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Page 1 [東京家政大学研究紀要 第36集 (1) マリナ・ウォーナーの世界

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Page 1 [東京家政大学研究紀要 第36集 (1) マリナ・ウォーナーの世界
〔東京家政大学研究紀要 第36集 (1),P.1∼6,1996〕
マリナ・ウォーナーの世界についての覚書
IndigOの風景
伊 藤 節
(平成7年9月30日受理)
Notes on the World of Marina Warner
the Landscape of lndigo
Setsu ITO
(Received September 30,1995)
至るのだ.言換えるならマリァ崇拝とは,それを作りあ
1 Marina Warnerについて
げてきた文化,社会,人々を映す鏡ということになる.
Marina Warnerは昨年(1995),現代イギリス小説
マリアとは即ち,ただ一人の例外としての女性,男性の
セミナーのゲスト・スピーカーとしてブリティッシュ・
夢にすぎないものであると.一見女性を重視し,尊重し
カウンシルの招きで来日している.が,日本での知名度
ているように見えながら,実際はその心を封じ込め,無
は皆無に等しいため,ここで簡単に紹介をしておきたい
気力にするイメージであるというものである.
彼女は現在イギリスで最も精力的に活躍している作家の
この心の核とも言うべきマリア(母)の喪失,かっ,
一人であり,かっ歴史家,批評家である.Alone()fAll
女,混血,クレオール(の血を引いていること)である
Her Sex, Joan(∼f Ark(Fawcett Prize受賞)等の
ことが,ウォーナーの思想,感性の立脚点であり,彼女
秀れた神話研究書,Frorn the Beαst to the Blonde
のすべての仕事の基盤はここにあり,ここから出発する.
のおとぎ話研究等があり,いずれも話題作である.小説
彼女の歴史研究にしても,創作にしても,この点におい
は短編1っを入れて5編,The Lost Father(1988)
て互いに密接にっながっている.西欧社会の制度が押し
はブッカー賞候補に上っている.
付けてくる「唯一の真理」,父の言語を押し退け,文化
生まれは1946年.イタリア人とイギリス人の混血であ
の主流から常に周縁化されてきた文化,発する声を持た
り,かつクレオールの血を引いている.イタリア,ベル
なかった文化に光を照射すること.失った母のかわりに
ギー,イギリスの修道院付属学校で教育を受け,ここで
新たな母を回復すること.これが,歴史家としても,作
マリァ崇拝を血肉のなかに叩き込まれる.大学はオック
家としても,ウォーナーにとって書くことの原動力になっ
スフォード.フランス,イタリア文学を学んでいる.彼
ている.ここにあえてキーワードを与えるなら,母の回
女の最初の仕事Alone Of All Her Sexは,自分の中
復とポストコロニァルなフェミニズムとなろう.
の核とも言うべきマリア信仰の検証作業である.即ちこ
歴史の書き直し,沈黙したものたちに声を与えること,
れまで絶対的無条件に崇拝してきたマリアとは一体何な
表現させること.男性の語り,男性の視点ではないもの
のか,その実像を自らに問い掛けるいわば自己内の旅の
で歴史を織り直していく作業.このパイオニアはヴァー
ディスクールとなっている.神の母,聖なる母性,無原
ジニア・ウルフだが,ウォーナーは明らかにその後を走っ
罪の宿り,永遠の処女等のイメージを生み出してきたマ
ている作家であり,Indigoでは,ウルフの『波』,『歳
リア崇捧 ウォーナーはこれを形成してきたヨーロッパ
月』を明らかに意識している.
史を,芸術作品,絵画,歌などを通じてたどっていくの
さらに創作手法という点で言い忘れてならないことは,
だが,その実像はなかなか浮び上がってこない.最終的
ウォーナーとアンジェラ・カーターとの近似性である.
に彼女は,マリア崇拝とは意外に実体のないものであり,
(『野獣から美女へ』のなかでもウォーナーは,カーター
大きくなりすぎた恐竜に過ぎないものだと結論づけるに
の童話を語り直す手法と意味にっいて,思い入れを込め
教養部・英語第5研
て分析している.)長い歴史のなかで,自分たちの人生
(1)
伊藤 節
を支配する力を持たなかった女性は,自分自身の物語を
れは,いかなる境界も障害もあっさりと飛び越えてしま
語る手法,テクスト,プロットを奪われてきた.これを
うことのできる魔術的な力をもっているからともいえる.
解決する一っの手段としてカーターは,人々の心に浸透
灰だらけのかわいそうなシンデレラも,魔法使いのおば
している有名な童話,民話,おとぎ話を現代の女性の目
あさんによって変身させられ,かぼちゃで立派な馬車を
から書き換え,換骨奪胎し,新しい物語に作り替えるこ
作ってもらい,王子様に会いに行くことができる.実際,
とをやっている.同じ意味でウォーナーも,自分の書く
おとぎ話やロマンスの魅力は,この魔法による変容,変
作業を一種の考古学的仕事とみなし,歴史を含あて物語
身の容易な可能性なのだ.さらにそこでは,伝統的な価
の掘り起し,解釈の仕直し,物語の織り直しに極めて意
値基準をいともあっさりと転倒させてしまうことが出来
識的である.その意味で彼女は,カーターに続く作家
るのだ.子供時代は男も女もこの世界を存分に楽しむの
(その作品のなかで一一一ts好きなものが,始源に戻って歴
だが,成長すると男はここからさっさと実人生に飛び出
史を検証する『新しいイブの情熱』であるというのもう
していく.一方,女は大人になってからも,これをひそ
なずける)ともいえるのである.
かに心のなかに暖めていたのだ.それは,自己の人生を
自分の力ではどうしようもなかった女性たちの願望を表
2.lndigoの風景
一その物語構造と手法(歴史とおとぎ話)
現し,これを叶えてくれる世界だったからだ.女性たち
は事あるごとにこの世界に逃げこんでいたのである.こ
Indigo(1992)はウォーナーの4編の長編小説のな
のように女性たちにとって,おとぎ話は特に親しい意味
かでは最も新しいものであり,400ページ以上の野心作
をもっ世界だといえる.
である.副題は「海の地図を作ること」となっているが,
こうしてウォーナーはIndigoにおいて,シェークス
ここに含蓄される意味とイメージは実に多様である.あ
ピアのロマンス,『あらし』のテクストを下敷きに,ヨー
えて一言で言ってしまえば,これは物語の舞台の1っと
ロッパの歴史(植民地支配の歴史)を一っのおとぎ話,
もなっているカリブ海の架空の島(周縁劣位の文化を
ロマンスとして織り直していく.バミューダ島の遭難と
象徴するもの)の,豊かで多様な,流動性に富みながら
いう「歴史的事実」を利用して作られたとされるシェー
明晰に言語化されない文化(ここには奴隷,女性のそれ
クスピアのこのロマンスは,ウォーナーの試みにとって
が重ねられる)に表現を与えるという意味であろう.こ
格好のものだったのであろう.カリブ海はウォーナーの
の「海」は,ウルフの『波』,ジーン・リースの『広い
遠いふるさとともいえる.この歴史について彼女は,未
藻の海』,シェークスピアの『あらし』の海のイメージ
だ何も語られてはいないのだと考える.コロンブスに始
をも呼び起こす.これを創作するウォーナーの知的射程
まる発見と植民,支配という出来事の羅列に過ぎないオー
には,これまた様々な問題が入ってくる.ヨーロッパの
ソドックスな歴史は,真の歴史とは言えない.ここには
歴史,キリスト教史の問い直し,植民地主義,人種差別
その土地に住み続け,土地の景観に結びっいた人々の意
問題,性差別問題等々.ヨーロッパ(特にイギリス)
識集合的記憶,集団的な願望が全く入ってはこない.
の歴史的ドキュメントを混合し,権力の側にある者たち
彼女はここに切り捨てられてきた声にならないものたち
ではなく,民衆自身が飲んで本当においしいと感じるよ
の意志や欲望に声,表現を与え,新たな歴史を綴ろうと
うな味付けのスープを,いわばレシピーのない手探りの
する.海,孤島,火山,マングローヴの茂み,森,海岸
料理を作ろうとする.
線といった土地の地勢からたちあがる空間的想像力によっ
手法はロマンスとおとぎ話である.両者はともにその
て,声のかたちをとらない民衆に言葉を与えようとする
のだ.
虚構性物語性という意味で類似するものであるがウォー
ナーはこれを,女性のナラティブとして最もふさわしい
ウォーナーという作家はここで色という独特の言語を
形ととらえている.即ちここにおけるイマジネーション
使う.歴史上の無味乾燥な出来事を意識的にぼかし,出
の中の言語,レトリックは,自由で,自然で,ポエティッ
来事,名前,場所,時を色で表わし,イメージとしての
クで,歴史的に自己表現のエクササイズを欠き,受動的
テクストを作りあげようとする.ここに,『あらし』の
な言語表現しか持たなかった女性には表現上の戦略とし
孤島,魔術,復讐,再生といったテーマから浮び上がる
てこたえられないものだということである.何よりもそ
多層なイメージが重なりあい,収奪の歴史のなかで自己
(2)
マリナ・ウォーナーの世界についての覚え書き一Indigoの風景
表現が見っからないまま沈黙しっっ生きてきた民衆の,
カリブ海の島)金色と白
詩的で哀切な,不思議な魅力をもっ物語が繰広げられる.
……21章∼25章
五部
それは声を持たない人々の真の気分を伝える「実体」と
(1969年頃)緑色とカーキ色
……26章∼30章
しての歴史ともいえるものである.
六部
沈黙する民衆の心に表現のテクニックを与えるという
(1983年頃)えび茶色と黒
……31章∼32章
冒険的試みは,確かに不安定なものにならざるをえない.
セラフィン三巻 33章(ロンドン)
しかしウォーナーは,これを意外なほど自由な身のこな
しでやっている.っまり歴史の織り直しは,カリブ海の
島からイギリスに連れてこられた一人のクレオールの老
ここでつけたしておかなければならないのは,歴史を
婆セラフィンが,子供に語るおとぎ話という手法でなさ
物語として語るセラフィンという存在は,さきに述べた
れるのだ.
シェークスピアの『あらし』の構造と重複していること
ここで注目すべきことは,歴史がこの語り手によって
である.孤島に流されたプロスペロは,ロマンスの虚構
「昔物語」として語られるという手法である.しかも語
性を外側から支える狂言回し,演出家の役割を背負いな
り手セラフィンは,自身が収奪されてきた奴隷被支配
がら,実は,自らその中に入り込み復讐劇を演じてしまっ
者の文化に属する者であるということ,西欧世界の主流
ている.ウォーナーは,この『あらし』の問題点とされ
文化に位置する者,一貫性や本質性を旨とするような主
る部分を意図的にそっくりここに利用している.セラフィ
体を代表するものではまったくないという事実であろう.
ンはこの物語の枠を外から支える役割でありながら,そ
彼女は単一の統一された真理の言語を語らない.彼女の
の枠と内容を意図的にずらし,ぼかしっっ自らもこの劇
語る物語は,レシピーのない家庭のスープのように,語
中で,権力の源泉に依拠する概念,行為を崩壊させてい
るたびに変容する.あるいは意図的に変容させる.しか
くという脱歴史的アクションを何気なく演じてしまうの
もその内容はかならずしも事実ではなく,願望を込めて
だ.それはまた脱孤島のアクションとも言える.孤島,
語った物語に自分自身裏切られることもある.まさにセ
植民地化,奴隷貿易,移住,移民,そこからうまれる差
ラフィンの語りは,文化の主流から周縁化されてきた力
異(差別)のシステムから脱出し,新しい力を獲得しな
強い口承的文化の伝統に根ざしており,自然な多様性と
がら文化のパラダイムを転倒し,自らを別な存在へと変
流動性に富むものである.いわゆる公用語を使わないこ
容させていく再生の試みをなしていくのだ.
のセラフィンの多彩で,分裂的で,重層的な語りは,人
3.Indigoの風景解読
間の社会,文化の単一化,統一化というものへの幻想を
払い除け,歴史をより巨視的な立場で見る役割を見事に
アンジェラ・カーターと似て,テクスト中に埋め込ま
果たしているといえる.Indigoにおける重層的な歴史
れ多層な意味を読み取ることは容易ではないのだが,大
の語り直しの構造は特異なため,以下にその外郭的構造
筋の内容を読み取って見よう.
を記してみる.
舞台は主としてロンドンとカリブ海の架空の島である.
島の名前はEnfant Beate.まさに西欧世界が文明の名
セラフィンー巻
セラフィンニ巻
のもとに土足で上がり込み踏みにじる以前の,無垢だっ
1章(ロンドン)
一部 (1948年頃のロンドン)ライ
た土地という意味を込め,「幸福な子供」である.
ラックとピンク…2章∼6章
この島Enfan Beateに初めて足を踏み入れ,植民地
二部 (1600年頃のカリブ海の島)
を切り開いたキット・エヴァラードの子孫であるエヴァ
インディゴとブルー
ラード家三代の憎しみと葛藤を軸にして,カリブ海の島々
……7章∼11章
の歴史が物語られていく.
三部 (1619年頃のカリブ海の島)
物語は,クレオールの乳母セラフィンが,ミランダに
オレンジと赤……12章∼19章
語る遠い島Enfan Beateに伝わるお伽話から幕が開く.
20章(1951年のロンドン)
いわば序の部分である.
四部 (1960年代のパリ,ロンドン,
このミランダにとっておばさんに当たるザンシの誕生
(3)
伊藤 節
が,物語の真の始まりとなる.サー・アンソニー・エヴァ
わい,ひれ伏して人から愛を求める奴隷のような習性が
ラードは,Enfan Beate島でめとったクレオールの最
身についている.っまりミランダは,自分というものが
初の妻をなくした後ロンドンに戻り長いこと一人でいた
はっきり認識できず,問題意識を抱えながら自己表現が
が,その後18才若いジリアンと再婚し,51才で女の子供
できない,言語で明晰に語ることのできない‘muted vo
が生まれる.これがザンシである.アンソニーと最初の
ice’たるものなのだ.
妻との間にできた子供はキット(28才)といい,妻アス
一方ザンシは,色白な金髪の美女であり,人生常にす
トリッド(30才)との間に先に述べたミランダ(6才)
べてが豊かに与えられていて,何不自由のない女王のよ
という女の子がいる.キットとアストリッドの間には愛
うな生活をしている.純粋培養の結果,他人への人間的
がないわけではないが,常に喧嘩が絶えず,娘のミラン
共感,感情が欠如している.典型的な父の娘で,父の明
ダは両親が巻き起す「あらし」の中で,放ったらかしで
晰な言語をすらすらとしゃべりながら,自分の生に対す
愛に飢えて育っことになる.
る問題意識は皆無である.
アンソニーは「血は水よりも濃い」が信条で,自分の
この二人の表わすものは,シンボリックにカリブの対
家系を何よりも誇りにしている.怒りを表に表わしたこ
抗文化たる黒と,西欧白人文明の白といえる.ここで焦
とのないような穏やかさを常に保持しているのだが,そ
点となるのは,カリブ海の民衆とオーバーラップしてい
の裏に絶対的権力意識を抱え持っている.「血」の正当
るこのミランダが,父キットが出来なかった自己表現の
性へのこだわりが,何よりもそれを証明している.ちな
手段を遂に見出すまでの変容の歴史といってもいい.こ
みに若い金持ちのジリアンが彼と結婚した理由は,その
れは,カリブ海の島々の自立へ向けた運動と明らかに重
誇るべき家柄ゆえだ.さてアンソニーは表にこそ表わさ
ねられている.
ないが,息子のキットのことを軽蔑している.人生何に
さて,ザンシが生まれ,その洗礼式とパーティーに招
おいてもつまついてうまく行かないキット.結婚もそう
待されたキットー家が,帰り道,ロンドンのど真ん中で
だ.それにクレオールの黒い血である.子供時代は「ク
濃霧に会い,終電にも間に合わず遭難せんばかりの状態
ロンボ」といじめられたキット.アンソニーにとってキッ
で地下鉄構内にだとり着き,一夜を明かす.これが物語
トは不肖の息子なのである.したがってアンソニーは,
の本当の始まりである.即ち,シェークスピアの『あら
純粋な血はこのキットではなく,それより28年後に白人
し』の世界だ.弟のアントーニオのはかりごとで国を追
の妻との間に生まれた白い肌の金髪のザンシによって引
われたミラノ大公プロスペローが,娘ミランダとともに
き継がれると考え,この娘を溺愛し,純粋,無垢の状態
「孤島」に流れ着くところのイメージである.
に保っことに心を砕く.(『あらし』のプロスペロとその
この「孤島」一魔法の島のイメージは,2部に入
娘ミランダとの関係がここに重なってくる.)キットは
り,数百年さかのぼって1600年頃のカリブ海の孤島
父アンソニーのこの軽蔑を感じ取っていても,父親に頭
Enfante Beateに引き継がれる.コロンブスの大陸発
が上がらない.更にこのことに気づいている妻アストリッ
見以来かまびすしくなったカリブ海の島.その島が植民
ドは,義父とその若い妻を激しく憎む.喧嘩の絶えない,
地化されていく歴史が,長い死の始まりとしてポエティッ
貧乏暮しの自分たちの家庭と,仲むっまじい,金持ちの
クに描き出される.島にはこの頃,逃亡奴隷の死体が数
義父の家庭との違いも,この憎しみを増幅している.
多く漂着するようになる.その中の妊娠した女奴隷の腹
以降,ミランダと,その関係から言えば叔母さんにな
から男の子供をかろうじて救い出したシコラックス.彼
る年少のザンシとは,アンソニーがイギリスに戻って来
女はこのため魔女のレッテルを貼られ,婚家を追われて
るとき島から一緒に連れてきた,クレオールのメイドで
島の奥に入り込み,ここで子供と生活を始める.子供の
あるセラフィンを乳母がわりにして,彼女のお伽話を聞
名前はキャリバン.同じ境遇の女の子エリエールもこれ
きながら姉妹のように仲良く育っていく.そしてこの二
に加わる.いくら教育してもそれに馴染まないキャリバ
人の生の対比がこの物語の基調低音となっていくのだ.
ン.風や空気光りと交流するエリエール.ともに自然
まずミランダの場合を見てみよう.クレオールの黒い
に対する感性と想像力を象徴するキャラクターだ.イン
血を引き,性格は非常に感情豊か.生きる環境は常に
ディゴ・ブルーの見事な染色と,ハーブや温泉による医
「あらし」で,孤島に流されるような孤独感をいっも味
療行為,占いに精を出すシコラックス.シコラックスの
(4)
マリナ・ウォーナーの世界についての覚え書き一Indigoの風景
口癖は,「火の神アデサンゲを忘れるな」である.島の
ながら自己の無罪を申し立てるようなこの滑稽な振る舞
シンポル,守り神であるアデサンゲ火山は,表現する声
いは,そのまま西欧の植民地主義の自己正当化の歩みと
を持たないこの島のネイテヴの心でもある.ここには,
重なってくる.彼は勿論エリェールではなく,本国の清
西欧の植民地主義が「未開文化」と命名し,劣位にある
らかな淑女と結婚する.エリェールとの間にできた子供
ものとして差異化していく以前の,神話が生活のなかに
は,彼にとって見ることさえ出来ない嫌悪の対象となる
いきいきと生きている土地の文化が,森,山,海岸,海
のである.西欧人の父とネイティヴの母との間にできた
といった美しい風景とともにポエティックに,神話的に
こういった混血児の存在は,植民地の現実であり,これ
語られる.海にはマンジクという怪物が住み,この怪物
が,植民地支配という父権的な権力構造に果敢に抵抗す
は「女になりたい」「子供を産みたい」という願望があ
る地下に埋め込まれたダイナマイトともなっていく.の
まりに激しいため,海を荒らし,みこもった女を飲み込
ちに彼らは父ではなく,母としてのこの土地にっながる
むのだと,人々の間に伝えられている.アンソニーの最
存在として,シコラックスを自らの中に回復すべく,独
初の妻が死んだのもそのためだった.
立の運動に立ち上がっていくのだ.
やがてこの島にキット・エヴァラードが足を踏み入礼
時が現代に戻る.このクリスチャン・エヴァラードの
ネイティヴとの戦いが始まる.キャリバンもその闘士の
正当な子孫として,ザンシ,キット,ミランダが植民の
一人だ.シコラックスの死,島の死=植民地化が哀切に
350年記念祭に出席するためEnfante Beate島に渡る.
描き出される.それ以来シコラックスは,この島の地面
アンソニーは,島の「変化」を感じ取り,再訪を拒絶す
に眠れないまま,目を開けて横たわり続けている.この
る.
魔女シコラックスは,古代の叡知を身に着けた地母神,
Enfante Beate島でザンシは,ホテル経営者と結婚し,
自然の無垢のエネルギー,宇宙的生命力を体現するもの
自ら積極的に島の観光化事業に乗り出していく.シコラッ
であろう.近代の歴史の背後で生き続けてきたネイティ
クスの土地も,この観光事業のいい対象となっていく.
ヴの集合的な土地の記憶を象徴するものともいえる.こ
劣位にあるものを珍しく眺め,優位に立っ自分との差異
の土地の母たるシコラックスは,島の再生にっながるイ
を確認する観光という,植民地主義,権力主義にっなが
メージとなっていくのである.
る行為にザンシはひどく熱心になる.ミランダはこれに
ここで興味深い問題は,言葉を持たない自然児キャリ
疑問を持ちながら,はっきりとした自己表現ができない
バンの教育の失敗である.言うまでもなくここにはシェー
まま寡黙な援助者となっている.やがて島は変わってい
クスピァのキャリバンとの重ねあわせがあるのだが,少
く.人々は止まることを知らない観光化という島を売り
し意味のずらしが行われている.ここでは「改善」の可
渡す行為に反対し,武装化,反乱という騒ぎを起こす.
能性のない自然児に力点が置かれるのではなく,それを
島の自立へ向けての動きの始まりだ.アンソニーが予感
ピューリタン的厳格さで教育することができるとする支
した恐怖,島行きを拒んだ理由とはこれだったのである.
配文化の幻想を,白日の元にさらけ出すことがポイント
この騒ぎの中,一人船で夫のもとにかけっけようとした
となっている.白人文化,キリスト教文化を唯一絶対な
ザンシは,マンジクの海に飲みこまれて死ぬことになる.
ものとし,ネイティヴな文化を劣性なもの,否定的なも
ザンシの死の象徴的意味は,彼女がブロンドであること
のとして文明世界に引き上げてやろうとする奢りをさら
だ.おとぎ話の世界に繰り返し表われるブロンドの象徴
けだすことだ.
するものは,「いい子」である.いわゆる父権社会のな
開拓者エヴァラード・キットは,民衆を教化し,ここ
かでめでられる女の子であり,彼女はそこにおとなしく
にキリスト教的理想郷を作るという使命感に燃えている.
留まる限り,「しあわせ」というごほうびが約束される.
啓蒙,教化という名のもとに植民地を自由自在に支配す
ザンシの死は,その意味の転覆というものであろう.
るという,西欧世界のコロニアルな感性を体現するもの
ロンドンに戻ったミランダは,イラストレーターとし
だ.その身勝手さは,実に滑稽に描かれる.性欲を処理
ての道を歩み始め,自分の生き方,自己表現の手段を獲
し切れなくなったキットはエリエールを夢中で抱くが,
得し,大きく変わる.ザンシに対して常にひそかに抱い
同時にそのおぞましさのたあ聖書を読み,自らを清めよ
ていた嫉妬はもう感じない.昔のように,卑屈に愛を求
うとする.これを彼は恥ずかしくもなく繰返す.破壊し
める自分ではなくなったところで見出した愛を暖めてい
(5)
伊藤節
く.やがて子供が生まれたという報告で話は終る.それ
自己という確固たる統一体の概念や,無謬性の言語で語
は,昔カリブの島で行なわれた闘争の歴史が,現代にお
るという幻想は,完壁にとり払われている.固定的なアイ
いて反復,再現され,和解と再生が成立したことの暗示
デンティの意識を捨て,自己の分析ではない,認識へ向
ともとれよう.
かっての冒険的な思考のアクションである.それはカリ
最後にセラフィンが物語の幕引きに登場する,キット
ブの民衆にとっての,そして女性達にとっての,新しい
と別れたミランダの母アストリッドが,依然精神的に自
主体性の実践ともいえよう.文化のヘテロロジーの探求
立できない状態を見舞いながら,「自分をおとしめない
ポストコロニアリズム,フェミニズムというものは,作
こと」,「卑屈にならないこと」を諭すのだ.老いたセラ
者においてここで結びっいている.ウォ・一一ナーの色やイ
フィンだが,彼女はまだまだ物語を語ることに意欲的だ.
メージの言語を駆使した歴史再編の試みは,すべてこう
お話はこれからも続いていくらしい.
いうところへ向けた大胆な実践といえるのではなかろう
か.
4.まとめ
参考文献
このようにウs一ナーが,終わりのないお話として歴
史を書き綴っていく戦略とはなんであろう.いうまでも
Warner, Marina. Indigo. LodonChatto&Windus
なくそれは,制度が記載する過去事実の羅列という死亡
I」td.,1992.
者名簿のような歴史を脱構築するためのものだ.正統で,
.ノllone Gゾノ111 Her Sex. Picador, 1985
透明な言語では語られることのできなかったもの,人々
. From the Bθα8‘to the Blonde. I」ondon:
の心の深淵に刻み込まれているものを,呼吸のように吐
Chatto&Windus Ltd.,1994
き出す行為ともいえる.流動し,変容する意識を現場か
.Joαπqん4re. Vintage,1991.
らの実況中継で告げる行為への始動だ.ここではもう,
(6)
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