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コッラー川の奇跡 - タテ書き小説ネット

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コッラー川の奇跡 - タテ書き小説ネット
コッラー川の奇跡
sakura
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
http://pdfnovels.net/
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このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ
テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ
ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範
囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
コッラー川の奇跡
︻Nコード︼
N9783BY
︻作者名︼
sakura
︻あらすじ︼
目の前に突き付けられるものは絶望⋮⋮︱︱。
それでも彼らは決してあきらめない。
これはまさしく﹁奇跡﹂と呼ばれる戦いの物語。
1939年冬︱︱ソ連軍の一方的な侵攻によって北欧フィンランド
共和国は存亡の危機に晒されていた。
1
2
1 冬戦争
一九三九年三月。
ソビエト連邦とフィンランド共和国の領土交渉︱︱主に、ソビエ
ト連邦による一方的なフィンランド政府に対する領土割譲要求︱︱
は、互いに歩み寄りの場を見いだすことができずに決裂した。
ソビエト連邦の重要な都市のひとつであるレニングラードを防衛
する目的のため、国境線の移動を含めた、フィンランド共和国最大
の工業地帯とも呼べる、ラドガ湖とフィンランド湾に挟まれた工業
都市︱︱ヴィープリなどを含めたカレリア地域の割譲、各都市の貸
与などという、フィンランド側にとって全く受け入れざる問題であ
った。
この領土交渉の決裂を受けて、強い危機感を抱いたのが、かつて
フィンランド内戦で白衛軍を指揮し、現在はフィンランド軍の最高
司令官を務めるカール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムであ
る。
彼は後にも先にも、唯一のフィンランド軍元帥として名前を挙げ
られる。
そのマンネルヘイムは、その年の春から夏にかけて、ソビエト連
邦とフィンランドの間にあるカレリア地域の防衛線構築を行い、十
月︱︱最後のソビエト連邦との領土交渉が行われる直前に日常動員
令を発令した。
もちろん、この動員令は極秘に行われ、あくまでもソビエト連邦
を刺激しないよう慎重に行われる。
一方、この動員令にあたって、強い好奇心を示した女がいる。
﹁へぇ∼⋮⋮?﹂
﹁どう思う? エヴァ﹂
﹁さてね、スターリンのクソ野郎がヒトラーに看過されて余分なこ
3
とを考えなければいいけどさ﹂
金髪の女は長い髪を肩からはねのけて、冷たくなりつつある空気
今年
は寒くなるかもね﹂
を遮断するように窓を閉めるとじっと空を見上げた。
﹁
そう言ってやはり金髪の長身の男を振り返る。
正直に言えばそれほどハンサムでもない。切れ長の鋭い目と、彫
りの深い顔立ち。頬のこけたどこか凶暴そうな印象の男は水色の瞳
がやけに印象的だった。
﹁おまえのところにも召集令状きたか。どんだけ人手不足なのやら﹂
﹁⋮⋮まーねー﹂
戦える奴はみんな戦えってところだと思うよー。
軽口を叩くように言いながら、女は自分の肩に馴れ馴れしく腕を
回してくる屈強な男に笑い声を上げる。
﹁どこまでも色気がない女だな﹂
彼女の腰にはいつもフィンランドでは見慣れない大振りなナイフ
が吊されていた。
まるで、これから狩りに出立する狩人のようだ。
そんな印象すら受ける彼女が、けれどもこれまで狩ってきたのは
鹿ではない。
﹁なに? わたしと寝たいの?﹂
ぎらりと青い瞳が光を宿した。
﹁ご免だな、おまえとヤる前に組み手しなけりゃならんだろうしな﹂
今のところ勝率は五割だ。
しかもその五割も、ほとんど相打ちに近い。
決してムキムキのマッチョというわけでもないから、彼女は力の
使い方がうまいのだろう。ちなみに、彼女の言う組み手は、そもそ
もが命がけのものだった。
﹁おまえみたいな危ない女は、お断りだ﹂
喧嘩は負けたことがない。
そう豪語する彼女の手の中にあるフィンランド国防陸軍からの召
4
集令状を、男は鋭い瞳で流し見た。
﹁そういや、おまえこの間、基地に遊びにきてただろ。やんちゃし
すぎて不名誉除隊になってたはずだよな﹂
﹁うん、それね。戦車の運転教えてもらったんだー﹂
﹁運転かよ﹂
あきれ気味に言いながら男は女の長い金髪を引っ張った。
﹁とにかく召集令状きたんならこの鬱陶しい頭をなんとかしろよ﹂
﹁わかってるよ﹂
こうして予備役に就いていた多くの士官や下士官たちが目立たぬ
ように、秘密裏に動員され万が一、勃発するかも知れない戦争に向
けて準備が行われていった。
彼女の名前は、アリナ・エーヴァ・ユーティライネン。
陸軍予備役中尉。
リュッシャ
その肩書きから予備役が消えた。
﹁ソビエト連邦の奴らと、もしも戦う事になっちまったらどうする
?﹂
アリナ
﹁どうもこうも、兵隊は命令された通り戦うだけさ﹂
金髪の長身の男に対して彼女はそう言った。
﹁ミカちゃんこそ、連中が仕掛けてきたらどうすんのさ﹂
﹁俺が逃げ出すとでも思ってんのか?﹂
﹁まさか!﹂
好戦的な笑みを交わしてふたりの男と女は、唇の端をつり上げた。
﹁今度こそ、おまえよりも俺が上だって認めさせてやる﹂
一介の尉官でしかない彼女が当時、ソ連とフィンランドの首脳陣
の間、もしくは軍上層部で何があったのかは知るよしもないが、そ
れでも、世間の不穏な空気とマスコミによって流されていた情報に
よって、それなりの状況は理解しているつもりだった。
戦争がはじまるのではないか、という、一部の人間たちの予感は
的中してしまった。しかも、相手が隣の大国であるソビエト社会主
義共和国連邦。
5
動員できる物資も人数も桁違いだ。
こうして、日常動員令のもと、兵士の訓練などに携わりながら日
々を過ごす彼女ら軍人は、唐突に入った一報に心を凍らせる。
それは、戦争という巨人の足音にほかならない。
十一月二十六日、カレリアの国境付近でソビエト赤軍側に対して
フィンランド陸軍からの砲撃を受けて負傷者が出たとして抗議を受
けた。これについて、フィンランド側は砲撃可能な部隊を配置して
おらず、砲撃もソ連領内で行われたことであると反論するが、その
二日後、ソビエト連邦から一方的にソ・フィン不可侵条約の破棄が
通達された。
外交筋でこの件に関する協議をソビエト連邦側に求めるが、ソビ
問題児
﹂
エト連邦側からの回答は得られずに十一月三十日を迎えることにな
った。
﹁⋮⋮やっとお出ましか、
ヘルシンキの国防軍本部についたアリナ・エーヴァに第四軍団長
のヨハン・ヴォルデマル・ハッグルンドは厳しい顔を歪めるように
笑う。
辣腕の将軍で、その判断力はフィンランドでも最高峰に入る、と
彼女は思っている。もっとも、目の前の将軍から見れば彼女のよう
な士官は﹁問題行動の多いひよっこ﹂程度の認識しかないかも知れ
ない。
だが、﹁問題行動﹂が多いからこそ、こんな時に彼らは彼女を頼
る。
本当の意味で﹁問題行動﹂とやらが多く、士官として無能であれ
ば必要とされるわけがない。
﹁遅くなりました﹂
などと言われている君が、実は美しい女性だ
短く応じてから顔を上げたアリナ・エーヴァは、きちんと踵を合
モロッコの恐怖
わせて目を伏せる。
﹁
などと知ったらアカの連中は発狂するだろうな﹂
6
そんな彼の言葉に﹁お世辞ですか﹂と口の中で言葉を転がしてか
ら、別の言葉を口にする。誰の目から見ても切迫した状況は冗談を
告げる余裕などありはしない。
﹁アカには美人の兵隊なんて山ほどいるでしょうし、わたしなんて
美人のうちにも入りませんよ﹂
彼女は素っ気なく答えてから、探るように相手を見つめた。
﹁そうか? 君の戦ってる姿はまるで、ローマ時代の女戦士みたい
で美しいと思うが﹂
彼の言葉に、アリナは不機嫌そうに眉をつり上げただけだ。
ローマの女戦士みたいだと言われても、女性として素直に喜べる
スオミ
わけもない。
﹁君がフィンランドに戻ってきていて良かった﹂
単刀直入なその言葉に、アリナ・エーヴァは目だけを伏せた。
﹁ところで、君の部隊にコッラーの防衛戦に参加してもらいたいの
だが⋮⋮﹂
コッラーの防衛戦︱︱そう告げられて、コッラー河周辺の地理を
頭の中に思い描いてから目を細める。
﹁構いませんが? 部隊の拡張はしていただけるんでしょうか?﹂
でなんとかしてもらわざ
現在、彼女の指揮する部隊は中隊とは名乗っているものの、数と
一個中隊
しては一個小隊にも満たない。
﹁今のところ、君の手持ちの
るをえんな﹂
﹁⋮⋮︱︱なるほど、つまりそれほどコッラーは切迫していると受
け取って構わないので?﹂
﹁好きに判断したまえ﹂
しがない中隊長に戦況を大局的に判断する力など求められはしな
一個小隊
。
い。要求されるのは目の前にいる敵をたたきのめすことだけだ。
口の中でアリナ・エーヴァは繰り返してからデスクに座っている
ハッグルンドを見やる。
7
自分はただの兵隊だから、やれと言われるならやるだけだ。
﹁手持ちの一個中隊が限界だ﹂と、ハッグルンドは言った。アリ
ナはその言葉の意味を正確に把握する。
そうして彼女はフンと鼻を鳴らした。
﹁⋮⋮少数の方が、身軽に動けますしね﹂
静かに、否定するわけでもなく相づちをうった彼女に、ハッグル
ンドは厳しい眼差しのままで溜め息をついた。
﹁正直なところ、トルヴァヤルヴィとスオムッサルミの防衛だけで
手一杯だ。これでも、君の指揮下になんとか優秀な兵士を集めたつ
もりだ﹂
﹁⋮⋮ほう?﹂
、至急、
上官の言葉に、山猫のように両目を細めた彼女は書類にちらりと
視線を通してから首を傾げた。
﹁うちの部隊は狙撃兵ばっかりですがね﹂
は話しが早くて助かる。
ユーティライネン中尉
﹁少数精鋭で戦うしかないだろう﹂
君
﹁⋮⋮ごもっともで﹂
﹁
コッラーに向かってほしい﹂
﹁承知しました﹂
コッラー地方にはまともな道路は数本しかない。ソ連軍は巨大な
戦車をいくつも投入してきたが、フィンランドの道︱︱特に冬期の
悪路︱︱ではそれらの性能を必ずしも生かし切れるわけではなかっ
た。
戦局は数日のうちに悪化の一途をたどっていた。
ソ連軍の行動が思った以上に早かったためだ。
当初、フィンランド軍は国境近くのスオヤルヴィ周辺で、ソ連軍
の進撃を食い止める予定だったが、あっという間に彼らはトルヴァ
ヤルヴィへと浸透していた。
ラドガカレリアの防衛に当たっていたのは、当初はハッグルンド
ではなくヘイスカネンであったが、悪化していく状況を打開するこ
8
とができずにヨハン・ヴォルデマル・ハッグルンドが後任に当たっ
た。
﹁⋮⋮アリナ﹂
敬礼を返して、軍靴を鳴らしたアリナ・エーヴァ・ユーティライ
Kollaa⋮⋮︱︱コッラーは持ちこたえ
コッラー
ネンに、男が言葉を放つ。
ケスターッコ
﹁Kestääkö
られると思うか?﹂
まるで祈るような彼の声に、アリナは首だけを回した。
ケスター
kestää⋮⋮︱︱コッラーは持ちこたえます。
ふわりと笑う。
コッラー
﹁Kollaa
わたしたちが︱︱我々が、退却を命じない限り﹂
信じろと、彼女は言外に告げる。
キートス・パリヨン
﹁頼もしいな﹂
﹁ありがとうございます﹂
9
2 三十二人対四千人
アリナ・エーヴァ・ユーティライネン。フィンランド国防陸軍中
尉。
彼女はこの年、年齢が三十五歳になる歴戦の前線指揮官である。
やることなすことが破天荒だが、不思議と彼女は兵士たちの信頼を
集める才能があった。なによりも、数年前のモロッコでの戦闘でフ
ランス外人部隊における華々しい功績があったせいかもしれない。
︱︱モロッコの恐怖。
味方からは彼女はそう呼ばれる。
アリナ・エーヴァは考え込むような表情のまま、雪景色の中に行
き交う部下達の姿を見つめていた。
召集令状が来てから長かった金色の髪はばっさりと切られて、シ
ョートカットになっていた。
戦場で戦う兵士にとって不潔になりやすい長髪などもってのほか
シス
だったし、なによりも邪魔なだけだ。
シス
﹁姉さん、どう思います?﹂
﹁姉さん﹂と呼び掛けられて、彼女はちらと視線を流しやると短
く切りそろえられた金色の髪を指先でかきあげてから立ち上がった。
二週間前から降り続く雪のためにコッラー地方は純白に覆われは
じめていた。そして、その雪はやがて進撃を続けるソ連軍の足並み
を鈍らせている。
﹁どう?﹂
どういう意味なのか、と短く問いかけるとがたいの良い男たちは、
リュッシャ
きつめの美人に視線を集めた。
﹁奴らです﹂
しらばっくれたように瞳をあげるアリナ・エーヴァは、口元に微
笑をにじませてからコートの襟元を指先で軽く直す。
10
シス
スオミ
﹁姉さん、イワンの奴らはフィンランドを舐めているんじゃないん
ですか?﹂
﹁⋮⋮そーかもね﹂
気の抜けた声音で短く言いながら、分厚い手袋をした手を閉じた
り開いたりしてから、自分の横に置かれた狙撃銃を手に取ると革の
ベルトで背中に背負う。
北の小国フィンランドと、大国ソビエト連邦では物資も人口も桁
違いだ。ソビエト連邦にとってみれば、それだけの理由で充分に過
小評価する価値があるだろう。
数字上で見れば圧倒的な物量差で押しつぶす事ができる。
おそらく、彼らはそう思っているだろう。
中隊、とは言っても、彼女の手勢は現在たったの三二人。
もっとも、自分も部下達と同じく、手駒のひとつでしかない。一
度瞼をおろしてから再び目を開いたアリナ・エーヴァは丘の向こう
に展開されるソ連軍を見つめた。
戦車、歩兵。
とにかくものすごい大軍だった。
アリナの所属する第四軍は四万人。対する、ソ連第八軍は十二万
人に上る。単純計算ではたった三倍に過ぎないが、アリナ・エーヴ
ァ・ユーティライネンの指揮する第十二師団第三十四連隊第二大隊
第六中隊の任された防衛線だけで言うならば、三十二人対四千人。
アリナ・エーヴァ・ユーティライネンの中隊が任されたその場所
が激戦区になることは容易に想像できる。
わかっていて自分をここに配置したな、あの狸親父。
内心でアリナはハッグルンドに毒づいて舌打ちを鳴らす。
その圧倒的な物量差。
絶望的にも思える状況は悲観的に考える者がいればそれこそ戦う
前から戦意喪失していたかもしれない。
念のためスキーの板とストックを片手にして、アリナは白い息を
吐き出した。
11
﹁すごい大軍だな⋮⋮﹂
戦場にいるときと、そうではないときのアリナはまるで人が違う。
感嘆するような彼女の声に、男たちはちろりと視線を前線指揮官
に集中させる。そうして彼女の瞳を見た男たちは、一様にぞっとし
た。
か﹂
まるでうっとりとソ連の大軍を見つめている彼女の瞳の奥に死に
四千人くらい
神でも見たような気がしたからだ。
﹁わたしたちの相手は、
ぽつりぽつりとつぶやく彼女に、部下の狙撃兵たちは顔を見合わ
せてライフルの動作を確認していた。
﹁なに、中尉殿﹂
そこで初めて口を開いた男がいた。
寡黙な男で猟師出身のスナイパーだ。射撃の大会では幾度も表彰
台に上っている。
名前をシモ・ヘイヘと言う。
年齢はアリナ・エーヴァよりも一歳年下の三十四歳だ。
﹁⋮⋮シムナ?﹂
シムナというのは、シモ・ヘイヘの愛称である。
﹁イワンが四千人なら、一人百二十五人ほど始末すればいいだけの
ことです﹂
上背の低い狙撃手の男は無表情のままで言い放つと、白いギリー
スーツを身につけたままで旧式のモシン・ナガンを自分の体に立て
かけた。
できる
と言った事を可能
﹁あなたはモロッコの恐怖とまで呼ばれる人だ。そんな人がここを
指揮している。それなら、俺たちは、
な限り実行するだけです﹂
感情の抑揚を感じさせることもなく淡々と語る男に、アリナ・エ
ーヴァは口角を引き上げてから苦笑する。
﹁そう⋮⋮﹂
そうだ。
12
もっと簡単な事を忘れていた。
彼の言葉に思い起こさせられる。
自分は何者なのか。
自分がどうして必要とされて、どうしてここにいるのか。
どうして戦うのか。
別に弱気になったわけではない。けれども、目の前に展開された
あまりにも圧倒的すぎる戦力差に目を奪われた。
﹁モロッコの恐怖﹂
自分がそう呼ばれていること。
﹁ここで、イワンを足止めする。おまえら、どこまでできるかなん
て考えるな。ピクニックに出かけるぞ!﹂
まるで男が言うように兵士たちを鼓舞する姿。
フランス外人部隊にいた頃はいつでもこうだった。
男と変わらない言葉使いで話し、そして男たちと共に敵兵に突撃
して薙ぎ倒し、銃をつきつけ、容赦なく命を奪う。
死に神のように戦った過去が彼女の脳裏に蘇る。
戦車が進む音が聞こえてきた。そっと耳をすまして、アリナ・エ
ーヴァはスキーを履いた足で体を支えると、銃を片手にして滑り出
す。
﹁おまえら、ね⋮⋮﹂
おしとやかな女性士官だと思っていたわけではない。
サブマシンガンを小脇に抱えてスキーで滑っていく中隊長殿に、
男たちは狙撃銃を構えたままで苦笑した。
丘陵地帯の上に姿を現したソ連兵達に、ライフルが火を噴いたの
はそのときだった。
ばたばたと倒れていくソ連兵たちの中で生き残ったものはそれで
もコッラーを突破しようと試みる。しかし、そんな生き残りたちに
対して、狙撃ではなくサブマシンガンや機関短銃の餌食になってい
キラーヒル
った。
殺戮の丘と、後にそう呼ばれることになる丘。
13
彼らはそこに展開していた。
ソ連軍というのは、統制された動きをしているわけではない。数
は多いが、はっきり言って作戦行動は滅茶苦茶だった。歩兵は歩兵
でただ馬鹿のように突っ込んでくるだけだったし、戦車も同じだっ
た。
ウラー
いわゆる、前時代の銃剣突撃というやつだ。
ただ、﹁万歳!﹂と叫んで突進してくるだけで、烏合の衆と大し
て変わらない。ようよう銃弾の幕を越えてアリナの手前にまでサブ
マシンガンを振り回しながら走ってきた青年兵士がいたが、その男
はアリナの見事な膝蹴りを食らった瞬間に背中からナイフを突き立
てられて絶命した。
しかも、膝蹴りをいれる一瞬前に片手を下げてスキーを外して足
の自由を確保している。見事なものだ。
表情も変えずに敵兵を殺害していくその横顔はまさに鬼神のよう
だ。
同時に顔を上げると、そのままサブマシンガンを構えて、数メー
トル先にいる兵士の頭を蜂の巣にしてから、再びスキーをつけ直す
とほぼ同時に滑り出して素早く撤収する。
一分にも満たない間に、二人の兵士を伸した彼女は、中隊の布陣
する丘に戻ってきてからひらりと片腕に釣ったサブマシンガンを二
丁と狙撃銃を部下達に手渡した。戻ってくる時に倒れたソ連兵から
鹵獲したものらしい。
物資においてはなにからなにまで足りていないフィンランド軍だ。
アリナの手土産に、部下達は﹁おぉー﹂と賞賛の声を上げた。
﹁使え﹂
乱暴な言葉使いになっても誰も気にしない。
そこは戦場だ。
ご丁寧な言葉で命令を下していたら、言っているほうも聞いてい
る方も死ぬ。
﹁丘向こうを見てきたけど、アカのやつらはまだわんさかいる。弾
14
薬は充分節約するように﹂
とにかく銃弾も足りなければ手榴弾も足りない。
もちろん戦争の要とも言える砲台も足りなければ戦車もない。
シス
フィンランド陸軍はまさにそういった状況だった。
﹁そしたら、また姉さんが持ってきてくれるんじゃないんですか?﹂
﹁そのときは、自分で拾ってこい﹂
笑っている部下の下士官の頭を軽くサブマシンガンの先で小突い
てアリナは笑った。
﹁とりあえず、偵察ご苦労さまです﹂
部隊の指揮に回っていた副中隊長︱︱ユホ・アーッテラにぺこり
と頭を下げられて、アリナはほほえんでみせると、すぐに視線を丘
向こうに戻した。すでにその瞳はきつい色彩が戻っている。
シス
無言で部下のねぎらいに頷いてから、彼女は手渡された機関短銃
を抱え直した。
﹁俺らにゃ、モロッコの恐怖って言われた姉さんがいるんだから、
怖いもんなんてありゃしませんよ﹂
名声を得た前線の指揮官というのは、兵士たちに充分な安心感を
与える事ができる。第十二師団第三十四連隊第二大隊第六中隊もま
さしくそういった状況だった。
機嫌良く告げる下士官たちを一瞥して、アリナは狙撃手たちが取
りこぼしたソ連兵たちに機関短銃を向けた。
三十二人対四千人の戦闘では、指揮官だからとぼさっとしている
わけにもいかない。そもそも、自分も戦闘に参加する方が性に合っ
た。根っからの戦士である彼女は、部下達の様子を見守っている。
これから、いよいよ戦闘は激しくなるだろう。
なにせ、自分達は三十二人しかいない。
対するソ連兵は四千人。その中の何人かが政治将校だとしても、
三十二人しかいない味方を考えれば、四千人というのは後から後か
ら沸いてくるようなものだ。
無限と言ってもいいかもしれない。
15
白いギリースーツを着込んで雪景色の中に紛れ込み、伏せるよう
にしてそれぞれライフルを構えている狙撃兵たち。
そのなかで、やはり目立った印象があったのはシモ・ヘイヘだっ
た。
スコープもなしに旧式のモシン・ナガンを構えている。どれだけ
視力がいいのだろうかと考えている間に、彼は冷静に引き金を引く。
表情一つ変えることもなく、彼は確実に一発の弾丸でひとりの赤軍
兵士を撃ち抜いていった。彼の扱うライフルはボルトアクションラ
イフルで、ただ淡々とヘッドショットを成功させていく彼を見つめ
てからアリナは視線を前方に戻した。
機関短銃を構え直して、照準を合わせる。
部下のスナイパー達が取りこぼした戦車や、兵士達に狙いを定め
る。
もっとも、取りこぼしなどほとんどないと言っても良かったのだ
が。
なにせ、ヘイヘの早撃ちが尋常ではないのだ。モシン・ナガンは
五発しか装填できないというのに、一分間で約十六発もの早撃ちを
こなしてみせるのだ。
銃弾が頭の上を飛び交う中、雪原を匍匐前進したアリナは、近く
にいた副長アーッテラのところまで近づいてから、頭上の帽子を軽
く押さえると小さく問いかけた。
﹁彼はすごいな﹂
﹁⋮⋮一騎当千ですね﹂
応じた副長の言葉に、アリナ・エーヴァは頷いた。
そうこうしているうちに、戦車のキャタピラの音が聞こえてきて、
アリナは目線だけを丘の向こうにやるとそっと目を細める。
﹁戦車も止めますからね、あいつは﹂
あいつ︱︱そう言いながら、副長のアーッテラはシモ・ヘイヘに
視線を滑らせる。そして、すでに狙いを定めていたらしい彼は、や
はりただ冷静に引き金を引いた。
16
戦車が止まる。
﹁ちょっと行ってくる﹂
シス
確実に戦車が止まったのを確認してから、アリナ・エーヴァはス
キーをはくと身軽に立ち上がった。
﹁え? あ、ちょっと待ってください、姉さん!﹂
もっとも部隊の隊長である﹁姉さん﹂がこう言い出した以上、聞
かない性格なのはアーッテラもわかっていたから、﹁待ってくださ
い﹂と言った彼の言葉に止まる事もなく、丘を滑っていくアリナの
後ろ姿にやれやれと溜め息をついた。
﹁姉さんを援護しろ!﹂
アーッテラの命令が飛んだ。
彼らの指揮官である﹁姉さん﹂が何をしようとしているのかはお
おかた想像がついている部隊の面々は、サブマシンガンで銃弾を赤
軍兵士に撃ち込みながら、戦車との距離を詰めていく彼女を援護す
る。
勇猛果敢というか、そもそも無謀というか。
敵に腕の良い狙撃兵がいたらどうするんですか! とアーッテラ
は思うが、どうせ言ったところで﹁大丈夫﹂と根拠もなく笑うだけ
だろうから溜め息混じりに援護するだけだ。
副隊長のアーッテラの心労はともかくとして、上官のそんな様子
に部下達は奮い立たせているのは事実なのだ。
戦車から顔を出した赤軍兵士の頭を至近距離で撃ち抜いたアリナ
は、手早くスキーを脱ぐと戦車に駆け上がる。
一瞬で男たちの死体を引きずり下ろして戦車の操縦席に滑り込ん
だ。
フィンランド兵に乗っ取られた戦車に向けて、銃弾が飛んでいく。
戦車の側面に当たったそれは、鋭い神経質な音をたてる。
男顔負けの戦闘技術を見せつける彼女に、部隊の面々は感嘆せず
にいられない。目の前にいる彼女は確かにモロッコの恐怖と呼ばれ
る人なのだと。
17
アリナ・エーヴァの手によって動き出した戦車を確認して、第六
中隊の面々は冷静に自分の仕事へと戻っていく。アリナ・エーヴァ
を援護し、そして馬鹿のような突撃を繰り返す兵士を撃ち殺すとい
う淡々とした作業。
心を凍らせる。
敵を取りこぼしたら、自分が死ぬのだ。
だから、丘を下りきる前に彼らを殺さなければならない。
しばらくしてから戦車を駆って戻ってきたアリナに、副長のアー
ッテラは長い溜め息をついた。
﹁肝が冷えるんで、そういうのはほどほどにしてくださいよ﹂
﹁シムナが戦車を止めてくれたから、なんとかなるかと思って﹂
﹁いつの間に戦車の操縦なんて覚えてたんです?﹂
﹁まぁ、基地にたまに遊びに行ってたから﹂
あんた、素行不良で除隊勧告受けてたんじゃなかったんですっけ、
と思いながらアーッテラはもう一度溜め息をついた。そんな彼に肩
をすくめたアリナは、片手で死んだソ連の戦車長を戦車の外に引き
ずり出して雪の上に放り投げると、ハッチの上に顔を出したままで
息を吐き出した。
彼女の目線の先には雪の上に放り出された、スキー板とストック
が落ちている。
﹁とってきますよ﹂
﹁頼んだ﹂
アリナはそんなアーッテラに片手をあげると、今度は副長の彼が
スキーをはいてストックを握りしめる。さっさと滑り出して銃弾の
幕の中をくぐり抜けると上官のスキー板一式をひろって戻ってきた。
﹁いつもすまないね﹂
﹁⋮⋮全くです、もう少し後先考えて行動してくれないと困ります﹂
ぶつくさと文句を言いながら、アリナ・エーヴァにスキーの板を
返したアーッテラは、それにしても、と背後のソ連兵士を見やった。
﹁本当に馬鹿みたいに同じ繰り返しですな﹂
18
﹁うん、どうも本当みたいだね、あの噂﹂
﹁⋮⋮噂、ですか?﹂
アーッテラが首を傾げると、アリナは目を細めてから戦車から出
て降りてくる。
﹁ヨシフのおじさんが、どうも腕のいい軍人片っ端からぶっ殺した
とか殺さないとか﹂
ヨシフのおじさん︱︱彼女はおどけて﹁ヨシフのおじさん﹂など
と言うが、それが誰をさしているのか、アーッテラも部隊の面々も
理解していた。
要するにヨシフ・スターリンのことだ。
﹁へぇ? じゃあ、今の指揮官連中は腕のいいのがいないってこと
ですかね?﹂
エヌカヴェデー
﹁そこまでは知らないけど、責任を問われて殺されるってパターン
抵抗しない人間
を殺すくらいしか能がないだろ
が多いらしいからね。それが怖いんじゃない? どーせ、NKVD
の将校なんて、
うし﹂
アリナの言葉に、アーッテラはぞっとした。
つまりそういうことなのだ。
突撃しても死。
退却しても死。
﹁⋮⋮︱︱それはまた﹂
アリナの言葉に、アーッテラは返す言葉もなく片手で口を覆って
から黙り込んだ。
ろかく
﹁戦車、ハカリスティを書いておいて。手が暇になったらでいいか
ら﹂
﹁了解﹂
アリナ・エーヴァは鹵獲した戦車には興味もないのか見向きもせ
ずに、そうして再び狙撃兵たちが獲物を狙う場所へと戻っていった。
﹁無茶苦茶せんでくださいよ﹂
﹁わかってる﹂
19
歩きだすアリナはアーッテラに背中を向けたままでひらりと肩の
上で手を振った。
20
3 奇襲
﹁姉さん、ハッグルンド将軍から通信です﹂
呼び掛けられて、彼女は振り返った。
﹁すぐに行く﹂
スキーをはいた足で身軽に滑り出した直属の上官を眺めて中隊長
のアーッテラは自分の肩を軽くたたいた。
男性兵士と比べれば、アリナ・エーヴァは若干華奢にも見えるが、
その戦闘技術は突出している。なにせ、その細腕︱︱あくまで男性
と比べて、であるが︱︱で片手で大男を伸すのだ。女性ながら天性
どうだって
のパワーファイターで、そこがまた粗野な男たちを惹きつけるのか
もしれない。
だが、とりあえず、アーッテラにはそんなことは
いい。
なにも中隊長自ら、ウキウキと最前線に突撃して行かなくてもい
いではないか、と思う。もっとも言ったところでおとなしく聞くよ
うな性格ではないから口には出さない。
ややしてから戻ってきた彼女は、可愛らしくアーッテラにウィン
クして見せた。
なにか機嫌の良くなるようなことでもあったのだろうか。
﹁やっと増援の手配がついたらしい﹂
﹁どれくらいの規模なんですかね?﹂
﹁追加で二個小隊﹂
短く告げた彼女に、アーッテラは目を細めた。
規模としては百人弱というところか。
中隊の規模としてはぎりぎりの規模になる。
もっとも、フィンランドの中隊とソビエト連邦の言うところの中
隊ではまるで規模が違うので比較にもならないのだが。
21
﹁⋮⋮将軍も
なんとか
がんばってみたってところみたいですね﹂
アーッテラの素直な感想を聞きながらアリナ・エーヴァは頷きな
がら、手袋をはめた手で自分の顎を軽く撫でてから首を傾げた。
﹁だろうね﹂
特になにか感想を付け加えるわけでもなければ、ハッグルンドに
対する評価を告げるわけでもない。
アリナ・エーヴァのそんな様子に、副中隊長は肩をすくめた。
﹁しかし、まぁ、たたいてもたたいても沸いて来やがりますね﹂
きりがない。
アーッテラは目を細める。
﹁⋮⋮奴ら、もしかしたら雪の上をまともに移動したことなんてな
いのかもしれないな﹂
アーッテラに応じるでもなく独り言のようにつぶやいたアリナは、
じっと赤軍兵士の足元を見つめている。おぼつかない歩き方はいっ
そ笑ってしまうほどだ。
フィンランドの国民は、人生の半分をスキーに乗って過ごすよう
なもので、誰もがスキーの名手だった。さらに職業猟師が多いから、
狙撃にも秀でた者が多い。
﹁南方の出身者が多いのでしょうかね﹂
﹁ふむ﹂
発言の内容にはかわいらしさのかけらもないが、アリナに対して
そんなことを求めていないアーッテラは気にかける事もなく話しを
続けた。
﹁あの無様な歩き方を見ればわかります﹂
雪の上をよろよろと歩いている赤軍兵士達。
あんなおぼつかない足取りでは、それこそ﹁ここに的があります
から狙撃してください﹂と言っているようなものだ。
﹁⋮⋮ただ、厄介なのは奴らの物量です﹂
男の言葉にアリナは頷いた。
フィンランドの弾薬が切れるか、それとも赤軍兵士がいなくなる
22
か。
未来はどちらがより早く訪れるだろう。
﹁手段を選んでいられないってことか﹂
雪の上でのフィンランド人の機動力は赤軍兵士を容易に上回る。
冬こそ彼らの本領発揮と言えた。
﹁奪えるものはなんでも奪え﹂
冷たいアリナの声に、アーッテラはちらりと背後に視線を流した。
シス
その視線の先にはハカリスティ︱︱青い鈎十字が描かれた戦車が
あった。
﹁了解、姉さん﹂
部隊の兵士たちは狙撃手が多いが、白兵戦も難なくこなす男たち
だった。アリナ・エーヴァ自身はそれほど狙撃そのものを得意とし
ているわけではなかったが、やれと言われればできないことはない。
もっとも、ヘイヘのような素晴らしい早撃ちは不可能だが。
雪景色の中に、銃剣突撃を繰り返しては撃ち殺されていく赤軍兵
士達。
ただ物量で攻めてくるソ連兵士など、的としては最適だった。フ
ィンランド兵たちは、ギリースーツに身を包んで、奇襲攻撃や、待
ち伏せなどにより彼らに大きな損害を与えていく事に終始するが、
ヨシフのおじさん
が、無能で助かったよ﹂
それでも、味方が被害を被る事は免れられない。
﹁⋮⋮
不意につぶやいた彼女の言葉に、アーッテラは眼差しだけを向け
ると、彼女は気がつかない素振りでテントの前から歩いて行く。
知り合いのおじさんのことを話すような口ぶりの彼女に副隊長の
男は苦笑いしてから後に続いた。
﹁姉さん、待ってください﹂
﹁ん?﹂
﹁忘れ物です﹂
ひょいと、サブマシンガンを放り投げられた。
アリナはそれを難なく受け取るとアーッテラに短く礼を述べる。
23
﹁ありがと﹂
﹁それで、増援はどれくらいで到着するんです?﹂
﹁さぁ? 一週間以内にはよこすそうだけど﹂
そう告げた彼女は軽機関銃の固い感触を確かめるように握ると、
白い息を吐き出しながら目を細める。
﹁とりあえず、そんなことはどうでもいいや﹂
きっぱりと言い放って、鋭い瞳を前線へと向けた。
﹁⋮⋮増援が来る前に、撃退してやる﹂
にたりと笑った。
﹁ですな﹂
まるで無限に沸いてくるようにも思える赤軍兵士に怯む事もなく、
彼らはただ果敢に白兵戦を仕掛ける。スキーで神出鬼没に突撃して、
各個撃破していくのだ。
あっちはあっち
でいろいろ大変らしいけどね﹂
﹁そういえば、姉さんの弟さん、空軍のパイロットでしたっけ?﹂
﹁
フィンランドの空軍もそれほど大規模なものではない。
むしろヨーロッパ諸国の空軍の中でも貧弱と言っていいだろう。
そんな中で、アリナの弟︱︱エイノ・イルマリはパイロットとし
て素晴らしい腕を持っている、らしい。
姉も化け物ならば、弟も化け物。
﹁血、ですかねぇ⋮⋮?﹂
﹁⋮⋮なにが?﹂
﹁化け物っぷりがですよ﹂
悪びれもせずに告げたアーッテラに、アリナは朗らかに笑った。
そこが戦場だとは思えないような明るい笑い声。
﹁わたしは、飛行機は運転できないけど?﹂
﹁そういうことを言ってるわけじゃありません﹂
﹁でも、あの子より、わたしのほうが喧嘩は強いけどね﹂
二十五歳の弟よりも喧嘩が強い、と豪語するアリナに思わず﹁そ
れは弟さんが手加減してるだけと違うんですか﹂とアーッテラは言
24
シス
いかけたが、余分なことを言うと陸戦のプロである﹁姉さん﹂が機
嫌を悪くするので口を噤んだ。
﹁ところであなた、部下とじゃれるのは一向に構わないんですが、
姉さんが本気出したら死人が出ますんで、自重してやってください﹂
言った事は別のことだった。
時折、部下とじゃれ合っている彼女に、気の毒にも半殺しにされ
かけている下士官がいるのをアーッテラは知っていた。
﹁別に殺してるわけじゃないからいいじゃないの﹂
﹁あのですね⋮⋮﹂
他愛のない会話を交わしながら、ふたりの中隊指揮官はそうして
前線へ視線を戻すと互いに銃の照準を合わせてから赤軍兵士が倒れ
ていくのを視線で追いかけた。
﹁ま、つくづく思いますよ。姉さんが敵じゃなくて良かったってね﹂
﹁ほめられたと思っておく﹂
ころころと笑っているアリナは、けれどもその眼差しは戦場にあ
ってさも当たり前のように殺伐としていて、その落差にアーッテラ
は横目で上官を見つめてから肩をすくめただけだった。
﹁ほめてませんよ﹂
呆れてるんです。
アーッテラはそう言いながら、上官の肩を軽くたたくと溜め息を
つきながら、部下の狙撃手の元へと姿勢を低くして歩み寄った。
女性とはいえ、上官の心配などしていない。
もさ
アリナ・エーヴァ・ユーティライネン︱︱彼女は、モロッコの恐
怖とまで呼ばれた百戦錬磨の猛者である。
部隊の中では、誰よりも生存確率は高い。
そんな化け物じみた人間を心配するだけ無駄だった。
﹁⋮⋮いいんですか? 姉さん放っておいて﹂
部隊の下士官が狙撃銃を構えたままでアーッテラに問いかける。
﹁別に放っておいて死ぬわけじゃあるまい﹂
﹁そりゃそうですけど﹂
25
放っておいても死なない。
﹁ひとりで暴走したらどうするんですか﹂
﹁そうしたらそのときは自分でなんとかしてくれるさ﹂
飄々と告げたアーッテラは、機関短銃を赤軍兵士に向けたままで
険しい表情を崩さずにいた。
なにせ、彼女は単身で敵兵の渦中に突っ込んで、白兵戦を楽しげ
に繰り広げてくるのだ。つい、一日ほど前には、対戦車砲を鹵獲し
損ねたと大変悔しがっていたのを思い出す。
とにかく、女性とは思えないほど破天荒なのだ。
そうこうしているうちに、彼らの横。視界の隅にライフルを手に
したアリナが腰を屈めた姿勢のままですたすたと歩いてきた。
﹁ちょっと行ってくるから﹂
﹁はぁ⋮⋮?﹂
数人の下士官を連れて、スキーを履いた彼女がアーッテラに告げ
ると、背中に機関短銃を背負い、肩にはサブマシンガンを吊ってい
た。
そんなに重装備をしては思うように動けないのではないか、と心
配もしかけるが彼女の副官であるアーッテラはいつものように肩を
すくめてみせてから、連れだされるらしい部下達を見やってから﹁
まったく﹂とつぶやいた。
﹁アーッテラは残って指揮を頼む﹂
﹁いいですが、あなたが死ぬと士気に関わるんで、死なないように
してください﹂
コートを着た上官の肩をぽんぽんと叩いてから、彼は残りの部下
達に顎をしゃくって見せた。
﹁おまえたちは自分の仕事をしろ。イワンを一匹も通すなよ﹂
重い装備を背負って、障害物の横をすり抜けるようにしてコッラ
ー河を渡河したのはアリナ・エーヴァを含めて五人ほどだ。
彼女が選んだのは、全員が選りすぐりの兵士達だ。
そんな彼らを連れてなにをするのかと言えば、もう﹁アレ﹂しか
26
ない。
間もなくして、向かい合わせの丘から聞こえてきたのは爆発音と
遠い悲鳴だ。おそらく、アリナらが赤軍兵士相手に白兵戦をしかけ
たのだ。
ソ連軍は、彼ら第十二師団第三十四連隊第六中隊が狙撃を主な攻
撃手段にしているとしか思っていなかったはずだ。それを逆手にと
ったのだ。
スキーをはいた機動力を使った奇襲攻撃。
丘を越えてくる事はないだろうと、高をくくっていた赤軍の虚を
突いた形になった。
モロッコでの作戦を経験しているアリナ・エーヴァは決して雪中
の作戦だけを得意としているわけではない。
ごく普通の白兵戦こそ、彼女の本領だった。
銃を構え、近づいてきた敵兵に銃弾を撃ち込み、それでも尚抵抗
する敵には近接攻撃をしかけることもできる。ナイフを抜き、血ま
みれの戦闘を繰り広げる。
鬼のような強さを見せつける彼女をアーッテラは想像した。
爆発音は、戦車を直接破壊した音に違いない。
やがて、数時間たってから、丘に姿を現したアリナら一行は、相
変わらず赤軍兵士ともみあうような戦闘を続けていた。まるで、無
限に沸く亡霊でも相手にしているようだ。
叫び声を上げながら銃口を向けてくる敵の顎を撃ち抜いて、アリ
ナ・エーヴァは息を荒げながらサブマシンガンを肩に担ぐ。
恐らく、と、アーッテラは思った。
﹁弾切れか﹂
舌打ちした副長は、大きく腕を振って、丘に展開する部下たちに
シス
命令を下す。
﹁姉さんの退路を確保しろ!﹂
背後に迫り来る赤軍兵士を撃ち殺し、銃弾の幕をかいくぐりなが
ら後退を続ける彼女の瞳はぎらぎらと輝いている。
27
片手にしたナイフは彼女がモロッコでの作戦以来使っているもの
らしい。
シス
非常に殺傷能力の高いアジアのナイフだという噂だった。
﹁姉さん、そのまま撤退してください。退路は確保します!﹂
声が届いたのか、アリナは引きずるようにひとりの青年に肩を貸
しながらちらりと視線をアーッテラに向けた。
ひどい傷を背中に負っている。
いや、アリナも右の腕から胸にかけて血まみれだった。
それは誰の血なのだろう。いやな予感にぞくりと背筋を振るわせ
たアーッテラだったが、今はそれ以上考える余裕はない。
ナイフを振りかざし、相手の軽機関銃を片手で押さえて無力化し
ながら、直接、敵兵の首筋をかききった彼女は勢いのまま腕をひい
て、男のサブマシンガンをもぎとった。
同時にナイフを腰に戻すと、奪い取った銃を構えて、自分達にせ
まりくる赤軍兵士を撃ち殺す。
そして、アリナは下士官たちに怒鳴り声を上げた。
﹁走れ−!﹂
途中でスキーを失ったのか、深い雪を踏み分けて、四人の兵士達
が走ってくる。アリナもよく見ればスキーを失っている。それでも
尚、部下達の退路を確保するために、赤軍兵士と死闘を演じている。
頬をかすめている赤い傷跡は銃弾がかすった後かなにかだろう。
丘を駆け下りた友軍に腕をとられて、自陣に引き入れられた下士
官達を確認して、アリナも一目散に走り出す。しかし、雪に足をと
られてうまく走れない。
あたりまえだ。
雪の上をスキーもなく機動力を確保しようというほうが無謀なの
だ。
咄嗟に二人の部下をつれたアーッテラがスキーを履いたまま丘を
すべりおりると、銃弾の幕で、敵を牽制しながら、アリナの腕を引
きずりあげた。
28
﹁怪我してるんですか﹂
﹁わたしは、大丈夫⋮⋮﹂
﹁しかし、その血は⋮⋮﹂
﹁わたしじゃない﹂
狙撃兵の展開する丘の上まで戻ったアリナはぺたりとその場に座
り込むと血まみれのままで頭をぐるりと回す。
﹁ヴァラントラは!﹂
﹁無事です。ちょっと傷が大きいですが、致命傷ってほどじゃない
んで﹂
彼女よりも数分先に救出されていた負傷兵︱︱ヴァラントラは茶
色の髪を赤く染めながら、顔をあげると痛みに顔を歪めながらも上
官のアリナ・エーヴァに向かって片手をあげる。
﹁⋮⋮大丈夫です。かすり傷です﹂
﹁後方で治療してもらってこい﹂
﹁まだやれますよ﹂
﹁どうせ、後から物資は不足するんだ。まだ足りてる間に治療して
もらえ﹂
投げ捨てるようなアリナの言葉に、ヴァラントラは広い肩を居心
地悪そうにすくめると、上官の言葉に従った。
﹁すみません﹂
﹁いや、いい﹂
ヴァラントラが別の隊員に肩を貸されるようにして、後方に下が
るのを確認してから、アーッテラはアリナの横に膝をついて彼女を
覗き込んだ。
﹁それで、姉さんの傷はどうなんですか﹂
﹁だから、わたしは怪我してないって言ってる。敵と、ヴァラント
ラの血だから﹂
確かに、アリナ自身には打ち身のようなものはあったが傷らしい
傷はなかった。そのことにほっと胸をなで下ろした彼は、夕闇があ
たりを包んでいくことに安堵しながら、今度こそ上官を立たせると
29
彼女に肩を貸した。
﹁スキーはどうしたんですか﹂
﹁なくした﹂
何人の相手をしていたのか、考えるだけでも恐ろしい。
相手が烏合の衆とはいえ、それでも集まればそれなりに脅威とな
るだろう。
﹁少し休んでください、一時間たったら起こします﹂
﹁⋮⋮うん﹂
テントに付くやいなや、眠り込んでしまった彼女の血まみれのコ
ートを脱がせてから、アーッテラは別の防寒着を着せると分厚い毛
布をかける。
金色の髪にべっとりと血をつけたまま眠っている彼女に、副官の
男は溜め息をついた。時計を確認してから帽子をかぶり直す。
﹁日が落ちてきて、イワンの攻撃がゆるんだな。見張りをたてて交
代で休んでくれ﹂
恐らく、アリナ・エーヴァが奇襲をかけたことで、敵に躊躇が生
まれたのだ。
交代で休む程度の時間はあるだろう。
部下達の様子を見ているアーッテラの視線の先で、モシン・ナガ
ンを片手にした上背の低い男が歩いているのを見つけた。
﹁シムナ、どこへ行く?﹂
﹁見張りです﹂
短く淡々と応じた彼はそうして、アーッテラを振り向く事もなく
スキーをはくと肩にライフルを担いだままで歩いて行く。
シモ・ヘイヘが見張りをしているなら心配ないだろうと、アーッ
テラは思ったが、なにやら違う胸騒ぎも感じて黙り込んだ。
﹁⋮⋮そうか﹂
どちらにしたところで、アーッテラにはアリナ・エーヴァ・ユー
ティライネンを補佐する仕事がある。
彼が、その場を動く事は許されない。
30
彼女が動けない時に、部隊に司令を出すのはアーッテラの仕事な
のだ。
とりあえず、アリナ・エーヴァが奇襲をかけてなにをしてきたの
かは、彼女が目を覚ましたら聞けばいいだけの事だった。
31
4 魂の宿るもの
﹁⋮⋮︱︱で﹂
アーッテラが不機嫌そうな眼差しのまま、テント内の簡易テーブ
ルに肘をついて問いかけた。
その様子はまるで訊問でもしているようだ。
﹁なにをやってきたんです?﹂
彼と彼女の前にはコーヒーのいれられたカップが置かれている。
どこか呆れたような表情のままで熱い湯で湿らされたタオルを差
しだすと、アリナ・エーヴァは血液で固まってしまった前髪を軽く
拭き取る。
﹁そんな怖い顔するともてないよ、ユホちゃん﹂
﹁もてなくて結構です﹂
素っ気なく応じたアーッテラは、とんとんとテーブルを指先で打
つ。
しかし、そんなユホ・アーッテラの渋面にも慣れきっているアリ
ナ・エーヴァはコーヒーカップを手に取ると熱いコーヒーをすすっ
てから小さく肩をすくめてみせた。
﹁それで、なにやってきたんです?﹂
繰り返された質問にアリナはわざとらしい溜め息をつくと目の前
に座っている副官を見つめた。
手元にあるナイフは人間の脂で艶を帯びていた。
﹁聞こえてきたた感じだと、戦車やってきたように聞こえましたけ
ど﹂
﹁知ってるなら聞く必要ないんじゃない?﹂
﹁⋮⋮一応、わたしはこれでもあなたの補佐なので、事態を把握し
ておく義務があるんですがね﹂
彼の剣のこもった声に動じる事もないアリナ・エーヴァは、ヒュ
32
ウヒュウと聞こえる風の音に耳を傾けながら睫毛を伏せた。
﹁寝たふりしてもだめですからね﹂
﹁してないって﹂
よく見なくても、アリナ・エーヴァは傷だらけだ。
けれども、軍人である以上それは当たり前の事でそんなことにア
ーッテラは心を動かされたりはしない。いくら女性であったとして
も、だ。
﹁そういえば、伝令のロッタが亡くなったそうです。ご存じですか
?﹂
従軍しているのはなにも男性たちだけではない。
女性もそうだ。
もっとも、アリナ・エーヴァのように最前線で兵士たちを率いて
戦う女性はいないが。
﹁うん、知ってる﹂
﹁そうですか﹂
短い言葉で情報を交換し合いながら、ふたりは時折なにかを考え
込むように黙り込んだ。
﹁⋮⋮そのロッタ、まだ十七歳だったって?﹂
﹁はい﹂
ロッタ。
ロッタ・スヴァルト協会という後方支援を主な任務としている女
性たちによる軍の補助組織で、危険極まりない様々な任務に携わっ
ていた。貧弱なフィンランド国防軍にとって、ロッタ・スヴァルト
協会の存在は必要不可欠だ。
そのロッタ・スヴァルト協会には年若い少女達も存在していたの
だ。
伝令や負傷兵の搬出、補給なども、ロッタの任務である。
﹁気の毒に﹂
ぽつりとアリナがつぶやいた。
そうして、もう一度コーヒーをすする。
33
﹁はい﹂
アリナ・エーヴァ・ユーティライネンのように前線で戦っている
女性はほとんどいない。ほとんどいないどころか、アリナのような
モロッコの恐怖
と呼ばれた彼女の名前は飾りではない。
女性前線指揮官がそもそも特別なのだ。
もっとも、アリナのような歴戦の猛者とも言える女性ばかりだっ
たら、フィンランドの男は全員が女性恐怖症になるだろう。
まるで哀悼の意を示すようにアリナは黙り込んでから、コーヒー
に視線を落とした彼女はややしてから、真面目な眼差しを副長の男
に見つめて口を開いた。
別にアーッテラをからかって遊んでいるわけではない。
そんな余裕がないことは彼女にもわかっている。
﹁アカ共も、そろそろ同じ繰り返しで慣れてきてるだろうからね。
ちょっと攪乱してきた﹂
なんでもないことのように告げた彼女に、アーッテラは目を細め
た。
確かに、馬鹿みたいに前時代的な銃剣突撃を繰り返してくる赤軍
だが、同じ繰り返しをすればするほど慣れてくるのは人の常で、そ
れは戦場にあってもおなじことである。
だからこそ、同じ繰り返しでは決してないのだと、知らしめなけ
ればならない。
﹁まぁ、確かに、慣れてはくるでしょうな﹂
上官の言葉に頷いたアーッテラはそっと目を細めてから、しかし、
と続けた。
﹁奴らにも狙撃兵はいるでしょう?﹂
﹁この間、ヨシフのおじさんのこと話したと思うけど、どうも、ヨ
シフのおじさんはまともに兵士たちに武器わたしてないみたいなん
だよね﹂
﹁あちらさんは人数も多いですからね。ですが、大昔じゃあるまい
し剣とナイフだけじゃ勝てませんよ? そんなことイワンもわかっ
34
てるでしょうに﹂
﹁わかってたって、それを上に進言できる人間がいなきゃどうしよ
うもないでしょ﹂
アリナ・エーヴァは上官にも臆することがない性格だ。そのせい
で戦争がはじまる前は問題児扱いされているが。
のひとりなのだ。
問題行動
さえな
それはさておき、優秀な将校の教育に力をいれるのはマンネルヘ
優秀な将校
イム元帥の方針でもある。アリナ・エーヴァも
ければ、充分に
﹁⋮⋮確かに﹂
いくら最新の兵器があったとしても、それを運用する人間が熟練
していなければなににもならない。
扱うのはあくまで人間なのだ。
﹁ですが、数は脅威です﹂
﹁そう﹂
アリナはアーッテラに頷いた。
﹁⋮⋮怖いのは奴らの数だ﹂
際限のない消耗戦に引きずり込まれればフィンランドは確実に劣
勢に追い込まれる。そして、その先にあるのは緩やかな滅びだけだ。
それを、将軍たちだけではなく、前線指揮官たちも理解している。
﹁冬のうちに戦いを終わらせなければ、もっとひどいことになる﹂
戦闘を長引かせてはいけない。
アリナ・エーヴァの言葉に、アーッテラは悪寒を感じて頷いた。
ラドガカレリアの戦闘だけでも、フィンランド陸軍第四軍が相手
にしているのはソ連は歩兵六個師団と一個装甲旅団を含めた第八軍。
その兵力差は四万人対十二万人だ。
どれだけの兵力差があるのか軍人でなくてもわかるだろう。
二個師団で六個師団半を相手にしなければならないという状況に
陥っていた。
それでも、アリナ・エーヴァ・ユーティライネンが見るところ、
第十二師団はよくやっている。
35
﹁わたしはわたしができることをやるだけだ﹂
それでも、﹁よくやっている﹂だけではだめなのだ。
勝負とは、勝つか負けるか。
それしかない。
﹁あいつらもよくやってくれてる﹂
やつら
優しげに笑った彼女の瞳に、アーッテラは口元を緩める。
﹁それを部下に言ってやってください、姉さん﹂
﹁わかってるよ﹂
くすりと笑った彼女はそうしてアーッテラを見つめた。
﹁ユホちゃんも休んでおいて﹂
﹁了解しました﹂
コーヒーを飲み終わったアーッテラはそうして、上官のテントを
出て行くと険しい光をたたえたままの瞳で雪の積もりはじめている
あたりを見回した。
﹁ご苦労様です﹂
歩哨に立つ兵士の敬礼を受けて、やはり敬礼を返したアーッテラ
はそうして自分のテントへと戻っていく。アリナ・エーヴァは自分
のテントで副官が休む事に対して嫌悪感を抱いたりはしないが、当
のアーッテラ自身がそれをいやがった。
アリナが女性だから、という理由からではなく、単に彼女に毒さ
れたくなかっただけだ。
﹁姉さん、怪我はありませんでしたか?﹂
シス
アーッテラは尋ねられて苦笑いする。
﹁うちの姉さんが怪我なんてするわけないだろう。それよりヴァラ
ントラのほうは大丈夫だったのか?﹂
﹁背中の皮がぺろっといっただけみたいですね。ただ、完治するま
では戦闘は無理だろうという事です﹂
﹁そうか﹂
軍医からは後ほどアリナに報告がいくだろう。
そうして改めて彼の帰還命令が出される事になる。
36
増援の小隊が到着するまでに、負傷者はなるべく最小限におさえ
なければならない。
隊長が自ら奇襲を加えたことは間違った判断ではなかったが、今
はひとりの脱落も厳しいところだった。
﹁わかった﹂
溜め息をついた彼は、テントに戻って毛布を引き寄せると眠りへ
とついた。
﹁どうなってる?﹂
問いかけられて、シモ・ヘイヘは表情も動かさなければ、身じろ
ぎもしない。
驚きもしないのは彼が今、ライフルを構えているからだ。
声をかけてきた上官に対して、文句のひとつも言わないが、それ
は彼女に文句がないからではない。
ただ、恐ろしいと思えるのはアリナ・エーヴァが驚くほど気配が
感じられず、熟練の猟師であるヘイヘすら気がつかなかったほどだ。
例えるならば、野生の肉食獣。
声をかけられるまで気がつけなかった。
森の中に野営しているソ連軍の兵士たちに視線を滑らせて、アリ
ナ・エーヴァ・ユーティライネンは小首を傾げた。
シモ・ヘイヘもそれほど重装備なわけではない。
サブマシンガンと狙撃銃。そして、ナイフを持っているだけだ。
しかし、そんな彼と比べてもアリナは軽装備だ。
それこそ、ナイフを一本腰に刺しているだけだった。
﹁殺していいなら﹂
﹁構わない、やれ﹂
短く応じたヘイヘに、アリナは命令を下した。上官の命令に声に
出して応じるわけでもなく、彼はボルトアクションライフルを構え
て、引き金を引く。
冷静に、一発ずつ。
37
﹁寄ってくるのがいたら、始末してやるから心配いらない﹂
﹁はい﹂
万が一取りこぼしがいれば、始末する、とつぶやいた彼女に、シ
モ・ヘイヘは頷いた。彼とあまり年齢の変わらない女性将校は、兵
士として実に豊富な経験を持っている。そして、熟練兵でありなが
ら彼女はどんな敵も過小評価する事はない。
常に、自分を含めて、部下をひとりでも多く帰還させる事を考え
ている。
シモ・ヘイヘもそれをよく知っていた。
下士官や兵士たちが代わる代わる炊事当番で野菜を刻んでいると
ころに現れてはくだらない冗談を言いながらその仕事を手伝ったり
する。
人徳がある、というよりは、人の心をつかむのがうまいのだろう。
腰に刺したナイフの持ち手に手袋をした指先で触れながら、アリ
ナ・エーヴァが冷たい空気の中で瞬きをした。
雪がちらちらと降り出している。
十二月に入ってから、特に天候が悪化していた。
それは、期せずして劣勢に追い込まれていたフィンランド軍を手
助けする形になった。なにせ、航空支援もほとんど望めないが、冬
将軍の存在はソ連の航空支援部隊を寄せ付けずにいられた。
あっという間に降り積もっていく白銀の世界。
その中に、雪中迷彩の彼らは紛れ込む。
鋭い音をたてて、ライフルが火を噴いた。
同時に、百メートルほど先にいる赤軍兵士が声も立てずに倒れ込
む。
﹁スナイパーがいるぞ!﹂
ロシア語の叫び声が響いた。
それと同時に、言葉を放った男もそのまま頭を撃ち抜かれて雪の
上に倒れた。どこから銃弾が飛んでくるのかと、動揺しているソ連
兵士たちを次々と撃ち殺していくヘイヘの様子は普段と何も変わら
38
ない。
ぴくりとも表情を動かさずに、ただ、冷静にターゲットに狙いを
定めて引き金を引く。それだけの作業を繰り返す。
そんな部下の狙撃兵を見つめて、アリナ・エーヴァはやれやれと
首を振った。
自分の出る幕などない。
やはり、彼は天才だ。
彼の手によってあっという間に一個小隊が全滅させられた。ライ
フルを置いたシモ・ヘイヘは、ふと物陰に潜んでいたらしい政治将
校を見つけて銃を構え直す。
けれども次の瞬間、彼の隣に身を伏せていたアリナ・エーヴァが
立ち上がったかと思うとヘイヘのサブマシンガンを取り上げるとそ
のまま引き金を引いた。
男の頭に正確に、文字通り吹き飛ばした。
相手に逃げる隙も与えない。
連続した渇いた音に、ヘイヘが眉をひそめるとややしてから軽機
関銃の引き金から手を離した彼女は、息を吐き出すと銃をおろす。
﹁副長が心配しますよ、中尉殿﹂
﹁アーッテラが心配なんかするわけないじゃん﹂
アーッテラはそれなりに長いつきあいになる。
たびたび、基地を訪れては一般の兵士と混じって訓練を受けてい
たアリナ・エーヴァとは一九三九年以前から交流があった。
それ故に気心知れた仲とも言える。
﹁あいつ、他の女の子にはへらへら優しいくせに、わたしにはちっ
とも優しくないからね!﹂
シス
フンと鼻を鳴らした彼女にヘイヘは吹き出した。
﹁まぁ、姉さんは男前ですからね﹂
赤軍の小隊を全滅させた彼らは、辺りに散らばっている兵器を眺
めてからスキーで近づいた。
﹁弾は持って帰りましょう、銃とかは後で人をよこせばいいかと思
39
いますが⋮⋮﹂
鹵獲しようというヘイヘの提案に、アリナはブーツの爪先で大男
の死体をひっくり返してから腰にある拳銃を吊したホルスターを引
っこ抜く。
﹁そうだね﹂
凍らないうちはコートやブーツなども持って帰る事ができる。
これは早くアーッテラに報せなければならないな、と考えながら、
アリナは冷たい空気の中でもう一度睫毛を揺らした。
﹁とりあえず、帰ってコーヒーブレイクでもしようか﹂
ライフルの弾を抜いているヘイヘに声をかけると、彼は背中に背
負ったリュックにそれらの鹵獲品を詰めてから立ち上がる。
﹁歩哨を交代してゆっくり休んでくれ﹂
﹁姉さんは休まないんですか?﹂
﹁休むよ。けど、さっき、奇襲かけたときに戦況もろくに確認しな
かったからね。一応、情報を集めとこうかと思ってさ﹂
口ではそんなことを言っているが、歩哨をしているヘイヘのとこ
ろまでわざわざ来たのだから、そんな理由ではないのだろう。
﹁嘘ばっかり言ってないでください。単に、おもしろがってるだけ
でしょう﹂
﹁ばれたか﹂
ぺろりと舌を出して笑った女性に、ヘイヘは肩をすくめてみせた。
﹁ところで、そのナイフ、なんて言うんですっけ?﹂
﹁これ?﹂
流線の美しい白いナイフを見やったヘイヘが顎をしゃくると、ア
リナは長いナイフを引き抜いてから淡い光にその刃を煌めかせてか
ら彼を見つめる。
人を殺す事に特化した頑強なナイフで内反りが印象的だ。
﹁ククリって言うんだよ﹂
﹁へぇ、いいナイフですね﹂
﹁モロッコにいたときにさ、戦友がくれたんだ﹂
40
ククリナイフ。
一般的にはグルカナイフとも呼ばれる。
アリナはヘイヘににっこりと笑った。
﹁そりゃまた⋮⋮﹂
﹁ま、これくれた奴はもう死んだけどね﹂
なんでもないことのようにつぶやいた彼女の表情は揺らぎもしな
い。なにを考えているのだろう。
﹁武器に、前に持っていた人の魂が宿るとか、思いますか?﹂
問いかけられて、アリナ・エーヴァはひどく意外そうな瞳でヘイ
ヘを凝視した。彼がそんなことを言うとは思っていなかったようだ。
﹁⋮⋮無機物だよ、武器は﹂
ややしてからぽつりと告げた彼女に、上背の低い男はぺこりと頭
を下げた。
そのときだった。
ヒュッと音が鳴ってアリナの手首が翻る。
手に握っていたククリが勢いをつけて投げつけられたと思った次
の瞬間に、暗がりから男の低い悲鳴が聞こえた。
次に聞こえてきた音は、雪の中に崩れ落ちただろう柔らかな音だ。
﹁生き残りか﹂
ナイフは見事に赤軍兵士の額を貫いていた。
雪の中に倒れ込んだ赤軍兵士の死体に歩み寄って、そうしてナイ
フを引き抜きながら、アリナはわずかに目を細めた。
﹁こいつ、もしかしたらソ連の人間じゃないかもしれないね﹂
﹁⋮⋮︱︱どういうことです?﹂
﹁いや、なんでもない﹂ アリナはそうして、ナイフを男から引き抜きながらその軍服を指
先でめくると吐息をついた。
階級章も、所属もない。
もしかしたら、という思いにアリナ・エーヴァ・ユーティライネ
ンは捕らわれるのだった。
41
5 イッルの祈り
﹁あなたは、どうして女性なのに兵士になったのですか?﹂
問いかけられて、アリナ・エーヴァ・ユーティライネンは静かに
笑った。その問いかけに彼女は答えない。簡単に言うと、男ではな
いが暴れるのが好きだったからという理由だけだが、そんなことを
口に出すわけもない。
目の前でメモをとっているのは従軍記者だ。確か、ヘイモ・ネス
トリ・マルヤーナと言っていたか。
余裕のある男だな、とアリナは思いながらショートカットを揺ら
して小首を傾げた。金色の髪と青い瞳、そして白皙の肌はどこから
見ても北国の人間の持ち物で、そんな彼女の勇猛果敢な戦い振りに、
誰もが目を奪われた。
特に戦功の優れた兵士を新聞の記事として扱うのは、戦時下にあ
って国民を鼓舞し、勇気づけるためには必要な事だった。
絶望的な暗闇の中に光を求める。
シス
﹁女性が最前線で銃を持って戦うなど、どんなに勇気のあるロッタ
でもできないことでしょう? ユーティライネン中尉﹂
普段、彼女は部隊では﹁モロッコの恐怖﹂もしくは﹁姉さん﹂と
呼ばれている。そのため﹁中尉﹂などと尊敬の念を込めて言われる
事はそれほど多くはなく、彼女はこそばゆい思いに捕らわれた。
戦場で体をきれいに清める事もできないのは男も女も別はない。
アリナもまた黒く汚れた頬で笑ったままロッキングチェアにくつ
ろぐように背中を預けた。
﹁わたしは、ロッタじゃありませんから﹂
ロッタではない。
自分は兵士である、と彼女は言った。
﹁ロッタは戦闘に参加しないでしょう? どんなに勇気があっても、
42
彼女らはロッタなのです。わたしは、彼女らとは違ってロッタでは
ありません。最前線で銃をとり、敵を薙ぎ倒し命を奪うのが仕事で
す﹂
まっすぐに記者の男を見つめて、彼女は言った。
﹁⋮⋮ロッタにはいつも感謝しています﹂
静かな言葉。
﹁ロッタとして働いてくれる方達がいるから、我々兵士は敵だけを
見つめていられるのです﹂
ロッタ・スヴァルト協会に感謝を伝えるアリナ・エーヴァのその
言葉に、記者の男は柔らかく笑った。
フィンランドでは、男たちばかりではない。
女たちも子供たちも、ありとあらゆる形で戦っている。
その中で異端な女性の代名詞でもあるアリナ・エーヴァ・ユーテ
ィライネンは一部の女性陣たちからは信仰の対象のようになってい
た。
それほどまでにアリナ・エーヴァ・ユーティライネンという女性
はしなやかに強い。
﹁けれども、どうか真似などしてほしくないのです。わたしは、わ
たしに戦う力があるから戦っているだけ。無謀に銃をとってもそん
なことは意味がないことで、勇気でもありません。直接敵を討つ力
がないのならば、別の戦い方があるはずですから﹂
淡々とアリナが告げれば、ヘイモ・ネストリはメモをとりながら
頷いた。
﹁無謀と、勇気は違う、と?﹂
﹁はい﹂
その言葉の裏に秘められるのは、フィンランドに住む女性たちを
思いやる優しい気持ちだ。
アリナ・エーヴァは彼女らに、言外に伝える。
銃を握って戦う事ができるのは、そういった訓練を自分が受けて
いるからだ、と。
43
誰でも戦えるわけではないのだと。
﹁そういえば、ユーティライネン中尉の弟さんは空軍のパイロット
でしたが、もうすぐ空軍の方でも大規模な作戦が展開されるという
ことですが、それについてどう思われますか?﹂
﹁⋮⋮そうですね、まぁ、弟のことはともかく、空軍のほうのパイ
ロットたちの腕を信じていますから﹂
地上からでは不可能なことも可能だろう。
そして、なによりも空軍の力が、ひいては自分たち陸軍の利益に
もつながる。
﹁弟さんのことは心配じゃありませんか?﹂
﹁心配したところで意味のない事です﹂
仕方がない。
スオミ
彼女の言葉にヘイモ・ネストリは一瞬だけ黙り込んだようだった。
﹁ですが⋮⋮﹂
﹁弟も軍人です。フィンランドのために戦って死ねるなら本望でし
ょう﹂
﹁中尉も、そのようにお考えですか?﹂
﹁もしもそのためにわたしの命が必要なら、喜んで祖国の礎となり
ましょう﹂
祖国のために命を賭けて戦っているのだ。
激戦のさなかに命を落とすかも知れない。
その覚悟はとっくにできていた。
深くロッキングチェアに体を沈めながら、アリナ・エーヴァ・ユ
ーティライネンは言う。とても最前線にいる軍人のそれには見えな
い。
揺り椅子がゆらりと揺れた。
力を抜いて疲弊した体を休めている。
ブーツをはいた足を組んだアリナ・エーヴァに部下のひとりが気
を利かせたのかコーヒーを運んできた。彼女は前線指揮官であった
が、誰よりも勇敢だ。
44
﹁ありがと﹂
礼を述べる彼女はほほえんでから金属製のカップを受け取った。
テーブルの上には分厚い手袋が重ねられておいてある。それを指
先で撫でながらあまり美味ではないコーヒーに唇をつけた。
化粧もしていれば美人なのだが、いかんせんそこは最前線で化粧
で美しく装う事などできるわけもない。どちらかと言えば、他の兵
士たちと同様に薄汚れているほどだ。
そんな彼女の瞳は、どこか切なげで、そして優しげな光をたたえ
シス
ている。
﹁姉さん、取材もいいですが休んでくださいよ。あなたがいないと
始まらない﹂
﹁わたしなんかいなくたって大丈夫でしょ﹂
コーヒーをいれてきた下士官に告げたアリナは人差し指の先で金
髪をかき上げた。
﹁なに言ってんですか、姉さんがいないと俺らが困るんですから﹂
そう言いながら冷めてしまったスープを皿にいれて彼女の前にだ
されて、アリナは机の隅においてあった固いパンをその中につける
ようにして柔らかくすると、顎に力をいれて噛みついた。
戦場で食事がまずいなどと文句を言えるわけもない。
正直なところ、空腹など感じていないが、それは単に神経が興奮
しているだけの事だ。だから、それに騙されてはいけない。
﹁しっかり食って、しっかり寝てくださいよ﹂
﹁はいはい﹂
アーッテラといい、あんたたちといい口うるさいね。
ぼやくように告げた彼女は顔の前で手を振ってから吐息をついた。
﹁取材の続きはまたにしてくれる? 少し休みたい﹂
そう言ってから彼女はロッキングチェアに体を沈めたままで腕を
目の上にあてると瞼を閉じた。
ややしてから控えめな寝息が聞こえてきて、そんな彼女に狙撃兵
の下士官は毛布をかけてやってから、彼女の前のテーブルにある食
45
べかけの乾パンとスープ皿を音も立てずにそっと離した。
﹁隊長はひとりで背負い込んでなんでも頑張っちゃうんで、少しそ
っとしておいてやってください﹂
ヘイモ・ネストリ・マルヤーナにそう語りかけた下士官は、彼に
コーヒーを勧めてからアリナ・エーヴァのテントを出て行った。
眠る彼女は少しだけ疲れた顔をしている。
意識があるときは、味方を鼓舞し、決して疲れた表情など覗かせ
ることがない彼女は、眠っているときだけは本当の素顔を見せる事
ができるのかもしれない。
少なくとも、前線では。
﹁俺は姉さんが一番怖いぞ﹂
世界で一番誰が怖いか、と尋ねられれば、エイノ・イルマリは迷
うことなく﹁姉さんだ﹂と答えるだろう、と思う。
友人にそう言ったのはいつだったろう。
おまえは何歳になっても姉ちゃんが怖いのか、と笑われたのを思
い出した。
怖いものは怖いのだ。
十歳年上の姉は、子供の頃から容赦なく弟に対して暴力を振るっ
た。もちろん、彼が怪我をするようなことにはならなかったが、ど
こからどう見ても普通の女の子とはわけが違った。姉は姉なりに弟
が立派な男の子に育つ事を願っていたのだと、思いたい⋮⋮。
﹁イッル、君の姉さん、コッラーの要所の指揮をとっているんだっ
て?﹂
十二月に入ってからフィンランドの天候は悪化している。
特に、コッラー地方は二週間近く続いている雪の影響で航空支援
もままならない状況が続いていた。もっとも、それは侵攻するソ連
軍も同じことで、フィンランド軍のみがそういった状況に置かれて
いるわけではない。
46
しかし、数の上では圧倒的にフィンランドを上回っているソ連軍
に対して、航空支援が出せないという状況は充分に苛立ちを隠せな
い状況だった。
﹁⋮⋮あぁ﹂
姉︱︱アリナ・エーヴァはコッラー河の要所で防衛戦の指揮を執
っている。
﹁モロッコの恐怖、かぁ⋮⋮、確か、フランスの兵士だったんだっ
けか﹂
モロッコの恐怖。
そう呼ばれる女性、アリナ・エーヴァ・ユーティライネン中尉の
伝説にも似た強さを彼らは一度は耳にする事があった。
﹁今はスオミの軍人だ﹂
フランスの兵士などではない。
訂正するエイノ・イルマリに僚友のパイロットは苦笑した。
﹁コッラーはすごい雪が降り続いてるらしいな﹂
その雪原を、アリナは部下を引き連れて守っている。
どんな思いで雪の中に立っているのだろう。
エイノ・イルマリはそんなことを思った。
﹁心配か?﹂
﹁別に⋮⋮﹂
心配しているわけではない。
溜め息混じりのエイノ・イルマリの言葉に、低く笑い声を上げた。
﹁照れるなよ。この間来てたあれが姉さんだろ?﹂
招集された翌日、彼女は陸軍本部まで訪れてからその足で、エイ
ノ・イルマリの兵舎に現れた。しかもはさみをもって、だ。
﹁結構美人だったじゃないか﹂
﹁俺、姉さんと喧嘩して勝ったことないんだよな﹂
﹁そんなに強いのか﹂
﹁陸戦のプロだからな﹂
紅茶をいれたカップを口に運んで、エイノ・イルマリは窓の外に
47
降り続ける雪を見つめた。
早く雪がやめばいい。
そうすれば、戦闘を続ける陸軍の手助けをしてやることもできる
というのに。
雲が重く垂れ込め、雪が降り続ける中ではそうもいかない。
空軍のパイロットの彼らには、天候まではどうすることもできな
かった。
︱︱姉さん。
祈るように彼は口の中でつぶやいた。
声には出さない。
︱︱どうか、無事でいてほしいと。
天候が良くなって、自分達が大空を飛んでいければ、彼女らの手
助けする事をできるというのに。今のエイノ・イルマリにはそれが
できない。
不意に、彼の手から紅茶の入ったカップが滑り落ちた。
﹁⋮⋮っと﹂
思わず滑ったそれを受け止めようとしたが、それがままならずに
派手な音を立てて床に転がる。
﹁おい、なにしてんだ﹂
言われて、エイノ・イルマリは目をみはる。
﹁イッル?﹂
呆然と、自分の手から滑り落ちたカップと、そして受け止め損ね
た自分の手を交互に見つめて言葉を失っている青年に、僚友のパイ
ロットは手を伸ばした。
﹁おい、大丈夫か?﹂
﹁⋮⋮あ、いや﹂
こぼれ落ちたカップを拾い上げてエイノ・イルマリは頷いてから
溜め息をつくと立ち上がった。
﹁外の空気を吸ってくる﹂
﹁風邪ひくなよ﹂
48
﹁わかってるさ﹂
外の世界はマイナス四〇度だ。けれども、風邪などひくわけがな
い。
扉を押した彼は雪の積もる風景を見つめていた。
﹁姉さん⋮⋮﹂
なにかあったのではないかと、心に積もった不安を振り払うよう
にエイノ・イルマリはかぶりを振ると自分の手のひらを凝視する。
滑り落ちたカップが、姉の命のように感じられてぞっとした。
戦場で誰よりも強い姉が、倒れたのではないかといやな思いに捕
らわれる。
どうか無事でいてほしいと、彼は祈った。
シス
*
﹁姉さん! 失礼します!﹂
怒鳴るような男の声にアリナが飛び起きたのは眠りについてから
数時間がたった頃だった。
﹁どうした﹂
呼び掛けられたのと同時に起き上がって毛布をはねのける。
そうして立ち上がりながら、アリナはきびきびとした動作でテー
ブルの上の手袋を取り上げて両手にはめると、ブーツをはいた足で
踵を鳴らす。
﹁イワンの小隊がどうもあやしげな動きをしています。奇襲の用意
をしているのではないかと副長が﹂
﹁わかった。で、アーッテラは?﹂
﹁シムナと偵察に出ています﹂
そう告げられて、アリナ・エーヴァは眉をひそめた。
﹁⋮⋮急いで、アーッテラとシムナのところへ行って、早まるなと
言ってこい﹂
﹁はっ﹂
49
アリナはコートの上から雪中迷彩を着込んでその上に革のベルト
で機関短銃を背中に背負うように装備した。彼女の指示で集められ
たのは、第六中隊の中の一個小隊だ。小隊長はアールニ・ハロネン
と言うベテランの狙撃手である。すぐにスキーをはいてテントの外
に集まっていた彼らをアリナは見渡すと、顎をしゃくる。
﹁行くぞ﹂
平時よりも言葉使いがきつくなるのは、彼女が事態を重く見てい
る証拠だった。しかし、アリナ・エーヴァのそんな眼差しに臆する
事もなく、彼女の部下は従ってスキーを滑らせた。
時刻は朝の三時にもならない。凍えるほど寒い暗がりの中を、ス
キーをはいて音もなく滑り出した。
まだ雪は降り続いていて、それがアリナを不安にさせる。
そもそも、ヘイヘにも寝ろと言ったはずだ。
苛立たしげに眉をひそめた彼女は、ちらと肩越しに部下達に視線
を投げかけるのだった。
50
6 雪の中の戦闘
どれだけ雪の中を進んだのか。
アリナ・エーヴァが逸る気持ちを抑えながらスキーのストックを
雪上に突き立てる。腰に吊したナイフの重さが彼女を焦らせる。
ごく普通の、一般的な女性だったら背中に機関短銃を背負い重い
ナイフを装備して、さらに歩兵装備をつければ身動きする事もまま
シス
ならないだろう。
﹁姉さん⋮⋮﹂
背後の下士官に呼び掛けられて、アリナは無言で頷いた。
﹁東です﹂
﹁わかってる﹂
タタタと機関掃射の音がかすかに聞こえてくる。
おそらく赤軍のものだろう。間に時折聞こえるのは聞き慣れたモ
シン・ナガンの発砲音だ。
﹁一班はわたしについてこい、二班は東から、三班は西、四班は北、
五班は南から回り込め﹂
散開。
アリナの命令に、男たちが散っていく。
全員がそれぞれに単独でも判断ができる男たちだ。だからアリナ
は短い命令だけを飛ばすだけで、部下たちは彼女の言わんとする事
を理解した。
数名の部下をつれて音もなく雪上を行く彼女の部隊は音を頼りに
進んでいく。
敵はまだ見えない。
やがて薄明かりの中に影が見えた。部下のひとりが、音もなく横
に滑っていくとそのままプーッコと呼ばれるナイフを抜いて背後か
ら赤軍兵士に襲いかかるとそのまま首を掻ききった。
51
獲物
を苦しめずに殺す方法をよく心得
悲鳴すら上げさせない見事な手際だ。
その男も猟師出身で、
ていた。名前をカルヴォネンと言う。
﹁⋮⋮︱︱﹂
カルヴォネンが小さく闇の中で頷くと、アリナは同様にうなずき
を返してみせて辺りに視線をやった。
数人の赤軍兵士が倒れている。
スキー板の先で軽くつついてから死んでいる事を確認すると、彼
女は林の中へと入っていく。
元は何人のソ連兵がいたのだろう。
そんなことを考えた。
対して代わり映えのない林の中を進みながら、最初に敵を倒した
カルヴォネンを見やると、彼は一番先頭を進みながらアリナ・エー
ヴァに手招きをする。彼はコッラーの辺りの出身だった。
地形をよく把握している。
起伏の激しい坂道を越えて丘の上にたどり着くと、下を見下ろす
ような位置になった。林の中で四方を赤軍兵士に囲まれて、シモ・
ヘイヘとユホ・アーッテラが辺りを警戒しながら銃撃戦を繰り広げ
ているのが見えた。
そんな状況ですら、ヘイヘの射撃には迷いが見られない。
そして、そんな赤軍兵士のさらに後方に第十二師団第三十四連隊
第六中隊の四班が散らばっているのが見えた。
数人がアリナらを確認したのか視線を合わせてきた。
行け
ゴー
という合図だ。そしてその合図と同時に、アリ
そんな彼らにアリナは大きく頷いた。
それは、
ナの背後に控えていた熟練のスキーヤーたちも坂に滑り落ちる。
一気に敵との間合いを詰めた。
機関短銃の銃身で赤軍兵士を殴りつけ、突然の襲撃に動揺してい
るところに的確に相手を撃ち抜いていく。更に前方からのみならず
背後から現れた中隊の二波三波に恐怖が広がっていく。
52
銃とナイフを片手にして背後から襲いかかるフィンランド兵。
まるでそれらは、ソ連兵士たちにすればゲリラに襲われるような
気分だったのかもしれない。
ロシア語で悲鳴をあげる男たちに、アリナは無慈悲に銃口を向け
た。
︱︱引き金を引く。
銃撃戦は十数分で終わった。
部隊の兵士たちとは少し離れたところで肉弾戦を繰り広げていた
アリナは、白い息を吐き出しながらスキーをはいた足をとめるとわ
ずかに首を傾げるようにしてアーッテラとヘイヘの方向を見やる。
距離にして十一ヤードほど。
その視界に入ったのは、ヘイヘの背後に迫る男の影だ。
鬼のような形相でサブマシンガンを構えている。
ごくりとアリナは唾液を飲み込んだ。一瞬だけ、彼女の脳裏に先
日奇襲攻撃を仕掛けた際に傷を負ったヴァラントラが浮かぶ。
命こそ無事だったものの、それでも化膿して敗血症にでもなった
ら命に関わる。
﹁⋮⋮っ!﹂
声も立てる事ができずに、アリナは一瞬でククリを抜くと手首を
翻した。
風を切る音が響いて、正確な弾道を描いて赤軍兵士の喉を切り裂
いた。まるで、どこぞのホラー映画かなにかのように、首を真ん中
から切り裂いて頭の重さでそのまま落とす。動脈がちぎれたせいで
鮮血が白い雪の上に吹き出した。そして、赤軍兵士の頭を落とした
ククリナイフはそのままビィンと鈍い音をたてて木の幹に衝き立て
られた。
﹁⋮⋮びっくりさせないでください﹂
数秒の静寂の後にシモ・ヘイヘが告げると、アリナはへなへなと
その場に座り込んだ。緊張の余り寒さはあまり感じていない。
﹁びっくりしたのはこっちだ、馬鹿野郎!﹂
53
思わず怒鳴りつけたアリナ・エーヴァは、鋭く舌打ちすると二人
の男たちを睨み付ける。
﹁だいたいなんだ、わたしはアーッテラについて見張りに行けとは
一言も言ってないぞ。それにアーッテラもなに考えてんだ、ひとり
で先走るな﹂
くどくどと文句を告げる彼女は頭に血が上っているのか言葉が荒
い。
﹁いえ、その、拠点のあたりをイワンがうろうろしていて、つい⋮
⋮﹂
一度は赤軍兵士を追撃して戻ってきたのだが、アリナへの報告を
他の部下に任せて自分はヘイヘが心配だったために赤軍兵の野営地
シス
に戻ってしまったのだとアーッテラは言った。
﹁⋮⋮まぁまぁ、姉さん、お小言はそれくらいにしてやってくださ
いよ﹂
結果オーライじゃないですか。
部下の一人にそう言われてアリナは長く溜め息をつくと顔を手の
ひらで覆ってからうつむいた。
こうしているときの彼女は頭を切り換えているときだった。
﹁⋮⋮︱︱そうだね﹂
長い沈黙の後に、アリナはそれだけ言った。
まだ怒りは治まらないらしい。
命のやりとりをしているのだから、当たり前と言えば当たり前の
事だ。
﹁そうだね、とにかく、わたしに無茶苦茶するなとか言う前に、無
茶苦茶しないでくれ。アーッテラ﹂
ぽん、と彼の肩に彼女が手を置いたその瞬間。
衝撃にアリナの体が浮いた。
土煙が上がって、アリナのギリースーツに降り注ぐ。鋭く鈍い音
に瞠目した彼女は数秒後、舞い上がった土煙と共に地面に倒れ込ん
だ。
54
咄嗟にアーッテラはアリナの体を腕に抱き込むとそのまま体を横
倒しにして衝撃を殺す。
﹁迫撃砲だ⋮⋮っ!﹂
誰かが叫んだ。
ちょうど、赤軍兵士が撃っただろう迫撃砲がピンポイントにアリ
ナ・エーヴァのすぐ近くに着弾したのだ。
おそらく、指揮官の彼女を狙ったのだろう。
しかし、命中精度がそれほど良くはない迫撃砲という武器の特徴
と、夜間という現場の状況、そして、射手の熟練度の関係で命中せ
ずにすんだのだった。
そんなものがあたれば、いくらモロッコの恐怖と呼ばれるアリナ・
シス
エーヴァだとて命はない。
﹁姉さん! 大丈夫ですか!﹂
アーッテラが大声で呼び掛けるが腕の中の彼女は反応がない。
慌てた様子で周囲を見渡すと、シモ・ヘイヘはモシン・ナガンを
片手にスキーで滑り出しているところだった。
迫撃砲の射手を追跡しているのだろう。
数秒してからライフルの発射音が数発聞こえてきて、そうしてよ
うやく辺りは静かになった。
副長のアーッテラが首筋に指先をあてて彼女の脈を確認すると、
確かにアリナの心臓は脈を打っていて彼を安堵させる。
﹁⋮⋮姉さんは﹂
周囲に隊員たちが集まってきた。
﹁気を失ってるだけだ﹂
眉を寄せたままでつぶやいた彼は、周囲の赤軍兵士たちが全員死
んでいる事を確認してから装備を隊の別の人間に手渡すとアリナを
その背中に背負う。
﹁戻るぞ﹂
短く彼は告げた。
そして、隊員たちも何も言わない。
55
ただ、アリナ・エーヴァを背負っているユホ・アーッテラを見つ
めるばかりだった。
56
7 予兆
ロッキングチェアが揺れる。
どうやら寝返りをうった反動でお気に入りのロッキングチェアが
大きく揺れたようだ。ぼんやりと目を開いてから彼女は自分の額に
違和感を感じて手のひらで探る。
布の感触に現状を確認した。
どれだけ意識を失っていたのかはわからないが、意識を失う前に
砲撃の音を聞いて、そして全身に衝撃を受けたと思ったらそのまま
意識が途切れたのだ。
不覚だ、と思った。
しかし、ヘルメットもしていなかったというのに傷が包帯程度で
済んでいることの方が奇跡的だ。
自分の強運に苦笑いしながら、体を起こす。
もっとも、シモ・ヘイヘだけをつれて二人だけで赤軍の奇襲部隊
の偵察に向かったユホ・アーッテラが悪いのだ。
テントの外はひどく静かで風の鳴る音しか聞こえない。
雪はいつやむのだろう。
雪が音を吸収して、静けさに拍車をかけている。
﹁冬将軍に助けられたな⋮⋮﹂
アリナは独白する。
少なくとも、ソ連の赤軍など素人の集まりだ。熟練した兵士たち
で構成されているフィンランド兵の敵ではない。
しかし、物量差だけはどうにも頭が痛くなる。
手持ちの武器だけで戦うしかないのだ。
テーブルの上には血糊の拭われたククリが置かれている。
﹁目が覚めましたか?﹂
聞き慣れた声がテント内に響いて、アリナは瞳だけを動かして声
57
の主を見やる。どこか機嫌悪そうな眼差しになるのはやむを得ない
だろう。
﹁そんな顔しないでください﹂
困ったように彼が笑っていた。
﹁アーッテラ﹂
﹁なんでしょう﹂
﹁結果的におまえたちが助かったから良かったようなもんだ。もう
少し考えて行動しろ。わかったな。先走りすぎると援護も間に合わ
ないぞ﹂
語気が荒くなる。
思い出すだけで不愉快な気分にさせられて、彼女はロッキングチ
ェアの肘掛けに腕を預けると目を閉じてゆらりと揺れる。
自分の気持ちを整理するときにするアリナ・エーヴァの動作の一
つだ。
彼女は前線指揮官の一人として意図的に冷静さを取り戻すことが
できる。決して感情だけで物事を判断するような女性ではない。
そこが、女性士官でありながら多くの兵士や下士官を惹きつける
一因だったのかもしれない。
シス
﹁シムナは無事か?﹂
﹁えぇ、無事です。姉さんが間に合わせてくれましたので﹂
﹁そりゃ良かった。本当に、銃声が聞こえたときはどうなることか
と思ったよ﹂
やれやれと溜め息をつく彼女は指先で頭に巻かれた包帯を嬲りな
シス
がら肩をすくめる。
﹁姉さんの傷も大したことないそうです﹂
﹁だろうね、それほど痛くないし﹂
なによりも迫撃砲が直撃したわけではない。
﹁耳は大丈夫ですか?﹂
﹁聞こえてるよ、少しぼーっとするけどね﹂
それで、とアリナ・エーヴァは言葉を続けた。
58
﹁イワンの動きはどうなってる? それにわたしは何時間寝てた?﹂
﹁イワンは明け方に奇襲部隊を壊滅させましたので、現在小康状態
を保っています。それと隊長が寝てたのは五時間ほどです。でも、
丁度良い休息になったんじゃないですか?﹂
しれっとして返事をするアーッテラに、渋面を向けるが結局何も
言わなかったのは、確かに彼の言葉通り、体を充分に休めることが
できたためだ。
たとえ意識を失っていたとしても、危機的状況になればアーッテ
ラは彼女をたたき起こすだろうという絶対の信頼関係がふたりの間
には築かれている。
﹁雪は、まだやまないの?﹂
﹁もう十日になりますね﹂
ソ連軍の兵士たちだってそろそろ限界のはずだ。
彼らは豪雪に慣れていない。スキーも履かずに雪の中を歩けば、
それだけ機動力は低下するし、戦車などの機甲部隊も同じことだっ
た。
なによりも消耗が激しいはずだ。
それはフィンランド国防軍の面々がなによりも熟知していること
だ。
﹁雪がやめば、空からの支援も見込めるだろうに⋮⋮﹂
﹁激戦区に限りますよ、それは﹂
﹁そりゃそうだけどさ。別にわたしはコッラーを支援してほしいな
んて一言も言ってない﹂
ばっさりと切り捨てるように告げた彼女の瞳は、女性のそれとは
思えないほど物騒な光をたたえている。
これが先ほどまで意識を失って揺り椅子に揺られていた女性なの
かと思えるほどだ。
﹁航空支援なんてなくたってなんとかしてみせるさ﹂
それが陸戦のプロとしてのプライドだ。
平野部とは異なり、フィンランドは森林が多い。その中でゲリラ
59
戦を展開すれば充分な戦果を期待できた。
﹁楽しそうですね﹂
呆れたようなアーッテラの言葉に、アリナは唇の端を引き上げて
からにやりと笑った。それは麗しい貴婦人の笑みなどではなく、百
戦錬磨の兵士の笑みだ。
けれど、彼女は古参兵でありながら、決して敵も味方も過大評価
もしなければ過小評価もしない。常にそこにある戦力を的確に分析
し、敵の虚をつく戦い方が可能な前線指揮官だ。だからこそ、彼女
の部隊の隊員たちはそんな彼女に無類の信頼を寄せている。
﹁ま、こういうときじゃないとゆっくり休めないからね。あんたた
ちも充分休んでおきなよ﹂
言いながら彼女は机の上に広げられた地図を見つめている。
なにを考えているのだろうか。
﹁タルヴェラ大佐の戦闘団が、イワンの一三九狙撃兵師団を返り討
ちにして東にむかっているらしいよ﹂
﹁⋮⋮ふむ、快進撃ですな﹂
﹁大佐は、独立戦争時代からの辣腕の指揮官だからね。わたしなん
て足元にも及ばない﹂
﹁そうですか? やってみたら案外なかなかいけるんじゃないです
かね﹂
勇猛果敢な彼女だ。
全隊の指揮もそれなりにこなせるのではないかともアーッテラは
思うが、彼女は軽くかぶりを振った。
﹁無理無理、協調性ないし﹂
どうにも命令されることは好きではないし、人に自分の意志を伝
えることも苦手だ。だから彼女は兵隊をやっているのだ。
中隊指揮官とは言っても、実際の所、戦闘員として頭数に入って
いるのだから、指揮官とは言い難いかも知れない。
第四軍団の側面を掩護するのは第十六歩兵連隊と野戦補充大隊か
ら急遽編成されたパーヴォ・タルヴェラ大佐の﹁タルヴェラ戦闘団﹂
60
で一種の独立戦闘部隊である。彼らは十二月十四日から十五日にか
けてソ連第八軍の一三九狙撃兵師団を撃破しさらに北東へ進撃して
翌十二月十六日にはマトカイルマヤにまで到達。さらに進撃を続け
ながら一三九狙撃兵師団の救援のために駆けつけたソ連赤軍第七五
狙撃兵師団も撃破した。
ちょうどその頃天候も回復し、フィンランド空軍の戦闘機隊が出
撃を可能とした。
フィンランド空軍の戦闘機は、他の国の戦闘機とは異なり、雪上
フォッケル
でも滑走、離陸できるように脚にスキーを履いている。
現在の主力戦闘機はフォッカーD.XXIでこれらは三六機あま
りしかなかった。
﹁航空支援はいりませんか?﹂
﹁コッラより、もっと危ない戦線があるならそっちに回すのが当た
り前だ﹂
冷たいほど冷静に言い放った彼女に、アーッテラは思わず無言で
頷いた。
確かに、自分達の相手は八万人に上る赤軍だ。
しかし不思議なもので、アリナ・エーヴァ・ユーティライネンが
﹁大丈夫﹂と言うと大丈夫な気がしてくるから、彼も相当彼女に毒
されていたのかも知れない。
﹁そんなものなくたって、どうとでもしてみせる⋮⋮﹂
陸戦のプロとして彼女は固く誓った。
テントからコートを翻して出てきたアリナ・エーヴァの姿に中隊
の隊員たちは一様にほっとした目を向けた。
アリナ・エーヴァという﹁女性﹂が無事だったからではない。
アリナ・エーヴァという﹁兵士﹂が無事だったからだ。
彼女の存在は中隊にとってはとても大きなもので、例えるならば
面倒見の良い父親か母親のようだ。
﹁無事でしたか﹂
61
静かに寡黙なはずの兵士︱︱シモ・ヘイヘが言った。
﹁当たり前だ、あの程度で死んだら洒落にならん﹂
わざとらしく唇をへの字に曲げたアリナにヘイヘは苦笑した。目
の前の百戦錬磨の女性は、女性だというのに敵軍の喉を掻き切るこ
とも厭わなければ、頭部を蜂の巣にすることも厭わない。
まさしく鬼神のように戦う彼女に、男たちはぞっとすらする。
﹁雪がおさまってきたね⋮⋮﹂
冬将軍はその手を緩めつつある。
もっとも、本格的な冬はまだまだこれからではあるが。雪がおさ
まれば、激戦区への航空支援も可能だろう。そうすれば、激戦を繰
り広げているトルヴァヤルヴィ、もしくはスオムッサルミへの地上
支援を期待できる。
﹁ま、どうでもいいけど﹂
ぽつりと独り言でもつぶやくように言った彼女に対して、横を歩
いていたアーッテラが視線をちらりとよこしてくる。
﹁なにがどうでもいいんですか?﹂
﹁なんでもない﹂
﹁⋮⋮そうですか﹂
アリナ・エーヴァが語る気がない以上、どんなに問い詰めたとこ
ろで無駄なことを知っているユホ・アーッテラはそれ以上の追求は
せずに溜め息混じりの息を吐き出した。
﹁雪がやむのは嬉しいですが、イワンも元気になるのが厄介ですな﹂
﹁⋮⋮そうだね﹂
そのまま雪に埋没しててくれると楽でいいんだけど。
付け加えるようにつぶやいた彼女の言っている事は、あまりにも
残酷でアーッテラはかすかに片目をすがめるが、当のアリナ・エー
ヴァ・ユーティライネンという女性士官はそんなことも意に介して
はいないようだった。
顎に指を当てたままで考え込んでいる上官の横顔に、アーッテラ
は肩に機関短銃を背負いながら首を巡らせた。
62
塹壕には見張りについている歩哨たちが視線を巡らせて辺りを警
戒している。
コッラー川。
その後ろには、フィンランド軍の総司令部や、首都ヘルシンキ、
陸の要所の一つカレリア地峡やフィンランド空軍の戦闘機隊を擁す
るインモラ空港など国防において重要な拠点が多い。
だからこそ、コッラー川は必ずや守り通さなければならない。
どんなに被害が大きくなるのだとしても。
﹁怖くはありませんか?﹂
静かに、静寂の中を滑るようにアーッテラが問いかけると、アリ
ナは視線だけを動かして自分の補佐役である副長を見やった。
﹁コッラは絶対に守らなければならない。ですが、アカの奴らはた
たいてもたたいても沸いて出てくる。まるで亡霊かなにかを相手に
しているような気分になります﹂
コッラー川というその場所を守り通さなければならないというこ
とはわかっている。けれども、それを一個師団でできるものだろう
か。
相手はその上一個軍だ⋮⋮。
﹁ユホちゃん。あんまり難しいこと考えるとはげるよ﹂
深刻な顔をしているアーッテラに、アリナ・エーヴァは軽い口調
で応じた。
まるで冗談でも言っているような雰囲気だ。
﹁殺すか殺されるかっていうときに、他の戦線の心配なんかするだ
け無駄だよ。とりあえず、自分が生き残ることだけ考えればいい。
後ろに将軍がいるから、とか、街で家族が待ってるから、とか、そ
ういうこと考えるのは二の次にしたほうがいい﹂
毛皮の帽子を包帯の巻かれた上からかぶって、彼女はひらひらと
歩哨をしている狙撃手の男に手を振った。
どこまでも緊張感に欠けているのが彼女らしいと言えば彼女らし
い。
63
﹁弟さんのこととか、心配になりませんか?﹂
尋ねた彼に、彼女は肩をすくめただけで特になにかを告げるわけ
でもなく、補給担当の兵士からスキー板とストックを手渡されて肩
にたてかけた。
﹁さて、イワンも混乱してるだろうし、そろそろ行こうか﹂
﹁全員招集しますか?﹂
﹁⋮⋮どうしようか﹂
考え込む素振りを見せてから、彼女は手袋をはめた手で地図を開
いた。
﹁アーッテラは、奴らがどの辺りに展開していると思う?﹂
シス
﹁そうですね、まぁ、単純に考えれば丘を越えたこの林の奥だと思
われますが、姉さんの見解は?﹂
﹁この林の、この辺りだとは思うけど、その奥って確か対戦車用の
罠があったよね?﹂
﹁そういえば、戦車戦を想定して必死で作りましたな﹂
広大な湖沼地帯と、森林に覆われたフィンランドの土地は、その
まま自然の要塞だ。機械化師団を投入するならば、ベツアモの上か
ら入るか、もしくはレニングラードにもより近いカレリア地峡の細
い回廊を通るという選択しかない。
長い地上の国境のすぐ脇には、マンネルヘイム線と呼ばれる自然
を最大限に利用した防衛線がしかれているため、そこからは陸から
の侵攻は容易ではない。
そう言った意味ではフィンランド側の防衛戦というのはそれなり
にやりやすかったが、だからといって仕事が楽になるわけでもない。
事実、こうして難所の攻略のために赤軍は八万人の大部隊を差し
向けている。
﹁きっと、アカの奴らには一個軍なんてなんでもない数字なんでし
ょうなぁ﹂
地図を覗き込みながら溜め息をついたアーッテラに、アリナも頷
いてから眼を細めると黙り込んで考えに沈んでいる。
64
﹁ここに何人残しておけばいいと思う?﹂
﹁そうですねぇ、でも、他の連中もいるから中隊全員で出ても問題
ないと思いますが。ただ、雪もやみそうですからね、奴らも元気に
なることを考えると犠牲は無視できないでしょうね﹂
﹁あんまり死なれると困るんだよね⋮⋮﹂
﹁そうですね﹂
ただでさえ少数精鋭なのだ。
赤軍の兵士は叩いても叩いても余剰兵力を持っているからいいだ
ろうが、フィンランド軍はそうではない。
最初から押しつぶされそうなほどぎりぎりの数で戦っている。
たまたま冬将軍を味方につけられたという幸運に見舞われている
に過ぎない。
そうして、奇襲を仕掛けながら戦線の維持を図り十二月も半ばを
過ぎた頃、アリナは塹壕の中でくつろぎながら冷たい土に耳を押し
つけて目を閉じた。
﹁風邪ひきますよ、中尉﹂
﹁ひくわけないでしょ﹂
こんなところでフィンランド軍の将校が﹁風邪をひいた﹂など笑
い話にもならない。北欧の寒さに北欧の人間が慣れ親しんでいなく
てどうするというのか。
﹁どうしたんです?﹂
アーッテラの声に、アリナは体を起こすと肩にたてかけていた機
関短銃を革のベルトで背負い直してからすっくと立ち上がる。
﹁ちょっと神経を休めてただけだから気にしなくて良い﹂
﹁そうですか?﹂
本当にそんなくだらない理由なのだろうか。
アーッテラが勘ぐるが、アリナ・エーヴァはそんな彼の眼差しに
も動じない。
毎日のように奇襲攻撃をしかけて、毎日のように鹵獲兵器を手に
入れる。少数精鋭で移動して、兵力は最大限に温存した。
65
そうすることで部隊は代わる代わる休息を取ることができたため、
アリナの中隊はそれなりに士気が持続していた。
どんなに寒さに慣れているフィンランド軍とは言え、やはり極寒
の中での作戦は体力と気力を消耗するものだ。コッラー川の西に抜
けられれば後がないとわかっているからこそ、兵士たちは気力だけ
で戦線を支えている。
ごう、と音が空の上から響いた。
フィンランド空軍の古い複葉機が飛んでいくのが遠目に見えた。
﹁ブルドッグですね﹂
ブリステル・ブルドッグ。
一九三〇年代初頭のイギリス空軍の主力機だが、十年たった今で
もフィンランドでは前線を飛ぶ戦闘機の一端として運用されている。
ちなみに本国のイギリスではすでに引退してホーカー・ハリケーン
にその座を明け渡した。
フォッケル
﹁あんなんでツポレフとかI−16に勝てるのかね﹂
﹁⋮⋮一応フォッカーDもあるでしょう?﹂
冷静に分析するアリナに、アーッテラがフォローをいれれば、上
官である女性はしかめつらしい顔をしたままで鼻を鳴らす。
﹁空戦でスピードが劣るってことは問題だと思うけど﹂
もっとも偵察だけならばなんとかなるかもしれない。
陸軍の人間であるアリナ・エーヴァは空軍のパイロットたちの熟
練度をあまりよく理解していない。
風の噂では弟のエイノ・イルマリの操縦の手腕もなかなかのもの
であると聞いたことはあったが、それでも、弟だからこそ過大評価
して、噂をそのままに受け入れる気にもなれない。
どういうわけか、彼女はエイノ・イルマリにはひどく厳しい面が
あって、優秀だと言われても本気で信じてはいない様子だった。
﹁戦場も知らないひよっこ﹂
それがエイノ・イルマリに対するアリナの評価だ。
﹁わたし、空戦やってる下で戦闘するの嫌いなんだよね﹂
66
﹁そりゃ誰でも嫌いだと思いますが⋮⋮、爆弾降ってくるし﹂
﹁それは空戦じゃないでしょ﹂
爆撃は空戦じゃない、と言い切った彼女に対してアーッテラは﹁
はぁ﹂と気のない返事をした。
確かに上空で空戦をしているとありとあらゆるものが降ってくる。
うっかり当たれば大被害だ。
﹁似たようなもんじゃないですか?﹂
﹁そうかな? だって、爆撃機のお仕事は地上を狙うことで戦闘機
のお仕事は制空権の取り合いでしょ?﹂
制空権を制した側が戦場を制する。
ルフトヴァッフェ
九月から十月に行われたドイツとソ連らによるポーランド侵攻が
そうだったように。
ドイツ軍は圧倒的なまでにドイツ空軍の戦闘機、爆撃機を投入し
て地上作戦を最大限に支援して、約一ヶ月に及ぶ戦闘の末、あっと
いう間にポーランド第二共和国は陥落して地図の上からその国が消
えた。
フィンランドの首脳陣のみならず、国民もそれを見てきている。
だからこそソ連の暴挙を受け入れるわけにはいかないのだ。
爆撃機の仕事と、戦闘機に仕事は似て非なるもの、だと、アリナ
は思っていた。
﹁とにかく、そろそろ奴らも本気でこっちを潰そうとしてくるだろ
うから、気合い入れ直さないとね﹂
胸の前で、パンッと右の拳を左手の平に打ち付けて、彼女が笑う。
天候が回復した。
それはフィンランドの兵士たちにとっても都合の良いことだった
が、逆もまた同じことだ。この機に乗じて、赤軍は総攻撃を仕掛け
てくるだろう。
それは容易に想像できて、アーッテラも無言のままで頷いた。
67
8 遊撃戦への序曲
フィンランドの軍は少数で動き神出鬼没だ。
オイルすら凍り付くような酷寒の世界。
﹁でも、去年よりは暖かいね﹂
機嫌良さそうに首を傾げたアリナは、ショートカットの金髪を揺
タフ
ですね﹂
らしながら、体を温めるようにその辺をスキーで滑っている。
﹁
呆れたように上官に告げるのはアーッテラだ。
﹁⋮⋮じゃないとやってられない﹂
唇の端でにやりと笑う。
彼女にしては異様な沈黙がその前に続いていた。
戦闘狂。
時にはそう呼び習わされることすらある彼女。
モロッコの恐怖、とも、ただ単に﹁恐怖﹂と呼ばれることもある。
女性でありながらそんな異名を持つと言うことに対して、なにも思
わないのだろうか。
そんなことをアーッテラが考えはじめたころに、アリナ・エーヴ
ァが副隊長の男の名前を呼び掛けた。
﹁アーッテラ﹂
﹁なんでしょう?﹂
﹁⋮⋮何人死んだ?﹂ ﹁⋮⋮は?﹂
﹁今まで、うちの中隊は何人死んだ?﹂
彼女の部隊に配置された隊員たちは約九十名。補充兵たちをいれ
れば百人を越える。一般的な中隊の規模にすれば小さなものだ。
フィンランドは小国なのだ。
やむを得ない。
68
しかし、いくらなんでも、現状を全くの犠牲もなしに攻略するこ
となど不可能だった。いくら、指揮官であるアリナ・エーヴァが歴
戦の猛者であったとしても決して犠牲は免れない。
﹁確か⋮⋮﹂
﹁もう、八人死んでる。怪我して動けないのが二十人。早く蹴りを
つけないと、こっちが消耗戦に引きずり込まれるばっかりだ⋮⋮!﹂
吐き捨てるように言った彼女は、けれども冷静さは失ってはいな
い。きつそうに見える青い瞳をまたたかせた彼女は、舌打ちをして
から中空を睨み付けた。
確かに、状況は決して良くはない。
けれども一兵士でしかない彼らにはどうすることもできないし、
ましてや押し寄せるソ連軍の兵士たちをどうしようもない。
部隊内の死者が八人ですんでいる、というのは奇跡的なことかも
しれなかったが、それでも持ち駒を削られていくのは、指揮官であ
るアリナにとっては厳しい。
﹁ですが、姉さんは絶望なんてしていないんでしょう?﹂
すた
﹁当たり前だ、あんな鈍くさいイワン共を押し返せなかったなんて
ことになったら、モロッコの恐怖の名前が廃る﹂
眉をひそめてそう言った彼女は、スキーのストックで軽くアーッ
テラをつついた。
﹁イワンの奴らが、タルヴェラ大佐とシーラスヴォ大佐に振り回さ
れてる間に、こっちも総攻撃をかけるそうだよ﹂
﹁⋮⋮この状況下で、ですか?﹂
フィンランド軍の損害も馬鹿にならないほど大きくなっている。
簡単に言えばいつ戦線が崩壊してもおかしくはない戦闘。快進撃
を続けるタルヴェラ戦闘団にしろ、シーラスヴォ大佐の率いる第九
師団にしてもそうだ。
コッラー河の戦線だとて予断を許さない。
﹁うん、混乱しているうちに、敵を分断してモッティに追い込む﹂
﹁なるほど﹂
69
﹁ティッティネン中佐がー⋮⋮﹂
﹁え?﹂
ふと、アリナは間の抜けた声を放った。
それは、今までの深刻な話しをしていたときの声とはあまりにも
かけ離れていて、思わず耳を疑ったのはアーッテラだ。
ヴィッレ・ティッティネンは、アリナの直属の上司に当たる。一
応、彼女とティッティネンの間には第二大隊隊長を務めるカール・
マグヌス・グンナス・エーミル・フォン・ハールトマン陸軍少佐が
いるが、余りにもアリナとフォン・ハールトマンが犬猿の仲である
ため、実質的に命令を下しているのは連隊長のティッティネンであ
る。その階級は中佐で、質実剛健な男だ。
ってさ﹂
に気をつけるんです?﹂
気をつけろ
なに
﹁⋮⋮
﹁
アリナ・エーヴァがなにを言っているのか、本気で理解できなか
ったユホ・アーッテラが問い返すと口角をつり上げて三十代半ばの
女性指揮官は笑った。
﹁わたしが女だから、イワン共に気をつけろだと﹂
その手
の心配ですか﹂
鼻から息を抜いた彼女は、地図を見つめたままで身じろぎもしな
い。
﹁あぁ、
中隊の指揮官二人が手元に広げた地図を見下ろして何事か言葉を
交わしている様子に、陣地にいる兵士たちがちらちらと視線を投げ
てくる。
気のない返事を返しながら、アーッテラはやれやれと肩をすくめ
た。
心配などするだけ無駄だろうに。
なにせ、片やは有名な﹁モロッコの恐怖﹂だ。
金色のショートカットは帽子と包帯にほとんど覆われて見えない
が、鼻筋の通ったすっきりとしたきつめの美人は、どこか無邪気な
印象すら受けた。
70
シス
﹁でも、姉さんこう言っちゃなんですが、
女の子
ってのはもっ
とこうかよわくて守ってあげたくなるような子のことを言うんじゃ
ないんですかね?﹂
聞きようによっては余りにも失礼な物言いだが、アーッテラの言
葉にアリナ・エーヴァは機嫌を悪くする様子もなく大きく頷いた。
﹁そうそう。わたしもね、中佐に言ったんだよ。どうせ、イワンの
奴らはわたしみたいなムキムキの女はいやだろうし、なにより年寄
りすぎるからご免被ると思いますよってね﹂
﹁そしたらなんと?﹂
ヴィッレ・ティッティネン相手にそんな冗談めいた言葉を返すア
リナが容易に想像できてしまったアーッテラが苦笑すると、目の前
の全軍唯一の女性士官は大袈裟に肩をすくめてから溜め息をついて
みせた。
﹁俺は本気で心配してんだぞ、この馬っ鹿もーん! って怒られた
よ﹂
くすくすと笑い出したアリナに、アーッテラもつられて笑い出す。
そもそも、最前線とは言え、アリナが駐屯する陣地まで入り込む
にはまず歩哨たちの見張りをしている塹壕を突破しなければならな
いのだが、﹁狙撃兵﹂と呼ばれていない者たちの中にも銃の腕に秀
で、視力の良い者が多いため、そこを突破して曰く﹁女﹂であるア
リナの元をピンポイントで襲うことなどまず不可能だったし、戦場
でひとりになったところを狙ったところで、彼女に組み伏せられる
か、頑強なククリナイフで切り裂かれるか、サブマシンガンで銃弾
の雨をお見舞いされるかのどれかである。
﹁ですが、それ、中佐をおちょくった姉さんのほうが悪いんじゃな
いですか?﹂
声を殺して笑っているアーッテラに、アリナ・エーヴァは﹁まー
ね﹂とだけ言ってから、真面目な表情に戻った。
﹁⋮⋮心配してくれるのはありがたいけどさ、心配なんかするだけ
無駄なんだよ。わたしは兵隊だからね﹂
71
シス
﹁中佐は、姉さんを失いたくないんだと思いますよ﹂
笑いを納めながらそう言ったアーッテラは、勇猛果敢な女性指揮
官を見つめてからまじめくさった声で告げてやれば、アリナは口元
だけでかすかに笑う。
﹁買いかぶりもいいところだ﹂
﹁怪我したことは黙っておかないとうるさそうですね﹂
﹁そうだね﹂
ふたりの会話はまるで戦場にいるそれとは思えないほど気軽なも
ので、聞いている者がいるとすれば平時と錯覚するかとさえ思われ
る。
けれど、そうではない。
そこは最前線だ。
﹁⋮⋮そういえば、姉さん。他の連中は順番に休めてるからいいで
すけど、総攻撃の準備にはいる前にサウナでも入って一回しっかり
休んでくださいよ﹂
﹁大丈夫だよ、そんなに心配しなくたって﹂
女性でありながら、体力は兵卒や下士官の男たちとは段違いの彼
女はいつも余裕綽々とした顔をしている。
時折、疲れを隠しているのではないかとアーッテラは勘ぐること
すらある。
特定の従卒もつけない彼女はひとりでなんでもできる女性だった。
兵士としても、指揮官としても非常に優秀だ。
﹁冗談ばっかり言ってないで、真面目に聞いてください。あなたに
倒れたら困るのは俺らなんですから﹂
わかりましたね?
まるで小言でも言われたように肩をすくめたアリナはそうしてか
ら、ふと鼻から息を抜くようにして笑った。
﹁わかったわかった、そのうち休むよ﹂
部下たちが自らついてくる指揮官というのは確かにいる。
アリナ・エーヴァ・ユーティライネンという女性指揮官はその中
72
のひとりだ。少々、粗雑なところがあるが、あっけらかんとしてい
て冬の寒さを吹き飛ばすような明るさを持っている。
絶望的にも思える泥沼の戦場を、強い光で照らし出す。 シス
まるでその存在は、冬の北欧に忘れ去れれた太陽のようだ。
﹁姉さん、副長。どうぞ﹂
唐突に、男の声が聞こえたと思ったら彼女らの目の前に金属製の
カップに入れられたスープが突き出された。
普段、仲間内で作っているものと香りが異なる。
突き出されたカップを受け取りながら、アリナが訝しげな表情を
浮かべると狙撃手の男はにやりと笑いながらコートの襟を正すとヘ
ルメットを外した。
鹵獲品の赤軍の薄汚れた制服を身につけている。
﹁ちょっと奴らのところまで行って昼飯もらってきました﹂
ちょっとそこまで、とでも言いたげな彼の言葉にアリナとアーッ
テラは顔を見合わせた。大胆な狙撃手はにやりと笑うと流暢なロシ
ア語を披露する。
﹁へぇ?﹂
温め直されたスープに口をつけながら、アリナは唇の端をつり上
げると青い瞳で男の顔をじっと見つめて笑みを返す。
まるで全てを見透かそうとするかのような彼女の笑みに、狙撃手
の男は肩にライフルを背負い直してから、アリナ・エーヴァの手元
にある地図を指さした。
﹁イワンの野戦炊事所の場所は、こことここ、手の届くところだと
こっちとこっちにもあります。どうします? 姉さん﹂
﹁どうするのかって聞かれたら答えは一つしかないでしょ?﹂
アリナも平然と言葉を返すと、アーッテラを見やった。
﹁小隊長を招集、わたしのテントに十分後だ﹂
履いていたスキーをぬぐとくるりと踵を返す。
誇り高く歩くその後ろ姿に、アーッテラは鋭く敬礼を返すと中隊
の指揮官たちを集めるために歩きだした。
73
9 焦土作戦
コッラー河の西にフィンランド陸軍第十二師団は布陣している。
そして、ソビエト連邦の赤軍第八軍はコッラー河を挟んで東に対峙
していた。戦局は、中央はほとんど動かず、左右の両翼がまるで翼
のように攻めては後退を繰り返していた。
けれども、防ぐフィンランド軍に地の利があるとは言え、決して
優勢であるというわけではなく、まるでじりじりと破滅へと向かっ
て歩いて行くような錯覚にすら襲われる。
なにからなにまで不足している。
どうすればいいか、という自問自答をしても答えなど見えては来
ない。
アリナは行儀悪く脚をテーブルの上に上げて組み合わせたままで
気に入りのロッキングチェアを揺らした。
てか
弾薬も、手榴弾も、無駄にはできない。
手下の兵士たちには使用する武器の手入れだけは怠らないように
と指示してある。いつ、赤軍の兵士たちが攻めてくるのかわからな
いのだから。
脚をテーブルの上にくみ上げたまま両目を閉じている彼女は、テ
ントの外に人の気配を感じて身じろいだ。
シス
その姿はどこからどう見ても、女性らしい恰好とは言い難い。
﹁姉さん、入ります﹂
副官︱︱ユホ・アーッテラの声に、アリナは大きな動作で脚を床
におろすとごつりとブーツの踵の音をたてた。
﹁時間通り。さすがだね﹂
皮肉げな笑いに、各小隊長たちが顔を見合わせる。
テント内にいるのは五名だ。
中隊長アリナ・エーヴァ・ユーティライネン中尉を筆頭に、副官
74
のユホ・アーッテラ少尉。各小隊のサンテリ・ヴォウティライネン
少尉、ヨウコ・ルオッカ少尉、アールニ・ハロネン准尉である。
アリナ・エーヴァは軍役を離れていた期間が五年ほどあるため最
年長で、アーッテラとヴォウティライネン、ルオッカ、ハロネンは
全員が二十代である。もっとも、二十代とは言っても二十代初めか
ら三十歳手前までばらばらだ。
簡易テーブルに地図を広げながら、アリナはぐるりと部下の男た
ちを見渡した。
アリナ・エーヴァに鋭い眼差しを向けられて、三名の小隊長たち
は興味深そうな眼差しを返してみせる。大概、彼女がこんな瞳をす
るときに限って言い出すことはろくでもないことと決まっていた。
しかし、彼らは部下として上官であるユーティライネンを信頼し
て異論の一つもなく作戦に従ってきた。アリナにとってみればまさ
しく理想的な部下たちだ。
もっとも、自分自身は型破りであるのに、部下たちには型どおり
であることを要求する彼女の姿勢は決して褒められたものではない、
のだが、とりあえずアリナ自身もそれを理解していたから救いよう
がないところなのかもしれない。
﹁⋮⋮それで、なに企んでるんです? 姉さん﹂
一同の中で最も階級が低いが、ベテランの狙撃手であり三人の小
隊長の中では最年長にあたるアールニ・ハロネンが無精髭の伸びた
顎を手のひらで撫でながら、灰色の瞳を瞬かせた。
﹁あんたたちにはそれぞれ、小隊を率いて野戦炊飯所を襲撃しても
らう﹂
目標は四ヶ所。
最も奥深い場所はおそらくスキーですすんでも六時間はかかるだ
ろうと思われる。もっとも、往復で十二時間であれば充分に移動の
許容範囲だ。
﹁⋮⋮ほう? で、近いところはうちらがやるとして、ここはどう
するんです? イワンの機甲部隊が道を塞いでるんでしょう?﹂
75
スオミ
問題は最も奥深い林の奥。
フィンランド軍の戦車阻止柵やトーチカの場所は把握しているか
ら問題はない。地形についても湖沼地帯の機甲部隊が通ることがで
きない道も完全に手の内だ。
しかし、敵の機甲部隊が配置されているということは、そこは赤
軍の手中にあると言うことなのだ。
﹁そこで、だ。あんたたちの部隊から、わたしに二人ずつ貸しても
らいたい。人選は任せるからよろしく頼む﹂
﹁⋮⋮八人でそこまで突破するつもりですか?﹂
﹁九人だ﹂
﹁あぁ、シムナですか﹂
彼女の提案を正確にくんで、ハロネンはひとつ頷いた。
野戦炊事所を襲撃すればソビエト連邦の軍隊などどうすることも
できる。
腹は減っては戦はできぬ、とは良く言ったものでこの酷寒の世界
で食糧もなく暖もとれなければ緩やかに、けれども確実に死へと行
進していくことになるだろう。
幸いにして、赤軍の使うオイルは零下の世界ではたやすく凍り付
いた。
そこにつけ込む隙があった。
﹁了解、すぐに人選します﹂
二人の会話を黙って聞いていたヴォウティライネンとルオッカも、
ハロネンに倣って敬礼した。
﹁作戦開始時間は?﹂
カクシノッラノッラノッラ
ルオッカが初めて口を開いた。
﹁二〇〇〇﹂
つまり真夜中に近い時間に襲撃するということだ。
最も近い場所でスキーで三、四時間だ。
陣地から近い野戦炊事所を襲撃する部隊はまだいい。アリナ・エ
ーヴァが襲撃するのはスキーで六時間だ。しかも、その道のりは楽
76
なものではない。
シス
﹁作戦開始時間まで準備を頼んだ﹂
﹁はっ、と⋮⋮、姉さん。ところで、具体的な作戦は?﹂
﹁いつもの銃撃戦だ。任せる﹂
作戦、と尋ねられても、アリナが指揮するのは狙撃手部隊だ。
要するに作戦と言ったらそういうことにしかならない。
こういったスキーで往復して仕掛けるような奇襲は、大概戦闘時
間は極めて短い。音もなく敵の背後に忍び寄って蹴散らす。
それだけだ。
卑怯と言われても、それがフィンランドの戦い方なのだ。自軍の
何倍もの大軍を相手にするのだから真っ向からやり合ってもたたき
つぶされるだけ。
﹁ま、苦戦してたら、助けにいってやるから安心しなよ﹂
アリナ・エーヴァはそう言ってからにやりと笑ってみせる。
自分は倍以上の距離がある野戦炊事所を襲撃するつもりだという
のに、助けに来い、ではなく助けに行ってやると来たものだ。
危機感も感じさせないアリナに、男たちは苦笑すると鋭く敬礼を
した。
﹁すぐに用意します﹂
作戦決行まで半日もない。
それまでに、部隊の面々に作戦を頭にたたきこませて準備をしな
ければならない。その上で、自分の部隊が動けて、アリナの元にや
ってもいい兵士を人選しなければならない。
やや面倒で、どちらにしたところで厳しい注文に、しかし男たち
は動じない。
アリナ・エーヴァは彼らを信頼しているのだ。
自分が率いる兵士を適切に選択するだろう、ということを。なら
ば、男たちは彼女の信頼に応えるだけの話しだった。
テントから出て行く男たちを見送って、アリナはロッキングチェ
アに腰をおろすとテーブルの横に立てかけていた機関短銃に指先で
77
触れる。
弾薬は無駄にはできない。
しかし、これから彼女は赤軍の機甲部隊をすり抜けてその奥に配
置された野戦炊事所を狙うのだ。
激戦になるだろう。
﹁⋮⋮損な役回りですね、一番隊員の多い連中に任せれば良かった
んじゃありませんか?﹂
問いかけたのはいつの間にか戻ってきていたアーッテラだった。
﹁いや、いいよ。一番やばいところはわたしがやる。そのほうが、
面倒じゃないからね﹂
信頼していないわけではない。
ただ、最も戦闘に慣れている者でなければ分厚い人間の壁を越え
るのは無理だろう、と彼女は判断しただけだ。そして、彼女の中隊
で最も戦闘に慣れている、と言ったら、彼女自身しかいない。だか
ら彼女は最も作戦遂行率の高い人選をしただけだった。
無慈悲なほど合理的に彼女は判断し、感情を切り捨てる。
﹁まぁ、地獄の底までお供しますよ﹂
﹁楽しみだ﹂
アーッテラの軽口に、やはり軽やかに応じたアリナは地図をたた
みながら、ふんと鼻を鳴らす。
スキーで移動して戦闘する場合、装備は最小限だ。
そうしなければ重さで動けなくなってしまう。
時と場合にもよるが、偵察などをする兵士たちの一部は弾薬ベル
トすら持たないことすらあった。身軽に動けること。それこそが、
フィンランド軍の強さの理由だった。
雪中迷彩の施されたリュックを手にすると、彼女は中の装備を確
認する。実際戦闘に入るときはその辺にリュックを放り出して銃と
ナイフだけで戦うこともしばしばだった。
ガチャリと金属の音が鳴った。
﹁では、俺も準備してきます﹂
78
会釈して彼女の元を去ったユホ・アーッテラは、再び崩れはじめ
た天候にそっと眉をひそめた。
作戦開始時刻に、吹雪にならなければ良いが⋮⋮。
*
ユホ・アーッテラの懸念通り天候は急速に悪化した。
テントから出てきたアリナ・エーヴァは吹きすさぶ雪に、かすか
に目を細めるが特になにも口にはしない。
﹁⋮⋮作戦開始を遅らせますか?﹂
慎重を期して問いかける。しかし、問いかけたアーッテラも彼女
の答えなど知っているから、作戦の変更など期待もしていない。要
するに、部下たちの手前、一応聞いただけだ。
﹁いや、このまま行く﹂
﹁了解﹂
時刻は丁度、十九時五十五分。
ヴォウティライネン、ルオッカ、ハロネンの三人の小隊長たちは
薄暗い明かりの下でアリナが手元で広げた地図を覗き込んだ。
最後の確認だ。
これ以降、アリナとは無線以外では連絡がとれなくなる。
﹁ルオッカは南、ヴォウティライネンは北東、ハロネンは北を頼ん
だ。南西はわたしがやる﹂
﹁しかし遠いですな﹂
コッラー川を挟んで南西の野戦炊事所は沼地を挟んだ街道に機甲
部隊が配置されている。そこを大きく迂回しなければならないのだ
が、ソビエト連邦の赤軍第八軍の指揮所が最も近いため、兵士も多
く配置されていた。
アリナの言うところの﹁分厚い人間の壁﹂だった。
﹁ま、なんとかするよ﹂
にたりとアリナ・エーヴァが笑う。
79
獲物を狙う肉食動物のような笑いに、癖のように顎を撫でていた
ハロネンがアリナの青い瞳を見やってから鼻から息を抜いて笑い返
す。
﹁そうじゃないと困るんで﹂
どう考えたって、最も激戦が考えられる地点だ。
モロトフカクテル
機甲部隊など大きく迂回するとしても、武器には物量的な限界が
ある。
全員が、腰に火炎瓶と収束爆弾をひとつずつくくりつけているが、
正直なところ、その程度で充分だとは思えない。
﹁さぁ、パーティーの始まりだ﹂
兵士たちを鼓舞するように彼女は地図をたたみながら、酷寒の空
気の下で唇をつり上げて見せた。
彼女のそんな表情こそが、彼らを安心させるのだ。
︱︱アリナ・エーヴァ・ユーティライネン。
モロッコの恐怖についていけば、自分たちは勝利をつかみ取れる
と、彼らは信じている。そんな部下たちの思いを知っているのだろ
う。アリナは決して、隊員たちの前で弱音も吐かなければ、及び腰
な発言もしない。
シス
ひとかけらの疲労さえ感じさせずに、彼女はそこに立っている。
﹁姉さん﹂
静かに口を開いたのはシモ・ヘイヘだ。
﹁どうした?﹂
﹁現地までは、なるべくナイフ格闘に頼るってことでいいですね?﹂
シモ・ヘイヘはサブマシンガンによる白兵戦も得意としているが、
わざと確認したところを見ると、弾薬の節約の確認をしてきたらし
い。
﹁すまないね﹂
軽く応じた上官に、ヘイヘは無言のまま頷くとベルトに吊したナ
イフを確認した。
猟師である彼は、ナイフの扱いにもよく慣れていた。
80
﹁いえ、別に。
標的
が、カモからイワンに変わっただけですか
ら気にしないでください﹂
ただ、静かなほど淡々と告げた上背の低い男に、部隊の男たちは
瞠目して一様に射撃の名手を見つめた。
彼は、特定の小隊には所属しておらず、主に遊撃が専門でほとん
どの戦闘をひとりでこなしていた。
時折、アリナの命令で独自の作戦行動をとっていたようではある
が。
標的が、カモから人間に変わっただけ。
なんという冷酷な言葉だろう。
感情の揺れも感じさせず、言い放った彼は自分を見つめる部隊の
仲間たちを見つめ返してから低く笑った。
﹁俺は、守ると誓ったからな﹂
スオミ
この国を。
フィンランドを、侵略者の手から守ると誓った。
だから、そのためならなんでもできる。
﹁いい覚悟だ﹂
満足げに笑ったアリナはギリースーツの下のコートのポケットに
収まっていた時計を取り出すと時刻を確認する。
ぴったり二十時だ。
﹁さて、行こう﹂
︱︱幸運を。
アリナは三人の小隊長たちに拳を突き出した。
シス
音もなく、四人の拳がつきあわされる。
固い結束だ。
﹁幸運を⋮⋮、姉さん﹂
告げた男たちは、そうして各自の率いる小隊を振り返るとストッ
クを手にした片手を大きく振り上げて、部下たちに指示を出す。
﹁おまえら、行くぞ﹂
こうして作戦は開始された。暗闇の中へと消えていく部下たちを
81
見送ってから、アリナも自分の率いる狙撃手たちを見やった。ユホ・
アーッテラが彼女を見つめ返す。
﹁さぁ、うちらも行こうか﹂
アリナの命令に部下たちの怒号のような雄叫びが響いた。
雪を蹴って滑り出したアリナに、部下たちがついてくる。大量の
雪が降り注ぐ中を、ヒュウヒュウと風が鳴る。
雪に慣れていない森の住人でなければものの数分で白銀の世界へ
と迷い込むだろう。そんな一抹の恐怖すらも感じさせてしまうよう
な雪だ。
こんな雪の中、赤軍の兵士はどうやって凌いでいるのだろうか。
アリナは暗闇の向こうに降り注ぐ雪を見つめながら考え込んだ。
時折磁針を取り出して地図と方位を確認しながら進んでいく。
﹁はぐれる馬鹿はいないな?﹂
短く問いかけたアリナに、男たちは暗闇の中でどっと笑った。
シ
もっとも、どっと笑ったとは言ってもそれほど大きな声ではない。
響くほど大きな声で笑ったら赤軍に居所を知られてしまう。
そんなわけにはいかない。
控えめな笑いは、雪の中へ吸い込まれて消えていった。
ス
﹁イワンじゃあるまいし、そんな奴うちの隊にはいませんよ。姉さ
ん﹂
﹁そうだね﹂
部下たちを振り返ってから、人数を確認した彼女は凍り付きそう
な前髪に手袋をした指先で触れてから、前方に向き直るとつもりは
じめた雪にストックを突き立てる。スキーを履いた足で雪を蹴りつ
けて、アリナは部下たちをひきつれて再び雪の中を進み始めた。
小隊長三人が率いる部隊はすでに戦闘を始めた頃合いだろうか。
雪はますます激しくなっていくばかりで、アリナは苛立たしげに
舌打ちした。雪は嫌いではない。
彼女も、森の民だ。
フィンランドに生まれてフィンランドで育った。
82
シス
﹁姉さん、むかっ腹たてるのもいいですが顔に出てます﹂
﹁別に問題ないでしょ﹂
﹁違いますよ、姉さんがむかついてるとイワンに容赦なくなるのを
心配しているんです﹂
どういう心配だ、とアリナが肩越しにアーッテラに視線を滑らせ
ると、副官の男はかすかに笑う。
﹁言葉通りの意味です﹂
アリナはまるで憂さでも晴らすように、激情のまま冷酷な兵士へ
と変わる。
ユホ・アーッテラには、そんな彼女の姿はまるでただの虐殺者の
ようにも見えたものだ。英雄としての彼女ではなく、虐殺者の顔。
﹁部下たちが退きますんで﹂
﹁別にいいじゃない、それくらい﹂
一騎当千。
それは問題ない。
誰よりも強い猛者。
﹁⋮⋮ま、加減してください﹂
﹁わかったよ﹂
すでに三時間経過している。
今のところ赤軍兵士とは出くわしていない。
アリナ・エーヴァの腰の後ろに吊したククリナイフは重い威圧感
を放っていて、ユホ・アーッテラは彼女の存在に目を細める。
第十二師団第三十四連隊第二大隊第六中隊にとって、このユーテ
ィライネンという女性指揮官はこの上なく大切な存在だった。
彼女の存在そのものが男たちを奮い立たせる。
ストックを手首にぶら下げて、アリナの利き手が動いたと思った
その瞬間だった。腰に下げたククリを音もなく抜くと風を切り裂く
音をたてて中空を飛んだ。
﹁お見事﹂
ブーメランのように飛んだナイフは、そのまま勢いを殺すことも
83
なく数ヤード先の木陰にいた赤軍兵士の背中に衝き立った。
恐らく悲鳴を上げる間すらなかっただろう。
ナイフ格闘の天才だ。
﹁見張りがいたってことは、この辺は赤軍兵士共の巣ってことかね﹂
静かにスキーで死んだ男の傍まで滑り寄るとナイフを抜いて辺り
を見回した。
﹁そろそろ、機甲部隊が展開されている地点かと思われます﹂
﹁ふむ⋮⋮、じゃ、この辺りは沼か﹂
懐中電灯に照らされた地図を見つめた彼女は位置を確認しながら、
磁針を取った。
﹁そういうことになりますね﹂
﹁⋮⋮じゃ、いったん北に進路を取ろうか﹂
﹁承知﹂
さすがにアリナ・エーヴァが強者であっても、機甲部隊を相手に
たった九人で真っ向からやり合おうなどという無謀なことは考えて
いない。
進路を変えたアリナに、付き従う男たちの間に緊張が走る。
すでに時刻は深夜だ。
﹁少し遅れてる﹂
﹁⋮⋮はい﹂
短い中隊長と副長の会話を聞きながら、狙撃手たちは息を飲み込
んだ。
﹁ペースを上げるよ﹂
彼女が指示を下した。
疲労感ももちろんある。しかし、そんなことは言っていられない。
タルヴェラ戦闘団など往復十六時間の移動を経験しているのだ。
往路で六時間など大したものではない。
腰を落として移動の速度を上げたアリナは、目の前の暗闇を睨み
付ける。
静かに確実に侵食していくのは、まるで病原体かなにかのようだ。
84
ソビエト連邦の赤軍という巨人を侵食していく。
ここで、野戦炊事所を破壊できれば、これから行うことになるだ
ろう総攻撃にも余裕ができる。だからこそ、今の彼女らは打てる手
を全て打っていかなければならないのだ。
﹁そういえば、ティッティネン中佐は知ってるんですか? これ﹂
アーッテラが問いかけると、アリナはスピードを緩めることもな
く呟くように言った。
﹁言ったよ﹂
﹁そうですか、良かった﹂
事後報告だったりしたら、また後からなにを言われるかわからな
い。
﹁出発の五分前に﹂
﹁⋮⋮え﹂
﹁これから奇襲に行ってきます、って言って切ったけど﹂
アリナの言葉に、無線機を背負った狙撃兵が肩をすくめてみせた。
﹁返事も聞かずに切ってました、副長﹂
ぬけぬけと副長に告げ口をする部下のひとりをアリナは軽く睨み
付けてから、ふふんと笑ってみせる。もちろん、一方のアーッテラ
は馬鹿でかい溜め息をつくばかりだ。
これでは事後報告となにも変わらないではないか⋮⋮。
﹁勘弁してくださいよ。どうして止めなかったって中佐から怒られ
るのは俺なんですから﹂
﹁いいじゃんいいじゃん、連帯責任連帯責任﹂
にやにやとアリナが笑っている。
毎回アリナに振り回される始末になるアーッテラは、それでも彼
女に付き従うのだ。
﹁今回だけですよ﹂
﹁ありがと﹂
横顔が楽しそうに笑っている。
これから激戦の中へ身を投じようというのに、なんて彼女の表情
85
には余裕があるのだろう。こんな彼女だから安心して兵士たちはつ
いていけるのだ。
背後の狙撃兵たちを振り返ると、予想通り彼らは安心したような
表情で前線指揮官の背中を見つめている。常に自信に満ちあふれて
いる彼女だからついてきているのだ。
﹁そんなユホちゃん、大好き﹂
﹁⋮⋮気持ち悪いこと言わないでください﹂
うんざりと溜め息をついた彼は、肩をすくめてから周囲を見渡し
シス
た。
﹁姉さん、止まって﹂
﹁うん?﹂
﹁⋮⋮あれ、なんですかね﹂
﹁たき火じゃないの?﹂
﹁イワンの見張りでしょうか﹂
遠目にたき火の赤い炎が見える。
赤軍の進路にある村という村はフィンランド軍が焼き払った。そ
れゆえに、赤軍兵士は酷寒のなかで野宿するしかない。
﹁野営だと思うよ﹂
アリナはあっさりとつぶやくと目をこらす。
﹁たぶん、見張りの分隊だろう﹂
分隊︱︱つまり十人程度ということになる。
や
﹁どうします?﹂
﹁殺っちゃおう﹂
﹁了解﹂
静かに音もたてずに、九人の兵士たちはたき火を囲んで凍えてい
る赤軍兵士たちを取り囲んだ。
86
10 襲撃
背後にひっそりと忍び寄る。
雪はますますひどくなるばかりだ。天候はいつ回復するのか。そ
んなことあてにしてばかりでは、フィンランド軍にすら待っている
のは﹁死﹂ばかりだ。
アリナは時計を確認すると、口の中で舌打ちした。
音はしない。
指揮官であるアリナ・エーヴァ・ユーティライネンを含めた九人
はものの数分でたき火を取り囲むようにして凍えて震えている赤軍
の兵士たちを取り囲んだ。
音も立てずに、静かに。
時刻は零時をとっくにまわっている。
雪の中に展開した隊員たちを確認したアリナは、そっとスキーを
脱ぐとナイフを抜いた。彼女の扱うククリはフィンランド特有のナ
イフ︱︱プーッコと比べるとだいぶん大柄で、凶暴だ。
数フィート離れたところから副官のアーッテラが覗うように彼女
を見つめている。
見たところ、ごく普通の歩兵だろうか。
こんなときに、ただの歩兵を見張りに回すというのが赤軍らしい
といえば赤軍らしい。ソビエト連邦の兵士たちは、驚くほど練度が
低くアリナ・エーヴァにとってみればまさに赤子の手をひねるよう
なものだ。
勝負は一瞬で付くと言ってもいいだろう。
いや、勝負が一瞬でつかなくては困るのだ。戦いが長引けば長引
くほど、フィンランド共和国はありとあらゆる意味で劣勢に追い込
まれるのだ。
ユホ・アーッテラの眼差しに、アリナはひとつ頷き返してから雪
87
の降り積もった草むらから躍り出た。
右手には凶悪な印象すら受けるククリナイフを握っている。
驚いてサブマシンガンを手に取ろうとする赤軍兵士の頭をつかむ
と、そのまま後ろにひいて一気に喉を掻き切った。彼女の攻撃が合
図。
彼女の指揮する部隊は、アリナ・エーヴァが躍りかかった瞬間に
行動を開始する。その、最も危険な先駆けを、アリナは自ら切った。
彼女が言うにはそれが最もリスクが少ないからだということだった
が、おそらくそれだけではないのだろうな、とユホ・アーッテラは
思った。
彼女は戦闘狂だ。
戦闘狂、という言葉には語弊があるかもしれない。
けれども、部隊の兵士の中では誰よりもしなやかに強い猛者であ
りながら、実は誰よりも好戦的なのである。
上官であるアリナ・エーヴァのそんなところが、実のところアー
ッテラの心配の種だった。いつか、その好戦的な性格のために身を
滅ぼすのではないだろうか、と。それが、戦場の外であればなんら
問題がないのだが︱︱いやあったとしても、それはアーッテラが気
遣うたぐいのものではない︱︱、少なくとも今、ソビエト連邦相手
の戦争中に彼女が死ぬようなことがあってはならない。
もっとも、それをアーッテラが気遣ったところでどうすることも
できないから、黙って見守るしかないのであるが。
アリナ・エーヴァが赤軍兵士に躍りかかったのを視界の隅で確認
して、アーッテラも目の前の敵にナイフを片手に飛びかかる。雪の
上に転がっている銃はどのみち使い物にならないのはわかっている。
とりあえず、後ほど鹵獲専門の部隊をよこせばいいだけのことで、
今はそんなことを気にしている暇はない。
抵抗もままならないうちに一息に敵の命を奪っていく。
ナイフ格闘も彼らは得意としていた。油断しているところを襲え
ば、銃など使わなくても相手の隙をついて殺害していくことができ
88
た。
たき火の傍におちている手榴弾を、アリナは拾うとピンを抜いた。
混乱している敵の渦中に放り込む。
とにかく全ての判断が速い。
アリナがなにかを投げた、と察したフィンランド兵たちは身の危
険を感じて体を引いた瞬間に数人の赤軍兵士を吹き飛ばした。
﹁投げるなら投げるって言ってくださいよ!﹂
怒ったように怒鳴りつけたアーッテラに、アリナ・エーヴァはに
やりと笑うと目の前の男に突き立てたナイフを引き抜いてから長い
足で蹴り飛ばす。
苦悶の声をあげた男の背中を踏みつぶしてから、少々苦戦してい
る仲間の応援に入る。ひとりであっという間に三人の敵を伸してし
まった。
﹁相変わらずですね﹂
﹁そう?﹂
的確にひとりずつ始末しながら、アリナは副官の顔を流し見る。
血しぶきの飛んだ頬でほほえむ彼女が、なにか悪魔かなにかのよ
うにも見えてユホ・アーッテラ目を細めた。
﹁おっかない人だ﹂
﹁そうでもないでしょ﹂
﹁⋮⋮どうでしょうね﹂
白い頬に映える血しぶきと、それを映し出す赤い炎。そして舞い
散る白い雪。
全てが強いコントラストを生み出していて、アーッテラにはまる
で映画かなにかを見ているような気分にさせられる。
﹁だって、わたしより強い奴なんて山ほどいる﹂
﹁けど、ここには他にいませんよ﹂
軽口の応酬でもするようにアリナとアーッテラが言葉を交わしな
がら、敵を殺していく姿はまるで雪の中に遠足でも訪れたような気
楽さだ。
89
﹁⋮⋮わたしだって急所ぶちぬかれたら生きてられないよ﹂
﹁そりゃそうでしょう、吸血鬼だって急所やられりゃ死ぬんですか
ら﹂
アーッテラが応じれば、吸血鬼と一緒にされたことが面白くなか
ったのか、アリナ・エーヴァは不満げにふんと鼻を鳴らしてから、
大柄な赤軍兵士と格闘しているシモ・ヘイヘに足を向けた。
上背の低いヘイヘには難儀な相手だ。
ナイフでの格闘戦ともなればなおさらである。
雪の上を素早く走り込んで、彼女は一息に間を詰めると大男の後
ろ襟を掴んで引き起こす。部隊をほぼ壊滅状態にされた赤軍兵士は
やぶれかぶれになっているのか、咆哮のような雄叫びをあげるだけ
だ。
無茶苦茶に凍り付いたサブマシンガンを振り回す。
引き金の引けない銃など恐るるに足らない。
ただの鉄の固まりを振り回しているだけだ。
アリナは冷静に大男の首筋にククリの刃を押しつけるとそのま、
力をこめて引いて息の根を止める。
溢れる血を放置して、彼女はシモ・ヘイヘに腕を差し伸べた。
﹁シムナ、大丈夫か?﹂
﹁大丈夫です﹂
すみません。
ヘイヘの言葉に、アリナは彼を引き起こしながらたき火を振り返
る。炎の暖かさにほっとしてしまうのは人間のサガだろう。
しかし、そこで立ち止まっているわけにはいかない。
道行きは半ばを過ぎたばかり。
静寂を取り戻したたき火の傍らで地図を確認しながら、アリナ・
エーヴァはもう一度方位を確認する。
﹁もう少しか﹂
﹁⋮⋮戦車に出くわしたらどうします?﹂
﹁どうせ役に立たないデカ物だ。放っておけばいい﹂
90
フィンランド、ラドガカレリア地方の深夜、凍てついた空気の下
でものの役に立つとは思えない。
もっとも、それでも用心に超したことはないのだが。
全ての戦車が役に立たない、とは思わないほうがいい。
アリナ・エーヴァ・ユーティライネンとユホ・アーッテラが位置
を確認している間に部隊の兵士たちは素早く荷物を背負ってスキー
を履いた。
フィンランドの兵士たちにとってスキーは重要な足だ。
﹁のろのろしてると夜が明ける。すぐ出発だ﹂
休憩などいれる暇もない。
ただ、目的地に向かって行軍するだけだった。
アリナとアーッテラが雪の中を方角を見極めてから、吹雪の中に
進み始めると部下たちもそれに続く。
計算通りであれば、あと二時間ほどで到着する。
体力は問題ない。
いや、問題は大いにあったが、それでも気力でなんとかカバーで
きる範囲だった。そもそも、問題ないのはアリナくらいだ。本来な
らば、女性で、男性に体力的に劣るはずのアリナが部下の男たちよ
りも元気なのだ。
ユホ・アーッテラとしてはこれ以上頭の痛いことはない。有能で
あることについては文句はないが、若い部下たちより元気に飛び回
シス
っている彼女を補佐するのはこの上なく大変だった。
﹁⋮⋮姉さん、元気ですね﹂
呆れたような彼の言葉を、アリナ・エーヴァは聞き流してから、
湖沼地帯を大きく迂回すると林の中を通る道へと出た。その道を越
えて、アリナは再び林の中へと分け入った。
ドイツ軍は雪の森の中に迷い込むことを恐れて、千ヤードと入り
込まないらしい。そして、赤軍も二千ヤードほどしか入り込まない
という。
その表現を借りれば、地の利はフィンランド側にあり森の奥深く
91
にまで分け入ることができるフィンランド兵は彼らにとって脅威と
なるだろう。
やがてアリナらは六時間の行軍の末に、赤軍の野戦炊事所の背後
をとることができた。
相変わらず空からは白い雪が舞い降っており、暗闇の中へとしん
しんと深く降り積もっていく。
雪の中に凍えながら野営する敵たちのなんと哀れなことだろう。
コートも身につけてはいるが、それでもフィンランドの冬は彼ら
にとって厳しいものらしい。アリナはそうして、部下の男たちに頷
いてから、収束爆弾を手にした彼女は野戦炊事所の中央にそれをた
たき込んだ。
同時に激しい銃撃がはじまった。
フィンランド軍の銃は、凍てついた空気の下でも凍り付かずに、
その性能を発揮する。悲鳴と怒号が飛び交う中、銃撃戦が展開され
る。
ほんの三十分ほどで野戦炊事所を殲滅したアリナは、アーッテラ
に頷くと、今度は彼が収束爆弾を野戦炊事車に放り込む。派手な音
が響いて黒煙が上がり、それを確認したアリナは手を振って部下た
ちに合図を送るとスキーをはいた。
撤退の合図だ。
野戦炊事所に壊滅的な打撃を与えられればそれ以上は望まない。
後は、北欧の厳しい冬将軍が赤軍兵士たちをじわじわとなぶり殺
しにしてくれる。背後を振り返りもせずに一目散に撤退するアリナ
の部隊は背後から迫る﹁ウラー!﹂という叫び声と、単発で響く銃
声にも浮き足立つことすらしなかった。
戦闘時間と同じ程度の時間︱︱要するに三十分程度もスキーで滑
れば、銃声も雄叫びも聞こえなくなる。徒歩の歩兵とスキー兵では
機動力は後者に圧倒的な分があった。
いずれにしろ、練度の低い赤軍兵士など、フィンランド軍の敵で
はない。悪天候により哨戒機も飛ばせなければ空爆も行うことがで
92
きない。
フィンランド軍にとって反撃の狼煙をあげるのは今しかない。
数で劣るならば、それを補うすべを選択するしかないのである。
﹁全員無事か?﹂
帰途に入ってから一時間ほどしてからアリナがやっと振り返ると、
ユホ・アーッテラもスキーをはいた足を止めた。
改めて人数を確認する。
﹁シムナがいません﹂
最後尾にいた男が言った。
シムナがいない。
﹁⋮⋮なんだって?﹂
アリナが舌打ちする。
﹁どこではぐれた﹂
思わず辺りを見回して走り出そうとする彼女をアーッテラが止め
る。
﹁落ち着いてください、まず状況の確認を﹂
まだ赤軍の野戦炊事所を襲撃してから帰途に入って一時間だ。大
した距離ではない。しかし吹雪の中をはぐれたのだ。
シス
﹁シムナは腕の良い猟師です。そう簡単にくたばったりしません、
大丈夫です。姉さん﹂
アリナ・エーヴァを落ち着かせるように言葉を使うアーッテラに、
彼女は深く息を吸い込んでから冷たい空気に血が上った頭を冷やそ
うとした。
﹁悪い、大丈夫だ⋮⋮。アーッテラ﹂
片手で顔を覆ってから意識を切り替える。
すぐに彼女の表情はいつもの余裕のあるそれに戻った。
﹁シムナはどこではぐれた?﹂
﹁三十分前までは俺のすぐ後ろにいました﹂
隊列の一番最後にいた男が軽く片手をあげる。
﹁たぶん、この沼地にはいるあたりではぐれたんだと思われます﹂
93
はぐれたのか、それともなんらかの理由で意識的に部隊か離れた
のかどちらかだろう。シモ・ヘイヘには遊撃を任せているため、時
にひとりで行動することもある。それはアリナ自身が彼に命じたこ
とだ。
そして、仮に、彼が意識的に部隊から離れたということはなにか
しらの標的を見つけたということになるのだろう。
そこまで考えてから、アリナは視線を彷徨わせながら背中に背負
った機関短銃の角度を直すと白い息を吐き出した。
﹁探してくる。アーッテラは先に戻っていろ﹂
﹁大丈夫なんですか?﹂
﹁⋮⋮たぶん、大丈夫だ﹂
﹁わかりました﹂
アリナはどこか冷静に状況を計算していることをユホ・アーッテ
ラは知っていた。だから、副官として彼は彼女を信頼する。
﹁無茶はなしですよ﹂
﹁わかってるよ﹂
少数の部隊を率いて滑り出すアーッテラを見送って、アリナも元
来た道を戻る。
ヘイヘを失うわけにはいかなかった。彼の銃の腕は、これからの
戦闘に必要不可欠なのだから。
94
11 激戦区への予見
﹁シムナ﹂
静かな上官の声にヘイヘは瞳だけを動かして肩越しに声の主を見
アンテークスィ
つめた。
﹁⋮⋮すいません﹂
リュッシャ
﹁状況は?﹂
ヨー
﹁たぶん、ソ連軍のスキー兵ですね﹂
﹁ふーん⋮⋮﹂
雪の中に白いギリースーツを身につけて伏せている彼は、味方で
すらも危うく見逃しそうな状況だ。
腰を屈めて注意深く片手でスキー板を外してから、アリナは背中
に背負っていた機関短銃を構える。
彼女の持つ機関短銃はヘイヘの狙撃銃のように一撃必殺の武器で
はない。
スキーを脱いでヘイヘの隣に腹ばいになった彼女はじっと目を細
めて彼の視線を追いかけた。
その先に慎重に進んでくるスキー兵がいた。
周囲には赤軍のスキー兵だろう、数人の死骸が転がっている。
﹁振り返ったらいないからびっくりしたよ﹂
﹁⋮⋮申し訳ありません﹂
一歳違いの女性士官に目線だけを下げて謝罪した彼は、そうして
から視線を前方に戻してやはり顔色一つも変えることもなく引き金
を引く。
眉間の間に銃弾を受けてそのまま低い悲鳴を上げると倒れ込んだ
男が動かなくなったのを見計らって、シモ・ヘイヘは新たな獲物に
対して気を配りはじめた。
そんな彼を見やってからアリナも、そっと目を細めると周囲を見
95
回した。
﹁片付けたらすぐに追いかけるつもりだったんです﹂
﹁そうか﹂
遊撃部隊と同じように特殊な任務に入ることが多い彼だ。
我らが大地
マァーッメ
を朗読し
もっとも、その任務をヘイヘに課したのはアリナ自身だったから、
彼に文句を言えるはずもない。
﹁⋮⋮エッラ・エロネンがスウェーデンで
たんだそうだ﹂
マァーッメ
﹁そういえばそうらしいですね﹂
我らが大地︱︱。
それは、フィンランド国歌だ。
楽曲はエストニア国歌と同じだが、詩の内容は違う。
優しく暖かな歌だ。
そのフィンランド国歌を世界で活躍する女優のエッラ・エロネン
が朗読した。世界へ向けてフィンランドへの支援を求めるために。
﹁俺は好きです﹂
﹁あそ﹂
感慨もなく、シモ・ヘイヘの言葉に応じたアリナは彼の狙撃の合
間を縫って近づいてくるスキー兵を機関銃で蜂の巣にして腰に吊し
たナイフを触れる。
ほんの三十分ほどで二個分隊ほどの兵士を始末したふたりは、や
がて追撃がなくなったことを確認すると立ち上がった。
キュッラ
﹁さて、そろそろ帰るとするか﹂
﹁はい﹂
ヘイヘがいない、と部下に報告するときはなにかがあったのでは
ないかと心配もしたが、元来た道を辿り、彼が雪の中に伏せてモシ
ン・ナガンを構えているところを見つけて胸をなで下ろした。
彼は追撃するスキー兵たちの掃討にあたっていたのだ。
﹁姉さん﹂
ヘイヘが彼女を呼ぶ。
96
﹁うん?﹂
﹁エッラ・エロネンも綺麗な人ですが、俺は姉さんが好きですよ﹂
誰よりも強く、誰よりもまっすぐに旗をかざす彼女に女優のそれ
など及ぶわけがない。
もしもエッラ・エロネンが自分たち兵士を率いていたとしても、
おそらくこれほどの忠誠は誓わないだろう。
﹁⋮⋮︱︱﹂
ヘイヘの言葉に応じることもなく彼に背中を向けたアリナ・エー
ヴァについて、彼もスキーを滑らせた。
早く陣地へ帰らなければならない。
背後に視線を走らせると、追撃する気力を削がれたのかソ連軍が
追いかけてくる気配はなかった。ただ、白い雪上にぽつぽつと人間
の死骸が倒れているだけだ。
作戦開始時間は昨夜の二十時。
野戦炊事所で三十分程度の銃撃戦。そして往復十二時間かけて陣
地へ戻る。
途中でヘイヘがいなくなるという事態はあったものの、おそらく
帰り着くのは昼頃になるだろう。
アリナはスキーを滑らせながら頭の中でそんな計算をして、先に
帰らせたアーッテラたちのことを考えた。
彼らも早く戻って休めていればいいのだが⋮⋮。
アリナ・エーヴァ・ユーティライネン中尉とシモ・ヘイヘ兵長が
陣地に戻ってきたのはその日の昼頃だった。どちらも疲労困憊で、
薄汚れた顔をしているがそんなことを気にするような人間はここに
はいない。
奇襲をかける、と昨晩連絡を受けた連隊長のヴィッレ・ティッテ
ィネンが、制止のために連隊指揮所からすっとんできたものの、見
事に間に合わずアリナ・エーヴァ自身を含めて、その部下たちの陣
地はもぬけのからだった。
97
﹁⋮⋮あれ? 中佐殿?﹂
自分のテントに戻ったアリナは、お気に入りのロッキングチェア
シス
に腰をかけた男を見つけて首を傾げた。
﹁姉さん、中佐が来てますよ⋮⋮、ってもうお会いしましたか﹂
露骨に嫌そうな顔をしたユホ・アーッテラは咄嗟に表情を取り繕
うがもう遅い。
﹁アーッテラ、貴様は止めなかったのか。この暴走機関車を﹂
﹁⋮⋮そうは言われましても﹂
ティッティネンの苦言に、ユホ・アーッテラは困惑したように後
ずさる。できれば連隊長の前は辞したいくらいだが、はたしてそん
なチャンスが訪れるのだろうか。
﹁ユホちゃん、いいよ。行って﹂
ひらひらと手を振ったアリナに、ティッティネンが彼女を睨むが、
睨まれた当人は特別気にする様子もなくアーッテラが持ってきたタ
オルで顔を拭く。
﹁いいんですか?﹂
﹁いいよ﹂
﹁では、失礼します﹂
ユホ・アーッテラの内心を察したのか、アリナ・エーヴァが副官
を追い払った。
﹁俺は退席して良いとは言ってないぞ﹂
きかせません
よ﹂
﹁お言葉ですけどね、中佐。あいつはわたしの直属の部下です。中
佐の命令なんて
遠慮の欠片もなく言い放った彼女は、上官に自分のロッキングチ
ェアを貸したまま別の椅子を引き寄せた。
堂々としたその態度に、ヴィッレ・ティッティネンは毒気を抜か
れる。
﹁ま、そんなことはともかく! 座り心地がいいでしょう? それ﹂
ニッコリと笑ったアリナ・エーヴァに、ティッティネンの口元が
ぷるぷると震えている。それをアリナは見えていないわけでもない
98
だろうが気にする様子もない。
﹁⋮⋮ユーティライネン﹂
相当怒り心頭のようだが、アリナは気がつかない素振りで言葉を
続けた。
﹁奇襲は成功です。怪我人も死者も出していませんよ、中佐殿﹂
﹁この、馬っ鹿もーん!﹂
怒鳴りつけられて、アリナは思わず自分の耳に指をつっこんだ。
﹁そんなに怒鳴らないでくださいよ。だいたいいいじゃないですか、
成功したんですから﹂
成功したのだからいいだろう、というアリナ・エーヴァに男は思
わず立ち上がった。いつもどこか飄々としている前線指揮官のひと
り。
女性の陸軍士官は、フィンランド国防軍ではただひとりの女性士
官でもある。
彼女のことを、ヴィッレ・ティッティネンは﹁暴走機関車﹂だと
思った。言い出したが最後、誰の言うことも聞きはしない。
﹁成功したから良かったようなものの、成功しなかったらどうする
つもりだったんだ!﹂
唾を飛ばしながら怒っている彼に、アリナは大きな溜め息をつく。
﹁わかってますってば。だから、わざわざ成功する確率を計算して
ですね、ちゃんと奇襲の時間帯を設定しましたし﹂
とりあえず落ち着いて。
アリナがティッティネンをたしなめるが、命令を聞かなかった張
本人がたしなめるものだから見事に火に油だ。
﹁一応、ちゃんと考えてますよ。それに、シムナだってちゃんと拾
ってきたじゃないですか﹂
﹁当たり前だろう﹂
優秀な狙撃兵を失うわけにはいかない。
少々落ち着きを取り戻したらしいティッティネンに、アリナはや
れやれと顔を手のひらで仰ぎながら息をついた。
99
﹁次の総攻撃で、野戦炊事所をたたきつぶしておくことは重要なこ
とだと思われましたので、我が部隊で先手を打ちました﹂
﹁⋮⋮ユーティライネン、貴様の見立てはわかるが、失敗したらど
うするつもりだった﹂
﹁どうもしませんよ﹂
戦うだけだ。
目の前の敵をたたきつぶすだけのことだ。
﹁それに、奴らはこの寒さを甘く見ている。だからこそ、たたきつ
ぶすチャンスでした﹂
アリナは数秒の間を置いてから顔を上げるとじっとティッティネ
ンを見つめた。真剣な眼差しは、決して事態を軽く考えているわけ
ではないということを如実に語っていた。
﹁それと、ひとつ言わせてもらいますけどね。うちの部隊は激戦区
を担当しているんです。たたきつぶせるところをたたきつぶしてお
かなければ、じり貧に持って行かれるのはこっちです﹂
はっきりとアリナ・エーヴァはティッティネン相手に言い放った。
アリナたちの狙撃部隊は、数十倍どころではない。
百倍以上の戦力差を一個中隊で支えているのだ。
もしも、自分が指揮するその場所が崩壊すればどうなるのか。そ
れをアリナは理解している。
﹁中佐だって、わかっているでしょう。もしも、ここが突破された
らどうなるのかを﹂
突破させてはならない。
だからこそ、師団司令部は彼女の部隊を激戦区になるだろうと予
想される場所に当てたのだ。
真剣な彼女の眼差しに、ティッティネンは眉根を寄せた。
コッラーを突破されれば、一個師団で赤軍の二個師団と一個戦車
旅団を相手にしている第十三師団が圧倒的な物量に押しつぶされる。
だからこそ、第十二師団は赤軍第八軍にコッラーを突破されるわ
けにはいかなかった。その重要性を、アリナ・エーヴァ・ユーティ
100
ライネンもそしてヴィッレ・ティッティネンもわかりきっている。
﹁我々は、ここを突破させてはならないんです﹂
椅子から立ち上がりながら、簡易テーブルに身を乗り出したアリ
ナは、ティッティネンに言い放った。
﹁なんとしてでも、ここを守らなければならない。⋮⋮だから、手
段なんて選んでいられません﹂
まっすぐに青い瞳で彼を見つめたアリナ・エーヴァは、金色のシ
ョートカットを揺らしてそう告げた。
襲いかかる敵をひたすらに撃退し続ける。
それがどれほど兵士たちの精神をすり減らせることになるのか、
それがわからない彼女ではなかった。
だけれども、後退することなど決して許されない。
﹁⋮⋮ユーティライネン﹂
彼女の言葉を聞いた、ティッティネンがやがて口を開いた。
口元で彼はにやりと笑う。
﹁なんです?﹂
﹁そうは言っているが、結局のところ、貴様は俺を言いくるめよう
としてるだけだろう﹂
﹁さて﹂
ティッティネンに切り替えされてアリナは、首を傾げた。
長身のこのきつめの美女が考えていることなど、ティッティネン
にはお見通しだ。頭の回転は速いからまるで筋が通っているかと思
われる正論を告げるが、彼女の言葉を要約すると﹁自分が前線にい
たいだけ﹂なのだ。
﹁深読みしすぎるとハゲますよ。中佐﹂
﹁あほぅ⋮⋮! 手足がもがれて苦労するのは俺なんだ、少しはこ
っちの身にもなれ!﹂
﹁知りませんよ、中佐の都合なんて。こっちはこっちで大変なんで
す。結果良ければ全て良し、ってことでお目こぼししてくださいよ﹂
いけしゃあしゃあと告げる彼女は、機嫌良さそうに笑ってから彼
101
の目の前で地図を広げた。
﹁我々が死ぬ気になれば、何百倍の敵にだって耐えれます。どれだ
けの損害が出るかはわかりませんが。それでも、ここは守り通さな
ければならない場所なら、わたしはどんな手段に訴えてでも守って
見せましょう﹂
どんな手段に訴えてでも守ってみせる。
彼女のそんな言葉に、ティッティネンは長い息を吐き出した。
﹁それで、状況は?﹂
﹁野戦炊事所を襲撃しました。無線で言ったとおりです。さっき、
アーッテラから報告を受けましたが、部隊の損害はごく軽微です。
野戦炊事所を失えば、あとは囲い込んで追い込んでやれば良いだけ
のことです。それと、中佐﹂
ここだけの話しですがね。
﹁⋮⋮なんだ?﹂
﹁イワンがどんだけ練度が低い兵士を投入してきてるかはわかりま
せんが、このままこの状況が続けば、遠からずコッラーは崩壊寸前
までいくでしょう﹂
﹁守ってみせるんじゃないのか?﹂
﹁守りますよ。どれだけ犠牲者がでても、ね﹂
前線指揮官の一人として。
そして兵士の一人として、守ってみせる。
﹁守りきる自信はあります。ですが、それでも、ここは悲惨な状況
になるでしょう﹂
﹁⋮⋮だろうな﹂
わかっている。
どれだけ覚悟をもって望んだとしても、結果は見えていた。
大きすぎる損害は避けられないだろう。
﹁頼むぞ﹂
﹁任されましょう﹂
ドンと自分の胸を拳で叩きながら、彼女は言うとテントにコーヒ
102
ーを運んできた男からそれを受け取ってティッティネンに手渡した。
﹁ま、少しくつろいでってくださいよ﹂
言いながら彼女は自分もコーヒーを一口、口に含んだ。
丸一昼夜近く奇襲作戦で出ていた彼女は眠っていないはずだった。
だというのに、ごく冷静にティッティネンと言葉を交わしている。
﹁少し休め﹂
﹁いいんですか?﹂
上官に言われて、アリナは意外そうに眉尻を引き上げる。
﹁手足がなくなって困るのは俺だからな﹂
そう告げてから、ロッキングチェアをぎしりと揺らして立ち上が
った彼は、彼女のテントを出て行った。
その後ろ姿は奇襲攻撃の戦果に満足したかのようにも見える。
﹁素直じゃないこと﹂
アリナはそう言ってから肩をすくめると、ロッキングチェアに移
動して目を閉じた。
ひろうこんぱい
そうして彼女は一瞬で眠りの谷へと墜落していく。
奇襲攻撃と、シモ・ヘイヘの救出劇で疲労困憊の彼女はそうして
鼓膜の奥で軍用機のエンジンが鳴るような音を聞いたような気がし
た⋮⋮。
103
12 空の緒戦
天候が回復した。
フィンランド国防空軍軍曹︱︱エイノ・イルマリ・ユーティライ
ネンは顔を上げる。
フォッ
それでも空気は冷たいが、そんなことを言ってもいられない。
ケル
覗いた晴れ間に、第二四飛行戦隊の隊員たちは自分のフォッカー
D21に乗り込んだ。
エンジンは凍り付かないようにヒーターで温められている。
手早く離陸の準備を整えた彼らはあっという間にフィンランド上
空へと飛び上がる。エイノ・イルマリ・ユーティライネン︱︱後の
エースパイロットであり﹁無傷の撃墜王﹂︱︱は、ただ黙り込んだ
ままで北東の空を見つめた。
インモラ空港から北東。
彼の目線の向こうにラドガカレリア地方が広がっているはずだ。
﹁姉さん⋮⋮﹂
口の中で彼はつぶやいた。
フィンランド陸軍中尉、アリナ・エーヴァ・ユーティライネン。
誰よりも強い姉。彼女が死ぬわけもないとわかっていて尚、どう
フォッケル
か無事でいてほしい、とも思う。
フォッカーD21の操縦桿を握りながら、エイノ・イルマリはそ
んな思考を振り払うようにして視線を前方に戻した。
コックピットの向こうに広がる空を見つめる。
敵をたたきつぶさなければならない。
あちこちから煙が上がっているのが見えた。ソビエト連邦空軍に
よる空爆が行われているのだ。
﹁サーレンパーの海岸要塞にソ連海軍の観測機が砲兵を誘導してい
るらしい、行くぞ﹂
104
中隊長であるエイノ・アンテロ・ルーッカネン中尉の声が無線越
しに聞こえる。
サーレンパーの海岸要塞は、ヴィープリ湾から北東にあってフィ
ンランド湾の東部に位置するコートリン島︱︱この島の東部にバル
チック艦隊の軍港を持つクロンシュタット市がある。
ちなみにこのコートリン島というのはロシア語で、フィンランド
語ではレトゥサーリ島と呼ばれていた。
﹁了解﹂
応じて、エイノ・イルマリは機首を海岸へと向ける。
ロッテ
エイノ・イルマリ・ユーティライネンは中隊長であるエイノ・ア
シュヴァルム
ンテロ・ルーッカネンの僚機で、本来はこれにもう一組の二機編隊
を合わせて四機編隊として編隊飛行を行う。
この空戦戦術は、一九三四年に第二四飛行戦隊に当時の指揮官で
あるリカルド・ロレンツォ少佐が実験的に取り入れたものだった。
その五年後に指揮官として着任したグスタフ・マグヌッソン大尉が
ヨーロッパ各国の空軍を訪問して戦術の洗練を行った。
ルフトヴァッフェ
この訪問には、当時まだ設立されたばかりではあったが、すでに
ルフトヴァッフェ
スペイン内乱での空戦を経験しているドイツ空軍の第一三二戦闘航
ケッテ
ロッテ
空団﹁リヒトホーフェン﹂も含まれておりドイツ空軍もまた既存の
三機編隊ではなく二機編隊を最小単位としていた。この訪問によっ
てグスタフ・マグヌッソンは第二四飛行戦隊の戦術的な正しさを確
信する。
また、この戦術は後に、イギリスに伝わり、そうしてアメリカ合
衆国にも伝わっていくことになる。
とりあえず、とエイノ・イルマリは意識を切り替えた。
少なくとも、彼女は自分などよりもずっと陸戦に通じている。ブ
ランクはあるものの、それこそ百戦錬磨と言ってもいいだろう。
彼が考える限り、彼女︱︱アリナ・エーヴァは最強。
冷たい表現になるが姉のことなど心配するだけ無駄なのだ。任務
をおろそかにして、祖国が滅びれば本末転倒にも程がある。アリナ・
105
エーヴァはよく言っていたではないか。
﹁自分になにができるのか、それを見極めることはとても重要なこ
と。わたしにはわたしにできることを。そして、イッル。あなたに
はあなたにできることがあるはずよ﹂
血がつながっていたとしても、それぞれに人間の持つ資質という
ものは違うのだから。
そう彼女は告げた。
ならば、姉︱︱アリナ・エーヴァにかかずらっている暇などあり
はしない。そもそも、心配したところで迷惑がられるのはわかりき
ひよっこ
はどっちだ、と。
っている。おそらく、心配したなどと言えば、彼女は失笑して彼に
言うだろう。
心配されなければならない
実戦もろくに経験がない新米では、敵を前にしょんべんをちびる
んじゃないか。
限りなく口の悪い姉はそう言って弟をからかった。
﹁そういえば、おまえの姉さんも中尉だったな﹂
﹁⋮⋮陸軍の不良士官ですよ﹂
苦笑すると、エイノ・アンテロ・ルーッカネンは低く笑ってから、
通信機の向こうで黙り込んだ。
暴力沙汰を起こしてばかりで、血の気の多い。だけれども、なぜ
か多くの荒くれた粗野な男たちを惹きつける。
黙っていればきつめながらもそれなりに美人であるのだが⋮⋮。
戦闘機に搭乗して無駄口を叩くつもりは、エイノ・イルマリには
ない。
﹁だが強い﹂
ルーッカネンの言葉にエイノ・イルマリは睫毛を揺らした。
ああいうの
がお好みですか?﹂
彼はなにを言おうとしているのだろう。
﹁もしかして、中尉は
自分の姉を﹁ああいうの﹂呼ばわりして、エイノ・イルマリは金
色の髪を揺らす。幸か不幸か、姉も自分も金髪だ。
106
髪質はどうもよく似ているらしい。
﹁⋮⋮やぁ、俺はもう少しおしとやかな女性が好みかな﹂
素直なルーッカネンの評価に、エイノ・イルマリは声をあげて笑
った。確かに、自分が同じような立場で、同じような質問をされて
もルーッカネンと同じように応じただろう。
アリナ・エーヴァは、容姿はともかく余りにも好戦的で、あまり
にも強すぎる。
﹁俺も同じです、中尉﹂
血のつながった姉だからつきあっているものの、そうでなければ
アリナ・エーヴァ・ユーティライネンという女性は少々、漢前過ぎ
るというか、強すぎる。
性格も強ければ、眼差しもきつい。
その上、腕っ節も強いのだから、その辺の男では手も足も出ない。
﹁ルーッカネン中尉、今度、姉に会ったらもう少しおしとやかに振
る舞ってくれって言ってくれませんか? 俺、おっかなくて﹂
﹁なんだ、俺だっておっかないぞ。なにせ相手はモロッコの恐怖だ
ろう? 陸軍のハッグルンド少将相手にも怖じ気づかないそうじゃ
ないか﹂
﹁そうなんですよね、噂ではティッティネン中佐がかなり手を焼い
てるとかいないとか﹂
モロッコの恐怖という二つ名を持つ女性士官。
フランス外人部隊で五年間にわたって従軍して、今は祖国のため
に戦っている。
ちなみにエイノ・イルマリは彼女の﹁女性らしい裏表のある性格﹂
もまた恐ろしいもののひとつだ。
少なくともフランス外人部隊から帰ってきてからは、それなりに
裏の顔と表の顔を使い分けて生活をしていた。
物腰は丁寧なのだがいかんせん態度と反応が攻撃的すぎるのだ。
﹁そりゃまぁ、将軍相手に怖じ気づかないっていうなら、連隊長相
手じゃ屁でもないだろうなぁ⋮⋮﹂
107
ルーッカネンは思わず、アリナ・エーヴァ・ユーティライネンの
上官であるヴィッレ・ティッティネンに同情してしまった。
やがて、サーレンパーの海岸要塞が見えてきた。
その上空を翼をふりながら旋回し、地上の砲兵らに味方であるこ
とを示すと百メートルほどの高さを飛び抜ける。サーレンパーの上
空にすでに敵機の姿は見えず、空爆が終わって煙の立ち上る空を何
度か飛んでから、辺りを警戒するために意識を切り替えたとき、味
方の砲兵からの攻撃を受けた。
さすがに、反撃することもできずに、上空へと急角度に高度をと
りながら攻撃を躱していたが、ルーッカネンの機体が砲撃に晒され
た。燃料タンクをやられたのか、燃料が帯のように噴き出すのがエ
イノ・イルマリには見えた。
﹁⋮⋮俺はいったん基地へ戻る。このあたりはそんなに危険ではな
いはずだ。ひとりで任務を続けてくれ﹂
そんな自分の機体の状況に対して、苛立たしげにそう言った彼に
ついて海岸線まで飛んだエイノ・イルマリだったが、やがて彼は単
独で任務を遂行するためにルーッカネンと別れた。
戦闘機で哨戒するように飛んでいると、味方の陸軍の兵士や、そ
して数名のソ連兵などを見かけたが、これといったことはなく、エ
イノ・イルマリはその後、インモラ基地へと戻った。
戦争がはじまったばかりの頃に空爆を受けたヴィープリ。そして、
この日のサーレンパー海岸要塞。
戦闘機の飛ぶエンジンの音にフィンランド人の誰もが敏感になっ
ている。
だから、数で勝るソビエト連邦赤軍の空軍の飛行機の影に怯えて
闇雲に反撃するのだ。
﹁それにしても、味方とイワンの区別がつかないのはなんとかなら
んもんかね﹂
基地にたどりついていたルーッカネンがぼやくようにコーヒーを
すすりながらそう言った。
108
ハカリスティ
みたび
一応主翼の下には下から大きく見える青い鉤十字が見えているは
ずだ。
まったく⋮⋮︱︱。
エイノ・アンテロ・ルーッカネンは三度ぼやく。
﹁陸軍は激戦らしいですからね、みんな、いきり立っているんです
よ。仕方がありません﹂
﹁そりゃ、まぁな﹂
戦場の情報は、空軍にも入ってきている。
中でも、シーラスヴォ大佐とタルヴェラ戦闘団の快進撃は華々し
い。
けれどもそんなことがいつまでも続くわけではないのだ。
﹁そういや、おまえの姉さんはラドガカレリアだったか﹂
そこも激戦区のひとつだ。
たった一個師団で一個軍団を食い止めている。ひどい戦力差だ、
とルーッカネンは思った。おそらく、エイノ・イルマリも同じこと
を思っているのだろう。
﹁心配にはならないか?﹂
﹁俺は俺ができることをやるだけです﹂
﹁なんだ、それは姉さんからの教えか?﹂
モロッコの恐怖から直接教えられたことなのか、と、ルーッカネ
ンが問いかけると、コーヒーのカップを手にしたままで、エイノ・
イルマリは苦笑するようにほほえむと窓の外を眺めた。
﹁そうかもしれません﹂
姉は彼を確かに導いたのだ。
強い戦士であれ、と。
﹁とりあえず、姉の心配なんかするだけ無駄です。姉の心配より、
姉の部隊の心配をしたほうがなんぼか有意義です﹂
彼女は死なない。
誰よりも強いということを弟のエイノ・イルマリは知っているの
だから。
109
﹁天気がいい間は、忙しくなるからしっかり寝ておけよ。イッル﹂
﹁はい﹂
ルーッカネンの言葉に、エイノ・イルマリは頷いてからコーヒー
を飲み干すとそのままそこに横になった。
今は体を休めることに集中しなければならない。
ただでさえ酷寒の空を飛ばなければならないのだから。
110
13 ユーティライネン
翌十二月十九日。
冷たく澄んだ空気の上に広がる青い空に、エイノ・イルマリはフ
ォッカーD21を飛ばした。
﹁俺のフォッケルは味方に撃墜されたんだよ﹂
悪態をつくルーッカネンはひどく機嫌が悪そうだった。
それを思い出して、エイノ・イルマリはクスリと笑う。
正確には味方の砲兵だ。ソ連空軍の戦闘機と間違われて高射砲を
お見舞いされたのだ。
﹁仕方ありませんよ、なるようにしかなりません﹂
ルーッカネンの片腕でもあるタツ・フハナンチを指揮官として、
エイノ・イルマリは五機の編隊だった。
﹁少し遅れたか⋮⋮﹂
エイノ・イルマリの機体は、エンジンの不調のため編隊から少し
遅れる形となった。編隊の飛行機雲を追いかけるようにしながら口
の中でつぶやいた彼はは苦虫をかみつぶしたように眉をひそめてか
ら、敵機の動静を報せる通信のざわめきに耳を傾ける。
冷たい空気の下で、飛行機雲だけが尾を引いていく。
それからしばらく飛びながら、彼は通信から入った連絡に背筋を
震わせた。
ヘイヨノキからアントラへ三機のソ連空軍の爆撃機が向かいつつ
あるというのだ。その報せを聞いたエイノ・イルマリはアントラ上
空の報告された地点に到着すれば、間もなくイリューシンDB3が
三機向かってくるのが見えた。
彼らは爆撃機だというのに掩護機もつけていない。
けれども、その大きさに圧倒されるばかりだ。
フォッケル
双発型爆撃機の名にふさわしい。彼らは、エイノ・イルマリのフ
111
ォッカーD21が翼を翻したことによって、フィンランド空軍の戦
闘機の存在に気がついたようだった。
爆撃機の背後について、射撃位置を調整する。これを見て敵爆撃
機は爆弾を近くの河に投棄して逃走を試みた。
ぶ
この時点で、すでにエイノ・イルマリは味方編隊と合流しており、
三機対五機というソ連空軍の爆撃機にとっては恐ろしく分の悪い状
況に陥っていた。
指揮官であるタツ・フハナンチが攻撃を仕掛けようとするが、機
銃が凍り付いているためか攻撃をできず、やむなく僚機へと攻撃を
譲る。そんな様子を眺めながら、エイノ・イルマリは冷静にロッテ
の僚機と共に敵を追い詰めていく。
機銃を発射し、敵を翻弄した。
フォッケル
爆弾を投棄して身軽になったイリューシンDB3はスピードが桁
違いだ。
戦闘機であるフォッカーD21と最高時速は変わらない。変わら
ないというよりも相手のほうが早いくらいである。
しかし、彼はまず一番機の胴体に向けて一連射してから、次に三
番機の背後を取った。その後部機銃手を狙って銃弾をたたき込む。
それからしばらく、ソ連軍の基地へと向けて逃走を図ろうとする
イリューシンDB3を追撃し、チャンスを見つけては機銃の砲弾を
全てたたき込んでみたものの、結局、一機も火を噴くことはなかっ
た。
まるで巨人のようだ⋮⋮。
そんな思いに捕らわれながら敵機を見送っていると、不意に、そ
の中の一機が深い降下角をとりながら、きりもみするように急降下
していく。
急降下爆撃機ではないから、垂直に近い降下角では万が一操縦者
が生きていたとしても、機首を上げるのは苦労するだろう。
おそらく操縦者に機銃があたっていたのだ。パイロットが脱出す
る気配もない。
112
機体を安定させようという努力も見せず、イリューシンDB3は
地上に墜落した。
その爆発を見送って、機銃を全弾撃ち尽くした彼らの部隊は基地
へと帰路をとる。その途中でやはり、これから爆撃任務だろうと思
われる、ソ連空軍の爆撃機と出会ったが武器を持っていないも同然
の状況では、彼らに攻撃の手立てはなく地上ぎりぎりを敵機に発見
されないように飛んで基地であるインモラ空港へと戻った。
もちろん、敵機を逃さざるをえなかったという状況は非常に苛立
たしいものを感じるが、どちらにしたところで機銃も使えない戦闘
機ではどうすることもできはしない。
インモラの基地に戻ったエイノ・イルマリ・ユーティライネンは
どこか煮え切らない欲求不満のようなものを感じて苛立たしげに溜
め息をつく。
こんな時に限って思い出すのは百戦錬磨の姉のことだった。
戦闘を消化しきれずに苛立つものを感じる、と言うことに対して
自分はやはり彼女︱︱アリナ・エーヴァと血のつながりがあるのだ
ということを確かに感じさせられる。
﹁君のお姉さんは、馬鹿みたいに強いぞ﹂
いつだったかユホ・アーッテラがそう言った。
﹁知ってますよ、少尉﹂
なにせ彼女相手の喧嘩に一度として勝ったことがないのだ。
アリナの強さは、弟である彼が身をもって知っていた。本気では
ないアリナ・エーヴァに勝てないのだ。本気になった姉のことなど
想像したくもない。
﹁手紙来てるぞ、イッル﹂
中隊長エイノ・アンテロ・ルーッカネンに出迎えられて、彼は差
しだされたコーヒーに礼を告げて手紙を受け取った。
差出人は︱︱アリナ・エーヴァ・ユーティライネン。
彼の姉だ。
わざわざ戦場から手紙を綴ったのだろうか。
113
そもそも、彼女が怪我をして病院に担ぎ込まれた、などという話
しは聞いていない。つまるところ、その手紙は彼女が気まぐれに書
いたものだろう。
よほど暇だったのか、それともなにか深刻な内容なのだろうか。
いや、深刻な内容である、という可能性は限りなく低い。なにせ、
十歳も年齢の離れた弟をおちょくることに命をかけているような姉
だ。それに対する情熱には頭が下がる。
しかも、大概の場合、自分の命が危険にさらされている、という
ぎりぎりの状況でのみアリナ・エーヴァのそう言った性質が顔を出
す。
要するに果てしなくタチが悪いのだ。
そんなとりとめもないことを考えながら手紙の封を切ると、一枚
の写真が出てきた。姉の手紙にしてはそれが意外で、エイノ・イル
マリは首を傾げる。
︱︱親愛なるイッルへ。
便せんを開くと、そんな言葉が書かれていた。
手紙の出だしからして気持ちが悪い。
こういった文面ではじまる手紙は大概の場合ろくでもない。
﹁元気ですか? わたしたちの部隊は毎日雪の中楽しくピクニック
に出かけています。イッルも連れてきてあげたいような深い雪が積
もっていますが、インモラのほうはどうなのでしょうか﹂
手紙に同封されていた写真は彼女の部隊だろうか、十名ほどの隊
員たちとともに長身の女性がウールのコートを着て振り返って笑っ
ている。
白い背景に、険しい男たちの顔。
それがなければアリナ・エーヴァの笑みは本当にピクニックに行
ったかのように無邪気なものだ。がっしりとした手で、ユホ・アー
ッテラの腕をとって雪の上でダンスを踊っているようなアリナに、
迷惑そうな顔をした副官の男。
コッラー地方。
114
そこは激戦区だ。
快進撃を続ける、タルヴェラ戦闘団やラップランド付近のシーラ
スヴォ大佐の第九師団と比べれば、コッラーの戦線は地味なことこ
の上ない。しかし、そこは絶対に死守しなければならない要所のひ
とつ。
そこをアリナ・エーヴァ・ユーティライネンは、前線指揮官の一
人として、戦線を支えている。
ひどく楽しげな写真の中のアリナからは疲れの色も感じられない。
恐らく、従軍記者のひとりに写真を撮らせたのだろう。
そんな写真を見つめたエイノ・イルマリは片手で顔を押さえてか
ら大きな溜め息をついた。
﹁どうした?﹂
﹁姉から手紙がきたんですが、やっぱり激戦らしいですね﹂
ひらりとルーッカネンに写真を手渡した。
場違いなほど明るい笑顔をたたえた女性の周りに、男たちが険し
い表情でカメラに視線を向けている。
彼らはなにを考えているのだろう。
いや、とエイノ・イルマリ・ユーティライネンは思った。
なにを考えているのかわからないのは姉のほうだ。最前線で副官
のユホ・アーッテラとダンスを踊っている写真を撮るなどと、頭の
中がどうかしているのではないかとも思えてしまう。
﹁楽しそうでなにより﹂
﹁最前線ですよ?﹂
ルーッカネンがそう言うと、非難するようにエイノ・イルマリが
言葉を吐きだした。
﹁どうせ最前線は激戦だ。そこを素面でやってけるおまえの姉さん
はやっぱり強いんだよ﹂
女性としての評価はともかく、やはりアリナ・エーヴァ・ユーテ
ィライネンは誰よりも強い。
写真を彼に返しながら、エイノ・アンテロ・ルーッカネンは低く
115
笑った。
﹁そうなんでしょうか⋮⋮﹂
﹁指揮官としてできる限りのことをやっていれば、別に問題ないだ
ろう﹂
﹁でも、たぶん、俺をからかってるだけだと思いますよ﹂
そう言った彼に、ルーッカネンは苦笑した。
﹁それだけ余裕があるってことなんだろ﹂
﹁違いますよ、こういう時に俺にこういう手紙を書くときっていう
のはだいたい余裕がないときなんです﹂
自分の身が危険にさらされている時ほど、彼女の魂は戦慄する。
戦場というその場所で。
まるで、自分という人間に冷静さを保たせてでもいるかのように、
彼女は弟に手紙を綴った。
﹁楽しそうだが⋮⋮﹂
﹁なんか、戦場にいると、だんだんテンションが上がってくるらし
くて、平時のときとは人が変わるんですよね。だいぶ﹂
はーっと溜め息をついたエイノ・イルマリに、ルーッカネンはぽ
んぽんと若いパイロットの肩を叩きながら笑った。
﹁それでも強い指揮官に兵士はついていくもんだ。部下に慕われる
のは前線指揮官として素晴らしい才能だろう﹂
それは確かにそうかもしれない。
彼女は部下たちの命を握って戦っている。
自らも危険に陥るかもしれないというのに。
﹁戦場にいるとは思えない良い笑顔じゃないか﹂
そんな笑顔の彼女だからこそ、兵士たちがついていくのだろう。
﹁ユーティライネン中尉に余裕がないのかもしれないが、ちゃんと
返事を出してやれよ﹂
中隊の面々を出迎えに行ったルーッカネンの背中を見送って、エ
イノ・イルマリはもう一度溜め息をついた。
戦争は激しくなるばかりだ。
116
姉の指揮を執るコッラー地方も激戦に晒されているだろう。姉の
心配はしていない、が、祖国は心配だ。
溜め息混じりに便せんをたたんだ。
そこに書かれた言葉に目を見開いた。
﹁⋮⋮大丈夫﹂
まるで独り言のように、掠れたインクで綴られている言葉。
不安を感じる弟を安心させるような、アリナ・エーヴァの本音の
言葉にエイノ・イルマリはそうして手紙と写真をそっと自分の荷物
の中にしまい込んだ。
彼女の笑顔が言っているような気がした。
﹁⋮⋮大丈夫、なにも心配いらない﹂
117
14 迎撃態勢
﹁一応イワンの奴らも学習してるみたいですね、中尉﹂
﹁飛行機が有り余ってて結構なことだな﹂
フォッケル
苦々しげにつぶやいたエイノ・アンテロ・ルーッカネンは、スキ
ーをはいたフォッカーDを眺めながら、防寒着を分厚く着込んだ下
肢で足踏みをした。そうすることによって体内循環を促進させる。
ソビエト連邦空軍の迎撃のため、緊急発進に備えている戦闘機隊
の面々は凍り付くような気温の中で空を見上げた。
天候が回復した当初、ソビエト連邦空軍の爆撃機は戦闘機の支援
機もつけずにフィンランド上空を襲撃していたが、彼らはすぐに爆
撃機と﹁同規模﹂の戦闘機の護衛をつけて攻め入ってくるようにな
った。
正直なところ、五十機にも満たない戦闘機しか有していないフィ
ンランド空軍には荷が重い相手ではある。しかし、それでも彼らは
決して諦めない。
﹁でも、奴ら回避行動苦手なんでしょうかね?﹂
首を傾げたエイノ・イルマリ・ユーティライネンに、ルーッカネ
ンは重々しげにひとつ頷いてから目を細めた。
﹁かもしれないな﹂
と
操縦桿を握れる程度に訓練したのではないか、と思える
ソビエト連邦空軍のパイロットはその辺の素人を連れてきて
りあえず
ほど練度が低い。爆撃機にしろ、戦闘機にしろ、彼らは馬鹿のよう
に銃弾の撃ち込まれる中に突っ込んでくるだけだ。
それは、まるで﹁撃ってください﹂と自分から首を差しだしてい
るような印象すら受ける。
﹁最新鋭の戦闘機があったらな⋮⋮、くそっ﹂
最新鋭戦闘機︱︱中でも|ドイツ空軍の持つメッサーシュミット
118
Me109の噂はかねがね聞いている。
素晴らしい戦闘機であるというもっぱらの噂だ。
ぼやくようなルーッカネンに、エイノ・イルマリは苦笑した。
エイノ・アンテロ・ルーッカネンは、エイノ・イルマリとその姉
のアリナ・エーヴァの丁度中程の年齢になる。
﹁でも、まぁ⋮⋮﹂
悪態をつくルーッカネンに、エイノ・イルマリは肩をすくめると
足踏みをしながら空を見上げた。
﹁最新鋭の戦闘機があっても、使ってる人間があれじゃ仕方ありま
せんよ﹂
エイノ・イルマリのもっともな弁にルーッカネンも同意するよう
に頷いた。いくら、最新鋭の兵器があっても使っている人間の練度
スオミ
が並以下ではどうしようもない。
﹁もったいないからフィンランドに寄越せって言いたくなるな、あ
れは﹂
戦闘機にしろ、爆撃機にしろ、製造工程で金がかかっているのだ。
それをもったいないと言わずしてなんだろう。
ルーッカネンもエイノ・イルマリもそう思った。
貧乏なことこのうえないフィンランド空軍などは財政的な問題か
ら、時代遅れの戦闘機や、フォッカーD21をようようそろえるの
がやっとだったのだ。
フォッカーD21は、最新鋭のメッサーシュミットMe109な
どが採用している引き込み脚を持っていない保守的な機体ではあっ
たが、それ故に着陸時の頑強さは信頼性がおける。もっとも、彼ら
の扱っているフォッカーD21はそれなりの癖を有してはいたが、
それに慣れておけばなんら問題になるようなことではなかった。
戦闘機というものには多かれ少なかれ﹁癖﹂というものがあるも
のなのだ。
ルーッカネンが以前、扱っていた複葉機ブリストル・ブルドック
がそうであったように。
119
﹁まぁ、扱いきれなけりゃ、宝の持ち腐れにも程があるな﹂
﹁そんなこと言って、それでも隊長は羨ましいんじゃないんですか
?﹂
上官をからかうエイノ・イルマリの笑い声に、ルーッカネンは片
方の眉をつり上げてから肩をすくめた。
﹁なんだ、おまえだってアカの奴らより戦闘機をうまく扱えると思
ってんだろうが﹂
﹁そりゃまぁ、才能が違いますからね﹂
スオメン・タサヴァルタ
軽口を叩く青年をルーッカネンは小突いた。
︱︱⋮⋮そう。
ソビエト連邦の兵士たちと、フィンランド共和国の兵士では覚悟
が違う。
滅びるか、滅ぼされるかという淵に立たされているのだから。
青い瞳を伏せたエイノ・イルマリに、ルーッカネンは視線を滑ら
せる。
無邪気さを装うこの青年。エイノ・イルマリ・ユーティライネン
には無限の可能性を感じた。
彼の中に流れる戦士としての血筋だけではない。
戦争がはじまる前に見せた、訓練での素晴らしい戦闘機の操縦技
術。おそらく、とルーッカネンは思う。
彼の技術は天性のものだろう。
噂では、エイノ・イルマリの姉である陸軍中尉のアリナ・エーヴ
ァはそれほど弟のことを高く評価はしていないらしい。しかし、ル
ーッカネンはアリナ・エーヴァの評価を﹁百戦錬磨の猛者らしい﹂
評価だとも思った。
エイノ・イルマリの姉︱︱アリナ・エーヴァは、二つ名の通り陸
戦のプロであり、フィンランド国防軍の希望の星だ。弱気になった
者の心に希望の光を灯す。そのためには、前線指揮官は強く味方兵
士の心を惹きつけていなくてはいけない。
一度だけ、インモラの基地を彼女が訪れているのを見たことがあ
120
った。
女性にしては長身の陸軍士官のアリナ・エーヴァ・ユーティライ
ネンは、儚げな弱さを感じさせない強い眼差しの印象的な人だった
ことをルーッカネンは覚えている。
目元が弟のエイノ・イルマリとそっくりだな、とエイノ・アンテ
ロ・ルーッカネンは思った。
﹁あの姉にして、この弟ってところだな﹂
﹁そうですか? 姉より俺のほうが温厚だと思いますけど?﹂
ルーッカネンの評価にエイノ・イルマリは首を傾げて見せた。
﹁自覚ないほうがタチが悪いと思うぞ﹂
ルーッカネンはそう言いながら、首を巡らせて周囲を見渡した。
いつソ連空軍の爆撃機が襲来しても迎撃できる体勢が整っていた。
フィンランド国防空軍第二四戦闘機隊の彼らは、どんなに劣勢で
あっても諦めたりはしない。
なぜなら地上を戦う陸軍の将兵たちが諦めていないのだから。
優しげな笑みをたたえているエイノ・イルマリ・ユーティライネ
ンに視線をやってから、ルーッカネンは大きく右腕を振り上げて肩
を回すと頭上の空を見上げた。
丁度そのときだ。
レシプロエンジンの嫌な音が聞こえはじめる。
﹁⋮⋮敵さん方、小蠅みたいですね﹂
ぼそりとエイノ・イルマリがつぶやくと、ルーッカネンは眉を寄
せてしかめつらをしたままで重い息を吐き出した。
﹁⋮⋮噂をすれば、だな﹂
エイノ・アンテロ・ルーッカネンのフォッカーD21の修理はま
だ終わっていない。
﹁とりあえず先に飛んでろ、俺はブルドックで出る﹂
﹁本気でそんなこと言ってるんですか?﹂
﹁おまえな。俺を誰だと思ってる。四年間ブルドックを飛ばしてた
んだぞ﹂
121
ひよっこのエイノ・イルマリとは違う。
長い間、前世代機でもあるブリストル・ブルドックを飛ばしてい
たのだ。ブルドックについてなら、同戦闘機隊のパイロットたちの
誰にも負けはしない。
そういう自負がルーッカネンにはあった。
﹁いいですけど、あんまり無茶しないでくださいよ﹂
そう言いながら、自分のフォッカーD21に走っていくエイノ・
イルマリを見送って、ルーッカネンも踵を返した。
格納庫へと向かっていく中隊長の後ろ姿にエイノ・イルマリは肩
をすくめた。
なんだかんだと悪態をつくが、結局彼は、中隊の面々が心配でな
らないのだろう。
彼らが上空へと舞い上がって間もなく、ソビエト連邦の爆撃機に
よるインモラ基地への空爆が始まった。
そこはちょうど、カレリア地峡と首都ヘルシンキを挟んでいる軍
事的要所のひとつだ。第二十四戦闘機隊の本拠地であり、要するに、
迎撃の要とも言えるのだ。
ソ連軍がそこを爆撃するには理にかなっている。
中隊からやや遅れて飛ぶブリストル・ブルドックにわずかな注意
を払いながら、エイノ・イルマリはインモラ基地上空を傍若無人に
フォッ
飛ぶソ連軍の爆撃機に襲いかかる。もっとも、中隊で一番最初に上
ケル
空へ舞い上がったのは良いものの、エイノ・イルマリのフォッカー
D21の機銃は四挺あるうち、一挺しか発砲できないことが判明し
た。
おそらく寒さによって凍り付いたのだろう。
苛立つまま、その残った一挺で敵機に発砲するが、爆撃機の編隊
から落後させるまでには及ばず、その間に中隊の仲間たちが追いつ
いた。
機体性能でフォッケルよりもずっと劣っているはずのルーッカネ
ンのブリストル・ブルドックは素晴らしい機動を見せて、爆撃機の
122
攻撃を翻弄する。
四年間もの間、ブルドックに搭乗し続けたという自負は伊達では
ない。
攻撃こそ劣るものの、ロールやブレイクなどを交えた回避運動で、
銃弾をことごとくかわしていく。
まるで、のろまの亀でも追っているようなソ連軍機を眺めながら、
中隊の僚機が追いついたのを確認してから射撃と追撃を中断した。
ブルドックを追跡していた爆撃機が、フォッケルの編隊に応戦を
はじめる。彼らは相互に支援をしあって攻撃をするが、それでも爆
撃機と戦闘機では機動力が違いすぎる。
ブレイクしながら、大きな旋回軌道をとって戦闘空域から離脱し
ていくルーッカネンのブリストル・ブルドックを確認して、フィン
ランド国防空軍第二十四戦闘機隊第二中隊は爆撃機に一気に襲いか
かった。
ソ連軍の襲来と、フィンランド空軍の迎撃を受けてフィンランド
上空から離脱。
こうした光景が日常茶飯事のように行われていた。
﹁隊長、無事ですか?﹂
無線に向かってエイノ・イルマリが問いかけた。
﹁俺のことは心配いらん﹂
素っ気ない言葉が返ってきて、彼は安堵の溜め息をついた。
パイロットの数はソ連軍のように無限にいるわけではない。まし
て、指揮官の才能を持つ者となればなおさら少ない。
﹁たたき落とされたらどうするんですか。無茶しないでください﹂
﹁俺のことは心配いらないと言っただろう﹂
最新鋭の爆撃機に、ブリストル・ブルドックで迎撃するエイノ・
アンテロ・ルーッカネンの度胸も大したものだが、それを眺めてい
る部下たちからしてみれば、心臓に悪いことこの上ない。
やれやれと溜め息をつきながら、エイノ・イルマリは思った。
自分の姉にしてもそうだが、前線指揮官というのは得てしてこう
123
いった素質があるものなのかもしれない。
自信に満ちあふれており、だからこそ部下たちが信頼してついて
いく。
彼は風防のガラスの向こう。北東の空をちらと見やってから息を
吐き出した。
ラドガカレリア方面で戦い続けているだろう姉︱︱アリナ・エー
ヴァ・ユーティライネン。彼女はどんな思いで赤軍兵士たちと向か
い合っているのだろうか、と。
シス
*
﹁姉さん!﹂
副官ユホ・アーッテラの声にアリナ・エーヴァはゆらりと瞳をあ
げた。
彼の声の調子から良からぬ事が起こったということは容易に想像
がついた。
﹁なに?﹂
短く問いかけた彼女にアーッテラは困惑したような眼差しを彼女
に向けて黙り込む。そんなアーッテラを見つめて、アリナは溜め息
をつくと自分のテントへと踵を返した。
﹁ありがとうございます﹂
﹁いや、いいよ﹂
﹁⋮⋮ヴォウティライネンがやられました﹂
言葉少なに告げた副官の言葉にアリナ・エーヴァが眉をひそめる。
そこは戦場だったからいつどこで誰が死んでもおかしくはない。
自分の命すらも危険にさらしているのである。
﹁⋮⋮そうか﹂
アーッテラの言葉にやはり短く応じた彼女は、鼻から息を抜いて
シス
からテントの天井を見上げると右手の平で自分の顔を仰いだ。
﹁姉さん⋮⋮﹂
124
﹁ヴォウティライネンの代わりになりそうな奴を探さないといけな
いな﹂
わずかの沈黙の後に彼女は低くそう告げると小さく口元だけで微
笑した。アリナ・エーヴァがなにを考えているのか、それを副官で
覚悟
はしていたから、大丈夫だよ﹂
あるユホ・アーッテラはわからないわけではない。
﹁
指揮官のひとりとして、常に覚悟をしていた。
部下を失うことは手痛い。
ヴィッレ・ティッティネンも彼女に告げたように、部隊の前線指
揮官が犠牲になると言うことは、自分の手足をもがれるということ
だ。それを彼女が理解していないわけではないのだ。
﹁それで、ヴォウティライネンはどいつにやられた?﹂
﹁おそらく狙撃兵ではないかと思われます﹂
﹁狙撃兵か⋮⋮﹂
いくら赤軍の兵士たちの練度が低いとは言っても、それはあくま
で歩兵に限る話しだ。赤軍にも狙撃兵部隊が存在する。
顎に指を当てたままで考え込んだアリナ・エーヴァはややしてか
ら視線をあげるとユホ・アーッテラを見つめてから重々しく口を開
いた。
﹁シムナとコノネンを呼んでこい﹂
﹁はっ﹂
シモ・ヘイヘは言わずもがな。
アーペリ・コノネンは若いながらアリナ・エーヴァが信頼する腕
を持つ部隊でも生え抜きの狙撃手だ。
幸か不幸か、ヘイヘの存在が良い意味で部隊内を活性化させてい
た。
彼にできるのだから、自分達にも可能なのではないか、とそう思
わせるのだ。
それからものの数分もせずに、彼女の前にシモ・ヘイヘとアーペ
リ・コノネンが姿を現した。どちらも小柄な男で、アーペリ・コノ
125
ネンもヘイヘよりわずかに身長が高い程度である。要するにどちら
の男たちも、アリナ・エーヴァ・ユーティライネンよりもずっと低
身長ということになる。
﹁シモ・ヘイヘ兵長、参りました﹂
﹁アーペリ・コノネン一等兵参りました﹂
身長は同じくらいだが対照的なふたりだな、とアリナ・エーヴァ
はつくづく思う。
寡黙で自己主張の少ないシモ・ヘイヘと、鋭い眼差しを常に辺り
に放っているアーペリ・コノネンはどこか神経質な印象を受ける。
アーペリ・コノネンが神経質そうに見受けられるのは、彼の若さ
故なのかもしれない。
とりあえず、とアリナは意識を切り替えた。
そんなふたりの狙撃手についての印象はともかく、である。
少なくとも、目の前にいる男たちはアリナ・エーヴァなどよりも
ずっと射撃の腕に優れている。
﹁おまえたちに特別な任務を頼みたい﹂
そう告げると、シモ・ヘイヘはいつものように相変わらず無言の
ままかすかに瞳を煌めかせた。一方のアーペリ・コノネンは驚いた
様子で息を飲み込んでから、右上の頭上を見つめて考え込む。
アーペリ・コノネン一等兵はサンテリ・ヴォウティライネンの部
うち
の、小隊長が殺されたことについてですか?﹂
下で、彼は自分の小隊長が死んだことを知っている。
﹁
単刀直入に言葉を切り出した若い狙撃手の青年に、アリナは片方
の眉尻をつり上げてから首をすくめた。
﹁冷静だね﹂
﹁冷静じゃないと、この仕事はやってられません﹂
コノネンの言い分はもっともだった。
おそらく、自分が同じ立場でも努めて冷静でいただろう、とアリ
ナは思う。
﹁そりゃ結構﹂
126
戦場では誰よりも冷静で、誰よりも冷酷であることが要求される。
そうしなければ自分の命のみならず、味方の命すらも危険にさらす
ことになるのだから。
だから、狙撃手たちは心を凍らせる。
目の前の標的を人間として意識することはない。
もしかしたら、意識している者もいるのかもしれないが、それで
も彼らは銃弾の一発で標的を始末するために神経を研ぎ澄ます。
狙撃手ではないアリナ・エーヴァにはできない芸当だ。
シス
﹁あんたたちの腕を見込んで、頼みがある﹂
﹁なんでしょう? 姉さん﹂
シモ・ヘイヘが応じた。
﹁わたしの言いたい事なんておおかたわかってそうだけど、ヴォウ
ティライネン少尉が殺された。敵に狙撃兵がいると思われる﹂
短い言葉で要点を詰めていくアリナに、コノネンはなにか言いた
そうな顔をしたが、結局言葉にはせずに、中隊長の言葉の続きを待
った。
﹁それで、あんたたちには中隊とは別行動をとって狙撃手の始末に
回ってもらいたい。シムナは慣れているだろうが⋮⋮﹂
そう呟くように言ってから、アリナ・エーヴァがコノネンを見や
ると青年は緊張した面持ちで瞳孔を収縮させた。
彼にこうした特別任務を任せるのは初めてだ。
いくら、腕利きの狙撃手であるとは言っても、今まで部隊と共に
行動するということしか経験のなかった若い彼には荷が重いかもし
れない。アリナはそう思いながら、緩くかぶりを振った。
本来なら、やはりベテランの狙撃手であるハロネンに命令を下し
たいところだったが、彼は小隊長を務める身の上だ。
そんなアールニ・ハロネンを部隊から外すわけにはいかない。
﹁コノネン、できるか?﹂
﹁⋮⋮了解しました﹂
数秒の逡巡の後に応えた彼に、アリナはきつめの眼差しをわずか
127
に和らげると自分やシモ・ヘイヘよりもずっと若い青年を見つめ返
した。
アーペリ・コノネンの年齢は、彼女の弟であるエイノ・イルマリ・
ユーティライネンとさほど変わらないくらいでしかない。そんな彼
に、重大な任務を申し渡すのは命を無駄にさせるようで申し訳ない
ものも感じる。
﹁荷が重いと思うなら、断ってくれていい﹂
はっきりと彼女が告げるのは、彼の身を心配するところも大きい。
しかし、それだけではない。
狙撃手が過度に緊張すれば、その分死の危険性が大きくなるのだ。
シス
腕の良い若手の狙撃手を失うわけにはいかないのだ。
﹁いえ、できます。やらせてください。姉さん﹂
はっきりと言い放った彼に、アリナは息を吐き出した。
﹁頼むよ⋮⋮﹂
ほっとしたようににこりと笑う。
﹁はっ﹂
敬礼をしたコノネンに、シモ・ヘイヘが軽く彼の肩を叩いた。
﹁肩に力が入りすぎだ。もう少し力を抜け﹂
ぶっきらぼうだが、ヘイヘは狙撃手のベテランとして部隊内の若
い狙撃手たちにそれなりに指導をしている。
部隊随一の手腕を持つからこそ、彼の忠告は聞き入れられる。
シス
﹁あ、はい⋮⋮﹂
﹁で、姉さん。行動開始はいつからですか?﹂
若い青年をたしなめながら、ヘイヘがアリナに問いかけた。
﹁今から行ってくれ。一刻の猶予もない。敵の狙撃兵を放っておけ
ば被害は大きくなるばかりだ、おそらく、奴らは部隊の指揮官を狙
ってくるだろう。そうなったら、目もあてられないからな﹂
言いながら、アリナ・エーヴァが地図をテーブルの上に広げた。
﹁ヘイヘは北東を、コノネンは北西をやってくれ﹂
﹁わかりました﹂
128
第三四連隊第二大隊第六中隊の布陣している陣地から北東には、
赤軍第八軍の指揮所がある。要するにヘイヘが担当するエリアの方
が危険性が高いということになるが、そこはやはり中隊指揮官であ
るアリナ・エーヴァが彼を信頼しているからである。
そして、コノネンに手薄なほうを任せたのは、彼が今回のような
任務が初めてであったから、それなりに気を利かせたということに
なる。
﹁頼む﹂
﹁承知しました﹂
シモ・ヘイヘがいつものように淡々と応じて、彼女のテントを出
て行き、それに若いアーペリ・コノネンが続く。
﹁コノネン﹂
﹁は⋮⋮?﹂
﹁いつもと同じだ。緊張しすぎなくていい﹂
アリナの気遣うような言葉をかけられて、コノネンは目を伏せた。
長い戦場での生活ですっかり無精髭が伸びているが、彼も髭を剃
って汚れた顔を拭けばそれなりにいい男だ。
﹁確か、おまえ、故郷に奥方がいたね﹂
﹁⋮⋮はい﹂
﹁生き残れよ﹂
なにがあっても死ぬな。
そう彼女がコノネンに告げた。
目線を下げるように会釈をした彼が、テントから出て行くとアリ
ナ・エーヴァは自分のロッキングチェアに座って額を片手で押さえ
た。
自分が部下たちに強いていることは危険な任務ばかりだ。
そんなことわかっている。
しかし、わかっていても目の前の状況から一歩たりとも退くわけ
にはいかない。
天候が回復したのはいい。しかし、そのおかげでソ連空軍も元気
129
になったことが頭が痛い。
上空から爆撃されればひとたまりもない。
ただでさえ、コッラーは激戦区と化しているのだ。それをソ連軍
が把握していないはずがなかった。
ありとあらゆる方法を用いて、彼らは事態を好転させるべく兵力
を差し向けてくるだろう。その一歩が、おそらく狙撃手部隊の投入
だ。
シモ・ヘイヘもアーペリ・コノネンも彼女が期待するだけの戦果
をたたき出すだろう。しかし、それを待っていて被害を最小限に抑
えられるだろうか。
頭の中で兵力と現状の計算をしながら、アリナはテントの天井を
見つめたままで目を閉じた。
130
15 世界最悪のクリスマス
ヴィッレ・ティッティネンに告げたように犠牲は避けられない。
なにせ、自分達が相手にしているのは八万の赤軍の大部隊である。
全くもって烏合の衆と言って等しいが、それでも圧倒的なその数は
シス
脅威だ。
﹁姉さん! イワンの爆撃機です⋮⋮!﹂
﹁言われなくてもわかってる⋮⋮!﹂
塹壕に飛び込みながら、アリナは苛立たしげに舌打ちした。ユホ・
アーッテラに放り投げられたヘルメットを受け取って乱雑に頭の上
に被ると、片手で押さえるようにしながら、彼女は青い瞳を頭上を
にらみあげた。
﹁ウラーでもなんでも叫んでろ、タコ﹂
乱暴な言葉を吐いた彼女は舞い上がる土埃に片目を細めながら塹
シス
壕から頭半分だけを出すと前方を見つめる。
﹁危ないですよ、姉さん﹂
怒鳴るようなアーッテラの声に、アリナは鬱陶しげに片手を振る
と聞こえはじめるキャタピラの軋む音に眉をひそめた。
﹁アーッテラ、戦車をなんとかしろ。わたしはちょっとオルガンと
ってくるから時間を稼げ﹂
﹁オルガンって⋮⋮、えっ! 姉さん?﹂
オルガン銃︱︱赤軍からの鹵獲兵器だ。
﹁というか、いつの間にそんなもん分捕ってたんですか!﹂
﹁うるさい、話しは後だ。ごちゃごちゃ言ってる暇があったら、と
っとと戦車と烏合の衆をなんとかしろ! いいな?﹂
長身を翻して腰を屈めながら、数人の部下たちを引き連れて早足
に陣地へと向かっていく彼女の後ろ姿を肩越しに見やって、ユホ・
アーッテラは深い溜め息をついた。
131
オルガン銃というのは、フィンランド国防軍が勝手につけた通称
だ。
簡単に言うと、四連装の七.六二ミリ対空機関砲である。時折︱
︱いやいつもだがアリナ・エーヴァ・ユーティライネンは唐突な行
動に出る。
﹁ティッティネン中佐からもらったんだよ﹂
戻ってきた彼女はそう言った。
軽いその言葉はまるで戦場ではない場所でなんでもない会話をし
ているような気楽さだ。
﹁戦車は?﹂
﹁なんとか止めましたが、キリがありません﹂
﹁そうか﹂
相変わらず頭上を飛んでいくのはソ連空軍の爆撃機だ。鬱陶しい
ことこの上ない。
塹壕の上に引っ張り上げたオルガン銃を固定して射角を調整した
彼女は土埃で汚れた頬を手袋をした手の甲で擦りながら片目を細め
ると正確に狙いを定めた。
こういった危機的な状況の時におけるアリナ・エーヴァの嗅覚の
鋭さ部隊では随一だ。
﹁あなた、砲兵にでもなったほうが良かったんじゃないですか?﹂
﹁えー? やだよ。わたし、白兵戦の方が好きだし﹂
いけしゃあしゃあと告げた彼女は、立て続けに対空砲を発射する。
衝撃と、リズミカルな音が響いた。
﹁面倒臭い三つ子だこと﹂
三機編隊の爆撃機を見上げてアリナ・エーヴァは独白するように
呟いた。
ウラー
そんな彼女のぼやくような言葉を聞きながら、アーッテラは部下
たちに指示を出して、﹁万歳!﹂と叫びながら突撃してくる赤軍兵
士に向けて八一ミリの迫撃砲を向けた。
正直、それで充分なわけではないが、それでも今、空爆と戦車、
132
シス
そして歩兵の突撃によって混乱している状況では狙撃兵による迎撃
だけでは心許ない。
﹁空は任せましたよ、姉さん﹂
﹁任された﹂
最初の数発で頭上を飛んでいった爆撃機に砲弾を撃ち込んで、ア
リナながら塹壕の中に頭を引っ込める。
﹁姉さん! あんまり無茶苦茶なやり方せんでください!﹂
叫んだアーッテラの言葉尻に爆音が重なった。
衝撃波と爆風に中隊の隊員たちは耳を塞いだ。
﹁お見事、でしょ⋮⋮!﹂
自画自賛する彼女をヘルメットの上から思い切りどついたアーッ
テラは、塹壕から顔を出して﹁げっ﹂と口の中で声を上げた。
目と鼻の先まで赤軍兵士が迫っている。
﹁やっちまえ﹂
アリナが呟いた声が聞こえたような気がしたのは、彼の耳のせい
だったのだろうか。
同時に、やはり頭のすぐ真上を飛んできた爆撃機が爆弾を投下し
ていく。頭を抱えて衝撃をやり過ごしながら、アーッテラは怒鳴っ
た。
﹁どうするんです! 姉さん!﹂
﹁どうもこうもないよ!﹂
叫び返されて彼は土煙と雪煙が上がる中必死の思いで頭を抱えた。
迫り来る歩兵を迎撃するどころではない。爆撃から身を守るだけ
で精一杯の状況に陥っている。
アリナも同じらしく、ヘルメットをかぶった頭を押さえて体を縮
めていた。
﹁どうもこうもないって、あんた指揮官でしょ! なんとかしてく
ださいよ!﹂
思わず乱暴になる叫び声に、アリナ・エーヴァはにたりと笑った。
そんな上官の余裕の笑顔を見たユホ・アーッテラは思わず脱力する。
133
﹁大丈夫だよ、心配すんな﹂
爆音がおさまってから、ふとアーッテラは異変に気がついた。
歩兵たちの声が聞こえない。
馬鹿のように叫び声を上げながら突撃してくる赤軍兵士が静かな
のだ。
﹁ほら﹂
アリナが塹壕から目から上だけを出して長い人差し指で前方を指
し示すと、そこには異様な光景が広がっている。
自軍の爆撃で戦闘不能に陥って呻き苦しむソ連軍の兵士たちの姿
だ。
何度か頭上を飛んでいく爆撃機はすでに爆弾を全て落としている
のか、時折機銃を地上に向けて撃つばかりだ。
﹁ま、お仕事しておきましょうかね﹂
言いながらオルガン銃を構えて照準を合わせた彼女は正確に爆撃
機に向かって発射した。
戦車のときといい、対空砲といい。
彼女は万能すぎる。
﹁あんただって一騎当千じゃないですか!﹂
部下のことはさんざん持ち上げていい気にさせるくせに、土壇場
になるとこれである。はっきり言って、彼女の部下の一部の狙撃兵
たちも相当人外じみていると思うが、その上官であるアリナ・エー
ヴァ・ユーティライネンも充分に人外なのではないかとすら思わせ
られた。
﹁上官に向かってあんたとはなんだ! あんたとは!﹂
﹁あんたなんてあんたで充分です!﹂
軽口の応酬にも聞こえるが事態は結構切迫している。
爆撃機のエンジン音に負けないように叫び返したアリナの対空砲
によってたたき落とされる結果になったソ連の爆撃機は、第三四連
隊第二大隊第六中隊の陣地のすぐ脇に墜落した。
それを見てアリナがほっと息をついた。
134
﹁あー、良かった⋮⋮﹂
彼女の声色になにやら不穏なものを感じて、アーッテラが視線を
流す。
﹁テントに落ちなくて﹂
﹁どうせあなた、椅子の心配でしょう﹂
溜め息混じりの副官の声に、アリナは胸の前で拳を握りしめた。
﹁当たり前でしょ、お気に入りなんだから。わざわざ持ってきたん
だよ?﹂
うめき声をあげる赤軍兵士たちを尻目に塹壕から立ち上がった彼
シス
女は、肩越しに振り返ってから頭の上からヘルメットを外した。
﹁危ないですよ、姉さん﹂
﹁大丈夫だよ、あとは冬将軍が始末してくれる﹂
言いながら、彼女はアーッテラに腕を差し伸べた。
そのときだ。
彼女の顔の脇に銃弾がかすめて飛んでいく。
アリナは反射的に腰のコルト拳銃を引き抜いた。安全装置を一瞬
で外すと照準を合わせる。
はっきり言って、第六中隊でシモ・ヘイヘの次に危険なのはこの
女性士官だ。
大概の場合、なにをやらせてもそつなくこなす。
自分を狙った青いズボンの将校の眉間を一発の弾丸で撃ち抜いた
彼女は、機嫌悪そうにフンと鼻を鳴らした。
﹁危ないな﹂
中腰の姿勢からそのまま前に倒れていく男に目もくれず、アリナ・
エーヴァは面倒臭そうな表情を隠しもせずにヘルメットをかぶり直
すと肩から力を抜いた。
﹁だから、戦場でメット取るのは危ないんだと何度言えば⋮⋮﹂
﹁別にいいじゃん、大丈夫だと思ったんだよ﹂
﹁あんた、今殺されかけたじゃないですか⋮⋮!﹂
﹁⋮⋮やだね、これだから。細かいこといちいちぐだぐだと﹂
135
隊員たちの手を借りながら、オルガン銃︱︱七.六二ミリ対空機
関砲を運ぶアリナは、アーッテラの罵倒を背中に受けながら肩をす
くめてみせる。
﹁で、それ、ティッティネン中佐がくれたんですか?﹂
﹁うんー、頑張ってるよい子にプレゼントだってさー。良かったね
ー、早速役に立って﹂
なにやら含みのある発言だが、おかげで襲いかかる赤軍を撃退で
きたのでアーッテラは良しとすることにした。
﹁頑張ってるご褒美ですか⋮⋮﹂
単にこれからもこき使われる、という事を示唆しているのではな
かろうか、とも思うがそんなことはおそらくアリナ・エーヴァもわ
かりきっているだろう。
﹁じゃ、プレゼントもらった分がんばらないといけませんね﹂
﹁そうだねぇ﹂
言いながら、アリナは陣地から少し離れたところで黒煙を上げて
いる爆撃機に視線を滑らせてから、あいている片手で自分の金髪の
前髪をつまんでみた。
﹁プレゼントもらっちゃったからがんばらないとね﹂
底抜けに明るい笑顔で、アリナはそうして部下たちに笑いかける
のだった。
シス
﹁頑張ろうね﹂
﹁了解、姉さん﹂
*
墜落した爆撃機が何度か爆発を起こして、中隊の兵士たちの肝を
冷やすが当の隊長であるアリナ・エーヴァは驚いた様子もなく指示
を下している。
そろそろ日も落ちてくるだろう。
136
十二月末のフィンランドは急速に気温が下がる。
﹁しかし、相変わらずというか⋮⋮﹂
首の後ろを撫でながら、ユホ・アーッテラは白い息を吐き出した。
﹁うん?﹂
﹁イワンは容赦なく自分たちの味方にも爆弾撃ち込んできますな﹂
﹁そりゃ、最前線は混戦状態だからね。まともな軍隊なら、混戦状
態になっているところに空爆なんてしやしないだろうけど、奴らは
まともじゃない﹂
にやりと笑うと、アリナはユホ・アーッテラがくわえているタバ
コを指先で取った。
長い睫毛を瞬かせるその一瞬の眼差しがひどく色香を感じさせて
どきりとさせられるが、つきあいがそれなりに長いユホ・アーッテ
ラはそんなことに騙されない。
まずそうにタバコをくわえたアリナの横顔を見つめてから、アー
ッテラは彼女の視線を追いかける。
つい先ほどまで彼女らが戦闘を行っていた塹壕の向こうで、赤軍
の兵士たちがじょじょに動かなくなっていくのが見えた。
タバコがまずいと思うなら吸わなければいいのに、と思うがアー
ッテラは口にはせずにいた。
﹁助けますか?﹂
﹁つきあってらんないよ、こっちだって物資がないんだ﹂
冷酷にも聞こえる彼女の言葉はもっともだ。
﹁⋮⋮了解﹂
表情にはほとんど出さないが、彼女が苦々しく思っていないわけ
ではないことを彼は知っている。良くも悪くも、ユホ・アーッテラ
とアリナ・エーヴァ・ユーティライネンはつきあいが長いのだ。
彼女は前線指揮官として必要な判断を下すだけだ。
味方の兵士たちのためにと選択する行動を、副官であるアーッテ
ラが咎められるわけもない。
事実、前線のフィンランド兵士たちは、食料さえ自己調達してい
137
るのだ。
部隊内に猟師が多いことが幸運だった。
彼らは、獣を捕らえそれを糧にする。
もっとも、人間を狩るのは得意でも狩猟はあまり得意ではないら
しいアリナは、その辺りについては兵士たちの力に頼りっきりだ。
曰く、﹁なんでもできるよりも、なにか欠点があったほうがかわ
いいでしょ﹂だそうだが、単に、狩猟が得意ではないからやらない
だけだということをアーッテラは知っている。
﹁なんで、姉さんは猟師にならなかったんです? 狙撃し放題です
よ?﹂
首を傾げるアーッテラに、アリナはタバコの煙を大きく吸い込ん
でから指先でつまむとそれを副官の男の唇に返してから、自分の顔
を手のひらで仰ぐ。
﹁猟師も楽しそうだとはは思ったんだけどさ。人間に対して抵抗す
る手立てもない動物に対して銃を向けるのって、なんかフェアじゃ
ないと思ってさ﹂
﹁ほう﹂
そんな難しいことをはたして考えていたのだろうか。
﹁それは本心ですか?﹂
﹁半分は本音だよ﹂
アーッテラの言葉にアリナがあっさりと応じる。
白い吐息をもらしながら彼女は金髪をかきあげた。
﹁半分、と言いますと?﹂
﹁人間を殺してたほうが楽しいからね﹂
手袋をした拳を自分の胸の前で打ち合わせて、彼女はそうしてタ
バコをくわえているアーッテラに笑う。
﹁軍隊ってのはさ、公明正大に人殺しができる。平時にやったら、
ただの犯罪者だけど、軍隊で敵を殺している分には合法だからね﹂
﹁⋮⋮姉さん、冗談もほどほどにしないとそのうち身を滅ぼします
よ﹂
138
どこまで本気で、どこまで冗談なのかわかりにくい彼女の言葉に、
アーッテラは根本まで吸った煙草を地面に落とすとやれやれとかぶ
りを振って見せる。
﹁そんなこと言って、どうせユホちゃんはわたしがどこで生きてよ
うが、のたれ死のうが興味ないんでしょ﹂
﹁他人ですからね﹂
﹁冷たい男だこと﹂
﹁だって姉さん、その辺の男連中より男らしいじゃないですか﹂
至言だった。
彼女は誰よりも強い。
そもそも強くなければ、戦場で屈強な男たちを束ねて、その先頭
で戦うことなどできるわけがない。
﹁まーね﹂
否定するわけでもなく相づちを打ってから、彼女は踵を返すと歩
きだす。
﹁それより、シムナとコノネンはまだ帰ってきてないの?﹂
﹁まだですね、そろそろ日も落ちるから戻ってくるとは思うんです
が﹂
そこまで言ってから、アーッテラは顎に手を当てて考え込んだ。
おそらく北西に展開しているアーペリ・コノネン一等兵は戻って
くるだろうが、シモ・ヘイヘ兵長についてはどうだろう。
彼は薄闇の中でこそその手腕を発揮する。
腕利きの猟師としての狙撃の腕。
﹁でもシムナについては保障できませんよ﹂
﹁わかってるよ、あいつはいつものことだ。ただ、コノネンのほう
がね﹂
﹁⋮⋮︱︱﹂
彼女の気遣いにアーッテラは﹁あぁ﹂と呟いた。
﹁気になりますか?﹂
﹁コノネンはわたしよりも良い狙撃の腕を持ってるとは思うけどね、
139
実戦経験が少ないのが心配だ﹂
ママン
﹁心配性ですね。あんまり心配しすぎるとそのうち母さんとか言わ
れますよ﹂
﹁いいよ、呼び方なんてなんだって﹂
部下のことが心配にならない上官がいないわけがない。
もしかしたら赤軍の前線指揮官たちは心配などしていないかもし
れないが、アリナは部下たちが心配だった。
ヴィッレ・ティッティネンは、アリナ・エーヴァに﹁手足がもが
れて苦労するのは自分だ﹂と言っていた。アリナはそのとき言及し
なかったが、彼女だって前線指揮官の一人なのだ。
﹁手足がもがれたら、わたしが困るんだ﹂
ぽつりとつぶやいたアリナ・エーヴァはそうしてから、武器の手
入れをしている兵士たちにねぎらいの言葉をかけなが彼らの横を歩
き去っていく。
﹁素直なんだか、素直じゃないんだか⋮⋮﹂
彼女のそんな後ろ姿を眺めながら、ユホ・アーッテラはかぶりを
振ると伝令の兵士の声に振り返った。
﹁副長、牧師がつきました﹂
﹁牧師?﹂
﹁はい、従軍記者の一行です﹂
そういえば、従軍記者と言えば中隊長であるアリナ・エーヴァ・
ユーティライネンの傍には彼女と旧知の仲であるヘイモ・ネストリ・
の顔を拝みに来たのか?﹂
恐怖
とだけ呼ばれるアリナ。
マルヤーナがいたが、その男とは別の人物と言うことになるのだろ
恐怖
うか。
﹁
﹁そのようですね﹂
恐怖。
モロッコの恐怖。もしくは単純に
女性でありながら、その二つ名もどうなのだろう、とは思うが、
そう呼ばれている本人の様子を見ている限り、あまり気にしている
140
様子は感じられない。
﹁わざわざあの無防備地帯を渡ってきたのか⋮⋮﹂
言いながらアーッテラは首を傾げると、兵士が案内するように歩
きだすその後を追いかける。
第五中隊と第六中隊がそれぞれ布陣している地点の間には、全く
防衛されていない農地が広がっている。そこは敵からも味方からも
丸見えで、危険極まりない場所だ。
攻めるにはなにもなさ過ぎて身を隠す場所がなく、守るにもどう
しようもない。
航空支援でもなければどうすることもできない場所だった。そし
てその地帯を通過しようなどという猛者がいたとすれば狙撃兵の餌
食になりかねない。
﹁大した度胸じゃないか﹂
それだけでも評価に値する。
そんなことを暢気に思いながら、ユホ・アーッテラは緊張から解
放された表情で荒い呼吸を吐きだしている記者たちの一行の元にた
どり着いた。
﹁ユーティライネン中尉にお会いしたい﹂
どこか硬い印象を受ける男の声に、アーッテラは眉をつり上げる。
彼の階級は中尉で、アリナ・エーヴァと同じだった。
フィンランド国防軍に動員されている士官の多くは予備役の者が
ほとんどだ。アリナ・エーヴァ・ユーティライネンがそうであるよ
うに、目の前の男も﹁そう﹂だった。
従軍記者と牧師を伴ってやってきたのはエリッキ・パロランピと
言う。
シス
厳しげな眼差しが印象的で、ユホ・アーッテラは思わず﹁この人
は姉さんとは反りが合わないだろうな﹂と思った。
﹁姉さん、牧師がつきましたが﹂
近くのテントに向かってアーッテラが声を張り上げると、ひょっ
こりとテントから金髪の女性が顔を出した。
141
ちなみに相変わらずひどい顔だ。
煤だらけで汚れている。
﹁いいよ、入ってもらって﹂
金髪に青い瞳と白い肌。
典型的な北欧の人間の容姿だ。
そんな彼女の印象を、従軍牧師であるアンッティ・ランタマーは
﹁勇壮﹂な印象だと感じた。
飾り気のない笑顔でにこにこと笑っている長身のその人は、彼ら
を招き入れてから、部下の一人にコーヒーの準備を任せると、目の
前の男たちを観察するようにじっと凝視した。
﹁なんだ、パロランピか﹂
﹁⋮⋮なんだとはご挨拶だな。ユーティライネン﹂
この温度差だ。
そもそもそりが合わないだろうことは最初から予想していたが、
顔見知りだったということは意外だった。
破天荒な彼女は結構顔が広い。
顔が広いと言うよりは名前が知れ渡っていると言った方が正しい
かもしれない。
﹁おまえがコッラーの防衛に参加したと聞いたときはどうなること
かと思ったぞ﹂
﹁んんー? それは良い意味で?﹂
わざとらしく目を細めた彼女に、エリッキ・パロランピは憮然と
してから目尻をつり上げる。
﹁⋮⋮なわけあるか﹂
﹁それで、自称政治委員のパロランピ中尉がこんな血で血を洗う最
前線まで何の用ですかね?﹂
相変わらず臆することもない彼女の様子に、エリッキ・パロラン
ピは薦められた敷物に座り込んでから自分の膝に肘をついた。
﹁おまえが、牧師を連れてこいと言ったから、連れてきてやったん
だろうが。それともなにか? 牧師ひとりでこんなところ横断させ
142
る気だったのか?﹂
﹁なんだ、迎えに来てくれって言ってくれれば行ってやったのに﹂
自分のペースを崩すこともなく飄々としているアリナ・エーヴァ
は、従軍記者と牧師の前に腰をおろしてからにこりと笑った。
﹁おまえはいつも後先考えない奴だな。前線指揮をしていて迎えも
へったくれもあるか⋮⋮!﹂
投げ捨てるような彼の言葉に、アリナは青い瞳を和らげるとパロ
ランピの襟元に指先を伸ばす。
﹁ゴミついてるよ﹂
﹁あのな⋮⋮﹂
﹁わたしは、絶望なんてしない。要求されればなんでもやってみせ
る﹂
その覚悟はできている。
アリナはそう続けてから、パロランピを見つめると両手の平を打
ち合わせるようにしながら立ち上がった。
﹁ま、よくおいでくださった﹂
なにもないところだけど。
﹁牧師さんたちには、無理を言って申し訳ない﹂
彼女は言いながら兵士が運んできたコーヒーで客人をもてなして
ほほえんでみせた。
﹁もうすぐクリスマスだからね、兵士たちに気持ちを休めてもらい
たかったんだよ﹂
つぶやいた彼女は、遠い場所を見つめるように瞳を細めてから息
を吐いた。
コッラー地方の激戦区。そこを支える兵士たちの精神は疲弊して
いる。すり切れた神経では戦線を支えきるのは不可能だ。
﹁ここは、ひどい戦場だからね⋮⋮﹂
アリナがぽつりと独白するように言った。
瞑目する。
そこはひどい戦場だった。
143
連日が死で埋め尽くされている。
敵も、味方も。
﹁本当に、危険なところをよくおいでくださった﹂
アリナ・エーヴァはそう言って、ランタマーに片手を差し伸べた。
彼女の青い瞳に吸い寄せられるようにその手を取ると、女性にして
は驚くほど強い力で握られる。
ふと瞳を和らげたアリナは、そうして金色の睫毛を一瞬おろすと
最前線
へ﹂
すでに不敵な色彩がその瞳に戻っていた。
﹁ようこそ、
144
16 白い死に神
二人の狙撃手に特別任務を与えたものの、アリナ・エーヴァ・ユ
ーティライネンの指揮する第三十四連隊第二大隊第六中隊は相変わ
らずな状況で一進一退を繰り広げていた。
攻めるソ連軍を撃退し続けるアリナ・エーヴァの元に報告がきた
シス
のは年の暮れだ。
﹁⋮⋮姉さん、いいですか?﹂
﹁んぁ?﹂
ヒュウヒュウと風が空気を切る音が聞こえる。
その音に紛れこむような男の声に、揺り椅子に腰をかけていた彼
女は目の上に置いていた腕を上げるようしてテントの天井を見やる。
﹁アーッテラか、どうした?﹂
コートのポケットに突っ込んだ懐中時計を見やってから首をすく
めた。
﹁シムナが戻ってきました﹂
﹁⋮⋮コノネンは?﹂
アーペリ・コノネンは朝早くから任務で狙撃銃を持って陣地を出
て以来、日が暮れても戻ってきていない。口にこそ出さないがアリ
ナ・エーヴァが、若い狙撃手を気遣っているのを知っているユホ・
アーッテラは返す言葉もなく黙り込んだ。
﹁そうか﹂
短く応じてから、アリナ・エーヴァ・ユーティライネンはぎしり
とロッキングチェアを軋ませながらブーツを履いた足を地面におろ
した。
ごつりと重い音が響く。
﹁すぐに行く。シムナにコーヒーでも出してやれ﹂
﹁了解しました﹂
145
冷たい空気の中をユホ・アーッテラがアリナのテントの前を離れ
た気配を感じ取って、彼女はそっと片目をすがめた。
シモ・ヘイヘが戻ってきたのは良いことだ。
しかし、気がかりなのはアーペリ・コノネンのことだった。ヘイ
ヘとは違って、夜間の狙撃については、それほど慣れていない。
彼の身が危険に陥らなければいい、そんなことを思いながら彼女
はテーブルの上の毛皮の帽子を長い指で掴むと無造作にかぶる。そ
うして、分厚い手袋をはめてから彼女はテントを出た。
﹁見張りご苦労﹂
歩哨の兵士にねぎらうように声をかけてやりながら、彼女は自分
よりも上背の高い青年の肩を軽くたたいてやって笑う。
﹁姉さんもご苦労様です﹂
鋭い動作で敬礼を返した兵士に唇の端で笑いかけると、彼女はそ
うして目の前の暗闇に視線を走らせた。
時刻は深夜に近い。
兵士たちも充分に体を休めなければ、翌朝からの戦闘に関わる。
もっとも、指揮官であるアリナ・エーヴァも自分のテントで休ん
でいるといっても、ほんの小さな物音で目覚めてしまうような緊張
感の中にある。
戦闘が始まってからすでに一ヶ月近い。
どうしようもない状況は、けれども改善されることもない。それ
がアリナには苛立たしくて、彼女はシモ・ヘイヘのテントを訪れた。
温かいコーヒーの注がれたカップを手にして体を温めている身長
の低い男に、アリナは黙って顎をしゃくった。テント内では部下の
兵士たちが眠っている。
アリナの気配に気がついて薄目を開けた彼らに﹁寝ていろ﹂と声
をかけてやって、彼女は狙撃兵の男をテントの外へと連れだした。
﹁それで、どうだった? シムナ﹂
﹁相手も腕の良い狙撃手だったので手を焼きましたが、それと思わ
れる赤軍の狙撃兵を射殺しました。おそらくこれで、いったん狙撃
146
による被害はやむはずです﹂
﹁そうか⋮⋮﹂
シモ・ヘイヘが問題の狙撃兵を射殺するまでに何人かの被害者が
出た。
三人の小隊長のうちサンテリ・ヴォウティライネンとヨウコ・ル
オッカが殺害された。副官のユホ・アーッテラも危うく狙撃による
被害者になるところだった。
伝令の兵士と、補給担当の兵士が数人殺害され、この数日で部隊
の被害者は将校二人を含めて七人に上った。
アリナ・エーヴァの推察では同一の狙撃兵によるものだろう、と、
シモ・ヘイヘとアーペリ・コノネンには状況説明がされていた。
﹁そういえば、シムナ。おまえ、コノネンのことを知っているか?﹂
﹁⋮⋮いえ﹂
﹁そう﹂
﹁心配ですか⋮⋮?﹂
ヘイヘに問いかけられてアリナが苦笑する。
﹁それなりに心配しているよ﹂
きつい瞳がかすかに和らいで部下の狙撃兵を見つめ返す。そんな
アリナ・エーヴァの視線を受けて、彼は凍り付く睫毛を伏せた。
モシン・ナガンを抱え直す。
﹁迎えにいってきましょう﹂
﹁無理しなくていい、シムナ﹂
ヘイヘはたった今、狙撃という任務から帰ってきたばかりなのだ。
兵士のひとりが帰らないからといって、そのための捜索などにかり
出せるわけがない。
﹁大丈夫です、コッラーの雪には慣れています﹂
そう言ってから、スキーをはくと愛銃を抱えて暗闇の中へと消え
ていく彼の後ろ姿に、アリナは溜め息をついた。
日に日に戦況は悪化していく。
数日前、ヴィッレ・ティッティネンにアリナ自身が﹁近いうちに
147
コッラーは崩壊寸前までに追い込まれるだろう﹂と予告した。
﹁このままじゃ、そのうち剣と弓矢で戦えとか言われそうでいやだ
な﹂
暗闇の中で、彼女はぽつりと呟いた。
ヒュウと鋭い音をたてて風が駆け抜けていく。その風にすらいや
シス
なものを感じてアリナ・エーヴァは苛立たしげに舌打ちした。
﹁姉さん。シムナは?﹂
﹁コノネンを迎えにいってくれるそうだ﹂
﹁吹雪になりますよ⋮⋮?﹂
暗い空を見上げながら雪のちらつきはじめた空気に、ユホ・アー
ッテラが上官に言えばアリナも頷いて目を細める。
﹁シムナもわかっているはずだ﹂
﹁⋮⋮︱︱、俺も助っ人に出ましょうか?﹂
﹁いや、行かなくてもいいと思う。あいつはひとりでなんとかでき
るはずだ﹂
冷静に頭の中で情報を整理するが、考えれば考えるほど現状は明
るくない。
﹁わかりました﹂
雪の中に立ち尽くしたまま、顎に手をあてて考え込んでいるアリ
ナ・エーヴァの横顔に、ユホ・アーッテラが視線をやった。
﹁姉さんも、連日の戦闘で疲れてるでしょう。少し休んでください﹂
﹁⋮⋮そうするよ﹂
毎日、明けても暮れてもコッラーは激戦区だ。
いつ終わるのか。
そんな思いにすら捕らわれることもある。しかし、それでは前に
進むこともできないし、なによりも弱気になったが最後、その場所
を突破されることは目に見えている。
﹁⋮⋮姉さん。俺たちは、この間のクリスマスに賛美歌を歌わせて
くれた姉さんに感謝してるんですよ。姉さんは、俺たちにとって誰
よりも大切な、そして誇るべき指揮官です﹂
148
﹁急にそんなこと言われると照れるじゃん。どうしたの? ユホち
ゃん﹂
振り返りながら苦笑いを浮かべたアリナに、彼は笑みを返した。
昼間、戦場で毒づき合っているふたりと同一人物には思えない。
﹁たまには、俺たちも姉さんに感謝を伝えないとって、部下たちと
話してたんですよ﹂
﹁別にいらないよ、そんなもん﹂
わたしはただの戦闘狂だからね。
自虐的につぶやいた彼女にユホ・アーッテラは、アリナ・エーヴ
ァの肩を軽くたたいた。
﹁要するに、俺たちは姉さんが好きだってことです﹂
いつも自信に溢れた眼差しで銃を握り、前線に立つ彼女を見て部
隊の兵士たちは奮い立つ。指揮官である彼女が危険に顧みることも
なく、最前線にいるからこそ兵士たちがついていくのだ。
自分達の傍に、彼女︱︱モロッコの恐怖がいるかぎり進む先にあ
るものは勝利だけなのだ、と。
ユホ・アーッテラの言葉を聞きながら、アリナは自分のテントへ
と向かって歩きだした。少なくとも外見上は表情をわずかも変えて
はいない。
﹁わたしたちがやることはひとつだけだ﹂
そう。
ソビエト連邦の軍隊をたたきつぶすことだけ。
それ以外の目的はない。
﹁少し休む。なにかあったら遠慮なく起こしていい。アーッテラ﹂
﹁はっ﹂
前線指揮官のひとりと、その副官としてふたりは会話を終えた。
シモ・ヘイヘは赤軍の狙撃兵を仕留めたと言っていた。これで少
しでも事態が好転すれば良い、と思いながら彼女は自分のロッキン
グチェアに体を深く沈めると目を閉じた。
外見的にはそうは見えなくても疲労極まりない彼女は一瞬で眠り
149
へと墜落していく。
*
そうして、その翌日。シモ・ヘイヘからアーペリ・コノネンの遺
体が北西の森の奥で発見されたということを聞かされることになる。
手ひどい拷問を受けて殺されていた、と、ヘイヘは静かに上官の
アリナに告げた。
アリナ・エーヴァは深い溜め息をつくと自分の肩を軽くたたい
た。
﹁ひどい状態でした﹂
そう告げたシモ・ヘイヘに彼女は無言のまま肩をすくめて、差し
だされたアーペリ・コノネンのドッグタグを受け取る。
元は楕円形のタグだが今は半分に割られている。
つまるところ、それは、その登録番号を持つ者︱︱アーペリ・コ
ノネンが今はその心臓の鼓動を止めてしまったことを意味していた。
それをじっと見つめた彼女はそっと片目を細めた。まるで黙祷でも
するかのように、ほんの一瞬だけ長い睫毛が伏せられる。しかし、
結局アーペリ・コノネンについては触れずにアリナ・エーヴァ・ユ
ーティライネンは眼差しをあげると、ベテランの狙撃手を見つめた。
﹁⋮⋮ご苦労だった﹂
短いその言葉に隠された彼女の本心。
﹁いえ﹂
やはり短く応じたヘイヘはアリナ・エーヴァの心中を思いやらず
にいられないが、そんなことに気を回していられるような状況でも
ない。
イワン
ほふ
ただ、彼らは黙々と目の前の任務をこなすだけだ。
そして、その任務とは、ソ連兵を屠ること。
それ以外にない。
150
﹁ところで、シムナ﹂
そう言ったアリナの表情はすでに切り替えられているようで、別
の話題に意識を移している。この切り替えの早さは大したものだ、
とヘイヘは思った。もっとも、だからこそ、彼女は前線指揮官とし
て部下たちを指揮し、なおかつ、兵士たちから高い信頼を向けられ
るのだろう。
﹁はい、なんでしょう?﹂
年齢が近いからか、アリナ・エーヴァもシモ・ヘイヘも階級は違
えど互いに話しやすいところがあるらしい。もっともふたりの関係
はヘイヘが、アリナに対してあくまでも上官に対する部下、という
立場を守っていたというのも大きかったのかもしれない、
シス
﹁狙撃で始末したのは何人になった?﹂
﹁そんなこと俺より、姉さんの方が詳しいんじゃないですか?﹂
中隊長のユーティライネンの言葉に応じながら、ヘイヘは考え込
むような顔つきになって指折りなにかを数えている。
実際としては、戦場という命の駆け引きをしている場所で余分な
ことを考えている暇はない。
﹁うーん⋮⋮?﹂
アリナがうなる。
そしてヘイヘも首を傾げながらつぶやいた。
﹁一五〇いくかいかないかってところじゃないですかね﹂
﹁そんなもんか﹂
開戦してから一ヶ月余りの戦果としては大したものだ。
﹁⋮⋮おそらく﹂
﹁ふむ﹂
危機感に欠ける声色で会話を続けるふたりの目の前には死体が広
がっている。
雪に埋もれてわかりづらいが、死んだソ連兵の亡骸の上に雪が積
もって、その上にまた死骸が積み上がる。
そんな戦場だった。
151
ヴェーラヤ・スメルチ
コッラーの森と湖は、重苦しい死に支配されている。
﹁⋮⋮白い死に神﹂
﹁なんですか? それは﹂
不意にぽつりと呟いた女性士官の言葉に、ヘイヘが視線をやると
アリナは森の向こうを凝視したままで鼻から息を抜いた。
﹁シムナ、おまえのことだよ。死に神、だってさ﹂
﹁ははぁ⋮⋮?﹂
﹁モロッコの恐怖﹂の部下が﹁白い死に神﹂とは、なんとも笑っ
てしまいたくなるような仰々しい二つ名の羅列に、ヘイヘが苦笑す
る。
﹁ま、そんなことはどうでもいいや﹂
あっけらかんとした口調でつぶやいた彼女は、部下のひとりが運
んできた食事を受け取るとどんよりと曇る空を見上げた。
﹁では、俺も食事をすませてきます﹂
﹁行っといで﹂
立ったままスープを喉に流し込んでいるアリナは、およそ女性ら
しいとは言えないが、少なくともヘイヘたち部下にはどうでも良い
ことだった。彼女が女性であろうと、仮に男性であったとしても、
彼らの上官であり、素晴らしい指揮官であるという事実には変わら
ない。
ヘイヘの後ろ姿を見送ってから、アリナは眉をひそめると物思い
に沈んだ。
不足する物資が今のところ彼女の頭痛の種だ。。
かろうじて弾薬や武器は﹁現地調達﹂できるからまだいい。
しかし、人員の不足はどうすることもできない。
小隊長が二人殺された穴をどうやって埋めるべきか。
幸い、彼女の部下たちはよくまとまっているから、そうそうアリ
ナ・エーヴァの命令から外れることはない。
しかし、それでも一個中隊をひとりで指揮するのは骨が折れる。
サンテリ・ヴォウティライネンとヨウコ・ルオッカが殺害された
152
のは頭が痛い問題だ。もちろん、戦場にいる限りは死は予測できる。
現状、それぞれの小隊には小隊長に格上げした分隊長がいるが、ど
ちらも経験不足が大きな問題だ。
残った小隊長のアールニ・ハロネンの負担も大きいだろう。
﹁考え事ですか?﹂
低い声に振り返った。
アールニ・ハロネンは女性としては長身のアリナよりもずっと背
はんごう
が高い。なにせ、彼と比べればアリナが細く女性的に見えるほどだ。
﹁いろいろとね﹂
紫煙の香りに目を伏せたアリナ・エーヴァは、手にしていた飯盒
を部下の男に面倒臭そうに押しつけると溜め息をつく。
﹁俺は今日は炊事番じゃありませんよ﹂
﹁わたしも炊事番じゃない﹂
素っ気なく応えた彼女に男が笑う。
﹁死にませんよ、俺は﹂
﹁別に心配なんてしていない。おまえが死ぬ時は、中隊が壊滅する
ときだから安心しろ﹂
﹁縁起でもないこと言わんでください﹂
どこをどうすれば、安心して良い仮定になるのか。
アリナの捨て台詞にアールニ・ハロネンは、兵士を呼びつけて彼
女の飯盒を手渡した。
﹁夜が明けますね﹂
静かに告げた狙撃手の小隊指揮官は、ちらと横目にアリナに視線
を滑らせる。彼女はひどく鋭利な眼差しを放っていて、どれだけ多
くのことを考えているのかと思わせる。
﹁イワンも、懲りないね﹂
懲りてくれれば楽なんだけど。そう続けてから彼女は雪の上で踵
を返した。
おそらく、夜が明けきる前にソ連軍の第一陣が押し寄せるだろう。
それに対して彼女らは迎え撃たなければならない。ぼさっとして
153
いる暇などなかった。
ウラー
*
﹁万歳!﹂という雄叫びは正直聞き飽きた。
﹁⋮⋮イワンの根城をどかんとできるでっかい爆弾でもあればいい
のに﹂
塹壕にこもって機関短銃を抱えているアリナは忌々しい溜め息混
じりにそう言った。
結局、一個小隊はアリナ・エーヴァ自らが指揮し、他の二個小隊
の片方をアールニ・ハロネンがまとめ、もう一方を分隊長から昇格
させた准尉が指揮することになった。
今日も今日とて雪の降り積もるコッラーの湖沼地帯を叫び声を上
げながら突撃してくる赤軍兵士を正確に返り討ちにしながら、時折
迫撃砲をたたき込む。
モロトフ・カクテル
歩兵の脇を走る戦車に対しては、フィンランド兵自らが肉薄して
火炎瓶をお見舞いしてやって、その動きを止めた。
雪の中に伏せた白色迷彩を着込んだフィンランドの兵士たちは、
雪に紛れて淡々と自身に与えられた仕事をこなしていく。
︱︱ここを突破させてはならない。
その思いだけで彼らは戦い続けている。
もしもコッラーを突破されれば、スオムッサルミで善戦している
シーラスヴォ大佐率いる第九師団と、トルヴァヤルヴィから快進撃
を続けているタルヴェラ戦闘団、さらに第十二師団の背後で死闘を
繰り広げている第十三師団が被害を被ることが想像される。
だからこそ、コッラーでソ連軍を封じ込めなければならない。
﹁物騒なこと言わないでください。そんな爆弾あったらこっちまで
被害受けるじゃないですか﹂
相変わらず、アリナの隣にはアーッテラがいて軽口を叩いている
が、彼のそんな言葉はアリナを安定させた。
ともすれば、戦闘の熱に浮かされかけるアリナを冷静にさせるの
154
はユホ・アーッテラの存在だった。
それが彼の役目だ。
﹁本当に大概、しんどいねぇ⋮⋮。ヨシフのおじさんが補給物資持
ってきてくれるからまだいいけどさ﹂
軽口には軽口で応じながら、アリナは機関短銃を抱え直して目を
細める。
神経が高ぶっているためか、雪の冷たさもあまり気にならないが
彼女はそんな自分の状態を良い傾向だとは思っていない。
冷静でいられない自分を感じて、深く息を吸い込んだ。
﹁大丈夫ですよ、心配しなくても俺が引っ張り戻しますから﹂
そんな上官の内心を察したのか、ユホ・アーッテラが告げればア
リナ・エーヴァはにこりと笑った。
﹁ユホちゃん、愛してる﹂
﹁⋮⋮︱︱はいはい﹂
いつものように気のない返事をしてユホ・アーッテラは銃を構え
ると引き金を引いた。
その日も変わらずソ連兵を撃退して、そうして一日が終わる。
毎日がそんな状態だった。
そうして、年が明ける。
流血の一九三九年が終わり、流血の一九四〇年が訪れるのだ。
年が明けて、アリナ・エーヴァ・ユーティライネンは、弟である
エイノ・イルマリ・ユーティライネンから一通の手紙を受け取った。
自分とは異なり、丁寧な弟の文字にアリナは微笑する。
まるで彼の性格を顕しているかのようだ。
︱︱親愛なる姉さんへ。
155
17 塹壕戦
︱︱親愛なる姉さんへ。
手紙が届きました。とりあえず、元気そうにしているようでなに
よりです。俺は十二月十九日に初めて本格的な空戦を経験して一機
のソ連爆撃機を撃墜しました。
インモラもだいぶ雪が深く、時折、爆撃を受けることもあります
が、それなりに元気にしています。俺が心配するのもおかしな話し
だとは思いますが、姉さんもあまりアーッテラ少尉に迷惑をかけな
いようにしつつ頑張ってください。
コッラーは激戦が続いているようですが体に気をつけて⋮⋮。
エイノ・イルマリらしい手紙に目を通しながら、アリナ・エーヴ
ァは苦笑した。
年が明けて部隊の損失も大きなものになりつつある。
補給物資すらまともに前線に届いてこない。
幸いというべきか、銃弾などは敵軍のものをそのまま流用できた
ため、鹵獲専門の部隊が出向いていって回収して回っているがそれ
でも、戦火の中をかけずり回っているのだから、効率がよいわけが
ない。
さらに言えば、年があけてすぐにアリナ・エーヴァ・ユーティラ
イネンの片腕とも言えるユホ・アーッテラが負傷して一月の頭から
彼女の傍にいない。
軍医の診断では半月ほどで戻ってこれるらしいということだった
が、それでも、半月という時間は前線を指揮するアリナにとっては
156
大きすぎる期間と言っても良かった。
もっとも迫撃砲による負傷で肩を大きく抉られただけですんだの
は奇跡的だった。ユホ・アーッテラの隣にいた一等兵は即死だった
のだから。
﹁姉さんが暴走しないかそれだけが心配です⋮⋮﹂
応急処置を受けてから大きな溜め息をついたアーッテラはそう言
うと、珍しく真面目な表情をしているアリナ・エーヴァに苦く笑っ
た。
﹁別に、おまえがいなくたってわたしはなんとでもできる﹂
からかうように笑うアーッテラに対して憮然として見せた彼女は、
表情を取り繕うようにして伸びかかった金色の前髪をかき上げると
睫毛を揺らしてから、無事な方のアーッテラの肩を軽くたたいた。
﹁行ってこい。途中で死なないように気をつけろ﹂
﹁それはイワンの連中に言ってください﹂
病院に行くまでの間に、爆撃でも受ければたまったものではない。
アリナがそれを指して言っているのはわかっていたから、ユホ・ア
ーッテラも軽く首をすくめて見せた。
﹁姉さんも無茶はやめてください。俺がいないと暴走して無茶する
から﹂
﹁⋮⋮︱︱﹂
そんなアーッテラに無言でひらひらと手を振った彼女はそうして、
彼を雪の中送り出したのだ。
今、彼女の手持ちの駒はアールニ・ハロネンだけだ。
毎日のように当たり前に部下が失われていく。
アーッテラが死なずに済んだだけでも良しとしなければならない
のかもしれない。それでも、彼女は苛立たしげに奥歯をかみしめた。
シス
人員の補給も戦況の悪化と共に、滞らなくなっていく。
﹁⋮⋮姉さん﹂
ハロネンの声に顔を上げた。
彼は腕の良い狙撃手だが、アーッテラのように信頼できるかと言
157
えばまたそう言った存在ではない。
﹁どうした?﹂
また誰かが被害を被った、という報告かと内心で思わず身構える。
﹁補充の兵士が到着しました﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
補充兵、という言葉に胸をなで下ろして彼女は頭から毛皮の帽子
をむしり取った。
﹁わかった、とりあえず、わたしの部隊はどうにかするから、ハロ
ネンとアーッテラの部隊に振り分けておいてくれ﹂
﹁⋮⋮はっ﹂
敬礼を返したハロネンを見送って、アリナ・エーヴァは兵士から
投げ渡された機関短銃を受け取ると悠々と塹壕へ向かって歩いて行
く。
その日もいつもと同じように敵の襲撃があった。
彼女の部隊は陣地戦を最も得意としている。
塹壕に潜み、ソ連軍を返り討ちにするのだ。
前方からは銃弾が飛んできているというのに、彼女は全く怖じ気
づきもしない。そんな中隊長の女性を部下たちは見やってから、ほ
っと息をついた。
二人の小隊長に加えて、副官を手元から離さざるを得なかった彼
女の表情は、少なくとも外見上は変わっている様子は見られなかっ
た。
﹁⋮⋮ぶっつぶす﹂
ぼそりと呟いてから、アリナは塹壕に飛び込むと地面に這いつく
ばるようにして顔だけを塹壕から出すと銃を構える。
いつものように聞こえるのは﹁ウラー﹂という赤軍兵士の雄叫び。
状況はなにひとつ改善していない。おそらく、どこの戦線も似た
ようなもので、襲いかかる赤軍兵士たちをただひたすらに撃退し続
けているのだろう。
司令部では各戦線からの補給要望などに応えられなくなっている
158
はずだ。
アリナ・エーヴァ自身も、毎回無理を承知で要望を上に出してい
るのを理解していた。しかし、現代の戦争で弾丸もなしに敵に突っ
込むことなどできはしない。それこそ、ソ連軍の銃剣突撃と一緒に
なってしまう。
﹁姉さん、もう無理です⋮⋮っ!﹂
声が聞こえる。
兵士の悲鳴だ。
塹壕に飛び込んできた敵に銃口を突きつけて引き金を引きながら、
若い兵士がアリナに悲鳴を上げていた。
咄嗟に彼女は敵に銃口を向けるが、間に合わない。
そのまま殴りつけられた兵士は、赤軍兵士の銃口の前に動かなく
なった。
銃身を振り上げながら赤軍兵の動きを押さえ込んで、アリナは腰
に指したククリナイフを引き抜いた。隣で混戦状態に陥っている部
下に襲いかかる屈強な敵の首根っこを掴んで引きはがすとそのまま
首筋にナイフの刃をたたき込む。そうして、自分の隣で三人の赤軍
兵を相手にしている別の兵士の男に、せめてもの武器にでもなれば
と彼女は長い足でスコップを蹴り飛ばした。
腕を大きく振り上げながら、巧みにナイフと拳銃で襲いかかる敵
兵を薙ぎ倒しながら、彼女は視界の片隅でサブマシンガンを操りな
がら白兵戦に興じるシモ・ヘイヘを見た。しかし、気を散らしてい
る暇などない。
塹壕の中ではもみ合うようにフィンランド兵たちは戦いを繰り広
げている。
やがてアリナは自分の周りにいる赤軍兵士のほとんどが片付いた
のを確認してから、キュルリキュルリと金属がこすれ合ういやな音
に目をあげた。
気がついていなかったわけではない。
ただ、それどころではなかっただけだ。
159
はっとした様子で顔を上げたアリナは眼前に戦車が迫り来ている
ことに気がついてさっと顔色を変えた。
﹁⋮⋮姉さん!﹂
叫び声に、彼女は我に返る。
思わず体を横倒しにした瞬間、フィンランド軍の対戦車砲が火を
噴いた。
アリナは頭を抱えて体を縮める。対戦車砲を受けて彼女の直前で
停止した戦車は後部のエンジンに砲撃を受けて火を放っている。
﹁待避⋮⋮っ!﹂
爆発する。
アリナはそれを察した。
戦車はエンジンがありガソリンを積んでいるのだ。アリナの叫び
と同時に、銃弾の幕の中、戦車から走って離れる兵士たちの後ろで
ハッチが開く音がした。
赤軍の戦車兵たちが銃を構えてフィンランド兵を狙う。
それに対して、対戦車砲をたたき込んだ兵士たちが銃弾の雨をお
見舞いした。
アリナ・エーヴァも走りながら振り返って手榴弾を戦車に向かっ
て投げつける。同時に戦車が大きな音をたてて爆発した。
熱風を受けて、アリナは腕をあげて顔をかばうとアールニ・ハロ
ネンに首根っこを捕まれるようにして引き寄せられた。
﹁怪我はありませんか? 姉さん﹂
﹁大丈夫﹂
﹁全く、敵さんたち、ものが有り余ってて羨ましい限りですな﹂
舌打ちした男は、アリナに機関短銃を手渡すとハロネンも目の前
に迫り来る赤軍兵士を蹴散らすように銃弾の幕をまき散らしはじめ
る。
そのときだ。
ごう、と音をたてて空を影が舞っていく。
プロペラが回る音が響いて頭上をかすめた戦闘機に、アリナ・エ
160
フォッケル
ーヴァらは息を飲み込んだ。
フォッカーD21だ。
本来、フォッケルは戦闘機であって対地支援が仕事ではない。し
かし、混戦状態に陥り尚、雄叫びをあげながら進軍してくる赤軍の
歩兵たちに機銃の雨を降らせていく。
ハカリスティ
四機編隊のフォッケルに、アリナ・エーヴァの部下たちは顔を輝
かせた。
見慣れた青い鉤十字。
まるで天使のようだ。
固定脚の特徴的な緑色の機体に、兵士たちは﹁おおー﹂と歓声が
上がった。そうして、それに勢いづけられたようにそれぞれが自分
に襲いかかる敵兵を倒していく。
フィンランド空軍のフォッケルは何度か彼らの頭上を通り過ぎて、
迫り来る赤軍歩兵に機銃を乱射してからその勢いが止まるのを確認
して飛び去っていった。
おそらく、別の戦線に向かう途中だったのだろう。
何にしろありがたいことだった。
アリナは自分に襲いかかる男の顔面に、地面から拾い上げたスコ
ップを思い切りたたきつけてから、反対側の手に持ったナイフをそ
の腹に突き刺した。
敵の血でまみれながら乱闘を繰り広げる彼女は、部下たちの助っ
人に入ってやりながら荒い呼吸を繰り返す。叩いても叩いても沸い
てくるような敵は、それでも、ある程度先ほど上空を舞ったフォッ
ケルによって数を減らされている。
どれほどの時間がたってからか、ソ連兵を撃退した彼女はへとへ
とになって塹壕の中で尻をついた。
足元には死体が山ほど転がっている。
後で塹壕の死骸を引きずり出さなければならない。
そんなことを考えながら、機関短銃を抱えるようにして上半身を
支えると目を閉じた。
161
﹁そんなところでしゃがみ込んでないで上がってください。ケツの
下に死体じゃ気持ち悪いでしょう﹂
ハロネンの声だ。
機関短銃を抱えているアリナ・エーヴァの二の腕を掴んで塹壕か
ら引っ張り上げた彼も小さな傷を山ほど負っていた。
﹁ハロネン、おまえは大丈夫か?﹂
﹁姉さんこそ、どうなんです?﹂
﹁わたしのことなら心配いらないよ﹂
彼女の機関短銃を無理矢理奪うようにして受け取りながらアール
ニ・ハロネンが笑った。
﹁俺も大丈夫です﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
﹁しかし、さっきのフォッケルには救われましたね﹂
敵に機銃をたたきこんでくれるだけで充分威嚇になる。それで、
敵兵の気勢がそがれたというのも大きいだろう。
﹁⋮⋮そうだね﹂
連日の戦闘で、さすがの彼女も顔色があまり良くはない。部下た
ちを失ってそれでも強い精神力で戦線を支え続けているのだ。
﹁悪いけど、少し休ませてほしい⋮⋮﹂
﹁了解、いつ起こしますか?﹂
戦場で意識を失うほどやわではないが、それでも激しい戦闘に明
け暮れている彼女にかかる負担は大きなものだ。
﹁二時間でいい。その後に作戦会議をする。各小隊長はわたしのテ
ントまで来てくれるよう伝えてくれ﹂
足を引きずるようにして陣地まで戻っていく彼女は、自分のテン
トへと歩いていった。そんなアリナ・エーヴァを見送って、アール
ニ・ハロネンも部下たちをまとめるとテントへと潜り込んだ。
部隊の兵士たちの誰もがぼろぼろだった。
体力の限界で彼らは、尋常ではない緊張感と寒さの中で戦ってい
る。中隊長のアリナも決して口には出さないが体力的にかなりきつ
162
いはずだった。
極限状態だ。
﹁⋮⋮隊長、姉さんは﹂
兵士のひとりがハロネンにアリナの様子を尋ねた。
﹁寝るとさ﹂
﹁そうですか⋮⋮﹂
無事で良かった、そう言いたげに壕の中で膝を抱えると極度の疲
労感から膝に頭を埋めた。
こんな戦闘がいつまで続くのだろう。
寒さの中で、ハロネンはそう思った。
163
18 地獄の窯
そっち
﹁とにかく、こっちだって状況は何一つよくないんです! 状況報
告なんぞのためにどうしてこのわたしが連隊司令部まで出向かなく
ちゃならないんですか! だいたいですね、暇そうにこんなくっだ
らない電話をしてくる時間があったら、上にこっちの要望通す電話
でもかけてたらどうなんですか!﹂
言いたい放題言い放つと、アリナ・エーヴァは乱暴に無線電話の
受話器をたたきつけた。相手はおそらく、アリナの直属の上司に当
たるヴィッレ・ティッティネンだろう。
テントの外にまで響く大音声に、アールニ・ハロネンは内心でテ
ィッティネンに同情しつつ指揮テント内のアリナに声をかけた。
﹁ハロネンです、部隊の状況報告と会議のため、小隊長三名参りま
した。よろしいですか?﹂
彼女のこんな状況に慣れている副官ユホ・アーッテラ少尉であれ
ばとにかくとして、気が立っている中隊長のアリナ・エーヴァ・ユ
ーティライネンになど余り近づきたくない、というのがハロネンの
本音だった。
﹁入っていいよ﹂
しかし、返ってきたのは思いの外穏やかな声で、アールニ・ハロ
ネンは無意識に胸をなで下ろした。もっとも、アリナ・エーヴァは
裏表の差が余りにも大きすぎる。
そんな苛烈な彼女を戦場で支え、足りないところを補っていける
のは、先頃負傷して今は前線を離れているユホ・アーッテラだけだ。
﹁失礼します﹂
薄汚れた顔のままで、アリナは明かりの下にちらと小隊長の下士
官たちを見やった。それはまるでテントの外の凍てついた空気のよ
うな緊張感だ。
164
﹁被害報告を﹂
短くアリナ・エーヴァが告げた。
﹁⋮⋮はっ﹂
ハロネンが敬礼する。
普段は軽口こそたたくが、自分の仕事に対して冷静で実直な男だ。
﹁ハロネン隊、負傷二名、戦死一名。リーマタイネン隊、負傷二名、
戦死六名。ヴァイニオンパー隊負傷四名、戦死三名。あわせて中隊
イワン
ろかく
の被害は負傷八名、戦死十名になります。尚、弾薬の消耗について
ですが、ソ連軍の武器弾薬を鹵獲しておりますので三割程度にとど
まっており、今のところはまだなんとかやっていけるかと﹂
負傷者八名、戦死者十名。
アリナは口の中で繰り返す。
それはつまるところ、現状、二個分隊が今回の迎撃で使い物にな
らなくなったと言うことだ。アリナ・エーヴァの瞳に再び厳しい光
がちらついたのを見て取ったアールニ・ハロネンは思わず背筋を正
す。
リーマタイネンは曹長、ヴァイニオンパーが軍曹である。共に元
は分隊長だったが、小隊長不在の穴を埋めるために、アリナ・エー
ヴァの鶴の一声で小隊長に格上げされた。もっとも、これについて
アリナが本意なのかというと、そうではない。
一ヶ月半にも及ぶ激戦に下士官、士官の補充もままならないため
にやむを得ない処置だった。
﹁⋮⋮姉さん?﹂
現在、アーッテラがいない今、中隊をまとめている彼女が部隊唯
一の士官だ。そんな彼女をハロネンが呼ぶ。
ロッキングチェアをぎしりと音を鳴らして座り込んだアリナは、
神経質な音をたてながら椅子を揺らしている。片手で表情を隠すよ
うに両目を覆ってから深々と吐息をついた。
長い足を大きくくみ上げて、気持ちを落ち着けている。
﹁連隊長をどやしつけておいたから⋮⋮﹂
165
連隊長をどやしつけた。
なんでもないことのように言った彼女は、ゆらゆらと椅子を揺ら
しながら目を開いて三人の下士官を見つめる。
﹁だから、人員の補充はあると思う。けど、たぶん兵士の補充にな
るだろう。士官、下士官の補充はないと思ってくれ。引き続きあん
たたちには負担をかけることになるだろうが、よろしく頼む﹂
彼女は言わないが、補充兵として動員されるのは志願兵だろう。
どこまで役に立つのか知れたものではない。
そんなことをハロネンが冷静に考えていると、アリナは床に脚を
おろしてから膝の上に両方の肘をつくとまるで宝石のような青い瞳
で三人の小隊長たちをじっと見つめた。
﹁姉さんは、コッラーを守りきれると、本気で思っているんですか
?﹂
﹁それはわたしが聞きたい﹂
即答した彼女の声は奇妙に感じられるほど冷静だった。
各戦線は決死の迎撃態勢を敷いて、赤軍の侵攻を封じ込めている。
一呼吸おいてから彼女はふわりと笑った。
﹁⋮⋮おまえたちはコッラーを守る自信があるか?﹂
緊迫した戦況が続く中での高揚感に、アリナが笑っている。
﹁⋮⋮︱︱﹂
分隊長から昇格したばかりのリーマタイネン曹長とヴァイニオン
パー軍曹は黙り込んだ。これが、副官のユホ・アーッテラならばア
リナの求める答えを即答できるだろうが、彼らにはそんな技術があ
るわけがない。
﹁わかりません﹂
長い沈黙の後に、アールニ・ハロネンは口を開いた。
﹁あそ﹂
わざとらしい大きな溜め息をついてから彼女は、テーブルの端に
置かれた推理小説のペーパーバックに視線をやってから目を細める
と小首を傾げた。
166
重苦しい沈黙に、ハロネンは内心で溜め息をつく思いだ。
目の前の前線指揮官︱︱アリナ・エーヴァ・ユーティライネンと
いう女性にこんな顔をさせているのはユホ・アーッテラの不在なの
だ。
剛胆で不遜な彼女を、こうまでも不安定にさせている理由はなん
だろう。
﹁⋮⋮戦争って言うのはさ、外交手段のひとつなんだよ﹂
唐突に彼女がそんなことを言い出した。
姿勢を正したままで、ハロネンは彼女の静かな声に耳を傾ける。
確かに、戦争というものは外交手段の一つだ。そんなことは考え
れば子供にもわかることだ。
﹁わたしたちがこうして戦っている間にも、政府は打開策を探して
る﹂
そこまで呟いてから不愉快そうに目を細めてから舌打ちした。
戦争を仕掛けてきたのはソビエト連邦だ。自国の独立を脅かされ
ている今、国民たちはのうのうと傍観していることなどできはしな
い。
フィンランドの全国民がまさに一丸となって戦っているのだ。
﹁けど、相手はあのソ連だ⋮⋮。奴らの言ってることがはたして信
頼できることなのかどうか﹂
シス
スオミ
相手を信頼してもいいのかわからない。
﹁⋮⋮姉さん﹂
﹁アカの奴らは、フィンランドとは戦争をしているつもりはないそ
うだ﹂
アリナ・エーヴァは、一介の中尉とは思えないほど博識な面を持
っている。外人部隊にいた彼女はフランス語も堪能だ。時折、英語
の書籍を読んでいることもあったから、少なくとも三カ国語を解す
ると言うことになる。
﹁⋮⋮確か、亡命したクーシネンですか﹂
思い出して口にした名前にさすがのアールニ・ハロネンも口調が
167
苦々しいものになる。
スオメン・タサヴァルタ
ソビエト連邦はフィンランドとは交戦関係にはない、と言ってい
るが、彼らの言う﹁フィンランド﹂とは﹁フィンランド共和国﹂で
はなく、ソビエト連邦に亡命したオットー・ヴィッレ・クーシネン
の率いる共産主義者たちは、ソビエト連邦にとっての傀儡政権を樹
立した﹁フィンランド民主共和国﹂のことである。
名前はよく似ているが、全く別個のものだ。
﹁あの共産党員は、アカになびくってことがどれほど危険なことか
わかっていない﹂
アリナ・エーヴァの静かな言葉は決して荒くはないが、語調の強
さが彼女の忌々しげな気持ちを物語っている。
このオットー・ヴィッレ・クーシネンは、先のフィンランドでの
内戦を生き延びた男なのだが、彼の持っている信念に対して多くの
者たちは疑問を持っていた。ちなみに、このフィンランド民主共和
国の閣僚たちもフィンランドから亡命した共和主義者たちで構成さ
れていた。
﹁ビラ配りも熱心ですしね﹂
ハロネンが溜め息をつく。
ソ連軍の爆撃機が毎度、彼らの頭上を飛来しては爆弾と共に宣伝
ビラをばらまいていく。大概、資源の無駄ではないかとアリナらは
思うが、その文面をみると失笑を禁じ得ない。
クーシネンらは、政府を樹立するとすぐにソビエト連邦に対して
﹁フィンランド民主共和国の敵﹂の排除のための助力を要請した。
ソビエト連邦は、このフィンランド民主共和国政府を唯一の﹁フ
ィンランド政府﹂であるとみなし、外交関係を結んでいたため彼ら
が言うところの﹁フィンランドとの交戦関係にはない﹂という弁が
でるのだった。
しかし、当のフィンランド共和国首脳陣及び全軍を束ねる元帥マ
ンネルヘイムなどからしてみれば詭弁以外の何ものでもない。
フィンランドの首都はヘルシンキであって、決してテリヨキでは
168
ない。
一九三九年十二月十四日付けで、罪もない小国フィンランドに侵
略行為を行ったソビエト連邦は国際連盟から除名されたが、そんな
ことを意に介するようなソビエト連邦ではない。
まさに、大国の傲慢だ。
ラドガ湖北方の戦線を守っている彼らには他の戦線がどうなって
いるのかはわかりはしないが、少なくとも、ヘルシンキが陥落した
とか、カレリア地峡が突破されたという情報は入ってきていない。
そして、停戦命令も入らないということは、まだフィンランドが負
けてはいないということだった。
けれども、国家間の問題などどうでもいい。
軍人であり兵士である彼らは、目の前に襲い来る敵兵たちを蹴散
らすだけだ。どんな犠牲を払ったとしても。
殺さなければ、殺される。
自分の命を守るために彼らは戦う。
﹁俺たちは、どんな状況になっても、姉さんについていくだけです﹂
どんなに戦況が悪化しても。
どんなに犠牲が出て、戦友が死んだとしても。
アリナ・エーヴァ・ユーティライネンという将校が﹁そこ﹂にい
る限り、共に戦い続けると覚悟を決めた。
そんな思いでヴァイニオンパーが告げると、アリナは喉を鳴らし
てから笑った。
彼女も多くのフィンランド人と同じく、オットー・ヴィッレ・ク
ーシネンが率いるフィンランド民主共和国に対して面白くないもの
を感じているひとりである。
﹁どうせならクーシネンのじーさんが戦場に出てきてくれればいい
のに﹂
ぼやくようにつぶやいたアリナ・エーヴァはそうしてから、揺り
椅子から立ち上がるとテーブルに両手をついた。
﹁ま、そんなことはどうでもいいや。あんたたちにはこれからも無
169
理を言うことになると思うけどよろしく頼む﹂
そうして、被害状況の報告を終えて、彼らは本題に入った。
正直なところ、カレリア方面やスオムッサルミ方面がどうなって
いるのかもわからない。最前線の兵士らまでには他方面の戦況など
きっと
無事に違いない﹂という曖昧な判断しかなかっ
伝わってくることはないのだ。それ故に﹁停戦命令も、敗戦報道も
ないから
た。
もっとも、前線指揮官の一人であるアリナ・エーヴァは大雑把な
戦況の経過はある程度把握しているが、全てを知っているわけでは
ないというのが実際の所だ。
﹁了解しました﹂
アリナ・エーヴァ・ユーティライネンが弱気な顔をしない限りは、
シス
部隊の誰もが決して絶望などしない。
﹁⋮⋮ところで姉さん、塹壕のイワンの死体の件ですが﹂
﹁うん?﹂
ハロネンの言葉にアリナがかすかに眉をひそめる。
﹁ほとんど引き上げが終わり、後方へ搬送が始まっております﹂
﹁⋮⋮わかった﹂
別にその辺に山積みにしておけばいいのに、と、アリナ・エーヴ
ァはちらりと思うが口には出さない。
現実的で冷静であっても、残酷である必要はない。
彼女よりも年少ではあるが、アリナ・エーヴァよりもずっと冷静
な補佐役︱︱ユホ・アーッテラ少尉が彼女に告げる言葉だ。
ともすれば、すぐに暴走しがちな彼女を支え続けた。
︱︱けれども、アリナ・エーヴァを含めた﹁彼ら﹂はまだ地獄が
すぐそこまで迫っているのを知らなかった。
170
19 終わらない犠牲
無線電話の受話器を耳に押しつけたアリナ・エーヴァは首を傾げ
ながら間の抜けた声を上げた。
﹁⋮⋮はぁ?﹂
隣の陣地を守るトイヴィアイネン中尉から電話が入ったのはその
日の夜明けに近い時間だ。もちろん、当たり前のようにすでに目を
覚ましていたアリナは両目をすがめるようにしてテントの壁を見つ
める。
﹁つまり、イワンの射撃統制所が邪魔だから、シムナを貸せばいい
ってこと?﹂
戦場に立っていない時のアリナ・エーヴァは、戦闘に参加してい
る時とではだいぶ印象が違う。
金色のショートカットを揺らしながらアリナは中空を睨み付けて、
顎に指をあてて考え込むと低くうなる。
戦況が悪化している状況で、ヘイヘを貸すことに渋るのは当たり
前のことだ。即決というわけにはいかない。
﹁⋮⋮トイヴィアイネン﹂
ス
長い溜め息をつきながら、彼女は前髪をかき上げて眉間を寄せる。
見殺しにしたいわけではない。
オミ
第五中隊もアリナ・エーヴァの指揮する第六中隊と同じで、フィ
ンランドのために激戦を繰り広げているのだ。
受話器を耳に当てている右手とは逆の手で自分の脇腹に手を回し
た彼女は男の名前を呼んでから長い沈黙を挟み込む。
﹁わかったよ﹂
溜め息混じりに応じた彼女に、生真面目な男はアリナに礼を述べ
る。
なにせ、アリナ・エーヴァ・ユーティライネンの第六中隊も数日
171
前の赤軍の攻撃で大きな犠牲を出した。
中隊の隊員が二十名近くの犠牲者を出したということは余りにも
大きすぎる損失だ。それをわかっていて、第五中隊の中隊長トイヴ
ィアイネン中尉は彼女に助力を要請したのだ。
できることならば、厳しい状況にある第六中隊に助力を乞うこと
などしたくなかった、というのが、トイヴィアイネンの本音である
ということはアリナにもわかっている。
やれやれと受話器を置いた彼女は、テントをでると大きく伸びを
した。
近くに立っている歩哨の兵士を呼びつける。
相変わらず薄汚れたコートを身につけているが、彼女のそんな様
子を誰も気にしたりはしない。
男たちが従っているのは、美しく着飾った貴婦人ではない。鋭い
眼差しを放つ煤と土塊にまみれた前線指揮官だ。
﹁シムナを呼んできてくれ﹂
﹁⋮⋮はっ﹂
返事をしてから、歩哨の兵士は少しだけ困ったように首を傾けた。
﹁しかし、小官は見張りが⋮⋮﹂
﹁いいよ、その間くらいわたしが見ててあげるから﹂
えん
そう言いながらひらひらと手を振って、部下の兵士を追い払うよ
うに肩をすくめた。
﹁はっ﹂
ぺいごう
上官にその場を離れる許可をもらった兵士が雪を踏みながら、掩
蔽壕へと駆けていくのを見つめてから、アリナは白い息を吐き出し
た。
テントの外は零下四十度の世界だ。
全てが凍り付く。
︱︱問題は。
アリナ・エーヴァはぶるりと肩を震わせてから考え込んだ。
問題は、ソ連軍が冬期の戦闘で焦りを見せ始めたことだ。その焦
172
りは明らかな物量となって現れている。
先月、獅子奮迅の戦いを見せつけたフィンランド国防軍に対して、
ソビエト連邦は異常とも思える人海戦術を展開してきた。たたいて
もたたいても途切れることのない人の波。
アリナが先月、宣言したようにフィンランド軍はじわじわと消耗
戦に引きずり込まれる形になっていった。
彼女自身が﹁モロッコの恐怖﹂と呼ばれる英雄であるとは言え、
手駒が削られては作戦を遂行することもままならない。
シス
寒さの中で彼女は舌打ちを鳴らした。
﹁姉さん、どうしたんです?﹂
シモ・ヘイヘの声に彼女は首を回して上背の低い男を見やる。
﹁腹は満たしたか?﹂
﹁はい、もう済んでいます﹂
﹁そうか、なら結構﹂
言いながら、歩哨の兵士と場所を変わった彼女は、自分のテント
へと狙撃手の男を招き入れる。
﹁さっそく本題で悪いんだが、第五中隊が危険に晒されている﹂
﹁⋮⋮はい﹂
地図をテーブルに広げた彼女は、第五中隊が管轄する丘の上を指
さしてからわずかに瞳孔を収縮させた。
横顔を照らし出すランプの明かりに、シモ・ヘイヘは事態の深刻
さを読み取った。
﹁第五中隊の陣地の真ん前にイワンの射撃統制所があって、トイヴ
ィアイネンのところが激しい攻撃を受けているんだ﹂
﹁⋮⋮つまり、射撃統制所をなんとかすればいい、ということです
か?﹂
﹁そう﹂
﹁わかりました﹂
﹁明日の夜明けに、トイヴィアイネンが迎えのそりを寄越してくれ
るそうだから、準備を整えておいてほしい﹂
173
アリナの言葉に、ヘイヘは顎に手をあててから無言のままひとつ
頷いた。
寡黙で真面目な狙撃手の男は、しかし、誰よりも信頼ができる。
危機に陥った第五中隊が彼に助けを求めたことはなんらおかしな
ことではない。
やがて夜が明けて降り注ぐ朝日に凍えた空気がゆるんでいった。
夜が明けてもソ連軍の攻撃はない。いたって静かな朝だった。南
東の空に煙が上がっているのは見えたが、おそらくカレリア方面か、
ヴィープリ方面だろうことは予測できる。
ラドガ湖北方面から見て、南西にはヴィープリがある。
そしてその方面の基地にはフィンランド空軍の最新鋭の戦闘機隊
︱︱第二十四戦隊が拠点を構えている。そして、第二十四戦隊と言
えば、アリナの弟であるエイノ・イルマリ・ユーティライネンが所
属していた。
そういえば、年内の戦功で彼︱︱エイノ・イルマリは上級軍曹に
昇進したらしい。さらにインモラの基地から、ソルタバラ付近のベ
ルツィレ基地に移ったとのことだった。
空軍の知り合いから耳にした噂話だが、昇進したのが事実なら、
次に会ったときにどんな風にからかってやろうかとアリナは推理小
説などを読みながら考えていた。
そのときだ。
爆撃機のエンジンが回る重い音に彼女は顔を上げた。
飛んでいるのは一機だろうか。
普通、爆撃機というのは三機編隊で作戦行動を行うはずだ。空戦
技術の知識には疎いが、そんなことは軍人である彼女には一般常識
である。
推理小説のページを閉じながらひょっこりとテントから顔を出し
174
た彼女は頭上の空を見上げる。
やはり一機だ。
ドロドロといやな音を響かせながら、双発の爆撃機が一機だけ飛
んでいく。
﹁⋮⋮なんだ、あれは?﹂
指揮テントの近くに立っている歩哨に声をかけると、青年も不審
げな眼差しのまま空を見上げてから、アリナ・エーヴァを見つめ返
した。
﹁爆撃の帰りかなんかでしょうか⋮⋮?﹂
彼が言い終わる前に、隣の第五中隊の陣地から対空砲の音が響い
た。爆撃機に向けて対空砲火が行われているのだ。
アリナはなにか予感を感じてテントの脇に立てかけられた自分の
スキーを手に取ると、手早く装着してストックを手にした。
﹁⋮⋮姉さん、どこへ?﹂
﹁ちょっと見てくる﹂
丘から、防衛線がしかれていない農地の見える場所まで滑ってい
った彼女は、目に映る光景に眉を寄せた。
そりを操る男の後ろに、ひとりの女性がカバンを抱えて乗ってい
る。
大きな荷物はおそらく急場しのぎの補給物資かなにかだろう。
そのそりを追いかけるように爆撃機が飛んでいるのだ。
﹁遊んでるのか⋮⋮﹂
獲物を追い詰めて遊んでいる。
その様子を見て取った彼女の背後にアールニ・ハロネンが近づい
てきて無造作に機関短銃を手渡した。
﹁武器も持たないで行かないでください、姉さん﹂
言いながら、アリナの視線を追いかけて爆撃機とそりを見つける
やっこ
と彼もくわえていたタバコを強く噛んだ。
﹁敵さん、遊んでますね﹂
﹁ハロネンにもそう見えるか﹂
175
﹁えぇ﹂
アリナたちの陣地に向かって滑るそりにソ連軍の爆撃機が発砲を
はじめたのはそのときだった。
さらに爆弾を投下する。
小さなそりは翻弄されるように決死の覚悟で雪原を滑った。
﹁⋮⋮っ﹂
アリナ・エーヴァは舌打ちすると、スキーで一気に丘を滑り降り
ると無意味であることを知りつつ、爆撃機に向けて発砲する。
連続する機関銃の発射音。
シス
爆撃機がアリナに注意を向ける。
﹁姉さん!﹂
ユホ・アーッテラの声だ。
声をかけられる前からアリナは、そりを操る男がユホ・アーッテ
ラであることに気がついていた。そして、爆撃機にそりが狙われて
いたから彼女は単身で陣地を飛び出したのである。
﹁行けー!﹂
声の限りに叫ぶようにアーッテラに告げると、そりを走らせなが
ら彼はちらちらと上官を見つめる。相変わらずハチャメチャだがや
はり彼女はいざというときに頼りになった。
そりとアリナに爆撃と射撃をくわえる爆撃機は、第六中隊の陣地
に近づくにつれて対空砲火を受けその場を離れていく。
おそらく、元々爆撃任務の帰りかなにかで、残弾数が少なかった
というのもあったのだろう。たまたま見つけた小さな獲物相手に遊
んでいたのだ。
陣地にたどり着いたアーッテラとアリナは、荒い呼吸を繰り返し
てからそりの後部に顔を向けてから言葉を失った。
分厚いコートを身につけた若い女性が、カバンを抱えたままでぐ
ったりと体を折り曲げている。そして雪の上に点々と残るのは明る
い鮮血の痕だった。
﹁アーッテラ⋮⋮﹂
176
﹁偵察任務についていたロッタです⋮⋮﹂
爆弾の破片を受けたのだろう。
首筋と腹からおびただしい血液を流している。一瞥しただけです
ぐにわかった。
即死だった。
ばっこ
ロッタ・スヴァルド協会に所属する女性補助員である彼女らは、
ゲリラ兵などが跋扈する戦場で伝令や補給、防空監視などの危険な
任務に携わっていた。そして、そんなロッタ・スヴァルド協会に名
前を連ねる女性達の一部は、敵の攻撃に晒されて殉職することもま
まあった。
﹁⋮⋮丁重に、扱ってやれ﹂
眉をしかめたままで彼女が呟くと、アリナはアーッテラの肩を軽
くたたいた。
﹁よく戻ってきてくれた。もう大丈夫なのか?﹂
﹁はい、すっかり﹂
そりに乗せられた補給物資を回収にきた兵士のひとりが、失血で
力尽きた女性の体を抱き上げると陣地の奥へと運んでいった。
﹁⋮⋮ロッタは、本当によくやってくれてる。あれが、わたしなら、
こんなに恐ろしいところにひとりで来るなんてできやしない﹂
﹁そうですね⋮⋮﹂
彼女らは勇気ある女性だ。
ロッタ・スヴァルドの女性達。
アーッテラの後ろにいた彼女もまだ二十代だろう。いずれにしろ、
命を落とすには早すぎる⋮⋮。
同国民の非力な女性の死を前に、茶化すような性格のアリナでは
ない。数秒だけ黙祷した彼女は、そうして踵を返した。
﹁丁度うまい時に戻ってくれた。助かったよ﹂
ほっとしたようにほほえんだ彼女に、アーッテラは踵を合わせて
敬礼を返す。
﹁ユホ・アーッテラ少尉、ただいま戻りました﹂
177
﹁ご苦労﹂
戦局は混乱している。
軍病院から戻った彼の情報を聞くために、アリナは指揮テントへ
と彼を招くのだった。
178
20 祈りの傍ら
シス
﹁それで、姉さん。状況はどうなんです?﹂
﹁良くはないね﹂
﹁そんなもん見ればわかります﹂
まるで言葉を打ち返すように小気味の良いやりとりは、最前線た
る激戦区のものには感じられない。問いかける方は真剣な顔をして
いても、問いかけられているほうがいつもの如く飄々としているた
めかもしれない。
﹁いつもユホちゃんって、わかりきってること聞くよね﹂
﹁⋮⋮あのですね﹂
確かに状況など聞かなくてもわかる。
まして、ユホ・アーッテラはアリナ・エーヴァ・ユーティライネ
ンとはつきあいがそれなりに長い。この、どこか人を食ったような
前線指揮官の頭の中を理解しなければ、彼女を補佐することなど不
可能に近い。わからなくてどうするというのだろう。
﹁見たまんまだよ﹂
凍り付いた冬の大地。
そして凍り付くのは大地だけではない。死んだフィンランドの兵
士の亡骸も、赤軍兵士も。なにもかもを冷酷に凍り付かせていく。
﹁イワン共、なにかを画策している﹂
アリナはそっと目を細める。
﹁そういえば、市街地のほうが空襲にあってるって?﹂
﹁曰く、共産主義の同胞たちにパンをばらまいているだけだそうで
すよ﹂
﹁⋮⋮ふぅん﹂
あっそ。
そうつぶやいて、彼女はユホ・アーッテラが病院帰りで持ち込ん
179
だ新聞の紙面に視線を落とす。
﹁パン、ね⋮⋮﹂
状況などどこもかしこも良くはない。
そんなことはアリナ・エーヴァ自身がよくわかっている。形の良
い眉をひそめた彼女は﹁そういえば﹂と言いながら首を傾げた。
﹁はい?﹂
﹁イワンの奴ら、スオミのスキー兵が相当怖いみたいだね﹂
﹁⋮⋮そういえば、随分森を大規模に伐採したようです﹂
ユホ・アーッテラの言葉にアリナは片目を細めたままでフンと鼻
を鳴らした。
﹁あいつら、森をなんだと思ってるんだか﹂
﹁その件についてですが、知ってますか? どうもその作業に、捕
虜を当てたようです﹂
冷静なアーッテラの言葉に、アリナ・エーヴァは小さく頷きなが
ら金色の髪を耳の上にかき上げる。
﹁まぁ、妥当な判断だろうね﹂
捕虜。
おそらく、先のポーランド侵攻の折に捕らえただろうポーランド
の将兵らを使ったのだろう。アリナはそう考えた。ソビエト連邦に
ついては面白くないものを感じるが、普通に考えればタダ飯を食わ
せるよりも妥当な判断だ、と彼女は思う。
﹁⋮⋮凍死しますよ﹂
おそらくまともな防寒装備などさせずに投入しただろう事は容易
に想像がついた。ユホ・アーッテラが苦言を告げるように言うと、
彼の上官を務める女は軽く肩をすくめて見せた。
﹁ヨシフのおじさんは、自分の国の人間だって気に入らなければぶ
っ殺すような奴だよ? 戦争捕虜なんてまともに扱うはずない﹂
アリナ・エーヴァの指摘は的を射ている。
その言葉に息を飲み込んでから、アーッテラは溜め息をついた。
﹁それはそうと﹂
180
彼女は言いながら、指揮テント内のテーブルに広げられた地図を
見下ろして重い口を開いた。
﹁イワン共、もしかしたら大攻勢をかける準備をしているかもしれ
ない﹂
寄せてはひいてを繰り返す単発的な攻勢の間になにかしらの意図
を感じる。押し寄せる人の波を撃退し続けている前線指揮官たちは
不穏なものを感じてならなかった。
腕を組んで厳しい表情で地図を見下ろしているアリナ・エーヴァ
の横顔は、普段、なかなか見ることなどできはしない。なによりも、
彼女は部下たちの前では決して不安の表情など覗かせたりはしなか
った。
それが自分の務めだと知っている。
﹁姉さんがそう言うってことはなにか根拠はあるんですか?﹂
﹁最近の奴らの行動がおとなしすぎる﹂
﹁なるほど﹂
まるで手応えを感じない。
押し寄せるソ連軍を撃退しながら、アリナはそこに違和感を感じ
ていた。撤退が早すぎるのだ。まるで、フィンランド軍を休ませな
いようにするためだけに定期的な攻勢をかけているだけのようにも
感じられる。
一九三九年の十二月中のどんな犠牲がでても突撃し続けてくる執
拗さを感じない、とでも言えばいいのだろうか。
﹁それはそうと、なんかあったんですか?﹂
深刻な話しをいったん切ったアーッテラが、アリナ・エーヴァに
問いかけると彼女は無言のまま地図から顔を上げて首をすくめた。
金色の髪がさらりと揺れた。
﹁トイヴィアイネンのところが、どうも集中攻撃されてるらしくて
さ。とりあえず、シムナを貸せって言われたから、ちょっとお手伝
いに言ってもらうことになってるだけだよ﹂
いくら赤軍の攻勢の手が﹁多少は﹂ゆるめられているとはいえ、
181
先日の迎撃でアリナ・エーヴァ・ユーティライネンの指揮する第三
四連隊第二大隊第六中隊は大きな損害を受けた。
主に人的損害が大きい。
﹁第五中隊ですか⋮⋮﹂
トイヴィアイネン中尉が指揮を執る第五中隊も、第六中隊が防衛
するそこと同じく激戦を繰り広げている地点である。
﹁トイヴィアイネンが参ってたからさ﹂
﹁⋮⋮珍しいですね﹂
真面目で堅物の第五中隊長トイヴィアイネンが、いつもどこか不
真面目で不謹慎なアリナ・エーヴァ・ユーティライネンに弱音を吐
くなど珍しいことだ。
そもそもこのふたりは隣同士の要所の防衛をしているというのに、
恐ろしくウマが合わない。
真面目な話しをトイヴィアイネンがしていても、冗談で引っかき
回すアリナが悪いのだがそんな対照的すぎる二人の様子が両中隊の
隊員たちには面白かった。
﹁珍しいよね。だから、そうとうヤバイんだよ﹂
なるほどわかりやすい説明だ。
アーッテラは頷いてから顔を上げる。
﹁シムナひとりでなんとかなるんですか?﹂
﹁さぁ? でもシムナも大概人外だからなんとかなるんじゃないの
?﹂
﹁姉さんも人外でしょう﹂
﹁いやいや、わたしなんて普通だよ﹂
もしもシモ・ヘイヘがいない間に攻勢があったらどうするつもり
だろうか、などと考えるが、おそらくそれについては彼女なりの勝
算があるのだろう、とも思える。
どちらにしたところで、いくら隣の陣地で第五中隊が危機に陥っ
ていたとしても、第六中隊で最も射撃の腕に優れているとされるヘ
イヘを、考えもなしに自分の中隊から外すことはしないだろう。
182
﹁それで、いつはじめるんです?﹂
﹁明日の朝、トイヴィアイネンが迎えを寄越してくれるそうだ﹂
﹁なるほど﹂
戦闘の小休止とも言える状況の中、アリナ・エーヴァとユホ・ア
ーッテラは刻々と変化していく戦場に対応するために長い協議を重
ねた。
戦時下でなければそれほど長くはない二週間も、戦場では永遠に
も感じられるほど長い。それほど、アーッテラが離れていたコッラ
ーでの二週間は大きなものだった。
﹁結構、逼迫してますね﹂
アリナ・エーヴァから状況を逐一聞き出したアーッテラはうなり
ながら顎に指を当てると眉をひそめる。いつもの如く、目の前の全
軍唯一の女性指揮官は飄々としているが、彼女を補佐するのはアー
ッテラの仕事の内だ。
いつでも冗談か本気かわからない表情をたたえているアリナが、
しかし、真剣に戦場を見つめていることも彼は知っている。
﹁俺がいない間に随分死んだらしいじゃないですか﹂
﹁⋮⋮まーね﹂
随分と多くの兵士たちが死んだ。
もう、彼女の中隊には士官は中隊長のアリナ・エーヴァと副官ア
ーッテラだけだった。このままでは、指揮系統に大きな支障を来す
シス
だろう。
﹁姉さん、部隊の士気に関わるのでひとつだけ聞かせてください﹂
﹁なに?﹂
﹁さっき、イワンが大攻勢の準備をしているんじゃないかと姉さん
は言ってましたが、あなたの自信はこれまで通りで、これからも変
わりませんか?﹂
﹁⋮⋮変わらないよ﹂
そう告げてアリナはどこか穏やかな笑みを浮かべて、副官の青年
を見つめやる。
183
﹁わたしがここにいる限り、イワンを一匹も通しはしない﹂
どんな犠牲を出したとしても。
コッラーを守り通してみせる。
﹁それだけ聞ければ充分です。俺たちは、姉さんが自信満々だから
ついていけるんです﹂
アリナ・エーヴァ・ユーティライネン中尉。
彼女についていけば、勝利をつかめると信じた。
﹁悲惨な状況になるとしても?﹂
アリナが問いかけた。
﹁もちろん﹂
シス
彼らもそれを知っていて戦うのだ。
﹁それでも俺たちは、姉さんの下で戦いたいんです﹂
アリナ・エーヴァと共に勝利をつかみたい。
彼らはそう願った。
184
21 アリナの本心
フルネームはアリナ・エーヴァ・ユーティライネン。
戦場では彼女を二通りの呼び方をされる。
上官や、同階級の者たちのほとんどは、彼女を﹁ユーティライネ
シス
ン﹂というファミリーネームで呼ぶ。しかし、彼女の部下たちは﹁
姉さん﹂もしくは﹁モロッコの恐怖﹂と呼んだ。
もっとも本人は呼ばれ方などなんでもいいと思っている。
なんでもいいと思っているから、自分に部下たちが敬意を払って
いれば咎めることもしなかった。だが、それにしたところで上官や
同階級たちの者には尊大で不遜な態度をとることが多かったから、
正直なところ上官受けが良いとは言い難い。
だからこそ、第四軍団長であるヨハン・ヴォルデマル・ハッグル
ンドはアリナ・エーヴァ・ユーティライネンを指して﹁問題児﹂と
言うのだが、そんな評価を受けたところでいつもの如くどこ吹く風
といった様子でにやにやと笑うだけだ。
赤軍の大攻勢が始まるだろうというアリナ・エーヴァの仮定が現
実のものとなれば、兵士の補充もままならない現状では戦況はより
過酷なものになるだろう。
アリナ・エーヴァは﹁必ずやコッラーを守り抜いてみせる﹂と言
った。どんな犠牲を払ったとしても、彼女が前を見つめ続ける限り
は、彼女の部下たちは強い力で引っ張り続ける彼女にどこまでもつ
いていく。
﹁戦争は、好きだよ﹂
アリナ・エーヴァは独白するようにつぶやくと、彼女の隣に立っ
て森の奥を見つめていた小隊長のひとり、アールニ・ハロネンは振
り返る。
﹁⋮⋮はい?﹂
185
﹁わたしは戦争が好きなんだよ﹂
﹁物騒ですな﹂
﹁好きじゃなかったら、どこの馬鹿がわざわざフランスくんだりま
で行って戦争なんてするもんか﹂
鼻で笑ったアリナ・エーヴァにハロネンは肩の上にライフルを担
シス
ぎながら、赤軍のひそんでいるだろう森の奥をみつめている。
﹁姉さんの台詞は、俺にはどこまでが本心なのか計りかねますな﹂
彼女の瞳はいつもどこか真剣味を帯びている。
だからこそ、アリナ・エーヴァの本心を計りかねて多くの者が彼
女に騙された。
﹁でも、俺たちはそんな姉さんだからついていくんです。姉さんが
いつも落ち着いていて、俺たちを引きずっていってくれるから戦え
る﹂
﹁なーんか、さ。アーッテラにも似たようなこと言われたけど、ち
ょっと買いかぶりすぎなんじゃないの?﹂
自分は普通の人間だ。
言いながら首を傾げた彼女は、アールニ・ハロネンの長身に寄り
かかると目を閉じた。
静かな、戦場とは思えない穏やかな時間。
シス
けれども、アリナ・エーヴァはそんなものを望んではいない。
﹁姉さん⋮⋮?﹂
アールニ・ハロネンの肩に寄りかかっているアリナ・エーヴァが
静かに寝息をたてて眠り込んでいた。
前線指揮官である彼女は、兵士である彼ら以上の心労を常に抱え
ている。そんなアリナに肩を貸したまま、アールニ・ハロネンは小
さな吐息をつくと肩に担いでいたライフルをおろしてからコートの
ポケットに手を突っ込んだ。
タバコとマッチを探る。
いつも中隊の運営に頭を悩ませているだろうアリナ・エーヴァ・
ユーティライネンという女性将校。
186
彼女の部隊に配属が決まったとき、彼らは﹁モロッコの恐怖﹂と
共に戦争を最後まで戦い抜くことを誓ったのだ。彼女の手足として
なら、どんなに悲惨な状況をも戦い抜けると部隊の兵士たちは誰も
が信じていた。
﹁あなたは、非情なことを口にするが、それでも俺たちのことを道
具だなどとは思っていない⋮⋮﹂
口で語る言葉と彼女の思いが裏腹であることをハロネンは知って
いる。
長い腕を伸ばして眠るアリナの体を支えてやると、ハロネンは暖
かな日差しの降り注ぐ中、放置されたそりの上に座り込んだ。
眠っている彼女はとても百戦錬磨の戦士には見えない。
がたいは良いが、それまでで少しだけ疲れた表情を垣間見せる。
そんな中隊長のアリナ・エーヴァ・ユーティライネン中尉と、小
隊長のアールニ・ハロネン准尉の背中に兵士たちは視線を送るだけ
そこ
で決して傍に寄りつこうとはしなかった。
彼らが誰よりも戦場にいてほしいと願うアリナ・エーヴァが眠っ
ているのだ。だから、誰も息を詰めて彼女の眠りを妨げない。
彼女に旗を掲げ続けてほしいと思うからこそ、彼らは静寂を提供
した。そんな兵士たちの気遣いを知ってか知らずかアリナはハロネ
ンに寄りかかったままで眠っていた。
タバコの一本を吸い終わったら起こせばいいかと考えて、アール
ニ・ハロネンは片目を細めると苦笑した。
翌朝、まだ日が昇りもしない中、第五中隊から寄越されたそりが
到着した。
﹁気をつけて行って来い﹂
シモ・ヘイヘ兵長の肩を軽くたたいたアリナ・エーヴァはそりを
操る第五中隊の兵士に視線をやった。
うち
﹁本当ならもっとちゃんとした増援をだしてやりたいところなんだ
が、第六中隊も状況が状況でね。⋮⋮トイヴィアイネン中尉には申
187
し訳ないが、ヘイヘ兵長のことをよろしく頼む、と伝えてほしい﹂
固い表情の第五中隊の兵士は、アリナの真面目な眼差しを受けて
鋭く敬礼を返す。
﹁はっ﹂
アリナ・エーヴァ・ユーティライネンと、第五中隊の中隊長であ
るトイヴィアイネン中尉はウマが合わないが、それでも、現実的な
危機に晒されている彼らをからかうほど、アリナ・エーヴァは常識
知らずではない。
﹁わたしの前でそんな堅苦しくしないで良い﹂
自信に満ちた笑みをたたえるアリナは、シモ・ヘイヘにそうした
ように、第五中隊の兵士の肩を軽くたたいてわずかに首をかしげた。
﹁アーッテラ、タバコを寄越せ﹂
﹁どうぞ﹂
アリナの意図に気がついて数本のタバコを差しだしたユホ・アー
ッテラは男と比べればずっと細い指がそれを取り上げるのを見つめ
る。
﹁持って行け﹂
第五中隊と第六中隊の陣地の間は非常に危険が伴う場所だ。
そこを彼らは抜けなければならないのだ。
そりを操らなければならない彼の緊張は尋常ではない。それをア
リナは察していた。なによりも、彼は自分の命だけではない。
第六中隊の最高の狙撃手であるシモ・ヘイヘの命ばかりか、第五
中隊の兵士たちの命をも握っている。
﹁がちがちに緊張するとろくなことがないぞ﹂
もしも万が一、自分がシモ・ヘイヘを連れて第五中隊の陣地に戻
れなければ、第五中隊は圧倒的な赤軍の射撃の前に崩壊するだろう。
そりをひく彼が、百名ほどの人間の命を握っているのだ。
﹁おまえは、自分ができることをやればいいんだ﹂
長い腕を伸ばして、兵士の青年の頭を軽くかき回してほほえんだ。
まるで年若い弟を諭すようなアリナ・エーヴァの瞳に、シモ・ヘ
188
シス
イヘを送り出すために集まった第六中隊の隊員たちが目を奪われる。
﹁姉さん、あんまり若いのを悩殺しちゃだめですよ﹂
﹁こんなおばさんに誰が悩殺なんかされるんだよ﹂
からからと明るい笑い声を上げたアリナは、ややしてから滑り出
したそりを見送って白い息を吐き出した。
時刻は午前一時。
朝にはやや早すぎる。
アリナ・エーヴァはぶるりと肩を震わせてから自分の指揮テント
へと足を向けた。
﹁もう少し寝る﹂
﹁了解﹂
アリナの背中を見送ってから、アールニ・ハロネンは副官のユホ・
アーッテラになにげない会話でもするように切り出した。
﹁そういえば、少尉﹂
シス
﹁どうした?﹂
﹁姉さん、ちょっと体調を崩しているかもしれません﹂
すでに過酷な戦闘が続くようになってから二ヶ月近い日々が続い
ている。男たちと同じように、激しい戦闘をこなし、誰よりも率先
して部隊の先にたつ彼女はそれなりに体力を消耗していたとしても
なんらおかしなことではない。
﹁⋮⋮そうか﹂
口元を手袋をした片手で覆ったままくぐもった声をあげたユホ・
アーッテラは、眉をひそめたままで指揮テントを見つめる。
﹁そうかって⋮⋮、いいんですか?﹂
指揮官のアリナ・エーヴァが体調を崩しているとしたら、それは
大問題だ。
しかし、副官のユホ・アーッテラは言葉少なにハロネンに相づち
を打つだけだ。
﹁そう言われてもな、俺たちが心配したところで素直に言うことを
聞いてくれる人じゃないのはわかってるだろう?﹂
189
どうせ、心配しても冗談ではぐらかされるだけだ。
﹁しかし、副長﹂
﹁あとでそれとなく聞いておく。それでいいか?﹂
﹁⋮⋮頼みます﹂
﹁でも、なんでそう思ったんだ?﹂
﹁昨日の昼間、姉さんが寝てたんですよ。それで、そう思ったんで
す﹂
アリナ・エーヴァが夜間以外に眠っている所など見たことがない。
そのうえ、彼女がハロネンに寄りかかって眠っている時に、感じた
アリナの体温は少しだけ高いように感じられた。
実際のところ、彼女に触れたわけではないが、それらを総合して
判断した結果もしかしたら体調を悪化させているのではないかと、
ハロネンは考えたのだ。
ハロネンの言葉に片目を細めたアーッテラはもう一度﹁わかった﹂
とつぶやいた。
*
第五中隊の危機を乗り切るためにシモ・ヘイヘを送り出した。
アリナ・エーヴァは指揮テント内でユホ・アーッテラの持ち込ん
スオメン・タサヴァルタ
だ新聞を眺めて小首を傾げる。
ソビエト連邦がフィンランド共和国の戦い方に対して新聞上で批
難をしたらしい。自分達のことを棚に上げてよく言うものだと、ア
リナはあきれかえるが、もっとも、ソビエト連邦が呆れるような方
法をとるのは今に始まったことではない。
先のポーランド戦の際や、バルト三国に対する恫喝についても、
方法こそ違えど似たようなものだ。
フィンランドの人口は三七〇万人。
対するソビエト連邦は二億人近かったのではなかったか。
広い国土を持ち、資源もある。なににも不自由しない自立国家。
190
けれどもそのソビエト連邦はゆっくりと、しかし確実にその勢力
を広げつつある。ソビエト連邦のそんな姿勢そのものはどうでもい
いことだが、隣国にははた迷惑なことで、アリナ・エーヴァは憮然
としたままで金色の前髪を指先でいじった。
強欲なこと極まりない。
そもそも強欲だ、という単純な言葉ですむようなものでもない。
おそらく、とアリナは状況を分析する。
先頃行われたらしい大粛正︱︱という名の虐殺︱︱は、ヨシフ・
スターリンの歪んだ性格が感じさせられた。おそらく、彼は自分の
権力を奪われるかも知れないという事態を恐れての行為だったのだ
ろう。
その恐怖はやがて大きな刃となって、疑心暗鬼の元にスターリン
の周りに振りおろされた。
問題は、ヨシフ・スターリンの取り巻きだ。独裁者に媚びへつら
い、機嫌さえとっていれば自分達は殺されることもないし、多少の
問題を起こしたところでお目こぼしがもらえる。
そうなれば、独裁者の悪行をとがめ立てする者はいなくなるだろ
う。自分が楽をして楽しく生きていく事ができれば、他人のことな
どどうでもよくなるという、どうしようもない人種が存在している。
人というのは愚かなものだ、とアリナは思った。
﹁⋮⋮自分よりも弱い相手を、自分以外の強い者の力を借りなけれ
ば殺せないような奴なんて器が小さいにも程がある﹂
ぼそりとつぶやいた彼女は目を細めてから新聞を睨み付けた。
ソビエト連邦の暗殺事件発生を聞いたのは、まだ彼女がフランス
外人部隊に所属していたときだったか。部隊のほかの兵士たちは、
自分たちには遠い世界でしかないソビエト連邦のやることなど興味
もないと言った様子で歯牙にもかけなかったことを思い出した。
彼女が事件の発生を聞いたときにいい知れない危機感を抱いたの
はその出身国故だったのだろうか。
そんなことをアリナ・エーヴァが考えていると不意に電話が鳴っ
191
た。
﹁ユーティライネン﹂
受話器を上げながら名乗った彼女の耳に聞こえてきたのは男の声
だ。
第五中隊の中隊長︱︱トイヴィアイネン中尉である。
﹁無事についたか。良かったよ﹂
彼の陣地にヘイヘが到着したという報告を聞いてほっと胸をなで
下ろした彼女は金色の巻き毛をかき上げると二言三言、短い会話を
ロッポン
交わして通話を終える。
﹁通信終わり﹂
電話を終えてアリナは新聞を顔の上に広げたままロッキングチェ
アに深く体を沈めると目を閉じた。
何事か起これば部下たちが起こすだろう。
わずかなけだるさを感じながら彼女は深い眠りの奥へと飲み込ま
れていった。
192
22 歴戦の指揮官
モロッコの恐怖︱︱フィンランド国防陸軍中尉、アリナ・エーヴ
ァ・ユーティライネン。フランス外人部隊に五年間所属していた猛
者であり、陸戦のプロフェッショナルである。
モロッコの恐怖。あるいは、ただ﹁恐怖﹂とだけ呼ばれる彼女は
第三四連隊第二大隊第六中隊の兵士たちをまとめる前線指揮官で、
彼女を御すことができるのは第四軍団長のヨハン・ヴォルデマル・
ハッグルンド少将だけとも言われていた。
ちなみに師団長も、連隊長のこともアリナ・エーヴァは屁とも思
っていないため、上官の言うことなど聞きはしない。たまに真面目
に聞いていると思ったら、居眠りをしているか、自分に都合が良い
ときだけときたものだ。
そんな彼女が大規模な戦闘集団を率いるのが苦手なことを、師団
司令官スヴェンソン大佐も、連隊長ティッティネン中佐も知ってい
た。
要するに、アリナ・エーヴァ・ユーティライネンという女性前線
指揮官は、ごくごく小規模な戦闘集団をこそ率いるのに適任なのだ
った。彼女自身の声が届かなくなるような規模の戦闘集団を率いる
奇特な
女性士官はこれといって昇進を強く望
のはとてもではないが手に負えなくなる。
もっとも、この
むような気質でもなかったからそれはそれで幸いした。
﹁あの小娘は自分が楽しければそれでいいんだ﹂
天下のモロッコの恐怖を小娘呼ばわりするのは、ハッグルンドで、
そんな将軍に憮然とした瞳を返すのは﹁問題児の小娘﹂を指揮下に
持つ第十二師団司令官アンテロ・スヴェンソン大佐と、第三四歩兵
連隊長ヴィッレ・ティッティネン中佐だ。
確かに彼女個人としての強さはさることながら、その部隊はよく
193
まとまっており隣接する第五中隊と共に激戦区となっている陣地を
よく守っている。
時には突出した行動をとって先手を打ち、赤軍部隊を壊滅させる
こともあった。
どんな戦いでも、アリナ・エーヴァの指揮する第六中隊は勇猛果
敢な戦闘を演じきった。まるで、とヨハン・ヴォルデマル・ハッグ
ルンドは思う。
それは自由の女神に率いられた革命軍のようでもある、と。
彼女の指揮する部隊は、アリナ・エーヴァ自身と同じように恐ろ
しく強い。
﹁小娘、ですか﹂
そんなアリナ・エーヴァ・ユーティライネンを﹁小娘﹂と言って
しまえるハッグルンドは確かに大したものだった。
﹁小娘だろう。あれはどうにも落ち着きが足りん﹂
ばっさりと、部下の中隊長を評価するハッグルンドにティッティ
ネンが肩をすくめてみせた。
﹁しかし、なんでもない顔をして命令違反も軍規違反もするのは余
り良い傾向とは思えませんな。将軍﹂
﹁⋮⋮確かに褒められるものじゃないが﹂
そこでいったん、ハッグルンドは言葉を切った。
﹁あれはあれでいい。好き勝手にやっていた方が、こちらの損害も
小さくてすむ﹂
いろいろな意味で。
そう付け加えた第四軍団長に、ティッティネンが溜め息をつきな
がら肩を落とした。
確かにアリナ・エーヴァは好き勝手にやっていた方が味方の損害
は軽微ですむ。
﹁ですが、ハールトマンが参ってました﹂
﹁⋮⋮第二大隊のハールトマン少佐、か﹂
﹁そうです﹂
194
カール・マグヌス・グンナス・エーミル・フォン・ハールトマン。
階級は少佐だ。
いろいろな意味で賑やかしい男だったが、そんなフォン・ハール
トマンが参る原因を作り出しているのが第六中隊長のアリナ・エー
ヴァ・ユーティライネンだ。
ちなみにあまりの破天荒振りに、彼は早々にアリナ・エーヴァを
御すことなど諦めた。
多くの戦場を渡り歩き、フィンランド独立の際の戦いや、スペイ
ン内乱で数多くの経験をしてきたという自負があったにもかかわら
ず、モロッコでの植民地戦争で従軍した第六中隊長、アリナ・エー
ヴァ・ユーティライネンのような士官に、フォン・ハールトマンは
むじな
出会ったことなど今までなかったと言ってもいいかもしれない。
﹁だが、奴らは同じ穴の狢だろう? ハールトマンだからこそ、ユ
ーティライネンを扱える﹂
アリナ・エーヴァとフォン・ハールトマンはよく似ている、とハ
ッグルンドは思った。
﹁その辺の規律に縛られた士官では、あの小娘を扱いきれんだろう
からな﹂
﹁⋮⋮︱︱﹂
確かに、ハッグルンドの言葉は至言だった。
彼女のような破天荒な人間を扱うのは、上官も破天荒でなければ
つきあいきれない。アリナ・エーヴァと大隊長の男は言ってみれば
﹁似たもの同士﹂だ。
だからこそ、彼は、アリナ・エーヴァを異なる意味で手のひらで
転がすことができるのではないか、と思ったのだが⋮⋮。
﹁しかし、あのハールトマンが参っていたか﹂
ハッグルンドが喉の奥で苦く笑う。
もっとも、笑っていられるほど状況は甘くはない。
﹁第十二師団の損害も馬鹿にならんな⋮⋮﹂
そんな戦況で、アリナ・エーヴァを含めた前線指揮官たちはよく
195
戦線を維持している。先日の第六中隊の防衛線に対して、赤軍の攻
勢が行われた。
たまたま、上空を通過した第二四戦闘機隊の機関銃掃射による掩
護によって大きな損害を受けずに済んだ第六中隊ではあったが、ア
リナの報告によると約二個分隊もの損害を受けている。
報告書の終わりで﹁とっとと補充を寄越せ、間抜け﹂と罵倒が書
き込まれていた以外は、比較的まともな報告ではあった。最後の一
行が余計なのだ、とハッグルンドは思うが、それでも彼女の部隊に
なるべく早く補充部隊をあてがわなければコッラーの戦線はひどい
損害を被るだろう。
部隊をとりまとめる司令官たちは一様にそれを理解していた。
しかし、わかっていてもどうにもならないことが多すぎる。
フィンランド軍の消耗率は日に日に大きくなるばかりだ。
﹁しかし、余剰兵力などどこにあるんです﹂
ティッティネンの言葉に、師団長のアンテロ・スヴェンソンがう
なり声を上げた。
﹁⋮⋮全くだ﹂
余剰兵力などない。
現状、国防軍総司令部から補充部隊が移動してこない限り、彼女
の部隊には現状戦力で戦ってもらう以外ないのである。
﹁アリナは生意気な小娘だが、自分がしなければならんことはよく
わかっている﹂
生意気な小娘、という言葉に力を込めたハッグルンドに、二人の
部下たち︱︱スヴェンソンとティッティネンは眉をひそめてから頷
いた。
確かにその通りで、アリナ・エーヴァは好き勝手に発言をして、
司令部の命令などどこ吹く風と言った様子だが、それでも尚、彼女
はよく戦っていた。
﹁あれは、戦闘の要点はよく押さえている﹂
そう。
196
アリナ・エーヴァ・ユーティライネンは、確かに守らねばならな
い一点を。そして、攻め込まなければならない要所を、さらに退却
のタイミングと言った判断を誤らない。
あれ
についていくんだ﹂
兵士たちからしてみれば素晴らしい前線指揮官だった。
﹁だからこそ、兵士たちは
買いかぶりではない。
彼女が銃をかざし、前を見つめるからこそ、兵士たちがついてい
く。
﹁⋮⋮悪ガキだ﹂
そう呟いてティッティネンが目を細めた。
フォン・ハールトマンも、アリナ・エーヴァ・ユーティライネン
も同じ悪ガキ同士で気が合うだろう。
﹁ところで、悪ガキと言えば⋮⋮﹂
ふと思い出したようにつぶやいたアンテロ・スヴェンソンにハッ
グルンドが視線を向ける。
﹁ユーティライネンの弟が空軍にいますが、彼はなかなかどうして
腕の良いパイロットだそうで、あの姉の弟とは思えません﹂
﹁確か、第二四戦隊でフォッケルを飛ばしているらしいな﹂
第二四戦隊と言えば、フィンランド空軍の中でもエリート部隊と
名高い戦闘機隊だ。
彼らの飛行技術は突出しており、いずれ彼らはエースパイロット
になるだろうと囁かれてもいた。
もっとも今のところ、彼らは地獄の果てから襲来するようなソ連
軍爆撃機に対して今のところ有効な反撃手段を持っているわけでも
ない。
小規模のフィンランド空軍に対して、ソ連空軍の攻撃機の数が多
すぎるのが問題だった。
叩いても叩いても終わりが見えない。
﹁昨年の終わりに、ユーティライネンの弟は昇進したらしいですよ﹂
﹁姉のほうは相変わらずだがな﹂
197
スヴェンソンとハッグルンドの会話を聞きながら、ティッティネ
ンはふと部下であるアリナのことを思う。
彼女は人の言うことなどまともに聞かないが良い指揮官だ。
大隊長のハールトマンが早々に彼女を御すことを諦めたため、テ
ィッティネンが口うるさくなるわけだが、それすらも彼女にとって
はどうでもいいことらしい。
一応、大雑把な命令はそれなりに聞いているようだが相変わらず
彼女は勝手に判断して勝手に行動している。軍人としてそれはどう
なのかともティッティネンは思うが、アリナにそれを告げたところ
で態度は変わらないだろう。
﹁ティッティネン中佐、あの小娘には補充はなんとか工面するから
それまでの間はなんとか自力で持ちこたえろと言っておけ﹂
ハッグルンドの言葉に丁寧に返事をしながら頷いた。
どちらにしたところで、ソ連軍の動向が気にかかる。彼らはなに
かを画策しているのではないかと思われた。
スタフカ
﹁そういえば、イワンの第八軍を囲むモッティでだいぶ奴らを押さ
え込んでいますが、奴らの暗号を解読した結果、ソ連大本営に増援
を要請したらしいと⋮⋮﹂
スヴェンソンが話題を戻すと、ハッグルンドがしかめ面をした。
﹁それが当面の問題だな。アカの増援が来る前に現状保持している
モッティを始末しておかないと阿鼻叫喚の地獄だろうからな﹂
情報では、四個師団が第八軍の救出のために向かっているとのこ
とだった。
四個師団︱︱八万人もの大部隊だ。
少数の軍団しか持たないフィンランド国防軍にとっては目眩がす
モッティ
るような数字である。
﹁レメッティの包囲陣とキティラのモッティをなんとかしないとな
らんな﹂
そのためにも、コッラーの防衛線には無理を強いる結果になる。
彼らの務めは、増援部隊を食い止めることだ。
198
﹁⋮⋮東レメッティのモッティは確かアカの第十八狙撃師団でした
か﹂
この東レメッティの第包囲陣は、第十八狙撃師団長コンドラシェ
モッティ
フ少将と、第三四戦車旅団長コンドラチェフ少将の二人が閉じ込め
られていることもあり、フィンランド軍内からは﹁将軍包囲陣﹂と
呼ばれている。
モッティ
この将軍包囲陣よりも西にあるもう一つの包囲陣は、約一個連隊
がまるまる包囲されていたため﹁連隊包囲陣﹂と呼ばれる。
東レメッティにしても、西レメッティにしても状況が厳しい事に
は変わりがない。
さらにレメッティの更に南のキティラでは一個師団がまるまる包
囲されている。
﹁増援が到着する前に、奴らを始末するぞ﹂
﹁⋮⋮はっ﹂
ハッグルンドの言葉に、スヴェンソンが敬礼をした。
﹁第十三師団のスネルマン少将にはモッティを潰すために気張って
もらう﹂
第四軍団第十三師団を指揮するのはアールネ・スネルマン少将だ
った。
堅実な戦略家である。
泥沼の戦場。
これからどうなるのか。
彼らにはまだなにも見えてはいない。
﹁第十二師団にはまだ敵の矢面に立ってもらわなければならん。困
難な任務になると思うがよろしく頼む﹂
﹁承知しました﹂
そもそも最初から困難な任務であることはわかりきっているのだ。
﹁ユーティライネンは狂喜すると思いますがね﹂
ティッティネンの言葉に、常に熾烈な戦場を求めている彼女を思
い浮かべた司令官たちはそうして大きな溜め息をつくのだった。
199
*
﹁やかましい⋮⋮っ!﹂
叫んだアリナは相変わらず乱暴に無線電話の受話器をたたきつけ
シス
てから、豪快な動作でロッキングチェアに沈み込んだ。
﹁どうしたんです? 姉さん﹂
﹁⋮⋮︱︱アーッテラか﹂
指揮テントの向こうに感じた気配と、その声にアリナ・エーヴァ
は不機嫌そうな声を上げた。
﹁入ります﹂
副官のユホ・アーッテラが彼女のテントに入ると、仏頂面のまま
でアリナ・エーヴァがロッキングチェアに腰掛けたまま長い足をく
み上げて、胸の前で両手を組んでいる。
その眼差しはなにかを切ってしまうのではないかと思えるほど鋭
く、そして機嫌が悪くて、そんな彼女の瞳にアーッテラは一瞬の無
言の後に首をすくめてみせる。
﹁あんまり戦場じゃないのに怒鳴らんでください﹂
﹁わかってるよ﹂
あからさまに機嫌の悪そうな彼女に、しかし臆することもないの
は彼がアリナ・エーヴァとのつきあいが長いせいもあるだろう。
フン、と鼻を鳴らした彼女は組んでいた足をほどくと、どっかり
とブーツの踵を鳴らしながら床を蹴る。そうして、やはり胸の前で
組んでいた両腕をほどいてから、膝の上に手のひらをついた。
﹁それで、どうしたんです?﹂
﹁⋮⋮第十三師団︱︱スネルマン少将のところで、レメッティのモ
ッティ狩りをやるそうだ。補充の要望を出してるんだけど、しばら
くは現状戦力でなんとかしろだとさ﹂
﹁⋮⋮ってことは、通信相手は連隊長ですか?﹂
200
﹁そう﹂
眉間に皺を寄せて考え込んでいる彼女は、鋭く舌打ちを鳴らして
青い瞳をきつく輝かせた。
二個分隊が被害を受けて動けないということは、アリナ・エーヴ
ァの持ち駒は実質二個小隊と一個分隊ということになる。
﹁どうせ、ハールトマンのアホのところが余剰兵力を持ってるだろ
うから、そっちの大隊司令部の直属部隊を寄越せと言ったら、中佐
が切れやがった﹂
﹁それで、やかましい、ですか⋮⋮﹂
だいたいどこの中隊長が、連隊長相手に罵倒するものだろう。
このままでは自分の昇進も危ういのではなかろうか、と、そんな
シス
余分な心配をしながら、ユホ・アーッテラは深々と溜め息をついた。
﹁姉さん、俺たちはどこまでも姉さんについていくつもりですが、
あんまり司令部と喧嘩ばっかりせんでくださいよ。一応、これでも
俺たちは姉さんが心配なんですから﹂
あきれた顔で息をつく副官に、アリナは視線だけをやってから鼻
先で笑う。
﹁そんなこと言ったって、あんたたちはわたしが死んだって悲しん
だりしないでしょ?﹂
﹁⋮⋮そりゃ。あなたが最前線で死んだのなら、勇猛な指揮官だっ
たと悼むくらいで悲しんだりはしません﹂
シス
﹁なんだ、冷たい男だね﹂
﹁⋮⋮姉さん?﹂
彼女の言葉にいちいち棘を感じる。
そのことに彼女自身も気がついているのか、額に手をあててから
テントの天井を見上げた。
﹁悪い、ちょっと気が立ってるようだから、サウナでも入ってくる
よ﹂
長い吐息をついたアリナ・エーヴァはそうしてふらりと簡易テー
ブルの上に置かれたククリナイフと短機関銃を取ると立ち上がった。
201
﹁了解しました﹂
戦場での彼女は常に武器のたぐいを体の傍から離したりはしない。
おそらく、サウナに入っているときに敵襲でもあれば素っ裸でも
応戦するだろう。
それで
いいのだ。
女らしさのかけらもないが、アリナ・エーヴァ・ユーティライネ
ンは
彼女の指揮下にいる部下たちは、アリナ・エーヴァに女性らしさ
など求めていない。
もっとも対象になる女性が自分の血縁か、恋人、もしくは妻であ
ったならば別のなにかを考えることもあるだろうが、いかんせん﹁
おそらくサウナに入っている最中に敵襲があったら裸でも応戦する
だろう﹂と考えられる女性は、歴戦の陸戦要員であり、モロッコの
恐怖と二つ名を持つ﹁英雄﹂だ。
﹁ユホちゃん﹂
指揮テントを出た彼女が扉を開けて顔だけを覗かせて彼を呼ぶ。
﹁はい、なんでしょう?﹂
﹁⋮⋮なにかあったらすぐに呼べ﹂
﹁わかりました。ですが、そのときはなんか着てくださいよ﹂
﹁コートくらい着るから心配いらない﹂
素っ気なく応じたアリナはそうして、陣地の片隅に作られたサウ
ナへと向かっていった。指揮テントを出たユホ・アーッテラはアリ
ナ・エーヴァの背中を見つめながら、じっと片目をすがめてから手
にしていた帽子を目深にかぶった。
﹁副長、姉さんはサウナですか?﹂
﹁あぁ、一緒に入ろうとか思うなよ。殴り殺されるからな﹂
歩哨の兵士に声をかけられて、ユホ・アーッテラは視線だけで若
い兵士を見つめた。
﹁⋮⋮わかっています。姉さん、古傷を見られるのいやがりますか
らね﹂
フィンランドでは、友情があれば男女の別なくサウナに入るとい
202
う習慣がある。しかし、アリナはそれをひどくいやがった。
陸戦の猛者らしく、彼女には例に漏れず全身に多くの傷跡がある。
顔にないだけ奇跡的と言ってもいいだろう。
しかし、そのごく近い場所。
顎の下の首筋に大きな古傷が残っていた。
時折、傷が寒さに疼くのか、アリナ・エーヴァがひどく不愉快そ
うな顔をしていることをユホ・アーッテラは知っている。
彼女の部隊にいる男たちにも周知の事実で、誰も彼女がサウナに
入っているときに近づくことはしない。
女性でありながら大きな傷跡を多く体に残す。
もしかしたら、恥じているのだろうか、とも思うことがある。
そこまで考えて、ユホ・アーッテラは軽くかぶりを振った。
﹁いや、違うか﹂
独白したアーッテラは唇の端で苦笑すると、不思議そうな表情を
浮かべている歩哨に片手を振った。
﹁なんでもないから気にするな﹂
おそらく、彼女は女性として体に傷があることを恥じているわけ
ではない。
一度だけ、ユホ・アーッテラがアリナの背中を見たことがあった。
そのときは容赦なくぶん殴られたが、一瞬だけ見えた背中には無駄
な筋肉はなく引き締まっていて、どこか大人のエロティシズムすら
感じさせる背中だったことを覚えている。
ただ、大きすぎる背中の傷がなければ、だが。
その傷は恐ろしく古いもので、その傷を負ったときには命の危機
にすら直面したのではないだろうか。そんな戦士として致命傷にな
傷跡だらけであること
るだろう傷を受けていて尚、彼女は最前線で勇猛果敢に戦い続ける
のだ。
おそらくは戦士でありながら、全身が
に対して恥じているのだろう。
女性として、ではなく。
203
傷を受けなければならなかった自分を恥じる。
そういうことだ。
彼女は、恐怖を感じることはないのだろうか⋮⋮。
ユホ・アーッテラはサウナの方向を見やったままで考えた。
アリナ・エーヴァ・ユーティライネン。彼女は、今の今まで戦士
として、兵士として無傷で戦い続けてきたわけではない。なにより
も、戦うことによって傷を負うことを知っているからこそ戦い続け
られた。
命とは、それほど儚く散っていくのだと言うことを、彼女は知っ
ている。
何十人、何百人。
彼女はその目に﹁人の死﹂を焼き付ける。
﹁⋮⋮それはそう﹂
あなた
ユホ・アーッテラはぽつりとつぶやいた。
﹁アリナ・エーヴァは、誰よりも優しい⋮⋮﹂
囁くように独白したアーッテラの言葉は、凍えた風に乗ってやが
て吹きすさぶ荒野に消えていく。
誰よりも優しいのに、不器用で乱暴な振る舞いしかできずに、彼
女は銃を握って戦い続ける。自分が戦うことが、誰かを守ることに
なるのだと。
だから、彼女は上官にすら怒鳴りつけるのだ。
えんぺいごう
自分の部下たちを守ろうとして。
それからしばらくして、掩蔽壕にいるアーッテラにアールニ・ハ
ロネンが短機関銃を抱え血相を変えて走ってきた。
﹁少尉⋮⋮っ!﹂
今の第六中隊で﹁少尉﹂と言えばアーッテラしかいない。
﹁大変です!﹂
﹁どうした、イワンか!﹂
咄嗟に体を起こしながら銃を取り上げたアーッテラに、ハロネン
が呼吸を荒げたまま告げる。
204
﹁姉さんが倒れました﹂
指揮官だって人間だ。
時には前戦で倒れることだってある。
﹁⋮⋮なんだってっ?﹂
アリナ・エーヴァがサウナからなかなか出てこないことに不審を
感じた部下の一人が、覗くとそこには温かい蒸気の中で倒れている
上官がいたという。
指揮テントに行くと、毛布で包まれたアリナがロッキングチェア
の上で意識を失っていた。
﹁衛生兵を呼べ﹂
﹁もう呼んでいます﹂
アーッテラの指示に、即答したハロネンは金髪のはりついている
アリナの額に手をあてた。
数日前から体調はだいぶよくなさそうではあった。
そのうえ、ここしばらくソ連軍の攻勢は若干緩やかな傾向にあっ
た。
緊張感が途切れたことによって、負担が彼女の体を蝕んだのだろ
う。
救急キットを抱えた軍医が指揮テントに走り込むのと、ほとんど
時を同じくしてアリナ・エーヴァが目を覚ました。
﹁⋮⋮診察します﹂
言いながら救急キットを開いて毛布に手をかける軍医に、彼女は
不意に大きく目を見開いて男の手首を強く掴みしめる。
﹁触るな﹂
低く、脅すように彼女が告げる。
﹁わたしに、触るな﹂
強い力で軍医の手を振り払った彼女は、両腕で自分の肩をかき抱
くようにしながら目の前の男たちを睨み付ける。
﹁殺されたくなかったら、出て行け﹂
静かな声色で、ゆっくりと言葉を綴るアリナ・エーヴァに投げ飛
205
ばされる形になった軍医だけではなく、アーッテラもハロネンも唖
然とした。
﹁⋮⋮姉さん?﹂
﹁もう一度言う。殺されたくなかったら、出て行け﹂
ぎろりと男たちを睨み付けた彼女の瞳に殺気を感じて、三人の男
たちは動揺した。中隊長である彼女にこう言われてしまえば、指揮
テントから出て行くしかない。
そもそも、連隊長はもとより、師団長すら手に負えない狂犬のよ
うな女性を部下であるアーッテラやハロネン、そして軍医などが手
に負えるはずがないのだ。
彼女に威圧された男たちはやむなく引き下がって指揮テントを後
にした。
﹁⋮⋮疲れてるな、だいぶ﹂
アリナ・エーヴァがだいぶ疲れている。
それをユホ・アーッテラは感じた。もっとも、彼女があんなこと
を言ったのは、目の前にいたのが軍医と、古参の小隊長、そして副
官だったからこその言葉であろう。
兵士たちが相手ならば彼女はあそこまで威嚇はしない。
﹁どうします? 副長﹂
﹁あのまま放っておけば直るさ﹂
﹁⋮⋮直らなかったら?﹂
ハロネンがアーッテラを追求する。しかし、追求されるアーッテ
ラもただ仕方なさそうに肩をすくめるだけだった。
﹁直らなかったらまたなにか方法を考えればいい﹂
どちらにしろ、言葉通り半殺しにしかねないアリナの様子を見る
限り、今のところ手のうちようがないというのがアーッテラの本音
だった。
206
23 魔女への忠誠
翌日、日が昇る前にすでに指揮テントから出てきた彼女は、感情
フォメンタ
の揺れを余り感じさせない眼差しで歩哨の青年兵に歩み寄った。
ヒューヴァー・フォメンタ
﹁おはよう﹂
﹁おはようございます! 姉さん﹂
﹁様子は?﹂
﹁動きはありません﹂
歯切れの良い回答を受けて、アリナ・エーヴァは青年の見つめる
森の先を注視する。その青い瞳は、部隊の誰もが憧憬をもって見つ
めるその人のものだ。
女だからとか。たかが女だ、とか、そんなことを﹁アリナ・エー
ヴァ・ユーティライネン﹂に対して思ったことなど一度もない。
﹁そうか、ご苦労。時間になったらとっとと見張りを交代してしっ
かり休め﹂
﹁はっ﹂
スオメン・タサヴァルタ
軽く青年の肩をたたいた彼女はそっと両目を細めてから、凍える
ほど冷たい空気の中で考え込んだ。
︱︱気にかかるのは。
そう。
エイノ・イルマリ
彼女が気にかけているのは、もちろん祖国フィンランドの行く末
ももちろんのことだがまだまだ新米の兵士でしかない弟のことであ
る。
彼が子供の頃はよく叩いて泣かせたものだが、今ではすっかり感
じの良い青年へと成長した。
もっとも、それはアリナにとってみれば﹁外見だけ﹂だ。
アリナ・エーヴァとは異なり、どこか穏やかで優しいところを持
っている彼が人殺しという任務を前にして正気を保っていけるのだ
207
ろうか。
少なくとも、彼女自身は若い兵士たちとは違う。
多くの若い兵士たちが初めての戦場であるのに対して、アリナは
モロッコの植民地戦争を経験している。
また、中には第二大隊指揮官のようにスペイン内戦に義勇兵とし
て参加していた者もいるが、あくまでそれらは一握りでしかない。
ほとんどの者たちが弟︱︱エイノ・イルマリと同じでこのソビエト
連邦との戦争が初陣だった。
どれだけの人間が傷つくことになるのか。
﹁⋮⋮︱︱わたしは﹂
アリナ・エーヴァは続く言葉を飲み込んで、かすかに片目を細め
る。
そんな上官の姿に、歩哨の兵士はちらと横目で視線をやった。
けれども彼はなにも言わない。なにかを言葉にするその資格もな
い。
軍隊とはそういう場所だ。
アリナ・エーヴァ・ユーティライネンは、兵士たちの個人の事情
を聞く権利があるが、その逆などあり得ない。
︱︱わたしは、もう見慣れた。
それを、人は非人道的と思う者もいるかもしれない。
本来、女︱︱メスという生物は次世代を産み育むものだという。
しかし、自分の手は血に濡れている。
もう何人の人間を殺したのかとっくの昔に数えるのをやめた。
彼女がフランス外人部隊に従軍したばかりの頃は何度か殺戮とい
う行為に神経をやられて嘔吐をしたものだが、今ではすっかりそん
なこともなくなった。
﹁アーッテラ﹂
﹁はい﹂
ふと彼女が背後に立つ男を呼んだ。
三十代にさしかかろうかという彼女の副官である。アリナ・エー
208
人の形
をしているか?﹂
ヴァの唐突な呼び掛けに、しかしユホ・アーッテラも迷いをかけら
も見せずに応じた。
﹁⋮⋮わたしは、まだ
問いかけに、アーッテラは即答できなかった。
その言葉は言葉通りの意味など持ってはいない。
﹁アーッテラ、前、おまえは言ったね? わたしが飲み込まれそう
になったら引きずり戻してくれると﹂
﹁はい﹂
奈落の底から伸びた長い腕に引きずり込まれそうになる。
目の前に広がるのは血の色にも似た暗黒だけだ。
﹁ご心配なく。あなたが、あなたの目で前を見つめることができな
くなったら、俺が引きずってでもこの場に戻します。あなたが、た
とえ人の形をしていなくても﹂
﹁頼むよ﹂
肩越しにアリナ・エーヴァは振り返ってからそっとほほえんでみ
せる。
﹁⋮⋮はい﹂
ほほえんだアリナの瞳に、ユホ・アーッテラは睫毛を伏せて足元
スオミ
の積雪を見つめると、上官同様にほほえんだ。
﹁俺にとって、フィンランドは大切な祖国です。ですが、祖国より
も、アリナ・エーヴァ・ユーティライネンという人に、忠誠を誓っ
ています。たとえ、この戦いの後にどんな結果が待っていたとして
も、俺はあなたについていきます﹂
﹁いかれてる﹂
アーッテラの言葉に、からからと声を上げて笑った彼女は手渡さ
れた毛皮の帽子を受け取って目深にかぶるとくるりと踵を返した。
指揮テントへと向けて歩きだす。
﹁体調はもういいんですか?﹂
﹁なんだ、心配してたの?﹂
アリナは大股に闊歩しながら滑りやすい雪を踏みしめた。
209
あちこちに雪像のようなソ連兵の凍死体が立てられている。
ちなみにアリナ・エーヴァの悪趣味だ。
﹁当たり前です。あなたに倒れられたら困ると言ったでしょう﹂
小言をはじめる副官の青年にアリナは肩の上でぱたぱたと手を振
って見せてから唇の端でにたりと笑うと振り返る。
﹁心配いらないよ、わたしをなんだと思ってる﹂
﹁陸戦の化け物、ですかね﹂
﹁わかってんじゃん﹂
軍服に分厚いコート、そして防寒用のグローブに野戦ブーツ。毛
皮の帽子をかぶった彼女はすぐに手を伸ばせるところに大降りのナ
イフを装備していた。
それは彼女がフランス外人部隊に所属していた頃からの相棒でも
ある。
そのナイフで殺した人数は数知れない。
シス
言わば、アリナ・エーヴァにとっての死に神の大鎌だった。
﹁姉さん、俺たちは姉さんの手足です。どんな命令でも従います﹂
ふと真面目なアーッテラの声に、アリナは驚いたように顔を向け
た。
﹁姉さんが迷っているのはわかっています。ですが、俺たちは姉さ
んが銃剣突撃をしろと命じるなら、それに従う覚悟はできています﹂
︱︱あなたと共に戦うと心に誓った。
配属されたのがモロッコの恐怖と謳われた女性の部隊だからなど
ではない。
﹁俺たちは、あなただから忠誠を誓うんです﹂
﹁⋮⋮︱︱嬉しいこと言ってくれる﹂
銃剣突撃をしろと言われればそれにすら従ってみせる。
そう言ったアーッテラの強い瞳に、彼女はひどく優しげな微笑を
たたえた。おそらく、一瞬前に見せた驚いたような顔がアリナの本
心だったのだ、とユホ・アーッテラは判断した。
彼女が決して無駄な犠牲を望んでいるわけではないと知っている。
210
だから、昨日、連隊司令部との無線で立腹していたのだ。
これ以上損害が大きくなっては作戦遂行に支障が出るから、とい
う理由だけではない。部隊が縮小すればするほど、個人にかかる負
担は大きくなり、結果的に損耗を大きくするだけだ。
だから、彼女は補充部隊をなにがなんでも寄越せと怒鳴っていた
のだ。
もちろん、相手にそんな余裕がないこともわかっていて。
﹁若いのは死んじゃいかん﹂
冗談でも告げるような口ぶりで笑った彼女はそうしてひらりと一
度だけ肩の上で手を振ると、指揮テント内へと戻っていった。
日が昇ってからすぐに赤軍の襲撃があった。
もっとも、この日のソ連軍による攻撃は午前中に一度きりのほん
の一時間ほどで、第六中隊の迎撃であっという間に退却してしまっ
た。
そんな赤軍の様子にアリナは軽い胸騒ぎを感じた。
雪の上には新しいソ連兵の死骸が転がっている。
スキーを履いたアリナは、ストックを手にすると背中に機関短銃
を背負って滑り出す。
﹁姉さん、どこへ⋮⋮っ!﹂
アーッテラの問いかけにも、アリナ・エーヴァは止まらない。
﹁ちょっとその辺を見てくる。おまえはここを守っていろ﹂
昨日これが倒れていた女性なのかと思えるほどの軽快な動きで雪
の上を滑っていく彼女は、狙撃兵でもいれば良い的になりかねない。
焦った様子のアーッテラが制止をしようとするが、素早い彼女は
あっという間に声も届かない距離へと消えていく。
﹁大丈夫ですかね⋮⋮﹂
アールニ・ハロネンがアーッテラに歩み寄って問いかければ、副
官の少尉殿は重いため息をついた。
﹁もう放っておけ﹂
211
彼女が元気ならそれでいい。
﹁副長も苦労しますね﹂
﹁別に俺はいいんだよ、俺は﹂
ハロネンが笑うと、アーッテラは首をすくめてからあたりを見回
した。
それからしばらくしてアリナは戻ってきたが、相変わらず見事な
血まみれだった。
彼女の説明によると、どうやら付近に赤軍の斥候が潜んでいたら
しい。
﹁それにしても、あんたは大概化け物ですね﹂
アーッテラの再三の溜め息にアリナ・エーヴァはひょいと彼に銃
弾を投げ渡した。
﹁一応、お土産﹂
﹁どうも﹂
おそらく問題の斥候を殺した時に奪ってきた鹵獲品だろう。
﹁なんで斥候があたりにいるとわかったんです?﹂
﹁勘﹂
言い切った彼女に、アーッテラは自分の銃に弾を込めながらちら
と視線をあげるとアリナを見つめる。
﹁ま、それは冗談だけどさ。退却が早すぎるから、狙撃兵か斥候を
仕込んだんじゃないかなって思ったんだ﹂
﹁狙撃兵だと厄介でしたね﹂
﹁⋮⋮そだね﹂
結局、狙撃兵が陣地近くに入り込んでいたわけではなく、情報収
集にあたっていた兵士がいただけだった。
﹁それで、何人いたんですか?﹂
﹁⋮⋮一個分隊かな﹂
﹁豪勢ですな﹂
一個分隊。
今のアリナにとっては喉から手が出るほどほしい戦力だ。
212
シス
これが、自分の味方であったならばなぁ、と思ったと付け加える
彼女にアーッテラが笑う。
﹁まったく羨ましい話しです。ところで、姉さん﹂
昨日の一件などなかったように言葉を交わすふたりの信頼関係は
驚くべきものだ。
唐突に話題を変えたアーッテラに、アリナは眼差しを向けてから
首を傾げた。
﹁姉さんが出かけてる間にシムナが戻りました﹂
﹁そりゃ結構﹂
アーッテラの報告では、第五中隊の陣地を監視する射撃統制所を
えんぺいごう
ものの数日でシモ・ヘイヘが射貫いたそうだ。
ちなみに第五中隊の掩蔽壕がやたらと豪華だったらしい。
﹁⋮⋮快適だったそうですよ﹂
ヘイヘの感想を付け加えたアーッテラにアリナが毒づいた。
﹁羨ましいことで﹂
213
24 包囲殲滅作戦
モッティとはフィンランド語で木こりが裁断、もしくは売買する
ために積み上げた材木の単位のことで、これを転じてモッティ戦術
と名付けられたその戦術は、補給線の伸びきったソ連軍を分断、包
囲の上反復して攻撃し撃滅させるフィンランド軍の戦術を指してい
た。
もっとも、ソビエト連邦の官製新聞はこれについて﹁卑劣な作戦
である﹂と自軍を棚に上げてフィンランドを批難した。
ヨハン・ヴォルデマル・ハッグルンド将軍の率いるフィンランド
国防陸軍第四軍︱︱第十二、十三師団︱︱は、ソビエト連邦の第八
軍を相手に奮闘していた。
ソ連第八軍はその麾下に第五九狙撃兵軍団︱︱第十八、五六、一
六八狙撃兵師団︱︱と第七五、一三九、一五五狙撃兵師団そして第
三四戦車連隊を保有する。
その数約十二万人、砲と迫撃砲は六百門、戦車四百両にのぼる。
このうち、第一三九狙撃兵師団は第四軍団の側面掩護を任された
パーヴォ・タルヴェラ大佐率いる独立作戦部隊︱︱タルヴェラ戦闘
団によって撃破された。その後、一三九狙撃兵師団の掩護に駆けつ
けた七五狙撃兵師団をも撃破している。
この時点で、六個師団中、二個師団が撃滅させられたことになる。
フィンランド軍第四軍はソ連第八軍左翼部隊に対して、タルヴェ
ラ戦闘団の快進撃と時とほぼ同じくして強い圧迫を加えていったた
め、ソ連軍は攻勢を中断せざるをえなかった。
一月に入り、フィンランド軍はソルタヴァラ方面とピトカランタ
モッ
方面から挟撃しウオマーからキティラで分断包囲するという作戦行
ティ
動に出た。その際に、レメッティを中心とする十カ所に大きな包囲
陣をもって、ソ連軍を封じ込めることに成功していた。
214
その中で最も大きな包囲陣がキティラにあるモッティでここには
モッティ
一個師団がまるまる包囲されていた。その次に大きかったのが西レ
メッティの付近にあった一個連隊を包囲した連隊包囲陣だ。
もちろん、巨大な包囲陣をフィンランド軍は好きで維持していた
わけではない。
撃滅させたくても、そうするだけの戦力に乏しかったのだ。故に、
じりじりと消耗戦に追い込むことしか選択肢はない。
フィンランド陸軍第四軍はこういった形で、ソ連の狙撃兵師団二
個師団と一個戦車旅団を北からラドガ湖に向けて圧迫するような形
スタフカ
で大きく包囲していたのである。
この状況を打開するために、ソ連軍大本営から第二五機械化騎兵
師団、第十一狙撃兵師団、第七二狙撃兵師団、第六十狙撃兵師団な
どがキティラ、ウオマー方面へと進軍していた。
この進撃を受け止めるのがコッラー川付近に展開する第十二師団
であり、モッティを切り崩していくのが第十三師団の仕事だった。
⋮⋮︱︱のだが。
アリナは憮然として簡易テーブルに肘をついて目の前の男を見つ
めている。
彼女としては久しぶりに見たような気にもなる男の顔。カール・
マグヌス・グンナス・エーミル・フォン・ハールトマン少佐である。
ちなみにアリナ・エーヴァは、この目の前の尊大な男が大嫌いだ
った。
﹁⋮⋮女ったらしが何の用﹂
﹁罵倒も豊富でなによりだ﹂
嫌みったらしい男の言葉にアリナは片方の眉をつり上げる。
こめかみに青筋が浮いているように見えるのは気のせいだろうか
⋮⋮?
ちなみに、そんなアリナ・エーヴァの後ろではらはらと視線を泳
がせているのは副官アーッテラだ。
﹁うるさいな、自分がもてると勘違いしてるアホよりなんぼかまし
215
です﹂
顎を引き上げて天井を見上げた彼女に、フォン・ハールトマンは
仕方なさげにだされたまずいコーヒーに口をつけながら口を開く。
一応、敬語を使っているのは相手が上官だからで、これが私人と
して顔を合わせているのであればアリナとしては顔も見たくないほ
ひっぱく
ど大嫌いだった。
﹁十三師団も逼迫している。本題に入るぞ﹂
﹁もったいぶってたのはわたしじゃありません﹂
ばっさりと切り捨てた彼女は、睨み付けるようにハールトマンを
見つめた。
青い瞳が嫌悪に充ち満ちている。
﹁なにもそんな怖い顔をすることはないだろうに﹂
いかにも軽薄そうなこの男が、実はスペイン内戦では義勇兵の一
人として戦っていたことも知っていた。国外で戦っていた、という
ことについてはアリナ・エーヴァと同様なのだが、なにせソリが合
わないというか、アリナが一方的に嫌っている。
もちろん嫌っているものだから、大隊長であるとは言えフォン・
ハールトマンの言うことなど聞きはしない。
おそらく彼女のほうに聞くつもりがないのだろう。
そして、部下の彼女が言うことを聞かないのはわかりきっている
ハールトマンはのんびりとした表情のままでじっとアリナの青い瞳
を見つめた。
フォン・ハールトマンは﹁黙っていれば美人なのだろうな﹂と余
分なことを考えているが本人には告げない。どうせなにを言っても
彼女の癇癪玉を刺激するだけだ。
﹁結論から言おう。大隊司令部の二個分隊を出す。はっきり言って、
これ以上は大隊司令部からは出せん。どうせ、貴様のことだから無
茶はするだろうが健闘を祈る﹂
そう言って、彼は一枚の書類を彼女に放り出した。
二個分隊。
216
その名簿だ。
﹁⋮⋮︱︱﹂
唐突な彼の言葉に、アリナは瞠目してから、ハールトマンの顔を
見つめ直す。
まさかこんなにも突然、補充部隊が訪れるとは思わなかったから
だ。
﹁⋮⋮武器弾薬はこちらの司令部から部隊と一緒に届けさせる。正
直、ぎりぎりだが、ユーティライネン。貴様がいなければ話しにな
らん﹂
彼女の前線指揮官としての優秀さはティッティネンや、スヴェン
ソン、そしてハッグルンドだけが認めるものではない。
第五中隊のトイヴィアイネンも、そして大隊長のハールトマンも
認めるところだ。
﹁連隊長が頭を抱えていたぞ﹂
ハールトマンが告げるとアリナは鼻を鳴らしてから視線を背けた。
そんな彼女はどこかバツが悪そうだ。
そう。
モッティの撃滅のために兵力が第十三師団に裂かれている今、第
十二師団はぎりぎりの兵力で進撃する四個師団と赤軍第八軍の第五
十六狙撃兵師団と第一五五狙撃兵師団を押さえ込まなければならな
いわけだ。
だからこそ、歴戦の猛者である彼女が必要不可欠だ。
﹁現状戦力でなんとかするしかない﹂
告げられた男の言葉にアリナは眉間を寄せたままロッキングチェ
アをぎしりと苛立たしげに揺らすと大きく足をくみ上げる。
その姿はまるで大隊長のハールトマンよりもずっと偉そうだ。
﹁それはわかっているだろう﹂
まるで拗ねた子供のような彼女の様子に、フォン・ハールトマン
は言い聞かせる。
アリナはそんな大隊長の言葉を聞きながら腹の前で両手の指を組
217
み合わせた。
じっとなにかを考え込んでいる。
﹁⋮⋮︱︱キティラ方面のモッティを潰すのに、どれだけ時間がか
かると思ってるんですか﹂
やがてアリナ・エーヴァは吐き出すようにぽつりと告げる。
満足な戦力もない。
圧倒的なソ連軍にただフィンランド軍は指をくわえて見ているこ
としかできないのだ。
そもそも全てが﹁冬将軍頼み﹂などとは運を天に任せているにも
程がある。
アリナ・エーヴァ・ユーティライネンは生粋の武人だ。
いや、武人と言うには語弊があるかもしれない。彼女は根っから
の兵士である。だからこそ誰よりも冷静に、そして冷徹に戦況を見
つめている。そもそも、彼女が防衛の指揮を執るコッラーでだけ勝
っていても戦争は意味がないのだ。
﹁⋮⋮わからん﹂
﹁はっ﹂
ようやく言葉を絞り出すようにして応じたハールトマンの言葉に、
アリナは小馬鹿にするように息を吐き出すと鼻で笑う。
なるとして、フィンランドの一個師団と、イワンの一
スオミ
﹁一個師団と連隊まるまるでしょう? 個々の小さなモッティは
どうにでも
個師団じゃ規模が違う。単純計算でも倍くらいはいる計算になる﹂
モッ
要するに、キティラのモッティは二万人の将兵を包囲していると
計算して良いだろう。
ティ
そして、レメッティ西方面から少し離れたところにある連隊包囲
陣は約三千名程を包囲している。
それに対して、フィンランド軍は二個歩兵師団だ。
小さく、アリナにしては控えめに舌打ちを鳴らした彼女に、ハー
ルトマンが苦く笑った。
﹁とにかく、貴様のほしがっていた補充部隊は半日後までにはやる。
218
それでなんとかやってみせろ、
モロッコの恐怖
﹂
ことさらに﹁モロッコの恐怖﹂という単語を強調されてアリナは
思わずロッキングチェアから立ち上がった。
﹁では、俺は大隊指揮所に戻る﹂
そう言ってからフォン・ハールトマンは彼女の頬に手を伸ばして、
ネイティ
顎を引き上げるとその頬に口づける。
﹁それでは、失礼。麗しのお嬢さん﹂
﹁⋮⋮とっとと出て行けーっ!﹂
堪忍袋の緒が切れたらしいアリナが思い切り大隊長を務める男に
怒鳴りつけたのはそのときだった。
金属製のカップを投げつけて、大隊指揮官の軽薄な男をアリナ・
エーヴァが指揮テントからたたき出す。一応、美人扱いされている
のだから喜んでも良いではないか、ともユホ・アーッテラは暢気に
思うが、おそらく、アリナ・エーヴァにとってフォン・ハールトマ
ンがいけ好かないだけだろう。
ハールトマンがアリナの指揮テントを出て行くのを見送ってから、
彼女は眉をしかめたままで自分の頬を手の甲でこすった。
本当に嫌だったのだろう。
彼女は生粋の戦争屋だからこそ、その辺の女性陣たちと同じ扱い
を︱︱特に同じ職業軍人から︱︱されることを心底いやがっていた
し、貴婦人扱いをされて頬にキスをされることなどなおさら大嫌い
だった。
﹁⋮⋮さっきの話しは本当ですかね﹂
彼女らの脇で話しを聞いていたアーッテラが口を開くとアリナは、
もう一度舌打ちをしてからロッキングチェアにどっかりと座り直し
た。
﹁うん?﹂
﹁補充部隊の話しです﹂
﹁本当だろう﹂
いくらお互いにいけ好かないと思っていても、味方に偽りを告げ
219
る指揮官などいるわけがない。
﹁⋮⋮それにしても、あんなこと言って良かったんですか? 大隊
長殿に出て行けなど。補充部隊を出すのをやっぱりやめたとか言わ
れたらどうするつもりなんです?﹂
﹁それはないから安心して良いよ。それに、あの女たらしは、あれ
でくらいで丁度いいんだ。どつきあってるのは別にいつものことだ
し、あんな程度であの男が傷ついたりするもんか﹂
淡々と第二大隊長カール・マグヌス・グンナス・エーミル・フォ
ン・ハールトマン少佐を評価するアリナ・エーヴァにユホ・アーッ
テラは毒気を抜かれたように細く息を吐き出した。
﹁左様で﹂
攻撃的な言葉を口にする彼女に、アーッテラは肩をおとす。
﹁そんなことより、わたしは貴婦人なんかじゃないと何度言えばわ
かるんだか、あの間抜け﹂
きつく言い放った彼女に、アーッテラは無言のままで首をすくめ
てみせるだけだった。
まだ
コッラー川の要所である防衛線は戦っていける。
そこ
いずれにしろ、補充部隊の目処が立ったことは良いことだった。
これで
220
25 泥沼の戦場の行く先
大隊司令部から補充の二個分隊が到着してから、中隊内の大きな
編成替えが行われた。よくよく考えなくても、アリナ・エーヴァ・
ユーティライネンの指揮する中隊への優先的な人員の振り分けは、
あまりにも特別なものだったと言える。
もっとも、その特別な扱いは彼女が司令部へ執拗に補充部隊の要
請をしていたからではない。たかが中隊長の要請など、本当に状況
が逼迫していて、なおかつ他に優先すべき事柄があれば無視される
のが常である。
しかし、アリナ・エーヴァ・ユーティライネンの要請を司令部が
無視することなどできはしなかった。
それだけ、彼女の前線指揮能力を高く評価されている、というこ
とになる。
本人はどこまでも飄々としており、よしんば面と向かって﹁君は
優秀な前線指揮官だ﹂と言われたところでまともに受け取りはしな
いだろう。
︱︱彼女はそういう女性だった。
大規模な攻撃を仕掛けるとすれば、それは第九師団が決死の戦闘
を行っているスオムッサルミ方面でもなく、第十二師団が防衛する
コッラー方面でもない。
おそらく、彼らはクーシネン率いる﹁フィンランド民主共和国﹂
のあるカレリア地峡︱︱マンネルヘイム線を越えて進軍してくるに
違いない。
なぜならばラドガ湖北部は、森林や湖沼地帯が続いているためソ
連軍の機甲部隊が思うように通過できないためだ。加えて、このコ
ッラー地方は現在、二個師団が壊滅、包囲殲滅戦の矛先を向けられ
ているのが二個師団と一個旅団あって、戦闘は寒さのために膠着状
221
態に陥っているからだ。
この第八軍を指揮するのがグリゴリー・シュテルンで、彼は一九
三九年七月のノモンハン事件においてソ・蒙前線集団を統括した実
質的な﹁ソ連英雄﹂の一人である。
ソ連軍のこの大規模な機甲部隊を通せる上、かつ、首都ヘルシン
キに最も近い要所は、フィンランド国内にあって数は少ない。
それが、ラドガ湖とフィンランド湾に挟まれたカレリア地峡。
そしてそのカレリア地峡のすぐ北には、フィンランド第二の都市
でもあるヴィープリ市が存在している。
もう一方で、侵入し、なおかつヘルシンキにより近い地点と言え
ば、ラドガ湖北のスオヤルヴィ、ソルタヴァラ地区だ。ここから進
軍したのがソ連第八軍である。
この第八軍はラドガ湖の北を回ってカレリア地峡から進軍する第
七、十三軍と共にフィンランド国防陸軍カレリア地峡軍を挟撃する
予定だったのだが、この第八軍の攻勢を一手に引き受けたのがフィ
ンランド陸軍第四軍とタルヴェラ戦闘団だった。
尚、カレリア地峡というのは、国境沿いに湖沼地帯が続いている
ソ・フィン国境線にあって、唯一機甲部隊が満足に進軍できる場所
でもある。
もちろん、他の地域からも侵攻しようと思えばできるのだが、ヘ
ルシンキに向かうまでに通過するヴィープリ、国防軍総司令部が置
かれているミッケリなど多くの要所が存在しているため、ソビエト
連邦にとってもカレリア地峡は攻略するに値する地点であった。
ここでソ連第七軍、約二十万の兵力と、フィンランド国防陸軍カ
レリア地峡軍の約十二万が激突することになる。
﹁⋮⋮まるで、指揮者のいないオーケストラだ﹂
フィンランド国防軍総司令官、カール・グスタフ・エミール・マ
ンネルヘイムはそれを見てこう言ったという。
﹁指揮者がいたって、奴らは言うこときかないだろうけどね﹂
アリナはふと思い出してから苦笑いした。
222
﹁地峡の奴らも頑張れよ⋮⋮﹂
掩蔽壕内で休憩中だった兵士がラジオに耳を傾けながらそうつぶ
やくのが聞こえた。
カレリア地峡︱︱マンネルヘイム線ではラドガカレリア方面以上
の激戦が繰り広げられている。
﹁⋮⋮大丈夫だよ﹂
アリナは祈るような声を上げる兵士の背中に声をかけてやる。
ソ連軍第七軍。
アリナ・エーヴァはその正確な数を知らないが、第八軍を上回る
シス
大部隊であるという。赤軍の攻勢を受け止めるカレリア地峡軍。
﹁姉さん⋮⋮﹂
﹁そういえば、おまえはヴィープリ出身だったな﹂
鼻をこすった兵士は一瞬だけひどく不安そうな顔をしてから、ア
リナ・エーヴァを見つめた。ややしてから彼は気がついたようにう
つむいてしまった。
彼女︱︱アリナ・エーヴァ・ユーティライネンの故郷はラドガ湖
の北上にあるソルタヴァラだ。
エスベー
そのソルタヴァラは先日、ソ連空軍の百機以上もの双発型爆撃機
ルーッカネン
SBによって激しい空爆を受けた。これらの迎撃にあたったのがア
リナ・エーヴァの弟が所属している第二十四戦隊L戦闘機隊である。
アリナの故郷︱︱ソルタヴァラ。
﹁⋮⋮姉さんは、故郷のこととか心配じゃないんですか?﹂
問いかけられて、彼女は壕の薄暗さの中で静かにほほえみを浮か
べるとゆるやかにかぶりを振った。
﹁さぁてね⋮⋮、心配してるのかもしれないし、心配してないのか
もしれない。爆撃を受けたって言ったってさ、どうもその場にいな
いから現実感がなくて困ったもんだ﹂
シス
苦笑いをする彼女は、その一瞬後鋭い瞳を掩蔽壕の入り口へと向
けた。
﹁⋮⋮姉さん!﹂
223
﹁どうした!﹂
歩哨の兵士が荒々しく扉を開いて駆け込んでくる。
﹁イワンの攻撃です!﹂
叫ぶような声に、アリナはすでに走り出していた。
﹁朝っぱらから元気だね﹂
壕内に放置されているヘルメットのベルトを片手で掴むとそのま
ま短機関銃を持って走り出す。
一人たりとも犠牲者を出してはならない。
いや、彼女は頭ではわかっている。
この冬期の戦争が終わった後に何人の兵士たちが残っているだろ
う。
もしかしたら、自分を含めて誰も残っていないかもしれない。そ
れでも戦うことしかできはしない。
戦場の最も前で、旗をかざし部下たちを鼓舞するのが彼女の役目
だ。
﹁状況⋮⋮っ!﹂
アリナの声にアーッテラは肩越しに視線だけで振り返ると、塹壕
の中に飛び込んでくる上官に大声を上げた。
﹁数匹、青いのが混じってました。シムナが片付けました﹂
青いの。
その言葉にアリナは、不愉快そうに眉をひそめる。
おそらく、ソ連軍の内部組織の士官だろう。
﹁そうか﹂
いつものごとく歩兵も戦車もまるで協調性などなくばらばらに突
撃してくる様子を尻目にしながらアリナは腰を屈めたまま塹壕の中
を移動していく。砲手の横にまでやってくると、若い兵士に目配せ
ウラー
をしてからそろりと塹壕から頭を出した。
相変わらず、というのか﹁万歳﹂と声を上げて気でも狂ったよう
に突撃してくる赤軍兵士に対して、アリナ・エーヴァは鼻で笑った。
﹁シムナ﹂
224
﹁はい﹂
自分の横にいるシモ・ヘイヘを彼女が呼び掛ける。
上背の低い、けれども最高の狙撃手に、アリナは命じる。
﹁どれだけ殺れる?﹂
﹁一分に十六人として、弾さえあれば十分で一個中隊なら﹂
﹁よし、殺れ﹂
言いながらアリナは、すでに塹壕内を移動していて、ハロネン、
リーマタイネン、ヴァイニオンパーと言った小隊長らと何事かを話
していると、数分後に何人かの兵士たちを見繕って彼女は塹壕の端
から出て行った。
狙撃の名手のひとりであるアールニ・ハロネンが、塹壕内の狙撃
手たちの指揮を執り、リーマタイネンは中隊長のアリナ・エーヴァ
によってこの一戦のためだけに編成された対戦車部隊を指揮する。
さらに、ヴァイニオンパーは一個小隊を指揮して陣地をスキーで
大きく迂回した。彼の率いる部隊は塹壕の二個小隊と挟撃するよう
な形になる、迫撃砲一門と十四ミリの対戦車用ボーイズライフル二
丁を装備した部隊だった。
陣地に残って二個小隊を指揮するのはユホ・アーッテラ少尉だ。
十分あれば一個中隊を殺戮すると言ったが、実際問題としてそん
なことが可能なわけではない。あくまでも机上の空論だ。
けれども、それをわかっていてアリナはヘイヘの言葉を聞き、ヘ
イヘもわかって言葉にしている。
戦闘を長引かせてはいけない。
襲いかかる赤軍部隊に決定的な一打を加えるしか、フィンランド
軍に道は残されていないのである。
アリナはヴァイニオンパー隊同様にスキーで移動しながら、彼女
が率いているのは部隊の中でもナイフ格闘に通じている者たちばか
りだ。
もちろん、サブマシンガンも手にしているが、あくまでも念のた
めだった。
225
矢面に立つハロネン隊とリーマタイネン隊の負担が大きくならな
いうちにソ連軍の背後へと回り込まなければならない。スキーの名
手でもあるフィンランド軍の兵士たちは、ストックを雪上に突き立
てて風のように雪の上を滑る。
陣地の側面から轟音が響いたのが合図になった。
おそらく、ヴァイニオンパーに指揮を執らせた迫撃砲隊だろう。
遠目に戦車の影に隠れるように進軍していた歩兵たちが蜘蛛の子
を散らすように逃げていくのが見える。
その兵士たちがひとり、またひとりと倒れていくのは狙撃による
攻撃か。
冷静に彼女は考えながら、指示通りに部隊が動いていることに満
足して唇の端で笑ってからスキーを進める足をはやめた。
とにかく、なにがなんでも進まなければならない。
それからしばらくして彼女はソ連軍の歩兵部隊の陣地らしい広場
に出た。
周囲の樹は伐採されており、そこが人為的に作られた広場である
ことがわかる。
雪の中で凍り付いた車両が動かないのか、整備兵らしい兵士がエ
ンジンを暖めているのが見えた。
﹁散開、注意しろよ﹂
﹁⋮⋮はっ﹂
アリナ・エーヴァが直接指揮を執っているのは五名。
陣地にいるのは将校を含めて一個小隊ほど。
﹁五人でどこまでやれるやら﹂
首の後ろを手のひらでなでながら、アリナは死角になる物陰から
小さくサブマシンガンの銃口をあげた。
同時に、五名の機関銃が火を噴く。
スキー板に乗ったままで重心をとりながら、突然目の前に現れた
フィンランド兵士に右往左往するソ連軍をたたきつぶしていった。
さらに、弾のなくなったサブマシンガンを放り出したアリナは鬼
226
のような形相で短銃を抜いた男に向き直ると片手でスキーを外しな
がら躍りかかる。
相手が銃を持っていることなど気にもかけずに、彼女は長い腕を
伸ばして男の顔をつかむとそのまま雪上にたたきつける。
もう片方の手を伸ばして腰にさしたククリを抜くと一気に突き立
てる。
悲鳴をものともせずに、自分に襲いかかろうとする男に対して拳
銃を向けるとそのまま照準を合わせた。
迷いなくその胸を撃ち抜いてから、背後をとろうとする男に対し
てはナイフを手にしていた右手を振り上げて手首をひねるようにし
てから一気に顔面を切り裂いた。
容赦のない彼女の戦い方に対して、赤軍兵士たちの動揺が広がっ
ていく。
銃などなくても彼女は戦える。
しばらくの間そうしてナイフによる戦いを演じた彼女は、陣地の
兵士たちが消えたことを確認してから鋭い眼差しであたりを見回し
た。
﹁姉さん、大丈夫ですか?﹂
﹁わたしは問題ない﹂
おそらくそこが中隊司令部だろう。
彼女は放り出したサブマシンガンを拾うとスキー板を履き直して
滑り出す。
中隊指揮所が壊滅すればあとはなんとでもなる。
キュッラ
﹁戻るぞ﹂
﹁はい﹂
途中で戦車や歩兵を薙ぎ倒しながら陣地に戻る彼女は、そのなか
に数人のフィンランド兵が倒れているのを見つけて小さく溜め息を
ついた。
戦争である以上は損失は避けられない。
こうしていつもと変わりなく赤軍の突撃を粉砕して、第六中隊の
227
一日は過ぎていく。コッラー地方の戦線は変わりなく続いているよ
うに見えたが、カレリア地峡を中心とする戦局は大きく変わりはじ
めていた⋮⋮。
﹁我々が弱気にならない限り、コッラーは、持ちこたえるんだ﹂
アリナはスキーを駆りながらそうつぶやいた。
228
26 氷上の翼
フィンランド国防空軍の保有戦力はごくごく小規模なものである。
対ソビエト連邦戦に向けて、戦力の配備が間に合わなかった、と
いうのが正しいだろう。一九三九年十一月末の開戦当時、フィンラ
フォッケル
ンド空軍は二個飛行師団を基幹としていた。
第二飛行団は戦闘機部隊をその隷下にフォッカーD21を三四機
配備されたエリート戦闘機隊第二四戦隊と、ブリストル・ブルドッ
クを十機配備された第二六戦隊である。
第二四戦隊は当初、インモラ基地に。
そして第二六戦隊はラウランピ基地に拠点を構え、カレリア地峡
戦線の背後でソ連空軍の爆撃機の迎撃を任務としていた。
ルーッカネン
後に、ソ連空軍による爆撃が激しさを増し、第二四戦隊第三中隊
︱︱通称、L戦闘機隊は、ソルタヴァラ北方に位置するベルツィレ
基地に移動している。
一方、もう片やの第四飛行団は、第四二戦隊と第四四戦隊を隷下
におき、それぞれ十機ほどのブリストル・ブレニムが配備されてい
た。
この二個戦隊は双発の爆撃機を主力機として広大な戦線全てで活
躍をした。
彼らは前線の直接支援、敵戦線後方の爆撃、偵察などの広範囲の
ありとあらゆる任務についていた。
そのほかにも、第一飛行団は偵察機部隊で地上軍の直接支援任務
や、偵察を。第三六戦隊は水上機を運用して海軍の支援などを行っ
ている。
フィンランド空軍の航空機の数は約三百。
これに対して、ソ連空軍は約六千の航空機を保有している。
エイノ・イルマリ・ユーティライネンの所属する第二飛行団は、
229
戦闘機の損失を防ぐため、基本的には地上攻撃の類の対地攻撃支援
を禁じられている。
そのため、第二四戦隊が、通りすがりとは言えアリナ・エーヴァ
の戦線の対地支援を行ったことは異例中に異例と言えた。
エイノ・イルマリはぼんやりと緊急発進のために用意されたパイ
ロット用の基地のテントで椅子に腰掛けたままでテーブルに肘を突
いていた。
彼の手元には一枚の写真が放り出されている。
年末に、姉︱︱アリナ・エーヴァから送られてきた手紙に同封さ
れていた手紙である。
コッラーの戦線はひどい激戦だと新聞に記されていた。そして、
その戦線の英雄であり守護神でもあるのが第三四連隊第六中隊中隊
長アリナ・エーヴァ・ユーティライネン中尉と、その部下である狙
撃手シモ・ヘイヘ兵長だと。
北方の狩猟民であるフィンランド人たちにとって、スキーと射撃
は国民的なスポーツだと言ってもいいだろう。
スキー部隊では多くの有名なスキーヤーが活躍しており、オリン
ピック選手のペッカ・バンニネンなどもそのひとりである。
そして多くの戦闘機乗りたちもまた多分に漏れず射撃の名手であ
ることが多かった。この射撃が国民的なスポーツであることに助け
られたと言っても過言ではないだろう。
どの街でも射撃大会があって、優勝の賞品は銀のスプーンだった。
姉もまた、第三四連隊第六中隊のシモ・ヘイヘ兵長ほどではない
にしても射撃の名手である。
ソ連の爆撃機は酷寒のフィンランドに四千、五千メートルの高度
からテルミット焼夷弾を投下していくのだが、余りにも厳しい寒さ
のために高い確率で不発となった。
そのため、畑の一部などに柵で覆った不発弾置き場が設けられた。
この状況に、フィンランド人たちからは﹁へたに逃げ回るよりも、
230
狙われているところのほうが安全なのかも知れん﹂などという嫌み
を言われる始末だった。
こうしてソ連軍による投弾が終わると市民たちは防空壕から這い
出し、偽装のために白く塗られたバスやタクシーなども再び走り出
して、いつもと変わらない日常風景が動き出すのである。
︱︱こんな戦争など早く終わればいいのに。
エイノ・イルマリはそう思った。
写真の中の兵士たちの何人が死んだのだろうか。
姉のアリナ・エーヴァは無事だろう。
戦時下の英雄が死んでしまったら、国民たちがパニックに陥って
しまう。
弟のエイノ・イルマリが言うのもなんだが、姉は今のフィンラン
ド国民たちにとって大切な存在だ。
激戦の暗闇を照らす希望の灯火。
たとえばその手が血にぬれていたとしても。
彼女が銃とナイフを握って最前線を戦っているからこそ多くの者
が奮起させられる。自分の手が血にぬれることは恐ろしくない。
現実として、彼は確かに人の死と直面しているわけではないのだ
から。
﹁⋮⋮それでも﹂
それはそう。
それでも日に日に、パイロット仲間たちが死んでいく。
ひとり、ふたりと確実に減っていくことが、エイノ・イルマリの
胸を締め付けた。
目の前にあるのは、戦友の死。
一月の末、L戦闘機隊から初めての戦死者を出した。ペンッティ・
テオドール・ティッリ上級軍曹がソ連空軍戦闘機六機の奇襲を受け
て炎に包まれた。
撃墜され、ウオマーの原生林に墜落していったのだ。
彼は、そうしていつしか帰らぬ人となってしまった。
231
﹁こんな戦争なんて早く終わればいい⋮⋮﹂
大きな手のひらで顔を覆った彼は祈るようにつぶやいた。こんな
ときに、自分の傍にアリナ・エーヴァがいたらなんと言うだろう。
連日の出撃に疲弊した神経がエイノ・イルマリの思考を麻痺させ
る。
笑うだろうか⋮⋮。
﹁⋮⋮イッル﹂
声に顔をあげた。
L戦闘機隊の戦友のひとり、トピ・ブオリマーだ。
﹁トピか⋮⋮﹂
﹁疲れた顔をしているな﹂
そう言われてエイノ・イルマリは苦く笑うしかない。
フィンランド国防軍総司令官のカール・グスタフ・エミール・マ
ンネルヘイムから出された指令は、これ以上の敵戦闘機との交戦を
避けるように、という指示だった。
狙うのは爆撃機。
開戦当時、三四機あったフォッケルも今では二機が失われて三二
機しか残っていなかった。
陸軍もぎりぎりであれば、空軍もまたぎりぎりの戦力でソ連軍と
戦っているのだ。
複葉のブリストル・ブルドック戦闘機は、現状の航空戦ではあま
り役に立っているとは言い難い。
エイノ・アンテロ・ルーッカネンのようにうまい使い方をすれば
また別であろうが。
どちらにしたところで、鬼神のように襲来するソ連機に対抗でき
ているわけではなかった。
﹁ティッリは、ウオマーの上空で墜落したんだったな⋮⋮﹂
ティッリはトピ・ブオリマーの目の前で、ウオマーの原生林︱︱
サークス湖上空でソ連空軍I−16に撃墜された。彼は五機撃墜の
正真正銘のエースパイロットだった。
232
﹁⋮⋮イッル、悲しんでもあいつは帰ってこない﹂
そのためにやらなければならないことがあるはずだ。トピ・ブオ
リマーは悲しげにほほえむとそう言った。
そうやって、軍人である彼らは割り切っていくのだ。
﹁あんまりしょげてるとな、俺が隊長にかわって君の姉さんに言い
つけるぞ﹂
優しいエイノ・イルマリ。
彼のサガをトピ・ブオリマーは知っている。
﹁⋮⋮それは勘弁してくれ﹂
思わず頭を抱えかけたエイノ・イルマリの肩を軽くたたいたブオ
リマーはそうして笑った。
﹁そういえば聞いたか?﹂
ブオリマーが、エイノ・イルマリの横に腰掛けながら、彼の前に
放り出された写真を指先で引っ張りながらそう言った。
リュッシャ
﹁⋮⋮うん?﹂
﹁隊長が、ソ連軍の奴らの爆撃の余りのへたさを笑ってたらしいぞ﹂
どうやら、ソ連空軍の狙いは輸送の要である鉄道線路の切断をス
シタモ湖の付近で試みていたらしいのだが、いくつもの爆弾を投弾
しながらひとつも線路には直撃していなかったらしい。
﹁イワンは空戦どころか、空爆もへたくそだからな﹂
ブオリマーの明るい声に、エイノ・イルマリは表情を和らげる。
﹁ところで、これは君の姉さんか?﹂
﹁⋮⋮鬼か悪魔だ﹂
自分の姉を悪魔呼ばわりするエイノ・イルマリの言葉に、トピ・
ブオリマーはじっと写真の中で長身の男と雪の中にダンスを踊って
いるショートカットの金髪の女性を見つめた。
﹁きれいな人だな﹂
﹁性格は問題ありだけどな﹂
美人であることは、否定をしない。
なぜなら、自分の姉なのだから。
233
﹁ま、ソ連軍の空戦と爆撃がへたなのはあれだな。下手な鉄砲数撃
ちゃあたるってやつだな﹂
ブオリマーの言葉に、エイノ・イルマリは眉をひそめた。
最悪なのはソ連軍が、フィンランド相手に消耗戦を挑んでいるこ
とだ。圧倒的すぎる物量差はじりじりとフィンランドを追い詰めて
いる。
実際、一九四〇年に入る頃からフィンランド国防軍は確実に追い
詰められていた。そのことは前線で戦っている兵士たちは誰もが理
解していた。
﹁コッラーも、スオムッサルミも、地峡もどうすることもできない
⋮⋮﹂
空から戦闘機隊は支援することができない現実が歯がゆくて彼ら
は溜め息をついた。
対地支援に第四二戦闘機隊と第四四戦闘機隊が駆り出されている
がそれだけで事足りるわけではない。
よしんば、第二飛行団が対地支援を良しとされたところで、大し
た支援攻撃にはならないだろう。
それほど圧倒的な物量だった。
そんなソ連軍に、コッラー戦線ではアリナ・エーヴァが真っ向か
ら立ち向かっている。絶望的だろう戦況に、彼女は決して振り向い
たりはしない。
トピ・ブオリマーはなにげなく写真を裏返した。
︱︱コッラーは、必ずや持ちこたえる。
走り書きのような万年筆の字にブオリマーは黙り込むのだった。
スクランブル
﹁コッラーは必ず持ちこたえる、忘れるな﹂
その言葉を読み上げるブオリマーに緊急発進指令体勢のパイロッ
トたちが視線を集める。
記されたアリナ・エーヴァの言葉が重い。
決してソ連第八軍を通しはしないと、固い決意を感じさせるその
言葉はL戦闘機隊の隊員である彼らの心を強く抉った。
234
スオミ
﹁そうだ⋮⋮、フィンランドはソ連の野蛮人なんかには屈しない﹂
﹁陸の奴らも気張ってるんだ﹂
翼を持つ自分達が心を折ってはいけない。
ざわめきがさざ波のように、やがて口々に言葉が広がっていく。
エイノ・イルマリはあっけにとられたまま、緊急発進用のテント
の壁に貼られてしまった姉︱︱コッラー川戦線の英雄、アリナ・エ
ーヴァ・ユーティライネンの写真を見つめた。
︱︱忘れるな、コッラーは必ず持ちこたえる。
235
27 西レメッティ
第十二師団が展開するコッラー川の戦線より南西に国境付近の街、
ウオマーがある。そのウオマーから南へ、シーラ道路交差点を通り、
ラヴァ湖を通過する。そしてさらに南へ向かってレメッティからキ
モッティ
ティラ周辺の小さな街︱︱コポセンセルカ、レポンマルキ、コンヌ
ンキュラ、ケリーヴァラといった地点に大規模な包囲陣があった。
スオミ
大きなモッティは十個。小さなモッティは数知れない。
こういった包囲陣を、フィンランド軍は確実にひとつずつ潰して
いった。
ロッキングチェアに深く腰を下ろしたアリナは晴天の空の下に、
砲撃の音が響く中ゆらりと椅子を揺らして座り込んでいる。
場所が場所でなければくつろいでいるようにも見える、が⋮⋮。
アリナ・エーヴァはちらと自分の横に立っている男に視線を走ら
せながら、なにか不愉快なことでもあるのか機嫌が悪そうにフンと
鼻を鳴らす。
﹁⋮⋮姉さんは性格がややこしすぎるんです﹂
﹁えー? そうかなぁ?﹂
飄々としているアリナは暢気に首を傾げてからブーツを履いた長
い足を組み直してから空を見上げた。
日差しが降り注いでいるとは言え、北国の一月の末は酷寒の世界
だ。
﹁⋮⋮ここのところやけに寒いね﹂
気がかりなことでもあるのか。
彼女はぽつりとつぶやいた。
﹁気がかりなことでも?﹂
ユホ・アーッテラの言葉を受けて眉を寄せる彼女は、足の上に置
いてあった読みかけの推理小説にしおりを挟んでから上半身だけを
236
思い切り伸ばす。
﹁ヴィープリ湾が、突破口にならなければいいね﹂
物騒な台詞を吐き出したアリナ・エーヴァに、アーッテラはわず
かに目を見開いた。
︱︱ヴィープリ湾が突破口にならなければいいね。
歩兵部隊の道として、凍結したヴィープリ湾がその突破口として
シス
使用されるのではないか、と彼女が案じているのだ。
﹁⋮⋮姉さん﹂
呆然とユホ・アーッテラが自分の口を片手で覆った。
コッラー川からでは、包囲陣のしかれている第十三師団の戦線も、
カレリア地峡の戦線も遠すぎる。アリナ・エーヴァにとって気がか
りなのは事実だが、正直、自分にはどうすることもできない。
﹁ところで、なにさ?﹂
閉じた推理小説のペーパーバックを副官のアーッテラに手渡しな
がら、彼女は立ち上がると、代わりに手渡された短機関銃を肩に担
ぐ。
﹁やだやだ、弾も飯もないなんてさ。きっとそのうち原始時代みた
いな石斧でも持たされて突撃させられるよ﹂
冗談めかした彼女の言葉の内容は、しかし笑うに笑えない。
アーッテラは、兵士を呼んでアリナ・エーヴァ・ユーティライネ
ンの推理小説とロッキングチェアを指揮テントまで運ぶように指示
すると、すでに歩きだしているアリナを追いかけた。
﹁なんでそうあんたはいつも独断先行型なんですか﹂
﹁いいじゃん、わたしが動いた方が手っ取り早いしさ﹂
なにかの臭いでもかぎつけたのか、彼女は動物のように鼻をひく
ひくと動かしてから目を細める。
とてもではないが、女性とは思えない。
先日、久しぶりにサウナに入ったため身綺麗ではあるが、着てい
るものは相変わらずだ。
﹁おうち帰りたいねー﹂
237
暢気な台詞をアリナが吐きだした。
﹁そうですね⋮⋮﹂
アリナ・エーヴァの言葉に応じながら、アーッテラは彼女にスキ
リュッシャ
ー板とストックを手渡した。
﹁⋮⋮ソ連軍だって間抜けじゃない。二ヶ月もこんな状況が続けば
さすがに打開しようと考えるだろう。十二月で大被害を受けてるん
だ、つまり、ここ最近のイワンのおとなしさは後方で別のなにかが
スオメン・タサヴァルタ
画策されていると考えるのが妥当だろう﹂
﹁なにか、というのは?﹂
﹁ソ連の人口知ってる?﹂
﹁⋮⋮はぁ?﹂
三七〇万人程度の人口しかいないフィンランド共和国とは全く異
なる巨大な帝国であるということくらいしかユホ・アーッテラのソ
ビエト連邦に対する認識はない。
﹁一億七千万人だって!﹂
すごいよねー、と相変わらずの調子で付け加えたアリナは唇の端
でなにかがおかしいのか笑っていた。
﹁すごいですね﹂
一億七千万人。
想像もつかない人口だ。
﹁つまり、それだけ軍隊に動員できる人間の数も大きいってことだ
よ。それが、どういうことか、ユホちゃんだってわかるでしょ?﹂
腰を屈めてスキー板を履きながらアリナ・エーヴァは振り返った。
金色のショートカットが小さく揺れる。
﹁⋮⋮まさか﹂
ソビエト連邦が総力戦をかけてくるのか。
上官のアリナ・エーヴァの言葉に、アーッテラはぞっとした。
﹁わかんないよ、戦況を細かくわかってるわけじゃないし。あくま
で、ここの状況と、報道されてるところを照らし合わせての推測だ
からね﹂
238
他の戦区がどうなっているのかを知りたい。
それは、中隊長のアリナ・エーヴァ・ユーティライネンだけでは
なく誰もが思っていることだった。かろうじて、彼女は第十三師団
の動きを聞かされているが、しがない中隊長でしかないアリナが逐
一知るわけもない。
﹁つまり、それは⋮⋮﹂
﹁要するに国境線の戦線はこれ以上ひどい状況になるってことだ﹂
幸いなことに、フィンランド国内に深く入り込んだソ連軍の部隊
はいない。そのほとんどが、国境線沿いにフィンランド国防軍に押
さえ込まれ戦線は一進一退の膠着状態に陥っていた。
これがソ連軍であればどう思うか。
アリナは雪上にストックを突き立てながら冷静に考える。
﹁⋮⋮簡単なことだよ。もっと動員をかければいいだけのことだ﹂
消耗戦。
どちらがより先に物資がつきるか。
それにかかっている。
﹁だからこそ、この戦争はなるべく早く蹴りをつけなくちゃいけな
い﹂
アリナは厳しい眼差しのままそう言った。
一個中隊の隊長でしかないアリナ・エーヴァが戦況を見つめて危
機感を抱いているということは、国防軍総司令部の危機感はなおさ
らだろう。
最前線の兵士たちには見えない他方面の戦況に不安を感じずには
いられない。どこかの戦線が、もしかしたら今、この時間に崩壊し
ているのではないか。そんな不安に駆られる。
﹁ベツアモ、サッラ、スオムッサルミあたりは戦況が落ち着いたら
しいね﹂
ソビエト連邦も馬鹿ではない。
真冬まっただ中の北欧フィンランドの北部国境戦線に対して攻撃
を仕掛けるよりも、より強大な戦力をフィンランドの南部国境に集
239
めて突破点を確保しようとするほうが納得のいく作戦だった。
そして、それが現実となってカレリア地峡軍と、タルヴェラ戦闘
団、フィンランド第四軍に襲いかかっている。
この頃、北方のスオムッサルミで善戦し、ソ連の第四四自動車化
狙撃兵師団と、第一六三狙撃兵師団を撃滅したヤルマル・シーラス
ヴォ大佐が率いるフィンランド第九師団がクフモに向かっていた。
フィンランドの腰とも言われる最も幅の狭い地域をクフモからオウ
ルに向けて突破口を開こうとして攻撃を仕掛けているソ連軍第五四
狙撃兵師団を、二名の中佐が率いる二個のスキー歩兵大隊がその攻
撃を受け止めており、この掩護のためにシーラスヴォ戦闘団は一月
二八日にはクフモに到着した。
彼らフィンランド第九師団は、この頃の戦局にあって最も装備が
充実した部隊だった。第四四自動車化狙撃兵師団と第一六三狙撃兵
師団を壊滅させた彼らは、装備の多くをソ連軍の鹵獲品に頼ってい
たところがある。
しかし、だからこそ、第九師団は最も装備が潤沢だったとも言え
る。だがクフモにおける戦闘は、スオムッサルミでの戦闘のように
はうまくいかず、やはりここでも一進一退を繰り返していた。
それでもフィンランド軍にとって朗報もいくつかあった。
このクフモにおけるソ連第五四狙撃兵師団の救出のために、プロ
のスキーヤーたちを集めたエリート部隊である第九スキー旅団をソ
連大本営は送ったのだが、こちらはフィンランドのスキー部隊に取
り囲まれあっという間に殲滅されてしまった。
ベツアモ方面から進軍したソ連部隊は、トルヴァヤルヴィでの第
一三九狙撃兵師団と、第七五狙撃兵師団の敗退。そして、スオムッ
サルミでの第一六三狙撃兵師団と第四四自動車化狙撃兵師団の壊滅
に恐怖を覚え、自分達も同じ目にあわされるのではないかと怯えき
シッシ
った彼らは進軍することもできずに、フィンランド軍スキー部隊の
ゲリラ作戦を受けて、こちらも身動きがとれなくなってしまってい
た。
240
こういった状況で主立った戦線は、フィンランド南部︱︱特にラ
ドガ湖北方面から、カレリア地峡︱︱に移動していったのである。
﹁承知しました﹂
深い声が響く。
フィンランド軍第十三師団第四猟兵大隊長マッティ・アーニオ大
佐の前にいるのは、ひとりの三十代半ばにさしかかろうかという男
だった。
がたいはそれほど屈強とは言えないが、精悍な顔立ちのつり上が
った目がひどく獰猛で印象に残る。ややこけた頬とその吊り目のせ
いかきつい印象を否めない。
ミーカ・ヴァーラニエミ。
階級は大尉だ。
﹁つまり、モッティへの侵入部隊の指揮を執ればいいということで
すか? 大佐﹂
﹁⋮⋮危険な任務だ。やってくれるか?﹂
﹁命令とあれば﹂
短く告げるヴァーラニエミは唇を歪めて笑う。
西レメッティの包囲陣への突入部隊は南北から各二個中隊から編
成される。その片方を指揮するのがミーカ・ヴァーラニエミだった。
彼はスペインで義勇兵として戦闘に参加していた男で、私生活で
はアリナ・エーヴァ・ユーティライネンの知己でもある。
一説には、当の問題児であるアリナ・エーヴァと同じほど危険人
物であり戦闘狂だと言われていた。
もっとも、彼女があまり不要な殺戮を好まないことに対して、ミ
ーカ・ヴァーラニエミは戦意を失った相手も殺戮するという極めて
冷徹な男だった。アリナの場合、不要の殺戮を好まない、というよ
りは単に逃げ腰の敵を殺すのが面倒臭いだけなのかも知れない。
戦闘狂のアリナ・エーヴァ・ユーティライネンと、冷徹な殺戮者
であるミーカ・ヴァーラニエミ。このふたりはフィンランド国防軍
でも危険な前線指揮官として知られていて司令部としては﹁とりあ
241
えずあのふたりを一緒に置いておくな﹂というのが一致した意見だ
った。
﹁⋮⋮ヴァーラニエミ大尉、ひとつだけ言っておくが﹂
マッティ・アーニオが付け加えるように言った。
﹁なんでしょう?﹂
﹁殺さなくてもいい人間は殺すな。わかったな?﹂
﹁⋮⋮確約はいたしかねますが。善処します﹂
あまりあてになりそうにない言葉を返されて、アーニオは肩をす
くめた。
﹁よし、作戦決行は今夜だ。それまで準備を整えておくように﹂
﹁はっ﹂
*
﹁⋮⋮いいな、そのナイフ﹂
﹁いいでしょー、もらったんだよー﹂
ミーカ・ヴァーラニエミは自分の大振りのナイフを手袋をした指
先で触れながら思いを馳せる。
きらきらと太陽にかざされたアリナのククリナイフ。
確か、フランス外人部隊にいたときの戦友からもらった品だと言
っていった。無骨な大振りのナイフで、十五インチはあるかと思わ
れる。フィンランドのプーッコナイフとは随分印象の違う﹁殺すた
めのナイフ﹂だ。
﹁寄越せ﹂
﹁い・や・だ!﹂
スペイン内戦から帰ってきた昨年の冬、ヴァーラニエミは歴戦の
猛者でもあり、そして友人でもあるソルタヴァラのアリナ・エーヴ
ァの元を訪ねた。
多少年を食ってはいたがそれはお互い様だ。
兵士をやっていたときとは異なり金色の髪を長く伸ばしていた彼
242
女は、けれども青い瞳は相変わらずどこか無邪気で、そして屈託な
く笑っていたこと。
女性にしては長身の彼女は、ミーカ・ヴァーラニエミがナイフを
奪おうとすると笑いながら男の長い腕を押さえ込んでナイフを手の
届かないところへ放り投げてしまった。
彼女は今、コッラー地方の激戦の戦線を前線指揮官の一人として
支えている。
今の彼女のそばにいるのは、ユホ・アーッテラという若者だ。真
面目だが、若干アリナに毒されていて、自分の役目は彼女を補佐す
ることだと信じ込んでいる。
﹁なんか、それってわたしが人間失格みたいじゃん﹂
苦情を述べるアリナにアーッテラが﹁あなたみたいな人のどこが
真人間なんですか。少しは自分のやばさを自覚してください﹂と問
い詰められていたのを思い出した。
どちらにしろ、ユホ・アーッテラはアリナ・エーヴァ・ユーティ
ライネンが人間として人間らしくあるためには必要な人物だと、ミ
ーカ・ヴァーラニエミは思っていた。
彼女と比べれば、自分は人間らしくはない。
﹁ミカちゃん人殺し好きだよね。世が世なら、殺人犯じゃん﹂
﹁うるさい、貴様みたいな粗暴な女に言われたくないぞ﹂
ナイフ格闘を得意とする彼女が言っても今ひとつ説得力がない。
﹁ミカちゃんさ、⋮⋮もしも戦争がはじまったらどうする?﹂
あの頃、まだ戦争ははじまっていなかった。
しかしソビエト連邦のフィンランドへの干渉がはじまっていた。
両国首脳部によって幾度となく交渉が行われ、結果としてそれは決
裂し、現在の戦争へと突入している。
おかしなことは、開戦直前にソビエト連邦軍は、カレリア地峡の
南端マイニラ付近のソ・フィン国境線でフィンランド側から砲撃を
受けてソ連将兵が数名死傷するという事件があった。ソビエト連邦
側は﹁フィンランド側から行われた挑発行為である﹂との声明を発
243
表し、モスクワではフィンランド大使イルユ・コスキネンが呼び出
されて会談が行われた。
フィンランド側も﹁砲撃はソ連側からによるものである﹂と弱々
しく抗議をしたものの、結果的にこの後、このような﹁事故﹂を防
ぐため、ソ・フィン両軍を国境から十五キロほど後退させることを
提案することになった。
これについておかしな話しがあって、当時、フィンランド陸軍は
マイニラ付近に砲兵部隊を配置していなかったのである。
ちなみにこの当時、すでに新聞やラジオなどで、ソ連非難のプロ
パガンダキャンペーンが始まっており、フィンランド国内ではソビ
エト連邦へ対する憎悪が高まっていった。
﹁おまえはどうするんだ?﹂
﹁そうだな、呼ばれれば行ってもいいけど、年も年だしねぇ﹂
自分の年齢のことなどなんとも思っていないはずの女性はそう告
げてにたりと笑ってみせた。
﹁ミカちゃんこそどうするのさ﹂
﹁⋮⋮俺は行く﹂
﹁へぇ、血気盛んなことで﹂
皮肉混じりに彼女はそう言っていた。そんなことを思い出して、
ミーカ・ヴァーラニエミは薄く笑った。
アリナ・エーヴァ・ユーティライネン。彼女もコッラーの戦線で
奮闘しているのだ。それを考えれば、敵のまっただ中に飛び込むこ
となど恐ろしいことではない。
﹁おい、アラルースア。おまえ、どう思う?﹂
﹁⋮⋮なにがどうなんです﹂
イスモ・アラルースア少尉は彼の右腕だ。
厄介なのは、モロッコの恐怖と呼ばれれるアリナ・エーヴァに心
酔していることだ。
﹁今度の作戦のことだ﹂
﹁別にいいんじゃないですか? どうせ奴らは雪の上ではまともに
244
動けません。寄せ集めの烏合の衆でしょう﹂
シス
ぞんざいに言葉を返すアラルースアはどこか楽しそうに笑った。
﹁俺、姉さんにもう一度会うまで死なないってことにしてるんで﹂
戦場で誰よりも強く、勇敢に旗をかざす前線指揮官。彼女は、陸
軍歩兵たちの憧れの的だ。
﹁どうして、俺、第十二師団に配属されなかったのかと、それだけ
が心残りで⋮⋮﹂
﹁⋮⋮あのな﹂
﹁とにかく、第十二師団がコッラーで矢面に立ってるんです。こっ
ちはモッティをとっとと潰さないと、後で姉さんが怖いですから﹂
姉さん
とやらと再会するためにはこんなとこ
姉さん︱︱アリナ・エーヴァに心酔する者たちはみな、彼女のこ
とをそう呼ぶ。
﹁それじゃ、その
ろで死ねないな﹂
ヴァーラニエミの言葉に副官のアラルースアが肩をすくめて見せ
た。
﹁当たり前です﹂
一九四〇年二月二日夜も更けた頃、作戦はこうして開始された。
特別編成された中隊の隊員たちは二人が一組になって西レメッテ
ィの包囲陣へと侵入していく。
﹁ったく、あの女も奇天烈な信者が多いから大変だな﹂
天下の﹁モロッコの恐怖﹂をあの女呼ばわりする彼は、残虐さゆ
えに﹁血の鮮烈﹂と呼ばれることがある。しかし、アリナ・エーヴ
サガ
ァ・ユーティライネンとミーカ・ヴァーラニエミはよく似ていた。
どちらも、戦争の中でしか生きていく事ができない性格の持ち主
だ。
夜更けに紛れてミーカ・ヴァーラニエミの指揮する特別中隊は西
レメッティのモッティの北側からソ連軍のテリトリーであるモッテ
ィ内に展開していく。
一歩間違えば部隊が全滅の危機に陥る。
245
なによりも、モッティをつぶせないということは救援部隊の侵攻
を受け止めている第十二師団が窮地に陥ると言うことだ。
今ですら良い状況であるとは言い難い。
モロトフカクテル
潜入を行う特別部隊の装備は小銃などは装備していない。
代わりに装備するのは手榴弾やカサノパス、火炎瓶、砲兵や機関
銃手から借りたモーゼルピストルなどを装備して出発したが、不用
意な発砲によって潜入が発覚しないように銃弾の装填は禁止されて
いた。
レメッティの深夜︱︱マイナス三十度にもなろうかという極寒の
夜だ。
静けさに紛れて手を大きく手を振ったヴァーラニエミ自身もモッ
ティ内に侵入していく。そういえば、あの女はこういった隠密行動
が得意だった割りに大嫌いだったな、と彼は考えると苦笑した。
ただの面倒くさがり屋、という説もある。
彼女と共に戦場を戦ったことはない。
なぜならアリナ・エーヴァの従軍はフランス外人部隊での五年間
で、ミーカ・ヴァーラニエミはスペインの内戦で戦った程度だ。フ
ィンランド陸軍に所属していたミーカ・ヴァーラニエミのいた基地
に、アリナ・エーヴァが遊びに来て、なぜか現役の兵士たちととも
に訓練に勤しんでいたところ、彼と彼女は意気投合したというのが
実際の所だった。
ちなみに、ヴァーラニエミが問題を起こすところに決まってアリ
ナ・エーヴァがいるものだからすっかりこのふたりは危険人物指定
されており、そのためこの戦争がはじまってから﹁あの二人は同じ
部隊に組み込むな﹂という命令が出るに至った。
彼が国境警備隊として配属されていた頃、任務地に遊びに来た暇
なアリナ・エーヴァが、ソ連軍の秘密工作員らしい兵士を数人伸し
たことがあった。危うく外交問題になりかけるところだったが、結
局、ソビエト連邦側も後ろ暗いところがあったらしくうやむやにさ
れた上で不問にされたのは数年前のことだ。
246
なんだかんだで、アリナ・エーヴァ・ユーティライネンとのつき
あいは四年近くになる。
そんな向こう見ずな彼女は今、コッラーではどうしているだろう。
午前二時。
突然、モッティ内でソ連軍のサーチライトが点灯した。それとほ
ぼ同時だった。
手榴弾と火炎瓶が立て続けに爆発する。
その音を耳にして、ヴァーラニエミは同様にソ連兵に向けて火炎
瓶を投げ込み、赤軍兵士もそんなフィンランド兵に応戦のため機関
銃を向けるが、めくらめっぽうに撃ちまくっているだけだ。
恐ろしくもなんともない機銃に、ミーカ・ヴァーラニエミは慎重
に、けれども大胆に近づくとそのまま男の腕を蹴り上げて銃を奪う。
背後では、イスモ・アラルースアがピストルに弾を手早くこめな
がら、あたりを警戒した。
この奇襲に混乱したソ連兵たちは砲も戦車もかなぐり捨てて森の
中へと逃げ込もうとするが、これにフィンランド軍の機銃が火を噴
いた。
二月二日の日付が変わるかと思われる時間帯にはじめられた作戦
は、翌々日の二月四日まで続き、この戦闘でソ連軍の兵士が千名。
そしてフィンランド軍の兵士は五名が死亡した。
レメッティ西の小規模なモッティはこの作戦で陥落したのだった。
死体の転がった西レメッティのモッティの中央であたりを見回し
たヴァーラニエミはソ連軍の投入した車両を眺めながら溜め息をつ
いた。
﹁しかし、贅沢な兵器の数だな﹂
西レメッティの包囲陣だけで、戦車三十両以上、自動車が四十両
以上、砲六門などの兵器類が鹵獲されている。
これらは鹵獲専門の部隊に引き取られてメンテナンスをされるの
だ。
もちろんそのままでも使用に耐えられるものは、フィンランド軍
247
の装備としてそのまま流用されるわけだ。
ヤルマル・シーラスヴォ大佐率いる第九師団はこうして戦力を増
強した。
﹁羨ましい限りですね、姉さんのところに届けてやりたいくらいで
す﹂
イスモ・アラルースアがなにげなくつぶやくのを聞いて、ぴくり
と片方の眉をつり上げたヴァーラニエミは無言のままで隣に立って
いるアラルースアの頭頂部に拳をたたき落とした。
﹁いちいち、姉さん姉さんってあんまり言ってるとシスコン呼ばわ
りするぞ。アラルースア﹂
﹁ひとつだけ言っておきますがね、俺は、姉さんがすぐに殺戮に走
りたがる大尉を補佐してやってくれって直々に頼まれたから、あな
たを補佐してるんです。別に好きでやってるわけじゃありません﹂
﹁そりゃあのクソアマの方便だろ、それくらい見分けたらどうなん
だ。だいたいな、おまえが俺の副官なのは軍の命令だろうが﹂
アリナ・エーヴァ本人が聞けば、大喧嘩に発展しかねないヴァー
ラニエミの悪態にイスモ・アラルースアがくってかかる。
確かに、軍の命令でミーカ・ヴァーラニエミの補佐を務めている
イスモ・アラルースアなのだが、アリナが出立する際︱︱要するに
最後に彼女に会った二ヶ月ほど前︱︱に、顔を合わせた昔なじみの
戦友は彼の副官に告げた。
﹁この馬鹿、すぐ暴走するから頼むよ﹂
アリナに心酔しきっているアラルースアにそんなことを言うのは、
違う意味で彼の心を射貫いてしまったのだが、ヴァーラニエミにし
てみれば、あんな危険な女のどこが魅力的なのかさっぱりわからな
い。
﹁少なくとも、姉さんのほうが大尉よりは人格者だと思いますよ﹂
﹁あー、もう。勝手に言ってろ。そのうち、おまえもあのクソアマ
と一緒にヴィープリ湾に沈めてやるからな﹂
タバコを懐から取り出しながらそう言ったヴァーラニエミはそう
248
言ってから、空を見上げて唇を歪めると声もなく笑う。
そう⋮⋮。
同じ空の下で。
北東のコッラー地方で、アリナ・エーヴァは戦っているのだろう。
祭り上げられた戦時下の英雄が。
249
28 疲弊する前線
ソルタヴァラ市は、フィンランド共和国とソビエト連邦との国境
により近いラドガ湖畔の美しい街だった。その街でアリナ・エーヴ
ァ・ユーティライネンは生まれた。ちなみに弟であるエイノ・イル
マリ・ユーティライネンはソルタヴァラから百マイルほど離れたピ
エリネン湖湖畔の街であるリエクサの生まれだ。
フィンランドは無数の湖が網の目状に広がっており、その数は数
え切れないほどだった。一説には軽く十万を越えているというが、
アリナ・エーヴァはそんなことにはまるで興味がなかったから、簡
単に言うとどうでも良かった。
﹁普段はあってあたりまえのものがなくなると、人間って言うのは
割と動揺することがあるらしいけどね﹂
なにを考えているのかわかりにくい表情でアリナは読み飽きてし
まった新聞をたたむと、ロッキングチェアの上に放り出した。その
瞳の奥にどこか厳しげな光が浮かべられているのを、副官であるユ
ホ・アーッテラは見逃さない。
﹁どうしたんです? 突然そんなことを言い出して﹂
﹁なんかさ⋮⋮﹂
珍しく言いよどむ彼女は、指揮テント内のテーブルに広げっぱな
しにされている地図を睨むように凝視している。
﹁やだねぇ﹂
長い沈黙の後にぽつりと呟いた彼女は、顎に指先で触れながら考
え込んでいる。
男ではないから無精髭こそないものの、見事に薄汚れた彼女の横
顔はそれでも充分に人目をひくと言っていいだろう。
﹁第十三師団は、モッティを一個ずつ潰してるらしいけど、はたし
て間に合うのか﹂
250
なにが、とはアリナ・エーヴァは言わずにそうして再び沈黙の中
へと戻っていく。
彼女が﹁間に合う﹂と言った言葉に、ユホ・アーッテラは多くの
ものを含んでいるように感じられた。
十三師団がモッティを潰しきるのが間に合うのか。
十二師団がソ連軍をたたきつぶすのが間に合うのか。
そして、ソ連軍の援軍が間に合うのか。
多くの意味を抱え込みすぎた女性指揮官の言葉にアーッテラは飯
盒の中で温め直したコーヒーを彼女の金属製のカップに注ぎながら、
その横顔をじっと見つめる。
﹁そういえば、十三師団と言えばヴァーラニエミ大尉がいましたね﹂
﹁ミカちゃんかぁ⋮⋮﹂
言いながら熱いコーヒーに口をつけた彼女は﹁あちっ﹂と悲鳴を
上げてからカップから唇を離した。
﹁熱いのはわかってるでしょう、うかつに口をつけたあなたが悪い
んですからね﹂
小言めいた彼の言葉に、アリナ・エーヴァは肩をすくめてみせて
からロッキングチェアに深く背中を預けるとじっと目前を睨み付け
たままで考え込んだ。
ミーカ・ヴァーラニエミ大尉とアリナ・エーヴァ・ユーティライ
ネン中尉。
このふたりはユホ・アーッテラだけが思っていることではないが、
充分なほどフィンランド国防陸軍内では危険人物だ。本人たちが自
分たちを平凡だと思っているからなおさら手に負えない。
アリナ・エーヴァとミーカ・ヴァーラニエミ。
階級はヴァーラニエミのほうが高いが、それはごくたまたまで、
彼が﹁男﹂だったからアリナよりも先に大尉になっただけだろう、
と、アーッテラは思う。
このふたりはよく似ているのだ。
混沌とした戦場の中へと嬉々として飛び込んでいく。
251
まるで、暗闇の中を照らす強い光のようだった。
﹁わかってるよ﹂
カップの中の熱いコーヒーに息を吹きかけて冷ましながら、ふて
くされたようにアリナは上目遣いにアーッテラを見上げる。
﹁ミカちゃん、どうしてるだろうね﹂
陸軍司令部の命令で、アリナ・エーヴァ・ユーティライネンとミ
ーカ・ヴァーラニエミは意図的に異なる部隊に配属された。それに
ついてはお互いが﹁清々した﹂と思っているが、それでも、時折我
シス
に返るように﹁あいつはどうしてるだろう﹂と思うのだ。
﹁元気でやってますよ。姉さんと一緒でそうそう死ぬような人じゃ
ありません﹂
こわもて
﹁⋮⋮まーね﹂
強面で長身の、いかにも屈強な男を﹁ミカちゃん﹂などと呼ぶの
は、アリナ・エーヴァくらいだろう。
彼と同じほど強いからこそ、冗談でからかうことができるのだ。
いや、と、ユホ・アーッテラは思う。
もしかしたら、アリナ・エーヴァ・ユーティライネンのほうが強
いかもしれない。少なくとも、このふたりが真剣にやりあったとこ
ろなど見たことがないから断言はできないが。
万が一、アリナ・エーヴァとミーカ・ヴァーラニエミが敵同士に
なれば、それこそ血で血を洗う戦いになるだろう。
それだけは想像がついた。
﹁毎日毎日同じことの繰り返し。アカの奴らは攻めてきて、こっち
モッティ
はそれを撃退する。でも、本当に同じ繰り返しなのかな⋮⋮﹂
ソビエト連邦が、包囲戦術で分断包囲された第一六八狙撃兵師団
と第一八狙撃兵師団、そして第三四機甲旅団の救出のために大本営
命令によって四個師団の大部隊が出発している。
フィンランド陸軍第四軍第十二師団の物資も、兵員も二月のはじ
めにはいって枯渇状態に陥っていた。言うなれば、第十二師団はい
つ崩壊してもおかしくない状況でもあると言っていいだろう。
252
それを支えているのは、兵士たちの気力だけだ。
誰もが祖国を守るために戦いを続けている。
アリナが再三再四気にかけているのは弾薬などを含めた物資のこ
とだ。
﹁⋮⋮やだやだ! 貧乏って!﹂
からりとした口調で言い放ったアリナ・エーヴァは後頭部で両手
を組むとじっとテントの天井を見つめたままで考え込んでいる。
一月の末からアリナ・エーヴァは、昼間は最前線で勇ましく兵士
たちを率いて、敵を撃退し続けていた顔とは異なるそれを見せるよ
うになっていた。ソ連軍の攻撃がおさまる夜になると彼女は別人の
ように険しい表情を垣間見せる。
それでも、部下たちが所用があって彼女のテントを訪れると、普
段と変わらない不敵な笑顔をたたえて彼らを招き入れるのだ。おそ
らく、アリナのそんな険しい顔を知っているのは、副官であるユホ・
アーッテラだけだろう。
どんなに困難な状況に陥っても、きっと彼女は自分に課せられた
役割を演じ続けるに違いない。
ソ連軍との交戦が小康状態になって、部隊の損耗率の報告を受け
るアリナ・エーヴァは、苦々しいものを感じているだろうが、部下
の前ではそんな表情をかけらも見せはしない。
ご苦労だった、と生き残った彼らをねぎらってただ、淡々として
報告を受けるのだ。
﹁貧乏っていうのは厄介ですね﹂
﹁そうだねぇ﹂
溜め息混じりにアーッテラが相づちを打つと、アリナも長い睫毛
を瞬かせてから応じる。ソ連軍のモッティを撃滅した後は、その鹵
獲された物資を必要とされる戦線へと回されるのだが、それでも、
魔法でもないからすぐに届くわけではない。
要するに、戦場の厳しさは余り変わらない、というのが現実的な
ところだった。
253
ちなみにオルガン銃︱︱四連装の七.六二ミリ対空機関砲もそう
言った品だった。
﹁イワンより、貧乏が一番の敵だと思うよ﹂
握り拳を固めて力説する上官に、アーッテラは﹁まったくだ﹂と
思う。
せめて弾丸と兵員の余剰があれば、毎晩のようにこんなに中隊指
えんぺいごう
揮所でふたりで頭をつきあわせて悩まなくてすむ。
そして、彼女は部下たちが掩蔽壕でその日の疲れを癒している間、
無線電話に向かって怒鳴りつけて物資の補給を要求するのだ。
もちろん、怒鳴って物資の補給を要求したところで、実際に前線
に届かないことはわかりきっている。
物資が届かないのではない。
物資が﹁ない﹂のだ。
だから、アリナ・エーヴァがいくら両目をつり上げて無線電話の
受話器に怒鳴りつけたところで意味などない。
﹁中隊長としては頭の痛いところですな﹂
うんざりとした様子でいつもの如く無線電話の受話器をあげたア
リナに、ユホ・アーッテラがテーブルの前に置かれた椅子に腰を下
ろした。
ちろりと視線を流しやったアリナ・エーヴァが受話器に向かって
言葉を連ねている。いつものことだが、電話をはじめた時点ではそ
れほど語気は荒くないのだ。
﹁⋮⋮だからですね、これ以上どうしろって﹂
どうもこうもない。
アリナ・エーヴァ・ユーティライネンが第六中隊の中隊長として
やらなければならないことはひとつだけだ。
そんなことは誰よりもアリナ自身がよくわかっている。
﹁は?﹂
耳に受話器を押し当てていたアリナの口から素っ頓狂な声が上が
った。
254
そんな彼女が意外で、ユホ・アーッテラは全軍唯一の女性士官で
もある上官へと視線を向ける。
﹁⋮⋮本当ですか?﹂
毒気を抜かれたようなアリナの声。
アーッテラに視線を投げかけてきた、彼女は右手の親指を立てて
から片目をつむってみせた。
﹁わかりました。あとひとつだけ言っておきますけど、こないだみ
たいに補給担当のロッタが死ぬような事態は金輪際ご免ですからね﹂
念を押すようなアリナの言葉と共に、おろされた受話器を見やっ
てからアーッテラは口を開いた。
先日、ユホ・アーッテラが部隊へ戻ってきたときに、同行してい
た補給担当のロッタが爆撃機の攻撃を受けて死亡した。
第三十四連隊第六中隊の副中隊長であるアーッテラが部隊に戻っ
てきたのは喜ばしいことだったが、それでも、なんとも後味の悪い
話しだった。
もちろん男の兵士だから死んでも良い、というわけではない。
しかし、ロッタ・スヴァルト協会に所属し、従軍しているから死
ぬ覚悟もできているだろう、という理屈は通らない。
シス
モッティ
彼女らはあくまでも非戦闘員でしかないのだから。
﹁⋮⋮どうしたんです? 姉さん﹂
﹁第十三師団の、第四猟兵大隊が西レメッティの包囲陣を落とした
そうだよ﹂
﹁ほぅ? それは朗報ですね﹂
﹁うん、それでさ。鹵獲された武器をこっちにも回してくれるらし
い﹂
西レメッティから、アリナたちが展開しているコッラー地方はそ
れほど離れていない。補給に時間はかからないだろうから、ありが
たい話しだった。
ほしいものが回されてくるかどうかは謎が大きいが、それでもな
いよりはましだ。
255
﹁あぁ、そうだ。姉さん。夜になってこっちも夜間の行動になれて
いる連中を選抜して鹵獲部隊を出しています。とりあえず、小隊長
たちからライフルの弾は拾いにいきたいっていう意見が出まして⋮
⋮﹂
幸運なことにフィンランド軍の銃弾と、ソビエト連邦の銃弾は規
格が同じだ。
死んだ敵の持っていた武器をそのまま流用することもできる。
ソビエト連邦は自分たちの手で作った武器で殺されていくのだ。
﹁あぁ、いいよ。ユホちゃんの判断でその辺は勝手にやって﹂
どことなく投げやりにも聞こえるが、事細かいところにまで彼女
は関わっていられない状況に陥っている。
なによりも、アリナはアーッテラを信頼していた。
サガ
彼は無謀な行動に走るような人間ではない。
少なくとも、自分よりはずっと慎重な性だ、とアリナ・エーヴァ
は思っている。
﹁了解しました﹂
第十三師団が保持しているモッティは十以上だ。
リュッシャ
そこをひとつひとつ潰しているわけだから骨の折れる作戦だろう。
しかし、そうでもしなければフィンランド軍はソ連軍には歯が立た
ない。
現在の状況を考えれば最良の手段なのだから、どれほど多くの意
味で切迫した状況にフィンランド軍が立たされているのかと言うこ
とを示している。そのような事態をひっくるめて、アリナ・エーヴ
ァは﹁貧乏が一番の敵だ﹂と言うのだった。
﹁⋮⋮地雷に、気をつけなよ﹂
﹁はい﹂
ソ連軍の物量は驚異的だ。
未だにそれが枯渇する気配もない。
すでに二ヶ月以上の戦闘でフィンランド軍が消耗しきっていると
いうのに。
256
29 戦友
アリナ・エーヴァ・ユーティライネンがここのところあまり深く
眠っていないのを副官であるユホ・アーッテラは知っていた。
戦況が厳しくなるにつれて、アリナ・エーヴァは確かに神経をす
り減らす日々を募らせていた。けれども、それはごく当たり前のこ
とだった。
アリナ・エーヴァという女性が、部下たちの命の綱を握っている。
彼女の判断の一つが、部隊の命運を握っているのだ。
アーッテラは黙り込んだままでロッキングチェアに深く沈み込む
ようにして眠り込んでいる女性指揮官を見つめた。彼の前ではよほ
どのことがない限りアリナは目を覚まさないのは、彼女が彼に対し
て信頼を置いているからだ。
なにか不測の事態が起これば、アーッテラは必ず自分を起こすだ
ろう、それをしないということはなにも起こっていないということ
だと、アリナ・エーヴァは副官の青年に対して絶大な信頼を寄せて
いる。
自分自身は破天荒で規格外だというのに、部下に対しては規律正
しくあれと要求するのだからご都合主義にもほどがある、とはアー
ッテラも思うのだが、いかんせん彼もほかの部隊の兵士たちと同様
に、アリナ・エーヴァに対して信仰に近い感情を抱いているのだか
らどうしようもないというものだ。
﹁⋮⋮隊長﹂
口の中で言葉を転がすのは、彼女の眠りを妨げないためだ。
兵士たちに負担も計り知れないものがあるが、ともに戦い、彼ら
の命を背負っているアリナの負担はそれ以上だ。けれども、前線指
揮官として彼女は決して弱音を吐いたりはしない。
257
*
アリナ・エーヴァは北国の遅い春を感じる風を感じて金色の髪を
押さえて振り返った。
ざっと、梢を揺らす風に青い瞳を揺らめかせる。
頭上を舞うように飛んでいくフォッケルに彼女は﹁あぁ、これは
夢だ﹂と一瞬で理解した。
どうしてそれが夢であるのか、と思ったのかと尋ねられても夢う
つつの彼女には理解できない。ただ、夢だと思った。
なぜならば、こんなにも穏やかなラドガ湖に続く丘を、アリナは
故郷のソルタヴァラでは見たことがなかった。
彼女の人生はいつも争いや喧嘩、そして戦争や軍隊といったもの
に彩られていた。
同じ小学校に通った誰よりも強いという自負があった。
そんな彼女は、穏やかな人生など知らない。
そんな平和な世界では生きていられない。
﹁⋮⋮あなたが、やさしいのはわたしのせいよ﹂
アリナはつぶやいてからはっとしたように口を覆う。
あなたは、と彼女は告げたがそれが誰なのかアリナ・エーヴァ自
身にもわからない。
戦争が終わったら自分はどうなってしまうのだろう。平和な世界
で生きていけるのだろうか⋮⋮。
暴力に彩られた世界で生き続けた彼女に選ぶ道はあるのだろうか。
長いドレスを身につけた彼女は、長い金髪をなびかせてラドガ湖
へと続く初夏の丘の道を歩いていく。
ゆっくりと。
思考は麻痺したようになにも考えられないまま、彼女はまっすぐ
に丘を登る。子供の頃に笑いながら男友達と駆け上がった道だ。
なにも変わらないソルタヴァラ郊外の道を往く。
﹁おまえは、なにを考えている?﹂
問いかけられた声にアリナが顔を上げると、そこにはミーカ・ヴ
258
ァーラニエミがいた。
灰色の髪の、灰色の瞳の。
女性にしては長身のアリナよりもさらに頭一つ分身長が高い男だ。
スペイン内戦の義勇兵として数年を戦い抜いた男は屈強で、フラ
ンスの外人部隊に従軍していたアリナとはまたどこか違うぎすぎす
とした印象を与える。
﹁ミカちゃん﹂
﹁⋮⋮ミカちゃんって言うな﹂
﹁ミカちゃんは、どうするの?﹂
彼の苦言にも臆することもなく問いかけるアリナ・エーヴァにミ
ーカ・ヴァーラニエミはいつものようにどこか機嫌の悪そうな表情
を浮かべてから、軽く首を傾げた。
﹁さぁな。次の戦場に行くだけだ﹂
﹁ふーん⋮⋮﹂
次の戦場など、どこにあるのだろう。
戦場で、部下たちはどうしてか自分を慕ってくれているのも知っ
ていた。
そして、それにつけ込むような無茶な作戦を立案しても、誰も欠
けることもなくついてきた。
これが自分だったら気に入らない作戦など真正面から大反対する
だろう、と自虐的に考えることすらある。それでも彼らは彼女につ
いてきてくれる。
夢の中だから、こんなにも自虐的になるのだろうか。
隣を歩くミーカ・ヴァーラニエミと言葉を交わすでもなく歩きな
がら、アリナはただ静かに自虐するように笑った。
自分は、人間として最低の人種だ。
部下のシモ・ヘイヘは彼女と同じようにコッラー地方の戦線の英
雄の一人としてもてはやされているが、アリナ・エーヴァよりも一
歳年少の猟師の男が、真面目で実直なことは彼の上官でもある彼女
が誰よりもよく知っていた。
259
彼には、それこそ無茶ばかりさせている。
そして、ヘイヘを危険な目に遭わせているのは誰でもなく、アリ
ナ・エーヴァ自身なのだ。
﹁エヴァ﹂
ヴァーラニエミに名前を呼ばれて彼女が顔を上げた。
﹁⋮⋮貴様は見かけによらずうじうじ悩むからな。もう少し貴様に
信頼を寄せる連中に頼ってもいいんじゃないか? 貴様がどう思っ
ているかは知らんが、少なくとも、貴様を慕っている奴らも大概頭
がおかしいんじゃないかとも思うが、あいつらは貴様に頼られても
重荷だとは思うまいよ﹂
﹁なんだそれ﹂
ヴァーラニエミの言葉にアリナが笑った。
﹁貴様が生きているのは、そういうことなんだろう?﹂
彼女を生かしているのは、もちろん彼女自身の生き残る能力と運
の良さもあるだろう。しかし、それだけではどうにも説明のつかな
い事柄もある。
アリナ・エーヴァ・ユーティライネンという女性を生かそうとす
る周囲の意志が働いているのではないか。
そうミーカ・ヴァーラニエミは告げた。
一兵卒の若い兵士たちが。
そして、彼女とかつて共に戦ったフランス外人部隊での戦友たち
が。
戦場では往々にして迷信がつきものだ。
誰が言い出したかすらわからない迷信が戦場に居座り続ける。
﹁ミカちゃん、わたし、そういうの嫌いだよ⋮⋮?﹂
﹁貴様も俺がイヤだと言ったって呼び方を改めんだろう。お互い様
だ﹂
﹁えー? なにそれ﹂
笑うアリナ・エーヴァの肩を抱き寄せて、ミーカ・ヴァーラニエ
ミは彼女の声に苦く笑う。
260
そこにあるのは恋愛感情などではない。
ただ純粋に戦いに臨むものとして。
そして、戦士として。ただ実直に死と向き合うだけだ。
やがて歩き続けると、ふたりの百戦錬磨の兵士はラドガ湖を見下
ろす丘の上にたどり着いた。
ただ見渡せるのは、青い湖と青い空。
そして眼下に広がる森の緑だ。
あぁ、これだ。
アリナはそう思った。
子供の頃から見つめ続けてきたソルタヴァラ、ラドガ湖の光景。
冬になると残酷なほど凍てついた白い景色を演出する極北の大地。
それは、アリナ・エーヴァ自身を含めたフィンランド人が守ろう
スオミ
としているもの。
﹁俺にとって、フィンランドなんてどうでもいいもんだと思ってた。
けどな、いざ侵略を受けるとなると愛国心でも芽生えるもんだな﹂
﹁愛国心、ねぇ⋮⋮﹂
ヴァーラニエミの言葉にラドガ湖に視線をさまよわせる彼女はた
め息をついた。
﹁わたしにはそんなもんないと思ってたんだけどな﹂
﹁⋮⋮ならどうして戦う?﹂
﹁わかんないよ。わかってたら、もっと早く答えが見えてる﹂
そう言ってアリナ・エーヴァが目を伏せた。
﹁わかんないけど、守りたいって思ったんだよ﹂
ぽつりとつぶやいた彼女の言葉に、ミーカ・ヴァーラニエミが声
を上げて笑った。
﹁当面、そんなもんでいいんじゃないのか?﹂
ソルタヴァラで、近所に住む少女に頼まれた。
きっと、あの子は戦争がはじまると聞かされたとき、不安だった
だろう。
大の大人でも不安に感じるのだ。
261
子供がそれを感じていないはずがない。
﹁頼まれたからね⋮⋮﹂
守って上げるから、大丈夫、と。
小さな彼女に告げた言葉。
揺れるロッキングチェアの軋む音にアリナは目を見開いた。
﹁⋮⋮目が覚めましたか?﹂
煮詰めて焦げたコーヒーの香りに、アリナ・エーヴァは眉を寄せ
ると、ロッキングチェアから上半身を起こすと、声の主を確認した。
﹁なにやってんの﹂
﹁焦がしました、すみません﹂
﹁別にいいけど。謝るようなことじゃないでしょ﹂
飯盒を手にして歩き出すユホ・アーッテラを眺めながら、彼女は
軽く右手の人差し指で簡易テーブルの面を打った。
﹁いいよ、そのままで。目覚ましがてらコーヒーちょうだい﹂
﹁まずいですよ?﹂
﹁おいしいコーヒーなんて前線で期待してないから別にいいよ﹂
金属製のカップにアーッテラが焦げたコーヒーを注ぐと、彼女は
なにか考え込むような眼差しのままで唇をつける。
﹁どうかしたんですか?﹂
﹁うん、寝覚めが悪かっただけ﹂
短く応じて、彼女は瞳に再び強い光をちらつかせると立ち上がっ
た。
﹁夢というのは⋮⋮?﹂
問いかけるアーッテラにアリナは小さく笑みをたたえてみせる。
﹁ソルタヴァラの夢なんて久しぶりに見たよ﹂
ラドガ湖の北方に位置するソルタヴァラ。
先頃、ソビエト連邦空軍の空爆を受けて大きな被害を受けた街だ。
﹁すみません⋮⋮﹂
﹁いいよ、そんなことより気になるのはカレリアのほうだ﹂
262
コッラー地方と同じように激戦が続いているカレリア地峡。その
状況はどうなっているのか。
アリナ・エーヴァは考え込んだままで歩きだすと、指揮テントの
入り口を押して開く。冷たく凍えた空気が入り込んで、彼女はそっ
と眉を寄せた。
︱︱なにか、いやな予感がしてならない⋮⋮。
彼女はそう思った。
*
厳しい戦場で、常に命のやりとりをしているアリナ・エーヴァは
味方のみならず、敵の死に対してすらもひどく過敏だ。
フランス外人部隊に所属し、多くの死と相対してきた彼女の二つ
名︱︱モロッコの恐怖。その名前はまるで恐怖の代名詞のようにも
語られるが、人間の死に対して﹁なにも﹂感じていないわけでは決
してない。
ひず
百戦錬磨の兵士でありながら、彼女は意識的に﹁ヒト﹂としての
﹁形﹂を保とうとしている。
それ故に。
彼女の中にはまるで、軋むようなひどい歪みが生まれる。
そんな状態で理性的、かつ、部下たちを前に狼狽することのない
つよ
鉄壁の仮面をその顔に貼り付けていられるのは、アリナ・エーヴァ・
ユーティライネンという女性のしなやかな強靱さ故なのだろう。
まるで熱した鉄のようなしなやかさは、しかし時として彼女を良
く知る者たちをひどく不安にさせた。
もしも万が一、彼女が受け止めきれない衝撃を受けたとき、彼女
はどうなってしまうのだろうか、と。
幸い、と言うべきか今までアリナ・エーヴァ・ユーティライネン
という女性はそういった事態に直面することはなかった。
﹁⋮⋮春まで持ちこたえられれば、なんとかなるなんて、本当にみ
263
んなそんなこと信じてるのかね﹂
皮肉げな彼女の声に、アーッテラはかすかに目を細めた。
春になれば、英仏連合が救援部隊を出してくれるだとか、春の泥
濘に足を取られたソ連軍が動けなくなるとか。
そんなことを噂されているようだが。
アリナはテントの入り口に軽く寄りかかったまま雪の降り積もる
酷寒の大地を見つめている。
﹁姉さんはどう思うんです?﹂
﹁んー⋮⋮、フランスねぇ⋮⋮。あいつら、戦いたくなんてないん
じゃない?﹂
フランスは陸軍大国だ。
先の欧州戦争では戦勝国であり、ドイツから多額の賠償金を受け
取るはずだったが⋮⋮。
﹁イギリスだって、居丈高になってるけど大軍を海を越えて派遣す
るほど余裕があるとも思えないしね﹂
将来的にはともかく、現状としては。
反撃をするつもりであれば﹁座り込み戦争﹂などという事態には
ならなかったはずであったし、ドイツ側がポーランドに攻め込んだ
ときに、日和見な態度をとらなかっただろう。
そう考えると、アリナは英仏連合のフィンランドとソビエト連邦
の戦争に対する介入は絶望的なのではないかとも考えられる。
どちらにしたところで、現状のドイツの勢いに英仏連合が勝ると
も思えない。
考え込んでいる彼女は、しかし、強い意志を感じさせる仮面を装
っている。中隊の部下たちの前では、決して素顔を見せることなど
しない。
それを副官の青年は知っていた。
勇ましく最前線にあって部下たちを奮い立たせてはいるが、アリ
ナ・エーヴァは狡猾で全てを計算し尽くしている。
つくづく女というものは恐ろしい。
264
そんな彼女に部下のひとりに﹁姉さん﹂と呼び掛けられて、アリ
ナは首を回した。
﹁どうした﹂
﹁連隊司令部から無電です﹂
﹁そうか﹂
そんなやりとりをしているアリナ・エーヴァを観察しながらユホ・
アーッテラは小首を傾げた。
少なくとも、外見上は昨年の暮れから変わったところは感じられ
ない。
けれどもそれは野生の動物と一緒だ。
アリナ・エーヴァが意識的にその傷口を隠している。
彼女はベテランの狩人のように計算高く慎重だ。そして、野生動
物のように警戒心が高い。戦士として生き残るために、彼女は最大
限に全神経を研ぎ澄ます。
﹁補給物資、今日の午後には届くってさ﹂
﹁⋮⋮ははぁ? ありがたいですけど、午後ですか?﹂
夜ではなく?
問いかけるアーッテラは、アリナの横顔を見つめて考え込んだ。
﹁⋮⋮またロッタに補給丸投げとかじゃなければいいんだけど﹂
国防軍総司令部が、ロッタ・スヴァルト協会に軍の補助的業務を
丸投げしているというわけでもないのだが、アリナなどからしてみ
れば非力な女性たちが命をかけて戦場をかけずり回らなければなら
ないという状況に対して憂いを感じていた。
危惧するような彼女の声にアーッテラはなにも言えない。
見かけによらず心配性で優しいアリナ。
彼女は戦場でのカリスマだ。口でこそ自己本意な言葉を吐き出す
が、よくよく考えてみるとアリナ・エーヴァは常に誰よりも部下た
ちのことを思いやっている。
好戦的で喧嘩っぱやいが、いわゆる典型的な偽悪主義だ。
︱︱もう少し、年齢相応に振るまえんのか。
265
コッラー地方へ出発する前、第四軍団長のヨハン・ヴォルデマル・
ハッグルンドに小言を食らっていたのをアーッテラは思い出した。
ひっそりと苦笑する。
﹁無理です!﹂
即答で断言したアリナの頭にゴツリと音をたてて拳骨を落とした
ハッグルンドは、けれども機嫌良さそうに笑っていた。
ソビエト連邦の侵攻を受けて、事態は切迫しているというのに。
彼女のからりとした真冬の晴天の空のような明るさは、周りの空
気すらも楽観的なものへと変えていくのかもしれない。
﹁モロッコの恐怖。そのお手並みを拝見させていただこう﹂
﹁⋮⋮おおせのままに。少将閣下﹂
ネイティ
まるでダンスのリーダーでもあるかのように礼を取る彼女に、ハ
ッグルンドは声を上げて笑った。
リーダー
パートナー
﹁なんだ、ダンスでも踊ってくれるのか? お嬢さん?﹂
﹁この場合、小官が男役で、少将閣下が女性役ということになりま
すが、よろしいでしょうか?﹂
アリナが不遜な態度でハッグルンドに応じると、少将は闊達な笑
い声を再び上げてから彼女の肩を軽くたたいて見せた。
﹁まぁ、そんな場合でもあるまいな。君とのダンスはこの戦争が終
わってからでも悪くない。そのときまで腕を磨いておいてくれ﹂
﹁お互い生きていれば、の話しですがね﹂
彼女はいつでも、さも自信ありげに笑って、上官たちの命令︱︱
大概の場合、ろくでもないそれ︱︱を快諾するが、実のところ確実
な勝利の根拠があるわけではない。
アリナが言うところの﹁兵隊だから、やれと言われればどんな手
段に訴えてでもやるだけ﹂ということになる。
規則などクソでも食らえ、などと過激なことを言うが、アリナ・
エーヴァはただ任された戦線で、部隊の被害を最小限に抑えようと
して奮闘して奔走する。
そして、彼女が独断で中隊長らしからぬ行動を見せるのは部隊の
266
被害を最も小さくするためだった。そのためならば、彼女は自分自
身にどんな無理でも強いた。
その日の午前中は、ソ連軍が駐留する方向の森の奥から、多くの
物音が聞こえてきたが、結局攻撃はなく静かな一日だった。
午後になって、ソリをひいた男が補給物資と共に訪れて、銃や弾
丸などを第六中隊に届けてくれたのだが、それを届けた士官にまた
アーッテラは驚かされた。
﹁⋮⋮レフト中尉?﹂
まさか士官がひとりで補給物資を積んだソリをひいてくるとは思
わなかった。
ヴィサ・レフト。
アリナ・エーヴァ・ユーティライネンとは小学校時代からの友人
で、彼女の喧嘩友達だ。もっとも、好戦的なアリナとは違い、その
性格は穏やかなものだ。
テルヴェ
普段の彼を怒らせるのはまず不可能と言ってもいいかもしれない。
﹁やぁ﹂
穏やかながら、白兵戦の技術は非常に高く、彼ももともとは予備
役の士官である。そして、かつてはアリナ・エーヴァと共にフラン
ス外人部隊で戦い、そしてその後はスペイン内乱に義勇兵として参
戦していた根っからの兵士だ。
﹁ヴィサ⋮⋮? 久しぶり!﹂
にっこりと笑った彼女に、ヴィサ・レフトは片手を肩まで上げて
知己であるアリナに挨拶をすると、補給担当の兵士に目録をわたし
ながら言葉を交わしている。
﹁随分と苦労しているようじゃないか﹂
﹁ま、そこそこそれなりにはね﹂
苦労しない戦場などありはしない。
﹁エヴァがそう言うところを見ると、苦労はしてそうだな﹂
267
言いながら肩をすくめた男の物言いに、アーッテラは眉をひそめ
た。
エヴァ︱︱それは彼女の愛称だ。
彼女をその名前で呼ぶ者は少ない。そもそも、アリナ・エーヴァ
のことを﹁姉さん﹂と呼ぶ者たちでは恐れ多くてその名前を呼ぶこ
となどできはしない。
﹁ハッグルンド少将閣下から、招集がかけられてな。俺の部隊はち
ょっといろいろあってな。再編中で暇だったから、おまえさんのと
ころに補給を頼まれてほしいと言われたんだ﹂
﹁⋮⋮へぇ﹂
まさかあの狸親父がねぇ⋮⋮。
ぼそりと独白するように続けながらアリナは、自分よりもやや色
素の薄い水色の瞳の、金髪の男を眺めてから皮肉げに片目を細めた。
探るようにレフトを見つめた彼女は、乾燥して荒れた唇を開く。
﹁そんなこと言ってるけど、どうせおもしろがってるだけでしょ?﹂
彼女はくつくつと笑い声をあげるとヴィサ・レフトの肩に軽く頭
を押しつけてから寄りかかった。
﹁助かるよ⋮⋮、ヴィサ﹂
﹁エヴァ?﹂
わずかな時間、レフトの肩に体を預けて力を抜いた彼女は、次の
瞬間にはすでに通常の状態に戻っていて踵に重心をかけてアーッテ
ラを振り返る。
﹁アーッテラ、ヴィサを掩蔽壕に案内してやってくれ、その後、わ
たしのテントまで連れてこい﹂
キュッラ
彼女の鋭く飛んだ指示にアーッテラは敬礼を返した。
﹁承知しました!﹂
言い置いて彼らに背中を向けたアリナはそうして自分のテントへ
と戻っていく。その背中を見つめている兵士たちは、やがて、めい
めいの仕事へと戻っていった。
﹁⋮⋮ユホ、正直なところ、エヴァの様子はどうなんだ?﹂
268
﹁いつも通りですよ、強がりですからね。あの人は﹂
レフトに問いかけられて、ユホ・アーッテラは肩越しに振り返る。
何度か、アリナ・エーヴァ・ユーティライネンとヴィサ・レフト
が並んで話しをしているところは見たことがあったし、アリナの自
宅を訪ねたときに、先客としてレフトがいたこともあった。
猪突猛進なアリナとは対照的なレフトに、ユホ・アーッテラはこ
のふたりはお似合いだろうな、と思ったものだ。
並んでいて絵になる、とでも言うのだろうか。
派手で賑やかしいアリナと、寡黙で物静かなヴィサ・レフト。
﹁顔色が悪かったが﹂
﹁最近あまり眠れていないようなので﹂
﹁⋮⋮そうか、激戦区だからな﹂
淡々としている彼に、アーッテラはふと首を傾げた。
﹁第九師団は大丈夫なんですか?﹂
﹁今のところ陸軍で一番装備が充実しているから問題はないな﹂
﹁⋮⋮そうですか﹂
レフトを掩蔽壕に案内してから、次にアリナに命じられた通り指
揮テントへと向かうとアリナは揺り椅子に揺られてうたた寝をして
いた。
﹁は⋮⋮﹂
入ります、そう言おうとしたアーッテラの口をレフトの手のひら
が塞いだ。
﹁あとで俺が言い訳しておいてやる。寝かしてやれ﹂
潜めた声でユホ・アーッテラに告げたヴィサ・レフトは、言いな
がら彼を引きずるようにしてテントに背中を向けると歩きだす。
﹁あいつは、外人部隊にいたときもそうだ。自分が背負わなくても
いいものまで自分の責任だと感じて背負い込む。そうして、つぶれ
る寸前までいくんだ﹂
﹁⋮⋮ですが、レフト中尉﹂
﹁一度、あいつが外人部隊でつぶれかけたときがあってな⋮⋮﹂
269
そう言いながら、レフトは溜め息をついた。
﹁⋮⋮ナイフの、前の持ち主だという戦友の人ですか?﹂
﹁そう。ネパールの、グルカ族の出身の男がいてな。恐ろしく強い
奴でナイフを持たせたら誰にも負けないような奴だった。たぶんエ
ヴァよりも強かったかもしれないな、あいつとはえらくウマがあっ
てな⋮⋮﹂
小柄なアジア人の男と、彼女のコンビは鬼神のように強かった。
﹁身長のことでエヴァがからかうと、そいつが怒るんだ。それでも
いつも一緒に戦っていたんだが、幸運はいずれつきる。そいつが重
傷を負って死んだときエヴァはその死を自分の責任だと思ったんだ
ろう⋮⋮﹂
一時はアルコールに逃げることもあったが、やがて彼女は戦士と
してククリナイフと共に戦場へと復帰した。
ヴィサ・レフトとアリナ・エーヴァだけが知るフランス外人部隊
にいたアジア人の男。
彼女の友人。
アルコールに溺れるほどアリナが落胆したのならば、おそらくそ
のアジア人の男は彼女にとって大切な友人だったのだろう。
どんな人だったのだろう。
ユホ・アーッテラはそう思った。
﹁確か、背中の傷はそのときのものでしたね﹂
巨大な背中の傷は、フランス外人部隊でのもの。いつか、アリナ
がアーッテラにぽつりと言葉を漏らした。
死と向き合ってきたアリナ。
﹁⋮⋮エヴァは、いずれ発狂するかもしれない﹂
沢山の死の中に押しつぶされて、彼女は正気を失うのかも知れな
い。
長い沈黙の後、ヴィサ・レフトはユホ・アーッテラにそう告げ
た。
﹁戦友の死は、あいつの責任ではないんだがな﹂
270
つぶやいたレフトに、アーッテラは真面目な視線を返した。
﹁当たり前です。戦場での死は、よほどのことがない限り、指揮官
の責任ではありません﹂
言い放つアーッテラにレフトは低く笑った。
わたし
﹁なに言ってんの、戦場での死は指揮官の責任だよ。もしかしたら、
指揮官の判断ミスがなければ誰も死ななかったかもしれない。もし
かしたら生き残れる奴がいたかもしれない。⋮⋮わたしは、いつも
そう思ってるよ﹂
静かな声が響いて振り返ると、指揮テントの入り口にはアリナが
顔色の悪いままで腕を組んで立っていた。
﹁エヴァ﹂
﹁⋮⋮ようこそ、コッラーへ﹂
にやりと笑う彼女に、ヴィサ・レフトはもう一度深々と溜め息を
つくとかぶった毛皮の帽子に指先で触れる。
﹁ひとりで背負い込むなよ。少なくとも、ヴィシュヌが死んだ時は
おまえが指揮官だったわけじゃない﹂
だから彼女が﹁彼﹂の死に罪悪感を感じる必要性などないのだ、
とレフトは告げる。
﹁⋮⋮︱︱ま、そのあたりはノーコメントってことで﹂
﹁人の死﹂に対してなにも感じていないわけではない。兵士とし
て、そして職業軍人の一人として、彼女は﹁他者の命﹂を奪ってい
るが、決して心に痛みを抱えていないわけではないのだということ
をアリナ・エーヴァを取り囲む彼らは知っていた。
271
30 スオミネイト
第三四連隊第六中隊の指揮テント内の簡易テーブルには地図が広
げられており、それを三人の士官が囲んでいる。
ユホ・アーッテラは、上官であるアリナの表情を覗うように眺め
ヨー
ていると、アリナ・エーヴァの向かいに座って説明を聞いていたヴ
ィサ・レフトは﹁ふーん﹂と相づちを打ちながら地図に視線を落と
していた。
﹁それはそうとさ、ヴィサ?﹂
アリナが一通り戦況の説明を終えてからロッキングチェアに腰掛
けると、首を傾げた。
﹁第九師団って言えば、今はクフモにいるはずだよね? 中隊長の
ヴィサがこんなところで遊んでていいの?﹂
﹁⋮⋮俺の中隊はソ連軍の一個師団を攻撃するときの要だったから
な。半壊どころか全壊で、今はミッケリで再編中だ﹂
その再編中に、コッラー地方への物資の補給計画を耳にしたヴィ
サ・レフトは、休暇中であったため、友人の顔を見に行くついでに
志願した、というところが正しかった。
スオムッサルミでの激戦を戦い抜いたフィンランド陸軍第九師団
は現在、スオムッサルミから南方のクフモで、ソ連軍の狙撃兵師団
を相手にしているはずだった。
その中の中隊長のひとりであるヴィサ・レフトがどうしてこんな
ところにいるのか。
アリナ・エーヴァにしてみればもっともな疑問である。
﹁休暇ねぇ⋮⋮﹂
腑に落ちない表情の彼女に、ヴィサ・レフトは肩をすくめると口
を開いた。
﹁俺だってそんなに暇なわけじゃない、ちょっと手伝ったら帰るさ﹂
272
﹁さようで﹂
気心の知れた相手と言葉を交わすアリナは、彼が訪れたことによ
ってかいくぶんか顔色が良い。
古い知己の来訪が、彼女の心に余裕を生み出したのかも知れない。
もしくは、古い友人の前で弱気な顔など見せられない、と思った
のだろうか。
﹁おまえがどう思ってるかは知らんが、アリナ・エーヴァ・ユーテ
ィライネンの名前は市井に知れ渡っているぞ﹂
﹁⋮⋮新聞の取材も受けたからね﹂
戦場の暗闇を照らす希望。
その光。
﹁新聞と言えば、エヴァ。おまえのところの狙撃手。ヘイヘという
男はすごいな﹂
感嘆したように告げるヴィサ・レフトにアリナ・エーヴァは少し
だけ誇らしそうに胸を張ってから唇に笑みを浮かべて見せた。
﹁奴はすごいぞ。けど、身長は低いけどね。ヴィシュヌと良い勝負
だ﹂
ヴィシュヌ。
その名前をレフトはアリナの口から久しぶりに聞いた。
フランス外人部隊に彼らが所属していたときの戦友で、グルカ族
の青年だった。グルカ族と言うだけあって、ヴィシュヌはご多分に
漏れず低い上背と驚異的な瞬発力を持っている。
アリナ・エーヴァが扱うククリナイフの最初の持ち主で、アリナ
自身も重傷を負った戦闘でヴィシュヌは死んだ。
あっけらかんとした笑い声を上げる彼女をヴィサ・レフトじっと
観察した。
アリナは本当に彼の死を吹っ切ったのだろうか、と。
﹁身長と個人の強さは関係ないだろう?﹂
それこそ、かつてのヴィシュヌがそうであったように。
からからと機嫌良さそうに笑っている彼女に、しかし、レフトは
273
ヴィシュヌの名前を口にはできない。アリナが、彼の死を本当に吹
っ切ったとは思えなかったからだ。
アルコールにおぼれかけたアリナは、自傷行為に至ったことすら
あった。
いつもであれば届くとすぐに封を切る家族からの手紙もそのまま
にされていて、ヴィシュヌを亡くした彼女の落胆たるやひどいもの
だったのだ。
﹁⋮⋮そうだね﹂
短い沈黙の後にアリナはうつむきがちにそう告げると金色の睫毛
を伏せる。
個人の強さと、身体的な特徴は関係ない。
アリナ自身もそうだ。女性にしては体格はいいほうだが、そんな
彼女は自分よりも上背の高い大男を簡単に伸してみせる。
おそらく、殺してもいい、という条件付きならば無敵だろう。
﹁ヴァーラニエミは第十三師団か﹂
﹁そうそう、今、モッティを潰してる最中なんだよ﹂
モッティ
﹁それの戦利品というわけか、あの物資は﹂
キティラ、レメッティ方面の包囲陣を現在、第四軍第十三師団は
確実にひとつずつ撃滅している。
大規模な包囲陣は十個程度だが、小規模な包囲陣は数知れない。
潰しても潰してもきりがない。
﹁⋮⋮クフモだってそんな楽観視できる状況じゃないんでしょ?﹂
スオムッサルミ、サッラ地区は小康状態を保っているが、クフモ
方面は現在もソ連軍の分断包囲が継続している。
抵抗もなかなか終わりが見えず、スオムッサルミのように瞬く間
に包囲撃滅というわけにもいかない状態になっている。
﹁ここだって激戦区だろう﹂
﹁なに、コッラーにはわたしがいるんだ。一匹だってイワンの奴ら
を通したりはしない﹂
きっぱりと力強く言い放つアリナに、レフトは鼻から息を抜くよ
274
うにして笑った。
﹁おまえらしい﹂
いつでも自信に満ちあふれているアリナ・エーヴァ。
そんな会話を続けるアリナのテント内にアールニ・ハロネンが慌
シス
てた様子で駆けつけた。
﹁姉さん、いいですか﹂
﹁⋮⋮どうした﹂
声をおさえたアールニ・ハロネンが自分のモシン・ナガンを抱え
て息を荒げている。
﹁見張りが狙撃で殺られました﹂
抑え気味の声が、ぞっとするような空気を運んでくる。ハロネン
の後ろからは、やはり愛銃をさげた狙撃手︱︱シモ・ヘイヘが小隊
長の下士官の後ろへとついてくる。
﹁⋮⋮シムナ、朝までに狙撃手を始末できるか?﹂
﹁了解しました﹂
アリナもテントの入り口に立てかけた狙撃銃を片手にしながら立
ち上がると、ユホ・アーッテラに視線を送る。
﹁手のあいてる奴で狙撃に通じている者だけを選別しろ。おそらく、
ひとりじゃない﹂
﹁⋮⋮姉さん、そんなにいりません﹂
副官のアーッテラに指示を下すアリナに、シモ・ヘイヘがかぶり
を振った。
かつて﹁狙撃の対象がカモから人間に変わっただけ、と言い放っ
た彼はアールニ・ハロネンから弾を受け取りながら穏やかに笑った。
﹁敵は一個小隊らしいです。俺だけでなんとかできます。姉さんは、
部隊の奴らが動揺しないようにいつも通りでいてください﹂
﹁支援もなしで一個小隊を相手にするつもりか?﹂
確かに、彼の早撃ちならば可能だろう。
しかし、本当に大丈夫だろうか⋮⋮。
﹁俺も行こう﹂
275
ハロネンの提案を、しかし、ヘイヘは素っ気なく断った。
﹁ダメです、准尉は小隊長なんですから陣地を守っていてください。
俺が出かけてる間に姉さんを狙撃されたらどうするんですか﹂
アールニ・ハロネン。
彼もまた、ヘイヘには及ばないがベテランの狙撃手だった。ヘイ
ヘと同じように猟師の出身で、その腕はカモ撃ちによって磨かれた。
姉さんが狙撃されたら困る、というヘイヘの理屈にハロネンが明
らかに動揺していると、﹁それに﹂と続けながら、ヘイヘは厳しい
瞳をゆるめてから雪中迷彩のギリースーツを直しながら一同を見渡
ヴェーラヤ・スメルチ
した。
﹁白い死に神がいる、とイワンに知らしめればそちらに注意が向く
はずです﹂
現状で、中隊指揮所が被害を受けるわけにはいかない。
どんなことがあってもアリナ・エーヴァ・ユーティライネンとい
うその人は無事でいなければならない
﹁アーッテラ﹂
ヘイヘにそう告げられて片手で顎を撫でたアリナが副官の名前を
呼んだ。
ユホ・アーッテラに耳打ちした彼女に、青年は素早く踵を返すと
テントを出て行く。そしてそれを見送ったアリナは、ヘイヘを手招
いた。
﹁おそらく狙撃手部隊だろう。今はひとりでも兵士が欠けるのは痛
い。奴らの始末を頼む﹂
﹁はっ﹂
﹁作戦は一時間後。先にクスミンを向かわせる、その後出発してく
れ﹂
先日の野戦炊事所の襲撃作戦の前、堂々とソ連軍の野戦炊事所ま
で出向いてスープをもらってきていた兵士の男だった。
流暢なロシア語を操り、そして、肝の据わった男である。
赤軍から鹵獲した制服を身につけたクスミンは、堂々と片手にス
276
キー板とストックをもって深い雪の中を歩きながらソ連軍の駐屯す
る森の奥へと消えていく。
﹁スキー持ってってたらバレないか?﹂
ヴィサ・レフトがアリナ・エーヴァに問いかけると、きつく両目
をつり上げている彼女はちらと横に立つ古なじみの戦友を見やって
から言葉を吐きだした。
﹁そんなくだらないへまをする男じゃない﹂
クスミンを先に向かわせたのは情報の拡散が目的だった。
噂をばらまき、森の奥へと潜むシモ・ヘイヘの元に赤軍の狙撃手
部隊をおびき寄せる。そうして、約三時間の作戦の後、ヘイヘは一
個小隊を全滅させて無傷で戻ってきた。ついでに言うならば、赤軍
兵士に扮していたクスミンも一個分隊ほど蹴散らしてきたらしい。
そのときにはすっかり日が暮れていて、アリナは指揮テントのロ
ッキングチェアでくつろぐようにして推理小説を読んでいた。
この暗闇ではソ連軍も動きようがない。
師団司令部との無線電話がつながったのは雪によってありとあら
ゆる音が吸収されていくそんな夜のとばりの下だった。
﹁ユーティライネン﹂
名乗りながら簡易テーブルの上に足をくみ上げるとアリナは肩と
頬の間で受話器を挟み込む。
ぺらりとペーパーバックのページをめくる紙の音が鳴った。
そうしてアリナの部隊にひとつの朗報がもたらされる。
電話の主はアンッティ・J・ランタマーだった。
従軍牧師だ。
﹁⋮⋮なんだ、牧師さんか﹂
彼は従軍牧師でもあるが、国会議員でもある。しかし、そんなラ
ンタマーを相手に動じない彼女はにこにこと笑ったままテーブルの
上に組んだ足をゆらりと揺らす。
木箱の上に毛皮をしいた椅子のようなものに腰掛けたヴィサ・レ
フトはライトの明かりの下でうたた寝をしている。
277
そんな友人を横目に見やってから、彼女は電話越しにランタマー
と近況を語り合った。
﹁それは大変素晴らしい!﹂
アリナ・エーヴァはテーブルの上にくみ上げていた脚を大きな動
作でおろしてから機嫌良さそうに、どこか芝居がかった台詞を吐き
出した。
そんな戦友の声に目を覚ましたヴィサ・レフトは、ひどく嬉しそ
うな彼女を目を擦りながら見つめている。
﹁腕の良い狙撃兵には精度の高い銃が宛がわれて然るべきだ﹂
それこそが軍隊︱︱組織の義務だとでも言いたげなアリナの口調
はいくばくか熱を帯びた。
元来、彼女は自分を﹁兵隊だ﹂と自称するほどであったから、ク
ールなタチではないし、どちらかと言えば、最前線の兵士たちがそ
うであるように、熱血的な傾向の強い、少々鬱陶しい性格だ。
独断専行型でありながら、部下たちに対しては非常にお節介で、
ある意味面倒見が良い。
大の男でも平常心を失いがちな過酷な戦場でも、驚くほどアリナ・
エーヴァには他者を気遣い、周囲を見渡す余裕がある。
頑強な精神。
しかし、それは常に正気と狂気の狭間の、ごくぎりぎりの場所で
支えられているだけであると言うことも、レフトは知っていた。
機嫌の良さそうなアリナの声に、レフトは眼を細めてから両膝の
上に腕をおいて首をかしげた。
戦闘狂などと呼ばれることもあるアリナ・エーヴァだが、その実、
彼女は﹁謙虚﹂とは言えないものの地位や名誉欲といったものから
は恐ろしいほど無縁だった。
ただ目の前にある戦場に、彼女は自ら突き進む。
︱︱戦う事が好きなだけ。
どうして戦う事が好きなのか、と、レフトが以前、アリナに尋ね
たことがあった。しかし、そのときは満足のする答えを彼女からも
278
らうことはなかった。おそらく、彼女が自己分析というものを好き
ではないからだろう。
だからレフトは彼女がどうして女でありながら、その手を血に染
め、そして過酷な戦場に邁進するのかという、その理由を考えた。
その末の結論はアリナ・エーヴァ・ユーティライネンという女性が
﹁生きていることを実感する﹂ために戦っているのではないだろう
か、と。
戦いの中でしか彼女は自分が生きていることを実感できない。
﹁わかったよ、助かるよ。牧師さん﹂
牧師さん。
アリナ・エーヴァの言葉にレフトは口を開きかけたが、結局言い
出す前にその口を閉じてしまった。
﹁⋮⋮師団司令部から連絡だったんだ﹂
﹁牧師が?﹂
牧師とは言っても、さすがに従軍牧師かなにかだろう。
ヴィサ・レフトは冷静にそう判断した。
﹁そうそう。国会議員のランタマーなんだけどさ。スヴェンソン大
佐のお使い?﹂
﹁⋮⋮なんでそこが疑問系になるんだ?﹂
いつものことだが、アリナの台詞は脈絡がない。
﹁大佐がなんだって?﹂
﹁スウェーデンのヨハンソン氏が素晴らしい銃を寄贈してくれたら
しい。それをヘイヘに与えたいと言ってきた﹂
伝令⋮⋮!
アリナがテントの外へ向かってよく通る大声で叫んだ。
﹁⋮⋮ご用は﹂
テントの外から声が聞こえる。
おそらく見張りをしていた兵士のひとりだろう。
﹁アーッテラを呼んでこい﹂
﹁はっ﹂
279
さすがに中隊長の命令をアーッテラを介さずにするわけにもいか
ない。ほどなく鋭い眼差しで指揮テントを訪れたユホ・アーッテラ
は彼女の説明に頬をゆるめると柔らかな瞳になった。
まるで自分のことのように誇らしい、とその両目が語っていた。
﹁シムナを呼んできます﹂
コッラー川から鉄道の線路沿い、さらに後方のロイモラの街に、
第十二師団の司令部が置かれている。その師団司令部に今晩中のヘ
イヘの出頭命令がでたのだ。
ランタマーの話しに寄れば一泊させてから、翌日にスウェーデン
から贈呈された小銃を前線の最も優れた狙撃兵に授与するとのこと
だった。
﹁しかし、ひとりで行かせるのは少々心配だな﹂
アリナがひとりごちるてちらとヴィサ・レフトを眺めると、彼は
どこか呆れた様子で肩をすくめて見せた。
﹁いいだろう、帰るついでに送ってやるよ﹂
俺としてはもう少しおまえの戦うのを見ていたかったがな。
﹁そういうからかいはお断り!﹂
顎を引き上げて左斜め上を見上げたアリナに、シモ・ヘイヘはぷ
っと吹き出した。
どんなに過酷な戦場であっても、そこにアリナ・エーヴァ・ユー
ティライネンという女性士官がいる限り、自分たち部下は戦ってい
けるのだ。
誰よりも勇敢な彼女に率いられて。
﹁とにかく、そういうわけでレフト中尉が送ってくれるそうだから、
安心していってこい﹂
﹁了解しました﹂
そうしてシモ・ヘイヘを夜に紛れて送り出したアリナは、その翌
々日には連隊に朗報が届いた。
アリナ・エーヴァらが所属する第三四歩兵連隊と、第六九歩兵連
隊と後退になったのだ。しかし、兵士たちには朗報であったが、中
280
隊指揮官であるアリナは司令部の思惑を勘ぐった。
どこか厳しい瞳で指揮テントの壁を見つめている彼女の目線の先
には、今は主人のいない揺り椅子がある。
﹁うれしくはありませんか?﹂
﹁⋮⋮別に﹂
問いかけられてアリナ・エーヴァはアーッテラに瞳だけを動かし
て視線を放った。
旧知の友であるヴィサ・レフトに対する時と、部下でしかない自
分に対する態度が異なるのは当たり前だ。
レフトがいたときにはくつろいだ表情を見せていたアリナだった
が、今は前線指揮官のひとりとしての顔を取り戻していた。それで
も、予想外のヴィサ・レフトの来訪が彼女の精神に余裕を生み出し
たと言うことだけは事実だった。
﹁司令部の思惑がわかんないな﹂
言いながら小首を傾げる。
月明かりの明るい深夜だ。
一昨日の夜︱︱要するに実質的にはまだ二日ほど前に第六中隊最
高の狙撃兵シモ・ヘイヘをロイモラの師団司令部へと送り出したの
だが、彼が戻らないうちにくだんの第六九歩兵連隊と陣地が交代に
なったのだ。
﹁⋮⋮その辺から凍死体を拾ってこい﹂
﹁どうするんです?﹂
﹁これでも挟んでおけ﹂
﹁⋮⋮は?﹂
アリナ・エーヴァに差しだされた紙切れを受け取りながら、ユホ・
アーッテラはそれに視線を落としてから笑う。
﹁悪趣味ですね﹂
︱︱歓迎。第六九歩兵連隊の兵士たちへ幸運を。
無造作に綴られたアルファベットにアーッテラは唇の端を歪めて
見せた。
281
月明かりの下、ソビエト連邦空軍の哨戒機が飛び回っていた。お
そらく、その月明かりは夜目のきかない暗がりの中に航空機を飛ば
すには丁度良いのだろうが。
そんな状況での交代は危険極まりないことだった。
﹁気になるのは、イワンの動きだ﹂
言いながらアリナは眉をひそめると最小限の歩兵としての荷物を
まとめると移動の準備にとりかかる。
﹁椅子はいいんですか?﹂
﹁そんなもんいつでも買える﹂
お気に入りだと言っていた割りに、素っ気ない彼女の様子にアー
ッテラは返す言葉を探して視線を落とす。
﹁そういえば、射撃統制官や工兵たちは残ると聞きましたが﹂
コッラー川を防衛してきた第三四連隊の中から一部の兵士たちが
残ることになった。射撃統制官や工兵、そして通信兵らだ。
約二ヶ月もの間、コッラー川の戦線を維持してきた彼ら。主にア
リナ・エーヴァの心配の種はそこにあった。経験の浅い第六九歩兵
連隊に戦線を維持することが可能なのか。
そこに彼女は危惧をする。
もちろん、交代はありがたいことではあるというのが本音だが。
少し
ね﹂
﹁心配ですか?﹂
﹁
第三四連隊の疲労も限界に達している。
しかし、とアリナ・エーヴァは思うのだ。本当にこれで良かった
のだろうか、と。とはいえ命令は命令だ。彼女自身も兵隊である以
上、上官の命令は一応﹁絶対﹂だ。とりあえず荷物を手早くまとめ
た第三四連隊はそうしてロイモラの近くに宿営地へと移動した。
*
アリナは宿営地の簡易テントで大隊指揮官であるハールトマンの
282
言葉に耳を傾けていた。
テントの壁に壁によりかかってわずかに小首を傾げている様子は、
眠っているのではないかとも思わせられる。
﹁聞いているか?﹂
﹁聞いてますよ﹂
むっつりとした言葉を返しながら彼女が機嫌が悪いのは理由があ
った。
お嬢さん
っていうのやめてくれませんかね、少佐﹂
﹁わかりやすいな、お嬢さんは﹂
﹁その
皮肉まじりの言葉に、アリナは眉をひそめてから目をあげる。
﹁わたしたちがコッラーに残ってたほうが良かったんじゃないです
か?﹂
つい先頃まで戦線を保持していた第三四連隊が引き上げ、第六九
連隊に交代した途端ソ連軍が総攻撃をかけてきたらしい。
それを指してアリナ・エーヴァは﹁自分たちが陣地に残った方が
良かったのではないか﹂と指摘したのだ。
第三四連隊の中には、アリナやシモ・ヘイヘといった猛者たちと
はまた違うもうひとりの名物男がいた。
コッラーの戦線に残った部隊の隊長のひとりで階級はアリナと同
じく中尉である。
オリンピックにも出場した体操の選手でマケ・ウオシッキネンだ。
アリナ・エーヴァも顔を合わせたことがあり、やはり彼女とは異な
り真面目で冷静な男だった。
﹁ウオシッキネンが心配か?﹂
﹁⋮⋮はっ﹂
アリナは鼻から息を抜くと、第二大隊司令官カール・マグヌス・
グンナル・エーミル・フォン・ハールトマンに対して侮蔑めいた視
線を投げかける。
﹁わたしは、突破されたら困ると言ってるだけです﹂
冷徹な彼女の言葉に、ハールトマンはククッと喉を鳴らした。
283
﹁どちらにしたところで奴らは、三四連隊が六九連隊と交代したこ
とによって攻撃の好機と考えるでしょう。一部、ベテランが残って
るとは言え、イワンの部隊は三万。対応には苦慮するはずです﹂
まだコッラー地方の戦闘に慣れていない新しい連隊なら、潰しや
すいと彼らは予想するだろう。そう考えれば、彼らにとってこれは
総攻撃の好機だった。
スオミ・ネイト
﹁しかし、その口の悪ささえなければな。全くおまえの性格は残念
だ﹂
スオメン・タサヴァルタ
﹁そりゃご愁傷様﹂
フィンランド共和国の国土は、乙女の姿になぞらえられる。
その体を、ソ連軍による赤い攻撃で痛めつけられ続けている。
﹁さしずめ、わたしたちは聖なる乙女を守る騎士ってところですか﹂
そしてその乙女はフィンランドそのものだ。
アリナが言うとなにやら含みを感じられるが、女騎士が乙女を守
るというのもなかなかに麗しいものではないか、とハールトマンは
思った。
ロイモラにはコッラー戦線の激戦を伝えられてくる。
その報告を聞くアリナは、どこかやりきれないものでも感じるの
か言葉を吐き出すこともせずに何度も溜め息をついた。
284
31 嵐の前
﹁姉さんは、戦う事が怖いと思ったことはないんですか?﹂
問いかけたユホ・アーッテラにアリナ・エーヴァは小首をかしげ
た。
﹁そりゃ怖いに決まってる﹂
﹁意外ですね﹂
﹁そんなこと全く思ってないのによく言うよ﹂
アーッテラの言葉にアリナは目線だけで笑ってから、大きく伸び
をした。
ロイモラの町はソ連空軍の爆撃を受けていくつもの大きな穴があ
いている。しかし、建物に命中したのは屋外便所のみという状況だ
った。
︱︱へたくそ。
それがアリナの感想だ。
﹁忌々しいことだが⋮⋮﹂
ルフトヴァッフェ
アリナ・エーヴァはそう前置きしてから、アーッテラに対して言
葉を投げかける。
﹁忌々しいにも程があるが、ドイツ空軍の爆撃はもっと精度が高い。
同盟を組んでいるんだ、もう少し奴らを見習ったらどうだろうね﹂
﹁⋮⋮︱︱ドイツ空軍の爆撃を見たことがあるんですか?﹂
素朴な疑問を言葉にすると、アリナは肩をすくめてからちらと視
線を流しやる。
﹁あるわけないじゃん﹂
アリナ・エーヴァはスペイン内戦には参加していない。だから、
創設されたばかりで歴史の浅いドイツ空軍の空戦技術など知るわけ
がなかった。
﹁なら、どうしてそんなこと言い切れるんです?﹂
285
問いかけるアーッテラに、アリナ・エーヴァは唇の端でにやりと
うち
笑って見せた。
﹁⋮⋮フィンランドの空軍が戦術的な参考にしてるんだ。優秀じゃ
ないわけないじゃん﹂
フィンランドとの敵︱︱ソビエト連邦と忌々しい不可侵条約を結
んでいる大ドイツ国。しかし、感情的になって相手の能力を正しく
評価しないと言うことは、自分たちに死に神を呼び込むことに他な
らない。
﹁すごい根拠ですね﹂
あきれたようなユホ・アーッテラにアリナは低く笑うと、金色の
髪を耳の上にかきあげてから長い睫毛を伏せる。
﹁そういえば、シムナが休暇を終えて帰ってくるそうですよ﹂
﹁⋮⋮そうだね﹂
ほほえんだ彼女の横顔に、アーッテラはほっと溜め息をつく。
少なくとも、今彼らが駐屯しているロイモラ村は、彼らがそれま
でいたコッラー川の戦線より危険は少ない。しかし、それにしても
彼女のこの落差はなんなのだろう。
もちろん、彼女に裏表があるのは戦前から知っていたことだが⋮
⋮。
﹁無事に帰ってくるならめでたいもんだ﹂
雑談をしているときと、部下の話題を口にしている時とでは、ア
リナ・エーヴァの印象はだいぶ異なる。
﹁女ってのは怖いですね﹂
大きな溜め息と共につぶやいたアーッテラに、アリナは雪の降り
積もるロイモラの町を見つめている。
いつまでこんな戦争が続くのだろう。
シモ・ヘイヘが栄誉ある銃を賜ってから、休暇を終えて前線に戻
ってくる。中隊指揮官であるアリナ・エーヴァにしてみれば大変喜
ばしいことには違いない。けれども、消耗しきった兵士たちを見て
いると、いつまでもソビエト連邦の猛攻にこらえられるとは思えな
286
いのだ。
﹁アーッテラ、おまえもいい年だ。とっとと気立ての良い嫁さんを
もらえ﹂
彼の肩を軽くたたいたアリナ・エーヴァに、ユホ・アーッテラは
返す言葉もなく肩をすくめただけだった。
姉さんこそ、と彼は思うが口には出さない。
﹁⋮⋮気の良い奴だった﹂
しばらくの沈黙の後に、アリナがぽつりとつぶやいた。
余りにも唐突すぎてユホ・アーッテラは彼女の意図を読み損ねて
シス
小首を傾げる。
﹁⋮⋮姉さん?﹂
﹁ヴィシュヌといると、戦場なのにいつも楽しくて、こいつと戦っ
て一緒に死ねたら本望だなって思ったんだ﹂
ヴィシュヌ。
その名前にアーッテラは無言のままで彼女の言葉を聞いた。
おそらく、その名前から察するに、アーッテラが知らない彼女の
戦友だろう。彼女の持つナイフの元の持ち主︱︱フランス外人部隊
にアリナが所属していた頃の。
来る日も来る日も続く激しい戦闘に、アリナの脳裏に過去の戦い
での記憶を呼び覚ましたのかも知れない。
﹁けど、戦場というのは残酷だ。激戦であいつだけが死んで、わた
しは生き残った。死に神はあいつの魂だけを奪っていった⋮⋮﹂
病院のベッドでやっと動けるようになった時、ヴィシュヌの亡骸
はすでになかったこと。残されたのは彼のナイフだけ。
︱︱ヴィシュヌがおまえに渡してほしいと。
ヴィサ・レフトはそんな言葉と共に、彼女にククリナイフを手渡
した。
大振りなナイフ。
ヴィシュヌの魂とも言えるナイフだ。
今もアリナ・エーヴァの腰に吊されたナイフと共に彼女は戦って
287
いる。
﹁そのとき、あなたも死んでしまいたいとでも思ったんですか?﹂
﹁⋮⋮そうだね﹂
短く、そして静かに彼女が言う。
アーッテラは溜め息をついた。
﹁共に、滅びたいと思えるほどには、奴とわたしは気があっていた﹂
アリナ・エーヴァが無意識に左の敵を攻撃すれば、右手の敵をネ
パールの山岳民族出身のヴィシュヌが攻撃する。
銃を軽々と操り、正確な射撃を繰り広げる彼女が遠距離攻撃を。
そしてヴィシュヌが肉薄する敵をナイフで切り裂く。見事なふたり
の連携に、モロッコの植民地戦争では﹁恐怖﹂とあだ名された。
﹁⋮⋮︱︱奴が死に、わたしだけが生き残った﹂
きっと、彼は生き残った自分を責めるだろう。
﹁どうしておまえだけ生きてるんだって、声が聞こえるようで⋮⋮﹂
どうして自分だけが生きているのだろう。
生涯の伴侶以上に自分の魂の半分だとも思えた男を失って、彼女
の心は切り裂かれるかと思えるほどの痛みと苦しみを味わった。
むかし
﹁わたしは、ただ漠然とあいつが死ぬときはわたしも死ぬときだと
思っていたんだ。当時のわたしは愚かだったからな⋮⋮﹂
若く、猪突猛進で愚かだった。
戦って前を見ることしか知らなかった小娘。
そしてその﹁小娘﹂は、自分の魂の半分だと信じこんでいた﹁彼﹂
が死んだときに、深すぎる絶望に突き落とされた。戦場にいる限り、
永遠の約束などないということは、誰よりもアリナがわかっていた
はずなのに。
それを見失ってしまうほど、彼女は戦いの中に捕らわれた。
深い闇に飲み込まれた。
﹁戦場に、永遠の約束なんてないのにね﹂
自嘲するようにほほえんだアリナに、アーッテラは眉をひそめた。
その静かすぎる彼女の声に包み隠された思いの深さを感じる。
288
シス
﹁姉さん﹂
雪が降り積もる。
そんな風景の中で、アリナ・エーヴァがなぜか消えてしまいそう
な気がして、アーッテラは不安を感じる。
﹁姉さんは、亡くなられたその方を、愛していらっしゃったのです
か⋮⋮?﹂
問いかけるユホ・アーッテラの声が掠れる。
喉の奥がからからだった。
﹁わかんないよ。愛してたかなんて。⋮⋮ただ、今でもあいつが生
き残ったわたしを咎めているような気がしてならないんだ﹂
手袋をした彼女の手のひらが、自分の心臓を強く押さえている。
そんなアリナ・エーヴァの様子が、ユホ・アーッテラに彼女の心
の痛みを伝えてくるようで、渇いてかさついた唇をかみしめた。
若いゆえに浅はかでただ子供のように未来は永遠だと思っていた。
無邪気に。
雪の舞う寒空の下で、アリナの頬を一筋の涙が流れていく。頬を
伝い、顎の先から落ちる涙に、アーッテラは目を奪われた。
とも
﹁死んでしまいたい、と、あの時は本気でそう思った﹂
戦友を失って打ちひしがれた彼女が一度だけ、アルコールに溺れ
たことがあったとヴィサ・レフトが言っていた。
﹁⋮⋮姉さん﹂
言葉を失ってアーッテラが彼女を呼ぶが、しかしアリナには聞こ
えていない。
とつとつと言葉を綴る彼女は、心臓に押し当てていた手を握りし
めてから白い吐息をついた。
﹁あいつが死んで、わたしも死にたいと思ったのに、死ぬほど痛い
目にあったわたしは、臆病で自ら死ぬことを選択することできなか
った⋮⋮。笑えるだろう? 死ぬのも怖くないと思っていたはずな
のに、いざ目の前に死が差し迫ると、恐ろしくて死ぬこともできな
いんだ﹂
289
手袋をはめた手で涙を乱暴にこすった彼女が、言いながら小首を
傾げるとアーッテラを見つめる。
そんな青い瞳に、アーッテラは眉間を寄せて言葉を探した。
なにを言えばいいのかわからない。
﹁姉さん、俺は⋮⋮﹂
言いかけたユホ・アーッテラの声を、突然、ソ連軍の爆撃機のプ
ロペラの音に遮られた。
一瞬で頭を切り換えたアリナ・エーヴァ・ユーティライネンはわ
ずかに目を見開いてから顔を上げる。
二十機ほどの重爆撃機が飛来したのだ。
その場に突っ伏すように伏せて頭をかばいながら、アリナは声を
張り上げた。
﹁走るな! その場を動かずじっとしてろ⋮⋮っ! 動くと見つか
るぞ!﹂
上官であるアリナが地面に伏せたのと同時に、アーッテラも同じ
ように彼女の横に伏せながら横目で上官を見つめる。
どろどろと音をたてながらロイモラ上空を旋回している爆撃機は
獲物でも探しているのだろう。
全てを白色迷彩で偽装したフィンランド軍の標的を、上空から発
見するのは困難に違いない。
﹁⋮⋮朝っぱらから元気だね﹂
鋭く舌打ちした彼女の横顔に、先ほどまでの戦友の死を悼む表情
はかけらも浮かべられていなかった。
アーッテラはふと思った。
︱︱アリナ・エーヴァは、戦いを繰り広げながら、死に場所をさ
がしているのではないのだろうか、と。
少し客観的に考えればわかることだ。
仮に、人間の思惑とは関係のないなにかが蠢いて運命を決してい
るとして、誰も彼女の死など望んではいない。
おそらく、とアーッテラは思った。
290
いのち
彼女の亡くなった戦友は、彼女を守りたかったから自分のナイフ
を送ったのだろう。死に逝く自分の代わりに、彼女の生命を守るた
めに。
ありったけの思いをそのナイフに捧げて。
ユホ・アーッテラは、アリナ・エーヴァのフランス外人部隊時代
の戦友であるヴィシュヌのことは知らない。しかし、その男の思い
は理解できた。
友人の一人として。そして、かけがえのない魂を分けた相棒を呪
うわけがあるものか。
︱︱俺は、おまえを守ってやれなかった。
剛胆で、尊大に。そして不敵に笑う彼女が、誰よりも優しいのを
知っていたから。アーッテラは今は亡い男の気持ちを察する。
︱︱せめてこれからはこのナイフが、おまえの命を守ってくれる
ことを願う⋮⋮。
ナイフ
アーッテラは低い男の声を聞いたような気がした。
彼女を守る男の声を。
赤い星印をつけた重爆撃機は、アリナ・エーヴァたちの所属する
第三四連隊第二大隊の宿営地の真上をしばらく飛行していたが、そ
れとおぼしき標的を発見することができなかったのか、爆撃機が遠
ざかっていく音が聞こえた。
しばらくしてから爆撃機が向かった方向から爆弾の炸裂する凄ま
じい音が聞こえてきて、ユホ・アーッテラは眉をしかめた。
村の中心地の方から聞こえてくる。
民間人に被害が出ていなければいいが⋮⋮。
そう思って彼が上官の女性を見やると、アリナも似たようなこと
を感じていたのか、眉をひそめたままで立ち上がると、コートにつ
いた雪を軽く払い落とした。
﹁ユーティライネン﹂
呼ばれた低い声に、アリナ・エーヴァは帽子を手で押さえながら
291
振り返る。
﹁なんです?﹂
第二大隊の指揮官、ハールトマン少佐に呼び掛けられてアリナが
露骨に眉をしかめた。露骨すぎることを隠しもしない彼女に、もち
ろん外見上はハールトマンも表情ひとつ変えはしない。
コッラーの戦線で戦っていた時とは比べものにならないほど、彼
と顔を合わせる機会が増えてアリナ・エーヴァは正直うんざりして
いる。
﹁司令部が無事か見にいってくるが、貴様も行くか?﹂
﹁⋮⋮お断りです﹂
﹁まぁ、そう言うな﹂
勝手知ったるとはよく言ったもので、カール・マグヌス・グンナ
ル・エミール・フォン・ハールトマンはアリナの肩をつかむとずる
ずるとひきずってそりにの上に引き上げた。一応相手が味方であり、
そして上官であることを考慮しているらしい彼女は、男の強引な命
令に口をへの字に曲げつつも従っている。
彼女は決して司令部の命令を全て反故にしているわけではないの
だ。
おもしろくはないと思いつつも軍隊内において命令が絶対だと言
うことを彼女は理解している。
わかっているからこそ、余計に面白くない。
仏頂面のアリナに、トイヴィアイネンが面白そうな顔をして凝視
していると、両方の頬に親指をあてて両手のひらを開いた。
相手を馬鹿にする仕草に、今度こそトイヴィアイネンが吹き出す
が、アリナは心底面白くない、といった様子でしかめ面のままそっ
ぽを向いてしまった。
ハールトマンとアリナ・エーヴァが一緒にいる様子はまるで仲の
良い兄妹かなにかのようでもある。両名とも腕の良い指揮官なのだ
が、性格が同じなのか、磁石と同じで同極同志であるが故に反発し
合う。
292
ロイモラの師団司令部に赴いたふたりは、第十二師団指揮官スヴ
ェンソン大佐に出迎えられて、宿営地周辺とロイモラの被害状況に
ついて情報交換を行った。
スヴェンソンとハールトマンとの情報交換の場にどうして自分が
いなければならないのか、と不満で仕方がないのはアリナ・エーヴ
ァだ。
しかめつらしい顔のままで目の前に出されたコーヒーをすすりな
がら、彼女は男たちの会話を聞くでもなく聞いていた。
文字通り右から左へと聞き流していただけだが、ふと耳に入って
きた単語にアリナは小首を傾げた。
﹁⋮⋮ロイモラから少し離れたところに、イワン共が妙なもんを落
うちら
としていったんだが、ハールトマン。君は聞いているか?﹂
﹁最近やっとこっちに移ってきた第二大隊が知るわけないじゃない
ですか、大佐﹂
﹁それもそうだな﹂
なぜかひとりで納得したような顔をしたアンテロ・スヴェンソン
にアリナは視線を上げると、コーヒーカップに唇をつけたままでそ
うしてから少し考え込むような顔をした。
﹁⋮⋮妙なもの、というのは?﹂
﹁見に行くかね?﹂
アリナが短く問いかけるとスヴェンソンが、剛胆な女性指揮官に
低く笑う。
﹁時限爆弾とか不発弾とか、そういったものだったらお断りですよ﹂
﹁なに、おそらくそういうもんじゃないから心配はいらん﹂
ロイモラから少し離れたところに、ソ連空軍の爆撃機が落として
いったものを見に行った彼らはその﹁奇妙な物体﹂に腕を組んで﹁
うーん﹂とうなり声を上げた。
﹁なんだと思う?﹂
﹁⋮⋮岩、ですね﹂
293
スヴェンソンの問いかけに応じたのはハールトマンで、腕を組ん
だままその平べったく四角い物体を凝視している。
物量にものを言わせるソビエト連邦だ。
そのソビエト連邦軍に限って﹁弾薬がなくなったから岩を落とし
た﹂というわけでもないだろう。
意味深な眼差しで、スヴェンソンとハールトマンに視線を投げか
けられた三十代半ばの女性士官は、鼻白んだ様子で肩をすくめてか
ら岩に向かって一歩踏み出した。
手袋を外した彼女は、長い腕を伸ばしてその岩に触れてみる。
凍結した空気に晒されて冷え切った石は冷たくて、やはりそれが
まさしく﹁岩石﹂であるということを感じさせた。
﹁⋮⋮まごう事なき岩ですね﹂
﹁君らもそう思うか﹂
馬鹿にしてるのか? とアリナ・エーヴァは思ったが口には出さ
ない。いちいち上官相手に喧嘩腰でつっかかっても仕方がないこと
をアリナは知っていたし、彼女はもう無鉄砲で怖い物知らずの若か
った昔の彼女ではない。
﹁イワンの奴らが弾薬や爆弾がつきたわけでもないだろうしな。一
リュッシャ
体全体何の冗談だろう?﹂
﹁知りませんよ、ソ連軍に聞いてください﹂
アリナはかぶりを振りながら、岩から手を離すと鼻から息を抜い
た。
﹁そういえば、シムナはいつ戻るんです? そろそろだっていう噂
は聞きましたけど﹂
﹁ヘイヘ下級軍曹か﹂
確か彼の故郷はコッラー地方からそれほど遠くはないミエッティ
ラだ。場所はラドガ湖から南へ二十マイルほど離れたイマトラから、
さらに北北東に三十マイルほど離れた地点にある、と言えばいいだ
ろうか。
要するにコッラー地方からは百マイル弱離れている計算になる。
294
しかし、国境沿いのフィンランド国内の鉄道網は発達しており、開
戦当時からそれらの鉄道網を駆使してフィンランド国防軍は迅速に
部隊を展開することができたほどだ。
アリナ・エーヴァが危惧することもなく、無事にヘイヘは陣地に
戻ってくるだろう。
﹁他の部隊にはやりませんからね﹂
牽制するように告げたアリナに、スヴェンソンは笑い声を上げた。
﹁なんだ、独占欲が強いな﹂
﹁当たり前です﹂
素っ気なく言う彼女に、スヴェンソンは﹁そろそろ戻るから心配
いらん﹂と応じてから改めて平たい石に視線を戻した。
﹁きっと、この岩は、寛大なロシア人が隣国の恵まれない子供たち
に豊かなるソ連の大地を恵んでくれたんだろう﹂
﹁⋮⋮寛大、ね﹂
スヴェンソンの皮肉な言葉に、アリナはフンと鼻を鳴らした。
﹁さしずめソ連の兵士共は、恵まれない隣国の大地に送ってくれた
肥料かなんかですかね﹂
肉はやがて朽ちて大地に帰る。
それを皮肉ったアリナ・エーヴァに、ハールトマンは彼女の肩を
軽くたたきながら大きく頷いた。
﹁ソビエト連邦は広くて物資も、大地も膨大だ。きっとそんなとこ
ろだろう﹂
夕方、そりに乗って戻ったカール・マグヌス・グンナル・エミー
ル・フォン・ハールトマンとアリナ・エーヴァはふたりの客人を連
れ帰ってきた。
ひとりは作家で、もうひとりは雑誌記者だ。
二月の下旬から得られたいくばくかの後方への撤退はアリナ・エ
ーヴァらを含めた大隊はいくらか休息をとることができたが、絶え
間なく続くソ連空軍による爆撃に彼らは晒され続けていた。しかし、
幸運なことにその爆弾の内の一発も彼らのテントに命中することは
295
なかった。
スオミ
アリナ・エーヴァ曰く﹁へたくそ﹂とはこのことだ。
﹁フィンランドの爆撃隊ならもっと正確に標的を狙えるだろうに!﹂
﹁しかし、奴らのパイロットが飛行機を飛ばすだけしか能がなくて
助かりましたね﹂
アリナの評価に対して、ユホ・アーッテラが応じれば彼女は肩を
すくめてから白色迷彩をコートの上にかぶったまま遠ざかっていく
シス
爆撃機を見つめていた。
﹁そうだね﹂
﹁ところで、姉さん? 少佐と喧嘩しませんでしたね?﹂
﹁するわけないじゃん。こんなに気立ての良い女の子が﹂
けろりとして言葉を返したアリナに、アーッテラは盛大な溜め息
をつくとふたりの客人を伴ってテントへと向かっていくハールトマ
ンの背中を見送った。
破天荒で言うことなど聞きはしないアリナ・エーヴァに参ってい
るらしいが、この大隊指揮官はどこか飄々としているところがアリ
ナ・エーヴァと同じようにつかみ所がない。
﹁少佐﹂
アリナが声を上げた。
﹁⋮⋮うん?﹂
﹁イワンの奴ら、たぶんまだなにか隠してますよ﹂
﹁わかっている﹂
アリナはハールトマンのことを心の底から嫌っているが、それで
も最低限の礼儀は忘れることはないし、決して部隊に無駄な労力を
裂かせる無能者ではない。
ネイティ
﹁ユーティライネン、もしもリュッシャの奴らが良からぬことを考
えているとして、お嬢さんはまだ戦えるか?﹂
﹁当然﹂
即答したアリナがにやりと笑った。
不遜な彼女の青い瞳に、ハールトマンも笑う。
296
そんなふたりのやりとりに、アリナ・エーヴァ・ユーティライネ
ンの副官︱︱ユホ・アーッテラは﹁結局このふたりは似た者同士な
のではないか﹂と思った。
﹁わたしが指揮する部隊は、どんな戦いにだって耐えられる﹂
彼女を﹁魔女﹂と従う部下たちがいればこそアリナ・エーヴァは
どんな戦いにも身を投じていく。そして、だからこそ無理難題とも
思えるような作戦や、過酷な戦闘にも部隊は堪え忍ぶ。
彼女についていけば、必ず勝利をつかみ取れると信じているから。
﹁⋮⋮アーッテラ!﹂
雪の上でアリナが鋭く踵を返しながら声を張り上げた。
﹁はっ﹂
﹁シムナが戻ったらすぐに連絡しろ﹂
簡易テントに戻っていくアリナ・エーヴァの後ろ姿に敬礼を返し
たユホ・アーッテラは、そんな上官の背中を見送ってから軽く首を
振った。
結局のところ、アリナはシモ・ヘイヘのことが心配で仕方がない
のだ。
自分の上官たちのことは﹁素直じゃない﹂などと評価を下すが、
結局、アリナ・エーヴァも﹁素直じゃない﹂のだった。もっとも、
そんな素直ではない彼女のことを信頼している自分も相当毒されて
いる感は否めない。
さすがにコッラー戦線のような陣地戦ではないから、アリナ・エ
ーヴァが指揮テントを構えていると言うことはない。部下に、ヘイ
ヘが戻ったら自分に連絡するようにと伝えてから彼もアリナと同じ
簡易テントへと歩を進めていった。
﹁承知しました、副長﹂
きびきびとした兵士の声に満足して、アーッテラはもう一度だけ
空を見上げてから深く冷たい空気を肺まで吸い込んだ。
もうすぐフィンランドに春が訪れる。
︱︱⋮⋮訪れる春は、泥濘の戦乱か、それとも戦後の平和かどち
297
らだろう。
298
32 シルップ戦闘団
モッティ
二月の末に東レメッティに保持されていた包囲陣は撃滅された。
この頃のフィンランド軍にとっての戦況はそれほど芳しいもので
はなかったし、楽観視できるほど侵攻するソ連軍に対して優勢だっ
たわけでもない。
その更に前︱︱二月十八日。十六世紀からの歴史ある街であるヴ
ィープリ市も二百機を越えるソ連空軍の爆撃機による襲撃を受けて、
激しい空襲によっておもむきのあるカレリアの古き都市の栄光は失
われていった。
市内の電気や水道、ガスなどは止まり、最後まで市内にとどまっ
ていた民間人たちがソ連軍の砲兵部隊の前に避難をせざるをえなか
った。
︱︱過去より偉大なる聖職者ミカエル・アグリコラに守られし中
世の街並みよ⋮⋮!
ロイモラ近郊の完成したばかりの掩蔽壕に移ったアリナは、薄暗
いライトの下で新聞を広げながら親指の爪をかんだ。
﹁⋮⋮なにを苛立っているんです?﹂
昨日、シモ・ヘイヘが戻ってきた。
同じ壕内にいる兵士たちに背中を向けて座り込んでいるアリナは、
背後から小隊長のひとりであるアールニ・ハロネンに声をかけられ
て視線だけを流しやる。
﹁気のせいだよ﹂
﹁そうですか﹂
彼女の素っ気ない言葉に、目線だけを下げたハロネンは金属製の
カップに入ったコーヒーを肩越しに差しだしてから、彼女の目線の
先にある新聞に視線を落とした。
299
歴戦の陸戦員であるアリナ・エーヴァに対して、アールニ・ハロ
ネンは決して声をかけずに背後から近づくことはしない。
そんなことをすれば危険が及ぶのは自分の身にほかならないから
だ。
軽口をたたくかと思えば、おかしなところで口が重い。
彼女のことを決して噂好きの女性たちと同列におくことなどでき
はしない。どこか、女性らしいとは言えない性格は確かに軍人のも
シス
ので、厳格なものを持っている。
第六中隊の隊員たちが﹁姉さん﹂と信奉するアリナ・エーヴァ・
ユーティライネンがこうと決めたら決して口を開かない頑固な性格
だと言うことは知っていたから、アールニ・ハロネンはコーヒーカ
ップを彼女に手渡しただけで、副官のユホ・アーッテラに視線を投
げかける。
そうすればアーッテラは軽く肩をすくめるだけで、手元にある本
に視線を落とした。
意外なことだが、破天荒なアリナ・エーヴァの副官をしているこ
の二十代末の青年は敬虔なクリスチャンだ。もっとも、アリナはア
リナで部下たちがどんな信仰を持っていたとしても口出しするよう
な野暮な性格ではなかったので、自分が信仰に疎くても部下たちの
それをからかったりするようなことはない。
聖書に目を落としているアーッテラは、祈るようにロザリオを握
りしめていた。
彼はなにを祈っているのだろう。
異様な静けさが掩蔽壕の内部を包み込んでいた。
﹁アーッテラ!﹂
アリナの声が響いた。鋭く飛んだその声に、アーッテラが弾かれ
たように立ち上がった。なにごとかと彼女に視線を集めるのは兵士
たちだ。
しかし、アリナは動じない。
﹁⋮⋮はっ﹂
300
﹁地図持ってこい﹂
言いながら立ち上がる。
コートの身頃を併せてボタンをしめた彼女は乱暴に帽子を掴むと
掩蔽壕の入り口へと向かって歩きだした。
扉を出ると、数フィート先に第二大隊指揮官のハールトマンがい
る。
﹁鋭いな、ユーティライネン﹂
﹁⋮⋮それで、なんです?﹂
感心するようなハールトマンの様子に、アリナ・エーヴァは彼の
自分に対する評価がさも不愉快だと言わんばかりの表情で額にかか
る金髪をかき上げながら鼻を鳴らすと、無言で背後に立つユホ・ア
ーッテラに手のひらを差しだした。
彼女のその手に地図を手渡しながら、アーッテラはただ感嘆する
だけだ。
﹁ご託はいりません。なにを企んでるんです?﹂
冷たくも聞こえる彼女の声に、カール・マグヌス・グンナル・エ
ミール・フォン・ハールトマンは喉の奥で静かに笑ってから、アリ
ナの隣に立つと彼女が広げた地図に視線を落とした。
﹁サーリヤルヴィ湖の脇の道路に向けて、イワン共が進撃を開始し
たらしい。おそらくコッラーを攻撃している奴らの別働隊と見てい
いだろう﹂
﹁⋮⋮ふむ﹂
顎に手を当てて考え込んでいる様子の彼女は、男の言葉を待った。
﹁コッラーの戦線から、師団司令部のロイモラに向けて南から北上
している部隊で、何十台もの車両の掩護を受けているらしい﹂
﹁数は?﹂
﹁約一個師団﹂
﹁⋮⋮ほう﹂
短い言葉のやりとりだが、それだけで充分だ。
アリナの部隊は現在師団総司令部付きの予備部隊とされていた。
301
簡単に言えば二ヶ月者激戦を繰り広げてきた部隊に休息を取らせる
ためなのだろうが、彼女自身は本気でそんな言葉を信じることなど
できはしない。
どうせ戦況が逼迫すれば、また同じように歴戦の部隊として激戦
区へ放り込まれるのだ。
﹁要するに?﹂
アリナが問いかけると、ハールトマンが地図から視線を上げて彼
女の青い瞳を覗き込んだ。
﹁三四歩兵連隊と、ゲリラ大隊でシルップ戦闘団を編成して、イワ
ンの一個師団を迎え撃つ﹂
﹁⋮⋮また難儀な作戦ですね﹂
肩をすくめた彼女にハールトマンが唇の端をつり上げた。
﹁自信がないか?﹂
﹁やりましょう⋮⋮?﹂
やるかやらないか。
自信があるか、ないか、と聞かれれば、アリナ・エーヴァはやる
気はあるし、勝つ自信もある。
﹁よし、それだけ聞ければ充分だ﹂
シルップ
シルップ戦闘団。
まさしく﹁木っ端微塵﹂にするための部隊である。
ハールトマンがタバコを唇に咥えると、素早くアリナがそれを取
り上げた。別に禁煙主義でもないだろうに、とハールトマンが見つ
めているとそのタバコを口にくわえたアリナは手早く地図をたたん
でからユホ・アーッテラに放り投げる。
﹁それで、状況開始は?﹂
男の声のように低くはないが、くぐもったアリナの声はどこか妙
タナ・イルタナ
な迫力すら感じさせる。
キュッラ
﹁今夜だ﹂
﹁了解﹂
タバコをくわえたまま、アーッテラを振り返ると彼女は副官の男
302
に耳打ちする。
﹁⋮⋮はっ﹂
彼女の言葉を受けて壕内に踵を返した彼は、小隊長に向かってア
リナの指示を伝えているようだった。
彼女の部隊のまとまりはいつものことだが見事なものだ。
ユホ・アーッテラを見送ったアリナの横顔を見つめたハールトマ
ンは彼女のそんな瞳を見つめている。
﹁なんです?﹂
﹁⋮⋮いい女なのに結婚しないのはもったいないんじゃないのか?﹂
﹁⋮⋮世辞ならいりません﹂
突き放すような彼女の言葉に、ハールトマンが声もなく笑った。
どこまでも武人としてまっすぐな彼女は、その行動は破天荒なも
のの上官たちからは信頼が厚い。
これで口が悪くなく、行動がもう少し常識的ならば文句もないの
だが。
﹁三時間後、隊列を整えて集合だ﹂
雪の深い中の行軍はスキーに頼ることになる。
この深い雪の中を、戦車の掩護を受けてソ連軍は進撃しているら
しい。
つまり、それは年の初めにソ連軍が小康状態を保っている中で装
備を調えていたと言うことだろう。
﹁奴ら、どこまで動けますかね﹂
﹁雪の中なら、進軍しているとは言え、戦車つきじゃそれほど機動
力は望めないだろう﹂
シッシ
ソ連軍との戦い方は、これまで通り同じだ。
︱︱ゲリラ作戦。
日が落ちたばかりの暗がりの中で、アリナ・エーヴァらの部隊は
掩蔽壕の外に整列していた。
これからやることは少数の部隊で一個師団を食い止めなければな
らない。
303
いったいひとりで何人殺せば良いのだろう。
コッラーの戦線と同じ、厳しい状況になるだろうことは容易に想
像がついた。
﹁⋮⋮揃いました﹂
﹁よろしい﹂
アーッテラの言葉にアリナは一同を見渡すと、冷たい空気を深く
吸い込んでからにたりと笑う。
﹁おまえたち、今までと同じように厳しい戦いになるだろう。どこ
までできるかとか、そんな余分なことは考えなくていい。ただ、自
分が生き残ることだけを考えろ。死んだところでイワンしか喜ばん
からな﹂
﹁了解、姉さん!﹂
部下たちが声をそろえて彼女に答えると、アリナ・エーヴァは満
足げに笑うとスキーのストックを雪の上に突き立てる。アリナ・エ
ーヴァは顔色ひとつ変えないが、彼女が危惧していることがひとつ
だけあった。
アリナ・エーヴァの第六中隊を含めた第三四歩兵連隊は陣地戦に
こそ慣れていて、こういったゲリラ戦を伴う行軍は苦手としている。
もちろん、例外としてゲリラ戦を行うこともあるがあくまでも例外
でしかない。
﹁姉さん、大丈夫ですかね﹂
アリナの隣に立つアーッテラが部隊を気遣う声を上げれば、彼女
は前方を睨み付けたままで舌打ちを鳴らす。
﹁わからん﹂
先日、アリナの独断で行った野戦炊事所の襲撃作戦とは訳が違う。
目的地に行って戻ってくる、というわけにはいかないのだ。
行軍は過酷なものだった。
雪の中を六時間を超える進軍をするのだから。数時間を超える頃
には、重い装備を背負った部隊はぐったりと疲れ切っていた。
そんな中でアリナは、横目に自分の中隊を眺めながらやれやれと
304
肩をすくめた。進軍中の部隊はこまめに休憩を挟んでいるが、それ
でも疲労感はぬぐえない。
﹁少佐﹂
小声でハールトマンに、アリナが呼び掛ける。
﹁休みすぎると疲れが募ります。一気に行ったほうが無難ですよ﹂
﹁⋮⋮全員を貴様の体力と一緒にするな﹂
不機嫌なハールトマンの声から察するに、彼も相当疲れているに
違いない。しかし、小休止をとりすぎると疲労感が増すのはまた事
実である。そもそも、ひどい言われようだがアリナが疲れていない
わけではない。
行軍中に小さなトラブルはあったものの、三月五日の午前一時頃
に第四シッシ大隊の宿営地にたどり着いた。
﹁よし、疲れてるだろうがとっととテントを設営しろ。各小隊長に
報告したら休んでいい﹂
アリナがぞんざいな命令を下すと、自分もテントの設営の手伝い
のために雪の中で踵を返した。
ともかく時間がもったいない。
疲労がたまりきっていては、ソ連軍を撃退することもままならな
いだろう。
だから、とアリナ・エーヴァは判断を下す。くだらない報告など
いらないからとっとと休め、と。 305
33 死に神の大鎌
﹁あ、そういえば﹂
ユホ・アーッテラが口を開いたのは翌日の朝だ。
疲労困憊で寝込んでいたアーッテラよりも遅く眠ったはずのアリ
ナ・エーヴァはとっくに起床していた。
彼女の元気さには頭が下がる。
﹁うん?﹂
﹁昇進おめでとうございます﹂
﹁そういえばそうだったっけ。あんまり実感ないから忘れてた﹂
祝いの言葉を告げられて、アリナは苦笑すると小首を傾げてアー
ッテラを見つめた。彼女はコッラーの戦線での戦功によって、中尉
から大尉に昇進した。
もっとも率いているのが第六中隊であるという現実は変わらない
から、彼女にしてみれば﹁実感がない﹂ということになる。
﹁疲れはとれたか?﹂
﹁はい、すっかり、というわけにはいきませんが。大丈夫です﹂
﹁ハールトマン少佐もへろへろだったな﹂
くつくつと人の悪い笑みを浮かべているアリナ・エーヴァに、ユ
ホ・アーッテラは眉尻を下げる。
﹁しかし、こんな状況で大丈夫なんですかね。うちの隊はともかく﹂
シルップ
﹁さてね﹂
木っ端微塵戦闘団︱︱簡単に言うと一個連隊と一個大隊。対する、
ソ連は一個師団である。
要するに四千人対二万人だと考えればわかりやすいだろう。
﹁あれ、本音ですか?﹂
飯盒の中のまずい豆スープをすすっているアリナにユホ・アーッ
テラが視線を上げると、彼女はちらと横目に副官の彼を見つめた。
306
﹁出撃前に言ってたことです﹂
︱︱どこまでできるか、そんなことを考えなくていい。
﹁本音だよ﹂
﹁本当に?﹂
﹁⋮⋮︱︱﹂
追求するアーッテラに、アリナは言葉を返すこともなく飯盒の中
の豆スープを見つめていた。
﹁そうですか﹂
それならいい、とでも言いたげなユホ・アーッテラにアリナは飯
盒に口をつけたままでひとり悟られることもなくひっそりと笑った。
内心を相手に探らせる必要性などない。
彼女の考えを誰も理解しなくてもいいのだ。少なくとも、アリナ・
エーヴァはそう思っていた。
アリナの飯盒がからになったのを確認したアーッテラが、横から
大きな手を彼女の前に差しだした。
﹁片付けてきます﹂
﹁頼むよ﹂
彼女と自分の飯盒を抱えて宿営地の方向へと歩いて行く男の背中
を見送って、アリナは一瞬だけ視線を彷徨わせた。
口を開きかけてから、アリナ・エーヴァはそのまま言葉を飲み込
む。
シス
数秒躊躇している間に何を言おうとしたのか忘れてしまった。
﹁姉さん﹂
まであなたの手駒です﹂
そんな彼女に、ユホ・アーッテラが背中を向けたまま呼び掛けた。
最後の瞬間
キートス
﹁俺は、
﹁⋮⋮ありがとう﹂
互いになにか不吉なものを感じた。
背中を滑り落ちるのは冷たい汗。もしかしたら、互いのどちらか
がこの戦闘で死ぬのかも知れない。そんなろくでもないことを考え
てしまって、アリナはかぶりを振った。
307
︱︱自分はともかくとして、アーッテラを死なせてはならない。
彼は未来のある若者なのだから。
ユホ・アーッテラの背中に優しくほほえんだアリナ・エーヴァは、
そうして目を伏せて、次に上げた時にはいつも通りの顔に戻ってい
る。
ラカスタン・シヌァ
決して誰にも弱みなど見せないし、付け入ることも許さない。
﹁⋮⋮愛してるよ﹂
ぽつりとアリナの声が呟いたその言葉を、アーッテラは聞こえな
いふりをしてその場を立ち去っていく。
おそらく、それは彼に告げたものなどではない。
だからアーッテラは聞こえない振りをする。
そう。
誓ったのだ。
彼女の傍で戦えることに決まったときに。
アリナ・エーヴァ・ユーティライネン︱︱モロッコの恐怖に忠誠
を誓うと。
*
﹁行軍中になにがあったんです?﹂
アールニ・ハロネンが問いかけると、アリナは地図を睨みながら
目を上げもせずに金色の髪の毛を指先でつまみ上げながら息をつい
た。
﹁イワンの偵察部隊が、機関銃中隊から銃を盗んでったんだよ﹂
﹁被害は?﹂
﹁人的被害はないようだけど﹂
言いながらアリナが目を上げる。
青い瞳が大隊指揮所になっているテントに向けられた。
﹁機関銃中隊の中隊長⋮⋮、名前なんだったっけな。忘れたけど。
相当ハールトマンのアホの怒りを買ったらしいよ﹂
308
﹁⋮⋮︱︱そりゃ、災難でしたね﹂
いろんな意味で。
そう告げたハロネンにアリナ・エーヴァは、機関銃中隊の失態に
リュッシャ
対しても、それに対するハールトマンの叱責に対しても特にコメン
トすることなく、別の言葉を口にする。
﹁なにせ物資が足りないからねぇ⋮⋮、ソ連軍にとってはたかが数
丁だろうが、スオミにとっては大被害だ﹂
噂ではフィンランド語で思いつく限りのありとあらゆる罵倒が浴
びせられたらしいというから、さすがにそれには皆が同情した。
﹁そうそう、今日の作戦は中止だそうだよ﹂
﹁了解しました﹂
﹁午後になったらラシ大尉のところの部隊も合流するそうだ。部隊
の連中には、武器の手入れを怠らないよう伝えておけ。いつ命令が
でても動けるように、とな﹂
アリナの言葉に、小隊長一同は﹁はっ﹂と応じてから敬礼をする。
そんな彼らに満足したのか、アリナ・エーヴァは鷹揚に頷いてか
ら、三名の小隊長と副官のアーッテラを見渡してから微笑する。
﹁それで、連中はどんな様子だ?﹂
﹁落ち着いているようですね。ま、昨晩は行軍には相当参ったよう
ですが﹂
なにせ、コッラーの激戦区を二ヶ月の間保持し続けてきた猛者ば
かりだ。落ち着いていなければアリナが直接出向いていって蹴り飛
ばすところだ。
﹁結構。おまえたちも充分休んでいろ。おそらくこの先、戦闘が始
まったら休む暇なんてなくなる。いいな?﹂
それは予感だ。
﹁了解!﹂
中隊長の命令を各小隊に持ち帰る隊長たちを見送って、アリナは
今にも壊れそうな椅子に腰を下ろすと簡易テーブルに肘をついた。
﹁コッラーは激戦だって?﹂
309
﹁⋮⋮そのようです﹂
中隊長に倣って、椅子に腰を下ろしながらユホ・アーッテラが応
じると、彼女は大きな溜め息をついた。
﹁ウオシッキネンの奴、無事だといいが⋮⋮﹂
﹁そうですね﹂ コッラーの戦線に残った中隊長のひとり。
マケ・ウオシッキネンの身をアリナ・エーヴァは案じた。もちろ
ん、一介の兵士だから死んでもいい、というわけではない。しかし、
士官の重要性はまた別だ。
﹁今日、明日で、ほとんどの連中が死ぬかもしれない⋮⋮﹂
感情があまり感じられない彼女の声に、アーッテラは眉を寄せた。
﹁怖いですか?﹂
﹁怖いよ﹂
即答したアリナは、沈痛な面持ちでまるで過去を振り返るような
目をして中空を見つめている。
﹁⋮⋮わたしが、殺したんだ。何人も、部下たちの命を奪った。も
しかしたら、わたしの判断ミスがなければ死ななかったかもしれな
い。わたしが、奴らを守ってやれれば生き残れたかもしれない。い
つも、日が落ちて眠るときになると、死んでいった奴らの顔が頭に
浮かぶ。わたしが、殺したんだって。そして、またわたしが殺すん
だ。戦友たちをわたしの手で、地獄に送らないといけない﹂
無表情に近い彼女の瞳に、副官の男は絶句する。
小隊長や中隊長たちは、前線指揮官であるがゆえにその死に対す
ソルタヴァラ
る多くの責任を負っている。
﹁きっと、生き残って故郷に帰ったら、人殺しってなじられるんだ
ろうね⋮⋮﹂
悲しげに笑う彼女は、人殺しという言葉を突きつけられることに
対して思い悩んでいるわけではない。そんなことはアーッテラには
すぐにわかった。
﹁⋮⋮そんなことは﹂
310
﹁いいんだよ。わたしは、人殺しだ。部下たちの、そしてその家族
の、痛みも悲しみも、苦しみも背負う覚悟はできている﹂
それが指揮官としての覚悟。
まるで自分が悪者ででもあるかのようにわざとらしく破天荒に振
る舞う彼女の、余りにも悲壮な覚悟に、アーッテラは愕然とした。
たかが中隊長であるというだけの理由で、どうしてそんなにも大
勢の感情を背負わなければならないというのだろう。静かに響いた
声は、決してテントの外にこぼれ出すことはなく、その言葉の重さ
はアーッテラ以外には届かない。
彼女は、悲しいほどに自分の役目を理解していた。
前線で誰よりも勇猛に、旗を翻すことこそが自分に与えられた役
割だと知っている。
簡易テーブルの脇に立てかけられた銃を手にした彼女は、アーッ
テラを見ることもなく銃の手入れをはじめる。
部下に武器の手入れを怠らないように命じる彼女自身も、そこに
ついては几帳面な性格だ。そして、だからこそアリナ・エーヴァ・
ユーティライネンは激戦をくぐり抜けて来れた。
敵は二万。
これにくわえて戦車つきだ。
もちろん深い雪の中をまともに進撃してこれるとは思わないがそ
れでも充分に脅威だった。
次の命令を待つアリナが、徹底して部下たちに準備をさせている
頃、大隊司令部に連隊本部から無線での連絡が入った。
第二六戦隊に属する航空偵察によればソ連軍は現在、増援を受け
て陣地に潜り込んでいるらしかった。要するに、コッラーとは逆の
陣地戦だ。
﹁攻撃開始は?﹂
アリナ・エーヴァがハールトマンの指揮テントで問いかけた。
﹁明日の〇五三〇﹂
﹁承知した﹂
311
上官に対してぞんざいな言葉使いをするアリナに、しかし、ハー
ルトマンはすでに茶々をいれたりする余裕などない。第五中隊のト
イヴィアイネンも含めて他の中隊長たちも厳しい眼差しで地図を見
つめている。
全員がわかっているのだ。
明日の明け方から行われる戦闘がどれほど厳しいものになるのか
ということを。
第三四連隊第二大隊の﹁英雄﹂とも呼べるアリナ・エーヴァ・ユ
ーティライネン大尉。彼女の存在は他の中隊長にとっても非常に大
きなもので、彼女の存在が彼らの心にゆとりをつくっていた。
モロッコの恐怖がいれば、大丈夫だと。
﹁ユーティライネン﹂
﹁はい﹂
﹁⋮⋮死ぬなよ﹂
ハールトマンの言葉に、アリナは薄い笑みをたたえると踵を返し
ながら副官を連れて指揮テントを後にする。
﹁ま、死ぬつもりはないんで﹂
肩の上に軽く片手を上げて、ひらりと手を振った彼女の泰然とし
スオミ
た歩調は最前線にいる兵士のそれとは思えない。
﹁イワン共を、フィンランドの堆肥にしてやりましょう﹂
そして、最後の地獄が幕を開ける⋮⋮︱︱。
312
34 失われるもの
ヴィサ・レフトはカレリアの戦線の補充部隊を率いて復帰したら
しい。
ミーカ・ヴァーラニエミはキティラ、レメッティ方面で相変わら
ず死闘を続けている。そういった噂程度の情報はアリナの元にも流
しろもの
れてきていたが、いかんせん、彼女の目の前にある戦場はかなり逼
迫している。
はっきり言って、やる前からうんざりするような代物だ。
けれども彼女は彼女自身の上官たちに告げた。
不可能はない、と。
まだ辺りを夜のとばりが支配している時刻。アリナは雪を踏みし
めてテントを出ると腰の後ろに吊したククリを片手で抜いた。
大振りなナイフ。
今まで彼女と共に戦場を駆け抜けてきたそれ。
星空へとその刃をかざしてアリナは目を細める。
凶暴に湾曲するそのナイフは、かつてまだアリナ・エーヴァが若
く怖い者知らずだった頃を思い出させた。
何も知らず、何にも恐れず。ただ、泥沼の戦場に踏み込んだ過去
の記憶。
﹁⋮⋮ヴィシュヌ﹂
ぽつりとアリナが呟いた。
﹁この戦いが終わったら、あんたはわたしを笑って出迎えてくれる
んだろう⋮⋮?﹂
ナイフに語りかける。
おそらく、この日の午前五時半に幕を開ける戦いは最後の激戦に
シス
なるだろう。
﹁⋮⋮姉さん﹂
313
声に振り返ると分隊長に任命したシモ・ヘイヘがそこに立ってい
る。
静かな彼の声。
ヴィシュヌよりは上背が高いが、ヘイヘは短身痩躯だ。
﹁シムナか﹂
﹁⋮⋮はっ﹂
応じた彼女に踵を合わせて姿勢を正したシモ・ヘイヘがじっと思
慮深い眼差しで彼女を見つめた。
﹁どうした?﹂
あと一時間ほどで攻撃が開始される。
﹁いえ、誰も。あなたの死など望んでいないと申し上げに来ただけ
です﹂
﹁⋮⋮は?﹂
唐突に告げられて、アリナ・エーヴァはぽかんと口を開けて間の
抜けた声を上げる。そうして自分よりずっと身長の低い男を見つめ
直してから、何度か口を開いては閉めてを繰り返した。
その後、軽快な笑い声が暁の闇の中へと響いた。
汚れた手袋をはめた手のひらで両目を覆って笑っている彼女は、
しばらくしてから笑いをおさめて和らいだ瞳で男を見つめた。
﹁突然なにかと思ったよ﹂
﹁⋮⋮死ぬつもりなどない、とおっしゃられるでしょうが。姉さん
は危なっかしすぎます。自重してください﹂
自分と年齢が余り変わらない男のたしなめる言葉に、彼女は優し
げに笑ってから手にしていたナイフを腰に戻すと軽く頭を左右に振
ってから頭上の空を振り仰いだ。
﹁わたしが死ぬときは、ヴィシュヌがわたしを殺すときだ。心配い
らない﹂
﹁そういうのを自殺願望だって言ってるんです﹂
つけつけと苦言のように告げるシモ・ヘイヘにアリナ・エーヴァ
はわずかに首を傾けてから、足元におろしていた狙撃銃を片手で引
314
っ張り上げてから自分の肩に担いだ。
﹁大丈夫。わたしは死なない﹂
それは確信。
﹁⋮⋮大丈夫﹂
*
全部隊が配置についた。
もっとも、全部隊とは言ってもこの局地的戦闘に配置されたフィ
ンランド軍は四千人程度のごく小規模な戦闘団だ。
キティラ方面に第十三師団。
そしてクフモ方面を第九師団が。
カレリア方面はカレリア地峡軍が戦線を保持している。
アリナ・エーヴァらの第十二師団も、第十三師団を掩護しつつぎ
りぎりの戦いを繰り広げている。
トイヴィアイネンとアリナ・エーヴァ・ユーティライネンの部隊
は、膠着した状況に陥った場合に遊撃部隊として回される予備部隊
として扱われていた。
いつ、どこでどんな指令があってもすぐに動けるように。
彼女らは神経を張り詰める。
一九四〇年三月六日︱︱午前五時三〇分。
フィンランド国防陸軍第四軍第十二師団の最後の戦いが始められ
た。
﹁トイヴィアイネン﹂
自分の隣に立っている第五中隊の生真面目な男に彼女が声をかけ
ると、寡黙な第五中隊の中隊長はちらとアリナの横顔に視線を放つ。
﹁⋮⋮イワンの動き、どう思う?﹂
﹁おそらく陽動の一端だろう﹂
﹁わかっていてもこちらに戦力を裂かざる得なくなる、厄介なもん
だ﹂
315
第九師団、第一三師団、そして第十二師団がカレリア地峡軍の援
軍として駆けつけられれば、フィンランド軍にとって大きな戦力に
なるはずなのだが、現状そうはいかない。
時刻は刻一刻と過ぎていく。
アリナは時々コートのポケットから時計を取り出して時刻を確認
していた。
びりびりと冷たい空気の中で砲撃の音と銃撃の音、そして悲鳴が
重なって聞こえてくる。
﹁カレリアの奴らも無事だといいが⋮⋮﹂
トイヴィアイネンの言葉にアリナは頷きつつ、ハールトマン少佐
の伝令の下士官が早足に近づいてくるのが見えて、彼女はそちらを
振り返った。
﹁ユーティライネン大尉﹂
﹁うん?﹂
﹁ハールトマン少佐がお呼びです﹂
﹁来たか﹂
独白するようにつぶやいたアリナは、肩越しに僚友であるトイヴ
ィアイネンを見やると、彼は無言で軽く会釈した。
﹁幸運を﹂
聞こえたのは、アリナが遠ざかり、ほとんど声が届くか届かない
かという距離になってからだ。
わかっている。
もう物資もない。
弾薬も、人員も、なにもかも⋮⋮!
忌々しいことにそれが現実だった。
彼女の中隊が受けた命令は、敵の中央︱︱主力部隊を谷を挟んで
攻撃し、そうして押し返すことだった。
ほどなく開始された状況に、アリナは冷静な眼差しを前方に向け
つつ部下たちを見守っていた。コッラーの戦線を保持し続けたこの
猛者たちは、冷静沈着で誰も自暴自棄に陥ったりすることなどない。
316
そしてアリナ・エーヴァの命令に忠実に付き従ってくる。
まさに理想の兵隊たちだ。
狙撃兵たちは襲い来る赤軍の兵士たちを正確に一発の弾丸で仕留
めていく。兵士たちにももう後がないことはわかっているのだ。
だから、彼らは狙いを外さない。
﹁狙撃に気をつけてください﹂
ユホ・アーッテラに言われてアリナは、ヘルメットをしたままで
肩をすくめてみせた。士官であることを示すクロスストラップは、
彼女が遠目にも指揮官であることがすぐにわかる代物だ。
﹁わかってるよ﹂
狙撃と砲撃でじりじりと押し返し、ソ連軍は湖岸の尾根に向かっ
て後退していく。そこをさらに狙いを定めて砲兵部隊がたたきつぶ
すのだ。
﹁⋮⋮妙だな﹂
歴戦のアリナの嗅覚が、ふとおかしなものをかぎ取った。
﹁アーッテラ、全隊に伝令。攻撃をゆるめずに五五〇ヤード後退し
ろ﹂
顎に指先を当てたまま考え込んだ、彼女はぎろりと強い眼差しで
前方のソ連軍を睨み付けている。
堂々と立っているその姿は危うく的にでもされそうだ。
﹁いいんですか? 司令部の命令は?﹂
﹁かまわん﹂
ヒュルヒュルと砲弾の飛び交う音が聞こえる中、彼女は狙撃銃を
手にすると大股に歩きだす。
最前線のさらに最も戦闘の激しい場所まできて、腰を屈めると雪
の中に体を伏せた。
正確に狙いをつけて、数発の弾丸を撃ち込むと彼女のスコープの
先で青い帽子をかぶった将校が雪の中に倒れるのを確認した。
﹁後退命令を全隊に通達完了です、姉さん﹂
﹁よし、迎撃しつつそれと悟られないように後退する﹂
317
そう告げたアリナは素早く雪の中から体を引き起こすと、視界の
端にひとりの伝令の兵士が見えたことにもう一度眉を寄せた。
﹁なにごとだ﹂
厳しいアリナの声に、伝令はぎくりと肩を揺らして青い瞳に射す
くめられたように固まったがそれも一瞬で、すぐに我に返ると彼女
に告げる。
﹁強力な敵の支援部隊が接近中です﹂
﹁⋮⋮くそったれ﹂
アリナは悪態をつくと、踵を返して次の目的地へと向かっていく
伝令に目も暮れずにユホ・アーッテラを振り返る。
﹁アーッテラ、現状!﹂
叫ぶような声に、男は目玉だけを動かして彼女を見た。
﹁我々が後退すると同時にソ連軍が攻撃を開始しています。両側面
から挟撃しこれを攻撃しておりますが⋮⋮﹂
﹁よし、今から反撃に移る。総員着剣し白兵戦に備え、突出した部
隊をたたきつぶすぞ﹂
﹁⋮⋮︱︱了解﹂
大隊司令部からは白兵戦の命令などでていない。
それでもアリナはやれと言うのだ。わずかに逡巡するが、アリナ・
エーヴァが選択すると言うことは、おそらく勝算があるに違いない。
﹁総攻撃は〇九〇〇。攻撃し、敵が後退したら、こちらも深追いせ
ずに後退する﹂
小隊長らに命令を下したアリナ・エーヴァに、三人の男たちは敬
礼をすると各持ち場を指揮するために立ち去っていく。
おそらく、それが後退する最後のチャンスになるだろう。
もう後などない。
ソ連軍の無限にも思える砲兵部隊の餌食になったら一巻の終わり
だ。
つちくれ
だからそうなる前に蹴りをつけなければ。
砲弾と土塊の飛び交う中、アリナはきびきびと命令を下しながら、
318
各部隊から入ってくる詳細な報告を逐一漏らさず把握する。
まるで不吉な魔物のように蠢く最前線の状況を余さず理解しなが
ら彼女は攻撃と後退の時期を覗っていた。
ソ連軍にそうとは悟られずゆっくりと前進しながら、アリナは視
界の向こうにソ連軍の歩兵を視認した。
時刻は午前八時五七分。
ゆっくりと時計の秒針が動いていく。
銃と、ナイフに触れたアリナの手に力がこもる。
午前九時⋮⋮。
﹁総員突撃⋮⋮っ!﹂
アリナの命令が第六中隊を駆け巡った。長い腕が前方を指し示す。
ウラー! というソ連軍兵士の雄叫びが聞こえる。
銃とナイフ、機関短銃を抱えてソ連の攻撃部隊を迎撃する中隊の
中央にはまるで泥まみれの女神のように、アリナがいる。
中隊長自ら鬼神のように戦いを繰り広げる彼女を補佐するのはや
はり、卓越した戦闘能力を持つユホ・アーッテラだ。迫り来るソ連
軍を相手に一騎当千の強さを見せつける第六中隊の迎撃に、敵部隊
の攻撃がわずかにゆるんだ。アリナはその一瞬を見逃さない。ほん
のわずかな隙を見誤らずにアリナ・エーヴァは伝令の兵士を呼びつ
けると部隊に後退命令を出す。
おそらく、これ以上は部隊が耐えきれない。
反撃を効果的に加えながら確実に後退していくが、それでも中隊
の死者はもう数え切れない。しかし、そんなことに気を遣っている
暇などなかった。
自分ひとりが生き残るだけで精一杯なのだ。
アリナは辺りを見回して、若い兵士が苦痛に呻いているのを認め
ると乱暴にその腕を引っ張り上げて立ち上がらせる。
﹁走れ! 死にたくなければ!﹂
立ち止まってはならない。
及び腰になってもいい。
319
とにかく走れ、と彼女は兵士に命じる。
彼女自身も戦闘による傷を受けていた。しかし、脳内でアドレナ
リンが分泌されているためか痛みは感じない。
﹁姉さ⋮⋮﹂
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で青年は立ち上がると彼女に
命じられた通り走り出す。
痛みなど感じていないかもしれない。
ひとりでも多く生かして帰さなければならない。
義務感にも似た思いでアリナは迫り来るソ連兵をナイフでたたき
つぶした。
噴水のように血が噴き出して、それに目も暮れず彼女は走る足を
止めない。
大隊司令部はどうなったのだろう。
頭の片隅でそんなことを思ったがそれも一瞬だった。
﹁姉さん、全部隊に大隊司令部から後退命令です!﹂
ユホ・アーッテラの叫ぶような声に、アリナ・エーヴァは舌打ち
を鳴らして怒鳴りつけた。
﹁遅いっ!﹂
損害が増してからでは遅いのだ。
森の中は死体だらけだった。
そんなとき、彼女の視界の片隅で不吉なものが見えた。
﹁⋮⋮シムナっ!﹂
まさにたった今、シモ・ヘイヘの顔半分を弾丸が撃ち抜いたその
瞬間だった⋮⋮。
シス
頭の中が真っ白に染まる。
﹁⋮⋮姉さん﹂
見えたのだろうか? 重傷の彼が?
ヘイヘが自分を呼ぶ。
﹁衛生兵!﹂
雪の中に崩れ落ちていくシモ・ヘイヘと、そしてとどめを刺そう
320
とするソ連軍の兵士。アリナは無我夢中でナイフを抜いた。正確に
ヘイヘを狙う敵兵にナイフを投げつけて息の根を止めると、銃弾の
雨の中彼女は彼に走り寄ると、小柄な狙撃手を抱き起こす。
﹁申し訳ありません⋮⋮﹂
薄れ行く意識の中で、シモ・ヘイヘはアリナに抱き起こされなが
らそう告げたのだった⋮⋮。
321
35 墜落
衛生兵に引きずられるようにして、重傷をおった狙撃手︱︱シモ・
ヘイヘが後方へとつれられていく。その様子を見送ってからアリナ・
エーヴァは意識を切り替えた。
今は、たったひとりに意識を捕らわれているわけにはいかない。
彼のような犠牲者を減らすためにも、戦い抜かなければならない。
それがアリナ・エーヴァ・ユーティライネンに課せられた義務だ。
どんなに苦難の状況であったとしても彼女は決して諦めたりはしな
い。
倒れかける味方を叱咤し、足が止まる兵士たちを怒鳴りつける。
ヘルメットの下の金色の髪を振り乱して、声が枯れるほど叫ぶ彼
女は銃を振り上げて号令をかける。
進め、怯むな、と。
味方に最も被害が大きくなるのは撤退の時だ。敵に背中を向けれ
ば、被害はより大きくなる。アリナもモシン・ナガンを構えて時折
立ち止まり正確にソ連兵士の頭を射貫いていく。
そもそも自分は狙撃兵などではないはずだ。
ひどく頭の芯が冴えているような気がして、彼女は軽く頭を振っ
た。
まるで、まわりにある全ての事象がスローモーションのように展
開されていく。敵の動きも、弾道も正確に﹁見え﹂た。
いけない⋮⋮。
アリナ・エーヴァは内心でひとりごちると、強く自分の頬をひっ
ぱたいた。
同時に彼女の意識は正気へと引き戻される。
﹁どうしたんです?﹂
自分の隣で戦っていたユホ・アーッテラが問いかけるとアリナは、
322
再び銃を構え直した。
﹁なんでもない﹂
つぶやいて彼女は眉間に皺を寄せる。
﹁あの感覚﹂は、かつて彼女がフランス外人部隊にいたときに感
じたものだ。まるで襲い来るものの全てが自分の範疇にあって、な
んでもできるような気がしたのは彼女の若かりし時だ。
それはそう⋮⋮。
ヴィシュヌと共に戦った最後の戦いだ。
全ての音がやんで、全ての動きが止まって見えた。
まるで武術の達人にでもなった気がするような、そんな静寂と静
止した世界。そんな静かな世界でかつて彼女は﹁なんでもできる﹂
と勘違いをして無鉄砲に飛び出した。
銃とナイフをもって、がむしゃらに戦っていた過去。
けれども、静かな世界の先にあるのは勝利ではない。
確実な滅びだけ。
今はそんなものに捕らわれるわけにはいかない。なぜなら、当時
の彼女であればいざしらず、今は多くの部下たちの命を握っている
のだ。
第一二師団第三四連隊第二大隊第六中隊は、アリナの確実な指揮
の下に機動防御を実践して退却していく。
迫り来るソ連軍は目と鼻の先だが、それでもアリナ・エーヴァ・
ユーティライネンも、彼女の部下であるユホ・アーッテラ、そして
アールニ・ハロネンら小隊長たちも冷静さを失わない。
ウラーというかけ声と共に突撃してくるソ連兵士を仕留めながら、
アリナは無表情に引き金を引く。
部隊の誰もが黙々と自分の仕事をこなしていた。
引き金をひいて、砲弾や弾丸から自分の体をかばい、そして運悪
く被弾した仲間を横目にそれでも決して諦めない。
彼らを率いるモロッコの恐怖と呼ばれる魔女︱︱アリナ・エーヴ
ァが諦めたりしないからだ。
323
ソ連軍の大軍にじりじりと後退しているように見せながら、実は
アリナ・エーヴァは冷静に部隊に指示を出している。
肩をかすめた銃弾にも意識を傾けることもしなければ、また、彼
女は肉薄する赤軍兵士が銃剣を振り上げたのをかまうこともせずに
ナイフを構える。すでに彼女自身も無傷というわけにはいかず、全
身のあちこちに傷を受けている。
敵に打撃を与えつつ、その攻撃がゆるむ一瞬を見逃さずに彼女は
指示を下す。その瞬間に大きく後退する。中隊の部下たちの安全を
最も重視しながら、アリナは常にユホ・アーッテラと共に最前線に
あって、ソ連軍の部隊の動きをよく観察していた。
砲弾が飛び交う中、ユホ・アーッテラがアリナに耳打ちした。
﹁もう、シルップ戦闘団の砲兵部隊には砲弾が一発もないそうです﹂
﹁そうだろうね﹂
アーッテラの報告を苦々しく聞きながら、アリナは舌打ちすると
中隊直属の分隊に所属する兵士を呼びつける。
もうこんな混戦の中で無線など役に立たない。
すでに彼女の直属の分隊は半数に減っていた。
ヘイヘは重傷を負い、後方に運ばれた。そして数名が戦死してい
る。
なによりこの混乱の中で、小隊長たちと連絡を取ることなど無謀
にも等しい。伝令に兵士をやったとして、彼らも死ぬかも知れない。
つまるところ、そんな危険な選択はできるわけがないということだ。
土と氷、そして雪が舞う。
砲弾が炸裂して木々の枝が折れて降ってくる。木陰や岩陰に潜み
ながら後退するフィンランド軍はやがて夕方が近づく時刻になって
ようやくソ連軍の攻勢が止まりアリナらは激しい砲撃によってむき
出しになった地面にやっとの思いで尻をついた。
アリナの中隊は、この日の戦闘で約半分にまで減らされていた。
もしくは捕虜になった者もいるかもしれない。
それでも、どうすることもできなかった。
324
明日、もしもこれ以上この戦線を維持しろと命令されたら、第三
四連隊を含めたアリナらの部隊は全滅するだろう。
武器も、兵士もいない最悪の戦場で彼らは文字通り身ぐるみ剥が
されて敵の前に放り出されているのだ。
時折、散発的な射撃の音が聞こえてくる。
まだ小規模な戦闘があちこちで続いていた。
﹁⋮⋮ハールトマンのところに行ってくるよ﹂
一日の戦闘に疲れ切ったアリナが腰を上げて、歩きだす。
銃を杖代わりにするように地面に付きながら指揮テントへと向け
て歩いて行く彼女のヘルメットは激しい戦闘でどこかへ飛んでしま
ったのか今はなかった。
その瞬間だった。
渇いた銃声が響いたと思ったら、アリナの側頭部から血が噴き出
した。
頭蓋骨に重い衝撃を受けたのか女性指揮官がそのまま倒れ込んで
いく。
﹁姉さん⋮⋮っ!﹂
地面に顔面から突っ込むかと思われた時、若い兵士が思わずアリ
ナの体を支えて、衛生兵を金切り声で呼んだ。
暗転した意識が暗がりに落ちていく。
部下たちの声がアリナの意識の淵に聞こえた。
﹁⋮⋮大丈夫だよ﹂
わたしのことは心配いらない。わたしの心配なんてする必要など
ない。
だから、大丈夫⋮⋮。
伝えなければならない、その一心でアリナ・エーヴァは意識を現
実へと引き戻すと、自分を支える男の腕を強く掴み占めた。
その余りの強さに、兵士が目を剥いて彼女を見つめる。
しかし、今にも遠のきそうな意識の中でアリナは部下のそんな様
子にかまっている余裕がない。
325
﹁姉さんっ!﹂
﹁⋮⋮アーッテラ﹂
全幅の信頼を寄せる副官の青年の名前を彼女は呼ぶ。
差し伸べられた腕にしがみつくようにして体を起こしながら、彼
女は両膝にぐっと力をいれると立ち上がった。
痛みは感じない。
目の前が見えない。
ただ、ぬるりとした感触が頭の上から首筋へと伝っていくのがわ
かる。
自分に与えられた役目をこなさなければ、という思いで必死だっ
た。奥歯を一度強く噛んで彼女は口を開いた。
﹁アーッテラ、悪い。退却を率いてやることができないかもしれな
い。もしも自分で部隊を率いるのが、難しいと思ったら、トイヴィ
アイネン中尉に助言を請え。あと、大隊長のハールトマンもアホで
女たらしだが頼りになる⋮⋮﹂
必死の思いで言葉を紡ぎながら、アリナは男の支える腕に必死で
縋る。
そして同時にもう一度、パンと渇いた音を彼女は聞いた気がした。
狙撃だから音など聞こえているわけがない。けれど、体に感じたの
は衝撃だけだ。
痛みも、熱さもわからない。
体の均衡を失って、アリナは目の前の男︱︱ユホ・アーッテラの
腕の中に崩れ落ちた。
自分が死んではいけない。もしも、自分が死ねば次に狙われるの
は、副官のアーッテラ、そして小隊長たちだろう。
だから、自分が的になるためにも、死ぬわけにはいかない。
狙いは指揮官。
﹁狙撃兵だ!﹂
﹁探せ! 部隊が全滅するぞ!﹂
狙撃の主はおそらく、腕の良い狙撃兵だろう。
326
敵ながら最初に指揮官を狙うのは良い判断だ。
けれど、自分が倒れては部下たちが危険にさらされる。倒れては
いけないと、思いながらも彼女の部下である味方の狙撃兵たちが、
同時に銃を片手に周囲を警戒し出すのを感じて、今度こそアリナは
アンテークスィ
完全に暗闇に飲み込まれていった。
﹁⋮⋮ごめん﹂
それから何度かアリナは目を覚ました。
虚ろな頭で必死に事態を把握しながら、彼女は傍らにいる男に指
示を下す。
衛生兵にたびたびのように無茶をするなと叱咤されながら、それ
でも尚、彼女は中隊の指揮を執り続けた。
それが自分の役目だと、そう信じて。
意識を失っては、再び浮上する意識の淵でアリナは彼女の元に届
けられる状況を分析する。
﹁いい加減にして、後方へ下がれ!﹂
大隊長のハールトマンに怒鳴りつけられはしたものの、このとき
のアリナにはほとんど聞こえてなどいない。
最後にアリナ・エーヴァが覚えているのは、戦死した部下を回収
しようとして駆け出そうとした兵士たちだ。
﹁行くな! もう無理だ!﹂
目と鼻の先にソ連兵が迫っている。
死んだ仲間の装備を略奪するソ連兵たちはちはまるでハイエナの
ようだった。
ユホ・アーッテラが部下たちに制止の声を上げて、撤退を指示し
ている。
そうして彼らは安全なロイモラの師団司令部まで撤退をしたのだ。
ざわざわと声が聞こえる。
アリナ・エーヴァはぼんやりとする頭でそのざわめきに意識を傾
327
けた。
そういえば、何度か朦朧とした意識を取り戻したような気もする。
ただ、そのときは頭が重たくて、体が動かなくて、意識が浮上しか
けるたびに何度となく暗闇の奥底から伸びる長い腕に捕らわれて、
再び眠りの淵へと引きずり込まれた。
覚えているのは途切れがちの記憶だ。
いつも傍らで、ユホ・アーッテラが彼女に戦況を報告していた。
彼の的確な報告を聞きながら、彼女は虚ろな意識で部隊の指揮を
とった。熱さも、寒さも、痛みもわからない。
そんな中で、ただ報告を聞いて自分の頭の中で戦況を判断する。
最後の最後で、ハールトマンの怒鳴り声も聞いたような気がする
が、彼女が覚えているのはアーッテラの報告だけだ。
︱︱うるさい。
アリナは思いながら瞼を上げる。
﹁⋮⋮姉さん﹂
﹁イッル⋮⋮?﹂
声が掠れた。
金色の髪の、青い瞳の、そして白皙の肌を持つ優しげな眼差しの
青年。
腕を上げようとしたが失敗した。
体がまるで鉛のように重くて動かない。
﹁ずっと意識不明だったんだ﹂
銃撃を受けただけだろうに⋮⋮。アリナが自嘲するように唇の端
をつり上げようとするが、まるで筋肉が硬直したように動かない。
おそらく、エイノ・イルマリの言う﹁ずっと﹂というのは、彼女
が意識を完全に失ってからのことだろう。けれども日付の感覚など
当になくなっていた彼女には、いつ自分が倒れたのかもわからない。
﹁傷が原因の熱がなかなかひかなくて、ずっと昏睡状態だったんだ﹂
動かない首をなんとか振りながら、彼女は自分のベッドの周りに
いる男たちを見やる。誰も彼も良い体格をしている男共だ。
328
他の負傷兵のベッドの周りにいるのは可愛らしい女性であったり、
美しい婦人であったりすると言うのに、自分の周りはどうしてこう
も色気がないのだろう。
皮肉げに考えていると、見慣れない男に視線が止まる。年齢は、
彼女よりもいくつか年下だろう。
﹁はじめまして、エイノ・アンテロ・ルーッカネン飛行大尉です。
ユーティライネン大尉﹂
﹁俺の上官だよ、姉さん﹂
﹁そ⋮⋮﹂
応じようとしても声が出ない。
長い睫毛を伏せてからひりついた喉に激しく咳き込んだ彼女は、
ベッドの中で身もだえるように体をよじる。
まるで全身が自分のものではないかのようだ。
そして咳がおさまってからアリナは改めて自分のベッドを見下ろ
している男たちを確認した。
副官ユホ・アーッテラ少尉と、友人のミーカ・ヴァーラニミエ大
尉、そしてヴィサ・レフト中尉と弟のエイノ・イルマリ・ユーティ
ライネンとその上官、エイノ・アンテロ・ルーッカネン大尉。
﹁寝てろ、クソアマ﹂
ぼそりとミーカ・ヴァーラニミエが呟いた。
﹁貴様がそんなんじゃ、張り合いがない。とっとと五体満足の貴様
に戻れ﹂
荒っぽい男の言葉。
アリナは彼の声に唇の端を痙攣させるように笑うと、自分のもの
ではないような腕を必死の思いで上げた。
最前線でオルガン銃を運んだ時よりも体が重い。
こんな感覚はフランス外人部隊にいた時以来だ。
おそらく、狙撃を受けたのは最低二発。
一発目で頭をやられた。二発目はわからない。
しかし、零下の世界で傷を負うというのはへたをすれば命に関わ
329
る。
ようやく四インチほどあげた彼女の手を、エイノ・イルマリがそ
っと包み込んだ。
﹁戦争は終わったんだ⋮⋮﹂
だから、もう眠っていても誰もあなたを咎めたりはしないから。
ウオタ
ゆっくり休んでほしいと弟が告げる。
﹁⋮⋮おやすみ﹂
ヴィサ・レフトの声が聞こえた。
暖かい弟の手のひらの感触を感じながら、アリナはそうして眠り
の彼方へと失墜していった。
もう、泥沼の戦争は終わったのだ、と。
聞かなければいけないことはたくさんある。だから眠ってはいけ
ないと思うのに、体が言うことを聞かない。
自分が狙撃された後、どうなったのか、とか。
シムナはどうしたのか、とか。
コッラーの戦線は結局どうなったのかとか⋮⋮。
ヒューヴァー・ウオタ
聞きたいことは山ほどあった。
﹁おやすみなさい﹂
﹁アーッテラ⋮⋮﹂
あなた
眠りの魔物に引きずり込まれながら、彼女は忠実な副官の名前を
無意識に呼んだ。
︱︱結局、わたしはヴィシュヌに笑ってもらえないのだ⋮⋮。ヴ
ィシュヌが笑ってくれないのは、わたしが多くの戦友を見捨てたせ
いなのだろうか。わたしが守り切れなかったから、あなたは笑って
くれないのだろうか。
シス
ただ、深く深く様々な思いに絡め取られるようにして、そうして
彼女は墜落した。
﹁ここにいます、姉さん﹂
330
36 モスクワ講和条約
第三四歩兵連隊第六中隊に陣地戦をやらせれば、鉄壁の要塞のよ
うであり、攻勢に出れば全ての守りを粉砕する鋭い矛のようだ。
その部隊は柔軟に形を変えて、敵の攻撃をいなし、防御を巧みに
打ち破る。
ソ連軍をして、たった一個中隊に戦力を裂かせなければならない
程に、彼らの部隊は勇猛果敢な強敵だった。
その部隊の中心人物とも言える指揮官が悪いことに凶弾に倒れた。
幸い、彼女は今すぐ命に関わる状況ではないらしい。しかし、胸
に二発、頭部に一発の銃弾を受けている上、全身が白兵戦を繰り広
げた結果傷だらけで放っておけば命に関わることは目に見えている。
意識を完全に失う最後の瞬間まで、中隊の指揮を執り続けたアリ
ナ・エーヴァは、結局最終的には衛生兵の判断によってソリにのせ
られて、後方の病院へと送られることになった。
第六中隊のその後の指揮は、それまでの三ヶ月、中隊長のアリナ・
エーヴァ・ユーティライネンを補佐し続けたユホ・アーッテラがそ
のまま引き継いだ。
もっとも、引き継いだとはいっても、停戦の発効までのほんの数
時間である。
驚くべきことに、アリナは狙撃を受けた重傷でありながら、何度
となく意識を失いかけながら正気を保ち、更に中隊の指揮を執り続
けたのである。
﹁⋮⋮ユーティライネンの愛弟子、か﹂
独断で暴走しがちなアリナ・エーヴァを支えていたユホ・アーッ
テラ少尉は、二十代だが冷静沈着で彼女の補佐としては理想的な青
年だった。
三月六日の日が暮れた頃、第二大隊は大きな損害を被り、連隊司
331
令部から撤退命令を受けてその日の夜の内に撤退することになった。
今までの作戦で、彼ら第二大隊が命令を遂行できなかったのはこれ
が初めての経験だった。
それこそ、昨年の十一月から開戦してから初めてのことだ。
それほどまで彼らはコッラーの戦線で獅子奮迅の戦いを演じきっ
た。
そんな歴戦の猛者たちが、撤退の行軍の中でぐったりと疲れ切っ
ている。そして、そんな兵士たちを指揮官代理として仕切っている
アーッテラの顔色ももちろん良くはない。
﹁副長、大丈夫ですか?﹂
﹁⋮⋮大丈夫だ﹂
小隊長のひとり、アールニ・ハロネンが気遣うようにアーッテラ
に声をかけると、半分に減ってしまった中隊の面々を見渡してから
肩を落とした。
部下の数人が、上官が丸まっているそりをひいている。
もうアリナは自ら動けるような状況にはないにもかかわらず、時
折意識を取り戻しては、部下たちを叱咤激励して指示を下し続けた。
速く彼女を病院に運ばなければ、感染症で重大な病気になるだろ
う。
一部の兵士たちの行方が、混戦のどさくさでわからなくなってい
る。
重傷を負っても味方に回収された者はまだいい。迫り来るソ連軍
に連れて行くこともままならず、やむなくそのまま放置された者も
いた。
わかっている死者は二三人、行方不明者が十八人。
重傷者が中隊長のアリナ・エーヴァ・ユーティライネンを含めて
十九人。
ひどい被害だった。
激戦の中を苦心してロイモラまで撤退した彼らはすでに戦闘能力
を失った部隊で、弾薬すらない状況では部隊の再編は骨が折れた。
332
一方、第十二師団司令部は、戦闘可能な部隊をコッラーの戦線に
集結させつつあったが、シルップ戦闘団として消耗しきった第三十
四歩兵連隊は、すでに戦闘能力を完全に喪失していた。
どれほど歴戦の強者たちがそろっていたとしても、不可能なもの
は不可能なのだ。
そうして、ロイモラに運ばれた彼女は、部下たちが抱きかかえる
腕の中で完全に意識を飛ばしたのだった。
そこまで話しを聞き終えたアリナ・エーヴァは上半身をベッドに
起こしたままで窓の外を見つめていた。
﹁⋮⋮シムナは﹂
﹁わかりません。姉さんが搬送された病院を聞き出すだけで精一杯
でした﹂
一介の兵士の行く先など調べることなどできはしない。なにせ、
負傷者の数が多すぎるのだ。
﹁そうか﹂
短くつぶやいた彼女は、春の日差しの中でわずかにうつむいてか
ら高熱をだしたままの重い体をやっと動かした。
﹁速く直さないとな⋮⋮﹂
点滴の管につながれた腕を見やってアリナは苦笑する。
﹁病院を抜け出すなんてことはやめてくださいよ、姉さん﹂
﹁わかってるよ﹂
三ヶ月に及ぶ酷寒の激しい野戦はアリナ・エーヴァの体力を驚く
ほど消耗させた。酷寒の中を気力だけで戦い続けていた彼女の体力
は、傍目にはそうとは映らなくとも、すでに限界を超えていたのだ。
﹁姉さんが狙撃されたすぐ後に、ハロネンの奴が部隊をまとめて、
問題のソ連軍の狙撃兵を射殺しました﹂
森の中、敵のただ中にやむなく置いてくるしかなかった重傷者は、
おそらく寒さで死んだか、それともソ連軍に殺されただろう。
日付は一九四〇年三月十七日の午前。
四日前の三月十三日午前十一時に停戦した。
333
︱︱それを、アリナは目が醒めてから彼女の傍にいた弟エイノ・
イルマリから聞かされたのだが、三日間も眠っていたのだ。現実味
がないと言っても仕方ないだろう。
﹁十一時ぴったりに戦闘が終わったそうです﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
﹁コッラーの戦線の経過ですが、ウオシッキネン中尉が、ソ連軍の
銃撃を受け戦死されました。ですが、最後の最後まで、コッラーは
持ちこたえたそうです。敵を、一歩たりとも前へすすめはしなかっ
た、と﹂
他にもシルップ戦闘団のオーリン少尉とパーッコネン少尉が戦死
した。
﹁ご苦労だった⋮⋮﹂
溜め息のようにアリナが告げると、そのまま熱に浮かされた体が
ぐらりと傾ぐ。
体調を押して長い時間、ユホ・アーッテラの報告を熱心に聞いて
いた彼女の体を副官の青年が支えると、アリナは高熱を抱えた手で
彼の肩を押し返した。
﹁体に触ります。少し休んでください﹂
﹁決済しなければならない書類はないか?﹂
問いかけるその表情は、中隊指揮官のものでそんなアリナ・エー
ヴァの様子が無理をさせているのではないかと思わせる。
﹁大丈夫です﹂
﹁⋮⋮世話をかける﹂
そっとほほえんだ彼女の体を寝台に横たえてやると、やがてゆっ
くりと眠り込んでいく。そんな上官の眠る顔を見つめて、ユホ・ア
ーッテラは深く息を吐き出した。
どれだけ、アリナ・エーヴァは仕事の鬼なのだろう。
ここには部隊の部下はいないのだ。だから、強がる必要などない
というのに。
﹁姉さん、ハールトマン少佐が言ってましたよ﹂
334
リュッシャ
︱︱第六中隊が、ソ連軍の攻撃を受け止めていてくれたおかげで、
他の部隊が思ったよりも小さな被害で撤退することができた。
ハールトマンの言葉をアリナ・エーヴァが知ったらどう思うだろ
う。
なにを言うだろう。
﹁そんなことほめられても嬉しくない﹂とでも言うだろうか。
死んだ人間は二度と戻ってこない。他の部隊が撤退できたかどう
かはともかく、アリナと共に戦った第六中隊の部下たちの多くがこ
の世からいなくなった。
どんなに悪ぶって見せていても、彼女が人の死に対してなにも感
じていないわけではない。
﹁姉さん、奴らはあなたと共に戦う事ができて幸せでしたよ⋮⋮﹂
それから数日して、恐ろしい勢いでアリナ・エーヴァは回復して
いった。元々体力のある女性だ。
訓練を受けた職業軍人であり、弱々しい女性などとは異なる。
目を覚ましたことによって食事をとれるようになったことも大き
いだろう。体の不調を押して、出された病院の食事も残さず平らげ、
なによりも、やはり職業軍人として、彼女はリハビリにも熱心だっ
た。
弱った体を痛めつけ、彼女は点滴も抜けないうちから、廊下を何
往復もしていた。
腹からはっきりとした声を出して、同じように療養している兵士
や下士官たちと明るい声で会話を交わす。
停戦で重苦しい空気とは裏腹な彼女の明るさに、軍病院内はどこ
か明るさを取り戻しつつあった。
彼女は決して振り返ったりしない。
まっすぐに前を見つめて、陰鬱な空気を吹き飛ばす。
数日で高熱もおさまり、点滴も抜けた。傷だらけの体はまだ包帯
が巻かれているが、それでも顔色は日に日に良くなっていく。
335
﹁⋮⋮ユーティライネン﹂
余りにも元気すぎてうるさいアリナに手を焼いた病院側が、女性
ということもあって、彼女は個室に移されたのだが、それを見計ら
ったようにひとりの男が訪れた。
珍しくベッドの上でおとなしく新聞を読んでいたアリナは、来客
の顔を見つめてから驚いたように目をぱちくりと瞬かせた。
およそ三ヶ月ぶりに見た顔でもある。
第四軍団長︱︱ヨハン・ヴォルデマル・ハッグルンド少将。
﹁見たところ元気そうだな﹂
﹁ついこの間まで生死の境をさまよってたらしいですけどね﹂
ハッグルンドの言葉に軽口を叩くアリナは、にこりと笑ってから
新聞をたたむと、表情を改めた彼女は第四軍団長にベッド脇の椅子
を勧める。
本来であれば、彼女が立って上官を迎えなければならないのだが、
まだアリナはそこまで回復していない。
﹁モスクワ講和条約⋮⋮、ひどい内容ですね﹂
スオミ
アリナの感想に、ハッグルンドは肩をすくめた。
﹁しかし、フィンランドの全てを奪われることはなかったし、住民
たちは全員、ソ連に従属することを良しとせず住み慣れた街だとい
うのに引き上げた⋮⋮﹂
それほど重い決断だったということだ。
アリナ・エーヴァは、ハッグルンドのその言葉に視線を新聞の写
真へと落とした。
フィンランドがソビエト連邦に奪われた土地は、ヴィープリ市、
ハンコ半島、ウーラス、コイヴィストなどの港。ラドガ湖北部やサ
イマー湖などが含まれていた。
﹁わたしの故郷は国境の向こうになってしまいました⋮⋮﹂
そう言ってほほえむ彼女は、いっそヘルシンキに家でも買います
かね、と付け加えた。
﹁ユーティライネン⋮⋮﹂
336
﹁弟の、生まれ故郷のリエクサが国境の向こう側にならなかったこ
とだけは、安心しました⋮⋮﹂
柔らかく笑うアリナの青い眼に、ハッグルンドは言葉を失った。
彼女は普段こそ態度も口も悪いが、おそらく今の言葉は本音なの
だろう。
アリナ・エーヴァの生まれ故郷、ソルタヴァラはラドガ湖の最北
にある。その街は、国境の向こう側となり、フィンランド人たちが
二度と踏み込めない場所になってしまった。
﹁確か、少将閣下の故郷もヴィープリでしたか⋮⋮﹂
室内にいるふたり︱︱ヨハン・ヴォルデマル・ハッグルンドと、
アリナ・エーヴァの故郷は二度と踏めないだろう国になってしまっ
た。
﹁⋮⋮︱︱今は、ゆっくり休め﹂
﹁閣下﹂
新聞から目を上げた彼女が、じっと切れ者の将軍の顔を凝視する。
﹁本官は、負傷し意識がなかったため終戦を知りません。お手数で
はございますが、交戦停止のご命令をいただきたく思います﹂
﹁全く、貴様は本当に困った小娘だ﹂
命令がなければ、彼女は再び戦場を求めて飛び回るだろう。アリ
ナ・エーヴァ・ユーティライネンとは、そういう人間だ。
肩を落としたハッグルンドが、はっきりとした声で彼女に通達す
る。
﹁アリナ・エーヴァ・ユーティライネン大尉、本日をもって交戦停
止を命じる。即刻部隊を引き上げ帰還せよ﹂
﹁承知致しました﹂
アリナ・エーヴァにとっての戦争が、こうして三月二三日によう
やく終わった。
337
一九三九年十一月三十日から、一九四〇年三月十三日までに及ぶ
冬期の間に行われた戦争はようやく幕をおろしたのだった⋮⋮。
338
37 亡霊
声が聞こえた。
開け放たれた扉の部屋からとうとうと聞こえてくるのは深く低い
男の声だった。いつものように、アリナ・エーヴァ・ユーティライ
ネンの病室に、報告のために訪れたユホ・アーッテラは足を止める。
部屋に入ろうとして、彼は思わず立ち止まった。
入るのをやめたのではない。
入れなかった、と言えば正しいだろう。
アリナ・エーヴァのベッドの傍らの椅子に座っている男は、ユホ・
アーッテラが訪れたことに気がついたようだが、視線をやっただけ
で話を続けるのをやめることはせずに寝台に横になって窓の外を見
つめている彼女の肩を見つめる。
男の声が静かに空気を振動させていた。
聞いているのかいないのか。
起きているのか眠っているのか。それすらも傍目にはわかりかね
る相手に男は静かに話しかけている。互いが互いに対して言葉を返
さなくても、相手のことを完全に理解している。
それがアリナ・エーヴァ・ユーティライネンとミーカ・ヴァーラ
ニエミの距離感だった。似た者同士であるが故に、互いを深く理解
しすぎている。
決して互いを気遣ったりはしない。
決して互いに同情したりはしない。
男女の友人同士と言うよりは、まるで気心のしれたライバルのよ
うな存在。
深く響く戦友の声が心地よくてアリナは安らいだ様子で瞼を閉じ
た。ふたりの間にあるのは、互いが互いを守りきれる程強いという
絶対の信頼だ。もしも、アリナ・エーヴァに殺伐とした暴力の世界
339
で安らいだ表情をさせることができる相手がいるとすれば、それは
ミーカ・ヴァーラニエミとヴィサ・レフトしかいないだろう。
開け放たれた病室の扉から漏れる男の声を聞きながら、ユホ・ア
ーッテラは廊下の壁に背中を預けたままで床に座り込むと膝の上に
頭を抱えて目を閉じる。
無力感などからではなく。
アリナ・エーヴァと男たち︱︱ミーカ・ヴァーラニエミらを巡る
関係には決して割り込む余地がないのだと実感させられるからだ。
それほどまでに、穏やかな時間と空気感。
停戦発効の直前、ミーカ・ヴァーラニエミは第十三師団にいて相
も変わらず一個中隊を率いてキティラ、レメッティ方面で激戦を繰
り広げていた。
その日の反撃は朝からいつにも増して激しく、まるで全て残され
ていた弾薬を使い切ってしまおうとでもしているかのように思われ
た。
そんな銃弾と砲弾の嵐に、ヴァーラニエミはいつものように対峙
していた。鋭く舌打ちした彼はいつものように仏頂面で機関短銃を
抱えている副官の青年を見やって、もう一度舌打ちした。
﹁姉さんならこんな時どうあってもなんとかしてくれるでしょうに﹂
ぼそりと呟いたイスモ・アラルースアの頭に鉄拳をたたき落とし
てから塹壕から目から上だけを出して辺りを窺った。
﹁クソアマでも無理だろうよ﹂
﹁姉さんのことをクソアマって言うのやめてもらえませんか? 大
尉﹂
﹁馬鹿野郎、あの女が呼ばれ方なんぞいちいち気にするか。それに
あんな戦闘狂、クソアマで充分だ﹂
アリナ・エーヴァの周囲には奇妙な信者が多いが、それは彼女が
﹁女性﹂だからではないだろう。
モロッコの恐怖。
340
そう呼ばれる英雄だからだ。
﹁英雄、か⋮⋮﹂
タバコに火をつけながら、ヘルメットを押さえたヴァーラニエミ
は片目を細めてから、自分から数フィート離れたところに炸裂した
砲弾に身を縮めた。
悪いことに、兵士がひとりその直撃を受けて肉の塊になってしま
った。
﹁⋮⋮野郎っ﹂
悪態をつきながら機関銃を構えると、顔を出していたソ連軍兵士
の頭を蜂の巣にした。停戦発効を目前にして、敵も味方も死んでい
く。
本当に、今日のこの日で戦争が終わるのかと疑いたくなるような
状況だった。空にはいつものように爆撃機が飛んでいて空爆を続け
ている。
忌々しい爆撃機に対して、フィンランド空軍の迎撃機は飛んでこ
ない。
なぜか?
フィンランド空軍の戦闘機隊は、カレリア地峡に集結させられて、
ヘルシンキに侵攻しようとするソビエト連邦軍の迎撃にあたってい
たからだ。
フィンランド軍の士気は高い。
しかし、中隊長として中隊をを率いているヴァーラニエミにはわ
かっていた。フィンランドに、これ以上後がないということを。
士気が高いだけではだめだ。
それだけでは戦争に勝つことなどできはしない。
激しい戦闘がそれからしばらく続いた。
目の前で何人もの兵士たちが倒れていった。それでも、戦闘は終
わらない。
あと一時間、あと三十分。
あと十五分。
341
戦争はもうすぐ終わるのだというのに⋮⋮。
銃弾の嵐だ。
そして、一九四〇年三月十三日午前十一時に銃撃戦が終わった。
唐突に。
ソ連軍の陣地からは歓声のような笑い声すら聞こえてきた。
おそらく、無理矢理徴用された兵士たちだったのだろう。
生きて帰れる、と。
戦争が終わったのだと。
けれども、負けたフィンランド共和国側にとっては、ソビエト連
邦の事情などまさにどうでも良いことだった。
負けたのだ。
講和条約を受け入れて、負けた。その場にあるのは失意と落胆と、
絶望。重苦しい沈黙だった。
︱︱まだ戦えたのに、と。
﹁エヴァ、まだ起きているか?﹂
﹁⋮⋮﹂
アリナは尋ねられて、片手を軽く上げると﹁聞いている﹂と態度
で示してから、そうして首を回すと枕の上で頭を男に向けて青い瞳
でじっと彼を凝視した。
﹁そんなこと、聞かなくてもミーカならわかるでしょ﹂
﹁いやな女だな﹂
機嫌の悪そうな彼の声に、アリナはふわりと笑うと金色の髪を指
先に絡めて天井を見上げる。
静かな空間だった。
﹁⋮⋮アラルースアは、元気にしてる?﹂
﹁あいつは、おまえに会うまでは死なんと頑張っていたぞ﹂
﹁そう⋮⋮﹂
342
わずかに首を傾げてから再びじっと彼を見つめた。ひどく穏やか
な瞳で、これが歴戦の猛者なのかと思わせるほどの静寂をたたえて
いる。
まるで波が寄せるように彼女に正気が戻ってくる。
そんなミーカ・ヴァーラニエミの目線の先に、サイドテーブルに
置かれたククリナイフに目が止まった。
大振りなナイフで、彼女と長く共にあった殺人のための道具だ。
﹁おい﹂
﹁なに?﹂
﹁そろそろ亡霊に縋るのはやめたらどうだ﹂
低く脅しつけるようにヴァーラニエミが言うと、アリナのナイフ
を片手でとると、それを手の中で弄ぶ。
﹁⋮⋮ミーカ﹂
亡霊に縋るのをやめたらどうだ、とヴァーラニエミに言われてア
リナ・エーヴァの顔色が変わった。ベッドに肘を突いて上半身を起
こしたアリナは、眉間を寄せて男を睨み付けた。
﹁それに触るな﹂
ベッドに横になったままの彼女が、腕を伸ばしてナイフを取りあ
げようとすると男は大きく腕を振りかぶって、片腕でまだ負傷して
いてろくに動くこともできないだろうアリナの肩を押さえつけると、
そのまま彼女の体に全身でのしかかって喉笛にククリの刃を押しつ
けた。
﹁動くなよ﹂
﹁動くなって言われて、動かない馬鹿がいるか﹂
男の短い命令にアリナは枕の下を片手で探ると、愛銃の銃口をヴ
ァーラニエミの額へとためらいもなく押しつける。
首の皮からぴりりとした痛みが走って、ヴァーラニエミが押しつ
けたナイフによって、首の薄皮が裂かれた感触が伝わってきた。も
っとも、そんなもの怪我のうちにも入らないと認識しているアリナ・
エーヴァは動じない。
343
﹁亡霊なんぞ、どれだけ思っても戻ってはこないぞ﹂
︱︱亡霊。
その言葉に、アリナは眉をひそめた。
﹁⋮⋮︱︱貴様には関係ない﹂
ばっさりと男の言葉を一刀両断した彼女は、ナイフを握る男の手
首を掴んだ。一方の男のほうも、彼女の銃を持つ手首を押さえつけ
る。
﹁ナイフを返せ﹂
ぎろりとヴァーラニエミを見据えたアリナは低くどすのきいた声
で命じた。がちりと音がして、撃鉄がおろされたが、しかしミーカ・
ヴァーラニエミも動じない。
アリナと彼の関係とはそういうものだったからだ。
﹁⋮⋮亡霊に縋るな。貴様はそんなに弱くはないはずだ﹂
一部始終を目の当たりにしているというのに、ユホ・アーッテラ
は動けない。身じろぎでもすれば、もしかしたら互いが互いを殺す
のではないだろうかとすら思ったからだ。
そんなわけはないとわかっていたというのに。
﹁黙れ⋮⋮っ!﹂
アリナ・エーヴァが思い切り手にした銃で男の頬を殴りつけた。
弱った腕のどこにそれだけの力が残されていたというのだろうと
思えるほど、強い殴打だった。そのままベッドから飛び降りたアリ
ナが、男が体勢を立て直す前に、右の手首を思い切り踏みつけると
怒りに満ちた表情のまま、その顔に銃口を突きつけ、照準を正確に
合わせた。
﹁殺してやる⋮⋮﹂
激情に駆られてアリナ・エーヴァは銃の引き金にかけた指先に力
をこめる。
シス
気性の激しい女性。
﹁⋮⋮姉さん、やめてください﹂
このままでは病院内で騒ぎになってしまう。両名にそんなつもり
344
がなかったとしても、知らない者が見れば殺し合いに発展しそうな
喧嘩にも見える。
そんなユホ・アーッテラの声に、アリナははたと我に返ったよう
だった。
今、自分はなにをしていたのかと。
﹁︱︱⋮⋮ユホちゃん、ミカちゃん﹂
つぶやくように彼らの名前を呼んでから、アリナは長い溜め息を
つくと床に転がったククリナイフを拾い上げる。そうして、ヴァー
ラニエミに手を差し伸べて引き起こそうとしたアリナ・エーヴァの
体が不意に傾いだ。
﹁騒ぎになる前で良かったな﹂
ふたりにとって、こんなじゃれ合いは日常ごとだ。
胸を押さえて倒れ込んだアリナは、服の上から胸を鷲掴みにして
ヴァーラニエミに抱き留められる。
アリナ・エーヴァにはわかっていたのだ。
最初から、ヴァーラニエミの言葉に悪意などないということを。
﹁⋮⋮まだ怪我が完治していないんだ、無理はするな﹂
﹁畜生⋮⋮っ﹂
吐き捨てるような彼女の慟哭。それはなにに対して吐き出された
ものなのか、それは誰も知りはしない。
畜生、と彼女は何度も繰り返して、駄々をこねる子供のように男
の広い胸に拳をたたきつける。アリナ・エーヴァのような正真正銘
号泣
だ。
の軍人に全力で殴られると結構痛いのだが、それでもヴァーラニエ
ミはなにも言わない。
泣くことができない彼女の
なぜ。
﹁なに﹂に対して泣いているのだろうか⋮⋮?
﹁エヴァ⋮⋮﹂
胸に巻かれた包帯に血が滲んでいた。ミーカ・ヴァーラニエミを
相手に暴れたために、傷が開いたのだろう。アリナは男の腕に強く
345
縋って痛みをこらえると細い息を吐き出しながら、二人の男たちに
支えられるようにしてベッドに戻った。
︱︱あいつの亡霊は、わたしを殺すまで離れたりはしない。
新しい包帯を巻かれ、痛み止めを打たれて眠りにつく寸前、彼女
はそう告げた。
﹁ごめん、ヴィシュヌ⋮⋮。ごめん⋮⋮﹂
わたしが弱かったから、あなたを死なせてしまった。
わたしが頼りなかったから、あなたを守れなかった⋮⋮。
けれどもその懺悔は、本当に﹁ヴィシュヌ﹂という男に対して捧
げられているものなのか。
強い大きな手のひらに自分の手を包み込まれて、アリナ・エーヴ
ァはただ眠りの中へと失墜していった。
亡霊に取り憑かれた兵隊の哀れな末路。
彼女の謝罪の言葉を聞きながら、三ヶ月にも及ぶ激しい戦闘をア
リナ・エーヴァと共に戦ったユホ・アーッテラはただ思考の底に捕
らわれた。
彼女はいったい﹁誰﹂に対して泣いたのだろう、と。
346
38 三人の関係性
三月下旬、北欧の春はまだ遠い。
ミッケリの病院の前に三人の士官がいた。
そんな寒さの中、ようやく感染症の高熱から回復したアリナ・エ
ーヴァは、友人の士官たちの助けを借りて退院することになった。
銃創についてはまだ治療が必要であるとはされたが、彼女はいたっ
て元気に見える。
﹁暴れることと、当分の軍事訓練についてはまだ賛成できませんか
そう続けた
らね。わかっていますね? ユーティライネン大尉?﹂
﹁わかった、わかったって。軍医先生﹂
﹁本当にわかっているのかあやしいもんですな﹂
なんなら傷が完治するまで入院していきますか?
医師に、アリナ・エーヴァはさすがに﹁えぇー?﹂と抗議の声を上
げた。
﹁こんなところに何ヶ月もいたら、体がなまっちゃうんで勘弁して
くださいよ、先生﹂
﹁軽いトレーニングくらいならかまいませんが、くどいようですが、
体に負担をかけるような軍事訓練はダメですよ。わかりましたね?﹂
しつこく念を押された彼女は肩をすくめてから大きな溜め息をつ
いた。
﹁わかったよ、言うことを聞くから本当に解放してくださいよ﹂
渋々といった様子のアリナは、自分の背後にいるヴィサ・レフト
に寄りかかっている。
正直なところ、彼女は医師が言うように、本来であればまだ退院
が許可されるほど回復しているわけではない。全身は傷だらけであ
ったし、抗生剤を万が一やめれば高熱がぶり返す可能性も高い。そ
んな状況にもかかわらず、彼女はどうしてもやらなければならない
347
ことがあるから、と医師に退院の許可を求めたのである。
そんなアリナ・エーヴァに肩を貸しながら、ヴィサ・レフトはい
つものようにへらへらと笑っている彼女と、彼女の荷物を持ってい
るミーカ・ヴァーラニエミに視線をやる。
アリナ・エーヴァがどうしてもやらなければならないこと。
ごはっと
彼女は中隊の長として、どうしてもやらなければならないことが
あると言った。
﹁とにかく、暴れるのは御法度ですからね﹂
彼女は英雄だ。
モロッコの恐怖と呼ばれる歴戦の指揮官。
﹁傷が開くくらい大暴れするようだったら、俺たちが病院送りにす
るんで、あんまり心配せんでください。先生﹂
﹁本当に頼みますよ。コッラー戦線の英雄が戦傷で死んだりしたら
治療に当たった我々が不手際を追求されるんですから﹂
医師はそう言うものの、別段それだけを心配しているわけでもな
いだろう。
﹁わかってるよ、先生方にはお世話になった。本当に、お礼を言わ
せていただきます﹂
真面目な表情でアリナはヴィサ・レフトに支えられたまま頭を下
げた。
﹁やりたいことって言っても、別に訓練とかじゃないんで心配しな
いでください﹂
第三四連隊第六中隊を率いた中隊長としての役目がまだ終わって
いない。
コッラー戦線の英雄とまで謳われた自分には、まだやらなければ
ならないことがあるのだ。
﹁無理を聞いてくださってありがとうございます﹂
﹁無茶だとわかっているならいいんです。ユーティライネン大尉、
あなたが担ぎ込まれたときは本当に驚きました。命を落とさずにい
られたのは、運が良かっただけなんですから⋮⋮﹂
348
そう言われて、アリナは声もなく笑うと病院へと背中を向けて、
ミーカ・ヴァーラニエミの操るそりへと乗り込んだ。
アリナ・エーヴァよりも先に病院へと搬送された第六中隊最高の
狙撃手、シモ・ヘイヘの行方はまだわからない。
中隊の生存者の把握のために東奔西走しているユホ・アーッテラ
にばかり無理を強いるわけにはいかなかった。
ヘイヘは死んだかも知れない。
ひどい傷で顔半分が文字通り吹き飛ばされていた。
﹁なにを考えている?﹂
男の肩に寄りかかったまま物思いに沈むアリナに、レフトが問い
かけた。
﹁なにも﹂
﹁嘘をつけ、なにも考えていないって顔じゃないぞ﹂
﹁あんたたちには関係ない﹂
個人的なことだ。
ぴしゃりと言葉を叩き返してアリナはじっと黙り込む。
他部隊のヴィサ・レフトやミーカ・ヴァーラニエミには関係のな
いこと。
指揮官である彼女が倒れてしまったため、部隊内の状況確認が追
いつかない。重傷者で生存の確認と搬送された病院がわかったのは、
まだ半分程度らしい。
﹁とにかく、アーッテラが苦心している。手伝ってやらないと﹂
アリナ・エーヴァの所属した第十二師団。ミーカ・ヴァーラニエ
ミの第十三師団、そしてヴィサ・レフトが所属した第九師団とカレ
リア地峡軍。
どこも激戦だった。
寒空の下、そりの上でうとうとと船を漕ぐ彼女に、レフトは声も
なく息をつき、そりを操るヴァーラニエミはフンと鼻を鳴らした。
退院できる状態の体でないのは、ふたりにもわかっている。
それでも彼女は退院すると言って聞かなかった。そもそも、師団
349
司令部からもゆっくり休息を取るようにと通達されているはずなの
だが、アリナ・エーヴァは聞かない。
﹁約束、守れなかった⋮⋮﹂
﹁うん?﹂
目を閉じたままのアリナがぽつりとつぶやいた。
﹁大人は嘘つきだよね⋮⋮﹂
コッラーの戦線に赴く前、彼女は約束したというのに。
フィンランドを守ると。
けれども、その約束を果たせなかった。
ソルタヴァラの子供たちはどうしているだろう。
アリナを嘘つきだと責めるだろうか。
﹁⋮⋮︱︱エヴァ﹂
レフトは眠りに落ちかかるアリナの肩を大きな手で包んでやると、
やがて彼女の体から力が抜けた。
自宅を失ったアリナ・エーヴァは、ミッケリに一時的な陸軍の宿
舎を与えられた。
ベッドなどの家具は一通りいれられている。
ヘルシンキに自宅があったレフトはともかくとして、ヴィープリ
に住んでいたヴァーラニエミも同様に自宅を失って難民となった。
軍人はまだいい。
それでもそれなりに軍司令部から兵舎などの提供がされるのだか
ら。
難民となった多くの一般庶民たちは、この寒さの中で行く先に苦
心していた。多くの市民たちが、自宅や土地を失ってフィンランド
各地へと散っていくことになった。
しばらくして宿舎へとついてそりを止めたヴァーラニエミに、レ
フトがアリナの肩を揺らす。
﹁ついたぞ、起きろ﹂
﹁うん、ありがと⋮⋮﹂
寒さで固まってしまった体を支えながら、男たちはアリナを宿舎
350
内に送り届けて暖炉に火をいれる。そうして、彼女をベッドに放り
込むとそのまま毛布を頭の上からかぶせた。
﹁今日は俺たちがついててやるからとっとと寝ろ﹂
素っ気ないヴァーラニエミの言葉にアリナは枕に顔を押しつける
と眠りの中へと墜落していく。
病み上がりの体にそりでの移動は体に負担がかかる。
カバンの中から薬を取り出して、眠りかけるアリナに無理矢理飲
ませると、男は暖炉の前のソファに腰を下ろしてからラジオのスイ
ッチをいれた。
ざらざらとしたラジオ特有の音が聞こえてくる。
ヴァーラニエミの宿舎はすぐ近くだったし、レフトも家に帰ると
はいってもヘルシンキでは遠すぎる。結果的にアリナのおもりつい
でに泊まり込む形になってしまったふたりの男は、ラジオを聞きな
がら息をついた。
﹁寝たか?﹂
彼女の寝室から戻ってきたレフトに対して肩越しに声をかけたヴ
ァーラニエミに、友人の男が頷いた。
﹁そりゃもう一瞬でな﹂
﹁だいたい、あの体で退院なんて無茶苦茶だ﹂
感染症からではなく、今度は傷のせいで熱を出すだろう。
レフトの言葉に応じたヴァーラニエミがぼやいた。床に敷かれた
毛皮の敷物に腰を下ろしたレフトは茶色の自分の髪をかきあげる。
﹁そうは言ってもあいつがこうと言い出したら誰の言うこともきか
ないのはおまえも知っているだろう﹂
そこが問題なのだ。
彼女は頑固で、自分がこうだと決めてしまったら誰の言うことも
聞いたりしない。
たとえ友人や上官の言うことであったとしても。
﹁そうだなぁ⋮⋮﹂
相づちを打ちながら、ミーカ・ヴァーラニエミは頭の後ろで腕を
351
組んでソファにそのまま仰向けに転がった。
パチパチと暖炉から音が聞こえた。
彼女の部屋に暖気を送り込んでやるために寝室へ続く扉は開けっ
放しになっている。
寒い冬は、北欧の国では家の中にいても凍死者がでる程だ。
﹁ミーカ、おまえはわかってるだろうが、あいつは戦闘が終わった
ばかりで頭がおかしくなりかけてる。充分気をつけて扱えよ﹂
戦闘の熱に当てられて、彼女の凶暴性が増す。
弟のエイノ・イルマリが言う﹁テンションが上がって人が変わる﹂
というのはこれだった。
戦争が続けば続くほど。
戦闘が激しければ激しいほど、アリナ・エーヴァはそれに飲み込
まれる。
け
﹁フランスの部隊にいたときもああだったのか?﹂
﹁まぁ、その気は元々あったけどな。ただ、決定的におかしくなっ
たのは、ヴィシュヌが死んでからだな﹂
かつての戦友が死んでから、アリナは任務の鬼になった。
普段はふざけていても、任務となると途端に別人のようになる。
﹁たぶん、もう戦友を失いたくないんだろう﹂
そして破天荒な振る舞いをすることによって、自分に近づく人間
に対して予防線を張る。
それ以上自分に近づくな、と。アリナの予防線を越えて近づける
のはそれほど多くはない。アリナの信奉者たちか、もしくはミーカ・
ヴァーラニエミのような生え抜きの兵士だけだ。
﹁信者が増えるのを、エヴァが望んでいないっつーのにな。馬鹿共
はわかってない﹂
いのち
アリナの信者たちは、彼女がどれほど苦しんでいるのかを知らな
い。
自分の周りに他者が増えれば増えるほど、アリナはその﹁生命﹂
の重さに苦しむと言うのに。
352
﹁それは仕方がないだろう、エヴァが言わないからな﹂
アリナ・エーヴァは、自分を頼る者たちが、彼女自身を心の支え
にしているのを知っているからはねつけられない。
破天荒で、常識知らずととられることが多いがアリナは、そう言
った面ではひどく人が良すぎる。迷惑だと思うなら、追い払えばい
いではないか、とヴァーラニエミなどは思うのだった。
そして彼女が顔にはかけらも出さないが、重荷に感じている事を
ヴァーラニエミは知っているため、イスモ・アラルースアのような
信者たちに﹁あいつは特別じゃない﹂とことあるごとに言って聞か
せるのだが、これも全く通じていないという有様だ。
おそらく、信者たちはアリナ・エーヴァのことを超人かなにかだ
と思っているのだろう。誰よりも強い、特別な存在だと。
﹁そういえば、ヴィサ? おまえ、そろそろ大尉昇進らしいな﹂
﹁おまえが少佐になるほうが早いんじゃないか?﹂
即答でレフトに切り替えされて、ヴァーラニエミはひらひらと顔
の前で手を振った。
﹁俺は無理だろう、どうせ上役に楯突いてばかりだからな。万年大
尉で終わりだ﹂
楯突いている自覚があるなら直せばいいのだろうが、レフトの目
の前のミーカ・ヴァーラニエミもアリナ・エーヴァ・ユーティライ
ネンもそんな態度を直そうとしない。
そもそも、昇進に興味がないのだろう。
﹁しかし、これで寒いとか言ってくっついてくるような女ならかわ
いげもあるだろうになぁ﹂
ヴァーラニエミのアリナに対する評価に、レフトは声を上げて笑
った。
﹁無理だろう、他人に弱みを握らせるのが大嫌いだからな﹂
だから人間関係が破綻するのだ。
完璧な人間などいない。他人に弱みを見せてもいいのだというこ
とをアリナ・エーヴァはわかっていないのだ。
353
長い期間傭兵稼業をやっていた弊害なのかも知れない。
そんな他愛のない会話を交わしながら、ヴァーラニエミがソファ
から立ち上がった。
﹁どこへ?﹂
﹁様子を見てくる﹂
なんだかんだでミーカ・ヴァーラニエミもアリナ・エーヴァのこ
とが心配でたまらないのだろう。
﹁襲うなよ﹂
﹁殺されるのはご免だからな﹂
茶化したレフトに、きつい眼差しで笑ったヴァーラニエミはそう
してアリナの寝室へと消えていった。
354
39 訃報
兵士たちには休暇が与えられたが、第六中隊の指揮官代理を務め
ているユホ・アーッテラには休暇をとっている暇がなかった。
なにせ、三月六日の撤退の際の被害が尋常ではなかったためだ。
﹁ソ連の奴らが、コッラーで捕虜にした千人を返還してくれるそう
だよ、ユホちゃん﹂
響いた明るい声に、ユホ・アーッテラは机の上の書類を睨んでい
た目を上げてから、声の主を見直した。
彼をユホちゃん、などと呼ぶのは後にも先にもひとりしかいない。
そもそも、大柄で屈強な職業軍人である彼に対して、どこをどう
すればかわいらしい女の子のような呼び方などできるものか。
﹁⋮⋮隊長﹂
基地内の下士官を捕まえたのだろう。
肩を貸されるようにして歩くユホ・アーッテラの上官︱︱大尉に
昇進したばかりのアリナ・エーヴァ・ユーティライネンが杖をつき
ながら、仮に与えられた仕事部屋の入り口に立っている。
﹁⋮⋮︱︱っ﹂
傷は大丈夫なんですか、と彼は問いかけようとして、そもそも大
丈夫なわけがないという事実に行き着いて言葉を飲み込んだ。そし
てなにかを言わなければならないという義務感にかられながら視線
を彷徨わせていると、アリナ・エーヴァは静かに笑ってからアーッ
テラの肩に手をついた。
肩を貸してくれた下士官に手を振って告げる。
﹁助かったよ、すまないね﹂
﹁では、失礼いたします﹂
敬礼をしてふたりの前を辞した下士官を見送ってからアリナは、
全身から力を抜いてアーッテラに寄りかかる。
355
﹁姉さん⋮⋮﹂
﹁ティッティネン中佐が、亡くなったって?﹂
職業軍人としてきっちりと筋肉の付いた彼女の体は、その辺にい
る女性達のようにどこもかしこも柔らかいわけでもなければ、軽く
もない。しかし、ふたりの間には明らかな体格差が存在していたか
ら、アーッテラはアリナの体を片手で受け止めた。
﹁はい、ご存じでしたか﹂
﹁ハッグルンド将軍に聞いたよ﹂
﹁そうですか﹂
コッラー戦線を戦い抜いたヴィッレ・ティッティネン中佐は、戦
中に体調を悪化させて二月の半ばには後任をヴィルッキ中佐に任せ
て後方へと退いた。ほとんど睡眠もとらずに前線で戦い続けたティ
ッティネンは過労によって戦争が終わってから帰らぬ人となった。
﹁姉さんが、頭を撃たれたときはもうダメかと思いました⋮⋮﹂
溜め息のような副官の声に、アリナ・エーヴァはわずかに首をか
しげる。
﹁かすっただけだよ﹂
頭部を狙撃されればさすがのアリナだとて命はない。しかし、九
死に一生を得たのは運が良かったからだろう。
かろうじて弾道がそれて、アリナの頭皮をえぐっただけですんだ。
それでも立ち上がった彼女に、狙撃兵は今度は心臓を狙ったのだ
ろう。
﹁敵がシムナだったら、わたしは命がなかったね﹂
冗談でも言うように笑った彼女に、アーッテラが眉をしかめた。
﹁笑い事じゃありませんよ、姉さん﹂
﹁わかってるよ、笑い事じゃない⋮⋮﹂
戦のヴィッレと恐れられたティッティネンが死んだことは、第三
四歩兵連隊に所属していた兵士たちの心を強く抉った。気難しく堅
物のティッティネンはそれでも腕の良い指揮官だった。
彼が率いていたから、第三四連隊は戦い続けることができたので
356
ある。
﹁ユホちゃん、悪いけど、立ってるのがつらいんだ。座らせてくれ
ないかな?﹂
アリナ・エーヴァの控えめな申し出に、彼女の腰を支えていたユ
ホ・アーッテラは慌てた様子で彼女をソファへと導いた。
﹁気がつきませんで、申し訳ありません﹂
﹁ん、いいよ。いつも、ユホちゃんには病院まで仕事を持ってきて
もらってたからね。書類があるなら出してくれれば見るから﹂
ソファのはしに杖をたてかけた彼女の顔色はそれほど良くはない。
しかし、傷を押してまで仕事をしに現れたのだ。
本来であれば彼女を支える副官として叱咤しなければならないと
ころなのだろうが、それにしたところで、ユホ・アーッテラの処理
能力を当に越えていたから、アリナが訪れてくれたことは大変あり
がたかった。
﹁姉さん、知ってますか? 第三四連隊のことです﹂
﹁知ってるよ、四月の頭に解体が決まってるらしいね﹂
やむを得ないことだ。
戦争が終われば志願兵たちは動員を解除される。
﹁姉さん、俺は⋮⋮﹂
ユホ・アーッテラが言いよどんだ。
﹁俺は、姉さんが戦うところにはどこへでもついていきます﹂
﹁いらないよ﹂
重たい⋮⋮。
人の命が重い。
アリナは書類に視線を落としながら長い睫毛を揺らす。
﹁姉さん!﹂
﹁⋮⋮なに? ユホちゃん﹂
どん、と音を立ててテーブルに手をついた彼に、顔を上げてほほ
えんだアリナ・エーヴァはじっと彼の色素の薄い瞳を見つめてから
金色の伸びかけた髪をかきあげた。
357
﹁隊長、俺は本気でそう思っているんです。あなたと共にあって、
あなたと共に戦いたいと。隊長が、ヴィシュヌのことを引きずって
いるのも知っています。それでも、俺は、隊長と共に最後まで戦う
と決めました﹂
隊長。
その言葉に、アリナはかすかに笑った。
その瞬間だ。
不意にアリナの長い腕が伸びて腰にさげたククリナイフを引き抜
いて、テーブルを挟んで目の前にいる男の胸ぐらを掴む。そのまま
一気にテーブル上に引き倒すと、アリナ・エーヴァはそののど笛に
ククリナイフをつきつけた。
ユホ・アーッテラも完全に油断していたため抵抗などできなかっ
た。
鈍い音をたてて、テーブルにたたきつけられることになったアー
ッテラは思わずその衝撃にうめき声を上げると一瞬、目をつむる。
﹁アーッテラ、わたしはそんなにできた指揮官じゃない。なにを勘
違いしてんだか知らないけど、こんな暴力女についてきたっていい
ことはないよ。待ってるのは地獄への特急列車だけだ﹂
自分が人間として優秀なほうではないことをアリナ・エーヴァは
理解している。だからこんな自分についてくるべきではないと、ユ
ホ・アーッテラに対して彼女は告げた。
﹁⋮⋮それでも!﹂
ナイフを押しつけられ、上から押さえ込まれた姿勢で、アーッテ
ラは怒鳴りつけるように声を張り上げる。
﹁俺は神に誓った⋮⋮っ!﹂
強い瞳で彼女を見つめる彼に、アリナ・エーヴァはわずかに逡巡
するように視線をさまよわせてから両目を瞬かせた。まるで泣くの
をこらえてでもいるかのようにも見えた。
ふとアーッテラを押さえつけるアリナの手の力が弱くなった。
眉をしかめて痛みをこらえるように体を丸める。
358
床に放り出されたナイフが重い音を立ててまっすぐ床板に付き立
った。
﹁姉さん⋮⋮っ!﹂
﹁⋮⋮大丈夫﹂
額には脂汗が滲んでおり、仕事をはじめてからそんな様子をつゆ
ほども見せなかった彼女が実は体に負担をかけていたことを感じさ
せられた。
よくよく見れば、灰色の軍服の上に濃い円形の染みが浮かんでい
る。
出血だった。
杖をついたり、歩いたりといった行動は思いもよらず彼女の体に
負担をかけていたのだろう。
﹁四月七日に野外礼拝をやることは聞いてる。それまでに、中隊の
被害状況を割り出さないとな﹂
第六中隊長、アリナ・エーヴァ・ユーティライネンが三月六日に
受けたのは銃創だけではない。白兵戦によっていくつもの傷があっ
た。
中には、縫合しなければならないような傷もあったはずだ。
そんな体で、最後の戦場を戦い抜き、そうして撤退の指揮を執り
続けていた。
﹁アーッテラ、おまえにはいつも迷惑ばかりかける﹂
アーッテラを押さえつけたことによって、走った激しい痛みがし
ばらくしてからようやくひいたのか、アリナはソファに背中を預け
ると深く深呼吸を繰り返す。
胸に浮かんでいる血液の染みはしだいに広がっているが、アリナ
は痛いという泣き言すら言わない。そんな気丈に振る舞う上官の様
子に、アーッテラは溜め息をついた。
彼女は大の男でも泣き叫ぶような傷を受けながら、苦痛も訴えず
に部隊を率い続けた。自分が泣き叫べば部隊の兵士たちが動揺する
ことを知っていたためだろう。
359
﹁医師を呼んできます﹂
﹁悪いね﹂
荒い呼吸をつきながらアリナがほほえんだ。
シモ・ヘイヘの行方はまだ知れない。
たぶん彼は死んでしまったのではないか、それがユホ・アーッテ
ラの言葉だった。コッラーの戦線では多くの犠牲が伴った。
傷を負った者も多く、中には一生、障害を残すだろうと思われる
ような傷を受けた者も多い。もしくは彼女たちが最前線で戦ってい
る間に、病院で死んだかも知れない。
アリナ・エーヴァは胸を押さえたままで痛みをこらえると、前方
に崩れ落ちるようにソファに横倒しになると額をシートに押しつけ
る。
﹁⋮⋮結構痛いな﹂
苦笑いしてから独白した彼女は、そうしてアーッテラが軍医を連
れて戻るのを待つのだった。
じわじわと出血によって染みが広がっているのがわかる。
病院にいたときは、安静にしていたからそんなことはなかったが、
やはり通常の生活というのは体に負担をかけるものだ。
兵舎に戻ったアリナの包帯が新しいものに変わっていることに気
がついたのは、同じ兵舎に住んでいたミーカ・ヴァーラニエミだ。
﹁暴れるならもう一度病院送りにしてやろうか?﹂
﹁暴れてないよ⋮⋮﹂
痛みに目をしかめながら応じる彼女に、不機嫌な顔をしたヴァー
ラニエミは目を細めてから、彼女の肩を大きな手のひらでつかむと
強く指を食い込ませた。
そこは傷こそないものの、腫れ上がっているため捕まれるとそれ
なりに痛みを感じる。
﹁ちょっ、勘弁してよ⋮⋮﹂
360
杖をついている身では男の手から逃れることもできない彼女は、
苦痛に顔を歪めながら抗議の声を上げれば、男は今度はその手を額
に当てた。
﹁やっぱり熱が上がったか。だいたい退院したばかりで朝八時から
夜九時まで仕事に没頭するなんて狂気の沙汰だ﹂
乱暴な男の声に、アリナは肩をすくめると杖をついていた右手を
軽く挙げてから男の手を振り払う。しかし雪と氷で滑りやすくなっ
ている床板を杖もなしに体を支えるのはひどく難しくて、支えを失
った体は兵舎の廊下でよろめいた。
﹁飯は食ったのか﹂
﹁ユホちゃんと、基地で食べてきたよ﹂
﹁ならとっとと寝ろ﹂
倒れかけるアリナ・エーヴァの体を乱暴に支えた男は、ひきずる
ようにして彼女を寝室へと連れて行く。しばらくしてから湯で暖か
く濡らしたタオルを彼女に持って行ってやると、アリナはひどく疲
労していたのか、ベッドに突っ伏すようにして眠っていた。
﹁俺はな、おまえの外人部隊での頃のことなんて知らねーからな⋮
⋮﹂
青ざめた顔に張り付いた金髪をかき上げてやりながら、ミーカ・
つよ
ヴァーラニエミは友人の疲れ切った寝顔を見下ろした。
強靱い彼女しか知らない。
しかし、どんなに歴戦の猛者と言われていても、人間なのだ。
当たり前のように体力は消耗するし、当たり前のように心を傷つ
ける。それはミーカ・ヴァーラニエミ自身も、そしてアリナ・エー
ヴァ・ユーティライネンの戦友のひとりであるヴィサ・レフトも同
ウオタ
じだった。
﹁おやすみ⋮⋮﹂
それでも、ぼろぼろになるまで戦い続けた友人をからかうような、
ヴァーラニエミではない。
しばらくの沈黙の後、ヴァーラニエミはアリナの耳に囁いた。
361
コッラーの戦線で、彼女の部隊はソ連軍の攻撃を一心に受け止め、
盾となり矛となりフィンランドの壁となり続けた。そして、アリナ・
エーヴァ自身もその過酷な戦いの中で傷つき、最後の最後に倒れた
のだった。
362
40 長いお別れ
三月十三日午前十一時に終わった冬の戦争で、フィンランドは多
くの痛手を被った。
国土の要所の喪失は、フィンランドにとって痛手でありそこには
なんと国民の十二パーセントが居住し、工業の十パーセントが存在
していた。
しかし、ソビエト連邦割譲になるにあたり、フィンランド人の全
てがソ連人になることを拒み、各地へと散っていった。結局の所、
十一月三十日の開戦当時にソビエト連邦が謳っていたフィンランド
解放戦争は、多くの森の熊や鹿などを解放するだけにとどまった。
この広大な無人地帯を埋めるために、ソビエト連邦政府が多くの
人間を国内から移住させるに至ったことは言うまでもない。
三月の末、フィンランド国内では割譲された地域に住んでいた難
民たちのための再定住法が施行されて、政府の音頭取りによって多
くの人々が再び自宅を手にすることができた。
アリナもまたこの再定住法によって自宅を得たひとりだった。
四月七日。アリナはユホ・アーッテラの運転する車で野外礼拝の
行われるレヘモを訪れていた。
青く広がる空の下に、アリナは黒いツバの広い帽子をかぶり、黒
いドレスを身につけている。
第三四歩兵連隊の生き残りたち。
野外礼拝になる理由は単に教会に入りきらないから、という理由
だけだ。
臨時で第二大隊の指揮官代理を務めることになったアリナ・エー
ヴァは生真面目な顔で前方を見つめている。
けれども、第六中隊の兵士たちは半分が戦死した。
重傷で動けない者も多いから、この礼拝にこれたのはごくわずか
363
にとどまっている。アリナ・エーヴァの渋面の原因はそれだった。
喪に服する黒いドレスに、アーッテラはちらと視線を放った。
もともと長身のせいもあって、洋服が映えるのだ。バランスの良
い体格と、無駄な肉の付いていない体の線のせいでモデルのように
も思わせた。筋肉の付いた腕は服のデザインで隠されており、実に
優美に見える。
彼女自身、三月初旬の撤退戦の指揮を執った際に重傷を負ってい
たが、この頃にはだいぶ回復しつつあった。体力のある彼女のこと
だから、傷が塞がれば回復を望めるのだ。しかし、長く回復できず
にいたのは、まず彼女の感染症と激戦による体力の消耗と、感染症
の危機が去ってからも、時折暴れることがあったため着いた傷が開
くということが何度かあったせいだった。
毛皮のコートを身につけている彼女は停止した車からそっと足を
おろした。
エスコートするように腕を差し伸べたアーッテラに支えられるよ
うにして、彼女はハンドバッグを手にしたままで立ち上がる。
﹁⋮⋮隊長! ご無事で!﹂
﹁姉さん!﹂
叫ぶように自分を呼ぶ声にアリナは首を巡らせた。
そこにいるのは、第六中隊の部下たちだ。
この野外礼拝が終わればちりぢりになるだろう。
﹁姉さんが無事で良かったです⋮⋮﹂
﹁姉さん、生きててくれて良かった﹂
無事で良かったと口々に繰り返す彼らをアリナ・エーヴァは見渡
した。
部隊の全員の目の前で彼女は狙撃された。
倒れていくアリナ・エーヴァを全員が見ていたのだ。それでも尚、
彼女は霞みがかった意識で部隊の指揮を執り続けていたことを、そ
の場にいる全員が知っている。
戦中に共に戦った者たち︱︱人数は三十名ほどしかいなかった。
364
アリナがかすかに帽子の下で眉をひそめた。
けれども兵士たちがそれに気がつく前に、彼女は一瞬で表情を改
める。
﹁馬鹿なこと言ってんじゃないよ、わたしが死ぬか﹂
多くの感情をばっさりと切り捨てるように言い切った彼女は、目
の前で涙ぐんで鼻をこすっている自分の弟ほどの年齢の青年兵士の
頭を強くひっぱたいた。
﹁しっかりしろ﹂
目の前の青年は農家の跡取りだ。
春の種まきの準備があるだろう。
雑な動作で黒い手袋を脱ぐと、彼女は渇いた音を立てて両手を打
ち鳴らす。
﹁わたしはおまえたちをそんな腰抜けに育てた覚えはない。自分の
頭で考えて、自分ができることをやれとわたしは言ったはずだ﹂
強い彼女の声に、第六中隊の面々ははっと我に返ったようだった。
彼女が彼らに求めた彼ら自身の役割を最後まで演じろと、アリナ・
エーヴァは言っているのだ。
﹁整列!﹂
教会から椅子を運んできたユホ・アーッテラの声が響いた。
男の号令に、兵士たちが数秒でアリナ・エーヴァ・ユーティライ
ネンの前で整列した。
﹁気をつけ!﹂
胸を張って直立不動の姿勢をとった兵士たちをアリナがいつもの
ようにどこか冷たくも感じられる眼差しで見つめている。
戦時中は日常風景だった。
上官の様子を窺うようにユホ・アーッテラが、アリナを見つめる
と口元に柔らかい笑みを浮かべた彼女は胸の前で腕を組んだままひ
とつ咳払いをした。
﹁休め﹂
アリナの号令に、兵士たちは彼女に視線だけを向けた。
365
それを確認した女性指揮官はやれやれと言った様子で自分の首の
後ろを撫でると、肩をすくめてから﹁楽にしろ﹂と言った。そうし
てアーッテラの運んできた椅子に腰をおろした彼女は、じっと三分
の一まで減ってしまった自分の兵士たちを凝視する。
長い沈黙だった。
感慨深げに彼らを見つめているアリナがなにを思っているのだろ
う、と多くの部下たちが思い始めたころ、アリナはうつむきがちに
帽子の下で口を開いた。
﹁⋮⋮よく戦ってくれた﹂
アリナは長い沈黙の後にそう告げた。
そうして続ける。
﹁ウリスマイネンの森で、わたしたちは最後の戦いに臨んだ。絶望
的な状況にもかかわらず、誰も指揮官であるわたしの命令に脱落す
ることもなく、戦いに臨んでくれた。今、こうして、わたしの話し
を聞いてくれているおまえたちに、わたしはまず前線指揮官として
礼を言う﹂
一拍おいて彼女は言葉を続けた。
﹁多くの仲間たちの命が失われた。もう知っていると思うが、あの
うるさいティッティネンのおやっさんも死んだ。落ち着いたら、お
やっさんの墓に顔を見せにいってやってくれ。きっと、おまえたち
が生きていることを知って嬉しく思うだろう﹂
最初にヴィッレ・ティッティネンが亡くなったことに触れてから、
彼女は長く息をついた。
アリナ・エーヴァはこうした話しをすることにひどく長けている。
﹁わたしたちはあの戦いで、最も偉大な功績を残した友人を失った。
彼は最後の最後まで優秀で、仁勇に長け、素晴らしい男だった。あ
の時、状況は混乱していて、敵も味方も入り乱れ、自分の部隊の兵
士も、余所の部隊の兵士もわからないそんな状況の中、シモ・ヘイ
ヘは撃たれたんだ⋮⋮﹂
アリナ・エーヴァの口ぶりに苦々しいものが乗った。
366
﹁ダムダム弾でな⋮⋮、国際法で禁止されているにもかかわらず、
だ!﹂
激しくなる彼女の口調に、第六中隊の面々がざわめきをもたらし
た。
彼らの脳裏には今、一ヶ月前の戦いが蘇っていただろう。
激しい森の中の戦闘に彼らは晒されていた。それでも絶望的な中
に戦い続けたのはアリナ・エーヴァがそこにいたからだ。
﹁今でも、まだわたしには応急処置をされていたヘイヘの顔を忘れ
られない⋮⋮。血にまみれて、意識がほとんどないっていうのに、
彼はただただ申し訳なさそうにわたしを見ていた﹂
自分の腕の中で脱力していったシモ・ヘイヘの様子に、アリナの
脳裏にはかつてモロッコの植民地戦争で共に戦ったヴィシュヌを思
い出した。
あのときは、ヴィシュヌと共に意識がなかったからそんなことは
覚えていない。
けれども、ヴィシュヌもそうだったのではないかと、アリナ・エ
ーヴァの意識の淵になにかが蘇りかけた。
﹁マケ・ウオシッキネン中尉も、コッラーの戦線で死んだ⋮⋮﹂
オリンピックにも出場した体操選手でもあるマケ・ウオシッキネ
ンが戦争で死んだ。
鼻をすする音にユホ・アーッテラが首を回すと、そこには従軍牧
師を務めたアンッティ・ランタマーと従軍記者のエリッキ・パロラ
ンピ中尉がそこにいた。
静かに響くアリナ・エーヴァ・ユーティライネンの話しに黙って
耳を傾けている。
﹁わたしもあの戦いで重傷を負ったが、それでも覚えている。三月
リュッシャ
十三日の朝、我らの戦友であるグリゴリ・シニサロが死んだ時のこ
とだ。奴の亡骸を持って帰ってやりたくても、忌々しいソ連軍の政
治将校が迫っていて、それすらもできなかったんだ。シニサロは敵
のただ中に置いてくるしかなかった⋮⋮。彼の魂は、きっとスオミ
367
ネイトの腕に抱かれて天へ召されるだろう﹂
アリナ・エーヴァの言葉はそこで途切れた。
すでにランタマーとパロランピが訪れていたことに気がついてい
たのか、アリナは座ったままの姿勢で男たちを見上げてふわりと笑
う。
優しい笑顔だ。
その笑顔がまた、彼らの深く底のない悲しみを呼び起こした。
いつでもそうだった。
アリナ・エーヴァ・ユーティライネンという女性は彼ら兵士たち
にとって精神的な支柱になっていた。
誰よりも強靱で苛烈でありながら不器用な優しさを滲ませる彼女
に多くの兵士たちがついていった。
﹁⋮⋮大いなる出来事と、大いなる代償。我らの戦いは無駄ではな
かった。我々が戦い抜いたからこそなるべくしてなるようになった。
それが神の思し召しなのです。イエスの死は我らスオミに暮らす全
ての兄弟たちの死を慰めるものでした。戦いは終わり、多くの死に
我らは直面しましたが、神や兄弟たちの崇高な導きにより、我らの
土地に再び平和がもたらされたのです﹂
アリナ・エーヴァの言葉に続けるように、アンッティ・J・ラン
タマーは言葉を続けた。牧師らしい穏やかな声に、兵士たちはうつ
むくと泣き声をこらえる。
大いなる出来事と、大いなる代償。
フィンランド人たちにとっての戦いはこうして全てが終わった。
*
ひざまづ
五月の初旬の誰もいない教会。
イエス・キリストの像の前に跪いて両手を胸の前で組み合わせて
いる女性がいる。
喪に服する黒いドレスと帽子。
368
教会を訪れるときの彼女のいつもの服装だ。
そうしてそんな彼女の斜め後ろに立っているのはやはり長身の青
年で、全体的に色素の薄い彼は国防空軍の制服を身につけていた。
﹁手紙、受け取りました﹂
声が響く。
まだ包帯が完全にとれているわけでもない上背の低い男が教会の
入り口に立っている。
シモ・ヘイヘがユヴァスキュラの病院に入院していると発覚した
のは四月の下旬だった。部隊を代表して第三四歩兵連隊第六中隊の
指揮官、アリナ・エーヴァが彼に手紙を綴った。そして、ヘイヘか
ら返事がきたのはつい最近のことだ。
﹁遅い﹂
アリナの短い苦情に、ヘイヘは小さく苦笑する。
﹁申し訳ありません﹂
静かな声だ。
フィンランド国防空軍の飛行士を務める青年︱︱エイノ・イルマ
リ・ユーティライネンが振り返ると、そこにはシモ・ヘイヘが立っ
ていた。自分の背後にいる姉のアリナ・エーヴァが身じろぎもして
いないのは気配でわかった。
﹁もっと早く連絡できれば、姉さんを心配させずにすんだのですが
⋮⋮﹂
静かに淡々とした声が響いて、アリナ・エーヴァはようやく立ち
上がると、足音も立てずに振り返る。
逆光になった教会の入り口に立つ男を見つめて、やっと彼女は目
元を和らげた。
﹁シムナ、おまえはわたしにとってかけがえのない、そして素晴ら
しい部下だった﹂
シモ・ヘイヘとアリナ・エーヴァの会話に、口を挟むこともでき
ずに、エイノ・イルマリは事の成り行きを見守っている。
戦場で築かれたふたりの絆。
369
キートス
それからアリナは長い、とても長い沈黙を挟んで顔を上げる。
﹁シムナ⋮⋮、ありがとう﹂
空気を振動させる音はやがて冷たい、しかし北国の遅い春の空気
の中に消えていく。
そうしてからうつむいたアリナの肩がかすかに震えた。
﹁⋮⋮姉さん﹂
そっとエイノ・イルマリが姉の肩に触れると、彼女の体は確かに
震えていて彼は言葉もなく抱きしめる。
﹁それでも、ヴィシュヌは笑ってくれないんだ⋮⋮﹂
涙も、嗚咽もなく、ただ昂ぶる感情のままに肩を震わせる姉をエ
イノ・イルマリは無言で抱きしめ、シモ・ヘイヘは午後の明るい日
差しの下でやはり言葉もなく立ち尽くすしかできなかった。
ヘイヘにはわかっていた。
上背の低い自分が誰かに重ねられていることを。
彼女は、いったいどれだけ辛い喪失を続けていけばいいのだろう。
けれども、悲しむべきことは、アリナ・エーヴァは精神を削り続け
るような過酷な状況に自身を起きながら、そんな世界で生きていく
事しかできないのだ。
モロッコの恐怖︱︱そう呼ばれるアリナ・エーヴァは、確かに自
分の心を痛め続けながら、そうすることでしか生きていけない。
悲しい戦士として、彼女は銃を手にし続けるのだろう⋮⋮。
370
41 戦争の狭間
戦争とは残酷で、ありとあらゆるものを奪っていく。
戦時中に国民を鼓舞するために必要とされた﹁英雄﹂の存在に対
して、彼女はひどくくだらないものであるように感じた。しかし、
わかっているのだ。
英雄と呼ばれる存在はどうしても必要なのだ。特に戦況が明らか
な劣勢に立たせられている時こそ必要になる。
戦争という暴風の中を駆け抜けるように生きてきて、そんなアリ
ナ・エーヴァに求められたのは、希望の灯火として銃を握り、そう
して旗をかざすことだった。
射撃場で地面に伏せた彼女は、狙撃銃を構えたまま丁寧に照準を
合わせる。
戦場とは違い、的は動かない。
だから狙いがつけやすいと言っていいだろう。
正直なところ、アリナ・エーヴァは狙撃を苦手としている。
深く息をついて、心を静めた。スコープを外しているのは、かつ
て彼女の部下だったシモ・ヘイヘの真似だ。
︱︱よくもまぁ。
アリナ・エーヴァは内心で嘆息する。
﹁シムナは天才だな﹂
苦く笑った。
もちろん、そんな言葉で簡単にすむような話しではない。彼のか
つての上官であるアリナ・エーヴァによくわかっていた。﹁天才﹂
という言葉ではすまないほど、ヘイヘが努力に努力を重ねているこ
とを知っていた。
引き金を引くと同時に銃弾は動かない的に向かって射出され、外
れるわけではないが的の真ん中とも言えない場所を撃ち抜いていく。
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そんな自分の射撃の腕にアリナはひとつ息をついてから独白した。
﹁わたしには猟師は向いていないな﹂
銃を放り出す。
アリナ・エーヴァは地面に仰向けに転がると、大きく両腕を開く
ように投げ出すと青い空を流れていく白い雲を見上げて物思いに沈
んだ。
彼女自身が自覚していることだが、いかんせん気が短すぎる。
北国の夏は暖かいが短く、冬はそうして暗く長い。もっとも、気
候は地域によって大きく異なり、雪に覆われる期間は、南西部だと
年に七十から百十日。東部では百六十から百九十日、北部では二百
から二二〇日とまちまちだ。
春には洪水が起こり、初夏には霜が降り、様々な気候の変化に見
舞われる。こういった変化は農作物の収穫に大きな被害をもたらし
た。
そんな厳しい自然に支配された土地。それがフィンランドだ。
こうした土地で生まれ育ったフィンランド人は、我慢強く不屈の
回復力を持ち、そして勤勉であることが美徳とされたが、自分とは
まるで正反対だとアリナは思った。
︱︱女のくせになんでもできるんだな。
かつて、モロッコの戦場で銃の手入れをしていたアリナ・エーヴ
ァの横に腰を下ろした上背の低いグルカ族の青年は、どこかあきれ
たような眼差しで彼女を見つめた。
彼は、シモ・ヘイヘよりもずっと身長が低かった。
アリナ・エーヴァが五フィート八インチの身長があるのに対して、
グルカ族の青年︱︱ヴィシュヌは四フィート八インチだった。
﹁器用貧乏なだけだよ﹂
ランプの明かりにナイフの刃を跳ね返している上背の低い男は、
ちらと黒く輝く強い瞳で彼女を見つめてからフンと鼻を鳴らした。
﹁嘘つけ﹂
﹁本当だよ﹂
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即答するように言葉を返したアリナ・エーヴァはそうして沈黙す
ると、手入れの終えた銃を傍らに押しやってから砂地の上に転がっ
た。
﹁⋮⋮なんでもできても、どれもひとつとして一流なんかじゃない。
ただ、わたしは中途半端なだけだ﹂
テントの端でごろりと長身を横たえているアリナは、けれども、
男たちと比べればそれほど大きなほうではなかった。もちろん、南
方系の男たちと比べれば良い勝負だったが、そんなことを比べてみ
ても意味などない。
体格で戦闘能力に優劣ができるわけではないことを彼女は知って
いたから。
事実、当時彼女の相棒と呼ばれたのは、アリナ・エーヴァよりも
一フィートも身長の低いグルカ族の青年と、彼女と同じ出身国のヴ
ィサ・レフトだった。ふたりは体格だけ見れば正反対で、上背の低
いヴィシュヌに対して、レフトはアリナよりも頭半分ほど大きかっ
た。
射撃も、格闘も一流にはほど遠い。
それがアリナ・エーヴァの自覚だ。彼女は決して自分の能力を過
信することはしなかったし、敵にしろ味方にしろ、相手の能力を侮
ることもしなかった、
常に彼女は全力で敵に臨んできた。
だからこそ、生き残って来れたのだ。
戦争、あるいは戦いの場において、敵の能力と自分の能力を正確
に把握するということは重要なことだった。
どちらを見誤っても、その向こう側にあるのは死と敗北だけだ。
﹁もしも、おまえが敵に捕まったときはどうする?﹂
﹁⋮⋮男なら多少はまともに扱われるだろうけど、わたしは女だか
らねぇ﹂
野蛮な相手の捕虜になれば、身の安全など保障はされないだろう。
アリナは、ヴィシュヌの問いかけにつぶやくように応じながらテ
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ントの壁に顔を向けるようにして黙り込んだ。
﹁そのときは、自殺するかもね﹂
﹁なんだ、貴様なら図太く生き残りそうだが﹂
﹁⋮⋮はっ﹂
男の言葉にアリナは肘をついて上半身を起こしながら、自分より
もずっと小柄なヴィシュヌを見つめた。
﹁その辺の強姦事件とは違うでしょ。死ぬまでまわされておしまい
なら、その前に自分で自分の命の始末をつける﹂
捕虜に人権などない。
そして、アリナは自分がなによりも﹁女﹂であるということを理
解していた。もしも、万が一捕虜になったらどうなるかもわかって
いたのは他でもない、彼女自身だ。
﹁でも、むざむざ捕虜になるつもりはないけどね﹂
機嫌の悪そうな瞳を返したアリナはそうして再び横になると、そ
のまま体を丸めて目を閉じた。
ひとりではなかった。
戦いの中で、彼女はヴィシュヌとヴィサ・レフトに守られ、そう
して彼らを守っていた。もちろん、同じ部隊の男たちのことも、で
あるが。
︱︱あの三人⋮⋮。ひとりが女だとはとても思えんな。
それが周囲の評価だった。
どんなに苦しい戦闘でも、彼らの息はぴったり合っていて厳しい
任務も彼らに与えればほぼ完璧にこなしていた。
それ故に、彼らにつけられたのは﹁モロッコの恐怖﹂という異名
だ。
ラッキー
﹁格闘はヴィシュヌに及ばない。射撃はシムナに及ばない⋮⋮。た
だ、わたしは幸運なだけだ﹂
たったそれだけ。
フィンランド陸軍の多くはアリナ・エーヴァが格闘を得意として
いると思われているらしいが、彼女自身にその自覚は薄かった。か
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つて兵士として最も体力のあった時期に、誰よりも強い戦友を知っ
ていたからというのもあっただろう。
彼と組み合うといつも負けてばかりだった。
自分よりも長身のヴィサ・レフトと組み手をしても互角以上の戦
いができたというのに!
そんな友人を相手に彼女はいつも自分の技を磨いてきた。
殺人のための技を。
冬期の戦争は短いがそれなりに激戦で、かつてモロッコの砂地に
いた頃の若い彼女の記憶を思い起こさせた。
モロッコの植民地戦争で、そしてつい先日終わった冬期の戦争で
彼女は気心の知れた兵士たちも、そして仲間も、たくさん失った。
まるで熱く熱を持った鉄が冷めていくように、アリナ・エーヴァ
は徐々にその熱から解放されて﹁正気﹂を取り戻す。
戦場で、戦闘に飲み込まれるのは良い傾向とは思えない。
それを誰よりも知っていたのはアリナ・エーヴァだ。
いったい何人の兵士たちがまともな市民生活に戻れるだろう。
そこまで考えてから伸びかけた金髪が首筋に触れるうっとうしさ
にアリナはわずかに眉をひそめると、人の気配を感じて目を開いた。
﹁⋮⋮ミカちゃん﹂
﹁傷はいいのか?﹂
﹁別になんでもないよ﹂
言いながら、体を起こすと彼女は地面に尻を着いて座ると、長い
両腕で膝を抱えた。その膝の上に顎を乗せて首を傾げると、立って
自分を見下ろしている男を見つめる。この男は敵に対しては容赦な
いが、別段、平時に危険人物なわけではないことをアリナは知って
いた。
﹁貴様が、頭を撃たれたときは、おまえの部下たちが泡を食ったそ
うじゃないか﹂
﹁そうなの?﹂
きょとんとした様子で彼を見上げているアリナに、男は溜め息を
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ついてから隣に腰を下ろすと両脚を投げ出して空を仰いだ。
﹁なにせほとんど意識がなかったから覚えてないんだよね、どこ撃
たれたのかもはっきり知らなかったし﹂
﹁なるほど﹂
まぁ、脳天ぶち抜かれればエヴァでも命はないだろうからな。
そう続けた男は、放り出されている銃とククリナイフに目を留め
てから肩をすくめてみせた。
﹁結局、亡霊から離れられないんだな﹂
あきれた様子のミーカ・ヴァーラニエミにアリナは柔らかく笑う
と、視線をナイフへと放る。
﹁いいんだよ、別に﹂
亡霊に取り憑かれたままでいいのだと彼女は言う。
﹁わたしは、きっと死ぬまでヴィシュヌのことは忘れられないし、
ヴィシュヌのことを忘れたらわたしじゃないと思ってる。わたしは
最後まで奴とともに戦い続けるつもりだから。それに、ヴィシュヌ
のことだけじゃない⋮⋮﹂
彼女は友人の男に告げてから静かに笑った。
﹁わたしは、あいつらの戦った姿を忘れちゃいけない。いずれ数年
かれら
わたしたちだけ
でも覚えておいてやらないと﹂
もしないうちに戦った記憶なんて忘れ去られていくだろう⋮⋮。だ
から、せめて
若いながら勇敢に戦った兵士たちを忘れてはならない。
多くの犠牲の上に積み上げられた、薄いガラスを思わせる頼りな
い平和を。
﹁ミカちゃんは、この平和がずっと続くと思う?﹂
﹁⋮⋮平和、か?﹂
世間は戦争に満ちあふれている。
グロス・ドイチェス・ライヒ
フィンランド共和国とソビエト連邦の戦争は三月十三日に終わっ
たが、その翌月には大ドイツ国がデンマークとノルウェーに侵攻し
た。
そしてさらに五月にはドイツによる西部侵攻が行われたのだ。
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現在、状況としてはフランスが大きな苦難に直面している。
フィンランドにとっての戦争は終わったものの、世間は相変わら
ず不穏に染まっていた。
﹁⋮⋮︱︱少なくとも、スオミにとっては、ね﹂
三ヶ月に及ぶ冬の戦争で、フィンランド共和国は消耗しきった。
それでも、現在、多くの情報を収集しつつソビエト連邦との間に
しかれた新たな国境に対して防衛線を構築している。
国防軍は戦争が終わったとは言え、忙しさは変わらない。
三月の末には、アメリカ合衆国から買い取った新型戦闘機の受領
にベテランのパイロットたちが出発したほどだった。
﹁おまえはこのまま現役に復帰か?﹂
﹁そうだね、訓練もあるし﹂
面倒だけど仕方ないね。
からりと笑った彼女はそうして銃とナイフを手にしながら立ち上
がった。それがアリナ・エーヴァのかわいげのなさとも言える。
決して誰かに頼ったりしない。
自分でできることを、全て自分でこなそうとする。
おそらく甘えることが苦手なのだろう。
﹁こないだ、コッラー戦友連盟っていうのを結成してね。みんな楽
しそうでいいことだ﹂
灰色の軍服の襟元を指先で直した彼女は、ミーカ・ヴァーラニエ
ミに片手を差し伸べながら彼を引き起こすとにこりと笑った。
その瞳は彼の友人としてのものではない。
コッラー戦線を支えたひとりの指揮官として、彼女はどこか誇ら
しげだ。
﹁そういえば、パロランピが忙しなかったな﹂
﹁いろいろパロランピに任せてるからねぇ。財政管理とか、わたし
には無理だし﹂
コッラー戦線を戦った第十二師団を中心として、コッラー戦友連
盟なるものが結成されたらしいというのは国防軍の間では比較的有
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名な話しだった。
そのコッラー戦友連盟の証しでもある、コッラー十字章が制作さ
れているのだという。
﹁よくやるよね、あいつら﹂
アリナ・エーヴァの手にひかれて立ち上がったヴァーラニエミは、
無造作に彼女の手から銃を奪うと肩に担いで歩きだす。
﹁誇らしげだな﹂
﹁⋮⋮わたしの部隊は半分が消し飛んだけどね﹂
短くつぶやいた彼女はそうして声もなくほほえむと、かすかに目
を細めてから、そうして視線を落とした。
﹁でも、あいつらがいたから、コッラーは持ちこたえることができ
たんだ﹂
ラドガ湖北方面の防衛線が突破されればどんな事態に陥るのかを
彼女は知っていた。わかっていたから、なにがなんでも守らなけれ
ばならなかった。
﹁そうだな﹂
第十二師団が決死の覚悟でコッラーの戦線を維持していたから、
第十三師団はモッティの撃滅に力を注ぐことができ、カレリア地峡
軍はマンネルヘイム線に集中することができた。また、スオムッサ
ルミ方面の第九師団も同じだ。
第十二師団のおかげで、どの部隊も挟撃に対する気遣いをせずに
すんだ。
たった一個師団で、彼らはソビエト連邦軍第八軍を受け止め続け
たのである。
﹁貴様もいたからな﹂
﹁わたしなんて大したことはしてない﹂
﹁⋮⋮︱︱そういうことにしておいてやる﹂
なにか言いかけたミーカ・ヴァーラニエミは結局、別のことを口
にして息をつくとアリナ・エーヴァの肩を乱暴に抱き寄せた。
﹁戻るぞ﹂
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﹁はいはい﹂
フィンランド共和国を取り巻く状況はこれからもっと厳しいもの
になっていくだろう。けれども、今はつかの間の平和だとしても、
彼らは戦争の狭間でようやく息を吐き出すのだった。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n9783by/
コッラー川の奇跡
2016年7月7日10時27分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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