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恋と愛と女装と私と彼とエトセトラ。

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恋と愛と女装と私と彼とエトセトラ。
恋と愛と女装と私と彼とエトセトラ。
八ヶ崎コノハ
!18禁要素を含みます。本作品は18歳未満の方が閲覧してはいけません!
タテ書き小説ネット[R18指定] Byナイトランタン
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁ノクターンノベルズ﹂﹁ムーンライトノ
ベルズ﹂﹁ミッドナイトノベルズ﹂で掲載中の小説を﹁タテ書き小
説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は当社に無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範囲を超え
る形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致します。小
説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
恋と愛と女装と私と彼とエトセトラ。
︻Nコード︼
N1133CN
︻作者名︼
八ヶ崎コノハ
︻あらすじ︼
吾輩は処女である。彼氏はまだいない︱︱。 三谷千絵。大学二年。ついたあだ名は﹃合コン女王﹄。
肉食女子のレッテルを貼られている千絵だが、彼氏もいなければ男
経験も無い。
そんな千絵はある日、初恋の相手と再会するが︱︱。
1
恋したり愛したり女装したり。
初恋をこじらせた男女が繰り広げる、すれ違い空回り勘違い。切な
く甘いラブコメディ。
2
吾輩は処女である。
吾輩は処女である。彼氏はまだいない︱︱。
おうま
みつや ちえ
九月。夏季休暇が明けた大学構内カフェの一角。
櫻間女子大学二年の三谷千絵は、二限の講義がない友人達と共に
自習という名のお茶を楽しんでいた。
二十代の娘が寄って話すのは、恋愛事だ。
﹁⋮⋮でね、彼が言ったの。﹃お前、ちょっと太った?﹄とか、人
のわき腹つまんで! フツー言う? 興ざめしてシャワー浴びに行
ったわよ!﹂
﹁アハハ、エミの彼氏オアズケ食らったんだ?﹂
﹁いーの。夏のためにダイエットしてた相手に向かって﹃太った?﹄
とか聞くような無神経下半身星人は、しりませーん﹂
﹁うちのカレシも、デートと言えばベッドしか頭にないかも﹂
﹁そう言って、合コンじゃいつもお持ち帰りする男に付いていくじ
ゃん﹂
﹁いや、アレはむしろコッチが持ち帰ってるでしょう﹂
﹁肉食系女子∼!﹂
黄色い声で笑う女子のうち、千絵の隣に座っていた相手が﹁でも
でも﹂と千絵を指さして笑う。
3
﹁肉食系って言ったら、やっぱりチエでしょう﹂
﹁よっ、合コン女王! 次の合コンはいつですか?﹂
そう言ってエアマイクを口元に差し出され、千絵はフムとスマホ
のスケジュールをチェックする。
﹁今週は木・土がバイト休み。合コンにベストなのは?﹂
﹁﹁﹁当然土曜日!﹂﹂﹂
満場一致の声に、千絵は了解と首を縦に振った。
﹁大学の付き合いばかりじゃアレだから、異職種交流会と行こうか。
バイト先の店長が結構顔広くて、この前ダイバーか自衛官紹介して
みやこのちゅうおう
くれるって言ってたし。参加者は今日明日中に私へ連絡して。場所
は都ノ中央駅。店決めたら連絡する。当日ドタキャンはキャンセル
料徴収するからそのつもりで﹂
﹁了解﹂
しばらく皆が、無言でスマホを操作する。
千絵もLINEで作っていた﹃ゴーコンですよ!﹄のグループに
登録したメンバーへ、先程口頭で言った内容を文字に起こして伝え、
参加者を募っていく。
ちなみにグループ名は、大御所芸能人による深夜のお料理番組が
由来だ。誰も千絵の巨匠好きに気づいてくれる気配はないが。
今カフェで顔をつき合わせている友人や、講義中の相手からも、
参加不参加の返信がポロポロとLINEに投下されていく。彼氏持
ちが不参加だったり元から予定が入っていたりなどで、毎回メンバ
ーが若干変わりながら、六、七人集まるのが、千絵達の合コンだっ
た。
その後さらに恋愛話で盛り上がると、二限が終わり、皆パラパラ
4
と自分達の講義に散って行った。
わかみや とうこ
きやま
昼休みになり、千絵は食堂のカウンターからランチを受け取ると、
先に席を取っていた二人の元へ向かった。
二人はとくに千絵が交流している友人、若宮冬子と木山みのりの
二人だった。
冬子はその文字面から、フユコと誤称されることが多く、千絵も
冬子を﹃フユ﹄と呼んでいる。
腰まで届くほどの黒髪は、手入れが良く施されていて艶やかだ。
化粧気は薄くとも人好きのする顔立ちと、カジュアルな服が相まっ
て、黒髪も重たく見えない。
冬子からはいつも、自然体な魅力を感じる。
みのりはまた、別の意味で自然体だった。
身長150cmという小柄さと、栗色のボブヘア。ゆるくナチュ
ラルな、いわゆる森ガール系のスタイルを好む美少女だ。
よく中学生︵ヘタをしたら小学生︶に間違えられるそうだが、本
人はそれを笑って楽しんでいる。とにかく笑っている。常に笑って
いる。
笑いの沸点が低い不思議ちゃんだ。
千絵自身はと言えば、肩口までのワンレン黒髪。気の強さが滲み
出たような大きな猫目と、マスカラいらずの太くて長いまつげ。素
でも濃い顔立ちなので、しっかりとアイメイクを施された化粧後は、
はたから見ればいつでも臨戦態勢なんだろう。
バイト先で買う服は、布面積が小さいほど安かったりするので、
服装も攻めがちだ。
5
ちなみに冬子とみのりの二人は、先程の合コン常在メンバーには
属さない。だからこそ、千絵は冬子やみのりのそばを好んだ。
冬子やみのりは特定の男性にあまり興味を示さない。それがとて
もホッとする。
というのも、肉食女子だなんだと言われる千絵だが、合コンでお
持ち帰りされたこともなければ、お持ち帰りしたこともない。
というか、彼氏がいたことがない。もっと言えば、男性経験がな
い。
しかしそんな千絵が何故周囲から誤解されているかと言えば、ひ
とえにフットワークの軽さからだった。
とくに合コンのセッティングは、とある事情によりお手の物にな
った。高校の頃から合コンと言えば千絵。千絵と言えば合コンだ。
おかげで今も、高校の頃の友人や後輩達からも頼りにされている。
もちろん、合コンという意味で。
﹁そういえば今週末合コンするけど、フユとみのりは? 来る?﹂
ランチを食べながら千絵が先程決まった合コンの話をすると、冬
子が呆れたように溜息を吐き、みのりが楽しそうに笑いだす。
﹁千絵、また合コン? 私はパス。みのりは?﹂
﹁アハハっ。チエちゃんはホント、合コン女王だね! 私もパスだ
よ∼﹂
二人が合コンに参加することはほとんどない。
冬子は二十歳になった後に二回ほど参加したが、男性が苦手なの
か、それ以降は不参加だ。
みのりはこう見えて一番バイトに精を出している。事情があって
両親の援助が望めないため、従兄弟のそばでお世話になっているら
6
しい。
それでも千絵が二人を合コンに誘うのは、断る二人の姿を見て﹃
自分と同じ感覚の人がいる﹄と安心感を得るためだった。
合コンのセッティングを率先してするのは、千絵の気質的なもの
になる。ウダウダと人数や場所の話し合いをしたり、幹事が面倒だ
の会計の仕方でもめるだのということがあるくらいなら、さっさと
場を仕切ってしまいたくなるのだ。また、準備した場で皆が楽しん
でくれたら、千絵自身も嬉しくなる。
しかし男性に興味があるというわけではない。そういった意味で、
男性に興味の無い冬子やみのりは、千絵にとって気が置けない相手
だった。
だがしかし、今日はそんな癒しの一人から驚きの言葉が飛び出し
た。
﹁というか私、カレシさんができちゃいました﹂
てへっと笑った森ガールの報告に、千絵と冬子はぎょっと目を見
開いた。
﹁え、ウソ。みのり、いつ!?﹂
﹁えーと、夏休み中?﹂
﹁みのり、いくら自由恋愛の国だからって、小学生と付き合うのは
どーかと⋮⋮﹂
﹁いやいやチエ。みのりのことだから、幼稚園児から﹃おおきくな
ったらおよめさん﹄的な彼氏ができたって線も⋮⋮﹂
かずゆき
﹁あははは! もうチエちゃんもフユちゃんも笑わせないでよ∼。
ちゃんと年上だよ? 和之さんって言うの。ホラ私、従兄弟と同じ
アパートに住んでるって言ったでしょ? その従兄弟のカズさん﹂
なんでも夏休み中にちょっとした事件が起こり、仲が進展したそ
7
うなのだ。相手は別大学の研究室に勤める准教授兼合気道サークル
の顧問らしい。
これがおそらく初恋なんだと、頬を赤く染めて楽しそうに話すみ
のりは、まさに恋する乙女だった。可愛らしかった。
おうじょ
自分にもこんな時があった。胸を締め付ける初恋を経験した。
今では﹃合コン女王﹄﹃櫻女の肉食女子﹄と称されているが、そ
もそもそうなった原因は、その初恋にあるのだ。
みのりの彼の話を聞きながら、千絵は自身の初恋のことをぼんや
りと思い出していた。
五年前に終わった、甘くてにがい初恋のことを︱︱。
8
熱中症をゆっくり言うと﹁ねっチュウしよう﹂
初めて千絵が彼に会ったのは、小学二年の秋だった。
夏休み明け初日。九月の始まりとはいえ、日差しは夏と変わらず
強い。
上昇する暑さをアスファルトが吸収し、服から出ている千絵の細
い素肌を、照り返しの熱がジリジリと焼いていく。
目の前に続く広い二車線の長い道。軽く起伏を見せた先には、ず
っと上り坂が続いている。白いガードレールで区切られた歩道から、
千絵は上り坂を見つめていた。
あの坂を上れば、遠目に小学校が映る。⋮⋮映ってしまう。
そう思うだけで、千絵の足はピクリとも動かなくなった。
背負った赤いランドセル。日差しを受けて、表面部分は触れられ
かぶせ
ないほど熱くなっている。
冠の部分にワンポイントの花の刺繍が施されてたそれは、小学校
を目前に控えた千絵が一目惚れし、両親に買ってもらった大切なラ
ンドセルだ。
あの頃は、小学校にたくさんの期待を抱いていた。
新しい世界。少しだけお姉さんになる自分。どんな楽しいことが
待っているんだろうと、入学を指折り数えては、ランドセルを眺め
ていた。
しかし入学して待っていたのは、千絵の期待を打ち砕く無情な言
葉だった。
9
︱︱﹃出目金﹄
視力矯正のため、特殊な分厚い眼鏡をかけていた千絵。元々目鼻
立ちのしっかりした大きな瞳は、レンズ越しにうっすらと拡大して
映る。それが男子を中心とした子供達の、からかいの対象になった
のだ。
優しい生徒はいる。千絵をかばってくれる子もいる。
友人達に救われてなんとか登校を続けられていたが、それでも時
折かけられる子供特有の無邪気で残酷な言葉の数々に、千絵の足は
毎朝鈍ってしまう。
夏休みという長い期間小学校へ行かず、平穏な時間を過ごしてい
た千絵には、新学期と言うモノが憂鬱で仕方なかった。
そうして今も足を動かせずに、路上で立ちつくしている。
くらりと軽いめまいを起こし始めた視界の隅に、向かいから歩い
てくる人影が映った。
透けるようなブロンドの髪。白い肌。遠目にぼんやりとだが、整
った顔立ちのように思える。
あの人はきっと、人生の勝ち組だ。
うつむいた胸元に見える、自分の黒いおさげ髪。二本に分けてい
るのに、太くてかたい。いつもからかわれる顔立ち。
自分は人生の⋮⋮。
ぼんやりと思考を沈めていたいた千絵は、そのまま視界を暗転さ
せ、意識を失った。
10
目が覚めたとき、千絵の視界はぼやけていた。
甘くて爽やかな香りが鼻をくすぐり、千絵は周囲に首を巡らせた。
寝かされているのは、どうやらリビングの大きなソファのようだ。
千絵の額や首元には冷却シートが貼られ、タオルに包まれた氷枕が
頭の下に置かれている。
視界はぼやけているが、ソファの向かいの壁一面に棚枠が設置さ
れ、センス良く本や花瓶、小物などが置かれているように見える。
中央には、巨大な薄型テレビ。
微かに痛む頭を起こすと、背後から声がかかった。
﹁起きたなら、そこにあるやつ飲んでおけよ﹂
﹁え?﹂
ソファの背越しに後ろを振り返ると、そこには広いリビングが続
いていた。千絵の家のリビングの、軽く二、三倍はありそうだ。
片側一面に張られた大きな窓から、明るい日差しが部屋を満たし
ている。今は朝か昼か。
リビングテーブルの椅子に誰かが腰掛け、何か作業をしている。
何をしているのかまでは、ぼやけた視界では分からなかった。
じっと千絵が目を凝らしていると、輪郭のにじんだ人影がぶっき
らぼうな声を放つ。
﹁にらんでるヒマがあるならさっさと飲めば。軽い熱中症だとさ﹂
﹁ここ、あなたのお家? わたし、どうしてここに⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ガタリと椅子を蹴る音がすると、人影がこちらに近付いてくる。
スラリとした背格好から、千絵より年上だと分かる。大人と呼ぶ
には体つきが薄く小柄だが、千絵と同じ小学生だとは思えない。そ
してぼやけた視界では、男なのか女なのかまでは分からなかった。
11
人影は千絵の座るソファを通り過ぎると、ソファの前のローテー
ブルに置かれたペットボトルを取り上げた。そうして千絵の眼前に
それを突き付けてくる。
﹁グダグダ言うヒマがあるなら、さ・っ・さ・と・の・め﹂
やや高めの綺麗な地声を、今は無理やり低めて凄んでくる。
その頃になってようやく、千絵は目の前の相手が日本人離れした
容姿であることに気付いた。
薄く灰緑を混ぜたような、ダークブロンドの髪。ペットボトルを
持つ手は白い。瞳も、緑がかっているようだ。
﹁外人さん?﹂
﹁⋮⋮オマエ人の話聞いてる? 耳が聞こえないとかそういうの?
ニホンゴワカリマスカー?﹂
相手の声に苛立ちと呆れが含まれているのを感じて、千絵は慌て
て目の前のペットボトルを受け取った。
ペットボトルのキャップを開けるのに手間取っていると、相手が
千絵からボトルを取り上げ、キャップを外して手渡してくれる。グ
レープフルーツ味のスポーツドリンクだった。
見られながら飲むのは慣れないが、極力視界をぼやけさせ、相手
を気にしないようにする。
三分の一ほど飲んでローテーブルにペットボトルを置いた千絵に、
相手は何か差し出してきた。千絵の分厚い眼鏡だった。
﹁オマエが倒れた時、フレームが少し欠けてたから補強しておいた。
ついでに、まじないもかけておいたから﹂
﹁まじない?﹂
12
なんだろうと首を傾げている間に、千絵の目元に眼鏡が掛けられ
る。
視力矯正の眼鏡とはいえ、やや視力の弱い千絵は、眼鏡をかける
だけで視界がクリアになったりはしない。ただ相手の顔が先ほどよ
りも近くにあり、きちんと見えた。
光にあたると黄金色に見える、ダークブロンドの髪。瞳はグリー
ン。その口調から男性だろうと思うのだが、セミショートの髪や綺
麗な顔立ちから、女性だったとしてもおかしくないようにも思う。
今まで身近ではあまり目にしたことのない相手の容姿に、千絵が
ぽぅっと見惚れていると、相手が千絵の顔を見て笑った。
﹁オマエってもともと目がデカいから、その眼鏡掛けるとレンズか
らはみ出しそうだな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮っ﹂
﹁え? あ、おい!?﹂
千絵は衝動的に眼鏡をはずしてソファに投げると、リビングを飛
び出した。
涙で滲んだ視界では、どこが玄関なのか分からない。廊下を出て
一番突きあたりの扉を開き、相手が追いつく前に扉を閉める。その
場でうずくまると、今まで溜めていたものが一気に噴き出して、千
絵は声を上げて泣いた。
初めて会った人にも笑われてしまった。きっと学校に行けば、ま
た誰かにからかわれてしまう。
そう思うと悲しくて、千絵はわんわんと扉の前で泣きじゃくった。
扉の向こう側で、先程の相手が控えめなノックをしてくる。
﹁おい、どうしたんだよ。泣いてるのか? 眼鏡は⋮⋮﹂
﹁︱︱いらない! そんなメガネいらない! みんなわたしのこと、
デメキンだって笑うんだもん! そんなメガネいらない! 捨てち
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ゃえばいいんだ!﹂
相手からの返事はなくて、千絵はその場にうずくまって泣いた。
しばらくして扉がこちら側に開き、泣き伏していた千絵の頭にゴ
ンっとあたる。
﹁あ。悪ぃ﹂
﹁⋮⋮っ、出てってよ! 入ってこないで!﹂
﹁いやオマエ、ここオレの家だろ﹂
細く開いていた扉をぎゅうぎゅうと押し戻すが、小学二年の少女
の力では相手にかなうわけもなく、呆気なく扉が開かれてしまう。
逃げようとした千絵の顔面にばふりと押し当てられたのは、やわ
らかなタオルだった。
泣くじゃくって汚れた顔をごしごしと拭かれ、いらないと言った
はずの眼鏡をかけられる。
﹁いらないってば!﹂
﹁いらないワケないだろーが。オマエの目を育てる、大事なモノだ
ろ?﹂
視力矯正用だろ。と言われて、千絵はパチリと目を瞬かせた。
﹁⋮⋮わかるの?﹂
﹁ああ、オレも昔使ってた。掛けてないと視力が育たないんだよな。
しかしオマエ、ほんとに目がデカいなぁ﹂
﹁⋮⋮うぅぅっ﹂
ぐじゅっと再び盛り上がった千絵の涙に、相手がギョッとした様
子で手を振った。
14
アッタン
﹁Attends! 泣くな、ほめたんだ! 目がデカいって、ア
レだ。目力が強いっていうのはイイコトだろ? 魅力につながる﹂
﹁みりょくって、カワイイっていうこと?﹂
﹁どっちかっていうと、美人?﹂
そう言って千絵の顎を軽くつまみ、クイクイと上下左右に振ると、
相手はウンと笑って頷いた。
﹁大丈夫。オマエは将来有望だよ﹂
﹁しょうらいゆうぼう?﹂
﹁美人になるってこと﹂
相手は千絵の隣にしゃがみ込むと、自分も昔矯正用眼鏡をかけて
いたこと。千絵と同じようにからかわれた時期もあったが、父親に
まじない
。フレーム、
まじないをかけてもらって乗り越えたことを話してくれた。
﹁オマエにもかけたって言っただろ? さわってみな﹂
﹁⋮⋮? なんだかデコボコしてる﹂
手を取られて指をこめかみ近くのフレームに添わされる。そこに
はザラザラとしたものやつるりと丸いものなど、小さなデコボコが
いくつかくっついていた。
﹁天然石。いわゆるパワーストーンだな。左側には、幸運を運ぶっ
て言われてるカルセドニーとアマゾナイト。右側には、自分を好き
になって、悲しみを吸い取るって言われてるアメジストとローズク
ォーツ。気分が落ち込むのを防いでくれるんだ﹂
15
眼鏡をはずしてみると、千絵の暗赤色のフレームの左側に淡い水
色の石と乳白色の石が、右側には紫と乳白色の石が小さく付けられ
ている。さらにそれらの周囲には、キラキラとした小粒の石や粉が
ちりばめられていた。
まるで星空に双月が浮かぶ美しい夜景のようで、千絵は目を輝か
せた。
﹁すごくキレイ⋮⋮このキラキラしてるのはなに?﹂
﹁それはグリッターパウダーと、スワロフスキーのラインストーン﹂
初めて聞く単語に千絵は首を傾げたが、自分の眼鏡が素敵に変身
したのに変わりはない。
今まで掛けるのが憂鬱だった眼鏡が、今では手にするだけで心が
浮き立つようだった。
﹁ありがとう。大切にするね﹂
﹁ああ。今の時期にしっかり掛けておけば、将来もっと薄い眼鏡か、
コンタクトも使えるようになるから﹂
頑張れよ。と頭を撫でられて、千絵はくすぐったさに笑顔を零し
た。
千絵は同学年の女児の中では背が高く、しっかり者だと見られが
ちだ。事実、両親が共働きで夜まで一人でいることが多いため、自
立心は強い。それだけに、頭を撫でられることが少なくなっていた。
久しぶりに頭を撫でられて気持ちが落ち着いた千絵は、ようやく
まともに周囲へ目を向けた。自分が無断で入った室内の様子に、目
を丸くさせる。
リビング半分ほどの部屋には様々な素材の布がそこかしこに広が
り、足の長い作業台とミシンが一台置かれていた。アイロンやソー
16
イングセットも、そばのソファに置いてある。
棚には沢山の瓶が並び、中にはボタンやビーズ、リボンといった、
沢山の素材が詰められていた。
部屋の片側一面に色とりどりの服が掛けられたオープンクローゼ
ットが設置され、白いマネキンも二体並んでいる。
とくに千絵は、室内中央に設置されたマネキンに目を奪われた。
窓から差し込む日の光で七色に見える、サテン生地のワンピース。
桜色のシフォンショール。その周囲へ、白く細い繊維で編まれた半
透明の硬い布がらせん状に巻かれている。
まるで七色のケーキを繊細な飴細工で飾り付けた、夢の中のお菓
子を見ているようだった。
﹁ステキ⋮⋮。ここ、夢の中みたい﹂
﹁夢?﹂
﹁うん。この部屋ぜんぶが、キラキラして見えるの﹂
事実千絵の視界は、服や布や装飾品などが反射する光に溢れてい
た。
足の踏み場もないほど床には様々な布や素材が広がっていたが、
それがさらに千絵をうっとりと夢見心地にさせた。
ひびき
時間を忘れて千絵が室内の様子に魅入っていると、それまで隣で
黙っていた相手が尋ねてきた。
﹁なあ。オマエ名前は?﹂
ダッコ
﹁え? えっと、千絵。三谷千絵﹂
﹁D'accord、チエ。オレは響﹂
相手の名前が馴染みのある日本語だったため、千絵はきょとりと
目を瞬かせた。
17
﹁ヒビキ? じゃあ、日本人なの?﹂
﹁国籍は日本だし母親も日本人だけど、父親はスウェーデン。そう
いうの、こっちじゃハーフって言うらしいな﹂
そう言って響は床に落ちていた細い透明定規を拾い、トントンと
自身の首筋を叩く。その定規の先を、千絵へ向けてきた。
﹁それよりチエ、オマエに魔法をかけてやるよ﹂
﹁魔法?﹂
﹁そう、Bibidi−Babidi−Booだ﹂
千絵の前で定規の先をくるりと回すと、響は流暢な調子でビビデ
ィバビディブーと歌いながら布の海を歩きだした。
18
恋はするのではなく落ちるモノ
オープンクローゼットの服を漁り、響が取り出したのは、白と黒
のフリルがらせん状に重なったマーメイドドレスだった。右肩はノ
ースリーブ。左肩部分には大きな黒い花飾りが付いている。
﹁チエ、こっちに来いよ﹂
﹁え? うん⋮⋮﹂
素足を踏み出すと、床に落ちたやわらかな布がふわりと絡んでく
る。転ばないように気をつけながら響の元へ行くと、手にしていた
マーメイドドレスを着るよう言われて驚いた。
ヌ
ne
タンキエット
t'inquiete
pas! 大丈夫、
パ
﹁え、コレをわたしが着るの? ムリっ、ムリだよ! コレ子供用
ヴァ
va
じゃないもん!﹂
サ
﹁Ca
オレに任せとけって﹂
ムリムリと首を振る千絵に、響がスッポリと服の上からドレスを
被せてくる。ベージュのワンピースの上からそのままドレスを着せ
られたが、やはり子供の千絵には胸も腰もガバガバしているし、足
元には余った裾が丸まっている。
ホラやっぱり。と千絵が困った顔をしていると、響が笑いながら
千絵を抱き上げ、すぐそばにある背の高い木製の椅子に腰掛けさせ
た。
19
﹁響?﹂
﹁今服を調節してやるから待ってな﹂
そう言って響が布の海の中から取り出したものを見て、千絵は目
を丸くした。それは女性の上半身の形状をしたコルセットだった。
どうするのだろうと千絵が首を傾げていると、響がコルセットと、
その辺りに落ちていた端切れを持って戻ってくる。そうしてあれよ
あれよと言う間にドレスの下にコルセットを入れると、胸元に端切
れを押し込んでカサ増しをされた。
着こんだコルセットの上からドレスをあて直し、響は足元へ寄せ
たソーイングボックスから針と糸を取り出すと、余裕のある布部分
を背中に引きつけて縫い合わせていく。時には大胆にクリップで調
整された。
細い肩や下に着込んだワンピースが上手く見えなくなるように、
上から黒いレースのショールを羽織る。
足は長いマーメイドラインの裾で隠れていたが、フムと小首を傾
げた響が、千絵を見て片眉を上げた。
﹁無難。遊び心が足りないな﹂
﹁アソビゴコロ?﹂
﹁そう。どうせなら、こうする﹂
﹁きゃああっ!?﹂
ビビッと鈍い音と共に、大振りのハサミでもって片側に大きくス
リットを入れられ、千絵は悲鳴を上げた。
恥ずかしいと思う以前に、ドレスをためらいなくハサミで切ると
いう行為に驚いたのだ。
﹁ひ、響! 切れちゃったよ!?﹂
﹁切ったんだから当たり前だろ? 千絵、これ履いて。オレの肩使
20
って立っていいから﹂
しかし響は千絵の動揺などどこ吹く風で、フリルがふんだんに付
いたパニエとチュチュを渡してくる。
響の肩を借りながらフワフワなそれらを履くと、片側のスリット
から白いフリルがいくつもの層になって現れ、華やかになった。片
側も腰回りは膨らんでいるが、最後はロングドレスとしてしっとり
とまとめられている。
﹁ふふっ、なんだかオモシロい形になったね﹂
﹁ああ。この方が断然オモシロイだろ?﹂
さらに髪をほどかれ、おさげで結っていたためにできた緩やかな
ウェーブを利用して、サイドへハーフアップに結い直された。その
頃には千絵も、この非日常的な空間が楽しくて仕方なくなっていた。
千絵がネックレスに憧れていることを伝えると、響はこころよく
色々な素材でできたネックレスを見せてくれ、二人で服がさらに楽
しくなるモノを選び合った。
一緒に見せてもらったピアスをブローチと勘違いしてドレスにつ
けたところ、それも面白いと響に笑われ、二人でドレスにピアスを
つけ合った。
大きな白い花飾りを千絵の頭に乗せると、響は棚の花瓶から一輪
の造花を抜き出して、千絵に差し出してくる。
プランセス
﹁ほら、princesse。仕上げに赤をどうぞ﹂
それは赤い薔薇の造花だった。
今までこんな風に花を、それも綺麗な顔立ちをした異性から受け
取ったことのない千絵は、頬を染めながら造花を受け取った。
はにかむ千絵に﹁天然チークだ﹂と笑うと、響は棚に置いてあっ
21
たデジタルカメラで千絵を撮影する。
そうして別の作業台に置いてあったパソコンを立ち上げると、カ
メラの画像をプリントアウトして千絵にくれた。
写真には、タイムトリップしたかのような自分の姿が映っていた。
椅子に腰かけることでドレスの裾が綺麗に広がり、おかげで足が
隠れて背が高く見える。コルセットで作った上半身も、違和感なく
ドレスラインを綺麗に保たせている。
何よりも千絵の眼鏡が、まるでオシャレとしてわざわざ掛けたか
のように、しっくりと全体に馴染んでいた。
真っ白い背景の壁。ドレスや髪。全体的にモノクロでまとめられ
た千絵の姿に、小さなピアスの石達や、赤い薔薇がとても良く映え
ている。
﹁すごい、なんだか自分じゃないみたい﹂
﹁あと何年かして化粧を始めれば、もっと変わるぞ﹂
﹁キレイになれる⋮⋮?﹂
それまで目を輝かせていた千絵は、ふと肩を落として、おずおず
と響に尋ねた。
写真に写っている自分は、とても自分自身だとは思えないほど綺
麗だと思う。響もドレスを着る前、千絵は美人になれると言ってく
れていた。
けれど学校では、千絵はからかわれ続けているのだ。
その時の悲しい気持ちを思い出して千絵がうつむくと、コラと頭
を小突かれた。
﹁チーエ。下を向くな﹂
﹁でも⋮⋮﹂
﹁でもじゃない。前を向いて芯を持て、チエ﹂
﹁シン?﹂
22
首を傾げる千絵に、響が﹁そうだ﹂と首を縦に振る。
﹁いいかチエ。男も女も、美しさってのは内面から滲み出るモノな
んだ。自分の信念に向かって真っすぐ伸びる心。それがどんなもの
であっても、瞳に光が宿る。体に芯が入る。それは誰から見ても、
人を惹き付ける魅力につながる。顔の造作なんてもんは、後からい
くらでも変えられるだろ? 化粧だろうが整形だろうが、いくらで
も手があるんだからな﹂
でも瞳は嘘を吐けない。と、澄んだグリーンの瞳をもつ響が、千
絵の前へ指を一本立てて振った。
﹁自分の人生だ。一度だけの人生だ。自分が一番楽しく、気持ちよ
く生きられる生き方をしてみればいいだろ。周りに嫌われない生き
方なんて気にするな。そんなんじゃ身動きとれないだろ? 周りを
見てひるむな。周りを見てひがむな。いっそ周りを巻き込むくらい、
楽しい生き方をしてみろよ﹂
周りを巻き込むくらいの楽しさ。そう聞いて、千絵はまさに今だ
と思った。
﹁わたし、響と今こうしていて、たのしかった。すごくたのしかっ
たの﹂
﹁うん。さっきまでのチエは結構生き生きしてたな﹂
﹁響のたのしさに、わたしは巻きこまれただけかもしれない。けど、
でも、自分でもだれかを巻きこんで、たのしくなれるようになりた
いの。だから、その、響のそばで色々知りたいっていうか、勉強が
したいっていうか⋮⋮﹂
23
この服を脱いで、家に帰って、日常に戻って︱︱そんな風に、非
日常的な魅力を感じる響との時間を終わらせたくなかった。
どうにかして繋ぎとめたいと思うほどに、千絵は相手に惹かれて
いた。
しどろもどろになる千絵に、響は笑って千絵の頭を撫でてきた。
﹁好きな時に遊びに来いよ。オレも楽しかった﹂
響の声音は優しかった。
千絵は響の方を見れないまま、コクコクと頷いた。
小学二年とはいえ、千絵も立派な乙女だ。学校の友人同士で、好
きな人の話だってする。
千絵はこの瞬間、生まれて初めて本気の恋に落ちた。
24
失恋教室
ドレスを脱いだ千絵は、昼食を食べようと言う響の誘いでリビン
グに戻り、響が温めたラザニアとスープを二人で食べた。
なんでも隔日でハウスキーパーが来ており、掃除や洗濯といった
家事代行のほか、響の食事を作ってくれるらしい。医療の心得もあ
り、千絵の症状もハウスキーパーが診てくれたそうだ。
食事をしながらお互いの話をする中で、千絵は響の年齢を聞いて
驚いた。響は十三歳。チエと五つしか違わない、私立中学に通う一
年生だと言う。
さらに驚いたことに、千絵が先程着たドレスは、響が作ったそう
なのだ。だからためらわずにハサミが入れられたのかと、千絵は納
得した。
﹁響ってほんとうに中学生なの? わたしの家の近くの中学生のお
にいちゃんは、響みたいにドレスが作れたりしないし、そんなに大
人っぽくないよ?﹂
﹁身長はエディ︱︱父親譲りだろうな。オレはまだ170はないけ
ど、エディは190近かったし﹂
﹁エディって、スウェーデンの言葉でおとうさんっていう意味なの
? 響、ちょっと英語も話すよね? わたし、わからない言葉があ
ったもん﹂
﹁いや、エディって言うのはオレの父親の名前。エディはスウェー
デン生まれだけど、若い頃にフランスに移住してデザイナーの仕事
をしてるんだ。オレは一年の半分はエディのいるフランスにいるか
ら、その間フランス語で生活して、エディに服飾のことを色々教え
25
てもらってる﹂
だからたまにフランス語が出るのだと言いながら、響がくしゃり
と鼻頭にシワを寄せる。
﹁こっちではなるべく日本語で話すように注意してるんだけどな。
チエ、もしオレがまた使ってたら教えて﹂
﹁どうして? 日本語もフランス語も話せるなんてスゴイのに?﹂
﹁日本にも父さんがいるんだよ。エディは、母さんの元恋人みたい
なものだからさ。結婚してからお腹に俺がいるって分かったけど、
父さんは自分の子供として戸籍に入れてくれてるんだ。でもやっぱ
り、子供が母親の元恋人に似てる上にフランスかぶれしてたら、良
い気はしないだろ?﹂
﹁響、お父さんが二人いるの? いいなあ! わたしのお父さん、
土曜日や日曜日もお仕事だから、あんまり一緒にあそべないの。お
父さんが二人いたらあそべるのに! それじゃあ響は、お誕生日の
プレゼントが二つもらえるの? クリスマスとか⋮⋮あっ、クリス
マスはお父さんやお母さんがサンタさんなんだって知ってた? わ
たし、去年知ったの。友達は前から知ってたって言うけど、でもテ
レビで外国のサンタさんたちが出るじゃない? でも日本まではや
っぱり遠いのね。お父さんとお母さんがサンタさんの代わりをして
るんだって聞いて︱︱ごめんね響。わたししゃべりすぎてる?﹂
呆気にとられた顔でこちらを見てくる響に、千絵は口元を手で覆
って肩を落とした。
共働きの両親は忙しいことが多い。そのため会える間はできるだ
け話がしたくて、千絵はおしゃべりになる。響とも会える時間が限
られてるのではと思うと、ついおしゃべりになったが、そういえば
最近は母親から﹁少しひかえめに﹂と注意されていたのだ。
響にも迷惑がられてしまっただろうか。千絵が視線でうかがって
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いると、響は一拍置いた後、肩を揺らしながら笑い始めた。
﹁響? 笑ってるの? 怒ってないの?﹂
﹁ふ、ははっ! 怒るって、なんで? 父親が二人いて、その発想
はなかったよ。なるほど確かに! チエの言うように考えたら、楽
しかったな!﹂
響が笑うので、千絵もよく分からないが嬉しくなり、一緒に笑っ
た。
千絵のおしゃべりは響からこころよく許可がもらえたので、これ
からも響と我慢せずにおしゃべりができるようでホッとした。
デザートのプリンを分けてもらいながら、千絵は﹁それじゃあ﹂
と、先程の宝の山のような部屋を指して尋ねた。
﹁響は大きくなったら、エディお父さんと同じ、デザイナーさんに
なるの?﹂
﹁んー。なれたらいいとは思うけど、どうだろうな﹂
言葉を濁らせる響に、千絵は首を傾げた。
響はあの宝の部屋で、人生は一度きりなのだから好きなことをす
るべきだと言っていた。その響が、何をためらっているのか。
﹁響、自分の人生なんでしょ? 一回だけなんでしょ? だから好
きなことをがんばるんじゃないの? 響がそう言ってたのに﹂
﹁チエ?﹂
﹁わたし、響に言われてがんばろうって思えたの。まわりの目を気
にしないで、前を向くようにしようと思ったの。だから響も、一緒
にがんばろう?﹂
よく母親がしてくれるように、千絵はテーブル越しに身を乗り出
27
して響の片手を取ると、両手で包むように握った。
﹁大丈夫だよ。響のドレス、とってもステキだったもん。わたし、
あのドレスが着られてうれしかった。たのしかった。響の服は、き
っとみんなを幸せにしてくれると思うの﹂
﹁チエ⋮⋮。うん、ありがとう﹂
頭を撫でてくれる手も、優しい声も嬉しかった。
けれど響の笑顔はどこか物悲しさを感じるようで、千絵は少しだ
け胸が痛かった。
昼食後に響の家のマンションを出た千絵は、響に道を教わりなが
ら、午後から小学校に行った。午前中は体調が悪かったことを担任
に伝えたところ、問題なく午後の授業を受けられた。
響に結い直してもらった髪形のままだったが、女生徒達にとても
好評で、放課後は髪型と眼鏡の装飾の話題で千絵は引っ張りだこだ
った。
途中、いつもからかってくる男子生徒が友人を連れて﹁デメキン
! 目のフチがギラギラしてるぞ!﹂とヤジを飛ばしてくる。
けれど千絵はうつむかなかった。響のことを思い出すと心が温か
くなり、勇気がわいてくる。
真っ直ぐに男子生徒を見返すと、いつもと違う千絵の反応に相手
はやや戸惑ったようだ。﹁なんだよ﹂とにらんできたので、千絵は
微笑んで言った。
やべ
﹁谷部君の目元って、キリッとしててカッコイイよね﹂
﹁へ?﹂
28
いつも千絵を標的にしてくる男子生徒︱︱谷部は、千絵の言葉に
ポカンと口を開けて押し黙る。谷部だけではなく、放課後教室に残
っていた生徒全員が静かになった。
そんな中で、千絵は笑顔のまま、谷部のあらゆる部分を誉めてい
く。
﹁その髪型も男の子らしいよね。服はいつもだれが買うの? 袖口
もポケットもオシャレだし、谷部君に似合ってると思う。谷部君っ
て頭が良いのに足も速いから、うらやましいんだ。そう言えばこの
前谷部君、音楽室のピアノひいてなかった? とっても上手でビッ
クリしたんだよ﹂
﹁⋮⋮っせー! ウッセ、ウッセ! バカじゃねーの! しるか!
バーカバーカ!﹂
支離滅裂な暴言を吐くと、顔を真っ赤にさせた谷部がランドセル
をつかんで教室を駆けだして行った。﹁まってよやべりーん﹂と、
谷部の友人達もバタバタと教室を出て行った。
男子生徒がいなくなった教室で、残った女子達がどっと笑い声を
上げる。
﹁アハハハハ! 見た? 今のヤベリンの顔! めっちゃウケたし
! 千絵ちゃんやるぅ∼!﹂
﹁ヤベリンって前から思ってたけど、ゼッタイ千絵ちゃんのこと好
きだよね! 好きな子いじめる男子とか、ホントおこさまなんだけ
どっ﹂
﹁ねえねえっ。三谷さんってもしかして、谷部君のコト好きだった
の?﹂
﹁やだ、谷部ってば両想いじゃん! やったじゃん!﹂
きゃあきゃあと女子らしい盛り上がりを見せる教室に、千絵は苦
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笑しながら首を横に振る。
﹁わたし、好きな人はべつにいるから﹂
谷部君もそういうつもりはないと思う。と千絵が谷部のフォロー
に回ろうするが、それよりも女子達の盛り上がりの方が強かった。
﹁ヤベリン、千絵ちゃんにフラれた∼!﹂
﹁フラれヤベリン∼!﹂
教室の騒ぎは通りがかった先生に注意されるまで続き、その日以
降教室では千絵の眼鏡ではなく、谷部の恋愛事情がからかいの対象
になったのだった︱︱。
30
綺麗なオネエさんが大好きです。
※
﹁︱︱それでね響、松田君が私のことを﹃サイダー﹄って呼んでか
みつや
ら、クラスの子たちが私のこと﹃サイちゃん﹄って呼ぶようになっ
たんだ﹂
﹁サイダーって、チエが三谷だから? チエの学校は面白いヤツが
いるな﹂
千絵の話に、響が相槌をうつ。
響と知り合って一年。小学三年に上がった千絵は、響との交流を
続けていた。
平日は学校が終わった後、友達との約束がない限り千絵は響のマ
ンションへ訪れていた。﹁好きな時に来ていい﹂という響の言葉通
り、千絵は合鍵をもらっている。そのため響が学校に行っている時
でも、千絵はマンションへの出入りが自由だった。
マンションで何をしているかと言えば、響は大抵新しい服をデザ
インしている。当然失敗も多いが、二人で作業すると楽しかった。
千絵も響から、フランスの刺繍職人から直伝されたと言うオート
クチュール刺繍の方法を教わり、今はちょっとした刺繍に凝ってい
る。
今日は休日を利用して、響と街に出た。響オススメのビーズ専門
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ショップへ行くためだ。
千絵の学校の話をしながら、電車を乗り継いだ先の駅を降りて徒
歩十数分。二人はレトロなレンガ造りのビーズショップへ到着した。
店内には、木の棚に所狭しとビーズの入った瓶が並べらている。
木の台にも白いレースが敷かれ、大小様々なビーズやスパンコール、
アンティーク素材が透明なケースに入って置かれていた。
奥は工房になっており、実際に職人が作った小物も店内で販売さ
れている。
母親の誕生日が近い千絵は、ハンカチへ刺繍を入れてプレゼント
する予定だった。そのことを響に伝えたところ、このショップを紹
介されたのだ。
﹁チエはクロシェの扱い方に慣れてきたからな。針の方も少し練習
して、モチーフを刺繍するか?﹂
クロシェとはクロシェ・ド・リュネビルという特殊なかぎ針のこ
とだ。オートクチュール刺繍はクロシェを使うことで、生地の裏か
らビーズや糸をステッチすると、繊細で立体的な刺繍に仕上がって
いく。
刺繍の先生である響の提案に、千絵は目を輝かせて頷いた。
﹁うん、したい! お花ってバラとか?﹂
コクリコ
﹁薔薇はいろんな意味が込められてるから、安易に使えないモチー
フだな。⋮⋮Couquelicot。ヒナゲシは?﹂
﹁ヒナゲシ?﹂
﹁そう。ヒナゲシの赤はフランスの国旗にも使われてるくらい、向
こうじゃ結構なじみのある花でさ。素朴で可愛い花だよ。感謝って
言う意味が込められてるんだ﹂
﹁感謝⋮⋮うんっ。私、ありがとうっていう気持ちをお母さんに伝
えたいの。ヒナゲシ、私でもできそう?﹂
32
﹁大丈夫、チエならできるよ﹂
響のお墨付きをもらい、必要なビーズと糸、プレゼント用のハン
カチを購入すると、千絵は響と共にマンションへ戻って早速刺繍を
教わった。
午後の四時を過ぎた頃、端切れで練習していた刺繍の手を止めて、
千絵は響に帰る旨を伝えた。帰り道はいつも、響が自宅近くまで送
ってくれる。
自宅が見える通りに入ったところで、それじゃあと響が頬を寄せ
てきてドキリとした。ピクリと肩が震えた千絵の様子に気付いた響
が、ハタと目を瞬かせて身を引く。
﹁ああ、悪い。またしそうになってた﹂
﹁う、ううん﹂
千絵と知り合った後も、響は春から夏休み明けまでの半年間をフ
ランスで過ごし、先月日本へ戻ってきた。フランスでは互いの頬を
寄せ合ってキスをする習慣があるらしく、先月帰国した響に、千絵
は頬へキスをされた。
事情を知らない千絵は、突然のキスに真っ赤になって硬直した。
そんな千絵の様子を見て、日本では馴染みの無い習慣だったことを
響も思い出したらしい。それからは頬へのキスは控えられている。
しかしちょっとした時に気の抜けた響が、つい頬を寄せてキスを
してくることがあり、そのたびに千絵は驚きと期待で胸がいっぱい
になった。おかげで肩に力が入り、緊張を響に気付かれてしまうの
だ。
︵私が緊張しなきゃ、響もキスしてくれたかもしれないのに⋮⋮︶
キスと言っても頬を寄せ合ってリップ音を立てるだけのものだが、
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小学生の千絵にとっては衝撃的だ。それが片想いの相手から贈られ
るものなら、なおさらに特別だった。
今年はもうきっと、響も日本の感覚を取り戻してキスをしてくれ
なくなるだろう。来年は帰国後、一度くらいは機会があるだろうか。
そんな淡い期待を抱きながら千絵が響にお別れの手を振ろうとし
たところで、後ろから声をかけられた。
﹁千絵?﹂
﹁あ、お母さん。出かけてたの?﹂
﹁ええ、お夕飯の買い出しにね。そっちの子はもしかして、いつも
千絵が言っている⋮⋮?﹂
買い物から帰ってきた千絵の母親が、別れかけていた響を見て首
を傾げる。千絵は家族にも響のことを話していたため、そうだと頷
いた。
﹁うん、お母さん。いつも話してる響だよ。今日もお買い物に付き
合ってくれて、刺繍を教えてくれてたの!﹂
﹁こんばんは、チエのお母さん。響です﹂
響が会釈すると、母は﹁まあまあ﹂と目を輝かせて笑顔になる。
﹁千絵ったら、こんなに素敵なお姉さんと遊んでもらってただなん
て。響ちゃん、いつも千絵がお世話になってるわ。ありがとう。こ
の子、響ちゃんと知り合ってから本当に毎日楽しそうで﹂
﹁いや、ええと、⋮⋮お姉さん? 響ちゃん⋮⋮?﹂
小声で戸惑う響を、千絵の母は﹁立ち話もなんだから﹂と家へ招
いた。
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﹁響ちゃん、いつもお夕飯は一人なんですってね? 千絵がお世話
になってるお礼に、今日はぜひ家でお夕飯を食べて行ってちょうだ
い。おばさんこう見えても、料理の腕はなかなかよ? ほら千絵、
響ちゃんにスリッパ出して﹂
﹁はーい!﹂
響を家に招くことが初めてだったため、千絵は嬉しくなって響の
手を引き、自宅へ上がった。
﹁響、スリッパはこれを使ってね? 響のハウスキーパーさんのご
飯もおいしいけど、うちのお母さんのご飯もおいしいからね! 響
? どうかしたの?﹂
玄関先に入った響が靴を脱がず、千絵の母親が消えたリビングの
方を見て沈黙している。その表情が微妙に硬くて、千絵は眉を下げ
た。
﹁響、めいわくだった? 家に帰りたい?﹂
﹁え? あ、いや、そういうことじゃないんだけど。なあ、もしか
して千絵のお母さんって、オレのこと⋮⋮﹂
﹁︱︱千絵!﹂
突然の大声に千絵と響が廊下を見ると、リビングから出てきた男
性が玄関へ走ってきた。千絵の父だった。
﹁あ、お父さん。今日は土曜日だけど、お仕事早く終わったの?﹂
﹁ああ、最近千絵に会えてないから、お父さん頑張ってお仕事終わ
らせてきた。それより千絵! 響が来たってお母さんから聞いたぞ
! 響ってあの響か!? 千絵がいつも連呼してるあの響か!? 35
もしかしてお父さんより好きなんじゃないかって思うほどいつもい
つもいつも連呼しているあの響か!?﹂
﹁うん、その響だよお父さんっ﹂
﹁いやチエ、そこは笑顔で頷いちゃいけないところだから。チエの
お父さんがこっち見て固まってるから⋮⋮﹂
父に凝視されて響がじりじりと後退していると、リビングから母
が﹁コラお父さんっ﹂と頬を膨らませながら出てきた。
﹁お父さんったらもうっ。いくらお仕事が忙しくて千絵に会う時間
が少なくて、ここ最近は千絵が響ちゃんにベッタリだからって、ヤ
キモチ妬かないの! 響ちゃんが怖がってるじゃないっ﹂
﹁でもお母さん、あんなに親想いだった千絵がここ最近はずっと外
出してるんだぞ? 心配になるじゃないか!﹂
﹁千絵だって響ちゃんのお家で何をしてるか、きちんと話してくれ
てるしょうがっ。響ちゃん、デザイナーを目指してる素敵な女の子
じゃない。仕事で忙しい私達の代わりに、千絵の宿題を見てくれた
り、刺繍を教えてくれたり、一緒にお菓子やご飯を食べてくれてる
って言うのよ? 感謝こそすれ、お父さんのそんな態度は響ちゃん
に失礼だわっ﹂
﹁うぅぅ⋮⋮まあ、どこの馬の骨とも分からない男のところじゃな
くて、安心はしたけれども⋮⋮﹂
母に怒られてうなだれる父は、響のためのお茶を準備するように
母から命じられていた。
そうして玄関に立ち尽くす響に、母が﹁さぁさ﹂と笑顔で中に入
るよう勧めてくる。
﹁響ちゃん、騒がしくてごめんなさいね? お父さん、最近千絵が
響ちゃんのことばかり話すから、少しヤキモチを妬いてたのよ。遠
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慮せず上がってちょうだいね?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
母がリビングへ戻って行った後、千絵は響にちょいちょいと手招
かれた。
﹁⋮⋮チエ。オレのこと、両親になんて説明してたんだ?﹂
﹁デザイナーのタマゴで、いつも遊んでくれる響だよ?﹂
﹁性別は?﹂
﹁えっと、お父さんが﹃当然女だろうな?﹄ってすごく怖い顔で言
ってたから、とりあえずウンってうなずいておいたの。響が綺麗な
顔でよかった! 向こうに行ってる間に、髪も少し伸びたよね? 響ってカッコイイお姉さんって感じがするもん﹂
カッコよくて綺麗でお姉さんにもなれるお兄さん。そんな素敵な
人を好きになれて良かったと、千絵が心の中で幸せを感じていると、
ゴンっと鈍い音がした。見ると、響がよろめいて壁に頭をぶつけて
いた。
﹁響、どうしたの? 気分がわるいの?﹂
﹁⋮⋮自分の身の振り方を見極めてる⋮⋮﹂
心配する千絵に、響は若干青ざめた顔で引き攣った笑みを浮かべ
ていた。
その晩は響も加わり、四人で食卓を囲んだ。その間響は自身のこ
とを﹃私﹄と称したため、どうやらお姉さんスタンスを貫くことに
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したらしい。
今まで響と楽しく過ごせれば満足だった千絵は、響の家庭環境に
ついて深く尋ねたことはなかった。
﹃フランスと日本、二人の父親がおり、今はマンションで一人暮
らしをしている中学生﹄という認識で終わっていた。
しかし今日は千絵の父と母が響に家のことなどを尋ねたので、響
についての情報が色々と追加された。
かなで
響には奏と言う名前の、千絵と同じ年の弟がいるのだと言う。千
絵と初めて関わりを持った時、あんなに親切にしてくれたのは、ど
うやら弟と同じ年だったことも関係しているらしい。
今は日本の父と弟の奏が別の家で住み、響はマンションの一室を
借りて生活をさせてもらっているそうだ。気兼ねなく好きなことが
できる場所をもらえて、感謝していると響は笑っていた。
千絵も響と気兼ねなく会えるので、響の父に感謝した。千絵の父
と母は、響にどこか気遣うような視線を向けていたが、千絵にはま
だその視線の意味が理解できなかった。
その後は響からフランス滞在時の話をたくさん聞き、楽しい時間
はあっという間に過ぎた。
﹁あら、もう八時ね。響ちゃん、お布団出すから、今日はもう泊ま
っていきなさいよ﹂
母の提案に、千絵は両手を挙げて賛成した。しかし響はいえいえ
と手を振って辞退する。
﹁いや、オ⋮⋮私はこの時間でも、全然帰れますから﹂
﹁響、帰っちゃうの? いそがしいの?﹂
﹁明日は日曜日だものね。響ちゃん、用事があるかしら?﹂
﹁いや、用事はないですけど⋮⋮﹂
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﹁あ、もしかしてお父さんが怖いのかしら? もう、お父さんが変
なヤキモチ妬いたから、響ちゃんがすっかり恐縮しちゃってるじゃ
ない。お父さん、響ちゃんが泊まってもいいわよね?﹂
﹁いいよねお父さん?﹂
響が﹁いや、お父さんは関係ないです﹂と手を振っていたが、母
と娘に詰め寄られた父は﹁泊まっていきなさい﹂と少しすねた様子
で響に泊まるよう言った。
半ば強引に千絵の部屋へ客用布団を敷き、響が帰るに帰れない状
況を作ると、響は観念したように泊まることを了承した。
お風呂が沸いたことを母から伝えられた千絵は、千絵の部屋で所
在なさげに腰をおろしていた響をお風呂へ誘った。
﹁響、お風呂がわいたって! 一緒に入ろうよ!﹂
﹁うん、一人で行って来な﹂
﹁ええー。せっかく泊まりに来たんだから一緒に入ろうよ?﹂
﹁ダメです﹂
お泊まりと同じく強引に引っ張っていこうとしたが、思いのほか
かたくなに断られて千絵は肩を落とした。
﹁響、どうしてダメなの?﹂
﹁ヒント1。オレに姉妹はいませんでした﹂
﹁うん﹂
﹁ヒント2。千絵の身長は135。中学でも千絵と同じくらいの女
子はいます﹂
﹁うん﹂
﹁⋮⋮ヒント3。オレは多感な中学生﹂
﹁うん﹂
﹁ここまで言って何も分からない子とは入れません﹂
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﹁ええ!? どうして!﹂
﹁オマエね、オレを犯罪者にしたいのか!?﹂
どうしてどうしてと響の腰元へしがみついていたら、部屋の扉が
ノックされ、母が着替えとタオルを持って入ってくる。
﹁二人ともさっそく遊んでるの? 本当に仲がいいわね。響ちゃん、
あなた背が高いからおばさんの服じゃ小さいわよね。お父さんのシ
ャツでもいいかしら? あ、大丈夫よ。ちゃんと未使用だからっ﹂
﹁お母さん、響が一緒にお風呂入ってくれないって!﹂
﹁あら、そうなの? 残念ね、千絵﹂
﹁響がダメって言うの。響が中学生だからって﹂
﹁チエ!?﹂
ギョッとした響を見て、母はパムと手を合わせた。
﹁ああ、そういうこと。響ちゃん、ナプキンが足りなくなったら言
ってね?﹂
﹁ナプ⋮⋮?﹂
﹁千絵、もう少しお姉さんになったら、千絵にも一緒に入れない時
があるって理解できるから。今日は我慢しなさいね?﹂
母はそう言ってタオルと着替えを響と千絵に渡すと、部屋を出て
いった。
残された千絵と響は、二人で顔を見合わせ、首を傾げた。
﹁響、どうしてお母さん、ナプキンなんて言ってたんだろう。ナプ
キンって給食の時に使うやつでしょ?﹂
﹁いや、それはオレも分からないけど。とりあえずおばさんが納得
してくれたならいいだろ。オレは後で入るから、先に行って来い﹂
40
順番に入浴を終えた千絵は、今年の誕生日に両親から買ってもら
った刺繍セットを出し、響の布団で遅くまで教えてもらった。
糸の絡まりを響に直してもらっている間、千絵は響の片足を枕に
してウトウトとまぶたを閉じた。
﹁チエ、寝るなら自分のベッドに戻れよ﹂
刺繍セットを片付けながら、響が声をかけてくる。しかし千絵は
返事をしなかった。
返事をしなければ寝たものだと思って、このまま響と一緒に眠れ
るかもしれない。
ちょっとズルい考えを持った千絵だったが、残念ながら響が千絵
をベッドに運んでくれた。それでも短い時間のお姫様だっこを体験
できて嬉しかった。
﹁おやすみチエ﹂
響の声とともに眼鏡を取られ、まぶたに温かい熱が触れた。
なんだかとっても幸せで、千絵は甘い夢の中にトロトロと落ちて
いった。
41
響き奏でる音色
※
小学四年。十歳になった千絵は、ますます響との交流を深めてい
た。
昨年の母への刺繍プレゼントは大成功で、今年は千絵もさらに一
段階難しい刺繍にトライしている。響には同時に学校の宿題も見て
もらい、時にはフランス語を教わっていた。
両親の信頼を得ているため、響の家で遅くまで過ごしても心配さ
れることはなくなった。響の家へのお泊まりも母から許可されてい
るが、その点に関しては何故か響の方が許してくれなかった。
今日も響の家で一緒に夕食を食べた後、千絵は響に送られながら
自宅へ戻っていた。
響と夜の道を歩いている途中、ふと千絵は周囲を見渡した。
﹁チエ、どうした?﹂
﹁ううん。なんでもない﹂
尋ねてくる響に、千絵は首を振った。
なんでもないわけではない。けれど言ってしまったら、響と一緒
にいる時間が減ってしまうのではないかと思い、言えなかった。
千絵は最近、妙な視線を感じていた。
毎日ではないが、千絵はふとした折に視線を感じる。大抵は、響
42
の家から出た後だ。
しかしそれを明かしてしまったら、響から﹁危ないから家に来る
な﹂と言われてしまうのではと不安になる。
千絵は隣を歩く響の手を取ると、きゅっと握った。
﹁チエ?﹂
﹁⋮⋮手をつないで帰りたいなと思って。ダメ?﹂
本音は視線の恐怖心を紛らわせるためだが、響はきょとりと千絵
を見つめてきた。
響と手をつないだのは久しぶりだった。それこそ一昨年や去年あ
たりまでは、響に手を引かれながら歩くことがあった。
けれど小学四年に上がり、響が春から秋までフランスへ行ってい
る間に、千絵の中で﹃子供扱いはされたくない﹄という気持ちが育
っていた。
少しだけ背伸びをして、響に甘えないようにと心掛けていた。け
れど結局こうして手を握らせてもらっている。子供っぽいと思われ
てしまっただろうか。
千絵がおずおずと響を見返していると、響がそっと千絵の手を外
してくる。⋮⋮拒絶されてしまった。
ズキズキと痛む胸に涙が盛り上がりそうになっていると、響が千
絵の手に自分の手を重ね、互いの指を絡めるように握ってきた。
﹁響⋮⋮?﹂
﹁この方が良くないか?﹂
﹁えっと、うん﹂
にぎにぎと千絵が指を動かすと、響も同じように指を軽く握って
くる。響の少しひんやりとした綺麗な手とピッタリ重なり合う感覚
が、とても心地良くて安心した。
43
千絵が﹁いいかも﹂と笑って頷くと、﹁じゃあこれで﹂と響に手
を引かれ、帰り道を再び歩き始める。
先程まで感じていた不安などまったく忘れて、千絵はくすぐった
い気持を抱えながら、響との家路を楽しんだ。
千絵が視線への恐怖を忘れかけていた数日後。再びあの視線を感
じた。
それは日中、学校を終えた千絵が、響の家へ向かっている最中の
ことだった。
いつもは隣に響がいる状況で感じていた視線だったが、今は千絵
一人だ。どうしよう。走ろうか。足に力を入れたところで、背後か
ら声をかけられた。
﹁きみ、少しいいかな﹂
﹁⋮⋮っ﹂
﹁あ、待って!﹂
逃げ出そうとした手首をつかまれて、千絵が悲鳴をあげると、相
手がハッとしたように両手を上げた。
﹁ま、待って! すまない、変な者じゃないんだっ。いや、きみに
とっては十分変な者かもしれないけれど、違うんだ。きみ、響を知
っているだろう!?﹂
震える足で逃げかけていた千絵は、響の名前を聞いてピタリと足
を止めた。
初めて背後をまともに見ると、そこにはスーツを着た、千絵の父
親と同じくらいの年齢の男性が立っていた。千絵が首を傾げると、
44
おとひこ
男性は財布から一枚の名刺を取り出し、千絵に差し出してくる。
やべ
﹁私は帝都芸術大学で講師をしている、谷部音彦。響の父親なんだ﹂
﹁響のお父さん?﹂
見たところ、音彦は日本人のようだった。フランスの父親はエデ
ィと言う名だ。つまりこちらは、日本の父親なのだろう。
﹁響には二人のお父さんがいるって聞いてます。音彦お父さんは、
日本のお父さんですか?﹂
﹁響はきみにそんなことも話しているのか﹂
音彦は少し驚いた様子で目を開くと、申し訳なさそうに頭を掻い
て視線を下げた。
﹁きみが私達のことをどこまで聞いているのかは分からない。お恥
ずかしい話だけれど、響の交友関係を⋮⋮いや、響のことを、私は
あまり理解できていなくてね﹂
﹁音彦お父さんはお仕事が忙しいんですか? 私、響とたくさん一
緒にいたんです。でも私、音彦お父さんと初めて会いました﹂
﹁仕事を言い訳にしてはいけないんだろうね。だからこんなことに
なってしまった⋮⋮。きみは響と親しいようだけれど、名前を聞い
てもいいかな?﹂
﹁千絵です。三谷千絵﹂
﹁そうか。千絵さん。響のことを理解できていない私に、響のこと
を聞く機会をもたせてくれないかな?﹂
千絵は音彦に誘われ、近くの大通りに面した喫茶店へ入った。
そこであらためて音彦は自身のことを紹介した。帝都芸術大学音
楽科でピアノの講師をしているが、昔はフランスを起点として世界
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を巡るピアニストだったらしい。
﹁フランス。エディお父さんと同じですね!﹂
﹁そうか、エディのことを知っているんだね。エディと私は友人だ
ったんだ。とあるパーティーで、エディと私は響のお母さんと会っ
てね。二人とも、彼女に惹かれてしまったよ﹂
﹁音彦お父さんと響のお母さんが結婚して、響が産まれたって聞き
ました。向こうではエディお父さんと、音彦お父さんと、響のお母
さんと、三人で結婚してたんですか?﹂
﹁ははっ、三人で結婚か! そうだね、そうできていたらとても幸
せだったと思うよ﹂
エディのことを友人だと話す音彦の表情はとても穏やかで優しく、
千絵は三人がとても仲が良かったのだろうと思った。
﹁響が産まれたときは驚いたけれど、嬉しくもあったんだ。エディ
と私と響の母は、仲違いをしたわけではなかったからね。色々な事
情があって、一緒にはいられなかっただけのことなんだ。だから響
のことも、エディへもちろん伝えたし、エディも喜んでいたよ﹂
ただね。と、音彦はテーブルに置かれたコーヒーカップの、揺ら
いだ水面を見つめた。
かなで
﹁響に弟が産まれたんだ。奏と言うんだけれどね。私も彼女も、も
ちろんエディも喜んだ。響だって、奏のことをとても可愛がってい
たよ。けれど⋮⋮彼女が亡くなってから、少しずつ何かがズレてし
まってね﹂
﹁響のお母さん、死んじゃったんですか⋮⋮?﹂
﹁響が十の頃にね﹂
46
ちょうど自分と同じ年齢だ。今、突然母がいなくなってしまった
ら。そう考えると、千絵の胸にやりきれない悲しさがつのって、小
さく唇を噛んだ。
﹁皆、彼女が大好きだったから、とても悲しんだよ。エディもしば
らくは日本にいて、私や響や奏を支えてくれた。ある時、五歳の奏
が突然ピアノを弾き出してね。彼女の好きな曲だった。その曲に、
私達はとても救われて、前を向いて生きようと思ったんだ。⋮⋮け
れど、響は母親がいなくなったことで、自分の存在に違和感を感じ
てしまったようなんだ﹂
エディと似ている響。興味は全て服飾に注がれていた。
音彦と似ている奏。開花したピアノ才能が、感受性豊かだった響
を刺激したのだろう。
響は家を出たいと言い始めたのだそうだ。
﹁﹃自分はこの家で、一人だけ違う﹄︱︱そう言って悩む響に、エ
ディは半年ずつのフランス行きを提案したんだ。最初はそれで落ち
着いていた響だったけれど、日本にいる間も一人暮らしがしたいと
言うようになってね。自宅では私達に気が引けて、思うように好き
なことができなかったんだろう。響はあのマンションの部屋で、服
をデザインしているんだろう?﹂
﹁⋮⋮はい。たくさんしています。素敵な服をたくさん作って、と
ってもたのしそうです。私、響が作る服がとても好きなんです。服
を作っている響が、とっても好きなんです﹂
﹁そうか。私も千絵さんと同じだよ。響がエディと作る服は、いつ
もとても楽しくて好きだった。⋮⋮けれど、奏がね。ピアノを弾け
なくなってしまったんだよ﹂
﹁弾けなくなった?﹂
﹁そう。響を家から追い出したのは、自分のピアノのせいだと思っ
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てしまったんだろうね。奏がピアノをやめたことを、響もハウスキ
ーパーから聞いたんだろう。ハウスキーパーが、響が部屋にこもり、
デザインをしている姿は見られないと言っていて、とても心配して
いたんだ﹂
でも。と音彦は微笑んで千絵を見つめてくる。
﹁千絵さんが響の楽しさを、たくさん共有してくれていたんだね。
ありがとう﹂
少しだけもの寂しい微笑みが、響に似ていると思った。
それから音彦と、今の響についてたくさん話をした。
ほとんどが千絵と過ごした他愛ないエピソードばかりだったが、
音彦はとても興味深そうに、嬉しそうに聞いていた。
音彦は響をとても大切に想っているようだった。それだけに、自
分から離れていく響の姿が怖かったのだそうだ。
今後の進路について話すことをきっかけに、響と向き合っていこ
うと思うと千絵に告げ、音彦は店を出て行った。
音彦と別れた千絵は、その日の夕方に響の部屋へ行った。
いつもよりもずいぶん遅い千絵の来訪に、響は驚いたようだった。
リビングテーブルに、高校案内のパンフレットが置かれている。普
通科の中にひとつだけ服飾専門学校のパンフレットがあった。
﹁響、来年は高校生だね。もちろん、デザインの学校に進むんでし
ょ?﹂
﹁いや⋮⋮﹂
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﹁進まないの? どうして? 響、あんなに楽しそうに色んな服を
作ってるじゃない。勉強だってたくさんしてるじゃない。大好きな
ことなんでしょ?﹂
﹁⋮⋮好きだからって、何でもできるわけじゃないんだよ﹂
﹁︱︱ウソツキッ!﹂
千絵の突然の怒声に、響が目を瞬かせた。
﹁チエ⋮⋮?﹂
﹁ウソツキ! 響が言ったんじゃない! 自分の人生だって、一度
だけの人生だって! 自分が一番楽しい生き方をしてみろって! まわりに嫌われない生き方なんて気にしないでよ! そんなんじゃ
身動きがとれないんでしょ? まわりを見てひるまないで、まわり
を見てひがまないで、いっそまわりを巻き込むくらい、楽しい生き
方をしてみせてよ!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁私、がんばったのに⋮⋮逃げないで、前を向いてがんばったのに
⋮⋮なんで響は目をそらしちゃうの? 今の響は、シンが通ってな
いよっ。全然キレイじゃないし、カッコ良くないんだから!﹂
そのまましゃくり上げて泣き始めた千絵を、響が抱きしめてくる。
﹁チエ⋮⋮ごめん。そうだよな⋮⋮ごめんな﹂
ごめん。そう何度も謝罪しながら、響が千絵の肩に顔を埋めて体
を震わせた。
その日は二人とも、互いの服で涙を拭き合った。
※
49
放課後の音楽室。
西日の差し込む室内に、音は無い。
ピアノのそばの机に、腰掛ける人影がひとつ。人影はただじっと、
ピアノを見つめていた。
その人影に、千絵は声をかけた。
﹁︱︱谷部君﹂
クラスメイトの谷部奏は、千絵が現れたことにくしゃりと顔を歪
めた。
﹁んだよデメキン﹂
﹁谷部君、弾いてよ﹂
﹁はあ? バッカじゃねーの﹂
机に投げ出していたランドセルを右肩に背負い、部屋を出ていこ
うとする奏。しかし千絵は出入り口を後ろ手に閉めて、奏を閉じ込
めた。
﹁おいデメキン。そこどけ。ぶん殴んぞ﹂
﹁谷部君、ずっと弾きたそうにしてる。好きなことが目の前にある
のに、どうして手を伸ばさないの?﹂
﹁︱︱っ、お前に何が分かるんだよ! 俺がピアノ弾いて、誰が喜
ぶんだよッ!﹂
﹁よろこぶよ! 私も! 谷部君のお父さんも! 響も!﹂
﹁なんで、お前⋮⋮兄貴のこと知って⋮⋮?﹂
目を見開いて驚愕する奏に、千絵はまくし立てた。
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﹁二年の頃、谷部君のピアノ聞いたことあるもん! 素敵だって思
ったもん! 好きなんでしょ? 人生は一度しかないんだよ? 自
分の人生なんだよ? だったら自分が一番楽しいコトしてよ!﹂
﹁デメキン⋮⋮﹂
﹁谷部君が弾くまで、帰らないもん﹂
怒鳴られるだろうか。殴られるだろうか。
足を震わせながら、それでもぎゅっと唇を噛みしめて、千絵は出
入り口の前を動かなかった。
奏が舌打ちし、その場にランドセルが放られる。
﹁⋮⋮勝手に音楽室のピアノ弾いて、先生に怒られてもしらねーか
らな﹂
奏のピアノはとても繊細な音色だった。
しばらくピアノから離れていたためか、ところどころつっかえて
いたが、それを舌打ちしながらフォローをしたり﹁もともとこうい
う曲なんだ﹂と別の曲を強引につなげていく奏の瞳は、生き生きと
していた。
その翌年。
響が千絵に笑顔で、日本でも有名な服飾研究学校への合格通知を
見せてくれた。
奏は相変わらず千絵をからかってくるが、放課後は誰よりも先に
帰り、ピアノのレッスンをしていた。
音彦は家族と話をする場を持ち、響はマンションをアトリエとし
て利用し、できるだけ実家へ顔を出すようになったということだっ
51
た。
52
美少女と猛獣
春。小学五年になった千絵は、クラスの学級委員長に選ばれた。
響と出会ってから色々なことに挑戦し、真面目に取り組む千絵は、
学年でも成績優秀者に名を連ねている。
レンズが薄くなったものの未だかけ続けている眼鏡と、普段は二
つに結っているお下げから、ガリ勉タイプ委員長と周囲から見られ
ていることも自覚していた。
同じく男子で委員長に選ばれたのは、クラスメイトの松田雄二だ
った。
松田は去年や一昨年も同じクラスだった少年で、千絵へ﹃サイダ
ー﹄とあだ名を付けたのも彼である。千絵と同じく成績優秀だが、
千絵とは違いスポーツも万能で、クラスのムードメーカーだ。
放課後、宿題のプリントを男女それぞれ集めた千絵と松田は、二
人で職員室までプリントを届けていた。
﹁松田君、私立の中学に行かないんだ? 頭が良いし、行くものだ
と思ってたよ﹂
﹁俺ん家兄弟いるし、中学から私立行かせるような金ないわぁ。高
みやこのちゅうおう
校も公立でいくと思うぞ。サイダーは中学受験組だっけ?﹂
ミヤジョ
﹁うん。都ノ中央女学院に行けたらいいなって思ってるけど﹂
﹁おお、都女か。お嬢様学校だよな? まぁサイダーならイケんじ
ゃね? サイダーの頭の良さなら、俺らと比べ物にならんでショ﹂
ヨユーヨユー。と松田にエールを送られてはにかんでいた千絵は、
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職員室へ行く途中の昇降口で呼びとめられた。
﹁三谷﹂
﹁谷部君?﹂
千絵を呼び止めたのは、響の弟の奏だった。
父の音彦や兄の響と和解し、本格的にピアノの道に進み始めた彼
からは、以前のように荒れた姿は見られなくなった。千絵のことも
デメキンではなく、名字で呼ぶようになっている。
千絵も以前のような苦手意識をなくして奏と話せるようになった
が、今年からは別のクラスだ。
その奏が何の用だろうと首を傾げると、隣の松田が﹁あれ﹂と同
じように首を傾げる。
﹁バッハじゃん。今日はピアノの練習ないのか?﹂
﹁いや、帰ったらレッスンがある。ちょっと三谷に話があって待っ
てたんだよ。⋮⋮つーかバッハ言うな﹂
﹁去年の合唱祭で、お前メチャメチャピアノ上手かったじゃん。も
はやバッハの再来じゃん?﹂
﹁まっつんは音楽の父に土下座してあやまれよ﹂
バッカじゃねーの。と、荒れはしないものの口の悪さが続いてい
る奏から、お決まりのフレーズが飛び出してくる。千絵も周囲も、
今まで彼に何度バカと言われたことか。
﹁谷部君。松田君は谷部君がすぐそうやって人のコトを﹃バカ﹄っ
て言うから、谷部君が﹃バカ﹄って言ったら頭の中で﹃バッハ﹄に
変換したら面白いって、みんなに教えてくれたんだよ﹂
だからバッハなの。と千絵が松田のフォローをすると、奏が﹁は
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あ?﹂と顔を歪めた。
﹁お前らバッカじゃねーの?﹂
﹁﹃お前らバッハじゃねーの﹄?﹂
﹁ウルセーよまっつん!﹂
すかさず変換した松田の言葉に千絵がたまらず笑いを零すと、奏
が顔を赤らめて松田を怒鳴った。
﹁注意しろよバッハー。お前がバカバカ言うたびに、みんなからバ
ッハ狂だと思われんぞ﹂
﹁そんなこと考えんのまっつんだけだろーが⋮⋮っ﹂
拳を握って唸る奏だが、松田と奏が仲が良いことを千絵は知って
いた。
昨年まで同じクラスだった二人は、奏が荒れるたびに松田がフォ
ローし、クラスの雰囲気は明るく保たれていたのだ。
それだけでなく、松田は誰に対しても色々なことをフォローする
少年だった。奏に﹃デメキン﹄と呼ばれていた千絵にも、新しく﹃
サイダー﹄とあだ名を付けて、みんなに良い意味で浸透している。
千絵が二人の掛け合いに笑っていると、手元からプリントが無く
なった。見ると、松田が千絵のプリントを持っていた。
﹁松田君?﹂
﹁バッハと話があるんだろ? プリントは俺が職員室に持ってっと
くから、バッハの話聞いてやれば?﹂
﹁でも⋮⋮﹂
﹁今度バスケの練習ある時、サイダーに仕事を任せたいなっていう
俺のシタゴコロ、受け取って!﹂
﹁フフッ、わかった。ありがとう松田君。プリントよろしくね?﹂
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相手に申し訳なさを感じさせずに色々と引き受けてくれる松田は、
本当に良い人だと千絵は思った。自分もそんな風に、誰かをフォロ
ーできる人になりたい。千絵は松田の人間性へ憧れていた。
松田と別れた千絵は、ランドセルを背負っていたので、そのまま
奏と学校を出た。
帰り道を歩きながら、千絵は奏に用件を尋ねた。
﹁谷部君、話ってなに?﹂
﹁三谷、最近兄貴に会ってるか?﹂
﹁響に? 最近はちょっと会えてないけど﹂
千絵は中学受験のために、週三回塾へ通っている。塾のない日は
父親の休日と重なっていたり、週に一度の手芸教室に通ったり、受
験勉強で忙しい。
響は今年から服飾の学校へ通っており、以前遊びに行った時は課
題などでとても忙しそうだった。また、響は生活場所を実家へ移し
たため、アトリエとなったマンションにいる時間も限られてくる。
そのため千絵は、今まで通っていた響のマンションへの出入りを
控えていた。
今は五月下旬。最後に響に会ったのは先月の下旬だ。学級委員長
に選ばれたと報告した千絵に、手作りの綺麗なブローチをプレゼン
トしてくれた。
気が付けば一ヶ月も響に会っていない。そう思うとさみしくて自
然とうつむいた千絵に、奏が苦い顔で溜息を吐き、﹁あのさぁ﹂と
切り出してくる。
﹁三谷は受験組だろ? 忙しいのは分かる。分かるんだけどさ⋮⋮
ちょっと時間作って、定期的に兄貴に会ってやってくれないか?﹂
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﹁え?﹂
﹁兄貴が参ってる。⋮⋮て言うか、三谷不足に陥ってる﹂
﹁私不足?﹂
﹁会えば分かるよ。とりあえず、近いうちならいつが行けそうだ?
できれば今日すぐにでもって言いたいところなんだけど、お前、
今日塾の日?﹂
﹁ううん。今日は塾はないよ。お父さんが早めに帰れるって言って
たから、夜は家族でご飯食べにいく予定だけど。四時くらいまでな
ら時間はあるかな﹂
﹁俺もそのくらいまでなら付き合える。んじゃ、今から兄貴のアト
リエに行くか﹂
そのまま響のアトリエへ道を変えた奏に、千絵はきょとりと目を
瞬かせた。
﹁﹃俺も﹄って、谷部君も一緒に行くの?﹂
﹁ああ。今の兄貴の所にお前一人で行かせたら、ライオンの檻に羊
を入れてるようなもんだからな。大丈夫、武器は作ってあるし、今
日はたぶん助っ人もいる。兄貴を犯罪者にさせたりしねーよ﹂
﹁⋮⋮?﹂
武器とは、ランドセルの脇からはみ出している棒状の何かだろう
か。千絵側から、ビニールテープでぐるぐる巻きになった手持ち部
分が見える。
しかし響に会いに行くのに、なぜ武器が必要なのか。今までそん
なものを必要としたことはなかったのに、ここひと月の間に響の身
へ何が起こったのだろうか。そして犯罪者とは何なのか。
謎を抱えたまま、千絵は奏と共にマンションのアトリエ部屋に到
着した。
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奏の合い鍵で部屋に入ると、懐かしい香りがして、千絵の胸は高
鳴った。
響の所へ行くのを控えた理由の一つに、この胸の高鳴りも関係し
ていた。
最近、響と顔を合わせるのが妙に気恥かしくなってしまって、ダ
メなのだ。そばにいるだけでドキドキするし、少し触れられるだけ
で心臓が爆発しそうに痛んでしまう。
おかげで挙動は不審になるし、一緒にいたいのになんだか逃げ出
したくなる気持ちもわいてしまい、どうしていいか分からなくなる。
そんな自分が滑稽な行動をして、響に呆れられたらと思うと、怖く
て身動きも取れなくなってしまうのだ。
そのため千絵は、色々と理由をつけて響に会いに行くのを控えて
いた。
気が付けばこうして、ひと月も経ってしまったわけだが。
﹁兄貴ー? ⋮⋮アレ、いないのかな? おい、ミズキー?﹂
リビングには誰もいなかった。ランドセルをリビングに置き、響
ではない誰かの名前を呼びながらアトリエ部屋に向かう奏。千絵は
不思議に思いながらも、自分も響を探すために部屋の探索をした。
なんのことはなく、寝室のベッドに響はいた。
少し疲れたような陰を目元に浮かばせながら、毛布もかけずに布
団の上へ身を投げ出して眠っている。まるで行き倒れたような体勢
で眠る響に、千絵はそっと声をかけた。
﹁響、寝てるの?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
声をかけても反応しない。千絵はなんだか楽しくなってきた。そ
ういえば寝起きドッキリと言うものをテレビで見たことがある。
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千絵は声をひそめながら、響のそばで再び声をかけた。
﹁響さーん、ねむってますかー? ぐっすりみたいですねー﹂
起きている響と面と向かって会うのは気恥かしくなってしまうが、
こうして眠っている響は大丈夫だった。胸の中がくすぐったいが、
それ以上に久しぶりに会えた響を、ゆっくりと近くで見れることが
嬉しかった。
千絵がクスクスと笑っていると、不意に響の綺麗なグリーンの瞳
が、まぶたの下から覗いた。
﹁あ、響。起きた?﹂
﹁⋮⋮チエ﹂
﹁うん。ひさしぶりだね、響﹂
ぼんやりと千絵の名前を呼んだ響に、﹁ひと月ぶり﹂と笑いかけ
た千絵は、突然強く肩を引かれてバランスを崩した。
倒れ込んだ先は、響の腕の中だった。突然のことに千絵が何も反
応できないでいると、頬に温かな熱が触れた。ちゅっと小さな音を
立てて何度も触れてくるその感触に、千絵の顔が真っ赤に茹で上が
っていく。
響が千絵の頬と言わず、目元や額や鼻先や、顔中に何度もキスを
落としてきたのだ。
︵え⋮⋮えええええ!?︶
心の中で盛大に悲鳴を上げるが、声には一切出なかった。という
か、声が出なかった。あわあわと慌てるが、身体は響の全身で抱き
しめられていて、ピクリとも身動きが取れない。
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﹁ひ、ひびき⋮⋮っ﹂
声を発した千絵の口元と顎にキスが落ちてきて、千絵はとっさに
顔を横に向けた。そのまま顎から耳を伝った唇は、千絵の耳の後ろ
にたどり着くと、きつく吸いついてきた。
﹁んっ、イタ⋮⋮っ﹂
ちくりとした痛みに千絵が震え、涙に濡れた目で響を見上げると、
いつもは澄んでいる響の瞳のグリーンが、どこか深く焦がれたよう
な色を含んで千絵を見つめてくる。
﹁響⋮⋮?﹂
﹁チエ⋮⋮﹂
名前を呼ばれる吐息の熱さにひくりと震えると、響の手が頬に添
えられて、そっと顔が近付いてきた。
どうすれば良いか分からなくてとっさに目を閉じた千絵の耳に、
盛大な打撃音が届いた。
﹁ハァイ、ロリコンアウトーッ!﹂
﹁落ち着け兄貴ッ!!﹂
スパーン! スパーン! と聞こえた二発の打撃音と、二つの怒
声。
驚いた千絵の目の前には、白いハリセンで叩き飛ばされる響と、
ハリセンを振り切った女性と奏の姿があった。
60
61
アイ・アム・チエコン。︵あとがきにて簡易登場人物紹介付き︶
﹁あらー。しっかり痕つけられちゃったわねぇ﹂
リビングに移動すると、千絵の隣に先程ハリセンを振り切った女
性が座り、千絵の首元を確認する。
そうして自身の鞄から大きな化粧ポーチを取り出すと、千絵の耳
の後ろへチョイチョイとコンシーラーを置き、指先で塗り伸ばして
くる。
﹁ふふっ、くすぐったい﹂
﹁アラ、笑うとまた可愛い。ココ? ココがくすぐったいのかしら
?﹂
﹁や、やめて⋮⋮っ﹂
耳の後ろや髪の生え際をくすぐられて千絵がクスクスと笑うと、
ギリっと鈍い音がした。向かいのソファへ座っている響が歯ぎしり
した音だった。
﹁⋮⋮ミズキ。チエから離れろ﹂
﹁今のアンタに発言権は無いわよ、この猛獣。奏、しっかり響を見
張っときなさいよー﹂
﹁りょーかい﹂
奏は大小のハリセンを両手に構えて、響の隣を陣取っている。
コンシーラーの上からリキッドファンデーションを塗り、フェイ
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スパウダーをあしらうと、ミズキと呼ばれた女性は千絵のお下げを
胸前へと下げた。
﹁うん。だいぶ薄くなったけど、あの男の執着が染みついた痕はな
かなか取れないだろうし。できるだけこっちの髪は前に下げておき
なさいね? もしくは、サイドに髪をまとめてシュシュで留めるの
もいいと思うわ﹂
言いながら千絵の髪をほどいたミズキは、鞄からパールビーズの
シュシュを取り出すと、千絵のウェーブした髪をサイドでまとめて
満足げにうなずいた。
﹁うん、カーワイイっ。それあげるわ﹂
﹁え? でも⋮⋮﹂
﹁チエには俺がもっと可愛くてチエの魅力を最大限に引き出すモノ
を作ってあげるから、ミズキの物は必要ない﹂
﹁ウルセーわね響、アンタに発言権は無いっつってんでしょーが。
そこで指でも咥えて見てなさい。アタシアンタのコト、これからヒ
ッキーって呼ぶようにするわ﹂
ソファに深く座り込んで不機嫌そうに口をはさんだ響を、ミズキ
がスパンコールで彩られた目を細め、すげなくあしらっている。
﹁響だからヒッキー? ふふっ、なんだか可愛いあだ名だね。私も
ヒッキーって呼ぼうかな?﹂
﹁三谷、それ英和で今度引いてこい。無邪気に兄貴をえぐってるか
ら﹂
奏の忠告に首を傾げながら、今度英和辞書にお世話になろうと千
絵は素直に頷いた。
63
そうしてあらためて、隣に座る女性︱︱ミズキを見た。
ミズキは響とそう身長が変わらない、モデルのようにスラリとし
た体型の迫力美人だった。ワインレッドのオフショルダータイトワ
ンピースが、細い腰のラインを綺麗に浮かび上がらせ、細い足には
タトゥー入りの黒いレースタイツを履いている。
右サイドに流れたロングの巻き髪は濃い紫色で、所々淡いパープ
ルメッシュが入っている。黒く長いまつげに縁取られた瞳も紫色だ
った。
﹁ミズキさんは⋮⋮﹂
﹁ミズキでいいわよ。アタシもチエのこと、チエって呼んでいい?
あ、もう呼んじゃってるけどね?﹂
ペロリと舌を出してウィンクをされ、ミズキが瞬きするたびに銀
のスパンコールメイクがキラキラと輝きを放つ。
歳の差や壁を感じさせないミズキの笑顔に、チエも笑って頷いた。
﹁ミズキは響と同じ、ハーフなの? 瞳が紫色な人に、私初めて会
ったの﹂
﹁ああ、コレ? カラコンよ、カラコン! アタシ、響と同じ服飾
学校に通ってるの。響とは同じチームで動いてるわ。まぁ、知り合
ったのは幼稚園の頃なんだけどね?﹂
﹁幼稚園? じゃあミズキは、響と幼なじみだったの?﹂
﹁そうよぉ。奏のことも、赤ん坊の頃から知ってるわ。なんなら今
度、響たちの子供の頃の話でも聞かせてあげましょうか?﹂
﹁ききたい!﹂
マンションの中の響しか知らなかった千絵には、ミズキの提案に
飛びつきたくなるほど嬉しかった。けれど、向かいの兄弟から不機
嫌な待ったがかかる。
64
﹁フザケんなミズキ! 三谷、ミズキの話なんて聞くなよ﹂
﹁これだからミズキにチエを会わせたくなかったんだ⋮⋮。お前、
絶対チエを気に入ると思ったから﹂
﹁あーら、よく分かってるじゃない。二人とも、アタシにこんな天
使を隠してた罪は重いわよ﹂
﹁ミズキ、天使は言いすぎだよ⋮⋮﹂
私こんなだし。と太くてかたい黒髪や目元の眼鏡を触ると、チョ
イと鼻先を人差し指でつつかれた。
﹁天使も天使、大天使様だわ。アタシはチエにずっとお礼を言いた
かったんだもの﹂
﹁お礼?﹂
﹁響に、この世界へ踏み出す勇気をくれてありがとう。アタシ、響
の父親のエディ=アレニウスの服がとても好きだったの。いつか自
分も、あんな服を作りたいって思ったわ。響とは服飾で話が合った
の。しかも響ったら、アタシが大好きなエディ=アレニウスの息子
だって言うじゃない! これはもう、是が非でも一緒にデザイナー
になろうって夢を持ったのよ﹂
なのに。と、ミズキは溜息を吐きなら腕を組み、向かいの兄弟を
チラリとにらんだ。
﹁あの兄弟、妙なすれ違いで仲違いしちゃったじゃない? 奏と話
をしようにも、こっちの言葉になんて一切耳を傾けないし。響はフ
ランスに逃げるし。音彦パパはヘタレだし。アタシはアタシで、色
々悩めるお年頃だったし。もうこのまま空中分解かしら∼と思って
た頃に、チエが現れたのよ!﹂
﹁私?﹂
65
﹁服飾学校へ入学した響を見つけた時、アタシがどれだけ嬉しかっ
たか分かる? 人目もはばからず悲鳴あげたわよ。ひっつかんで話
を聞いたら、一人の女の子に救われたって言うじゃない? アタシ
から隠そうとするから、こうやって課題片手にアトリエに押しかけ
ては、チエに会えるのを待ってたってワケ﹂
念願の生チエだわ∼! とミズキに抱きしめられたら、ヒュッと
ミズキの後頭部で音がした。壁に何かが勢いよく当たったので見る
と、それは奏が持っていたはずのハリセンだった。
向かいのソファで、響がグリーンの瞳に冷ややかな光を宿しなが
ら腕を伸ばしている。どうやら奏からハリセンを取り上げ、投げつ
けてきたらしい。
﹁響!?﹂
﹁ちょっと響、チエにあたったらどーするのよ。やーねぇ﹂
﹁チエにはあてない。ミズキ、三秒以内にチエから離れろ。離れな
いなら⋮⋮言わなくても分かるな?﹂
奏から大ぶりのハリセンを取り上げてゆらりと立ち上がった響に、
ミズキも指をポキポキと鳴らしながらゆらりと立ち上がる。互いの
瞳には黒い炎が立ち昇っていた。
﹁なにが分かるっていうのかしらァ? じゃあアンタは言わなくて
も分かっていたわけね? この数週間、アンタがチエ不足だなんだ
って気力減退してたその尻を、叩きに叩いて課題こなさせてたアタ
シの、この苦労が分かるっていうわけね? フザケんじゃないわよ
このロリコン﹂
﹁ロリコンじゃない。チエコンだ。﹂
﹁兄貴、それ論点が違う﹂
66
ドヤァと言い切った響の隣で、くだらねぇと頭を抱える奏。不毛
なにらみ合いが続く響とミズキへ、千絵は﹁あの﹂と控えめに口を
はさんだ。
﹁あの、響は具合が悪かったの? さっきも疲れて眠ってたみたい
だし。学校の課題、そんなに大変なの?﹂
﹁いいえチエ。課題うんぬんよりも、この男はチエに会えなかった
ことがこたえたのよ﹂
﹁私?﹂
そう。と、ミズキと奏のみならず、響までもが深く頷いた。
ミズキと奏の監視下で、響が千絵の足もとに膝をついた。見上げ
てくる響の瞳が一心にこちらに向けられて、千絵は自分の胸がどう
しようもなく高鳴っていくのを感じる。
﹁⋮⋮チエ。このひと月、チエに会えなくて辛かった。あんなにず
っと一緒にいたチエが、ふとした時にそばにいないのを感じると、
どうしようもなく寂しかった﹂
﹁響⋮⋮わ、私も。私も、響に会いたかったよ。でも、忙しいかな
って思って。あと⋮⋮﹂
顔を合わせるとドキドキして。と面と向かっては言えず、心の中
で呟きながら響を見つめていると、響に片手を取られた。
﹁チエ。フランスにいる時、エディに言われたんだ。一度きりの人
生だから、好きなものは好きだと表現するべきだって。俺もそう思
うよ。だから、チエ⋮⋮﹂
﹁響⋮⋮﹂
﹁恋愛を前提に結婚してください﹂
67
瞬間的に響の頭を二本のハリセンがスパパンッと襲った。
﹁響、日本語が色々とおかしいわ! いえ、日本語以前にアンタの
頭がチエ不足でおかしいわ!﹂
﹁兄貴、ちょっと落ちつけよ! このままじゃアンタ犯罪街道まっ
しぐらだ! 片足どころか両足突っ込んでる!﹂
しかしさほどダメージを追った様子のない響が、フッと冷めた調
子で笑う。
﹁お前ら、今は21世紀だぞ。自由恋愛の時代が聞いて呆れるな﹂
﹁呆れるのはアンタの思考回路だわ﹂
﹁兄貴、一度日本の法律勉強し直してこいよ﹂
殺伐としたトライアングルを崩したのは、千絵の﹁くぅ﹂という
小さなお腹の音だった。
﹁チエ?﹂
﹁三谷、腹へったのか?﹂
﹁や、やだ、ちがうの私⋮⋮っ﹂
響と奏の視線に、恥ずかしいとお腹を押さえて千絵が身を縮める。
﹁チエ。可愛いよチエ﹂
﹁もう兄貴黙っとけよ﹂
﹁しゃべるごとにアンタの残念度がウナギ登りだわぁ﹂
呆れていたミズキが、﹁そう言えば!﹂と両手を合わせた。
﹁アタシ、お土産のアイスを冷凍庫に入れてるの! 半年くらい前
68
に日本上陸した、フルーツをふんだんに使ったアイスキャンディー
の有名店なのよ。すごくジューシーで美味しかったから、チエが来
たら出そうと思ってたの!﹂
﹁あ、じゃあ私、お茶いれるねっ﹂
お腹の音を皆に聞かれた恥ずかしさで、千絵はミズキと共にそそ
くさとキッチンへ逃げ込んだ。
手際良く四人分のおやつが用意されると、そのままリビングで軽
いお茶の時間になる。
ミズキオススメのアイスキャンディーは、一人あたりの量が意外
なほど大きかった。L版サイズの写真くらいはありそうだ。
﹁わあっ。スゴイ、大きいね! 私こんなの初めて!﹂
ミルクベースのアイスに、側面へオレンジやキウイ、イチゴとい
った果物の断面が綺麗に浮かんでいる。ミズキの話では、中にもふ
んだんに果物が詰まっているらしい。
冷凍庫から取り出したばかりのそれは硬く、千絵は小さな受け皿
を片手で持ちながら、アイスキャンディーの先端をペロペロと舐め
そしゃく
たり、角を口に含んでみたりと甘い冷たさを楽しんだ。すこしとろ
けて中の果肉に歯が通ると、シャクシャクと咀嚼するたび、口の中
にとてもさわやかでジューシィなジュースが溢れてくる。
﹁んー。おいひぃっ﹂
こぼれないように噛んだ断面をちゅっと吸いながら食べ進めてい
ると、視線を感じた。
﹁みんな食べないの? 溶けはじめてるけど﹂
69
何故か三人とも、千絵が食べる姿をじっと見つめていた。ミズキ
と響が妙に瞳を輝かせ、奏あたりは異常に顔が赤い。
響がそっと、汗をかき始めた自分のアイスキャンディーを千絵へ
寄せてくる。
﹁チエ、俺のミルクバーも﹂
﹁言わせねぇよ﹂
遮ったのは奏で、響のアイスを兄の口へ押し込んでいる。
兄弟の攻防の脇では、ミズキが恍惚の表情で千絵の口元を見なが
ら身悶えた。
﹁ああもう、アタシったらなんでこんな卑猥な食べ物買ってきちゃ
ったのかしら! 我ながら神がかったチョイスだったわ⋮⋮﹂
﹁お前ら全員三谷の両親に土下座しろよッ!﹂
奏の怒声の意味を、チエが理解することはなかった。
その後、何故か千絵に棒状のお菓子禁止令が発令されたのだった
︱︱。
70
簡単な登場人物紹介があるといいというご要望を頂きましたの
アイ・アム・チエコン。︵あとがきにて簡易登場人物紹介付き︶
︵後書き︶
※
ちえ
で、こちらへ現時点での簡易登場人物紹介を添えさせて頂きます
みつや
ひびき
︻三谷 千絵︼⋮主人公。
やべ
︻谷部 響︼⋮母が日本、父親がスウェーデンのハーフ。デザイナ
かなで
ーを目指している。チエコン。チエ狂。チエスキー。千絵の五歳年
上。
やべ
︻谷部 奏︼⋮千絵の小学時代の同級生。響の異父兄弟。ピアニス
トを目指している。
︻ミズキ︼⋮響の服飾仲間。響とは幼稚園からの付き合い。響とタ
おとひこ
ッグを組んでデザイナーになることが夢。
やべ
︻谷部 音彦︼⋮奏の父。日本人。元ピアニスト。
︻エディ=アレニウス︼⋮響の父。スウェーデン人だが、フランス
ゆうじ
在住。著名なデザイナー。
まつだ
とうこ
︻松田 雄二︼⋮千絵と奏の小学校の頃の同級生。
わかみや
︻若宮 冬子︼⋮旧:佐々木冬子。千絵と奏の小学校の頃の同級生。
みのり︼⋮千絵と同じ大学に通う学友。
千絵と同じ大学に通っている。
きやま
︻木山
71
72
入れなかった扉
それから千絵は、時間を見つけて響に会いに行くようになった。
奏やミズキから﹃二人きり禁止令﹄﹃スカート禁止令﹄など、様
々な禁止令が発令されたが、大抵はアトリエにミズキもいるため、
大きな問題は起こらなかった。ミズキは千絵を、妹のように可愛が
ってくれた。
迎えた小学六年もクラス替えは無いため、千絵は再び学級委員長
となった。
秋の修学旅行。十二人部屋で六枚ずつ向かい合わせに布団を並べ
た千絵達は、遅くまでひそひそと話をしていた。
女子の話題と言えば、やはり恋愛になる。
﹁︱︱私は岩下君かなぁ。優しいところが好きかも﹂
﹁ええ、ユウちゃん岩下君なの? 私はまっつんかな﹂
﹁ミナコちゃん、私もまっつん!﹂
﹁だよねーっ﹂
最初は好きな人の話だったが、クラスの男子人気投票となる場の
空気に、千絵は少し困っていた。
クラスの男子生徒に特別好きな人はいない。自分には響と言う好
きな人がいるのだ。
﹁サイちゃんは? 誰が好きなの?﹂
﹁あ、サイちゃんは別のクラスでもいいんだよ?﹂
73
﹁フフッ、ヤベリ∼ン﹂
くすくすと笑い合う友人達。千絵は松田が﹃サイダー﹄というあ
だ名を付けて以降、皆に﹃サイちゃん﹄と呼ばれている。
千絵はううんと苦笑しながら、一応答えた。
﹁えっとね、私は谷部君⋮⋮﹂
﹁やっぱり! ヤベリンなんだ!﹂
﹁の、お兄さんが好きなの﹂
﹁え? お兄さん? バッハなヤベリンじゃなくて?﹂
期待外れだという空気をヒシヒシと感じたが、千絵はなんとか頷
いた。けれど友人達はあまり納得しないようだった。
﹁サイちゃん、確かに年上の人って憧れるけどさ。でも私たち、ヤ
ベリンのお兄さんのこと知らないし﹂
﹁そうそう。みんなが知ってる人だったら誰が好き? この人いい
なとか、そのくらいでいいから、うちの学年の男子ならだれがいい
と思う?﹂
これで奏と言ったら、後々奏の方へも彼女たちの盛り上がりの波
が行き、迷惑だろうと言うことは千絵も察していた。
なので、無難に沢山名前が出ている人にした。
﹁ええと、じゃあ、松田君かな?﹂
同じ学級委員だし。良い人だし。彼の人間性には憧れている。そ
ういう意味で選んだ松田の名前だったが、それはそれで波紋を呼ん
だらしい。
74
﹁ええ!? サイちゃんもまっつんなの!?﹂
﹁あー、でも一緒に学級委員長やってるもんね。まっつん優しいし。
わかるぅ∼﹂
﹁ヤベリン失恋決定じゃん。ヤベリン超ヤベェリン﹂
﹁誰がうまいことを言えと﹂
ざわざわし始めた友人達が、一番端の布団に眠る女生徒を呼んだ。
﹁ちょっと、フユちゃん! サイちゃんもまっつんだってさ!﹂
﹁ユウちゃん、フユちゃん結構前からイビキかいて寝ちゃってるよ﹂
﹁もう、フユちゃんてば男子と一緒に山登り競争なんてしてるから
∼っ!﹂
﹁とりあえずフユちゃんはまっつんだよね。いつも一緒にいるもん﹂
とうこ
フユちゃんフユちゃんと呼ばれているが、女生徒の本名は佐々木
冬子。フユコと誤称されてから、あだ名がフユで統一されている同
級生だった。
真面目で大人しい千絵とは対照的に、活発な冬子は男子生徒と駆
けまわって遊ぶような女の子だった。とくに松田と仲が良く、宿題
も大抵松田が冬子の分を回収しているので、千絵はあまり接点がな
かったりする。
そうして他愛なくささやかな恋話を終えた千絵達は、その後の修
学旅行を楽しんだ。
ただ千絵の胸には、ぽつりと小さなシミのように、不安の種が落
とされていた。
修学旅行から戻った千絵は、約二週間ぶりに響のアトリエ部屋へ
向かった。響とミズキへお土産を渡すためだ。
途中道端で会った奏にも、同じ修学旅行先だったが、お土産を渡
75
した。
お土産は修学旅行先の山水で清められたという、幸福を招く石が
ついたストラップ。そこへ千絵が、響や奏やミズキ、それぞれへの
願いを込めたパワーストーンを繋げて作った、オリジナルのストラ
ップだった。
千絵自身のももちろん作っており、四人でおそろいだ。
奏は帝都芸術大学付属中等部へ受験するので、千絵は合格祈願を
兼ねて渡した。﹁こんなもんなくても合格できる﹂と毒を吐きなが
らも、奏は受け取ってくれた。
これから響のアトリエに行くと言う千絵に、奏はピアノのレッス
ンがあるので付き合えないがと言いながら、どこか思案するように
眉間へシワを寄せている。
﹁⋮⋮なぁ三谷﹂
﹁なに谷部君?﹂
﹁お前、どうしてまっつんが⋮⋮﹂
﹁松田君? 松田君がどうかしたの?﹂
﹁いや、何でもない﹂
千絵がもう一度首を傾げて尋ねたが、奏は﹁ウッセ、バーカ!﹂
とお決まりの言葉を吐き捨てて去って行った。
奏と別れた千絵は、改めて響のアトリエへ向かった。
奏が付いて来ないということは、ミズキはアトリエにいるんだろ
うか。未だ千絵は響との二人きり禁止令が発令されている。 大抵ミズキはアトリエにいるが、学校が終わったら響と一緒にア
トリエへ来ているのだろうか。以前まで千絵がいた場所には、今は
ミズキがいるんだろうか。
そう考えると胸の下あたりにモヤリとした何かが溜まるようで、
76
千絵はかぶりを振った。
﹁⋮⋮いやだ﹂
自分のこういう考え方はイヤだ。元々ミズキの方が、響と長い付
き合いなのだ。いて当然の人なのだ。
ミズキは千絵にとても良くしてくれる、優しくて気さくなお姉さ
んだ。千絵もミズキといると楽しいし、ミズキ個人のことはとても
大好きだ。
それが響を交えると、途端に千絵の心に黒い影がかかる。そんな
自分の感情が、千絵は好きではなかった。
深呼吸をして、自分の中の暗いものを外へ吐き出すイメージを整
えた千絵は、昼過ぎにチャイムを鳴らした。返答はない。二人とも
この時間は学校だろうか。
今日は塾があるが、それまでは参考書を解きながら待たせてもら
おうと、合い鍵を使って中に入る。廊下を曲がり、奥のリビングへ
行くが誰もいなかった。アトリエ部屋も静かだ。
やはりいないのだろうか。少し残念に思っていると、どこかから
カタリと音がした。
﹁響。いるの?﹂
廊下へ声をかけると、﹁え、チエ?﹂と響のくぐもった声がする。
どうやら寝室にいたようだ。
﹁響。入るよ?﹂
﹁いや、チエ、ちょっと待ってっ﹂
﹁響?﹂
カチャリとノブを回したら、自然と奥に開いた扉。
77
何故か二台に増えているベッド。その片方で着替えていたらしい
ミズキが、レースのショーツだけを身に着けた前身を服で隠しなが
ら、チエにウィンクしてきた。
﹁やぁん。チエのエッチ﹂
﹁アホか、さっさと着ろ! チエ、ごめん、今まで寝ててさ。すぐ
に着替えて行くよ。キッチンにお菓子があるから、食べながら待っ
てて﹂
そう言ってシャツの前ボタンを閉じながら、響が千絵の前で扉を
閉めた。
パタンと閉じた扉。向こう側でする、くぐもった二人の話し声。
部屋には入れなかった自分。
何かを理解する前に、千絵の瞳からポタポタと雫があふれて落ち
ていく。
修学旅行で言われた、千絵の心に黒いシミを作った言葉が、じわ
じわと心を蝕んでいく。
︱︱﹃確かに年上の人って憧れるけどさ﹄
違う。憧れじゃない。
自分は確かに、響が好きだったのだ。
︱︱﹃お菓子があるから、食べながら待ってて﹄
違う。お菓子が欲しいんじゃない。
自分はもう、そんなに子供じゃない。
涙を拭こうとした手に、握られたお土産。旅先で買い、千絵がア
レンジを加えた、みんなおそろいのストラップ。
78
子供っぽいだろうか。自分はやり、まだ子供なんだろうか。
この場にいるのが苦しくなった千絵は、そのまま玄関へ向かった。
靴を履いていると、パタパタと響が駆け付けてくる。
﹁え、チエ? 帰るの?﹂
﹁うん、ちょっと⋮⋮﹂
何と言おうかと口ごもったところで、身を屈めた響が千絵の頬を
手で包み、親指で目元をぬぐってくる。
﹁⋮⋮なんで泣いてるの﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
わからない。でも、響とミズキが同じ寝室にいたことが、なんだ
かとても苦しくて悲しかったのだ。
しかしそう言ったら、きっと二人は悲しむだろう。千絵は響の手
に自分の手を重ねて、小さく首を横に振った。
﹁ちょっと、その⋮⋮勉強が、忙しくて﹂
﹁受験勉強? チエは女学院に行くんだっけ﹂
﹁うん。それで、これから勉強が追い込みなるから、ここにあんま
り来れなくなると思ったら、かなしくて⋮⋮っ﹂
悲しい。胸が痛い。でも、一緒にいたら、もっとつらい。
千絵が振り絞って吐いた嘘は、響にそのままの意味で伝わったら
しい。ぎゅうと抱きしめられた。
﹁うん。俺も寂しい。チエに会えないのは悲しい。だから今一杯充
電して、頑張ろう﹂
﹁うん⋮⋮っ﹂
79
あと何度味わえるか分からない響の抱擁を、千絵は目いっぱい感
じながら頷いた。
渡したストラップは響とミズキにとても喜んでもらえた。
お返しにと、響から合格を願う手作りのネックレスを受け取った。
︱︱それから受験が終わるまでの四ヶ月間、千絵は響断ちをした
のだった。
80
冷たい雪と甘いキス
※
二月。千絵は四ヶ月ぶりに響に会った。
その日はアトリエにミズキや奏も集まり、皆で鍋パーティーをし
た。
主賓はもちろん、千絵と奏だ。
﹁チエ、奏、合格おめでとう∼!﹂
﹁おめでとう、二人とも﹂
﹁ありがとうっ﹂
﹁別に、落ちる可能性なんて考えてなかったし﹂
千絵は志望の都ノ中央女学院を、奏は帝都芸術大学付属中等部を
合格した。
ジュースで乾杯をした後、みんなでミズキ特製の鶏団子コラーゲ
ン鍋をつつく。
﹁チエ、大丈夫? 熱くない?﹂
﹁うん、大丈夫だよ響。軟骨がコリコリしてて美味しいね、この鶏
団子﹂
﹁︱︱⋮⋮おい﹂
﹁そうなのよ、一緒にレンコンも刻んで入れてるから触感が良いで
81
しょ? 生姜もきいてるから、身体があったまるわよ∼﹂
﹁︱︱⋮⋮おい﹂
﹁チエ、このシイタケも冷めたよ﹂
﹁んっ、おいひぃ﹂
﹁⋮⋮おいっッ!﹂
ガシャンッと食器をローテーブルに叩き置いた奏に、千絵とミズ
キが目を丸くする。響はせっせと千絵に与える鍋を取り分けて冷ま
していた。
﹁どうしたのよ奏。いきなり食器置いちゃって、やーねぇ。反抗期
?﹂
﹁谷部君、どうしたの?﹂
﹁どうしたのじゃねぇよ! なんで兄貴は三谷抱いて食ってんだよ
! なんで三谷は兄貴の足の間に収まってフツーに餌付けされてん
だよ! なんでこの状況にだれもツッコまねェンだよ!?﹂
この状況とは、ローテーブルを囲む体勢にあった。
奏の言う通り、ソファを背もたれにする形で響が座り、その足の
間に千絵が収まっている。取り分けた具材を響が千絵の口元に運ぶ
と、自然と千絵は口を開けて食べていた。
確かにこの体勢を響に要望された当初は、千絵も戸惑った。しか
し会うのが四ヶ月ぶりだと言うことと、ミズキの﹃響にご褒美をあ
げてやって﹄というお願いもあり、こうして二人羽織めいた体勢に
なっている。
ちなみに奏の言う餌付けは、もともと千絵が小さかった頃から響
と美味しい物を分け合ったり食べさせ合ったりしていたので、さほ
ど珍しい話ではない。
奏も了承済みかと思ったが、そうではなかったようだ。
兄貴が自重しない。と頭を抱える奏に、ミズキが鍋の中身をよそ
82
ってやりながら、まァまァと笑った。
﹁奏、今日はお祝いの席じゃない。それにこの響が、チエ無しで四
ヶ月も耐えたのよ? ちょっとくらい良い目見せてやらないと可哀
想じゃないの﹂
﹁⋮⋮ミズキ。お前三谷をダシに使って、兄貴を動かしてたな?﹂
﹁ほほほ、なんのことかしら﹂
﹁兄貴﹂
奏が響をにらむと、響はズズっとコラーゲンスープを飲みながら
頷いた。
﹁四ヶ月馬車馬のように勉強と課題こなせば、千絵を抱きながら飯
食って良いって言われた﹂
﹁ミズキー!﹂
﹁ウッサイわね! このチエバカ動かすのにアタシがどんだけ苦労
してると思ってんのよ!﹂
頭上で繰り広げられる口論に、千絵は首を傾げて背後の響に尋ね
た。
﹁響、学校はたのしくないの?﹂
﹁いや、デザインや服を作るのは楽しい。でも高校卒業の資格も一
緒に取れる場所だから、通常授業もある。好きなデザインをしてい
ればいいだけじゃなくて、とにかく授業も課題も多いんだ﹂
﹁今は基礎固めの授業が多いものねぇ。でもこの男、気を抜けば授
業そっちのけで好きなことし始めるから。手綱握っとかないと、せ
っかく才能があるのに単位不足で進級できなきゃ馬鹿みたいじゃな
い?﹂
83
ミズキの夢は、響と共にデザイナーとしてタッグを組むことだ。
響は自分の感性に従って好きなことをしてしまうタイプなので、ミ
ズキのような人が同じ学校で良かったと思う。
良かったと思うのに、二人を一緒の視界に入れるたび、四ヶ月前
の寝室の光景が脳裏をちらついた。
千絵はなるべく考えないようにして、笑顔を保った。今はお祝い
の席なのだ。千絵一人がギクシャクしては、周りだって困ってしま
うだろう。
それに、今はまだ響のそばにいられる。ミズキも響も、千絵のこ
とを受け入れてくれている。
﹁響、ミズキがいてくれて良かったね。二人とも、勉強がんばって
ね!﹂
﹁やぁ∼ん、天使! ほんと天使! そうよ響、アタシがいること
に感謝しなさい﹂
﹁チエがいつもそばにいれば、毎日だって頑張れるけど。チエが小
さくなって俺のポケットにいてくれればいいのに﹂
﹁兄貴、ちょっと冗談ぽくない声音がこえぇよ﹂
こんな他愛ない会話も楽しい。みんなの笑顔が心地良い。背中を
包む響の体温があたたかい。
いつまでもこんな時間が続けばいいと思う。
しかしそんな夢のような時間はいつか終わりを告げることを、心
と体の成長と共に、千絵は理解し始めていた。
軽い言い合いをしながらも鍋の中身はどんどん減っていき、締め
の雑炊が終わった後、片付けを手伝った千絵は、食後のお茶の準備
を買って出た。
響やミズキが手伝いを申し出てきたが、いいからとリビングへ押
84
しやって、キッチンへの出入りを禁止する。
そうして千絵が用意したのは、自宅で何度も練習したガトーショ
コラだった。
今日は二月十四日。バレンタインデーである。
あらかじめ切り分けて持ってきたガトーショコラを皿に並べ、保
冷バッグに入れていた生クリームを絞り、ラズベリーとブルーベリ
ー、ミントをあしらう。そうして仕上げに、ホワイトチョコプレー
トへ、チョコペンでメッセージを書き込んだ。
テーム
t'aime
beaucoup.﹄
ボクー
奏には﹃合格おめでとう!﹄。ミズキには﹃いつもありがとう﹄。
ジュ
響には少し悩んだ後、﹃Je
︱︱大好きと書いた。
紅茶を準備してケーキと共に運ぶと、みんなの反応はまさに三者
三様だった。
最初に渡したミズキには、感激された。
﹁やーん! アタシの分もあるなんて、チエったらなんて天使なの
! ありがとー!﹂
﹁ううん。私こそいつもありがとう、ミズキ﹂
軽いハグと頬へのキスを送ってきたミズキの頭頂部へ、響と奏か
らハリセンが飛んだ。このマンションには、至る所にハリセンが常
備されている。主に犠牲となっているのは響だが。
次に渡した奏からは、微妙な顔をされた。
﹁谷部君、チョコレート苦手だった? あ、もうたくさんもらって
たかな﹂
少しきつい目元とやや乱暴な口調とはいえ、奏は響とは違う系統
で顔立ちが整っている。さらに芸術肌な彼は高学年に上がって以降、
85
同学年だけでなく後輩の女生徒からも人気があるのだと、友人から
聞いたことがあった。
今日はもうチョコレートは見飽きただろうか。そう気遣う千絵に、
奏はいやと首を振った。
﹁大丈夫だけどさ。俺のことより、お前今日⋮⋮﹂
﹁今日?﹂
﹁⋮⋮なんでもねー。さっさと兄貴にやれば。メッチャ見てんぞ﹂
シッシッと手を振られて、千絵は首を傾げながらも、お待ちかね
の響の元へ向かった。
t'adore.﹂
タドール
﹁はい、響。ハッピーバレンタイン﹂
ジュ
﹁ありがとうチエ。Je
ミズキや奏達がいる手前、千絵は恋愛感情を抜きにした﹃大好き﹄
という言葉をチョコプレートで送ったが、響からはもっと重たい意
味での﹃大好き﹄を返されてしまった。
千絵が顔を赤くさせながら固まっていると、響が上機嫌で再び千
絵を膝の間に抱え込み、ケーキを食べる。
相変わらずな響を放置して、ミズキや奏もケーキに手をつけた。
ケーキはみんなに好評だった。
﹁うん、美味しかった。チエはお料理上手な奥さんだな﹂
﹁響、落ち着きなさい。チエはまだアンタの奥さんじゃないわ﹂
﹁兄貴、独占欲が強すぎるとそのうち三谷が引くぞ﹂
﹁ライバルに上も下も男も女も兄も弟も無いからな﹂
俺は常に全力だ。とどこか誇らしげに無駄なキメ顔をする響に、
ミズキがハイハイと笑い、奏が失笑した。
86
﹁アンタ本当に残念な男だな。だから三谷もまっつんに走るんだよ﹂
﹁え?﹂
ピタリと止まった会話に、奏がハッとしたように口をつぐむ。し
かし何か思案した後、挑むような視線を響へ向けて、奏が口を開い
た。
﹁兄貴。アンタ、三谷の世界がこのアトリエだけだなんて思ってな
いだろうな? アンタにはアンタの世界があるように、三谷には三
谷の世界があるんだよ﹂
﹁や、谷部君?﹂
驚く千絵に、奏が﹁お前も﹂と千絵をにらみつけてくる。
﹁兄貴に義理感じてんのか何なのかしらねーけど、いつまでも流さ
れてんなよ! お前、まっつんのこと好きなんだろ?﹂
﹁え? ま、松田君!?﹂
なんでどうして松田君!? と目を白黒させる千絵に、ミズキが
悲鳴を上げた。
﹁ちょ、ちょっと待ちなさいよ奏! まっつんって何者なのよ!?﹂
﹁松田雄二っていう、三谷と同じ学年の男子だよ。二年間同じ学級
委員やってたし、松田は優しくて良い奴だから、三谷も結構なつい
てた。この前の修学旅行で、聞いたんだよ。三谷は松田が好きだっ
てさ。今日だって、松田にチョコ渡してたんだろ?﹂
千絵の小学校は飲食物の持ち込みが禁止されている。しかし高学
年になると二月十四日だけ、教師の目を盗んだバレンタインの受け
87
渡しが横行するのだ。
当然千絵はそのバレンタインへ参加したことはない。友チョコを
受け取ったことはあるが、三月十四日の放課後に個人的にお礼を渡
しに行っていた。
しかし今日は小学校最後のバレンタインということで、皆の熱気
が違った。そして千絵は友人達と共に、連名で松田雄二にチョコレ
ートを渡すことになったのだ。
松田好きな友人達は、修学旅行で﹁学年では松田﹂と答えた千絵
を、もはや同士だと思ったらしい。
千絵としては﹁二年間お世話になったから﹂という気持ちで、連
名チョコを了承して渡したつもりだった。
しかしまさか、奏に知られていたとは。しかも、何やら妙な形で。
﹁しゅ、修学旅行のは仕方なくっていうか、なんで谷部君が知って
るの!? チョコは渡したけど、連名だったし、私そんな⋮⋮っ﹂
ちがうちがうと懸命に首を振るが、そんな姿も奏には﹃響に引け
目を感じて無理をしている﹄と映ったらしい。妙に痛々しそうな視
線を向けられた。
﹁ムリすんなよ三谷。確かに兄貴はウザいほどお前のこと溺愛して
たけどさ。兄貴だって、話せば分かる男だと思う。三谷、お前兄貴
と距離取ろうとしてただろ?﹂
﹁それは⋮⋮﹂
距離を取ろうとしていた原因が違う。響とミズキの関係を疑って、
千絵が一人悩んでいただけなのだ。しかしそのことを口にできなか
った。
くちごもる千絵に、奏は溜息を吐いた。
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﹁兄貴、分かっただろ? アンタの独りよがりな気持ちは、三谷の
重荷になってる。三谷のことを好きなのは兄貴の自由だけどさ。三
谷も同じ気持ちを兄貴に抱いてるだなんて、自惚れんなよ。今の立
ち位置に満足してあぐらかいてると、いつか三谷を掻っ攫われるぞ﹂
三谷がいなきゃろくに勉強もできなくなるなんて、ダセェんだよ。
そう言い捨てて、奏はコートと鞄をつかむとマンションを出てい
った。
﹁ヤダ、雪が降ってるのに、あの子傘持って来てなかったじゃない。
アタシ奏に傘届けてくるから、チエは響に送ってもらいなさいね﹂
そう言ってコートを着たミズキが、奏を追って部屋を出ていった。
﹃二人きり禁止令﹄が一時的に解除され、千絵は雪の降る夜道を
響に送ってもらっていた。
あれからずっと、お互い無言だった。
雄二のことをきちんと弁解した方が良いのだろうか。自分と響は、
弁解しなければいけないような関係なんだろうか。響とミズキの関
係を、深く聞いてもいいんだろうか。
そんなことを悶々と考えていたら、隣で歩いていた響が、小さく
呟いた。
﹁⋮⋮エディが﹂
﹁え?﹂
﹁エディが言ってたんだ。﹃人は恋愛をする生き物だ。そしてその
心は、誰にも縛れない﹄﹂
ぽつりぽつりと、響はエディの言葉を続けた。
89
﹁﹃好きでい続けてもらうためにも、努力は必要だ。顔の造形では
なく、本質の魅力。魅力のない相手に、誰も惹かれはしない。もし
愛する人がそばから離れるようなことがあれば、それは自分の魅力
の問題だ。相手を恨まず、自分を省みること。そして、愛した人の
幸福を祈ること﹄﹂
だから。と、響は千絵を見て笑った。
﹁俺はもっと自分を磨いて、チエに一番好きになってもらえるよう
に頑張るよ。だからチエ、どんなに好きな人ができてもいいよ。俺
の気持ちは変わらないから﹂
テーム
aime
ドゥ
de
トゥ
tout
モン
mon
coeur.
クール
﹂
暗い夜道。外灯の小さな明かり。綿雪が落ちる冬空を背に、強い
光を宿したグリーンの瞳が千絵へ注がれた。
t
惹き込まれるように、千絵は響の瞳へ見入った。
ジュ
﹁Je
︱︱心から君を愛してる。
そう言って重なった唇は、冷たい雪と、甘いチョコレートの味が
した。
90
新しい世界
それからというもの、響は顔を合わせればチエへ愛の言葉を繰り
返すようになった。
ミズキや奏の監視の隙を狙って、耳元で様々な甘すぎるセリフを
囁き、ハグやキスをしてくる。
中学に入学して、初めて女学院の制服を披露した時は、ミズキと
奏から﹃制服禁止令﹄が発令されるような目に遭った。
そんな響がどんなに千絵へ好意を示しても、ミズキはいつも笑っ
たり呆れながら見守っている。
響とミズキは世間一般の高校生よりも、容姿も立ち振る舞いも大
人びて見える。二人には千絵からは想像のつかない、互いを信頼し
た確固たる関係があるのだろうか。そう思うほどに、二人はいつも
一緒にいて、それがとても自然だった。
一時期は自宅へ帰っていた響だったが、最近はファッションショ
ーの構想や準備で忙しく、以前のようにアトリエで寝泊まりするこ
とがあるらしい。以前と違うのは、そこにミズキの姿があることだ。
やはり二人は一緒に生活しているのだと言うことを、アトリエに
ある日用雑貨や食器、衣類、二人の会話などで、千絵は理解してい
た。
しかし響やミズキはその生活が当然の成り行きであるように、千
絵へ特別何を言うこともなかった。
中学入学後は、勉強の予習復習があるとはいえ多少時間に余裕は
91
ある。そのため千絵は、ここぞとばかりに響からアトリエへの来訪
をねだられた。
ミズキからも、千絵の負担にならなければできるだけ顔を出して、
響のやる気を上げて欲しいと頼まれている。
千絵は平日の夕刻からアトリエへ顔を出し、忙しい二人のために
食事を作るようになった。休日は友人との用事がなければ、勉強道
具を持ってアトリエのリビングで過ごすようになった。
今日も千絵は休日を利用して、アトリエへ訪れていた。千絵はリ
ビングで過ごし、響とミズキはアトリエ部屋にこもっている。
響に教えてもらった刺繍の腕は着々と上がっている。週に一度通
う講習先の先生からも、筋が良いと褒められるほどだ。出来上がっ
た物は友人や家族へプレゼントしたり、母が小さなハンドメイドマ
ーケットで売ってくれ、そのお金をまた材料費にあてたりしている。
勉強に集中して疲れた頭を、こうして手芸でほぐして癒す。千絵
にとって至福の時間だ。
今日は手作りの真っ白いミニテディベアに、最近覚えたレース編
みでカーディガンを作り、そこへ刺繍を入れていた。
千絵の実家の部屋は、千絵が手作りした可愛らしい物で溢れてい
る。
可愛らしい物は大好きだった。見ているだけで癒される。とくに
自分が﹃可愛い﹄という部類に属していないと自覚しているだけに、
憧れを投影するかのように可愛らしい物ばかりを作ってしまう。
響からは﹁チエは可愛い﹂とよく言われるが、それは文字通りで
はなく、響にとっての愛情表現の一つだろうと千絵は理解していた。
現に響から贈られる物は、可愛いというよりもシンプルに美しい
ものばかりだ。
千絵はふと作業を止めて顔を上げた。正面の黒いテレビ画面に、
自分の姿が映っている。
92
随分薄くなったとはいえ、未だにかけている眼鏡。目鼻のしっか
りした顔立ち。入学早々同級生から先輩と間違えられる背丈。手足
は細く伸び、とくに胸辺りは豊胸な母譲りなのか発育が早かったの
で、小学校の頃から少し恥ずかしかった。
脱色知らずの黒いお下げ髪が、唯一千絵の容姿を実年齢へ多少近
付けている。
﹁⋮⋮髪、切ろうかな﹂
切らないまでにしても、髪型を変えてみようか。そうすればもう
少し、自分も響と釣り合いが取れるかもしれない。
響とミズキのように、二人並んで自然に見えるように︱︱。
﹁切っちゃうの? チエのお下げ髪、うなじが見えて好きなのに﹂
﹁え? ひゃう!?﹂
ぼんやりしていて気付かなかったが、いつのまにかすぐ背後に響
が来ていた。身を屈めた響が千絵の耳に囁き、チュッとうなじにキ
スをしてくる。
いつの間にか手から刺繍道具を取り上げられ、背後からそのまま
抱きすくめられる。驚いた千絵の身体は、響の腕の中で小さく跳ね
た。
﹁ん∼、充電﹂
﹁響、くすぐったいっ⋮⋮んっ、ふっ﹂
チエから取り上げた道具をソファに置いた響が、チエを抱きしめ
ながらわき腹や腰を撫で、首筋へ何度もキスを落としてくる。
声を上げて笑いだすほど強い刺激ではないが、身体の内側からム
ズムズするようなくすぐったさを感じて、千絵は身悶えた。
93
﹁チエ、わき腹弱いよね。あとは、背筋とか⋮⋮﹂
﹁あ、やっ⋮⋮!﹂
そろそろっと服の上から指先で背筋をなぞられて、千絵はぴくぴ
くと反りながら震えた。
﹁⋮⋮可愛い﹂
わき腹を撫でながらそう囁いた響が、上向いた千絵の顔を覗き込
んで、綺麗に笑った。
響の瞳が千絵をじっと見つめている。そのことを自覚すると、千
絵の身体はポッと熱がともったように熱くなっていく。
最近、自分の身体がおかしい。響と視線が合うと胸が高鳴るだけ
でなく、身体の奥の深い部分が疼くように熱くなって、しょうがな
くなるのだ。
もじ、と閉じた両足を擦り動かしたら、響が身を屈めてきた。間
近にあった顔がさらに近くなって、互いに逆さのまま唇が重なる︱
︱前に、ズパンッ!! と盛大な音がして、響がのけ反った。
﹁人がお手洗い行ってる隙に盛ってんじゃないわよ。ホント、油断
も隙もありゃしないんだから﹂
そう言って肩に特大ハリセンを担いだミズキが、太ももの裏側を
負傷して震える響を呆れた目で見下ろした。
﹁響、大丈夫? 結構痛そうな音がしたけど⋮⋮﹂
音に驚いて身体の熱さが引いた千絵は、ソファから立ち上がると、
響が押さえている太ももの裏側に手を添えた。
94
冷やした方が良いだろうか。そう思案しながら少しさすったら、
響が潤んだ瞳で︵やはり結構痛かったらしい︶千絵を見つめてきた。
﹁チエ⋮⋮﹂
﹁うん、保冷剤持ってこようか? 少し冷やす?﹂
﹁いや、チエがさすってくれると痛みが引く。から、もう少し上の
前辺りを﹂
﹁よし響、もう少し上の前辺りに振り切ってやるから立ち上がりや
がりなさい﹂
ブンブンと特大ハリセンをスイングしながら構えるミズキと、妙
に頬を紅潮させながら千絵を見つめていた響に、千絵は首を傾げた
のだった。
千絵にとって、そんな日々が日常になっていた。
アトリエには響がいて、ミズキがいて、訪問した千絵が差し入れ
をしたり、食事を作ったり。ごくまれに訪れる奏を交えて、千絵に
甘い響をみんなで呆れたり笑ったりツッコんだり。
小さい頃、二人だけの世界だったアトリエも楽しかった。
けれど人数が増えたこの形も楽しいと、千絵は素直に思えていた。
響のことが好きだ。それでも以前のように、響とミズキを同じ視
界に入れても焦燥がつのらない。それは響が惜しみなく、千絵へ愛
情を注いでくれるからだった。
だから安心していた。
どこかで、自分達の関係は不変なのだと、気を緩ませてしまって
いた。
︱︱転機が訪れたのは、冬も間近に迫った時期だった。
95
その日千絵がマンションに訪れると、出迎えはミズキだけだった。
珍しく、二人は別行動だったらしい。
今夜はカレーにしようと思う。作り置きができるし、母と美味し
いレシピを開発したので、響やミズキに気に入ってもらえたら嬉し
い。そんなことを話しながら冷蔵庫へ食材を収めた千絵は、話があ
るというミズキに招かれ、リビングのソファに腰掛けた。
ミズキはいつも笑顔な女性だった。けれど今日はその笑顔が、ど
こか困ったような、千絵を落ち着かせるために無理矢理作っている
ような、違和感を強く感じた。
﹁ミズキ、どうしたの?﹂
﹁チエ、落ち着いて聞いて欲しいの﹂
﹁うん⋮⋮﹂
良い知らせじゃない。そう察して顔をこわばらせた千絵に、ミズ
キは自分の額に手をあて、溜息を吐いた。
﹁ごめんなさい。チエを不安にさせたいわけじゃないの。そうね、
本当は、喜んで欲しい話題なのよ⋮⋮﹂
﹁ミズキ、一体どうしたの⋮⋮?﹂
﹁実はね。休み明けの九月に、アタシと響がファッションショーに
参加したの、知ってるわよね?﹂
﹁うん。ずっとそのショーのために頑張ってたよね? 私も谷部君
も招待してもらって、素敵なショーだったよ! すごく評価しても
らえたって聞いてたけど、違うの?﹂
何か問題が起きたのだろうか。だから響が今この場にいないんだ
ろうか。
96
千絵が膝の上で両手を握りしめると、ミズキは苦笑して首を振っ
た。
﹁いいえ、チエの言う通りとても評価してもらえたわ。だから、こ
んな話を頂いたんだし﹂
﹁話? いただいた?﹂
﹁⋮⋮チエ。アタシと響、留学することになったのよ。フランスへ﹂
﹁フランス⋮⋮?﹂
頭に浮かんだのは、響のもう一人の父親である、エディのことだ。
昔は彼の元に、響は半年ずつ通っていた。ミズキもそれは知って
いるだろう。何故こんな、申し訳なさそうな顔をするのか。
そう千絵が首を傾げいていると、ミズキがここからが重要なのだ
と眉をひそめた。
﹁向こうで勉強をしながら、空いた時間は見習いをして経験を積ん
でいく予定なの。バイトをして学費や生活費を稼がなきゃならない
から、しばらくは多忙薄給の日々が続くでしょうね﹂
﹁⋮⋮日本には帰ってこられないの?﹂
﹁本気でやるなら、おそらくは﹂
﹁どのくらい⋮⋮?﹂
﹁年単位で﹂
年単位。一年や二年と言わなかったミズキの言葉。そこへ込めら
れた意味に、千絵は軽いめまいを起こしそうになった。
ここからいなくなってしまう。
響がいなくなってしまう。
あの日常が、なくなってしまう⋮⋮︱︱。
﹁いつから、行くの⋮⋮?﹂
97
﹁向こうは受け入れる体制が整っているそうなの。まだ日本でもや
ることがあるけれど、それを消化して準備が整い次第、響とアタシ
は日本を発つわ﹂
﹁⋮⋮響は、今⋮⋮﹂
﹁事務で手続きをしているわ。ごめんなさいチエ。響とチエを離す
べきじゃないってアタシも思うの。でも、同じくらい、響には広い
世界に歩み出して欲しいのよ⋮⋮﹂
広い世界。
このアトリエや、エディの元だけでなく、自分自身で歩み出す新
しい世界。
五歳の差。自分よりも先を行く人だと思っていたが、それにして
も行き過ぎだと思う。手が届かないではないか。
﹁チエ⋮⋮﹂
ミズキの気遣う声に、千絵はぐっと歯を食いしばって涙をこらえ
た。
ここは響の夢が詰まったアトリエだ。そのアトリエで、響の喜ば
しい門出を嘆いて涙を零すだなんて、いけないことだと思った。
だから千絵は笑顔を作った。精一杯、笑顔でミズキにお願いした。
﹁私、二人が行っちゃう前に思い出を作りたいの。一日デートとか、
忙しくて無理かなぁ? このアトリエには、まだ遊びに来ても大丈
夫?﹂
﹁チエ⋮⋮ええ、時間が許す限り、響と一緒に過ごしたらいいわ。
アタシも用事がある時以外は、友達の家で過ごすから﹂
﹁ミズキも行っちゃうんでしょう? ミズキとも思い出作りたいの。
ちゃんと私とデートしてね?﹂
﹁ホント、チエって天使だわ。ええそうね、デートしましょう。き
98
っとアタシとチエがデートするって聞いたら、響が付いてくるに決
まってるでしょうけれどね﹂
その時は響を縄で縛っておきましょうか。そう言って笑うミズキ
に、千絵も笑った。
少しだけ零れた涙を、ミズキは見ないでおいてくれた。
その日はカレーの材料を置いて、千絵はマンションを出た。
送ると言ったミズキの申し出を断り、走って自宅に帰る。
部屋にたどり着き、扉を閉めてから、思いっきり泣いた。自分も
こんな大きな声が出せるのかと、後になって驚くくらい泣きじゃく
った。
夜には両親が帰宅する。そのリミットまで、千絵は泣き伏したベ
ッドを涙で濡らしたのだった。
99
可愛い恋と可愛くない想い
※
黒いタートルネック。黒のトレンチコート。ワンカラーに一色だ
け、モスグリーンのハイウエストスカート。
アイロンで軽くウェーブをかけられた黒い髪。唇にはうっすらと
色のついた、赤いリップ。
ブラウンの眼鏡の柄は、買い替えるたびに響が装飾してくれてい
た。それがまた、黒を基調としたコーディネートに映えていた。
﹁チエは瞳がパッチリしてるから、今はまだ余計な化粧は必要ない
よ﹂
﹁そう、かな?﹂
大きな姿見の前で、自分のコーディネートへ満足げに笑う響。そ
の響へ、千絵は鏡越しにはにかんだ。
休日、千絵はマンションへ訪れるなり、これらの服を響から贈ら
れた。以前にも何度か千絵は響から服を贈られたことがあった。そ
れら全てが響の手製だと言うので、受け取っていた。
日用としてデザインされているが、スカートの裾はギザギザと切
れ込みの入った隙間から同色のレースが見えたり、トレンチコート
は上体が細みで裾がふわりと広がりを見せている。白いラインで重
くなり過ぎないよう配慮され、内側の隠しポケットが色々と楽しい。
なによりも、全ての服が千絵の身体へしっくりなじんで動きやす
100
かった。
﹁まだまだチエに着せたくて作ってた服があるんだ。デートのたび
に俺へ着て見せてね?﹂
﹁ホント、毎回課題こなすわきでチエに似合う服も作り出すもんだ
から、いつも軌道修正が大変だったわよぉ﹂
千絵への全身私物コーディネートで上機嫌な響の後ろで、アトリ
エの服一着一着へ透明な埃除けビニールを被せているミズキが肩を
すくめて笑っている。
今日千絵は、響とデートをするためにやってきた。思い出作りだ。
その話はすでに響に通っており、前日自宅へ電話がきた。﹃服は
こちらで用意するので大丈夫﹄だという旨の電話だった。
そうして今日、響は千絵が来るなり﹁デートだデートだ﹂とはし
ゃいでいる。﹃二人きり禁止令﹄や﹃スカート禁止令﹄が解禁され
て嬉しいらしい。
留学のことは、あれから誰も口にしていない。けれど少しずつ、
アトリエの中身は整理されているようだった。
大きな段ボールの空き箱が至る所へ置かれているし、今もミズキ
が服をどこかへ送るための準備をしている。おそらくここは、引き
払われるのだろう。
視界に入る現実に胸がシクリと痛んでいると、首元でシャラリと
音がした。千絵が自宅から下げてきた、響から貰ったネックレスだ。
﹁俺が贈った物、チエはいつも何かしら身に着けてくれてるよな﹂
﹁響と一緒にいるみたいで、元気が出るから﹂
女学院は校則が厳しく、アクセサリーの類は禁止されている。そ
のため千絵は、登校中は靴下の中へアンクレットを忍ばせている。
初めて女学院の制服を着てマンションを訪れた時、片足の靴下を
101
脱いでアンクレットをしていることを響に教えたら、そのまま押し
倒された。ミズキや奏のいるリビングで押し倒された。当然響は極
大ハリセンの刑に処されたが、何故か千絵も怒られた。﹃アンクレ
ットはしていてもいいが、むやみに響へ見せたりしてはいけない﹄
と。付随して﹃制服禁止令﹄が発令されたのだ。
今日は、服は用意されていると言われていたが、アクセサリーは
身に着けてきた。ブレスレットにネックレスだ。
外されることがあっても響なら大切に保管してくれるだろう。そ
う思っていたが、響は服に合うからと、服の上からブレスレットや
ネックレスを留めてくれる。
そうして千絵の言葉を聞いたあと、しばらく押し黙り、おもむろ
に背後からぎゅうぎゅうと抱きしめてきた。少し苦しくて千絵が息
を詰めると、耳の後ろに唇を押し当てたまま、響が囁いた。
﹁チエ、今日はこのまま、自宅でデートとか⋮⋮﹂
﹁しないわよ。出かけるのよ。天気も良いしデート日和でしょうが。
可愛い彼女を存分に見せびらかして来なさい﹂
大きな定規でペシリと響の尻を叩きながら、ミズキが響の外出を
促した。はいはいと肩をすくめて千絵の鞄を手に取った響が、その
場を動かない千絵に首を傾げた。
﹁チエ、どうしたの?﹂
﹁え? う、ううん。なんでもないっ﹂
﹁なんでもないって、顔が真っ赤だけど。具合が悪くなった?﹂
﹁そそ、そうじゃないから。ほんと、なんでもないから﹂
なんでもないと両手や首を振るが、自分でも顔が熱いのを自覚し
ている。鏡にもしっかり映ってしまっている。響とミズキが不思議
そうにしていたが、まさか言えないと思う。
102
ミズキが千絵のことを、響の﹃彼女﹄と言っただけで舞い上がっ
ただなんて、言えないと思う。
︵ミズキは言葉のあやで言っただけなんだから。響は私のコトを大
切にしてくれるし、私も響のことが大好きだけど、お互い付き合お
うとかそういうことを言ったわけじゃないし。恋人って言うワケじ
ゃ、ないんだし⋮⋮︶
じゃあお互いの関係は何なのか。歳の離れた友人と言うには親し
すぎるし、愛情を感じすぎている。キス⋮⋮だって、したことがあ
る。
︵あれ? それって恋人じゃないの⋮⋮?︶
でも友人達が話したり、漫画や雑誌に載っている情報では、﹁好
きです、付き合ってください﹂でお付き合いの始まり。恋人関係成
立だったように思う。
お互いが好き合っていると自他共に認識している物語をいくつも
cherie﹂
シェリ
読んだことがあるが、それが果たして恋人同士だったかというと否
だったのだ。
マ
﹁行こう。Ma
﹁⋮⋮うんっ﹂
愛しい人。そう呼んでくれる響の気持ちを、今はただ素直に嬉し
く感じようと思った。
それから休日や空いた時間を利用して、たくさんデートをした。
映画、ショッピング、動物園、プラネタリウム、水族館︱︱。有
103
名なテーマパークに行く時は、ミズキや奏を誘い、四人で行った。
デートのたびに響は新しい服を千絵へ着せてくれ、色々なコーデ
ィネートの方法を教えてくれた。
とても楽しかった。悲しいくらい楽しくて、あっという間に日々
が過ぎていった。
訪れるごとに片付けられていくアトリエ。見かける時間が少なく
なるミズキ。
今はもう、リビングにはカーペットの一枚もない。寝室に響の荷
物が少しと、ベッドがひとつあるくらいだ。
今日は、もうデートで着せるための服がないので、アトリエで過
ごそうと響に言われた。
椅子もないので、千絵がベッドの端に座ると、響が取っ手のつい
たダークブラウンの木箱を持ってくる。小さな鞄ほどの大きさがあ
る、立方体の木箱。その周囲はラインストーンやパウダー、インク
でデザインが施されていた。
﹁響、これは?﹂
﹁開けてごらん﹂
響に笑顔で促されて千絵が木箱の蓋を開けると、中には沢山の化
粧品が収められていた。蓋の裏面に一面鏡のついた、メイクボック
スだ。
﹁これって⋮⋮?﹂
﹁チエへプレゼント。学校の友人が、会社からのもらい物だからっ
て俺やミズキ達にくれてさ。無地の物だったけど、俺が色々とデコ
レーションを加えたから、チエ専用だよ﹂
底面にはちゃんと千絵の名前を入れてある。と、持ち上げて見せ
104
てくれた。
﹁今日はチエに、化粧の仕方を教えてあげようと思って。今はまだ
十分素で可愛いから必要ないけど、この先きっと必要になってくる
だろ?﹂
ミズキの方が格段に上手いけど、俺も人並みにはできるよ。と、
響は中身を一つ一つ取り出して、千絵にレクチャーしてくれた。
二人で一面鏡を覗き込みながら、千絵の右顔半分へ響が化粧を施
ば
めか
し、そのひとつひとつの作業を千絵が左半分の顔で追っていく。時
には響自身の顔にも化粧をしてみせてくれて、なるほど﹃化け粧す﹄
とはよく言ったものだと思うお互いの変わりように、笑ったり感心
したりしながら、千絵は楽しんだ。
洗面所でメイクを落とす方法も教わり、今一度寝台に戻って自分
で化粧をしていたら、一面鏡越しにこちらを見て笑う響の顔が見え
た。
﹁どうして笑ってるの? 変かな?﹂
何か化粧の方法を間違えただろうか。慣れないアイラインの引き
方がおかしかっただろうか。千絵が響に尋ねると、響はいいやと首
を振った。
﹁ううん、可愛いよ。すごく可愛い。可愛いし、綺麗だ﹂
素も可愛いけど、チエは化粧映えもする。そう言って、響が人差
し指の背で、チエの頬を撫でてくる。
﹁きっと色んな人がチエに恋するだろうなって、確信が持てるくら
い綺麗だよ。松田だって、きっと目じゃないな﹂
105
﹁なんでそこで、松田君が出てくるの﹂
苦笑した千絵は、続いた響の言葉に固まった。
﹁チエ、たくさん恋をしてね﹂
﹁⋮⋮え?﹂
﹁人は恋をするとどんどん綺麗になっていく。内も外も、磨こうと
自然と努力する。それはチエを、大きく成長させていくよ﹂
﹁⋮⋮私は、響が好きだよ?﹂
﹁俺も、チエが大好きだよ﹂
﹁響だけじゃ、だめなの?﹂
恋心は一人に向けるものじゃないのか。
戸惑う千絵の頬で、響の指が微かに震えた。一瞬だけ、響の瞳が
痛みをこらえるように歪む。けれど千絵が瞬きをする頃には、綺麗
な微笑みに変わっていた。
﹁恋はたくさんしていいんだ、チエ。たくさんの恋をして、その中
で愛を見つけたら、それを大切にして﹂
﹁恋することと愛することは違うの? 私は響が好きなのに、それ
じゃダメなの?﹂
﹁チエは俺に恋してくれている。可愛くて優しい恋をしてるよ。で
も俺の感情は、あまり可愛くはないんだ。随分前から、可愛くなく
なっちゃったんだ﹂
﹁響は私のことがキライなの⋮⋮?﹂
﹁好きだよ。好きだけど、チエと同じような気持ちじゃない。もっ
と強くて深くて重苦しくて、今のチエが知ったら怖くて泣いちゃう
くらい、チエを想ってるよ﹂
頬から離れていく響の手を両手でつかみ止めて、千絵はそんなこ
106
とないと首を振った。
﹁響のことを怖くて泣くなんて、絶対にないよ! 響がすごく優し
い人だって、私ちゃんと知ってるもん﹂
﹁⋮⋮千絵は馬鹿だなぁ﹂
﹁響⋮⋮?﹂
響の手を引き止めていた両手。その手首を逆に響の両手でつかま
れて、そのまま体重をかけられた。
倒れた背中がベッドの上で微かに跳ねる。カシャリと鳴ったメイ
クボックスの中身。軋んだスプリングの音。見上げた先では、天井
を背にした響がガラス玉のような瞳を細めて、千絵を真上から見下
ろしていた。
﹁チエが俺のことどう見てるのか知らないけど⋮⋮俺、くだらない
こと考える十八歳のガキだよ? 茶化したり余裕ある風に見せてな
いと簡単にタガが外れる、思春期なの。わかる? 暴走すると色々
止まらないし、好きなことには貪欲だし、頭の中でチエに色々なこ
とするし、させるし⋮⋮﹂
﹁な、なにしたり、させたの⋮⋮?﹂
﹁千絵の想像が及びもつかないようなこと﹂
たとえば。と、服の裾から忍び込んだ響の片手にわき腹を撫でら
れて、千絵はびくりと身体を跳ねさせた。
﹁ほら、怖い﹂
﹁ち、ちがうっ。今のは、びっくりしただけで⋮⋮っ﹂
﹁そう? じゃあこれは?﹂
わき腹から這わせられた手がそのまま奥へと侵入し、下着越しの
107
胸の膨らみをやんわりと包むように撫でてきて、千絵はぴくぴくと
小さく身体を震わせた。
﹁あっ、あっ⋮⋮﹂
﹁怖い?﹂
﹁こ、こわいんじゃ、なくて⋮⋮っ﹂
﹁怖いんじゃなくて⋮⋮?﹂
﹁ち、ちがうの、ちがうんだけど⋮⋮っ、ふあぅぅ⋮⋮っ﹂
胸の中でも強い刺激を感じる頂きを撫でられて一際大きい声を上
げてしまい、千絵は恥ずかしさにギュゥと目を閉じた。未だ千絵の
手首をつかんでいる方の響の手に、自分の額を擦りつける。
﹁あっ、ひびき、響⋮⋮っ﹂
﹁チエ⋮⋮﹂
名前を呼ぶほど響の手の動きは遠慮のないものに変わり、下着の
内側に入り込んだ手が、コロコロと頂きを転がしてきてジンジンと
頭がしびれた。
今まで響と顔を合わせるたびに感じていた、身体の奥が切なく疼
く甘い感覚。まさにそれを、ダイレクトに刺激する行為に千絵は息
を呑んだ。
響が指先で触れるたびに、意識がとろけるような快感と、目がく
らむような新たな疼きが襲う。気持ちが良い。でもそれ以上に、足
りない。
﹁ふあっ、やだぁ⋮⋮!﹂
震えながらこぼした千絵の言葉に、響の手が胸から離れていきそ
うになる。その腕を、自由な片手でつかみ止めた。
108
﹁チエ、嫌なら手を離して⋮⋮﹂
﹁ちがぅ⋮⋮っ、はなれちゃやだ、もっとして⋮⋮こっちも⋮⋮﹂
響の手を引き止めながら、もう一方でチエの手首を未だつかんで
いる響の手を、ペロと舐めた。こっちの手でもして欲しい。そう思
うくらい、気持ちがよかった。
そのまま響の親指をかぷりと噛んで催促すると、指を少し押し込
まれたので、口内に招き入れて甘噛みした。つるりとした爪に舌を
這わせたときの感触が楽しくて夢中になっていると、ちゅっと水音
を立てながら、口内から指が引き抜かれる。
﹁⋮⋮前から思ってたけど。チエって天然にエロい⋮⋮﹂
そう呟いた響は、何をしたわけでもないと言うのに微かに息が上
がっていた。
そう言えば自分も、随分と呼吸が早い。息苦しくて、熱くて、頭
がぼうっとする。
﹁響⋮⋮すごくあつくて、心臓がドキドキする⋮⋮﹂
﹁俺も、なんかもう、壊れそうかも⋮⋮﹂
誘われるように重なった互いの唇の熱は、確かに火傷しそうなほ
ど熱かった。
109
子供同士
熱くてやわらかい唇。
薄い膜越しに血潮が流れるそれは、熱した果実のようだった。
ハリがあって、みずみずしい。そしてどこか、ほんのり甘い。
は
響も同じように感じているんだろうか。自分の唇を、果実のよう
だと思ってくれているんだろうか。
ちゅっと小さな音を立てながら、何度も食むように口付けられて、
千絵も同じように響の唇を食べてみたいと思った。
ぼうっとのぼせた意識が欲するまま、千絵は口を開くと、降りて
きた響の唇にかぷりと噛みついた。響の唇は熱くてなめらかで、ぷ
るぷるとしている。噛みつきながらペロリと舌で舐めていると、果
実が割れた。やわらかな果肉がとろりと口内に入り込み、千絵の舌
に絡んでくる。これもまた、熱くてやわらかくて、なんだか甘い。
﹁⋮⋮はっ、むぅ⋮⋮っ﹂
お互いの口内を食み合いながら、こくこくと熱い何かを呑みこん
で、口いっぱいに頬張ったり、強く吸い立てられたり。気付けばチ
エの両手は響の頭を抱えて、ダークブロンドの細い髪をかき混ぜて
いた。
響の両手はチエの上着の裾を捲くりあげ、ホックをはずした下着
の内側に入り込み、双丘をやわらかく撫でてくる。時折胸の頂きを
ツンと摘まれると、千絵の口が無意識に開いて高い声が上がる。そ
の声ごと食べるように、響が唇を重ねてきて、千絵はまたクゥと喉
で鳴いた。
110
﹁あっ、はぁ、ひびき⋮⋮っ﹂
﹁チエ、可愛い⋮⋮かわいい⋮⋮﹂
息苦しさにたまらず顔をそむけても、すぐに追ってきた唇に塞が
れる。息継ぎもままならないまま、水音の合間に喘ぎめいた呼吸を
すると、響がうっとりとした声で﹁可愛い﹂と何度も囁いた。
胸の頂きを摘まれてふにゃと泣き声を漏らすと、ぱくりと舌を食
べられた。とろりとした舌を絡めたまま、きゅうきゅうと頂きを摘
む力を強められて、断続的な泣き声を上げると、最後は呼吸ごと吸
い取られるようなキスをされて、意識が軽く飛んだ。
小さく身体を震わせながら荒い呼吸を繰り返していたら、響も同
じように息を切らせて、千絵を抱きしめてきた。はだけた胸にぴっ
たりとくっついた上半身や、背に回された響の腕が熱い。千絵の首
筋に額を押し当てて、響が鈍い歯ぎしりの音を立てる。
﹁響⋮⋮?﹂
﹁⋮⋮キスだけでイきそう⋮⋮﹂
﹁え? イク⋮⋮って、響、今からフランスに行っちゃうの!? ヤダ、待ってっ﹂
反射的に響へしがみつくと、顔を上げた響がきょとりと目を瞬か
せ、そのまま何故か力の抜けたような表情で笑われた。
﹁大丈夫。今すぐにフランスへ行くわけじゃないから。それにこん
なチエを前にしてたら、飛行機の時間だってずらしたくなる﹂
こんな、と言いながら首筋や鎖骨、胸の近くにキスをされて小さ
く震えていると、響がピタリと動きを止めた。
胸を、というよりも、胸の上でたくしあげられていた下着を見て、
111
驚いた顔をしている。
﹁チエ、この下着の刺繍って⋮⋮﹂
﹁あ⋮⋮気付いた?﹂
さりげなく下着をおろして胸を隠すと、千絵ははにかんだ。元々
はクリーム色の下地にレースがついた、シンプルなもの。その下着
へ、千絵がクロシェを使ってコクリコの花を刺繍したのだ。
コクリコの花。初めて響に教えてもらった、花のモチーフだ。
﹁感謝って言う意味が込められてるんでしょ? 私コクリコの花、
とっても好きになっちゃった﹂
﹁チエ⋮⋮﹂
感極まったように今一度強く抱きしめられて、千絵も響をぎゅっ
と抱きしめ返した。
﹁響、ありがとう。響には感謝してもしたりないくらい、たくさん
のものをもらったよね。響に出会ってから、私、毎日がとても楽し
くなったの。それなのに私からは、何も返せないままで⋮⋮ごめん
ね⋮⋮﹂
﹁礼を言うのは俺の方だ。チエがいたから、俺は自分のことを見つ
め直せた。奏や父さんと向き合えた。まさか自分の力でフランスに
行けるなんて、思いもよらなかった⋮⋮﹂
﹁響⋮⋮﹂
﹁チエ。俺は向こうで、エディ=アレニウスの名前は出さない。一
人の﹃谷部響﹄として、俺らしいものを表現していくよ﹂
﹁うん、私応援してる。響の作った服をたくさん買うために、たく
さん勉強して、たくさんお金を稼ぐの﹂
﹁チエには無償でオリジナルを作って贈るよ﹂
112
確証のない淡い未来を話しながら、お互いの耳元でクスクスと笑
っていると、ああでもと響が熱のこもった声で呟いた。
﹁きっとチエはどんどん変わっていくんだろうな。ここも、ここも
⋮⋮出会った頃に比べたら、見違えるくらい成長してるし﹂
そう言って胸や腰、ロングスカートの内側から太ももを撫でられ
て、千絵はくすぐったさに身をよじった。ベッドにうつぶせると、
響が背中にキスを落としてくる。
むずがゆさと、体の内側に溜まっていく熱の感覚に震えながらシ
ーツをつかんで耐えていると、響が腰に淡い噛み痕を残しながらう
めいた。
﹁チエ、ごめん。ちょっと苦しい⋮⋮﹂
﹁え?﹂
どこがと問う前にカチャカチャと背後で金属音がする。次いでジ
ッパーを下ろす音。スカートのまくり上あげられた太ももに、布越
しの熱くて固いものが押し当てられた。
﹁ひ、ひびき⋮⋮?﹂
﹁ごめんチエ、気持ち良くなってもいい⋮⋮?﹂
千絵の肩に額を擦り付けて、響がかすれた声で聞いてくる。
未だ押し当てられる固い何かが、千絵の重なった太ももの間に侵
入してきて、びくりと身体が震えた。
これは、たぶん、男性のアレだ。小学校の頃に男女別の保健体育
の授業で習ったことはあるし、女学院にあがってからも何度か授業
は受けた。
113
つまり︱︱。
﹁あ、あかちゃん作るの?﹂
響が望んでいるのは、そういうことだろうか。
顔を赤らめながらおずおずとたずねた千絵に、背後の響が息を呑
んだ。何かに耐えるようにうめき、太ももにはさまれたモノが一、
二度小さく脈打つ。少しだけ温かく濡れた感触がした。
﹁響?﹂
﹁⋮⋮危なかった。というか、ちょっとダメだった⋮⋮﹂
﹁大丈夫? 声が震えてるし、なんだかつらそうだよ?﹂
﹁チエ、何度も言うけど、俺まだ十八のガキだから。ああいうこと
言われると、暴走しそうになる⋮⋮﹂
﹁ああいうこと?﹂
千絵が首を傾げると、響が﹁やっぱり天然にエロい﹂と力無く苦
笑した。
そうして下着の隙間から濡れた熱塊を出し、千絵の太ももの間に
挿し込んでくる。
﹁あっ、響!﹂
﹁大丈夫。千絵が心配するようなことはしないから。これ以上奥に
は触れない。このままここで、ダメ?﹂
﹁わ、わからない⋮⋮けど。響がしたいこと、して? 好きにして
くれたら、嬉しい⋮⋮﹂
知識が無さ過ぎてどうすればいいのか分からない。だから響が望
むようにしてくれるなら、自分も嬉しい。そう思って伝えた言葉に、
響がまた息を呑んで微かに震えた。
114
太ももの間も、先程よりさらに濡れたような、とろりとした液体
が素肌を伝う。
﹁⋮⋮ほんと、好きにしてやりたい﹂
﹁響⋮⋮? ひゃ!?﹂
ずりゅっと太ももにはさまれた熱塊が動いたかと思うと、響に背
後から抱きしめられたまま、何度も腰を打ち付けられた。そのたび
に濡れた音を立てて熱塊が前後に動き、千絵は無意識にぎゅうと足
を閉じた。
﹁⋮⋮チエっ⋮⋮﹂
なんだかさらに熱塊が膨らんだように思える。背後の響の息遣い
が荒くなり、首筋に吐かれる息が熱い。同じくらい熱い手のひらで
両胸を包まれて、千絵はひくりと背をのけぞらせた。
響の勢いに煽られたのか、千絵自身も息が上がり、身体の内側を
めぐる熱さに頭がのぼせてくる。
断続的な水音と、うめくように漏れる響の微かな声。両胸の先を
擦られるたびに上がる自分の声と、積もっていくばかりの快感。そ
れら全てが千絵の下腹部を切なく疼かせて、千絵は涙を零した。
﹁ひ、ひびきっ、響⋮⋮っ。なんだか、変なの。おなかがあつい⋮
⋮っ﹂
﹁ここ⋮⋮?﹂
片手で下腹あたりを撫でられて、コクコクと涙を散らしながら千
絵が頷くと、肩へ噛みつくように吸いつかれた。
﹁想像してた⋮⋮頭の中で、何度も。チエの中に俺のモノを押し込
115
んで、満たして、チエのここをいっぱいにしたいって⋮⋮﹂
﹁んっ、あ、あ⋮⋮っ!﹂
下腹のやわらかい部分のさらに奥にある場所を示すように、響の
指先がくぅっと腹部へ押し込まれる。千絵はお腹の内側がきゅうゅ
うと切なく引き絞られていく感覚に、小さな泣き声を上げた。
﹁でもそんな風にチエを奪うには、俺はまだどうしようもなく子供
で、力不足なんだ⋮⋮﹂
ぎゅうと痛いほど強く抱きしめられて、身動きのとれなくなった
千絵の太ももで、熱塊が弾けた感覚がした。
もう捨てるからと、剥いだシーツで千絵や自身をぬぐった響が、
ベッドの上で倒れていたメイクボックスを片付けながら呟いた。
﹁もっと歳が離れていればよかった。俺が大人なら、チエのそばを
離れない選択も考えられたかもしれないのに﹂
﹁⋮⋮私は、もっと歳が近ければよかった。そうしたら響のこと、
もっとそばで理解できたかもしれないのに﹂
ミズキがうらやましかった。とは、本音でも言わなかった。
ミズキと自分を置き換えて考えれば自分がみじめになるだけだし、
何よりもミズキのことを否定したくはなった。千絵はミズキのこと
も、一人の人として好きだからだ。
もし自分が二人と同じ歳だったなら、三人で一緒にいられただろ
うか。響や奏の両親のように、三人で愛を育むこともできたんだろ
うか。
116
﹁明日の朝、発つよ﹂
﹁⋮⋮うん。学校があるから、見送りはできないね﹂
千絵は響からメイクボックスを受け取った。
代わりに千絵は、このマンションの合い鍵を響へ返した。
﹁チエ、手紙は書いてもいいかな﹂
﹁うん。でも、フランス語で書いてね? 私も勉強して、響の手紙
を読めるように頑張るから﹂
﹁ああ﹂
お互い、手紙はフランス語で書こうと約束した。
そしてどちらかの連絡が途絶えた時は、終わりにしようと約束し
た。
次の日、響はミズキと共に、フランスへと渡った︱︱。
117
吾輩は未だ処女である。
※
中学三年の冬。
さらに努力を続けた千絵は、有名な全寮制の私立女子高への受験
に合格した。
響とも、ひと月に一度のエアメールが続いている。
女学院に通っている間に、他校の男子生徒からの告白を受けるこ
ともあったが、千絵は響以外に心を傾けることはなかった。
二月下旬。まだまだ寒さの厳しい夜道を、千絵は初めて手にした
自分専用のスマホ画面に見入りながら歩いていた。
昨日、受験の合格祝いと全寮制のための連絡ツールとして、両親
からスマホが贈られた。それまでは見守り携帯だったが、とうとう
スマホデビューだ。
今日はその使い方を、女学院の友人達と集まって遊びがてら教え
てもらい、今も色々な友人達とトークをするLINEで話を続けて
いた。
響もLINEをしているだろうか。それとも海外は対応していな
いんだろうか。今度手紙を出す時に、自分のメールアドレスとID
を書いて送ろうか。
そんなことを考えながらスマホを操作して歩いていたら、歩道に
立っていた人にぶつかってしまった。
118
﹁ごめんなさい!﹂
﹁マナーのなってねぇヤツがスマホいじりながら歩道歩くな、バー
カ﹂
﹁すみません﹂
まったくその通りだったので返す言葉もないと頭を下げていたら、
相手が何か差し出した。
それは封筒に収まった手紙だった。
﹁えっと⋮⋮?﹂
﹁読め﹂
﹁え?﹂
この展開は何度か目にしたし、千絵自身も受け取った経験がない
こともない。ラブレターと言うものか。
一体だれがと顔を上げて、千絵は目を丸くさせた。
﹁や、谷部君!?﹂
目の前に立っていたのは、響の弟であり千絵の元同級生の谷部奏
だった。
﹁うそ、谷部君が私にラブレター⋮⋮?﹂
﹁んなわけねーだろ。張っ倒すぞテメェ﹂
ギンッと、もともと吊り目がちな黒い目で睨みつけられて、千絵
はあわあわと奏から手紙を受け取った。
それは響とやり取りしているものと同じエアメールだった。そし
て送り先も同じく、フランス。ただ送り主だけは違った。
119
﹁﹃マリアンヌ・ド・ボードリエ﹄⋮⋮?﹂
﹁そいつ、フランスのヴァイオリニスト。日本にも何度か演奏に来
てる。ド・ボードリエ家は向こうじゃ名の知れた富豪でさ。マリア
ンヌはそこの娘。エディとボードリエ家は昔から交流があって、兄
貴とマリアンヌも交流があったらしい﹂
﹁エディって、エディお父さん?﹂
﹁そう。んで、今は兄貴とミズキが、そこの家に腕を見込まれて支
援受けてる﹂
﹁そういえば、先月受け取った手紙にそんなことが書いてあったよ﹂
響からの手紙に、支援者が現れて、ミズキと共にブランドを立ち
上げる方向で話が動いていると聞いていた。それがこの手紙の主で
ある、ド・ボードリエ家だったのか。
﹁それで、この手紙がどうしたの?﹂
﹁中。読め﹂
﹁いいの? これ、谷部君に宛てたみたいだけど⋮⋮﹂
読めと言うのなら読むけど。と中を広げて、千絵は驚いた。
便せんに書かれた文字は、送り主のマリアンヌが書いたんだろう
丁寧な日本語だった。しかしその内容が、あまりにもあまりにだっ
た。
﹁﹃奏へ。私はあなたのことを出会った時から深く嫌悪していまし
た。この気持ちをこの世の言葉で言い表すのはとても難しく、考え
るだけで心が張り裂けそうに痛むのです。顔を合わせるのが嫌です。
目を合わせるのが嫌です。その粗暴な言葉遣いと凶悪な顔つき。同
じ空の下にあなたがいることを考えると、おぞましくて身の毛が⋮
⋮﹄﹂
﹁その辺の呪いの言葉は流せ。最後の方に、あるだろ。重要なのが﹂
120
﹁重要な⋮⋮?﹂
まさか奏が、誰かにこれほど嫌悪されていたとは知らなかった。
何だかいたたまれなくて、延々と続く呪いの言葉を目を細めて流
し読んでいると、最後の方に衝撃の言葉が綴られていた。
﹁﹃私は、響の熱烈な求愛に応えることにしました﹄⋮⋮?﹂
﹁突然呪いの手紙送りつけて来やがって、何トチ狂ってるんだと思
って調べたんだけどさ。これ﹂
と、奏が差し出したスマホの画面には、フランス誌の一面が表示
されていた。
そこには笑顔で街中を歩く、若い二人の男女が写真に収められて
いる。男性の方は、響だった。隣に写っている清楚な美女は、マリ
アンヌだと奏が言った。
記事の見出しには、﹃ド・ボードリエ家長女︵18︶、エディ・
アレニウスの子息と婚約へ﹄と書かれている。
﹁エディ=アレニウスの子息って⋮⋮? 響は向こうでは、エディ
お父さんの子供で通っているの?﹂
しかし響は日本を発つ前、エディの名前を出さずに活動すると言
っていた。どういうことだろうと千絵が尋ねると、奏も難しい顔を
して首を横に振った。
﹁分からない。元々兄貴がエディの息子だと知っているのは、ボー
ドリエ家を含んだ一部の親しい人間だけのはずなんだ。日本でも知
ってるのは、三谷やミズキぐらいだよ。エディ=アレニウスって言
えばデザイナーとしても有名だけど、ボードリエ家と並ぶ富豪でも
あるから﹂
121
その関係で、奏の両親もエディのそばにい続けることができなか
ったのだと言う。
千絵もインターネットでエディ=アレニウスについて調べたこと
があった。奏の言うように、エディはフランスでも大が付くほどの
富豪であり、現在は資産家の女性と結婚をしている。しかし子供に
は恵まれず、養子縁組がなされている。それらの情報の中に、響に
関する記載はなかったはずなのだ。
﹁もう、向こうじゃ兄貴はエディ=アレニウスの隠し子として知れ
渡ってる。兄貴がブランドを立ち上げるなら、エディの後継として
注目されるのは必至だろうな﹂
﹁でも響は、そんな形は望んでなかったはずだよ﹂
﹁さあ。どうかな﹂
﹁谷部君?﹂
﹁昨日、父さんに国際電話が来た。相手が誰かは分からないけど、
聞いた内容から、兄貴の親権をエディに渡す話だった。父さんは断
ってたけど、その電話が兄貴自身からだとしたら?﹂
﹁どうしてそんなこと思うの⋮⋮?﹂
﹁兄貴に後ろ盾が必要な事態があったとすれば、情報のリークぐら
なりふ
い自分でするんじゃないのか。三谷の時もそうだったけど、兄貴は
相手に入れ込んだら形振り構わない男だよ﹂
そう言って奏がもう一枚、スマホで記事を見せてきた。
内容は、響とマリアンヌがデートをしているというものだった。
その中には、互いに愛の言葉を贈り合い、響に至っては日本語でマ
リアンヌに﹁愛している﹂﹁あなたの感性にとても惹かれている﹂
と伝え、マリアンヌにも同じように言わせていたのを、周囲の客が
目撃していたと書かれていた。
載せられた写真も、カフェで顔を近付けながら何事か囁き合う、
122
仲睦まじい二人の姿が写っている。
﹁ド・ボードリエの家は、マリアンヌを溺愛してる。その相手にふ
さわしいのは、地位の無い日本人じゃない。古くから交流のある、
エディ=アレニウスの子息だ﹂
﹁でも、そんな、響はそんなこと⋮⋮何かの間違いじゃないのかな
⋮⋮﹂
﹁三谷。お前、兄貴に何を期待してたんだ?﹂
﹁期待⋮⋮?﹂
﹁どんなに年月がかかっても、兄貴がお前を迎えに来ると思ってる
のか? 会えないまま何年経っても、変わらずに想い合えると思っ
てるのか? お前が兄貴に寄せる信頼を、同じように兄貴がお前に
持ち続けると思ってるのか? ⋮⋮どこにそんな保証があるんだよ。
生きてる時間も世界も違うなら、そいつの一番近くにいる奴が選ば
れるのは当然だろ。いつまでも夢見てんなよ﹂
﹁夢⋮⋮﹂
夢を見ていたんだろうか。
塞ぎこんでいた幼い自分を、明るい世界に導いてくれた王子様。
小さな頃から憧れて、綺麗な恋心を抱いていた。
今は別々の道を歩んでいても、いつかお互いの道が重なり合う時
が来るんじゃないのか︱︱そんな風に、期待をしていなかったわけ
じゃない。それくらい、自分は響を想っていたし、響も千絵を想っ
てくれていたように思うのだ。
しかしそれは小さな世界で盲目的に響だけを追っていた、自分の
夢なんだろうか。
響は一足先に箱庭のような夢から覚めて、新しい世界で新しいパ
ートナーを見つけたんだろうか。
響と共に世界へ踏み出したミズキも、夢から覚めたんだろうか︱
123
︱。
﹁お前もさっさと夢から覚めろよ。俺は、覚めた。俺がやりたいの
はピアノだ。⋮⋮あんな女関係ない﹂
そう言って奏は、マリアンヌからの手紙をぐしゃりと握りしめた。
放心したまま千絵は奏に家まで送ってもらい、それからの数日は
あまり記憶が無かった。
気が付けば女学院を卒業していて、全寮制の高等学校に向けて引
越しの準備が進んでいた。
引越しの前日。一通のエアメールが千絵に届いた。響からだった。
内容はいつもと変わらず穏やかなものだった。卒業を祝う言葉や、
受験がどうなったのかと尋ねる内容。そういえば、響に受験の結果
を伝えていない。
最後には﹃しばらく多忙になるため、返信が滞ることがある﹄と
いう旨が綴られていた。
多忙と言う言葉に、マリアンヌと睦まじく会話する響の姿が頭に
浮かぶ。
文通が途切れることは、互いの縁が途切れることを意味すると、
いつか約束したはずだった。返信が滞るとは、ゆっくりと終わりが
近付いていることを意味しているんだろうか。
﹁⋮⋮目を、覚まさなきゃいけないのかな﹂
ふぬ
ここ数日、自分は腑抜けだった。
会えない時間や距離を恨み、嘆いて、何度も涙をこぼした。
けれど千絵が腐っている今この瞬間も、海の向こうでは響が未来
に向かって歩いているんだろう。もし今響が千絵を訪ねてきたとし
124
ても、今の千絵を見て惹かれはしないだろう。
部屋の鏡を見れば、不眠と泣き暮らした証の、腫れぼったい顔が
ある。手入れを怠った髪はボサボサだし、眼鏡に脂痕が浮いている。
﹁⋮⋮目を覚ませ、千絵﹂
鏡に近付いて、千絵は自分自身に声をかけた。
﹁夢を見る時間は終わったんだ。時間は巻き戻らない。前を向いて
歩け。下を向くな。自分の人生なんだから⋮⋮精一杯、楽しむ方法
を考えよう?﹂
頑張れ。と、鏡の向こうの自分にエールを送る。
最後が苦かったからと言って、今までの思い出全部を否定する必
要はないのだ。
響からはたくさんのものをもらった。それらの経験は全て、千絵
を大きく成長させてくれた。響の言う通り、恋は人を成長させてく
れたのだ。
いつか響が言っていた、エディの言葉を思い出す。
人の心は、誰にも縛れない。もし愛する人がそばから離れるよう
なことがあれば、それは自分の魅力の問題だ。
相手を恨まず、自分を省みること。そして、愛した人の幸福を祈
ること。
﹁ありがとう響。幸せになってね﹂
最後のエアメールは、自室の机の引き出しの奥へしまっておいた。
﹁︱︱お母さん、私向こうに行く前に、コンタクトが作りたいんだ
けど!﹂
125
響に装飾してもらった眼鏡をはずして、千絵は階下の母親へ声を
かけた。眼鏡はケースに入れて、お守りとして自分の鞄に持ち歩く
ことにした。
入寮前に、美容院でお下げ髪をバッサリと切った。心機一転、気
持ちも引き締まった。
男のような髪型と、メリハリのある長身。響から教えてもらった
メイクを施した千絵は、入学早々女生徒から告白をされるほどに人
気となった。
二年に進級する頃には寮長や生徒会副長を任され、ますます同期
や後輩から慕われ、ファンクラブまでできていた。男に興味が無い
ところも、女生徒達には受けが良かったらしい。
しかし千絵を巡って女子間で問題が多発した時期があり、それか
ら千絵は積極的に他校の男子高と交流する行事を推進した。
個人的にも他校の男子生徒と連絡を取り、千絵に熱を上げていた
女生徒達を正しい方向へ導くため、度重なる合コンセッティングを
行った。﹃合コン女王﹄誕生である。
千絵の合コン女王っぷりの噂は提携校の輪を超えて広がり、面倒
見の良さから男女問わず様々な相談に乗っていたことや、女子高な
らではの情報網により、自分の経験以上の性的知識が増えていった。
大学に上がり、一人暮らしやバイトを始め、お酒を飲むようにな
ってから、合コンの形はますます多種多様になっていった。
しかし千絵自身が誰かに恋心を抱くまでには至らなかった。
エアメールは、あれから一通も出していない。届いてもいない。
奏とも連絡を取り合っていないため、響とマリアンヌがどうなっ
たのかは分からない。
126
合コン女王な千絵のことを、過去の三谷千絵と同一人物だと知る
人は、周囲に誰もいない。
小学校の同級生で、櫻間女子大学で再び一緒になった若宮冬子︵
旧:佐々木冬子︶も、千絵のことを大学からの新しい友人だと認識
しているほどだ。
初めてできた彼のことを、幸せそうに話す学友の顔。
彼氏とお泊まりデートについて話をする、周囲の声。
それらを、千絵は薄い膜越しの世界で聞きながら、笑顔で相づち
を打つ。
いま
吾輩は、未だ処女である︱︱。
127
吾輩は未だ処女である。︵後書き︶
一部︻吾輩は処女である︼・終。
128
新規連絡先を登録しますか
月曜日。午前中に単位互換大学で授業を受けた千絵は、週明け早
々から他大学の男子生徒と合コンの予定を取り付けて、昼近く櫻間
女子大学へ戻ってきた。
冬子とみのりから、学食のカフェで席を取っているとメッセージ
が来たので、もうすぐ着くと返信を入れる。
九月下旬。秋はどこに行ったんだというくらい日中の日差しは強
く、アスファルトの照り返しが暑い。夜は薄手の羽織るものが必要
になるが、昼間は半袖で十分だ。
バイト先のセレクトショップで割引購入したデニムのショートパ
ンツと黒のタンクトップ、重ねて白のシースルーオフショルダート
ップス。ホワイトのスニーカーで歩道を歩いていた千絵は、大学の
正門前で立ち止まる人影に目を留めた。
ゆるく巻かれたハニーブラウンの髪。黒のVネックシャツに、赤
いチェックのフィッシュテールスカート。黒い編み上げブーツ。女
性にしては身長が高く、180近くありそうだ。流行の英国風赤帽
子を被り、黒いサングラスをかけている。服から覗く肌は白く、日
焼け避けのためか、首には白いストールを巻き、手から肘辺りにか
けて黒いアームカバーをしている。
︵モデルさんかな⋮⋮?︶
櫻間女子大学は建物が綺麗なので、ドラマや雑誌の撮影現場とし
て利用されることも多い。そのため、業界の関係者が出入りする姿
を見かけることがあった。
129
千絵はそう予想を付けると、ジロジロ見てはいけないだろうと自
然と目をそらして、女性の前を通り過ぎた。そのまま正門をくぐろ
うとした時、背後でドサリと音がした。
振り返るとあのモデルらしき女性が、肩にかけていた大きめの鞄
を落とし、立ちつくしている。サングラスをしているので表情は分
からないが、どこか呆然としている様子だった。
﹁ええと、荷物落としましたよ﹂
そこに。と、千絵が落ちた鞄を指すと、相手は何故か自身の口元
を手で覆い、突然しゃがみ込んだ。
﹁え、ええ!? ちょっと、大丈夫!?﹂
千絵が駆け寄ると、相手は口元を手で覆ったまま、もう一方の手
を挙げて頷いた。﹃大丈夫﹄と言いたいんだろうが、サングラスや
髪から覗く顔が真っ赤になっている。
﹁いやいや、大丈夫じゃないよね? 気分悪いの? 吐きそう?﹂
﹁⋮⋮っ﹂
千絵も同じようにしゃがみ込んで尋ねると、相手の身体が小刻み
に震えているのが分かった。寒いんだろうか。しかしあいにくと今
日は、上着の類を持って来ていない。
﹁寒いの? 風邪かな﹂
震える相手の背をさすると、ピクリと肩が跳ねた。そうして驚い
たことに、サングラスの下からポロポロと透明な雫が零れ落ちてい
く。
130
﹁え⋮⋮?﹂
︵な、泣いた!?︶
﹁うそ、待って待って、何で!? 泣くほどつらいの!?﹂
﹁ち、ちがう⋮⋮おどろいて⋮⋮﹂
﹁驚いた?﹂
一体何に驚いたのか。首を傾げる千絵の前で相手は﹁なんでもな
い﹂と首を振ると、鞄からハンカチを取り出して、サングラスを外
した。
サングラスの下は案外普通の顔︱︱ということはなく、とんでも
ない美人が現れた。瞳は茶色いが、日本人離れした目鼻立ちだった。
目元は化粧が盛ってあるが、おそらく素もかなりの美人だ。
背が高いからか少しハスキーな声で、相手は﹁驚かせてごめんな
さい﹂と千絵に謝ってくる。そうして目元の涙をハンカチで押さえ
てぬぐうと、微笑んだ。
﹁もう大丈夫、落ち着いたから。心配してくれてありがとう、チ⋮
⋮﹂
﹁ち?﹂
﹁ち、⋮⋮近くを、あなたが通りかかってくれてよかったわ﹂
﹁そう? 私何もしてないけど。立てそう?﹂
千絵が手を差し出しながら腰を上げると、相手は千絵の手を少し
だけ凝視したあと、おずおずと手を重ねてくる。なんだかまた、顔
が赤らんでいる様子だった。
二人でその場に立ち上がると、相手の上体がふらりと少し傾いた。
頭が痛むのか、額を押さえて顔をしかめている。
131
﹁頭が痛いの?﹂
﹁少し、立ちくらみよ。色々と忙しくて気を張っていたから。でも
あなたの顔を見たら、なんだかホッとして気が緩んだわ﹂
﹁なにそれ﹂
初対面なのに。と笑っていたら、くぅぅ∼と間延びした音が二人
の間で響いた。千絵ではない。と、すると︱︱。
﹁お腹空いてるの?﹂
﹁⋮⋮そうだったみたいね﹂
﹁だったみたいって、自分のことなのに﹂
千絵が笑うと、相手が綺麗に苦笑した。
﹁本当にね、自分のことなのに。なんだか随分と久しぶりに、感覚
を取り戻したように思えるわ。最近忙しくて、食事も不規則だった
から。この前食事したのはいつだったかしら⋮⋮?﹂
﹁ちょっとちょっと、ホントに大丈夫? 今から私お昼にするし、
ここの学食で一緒に食べていかない? カフェで友達が席取ってる
し。櫻間女子大学のカフェは結構美味しいよ﹂
一般にも開放しているカフェなので問題ないからと伝えると、相
手は少し思案した後、頷いた。
﹁ありがとう。一緒にいいかしら?﹂
﹁もちろん。今友達に電話するから待ってて﹂
そう言ってスマホの無料通話で冬子を呼び出すと、千絵はもう一
人増えたことを伝えた。
132
﹁フユ、今から行くけど一人増えるから。うん、そう。ナンパした
の﹂
ナンパとおどけた調子で言うと、通話先の冬子と、千絵の隣にい
た相手が笑った。
席は問題なかった。通話を切って、千絵は相手を見上げて頷く。
﹁席もオッケーだって。行こ? 私は三谷千絵。チエでいいよ。ソ
ッチは?﹂
かのん
﹁ひ︱︱、ノ⋮⋮カノン﹂
ひの
﹁ひのかのん?﹂
﹁⋮⋮そう。日野花音﹂
カフェへ向かいながら漢字の名前を伝えられて、へぇと千絵は目
を瞬かせた。
﹁最初は日本人離れした容姿だなって思ったんだけど。日本語が上
手いし、名前も漢字って言うことは、片親が日本なの?﹂
﹁ええ、そう。母親が日本人だったわ﹂
構内に入って左折すれば、すぐにカフェの入り口が見えてくる。
千絵は花音と共にカフェの注文口へ並んだ。
千絵はデミグラスオムライスを頼み、花音はカレーライスの大盛
りに野菜スープやサラダ、グラタンにフルーツを注文した。
二つのトレーに分かれた花音一人分の食事量に、千絵は素直に目
を丸くさせて驚いた。
﹁へぇ∼っ。花音って細いわりに結構食べるね。そりゃ前回の食事
を忘れるくらい時間空けてたら、立ちくらみもするよ﹂
133
﹁ふふっ、そうねぇ。なんだか今は何を食べても美味しい気がする
の。今のうちにジャンジャン食べておきたいわ﹂
﹁何それ、花音って胃下垂? 胃下垂の人って食べても太りにくい
って聞くし。痩せの大食いってヤツ? ウラヤマだわ﹂
﹁あら、チエだって痩せてるじゃない。でもちゃんと付くところに
は付いて、凄く美味しそう⋮⋮﹂
﹁はぁ?﹂
トレーを持ったまま後ろを振り返ると、うっとりとした表情で花
音がこちらを見つめていて、千絵は﹁ちょっと﹂と半眼になった。
﹁それ、贅肉付いてるって言いたいワケ?﹂
﹁え? ああ、ごめんなさい。私何か言ったかしら? ちょっと頭
がポーッとしてて、あまり良く覚えてないの﹂
人のことを見て美味しそうだとか言ってました。とむくれる前に、
そばのテーブルから冬子やみのりに呼ばれた。
﹁千絵、こっち﹂
﹁チエちゃーん、先食べてるよ∼﹂
﹁ああ、フユ、みのり。ありがと。あと、ナンパした子。日野花音
って言うの。花音、こっちは若宮冬子と木山みのり。フユとみのり
って呼んでるよ﹂
﹁こんにちは﹂
花音が笑顔で会釈すると、冬子は﹁モデル?﹂と首を傾げ、みの
りは花音が持っているプレートの料理の量に手を叩いてはしゃいだ。
﹁わあ、花音ちゃんていっぱい食べるんだね! 私も食べるの大好
きなんだよ∼。フユちゃんも、食べるの好きだよね? いつもお弁
134
当美味しそうに食べてるし﹂
﹁うん、食べるのは好き。陽介のお弁当も、実際美味しいからね。
にしても花音、こんなに食べれるの?﹂
しげしげと花音のプレートを眺める冬子とみのりに、千絵は﹁そ
れがさ﹂と席に座りながらむくれた。
﹁花音、忙しくて食事取ってなかったらしいんだけど。空腹のあま
り、私の贅肉見て美味しそうとか言うんだよ。どんだけ飢えてんの
って話でしょ? シツレーな﹂
﹁なるほど。チエのモモ焼きとか?﹂
﹁フユ、私の足は安かないぞ?﹂
﹁言い値で買うわ﹂
冬子の軽口に千絵がパァンと太ももをはたいてみせたら、被せる
勢いで花音が購入を希望したので、みのりがブフッと空気を噴いた。
﹁アハハッ! 花音ちゃんてばどんだけお腹へっちゃってるの!﹂
﹁もー、いいから花音はさっさと食べなよ﹂
﹁チエの太ももを?﹂
﹁カレーをだよ﹂
空腹のあまり発言がおかしくなっているんだろう。発言どころか
こちらを向く視線も飢えているような気がする。飢えた花音へ食事
を勧めて、千絵も自分の昼食にありついた。
昼食を食べながら、千絵は﹁そういえば﹂とフユとみのりへ声を
かける。
﹁今日の午前中に行ってた、都ノ中央大の人から合コンしようって
話がきてるんだけど、どうする?﹂
135
﹁千絵、また? 私はパス﹂
﹁私もパ∼ス﹂
いつものように冬子とみのりから断られ、内心でホッとしつつ、
なんだよもーと茶化して笑う。
大盛りカレーを早々に半分平らげていた花音が、瞳を広げて千絵
を見てきたので、千絵は首を傾げた。
﹁ああ、花音は来る? 全然いいけど﹂
﹁え? いえ、私は⋮⋮いや、行くべきなのかしら⋮⋮?﹂
﹁はいはい、参加可能者はグループにご招待∼﹂
スマホをかざして花音にも出すよう促すと、千絵は花音とアドレ
スやLINEのID交換登録を済ませた。
﹁この﹃ゴーコンですよ!﹄のグループに各々合コンの誘いがあっ
たら日時入れるから、参加可能なら参加ってレスしてね?﹂
﹁随分手際が良いのね⋮⋮。一応確認するけれど、合コンって、あ
の合コン?﹂
﹁あの合コン以外にどの合コンがあるのか分からないけど、たぶん
その合コン﹂
戸惑いながら尋ねられた花音の問いに、千絵はウンと頷いた。
そんな千絵と花音のやり取りに噴き出しながら、笑い上戸のみの
りが花音の腕をツンツンとつつく。
﹁花音ちゃん花音ちゃん、チエちゃんは櫻女大の合コン女王なんだ
よ﹂
﹁﹃合コン女王﹄?﹂
136
ぱちぱちと瞬きしながら見つめられて、千絵は昼食を再開しなが
ら﹁まーね﹂と相づちを打った。
﹁合コンの幹事をすることが多くて、いつの間にかそう呼ばれてた
感じ。週一くらいで合コンしてるから、花音もヒマがあったらおい
でよ﹂
﹁週一で合コンしているの? ねぇ、その、⋮⋮チエは恋人がいた
りしないのかしら?﹂
﹁コイビト? いたら合コンはしないかな﹂
軽く答えたら、テーブルの外から﹁ええ!﹂と声が上がって、数
人の女学生にすがられた。
﹁チエ∼、まだまだ合コンしてよ! 私楽しみにしてるんだから!﹂
﹁合コンOKな彼氏紹介しようか? チエ、彼氏できたら彼氏と一
緒に合コン来たらいいじゃん!﹂
﹁とりあえず私、今週の都ノ中央大のヤツに行く行く!﹂
﹁わかった。わかったからとりあえず昼ごはん食べさせて﹂
盛り上がる周囲をあしらいながら昼食を終えると、それぞれ講義
のある部屋へ移動した。
千絵も移動する必要があったが、その際花音が﹁大学の授業を見
学したい﹂と言うので、千絵は花音と共に講義室へ向かった。
﹁チエ、無断で大丈夫? 先生に伝えなくていいかしら﹂
﹁次の授業は人もそこそこいるし、授業聞いたところで単位がもら
えるわけじゃないし。たまにいるよ、無断聴講者。注意されたらそ
の時どうにかするし﹂
講義室の席へ隣同士に座ると、教壇に教師が立ち、授業が始まる。
137
第二言語学。チエの選択は、フランス語だ。
﹁チエがフランス語を選択したのはどうして?﹂
﹁小さい頃から、少し勉強してたからかな﹂
﹁そう﹂
小声で会話し、講義を聴く最中、ふと隣を向けば花音と視線が合
った。そのたびに花音はどこか嬉しそうに目を細めて笑い、教壇へ
視線を移す。
﹁⋮⋮スゴイ。チエのそばにいるだけで、作りたいものがあふれて
くる⋮⋮﹂
﹁花音、どうしたの?﹂
﹁ううん。今とても、仕事がしたいなと思っただけよ﹂
そう言って笑う花音の瞳には、眩しいまでの生気があふれていた。
講義が終わると、花音は﹁仕事に戻らなければ﹂と鞄を持った。
千絵は門まで花音を見送りに出た。
﹁チエ、ありがとう。とても楽しかったわ。こんなに気持ちがリフ
レッシュしたのは、本当に久し振りよ﹂
﹁ご飯食べて講義受けたくらいで楽しかったの? 花音って、普段
は一体どんな激務をこなしてるの﹂
しかし社交辞令ではなく、本当に嬉しそうに花音が笑うので、と
ても大変な仕事に従事しているのだろうと千絵は思った。
また食事を抜いたり、根を詰めて、今日のように立ちくらみを起
138
こしてしまうんじゃないか。立ちくらみだけならまだいいが、体調
を崩したり怪我をしないか、千絵は心配だった。
﹁花音、職場はここから遠いの?﹂
﹁え?﹂
﹁来られるようなら、昼はここで食べたら? 朝や夜が不規則なら、
せめて昼だけでもしっかり食べなよ。私でよかったら、花音の気晴
らしに付き合うし﹂
﹁チエ⋮⋮﹂
﹁今日一緒にいたフユやみのりなんかは、気が良いし細かいことは
気にしないから。きっと花音のことも、大学生の一人だと思ってる
だろうし。ここに来て、少しの時間でも羽を伸ばしなよ﹂
﹁⋮⋮ありがとう。ぜひ、そうさせてもらうわ﹂
フッと花音の上体が屈み、顔が近付いてくる。両頬へ軽いリップ
音と共にキスが送られて、千絵は目を瞬かせた。
花音が目の前で、いたずらめいた笑顔を見せて囁いた。
﹁今日、フランス語の講義で習ったでしょう? 頬にキスする﹃ビ
ズ﹄は、フランスではとても大切な挨拶のひとつよ﹂
﹁花音、ここは日本だよ﹂
でも、美人にキスを送られるのはイヤな気分ではない。千絵は笑
って花音のビズを受け入れた。
﹁それじゃあチエ、また﹂
﹁うん。明日も時間があったらお昼ご飯食べに来なよ?﹂
これで連絡して、とスマホを振ったら、花音もスマホを振って笑
った。
139
その日、千絵のスマホに﹃日野花音﹄のデータが追加されたのだ
った。
140
いっぱいがおっぱい
知り合って数週間。あれから花音は連日、櫻間女子大学へ昼食を
食べに訪れている。
時には休講時間を利用して、冬子やみのりを含んだ四人で買い物
に行くこともあった。千絵もセレクトショップでバイトをしている
身ではあるが、花音は千絵以上にファッションに関して知識やセン
スに富んでいて、一緒に買い物するのはとても楽しかった。
口調や落ち着いた物腰から、千絵よりも年上だろうと思うのだが、
一度年齢を聞いた時に﹁マダムに年齢を聞くのはマナー違反﹂と、
やんわりとたしなめられてしまった。
千絵自身も年上に見られることが多い。フットワークの軽さや自
立心の高さから、自然と人から相談を受けたり、動く時のまとめ役
になっている。
けれど花音といるときは、不思議と花音を頼る気持ちがわいてく
る。
人に頼るくらいなら自分が動くのが常だった千絵にとって、花音
の存在はくすぐったくて、同時にとても安心する。
もし自分に姉がいたら、こんな感じだろうか。そう思うくらいに、
千絵は花音のことを好きになっていった。
今日は花の金曜日。明日は休講なので、いつもなら合コンの予定
が入っている。しかし千絵は、珍しく一人暮らしをしている自室に
いた。
一緒にいるのは、友人の冬子とみのり、そして花音の、計四人だ。
冬子は合コンに誘っても来ることがないし、みのりはバイトで忙
141
しく、花音も都合が合わなくて未だ合コン未参加だ。そんな三人が
今日はたまたま予定が空いていると言うので、千絵も合コンやバイ
トを入れなかった。
四人で千絵の家に集まり、気楽な宅飲みをしようという話になっ
たのだ。
﹁千絵これ、陽介が持って行けって。生ハムとトマトとチーズのブ
ルスケッタと、鶏肉の香草焼きにラタトゥイユ﹂
﹁フユ、持ちよりありがたいんだけど、フユの弟って料理人か何か
なの?﹂
受け取った大きな三段タッパには、綺麗に盛られたブルスケッタ
や食欲をそそる焼き色の鶏肉、野菜たっぷりなラタトゥイユが収め
られている。ブルスケッタには後乗せ用のスィートバジルまで別に
用意されていた。
三限で講義を終えて一度帰宅した冬子だったが、弟に今夜は宅飲
みすることを事前に伝えていたので、これらを用意してくれたらし
い。しかも全てが弟の手作りと言うのだから驚きだ。そう言えば毎
日の色彩豊かなお弁当も、弟が作っているのだと聞いたことがある。
﹁弟と言うより、もはや親の域ね。フユのところの陽介クンて﹂
﹁ええ? 花音ちゃんのところの親ってこんなことまでしてくれる
の? 私は陽介クンってフユちゃんのお嫁さんかと思ってた!﹂
﹁ほんと、出来た弟でありがたいのであります﹂
皆の驚きの声に、冬子は弟への感謝の気持ちを込めて両手を合わ
せて頷いている。
そうして服のポケットからスマホを取り出すと、タッパを受け取
った千絵にカメラを向けてくる。
142
﹁千絵、このまま撮ってもイイ?﹂
﹁いいけどなんで?﹂
﹁陽介にEカップの友達の家で宅飲みするって言ったら、必ずこの
タッパ持ってる状態で写メ送れって言ってきたから。千絵のEカッ
プが見たいんじゃないかな﹂
﹁いや、たぶんそれ妙な飲み会じゃないか心配してるんじゃないの
? 料理全部テーブルに出して、四人で映った写メ送った方がいい
と思うよ﹂
タッパを持っている状態を指示している辺り、撮り置きじゃない
写真だと確認したいと言う意味だろう。
白い大皿数枚とタッパを冬子とみのりに託し、ダイニングに置い
たテーブルに料理を広げてもらう。
その間千絵は、オリーブオイルにアンチョビとニンニクと鷹の爪、
エビとマッシュルームを入れて煮たアヒージョを仕上げていく。途
中手伝いを申し出てきた花音にバゲットを切り分けてもらい、別皿
に花音持参のチーズや燻製・みのり持参の乾きモノを乗せ、ボウル
にサラダや枝豆を盛って運んだ。
﹁それじゃフユ、弟君に﹃お姉ちゃんはやましいことをしてません﹄
って写メしなよ﹂
どうぞ。と千絵が部屋全体を映すよう促すが、冬子は何故か千絵
のある部分を限定にズームしてくる。
イー
﹁陽介、今大学受験真っ盛りなの。エールを送るためにも、千絵の
Eカップを寄せて﹃ありがと☆おいしE!﹄ってデコって送ろうか
と思って﹂
﹁アハハ! フユちゃん、そんなことしたら陽介クン、むしろ邪念
で受験失敗しちゃうよ!﹂
143
﹁E⋮⋮﹂
﹁花音、どうしたの?﹂
﹁いいえ。邪念でいろいろ失敗しそうな気持ちをギリギリで抑えて
るの﹂
けらけら笑うみのりの隣で、花音が指先で眉間を押さえながら目
を閉じている。どこか表情につらさが滲んでいるようだ。仕事が忙
しくて疲れているんだろうか。
﹁花音、失敗しないといいね﹂
﹁ええ、本当に﹂
仕事。と暗に指した千絵の言葉に、花音は切実な様子で頷いてい
た。
ちなみにこの前下着売り場で測ったらFカップに増量していたが、
それは皆には黙っておいた。
﹁よし、陽介に送信したし。じゃあみんな乾杯しよっか。千絵のイ
イパイにカンパイ!﹂
﹁はいはい、かんぱーい﹂
﹁いぇーい、チエちゃんのおっぱーい!﹂
﹁みのり、それじゃもはやただのチエの胸よ﹂
各々酒類を手にとって、グラスを打ち合わせた。
ちなみに千絵とみのりはビール、花音はワイン、冬子は酎ハイだ。
ビールを一気に腹へ収め、グラスを空にする。まだ缶には半分残
っている。千絵はつまみに手を付けることなく、缶をグラスへ傾け
た。
けれど途中で、花音の手に止められた。
花音は、長袖の下にも常にアームカバーをしている。おかげで見
144
えるのは綺麗な指と付け爪だけだ。今日の付け爪のデザインも凝っ
ているなと見つめていたら、花音が千絵に尋ねた。
﹁チエ、ビールは苦手?﹂
﹁え?﹂
﹁あまり美味しそうに見えないわ。ここ﹂
と、千絵の眉間をそっとつついてくる。
﹁しわが寄ってた。お酒が苦手なの?﹂
﹁え? いや、アルコールは苦手じゃないけど﹂
﹁チエちゃん、もしかしてビールがそんなに好きじゃない感じ?﹂
きょとりと目を瞬かせて訪ねてきたみのりは、ロング缶のビール
を早々に干そうとしている。確かにみのりがビールを飲んでいる時
と、千絵自身が飲んでいる時とでは、表情が違うことを自分でも自
覚していた。
いつもはノリで一缶飲み干すのだが、今日ばかりは誤魔化せない
らしい。千絵は苦った顔でぎこちなく頷いた。
﹁⋮⋮まあ、ビールはそう好きって言う感じじゃないかな。どっち
かっていうと甘いカクテルとかの方が、好き﹂
﹁じゃあコッチ飲めばいいじゃん?﹂
たくさんあるよー。と冬子が色々な種類の酎ハイを寄こしてきて、
そうなんだけどと千絵は唇を尖らせる。
﹁二杯目はもらうつもりだったよ。でもある程度ビール慣れしない
と、合コンの時とか色々不便だし﹂
﹁不便?﹂
145
三人から怪訝そうな視線を向けられて、だってと千絵は立てた膝
に顎を乗せてむくれた。
﹁ホラ、飲み会って﹃とりあえずビールで﹄みたいなノリがあるで
しょ? その流れを邪魔したくないっていうか。女の子はカクテル
頼む子も多いけど、私はそういう甘い感じに自分を見られたくない
っていうか。私はその場の幹事であってメインじゃないっていうか。
ビールだの日本酒だの飲んで、みんなと笑ってしゃべってる感じが
いいの﹂
﹁チエは何のために合コンをしているの?﹂
﹁みんなが楽しみたいって言うから、そういう場を提供できたらい
いなって言う感じ? みんなが楽しそうなの見てると、私も嬉しい
し。あの飲み会の場の雰囲気、好きだし﹂
﹁チエちゃん、そんなことのために毎週毎週お金使っちゃうの、も
ったいなくない? どうせみんなと同じだけお金払わなきゃいけな
いなら、楽しく美味しく飲もうよ﹂
﹁そうそう。好きなの飲めばいいじゃん﹂
花音やみのり、冬子に正論を言われて、でもだってと千絵は頭を
抱えた。
﹁なんかもう、私そんなキャラじゃなくなっちゃってるんだって!
今さら﹃カルーアミルク﹄とか言ったら絶対シラけられる!﹂
﹁千絵の葛藤の意味が分からん∼!﹂
﹁とりあえずチエちゃん、今は合コンじゃないんだし好きなの飲ん
じゃいなよ。私はカズさんがいっつもビール飲むから、私も自然と
好きになったし。ビール人口減った方が、私もたくさん飲めるし嬉
しいし﹂
146
私のために酎ハイ・カクテル組に行っちゃって。とみのりに笑っ
て手を振られ、冬子からはピンク色の桃のお酒を渡されて、千絵は
あうあうと唸った。
ふと花音がドリンクの入った保冷袋をあさり、ペットボトルを一
本取り出した。コーラだ。
そうして千絵のグラスにビールを注ぐと、同量のコーラを注いで
いく。
﹁花音?﹂
﹁花音ちゃん、それなぁに?﹂
﹁これはディーゼルって言うビールのカクテルよ。見た目は黒ビー
ルよね。チエ、これならどう?﹂
﹁え? うん⋮⋮⋮⋮あっ、おいしい!﹂
勧められて口を付けると、甘くほろ苦い大人のコーラを飲んでい
るようで、とても飲みやすかった。
どれどれと冬子やみのりも口を付け、その組み合わせの良さにみ
んなで驚いた。
﹁なんだかオモシロいね! 花音ちゃん、他には何かできるの?﹂
﹁好きなものを合わせていいのよ。飲みやすさで言えば、はちみつ
とレモン果汁を入れたものもあるし、オレンジジュースを入れたビ
ターオレンジって言うカクテルもあるわ。変わりどころで言えば、
黒ビールにはちみつとレーズンを入れて煮たホットハニービールな
んてものもあるのよ﹂
同じ要領でワインを温めたホットワインもあるのだと聞き、千絵
の中でのビールが形を変えていく。
﹁ビールって喉越しとか苦さを味わうものなんだって思ってた。で
147
もこう言う飲み方もあったんだね﹂
﹁どんなことでも﹃これしかダメ﹄なんてものは、この世界にそう
そう存在しないのよ。自分に影響するものなら、なおさら自分で好
きな形に変えていけばいいんだわ﹂
そう言って花音は残ったビールを自分のグラスに注ぎ、透明なレ
モンスカッシュを注いだ。
﹁これはパナシェ。フランスのカクテルよ﹂
﹁フランス⋮⋮﹂
フランスと聞くだけで、未だ胸が甘苦く痛む。過去の思い出が脳
裏にフラッシュバックする。
自分は未だに、過去を引きずっているらしい。
どんなに合コンをしても、新しい恋に心が傾くことはない。
その理由を自覚するように、第二言語としてフランス語を選択し、
講義を受けて静かに胸を痛ませている自分は、マゾだろうか。
﹁飲んでみる?﹂
﹁⋮⋮うん﹂
甘味の少ないレモン飲料で割られたビールは苦味が強く、千絵に
はまだ美味しいと思えなかった。
﹁私には、まだ無理かな﹂
﹁そう﹂
花音にグラスを返すと、花音が中身を干していく。
自分にはまだ無理だ。フランスの味は、にがくて痛い。
148
色々なビールカクテルを試し、酎ハイに移行しながら杯を重ね、
食事をつまむ。
気取らず飾らない宅飲みは、居酒屋とは違った楽しさがある上に、
妙にリラックスできる。それは皆も同様のようで、誰もが表情がや
わらかく︵若干眠たく︶、顔の血色が良い。
グラスに注がずロング缶を直接傾けていたみのりが、赤らんだ顔
で目を細め、千絵の胸を凝視してきた。
﹁それにしてもチエちゃん、何食べたらこんなに大きくなるの? うらやましいなぁ。私もカズさんのために、もう少しほしかったよ﹂
﹁みのりの彼は、胸のことをどうこう言う人なの?﹂
ワインを二本半空けた花音が、少しかすれた声でみのりに尋ねる。
﹁ううん。でもこの前掃除したときに出てきたDVDは、胸が大き
い人が多かったかも﹂
﹁燃やしちゃえそんなDVD﹂
﹁アハハ! 花音ちゃん、カズさんの確認もなくできないよぉ。も
し借りものだったら大変じゃない?﹂
﹁スゴイじゃんみのり、意外と冷静﹂
千絵が素直に目を丸くさせて呟くと、﹁うん﹂とみのりが満面の
笑顔で頷く。
﹁だからちゃんと借りものか聞いて、自分のだって言ったから、全
部叩き壊したよ?﹂
膝に﹃フンッ!﹄とDVDの箱ごと叩きつけてへし折る真似をし
149
ながら、みのりはきゃらきゃらと笑った。
﹁もうホント、あのときのカズさんの顔おもしろかったぁ! 思わ
ず笑っちゃったもん﹂
﹁笑いながらDVDを叩き壊す彼女とか、もはやホラーじゃん⋮⋮﹂
その後みのりの彼は無事だっただろうかと千絵がぼやいていると、
胸に違和感を感じた。
見ると、横から冬子がふにふにと指で胸をつついてくる。
﹁おお、やわらかい。やわらかきょにゅー﹂
﹁ほんとだ、チエちゃんほよんほよん∼﹂
なんか癒される∼。とみのりが胸に頬を擦り寄せてきて、ちょっ
と母性本能がくすぐられた。
アルコールが回っているのか、千絵も二人の好きにさせていたら、
冬子が下からたふたふとすくい上げながら、花音に声をかけている。
﹁花音花音、すごいよ。ゴムまりじゃないよ。ほにゃんほにゃんの
未知とのそーぐーだよ。さわってみなよ﹂
なに人の胸を勝手に勧めてるんだ。心の中でツッコんでいると、
それまで無言でこちらを見ていた花音が額を押さえて頭を振った。
﹁⋮⋮いえ、もう何だか見てるだけでいっぱいおっぱいだわ﹂
多分いっぱいいっぱいと言いたいんだろう。
動揺するほど花音は自分の胸にコンプレックスを持っているのだ
ろうか。それとも単にアルコールが回っているだけか。
花音の胸はささやかな膨らみだが、胸の大きさなんてその人の本
150
質に関係はないだろうに。
千絵は酒の席の失言として、聞かなかったことにしてあげた。
151
あなたが理想の女性です
︱︱チエ。
誰かが名前を呼んでいる。
その背中は大きかったけれど、いつも後ろを振り向いて、千絵の
視線の高さまで身を屈めてくれる。
︱︱チエ。
名前を呼ばれるのが大好きだった。木漏れ日に照らされた瑞々し
い草木のような、グリーン色の優しい瞳。視線が合うと微笑んでく
れる、その瞬間が好きだった。
抱きしめてくれたぬくもり。少し高めの、甘い声。さらさらと指
からすり抜ける、ダークブロンドの髪。同じ色のまつ毛が長くて、
いつも目元に薄い影を落としていた。
ひとつひとつを思い出すと胸が痛むほど焦がれるのに、彼の全体
を思い出そうとすると、ぼんやりと思考に霧がかかってしまう。
それはそうだ。失恋して五年。会えなくなってからは、もう七年
も経ってしまった。
きっと自分も彼も、あの頃から姿を変えてしまっている。
﹁︱︱チエ、起きて。私、そろそろ帰らなきゃ﹂
遠かった声がすっと近くで耳に入ってくる。
思い出の声と同じくらいだろうか。いや、思い出の声も、もう本
152
当のところ、鮮明には覚えてはいない。おぼろげな記憶にすがって
いるだけだ。
﹁かえる⋮⋮﹂
入ってきた言葉をぼんやりと繰り返す。
帰る。行ってしまう。そばから離れてしまう。
そう思うと、千絵の胸がきゅうと痛んで、目尻に涙が浮かぶ。
白いテーブルに頬をつけて突っ伏したまま、声のした方に片手を
さまよわせた。
﹁チエ?﹂
そっと取られた手を、きゅっとつかんで引き止める。
﹁いかないで。⋮⋮いっちゃやだ﹂
あの時、本当はそう言いたかった。
あまりに先を行く背中に追いつく方法が見つからなくて、離れて
いくのをただ見送るしかできなかった。気持ちをがむしゃらにぶつ
むしば
けるには、自分は子供で、臆病だった。
離れてからもこれほど心を蝕み続ける痛みがこの世に存在するな
んて、想像もしていなかった。
こんなに苦しいなら、この想いごと彼への感情が消えたらいいの
に。そう願いながら、思い出を忘れることを恐れるように、彼を連
想させることへ関わり続けている。
ショップの店員。フランス語。化粧。恋。刺繍。料理。
思い出すのがつらい。でも彼を忘れてしまうのも、同じくらいつ
らい。
153
﹁ずっと一緒にいて⋮⋮﹂
目を閉じて、思い出の中の彼にそう呟いた。
とろとろと眠気に誘われて溶けていく意識の中に、甘くて優しい
香りが入り込んでくる。
頬を温かい何かがたどっていく。やわらかくて優しいその熱は、
千絵の唇の端で止まると、何度も小さく押し当てられた。
ワインの匂いが、千絵の意識をぼんやりと痺れさせていく。
触れては離れ、口端にとどまる熱。それが何か確認するために、
千絵はぺろりと舌で触れてみた。
ふにりと舌先かすめる、やわらかな何か。ぴくりと震えたかと思
うと、温かくてなめらかなものが舌に絡んできた。
小さな水音を立てて何度も唇をついばまれたり、舌に濡れた熱が
絡みついてくる。なんだか心地良くて、このままちゅくちゅくと吸
いながら眠ってしまいたい。
半分眠りながら、無意識に気持ちの良さを求めて舌を動かしてい
ると、ブーというバイブの振動とメールの着信音が近くで響いた。
びくりと身体を震わせて目を開けると、同じくびくりと身体を震
わせた目の前の影が離れていく。
目を開けたものの意識は覚醒していなかった千絵は、熱さで呆け
ている頭をなんとか働かせた。
ここはどこだろう。自分の部屋だ。
頬には固いテーブルの感触。そう言えばみんなで宅飲みをしてい
た。どうやら途中で眠ってしまったらしい。
﹁うわ、寝ちゃった⋮⋮﹂
そう呟きながら頭を上げたら、ぐわんぐわんと全身へ熱が巡るよ
154
うな感覚がして、めまいがした。アルコールが随分と回っているら
しい。
頬がひんやりとしたので触ってみると、目元と口元が濡れている。
何故か自分は泣いていたらしい。口元は、ヨダレを垂らしながら寝
ていたのか。
いかんいかんとテーブルの下に置いていたボックスからティッシ
ュを引き抜いて顔をぬぐっていたら、すぐそばに花音がいることに
気が付いた。
花音は片手で顔面を押さえ、無言でうつむいている。少しだけ肩
が震えているようにも見えた。
﹁花音、だいじょうぶ? 顔真っ赤だけど、頭いたいの? 飲みす
ぎた? 私も飲みすぎて寝てたみたい。⋮⋮あぁ、フユとみのりも
寝てるのか﹂
ぐるりと部屋を見渡したら、冬子とみのりもテーブルのそばで雑
魚寝していた。
いつの間にかテーブルの上は綺麗に片付けられており、キッチン
のカウンターに水ですすがれた缶や瓶が並べられている。
﹁花音が片付けてくれたの? ごめんね、ありがとぉ﹂
アルコールのせいで少し間延びした調子で礼を言うと、花音がか
すれた声で呟いた。
﹁やっぱりムリだ⋮⋮﹂
﹁花音?﹂
﹁ごめん、チエ⋮⋮ガマンできない⋮⋮﹂
顔を上げた花音の瞳が、千絵を見据えてくる。肩だけでなく呼吸
155
すら震えた様子で、少し息が上がっている。
何かをひどく耐えているような様子が伝わってきて、千絵は﹁わ
かった﹂と頷いた。未開封のつまみが入れられていたビニール袋か
ら中身を出し、花音に差し出す。
﹁花音、無理しないでトイレで吐いてきなよ。もしトイレまで動け
ないようなら、ガマンしないでこれに吐いちゃいな﹂
﹁いや、チエ、そういうことじゃなくて⋮⋮﹂
花音がビニール袋を越してこちらに手を伸ばしてきたが、クシュ
リッという音が聞こえて、二人でそちらを向いた。どうやら眠って
いる冬子がくしゃみをしたらしい。
﹁私、隣の部屋から毛布取ってくるね。花音、とりあえずこれでが
んばって﹂
そう言ってビニール袋を花音の前に置いて、千絵は扉つづきの隣
の部屋に入った。こちらは千絵の寝室だった。しかしただの寝室で
はない。
﹁チエ、これって⋮⋮﹂
千絵に付いてきたらしい花音が、部屋の扉を入ったところで止ま
り、呆然と声を上げている。
ここは千絵の寝室だが、作業場でもある。
ベッドの隣に作業机が置かれ、壁には天井までの棚。それらのい
たる場所に手芸用品が収められていた。作業机には作製中の品が置
かれている。
クローゼットを開けて数枚の毛布や枕を引き寄せながら、千絵は
﹁驚いた?﹂と笑った。
156
﹁ここ、私の作業部屋。こう見えても私、手芸が好きなんだぁ。ハ
ンドメイド品をインターネット販売とかしてたりさ。フユやみのり
にも、いくつか作ったりしたんだよ? この前はビーズのストラッ
プをあげたかな﹂
やはり今も、もっぱらクロシェを使ったオートクチュール刺繍を
メインに作製している。最近ではレジンも取り入れ、ちょっとした
アクセサリーが人気だ。
そんなことを話していたら、身体が背後から温かく包まれた。
﹁花音?﹂
﹁チエ⋮⋮﹂
ぎゅうと力をこめられて、ようやく背後から抱きしめられている
のだと気付く。
それでもたいして驚かないのは、アルコールで判断力が鈍ってい
の
ることと、眠気を覚えているからだった。
花音に圧し掛かられる形で抱きしめられ、取り出しかけた毛布に
上体と顔を埋める。するとすぐに眠気が襲ってくる。背後の花音の
体温も、なんだか心地良いとすら思えた。
﹁花音、重い⋮⋮ねむい⋮⋮﹂
でも眠る前に、冬子やみのりに毛布を届けなければ。
もぞもぞと身動いたら、ぐっとお尻に何かがあたった。
﹁花音、スマホ? 何か、固いのあたってる⋮⋮﹂
ぼんやりと呟いたら、ぐりっとさらに強く押し当てられた。千絵
157
の後頭部に口元を寄せる花音の息が、なんだか荒い。
﹁チエ、もう、ダメかも⋮⋮﹂
﹁花音⋮⋮?﹂
︱︱ピンポーン。
インターホンの音が聞こえて、アレと千絵は首を傾げた。
﹁今の、うち?﹂
﹁⋮⋮タクシー呼んだから﹂
﹁花音が呼んだの?﹂
﹁そう。ここで夜を明かすなんて、とてもじゃないけど耐えられな
い。だから帰ろうと思ってたんだけど⋮⋮でも、やっぱりダメだ。
チエ、実は⋮⋮本当は︱︱﹂
何かを言いかけた花音の声にかぶせて、隣の部屋からみのりの声
がした。
﹁チエちゃーん、今なんかピンポン聞こえたから出たら、タクシー
来たっていうんだけど。だれかよんだのかなぁ﹂
眠気眼をこすりながら寝室へ顔を出したみのりは、花音に背後か
ら圧し掛かられている千絵を見て、ゆっくりと目を瞬かせた。
﹁ふたりとも、きもちわるいの?﹂
﹁なんか、花音が気持ちわるいらしくて、帰るみたい﹂
﹁そうなんだ。花音ちゃん、おだいじにね?﹂
﹁⋮⋮ええ﹂
158
千絵とみのりの言葉に、背後の花音は妙に深い溜息を吐くと、千
絵の上からのろのろと離れた。
そうして千絵とみのりが見送る中、花音はアパートを出ていった。
ダイニングに戻りながら、﹁わーぉ﹂とみのりがぼやく。
﹁花音ちゃん、あんなビンビンな状態で動いてつらくなかったのか
なぁ﹂
﹁ビンビン?﹂
﹁カズさんはああなったら、出さないとつらいって言ってたから﹂
何のことだと思ったが、みのりは千絵から受け取った毛布に包ま
って枕へ横になると、すぐに寝息を立てて眠ってしまった。
千絵も冬子へ毛布をかけて、枕を頭の下へ置く。自分も毛布を被
り、その日はみんなでダイニングで雑魚寝した。
※
翌週の月曜日。
その日は冬子やみのりが単位互換対象先である他大学で授業を受
けていたため、昼食は別々だった。千絵は花音と大学外で落ち合い、
二人で食べることにした。
イタリアンカフェでパスタを注文し、食べる間、花音から妙にそ
わそわした気配を感じる。
﹁花音、どうしたの? なんだか今日は上の空って言うか、仕事が
気になるほど忙しかったりする?﹂
﹁いえ、仕事はまぁ忙しいけれど。そうじゃなくて、その⋮⋮この
前チエの部屋で飲んだ時に⋮⋮﹂
159
﹁ああ、楽しかったよね! 最後の方は酔い潰れてみんな寝ちゃっ
ててさ。花音てばいつの間に帰ったの?﹂
﹁え?﹂
あの日は朝起きたら、花音がいなかった。冬子やみのりに聞いて
も、いつ帰ったか覚えていないと言う。
﹁鍵はかかってたし家に鍵もあったから、誰か見送ったのかなって
思うんだけど。食器とか片付けてくれたのも花音? なんか何から
何までゴメンね、助かったよ﹂
﹁チエ、覚えていないの⋮⋮?﹂
﹁え? 何かあった?﹂
花音がこちらを凝視するほどのことがあっただろうか。
記憶を遡るが、酔い潰れるほどに楽しく飲んだ記憶しかない。
﹁ごめん、覚えてないかも。何かあったっけ?﹂
﹁ええと、何から言えばいいのか⋮⋮﹂
ううんと唸ったあと、花音が意を決したように千絵を見つめ、口
を開いた。
﹁チエ、実は私、ずっと好きな人がいたのよ﹂
﹁好きな人?﹂
花音自身の恋愛話は珍しい。というか、もしかしたら初めてに近
いかもしれない。
千絵も若干前のめり、ふんふんと耳を傾ける。
﹁いえ、違うわね。好きじゃないわ。愛してるの﹂
160
﹁愛⋮⋮﹂
その気持ちは、こうして見つめられる視線や声音から、とても真
剣なものだと伝わってきた。
こちらまでドキドキと胸を高鳴らせながら、それでと先を促す。
﹁私はどうしてもその人と離れなきゃならなくなって、それでも連
絡を取り合っていたんだけれど。⋮⋮ある日突然、相手からの連絡
が無くなったのよ﹂
﹁連絡が⋮⋮﹂
﹁その頃私は仕事のことでトラブルがあって、身動きが取れなかっ
たの。ようやく身動きが取れるようになったんだけれど、その⋮⋮
おちい
特殊な状況下に置かれたと言うか、そう選択をせざるを得ない状況
に陥ったのね﹂
﹁そうなんだ⋮⋮﹂
花音の説明は漠然としていたが、それでも苦い表情から、とても
難しい状況に置かれたんだろうと言うことが分かる。
口にしたくないことは無理に口にしなくていいからと気遣う千絵
に、花音はありがとうと苦笑した。
﹁連絡が途絶えたと言うことは、私とは違う相手に興味を持ったん
だろうと思った。でも、どうしても、一目でも姿を見たくて⋮⋮会
いに行ったの﹂
﹁会えたの?﹂
﹁ええ、会えた。とても素敵に成長してた﹂
﹁そっか﹂
その時のことを思い出しているのか、こちらを見て微笑む花音は、
とても幸せそうだった。
161
﹁私、自分に自信がなかったのよ。胸を張ってその人の前に出られ
るほど、自分が成長できたとは思えない。でも、もう自分を偽るの
は耐えられなくて⋮⋮﹂
花音はごくりと一度息をのみ込むと、じっと千絵を見つめて聞い
てきた。
﹁チエは、今誰かに恋をしている?﹂
﹁恋⋮⋮﹂
その言葉を聞いて胸によぎるのは、過去に強く想いを寄せた、響
の姿だけだった。
千絵は視線を落として、首を横に振った。
﹁ううん、していない﹂
﹁それじゃあ、チエ⋮⋮﹂
﹁たぶん私、もう新しい恋はできないと思う﹂
﹁え?﹂
驚いた表情で固まる花音に、千絵はごめんねと苦笑した。
﹁私も花音と同じように凄く好きな人がいたの。たぶん、愛してた
んだと思う。でも五年くらい前に失恋しちゃったんだ﹂
﹁五年前⋮⋮﹂
﹁その人以外のことが考えられなくて、今でも誰にも恋できないで
いるんだ。⋮⋮ううん、もう、するつもりもないのかもしれない﹂
﹁⋮⋮新しい恋に失恋したから、手紙を書く気力も無かったのか⋮
⋮﹂
﹁花音?﹂
162
何事か呟いた花音は、先程までとは打って変わって沈んだ表情で
胸を押さえていた。
自分の発言が花音の気持ちを暗くさせてしまったのだと気付き、
千絵は﹁大丈夫!﹂と花音を元気づけた。
﹁花音、これは私の話だし。大丈夫だよ! 花音がそんなに想って
いる相手なんだから、花音の気持ち、きっと相手も嬉しいと思って
くれるよ﹂
﹁チエ⋮⋮﹂
﹁もしかしたらその人にも事情があって、花音と連絡を取っていな
かったかもしれないじゃない? 私、花音ってすごく素敵だと思う
よ。私の理想の女性像って言うか、お姉さんって言うか﹂
﹁お姉さん⋮⋮﹂
﹁そんな花音に想われて、その人は幸せ者だよ。想いが通じ合った
らそれが一番いいけど、ままならない現実があるのは、私も理解し
てるつもり。でも、相手を想うのは自由なんだからさ。さっき、花
音は﹃自分を偽るのが耐えられない﹄って言ってたけど、偽る必要
なんてないんじゃないかな。偽らずに、自分の気持ちを大切にしよ
うよ。花音も、私も﹂
﹁チエも?﹂
﹁うん。私、なるべくあの人のことを忘れようとしてた。でも同じ
くらい忘れたくもなくて、ずっと深くは考えないようにしてた。で
ももう、そういう風に自分をごまかすのはやめる。私はその人が好
きで、愛してるんだ。花音もでしょ?﹂
﹁⋮⋮ええ。好きで、愛してるわ﹂
それじゃあと千絵は小指を立てて前にかざした。
花音もやるよう言うと、戸惑いながらも花音が小指を立てる。
お互いの小指を絡めたら、花音がピクリと肩を震わせた。
163
﹁花音。お互い気持ちを偽らないで、相手を想うようにしようね。
私もこの気持ちが燃え尽きるまで、想うって決めた﹂
﹁⋮⋮チエの気持ちは、早く燃え尽きちゃえばいいのに﹂
﹁花音?﹂
﹁何でもないわ。ええ、そうね。偽りなく相手を想うわ。まぁ私の
場合は、偽りようのないくらい愛してるし、燃え尽きることがない
くらい深くて重くて大きい想いだから﹂
そう言って絡めた小指に力を込めて艶然と微笑む花音に、千絵は
飲まれそうなほど圧倒された。
﹁私、やっぱり花音が理想の女性像だよ﹂
うっとりと告げた千絵の言葉に、花音は肩をすくめて苦笑いをこ
ぼしていた。
164
夢でもいいから
※
﹁今日も花音ちゃんはお休みかぁ﹂
昼休み。構内のカフェでランチを食べていたみのりが、四人掛け
のテーブルの空席を眺めながらぽつりともらした。
弟の手作り弁当を頬張っていた冬子も、﹁そうだね﹂と頷く。
﹁今日で三日目だしね。千絵、花音から何か連絡ないの?﹂
﹁うん、ないんだ﹂
テーブルに置いてある千絵のスマホに皆で視線を向けるが、タイ
ミング良く花音から連絡が来るということはなかった。
今日は木曜日。月曜に花音と二人でランチをして別れてからこの
三日、花音は大学を訪れていない。
﹁花音ちゃん、インフルの流行先取っちゃったのかなぁ?﹂
﹁用事で出てるとかならいいけど、一人暮らしで体調崩してたら心
配だね。あれ、花音の家って実家だったっけ?﹂
﹁そういえば聞いたことないかも。チエちゃんは花音ちゃんの家の
こと知ってる?﹂
﹁いや、私も知らない﹂
思えば花音は聞き上手で、あまり自分のことを話したりはしない。
165
それが月曜日、千絵に好きな人の話を打ち明けてくれた。結構す
ごいことだったなと思うと同時に、打ち明けてくれたことが嬉しか
った。
その花音が三日間の音信不通。﹃お昼どうする?﹄というLIN
Eのメッセージへも、この三日既読がつかない状態だ。
最初は忙しいのかと思っていた。けれど二日、三日と経った今で
はみのりや冬子が言うように、体調が心配だった。
初めて会った時も花音は空腹で倒れこむほどだった。仕事も忙し
いようだし、疲れが出て寝込んでいないか心配だ。
千絵はみんなの前でもう一度、LINEに﹃大丈夫?﹄と打ち込
んだ。
メッセージの既読はつかない。電話をしてみるが、花音が出るこ
とはなかった。
﹁花音ちゃん電話にでなかった?﹂
﹁うん﹂
﹁花音、何事もないといいね﹂
﹁うん⋮⋮﹂
﹃ゴーコンですよ!﹄のグループメンバーから、今週末の合コン
はないのかメッセージがいくつか届いている。
今週は都合が合わなくてと、千絵はメッセージを送った。なんだ
か、合コンをセッティングする気になれなかった。
四限の授業を終えた千絵は、夕方からショップのバイトへ向かっ
た。
大学に上がってからバイトを始めたこの店は、国内外のブランド
の中でもオーナーが好みで調達した服飾品や雑貨を扱う、セレクト
ショップだ。
166
平日だが、大きな駅の通りから一本脇に入った道路に面したこの
店は、いつもならほどほどに客の出入りがある。今日は雨が降って
いるため、客足が途絶えがちだ。
十九時過ぎ。ふわふわのハンディワイパーを片手に店内を掃除し
ながら、商品を整えていた千絵は、ドアベルの音で顔を上げた。
来店したのは、長身の東洋系男性と小柄な西洋系の女性だった。
﹁いらっしゃいませ﹂
千絵の声に、黒髪の男性が微笑んだ。その表情には親しみが込め
られている。どこかで見覚えがあるような気がしたが、以前来店し
た客だろうか。千絵も笑顔で会釈した。
男性は横へ流した長い前髪をかきあげると、ワイン色の細身のパ
ンツからハンカチを取り出し、隣の女性に渡した。
﹁アニー、これで眼鏡を拭いて﹂
﹁⋮⋮ん﹂
こくりと頷く女性のしぐさが、少し幼い。大きな黒ぶちの眼鏡を
外すと、男性から受け取ったハンカチで黙々と眼鏡を拭き始める。
男性はアニーと呼んだ女性をその場で待たせ、一人千絵の方へと
歩み寄ってくる。
﹁こんばんは﹂
﹁こんばんは﹂
にこにこと笑顔であいさつされて、千絵もあいさつを返す。相手
がフフッと笑った。
商品を購入に来た客と言う感じがしない。どちらかというと、誰
かを尋ねて来た風だ。
167
﹁店長にご用ですか?﹂
裏で仕事をしている店長は顔が広い。どこでどう知り合ったのか、
様々な職種の人との繋がりがあり、千絵も何度か店長の知人を紹介
してもらい、合コンをしたことがある。
来店した二人も店長の知り合いだろうかと目星を付けたが、男性
は﹁いいえ﹂と首を横に振った。
﹁うちの相方がお世話になりました﹂
﹁え?﹂
﹁ある日突然生気を取り戻したと思ったら、それ以来昼になるとそ
そくさと行方をくらますの。なんでかな∼と思ってたら、ナルホド。
ちゃっかりリフレッシュしてたんだ﹂
昼と言うフレーズに、千絵はもしかしてと目を瞬かせた。
﹁もしかして、花音の知り合いですか?﹂
千絵の問いに、相手はグレーのニットカーディガンの裾を口元に
当てて、クスクスと楽しそうに笑っている。
声も容姿も成人の男性だが、何だかひとつひとつのしぐさに雰囲
気があり、不思議と色気を感じる人だった。
﹁アレ、煮詰まって具合悪くしてるから。様子を見に行ってくれる
と助かるんだけど。これ、鍵と住所ね﹂
そう言って差し出された鍵とメモを、千絵は思わず受け取った。
﹁⋮⋮ユズ﹂
168
﹁わかってる、アニー。すぐ行くから﹂
店の扉の前で立っていた女性がぽつりと男性を呼ぶと、はいはい
と男性が手を振る。そうして千絵に肩をすくめて笑った。
﹁あの子、さっきからお腹が減ったって聞かなくて。これからあの
子の相手をしなきゃいけないから、ソッチをよろしくね﹂
﹃ソッチ﹄と受け取った鍵とメモを指さされて、千絵は頷いた。
やはり花音は体調を崩していたのだ。寝込むほどなのかは分から
ないが、差し入れを持って様子を見に行こう。
花音を心配する千絵に、男性はまた嬉しそうに笑った。
﹁それじゃよろしく。チエ﹂
﹁え?﹂
どうして名前をと驚く千絵に、相手はパチリとウィンクをひとつ
残して、女性と共に店を出ていった。
すぐそばに停めてあった車に乗ると、二人は夜の街並みに消えて
いった。
﹁私の名前、花音から聞いたのかな⋮⋮?﹂
千絵は受け取った鍵とメモに目を落とした。メモにはこの店の最
寄駅から数駅先の、とあるマンションの住所と部屋番号が書かれて
いた。
確か男性はユズと呼ばれていた。女性は、アニーだったか。花音
の仕事仲間だろうか。
﹁花音、大丈夫かな﹂
169
﹁どうしたの、おチエ?﹂
﹁あ、リャマネェさん﹂
もりやま
裏からファイルを持って店内に顔を出したのは、守山こと、通称
リャマネェ。千絵をおチエと呼ぶ、この店の店長だ。
見た目は男、性別はオネェなのだという店長は、以前軍隊に所属
していた経験があるらしく、筋肉隆々のワイルダーだ。しかし瞳は
少女のようにつぶらで、フッサフサの自前まつ毛にはマッチ棒が乗
るらしい。
リャマネェの愛称は昔、近所に住んでいたとある少年が、瞳がリ
ャマのようだからと、守山にちなんでリャマネェと呼んだことがき
っかけらしい。昔千絵にサイダーというあだ名をつけた松田少年を
思い出したが、まさかなと千絵は首を振った。
ふと目を瞬かせると、千絵は﹁ああそうか﹂と呟いた。
﹁わかった。さっきの人、リャマネェさんに雰囲気似てたんだ﹂
﹁アラヤダ、アタシのお仲間が来てたの? や∼ん、会いたかった
のに。ザンネン!﹂
男性なのに妙に色気のある、物腰のやわらかい人が来店したこと
を告げると、リャマネェは﹁ヤダ、食べちゃいたいわぁ!﹂と悶え
た。
﹁リャマネェさん、それって共食いになっちゃうんじゃなくて?﹂
﹁食べ合いっこも楽しぃのよぉ? ってヤーダァ、何言わせるのお
チエったら!﹂
ドシリっと肩を押されてちょっと痛い。
どうやらうちの店のリャマさんは、肉食のようだった。
170
友人が体調を崩しているらしいことを告げると、リャマネェから
﹁早く見に行ってあげなさい!﹂とバイト終了命令を下され、二十
時を待たずに千絵は店を出た。
まだ駅前のスーパーが開いていたので、プリンやゼリー、スポー
ツ飲料水に加えて、お米や魚、豆腐といった食材を買って、電車に
乗る。
結局メモの住所に着いたのは、二十一時近くだった。
七階建ての綺麗なマンションの入り口で、パネルに部屋番号を押
して呼び出すが、花音が出ることはなかった。
﹁鍵預かったくらいだし、いいんだよね?﹂
鍵を使ってエントランスを抜けると、最上階へ向かう。最上階に
は部屋が二つしかない。どうやら花音の家は大きいようだ。
七○一号室。表札はないが、鍵を挿すと扉が開いた。
玄関には靴が二足置いてある。男性物と女性物だ。
﹁大きい部屋っぽいし。花音って、誰かと同居してるのかな?﹂
この鍵を渡してきたユズという男性だろうか。アニーという女性
を含めて、仕事仲間と同居しているのか。もしかしたらここは、事
務所も兼ねているのかもしれない。
﹁お邪魔します。花音、いるの?﹂
センサーで明かりのつく廊下の両脇に、いくつか扉がある。
171
手近な扉を開くと、そこは誰かの部屋になっていた。奥のベッド
に、眠っている人影が見える。
﹁花音?﹂
声をかけるが、静かな寝息が続いたので、千絵はそっと扉を閉め
た。
おそらく今のが花音だったんだろう。深く眠っているのなら、寝
かせておいた方がいいのかもしれない。
その間自分は、花音が起きたら食べられるように、食事を作って
おこう。
廊下の突き当たりの扉を開くと、広いリビングダイニングになっ
ていた。カウンター奥のキッチンに食材を置く。どうやら自炊はで
きる程度に調理器具も揃っているようだった。
上の棚から小さな土鍋を見つけると、千絵はお米と鯛の切り身で、
鯛雑炊を作っていく。一緒に湯豆腐も出そうと思い、小鍋にだし汁
を作り、切った豆腐を浸しておいた。
少しほこりの積もっていたリビングを拭き掃除している間に、雑
炊ができあがる。火を止めて雑炊を蒸らしながら、千絵は先程の花
音の部屋に足音を忍ばせて向かった。その手には、体温計。花音の
家にあるかどうか分からなかったので、通りがかりの薬局で購入し
たものだ。
花音の部屋の扉を開けると、未だ花音は小さな寝息をたてて眠っ
ていた。
廊下からの明かりだけでは様子が分からず、千絵は花音の部屋の
中へ入らせてもらった。
枕元のそばにサイドチェストが置かれており、その上に小さなラ
イトが設置されている。ボタンはどれだろうか。探している間に、
172
ベッドの中の花音が身動いた。
﹁⋮⋮だれ﹂
﹁あ、起きた? 大丈夫? 声がずいぶんかすれてるし、低いけど﹂
﹁⋮⋮チエ?﹂
﹁そう。具合悪くなったって聞いたから様子見に来たんだ。ご飯作
ったけど食べられそう? ねぇ、このライトのボタンってどこ⋮⋮
あ、ついた﹂
ぱっと付いたオレンジ色のやわらかい明かり。廊下の電気はすで
に消えていたため、暗い場所で急に付いた明かりに目がくらんでい
ると、横から手が伸びてきた。
﹁わ!?﹂
突然強く引かれて、千絵はベッドに倒れ込んだ。体温計が手から
離れて飛んでいく。
花音を下敷きに倒れ込んでしまったため、慌ててどこうとしたが、
はがいじめに抱きしめられて身動きが取れなくなる。
﹁ちょ、っと、くるしい⋮⋮っ﹂
花音。そう呼ぼうとした口が、何かに覆われる。
手じゃなかった。見開いた視界いっぱいに、誰かのまつ毛と髪が
映る。花音のものよりもサラサラとした、短い髪。
一体何が起こっているのか理解する前に、口内に熱い舌が潜り込
んでくる。
﹁⋮⋮っ!?﹂
173
キスされている。そう理解してあげた悲鳴は、相手の口内に吸い
込まれていった。
悲鳴をあげ損ねた拍子に開けてしまった唇を、さらに大きく食べ
るように重ねられて、千絵はやみくもにもがいた。
相手の服をつかんで引っ張り、背中を叩き、爪を立てる。けれど
息すら飲み込むようなキスで酸欠になるわ、ぐるりと身体を半回転
むさぼ
させられて、全身でのしかかられるわ。手も足も次第に動かなくな
り、ぴくぴくと震えるだけの千絵の唇を、相手は長い間貪ってきた。
﹁⋮⋮はぁ﹂
ようやく大きく息を吐きながら、相手がとろりと透明な糸を引く
舌を、名残惜しそうに千絵の口内から引き抜いていく。
その頃には涙をこぼして意識を朦朧とさせていた千絵だったが、
ようやく送られてきた酸素を懸命に肺へ送り、軽くむせ込んだ。
﹁チエ⋮⋮﹂
間近で囁くように名前を呼ばれて、千絵は目を凝らす。何度も瞬
きをして、目尻に溜まった涙を払う。両手は相手の両脇に挟まられ
てしまって、使えなかった。
オレンジ色の光に照らされたのは、花音ではなかった。
白い肌。グリーンの瞳。明かりに照らされてオレンジがかった、
ダークブロンドの髪。
記憶の中で何度も思い出しては胸を痛ませていた、あの優しい表
情で、目の前の人物が名前を呼んでくる。
﹁チエ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮ひびき?﹂
174
震える声で呼び返すと、相手の目が細められた。
﹁うそ、どうして響がここに⋮⋮﹂
﹁⋮⋮もういい加減見飽きたのに、また俺はこんな夢を見るんだな
⋮⋮﹂
﹁夢?﹂
響はどこか虚ろな瞳のまま顔を伏せると、千絵の首筋に頬を擦り
寄せてきた。
﹁⋮⋮目が覚めて、隣にチエがいない現実に、何度気落ちしたか知
れないのに。それでもこんな夢を見ることを止められない⋮⋮いつ
までも馬鹿なんだ、俺は⋮⋮﹂
﹁響、何言ってるの⋮⋮?﹂
夢がどうのと響が小さな声で呟いていたが、突然の想い人との再
会で動揺していた千絵は、自分の鼓動がうるさくて聞き取れなかっ
た。
目の前に響がいる。あんなに会いたかった彼がいる。
これは夢だろうか。そう言えば、響が夢だと言っていた。つまり
これは、夢なのか⋮⋮?
﹁どど、どうしよう、わけわからなくなってきた⋮⋮っ﹂
﹁チエ、大好きだよ﹂
﹁響⋮⋮﹂
甘く囁かれる言葉と、重なる熱い唇。
こんなに都合の良い現実があるだろうか。
ずっと焦がれていたものが目の前にあるなんて。
175
﹁⋮⋮ゆめ、なのかな﹂
﹁夢でもいい。チエに会えるなら﹂
﹁私も⋮⋮響に会えるなら、夢でもいい﹂
熱に浮かされたように、千絵は響とキスを交わしながら、その首
に両腕を回した。
176
妄想的熱暴走
お互いの境界が分からないほど深いキスを繰り返した後、ちゅっ
ちゅっと音を立てながら、響の唇が千絵の顎から喉をつたい、吸い
ついてくる。
服の下に潜り込んだ両手が、両胸をじわりじわりとすくうように
揉み上げてきて、体の熱が内側から高められるようだった。
﹁ひ、びき⋮⋮っ﹂
﹁チエの胸、すごくやわらかくて、綺麗だ⋮⋮﹂
﹁あ⋮⋮っ﹂
服が捲くれ上がり、揉み寄せられた胸がこぼれ出る。そのふくよ
かな谷間に響が顔を埋め、キスを落としながらうっとりと熱い溜息
を吐いてくる。
﹁ずっと、別れたあの時の姿しか知らなかったから⋮⋮。この間胸
の大きさを聞いたときは、本当に驚いたし⋮⋮時の流れを感じたな﹂
まぁ、再会した時から随分美味しそうだとは思ったけど。と、千
絵にはよく分からないこと呟きながら、響が下着からこぼれるやわ
らかなふくらみに舌を這わせてくる。
﹁チエは知らないんだろうな⋮⋮会うたびにどんどんチエへの気持
ちがつのって、無防備にそばへ寄ってくるたびに、あのカフェで俺
がどんなこと考えてるかなんて。⋮⋮いつも頭の中で、チエにこん
177
なことしてるのに⋮⋮﹂
下着をずらし、ふるりとまろびでてきた千絵の胸の頂きを、響が
ぱくりと大きく口に含んでくる。そのまま音を立てて舌を絡められ、
片方の胸も大胆に手でこねまわされると、千絵はびくりと背をそら
して首を振った。
﹁あ、やだ、ひびき! だめっ、そんな急にしたら私⋮⋮っ﹂
﹁んっ、凄いな。今日の夢は、今まで見た中で最高かもしれない⋮
⋮。チエの肌も、声も、表情も、何もかも甘くて、頭がおかしくな
りそうだ⋮⋮﹂
ここも、と吸いつく胸を変え、頂きに何度も舌を絡めながら、ち
ゅぷちゅぷと口に含んだり唇ではさんだり、感触を楽しんでくる。
先程まで口内で弄ばれていた胸には指が這わされ、濡れた頂きを
執拗にこね上げた。
﹁ピンク色で綺麗で⋮⋮口に含むとぴくぴくふるえて、可愛い⋮⋮。
甘くて、硬いのにやわらかくて、ずっと味わっていたくなる⋮⋮﹂
﹁ふっ、うぅぅ⋮⋮っ﹂
﹁本当に、いっそこのまま、チエを食べたくなる⋮⋮﹂
﹁んっ、んんんーっ!﹂
コリっと頂きを軽く歯ではさまれて、一瞬、意識が白い波にさら
われた。
両手で口を覆いながら、全身を大きく震わせる。
下腹部からジュン⋮っと熱い何かが溢れてくる。体の奥が切なく
て、きゅうきゅうと痛いくらいに何かを訴えている。とっさにシー
ツをつかんだつま先が、攣りそうなほど震えていた。
両手で口をふさいだまま、荒い息を繰り返す。
178
立てた膝の間に入り込んでいた響の体がグッと身動き、切なく疼
く下腹部の服越しに、硬い何かが押し当てられた。
﹁ふっ、あ、ふぅ⋮⋮っ﹂
﹁チエ、コレはダメだよ﹂
千絵の口を覆う両手に、響が何度もキスを落として囁いた。指を
ほぐすように、隙間へやわらかな舌が潜り込んできて、思わず手を
浮かせた。
﹁うん。いい子﹂
そう言って、響が千絵の指をくわえた。優しく擦り這わせられる
舌が、まるでいい子いい子と誉めて頭を撫でる時の感覚に似ていた。
全身の神経が敏感になってしまっているのか、響の舌が指に絡む
だけで、口から意味のない音が漏れていく。下腹部に何度も硬いも
のを押し付けられ、そのたびにビクビクと体が震えた。
ふと胸の圧迫感が消えたかと思うと、気付けば下着のホックが外
されて、腕と首から服がすり抜けていく。響自身も、着ていたシャ
ツを脱ぎ捨てた。
﹁あ⋮⋮響⋮⋮﹂
ショートパンツ以外に何も身に着けていない千絵を、響が体を起
こして上から眺めてくる。その瞳は熱に浮かされ、肌は上気してい
た。
千絵ばかりかと思っていたが、響も息が荒ぎ、深く呼吸をしてい
る。うっすらと浮いた汗が響のこめかみから垂れ落ち、千絵の胸に
散った。
細身だが男性的な筋肉の浮いた響の肢体を見るだけで、千絵の体
179
が切なく疼く。響は男性なのに、どうしてこんなに色気に溢れてい
るのか。
響を見つめるだけで、勝手に息が上がっていく。熱くて喉が渇く。
千絵がこくりと口の中の水気を飲み込むと、響の手がそっと、千絵
の喉を撫でた。
﹁チエって本当に⋮⋮全部がエロい⋮⋮﹂
﹁ひ、響⋮⋮っ!﹂
一瞬、肉食獣に襲われる錯覚に陥った。
そう思えるほど、響は勢いよく千絵に迫り、唇にかぶりついてく
る。全身で千絵をベッドに縫い止めながら、指からあふれる胸を何
度も両手で揉み込んで、敏感な頂きを指の隙間で擦り上げてくる。
﹁んっん⋮⋮! ぷはっ、あ、ああ⋮⋮ひびきっ!﹂
﹁このカラダ、一体どれだけの奴らに触れさせたの⋮⋮。本当に、
ライバルに上も下も男も女も無いんだって、この間痛感した⋮⋮っ﹂
﹁ああ⋮⋮!﹂
胸に噛みつかれ、じゅぅっと音がするほど吸い立てられる。何度
も淡い噛み痕や吸い痕を残しながら、響は千絵の全身に歯を立てて
いった。
肩、腕、わき腹、腰、背中⋮⋮。うつぶせてシーツにすがる千絵
の下半身から、響が呆気なくショートパンツと下着を取り去ってい
く。
﹁や、やだ! 見ないでっ﹂
尻のふくらみへ噛みつき、その奥へと移動していく響に、千絵は
やだやだと首を振った。太ももを広げるようにつかんでくる響の両
180
手に、どうにか手を寄せて、やめてと引っ掻いた。
﹁チエ⋮⋮﹂
﹁響⋮⋮そっちはダメ⋮⋮﹂
七年前に別れた時も、そんなところを見られたことはなかった。
グスグスと涙をにじませながら千絵が懇願すると、響がうっとり
と目を細めて笑った。分かってくれた、とホッとした千絵だったが、
響の両手へさらに力がこもり、足が広げられていく。
驚き見上げた先で、響が妙にギラギラした視線をこちらへ向け、
唇を舐めている。
笑っている。笑っているが、なんだかコワイ。
﹁う、ウソウソウソ⋮⋮響、やだ、まって⋮⋮っ﹂
﹁今日の夢は、とんでもないな⋮⋮﹂
﹁や︱︱やあぁぁんッ!﹂
うる
まって。やめて。本当にダメ。そう泣いてもわめいてももがいて
も、響は千絵の潤んだ下半身から顔を上げることなく、心ゆくまま
貪ってきた。
驚愕と羞恥に身を強張らせたのは始めだけで、強制的に与えられ
続けるどうしようもない快感に、千絵の神経がすり減っていく。
本当にこれは夢なんだろうか。でも夢でなければ、こんな事態あ
りえない。
夢が自分の願望なのだとしたら、自分はこんな風に響へ求められ
ることを望んでいたんだろうか。
まったく望まなかったと言えば嘘になる。千絵だって思春期と言
うものがあり、女子高から大学へと、初心な性知識のまま生きてき
たわけじゃない。響を思い出して、どうしようもなく切なくなった
体を一人でなぐさめたこともある。
181
しかし、これは、なんだか、とんでもない。こんなに激しく千絵
を求める響を、想像したことなどなかった。
﹁ひ、んん⋮⋮っ﹂
後ろから下半身に顔をうずめられ、響の熱い舌が千絵の中を何度
も掻き分け、潜り込んでは引いていく。
片足は抱え込まれて動かせず、もう一方の手で秘部の敏感な芽を
何度も執拗に撫でられて、体の中から熱と共に何かがあふれていく
のが分かる。それを響が、息を荒げながら飲み込んでいく。
﹁も、もうヤダ、ヤダよぉ⋮⋮っ、おかしくなる⋮⋮っ、ひびき、
やだァ⋮⋮っ﹂
﹁チエ⋮⋮可愛い、チエ⋮⋮﹂
﹁ふぇぇぇん⋮⋮っ!﹂
きいてよぉぉ、と足の間から垣間見える響の頭をぐいぐいと押す
が、むしろもっと深くかぶりついてくるので、千絵は泣きながらも
だえるしかなかった。
﹁もう、ムリ、ほんと、ムリ⋮⋮っ!﹂
いつの間にか中に潜り込むものは、響の舌から長い指に変わって
いる。舌よりも深い場所へ何度も触れられ、やわらかい壁を撫でら
れるたびにきゅうきゅうと指を締め付けてしまう。
どんどん溢れていく潤みを利用して、指は増えるし動きは大胆に
なるし、未だに下半身から顔を上げない響は、千絵の敏感な芽に吸
いついている。
﹁あ、あ、⋮⋮あああ⋮⋮っ!﹂
182
びくびくっと体を大きく震わせて、千絵は高みに昇る。きゅうぅ
と一際強く締め付けた中の動きを楽しむように、響が執拗に指で撫
でつけてきて、千絵は何度も細かく体を震わせた。
﹁や、やめて⋮⋮いま、ぜんぶダメ⋮⋮﹂
何をされても体が震えてしまう。ドクドクという自分の鼓動と、
血液が巡る音が耳鳴りのようにうっすらと聞こえる。頭が熱くてど
うしようもない。
のぼせてとろけきった千絵の姿を、響がじっと見つめてくるのが
分かる。でももう、指を動かすのもつらかった。
はふはふと酸素を脳に送ることに専念していると、響が目元にキ
スを落としてくる。千絵の頭を撫で、涙を舐め取っていく響に、千
絵は小さく震えながらすり寄った。
さっきの行為は本当に恥ずかしくて、でもとんでもなく気持ち良
くて、それがまたつらくて、精神的にも肉体的にも疲弊した。
相手が響じゃなきゃ、絶対にできない行為だったと思う。
イヤだ何だと言ったが、こうして千絵を強く求めてくれるという
のは、夢の中だとしても素直に嬉しかった。
﹁ゆめ、なんだよね⋮⋮﹂
﹁チエ?﹂
﹁なんだか本当に、頭がぼーっとして、気持ちがふわふわするし⋮
⋮響とこんなことができるなんて、夢でしかありえないなって思っ
て⋮⋮﹂
﹁俺もだよ。ずっとチエに焦がれてたから。昔のチエにこんな風に
迫ったら、泣いてトラウマになるだろうなって思う。まして今のチ
エが、俺のことを響と呼ぶわけはないし、こんな風にここへ来るこ
ともありえない﹂
183
﹁私、こんなにリアルな夢、初めて見たよ⋮⋮﹂
﹁俺も、こんなに幸せな夢は初めてだな。こんな夢なら、覚めずに
溺れててもいい⋮⋮﹂
自然と額を寄せ合い、唇を重ねる。あたたかい。そこから溶けそ
うなほど、トロリと互いの熱がなじんで、気持ちが良い。
キスに夢中になっていると、響が一度身を引いた。
追うようにキスを求めたら、シーツに後頭部がうずまるほど強く
かぶりつかれた。
同時に背中もベッドに沈み、体の奥に太くて熱くて硬い何かが、
ずるりと潜り込んできた。
﹁んっ、んぐ⋮⋮!?﹂
﹁⋮⋮っ、はあ⋮⋮﹂
ギシリと大きくベッドが軋む。千絵の体も、ギシリと大きく強張
った。
千絵の体を全身でベッドに押し付けたまま、響が下腹部の熱塊を
ぎちぎちと奥深くへ押し込んでくる。
﹁すごく狭い、チエの中⋮⋮﹂
﹁⋮⋮っ﹂
痛い。熱い。体の中のとんでもない場所まで、自分のものじゃな
い体温が入り込んでいる。
あまりの衝撃に声を出せず、息を止めながら千絵は震えた。
﹁チエ⋮⋮﹂
キスを求められても、応える余裕がない。
184
縮こまった千絵の舌引きずり出して絡められ、何度か唇を重ねら
れることで、千絵は呼吸というものを思い出した。
呼吸を思い出すと、どっと体に感覚が戻っていく。
痛い。苦しい。突然熱塊に奥までこじ開けられた体は、冷や汗を
かいていた。
﹁ひ、ひびき⋮⋮っ﹂
﹁うん、ごめん。気持ち良すぎて、出そうだったから⋮⋮大丈夫、
今動くよ﹂
﹁ち、が⋮⋮っ﹂
違う。動かないで欲しい。そのまま何もしないで、身動きすらと
らないで。
そう言いたいのに痛みで舌がこわばり、呂律が上手く回らない。
その間にも、響の律動は始まってしまった。
﹁あ、はっ⋮⋮チエ、チエ⋮⋮﹂
﹁ひ、ぅぅ⋮⋮っ﹂
ズルっズルっと、とんでもない大きさのモノが自分の中を出入り
している。熱くて火傷しそうな熱が、体の奥の深い部分まで入り込
んで、千絵を内側から貪っていく。
怖い。痛い。いくら大好きな響のものだとしても、これは強烈す
ぎる。
身を強張らせたまま千絵がカタカタと歯を噛み鳴らして耐えてい
ると、熱塊をギリギリまで引き抜いた響が、千絵の様子に気付いた。
﹁チエ? ⋮⋮今日の夢のチエは、こういうことは初めてなのかな﹂
﹁⋮⋮ん、う⋮⋮っ﹂
185
震えながらコクコクと頷くと、響がくすりと微笑んだ。
﹁そっか、ごめんね。じゃあ、やさしくしないと﹂
﹁あっ⋮⋮ふぁっ﹂
先端の太い部分がくぷくぷと何度も入り口を浅く刺激してきて、
千絵は先ほどとは別の意味で身を強張らせた。
﹁ここ、前の方がきもちいい?﹂
﹁あ、あっ、ん⋮⋮っ﹂
思わず小さく頷きながら涙をこぼすくらい、気持ちが良い。最初
は浅く、次第にじわりじわりと響の熱が半ばまで入り込んでは引い
ていく。そのたびに、きゅぅっと切なく疼く甘い感覚が身に降り積
もり、思わず自分から腰を押し付けてしまう。
けれど少しでも痛かったり怖かったりして腰が引けると、響もそ
れ以上奥へ無理矢理入り込んでこようとはしなかった。
だから安心して響に身をゆだねることができた。
﹁ふっ、⋮⋮チエ⋮⋮っ﹂
﹁あ、響、ひびき⋮⋮っ﹂
身をゆだねると体の緊張も解け、響の律動が早まっていく。何度
も響の熱で内壁を擦り上げられ、千絵が甘い声だけをあげるように
なった頃、響がキスをしながらググッと深く熱塊を潜り込ませてき
た。
﹁ん、ふぁ⋮⋮っ﹂
けれど先程のような痛みや恐怖はなく、むしろ今までないくらい
186
の愛おしさがこみ上げてきて、千絵は響の肩にしがみついた。
﹁ひ、ひびき⋮⋮!﹂
﹁うん。チエ、いたい?﹂
﹁いっ、たく、ない⋮⋮っ。もっと、響がほしいよ⋮⋮﹂
﹁チエ⋮⋮俺も、欲しくてたまらない﹂
ぐぷっと音がするほど深く突き上げられたかと思うと、千絵の両
足を抱えて、響が腰を打ちこんでくる。
痛くない。気持ちいい。声が止まらない。目の前で汗を散らし、
何かを必死で追うように目を細めて律動する響を見ると、愛おしく
てたまらない。
﹁チエっ、チエ⋮⋮チエの全部、俺で満たしたい⋮⋮っ﹂
﹁わ、わたしも、響でいっぱいになりたい⋮⋮!﹂
﹁チエ、可愛い、愛してる、チエ⋮⋮﹂
﹁わ、わたしも、好きぃ⋮⋮!﹂
どくどくっと体の奥まで放たれる熱の奔流に、千絵はくうっと体
をのけぞらせて耐えた。
﹁あ、あつぃ⋮⋮おなか、とけちゃう⋮⋮﹂
﹁俺はチエの中で、溶けそう⋮⋮﹂
溶けそうだと言いながら、きゅうきゅうと引き絞るチエの中で、
響の熱塊はすぐに硬さを取り戻していく。
﹁あっ、ふ、ひびき⋮⋮まだ、動いちゃ⋮⋮っ﹂
﹁チエ、いっぱい溶かしてあげる⋮⋮﹂
187
マウントを取られたままのしかかられて、千絵は抵抗するすべも
なく再び響の勢いにのまれていった。
時間を忘れて繋ぎ合った体は、もうどこを触れても水音が立つ。
朦朧とする中、夢の響を忘れたくなくて、震える手を伸ばす。
温かな手に握り返されたところで、千絵の意識は暗転した。
188
夢じゃなかったけど夢であってほしかった
とても幸せな夢を見た。
初恋の人とつながる夢だ。
昔と変わらず、何度も千絵に愛を伝えてくれる彼は、でも昔より
も大人になっていた。
経験はなくても友人や知人から得た︵流れ込んでくる︶様々な性
知識のおかげか、随分とリアルに行為を夢見てしまった。
彼を想って自室のベッドでこっそりと自分を慰めた夜も、あんな
に大それた想像はしなかったというのに。夢は、余すところなく千
絵の性知識を総動員して︵ときには知識を大きく上回って︶、千絵
に濃厚な一夜を過ごさせてくれた。
おかげでなんだか体がだるい。あたたかな上掛けも、頬にあたる
シーツも、自分の家のものじゃないように思えてしまう。夢の中の
彼の、残り香まで感じてしまいそうなほどだ。
︵ああ、私重症だ。響のこと、あんな風に夢見るなんて⋮⋮︶
目を閉じてまどろみながら自分の夢を反省していると、ギ⋮ッと
ベッドが微かに沈んだ。
知らないうちに自分は身動いただろうか。
うっすらと目を開けると、視界に淡くオレンジがかった光が差し
込んでくる。すぐそばに、ぼんやりとした誰かの輪郭︱︱。
︵⋮⋮輪郭?︶
189
ぱちっと目を開けると、相手と目が合った。相手は上体をやや起
こした体勢で、固まったままこちらを凝視している。
白い肌。光を透かすダークブロンドの髪。グリーンの瞳は驚きで
見開かれている。
﹁﹁⋮⋮ウソ﹂﹂
ぽつりと落ちたお互いの呆然とした呟きは、見事なシンクロ率だ
った。
﹁︱︱っ、きゃあぁぁぁぁ!!!﹂
﹁わあぁぁぁぁ!!!﹂
お互い目をかっぴらいて悲鳴を上げる。
﹁きゃあぁぁぁぁ!!﹂
﹁わあぁぁぁぁ!?﹂
上掛けに包まったままその場を逃げようとした千絵はベッドから
落下し、その姿を目撃した響が悲鳴を上げた。
﹁チエ、大丈夫か!?﹂
頭まで全身スッポリと上掛けに包まったまま、床で震える千絵。
響がベッドを下りて声をかけてくるが、何も返せなかった。
だって、夢だと思っていた。あれらの出来事は全て、夢だからこ
そできたし、自分も受け入れられた。
しかしそれが現実だったなんて⋮⋮ずっと想い続けていた響とと
んでもない時間を過ごしていただなんて。
190
夢だけど夢じゃなかったなんて喜べるのは植えた種が芽を出した
ときくらいくらいのものだ。これは喜べない。夢じゃなかったけど
夢であってほしかった事態だ。
﹁夢じゃなかったけど、夢であってほしかった⋮⋮っ﹂
﹁チエ? ごめん、ボソボソ言ってて聞こえない。どこか痛めた?﹂
﹁わ!?﹂
上掛けごと抱えあげられて、再びボスリとベッドの上に戻される。
そのまま頭側から手がさし込まれ、額から後頭部を撫でられた。
﹁頭打った?﹂
﹁う、打ってない﹂
フルフルと上掛けの中で頭を振ると、﹁そうか﹂と響の気配が足
元へ移動した。躊躇なく足元の上掛けがめくられ、足首を持たれる。
﹁ぅひゃあ!?﹂
﹁足首ひねったりしてないか? 背中の打ち身とか⋮⋮﹂
﹁大丈夫、大丈夫だからっ!﹂
もうさわらないでと上掛けで体を隠しながら、千絵は涙ぐんだ。
まさか、そんな、こんな形で﹃初めて﹄を散らしてしまうなんて
思わなかった。
相手に不満があるワケじゃない。むしろずっと焦がれていた相手
に、初めてを捧げられて幸せなくらいだ。でも、自分の意識がいけ
なかった。完全にリアルな夢だと思ってしまっていた。
せっかくの初体験が、思い出すと頭が爆発しそうなほど恥ずかし
い、愛欲まみれの一ページになってしまった。
途中から記憶も飛び飛びだが、色々とされたりさせられたり、し
191
たり言ったり言われたり。断片的な場面を思い出すだけでお腹の奥
がキュウキュウと疼いて、何かが下腹部からとろりとあふれ出して
いく。
とろとろとあふれ出したら止まらないソレは、響が出したものだ。
生理の重たい千絵はピルを飲んで調節しているので、今日は大丈
夫のはずだ。少しヒヤリとしたが、ピルはスキンよりも避妊率が高
いことを思い出す。
しかし本当に、あふれて止まらない。どうしよう。ティッシュを
もらおうか⋮⋮。
赤い顔を上掛けからそろりと出して、ベッドサイドのどこかにテ
ィッシュはないかと探していると、裸の響が下を見て愕然としてい
るのに気が付いた。なんだか響の顔が青い。
﹁⋮⋮最悪だ﹂
そう呟いた響の視線の先には、微かに赤いシミの付いたシーツが
あった。
今度は千絵の顔が青ざめた。
﹁⋮⋮チエ、もしかして初めてだった?﹂
﹁え、あの、いや⋮⋮﹂
響も千絵がこの場にいたことに驚いている様子だ。つまり響は、
千絵と同じくアレらの行為を夢だと思っていたか、記憶自体が飛ん
でいるかしているんだろう。
ここで素直に﹃初めてでした﹄なんて答えた日には、響が罪悪感
にさいなまれるかもしれない。今も可哀想なくらい青ざめていて、
自分の行いを猛省している様子が伝わってくる。
響の負担になりたくはなかった。これは事故みたいなものだ。自
分も夢だと錯覚して、流れに乗ってしまった。これは自己責任だ。
192
千絵は﹁ううん﹂と、しっかりと首を横に振った。
﹁大丈夫、初めてとかじゃないから﹂
﹁⋮⋮チエ、初めてじゃないの⋮⋮?﹂
﹁そう。だから気にしないで﹂
スマートにシャワーでも借りようか。そう思って上掛けで体を隠
しながら起き上がったら、響に手首をつかまれた。
﹁響?﹂
﹁でも、血が出てた。俺はチエに、血が出るほどひどいことをした
んじゃないのか?﹂
千絵の手首をつかむ響の手は、微かに震えていた。悲壮な表情で
千絵を見つめてくる。
﹁言い訳になりそうだけど﹂と前置いて、響が苦い声で言う。
﹁最近仕事が忙しくて、色々と理性が限界なこともあったりで、睡
眠もろくに取れない日が続いてて⋮⋮﹂
何日かぶりにまともにベッドへ横になったら、チエがそばにいた
ので、夢と思ったのだと言う。
﹁夢だと思って、俺、随分好き勝手にしただろ。興奮しすぎて、記
憶が飛んでるところもあるくらいだ。気持ち良いことばかり追って、
チエの負担とか全然考えられてなかった⋮⋮怖かったよな、本当に
ごめん﹂
﹁響⋮⋮﹂
﹁でも、誤解しないで欲しいんだ。止められなくてチエにひどいこ
とをしたかもしれないけど、俺はチエのこと︱︱﹂
193
﹁大丈夫。気にしてないから﹂
だからそんなに泣きそうな声出さないで。つらそうな顔しないで。
そう想いをこめて、千絵は震える響の手に自分の手を重ね、首を横
に振った。
﹁響、これは事故だよ。私も響もお互い夢だと思っちゃったってい
う、マヌケな話。七年ぶりの再会がこんな形になっちゃったけど、
お互い水に流そうよ﹂
﹁間抜けな話⋮⋮? 水に流す⋮⋮?﹂
﹁そう。大丈夫、私そんなに気にしてないから。私も夢だと思って
たし、そんなに覚えてないから﹂
いまし
ウソだ。結構覚えている。でも今は回想に浸っている場合じゃな
いと、千絵は自分を戒めた。
確かに響の勢いはもの凄くて驚いたし、怖かったこともあるけれ
ど、それ以上につながれた喜びが強かったし、幸せだった。
お互い今は特殊な状況で再会したので、動揺と混乱をしてしまっ
ている。一度別れた方がいい。
自分も家で、ゆっくりと響との行為を振り返りたい。
気を抜けばフラッシュバックのように思い出してしまう濃厚な場
面の数々に顔を赤らめて、そんなことを考えていたら、響の呟きを
聞き逃してしまった。
﹁⋮⋮チエにとって俺は、流せるほどの相手になったのか⋮⋮﹂
手首をつかまれている手にグッと力が込められて、千絵は考え事
から覚めると、目を瞬かせた。
響を見ると、先程までの悲壮な表情は消えている。うっすらと細
められた目が、静かに千絵を見据えてくる。
194
﹁響?﹂
﹁見せて﹂
﹁え?﹂
﹁傷。血が出たって言うことは傷ができたって言うことだ。チエに
傷を付けたままじゃ、申し訳ないから﹂
﹁え? ええ!? ちょっと、やだ⋮⋮!﹂
抵抗しようとした手首を捕われたまま、上掛けをはぎ取られて、
千絵は悲鳴を上げた。
﹁ちょっと、響!?﹂
﹁綺麗な肌。でも俺がたくさん痕付けてるね。この痕のどこからか
血が出てることはない?﹂
﹁ない、から⋮⋮!﹂
痕を辿りながら全身を撫でられ、響が至極優しい声音で尋ねてく
る。
﹁この辺りはとくに痕がすごいね。俺も夢中になってたんだろうな。
切れたりしてない?﹂
﹁して、ない⋮⋮ぅやぁっ、そこ、さわんないで⋮⋮! ふ、ぁ⋮
⋮っ﹂
胸の頂きを摘まれて、もう片方を口に含まれる。舌が這わせられ、
何度も軽く吸い上げられて、千絵はびくびくと背を反らせながら響
の頭を抱えた。
﹁や、んっ、本当に、大丈夫だから⋮⋮! 久しぶりで、ちょっと
中が切れただけだからっ﹂
195
﹁へぇ、久しぶりだったんだ。本当に、最悪だな。興奮しすぎて飛
んでる自分の記憶が、心底呪わしいよ﹂
いつの間にか千絵の手首をつかんでいたはずの響の手は、背中か
ら腰に降り、そのさらに下へ向かっている。
﹁あ、響⋮⋮だめっ﹂
﹁中、切れてるんだろ? ここ、痛い?﹂
﹁ふわ!?﹂
とろりとあふれた自分の蜜や響の出したものを絡めて、潤んだ入
り口に響の指がさし込まれていく。
ズクズクと侵入してくる二本の指の感触をまざまざと感じて、無
意識に千絵の中が狭まった。
これが現実だと理解しているだけに、焦りと羞恥で頭がのぼせ、
息が上がって仕方なかった。その間にもどんどんと響の指は奥へ奥
へと入り込み、千絵の中を探ってくる。
﹁あ、あぁっ⋮⋮﹂
﹁チエ、ここ⋮⋮? ここが痛いの?﹂
﹁い、たくない、から⋮⋮もうはなして⋮⋮っ﹂
﹁痛くないのか。じゃあ、切れたのはもっと奥の方かな。ここは?﹂
﹁うぁんっ!?﹂
ぐりっと指で内側を押さえられた途端、ゾクリと走る快感と耐え
きれず漏れた声に、響の喉がごくりと鳴った。肌にかかる響の息も、
徐々に上がっている。
﹁チエ、ここは? 痛い? 気持ちいい?﹂
196
﹁う、ふぅぅ⋮⋮っ﹂
﹁言われないと分からないから。痛いなら、ここが出血の原因かも
しれないし⋮⋮﹂
﹁い、⋮⋮たく、ない⋮⋮﹂
﹁じゃあ気持ちいい?﹂
﹁うぅぅ⋮⋮﹂
﹁何だかつらそうだけど。痛いんじゃないのか?﹂
痛いんじゃないかと聞きながら、ぐちゅぐちゅと耳をふさぎたく
なるほどの音を立たせて中を探られて、千絵は響の腕にしがみつい
た。
キュウキュウと中が疼いて仕方無い。息を荒げて快感を散らそう
としても、響の指がそうはさせてくれなくて、千絵は涙声で訴えた。
﹁いたくない、き、もちいいから⋮⋮っ﹂
﹁そうか。千絵はここが気持ちいいんだ﹂
﹁あっ、やぁ⋮⋮あぁぁっ!﹂
痛くない。気持ち良いからやめて。そう言いきる前にさらに大き
く指を動かされて、千絵は響の腕にしがみつきながらビクリと縮こ
まった。
折り曲げた足が何度も跳ねてシーツを蹴り、自分の中が強く響の
指を喰い締めるのを感じる。それでも力が抜けなくて、千絵は快感
が意識を焼く間中、響にしがみついて甘く鳴いた。
﹁︱︱チエ、大丈夫?﹂
﹁ふぇ?﹂
197
目が覚めると、響が上から千絵を覗き込むように見下ろしている。
少しの間、気をやってしまっていたらしい。
カーテンが開けられ、日の光が室内を満たしていた。いつの間に
か夜が明けていたようだ。
﹁お風呂、お湯溜めたから。入れそう?﹂
﹁う、ん⋮⋮﹂
気をやった原因を思い出して、いたたまれずうつむきながら、千
絵はなんとか頷いた。
七年ぶりの再会が、まさかこんなことになるなんて。まともに顔
を合わせることができず、上掛けで体を隠したままベッドの下に足
を着く。そのまま立ち上がろうとしたが、足に力が入らなくて、そ
の場にペタリと座りこんでしまった。
驚くほど、足に力が入らない。
﹁チエ、腰が抜けたの?﹂
﹁うぅぅ⋮⋮﹂
﹁チエ、可愛い﹂
﹁え? わ、響!?﹂
上掛けごと抱き上げられて、響に浴室へ連れて行かれた。脱衣所
で上掛けを引きはがされ、抗議の声を笑って流されながら、湯の溜
まった浴槽にそっと浸けられる。
じんわりと体が温まるお風呂にはバスオイルが垂らされているよ
うで、甘くて爽やかな花の香りが心地良かった。
ホッと溜息をついていると、脱衣所に戻った響が服を脱いで裸に
なり、何故か再び浴室に入ってくる。
198
﹁響!?﹂
﹁俺も入らせて﹂
﹁ええ!?﹂
目のやり場に困ってうつむいていたら、響が千絵の後ろに入り込
んできた。
響の足の間で座りこむ形になり、千絵が移動しようとすると、響
に腹部を抱え込まれて引き戻される。
﹁ちょ、ちょっと⋮⋮!﹂
﹁一番最初に一緒に入りたいって駄々こねたのは、チエの方なのに﹂
﹁駄々をこねたことなんて⋮⋮っ﹂
ないと言おうとして、千絵ははたりと口をつぐんだ。
そういえば昔、千絵がまだ小学生の頃、響が家に泊まりに来たこ
とがある。その時は確かに、一緒に入りたいと駄々をこねた。
﹁でもあれは、もうずっと昔のことでしょ﹂
﹁昔⋮⋮﹂
しばらくお互いの間に沈黙が落ちる。
昔。そう呼べるほどに、出会った頃から長い時間が経っている。
そして今は、一緒にいた時間よりも離れていた時間の方が長くな
っている。
離れている間に、お互い成長したし、外見だけでなく立場や状況
も変わった。
立場や状況︱︱そう考えて、千絵はハッと息を呑んだ。
︵そうだよ。私が響をあきらめたのは、響が婚約したから。⋮⋮じ
199
ゃあ今、響は既婚者っていうこと⋮⋮?︶
まさか、自分は妻のある人とベッドを共にしてしまったのか。不
倫をしてしまったと言うことか。
気付いてしまった事実に千絵が青ざめていると、響が千絵のお尻
にグッと硬いものを押し付けてきた。
﹁チエ⋮⋮﹂
﹁だ、だめ! 響、離してっ﹂
﹁チエ?﹂
﹁だって、結婚してるのにこんなのだめだよ!﹂
﹁え? 結婚? ⋮⋮え? チエ、結婚してたのか⋮⋮?﹂
ぎしりと背後で固まった響に、千絵は﹁え?﹂と首を傾げた。
﹁私? 違うよ、結婚してるのは響でしょ?﹂
﹁は? いや、俺が結婚とかありえない﹂
﹁え?﹂
しかし五年前千絵は、奏と共に響の婚約記事を見た。マリアンヌ・
ド・ボードリエという名家のお嬢様と響が、カフェでお茶をしてい
る写真を見た。
あれから婚約の話はなくなってしまったんだろうか。だから今、
響は日本にいるんだろうか。そもそも響は、一体いつ日本へ戻って
きたのか。
cherie︵愛しい人︶﹄と呼んでく
シェリ
︵そう言えば響は今、結婚はありえないって言ってた⋮⋮︶
マ
響は昔、千絵を﹃Ma
れたが、付き合おうだとか、恋人になろうだとか、そういった明確
200
なことを口にしたことがなかった。
千絵の友人に、﹃彼が束縛を嫌うタイプで浮気癖が直らない﹄と
悩む人がいる。
まさか響は、束縛を嫌うタイプなんだろうか。恋人と言う枠は、
響には重荷になってしまうんだろうか。
だから千絵のこともミズキのことも、恋人ではないからこそ、同
時に大切にすることができたのか。そしてマリアンヌも大切にした
が、結婚という束縛を迫るマリアンヌが苦手になって婚約を破棄し
た、とか⋮⋮。
﹁︱︱エ、チエ?﹂
﹁え? えっと、ごめん。なに?﹂
考え込んでいた千絵は、響に呼ばれて顔を上げた。浴槽で向かい
合いながら、響が首を傾げて尋ねてくる。
﹁一応聞くけど、チエに恋人はいないんだよな?﹂
﹁恋人は、いないけど⋮⋮﹂
﹁恋人はいないけど、好きな人はいる?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮チエは正直だな﹂
響が苦笑した。
まさかその、恋人になりたいほど好きな人と言うのが響だとは思
っていないんだろう。
でも、もし響が束縛を嫌うタイプなら、恋人にして欲しいだなん
て言えない。マリアンヌとの婚約が白紙になったように、お互いの
今までの関係が白紙になるなんて、考えただけでも耐えられない。
でも⋮⋮。
201
﹁チエ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮だめ﹂
目を伏せて顔を寄せてきた響の肩を、千絵は押し戻した。顔を背
けて、これ以上はダメだと意思表示をする。
﹁チエ?﹂
﹁ダメだよ響。私、流されたくない⋮⋮﹂
響が束縛を嫌うタイプだったとしても、やっぱり自分は、こうい
うことは恋人としてしたい。
昔は響のことが盲目的に好きで、響が望むなら自分の身をいくら
たやす
でも差し出したいと思った。今でもそう思うくらい、響への気持ち
は容易く再燃している。
それでも、だからこそ、千絵は響と﹃恋人﹄と言う対等な立場に
立ちたかった。響のことが好きだ。自分以外にも大切な人がいても
いいだなんて、寛容にはなれない。
千絵は響に、千絵だけを見てほしいと願ってしまうのだ。
﹁ごめん響。私、響とこういうことするのは⋮⋮﹂
﹁⋮⋮嫌?﹂
﹁イヤなんじゃない。そうじゃないんだけど⋮⋮﹂
恋人になってからがいい。そう打ち明けてしまうには、会えなか
った七年というブランクが怖い。今まで避けていた決定的な言葉を
伝えた時、響がどんな反応をするのか分からない。
響に背を向けて、浴槽の端に寄る。口ごもる千絵の首筋に、響が
手をかけて呟いた。
﹁嫌じゃないなら、流されてよ﹂
202
﹁え?﹂
ぐっと首の後ろを引き寄せられたかと思うと、唇が重なっていた。
とっさに突っ張った手ごと千絵の体を抱き込み、響が口付けを深
いものへと変えていく。
まって。そう抗議しようと首を振ると、秘部に指が這わせられて、
ビクリと肩が跳ねた。開いた口内にやわらかな舌が入り込んできて、
千絵の心ごと吸い取るように、深く絡んで飲み込んでいく。
ぴったりと吸い付かれて、間に合わない呼吸に涙がにじんだ。
その間も響の指は秘部の芽をそっと撫でてきて、秘部から湯の中
へ、何かがジワリとあふれていく。その潤いを利用して、響の指が
千絵の中へと入り込んできた。
﹁んっ⋮⋮! ん、ふっ⋮⋮っ﹂
漏れる声ごと味わうように、重なった唇が離れない。上顎を撫で
てくる舌を押し戻そうとすると、そのまま響の口内に誘い込まれて、
千絵の方が食べられてしまう。
逃げようとすれば再び口内がいっぱいになり、舌の先から根元ま
でたっぷりと時間をかけて貪られた。
気持ちがいい。どうしたって自分は響のことが好きで、響がくれ
る快感を拒めなかった。次第に頭が飽和して、くてりと響の胸に背
を預けたまま放心する。
千絵が大人しく響からの刺激を受け、甘くすすり泣くだけになっ
た頃、響が目頭にキスを落として囁いた。
﹁⋮⋮気持ちいい? 目がとろんってなってる﹂
可愛い。そう言って千絵を背後から抱きしめたまま、響は千絵の
首筋に頬を擦り寄せてくる。
203
舌がなくなってしまったんじゃないかというほど食べられ続けて、
千絵の口内はとろけ、痺れている。まともに言葉を話せない千絵に、
響がキスを落としながら囁いた。
﹁目を覚まさないで、流されてていいんだよ。大丈夫、最低なのは
俺だから。チエが自分を責める必要なんてどこにもない。気持ちい
いことだけ追って。チエは俺を利用してくれたらいい﹂
﹁ひびきを、りよう⋮⋮?﹂
﹁俺はどんなチエだって愛してる。俺がチエを好きなだけだから、
チエは何も悪くないよ。⋮⋮チエの気持ちがどこに向いてても、俺
はチエを愛してる﹂
そう言って笑う響は昔のままだった。
この人はこうやって、心から愛する人を何人も作るんだろうか。
それでも嬉しいと思ってしまう、自分はおかしいんだろうか。
背後から抱き込まれた下半身の奥へ、ズズッと太くて熱い杭が入
り込んでくる。
﹁あ、あ⋮⋮っ﹂
﹁チエは俺がキライ?﹂
﹁きらいじゃ、ない⋮⋮きらいなわけ、ない⋮⋮っ﹂
﹁じゃあ昔みたいに、スキって言って。恋でもいいから、好きって
言って﹂
﹁⋮⋮っ﹂
違う。もう恋じゃない。七年越しの想いは、響が思っているよう
な綺麗な恋じゃなくなってしまった。
そばにいて、愛の言葉を伝えられれば幸せだったあの頃とは違う。
言葉だけじゃ信じ切れない。独占していたいと考えてしまうこの想
204
いは、恋なんて可愛いものじゃなくなってしまっている。
響のそばにいる人へ嫉妬してしまう。恋人の立場を願いながら、
こうして中に響の熱を感じるだけで、体はどうしようもなく悦びに
震えてしまう。一人でいる時ですら、響のことを想って体を慰める
ような、俗物的な想いだ。
この強い気持ちを好きなんて言葉じゃ言い表せられなくて、千絵
は涙をこぼしながら首を振った。
﹁失恋しても義理立てするほど、惚れるような相手だったのか⋮⋮﹂
響が何事か呟いた後、ぐっと強く腰を引きつけてきた。
未だ奥に残る響の残滓を利用して、奥深くまで入り込んだ大きな
熱が、千絵を体の内側から侵していく。
強烈な快感に体が震えて、千絵がすがるように目の前の壁に手を
つくと、そこへ押し付けるように響が腰を打ちつけてくる。
﹁あ、んん⋮⋮!﹂
﹁チエ⋮⋮チエ⋮⋮ごめん、俺は、エディにはなれなかった⋮⋮。
さら
どうしたって、嫌なんだ⋮⋮っ。大切な人を、ただ見送るなんて無
理だ⋮⋮最後まで足掻きたい。隙があるなら、攫いたい。呆れられ
ても、引かれても、チエの幸せを、願ってあげられない⋮⋮っ、ご
めん、ごめん⋮⋮﹂
﹁あ、ふぁっ、あ⋮⋮っ﹂
﹁チエ、俺を見て⋮⋮好きって言って。好きって言ったらいっぱい
あげるから。チエの望むだけ、俺なら全部あげられるから⋮⋮﹂
﹁⋮⋮す、すき⋮⋮っ、すきだから! 響、すきだから!﹂
﹁うん、チエ、⋮⋮愛してる﹂
ひときわ強く奥深くまで入り込んできた響が、千絵の中に熱を注
ぎ込んでくる。
205
﹁⋮⋮体からでもいいから、また俺のこと好きになって⋮⋮﹂
耳鳴りがするほどのぼせた頭に、響のそんな声がぽつりと入り込
んできた︱︱。
206
五年越しの真実
﹁︱︱ああ、悪かったって。おかげで回復したから。そっちは? アニーが暴走してないか?﹂
話声が聞こえて、千絵はゆっくりとまぶたを開いた。
明るい。今は昼間のようだ。
体がだるい。ベッドに横になっている自分。枕に乗せられた頭を、
ベッド端に座る誰かが撫でている。
顔を微かに動かして見上げると、そばにいたのは響だった。
素肌にシャツを羽織った響が、スマホで誰かと通話をしながら、
千絵の頭を撫でていた。響は目を覚ました千絵と視線が合うと、微
笑んでくる。
﹁︱︱ああ。大丈夫だ、行ける。先にミーティング始めててくれ﹂
そう告げてスマホを少し遠ざけると、﹃ミズキだよ﹄と小声で教
えてくれた。
ミズキとまだ仕事を続けていたのか。千絵が素直に驚いていると、
響が再びスマホを耳に当てながら軽く笑う。
﹁今、チエが起きた。え? ⋮⋮いや、言ってないけど。もう、打
ち明けるタイミングを逸した気がするから⋮⋮うるさい。臆病なの
はお前も同じだろ﹂
少しむくれた響の声に多大な親しみが込められていて、響とミズ
207
キの関係が切れることはなかったのだと千絵は察した。
通話を終えた響が、そばに置いていた銀色のワゴンを引きよせる。
その上には千絵が作った鯛雑炊と湯豆腐の鍋が乗っていた。
﹁チエ、お腹が減っただろ? コレ、作ってくれてありがとう。一
緒に食べよう﹂
そう言って鍋の中身を小鉢に取り分け、響がレンゲを添えたそれ
を差し出してくる。
千絵が力の入らない体をなんとか起こすと、響のものだろう大き
なバスローブを着ていた。そういえば今朝、浴室で色々とイタされ
て意識を失ったのだった。響が千絵を洗ってくれたのか、体からは
バスソープの良い香りがする。
なんだか色々耐えられなくなって、真っ赤な顔でシーツに突っ伏
したら、響に心配された。
﹁チエ!? 大丈夫か? ごめん、俺が浴室で無茶させたからだよ
な。起き上がれない?﹂
﹁だ、大丈夫だから⋮⋮っ﹂
小鉢をワゴンへ置いた響がこちらに手を伸ばしてきたので、千絵
は慌てて起き上がった。大丈夫だからと首を振る千絵の背に枕を添
え、響が再び小鉢を寄こしてくる。
昨夜から今まで怒涛の再会を果たしてしまったため、衝撃のあま
りそんなに食欲は無かったが、千絵は一杯だけ受け取った。
二人で土鍋の中身を食べながら、千絵は思いきって聞いてみた。
﹁⋮⋮ねぇ響。ミズキとは、その、むこうでもずっと一緒にいたの
?﹂
﹁ああ。ミズキは向こうで、モデリストに転向してさ﹂
208
﹁ミズキがモデリストに?﹂
パターン
モデリストとは、デザイナーのデザインを基に、サンプルや型紙
の作成、現場の指示をし、製品化されたものの品質に関する責任を
負う立場の職業だ。
デザイナーとモデリストは、密接な関係にある。対等な立場で意
見を出し合って一つの服を作り上げる、服飾界のパートナーだった。
﹁チエと手紙のやり取りをしてた頃、ブランドを立ち上げる話が出
ていたの、覚えてる?﹂
﹁うん、覚えてる﹂
ド・ボードリエ家の後援により、響はミズキと共に新ブランドを
立ち上げる予定だった。
同時にマリアンヌとの婚約や、響がエディ・アレニウスの息子だ
と世間へ露呈した件もあり、新ブランドは注目を浴びた。千絵も響
との連絡が途絶えはしたものの、陰ながら応援しようと、情報を追
った。
しかしその新ブランドが世に出た時、名前を連ねていたのは響と
ミズキではなく、エディ・アレニウスの養子である青年と響の名前
だったのだ。
﹁あの時、ミズキと二人でブランドを立ち上げる計画だったんだ。
でも、俺とエディの血縁関係の情報が流されて、エディの養子と二
人で立ち上げるブランドに切り替わった。その頃からミズキは、モ
デリストへ本格的に転向したんだよ﹂
﹁響はエディお父さんと血のつながりがあることを、誰にも明かす
つもりはなかったんだよね?﹂
﹁もちろん。日本を発つとき、チエにも約束しただろ? ﹃エディ
の名前は出さない。一人の谷部響として、俺らしいものを表現して
209
いく﹄って。でも新ブランドは、エディの名前ありきのデザインを
要求する場所だった﹂
エディの養子はそれをビジネスとして考える人だったが、自分の
考えには合わなかったと、響は苦い顔でぼやいた。
﹁契約期間が終了した後、俺はブランドのデザイナーを退任したん
だ。でもそれからもずっと、あの世界では﹃エディ・アレニウスの
息子﹄としてしか扱われなくなった。別ブランドを再就職先に選ぶ
ことも、新しいブランドを立ち上げることもできなくて⋮⋮結局エ
ディの元へ就職して、腕を磨かせてもらった﹂
その時、モデリストへの転向を終えたミズキもエディの元へ入っ
たのだそうだ。
﹁恥ずかしい話、少し塞いでいた時期があったんだよ。何をしても
俺の評価には、エディの名前が付いてくる。いつの間にか、服を作
ることに心を揺さぶられることがなくなった。俺は何のためにデザ
インをしていたんだっけ⋮⋮ってさ。淡々と仕事をこなしてた時期
に、ある日ミズキがこのサイトを見つけて教えてくれたんだ﹂
そう言って響がスマホで見せてくれたのは、千絵も出品している
ハンドメイド製品のネットショップだった。
﹁チエ、ここに手作りした物を出してただろ?﹂
﹁出してたけど⋮⋮よく私の作ったものだって分かったね?﹂
﹁だって、コレがあったから﹂
そう言って響が過去に保存していた画像データから、千絵が手作
りしたミニテディベアを見せてきた。
210
﹁コレ、昔チエがリビングで作ってたやつだ﹂
﹁⋮⋮っ﹂
確かにそうだ。真っ白いミニテディベア。レース編みで作ったカ
ーディガンに、クロシェで刺繍を施している。
他にも響は、出品した千絵の作品の画像を沢山保存していた。
﹁これを見てたら、俺、自分が何をしたかったのか思い出したよう
な気がしてさ。エディとミズキに相談して、﹃谷部響﹄は服飾業界
を去ったんだ﹂
﹁響が服飾業界を去った⋮⋮? 待って、じゃあ今響は何をしてい
るの?﹂
﹁もちろん、デザイナー。でも﹃エディの息子である谷部響﹄とし
てじゃない。新しい名前、新しい場所で、一から始めてる﹂
今まで築いた人脈や立場。それらを置き去るのは並大抵のことで
はなかっただろうに、響の表情には後悔など微塵も感じられなかっ
た。
それよりも、昔あのアトリエで千絵と二人、楽しい服を作ってい
た頃に見た、挑むようなイタズラめいた笑顔を浮かべている。
﹁そんな俺に、ミズキは付いて来てくれた。⋮⋮正直、嬉しかった
よ。ミズキはエディ・アレニウスの服に並々ならない思い入れがあ
ったからさ。そのミズキが、エディじゃなくて、俺を選んでくれた。
モデリストとして二人三脚で、ここまで一緒に歩んでくれた。アイ
ツにはすごく感謝しているよ﹂
﹁そうだったんだ⋮⋮。ミズキがいてくれて、本当に良かったね﹂
﹁ああ。もし中学の頃チエに出逢ってなかったら、俺がこうして服
飾の道に進むことも、ミズキと再会することもなかった。チエには
211
本当に感謝してるんだ。ありがとう﹂
頭を撫でてきた手に、千絵はふるふると首を振った。
これは響とミズキの絆があったからこそ進めた道だ。そこに自分
の力が少しでも役に立っていたのなら、嬉しい。
やはりミズキはすごい。羨望の気持ちがあふれてくる。
﹁ミズキは響の最良のパートナーだね﹂
﹁人使いは荒いけどな﹂
肩をすくめておどける響に千絵が笑うと、おでこにキスをされた。
﹁それじゃ、口うるさいアイツの機嫌が下がらないうちに仕事へ行
ってくる。チエはここで休んでて。鍵はミズキから預かった物があ
る?﹂
﹁ううん、ミズキじゃなくて知らない人から預かったんだ﹂
﹁知らない人? ⋮⋮アニーかな。フランス人の女の子? 黒ぶち
眼鏡で、小柄で、物静かな感じの﹂
容姿を説明してくる響に、そういえばユズと呼ばれる青年が声を
かけていた女性がそうだったと思い、頷いた。
﹁アニーはアニエス・ド・ボードリエって言って、俺とミズキが世
話になった家の次女なんだよ。俺とエディの血縁情報が流れた時に、
ド・ボードリエ家の内情が少し絡んでてさ。俺をエディの息子とし
て周囲に認知させて、ド・ボードリエ家の長女と婚姻させようとし
ていた派閥があったんだ。ド・ボードリエ家の地位を強めたかった
らしい﹂
﹁それって⋮⋮﹂
212
マリアンヌとの婚約報道のことか。
つまりあれは、仕組まれた報道だった。それを自分は鵜呑みにし
て、身を引いてしまった。海の向こうの事情が把握できなかったと
はいえ、安易な自分の選択に、千絵は頭を抱えた。
響がそんな千絵に背を向けて、部屋にある簡易机のメモ帳に何か
書き記している。
﹁その件は、ド・ボードリエ夫妻が真摯に詫びてくれてさ。今はア
ニエスを通じて、改めて俺達の後援者になってくれてる。アニエス
はああ見えて、立場上俺達のオーナーなんだよ﹂
その辺りのことも、今度詳しく説明するから。
そう言って響はメモに自身のメールアドレスと電話番号を書き記
すと、千絵に手渡してくる。
﹁慌ただしくてごめん。来年のコレクションに参加する予定になっ
てて、今日もミーティングと作業があるんだ。もっとチエと一緒に
いたいけど、行かないとミズキにドツかれるから﹂
﹁ふふっ、そういうトコロは相変わらずだね。まだミズキのハリセ
ンを受けてるの?﹂
﹁そんな生易しいモンじゃない⋮⋮﹂
やや表情を沈ませて溜息を吐いた響が、千絵の肩に額をつけ、首
筋に頬を擦り寄せてくる。
﹁今日はチエに癒してもらえたから、頑張ってくる。⋮⋮また俺の
こと癒してくれる?﹂
﹁い、癒すって⋮⋮﹂
﹁ここで、俺のこと受け止めてほしいな﹂
﹁ちょ、ちょっと⋮⋮んっ﹂
213
ちゅっちゅっと小さな音を立てた唇が、バスローブの合わせを割
って、胸の谷間へ降りてくる。
﹁チエ、本当に綺麗になったな。こんなに大きく成長して⋮⋮﹂
﹁どこに向かって話してるのさ! あ、やっ、ちょっと、仕事っ。
響、仕事行かなきゃ⋮⋮ミズキが待ってる⋮⋮っ﹂
バスローブの紐がほどけたところで響のスマホが鳴り、谷間に顔
サ
ミズキ。Ca
va。ああ、家出てる。そう、車の中。
ヴァ
を埋めたまま、響が通話をオンにする。
アロー
﹁allo
⋮⋮え? チエの感触? ウン最高﹂
﹁⋮⋮ッ!﹂
べしっと頭を叩き飛ばした響のスマホから、ドスの利いた怒声が
漏れ聞こえてくる。
スマホに二、三言返した響が、やれやれと肩をすくめながらぼや
いた。
﹁さっさと準備して来いって怒られた﹂
﹁それはそうだろうね﹂
ミズキは間違ってない。と千絵は頷きながら、名残惜しそうには
だけた胸元を見つめてくる響の視線を避けて、バスローブを直した。
﹁それじゃチエ、行ってくる﹂
﹁あ、ねえ。鍵はいつ返しに来たらいい?﹂
﹁返さなくていいよ。チエが持ってて。いつでも訪ねて来てくれた
らいいから﹂
214
﹁え? でも、それじゃアニーさん達が困るでしょ?﹂
﹁アニーが寝泊まりしてるのは隣の部屋だから。俺やミズキと連絡
が取りやすいように合い鍵は渡してるけど、また作るから大丈夫﹂
﹁俺やミズキって⋮⋮ここはスタッフと一緒に住んでいるの?﹂
﹁いや、ここは俺とミズキだけ。斜め向かいがミズキの部屋だから、
来た時は間違えないようにね?﹂
軽い調子で同棲を肯定されて、千絵はショックを受けた。
こんなに広い場所なのでスタッフの何人かと一緒に住んでいるの
かと思ったが、アニーは隣に住み、ここは響とミズキの二人きりで
生活をしていたのだ。
ミズキのいない間に、不可抗力とはいえ間男ならぬ間女になって
しまった。改めて自分の状況に青ざめていると、響が顔を寄せ、耳
元で囁いてきた。
﹁部屋数は余ってるから、チエもここに越してくる?﹂
﹁⋮⋮っ﹂
ブンブンと首を横に振ると、響が﹁残念﹂と苦笑した。
﹁それじゃ、行ってくる﹂
﹁うん、頑張ってね。行ってらっしゃい﹂
千絵の両頬にキスをすると、響はワゴンに乗った食器を片付けて、
家を出ていった。
響のいなくなった部屋で、千絵は下半身の力が入るようになるま
で少し休むと、身支度を整えた。
コンタクトレンズが瞳に張り付いて、少し痛い。レンズを外すと、
鞄の中にいつも持ち歩いていた眼鏡ケースを取り出す。中に収まっ
た眼鏡は、昔響が柄を装飾してくれたものだ。
215
﹁五年前のだから、ちょっと度が違う﹂
眼鏡をかけて、千絵は小さく笑った。
新しいコンタクトを入れるまで、少しの間かけていようと思った。
響のマンションを出て自宅に戻り、服を着替えて再び千絵が外へ
出る頃には、もう夕方だった。
駅から電車に揺られ、実家の方面へと向かう。
会って、話を聞きたい人がいる。︱︱響の父親であり、二人で一
人の人を愛したという、谷部音彦氏にもう一度会ってみたいと思っ
た。
千絵は響が好きだ。七年ぶりに再会したというのに、子供の頃と
同じか、それ以上の強さで今の響に惹かれている。
同時に、響にとってミズキがどれほど大切なパートナーなのかも
知った。別々の場所で響をあきらめようとしていた自分とは違い、
ミズキはずっとそばで響を支え続けていた。
今の響があるのは、ミズキがいたからこそだ。そんな響に千絵は
惹かれたのだ。
深い想いだからこそ相手を独占したい。けれど深く想うからこそ、
相手が今まで築いていた大切な絆を壊したくない。響とミズキの仲
へ水を差したくはなかった。
﹁ミズキはどんな気持ちで、響と一緒にいるんだろう⋮⋮﹂
響の電話で、千絵と響の間に何が起こっていたかはミズキも理解
しているんだろう。しかし響の態度は、ミズキに悪びれる様子が一
切なかった。
216
そういえば昔、寝室で下着姿のミズキと響を見た時も、響は一切
申し開きをしなかった。それが当然であり、響の日常だと言わんば
かりの態度だった。
ミズキはそれでいいんだろうか。納得した関係なんだろうか。
﹁一度、ミズキとも話をしなくちゃ﹂
せんだつ
響のことをあきらめられない気持ちがある今、それは避けられな
い。
その前に一度先達の話を聞くために、千絵は自宅のある最寄り駅
に着くと、バスに乗って移動した。
217
クマとタヌキの皮算用
十月も下旬の十七時を過ぎた今の時間は、辺りも薄暗い。
同じ小学校だった谷部家の実家は、千絵の実家から徒歩十五分ほ
どだ。バスを降りて谷部家へと向かう途中、何やらもめているタク
シーに遭遇した。
タクシーは千絵が歩いていた歩道側の路肩に寄せられ、中では運
転手と白人女性が何事か言い合っている。運転手が怒り、女性が困
っている様子に見えた。
少し開いていた窓から漏れ聞こえる女性の言葉は、フランス語だ
った。
運転手は﹁言葉が分からない﹂﹁料金を支払え﹂と怒っているよ
うだった。
﹁⋮⋮﹂
千絵はコンコンとタクシーの窓をノックした。不機嫌さを隠そう
ともしない年輩の運転手が、窓を開けて千絵をにらんでくる。
﹁ちょっとお客さん。今は見ての通り忙しいんで、他のタクシーあ
たってくれませんかね﹂
﹁タクシー利用じゃないです。その女の人、手に持ってるメモに書
かれた住所の場所を尋ねてるみたいですけど。あと、支払いはクレ
ジットでしたいそうです﹂
﹁そうは言っても、メモが擦り切れてるからここまでしか案内でき
ないんだよ。支払いは現金でないと、こっちが困るんだ。時間はか
かるし、手数料は運転手持ちなんでね﹂
218
男性運転手が千絵へ喧嘩腰に反論してくると、中の女性が心配そ
うに千絵を見つめてくる。
清楚で質の良い服に身を包んだ、とても奇麗な女性だった。そし
てどこかで、見たことがある。千絵は内心で首を傾げながら、女性
へフランス語で尋ねた。
﹃現金、持ち合わせはありますか? クレジットの使用は、ご遠慮
願いたいそうです﹄
﹃⋮⋮いえ、ごめんなさい。キャッシュを持ち歩いたことはないの﹄
持ち歩いたことがないと聞こえたが、持ち合わせがないの聞き間
違いだろうか。千絵はそう解釈すると、運転手へ現金の持ち合わせ
がない旨を伝えた。
不機嫌さを増してカード支払いの準備を始めたものの、やはり慣
れていないのか作業はおぼつかず、なかなかカードを読みこむまで
に至らない。
その間に千絵は女性から住所の書かれたメモを借りて見てみたが、
確かに何丁目以降の文字が水ににじんでぼやけてしまっていた。
女性は心配しているし、運転手の機嫌はどんどん下降するしで、
千絵は思わず料金の立て替えを申し出てしまった。
﹁あの、いくらですか?﹂
﹁はあ? 七千三百五十円だけど。アンタ見ず知らずの客のために
払う気か?﹂
﹁な、七千⋮⋮﹂
大学生には痛い金額だが、このまま外人女性が見知らぬ土地で困
り続ける姿を見るのは、気が引ける。千絵は財布を取り出すと、女
性のタクシー代を立て替えた。
219
女性がタクシーを降り千絵が支払いを済ませると、運転手は少し
気持ちが落ち着いたのか、気遣うような視線を送ってくる。
﹁アンタ、ちゃんとその客から金返してもらいなよ?﹂
﹁運転手さんはクレジット支払いの方法を覚えておかないと、この
先また困ると思いますよ﹂
千絵の返しに苦い顔をする運転手と別れ、少し先の外灯の下へ移
動すると、千絵は改めて女性を見た。
白いワンピースに紺色のジャケット。腰元辺りまで伸びたアッシ
ュブロンドの髪は緩やかなウェーブがかかり、薄茶色の瞳が千絵を
見つめている。千絵と身長も歳もそう変わらない様子だが、優しそ
うな瞳と穏やかな雰囲気から、物静かなお嬢様といった印象を受け
る。
そろえた手に持っているのは、バイオリンの箱だった。それ以外
に女性の荷物はない。どこかの演奏会へ行く途中だったのだろうか。
それにしては、ここは住宅街だが。
﹁とりあえず交番に⋮⋮﹂
﹁カンシャのコトバなんてキタイしないでくださる? アナタにタ
スけをモトめたわけじゃありませんもの﹂
﹁え?﹂
﹁アナタのナマエをうかがっておこうかしら。ワタシはアナタにな
のるナマエなんて、モチあわせていないけれど﹂
﹁⋮⋮﹂
突然飛び出した女性の片言で傲慢な日本語にも驚いたが、それよ
りも何よりも、そのセリフと表情がまったくと言っていいほど合っ
ていないことに、千絵は眉をひそめた。
女性は花がほころんだような優しい笑顔を浮かべ、頬を微かに染
220
めている。千絵の名前を尋ねると、はにかむようにこちらの様子を
うかがってきた。
千絵が女性の言動に戸惑って無言でいると、女性はしおしおと悲
しそうにうつむき、取り出したハンカチーフで目元を押さえた。そ
うしてフランス語で謝罪してくる。
﹃⋮⋮ごめんなさい。私の日本語は、やっぱり発音がおかしいんで
すね﹄
﹃いや、発音がどうかというよりも⋮⋮﹄
﹃みんな私の日本語を聞くと、貴女のような反応をするんですもの。
で、でも私は、少しでも彼に近付けたらって、がんばって⋮⋮っ、
ふっ、うぅっ、ううぅぅぅ∼∼∼⋮⋮っ﹄
﹁え、ちょっと!?﹂
路上で突然感極まったように泣き出してしまった女性にギョッと
すると、千絵は女性のバイオリンを持って手を引き、近くの児童公
園へと向かった。
児童公園のベンチへ二人並んで座る。女性は千絵から受け取った
バイオリンを膝に乗せ、ぐすぐすと鼻をすすりながら、ハンカチで
涙をぬぐっている。
﹃少し落ち着きましたか?﹄
﹃⋮⋮ええ、ごめんなさい。とても悲しいことを思い出してしまっ
て⋮⋮﹄
お恥ずかしいです。と涙をぬぐった女性は、改めて千絵に微笑ん
でくる。
﹃先程は助けてくださってありがとうございました。いつもは付き
人がいるものだから、一人で公共の乗り物を利用したことがなくて。
221
クレジットが使えないと知った時は、とても困ってしまったの。貴
女が通りがかってくださって、幸いでした﹄
とても丁寧で上品な発音のフランス語は聞きとりやすく、日常会
話程度であれば話せる千絵は、﹃気にしないでください﹄と首を振
った。
﹃それは大変でしたね。貴女が日本を苦手にならなければ、私は嬉
しいです﹄
﹃まぁ﹄
千絵の言葉に女性はクスクスと軽やかに笑うと、﹃苦手になるわ
けがありません﹄とはにかんだ。
﹃私は日本も、そこへ暮らす人達も、とても好きですもの。貴女の
ような優しい方に出会えて、ますます日本が好きになりました。是
千絵です﹄
非お礼がしたいわ。貴女の名前をうかがっても?﹄
﹃私は千絵。三谷
﹃まぁ、チエ!﹄
パンッと両手を打ち合わせて瞳を輝かせる女性に、千絵は目を瞬
かせた。驚く千絵に、女性は嬉しそうに笑って言う。
﹃ああ、ごめんなさい。私の友人からその名前をよく聞いていたも
のだから、なんだか他人だと思えなくて。私はマリアンヌ・ド・ボ
ードリエ。どうぞマリーと呼んで、チエ﹄
﹁マリアンヌ・ド・ボードリエ!?﹂
﹃まぁチエ、貴女は私のことを知っていて? 日本にも何度か公演
に来たことがあるけれど、聴きに来てくださったのかしら﹄
222
膝の上のバイオリンケースを指して尋ねてくるマリアンヌに、千
絵は目を丸くさせながら絶句した。
マリアンヌ・ド・ボードリエ︱︱響と婚約報道が流れた相手。ど
こかで見たことがあるのもうなずける。その報道記事で目にした女
性が、目の前のマリアンヌ本人だったのだ。
千絵の驚きように、マリアンヌは表情を陰らせると、声をひそめ
て懇願してきた。
﹃貴女は私のことをとても良く御存知のようね、チエ。お願い。ど
うか今はまだ、私の居場所を周囲へ伝えないで欲しいの﹄
﹃どういう意味ですか⋮⋮?﹄
﹃私、日本へは公演の目的で来日したの。けれどどうしても会いた
い人がいて⋮⋮付き人達の目を盗んで、ホテルから抜け出して来て
しまったの﹄
着の身着のまま出てきたのでコートもなく、持ち物はバイオリン
と一枚のクレジットのみ。そして目的地のメモ。しかしそれも相手
を想いながら涙してしまい、最後の住所がにじんで読めなくなって
しまっているのだということだった。
﹃マリアンヌさんがそれほど会いたい人って⋮⋮﹄
﹃感性が豊かで、素晴らしい人なの。私は彼の創り出す世界がとて
も好きで、少しでもそばで感じたいと思ったわ。彼も私のバイオリ
ンに好意的だった。彼の母国語を兄や執事から学んで、少しでも私
自身に興味を持ってもらえたらと思ったのだけれど⋮⋮。どうして
かしら、上手くいかなくて、彼を不快にさせてしまったみたいなの
⋮⋮﹄
もうずっと避けられているのだと、マリアンヌはハンカチを口元
にあててすすり泣いた。
223
﹃兄から、彼がとても女性好きで、恋人を何人も作っていることを
聞いて、一度はあきらめようと思ったの。でも私の心には、誠実な
彼しかいない。好きなものに対して、ひたむきに頑張る彼の姿しか
ない。この数年、結局あきらめることができずに、彼を想い続けて
いたの⋮⋮﹄
﹃マリアンヌさん⋮⋮﹄
千絵はひどく胸が痛んだ。マリアンヌの姿は、自分そのもののよ
うに思えた。
マリアンヌも相手のことを深く想っている。そしてその相手はき
っと⋮⋮。
﹃そのメモの住所を私、知っているかもしれません﹄
﹃チエ? 本当に?﹄
﹃マリアンヌさんは響⋮⋮谷部響をご存知ですよね﹄
﹃まあ!﹄
チエの出した響の名前に、マリアンヌは瞳を輝かせて笑顔になっ
た。
﹃チエ、貴女はヒビキを知っていて!? ああ、そうなのよチエ!
私はヒビキの御実家へ行きたかったの! もう一度だけでもいい
の、彼に会って私の気持ちを伝えたい。受け入れてもらえなかった
としても、この気持ちを伝えるまで、私は前に進めないような気が
するのよ﹄
﹃前に⋮⋮﹄
﹃チエ、どうか私を彼の御実家へ連れて行っていただきたいの﹄
両手を合わせて訴えるマリアンヌの願いに、千絵は頷いた。
224
﹃分かりました、案内します。⋮⋮でも、マリアンヌさんに嘘はつ
きたくないから、私も言います﹄
﹃チエ?﹄
﹃⋮⋮私も、彼が好きなんです。マリアンヌさんと同じように、彼
の感性や人間性に惹かれて⋮⋮小さなころから彼を好きで、好きで、
別れてもあきらめられなくて⋮⋮もうずっと、前に進めないでいる
んです﹄
﹃まぁ、チエ⋮⋮﹄
﹃マリアンヌさんの気持ち、分かります。私も誠実で、ひたむきな
彼を見てきました。でも、マリアンヌさんが言っていたように、女
性関係に疑わしいことがあって⋮⋮私、自分の気持ちをどうしたら
いいのか⋮⋮っ﹄
声が震え、膝の上で握った拳にパタパタと涙が落ちると、横から
体がふわりと温かいものに包まれた。
甘くて優しい匂いがする。横目に見ると、バイオリンケースを隣
に置いたマリアンヌが、千絵を抱きしめていた。
﹃マリアンヌさん⋮⋮?﹄
﹃チエ、貴女の気持ちが痛いほど伝わってくるわ。貴女も、こんな
にも彼を想っていただなんて⋮⋮彼はやっぱり、とても罪作りな男
性なのね。私達二人、同じ男性を好きになってしまったんだわ﹄
﹃ごめんなさい⋮⋮﹄
﹃あら、どうして謝ることがあって? 私はとても心強いわ。私と
同じように彼を想う貴女がいる。それだけ彼は魅力にあふれた人物
なんだわ。私達、男性を見る目があるということじゃなくて?﹄
﹃え? ⋮⋮ふふっ、そうなのかな﹄
マリアンヌの自信に満ちた笑顔と言葉に、千絵は思わずクスクス
225
と笑った。
﹃それにチエ、もし彼が私とチエのどちらも両方選ぶような女性好
きであれば、二人で彼の頬を叩いてこう言うの。﹃私達二人以外に
目を向けないと言うのであれば、恋人にしてあげる﹄って﹄
﹃マリアンヌさん?﹄
﹃私、貴女を他人だとは思えないの。だってこんなにも彼を想う気
持ちが同じなんですもの。彼のことはとても好きだけれど、チエに
悲しい顔をして欲しくないわ。私、チエとなら二人で彼を愛してい
けると思うの﹄
﹃マリアンヌさん⋮⋮﹄
﹃もぅ、チエ。私のことはマリーと呼んで欲しいわ。私、貴女とは
良い友人でありたいと思っているの﹄
﹃分かった、マリー﹄
千絵の言葉に嬉しそうに頷くと、マリアンヌはバイオリンケース
を持って立ち上がった。
﹃それじゃあチエ、行きましょう。私達の気持ちを伝えに!﹄
﹃あの、マリー。とても勢いがあるところ、申し訳ないけど⋮⋮﹄
響は今日は仕事だと言っていたので、おそらく実家にはいないだ
ろう。
そして何より、響には千絵やマリアンヌの他に、ミズキと言う最
大のパートナーがいるのだ。もし響を共有するのであれば、二人で
はなく三人になってしまう。
﹃チエ、どうかして?﹄
﹃えっと、実家に彼がいるとは限らないとか。彼が私たち二人だけ
を選ぶかは分からないとか。色々な可能性を考えて、行こうね?﹄
226
﹃まぁ、恥ずかしいわ。私すっかりと、彼が私達を選んでくれる前
提の話をしてしまっていたのね。こういうの、フランスでは﹃熊を
地面に置いてしまう前に熊の皮を売ってはいけない﹄と言うのよ﹄
﹃ふふっ。日本では、﹁獲らぬ狸の皮算用﹂って言うんだよ?﹄
﹁トラヌタヌキノカワザンヨー?﹂
またひとつ日本語を覚えたと真面目な顔で頷くマリアンヌを連れ
て、千絵は谷部家へと足を向けた。
227
それは違います。
大きな邸宅の門。﹁谷部﹂と書かれた表札の前で、マリアンヌが
深呼吸をしている。
﹃チエ、心の準備は良いかしら? お、押すわよ⋮⋮っ﹄
﹃うん﹄
申し訳ないけれど、この場に響がいないと分かっている千絵は落
ち着いたものだ。
このままマリアンヌと共に谷部音彦氏と話ができないものかと考
えていると、マリアンヌがインターフォンを押し、声を張り上げた。
﹁タノモーっ!﹂
﹁マリー!?﹂
﹃あらチエ、何か間違っていて? お兄様や執事のアンドレから、
大切な用事で日本家屋の敷居をまたぐ時は、こう掛け声をするのが
礼儀だと教わったのだけれど﹄
﹁マリーはお兄さんや執事から、完全に間違った認識を植え付けら
れているみたいだね⋮⋮﹂
それが意図的なのかどうかは分からないが、とりあえずマリアン
ヌに﹃それは違います﹄としっかりと伝えておいた。
もしもマリアンヌがこうした間違った日本知識のおかげで響と仲
違いしたのだとしたら、それは少し可哀想だ。その時は自分が間に
立って誤解を解こう。
228
そう思っていると、玄関の扉が開き、誰かが駆け寄ってくる音が
聞こえる。響の弟であり千絵の小学時代の同級生、谷部奏だった。
白いワイシャツと黒の細身パンツ姿。久しぶりに見た奏はあまり
身長が伸びなかったのか、ヒールを履いた千絵やマリアンヌとそう
変わらない背丈だ。ラフな黒髪から覗く吊り目がちな目元には、細
い黒フレームの眼鏡をかけている。
﹁マリアンヌ、お前なんでここに!? ⋮⋮隣の女、誰だ? 付き
人にしちゃラフな格好だな﹂
﹁お久しぶり、谷部君。三谷です﹂
﹁みつや⋮⋮三谷?﹂
怪訝な表情でまじまじと千絵を見た奏は、ぎょっと目を剥いた。
﹁三谷って、もしかして三谷千絵か? あのガリ勉デメキン!?﹂
﹁なるほど谷部君は私のことをそう見てたわけだね﹂
﹁いや、だってお前、五年前と変わりすぎだろ。絵に描いたような
地味みつあみの優等生だっただろ。あのデメキンが⋮⋮デメ、デ⋮
⋮デカイな﹂
﹁人の胸見てしみじみ呟かないでもらえる?﹂
千絵が憮然とした声で抗議すると、マリアンヌがズイッと奏へ詰
め寄った。
﹁カナデ!﹂
﹁うぉっ、なんだよマリアンヌ。⋮⋮というかお前、本当になんで
こんな所にいるんだ。明日から都内のホールで公演だろ?﹂
﹁え? マリー、明日が公演日なの?﹂
知らなかったと千絵が呟くと、奏がハッと苦い顔をして、剣呑な
229
声を放つ。
﹁いや、別にこいつの来日公演を毎回チェックしてるわけじゃねー
し﹂
腕を組んで顔を背ける奏に、マリアンヌが不安そうな表情で首を
傾げている。どうやら日本語のヒアリングは苦手のようだ。
そんなマリアンヌへ、奏は頑として顔を合わせようとせず、眉間
のしわを深めながらまくし立てた。
﹁ああ、お前あれか? 公演の度に聴きに来るなって忠告に来たの
か? 仕方ねーだろ、親父からチケット回ってくるんだしよ。お前
に声かけずに聴いて帰るだけなんだから、そのくらい目つむれよ。
それともお前、俺が視界に映るのも嫌だとか言う気か?﹂
﹁カナデ⋮⋮。ワタシ、ナガいニホンゴはリカイできなくてよ?﹂
﹁うっせ、バカ。分かってるよ、俺だってお前のフランス語なんざ
理解できねーよ。フランス語なんてガキの頃にかじった程度で、馴
染みなんてない。俺は兄貴じゃないんでね﹂
﹃⋮⋮カナデはどうしていつも怒っているのかしら。ピアノの音色
はあんなに優しいのに、私のことはそんなに嫌いなの⋮⋮?﹄
ハンカチで口元を押さえて涙ぐむマリアンヌに、奏の眉間のしわ
がますます深まっていく。﹁おい﹂と鋭い視線で、千絵は奏に呼ば
れた。
﹁三谷、なんでこいつを連れて来たんだよ。家に何の用だよ﹂
﹁マリーがここに来たくて道に迷ってたから、案内したの。私は音
彦さんに少し聞きたいことがあって﹂
﹁親父に?﹂
﹁そう。マリーは響に会いたかったみたい﹂
230
﹁⋮⋮結局兄貴絡みかよ﹂
小さく舌打つと、奏は千絵とマリアンヌへ家へ入るよう言った。
﹁二人とも応接室で待ってろ。茶くらい出す。三谷は親父が帰って
きたら声かけるように言う。マリアンヌは車を出してやるから、ホ
テルへ帰れ。ここに兄貴はいない﹂
ああそれとも。と、奏が冷めた視線でマリアンヌを流し見た。
﹁俺の車に乗るのは嫌か? お前、俺と同じ空気吸うのはおぞまし
いんだったな﹂
奏の声も視線も鋭く尖っていて、直接言われたわけではない千絵
ですら足が鈍ってしまう。言われたマリアンヌは、言葉を理解した
わけではないだろうが、歓迎していない奏の空気に顔面を蒼白にさ
せていた。
動かないマリアンヌに﹁タクシー呼ぶから中に入って待ってろ﹂
と言い捨てて、奏は家の中へ入って行った。
奏のいなくなった庭で、千絵はマリアンヌのバイオリンを持つと、
そっとマリアンヌの背を押して家の中へお邪魔した。
ハウスキーパーにピアノ付きの広い応接室へ案内され、淹れても
らった紅茶を受け取る。
そうして応接室に千絵とマリアンヌの二人きりになると、マリア
ンヌがワッと顔を覆って泣きだした。
﹃ダメだわチエ。私はもうダメだわっ﹄
﹃マリー、大丈夫? 確かにここに響はいなかったけど⋮⋮﹄
231
連絡先は知っているから、そんなに悲しまないで。そう言おうと
した千絵の言葉をさえぎって、マリアンヌがハンカチに涙を染み込
ませながらすすり泣く。
﹃やっぱり私はカナデに嫌われていたんだわ。だってチエ、彼のあ
の顔を見たでしょう? 言葉は分からなくても、あの表情が、私の
ことが迷惑だと言っていたもの。想いを伝える以前の問題だったの
に⋮⋮私はどうして、淡い期待を抱いていられたのかしら⋮⋮っ﹄
﹁想いを伝える? カナデ?﹂
もしかして。と、千絵はひとつの可能性を口にした。
﹃マリーが好きなのは、谷部奏だったの⋮⋮? 響じゃなくて?﹄
﹃ヒビキ?﹄
ぐすっと鼻をすすったマリアンヌが、涙に濡れたまつげを震わせ
ながら、不思議そうに千絵を見てくる。
﹃私はヒビキのホストファミリーよ? もちろんファミリーとして
ヒビキが好きだけれど、こんなに胸を痛ませる想いを抱くのは、カ
ナデだけだわ﹄
﹃でもマリーは、彼の世界に惹かれたって⋮⋮﹄
﹃ええ、そう。確かにヒビキも素敵な世界を持っていたけれど、私
はカナデの世界に惹かれたの。幼い頃に聴いた彼の音色は、とても
素敵で、衝撃的だった。だから私も、こうしてバイオリンを始めた
んだもの﹄
幼少の頃、家族でフランスを訪れた小さな奏は、エディ・アレニ
ウス邸でのパーティーでピアノの演奏を披露したのだと言う。その
音色に、幼いマリアンヌは虜になった。
232
それが切っ掛けで始めたバイオリンで、奏と共演するのが夢にな
っていった。時折来日しては奏と顔を合わせる機会があり、その想
いはいつしか深い愛情に変わっていったのだそうだ。
﹃ヒビキ⋮⋮。そうだわ、ヒビキに昔、想いを伝える日本語を教え
てもらったの。カナデにその言葉を贈ると良いって﹄
何と言ったかしら。とマリアンヌが思案する。
﹃もう五年も前のことだから、忘れてしまったわ⋮⋮﹄
﹁五年前⋮⋮﹂
五年前といえば、あの記事を思い出す。
響とマリアンヌの婚約が噂された記事。そこで仲睦まじくカフェ
でお茶をする二人は、愛の言葉を伝え合っていたと書かれていた。
あなたの感性にとても惹かれています。あなたを愛しています
その言葉は、確か︱︱。
﹁
⋮⋮?﹂
﹃ああ⋮⋮そうだわ、きっとそれだわ、チエ⋮⋮!﹄
けれどその言葉を女性から贈るのははしたないと、兄や執事から
止められたのだと言う。
そうして新しく兄達から教わった日本語で、手紙を書いて送った
のだが、それ以降奏から何の返事も無く、関係も疎遠になってしま
ったのだとマリアンヌは涙ぐんだ。
﹃今さらその言葉を贈っても、カナデは迷惑でしょうね⋮⋮﹄
﹃そんなことないと思う! それに、どんな答えが待っていても、
伝えたくてマリーはここまで来た。そうでしょう?﹄
233
﹃チエ⋮⋮。ええ、そうね。そうだわ﹄
こくりとマリアンヌが頷くと、応接室の扉が開き、スマホを片手
に持った奏が顔を出した。
アタンデ
﹁おい、タクシーがあと十分で来る。マリアンヌは支度しておけよ﹂
﹁Attendez︵待って︶! カナデ!﹂
用件だけ伝えて出ていこうとした奏を、マリアンヌが呼び留めた。
扉から半身で足を止めた奏が、冷めた視線を向けてくる。
﹁何だよ。兄貴はここにはいないって言っただろ﹂
﹁あ⋮⋮アナタを、アイしています、カナデ﹂
﹁は?﹂
﹁アナタのカンセイに、とてもヒかれています。アナタを、アイし
ています⋮⋮﹂
たどたどしくも懸命に伝えたマリアンヌの言葉に、奏は感動で涙
︱︱することなく、何故か怒り心頭と言ったように眉を吊り上げて
いた。
﹁⋮⋮マリアンヌ。お前、ふざけるのも大概にしろよ﹂
﹁カナデ⋮⋮?﹂
﹁昔からお前はそうだ。無邪気に寄って来たかと思えば、こっちが
気を許しかけると逃げていく。俺達は国も、言葉も、立場も、何も
かも違う。それでも俺はお前の音楽に惹かれて、お前も俺の音楽に
興味を持った。持ったと⋮⋮そう思ってたのに⋮⋮っ、俺を切って
兄貴を選んだのはお前だろッ! 兄貴と上手くいかなかったからっ
て、俺に戻ってくるな! 俺は兄貴の代替え品じゃない! いい加
減、お前に振り回されるのはうんざりなんだよッ!!﹂
234
突然の激昂に驚いたが、二人は何らかの形で擦れ違っている。千
絵がそのことを伝える前に、マリアンヌが動いた。
マリアンヌはぐっと歯を食いしばると、持っていたバイオリンケ
ースを開けて、構えた。
一呼吸置いて、弓を弦に滑らせた瞬間、応接室の世界が変わった。
とても優しくて軽やかな音色から始まり、次第に深く甘い旋律へ
と変わっていく。甘いだけではなく、切ない叫びを交えるようなそ
の旋律は、まるで響を想う千絵の心の変化に似ているようだと思っ
た。
淡い恋心からの、楽しい記憶。そして迎える別れと再会。育ち続
ける心は恋から愛へと変わっていく。
それら全てを乗せたような音色に、千絵が胸を締め付けられる思
いで聴き入っていると、隣に誰かが立つ気配がした。見ると、いた
のは谷部音彦だった。
﹁音彦さん⋮⋮﹂
。彼が生前、幼い頃から想い続けていたピアニストへの恋
﹁帰宅したら素敵な音色が聞こえてね。アウグスト・ザーロモンの
恋奏
情を綴り上げた曲だよ。憧れから恋へ。恋から愛へ。マリアンヌの
音色は、本当に胸に迫るものがあるね﹂
﹁はい。でも、なんだか切なくて涙がこみ上げてきそうな音色です﹂
千絵が素直な感想を述べると、音彦がフッと笑った。
﹁だそうだよ、奏。お前ならこの音色を変えられるだろ?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
マリアンヌの音色に聴き入っていたらしい奏は、父親の言葉に眉
235
間へ皺を寄せると、応接室に置かれた壁際のピアノへと向かって行
く。
椅子へ腰掛け、ピアノの鍵盤に手を置くと、奏はマリアンヌの音
に合わせて、なめらかに弾き始めた。
驚いたのは千絵だった。今まで胸に迫るような切ない想いを訴え
ていたバイオリンの音色が、ピアノの旋律と合わさることで素晴ら
しいハーモニーを奏でていく。世界はまたガラリと変わり、温かく
て幸せな気持ちに満ちた、愛の歌になっていた。
﹁この曲はバイオリンだけでは、片想いを嘆く切ない曲で終わるん
だ。ピアノと合わさることで、初めて幸せな協奏曲になっていく﹂
そうしてここから、周囲の祝福のように様々な楽器が加わると素
晴らしいフィナーレを迎えるのだと、音彦が楽しそうに笑った。
あいにくと今は加わる楽器がなかったが、それでも素晴らしい二
人の音色に千絵と音彦は聴き入った。
そうして二人の協奏曲が終わりを迎えると、マリアンヌは頬を紅
潮させながら、改めて奏に想いを伝えた。
﹁アナタをアイしています。カナデ⋮⋮﹂
﹁マリアンヌ⋮⋮﹂
﹁チエと、フタリで。イッショに。アナタをアイしています﹂
﹁は? 三谷?﹂
目を点にさせたのは、奏だけではない。千絵と、隣に立つ音彦も
また目を点にさせている。
ハッとショックから覚めた千絵は、ぶんぶんと首を振った。
﹁違う違う! マリー、それは違うから!﹂
﹃チエ? どうしたの? 遠慮なんてすることないわ。私たち二人
236
の気持ちを、カナデに伝えましょう?﹄
﹃マリー、違います! 本当に、それは誤解です!﹄
頭を抱えて違うのだと訴える千絵に、奏が怪訝な視線を向けてく
る。
﹁三谷、どういうことだ?﹂
﹁あの、谷部君。本当に誤解だから。マリーはどうやらお兄さんと
執事さんに、間違った日本語や知識を教えられていたらしいの﹂
﹁⋮⋮ああ。そういうことか﹂
﹁心当たりがある?﹂
﹁あいつには歳の離れた兄貴がいて、そいつが結構な野心家なんだ
よ。日本のことも好きじゃないから、俺のことも気に食わないんだ
と﹂
﹁そのお兄さんが、谷部君の女性関係が激しいってマリーに言って
いたらしいんだけど⋮⋮﹂
﹁はぁ? 激しいどころか、お前昔、俺に来たマリアンヌからの手
紙見ただろ? あの手紙で見事に、女に不信感に抱きまくりだ﹂
マリアンヌからの手紙と聞いて思い出すのは、五年前に奏への呪
いの言葉が延々とつづられていた、あの手紙だ。
﹁その手紙って、もしかしてお兄さん達の⋮⋮?﹂
﹁完全な入れ知恵だったな。⋮⋮クソッ、まんまとやられた﹂
くやしそうに額を押さえてうなる奏に、大変だったねと千絵は苦
笑した。
でも誤解が解けたようで、本当に良かった。先程の演奏も、素晴
らしかった。
237
﹃チエ⋮⋮﹄
﹃ああ、マリーごめんなさい。今、谷部君に事情を説明していたの。
どうやらお互い、誤解があったみたいだよ﹄
﹃チエはやっぱり、カナデが好きなのではなくて?﹄
﹃それは違います﹄
きっぱりと首を振って、千絵は応接室の扉へ手をかけた。
﹁それじゃ、二人の誤解が解けたなら良かった。私は退散するね﹂
﹃マリアンヌ、タクシーは返しておいたよ。ホテルにも連絡を入れ
ておくから。明日、奏に送ってもらいなさい﹄
音彦は流暢なフランス語でマリアンヌにそう伝えると、奏へ﹁明
日、車でマリアンヌを送るように﹂と言い置いて、千絵と共に応接
室を出た。
千絵が音彦へ話を聞くためにここを訪れたのだと伝えると、千絵
はもうひとつの応接室へ案内された。
﹁︱︱まさか帰宅したら、息子に恋人ができる瞬間を目の当たりに
できるとは思わなかったよ﹂
﹁私も驚きました。でも二人とも、誤解が解けたみたいで良かった
です﹂
﹁三谷さんがいてくれたおかげかな﹂
それにしても随分綺麗になったね。と微笑む音彦は、容姿は奏に
似ているところはあるものの、雰囲気は奏よりもはるかに穏やかだ。
奏の気質は母親似なのだと、昔響から耳にしたことがある。
238
﹁奏も昔は多少フランス語ができたんだけれど、頑固なうえに天の
邪鬼な子だからね。マリアンヌと何かあるたびにフランス語を一切
使おうとしない。人の話には耳を傾けないし、ここ数年はかたくな
にドイツ語を専攻していたようだよ﹂
ある意味分かりやすい息子だと肩をすくめる音彦は、マリアンヌ
が苦労しないといいがと、既に義父のような言葉を呟いている。
﹁それで、三谷さん。君の話とは? 私の息子達が随分お世話にな
ったからね。私のできることなら、何でも聞くよ﹂
﹁不躾なことを聞いてしまいますが、すみません。その⋮⋮、音彦
さんとエディさんと、響達のお母さんのことについて聞きたくて⋮
⋮﹂
﹁私達三人の?﹂
﹁音彦さんはエディさんと、同じ女性を好きになったと言っていま
した。二人で一人の人を愛するって、どういう感覚なんだろうって。
独占欲が湧いたりしませんでしたか?﹂
﹁独占欲⋮⋮﹂
うーんと音彦は腕を組んで少し考え込むと、小首を傾げて笑った。
﹁あったと言えばあったけれど、それは﹃エディと私以外に、彼女
を渡したくはない﹄という気持ちかな? 誰彼と二人で一人の人を
想うことができたわけじゃない。エディが相手でなければ、彼女を
一緒に愛するなんてできなかった。それだけ私はエディを信頼して
いたし、彼女だけでなく、エディのこともとても好きだったんだよ﹂
だからエディが事情により音彦達から離れることになったとき、
音彦もとても悲しかったのだと言う。
239
﹁私とエディは、二人ともが一人を愛したわけじゃない。私達は三
人それぞれが、二人の相手を大切にしたいと想い合えたんだ。日本
ではあまり馴染みのない感覚だろうけれど、この地球には様々な国
が存在して、様々な人が暮らしている。その数だけ感じ方も、考え
方も、生き方も違う﹂
誰にも世界の常識なんて語れない。世界は常に回ってる。
だから想いの形もたくさんあるのだと、音彦は穏やかな表情で語
った。
﹁︱︱
︱︱エディがよくそう言っては、自分の素直な気持ち
﹃停滞した世界﹄なんてつまらないものの上で、私達は生きてるわ
けじゃない
を表現して、新しいものを生み出していた。私や妻の固定概念と言
う殻を、彼は破ってくれてね。おかげでとても救われたし、楽しい
人生だった﹂
ああでも。と、音彦が内緒話をするように、声をひそめて少しだ
け苦い顔になる。
﹁独占欲は、私や妻よりもエディの方が強かったよ﹂
﹁エディさんが?﹂
﹁そう。エディは普段は何でも一人で乗り越えるスーパーマンなん
だけれどね。その実、構われたがりなうえ、懐に入れた者を猫かわ
いがりする性分なんだ。縄張り意識も強かったし、なりふり構わな
い姿は情けないし。おかげで私も妻も、エディには随分振り回され
ていたよ﹂
それでも幸せそうに過去の思い出を語る音彦。三人の関係が成り
立っていたのは、その大きな信頼関係があってこそなのだ。
240
﹁⋮⋮なんだか、分かった気がします﹂
﹁三谷さん?﹂
﹁私がずっと不安だった理由。私、二人を信頼しきれていなかった。
関係を壊すのが怖くて、聞くのをためらって、ずっと先延ばしにし
ていたから⋮⋮﹂
千絵と響とミズキ。三人の間には、信頼関係が足りなかった。
ずっと疑心暗鬼しながら先延ばしにしていた問題を、きちんと話
合わなければ。
そうして響とミズキと千絵、三人で音彦たちのような関係が築け
たら素敵だと思う。
﹁音彦さん、ありがとうございました。私帰りますね﹂
﹁え、三谷さん、帰るのかい? 奏やマリアンヌと向き合うんじゃ
⋮⋮﹂
﹁それは本当に誤解です。違います﹂
音彦の誤解を改めて否定した千絵は、谷部邸を後にした。
241
二ヶ月遅れの手紙
谷部邸を出た千絵は、そのまま実家へ向かった。
実家に戻るのは夏期休暇以来だ。
ダイレクトメールや手紙などがあるので目を通しに戻るよう、母
からメールはもらっていた。千絵の一人暮らし先へ送らないのは、
実家へ顔を出す用事を作ろうという両親の想いだろう。
それを理解しているだけに、千絵は月に一度は実家へ顔を出すよ
うにしていた。一緒に、手芸用品の材料補充も兼ねているが。
音彦から話を聞こうと決めた昼間、帰りに実家へ寄ることを伝え
ていたので、到着するなり夕食となった。
千絵が一人暮らしを始めた頃から、両親は猫を飼いはじめた。チ
ャムと名付けられたメスのアメリカンショートヘア。年端も行かな
かった頃の千絵が、自分のことを﹁ちえちゃん﹂と言えず、﹁ちゃ
む﹂と言っていたことが由来らしい。千絵自身は昔のことすぎて、
あまり覚えていないが。
千絵二世ともいえるチャムをあやしながら、千絵は久しぶりの家
族団欒を楽しんだ。
﹁そういえば千絵、この前メールでも書いたけど、望月先生から小
包がきていたわよ。千絵の机の上に置いてあるから﹂
﹁うん、後で確認してみる﹂
望月先生は、千絵が通っていた刺繍教室の先生だ。
市内で唯一のオートクチュール刺繍の女性講師だったが、千絵が
242
全寮制の高校に上がるとき、望月先生はフランスへ発った。先生の
恩師である、フランスでも有名なオートクチュール刺繍工房のマダ
ム、クロディーヌ・ルサージュの元に呼ばれたからだということだ
った。
今はその工房へ勤め、行く行くは後継ぎとして指名されているら
しい。
望月先生は、響に刺繍の基礎を教わっていた千絵の腕をとても誉
めてくれていた。響のデザインに感化されて、千絵は様々な素材で
刺繍をし、デザインを考えた。
それらの取り組みを温かく見守ってくれた望月先生は、千絵のと
っての恩師だった。今もネットで千絵の作品を見てくれており、メ
ールやエアメールのやり取りは続いている。
フランスへ遊びに来るよう何度も声をかけられていたが、響のこ
とがあった千絵はずっと足踏みをしていた。
けれど今、響は日本にいる。今は十月末。十二月の冬季休暇を利
用して、一度フランスへ、先生に会いに行くのも楽しいかもしれな
い。
食事を済ませ、足下へ絡んでくるチャムを連れながら、千絵は二
階の自室に向かった。
夏期休暇に帰省して以来なので、自室に戻るのは約二ヶ月ぶりだ。
机の上には数センチほどの高さに手紙が積まれている。大抵は趣味
の手芸関係のものだ。
望月先生からの小包はすぐに見つかった。中身は刺繍に使える素
敵な素材の詰め合わせだった。添えられた手紙には、工房や恩師の
マダムのことが書かれている。
お返しは何にしようか。この素材でどんなものを作ろうか。そう
心躍らせながら手紙を読み進めていた千絵は、最後にかけて書き記
された内容に目を見張った。
243
﹁⋮⋮フランスの刺繍学校へ留学の誘い⋮⋮? マダムの工房へ弟
子入りって、私が?﹂
手紙には、千絵の刺繍の腕をマダム・クロディーヌ・ルサージュ
も気に入っていること。興味があれば、フランスの刺繍学校への留
つづ
学推薦状を提供すること。その後、工房へ弟子入りという形で腕を
磨くこともできる旨が綴られていた。
もちろん急ぎの話ではなく、千絵が大学卒業後に選ぶ道の一つと
して挙げた話であり、強制ではないことも書かれている。
初めに感じたのは、喜びだった。
小学生の頃、響に教わったことがきっかけで始めた刺繍。取り柄
があるわけでもなく、親しい友人のいなかった幼い自分の世界に、
響は彩りを与えてくれた。
中でもオートクチュール刺繍は、響と過ごした優しくて幸せな時
間を思い出させてくれる。あたたかな気持ちを一針一針、想い出を
綴るように縫い上げていく過程が、千絵は好きだった。
そんな千絵の作った物は、ハンドメイドの市場やネットショップ
でも人気があるのか、有難くも出品すればほぼソールドアウトの状
態だ。ブライダルや催事に使用したいからと、個人的にメールでオ
ーダーを受けることもある。
響との想い出が形になり、それを誰かに喜んでもらえることが嬉
しかった。だから千絵は、刺繍であればどんなに作業に時間がかか
ろうと苦にならない。
そしてそんな千絵の腕を認めてくれた望月先生や、マダム・クロ
ディーヌ・ルサージュの言葉が、とても嬉しかった。
けれどすぐに、両親のことが頭に浮かぶ。
千絵の足元へすり寄ってくる猫のチャムを抱き上げて、千絵はベ
ッドの端に腰を下ろした。
244
喉元をくすぐると、コロコロと喉を鳴らして気持ちよさそうに目
を細めるチャム。幼かった千絵の口癖から名付けられた猫。共働き
だったが、両親は千絵をとても大切にしてくれた。
まだ響のことを想っていた中学の頃、千絵は刺繍の腕を生かした
職業に就けたらという夢を抱いていた。それを当時、望月先生へ打
ち明けたところ、恩師のマダム・クロディーヌ・ルサージュのこと
を聞いたのだ。
マダムに呼ばれ、教室たたんでフランスへ行くという望月先生は、
これを機にと千絵を誘ってくれた。一緒にフランスへ行くならば、
刺繍学校への留学中の面倒は見ると申し出てくれたのだ。
フランスで夢を追い続ける響への憧れもあり、千絵は一度、両親
へ中学卒業以降の進路についてそれとなく相談してみたことがある。
刺繍が好きなので、刺繍の先生になったり、職人として工房を持
てたら素敵だと思っていること。そのためにフランスの刺繍学校へ
留学するという選択肢もあること。
それらを千絵が話した時の両親の反応は、現実的だった。
今は趣味だからこそ楽しいが、仕事となるとそうはいかないこと。
収入が確約されていないこと。万が一挫折を迎えた時、海外の、そ
れも刺繍学校は日本の学業の単位に反映されず、中学卒業という経
歴になること。そこからの再就職は難しく、ハンデを負うことにな
ることを、切々と語ってくれた。
けれどそれで刺繍をやめろと言うのではなく、両親はハンドメイ
ドの市場やネットショップを紹介してくれ、母は積極的に販売を手
伝ってくれた。
一生の職業にしなくても、こうして楽しみながら無理なく趣味と
して続けることもできる。その可能性を示してくれた親の愛情や気
遣いを感じ、千絵は刺繍を職業にするという選択をあきらめた。
同時期に、響とマリアンヌの婚約未遂記事を目にした千絵は、望
月先生へ会いに行くだけだとしても、フランスへ渡航をする気持ち
にはなれなくなってしまった。
245
あの頃は、響への気持ちひとつで渡航を断念する自分は、やはり
刺繍の職人になることなど無理だったのだと思った。
そして今は︱︱。
﹁響⋮⋮﹂
まだじんわりと腹部に残る感覚。好きだと囁く声。一つになった
ときの肌の熱さ。それらを思い出すだけで顔が火照り、胸が甘く締
め付けられる。
日本に響がいる。会える距離に彼がいる。マリアンヌとのことは、
千絵の誤解だった。
そう思うと、望月先生の留学の話はとても嬉しいのに、心が日本
に留まりたいと思ってしまう。ジレンマが苦しかった。
﹁やっぱり私には、刺繍の職人は向いてなかったってことかな⋮⋮﹂
気持ちひとつで、渡仏を断念した過去。気持ちひとつで、渡仏を
渋ってしまう今。
一生大好きな刺繍をしながら過ごしていられるなら、生活がささ
やかだって幸せだと思う。けれどそれ以上に、響と一緒にいられる
今へ気持ちが傾いてしまう自分は、ストイックな職人にはなれない
なと苦笑する。
自分の心の中心にはどうしたって響がいるのだと改めて痛感して
いると、机に積まれた手紙の中で一通、気になる封筒を見つけた。
手書きで千絵に宛てられているが、差出人不明の白い封筒。消印
は約二ヶ月前。千絵がちょうど帰省を終えて一人暮らしのアパート
に戻った頃だ。
﹁誰からだろ?﹂
246
開けてみると、一枚の便箋が収まっていた。そこに綴られた内容
は、望月先生からの手紙以上に衝撃的なものだった。
﹃千絵へ。
久しぶりに手紙を書きます。俺のことを覚えているかな。
色々と事情があって、一年ほど前から日本に戻って来ています。
もしもチエがまだ俺を忘れないでいてくれるなら、会って話した
いことが沢山あるんだ。
チエに会いたい。
もし会っても良いと思ってくれるなら、連絡をください。
待っています。
谷部響﹄
手紙の下部には、今日響からメモで手渡されたものと同じ、携帯
の番号とメールアドレスが書き記されていた。
﹁響、手紙くれてたんだ⋮⋮私に会いたいって、思ってくれてた⋮
⋮﹂
震える手で自分の机から、昔響とやりとりしていた手紙を取り出
す。
響からもらった最後の手紙は、響やミズキの生活の様子から始ま
り、千絵の中学卒業を祝う言葉や、高校受験の結果を尋ねる内容。
そうして最後に、しばらく多忙になるため、返信が滞ることがある
という旨がフランス語で綴られていた。
247
五年前、自分はそれがマリアンヌとの婚約があるからだと勘違い
をしてしまった。
あの頃の響は、新ブランド立ち上げ時に巻き込まれた事態の収拾
で忙しかったのだ。
一人でショックを受けて、返信を書かずに一方的にやりとりを止
めてしまった。響との糸を断ち切ってしまったのは、自分だったの
だ。
﹁⋮⋮っ﹂
それでも響は、突然返信をしなくなった千絵に、こうして再び手
紙をくれた。会いたいと言ってくれた。
昨日も今日も、言葉と体で千絵を好きだと伝えてくれた。
響が一番大変だった時期に、手紙を途絶えさせてしまったのに。
﹁響⋮⋮っ﹂
嗚咽交じりに名前を呼んで、二ヶ月遅れて手元に届いた手紙と、
五年前の最後の手紙を胸に抱きしめる。
ぽたぽたと零れ落ちる涙へじゃれるように、チャムが足元で寝転
がり、手足をばたつかせている。
その場にしゃがみ込んでしゃくりあげる千絵の前で、チャムはし
ばらく涙で遊んでいた。
﹁︱︱千絵、お風呂沸いてるわよ﹂
部屋のノックの音と母親の声で顔を上げた千絵は、﹁わかった﹂
と返事をして、しわの付いてしまった響の手紙を丁寧に封筒に戻す
と、そっと机にしまった。
248
響に会いたい。会って、千絵の気持ちを伝えたい。はやる気持ち
をなんとか抑えながら、千絵は浴室に行くためにリビングへ向かう。
キッチンそばの扉が浴室に続いているからだ。
リビングに入ると、ちょうどキッチンから出てきた母親が千絵の
顔を見て驚いた。
﹁千絵、どうしたの? なんで泣いてるのよ。望月先生に何かあっ
たの?﹂
﹁ううん、これは⋮⋮﹂
響からの手紙で。と言おうとして、口ごもる。
両親には、まだ響が男だと伝えていないのだ。響の手紙で嬉しく
て泣いてしまったとも言い辛い。
﹁えっと、望月先生からの手紙に、有名な工房のマダムも私の腕を
認めてくれたって書かれてたから、嬉しくて。フランスの留学とか、
マダムに弟子入りの話もくれて、驚いちゃってさ﹂
﹁フランスに留学?﹂
﹁うん。でも行くつもりはないから大丈夫。ちゃんと大学卒業して、
就職して、刺繍は趣味で続けていくよ﹂
そうすれば、響にいつでも会えるのだ。
望月先生には申し訳ないけれど、こんなに響を想う気持ちを抱え
ながら、遠距離になんてなっていられない。
千絵は笑顔で母親にフランスへ行く意思がないことを伝えると、
浴室に向かった。
鼻歌を歌いながら入浴を済ませてリビングに戻ると、千絵はリビ
ングテーブルに座る両親に呼ばれた。
﹁千絵、ちょっといらっしゃい﹂
249
﹁お母さん? お父さん? どうしたの?﹂
﹁いいから、座りなさい﹂
両親に促されて向かいの席に着くと、父と目配せをした母が口を
開いた。
﹁千絵、あなた本当はフランスへ行きたいんじゃないの?﹂
﹁え?﹂
﹁中学の頃、あなた刺繍の先生か職人になってみたいって話してい
たでしょう? あの頃はまだ千絵は中学生で、先がどうなるか分か
らない夢へ一人で向かわせるより、まずは私達があなたにできる限
りのことを教えたかった。夢へ向かうには、それからだって遅くは
無いと思っていたから﹂
﹁お母さん⋮⋮?﹂
﹁高校、大学と、あなたは本当によく頑張ったわ。今はきちんと一
人暮らしをして、社会の常識も身に着いている。まだまだ子供でい
て欲しいって言うのは、私とお父さんの本音だけれど﹂
小さく笑いながら母が隣の父へ視線を向けると、父は頷いて言っ
た。
﹁あの頃のお前は、まだ世間を知らない子供だった。だがもう、子
供と言う歳でもなくなっていく。自分が進む道にあるリスクも、自
分の力で見えてくるだろう。親は子供がどんな夢を持ってもあきら
めずにいられるよう、一人立ちするために必要なことを教え、後ろ
から支えてやるものだ。大学を卒業したら、お前の納得いくまで、
好きなことにチャレンジしなさい。私も母さんも、お前を支えるた
めに今まで働いてきたんだから﹂
﹁フランスへ刺繍の勉強に行くだなんて素敵じゃない。人生でそん
な機会、そうそうないもの。行きたいところがあるなら行って、や
250
りたいことがあるなら全力でやるといいわ﹂
﹁お父さん、お母さん⋮⋮﹂
大学卒業までの後二年、今後のことを考えながら頑張りなさい。
と、温かなエールで背中を押されて、千絵は感謝の気持ちを口にし
ながら頷いた。
せっかくお風呂で洗った顔は、また涙で濡れていた。
自室に戻ると、スマホにLINEが入っていた。
花音が復活し、冬子とみのりが歓迎するメッセージが飛び交って
いる。どうやら花音は体調を崩していたらしい。
﹁花音、よかった﹂
明日はランチに合流すると言う花音に、快気祝いのスタンプ乱舞
を送る。
何だか全てが良い方向に流れているような気がする。
響のこと。両親のこと。奏とマリアンヌのこと。花音のこと。
全てのことを思い返す度に胸がドキドキするほど嬉しくて、頬が
緩んで仕方なかった。
今夜は寝つけるだろうか。ぼふりとなだれ込んだベッドの上で、
嬉しさのあまりゴロゴロと何度も寝返りを打ちながら、千絵は笑っ
た。
﹁早く響に会いたいな⋮⋮﹂
会って、告白がしたい。溢れてたまらない気持ちを伝えたい。
そしてミズキとのことをきちんと話合って、自分達の関係をスッ
キリとさせたい。
きっと上手くいく。わけもなくそんな風に思いながら、クッショ
251
ンを抱えた千絵は、幸せな気持ちで眠りについた。
252
告白宣言
次の日、千絵は実家から大学へ向かった。
土曜日だが補講があり、千絵は単位互換大学である英秀院大学へ
行くと、そこで講義を受けた。昼は花音も来るので、冬子やみのり
のいる櫻女大へ戻る予定だ。
﹃英秀院で講義受けてるから、昼にそっちへ合流するよ。席よろし
くー﹄
講義中、講師が所用のため少し席を外している間に、千絵は四人
で作っていたLINEグループにメッセージを入れた。
ふと前の座席に座る男子生徒を見ると、彼もスマホをいじってい
る。講義室がすり鉢状構造のため、千絵の位置から相手の手元が嫌
でも目に入る。
男子生徒のスマホの画面には、意外な人物が写っていた。
︵あれって、フユ?︶
男子生徒は何気なくフォルダ内の写真を眺めているようだが、そ
の写真に大抵、千絵の友人の冬子が写っていた。おそらく高校生な
んだろう制服を着た姿や、集団でどこかへ遊びに行っている姿。最
終的に写真は中学の頃まで遡っていく。
画面の中で楽しそうにはしゃいでいる冬子の様子に、思わず千絵
も自然と頬を緩ませていると、前の男子生徒も小さく肩を揺らして
笑っている。その様子に隣の席の友人も興味を示したのか、肘で男
253
子生徒をつついてスマホ画面を覗き込んだ。
﹁おい、さっきからニヤニヤ何見てんの。彼女?﹂
﹁うんにゃ、し損ねた﹂
﹁あー、俺もこっち来て一人暮らしする前に、告白し損ねた友達が
いてさぁ⋮⋮﹂
ボソボソと男二人で話している間に、講師が戻ってきた。
男子生徒はスマホの画面を消すと、講義に戻っていく。千絵も講
義に意識を戻すが、前の男子生徒が誰なのか気になって仕方なかっ
た。
講義が終わり、レジュメやノートをまとめながら、千絵は男子生
徒がこちらを振り向かないか見つめた。もし振り返らなかったら、
こちらから声をかけよう。そう思っていると、男子生徒の隣に座っ
ていた友人が彼を呼んだ。
﹁まっつん、今日バイトだろ? 飯どーする?﹂
﹁おー。食ってから行くわ﹂
﹁︱︱まっ⋮⋮!?﹂
︵︱︱﹃まっつん﹄!?︶
思わず腰が上がり、ガタッ! と机と椅子が音を立てる。
まっつん。そのあだ名に聞き覚えがある。小学生の頃、五、六年
と一緒に学級委員長をしていた同級生︱︱松田雄二だ。
突然立ち上がった千絵に、まっつんと呼ばれた彼とその友人二人
が驚いた様子で千絵を振り返る。千絵は中途半端に腰を上げた体勢
で、目の前の彼を見つめた。
︵ほんとに、松田君だ⋮⋮︶
254
百八十はあろうかという身長と、黒いアップバングショートカッ
トの爽やかな印象の青年は、その瞳や顔立ちに小学生の頃の面影を
残していた。やや細身ながらもパーカーから覗く首筋や腕の様子か
ら、しっかりと筋肉が付いているのが分かる。
松田は雰囲気の変わった千絵に気が付いていないのか、きょとり
とした顔で首を傾げている。カリカリと首筋を掻いた後、千絵が勢
いで落としたボールペンを床から拾い、手渡してきた。
﹁ホイ﹂
﹁あ、りがと⋮⋮﹂
﹁うんにゃ。んじゃメシ行くべ﹂
松田は千絵の礼に軽く返すと、友人と共にアッサリと昼食へと向
かって行く。
﹁おいまっつん、今のチャンスだったんじゃねーの? 巨乳美人と
お知り合えたかもしんねーのに﹂
﹁エー、ウソー。俺今フラグ折ってた?﹂
﹁折ってた折ってた。俺だったらソッコー連絡先交換するわー﹂
だべ
仲間内でそう駄弁りながら松田達が講義室から出たところで、よ
うやく千絵は目を瞬かせた。
﹁松田君、英秀院大学に行ってたんだ⋮⋮﹂
中学の頃の彼は知らないが、小学生の頃の松田は文武両道なムー
ドメーカーだった。先程見た体付きから今もスポーツができる様子
だったが、英秀院に来たと言うことはスポーツ推薦ではなかったん
だろう。今も彼は、文武両道らしい。
255
そして先程のスマホの画像。わざわざフォルダに分けていたので
はというくらい、冬子の写真が沢山あった。小学生の頃から二人は
仲が良く、噂にすらならないほど公認の仲だったように記憶してい
る。中学高校も同じ学校に通い、あの関係を続けていたんだろうか。
﹁もしかしてフユ、今まで合コン断ってたのって松田君がいたから
⋮⋮?﹂
初めて冬子を合コンに誘った時、彼氏はいないと言っていた。つ
まり松田とは付き合っていないと言うことだ。
今さっきの松田の様子から、おそらく、たぶん、高確率で、松田
は今も冬子のことが好きなんだろう。そして何やら、伝えられてい
ない様子だった。
︵松田君でも、告白できないことってあるんだ⋮⋮。そうだよね。
告白して断られたら、友達にすら戻れなくなるんだもん︶
好きなら好きなほど、告白に伴うリスクが大きくのしかかる。だ
からこそ千絵も、今までずっと響に決定的なことを聞けなかった。
昔から千絵を好きだと言ってくれる響。けれど付き合おうだとか、
恋人になろうとは口にしたことがない。その真意がどこにあるのか
聞くことが怖い。ミズキと響の関係を聞くことが怖い。
しかし前に進むためには、確かめて乗り越えていかなければいけ
ない壁がある。
意を決して奏に想いを伝えたマリアンヌ。彼女と同じくらいの勢
いで、自分も響にぶつかってみよう。
うん、と今一度自分を奮い立たせると、千絵は荷物をまとめて英
秀院大学を出た。
櫻女大に戻ると、学食のカフェで昼食を購入し、冬子達が待って
256
いるテーブルに着いた。そこには千絵を見て眩しそうに目を細める
花音の姿があった。
﹁花音、久しぶり! 元気になったみたいで良かったよ。心配して
たんだ﹂
﹁ええ、ありがとう。連絡が返せなくてごめんなさいね?﹂
﹁いいよ、具合が悪かったんでしょ?﹂
隣に座るとさりげなく花音に身を寄せて、千絵は小さく尋ねた。
﹁⋮⋮仕事、忙しいの? また倒れたりしてない?﹂
﹁⋮⋮大丈夫﹂
冬子やみのりは、花音が学生ではないことを知らない。花音が切
り出さない限り、千絵は二人に話すつもりはなかった。そのため二
人の耳に入らないよう小声で尋ねたのだが、花音はどことなく顔を
赤らめながら、視線をそらしている。
﹁花音? 顔赤いけど、まだ熱あったりするんじゃないの? もし
かして本当に倒れたりしてた?﹂
﹁大丈夫だから、あの、チエ⋮⋮顔がというか、全体的に近いわ⋮
⋮イロイロと我慢の限界が⋮⋮﹂
赤い顔をアームカバーで覆われた手で隠しながら、ボソボソと呟
いている花音。もしかして体調が悪いのに、無理をして出てきてい
るんじゃないだろうか。千絵が眉をひそめていると、そばで﹁ぶふ
ぉっ!﹂と空気の噴き出る音がした。
見ると、千絵の向かいに座っていたみのりが自分の体を抱きしめ、
うつむきながら肩を震わせて笑いをこらえている。
257
﹁どうしたのみのり。奇襲?﹂
とは、みのりの隣に座っていた冬子の言葉だ。ちなみに二人の間
の﹃奇襲﹄は、笑いのツボを刺激する何かが突然降りかかった時に
使われている。主に思い出し笑いがその奇襲の類らしい。
冬子の言葉にみのりがコクコクと頷き、ヒィヒィと息を切らせて
いる。笑いの沸点が低い不思議ちゃんは、今日も何かがツボってい
るらしい。人生がとても楽しそうだ。
そんなみのりが顔を上げ、涙の滲んだ目で千絵と花音を見つめる。
笑みの形に歪んでいた口元が震え﹁やっぱりムリ!﹂と、何故か椅
子の背もたれにしがみついて笑うみのり。一体何なんだ。
﹁ちょっとみのり、そんな面白いことあったの? 私にも教えてよ﹂
﹁ごめんねフユちゃん、この笑いは高度すぎてフユちゃんに理解で
きるかわからないよ⋮⋮っ﹂
お笑い好きの冬子がみのりに教えてくれるようせがんでいたが、
みのりが口を割ることはなかった。代わりに最近のお笑い事情につ
いて盛り上がる二人を眺める形で、ランチが進んでいく。
花音は今日も量を食べていた。どうやら体調が戻ったのは本当ら
しい。
﹁そういえばフユってさ、彼氏はいないんだよね?﹂
﹁うん?﹂
昼食を食べ終える頃、話題が途切れたところで、千絵は何気なく
話題を切り出した。
千絵が恋愛事やら合コン関係について口にするのはそう珍しいこ
とではなないので、冬子はきょとりとしながらも、﹁うん﹂と頷い
た。
258
﹁彼氏とかあんまり興味ないから﹂
﹁あの、じゃあさ⋮⋮﹂
彼氏じゃなくて、松田君に興味はないのか。
そう尋ねる前に、冬子のスマホが鳴った。画面を見て﹁バイト先
からだ﹂と呟くと、冬子が片手を上げて謝罪しながら通話に出た。
しばらく相手先と話をすると、通話を切って食器を片付け出す。
﹁ごめん、バイトの子が早退するみたいで、早めにバイト入ってく
れないかって。ちょっと行ってくるね﹂
﹁フユちゃんのバイトって、駅の近くのケーキ屋さんだよね?﹂
﹁そうそう﹂
店の名前を聞くと、大学付近では有名な洋菓子店だった。
﹁フユって水・土にバイト入れてたっけ?﹂
﹁うん、基本そのあたりー﹂
それじゃ行ってくる。とトレーを片手に席を立った冬子を見送る
と、みのりも席を立った。
﹁それじゃ、私も行こうかなぁ﹂
﹁みのりもバイト?﹂
﹁うん、そんな感じ。あとはここにいると、また笑っちゃいそうだ
から﹂
ニシシと意味深な笑みを浮かべると、みのりは花音に手を振った。
﹁花音ちゃん、ガマンはカラダに良くないんだってカズさんがよく
259
言ってたよ?﹂
ムリしないでね。と言い置いてトレー片手に鼻歌を歌いながら去
っていくみのり。千絵が首を傾げる隣で、花音がぼそりと呟いた。
﹁⋮⋮何でバレたのかしら﹂
﹁花音?﹂
﹁いいえ、何でもないわ﹂
それよりも。と、二人になったテーブルで、花音がちらりと千絵
を見てくる。
﹁チエ、どうしてフユに彼氏の話なんて聞いたの? その、チエに
彼氏的な誰かさんができた、とか?﹂
﹁ううん、そうじゃないけどさ﹂
﹁⋮⋮一、二度寝たくらいじゃ恋人認定はされないのか⋮⋮﹂
両手で顔を覆って何やらボソボソ呟く花音に、具合が悪いのか尋
ねると、少し気落ちしているだけだから大丈夫だと返された。
﹁それじゃあどうしてフユに恋人のことなんて聞いたの?﹂
﹁いや、実は今日、英秀院大学で昔の知り合いに会ってさ。その人、
たぶんずっとフユのこと好きだったんだよね。でもフユにそのこと
を言えずじまいだったみたいで﹂
﹁そうだったの﹂
﹁その人、私が小学生の頃の同級生だったんだ。一緒に学級委員も
やったりして。その頃からその人とフユ、すごく仲が良かったんだ。
優しくて面白くて、良い人なんだよ。私が三谷だから、サイダーな
んてあだ名付けたりして︱︱﹂
﹁⋮⋮﹃マツダ﹄?﹂
260
﹁え? ウソ、私名前出してた? フユにはナイショね? 私、昔
と今じゃ雰囲気が変わってるからか、フユも松田君も私のこと元同
級生だって分かってないみたいだし。私もあんまり、言うつもりな
いしさ﹂
﹁⋮⋮チエが振られた相手って、まさか、そういうこと⋮⋮?﹂
﹁花音?﹂
千絵が言い募っている間に花音も何やら呟いていて、どうしたん
だと首を傾げた。額を押さえてうつむく花音の顔色が、少し悪い。
﹁大丈夫? 花音、顔色が悪いみたいだよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁お水もらってこようか?﹂
お互いのカップは空になっている。学食のサーバーから水を汲ん
でこようと立ち上がりかけたところで、手をつかまれた。
アームカバーで指辺りまで覆われているが、花音の手は一般女性
よりもやや大きい。背も高いので、花音の職業はおそらくモデルだ
ろうと千絵は踏んでいる。
花音に止められて、千絵は再び腰を下ろした。花音がどうして無
言なのかは分からない。けれど張り詰めた空気を感じるのは、恋愛
関係のことを千絵が口にしたからだろうか。
そういえば花音は、とても好きな人がいると言っていた。相手か
ら関係を切られた今も、未だに想い続けているのだと言っていた。
そして千絵も花音に、響のことが好きだと話したことがある。
﹁⋮⋮ねぇ花音。私、告白しようと思うんだ﹂
﹁え?﹂
﹁すごい偶然だけど、私、この前話してた好きな人に会えてさ。昔
告白したんだけど、うまく受け取ってもらえなかったって言うか⋮
261
⋮﹂
響が日本を発つとき、千絵も響が好きだと伝えた。でも響はそん
な千絵の気持ちを、綺麗な恋心だからと、そのまま置いて行ってし
まったように思うのだ。
今度はそんな簡単な想いじゃないことを伝えたい。
﹁もう一度、好きだって伝えてこようと思う﹂
﹁でも、そんな⋮⋮だって、相手は他に好きな人がいるんでしょう
?﹂
好きな人と言う言葉に、ミズキのことが頭に浮かんだ。
響が大変だった時期に、ミズキは彼を支えていたんだろう。二人
の間には絆が存在していることを感じている千絵は、こくりと頷い
た。
﹁チエ、それじゃあ⋮⋮っ﹂
﹁でも、好きなの。その人も私のこと、好きだって言ってくれた。
今でも好きだって⋮⋮愛してるって言ってくれた。他に好きな人が
いるって知ってるけど、でも、想いが一対一じゃなくたっていいっ
て思ったんだ。そう思えるくらい、私あの人が好きだし、その人が
想っている相手のことも好きになれるって思ったんだ﹂
﹁チエはそれでいいの⋮⋮?﹂
﹁うん﹂
﹁⋮⋮私はイヤ。好きな人を誰かと共有されるなんて、耐えられな
い⋮⋮﹂
﹁私も知らない相手とは無理だけど、彼も、彼が大切にしてる人の
ことも、二人とも知ってるから。二人とも、いい人だって知ってる
から﹂
﹁チエ⋮⋮﹂
262
自分は二人がいい人だと知っている。
けれどミズキは千絵のことをどう思っているだろう。
誤解とはいえ、こちらから一方的に連絡を絶ってしまった千絵を、
ミズキは受け入れてくれるだろうか。今さら都合よく、二人で響を
大切にしようという千絵に、同意してくれるだろうか。
﹁少し、不安はあるんだけどね。だって昔も今も、私はどうしたっ
て後からあの二人の関係に入っていく形になるから﹂
幼少の頃から同じ夢を追っていた響とミズキ。そこへ突然割り込
むことになった自分。
そして今も、パートナーとして歩んでいる彼らの間に、自分はど
んな立ち位置で入り込むことになるのだろう。
ミズキほどの場所に自分が立てるかは分からないが、それでも再
熱した想いをなかったことにすることは、もう無理だった。
﹁今日家に帰ったら、彼に連絡してみるつもりなんだ。それで、好
きだって言ってくる﹂
﹁⋮⋮チエっ﹂
﹁︱︱チエー、加藤先生がレポートのことで呼んでたよー﹂
花音が何か言いかけたが、カフェで千絵を呼ぶ友人の声に口を閉
ざす。
﹁花音、何?﹂
﹁⋮⋮いいえ、呼ばれてるんでしょう?﹂
花音の顔色はまだあまり良くなかったが、もう帰るから大丈夫だ
263
と笑って手を振られる。
﹁チエはいつも、東門から帰るのよね?﹂
﹁うん、その方が駅に近いし﹂
﹁そう。じゃあ、行ってらっしゃい﹂
花音の質問の意図を図り兼ねながら、千絵はそれじゃあと、食器
を下げてカフェを出た。
264
それを恋とは認めない
教授と話を終えて研究室から退室した千絵は、荷物をまとめて東
門へ向かった。
あの後、花音は無事職場に戻っただろうか。東門を出て駅に向か
いながら、LINEでメッセージを送ろうとしたところで声がかけ
られた。
﹁チエ!﹂
﹁え?﹂
辺りを見回すが、二車線の並木通りに千絵を呼び留める人の姿は
ない。首を傾げていると、再び呼ばれた。今度は小さなクラクショ
ン付きだ。
﹁チエ、こっち﹂
﹁えっと⋮⋮?﹂
停まっている白い車の窓から、誰かが顔を覗かせて千絵を呼んで
いる。それが誰だか分からなかったのは、相手が黒いサングラスと
白いマスクで顔を覆っているからだった。
怪しさ満点な姿にじりりと後ずさると、相手は慌てた様子で左ハ
ンドルの運転席のドアを開けた。
﹁ちょっと待ってチエ! チエと話がしたくて⋮⋮時間作れないか
な?﹂
265
﹁それ以前に、アンタ誰﹂
﹁え? 誰って⋮⋮﹂
戸惑う相手のダークブロンドの髪を見て、もしやまさかと千絵は
目を丸くさせた。
﹁もしかして、響?﹂
﹁ああそうか、サングラスとマスクしてたから⋮⋮って、ダメだッ﹂
サングラスを一度取りかけたものの、響は何故かハッとした様子
で掛け直している。
﹁着替えて爪剥がしてたら顔洗う時間が⋮⋮﹂
﹁響、ブツブツ何言ってるの?﹂
﹁え? いや、何でもない。その、今ヒドイ花粉症でさ﹂
﹁響、花粉症だったの? この時期にも症状が出るって、ブタクサ
かな。大丈夫? 薬は?﹂
﹁ああ、うん。大丈夫。それよりチエ、今から帰るところ?﹂
﹁そうだけど。響はどうしてここに?﹂
ファッション雑誌か何かの撮影に同行したんだろうか。櫻女大内
の歩道や広場は景観が良く、撮影場所に使われることが多い。学生
が比較的少ない土・日は、この並木通りにロケ用の車が停まってい
たりするのだ。
これから響へ告白的な話をしようと思っていただけに、本人に会
えたのは嬉しい。けれど突然の遭遇で動揺した心臓が、バクバクと
うるさくて仕方ない。千絵は響に悟られないように、精一杯平静を
装った。
﹁チエと話がしたくて待ってたんだ﹂
266
﹁そうなんだ。今日はここで仕事があったの? よく私のこと見つ
けられたね﹂
﹁いや、今日は別に仕事で来たわけじゃないけど﹂
﹁え? じゃあどうして私がここの大学に通ってるって知ってるの
?﹂
﹁え?﹂
⋮⋮⋮⋮。
微妙な間が空いた後、響が﹁それはホラ﹂と言葉を詰まらせなが
ら言う。
﹁この前会った日に、千絵が言ってた、気が⋮⋮﹂
﹁え? 私あの日響にそんなこと⋮⋮﹂
言っただろうかと思い出そうとして、響と体を重ねた数々のシー
ンが脳裏にあふれ出し、千絵は真っ赤に固まった。夢だと思ってい
た部分もあり、色々と記憶がごちゃごちゃしている。
千絵自身は覚えていないが、あの思い出すと悲鳴が上がりそうな
交わりの中で、そんな会話があったのかもしれない。
﹁も、もしかしたら言ってたのかも、うん﹂
﹁ああ、うん﹂
千絵は真っ赤になりながら、響は若干冷や汗をかきながら、ぎこ
ちなく頷き合った。
﹁それでチエ、今から家に来れないかな。話があるんだけど﹂
﹁響の家? ミズキもいる?﹂
それなら願ったり叶ったりだ。千絵も三人で話がしたかった。最
267
初は電話でと思っていたが、顔を合わせて話せるならそうしたい。
千絵がミズキのことを尋ねると、響は何故と言うように小さく首
を傾げた。
﹁ミズキ? いや、ミズキは今はアニーと仕事場にいると思うけど、
どうして⋮⋮ああ、そうか。俺と二人きりは怖い?﹂
﹁こわっ、くはない、けど⋮⋮﹂
二人きり。そう聞くと、どうしてもまた体を重ねたことが勝手に
頭を巡ってしまい、千絵は思わず響から顔をそらした。
怖いと言うより、心底恥ずかしい。赤い顔で無意識に一歩後ずさ
ると、響が上着からスマホを取り出した。
﹁待っててチエ。今ミズキを呼ぶから﹂
そう言ってスマホを操作すると、響はミズキと通話を繋げたらし
い。
﹁ミズキ、俺だ。いや、まだ外にいる。仕事を切り上げて家に戻れ
るか? ⋮⋮俺と二人だとチエが怖がる﹂
怖いわけじゃないと否定したかったが、会話をさえぎることもで
ず、何とも言えないまま千絵は響の通話が終わるのを待った。
﹁︱︱チエ。ミズキはアニーとランチを食べ終わったら戻って来る
らしい。少しの間俺と二人だけど大丈夫?﹂
﹁だから別に、怖いワケじゃないから﹂
﹁車で移動も平気?﹂
﹁大丈夫だよ﹂
268
サングラスとマスクのおかげで響の表情が分からず、声音だけで
は何を気にしているのかいまいち理解できない。響が開けてくれた
助手席のドアから車に乗り込みながら、千絵は首を傾げた。
千絵自身は響に告白をしようと思っていた。だがしかし、響から
時間を作って欲しいと言われたのは何故だろうか。何か話が︱︱と
考えたところで、思い出す。
︵そうだ。響は私に﹃会って話したいことがある﹄って手紙をくれ
てたんだ︶
走り出した車の中、運転中の響の邪魔にならないように、千絵は
声をかけた。
﹁響、手紙くれてたでしょう? 二ヶ月くらい前に﹂
﹁ああ。うん﹂
﹁すぐに返事を出せなくてごめんね。私、今は一人暮らししてて、
実家に戻った時に手紙を確認してたから。夏季休暇に実家に帰って
たんだけど、ちょうどアパートに戻った時に響の手紙が実家に届い
ていたみたい。行き違いになっていた手紙、実は昨日見たんだ﹂
﹁昨日?﹂
﹁うん。あの後、私実家に帰ったから。その時響からの手紙を見つ
けて、話がしたいって書いてくれてたのに、返事ができなくて本当
にごめんなさい﹂
﹁そうか⋮⋮﹂
そう言って黙った響の様子を横目に見るが、両脇もレンズで覆わ
れたデザインのサングラスにより、横顔からも表情はうかがえなか
った。
﹁響、怒ってる⋮⋮?﹂
269
﹁怒る? いや、ホッとしてる。チエに嫌われたわけじゃなかった
のかなって﹂
﹁嫌いになんてなるわけないよ!﹂
思いのほか大きな声が出て、響の肩が揺れる。サングラス越しに
響がこちらへ視線を向けてくるのが分かり、驚かせたかと千絵は一
度口を閉じた。
﹁⋮⋮ごめん、大きな声出して。でも私が響のことを嫌いになるな
んて、絶対にないから﹂
﹁絶対に?﹂
﹁そう、絶対に。だって響は私の恩人だもん﹂
﹁恩人? 俺が、チエの? 逆じゃなくて?﹂
﹁逆?﹂
﹁俺はチエのおかげで今があるけど、チエはチエ自身が頑張ったか
ら今があるだろ﹂
﹁そんなことないよ。昔、響に出会ってなかったら、今の私はなか
ったから。学校に行くのがつらくて下ばかり見てた私に、響は楽し
い世界を見せてくれた。あれから私、毎日がすごく楽しくなったん
だよ﹂
﹁それならどうして⋮⋮﹂
何かを言いかけた響が、言葉を呑みこむように沈黙する。
﹁響?﹂
﹁⋮⋮何でもない。その話は、家に着いてからしよう。今は車内だ
し、ミズキもいないから﹂
﹁そうだよね。ミズキもいた方がいいよね⋮⋮﹂
この関係は三人で話合って深めていかなければ。ミズキのいない
270
ところで、抜け駆けなんてしたくない。
チエがそう思いながら頷くと、響も頷いた。
﹁ああ。ミズキがいない時にそんなこと言われたら、その辺に車停
めてチエを襲いたくなる﹂
﹁おそ⋮⋮!?﹂
ええ!? と扉側にガタリと身を寄せて驚くと、響がマスクの下
で小さく笑った。
﹁ホラ、怖がる﹂
﹁べ、べつに怖がってるわけじゃ⋮⋮っ﹂
﹁大丈夫、我慢するから。でも男の理性はあまり信用しない方が良
いから、警戒はしておいて﹂
﹁どういう忠告なの、それ⋮⋮﹂
﹁自分の身は自分で守れって言うこと。少しでも付け入る隙がある
なら、容赦するつもりは微塵も無いし﹂
﹁なんか、サングラスとマスクしてるからなのかな。声だけだとあ
んまり冗談に聞こえなくて、反応に困るんですけど﹂
﹁それはよかった。冗談だと思われる方が困る﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
本当に、何と返していいのか分からない。困っているこちらの様
子を楽しんでいるのか何なのか。千絵が赤らんだまま苦い顔をして
いると、ふと甘い香りに意識が向いた。
そう言えば車内に入ってからずっと、ほのかに甘い香りがしてい
る。芳香剤かと思ったが、それにしては品の良い香りだ。最近どこ
かで嗅いだことのある気もするが、思い出せない。
﹁ねぇ響。さっきまで誰か乗ってた?﹂
271
﹁この車に? いや、人を乗せることはほとんどないな。ミズキも
自分の車に乗っているし﹂
﹁そうなんだ。なんだか甘くて良い香りがするから。香水か何かの
残り香かと思ったんだけど⋮⋮﹂
言っている間にも﹁ウィィ⋮⋮﹂と自動で窓が開けられ、外気が
流れ込んでくる。
﹁響? 別に良い匂いだから開けなくてもいいのに﹂
﹁いや、空気の入れ替えが好きなんだ﹂
﹁花粉症なのに? 空気入れ変えるから、サングラスもマスクも手
放せなくなるんじゃないの?﹂
﹁そうだとしても空気の入れ替えが好きなんだ﹂
かたくなに窓を開けたまま、響は家までの道を運転したのだった。
響のマンションに着き、車から降りようとした時、千絵の指に細
い糸が絡んだ。よく見ると、糸は人の髪の毛のようだった。淡い茶
色の、ややウェーブのかかったやわらかな髪。長さから、明らかに
女性のものだと分かる。
助手席に落ちていた女性の髪。その時はミズキのものだろうと思
い、そう重く気には留めなかった。
部屋に入ると、千絵をリビングへ案内した響は、﹁顔を洗ってく
るから﹂と洗面所へ向かった。その際、この部屋から出ないように
と何度も念を押されて、首を傾げながらも頷いておいた。
リビングのL字ソファへ腰掛けて待っていると、しばらくして水
気を含んだ髪をかき上げた響が戻ってくる。サングラスとマスクは
もちろん無い。
272
ふわりと香る石鹸の匂いと、ラフなシャツに変わった服装。シャ
ワーを浴びたのだろうか。
﹁響、シャワー浴びたの?﹂
﹁ああ、ザッと。匂い落とさなきゃ⋮⋮﹂
﹁匂い?﹂
﹁ああ、ええと、職場の匂い。化粧とか、香水とか﹂
﹁響ってそういう匂い苦手だったんだ?﹂
﹁人によりけりかな。チエの匂いは何でも好きだけど﹂
﹁匂いとか言わないでよ。変に匂ってるみたいで気になるから⋮⋮﹂
そう言うと、本当に自分の匂いが気になってきた。最近クチナシ
の香りのコロンを気に入って付けているが、匂いがきつかったりし
ないだろうか。
クンクンと襟元や手首に鼻先を近付けて確かめていたら、その様
子を響が妙にしまりのない笑顔で見つめてくる。
﹁な、なに?﹂
﹁いや、可愛いなぁと思って﹂
﹁何言ってんの!?﹂
一気に顔面を赤く沸騰させて、チエは耳をふさぎながらブンブン
と頭を振った。
﹁何で響って平気でそういうこと言えるの!? 昔のノリのままこ
られても、今の私は明らかに可愛さ要素の欠片もないじゃん!?﹂
体を重ねた時も興奮した意識でなんだかんだと言われていた気が
するけれど、素で言われると恥ずかしさがとんでもない。千絵は悲
鳴に近い声で抗議した。
273
響をあきらめようと思った五年前から、千絵は自分自身に可愛さ
を求めることを放棄したのだ。髪を切り、きつい印象を受ける吊り
がちな目元を生かしたメイクをして、女子高時代は﹁カッコイイ﹂
﹁塚先輩﹂と言われ続けてきた。
大学に入りワンレンボブへと髪を伸ばしたが、合コン諸々で知り
合う男性陣からは﹁キツめの女子﹂が総評だ。美人だなんだと言っ
てくる相手もいるが、笑って流せるノリばかりだった。
こんな風にしみじみと千絵を甘やかしてくれるのは、今も昔も響
だけだ。
甘やかされる懐かしさで疼く胸。同時に、昔と変わらない響の態
度に痛みが走る。
響と別れた七年前から、何も成長していないと見られているよう
で、千絵は憤る気持ちのまま声を荒げた。
﹁響、ちゃんと私のこと見えてる? 私、昔と違うんだよ。七年前
に別れた、十三歳の私じゃない。もう二十歳になった。別れたあの
頃の、十八歳だった響の年齢を超えてるの。私は私で、色々経験積
んで、考えて、生きて、成長したんだから⋮⋮っ﹂
だから、言わないで欲しい。
﹁︱︱可愛いなんて、昔みたいに簡単に言わないでよ⋮⋮!﹂
今までの自分の苦悩や葛藤をまるでなかったように、可愛いだな
んて言わないで欲しい。
恋情に溺れて周りが見えなくなり、マリアンヌとの婚約記事を鵜
呑みにして、響との手紙を途絶えさせた自分。
ろくに経験もないくせに背伸びをして、いつの間にか合コン女王
と呼ばれるまでになった自分。
274
あんなに好きだった刺繍の世界への道を、響と天秤にかけて断ろ
うとしている自分。
そんな浅はかな自分のどこが可愛いのか。可愛い要素なんて皆無
だ。
ただ純粋に響から可愛いという言葉を贈られていた、過去の自分
はもういない。
それでも、どんなに自分自身が変わっていってしまったとしても、
変わらなかった響への想いがある。変わらないどころか、成長して
いた想いだ。
﹁もう私には、可愛さなんてないかもしれないけど、でも、それで
も私は︱︱﹂
﹁それでもチエが好きだよ﹂
響が好き。そう口にする前にカウンターで伝えられた言葉に、千
絵は口を﹁は﹂の形にぽかりと開けたまま、呆けた。
リビングに入って来た響は最初、千絵とソファの端同士に腰掛け
ていたはずだったが、いつの間にか随分と近くに響がいる。お互い
手を伸ばせば届いてしまいそうな距離だった。
そんな距離から響がジッと、どこか熱のこもった緑の瞳で千絵を
見つめてくる。
﹁千絵は変わった。外見も内側も、見違えるほど綺麗になった。で
もしぐさは思い出のチエのままだったよ。照れた時に見せる困った
顔も、頬を赤らめてこっちを小さく睨んでくる潤んだ瞳も、拗ねて
尖らせた唇も、不意をつかれた時に見せる驚いた表情も⋮⋮昔と変
わらない。綺麗で可愛い、チエのままだ﹂
﹁せ、成長していないってこと⋮⋮?﹂
﹁まさか。中身も外見も成長しすぎて俺の理性がもちそうにないく
275
らいだよ﹂
﹁あ、あの、響⋮⋮ちょっと、近い⋮⋮っ﹂
じりじりと狭まってくる距離に、千絵はソファに合ったクッショ
ンをとっさに構えて背を反らせた。元々端に座っていたので、これ
以上後退しようがない。それを見越してか、千絵を囲うように、背
もたれと千絵の腰に近い位置に両手をついた響が、ギシリとソファ
を沈ませながら身を乗り出してくる。
﹁チエ、今日はどこにも行かないで﹂
﹁響⋮⋮?﹂
﹁チエにも行きたいところがあると思う⋮⋮でも、ここにいて。ど
こにも行かないで、俺を選んで。そのためなら、何だってするから﹂
﹁何でも?﹂
﹁ああ﹂
﹁じゃあ、こ⋮⋮﹂
恋人にして。なんて今言うのは卑怯だ。第一、そういう形で言っ
て欲しいわけじゃない。
﹁恋じゃないって認めて﹂
﹁チエ?﹂
﹁響はずっと、私の気持ちを恋だって言ってた。響への気持ちは﹃
可愛い恋﹄だって。でも、もうそうじゃないって認めて。嫉妬だっ
てするし、独占欲だって感じる。私は響のこと、ミズキ以外の人に
渡したくないし、触れて欲しくない。私はミズキと一緒に、響を愛
したいの。こんなのもう、可愛い恋じゃないでしょ?﹂
﹁え⋮⋮?﹂
え? え? としばらく﹁え﹂以外の発音を忘れて言語障害に陥
276
った響が、額を押さえたまま目を見開いて汗を垂らしている。瞳孔
の狭まっていた瞳の中に、ぐるぐると無数の渦巻きが発生している。
顔色は悪いを通り越して白くなっていたが、一部頬だけ異常に赤い。
﹁え、ちょ、ちょっとまって⋮⋮ええぇ? とんでもなく嬉しいこ
と言われて頭がおかしくなってるのか、俺、チエの言ってる言葉が
半分くらい理解できない⋮⋮﹂
つまり。と、響が震える声で、どこか視点の定まらない瞳をチエ
に向けながら聞いてくる。
﹁チエは、俺のことが好き、なの?﹂
﹁好きじゃない﹂
﹁え?﹂
﹁愛してるの﹂
﹁⋮⋮っ﹂
ひゅっと変な音を喉で立たせた後、盛大に響がむせ込んだ。
ゲッフゲッフとまともな言葉を言えずに涙目になっている響に、
千絵は真剣な表情で続けた。
﹁でも響にはミズキがいるでしょ﹂
﹁⋮⋮ゴホゴホッ、あの、チエ、その辺りが理解できないんだけど
⋮⋮っ﹂
﹁響とミズキはパートナーで、昔から一緒に寝起きする仲だったで
しょ﹂
﹁⋮⋮なに?﹂
﹁なんとなく気付いてたんだ、私。小六くらいから﹂
﹁はぁぁっ!?﹂
277
響が裏返ったような声を上げ、両手で頭を抱える。今度こそ顔か
ら一切の色が失われていた。
﹁ちょちょちょちょっとまって。え、なにそれ、俺はそういう性癖
だと思われていたってことか? この十年近く? ウソだろ⋮⋮﹂
ありえない。ありえない。とうわ言のように呟いて冷や汗をびっ
しりとかく響に、千絵は眉をひそめた。
﹁響、もしかして自覚が無かったの? あれだけいつも一緒にいて、
寝室も一緒だったのに﹂
﹁いや、いつも一緒も何も、アレはあいつが﹃同じチームだから作
業しやすいように﹄って名目で転がり込んできたんだ! ⋮⋮実際
はあいつがアパート代ケチったのと、俺がチエを襲って犯罪者にな
らないように、奏と結託して妨害に来てただけだけどな⋮⋮﹂
﹁それでも一緒に寝起きしていたことには変わりないでしょ?﹂
﹁いや、だから寝起きしてただけだろ! 作業場は道具でいっぱい
だったし、あの部屋以外にベッドをもう一台置くスペースがなかっ
ただけの話だよ。チエだって、友人を家に泊めるくらいするだろ?﹂
﹁響はあくまで、ミズキは友人だって言い張るわけね?﹂
﹁いや、だってそうだろう?﹂
自分は潔白だと言う響の姿と、昔下着姿のミズキと共に寝室にい
た響の姿が重なって、千絵はますます眉を吊り上がらせた。
あくまで友人以上恋人未満の関係を続けようとするのは、千絵に
対してだけではなかったらしい。
﹁そう。下着を見合うほど一緒に寝起きして、フランスへ一緒に留
学して、一緒にブランド立ち上げようとして色々問題が起こっても、
一緒に苦楽を共にして今もパートナーとして寝食を共にしているミ
278
ズキを、響はただの友人だって言い張るわけね?﹂
﹁いや、ただのとは言わないけど⋮⋮﹂
﹁﹃大切﹄な、﹃パートナー﹄でしょう!﹂
﹁そうだけど、なんか違う! たぶんそれは広義のパートナーであ
って、チエの言う特殊な意味にはあてはまらない!﹂
﹁どうしてそこまで鈍感でいられるの!? 響がいい加減ミズキの
ことを認めてくれないと、私がみじめになるだけなんだからね!?﹂
﹁なんでそれでチエがみじめになるんだ!?﹂
﹁もう、いい加減認めてよ! 響はミズキのことが好きなんだよ!﹂
︱︱ガチャリッ。
千絵の怒声に合わせるかのように、タイミング良くリビングの扉
が開く。姿を現したのは、二人の男女だった。
一人はミズキではなく、小柄な西欧女性。もう一人は背の高い男
性だった。
二人のうち男性の方が、棒読みな声で呟いた。
﹁えー、ウソ。アンタアタシのこと性的に好きだったの?﹂
﹁たとえ人類が滅亡の危機に瀕していたとしてもそんな事態はあり
えないから安心しろ﹂
互いに無感情な言葉を発し合った男性と響の目は、死んだ魚のよ
うに濁っていた。
279
THE・ED
死んだ目をする二人の男。
男を見つめる二人の女。
どこまでも落ちる重くよどんだ沈黙を破ったのは、状況を把握で
きずにいる千絵だった。
﹁ええと、たしかあなたは⋮⋮ユズ、さん?﹂
響と共に目が死んでいる男性は、確か以前千絵のバイト先に現れ、
ここのマンションの鍵を手渡してきた人物だった。あの時一緒にい
た女性は、今日も彼のそばに立っている。アニエス・ド・ボードリ
エこと、アニー。マリアンヌの妹だ。
千絵がユズと呼ぶと、男性は﹁ええ!?﹂と驚いた様子で千絵を
凝視してくる。
﹁ヤダ、この前はちょっとイタズラ心で名前明かさずにからかった
けど、響の部屋の鍵を渡した時点で思い出してくれるものと信じて
たのに。チエってば、アタシのこと忘れちゃったの!?﹂
﹁アタシ⋮⋮って。まさか、ミズキなの?﹂
﹁ええ、ちょっと事情があって今はこんな恰好してるけれど、正真
正銘のミズキよ﹂
ウフッと腰をしならせてウインクをしてくるミズキに、千絵はい
よいよ頭を混乱させながら呟いた。
﹁ミズキ、いつ男に性転換したの﹂
﹁え?﹂
280
﹁⋮⋮チエは今までお前のことを、女だと思っていたらしい﹂
﹁⋮⋮⋮⋮っ﹂
ひぃっとかすれた音を立てて息を吸い込んだミズキが、その場に
崩折れて笑い出す。その声は、見事に男性のソレだった。
﹁ウソ、ヤダ、ダレも説明してなかったワケ!? だってアタシが
チエに近付いたら、響がいっつも異常なまでに警戒してたじゃない
! ヤダもぉ、チエったら昔から素直で天然で可愛いんだから!﹂
﹁笑い事じゃないだろ。俺とお前が体の関係があるくらい誤解して
たんだぞ﹂
﹁⋮⋮ダメ、水⋮⋮! 水ちょうだい⋮⋮ッ!﹂
涙をこぼしてむせ込みながら笑うミズキの姿を見て、千絵はよう
やく自分がとんでもない勘違いをしていたことに気が付いた。
改めて四人、L字ソファの角に千絵と響、ミズキとアニエスの二
人ずつ腰掛けた。
背もたれに額を押し当てて、未だに目尻へ涙をにじませながら笑
うミズキが、どうしてこんな事態になったんだと悶えている。
﹁ひーっ、こんなに笑ったの久し振りよ、お腹痛いわ⋮⋮! チエ、
なんだってそんな勘違いしていたの? チエってば昔、アタシの体
見たことあったじゃない﹂
﹁はあ!? ミズキ、お前チエを襲ったのか!?﹂
﹁おバカ。違うわよ。いつだったかしら、チエが修学旅行のお土産
を持って来てくれた日よ﹂
﹁ああ。徹夜続きの仮眠明けに、チエが来た日か。お前の裸体なん
て見せられたもんじゃないから、チエを部屋から退避させたんだっ
た﹂
281
﹁そうそう、ひどいのよ響ったら。チエをリビングに行かせて扉を
閉めた途端、﹃チエにそんなモノ見せるな﹄だなんてド突いてきた
んだからっ。チエ、あの日着替えてるアタシのシンボル見たんじゃ
ないの?﹂
シンボル。と下半身を指して言うミズキに、見てない見てないと
チエは首を振った。
﹁確かミズキ、あの時女性物の下着を着けてなかった⋮⋮?﹂
﹁やーねぇ。アレでもれっきとした男性物なのよ。でないとシンボ
ルがおさまらないじゃない﹂
ミズキが発言するたびに、﹁シンボル言うな﹂と響が苦い顔で低
くツッコミを入れている。
だがしかしと、千絵はミズキに食い下がる。
﹁でもミズキ、胸とかあったよね⋮⋮?﹂
﹁アタシ、自分の好きな服を着たいのよ。着るなら一番キレイに見
えるスタイルで着たいワケ。胸はもちろん、プルプルシリコンパッ
トよ。あの頃の経験が生かされて、今の響が⋮⋮﹂
﹁え? 響?﹂
響がどうしたのかと首を傾げたが、響から﹁なんでもない﹂と首
を振られた。
﹁アラヤダ、まだ言ってないの? もう、こじれても知らないわよ。
ああ、もうこじれてるんだっけ?﹂
﹁お前が言うな。お前の性分もこじれる原因の一つなんだからな﹂
﹁アタシのアイデンティティにケチ付けないでちょうだい。女の心
ひとつつかんでいられなかったアンタが悪いのよ﹂
282
とはいえ。と、ミズキがふと真顔になる。昔は中性的な女性寄り
の顔立ちをしていたミズキだったが、今はすっかりと魅力的な流し
目を送る男性にしか見えない。
ミズキが見つめてくるので、千絵は戸惑いながらも視線を返した。
﹁チエ、気付かなかったとはいえ、長い間不安にさせちゃってごめ
んなさいね。でも安心して。離れてもコイツはただのチエコンだっ
たわ。昔はチエの前じゃ必死にエディを見習って、年上の男を演じ
ようと努力してたみたいだけど。でも結局、チエがいなきゃダメダ
メよぉ。チエに﹃自由に恋しろ﹄なんてカッコイイこと言っておき
勃起不全
ながら、自分はEDになりかけたりしてね﹂
﹁い、ED⋮⋮? 響が?﹂
﹁ミズキ⋮⋮﹂
﹁いいじゃないの。チエに会えて見事完全回復したんだし。アンタ
がチエバカでカッコ悪いことなんて、周知の事実なんだから。誰も
今さらそんなことで引きゃしないわよ﹂
確かに引きはしないが、そこまで精神的に追い込まれるほど、ド・
はなは
ボードリエ家と新ブランドの間に起きたトラブルが大きかったと言
うことか。
その間勘違いも甚だしい理由で手紙を途絶えさせた過去の自分の
頭を、千絵は引っ叩いてやりたくて仕方なかった。
どうしてあの時、一言でも響に確認を取らなかったのか。その一
言があれば、自分達には違う未来もあったかもしれないのに。
﹁チエ⋮⋮﹂
いきどお
自分のふがいなさに憤っていたら、響が心配そうに千絵を呼んだ。
響がEDだったことを憤っているわけではないので、誤解の無い
283
ように千絵は笑顔で首を振る。
﹁えっと、大変だったみたいだけど、ちゃんと治って良かったよね
?﹂
﹁大丈夫。チエのことを夢見た時はちゃんと機能してたから﹂
﹁前言撤回。チエに引かれるから自分の発言には注意しなさい﹂
ミズキの冷静なツッコミも、熱っぽく千絵に視線を注ぐ響には届
かなかったようだった。
﹁チエ、響にはやっぱりチエがいないとダメなのよ。チエと会えな
くなってからこの男、本能と欲望を凝集させたカオスデザインばか
り作り上げるし。しかもそれが﹃斬新だ∼﹄﹃美だ∼﹄﹃何だ∼﹄
と業界から異様に評価されるし﹂
ほんと怖い世界だわぁ。と頬に手を当てて溜息を吐くミズキ。確
かに言われてみれば、千絵が響の情報を追っていた頃は、随分と斬
新なデザインをコレクションで発表しているなと思っていた。
コレクションは汎用性の高いデザインよりも、入魂の一品で独自
の世界を表現する芸術性の高さが求められる場所だ。響の感性が、
海外に行くことでそういった方面へシフトしていったのだろうかと
思っていたが、色々と葛藤があったらしい。
﹁新ブランドじゃエディ・アレニウスの名前に泥塗るような凡庸デ
ザインしか作らないし。おかげでダニエルの怒りをかって目を付け
られた挙句、エディの息子だと名前が知れ渡ったせいで、まともに
就ける職場はないし。エディのアトリエへ身を寄せても、響ってば
まるで抜け殻だったのよ﹂
あの時はミズキも、響はこれで終わりかと思ったらしい。そんな
284
折、ミズキがネットで売り出していた千絵の作品を見つけ、響に教
えたのだそうだ。
﹁チエの作品が少しでも、腑抜け響の目覚ましにならないかって思
ったんだけど⋮⋮これがとんでもない起爆剤になっちゃったのよね﹂
﹁起爆剤?﹂
﹁そう。この男、﹃谷部響﹄をこの業界から完全に殺して、新しい
名前で生きるとか言い出しやがったのよ。今まで﹃谷部響﹄として
得た経歴も、築いた人間関係も、全てリセットするなんて言うんだ
もの。おかげでアタシも響に付き合って、今はこの格好と﹃ユズ﹄
って言う名前で動いてるわ﹂
﹁そう言うお前だって、ダニエル達の鼻を明かしてやるんだって息
まいて楽しんでただろ?﹂
﹁そりゃもう、ここまできたら楽しまなきゃやってらんないわよ﹂
ダニエルとは、マリアンヌやアニエスの兄にあたる、ド・ボード
リエ家の嫡男だそうだ。響を陥れた人物の名前を出しながらも、響
やミズキの声音に暗さを感じない。二人の言う通り、この逆境を楽
しんでいるようにすら聞こえた。
谷部響と共に、ミズキもまた服飾業界からその名を去っていたの
か。響から概要を聞いていたとはいえ、改めて二人の絆は深いのだ
と感じていると、ミズキが対象を変えて同じ言葉を口にした。
﹁あの時は改めて、チエと響の絆の深さを見た気持ちになったわ﹂
﹁私と響の?﹂
﹁そうよぉ。あんなに抜け殻だった男が、チエの作品を見せただけ
で目を覚ますし。ダニーの目を回避するために日本に戻って来てみ
れば、チエが近くにいるって言うだけで、みるみる響のデザインが
息を吹き返してくるし。ホント、インスピレーションの女神って存
在するのねぇ﹂
285
しみじみと言われた言葉に千絵がなんとも答えられずにいると、
肩に温かな重みが掛かった。見ると、千絵の肩にコテリと頭を置い
た響が、気持ちよさそうに目を細めている。
ゴロゴロと喉を鳴らしそうな勢いで懐いてくる様子が、実家の猫
を思い出して少し笑ってしまった。
﹁ごめんチエ、少し眠い⋮⋮﹂
﹁響?﹂
くてりと頭を下げた響がズルズルと体重をかけてきて、千絵の胸
に頬を埋めながら﹁あぁ﹂と溜息を吐いた。
﹁俺、死ぬ時はここがいい﹂
﹁何言ってるのっ﹂
どしっと肩を押したらそのまま千絵の膝に頭を置き、ものの数秒
せずに響が寝息を立て始めていた。
﹁え、ウソ。響、本当に寝ちゃったの?﹂
﹁あー。まぁ病み上がりに無理したあげく、ここしばらく徹夜続き
だったしねぇ﹂
今日もソレ、徹夜明け。とミズキが響を指差して笑う。
﹁仕事、今そんなに忙しいの?﹂
﹁忙しいというか、響のエンジンがかかっちゃって止まらない感じ
なのよ。尻叩かなきゃ動かない時もあるんだけど、自分から動き始
めた時の集中力が半端ないのよね。寝食忘れるなんて日常茶飯事。
アタシとしては響が仕事するのは嬉しい悲鳴だけど、突然バッテリ
286
ー切れで体壊されるのも面倒なのよ﹂
そう言って、響を膝枕する形になった千絵に、ミズキはニンマリ
と笑顔を向けてくる。
﹁でもこうしてチエに会えるようになったんだし、これから響の管
理はチエに任せようかしら﹂
﹁え?﹂
﹁別に四六時中一緒にいろって言うんじゃないのよ? ただちょっ
と、たまに生存確認して、疲れが溜まっていそうだったらそうやっ
て寝かせてくれるだけでいいの。響にとって、チエが何よりの安定
剤みたいだし﹂
﹁響、食事はとってるの?﹂
﹁ああ、ここしばらくは昼食が結構安定してるみたいねぇ﹂
﹁そっか、よかった﹂
これで食事もまともにとっていないとなったら、本当に泊まり込
んででも手伝いを申し出ていたかもしれない。
﹁それじゃ響はチエに任せて、アタシは持ち帰ってきた仕事を整理
しようかしら﹂
﹁ミズキ、まだ仕事があったのに戻ってきてくれたの? 大丈夫だ
った?﹂
﹁言ったでしょう? 響がやる気になった時の仕事は嬉しい悲鳴よ。
それに今日はスタッフは休みだし、自宅でもできるものだから。急
ぎじゃないけど溜まると面倒だから、部屋でボチボチやってくるわ。
アタシは響と違って、美容に必要な睡眠は摂っているからご心配な
く﹂
作業後はアニエスと夕飯の買い出しに行ってくるので、夕食は四
287
人で食べようと誘われた。
ミズキとアニエスが出て行くと、リビングには千絵と響の二人が
残される。
﹁そう言えばアニエス、一言もしゃべらなかったな﹂
下手をしたら気配すら消えていたこともあるのではというくらい、
アニエスは大人しかった。
おかげでマリアンヌと知り合ったことを伝えそびれてしまった。
夕食の時に話そうか。そんなことを考えながら、千絵は膝の上の重
みに視線を落とす。
それにしても、よく眠っている。
人の膝でスヤスヤと眠る響は、年の差を考えると今は二十五歳に
なっているはずだ。この人が仕事に集中すると寝食を忘れてしまう
のかと思うと、寝顔と相まってなんだか幼く見えてしまい、千絵は
クスクスと笑った。
昔はもっと、自己管理がしっかりした人だと思っていた。物知り
で、行動力があって、感性が豊かで、幼い自分よりも余程大人に見
えていた。けれどあの時の彼は十三歳から十八歳。今の自分よりも
幼かったのだ。
それでも確かに千絵を導いてくれた王子様だった。あの時の響の
精一杯で、幼い千絵を大切にしてくれた。
﹁今の私は、響のために何かできるかな⋮⋮﹂
早く大人になりたいと願いながら、響の手を離したあの頃とは違
う。大人と称される年齢になった自分は、彼のために何ができるだ
ろうか。
とりあえず今は膝を貸して、小さな休息を取ってもらおう。サラ
サラと指の隙間から零れ落ちるダークブロンドの髪を撫でながら、
288
千絵の胸は懐かしく甘いくすぐったさで満たされていた。
289
所在不明の想い人︵あとがきにて2部の登場人物紹介付き︶
響へ膝を貸しながら千絵もウトウトしていたのか、いつの間にか
部屋の中が薄暗かった。
未だ眠っている響を起こさないように、隣に置いていたバッグの
中からスマホを取り出す。時刻は十七時。ミズキやアニエスは夕食
の買い出しに出かけただろうか。
ふと画面を見ると、マナーモードにしていたので気が付かなかっ
たが、留守電が入っている。聞いてみると、意外な人物からのメッ
セージだった。
﹃アローチエ、マリアンヌです﹄
﹁え!?﹂
﹃昨日はチエのおかげでカナデと話ができて、とても感謝していま
す。本当にありがとう。カナデから聞いたのだけれど、チエはヒビ
キのことが好きだったのね。私ったら、勘違いをしてしまってごめ
んなさい﹄
フランス語で残されたメッセージは、マリアンヌが泊まるホテル
からの電話のようだった。昨日千絵が谷部家を出る際に、音彦から
何かしらの連絡用にと電話番号を聞かれたので、マリアンヌは音彦
から番号を伝え聞いたのだろう。
マリアンヌの公演は上手くいったんだろうか。そう思っていると、
メッセージにも公演のことが入れられていた。
﹃カナデの家へ案内してくれたことや、タクシーのお礼をまだして
290
いないでしょう? チエが良ければ、明日の日曜、十三時の公演に
貴女を招待したいのだけれど、いかがかしら? 席は二席用意して
いるから、都合が良ければ是非ご友人を誘っていらしてね? 当日
はカナデにもスペシャルゲストとして演奏をしてもらう予定なの。
フフッ、ダメね、今から私が楽しみでしかたがないわ﹄
メッセージ越しにもマリアンヌの嬉しそうな様子が伝わってきて、
千絵も思わず小さく笑う。しかし続いたマリアンヌの言葉に、千絵
は驚いた。
﹃本当は明日、ヒビキと一緒に来て⋮⋮と言いたいところだけれど、
彼は行方不明のままだものね。チエ、とても辛いかもしれないけれ
ど、気をしっかり持って。大丈夫、彼はチエをとても大切にしてい
たもの。カナデからチエの住所を聞いたの。私も帰国したら、兄の
ダニエルへヒビキのことをもう一度聞いてみるわね。もし何か分か
ったら、チエへエアメールを送るわ。ああ、もうすぐ今日の公演の
準備だから、失礼するわ﹄
﹁ま、まって⋮⋮!﹂
﹃それじゃあチエ、また明日会えるのを楽しみにしているわね﹄
﹁あ⋮⋮っ﹂
そこでメッセージが終わり、機械的な﹃メッセージを消去します
か﹄という音が聞こえる。
響が行方不明? 一体どういうことなのか。
千絵がもう一度マリアンヌからのメッセージを聞こうとスマホを
操作していたら、突然手首をつかまれた。
﹁わっ!?﹂
驚いて手の主を見ると、千絵の膝で眠っていたとばかり思ってい
291
た響が、どこか強張った表情でこちらを凝視していた。
﹁響、起きたの?﹂
﹁チエ、今誰と電話していたの﹂
﹁誰って⋮⋮きゃあ!?﹂
ぐるりと視界が回り、起き上がった響と入れ替わる形でソファへ
押し倒されていた。はずみで手から滑り落ちたスマホが、フローリ
ングにあたり音を立てる。
﹁響、突然どうしたの?﹂
﹁⋮⋮馬鹿だ俺。何で眠ったりしてたんだ﹂
覆い被さってくる響の表情が、薄暗い部屋の中で陰っている。く
せのない髪の合間から覗く緑の瞳が、どこか辛そうに歪んでいた。
﹁響⋮⋮?﹂
﹁どこにも行かないで﹂
﹁行かないでって⋮⋮﹂
言われても。とくにどこへ行くつもりもなかった。
夢でも見ていたんだろうか。どこか余裕の無い様子で千絵を抱き
しめる響が、懇願するように耳元で訴えてくる。
﹁ここにいて。俺から離れないで﹂
﹁響、大丈夫。ここにいるよ。響のそばにいる﹂
両わき腹をあやす意味で撫でたら、どこか色めいた声を呑みこむ
ように、響が息を詰めた。そうして抱きしめていた腕を緩めて、熱
の孕んだ手つきで千絵のわき腹を撫でてくる。胸のふくらみを寄せ
292
上げるように指が食い込んできて、千絵は違う違うと首を振った。
自分は別に性的な意味を込めて響のわき腹を撫でたわけじゃない。
抱きしめられた体勢なので、背中まで腕が回らなかっただけだ。
しかし何やら響のスイッチを押してしまったのか、響が千絵の喉
に吸い付くようなキスをしながら、服の下に手を潜り込ませてくる。
﹁あ、んっ⋮⋮ちょっと響、待って⋮⋮っ﹂
﹁どうして。煽ったのはチエなのに﹂
﹁煽ってない! そうじゃなくて、本当にまって⋮⋮んっ、聞きた
いことがあるの⋮⋮っ。響が行方不明になってるって、どういうこ
と?﹂
はだけた服から覗く下着越しの胸に軽く噛みついていた響が、千
絵の言葉に動きを止めた。驚いた様子で目を見開き、千絵の上で身
を起こす。
﹁チエ、本当に誰と電話していたの⋮⋮?﹂
眉をひそめて千絵を見下ろしてくる響に、マリアンヌのことを話
そうとしたら、リビングの扉が開く音がした。
﹁アラ、部屋真っ暗じゃない。二人の声がしたと思ったんだけど、
響の部屋かしら﹂
そう言って買い物袋を手にしたミズキが、リビングの電気を点け
た。いつの間にか日が完全に落ちていたらしい。突然明るくなった
部屋に、千絵は目を瞬かせた。
買い物から帰宅したミズキの方を見ると、ミズキが笑顔のまま、
ミズキの後ろに立っていたアニエスは無表情のまま、こちらを見て
沈黙している。
293
﹁えーと、二人とも。そういうコトするなとは言わないけど、部屋
でシたら?﹂
﹁え? ひゃああっ!﹂
ミズキに言われて自分達の様子を改めて見直した千絵は、間抜け
な悲鳴を上げた。
上着は捲くり上げられて胸はぽろりとこぼれ出ているし、響に押
し倒される形でソファに仰向けになっている自分。どんな見方をし
ても、そういうコトをしている真っ最中だ。
慌てて服を直しながら、千絵は呆れた溜息を吐いているミズキに
違う違うと首を振った。
﹁ミズキ、違うの、誤解だから!﹂
﹁ハイハイ、仲良くてイイコトねー。あと一時間くらいでご飯作っ
ちゃうから、それまで二人で部屋行ってらっしゃい﹂
﹁遊びに来た息子の友達をあしらうように言わないでー! ホント
に違うんだってば!﹂
イヤアァァッと顔を覆って羞恥に悶える千絵と対照的に、響は何
故か静かだった。戸惑った様子で千絵を見つめるばかりの響に、食
材をキッチンへ運びながらミズキが首を傾げている。
﹁それで? 響は何で変な顔で固まってるのよ。未遂を惜しがって
るって感じじゃなさそうだけど?﹂
﹁いや、未遂は惜しい。でもそれ以上に、チエの言葉に戸惑ってる﹂
素直に惜しいことを認めながら、響は羞恥で膝を抱える千絵に尋
ねた。
294
﹁チエ、本当に誰と電話をしてたの? どうして俺が行方不明にな
ってるって知ってるんだ?﹂
﹁え? ちょっと、どういうことよ。チエ、それどこの情報?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
響だけでなく、それまで買い物袋を片付けていたミズキや、無言
でキッチンカウンターのスツールに腰掛けていたアニエスまでもが、
千絵を見てきた。
三人の視線を突然受けて戸惑いながら、千絵は昨日偶然マリアン
ヌに会ったことや、先程マリアンヌから音声メッセージを受け取っ
たことを話した。
﹁︱︱それで、マリアンヌがメッセージの中で、響が行方不明だっ
て言ってたの。どういうこと? マリアンヌは響が日本にいるって
知らない様子だったけど、響は帰国してることを誰にも話してなか
ったの?﹂
﹁⋮⋮ああ。ちょっと、事情があって﹂
﹁事情があるって、でも音彦さんや谷部君には話してるんだよね?﹂
﹁⋮⋮いや。父さんや奏にも、今の居場所は明かしてない﹂
﹁そんな、どうして!? きっと心配してるよ!﹂
家族が行方不明のままだなんて、心配するに決まっている。一体
いつから響は行方不明だなどと言う扱いになっていたのか。
困惑する千絵に、さらに驚く事情を話したのは、それまでずっと
沈黙していたアニエスだった。
﹁これ以上、二人の情報を広げるのは危険だと判断したのは、私﹂
小さな声だったが、綺麗な日本語だった。姉のマリアンヌは日本
語が不得意そうだったが、アニエスはそうではないらしい。
295
﹁危険って、どういうこと?﹂
﹁ダニエル・ド・ボードリエは、手を噛んだ猫を許しはしないから﹂
﹁ダニエルって、アニエスのお兄さんのことだよね? 手を噛んだ
猫って、響のこと?﹂
﹁ヒビキと、ユズ﹂
端的に二人の名前を出したアニエスは、淡々と事情を説明してく
れた。
当初、響とミズキはエディの紹介と言う形で、ド・ボードリエ家
の別宅へホームステイをしながらフランスの服飾学校へ通っていた
らしい。
そこでド・ボードリエ夫妻やダニエルに気に入られ、腕を見込ま
れた二人は、正式にド・ボードリエを通じた各企業の支援を受けて
ブランドを立ち上げる予定だったのだそうだ。
しかし響がエディ・アレニウスの隠し子であると発覚してから、
ダニエルの対応が一変したのだと言う。
﹁ヒビキがエディの息子だと世間へ知れ渡ったと知ったダニエルは、
ユズを切って、エディの息子同士のタッグブランドへ切り替えた。
ダニエルの計算では、エディ・アレニウスブランドの影響力下にあ
る息子のタッグブランドは、成功するはずだった。想定外だったの
は︱︱ミューズを失ったヒビキがロクデナシの役立たずだったこと﹂
響をろくでなしの役立たずだったと言い切るアニエスの前に、﹁
鍋ができたわよー﹂とミズキ特製豆乳鍋が置かれる。
小鉢によそわれた中身を早速口に運ぶアニエスは、表情が乏しい
ながらも食の進みは早い。目の錯覚でなければ、どことなく雰囲気
も喜色ばんでいる。どうやら食べることは好きらしかった。
リビングテーブルに設置したガスコンロの上でくつくつと煮える
296
豆乳鍋を皆でつつきながら、アニエスのざっくばらんな説明が続く。
﹁赤字にならないものの、エディ・アレニウスブランドと並ぶ程の
インパクトを与えられず、タッグブランドとしては失敗。想定の売
り上げに至らず、ヒビキとの契約を切った今は業績は下降の一途。
ダニエルの黒歴史。ダニエルの逆恨みを受ける形になった﹃谷部響﹄
は悪評を振りまかれ、ダニエルから圧力をかけられた企業は﹃谷部
響﹄を嫌煙し、結果彼は服飾業界で生きていけなくなった﹂
ズズ⋮⋮と、誰かの小鉢から豆乳をすする音がする。
﹁チエ、ヒビキの現在のブランド名を知っている?﹂
﹁ううん、知らない﹂
﹁なら、知らないままでいい。ヒビキとユズが再起を図って売り出
しているブランドは、これから確実に大きくなっていく。それまで、
ダニエルに見つかるわけにはいかない。ダニエルは確実に、潰しに
くるから﹂
ダニエルの情報網は広く、無駄に情報を拡散するべきではないの
だと言うアニエスに、それでもと千絵は食い下がった。
﹁でも、音彦さんや谷部君にも伝えちゃいけないの? 家族なのに﹂
﹁家族と言うくくりだけで信頼を置くのは早計。現にカナデはマリ
ーと繋がっている。マリーはダニエルの危険性を理解していないお
人好し。マリーからダニエルへ情報が漏れる可能性も十二分にある。
そしてチエ、アナタはマリーと繋がってしまった﹂
もし千絵が響の居場所を伝えていたら、そこからダニエルへこち
らの状況を勘付かれてしまう可能性もあるのだと指摘されて、千絵
は言葉を詰まらせた。
297
確かに今は千絵も奏も音彦も、響やミズキの状況を知らなかった
からこそ切り抜けられた事態だった。
﹁確かに、アニエスの言う通りだったけど⋮⋮﹂
﹁不測の事態は起こり得るもの。それでもヒビキがアナタを信頼し
て会いたがったから、二ヶ月前に連絡の許可を出した。ただし、今
使用しているデザイナー名や新ブランド名を告げないことを条件に﹂
千絵を信用しているわけではないのだと、眼鏡越しに見つめてく
る瞳が物語っている。
アニエスの静かな気迫に圧されて沈黙する千絵の前に、ほかほか
と湯気の立つ小鉢が差し出された。見ると、空になっていた千絵の
小鉢に鍋の中身を取り分けたミズキが、苦笑しながらこちらを見下
ろしている。
﹁ごめんなさいね、チエ。アニーはこう見えて、有能な部下を従え
た優秀な資産家なのよ。おそらく唯一、ダニーと対等に渡り合える
のがアニーなの。アニーはダニーの目からアタシ達をかくまってく
れてるのよ﹂
﹁響から、アニエスは新ブランドのオーナーだっていう話を聞いた
ことがある﹂
﹁ええ、そういうこと。オーナーの采配で、アタシ達は今のところ
﹃所在不明﹄の状態なのよ。ダニーの恨みを買った代償とはいえ、
せっかく吹き返した響の芽を潰したくないわ。チエ、分かってくれ
る?﹂
﹁⋮⋮状況は理解できる﹂
気持ちの上での納得はもう少し時間をかけてさせて欲しいと本音
を呟くと、ミズキが笑顔で頷いた。
その間ずっと、響は黙って小鉢の中身をすすっていた。
298
299
ちえ
2部の登場人物紹介です ※
所在不明の想い人︵あとがきにて2部の登場人物紹介付き︶︵後
書き︶
※
みつや
ひびき
︻三谷 千絵︼⋮主人公。
やべ
︻谷部 響︼⋮フランスでデザイナーとなったが、ダニエルの反感
かのん
を買って服飾業界を実質追放される。千絵がいないとEDになるチ
エ狂。
ひの
かなで
︻日野 花音︼⋮千絵の友人となった美人さん。
やべ
︻谷部 奏︼⋮千絵の小学時代の同級生。響の異父兄弟。ピアニス
トを目指している。
︻マリアンヌ・ド・ボードリエ︼⋮マリー。フランスの富豪の娘。
奏に想いを寄せるヴァイオリニスト。
︻ミズキ︵ユズ︶︼⋮響の服飾仲間。響とは幼少からの付き合い。
︻アニエス・ド・ボードリエ︼⋮アニー。マリアンヌの妹。若くし
て自身も有能な資産家。響とミズキの現ブランドのオーナー。
︻ダニエル・ド・ボードリエ︼⋮ダニー。有能で野心に溢れた資産
おとひこ
家。マリアンヌやアニエスの兄。
やべ
︻谷部 音彦︼⋮奏の父。日本人。元ピアニスト。
300
︻エディ・アレニウス︼⋮響の父。スウェーデン人だが、フランス
ゆうじ
在住。著名なデザイナー。
まつだ
とうこ
︻松田 雄二︼⋮千絵と奏の小学校の頃の同級生。
わかみや
︻若宮 冬子︼⋮旧:佐々木冬子。千絵と奏の小学校の頃の同級生。
みのり︼⋮千絵と同じ大学に通う学友。
千絵と同じ大学に通っている。
きやま
︻木山
301
仮の恋人
夕食後、片付けを終えて自分のアパートへ帰ろうとする千絵を引
きとめたのは、アニエスだった。
﹁チエ、明日のことで話がしたい﹂
﹁明日?﹂
﹁マリーの公演にアナタは行く。違う?﹂
﹁うん、行く予定だったけど﹂
﹁アナタからマリーを通じて、ユズ達の情報がダニエルに渡るのは
避けたい。策を講じるから、ついて来て﹂
﹁策⋮⋮﹂
策を講じなければならない状況。マリアンヌと知り合うことが、
そんなにリスクのあることだなんて思わなかった。
千絵は響とミズキに断りを入れ、アニエスと共に部屋を出た。玄
関を出ると、マンションの隣の部屋に招かれる。こちらはアニエス
が利用している部屋だと、響から聞いたことがある。
アニエスに続いて広い玄関に入ると、千絵は靴を脱ごうとしたが、
必要ないと止められた。
﹁そのまま入って﹂
﹁靴のままって言うこと?﹂
慣れないが、アニエスがそのままリビングの方へと歩いていくの
で、千絵も戸惑いながら続いた。その先のリビングでは、戸惑いが
302
さらに強くなる。
響達の部屋と間取りの変わらない部屋かと予想していたが、そう
ではなかった。倍はありそうな広いリビングは書斎部屋となってお
り、大きな書斎机には数台のデスクトップ型パソコンやディスプレ
イが置かれている。書斎机の他にも数台、デスクとパソコンが設置
されていた。
デスクにはスーツを着た東洋人と西洋人の男女がそれぞれ向かい、
作業をしている。壁際には二名、ラフな服装をした男女が立ってい
た。
アニエスが簡潔に、全て部下だと説明してくれた。ラフな服装の
人達は、アニエスが管轄する場所の警備や、アニエス自身の護衛を
しているのだと言う。護衛に関してはこのマンションの別階にもい
るそうだ。
﹁護衛ってSPみたいな? 黒いスーツ姿のイメージの﹂
﹁そんなもの、この界隈では浮くだけ。日本のセキュリティポリス
は利用しない。ダニエルの目を避けるためにも、あからさまな要人
扱いは得策じゃないから﹂
そう言って書斎机についたアニエスのそばに、スーツ姿の女性が
いくつかのファイルを持って立ち、英語で何事か会話をしている。
どうやらアニエスが海外で請け負っている仕事の内容らしい。そち
マルチリンガル
らが終われば、東洋人の男性と中国語で報告を受けている。アニエ
スは多言語話者のようだった。
アニエスが報告を受けている間、千絵はおそらく執事的役割を担
っているのだろうスーツ姿の女性にソファへ案内され、紅茶を振る
舞われた。
所在なく千絵が待っていると、報告を受け終わったらしいアニエ
スが千絵を呼んだ。
303
﹁チエ、マリーからの伝言を直接聞きたい。携帯電話を貸して﹂
﹁マリーからの留守電、ちょっと個人的な内容も入ってるんだけど
⋮⋮﹂
﹁その個人的な内容が聞きたいと言っているの。マリーがどこまで
事情を把握しているのか、言葉のニュアンスでも知っておきたい﹂
マリアンヌからの伝言には、千絵が響を好きだと言う言葉が入っ
ている。同時にマリアンヌも奏を想っているようなニュアンスが感
じ取れる内容だ。
千絵自身のことは良いとしても、マリアンヌの気持ちを本人の承
諾無しに伝えるのははばかられる。
渋る千絵に、ブルネットの髪と黒ぶちの眼鏡で目元を隠したマリ
アンヌが、小さな溜息を吐いた。
﹁羞恥と言う感情なら、抱く必要はない。私はアナタにもマリーに
も、興味は無いから﹂
﹁興味が無いのはいいんだけど、留守電にはマリーの気持ちも入っ
てるし﹂
﹁気持ち⋮⋮マリーが奏を昔から想っていることなら知っている﹂
﹁え?﹂
﹁アナタは響を想っている。他に何か留意すべき点が?﹂
﹁いや、ないけど⋮⋮﹂
﹁そう。じゃあ貸して﹂
アニエスの指示で執事の女性が千絵のスマホを受け取り、アニエ
スに手渡した。
アニエスは出会ってから今まで、ピクリとも顔色を変える様子が
ない。不機嫌になるわけでも笑顔になるわけでもなく、今も淡々と
マリアンヌからの伝言を聞くと、書斎机上のパソコンへ千絵のスマ
ホを繋げた。
304
﹁チエ、アナタの情報を少しいじるわ﹂
﹁いじるって?﹂
﹁ダニエルがチエの個人情報を追えないようにする。ネットを通じ
てダニエルからの不当な干渉が加わった場合、位置や個人に関わる
ものは全て誤情報を流すようにさせるから﹂
そのための工作時間が必要だと呟き、アニエスはパソコンを操作
しながら千絵に入浴を勧めてくる。
﹁ヒマなら、バスに入ったらいい。日本人は夜間の入浴が好きでし
ょう。好きに使用して﹂
﹁いや、自分の家に戻ったら入るからいいよ﹂
﹁今後のアナタの周囲について対策を考えるためにも、今夜はここ
へ留まってもらう﹂
﹁ここへって、アニエスの部屋へ?﹂
ほぼ職場と化しているリビングを見渡して困っていると、アニエ
スが﹁それ﹂とディスプレイから視線を上げた。
﹁呼び名﹂
﹁え?﹂
﹁この姿の時は、アニーかアンと呼んで。アン・バークレイ。この
姿では、周囲にそう認識されている﹂
響やミズキ達同様に、アニエスもダニエルの目を避けているとい
うことか。頷いて了承したチエを確認すると、アニエスが執事の女
性を呼んだ。
﹁ルーシー、チエをバスへ案内して﹂
305
﹁わかりました。チエさん、こちらへどうぞ﹂
﹁じゃあ、先に借りるね。アニーは仕事を終えてから?﹂
﹁私は朝。夜にシャワーを浴びる必要性を感じないから。ゆっくり
使って﹂
既にディスプレイへと視線を戻しているアニエスと別れ、チエは
女性執事のルーシーと共に浴室へ移動した。
高級ホテルのような作りの浴室で、揃えられたアメニティを借り
ながら入浴を済ませた千絵は、自分の服が無くなっていることに気
が付いた。代わりに用意されていたのは、太もも丈のシルクのスリ
ップドレスと、同系色の下着にナイトガウン。靴もスリッパに変わ
っている。
肌触りの良いそれらを身に着けて出ると、リビングへ戻る廊下の
途中でルーシーが待っていた。何かがあればすぐにリビングへも浴
室へも向かえる場所だ。
﹁あの、私の服は?﹂
﹁チエさんが着ていらっしゃった物はお預かりさせて頂きました。
明日、クリーニングを終えてお渡しします﹂
﹁そんな、いいです。持って帰りますよ﹂
﹁そういうわけには参りません。アニエス様は今しばらくお時間が
かかるそうですので、こちらのお部屋でお待ち下さい﹂
そう言って案内されたのは、リビングへ向かう途中の廊下に面し
た一室だった。どうやら客室らしい。
ベッドの置かれた室内には、肘掛け椅子が二脚。間に置かれた丸
テーブルには、茶器が用意されている。
千絵が肘掛け椅子に座ると、ルーシーは一度退室し、室内に銀色
のワゴンを押して入ってくる。そうして用意されていた紅茶と小さ
なケーキを千絵の前へ用意すると、﹁ごゆっくりとおくつろぎくだ
306
さい﹂と一礼して出て行った。
暇な時間は大抵スマホをいじるか、自宅では裁縫をしていたため、
くつろげと言われてもどうにも困る。ルーシーが退室前にさりげな
くつけていったヴァイオリン協奏曲を聞きながら、千絵はとりあえ
ず目の前のお茶を頂いた。
﹁普通に喋ってたけど、アニエスってお嬢様だったんだよね﹂
自分の待遇やアニエスを取り囲む環境を目の当たりにして、千絵
は自分の不躾な態度を少し反省した。数多の合コンの中でお嬢様や
お坊ちゃまと垣根なく話をすることはあったが、こんなハイレベル
なお嬢様は初めてだ。次にアニエスと話す時は、言葉に気をつけな
ければ。
そう思いながら皿とカップの中身を空にすると、室内をぐるりと
見渡す。シンプルだが質の良いベッドカバーやカーテンを見ている
と、思わず刺繍がしたくなってしまう。あの辺りにはどんなモチー
フを当てれば映えるだろうか。そんなことを考えながら時間を潰し
ていると、小一時間ほどで扉がノックされた。
﹁チエさん、アニエス様がお呼びです﹂
﹁わかりました﹂
扉越しに声を返すと、失礼しますとルーシーが扉を開く。客室を
出た千絵を伴ってリビングへ向かうと、室内にはアニエスだけでな
く、ミズキもいた。
﹁ミズキ?﹂
﹁アロー、チエ。夜分にごめんなさいね。明日のことでアニーに呼
び出されたのよ﹂
﹁明日のことで、ミズキが?﹂
307
明日のことというと、マリアンヌの公演のことだ。一体どうして
ミズキが。首を傾げる千絵に、アニエスがスマホを差し出してくる。
﹁先に返しておく﹂
﹁ああ、はい﹂
千絵はスマホを受け取り、ルーシーの案内で二人掛けのソファに
腰掛けた。テーブルをはさんで向かいのソファに、アニエスとミズ
キが座る。
三人分の紅茶を用意したルーシーが一礼してリビングを出て行く
と、アニエスが華奢な足を組んで言った。
﹁チエ。明日のマリーの公演は、ユズと行ってもらう﹂
﹁ミズキと? どういうことですか、アニーさん﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁アニーさん?﹂
﹁それ﹂
﹁え?﹂
﹁気持ち悪い﹂
﹁は?﹂
それまで最低限の表情筋しか動かすことのなかったアニエスが、
微かに顔をしかめた。
﹁何故口調が変わってるの。ルーシーに何か言われたの﹂
﹁いえ、そうじゃないですけど﹂
﹁じゃあやめて。気持ち悪い﹂
﹁ええぇ⋮⋮﹂
308
口調が気持ち悪いとか、生理的にムリだと言われたようなものだ。
どうすればと困惑する千絵に、ミズキが笑いながらアドバイスをく
れる。
﹁チエ、アニーには同じ年頃の友人を作る機会があまりなかったの。
気後れしないで付き合ってあげると喜ぶと思うわ﹂
﹁ああ、そういうこと⋮⋮﹂
﹁別に喜んでいるわけじゃない。気持ちが悪いだけ﹂
﹁ハイハイ﹂
憮然とした様子のアニエスは、二人きりだったらきっと不機嫌そ
うに見えていた。けれどミズキがそんなアニエスを軽く流すので、
なんだか拗ねているように見えてしまうから不思議だ。
こっそりと笑ったつもりだったが、アニエスは意外にも目敏く指
摘してくる。
﹁何故笑っているの﹂
﹁あ、ごめん。変な意味じゃないよ。ただ、アニーが可愛いなって
思っただけ﹂
﹁⋮⋮可愛いってなに。媚を売っているの。飼われたいの﹂
﹁え?﹂
﹁そういうことなら響なんてやめればいい。私が飼﹂
﹁あーハイハイ。それで明日のことだったわね? 夜も遅いしサク
サク話進めるわよー﹂
カポリとアニエスの口を大きな手のひらで塞いだミズキが、モゴ
モゴと何事か呟いているアニエスを止めて、話を進めてくる。
﹁それでアニー、アタシを呼んだのは、明日チエと一緒にマリーの
公演へ行かせるため?﹂
309
﹁そう。マリーはミズキの姿を知っていても、ユズの姿は知らない。
だからチエ、アナタも明日は彼をユズと呼んで﹂
﹁うん、わかった﹂
アニエスが別名を持っているように、ミズキも別名で活動してい
おおやけ
るからということだろう。これからもユズと呼んだ方がいいのかミ
ズキに尋ねると、公の場ではユズで通っているが、響やアニエスと
いった仲間内ではミズキのままで大丈夫だと言われた。
﹁ミズキって言う名前ね、好きなのよ﹂
おどけた様子で人差し指を唇の前で立て、笑顔でウィンクするミ
ズキに、千絵も笑って頷いた。
﹁そうなんだ。アニーがずっとユズって呼んでたから、ユズって呼
んだ方がいいのかと思った﹂
﹁アラ、響はミズキって呼んでくれるわよ? アニーはちょっとイ
ジワルなのよ﹂
肩をすくめるミズキに、無表情のままのアニエスはどういう感情
を抱いているのかよく分からない。それでもソファに座る二人の距
離感から、仲は悪くなさそうだった。
ミズキの同行を了承した千絵に、アニエスが驚くことを口にした。
﹁明日、ユズとアナタは恋人という関係にする﹂
﹁⋮⋮え、なに?﹂
突拍子もない発言に千絵が固まると、フムとミズキが頷いた。
﹁つまり、アタシとチエが仮の恋人と言う設定でマリーの公演へ行
310
けばいいと言うことね?﹂
﹁そう﹂
﹁そうなんだ!? よくわかったねミズキ⋮⋮﹂
自分にはまったく理解できなかったが、アニエスとそれなりに付
き合いがあるらしいミズキは色々と合点がいっているようだった。
しかし当然状況が理解できていない千絵に、アニエスが淡々と意図
を伝えてくる。
あざむ
﹁マリーを欺くため﹂
﹁マリーを欺く?﹂
﹁マリーはチエのために、ダニエルへ響の情報を聞こうとしている。
ダニエルはきっと、響の知人であるチエの周囲を探ってくる。響の
現状を把握されても困る。そのためにさっき、チエの情報を操作し
た﹂
そこから。と、千絵のスマホを視線で指されて、千絵は頷いた。
﹁けれど事前の策として、チエが響に興味を持っているわけではな
いと、マリーに伝えることも必要。そうすればマリーはダニエルへ、
響のことを聞く必要が無くなるかもしれない﹂
﹁つまり、チエにはアタシがいるから響のことなんてもう興味ない
のよって、マリーへ思い込ませればいいのね?﹂
﹁マリーに嘘をつくって言うこと⋮⋮?﹂
ぽろりとこぼれた千絵の言葉に、ミズキがきょとりと目を瞬かせ、
アニエスが無言でこちらを見てくる。
﹁あの、マリーはすごく良い人だったから。響のことも親身に考え
てくれているみたいだし。できれば嘘をつきたくないっていうか、
311
事情を話せば分かってくれるんじゃないかな、とか⋮⋮﹂
﹁そうね。マリーはとても素直で純粋で、良い子だわ﹂
﹁素直すぎて情報を渡せない﹂
苦笑するミズキはオブラートに包んでいたが、情報を渡せないと
言うアニエスと同じ意見なんだろう。申し訳なさそうに眉を下げて
微笑んでくる。
﹁チエ、ごめんなさいね。マリーを信用していないわけじゃないの
よ? でもね、マリーはダニーを兄としてとても純粋に慕っている
し、ダニーもマリーを大切にしているわ。そんな兄妹間を、こちら
の事情を話して崩してしまうのは可哀想じゃない?﹂
﹁ミズキ⋮⋮﹂
﹁これはあくまでダニーと⋮⋮アタシ達の問題だったのよ。本当は
チエのことも巻き込みたくなかったんだけれど、ごめんなさいね﹂
﹁そんな、ミズキが謝ることじゃないよ﹂
つぐな
﹁いいえ、アタシが謝るべきことなのよ。謝って許されるような問
題じゃないけれど⋮⋮この先もずっと、償っていこうと思っている
わ﹂
﹁ミズキ?﹂
微かにうつむいてミズキが黙ると、アニエスが立ち上がった。
﹁話はそれだけ。ユズ、戻っていい。チエ、さっき案内された客室
で眠って﹂
﹁アニーはまだ仕事?﹂
﹁世界に時差があることをチエが理解しているのなら、そう﹂
アニエスは日本時間では動いていないらしい。そのまま書斎机で
作業に戻るアニエスを残し、千絵はミズキと共にリビングを出た。
312
玄関までミズキを見送ると、扉へ手をかけたミズキに千絵は声を
かけた。
﹁ミズキ﹂
﹁なあに?﹂
振り返ったミズキに、先程リビングで感じた切迫感は無い。それ
でも千絵は思ったことを口にした。
﹁ミズキはさっき、私を巻き込みたくなかったって言ってたけど、
私は巻きこんでもらえてよかったと思う﹂
﹁⋮⋮チエ?﹂
﹁ミズキが何を謝らなきゃいけないのか分からないけど、私はミズ
キに感謝してるよ。あの日ミズキがバイト先に来てくれたから、私
はまたこうして響に会うことができたんだもん。ミズキが来てくれ
なきゃ、響と私の時間は重なることはなかったと思うから。だから、
ありがとう﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
響と再び同じ時間を過ごさせてくれてありがとう。そう感謝の気
持ちを伝えると、ミズキが一瞬泣きそうに顔を歪め、どこか痛みを
こらえるように笑った。
﹁チエはマリーと同じね。素直で純粋で、良い子だわ﹂
不意にミズキが身をかがめ、間近で千絵に囁いた。
﹁チエ、明日アタシとアナタが仮の恋人同士になるだなんて、響に
言わない方がいいわよ。きっと嫉妬して手がつけられなくなるだろ
うから﹂
313
﹁ええ?﹂
珍妙なアドバイスを告げてきたミズキは、おやすみと軽やかに手
を振って玄関を出て行った。
314
彼と付き合うことなかれ
ミズキと別れ、あてがわれた客室に戻った千絵は、ベッドサイド
のナイトランプを点け、手元に戻ってきたスマホの画面を見た。
現在は二十三時過ぎ。LINEに新着メッセージが入っている。
三十分ほど前に、花音から︿チエ、今大丈夫?﹀と呼びかけられて
いた。
︿ごめん、今見た。どうしたの?﹀
千絵が返信をすると、すぐに既読マークがつき、少し間が空いた
後LINEの通話がかかってくる。
﹁花音? どうしたの?﹂
﹃ごめんなさい夜分に。その、ええと⋮⋮チエ、今日のランチで告
白をするって言っていたでしょう? どうなったのかしらと思って
⋮⋮﹄
﹁ああ、そのこと﹂
﹃ええ。その⋮⋮したの?﹄
﹁うん、したよ﹂
﹃え!? あの、いつ、かしら。今さっき?﹄
﹁ううん、今日の夕方頃﹂
﹃⋮⋮やっぱりあの時⋮⋮寝なきゃよかった⋮⋮﹄
﹁花音?﹂
315
ボソボソと花音のくぐもった声が電話越しに聞こえ、千絵がどう
したんだと問いかけると、花音が軽い咳払いをする。
﹃なんでもないわ。それで、相手とはどうなったのかしら﹄
﹁どうなったって⋮⋮アレ? どうなったんだろ?﹂
﹃チエ?﹄
花音に言われ、千絵は響とのやり取りを思い出す。
告白をした。恋じゃないと認めて欲しいと言った。そうして、響
にとってミズキはどんな存在か確認をした。
そこへミズキが戻ってきて、ミズキは男で響との肉体関係はなく、
改めて響が千絵を大切にしてくれていることを知った。
だから自分達は晴れて恋人同士になった⋮⋮のだろうか?
﹁あれ? あれ?﹂
﹃チエ、大丈夫?﹄
響は千絵のことを、疑いなく想ってくれているのだと思う。自分
が響を想っていることも、おそらく理解してもらえた。
けれど響が恋人関係を望んでいるかどうかについては、また別問
題だ。大事なことを話し合っていない。
今の自分達の状態は、お互い好きだと言い合って、そこで止まっ
てしまっている。
﹁⋮⋮お互いスキって言って、そこで止まっちゃってる感じ﹂
﹃まだ間に合うワケね﹄
﹁間に合う?﹂
﹃こちらの話。そういえばチエ、その男、昔から二股かけていたん
でしょう?﹄
﹁ああ、それは私の勘違いだったみたい。ただの友達だって﹂
316
﹃それはチエが本命だと言うこと?﹄
﹁本命、なのかな。だったら嬉しいけど⋮⋮﹂
響の本命が自分だけだったら、本当に嬉しい。
純粋に響を想っていた頃の、懐かしくも甘酸っぱい気持ちが胸に
よみがえってきて、千絵はベッドの上で膝を抱えて身悶えた。誰に
見られているわけでもないが、膝に顔を埋めて、緩みそうになる口
元を隠す。
いさ
千絵が幸せの絶頂にいると、通話先の花音が少しトーンを落とし
た固い声で諫めてきた。
﹃でもチエを一度振った男なんでしょう? それで今さら都合良く
ヨリを戻そうだなんて、どうなのかしら﹄
花音は以前千絵が打ち明けた、響とマリアンヌの婚姻で失恋をし
た︵と思い込んでいた︶という言葉を指して言ってくれているんだ
ろう。
とが
しかし千絵には、自分の思い込みで手紙を断ち、今さら都合良く
響に想いを伝えている自分を咎められているように感じた。
気まずくて押し黙ると、花音が少し明るい声で言った。
﹃チエ、男は彼だけじゃないでしょう? もっと他に目を向けてみ
るっていう選択肢もあるんじゃないのかしら。周囲にそういう相手
はいないの? ホラ、体の相性とかあるでしょう?﹄
ここで感情だけでなく体の相性という発想が出てくるあたり、花
音は相当恋愛の手練れだろうとうかがい知れる。確かにモデルのよ
うな体型とあの美しさがあれば、引く手数多だろう。それでも本命
の相手がいて、想い続けていると言っていた。
そんな花音のギャップに密かに改めて惹かれながら、千絵は照れ
317
交じりに報告をする。
﹁相性は、良かったと思う⋮⋮﹂
途端、ゴクリと空気を呑む音が聞こえ、花音が言葉数少なく聞い
てきた。
﹃⋮⋮寝たの。彼と﹄
﹁ええと、うん﹂
﹃いつ﹄
﹁その、最近再会して﹂
﹃⋮⋮⋮⋮﹄
﹁いきなりでビックリしたけど、嫌じゃなかったんだ﹂
話している途中、ガタタッ、ガチャッ、と通話先から小さな物音
がする。
﹁花音? どうしたの?﹂
自宅で何かあったんだろうか。尋ねたが、返ってくるのは無音だ
った。見ると、通話が切れている。
︿大丈夫? なんか通話途切れたね。電波かな?﹀
そうメッセージを打ちこんで送信していると、この家のインター
ホンが鳴った。
こんな深夜でも出入りがあるだなんて、アニエスの仕事は大変だ
な。などと思いつつ花音の返信を待っていたら、部屋の扉がノック
される。
318
﹁千絵さん、起きていらっしゃいますか?﹂
﹁ルーシーさん? はい、起きてますけど﹂
﹁お休みのところ申し訳ありません。響さんが千絵さんに御用があ
るといらっしゃったのですが、お通ししますか? 明日の方がよろ
しいでしょうか﹂
﹁響が? 通してもらってもいいですか?﹂
こんな時間に一体どうしたんだろうか。千絵がベッド下に用意さ
れていた室内スリッパを履いて扉に近付くと、﹁失礼します﹂と前
置いてルーシーが扉を開いた。
ルーシーが脇へ身を退くと、廊下に青い顔をした響が立っている。
千絵は慌てて響に駆け寄った。
﹁どうしたの響、顔色が悪いよ。具合が悪いの?﹂
﹁チエに、話があるんだけど﹂
﹁うん﹂
﹁ここだと監視カメラがあるから、俺の部屋に連れていってもいい
?﹂
﹁え。監視カメラ?﹂
まさかと室内の天井を見上げると、片隅に一台、小さなカメラが
設置されているのが見えた。
﹁本当にあった⋮⋮﹂
アニエスに危害が及ばぬようにという防犯のためだろうが、一体
どこまで撮影されてしまったのだろうか。羞恥よりも唖然とした気
持ちを抱く千絵の手が、響につかまれる。少し痛いくらいの力加減
だった。
319
﹁響?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
うつむいて応えない響は、手を離す気はなさそうだった。千絵は
未だ傍に控えていたルーシーに声をかけた。
﹁ルーシーさん、私響と話をしてきます。アニーに伝えてもらって
いいですか?﹂
﹁かしこまりました。お気をつけて﹂
綺麗に一礼したルーシーに見送られながらアニエスの家を出ると、
千絵はナイトガウン姿で隣の家に上がった。
ミズキに会うことなく響の部屋に手を引かれて入ると、LEDの
点った明るい室内で二人並んでベッドに腰掛ける。このベッドで色
々とイタしたのかと思うと、勝手に顔や体が熱くなる。手に汗もか
き始めてしまった。
恥ずかしくて繋いでいる手を引こうとしたら、強く引き止められ
た。
響を見ると、未だうつむいている。ダークブロンドの髪が目元ま
で落ち、少し影のかかった緑色の瞳が、どこか一点を見つめていた。
﹁響?﹂
﹁⋮⋮チエ、今日俺のこと好きだって言ってくれただろ。愛してる
って、言ってくれた記憶があるんだけど﹂
﹁う、うん﹂
まさにさっきまで花音とその話題で話していたので、千絵は驚き
ながらも頷いた。
﹁あの、私も響に確認したいことがあったの。私達ってさ、その⋮
320
⋮付き合うことになったのかな﹂
﹁付き合い?﹂
響が顔を微かに傾けてこちらを見てきたので、今度は千絵がうつ
むいた。視線を合わせて改めて言うには、少し恥ずかしい内容だ。
﹁私は、その、響のことが好きだし。今までの話を聞いて、もっと
響を好きになったって言うか、付き合いたいって思ったって言うか
⋮⋮﹂
﹁付き合いたいって⋮⋮チエは俺の話を聞いて、付き合いたいと思
ったの? 今まで俺と一緒にいたのも、セックスしたのも、付き合
っていたから?﹂
﹁セッ⋮⋮!?﹂
直接的な単語にびくりと肩を震わせて、羞恥に身を引こうとした
が、逆に手を引かれ、向かい合うように片方の肩もつかまれる。そ
うして千絵と視線を合わせた響が、強い意志を込めて言い切った。
﹁俺がチエに付き合うわけがないだろ﹂
﹁え?﹂
﹁俺はチエが好きだから一緒にいる。愛してる。でもそれは付き合
うとか、そういう感情じゃない。俺は俺の意思でチエと一緒にいる
だけだ﹂
﹁私達、付き合ってないの⋮⋮?﹂
目を見開いて愕然と呟いた千絵に、響は心外だと言うように眉を
ひそめてくる。
﹁俺が付き合ってると思ってたのか? そんなことあるわけないだ
ろ﹂
321
﹁響は誰とも付き合わない主義なの⋮⋮?﹂
﹁いや、友人や仕事上の相手とはもちろん付き合うことがあるよ。
でも、チエとはそんな関係は無いって思ってる。そんな理由で、一
緒にいたりしない﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
友人や仕事上の相手と付き合えはしても、自分とは付き合えない。
そう言い切られてしまった。
それはメリットがないと付き合えないと言うことだろうか。千絵
へ愛してるという言葉を送ってはくれても、恋人にはしてくれない
と言うことなのか。
﹁⋮⋮なにそれ﹂
﹁チエ?﹂
﹁なにそれ、意味わかんない⋮⋮っ﹂
響と初めて出会った頃から、今の今まで分からなかったけれど、
いよいよ本当に響の感覚が分からない。
好きなのに、どうして付き合えないのか。愛してるのに、どうし
て付き合ってくれないのか。友人や仕事上の相手は良くても、どう
して千絵だけはダメなのか。
悲しさと悔しさで体の内側が煮えるように熱くなり、ぐわっと涙
が溢れてくる。
﹁もうわからない。響の考えてること、分からないよ⋮⋮﹂
﹁好きなんだ。チエを愛してる。何で伝わらないんだ⋮⋮﹂
いきどお
千絵と同じか、それ以上に歯がゆそうに顔を歪めて唸る響に、千
絵は溜めこみ続けた憤りをぶつけた。
322
﹁だったらどうして付き合わないなんて言うの!? 響は何を求め
てるの!? 私をどうしたいの! 私とどうなりたいの!﹂
﹁え。結婚したいけど﹂
﹁え﹂
﹁え?﹂
⋮⋮⋮⋮。
﹁﹁え?﹂﹂
お互い色々な意味で引き攣った顔を見合わせながら、どういうこ
とだと首を振る。
﹁ちょっと待って、なんで俺そんな意外そうな顔されてるの?﹂
﹁ちょっと待って、なんで付き合うを飛ばして結婚に話がいってる
の?﹂
お互い頭を抱えて唸り、もう一度見合う。
﹁響、私と付き合う気はないんだよね?﹂
﹁ああ、チエに付き合ってるつもりはないよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
なんとなく日本語のニュアンスが噛み合っていないような気がし
て、千絵は今一度慎重に尋ねてみた。
﹁響。﹃付き合う﹄って、意味分かってる?﹂
﹁相手の意向に合わせて行動することだろ?﹂
﹁響と私って、恋人⋮⋮?﹂
323
﹁手紙が途絶えた時はさすがに恋人関係も終わりかと思ったけど、
それは誤解だったって分かったし。チエがどんな恋に寄り道をして
も俺の気持ちは変わらないから、チエの気持ちさえ俺の元に戻れば、
そういう関係に戻れると思ってる﹂
ドヤァと妙に良い顔で胸を張って言い切られても、千絵の混乱は
増すばかりだった。
﹁戻るって、まるで昔から恋人だったみたいな言い方されてるんだ
けど﹂
﹁え? 恋人だっただろ?﹂
﹁⋮⋮いつ?﹂
﹁え?﹂
千絵の疑問の声に、響の顔からサァッと血の気が引いていくのが
分かった。
﹁⋮⋮待って。何で、いつから俺達の感覚は食い違ってるんだ⋮⋮
?﹂
嘘だろう嘘だろうと呟く響に、それはこちらのセリフだと千絵は
肩を震わせた。
﹁チエ、昔は俺のこと好きだっただろ!? 俺の願望が見せた幻覚
じゃないのなら、七年前までのチエは俺を好きだったはずなんだ!﹂
﹁好きだったよ! 好きだったけど、一度も付き合おうとか言われ
たことないよ!﹂
﹁待って。その付き合うってなに﹂
﹁え? 好きな人とは、付き合うでしょ?﹂
﹁なんで? どこに?﹂
324
﹁響、真剣に話してる時にボケるのやめてもらえる?﹂
﹁チエ、頼むから俺にも分かるように話してくれる﹂
真っ直ぐ注がれる緑の瞳にはボケの要素が微塵も無いどころか、
戸惑いさえ浮かべながら、響がこちらを理解しようと耳を傾けてく
る。
その真剣さに、まさかと思いながらも千絵は震える声で言った。
﹁響、もしかして﹃付き合う﹄って知らないの?﹂
﹁日本ってもしかして、恋人になる前段階で何かやるべきことがあ
るのか?﹂
﹁好きですって想いを伝えて⋮⋮﹂
﹁うん、何度も伝えてる﹂
﹁付き合ってくださいって、言う﹂
﹁どこに。縁結びの神社的なところに? 二人でお参りでも行くの
?﹂
うと
日本の習慣に疎くてごめんね。と申し訳なさそうに眉を下げてく
る響に、千絵はくらりとめまいがした。どうやら響は本気で、恋人
になるための日本的告白を知らないらしい。
確かに思春期の半分はフランスにいたし、今までも長い間向こう
で暮らしていた。
﹁フランスって、恋人になる時にどうするの⋮⋮?﹂
﹁え? 日本と同じだよ。自分の中で特別だと思った相手に、特別
な愛の言葉を送る﹂
﹁それで?﹂
﹁相手からも愛の言葉が返ってきたら、想い合ってるってことだろ
? 想い合って一緒に特別な時間を過ごすのが恋人だろう﹂
﹁付き合いましょう、的な言葉は?﹂
325
﹁さっきからチエの言ってるそれって、﹃結婚しよう﹄的な日本の
プロポーズの言葉か何かなの?﹂
﹁本当に知らないんだね﹂
どこか虚しさを感じながら、千絵は響へ説明をした。なんとなく
理解したらしい響が、﹁つまり﹂と綺麗な眉を寄せる。
﹁つまり、﹃恋人関係を始めましょう﹄っていう言葉を言わない限
り、日本人の間には恋人関係が結ばれないっていうことなのか? なんて回りくどいんだ⋮⋮﹂
﹁でも始まりがないと、なりゆきに身を任せていることになっちゃ
ったり、遊ばれてるんじゃないかって不安になったりするんだよ﹂
﹁俺がチエを遊びでどうこうすると本気で思ってるのか?﹂
﹁たとえばの話だよ! これが日本の一般感覚なのっ﹂
フッと部屋の温度が下がるほどの冷気がこもった瞳を向けられて、
千絵は慌てて感覚の違いを伝えた。
それでも腑に落ちないというように、響がむすくれる。
﹁でも俺、チエにプロポーズしたことあっただろ?﹂
﹁え。いつ?﹂
﹁⋮⋮﹃恋愛を前提に結婚して欲しい﹄って言ったはずだけど﹂
﹁確かに昔言われたけど、冗談じゃなかったの?﹂
確かあの頃、千絵はまだ小学五年生だった。口約束だったばかり
か、あの時は響がミズキや奏にハリセンでツッコまれていた記憶が
ある。
憧れの人からのプロポーズめいた冗談の想い出では、と千絵が目
を瞬かせると、響がバタリとベッドに倒れ込んだ。そうして突っ伏
しながら、恨みがましい声でこちらをなじってくる。
326
﹁ああそうだろーね。チエはそうだろーと思ってたよ。俺がどんな
に真剣に愛の言葉を送っても、チエは一歩引いた友情以上恋愛未満
の好きしか返してこなかったものな。それが、俺が日本を発つ時に
なって、ようやく俺と同じような気持ちに育ったかと思ってたのに
⋮⋮チエは俺を恋人とは認めてくれていなかったってことか﹂
﹁だ、だってあの頃の私、まだ中学一年生だよ!? 自分の気持ち
でいっぱいいっぱいだったし、ミズキのことは誤解してたし、響の
事情とか分からないよ!﹂
﹁俺にとってはようやくの中学一年生だった。何度発育が良い小学
生のチエに理性がやられそうになったことか。そしてハリセンの餌
食になったことか﹂
﹁響、もしかして若干泣いてない?﹂
﹁とりあえずチエは俺のチエコン歴をなめない方が良いと思う﹂
そのままいじけるようにこちらへ背を向けてベッドに転がってい
る響に、千絵はそっと声をかけた。
﹁響、昔から格好良かったから、告白とかされなかったの? それ
こそ﹃付き合ってください﹄って言われなかったの?﹂
﹁⋮⋮言われた気は、する﹂
やっぱり告白されたことがあるのか。勝手だとは分かっていても、
胸がしくりと痛む。
それを悟られないように、きゅうと締まって痛む喉の感覚に耐え
ていると、千絵の手に響の手が重なった。仰向けになった響が昔を
思い起こすように目を細め、千絵の指に指を絡めてくる。
﹁でも俺の想いは全部チエに渡してたから、他の相手の手紙は受け
取らないし、呼び出しも行かなかった。帰りに待ち伏せられて﹃好
327
きだ﹄って言われても、チエがいるからって断ってたから。突然﹃
付き合って欲しい﹄って言ってきた相手には、それこそ﹃どこに﹄
って返して終わった記憶しかないな﹂
﹁どこにって返された子、困ってなかった?﹂
﹁よく覚えてないけど、確かに妙な顔してた気がするな。その頃は
早く帰ってチエに会いたかったから、﹃悪いけど忙しい﹄って断っ
てた﹂
﹁はからずも会話は成立してたんだね﹂
﹁そうだな﹂
自然と笑い合っていると、指を絡めて握られた手を、響が引いた。
﹁チエ。俺はまだ間に合う?﹂
﹁え?﹂
﹁﹃付き合ってください﹄って言ったら、チエは俺と付き合ってく
れる?﹂
﹁⋮⋮はい﹂
千絵の返事に、響が嬉しそうに目を細める。
手を繋ぎ合い、頬へ伸びてきたもう一方の手にうながされるまま、
千絵は響の方へ身を倒していった。
328
愛があれば刷り込みだっていいじゃない︵前︶
少しひやりとする響の唇に自分のそれが重なると、触れた場所か
ら千絵のこめかみにまで、ジンと痺れが走る。
ベッドへ仰向けに横たわる響の手が、千絵の頬を撫でてくる。う
ながされるように再び口付ければ、唇が重なったまま角度を変えら
れ、しっとりと吸い付かれた。
広がっていく甘い痺れ。唇からこめかみ、背筋から心臓。意識が
とろけ、体を支えていた腕の力が抜けていく。
くたりと響の体に身を寄せると、腰を抱き込まれ、視界が回った。
先程まで見下ろしていた顔が、今度は千絵を見下ろしてくる。
ベッドへ背中を沈め、熱をはらんだ響の瞳を見つめながら、千絵
はぽつりと呟いた。
﹁ねぇ、響﹂
﹁うん?﹂
﹁昔、どうして私に﹃恋をしろ﹄だなんて言ったの?﹂
七年前。響は千絵に﹃たくさん恋をしろ﹄と言い、渡仏した。あ
れではまるで、響から別れを告げてきたも同然ではないのか。
間近から千絵を見下ろしていた響が、そっとまぶたを撫でてくる。
自然と閉じた千絵のまぶたにキスを落とすと、響が苦く笑った。
﹁子供だったから、かな﹂
﹁私が?﹂
﹁俺が﹂
329
子供だったんだ。と、額同士をこつりとあてて、囁いてくる。
﹁あの頃、俺は初めて抱いた深い愛情に溺れてた。奏がよく﹃三谷
には三谷の世界がある﹄って言ってたの、覚えてる? あれは裏を
返せば俺に、チエに執着するだけじゃなくて、俺自身の世界を持て
って言っていたんだろうな。同じようなことを、ミズキにも言われ
たから﹂
フランスへの留学の話が出た時、響は一度断ったのだそうだ。
デザインは日本でもできる。今は千絵のそばにいたい。そう言っ
た響に、ミズキは自分の世界を狭めるなと怒ったのだそうだ。
﹁俺の小さな世界に、チエを取り込んでおきたかった。チエといら
れれば幸せだったし、チエにもそうであって欲しかった。俺が向け
る感情と同じだけの気持ちを返して欲しかった。でも、俺の強い感
情を全部注ぎ込むには、あの頃のチエは小さくて、純粋すぎた。俺
も想いやる余裕を持てるほど、大人じゃなかったんだ。あのまま一
緒にいたら、俺はチエを無理矢理小さな世界に押し込めて、壊して
いたかもしれない。そしてそれを、幸せだとしか感じなかったかも
しれない﹂
そうして千絵に向かう感情を落ち着かせるために、響は渡仏とい
う道を選んだのだという。
﹁俺は変わらなくちゃいけなかった。大切な相手を無理やり奪うよ
うな真似をしない、分別のある大人にならなきゃいけなかった。で
も、俺自身が変わろうとしているのに、残して行くチエに﹃変わる
な﹄だなんて、とても言えなかった﹂
330
むしろ変わって欲しかった。と、響が泣きそうな声で呟き、両手
で千絵の頬を包んでくる。
﹁どんなに深い愛を伝えても、困った顔ですり抜けていく小さなチ
エに知ってもらいたかったんだ。恋をたくさんして、俺に向けてい
た気持ちは何だったのか、考えて欲しかった。それでもし、俺への
気持ちが刷り込みの恋心だって気付いたら⋮⋮俺よりも深く想う相
手がチエにできたとしたら、祝福するつもりだった。チエに幸せに
なってもらうことが、俺の幸せなんだって、︱︱そう、思おうとし
たのに⋮⋮っ﹂
ぽとりと千絵の頬に雫が落ちる。
笑おうとして失敗したような、歪んだ響の口元。瞳に張った水の
膜を揺るがせて、響が声をかすれさせる。
﹁心が死んでいくんだ。チエが俺以外の相手を選んだら。そう考え
るだけで、痛くて苦しくて⋮⋮だめなんだ。大切な人が幸せならそ
れでいい、なんて考えを、俺は持てなかった。何で俺の隣にチエが
いないんだろう、チエのいない世界で俺は何をしてるんだろうって、
そんなことばかり考えて⋮⋮情けなくて、幻滅する?﹂
﹁ううん⋮⋮﹂
両頬を手で包まれていたので首が振れない代わりに、千絵は言葉
と視線で否定した。
幻滅なんてしない。自分だってそうだった。
どうして自分の隣に響がいないのか。そう何度も思ったし、想う
ことを止めようとするたびに、心に薄い膜が張っていくようだった。
おかげで響以外の異性に興味なんてこれっぽっちも持てなかった。
いつも薄い膜越しの世界で、ただ一人の存在を求めていたのだ。
そんな響が千絵を求めてくれていたのなら、これほど嬉しいこと
331
はない。
﹁嬉しい﹂
響の温かい手に頬を擦り付けるように寄せて言うと、響がこらえ
きれないという勢いで抱きしめてきた。
ぎゅうぎゅうと締めつけてくる腕の拘束の痛みも苦しさも、響の
想いが込められていると思うと嬉しさが勝る。
﹁これでも、頑張ろうと思ったんだ。チエが他へ目移りしても、俺
が最後に選ばれればいいって、そんな男になればいいんだって、何
度も気持ちを奮い立たせて仕事に打ち込んだ。でも、仕事や私生活
でいろんな出会いや別れを繰り返しても、どこか感情が上滑りして
てさ。しまいには五感が麻痺してきて、寝食に頓着しなくなる俺を、
よくミズキが怒ってたよ﹂
肩に顔を埋められているので顔は見えなかったが、響の声色が少
しだけやわらかくなっているのを感じる。
﹁ミズキも言ってたよね。響は突然バッテリー切れを起こすって﹂
﹁ああ。一度床に倒れていた俺に、ケトルの水をぶっかけて目を覚
まさせてきたことがあったよ﹂
背を震わせて笑う響に、千絵も笑った。
﹁枯れていく俺の感情と一緒に、デザインも枯れていく。でも、ネ
ットでチエの作品を見つけた時、自分の中に光の糸を見つけた気が
してさ。細い糸を手繰り寄せながら俺なりに再起をかけて動いてい
たら⋮⋮日本でチエと再会して、感情が一気にぶり返してきた。あ
の頃は何を食べても砂を噛んでいるようだったのに。チエと食べた
332
ご飯、美味しかったなぁ⋮⋮﹂
深く息を吐き出しながら呟かれた声は、感慨に満ちていた。
じわりと肩が濡れ、熱くなる。視線を向けると、千絵の肩に響が
目元を押し付けていた。
千絵は抱き込まれた体勢でみじろぎし、片腕を拘束から抜き出す
と、響の頭をそっと撫でた。
﹁もしかしたら、刷り込まれていたのは響かもしれないね﹂
﹁チエ?﹂
肩からわずかに顔を傾けた響の瞳は濡れていて、千絵は微笑みな
がら言った。
﹁響は私と出会った頃から、音彦さんや谷部君と離れて一人で過ご
していたでしょ? 幼い頃にお母さんを亡くしていたって聞いてい
たし。あの頃の響は、私にとってはすごく大人なお兄さんに見えて
いたけど。でも、どうしたってやっぱり、十代の子供だったんだよ。
寂しくなかったわけないんだ。そんな響のそばに、たまたま出会っ
た私がずっといたから、響はこんなにも私を大切にしてくれている
のかもしれない﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁響が寂しい時、助けて欲しい時、そばにいたのがたまたま私だっ
た。響が家族に求めるはずだった気持ちを、初めて家族以外に長い
時間を過ごした私へ求めていたのかもしれない。それは、刷り込み
とは言わない?﹂
﹁そうだとしても、俺は構わない。むしろ、刷り込んでくれたチエ
に感謝するよ。おかしくなるほど誰かを好きなる感情なんて、下手
をしたら俺は一生、理解できなかったかもしれないんだから﹂
﹁だったら、私のことも理解して、ちゃんと受け止めてよ﹂
333
﹁チエ?﹂
頭を撫でていた手で、指通りの良いダークブロンドの髪をツンッ
と小さく引っ張ると、響が少しだけ体を起こして千絵を見下ろして
くる。
鼻先が振れそうな距離で、千絵は囁いた。
﹁私の気持ちがもし刷り込みの恋心だったとしても、それでもいい
って受け入れて。もう恋なんて可愛い感情じゃなくなるほど大きく
育っちゃったんだから、責任持って響がもらってよ﹂
﹁⋮⋮喜んで﹂
間近で笑い合った吐息は、自然と絡んで重なった。
とろけたのは唇か口内か頭の中か。とにかくすべてがやわらかく
て、甘くて、熱い。
重なった唇から入り込む舌に自分のものも絡めているはずなのに、
口の中が気持ちよさでいっぱいになり、どうなっているのかわから
ない。
舌が溶けてなくなってしまっていることはないだろうが、もしか
したらと思えるほどに、トロトロとやわらかくなる口元から透明な
雫があふれていく。
響はあふれた雫を追うように頬や耳元へ舌を這わせて、小さく音
を立てて吸いついてくる。
寂しくなった口元に指が二本ぬるりと入ってきて、千絵の舌をく
すぐった。あやされているような安心感と嬉しさが胸にあふれて、
口を開くと、深く指を咥え込んだ。もっと奥まであやして欲しいと、
指を吸って招き入れる。
千絵の舌の両側や裏側を撫でながら、響がゴクリと喉を鳴らし、
耳元で熱い息を吐き出した。
334
﹁すごい、やわらかくて、あったかくて、トロトロしてて⋮⋮ここ
でもいつか、俺を受け入れて欲しいな﹂
千絵の舌をつまんで軽く引き出すと、舌先にそう囁いて、響がか
ぷりと食らいついてくる。
そのまま舌の奥まで歯を押し当てるように深まっていくキスに、
背中が震える。突き出す形になっていた胸の先端に、ぬるりと響の
指先が這った。
唾液で濡れた響の指が、シルク素材のスリップドレスを押し上げ
る千絵の胸の頂を、ぷるりぷるりとつまんでは撫で擦っていく。
﹁あ⋮⋮っ、は⋮⋮っ﹂
﹁うん、気持ちいいよね。こっちも、はやくさわって欲しいって言
ってる﹂
触れられていないもう一方の胸の頂も痛いほど立ち上がり、布地
を押し上げながら震えている。
そこへ前触れもなく軽く歯を立てながら吸いつかれて、千絵はビ
クリと体をしならせて小さな悲鳴を上げた。
﹁ひゃっ、う! あ、ダメ、かんだら⋮⋮やあぁっ﹂
﹁でも、やわらかいのにここだけ硬くて、くせになる⋮⋮﹂
すぼ
大きく口を広げて千絵の胸のふくらみを口内に含んだ響が、舌先
で頂を転がしながら唇を窄めていく。最後には芯の通った頂の感触
を楽しむように、歯と唇で擦りあげてきて、千絵の下腹の深い場所
が熱く疼いた。
いつの間にか腕から抜かれていたナイトガウンは、シーツと同化
している。スリップドレスの肩紐も外されていた。
335
まろび出た胸の上で響の唇が水音を立て、揺れるダークブロンド
の髪が鎖骨を撫でてくる。
粟立つ肌と体の奥からあふれ出る甘くて熱い感覚に、千絵が小さ
くすすり泣きながら耐えていると、突然コンコンと部屋の扉が鳴っ
た。
﹁響、お風呂空いたわよ﹂
ミズキの声だった。今まで浴室にいたらしい。
気持ちが高まって流れに任せてしまっていたが、ここは響とミズ
キの共同生活の場だったことを思い出し、千絵は内心で悲鳴をあげ
た。
慌ててはだけた服を直そうとみじろいだら、響に両手首をつかま
れて、ベッドに押し戻される。
響、なんで。そう声を出さずに口の動きだけで抗議する千絵を、
熱のはらんだ瞳で見下ろしながら、響がミズキに返事をする。
﹁昼にシャワー浴びたから、今はいい﹂
﹁あらそう﹂
平然と会話をする響が胸に手を這わせてきたので、千絵は自由に
なった片手で響の手首を押さえた。
﹁響、終わり⋮⋮っ﹂
﹁それ冗談? こんな状態で、ムリに決まってる⋮⋮﹂
息だけで小さな音を出しながらダメだと訴える千絵の、下着越し
の蜜壺に、響が﹃こんな状態﹄と称した硬い下半身を擦りつけてく
る。
響はまだ何も脱いでいない。けれど服越しでも伝わる熱に、千絵
336
は羞恥だけでなく、わずかな期待を抱いた自分の感覚に身震いした。
ミズキにバレやしないか。そう千絵が緊張で硬くなっているのを
いいことに、響が下着の中に手を入れ、直接秘部を撫でてきた。
くちゅりと響の指に蜜が絡む音に、千絵はビクリと体を震わせる。
﹁だめ、音がっ﹂
千絵の制止も効果を成さず、あふれた蜜を絡めた指は、そのまま
ずるりと千絵の中に入り込んでくる。
きゅうと無意識に響の指を締め付けながら、千絵が口を押さえて
声を耐えていると、外のミズキが﹁それと﹂と話を続けた。
﹁あとアタシ、明日チエと一緒にマリーのコンサートへ行ってくる
から﹂
﹁お前が一緒に?﹂
﹁そう。だってアンタ、響の格好のままじゃ行けないでしょう? それともアッチの姿で行く?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
アッチの姿とはおそらく、響が別名で活動をしている時の姿なん
だろう。それがどんなものなのか千絵は知らないが、響が苦い顔を
するくらいには困った姿らしい。
﹁ま、そういうことだから。チエがここから会場に行くとなると、
服が必要になるでしょ。アタシちょっとアトリエに行って、千絵に
合う服見繕ってくるわ。どーせアンタのことだから、チエの服の一
つや二つ作ってたんでしょう? 適当にあさるわよ﹂
﹁ああ﹂
会話の最中もゆっくりと抜き差しされていた指の感覚に耐えてい
337
ると、遠くでガチャリと扉の閉まる音がする。どうやらミズキが外
へ出て行ったらしい。
ようやく声を出せるようになった千絵は、キッと響をにらんで声
を荒げた。
﹁響、ひどい! ミズキがいたのに何でやめてくれないの!﹂
﹁なんでミズキがいたぐらいでやめなきゃいけないの﹂
﹁なんでって、恥ずかしい⋮⋮﹂
﹁ミズキが部屋の中に入って来たわけでもないし、見られたわけで
もないだろ?﹂
﹁でも声とか、音とか聞こえちゃうじゃんっ﹂
﹁想い合ってる二人が同じ部屋にいて何もない方が不自然だろ。お
互いそこは大人だし、音が気になる時は部屋を移るなり外へ出るな
りするよ。そんなこと気にしてたら、長年ルームシェアなんてやっ
てられないだろ?﹂
﹁そういうものなの⋮⋮?﹂
つまり今も、ミズキは何かを感じ取って、あえてこの時間から外
に出てくれたんだろうか。
そう考えるといたたまれなくて、顔を真っ赤にさせながら震える
千絵に、響が﹁それより﹂と目を細めて耳元に低く囁いた。
﹁明日、ミズキと出掛けるんだって?﹂
﹁出掛けるって言っても、マリーのコンサートに⋮⋮あぅ!?﹂
三本に増えた指がぐじゅっと中に押し込まれて、千絵は響の腕に
しがみついた。
﹁なんでミズキと行くの。チエには女の子の友達だっているだろ?
ミズキである必要がないだろ﹂
338
﹁あ、だ、だってアニーが、そうしろって⋮⋮っ﹂
その間も中を引っ掻くように、指が何度も押し込まれては引いて
いく。千絵がビクビクと体を震わせていると、響がこつりと額同士
を合わせて、はぁと熱い息を吐き出した。
﹁ねぇ⋮⋮俺、恋人に返り咲いて早々に浮気されてる?﹂
﹁う、浮気じゃ、ない⋮⋮っ﹂
﹁どうかな。チエは今までも、随分とミズキのことを気にしてたみ
たいだし。俺ほどじゃなくても、チエも昔はミズキと長く一緒にい
たし。ミズキが男だって知って、気持ちが揺らいじゃってない?﹂
﹁ゆらいで、ない⋮⋮から、も、ああ⋮⋮っ﹂
響がなじりながら、シーツが濡れるほど千絵の中から蜜を掻き出
してくる。一緒に秘肉や花芯まで擦られて、意識が白く明滅を始め
た。
﹁⋮⋮俺だってチエとデートしたいのに﹂
耳元で拗ねたように呟かれた言葉に、きゅうと下腹部が切なく疼
く。
どうしよう。嬉しい。おそらく嫉妬してくれていたんだろう響の
言葉に、千絵の体が内側から喜びに満ちていく。
﹁響⋮⋮今度はいっしょに、二人ででかけよう?﹂
甘い刺激で息を荒らげながら、そう言って視線を合わせた千絵に、
響がぱちりと目を瞬かせた。
ありがとうと微笑んで礼を言う響が、やさしく秘部を撫でてくる。
339
﹁意地悪してごめんね。⋮⋮ありがとう、チエ﹂
やさしく唇を重ねて、やさしく胸の頂をつまみ、やさしく秘部に
指を埋めていく。
甘いばかりの刺激を送られて、千絵は次第に意識を弾けさせてい
った。
340
愛があれば刷り込みだっていいじゃない︵後︶
服を脱いだ響が、弛緩した千絵の両足を広げ、正面から身を倒し
てくる。
秘部に押し当てられた熱に千絵が無意識に腰を揺らすと、少しだ
け先端が入り込んできた。
﹁あっ⋮⋮﹂
﹁チエ、いい?﹂
﹁う、ん⋮⋮﹂
頷いてシーツをつかんだ千絵の手を、響の手が撫でて持ち上げる。
﹁手はこっちに回してくれると、嬉しいかな﹂
響の首の後ろに両手を回され、自然と近付いた距離で微笑まれて、
千絵も笑って頷いた。唇を重ねてきた響が舌を入れてくるのと同時
に、千絵の足を抱えてぐっと身を沈めてくる。
﹁んっ⋮⋮んんん!﹂
﹁⋮⋮んっ、はっ﹂
響を受け入れるのは初めてというわけではないのに、構えてしま
ったからなのか、随分と圧迫感を感じて千絵は悶えた。
お腹が苦しい。息も苦しい。ずれた唇の隙間から呼吸を繰り返し
て、広がる秘部の痛みに顔をしかめる。
341
無意識に自分の唇を噛みしめると、それを止めるように響が舌で
唇を割り、キスを深めてくる。
おちい
大丈夫。そうあやしてなだめるように、何度も落ちる深いキス。
千絵が酸素不足で酩酊に似た状態に陥っていると、いつの間にか体
の深くまで響を受け入れていた。
﹁はっ、はふっ⋮⋮全部、入った⋮⋮?﹂
﹁全部じゃないけど、入ったよ﹂
これで全部じゃないとか、どういうことだ。
千絵は浅い息を繰り返しながら、自分の下腹部を撫でてみた。じ
んわりと熱い。なんとなく、体の中に芯が入っているような感覚が
手に伝わってくる。
気持ちを通じ合ってからの、初めての行為。なんだか感慨深くな
って、千絵がうっとりと目を細めていると、頬を撫でられた。
﹁チエ、それ自覚してやってるの⋮⋮?﹂
﹁え?﹂
﹁すごく、煽られるんだけど﹂
かすれた声で言われるこちらの方が、何かを煽られている気がす
る。
無意識に狭まる体の中で、響の熱が大きさを増した気がして、千
絵は息を呑んだ。
﹁響の、ゼッタイ大きい⋮⋮っ﹂
﹁北欧の血かな﹂
おどけた調子で返されたが、響の瞳にはからかいの色は微塵もな
い。北欧のと言うより、オオカミの血でも混ざっているのではと疑
342
いたくなるような、熱をたぎらせた獣の瞳をしている。
それなのに、かすれた声はどこまでも甘くやさしくて、やわらか
く耳の奥へと入り込み、千絵を侵蝕していく。
﹁誰と比べたのかなんて、聞かないよ。今チエの中にいるのは俺な
んだから。大丈夫。こうやって、中をやわらかく溶かしてあげたら
⋮⋮ちゃんと、全部入るようになるから﹂
ぐちゅ、くちゅ、と小刻みに奥で抜き差しされて、千絵はぶるり
と体を震わせた。
﹁いい、いれなくて、いいっ、もう、十分⋮⋮っ﹂
﹁遠慮しなくていいのに﹂
﹁遠慮じゃないぃ⋮⋮!﹂
遠慮じゃなく、もう十分に奥まで入っていると思う。千絵の呼吸
に合わせて響がだんだんと動きを大きなものへと変えていくのを、
熱くなる意識と揺れる視界で感じていた。
抜かれるたびに肌が粟立ち、突き上げられるたびに全身に甘い痺
れが走る。
こわく
汗で濡れた千絵の手が響の首から滑り落ちると、響につかまれた。
手や腕にキスをされ、蠱惑的な笑みを浮かべた響に﹁がんばって﹂
と囁かれる。
再びしがみつかせるように、千絵の手は響の首の後ろへ回させら
れた。
﹁ねぇ、チエ⋮⋮っ、体の力、抜いて⋮⋮大丈夫、気持ちよくなる
だけだから﹂
﹁も、じゅうぶん、きもちいい、からぁ⋮⋮っ﹂
343
呂律すら危うくなるほど、気持ちがいい。
ぐらぐらと頭の中がゆだるように熱くて、息だってあがりっぱな
しだ。小さな限界なら、もう何度か迎えてしまっている。
四肢がか細く震え始めた千絵の耳元で、響が﹁はっ﹂と吐息で笑
う。
﹁可愛いこと言ってくれて、たまらないな⋮⋮でも、もっと、奥、
あるでしょ? 俺を受け入れてくれたら、嬉しいな⋮⋮﹂
やわらかく溶かされた奥の、その先を求めるように、ぐりぐりと
熱の先端を押し付けられて、千絵の震えが大きくなった。
﹁ね、チエ。俺のこと、受け入れて?﹂
﹁あ、あぅ⋮⋮﹂
﹁そう、上手だね。大丈夫、怖いことなんてないから﹂
じわじわと体重をかけられる。どこかが鈍く、ミシッと鳴った。
﹁あ、あああ⋮⋮っ、ふぁあああ︱︱!﹂
びくびくっと足が跳ね、響の腰やわき腹を蹴り上げたが、お互い
にそんなことをかまっている余裕はなかった。
瞬間的に大きな波を超えた千絵が、体の中に突き立てられた熱を
容赦なく締め付けていく。
限界を迎えたはずなのに、そこから下りることがかなわない。暴
力的なまでの快感の渦に巻き込まれて、ビクビクといつまでも背が
しなり、足が宙をかく。
終わりたいのに終われない。いつまでも高みに昇りっぱなしだ。
頭がおかしくなりそうで、ポロポロと涙をこぼしながら、助けを求
めるように目の前の体に縋りつく。
344
その相手こそこの事態の元凶だが、その相手が容赦をしてくれな
ければ、いつまでもこのままなのだ。
響は響で、急激な締め付けに堪えるためか、息を止めていたらし
い。額といわず顎といわず全身から汗を滴らせながら、とろりと溶
けるような笑顔で千絵を見つめ、恍惚としている。
﹁ホラ、気持ちよかった。チエの中、俺を締め付けて離さないよ。
すごく震えてる。ここ、好き?﹂
﹁あっ、あっ⋮⋮﹂
﹁俺は好き。チエの深くまで俺を受け入れてくれてるって、感じら
れて⋮⋮﹂
は
ねぇ。と、耳を舐めて食みながら、響がねだってくる。
﹁ねぇチエ、ここに熱いのをいっぱい受け止めたら、もっと気持ち
いいと思うんだ。出してもいいかな?﹂
﹁あ⋮⋮っ﹂
﹁まあダメって言われても、この前もずっと奥に出してたんだけど、
ね。今さらかな﹂
奥に出す。そうしたらどうなるのか、考えなければいけないのに、
頭が熱くてよくわからない。
ただきっと、とんでもなく気持ちがいいんだろうと、期待した体
の奥がきゅうきゅうと切なく疼いて仕方ない。
この前はどうしたのか。奥に出して、どうなったのか。
確か、大丈夫だった。薬を服用していたから。
﹁あ⋮⋮っ、だ、いじょうぶ⋮⋮くすり、のんでる⋮⋮っ﹂
まともに声が出ない喉を震わせてなんとか伝えると、千絵の唇か
345
らあふれた雫を舐めながら、響がうっすらと笑った。
﹁ああ、ピル使ってたんだ。⋮⋮残念。俺は大丈夫じゃなくても全
然よかったんだけど﹂
どういうことだろうと考える前に、響の唇が重なってくる。
口内を混ぜながら腰をゆっくりと回されて、頭の中までかき混ぜ
られているような快感が突き抜ける。
死ぬ。死んじゃう。そう叫んだのか、心の中で思ったのか判別が
つかない。
跳ねて暴れる千絵の体を全身でベッドに縫い止めて、響が聞いて
るこちらの腰が砕けるような低く甘い声でうめき、最奥に熱を吐き
出した。
ドクリ、ドクリ、と感じるのは、中に注がれる熱なのか、互いの
心音なのか。
小さな痙攣もあふれる涙も止まらない千絵を抱きしめながら、響
が長い息を吐き出して、ゆるく腰を揺すっている。そのたびにまた
ビクリと千絵の体が震え、響が低く声を漏らす。
耳に届く響の声は、艶めかしい。対して自分は引きつった声やら、
かすれたうめき声しかあげられないでいるが、響はその声に煽られ
ているのか、﹁可愛い﹂と何度も囁かれた。
長いこと揺すっていた腰の動きをようやく止めて、千絵へ呼吸を
うながすようにキスをしながら、響がうっとりと微笑んでくる。
﹁チエ⋮⋮チーエ。大丈夫? 聞こえてる?﹂
汗と涙でびしょ濡れになった千絵の顔を拭うように、響が頰や髪
を手のひらで撫で、ことさらやわらかな声で語りかけてくる。
半分気をやっている千絵は、声のする方へ視線を向けて呼吸をす
るのが精一杯だった。未だに体は細かな痙攣を続けていて、気を抜
346
けば小さな快感の波に意識がさらわれそうになる。
そんな千絵にひとつキスを落とすと、響が弛緩した千絵の両太も
もを撫で、抱えた。
﹁チエ、足﹂
﹁あ、し⋮⋮?﹂
﹁そう。足、俺の腰にまわして﹂
力が入らないから無理だと、ゆるく首を振って伝えたら、体の奥
を響の熱で押し上げられた。先ほど腰をゆすりながら硬さを取り戻
したらしいその熱は、苦しいほどの快感を千絵に与えてきて、思わ
ず悲鳴に似た嬌声をあげる。
何度かゆすりあげられて、意識が甘い痺れで朦朧となる頃、耳に
とろりと蜜のような低い声が入り込んでくる。
﹁チエ、俺の腰に足をまわして?﹂
先ほどと同じ言葉をゆっくりと繰り返す響に、今度は無理だと言
えなかった。快感に身を震わせながら、千絵は従順に響の腰へ足を
まわす。
いい子。と頭を撫でられたら、それだけで意識が小さく限界を迎
えて、ひくひくと体が震える。ぎゅうと、腕と足とで響にしがみつ
きながら絶頂の波に耐えていると、響が﹁そう﹂と満足気に微笑ん
だ。
﹁これから先も、イクときはこうしててね。離しちゃダメだよ﹂
﹁ぁう、でも、⋮⋮ひんっ!﹂
震える足がずるりと滑ると、とがめるように響が腰を押し進めて
くる。
347
﹁ほら、ゆるめない。しがみついて、ちゃんと俺が欲しいって、口
でも、体でも示してよ﹂
﹁あっ、あ⋮⋮っ﹂
﹁うん、上手﹂
必死にしがみつくと響に褒められて、なんだかひどく嬉しかった。
ゾクゾクと背筋を這い上る快感に震えていると、千絵のこめかみに
キスを落とした響が囁いた。
﹁しっかりつかまって。俺のこと、離さないで﹂
ズッと響の熱が千絵の中から引き出され、再び奥まで押し込まれ
る。最初はゆっくりと、次第に短い間隔で抽送を繰り返される。
もうどこを触られても快感しかない体で、それでも千絵は必死に
しがみついた。
﹁チエ、欲しい?﹂
﹁ほし、いっ、響がほしい⋮⋮!﹂
﹁うん、全部あげる。だからこぼさないで、受け止めてね﹂
グッと奥まで突き上げられて、意識が白く染まる。びゅうびゅう
と注がれる激情に、お腹が焼けるように熱くなって、千絵は喉を震
わせて泣いた。
それでも健気に目の前の体へしがみつく千絵に、響がたまらない
と呟いた。
﹁いい子だね、チエ。⋮⋮中、震えてる。気持ちよかった?﹂
頷けずに震えるばかりの千絵を優しく抱き込みながら、響が何度
348
もゆっくりと口付けてくる。
﹁大丈夫。今日はがっついたりしないよ。ゆっくり、たっぷりシよ
うね。俺しかいらないって、チエの体が覚えるまで、たくさん教え
てあげるから﹂
ねぇ。と、再び鎌首をもたげた熱を体の奥へ押し付けながら、響
が笑う。
﹁チエ、俺のこと好き?﹂
﹁す、すき⋮⋮ひびきが、すき⋮⋮っ﹂
﹁⋮⋮ほんと、可愛い﹂
優しいキスで眠気が襲うのに、意識をとどめるように響が体をゆ
すりあげてくる。
千絵はクンクンとなきながら、長い時間、響の深すぎる愛情を受
け止めたのだった。
349
彼の辞書に自重という言葉はないらしい。
目が覚めて、ここがどこなのか、自分が何をしていたのか、千絵
は少しの間分からなかった。
それほど深く眠ってしまっていたし、眠った時の状況を思い出せ
ない。
大きな窓から入り込む薄明るい日差しに目を細めながら、身体の
重だるさを感じる。主に、下半身を中心に。
シーツへ頬を擦るように頭を動かして周囲を見ると、ベッドには
自分一人が横たわっていた。掛け布団をめくれば、衣服を一切身に
着けていない肌に、赤い痕がいくつも散っているのが見える。一部、
噛み痕めいたものもあった。
﹁⋮⋮ぅぁあ⋮⋮﹂
連想的に昨晩の状況を思い出した千絵は、シーツをつかむと真っ
赤な顔でうめいた。
目を閉じても頭を振っても、昨晩の情事の脳内プレイバックが止
まらない。響のことを考えてしまう。囁かれた甘い声も、乱れた息
も、優しく触れてきた手も、深く貪欲につながった熱も、何もかも
が千絵の記憶に刻まれている。
なにより、好きだと言ってもらえた。愛していると言ってもらえ
た。想いを伝え合って、恋人という間柄になれた。長い間抱え続け
ていた想いが、ようやく成就したのだ。
知らないうちに涙があふれ、千絵は白いシーツに顔を擦り付ける
と、肩を震わせた。嬉しくて、幸せで、言葉にならない。響に想い
を告げられず悩み続けた昔の自分に、今の気持ちを伝えてあげたい。
350
泣かなくてもいいんだと抱きしめてあげたい。怖がらずに手を伸ば
せばよかったのだと、教えてあげたかった。
随分と遠回りをしたけれど、今の幸せをかみしめて涙を零してい
たら、部屋の扉が開いた。
﹁ああ、チエ。目が覚めた?﹂
﹁響⋮⋮﹂
みは
扉を開けて入って来たのは、ラフなシャツとデニム姿になった響
だった。最初は笑顔だった響だが、千絵の顔を見るなり目を瞠り、
慌てた様子で駆け寄ってくる。
﹁ごめんチエ、寂しかった?﹂
﹁え?﹂
﹁泣いてる。目が覚めた時に一人だったから? ごめん、シャワー
浴びてたんだ﹂
謝罪する響が千絵の目尻に溜まった涙を唇で吸い取り、顔中に小
さなキスをしてくる。くすぐったいと笑い、千絵は首を振った。
﹁違うよ、別に寂しかったからじゃない。嬉しかったから﹂
﹁嬉しい?﹂
﹁うん。響と恋人になれて嬉しいって思ったら、なんか昔のことい
ろいろ思い出して⋮⋮﹂
言っているそばから、響のことを好きでたまらなかった昔の気持
ちがあふれてきて、言葉がつまる。一緒に零れた涙を、響がまた吸
い取ってくれる。響がベッドに身を乗り上げ、掛け布団ごと千絵の
頭をぎゅうと強く抱きしめてきた。
351
﹁⋮⋮昔の男のことなんか忘れたらいい﹂
﹁響、苦しいよ。ちょっと痛い⋮⋮﹂
押し付けられた胸から届く心音や、耳を覆う腕の圧迫感で、響の
声がくぐもってしまってよく聞こえない。
痛みと息苦しさに頭を振ってもがくと、腕の拘束が少し緩んだ。
ぷはっと息を吐いて顔を上げると、千絵と向かい合うようにベッド
へ横たわった響と目が合った。その眉が少しだけ辛そうにひそめら
れている。
﹁響、どうしたの?﹂
﹁チエには俺がいるから。これから先のチエの未来は全部、俺がも
らいたい﹂
﹁え? えっと、それって⋮⋮﹂
まるでプロポーズみたいではないか。そういえば昨日は結婚した
いと言われた気もする。それだけ強く想われているのだと思うと嬉
しくて、胸がきゅうきゅうと痛んだ。
赤くなった顔をうつむかせようにも、響が頬に手を添えて上向か
せてくるものだから、視線をそらせない。透き通ったグリーンの瞳
を見つめると、身の内が火傷しそうなほど熱くなる。
﹁響⋮⋮﹂
﹁チエの全部を、俺にくれる?﹂
﹁ひ、響の全部を私にくれるなら⋮⋮いい、よ﹂
自分ばかりが全てを預けるのではなくて、響の未来も欲しい。昔
は年齢やミズキとの仲や色々なことを考えて言葉にできなかった想
いを、今はたどたどしくも伝える勇気が湧いてくる。
顔の赤みは引かなかったが、ぐっと強気な態度で見つめ返して言
352
うと、響がきょとりと目を軽く見開いた。けれどすぐに嬉しそうに
目を細めて笑うと、千絵の額に自分の額をこつりとあててくる。サ
ラサラとしたダークブロンドの前髪から、ふわりとシトラスの香り
が漂った。
﹁そんなの今さらだよ。今も昔も、俺の全部はチエのものだから﹂
﹁響⋮⋮﹂
そんなことを言われて、泣くなと言う方が無理だ。だって自分は、
ずっと響が欲しかった。マリアンヌとの婚約を早合点し、ミズキと
の仲を勘違いしながらも、未練がましく想い続けて、今の今まで彼
氏の一人もいたことがない。
くしゃりと顔を歪めて涙をこらえる千絵を、響が深く抱きしめて
きた。優しく後頭部を撫でられて、甘くさわやかな香りのする響の
肩に、濡れたまぶたを押し付ける。
﹁チエが俺に全部を預けられるまで、何度だって伝えるよ。愛して
る。俺にはチエだけだ﹂
﹁⋮⋮私も﹂
好き。響だけ。そう零すと、響が抱きしめる腕に痛いほどの力を
込めてきて、性急に唇を重ねられた。
﹁んっ、響⋮⋮﹂
﹁はぁ⋮⋮っ、チエ、ごめん⋮⋮止められないかも⋮⋮﹂
のしかかるように覆い被さられ、口内を食べるような深いキスを
されると、下腹部の奥が甘く痺れて力が抜けていく。空気を取り込
みたくて吐いた息まで響に呑み込まれ、お互いの身体の間で寄れて
いた掛け布団が、ベッド下に蹴り落とされた。
353
熱を上げて粟立った素肌に響の綿シャツが擦れて、身体が震える。
身じろぎしたら下半身で水音がした。自分の中から何かがあふれた
音だと気付くと、恥ずかしくてきゅっと足に力がこもる。
響に気付かれませんように。そんな千絵の願いは無情にも届かず、
響がキスをしながら嬉々として下腹部の付け根に手を這わせてくる。
﹁いい音が聞こえた﹂
﹁気のせい⋮⋮っ﹂
﹁じゃないでしょ? ホラ、すごい⋮⋮﹂
﹁あ、あぅぅ⋮⋮っ﹂
確かめるように秘部を撫でてきた指が二本、そのままくぷくぷと
中に潜り込んできて、千絵は目の前の身体にしがみついた。これ以
上奥を探られないように両足を閉じようとしたが、ぐっと響の身体
で足を押し開かれる。
指を含まされて中をかき混ぜられる秘部のすぐそば、密やかに隠
れている芽に、響の下着越しの下肢が押し付けられる。いつの間に
ボトムの前をくつろがせていたのか。千絵のあふれさせたもので湿
る下着の中で、響の熱杭が容易にわかるほど硬くなっている。
下肢に熱を擦り付けられ、何度も敏感な芽をやわらかく押し潰さ
れて、千絵はやだやだと首を振った。
﹁あ、うっ、響、ダメ⋮⋮!﹂
﹁どうして?﹂
﹁だって、も、昨日の夜あんなに⋮⋮っ﹂
﹁俺はチエとなら、一日中つながっていたいけど﹂
一晩じゃ全然足りない。そう言って千絵の頭頂部にキスをしなが
ら、響がさらに指を増やして中をやわらかく押し込んでくる。その
まま芽を響の熱杭で刺激され続けて、千絵は昂りを抑えきれずに意
354
識を弾けさせた。
ビクビクッと浮いた両足が宙をかき、高い声ですすり鳴いた千絵
の様子を、響が熱っぽい眼差しで見つめてくる。
﹁指、好き? 奥まで欲しいってしゃぶりついてくる。でも俺はも
っと、別のをあげたいんだけど﹂
じゅっと濡れた音を立てながらゆっくりと引き抜かれる指に代わ
り、響が下着をずらして取り出した熱杭を押し付けてくる。
くちゅりと先端が微かに入り込む刺激に、千絵の下腹部の奥がき
ゅうぅと絞られるように疼いた。奥まで満たされた感覚を思い出し
て、息が乱れ、どうしようもなく身体が火照っていく。
しっとりと汗をかいた千絵の額に自身の額を合わせ、鼻頭同士を
甘えるように擦り寄せながら、響が唇に低く掠れた声で囁いてくる。
﹁ねぇ、チエの中に入りたくて泣いてるんだ。入れてくれる?﹂
﹁あ、あ⋮⋮っ﹂
じゅぐっと先端がさらに押し込まれ、くびれの辺りで止められる。
響の肩をつかんでいた手を取られ、まだ入り込んでいない響の熱
杭へと導かれた。震える千絵の手に、自分とは体温の違う、火傷し
そうな熱さの肉が触れる。硬いのにしっとりと手に吸い付くような
弾力があって、表面がぬるりとしたもので濡れている。
自分の身体にはない初めての感覚に、千絵はこくりと唾を飲み込
んだ。
﹁あ、あの、コレ⋮⋮っ﹂
﹁うん、泣いて濡れてるだろ? チエもたくさん濡れてとろとろだ
から、ちゃんと抵抗しないと入っていっちゃうよ﹂
355
言っている間にも、ぬるり、ずぶり、と徐々に埋められていくの
が、身体の中からも、押し付けられた手からも感じられる。
﹁ふ、あぅ、あ⋮⋮っ﹂
﹁んっ⋮⋮、ああ、ホラ⋮⋮っ、⋮⋮全部、入っちゃった﹂
最後まで震えるばかりで抵抗らしい抵抗を示さなかった千絵の耳
元に、響が喉を鳴らしながら呟いた。
ピッタリとくっついた互いの下肢に手を挟まれ、千絵はムリだと
涙を散らす。
﹁リ、ムリ、ムリ⋮⋮っ、抵抗とか、ムリだもん⋮⋮響のこと、好
き、だから⋮⋮っ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮っ﹂
びくぴくと中で響の熱が微かに震えた。息を詰めた響が、あー⋮
⋮と赤い顔でとろりと瞳の色をとろけさせながら、吐息交じりに笑
う。
﹁俺、チエを見てるだけでイけそう。ホントもう、チエの全部が凶
悪すぎて、心配になるよ﹂
言いざま腰をぐっと強く押し込まれて、千絵はびくりと身体を震
わせた。
下肢に挟まれていた手を、響が腰を引くと同時に引き抜く。悲鳴
が上がりそうだった口元へ運び、甲を噛んだ。
けれどすぐに響に手を取られ、指を絡めながらシーツに縫い止め
られる。そのまま何度も抽送を繰り返され、時折深くを味わうよう
に腰を揺すられて、はくはくと息が上がっていく。
356
﹁あ、はっあっ、ひびき、響⋮⋮!﹂
﹁こんなに可愛くて、やらしいチエを、他の男が、放っておくはず
ないって、わかってたのに⋮⋮っ、もうずっと、誰もここに入れな
いように、一日中、俺で塞いでおきたい⋮⋮っ﹂
ぐじゅっぐじゅっと耳を塞ぎたくなるような水音が絶え間なく部
屋に響き、身体の奥へと送り込まれる強烈な甘い刺激に、頭の中ま
で溶かされていく。
﹁チエ、気持ちイイ? 中が痙攣して、吸いついてきて、すごくい
い⋮⋮っ﹂
﹁ふ、うぅっ、⋮⋮あぁっ!﹂
﹁チエ、チエ、イきそう⋮⋮っ? イくときは、どうするか、覚え
てる⋮⋮っ?﹂
﹁あ、あし、あし、を⋮⋮っ﹂
呂律が回らず、教え込まれたままに足を絡めてしがみつく。さら
に身を倒してつながりを深くさせた響が、誉めるようにこめかみへ
キスを送ってくる。
﹁うん、そう、えらいねチエ、ちゃんと覚えてた⋮⋮っ。ねえ、俺
のこと覚えて。俺の形と、熱だけ覚えて。これからずっと、俺のこ
とだけ欲しがって⋮⋮っ﹂
﹁ひ、ひびき、ぃ⋮⋮!﹂
﹁ん、チエっ、ぐっぅ⋮⋮︱︱っ!﹂
舌を絡めてキスを深めながら、どくどくと中に流し込まれていく
激情に、脳も焼かれるようだった。
357
早朝からあられもなく乱れてしまい、千絵が再び目が覚めた時、
時刻は十時を過ぎていた。
水分の足りない頭が、ぼんやりと音を拾う。誰かが口論をしてい
るような、強い口調が微かに耳に届いた。起き上がると、そばに響
が脱いだんだろう綿シャツがある。自分の着ていた服が見当たらな
い千絵は、もそもそとそれを着こんだ。
太もも辺りまで隠れるそれでベッドから降りると、両足が少し震
えていた。昨晩から何度も筋肉を緊張させすぎて、疲れているらし
い。
力の入りにくい足で壁伝いに歩き、部屋から廊下へそっと出ると、
扉の開いたリビングからミズキと響の声が聞こえた。
﹁アタシはチエを起こしてきてって言ったのよ。朝っぱらから襲っ
てこいとは言ってないでしょーが!﹂
﹁あのチエを前にして理性を保てるヤツがいたら、そいつは不能か
男好きだ﹂
﹁開き直ってんじゃないわよ。これからマリーのコンサートに行か
なきゃって時に、ヘロヘロじゃチエが可哀想だし、マリーにも失礼
でしょうが。アンタ自分のコレクションにセックスで疲労困憊のマ
ダムが来たら嬉しい?﹂
﹁誘われたからって必ず行く必要はないだろ﹂
﹁行く必要があるからアタシも付いていくんでしょうが。マリーに
アンタのこと、口止めしてこなきゃいけないんだから﹂
なんだか聞いていていたたまれなくなり、千絵はもう一度部屋に
戻ろうとしたが、足からカクリと力が抜けた。
﹁ひゃっ!?﹂
358
油断して力の抜けた身体はその場へ崩れ落ち、結果ペタリと座り
込んでしまう。
﹁チエ? 起きたのね。大丈夫?﹂
千絵の声を聞いてリビングから出てきたミズキが、心配そうに声
をかけてくる。
﹁ミズキ⋮⋮あの、ちょっと力が入らなくて﹂
﹁そりゃそうよね。あの馬鹿がムチャしたんでしょう? 可哀想に﹂
あの馬鹿、と親指で後ろを指すミズキの背後には、同じく千絵の
声を聞いてリビングから出てきた響が立っている。だが響は心配し
ていると言うよりも、目を輝かせながら口元を手で押さえていた。
﹁チエ、その姿って彼シャツ⋮⋮っ﹂
﹁アホなことで感動してないで、助けてあげなさいよ。浴室まで運
んであげて、コレ以上手ぇ出すんじゃないわよ﹂
半眼で忠告しながら響と場所を入れ替え、ミズキがリビングへ戻
っていく。二人になった廊下で、響が千絵の前に片膝をついた。
﹁チエ、大丈夫?﹂
﹁うん、響。ちょっと足が震えてるけど、大丈夫﹂
﹁腰が抜けるほど気持ちよかった?﹂
﹁え!?﹂
ぼっと千絵が顔を赤らめると、響の頭を白い物が襲った。久方振
りのハリセンだった。
359
大振りのハリセンを肩にかついで仁王立つミズキが、床に伏した
響を半眼で見据えながら口端を吊り上げている。
﹁響、アンタEDのままの方がチエのためだったかもしれないわね。
アンタのえげつない下半身事情に付き合わせてたら、チエの身体が
もたないわ。浮かれ過ぎてチエの負担を忘れるんじゃないわよ﹂
まったくもう。と溜息を吐き、男だが妙に色気のある角度で首を
傾げ、ミズキが肩をすくめながら片目を閉じた。
﹁チエ、大丈夫? シャワーは浴びられる? ブランチをして身体
を休めたら、一緒にコンサートへ行きましょ﹂
﹁チエ、別に何もムリして今日行かなくても⋮⋮﹂
﹁響、アンタはこのまま仕事よ。アトリエに行ってらっしゃい。ア
タシもコンサートが終わったらアトリエへ行くから、トワルチェッ
ク終わらせるわよ﹂
復活しかけた響を足蹴にして、ミズキは千絵を浴室へと逃がして
くれたのだった。
360
籠の中の彼
シャワーを終えて少しの間身体を休め︵その間響はミズキに自宅
内の仕事部屋へ押し込められていらしい︶、ミズキ手製の昼食を終
えた千絵は、リビングに置かれた姿見の前に立っていた。
そばには移動式の簡易ラックが置かれ、ミズキが昨晩アトリエか
ら持ってきたという数着の服がかけられている。それらは全て、響
が千絵をイメージして作った物なのだそうだ。
ミズキのチョイスの中から響が選んだのは、深いブルーグリーン
のドレープカシュクールワンピースだった。胸元からの大きなドレ
ープは左の腰元にベルトで引き絞られ、長めのレングスは合わせに
ラッフルがあしらわれている。ボディラインに沿ったデザインだが
素材がやわらかく、過度な締め付け感はなかった。
黒いタイツは響達にもらった物だが、下着はクリーニングを終え
た私物、ハンドバッグはアトリエからの借り物だ。他クリーニング
を終えた千絵の服や私物は、紙袋に入れられ、車に積んで一緒に持
って行くことになっている。
コンサート後はアパートに戻る流れで準備する千絵に、響はかな
り残念がっていたが、仕方がない。こちらは明日大学があるし、響
やミズキはアトリエに泊まり込みの仕事があるのだ。
姿見の前でワンピースに身を包む千絵を背後から満足そうに眺め、
響が千絵の後ろ髪をすくってその髪に口付けてくる。
﹁チエ、すごく綺麗だよ﹂
﹁そ、そうかな。響のデザインがいいんじゃないかな﹂
﹁それはもう、チエのことを考えながら作ったからね。似合わない
361
はずがないよ。見た目はタイトでも素材的に動きへ余裕ができるよ
うに作ったつもりだけど、胸元はどう? きつくない?﹂
﹁え? ちょ、ちょっと響⋮⋮っ﹂
肩や腰元あたりの状態を確かめていた響の手が、胸元の合わせ目
に潜り込もうとしてきたので、慌てて服の上から押さえて止める。
肩越しに後ろをにらむと、ニッコリと笑みを向けられた。
﹁少し開けば俺の痕が残ってる身体で行くの?﹂
﹁あ⋮⋮っ﹂
胸のふくらみを指先でかすめるように撫でられ、耳朶に唇を押し
当てながら甘い声で囁かれると、くたくたと足から力が抜けていく。
腰に手を回されていたのでへたり込むことはなかったが、響の腕
で押し上げられた大きめの胸が、クロスネック部分からあふれそう
になっている。赤い痕の浮かぶ肌が胸元からはみ出し、目の前の鏡
に映る自分の姿を見ていられなかった。
逆に食い入るように見入っていたのは響で、鏡越しに向けられる
熱を孕んだ視線に、千絵の肌がちりちりと焼かれるようだった。
﹁ひ、響⋮⋮っ﹂
﹁ねぇ、行くの?﹂
完全に後ろから抱き締められる形になり、ちゅっちゅっと小さな
リップ音が耳の後ろからうなじへと下りていく。胸の谷間をくすぐ
っていた指は下着の中へと侵入し、ゆっくりと頂に向かっていた。
﹁あ、ダメ、ダメ⋮⋮!﹂
そのまま敏感な場所をつままれる︱︱前に、ズバンッ! と背後
362
ぶ
で盛大な音がして、身体がガクリと前のめりに揺れた。鏡越しに見
ると、響の下半身を背後からハリセンで打ち叩いたミズキが、呆れ
顔で嘆息している。
﹁﹃行くの?﹄じゃないわよ。そーよ行くのよ離しなさいよ。いい
加減覚えたてのサルみたいに発情しまくってんじゃないわよ、この
チエ限定十八禁男が﹂
瞬間的に千絵へ被害がいかないよう、響が身を固くしたんだろう。
おかげで千絵は身体が揺れただけだったが、響はハリセンの衝撃を
全て尻と太ももで受け止めたらしい。
千絵に縋りつく形で身をかがめ、無言で悶絶する響に、千絵は﹁
大丈夫?﹂と鏡越しに問いかけた。そうしてふと、似たような状況
が過去にあったなと思う。まだ千絵が中学生で、服飾学校の学生だ
った響の自宅兼アトリエに出入りしていた頃のことだ。あの頃も響
はよくこうして千絵に過度なスキンシップをはかっては、ミズキに
ハリセンで叩かれていた。
﹁⋮⋮フフっ、アハハ!﹂
﹁チエ?﹂
昔を思い出すと無性に可笑しくて、こらえきれずに笑いだした千
絵を、響とミズキがどうしたんだと首を傾げて見つめてくる。
﹁チエ、何か面白いことがあった?﹂
よろこ
﹁アレじゃないの。アンタの馬鹿さ加減に、笑わずにはいられない
心境だったんじゃないの?﹂
﹁ええ? まぁチエのためなら道化だろうが犬だろうが悦んでなる
けど﹂
﹁アンタってほんと、チエが絡むと残念度がハネ上がるわねェ⋮⋮﹂
363
うれ
チエは響にとって諸刃の剣なのかしら。と頬に手をあてて憂うミ
ズキに、千絵はそうじゃないんだと首を振った。
﹁アハハッ、ごめん、フフッ⋮⋮、昔もこうやって、響がミズキに
叩かれてたなって思って。なんだか昔に戻ったみたいで、懐かしく
なっちゃったんだよ﹂
全てが楽しかったあの頃。その時の気持ちを思い出して、どうし
ようもなく胸がくすぐったいのだと笑う千絵に、そうだねと響が目
を細めて笑い、そうねとミズキが苦笑した。
﹁あの頃と変わらず、チエの笑顔は可愛いよね﹂
﹁あの頃と変わらず、アンタはチエバカよね﹂
﹁あの頃と変わらず、響とミズキは仲がいいよね﹂
軽口をたたき合う二人にクスクスと笑みを零しながら千絵が言う
と、その時だけほんのわずかに、会話が止まった気がした。
目を細めたまま言葉を発しない響と、こちらへ背を向けて自身の
身支度を整えに向かうミズキ。千絵が流れる違和感で戸惑う前に、
響が千絵の後頭部に額を押しあてて言った。
﹁昔と変わらないのは、俺のチエへの気持ちだよ。チエの気持ちも、
俺達の関係も変わっただろ?﹂
﹁う、うん﹂
﹁他はみんな変わってる。あたり前に、変わったことばかりだよ﹂
ああでも。と、背後から伸びた響の両手が、千絵の頬を両側から
ぷにっと押した。
364
﹁チエの可愛いさは変わらないけど。ああ、いや、やっぱり変わっ
たかな。何倍増しにも可愛くなって、綺麗だよ﹂
﹁⋮⋮響はちょっと、浮ついたことを言いすぎるようになったと思
う﹂
いい加減鏡越しに注がれる甘すぎる視線に耐えられなくて、目を
そらしながら羞恥に耐えていると、支度を終えたミズキに呼ばれた。
スーツとコート。完全に男性として支度を終えたミズキの隣に、
コートを羽織った千絵が並んで玄関に立つ。
見送りに来た響に、千絵はまた週末に会いに来る旨を伝えた。
﹁響、また週末に来るね﹂
﹁平日でも構わないのに﹂
﹁⋮⋮夕飯食べたら帰してくれる?﹂
﹁いや帰すわけないけど﹂
﹁それじゃムリなんだけど﹂
ミズキがいても真顔でぶっちゃけてくる響に、千絵は真っ赤にな
りながらムリだと首を振った。平日は大学があるのだ。万が一ここ
に泊まって昨夜のようなことがあっては、一限に間に合わない。
﹁平日でもメールとか電話するし。あ、お昼は? 響のアトリエっ
てどこなの? 仕事の合間に出られるなら、一緒にどこかでお昼で
も食べる?﹂
﹁チエ⋮⋮﹂
響が苦笑する。何か困るようなことを言っただろうかと千絵が首
を傾げると、響が﹁誘ってくれてありがとう﹂と頭を撫でてきた。
﹁チエとならどこでも喜んで⋮⋮って、言いたいところだけど。今
365
は状況が状況だから、俺は﹃谷部響﹄としては外を歩けないんだ﹂
﹁え? でも、昨日は車で大学まで来てくれたよね?﹂
﹁アレは、その、切羽詰まっていたというか、やむなくというか⋮
⋮。ホラ、マスクとサングラスで、チエも最初は俺が誰だか分らな
かっただろ?﹂
﹁そうだけど⋮⋮﹂
﹁アレは荒技。一回きり。行方不明の﹃谷部響﹄はこの部屋にしか
いないんだ。だから、待ってるよ。この部屋でチエが来るのを、﹃
響﹄として待ってる﹂
行ってらっしゃいのキスを額に落とし、響が笑顔で手を振った。
後ろ髪を引かれながら、千絵は週末に必ず来ると言う約束をもう一
度口にして、マンションを出た。
地下駐車場でミズキの車の助手席に乗り込み、コンサート会場へ
向かう車の中で、千絵はポツリと呟いた。
﹁昨日の夜、ミズキとコンサートに行くって知った響から、﹃俺も
デートがしたいのに﹄って言われたの﹂
﹁そう﹂
﹁だから私、響に﹃今度は二人で出掛けよう﹄って言ったんだ﹂
﹁ええ﹂
﹁響、﹃ありがとう﹄って言ってくれた。けど、﹃うん﹄って頷き
はしなかったんだ﹂
﹁⋮⋮そう﹂
コンサート会場へ向かう車は、なめらかに車道を走る。
途中マリアンヌへ送る花束を買うために停まるまで、車内に会話
らしい会話が交わされることはなかった。
366
367
言葉の裏の真実
マリアンヌへ送る花束を見繕う辺りで、千絵はミズキと少し明る
く話せるようになった。コンサート会場へ着く頃には、気持ちを切
り替えるよう努めた。
マリアンヌが善意で招待してくれたコンサートだ。奏も出演する
というのであれば、沈んだ気持ちで聴くのは申し訳ない。
会場に持ち込んでは邪魔になるので、花束は一度受付で預かって
もらった。スタッフに名前を告げると、席に案内された。
間もなくして開演となり、照明が落とされる。
暗闇の中、舞台の一点に淡いライトがあてられ、ヴァイオリンを
携えたマリアンヌが登場した。
スポットライトの中、マリアンヌの白い肌が綺麗に浮かび上がっ
ている。黒いドレスの衣装は一見すると、周囲の闇と同化している
ように映った。
静寂で包まれた舞台の上で、マリアンヌは独奏を開始した。
短調から始まる音色は薄暗い雰囲気に合っているが、感情が込め
られているとは言い難く、旋律も抑圧されたような運びが続く。こ
れがコンサートのプロローグ曲として合っているのか千絵には分か
らなかったが、素人の千絵にも、心に訴えてくる何かを感じ取るこ
とはできなかった。
先日谷部邸で、奏へ向けてヴァイオリンを奏でていたマリアンヌ
の音は、もっと﹃生きて﹄いた。
ハラハラと千絵が見守る中、ヴァイオリンの旋律に溶け込むよう
に、不意に耳に心地良い音色が重なって響く。
368
その音色がマリアンヌの旋律と重なり続けると、次第に演奏して
いたマリアンヌの表情が変わっていく。
瞳に光が宿り、弦の運びがなめらかになる。舞台全体に若草色の
照明が差し、背景のスクリーン一杯に空が映し出され、アッと思う
間もなく、マリアンヌの衣装が一瞬で淡いピンク色のドレスへと変
わった。
まるで狭い世界から大空へ飛び立ち、草原を初めて感じる蝶の喜
びを表現したような、軽やかで愛らしい音が奏でられていく。
その頃になってようやく千絵は、マリアンヌはクラシックの演奏
者ではなく、ヴァイオリンアーティストなのだと理解した。
抑圧されていたマリアンヌの音色は、零れ聴いた美しい音色との
出逢いで美しく変化していく。
いつの間にか消えていた、あの音色を探す旅を始めたマリアンヌ。
様々な楽器の音色と出会い、その奏者と共に演奏をするが、どれも
素晴らしいとは思うものの、マリアンヌが求めていたあの音色では
なかった。
しかしヴァイオリン奏者マリアンヌの旅は人々を魅了し、いつの
間にか沢山の楽器がマリアンヌのヴァイオリンとの演奏を求めるよ
うになった。様々な楽器の音に飲み込まれそうになったマリアンヌ
を救ったのは、美しい音色だった。それはマリアンヌが求めていた
音色だった。
全ての楽器が暗転で消え、マリアンヌのヴァイオリンと、あの音
色だけが残る。音色を求めてマリアンヌがヴァイオリンを奏でると、
その音色は応えるように旋律を奏でてくれた。
そうして奏で合い、舞台に光が差すと、そこにはマリアンヌと一
人のピアノ奏者がいた。
︵⋮⋮谷部君だ︶
369
奏とマリアンヌ。二人の演奏は、聴いているこちらの気持ちを巻
き込むほどの情熱に溢れていた。自分に音楽の才があれば、あの場
に加わりたいと思う何かがある。千絵の気持ちを代弁するように、
様々な楽器がライトに照らされ、演奏に加わっていく。
最後はオーケストラとなった舞台を、見事マリアンヌと奏は歌い
きった。声の無いミュージカルを見たような大きな感動が押し寄せ
て、会場の客達と共に千絵は立ち上がり、沢山の拍手を送った。
公演が終わり、興奮が冷めやらないまま、千絵はミズキと共に受
付で預けていた花束を取りに行った。
花束を届けに来たスタッフにそのまま楽屋へ案内され、マリアン
ヌのいるという部屋へ通された。確かに響のことを伝えなければい
けないが、こんなに素敵な演奏を終えた後のヴァイオリニストに自
分が会っていいのかとためらっていると、笑顔のマリアンヌが入口
まで出迎えてくれた。その後ろには、奏の姿もあった。
﹃チエ、いらっしゃい!﹄
﹃マリー、招待してくれてどうもありがとう。とても素敵な演奏ば
かりで、私、未だに感激している!﹄
もっと語彙力があれば心の中の感動を伝えられたのに、もどかし
い。めいっぱいの気持ちを込めて花束を贈ると、ありがとうと掛け
値なしの笑顔で受け取ってもらえた。
﹁谷部君も素敵だったよ、お疲れ様!﹂
﹁おー﹂
簡素で気のない返事だったが、奏の表情は晴れやかだ。演奏後の
興奮が冷めないのか、いくらか頬も紅潮しているようだった。
そんな奏の視線が、チエの後ろに立つミズキに向けられる。怪訝
370
そうな視線が、一体誰だと如実に語っている。奏でも、ミズキの男
装︵と言うべきか判断が難しいが︶は見抜けないらしい。
七年も会っていない上にミズキが正体を隠そうとしているのだか
ら、当然と言えば当然なのだろうが。千絵は小さく苦笑した。
警備のSPは楽屋の扉外に立っているため、室内は千絵とミズキ、
マリアンヌと奏の四人だけになる。マリアンヌにテーブルを挟んだ
ソファを勧められ、それぞれ腰掛ける。
﹃チエ、そちらは一緒にいらしたお友達?﹄
﹃うん。友達、というか、ええと⋮⋮﹄
﹃初めまして、マダム。チエの恋人のユズと言います。貴女の演奏
は、私の胸にこの上ない幸福を与えてくれました。生涯、この素晴
らしい公演を忘れることなどできないでしょう﹄
ミズキの口から滑り出した流暢なフランス語は、普段の彼よりも
もっと低く落ち着いた声をしていた。ミズキはマリアンヌや奏と面
識があるため、別人になりすます必要があるのだろうが、一緒にい
た千絵でさえ、まるで初めて出会う人のように感じた。
ミズキから贈られた言葉に、マリアンヌは良家の子女然とした表
情で礼を述べた。そうしてきょとりと目を瞬かせ、歳よりもやや幼
いしぐさで小首を傾げると、千絵に尋ねてくる。
﹃チエ、彼はチエの恋人なの?﹄
﹃⋮⋮﹄
そうだ。と、頷かなければいけない。響のことを聞かずにいても
らうためにも。
しかしつい先日自分の気持ちを吐露したマリアンヌ相手に、まし
てそばに奏がいるところで平然と肯定できるほど、千絵は無神経で
はいられなかった。どうしても、真っ直ぐに奏へと向けていた、マ
371
リアンヌの想いを思い出してしまう。そして自分の心が向かう、響
の姿を思い出してしまう。
心の中でアニエスとミズキに盛大に謝罪しながら、千絵は﹃あの
⋮⋮﹄と口を開いた。
﹃彼は恋人では⋮⋮ない、です﹄
ミズキの視線を視界の端で感じたが、ごめんと表情で謝罪し、千
絵は続けた。
﹃⋮⋮今は、まだ﹄
﹃今は、まだ?﹄
同じ言葉を、マリアンヌが不思議そうに繰り返す。千絵は頷いた。
﹃未来は誰にも確定はできないから、﹃今はまだ﹄。あの日、マリ
ーと谷部君の家へ行った気持ちは嘘じゃない。でもユズと一緒にい
る今の気持ちも、嘘じゃない﹄
全てが響につながっている。しかしそれは伝えられない。足りな
い言葉に真実を隠し込めながら、千絵はマリアンヌを真っ直ぐに見
つめた。嘘はついていない。だから迷いなく見つめられた。
なけなしの語彙力を総動員して、マリアンヌへ真摯に訴える。片
言となったとしても、間違いのないよう慎重に言葉を紡いだ。
﹃マリーは響について、お兄さんに聞いてくれると言ってくれた。
マリーの気持ち、とても嬉しかった。でも私は、響の気持ちも尊重
したい﹄
﹃ヒビキの気持ち?﹄
﹃響は行方不明です。でもきっと、何の理由もなくそんなことはし
372
ない。私は信じている。響が何かを私に伝えたいと思ったら、私に
直接連絡をくれる。そう信じている。だから、いいの。マリーの気
持ちはとても嬉しい。けれど、私のことを思うのなら、そっとして
おいてほしい。そうすると、私はとても嬉しい﹄
﹃チエ⋮⋮﹄
﹃せっかくお兄さんに聞くと言ってくれたのに、ごめんなさい﹄
﹃いいえ、こちらこそ。なにもできないのが歯がゆいけれど、チエ
の選択であれば見守るわ﹄
ただし。と、マリアンヌはテーブル越しに身を乗り出すと、千絵
の手を両手で包んで言った。
﹃このまま貴女とのつながりを失いたくないの。私もいつか、ヒビ
キがチエの元へ行くと信じているわ。だって彼、ホームステイして
いる時からずっと、チエの話ばかりしていたんだもの﹄
﹃そうだったの?﹄
﹃ええ。だから私は、チエにその頃の彼のことで、伝えたい話はた
くさんあるの。メールでも、手紙でもいい。私とやりとりをしまし
ょう?﹄
﹃じゃあ、手紙を。私はフランス語で手紙を出すから、マリーは日
本語で手紙を書いて。お互い手紙のコピーを添削して、次の手紙と
一緒に送るの﹄
﹃それはいいわ! とてもいいわ! 今度は私、執事も兄も誰の力
も借りずに、一人で手紙を書いてみせるわ。もちろん、日本語は専
門士から学ぶようにするわ﹄
二人で約束を交わしていると、扉が外からノックされた。失礼、
とその場に言い置いて扉へ向かったマリアンヌは、外のSPと会話
をすると、とても驚いた声を上げた。
﹃先生がいらした!﹄﹃招いて。いえ、私が行くわ!﹄そう弾んだ
373
声でSPに伝えると、マリアンヌが慌てて戻り、千絵達に謝罪した。
﹃ごめんなさい。とても大切な方がいらしたの。お帰りになる前に
お会いしたくて、申し訳ないけれど席を外しても?﹄
﹃もちろん。こちらこそ、忙しい時にごめんなさい﹄
千絵がミズキと共に席を立つと、マリアンヌから夜の会食に誘わ
れたが、辞退した。
奏とマリアンヌに別れを告げて会場を出ると、駐車場へ向かいな
がら、千絵はミズキに改めて謝罪した。
﹁ミズキ、せっかく来てもらったのにごめんね。アニーも怒るかな
⋮⋮﹂
﹁チエは真実しか言っていないし、結果的にマリーは納得してくれ
たんだから大丈夫だよ。⋮⋮それに、俺が来た意味はあると思うよ﹂
﹁え?﹂
ミズキが歩く速度を緩めたので千絵も同じように歩幅を縮めると、
突然後ろから誰かに腕をつかまれた。
﹁ひゃ!?﹂
驚いて振り返ると、そこにいた人物にさらに目を見開く。
﹁や、谷部君?﹂
﹁⋮⋮ちょっと来い﹂
﹁ちょっと、谷部君、痛い! 離してっ﹂
千絵とミズキの了承も得ず、千絵の二の腕をつかんだ奏は、その
ままズンズンと会場の裏手へと千絵を引っ張って行った。
374
周囲に人気が無いのを確認すると、奏がようやく千絵の腕を離し
た。その表情は怒っているのか、眉間にしわが寄っている。
﹁谷部君、一体何なの?﹂
﹁何なのはこっちのセリフだ。あの男、何なんだよ﹂
﹁あの男って、ミ⋮⋮ユズのこと?﹂
﹁そう。いきなりお前のこと恋人だとか言いやがって。お前はそう
じゃねーとか言うし﹂
﹁谷部君てフランス語が分からないんじゃなかったっけ?﹂
﹁単語や短文程度はわかる。長文はわからねーだけ。マリアンヌと
お前の話は半分も聞き取れてない﹂
だが今はそんな話をしてるんじゃないと、奏が声を荒らげた。
﹁お前、この前俺の家に来ただろ!? 兄貴のこと探しに来たんじ
ゃなかったのかよ! お前、兄貴のことあきらめてないんじゃなか
ったのかよ!﹂
﹁あ、あきらめてないよっ。今でも響のことが大切だよ!﹂
そしてその響と今は恋人としてお付き合いを始めているよ。と、
伝えられたらどんなにいいか。
千絵がぐっと言葉を呑みこみながら耐えていると、﹁じゃあなん
で﹂と奏が頭を抱えた。
﹁んな、男をとっかえひっかえするような真似してんだよ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮うん?﹂
なんだか不穏な呟きを聞いた気がする。どういうことだと問い質
375
す前に、奏が痛々しいものを見るような目を向けてくる。
﹁兄貴はお前に救われたかもしれない。でも俺だって、お前のおか
つぐな
げでピアノにまた触れられた。んな、恩人みたいな奴を、身内のせ
いでこんな風にさせちまったとか⋮⋮どう償えばいいんだよ⋮⋮﹂
﹁ちょっと待って谷部君。償うって? 身内のせいでこんな風って
?﹂
﹁お前、櫻女大のミツヤチエなんだろ。合コン女王のミツヤチエの
ことは音大の奴ら経由で知ってたけど、まさかお前だとは思ってな
かった。いや、思いたくなかった。まさか⋮⋮兄貴が失踪した自暴
自棄でビッチになるとかイッテェ!﹂
﹁ごめん、思わず手が出た﹂
ガスッとイイ音とともに、自分の拳が奏のこめかみにヒットして
いた。ほぼ無意識だったので素直に謝っておく。
しかし、ビッチ。合コンばかりしていれば頷ける呼称だ。まあ人
の話や印象に尾ヒレ背ビレが付くのは仕方ない。響以外に興味がな
かったので、どんな噂が立とうがお構いなしだったのがあだになっ
たらしい。
しかし。と、千絵は恥をしのんで事実を口にした。
﹁⋮⋮じょでした﹂
﹁あ?﹂
﹁処女でした! ⋮⋮つい最近までは﹂
﹁処⋮⋮ばっ、お前、いきなりなに言!? ⋮⋮え、処女? ビッ
チは?﹂
﹁噂でしょ、そんなの。合コン女王なのは本当だけど﹂
﹁じゃあビッチじゃん、イッテェ!﹂
再び千絵の拳が飛ぶ。音大生の奏は昔よりも敏捷性に欠けるのか、
376
千絵程度の拳を避けるということをしなかった。
﹁谷部君の言うビッチって何さ。異性同性集まってにぎやかワイワ
イ居酒屋で食事したらビッチなわけ? へぇ∼、それじゃ世の中ビ
ッチだらけだね。了見狭っ﹂
﹁三谷、お前性格変わってないか?﹂
﹁五年も経てばそれは変わるよ。最近はちょっと、色々あって、昔
を思い出しすぎてただけ。私は元々可愛くないですし、デメキンで
すし? 男になんて興味なかったんで﹂
﹁お前、この前家に来た時のしおらしさはなんだったんだよ⋮⋮﹂
﹁しおらしさなんてとうの昔に捨てた! ⋮⋮と、思ってた﹂
響の前だと弱くなるなぁと、心の中でのろける。
本当に、この五年間は強くなったつもりだったのだ。一人でも大
丈夫だった。むしろ人の世話ばかり焼いていた。
それが響に再会したたった数日で、グズグズに甘やかされて昔の
感覚に戻ってしまっていた。
いかんいかんと千絵が自分の両頬を叩いて気合を入れ直している
と、奏が眉をひそめて呟いた。
﹁結局俺もお前も、兄貴に振り回されてばかりだ﹂
﹁谷部君?﹂
﹁あいつ、ここにいない兄貴へのあてつけなのか﹂
﹁あいつって?﹂
﹁あの、ユズってやつ﹂
﹁ユズは、だから、ええと⋮⋮﹂
﹁俺のことが知りたい?﹂
突然会話に自分たち以外の声が混ざり、千絵と奏は仲良く肩を跳
ねさせた。
377
﹁うわっ﹂
﹁ミっ⋮⋮ユズ!﹂
思わずミズキと言いそうになってしまう口元を押さえながら、千
絵が驚いていると、ミズキは二人に向かって微笑んだ。
﹁いいよ、知りたいなら教えるよ。こんなところで立ち話もなんだ
し、場所を変えようか。奏、時間は?﹂
﹁え? 夜の会食までは時間あるけど。⋮⋮なんであんたが俺の名
前を知ってるんだ﹂
警戒する奏と困惑する千絵に小さく笑みを零し、ミズキは車のキ
ーを振った。
﹁おいで。二人とも﹂
378
瑞希と柚希
運転席にミズキ。後部座席に千絵と奏が乗り込むと、車はどこへ
向かうとも告げずに発進した。
隣の座席に座る奏が千絵の方へ軽く身を傾け、ひそめた声で尋ね
てくる。
﹁三谷、お前あの男に俺のこと話したのか?﹂
﹁ええと⋮⋮﹂
﹁チエ、あまり奏と近付きすぎると響が妬くんじゃないかな。あの
男、チエが絡むと米粒並みの心の広さになるし﹂
﹁兄貴? なんで兄貴の話になるんだよ。三谷、あの男と言いお前
と言い、何隠してるんだ﹂
﹁ごめん、谷部君。私にもこの状況がよくわからないんだ﹂
ミズキは一体何をどこまで話すつもりなのか。下手なことを千絵
の口からは話せず、曖昧に言葉を濁しながら、早く目的地に着くこ
とを祈った。
千絵と奏を乗せた車は、三十分ほどかけてようやく目的地に到着
ゆかり
した。そこは郊外の丘の中腹に位置する、景色の良い霊園だった。
﹁ここは?﹂
﹁霊園みたいだけど、ユズと縁のある人の場所なのかな﹂
奏の疑問に、千絵も分からないと首を振りながら答える。花束を
持ったミズキが、千絵達を先導する。その花束は、マリアンヌへ贈
379
る花とは別に、ミズキが花屋で購入していたものだった。アトリエ
用か、誰かに贈るものなのか。そう思っていたが、もしかしたらミ
ズキは元々ここへ来るつもりだったのかもしれない。
三人で霊園の階段を上る。
緑に囲まれた丘は、薄ピンク色のフジバカマが道のわきに咲いて
いる。千絵達以外に人の姿はなく、石畳を踏む三人分の足音が木々
の合間に響く。丘の向こうでは、市街の景色が遠く見える。喧騒と
は無縁の霊園で他に聞こえるのは、鳥の羽音や鳴き声くらいのもの
だった。
いくつも建ち並ぶ墓石のひとつにたどり着くと、ミズキがようや
く足を止める。
オルガン型の墓石。その傍らには、腰辺りの高さの、開いた本を
模した霊標板が建てられている。そこへ刻まれた故人の名に、千絵
みずき
瑞希﹄⋮⋮享年十二歳⋮⋮﹂
は驚いた。
ささはら
﹁﹃笹原
﹁瑞希⋮⋮瑞希? まさか、お前ミズキなのか?﹂
千絵が読み上げた名前に、奏も驚いた様子で霊標板の名前を追う
と、墓石の前に立つミズキを見た。ここへきてようやく、奏も一緒
にいる相手が誰なのか理解したらしい。
墓標へ花を添えたミズキは、﹁そう﹂と頷くと、霊標板の名前を
そっと撫でた。瑞希という名前のすぐ隣に、後から人為的に削って
ゆ
付けられたんだろう、拙い文字が刻まれている。何が書かれている
のか、すぐには読み取れなかった。
ずき
﹁奏の言う通り、アタシはミズキ。⋮⋮正確には、ユズキ。笹原柚
希が本当の名前。瑞希はアタシの双子の妹よ﹂
﹁双子の妹⋮⋮?﹂
380
ミズキに兄妹がいただなんて知らなかった。それも、双子の。千
絵が奏を見ると、奏も知らないらしい。千絵に首を振ってくる。
﹁俺も初めて聞いた。ミズキに双子の妹がいたなんて﹂
﹁奏は会ったことがなかったものね。瑞希はずっと、病院にいたか
ら。先天性の疾患でね。身体の機能が弱くて、いろんな管をつけて
いないと生きられない子だった。⋮⋮双子のアタシは、五体満足だ
ったって言うのにね﹂
ミズキは自嘲的な笑みを浮かべると、愛おしそうに瑞希の名前を
指先で撫でる。
﹁瑞希とアタシは二卵性だったけれど、顔はとてもよく似ていたわ。
ああ、瑞希の方が可愛かったかしら。あの子は本当に、天使みたい
な子だったの﹂
産まれた時から病院を出たことのなかった、大切な双子の片割れ
について、ミズキがぽつぽつと語った。
柚希は物心がつくころには、自身を﹃ミズキ﹄と称するようにな
ったのだそうだ。いつ瑞希が退院しても、居場所ができるように。
柚希はミズキとして生きていた。
そうはいっても事務的な手続きは全て柚希で行われているため、
公共の施設などでは﹃女の格好をして偽名を使う不思議な子﹄とし
て始めは見られていたそうだ。しかしそんなミズキと偏見なく接し
てくれたのが響だった。
見目の良い響と、女装とはいえそれが似合うミズキ。そんな二人
に一度関わってしまえば、自然と周囲の奇異の目も消えていったら
しい。むしろ男の娘として、時には本物の女の子と誤解されながら、
ミズキはそれなりに生活を送れたと言う。
そしてそれら全てのことを、毎日片割れの瑞希に話をした。退院
381
できれば、自分が体験している全てが瑞希のものになる。そうミズ
キが語って聞かせるたびに、瑞希はとても愛らしく微笑むのだ。
瑞希は自分が庄上生活を送る分、自分と容姿の似ているミズキが
色々な服を着ることを喜んだ。二人の愛読書はファッション誌だっ
た。中でも海外ブランドの、エディ・アレニウスの服に二人は惹か
れた。
﹁ある日ね、病院で響に会ったの。病院の談話室で響が一人で本を
読んでいたから、声をかけたら、母親がここに入院しているって言
うじゃない﹂
﹁母さんが?﹂
﹁ええ。奏はまだ幼くて、保育園に通っていたのよね。響は学校か
ら帰ると、アタシと同じく病院に通っていたそうよ。同じ幼稚園の
卒園生で、小学校も同じだったこともあって、響を瑞希の病室に呼
んだのよ。その時響が持っていたのが、エディ・アレニウスのデザ
インばかりを集めた、スクラップブックだったの﹂
そうしてミズキと響と瑞希、三人でエディ・アレニウスデザイン
仲間になるのに、そう時間は必要なかった。
﹁響がある日、瑞希に可愛らしいデザインのパジャマをくれたのよ。
エディに瑞希のことを話したら、入院生活を楽しめるように、寝衣
デザインの企画をデザイナー達に呼び掛けてくれたそうなの。海外
でも一時期話題になっていたわ。瑞希がとても喜んでいてね。もっ
と素敵な服をたくさん着たい。自分もエディ・アレニウスのような
デザイナーになって、素敵な服を作って、誰かを幸せにしたい。だ
なんて言うの。その頃、三人で約束したのよ。いつか三人でデザイ
ナーになって、みんなでブランドを立ち上げようって﹂
しかし響は母親の死により、自分の立場に疑問を持ってしまった。
382
服飾に関わることを好きだとは言っても、デザイナーとなる夢にた
めらいを見せるようになっていった。
フランスへ渡ることの多くなった響と連絡が取り辛くなり、同時
に瑞希の症状も重たくなっていった。結局瑞希は、ミズキ達が小学
校を卒業する前に亡くなったのだそうだ。
﹁響は私立の中学へ行ったから、会うこともなくなって、あの約束
も自然消滅なのかと思ったわ。そうしたら服飾学校で響と再会して
⋮⋮本当に驚いたのよ。デザイナーになろうって、響がもう一度思
ってくれた。その切っ掛けになったチエに、とても感謝したわ﹂
ミズキと初めて会った時も、お礼を言われたのを思い出す。ミズ
キにとって響との再会は、とても大きな意味を持っていたのだ。
双子の片割れを想うミズキの気持ちに千絵が心を打たれていると、
それまで儚げに微笑んでいたミズキから笑みが消える。指先を瑞希
の名前からそっと離し、自分の胸に押し当てると、目を細めて千絵
達を見てきた。
﹁瑞希がこの世界からいなくなっても、アタシがいる。アタシの全
てをかけて、あの子の夢を叶えてあげる。それが、あの子から何も
かもを奪って生まれた片割れとして、アタシがしてあげられること
だから。響と一緒にデザイナーになって、ブランドを立ち上げる。
そのためなら、どんな犠牲が出たってかまわないの。響がデザイナ
ーとしての道を進むことで、奏や音彦パパが何を思ったとしても。
渡仏したことで、チエが悲しんだとしても。アタシには瑞希以上に
大切なものなんてないのよ﹂
でも、と眉根を寄せて、ミズキが嘆息した。
﹁当の響が、チエがいなくなってからどんどん壊れていくでしょう
383
? カオスデザインで注目を浴びたとしても、それは一時的なもの
にすぎないわ。せっかく二人でブランドを立ち上げるところまで話
を持って行けたのに、響がデザインを枯らしていちゃ意味ナイもの。
だからチエの代わりになりそうな相手をあてがってあげたの。ホラ、
マリアンヌって芸術肌でしょ? 響と話が合うと思ったのよねぇ。
パパラッチされてた写真、なかなか仲睦まじい雰囲気だったでしょ
?﹂
両手の親指と人差し指でカメラを模した四角を作り、片目にあて
てウィンクをしてくるミズキ。その言葉の内容に、千絵と奏は驚愕
した。
﹁まさか、ミズキ⋮⋮﹂
﹁あの偽の婚約まがいの報道は、お前が仕組んだことだったのかよ
!?﹂
五年前、千絵と奏が衝撃を受けた響とマリアンヌの婚約報道。そ
れがミズキによる故意のものだったのか。
それを肯定する決定的な言葉が、ミズキから飛び出した。
﹁ええ。身分的な意味でも邪魔されないように、ちゃんと響の素性
も流してあったでしょ?﹂
﹁響の素性って、ミズキ、まさか⋮⋮﹂
﹁響がエディ・アレニウスの息子だっていう情報をリークしたのは、
アタシなのよ﹂
とても良い笑顔で、ミズキはそう口にした。
﹁新ブランドへの注目も集まるし、響はチエを忘れられるし、マリ
アンヌだって奏を追わずにいられるでしょう? 全てがイイことづ
384
くめのはずなのに、どうして上手くいかなかったのかしら﹂
頬に片手をあてて小首を傾げたミズキが、フゥとわざとらしい溜
息を吐く。
﹁おかげでダニエルの怒りを買って、アタシはブランドを立ち上げ
る前に切り捨てられるし。響は壊れる一方だし。マリアンヌはダニ
エルの可愛いお人形から脱却して、アーティスト活動なんて始めち
ゃうし。おかげでまたダニエルが怒って⋮⋮の悪循環﹂
だから。ねぇ。と、ミズキがニッコリと微笑んだ。
﹁﹃響に振り回された﹄だなんて、思い違いもいいところなのよ?
奏も、チエも、響も、みんなアタシに振り回されていただけなん
だから﹂
向けられる笑顔を見ていられなくて、千絵が視線をそらした先で、
霊標板の文字が目に入る。
笹原瑞希の名前の横。すぐとなりに、何度も付けられた人為的な
削り痕。
それはハッキリと、﹃柚希﹄と刻まれていた。
385
償いは晴れやかに
会食の時間があるだろうからと、ミズキは再び千絵と奏を車に乗
せ、霊園を後にした。
コンサート会場へ戻るまで、車内は無言だった。会場の駐車場で
奏が降りるが、言葉を交わすことはなかった。千絵も何と声をかけ
ればいいか分からなかったし、自分自身ですら、未だにミズキの言
葉を消化しきれていないからだ。
ミズキは自分こそが、皆を振り回していたと言っていた。しかし
響は、ミズキのことを仕事上のパートナーとして信頼している様子
だった。
それは、響がミズキの本音を知らないからなのか。それとも、知
った上で今の関係が成り立っているのだろうか。それともミズキの
言葉は、本当は︱︱。
﹁︱︱いいかしら?﹂
﹁え?﹂
考え込んでいるところへミズキの声がして、チエは後部座席でハ
ッと顔を上げた。ミズキがバックミラー越しにこちらを見ている。
まだ会場の駐車場から、車は動いていなかった。
﹁あ、えっと、ごめん。聞いてなかった。何?﹂
﹁このままチエの家に送ればいいかしら? って聞いたのよ。それ
とも、他に行く場所があるならそこへ送るけれど﹂
﹁う、ううん。家で、いい⋮⋮です﹂
386
ぎこちなく応えた千絵に、ミズキは﹁そう﹂と頷いただけで、車
を発進させた。
車内の空気が重い。そう感じているのは自分だけなんだろうか。
ミズキは普段と変わらない様子で車を走らせているように見える。
しかし千絵は、無意識のうちに身構えてしまう。
ミズキと出会ったのは小学生の頃だ。それから数年間、ミズキと
は楽しい思い出ばかりだった。ミズキはいつも優しかった。響や奏、
千絵の間に立ち、中立的な立場で的確な助言をしてくれていた。そ
んな今までのミズキが、全部嘘だったとは思えない。
ただ、それらの想い出は、ミズキにとって﹁犠牲にしてもかまわ
ない﹂と思える程度の価値しかなかったのか。そう思うと、悲しい
のだ。今までずっと共にいた響を、ミズキに感謝していると言って
いた響を、身内のために利用したのだと口にしたことに、やるせな
さを感じるのだ。
﹁怒っていいのよ﹂
﹁⋮⋮ミズキ?﹂
赤信号で停車中、ミズキがフロントガラス越しの景色を眺めて言
う。
﹁チエや奏に、アタシの兄妹の話なんて関係ないでしょう? そん
なもの、何の免罪符にもならないんだから。チエが大切なのは響で
しょう? だったら響の立場を想って、アタシを怒ればいいの。二
人を引き離したアタシを責めればいいのよ。奏とマリアンヌだって、
アタシがいなければもっとうまくいっていたかもしれない。チエと
奏には、アタシを責める権利があるわ﹂
﹁⋮⋮私にとってミズキは、そんな簡単に割り切って責められる相
手じゃないよ﹂
387
﹁アタシは許されたくてあんな話をしたわけじゃないわ﹂
お人好し。そう言ったミズキを、千絵はやはり怒る気持ちになれ
なかった。ただ、言いようのない悲しさがつのる。
﹁⋮⋮響に再会した時に、響はミズキに助けられたって言ってたん
だ。塞いでいた時期に、ミズキがネットで私の作品を見つけて、響
に教えてくれたんだって。それで響は、新しく始めようっていう気
持ちになれたんだって﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁響、ミズキが付いてきてくれて嬉しかったって言ってたんだよ。
ミズキはエディ・アレニウスの服に思い入れがあったって、響から
聞いてた。それは、瑞希さんのことがあったからでしょう? でも
そんなミズキが、エディ・アレニウスじゃなくて響を選んでくれた
ことに、一緒に歩んでくれたことに、感謝してるって﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
信号が青になると、ミズキが車を路肩へ寄せていく。そうして停
車した車内で、ミズキはハンドルに額を押し付けるようにうなだれ
た。その肩が震えている。
微かにすすり泣きが聞こえて、千絵の鼻もツンと痛み、涙がにじ
んだ。
﹁⋮⋮ミズキ、昨日の夜、私に謝ってたでしょう? ﹃自分が償わ
なきゃいけないんだ﹄って。あの時は意味が分からなかったけど⋮
⋮そういうことなんでしょう? ミズキは響や谷部君や私達のこと、
何とも思ってないわけじゃないんだよね? 瑞希さんのことは本当
に大切なんだと思う。けど、でも、私達のことも、簡単に犠牲にし
てもいいだなんて思ってなかったんだよね?﹂
﹁アンタ達のことは、好きでも嫌いでもない。︱︱⋮⋮って、ずっ
388
と思えていたらよかった⋮⋮っ﹂
ひっと大きく息を吸ったミズキが、震える声を絞り出す。
﹁アタシにとって大切なのは、本当に瑞希だけだったのよ。瑞希が
死んで、響に再会した時、響のことを利用してやろうと思った。だ
って響は、瑞希やアタシを置いてフランスへ逃げたんだもの。瑞希
は⋮⋮響のことが好きだったのに。アイツは瑞希の気持ちを受け取
らずに、フランスへ逃げたから⋮⋮。響の中の罪悪感に付け込んで、
アイツの家に転がり込んで、絶対に二人でデザイナーになって瑞希
の夢を叶えるんだって⋮⋮そう思ってたのに⋮⋮っ﹂
ハンドルにうなだれた自らの頭を両手で抱え、ガリと音がするほ
ど爪を立ててミズキは唸った。
﹁利用してやろうと思ったのに、チエや、奏や、響と過ごした時間
がやさしくて、たのしくて⋮⋮、どうしてここに瑞希がいないんだ
ろうって⋮⋮、そう思うと、何度も気が触れそうになって⋮⋮っ﹂
あの頃、夜中にミズキがうなされるたび、響がミズキを起こし、
二人で眠気の限界がくるまでデザインに没頭したのだという。響と
ミズキの寝室が一緒だったのは、部屋数だけが理由ではなかったの
だと千絵は思った。
響はきっと、ミズキの苦悩に気付いていたのだ。そしてミズキも、
響の行動の意図に気付いていた。
﹁逆恨みだって分かってる。でも、もう、どうしようもなく膨らみ
すぎた瑞希への気持ちを、どう昇華すればいいか分からなかったの。
アタシには瑞希しかいないんだって、そう言い聞かせて、なりふり
構わず利用できるものは利用して⋮⋮気付けば、アタシの周りには
389
何もなくなってた。マリアンヌを傷付けて、エディの名前を利用し
たアタシは、ダニエルから不要の烙印を押された。十分な力を出せ
ずにエディの名前へ泥を塗る形になった響は、服飾業界から失脚し
た。⋮⋮瑞希のためだなんて言って、あの子が大切にしてた想い出
をみんな壊しちゃった⋮⋮っ。あまつさえ、響に﹃谷部響﹄を捨て
る選択をさせて⋮⋮、アタシ、響を殺しちゃったのよ⋮⋮!﹂
お願い。と、瑞希が嗚咽交じりに懇願する。
ゆる
﹁責めてよ⋮⋮お願いだから、アタシを責めて。受け入れたりしな
いで、赦したりなんてしないで⋮⋮お願いだから、誰かアタシを責
めて⋮⋮!﹂
そう言って、痛みをこらえるように奥歯を噛み鳴らして泣くミズ
キを、やはり千絵は責めることができなかった。
気持ちの吐露と共にしばらく泣き続けたミズキは、涙が落ち着く
と、車に置かれたティッシュで顔を拭った。手持ちのハンカチで口
元を覆い隠しながら、スンと鼻をすする。
﹁ごめんなさい。アタシが泣いていい立場じゃなかったわ。どんな
理由があったとしても、アタシはチエの大切な人を傷付けたんだか
ら﹂
﹁ミズキ⋮⋮﹂
﹁アタシがもしチエの立場で、瑞希が理不尽に傷付けられていたん
だと知ったら、相手が誰だろうと百回殺してるわ﹂
真剣さの中に少しだけ砕けた雰囲気を感じて、千絵が小さく笑う
390
と、ミズキがバックミラー越しに苦笑を返してくる。
﹁チエ、お人好しも度が過ぎると心配になるものよ。歪んでるアタ
シが言うのもなんだけれど、ちゃんと感覚は正常に育っている?﹂
﹁大丈夫だよ。私がミズキを責められないのは、ミズキとの思い出
もあるけど、何より響がミズキを責めてないから。響はミズキの気
持ち、知ってるんだよね?﹂
﹁⋮⋮ええ。でもあの男は、責めないことがアタシにとって、一番
酷な仕返しだって分かってやってるのよ﹂
責め立てて欲しいというミズキの要求を呑まないことが、響なり
の仕返しなのだ。自分の罪悪感を昇華することよりも、状況改善の
ために動けと言われているらしい。
﹁それじゃ、私もミズキを責めないよ﹂
﹁チエ⋮⋮﹂
﹁響に責められないから、私や谷部君に責められたかったの? だ
から瑞希さんの御墓の前で、あんな挑発するようなこと言ったの?﹂
﹁⋮⋮ごめんなさい。アタシは結局、自分のことしか考えられない
ようなヤツなのよ﹂
目を伏せたミズキに、そうじゃないでしょうと千絵は首を振った。
﹁逆じゃないのかな。ミズキはもっと、自分のことを考えた方がい
いんじゃないのかな﹂
﹁自分のこと?﹂
﹁ミズキは今までずっと、瑞希さんのことを背負って生きてきたん
でしょう? これからはもう少し、﹃柚希﹄のことも考えてあげた
らいいんじゃないのかな﹂
﹁⋮⋮柚希はあの子と一緒に死んだもの﹂
391
やはり、あの霊標板に刻まれた名前にはそういう意味が込められ
ていたのか。千絵はそれじゃあと、運転席側に少し身を乗り出して
言った。
﹁じゃあもっと、今ここにいるミズキのことを大事にしてあげて﹂
﹁アタシの存在は、罪悪感の塊でできてるもの。瑞希の叶えたかっ
た夢を追って、瑞希が経験するはずだったことを代わりにするけれ
ど、アタシ自身が幸せになるつもりはないわ﹂
﹁⋮⋮ミズキってめんどうくさい﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ムッとむくれるミズキに、千絵はフフっと笑った。
﹁でも、嫌いじゃないよ﹂
﹁⋮⋮チエ﹂
﹁生き方が後ろ向きでめんどうくさくて、﹃自分を責めて﹄なんて
言う構ってチャンだけど﹂
﹁うぅ⋮⋮﹂
苦虫を噛むミズキに、﹁でも嫌いじゃない﹂ともう一度伝えると、
不思議そうな顔でこちらを振り返られる。
﹁ミズキのこと、嫌いじゃないよ。だって私も、相当ウジウジした
めんどうくさい女だもん。響に再会できてなかったら、一生独身だ
っただろうし﹂
﹁⋮⋮それは、ごめんなさい﹂
響をフランスへ連れて行ったことや、マリアンヌとの婚約報道に
ついて謝罪されているのだろうが、大丈夫だと千絵は笑って首を振
392
った。
﹁確かに今まで色々あったけど、でも今、響は私のそばにいてくれ
てるし。それは、ミズキが響を支えてくれたからでしょう?﹂
ネットで千絵の作品を探しあててくれたことや、エディへの傾倒
を抑えて響と共にいることを指して言うと、ミズキが戸惑ったよう
に瞳を揺らす。
﹁でもそれは、アタシのせいで響が文字通り死にそうだったからで
あって⋮⋮﹂
﹁そんな響を、ミズキは見捨てずにいてくれたんだよね。助けてく
れたんだよね﹂
﹁⋮⋮そこで助けなかったら、人として終わってるじゃない。いえ、
確かにもう人として終わってるような所業は繰り返してるんだけど
も。今さらだって分かってるけども﹂
﹁今でもミズキは、響や私達を利用したいと思ってるの?﹂
﹁今? 今は⋮⋮﹂
一度視線を下げると、ミズキは﹁いいえ﹂と首を振った。
﹁今は、償いたいと思ってるわ。響にも、チエにも、奏やマリアン
ヌや、想い出を壊すような真似をした瑞希にも。そのためなら、何
でもする。響はアタシのそばにいるから、一番の被害者なのよ。チ
エや奏には、⋮⋮響が大切にしている人には、誤解してもらいたく
ないの。﹃響のせいで﹄なんて、言わせたくないわ。全部アタシの
せいだもの﹂
﹁だからって、進んで悪役になることないのに﹂
﹁進んでも何も、アタシが悪事を働いたことに変わりはないんだし、
悪役そのものでしょ﹂
393
﹁償いたくて泣いちゃう悪役なのに?﹂
﹁チエ! ちょっと、イジワルよ!﹂
気持ちが落ち着いた今では、泣いていたことを思い出すのはばつ
が悪いらしい。羞恥に染まった赤い顔で眉を吊り上がらせるミズキ
に、千絵は笑って言った。
﹁ミズキ、﹃前を向いて芯を持って﹄﹂
﹁チエ?﹂
﹁自分の信念に向かって真っすぐ伸びる心は、それがどんなもので
あっても、人を引き付ける魅力につながるんだって。一度だけの自
分の人生なんだから、一番楽しく、気持ちよく生きられる生き方を
してみようよ。それを全部、いつか瑞希さんに、胸を張って伝えら
れるような⋮⋮そんな生き方をする方が、悪役になる人生を語られ
るより、瑞希さんも聞いていて楽しいんじゃないかな﹂
﹁⋮⋮驚いた。それ、響にも言われたわ﹂
唖然と千絵を見つめてぼやくミズキに、千絵は純粋に嬉しくなっ
た。
﹁だって昔、私も響に言われたんだもん﹂
響は忘れていなかったのかと思うと、嬉しかった。ミズキはなる
ほどと納得して頷くも、すぐに呆れた顔で溜息を吐いた。
﹁まぁそう言ってた当人が、何度も死んだ目してたけれどね。チエ
のこと思い出しては気持ち奮い立たせて、自分に言い聞かせるみた
いにそんな言葉吐いてることもあったけど。アレは見ていて痛々し
かったわぁ﹂
﹁⋮⋮まぁ私も、人のこと言えないんだけどね﹂
394
響の言葉を自分に言い聞かせて、空元気でここまできたのだ。お
かげで初恋をこじらせている。と、千絵が愚痴めいてこぼすと、ミ
ズキが声をあげて笑った。
﹁だァいじょうぶよ。初恋のこじらせ具合なら響の方が上だから、
チエなんて可愛いモノよ。それこそこじらせちゃった原因がアタシ
にあるんだもの。チエが響の勢いに潰されちゃわないように、アタ
シがちゃんと守ってあげるわ﹂
﹁フフッ。ミズキ、なんだか楽しそうだね?﹂
﹁ホント、償わなきゃいけないのに。アンタ達に関わってると楽し
くなっちゃうから、困ったものね﹂
そう言って苦笑するミズキの表情は、随分と晴れやかに見えた。
395
運命の分岐点
再び走り始めた車の中で、後部座席に座っていた千絵の鞄がバイ
ブ音と共に微かに震える。着信がきたらしい。
鞄からスマホを取り出して確認すると、相手は千絵のバイト先の
店長である守山だった。
今日はバイトは休みだ。しかし連絡がくるということは、人手が
足りないんだろうか。
﹁チエ、さっきから携帯鳴ってるみたいだけど? 電話じゃないの
?﹂
途切れない着信にミズキが運転をしながら声をかけてきたので、
うんと頷く。
﹁バイト先からみたい。ちょっと出ていい?﹂
﹁ええ、どうぞ﹂
﹁ありがと。⋮⋮もしもし?﹂
通話ボタンを押して千絵が相手先に呼び掛けると、守山の明るく
も勢いのある声が耳を叩いた。
﹃おチエ、よかったわぁ∼! 繋がらなかったらどうしようかと思
ったの! 今ちょっといいかしら!?﹄
﹁リャマネェさん、電話は大丈夫ですけど。声のボリューム的に、
耳はちょっと大丈夫じゃないかも﹂
396
耳に当てなくても聴こえてくる相手の声に、千絵がスマホを若干
耳から遠ざけながら応じると、﹃アラヤダ、ゴメンなさいね!﹄と
これまた大きな声で謝られる。
スマホから漏れる声が聞こえたのか、運転席のミズキが小さく笑
っていた。千絵も苦笑しながら、そっとスマホの音量を調節した。
﹁それで、どうしたんですリャマネェさん。人手が足りない?﹂
﹃そうじゃないのよ。まぁ裏の仕事はあるから手伝いに来てくれて
もいいんだけどね? でも、そうじゃなくて! ちょっとおチエに
会わせたい人が来てるのよ!﹄
﹁私に? 誰です?﹂
﹃ンフフ、それは来てからのお楽しみよ。スペシャルゲストだって
いうのは間違いないわね。というワケで、今からコッチに来れない
? あ、もしかしてデート中かしら?﹄
﹁出掛けはしてましたけど、そういうのじゃないですから。今から
⋮⋮﹂
車からの景色を見て、今どのあたりか確認していると、ミズキが
どうしたのと小さく訊いてくる。
﹁チエ、どうしたの?﹂
﹁うん、ちょっと、今からバイト先に来れないかって言われて﹂
﹁今から? ここからだとチエのバイト先まで、二十分くらいで着
くと思うけど﹂
﹁行ってくれるの?﹂
﹁もちろん。まさか途中で降ろしたりなんてしないわよ﹂
それじゃあとミズキに行き先を変更してもらって、千絵は通話に
戻った。
397
﹁リャマネェさん、あと二十分くらいでそっちに着きそうです。た
ぶん、十九時くらいに﹂
﹃ありがと、急にごめんなさいねぇ。でもきっとおチエも、来たら
喜ぶわよぉ!﹄
﹁一体誰がそっちにいるんですか?﹂
﹃だァから、ソレは来てからのお楽しみ♪ 待ってるワ!﹄
最後までテンション高く通話を終えた守山に、千絵も﹁はーい﹂
と苦笑しながらスマホを切る。通話が終わると、運転を続けるミズ
キがクスクスと笑っていた。
﹁相手、守山サン?﹂
﹁え? ミズキ、リャマネェさんのこと知ってるの?﹂
﹁ええ。リャマネェがまだヤマネェって呼ばれてた頃から、お世話
になってたわ﹂
﹁ミズキがお世話になってたって、リャマネェさんに? バイトを
してたってこと? そう言えばミズキ、どうして私のバイト先のこ
と知ってたんだろうって不思議だったんだ﹂
守山と知り合いだったからだろうかと首を傾げいていると、そう
そうとミズキが頷く。
﹁ホラ、アタシはこんな感じでしょう? 親とは上手くいってなく
て、瑞希が亡くなってからは、もぅ⋮⋮ねぇ。中学の頃に家を飛び
出して、リャマネェに拾ってもらったのよ。中学もリャマネェの所
から通ったりしてね。響の所へ転がり込む前までは、随分とお世話
になったわぁ﹂
﹁そうだったんだ⋮⋮﹂
﹁あの人、年齢も経歴も不詳でしょう? 驚くような人とも繋がっ
398
てるし。とにかくコネクションが尋常じゃないのよね﹂
﹁私もそれで、合コンの時に色々紹介してもらったりしてたんだ。
軍隊に所属してたって聞いたから、自衛隊経験者なのかと思ってた
けど、ミュージシャンや役者さんとも知り合いだし﹂
﹁アタシは海外で傭兵してたって話を又聞きしたことあるわよ。政
界人とも繋がりがあるみたいだし。当人は気ままなセレクトショッ
プのオーナーだなんて言ってるけど、仕入れと称して海外へ飛ぶこ
とも多いし。とにかく謎な人よね﹂
千絵の頭の中で、筋肉隆々褐色ワイルダーオネェの守山がオホホ
ホホと笑っている。ミズキも若干遠い目をしていたので、おそらく
同じ様子を想像しているんだろう。
﹁まぁ言っても、リャマネェには感謝してるけれどね。昔も今も。
色々コネを借りてるし。ショップにアタシがイチオシしてるデザイ
ナーの服も置かせてもらっているしね﹂
﹁え?﹂
﹁でも、どれかはナイショ﹂
﹁え? え!? もしかして響の服がショップに置いてあるの!?﹂
﹁さぁ、どうでしょう?﹂
悪戯めいた笑み浮かべてハンドルを操作するミズキに、千絵はバ
イト先へ着くまで食い下がったが、聞き出すことはできなかった。
千絵をショップの前で降ろすと、﹁リャマネェによろしく﹂と伝
言を残して、ミズキは仕事に向かって行った。今夜は響と徹夜の作
業になるらしい。
ミズキの車を見送り、ショップの扉を押して入ると、待ってまし
たと言わんばかりに守山の巨体が迫ってくる。
﹁おチエ、よく来てくれたわね! っていうか、イヤァ∼ン、なぁ
399
にその服!? ステキじゃないのちょっとぉー!﹂
きゃぁきゃぁと黄色くなりきれない黄土色の声ではしゃぐ守山は、
響がデザインしたワンピースに興味深々といった様子だった。守山
のテンションに店員達も集まり、千絵の服をどこで買ったのかと尋
ねてくる。作ってもらったのだと言うと、守山の瞳がギラリと輝い
た。
﹁ちょっとおチエ、その服のこと詳しく聞きたいわ。おチエに会わ
せたい人も、お店で待ってるから。それじゃアナタ達、あとヨロシ
ク頼んだわよ﹂
﹁はーいリャマ店長。行ってらっしゃーい﹂
店員達に見送られ、守山に引きずられるように腕を引かれながら、
千絵は来て早々ショップを後にした。
守山につれて来られたのは、店から徒歩十分ほどの通りにあるフ
レンチバルだった。オープンキッチンのカウンターが六席、テーブ
ルが十六席ほど。木目調で整えられたシックな雰囲気の店だ。やや
照明が落とされた店内のテーブル席には、透明なグラスに入ったキ
ャンドルが灯されている。
数名先客がいるうちの、テーブル席に座る二人の年輩の女性を見
て、千絵はまさかと驚いた。
﹁⋮⋮望月先生!?﹂
﹁千絵ちゃん、お久しぶり﹂
ひらひらと手を振るのは、千絵が高校に入学する前までお世話に
なっていた刺繍の女性講師だった。そして望月先生の向かいには、
柔和な微笑を浮かべる七十歳代ほどの高齢の外人女性が座っている。
驚いて入口に立ったままの千絵の背を守山が押し、望月先生の隣
400
の席へ座らせた。守山は外人女性の隣へ機嫌良く腰掛ける。
﹁遅くなってごめんなさいね、センセ。おチエ、何飲む? アタシ
が適当に頼んじゃっていいかしら?﹂
﹁えっと⋮⋮﹂
まだ状況が飲み込めずに驚くばかりの千絵に、守山は笑いながら
店員を呼ぶと注文をした。望月先生と外人女性はニコニコと千絵を
笑顔で見つめてくる。
﹁あの、望月先生? どうして日本に。だって先生、フランスに行
かれていたんじゃ?﹂
﹁ええ、用事があって日本へ昨日来たの。マダムと一緒に﹂
﹁マダムって、こちらの?﹂
﹁ええ。こちら、マダム・クロディーヌ・ルサージュ。私の恩師よ﹂
﹁マダム・クロディーヌ・ルサージュ!?﹂
と言えば、フランスでも有名な刺繍界の巨匠だ。望月先生も手紙
で千絵に、マダムの元へ来ないかと誘ってくれていた。しかしまさ
ラヴィ
ravie
アンシャンテ
ドゥ
de
ヴ
vous
ス
sui
renco
ランコ
ジュ
か、今ここでマダム本人に会えるとは思わず、千絵は椅子から立ち
上がった。
ヴレマン
vraiment
﹁あ、あの、初めまして⋮⋮Enchantee! Je
ィ
ントレ
s
ntrer⋮⋮﹂
お会いできて嬉しいです。と千絵が伝えると、マダムはやわらか
く微笑み、握手を求めてくれた。
望月先生がマダム・クロディーヌと千絵にそれぞれを紹介すると、
ちょうど料理とワインが運ばれてきた。四人で乾杯をして、ようや
401
く守山がこの引き合わせの種明かしをしてくる。
﹁望月チャンとマダム・クロディーヌとは、アタシも古いオトモダ
チでね? 日本へ来る用事があるって言うから、お夕飯でもどうか
しらっていう話しになったのよ。そうしたら望月チャンからおチエ
をフランス留学に誘っているっていう話を聞いて、まだ返事をもら
ってないって言うじゃない? ならここでお話聞いちゃいましょう
よっていうことになったのよぉ﹂
おフランス留学なんてステキじゃなーい。とグラスを掲げ、守山
がワインを干していく。そうしてフランス語で、マダム・クロディ
ーヌと楽しそうに話しを始めた。相変わらず謎の人脈の広さだと内
心で驚きながら、千絵は隣の望月先生へ頭を下げた。
﹁先生、すみません。実家で手紙を受け取ったのが一昨日だったも
ので、色々と考えていて⋮⋮返事が遅くなってしまいました﹂
﹁いいえ、悩むのも無理ないわ。こちらこそ突然押しかけてしまっ
てごめんなさいね? 今日は留学のことは口実で、千絵ちゃんに久
しぶりに会いたかったのが本音かしら。マダムにも千絵ちゃんを紹
介したかったし﹂
ぺろりと小さく舌を出す望月先生は、壮年になってもほんわかと
した雰囲気の、清楚で可愛いらしい女性だった。
﹁それで、どうかしら。卒業後の進路の視野に入れてもらえそうか
しら? 千絵ちゃんは勉強も優秀だったから、刺繍の世界よりやり
たいことが見つかっているかもしれないけれど﹂
﹁いえ、今でも刺繍は一番好きなことです。両親にも望月先生から
の手紙を伝えたら、卒業後の進路は自由にしていいと言われました﹂
﹁あら、じゃあ、卒業後はフランスに来られそうかしら?﹂
402
﹁それは、その⋮⋮今はまだ、日本でやりたいことがあって⋮⋮﹂
今は響のそばにいたい。しかし留学の誘いは嬉しかった。刺繍を
一生の職業にというのは、千絵にとっては夢のような選択なのだ。
それも、有名なクロディーヌ・ルサージュ工房からの誘いだ。
それでも今の響から離れる気持ちにはなれないため、千絵が断り
を入れようとすると、望月先生が笑って頷いた。
﹁そう。やりたいことができたのなら続けるべきだわ。千絵ちゃん
はどこか、﹃自分には刺繍以外には無い﹄っていうくらい、刺繍に
没頭していたところがあったから。⋮⋮響君のことがあってからは、
とくに﹂
﹁望月先生⋮⋮﹂
小学生の頃、刺繍にとても興味を持った千絵へ望月先生の教室を
紹介してくれたのは、響だった。二人には共通の知り合いがいるら
しく、それから以降、望月先生は千絵の刺繍の師になった。そして、
過去の千絵のことを知っている数少ない人でもある。
当然響が渡仏したことも、響がマリアンヌの件で報道されたこと
も知っている。そして千絵が響を想い続けていたことも知っている
のだ。
﹁響君がエディ・アレニウスの息子だったことは驚いたわ。千絵ち
ゃんや谷部さんに響君のことを伝えたくても、彼の情報はどこを探
しても見当たらないのよ。彼のことも心配だけれど、私は千絵ちゃ
んのことが心配だったの。でも、やりたいことが見つかったってい
うことは、前向きになれたということかしら﹂
﹁望月先生、ありがとうございます⋮⋮﹂
気にかけてもらえたことが純粋に嬉しくて、千絵が感謝の涙をに
403
じませていると、守山から声がかかった。
﹁おチエ、ちょっといーい?﹂
﹁リャマネェさん? どうしたんです?﹂
﹁ちょっと後ろ向いて、少し立ってくれる? そう、そんな感じで﹂
スンと鼻をすすって涙をぬぐいながら、千絵は素直に後ろを向い
て席を立つ。千絵の様子を見て守山とマダム・クロディーヌが何事
か会話を交わすと、千絵に座るよう言った。
﹁ありがとね、おチエ。ところでおチエ、ソレを作ってもらったっ
て言っていたわよね。誰に作ってもらったのか教えてもらってもい
いかしら?﹂
﹁え?﹂
誰と言われて響と答えたいが、望月先生の話から察するに、響の
行方は誰も知らない様子だ。自分が明かしていいものではないだろ
う。千絵は無難に﹁昔馴染みの人が﹂と答えた。
﹁そう、昔馴染み。ねぇおチエ、その人は本職のデザイナー?﹂
﹁ええと、そうですね﹂
﹁ふぅん。そのおチエの昔馴染みの人とコンタクトは取れない?﹂
﹁コンタクトですか?﹂
﹁クロディーヌ・ルサージュ工房は今、マリアンヌ・ド・ボードリ
エって言うヴァイオリンアーティストから、舞台の衣装や小物製作
の依頼を持ちかけられているのよ。そこでマダム・クロディーヌ達
は共作できるデザイナーを何人か探していたそうなの。アタシもそ
れなりにデザイナーとはツテがあるし、マダムや望月チャンの相談
に乗れるかと思ったんだけど﹂
404
と、そこまで言って守山は、マダム・クロディーヌと楽しそうに
アイコンタクトをとって、千絵の服を指さしてくる。
﹁マダム・クロディーヌもアタシも、その服が素敵だと思ったのよ
ねぇ﹂
﹁この服が、ですか?﹂
思わず響の作ったワンピースを見下ろしていると、マダム・クロ
ディーヌが笑顔で頷いた。
﹃今日マリアンヌ嬢のコンサートを拝見してきたの。そこでたくさ
んのイメージがわいたわ。マリアンヌ嬢の舞台衣装を作るのに、貴
女の服をデザインしたご友人をぜひ紹介して頂きたいの﹄
﹁え? 今日、観に行かれたんですか!?﹂
そう言えばマリアンヌが楽屋を出るとき、会いたい人がいると言
っていた。﹃先生が﹄どうのと言っていたので、もしかしたらマダ
ム・クロディーヌや望月先生達のことだったのかもしれない。
そのことを千絵が話すと、マダム・クロディーヌや望月先生にも
驚かれた。
﹃まあ、それじゃあマリアンヌ嬢が話していた、楽屋に招いた友人
というのは貴女のことだったのね?﹄
﹁まさか千絵ちゃんがマリアンヌさんとお友達だったなんて知らな
かったわ!﹂
それからまた、ぜひデザイナーとして一緒に仕事ができるように
声をかけて欲しいと、連絡先の記載された名刺を渡されたのだった。
405
その後、フランスの工房の話やマリアンヌのコンサートなどの話
題で盛り上がり、気がつけば時刻は二十二時を過ぎていた。まだ守
山達は積もる話があるので店を変えると言っていたが、千絵は次の
日に大学があるため、店を出て別れた。
駅に向かう通りを歩きながら、千絵はぼんやりと呟いた。
﹁響を紹介してって言われても、どうしたら⋮⋮﹂
望月先生達に響を紹介して欲しいと言われたが、今の響は﹃谷部
響﹄として動くことのできない状況だ。しかし、クロディーヌ・ル
サージュ工房は世界でも名が知られている。共作はとても良い話だ
ろうと思うのだ。
名刺を眺めながら歩いていると、不意に下方から声がかけられた。
えにし
﹁それは貴女の﹃縁﹄。貴女の運命は今、大きな分岐点に差し掛か
っている﹂
﹁え?﹂
突然声を掛けられて振り向くと、閉店した店の軒下に一人の女性
が座っていた。女性の前には布で覆われた小さな台。その上には台
座に乗せられた水晶がひとつ。
女性は小柄だが、赤い紅を塗った口元と、紫色の長い爪を付けた
手先以外は黒い布を被っていて見えず、年齢は分からない。そもそ
も声が女性的だったというだけで、女性なのかすら判断が付かない
が。
絵にかいたような占い師だった。胡散臭い、占い師だ。千絵が占
い師の前を通り過ぎようとすると、向かいの通りを歩いていた若い
女性の二人組が小さく騒ぎ出した。
406
きのみや
﹁アレ、もしかして﹃来宮マリ﹄じゃない!?﹂
﹁来宮マリって、百発百中の占い師の?﹂
﹁そうそう、神出鬼没の占い師。口元以外は姿を覆い隠してて、小
柄で、水晶置いてるのが特徴なんだって。アレ、ゼッタイ来宮マリ
だよ。ラッキー、私占ってもらいたい!﹂
﹁ええ? 本物ぉ? 来宮マリって偽物多いんでしょ? なんか胡
散臭そうだよぉ?﹂
そう言いながらも、二人組は通りを渡ってこちらにやってくる。
積極的な女性が、占い師へ声をかけた。
﹁あの、来宮マリさんですか?﹂
﹁初めまして。貴女は⋮⋮今共に生活をしている相手よりも、深く
想う相手がいるのですね﹂
さらりと口にした占い師の言葉に、女性達が驚いた表情で固まっ
た。そうしてすぐに、声をかけた女性がはしゃぎだす。
﹁ホラ、当たった! この人私の悩みを言い当てた! 来宮マリさ
んだって!﹂
﹁そうかもしれないけどぉ、なんか⋮⋮怖くない? いきなりミヨ
の彼氏のこと言い当てるとかさぁ⋮⋮﹂
﹁ええ? 占いなんてこんなモンでしょ? しかも来宮マリさんな
んて、会いたくてもなかなか会えないんだから。来宮さん、私、占
って欲しいんですけど﹂
﹁ええ。どうぞ、お掛けください﹂
占い師来宮マリは口元に笑みを浮かべると、ミヨと呼ばれた女性
を、向かいの小さな椅子に座らせた。
そうして次々と女性の周囲の人間関係や状況を言い当てると、今
407
後の運命の分岐についてアドバイスを告げる。さらには隣で引き腰
ながらも聞き入っていた友人の女性の運命についても軽く触れ、ア
ドバイスを与えていた。
未来が明るくなるように。そう笑う来宮マリに、女性二人組も笑
顔でお礼を言うと、占い料を置いて去っていく。その様子を千絵は、
結局最後まで傍らで見ていた。
千絵も﹃占い師・来宮マリ﹄については、高校の頃から様々な場
所で噂が立ち、聞き知っている。
年齢不詳、神出鬼没、百発百中の占い師。その話題性から様々な
テレビや雑誌が取り上げている。しかし表に出るのは全て来宮マリ
の模倣者であり、本物の来宮マリが表舞台に取りざたされたことは
ない。来宮マリは、下心のある者が接触を試みようとしても、遭遇
できないのだ。
去った女性達が言っていた通り、本物の来宮マリには会いたくて
も会えるものじゃない。占いというものを本当に信じているわけで
み
はないが、千絵も来宮マリには興味があった。
今の自分の状況を、彼女はどう視るのだろうか。
周囲に人気がなくなると、来宮マリは目元を覆い隠した布越しに
千絵を見つめ、口元を微笑ませた。
﹁どうぞ、お掛けください﹂
向かいの小さな椅子をすすめられ、千絵はそっと腰掛けた。
﹁そちらの水晶に手を置いてください﹂
言われるまま千絵が水晶に手を置くと、その上に来宮マリが手を
置いてくる。やはり女性的な手だった。長い付け爪やアームカバー
でカモフラージュされているが、下手をしたら成人していないので
はと疑いたくなるほど、その手は小柄な印象だ。
408
千絵がそんなことを考えていると、来宮マリがクスリと笑った。
﹁貴女はとても多くのことを考える人ですね。その魅力的な肢体と
明るくサッパリとした人当たりは、多くの輪を広げているのでしょ
う。ですが反面、貴女はとても繊細で、臆病で、自分に自信が持て
ないでいる。﹃彼﹄と再び離れることを恐れて、貴女自身の未来の
選択を狭めている﹂
﹁私自身の、未来の選択⋮⋮?﹂
思い当たるのは、フランス留学だ。しかし響と離れることを考え
たくない。
それは響のそばで彼を支えたいという言葉でごまかしているが、
再び離れることを恐れている千絵の弱さだと指摘されて、ドキリと
する。
﹁私はどうすればいいんですか。響を残して、フランスに留学した
方が二人のためになるんですか⋮⋮?﹂
﹁貴女も﹃彼﹄も、今は小さな箱庭への道をたどっています。今の
ままでは、二人は箱庭に囚われてしまう。貴女が今の状態で﹃彼﹄
に留学のことを伝えても、箱庭がもっと小さくなるだけでしょう。
けれど今は大きな運命の分岐点。選択次第では、貴女だけではなく、
貴女と﹃彼﹄、二人で大きな世界に羽ばたく未来が切り開かれます。
その未来のために、貴女は﹃縁﹄と﹃絆﹄を編み上げていく必要が
あるでしょう﹂
﹁﹃縁﹄と﹃絆﹄⋮⋮?﹂
﹁それは、貴女の縁﹂
そう言って来宮マリは、千絵が持っていたマダム・クロディーヌ
の名刺を指さした。
409
﹁様々な縁が、貴女の周囲に集まっている。絆は貴女が歩んできた
人生の中で、きちんと築き上げられている。縁と絆を編み上げられ
た時、貴女の未来は明るさに満ちていく。けれど貴女の身近に、貴
女の縁と絆を編み上げる妨げとなる存在がいます﹂
﹁私の身近に?﹂
最初に浮かんだのはミズキだった。確かに少し関係を掻き回され
たが、今日和解した旨を来宮マリに告げると、妨げはミズキではな
いと首を振られた。
﹁その人は今日、貴女の縁と絆で編み上げられました﹂
﹁ミズキ以外に、誰かが妨げになるっていうことですか?﹂
誰なのか見当もつかなくて、千絵が眉根を寄せて尋ねると、来宮
マリが神妙に頷く。
﹁その妨げがある限り、貴女と﹃彼﹄は箱庭の運命に引きずられて
しまうでしょう。妨げを取り除くために、貴女がしなければいけな
いことは︱︱﹂
﹁しなければいけないことは⋮⋮?﹂
﹁合コン﹂
﹁⋮⋮合コン?﹂
﹁合コン﹂
﹁⋮⋮合コン⋮⋮﹂
﹁合コン﹂
唖然と二度復唱した千絵に、来宮マリが三度同じ言葉を告げ、頷
いてくる。
冗談を含まない真面目な様子が、逆に冗談に思えてならなかった。
410
411
性的な意味で本気︵ガチ︶でした。
昨日、千絵は伝説のさすらい占い師・来宮マリに偶然遭遇した。
そして﹃合コンせよ﹄とのお告げにより、今日は朝から単位互換
大学で男漁り︱︱をするわけがない。
︵⋮⋮私にはもう響がいるんだっての。恋人がいるのに合コンなん
てするワケないじゃん! あの占い師、ゼッタイ偽物だったんだ︶
内心で昨晩の占い師への悪態を吐きながら、千絵はいつものメン
バーと共に、櫻女大のカフェで昼食を食べていた。
そもそも昨晩の占い師は一度も自身のことを﹃来宮マリ﹄だとは
言っていなかったし、呼ばれても肯定していなかった。つまり偽物
だと詰め寄られても、いくらでも逃げ口上が考えられる。
占いの内容も暗喩だか何だか知らないが、漠然とした言葉を使っ
ふところ
ていた。危うく信じてだまされるところだった。唯一の救いは、千
絵には占い料を要求してこなかったので、懐的な痛さは微塵もない
というところだが。
︵それに、身近な人が縁と絆の妨げになるって⋮⋮つまり身近な人
を疑えってことでしょ︶
それは千絵にとって、とても失礼な話だった。
千絵は学級委員長から飲み会の幹事など、様々な場面で場をまと
めたり人に手を貸したりすることがあるため、知り合いは多い。ス
マホの連絡先も大量の名前が連なっている。
412
しかし反面、深い付き合いをする相手は多くない。それこそプラ
イベートを知るような身近な相手など、男女合わせても両手で事足
りてしまうくらいだ。そんな希少な相手を、何故疑わなければなら
ないのか。
怒り任せに目の前のドリアへスプーンをさしこんだら、隣の席の
花音が心配そうに声をかけてきた。
﹁どうしたの、チエ? 今日はなんだか虫の居所が悪いようだけれ
ど﹂
﹁うん、ちょっと。昨日変な人に会って﹂
﹁え? どんなオジサンに会ったって?﹂
﹁フユちゃん、どうして変な人って言うだけでオジサン限定なっち
ゃうの!﹂
みのりが腹を抱えて笑っているが、千絵には笑いのツボがよく分
からなかった。花音もよく分からないのか若干首を傾げて、楽しそ
うに変なオジサンごっこをしている冬子とみのりを見ている。
変なのはオジサンじゃなくて目の前の女子大生だよ。と一人ごち
ながら、千絵はドリアを頬張った。
﹁そうじゃなくて。昨日の夜に変な占い師に会ったの﹂
﹁占い師? 壺買えとか言われたの?﹂
﹁フユちゃん、占いなら開運のパワーストーンとかじゃないかな?﹂
﹁そういうんじゃないから。なんかフユやみのりと話してると、悩
んでるのがバカらしくなってくるわ﹂
もちろん良い意味でだが、千絵はわざとらしく鼻を鳴らした。千
絵にとって今一番身近な女子は、この机を囲んでいるメンバーだ。
プライベートを多く知っているというわけではなく、自分を飾る必
要も、気負う必要もないところが好きなのだ。
413
こんな裏も表もなく振る舞える相手を疑いたくないし、疑う気に
もならない。
そう苦笑する千絵に、花音だけは心配そうな視線を向けて訊ねて
くる。
﹁チエ、変な占い師ってどういうこと? 何か変なことをされたの
? と言うかそもそもどうして夜に占い師が出没するような場所を
歩いていたの? 一人だったの? 誰かそばにいたの?﹂
﹁ありがと花音、何かされたとかじゃないから大丈夫だよ﹂
﹁いえ、それも心配だけど、夜に誰といたのかも心配で⋮⋮﹂
﹁まともに心配してくれるのは花音だけだよ、ホント。癒される∼﹂
ぐりぐりと花音の腕に頭を擦り付けたら、花音が微かに赤らんだ
顔で﹁ぐぅっ﹂唸り、プルプルと震える左手で同じく震える右手を
押さえていた。
﹁花音、どうしたの?﹂
﹁いえ、ちょっと。私の手が勝手に伸びそうなのを防いでいるとい
うか⋮⋮﹂
﹁え? なに、花音ってゴムの実食べたの? それとも俺の額の第
三の眼が疼く的なアレ?﹂
﹁フユちゃん⋮⋮っ、草不回避だよ⋮⋮!﹂
何故か再び盛り上がり始めた冬子とみのりは捨て置いて、千絵は
花音と昼食を食べ進めていった。
ちなみに占い師のところでは千絵一人だったことを告げると、そ
んな遅くに女の子一人で歩くんじゃありませんと花音に怒られた。
昼食を終えて、それぞれの講義に行った冬子とみのりと別れると、
千絵は花音を櫻女大の中庭の芝生に誘った。
414
﹁花音、時間大丈夫だった?﹂
﹁ええ、少しくらいは。それよりもチエの方が講義は平気?﹂
﹁うん、次の時間は休講だから。ここの中庭日当たりがいいから、
この時間だと外でもあったかいでしょ?﹂
﹁ええそうね。とても気持ちがいいわ﹂
二人で並んで芝生に座る。秋の空は青く澄んでいて、さざ波に似
たやわらかな巻雲が、高い場所で薄く何層も重なっている。
広い芝生には千絵達同様に日向ぼっこを楽しむ学生や、遅い昼食
を取ったり、読書をする学生、外部から散歩に訪れる人の姿もちら
ほらと見られた。
静かで心地良い風をしばらく感じていると、隣で花音が小さく欠
伸をしたのが見えた。
﹁花音、少し寝たら?﹂
﹁え? でも⋮⋮﹂
﹁今日、なんだか疲れてたみたいだから。お昼ご飯の量も、いつも
より少なかったでしょ? 仕事、忙しいの?﹂
﹁⋮⋮困ったわ。チエには何でもお見通しなのかしら﹂
昨日は徹夜で作業があり、今日も通しで今まで仕事をしていたの
だそうだ。やはりと千絵は頷いた。
﹁ねぇ、本当に少しでも横になりなよ。時間になったら私が起こす
し﹂
﹁大丈夫、慣れているから。⋮⋮と言いたいところだけれど、ダメ
ね。チエの隣にいると気が緩むのか、眠くなってきちゃって。少し
横になってもいい?﹂
﹁もちろん。寝な寝な﹂
415
なんなら膝も使って。と冗談交じりに言えば、ありがとうと素直
にお礼を言われて花音の頭がポフリと乗った。
千絵が驚いている間にも、花音は眠たそうな声で﹁一時間くらい
で起こして﹂と呟き、寝入ってしまった。猫型ロボットの家主もビ
ックリの早さだ。
膝の上で穏やかな寝息を立てる花音の姿に、千絵はホッコリと胸
が温かくなった。花音が無防備に眠るほど、千絵のそばを心地良い
と感じてくれているのか。そう思うと、無性に嬉しかった。気付け
ば自分の口元が笑っていて、千絵は小さく咳払いしながら顔を引き
締める。
女友達の寝顔に見入ってニヤニヤしているなんて怪しいところを、
誰かに見られてはいけない。そう思うのに、なかなか頬の筋肉は言
うことを聞いてくれなかった。
そっと花音の頭を一度撫でると、千絵はスマホでアラームをセッ
トし、次の講義で使うフランス語のテキストを見ながら時間をつぶ
したのだった。
小一時間後。スマホが鳴る少し前にアラームを解除すると、千絵
はそっと花音に声をかけた。
﹁花音、そろそろ時間だよ。起きて﹂
気持ちよさそうに眠り続ける花音を起こすのはしのびない。けれ
ど仕事に戻らなければ、花音が困るだろう。可哀想だが、軽く肩を
揺すって起こす。
花音が目を半分開き、膝の上からぼんやりと千絵を見上げてくる。
まだ寝ぼけているその様子に、千絵はクスクスと小さく笑った。
﹁おはよう。よく眠れた?﹂
416
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
未だ寝ぼけ眼のまま、花音が千絵の頬に手を伸ばしてくる。どう
したのと首を傾げて笑っていると、花音がおもむろに頭を上げた。
﹁え? ⋮⋮んっ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
目を見開いた先で、花音の長いまつげが揺れている。しっとりと
重なり合った唇は、触れた瞬間、お互いのリップでひんやりと濡れ
た。
相手の熱が温かいと感じる頃には、花音が千絵の頬から後頭部に
片手を回し、二度、三度と角度を変えて唇を合わせてくる。
﹁か、の⋮⋮んん!?﹂
名前を呼ぼうと開いた隙間から、迷わず舌を差し込まれて、千絵
はビクリと身体を震わせた。
いつの間にか花音のもう一方の手が、千絵の腰に回っている。肩
を押して抵抗してもびくともしない。それどころか抵抗したことを
戒めるように、舌を深く絡められ、じゅぅっと根元から吸い上げら
れる。
﹁⋮⋮んっ、ふっん⋮⋮っ﹂
声を出そうにも唇は隙間なく重ね合わされているし、音を出すた
めの舌は花音に執拗に甘噛されて動かせない。その間もとろりと熱
い液体が喉に降りてきて、千絵がコクリと飲み込むと、その倍のも
のを求めるように陰圧をかけられて、花音が喉を鳴らして飲み下す。
かろうじて鼻に抜ける音で抗議をしようにも、自分の耳にすら甘
417
えているように聞こえてしまう。実際、押し戻そうとした手はすが
は
るように花音の服をつかんでいた。深くなるばかりのキスに、ジン
ジンと頭の芯が熱で侵されていく。舌を食まれるたびに、下腹部の
奥へ重苦しい熱が溜まっていくようだ。
すがっていた手に長い髪が絡まり、千絵はキスの相手が女友達だ
ったこと思い出した。
慌てて強く首を振ると、ちゅぅっと音を立てて、花音の吸い付き
から舌が解放される。それを追うようにまた開いた唇と赤い舌が迫
ってきて、千絵は後ろに倒れながら目の前の肩を今一度押した。
﹁か、花音! まって!﹂
﹁え?﹂
ドサリと芝生に押し倒される形で千絵が声をあげると、花音がパ
チリと目を瞬かせ、ようやく迫る勢いを止めた。
覆い被さる体勢で、呆然とこちらを見下ろしている花音。その下
で千絵は、キスで乱れた呼吸をなんとか落ち着けながら、濡れてい
る口元を手の甲で拭った。ぽろりと目尻からこめかみに流れたのは、
生理的ににじんだ自分の涙だった。
千絵の涙に動揺したのか、花音がバッと身体を起こし、両手を胸
の前で広げる。これ以上手は出さないという意思表示なんだろう。
その顔が白いを通り越して青かった。
﹁あの、チエっ⋮⋮ご、ごめんなさい。私、寝惚けていたみたいで
⋮⋮﹂
﹁う、うん、大丈夫。わかってるから⋮⋮﹂
もちろん、寝惚けていなきゃ友達にこんなキスなんてしないだろ
う。
千絵は力の入らない身体を何とか起こしながら、アハハと笑って
418
みせる。花音もショックを受けているようだし、ここは軽く流した
方が無難だと思うのだ。思うのに。⋮⋮胸の動悸どころか顔の赤み
も引かなくて、千絵は自分の頬に手を当てた。
頬が熱い。唇がまだ疼いている。不思議と嫌悪感はなかった。そ
れが何故なのか分からないまま、千絵は動揺する自分の姿が、花音
の目に変に映っていないか心配になった。疼く唇に指の背を押し当
ててなだめながら、そっと花音の様子をうかがう。
目が合った時、千絵の心臓がドキリと大きく跳ねた。花音が明ら
かに欲のこもった瞳で、千絵を見つめていたからだ。
熱に浮かされた表情で、こちらを見てくる花音。何かを間違えれ
ば、再びこちらに手を伸ばしてきそうな危うさがある。
﹁あ、あの、花音? 仕事、あるんじゃないの?﹂
﹁え? あ、ああ。そう、そうね。仕事、行かなくちゃ﹂
飲み込まれそうな花音の視線を真正面から受け止めきれず、千絵
がやや視線を横にそらして声をかけると、花音はハッとした様子で
頷いた。
そうして服からハンカチを取り出すと、千絵の方へ手を伸ばして
くる。千絵が無意識に身を引くと、花音は傷付いたように目をみは
った。その表情を見ると、千絵の胸が何故か痛んだ。
﹁あの、怖がらせてごめんなさい。チエの唇に私の⋮⋮口紅が付い
ていたから﹂
﹁え? あ、あははっ、大丈夫。こんなの拭けば取れるし!﹂
ごしごしと手の甲で口元を拭うと、花音が目を瞬かせ、ぷっと吹
き出して笑う。
﹁チエ、広がっちゃってるわよ。スゴイ顔﹂
419
﹁え? ウソ!﹂
﹁ホント﹂
そう言って伸びてきた花音の手を、今度は拒まなかった。花音が
千絵の口元を丁寧に拭ってくれる。そんな花音の唇も、口紅が微か
にずれている。
﹁花音も口紅ずれてる﹂
﹁あとで化粧直しするわ﹂
千絵の唇を拭ったハンカチで、恥ずかしそうに口元を隠す花音。
お互い講義と仕事に行かなければと立ち上がる。周囲を見ると、数
人が不自然に顔をそらしたり友人同士で耳打ちしたりしていたので、
おそらく先程までのアレコレを見られていたんだろうと思う。
﹁ごめんなさいね、チエ。変な噂が立ったりしたら、私の責任ね﹂
﹁だーいじょうぶ。女子校でそういうの慣れっこだから﹂
﹁⋮⋮ちょっとチエの女子校時代に興味があるのだけど﹂
不穏な視線を向けてくる花音を、﹁その話はまた今度﹂となだめ
て門まで見送り、千絵は構内へ戻った。
その後、考えるのは花音のことばかりだった。
︱︱まさか。いやしかし。でも。もしかして⋮⋮。
そんな言葉を何度も繰り返しては、顔を赤らめたり頭を抱えたり。
そんな挙動不審な千絵の姿を、同じ講義で一緒になった冬子やみの
りがどうしたんだと首を傾げてきたが、言えるわけがない。
まさか。もしかして。花音は千絵のことを性的な意味で好きなの
では︱︱などと、言えるわけがない。
420
自意識過剰ではないかと何度も思った。
しかし、知っているのだ。中学、高校と女子校であり、さらに高
校では非公認のファンクラブまでできていた千絵は、身を以て知っ
ているのだ。
自分に対する女子からの好意が、憧れなのか性的なのか、遊びな
のか本気なのか、を。
ガチ
おそらくだが、千絵の勘違いでなければ︱︱花音のあの欲に濡れ
た目は、性的な意味で本気だった。
女子校時代、憧れで告白を受けたことも、本気で告白を受けたこ
ともある。中には花音と同じように押し倒してきた女子もいた。唇
くらいは奪われたし、胸タッチもあるどころか、半裸で迫られたこ
ともある。女子校はなかなかに危険がイッパイなのだ。
それでも千絵が無事に卒業を迎えられたのは、それらの女子を皆
﹃合コン﹄という男女混合イベントへ迎え、異性に意識を向けられ
るよう尽力したからであった。
過去を踏まえるならば、千絵が取るべき選択は、花音との合コン
参戦になる。
︵つまり、それってもしかして⋮⋮あの占い師が言ってた﹃身近な
妨げ﹄って、花音っていうこと⋮⋮?︶
信じていないと言いながらも、やはり心のどこかであの占い師の
言葉が引っ掛かっている。
そしてまさか、花音がその対象になるなんて。
千絵は愕然としながら、手に取った売り物の服をたたんでいく。
今は大学が終わり、守山のセレクトショップでバイト中だ。
慣れた手つきで崩れた服をたたみ直し、店の棚に並べつつ、やは
り考えるのは花音のことばかりだ。
男相手は響以外との接触皆無だが、女子校時代は女子とのAは経
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験済みの千絵。しかしそれも全てノーカンだと考えられるのは、ひ
とえに千絵がノーマルだったからである。
しかし今日は違った。何かが違った。
花音は頼れる憧れのお姉さんとして、もちろん好きだ。しかしキ
スをしたいだとか性的に触れたいだとか思ったことはなかった。
だというのに、今日突然キスをされて、千絵は嫌悪感を抱くこと
がなかった。抱かないどころか、思い出すと今でも胸が甘く疼くく
らい気持ちが良かった。
⋮⋮そう。気持ちが良かったのだ。花音とのキスは。
︵私、自分はノーマルだと思ってたのに⋮⋮。それ以前に、響とい
う恋人がいるのに⋮⋮!︶
﹁最低だ⋮⋮アバズレだ、不誠実だ⋮⋮っ﹂
﹁ちょっとおチエ、お客様が逃げちゃいそーな顔して何不穏なこと
ブツブツ言ってるのよォ? ちょっとこっちいらっしゃい﹂
ウンウンと千絵が自責の念に駆られていると、マネキンに新しい
Lienの新作コートよ﹂
リアン
服を着せていた守山が声をかけてくる。
ル
﹁ホラコレ。Le
﹁わぁ!﹂
正面に回って守山と共にマネキンの着たコートを見て、千絵は素
直に歓声を上げた。
黒のロングコートは上下が異素材で作られており、首元のボタン
をひとつ止めるだけで全体的にスッキリと細身に見える。シンプル
でクラシカルな印象だが、異素材の下部分がやわらかく、歩くたび
に緩やかな揺れを楽しめそうだ。内側には機能的な内ポケットの他、
外側のデザインを損なわないよう、タイトに絞れる調節帯が付いて
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いる。コートの切れ目からは赤い裏地が覗き、黒一色にならずほど
よいアクセントになっていた。
ドレスコードのある店にも十分に通用するが、少し着崩して編み
Lienの服って
リアン
上げブーツと細身のパンツにももちろん合うし、フェミニンな服に
もギャップが楽しめるデザインだ。
ル
﹁コレ、すぐ売り切れちゃいそうですね。Le
Lienの服好きだものね。アタシも大好きよォ。
リアン
ユニセックスが基本だから、男性も女性も買って行かれますよ﹂
ル
﹁おチエもLe
なんてったってカノンは期待のイチオシデザイナーだもの。来年の
フランスの春夏コレクションにも推しておいたから、ブランド力が
グッと上がるわよォ。これからもガンガン仕入れちゃうわ!﹂
Lienのデザイナーの名前だが、千絵の頭に浮かぶのは
リアン
﹁カノン⋮⋮﹂
ル
Le
もちろん花音だ。そして昼間のキス。
ボボッと顔に熱がたまる。
違う。この反応は正しくない。女にときめくとか意味が分からな
い。そもそも響以外にときめくとか、自分の恋愛観が理解できない。
こんな運命に引きずられてはいけない。花音も自分も、正しい道
に戻らなければ。縁を絆で編み上げなければ。
そのための妨げになるこの感情を、どうにかするために︱︱。
﹁⋮⋮合コンしよ。﹂
﹁おチエ?﹂
たわごと
新作コートを見つめたまま神妙に戯言を呟いた千絵に、残念な子
を見るような守山の視線が注がれたのだった。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://novel18.syosetu.com/n1133cn/
恋と愛と女装と私と彼とエトセトラ。
2016年7月14日07時58分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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