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文、同橋本跡五十蹴文を鎖すとあり)
Jなり 火消 を 対
新編武蔵風土記稿卷之七廿を
久良岐郡之五 本牧領
本牧領 は、郡 の中 程より北 にか ふり、郡中凡三分 の二 に
居れり 、痕擬 の唱 の古 き事は齪 に知名 の嫌 に競 せり、此
領内 の界城 、来 北海 に添 ひ、西は都筑郡及相模 園鎌倉郡
にて、北 へよりた る方は是 も海 に邊したり 、南 は粥中金
澤領 に境 ふ、土地 の形隊 以下 は鮮 に村 々の 條 下 に 出 せ
此村は本 牧の本
郡 の東 より にあり、
0本郷村 本 郷村は 、
郷 にし て丙元藤 の図鬮]に本 牧本 郷村 と在 、去 と[正保 の
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船 にては十里 に足ら
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東西十五六丁、
挙子庄 なり 、
南北 二十七
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民戸 四百 三 十、
束 より巽 にはり ては海 面 にて、
内海 か浦 と呼ぶ、南 は
丁、
郡中根岸村、西は中村 、北は北方村なり 、東 方の海 面 は
岸 より 十三丁、南 北三里程は近村漁猟 のことをなし 、専
新鰯武蔵風土記稲樅之七十七 久良岐部之五
分早緘 の地な り、鮨苦 戦小 田原北條氏 の銅地 にて、御入
園 の後 は御料所なり 、元祿 の頃藤本筑後 守、大 久保 大隅
守、松浦造酒之丞等に賜はめ、金子藤本主計大久保甚四
郎 、松浦隼 人等知行 す、
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1880年の撒 くバ-ナ幸筆 繃 繃 蹴 瀬動
本牧開発の歴史
-954 (昭和珍9 ) 年 3月 前年、 市に寄贈された三濱園を「 般に
公開
本数十二天の茶屋
-853 (嘉永 6 ) 年 6月 ペリー、 満賀沖に来航
1959 (日掛蛇4) 年
2 月 ぞ則皆勤里育紀
国工
f859 (安政 6 ) 年 6月 横浜開港
196 4 (日群協9) 年
5 月 国鉄根岸線桜木町 ・滕駕鵲開通
旭68 (明治元) 年
-969 (目群 M 4) 年
3月 本数ふ頭及び棲
難造産業用地竣工
9月 明治と改元
1900 (蠣 鵠 3 ) 年 12月 久良鼓郡本牧村 増刷岸村などを横浜
市に縞圦
博05 (隣部 8)年
原三溪、 三澤園の造成完成
叡39 ) 年
1906 (明治
5月 原三漢、 本牧三湊園 6 万歩形公開
博 = (暁治44 ) 年 12月
9月 本牧市民公園完成
1977 (昭和お2 ) 年 12月 日米合同委員会で米軍本牧住宅地区
の返還に合意
l98 1 (B群騎6 ) 年
9月 第 1回本斂ジャス藻鵠婦催
鯵浜電気鍼賞馨轍盤 (西ノ橋 ・ 檄
1982 (昭和お7) 年
3月 本牧一帯の米軍住宅地区返還
原町間) 開通
1987 (昭和お2) 年
3月 新本助捜区区画整理終了
1989 (平成元) 年
3月 横浜博覧会 (Y E S 189) みなとみらい2 1
19 -2 (大正元) 年 ↑o月 本牧花屋敷開場 (菊人形
又
り
垪画こ活動
写真館およ胡演舞場を併置)
博 t4 (大正3 ) 年
う1 本牧神社の参道
11月 本牧町漁業組合設立
ラ2 本枚十二夫の海岸
19 19 (大正8 ) 年
7月 第一次世界ヌ犠筬勃琵
7月 横浜市、 児童海水浴場な頬文字原海
灘
岬
鬘灘膵
4 月 マイカル本牧オープン
1992 (平成 4 ) 年 1998 (平成10) 年
3月 本牧山頂公園開園
19 23 (大正12 ) 年 9 月
関東大震災
1924 (大正解 ) 年 4 月 市電躰效
蟻
纏延長 (本牧 ・間門眉
勒
192 8 (昭'
奉鱒) 年
193 0 (溌朗鮪) 年
,933 (a醇屹) 年
山手トンネ′椴 逓
6月 間r朝鮮蚊【坤縄翫
稍織姫鬚置
鮒 月 安達議蔵が本牧八王子山に八聖殿を
194 1 (昭和-6 ) 年 12月 日本、 対米英宣戦布告
194 4 (昭和19) 年
8月 学童疎開
l945 ( 鞠 0) 年
5月
根岸の家屋
海岸を誼む
本牧“牡
一皇居前より宮原
く+ こ 実
′繊
(絵葉書 横浜鬱縫駕斗館蔵)
纈 嬢 o 劉、 欄、檄
元町、 間門町の大部分を焼失
8月 ポツダム宣言受諾。 終戦
主宅瀦
9月 米軍住
輻設として接収開始
1946 (昭和栩 ) 年 to月 米軍家族第一陣入居
1950 畑 戦 5 ) 年
6月 醜蹴 撚
同門付近を行く市竈
樹醜瀬餌囮
く横瀬開港
僻 地 より)
富士三十六量 眠敵本投のはな)
広重麟 解 蟷 螂 咎
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(写真提供/ 大拂
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チヤプ展 見る情趣箋 何となく日本放れ←
居く ⑧
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港の横 浜」 と云ふ感じがした。
狭 い六畳の洋室 でも、窓を開 けば白や赤 の点火が点 々とし て海
近 い夜風 さ へ、「相思草」 の舞台岡を聯想さ せ た。真 にモダ ンガ
明治大正実群全集 ・甕 園暗面
松時天展 ﹃
1ルと云ふべき であ ら う」 ^
実話」
▽
昭和に入 ってからはますます盛んであ った。来 客も外国人 に加
え て、キ ョホテ ルほか二店 以外は、京浜 の会社員 や給与生活者も
彼女らはダ ンサーとし ての技婚 はもとより、なかには女学校を
客 と し てむ かえ た 。
田 を も のも い て、 ひ と通 り の知識 を も って当時 の モダ ンボ ー イ ら
に接 し、外 国人とは英語 でつき合うことができた。 ロシア革命直
後 には、帝政派 の若 い外国婦人も ここで働 いた。そこには、ミナ
客 種 も 多 様 にな った こ の頃 から 、 簡 易 ホ テ ルに バ ー、 キ ャバ レ
ト町横浜な らではの雰囲気をただ よわせていた のであ った。
、
な ど を ミ ック スし た よ う な 営
酒
場
ー、 喫 茶 店 (ミ ルク ホ 1 ル)
、外
薬 形 態 を と り は じ め て いた 。 そ の サ I ピ スの た め の女 性達 は
国人 の相手 をするためモダ ンであ った。いわば モダ ン方 1ルの発
導とも いわれた。
活はチ ャプ屋 の特徴な んですね。ひと頃は判事 さんや警察の方も
ます。 その前 にごはんをきちんと済ま しています。規則正しい生
次 のよ う に語 って いる 。
チャプ鼠の内部 (
昭和初期)ーーホー
ル、ピアノがあり力ウンタ1の実にH
洋酒が並んでいる。夜ともなればシャ
ンテリヤポ輝き、ホー ルいっぱい虹ダ
ンスと3
なる。
「この社会 には非常 に古風なも のがあ ってね。建物自体は洋館 と
ね。
来 られまし てね。昭和 の初め頃 はまあよき時代だ った んでし ょう
芸事は必要ありま せんで、普通愉快にさわ いだりし ていたもん
、
です から、 ハイカラに見えま した。二十歳前後の女性 が多く 大
いう モダ ンな も のな のだ が、 こ の中 に神 覇 があ り 、 古 め か し い仏
昭和初 期 のチャプ屋街 には、キ ヨホテ ルと州ノホテルが本牧町
、
い人 で し た 。全 身 に お白 粉 を ぬ って 香 水 風 呂 に入 って いる と も
体は いい人たちが多 か ったんです」 と語 っている。
。
「チ ャブ屋のなかに、メリケ ンお浜という有名 な女性 がいた 私
、
の父が第 ニキ ヨに牛乳を納めていた関係 から、 お浜 さんは父 に
。
何ん でも頼んでいました。お浜さんは浜 ッ子 でした 大柄 で美 し
た。そこには いわば検番の仕事 を兼ねた山手旅館組合事務所 があ
四丁 目 の海 の近 く にあ った ほ か は 、 小 港 町 三 丁目 に かた ま って い
って、 組 合 の事 務 が行 わ れ て いた 。
たく自 由の身 でした。伊勢佐木町 に散歩 に行くも の、銀座 に買物
第四北部有志朧談会)
す」 (
、
間
は、 い っど こ へ出 かけようとま っ
△ ら 彼女らは夜 の営業時 以外
「お浜さんの出す洗濯物だけでも、クリー ニング屋 一軒 の商売が
、
「私はお浜さんと懇意 にしていま した。直接聞 いた話 です が ツ
同座談会 )
な り た った と い います 」 (
ょう
て帰 った と いう こと で、 よ ほど お浜 さ ん が よ か った ん で し
ェッペリ ンの飛行船が来たとき、 その乗組員が お浜さ ん に 惚 れ
、
て、帰るのがイ ヤだと、格納庫 にかくれ てしま い 予定 より遅れ
野毛町 吉田繃氏毯
か ったです よ」 (
。
年代、弥生町 の自分 で経営した バーで亡くなりました
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き
み
ふ
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ね。メリケ ンお浜 って外国ま で知られたんです。戦後 の昭和二世
ここの女性たちに ついて、昭和初期 からチ ャブ屋を経営 した人
は、 「
保護者の認 めた書類をと って、身元の碓奥な者だけを使 い
いて、店 の経営をとり仕切 ってました。 この人 がお客 と交渉 しま
したが、英語が判 る人 で、外国人 でも平気 でした。年輩 の人 が多
チ ャプ 屋 には、 酒 場 さ ん と いう マネ 1ジ ャ︼ と い った格 の人 が
こと だ ってあ り ま し た よ 。
に行 く も の、 日本 橋 の ユ ニオ ンと いう タ ン ス ・ホー ル に顔 を 出 す
っぱ らの評判 で、大層稼 いで、ど んどんとお金を 使 った も の で
「チ ャプ屋 は遊廓とは違 います‘部 屋代とか食費は自前 でしたか
田を生んだ波止場」﹃
横浜今昔﹄所収)
霧烙
大拂次郎 「
からね」 (
すよ。日本髪姿 の女の子が片言で英語を話す と い った当時だ った
壇 が飾 ってあ る と いう具 合 で、 実 に ちぐ はぐ な 感 じ が した も の で
作家 .大佛次郎は昭和初期のチ ャプ屋のたたずま いに ついて、
ス
ホ テ ル
ました。朝食は十時、昼食は午後 一時、夜は六時 にお風呂に入り
旧 /'
/
キス 対 れ
は何処、大黒は何処と判り易 い道 しるべを、何人も放 て不思議 と
小湊 の電車停留場前 には、各 ホテルの案内図が出 て居 て、喜代
四十軒近くも散在 して居 る。ー:.
天 、 小 湊 、宮 原 、 上 室 にかけ て、 ホ テ ルや バ ーや テ ー ハウ スが、
「
何と云 っても真の本場は、本牧のチ ャブ屋 であ る。本牧、十二
に記 さ れ て いる 。
大正期 のチ ャプ屋は盛ん であ ったようで、その 一端 は次 のよう
来 、外国人相孚 に営業 をつづけてきた。
港町 のチ ャブ屋は、 チ ャプ屋街 として指定された大正 のはじめ以
ねり のな か にあ った 。 そ れ は さ ま ざ ま に見 ら れ た が、 な か でも 小
◎チ ャブ屋ーー震災後 の北方は、多かれ少な かれ、時代の波 のう
キヨホテル (以前はキヨハウス) のマ ッチラベル (写真提供 / 搗海正泰)
皺も
昭和3 0年代、 米 軍エリア内を示す看板 (撮影 / 石田兵 - )
記念映画文化財団)
⑪ 下村観山終焉の地
「舶来巾着朝」 の本牧
(位置図示省略)
⑨ 荻原丼泉水の根岸生活
⑩ 古沢大穂句碑
・ の 'の
こうの北原白秋
三溪園と芥川龍之介
秋元不死男と根岸
田島淳生誕地
&
と想像 されるo
、
六三五番
左干天が横浜 で働 いた牧場は 久良岐 郡北方村
っ 。
現中区北方町 一丁目 )菅生健 二郎経営 の間生牧場だ た
地(
。 の間 の状
明治十九年十月から 一年あ まり の期 間 であ る こ
、
に 時
況を知 る資料 は乏 し いが 左 千夫 の 「家庭小言」 当 の
。
間 の群 に投
人
仲
公
奉
所
謂
一端 を推 測す ることが でき る 「
、 子 は殆ど
略)
じ た。 或 は東京、或 は横浜 ニ流浪三年 半 (
伊 藤左 手夫 (一八六四ー 一九 一三 )は明治十 八
」
.
牛飼歌人 .
、
、
年 (一人八五 ) 一月 二十 二歳 のとき 実 業
、
伊繭左千夫
、
家 にな るため の決心から 一円を懐中 にして
。
、
千葉県武射郡殿台村 )を出奔 再び上京する 以後 四
郷里 (
に従事 し
年 間、東京 、横浜 の牧場を転 々と しなが らも労働
、
から の関心
た。牧場 を職場 に選 んだ のは 房総 の酪農事業
圏 中区 ・本牧、根岸地区 コー ス
図 中区 ・本牧 、根岸地区 コース
①②③④⑤⑥⑦
飼 牧 牧 溪 本 島 元
牛 本 本 三 山 田 秋
艇 男
山本周五郎終焉の地
⑨⑩⑪⑰
石川町駅、 根岸駅
⑧ 主義と愛情の福田英子
最寄駅 ・ J R
牛飼歌人 ・伊藤左干天
本牧時代の谷崎潤一郎
。
毎 日十 八時間労働した」
。
た 」 ﹃海 の人 々」)
家 の 並 び に キ ヨ ・ハウ スと いう 本 牧名 物 のチ ャプ屋 が
剤外灯 。当時、谷崎は三十六歳、本牧 に住むよう にな って
な った 。
から、縞 のズボ ンに黒 の上着、中山幅を かぶ って、細 い ス
テ ッキを突 いてと い ったような欧風生活を実践す るよう に
この本牧 の家から大 正十 一年 十月 に、市内山手 二六七番
Aに移 った。家 が台風 の被害を ひどく受けたため で、本牧
には丸 一年余 いたわけ であ る。
本牧 時代 の主な作品 には 「
愛すればこそ」「お国と 五平」
と 、本牧 に住 む外 国人 や混血種 の人 々の生活 を描 いた 「
本
牧夜話」があ る。
回 中区 ・本牧、根岸地区 コース
中区 ・ 本牧、 根岸 地区
原富 太郎 (一人六八- 一九三九 ・号三溪 )が私
本牧 三之谷 にあ る三渓 圃 は十七万平方炉勢 広
さをも つ日本式庭 園であ る。横浜 の実業家 ・
回 中 区 ・本牧 、根膣 地区 コース
嚢 圏と五
之介
川龍
財を 投じ て造 成 し、 明治 三十九 年 (一九○六 )五月、 一般
に公開された。美術愛好家と し て知 られた 三渓は、関西 や
鎌倉 など から寺塔 ・殿舎 ・茶席など逸品を集 め、庭園内に
巧 みに配置 した。 園内 には紀州徳川家 の別邸 ・臨春圏をは
じめ十棟 の重 要文化 財建造物 があ る。
三渓 の長男 ・原善 一郎 (一八九二- 一九三七 )は、芥川龍
之介 (一八九三! 一九二七 )と は東京府立第 三中学校 で 一級
下 の友 人であ った。芥 川は卒業後 も親 しく交わり、しばし
ば 三渓 園 の自宅 に原を たず ね、 三渓 コレクシ ョンの古面を
観賞し て いる。とく に藤原仏画 の 「閻魔 天像」を見たとき
の感想を、善 一郎あ て の書簡 で 「一生わす れま せ んあ んな
甚大な感動をうけた事 は今迄殆な いと云 ってよ い位 です」
と の べ て いる 。 大 正 六 年 (一九 一七 ) 一月 の こと で あ る。
l一九五 一)は兄善 一
また、 三渓 の長女 西 郷春 子 (一人九四-
郎とともに佐佐木 信綱に師事 し、新 月会 のメンバーと し て
夜の
活躍し、歌集 に ﹃
塔 」など があり、善 一郎 の遺稿集 ﹃
雪」を編集 した。
! 一九六七 )が、中 区本 牧 元町 二三七番地 に
鋒弼の地
十 五年 にわた った東京都大森区馬込東を引き 払 って移転し
てき た のは、敗 戦 後 まもな い昭和 二十 一年 二月 のこ と で
あ った。新生 日本 の再 スタ ートとと もに、新夫人 ・吉 村き
んを 迎え て、 さらに新たな文学的出発を期 し て の横浜 移住
だ った。周五虞 四十 三歳 のとき であ る。
昭和 二十三年 の春 には自宅から約 二キ ロ離 れたと ころに
間円町== 三番地 )の奥 の 一室 を仕事
あ る旅館 「間門園」^
に か か る と ま た 間 門 園 に こ も る 、 と い った 暮 ら し を つづ け
場と した。そし て 一段 落す ると自宅にもどり、新 し い仕事
たが、 三十年秋 から 一段上 にあ る別棟を借り受 け、元 日に
こ んだ 。
自宅 に帰 る以外 は 一年中間門園 に 一人ずま いで執筆にうち
従 って 四十二年 の終焉ま で二十 一年間を本牧 に暮 らした
わけ で、とく に後半 生に執筆 した 「柳橋物語」を はじめ、
鯛判 きぷ」
季節 のな い雀
赤 ひ枅診療誣」「
「樅 ノ木 は残 った」「
と し て映 画 の仕事 にも拠 っており、「蛇性 の姪 」 の製作 に
し て の責 任 と 大き な愛 情 から俊 子を 正 式 に迎え て妻と し
自 暴自棄 にな って いた俊子が横浜 ・山 下町 でち ゃぶ屋 に住
み込 んで いるのを聞知 し、彼女と再会 した白秋 は、人間と
月の初旬 であ った ろう 。白秋は、 こ の年 の五月、 一家をあ
げ て三浦 の三崎町向 ケ崎 に移住 、新生 への道 をたど る ので
◎
二年 二月十 四日 の朝 に、岡門園 の仕事部屋 で急逝 した。心
臓衰弱と肝硬変 のた めであ る。 六十三歳 の生涯だ った。
き はじめた朝 日新聞 日曜版小説 「おごそかな渇き」を 八回
分ま で書 いたと ころで、数 日来 の大雪 のあ が った昭和 四十
そして小説技法 のす べてを使 って、総決算 の つもり で書
「なが い坂」など著名な作品はす べてこの地 で生 みだ され
でんや、団子 や、目か つら、風船玉 などを売 る露店が並 ん
た の であ る。
かか って いた。 いわゆる 「小 田原事件」後 の気分転換 と、
「家 は本牧 の海岸にあ って、他 の家 よりも 一層海 に つき
出 て いる木造 の二階だ ての西洋館 だ った。東向 き のベラ ン
あ る。
西村が白秋をたず ねた時期が桜 の咲 く ころと いえば、 四
ダ の直 下には コンクリ ート の崖 の裾ま で青 い波 が寄せ てゐ
の であ る 。
小 田原から横浜に通う 不便も手伝 って、横浜転 居とな った
りあ った隣家 の人妻 ・松 下俊子 であ る。夫と 別 れ胸を病 み、
「ほ っそり した女性 」と いう のは、東京 ・原宿時代に知
六七 の、眼 の磨 い、金髪 の少女 が いた。」
白秋と 一所 に いた。そし てそ の女 性を 「姉さん」と呼 ぶ十
で、白秋 の仮寓は、そ のにぎ やかな通り の中 の茶 店 のよう
な家 であ った。そ こにはじめて逢う、 ほ っそり した女性 が
り の、う らう らと した春 日であ った。 三渓 園 の通り にはお
側に桜 がう わ って、おり から散 り やす い 一重ざ く ら の花盛
「本牧 で電車を降り て、海岸 の三渓 園ま で行く道は、両
秋 のイ マー ジ ュ」 に 、 そ の当 時 の白 秋 が 登 場 し て く る 。
白
ことがあ る。 この歌集 の版 元 ・東雲堂主 人西村隣吉 の 「
本牧 ・桜過風景
た。白秋 二十 八歳 のとき であ る。
大正 十年 (一九二 一)九 月、 それま で住 ん で
いた小田原から、本牧宮原 八八三番 地 に転じ
てきた。 こ のころ谷崎 は横浜 ・元町 の大正活映 の文芸 顧問
小説家 ・谷崎潤 一郎 (一人八六- 一九六五 )は、
北方村 は開港後、外国人遊歩道 の 一部となり 、山手 居留
地 の隣接 地と して、ひらけた地域 であ った。
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〒23十0 82 7 横浜市中区本牧和田19
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暴落莢団 S 竃汕赳磨ぐレマキト "′\ "
づきのおのみこと
おおやまつみのみこと
須佐能男命
このはなさくやひめのみごと
大山津見命
お馬流し神事
、
⋮
末総社ヤ 若宮 八幡宮、天神社、水天宮、字気 の稲荷社
き
熊野神社、阿夫利神社
由緒沿革
お馬流 し」神事 は、
ハ マの奇祭 と し て名高 い本 牧神社 の 「
木花咲耶姫命
本牧 神 社 (
旧称 ・本 牧 十 二天社 ) は、 旧来 、本敬 岬 の先
馬首 には白 幣 、 口には稲 穂 を くわえ 、亀体 の中央 には大 豆
永禄 九年 (一五六 六年 ) か ら 四百年以 上も 受 け継 が れ てお
り 、現在 、県無 形民俗 文 化 財 、及び県 民俗 芸能 五十遂 に指
そ の様 子 は 江 戸名 所 圏絵 にも 「
本 牧 塙 十 二 天社 」 と
し て描 かれ 、江 戸湾 を往 来す る廻船 か らは航海 安全 、地 元
と小麦 を ふか し て、黄 名 粉 をま ぶした お供え と 、神酒 を白
端 (
本牧 十 二天 一番 地 ) に張 り 出 し た 出島 の中 に鎮 座 し 、
巨古 木 蒼然 た る社 に固まれ 、鳥 居 の脚 元 には波 涛 打ち 寄 せ
民 か らは 守護 神と 崇 められ 、本 牧 十 二天 の地 に八百年 以 上
素焼き 皿 に容 れて神 鍵とす る。
カ ヤ) で作 った 馬 首亀 体 で、
定 さ れ て いる。 お馬と ば茅 ︿
頭 部 か ら の羽根 や、長 い尾を 含 め ると 体長 約 一メ ート ル。
も 鎮 座 し てあ つい信 仰を受 け て いた のです。
体 六
は
お
馬
作 ら れ る。 旧本 牧 六 ヶ村 の岡 門 、牛 込 、 原 、
園 風 、黛輪 、台 ょり各 一体 で、作 る のは古 来 、 羽鳥 家と ゞ
り上 げ 、使 用す る茅も 同家 の茅 場か ら採 取 さ れる。 こ のお
馬 にあ ら ゆる厄災を託 し て本 牧 の沖合 い約 五キ ロの海上 に
流 し去 る。 一旦放流 した お 馬 が陸地 へ還着 す る ことを極 度
いま す 。
お馬 迎え 式」 が行 わ
祭 り の前 日、 羽鳥家 か ら神 社 へと 「
れ る。 六体 のお馬は そ れ ぞ れ 「お馬板」 と称 す る扇形 の桧
六月十 五 日大 潮 の目 に決ま って いた が、 明治 に太 陽暦 が採
用さ れ てから は 八月第 一か第 二日曜 ロで、毎年 一定 しな い。
に怖 れ るた め 、潮 の干 満を 大 切 にす る。 このた め祭 日は旧
ま た 、鎌倉 将軍維 廉親 玉 より御領 の寄 進 、中 頃 、両管 領
よりも 同様 に社 領 寄進 。天正年 間 には徳 川家康 公 の関東 ご
、、 く 天 、 虱 、、 地
を半 時も か け てのお 馬迎え式 は 、お 馬 に対す る畏敬 の念 の
静 止 す ると いう 緩歩 で、 そ の間、忌竹 を 持 つ人 々が奉 斎者
の周 囲を絶え ず 祓 い清 め る。炎 天 下、約 五十 メ ート ル の間
鼻 緒 の草 履 と いう正 装姿 。 一歩 進む ごと に両 脚を そ ろえ て
入国 に際し、高 十 二石免御 朱印 の下置 、以 来、徳 川十 五代
日天、月 天、火
牧地 区住 民 の敬 神 の念 のあ っさ、郷 土愛 の深 さを如実 に現
すと とも に、広 く慕 わ れ るご神威 、 ご神 徳 の賜物 でござ い
本 数 地区 の目覚 ま し い再 開発 と とも に、大 神様 に新 し い
ご社 殿、す がすが し い聖域 の境内 にご鎮座 いただ く こと は、
更な るご神 徳 の発揚を たま わり 、私達 が祖 先 か ら連綿と受
いえ よ う o
本牧 住 民 の篤 い氏神 信 仰と 郷土愛 のしか ら しむ ると ころと
一角 に、こうし た古 い神事 が今 に保持育 成 さ れ て いる のも 、
今 は動 力船 に受 け継 が れ て いる。世 界的貿 易港 ヨ コ ハ マの
戦 後 は 二艘 になり 、 現在 も こ の二艘 が 保存 され て いるが 、
で神 社 に参 詣したと いう 。神 船 は古 くは 六艘 、戦前 は 四艘 、
海 岸 では色別 け し た布 を 振 って各 町が応援 す る。 お馬 に託
した災 厄から 一刻も 早く 逃れ る意 味と 、古 く は勝ち 船 の順
若 衆 は声 を 合 わ せ力 を 合 わ せ て力 漕 し、白 波 を蹴 立 て る。
神 船 は流 すと 同時 に左 回り に船首を 陸 に向 け、競 漕と な る
てお馬を 海上 に流す 。お馬は波間を 軽 々と泳 ぐよう に走 る。
力 強く 沖 へ漕ぎ 出 さ れ、沖合 いでは富 元 の船 の合 図 によ っ
ま でゆ ったり と緩 歩 を続 け て いた奉斎 者 は、 一変 し て急 に
け拙 いでき た 「
郷土 ・本牧」 の、住 民 一同 の 「
心 のよ りど
こ ろ -と し て、ま た 、明 日を担 う 子供 達 には幼 き 日 の懐 か
第 です 。
る 神 社 の諸 事 業
せ めと 称 す )。祭 り は 一気 に勇 壮
神 船 め が け て駆舳 出 す (
なも のになり 、神 船 は 乗員 四十 名 、六涎 の椎 、 五挺 の櫓 で
表 れとも いえ る。
祭 り の当 日、神 社を 出 発 した お馬 六体 は 、氏子各 町を 巡
ったあ と 、本牧 埠 頭先 の舟着き 場 (
本 牧 漁港) へと 運ば れ
る。 待 ち受 け て いる神 船 の二十歩 ほど手 前 に来 ると 、 それ
ます。
権 現造 り の神 殿は、 総銅板 葺 き で、唐 破 風と 千鳥破 風 の
二重破 風 、 屋根 坪 は百坪 を超 し て横 浜最大 を 誇 ります 。本
四十七年 間 、仮 遷座を 忍ば れ てお られ た大 神様 に、 氏 子
崇敬 者 の総意 によ る赤 誠を 捧 げ、浄 財を 募 って建立 さ れ た
浄でいま す 。
のが こ の新 神 殿 でゞ
であ り 、境内 地全 面 が前向 き の離壇 形 状と いう、鎮守 様 を
お禮りす る には絶 好 の境内 地 であ りま す。
こ の新 社 地 は 、表通 り に続 く前 面も 、後背 地 の丘も 公 園
防 署 の建 設など の公 共事 業計 画 に伴 い、当神 社 の社有 地 は
従前 地 の 「
本牧十 二天 一番 地」 では なく 、 こ の新 天 地 「
本
牧 和 田十九番 地」 に換 地 さ れま した。
米 軍 の接収 解 除とと も に、返還 地域 一帯 は横浜市 によ る
区 画整 理事 業 が施 行 されま した。産 業道 路 の直線 整形 、消
分 離令 によ って分 け ら れ、本体 の大 日霊女命 を 能 って 「
本
牧神 社」 と 改称 されま した 。
え て いま す。 一尺 二寸 の十 三体 の実像 は 、明治初年 の神 仏
公7に古 老 は 当 の本 体 は 本 殿 の背 後 より 拝 す るも のと す る
風あり )
」 と 記 さ れ てお り 、 十 二天社 の呼 称 の いわ れ を 伝
の十 二神 )を神 前 に記り 、本体大 ロ霊女命 を深 く 秘し たり
を 篝 いで仏説十 二天
い給 いしを郷 人恭 しく 祠字 を建 て、本 村 の総鎮守 と 塞斎 し
たり 。 去る ほど に い っの頃か僧 侶 の手 により本 地垂 邇 の説
年 (三 一
六 三年 ) 正 月 元朝 、演 波洋 々た る海中 に舷期 と し
て鮫 明を 発し 、 一の大 日堂女命 の像 、今 の社地 の海 岸 に漂
ま た 、 別当 寺 であ った多 問院 の由 緒 書 によ ると 「
弘長三
です 。
将 軍より 御代 々頂戴ーー とあり 、方 除 け 、厄除 け にご神 徳
が 顕然と し て、武 家 や庶 民か らあ つい信仰 を受 け てき た の
板 の上 に置 か れ、恭 しく 頭 上 から頭上 へと渡 し継 が れ、決
し て下げ な い。 奉斎す る人 々は紋付 羽織 に袴 、白 足袋 、白
倉 幕府 を 開く にあ たり 、鬼門 (
北東 の方角 )守 護を 祈 念 し
て平安 時 代か ら存 せ る神 殿 に朱 塗 厨子 を 奉納 した 、と ござ
を 余 儀 なく され 、多 く の氏子共 々、苦 難 の時期 を 過 ご し て
おりま した。
伝 記 には 、建 久 二年 (
西暦 - -九 二年 )、 源 頼 朝 公 が鎌
平成 五年 ま で の四十 七年 間、神 社 は本 牧 町 二丁 目 に仮 遷座
しか し、先 の大 戦 の終 戦 直後 の昭和 二十 一年 、 この本牧
地 区 は 二十 三 万坪 に及 ぶ進 駐 軍 の強 制 接 収 に遭 い、以来 、
る風光 明婿な鎮守 様 であり ま した。
お馬様の頭上奉戴
し いふるさと の思 い出とな る、と 強 く確信致 し ておりま す 。
氏子 崇敬者 の皆様 の、弥 栄 のご発 展と ご隆 昌 を祈 念申 し
′
R 限皿 6 暴 s m 返終・詩 J ′ 「壁」 刃矩 5 契印田特餌鮨分 感嵩 @′トAQ g トリ今
国粋群k 鯰群
特 "灘と愛 ,轉 ・囃‐萬二 G 対し軽\蕊
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