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京都外大アメリカンフットボール部創設の経緯

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京都外大アメリカンフットボール部創設の経緯
【京都外大アメリカンフットボール部創設の経緯】
粂
昭彦
京都外大でアメリカンフットボール部を創設して今年で35年になります。35年を期に、
私と松岡氏でこの大学でアメフトを始めた経緯を書いてみました。
1972年の夏、私は学生課の掲示板の張り紙がふと目にとまりました。『アメリカンフッ
トボール部員募集!
連絡は英米語科
松岡克人まで』
『うん?この大学にアメフト部って、あったっけ?』
これが、松岡氏との出会いの始ま
りでした。
私は、高校時代(浪速高校)から、アメフトをやっていて、当時、まだ高校でクラブとし
てあるのは少なかったですが、2年生のときに第1回全国高校アメリカンフットボール大
会に関学高等部と共に、関西代表で出場しました。当時、それはもう厳しい練習の毎日で、
こんなきついスポーツは大学ではやめておこうと、アメフトの無い大学、京都外大に入学
しました。当時の高校の同級生は法政大学など東京の大学にスカウトされ、全日本クラス
になりましたが、私はある期間、フットボールのことなど忘れていました。
と言うのは、大学に入ってすぐ、体格がよかったからかも知れませんが、応援団に勧誘さ
れ、春から応援団の練習に明け暮れていたからです。
この応援団も当時、大変厳しい練習でした。そんなときにふと学生課の掲示板の張り紙に
目がいったのです。
古い話で、あまり記憶が定かではありませんが、確か松岡氏に連絡を取って話を聞いたと
思います。現状は経験者はいなくて、資金も無く部員もまだいない同好会とのことでした。
一度、話を聞いてからは、その松岡氏が私の授業が終わるのを教室の外で待っていて、『こ
の大学で一緒にフットボール部を作りましょう!』と毎日のように口説かれました。『いや
いや!もうあんなきついスポーツは絶対やりたないんや』とずっと断っていましたが、2
ヶ月くらいした時に、フットボールのボールをポンと投げられた時があり、まったく忘れ
ていた感覚が手のひらに呼び戻ってきました。
『やってみよかな』応援団の厳しい練習が続いていたから、そこから逃れたかったのかも
しれませんが、そういう気持ちになりつつありました。ただ、大変な問題があります。そ
れは応援団を退部しないとだめだからです。その当時は、退部=退学、みたいな大変な決
断が要ることでした。悩みに悩んだけれども、思い切って団長に言おうと思い、殴られる
のを覚悟で『団長!今まで、応援団で大変お世話になりましたけれども、自分はこの大学
でアメフトを始め、部として残していきたいんです!!』と、高校からやっていたことや、
一緒に始めようという熱い仲間がいることなど必死で団長に伝えました。
暗い応援団の部室で団長と二人きりで、10分間ぐらいの沈黙が続いたように思います。
『ほんまに、クラブとして残そうと思っているのか、応援団を辞めたいがために、言い訳
で言ってるんと違うのか?』『いいえ!違います。本気で残したいと思ってます!』また、
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沈黙が続きましたが、次に出た言葉が『俺が応援したるから、絶対にこの大学でクラブと
して残せ!』と言われたときは、思わず涙が溢れかえりました。
そうしたことから、1972年の秋に松岡氏と2人でボール1つからスタートが切れたの
です。
作った当時に勧誘した現在名前を覚えているメンバーは三浦(途中退学)小西、松尾、今
西(同じブラポル語クラス)神山(スペイン語)奥山(英米語)菅野(ドイツ語)あとは
顔は思い出せるが、名前が出てこない。申し訳ない...
このメンバーで松尾橋の河川敷や西高の太秦グランドの隅を借りて、ボール1つで、とに
かくスタンスの仕方、ボールの持ち方、受け方、ルールの説明等を繰り返し、繰り返し行
いました。
練習をしながら、早朝に弁当屋さんでアルバイトして自分の防具(この当時ヘルメットか
ら一式 5 万ぐらい)を買える者は買う。貧乏学生でなかなか買えない者もいました。
貧乏学生で、今からは想像出来ないかもしれませんが、松岡氏の下宿の部屋は、もちろん
共同トイレ、共同の炊事場、風呂はありません。それと部屋に入ると下が土で、たまに蛇
がとぐろを巻いているときもありました。豚小屋を改装して学生のアパートを作ったそう
です。
練習方法、フォーメーション等々、浪速高校時代経験したものを使用しました。松岡と相
談し、関西学生連盟に加入申請をし受理されました。この時、松岡氏と意見が対立し1回
目の存続の危機でした。松岡氏の考えは、もう一年ぐらい人数も集めて、しっかり練習し
てある程度、形になってから連盟に加入しようと言う意見。私は、とにかく経験を積むた
めに早く加入して実践を積んでいこうという考えでした。結局、ほかのメンバーの意見を
聞いて、今、加入しようと言う意見がほんの少しだけ多かったので学生連盟に加入するこ
とになりましたが、そこからが屈辱と苦悩の始まりでした。
まずは、最低15名の部員の確保、15名分の防具の確保、試合ができる用具の確保、そ
して一番肝心な練習場の確保、問題が山積みでした。当時、 関西学院 武田 健監督
京
都大学 水野監督にフォーメーションや関西学生連盟加入についての助言等を手紙で質問
したりもしました。
大変うれしかったのは、武田監督から、返事が来て、フォーメーションについては、いろ
いろな参考になる本を紹介して頂いたり、『これから、関西フットボールの普及のために、
お互いにがんばりましょう』と言う内容のお手紙をいただきました。残念ながら、そのお
手紙はどこかに失くしてしまいました。武田監督申し訳ありません。
京都大学の水野監督からは、後の話であるが、その縁で京大 2 軍、3軍との練習や京大コ
ーチが練習試合の審判をしてくれたりもしました。その時の写真は今でも大切に持ってい
ます。
近畿学生リーグに無事入会(当時は、関西学生リーグが1部、近畿学生リーグが2部 )
対戦相手は、立命大、仏教大、竜谷大、京都工芸繊維大、京都学園大、大阪体育大、関西
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外語大であった。のちに大阪産業大、大阪経済法科大、大阪外大、姫路工業大、福井大と
も対戦。当時は同じ時期に創部した大学が多く、大阪体育大は高校の先輩が創部されまし
た。 仏教大や竜谷大も同じ時期にできました。
肝心な練習場所については、週のうち、1日は西高の太秦グランドを借りることができ、
1日は第2分館の狭いグランドを借りれました。それ以外は松尾橋の河川敷まで、走って
いって練習し、また第2分館まで走って帰ってくるというような日々が続きました。また、
もう1つの問題は防具の保管場所でした。ヘルメットやダミー、ボール、スパイク、ジャ
ージ類の保管場所を確保するのに、第2分館の体育館の用具を保管する場所の横に若干の
スペースを頂いて、とりあえずはシーズン中だけ置けるように交渉できました。
名前は忘れましたけど、その当時の体育部長の先生でした。スポーツがりの、誰か覚えて
おられたら教えてください。
そして大事な問題は、試合ができる最低人数15名の確保です。試合の日程が決まっても
本当にその日に来れるメンバーがきちんと約束できていなかったからです。メンバーの弟
にとりあえず試合にだけ出てきてくれとか、ほかのクラブの人に頼んで、とりあえずジャ
ージをつけてグランドに立っておくだけでいいからとか頼み込んで試合に臨みました。
そして、毎回屈辱だったのは、15名分の防具が無いので、相手チームに頼んで、ヘルメ
ットやショルダーを借りて、試合をしていたことです。そのときは、気持ちよく貸してく
れても、試合になると『防具も買う、金も無いくせに、よう試合ができるなア』とか『ち
ゃんとそろってから試合に出てこいよ』とかいわれましたが、『すみません、すみません』
と謝りながら試合に臨んだ記憶があります。
それと一番つらかったのは、相手チームは経験者が多いのですが、外大はほとんど素人チ
ームで、コテンパンに倒されて、俗に言う『あおてん』をかまされる訳です。もっとひど
いのは見えないところで反則をされて、叩きのめされることです。メンバーのそういう姿
を見て、やっぱり松岡の言うように、きちんとした形になってから協会に加盟したほうが
よかったのか、申し訳ない気持ちで一杯になりました。
しばらく、1点も取れない試合が続き、人数集めと、防具を買うためのアルバイト、毎日
の練習場所の確保に明け暮れながら、ようやく1年が経ったころに、QB をやっていた三浦
君が家庭の事情で学校を辞めることになりました。また他にも試合のときに人数集めだけ
に来てくれていた仲間が来れなくなったりで、またメンバーが最初の時の6∼7人に減っ
てしまいました。どう寄せ集めても15人にするのは不可能な状態に陥りました。
ここでまた、存続の危機になったのですが、残ったメンバーで協力して、次に入学してく
る学生をできるだけ勧誘しようということになり、ポスター貼りや、学生課へのアピール
や入学式当日オリエンテーションでの勧誘に全力を尽くしました。防具をつけて、中庭で
練習の風景を見せたりと、とにかく15名に確保に夢中でした。
結果、この年に入ってきてくれたメンバーが後に、1部との入れ替え戦手前までいった年
の、主なメンバーです。
(関学の猿木選手が脊髄損傷し、車椅子になって、後に TV ドラマ
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にもなった試合の前の大産大戦)
柴谷、小野、柚鳥、神木、四登、川上、少し後に塩谷、堀端、次の年代が雲丹亀、森田、
吉田、西村、本多(神木氏は後年、死去)
神木氏については、みんなの心に残しておきたいので少し、お話します。彼は箕面自由学
園で少しアメフトをやっていて、その当時、体もでかく有能なタックルでした。人なつっ
こく、明るい性格でいつも、チームの雰囲気をよくしてくれていました。彼があけてくれ
たオフタックルの穴はいつも走りやすかったのを覚えております。そんな彼も卒業して、
しばらくは OB 戦などにも顔を出していましたが、神戸の震災で家が全焼し、新しく家を建
てたのですが、心労が重なったのか奥様がある朝、突然死され、一周忌にお母さんが亡く
なられ、その一週間後に神木本人が朝、突然死されたのです。こんな不幸が続くことがこ
の世にあるのでしょうか。何年かして,同期の柚鳥氏が命日に神木氏の実家にお線香をあ
げに行ったとき、一人残された、お父様がいつまでも頭を下げて、お見送りいただいたそ
の姿が忘れられないと言っていたことを思い出します。
『神木!いつまでも忘れへんで!ありがとう!』
このメンバーが揃ったときも、最初は防具が全員の分が揃わなくて、年末に全員で神山氏
のご親戚が経営している肉の河富にアルバイトにいきました。この当時肉の大売出し(店
頭販売)が珍しく、ラジオの取材が来たりするほど、すごい勢いで売れました。アルバイ
ト代も徹夜して1日、当時のお金で1万円位頂き、おまけに肉の一番おいしいところを1
Kg ほど持って帰れました。
当時、ご親戚の方も我々の思いを感じていただいて、普通より多めにアルバイト代を出し
ていただいたり、下宿で貧乏学生が多かったので、少しでも栄養をつけるようにと肉の塊
をおみやげにいただいたりと、本当に有難かったです。
そのような、周りの人々の協力のおかげでなんとか、自前で防具やダミーを買うことがで
き、人数も揃い、半分のスクリメージの練習ができるまでになってきました。
練習は相変わらず、狭い第2分館のグランドや松尾橋の河川敷までダミーを担いで走って
行き、終われば走って帰ってくる毎日でした。
そのうち、わが同好会も信州方面で合宿ができるくらいになり、白馬や野沢方面に1週間
の合宿が毎年恒例になっていました。
合宿はその当時、私の方針で禁酒、禁煙、禁女(女性とお話をしてもだめ)という独裁的
なルールを作り(笑)男20人の団体生活でした。ある日の夕方、練習が終わって、自由
時間に私が宿舎のまわりを散歩していると、ある喫茶店の中を見ると○○君(本人のため
に実名は控えます)がどこかの大学の女子生徒とにこやかに話をしている姿を発見しまし
た。罰則は次の日の朝の飯ぬきです。みんなが食べているのを正座して食べ終わるまで、
ひたすら待つ、そして全員が食べ終わったら即、練習です。そんなルールを作ったり、合
宿の最終日、練習の打ち上げのときに3年生以下を横にならべて、至近距離から打ち上げ
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花火を横に向けて発射し、『これも練習や!花火をよけろ!』と100連発の水平発射です
その夜のこと、私たち4年生の部屋に、10連発の爆竹が投げいれられました。たしか2
年生のしわざです。あの○○君です。(笑)今思えば、、、
もうひとつ、思い出に残る話は、確か白馬での合宿の最終日。打ち上げが終了し、禁酒も
解けて宴会が終わり、勢いで旅館のおじさんの軽トラックを借りて周辺をドライブしに行
きました。ワイワイガヤガヤ,クラクションを鳴らしながら走っていると、道を歩いてい
る人たちがこちらに向かって手を振ってくれるので、こんな夜中に良い人たちだなと思っ
てしばらく真っすぐ走っていると赤色灯の回った車から懐中電灯を持った、制服、制帽の
人たちがこちらに近寄ってきました。
そうです、飲酒運転の取締りをやっていたのです。だから、さきほどの人たちはそっちに
いったらだめだよと手を振っていたのでした。ときすでに遅し。
こちらは、飲酒運転に定員オーバー、確か7∼8人後ろの荷台に乗せて、助手席には旅館
の犬まで乗せていました。
『君たちは、何をやっているのかね!』と一人の警官があきれたように質問してきました。
『はい!えーと、ふー、明日、えーと大阪に帰るので切符を買いに来ました』こんな時間
に駅の切符売り場が開いているわけでもなく、こんな何人もで、ましてや犬まで連れて、
この返答はおかしいと自分でも思ったのですがとっさに答えてしまいました。
『まあ、こっちに来て風船を脹らましなさい!』と言われ、大型のバスに乗り込んだとき
に酔った勢いで、転んでしまった記憶があります。『こんなに、色が変わっとる!どんだけ
飲んだのか?』『はい、ちょっとだけ乾杯程度で』・・・・・・・少し沈黙があって
『今回は、多めにみてあげる。ただ君らは明らかに飲んでるから、飲んでない人を宿舎か
ら呼んで運転してもらって静かに帰りなさい!』『はい!ありがとうございます!』
宿舎に電話を入れて、急いで来たのが松岡でした。『すみません、気をつけて帰ります』
宿舎に向かって帰る途中に松岡が『君ら、おなかがへったじゃろ。これでも食え』とカッ
プヌードルを手渡してくれました。
全員、腹が減っていたので食べましたが、もちろんお湯など無いので生でかじりながら夜
の道を宿舎までたどり着きました。
それ以外にも、いろいろなエピソードはありますが、コンプライアンスに引っかかるもの
や文章に表現できない話もあり、ここでは差し控えたいと思います。
(笑)
柴谷君や小野君が入った年の秋のリーグ戦はまだ、負け越しが続いていたが、翌年のリー
グ戦は立命や工芸繊維大、大体大とかと互角に戦い、勝ち越したと思います。その当時、
リーグでは珍しい、ウイッシュボンフォーメーションやダイアモンドフォーメーション、
ショットガンを取り入れて、相手がわかっているのに止められない(笑)外大独特のフォ
ーメーションなども生み出しました。
実戦経験も積み、2部リーグでも外大の名前が売れてきたと同時に私と松岡氏は体育会昇
進への準備も進めていました。
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外大の各クラブの主将会議でのアピールや学長のところへ行き、直談判をしたり、各主将
に対して協力を取り付ける接待?などいろいろな方法で体育会昇進に向けて行動を起こし
てきました。
まだ、この時点で自分たちのクラブボックスもなく、決まった練習場所も無かったのです。
ひとつ、進んだのは、西山グランドを使用できる約束をいただけたことでした。野球部の
バスに相乗りさせていただいて練習場にいけるようになりました。ここでも、またいろい
ろと苦労がありました。それは、野球部がバスで出発する時間までに、我々は防具に着替
えて、ダミーなどもバスに運び込む必要があったのです。少しでも時間に遅れると強烈な
やじが野球部から飛んできました。『遅いことは、牛でもするで!』『はよせいや!俺らの
練習時間がなくなるやないか!』
アメフト専用のバスになったのは、それから何年も後の話です。
ここで少し、創部当時のメンバーのことを記憶を呼び戻して書いてみます。
一番最初に集まったメンバーは、三浦、小西、松尾、奥山。他に2∼3人いましたが、申
し訳ない名前を忘れてしまいました。小西と松尾はブラジル・ポルトガル語学科の同じク
ラスで声をかけて入ってもらいました。奥山は自分からポスターを見て入部してきました。
三浦は確か、松岡が声をかけたと思いますが、バンカラ風の腰に手ぬぐい、下駄がよく似
合いそうな寡黙なタイプの人物でした。途中で退学されたのが残念です。次に入ってきた
のが菅野、今西、神山、この年代もあと何人か居ましたが名前を忘れました。
菅野は現京都外大ドイツ語客員教授、私の下宿の隣の部屋に住んでいた、松田優作似の富
山出身の最後までマイペースの男でした。今西は、私の次の主将で華道部とアメフトを最
後まで両立させた名タックルでした。神山はラグビーで大阪ではレベルの高い高校の出身
で投げて、走って、キックしての名 QB でした。その当時彼の高校の同級生が何人か我がチ
ームの試合を見に来ていましたが後にトヨタのラグビーの NO.8 になった奴もいました。神
山は卒業後、大阪府警に入り、捜査二課、部長刑事までなった男です。
そのあとが、柴谷、小野、柚鳥、神木、川上、四登、塩谷、堀端の年代です。
この年代も変わった強烈な個性の集まりでした。柴谷は次の主将で名センター、西京極の
一軒家に他のクラブの連中と3人で住んでいました。よく新京極で飲んだ帰りに泊めても
らった記憶があります。小野は、実は今でも同じ会社で先輩、後輩の関係が続いており、
家族と居るよりも長く付き合っている感じです。彼については、何十というエピソードが
あり、書けないのが残念ですが、少しだけ紹介すると・・・・・
ある日、私がクラブの練習に行こうと、阪急の西院駅からバスに乗って外大に向かってい
ると、向こうの道に西院のほうに向かっているアベックを発見しました。楽しそうに歩い
ている小野君でした。その日は、小野欠席で練習が終了し、次の日、練習に出てきた時に
『小野、きのう、なんかあったんか?』『すみません、親戚のおじさんが具合が悪くて』
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『そうか。大変やったな。きょうは、みんなの練習に入らんでもええから、グランド走っ
とけ!』
そう言って、メンバーの練習に入れずに、太秦グランドでの3時間ぐらいのその日の練習
が終わり、チームは第二分館に引き上げました。実は練習が終わって、着替えるまで私は、
小野君を走らせているのを忘れていました。柴谷とか、柚鳥の様子がおかしいので、
『おっ!
忘れとった。小野にもうええって、ゆうとけ』と言ったとたんに、小野の同級生が全員で
グランドに戻り、『粂さんが、もうええて、ゆうてはるで』と真っ暗なグランドでもくもく
と走っている小野君のところに伝えにいきました。
あとで、小野君に聞いた話ですが、最初のうちは、気楽にグランドを一人もくもくと走っ
ていて、指折り、今何周やと数えて走っていたのが、だんだん、チームの練習に加われな
い自分自身が情けなくなってきて、うそをついた反省やなんかで涙で顔をくしゃくしゃに
して、誰も居ない真っ暗なグランドを数え切れないぐらい走っていたそうです。
『あの時、粂さんから、休んだ理由や、くどくど叱られたら、このクラブを辞めたろうと
思っていたが、チームに迷惑をかけたことなど走っている時に思い、自分が情けなくなっ
て、二度とチームに迷惑をかけないでおこうを誓った』と話していました。
次に、柚鳥。何年か前までの OB 会長です。
彼については、大多数の事柄が文章に表現できないくらい、強烈な個性の持ち主です。
今でも、月に1回ぐらい飲む仲間ですが休みの日にはハーレーを乗り回している、もうす
ぐおじいちゃんになるチョイワルじいさんです。報徳高校の3軍ピッチャーでしたが、9
連続四球を出してクビになったそうです。
河原町から梅田行きの特急電車の二人がけのアベックシートの上の網棚に横になって梅田
まで寝ていったり、一番後ろの車両から一番前の車両までうさぎ跳びで帰ってこいとやら
したり、人間ボーリングやといってボールを投げるからピンになったつもりで倒れろと河
原町の横断歩道で後輩にやらしたり(やらされたのは次の年代の、雲丹亀(うにがめ)、本
多、吉田、西村、森田、
、、岡村、田中、、
、、)
こういうことも、ありました。ある練習が終わった日の夕方、前日までの大雨で第二分館
の横の川が増水してものすごく流れが速い状態でした。そこへ、川上の方から大きな声で
『犬が流されてる!!』
柚鳥は、何も考えず、川の端の手すりのついた階段みたいなところに降りて行きました。
何も考えずと書いたのは、実は柚鳥君は小さいときに溺れた経験があり,水が極端に怖く
水溜りも避けて通るくらいの水恐怖症だったのです。周りは唖然としましたが、まだ50
mぐらい川上で何とか助けたいとみんな橋の上から見ていました。そばを通る車も何があ
ったのかと停車して、交通渋滞が起きるほどみんなが注目して見ていました。
そこへ、先ほどの犬が流れてきて、柚鳥のところに近づいてきて、手を差し伸べた瞬間、
『キ
ャン!』と叫んで柚鳥の手を噛みました。そのまま、犬は下流へと流れていきました。
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柚鳥の次の学年の西村君を試合中に、蹴った事は今でも鮮明に覚えています。それも、け
がをしている足をです。
防具やボール、ダミーなど試合をするのに必要な道具は、とにかく大事に扱えと普段の練
習から、注意をしていました。何故なら、替えはすぐに用意できないからです。ヘルメッ
トの色はスプレーで塗り、ラインはビニールテープで貼る。肘や手のプロテクターは、無
い選手もいます。ましてやテーピングなどできる余裕はありません。買う金が無いからで
す。練習グランドや試合のグランドは、土のグランドです。整備もそれほどされていない
ので、釘や金具が落ちていることもありました。そこへ、何もつけていない肘から倒れる
わけですから、擦り傷どころか、肘が裂けてしまうこともありました。
あるリーグ戦での試合で、センターの西村君がミスを連発して、ベンチに戻ってきたとき
に、ボールを蹴飛ばしたのです。これを見て私は、激怒して、試合中なのに、西村君のけ
がをしている足を何回も蹴り上げました。ボールを粗末に扱ったのが許せなかったのです。
西村君がなぜボールを蹴飛ばしたのかは,分かっていました。けがをした足をかばい、思
うようにプレーができない自分に腹が立っていたのです。しかし、チームの全員の前で行
った、その行為を許すわけにはいかなかったのです。
何回も、私が蹴ったので、その後、その試合でのプレーができなくなりました。
そのとき、1 年先輩の柴谷が、西村君の行った行為について、私に謝り、センターのプレー
を代わりにかってでて、試合を続けました。
日大の元監督、篠竹さんの著書に、フットボールをやる人には、3つの大事な精神が必要
だ。それは『協調の精神・闘争の精神・犠牲の精神』です。と書かれていたのを、私は今
でも心に留めております。
チームプレーである以上、協調する精神は間違いなく必要です。一人が違う動きや考え方
をすれば、チーム全体の破壊につながります。
闘争の精神は、フットボールを経験した人には、解ると思いますが、キックオフのとき、
最初に相手とコンタクトするまで、何試合経験しても、恐怖心があると思います。そして
目の前の敵を倒さないと自分が倒されるのです。闘争心を失えば、その試合は終わりです。
そして最後に、犠牲の精神。これは本当に的をついた言葉だと思います。ラインの人たち
は、試合中に基本的にボールに触れないのです。ひたすら、自軍のバックスやレシーバー
がボールを進めるのを自分の体を張って助けるのです。バックスやレシーバーが自分の体
を踏んづけてタッチダウンしたときでも、最高の喜びなんです。野球にもバックアップと
いうチームプレーがあるように、一人の力では得点できないのです。現役の皆さん!この
犠牲の精神は、社会に出ても必ず役立ちます。
皆さんに、知っておいて欲しいのは、一人の力では100%力を出しても、最高でも、1
00%です。11人が一丸となって(11人だけではありません。マネージャーも含めチ
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ームすべての人です)100%の力を出せれば、チームの力は120%にも130%にも
なるということです。それは、人のため、チームのために全力を投入すれば100%の力
の上に、どんどん力が積み重なってくるからです。
上級生は、後輩のレベルが上級生のレベルになるように、それ以上になるように指導育成
することがチーム全体の力を上げることにつながります。それには、常に自分自身の能力
を高める努力をする必要があります。練習もそうですが、普段の言動も含めてです。向上
心が無くなれば、すべてそこで STOP します。STOP どころか、どんどんレベルは、下降して
いきます。ですから、常に夢・ビジョンを追いかけて、目標を立て、いつまでに、どのレ
ベルまでなるのかを明確に後輩に示さなければなりません。
監督・コーチの仕事は、チームを最高の状態で試合に臨めるように維持していくことです。
是非、4年生は4年生の目標、3年生は3年生の目標を組んで、それを共有してください。
リーダーはビジョンを明確に指し示して、常にそれに向かって、全員が全力を出せるよう
に率先垂範とモチベーションの維持に努めてください。
このことは、社会に出ても家庭を持っても必ず役に立ちます。是非実践してください。
話を元に、戻して、私と松岡は、現役でのプレーが4年間と決まっているので、いまだ、
体育会に昇進できないまま、外大での現役を終えました。
二人とも、幸か不幸か、留年をしていたので、OB としてチームに残り、現役の指導や我々
二人のこの大学での夢の実現、体育会昇進に向け奮闘していました。
現役を終えた、次の年の春でしたでしょうか。大阪の自宅に戻っていた、私に3代目の主
将の柴谷から電話が入りました。
『粂さん!承認されました!主将会議でアメフト部の体育会昇進が承認されました。全会
一致です!』興奮した声を今でも思い出します。
色んなことが、思い浮かび、しばらく声になりませんでした。苦労したけど、やってきて
よかった、夢がかなった。
『ありがとう!みんなのお陰や!』それだけ言うのが精一杯でした。
私は、今、54歳になりました。体育会になった当時の、親の歳になり、改めて、好きな
ことをさせて頂いた親に感謝いたします。
そして、同好会から体育会に至るまで、色んな形で協力いただいた人たち全員に感謝いた
します。
私の外大での夢は、この大学にアメリカンフットボールクラブを正式に部として残すこと
と、何かの縁でチームに関わった人たちが、卒業しても、交流ができ、家族ともども交流
の輪が広がり、人生の中で本当に良い仲間でありたい、そういう思いで作りました。
35年を期に、今まで、疎遠になっていた、OB や OG の方が何かの方法で、また交流が始ま
ることを願っております。
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