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熊本大学学術リポジトリ Kumamoto University Repository System

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熊本大学学術リポジトリ Kumamoto University Repository System
熊本大学学術リポジトリ
Kumamoto University Repository System
Title
ハンス・ヨナスの責任論
Author(s)
清水, 俊
Citation
先端倫理研究, 1: 146-156
Issue date
2006-03
Type
Departmental Bulletin Paper
URL
http://hdl.handle.net/2298/3368
Right
ハンス・ヨナスの責任論
清水俊
本稿では、ハンス・ヨナスの『責任という原理』において、ヨナスが責任をどのようなものとして
捉え、そして私たちが何をしなければならないと考えていたかを明らかにする。そのためにまずヨナ
スの形而上学的な理論を明らかにし、その後に今日の科学技術文明において求められる責任原理によ
る倫理学の必要性について検討する。
Ⅰ.存在論的目的論
目的論的な世界像を想定するヨナスは、『責任という原理』において道具、行為、そして消化器官
の目的について論じている。まず、人工物においては、その目的は全て人間のものである。人工物は
先行する概念によって製作されるが、人工物の内部には目的の概念が入り込まず、使用者の側が人工
物の目的を認識することによりその目的は持続される。1
次に行為の目的については、ヨナスはまず人間の行為について考察する。人間の行為について言え
ば、その特徴は目的が明確である、という点にある。私たちは歩行を選択可能な道具として備え持っ
ている。そして歩行本来の目的ではなく、別の目的が歩行の選択をさせる。動機の系列にとって大事
なのは、それぞれの動機が正しく結びつき、そこから歩行が選択されたかといった系列の正しさでは
なく、その内に「主観的な意味での一つの目的構造を、つまり思い描かれた様々な目標を伴う現実の
目的構造になっているということ」2なのである。このように、行為は目的構造から生じている。
一方、人間以外の生命における行為についての目的の由来は人間内部にはありえない。そこに目的
を認めてしまえば、目的は人間固有のものであるとする説とは相容れないことになる。もし猫に空腹
を満たしたいという目的があり、猫の飛び掛る相手が鼠であれば、猫の行為ははっきりと目的から生
じていると言える。しかしヨナスは、「空腹」が「飛び掛かる」に至る猫のうちで目的の構造化があ
ることを認めようとしない。鼠に飛び掛かるのは鼠に飛び掛かるためであり、空腹はこの飛び掛かり
を引き起こす刺激反応に過ぎない、と考えるのである。3しかしながら、そうであるならば、なぜ空
腹自体は感情として存在し、空腹を充足しようとするのか、という問いが浮かんでくる。本能的に鼠
に飛び掛かるのだとしても、その本能的なプロセスは空腹の感情から導かれている。よって、「この
感情こそが系列全体を統一する主観的な目的動機である」とヨナスは断ずるのである。4
三つ目の例として、私たちの消化器官は、少なくとも客観的に、ある働きを有して存在している。
そして消化器官は、それが人間のものであろうとなかろうと根本的な在り方に対しては変わりがな
い。消化器官に目的が認められるとすれば、目的は人間だけのものではないことになる。
しかし、目的に適って働いているように見える消化器官も、誰の目的か、と問うことは困難である。
少なくとも現在では、この目的の主体に神の名を冠することは難しい。ただ、これら消化器官は、非
常にうまい具合に、目的と手段が一体となっているように感じられる。これらの消化器官に何らかの
主観性が関わっていると想定すること自体はそれほど無謀なことではない。ヨナスはこれら消化器官
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だけでなく、物質の中にも主観性を感じている。全てがうまくいっているように見える理由を、全て
がうまくいくようにしているものがあるからだと考えているのである。
ヨナスの見解では、全ての存在は目的を有している。このことはすでに、価値までも言明したこと
になる。すでに追求されている目的に対し、到達することはよいことであり、到達しないことは悪い
ことだからである。5しかし、存在そのものについての「善し悪し」は、存在そのものに命法をもたら
すものではない。なぜなら、すでに存在は存在しようとしているし、存在しないという選択を持って
いない。ただ、存在そのものは無に対して絶対的な優位にあるわけでもない。私たちの知る科学的知
識のみでも、宇宙以前や宇宙以後に無を想像することができる。存在と無の間には力関係はなく、た
またま今現在、存在が世界に蔓延しているだけかもしれないのである。
存在が目的を備えることができるという能力そのものの中に、ヨナスはそれ自体としての善きこと
を認めることができると考える。目的を有しているということは、目的を備えていないことよりも無
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限に優越している、
というのである。
ヨナスはこの命題を直観的に信じるに足るものと考えているが、
私たちはその直感に従って価値の問題をすぐに受け入れるわけにはいかない。仮に目的のない世界が
あったとすれば、目的達成の善もないが、達成できないという悪もまたない。ここでの論点は、実際
に目的があるかどうかではなく、目的の有ることが無いことに対して優れているかどうかであるか
ら、その優越を断じるのは行き過ぎだと言わねばならない。
だが、ヨナスの世界観に沿って話を進めるならば、存在は目的を備えている。この目的は、自分自
身に対して目的を課している。そして存在のみが存在自身の目的を達成しうる。少なくとも存在の存
続する間は、世界は存在の支配下にある。そのようにして存在の在る間は、存在は目的のためにその
目的を善きこととして措定し得るであろう、ということである。
また存在の在り方について注目すると、存在は様々な在り方をしている。存在はなぜ多様性を有し
ているのか、との問いに対しては、いくつかの仮説が立てられる。一つ目は、たまたまそのような有
様だが、特に意味はない、偶然の産物である、という考え方である。二つ目は、多様でなければ存在
は存続が危ぶまれるがため、無に抵抗するためにそのようである、という考え方である。そして三つ
目には、存在という形態そのものが、そもそも多様化するものである、という考え方である。私たち
はこれらのうちどの答えが正解なのかは、はっきりとはわかっていない。しかし、形而上学的な考え
方が批判されやすい現在にあっては、二つ目の答えを選ぶ人の割合は少ないだろう。そのような中ヨ
ナスは二つ目の答えを選んでいる。
ヨナスは、「目的が備わるという性格を最大化させること、つまり、目指される目標によって可能
となる、「よさ」や「悪さ」が豊かなものになるであろうこと、これが次に来る価値だろう」と言明
している。7目的が多様であればあるほど、存在は非存在から際立って異なったものとなり、存在自体
が強く肯定されるというのだ。このことは、存在そのものと共に存在の在り方の存続自体を肯定する
理論の源泉となる。ヨナスは存在の在り方、存在が様々な形態を持つこと自体に意味があると考えて
いる。そして多様性の現出が最もわかりやすいのが生物である。生命の在り方の多様性は、それ自体
が目的なのではなく、非存在から身を遠ざけるためである。自然という存在の在り方にとって、多様
であることが重要で、現在の多様性の中身は問われないのである。
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さらに人間についての価値、善さについては、「存在が、すでにその昔から個人の意欲の全てを通
して全体のために奨励してきたことが、どうしてわざわざ義務にならなければならないのか」8という
ヨナス的解釈にとっての最大の難題が立ち塞がる。人間以外の存在は、私たちの知る限りにおいて、
存在することへの必然性に対して義務を必要としない。しかし人間は自然の枠からもはずれ、自由意
志を自然から得たにもかかわらず、自らその自由意志を制限しなければならなくなっている。人間は
行為に自由が備わっているならば、行為に際して自然の目的を改めて自身に措定することとなる。人
間にとっての目的は、このような再設定においてのみ価値として証示されることになる。
ヨナスの理論においては、倫理はここから現出する。人間は目的の再設定において、存在が目指し
ていたとおりの目的を選び取るとは限らないため、目的の脱線を調整する手段として倫理が必要とな
るのである。ヨナスの倫理学は、存在(の目的)から導かれている。そして倫理の命令に従うことは、
存在の本質へと義務を果たすことになる。
また、ヨナスは人間の価値において、自然の目的がいかに自由意志によって人間の価値になるかを
問題とする。価値ある目的とは、私が本当に骨を折るべきであり、私が目的としなければならないも
のである。そしてその骨折りの対象がよいものでなくてはならず、そのためにこそ骨折りの対象は当
為の源泉になるのである。9
人間はこの自由意志によって感情を生み出すのだが、感情に従うことは善さとは無関係である。こ
れまで見てきたように、価値を生み出す目的は人間の作り出したものではなく、善さとは世界そのも
のの側にあるといえる。世界そのものの側から生じる善さの求める当為と、私たちの感情に左右され
る当為とは、完全に一致することはない。つまり、私たちの道徳法則は、世界の側から求められるも
のである。世界の側の求めるよさ、すなわち存在の根源的な「存在するという目的」に適うような行為
をするとき、私たちは道徳的に行為しているといえるのである。
少なくとも『責任という原理』においては、神の介在なしに、ヨナスの目的論的形而上学は人間の
価値までたどり着いている。存在の目的は、人間に対しても効力を持つ。存在は人間という在り方自
体は必要としないが、人間という在り方を存続させるように促しているのである。
Ⅱ.責任論の基礎と展開
次に、ヨナスの形而上学から導かれる責任論の内部を見ていきたい。ヨナスは責任を法的責任と道
徳的責任に分けて考えており、法的責任においては行為における意志の善悪は問われずに責任が生じ
るとしている。このような自由と関わらない責任の理論はこれまでの責任論の歴史と相反するようで
あるが、ヨナスの世界観においてはまず存続が第一の目的であるため、自由のために存続が脅かされ
ることはない。法制度が個人の責任を問うからといって、法的手続きに入る以前に責任が生じていな
いわけではない。補償されるべき事態であることが明白ならば、すでに責任は存在しているのである。
ただし、法的責任に関しても自由の有無は解決せねばならない問題となる。人間に自由意志の力がない
ならば、起こった損害を補償する力も生じないのである。決定論的世界では最初から存在の目的自体が認
められないが、仮に認められたとしても存続が途切れる時は必然的にそうなるため、断絶に対抗する力も、
その要求も全く介在する事ができない。自由は行為の生じる時よりもむしろ、責任を実行する時に強く要
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求される原動力なのである。
生物に目を向けると、そこでは法的責任の原型が見て取れる。生物において、集団内部で生じた損害は
必ず補償がされる。彼らにとって重要なのは、種を保存するという目的の達成でしかない。ここから、原
初的な形の責任は、生物の中で生じた存続のための機能であると考える事ができる。非生物にまで目を向
ければ、法的責任の原型はすでに途切れることの無い必然となって役目を果たしているように見える。
だが、道徳的な責任に関しては、行為を生じさせる因果力としての意志が無ければ、倫理的な責任
を行為者に問うことはできないという問題がある。そしてこの伝統的な自由の問題は、自由概念自体
の近代的な問題も生じさせている。それは、科学的な後ろ盾を得た唯物論的決定論による自由の否定
の問題である。私たちの自由意志が行為の制御をできるとすれば、そこには何らかのエネルギーが必
要であるが、それではそのエネルギーはどこから得られ、どこへ消えるのか。この問いがヨナスが立
ち向かった問題である。
ヨナスはこの問題を、心的世界と物質世界の間で微量のエネルギーの流入が起こっているとする仮
説で説明しようとする。この説明自体は検証の困難なものであるが、科学的でなければならない、と
いう理由だけでこれら形而上学的な仮説が否定されることは不正だとも主張している。科学的に証明
可能な真理だけを拾い上げる作業は私たちに有用な科学的な知をもたらしてくれるが、科学的な知が
世界の全てであると言い切ることはできないのである。
ヨナスはここから、人間の主観性、意志の因果的な力のあることを前提とする。意志の自由が活動
することにより、責任は法的な機能を超え、道徳的な機能を求められることになる。自由な意志は、
存在の目的に反した行為を生じさせ、存続に対する危機をもたらす。そこで、事務手続き的な法的責
任だけでは、人間の存続は断たれてしまう。だが、目的によってそれぞれのものが作り出されるとす
るヨナスの世界像においては、自由意志も目的があって作られたと考えられる。目的によって作られ
た自由意志が、ただ暴走するに任せるわけにはいかないので、目的はさらに人間に道徳を与えた。そ
の道徳が、人間に責任を要求してくる。ヨナスの世界像において、責任はそのように現出してくる。
ヨナスは責任の原型を、親の子に対する責任の中に見る。乳飲み子は、親から受ける補助に対して
何も返却することはない。ここで重要なのは、乳飲み子の世話を、親の責任ではなく私たちの責任と
して理解している点にある。乳飲み子の泣き声は、私たちの総体へと世話を要求している。私たちは
自然と子供を産み、育ててきたため、なぜそのようにしなければならないのか、という問題これまで
直面してこなかった。ヨナスは本能ではなく、存在するものの存続という目的がそうさせると考えた
のである。
私たちがヨナスの責任論から知ることができるのは、一つの軸の通った目的のある世界において、
軸から外れそうになるものに働きかける自浄作用として責任があるということである。ヨナスの責任
概念は、個人間同士の行為の収支を調停するためでなく、存続のための無償の要求を突きつけてくる
ものなのである。
また、科学技術文明は行為の質に変化をもたらした、とヨナスは考えている。科学技術を手にした
ことにより、人間の力は周囲の環境へ、そして遠い未来へと影響を与えるようになった。人間にとっ
て善いと思われる影響も大きく広がるが、予期し得ない悪い影響も遠くまで波及してしまうことにな
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る
従来の倫理学はこのような行為の影響力の広がりに対しては応えることができない。ヨナスによれ
ば、従来の倫理学では人間の状態は確定しており、それを基礎として人間にとっての善が難なく明白
に規定され、人間の行為の及ぶ範囲は狭く限定されていると考えられていた。10だがもはやすでに、
私たちはそうではなくなってしまったことを実感している。
しかし、行為の質が変わったのならば、当然倫理学も変わるべきだとヨナスは考えた。「技術の実
践は、たとえ近接する目的のために企てられる場合でも、空間的時間的に大きな広がりを持つ因果系
列を引き起こす」11 のであるから、まず私たちにとって重要なのは、全ての因果系列に対して責任を
負う覚悟をすることである。そして次に、因果系列自体を予測することが私たちの義務となる。私た
ちは知ることのできないことがあるからこそ、尚更知ることに対して努力せねばならないのである。
ヨナスが言及する自然環境や未来世代への責任は、全て存続の危機からもたらされるものである。
自然環境は人間を人間たらしめる条件の一つであるし、未来世代は人間が存続することそのものであ
る。今まで私たちが意識しなかったにしろ、自然環境や未来世代は当然のように存続してきた。しか
しそれらが当然でなくなった今、それらを存続させるためには何らかの対処をするしかない。ヨナス
の形而上学的世界観においては、私たちが自然環境や未来世代に責任を取らなければならないのは配
慮や共感などからではなく、世界の側から求められての止むを得なさからなのである。
Ⅲ.責任論の今後
ヨナスの形而上学理論から導かれる責任論の検討を踏まえ、責任原理の倫理学がどのように現代世
界の諸問題に対処できるのか、そして今後どのように展開されていくべきかを検討する。
(1) 科学技術文明
科学技術の発達は、否応なく地球上の全ての人々を、科学技術の影響下に置いてしまった。現代で
は、いくら生活を一点にとどめようとも、環境の方が悪化する方向に変化していく。科学技術文明は、
科学技術を選択しない者にも不可避的に影響を与えていく。そういう意味で、科学技術の力はあまり
にも大きいために、これまでの倫理では対応できないというヨナスの言い分にも説得力がある。
問題があるとわかっていながら、科学技術文明から逃れられないところに問題の最も深い根があ
る。科学技術には、その発展が人間の幸福のためになされているという強い後ろ盾が存在する。そし
てもっと幸福にしたいという科学自身の欲求は、人類全ての願望へと置き換えられてしまう。科学技
術の発達は、もっと便利に、もっと効率よくと際限のない進歩を目指す。だが果たしてそれが進歩と
いえるかわからない学問分野も、幸福の名を借りて人類の総意を取り付けた振りをしている。
ヨナスはマルクス主義がユートピア的進歩思想に取付かれ、人類が大きな賭けに出ることを心配し
た。真剣な革命志向者は、現状の問題は打開せねば成らず、革命を遂行してでも終着点に辿り着くべ
きだと考えただろう。また楽観的な者は、ただ現状に身を委ねるよりも、ユートピアへ向かっている
方がましだろう、と考えるだろう。だがこのユートピアは、万人が幸福である条件のために、限りな
い進歩思想を必要とする。実際には、進歩に際限がないという保証はどこにもない。
科学技術文明に突入したことが、幸福と不幸の可能性に大きな幅を与えることになった。私たちが
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イデオロギーとして「恐れの原理」か「幸福の原理」のどちらかを選択せねばならないとすれば、後
者を選ぶのはあまりにもばかげている、と言わざるを得ない。何故なら楽観的観測は、科学技術の進
歩がどこまでも続き、ユートピアが達成可能で、しかも公正な分配が正しく続けられる、という諸条
件が全て達成されるという前提がなされているものだからである。
また、ヨナスがさらに危険性を見出すのは、進歩思想のもたらす弊害である。理論上ユートピアが
可能だとしても、もはやそこでは人間性が失われているかもしれない。しかし、実際に不老不死が可
能ならば、子どもを生む必要はなくなるだろう、と考えることもできる。これは人間性の喪失ではな
く、超越なのだ、と前向きに捉えることもできるのである。現代世代が永遠に生きることが肯定され
るかはヨナス論からは正確には導き出せない。問題は、次の二点に絞られるだろう。一つには、私た
ちが守るべき人間とはそもそも何なのか、そして二つ目は、そのような人間が存続するとはどういう
ことか、である。
(2) 人間のための倫理
ヨナスは自然環境への倫理を訴えるが、自然環境に特別な地位を与えるわけではない。自然環境を
守るべきなのは、それが人間のために必要だからである。かつては私たちの存続は所与であったため、
人間の存続に対して倫理学が命ずることは何もなかった。しかし同時に、私たちは存続するべき「人
間」についても、知ることになったのは近代に入ってからである。
現在私たちが問題とする人間とは、人類全てのことである。少なくとも建前上は、人類であること
は、倫理学の対象となる十分条件である。だがこの条件は、以前は必要条件でしかなかった。第二次
世界大戦後、植民地が解消されて行くに従い、倫理学が対象とすべき人間は、建前上は世界中の全て
の人間へと広がっていった。
このことはこれまであまり注目されてこなかった切り口である。何故なら倫理学は常に人間を対象
にし続けてきたので、現在の私たちと別のものを扱ってきたとは考えにくいからである。しかしなが
ら、人類そのものを知らなかったのだから、倫理学の歴史の大半は人類に触れていなかったことにな
る。そして倫理学の対象が人類(つまり、人間であることが必要十分条件であるものの総体)となった
ときには、世界は科学技術文明下にあった。私たちが人類を知ったときには、既に人類は存続の危機
にあった。未来世代や自然環境への責任が当為とならなかった背景には、そもそも人間という概念自
体が、人類全体と合致していなかった、という事実もあったのである。
このことから、私たちの歴史の中で、「(人類としての)人間を安全に存続させるべきか、それとも
科学技術を発展させるべきか」という問いかけはされたことがなかったとわかる。私たちは、これま
での倫理学の中から人類について語る場合には、通用しないものを捨て、新しく必要となるものを作
り出す作業をしなければならない。その上で初めて、人間と存続の関係を倫理学において語ることが
できるのである。
一方ヨナスは、種のエゴイズムに対して肯定的である。自然においては、調和しなければ繁栄でき
ないという止むを得なさが、バランスのよい共存をもたらしている。ほとんどの種には、最初から与
えられた能力のうちでしか繁栄できない、という制約が付いている。しかし、人間は、人間という種
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であるままで様々な能力を付加してきた。初めは、それらは便利さをもたらす能力であり、選択の範
囲内であった。しかし一度その能力が行き渡ってしまうと、普遍化された能力は私たちにとって当た
り前のものとなり、その欠乏が不便さを感じさせることになる。もはやそこでは選択は行われていな
い。私たちは、一度行った選択を、後から覆すだけの勇気を持ち合わせていないし、それであっても、
今までは特に問題なくやってきた。だが、科学技術の選択だけは、再考を迫られている。既に科学技
術の影響力はあらゆる周囲へ、そして遠い未来へと至っている。また、科学技術の運用の維持には、
大量のエネルギー消費が必要であり、資源の物理的なタイムリミットが迫ってきている。
もし、功利計算や自然との調和を重視するならば、私たちは全ての人間がこの世から消えることを
選ぶべきである。しかしながら、私たちは自然から種としてのエゴイズムを貫く権利を与えられてい
る。もはや倫理学が自滅の選択をしない拠り所は、このエゴイズムの許容以外どこにもない。ヨナス
の倫理学は、人間の外部から根拠を与えられているにもかかわらず、人間内部のみで通用する。
一方、個のエゴイズムも存在する。同じ種であっても、個体同士は全てを譲歩し合うわけではなく、
自分こそ生き残るのだという意志を貫こうとする。ただし、この意志の貫徹は種の存続が脅かされな
いことを前提として成立する。種のエゴイズムと折り合いをつけながらいかに個のエゴイズムを貫く
かというのは、人間に限っては個人の意志の問題である。倫理に対して個人が呼応できる理由は、種
のエゴイズムが倫理を必要としており、個人がそれに適応する能力があるからである。
人間のための倫理学から困難さを取り除くには、私たちにとって存続することは何か、そして孫ザ
区が断絶されることに対する恐れとは何か、もっと明確にしておく必要がある。なぜならヨナス的な
人間のための倫理学は、人間の存続においての恐れが源泉となっているからである。次の課題は、形
而上学的に語られた存在の目的の問題を人間のレベルで検討すると、どのような責任が要求されるの
か、ということである。
(3) 人間の存続と恐れ
人間は死する運命にあり、また強く死を自覚する。私たちの個人的な死は、終焉しか意味しない。
存在が存続を目指す目的を有している以上、逃れられない終焉という事実は絶望でしかない。人間は
また、種としての終焉も知ってしまった。私たちにとって、未来世代のために現代世代が骨を折るこ
ともまた所与であったはずが、いつの間にかそれさえも倫理の判定する範囲内となってしまった。こ
の根源的な目的自体を覆してしまう新しい逃避手段は、あっという間に破綻する危険性を持ってい
る。なぜなら存続自体の価値を否定してしまった以上、断絶へと向かう傾向を止められないからであ
る。
人間にとって人類の存続のために行為を選択するという事態は、非常に突飛な状況である。決して
一人の人間が人類全てを背負うわけでもないのに、人類全てに対して責任を果たさねばならないとす
れば、多くの人はそのプレッシャーに押しつぶされてしまいかねない。ここから生じる心理的な逃避
が、人間の未来への無責任さを生み出す。
しかしヨナスは、それゆえ責任を原理として採用した。ユートピア的進歩思想は、人々が一人では
立ち向かえないのを見越して、全員参加型の完成型を提示した。一人では大きすぎる世界への責任を、
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全員にまで広げてしまった。しかもこの全員はユートピアへと向かうレールの上を歩いていけばいい
だけである。マルクス主義に限らず、民主主義においても、科学技術による進歩思想は私たちにレー
ルを敷いていると嘯く。私たちが抱え込んでしまった問題は、新しい技術によって解決され、私たち
の競争(集団間にしろ、個人間にしろ)さえも新技術を生み出す原動力として賞賛される。だが、競争
に勝つためには、本来目的とされるべき「問題の解決」が置き去りにされてしまう。競争が肯定され
る社会においては、競争という大きな原理によって競争に勝つという目的が必要以上の力を持つ。一
度立ち止まり、私たちは、ここから生み出された結果を見つめなければならない。
(5) 責任という原理の今後
『責任という原理』が説得力を持ち得ない一つの原因が、ヨナスの形而上学があくまで選択肢の一
つに過ぎない、という点にある。形而上学的見解を受け入れるか否かもまた、形而上学的選択である
とヨナスは述べる。だが、だからといってヨナスの形而上学の説得力が保証されるわけでもない。品
川哲彦も、ヨナスの形而上学を次のように評している。
また、存在と当為を結びつけるヨナスには自然主義的誤謬だという批判もしば
しば浴びせられてきた。しかし逆に、ヨナスからすれば、自然から目的、価値、
当為を捨象する近代の哲学も一つの存在論、形而上学的にすぎない。けれども、
これを反論とする限り、ヨナスの自然哲学もまたもう一つの選択肢、もう一つの
形而上学にとどまらざるをえない。12
この指摘自体は確かに間違っていないが、しかしこれでは形而上学的な根拠付けは全てが説得力を
失ってしまう。証明不可能である以上、形而上学的仮説には期待値すら存在しない。倫理学はその根
拠付けを人間内部にしか求められなくなるが、すると倫理学自体なぜ生じ、なぜ在り続けるのかとい
う疑問が残ってしまう。また、あらゆる形而上学的選択の可能性を内包したまま、ただ事実だけに基
づいて倫理を組み立てていくことは、大きな困難を伴うだろう。
このような有様にあるのは、倫理学の説得力が証明されるか否かといった次元にあると考えられて
いるからだろう。証明され得る次元の事実は、私たちが想像するよりも世界全体においては小さな部
分かもしれない。その少ないパーツの組み合わせで私たちの倫理学を構成しなければならないとすれ
ば、非常に貧相なものしか出来上がらないだろう。形而上学的選択に対して、形而上学的であるとの
批判はやはり相応しくない。私たちは再び、ヨナスの形而上学そのものの検討に立ち返らなければな
らない。
ヨナスの理論を発展させようとした例に、討議倫理学からの批判が挙げられる。討議倫理学者であ
るポルガー・ブルクハルトは、ヨナスが目的論において存在と当為の同一視することを批判しながら
も、ヨナスの理論には発展の余地があり、責任を討議世界(Diskursuniversum)に対するものにすること
が必要だとしている。人間は討議世界の内で、初めて意味のある仕方で人間であるのであり、ヨナス
は討議倫理学の手続きを理想的な仕方で動機付けられる、というのである。13
152
ブルクハルトの主張は、一見ヨナスの理論を補足するために討議倫理学を採用し、有意義な意見で
あるように思われる。しかし、ブルクハルトは討議の能力こそが人間の本質であり、それを保持する
ことが大事なので討議倫理が未来倫理を基礎付けることができると考えている。しかしもし人間の本
質を討議能力のみに限定してしまうと、倫理学の現出する契機も失われてしまう。人間は討議するこ
とを特質としては持っているが、討議するために存在するとは考えられない。
次の問題はヨナス自身への批判にもなるのだが、人間の特質が変わったところで人間は人間以外の
何者にもならない、ということである。たとえ未来において討議不可能な状態が訪れたとして、討議
不可能な未来世代は人間以外のものであろうか。私たちが人間をどのように認識しようと、自然は私
たちを「ホモ」としか認識しない。討議の能力が私たちにとって絶対に守るべきものだとはとても言
えない。ヨナスの考える人間性のうちのいくつかも同様の理由によって批判されるべきだろう。
ここからわかるように、ヨナスが討議倫理学を乗り越えるというよりは、討議倫理学がヨナスを乗
り越えねばならない状況にある。ヨナスの理論の発展に討議倫理学を用いるのは無理なようである。
今後ヨナス論を有意義に発展させるためには、人間の本質について深く検討する必要がある。
ヨナスの倫理学は一見未来に対する備えを重視しているかのように取れるが、実際には既に傷つけ
たものに対する補償をするのであるから、事後的な手続きなのである。責任論に関しては、従来この
点があまり強調されてこなかった。これまでは、責任が生じていても、責任を問いかけてこない相手
には何もしなくてよかった。しかしヨナスは、自然環境や未来世代の代わりに告訴する主体を見つけ
出した。それこそが、「存在の、存続するという目的」なのである。私たちは、この責任論の事後性
に対してどのような態度を取るべきかを今後検討していくことになるだろう。
ヨナスの『責任という原理』における試みは、普遍的な世界像から普遍的原理を導き出し、その上
で現在の状況が必要とする倫理を求めるというものであった。それはいわばモデルケースとして書か
れたのであり、別の世界像を適用するならば、また現代に対して異なった見方をするならば、また別
の倫理学も構築可能である。14「現代世界」をキータームとしながら、倫理学の根源をも明確にした
倫理学を提示できたところにヨナスの功績を見て取るべきだと私は考える。
ヨナスは未来倫理や環境倫理の解決を主題としたのではなく、あくまで現代文明と倫理の関係へと
挑戦した。この挑戦の態度を倫理学の一手段として基礎付けることから、倫理学の可能性の開拓が可
能となるのである。
注
1
Jonas, H. Das Prinzip Verantwortung, S.108. 引用に関しては日本語版『責任という原理』を参照したが、必要に応
じて修正している。
2
ibid., S.119.
3
ibid., S.121.
4
ibid., S.121.
5
ibid., S.153.
6
ibid., S.154.
153
7
ibid., S.157.
8
ibid., S.158.
9
ibid., S.161.
10
ibid., S.15.
11
ibid., S.27.
12
品川哲彦「自然・環境・人間 ヨナス『責任という原理』について」、『アルケー 関西哲学会年報』vol.7
関西哲学会 p.152.
13
Burckhart, H., Uberwindung der metaphysisch-heuristiscen Grundlegung der Verantwortungesethik bei Hans Jonas durch
eine dialogisch-diskursive Zukunftsethik der Mitverantwortung(2001) なお、当資料は北海道大学主催シンポジウム
「責任倫理と討議倫理」で配布されたものである。
14
実際にダイアン・P・マイケルフォルダーは、"Das Prinzip Verantwortung"をモデルケースとして、サイバース
ペースにおける道徳的条件を考察している。(Michelfelder, D. P., "Our moral condition in cyberspace", in Ethics and
Information Technology, vol.2, no.3, pp.147-52, 2000)
引用参考文献
・Burckhart, H. (2001), Uberwindung der metaphysisch-heuristiscen Grundlegung der Verantwortungesethik bei Hans
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