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「手」 ゆうき樹 掲載:STORY BOOK URL http://web.kyoto

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「手」 ゆうき樹 掲載:STORY BOOK URL http://web.kyoto
「手」
ゆうき樹
掲載:STORY
URL
BOOK
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/hhiroki/index.html
E-mail:[email protected]
僕は彼女といる時、つい視線を彼女の手に落としてしまう。
彼女の手は、何も飾り気がないのに、とても美しかった。透き通るようなピンクがかっ
た白で、するりと長い指の関節には程よい皺が刻まれていた。それぞれの指は均等な太さ
で、真っ直ぐ伸びた指先には真珠のような爪が輝いている。
そんな彼女の手は、普段何も飾られていない。どんな高価で美しい指輪も、ブレスレッ
トも彼女の手を満足させることはできないと思っていた。ましてや、吸い込まれそうな光
沢を放つネイルにマニキュアを付けるなど、考えもしなかったのだった。
週末に待ち合わせたレストランで、ワインの白が入ったグラスを持つその手は一層際立
って、美しく見える。ほっそりした指が包み込むようにグラスを支えている。
「どうしたの?」
うっとりした目で彼女の手を見つめる僕に、微笑んで訊いた。その微笑みは僕が何と言
うか見透かしている目だった。
「君の手が、とても素敵だから、ついそっちに目が行ってしまうんだ」
僕はいつものように、そう答える。
「あなたは私の手だけに恋してるのね」
微笑みを崩さずに、彼女は言った。
「そんなことないよ」
いつもそう答えていたが、彼女の顔やスタイルは失礼な言い方だが十人並みだった。す
ごく美人でもなければ、スタイルが悪いわけでもない。しかし、彼女の手は特別きれいだ
った。そして、その手に惹かれたことも事実だった。
彼女はそんな僕の気持ちを十分に知っていたし、彼女自身、自分の美しい手が好きだっ
た。だから自分の手がどうすれば美しく見えるか、どうすれば魅力的に男を誘うことがで
きるかを熟知していた。
僕と彼女は、ある会社の新製品発表パーティで出会った。僕も彼女もパーティに招待さ
れた側で、立食パーティの中でたまたま目が合っただけのことだった。僕も彼女も所在な
げに退屈なパーティの中にあって、簡単な会話を交わしただけだったのだ。ところがしば
らくたって、彼女から会社に電話があった。
「おぼてくれてますか?」
僕は半分、忘れかけていた。
「ええ、もちろん」
もう一度逢いたいと言ってくれた彼女に、僕は断る理由もなく待ち合わせのレストラン
へ行った。
小さなフランス料理店だった。
幾つかの会話を交わし、月並みな仕事の話をして、どうして僕に興味を持ったのか訊い
てみた。
「とても奇麗な髪をしてたから」
彼女は言った。
「それだけ?」
たしかに僕の髪は、女性のような髪をしていた。すこし茶色ががって、さらさらして、
すごく細かった。真っ直ぐな髪は、伸ばすと女性のように綺麗だろう。
不満そうに言う僕を、彼女は笑った。
ところが、二人で食事をして、最後のブルーマウンテンが出た頃、僕は彼女の手しか見
ていないことに気が付いた。
ワイングラスを包む手も、サーモンとメロンを口に運ぶ手も、子羊の肉を切る手も、し
なやかで、巧みで、繊細だった。滑らかに動く指が、僕の心を引き付けずにはいられなか
った。
その後、僕らは近くのホテルに部屋をとった。
知り合って間もないのに、僕と彼女はまるで昔から、そのすべてを知っているようにベ
ッドで泳いだ。彼女はとても官能的だった。狂おしい程に身悶えた。
そして彼女はその魅力的な手を、僕の体に這わせ、僕のすべてを手で辿った。まるでシ
ルクのような透き通った手で、僕を至福へと導き、最後に体をひとつに重ねた時、その手
を僕の髪に絡ませ、僕の頭を抱いた。
僕の腕の中で眠る彼女の横顔で、その時初めて彼女の顔をはっきり見たのだった。
彼女は、自分の手の見せかたと使い方をよく心得ている。食事の時も、洋服を選ぶ時も、
彼女の手に触れるものはすべてがアクセサリーになるのだ。そして、その指の緩やかな動
かし方も僕の心を魅了する。口紅を塗る時やカルティエのライターで煙草に火をつける時、
僕のすべてを愛撫する時……。
ところがある日、待ち合わせた喫茶店に現れた彼女をみて僕は言葉を失った。彼女の美
しい手に、ひとつの指輪がはめられていたのだ。小さなトルマリンの細い指輪ではあった
が、僕の心には衝撃が走った。
「あまりに、かわいらしくて、つい買っちゃった」
無邪気に微笑む彼女に、僕は微笑みかえす余裕などなかった。僕にとってみれば、彼女
の手は、彼女のままだからこそ美しいのだ。余計な飾りなど、彼女を汚す存在以外の何者
でもない。だが、この時はふてくされながらも特に何も言わなかった。彼女は自分自身の
手の美しさを理解していたし、僕と共通の美意識を持ち合わせていると思い込んでいたか
らだった。
ところが、それからの数ヶ月は、僕にとって苦痛だけをもたらした。彼女は違う美意識
に目覚めてしまったのだ。
磨く喜びではなく、飾る喜び。
彼女に会う度に、違う宝石や金属がその手を汚していた。その頃から二人で部屋を取る
ことが少なくなった。食事をしている時も、彼女の手が僕を這う時も、ひどく色褪せて見
えてしまうのだった。
その年初めての雪が降った日、僕はクリスマスプレゼントにイヤリングを送った。少し
でも彼女の目を覚ましたかったからだ。だが、それは僕の考えていた方向とはまるで違う
方へ彼女を誘ってしまった。
指輪、イヤリング、ネックレス、ブレスレット、そしてマニキュア。
すべては僕を盲目の少年に変えてしまった。
もはや、彼女の手は急速に色褪せ、指の輝きも、爪の美しさも、セクシーな動きも失わ
れてしまった。ごてごてと張り付いた宝石や、マニキュアにすべてを汚され、何の魅力も
感じることがなくなってしまった。
それは殺意に似た嫌悪感さえ感じるほどだった。
「こんなものがなくったって、君の手は美しいのに」
努めてやさしく囁いてみても、彼女は気にもとめなかった。
あるがままの美しさを放棄して、飾り立てる見せ掛けの美しさに心を奪われた彼女は、
もう僕の気持ちを陶酔させてはくれない。彼女は彼女でなくなってしまった。
やがて僕は彼女から離れてしまった。
もうあの美しい手に触れることも、口付けをすることもないのだ。だが離れてしまうと、
喉をかきむしるように狂おしい日々が募った。あの魔法のように僕の体を伝う指先、僕の
髪を掴む手、柔らかい肌。
もう一度、あの手を持つ彼女に逢いたい。あの美しい手。
だが、それももう叶わないのだ。本来の美しさは指輪やマニキュアに奪われ、見せ掛け
の美しさに魅了された彼女の手はもう戻らない。彼女本来の美しさを放棄してしまった時
から、彼女はどこにでもいる女に変わってしまった。ありのままの魅力を忘れてしまった。
街角でふと手の美しい女性とすれ違うことがある。つい、目で追いかけてしまうが、あ
の時の彼女を見つけ出すことはもうないだろう。
そして何より、僕は彼女の顔さえよく覚えていない。
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