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教育学部論集 第20号(2009年3月)
論文の概要および審査結果の要旨
氏 名(本 籍) 廣 田 佳 彦(兵庫県)
学 位 の 種 類 博士(教育学)
学 位 記 番 号 乙第 1 号
学位授与の日付 平成 20 年 2 月 27 日
学位授与の要件 佛教大学学位規程第 6 条
学 位 論 文 題 目 『近代日本の教育と宗教―公教育再考―』
論 文 審 査 委 員 主査 山
高哉(佛教大学教授)
副査 田中圭治郎(佛教大学教授)
副査 武安 宥(関西学院大学名誉教授)
1.論文の概要
2006(平成 18)年 12 月、教育基本法がおよそ 60 年ぶりに改正されたが、それに際し、国
家とは何か、また国家が教育にどうかかわり、宗教をどう扱うか、が活発に論議された。本
論文は、このような問題の因って来たる所を、近代日本における公教育の成立期にまで遡っ
て検討し、近代日本の公教育における最も基本的な問題が国民教化と徳育の問題であったこ
とを明らかにするとともに、とりわけ教育と宗教とのかかわりという視座より、この問題が
その後の歴史の流れの中でどのような変貌を遂げてきたのかを解明し、今後の日本の教育が
進むべき方向を探ろうと試みたものである。本論文は、「はじめに」と第Ⅰ部 4 章、第Ⅱ部 2
章および「おわりに」から構成されている。
「はじめに」において、論者は、公教育が、ヨーロッパにおいては、宗教改革、市民革命、
産業革命などの社会変革を契機とする近代市民社会の成立を前提としていたのに対し、日本
では、市民社会の成立をみることなく、国民統合をめざすべく国家主導で進められたため、
近代日本の公教育は、国家と教育の問題をつねに包含するものであったことを指摘している。
また、そのような公教育の在り様は、論者によれば、イギリスやフランスでは、市民の生き
方に資する教育または独立自尊を可能ならしめる人間形成を求めるのに対し、資本主義の形
成に遅れたドイツと近代化をひたすらめざす日本では、国民性の形成に着目する。特に日本
では、国民に固有の特性を「國體」という言葉で表現し、
「萬世一系」の皇統をもって基礎と
成す國體に基づく人間性の陶冶をめざした。その後さらに、明治後期に「國民道德」という
表現が用いられ、「國體に則り肇國の精神を奉體すること」、すなわち「敬神崇祖」の精神が
その道徳の根本理念となり、国民教育の理念ともなった。論者は、このことこそ、まさに国
民教化の問題であり、その具体化である徳育の問題であると指摘する。
第Ⅰ部において、論者は、近代日本の始まりにおける教育と宗教とのかかわり、特に公教
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論文の概要および審査結果の要旨
育と宗教とのかかわりおよび公教育と徳育とのかかわりについて考察している。
第 1 章「公教育と宗教」においては、まず 1872(明治 5)年の「学制」発布から 1879(明
治 12)年の「教育令」制定に至る過程で、明治天皇による『教学聖旨』(1879 年)が示され
る経緯を中心に、元田永孚(1818-1891)と伊藤博文(1841-1909)との間で交わされた日本の
教育理念および方針に関する論議が国民教化の問題であり、徳育をめぐる問題であったこと
が示される。次に、1890(明治 23)年に発布される『教育ニ関スル勅語』の成立過程が、文
部省によって最初に草案の作成を委嘱された中村正直(1832-1891)の教育勅語第一原案作成
の経緯を手がかりに考察される。
「天ヲ畏ルルノ心」や「神ヲ敬ウノ心」を「万善ノ本源」と
した中村案は法制局長井上毅(1843-1895)によって宗旨上の争い等の契機となると批判され、
最終的には井上案が採用されることになるが、ここに、論者は教育と宗教とのかかわりにつ
いて必然的に論じられるようになる契機を見出している。
第 2 章「徳育と宗教」において、論者は、天皇制を中心とする近代国家建設の過程で、国
家と宗教との関係が大きな問題となったことを指摘する。すなわち、王政復古した明治新政
府は、祭政一致の国家体制を整えるべく神道国教化政策をとり、その中で神社神道は国家の
保護・統制下で皇室神道と結合され、国家の存在証明に一役買うことになる。1889(明治 22)年、
大日本帝国憲法が発布され、第 28 条で「信教ノ自由」は認められたが、神社神道が実質上国
教として優遇された。翌年発布された『教育ニ関スル勅語』も天皇の名のもとに国民に示さ
れた道徳体系であり、国家神道の事実上の教典となっていく。
論者は、以上のような時代背景を叙述した後、まず初めに、明治初期のキリスト者の一人
小崎弘道(1856-1938)を採り上げ、彼が教育、なかでも徳育と宗教との「適当なる結合」の
必要性を説いたことを明らかにする。続いて、1891(明治 24)年に起こった第一高等中学校
教員内村鑑三(1861-1930)による「教育勅語」拝礼躊躇問題、「内村鑑三不敬事件」や「熊
本英学校事件」をきっかけに教育と宗教、具体的には教育勅語とキリスト教との関係が問題
視され、井上哲次郎(1855-1944)が先頭に立って展開した「教育と宗教の衝突」論争が詳細
に検討され、徳育と宗教とのかかわりを詳らかにしている。さらに、「教育と宗教の衝突」論
争に関与した井上哲次郎、大西祝(1864-1900)の論攷を手がかりに、人格の完成と宗教との
かかわりが考察される。
第 3 章「公教育と徳育」において、論者は、公教育における徳育の意義を、明治末期の 1900(明
治 43)年から第二次世界大戦の敗戦に至るまで日本国民が守るべき道徳規範として定められ
た一種のイデオロギーとしての「國民道德」を手がかりに検討し、近代日本の教育における
道徳の位置づけを究明している。すなわち、井上哲次郎を初め、穂積八束(1860-1912)、藤
井健治郎(1872-1931)、キリスト者海老名弾正(1856-1937)、和辻哲郎(1889-1960)の「国
民道徳論」を採り上げ、特殊(=国民道徳)と普遍(=世界道徳)の関係から考察を加えて
いる。さらに、論者は、国民道徳と倫理学との関係について、特に井上哲次郎の「家族国家観」
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教育学部論集 第20号(2009年3月)
に着目し、この家族国家観が祖先崇拝の観念と結びつき、國體の観念に結実していく経緯を
詳らかにしている。
第 4 章「近代日本の教育と宗教」は、まず森有禮(1847-1889)の論文 Religious Freedom
in Japan 1872 を中心に、若き日の彼の宗教観と教育思想について検討し、森が教育を国家繁
栄の根本ととらえるとともに、真の意味における人間形成は「良心と本心の自由」
「信仰宗教
の自由」にかかわる問題であるとみなしたことを明らかにしている。次に、森にとってナショ
ナリズムとは何であったかが問題とされ、森の前半生の啓蒙主義的在り方から後半生の国家
主義的在り方への変化が近代日本の国家政策、なかでも国家と教育、国家と宗教、教育と宗
教とのかかわりの変化と軌を一にしていることが指摘される。
第Ⅱ部では、論者は、このたびの教育基本法改正において、その前文や教育の目的 ・ 目標
に謳われた「日本の伝統と文化の尊重」と「公共の精神の育成」がいったい何を意味するのか、
を検討している。
第 1 章「教育の言説における『日本の伝統と文化の尊重』の意義」においては、日本およ
び日本文化を問うことの意味が「伝統の創出」という視座より考察される。すなわち、伝統
の創出について、まず長谷川如是閑(1875-1969)の『日本的性格』『續日本的性格』を手が
かりに考察され、伝統は「生活形態の傳承の系列」であり、新たに形成され得るものである
とともに、その「持ち主には、優越感を伴ふこと」に留意すべきであることが指摘される。
次に、小宮豊隆(1884-1966)の『傳統藝術研究』を通して、伝統のもつ偏狭性を乗り超え、
つねに伝統の創生と転生を求める必要性が強調される。続いて、論者は、日本の文化に基づ
く「特殊性」の考察に移り、それが天皇制をどうとらえるのかという問題につながっている
とする。なぜなら、この問題は、日本の伝統の特徴が「一定系統」の文化、つまり「萬世一系」
である天皇制を維持しているところにあると考えられ、日本の古代国家が「家族國家の信仰」
のもとに存立したことに大きな意味を見出すからである。
第 2 章「教育の言説における『公共の精神の育成』の意義」において、論者は、和辻哲郎
の『風土』を手がかりに、公共の精神の育成を近代日本社会の家族主義との関連で検討して
いる。和辻によれば、日本人においては、個人の存在より「家」が優先し、「家」が家族の全
体性を意味する。そして、この家族の全体性が歴史的に祖先崇拝の形態をとり、明治期にお
いて「神の国」日本の精神復興となり、日本の国民は「皇室を宗家とする一大家族」であり、
国家は「家の家」であるとみなす天皇制イデオロギーへと発展していくのである。
第二次世界大戦後、この家族制度の本質的な見直しが日本の民主化の中で進められる。そ
こで論者は、
近代日本の家族制度の本質からの問い直しを試みた川島武宜(1909-1992)の『日
本社会の家族的構成』によりながら、家族制度の在り様と公共の精神の育成との関連を考察
している。すなわち、日本の家族生活の基本原理の一つに「封建武士的、儒教的家族の基本
原理」があり、この原理は「個人的責任」という観念を欠き、民主的かつ近代的な社会関係
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論文の概要および審査結果の要旨
の原理とは根本的に異なっている。また、家族の秩序は一つの権威であり、しかもこの権威
が「人情的情緒的性質」を有するため、権力がそのまま権力として現れず、ここでも「個人
的責任」という観念が生まれることはない。さらに、川島によれば、『教育ニ関スル勅語』が
とりわけ近代日本の家族制度イデオロギーを補強する役割を果たした。その家族制度イデオ
ロギーとは、まずは親の存在が絶対であり、子は親に対して服従すべき義務を負い、この親
と子の関係を天皇と臣民との関係に類推して天皇の親心を強調し、さらに、天皇と臣民との
関係を本家分家の同族集団の関係に擬し、臣民の宗家たる天皇に対する忠誠義務を強調する
教説である。そして、この擬制の教説に国家神道が結びつき、祖先崇拝という原始信仰に近
い神概念を利用して、この神が父母の先祖であるという理由で神道の神が説明され、天皇の
神々を最高位に据えることを承認する国家神道が正当化されていったのである。
以上の考察の結果、論者は、
「公共」にかかわる問題の解明には、日本人と西洋人の「家」
に対する考え方の違いに注目すべきであると言う。すなわち、西洋においては、公共の生活
が人間生活の基本と位置づけられ、公共の生活を重視する姿勢があり、その中で、公共社会
に埋没することなく「自己の精神の確立」と「権利意識の覚醒」が求められるのに対し、日
本では、全幅の信頼に基づく家庭生活における「分け隔てのない関係」が重視され、これが
他の何ものにも換え難い安らぎや愛情を実感させる一方、日本人の家庭外に対する対応を淡
白ならしめ、公共に対する無関心とその無関心さの結果としての公私の混同をもたらしてい
るとされる。
公共の精神の育成のためには、自己の精神を確立した個人が、家族は言うまでもなく社会
および国家に対して共通の目標と感情をもって連帯意識を形成することを求められるが、し
かし、論者は、この個人主義に基づく家族像と日本の従来の「家」制度に基づく親族の共同
性との関係については、いまだ課題が残されていると指摘している。
「おわりに」において、論者は、学制に始まる近代日本の公教育の歴史を概観した後、本論
文の主題が、学制発布から教育令制定に至る過程で、国民教化の問題が端的に徳育の問題と
してとらえられ、明治新政府の天皇親政国家構想の中の重要課題の一つに位置づけられる経
緯を明らかにすること、
『教学聖旨』から『教育ニ関スル勅語』渙発に至る過程において国家
神道に基づく「国教」樹立を図ろうとした問題を教育と宗教とのかかわりから検討すること、
さらに、そこで生起した諸問題の解明が、改正教育基本法に規定されている「日本の伝統と
文化の尊重」と「公共の精神の育成」を契機に、改めて今日の教育の進路にとって大きな意
義をもつに至ったことを指摘することにあったとまとめている。
最後に、今後に残された研究課題として、論者は、近代日本の教育の歩みにおいて果たし
た明治天皇の侍講元田永孚の役割を彼の教育思想研究を通してさらに解明することを挙げて
いる。
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教育学部論集 第20号(2009年3月)
2.審査結果の要旨
本論文は、2000(平成 12)年 12 月、内閣総理大臣の私的諮問機関「教育改革国民会議」
が最終報告で「教育振興基本計画と教育基本法」の検討を提言し、それを受けて中央教育審
議会が 2003(平成 15)年 3 月に出した答申「新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興
基本計画の在り方について」以降活発になり、2006 年 12 月の教育基本法改正により一層高まっ
た教育基本法改正論議に触発されて、論者が国家とは何か、また国家が教育にどうかかわり、
宗教をどう扱うか、という問題の原点を近代日本における公教育の成立期にまで遡って探る
とともに、とりわけ教育と宗教とのかかわりという視座より、この問題がその後の歴史の流
れの中でどのような変貌を遂げていくのかを解明し、今後の教育の確かな指針を見出そうし
たものである。本論文は全編、絶えず現実の教育問題から出発し、その問題の本質をどうと
らえ、その問題にどう対処すればよいかを探るため、歴史を遡って、その問題の祖形を見つ
け、それが歴史の流れの中でどのような制約を受け、かつどのような変容をこうむったかを
掘り下げ、見定めようとする論者の真摯な姿勢によって貫かれている。このような論者の研
究姿勢は、当然と言えば当然であるものの、研究対象ないしテーマの「歴史性」に対する考
察と反省が欠落し、安易な「あるべき」論が横行する今日、やはり評価に値するものとして、
強調しておきたい。
本論文のオリジナリティとして真っ先に指摘すべきは本論文のテーマ「近代日本の教育と
宗教」に関する先行研究の少なさである。
「教育と宗教」というテーマに拡げても、国際宗教
研究所編『教育のなかの宗教』
(新書館、1998 年)、山口和孝著『子どもの教育と宗教』
(青
木書店、1998 年)
、杉原誠四郎著『日本の神道・仏教と政教分離―そして宗教教育』
(文化書
房博文社、2001 年)、江原武一編著『世界の公教育と宗教』(東信堂、2003 年)、杉原誠四郎・
貝塚茂樹・大崎素史著『日本の宗教教育と宗教文化』(文化書房博文社、2004 年)などがあ
るに過ぎない。それほどに教育と宗教との関係についての理論的考察は、その重要性の割に
は限られているのである。そのような状況のもとで、論者が近代日本の始まりにおける教育
と宗教との関係、特に公教育と宗教との関係を主題とし、とりわけ『教学聖旨』から『教育
ニ関スル勅語』渙発に至る過程において企図された国家神道を基盤とした「国教」樹立の問
題に真正面から取り組み、その全容を明らかにしていることは、本論文のオリジナリティと
して高く評価できるし、今日、教育と宗教との正しい関係をどう構築していくかが問われて
いるときだけに、本論文は時宜に適ったものとして評価することができよう。
教育と宗教のかかわりに関する考察の「希少価値」といった形式面での評価のほかに、論
者が元田永孚の近代日本の教育の在り様に及ぼした影響―それは、一般的には、あまり評判
のよいものではないが―、すなわち、①元田が明治天皇の意向を受けて 1879 年の「教育令」
公布直前に『教学聖旨』を起草し、「教學ノ要」は「仁義忠孝」であり、「学制」以後の教育
が知識才芸の「末」に走ったことを批判したこと、
②『教学聖旨』をめぐり伊藤博文と論争し、
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論文の概要および審査結果の要旨
新たに国教を立てるのではなく、「祖訓ヲ敬承シテ之ヲ闡明スル」ことの必要を説いたこと、
③ 1881(明治 14)年に『幼学綱要』を著し、
「孝行第一」「忠節第二」とする儒教主義的徳育
を知育より優先する教育方針を示し、その後の教育政策がこれを基本として進められたこと、
④ 1890 年発布の『教育ニ関スル勅語』の成立過程で、井上毅に協力して、その起草と発布に
中心的な役割を果たしたことなどについて詳らかにし、元田が国民教化と徳育の問題を近代
日本の公教育形成における最も基本的な問題として位置づけ、このたびの教育基本法改正論
議にもその影響を及ぼしていることを明らかにした点を、まず第一に評価したい。
第二に、評価できるのは、論者が内村鑑三の「不敬事件」をきっかけにして展開された「教
育と宗教の衝突」論争の顛末を、井上哲次郎を初め、彼を批判したキリスト者大西祝の見解
を紹介しながら検討するとともに、事件を起こした側の内村自身の弁明や熊本英学校の「奥
村事件」の背景にある「熊本バンド」―1876(明治 9)年に熊本英学校の生徒間に結成され
たプロテスタントの集団―の存在や熊本英学校の建学の精神にまで考察の範囲を拡げている
ことである。この論争の考察を通して、論者は、「体制派イデオローグ」としての井上のキリ
スト教批判が当時としてはキリスト教に大打撃を与えたものの、今日的観点からみれば、必
ずしも説得力のあるものではないことを明らかにしている。
次に、本論文の最大のオリジナリティとして評価できるのは、論者が明治末期から第二次
世界大戦終了に至るまで日本国民が守るべき道徳規範として定められた「国民道徳」を手が
かりに、公教育における徳育の意義について考察したことである。実は、この「國民道德」
に関する先行研究もあまり多くない。近年では、森川輝紀著『国民道徳の道―「伝統」と「近
代化」の相克―』
(三元社、2003 年)と関口すみ子著『国民道徳とジェンダー』
(東京大学出
版会、2007 年)を数えるのみである。そして、これらの著書の主たる研究対象が、前者では
元田永孚、井上哲次郎、吉田熊次(1874-1964)、後者では福沢諭吉(1834-1901)、井上哲次郎、
和辻哲郎、丸山真男(1914-1996)等に限られているのに対し、論者の考察は、井上哲次郎は
もとより、穂積八束、藤井健治郎、海老名弾正、和辻哲郎にまで及んでいる。たしかに、個々
の国民道徳論に対する考察の深さにやや欠ける点がなきにしもあらずであるが、採り上げら
れた論がバラエティに富み、政教分離により教育と特定の宗教とのかかわりは否定するが、
それにかわるものとして「国民道徳」という名を借りた教育勅語の「擬似宗教化」が推進さ
れたねらいと問題点を多角的に浮かび上がらせている。
論者は、さらに、特に井上哲次郎の「家族国家観」に着目し、この家族国家観が祖先崇拝
の観念と結びつき、「萬世一系の天皇」という縦の時間軸である継続性を強調し、「國體」の
観念に結実していく経緯を詳らかにするとともに、和辻哲郎や川島武宣の歴史的考察を援用
しながら、このようなとらえ方の見直しの観点を示している。また、論者が、このたびの改
正教育基本法に規定されている日本の「伝統と文化を尊重」することや「我が国と郷土を愛
する」こと、それに家庭教育の教育力の回復をねらって家庭教育に独立の条文(第 10 条)を
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教育学部論集 第20号(2009年3月)
立てること等が井上の家族国家観とその後の展開と共通の方向性を有することを明らかにし、
今後の教育の進むべき方向を考えるに際し、大きな検討課題であることを指摘しているのも、
本論文のもつ大きな価値として挙げることができるであろう。
以上、本論文の主たるオリジナリティや価値について述べたが、もちろん、問題点がない
わけではない。二三指摘しておきたい。
第一は、論者が「温故知新」の態度でもって過去の歴史的事実を検証し、新しい時代に対
応しようと試みた点は高く評価するものの、その検証の結果に基づいて、現実の問題解決の
ための何らかの方策をもっと積極的に打ち出すべきではなかったか。論者の慎重で禁欲的な
研究態度のしからしむるところとはいえ、惜しまれる。
第二は、本論文は第Ⅰ部と第Ⅱ部に分かれているが、第Ⅰ部と第Ⅱ部にそれぞれ標題が付
されておらず、また、両者に分けた理由と両者の関連が明示的に記されていない点も問題で
ある。論文出版時には、配慮されたい。
第三は、公教育と宗教との関連についての考察に際して、佛教の果たした役割に論及され
ていない点である。例えば、清沢満之(1863-1903)が教育勅語や「教育と宗教の衝突」論争
に対してとった態度への考察があれば、本論文で明らかにされた教育勅語とキリスト教との
衝突を超えた、文字通りの「教育と宗教の衝突」論争に関する考察になり得たのではなかろ
うか。
しかし、このような問題点は、いささか「ないものねだり」の感も否めず、本論文の価値
を損なうものでは決してない。
よって、本論文は、博士(教育学)の学位(乙種)を授与するにふさわしい論文と認める。
― 77 ―
論文の概要および審査結果の要旨
論文の概要および審査結果の要旨
氏 名(本 籍) 平 松 隆 円(滋賀県)
学 位 の 種 類 博士(教育学)
学 位 記 番 号 甲第 2 号
学位授与の日付 平成 20 年 3 月 14 日
学位授与の要件 佛教大学学位規程第 5 条
学 位 論 文 題 目 日本の生活文化における化粧
論 文 審 査 委 員 主査 山
高哉(佛教大学教授)
副査 西之園晴夫(佛教大学教授)
副査 田中圭治郎(佛教大学教授)
1.論文の概要
学籍番号 : 0572-005
本論文は、これまで化粧品や化粧方法に関する歴史的研究に限定され、しかもその研究対
象が中国や西洋に重点が置かれていた化粧史研究に対して、化粧を社会的、文化的現象の一
つとみなし、化粧が特に日本の生活文化の中でいかなる変遷・展開を辿ってきたのかを究明
するとともに、女性のみを研究対象として進められてきた従来の、化粧の心理学的、生理学
的研究に対して、青年男子をも研究対象に含め、男女比較を行うことによって、今日の青年
男女の化粧行動や化粧意識の実態に迫ろうとしたものである。本論文は、「序」と 3 章からな
る本論と「結び」によって構成されている。
「序」において、論者は、化粧は日常的な行動の一つであり、男女を問わず、しかも日本だ
けではなく、世界中で行われているにもかかわらず、化粧が社会的、文化的に特別なリアリ
ティであることについて深く語られることが少なかったと言う。論者によれば、化粧は具体
的な社会的、文化的現象の一つであり、社会や文化、心理と密接に関連した行動様式・価値
基準であり、それに基づく習慣でもある。したがって、化粧は社会や文化の発展の所産であ
り、投影図でもある。このことにより、論者は、化粧研究が単なる興味本位のものではなく、
社会や文化の将来の発展を見通す上に価値ある研究であり、教育学的にも十分意義の認めら
れる研究課題であることを強調する。
さらに、論者は、化粧研究が教育学のみならず、考古学、民俗学、歴史学、国文学、社会学、
医学、化学、心理学など、実に広汎な領域にまたがる学際的、総合的な研究であると指摘し、
化粧の全体像を把握するためには、化粧の「構造」的研究と「動態」的研究が必要であると
提案する。化粧の「構造」的研究とは、時間の流れにあっても比較的変わらない性格をもち
続ける「心理・行動」面に焦点を当てた研究であり、「動態」的研究とは、時系列的な変化を
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教育学部論集 第20号(2009年3月)
繰り返す「文化・風俗」面に焦点を当てた研究である。この両面からの研究を通して、論者は、
化粧の全体像をとらえ、日本の生活文化としての化粧の歴史と現在を明らかにしようとする
のである。
第 1 章「化粧とは何か」において、論者は、化粧の意味と目的 ・ 機能について詳しい考察
を行うとともに、化粧の分類を試みている。
化粧と言えば、一般的には女性が行う顔料を塗抹する行動を想起させるが、現代では、外面、
特に顔面の健康を維持し、容貌を美しく演出するための化粧品や医薬部外品などを用いた行
動の総称になっている。しかし、論者は、有史以来行われてきた化粧のすべてをこの定義でもっ
て説明することはできないとし、化粧の語源や語義の変遷を探る。
化粧の語源には、
「けはひ」
「おつくり」
「みじまい」
「おしまい」などがあり、
「みじまい」
「お
しまい」には「婦人語」だけではなく、
「男女共通して」使われた様子がうかがわれ、化粧は、
歴史的にみれば、女性だけではなく、男性も行っていたと言える。
また、
「けしよう」という語は『源氏物語』や『枕草子』など平安文学の中でも使われ、
「けはひ」
を語源とする「けわい」が鎌倉時代に入り、身だしなみや身づくろいの意味として登場する。
室町時代になれば、
「けわい」の中に「けしよう」が含まれるようになる。このような考察に
より、論者は、化粧には、大きく分けて、顔料を塗抹し美しく飾る装飾と身だしなみや身づ
くろいという二つの意味があることを明らかにしている。
論者は、次に、人類学や民俗学の先行研究を整理し、化粧の機能を四つに大別している。
すなわち、本能・実用・信仰・表示である。本能とは美的欲求・性的欲求など、実用とは防衛・
保温・保護など、信仰とは呪術・禁忌など、表示とは名誉・勲功・経歴・階級・知能・社会
的地位・年齢・職業・種族などを表している。もっとも、化粧はこの四つのどれかに明確に
区分されず、いくつかの組み合せのうちに存在すると言えよう。
化粧の目的や意義は極めて多様であり,複雑に絡み合っているが、論者によれば、基本的
にはさらに二つに大別できるという。「変身」と「よそおい」である。まず、変身であるが、
変身とは素顔に色彩を施したり、眉を書き直したり、まつげを長くするなどして、構造的に
は容易には変えられない顔の特徴を操作し、印象を変えようとすることである。それは、マジッ
ク・タブー・護符や呪いの信仰的象徴としての化粧であり、防衛・カモフラージュ・隠蔽な
どを目的とした実用としての機能を含んでいる。他方、よそおいは、いつもの自分に手を加え、
恒常的に一定の効果をめざす意図を込めた自己の改善行為である。それは、自分が他者にこ
のように認めてほしいという期待の表れであり、他者からどのように評価されるかという懸
念の表れでもある。
第 2 章「化粧の変遷―その動態的理解」では、化粧が日本の生活文化の中で歴史的にどの
ように変遷・展開してきたのかを、「基層化粧時代」「伝統化粧時代」「モダン化粧時代」の三
つに分けて考察している。論者の主張の概要は、以下の通りである。
― 79 ―
論文の概要および審査結果の要旨
まず初めの基層化粧時代とは、化粧が暑さや寒さ、太陽の光や乾燥といった様々な自然条
件から肌を守るための実用的な目的をもつとともに、魔除けや治療といった呪術的な宗教行
為から始まり、所属する集団への帰属意識の表明や性のシンボルなどとして展開していった
時代である。この時代の化粧―イレズミ、白粉や赤色顔料による化粧、涅歯(お歯黒)等―は、
その化粧が行われる地域や社会に関係なく共通している部分が多い。初期は、男性にも女性
にも、化粧に違いはなく、生きるための必然性から化粧が行われたが、しかし、社会の中に
支配者が生じるに伴い、化粧は従属性の象徴となる。男性が女性を、女性が男性を淘汰し選
択する社会では、下位に位置する者が性的、経済的に優位となるべく、上位に位置する者に
対して装う。そして、母権社会から父権社会へと移行するに従い、化粧は主として女性のも
のとなっていく。
次に、伝統化粧時代とは、化粧が社会や文化によって異なる気候風土、自然環境の違いに
由来する美意識に基づき、さらには政治・経済・社会・文化・宗教との関連で行われ、赤色
顔料から白粉の使用への変化もあいまって発展・定着した時代である。この時代においては、
化粧は支配−被支配の関係で行われ、とりわけ男性の化粧は、支配層であっても自己より上
位に位置する最高権力者である天皇との関係で行われた。また、女性の化粧は男性との関係、
特に家長や夫への従属の中で行われた。化粧は、基層化粧時代のように、呪術や信仰、所属
集団の象徴といった直接に生死にかかわるものではないものの、男女とも自己の所属する集
団内で成功し、より有利に物事を運ぶ意味で、そのときの支配者の要求に応じて行われた。
例えば、表情を消去する、白粉による真っ白な顔に小さく紅をさした口元と黒髪は、身分低
く受け身的な印象を与えるために行われた。貴族に代わって新しい支配層である武士が台頭
すると、男性の化粧は、戦いを生業とする者が志向する戦闘的な勇猛で、豪気で、威武なも
のになり、女性は封建社会における貞女を表す、無表情で、人形的、仮面的な濃化粧を行った。
これらの化粧には、社会が好ましく思う習俗が反映しており、道徳・倫理が化粧に影響を与え、
化粧が道徳・倫理に影響を与えている様子がうかがえる。
最後に、モダン化粧時代とは、化粧が技術の発展とともに進歩した化粧品や化粧法を用い、
自己表現の手段として発展した時代である。この時代においては、化粧は支配−被支配の関
係を離れ、展開していく。むろん、伝統化粧時代のような支配層の影響がまったくなくなっ
たわけではないものの、どのような化粧を行うかの自由度が格段に広がったのは言うまでも
ない。
17 世紀に、濃化粧に代わって薄化粧が行われるようになったが、これは支配層である武士
からの要求ではない。庶民生活の中で、伝統化粧の静的、技巧的な特徴でもある厚塗りの白
粉や涅歯、置き墨などの化粧が不自然とみなされ、薄化粧が庶民の支配層に対する忍従の否定、
そして自然で自由な人間性への志向の反映として行われたのである。もっとも、武家の女性
にとっては、表情豊かで自然であることは好ましくなく、江戸時代から 20 世紀前半に至るま
― 80 ―
教育学部論集 第20号(2009年3月)
で、濃化粧をすることが身だしなみであるという意識が残存した。
しかしながら、一部の被支配層の間ではあったにせよ、支配層の要求とは異なる化粧が行
われたという事実は、自然で流動的な社会や文化への志向が生まれはじめたことを表してい
る。実際、化粧が行われたとしても、次第に仮面的なものではなくなり、その時々の生活様
式の変化に合わせられるようになる。特に、20 世紀後半以降においては、細分化された社会
や文化の中で、化粧は多様になり、質的にも深まりをみせるに至った。
基層化粧時代においては、その化粧が行われる地域や社会に関係なく共通している部分が
多いのに対し、伝統化粧時代においては、特定の社会や文化において共通した化粧行動や化
粧意識が存在する。また、伝統化粧が政治・経済・社会・文化・宗教との深いかかわりにお
いて発展し定着したのに対し、モダン化粧時代では、伝統化粧時代において存在した共通化
された化粧行動や化粧意識から解放され、多様な化粧行動や化粧意識が展開している。しかも、
どのような化粧意識をもち、どのような化粧行動を選択するかは、文化や社会からの影響よ
りも、個人の志向や属性により構造化され、決定されている。
第 3 章「化粧と個人―その構造的理解」において、論者は、性格特性といった個人差要因
がいかに「化粧行動」や「化粧意識」と関連しているのかを統計的手法を用いて検討している。
今の若者の化粧をみた場合、彼らが化粧を行うのは、男性であれ女性であれ、化粧への関
心の高さが関連している。論者は、まず 2003 年 7 月に、京都の 4 年制私立大学の学生を対象
に、彼らの化粧関心、化粧行動、異性への化粧行動に対する期待についての調査を行い、女
性は男性から化粧をすることを期待され、化粧をよく行う理由となっているのに対し、女性
は男性が化粧を行うことをあまり期待していない、しかし、現実には、男性性の高い男性ほど、
化粧に関心をもち、化粧をよく行っていることを見出している。
さらに、若者は化粧について、自分らしい化粧をしたい、化粧はおしゃれの一部だと思う
等の「魅力向上・気分高揚」の意識、化粧をせずに他人に見劣りしたくない、化粧をせずに
知人に会うと恥ずかしい等の「必需品・身だしなみ」の意識、それに学生のうちは化粧をす
るべきではない、化粧しても効果がないと思う等の「効果不安」の意識という三つの意識をもっ
ていることが明らかにされた。具体的には、男性では、「魅力向上・気分高揚」の意識が主に
化粧行動に関係し、女性では、「魅力向上・気分高揚」「必需品・身だしなみ」「効果不安」の
意識がすべて化粧行動に関係していた。
次に、論者は、2003 年 12 月に、京都と滋賀の 4 年制私立大学の学生を対象に、彼らの化
粧意識についての調査を行い、自己の外見や他者に対する行動など外からみえる自己の側面
を意識する程度の高さや、他者の化粧や服装など外面に現れた特徴への注意や関心の高さが
化粧行動や化粧意識に影響を与えていることを明らかにしている。これは、化粧行動や化粧
意識が単純に外面への意識の高さだけではなく、他者からの評価的態度への敏感さなどと関
係していることを意味している。このことから、論者は、化粧が個人内で完結する行動では
― 81 ―
論文の概要および審査結果の要旨
なく、他者とのかかわりの中で行われる行動であることを明らかにしている。
最後に、論者は、2004 年 4 月から 8 月にかけて、京都と滋賀にある 4 年制私立大学の学生
を対象に、人物やメディアとの接触の度合いと化粧行動や化粧意識との関連についての調査
を行い、日常的に接する人物やメディアが化粧行動や化粧意識を促進したり、抑制したりす
る要因になっていることを明らかにしている。すなわち、男性では TV、美容情報、異性が化
粧行動を、美容情報、異性、新聞が化粧意識を規定し、女性では TV、雑誌、美容情報、家族、
異性、新聞が化粧行動を、TV、新聞、美容情報、雑誌が化粧意識を規定していた。このこと
からも、論者は、化粧が社会的、文化的現象の一つであることが明らかにされたと主張して
いる。
「結び」において、論者は、本論で述べられたことを改めて要約したのち、今後に残された
課題として次の二つを挙げている。一つは、化粧の生活文化的変遷の再構成を試みるため、
従来の化粧品や化粧方法、化粧流行の歴史的研究とは異なり、社会や文化の中における化粧
と人とのかかわりに関する歴史的研究を行ったが、今後は、基層化粧時代から伝統化粧時代
への展開において生じた赤色顔料から白色顔料の塗抹の変化の原因、モダン化粧時代の初期
において化粧が支配−被支配関係から離れた契機など、それぞれの化粧時代における個別事
象についてより詳しく検討していく課題である。いま一つは、現在の若者を対象とし、化粧
を構造的に理解するために、統計的手法を用いて検討したが、その研究対象が京都と滋賀に
限定されていたので、これを関西圏以外と若者以外の様々な世代にも拡げていくという課題
である。
2.審査結果の要旨
本論文は、
「論文の概要」の冒頭でも述べたように、これまで化粧品や化粧方法の歴史的研
究に限定され、しかもその研究対象が中国や西洋に重点が置かれていた化粧史研究に対して、
化粧を社会的、文化的現象の一つとみなし、化粧が特に日本の生活文化の中でいかなる変遷・
展開を辿ってきたのかを究明するとともに、女性のみを研究対象として進められてきた従来
の、化粧の心理学的、生理学的研究を批判して、青年男子をも研究対象に含め、男女比較を
行うことによって、今日の青年男女の化粧行動や化粧意識の実態に迫ろうとした挑戦的で、
独創的な研究である。
本論文の意義は、第一に、化粧について一般にもたれている固定観念の打破に果敢に挑戦し、
生活文化としての化粧、社会的、文化的現象としての化粧という観念を導入し、「文化史」的
考察を試みたところにある。論者によれば、化粧は、単に外見の美を高めるために顔料を塗
抹し美しく飾り、身体に手入れをするという意味にとどまらず、また個人内で完結する行動
でもない。化粧は、個人と個人の間、さらには集団と集団の間に広がる複合的で多重的な構
造をもっている。化粧には、身だしなみや身づくろいという意味もあり、それぞれの時代の
― 82 ―
教育学部論集 第20号(2009年3月)
社会や文化の内容、例えば、礼や作法が反映している。 したがって、化粧は、それぞれの時
点における社会や文化との深いかかわりの中で伝承され、かつ変遷を重ねてきている。安定
した社会や文化の中では、化粧は、信仰・風習・制度・思想・生き方などとともに、規範的
なものとして受け継がれたが、他方、歴史が変化するとき、新旧の対立と交代に巻き込まれ、
それがまた次の化粧を生みだす素地となった。化粧は、それぞれの社会・文化の雰囲気に適
したものであることを要求され、その社会・文化の雰囲気に応じて秩序ある変遷・展開を遂
げてきた現象である。
化粧はまた、男女を問わず行われる日常的な文化行動の一つである。文化には、言うまで
もなく、抽象化された言語や概念で形成された部分と並んで、明確な言語化や概念化はされ
ていないものの、あらゆる集団が生活の中で生み出し、身体性や雰囲気を包み込んだ部分も
含まれている。ところで、人間は、生れ落ちた瞬間からその社会の文化を、あたかも空気と
同じように吸って、成長することによって、一方では、その社会の他の成員と同じように行
動できる「文化の担い手」になる術を身につけ、自ら属する社会の文化に同化し、それを内
面化する過程で社会の文化を継承・維持する能力を獲得する。しかし、他方、人間は、その
過程で社会の文化を活性化し、創造する能力を発展させることもあり得る。その場合、人間
には他のすべての成員とは違ったその人固有のアイデンティティを確立する可能性が開けて
くる。このように、人間が社会の中で、意識するとしないとにかかわらず、日常的に、しか
も生涯にわたって文化を学習する過程を「文化化(enculturation)」という概念で呼ぶが、こ
れは最も広い意味での教育の概念である。化粧も、このような文化化の過程を経て継承・発
展されていく現象であり、それゆえ、化粧に関する考察は教育学および教育文化史の研究課
題の一つに位置づくものである。しかし、従来、この点に関する認識が見過ごされてきたが、
本論文は、このような社会 ・ 文化現象としての化粧の歴史と現状を主題として採り上げ、然
るべき成果を挙げたことは、本論文の第一の意義と密接に結びついた第二の意義であると言
えよう。
本論文の第三の意義は、論者が主として無意図的、機能的教育である文化化の過程の考察
だけでなく、意図的、計画的な教育の機関である近代学校(大学も含めて)および学校文化
と化粧との関係をも詳らかにしている点にある。いくつか例を挙げよう。① 19 世紀末から
20 世紀の初期にかけては、化粧をせずに登校する女学生は批判された。また、明治期の良妻
賢母主義の女子教育では、礼法―それを担ったのが小笠原流礼法であった―が重視され、化
粧は「女のたしなみ」と教えられた。そして女学校や師範学校で学んだ女学生たちが教師と
なり、赴任校で化粧が女のたしなみであることを生徒に伝えたのである。②学校が女性に対
して、非衛生的で、髪を結うのに費用が掛かり、髪を直すのにも時間が掛かる日本髪を廃止
して、束髪にするよう勧めた。1885 年 9 月、東京女子師範学校の教員や生徒が率先して束髪
を採用し、その普及に一役買ったという。③ 1941 年、文部省によって日本国民の日常的な礼
― 83 ―
論文の概要および審査結果の要旨
法の基準として制定された『礼法要項』にも、「化粧は目だたない程にする。殊更につくり過
ぎるのはよくない。」と定められ、高等女学校で指導された。もっとも、第二次世界大戦の激
化に伴い、化粧品は手に入らなくなり、化粧に関心を向ける余裕はなくなった。④ 1949 年か
ら資生堂が新制高等学校で女生徒を対象に「特別美容講座」を開始し、1969 年からは男子高
校生を対象として始めた。これらの事例は、従来の「教育史」では見出し得ない指摘であり、
本論文が、身体的な感覚や感性の洗練を通して心の形成に向かうという日本文化の基底にあ
る教育観 ・ 学習観が化粧を通してかつての学校教育の中で生かされていたことを明らかにし
た意義は決して小さくはない。
本論文の第四の、そして最後の意義は、化粧研究が教育学はもとより、実に広汎な領域に
またがる学際的、総合的な研究であることを指摘し、実際に、個別の伝統的な学問の枠組み
ではとらえきれない化粧の全体像を把握しようと試みた点にある。すなわち、論者は、化粧
研究を「構造」的研究と「動態」的研究とに分け、構造的研究では、時間の流れにあっても
比較的変わらない性格をもち続ける「心理・行動」面に焦点を当て、動態的研究では、時系
列的な変化を繰り返す「文化・風俗」面に焦点を当てた研究を行っている。
化粧の動態的研究のもつ独創性には冒頭で触れたが、そのほかに、論者が化粧の歴史の時
代区分として、これまでの政治史的区分―例えば、原始、古代、中世、江戸、近代、現代等
―に異を唱え、化粧とそれを行う人との関係、社会や文化における化粧の位置づけを基準と
して「基層化粧時代」
「伝統化粧時代」
「モダン化粧時代」という新たな区分を提唱したことは、
その命名の適切性はともかく、評価するに値する。また、論文の随所に図像が散りばめられ、
論述の補完の役割を果たしており、これら 33 点にのぼる図像は、化粧史の貴重な資料収集の
一つに数えられるであろう。
化粧の「構造」的研究についても、すでに、その独創性を指摘したが、この部分およびこ
れに関連した論者の研究が 2006 年度日本繊維製品消費科学会学会奨励賞や 2008 年度佛教大
学学術奨励賞を受賞し、その学術的意義を専門学会および学外の専門家を含む審査委員によっ
て認められていることを付言しておこう。
本論文は、以上のように、理論的に高く評価できる独創性を豊かに備えているが、論者の
今後さらなる研究の発展を期待して、問題点をいくつか指摘しておくことにしよう。
第一に、論者自身の問題意識をもっと前面に卒直に出し、本論文の自らオリジナリティあ
りと信じるところを「序」において表明すれば、本論文の意図するところがより明確になり、
よりよく理解されるのではなかろうか。
第二に、たしかに、本論文は、化粧史の「主流」を鮮やかに描いてはいるが、しかし、い
くつにも枝割れし、入り組んだ個別の流れや事象の考察には不十分さが残されているし、個々
の叙述において、その時代的、社会的背景にもっと立ち入った考察を加えるとともに、過去
の時代に生きた人々の内面に分け入り、共に考え、感じようとする構えが必要なのではないか。
― 84 ―
教育学部論集 第20号(2009年3月)
第三に、第 1 章および第 2 章で明らかになった化粧行動の説明要因をモデル化して、第 3
章における若者の化粧行動や化粧意識の分析に生かすべきではなかったか。化粧の動態的研
究と構造的研究との関連をもっと有機的、相関的にとらえる必要があるのではないか。
第四に、データの統計的処理に関して、主要な分析手法を駆使しているが、データの取り
方にもう一工夫がいるのではないか。また、データを整理する際に、命名の仕方が単純すぎ
はしないか。さらに、アンケート調査だけで、インタヴュー調査を行っていないのは、問題
ではないか。
以上、審査委員により指摘された本論文の主たる問題点を列挙した。いずれも本質的な指
摘であるが、これらの問題点は、論者自身も口頭試問で指摘を受けて今後の課題であること
を認め、その解決に向かって精進を続ける旨を表明しており、早晩解決され得るであろうし、
課程博士論文としての価値を損なうものではない。
よって、本論文は、博士(教育学)の学位(甲種)を授与するにふさわしい論文と認める。
― 85 ―
論文の概要および審査結果の要旨
論文の概要および審査結果の要旨
氏 名(本 籍) 松 本 芳 子(島根県)
学 位 の 種 類 博士(教育学)
学 位 記 番 号 甲第 3 号
学位授与の日付 平成 20 年 3 月 14 日
学位授与の要件 佛教大学学位規程第 5 条
学 位 論 文 題 目 島根県における初等教育機関成立過程の研究
―明治期の私立小学校から公立学校への移行を中心として―
論 文 審 査 委 員 主査 田中圭治郎(佛教大学教授)
副査 竹内 明(佛教大学教授)
副査 山
高哉(佛教大学教授)
1.論文の概要
明治 5 年「学制」が頒布された。それは、従来の藩主体の教育から、明治政府主体の教育
への転換を意味しており、教育の東京一点集中主義の始まりであった。江戸時代においては、
藩校、寺子屋というように身分制に裏打ちされた複線型学校制度が存在し、教育機会の平等
性に関して限界はあるが、文化的拠点つまり文化活動の場は、藩単位であり、教育の地方分
権が維持されていたのである。しかしながら、明治時代に入ると、欧米の影響の下、全ての
子ども達が通学する小学校をはじめとする単線型、ないし分岐型とよばれる学校制度が導入
される。本論文は、これらの制度の導入過程を初等教育、さらに島根県に焦点を当てて論述
するものである。特に、当初、初等教育機関の維持のために財政難という理由から地域住民
に受益者負担を強いたのであるが、その実態をさまざまな資料から解明している。論文は、
序章、第 1 章から第 5 章までと終章から構成されている。
序章の内容は以下の通りである。「研究の主題と目的」において、明治時代を近代公教育の
基本体制が形成された時期としてとらえ、この時期の教育問題が現在の教育に連綿として影
響を与えているとする。論者は、現在問題となっている「学校」、
「学校教育」
、
「教師の在り方」、
「地域・家庭・学校」、「不登校」等々の解決の糸口が初等教育成立の過程を解明する中から浮
かび上ってくるのではないかと期待する。島根県の小学校に勤務する論者にとって、自己の
足元の島根県の教育の歴史が自己の日常活動に多くの示唆を与えてくれるとする。島根県特
に松江藩の教育問題から説き起こし、明治期の公立小学校の成立過程を解明していく。特に、
小学校が、財政的裏付けがない状態で公教育化、義務教育化される時、地域住民の支えが必
要になる。京都市の番組小学校に代表されるように、地域の人々の寄付によって成立した小
学校の事例は散見される。本論文は、田部小学校、山本小学校という明治中葉以降も存在し
― 86 ―
教育学部論集 第20号(2009年3月)
た私立小学校に焦点を絞り、島根県の教育の特徴を描き出そうとした。
「研究方法及び研究内
容」において、地域教育に関するさまざまな資料、先行研究に当たり、それらを参考、参照
しながら研究している。論者は、小学校の成立過程は、明治時代中期までは、従来言われて
いたほど画一的でないことを、地域教育史の研究の中から解明しようとする。「地域の学校」
のあり方が問われ、また、教育問題が山積している今日、明治期の小学校成立過程を見て行
く事は我々に多くの示唆を与えてくれるとする。
第 1 章「わが国における小学校の成立過程」は、第 1 節「明治前期の教育思想・教育研究」、
第 2 節「明治前期の教育政策」、第 3 節「「学制」成立上の諸問題」、第 4 節「「学制」以降の
教育政策」
、第 5 節「国家体制の確立と教育」により成り立っている。第 1 節「明治前期(明
治元年から明治 20 年代)の教育思想・教育研究」では、
「五カ条の御誓文」が成立した経緯
が、第 2 節「明治前期の教育政策」では、「学制」成立前後の教育事情、成立の経緯、成立後
の実施状況が、第 3 節「「学制」成立上の諸問題」では、財政的裏づけのない状態での公教育
施行、および就学率の低さ等様々な問題が噴出したことがそれぞれ述べられている。第 4 節
「「学制」以降の教育政策」では、「学制」
、「教育令」
、「改正教育令」への流れを、国家の教育
管理政策との関連の中で、第 5 節「国家体制の確立と教育」では、初代文部大臣森有礼の教
育政策、理念さらに「小学校令」、「第二次小学校令」の成立の経過が述べられている。第 5
節が取り扱っている最も大きなテーマは、
「教育勅語」の成立とその浸透状況である。近代日
本の教育の精神的真髄としての「教育勅語」は、後の教育に与えた影響は大なるものがある。
以上の第 1 章の内容は明治前期の日本の教育を通史的に記述することにより、わが国の公教
育の成立過程を初等教育に焦点を当てて述べ、第 2 章以下の内容につながっていく。
第 2 章「出雲国(島根県)における近世の教育」は、第 1 節「出雲国(松江藩)における
近世の教育」
、第 2 節「出雲国(松江藩)における幕末・維新期の教育環境」
、第 3 節「出雲
国(母里藩・広瀬藩)における近世の教育」
、第 4 節「出雲国における近世期の庶民教育」に
より成り立っている。第 1 節「出雲国(松江藩)における近世の教育」では、藩校、文明館
の成立、さらに明教館への改称についての記述があり、
「明教館教導条目」のなかでの教授内容、
規則等当時の藩校の教育実践の説明が詳しくなされている。第 2 節「出雲国(松江藩)にお
ける幕末・維新期の教育環境」では、藩校を改革し、文武両道の修道館を設立する経緯がの
べられ、修道館の学則表を明示することで当時、どのような教科が教授されていたかを知る
ことができる。第 3 節「出雲国(母里藩・広瀬藩)における近世の教育」では、松江藩の支
藩においても、教育が盛んに行なわれ、出雲地方全体での教育活動が活発であることを示し
ている。第 4 節「出雲国における近世期の庶民教育」では、私塾、寺子屋での教育の実態が
説明されている。第 2 章では明治以前の出雲国の教育状況を示すことにより、明治以降の島
根県の教育の状況の根本部分を説明しようとしている。
第 3 章「島根県における小学校の成立過程」は、第 1 節「幕末・維新期の教育事情」、第 2 節「「学
― 87 ―
論文の概要および審査結果の要旨
制」期の島根県(出雲部)の教育事情」、第 3 節教育令期における島根県(出雲部)の教育事情」、
第 4 節「
「小学校令」期の島根県(出雲部)の教育事情」より成り立っている。第 1 節「幕末・
維新期の教育事情」では、庶民のための学校、郷学校を取り上げている。論者は、倉沢剛の
説を引用し、藩主導の郷学校、藩民協立の郷学校、人民主導の郷学校が存在するとしている。
この節では、藩民協立の松江藩の教導所と母里藩の大塚郷校を取り上げ、島根県の教育のルー
ツを求めようとしている。第 2 節「「学制」期の島根県(出雲部)の教育事情」では、明治 6
年の県独自の「小学校規則」の制定に触れている。この規則は、翌明治 7 年の文部省頒布の「小
学規則」に取って代わられるのであるが、県独自のものであることに、論者は注目し、島根
県の教育の独自性を見出そうとしている。第 3 節「
「教育令」期における島根県(出雲部)の
教育事情」では、「教育令」、「改正教育令」期の小学校の教育内容、設置状況と就学状況が述
べられている。この時期が、島根県の初等教育の礎であることが、論述されている。第 4 節「「小
学校令」期の島根県(出雲部)の教育事情」では、
「小学校令」期の教育が徐々に充実してい
ることがわかるのであるが、小学簡易科課程、尋常小学校子守教授等、学校に行くことが困
難な児童のための学習機会を保障することにより、就学率・在籍率を挙げている。この章では、
島根県の小学校の確立の状況をさまざまな資料を使い説明している。
第 4 章「島根県における私立学校について」は、第 1 節「私立小学校に関する主な規則・
通達等」
、第 2 節「私立学校の黎明」、第 3 節「小学校令後期の私立小学校」より成り立って
いる。第 1 節「私立小学校に関する主な規則・通達等」では、公立小学校を補完するための、
すなわち代用私立小学校の規則が述べられている。論者によれば、私立学校の諸規則が厳し
く課せられているという事実は、代用の私立の小学校が、公立と同等と見なされ、県下の初
等教育機関として重い責任を担っていたと主張する。第 2 節「私立学校の黎明」では、明治
19 年代までは、私立の学校の殆どが夜学であり、徐々に整理・廃校となっていくことを説明
している。第 3 節「「小学校令」後期の私立小学校」では、私立小学校が整理されていく中で、
存続し続けた学校、または新たに設立される学校の存在について述べられている。これらの
動きは、論者が島根県の初等教育機関の特徴として捉えているところであり、本論文の意図
する点である。すなわち、私立学校や受益者負担の公立学校から、公費維持の公立学校の流
れの中で、私人経営の私立小学校が出現したことなのである。論者は、これら私立学校の設
立の経過に注目する。
第 5 章「島根県(出雲部)における小学校の事例」は、第 1 節「松江雑賀南小学校の成立
過程について(事例 1)」、第 2 節「私立田部小学校の成立過程について(事例 2)」、第 3 節「私
立山本小学校の成立過程について(事例 3)」より成り立っている。論者は、事例 1 は、幕末
期からの寺子屋が公立小学校になった場合であり、事例 2 は、前身が私立小学校であり、そ
の後村に移管され公立小学校となった場合、事例 3 は、私立小学校として成立し相当長期間
にわたって私立のまま存続した場合の 3 つのタイプが存在すると主張する。第 1 節「松江雑
― 88 ―
教育学部論集 第20号(2009年3月)
賀南小学校の成立過程について(事例 1)
」では、松江藩時代の私塾をルーツとしたこの小学
校は、他府県の初等教育機関と共通するところが多々ある。ただ、雑賀地区は幕末から、私塾、
寺子屋が多く存在し、優秀な教師が多くいたことが、特徴的である。論者は雑賀南小学校の
教育実践の中に活発な島根県の教育活動を見い出そうとする。第 2 節「私立田部小学校の成
立過程について(事例 2)」では、受益者負担で小学校を設立できない、寒村の吉田村に富裕
な田部家が全学負担の小学校を寄贈したことにはじまる。明治 7 年に設立され、17 年まで存
続した。この小学校は、小学校の公教育化の流れの中で、明治 17 年まで存在したことの意義
にスポットライトを当てている。第 3 節「私立山本小学校の成立過程について(事例 3)」では、
明治 8 年、山本秀太朗は、公立小学校へ寄付をして小学校を設立する方針を撤回し、私財を
投げ打って私立小学校を設立した。この小学校は、明治 32 年廃止されるまで約 26 年間私立
小学校として存続した。公教育・義務教育の流れのなかで稀有な存在である。論者はこの小
学校の教育の中に、島根県の教育の真髄があるとする。特に、小学校に義務化が財政的裏付
けがない当時において、校舎建築、学校用度品の調達等、教師の奉仕支給等を、個人が負担
することは、この地域の教育に対する関心の高さを如実に示していると論者はのべる。
終章の内容は以下の通りである。平成 15 年 11 月に出された島根県総合教育審議会答申「今
後 10 年間を見通した島根県教育の在り方について」の中で、県の教育の将来像が示されてい
る。論者は、この答申の中で「資源に乏しくさしたる産業もない島根県では「子どもは島根の宝」
として育成し、活力ある島根県の将来の人材」として捉えていることに注目する。このよう
な現在の島根県の教育方針の中に明治期の教育が見出せるとする。特に私立小学校の設立は、
島根の人びとの教育に対する情熱とする論者の主張は、教育の中に歴史性を見出すべきであ
ることを意味している。
2.審査結果の要旨
本論文は、明治期近代教育制度が完成していく中で、学校教育、とりわけ初等教育がどの
ように発達・拡充していったかを、島根県の小学校の成立過程の中で、特に私立小学校に焦
点を当てて考察している。「学制」は国家のかけ声だけの教育支配であったため、人的・物的・
経済的な面すべてが、地域住民に依存していた。別の言い方をすれば、財政的な根拠のない
ままで、上からの押しつけの教育政策であった。このような政策ではあったが、曲がりなり
にも実施の方向への歩みだしたのは、人々の識字率の高さ、教育への情熱、学校への信仰に
よるところが大であった。それは、江戸時代において、藩校、郷校、寺子屋といった多くの
教育機関が存在し、その「遺産」を受け継いだものであったからである。本論文は、小学校
設立の際、そのような人々の教育への関心がどのようなものであったかを、さまざまな資料
を収集し、分析する中で、解明することを意図したものであった。東京一点集中主義の反省
の中から、地方の独自性が求められている昨今、地方教育史を取り上げ、各地方の教育を丹
― 89 ―
論文の概要および審査結果の要旨
念に調べ、画一化、均一化される教育以前の教育を研究することは、さまざまな問題を孕ん
だ現在の学校教育にとって大きな指針を与えるものである。現在の教育を過去の教育から学
ぶことの重要性を示した論文であると言える。
本論文のオリジナリティを次に示してみる。
1.日本全体の教育史の流れの中で、島根県の教育を考察している。江戸時代は各藩で独自の、
ある意味ではばらばらな教育内容であったが、明治以降教育の中央集権化の中で、全国津々
浦々まで画一化されている中で、日本全体の中での島根県教育という視点が大切になってく
る。論者は、日本の教育の流れをうまくまとめ、その中での島根県教育を描いていることは
評価できる。
2、島根県の小学校の成立を 3 分類し、
(1)幕末の寺子屋から小学校になった場合、
(2)私立
小学校がその後村に移管されて公立小学校になった場合、(3)私立小学校として成立し相当
期間にわたって私立のまま存続した場合の 3 つに類型化し、それぞれの事例の典型的な小学
校を取り上げた。明治初期から中期に設立された小学校で現在まで連綿として残存している
例を探すのは、困難を極めた中で、(1)の松江雑賀南小学校、(2)の私立田部小学校、(3)
の私立山本小学校に関する多くの資料を長期間にわたって収集し、それらを丁寧に読み、分
析し、論理的に、体系的に纏めていることは評価に値するものである。明治期中葉、多くの
私立の学校が公立化していく中で、あえて私立小学校が存在したことの事例を紹介し、島根
県の人々の教育への情熱を資料に基づいて論じている。私立山本小学校が明治 32 年まで存続
しつづけたことをさまざまな資料を使って解明した。当時の資料は、島根県に残存しておら
ず、論者がさまざまな所へ行き、聞き取り、資料収集し、あまり人々には知られていなかった、
私立小学校の存在を示したことは特筆に価する。
3.明治期の小学校教育を江戸時代の教育の流れの中で把握していることである。従来、江戸
時代の教育と明治時代以降の教育との間には断絶があったと言われているが、論者は藩校、
郷校、寺子屋等の状況を丹念に調べ、それらの流れを明治期の小学校と関連付けて考察して
いることは、教育の歴史を考察する上で重要なことである。
以上、述べてきたように、論者は従来言われてきたように、明治期の教育は文部省の主導
化の下で、強制的に一元化されていったという従来の説に疑問を持ち、地方によりさまざま
な教育実践があり、独自性を維持していたことを本論文の中で示している。本論文のこのよ
うな研究は、教育における地方分権の時代において、より地方の特徴を持った教育を求めて
いる現在、人々に多くの示唆を与えると思われる。
以上、本論文のオリジナリティや特徴を述べてきたが、以下の問題点もある。
1、松江藩の修道館は藩の中心的教育機関であり、幕末・明治初期の資料は数多く残存してい
るため今後の研究の余地は残されている。論者の江戸時代の教育を視座において、明治以降
の教育を考察するという視点は評価するが、将来それらの関連性をより深く探求することが
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教育学部論集 第20号(2009年3月)
望まれる。
2.第 1 章「わが国における小学校の成立過程」の内容が論文全体の 3 分の 1 を占め、
「島根
県における初等教育機関」というテーマの論文としては多すぎるため、第 2 章「島根県にお
ける小学校の成立過程」や第 3 章「島根県における私立学校」の中に組み入れ記述した方が、
論文の内容を高められたものと思われる。
このように問題点はあるが、それらが本論文のオリジナリティ、価値を決して損なうもの
ではない。
よって、本論文は博士(教育学)の学位(甲種)を授与するにふさわしい論文と認める。
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