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252号 11月発行

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252号 11月発行
昭 和 50 年 度 父 兄 会 秋 期 総会
記 念 事 業に 満 場一致 協力
学生 と交流、 有意義 な国 領祭参観
昭和五十年畦の父兄会秋期総会
は、十 一月八日 (土)午後 一時よ
り約百二十名の出席者を得て国領
分会長が詳細に納得いく答弁をさ たカラーテレビの寄贈についても た。国領祭当日の父兄会総会は本 味をも ってまいりますし、高校時 に進歩している医学を、現在のこ
れた後、父兄会としての文書を 一
全
員
拍手をも って承認した。
年が始めてであ ったが、各種展示 代の延長のように思 っている人も の状態のままで維持 して いくだ
部訂正、全員一致で本事業に協力
最後に懸案の学生の体育館の建 演劇その他の催し物を通じて直接 おりますが、そうではなく、この けでは衰退に 通じることに なり
專門課程では医学の社会的臨床的 内容の充実をはか っていかねばな
することを承認した。
設については、百年記念事業の 一 学生と交流することは、学生生活
年
代
こ
そ
将
来
に
対
し
て
の
幅
広
い
人
ま
す
。
次に父兄会々費増額について川 環として建設が予定されていると の一端を理解するため非常に有意 づくりに大切な時期であります。
日々に新たなものに合うように
村会計幹事より、諸物価高騰によ の説明の後、宮崎副会長の ﹁
長時 義であると好評であ った。
頃散会した。
▼世論にまどわず政
治にかかわらず、己
れが本道の医業を守
り⋮
⋮ と言 っていら
っている。襁袱(
お
れる時代ではなくな
しめ)を洗濯する生
十万円の資金の用意がありました 学の場においても、その要求がお
拶につけ加えさせていただき、よ
期して大学が必要な経済的基盤を であると考えるのは、いささか行
ってきた状態です。そこで百年を ロセスにおいて、その転換が必要
をご審議下さるとか、私からも挨 になり、借財や何かでどうにか保 あろう。しかし、医科学のハイプ
本日承れば百年記念事業のこと が、戦争によりあらゆる財産は零 きているのは、至極当然なことで
します。
了承ご協力下さるようお願いいた も大学昇格の時には大正九年で五 要求される時代である▼医療、医
いと思うので、父兄の方々にもご を持 っていなくてはならず、慈恵 変転にしたがって、発想の転換が
それ故私は現在のやり方で進みた それ故それを賄えるように基本金 活経済においてすら、社会環境の
り増額しなければ父兄会の運用が 間の審議で重要案件も無事承認さ
参観後、再び総会々場で懇観会 專門的知識を充分に吸収し、更に りません。建設と設備拡充はどん
円滑にできない旨の説明があり、 れた﹂旨の閉会の辞で、 一応秋期 が開かれ、和やかに談笑して五時 更に延びていくようになります。 な時期でも休むことはできません
閉会後、出席父兄は開催中の進
会則を 一部改正して来年度から実 父兄会総会は幕を閉じた。
施することも全員 一致承認した。
続いて進学課程から申し出のあ っ 学課程学生による国領祭を参観し
二十 代 こそ 入 づく り に大 切 な時
ろしくお願いいたします。
スの支えがなくては、科学的知性
この慈恵は明治十四年成医会講 確立しようではないかというのが き過ぎと言うものだ。ハイプロセ
記念事業の内容はいろいろあり の発展する余地もない。発想の転
習所としてはじまり、あと五年で 記念事業の出発であります。
間違いのない判断と行動をするこ いればよい、というものではあり 百年になります。樋口先生のご努
自負 できる大 学 こ そ 学 問 の 府
名 取学 長挨拶 (
要旨)
した経済理念に基いて開発された資源が ればならないのは、人命尊重、医療資源
配分されなければならないというメデイ の再開発と同時に、医師の尊巌の回復で
界的傾向として、大衆教養の中途半端な
コエコノミ ツクスという新しい学問分野 はなかろうか。大戦終結後三十年、全世
の確立が提唱された。
歴
田医師会長に就任
校とはいつも連絡ができる体制を 別本能 (
選択本能)、これは潜在
作っておかねばなりません。今ま 的な自然の性向 (さが)
であろう。
で日本の大学では行なわれていな 社会生活をいとなむ人類は、この
の将来あるべき姿を頭におきなが どうセーブするかに苦心している
一、〃 27年 社団法人東京都蒲 い生涯教育を、百年を期して大学 性向が、
不用意に発揮されるのを、
一、〃 30年より34年4月まで
ら事業を進めていきたいと考えて のだ▼この11月5日から、国際婦
︱︱
社団法人東京都医師会理事
おります。慈恵を卒業した方が充 人年日本会議が開かれている。
、
﹃
この会議の開催にあたり、全
一、〃 3
4年5月より50年5月ま 分なる自負心を持てる大学にして
で社団法人東京慈恵会医科大学 こそ、教育の府としての使命が達 国民が、婦人の果たす社会的役割
の重要性を認識し、婦人のもつ優
成できると考えております。
同窓会理事
大学の将来ひいては子弟の将来 れた能力を生かして、わが国の繁
で同副会長、50年5月より顧問 にも結びつく意味合いから、この 栄と人類の進歩発展にい っそう努
一、〃 42年5月より50年5月ま
対する理解と協力が重要だ﹄と、
は ﹃⋮⋮このさい、婦人の政治に
とする。⋮⋮﹄と述べ、三木首相
には、婦人の最大限の参加を必要
ージで ﹃人類の福祉、平和のため
一、〃 42年6月より現在まで、 事業に対しご協 力下さ れば非常 力するよう、切に希望します﹄と
に嬉しく幸 甚だと考 えておりま いうお言葉をくだされのは天皇陛
下である。国連総長はそのメッセ
学校法人慈恵大学理事
曽 根田 義 男
一、〃 43年秋の叙勲で勲五等瑞 す。
宝章を授与さる
同窓会
会長代行
八月には会長、樋口学長が薨去
またご家族に対する思いやりが 亡くなられた後、旬日を出でずご をも った知性の代表者はみな、そ
され、未だ涙の渇かぬ問に、また 深く、大学、同窓会の帰路には、 不快になられ、精密検診のため聖 の女性の偉大な起源性が発揮され
ここに前副会長、顧問の籾木穂積 品川、荏原のお子様たちのところ 路加病院に入院されたが、その後 るのを希求しているのだ。資源問
天照
今年は慈大同窓会にと って、誠 士を思わせる風貌で、先生の性格 意されて、自家用車を避け歩くこ 式辞で言 っている▽生母神 (
は誠実の 一語につきる。
とにつとめられたが、樋口会長が 大神)の原始を思いおこし、良識
に不幸な年であ った。
籾 木先 生を弔 う
与
一、昭和9年 医学博士の学位授
開業し、現在に至る
一、〃 13年 現住所に眼科医院
学專門学校卒業
一、大正7年 東京慈恵会医院医
略
なわれた。
らいずれも籾木医院で厳粛に行
から、ご葬儀は九日午後二時か
お通夜は十 一月八日午後七時
学校法人慈恵大学理事で本年五 ご自宅で逝去された。享年八十才
籾 木 穂積 前 副 会 長 (
大7卒)ご 逝 去
父兄会はじま って以来の重要な 医師国家試験のことについての挨
とが必要であり、技術的に専門的 ません。教養課程でのこの年頃の 力で慈恵は標準的に何ら遜色のな ますが、医師の生涯教育の確立と 換を希求するあまり、狂人と天才
議題をこ審議いただくわけで、 拶があ った。次に国分会長より丸
医学教育は六年制ということで に狭いものを持 って 一芸に通じて 人づくりが、将来非常に大きい意 い立場を保 っておりますが、日々 いうことを考えております。この を間違えるようなことがあ っては
これも子弟を預けている大学の 田前会長と川村前副会長に感謝状 本学の場合は、二年の進学課程四
ように医学が進歩してくると、母 困る▼男性の闘争本能、女性の差
の進学課程物理学生実験室で開催
喜ばしい記念事業に父兄会も参 と記念品が贈呈された。
宮崎副会長の ﹁秋期総会は重要な 掲)があ った。
に急逝された故樋口学長に対し 一 次に名取学長より医学教育及び百 百年記念事業について趣意書、募 ら生理学や解剖学をや っている所 月まで同窓会の副会長として本会
同黙祷を捧げて冥福を祈 った後、 年記念事業 についての 挨拶 (別 金要項について説明 の後、質 疑 もありますが、私はやはり今のま のためにご尽力された顧問籾木穂
応答が行なわ れた。質問 者はい ま切り離して教育するようにした 積博士 (
大7卒)は十 一月七日 (
年の專門課程とな っております。
された。
総会は落合副会長の司会で始め
加させていただくもので、私か
落合副会長より会務報告のあと 近年この制度についていろいろの
らもよろしくお願いします﹂
すぐ協議事項に入った。国分会長 意見があり、大学によ っては六年
以上のような会長挨拶があり、 が議長となり、先ず慈恵大学創立 間を 一貫したものと考え、早くか
られたが、先ず去る八月二十六日
天 人 放言
なければならないことであろう。
ブも、その根源にかえって認識し
されているわけだ。ウーマン ・リ
る。ここでも、発想の転換が要請
先生が肝腫瘍のため、忽焉として に立ち寄られることを楽しみにし 病状は 一進 一退好転せぬまま自宅 題、人口問題、食 糧 ・環境 問題
他界されたのである。
ておられた。その折の温顔、慈顔 に帰られ、ご家族の手厚い看護も と、多難な将来に直面しての希求
男女
我々は哀惜の極み声も出ず、唯 は印象的で忘れることは出来ない むなしく、遂に十 一月七日午前二 である▽十年 一日の如く、 ﹃
平等﹄ ﹃
差別撤廃﹄などと言う題
悲しみに浸るのみである。
先生の趣味は、旅行、文筆等で 時三十分逝去された。
目を唱なえて騒ぎたてるのは、も
先生は昭和四十二年以来、同窓 小冊子 ﹁
わが随筆の中﹂には、先
我々は慈大百年祭を控えて、先
会の副会長として、同時に大学理 生の人生観が書かれている。この 生の指導、助言を期待していたの はや今日では、極めて低次元なこ
とと言われねばならなくな ってい
先生在生中のことに思いをはせ
長をたすけて、大学並びに同窓会 るが、飽くまで生死 一如、死こそ 万感胸に迫るものがある。
ご冥福を祈る次第である。
小 田原 福井
岡 平清水塚
静 七 尾
掛川
横 須賀 敦賀
浜 松一 横 浜 小松
町京 神 奈川
沢金
村中 入王子 伊 勢
宮一 板 橋 津
豊 橋 五 反田
松坂
岡崎
城 南
半 田
京東 四 日市
富吉田
昭 和
原吉 士
藤枝 甲府
熱 本
田社 沼 一
津
埼玉
作家
尾 崎 一雄
敗 戦 直 前 か ら 朝 鮮 戦 争 あ た り ま で の 荒廃 し た巷 に.や
く ざ 、街 娼 、所 謂オ
リ ー 、 闇 市 な ど非 合 法 の存 在 と か らみ 合 ひ つ つ 、 真摯 な 熱 情 を漂 々 た ン
る貌
か た ち)に つ つ ん で 、庶 民 と共 に辛 苦 を生 き る― 町 医 者 の 姿 が鮮 か に描 か れ
(
て い る。 舞 台 は 大 森 、 蒲 田 地 区 で 、 占 領 軍 将 兵 も 登 場 し、 当 時 蒲 田 に 住 ん で
焼 出 さ れ た 坂 口 安 吾 ら し き 人 物 も現 れ る。 井 伏 鱒 二 作「 本 日休 診 」 の モ デ ル
と 言 は れ る南 雲 博 士 以 外 に描 き得 る 人 の 無 い 世 界 で あ る。 私 は 実 に 多 くの こ
と を教 へ られ た。
議題があるので慎重審議をお願い
続いて久志本教学委員長 (
進学 ずれも大学の百年 記念事業 に賛 いと思 っております。
金)午前二時三十分肝腫瘍のため
します﹂の開会の辞につづいて国 課程)より、 ﹁進学課程の教育目 成し、父兄会でも全面的に協力し
医学の道は人の命にかかわり、
分会長より、
標として人間性豊かな人間になる たい、募金については申し込みや 人の生存の問題であり、人として
﹁
学生が熱心にや っている国領 ように、具体的には愛情とユーモ すい方法を考えてほしい、記念事 の尊厳ということが根本に横たわ
祭を見ていただくため父兄会を アをも った生活をするように、と 業内容が具体的にわか ったほうが っている職業であります。科学的
(
世 界医師大会を 終 って)
生命の尊厳と医師の尊厳
本日に選んだわけですので、後
常
々
話
し
て
い
る
﹂の挨拶の後、徳 応募しやすいなど、建設的意見が 知識を広く持 って人文科学や自然
ほど是非ご参観を。又、本日は 留教学委員長 (
專門課程)より、 多か った。質問には名取学長、国 科学を通じて、物事に対し適格な
説
論
十九
二回世界医師大会が開催された。世
十月六日から五日間、東京において第
界三十三力国より九百三十五名が参加し
て、生命の尊厳のために熱心な討議が行
なわれた。武見日医会長の世界医師会長
われるべきであると結論付けられたよう
医学的には、医師、パラメディカル等 向上に依る医療への介入と中傷、見透し
である。
マンパワーの確保とそれの正しい育成を の甘か った社会保険の失敗による経済的
即ち、行政的には行政が人間を規制す はじめ、地域の特性を充分考慮に入れて 圧迫、尊厳なるべき生命に対する医療を
るのではなく、人間が在るから行政がよ の医療施設 ・医療機能の明確な配分を考 商品化したような債務債権意識の横行や
り良く生きられるような方向付けをする え、これに健康教育によ って住民の健康 医師を人間修理業の 如く考える 風潮等
就任式のあと、京大吉川名誉教授の ﹃
東 立場から、社会保障の在り方、社会保険
開
発
に
よ
る
自
己
責
任
の
昂
揚
を
図
り
な
が
ら
は、医師への拷問に近くなり医師自身の
洋におけるヒューマニズム﹄と題しての の在り方等を地域の特性をヒ ューマンウ 開発し配分を考えねばならぬとした。
自意識の低下と相俟 って医師の尊厳を失
神は我が心に在り、何事にも侵されない エルフ ェアの立場から充分理解した上で
そして総括的にはこれら三部門が互い 墜してはいないであろうか。
善なる心で育くまれた信念こそ東洋のヒ 再検討して、新しい福祉体系の確立を目 に連繋を取りながら、生態的融合の下に
最近の医学の進歩は速すぎて、 一般開
ューマニズムの根源である旨の特別講演
すざ
必要があるとされた。
有限な資源を最良に活用し配分しなけれ 業医には日常診療のかたわらに追い着い
のあと、学術集会として ﹃医療資源の開
経済は、在来は配分を主役に成り立 っ ば真の医療はないとして、その方向に、 ていくことはなかなか容易な業ではない
発と配分﹄というテーマを取り上げて、 ていたが、有限の天然資源を工業資源と 創造性を以て忍耐強く邁進することとな が、自習や生涯教育の場を通じてせいぜ
き後の同窓会をもりたて、樋口会
事として、小田部、安田両先生亡 中で死生観にふれられ、﹁
生と死﹂ に誠に残念でならない。
ヒ ューマニズムに裏打ちされた各国の権 して許りでなく、医療資源即ち生命資源 った。そして最後に 一切の拷問を是認し い勉強され、又 一番大切な患者と医師と
威が熱心に討議した。集約すると、その として、即ち繁栄していくためよりむし たり参加してはならぬという東京宣言な の相互信頼の恢復を謙虚に心掛けて、医
に貢献されたことは、ここに改め 真実の生であると主張しておられ
﹁
運命﹂等について述べておられ
正しい開発と配分には行政、
経済、
及び医 ろ生きていく為の資源として調和のある るものを採択して終幕し、今後 一年間武 師の尊厳を取り戻し てほしい ものであ
療の三方向よリアプローチして、この三 開発をしてそしてこれをより良く配分す 見理論を世界に展開することとな った。 る。
先生は三、四年前より健康に留
た。
名 古屋市 昭和 区花見通 り1
医学 振興 に努 力 され る南雲 今朝雄博 士 の業績 は多言す る まで もな かろ う。
氏 はまた文芸家 として、詩 の心 を大切 にす る人 であ る。「
酔 虎先生」 の作 品 は、
医 家 の現 実社会 を映像 として展開 され るの で、医術 を通じ ての 人情世 界 を見
る ことが出来 る。― 生 きる喜 び と人 間の誇 りを感 じさせ る もの だ。
発行
毎 月1回25日
購 読 料1部10円
者の完全な理解と連繋の上に立 って行な る、即ち細胞免疫学の理論により再確立
先生は温厚篤実、寡言、英国紳
て云うまでもないことである。
本 社▲ 名 古 屋 市 東 区 東 片 端 町2―1
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慈恵 医大前 学長
故 樋 ロー 成
東京支店東 京都世田谷区代沢3丁目15番1
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三 和 化 学研 究 所
スズケ ン
◎三 和 化学
医 者 で あ り詩 人 で あ る私 の 友 人 南 雲 今 朝 雄 君 が小 説 を書 い た。「酔 虎 先 生 』
と言 う の は き っ と彼 の 分 身 で あ ろ う。 と に か く た い へ ん面 白 く、 素 晴 ら しい
読 物 だ。 上 州 人 の 気 風 が そ の ま ま作 品 に現 わ れ て い る。
株弐
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福 田 赴 夫
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慈 恵医 大 同窓 会
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東
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編集 発 行 人
南 雲 今朝 雄
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51年2月
工
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所▲ 名古 営業
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送 金 は同 事 務 局 に 現 金 持 参 ま た は現 金封 筒 で1,200円 郵 送 をお 願 い し ます。
本社 。支店 。出張所
行状記
酔虎先生
医 薬品 総 合 商社
著
南雲今朝雄
医学博士
第252号
昭 和32年9月12日
第
三 種 郵 便物 認 司
聞
新
大
慈
和50年11月25日
(1)昭
究
A
高橋良教授 (
耳鼻咽喉科学)大 リウム欠乏性腎症に関する臨床輝
反応およびCAMP
する影響=二七万円
万円
について=二七万円
CGに
M対
P 性肺炎時の肺表面活性物質の変化 てなど、公的私的立場での面談の 恵病院)などはもう四十数年の老 老いを忘れての拍手爆笑の楽しい 石の醍醐味の世界に引き込み、乗
場合、
﹁
慈恵﹂の真髄にかかわるこ 朽物ときき、最新完備の新築の他 夕食の後、夜話に花が咲きクラス 車を せきたてられる 有様であ っ
の代謝
oに
l
関l
すa
るg
研e
究n
=二七
2
2
であり、正に慈恵医大の権化であ 一
を姓名に冠して行かねばならんし は東、文化は西から求め、他国の
夜の宴席が始 つた。二十年ぶり
ったといえるであろう。その偉大 ⋮おそらく墓石にも刻まれることで 山国に見られぬ高水準の文化都市 に逢う仲間もいてお互いに元気を
ことは喋々するまでもなかろう。 に子弟の入学や卒後の教育、ある 下界の雪海の見事さも小雨天候の む梓川の水流の見事な乱舞に眼を
それは故学長が学祖のご令孫で いは医員の派遣など、どれをと っ 賜物のようである。急傾斜の坂道 楽しませっっ白骨温泉に到着。全
☆ 特定研究
酒井敏夫教授 (第二生理学)筋 あり、生粋の慈恵人であ ったとい ても東京付近と はその 差は大き を降り一大盆地に入る頃より ﹁天 く鄙びた 湯治場と いう感じであ
=
生理学に応用し得る蛍光法の開発
うこともあろうが、とも角、偉大 {い。しかし、われわれは生涯母校 領としての高山人の生き方、政治 る。
一六五万円
伊藤克巳講師 (
小児科学)アル
☆試験研究
ポート症候群におけるFoamcell
衛藤義勝助手 (
小児科学)L
久保惣平助手 (
産科婦人科学) とでは最も真剣で愛護的であり、 医大病院に比べれば、建物だけは
会
な
らではの夜であ った。
た。平湯峠より更に平湯温泉を左
中枢神経系ことに脳神経外科領域 に関する研究⋮好中球機能と易感
におけi
るp
酵素
i学
d的
o研
s究
es
予定日超過胎盤の核DNAの研究 援助側のお 一人で あ ったこ とを お粗末という外はないようだ。
翌日、高山に向う。併行する益 にみて県境安房峠にさしかかる。
に胎盤老化の概念の解明のた 信じている。そして最近の目ざま
における抗生物質療法の研究=一 染性の関連=二七万円
特︱
に酵素学的病型分類の確立= 特︱
実際われわれ地方同窓が卒業後 田川の川霧の見事さもさることな 眼下に見る安房平の雲海の素晴し
.四九万円
み=二七万円
しい慈恵の躍進の原動力であ った に母校より受ける恩恵は少い。特 がら、日本の屋根宮峠から眺める さに驚き長野県へと降る。岩をか
北島武之助手 (第三内科学)カ 二七万円
昭和50年度
科学 研 究 費 補 助 金一 覧
☆ 総合研
名取礼二教授 (第 一生理
学)筋
内部膜の電気的化学的性質=四二
万円
青木菊麿講師 (
小児科学)C
木村篤人助手 (第 一内科学)肝 の成因=二七万円
レルギー成立に
気つ
汚い
染と理
鼻
学ア
的研究=二七万円
米 本恭三講師(整形
外科学)末 疾患における血清アルコール脱水
近藤勇教授 (
第二細菌学)ブド ての研究=一〇〇万円
〇万円
ウ球菌感染症の基礎的研究=二五
D
梢神経損傷に及ぼすペースメーカ 素酵素アンソザイムの研究=二七
}
新津恆良教授 (
生物学)体細胞 ーの効果=一八四万円
〇万円
☆一 般 研 究
で揆
血痕のついた十万石格式の御
明けて翌日も雨は降り続き、山
のもり上げこそ、故学長のむ献身 一確立に参加し、母校の永遠の発展 らの町人の生活を上三之町に見る る。雨も小やみになり新緑の洗い
に報い、その功績を顕彰するべき 一を期さなければ ならない であろ 電柱 一本ない町並み、昔ながらの 清められた問にロッジの赤屋根が
に、学長がご逝去の直前に提唱さ 身自身の ことと 受けとめ ﹁百年 各室、白洲郷蔵は政治の威厳さを を受け 一同が っかりする。予定を
れスタートしていた﹁
慈大百年祭﹂ 祭﹂をもり上げ、その財政の基盤 示すに充分である。続いて昔なが 変更して乗鞍スーパー 林道を 走
っており、東京でも珍しい葬儀で 一局、大学人、同窓生、父兄会及び 門を入 って陣屋見物をする。
の道路のことが心配になっている
あ ったと思われる。そしてその故 学生が立ち上 って慈恵の難をわが
天朝御用所の高札、格式張 った 折柄上高地への通行禁止のしらせ
もいうべきあの人波が如実に物語 一つあるこの時こそ、慈恵の大学当
参列者が作 った青山一丁目から青 に立 って種々なる面で、 ﹁
官 ・公 は日本唯 一の陣屋前に停る。直ち ち来る潮に﹂と遠き若き日に帰っ
山斎場への ﹁
悲しい黒の洪水﹂と 立﹂を凌ぎ、その実績を誇示しつ に広場の朝市見物、ついで百姓 一 て愉快な時間を送 った。
古平国泰助手 (第 一内科学)非
池内順子助手 (放射線医学)⋮腸
さ
は
去
る
九
月
十
六
日
の
大
学
葬
に
お
一
あろう。ああ、私学慈恵こそ、わ に育てあげてきた高山町人達の結 祝い、学生時代の昔に還 って遠慮
福原武彦教授 (第二薬理学)心 ける盛大な葬 列、即ち多数の知名
観血的血管物性判定の為の基礎的 管における晩期放射線障害発生機
れわれのためにも繁栄せねばなら 晶が祭の屋台に総て表現されてい のない気持で心おきなき時間を過
構に関する 基礎的 研究=二七万 臓血管系制禦中枢機構のニューロ 人の参列もさることながら、 一般 ない。そして、私学医大群の先頭 ます﹂と説明してくれた頃、バス した。お国自慢の歌声に、又 ﹁み
ン機制=四五万円
富田有祐助手 (小児科学)各種 円
研究=二七万円
故 樋 ロ 学 長 の追 悼 によ せ て
﹁
百年 祭 を 盛 り 上 げ よ う!!
﹂
のx
白y
血k
球ヒ
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の生理的意義=三九万h抗
y喘
c息
h剤
o
yス
nタ
uミ
s
e藤仁
d
a
b科
o
村上賢二助手 (医化学)5︱
円
験的糖尿病および実験的腎疾患に
おける腎糸球体nuraminidase
地 方 の 一同 窓 生 の提 言
裏手の文庫蔵を 観るに 至 っては
雨はまた降り出した。﹁
弘法田﹂
豪商の生活がいかに 文化的 に高 と呼ばれる わさび畑に 車を走ら
わしく約 一㌶
にわた って清き湧き
度なものであ った かが想 像され す。さすがわさびの名産地にふさ
昼食、少憩後長野県白骨温泉へ 水の流れを利用して作られたわさ
る。
の途中、飛騨鐘乳洞と併設の銘石 び畑の美しさは、芸術作品ともい
館寿宝殿を観る。驚異の鐘乳石の える自然美の活用に心静まる思い
一路浅間温泉に遅い昼食を取るた
数々、神秘の世界も冷えき って寒 をした。松本城を車中より眺め、
雨にたたられた旅行ではあ った
が、久しぶりに交された友情にさ
して苦にもならなか った。来年の
参加者は、五十嵐衡夫妻、吉本
再会を約して帰路についた。
三蔵夫妻、佐藤信愛夫妻、榎本俊
雄夫妻、金尾覚 一夫妻、本間五郎
夫妻、長谷川源次郎夫妻、中埜就
広夫妻、田中浩哉、曾爾太郎、奥
津国福夫妻、井橋節太郎、戸井利
仁、脇屋三郎夫妻、木原役郎夫妻
秦五郎、関巌夫妻、岡村雄吾、吉
田健三夫妻、中川恭子 (昭七会事
務担当者) (前半吉田健三、後半
岡村雄吾記)
谷 区 野 沢3-3-9東
電 話421-6151
京 都世田
薬
製
ン
イ ギ ー
ガ
チ バ
本
目
ラ
レ
グ
分裂と減数分裂における染色体周
期の細胞生物学的研究=二六〇万
円
石川栄世教授 (第二病理学)代
謝調節の小器官病理学的研究=一
八〇万円
B
村
竹望教授 (公衆衛生学)工業
☆一 般 研 究
A
化学物質の発癌性に関する研究=
格
名取礼二教授 (
第 一生理学)骨 三九万円
筋Sarcomの
e収
r縮
e
張力発
河村真人講師 (
第四内科学)実
生の機構=一〇〇万円
☆ 轍般 研 究
万円
活性の研究=三九万円
最たるものであろう。
一う。
店、 一世紀前を歩く錯覚の内に自 点在し、昨夜の白骨温泉が山の緑
村吉
不二夫教授 (
第二解剖学)
足川力雄助教授(
耳鼻咽喉科学)
去る九月二十四日に兵庫県支部 一 これ即ち従来は偉大なる故樋口 ら驚く。次は屋台会館へ。あり余 の中に埋れて見える景色は絵には
下垂体前葉細胞の生活史に関する
不安定期鼻副鼻腔粘膜の自律神経
に
お
招
き
し
た
百
年
祭
副
委
員
長
の
森
学
長
の 索引力で 大発展してきた る町家の財力と飛騨の工匠の合作 描きがたき美しさがあ った。幾つ
研究=一二○万円
と免疲グロプリンとの関係=三九
る去
八月八日 ﹁
慈大百年祭委員 のあらゆる活字紙面に探すのは、
思えば故樋口学長と直接に私が 田茂教授よりきけば、この偉大な ﹁
慈恵﹂が、今後は名取礼二新学 はさすがである。絢燗豪華の 一語 かのトンネルを過ぎ大きなダムを
発会式﹂で、大きい目玉とガッチ 同窓の習慣であろう。故樋口一成 接したときどき、即ち慈大新聞の 防波堤を失 った "大学遺産"は莫 長を中心に擁し、全慈恵人が力を につき唯々驚嘆の外はない。次い 眺めつつ、 一路松本へと車を走ら
酒井敏夫教授 (
第二生理学)
?﹂と 泣きたくな った 次第であ 株は急成長をしつつあると思われ
の人造湖 (
木曾川ダム湖)恵那峡
に向い北上、東名より中央道に入 呂町、合掌村に到着。
三名、 一路小牧インターチェンジ 昔ながらの農村風景を眺めつつ下
集る者夫人同伴者を含めて三十 に着く。昼食後岐阜県の過疎地の
九時名古屋駅集合に始った。
索を目的として、七月十 一日午前 が出て、最初の目的地、日本最古 続き、盃を重ねるに従い珍技続出 ヤならずとも見る者を不知の間に
長野県境を中心とした緑地帯の探 然ガイド嬢の口から木曾節の 一節 始り、師範格の会員の秘技披露が 石が収集されたこの館では、マニ め走る。
今年度昭七会懇親旅行は岐阜、 だと宣伝的專門的説明である。突 手踊り、青年の竜神太鼓の曲打に 気が立つ。洞内をぬけて全国の銘
下 呂 、 飛 騨 高 山 、白 骨 、乗 鞍 へ憩 う
昭 七会懇親旅行記
正に青天のヘキレキであ った。生 く、自信 まで向上した 思いにさ で又慈大付属病院労働組合長とし 昭和37年の建物であり、
二号館(
慈 昭16)
リした体躯の樋口学長の英姿に接 先生が学長になられてのこの十七 編集員として、あるいは昭和十六 大と承 った。そしてナウに財政的 結集して新しく生み出す画期的に で屋台作成の協賛者達の代表豪商 す。近代彫刻の開拓者荻原碌山の
Transvers
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☆e
奨 励
研b
究ula
Ar System
し、 ﹁この人ありて百年祭は成功 年間、医学界を主にいろんな方面 年の全国の医大生からなる渡満洲 基盤を確立せねば慈恵の存亡にも 目ざましい﹁
の脱分極は如何にして筋小胞体か
慈恵の変身﹂こそ、
こ 日下部邸を見物する。豊富な木材 作品を集めた民間美術館碌山館を
川村将弘助手 (
第 一薬理学)副 する﹂と確信して離京したのであ でよい記事と共に ﹁
慈恵﹂が出て 学生衛生隊の代表として、また、 拘ると聞き、 一層母校愛に燃える の難局を突破する至上命令であろ と財力に飛騨工匠の技法を充分に 尋ね、明治初期に既にかくも美し
らのca
を遊離させるか?=三〇
腎皮質ミトコンドリア内膜におけ ったが、それより二旬を出ずして きたことは、地方に住むわれわれ 第十三回日本医学会総会 (
田宮会 ものである。その借財の他、建物 う。 (兵庫県副支部長 ・学術連絡 駆使して造られた町家とは思えぬ き精神のけだかさを作 った先人に
〇万円
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調g
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e部
s教
i授
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よめ "悲報"をいただき を特にこよなく勇気づけ、誇らし 長、内村準備委員長)の弘報部員 にしても最新のもので病院本館が 委員 ・
河井啓三講師 (第 一外科学)F るCorticoidの
慈大百年祭委員 八家正俊 立派さ。見事な父祖代々の調度品 頭の下る思いがした。
る研究=二七万円
水清
英佑助手 (公衆衛生学)ハ 来、依頼心の強い私は、悲報の電 せると共に、医学、医療界といわ
ドイ
ラジン誘導体の発癌性に関す 話の途端に、 ﹁
慈恵﹂の
慈恵はどうなるか ず、日本における私学 ﹁
方
M式による 消化管内諸量計測 関する研究=二七万円
用テレメータリングカプセル装置
の開発ならびにその臨床応用に関
する研究=二〇〇万円
授与式の席上、永野助教授よ
め、
まもなく多治見、
土岐市に近づ た釘 一本使わぬ合掌造りゃ家長を
陸の孤島に住み大家族を収容し
級西ドイツ功労十字章)が、本 教授、河村講師、さらに上田英 り、在日西ドイツ人の医療につ
く。ガイド嬢は、両市は地下資源 中心として生きぬいた山岳民族の
り美しい緑の丘陵地帯を眼下に眺
学第四内科教室永野允助教授に 雄前教授および海渡博士らが来 いては慈恵大学および付属病院
賓として招待され列席した。
として良質の陶土の豊富さが日本 生活資料の数々に驚嘆する。天覧
ドイツ大使より伝達された。
最優陶磁器の町を作りあげたのと に供しテレビにも出演された竹原
の方々に大変ご助力をいただい
(第 一 よりは名取学長、阿部 ・松田両
てl
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る。
イツ大使公邸においてVerdi
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交付
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学.k
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秋晴れの十月二十 一日、西ド もので、菊薫る佳き日をえらん 現在、日独医学の交流に尽力し
永 野 允助 教 授 に授 与 さ る
西 ド イ ッ功 労 十 字 章
小林正之助手 (
第三 内科 学)
る
。
た。この時に ﹁
巨星墜つ﹂、正に
福原武彦教授 (
第二薬理学)中
地方にいて ﹁
慈恵﹂の名を日々 痛恨の極みというべきであろう。
枢性降圧薬の血管運動中枢ニュー 慢性腎不全における生体防禦機能
C
ロン機構にたいする作用機作=四
万円
一〇
☆一 般 研 究
松本武四郎教授 (第一病理学)
臓器 (心、肺、脾、肝、腎)の基
本構造についての研究" 一三五万
円
小机弘之教授 (
衛生学)好塩基
斑点赤血球出現の意義に関する研
究=一〇〇万円
吉村正造教授 (
第 一内科学)脳
動脈硬化度の非観血的計測とその
永野助教授は前後二回、四年 ており、この栄誉は私のみでな
陶土は花崗岩の風化したものであ 文楽は、操る人間が 一人で人形百
この勲章は、永野助教授の在
日西ドイツ人に対する医療奉仕 にわたり西ドイツに留学し、彼 く、慈恵大学の同僚の方々に与
ると説明も学問的である。続いて 余体を自由に操る人形芝居で、舞
報情
処理に関する基礎的研究=一
およびドイツ学園の災害救護活 の地でブリギツテ夫人と結婚、 えられたものと考えるとの挨拶
瑞浪市、突然化石の話に転じ、こ 台装置の豪華さと妙技に感嘆し時
三五万円
動援助に対し、西ドイツ大統領 二男 一女をもうけている。西ド があ った。
堀誠助教授 (小児科学)免疲機
能に及ぼす治療薬剤の影響に関す
で、中新世中期の化石で日本最大 小川旅館に入る。下呂温泉芸者の
の中央道の車輪の下は化石の宝庫 の過ぎるのを忘れさせた。夕五時
より去る七月三日に授与された
中村紀夫教授 (脳神経外科学)
医学
イ界
ツ
に友人、知己が多く
る研究=一三五万円
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東 京 都中 央 区 日 本 橋 本町
2-9電
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東 京 都 渋 谷 区 千 駄 谷5-27
本 ブ ラ ン ズ ウ ィ日ッ ク ビ ル
電 話355-9481
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京 都中 央 区 日 本 橋 本 東町
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舌270-1608
ポポンS
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京 都 台 東 区 柳橋2-6-2
太 陽 浅 草 橋 ビル
電 話861-4311
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ル
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緑 地 帯の 探 索 を 目的 の 昭七 会 の岐阜 ・長野
両 県 下 の懇 親旅 行 の参 加 の 方 々の サ イン
武
田
薬
品
京 都 中 央 区 日 本 橋 江 戸東橋
2-7電
話273-3311
(2)
昭 和50年11月25日
聞
新
大
慈
(第 三 種 郵 便物認可)
第252号
大 平君 夫 妻 への感 謝 も 兼 ね て
古雅 な小京都 飛騨 高山で昭十 四会開く
(
代議士)に対して、戦争当時日 同窓という絆を通じて今後共意志 の協力が要請されて いるようであ
当日の出席者 (
順不岡)は、
路についた 。
感銘と熱い母 校愛を抱き つつ、家
しく再発足した慈恵大学本部を中
の 一大飛躍へ、同窓生全員の格別
(範)、瀬木、坂部 、小沢、伊 藤
(恭)、山 口、伊 東、西庵、岩本
(秀)、小寺 (八)、松浦、中野
しく退潮す。この間寮歌祭は年 上に、軍医時代の鉄カブト、雑嚢
の警鐘を乱打せり。折から本年 物男の面目躍如たり。
々歳々盛大となり、人間復興へ をかけてひと踊り。例年出場の名
先生も寮歌祭に欣然として参加
淡き敷寝の夢ざめに
向う林の 曙の色
薄むらさきに 霞立つ
は、我が大学の名学長樋口一成 へ春 東雲の星の影
し、以て次代を背負う学徒の精
和
本日我等は先生の 遺影を かか
この歌の真最中、突如疾風の如
祭に生命をかけた、青春に燃ゆる
げ、追悼寮歌祭を 挙行せ んと く駆けあが って来た人あり。寮歌
例年の竿頭言に代る追悼文終る 男、富田竜夫先輩だ った。永く病
す﹂ (
拍手)
や 一同着帽し、すかさず川口委員 気療養中にして、去年は舞台で倒
同 窓 会員 頒 布 価
4¥
2 、00 0 (〒 共 )
講座
全2時間
臨 床 面 にマ トを絞 って イ ン ・デ ィー テ ル に論 述/腰 痛 の基 本 的 考 え 方→
診 察 法 と症 状→レ ン トゲ ン像 所 見→ 療 法 と患 者 取 扱 法 な ど診 察 手順 に従
って 解 説 、且 つ ポ ピュ ラー な こ とに 留 意 し た/臨 床 医 のため の“
腰 痛”書 。
.﹁
すざき料亭﹂で、その構造、装 で﹂との簡単な別れの言葉の中に 軍に冷遇されたにも拘らず ﹁
大人
の学生として、幾多の友を戦没さ らない。計算しつくした演出であ
正面最前列に、学生代表の捧持
った。
樋口前学長の遺影﹂が目立
無心に、若き日に帰 って、絶唱 する ﹁
いいきれないものがある。
当日の出 席者 は、森田教授、 加
張得利、令夫人、青木忠夫、南
タイジン)的度量﹂を以て、台 本兵として活躍した人達が経済凍 の疎通を図ることを約して名残り る。
飾献立から美妓の振舞いまでが法 も昭和七年以来四十数年の交友の (
午後五時終了 。わ れわれは深い
に適ったものとあ っては乱るるわ 温かさをしみじみと漂よわせて散 湾在住の日本人及び戦没者に対し 結の為、非常に困惑している状況 おしくも散会した。
て、極めて温かい待遇をされ、現 を真剣に論じて、日本政府の考慮
けにもゆかず本多君が昨年中国訪 じたことである。
出席者氏名 (
敬称略)有馬借夫 在もその名残りが残 っていること について奔走するよう依頼するな
らないと思われた。
剖教育の伝統的充実を図らねばな
組織)を拡大して、慈大学生の解
られている "しらぎく会" (献体
角﹁慈恵﹂関係者の中で組織つく
を物語るところであろうから、折
有な充実ぶりで、 ﹁
百年の伝統﹂
本学の解剖三講座は私学では稀
地認識の不足を案じておられた。
体者の漸減による学生の人体の実
体並びに骨標本の僅少、これは献
を承わり、解剖学の基本である屍
に黙祷をささげ、続いて学術講演
会員 (
中野 (豊)
、
横山、永岡氏)
先ず故樋口前学長や今期の逝去
麦部会に色をそえられた。
百年祭" (昭和55年)を期 弦間、中田、宇野 津、両角、曾爾
今回は特に大阪府支部長の加藤 心に "
嘉彦先生も出席され、 〃
非常時" し、慈恵大学のリスクを克服して (彊)、八塚
(八家記)
会を開催した。
又、当夜出席した 白浜 仁吉君 定刻、それぞれ遠く離れていても 松島忠実、野村忠男。
経過も忘れる程の歓談が続いたが 大野真 一、古沢 一男、本吉雄吉、 藤大阪麦部長、曾 爾 (太)、鶴崎
翼鄭
宗君の姿を認めて拍手をおく 妻、土岐正、遠藤正文、古川浩三 などわれわれの知らない面を語ら ど、話題は多岐にわたり、時間の 武、本間滋、白浜仁吉、馬場英雄
問時に撮影した8ドの中に級友の
しめくく ったことであ った。も っ 木村竜夫、国弘重夫、久津見專、
を閉じ、記念 撮影後 宴会に入 っ 偲び和気靄々裡に最後は学生歌で 岩田昌 一、鏑木誠夫、笠原文 一、
本会は今は不文律とな ってしま お招き出来たことは、なんとも嬉 贈呈し、ご夫妻の謝辞を以って式 り、北京及び周辺の風景に往時を 本多伝、五十嵐虎夫、石山敏夫、 れた。
会は先ず例会で始まり、大平君 た。
った ﹁開催地は東京と地方とを交 しいことであ った。
互に﹂に従 って、昨年帝国ホテル
に恩師をお迎えしての卒業三十五 より年間の会員の動静、会計、大
宴会は福山より出席された岡本 }
とも、若やいだ熱い血汐を小雨ふ 松本好夫、宮川政治、村田正斉、
周年記念会の後をうけて、古雅な 学の状況等の説明報告があり、次 君の発声にて大平ご夫妻の健康を る夜の高山の巷で沈静した 一部老 中根巌夫妻、新妻朝夫、西牟田守
次郎、岡本正元、奥山孝門、大橋
木正
白親、白田正司、曾我部武、
翌日は青空も 一部覗く秋日和と 秀天、大平 一郎夫妻、柴田誠爾、
文化財の溢れる飛騨高山において いで年間ご逝去の野村 (
旧姓斎藤 祝し、次いで大平君の発声で昭十 童どももおったとか。
医師会長、市会議員等郷土のため 豊春)、黒須、平山、御門 (
旧姓 四会の弥栄を祈念し、地元村田君
大活躍の当地在住の級友村田正斉 下間公二)の四会員及び累計五十 の歓迎の挨拶の後は、慈大同窓会 なり、マイクロバス二台連ねて文
(?)視線が集中し、日本 一のい 運営され、更 に近年 鈴木昭次、
張難はクラスメートのことをよ 言葉も聞かれ、青木忠夫君 (
同窓 当時、蒋介石総統は、その昔日本 年祭副委員長)を迎えて、支部総 九日)を見、新学長を中心に雄々
ζともあ った同君の健康を陰に陽 つけた五十嵐君より参会者 一同の 催した。
折しも菊の香高き昭和五十年十
三先輩の熱意は、全く敬服のほ
(
のぼり)林立してはためく、皇 わが生涯の最良の日とい った表情 を固めてきた。
月二十五日の昼さがり。各校の織 い男にな ったつもりの男ばかり、 三浦、南雲 (昭27)の参加で陣容 せた体験と、全く無縁であるとは
居北の丸の武道館には開会前から がズラリ。
神朔興に資せんとしつつありし
やがて、巨大な青春太鼓がドゥ かなく、真に ﹁青春﹂を持つ人、 乱舞するもよし、亡き友たちの冥 つ。われらひとしく敬慕した故先
早くも熱気が溢れて、われら青春
青春を生きた者にと って、寮歌祭 舞台に是非ご登場いただき、われ
の郷愁に胸ふくらむ寮歌連の面々 ンドウン、場内を圧し腹にひびい 青春を忘れぬ人と深く感銘すると 福を祈りつつ唱うもよし、かつて 生の突然のご逝去は、この晴れの
は、 一瞬にして数十年の昔に回帰 て鳴りわたると、興奮はいやが上 ころである。とにかく、資金面、
吉
散るは窓辺の若桜
散るは窓辺の若桜
雲
冥の境にひき入れたり。依 って
も、病魔は忽然として先生を幽
南
慈光寮々歌 ・春東雲の れるかもしれない、倒れてもいい
を捧げたい、という止むに止まれ の絶叫、 ﹁
・アインス ・ツヴァイ ・ドライ﹂ からと登壇した人。本年は客席か
この一瞬のために、 一年前から ぬ悲願を招いたのであ った。
大慈 二 七 会
樋 ロ先生追 悼寮歌 祭始 末記 (
上)
第十五 回日本寮 歌祭 に参加して
し、白髪禿頭、肥満体、顔のしわ にも興奮をよび、名物委員長 ・神 渉外面、運営面に並々ならぬ努力 こそ ﹁心のふるさと﹂ではなかろ らの心の奥底からの痛哭哀悼の歌
も忽ちうち忘れ、その双眸はラン 津氏も毎度ながら逆上し、怒号す
ランと輝き、朴歯 (ほうば)の音 るごとく開会を宣言、拍手また拍
番数 (
ばんかず)も取り進みま
ッシ ュ!
も高らかに、肩で風切 って濶歩す 手にフラッシュのラッシ ュまたラ
る勇ましさ/ よそ目にどう見え
ようとも、当人は全く得意満面、
紅顔の美少年と変身したつもりの したるところ、午後二時ジャスト
多事多忙なこと、そして人集めの
颯爽たるその姿/ この日の晴れ わが慈恵軍の登場とはなれり (
と を必要とする上に、当日の世話の うか!
の出場だけを楽しみに、 一年間枚 思わず講談調になる)。
眼
読 講座
写
振 替 東 京168914
目7番ll号■O487(73)3902〒
玉 県 上 尾 市 愛 宕2丁
の君
お骨折りで、時もよし紅葉色 名に及ぶ物故会員の冥福を祈 って 岐阜県麦部長内田 雄三 先生 (昭 化財の鑑賞に、買物に、小京都中 武神輝夫、田中太郎、富樫実、梅
付く十月十八、十九の両日開催さ 黙祷を献げた。また来年度の開催 6)及び村田君よりご寄贈の美酒 の小京都といわれる古雅な高山を 沢秀郎、宇佐美七三郎、山口信三
ホ 大和正夫、安井広、吉見正二、高
れた。会する者三十七名、夫人も 地は東京であるが拡大解釈して首 あり、美妓の酌にて痛飲せずんば 満喫し、村田君令弟経営する ﹁
(
高橋記)
慈
先般東京にて開催された世界医 く記憶しており入学当時は語学が 会理事)が在外同窓にも是非 ﹁
昭 十 会 、 同 窓 の絆 を ま す ま す 固 く
張得利博士(
在台湾)
を迎 え
加え て四十名の盛会で あ った。 都圏ということで、千葉市在住の あるべからず。が然し当地は茶道 テル鈴木﹂ で郷土料理を 堪能し 橋吉衛
では 又来年﹂ ﹁
お互い に元気
私共は戦争がぬきさしならぬ状 古川君のお骨折りで房州方面で十 宗和流発生の地、会場も名だたる ﹁
態に入った昭和十四年三月卒業後 月中旬頃開催することに概定して
終戦迄は ﹁
相見る時は別れ ﹄の歌 例会を終り、大平君ご夫妻に対す
壁頭昭十四会を代表して本多君
の文句そのままに夢ない同窓の交 る感謝ご慰労の式に移 った。
わりだ ったが、終戦後いち早く級
友間の情報蒐集に通信連絡に努力 より感謝の辞を述べ、事務的処理
し、昭十四会を育成し汲泉拾薪の を担当した高橋より全級友のうち
同窓の実を挙げて来た中心的存在 在外居住者を除き 一〇五名に呼び
の ﹁大平君がこの度停年にて現役 かけ九十三名に及ぶ多数のご賛同
を退かれ たのを機に、同君 に感 を得たが、その数字面よりも大平 学会に出席のため、張得利君 (台 不自由で、南君等多くの人のノー 大新聞﹂を送るよう提案すると確
深 い 感 銘 と熱 い 母 校 愛 を 抱 く
悲し い故樋口前学長のご逝 去
謝の意を表しようではないか ﹄と 君への感謝の気持は級及 一同の自 北市清河小児科医院)は卒業後始 トをよく借りたこと、卒業後は東 約してくれ、張君も喜んでいた。
(
八月二十六日)のいきさつや盛
現在の日台関係では、日本人は
いう、宇佐美、武神君等の動議が 然の発露であること、及び酸出金 めて来日、この機会に同君及び令 大小児科にも学び、当時三田村病
兵庫県支部 (曾爾太郎麦部長) 大な大学葬のお話には、 一同厳粛
実を結んで、級友 一同の賛同の下 の処分に ついて報告、 了承を得 夫人を迎えて、十月十三田東京プ 理に籍を置いた故高本文 一君とも 楽に台湾に渡航出来るのに反し、
九月 一一
十四 にかたずをのんで聞きい った。
に、大平君及び 一時は危ぶまれる た。次いで札幌よりかけ (
飛び) リンスホテルにおいて昭十会を開 親しか ったこと、慈大新聞のこと 国策上台湾から日本への渡航は極 は恒例の秋 分の日 (
そして新名取学長誕生 (
九月十
を﹁
愛宕新聞﹂などという懐しい めて困難な状態であること。終戦 日)舞子ホテルに森田茂教授 (
百
哀悼 と奮起の支部総会
慈恵は、昭和四十四年十 一月八 大変なこと、筆舌に尽くしがたい 想を練り、計を立て、何回かのリ
昭27)の ら見物とい っておられたが、白線
(
ばい)を含んで待ちに待 ってい
遺影の後方に立つ河野委員長か で、三浦の太鼓、鈴木 (
たのだから、心も躍れば身も躍り 日の、第九回日本寮歌祭以来で、 裏方の苦労を、 一言の愚痴もこぼ ハーサルを重ね、自らの身体、の ら 一声、 ﹁東
京慈恵会医科大学予 旗ふり指揮と掛け声、南雲ほか山 帽に羽織、袴、緋のたすきも甲斐
8)
々々
しく、釆配 (
さいはい)ふり
プルスもドルックも正に倍増、頬 本年ここに七回目の参加となるが さず、多年にわた って続けてこら どの摂生を保ち、僅か五分間の持 科同窓会、脱帽、礼!﹂湧きおこ 中、会沢 (昭27)、福井 (昭2
を紅潮させ足どりも軽く、カラン 慈恵寮歌祭委員会発足以来、河野 れた諸先輩に、改めて敬意を表す ち時間をフルにア ッピールすべく る万雷の拍手のうち、全員黙祷の らの歌声に、見事なハーモニーの かざしての駆けこみは、彼を知る
コロンガンラガラガラと入場する 稔 (
昭16)、富田竜夫 (
昭20)、 る次第である。思うに、この人た みがきにみがき上げての登場であ まま、委員長の追悼文朗読。
大合唱が湧きあが った。前面に進 人々の胸を強く打 って、思わず叫
昭1
0)は、白 びたいくらいの感動を呼んだので
﹁戦後日本は急速に物質文明の 出の鈴木義礼先輩 (
繁栄をとげしが、精神文朋は著 線帽 ・袴の寮歌祭コスチ ュームの あった。
卒、東 急病 院 整形)
防(27弊
森 田教授 を兵庫 へ 迎 之
若武者 (
?)振りに、場内の女性 川口博 (昭2
1)の三先輩の、物心 ちの熱意は、すばらしき青春の持 るから、その登場は 一糸乱れず 一
(
ただし、年齢ば不問)の美しき 両面にわたるご尽力によ って維持 ち主であると共に、大平洋戦争中 分 (
いちぶ)の狂いもあ ってはな
卒、講師、 東 急病 院整 形部長)
片 山 雅 宏(42年
溝 部
{〒362)埼
山 本 竜 二(31年
⑧ 著
イシ モ リ販 売 出版 部
購 入お申 し込 みの節は必ず 「
慈 大新聞」に よる旨 お申添 え下 さい(電 話又はハ ガキ)
卒 、名 誉教 授 、東 急病 院長 〉
片 山 良 亮(2年
腰
ク所長)
、躰 橋 列 靭
阿 部 正 和(17年 卒 、教授)
ス ラ イ ド165コ
マ/カ セ ットテー プ2巻/テ
キ ス トか ド
腰 痛 とは□ 腰 痛 の 原因□ 腰 仙 部 奇 形□ 腰 椎 に つ い て□ 各 症 状 と原
因□ 椎 間 板 症□ 症 状 と原 因□ 診 察 の 順 序 と検 査 法□ 診 断 法 ま とめ
レ 線 所 見□ 各 療 法(急 性 期 と慢 性 期)□ 保 存 療 法□ 薬 物 療 法□ □
臥
床 法 と姿 勢 口 牽 引 法□ 手 術 適 応 症 口 患 者 取 扱 法□ 脊 椎 分 離 症□ 発
生 原 因 と症 状□ レ線 検 査 法□ 高 令 と腰 痛 口 治 療 法□ 薬 物 療 法□ コ
ル セ ッ ト法□ レ 線 所 見□ 姿 勢 性 腰 痛 口 原 因 と症 状□ 療 法□ 生 活 法
そ の 他 の 原 因 に よ る腰 痛□ 各 症 状 と原 因□ 治 療 法□ 他
□
カ ラ ース ラ イ ド52コ マ/カ セ ッ トテー プ1巻/テ
キス ト
正 常眼 底(異 常 と まぎ ら わ しい も の)13コ マ□髙 血 圧 症 眼 底26コマ
糖 尿 病 眼 底13コ マ
□
判 読 の ポ イ ン ト□
を 内 科 領域 に し ぼ り、 実 際 のフ イ ル ム で 明 快 に
解 説 。 ま た 眼 底 カ メ ラ 撮 影 法 も併 せ て 研 究 で き る 好 企 画 。
(阿 部 正 和 序 よ り)
著 者 の 溝部 君 は 内 科 医 で あ りなが ら数 年 前 、す でに 「眼 底検 査 法 」 の 労
作 を 出版 して い る篤 学 の 人 で あ る。 眼 底検 査 や 眼 底 写 真 の判 読 は、 成 人
の診 療 に於て は 、 内科 医が好 む好 まざ る に拘 らず 、 こ れ を無 視 す る訳
病
に いか な くな って い る現 況 にか ん が み 、 こ の 講座 が 全 国 の 臨床 医に 多 く
の 示唆 を与 え、 「日常 の 書」 と して、 必ず や 役 立 つ こ と と確信 して い る。
か つ て な いユニ ー クな 内容 と思 う。'
必要 な基 礎 知 識 ・エ ッセ ンス で ま とめ る!
々"の ロ ン グ セ ラ ー!
読 後 感 好 評"続
に守 ってこられた令夫人ともども 寄せ書した色紙に記念品を添えて
「樋 口前 学長 の 遺 影」 を正 面 に捧 げ て心 の 奥底 か ら哀悼 寮 歌 大合唱
● 著
@序
森 田教 授 を迎 え 「
哀悼 と奮 起」 の 兵 庫県 支 部 総 会 に出 席 の方 々
第252号
(第 三 種 郵 便物 認可)
聞
新
大
慈
昭 和50年11月25日
3)
(
判
痛
真
底
こうして鵜舟が 一艘又 一艘と篝 設営にご尽力いただいた岐阜県同 日にゆずるべく、諸君は 一途に、
⑧毎日の診療行為に対し反省を
大輪の菊倒る風の強ければ
岩 国 村井
一露
市 …… ア テ ネ 、ロ ー マ 、ジ ュ ネ ー ブ ・マ ド リ ツ ド・パ リ ・ロ ン ドン
巨星墜つ命この身に代るれば
都
息らぬこと
問
高木神経科
訪
禅寺の奥深く鴨鳴きわたり
∼4月11日(15日間)
⑦おれに限ってそんなこととウ
長 岡 青柳 薫也
ネオン明滅湖の枯芦鳴りにけり
間 ……
ヌボレの気を持たないこと
⑧以上の注意を以 ってしても 一
婚多き文化の日なり婚期過ぐ
生に一度というような、思わぬ失
策を起こした場合でも、絶えず細
陽 春 ヨ ー ロ ッパ 旅 行
虎 ノ 門 ク リ ニック ・
虎ノ門実業会館内
電話(5
)
三
0六
1二一
諸君も既に各教室においての勉
文化の日老医往診鞄提げ
正
孝
東 京 本間 五郎
心の注意を 以 って 対処しておれ
芒野の果てに藁屋の一つ見ゆ
ば、すぐその場で即座に ﹁これは
オカシイゾ﹂と気付く筈であり、
細流の洲浜月見草黄を誇る
長き夜は踊手拍子二本松
秋冷は老の身にしむバスの旅
東 京 菅谷
その時は寸時を移さず最善の前後
処置を講じて互いの損耗を細小限
⑨医師としての立場における言
仲人の紅葉目に染む二本松
度に喰い止めるべく努力すること
動を慎しむべきこと。
⑩同業医からの忠告は善意を以
湯煙の窓より望む秋の月
西原四良 (昭15卒 ・京都府)
三谷重俊 (昭12卒 ・高知県)
橋本誠二 (
昭2
5卒 ・石川県)
大和田哲 (
昭13卒 ・茨城県)
籾木穂積 (
大7卒 ・東京都)
倉下正隆 (昭13卒 ・長野県)
瀬端達 一(大9卒 ・茨城県)
高野良 一(昭9卒 ・東京都)
矢島知秀 (
大11卒 ・滋賀県)
物故者 御氏名
東 京 木村
って素直に受け入れ参考にするこ
誰にでも分りき った常道が意外
と。
に踏み外され易く、注射薬アンプ
ルの取り違い、浣腸用グリセリン
とアルコールの取り間違いなど、
全く論外と思われることに意外な
事故が生じている事実に心して、
生涯に悔いを残すこと のない よ
う。将来に大きな希望を抱いて健
康で尊い医師としての使命達成に
努力されんことを!!
春 期 ヨ ー ロ ツパ 旅 行 会 員 募 集
火の火の粉をちらしながら六艘が 窓会麦部長内田雄三先生、窪田治 今は亡き樋口学長先生から堅い握
川下の闇に消え、くる っと見物船 夫先牛ご夫妻、窪国智先生、磯田 手のもと卒業証書を授与せられた
の後方を回って上流にさかのぼる 和夫先生、小坂孝二先生にはどん あの日の感激を深く肝に銘じて、
感嘆の溜息をつく間もなく篝火の なにかご心労をおかけしたことか 生涯母校慈恵の卒業生であること
響宴は再び 一斉に流れを下る。こ と、昭十七会員 一同より厚く御礼 に誇りと自信とを持 って善処して 一
強数ヶ月、教室のフンイキにも慣
れ自信? のようなものを感じ心
②慢心を起さないこと
(
鹿児島県)
八反丸哲夫 (
昭13卒 ・
許山 整 (
昭9卒 ・山梨県)
富田岡正 (
昭21卒 ・東京都)
日本人の音量は体格上小さくと
奏者 一人女々の技能が物をいうが
の音声、音程の悪ささえなければ
合唱については、団員の中に異質
し っかりした猛烈指導者によ って
少くとも 一時間乃至三時間の練習
日 本 通 運 ㈱ 東 京 航空 支店
昭 十 七 会 定 期 ク ラ ス会
ホテル前より大型バスに乗り、長
飼い見物乗船の時間が迫る。一同
長良川 の鵜飼 いに歌 に話 に旧交温 まる
おもしろうてやがて悲しき
鵜舟かな (
芭蕉)
のユトリが出来始めた頃、気のユ
ルミ勝ちになり易いこの時こそ大
事な時期です。どうか 一層心を引
きしめて医療事故防止に万全を期
してもらいたいものです。
特に大学の教室を離れて外部へ
所謂バイトに出張される時、諸君
の父兄は諸君がその日の仕事を無
事に終っていつに変らぬ元気で帰
宅される姿を見届ける迄は、何か
医療事故防止心得
らぬよう献身的努力を傾注して加
③油断しないこと
慈恵俳壇
東 京 保坂 孝雄
(選者 河野久米雄)
一
般 第19号)
(運輸大 臣 登 録一
昭和十七年愛宕の学窓を卒業し 良橋を渡 って対岸の金華山の麓を
て三十三年。私達にと って人生を 上流の乗船場に運ばれる。旧 一組
おもしろいと感ずる時期はとうに 二組は第 一船に、旧三組は第二船
過ぎて、いつの間にか人生を悲し に、旧四組は 第三船に と分乗す
いものと感ずることの多い今日こ る。各屋形船には既に酒席が用意
の頃にいた っている。十二尺の鵜 され、 一同の乗船が終るや船は舳
縄に首を括られて泳いでは潜り、 綱を解いて長良川を更にさかのぼ
潜 っては泳ぎ、懸命にのみこんだ る。折から夕闇の迫る中、咫尺の
鮎を無惨に吐き出される鵜の姿に 間に屹立する金華山の頂には岐阜
女房という鵜匠にあやつられて働 城の天守閣がうかびあがる。船橋
しら気がかりでならないその胸の
中を推察して下さい。
では私がマトメた医療事故防止
対策事項を個条書にしてみましょ
げた数多くの症例中、所謂医療事
①医師としての道義心を忘れぬ
療してあげた症例について、その
④日常茶飯事と思われる平易な
を以 って諸君に対する ﹁
事故防止 診療行為と雖も常に細心の注意と
原因を分析して得た私なりの結論
と思考されるものを、表沙汰にな こと
故として取扱われても仕方がない
その後始末を依頼され処理してあ う。
下さい。
れを ﹁総がかり﹂といい、まさに 申し上げます。
やがて鳥帽子をかぶり腰蓑をまと
さて諸君! 差し当り現在、否
この夜のハイライト。篝火はやが
当日の出席者は、杉本寿 一、土
った鵜匠が、舳先の篝火の下に鵜
て闇に消えて長良川はもとの静寂 屋博彦、内ケ崎尚 一郎、阿部正和 生涯を通じて諸君に対し私が最も
縄をさばく姿が見えてくる。鵜匠
南条敏夫、伊藤滋、浦田卓、水上 強調し要望したいこととは
にもどる。
は左手に十二本の鵜縄を指の股に
﹃
絶
対
医療事故を起さぬよう﹄
翌十五日は朝食後国盗リコース 四郎、楠岡 一雄、横山武義、佐藤
分け持ち鮎を十分呑んだ鵜を舟端
最
善
の努力と細心の注意を払 っ
にあげ、右手をも って鮎を吐かせ 專用の大型バスに 全員揃 って 乗 保信、蒲地直裕、広瀬正義、石見
て
も
ら
いたいことです。
郁夫、井出隆夫、八島聖、土井求
すばやく鵜を水面にかえす。鵜縄 り、金華山、常在寺、崇福寺を見
﹁
最近は患者側がヤカマシイと
を縺れさすこともなく捌くさまは 学し、代官屋敷にて昼食の後岐阜 近新五郎、鴨井昭夫、尾田芳三、
か、マスコミが騒ぎ過ぎるので医
まさに神技ともいうべく、時々船 駅において来年の再会を約し、解 久保文明、成田功、古明地 一男、
者はやりにくくて困る﹂という言
夫がたたく舷側の音にはげまされ 散した。この会のテーマについて 野村耕平、宮本繁吾、橘勝美、船
葉をよく耳にしますが、私はそん
て鵜は鮎を追 って水中を縦横に潜 の乙夫人の感想を聞きもらしたこ 橋知也、柚木洋坪、アハマート .
なことを口にする前に、先ず吾々
とはかえすがえすも残念なことで
サー
ビル、新井敬喜、登坂行雄、
りまわる。
医師として自粛反省してみること
あ った。
口羽二郎、渡辺暉邦、堀円倶寛、
吐かす鵜と放つ鵜縄の
が必要であると考えるものであり
付 記
小関清、本橋政男、作田桓、宇都
いとまなみ (召波)
ます。同業医で既に相当の経験も
幹事船橋教授がこの会の直前ま 宮大典、西山正己、新谷大悟
火の波に透きて潜れる荒鵜かな
見識も持 っている筈の先生方が処
(
山朱鳥) で学会出席で渡米しておられたた
(井出記)
置された患者で、経過不良のため
め、船橋夫人のご苦労は大変であ
鵜の面に川波かかる火影かな
(闌
更) ったろうと思います。又この会の
新 医 師 諸 君 に望 む
須 田 芳 郎
安 堵 と 期 待 と 一抹 の 不安 を 感 じ つ つ
(昭9卒)
⑥絶対無理押しをしないこと
対策の要諦﹂として注意を喚起し 慎重な態度で臨むべきこと
養
取扱 代理 店
お 問 合 せ ・お 申 込 先
東 京 慈 恵 会 医 科 大 学 同 窓 会
〒105東
京 都 港 区 西 新 橋3-25-8
TEL03(431)6971
けど働けどの吾々自身の悲しい姿 君寄贈のナポレオンで乾杯し、盃
を、長良川の闇の川面に見つめよ がかさねられるにつれて、想い出
うという皮肉なテーマのもとに、 話に花が咲き歌が出て夕闇はます
やがて川面が闇にとぎされる頃
下るを待つ (波津女)
暮を待ち暮れて鵜舟の
昭和五十年度昭十七会が、旧三組 ます濃くな ってゆく。
担当幹事船橋知也教授のお世話で
長皮川の ﹁
岐阜グランドホテル﹂
において六月十四日午後四時半よ
上流のほうでほうほうという掛け
司会の船橋教授の開会の言葉に 声とともに舷側をたたくばんばん
り開催された。
はじまり、最近亡くなられた山本 という音が聞えてくる。それ来た
明君、中谷盛明君、米川衛君の冥 ぞとどの船の見物人も 一斎に首を
鵜篝の山裾を染め下り来る
福を祈 った後、恒例の阿部正和教 のばす。
であり、期待と不安も亦格別なも
今春医師国家試験に合格された したものだけに、感激もひとしお れますので、その点については後 たいと希うものであります。
諸君!!
沢
日 … … 昭 和51年1月20日
切
授の大学近況報告。岐阜県同窓会
(
桜波子)
(草田男)
友垣と美酒に頬燃え鵜の火待つ
麦部長内田雄三先生 (昭6)の歓
迎のご挨拶。新井敬喜君の病中見
私の海外旅行歴は今夏の訪米27 の生活の実態を知ることは殆んど みて成功であ ったと確信している に及ぶ聴衆を前にしてバロック時 の底にこびりついて離れなか った
いろいろの苦労を乗り越えて諸 のを持 っているものでありますの
今夏の大きなハプニングは、シ 代のイタリヤの作曲家パレストリ パールハーバーのうらみを今日限
君を医師として社会に送り出すこ で、諸君の父兄の 一
人として、ま 日間を加えて過去十年間で24回に 不可能なことで、市民生活に卒直
海外合唱行脚
(
昭2卒)
われわれが海外で合唱ばかりで
価 格……¥388,000
別
会 員 特
締
込
申
舞いに対するお礼の言葉、予定の
闇の中を篝火が近付いて来る。
海外旅行が專ら現地の家庭でお世 ものである。直接お互いに接し合 ホールでのわれわれの合唱演奏が ーション (
起立しての拍手)で答
との出来たご父兄のご安堵の程も た慈恵同窓生の先輩の 一人として 過ぎないので特に多いわけではな にふれられる家庭滞在において他 カゴにおけるシカゴ交響楽団のホ ナのミサ曲の合唱を終えた瞬間、 り忘れます﹂と。この言葉を耳に
いかばかりか。然し安堵の胸の奥 敢えて本稿を草した次第、了とせ いが、旅行の内容は過去六年間の にはないという考えから発展した ームグラウンドであるオーケスト 殆んど全聴末がスタンデングオペ し思わず感激で目頭が熱くなった
一
十才台の声音には、つやがあ っ
音楽批評の点のからいシカゴの音 当に大きな感激の一駒で、この時 一
更に最高の国際語は音楽をおい 楽批評家その他 一般からも賞讃を の印象は未だにわれわれの脳裡に て色気た っぷりで最高でありこれ
けである。
私が諸君の医師としての門出に 話にな ったことで、これが 一般の うことが、国際親善につながるわ 極めて大好評で、アメリカで最も えてくれたことは、私どもには本 も清麗で澄んだ声音であり、特に
には諸君の将来への大きな期待と られんことを。
共に 一抹の不安なお気持を持たれ
昭和45年度夏、全日本合唱コン
きたことがき っかけとなり、翌年
樋ロ 一成先生のこ遺訓として れて、米国の各地を21日間廻って
遵守すべきこと
意すべきこと
穴
は齢と共につやがなくなる。こん
一、医療事故を起さぬこと
クールで優勝を続けていた福島市 て他にないといわれており、人種 受け、特に在留旦 A人が挙げて、 残 っている。
二、慈心妙手 の精神を名学長 のFMC混声合唱団八十四名を連 言葉、風俗、習慣が違 っても、音 これで日本人の鼻が高くな ったと
オハイオ洲ウルバナ市に滞在中 なことから器楽合奏の優秀さは演
三点です。
ておられる方が多いのではないで 際し特に望みたい重な事項は次の 旅行者と違う点かもしれない。
今やそれぞれ所属の教授の許、
しょうか。
教室全体の温いご薫陶を受けてお
られる現在、総べてを教室にお委
せし、外野席からトヤカク雑音を
三、体あ っての物種、健康に留 は五名の青年を連れてオーストラ
﹁
人命を預ることを許す﹂とい 昨年は山形大学合唱団百名を連れ
申述べるべき性質のものではない
かとも存じますが、父兄には父兄
リアを50日間家庭滞在して廻り、
なりの切なる願いのありますこと
団体が使 ったのは創設以来七十二 問演奏をしたことがあ った。日本 までに訓練すれば専門家の合唱団
を、教室の先生方にはご賢察下さ う崇高厳粛なる権利を授与された て24日間北欧、英国、独逸を廻り 楽は自然と相手の心の中に否応な 喜び合い、更にこのホールを素人 同市の養老院で暑い夏の午前中慰 を六十日以上行ない、暗譜できる
唱団の接待に当っていたドクター
とは団員の人柄の良さや態度であ
﹁
今日、日本からの若い男女がこ り、言葉ではなか った。即ち英会
って、われわれアマチ ュア合唱団 いうことをしらされた。
アメリカでは音楽労働組合があ ジョンソンに次のように囁いたと なく家庭滞在でも好評を受けたこ
ハノオ州に住む友人の農園主レー たという事実であ った。
って、しかも素晴らしさで驚かせ た老人達の一人が、われわれの合 はさほど難しいとは思われない。
この二つの事実を組み合わせた 年目でFMCが始めてのことであ からの若い男女の合唱を聴いてい の域に近いくらいにまとめること
諸君の双肩には、同時に極めて重 本年夏は再びFMC合唱団九十三 しに食い入るものである。
特に私は昭和九年に本学卒業、 且つ大なる義務と責任とが負わさ 名を連れてアメリカ27日間家庭滞
いますようお願いいたします。
五十名を引率してデンマーク行き
産婦人科教室員として先代樋口先 れていることを再 確認して 下さ 在し、更に明夏は女子高校合唱団 国際交流の企画を六年前、私はオ
ノルズ君と話し合い、日本の東北
このような事情に立ち至った理 地方と米国のオハイオ地方との交
慈心妙手の真髄特に妙手の真の の企画をたてている。
生のむ遺訓 ﹁
慈心妙手﹂の教室訓 い。
の許で極めて厳格なる教育を受け
た者でございますが、それから四 意義については、この訓を受け初
十 一年目にして初めてわが子 (
三 めてから四十余年を経た今日、漸 由は、本当の海外の国民事情を知 換プログラムとしてお互いに実施 のデズニーランドでの演奏は四十
期
昭 和51年3月28日
脳 波 検査
女 一男の末子)が諸君と 一緒に医 く私にもわかりかけたような気が るには、ホテル泊りで名所旧蹟だ し今日に及んだわけであ って、こ 分以内という厳重な時間的制約が んなに清麗な合唱をわれわれのた 話より人柄態度がはるかに優先し
師免許証をいただくことが出来ま いたす程ムヅカシイことと思考さ け見て廻るセット旅行ではその国 の企画は私なりの過去の経験から あ ったが、そこで超満員の三千人 めに聴かせてくれ、これで今迄心 たことを披露して筆を擱く。
行
国際列車
プログラムの終る頃には待望の鵜
﹃
おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな﹂︱ 岐阜長良川で開
催された昭十七会定期クラス会に出席の方々のサイン
旅
航 空 機
(4)
昭 和50年11月25日
聞
新
大
慈
(第三 種 郵 便 物認 可)
第252号
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