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Title 西曆十三世紀の小アジア Author(s) 井谷, 鋼造

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Title 西曆十三世紀の小アジア Author(s) 井谷, 鋼造
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<學界展望>西曆十三世紀の小アジア
井谷, 鋼造
東洋史研究 (1980), 38(4): 664-674
1980-03-31
https://doi.org/10.14989/153758
Right
Type
Textversion
Journal Article
publisher
Kyoto University
4
6
6
撃界
井
谷
鋼
造
れ、育った地域である。それとともに小アジアの地は、地闘を見れ
地に居住したトルコ人にとって租圏となった土 地 であり、現在のト
ル コ 共 和 園 に 連 な る オ ス マ l ン 朝 を 初 め と す る ト ル コ 人 園 家が生
なかった。すなわち小アジアは十一世紀末より現在に到るまで彼の
﹀EιoZ(小 アジア側)が並び稽された如く今世紀に到るまで幾ら
ロッパの 三大陸に跨る世界的な大帝園オスマ l ン朝園家をうちたて
た輝かしい過去を持つ 。 オ スマ l ン朝園家は西暦一四五 三年にコ ン
、
スタンティノ lプルを攻略し、ピザンツ帝園を滅.ほして以来 その
華々しい活動の舞墜をバルカン半島の 側に 移 してしま ったと 言われ
るが、小アジアがその後もオスマ l ン帝園において枢要の位置を占
口SAZ (オ ス マ l ン 帝 園 の バ ル カ ン 宇 島 側 領 域 ) と
めたことは 河
し、この地を住地として数世紀を経た後、ア ジア 、アフリカ、ヨー
のトルコ共和園を形成するトルコ人である。彼らは西暦十一世紀以
来、小ア ジア(嘗時はル l ム 河口ヨ 地 方 と 呼 ば れ て い た ) に 流 入
の民族の支配下にあったが、最終的にこの地の主となったのは現在
小アジア︿アナ トリア)半島 はアジアの西端に位置し、古来幾多
西暦十三世紀の小アツア
望!
ば明らかなように、その北は黒海、南は地中海に面し、西はバルカ
ン学島に接し、東はアルメニア、グルジアからアゼルパイジャン地
知 地方﹀に
方に連なり、東南はシリアと上メソポタミア(え山富 可
パ 、コ lカサスと メソ ポ タミア をつな ぐ接
到り、アジアとヨーロ ッ
黙となっている 。 東 西 を 結 ぶ 交 通 路 が 幾 本 も 小 ア ジ ア を 通 過 し 、 こ
うした 事情で小アジアは世界史上の諸事件の数々に遭遇する ことと
なった。古くはアケメ不ス朝ベルシャとギリシャの戦役やアレクサ
ンダ l大 王 の 東 方 遠 征 か ら 、 中 世 の 十 字 軍 運 動 、 モ ン ゴ ル 人 の 西
、
征、あるいはティム l ルの遠征など 、どれも小ア ジアを通過して
として行なわれたものである 。 こうして小ア ジアの 地
あるいは舞啓一
は世界史とも深くかかわる地域である ことが理解されよう。
西暦十一世紀末以来、十四世紀初めにアナトリアの透境でオスマ
l ン朝園家が産聾を上げるまでの二百年以上の期間小アジアの 主要
部はセルジ ュlク朝のスルタ l ン(ル l ム・セルジュ lク朝 )の統
①
治下にあ った。 このセルジュ l p朝のス ルタ l ン政権(ル l ム・サ
ルタナト ω長自白土河口自)は現在のトルコの最も古い直接の組先
と呼べるであろう。従来、我園の皐界では十一世紀末以来オスマ l
。
ン刺創建に到る 小ア ジアの歴史に関する 研究は皆無といっ てよい
僅かに三橋冨治男氏の文献紹介のための一篇の論文﹁小アジア(ル
千葉
セルジュ lク靭史研究のための本原史料と傍 歪史料﹂(
ー ム )HH
) を見出すのみであ
大摩文理拳部紀要文化科皐篇第二瞬、一九六O
る。本稿では小アジアのセルジ ュl F朝図家の歴史を概観した上で
パ およびトルコにおける諸研究を紹介し、併せて 筆 者 自 身
ヨーロ ッ
の展望を記しておきたい。西暦十三世紀という時代を選んだのは小
アジア のセルジュlク朝園家に 関る史料の多くがこの世紀以降に 書
かれたことの他に、小アジアのトルコ人の歴史という観貼からも、
また慶く世界史的な観熱からもこの時代がとりわ け重要であると考
-148-
展i
6
6
5
えられるからである。
Jprmz﹀ZEロと言い、ガズナ朝のスルタlン・マフム iド に 捕 え
己・玄己r の執成で助命 さ れ 、 ア ル プ ・ ア ル ス ラ ン の 跡 を 縫 い だ ス
ムシュの子スライマlンはセルジュIF帝園の名高い宰相
F
ードはシlア波を奉ずるダイラム人のプワイフ朝の統治の下にあっ
ルタlン ζ 巳停臼
ZN帥自
られ、獄死したという。グタルムシュもまたアルプ・アルスランに
背いて一O 六 四 年 に イ ラ ン の
ミ近郊でアルプ-ア紗スランと
への敗走途中、羊小舎で紹命したという。クタル
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た が 、 十 一 世 紀 後 半 に 到 り 、 東 方 よ り 吋 O間 宮 己 回 品 に 務 い ら れ た
足らずの関にスライマlンはビザンツ領小アジアを東から西へ横断
戦い、。
セルジュ l p朝の軍隊がイラ ンを綴て 侵 攻し、一O 五五年にはバグ
し、コンスタンティノ lプ ル を 目 前 に し た ニ ケ l アの町に現れたの
西暦十世紀後半以来、西アジアのイスラlム世界の中心地バグダ
ダードに入城してこの町を再びスンナ波の手に取り戻した。セルジ
ュl p朝 は ト グ ル ル ・ ベ グ を 繕 い だ ﹀ 芯 ﹀ZFロ の も と に 大 帝 園
であった。
賞だ け で な く 、 セ ル ジ ュ l F 朝 と 何 ら か の 関 係 を も っ た ト ル コ マ ン
が十一世紀前半以来ほとんど紹え聞なく小アジアへ m
EN帥ス略奪の
スライマlンの成功の要因は、皐にビザンツ側の弱憧化という事
Er に よ っ て 小 ア ジ ア へ 迭 ら れ た 。 そ し て 十 年
を 形 成 し 、 エ ジ プ ト の フ ァ l テ ィ マ 朝 と イ スラlム 世界を二分する
形勢を現出した。トルコではこのセルジュlp朝を大セルジュlク
回
SErω 巴2E三 宮 と 呼 ぶ 。 セ ル ジ ュ l p朝の英主アル プ ・アル
スランは小ア ジ アに遠征して一O 七一年東部アナトリアのマラズギ
ルド (
ζ と仙N
E正日玄gNF君。でピザン ツ帝園の 軍隊を撃破し、時
5
の中で、一O 一 五 │ 二 ハ 年 セ ル ジ ュ l タ 朝 の のEmr
帆・
力 を 措 抗 さ せ る ま で に な っ た 。 ス ラ イ マ lンは そ の 後 、 ア レ ッ ボ を
めぐってマリク・シャ l の弟、﹃EEF と戦い、戦死したハ一O 八
トリアに図家を建設し、セ ルジ ュlク朝の ルl ム ・ ス ル タ l ン と 勢
侯 図 。 自 帥EC を 建 て る こ と に な る ﹀ ユ
Z 回。聞や曲目可OEZFE
ES品が相次いで侵入した。このうちダ l ニシ占マンドは中部アナ
L
のぜザ ンツ皇帝 ロマヌス・ディオゲネス︿﹀司自白ロ目的)を虜とする大
勝利を得た。この事件を契機に小アジアヘ大量のトルコ人(トルコ
マン﹀が流入し た。そしてマラズギルドの勝利から十年を経た一O
ルル・ベグの兄弟でアルプ・アルスランの父│の指揮下、東部アナ
ための遠征﹀を行ない、小アジア内陸部へトルコ人が浸透しつつ
あったという事寅に求められよう。 ζ ・
出
・ JEEZ は吋降、含句、
同
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Hミ玄lhE2bNRN俗、むきミ ﹃・みE
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八一年にはピザンツ帝闘の都コンスタンティノlプルに程近いニケ
トリアへの mENR が 行 な わ れ た こ と を 述 べ て い る 。 ま た J
Eロ自の
によれば、小アジアへはスライマlンの他に、後になってそれぞれ
ュFmlトグ
g-ggr の手中に あった。この人物
I アの町が ω己 主EEr50ロ
こそル i ムのスルタ l ンたちの租である。そしてイスラ l ム敬徒に
よるニケ l アの攻略はピザ ンツ帝園に脅威 を輿え、この事件が一因
となってピザンツ皇帝の要請により西欧に十字軍切組織されたこと
は史上有名である。スライマlンの父 05とヨgv は大セルジュー
ク朝の初代スルタlン・トグ ルル・ベグ の従兄弟にあたる。クタル
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F の兄で、別名・を
ムシュの父 ZSJ- は ト グ ル ル ・ ベ グ の 父 宮F
-149ー
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2 は人質としてマリク・シャ
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六)。スライマlンの子。己目。﹁﹀
ー の 許 へ 途 ら れ 、 成立問もないルlム ・サ ルタナ トはそ の主を失っ
た。マリク・シャ l の 死 後 三O 九 二 ) ク ル チ ・ ア ル ス ラ ン は 解 放
されて小アジアへ戻った。しかし一O 九 七 年 小 ア ジ ア に 上 陸 し た 第
一回十字軍によって エケ lアは占領され、 ロ。ミ-22(トルコ名
の戦 い に 敗 れ た ル l ム ・ サ ル タ ナ ト の 都 は コ ニ ヤ
FETEC
rouロqm﹀ へ 移 っ た 。 そ し て ク ル チ ・ ア ルスラン もまたユ
p
p
穴 Oロ
(
﹃
EE円河酔でマリク・シャ!の子 吉田目
l フラテス河支流の 穴
白 包 の 軍 と 戟 い 、 敗 死した(一一O 七)。スライマ l ンといい 、ク
ルチ・アルスランといい、園家草創の時期に二度までもその君主を
大セルジュIP靭との蹴いで失ったことはルlム・サルタナトに大
きな影響を輿えずにはおかなかった。
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同 g
各与がス
クルチ・アルスランの死後三年を綬て、子の ω
ルタ l ン位に即いたが、三年後ダ l ニシ品マンド朝の後押しを受け
E は一一一六年から一一五
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A
た弟の玄虫色包に位を奪われた。 P
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五年まで位に在って園家の基礎を固め、西でピザンツ帝園と、東で
﹀
ダ l ニシュマンド朝と争った。玄2・ を縫いだ
502官官 -EHW に お け る 戦 い で ピ ザ ン ツ 皇 帝 マ
世 は 一 一 七 六 年 玄M
ヌエル・コムネノスの寧を破り、ビザンツ帝闘の小アジア回復の
希望を完全に打ち砕く一方、一一七八年にはマラトヤ(豆丘三吉川
玄 巳 兵 守 る を 占 領 し て ダ l ニシュマ ンド朝を滅.ほし、小アジアの
ムスリム・トルコ人のチャンピオンとしての地位を確立した。しか
し 、 一 一 八 六 年 、 年 老 い た ク ル チ ・ ア ルスランが 九 人 の 息 子 と 二 人
の 弟 と 甥 に 自 ら の 領 土 を 分 配 す る や 、 彼 ら の 聞 で ス ル タ l ン位の縫
承 を め ぐ っ て 激 し い 争 い が 起 り 、 小 ア ジ ア の 各 地 に セ ル ジ ュ l p朝
の 王 子 た ち が 割 接 す る 中 、 一 一 九O 年には神聖ロ l マ皇帝フリード
リヒ・パルパロッサ率いる十字軍が首都コニヤに侵入する事件さえ
渡生した。一一九二年にクルチ・アルスランE 世が死ぬと、十一人の
王族の聞でスルタlン位をめぐる争いは激しさを加えた。結局一一一
O 四年までに王族の一人である河口昨ロ巳-UZω 三 ミ 日 吉 ωEFが
サルタナトの統一を回復したが、この人物はすぐに死に、その跡を
-rF22唱が
クルチ・アルスランE 世 の 末 子 。EZpm凶ケロ門口町内向q
縫いだ。このスルタlンに綴く三代の期間ルlム・サルタナトは最
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も安定し、繁栄した時期を迎える。カイホスロウは大セルジュ l p
が著者
Tミ と -btpqgnHbhEHANN・匂
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朝 の 歴 史 を 記 し た 史 書N
N 司印ロ含によって献呈されたスルタ l ンである。 すなわちイラン、
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イラクにはもはやセルジュ l タ 朝 の 君 主 は 居 ら ず 、 今 や セ ル ジ ュ ー
ロ
クの血統を織ぐものはル l ムのスルタ l ンのみとなったのである。
a'E耳5(HN lHNNO﹀
カ イ ホ ス ロ ウ の 跡 を 縫 い だ ιNN包-UE 穴
. 巳 UHロ同ハミ・﹄ロ﹃肺門戸 (HNNOlHNω 吋)は共に有能なスルター
と メZ
ンであり、この二人の時代にル l ム・サ ルタナ ト の 園 勢 は 大 い に 伸
長した。とりわけカイタバlドの治世には園家はめざましい設展を
途げた。カイクバ lド時代セルジュ l p朝 園 家 は モ ン ゴ ル 軍 に 迫 わ
2・
れてアゼルバイジャンに現れたホラズムシャl﹄巳包巳・ロE 三
P白色。r曲目 Hwpで 敗 退 さ せ て 東 部 ア ナ ト リ ア の ﹀rEご ま で 進
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mBEz--を一二三O 年エルズィンジャン(阿WREST﹀REWロ)近郊
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mE2 まで箪を迭っ
出 し 、 さ ら に 黒 海 を 渡 っ て ク リ ミ ア 牢 島 の ωロ
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包 含 の H, 円
た。後世のオスマ l ン 朝 の 史 料 品
d各自帥ロにおいてスルタlン‘﹀Z・と-UE は 侮 説 的 な 名 君
として語られているように、カイクバlドの策審は後世まで語り継
﹀
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-150ー
の治世を停
Eg は‘﹀Zw巳-UE
3 azER同 で最近の研究動向を紹介しつつ飼れてみたい。
国内
Z-P︿ユ(﹁繁祭期﹂﹀と呼んでいる。しかし、二,、
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がれた。トルコの史家 Om目
-ハミ'rr224︿
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七年カイクパ 1ド が 渡 し て 息 子 の のrq営 ﹃ 丘
E世がスルタ l ンに即位するとル l ム・ザルタナトには停滞と弱鐙
d ︿帥ユ﹄の回忌者による宗激的な反飢
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化が現れた。一二四O 年
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zrf2 の反凱﹀。ル l ム・サルタナトはフランク人
加した(回同
がアナトリアの東南部に設生し、多くのトルコマンがこの反飢に参
のカを借りてこの反蹴を鎮座したが、二一四二年にはモンゴル人が
)に 侵 攻 し 、 翌 一 二 四 三 年 ス
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エルズルム(開ロロZBM﹀ 民 自 己'
r に お い て ∞ ミy
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ルタ i ン・カイホスロウE 世 の 軍 は 関0 8 0曲
Z師国﹀とカイセリ (-P321042同日司るを征服するとい
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H。苦
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rロ--HU吋H.
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二四三年までの小アジア、第三部はモンゴル侵入前の小アジアにお
g 雪印-224) であり、
r祉 は そ の 名 の 通 り オ ス マ l ン 朝 以 前 の
、昔
吋
ンゴル帝園に服属する地位に甘んじなければならなかった。そして
この本の特徴は中世の西アジア史全般について慶い拳識をもっ著者
ける祉舎と制度、第四部はモンゴル時代の小アジアを扱っている。
S
この時黙から牢世紀絵を経てル 1 ム ・ サ ル タ ナ ト は モ ン ゴ ル 人 に 到
カl エンによる小アジアの枇舎と文化についての塑富で詳細な記述
ルメニア語、シリア語、ピザンツ帝園の史料などにも言及してお
り、その博識ぶりには脱帽せざるを得ない。ただ政治史に関しては
を含んでいる黙にある。ヵ l エンはベルシャ語、アラブ語の他、ァ
精雑然とした印象を拭えず、いくつかの誤解や誤りを含んでいる。
ードに代表される安定と繁栄の時期であったのに封し、モンゴル人
トにとって衰退と零落の時代であったといえよう。モンゴル人の侵
の侵入という未曾有の大費動を蒙っ たその後半はルlム・サル タナ
e
以上述べてきたように十三世紀の小アジアはその前牢がカイク ハ
する層圏の地位のまま史上から姿を消した。
はパイジュ・ノヤンに同行し、
曲に到った。冬の訪れと共にモンゴル軍がアゼルパイジャンの
目
う事態
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) 玄zEιEzr r
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牧 地 へ 鋳 還 す る 際 、 ル ー ム の 宰 相 ( 包f
phcmEロ の 牧 地 で モ ン ゴ ル 人 に 封
序論の他四部に分れる。第一部は大セルジュ l p帝圏、第二部は一
小アジアの文化と歴史に関する概設定
3 回・﹀・ 2
E酔 ・ ョ ミ 。QRA旬 。 。 立 志ミE宏司
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h。給与匂Rhr-ARRE戸 内 国 国 国 E
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た。二一四三年のモンゴル人の侵入の結果ル 1 ム・サルタナトはモ
してニとなり(すなわち服属し)毎年貢物を献上することを約し
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r.HugOMBE 叶EEph
、 Na語ASSRP 吋骨込守♂同日gロ鈴
町
宮
三
町
豆
筆者の知る限り、次の三冊を奉げられるのみである。
ルジュlF朝期のルlム(小アジア)の歴史に関する専著としては
において少しく鯛れられてきた。しかし、十三世紀の小アジア、セ
史﹂と考えられることから、従来オスマlン朝史に闘する概設の類
西暦十三世紀の小アジアに関してはこの時代が﹁オスマ l ン靭前
1
1
攻以後王朝の滅亡までのルlム・サルタナトの歴史については次節
-151ー
zag 率いるモンゴル軍の前に潰走し、 、モンゴル軍がスィヴァス
7
6
6
6
6
8
ルスランからオスマン・ガlズィーまで﹂二百五十年近い小アジア
成とも言うべき著作である。全篇七百頁を越す大著で﹁アルプ・ア
0及。ョ
史を績逃したものである。、2・
吋ミ
-r匂 と 違 っ て 、 各 頁
に入念な脚註を附し、その参考文献の中には未だ公刊されていない
歴史という親熱から、たとえばアルメニア人のトルコ人に劃する従
S
を撃破した 円虫色。
篤本類を含み、 完 成度の 高 い研究室田 であるといえる 。 ただ敢えて難
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z・丘町UE 穴印可ムロ﹁帥仏とアイユ
たとえばルlムのスルタlンメ
ω
r
z﹃が連合してホラズムシャl﹄と包丘町UE
zsg の戦いの行なわれた年月を二二一二年
0 質際は一二三O 年 八 月 ﹀ ル l ム の ス ル タ ー
七 月 と し た り 守 ・5
の徐りに梢統一的な翻黙に紋ける嫌のあることと、﹁トルコ人﹂の
姑と思われるのは膨大な史料を駆使して歴史的盲学賞の検査にあたる
属といった問題を必要以上に強調しすぎることである。トウランは
になった後 ω喜 一 ロ 穴 冨 ロ パ ト ク 大 王 の 許 へ 波 遣 さ れ た
J
ン、カイホスロウE 世が町内 DMOOω 同r の戟いでモ ンゴ ル 軍 を 前 に
Fとー﹀
!プ朝の玄白-
ω﹃曲目白
あえなく敗走してルlム・サルタナトがモンゴル人に服属するよう
色
-uzzrr帥 巴 と い う 人 物 が パ ト ゥ か ら ル l ム 地 方 に お け る
けるパトゥの代理としてスルタ l ン、カイホスロウが任命されたと
ム・サルタナトに闘する史料の公刊と多方面にわたる研究論文の設
P
E昔、山ま匙向。、足止に(イス
セルジュ l F朝期の小アジアを中心に L
ラlム百科辞典のトルコ語版)に多くの記事を執筆する一方、ル-
官EB(太守﹀の地位を輿えられたという史料の記述をルlムにお
い う 風 に 譲 み 違 え て い る なN
m
S。 モ ン ゴ ル 時 代 以 降 の 小 ア ジ ア
が枚められている。中でも筆者が最も多くの頁をさいて論じている
アのセルジュ l F朝 園 家 の 政 治 、 社 曾 、 文 化 の 各 分 野 に わ た る 研 究
の 玄 -z・
JEEE や玄・句E 仏国内ε z z の研究を踏まえた比類の
な い 研 究書 であった。全種は序設の他、十七章に分けられ、小アジ
│ 一 九 五 六 ﹀ の め 汁oqhSHghFAZQRRwg ﹀EhohHbh
旬
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句h
刷
は濁ソ戟のさなかに刊行さ、
れたものであるが、蛍時としてはトルコ
。
ソ連邦の歴史皐者、文献皐者回・﹀・ゴルドレフスキ l (一八七六
心の康さが窺える。
地法や金融に関する論究も設表しており、経済史的側面における関
者 な ら で は の 成 果 で あ る 。 ト ウ ラ ン は 他 に ル l ム・サルタナトの土
は現存するワタフ文書 の詳細な検討を基礎にしたもので、現地の撃
表 を行なった。中でも重要であると思われるのはセルジュ l p朝 期
⑦
の ワ タ フ に 関 す る 一 連 の 研 究 を 設 表 し て い る こ と で あ る 。 この研究
⑥
の歴史に関してカ l エンが最も注意を掛っている黙は十三世紀小ア
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ジアに流入したトルコマンについての問題である。カlエンは
同
S 1Nqry の第四部中、﹁トルコマン諸侯園の形成﹂﹁種族
。及。ョ
的展開﹂︿ZZ520-E5ロ)の二節でこの問題を説明する他 2222
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草QF2U司、江口同つ恒三﹀などの論文を設表した。十三世紀の小
アジアのトルコマンについては彼らが十三世紀末以来小アジアの各
E三 宮 ( ル ー
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Z1F(﹁侯園﹂)を建て、割嫁した事寅から後世との関連に
おいて最も関心のもたれるテlマである。
地に
巴2
トルコ共和園の史家オスマン・トウランの手になるのの
EEZω
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NRNQ可N
何事ぬ苦言壮吋怯込合偽は永く﹀
ム ・ サ ル タ ナ ト ﹀ 研 究 に 携 わ っ て き た ト ウ ラ ンの 政 治 史 研 究 の 集 大
-152ー
9
6
6
大きな要素の一っと考えられるが、小アジアにおけるイクタlの問
ER は西暦十世紀以来の西アジア祉禽を特徴附ける最も
のは小アジアにおける﹁封建制度﹂の問題である。この中で述べら
いやられたが、モンゴル人のルlム侵攻後、サルタナトの権力が衰
ピザンツ帝園との境界附近やアナトリアの北部、東南部の漫境へ追
のトルコマンが流入した。彼らはル 1 ム ・ サ ル タ ナ ト に よ っ て 西 方
タナトに代ってモンゴル人(イル汗薗)の直接的な小アジア支配が
えると各地で反鋭を起した。そして一二七0 年代以降ルlム・サル
れている
て小さくない。
題かゴルドレアスキーの研究書において取り上げられた意義は決し
えて九百年目に嘗たるため、それを記念してトルコ共和図では一九
クが各地に生れ、ベイリク時代が始まるのである。十三世紀の小ア
し始めると、小アジアには
自家を先頭に度々反蹴を起し、
白 B
強まると、トルコマンは O E
モンゴル人と封立した 。 そ し て 十 四 世 紀 に モ ン ゴ ル 人 の 勢 力 が 後 退
一九七一年は一O 七一年に行なわれたマラズギルドの戦いから数
O 年前後にセルジュ l p朝 全 般 に 関 す る 多 く の 研 究 が 夜 表 さ れ
七
ジアにおいて新たに流入したトルコマ ンは来たるべき時代の扉を関
OR曲目g-CRBぞ町田口などの諸ベイリ
た。上に述べたオスマン・トウランの﹁セルジュlク朝期のトルコ﹂
︿ 原 動 力 と な っ た と い う 意 味 で 最 も重 要 な 役 割 を 演 じ た と 言 っ て よ
ωUB2 の論文は﹁ア
期 待 さ れ る 。 ト ル コ で は ス ュ メ ル の 他 ﹀ZωoiE-Z丘 三 沢ω司自民
オグズH ト ル コ マ ン の 歴 史 に 闘 す る 研 究 の 第 一 人 者 で あ り 、 今 後
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い。この意味でスユメルが﹁アナトリアのモンゴル人﹂の中でトル
コマンとモンゴル人の問題を扱ったことは十三世紀の小アジア史研
一
E 可2
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﹀同国 ・
も そ の 一 つ で あ る 。 一 九 六 六 年 に は 開 ・ ∞ ニmFζ ・
2F40玄EgFuzwz
・ 0 白色
玄
3 司・ ωEE2らによって ω乙2rZH,
0
何回師陣 神田急﹁セルジュ l p朝 歴 史 ・ 文 明 研 究 所 ﹂ が ア ン カ ラ に 創
HE
コ
食
設 さ れ 、 一 九 六 九 年 か ら 研 究 誌 と し て 匂 氏 ミ ミ 控 除E1q草
コ
究に重要な貢献を行なったといえるであろう。スユメルは
EZ・呂町吋や同門司ぬかミミ HNRNQコ﹀ロE5・呂田叶などの著者で、
ロ
﹀
し、内容的なまとまりに 紋けるのに射して、
,c
z﹃=である。この論文
w 玄。仲o
m
d
z
rωEE2 の と5 o
R
は m
は百四十七頁もある長大なものであるが、内容は非常に充貸してい
る。それはカlエンやトウラ ンの 著書が 編 年 誌 的 に 諸 事 件 を 羅 列
などがル l ム・サルタナトに鞠わる研究に携わっており、セヴィム
。0
ωTFロ巳'NmE 色
5ω 唱刊の﹄ NAHEAFHHahは 一 九 七 二 年 ﹀E 切
脳内田
ナトリアのモンゴル人﹂というテ l マを軸に一つの統一的な親黙の
ミ h h F g a匂ぬ九阿南 QH 色白人声NFhFと い う 史 料 を 校 訂 し て 刊 行 し て い
門
﹄
r
s
h
o
。司、丸が愛刊され始めた。この研究誌の第一巻の巻頭を飾ったの
下に諸事件に言及している黙にあると思われる。スユメルはこの論
句、にミ遣
S という有名なパルヴァlネ宰一向に関する専著を出版し
た。 トルコではオスマン・ト Pランのような大家に代って放は少い
U言
す る 一 員 で あ る 。 カ イ マ ズ は 一 九 七O 年33bミ足、言雲仙'
る。セヴィムもまた﹁セルジュlタ朝歴史・文明研究所﹂を主宰
﹁セルジュ l p朝歴史・文明研究所﹂を主宰する一員として活躍が
文の中で小アジアに到来したモンゴル人がいかなる部族の出身であ
ったかを詳細に分析した後、彼らの定着過程を述べている。しかし
ルタナトの歴史とアナトリアに新たに流入したトルコマンの動向に
この論文の前牢の内容の中心はむしろモンゴル侵入後のルlム・サ
ついてである。寅際、モンゴル人の西征の結果、アナトリアへ多く
-153ー
ンに績いてル l ム・サルタナトを取り上げた研究を行なったのは、
が期待すべき研究者たちが現れて来ている。一方、欧米ではカ l
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AZE︽四日 世 も 加 え て 三 人 の 兄 弟 が
サルタナトを統治することにな
とクルチ・アルスラン兄弟の聞でスルタ l ン位をめぐって争いが起
ア 位である。ヴリオニス
﹄
った。カ イ クパ lドH 世はモンゴ ル の 大 カ ン 、 モ ン ケ の 許 へ 赴 く 途
上で病波したが(一二五四﹀、ヵイクパ lド の 出 設 後 カ イ カ 1ウス
ω官官日︿ミ 02ω
は ビ ザ ン ツ 帝 園 側 の ギ リ シ ャ 語 文 献 を 駆 使 し て 叫 ぶ 向 。Rご言。¥
筆者の知る限りでは
同凡
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¥ESN' り 、 ヵ イ カ l ウ ス が 勝 利 し た の も 束 の 開 、 一 二 五 六 年 に は パ イ ジ
ミSSQNFNNEssbsgg;ぇ阿古﹄
F町、ミピSHF(USEq- ュ・ノヤンが再び小アジアに侵攻してアクサライ(﹀﹄認可制)近郊の
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。 ω三035 F Sご を 刊 行 し た 。ソ連ではゴル ω己ヨロ穴r帥ロでルlム・サルタナト軍を破 った。カイカ lウスは
向
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コニヤを捨てて嘗時ビザンツ帝園の皇帝の居たニケlアへ洛ちのび
﹃臼
た 。 パ イ ジ ュ は ク ル チ ・ ア ル ス ラ ン を ル l ム の ス ル タ l ンとした
ここでモンゴル侵入後のルlム・サルタナトの歴史について筆者
れるやカイカ 1ウ ス が ビ ザ ン ツ 側 の 支 援 を 得 て コ ニ ヤ を 奪 回 す る と
が、パイジュがフラグのバグダード攻略に動員されて小アジアを離
⑪
ド レ ア ス キ ー 以 後 2・ヱ-E23hS が 筆 者 の 知 る 限 り で は 二 篇
司
円
。
の論文を設表した程度である。
の所見を述べておきたい。先ず、以下に嘗時のルlムの政治史を簡
土は二分されて東牢分をタルチ・アルスラン、西半分をカイカlウ
スが統治することになった。二人の兄弟スルタlンはその後フラ
グ ・
ハ ンの首都営へ共に 出頭したりしたが、一一一六一年にはモンゴル
いう事態になった。結局、大カン、モンケの命令でサルタナトの領
単 に 記 し て お く 。 一 二 四 三 年 の モ ン ゴ ル 人 の 侵 入 後 ル l ム・サルタ
ナ ト は モ ン ゴ ル 帝 図 に 服 属 し た 状 況 に 置 か れ 、 そ の ス ル タ l ンたち
の運命は初めモンゴル帝閣の首都カラコルムで、後にはイル汗閣の
カIウスはアンタリア(﹀己注目立)からコンスタンティノlプルへ
逃れた。カイカlウスはその後小アジアへ戻ることなく、ピザンツ
軍の強力な支援を受けてクルチ・アルスランがコニヤに入り、カイ
N 俗ケロ日ロ穴ωu?rmwd、,E
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w刊の 遊 力 で カ イ ホ ス ロ ウ の 長 子 a
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E世が新スル タ l ンに擁立された。彼は蛍時十一裁にすぎず、サルタ
のベルケ・ハンに救われ、クリミアに領土を輿えられてこの地で生
領内に監禁されていたところをジュチ・ウルス(キプチャク汗園﹀
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ハン遠の討で決定されることになった。一二四五年スルタiン、カ
)ωE自白色
イホスロウ日世が急死すると、省時の宰相(制副官﹃
ナトの園事は専ら宰相シ ャムスッディ l ンが 掌握し て い た 。 と こ ろ
涯 を 終 っ た 。 ク ル チ ・ ア ル ス ラ ン は ル l ム の 唯 一 の ス ル タ 1 ンとな
-哨
が 一 二 四 六 年 モ ン ゴ ル の 大 カ ン 、 グ ユクの即位に 列席し た カ イ カ l
ったが、カイカlウスとのスルタlン位争いは彼ら一代で鯵らず、
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ウスE 世 の 弟
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(教書﹀を
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駿 し て 自 ら が ス ル タ l ン に 即 位 す る よ う に と い う ヨ ユ 同m
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そ の 子 供 た ち の 時 代 に ま で 持 ち 越 さ れ た 。 ク ル チ ・ ア ル ス ラ ンW 世
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世が即位するが、一二八四年に
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得 て 小 ア ジ ア へ 飾 還 し た 。 サ ル タ ナ ト で は カ イ カ 1ウ ス を 擁 立 し た
が宮司君帥
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サlヒプ、シャムスッディlンが大カンの殺害にあった命令で鹿刑
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されたが、結局二人の兄弟は安協し、末弟のメ
-154ー
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げられる。たとえばカイカlウスはその生涯をクリ ミア で彩った事
貧が一示すように、以前からキプチヤク草原のジュチ・ウルスとの交
このスルタ l ンが亡くなると新スルタ l ンには父の死後クリミアか
ら小アジアへ来たカイカlウスの子ζgaEE世が即位したのであ
後にはイル汗園の側からの後押しがあった。さらにカイカ lウスと
渉が存在したし、一方クルチ・アルスランは初め大カンのグユ夕、
ナトの有力なイラン人官僚が爾仮に分れ、カイカlウス側にはシャ
タルチ・アルスランは共に凡庸な人物であったが、ルーム・サルタ
る。以上のように、モンゴル 侵入後のル lム・+ルタナトの歴史は
であろう。こうした十三世紀後半の 小ア ジ ア の 歴 史を的確に捉える
カlウス側を支 持 したことは兄弟のスルタlン位争いを政治史の一
ル人に援助されたタルチ・アルスランに反媛してトルコマンはカイ
ルヴァ iネ宰相がついてサ ルタ ナトの園政を左右したことやモンゴ
方であるが、現在公刊されている史料の中にはトルコマンの動向に
貫 した硯黙とすることで十三世紀後牢の小アジアの諸事件を解明す
ムスッディ 1 ン・イスファハ l z l、クルチ・アルスラン側にはパ
関する記述は乏しく、断片的にしか見出せない。 筆 者 は十三世紀後
ためには一貫した親黙がどうしても必要である 。カ lエンやスュ メ
半の小アジアの政治史を解明する硯黙はカイカlウス、ク ルチ・ア
る糸口が開けることを示しているのではなかろうか。そして兄弟聞
のスルタlン位争いは何よりもサルタナトの権威を下落させ、モン
ゴル人に劃する抵抗のカを奪い、セルジアーク朝のルlム・ザルタ
ナトを滅亡させる最も大きな直接的原因となったのではあるまい
ム・サル タナト内政への介入である。かつ ての スルタ 1 ン位争い に
考えている。
を政治史の中心に据えて十三世紀の小ア ジ アの歴史を考察したいと
‘以上に述べたように、筆者は今後二人の兄弟のスルタ 1 ン位争い
。
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は小アジア内部のダ l ニシュマンド朝、或いはピザンツ帝園側の介
のことにすぎなかった 。とこ ろが十三世紀後半の小アジアは ユーラ
シア大陵を席捲した モンゴル人の 手でその 運命を決定されたのであ
る。つまり十三世紀後牢の小アジアの歴史は箪なる﹁地域史﹂にと
どまることを許されず、否態なしに﹁世界史﹂の流れに結び附けら
イカlウスとタルチ・アルスラン兄弟の開のスル タ lン位争いが翠
れたのである。このような小アジアの欣況を象徴する事件としてカ
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3・円安︿口白血可MMFS色所冊以)の中でセルジュ 1ク朝
史料に燭れておきたい。トルコの有名な歴史皐者玄・同り C包町内
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最後に十三世紀の小アジアの歴史を考察する上で必要な幾つかの
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I
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入が時に臨応じて存在したが、それはつまるところ﹁地域史﹂の枠内
弟の争いには以前にはなかった要素が加わり、それだけに争いの様
相も復維になったと考えられる。その要素とはモンゴル人のルー
スルタ 1 ン位をめぐる兄弟聞の争いはル l ム・サルタナトの歴史の
中で幾度も繰り返されたが、カイカ lウスとクルチ・アルスラン兄
ルスラン兄弟のスルタlン位争いに置けるのではないかと考える。
ルのようにトルコマンの動きを中心に据えるのは非常に有意義な見
に言えることはスルタ l ンの権威の 低下とモンゴル人の 影 響 の増大
非常に目まぐるしく製化し、複雑極まりない。諸事件を通じて確貨
671
4.
kd
pb
期の小アジア史に関する現地史料を列血申して詳しい解説を加えてい
る 。 こ れ ら の 史 料 の う ち 十 三 世 紀 の 小 アジアに関する 主 要 な も の と
し て 次 の 三 つ の ベルシャ語史料を傘げることが出来るであろう。
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-UZ は回暦六七O 年ωEdE 月 ( 西 暦 二 一 七 二 年 三 月 ) に 浪 し
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たことが史料中で述べられている。アヤ・ソフィア所蔵官同本を刊行
F によれば、 潟 本 の作成は、六七九︿一二八O/ 一﹀年で
し た 開R
ある。この史料はルlム・サルタナトの歴史を研究する上で最も基
a豆、 (作
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本的か つ重要なものである 。zzzE釦が 校 訂 し た 若Eb
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成時期は六八一 1i六八四/一 二八二i 一二八六)の他、オスマlン
PNg白白
朝 の 豆 日 包 日 世 ( 一 四 二O l五 一 ) の 治 世 に はJ
に よ っ て 古 オ ス マ ン ・ ト ル コ 語 へ の 翻 誇 が 作 ら れ た 。 後 世 の 史家
QAVS-
。のイプン・ビ lピ lの と 'bgh吉之::はル l ム・サルタナト
ム ・サ ルタナトに閲する部分はイブン ・ビlピー が 利 用 さ れ た と 考
玄E と
﹄=
H ∞自主 (一七O 二年後﹀の著作 停止遣円札'UREQNの ルー
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ゴト
ω﹀ 著 者 不 明 叫 RH
R2Nh
に 関 す る 史 料 と し て 最 も 有 名 な も の で 、 す で に 一 九O 二年同N
えられる。
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Fghazbh'VミK22RPM の第四 巻として
b なミ22hbh凡
忘 bh
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CNZr に よ り こ の 穏 本 の フ ァ
にある。一九五二年トルコの句・ 2・
クシミリ版テキストとトルコ語誇が刊行された。
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件 ま で を 記 し た 短 い 史 料 で 寓 本 は パ リ の ∞FroHF25ZEFOE-o
の作者不明の﹁セルジュ l p朝史﹂は七六五/一一一一六一ニ│四年の事
関しては最も重要な史料である。
L::・の記述が一二八O 年で終っ ているので、これ以後に
とみさ雪
ルタナトに関する最も詳しい史料であり、特にイブン・ピlピ!の
は ス ル タ l ン ・ カ イ ホ ス ロ ウE世 の 死 後 ( 一 二 四 五 ) の ル l ム ・ サ
オスマン・トウランの校訂で吋・吋・穴から刊行された
四l 五 に 作 成 ) に 二 種 類 の 篤 本 が 現 存 す る 。 テ キ ス ト は 一 九 四 四 年
。 この史料
Pヨ のω旦(七四五/一一一一四
(七三四/一三三一一一│四に作成)と J
hEhのカリ l ムッディ l ン ・ マ フ ム lド ・ ア ク サ ラ lイl の h
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キ ス ト は ヨRESEw- の名で知られる一種の ﹁要約﹂ をもとにした
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知られた女性であったためイブン・ピlピ!と呼びならわされてい
ZZE司回﹃、父親
る。イプン・ピ lビ ー が 自 ら の 父 母 に つ い て 語 っ て い る と こ ろ に よ
EC削ロの出身であると
れば、母親のビlピl・ムナッジマはイランの
,
H ﹄日削ロは
UZ 冨ロ官ヨ自民、 R
﹄ι 巳'
田
沼
UZ に 仕 え て い た が 、 彼
い う 。 雨 親 共 に ホ ラ ズ ム シ ャ l ﹄ 己 主 巳の 滅 亡 後 ( 一 二 三 一 ) ダ マ ス タ ス へ 落 ち の び て い た と こ ろ を 嘗時の
ルl ムのスルタ l ン、カイクバ lドI世に乞われてル l ム・サルタ
ナ ト に 仕 え る こ と と な っ た 。 そ し てイ プン ・ピlピlの 父 去とι
-156ー
ζ ・吋}fzzzBmw によりテキストが刊行された 。 も っ と も このテ
⑪
吉 司 ミ ::は七二三ハ一三二三)年、首時のイル汗園のル l ム太 守
、
口門叶営r Z口 三 口 の た め に 書 か れ た も の で 、 ア ヤ ・ ソ フ ィ ア
HJS
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ものであり、イスタンプルのアヤ・ソフィア所蔵の原テキストは一
﹀
包 長 印 刷 によりト ルコ歴史四年協合同(け吋 ・穴
ESω
apユ丘町河口間宮内町と言うが、その母
・γ
ωケ玄EMEwと
か ら フ ァ ク シ ミ リ 版 で 刊 行 さ れ た 。 著 者 は 本 名 を 巳 ・ 恒5ミロ
九五六年﹀
pAZ
吉日自主
gzpZEと 目白が ルl ム・サルタナトの 宮 廷 で 占 星 家としてよく
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a日・
以上、三つのベルシャ語史料の他、十三世紀の小アジアに関する
同時代史料としてはパール・へブラエウスの﹁編年誌﹂のマ
南部の町マラトヤに生れたキリスト教徒パlル・へプラエウスによ
、Fハ宅が翠げられる。この史料は一一一一一五 │ 一一一一一六年小アジア東
﹁イプラlヒ
05ー巳白Hzrq幸一帽を取
の人物の名について三つの讃み方の可能性が示されている。私
はこのうち従来から採用されている
J-と
ο三色白zr の死については清水宏一服
った(者)﹂の意)の讃み方が最も泊嘗と考える。
③阿国司帥
一九七五﹀に言及がある。
-ム・イナlルとイナlリヤlン﹂(﹃イスラム世界﹄十鋭、
④十三世紀アナトリア東南部のマラトヤに生れたパール・へプ
ってシリア語で書かれたものである。ドlソンの﹁モンゴル帝闘
りか、トルコマンやルlムのスルタ 1 ンに関する記述、も少くない。
史﹂の中でしばしば引用された史料であるが、モンゴル人の事ばか
テキストと共に円﹀・ 4︿・回Emo による英誇が一九三二年に刊行
fE は自らを
ラエウスによれば、トルコマンの一老人切削冨円相
﹃ 己(使徒)と稽し、マホメットを嘘つきであると言い、こ
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に居住していたトルコマンの聞で急速に由固まり、反飢に設展し
うした彼の教えはアナトリアの中央部から東部へかけての地域
されていたが、一九七六年に再版されて入手し易くなった。
この他にも小アジア周迭の諸圏の史料中にルlム・サルタナトに
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母国内民国出・ミ也、むさ h誌
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第一巻に採録された。切・﹀・﹃,
⑤この本は後に増補されてゴルドレフスキーの四巻本選集の
たという。
言及した部分も少くないが、ここでは以上、筆者が利用しうる限り
の政治史に関する現地史料を奉げるにとどめる。
向 、 最 近 、 清 水 宏 祐 氏 に よ り ∞EEm﹃
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帥 Eg
(﹁イスラム文化研究﹂十二集・東京外園語大皐アジア・アフリカ言
語文化研究所、一九七九)が出された。緒言において氏は将来、寓
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品Z
ω 己2rEZ2 と呼ぶ。
ω主玄E Z 河口ヨすなわちル
本類を含めた史料のビブリオグラフィーを編むことを述べており、
完成が待たれる。
註
史料中で一般に用いられるのは
① ト ル コ 共 和 園 の 拳 者 た ち は ﹀E
ーム・サルタナト(スルタlン政権﹀という表現である。
②この人物の名前については専論がある。﹀
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