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子どもの発達とニューメディア

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子どもの発達とニューメディア
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一国一一
第Ⅲ章子どもの認識能力の発達とテレピメディア
■「
私たちの生活環境の一部にテレビメディアが入ってきて以来三十年以上が経過し、今曰では
すっかりそれが定着しました。通信手段も飛躍的に発展し、現在では、茶の間にいながらにし
て世界のあらゆる情報が同時的に共有できるようになりました。
テレビが生活環境に入ってきた当初、さまざまな領域の研究者が、人々の生活・意識に及ぼ
す影響の問題について真剣に取り組みました。それだけ大きなインパクトを与えるできごとで
あったわけです。
そうしたテレビと子どもの関係についても、心理学者をはじめとして多くの研究者が取り組
んできました。とりわけ、「目」に及ぼす影響や「暴力的場面」の影響力については、基本的
にテレビを生活環境に侵入した「悪玉」と前提し、そうした悪者からいかに子どもを守るか、
という視点で多くの研究がなされてきたように見うけられます。
高度情報化社会が確実な足どりで定着しつつある今日、これまでのような「悪玉」としての
テレビというとらえ方では、必ずしも今後のテレビメディァの利用についての充分な考察はで
きないでしょう。「子どもはテレビを見ながら笑い、泣き、考えている」という基本的な事実
を押さえて、そのうえで子どもとテレビの関係を考えていくことにしましょう。
子どもがテレビを見ている場面を想定する時、私たちおとなは、大きく一一つのことを考えざ
るを得ません。
一つは、子どもはいったいテレビ上で展開されているできごとを、どのように「分かって」
いるのだろう、ということです。テレビという対象を前にして子どもはいったい何を理解して
いるのだろう、という素朴な疑問が生じます。
もう一つは、テレビを見ている子どもを取りまく、より大きな社会との関係、そうした関係
の中における子どもとテレビの関係についての疑問です。
この章では、子どもの認識能力の発達とテレビメディァの関係について、以上のような疑問
点を念頭において考えていくことにしましょう。
|、「認識」と「理解」
私たちが、あることがらについて「分かる」ことを、少しむずかしくいえば「認識する」、
あるいは「理解する」といいます。いずれもある対象が「分かる」体験を意味します。
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第m章子どもの認識能力の発達とテレピメディア
この、「分かる」体験を示す「認識」と「理解」は、もう少し厳密にいえば決して同じ意味
ではないことが「分かり」ます。すなわち、「理解する」というのは、「~が~であること」と
いう正解がすでに存在していて、その「正解」に到達することを示しています。たとえば、「あ
の人の言っていることが今ごろになってやっと分かった」とか、連立方程式の解き方が「分かっ
た」とかいう場合がこれに当たります。いずれも、「~は~である」ことが、それを知ろうと
する人の外部にすでに存在していて、そのいわば「正解」に到達した時、「理解した」という
いい方をします。お母さんが子どもに「5たす3は8なのよ、分かった?」と問う。不思議そ
うな顔をしている子どもに、積木を持ってきて、「ほら、ここに5とあるでしょう。こっちに
は3こあるでしょう。これをこの箱にいれると、ほら、いくつになった?数えてごらん」と
期待をこめて言う母親。それに対して「8つ/」と勢いよく答える子ども。お母さんは満面笑
みをたたえて「えらいね/ほら、5つと3つをたすと8つなのよ。分かった?」と問う。子
どもはにこにこして「分かった/」と答える。
理解したことがら
認識したことがら
珍鰯
ことが「分かり」ます゜
C
決して同じ意味でない
「分かる」ということを
識する」あるいは「理解・
する」といいます。.
真理
鱒
少し難しくいえば、「認
「認識」と「理解」は、
「分かる」体験を示す
もう少し厳密にいえば
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こうした場面での子どもの「分かった」という答えは、5つと3つをいっしょにすると8つ
理解の枠
になるという体験が、お母さんがあらかじめもっている「5たす3は8である」という正解と
図1理解と認識
第Ⅲ章子どもの認識能力の発達とテレビメディア
|致したことを示し、その意味でこれを、「5たす3は8である」ことを「理解した」と解釈
できます。この「理解」は、犬を見て「これは犬だよ」と「分かって」いることと同じレベル
です。すなわち、犬なるものに「いぬ」という名称をあたえることが「正解」であり、それに
到達していることを示しているにすぎません。
あるものどとが~であることが「分かる」のは、必ずしも右のような場合だけではありませ
ん。たとえば「ぼくは男の子だよ」ということが「分かる」ことと「ぼくは速く走れるんだよ」
ということが「分かる」こととは決して同じレベルではありません。後者では、「速く走れる」
といえるかどうかの規準が、だれもが納得するような形で外部にあるわけではないからです。
このように「~が~である」ことが「分かった」という時、その「正解」が公共性をもって外
部に存在しない時、それは「認識した」といういい方をします。古今東西の哲学者がいろいろ
なことがらについて「分かった」ことは、その意味で、そのことがらについて「認識」したと
いえるのです。
二、子どもへの「分からせ」方
子どもはいろいろな場面で「勉強」して、あらゆることが「分かる」ように教育を受けます。
その際の「分からせ方」、すなわち教授法には大きく二つの流れがあります。
|つは先の「理解」を教育の目的とするもので、心理学者のD・P・オーズベルという人は
これを「意味受容学習」と呼んでいます。すなわち、教育の場では、教師が子どもたちに伝え
るべき数々の文化的遺産(知識)が存在し、それを伝えることが教育の目的とされるのです。
その意味でこれは、伝達によって「分からせる」教育といえるでしょう。ゲームにたとえれば、
枠組みがあらかじめ存在し、その中の数多くの不可解な図形とそこに書きこまれた絵の断片を
組み立てて最終的な「正解」に達するジグソーパズルのようなものです。
もう一つの「分からせ方」は、右の意味受容学習のような完成された知識の伝達は最小限に
とどめ、できるかぎり子どもの主体性にまかせながら学ばせることによって「分からせ」よう
とするものです。これは「発見学習」と呼ばれています。たとえば、「雨が降ってくるのはな
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第Ⅲ章子どもの認識能力の発達とテレピメディア
ぜだろう」という問いかけをし、さまざまな判断・思考の材料を与えて子ども自身に考えさせ、
「ああではないか」「こうではないか」という予想を立てさせて実際にそれを確かめさせる、
という作業を何段にも積み上げていって最終的に「雨の降るしくみ」を分からせるやり方です。
自然科学の領域では、ある種の自然法則のようなものが存在しますので、最終的には「理解」
の色合いが強くなりますが、人文・社会科学の分野では唯一絶対の「正解」がなかなか存在し
ませんので、これは「認識」活動ということになります。
子どもがそのまわりの世界のできごとについて「分かった」という時、それをおとなの目か
らみて「理解」したのか「認識」したのかを区別することは、子どもの知的発達。精神発達を
考える際に非常に重要なことがらとなります。すなわち子どもの「分かった」ことを「理解」
の立場から見ると、常に「正解」との対応でしか見れなくなってしまいます。いいかえれば、
「との子どもは誤った理解をしている」と感じてしまうわけですから、「教育者」としてのお
→発見学習
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とな、あるいは「扶養義務」をもつ親の立場としては、そうした誤った理解を修正したい衝動
もたちに伝えるべき
真理
子ども自身に考えさせ
予想をたてさせ、実際
にそれを確かめる
℃
図2意味受容学習と発見学習
にかられます。そうした衝動そのものはたいへん健全であるとしても、これでは子どもの発達
の知識を伝える
'三1二重
の姿は見えてこないことになります。
←意味受容学習
nJ〉
.;
第Ⅲ章子どもの認識能力の発達とテレビメデイア
そこで、子どもの精神発達を考える際には、子どもの外部に「正解」を設けずに、子ども自
身の目の位置で、まわりの世界をどのように「認識」しているのかを見ていく姿勢がどうして
も重要となるのです。すなわち、子どもは何をどう見聞きして「~が~である」ことが分かる
ようになるのか、ということに関心をはらうべきだ、ということになります。
三、認識と認知
もう一つ、「分かる」ということについて「分かる」にはやっかいな問題があります。
●
われわれおとなが、たとえば「現在の日本の世界情勢の中における位置づけを認識する」と
いった際(たいへん大上段に構えたむずかしそうな問題で、私自身は答えを出すことはできませんが)、
多くの文献から数々の抽象的な命題(「~は~である」と書かれた文)を取り出してそれを組み立
て、それにある種の視点や価値観をつけ加えてそれなりの認識をすることはできます。そこで
は、見聞きするできごとを構成するある種のパラダイム・価値観・イデオロギーなどが複雑に
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影響しあっています。すなわち、こうした高次の認識活動は、われわれの直接的な感覚や知覚
のレベルからはほど遠いところで行なわれることが分かります。
子どもの場合の「認識」活動はどうでしょうか。当然のことながら、子どもたちはこうした
抽象的な命題を自由に操作してより高次の命題を導き出すような芸当はできません。子どもた
ちの認識活動は、全ての親が観察したであろうように(あるいは現在観察中であるように)、徹頭
徹尾、感覚器や運動能力に規定されてスタートし、相当長い間そうしたものから解放されること
はありません。ピァジェというスイスの偉大な心理学者はこれを「感覚運動期」の知能という
いい方でたいへんうまく表現しています。
そこで、こうした価値観やイデオロギーの入ってくる余地のない間の認識活動も等しく「認
識」活動と呼ぶにはどうしても抵抗があります。したがって、このような、感覚器や運動器官
に大きく影響されてものごとが「分かる」ことを、認知活動と呼ぶことにします。子どもの認
識能力の発達をいきなり「認識」のレベルでとらえようとすると、感覚↓知覚↓認知といった
一連の心理学的側面を軽視し、「世界」↑↓「認識」という哲学的な問題となってしまうから
です。
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四、感覚、知覚、認知
子どもの認知活動は、子どもの外の世界との交渉の際、おとなに比べてより多くを感覚・知
覚に負う、と先に述べました。そこで用いられる「感覚」「知覚」「認知」ということばは、日
常的な言語感覚ではそれほど厳密に区別して用いられることはありませんが、心理学的にはた
いへん大きな違いがあります。
「感覚」は五感(視。聴。触・嗅・味)に代表されるいわゆる感覚器(目、耳、皮膚、鼻、舌)を
通して生理学的レベルの信号が入ってくることを意味します。たとえば、今机の上に赤いペン
があるとします。そのペンからは目に「光」という形で視覚刺激が発せられ、それを光の受容
器官である目が受け止め、網膜上の視神経を刺激して、外部の赤いペンが電気的信号として体
内に受容されたことになります。この「感覚」のレベルでは、そうした刺激が入力されたかど
うかについては「分かり」ますが、そこにあるものが「赤いペン」であることは「分かり」ま
せん。すなわち、感覚のレベルでは、外の世界のできごとが弁別できる(あるものと他のものの
1
I
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9
9
I
区別ができる)だけであって、そうしたできごとが何であるのかを「分かる」ことはできません。
「知覚」はそうした外的世界についての感覚受容器での信号を意味づける、より上位の概念と
いえます。すなわち、机の前で目を開いた時、赤いペンをはじめとするおびただしい数の「も
の」から視覚刺激が発せられますが、われわれはそうした刺激の洪水に溺れてしまうわけでは
ありません。それらを、形や大きさ、色、距離などのまとまりをもったものとして見るわけで
す。こうした、感覚刺激をあるまとまりをもって受け入れる働きを「知覚」と呼びます。大き
さの知覚、形の知覚、音の高さの知覚といったいい方ができるのです。
この知覚のレベルでは必ずしも「ことば」は必要としません。丸い形のものを「丸い」とい
えるのは確かに形の知覚が成立しているといえますが、特に「丸い」ということばでいえなく
ても知覚が成立していることを確かめる方法があります(こうした、ことばをもたない乳幼児の知
覚能力の検査法・研究法については後で述べることにします)。
’
さて、机の上の赤いペンを「机の上に赤いペンがある」と「分かった」時、これを「認知し
た」といういい方をします。「認知」ということばは、裁判所などで「子どもを認知する」とい
うふうに使われ、むしろこうした「認める」「受容する」といった意味で解釈される場合が並曰
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第Ⅲ章子どもの認識能力の発逮とテレピメディア
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知覚
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つくえにあるよ」
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図3感覚・知覚・麗知
していくことが科学的活動なのだ、ということになります。前にあげた例を用いれば、わけの
リントにポジの像として焼きつける)が見えてくる、といった考え方で、こうした像を集め解釈
前者では、網膜像のような客観的・物理的な像(ネガフィルムに焼きつけられたような像)がま
ず存在し、そうした像(これが事実となる)をたくさん集めたあかつきにそれらから現実像(プ
識はいきなり事実の認知から始まると考える立場があります。
る時に、以上のように感覚↓知覚↓認知という系列で科学的事実をとらえる立場と、科学的知
少し話はそれますが、科学的な知識はいったいどのようにして成立するのかという議論をす
で「認識」とは一線を画したほうが分かりやすいでしょう。
そこには知識や経験も大きく作用しますが、基本的に感覚レベルに大きく負っているという点
通かもしれません。しかし心理学で用いられる認知ということばにはそうした社会的な意味あ
いはありません。ある未知のもの、あるいは既に知っているものが「~は~である」という形
で表現可能な時、認知が成立したといいます。机の上の得体の知れない十五センチほどの細長
いものを「赤いペン」と「分かった」時、その得体の知れないものが認知できたといえるので
す。その意味で、認知とはまわりの世界に対する意味づけの働きということができます。当然
□●■
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I
第Ⅲ章子どもの認識能力の発達とテレピメディァ
分からないジグソーパズルの断片を寄せ集めて工夫して組み立てれば全体が見えてきて一つひ
とつの断片の意味が分かってくる、というわけです。ここでは、入力(感覚)↓加工(知覚)
↓出力(認知)という三段階を確実にたどっていき、感覚器に入力されたデータを大事にする
という意味で、これをセンスa向この因・感覚)データの考え方と呼ぶことにします。
もう一つの考え方は、科学の観察する事実は、その観察の最初の時点から、その観察者のもっ
ているある種の「理論」の影響を受けており、感覚器に入ったものはいきなり「解釈」や「説
明」を受ける運命にある、というものです。これをN・R・ハンソンという、音楽にもたいへ
ん造詣の深い科学哲学者は「事実の理論負荷性」といういい方でうまく表現しています(ハン
ソン、NoR『科学理論はいかにして生まれるか』(村上陽一郎訳)講談社、昭和四五年)。
人間の認識能力の発達を考える時、乳幼児には複雑に一一一一口語化された「理論」は存在しないわ
けですから、どうしても、感覚から知覚・認知へという系列をたどってその発達のみちすじを
追っていくことが必要になります。それに対して、かなり体系化した知識を蓄えてきた年長の
児童、青年・成人では、感覚器が知識体系(理論)の影響を受ける、という考え方を採用して
その知覚のしかたと思考や知識の構成のしかたを研究することが意義のあることとなってくる
のです(J・S・ブルーナーという心理学者は一九四○年代の終わりから一九五○年代にそうした数多
くの実験を行なっています)
以下では、感覚器に入ってくるものをテレビという一つのマスメディアに限定して、特に乳
幼児や年少児童の認知発達とテレビとの関係をみていくことにしましょう・
今日テレビは、音声多重とか高画質化といったハード面での進歩と、高度情報化社会の到来
にともなう、テレビにさまざまな機能をもたせようとするソフト面での開発によって、テレビ
ゲーム、コンピュータのディスプレイ、文字放送の利用などさまざまな形態で用いられるよう
になってきました。しかしながらここでは、その利用者を先に述べた低年齢の子どもに限るた
め、従来の、スイッチを入れれば一方的に放送が流されてくる形態のテレビメディアの利用に
ついてのみふれることにします。テレビゲームやコンピュータとの関係についてはP。M・グ
リーンフィールドというアメリカの女性心理学者の著書が最近翻訳されていますので、関心を
お持ちの方はそちらをご一読ください(グリーンフィールド、P。M・『子どもの心を育てるテレビ・
テレピゲーム・コンピュータ』(無藤隆・鈴木寿子共訳)サイエンス社、昭和六一年)。
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第Ⅲ章子どもの認識能力の発達とテレピメディァ
五、子どもの知覚能力の研究法
テレビが乳幼児の認知能力の発達にどのような影響を及ぼすか、という疑問に答えるために
は、ことばをもたないそうした赤ちゃんの、見たり区別したり分かったりする能力をなんらか
の形で測定・評価ができなければなりません。少し回り道をすることになりますが、以下の議
論の根拠となる重要な点ですので、そうした研究方法について簡単にふれておきたいと思いま
グーとは
いるかが
もいう゜
装置。ビ
ができる。
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TV番組
レーで目
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司幽21叉
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たとえば、運転者の視線をしらべるときにも使われる
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ねて撮る高度な方法(ナックや竹井機器の眼球運動測定装置)は赤ちゃんの場合には使えません。
方法にはいろいろありますが、頭に直接ある装置をつけて、目と同じ視野の像と目の動きを重
かなり直接的に調べるわけですから、かなり信頼性の高いめやすとなります。眼球運動の測定
ことができます。こうした目の動きの記録は、見ている対象の像が網膜上に写っていることを
あるものを注意しているかどうかは目の動き(眼球運動)を測定・記録することによって知る
赤ちゃんがものを「見ている」か「見ていない」かは注意や関心の問題と呼ばれています。
。
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す
図4アイカメラの例(NAC-V)
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第Ⅲ章子どもの認識能力の発達とテレピメディア
そこで通常、目をテレビカメラで拡大して写し、そこに写った角膜上の像と瞳孔の重なりか
ら、何のどこを見たかを判定する方法がよく用いられます。
もう少し間接的で、簡便な方法としては、頭の動きの測定、微笑反応の有無、心拍数の減少、
おっぱいやほ乳びんの乳首を吸っている間のその行動の停止など、さまざまな研究方法が考案
され、実際に用いられています。
また、あるものと別のものを「区別できる」かどうかの能力は「慣れ」という方法を用いて
研究されます。われわれおとなでも経験することですが、初めて会った人に対してはなんだか
胸がドキドキするものです(とりわけ、好きなタイプの人に会ったときなどそうでしょう)。しかし
その後何度も会っているうちに初めのころのそうした胸のときめきは徐々に消えていきます。
これを「慣れ」と呼びますが、こうした現象を赤ちゃんの研究に使ってみようということです。
たとえば、生まれたばかりのいわゆる新生児でも○と△の区別ができるのかどうかという実験
はこの「慣れ」の方法を用いて行なうことができます。初めて○の形を見せた時には高い心拍
数が得られますが、何度も見せているうちにその形に慣れ、心拍数も減少していきます。その
段階で△を見せた時、もし○を見せた時と同じ心拍数の減少曲線の延長上に心拍数が得られれ
ば、これは△を○と同じように知覚した、
阻△をCと后じように知覚した、と判断されます。すなわち、形の弁別ができてない、
ということになります。逆に△を見せた》
とになります。逆に△を見せた時、急激にその数が増せば、△と○とは別のものと見
なります。W・Hoブリッジャーという人はこの方法を用いて、生後五曰以内の新生
たことになります。W・H・ブリッジャー
児でも、赤ちゃんによればほんの五十毎
赤ちゃんによればほんの五十ヘルツ程度の音程の違いでも弁別できることを報告して
います。
もう一つ、特に以下のテレビとの関係が深い問題についての研究法を紹介します・
テレビはいうまでもなくブラウン管の最前面のガラスに、実際の立体像が平面に映し出され
ます。つまり、赤ちゃんの現実場面でのあらゆるものは一一一次元の立体であるのに、テレビでは
それが二次元の平面的な像として映し出されるわけです。しかし、もし赤ちゃんの視覚的な経
験が一一次元的であれば、テレビを見る赤ちゃんは現実の諸経験とあまり違わない経験をしてい
ることとなります。その意味で赤ちゃんの空間知覚の能力の研究はたいへん重要なものとな
ります。
この能力は、防御反応という行動が起こるかどうかによって研究することができます。防御
反応とは、遠くのものが近づいて来るとき、危険を避けるために顔の前に手を出したり、頭を
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第Ⅲ章子どもの認識能力の発達とテレピメディァ
第Ⅲ章子どもの認識能力の発達とテレピメディア
IIlll‐1111-‐11‐I‐’1111-1
蕊
薪
図5三次元知覚を裏づける防御反応
きくなることを意味し、こうした一一次元の像の拡大を一一一次元上での距離の接近と知覚できるか
どうかの証拠となるのです。
仮に赤ちゃんが防御反応を示したとしたら、これは、その赤ちゃんが、二次元的な網膜上で
の面積の拡大を、一一一次元的な距離の接近とみなしていると判断できるのです。M・シエリダン
という女性の小児科医は、この方法を用いて、現実の物を近づけても、スクリーン上の一一次元
像の拡大を見せた時にも同様の防御反応が見られたことを報告しています。
六、テレビ上での体験と現実体験
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ど
のけぞらせたりする反応です。遠くのものが近づく、ということは、網膜上の像がだんだん大
|〆0000,00■000口0000■00V0■■■90n000Q■■00
〃
右の研究結果は、乳幼児とテレビの関係を考える時、一一つの重要な示唆をしてくれます。
|つは、生後間もない赤ちゃんでも距離(奥行き)の変化という一一一次元的な知覚を行なうこ
とができる、という点です。ここから逆に、赤ちゃんでも現実を一一一次元的に知覚しているのだ、
と解釈できます。
109
テ
第Ⅲ章子どもの認識能力の発達とテレピメディア
世界が三次元的であることがわかる。
図6見るものの動きによる三次元の知覚
(バウアー(古崎訳)P16より)
の中でちょっと頭を動かした時に近くの家具と少し離れたところにある壁の動きの見えが違う
にある「はやいな、はやいな、まどのそと。はたけもとぶとぶ、いえもとぶ」の通りで、部屋
に見えますが、遠くの田畑や山々の動きは非常にゆっくりに見えます。唱歌の「きしやぼっぽ」
電車に乗っているときに経験することですが、近くにある家はずいぶん早く動いているよう
の手がかりが得られているのです。
よって三次元にとらえられるのではなく、人間の「動き」によってもその空間的位置について
ということを意味しているのではありません。現実の世界の事物は、単に網膜上の像の大小に
しかしながら、これは、赤ちゃんが静止している一一次元像をそのまま一一一次元的に表象できる、
ことが心理学的に一裏づけされたともいえるでしょうか。
書物の中の哲学的考察で、ずっと前から人間の先天的能力の一つだとされていましたが、この
よって、『純粋理性批判』(高峯一愚訳、河出書房新社?昭和四九年)という、ずいぶんむずかしい
表象する能力を持っている、という点です。この、空間の表象能力は、哲学者のI・カントに
もう一つは、テレビなどの一一次元像を、その像の大きさの変化(拡大)によって三次元的に
説鰯:菅b雛鱸劉爲蝋
のも同様です。じつはこのように見る人の動きによる対象の動きの「見え」の違いが、実際生
110
111
、、、
活での一一一次元知覚の大きな手がかりとなっているのです。いいかえれば、赤ちゃんは動くこと
によってまわりの世界の三次元的構造を認知しているのだ、といえます。
この点は、子どものテレビ視聴を考える時重要なことです。すなわち、テレビという二次元
の画面の中で、その大きさが変化する(それによって網膜像も変化する)ものは三次元的な動き
として表象できるが、本来動かないものが画面上に映し出されている時は、平面的な「絵」と
してしか存在しない、ということです。さらに具体的にいえば、テレビカメラを道路のまん中
に固定して、遠くから近づいてくる車を映した映像がテレビに流れている時、「車が近づく」
という距離の知覚はできても、その背景のピルや山々は遠近をもたない「絵」でしかない、と
いうことになるのです。
したがって、言語的な知識の体系をもたない乳幼児にとっては、制作者の意図に反して、テ
レビ画面に映し出される映像は、現実の世界を見せているのとはかけ離れたものとして知覚さ
れることになります。
乳幼児にこうしたテレビ体験をたくさんさせることは、決して彼らの生活経験を豊かにする
ものとは期待できません。唯一の救いは、映像になった二次元像と、その子どものまわりにい
ろであろう母親や家族のコメントや語りかけが、刺激(映像)に対する反応(ととば)として機
能し、その限りでは「ことば」の豊かな子どもになるであろう、という期待です。しかしなが
らこれも、絵本のように、とめておこうと思えばいつでもそのページをあけておくことのでき
るものと、母親の関係ほど豊かなものではありません。あまりにも激しい映像の変化に、反応
語としての「ことば」が適切に結びつくのは困難であると考えられるからです。
七、ひらけ/ポンキッキ
テレビという「箱」から流れてくるものはいうまでもなく音と映像です。音には話しことば
力
や擬音・音楽といった現実に現われるあらゆる音が含まれています。
音のもつ、感情をゆり動かす出について、ひとととふれておきます。
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哲学者F・ニーチェの比愉をかりるまでもなく、音楽は「情動」に非常に強く働きかけます。
音楽を聞けば確実にある時間がたつという現実から分かるように、音楽は時間を前提とし、時
間芸術の極み、ということができます。作家であり詩人であった萩原朔太郎は、『詩の原理』(萩
’
第Ⅲ章子どもの認識能力の発達とテレピメディァ
第Ⅲ章子どもの認識能力の発達とテレビメディア
原朔太郎全集第六巻・筑摩書房・昭和六二年)という本の中で、音楽のもつ情動喚起の力を次のよ
うに熱く語っています。
「先ず音楽を聞きたまえ。あのベートーベンのシンフォニーやショパンのノクターンやサン
サーンスの雄大なミリタリーマーチがいかに情熱の強い魅力で諸君の感情を扇ぎたてるか。
音楽は、人の心に酒精を投じ烈風の中に点火するようなものである。音楽の魅力は酩酊であ
り陶酔であり感傷である」
こうした感情喚起は知的認識活動とは無関係であるかというと必ずしもそうではありません。
あることがらを「知る」時には、その際の情緒的ふんい気が大きく影響することは、誰もがみ
な体験されていることだと思います。「ことば」以外の、テレビから流れてくる音は、その意
味で、うまく使えば知的環境づくりに貢献するものといえましょう。
映像の方は、音に対してははるかに強い直接的な影響力をもちます。「人間の行動の八十%
以上が視覚系に依存している」といわれるように、実生活の場では目に入ってくる情報は人間
の思考や行動を大きく規定します。
テレビのもつこうした知覚的諸特性の特徴と限界を十分に考慮にいれて幼児の認識能力の発
達に意図的に寄与しようとしている数少ないものの一つに『ひらけノポンキッキ』という番
組があります。いうまでもなく、NHKでは「ばくさんのかばん』とか『おーい/はに丸』
とかの優れた番組がありますが、「ポンキッキ」は、民間放送であることに大きな特徴があり
ます。
この番組は、人間の心理行動の内の認識論的な領域の研究に多大な関心と業績のある四名の
心理学者をその監修にあてていることからもうかがわれるように、じつにうまく構成されてい
ます。民間放送であるということから、視聴率を保つことが大前提であり、そのための子ども
研究をきちんと行ない、そのうえで「教育」的意図をちりばめています。NHKの放送文化調
査研究所の斉藤賢治氏は、最近の著書の中である日のこの番組の視聴後、その後の特徴を次
のように分析しています。(斉藤賢治『子育てテレピーテレピをみながら大きくなると』金子書房。
昭和六一年)
①放送全体をとおしての話の筋はない。
114
115
第Ⅲ章子どもの認識能力の発達とテレピメディア
②細切れのように前後の脈絡なしに次から次へと話が変わる。
③一つ一つの話は、短いものは十数秒、長くても三分ぐらい。
④三分以上の長い話には、前後の関係なしに途中に別の話を入れている。
⑤字や数字の形、色などを教えるとともに、考えること、推理することも教える。
これらの特徴のうち、五番目の特徴に注目したいと思います。斉藤氏はここで「教える」と
いう表現を用いていますが、この「教え」方にも大きな特徴があるといえます。
に位置づけられます。
「教える」といういい方にはその相手が「学習する」ことが前提にされており、通常の教え方
は、「~は~ですよ、分かりましたか」という、教育目標をそのまま教育内容に変化させたも
のです。はじめに述べた「意味受容学習」「発見学習」の一一分法にしたがえば、あきらかに意
味受容学習の形態であり、もう一つの学習のしかたの分類を用いれば「中心学習」という方法
中心学習というのは、学習させたい内容をそのままストレートに学習者に伝える方法です。
勢い「~は~ですよ、分かりましたか」という形になってしまいます。小学校以上の学齢期の
子どもたちは、多くはこの方法に「慣らされて」いきますが、幼児では必ずしも教える側の意
図は通じません。算数のたし算のお勉強をしているのに、その時たまたまそこにあった、カー
ドに書かれた動物の名前をお母さんに聞き、一回聞いただけなのに覚えてしまうような場合が
これに当たります。
こうした、教える側の意図をその内容に直接もりこまないのに、それを学習することを偶発
学習(偶然学習)と呼びます。
NHKの教育番組が徹頭徹尾、中心学習を意図しているのに対して、「ポンキッキ」は、テ
レビを環境の一部に位置づけ、たまたま流れてきた教育的内容を偶発的に学習するよう計画さ
れてきている、と私は考えています。かりにそうであれば、子どもの環境の一部にテレビを認
めている、という意味で放送を流す側の責任はより大きい(大きくあるべきだ)といえます。
その点からみると、テレビを消させないために(つまり、環境の一部でなくさせないために)情
動喚起の手段としての「音」「音楽」の選択があまりに流行に流されすぎていたり、奇をてら
いすぎていたりするきらいがあります。これは、テレビを一緒に見ているであろうと想定され
るぉとなをターゲットに入れすぎていることに由来するのでしょう・事実私も、上の娘が幼稚
園に登園するまでの朝食時に、おそらく子どもよりも熱心にこの番組を見ております(「おっ、
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これは保存実験だ」などと…)。こうした、番組の内容そのものを企画する者と、その番組を流す
者との相剋は、せっかくの良い番組を、霞のかかったぼんやりとしたものにしてしまいます。
八、テレビー子どもl家庭l社会
●家庭とテレビ
ここまで考えてくると、子どもの認知発達とテレビメディアの関係を考える際、家庭の中に
おけるテレビとそれを見る子ども、というミクロなしベルだけで考察していくことは不十分で
あることが分かります。
子どもは、さまざまな環境条件からのインパクト(刺激)を受けてその認識能力を発展させ
ていくものです。そのインパクトを、テレビという視覚、聴覚情報の箱に限ってみるのではな
く、その「箱」を取りまくより大きな生態系を視野に入れておく必要性が出てくることになり
ます。家庭内の他のあらゆるものが親の意図を介して入ってくるのに対して、テレビから流れ
てくる情報はそうした親の監督権と無関係に存在する、ということが重要な事実なのです9
これまでは、テレビを前にした一人の子ども、という設定のもとでの子どもの認識能力とテ
レビの関係を見てきましたが、実際には子どもは家庭の中の家族の一員であり、その多くの時
間を母親と過ごす場合が多いのです。認知能力・認識能力の発達と、親子のテレビの共同視聴
の関係については、これまであまり体系的な研究は見あたらないようです。それだけ重要な問
題ではないのだ、ということにすれば、ととは簡単に片づきますが、この問題について一、一一
注目すべきととがらがあります。
|つは、親自身の関心のある番組の視聴に子どもをつきあわせる、つれあい視聴とでもいう
べき現象です。|人遊びのできる程度に成長した子どもには「あっちいってひとりで遊びなさ
い」とか言って別の部屋に移すか、適当なおもちゃを与えて同じ部屋の中でも別行動をとる、
とかの方法がありますが、乳幼児の場合、形の上では一緒に見ているケースが多くなります。
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このような場合、子どもにとって適度に応答性のある環境が崩れ、子どもからひっきりなし
にやってくる欲求や要求に適切に答えてやることができない状況が生まれてきます。親が、読
書や編物をしている場合も同様ですが、この時はそれを中断し、子どもに答えて改めて再開す
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第Ⅲ章子どもの認識能力の発達とテレピメディア
ることが苦痛なくできます。しかしながら、テレビ視聴の場合、それが特にドラマであるよう
な場合には、中断すると前後の脈絡がつかみにくくなるため、どうしてもなまはんかな受け答
えをしてしまいがちです。もちろんこれは一日のうちのごく僅かの時間でしょうから、こうし
たいいかげんな親子の相互交渉が直接的に悪影響を及ぼすことは少ないでしょう。しかしなが
ら、子どもの認知・認識能力の基盤となる安定した母子関係という観点からすれば、安易に見
すごすことができない問題となります。
もう一つのより重大な問題は、テレビのつけっぱなしからくる問題です。『テレビに子守をさ
せないで」という主張に代表されるように、母親が家事のあい間にチラチラと見る目的でテレ
ビをつけっぱなしにしていることがあります。ひどい場合には、母親自身も視聴する目的がな
いのに、それこそ子守役としてテレビをつけつばなしておくというケースです。たいていそれ
は、子どもの認知発達のレベルとは無関係な、おとな向けに作られた番組でしょうから、これ
は子どもに刺激過剰の状況を生み出します。
刺激が過剰であるということは、先の「慣れ」の実験で示されたように、あらゆるものに
し
「慣れ」てしまって、新奇な刺激が極端に少なくなってしまうことです。「慣れる」というと
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とは、その刺激がその子どもに驚きや心のときめきを生じさせなくなることであり、これは興
味・関心・好奇心の発達にはたいへん有害なものです。乳幼児の場合には、先に見たように、
画面に映し出される映像や音・音楽が実生活に実在しているものを表わしていると認知する能
力はたいへん限られていますから、これらの刺激は、それこそ単なる物理的刺激として子ども
の感覚器に入ってくるわけです。それらに「慣れ」てしまうことは、子どもの弁別能力をたい
へん阻害します。極端な表現をすれば、多くを見させすぎたり聞かせすぎたりすればするだけ、
子どもの目や耳を塞いでしまっている、といえるのです。バウアーという心理学者は、この点
について次のように警告しています(バゥァー、TG.R『乳幼児の知覚世界lそのすばらし
き能力』(古崎愛子訳)サイエンス社昭和五四年)。
「多すぎる刺激は少なすぎる刺激と同様に好ましくないのです。退屈している赤ん坊が好ま
しい状態ではないのと同じように、急に刺激が多くなるのも好ましい状態ではありません」
子どものまわりの環境の応答性、適切な刺激の量の観点からみて、子どもの認知発達や認識
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第Ⅲ章子どもの認識能力の発達とテレピメディァ
第Ⅲ章子どもの認識能力の発達とテレピメディア
能力を無視した親子のテレビ共同視聴やつれあい視聴はたいへん注意を要することがらである
ことが分かります。
子どもの認識能力の発達には、その前提として安定した精神生活、知的興味・関心が存在す
ること、があり、不適切なテレビとの接しさせ方はその両者ともないがしろにしてしまう恐れ
があるのです。
●社会とテレビ
テレビをはじめとする新聞・雑誌などのマスメディアは、ある一シーン、ある一行の記事が
社会に大きな影響を与え得るという意味でたいへん大きな力をもっています。そうした巨大な
力はうまく使われれば社会に大きな貢献をするし、逆に誤った使われ方をすれば社会全体を窮
地に陥れる可能性もあります。
テレビに限っていえば、テレビ放送の始まった昭和二八年当初(当時開局されたのはNHKと
日本テレビだけですが)、文庫本や新書版の本の「発刊の辞」に相当する、社是ともいうべき高
い理想があったはずです。基本的に、それにも出ずいて国民に健全な娯楽を提供するとか、国
民の教養の向上に資するという名目で番組が制作されて然るべきです。今日、たとえそうした
高い理想が反映された番組が少ないとしても、流されてくる放送には、必ずある意図がこめら
れています。
その意図は、番組を流す放送局、提供するスポンサー、制作者、出演者と、多くの階層構造
をなし、必ずしも一貫した「意図」で一つの番組が構成されていないと見受けられる場合が多
いようです。
番組の内容そのものの意図が明確に伝わり、しかもその正確な伝達を目的としているのは番
組の制作者でしょう。視聴者にドラマを見せて感涙にむせばせたり、事実を報道して考えさせ
たりするのがこれにあたります。こうした制作者の意図は教育場面にたとえれば、先生が生徒
に教えるべき内容をさまざまな方法で「理解」させようとする意図と同等のものであり、受け
とる側は、内容理解とその背後の意図を認知することが目的となります。
国民全体がスポンサーであるNHK番組の場合には、こうした制作されたものを一つの作品
として鑑賞することが番組の意図であり、見る側はその内容がおもしろく、分かればよいので
す。
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第Ⅲ章子どもの認識能力の発達とテレピメディア
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子ども向けの番組の場合にも同様なことがいえるのですが、とりわけ民間放送の場合、スポ4
ンサーの意図が番組そのものに入りこみ、番組として成立する以上に、そのスポンサーのコマー1
シャルフィルムとしてしか見れないような番組ができあがる危険性があります。子どものそう
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した「意図」の認知能力はたいへん低いものですから、その能力が及ぶのはせいぜい制作者の
段階までです。
こうした、コマーシャルフィルムとしての一一一十分番組は、さまざまな技巧を凝らして子ども
をとらえ、子ども自身はそこに出てくる主人公になりきってしまうほどのめりこんでいきます。
主人公と同一視すれば、当然その主人公のもっているもの、まわりの登場人物や環境として設
定されているものが欲しくなります。スポンサーはちゃんと番組の前・中・後のコマーシャル
でその商品のPRをしている、といった次第です。こうした番組ではたいてい「かっこいい」
とか「かわいそう」とか「こわい」といった情動を喚起するようなシーンをふんだんに取り入
れ、子どもの心を強くゆさぶります。全体としての内容は極めて貧弱であっても、子どものそ
の商品の購入に結びつけば番組としては大成功であり、その意味で三十分のコマーシャルフィ
ルム以外のなにものでもありません。
子どもの、このような多段階を成す意図の認知能力は極めて低いのでこのような番組の視
聴にはとりわけ親の注意が必要です。さらに悪いことには、こうした番組は比較的同年齢の子
どもたちが多く視聴しており、子どもの「文化」の一つを形成してしまうのです。その番組を
見なければ友だちと会話がはずまないとか、仲間外れにされる、とかいった状況が生まれ、子
どもたちの真の文化的活動が見られなくなってしまう危険があります。
子どもの認識能力の発達とテレビ視聴との関係を考えていく際には、こうしたマクロなしベ
ルでの考察が、先のミクロレベルでのものと同等に重要なものとなるでしょう。
テレビが子どもの生活環境の一部として定着した今日、テレビを見せるべきか見せざるべき
かという議論よりも、さらに重要なのは、子どもにいま何ができ、何ができないのか、何を知
る能力があるのか、何が必要なのか、ということを見極めることであり、そうした子どもの認
識能力に合わせた親の対応が迫られています。
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