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Tennessee Williams の Sweet Bird of Youth 落 合 和 昭

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Tennessee Williams の Sweet Bird of Youth 落 合 和 昭
Tennessee Williams の Sweet Bird of Youth
―キリスト教と「時間」、「復活」、「相似」―
落 合 和 昭
序 180
第一章 劇の「時間」と「場所」
181
劇の「時間」
181
劇の「場所」
184
第二章 主なる「登場人物」の名前と属性 191
CHANCE WAYNE 191
ALEXANDRA DEL LAGO、別名 THE PRINCESS KOSMONOPOLIS 196
BOSS FINLEY 199
TOM JUNIOR 204
HEAVENLY 206
THE HECKLER 208
AUNT NONNIE 211
MISS LUCY 214
第三章 八人の「登場人物」の属性とキリスト教 216
第四章 テーマ曲:The Lament と『旧約聖書』の「哀歌」
224
第五章 「去勢」 228
「去勢」の第一の意味 228
「去勢」の第二の意味 233
結 び 237
- 179 -
落 合 和 昭
序
Tennessee Williams の Sweet Bird of Youth の初演は、1956 年四月十六日、Florida
州 Coral Gables の Studio M Playhouse で あ っ た。 こ の と き の 演 出 は George
Keathley が 担 当 し、 主 演 は CHANCE WAYNE 役 に Alan Mixon、THE PRINCESS
KOSMONOPOLIS (ALEXANDRA DEL LAGO) 役に Margrit Wyler があたった。
Tennesee Williams: Play1957-1980 (The Library of America 2000) の NOTE ON THE
TEXTS (p982-p989)(1) によれば、この劇は、最初は、1948 年に書かれた未完の
劇 The Big Time Operators と 1951 年から 1952 年にかけて書かれた小説 Two on a
Party を、いわば、融合する形で生まれた、新しい一幕劇で、
「題名」は The Enemy:
Time であった(この七年後の 1959 年に、この劇は The Theatre に発表されてい
る)
。Williams はこの The Enemy: Time の原稿を Studio M Playhouse の創立者である
Keathley に送ったのである。その後も、この劇には、手が加えられ続け、
「題名」
も Sweet Bird of Youth にあらためられて、初演を迎えたのであった。
彼 は、 初 演 後 も、 何 度 も、 こ の 劇 に 手 を 加 え 続 け、 初 演 か ら 三 年 後、
Pennsylvania 州 Philadelphia で の 試 演 を 経 た 後、1959 年 三 月 十 日、New York の
Martin Beck Theatre で再演された。このときの演出は Elia Kazan (1909-2003) に替
わり、CHANCE WAYNE 役も、Paul Newman、THE PRINCESS KOSMONOPOLIS 役
も、Geraldine Page に替わっていた。このときの劇の連続公演は三百七十五回であ
った(この New York 公演のテキストがこの論文で使われているテキストである)
。
さらにそれから三年後の 1962 年に、この劇は映画化され、そのときは、監督・
脚本は Richard Brooks (Williams は脚本には加わっていない)であったが、主演は、
劇の New York 公演と同様に、Paul Newman、Geraldine Page であった。この映画は
かなりの関心を集め、いくつかの賞を獲得している。Academy Awards(1963 年度)
では、BOSS FINLEY 役の Ed Begley が Best Actor in a Supporting Role を獲得、THE
PRINCESS KOSMONOPOLIS 役 の Geraldine Page が Best Actress in a Leading Role、
HEAVENLY FINLEY 役の Shirley Knight が Best Actress in a Supporting Role にノミネ
イトされた。また、BAFTA (British Academy of Film and Television Arts) Awards(1963
年 度 ) で は、Geraldine Page が Best Foreign Actress に ノ ミ ネ イ ト さ れ た。 さ ら
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Tennessee Williams の Sweet Bird of Youth
に、Golden Globes(1963 年度)では、Geraldine Page が Best Motion Picture Actress:
Drama を 獲 得 し、Paul Newman が Best Motion Picture Actor: Drama、Ed Begley が
Best Supporting Actor: Drama、Shirley Knight が Best Supporting Actress: Drama にノミ
ネイトされた。
第一章 劇の「時間」と「場所」
劇の「時間」
この三幕劇の「時間」は、巻頭に付けられた Synopsis of Scenes に、
TIME: Modern, an Easter Sunday, from late morning till late night.
と書かれている。「時間」は、“modern”、
「現代」
、“an Easter Sunday”、
「イースター(復
活祭)の日曜日」
、“from late morning till late night”、
「朝遅くから夜遅くまで」とな
っている。そのため、劇の「時間」は一日以内、正確には、十二時間あまりと考え
ていいだろう。
劇が始まって間もない「ト書き」や「台詞」の中で、すでに、
[....A church bell tolls, and another church, nearer, a choir starts singing the “Hallelujah
Chorus.” It draws him to the window, and as he crosses, he says:]
CHANCE: .... I didn’t know it was―Sunday.
FLY: Yes, suh, it’s Easter Sunday.
CHANCE[leans out a moment, hands gripping the shutters]: Uh-huh....
FLY: That’s the Episcopal Church they’re singin’ in. The bell’s from the Catholic Church. (p14)
(下線は筆者、点線部分は省略部分)
と書かれているので、この日がイースター・サンディであることがわかる。観客は、
劇の初めに、教会から聞こえてくる「ハレルヤ・コーラス」やホテル従業員の FLY
の「台詞」から、この日がイースター・サンディであることを知らされる。また、
「ハ
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レルヤ・コーラス」が聞こえてきているところから判断すると、教会は、イースタ
ー礼拝の最中であると思われる。もちろん、教会によって異なるが、おおむね、プ
ロテスタントの礼拝時間は午前十時から十時半頃までに始まり、昼前に終わる。そ
のため、イースター礼拝の時間と Synopsis of Scenes に書かれている、劇の「時間」
、
“late morning”、「遅い朝」とがほぼ重なり合っていることになる。このことは、劇
の ACT ONE の SCENE ONE 及び SCENE TWO の「時間」と、教会のイースター礼
拝の時間がほぼ一致しているということである。このことは、この劇の構成全体
を考える上で、かなり重要であると思われる。というのは、キリストの復活を祝
う、イースター礼拝が行われている最中に、ACT ONE の SCENE ONE 及び SCENE
ONE の場面が展開されていることになる。そのため、観客は、劇の ACT ONE の
進行を見ながら、その背後に、教会のイースター礼拝を意識することになり、教会
のイースター礼拝を意識しながら、ACT ONE の進行を見ることになるからである。
ACT ONE の進行とイースター礼拝がかなり密接に結びついていると言える。それ
は同時に、イースター、すなわち、キリストの復活の意味と ACT ONE の内容が結
びついていることも暗示している。
ACT TWO SCENE ONE では、その冒頭の「ト書き」に、
....The Gulf is suggested by the brightness and the gulls crying as in Act One....(p56)
(下線は筆者、点線部分は省略部分)
と書かれている、“the brightness”、「明るさ」は昼間の太陽の明るさを暗示してい
るので、この ACT TWO SCENE ONE の「時間」は、まだ、夜になっていないと
思われる。しかし、この ACT TWO SCENE ONE が終わりに近づいてきたときに、
「ト
書き」には、
....It is early dark. The coach lamp has cast a strange light on the setting, which is
neoromantic:...(p68)
(下線は筆者、点線部分は省略部分)
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Tennessee Williams の Sweet Bird of Youth
と書かれているので、夕方が迫りつつある「時間」であることがわかる。この
ACT TWO SCENE ONE の「時間」は、より正確を期して言えば、午後遅くから夕
方にかけての「時間」ということになる。
ACT TWO SCENE TWO の冒頭の「ト書き」には、
....Royal palms are projected on the cyclolama which is deep violet with dusk....(p74)
(下線は筆者、点線部分は省略部分)
と書かれているので、明らかに、夜もかなり深まった「時間」である。
ACT THREE の冒頭の「ト書き」には、
A while later that night: the hotel room. (p110)
(下線は筆者)
と書かれているので、ACT THREE の「時間」は Synopsis of Scenes の “late night”、
「夜遅く」
、イースター・サンディも終わる「時間」に当たることがわかる。
以上のことを簡略化すれば、イースター・サンディの、それぞれの ACT や
SCENE の「時間」は、
ACT O N E SCENE ONE → 朝遅く
SCENE TWO → 朝遅く
ACT TWO SCENE ONE → 午後遅くから夕方にかけて
SCENE TWO → 夜
ACT THREE
→ 夜遅く
となる。ACT ONE と ACT THREE は、それぞれ、同じ「時間」の幅の中にあるが、
ACT TWO は、SCENE ONE と SCENE TWO では、それぞれ、「午後遅くから夕方
にかけて」の「時間」と「夜」の時間に分かれている。
イースターは、よく知られていることであるが、キリストの復活を祝う、キリス
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ト教最大にして、最古の祭りであり、春分の日の後、最初の満月の次の日曜日に当
たる。そのため、クリスマスと違って、イースター・サンディは、年ごとに、日に
ちが異なる。イースターは、どういうわけか、日本では、クリスマスに比べると、
イースターという名前だけは知られているが、それはいつか、具体的には、教会は
どのようなことをするかについては、クリスマスに比べると、ほとんど知られてい
ないのが実情であるが、キリスト教会においては、イースターは、クリスマスと並
んで、キリスト教の二大祭りであると言っても、過言ではない。しかし、この劇の
主人公 CHANCE は、その日がキリストの復活を祝うイースター・サンディである
ことを、すっかり、忘れていたが、教会の鐘とホテル従業員によって、その日が
イースター・サンディであることを知る。前にも述べたように、ACT ONE SCENE
ONE と SCENE TWO の場面はイースターの礼拝時間と、いわば、同時進行してい
ることは、この劇においては、暗示的である。CHANCE は、キリスト教や教会か
ら離れた生活を送り、その日がイースターであることも知らなかった彼が、ほぼ
十二時間後、この劇の終わりである、ACT THREE の終わりに、彼は、彼にとっての、
悔い改めと一種の復活、あらゆる罪からの復活にかけることになるからである。
劇の「場所」
この劇の「場所」は、州の名前は特定されていないが、
アメリカ南部、
「メキシコ湾」
沿いの St. Cloud である。この地名は、正確には、数えていないが、数十回も、「登
場人物」によって、繰り返えされる。事あるごとにと言ってもいいほど繰り返され
るので、少し、耳につくほどである。この St. Cloud は、いかにも、キリスト教の
影響が強い土地柄であるという印象を与える。
筆者が調べた限りでは、アメリカには、St. Cloud という地名は、Minnesota 州、
Wisconsin 州、Washington 州、Florida 州に、それぞれ、実在する町である。「場所」
が南部であり、
「メキシコ湾」沿いにあると言えば、Florida のみが当てはまると
思われるが、Florida の St. Cloud は、Disney World で有名な Orlando の近くにあり、
Florida 半島のほぼ中央部に位置する。そのため、Florida は南部であるが、Florida
の St. Cloud は「メキシコ湾」沿いにあるとは言えない。また、ACT TWO SCENE
TWO の中で、MISS LUCY が、CHANCE に向かって、
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Tennessee Williams の Sweet Bird of Youth
MISS LUCY: ....I’ll drive you out to the airport. They’ve got an air-taxi out there,
a whirly-bird taxi, a helicopter, you know, that’ll hop you to New Orleans in fifteen
minutes. (p95)
(下線は筆者、点線部分は省略部分)
と言う場面がある。彼女によれば、この St. Cloud から近くの空港まで車で行き、
そこから、“air-taxi” と呼ばれている、ヘリコプターを使えば、New Orleans まで
は、十五分で行ける。すなわち、St. Cloud 近くの空港から New Orleans まで、ヘリ
コプターが時速二百キロで飛んだとしても、五十キロの距離である。Florida の St.
Cloud から New Orleans までは、距離にして、六百五十五マイル(約千五十キロ)
、
どう考えても、ヘリコプターを使って、十五分では行けない。そのため、この劇
の「 場 所 」 で あ る、St. Cloud は New Orleans が あ る Louisiana 州 か、New Orleans
の位置からすると、せいぜい、隣接する州であり、Williams が生まれた州でも
ある、Mississippi 州の南部であると考えられる。そうすると、Louisiana 州にも、
Mississippi 州にも、St. Cloud という町は存在しないので、この劇の「場所」である、
St. Cloud は架空の町ということになる。
Williams は、架空の町、St. Cloud にある、この劇の「場所」について、巻頭につ
けた Synopsis of Scenes(括弧内のページ数は筆者)の中で、
ACT ONE(全四十三ページ)
SCENE ONE : A bedroom in the Royal Palms Hotel, somewhere on the Gulf Coast.
(P13-p44)、
(全三十二ページ)
SCENE TWO : The same. Later. (p45-p55)、(全十一ページ)
ACT TWO(全五十五ページ)
SCENE ONE: The terrace of Boss Finley’s house in St. Cloud. (p55-p73)、
(全十九ページ)
SCENE TWO: The coctail lounge and Palm Garden of the Royal Palms Hotel.
(p74-p109)、
(全三十六ページ)
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ACT THREE(全十五ページ)
The bedroom again. (p110-p124)、
(全十五ページ)
と書いている。これによれば、ACT ONE と ACT THREE は、「場所」が「メキシコ
湾」沿いの Royal Palms Hotel の一室であり、ACT TWO の「場所」は、SCENE ONE
では、やはり、「メキシコ湾」沿いの BOSS FINLEY の家のテラスであり、SCENE
TWO では、同じホテルのカクテル・ラウンジとパーム・ガーデンである。そのため、
「場所」を大きく分けると、ACT TWO の SCENE ONE だけが BOSS FINLEY の家で
あり、他はすべて、Royal Palms Hotel(部屋、ラウンジ、パーム・ガーデン)内と
いうことになる。
ACT や SCENE の面からも、ページ数の面からも、
「場所」は圧倒的にホテル内
である。あえて単純計算をしてみると、テキストの全ページ、百十三ページの中
で、ホテル内は九十四ページであり、この劇の「場所」の八十三パーセント強であ
る。その他の「場所」である ACT TWO SCENE ONE の BOSS FINLEY の家のテラ
スは全体の「場所」の十七パーセント%弱である。しかし、同じホテル内でも、
「場
所」がホテルの部屋である ACT ONE と ACT THREE は合計で六十八ページ、全体
の六十一パーセント強にあたり、ACT TWO SCENE TWO のホテルのラウンジとパ
ーム・ガーデンは三十六ページ、全体の三十二パーセント弱にあたり、その比率
はおよそ二対一、ホテル内の全体の「場所」の三分の一に当たり、思いの外、ACT
TWO SCENE TWO のホテルのラウンジとパーム・ガーデンの「場所」が占める割合
が多いことに気がつく。ACT ONE、ACT TWO のそれぞれの二つの SCENE、計四つ
の SCENE の中で、最もページ数が多いのが、この ACT TWO SCENE TWO である。
彼は、この「場所」の一つである、ホテルの一室について、ACT ONE SCENE
ONE の冒頭の「ト書き」の中で、
A bedroom of an old-fashioned but still fashionable hotel somewhere along the Gulf
Coast in a town called St. Cloud. I think of it as resembling one of those “Grand Hotels”
around Sorrento or Monte Carlo, set in a palm garden. The style is vaguely “Moorish.”
The principal set-piece is a great double bed which should be raked toward the audience.
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Tennessee Williams の Sweet Bird of Youth
In a sort of Moorish corner backed by shuttered windows, is a wicker tabouret and two
wicker stools, over which is suspended a Moorish lamp on a brass chain. The windows
are floor length and they open out a gallery. There is also a practical door frame, opening
onto a corridor: the wall are only suggested. (p13)
(下線は筆者)
と書いている。
下線部にもあるように、この部屋には、それほどはっきりとした形ではないが、
“Moorish”、「ムーアの」様式が取り入れられている。部屋の片隅がムーア様式で作
られていて、そこには、枝編み細工の整理箱と二脚の枝編み細工のスツールが置い
てあり、また、その天井からは、やはり、ムーア様式のランプ(この冒頭の「ト書き」
では、このランプについては、詳細な説明がないが、ACT TWO SCENE TWO の冒
頭の「ト書き」の中で、この同じランプについて、「ステンド・ガラスと金属の装
飾がついたランプ」という説明が加えられている)が下がっている。この「ト書き」
から判断すると、部屋の一角だけがムーア様式になっていて、ムーア様式が部屋全
体に及んでいるとは感じられない。あくまで、部屋の一部分だけがムーア様式であ
る。そのため、この劇の主なる「場所」である、この部屋の中では、キリスト教国
の建築の中に、イスラムの建築が、部分的に共存しているように見える。また、キ
リスト教の世界を南部に置き換え、ムーア様式を黒人社会に置き換えて、それを構
図的に見ると、キリスト教の影響が強い南部の中に、ムーア様式によって表されて
いる黒人社会が部分的に存在していることの象徴とも見ることができるのではない
だろうか。Williams は、このホテルの「背景」の中に、南部の現実を、いわば、ス
ライドのように写し出しているのかもしれない。
ムーア様式とは、通常、北アフリカやスペインに多く見られるイスラムの影響を
受けた様式である。それは、主として、キリスト教国の建築に与えたイスラムの建
築様式と見ることができる。世界史に関する本には、ムーア人が 718 年にスペイ
ンを侵略し、1492 年までの、およそ八百年間、そこに、定住した旨が、‘Reconquista’、
「国土回復運動」の記述とともに書かれている。その、気の遠くなるような長きに
わたるイスラムの支配は、スペインの生活のすべて、衣食住にわたって、強い影響
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落 合 和 昭
を与えてきた。そのため、キリスト教国側から見れば、ムーア様式という言い方の
中には、キリスト教とイスラム教の共存という面と、キリスト教に対するイスラム
教の脅威という面が、混ざり合って感じられるのかもしれない。
ホテル内のもう一つの「場所」である、カクテル・ラウンジやその奥にあるギャ
ラリーについては、ACT TWO SCENE TWO の冒頭の「ト書き」の中で、Williams は
A corner of cocktail lounge and of outside gallery of the Royal Palms Hotel. This
corresponds in style to the bedroom set: Victorian with Moorish influence. Royal palms
are projected on the cyclorama which is deep violet with dusk. There are Moorish arches
between gallery and interior: over the single table, inside, is suspended the same lamp,
stained glass and ornately wrought metal, that hung in the bedroom. Perhaps on the gallery
there is a low stone balustrades that supports, where steps descend into the garden, an
electric light standard with five branches and pear-shaped globes of a dim pearly luster.
Somewhere out of the sight-lines an entertainer plays a piano or novachord. (p74)
(下線は筆者)
と書いている。
このカクテル・ラウンジも、奥のギャラリーも、様式という意味では、前に述べた、
ホテルの部屋と似ている。ここに至って、Williams は、初めて、ACT ONE SCENE
ONE の冒頭の「ト書き」に書かれている、ホテルの部屋の主なる様式がヴィクト
リア朝様式であると書いている。すなわち、ホテルの部屋も、カクテル・ラウンジ
も、奥のギャラリーも、ヴィクトリア朝様式とムーア様式が融合した造りであるこ
とがわかる。奥のギャラリーと室内の境には、ムーア様式のアーチ型通路があり、
そこにある唯一のテーブルの上には、ステンド・ガラスと金属の装飾がついたラン
プが下がっている。同じホテル内であるので、当然であると思われるが、このカク
テル・ラウンジとギャラリーにも、ヴィクトリア朝様式とムーア様式が用いられて
いる。全体の様式は、ホテルの室内の様式と同じである。
この劇のもう一つの「場所」である、BOSS FINLEY の家については、Williams は、
ACT TWO SCENE ONE の冒頭の「ト書き」で、
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Tennessee Williams の Sweet Bird of Youth
The terrace of BOSS FINLEY’S house, which is a frame house of Victorian Gothic
design, suggested by a doorframe at the right and a single white column. As in the other
scenes, there are no walls, the action occurring against the sky and sea cyclorama.
The Gulf is suggested by the brightness and the gulls crying as in ACT ONE. There is
only essential porch furniture, Victorian wicker but painted bone white. The men should
also be wearing white or off-white suits: the tableau is all blue and white, as strict as a
canvas of Georgia O’Keefe’s. (p56)
(下線は筆者)
と書いている。BOSS FINLEY の家はヴィクトリア朝のゴシック様式(ゴシック・
リヴァイヴァル)の木造家屋であり、テラスに置かれている、唯一の枝編みのイス
もヴィクトリア朝様式のものであり、ここでも、ホテル同様に、ゴシック・リヴァ
イヴァル様式が使われている。しかし、ここには、ホテルの部屋、カクテル・ラウ
ンジ、ギャラリーの一部に見られたムーア様式は、いっさい、使われていない。そ
のため、かえって、この BOSS FINLEY のテラスでは、ゴシック・リヴァイヴァル
様式がより強調されているように感じられる。
ゴシック・リヴァイヴァル様式の定義については、
『ゴシック入門 123 の視点』(2)
の中に、
(ゴシック・リヴァイヴァルの定義は)愛国的と異国ふう、ホイッグとトーリー、
カトリックとプロテスタント、合理主義と迷信的、自然と人工的、階級的と民主
的、実用的と空想的、秘儀的と大衆的とのあいだを揺れ動いているのである。
(括弧内は筆者)
と書かれているように、ゴシック・リヴァイヴァルの中には、あまりにも多くの
対立する要素が、同時に、入り交じっているために、長年にわたって、論争され
てきたが、いまだに、その明確な定義はなかなか定まらない。そのため、BOSS
FINLEY の家のゴシック・リヴァイヴァルの特徴についても、この「ト書き」にお
ける、わずかな記述からは、その様式の特徴を具体的に挙げることは、ほとんど不
可能である。しかし、不思議なことに、BOSS FINLEY、彼の息子 TOM FINLEY、
- 189 -
落 合 和 昭
及び、彼らの、いわゆる、手下たちの中には、上に引用した、対立した概念の多く
が、彼ら自身も理解できない形で、集約的に入り込んで、混ざり合っているように
見える。Williams は、多くの対立する概念が、いたるところで、せめぎ合っている
ように見える、ゴシック・リヴァイヴァル様式と、公民権運動等で揺れ始め、様々
な価値が目立つ形で台頭し、対立し合い、激しくせめぎ合っている南部と重ね合わ
せていると考えることはできないだろうか。その意味では、ゴシック・リヴァイヴ
ァル様式も南部の象徴のようにも思われる。また、見方によっては、ホテルの部屋、
カクテル・ラウンジ、ギャラリーはヴィクトリア様式とムーア様式が混在をなす様
式であり、ここには、多様性、寛容、共存の世界が暗示されているように感じられ
るのに対して、ホテル以外の唯一の場所である BOSS FINLEY の家は、ムーア様式
を取り入れず、伝統的なヴィクトリア朝ゴシック様式からのみ成り立っているとも
考えられる。
この ACT TWO SCENE ONE の冒頭の「ト書き」の中で、Williams は、アメリカ
の女流画家 Georgia O’Keefe (1887-1986) を引き合いに出して、
彼女の絵に見られる、
荒野に横たわる、牛の骨のように白い、白か、白に近い色のスーツを着た男たちを
登場させるようにと指示し、さらに、彼女の絵に見られる青い空に似た空を「背景」
として用い、彼らのスーツの白と「背景」の空の青が強いコントラストをなすよう
にと指示している。当然のことながら、
「背景」である、空と海が青ければ青いほど、
その分、白は強調されることになる。さらに、この家の「背景」として、舞台上に
セットされている唯一の柱については、「ト書き」にもあるように、“a single white
column”、「唯一の白い円柱」と描写され、その家に出入りする、BOSS FINLEY の
部下は、“The men should also be wearing white or off-white suits”、「男たちも、また、
白か、白に近い色のスーツを着るべきである」と、Williams によって指示されてい
る。この家も、BOSS FINLEY の部下たちも、ともに、
「白」が強調され、この家が、
南部の伝統的で、保守的な世界を強調し、白人優越主義者の世界であることも暗示
していると考えられる。
Williams は、 明 ら か に、 劇 の「 場 所 」 と な る 二 つ の 建 物、 ホ テ ル と BOSS
FINLEY の家の建築様式の違いを示すことによって、それぞれの「登場人物」の世
界の特徴づけているように思われる。
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Tennessee Williams の Sweet Bird of Youth
第二章 主なる「登場人物」の名前と属性
CHANCE WAYNE
この劇は、Williams の劇の多くがそうであるように、多くの象徴で満ちている、
いや、満ちすぎていると言ってもいいかもしれない。ある人々にとっては、その象
徴は、少々、鼻につくかもしれない。それは「登場人物」についても当てはまるだ
ろう。この章では、この劇における主要「登場人物」を取りあげて、彼らの特性と
属性を明らかにし、彼ら相互の位置関係にも目を向けたいと思う。
主人公 CHANCE WAYNE の名前は、それを聞いただけでも、すぐに、CHANCE
が ‘chance’、「チャンス(機会)
」を、名字の WAYNE が ‘wane’、「衰える(減る)
」
を暗示していることがわかる。名は体を表すではないが、CHANCE WAYNE とい
う名前が、
「チャンスが減る」を意味していることを考えると、いかにも、彼が、
かっての盛りを過ぎて、しだいに、落ち目に向かいつつあるような状況にいる人物
であるのかもしれないと思われてくる。「チャンスが減る」とは、具体的には、ど
のような状況が訪れてきたので、チャンスが減ってきたのであろうか。
ACT ONE SCENE ONE の冒頭の「ト書き」
、
....CHANCE rises, pauses a moment at a mirror in the fourth wall to run a comb through
his slightly thinning blond hair before he crosses to open the door. (p13)
(下線は筆者、点線部分は省略部分)
には、“his slightly thinning blond hair”、
「彼のわずかに薄くなりつつあるブロンドの
髪」とある。ここには、多くの人々にとっても、そうであると思われるが、彼の若
さが、わずかではあるが、失われつつある様子が、薄くなりつつある髪の毛を通し
て、描かれている。すなわち、彼にとっては、身体的に、青春の終わりが近づいて
いる。今は、その失われつつある若さに関して、CHANCE 自身も、自覚し、気に
し始めている。
さらに、テキストの、次のページでは、
「ト書き」
、
- 191 -
落 合 和 昭
....he (CHANCE WAYNE)’s in his late twenties and his face looks slightly older than
that; you might describe it as a “ravaged young face” and yet it is still exceptionally
good-looking. His body shows no decline, yet it’s the kind of a body that white silk
pajamas are, or ought to be, made for. (p14)
(下線及び括弧内は筆者、点線部分は省略部分)
の中には、彼は二十代の終わり近くであり、彼の顔は、年齢よりも、わずかに、年
を取って見える、すなわち、年よりも老けて見えると書かれている。ここでも、再
び、“slightly”、
「わずか」という語が用いられ、CHANCE は、いわば、若さの最盛
期をわずかに過ぎ、少し、若さを失いかけている状況にいることがわかる。
すなわち、
彼は、若さという観点からのみ見れば、上り坂にいるのではなく、すでに、明らかに、
“ravaged young face”「荒れた(損なわれた)
下り坂に入っている。さらに、
彼の顔は、
若い顔」と描写されている。この “ravaged”、
「荒れた(損なわれた)
」という語は、
通常は、病気、好色、悪徳、怠惰、怒り、悲しみ等によって、それらがあまりにも
過度に偏ったために、その影響が、ある種の疲れとなって、顔の表情に表れてきて
いる状態を表現するときに用いられる。しかし、彼にとって、年齢から来る衰えは、
髪や顔に、わずかに現れてきているだけで、今でも、彼は極めてハンサムで、身体
には、衰えは見られない。
「時間(衰微)
」に支配されて、現在、このような状況に
置かれている CHANCE は、第一章 劇の「時間」と「場所」の劇の「時間」の中
でも触れたように、イースター・サンディ、イエス・キリストの復活祭、すなわち、
CHANCE が苦しめられている、
「時間」を打ち破り、すべてが生まれ変わり、すべ
てが新しくなる状況をもたらすイエスの復活の日を「背景」にして描かれているだ
けではなく、この劇自体も、復活祭を「背景」にして、展開していく。そのため、
CHANCE は、今は、「時間」に束縛されているが、その日が復活祭であるので、最
後に、奇跡的に、その束縛の鎖を断ち切ることができるのではないか、と観客(読
者)に予感させる。
ACT ONE SCENE TWO の大部分は、CHANCE が、THE PRINCESS KOSMONOPOLIS
(以下は、PRINCESS) に向かって、それまでの彼の生い立ちや人生について語るこ
とに、費やされている。それは、この日が復活祭でもあり、牧師や神父に向かって
- 192 -
Tennessee Williams の Sweet Bird of Youth
ではなく、PRINCESS に向かってであるが、プロテスタントの「告白」
、カソリッ
クの「告解」を思い出させる。しかし、この時点では、HEAVENLY の「子宮摘出」
の件に関しては、何も知らないので、彼には、そのことに関する罪の意識はないが、
彼自身、HEAVENLY に再会することによって、それまでの生活によって、心身共
に傷ついた自分を、癒して欲しいと思っているので、「告白」や「告解」に似てい
ると言えるだろう。
その意味では、彼が PRINCESS に語るという行為は、正確には、「告白」や「告
解」ではないが、
「相似」の形で、似ていると言えるだろう。彼の話によれば、彼は、
平凡な生活におさまっていく、友人たちを尻目に、一旗揚げる気で、New York へ
行き、そこで、ミュージカル、“Oklahoma” のコーラスの一員になったり、Life 誌
の写真のモデルの仕事をしたりして、生計を立てていた。その一方で、彼自身が、
CHANCE: ..
.And at the same time pursued my other vocation....Maybe the only one I
was truly meant for, love-making.... (p47)
(太い点線部分は省略部分)
と言っているように、彼自身、セックスが彼の天性であり、そのために、生まれて
きたという思いを持って、その若さと並はずれた美貌を武器に、次々に、金持ちの
女たちを相手に、ジゴロの生活をしていた。その後、彼は、軍隊生活を送るが、軍
人のまま、三十歳ぐらいまで、軍隊生活を続けることに耐えられず、除隊して、故
郷の St. Cloud へ戻ってきたところで、HEAVENLY に出会うことになる。
彼は、自分の人生について語る中で、
CHANCE: .... I was twenty-three, that was the peak of my youth and I knew my youth
wouldn’t last long.... (p48)
(点線部分は省略部分)
と言っている。そのときの彼は、二十三歳であり、若さのピークにいた。しかし、
彼自身、その若さはけして長続きはしないことも、はっきりと、自覚している。さ
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落 合 和 昭
らに、彼は、
CHANCE: ....And so I ran my comb through my hair one morning and noticed that eight
or ten hair had come out, a warning signal of future baldness.... (p48)
(点線部分は省略部分)
と言って、ある朝、髪の毛が数本抜けたとき、将来は、頭がはげるのでないかと恐
れている。この「台詞」を通しても、彼は若さや美貌は束の間のものであるという
ことを自覚していることは確かである。ここには、人一倍、若さや美貌を売り物に
してきた、彼にとって、彼の名前が示すように、若さと美貌が衰えるときは、まさに、
それだけで、
「チャンスが減る」
ときである。そのような状況は、
容赦なく、
無慈悲に、
着実に近づきつつある。このようなとき、すなわち、若さと美貌の衰えをはっきり
と自覚し始めたとき、彼は、ほとんど、パニック状態に陥り、ほとんど、何もでき
なくなる。
彼は、続く「台詞」の中で、
CHANCE: ....My hair is still thick. But would it be five years from now, or even three?
When the war would be over, that scared me, that speculation. I started to have bad
dreams. Nightmares and cold sweats at night, and I had palpitations, and on my leaves I
got drunk and woke up in strange places with faces on the next pillow I had never seen
before....I got the idea I wouldn’t live through the war, that I wouldn’t come back,...
Imagine a whole lifetime of dreams and ambitions and hopes dissolving away in on
instant....and I cracked up, my nerves did. I got a medical discharge out of the service
and came home in civvies....that was when Heavenly became more important to me than
anything else. (p48-p49)
(点線部分は省略部分)
と言っている。
軍隊生活を送りながら、このまま、じょじょに、若さと美貌を失いつづけたら、
- 194 -
Tennessee Williams の Sweet Bird of Youth
三年後、五年後には、いったい、どうなっているのだろうかと考えたとき、彼は、
深い絶望をともなった、激しい不安に見舞われる。彼は、夜になると、悪夢を見た
り、冷たい汗をかいたりした。さらに、休暇中には、ひどく酔い、前後不覚になり、
気がついたときには、見たこともない人といっしょに寝ていることもあった。彼の
生涯の夢、野心、希望のすべてが吹き飛んで、跡形もなく消え去ってしまったよう
に感じ、しまいには、彼は完全に精神的に参ってしまい、神経もやられてしまった。
やがて、彼は、病気を理由にして、除隊し、生まれ故郷である、St. Cloud に戻って
きた。そこで、彼は、彼にとっては、まさに、‘heavenly’、
「天国のような」女性、
HEAVENLY に出会うのである。そのときの彼にとっては、HEAVENLY は、まさに、
天からの救いであるかのように感じられたであろう。彼にとって、HEAVENLY が、
どのような存在であるかは、PRINCESS と CHANCE の「台詞」のやりとり、
PRINCESS: Something permanent in a world of change?
CHANCE: Yes. after each disappoinment, each failure at something, I’d come back to her
like going to a hospital.... (p50)
(下線は筆者、点線部分は省略部分)
の中に表れている。「変化する世の中」
、その中には、当然、若さや美貌も含まれる
だろう。しかし、その「変化する世の中」で、いつも変わらないもの、何かに絶望
したり、失敗した後、必ず、戻っていくところ、傷ついた心を癒してくれるところ、
病院のようなところ、それが、彼にとっての HEAVENLY であった。HEAVENLY
が、いつも、彼のそばにいれば、彼は、彼の価値観を、変わるものから変わらない
ものへ、目に見えるものから目に見えないものへ、永遠のものへ、スムーズに移行
できたかもしれない。そうすれば、彼は、もはや、束の間の生命しかない、若さや
美貌に振り回されることもなく、生きることができたかもしれない。しかし、彼
と HEAVENLY の仲は、彼女の父親 BOSS FINLEY によって、無理やり、力ずくで、
引き裂かれてしまう。そのため、彼は、変わるものから変わらないものへ、目に見
えるものから目に見えないものへの移行ができず、そのまま、変わるものだけに執
着し続けなければならなくなり、それが、再び、彼に、ジゴロと同じ生活を送らせ
- 195 -
落 合 和 昭
ることになる。
その意味では、CHANCE は、新しいチャンスを手に入れることができずに、今
までのチャンスにしがみついていたことになる。
ALEXANDRA DEL LAGO、別名 THE PRINCESS KOSMONOPOLIS
女優の ALEXANDRA DEL LAGO は、CHANCE WAYNE のように、名前の意味
から見ると、
「Alexandra +湖の」
、
「湖の Alexandra」という意味がある。湖畔に立
つ Alexandra は、いかにも、ロマンチックで、女優にふさわしい名前であるよう
に感じられる。“lago” はスペイン語で「湖」を意味することから、ALEXANDRA
DEL LAGO はラテン系の女優のようにも思われるが、
「ト書き」や「台詞」から
は、彼女が、じっさいに、ラテン系かどうかは判断できない。彼女が、女優として、
ALEXANDRA DEL LAGO という名をつけたは、
この名をつければ、
エキゾチックで、
ロマンチックに響くと考えたのか、あるいはまた、彼女が、じっさいに、ラテン系
であるのか、それとも、その両方であるのか、その判断はできない。彼女は、また、
THE PRINCESS KOSMONOPOLIS とも呼ばれている。この KOSMONOPOLIS とい
う名には、‘cosmopolis’、「国際都市」という意味が暗示されているので、「王女・
国際都市」ということになり、世界中に名前が知られている女優には、ふさわしい
呼び名と言えるかもしれない。
彼 女 は、CHANCE と 同 様 に、ACT ONE SCENE ONE の 冒 頭 か ら 登 場 す る が、
CHANCE については、上に引用した「ト書き」にも見られるように、それほど詳
しくないが、彼の身体的特徴について、書かれている。そのため、このテキストを
読む読者には、CHANCE がどのような人物かは、
「ト書き」を通して、ある程度は、
把握することができる。ところが、PRINCESS の場合は、冒頭の同じ「ト書き」の
中で、
On the great bed are two figures, a sleeping woman,...The sleeping woman’s face is partly
covered by an eyeless black satin domino to protect her eyes from morning glare. She
breathes and tosses on the bed as if in the grip of a nightmare. (p13)
(点線部分は省略部分)
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Tennessee Williams の Sweet Bird of Youth
と書かれているだけで、彼女の身体的な特徴については、いっさい、触れられてい
ない。これは、彼女がベッドの中で、顔も見せずに、まだ、寝ている状態であるの
で、このような描き方をしているとも考えられるが、彼女が、初めて、観客に顔が
見えるような形で、顔を見せる場面の「ト書き」でも、
[....she (PRINCESS) sits up gasping and starting wild-eyed about her.] (p20)
(括弧内は筆者、点線部分は省略部分)
と書かれているだけで、彼女の身体的な特徴については、何も書かれていな
い。しかし、ACT ONE SCENE ONE の中で、彼女は、CHANCE と話している最
中に、何を思ったか、突然、観客に向かって話し始める。彼女の話は、この時点
で、CHANCE にではなく、観客に向かって話しかけているので、おそらく、演劇
で言う「傍白」に当たると思われるが、これも、見方によっては、CHANCE が
PRINCESS に向かってしたように、一種の「告白」
、
「告解」と言えるかもしれない。
そのため、PRINCESS も、CHANCE と同様に、
「告白」
、
「告解」していることになり、
この点においても、二人の間に、
「相似」が見られる。
その「台詞」の中で、まるで、
「傍白」のように、
PRINCESS: .... For years they all told me that it was ridiculous of me to feel that I couldn’t
go back to the screen or the stage as a middle-aged woman. They told me I was an artist,
not just a star whose career depended on youth. But I knew in my heart that the legend of
Alexandra del Lago couldn’t be separated from an appearance of youth.... (p33)
(下線は筆者、点線部分は省略部分)
と言う。観客に向かって、彼女は、自分のことを、“a middle-aged woman”、
「中年
の女」と呼び、彼女は、若さと美貌を失った今、女優として生きていくことができず、
引退をしようとしている。この点では、若さや美貌を売り物にしてきた CHANCE
と彼女は、同じような状況、すなわち、若さと美貌の衰えに直面し、そのことに不
安と恐れを感じていると言える。そのため、二人は似たものどうしであると言え
- 197 -
落 合 和 昭
る。彼女の齢に関する言及は、
「台詞」にも、
「ト書き」にも見られないので、断定
的に言うことはできない。しかし、彼女は、年齢的には、
「中年の女」であるので、
二十代の終わりの CHANCE よりも、はるかに年上であることは確かであろう。こ
の二人が置かれている状況は、
「時間(衰微)
」に囚われているという点では、よく
似ている。しかし、これから見ていくように、細かい点に至っては、お互いに、似
ているところが少ない。そのため、二人の関係を、さらに厳密に、数学的に言えば、
二人は、幾何学で言う、「合同」とまでは言えないまでも、
「相似」の関係にあると
言えるだろう。この二人の関係に限らず、この劇の中には、様々な「相似」が、あ
るときは、明確な形で、あるときは、漠然とした形ではあるが、対比されている。
彼女は、若さと美貌を失ったので、引退を決めていた。そして、むなしく時が過
ぎるのを感じながらも、彼女は、あることに、ふと、気がついて言う。
PRINCESS: ....Discovered this! And other practices like it, to put to sleep the tiger that
raged in my nerves.
.
.
.Why the unsatisfied tiger? In the nerves jungle? Why is anything,
anywhere, unsatisfied, and raging?...Ask somebody’s good doctor. But don’t believe
his answer because it isn’t.
.
.the answer.
.
.if I had just been old but you see, I wasn’t
old.
.
.I just wasn’t young, not young, young. I just wasn’t young anymore.
.
.
.
...
PRINCESS: But you see, I couldn’t get old with that tiger still in me raging.(p33)
(下線は筆者、小さな点線部分は省略部分)
彼女は、引退しても、彼女の心の中に巣くっている野心について、“the tiger that
raged in my nerves”、
「私の神経(のジャングル)の中で、猛り狂っているトラ」
、“the
unsatisfied tiger”、
「飽くことを知らないトラ」
、それは、“unsatisfied, and raging”、
「飽
くことを知らず、猛り狂っている」
、“that tiger still in me raging”、「私の中で、いま
若さと美貌を失った今、
だに、
猛り狂っている、あのトラ」と表現している。彼女は、
映画界から引退を余儀なくさせられているが、このままの形で、年を取って、消
えていき、忘れられていくのは我慢できないという強い思いでいる。William Blake
(1757-1827) の The Tiger を思わせる、彼女の中の「トラ」は、明らかに、まだ、葬
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Tennessee Williams の Sweet Bird of Youth
り去られたくはない、チャンスがあれば、もう一度、どんなことをしても、カムバ
ックするという激しい気持ちの表れである。彼女は、もう若くはないが、まだ、年
を取っていないという思いがある。それは、彼女の、次の「台詞」
、
PRINCESS: Let me finish yours. You can’t retire with the out-crying heart of an artist
still crying out, in your body, in your nerves, in your what? Heart? Oh, no that’s gone,
that’s...(p35)
の中にも、端的に、表れている。芸術家は、身体の中で、神経の中で、心の中で、
大きな声で叫び続けている限りは、どんなことをしても、引退はできない。 Williams は、若さと美貌の喪失を描くに当たって、この二人の人物、CHANCE
と PRINCESS の目を通して、すなわち、二つの面から、二重写しの形で、描こう
としていることがわかる。
BOSS FINLEY
ACT TWO SCENE ONE で、BOSS FINLEY が初めて登場してきたとき、その冒頭
の「ト書き」には、彼に関して、
At the rise of the curtain, BOSS FINLEY is standing in the center and GEORGE
SCUDDER nearby. (p56)
と書かれているだけで、PRINCESS の場合と同様に、彼の身体的特徴や性格につい
ては、何も書かれていない。CHANCE は、BOSS FINLEY について、
CHANCE: Didn’t I tell you that Heavenly is the daughter of Boss Finley, the biggest
political wheel in this part of the country?... (p51)
(下線は筆者、点線部分は省略部分)
と言っている。BOSS FINLEY という呼び名が暗示しているように、彼は、この地
- 199 -
落 合 和 昭
方で、最も勢力のある政治家である。しかし、彼は、息子の TOM JUNIOR から、
TOM JUNIOR: How about your well-known promiscuity, Papa? How about your Miss
Lucy? (p64)
と言われて、彼の不倫を指摘されているだけではなく、娘の HEAVENLY からも、
同じように、
HEAVENLY: Oh, Papa, she (MISS LUCY) was your mistress long before Mama died. (p69)
(括弧内は筆者)
と言われて、やはり、不倫を指摘されている。彼は、MISS LUCY を、まだ、妻が
生きているときから、愛人にしてきた。
彼には、このように、道徳的に非難されるべきところがある一方、ACT TWO
SCENE ONE の中で、息子の TOM JUNIOR から、MISS. LUCY の件で、非難された
とき、
BOSS: ....A man (BOSS FINLEY) with a mission, which he holds sacred, and on the
strength of which he rises to high public office ―crucified in this way, publicly, by his
own offspring (TOM JUNIOR).... (p65)
(括弧内は筆者、点線部分は省略部分)
彼は、自分自身について、神聖なる使命を帯びている男(BOSS FINLEY)は、
使命を根拠にして、高い公職へと上り詰めたが、今、こうして、自分の息子に
よって、人の面前で、磔刑に処せられていると言っている。この “A man with a
mission, which he holds sacred”、
「神聖であると考えている使命を帯びている男」、
“crucified,...publicly”、
「人の面前で、、
、
、磔刑に処せられる」という表現は、通常、
十字架刑に処せられたイエス・キリストを暗示するが、BOSS FINLEY は、その表
現を、そのまま、自分自身を表現するのに用いて、彼は、彼自身とイエス・キリス
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Tennessee Williams の Sweet Bird of Youth
トを重ね合わせているようなところがある。ここには、彼とイエスとでは、まった
くレベルが違うが、彼なりに、自分をイエスの「相似」としてとらえている。
さらに彼は、同じ ACT TWO SCENE ONE の終わりに、
BOSS: ....And you (HEAVENLY) and Tom Junior are going to stand there beside me in
the grand crystal ballroom, as shining examples of white Southern youth―in danger.(p72)
(下線及び括弧内は筆者、点線部分は省略部分)
と言って、息子の TOM JUNIOR と娘の HEAVENLY を、“white Southern youth―in
danger”、
「危険にさらされている、南部の白人の若者」の輝ける模範として、政治
的に、使おうとしている。「危険にさらされている、南部の白人の若者」とは、黒
人によって、白人の血の純粋性が脅かされている若者のことである。さらに彼は、
BOSS: A lot of people approve of taking violent action against corrupters. And on all of
them that want to adulterate the our white blood of the South. Hell, when I was fifteen, I
come down barefoot out of the red clay hills as if the Voice of God called me. Which it
did, I believe. I firmly believe He called me. And nothing, nobody, nowhere is gonna stop
me, never.... (p73)
と言っている。彼は、南部の白人の血を汚そうとしている人々を、“corrupters”、
「堕
落させる人々」と呼び、彼らに対して、暴力を振るったとしても、そのことに反対
する人はほとんどいないと言って、白人以外の人々に暴力を振るっても、許される
と考えている。彼は、白人の血の純粋性を守るという、この使命を実行するように
と、神の声が、彼を、裸足のまま、荒野から呼び出したとかたく信じている。その
ため、彼は、たとえ何があろうとも、この使命は、必ず、実行するつもりでいる。
この、荒野から呼び出されたという「台詞」は、どこか、「福音書」のバプテスマ
のヨハネを思い出させ、このときの彼は、彼自身が、聖人か預言者になったかのよ
うな言い方をしている。
その彼が、ACT TWO SCENE TWO の、テレビ中継された、ホテルにおける演説
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落 合 和 昭
の中で、同じように調子で、
BOSS [on TV screen]: .... Because the Voice of God called me to excute this mission.
...
BOSS: .... To shiled from polution a blood that I think is not only sacred to me, but sacred
to Him.
...
BOSS: Who is the colored man’s best friend in the South? That’s right..
.
...
BOSS: It’s me, Tom Finley. So recognized by both races.
...
BOSS: However―I can’t and will not accept, tolerate, condone this threat of a blood
pollution.
...
BOSS: ....our purity of your own blood!....
...
BOSS: ....Last Friday.
.
.Last Friday, Good Friday. I said last Friday, Good Friday....Last
Friday, Good Friday, I seen a horrible thing on the campus of our great State University,
which I built for the state. A hideous straw-stuffed effigy of myself, Tom Finley, was
hung and set fire to in the main quadrangle of the college. This outrage was inspired..
.
inspired by the Northern radical press. However, that was Good Friday. Today is Easter. I
saw that was Good Friday. Today is Easter Sunday and I’m in St. Cloud. (p107)
(下線及び括弧内は筆者、小さな点線部分は省略部分)
と言っている。
この中で、彼は、これは「神の声」が導いてくれた使命である、とふたたび言っ
ている。その使命とは、彼にとっても、神にとっても、聖なる血を守ること、すな
わち、白人の血の純粋性を維持すること、白人の血の中に、他の人種の血を入れな
いという使命である。また彼は、彼が創立した州立大学(州立大学であるので、彼
- 202 -
Tennessee Williams の Sweet Bird of Youth
が自費で創立したという意味ではなく、おそらく、大学を誘致したか、なにがしか
の寄付をしたという意味であろう)のキャンパスで、彼のワラ人形が大学の中庭に
吊され、火をつけられて、焼かれるという事件があったが、それにも触れ、その暴
挙は北部の急進的なマスコミによって、触発されたものであると言っている。彼の
やり方に反対し、抗議する人々が、南部にもいると言うことを示している。
ここで、気になることは、彼が、この二つのこと、すなわち、白人の血の純潔を
守ること、彼のワラ人形が焼かれた事件について触れながら、再び、神やイエス・
キリストを引き合いに出していることである。彼は、人種差別的に、白人の血を他
の人種の血から守ること、白人の血の純潔を守ることが、神の使命であり、白人の
血に他の人種の血が混じることを、“pollution”、
「汚染」であり、白人の血は、神に
とっても、聖なる血であるとまで言っている。さらには、彼は、彼のワラ人形が焼
かれる事件に言及しながら、上の引用文からも明らかなように、“Good Friday”、
「聖
金曜日(復活祭の前の金曜日で、キリストの十字架上の受難、すなわち、十字架上
の死を記念する日)」という言葉を、何度も、繰り返している。彼は、その日が “Good
Friday” であるという言葉を繰り返すことによって、彼のワラ人形が焼かれた日と、
キリストが十字架刑にかけられた日が、同じ「聖金曜日」であることを強調し、彼
がイエス・キリストと同じ目に遭っていると言っている。そして、彼もまた、キリ
ストと同様に、言われなき罪を着せられて、葬り去られようとしたが、今日はイー
スター・サンディ、
「復活祭」であり、キリストが甦った日を記念する日であるので、
彼もまた、キリストと同様に、今日、新たに、復活して甦ると言っている。彼は、
白人の血だけが、神にとって、神聖な血であると言っているだけではなく、ここで
も、彼自身をイエス・キリストと一体化している。彼は、彼なりに、イエスと「相
似」の関係にあると思っている。しかしながら、蛇足ではあるが、白人の血だけが、
神にとって、神聖であるとは、
『聖書』のどこにも書かれていない。
この BOSS FINLEY の考えは、自分の利益のため、人種差別の正当化のために、
神やイエス・キリストを利用しているので、彼は、一見すると、偽善者であるよう
に思える。それはけして間違いないだろう。しかし、通常、偽善者というのは、心
のどこかで、何らかの形で、自分の悪や罪を自覚しながら、表向きに、使命や正義
を唱える者である。BOSS FINLEY は、厳密な意味では、この定義に当てはまらな
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落 合 和 昭
いように思える。というのは、彼自身、ACT TWO SCENE ONE の終わりに、
which it (the Voice of God called me) did, I believe. I firmly believe He called me.(p73)
(括弧内は筆者)
と言っているだけではなく、長い間、彼の愛人であり、彼のことをよく知っている
と思われる MISS LUCY は、THE HECKLER に向かって、彼について、
HECKLER: .... and that’s his build-up, his lead into his Voice of God.
MISS LUCY: He (BOSS FINLEY) honestly believes it.(p105)
(括弧内は筆者、小さな点線部分は省略部分)
と言っている。彼の使命、すなわち、白人の血の純粋性を守ることは「神の声」で
あると、彼は心の底から信じているのであり、そのことにまったく疑いを持ってい
ない。そのため、彼の行動は、神のために行っているのだから、彼には、自分が偽
善者であるという自覚はまったくなく、良心の痛みもなく、彼にとっては、彼の行
動は、そのまま、神の正義が表れた行動なのである。じっさい、このような考えが、
南部の、神を信じる人々の心の底にあったために、アメリカに奴隷制度や人種差別
が根強く残ったのかもしれない。信じられないことだが、彼らにとっては、人種差
別は、神の正義なのである。
TOM JUNIOR
TOM JUNIOR は、BOSS FINLEY の息子であり、父親と同じ名前であるので、正
式の名前は、TOM FINLEY, Jr. である。この二人の名前は同じであり、その違いは、
“Junior” がついているか、いないかの違いだけであることからも推測がつくが、息
子は、上に書かれた、父親の小型版であり、縮小版であり、その属性は父親の属性
とほとんど同じであると言ってもいいだろう。この親子の関係は、若さと美貌の
喪失における、CHANCE と PRINCESS の関係に似ている。すなわち、CHANCE と
PRINCESS は、若さと美貌の喪失においては、「相似」の関係にあったが、BOSS
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Tennessee Williams の Sweet Bird of Youth
FINLEY と TOM JUNIOR は、人種差別主義者、白人優越主義者という意味では、
やはり、
「相似」の関係にある。そのため、Williams は、この劇の中で、二種類の「相
似」を、並列の形で、示していることになる。
ACT TWO SCENE ONE で、彼が初めて登場してきたときも、
TOM JUNIOR[entering]: .... (p57)
(点線部分は省略部分)
と書かれているだけで、やはり、彼の身体的特徴については、何も書かれていない。
彼は、今までに、父親の BOSS FINLEY に、長い間にわたって、めんどうをかけて
きたらしく、父親は、息子について、ACT TWO SCENE ONE の中で、
BOSS: Once for drunk drivin’, once for a stag party you thrown in Capitol City that cost
me five thousand dollars to hush it up.
...
BOSS: And everyone knows you had to drove through school like a blazeface mule
pullin’ a plow uphill: flunked out of college with grades that only a moron would have an
excuse for.
...
BOSS: At my insistence. By fake examinations, answers provided beforehand, stuck in
your fancy pockets, And your promiscuity. Why, these Youth for Tom Finley clubs are
practically nothin’ but gangs of juvenile deliquents, wearin’ badges with my name and
my photograph on them. (p64)
(点線部分は省略部分)
と言っている。
あるときは、TOM JUNIOR が、飲酒運転で捕まったとき、あるときは、おそら
くは、彼が開いた、いかがわしいパーティのことで騒ぎになり、それらをもみ消す
ために、BOSS FINLEY は五千ドルも使った。その上、TOM JUNIOR はできの悪い
- 205 -
落 合 和 昭
学生だったので、試験では、不正も行った。また、彼は、父親似て、女遊びも激し
かった。さらには、州の各地にあって、息子が中心になっている、“Youth for Tom
Finley club”、
「TOM FINLEY を支持する会」は、名ばかりで、不良少年たちの巣窟
となっている。父親の BOSS FINLEY は、しばしば、息子の後始末をつけてくる過
程で、彼を、自分と同じような人種差別主義者や暴力主義者に育て上げてきたので
ある。
彼は、ACT THREE の終わり、すなわち、この劇の終わりに、彼の仲間であ
り、手下である者たちとともに、CHANCE を捕まえに来る。妹の HEAVENLY が
CHANCE のせいで、
「子宮摘出」の手術を受けることになったことへの復讐のため
に、彼を「去勢」しようとしているのである。これも、もちろん、BOSS FINLEY
の命令であり、父親の命令を、息子は、何ら躊躇も疑いもなく、命じられたとおり
に実行に移している。彼が、BOSS FINLEY の「相似」であるゆえんである。
HEAVENLY
HEAVENLY が、ACT TWO SCENE ONE で、初めて登場してきたとき、
HEAVENLY has entered on the gallery. (p65)
と書かれているだけで、彼女についても、身体的特徴等については、何も書かれて
いない。しかし、明らかに、彼女は、彼女の名前、“HEAVENLY”、
「天国の」の意
味が表している属性を持っている。BOSS FINLEY 自身が、娘に、HEAVENLY とい
う名をつけたのか、それとも、母親か、親戚か、牧師がつけたのかについては、劇
の中で、明らかにされていないが、BOSS FINLEY が、最終的に、娘に、その名前
をつけることに同意したことだけは確かであろう。そうであるとすると、キリスト
教に対する、彼の思い入れの深さが推測できる。
HEAVENLY は、おそらく、父親のしていることに絶望したのか、その名前にふ
さわしい行動に出る。彼女は、同じ ACT TWO SCENE ONE の中で、よりによって、
このイースターの日に、父親とのやりとり、
- 206 -
Tennessee Williams の Sweet Bird of Youth
HEAVENLY: ....I’ve made up my mind about something. If they’ll let me, accept me, I’m
going into a convent.
BOSS FINLEY[shouting]: You ain’t going into no convent. This state is a Protestant
region and a daughter in a convent would politically ruin me.... (p71)
(下線は筆者、点線部分は省略部分)
の中で、
もし許されるのなら、
修道院へ行くつもりであると言っている。
若い女性が、
いくら当時(この劇が書かれた 1959 年頃)であっても、
修道院に行くということは、
それこそ、人生における、最大の決心であったろう。その決心をするに当たっては、
通常考えられるのは、あまりにも、この世に対する絶望が大きかったからか、また、
極めて信仰心が厚いためか、それとも、大いに考えられるのは、その二つが重なり
合ったためかであると思われる。そのいずれかであっても、父親の BOSS FINLEY
から見れば、それはけして許されないことであり、
この州(州の名前は、
劇の中では、
明らかにされていない)はプロテスタントの州であるので、娘がカソリックの修道
院に入ったら、政治家として、彼は破滅であると言っている。HEAVENLY の名前
の持つ属性から言っても、現世の名誉欲、権力欲に囚われている BOSS FINLEY の
世界と HEAVENLY の世界が相容れることはありえない。
第二章 主なる「登場人物」の名前と属性の CHANCE WAYNE の中で述べたよ
うに、あらゆる希望を失い、絶望の淵をさまよい、神経までも、完全にやられてし
まった CHANCE にとっては、HEAVENLY は、まさに、その名前が示しているよ
うに、天からの救いであった。しかし、放蕩三昧とも言える、ジゴロの生活を送っ
てきた彼は、よくある結果として、性病(性病の名前は、明らかにされていない
が、おそらくは、梅毒)にかかっていた。彼は、知らなかったとはいえ、その病気
を HEAVENLY にうつしてしまう。彼女の場合は、彼とは違って、性病が悪化し続
け、やがて、“hysterectomy”、
「子宮摘出」の手術を受けなければならない状況にま
で追い込まれる。CHANCE から見れば、救いの神であり、彼にとって、最も大切
な人である、HEAVENLY に、彼の罪ある生活の結果であり、その象徴でもある性
病をうつしてしまった。彼は、長い間、そのことは知らなかったが、彼女の兄であ
る、TOM JUNIOR から、ACT TWO SCENE TWO で、
- 207 -
落 合 和 昭
TOM JUNIOR: ....my little sister, Heavenly, didn ’ t know about the diseases and
operations of whores, till she had to be cleaned and cured―I mean spayed like a dawg by
Dr. George Scudder’s knife. That’s right―by the knife....(p103)
(点線部分は省略部分)
と言われて、初めて、そのことを知る。彼女は、CHANCE の、病気という名の罪
の結果を引き受け、そのために、「子宮摘出」手術を受けることになり、女性とし
て、
「去勢」された形となった。そして、彼女は、今、修道院へ行って、残りの人
生を過ごそうとしている。彼女は、
「子宮摘出」によって、子宮を失い、CHANCE も、
BOSS FINLEY の手下に「去勢」を行われようとしているところで、劇が終わって
いるので、この二人は、ともに、
「去勢」ということで、「相似」の関係にある。
また、別の見方をすれば、キリスト教では、イエス・キリストは、人間の身代わ
りとなって、人間の罪を負って、十字架にかけられて死に、その結果、人間はあら
ゆる罪からの解放されて生きることができると教えられる。
そのイエスの行動と
「相
似」の形で、HEAVENLY は、CHANCE の罪を負って、修道院へ行こうとしている。
そのため、HEAVENLY の行動の中に、イエスの行動の「相似」が見られる。
THE HECKLER
ACT TWO SCENE TWO の終わりに行われる、ホテルでの BOSS FINLEY の演説
中に、ヤジを飛ばす人として、“THE HECKLER”、
「ヤジを飛ばす人」が登場する。
彼が、他の「登場人物」と一番異なっているところは、「登場人物」の中で、彼だ
けが、名前が付けられずに、THE HECKLER と呼ばれている点である。
彼が最初に登場したとき、
「ト書き」には、
....They’ve noticed a tall man who has entered the cocktail lounge. He (THE HECKLER)
has the length and leaness and luminous pallor of a face that El Greco gave to his saints.
He has a small bandage near the hairline. His clothes are country. (p76)
(括弧内は筆者、点線部分は省略部分)
- 208 -
Tennessee Williams の Sweet Bird of Youth
と書かれている。彼は、El Greco (1541-1614) が、聖人画の中で描いた聖人のよう
に、背が高く、顔も、長くて、細く、光り輝く、青白い顔をしている。この THE
HECKLER の顔は、El Greco が描いた聖人を思い出させるのと同時、多くの宗教画
に描かれた、イエス・キリストの姿も、思い出させる。彼は、もうすでに、BOSS
FINLEY の一味から、何らかの形で、暴力を受けたらしく、頭の生え際のところに、
小さな包帯をしている。彼の服装がカントリー風であることから、彼はよそ者では
なく、南部人、しかも、南部の都会ではなく、田舎に住んでいる人物であると思
われる。彼が、どこからきたのかについては、それ以外のことは、何も書かれてい
ないので、まったくわからない。この章の BOSS FINLEY のところでも触れたが、
BOSS FINLEY は、神に召し出されて、裸足で出てきた。この THE HECKLER も、
BOSS FINLEY のように、荒野からやって来たように感じられる。
THE HECKLER の身体につけられた傷を象徴する、この包帯も、さらに、十字
架を背負って、処刑場であるゴルゴダへ向かう途中、様々な罵りや暴力を受けたイ
エスを思い出させる。その意味で、彼は、キリスト教の真の姿を、HEAVENLY と
同様に、
「相似」の形ではあるが、やはり、具現化している人物と考えていいだろう。
そして、そのキリスト教の具現者が、暴力を受けているということは、この地では、
真のキリスト教がないがしろにされている現状が、厳然として、存在していること
が暗示されている。この彼が、ヤジを飛ばす相手が BOSS FINLEY であるところか
ら判断すると、彼は、BOSS FINLEY の中に、キリスト教とは相容れないものを見
ているのかもしれない。彼が真の予言者であるとすると、BOSS FINLEY は、明ら
かに、偽予言者である。
彼は、
HECKLER: I don’t want to hurt his daughter (HEAVENLY). But he’s going to hold her
up as the fair white virgin exposed to black lust in the South, and that’s his build-up, his
lead into his Voice of God speech.
. . .
HECKLER: I don ’ t believe it. I believe that the silence of God, the absolute
speechlessness of Him is a long, long and awful thing that the whole world is lost
- 209 -
落 合 和 昭
because of. I think it’s yet to be broken to any man, living or any yet lived on earth―no
exceptions, and least of all Boss Finley. (p105)
(下線は筆者、点線部分は省略部分)
と 言 っ て い る。THE HECKLER に よ れ ば、BOSS FINLEY の 娘 HEAVENLY は、
CHANCE と性的な関係を持ったので、もうすでに、処女でないにもかかわらず、
彼女を南部における黒人の肉欲にさらされ、今にも、処女を失いかけている、白人
の美しき処女の象徴として、公衆の前に、晒そうとしている。BOSS FINLEY は、
娘の意思に反して、処女でない彼女を処女として偽るだけではなく、彼女を政治
的に利用しようとしている。さらに、「処女」である、その娘を黒人の性欲から守
るためには、黒人差別を実行し続ける必要があると主張している。その上、BOSS
FINLEY は、彼がそうするのは、神の声に導かれて、そうするのであり、神も彼に
そうするように願っている、とまで言っている。これが、彼の演説における、筋立
てである。これに対して、真のキリスト教の具現者である THE HECKLER は、神は、
“the silence of God”、「神の沈黙」、“the absolute speechlessness of Him”、「神の絶対的
な沈黙」を守り続けているが、その沈黙は、この世の中では、BOSS FINLEY のよ
うな男に対しては、けして破られることはないと言っている。BOSS FINLEY のよ
うな人間は、けして神の声を聞くことはできないと言っているのである。このこと、
すなわち、自分の権力欲、名誉欲をかなえるために、神を引き合いに出し、それに
よって、人種差別を正当化しようとしていることに対して、怒っているのである。
さらにもう少し詳しく、THE HECKLER を見てみると、彼は、この演説が始ま
る前に、ある行動に出ている。ACT TWO SCENE TWO の「ト書き」に、
....For a long instant, CHANCE and HEAVENLY stand there....They simply look each
other.
.
.
.the HECKLER between them. Then the BOSS comes in and seizes her by the
arm.
.
.
.And there he is facing the HECKLER and CHANCE.... (p99)
(小さな点線部分は省略部分)
と書かれている。ホテルのラウンジで、CHANCE と HEAVENLY が久しぶりに
- 210 -
Tennessee Williams の Sweet Bird of Youth
出会ったとき、二人の間に、THE HECKLER が、まるで、二人の仲を取り持とう
としているかのように、立っている。そのとき、BOSS FINLEY が入ってきて、
HEAVENLY の腕を取って、連れて行こうとするが、CHANCE と THE HECKLER
に止められるような形になり、彼は二人を手に持っていた杖で打とうとする場面が
ある。この場面には、いっさい、
「台詞」はなく、いわば、
「ト書き」だけで、無言
の形で、進んでいく。THE HECKLER の、この行動は、明らかに、彼が二人の味
方であり、BOSS FINLEY に対する抵抗の姿勢を表している。
BOSS FINLEY の 演 説 の 最 中 に、THE HECKLER が ヤ ジ を 飛 ば す と、BOSS
FINLEY の取り巻き連中が、暴力的に、彼を押さえにかかる。
During this a gruesome, not-lighted, silent struggle has been going on. The HECKLER
defended himself, but finally has been overwhelmed and rather systematically beaten.
.
.
.
The tight intense follow spot beam stayed on CHANCE. If he had any impulse to go to the
HECKLER’S aid, he’d be discouraged by stuff and another man who stand behind him,
watching.
.
.
.At the height of beating, there are burst of great applause.
.
.
.(p108-p109)
彼は抵抗をするが、多勢に無勢、相手方の力は圧倒的であり、ひどく殴られたすえ、
押さえつけられる。彼への暴力が最高潮に達したとき、周りの人々から、大歓声が
起こる。このことは、まだ、南部においては、
THE HECKLER のような考えを持つ人々
は、暴力によって、押さえつけられていることを表す象徴的な場面である一方、こ
の場面は、イエスを十字架にかけ、処刑したことに賛同した群衆の暴力を表してい
るように感じられる。
AUNT NONNIE
ACT TWO SCENE TWO のホテルのカクテル・ラウンジで、CHANCE が、比較
的長い時間にわたって、お互いに、語り合う、
「登場人物」が二人いる。その ACT
TWO SCENE TWO の 前 半 部 分 で、CHANCE は HEAVENY の 叔 母 で あ り、BOSS
FINLEY の義理の妹(姉の場合もありうる)、AUNT NONNIE と話をしている。そ
して、その後半部分で、彼が語り合うのは、BOSS FINLEY の愛人であり、以前から、
- 211 -
落 合 和 昭
CHANCE を知っているだけではなく、彼に密かに好意を持っていた MISS LUCY
である。この二人の女性は、ともに、CHANCE に対して、以前も、今も、極めて
好意的である。Williams は、ここにいたって、CHANCE に好意的な女性を二人、
しかも、立て続けに、二人を登場させていることになる。この二人の女性には、一
つの共通点がある。二人とも、CHANCE とは敵対関係にある、BOSS FINLEY の側
に属する人たちである。通常、CHANCE にとって、敵対関係にある、人物の親戚
縁者は、やはり、彼にとっては、敵対関係になるはずである。それゆえ、彼は敵側
に属すると思われる人々から好意を持たれていることになる。この二人の女性は、
ともに、BOSS FINLEY の暴力や横暴さを嫌っているところから見ると、CHANCE
と BOSS FINLEY の間に立ち、いわば、暴力からの緩衝地帯の役目を果たしている
ことになる。この意味では、二人は「相似」の関係にある。
AUNT NONNIE は、ある意味では、CHANCE の擁護者である。この擁護者とい
う点では、THE HECKLER も、彼にとっては、擁護者の一面を持っている。彼女
の名前、NONNIE は、どことなく、‘nanny’、
「乳母・ばあや」や、‘nun’、
「尼僧」
を連想させるだけではなく、彼女自身も、性格的に、人がよい、
「乳母」や「尼僧」
を連想させ、彼のことを、いろいろな面、特に、BOSS FINLEY や TOM JUNIOR から、
ひどい暴力を受けるのではないかと心配して、細かい気遣いをする。その心配のあ
まり、彼女は、CHANCE のところへやって来て、できるだけ早く、この町を出て
行くようにと、忠告しているのである。
彼女が、ACT TWO SCENE ONE に、初めて、登場してきたとき、
AUNT NONNIE appears before the veranda, terribly flustered, rooting in her purse for
something, apparently blind to the menu on the veranda. (p61)
と書かれているだけで、彼女についても、身体的特徴等については、何も書かれて
いない。BOSS FINLEY は、彼女について、
BOSS: You’re like your dead sister, Nonnie, gullible as my wife was. You don’t know a
lie if you bump into it on a street in the daytime....
- 212 -
Tennessee Williams の Sweet Bird of Youth
...
BOSS: ..., Nonnie. You favored Chance Wayne, encouraged, aided and abetted him in his
corruption of Heavenly over a long, long time.
(点線部分は省略部分)
と言っていることから判断すると、NONNIE は、BOSS FINLEY の死んだ妻の妹で
あり、彼から見れば、彼の妻に似て、“gullible”、「だまされやすい」人である。彼
が、彼女を「だまされやすい人」と評していることは、それだけ、彼女の人の良さ
を示しているようにも感じられる。彼女が CHANCE に好意的で、いろいろと面倒
を見ていることも、彼は、じっさいに、見聞きして知っている。BOSS FINLEY か
ら見れば、HEAVENLY が堕落し、けっきょく、
「子宮摘出」の手術を受けなければ
ならないような状況にまで追い込まれたのは、間接的に、NONNIE にも責任があ
ると考えているのだろう。そのため、彼の性格からすれば、当然、彼女は、彼の激
しい憎しみや怒りの対象になるはずである。それにもかかわらず、彼は、NONNIE
に対して、それらの感情を露骨に露わにすることもなく、けして強い態度に出な
い。それは、彼女があまりにも「だまされやすい」人であり、人が良く、ただ利用
されて、CHANCE にだまされていると思っているのかもしれない。それと同時に、
彼の死んだ妻、彼女の生前から、愛人を持っていたために、絶えず、苦しめ続けた
妻に対する罪意識と、彼が感じている、後ろめたさのために、NONNIE に対して、
強い態度にでることができず、彼女を大目に見て、許しているのかもしれない。
NONNIE は、
NONNIE: I remember when Chance was the finest, nicest, sweetest boy in St. Cloud, and
he stayed that way till you, till you― (p63)
(下線は筆者)
と言っているように、CHANCE は、もともと、St. Cloud では、“the finest, nicest,
sweetest boy”、
「 最 も す ば ら し く、 感 じ の い い、 優 し い 子 」 で あ っ た が、BOSS
FINLEY のせいで、彼はあのような子になってしまったと思っている。彼女から見
- 213 -
落 合 和 昭
れば、CHANCE が、現在のような彼になったのは、すべて、BOSS FINLEY のせい
であると思っているようである。さらに、
彼女は、
TOM FINLEY に向かって
(これは、
同時に、BOSS FINLEY に向かって、という意味もある)
、
AUNT NONNIE[to TOM JUNIOR]: I hope you don’t mean violence―[turning to BOSS]
does he, Tom? Violence don’t solve problems. It never solves young people’s problems.
If you will leave it to me. (p62)
と言っている。この親子は、彼らなりの理由をつけて、しばしば、暴力によって、
多くのことを解決してきただけではなく、これからも、事あるごとに、そうしよう
としていることを知っている彼女は、今度も、CHANCE と HEAVENLY の問題を、
暴力によって、解決しようとしていることに気がついて、彼らがしようとしている
ことに反対している。彼女から見れば、BOSS FINLEY は義理の兄に当たるが、彼
女は、明らかに、彼や彼の息子の TOM FINLEY のやり方に反対し、HEAVENLY と
CHANCE の二人に好意を示し、できるだけ、二人を守ろうという立場にいる。
NONNIE は、CHANCE や HEAVENLY から見れば、明らかに、二人の擁護者で、
大いなる母のような存在として感じられる。その一方では、暴力的である BOSS
FINLEY の激しい怒りや憎しみを和らげるような力も持ち合わせている。彼女には、
人々の間で、よい意味での仲介者、よき癒し人としての力が備わっているように見
える。
MISS LUCY
MISS LUCY は BOSS FINLEY の愛人である。彼女がどうして彼の愛人になった
かついては、何も書かれていないのでわからない。彼女は、以前から、CHANCE
を知っていただけではなく、密かに、彼に思いを寄せていた。しかし、二人の間に
は、恋愛関係はなく、二人は、お互いに、単なる知り合いの関係に留まっている。
彼女の身体的特徴等については、詳しくとまでは言えないが、ACT TWO SCENE
TWO で、彼女が初めて登場してきたとき、その冒頭の「ト書き」に書かれている。
- 214 -
Tennessee Williams の Sweet Bird of Youth
BOSS FINLEY’S mistress, MISS LUCY, enters the cocktail lounge dressed in a ball
gown elaborately ruffled and very bouffant like an antebellum Southern belle’s. A single
blonde curl is arranged to switch girlishly at one side of her sharp little terrier face. She
is outraged over something and her glare is concentrated on STUFF who “lays it cool”
behind the bar. (p74)
彼女は、手の込んだ作りの襞べりがついた、戦前の “Southern belle”、
「南部の貴婦
人」を思い出させるような、とてもふっくらとしたドレスの正装姿で、カクテル・
ラウンジに入ってくる。彼女のくっきりとして、小さい、テリア犬に似た顔の片方
の頬の上で、一本の巻き毛の髪が、少女のように、くるっと反っている。彼女は、
BOSS FINLEY の愛人でありながら、戦前の「南部の貴婦人」のような服装をして
いるところから見ると、ある意味では、伝統的な南部の一面を表しているようにも
感じられる。MISS LUCY が、愛人であり、「南部の貴婦人」であるということは、
いったい、南部の何を表しているのだろうか。歴史的に、南部が受けた陵辱、培わ
れてきた南部の誇りを表しているのだろうか。
彼女は、テレビ中継される、演説会場では、愛人であるがゆえに、宴会の席に座
ることを許されず、体よく追い払われるような形で、人目につきにくい、隅の小さ
なテーブルを用意された。BOSS FINLEY が、このような公の席では、愛人である
彼女を邪魔者扱いしているのがわかる。彼女は、行き場を失って、腹を立てて、宴
会場を離れて、このカクテル・ラウンジへやって来たのである。彼女は、このよう
な取り扱いをされているせいか、彼の愛人であるにもかかわらず、この場面では、
BOSS FINLEY に反抗するような、奇妙な行動を取る。彼女は、THE HECKLER が、
これから、テレビで全国放送される演説会場で、演説をする BOSS FINLEY をやじ
るつもりでいることを知っているにもかかわらず、ごく自然な形で、このホテルに
現れた THE HECKLER に手を貸す。THE HECKLER はカントリー風の服装を着て
きたため、上着とネクタイを身につけなければ入れないことになっている、演説会
場には入れない。そこで、彼女は、次の「ト書き」と「台詞」
、
- 215 -
落 合 和 昭
MISS LUCY [goes to back of bar, where she gets jacket, the kind kept in places with dress
regulations, and throws it to HECKLER]: Wait. Here, put this on. The Boss’s talking on
a national TV hookup tonight. There’s a tie in the pocket. You sit perfectly still at the bar
till the Boss starts speaking. Keep your face back of this Evening Banner. OK? (p77)
にもあるように、彼に上着やネクタイを身につけてこなかった人々用の予備の上
着とネクタイを貸すだけではなく、演説が始まるまで、見つからないように、バ
ーに隠れているように支持している。また、同じ ACT TWO SCENE TWO の中で、
MISS LUCY は、CHANCE について、
MISS LUCY [returning to the table]: Y’know this boy Chance Wayne used to be so
attractive I couldn’t stand it. (p87)
と言っている。彼女は、以前、CHANCE に強く惹かれ、海岸で飛び込みをしている、
彼の姿を、遠くから、双眼鏡で見ていたこともあり、以前から、彼に憧れていた。
彼女は、これから、演説会場という公の場で、人種差別主義者である BOSS
FINLEY の暴力や偽善を暴こうとしている、THE HECKLER に手を貸し、また、
BOSS FINLEY が暴力を行使しようとしている相手である、CHANCE に好意を寄
せている。彼女の、これらの行動は、私的な理由で始まっているようにも見えるが、
そこには、BOSS FINLEY によって代表される、南部の暴力性に対する挑戦がかい
ま見られる。その意味では、彼女もまた、暴力を振るう者から、振るわれる者を守
るという立場に立つ人物の役目を担わされていると言えるだろう。
第三章 八人の「登場人物」の属性とキリスト教 この主なる八人の「登場人物」を通して、何が見えてくるであろうか。筆者が見
たものをわかりやすく説明するために、まず、少し整理をする意味で、簡略図を用
いて、「登場人物」を三つに大別してみると、
- 216 -
Tennessee Williams の Sweet Bird of Youth
「キリスト教」
「時間(衰微)」
「人種差別・暴力」
CHANCE
BOSS FINLEY
HEAVENLY
PRINCESS
TOM FINLEY
NONNIE
THE HECKLER
MISS LUCY
となる。
上の図からもわかるように、「登場人物」を、少々乱暴であることを、あえて承
知の上で、「時間(衰微)」
、
「人種差別・暴力」、
「キリスト教」の三つを柱にして、
大別してみた。
この図の左側の「時間(衰微)
」には、CHANCE と PRINCESS の名前が挙げら
れている。この劇の元になった一幕劇、The Enemy: Time の「題名」も暗示してい
るように、若さや美貌の敵であり、衰えや老いをもたらす、冷酷なる「時間」を
人一倍強く意識している「登場人物」は、この八人の「登場人物」の中で、二人、
CHANCE と PRINCESS しかいない。他の「登場人物」は、
「時間(衰微)
」について、
まったくと言っていいほど、関心を示さないばかりか、彼らの「台詞」の中に、
「時
間(衰微)
」に関する言及は出てこない。Williams は、この劇の「主題」である、
「時
間(衰微)
」に関する言及を、
この二人の「登場人物」のみに限定している。そのため、
この劇の「主題」は、この二人を通してのみ、展開されていく。この二人以外にも、
主要な「登場人物」は何人もいるにもかかわらず、この「主題」が、他の「登場人
物」の「台詞」を通して、
語られることがないのは何故であろう。それは、
単に、
「時
間(衰微)」に、絶えず、気を囚われて生きている人間と、それから身を解き放さ
れた形で生きている人間がいるということを、
「登場人物」を通して、示している
のにすぎないのだろうか。それとも、上の表に見られるように、Williams は、主な
る「登場人物」を、「時間(衰微)
」
、
「人種差別・暴力」
、「キリスト教」という、い
わば、三つの枠組み(筆者の見方によれば)に分割して、それぞれの枠組みを、多
面的に、見ようとしたのではないだろうか。
この枠組みの中で、
「時間(衰微)
」に属する CHANCE と PRINCESS は、それに
- 217 -
落 合 和 昭
囚われているという意味では、似たものどうし、
「相似」の関係にある。二人は、
しばしば、若さの衰えや美貌の衰えを口にし、彼らは、その衰えとともに、生きる
力を失いつつあると感じている。彼らにとっては、まるで、それらの衰えが、人間
としての、すべての衰えであるかのように感じ、年を取るということは、すべての
面で失っていくことであり、年齢を経るにつれて、得るものは何もないと感じてい
るかのようである。しかし、彼らは、劇の終わりには、彼らの人生の中に、それぞ
れの形で、意味や自分が取るべき行動の目標を見いだし、この日、イースター・サ
ンディ、「復活祭」にふさわしく、それぞれ、彼らなりの復活をめざそうとしてい
る。彼らが、彼らなりに、世俗的、個人的なレベルで、再出発、復活を目指すとい
うことは、キリスト教における復活の意味、イエス・キリストの復活とは、質的に
は、まったく異なるが、イエスの復活と「相似」の形で、描かれていると考えてい
いだろう。
上の図の中央部分の「人種差別・暴力」には、BOSS FINLEY と TOM FINLEY
の名前が入っている。さらに、「登場人物」の幅を広げて考えれば、ここには、こ
の二人の手下や取り巻き連中、彼らを支持する人々までもが含まれるだろう。公
然と、演説の中で、人種差別発言をし、白人優位を唱え、それを維持するために、
暴力に訴えることも辞さない、主要な「登場人物」は、この八人の中では、二人、
BOSS FINLEY と TOM JUNIOR しかいない。この意味では、二人は、CHANCE と
PRINCESS の「相似」とは異なっているが、
「人種差別・暴力」の面で、似たもの
どうし、
「相似」の関係にあると言える。この二人、特に、BOSS FINLEY は、白
人が、自らの白人の血を守ることは、神が与えてくれた使命であると信じている。
もちろん、白人の血を守ることが神が与えた使命であるとは、
『聖書』のどこを見
ても書かれていない。しかし、それでも、彼は、それが神が与えた使命であり、白
人の血を守るための、人種差別や、人種を差別するのに必要な暴力は、当然、受け
入れられるはずだと考えている。このような信仰のあり方を、いったい、何と呼ん
だらいいのであろうか。
『聖書』に書かれていないことを引き合いに出し、それが
神の言葉であるかのような言い方をしているので、厳密な意味では、彼の主張は、
キリスト教とは関係のない考え方であると言える。しかし、その彼がキリスト教の
神を信じているということは、MISS LUCY の言葉を借りるまでもなく、確かなこ
- 218 -
Tennessee Williams の Sweet Bird of Youth
とであるように思われる。神を信じているが、
『聖書』に書かれていないこと、
『聖
書』の言葉とは反する言葉を、神の言葉として信じているのが BOSS FINLEY であ
り、TOM JUNIOR である。よく考えてみれば、彼らは、すでに、彼らの中で、自
己矛盾を起こしているのであるが、そのことに気づかないかのように、自分が神の
言葉であると思ったり、感じたものが、それだけで、すべて、神の言葉であると
考えているように見える。これでは、何でも、任意に、神の言葉になってしまう。
Williams が、この種の「登場人物」を、この劇に、登場させたのは、この二人のよ
うな人物が、公民権運動が盛んな当時には、南部には、数多くいたということかも
しれない。南部生まれの Williams にとっては、この二人のようなキリスト教徒が、
神によって、自分がしていることを正当化しながら、南部に、人種差別を続けさせ、
黒人に対する暴力を蔓延らせていると考えていたのかもしれない。
「時間(衰微)
」に属する一組、CHANCE と PRINCESS は、見てきたように、二
人とも、似たものどうし、
「相似」の関係にある。また、
「人種差別・暴力」に属す
る一組、BOSS FINLEY と TOM JUNIOR も、同様に、「相似」の関係にある。この
二組に限っては、
「登場人物」を、比較的、明確に、分類できると言っていいだろう。
しかし、次の「キリスト教」に属し、何らかの形で、キリスト教世界を表している
と思われる「登場人物」、HEAVENLY、NONNIE、THE HECKLER、MISS LUCY は、
一筋縄ではいかない、キリスト教世界の多様性を表しているように思える。
まず、HEAVENLY から見てみると、彼女は、放蕩三昧を続けてきて、やがて、
神経までもやられて、絶望の底に沈んでいた、CHANCE の恋愛の相手になり、また、
彼にとって、救いの神ともなるが、けっきょく、彼の身代わりになって、彼が犯し
てきた罪を背負い込んだ形で、
性病に罹り、
「子宮摘出」の手術を受けるはめになり、
子供の産めない身体になる。彼女は、彼女自身の罪の結果というよりも、彼の犯し
た罪の結果を引き受けた形になっている。しかし、彼女には、CHANCE を責めたり、
非難したりする様子は、まったくと言っていいほど、見られない。ここには、人間
のあらゆる罪を引き受け、身代わりの、いわば、生け贄となって、十字架上で死ん
だ、イエス・キリストの姿と、わずかであるが、重なり合う部分があるので、彼女
はイエスの「相似」であると言える。
彼女の中には、彼女の名前が示しているように、イエスの神聖や霊性が感じられ
- 219 -
落 合 和 昭
るが、Williams は彼女の中にある、その神聖や霊性を、
「台詞」によらずに、視覚
的に描き出している部分がある。それは、一枚の絵、El Greco の絵を連想させる場
面である。
その場面では、
「メキシコ湾」が大きな役割を果たしているので、その場面に移
る前に、この劇で描かれている「メキシコ湾」について、少し、考えてみたい。
ACT ONE SCENE ONE の冒頭の「ト書き」には、
A bedroom of an old-fashioned but still fashionable hotel somewhere along the Gulf
Coast in a town called St. Cloud....(p13)
(下線は筆者、点線部分は省略部分)
と書かれているように、この劇の「場所」となるホテルは “the Gulf Coast”、「メキ
シコ湾岸」沿いにある。さらに、ACT TWO SCENE ONE の冒頭の「ト書き」には、
この劇の、もう一つの「場所」である、BOSS FINLEY の家に関する言及の中に、
....The Gulf is suggested by the brightness and the gulls crying as in ACT ONE....(p56)
(下線は筆者、点線部分は省略部分)
という箇所がある。ACT ONE のホテルのように、この BOSS FINLEY の家も、
「明
るさとカモメの鳴き声」によって、「メキシコ湾」のすぐ側にあることが暗示され
ている。Williams は、
劇の二つの「場所」
、
それは、
劇のすべての「場所」でもあるが、
それを「メキシコ湾」沿いに設定している。このことは、Williams が、この「メキ
シコ湾」に、なにがしかの意味を込めているように感じられる。
ACT ONE SCENE ONE の中で、CHANCE と PRINCESS の「台詞」のやりとり、
PRINCESS: ....What is that body of water, that sea, out past the palm garden and fourlane highway?....
CHANCE: We’ve come back to the sea.
- 220 -
Tennessee Williams の Sweet Bird of Youth
PRINCESS: What sea?
CHANCE: Gulf
PRINCESS: GULF?
CHANCE: The Gulf of misunderstanding between me and you..
.
.
PRINCESS: We don’t understand each other? (p36)
(下線は筆者、小さな点線部分は省略部分)
から見ると、CHANCE にとっては、
このホテルの部屋から見える「湾」は、ただの「湾」
ではなく、「私とあなたの間にある、誤解の湾」を象徴している。
また、ACT TWO SCENE ONE における BOSS FINLEY の「台詞」
のやりとりの中で、
父親は娘の HEAVENLY を、無理やりに、政治的に、しかも、人種差別の道具とし
て使おうとしている。父親の行動に反対して、HEAVENLY は修道院へ行きたいと
言うが、父親は、高圧的な、有無を言わせない態度で、彼女を従わせようとしている。
それは、BOSS FINLEY にとっては、無意識であるかもしれないが、キリスト教を
人種差別や暴力の道具として使っていることになる。この同じ「湾」が、このホテ
ルの部屋からだけではなく、
BOSS FINLEY の家からも見えるということは、
この「私
とあなたの間にある、誤解の湾」は、CHANCE と PRINCESS の二人の間だけでは
なく、BOSS FINLEY と娘の HEAVENLY の間のすれ違い、
「私とあなたの間にある、
誤解の湾」を暗示している可能性が強い。
「湾」は、離れた土地の間にある海峡と
は違って、同じ土地の間にある空間である。そのため、「湾」は、同じ環境の中に
属している人間の間に広がっている、
「私とあなたの間にある、誤解の湾」を表す
のに適していると言える。
この「メキシコ湾」、
「私とあなたの間にある、
誤解の湾」が、
続く場面で、
「ト書き」
に書かれているように、たちまちのうちに、その様相を一変する。
CHARLES turns on a coach lamp by the door. This marks a formal division in the scene.
The light change is not realistic; but the light doesn’t seem to come from the coach lamp but
from a spectral radience in the sky, flooding terrace. The sea wind sings. HEAVENLY lifts
- 221 -
落 合 和 昭
her face to it. Later that night may be stormy, but now there is just a quickness and freshness
coming from the Gulf. HEAVENLY is always looking that way, toward the Gulf, so that the
light from Point Lookout catches her face with its repeated soft stroke of clarity. (p66)
この中で、暗闇が迫ってきたので、年老いた黒人の召使い、CHARLES がドアの側
の明かりにスイッチを入れると、その明かりによって、突然、今までの場面が、途
中で、分断されて、その場面が別世界へ、次元がまったく異なった別世界へ移行し
たような感じを与える。その場面は、
「背景」から見ても、それ以前の場面とは、
変わっていないにもかかわらず、たた、光の変化によってのみ、突然、別の雰囲気
を持ち始める。明かりの変化は、その場面を、現実の世界から非現実的な世界へ変
える。上の「ト書き」にも書かれているように、その光は、じっさいは、召使い
の CHARLES がスイッチを入れた、ドアの側のスタンドからくるのではなく、空
の “spectral radience”、
「虹のような輝き」の光である。すなわち、その光は、地上
の光ではなく、天から注がれているような光となり、テラス一面に降り注いでいる。
HEAVENLY は、まるで、その光が神からの光であるかのように、その光に向かって、
顔を上げる。その夜は、しだいに、風も強まり、嵐が近づいてきているような感じ
を与え、「メキシコ湾」からは、ある種の急速なもの、新鮮なものが入り込んで
くる。HEAVENLY は、いつものように、「メキシコ湾」を見ている。Point Lookout
からくる光は、彼女の顔に、“repeated soft stroke of clarity”、
「何度も繰り返される、
柔らかい清澄さの波」になって降り注ぐ。
Williams は、 こ の 光 を、“spectral radience”、
「虹のような輝き」
、“repeated soft
stroke of clarity”、「何度も繰り返される、柔らかい清澄の波」と呼び、その光が彼
女の全身を包んでいるように描いている。また、その光の中には、“a quickness and
freshness”、「急速なもの、新鮮なもの」が感じ取れる。このような光に包まれてい
る HEAVENLY は、神々しく、彼女と光の関係は、El Greco の絵に見られる聖人・
聖女と光の関係に似ている。Williams は、このような描き方をすることによって、
HEAVENLY が、キリスト教の精神を、純粋な形で表していると言いたいのだろう。
また、この光が、「メキシコ湾」、
「私とあなたの間にある、誤解の湾」からきてい
るということは、この「私とあなたの間にある、誤解の湾」が、いつの日か、
「私
- 222 -
Tennessee Williams の Sweet Bird of Youth
とあなたの間にある、和解の湾」になるようにという、Williams の祈りが、この場
面に込められているように感じられる。
NONNIE は、人のよい、親切で、ある程度、おせっかいな乳母や尼僧を連想させる。
彼 女 は、BOSS FINLEY や TOM JUNIOR に 代 表 さ れ る 暴 力 を 嫌 い、CHANCE と
HEAVENLY の仲を取り持とうとしている。彼女は BOSS FINLEY、TOM JUNIOR
と CHANCE、HEAVENLY の間に立って、両者を和解へと導こうとしているので、
ある種の仲介者であるとも考えられる。彼女のすることの中には、いわゆる、悪
気はなく、いっさいが、善から出発している。そのため、彼女の言動は、Romeo
and Juliet の 中 で、 二 人 の 仲 を 取 り 持 ち、 密 か に、 二 人 を 結 婚 さ せ る、 修 道 僧
LAWRENCE を思い出させる。彼女を通してみると、キリスト教が持つ道徳性が、
日常生活のレベルで、具体的に表れているように見える。
THE HECKLER については、
「ト書き」の中で、El Greco の聖人画の中の聖人の
ようであると書かれていて、彼の属性の中に、キリスト教的要素が多分に持ち込ま
れていることがわかる。しかし、それは、HEAVENLY や NONNIE に見られる、ど
ちらかというと、受動的なキリスト教的要素とは、明らかに、違っている。それは、
Williams が、この人物に限って、具体的な名前を使わずに、THE HECKLER(やじ
る人・厳しく善悪の区別をする人)という抽象名詞を使って、
「登場人物」の名前
の代わりにしていることからも推量できる。彼の中には、聖人の部分と、厳しく善
悪を区別し、悪に対して、激しくやじる人の部分が併存している。HEAVENLY や
NONNIE は、個人的に、BOSS FINLEY や TOM JUNIOR の暴力性について批判し、
非難している。しかし、THE HECKLER は、その呼び名が示しているように、個人
的にではなく、あくまで、演説会場、すなわち、公の場所で、彼らの人種差別、白
人優位主義を、大声を上げて、批判する。彼は、人間の中にある、不正、差別、暴
力を、容赦なく指摘して、激しい怒りを持って、明らかにしようとしている。彼の
中には、
『旧約聖書』の怒る神の特性が強く表れているように見える。
MISS LUCY は、BOSS FINLEY に妻がいることを知っていながら、彼の愛人
になったのだから、
「姦淫することなかれ」というモーセの十戒を破り、キリス
ト教でいう罪を犯していることは、誰の目にも、明らかであるが、それにもかか
- 223 -
落 合 和 昭
わらず、BOSS FINLEY の人種差別や暴力を、公の前で、暴こうとしている THE
HECKLER に密かに手を貸し、かつ、BOSS FINLEY から暴力を受けようとしてい
る、CHANCE に、今でも、好意を寄せている。そのため、彼女は、BOSS FINLEY
の世界に属していながらも、彼に背いているようなところがある。彼女は BOSS
FINLEY 側の人間というよりも、彼と対立をしている側の人間のように思われる。
おそらく、BOSS FINLEY がしていることに嫌気がさし、そこから、少しでも早く、
抜け出そうとしているように見える。いや、もう、じっさいは、心の中では、彼
の世界と完全に手を切っていると考えていいだろう。彼女は、
「福音書」の中で、
十二回ほど言及されている、マグダラのマリア、罪を犯しながらも、十字架刑の
ときも、イエスが葬られたときも、イエスが復活したときも、イエスに絶えず従
い、そばにいたマグダラのマリアを連想させると言ったら、言い過ぎであろうか。
MISS LUCY の中には、罪を悔い改め、改心し、神を受け入れたマグダラのマリア
の姿が、やはり、「相似」の形で、写し出されているのではないだろうか。
そのため、HEAVENLY、NONNIE、THE HECKLER、MISS LUCY の四人が、そ
れぞれ異なった形ではあるが、キリスト教の世界を表しているとすると、BOSS
FINLEY と TOM JUNIOR は、キリスト教の負の遺産を表していると言えるだろう。
そして、
「時間(衰微)」に押しつぶされてきた CHANCE と PRINCESS は、
今まさに、
Dante (1265-1321) が言う「煉獄」の中にいる。彼らは、復活をめざして、もがき
にもがいているが、その復活が、彼らにとって、真の復活になるかどうかについて
は、この劇の中では、何も書かれていない。
第四章 テーマ曲:The Lament と『旧約聖書』の「哀歌」
Williams が、この劇の巻頭につけた Synopsis of Scenes 中で、“special effects”、「特
殊効果」の「音響」について、
There is nearly always a wind among these very tall palm trees, sometimes loud,
sometimes just whisper, and sometimes it blends into a thematic music which will be
identified, when it occurs, as “The Lament.”
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Tennessee Williams の Sweet Bird of Youth
と書いている。そのため、この劇のテーマ音楽は、“The Lament” であることがわか
る。しかし、“The Lament” は、日本語では、「哀歌」、
「悲歌」、
「悲曲」等に訳され
ているが、具体的に、誰が作曲した “The Lament” であるのかという問題になると、
「ト
書き」の中には、何も書かれていないので、断定することは不可能である。この劇
の「音楽」を担当している、Paul Bowles が、自ら作曲した “The Lament” であるか
もしれないが、それも確認できない。Williams が “Lament” の作曲者を明確にしな
いで、その曲が “Lament” であることのみを明らかにしているのは、彼にとっては、
その曲が誰の曲であるかよりも、その曲が “Lament” であることのみが重要である
のかもしれない。
彼は、「音響効果」として、風の音を巧みに使っているが、その風の音は、とき
には、大きな音に、ときには、ささやくほどの小さな音に、また、ときには、この
“The Lament” の曲と混ざり合うような形で、使用されるように指示されている。彼
が、この風の音の変化を通して、場面ごとに、メリハリをつけて用いていることが
わかる。さらに、自然の音である風の音と “The Lament” の曲を融合させることに
よって、その「哀歌」が人間としての自然な感情の吐露であることを強調している
ようにも感じられる。 「ト書き」から判断する、この “The Lament” への言及があるのは、ACT ONE
SCENE ONE で、
There is a pause followed by “Lament.” (p38)
“Lamentation” is heard very faintly. (p40)
Pause:“The Lamentation.” (p44)
の三箇所、ACT ONE SCENE TWO で、
“The Lament” is heard. (p46)
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落 合 和 昭
He remains by the open shutters, looking out as “The Lament” in the air continues. (p46)
の二箇所、ACT TWO SCENE TWO で、
“The Lamentation”is heard. (p102)
“The Lament”is in the air. It blends with wind-blown sound of the palms. (p103)
二箇所、ACT THREE で、
“whisper of “The Lament.” (p120)
“The Lament” fades in, continues through the scene to the last curtain. (p122)
の二箇所、計九箇所である。この九箇所を、SCENE ごとに見た場合、唯一、ACT
TWO SCENE ONE、BOSS FINLEY の家のテラスの場面においては、この曲は流れ
ない。この場面は、また、主人公 CHANCE が登場しない唯一の SCENE でもある。
逆の言い方をすれば、CHANCE が登場している、他のすべての場面では、この曲
が流れていることになる。そのため、この曲は、彼が置かれている状態、彼の心の
状況と密接に結びついていると考えていいだろう。
通常、“lament”、“lamentation” という語は、『旧約聖書』の Lamentations、「哀歌」
を連想させる。この「哀歌」は五つの歌からなる。『新聖書辞典』の「哀歌」の項
目によれば、その五つの歌の内容は、以下の通りである。
第一の歌 エルサレムの荒廃の現状について嘆く歌
第二の歌 聖都エルサレムに対する神の怒りについての祈りの歌
第三の歌 廃墟となったエルサレムについての嘆きと神のあわれみを求める歌
第四の歌 エルサレムの昔の栄光と現在の悲惨を比較し嘆く歌
第五の歌 エルサレムとその住民の荒廃を嘆くと共に悔い改めをする歌
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Tennessee Williams の Sweet Bird of Youth
第一の歌では、神の都と考えられていたエルサレム、そこに立つ、神聖にして、荘
厳な神殿、それが預言者たちの預言の通り、バビロンの王ネブカデネザルによって、
破壊尽くされて、廃墟同然になってしまった。神を神とも思わず、神に対して、背
信を続けた、イスラエルの民に対する、神の怒りの結果である。第二の歌の前半部
分では、神の怒りをかった、エルサレムの都がいかに悲惨な状況に置かれているか
が、こと細かく描写され、後半部分では、怒る神に対して、イスラエルの民に、手
を差し上げて、祈るように呼びかけている。第三の歌の前半部分では、エルサレ
ムの惨状が、さらに細かく、続けて描写され、後半部分では、五十六節(英語訳、
Do not close your eyes to my cry for relief. 日本語訳、救いを求める私の叫びに耳を
閉じないでください。)の言葉に代表されるように、神からの哀れみを求め、敵が
エルサレムから追放されることを願っている。第四の歌では、イスラエルの民が、
過去において、神を崇め、神を第一としていたときのエルサレムが、いかに繁栄し、
神の栄光に満ちていた都であったかが描写される一方、イスラエルの民が、神に背
き、神をないがしろにしたときのエルサレムが、今、ここに、悲惨な現状を晒して
いる様子が、比較されるような形で、描かれている。第五の歌の前半部分では、イ
スラエルの民が置かれている現状が、さらに、語られる。後半部分では、十六節(英
語訳、Woe to us, for we have sinned! 日本語訳、ああ、私たちにわざわいあれ。私た
ちが罪を犯したからです。
)
、二十一節(英語訳、Restore us to yourself, O LORD, that
we may return; 日本語訳、主よ。あなたのみもとに帰らせてください。私たちは帰
りたいのです。)と悔い改め、救いを求めている。
この「哀歌」全体を見てみると、過去において、神の下で、繁栄を極めていたエ
ルサレムが、イスラエルの神をないがしろにするような生活を続けたため、敵に破
壊され、廃墟になり、悲惨な生活を送らなければならなくなる。神の激しい怒りを
あらためて知り、その惨状を目の当たりにして、予言者たちは、イスラエルの民
に、神に祈り、神の哀れみを求め、自らを悔い改めて、神からの許しを求めてい
る。このエルサレムの都、イスラエルの民に関する描写、すなわち、「哀歌」全体
は、そのまま、CHANCE が置かれている状況、この劇の内容と重なり合う部分が
見えてこないであろうか。類い希なる美貌と若さの中にあった CHANCE は、神の
下で、繁栄を謳歌していたエルサレムの都と重なり合う。しかし、その彼も、今や、
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落 合 和 昭
最大の敵である、美貌、若さの喪失、老いの到来に攻め込まれている。彼は、罪深
い生活を送る中で、性病を患い、それを最も愛することになる HEAVENLY に移し、
結果的に、彼女を「子宮摘出」という手術にまで追い込んでしまう。自分の愛す
るものに対して行った罪の深さに、驚き、悔い改めた彼は、その罰として、BOSS
FINLEY の手下たちによる「去勢」を受け入れ、それによって、贖罪をし、復活を
求める彼の中に、「哀歌」に描かれた、エルサレムの都、イスラエルの民の姿が重
なり合わないであろうか。
第五章 「去勢」
「去勢」の第一の意味
この劇の中では、“castration”、
「去勢」という語がキーワードになっている。こ
の語は、通常、動物のオスの睾丸を除去するという意味で使われるが、この劇では、
動物ではなく、人間に関する意味で使われている。「去勢」という語が、人間に関
して使われる場合は、すぐに、昔の中国の宦官が思い出されるほどで、現代社会で
は、人間に関して使う場合は、ほとんど死語になってしまったかと思われる言葉で
あり、仮に、現在、人に関して、この言葉を聞くと、かなりの違和感を伴って、反
応する人が多いのではないだろうか。しかし、Williams は、この言葉を、この劇の
中では、重要なキーワードとして使っている。この言葉は、人間の睾丸を削除して
しまうのであるから、生物としての人間の大きな役割の一つである、子孫を残すと
いう行為に参加できないことであり、
「去勢」された人間は、
自分の血を引くものは、
それから先、この世の中には、存在しないということになる。しかも、この劇では、
この「去勢」という語は、男だけではなく、女に対しても、具体的な意味、
「子宮
摘出」という意味でも、使われている。さらには、
その語の抽象的な意味、
「骨抜き」、
「無力化」、
「不都合な部分の削除・除去」という意味にも使われている。そのため、
この劇では、「去勢」はかなりの意味の広がりを持っていることになる。
まず、
「去勢」の第一の意味、具体的な意味での男と女の「去勢」について見て
みよう。
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Tennessee Williams の Sweet Bird of Youth
ACT ONE SCENE ONE の中で、今では、HEAVENLY の婚約者になっている医者
の SCUDDER は、ホテルの一室にいる CHANCE と PRINCESS の部屋を訪ねてきた
とき、
SCUDDER: ....but, Chance, I think I ought to remind you that once long ago the father
(BOSS FINLEY) of this girl (HEAVENLY) wrote out a prescription for you, a sort of
medical prescription, which is castration.... (p19)
(下線及び括弧内は筆者、点線部分は省略部分)
と言って、この劇の中で、初めて、“castration”、
「去勢」という語を使っている。
CHANCE は、以前、まだ、十五歳であり、処女であった HEAVENLY と性的関
係を持った。そして、彼が、若さと美貌を売り物にして、金持ちの女たちを相手
に、ジゴロとしての生活をしている間にかかった性病(おそらく、梅毒)を、今
度は、彼女にもうつしてしまった。やがて、彼女は、彼に比べて、性病が重くな
り、その結果、“hysterectomy”、
「子宮摘出」の手術を受けなければならなくなり、
けっきょく、子宮を失い、子供の産めない身体になった。この手術を行った医者が
SCUDDER である。彼の名前の SCUDDER の中の “scud” には、「疾走する」
、「
(毛
を刈り取った後の獣皮)の残り毛や汚れをとってきれいにする」という意味があり、
HEAVENLY の「子宮摘出」手術をした医者らしい名前となっている。この「子宮
摘出」の手術は、女性である HEAVENLY から見れば、別の言葉で言えば、まさに、
“castration”、「去勢」を意味する。娘に対して、このような仕打ちをした CHANCE
に、激しい怒りを感じている父親の BOSS FINLEY は、CHANCE に会ったら、「去
勢」してやると言っている。BOSS FINLEY から見れば、CHANCE に対する「去
勢」は、HEAVENLY の純潔を汚し、性病をうつし、
「子宮摘出」にいたるまで、娘
が受けた恥辱に対する、等価的な復讐、まさに、目には目を、歯には歯をに当たる、
復讐であると考え、CHANCE が「去勢」の罰を受けるのは当然であると考えてい
る。ここでは、「去勢」は、具体的に、CHANCE に対する、復讐としての「去勢」、
HEAVENLY の「子宮摘出」を指しているので、
「去勢」は、男と女の「去勢」を指
している。
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落 合 和 昭
この劇の中では、じっさいに、CHANCE 以外の、別の男性が、すでに、「去勢」
されている。この「去勢」も第一の意味に属すると思われるが、もう一つの別の様
相を持つ「去勢」が出てきたことになる。
ACT TWO SCENE TWO のホテルのカクテル・ラウンジの場面で、CHANCE が旧
友 BUD と SCOTTY と話しているときに、
BUD: He (BOSS FINLEY)’s going to state his position on that emasculation business
that’s stirred up such a mess in the state. Had you heard about that?
...
SCOTTY: Well, they picked out a nigger at random and castrated the bastard to show they
mean business about white women’s protection in this state.
BUD: Some people think they went too far about it. There’s been a whole lot of Northern
agitation all over the country.
SCOTTY: The Boss is going to state his own positon about that thing before the Youth for
Boss Finley rally upstairs in the Crystal Ballroom.... (p89)
(下線及び括弧内は筆者、点線部分は省略部分)
という「台詞」が交わされている。
このテキストによる劇(New York 公演)が上演されたのは、1959 年であり、
1964 年に公民権法が成立する五年も前である。そのため、1959 年は公民権運動が
高まりを見せていた時期に当たる。この人種差別撤廃運動の高まりの陰で、この運
動を推し進めている人々に対する、激しい憎しみを抱いていた人種差別主義者が、
南部には、数多くいたと思われる。明らかに、そうした人種差別主義者たちに属す
る BOSS FINLEY は、人種差別撤廃運動が高まるにつれて、白人と黒人の交流の場
が広がり、やがて、白人の血の中に、黒人の血が入るのではないかと極度に恐れて
いる。おそらくは、その恐怖からであると思われるが、BOSS FINLEY は、黒人に
対する警告のつもりか、黒人一人を、適当に選び出し、いわば、見せしめとして、
彼を “castrated”、「去勢した」という事件があった。この場合の「去勢」は、上に
述べた、HEAVENLY の性病による「子宮摘出」、CHANCE に対する BOSS FINLEY
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Tennessee Williams の Sweet Bird of Youth
の脅しの「去勢」とは、少し、異なる部分がある。この「去勢」は、意図的に、力
ずくで、現実に行われた「去勢」であり、しかも、明らかに、人種差別・白人優位
主義に基づいた、黒人社会全体に対する脅しの「去勢」である。CHANCE に対す
る「去勢」が復讐による「去勢」であり、HEAVENLY に対する「去勢」は、医学
的な見地からの「去勢」であるが、この黒人に対する「去勢」は、人種差別による
「去勢」である。「去勢」の意味が、厳密な意味では、三者の間で、異なっているが、
その三者は「相似」の関係にある。
この「去勢」の話は、ACT TWO SCENE TWO の終わりまで続く。この場面の終
わり近くになると、このホテルの Crystal Ballroom で開かれている、大物政治家で
ある BOSS FINLEY を支える青年大会がテレビ中継されるが、その中で、彼は、次
の「台詞」
、
BOSS [on TV screen]: ....I have told you before, but I will tell you again. I got a mission
that I hold sacred to perform in the Southland....When I was fifteen I came down
barefooted out of the red clay hills.
.
.
.Why?
Because the Voice of God called me to excute this mission.
...
BOSS: And what is this mission? I have told you before but I will tell you again. To
shiled from pollution a blood that I think is not only sacred to me, but sacred to Him.
...
BOSS: Who is the colored man’s best friend in the South? That’s right.
..
...
BOSS: It’s me, Tom Finley. So recognized by both races.
...
BOSS: However―I can’t and will not accept, tolerate, condone this threat of a blood
pollution.
...
BOSS: As you all know I had no part in a certain operaton on a young black gentleman.
I call that incident a deplorable thing. That is the one thing about which I am in total
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落 合 和 昭
agreement with the Northern radical press. It was a deplorable thing. However...I
understand the emotions that lay behind it. The passion to protect by this violent emotion
something that we hold sacred: our purity of your own blood! But I had no part in, and
I did not condone the operation performed on the unfortunate colored gentleman caught
prowling the midnight streets of our capitol City.
.
.
.(p107)
(下線及び括弧内は筆者、小さな点線部分は省略部分)
を言う。
彼は、この中で、
「去勢された」青年の事件に対して、嘆かわしい事件である、
と、一応は、言っているが、彼の使命は、彼にとっても、神にとっても、神聖であ
る血を、汚染から守ることであるとも言っている。そのため、彼は、血の汚染の脅
威を受け入れることも、大目に見ることも、見逃すこともできないし、また、そう
するつもりもないと言明している。彼にとっては、神聖なものとして、維持し続け
なければならないのは、白人の血の純潔なのである。彼が、ここで、血を汚染から
守る、神聖なる純潔を守るという言葉の中には、白人の血の中には、一滴たりとも、
白人以外の血が入るのは許されない、そんなことは、絶対に、許されないという、
強い信念にも似た思いが込められている。彼にとっては、白人の血は白人の血から
のみ成り立っていなければならず、白人以外の血が混じることは、けして許されな
い汚染なのである。彼は、この使命を、彼の使命と言うだけではなく、神の言葉に
よって導かれた使命であり、南部にとっても、神聖な使命であると言っている。彼
は、自分勝手な、差別的な使命を、南部の使命であり、神の使命であるとまで言っ
て、自分の使命を、さらに自分よりも大きなものを利用して、正当化している。こ
の BOSS FINLEY の「台詞」は、「去勢」が人種差別とも関わりを持っていること
を示している。
これほどまでに、偽善的に、人種差別を声高に主張する「登場人物」は、おそら
く、Williams の劇の中には、この劇以外では、登場してこないであろう。この劇が
書かれた時代的背景が BOSS FINLEY にそう言わせているのであろう。
- 232 -
Tennessee Williams の Sweet Bird of Youth
「去勢」の第二の意味
Williams は、具体的な意味での「去勢」、じっさいに、睾丸や子宮を切除すると
いう意味での「去勢」の他に、
「去勢」の第二の意味、抽象的な意味での「去勢」
も暗示している。
彼は、ACT THREE の終わり近くの「ト書き」には、始めに、わざわざ、“NOTE”
と書いている。彼にとっては、この部分は、単なる「ト書き」というよりも、むし
ろ、上演形式を細かく説明し、指示する、‘PRODUCTION NOTE’ と考えているよ
うに思われる。少し長くなるが、その部分を引用してみると、
NOTE: in this area it is very important that CHANCE ’ S attitude should be selfrecognition but not self-pity―a sort of deathbed dignity and honesty apparent in it. In
both CHANCE and PRINCESS, we should return to the huddling together of the lost,
but not with sentiment, which is false, but with whatever is truthful in the moments
when people share doom, face firing squads together. Because the PRINCESS is really
doomed. She can’t turn back the clock any more than can CHANCE, and the clock is
equally relentless to them both. For the PRINCESS: a little, very temporary, return to,
recapture of, the spurious glory. The report from SALLY POWERS may be and probably
is a factually accurate report: but to indicate she is going to further triumph would be to
fasify her future. She makes this instinctive admission to herself when she sits down by
CHANCE on the bed, facing the audience. Both (CHANCE and PRINCESS) are faced
with castration, and in her heart she knows it. They sit side by side on the bed like two
passengers on a train sharing a bench. (p122)
(下線及び括弧内は筆者)
となる。
Williams は、これはとても重要なことであるがとことわったうえで、このとき
の CHANCE の態度には、自己憐憫ではなく、自己認識が表れていて、それは、
臨終間近の人の持つ威厳と正直に似ていると書いている。そして、CHANCE と
- 233 -
落 合 和 昭
PRINCESS の姿は道に迷った者どうしが身を寄せ合っている姿であるが、そこには、
見せかけのセンチメンタルな要素は微塵もなく、二人には、これから、潔く、銃殺
執行部隊の前に出ようとしている人に見られる、真実そのものが感じられる。ここ
にいたって、この二人には、不退転の決意が感じられる。二人は、この時点では、
「時間」は、何を持ってしても、再び、引き戻すことができず、
「時間」は無慈悲で、
情け容赦のないものであることはよくわかっている。しかし、PRINCESS は、この
「ト書き」の少し前に、SALLY POWERS との電話の中で、彼女は、彼女が出演し
た映画が New York と Los Angeles で大当たりをとり、映画界最大のカムバックであ
ると言う人もいると聞いて、大喜びをする。しかし、上の「ト書き」の下線部、“a
little, very temporary, return to, recapture of, the spurious glory....to indicate she is going to
further triumph would be to fasify her future.” にあるように、そのカムバックはほんの
束の間のカムバック、正確には、カムバックとは言えないほどの、ほんのわずかな、
一時的なカムバックにしかすぎず、彼女が、これから先、さらなる勝利を掴むと言
ったら、彼女の未来を正確に言い当てていないことになるだろう。また、彼女自身
も、「ト書き」、
Something uncertain appears in her (PRINCESS) face and voice betraying the face which
she probably suddenly knows, that her future course is not a progression of triumph.
(p120-p121)
(下線及び括弧内は筆者)
にもあるように、彼女自身、彼女の映画は大当たりしたものの、未来、このまま、
勝利が続くとはとても思えない。しかし、彼女は、それでもかまわないと、本能的
に感じ取っている。ここでは、彼女は、それが、たとえ、束の間の復活であっても、
その復活にかけようとする決意が感じられる。
CHANCE も、ここにいたって、大きな決意をしているが、その決意には、二つ
の決意が含まれているのではないだろうか。一つは、BOSS FINLEY の手下たちに
よる「去勢」を、抵抗せずに受け入れること、これは、HEAVENLY に対して、犯
した罪の償いとして、彼自身も、子宮を失った彼女と同様に、「去勢」を受け入れ
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Tennessee Williams の Sweet Bird of Youth
ることである。もう一つは、CHANCE にとっては、その抽象的な意味、青春や若
さの「骨抜き」、「無力化」、
「不都合な部分の削除・除去」という意味での「去勢」
の意味も加わってくる。それは、PRINCESS にとっても、具体的な意味での「去勢」
ではなく、同じように、抽象的な意味での「去勢」である。
この NOTE に続く、二人の「台詞」のやりとりは、次のようになっている。
PRINCESS: Chance, we’ve got to go on.
CHANCE: Go on to where? I couldn’t go past my youth, but I’ve gone past it.
[“The Lament” fades in, continues through the scene to the last curtain.]
PRINCESS: You’re still young, Chance.
CHANCE: Princess, the age of some people can only be calculated by the level of―level
of―rot in them. And by that measure I’m ancient.
(省略)
[The sound of a clock ticking is heard, louder and louder.]
CHANCE: No, listen. I didn’t know there was a clock in this room.
PRINCESS: I guess there’s a clock in every room people live in....
CHANCE: It goes tick-tick, it’s quieter than your heartbeat, but it’s slow dynamite, a
gradual explosion, blasting the world we lived in to burnt-out pieces.... Time―who could
beat it, who could defeat it ever? Maybe some saints and heroes, but not Chance Wayne. I
lived on something, that―time?
PRINCESS: Yes, time.
CHANCE:.... Gnaws away, like a rat gnaws off its own foot caught in a trap, and then,
with foot gnawed off and the rat set free, couldn’t run, couldn’t go, bled and died....
[The clock ticking fades away.] (p122-p123)
(下線は筆者、点線部分は省略部分)
この中で、CHANCE は、今までは、どうしても、若さに固執し、若さを通り過
ぎることはできなかったが、今では、やっと、若さを通り過ぎた、青春の時代はも
う終わったと思っている。今までの彼は、どうしても若さに固執し、それから身を
- 235 -
落 合 和 昭
切り離すことができなかったが、やっと、それができるようになった。誰も、
「時間」
を打ち負かし、それを完全に超越することはできない。聖人や英雄ならできるかも
しれないが、彼には、それができなかった。今、彼は、「時間」との戦い、若さを
取り戻そうとする戦いに敗れたことをはっきりと自覚することができた。彼によれ
ば、人々の年齢は、その人の中の腐敗のレベルによって量られるが、その基準に従
えば、彼の腐敗そのもののレベルは相当に高く、彼は、その点では、すでに老人の
域に達している。彼は自分の中にある、底知れぬ腐敗・罪をも自覚している。「時
間」は、じょじょに、様々なものを削り取っていくものである。その最たるものは
若さであり、美貌であり、記憶であるかもしれない。ワナにかかったネズミは自分
の脚をかみ切って逃げようとする。たとえ、青春の記憶を、「去勢」のように、削
除・除去して、後の人生を生きたとしても、脚をかみ切ったネズミは自由になれる
が、結局は、脚がないため、走ることも、その場を離れることもできずに、血を流
して死んでいくように、彼も、死んでいくのかもしれない。彼が青春の記憶を「去
勢」した場合、すなわち、
「骨抜き」
、
「無力化」
、
「不都合な部分の削除・除去」を
したあと、彼には、ほんとうに、
死んでいくよりも他に道はないのだろうか。しかし、
彼は、HEAVENLY に対する罪の償いとして、「去勢」を受けようとしている。罪の
償いをしようとしている人に、
待っているのは死だけであろうか。この日はイエス・
キリストの復活を祝うイースター・サンディ、「復活祭」である。復活とは、一度
死んだ後、再び、新たなる生命を取り戻すことである。ここに、CHANCE の復活
が暗示されているのではないだろうか。彼も、一度死んで、復活できるであろうか。
先の「ト書き」
、“Both (CHANCE and PRINCESS) are faced with castration, and in
her heart she knows it.” には、二人が「去勢」に直面し、そのことを、彼女は心の中
で感じ取っている。ここで言う「去勢」は、もちろん、BOSS FINLEY が CHANCE
に対して「去勢」を行おうとしていることを指していることは確かである。しかし、
この「ト書き」によれば、「去勢」に直面しているのは、CHANCE だけではなく、
PRINCESS もである。そうであるとする、PRINCESS が直面している「去勢」とは
何であろうか。この二人は、今、
それぞれに、
「去勢」に直面しているが、その「去勢」
の持つ意味が、二人にとって、それぞれ、異なっているが、
「去勢」という点でも、
やはり、二人は「相似」の関係にある。ACT ONE SCENE TWO の中に書かれてい
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Tennessee Williams の Sweet Bird of Youth
るように、彼女はドラッグに溺れ、また、CHANCE をジゴロとしてそばに置いて
きた。彼女は、過去の「去勢」
、すなわち、彼女の過去の汚点をなかったことにして、
束の間の復活をしようとしている。
結 び
この劇の
「主題」が「時間(衰微)
」
であることは明らかである。個人にとって、
「時間」
が経過していくということは、生まれた瞬間から、確実に、死にむかって、歩み始
めることである。たとえ誰であっても、CHANCE のように、若さの頂点を極める
ことがあるが、その後は、しだいに、若さを失っていき、老い、やがて、死に至る。
個人にとって、
「時間」は、誕生とともに始まり、死を持って、終わる。それは不
可避なことであり、これだけは、いかんともしがたい。それゆえ、個人にとって、
「時間」は、生命そのものであり、
「時間」が終わったときに、生命が終わり、生命
が終わったときに、
「時間」が終わる。しかし、CHANCE は死んではいない。彼は、
若さと美貌の頂点を少しだけ過ぎただけであるが、頂点を過ぎているだけに、老い
を意識し、確実に、死に近づいていく。
この劇の「時間」は、イースター・サンディ、キリストの復活祭の日に設定され
ている。キリスト教においては、復活は、一時的な復活、すなわち、復活したものが、
再び、現実の「時間」の中で、衰微していく復活ではなく、復活したものは、現実
の「時間」の中で、衰微するものではなく、現実の「時間」を超越し、永遠に、復
活したままの状態が続くのである。すなわち、復活は、現実の「時間」内に留まる
のではなく、現実の「時間」から永遠の「時間」の中に入ることである。このよう
な視点に立てば、この劇の中では、二種類の「時間」
、CHANCE が生きている、現
実の「時間」と、イースター・サンディによって象徴されている、
永遠の「時間」が、
同時に、平行して、進んでいることになる。
現実の「時間」は、具体的には、
「登場人物」
、CHANCE と PRINCESS の若さと
美貌の喪失によって、表されている。二人は、若さと美貌の喪失を、人一倍、恐れ、
未来に対して、不安を抱いている。二人は、いや、誰にとっても同じであるが、
「時
間」が経つにつれて、若さや美貌を失っていく。特に、若さや美貌に固執する二人
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落 合 和 昭
にとっては、「時間」の経過は、喪失感・絶望感の深化・拡大にしかすぎず、
「時間」
が経過すればするほど、二人は、その分、多くのものを失っていき、得るものは何
もないと考えている。劇の中で、この種の「時間」を描く一方で、Williams は、劇
の「時間」をイースター・サンディ、
イエスの復活祭の日に設定している。そのため、
この劇の「時間」の中には、現実の「時間」の流れと、いわば、この現実の「時間」
の流れを打破し、死に打ち勝つ、イエスの復活、
永遠の「時間」が組み込まれている。
イエスの復活は、イエスが死に打ち勝ち、死からのよみがえり、新たに、生命を得
て、それによって、すべてのものが新しくなることを象徴している。ここには、す
べてを失っていく「時間」の流れと、すべてのものが新しくなっていく「時間」の
流れという、二つの「時間」の流れがある。
CHANCE と PRINCESS は、それぞれのやり方で、現実の「時間」の流れの中で、
失っていくものを、再び、新たに、復活していこうとしている。二人は、それぞれ
に、彼らなりの復活をしようとしている。この二人の復活も、イエスの復活の、い
わば、人間的なレベルの「相似」になっている。CHANCE は、HEAVENLY を「子
宮摘出」へと追い込んだ、罪の贖いとして、BOSS FINLEY の手下たちによる「去勢」
を、
甘んじて、受けようと決心をする。CHANCE にとっては、
罪の贖いとして、
「去勢」
を受けるので、もう後戻りはできない、大きな決心である。しかし、「去勢」をさ
れた後、彼は、復活するといっても、どのような形で、復活するのであろうか。彼
にとっては、すべての罪が洗い流され、すべてが新しくなり、完全に生まれ変わっ
た形で、復活するのであろうか。それとも、ACT THREE の中(4)で、CHANCE が
言っているように、片足が罠にかかったネズミが、逃げるために、自らの脚をかみ
切り、罠から自由になるが、そこから、動くこともできずに、出血して、死んでい
くように、彼もまた、「去勢」された後、出血のあまり死んでいくのだろうか。そ
もそも、彼にとって、復活は可能なのだろうか。これらの問に対する答えは、この
劇の中には、書かれていない。最終的には、その答えは、観客(読者)に任されて
いる。
PRINCESS は、彼女の最後の映画が、思いのほか、大評判だったので、もう一度、
スクリーンへ戻る決心をするが、心の片隅では、このカムバックは長続きしない、
束の間のカムバックにすぎないと感じている。ここには、後戻りをしてもかまわな
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Tennessee Williams の Sweet Bird of Youth
い、そのときになったら、また、考えるという思いがある。彼女も、彼女なりの復
活にかけようとしている。それは、CHANCE の復活と「相似」の関係にある復活
であるが、彼の復活とは、本質的に異なっている。というのは、彼の復活の背後に
は、キリスト教で言う贖罪があるが、彼女には、その贖罪はない。そのため、彼女
には、真の意味では、復活の可能性は、低いかもしれないが、復活の可能性は彼の
方にあると言わざるをえない。
この劇には、数多くのキリスト教的イメージが散りばめられている。この論文の
「副題」にもあるように、キリスト教、
「時間」
、
「復活」、「相似」のそれぞれの関係
を、
「時間」、
「場所」、
「登場人物」等の、できるだけ多くの事例を通して見てきたが、
この劇のどれだけ部分を明らかにできたかというと、少々心許ないが、ある程度は、
明らかにできたと思う。
おわり
テキストは Directions 版、
The Theatre of Tennessee Williams Volume Ⅳに収められている Sweet Bird of Youth
(p1-p124)
を使用し、
Tennesee Williams: Play1957-1980 The Library of America 2000
も参考にした。
また、
『聖書』は、
『バイリンガル聖書』新改訳 いのちのことば社 2006 年 を使用した。論文の中の『聖書』の引用は、日本語訳、英語訳とも、すべて、この
『聖書』からの引用である。
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落 合 和 昭
注
1.
Tennesee Williams: Play1957-1980 The Library of America 2000 NOTE ON THE
TEXTS (p982-p989)
2. 『ゴシック入門 123 の視点』マリー・マルヴィー - ロバーツ編 ゴシックを読
む会 訳 英宝 社 2006 年 27 ゴシック・リヴァイヴァル p114-p132
3. 『新聖書辞典』 いのちのことば社 1985 年 「哀歌」の項目
4. CHANCE: ....Gnaws away, like a rat gnaws off its own foot caught in a trap, and then,
with its foot gnawed off and the rat set free, couldn’t run, couldn’t go, bled and died....
(p123)
参 考 文 献
1. The Tennessee Williams Encyclopedia
Edited by Philip C. Kolin Greenwood Press
Westport, Connecticut・London 2004 p262-p265
2. Critical Companion to Tennessee Williams: A Literary Reference to His Life and Work
by Alycia Smith-Howard and Greta Heintzelman Facts On File, Inc. 2005 p289-p296
3. Tennessee Williams: A Guide to Research and Performance Edited by Philip C. Kolin
Greenwood Press Westport, Connecticut・London 1998 Sweet Bird of Youth by
Robert Bray p137-p147
4. 『ゴシック入門』―123 の視点 マリー・マルヴィ - ロバーツ編 ゴシック
を読む会 訳 英宝社 2006 年 Gothic Revival ゴシック・リヴァイヴァル
(p114-p131)
5. 『アメリカの世紀』
(下)1945 年から 2000 年 有賀夏紀著 中公新書 中央公
論社 2002 年
6. 『キング牧師とマルコムX』
上坂 昇 講談社現代新書 講談社 2007 年
7. 『エル・グレコ』 新潮美術文庫 新潮社 昭和 50 年
8. 『史料で読むアメリカ文化史』第四巻、『アメリカの世紀』一九二十年代~
一九五十年代 有賀 夏紀・能登路 雅子編 2005 年
9. 『史料で読むアメリカ文化史』第五巻、『アメリカ的価値の変容』一九六十年代
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Tennessee Williams の Sweet Bird of Youth
~二十世紀末 古矢 旬編 2006 年
10.『銃を持つ民主主義』「アメリカ」という国のなりたち 松尾 文夫著 小学館
文庫 2008 年
11.『格差国家―広がる貧困、つのる不平等―』
大塚 秀之著 大月書店 2007 年
12.『アメリカ宗教右派』 飯山雅史著 中公新書ラクレ 2008 年 13.『憲法で読むアメリカ史』上下 阿川 尚之著 PHP研究所 2004 年
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