N8
01
04
05
0
J9
008
01
02
00
N9
08
00
08
0
J10
007
01
04
00
N10
14
00
07
0
計
108
26
13
10
計
83
19
40
1
【複数機能】
表3・表4は母語話者と学習者がどのような複数機能を用いているかを示したものである。
表3 日本語母語話者
表4 日本語学習者
相+談
相+自
相+注 相+談+注
相+談
相+自
J1
07
0
0
0
J2
02
1
0
J3
05
1
J4
02
J5
相+注 相+談+注
N1
03
1
0
0
1
N2
02
0
0
0
0
0
N3
03
0
0
0
0
0
0
N4
03
0
0
0
03
0
0
0
N5
02
2
0
0
J6
04
0
0
0
N6
04
0
0
0
J7
07
0
0
0
N7
02
0
0
0
J8
02
1
0
0
N8
01
0
0
0
J9
05
0
3
0
N9
01
0
0
0
J10
00
0
0
0
N10
00
0
0
0
計
37
3
3
1
計
21
3
0
0
分析の結果、(1)相づち+談話表示、(2)相づち+自己注目表示、(3)相づち+注目要
求、(4)相づち+談話表示+注目要求の4種類の複数機能発話が認められた。どの発話形態
も相づちで始まることが特徴である。母語話者は(1)相づち+談話表示37例、(2)相づ
京都精華大学紀要 第三十一号
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73−
ち+自己注目表示3例、(3)相づち+注目要求3例、(4)相づち+談話表示+注目要求が1
例であった。計44例で付属的な発話全体の22%を占め、母語話者は複数の機能発話を組み合わ
せて多様な発話権交替を行っていることが分かる。一方、学習者は(1)相づち+談話表示21
例、(2)相づち+自己注目表示が3例であった。計24例で付属的な発話全体の14%を占める。
母語話者と比較すると、種類も少なく使用率も低いことが特徴として挙げられる。複数の機能
を組み合わせて発話権を交替するストラテジーがまだ十分習得出来ていないことが窺える。
5.まとめと今後の課題
以上、日本語母語話者と日本語学習者の談話資料をもとに発話権交替時における発話機能に
ついて考察した。発話権交替時における発話機能には、実質的な内容を伝える実質的な発話と、
実質的な内容を持たないが談話形成上機能を持つ付属的な発話が認められる。母語話者は付属
的な発話が発話全体の50.7%を占め、日本語の発話権交替には付属的な発話が重要な役割を果
たしていることが分かった。学習者についても全体の50.9%と母語話者とほぼ同率で使用され
ており、付属的な発話の使用は定着していることが明らかになった。
付属的な発話には、単一機能の発話と複数の機能を組み合わせる発話が認められた。単一機
能の発話は母語話者が78%、学習者が86%と多用されており、発話権交替時において基本的な
構造と考えられる。具体的な機能を見てみると、母語話者は相づちが最も多く全体の69%を占
め、次に談話表示、自己注目表示、注目要求と続く。相づちの使用率が高いことが特徴で、相
づちが発話権をスムーズに交替する談話展開ストラテジーとして機能していることが分かっ
た。一方、学習者の相づち使用率は58%で母語話者に比べると低い。また、注目要求の使用が
少ないことも特徴として挙げられる。上級レベルの学習者であっても相づち・注目要求といっ
た機能習得は十分ではないことが分かった。
複数機能では、母語話者は相づち+談話表示、相づち+自己注目表示、相づち+注目要求、
相づち+談話表示+注目要求の4パターンが認められ、複数の機能発話を組み合わせて多様な
発話権交替を行っていることが分かった。一方、学習者は相づち+談話表示、相づち+自己注
目表示の2パターンであった。母語話者と比較すると、種類も少なく、使用率も低いことが特
徴として挙げられ、習得上の問題点と考えられる。
母語話者との比較によって明らかになった学習者の発話機能習得の問題点は日本語指導への
応用が可能である。発話権交替時における発話機能の指導、特に相づち・注目要求の談話展開
ストラテジー指導は学習者の談話能力養成に有効と考えられる。さらに、複数の機能を組み合
わせて発話権を交替するストラテジー指導も今後の談話指導に取り上げるべき項目と考えられ
−74−
発話権交替時における発話機能について――日本語母語話者と日本語学習者の談話資料から――
る。
本研究では発話権交替時の発話機能という狭い領域に着目して談話展開を考察したが、今後
は考察の領域をさらに広め、多角的な視点から日本語の談話展開の構造を明らかにしたい。そ
して談話展開ストラテジーを体系的に捉えることによって、日本語学習者の談話能力習得の問
題点に対応したいと考える。
参考文献
(1)国立国語研究所(1987)『日本語教育映画基礎編総合文型表』日本シネセル
(2)ポリー・ザトラウスキー (1993)
『日本語の談話の構造分析―勧誘のストラテジーの考察―』くろし
お出版
(3)堀口純子(1988)「コミュニケーションにおける聞き手の言語行動」『日本語教育』64
(4)堀口純子(1991)「あいづち研究の現段階と課題」『日本語学』Vol.10 No.10
(5)松田陽子(1988)「対話の日本語教育―あいづちに関連してー」『日本語学』Vol.7 No.12
(6)メイナード・K・泉子(1987)「日米会話におけるあいづち表現」『月刊言語』16巻12
(7)メイナード・K・泉子(1993)『会話分析』くろしお出版
(8)メイナード・K・泉子(2004)『談話言語学:日本語のディスコースを創造する構成・レトリック・
ストラテジーの研究』くろしお出版
(9)吉本優子(2001)「定住ベトナム難民における相づち習得の研究―談話展開の観点から―」『日本語
教育』110
(10)吉本優子(2004)「日本語の談話における発話権交替時の発話機能と構造について」『京都精華大学
紀要』第27号 京都精華大学
(11)Yngve,V.H. (1970) On getting a word in edgemise. Chicago Linguistics Society 6
(12)Sacks,H., Scheglaff, E. & Jafferson,G. (1974) A simplest systematic for the organization of turn-taking in
conversation. Language, 50 (4)
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