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帝政ドイツのポーランド人政策と世襲財産

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帝政ドイツのポーランド人政策と世襲財産
- 第一次大戦前ポーゼン州の実態 Bi
藤 房 雄
題﹂に独特の短からぬ影を落とす本質的要因の一つであった。
C"
ランド問の苦難に満ちた複雑な隣国関係(Nachbarschaft) 問
力
帝政ドイツのポーランド大政策と世襲財産
一問 題
近代ポーランド史上のいわゆる大ポーランド (GroBpolen)
本稿は'帝政ドイツにおける﹁ネガティブなポーランド人政
Mm
策﹂の主柱たる土地政策の展開過程を'一九〇八年から一九一
問題にとってもまた、決して例外ではない。その地に存在した
にへわれわれの当面の主題である﹁世襲財産﹂Fideikommifi
第一次世界大戦に至る時期についてはいうまでもな-'同時
資本主義の帝国主義への転化期に概ね相当する一九世紀末から
典的舞台﹂を形成した地帯の一つである。それは'ヨーロッパ
史的状況の意義を問おうとするものである。そのために以下で
﹁ドイツ・ポーランド関係史と樫襲財産問題﹂ともいうべき歴
界大戦期のヨーロッパ土地問題を彩る重要な一契機であった
基礎とした二系列の個別事例分析を果すことによりへ第1次他
の﹃ドイツ中央文書館﹄Deutsches Zentralarchiv所蔵史料を
特に着眼しつつ跡づけ'あわせて、メルゼプルク(Merseburg)
(4)
とその地理的範関をほぼ同じ-するプロイセンのポーゼン州
二年にかけての﹁土地収用政策﹂Enteignungspolitikの強行に
ドイツ人の僅襲財産とポーランド人の債襲財産とでは、それが
は、次の考察の順序で検討を進める。まずはじめに、ボーゼン
(1)
(Provinz Posen)は'歴史的に'﹁ゲルマン対スラブ紛争の古
辿る運命の点で'コン-ラストの際立つ軌跡を描-ものとなら
州における世襲財産問題の社会経済的-政策的背景を明らかに
ヽ">J
ざるをえなかったのである。世襲財産は、﹁プロイセン・ポー
(492) 30
帝政ドイツのポーランド人政策と世襲財産
するための準備作業として、ドイツ-プロイセン政府の反ポー
ランド人的土地政策の体系を、それが遂行されてゆ-過程に即
して概観する(二 第一次大戦前ポーゼン州における﹁土地闘
争﹂と﹁土地収用法﹂)。続いてへドイツ人の世襲財産が第一次
大戦のさなかにプロイセン国王の認可(Genehmigung)を得る
までの経路を描き(三 ドイツ軍人家族の世襲財産)へさらに、
ポーランド人貴族の広大な世襲財産がプロイセン政府により事
実上没収され'国庫(Fiskus)の所有を経て最終的には、ドイ
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Slavo-Germanica,Bd.VI,1977,S.35.
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sicht.Zur Kontinuitdt negativer Wirkungen der
(t*) AndreasLawaty,DasEndePreussensinpolnischer
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4
3
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preuftischen Geschichte auf die deutsch-polnischen
(5) 本稿が依拠した原史料は'使用帽に示す次の四つであ
る Deutsches Zentralarchiv,Dienststelle Merseburg,
Abt.と略記)ll,2.5.1,Nr.6260,Das
Konstantin
von
Historische Abteilung(以下 DZA Merseburg,Hist.
schweinichen'sche FamilienfideikommiB Hilarhof-
Bachorzew(1914-1920);DZAMerseburg,Hist.Abt.II,
ツ﹁植民委員会﹂Ansiedlungskommission に渡されてしまう
悲劇的経緯の分析を前節に継続させた(四 ポーランド人マグ
H i s t . A b t . I I , 2 . 2 . 1 , N r . 3 1 1 6 2 , S u 芹 o w s k i , f i i r s t l i c h e
2.2.1,Nr.31128,Schweinichen(1916);DZAMerseburg,
XX
チ-トの世襲財産)上で'当該の問題全体を概括するための一
Familie(1836-1912);DZA Merseburg,Hist.Abt.II,
2.5.1,Nr.6469,Die Furst Sulkowski'sche Familien-
つの試論を提示して本稿の検討を終える(五 結論)。
fideikommiBsache(1908-1910).これらの文書類の過半は
g
とどめざるをえなかった。
きたい。また'紙数の制約上、以下の注記は必要最小限に
問題の若干の素描にすぎないことを、あらかじめ断ってお
は逆に'ドイツ憧襲財産制史研究の側からするポーランド
く、ポーランド史にかかわる叙述にかんするかぎり'それ
(6) 本稿は'ポーランド史家のドイツ挫襲財産論ではな
手書きのもの(Handschrift)である。
注
Nationalitdtenkampf.Studien zur Wirtschaftsgesin-
(i-0 Rudolf Jaworski,Handel und Gewerbe im
n
h
nungderPolen in der Provinz Posen(1871-19M),
Gottingen1986,S.9.
u
(in) KlausZernack,Preussen-Polen-Russland.Betracht
(Hg.),Preussen unddasAusland,Berlin1982,S.114.
(co) Ebenda,S.107;ders.,Preussen als Problem der
31 (493)
二 第1次大戦前ポーゼン州における﹁土地闘争﹂と
に阻止する有効な防波堤を構築しようとするものであった。ポ
ーゼン州Bromberg県知事ChristophvonTiedemannの現場
セン政府の攻撃の新たな標的は'かれらからその民族的存立の
は'精神的には絶対に根絶されえないことを証明した。プロイ
の﹁文化闘争﹂Kulturkampf の過程において'ポーランド人
ビスマルク(Ottovon Bismarck)が開始した1八七〇年代
1 ﹁土地闘争﹂の展開
スマルクの攻撃の主要な鋒先は'ポーランド社会の﹁兄﹂starsi
のである。このように、﹁土地闘争L Bodeロkampf におけるビ
西プロイセン両州の﹁攻撃的ドイツ化﹂を実現しうると踏んだ
しっつ'成功裡に'﹁プロイセンの最良の腺﹂たるポーゼン・
す﹁コスモポ-タン的ポーランド人貴族﹂の貨幣需要を当てに
クは'パ-旅行やモナコ︰一-スでの社交生活にうつつをぬか
感覚に富む覚え書きを下敷きにしたこの法律により、ビスマル
物的土台を強奪することに定められる。一八八五年三月以降に
braciaである貴族階級 - その頂点的部分に位置する大貴族-
﹁土地収用法﹂
敢行された'ロシア領ポーランド(Russischpolen)とガリチア
マグナ-ト(Magnat)に連なるいわゆるシュラフタ(Schlachta)
(6)
'・>>
(Galizien)出身のポーランド人(ならびにユダヤ人) 労働者
層 - に向けられたのだった。
(2)
re.
われわれは'ここでへ この法律の当初の政策的意図と植民活
,
の﹁国外追放﹂Ausweisungは、そうした方向における第l歩
動の実際との帝離という観点から、以下の三点を指摘しないわ
,
であった。そして、翌一八八六年四月二六日の﹁ポーゼンの植
:
@
:
民法﹂(﹃ポーゼンと西プロイセンにおけるドイツ人植民振興法﹄
けにはいかない。第一に、ドイツの﹁植民委員会﹂は一八八六
-
Gesetzbetreffenddie Beforderung deutscher Ansiedlungen
年にすでに計一二へ〇〇〇ヘクタールのポーランド人地主の所
蝣
in Posen und WestpreuBen)がこれに続く。この法律は'要
領を買い集め、これをドイツ人農民の入植地に転化することが
!
するに、ポーゼンと西プロイセンにおけるポーランド人貴族の
できた。そのかぎりで事は'まさにビスマルクの思わくどおり
(1)
大土地所有を'一億マルクの国庫金を管掌する﹁植民委員会﹂
に進んだと一見思われもしよう。しかし'問題は'この﹁買い
(7)
によって買い占め、それを分割地として'地代農場(Rentengut)
占め政策﹂の対象がポーランド人貴族だったことそれ自体のな
f*,
の形態でドイツ人農民に入植させ、ポーランド化の危険を未然
(494) 32
帝政ドイツのポーランド人政策と世襲財産
シュラフタは'ドイツ﹁植民政策﹂の重圧のもとで、その﹁指
ォ)
導者権能﹂Fiihrungsanspruchを喪失し'こうして'ポーラン
に'﹁中産階級の自助組織﹂が形成されていた。ポーランド・
領ポーランド人社会にあっては'﹁文化闘争﹂の時代からつと
に伴わずにはおかなかった。すなわちこうである。プロイセン
れの想定に基づいていたからである。しかし'シュラフタの弱
ォ)
体化は'ポーランド﹁民族運動における民主化過程﹂を必然的
プロイセンにとってのポーランド問題は解決するという時代遅
者である'したがってへポーランド人貴族を打倒しさえすれば
うな想定へすなわちへ シュラフタこそがポーランド社会の指導
は'1九健紀の末にあってなお誤って思いこまれていた次のよ
(
S
)
かにある。けだしへ ﹁土地のゲルマン化﹂をねらったこの政策
(Parzellierungsgenossenschaften)ならびに、一八七三年にす
組織は'新たに作られた﹁土地分割組合L Spoikiparcelacyjne
族の援助活動に支えられたシュラフタの財政負担により﹁土地
bank)が創立されていたし、また同年二月には'ガ-チア貴
ランド人協同組合の﹁連盟銀行L Bank Zwiazku (Verbands・
する形で'一八八六年二月にはすでに、ポーゼンにおいてポー
諸組織﹂による﹁対抗分地﹂Gegenparzellierung活動がそれで
1onisation事業と互角以上に渡り合った﹁民間のポーランド人
い。ドイツの﹁国家的植民委員会﹂の﹁内地植民L innere Ko-
ポーランド人の自衛組織が形成された事実を看過してはならな
第二に、われわれは、農業政策の分野そのものにおいても'
(8)
3頃E
所有の分割・細分と農民地へのその転化が活発に行なわれた。
(8)
銀行﹂Baロkziemski(Landbaロk) が設立された。この両銀行
(2)
ある。プロイセン政府が拠出した一億マルクの基金の機先を制
(S) (8)
ド人の民族的存続を賭けた闘争の重点は'次第に農村から都
でに大土地所有者Maximilian Jackowskiが各地に設立した
(53) (S3)
市へと移動していったのである.﹁民族闘争﹂Nationalitaten-
﹁農民協会﹂KOtka rolnicze(Bauernzirkelod.Bauernverein)
(
S
)
kampfの中心的担い手は、今やへその数をいや増し自覚を強め
とともにへ ﹁植民委員会﹂にたいする実効ある競争戦を展開し
(
S
)
(3)
た﹁ポーランド中産階級﹂となった。﹁新たにポーランド化し
たのである。こうして、ポーランド人の側にあっても'大土地
(2)
た諸都市は'スラブ人が本当に中産階級へと興隆した唯一の場
(
S
)
このときへ自分の所債を進んで売却ないし縮小しようとしたポ
(﹂)
は'防衛的﹁再ポーランド化﹂の要求と運動を呼び覚ましたの
-ランド人地主たちは'﹁土地銀行﹂の﹁先買権﹂を認めるこ
所﹂だったのである。プロイセンの﹁攻撃的ドイツ化﹂政策
(
S
)
であった。
33 (495)
とさえしたのである。それは、かれらにとっては経済的問題と
fOO^
いうよりもむしろへ ﹁民族の名誉にかかわる問題﹂nationale
(29)
Ehrensache であった。このようにして'ゲルマンとスラブと
(﹂)
の﹁民族的土地闘争﹂は'1八八〇年代の半ば以降三〇年有余
の永きにわたり'﹁土地所有をめぐる経済的遊撃戦﹂として繰
り広げられたのである。この闘いのなかで'﹁対抗分地﹂を推
進する ﹁土地銀行﹂等のいわゆる ﹁ポーランド人の共同組織
(3)
(Gemeiロwesen)﹂たる﹁農業の諸団体(Orgaロisatio蝣nen)﹂は'
(8)
プロイセン﹁植民委員会﹂の鈍重な官僚的活動を脅かして余り
ある'いわば﹁有刺鉄線を張り巡らして守備している諸組織﹂
としての実を示したのであった。
ドイツ﹁植民委員会﹂は、当初より'どちらかといえば'ド
イツ人地主(Landjunkertum)の農場売却を頼りとするはかな
かった。一八八六年から一九〇六年までの二〇年間にこの委員
会がドイツ人の口座に振り込んだ金額は'計二億二千万マルク
3
)
に達したのにたいしてへポーランド人の口座には三千万マルク
ヽ
推進の任を帯びながらも、その実むしろ'ドイツ・ユンカーに
(8) (SO
とっての﹁救済銀行﹂であり、その﹁財政再建用企業LSanie-
rungsunterロehmenにはかならなかった。したがって、事態
の進展はまさに逆説的であった、といってよい。すなわちへプ
ロイセンの土地政策は'いわばポーランド人の(土地の)ドイ
ツ化ではなく'﹁民族闘争﹂と﹁土地闘争﹂が絡み合ったドラ
スティックな進展のなかで'逆に'ドイツ人の(土地の)ドイ
最後に'﹁経済嶺域への民族闘争の拡張﹂という、重要な意
(8)
ツ化に終わるという皮肉な結末となったのであった。
味を持つと思われる問題が指摘されなければならない。この拡
張ないしは浸潤を通じて、ポーランド民族(P。-entum)は'自
然史的過程におけるよりもはるかに急速に、経済的社会的解放
を勝ち取るための好機を得たのである。それはとりわけ、経済
力の点で圧倒的に優勢だったドイツ人およびユダヤ人の商人・
企業家との厳しい競争戦で'後塵を拝することを余儀な-さ
(3) ォ)
れていた﹁ポーランド産業的中産者層(gewerblicher.Mitte1(
s
n
stand)﹂にとって顕著に妥当した。もとよりへプロイセン領内
のポーランド人が'﹁分割三列強﹂のなかで﹁最も近代的な﹂
が送金されただけだった。またへ l九〇〇年から一九一二年の
プロイセンによる﹁巧まざるドイツ化﹂がもたらした物質文明
(8)
ランド人農場の購買はわずか七五にすぎなかった。このかぎり
間に﹁植民委員会﹂は四六二のドイツ人農場を買ったが'ポー
のある種の恩恵を受けたことは事実である。﹁ドイツ市民層の
(8)
において'同委員会は'ポーランド人を根絶する﹁内地植民﹂
(496) 34
帝政ドイツのポーランド人政策と世襲財産
(3)
2 ﹁土地収用法﹂の成立
〇八年) へと連なってゆ-ことになるのである。
から﹁土地闘争﹂ へ至る過程で露見した﹁経済と民族闘争との
ビューロー宰相時代の反ポーランド人的﹁東部国境地帯政策﹂
経済的パイオニアの業績﹂がそれである。しかし'﹁文化闘争﹂
結合﹂は、ドイツ人(とユダヤ人) の商人・手工業者・製造業
もやはり、ビスマルク期同様へ 言語と土地の両契機に即して展
(3)
者からポーランド人の顧客を奪うことによって、ドイツ人らの
開された。その頂点は'二つながらに一九〇八年に訪れる。
健紀転換後に強行されたこうしたドイツ-プロイセン側の新
である。以下では'後者に対象を絞り込んで論述を進める。
﹁帝国結社法L Reichsvereinsgesetzと﹁土地収用法﹂がそれ
(52)
経済的利益を損ないつつへ同時に他方では'ポーランド人にと
っては逆に'強力な敵手との競争を排除してへ その﹁社会経済
(
S
3
この点で'九〇年代のドイツ商品の自発的ポイコッ-が果した
たな対応を跡づけるうえで最初に取り上げられなければならな
的興隆のための効果的な傘﹂となる意義を担ったのであった。
役割は'﹁大ポーランドの都市の再ポーランド化﹂を促進した
い出来事は'おそらく、二つの国粋主義的圧力団体へすなわ
はかなかったのである。これもまたへプロイセンの﹁ドイツ化
の帰結は、﹁ポーランド住民の民族的-社会的革命化﹂となる
inden Ostmarken の設立であろう。前者はl八九l年に創立
のドイツ人振興協会﹂VereinzurForderungdesDeutschturns
ちへ﹁仝ドイツ連盟L AlldeutscherVerbandと﹁東部国境地帯
(46)
という意味において重要だった。経済と民族闘争との結びつき
政策﹂がもたらした予期せざるパラドキシカルな所産の一つで
されたが'一八九四年設立の後者は九九年に﹁ドイツ東部国境
(5)
あった。
﹁東部国境地帯政策﹂ Ostmarkenpolitik を強行したビューロ
の束の間のインテルメッツォを経て'一九〇〇年以降いわゆる
は'宰相カブ-ヴィ (LeoGrafvonCaprivi)期の宥和と協調
こうして'ビスマルクが開始した﹁闘争政策﹂Kampfpolitik
すでにへ ﹁植民活動の範囲内における国の無制限の - それ故
て﹁ハカタL Hakata協会あるいは﹁ハカティステン﹂Hakati(
S
)
stenとも呼び習わされた。両協会はそれぞれに'九〇年代より
Kennemann蝣Heinrich von Tiedemann の姓の頭文字を取っ
会はまたへ その設立者FerdinandvonHansemann・Hermann
地帯協会﹂DeutscherOstmarkenvereinと改称された。この協
(3)
I(Bernhard Fiirst von Billow)政権下での﹁植民立法の極
(S) (3)
オ ス . . l ル ケ ソ ( S )
み﹂としての﹁土地収用法﹂Enteignungsgesetzの成立(一九
35 (497)
(3)
ドイツ人所有地をも含む(筆者) - 収用権限﹂を要求してい
た。﹁ハカティステン﹂の首領Hansemannは、一九〇〇年にt
(
S
)
より具体的に'﹁隣接ドイツ人入植地の伸張を妨害しているポ
-ランド人士地所有の収用﹂を要求した。﹁オストマルケン協
会﹂の影響力は'広範なドイツ一般市民層に行き渡ったばかり
ではなくへ主義主張を心情的に同じ-する仕方で地方行政官僚
層にも探-浸透した。また'ポーゼンと西プロイセンの地方公
務員の少なからぬ者が'当該の協会に実際に入会しさえしたの
(56)
である。こうして'﹁オス-マルケン﹂における地方官僚機構
分野担当官としての資格で、プロイセン諸省の政策決定に深く
参画した。一九〇八年の﹁収用法﹂の成立に醸し'両者は'ほ
とんど決定的ともいえる役割を演じたのである。それは'フ-
ゲンベルクの場合には'プロイセン大蔵省の上申委員としてで
あり,上級参事官たるシュヴェ--ンにあっては'プロイセン
内務省の専門分野担当官の権限においてであった。﹁収用法﹂
成立の前年に、当時の上司である大蔵省局長 Forster に宛て
(
g
)
て'﹁中央政府の指導的官庁はすべて'収用なしには前進なし
というザッハ-ッヒな信念を共有している﹂と自信に満ちて書
でにへ次のように語っていた。すなわち'今にして思えば、ド
き送ったフ-ゲンベルクは'世紀転換直後の一九〇二年にはす
イツ人植民者を中値においてそうであったようにドイツ人自身
と国粋主義的圧力団体との人的融合状態が成立していった。
地方行政官庁の意志が中央政府のポーランド人政策の方向を
のための法のもとに置きへゲルマン化を潔しとしないポーラン
おいても次第に市民権を得た一般常識となっていった。このよ
ンベルクのこうした見解は、﹁オス-マルケン協会﹂の陣営に
と。憲法違反を犯してまでなお収用を断行しようとするフ-ゲ
ランド人には'憲法の同権規定は適用されえないからであるへ
ルケンLには適用されな-てよい。けだし、民族の敵たるポー
であったことか。国民の同権を保証した憲法条項は﹁オストマ
ド人をこのドイツ法のもとから排除しておけば、どんなに得策
決定し始めたのは、このような政治的雰囲気の中においてであ
(﹂)
る。この点できわめて重要な役割を果したのはt Alfred HugenbergとFriedrichvonSchwerinの二人であった。前者は、
﹁植民委員会﹂の協力者であると同時に﹁全ドイツ連盟﹂の創
('C。¥ (8)
立者の一人でもありへ後者は'一八九六∼一九〇三年へ西プロ
イセン州Thorn-Land郡の郡長を務めた﹁フ-ゲンベルク派﹂
の人物で'﹁仝ドイツ連盟﹂の有力メンバーの一人だった。か
れはまた、﹁植民委員会﹂で活動した経歴も持っていた。二人
は'﹁オス-マルケン﹂問題にかんする上申委員ないしは専門
(498) 36
帝政ドイツのポーランド人政策と仕襲財産
第1表 植民活動の実際(1896-1904年)
(出典) M. Broszat, a.a.0., S.166,より作成。
義(Kontinentalimperialismus)
ost-andに向けられた大陸帝国主
の生活圏イデオロギーと﹃東方﹄
Wehlerによれば'それは'﹁後代
く与かってカがあった。H.-U.
﹁闘争政策﹂の成立と展開に大き
前期のショヴィニスティッシュな
うに'当該の協会は、第一次大戦
る。だが'﹁収用法﹂成立のためには保守派(KOnservativen)
ある。ドイツ側の動きは急速に収用へと傾いてゆ-ことにな
ド人の手に移るというドイツにとり由々しい事瀧首なったので
には'l二へ八〇〇ヘクタールの土地がドイツ人からポーラン
な対応とその不屈の活動がしのばれよう。こうして一九〇六年
る。民族的自覚に満ちた﹁ポーランド人共同組織﹂のしなやか
者数においてl万人以上もの大差をつけることができたのであ
地面積の点ではさすがに劣勢を余儀な-されたとはいえへ入植
してへ. %-ランド人はよ-持ちこたえた。ポーランド側は'土
fCO>1
との発展史における重要な位置
の賛成を取り付けることが必要だった。﹁農業家同盟LBund
ンベルクらの急進的要求にたいしてよそよそしい態度をとり続
(
S
)
を'そしてこれとともにへ ナチス
derLandwirteと保守派は'当初へ収用にまで突き進むフーゲ
(
S
)
全体主義の生成史上の確固たる地
位をも﹂併せ持つものだったので
侵性という最も保守的な原則﹂が'ドイツ人をも含む土地所有
(
S
)
けて喜た。それは'自らの社会的存立にかかわる﹁財産の不可
検討の照準はここで、﹁土地収
った。しかし'中央政界に重きをなす保守党議員団の-ーダー
者の土地の収用によって根底から揺らぐことを恐れたからであ
蝣﹂蝣るrJ
用法﹂の成立そのものに定められ
ポーゼン州支部長Endell(Ernst August)らの尽力により'
Heydebrand(und der Lasa,Ernst von)や﹁農業家同盟﹂
なければならない。第一表は'
﹁反スラブ的アクセントを伴った戦闘的ナショナ-ズム﹂は保
﹁土地闘争﹂の結果を表示してい
る。一八九八年から一九〇二年ま
守派内にも徐々に浸透し'収用の対象をポーランド人所有地の
(6)
でに三億五千万マルクもの官金を
¥<a)
つぎ込んだ﹁植民委員会﹂に対抗
37 (499)
とになる。﹁保守派は'財産の不可侵性という最も保守的な原
なぐり捨てて'﹁土地収用法﹂に基本的に賛成する側に回るこ
治国家の上つら﹂だけでも保とうとする旧来の原則的配慮をか
みに厳密に限るべLという条件が容れられるや'同派は'﹁法
策と財政金融政策との関連において'同法第三条の重要性が指
実である。ただわたしは、それとともに同時に他方で'土地政
てきたように思われる。そのような性格が顕著であることは事
ポIランド人的﹁闘争=例外法﹂としての側面のみが強調され
ところで'従来の研究史にあっては一般にへ ﹁収用法﹂の反
(Staatsschuldverschreibung)または大蔵省証券 (Schatzan-
t
c
)
C
g
)
則さえ否定するほどにナツィオナ-スティッシュになった﹂、の
摘されなければならぬと考える。当該の条項は、ドイツ人入植
(﹂)
だった。こうして'1九〇八年三月二〇日'﹁ポーランド問題
地取得の資金を調達するためにへ大蔵大臣の権限で'国債証書
この法律の条文についてはへ以下の諸点のみを指摘するにと
(69)
におけるいわゆる収用法﹂が成立する。
七万ヘクタールを上限として、収用により買い取ってよい権限
と思われる地域においては'このために必要な土地を'総面積
地の強化と整理(Abrundung)とによる以外には不可能である
殆に瀕したドイツ人の保護が'入植を手段とするドイツ人定住
法﹂ への追加条項として作成された。この法律の目的は'﹁危
項から第二二項までに相当し'これはへあの一八八六年﹁植民
undP。senである。収用にかんする条文は'同法算一条第一三
zurStarkungdesDeutschtumsindenProvinzenWestpreuBen
たな公債発行を呼ぶ国家財政上の悪無限とでもいうべきもので
法﹂第三条が想定している事態は、このようにへ公債発行が新
達を目的とする新規公債募集'そしてへ その反復継続。﹁収用
国策推進の資金調達のための公債発行とこの証券償還の資金調
大臣に与えられる。大蔵省証券は何度発行されてもよい﹂'と。
大蔵省証券または国債証書の発行によって調達する権限が大蔵
なわちへ ﹁この大蔵省証券の償還資金を'必要な額面価額の新
はしなかった。いや'そればかりではない。第三条はいう。す
な国民諸階層にたいする金銭上の債務を設定することまで願い
どめたい。同法の正式名称は'﹁西プロイセン州とポーゼン州
weisuロg)の発行が行なわれることを認めたものである。国は'
(
g
)
とにおけるドイツ人強化措置法L Gesetz iiber MaBnahmen 反ポーランド人的﹁ドイツ化政策﹂を継続するにあたりへ広範
(
S
)
が国に与えられる﹂へと第一条第一三項に明確に規定されてい
*c-つた。
(
K
)
る。
(500) 38
帝政ドイツのポーランド人政策と世襲財産
ン欽定憲法によれば'﹁公共の福祉﹂を理由とする収用は'国
前の平等﹂に抵触する。そもそもへ一八五〇年l月のプロイセ
らかに違憲である。それは'﹁私有財産の不可侵性﹂と﹁法の
の二点が確認されなければならない。第一に、﹁収用法﹂は明
最後に'﹁収用法﹂成立の歴史的意義については'なお以下
方政策(Ostlandpolitik)もまた、そこに'理論と実践の両面
の土地収用のなかに見出したとするならば、他方へナチスの東
ならずElsaB-Lothringenにかんしてもへ その先例と原則をこ
ちへ l方において'一九一四年来の戦争目的政策が'東部のみ
ツ史における連続性問題﹂とも密接にかかわっている。すなわ
刻印を残すものであった。それは、二重の意味で、﹁近代ドイ
意識にも照応して'一八七四年に'経済的軍事的プロジェクト
して実際に敢行され、その面積は約一へ七〇〇∼一、九〇〇へ
強制収用は'一九一二年に'四人のポーランド大地主にたい
(
g
)
家高権のやむを得ざる合法的構成要素を成すものとされてはい
にわたる先駆けを求めることができたのである。
(おもに鉄道と練兵場の建設)に厳し-限られるべLと定式化
(
S
)
クタールに達した。とはいうもののへ それは、﹁他界を挙げて
(
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)
(
S
)
た。だが'それも、国による濫用を防ぐためへ時代の法治国家
されたのである。それ故へ ﹁収用法﹂が'国家の強権発動の一
産を'﹁法の保護﹂のもとに置-ことを確約していた。﹁収用
Wilhelm 三位の布告は、プロイセン鏡ポーランド人臣民の財
定すべ-もない。他方'一八一五年三月一五日の Friedrich
部を成す収用権の﹁国家イデオロギー的拡大﹂であることは否
く、現代ドイツ史上に探-刻まれたその歴史的位置と意義だっ
ある。しかし'重要なのは'収用の数量的規模と範囲ではな
任決議に象徴される反対世論が'収用の徹底化を阻止したので
Bethmann-Hollweg)に突きつけられたプロイセン下院の不信
この件で'時の宰相ベ1-マン-ホルヴェ-ク(Theobaldvon
悪評を受け--その成績については見るべきものがなかった﹂。
(﹂)
法﹂は'プロイセン憲法第四条とl八一五年詔勅とによって保
たことが認められなければならない。差別的な﹁社会的オスト
(﹂)
証されたプロイセン国人の同権・平等原則を根本から犯した。
ラキスモス (Ostrazismus)﹂を強行した土地収用政策をl基軸
(8)
それは、﹁未来の国家社会主義的干渉﹂にとっての恰好の﹁モ
とする帝政ドイツのポーランド大政策は'あのナチス﹁絶滅政
(﹂)
デル﹂を与えかねない危険性を色濃-孝ませるものだったので
策LVernichtungspolitik にとっての決して看過しえぬ﹁歴史
(
R
)
ある。第二に'﹁収用法﹂と同法に基づ-一九l二年の強制収
/co-i
用(Expropriation)は'ともにへ後代にたいする深刻な歴史的
39 (501)
(2) H.-U.Wehler,a.a.0.,S.188.
(3) (8)
的前提条件﹂の一つにはかならなかったのである。ドイツ人の
S l a v e n t u m i n
(2) R.Jaworski,a.a.O.,S.21.
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terly,V01.Ill,No.4,1970,p.513(この論文を利用しえ
a g r i c u l t u r a l
Poznan(Wielkopolska)inthe Formation of the non-
(2) WladyslawRusinski,TheRoleofthe Peasantry of
1
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bucher fur Nationalokonomie und Statistik,Bd.70,
( r t ) A r t h u r D i x , D a s
樫襲財産が認可されながら'ポーランド人マグナ-トの仕襲財
産が没収されたのはへ この﹁土地収用法﹂成立後のことであっ
た。
注
deutsche Polenpolitik,Neuausgabe、Frankfurt a.M.
(-) さしあたり、Martin Broszat,Zweihundert Jahre
1972,S.134-142,を参照。
たのは'広島大学教授日南田静某氏の御好意による。記し
)
O) Ebenda,S.147f.をとりあえず参照。
2
て感謝する');A.Lawaty,a.a.0.,S.59.
(
geschichte Polens im19.und20.Jahrhundert(ins
Deutschland,Leipzig1893,S.52.﹁植民法﹂にかんする
(eo) MaxSering,Dieinnere Kolonisationim ostlichen
以下の叙述はt M.Broszat,a.a.0.,S.148-153,を基礎に
Deutsche iidertragen u.herausgegeben von Berthold
(8) M.Broszat,a.a.0.,S.153.
R.Jaworski,a.a.0.,S.27.
M.Broszat,a.a.O.,S.153.
(ァ) M.Serins,a.a.0.,S.1,etpassim.
Puchert),Berlin1986,S.83.
している。
(m) Hans-Ulrich Wehler,Polenpolitik im Deutschen
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Kaiserreich(以下Polenpolitikと略記)へin︰ders."KrisenherdedesKaiserreichs1871-1918,2.Auf1.,Gottingen1979(以下Krisenherdeと略記)、S.185.
(to) Ebenda,S.190.
Leipzig1907,S.124ff.,etpassim;R.Jaworski,a.a.0.,
Gemeinwesen im preufiischen Staat.DiePolenfrage,
(^) Ebenda,S.153;Ludwig Bernhard,Das polnische
S
.
1
3
6
.
0) R.Jaworski,a.a.0.,S.21,27f.
(8)I(o>) Ebenda,S.21.
(SO Ebenda,S.47;vg1.auch M.Broszat,a.a.0.,S.153.
(2) H.-U.Wehler,a.a.0.,S.190.
ォ)ち(S)I(2)、(3) R.Jaworski,a.a.0.,S.21.
(502) 40
帝政ドイツのポーランド人政策と仕襲財産
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(空 Ebenda,S.152ff.;H.-U.Wehler,a.a.0.,S.189ff.
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Verwaltungsgeschichte と略記)へ Bd.1,Ost-und
,
s c h i c h t e 1 8 1 5 - 1 9 4 5 , R e i h e A , M a r b u r g ・ L a h n 1 9 7 5 ( 以 下
蝣gg) Vg1.Grundrifi zur deutschen Verwaltungsge-
(fe) 叙述は、ebenda,S.159-161,による。
( i ァ ) V g 1 . M . B r o s z a t , a . a . 0 . , S . 1 5 9 .
H
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Reich1893-1914,2.Auf1.,Bonn-Bad Godesberg 1975,
undpreufiischerKonservatismus im xvilhelminischen
(S) Hans-Jiirgen Puhle,Agrarische lnteressenpolitik
照。
l四〇二四二ページへR.Jaworski,a.a.0.,S.24,を参
三年(以下、引用はKaiserreich,﹃ドイツ帝国﹄と略記)
94,大野英二・肥前栄1訳﹃ドイツ帝国﹄未来社へ一九八
DeutscheKaiserreich1871-1918,GOttingen1973,S.92-
fC。¥ 両協会についてはへとりあえずH.-U.Wehler,Das
さしあたりM.Broszat,a.a.0.,S.164f.参照。
Sammlungと略記)へ S.29-34.
(﹂) preuJSischeGesetzsammlung,Jg.1908(以下P.G.
p.511,をも参照。
d
(g) Ders.,Deutsch-PolnischeBeziehungen im19.und
i
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へ
)
︰
Wehler,a.a.O.,S.188;Gotthold Rhode,Geschichte
(讐 R.Jaworski,a.a.0.,S.43,71;siehe
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)
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20.Jahrhundert (以下D.-P.Beziehungenと略記)t
R
)
)
(
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polens,3.Auf1.,Darmstadt1980,S.426;L.Bernhard,
3
'(S) Ebenda,S.153.
5
a.a.0.,S.87-90,168,238;M.Broszat,a.a.0.,S.141,
1
R.Jaworski,a.a.0.,S.27.
(S) M.Broszat.a.a.0.,S.153.
D e u t s c h e
5) Werner Conze,Nationsbildung durch Trennung.
H
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へ
1
pflanze(Hg.),InnenpolitischeProblemedesBismarck-
(
S
,
(23) H.-U.Wehler,a.a.0.,S.192.
(
(m) Vgl-ebenda,S.190f.
(
)
vcoJ、(g) M.Broszat,a.a.0.,S.154.
?
ヽ_. ヽ._ し
、(3)、 Ebenda,S.154.
W.Rusinski,op.cit.,p.513.
M.Broszat,a.a.O.,S.155.
Ebenda,S.129ff.
41 (503)
(
`ヽ -ヽ ヽ
(21) M.Broszat,a.a.0.,S.136.
48 47 46
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H.-J.Puhle,a.a.O."S.257.
(g) M.Broszat,a.a.0.,S.160.
(5) H.-U.Wehler,a.a.O.,S.194.
(ァ) Vg1.ebenda,S.192.
Vg1.ebenda,S.194.
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(6) 叙述はtH.-J.Puhle,a.a.0.,S.255-261,337,によ
る。
(
(Jg) Ebenda,S.260.
へ
Kid)、(g) Ebenda,S.260.
(g) P.G.Sammlung,S.29.
(r) Ebenda,S.3O.
(H) M.Broszat"a.a.0.,S.168.
-U.Wehler,a.a.0.,S.194-196,201f.;
(5) P.G.Sammlung,S.33.
)
る。
﹂
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ders.,D.-P.Beziehungen,a.a.0.,S.207-209,によ
(5) 叙述は'H.
(
へ
(?2) Ders.,Kaiserreich,S.15,¥別掲訳﹃ドイツ帝国﹄二
七ページ。
a.a.0.,S.423.
(g) Vg1.ders.,Polenpolitik,a.a.0.,S.195;G.Rhode,
田辺勝正﹃戦後欧州における土地制度改革史論﹄協調
会へ一九三五年へ二一三ページ。
(So)H.-U.Wehler,Kaiserreich,S.234,前掲訳﹃ドイツ
帝国﹄三三八ページ参照。
、
¥f
c。
oT
J¥
、(SODers.,Polenpolitik,a.a.0.,S.202.
この意味での﹁ポーランド人政策とナチズム(論)と
の連繋﹂が指摘されなければならない。また﹁収用﹂の意
義についてはへ山田盛太郎﹃日本資本主義分析﹄(一九≡
四年)における﹁穀物収用緊急勅令﹂(一九一八年)の位
置づけが想起されよう(この点別稿予定)0
三 ドイツ軍人家族の世襲財産
- Schweinichen少佐家I
MarievonSchweinichenはt l九二年七月七日に死去し
たKonsta巳inの未亡人である。退役陸軍少佐(Majo a.D.)
だった夫は'彼女に一三人の子供と巨額の財産を残して先立っ
(1)
た。亡き夫の退志を体したマ-Iは'一九一五年へ仕襲財産監
督庁たる高等裁判所への設立定款(Stiftungsurkunde)の提出
を通じて、﹁KonstantinvonSchweinichen家の家族性襲財産
Hilarhof-Bachorzew﹂の設立を願い出る。ポーゼン州 Jarot-
schin郡在の地名であるHilarhof-BachorzewのうちへHilar-
(504) 42
の世襲財産の悲運との鮮烈な対照を念頭に置きながら、シュヴ
かんする検討を踏まえ'同時に、次節で見るポーランド人貴族
ってよい。本節は'すでに行なったポーゼン州の全体的状況に
は'それだけでなにほどかを物語る象徴的な出来事だったとい
家族の世襲財産がこのソンム戦の最中に認可されたという事実
かのことであった。ドイツ・オス-マルケンにあるドイツ軍人
たかも第一次世界大戦におけるソンム(Somme)の会戦のさな
認可証書(Genehmigungsurkunde)を受領する。それは'時あ
九一六年九月二三日へ大本営(GroBesHauptquartier)発給の
万マルクにも上る有価証券類とであった。この世襲財産は'一
積五三七・五ヘクタールのこのBachorzew農場と額面二三
り'後者はその騎士農場名だった。世襲財産の対象は、土地面
hof とはシュヴァイニヒユン家の居城(SchloB) の名称であ
一、五一五ヘクタール規模のCarst家の性襲財産とを合算する
ユヴァイニヒエン家の分とやがて創設される予定になっている
産の一部が'全部で一二'四〇二ヘクタールある。これに、シ
人三人のそれと隣接Koschr 郡にまたがるドイツ人世襲財
と、ここにはポーランド人の世襲財産は全-存在せず'ドイツ
人的要素の強い郡であった。同郡在の仕襲財産に眼を転じる
は'住民数においても土地所有分布にかんしても'ポーランド
口の八二%がポーランド人だったのである。このように同郡
ド人は'住民数の点ではドイツ人を文字どおり圧倒した。郡人
る。仝農村的土地所有の過半(五﹁七%)を占めるポーラン
とは逆で、全体としてはドイツ人にたいする優位を確保してい
おいては非常に劣勢である。他方へポーランド人の状況はこれ
面積は領主地区域については五八・四%と優勢であるが'村に
イツ人とポーランド人との土地所有分布を見ると'前者の土地
することになる。これはへ第四表に挙げた数値で計算するとへ
(">
アイニヒェン家の世襲財産がWilhelm二位により認可される
とへドイツ人の世襲財産総面積は一四へ四五五ヘクタールに達
- Jarotschin郡の状況
全農村的土地所有の二〇・六%そして鎮主地区域内私的土地所
有の三四・四%に相当する。
最初に'ポーゼン州長官von Eisenhart-Rotheがプロイセ
ンの法務・農林・内務・大蔵各大臣に宛てた1九1四年二月
(3)
二五日付文書を基としてへこの世襲財産が存する Jar。tschiロ
さてt Eisenhart-Rotheはいう。当該の郡は、﹁圧倒的にポ
O)
ーランド人的な郡﹂である.また'五'一八〇ヘクタール規模
郡の全般的状況を概観しておきたい(第二二二・四表参照)。ド
43 (505)
までの経緯を分析することを課題とする。
帝政ドイツのポーランド人政策と健襲財産
第2表 民 族 別 分 布
村
(出典) DZA Merseburg, Hist. Abt.II, 2.5.1, Nr.6260, Bl.91f.より作成。
量されよう - にもかかわら
血統 - その姓から容易に推
ーIアンド人家族を出自とする
von Radolinski侯爵は'ポ
Jarotschinの所有者Rado︼in
の広大な世襲地 (Majorat)
維持されることは'国策上(nationalpolitisch)の観点から見て
勘案すれば'同郡のドイツ人所有地がドイツ人の手許に末永-
い事態さえ生じているのである(二一対二〇)。こうした事実を
ーランド人の議席がドイツ人のそれを一つ上回るという由々し
加えてへ第五表から明らかなように'同郡の郡会においてはポ
かどうか。この点には重大な疑念が残らざるをえない。かてて
が'はたしてこうした数え方が将来にわたって続けられてよい
(出典) DZA Merseburg, α.α.0., Bl.91,
より作成。
ず'目下のところはドイツ人
第4表Jarotschin郡の土地所有
きわめて望ましい枢要事であるt といわなければならない。し
(出典) DZA Merseburg, a.a.0., Bl.92,
より作成。
に数えられているのである
第3表 ドイツ人の世襲財産
(506) 44
帝政ドイツのポ-ランド人政策と世襲財産
第5表 都 会 議 席 数
計
A.
r_i
(出典) DZA Merseburg, a.a.0., Bl.92,より作成。
ユヴァイニヒェン家の世襲財産
たがって、﹁先祖伝来のドイツ
:
q
:
人気質(Gesiロnung)﹂を誇るシ
の設立は'この点に鑑み'切に
推奨されてしかるべきである。
ポーゼン州長官はへ この僅襲財
産の設立により﹁内地植民﹂が
阻害されることはない'また'
同郡の相当部分がすでに憧襲財
産化されている事実も'この設
立を是認しないための農政的
(agrarpolitisch)見地からする
根拠たりえない'と述べて報告
を終えている。
2 設立定款の内容
一九一五年二月二日へ マ
リーは法律顧問官Laskerを通
じてへ仕襲財産の設立定款をポ
ーゼン高等裁判所に提出する。
全文約四〇ページに達するこの
長大な設立定款は'全十項から成っている。以下においては'
本稿の叙述にとり最小限必要な項目に限ってその内容を検討す
る。
川 世襲財産の構成要素
この世襲財産は以下のものから成る。すなわち'五三七・五
ヘクタールの騎士農場Bachorzew(Hilarhof城へ各種の建物
と家具調度類を含む),および'第六表に示した多額の有価証
券類がそれである。後者は、シュレ-ジエン地主金融組合銀行
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
部(SchlesischeLandschaftliche Bank)に保管される。その
使用は,所有者個人の自由裁量に任されてはならず'別項に規
定する仕襲財産管理委員会(FideikommiBkuratorium)の許可
を得なければならない。僅襲財産所有者は、この管理委員会の
賛成を得て,憧襲財産に属する土地を売却することができる
が,それは、この売上金を'絶対安全な信託投資か土地所有へ
の投資に振り向けるためである。所有者は'農業経営に専心努
力しながらも、常にへ同門家族の頂点に立つ良き家長(ein
guterHausvater)としての範を率先垂範示さなければならない
のである(傍点筆者)0
仙 承継順序
仕襲財産の初代所有者はマ--白身である。世襲財産はマリ
45 (507)
第6表 有価証券類一覧表 (単位:マルク)
H
N
C
O
シュレ-ジェン抵当証券
西プロイセン新抵当証券
ポーゼン抵当証券
(4%利子)
(4#)
100, 000
C45B)
361, 000
シュレ-ジェン補助金庫債券 (4#)
ポーゼン新抵当証券 { 4,96)
地主金融組合抵当証券 ( 4 #)
246, 000
45, 000
^
1
0
33, 000
ォ
5
25, 000
N
0
0
f
f
O
HHHU 臼
i
'
l
シュレージェン土地信用株式銀行抵当証券(33/4%)
同 上 (4#)
ベルリ ン市債 (4#)
シュレ-ジェン土地信用株式銀行抵当証券(4!
Jarotschin製糖工場株式
ir 3│-
50, 000
60, 000
100, 000
180, 000
20, 000
1, 220, 000
(注) 1・から10・までは配当金支払いの満期日順(1915.12.25-1916.4.1)に列挙し
た。
(出典) DZA Merseburg, a.a.0., Bl.71-73,より作成。
第7表 世襲財産の承継順序(その一例)
Hans 29.
Ernst
Emil
長男34・次男30・覧晶完31・三男32・嘉晶完33・
長男 2. 次男 3.
三男 4.
6.
7.
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Heinrich
¥m
ill
12.
Gunther 13.
if!
15.
16.
Nikolaus 1 7.
18.
19.
20.
Georg-Wilhelm 21.
22.
23.
LM.
Otto 25.
I'll.
27.
蝣J8.
(荏)八人とも三男を持つと想定している。この場合,長男-ンスの長男の順位は
34番となる。
(出典) DZA Merseburg, α・α.0., Bl.54-56,より作成。
(508) 46
帝政ドイツのポーランド人政策と憧襲財産
(6)
Iの死後,次男の Ernstに帰属する。彼が母に先立って死去
(7)
した場合には、﹁最年長男子系統優先制﹂Primogeniturの規
則に従って,エルンストの﹁男系の男子卑属﹂mannlicheAbkommlingeimMannesstammが相続する。次男がこのような
卑属を残さなかったときには'マ-ーの三男Emi1が跡を継
ぎ、三男もまた母より先に死ぬという事態に立ち至ったなら
ば,﹁プリモゲニトゥ-ル﹂どおりに事を運ばなければならな
い。すなわちへその場合には'四男ではな-三男の男子卑属が
優先する。三男がこうした卑属を一人も残さなかったときに初
で末子の八男Ottoとその卑属にまで行きつ-(第七表参員)0
めて、相続権は四男の手に移る。承継順序は'以下同様の仕方
そして、次男から八男までの息子達が七人とも﹁男系の男子卑
属﹂を持たずにマ-Iよりも前にこの世を去るという事態が生
じたときだけ、マ-Iの長男Hansが世襲財産を相続する。し
かも,このハンス以降の承継順序は'ハンスの次にその長男が
来るのではなく'長男の次男'その男子卑属(それ故マリーに
とっては曾孫にあたる)'長男の一二男'その卑属以下同様と続
き,最後の最後になってようやく長男の長男が継承権を得る
とされているのである。
では,シュヴァイニヒェン家の准襲財産相続においては'な
:e爪
ぜ長男ハンスの系統が最後に回されたのか。次男エルンスト以
降の系統にあっては'﹁長子優先相続制﹂VorrechtderErstge-
burt が採用されているだけに'この点はなおさらのこと不可
解である。この問題については若干の説明を要しよう。史料か
ら読み取られるかぎりでの真相はこうである。マ--の実家
は,シュレ-ジエンのvonKorn家で'彼女の実父は一九〇七
年に死去したHeinrich von Korn博士だった。かれは﹁シュ
レIジエン新聞﹂の社主として地元ではその名を広-知られた
人物であった。K。rn家にはどうやら跡取り息子がいなかった
らしく、そこでマ--は'夫の遺産のみならずへ実父のそれを
も憧襲財産化することにより'行-末永-その家名を世に残そ
うとしたものと思われる。﹁HeinrichvonKorn家の家族世襲
財産Hundsfeld-Sacrau-PawelwitzLがそれである。マリI
は,長男ハンスとその系統に実家の世襲財産を継がせることを
希望した。長男の長男を'夫の仕襲財産の承継順位における最
後尾に置いたことにも'この点から見てなるほどと首肯させる
ものがある。マ-Iは'たとえハンスが天逝しても'彼女の最
初の内孫が実家の世襲財産を相続することができるよう心を配
ったのであった。それ故へこれは、マ--の側からすればいわ
ば﹁実家憧襲財産﹂ElternhausfideikommiBと名付けられう
47 (509)
ず'法的に擬制すればへ このパイン-ヒが当該の仕襲財産の
(S) ォ)
﹁設定者L Stifterとして、かれの﹁女系の親族﹂durch Wei-
たと目されうる。けだしへ パイン-ヒの導吉の有無にかかわら
いわゆる﹁女系世襲財産﹂FrauenfideikommiBのl種であっ
子をもうけるのを待って、外孫に財産を継がせた訳で'これは
コンスタンティーン・フォン・シュヴァイニヒエンとの問に男
る。一方'コルン家のサイドから見れば、娘のマ-Iが娘婿の
にヘヴィルヘルムの自筆署名を伴う大本営発給文書によってで
か月後の九月二三日には、認可証書を発行する。それはとも
強化の推進﹂という一点に集約される。国王は、同年七月二
の推奨論同様へポーゼン州における﹁ドイチエトゥ-ムの維持・
ヘルム二世に上奏する。その根拠は前述の Eiseロhart-Rothe
同年七月六日へ この他襲財産の認可と認可証書の発行をヴィル
認可が必要とされる。法務大臣Beseler(Maximilianvon)は'
(9)
ber Verwandte を次の相続権者に任じたtと見なすことがで
あった。こうして'ドイツ軍人家族の世襲財産は'第一次大戦
0) Vg1.ebenda,B1.136f.
4 9 - 7 6 .
(3)
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注
日へ認可を認める旨の勅書を法務大臣に送付するとともに、二
(3)
きるからである。コルン家は'男系の途絶後、マ--を介した
のさなかにその設立を認められたのである。
(
S
)
女系に'同家の﹁家名と紋章を絶やさぬ義務﹂を負わせたのだ
った.シュヴァイニヒェン家の債襲財産継承順位問題には、こ
のように、マ-Iの実家コルン家の影が強く差し込んでいたの
であった。
3 認可の決定
(co) Ebenda,B1.87-90.
(6)へ(t-) Ebenda,B1.54ff.Primogeniturについてはへ
(4)I(m) Ebenda,B1.89.
1九1六年四月l九日へ所轄の監督官庁ポーゼン高裁は、プ
ロイセン国王の認可を条件として当該の定款を承認(Bestati-
Bl.4.史料は1九l六年の法務大臣文書。
(oo) DZAMerseburg,Hist.Abt.II,2.2.1,Nr.31128,
九〇-九三ページ参照。
山田鹿﹃近代土地所有権の成立過程﹄有信望二九五八年へ
gung)する。この世襲財産の年純収益は三万マルクを超えるこ
とが定款で義務づけられている訳であるから'﹃プロイセン一
敗ラン-法典﹄ (一七九四年)第二編第四章﹁共同親族法﹂第
(
S
)
三節﹁永続的家族性襲財産﹂第五六条の規定に従って'国王の
(510) 48
帝政ドイツのポーランド人政策と世襲財産
(
9
)
へ
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Geschichte und Recht der Fideikommisse,in:Handw'drterbuchderStaatswissenschaften,3.Auf1.,Bd.4,
Jena1909,S.112.
委員会﹂の手に帰着したのである。本節では'前述の分析を踏
まえながらへ債界大戦直前期におけるドイツ資本主義・帝国主
義の土地政策の本質を把握するうえで見逃しえない重要性を持
- 問題の所在
つと思われるこの間の状況を明らかにしてみたい。
Staaten von 1794.Textausgabe,Frankfurt a.M.
(2) Allgemeines Landrecht fur die PreuBischen
一九〇八年五・六月に枢密参事官 Groscurthが作成した査
これは実際はへ同州のポーランド人世襲財産のなかではt Rad-
-は最大で最も美しいポーランド人所有地﹂と呼んでいるが'
(4)
超えるこの広大な領地を'Groscurthは﹁ポーゼン州のおそら
Anton Sulkowski侯爵である。合計七へ五〇〇ヘクタールを
年に達していない二人の息子 Alexander と Franz を持つ
とから成っていたことが知られる。その単独所有者はへまだ成
sch郡にあるGorchen所領(二へ〇四七・五八ヘクタール)
のReisen所領(五'五四〇・四五ヘクタール)と同州Rawit-
定書によりへ当該の家族世襲財産所領は'ポーゼン州Lissa郡
O ) ( ォ )
Berlin1970(以下ALRと略記)へS.412.
(2) DZAMerseburg,a.a.O.,B1.7.
(S) ちなみにへ同じポーゼン州の Schroda郡に約四〇〇
ヘクタール規模の騎士農場を持つドイツ系 Meien家の仕
襲財産Meienfeldeも'1九l三年l月l三日へ設立を認
可されている Vg1.DZA Merseburg,Hist.Abt.II"
2.2.1,Nr.31005,Meien(1911-1913),B1.2-10.
四 ポーランド人マグナ-トの性襲財産
ISulkowski侯爵家I
第l次惟界大戦勃発の戦雲垂れこめる1九一二年八月五日、
プロイセン国王ヴィルヘルム二世は、﹁スウコフスヰ侯爵Ftirst
三へ 四六二ヘクタール)の所領に次ぐ第三位の規模であり'ま
たへ ドイツ人の徴集財産も含めると上から五番目となる。ちな
ziwill侯爵(l五'五二四ヘクタール)へ Raczynski伯爵(1
所有するところとなったReisen-GOrchen所領がポーゼンの植
みにへ 二四へ 四三一ヘクタールのvon Thurn und Taxis侯
Sulkowskiの以前の仕垂財産であって'現在プロイセン国庫の
民委員会に譲渡されること﹂を認可した。ポーランド人貴族の
爵のものが最大であり'第二位のドイツ人世襲財産たるvon
(1)
世襲財産は'プロイセン国家の所有を経て、結局ドイツ﹁植民
49 (511)
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
kommission)に引き渡されなければならない。またへ当該の基
Hohenzollern侯爵の領地はl四へ二六ヘクタールであった。
金から生じる毎年の全収入は、貴族身分の青少年の教育とかれ
ヽ
スウコフスキ侯爵家の性襲財産の創立は遠-一八位紀にさか
(5)
のぼる。ポーランド共和国国会(Seym)によるl七七五年の一
らのためになる、しっかりした学問の養成に使われなければな
Wm
らない﹂(傍点筆者)。﹁国民教育委員会﹂とは'ポーランドの
(6)
決定に基づいて'同家には'永続的﹁聖職叙階基金﹂ Ordina-
この権限を行使した。長子相続(Erstgeburt)に従わなければ
sulkowski侯爵は'一七八三年l月l六日の設立定款において
はへこの﹁委員会﹂に﹁基金﹂の全財産が寄進されることを定
部省﹂である.世襲財産設立者August侯はt l家断絶の際に
を廃止して'一七七三年に設立された﹁ヨーロッパで最初の文
教育制度を改革するために、旧来のイエズス会(JesuiteロOrden)
ならないこの﹁基金﹂の﹁最も本質的な構成要素﹂が'壮襲財
めたのであった。一七九三年の第二次ポーランド分割が事態を
tionを設立する権限が与えられたのである。一族の一員August
産所領Reisen-Gorchenである。先述のAntonと二人の息子
一気に紛糾させる。一八三〇年以降ポーゼン州を構成すること
ォ)
になる'ヴィスワ河(Wisla)流域とヴァルタ河(Warta) 沿
ンド﹁国民教育委員会﹂は消滅のやむなきに立ち至るのであ
(
S
)
はAugustの直系子孫にあたり、後述するW。dzicki蝣Potocki
いの大ポーランド地方がプロイセンに割譲された結果へポーラ
﹁サJ
(7)
両伯爵は設立者の女系親族の系統に属する。この両伯爵家には
ヽ
設立定款において'﹁性襲財産継承の第二次権﹂が与えられて
いた。
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
1
1
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ここで次の問題が生じる。すなわち'設立定款軍二条の諸条件
zuPosenod.KoniglichesProvinzialschulkollegiumだった.
(3)
る。これにかわって教育を管掌することになったのが'プロイ
セン王国﹁ポーゼン州学校教育局L Provinzialschulkollegium
ヽ
ヽ
後代まで尾を引く複雑な相続・継承問題の発端となったの
ヽ
が'設立定款第三条である。そこには次のように規定されてい
ヽ
た。﹁しかし'承継のために聖職叙階された上述の全家系の子
孫が(第二次権承継者も含めて)ことどと-死に絶えてしまう
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
(2)
が満たされるときへ ﹁学校教育局によって代理されるプロイセ
ヽ
ン国﹂は'はたしてへ﹁教育委員会の権利承継者として、︹スウ
場合には'動産と不動産から成るスウコフスキ聖職叙階基金の
ヽ
コフスキ侯爵の︺健襲財産農場を要求する請求権を持つか否か
すべては'︹ポーランド︺国王の裁断に基づいて即座に'所有・
ヽ
管理そして用益のために国民教育委員会(Nationalerziehungs-
(512) 50
帝政ドイツのポーランド人政策と世襲財産
された哩襲財産にとって規準となる法規ではない。そうではな
の﹃ドイツ民法典﹄はおろか1七九四年施行の﹃プロイセンl
(3)
2 デルンプルク鑑定
の問題﹂がそれである。著名な法学者Dr.HeinrichDernburg
デルンブルク博士が死の前年に書き上げた一九〇六年二月六
-'かつてのポーランド共和国存立時における適用法は﹁ロー
(
S
)
マ・普通法﹂dasr①mischeundgemeine Rechtだったのであ
敗ラン-法典﹄もまたへ これに先立つ年代の一七八三年に設定
日付専門的鑑定書(Promemoria) において'博士は'ローマ
る。したがってへ われわれが規範としなければならない法規
(l八二九∼1九〇七年) の判断は以下のとおりであった。
法とドイツ法の双方にわたる該博な知識を縦横に駆使した堂々
は'これである。
(
S
)
の論述を展開する。簡単な前書きののち'まずはじめにかれは
委ねられるべし﹂との文言上の違いには'取り立てていうほど
るべし﹂と別訳の﹁国民教育委員会の支配・保持そして用益に
問題の焦点は設立定款第三条に絞られるのであるが、ポーラ
一三条である。﹁遺言者が民法典の発効の前に死去していた場
いう。一七八三年に設立された家族性襲財産について真っ先に
合には'従来法が相続権上の諸関係にとり引き続いて規準とさ
の区別はなんらないと見てよい。けだしへ最後の世襲財産所有
﹁所有・管理そして用益のために国民教育委員会に引き渡され
れる﹂。それ故へ l九〇〇年l月l日に至るまでポーゼン州に
者の完全私有相続人(Allodialerbe)が'財産の﹁空虚な所有権
ンド語原文を翻訳した際の次のような若干の異同へすなわちへ
おいて施行されていた﹃プロイセン一般ラン-法典﹄が次に参
(虚有権)﹂nudapropriet抑s(nacktes Eigentum)だけを保持
規準とされなければならぬ法規範は'1九〇〇年l月1日の
照されなければならない。しかし、この﹃一般ラン-法典﹄ の
Lへ他方へ ﹁国民教育委員会﹂がその﹁用益権﹂ NutznieBung
﹃ドイツ民法典﹄Biirgerliches Gesetzbuch施行法第l則第二
諸規定もまた'一八仕紀末に設立された憧襲財産の法関係を規
を持つという関係は'世襲財産設定者Augustの意図とは到底
(
S
)
制するものではないのである。けだしへ当該の法典は、以下の
見なされえないからである。そうではな-てかれは'継承権を
(
S
)
原則へすなわちへ ﹁新しい諸法律は、すでに生起してしまった
持つと指定された男系のすべてが途絶えてしまうと告には'完
(
g
)
行為と事件には適用されえない﹂という'同法典の序文第一四
全私有相続人に遺産が受け継がれてしまうのではなくへ ﹁国民
(
S
)
条に詣われている原則に立脚していたからである。一九〇〇年
51 (513)
いたのである。ひとまずは'以上のことが確認されなければな
教育委員会﹂にそれが全額寄進されることを間違いな-欲して
かして'一家族のもとにとどまり続けるべLと'だれかある人
(3)
が指定するときへこれは家族世襲財産と名付けられる﹂。仕襲
﹁あるl定の土地もし-は資金が'永続的にか数世代にわたる
る.これはlつの﹁法的状態LRechtsverhaltnisと呼ばれるに
の繁栄と栄光に役立てられるべき一義的な目的を持つものであ
FideikommiBとは'ひとえにへ ある特定の家族という共同体
われが問題にしている﹁家族休債襲財産L gemeinscha≡iches
初に'世襲財産の本質論から説き起こす。そもそもへ 今われ
ク博士の判断は'はたしてどうであったか。かれは'まず最
襲財産=親族法にかんする定評のある法学者﹂たるデルンプル
し'第四民事部は逆にこれを認めているのである。では'﹁性
ら、意見の対立が見られたoすなわち第一民事部はこれを否定
は'仕襲財産管轄庁たる当のポーゼン州高裁の内部においてす
民教育委員会﹂が被相続人Augustによってへ受適者とする
ければならない。そして'先の設立定款第三条によれば'﹁国
定者に由来する通産(NachlaB)のすべては、財産相続有資格
(S)
家系の断絶後'﹁受遺者LHonorierterのl人に引き渡されな
ある。デルンブルクは続けていう。これによれば'世襲財産設
題が投げかけられることになった。ここで真剣に検討されなけ
(ァ)
ればならない論点は'いわゆる﹁遺贈﹂Vermachtnisの問題で
にかんする特段の規定を設けたためへ鉛雑とした困難な法律問
金﹂設立定款第三条が'先に見たとおりへ﹁国民教育委員会﹂
第二に'それにもかかわらずへスウコフスキ﹁聖職叙階基
(負)そのものであり'﹁ポーゼン州学校教育局﹂がどとき
(cq)
﹁家外老LFamilienfremdeでは決してない。
財産(紘)の本旨からいって、真っ先に優先されるべきは家族
ふさわしい。そしてへ この﹁法的状態﹂は'ある家族の財産が
(honorieren)とされたのである。スウコフスキの﹁聖職叙階基
さて'プロイセン国がヘ スウコフスキ世襲財産の相続権者
らない。デルンブルクは、このように述べている。
明文をもって売却不可であると宣せられ、その財産が'当該の
(Anwarter)と見なされうるか否かという問題の核心について
家族を維持するために世襲的に相続されることによって生起す
金﹂は'有資格家系断絶の場合のためにへ仝﹁基金﹂を﹁公的法
/.
cC
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(
人
﹂た
る﹁
国民教育委員会﹂に遺贈する(vermachen)ことに
(22)
(
S
)
るものなのである。﹃プロイセン一般ラン-法典﹄第二編第四
したのであって、国に追贈したのでは竃もない。﹁委員会﹂こ
(3)
章の第二節第二三条の概念規定は'これと完全に一致している。
(514) 52
帝政ドイツのポーランド人政策と世襲財産
そが設立定款において出揃を受けた﹁受適者﹂なのである。
(8)
件が満たされないかぎり'遺贈の期日dies legatiが到来する
ことはない﹂(傍点引用者)。このように'遺贈または信託遺贈
cm)
第三に'﹁遺贈の取得﹂Erwerb der Vermachtnisseにかん
(FideikommiB)がある条件に結びつけられている場合には'
(8)
しては'ローマ法のいわゆる﹁権利発生日L dies cedensの知
贈与(Zuwendung)が'権利継承者(Rechtsnachfo-ger)たる
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
1
ヽ
-
ヽ
r
ヽ
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ヽ
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ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
当である'ということであった。
03)
﹁受達者﹂たる﹁国民教育委員会﹂の手中に帰すと見るのが妥
就したあかつきにはt dies cedensの到来するところにより'
スウコフスキ債襲財産は'設立定款第三条記載の﹁条件﹂が成
は、およそこのようなものである。かれの結論は'要するにへ
んら疑問の余地はない。デルンプルクの詳細な遺贈論の要点
通法的諸原理﹂が﹁適用﹂されなければならないことには'な
(8) (S)
識を持つことが、事柄の帰趨を決するほどに重要であるへ とデ
受遺著の手に移ることを決する時点はへ その条件の実現時なの
ヽ
ルンプルクはいう。わたしは、この点をめぐる博士の詳論を理
である。﹁権利発生日﹂の到来は、まさにその瞬間である。ス
ヽ
解するためのlつの前提として'ここであらかじめMaxKaser
ウコフスキ侯爵の仕襲財産設立定款第三条の解釈に'﹁この普
ヽ
教授による以下の簡潔な叙述を引用しておきたい。﹁遺贈から
ヽ
ヽ
ヽ
の権利の取得は'過言相続の発生と結びついている。ローマ人
ヽ
ヽ
は、権利発生日を'取得のための要件が満たされるべき期日と
ヽ
ヽ
考える。これは'通常は'被相続人の死亡の時点である。もし
ヽ
ヽ
遺贈に不確定の期間へ あるいは条件が付せられている場合に
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
はへ この期限の到来あるいは条件の成就がはじめて権利発生日
ヽ
となる・--。権利発生日︹の到来︺によってへ受適者は'遺贈
されたものを自身が取得するための相続可能な権利を取得す
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
デルンプルクは続ける。以上から、次の﹁法的命題﹂がおの
(
S
)
ヽ
る﹂(傍点引用者)。デルンプルクが引用するラテン語原典へユ
ヽ
ずと導き出される。一七九五年の第三次ポーランド分割の結
ヽ
ースティーニア-ヌスIustinianus の﹃学説嚢纂﹄Digesta中
ヽ
果へ ﹁国民教育委員会﹂が廃止されてしまったため、﹁委員会﹂
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
が前から所有していた財産はへこの財産が一七九五年以降配置
ヽ
のdiescedit(期日が到来する)にかんする一節は、このこと
されることになった国(プロイセン国)の所有に移ったという
ヽ
を明確に次のように規定する。﹁遺贈または信託遺贈の期日
ことは'ともかくも認められてよい。しかし'この点はあくま
dies legatorum vel fideicommissorum が到来する時。しか
ヽ
し、もしも残される通産が条件つきであるならば、--その条
53 (515)
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
三条の条件は'第一次大戦前の時期にその実現を見た。けだ
され難い。したがってへ国にはヘ スウコフスキ世襲財産を要求
ヽ
してよい法的に正当な請求権はない。これが第一。設立定款第
でもへ廃止された法人が所有していた財産についてのみ当ては
ヽ
まることなのである。これにたいしてへ今は解散されてしまっ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
08)
し'世襲財産継承権を持つ現存する唯一の家系の最たる現所有
た法人が'その存続中には'なんら確定的な権利を保持してい
ヽ
なかった財産は、こうした所有権の移転とは全-無関係であ
者Antonの二人の男子は、一九〇七年頃にはすでに他界して
ヽ
いたことがへある史料に記載されておりへまたアン--ン侯自
る。いわんや'﹁権利発生日﹂が遠い将来になってあるいは到
ヽ
来することが予想されるだけの遺贈と世襲財産(信託遺贈)に
身へ 1九〇八年七月よりl年以内に死去してしまったことが'
ついてはへ なおさらのことへ上述の意味での国への所有権帰属
別の史料から知られるからである。一九〇九年七月の時点で生
ヽ
など、断じて認められるものではない(傍点筆者)。それ故へ ス
存を確認することができたのは'アントーンの妻Josefaだけ
ウコフスキ侯爵家の場合'1七八三年の設立定款第三条の問題
である。これが第二。そして第三に'当該の世襲財産は'現在
ヽ
は'一七九五年に﹁受適者﹂たる﹁国民教育委員会﹂がその存
の所有者が死去した時には'完全私有財産(A〓od)となりへ完
在をやめたことによってへ当該の﹁追贈﹂が結びつけられてい
全私有相続人の手に帰着するのが至当である - デルンブルク
ヽ
た﹁条件﹂が実現する(dies cedit)はるか以前に'すでにl七
の詳説からおのずと帰結される最終的結論はこれであった。
最後に'目下の国際情勢(Staatsverhaltnisse)を勘案したう
(﹂)
九五年に、結着をつけられていたへ ということにならざるをえ
ないのである。なぜならへ ﹁委員会﹂の消滅とともにへ﹁遺贈﹂
デルンブルクはこのように述べたのちに'かれ独自の提言を
されうる法形式を規定することは難しかろう。しかし'それ
﹁国民教育委員会﹂の廃止後に'世襲財産設立者の道志が実現
えで同博士が勧める実際的解決策は、こうである。なるほどへ
開陳して全体を締め括っている。博士の提言を聞-前にへ第一
て'なんとか達成可能であるように思われる。すなわちへ当該
は'世襲財産の完全私有相続人とプロイセン国との和解を通じ
の﹁条件﹂そのものも消えうせたからである。
次大戦前期の問題状況をも視野に収めたうえで、わたしは'今
の所領から生じる収入のl部が、プロイセン国と完全私有相続
までの分析を以下の三点にまとめておきたいと恩う。プロイセ
ン国は'ポーランド﹁国民教育委員会﹂の権利承継者とは見な
(516) 54
帝政ドイツのポーランド人政策と仕襲財産
いのである。それ故へ ここでその輪郭のみを描いた意味での和
出すのはへ ただたんに、﹁無政府主義的革命諸政党﹂にすぎな
て不幸なことに'こうした悪感情の状態から最大の利益を引き
人との問には'根強い不信感がわだかまっている。両者にとっ
現在へ残念ながらへプロイセン国と有産貴族身分のポーランド
献呈されるという打開策が模索されてしかるべきなのである。
育成のためにへ貴族子弟の教育を行なうポーランドの一学校に
人との協力のもとで'低俗身分のポーランド人貴族青少年層の
たる二つの懸案は'ともにへかの訴訟によっては解決されなか
委員会﹂の権利継承者と見なされうるのか否かという永年にわ
のかどうかへ そしてへプロイセン国が本当にポーランド﹁教育
高裁判所によってことどと-棄却された。しかし、設立者の子
ォ)
孫の死滅後へ当該の仕襲財産が﹁自由な完全私有財産﹂になる
てにおいて'最後的には一九〇四年七月一一日のドイツ帝国最
れも Potocki家の三伯爵である。この訴えは、三級審のすべ
身のThomas・WladislausそしてAugust Stanislausのいず
との方の見解に反対して一九〇一年に提訴したのが'ロシア出
次権﹂は失効してすでに久しいへ と主張し続けてきた。このあ
士は'このように述べて筆を摘いている。それは'法学の老大
庫の請求権は'論外と断言できるほどに全-疑わしいt とされ
とのことだった。既述のとおりへ これによれば'プロイセン国
った。デルンブルクの鑑定書(一九〇六年)が出たのはこのあ
(8)
解が実現するあかつきには、それは'﹁より良い未来の費明﹂
家らしく、あくまですきのない法理の構築を心がけながらへ同
たのであった。
O
S
)
となることであろう。古今の法体系に通暁したデルンブルク博
時にへ ポーランド人の立場にも充分な理解を示した説得力に富
アン--ン・スウコフスキの完全私有相続人数人が、当局の
むものであった。
圧力に従う形で'文部省局長にたいして和解の申し出を行なっ
(
S
)
次に'一九〇九年七月二日付皇帝宛文部省局長文書に依拠し
たのは'続-一九〇七年の出来事である。その顔ぶれはtのオ
3 事態の推移
ながらへ一九一二年八月五日の皇帝勅令へと至る事態の推移を
ース--アの1等枢密顧問官・オースト-ア上院議員兼皇帝
aufKoscielec伯爵へ用ワルシャワ出身のHeinrichPotocki伯
(Franz Josef 世)侍従長(Kammerer)Anton Wodzicki
跡づけておきたい。プロイセン文部省を頂点とする教育行政の
管理当局は'﹁ポーゼン州学校教育局﹂をポーランド﹁教育委
員会﹂の権利継承者と見なすとともに、憧襲財産継承の﹁第二
55 (517)
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
の対応策が最終的に決定したのである。ここでは本節の結びと
ヽ
ヽ
爵'そして'伺Josefa Sutkowski侯爵夫人t であった。文部
して、さきの一九〇九年七月二日付文部省文書をうけて検討・
ヽ
ヽ
省局長は、大蔵大臣との意見の一致を見たうえで、この件の和
執筆されたこの上奏書の要点を紹介しておきたい。それは以下
ヽ
ヽ
解による解決に賛成する。さらに、ドイツ帝国宰相ビューロー
の四点に要約される。第一にへ一九〇八年九月二日の家族決議
ヽ
ヽ
は、Wodzicki 伯爵のオースト-ア皇室における立場を配慮し
は'つとに'ポーゼン高裁によって承認され'当該の所嶺の管
て、この案件の平和的処理をと-に重要視した。比較的長期に
理も、公的財務行政機関(ポーゼン州庁の﹁直接税・御料地・
ヽ
ヽ
わたる交渉ののち'アン--ン・スウコフスキ侯爵自身を含む
森林担当部局﹂) の手に渡っている。第二に、目下の状況は'
関係当事者間の合意が1九〇八年七月l〇日に成立する。その
プロイセン国庫にとってきわめて好都合である。家族決議の正
ヽ
ヽ
内容は以下の三点に要約される。第一にへ スウコフスキ家の世
式の承認に反対して異議申し立てを行なったAugust Potocki
襲財産は'現所有者アントーンの死後へプロイセン国家の所有
伯爵の訴えは'すでに棄却されているし、一方'継承権者とし
ヽ
ヽ
となりへ その自由で無制限な処理に任される。第二に'これに
て立ち現れたスウコフスキ家ゆかりの一連の人々が実行した異
たいして国は侯爵に約四〇万マルクの貨幣を手渡すとともにt
議申し立てもまた'一九一二年七月1 1日のドイツ帝国最高裁
ヽ
ヽ
Reisen 城内の家財・蔵書・古文書類と若干の積立金を'完全
判所判決によりことごとく斥けられたからである。スウコフス
私有財産の構成要素として認める。第三に'国はt Wodzicki-
キ憧襲財産は'これによって最終的にプロイセン国庫に帰属す
ヽ
ヽ
Potocki両伯爵に'国に帰属した世襲財産価額の半額を支払う
ることが決した。第三に、諸掛かりを控除した堆襲財産の価額
(3)
ものとする。以上であった。この合意は'家族決議として取り
は'七'九二八へ〇〇〇マルクと確定した。したがってへ完全
金(Ab㌢duロgssumme)として支払われなければならない。そ
まとめられ'一九〇八年九月二日へ所轄のポーゼン高裁に通達
私有相続人には'その半額の三へ九六四へ〇〇〇マルクが示談
4 国の最終決定
して最後に'植民事業推進のためにへReisen-Gorchen所領を
ヽ
されたのである(傍点筆者)0
l九l二年七月三l日へ農林・大蔵両大臣はヘ スウコフスキ
ポーゼン州の﹁植民委員会﹂に引き渡すことが'両大臣によっ
(3)
世襲財産の件にかんする上奏書をプロイセン国王に送った。国
(518) 56
帝政ドイツのポーランド人政策と仕襲財産
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
て提案されたのである。そのための条件は'上述の示談金と訴
訟費用等の諸経費に加えてへプロイセン国庫に払い込まれるべ
ヽ
き三百万マルクの現金を'同﹁植民委員会﹂の法定積立金から
支払うべLtというものであった(傍点筆者)0
ヽ
これを全面的に認めるプロイセン国王の勅令が農林・大蔵両
大臣宛に下ったのは'上奏書送付の五日後へ l九一二年八月五
日のことであった。このようにして、ポーランド人マグナ-ト
の世襲財産は消失した。それは'分割され'ドイツ人の﹁内地
植民﹂用に振り向けられ'結局、オス-マルケン・ポーゼン州
におけるドイチエトゥIムの維持・強化のために捧げられたの
である。ポーランド人の土地はドイツ人のそれに転化した。
注
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3
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B
1
.
1
8
6
.
0) DZAMerseburg,Hist.Abt.II,2.5.1,Nr.6469,B1.
3 2 - 3 7 .
(3) 同郡は一八八七年にFraustadt郡から分離して一郡を
成した Vg1.Verwaltungsgeschichte,Bd.2,Teil I,
Provinz(GroBherzogtum)Posen,S.42.
(uo) Vg1.Leo Wegener,Der wirtschaftliche Kampf
O
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B
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.
3
7
.
Posen1903,S.306TabelleXIX.
derDeutschenmitden Polen um die Provinz Posen,
(<o) DZAMerseburg,Hist.Abt.II,2.2.1,Nr.31162,
B1.124,etpassim.史料は事実叙述と題するもの(ebenda,
B
1
.
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(oo) Ebenda,B1.125.
(a>) Ebenda,BIA25i.
・
:
.
N
-
生訳﹃ポーランド史﹄-'恒文社'一九八六年へ三三八ペ
(2) ステファン・キェニェ-ヴィチ編、加藤l夫・水島孝
-
(m) Vg1.Verwaltungsgeschichte,a.a.0.,S.I.
(2) DZAMerseburg,a.a.0.,B1.126,etpassim.
(2) Ebenda,B1.180.
(2) Ebenda,B1.168.Promemoriaと題する史料。
(2) Ebenda,B1.170-175.
(2) Ebenda,B1.171.
(﹂) Ebenda,B1.171;ALR,S.51.
(
2
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9
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.
(2) DZAMerseburg,a.a.O:B1.171.
'(23) Ebenda,B1.172.
f) Ebenda,B1.m.
(Si) ALR,S.411.
(S) DZAMerseburg,a.a.0.,B1.173.
57 (519)
(SS) Ebenda,B1.173f.
CS5)tKc<lJ''(g) Ebenda,B1.173.
(3) マックス・カーザ1、柴田光蔵訳﹃ローマ私法概説﹄
創文社へ l九七九年へ五九六-五九七ページ。
(8) DZAMerseburg,a.a.0.,B1.173f.
へ
(
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.
7
5
.
K.cojtKcoJt(﹂) Ebenda,B1.174.
D
1
(&) Vg1.ebenda,B1.168.
S
(﹂) 注(?)に示す史料。
(
(2) Ebenda,B1.179-183.
(3) Ebenda,B1.180.
(21) Ebenda,B1.184f.
(S) Ebenda,B1.183.
﹁・Ij
まさにそうであるようなもう1方の﹁大世襲財産﹂groBes Fi-
﹁L-'>
deikommiB とは、ある重要な性格的相異の点で鮮やかな対照
を成すものだった。かつて'わたしはこの問題をlつの小稿で
論じた。そこで得られた結論的論点の骨子の一部を示せばこう
である。すなわち、ヴェ-バーはt T方では'資本にとっての
能動的基盤たるへブルジョア的な意味での合理的賃労働の前提
を全般化するとともにへもはや資本蓄積にとっての障害=阻害
要因たりえないかぎりでの - ﹁大憧襲財産﹂に代表されるよ
うな - 合理的大土地所有を安定的に構築し'同時に他方にお
いては、景気変動にたいする弾力性と順応性を欠き、またへ資
本投下の制限となるはかな-'加えてへ金利に寄食するレン-
ナIの培養基以外のなにものでもない'所有と経営が合体した
﹁小世襲財産﹂に顕著に妥当する土地所有の不合理的要素を徹
底的に整理することによりへドイツ=プロイセンの土地所有階
五 結論Ilつの試論として 土地面積五〇〇ヘクタール強しかないシュヴァイニヒエン家
層全般のブルジョア的合理化をすみやかに達成しようとする政
(1)
の世襲財産Hilarhof-Bachorzew は'マックス・ヴェ-バー
策的立場を一貫させたのであった。この点とかかわって'土地
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
(MaxWeber)が'一九〇三年の﹃家族性襲財産法仮草案﹄を系
売却代金の信託投資もし-は土地所有のみへの投資を定めたシ
(2)
統的に批判した大作﹃プロイセン仕事財産問題の農業統計-社
ュヴァイニヒェン家の世襲財産設立定款の一規定は'同家が所
ヽ
会政策的考察﹄ (1九〇四年)において分析したいわゆる﹁小
有する移しい有価証券類とともにへ地主兼金利生活者としての
性襲財産﹂kleines FideikommiB の部類に属する。かれによ
﹁小世襲財産﹂所有者の社会経済的正体を窺わせて余りある'
(3)
れば'それはヘ スウコフスキ侯爵家のReisen-Gorchen所領が
(520) 58
帝政ドイツのポーランド人政策と性襲財産
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
四年時点でのヴェ-バIの根本的批判にもかかわらずへ算一次
大戦へと至る時期において﹁小仕襲財産﹂形成の動きが続いた
事例は'こうした全体的動向のl環であったO
ヽ
シュヴァイニヒエン家の所領はへ いまl度ヴェIバーの口吻を
という意味において興味深い。﹁小世襲財産﹂の一典型例たる
ということである(第八表参照)。シュヴァイニヒェン家の個別
,,,,(6)
借りるならばへ いわば﹁不労所得L Pfrunde世襲財産にはかな
らなかったのである。
(2)
ヽ
(
S
)
ヽ
ヽ
ヽ
(
S
)
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ここで二つの論点を確認しておきたい。第一にへ ﹁近代的成
ヽ
ヴェ-バIが批判の狙上に上せたプロイセン世襲財産政策の
金仕襲財産﹂としての﹁小世襲財産﹂の創設は、大戦中にむし
ヽ
推移について'いま少し付言しておこう。政府は'一九〇三年
ろ加速化される。﹁巨覇の戦時利得によって助長された全-白
(7)
ヽ
の草案が廃案に追い込まれるとへその十年後のl九一三年末に
由で際限のない家族世襲財産形成﹂が'それである。貨幣の
ヽ
ヽ
は'﹃家族世襲財産と家族基金にかんする法律草案﹄を用意す
﹁土地所有と世襲財産形成へのメタモルフォーゼ﹂ (M・ヴェ
ヽ
ヽ
る。この法案はその後'若干の改訂を施されてから、一九一七
-バー)という一語に見事に集約されるドイツ資本主義・帝国
ヽ
年一月二二日へ ﹃家族世襲財産、仕襲農場および家族基金にか
主義の土地所有利害への傾斜とその根強さが、まずもってへ指
んする法律草案﹄としてプロイセン下院に提出される。マック
摘されてしかるべきである。第一一に'オストマルケンの中核た
ヽ
ス・ヴェ-バーが、同年三月一日の﹁フランクフルト新聞﹂に
るポーゼン州にあって'﹁小惟襲財産﹂の設立には'独特の役
(2)
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
掲載された﹁戦時利得の
割が割り振られていた。そのための根拠とされたドイチユトゥ
(出典) DZA Merseburg, Hist.
Abt. II, 2.2.1, Nr.30788,
S.30f.より作成。
ヽ
貴族化﹂と題するへ小論
-ムの維持・強化と垂異一体の関係に立つ ﹁コラの党類L die
33
ながら示唆に富む時事的
RotteKorahの一つとしてのポーランド人的要素の締め出しと
19 1 1′
∼ 12
ヽ
論説において再度批判の
いう、ドイツ資本主義・帝国主義の東方政策における民族的・
10 2
対象とした法案は'これ
国防的観点の優越が認められなければならない。憧襲財産は'
59
1906∼ 10
ヽ
であった。このような事
二つの事柄のいずれにおいても'すぐれて有力な社会経済的拠
ドイツ資本主義の本質的特質を否定すべ-もな-色づけるこの
1901′
∼0 5
e
m
.
態の進展が意味するとこ
59 (521)
1 ,2 7 7
計
合
1, 0 8 3
1900年 まで
(9)
ろは'要するにへ一九〇
第8表 憧襲財産の成立
(プロイセン国全体)
第1図 所鎮処理と性襲財産の消滅
プ ロイセ ン国民
(オーストリア系)
完全私有相続人
ポーゼン植民委員会
プロイセン
国 庫
° °
経過
ポーランド人貴族世襲財産
300万マルク
公債
土地
貨幣
消失
結果
点としての役割を果す重要な歴史的意義を担ったのであった。
われわれの仕襲財産論は、ポーランド人貴族の世襲財産をも
視野に収めることによって、いっそうの膨らみと拡がりを増し
加える。第一図を見よう。ここには'四節で分析した史実が図
示的に要約されている。スウコフスキ侯爵家の所領は'本来、
世襲財産(FideikommiBvermogen)の相続権を有する家系の断
絶に伴い'世襲財産であることをやめるだけで、完全私有財産
(Allodialvermogen)としてl門のだれかに引き継がれてしかる
べき土地所有であった。デルンブルク博士の撤密で良心的な法
律論が'それを証明している。だが'プロイセン政府が執行し
た措置は'これとは違う全-の別物であった。すなわちへ政府
はt l方において'プロイセン国庫の所有権を強弁して、性製
財産としての法的属性を失効させ'同時に他方では'遺産の完
全私有相続人に示談金を支払い、これとの和解を図って'起こ
りうべき困難な裁判沙汰をあらかじめ回避することによりへ結
果的に見てすぐれて平和裡に、七、五〇〇ヘクタールを突破す
るきわめて広大な土地をポーゼン ﹁植民委員会﹂の所有に帰着
させた。ポーランド人貴族の性襲財産は跡形もな-消え去り、
それは、植民者たるドイツ人農民の手に渡ることになった。そ
してへ仕襲財産価額はほぼ二等分され、プロイセン国庫と完全
(522) 60
帝政ドイツのポーランド人政策と世襲財産
私有相続人の有力者がそれを折半したのである。
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
しかも,その手法たるや'目を瞳らせるほどの鮮やかさだ
った。事態の経済的側面に即するかざりでいえば'それは'プ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
1
1
1
1
1
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ロイセン政府にとってはまさしく一挙両得の所領処理法だっ
ヽ
たのである。なぜならへポーランド人位襲地のドイツ人入植地
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
への転化を帰結したこの処置は、プロイセン国庫の側に立って
これを見ると'ポーランド人貴族から無償で土地所有を奪取す
るとともに、片やでは'﹁植民委員会﹂からこれと引き換えに
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
巨額の貨幣を入手するという巧妙なやり方であったからであ
ヽ
る。さらにその際、公債発行による資金調達がこうしたドイツ
人入植地取得措置の一財源とされていた点が'看過されてはな
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
らない。﹁土地収用法﹂算三条の重要規定が想起されよう。
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
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ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
1
1
1
1
1
1
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
続人との和解を介した所領全体のドイツ植民委員会への譲渡﹂
という内容に換骨奪胎した。その上二九〇四年と一九l二年
の二度にわたり下されたドイツ帝国最高裁判所による'当該の
件にかんする訴えの棄却が明示しているのは'徹頭徹尾国側に
(2)
立つ法解釈に専念した帝政ドイツの裁判所に見られた反動的姿
勢そのものである。本件は、﹁第二帝制の憲法学の主流﹂たる
ラーバント(PaulLaband)国法学の現実への適用例の一典型
であった、ということができよう。
ヽ
ヽ
ヽ
最後に,﹁土地収用法﹂(一九〇八年)の成立を頂点とする
﹁土地闘争﹂の全過程が、当該の世襲財産消滅事件の社会経済
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
的-政策的背景を形作るものであったことは明らかである。ス
ウコフスキ家の性襲財産の消滅が決まったl九l二年といえ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
をぬかりなく捉えた'いわば土地収用法に拠らない事実上の収
ったとしても'その実'健襲財産承継家系断絶の又とない好機
の没収措置は'たとえどのように合法的体裁を取り繕うものだ
い。プロイセン政府が行なったこのポーランド人貴族所有所領
ば,土地収用政策が実地に移され'約一へ七〇〇∼二九〇〇
ヽ
次は'法的側面である。政府は'まず第一にへ スウコフスキ
ヘクタールほどの強制収用四件が敢行された年であった。ドイ
ヽ
設立定款算三条における﹁家族基金からポーランド国民教育委
ツ﹁植民委員会﹂が入手しえた土地としては'問題の所領約
ヽ
員会へ﹂という規定の目的を'﹁同委員会からポーゼン州学校
七'五〇〇ヘクタールがこれに付け加えられなければならな
ヽ
教育局を経てプロイセン国庫へ﹂との解釈により百八十度変
、,,,, ,,,,ai ,,、
え'もってへいわば世襲財産の﹁崩落財産﹂caducum への強
ヽ
ヽ
権的転化を断行し、次に返す刀で'﹁国と完全私有相続人によ
ヽ
る協力のもとで行なわれる所領収入のポーランド人学校への一
部寄進﹂を勧告するデルンブルクの和解提案を'﹁国と有力相
ヽ
ヽ
61 (523)
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
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ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
ヽ
z u r
ヽ
ヽ
ヽ
F i d e i k o m m i B f r a g e
i n
P r e u B e n , i n ︰
第l・1盲で'第三号へ l九八〇年'所収。
(<c) M.Weber,Deutschlands auBere und PreuBens in-
内容とその意義 - ﹂﹃経済論叢﹄(京都大学)第一二五巻、
地所有 の伺 - マックス・ウェ-バI﹃仕襲財産﹄論の
(5) 拙稿﹁一九位紀末ドイツにおける﹃本源的蓄積﹄と土
O
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E
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e
n
d
a
,
S
.
3
7
4
f
f
.
( ォ ) E b e n d a , S . 3 7 1 f f .
kommiBfrageと略記する。
politik,Tubingen1924,S.323-393.以下へ引用はFidei-
ders.,GesammelteAufsdtzezurSoziologieundSozia1-
B e t r a c h t u n g e n
(<m) MaxWeber,Agrarstatistischeundsozialpolitische
(1903-1904),に全文収録されている。
Vorlsufiger Gesetzentwurf iiber Familienfideikommisse
O
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注
違いこそあれへ両者はともにへプロイセン-ドイツ政府が強行
用にはかならなかったのであり、それは'同じ1九l二年の強
ヽ
した土地収用政策の重要な一翼を担うその具体的実例以外のな
制収用とともにへ 1九世紀の八〇年代以降すでに数十年の永き
ヽ
にものでもなかったのである。こうして'第一次大戦(前)期
にわたって闘われてきたあの深刻苛烈な﹁土地樹争﹂の最後の
ヽ
にあって'フランス人貴族の世襲財産も'ポーランド人貴族の
一頁に書き加えられなければならぬ重要事であったtというこ
ヽ
それも、二つながらにへ ドイツ (東部) の地からその姿を消し
とができる。さらに、こうした土地政策遂行上の解決策が'宰
ヽ
たのであった。
相ビューローのWodzicki伯爵への気配りにあからさまに示さ
ヽ
れているとおり、友国オースト-アとの国際関係を優先的に配
慮した政治臭の強い7面を併せ持つものだったことも'忘れら
れてはならない。
以上総じてへ ほぼ同じ時期に成立と消滅という正反対の終局
を迎えることになったシュヴァイニヒエン家とスウコフスキ家
の二つの世襲財産にたいして執ったプロイセン=ドイツ政府の
方策は'いずれも'﹁プロイセンの最良の腰﹂たるオストマル
ヽ
ケンの中核へポーゼン州の﹁土地のゲルマン化﹂を断固として
ヽ
推し進めようとしたという一点において'帝政ドイツの土地政
策として首尾l賞した共通性を持つものであった。そのl方
で'ポーランド人マグナ1-にたいする仮借ない所領処理法
(
S
)
は'われわれがすでに前稿で分析した'フランス人貴族がドイ
ッ東部の地に持つ仕襲財産の清算(Liquidation)とまさしく一
対を成す処置でもあった。清算と事実上の収用という形式上の
(524) 62
帝政ドイツのポーランド人政策と世襲財産
nerePolitikin:ders.,GesammeltePolitischeSchriften,
よりt Provinzialschulkollegium zu Posenについて、懇切な
︹付記︺ 脱稿(一九八七年九月)後'岡山大学教授松尾展成氏
御教示を頂いた。ここに記して'厚-御礼申し上げる。
4.Auf1.,Tubingen1980,S.184.
1ienfideikommisseund Familienstiftungen vom22.DeI
(i>) DerEntwurfdespreuBischenGesetzes iiber Famizember1913,vomLitterarischenBureau,1914,S.1-48.
:PreuBen,GieBen1924,S.90.
(oo) FranzHorsten,DieFamilien-Fideikommifi-Politik
(o) M.Weber,a.a.0.,S.183-191.
(2) Ders.,FideikommiBfrage,S.389.
(H!) F.Horsten,a.a.O.,S.92.
(2) M.Weber,a.a.O.,S.367Anm.1).
(2) H. -U.Wehler,Kaiserreich,S.< 前掲訳﹃ドイツ
帝国﹄ l四八ページ。
五三六'五九七ページ。
(E) マックス・カーザ-'柴田光蔵訳'前掲書へ四五九へ
年、一九六ページ。
(S) 木谷勤﹃ドイツ琴一帝制史研究﹄青木書店'l九七七
算1プルタレス伯爵家のグルムボヴィツ所領-﹂ ﹃社
(2) 拙稿﹁第一次世界大戦期ドイツにおける世襲財産の清
会経済史学﹄第五一巻、第四号、一九八五年へ所収。
63 (525)
Fusao Kato, Landenteignung und FideikommiQ : Eine Studie zur
antipolnischen Landpolitik im Deutschen Kaiserreich
Der geographische Bereich der preuBischen Provinz Posen ist fast identisch mit
dem des sogenannten Grofipolen in der modernen polnischen Geschichte. Diese
Provinz
gehort
zu
den
historischen
Gebieten,
dieバdie
klassischen
Schauplatze
deutsch-slawischer Auseinandersetzungen" (R. Jaworskil) gebildet haben.
Selbstverstandlich gilt das fur die Verwandlungsperiode hin zum Imperialismus
des europ邑ischen Kapitalismus, die im groBen und ganzen mit dem Zeitraum
vom Ende des 19. Tahrhunderts bis zum ersten Weltkrieg zusammenfaIit. Au・
Berdem bin ich fest davon 弘berzeugt, daB die "FidekiommiBfrage" als unser
gegenw邑rtiges Thema eine wichtige Rolle bei dem germanisch-slawischen Nationalit邑tenkampf in der zustandigen Gegend gespielt hat. Durch ein deutsches
FideikommiB und ein anderes polnisches, die gleichzeitig in der Provinz Posen
bestanden, wurde der wirklich sehr starke Kontrast im wechseltollen Schicksal
beider Fideikommisse hervorgehoben. Das FideikommiB ist eines der wesent1ichen Momente, die auf "das komplizierte und schmerzhafte Problem der preuBisch-polnischen Nachbarschaft" (K. ZERNACK) einen dunklen und nicht kurzen Schatten geworfen haben.
Mit dieser Abhandlung mochte ich die historische Bedeutung der problematischen Lage, die man sozusagen als Hdeutsch-polnische Beziehungsgeschichte und
FideikommiBfrage" bezeichnen konnte, und die em wichtiges Moment der europ邑ischen Grundeigentumsprobleme w芝hrend des ersten Weltkriegs darstellte,
systematisch erforschen. Dazu soil der EntwicklungsprozeB der Landpolitik als
erne Achse "negativer Polenpolitik" (K. ZERNACK) im wilhelminischen Kaiserreich, insbesondere die gewaltsame Durchfiihrung der Enteignungspolitik von
1907/12, geschichtlich analysiert und die Einzelfalle der Fideikommisse aufgrund
der
zahlreichen
Archivalien,
die
dasバDeutsche
Zentralarchiv,
Dienststelle
Merseburg" besitzt, positiv untersucht werden.
Dazu w邑re folgendes in Betracht zu ziehen: (1) wenn man den sozialokono-
misch-politischen Hintergrund der hiesigen Fideikommififrage erklaren will, so
mttBte zun邑chst danach gefragt werden, wie man sich iiber die Umstande urn
das Zustandekommen des Enteignungsgesetzes, das besagte, daS polnische Grandstiicke der Ostmarken auf dem Wege der Enteignung zu erwerben seien, als
erste notwendige Vorbereitungsarbeit am besten einen Uberblick verschaffen
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kann. (2) Unsere zweite Aufgabe besteht dann darin, eine realistische Darsteト
lung von dem Verlauf zu geben, den ein deutsches Fideikommiβ bis zur Erlangung der landesherrlichen Genehmigung im Jahre 1916 genommen hat.
(3) Uberdies m凸ssen wir mit allem Nachdruck feststellen, daB vor Ausbruch
des Weltkriegs, im Jahre 1912, die sehr groBe FideikommiB-Herrschaft eines
polnischen Magnaten von der preufiischen Regierung tats邑chlich eingezogen und,
weil im Besitz des preuβischen Fiskus, schlieBlich an die deutsch-preuBische
Ansiedlungskommission abgetreten wurde. Mit einigem Recht kann man wohl
sagen, daB diese Angelegenheit de facto eine tragische Landenteignung
(4) Zum SchluB mochte ich meine eigentlichen Untersuchungen darlegen, urn
die Gesamtheit des uns beschaftigenden Problems zusammenzufassen.
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