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KOJ001705
太平洋芸術祭への若者の参加と芸術の継承
第1
1回太平洋芸術祭(ソロモン諸島)を中心に 安井眞奈美
1.4
0周年を迎えた太平洋芸術祭
2
0
1
2年7月1日から1
4日までの2週間にわたり、ソロモン諸島国の首都ホニアラで第11回太平洋芸術
祭が開催された(地図1)
。太平洋芸術祭とは、太平洋島嶼国や地域が芸術を通して交流を深め、オセア
ニアの統合を目指すとともに、各国および各地域の文化を高めていこうとする4年に一度の祭典である。
筆者は2週間にわたり、パラオ共和国代表団のメディアスタッフとして、太平洋芸術祭を参与観察する
機会を得た。太平洋芸術祭を内側から見ていく中で、今回、参加者たちが、若い世代とともに太平洋芸
術祭を盛り上げていくさまざまな工夫を凝らしていることがわかった。そこで本稿では、201
2年の第11
回ソロモン諸島大会(以下、このように記す)を素材にして、太平洋芸術祭への若者の参加と芸術の継
承のあり方を明らかにしていきたい。
太平洋芸術祭(当
初は南太平洋芸術
祭)は、1
9
7
2年にフ
ィジーのスヴァで始
まり、以来4年に一
度開催され、2
0
1
2年
の第1
1回ソロモン諸
島大会で4
0周年を迎
えた
(表1)
。その間、
1
9
9
8年に北半球に位
置するミクロネシア
地域の島嶼国が加わ
り、名称が太平洋芸
術祭と改称された。
太平洋芸術祭の目的
地図1 ソロモン諸島の位置
出典:ThePa
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phi
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は、1
9
6
5年の太平洋会議の議論によると、
「1)太平洋地域のさまざまな芸術の形式を保存し、発展させ、
2)外部からの文化的な影響による、伝統芸術の消失を防止し、3)地域の人々が友好的雰囲気のなか
で交流する機会をつくる」
〔山本 2
0
0
1;
2〕
〔Ya
ma
mot
o2006;
6〕ことである。オセアニアの島々が長
年の列強による植民地支配から脱却し、独立の気運が高まった際に開始されたのが南太平洋芸術祭であ
った。主催機関である太平洋芸術会議(Pa
c
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tCounc
i
l
)は、太平洋の島々の独立を視野に入れて
56 表1 過去の太平洋芸術祭の開催年と開催地
回数
開催年
開催日
開催国
開催地
参加国と地域数
第1回
1972
5/6−2
0
フィジー
スヴァ
第2回
1976
3/6−1
3
ニュージーランド
ラトルア
2
0
第3回
1980
6/30−7/1
2
パプアニューギニア
ポートモレスビー
2
2
(第4回 中止)
?
1984
ニューカレドニア
第4回
1985
仏領ポリネシア
パペーテ
2
1
第5回
1988
4/14−2
7
オーストラリア
タウンズヴィル
2
4
第6回
1992
10/16−2
7
クック諸島
ラロトンガ
2
3
第7回
1996
9/8−2
3
サモア
アピア
2
5
第8回
2000
10/23−11/3
ニューカレドニア
ヌメア
2
4
第9回
2004
7/22−3
1
パラオ
コロール
2
7
第10回
2008
7/20−8/2
アメリカ領サモア
パゴパゴ
2
3
第11回
2012
7/1−1
4
ソロモン諸島
ホニアラ
2
4
出典:TheFe
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〔St
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on2012:
10 15〕より作成。
経済開発のために創立された南太平洋委員会(TheSout
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s
s
i
on,略称 SPC)の監督下に
置かれている
〔山本 2
0
0
1;
3〕
。
南太平洋委員会は、現在、太平洋共同体事務局(Se
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r
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tofPa
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muni
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)となったが、略称は現在も SPCのままである。太平洋芸術祭の主たるスポンサーでもある。
筆者にとって太平洋芸術祭の調査は今回で4度目となる。最初の参加は、第8回ニューカレドニア大
会(2
0
0
0年)であった。当初は、どのようにして太平洋芸術祭の参加者である国と地域の代表者を決め
るのか、その過程に興味を持ち、とくにグァム島、北マリアナ諸島連邦,ミクロネシア連邦,パラオ共
和国などのミクロネシア地域に焦点をあてて調査を行った〔安井 200
3、Ya
s
ui2006〕
。2度目の参加は、
2
0
0
4年に初めてミクロネシア地域で開催された第9回パラオ大会である。筆者は、ユネスコ基金による
太平洋芸術祭のシンポジウムの企画に携わり、パネルディスカッションの一つでコーディネーターを務
〕
。次に第1
0回アメリカ領サモア大会では、パラオ共和国代表団のメディアスタッフ
めた〔安井 2
0
0
9 a
の一員として皆と行動をともにし、写真とビデオの撮影を行った〔安井 2009 b〕。この時初めて、参加
者の視点から太平洋芸術祭を見るという貴重な経験をした。
引き続き、第1
1回ソロモン諸島大会においても、筆者はパラオ代表団のメディアスタッフとして撮影
を担当することとなった。今回は、予算の関係でパラオのメディアスタッフは参加できなかったが、民
族音楽学者の小西潤子さんもパラオ代表団の一員として、前半の一週間のみ、筆者とともに参加された。
筆者と小西さんが映像・音声などの記録を担当し、太平洋芸術祭の経過をパラオの新聞社や文化社会大
臣、ベラウ国立博物館などへ送った。
太平洋芸術祭というオセアニアの人々の大祭に、日本人である筆者がパラオ代表団の一員として参加
することは、まことに奇妙ではある。しかし、パラオでの調査を通じて築かれた信頼関係により、
「一緒
に行きましょう」とパラオ文化社会大臣や女性首長に声をかけてもらい、ご厚意に応じることにした。
太平洋芸術祭の代表団と一緒に行動できる幸運を活かし、観客ではなく参加者の側から太平洋芸術祭を
見ることにより、本稿では、若者の参加と次世代への芸術の継承について考えていきたい。
57 2.第1
1回ソロモン諸島大会の概要
記念すべき4
0周年を祝う第1
1回ソロモン諸島大会は、先述の通り、2012年7月1日から14日までの2
週間にわたって開催された。第11回大会のテーマは「文化と自然の調和(Cul
t
ur
ei
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h
Na
t
ur
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)
」である。
参加国・参加地域は、SPC(Se
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r
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a
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c
i
f
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cCommuni
t
y
)加盟国のうち次にあげる国と地
域である。開会式に登場した国と地域をアルファベット順に列挙していくと、グァム、アメリカ領サモ
ア、オーストラリア、クック諸島、イースター島、フィジー、仏領ポリネシア、ハワイ、キリバス、ナ
ウル、ニューカレドニア、ニュージーランド、ノーフォーク島、パラオ、パプアニューギニア、サモア、
ソロモン諸島、トケラウ、ツバル、ヴァヌアツ(開会式に間に合わず)である。なお特別参加として、
台湾(パイワン、プユマ、アミ族)が加わっている。彼らは、2004年の第9回パラオ大会に特別招待さ
ʢ̍ʣ
れて以来、参加を続けている。この他、日本人のアーティスト2人も個人的に訪れ、モダンダンスを披
露した。
太平洋芸術祭で披露される主な芸術は、ダンス、パフォ
ーミングアーツ、絵画、伝統工芸品、現代芸術、映画、写
真、伝統料理のデモンストレーション、タトゥー、彫刻、
陶芸など多彩である。
メイン会場は、ガダルカナル島のホニアラに設置された
芸術祭村(f
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s
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i
v
a
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l
l
a
ge
)であり、サテライト会場として
ガダルカナル州ドマやウェスタン州なども加わった。ホニ
アラの芸術祭村には、ソロモン諸島の特産品である竹とサ
ゴ椰子で作られた立派な門が設置された(写真1)。
芸術祭村は、メインステージのある西側のパシフィカ会
場と、芸術祭のために造られた人造湖のある東側のレイク
サイド会場の2つからなる。前者には参加国・参加地域の
ブースが、後者には主催者側のソロモン諸島各州の代表団
写真1 芸術祭村の門
によるブースが設けられ、連日多くの
観客で賑わった
(写真2)
。西側のパシ
フィカ会場では、各地域の伝統工芸品
の展示や販売
(写真3)
、またタトゥー
や陶芸の実演などが行われた。その他、
飲食店の屋台、保健センター、津波な
どの災害被害の展示
(写真4)
、世界遺
産の展示などのブースも設けられた。
東側のレイクサイド会場でも、ソロモ
ン諸島各州の充実した展示とパフォー
マンスが繰り広げられた。
写真2 サモアのブース
58 写真3 パプアニューギニアのブースでの展示販売
写真4 東日本大震災などの津波による被害の展示
プログラムは7月2日午前5時、まず
アエロバルの海岸で、太平洋芸術祭の象
徴であるカヌーを出迎えるところから始
まった。海岸には、ポリネシア地域より
ソロモン諸島を目指してやってきた6艘
のカヌー(v
ak
as
)が到着し(写真5)
、
ソロモン諸島のカヌー(t
o
mo
k
o
)1
1艘も
伴走した。カヌーを迎えてから午後3時
に開会式のパレードが行われた。期間中
は連日、ホニアラの芸術祭村を中心に午
写真5 開会式でカヌーを迎える
後3時から9時まで各代表団のダンスのプログラムが隙間なく組まれた。約2週間にわたる充実した内
容の太平洋芸術祭は、7月1
3日に閉会式が行われ、14日に代表国が帰国の途に就き、幕を閉じた。
3.開催国ソロモン諸島の取り組み
次に、開催国ソロモン諸島の特筆すべき点として、以下の6点を挙げたい。
まず第1点は、開催国である人口約60万人の
ソロモン諸島国が〔TheUni
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opme
ntPr
ogr
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0
1
1〕
、太平洋芸術祭の開
催を「国家あげての歴史的出来事」として捉え、
国家規模で準備を進め、積極的に取り組んでい
た点である。それは、太平洋芸術祭の期間中に
ホニアラのロウソン・タマスタジアムで開催さ
れた、ソロモン諸島独立3
4周年記念式典(写真
6)におけるゴードン・ダーシー・リロ首相の
演説にはっきりと表現されていた。
写真6 独立記念日に披露された警察隊のパレード
59 ソロモン諸島は、1
8
9
3年に英国政府が保護領として宣言したことにより、フィジーのスヴァにある英
国弁務官事務所配下の英国保護領となった〔マッキノン 1996;22
7〕
。太平洋戦争時には、とりわけガダ
ルカナル島などが日本軍とアメリカ軍の激戦地となり、壊滅的な被害を受けた。その後1960年代に、植
民地政府はソロモン諸島を自主政府へと移行させ、197
8年7月7日に独立に至った〔マッキノン
1
9
9
6
;
2
34~23
5〕。このように、ソロモン諸島の独立記念日は7月7日であるが、2012年の式典は7月6
日の午前中に開催され、太平洋芸術祭の参加国や参加地域の代表たちも招待された。
リロ首相は、就任後初めて迎える独立記念式典において、34度目の独立記念のテーマを「緑豊かな将
来にむけて私達の文化を愛おしむ」
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ur
e
”と発表した。その理由
として、伐採作業を通して破壊された野生の森を見るにつけ、持続可能な天然資源の重要性を真剣に認
ʢ̎ʣ
識したためだと述べた。ソロモン諸島では丸太は主要な輸出品の一つであるが、森林を持続可能な形で
守っていくような環境が整備されていない。従ってそれを意識して守っていくことが、経済発展だけで
はなく、人々の生活環境を守ることにもつながる、というわけである。今回の独立記念のテーマは、第
1
1回ソロモン大会のテーマである「文化と自然の調和」とも響きあっていると言えるだろう。また彼は、
演説の最後に開催中の第1
1回ソロモン大会にも触れ、式典に出席した太平洋芸術祭の参加者に感謝の意
を表した。
第2点として、各国代表団のスケジュール調整を担当し、ステージに案内するソロモン諸島の連絡係
と呼ばれるスタッフや、送迎を担当する運転手たちの献身的な働きぶりが挙げられる。連絡係は総勢約
1
50人にのぼり、南太平洋大学(Uni
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)の学生が多数応募した他、政府機関や一
般企業などからも、臨時で派遣された人々が仕事にあたった。連絡係には、ソロモン諸島政府より期間
中の給料が支払われることとなっていたので、失業率の高いホニアラでは連絡係への応募が殺到し、高
い競争率となった。
たとえば、パラオ代表団1
9人を担当したのは、男性3人と女性2人の連絡係であった。このうちリー
ダー格の女性タニサベさんは、政府出先機関の港湾部(Sol
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)で働き、14人の同僚とともに、出入港する船を確認し、出
航の合図を送るなどの仕事に従事している。タニサベさんは、港湾部で働くソロモン諸島初の女性であ
り、その経歴が買われての抜擢になったという。太平洋芸術祭期間中、彼女は毎日のスケジュールを確
認し、車の手配をし、さらにはパラオ代表団が開会式で受け取った儀礼用の豚を自宅の石焼き炉で料理
するなど、万全の態勢でパラオ代表団をサポートしていた。このようなスタッフの長時間にわたる肌理
細やかな働きのおかげで、芸術祭はスムーズに運営されていた。
一方、約1
10人の運転手は、参加者の宿泊施設から各ステージまでの送迎に連日追われた。大型バス
は、ソロモン諸島からは4台しか提供できなかったため、フィジーから4台を調達して調整していた。
第3点は、ソロモン諸島の小中学生や若者たちも、太平洋芸術祭を支えるために大いに活躍していた
点である。たとえば開会式では、地元の小中学生たちがカードを掲げて参加国の国旗を描くパフォーマ
ンスを行うと、参加者たちは歓声をあげて喜んでいた(写真7)。また、代表団が宿泊していた高校や大
学の寮で、食事チケットの確認や配膳などを手伝っていたのも地元の高校生たちであった(写真8)。配
膳を担当していた高校生の女子たちは、年齢の近いパラオの女子たちと友達になり、最終日にはソロモ
60 ン諸島のネックレスをプレゼントするな
ど、親交を深めていた。彼ら高校生の働
きも、宿舎の運営には欠かせなかった。
第4点は、ソロモン諸島のパフォーマ
ンスと展示の充実ぶりである。レイクサ
イド会場には、ソロモン諸島各州のブー
スと、ソロモン諸島に在住する中国とキ
リバスの移民の人々のブースが設置され、
さまざまな展示がみられた。たとえばガ
ダルカナル州のブースでは、伝統的な家
屋を再現し、腰蓑をつけた人々がかつて
写真7 地元小中学生による開会式でのパフォーマンス
の暮らしぶりを再現していた(写真9)。
首都ホニアラのブースでは、伝統工芸の
彫刻やビーズのアクセサリーが展示・販
売された。ワシの彫刻を彫っていた男性
は、村から徒歩で6時間かけてホニアラ
に到着し、2週間、ブースで寝泊りして
作品を完成させるのだという。またマラ
イタ州のブースでは、高齢の女性たちが、
フタ(f
ut
a)と呼ばれるドリルを使って
貝に穴を開け貝の財貨(s
he
l
lmone
y
)を
作る実演を行っていた(写真1
0)
。現在、
写真8 宿舎食堂の様子
貝の財貨を作成しているのはマライタ州のみであるため、
貴重な実演であった。またウェスタン州では、伝統的な
カヌーの製作の実演が行われていた。開会式に登場した
写真9 ガダルカナル州の伝統的な家屋の再現
61 写真10 貝の財貨を作る女性
(マライタ州)
ソロモン諸島のカヌー(t
o
mo
k
o
)は、すべ
てウェスタン州で作られたものであり、レ
イクサイド会場でカヌーのデモンストレー
ションも行なわれた
(写真1
1)
。このように、
ソロモン諸島の人々は、伝統的な暮らしや
手工芸品、カヌーの展示を行い、またブー
スの前でダンスを踊って、彼らの文化遺産
を太平洋島嶼国の人々に広くアピールして
いた。筆者が参与観察した中でも、地元の
展示とパフォーマンスがたいへん充実した
写真11 レイクサイド会場でのカヌーの実演
太平洋芸術祭であったと言える。
第5点は、ソロモン諸島の観客たちも、連日熱心にパフォーマンスに見入っており、地元の人々も存
分に楽しんだ点である。第8回ニューカレドニア大会(2000年)では、当初、地元の人々はフェンス越
しに芸術祭のパフォーマンスを垣間見るだけで、さながらヌメアの白人のための芸術祭のように見受け
られた。しかし第1
1回ソロモン諸島大会では、太平洋芸術祭の開催が国民に充分に周知されていた。そ
のため首都ホニアラでは、大勢の人々が午後3時からの野外でのパフォーマンスを、炎天下にひしめき
あって見入っていた(写真1
2)
。プログラ
ムは連日午後9時まであり、最終の公共バ
スを乗り過ごした多くの人々が列をなして
歩き、2~3時間かけて自宅へ向かう人も
大勢いた。ソロモン諸島に太平洋芸術祭に
代わる娯楽がないと言えばそれまでだが、
人々の熱心さには目を見張るものがあった。
第6点は、芸術祭参加の代表団一人ひと
りに携帯電話が配られたことである(写真
13)。これは、ソロモン諸島通信大臣と観
写真12 芸術祭村で熱心に見入る観客
光大臣の取り計らいで可能となった。参加
者たちは、さっそく携帯電話を首からさげ
て大いに活用していた。広い芸術祭村で、
連絡をとり合うには携帯電話はたいへん便
利であった。また若者たちは、好きな曲を
ダウンロードして楽しんだり、写真を撮っ
たりして、2週間存分に楽しみ、お土産と
して持ち帰っていた。これも現代の通信状
況を反映した、太平洋芸術祭の新たな動き
と言えるだろう。
写真13 全員に携帯電話の入った袋が配られる
62 もちろん、第1
1回ソロモン大会の運営に問題がなかったわけではない。たとえば国内のインフラの未
整備のため、代表団が宿泊していた高校の寮で水不足が生じ、参加者たちがシャワーを浴びられない日
があった。一度に大勢の人々が水を使うため、給水タンクが空になったためである。その後、高校の寮
には不定期に給水車が訪れ、なんとか乗り切ることができた。また、ソロモン諸島全域はマラリアの危
険地域となっており、パラオやグァムなどミクロネシア地域からの参加者は、マラリアを予防する薬を
毎日服用し、なかには体調を崩す人もいた。
また、太平洋芸術祭の公式プログラム以外に、たとえば南太平洋銀行の本店や、ホニアラのゴルフク
ラブに招待されて、パラオやサモアなどいくつかの国の代表団がパフォーマンスを披露する機会もあっ
た。しかし、食事が用意されていなかったり、お土産にポロシャツ一枚だけが贈られたり、扱いは決し
てよくはなかった。そのような民間企業の上層部の考えは、太平洋芸術祭の国家あげての歓迎ぶりから
は程遠いものであったと言えるだろう。
さらに地元の新聞『ソロモン・スター』
(2
01
2年1
2月19日版)によると、太平洋芸術祭の後、5ヶ月経
った12月になっても、建設者や貝貨製作者、警備員、庭園師などの準備運営スタッフや職人に賃金が支
払われず、彼らは怒りのあまり文化観光省の建物を焼き払ったという〔Ma
r
a
u201
2〕。開催国ソロモン
諸島にとって、太平洋芸術祭の負の部分は、献身的に協力したスタッフたちへの政府の賃金未払いとい
う形で露見することとなったのである。
4.次世代への芸術の継承
今回の太平洋芸術祭に、若者はどのように参加していたのか、以下具体例をあげて考察してみたい。
4 1.若者のためのシンポジウム
太平洋芸術祭では、パフォーマンスの披露だけではなく、芸術の著作権などの問題について話し合う
シンポジウムも連日開催され、熱心に議論がなされた。筆者も、パラオ文化社会大臣のフォスティーナ
女史の発表に対してコメントをするなど、シンポジウムに参加する機会を得た〔Ya
s
ui201
2〕。
注目されるのは、若者の参加を呼び掛けたシンポジウムである。このシンポジウムは、太平洋諸島博
物館協会(ThePa
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MA)が記念碑・遺跡国際会議(t
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COMOS)とともに企画したものである。太平
洋諸島博物館協会の会員で、議長を務めた
フィジーの Ta
r
i
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iVuni
di
l
o氏は「太平洋地
域では若者はいつも脇におかれる。だから
今回の太平洋芸術祭では、若者が存分に考
える機会を作りたかった」と企画の意図を
説明した。シンポジウムのほとんどは老舗
のマンダナホテルで行われたのに対し、こ
のシンポジウムはパナティナ・パビリオン
写真14 若者のためのシンポジウム
63 という、オープンな空間で昼食を共にするなど、和やかな雰囲気で開催された(写真1
4)
。
興味深かったのは、フロアにいる若者も交えて行われたディスカッションである。まず議長が口火を
切り、地域の博物館をもっと活用しようと呼びかけた。そして、
「もっともよい方法は博物館に足を運び、
ボランティアとして働きたい、と博物館の学芸員に言ってみることです。そうすれば博物館の手伝いを
しながら自分の興味を深めていくことができます」と語りかけた。するとナウルの若者が、
「残念ながら
ナウルには博物館がない。だからどうしていいかわからない」と発言した。
パネリストの一人パラオの文化社会大臣・フォスティーナ女史が、すぐに次のように応えた。「博物館
の建物はあとでいい。まず、あなたが博物館を作る準備を始めてみましょう。最初は計画を立てること。
次にモノを集めること。そうして準備を進めれば、さまざまな機関や人々が手伝ってくれる」と、フロ
アにいたユネスコ職員の日本人女性の方、筆者と小西さんの名前を挙げ、ナウルの青年を励ました。太
平洋島嶼国の経済状況を鑑みると、博物館設置のための資金調達はまず難しいだろうが、ユネスコのよ
うな文化財関連のグローバルな機関や日本の文部科学省であれば援助してくれるかもしれない、という
わけである。
その後、彼に続いて、各国の若者が次々に自分の意見を発表した。このように若者を交えたシンポジ
ウムは、主催者である太平洋諸島博物館協会の司会者や基調講演者らが若者の発言を引き出し、若者を
激励する形で進められた。主催者は、若い世代の育成がオセアニアの芸術の発展と太平洋芸術祭の存続
にきわめて重要であると認識し、シンポジウムを企画した。そしてその熱意は、フロアの若者たちにも
通じ、活発な議論となった。
シンポジウムの最後には、参加者がフェイスブックを立ち上げて、文化遺産について語るところから
活動を始めたい、と次のステップも示された。地元新聞『ソロモン・スター』
(2
01
2年7月10日版)
〔Sol
o�
mon St
a
r2
0
1
2〕も、若者たちの活躍ぶりを「シンポ“若者は語る”
、若者を激励」という見出しで、大
きな写真とともに伝えている。このシンポジウムは、太平洋芸術祭の中で若者の育成を強く意識した企
画として注目される。
4 2.聴覚障害の子どもたちによるパフォーマンス
太平洋芸術
祭のサテライ
ト会場のドマ
は、首都ホニ
アラから車で
西に4
0分ほど
離れた海岸沿
いにある(地
図 2)
。筆 者
が訪れた7月
7日、ドマで
地図2 ガダルカナル島、ホニアラとドマの位置
出典:COUNTRY MAP So
l
o
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nI
s
l
andsbySOLOMON I
SLANDS VI
SI
TORS BUREAU
64 は、グァム島や、キリバスなど海外からの代表団の他、ソロモン諸島のイザベル州やマライタ州、マキ
ラ州など地元のダンスグループが熱気あふれるパフォーマンスを演じていた。これらのパフォーマンス
に混じって、地元ドマにあるイシドロ学校
(I
s
i
dor
oSc
hool
)の子どもたちもダンスを
披露した。
イシドロ学校は、1
8歳までの聴覚障害の
子どもたちが約1
0
0人通う聾学校である。
舞台では、女性の教師がマイクを握り、と
ても大きな声でゆっくりと英語で歌の意味
を述べ、その横でもう一人の教師が手話を
使って説明した。腰蓑をつけた生徒たちは、
床を踏み鳴らして漁撈のダンスを踊り、歌
写真15 聾学校の子どもたちによるパフォーマンス
を歌った。ダンスの途中、一人の男の子がお尻を振ってコ
ミカルなしぐさをすると、会場の子どもたちからどっと歓
声があがった(写真15)
。ダンスの後に、教師は「生徒た
ちは耳が聞こえないので、せっかくの拍手もわかりません。
もしよいダンスだったら、拍手の代わりに、みなさん両手
を挙げて振ってください」と呼びかけると、観客たちは一
斉に手を振り始めた。舞台の生徒たちは、汗をぬぐいなが
ら、満足そうな表情をしていた。
その後、ダンスを踊ったすべての生徒が一人ずつ前に出
て、名前と出身地を手話で紹介し、教師が「私は○○です。
××から来ました」と観客に伝えた(写真16)。観客は一
人ひとりに対して高く手を挙げて舞台に向かって振り返し
写真16 手話で自己紹介
た。生徒たちは、多くの観客を前に誇らしげに手を振って舞台を去っていった。
太平洋芸術祭という国際的な舞台でのパフォーマンスは、イシドロ学校の生徒たちに大きな自信を与
えたにちがいない。地元ドマの人々だけでなく、海外の代表団を前にして対等にダンスを披露し、一人
ひとりの自己紹介もする このような経験の場を用意したイシドロ学校の教師や現地のスタッフの努
力は評価に値すると言えるだろう。次世代への芸術の継承と若者の育成という点からみても、太平洋芸
術祭におけるイシドロ学校の取り組みは注目される。障害のある若者にもパフォーマンスの機会を提供
するソロモン諸島のやり方は、今後、太平洋芸術祭の一つの見本になると言えるだろう。
4 3.パラオ共和国のダンスグループ
次に、若者への芸術の継承という点から、パラオ共和国の代表団に注目してみたい。パラオ代表団の
特徴は、第1に予算の関係から1
9人と少人数に限られていた点(うち2人は筆者と小西潤子さん)
、第2
に秘書の男性以外はすべて女性である点、第3にダンスグループの10人はすべて10代であり、太平洋芸
65 術祭参加者の中でもきわめて若いチームである点などが挙げられる。
パラオでは、20
1
1年10月に行われたベラウ・フェア(Ol
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)にて、太平洋芸術祭への
代表チームの選考が行われた。そして、6グループの中から選ばれたもっとも優れたチームがガラマイ
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) 集落出身のボニタス・ダンサー(Boni
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)のグループであった。
このグループは、ダンスのインストラクターの女性を中心に、その姪や同じ母系親族集団に属する女
子からなる。インストラクターの女性によると、同じ母系親族集団の子どもたちだと気心も知れている
ためダンスが教えやすいが、異なる母系親族集団の子どもたちだと叱ったりもしにくいという。また今
回のような海外公演の場合、ダンサーたちの生活面にも配慮ができるため、都合がよいという。
前回の第1
0回アメリカ領サモア大会では、パラオからは女性のダンスチームと、男性を中心とした現
代音楽のグループが参加していた。しかし第11回ソロモン諸島大会では、予算の都合で人数を制限しな
ければならず、また男性よりも女性のダンスグループの方が見栄えがよいという理由により、女性のダ
ンスチームが選ばれたのである。
さらにチャーター便での座席数が直前になってさらに限られてしまったことから、女性のダンスチー
ムは1
0人のみの参加となった。ボニタス・ダンサーは12人のチームであるため、10人を選ぶ必要が生じ
た。太平洋芸術祭は勝敗を決めたりする性格の大祭ではないが、いずれの参加国も、最もすばらしいパ
フォーマンスを見せようと努力する。そのためダンサーの選出には、ダンスがうまく、大会に何度も出
場した経験者を優先的に選ぶ傾向にある。ところがパラオの選考では、なるべく歳の若い人を優先的に
選ぶ方法が採用されたのである。結果として12人のうち20歳代の2人を除く1
0代の1
0人が参加すること
となった。
この点について、パラオ文化社会大臣・フォスティーナ女史は、筆者のインタビューに次のように答
えた。
「太平洋芸術祭への参加という貴重な経験の機会を、若い人に与えたい。そしてそのすばらしい経
験を、パラオに帰って若い友人たちに伝え、また指導してほしい。若い人々が太平洋芸術祭の経験を共
有し、また誰かに伝え、彼らがやってみたいと思えば、それが将来を担う人材の育成につながっていく。
だからなるべく若い人々に経験してほしいと考えている」と。つねに次世代への文化の継承を意識して
いるからこそ、このような考えが思い浮ぶのだろう。競争心をあおるより、若手の経験が仲間を通じて
広がり、共有されることを期待する、人口2万人弱の島嶼国ゆえの戦略と言えるだろう。思い切った若
手育成の方針は、結果として1
2歳の女子の
参加も可能にしたのである。
ダンサーの女子たちは、太平洋芸術祭の
参加者が過ごす宿舎で、他の代表団がダン
スの練習を始めたとき、目を皿のようにし
て見入っていた。イースター島(ラパ・ニ
ュイ)の見事なダンスを見て、一人の女の
子は、
「あんな上手なダンスが踊れるなんて、
嫉妬する」と言い、別の女の子は「自分た
ちが上手に踊れるか、ものすごく心配」と
写真17 宿舎での練習
66 表情が暗くなった。その後、彼女たちは懸
命に練習を始めた(写真1
7)
。
太平洋芸術祭の舞台で、1
0人のダンサー
たちは、規定の2
0分の持ち時間をきちんと
守り、決してそれ以上ダンスを続けること
はしなかった。参加者の中には、倍以上の
時間をダンスに費したり、ひどい時には1
時間もパフォーマンスの続く場合もあった。
そのような中で、時間を厳守した彼女たち
のパフォーマンスは、かえって印象が強く、
写真18 パラオのダンス
(博物館前ステージ)
もっと見たいという余韻を観客に残した(写真1
8)
。
ここで、パラオの伝統的なダンスにも言及しておきたい。本来、パラオのダンスはゆったりとした動
きが主であるが、2
0
0
4年に第9回パラオ大会が開催されたことをきっかけに、少しテンポが速くなって
きたという。なぜなら、パラオの伝統的な首長制に基づく女性首長の一人・ビルンが、第9回パラオ大
会で他の島嶼国のダンスにアップテンポのものが多く、それが人気を博していることに気づき、それ以
来、パラオのダンスも、なるべくアップテンポにするように指導を始めたからだという。もっとも権威
のある女性首長の一人が主張するのであるから、従わないわけにはいかないだろう。それゆえ、パラオ
のダンスも年々、テンポが早くなっているのだという。
ところで1
2歳の女の子は、太平洋芸術祭でダンスのパフォーマンスを立派に遣り遂げ、その感想を次
ʢ̏ʣ
のように記している。
ソロモン諸島で開催された第1
1回太平洋芸術祭は、ほんとうにすばらしかった。とっても楽しく、さ
まざまな人々にたくさん出会えた。ソロモン諸島の連絡係たちともとても楽しく過ごせた。これは私の
人生の中でもっともすばらしい祭りです。
彼女は、このような感想をパラオへ帰国後、家族や友人たちにも伝えたのだろう。パラオ文化社会大
臣の目論見は、的確だったと言える。
5.次世代の継承に向けて
このような次世代の育成に向けての取り
組みはパラオだけのものではない。パプア
ニューギニアの13
0人の代表団の中には高
校生のグループ〔EHP(Ea
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も含まれており、パンパイプの演奏に併せ
て宿舎の体育館で練習をしていた
(写真1
9)。
写真19 パプア・ニューギニアの高校生も共に練習
67 彼らは、太平洋芸術祭の場で大人のダンサ
ーたちと一緒にパフォーマンスをし、貴重
な経験を積んでいた。
またグァムの15
3人の代表団のうち、「I
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a」のダンスグループ2
3人のリーダ
ーであるレオナルド氏によると、彼がつね
に意識しているのは、次世代の育成であり、
地元の高校やグァム大学などに出掛け、チ
ャモロの歌と踊りを学びたいという積極的
な若者の勧誘を行っているという
(写真2
0)
。
写真20 グァムの IFanl
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’
aグループのダンス
(ドマにて)
その他、美しい手工芸品の展示を行った
ニウエ島の女性は、娘にそれを教えて親子
で太平洋芸術祭に参加していた。またサモ
アのインストラクターの女性は、5歳から
ダンスを踊っている2
1才の娘を、新たなチ
ームメンバーとして加え特訓を始めた(写
真2
1)
。ダンサーたちは、全員が膝の少し
上にタトゥーを入れ太平洋芸術祭に参加す
ることとなったので、娘も急遽出発の2週
間前にタトゥーを入れたのだという。イン
写真21 サモアのパフォーマンス
(ゴルフクラブにて)
ストラクターの女性は、練習中、娘も含めて全員に対して的確なアドバイスを行っていた。このような
母から娘への芸術の継承は、父から息子への継承とともに、他の多くのチームでも見られるが、そこに
母系社会の構造がどの程度影響しているかは、今後の課題である。
このように、第1
1回ソロモン大会では、1
0代や2
0代前半の若者を積極的に参加させる工夫が随所にみ
られた。なるべく年齢の若いダンサーを選んで代表団に加えたり、自分の娘にダンスや手芸を教えて一
緒に連れてきたり、また高校生のグループも参加させたりと、代表団の選考の仕方もさまざまであった。
さらに、太平洋芸術祭のシンポジウムでは、博物館を一つのメディアと捉えてディスカッションを行い、
オセアニア地域の若者たちが交流を深めるなど成果を挙げていた。
また、開催国ソロモン諸島では、リロ首相が「国家あげての歴史的出来事」と称したように、地元の
小中高生も開会式や閉会式で見事なパフォーマンスを披露し、また大学生や若者たちもスタッフの一員
として大いに働いていた。さらにドマのイシドロ学校のように、聴覚障害のある生徒たちにも、太平洋
芸術祭という大舞台でパフォーマンスをする貴重な経験の場が提供されていた。
若者に対するこのような機会が積極的に設けられていたことは、今回の太平洋芸術祭の特徴の1つと
言えるだろう。それは、太平洋芸術祭が4
0周年を迎え、さらなる飛躍を遂げようとしていることと決し
て無関係ではない。太平洋芸術祭を通して、若者もオセアニアのさまざまな芸術に触れ、お互いに交流
し、芸術を高め合っていくという本来の目的が達成されていると言えるだろう。独立を果たした太平洋
68 島嶼国においても、かつての植民地宗主国の政治的、経済的な影響が現在も続いている場合が多い。ま
た文化や芸術も、著作権を主張しなければ「プリミティブ・アート」として消費される危険性がある。
それゆえ、太平洋芸術祭を通して、太平洋島嶼国や地域の人々が自らの文化を表現し、外部に向けて発
信し続けることは、これからもますます重要になると言えるだろう。さらに現代の太平洋芸術祭は、芸
術の表現の場に留まらず、グローバリゼーションの社会において、彼らが生き抜くためのネットーワー
ク形成の場にもなっている。
太平洋芸術祭の閉会式が行われた7月13
日の夜、パフォーマンスを終えた参加者た
ちは一緒に踊り、皆の興奮はクライマック
スに達した(写真2
2)
。閉会式後に宿舎に
戻るバスの中でも、ラジオから流れるBG
Mに乗って、皆、座席で両手を挙げて踊り
続けた。宿舎に戻ってからも、いよいよ興
奮が冷めやらず、多くの若者たちは夜通し
踊り、歌を歌い、お喋りを続けた。2週間
共に過ごした仲間は、勝敗や順位を決めな
写真22 閉会式終了後に皆で踊る
い太平洋芸術祭の場で、すっかり打ち解けていた。
ところで、パラオ共和国の文化社会大臣のフォスティーナ女史は、太平洋芸術祭から約1ヵ月後の
2
0
1
2年8月上旬に、パラオ共和国のコロールで太平洋芸術祭の報告会を設けてくれた。参加者は、太平
洋芸術祭に参加したメンバーと、2
0
1
2年に韓国麗水(ヨス)で開催された国際博覧会に参加した1
0代の
女子たちであり、途中トリビオン大統領も立ち寄ってくれた。筆者は、太平洋芸術祭で撮影した写真と
ビデオを披露して概略を紹介し、参加者の感想を含むレポートの冊子〔Ya
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1
2
〕を一
人ずつに渡して、無事発表会を終えた。このような発表の機会も、「みなで経験を共有し、伝えてゆく」
という文化社会大臣の方針があったからこそ可能になったのだと言える。
次回、第1
2回太平洋芸術祭は2
0
1
6年にグァム島での開催がすでに決まっている。パラオ共和国に続き、
ミクロネシア地域では2度目の開催となる。次回の太平洋芸術祭では、芸術を次世代へ継承していくた
めのいかなる工夫がみられるのか、筆者は引き続き、太平洋芸術祭の参与観察を続けていきたいと考え
ている。
注
⑴ パラオ共和国は、台湾を独立国とみなし国交を結んできたため、2004年の第9回太平洋芸術祭開催に合わせ
て、台湾からの援助金により博物館、文化センターなどを設置した。そのような経緯があって、台湾は第9
回パラオ大会における特別招待客であった。その後も台湾は、2008年第10回アメリカ領サモア大会に招待さ
れ、パフォーマンスの前に「われわれはオセアニア文化の源流である」と説明するなど、オセアニアとの結
びつきを強調した。今回の第11回ソロモン大会では、開会式の行列にプラカードを持って加わり、さながら
正式メンバーのような扱いであった。 ⑵ すでに1970年にソロモン諸島は2
2.
5万立方メートルの丸太輸出を行っていた。1970年代には平均23.
8万トン、
69 1
9
80年代には平均約3
1.
1万トンの丸太を輸出し、1
992年には5
4.
3万トンを輸出するに至った〔宮内 1996;
3
2
1 3
22〕。その後も丸太は、ソロモン諸島の主要な輸出品の一つであり続けている。
⑶ パラオ代表団のための第11回太平洋芸術祭レポート〔Ya
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hi2012〕に掲載したトモコ アサヌマ
さんの感想より。
参考文献
石森大知
2
0
1
1『生ける神の創造力―ソロモン諸島クリスチャン・フェローシップ教会の民族誌』世界思想社
後藤明
1
9
9
6『海の文化史 ソロモン諸島のラグーン世界』未来社
マッキノン、ジョン(田井竜一編訳)
1
9
9
6「一六世紀以降」秋道智彌・関根久雄・田井竜一編『ソロモン諸島の生活誌』明石書店
宮内泰介
1
9
9
6「開発の岐路」秋道智彌・関根久雄・田井竜一編『ソロモン諸島の生活誌』明石書店
山本真鳥
2
0
01「第8回太平洋芸術祭の概要」『太平洋島嶼国における芸術とアイデンティティ 太平洋芸術祭を焦点と
して 』
(平成11~1
2年度科学研究費補助金 基盤研究(B)(2)研究成果報告書 課題番号 国11691035
研究代表者:山本真鳥(法政大学経済学部教授))
安井眞奈美
2
0
0
3「誰がダンスを踊るのか? 第8回太平洋芸術祭へのミクロネシア地域の参加」山本真鳥・須藤健一・
吉田集而編『オセアニアの国家統合と地域主義』
(JCAS連携研究成果報告6)国立民族学博物館 地域研
究企画交流センター(JCAS)
2
0
0
9 a「太平洋芸術祭にみるアイデンティティの創造」吉岡政徳監修、遠藤央・印東道子・梅崎昌裕・中澤
港・窪田幸子・風間計博編『オセアニア学』京都大学学術出版会山本真鳥
2
0
0
9 b「芸術の次世代への継承 第10回太平洋芸術祭見学記」『古事』13
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〈追記〉
本研究は、科学研究費〔基盤研究A「太平洋島嶼部におけるマイノリティと主流社会の共存に関する人類学的研
究」研究課題番号2325102
1、201
1年度~2015年度、代表・風間計博京都大学教授〕の助成を受けた成果である。
経済的な研究支援に感謝したい。
71 
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