...

WIJC130428

by user

on
Category: Documents
8

views

Report

Comments

Transcript

WIJC130428
2013年4月28日(2013年第17回礼拝) イースター・メッセージ#5
聖書:ヨハネ21章15-17節 タイトル: 世界宣教への準備(その3); 主のラブコールに答える
序 論
●今回のボストンに起きた爆破事件からすでに2週間近くが過ぎようとしている。改めて、直接に被害
を受けられた犠牲者とそのご家族のために心からの同情をもって哀悼の意を表したい。
●しかし、同時に、今回のこの事件は、再び、世界中の人々に、自分自身と自分の人生、自分の生きて
いる社会、世界について様々なことを考えるときを与えた。
●それらの中には、移民の国として立国してきたアメリカという国のあり方の過去・現在・未来、社会
の安全と自由の問題、家庭と子育ての問題、等々がある。
●その中の一つとして、またしても「宗教」、或いは「信仰」という問題が浮き彫りにされたとも言える。
1.自分の信じている、信奉している神様のため、宗教のためなら、何をしても良い。たとい相手を
殺しても良いというファナティックスと呼ばれる熱狂主義者がいる。
2.だから宗教は怖い。特定の神、特定の宗教に入る、捕らえられることは怖い。と言うことになる。
●しかし、そもそも、今回の事件もそうであるが、似たような事件に関係している人々について思うこ
とは、彼らは、本当に、彼らの信じていると言っている神様と心で繋がっていたのであろうか?
●彼らは宗教的というより、むしろ、個人的な、或いは民族的な不満や怒りの感情を、宗教という名を
借りて、或いは宗教を利用して正当化し、相手に、敵にそれらをぶつけているだけではないかと思う。
●言い換えるなら、彼らは個人的に彼らの神を知らない。個人的に神様との交わりをも経験していない。
1.彼らが神を知っているのは頭だけ、思想の中だけっだったのではないか。
2.彼らは、ただ、そのときにその宗教を支配している指導層やリングリーダーたちの築いた「体制」
とその教え、指導に洗脳され、盲従していただけではないか。
3.そうすることが、神様に従うことだと思い込んで、実行しているだけであったのではないか。
●私たちクリスチャンも、社会一般の常識の中では「宗教人」だと思われている。いわゆる「宗教をして
いる人」だと思われているのである。
●しかし、これに関連して、クリスチャンたちは、しばしばこのように言う。「真のクリスチャン信仰
とは、宗教(Religion)ではない。神様との個人的関係(Relationship, Personal Relationship)である」
と。今朝は、このことについてもう一度メッセージを頂きたい。
●ここ数週間、礼拝で私たちは、十字架にかかり、甦られ、福音を完成されたイエス様が、次のステッ
プとして、弟子たちを世界宣教の証人とするために「準備」しておられる姿を見てきた。
1.第一に、イエス様は、神様の証人として用いられる器は、「信仰によって生きる」必要があること、
2.第二に、「ビジョンを持って生きる」必要があることを学んで来た。
●今朝は、更に、私たちが世界宣教のための神様の証人となるためには、私たちが「イエス様との個人
的な関係 Personal Relationship」をしっかりと持っていることが必要であることを学びたい。
本 論
Ⅰ.イエス様との個人的な関係とは、「イエス様との愛の関係」である。
A.今日の聖書箇所、ヨハネの福音書21章15-17節、わずか3節の中で、3回もイエス様が、ペテロに問わ
れたことは、「あなたは私を愛するか?」であった。
1.3回もの「
もの「あなたは私
あなたは私を愛するか」
するか」というイエス様
というイエス様のしつこいほどの質問
しつこいほどの質問は
質問は、イエス様
イエス様のペテ
ロに対
ロに対する、
する、ひいては、
ひいては、私たちに対
たちに対する「
する「ラブコール」
ラブコール」でなくて何
でなくて何であるか?!
であるか?!
2.イエス様
イエス様は、単にペテロの教師
ペテロの教師、
教師、先生になりたかったのではない
先生になりたかったのではない。
になりたかったのではない。イエス様
イエス様はペテロの
Lover 愛人、
愛人、恋人になりたかった
恋人になりたかったのである
になりたかったのである。
のである。
(1)イエス
(1)イエス様
イエス様は、単に私たちの道徳
たちの道徳の
道徳の教師でも
教師でも、
でも、見張り
見張り人でも、
でも、裁判官でもない
裁判官でもない。
でもない。
(2)また
(2)また、
また、イエス様
イエス様は、単に、宗教団体の
宗教団体の指導者でも
指導者でも、
でも、人生の
人生の処世術、
処世術、生き方を教える教師
える教師
でもない。
でもない。悩んだときにどうしたら良
んだときにどうしたら良いかを教
いかを教えてくれるカウンセラーでもない
えてくれるカウンセラーでもない。
カウンセラーでもない。
1
(3)更
(3)更には、イエス様
イエス様は、単に、私たちのために、
たちのために、必要な
必要な者、欲しいものを
しいものを供給
ものを供給してくれる
供給してくれる、
してくれる、
サンタクロースや
サンタクロースや、
ロースや、足長おじさん
足長おじさん的
おじさん的なお方
なお方でもない
でもない。
ない。
3.勿論、
勿論、イエス様
イエス様には、そのような面
そのような面があることは事実
があることは事実である
事実である。
である。しかし、
しかし、それが、
それが、イエス様
イエス様が
究極的に
究極的に求められる私
められる私たちとの関係
たちとの関係ではない
関係ではない。
ではない。
4.しかし、
しかし、残念なことは
残念なことは、
なことは、多くの人
くの人たち、
たち、多くのクリスチャンたちが、
くのクリスチャンたちが、それで満足
それで満足して
満足してしまっ
してしまっ
ていることである
いることである。
ことである。彼らは、
らは、イエス様
イエス様が、私たちに必要
たちに必要なもの
必要なもの、
なもの、欲しいものをくれている限
しいものをくれている限
り、それで満足
それで満足している
満足しているのである
しているのである。
のである。
5.しかし、
しかし、ここで、
ここで、イエス様
イエス様とペテロの間
とペテロの間で交わされた会話
わされた会話から
会話から、
から、神様が
神様が語られるメッセージ
は、イエス様
イエス様がペテロとの間
がペテロとの間に求めておられた関係
めておられた関係は
関係は、そのようなものではなかったという
のようなものではなかったという
ことである。
ことである。
6.イエス様
イエス様の願いは、
いは、私たちと愛
たちと愛の関係に
関係に入ることである
ることである。
である。だから、
だから、イエス様
イエス様は、ここで、
ここで、ペ
テロに、
テロに、しつこいほどに、
しつこいほどに、即ち、3 回までも「
までも「あなたは私
あなたは私を愛するか」
するか」と聞かれたのである。
かれたのである。
(1)それは
(1)それは、
それは、ある意味
ある意味で
意味で、宗教者の
宗教者の質問には
質問には思
には思えないような質問
えないような質問であった
質問であった。
であった。イエス様
イエス様のよう
な方が弟子たちにかける
弟子たちにかける言葉
たちにかける言葉としては
言葉としては、
としては、普通ならもっと
普通ならもっと、
ならもっと、理知的で
理知的で、道徳的で
道徳的で、訓育的
な質問を
質問を期待するのではないか
期待するのではないか?!
するのではないか?!
(2)しかし
(2)しかし、
しかし、イエス様
イエス様は、このときペテロに、
このときペテロに、まるで愛
まるで愛し合う若いカップルの一方
いカップルの一方が
一方が勇気を
勇気を
もって、
もって、相手の
相手の心を確かめるときの言葉
かめるときの言葉のよう
言葉のように
のように、「あなたは
、「あなたは私
あなたは私を愛するか」
するか」と聞かれた
のである。
のである。それは、
それは、個人的であり
個人的であり、
であり、人間的、
人間的、情的な
情的な質問であった
質問であった。
であった。
(3)この
(3)この事実
この事実は
事実は、そのような個人的
そのような個人的で
個人的で情的な
情的な愛の関係こそが
関係こそが、
こそが、イエス様
イエス様が、ペテロとの間
ペテロとの間に
求めておられる関係
めておられる関係であることを
関係であることを証明
であることを証明している
証明しているのである
しているのである。
のである。
註:イエス様
イエス様とペテロとの間
とペテロとの間でここに使
でここに使われている「
われている「愛」という言葉
という言葉が
言葉が、ギリシャ語
ギリシャ語(原語)
原語)におい
ては、
ては、フィレオウとアガパオウの 2 語が交錯して
交錯して使
して使われているので、
われているので、この二
この二つの言葉
つの言葉を
言葉を区別
して(
して(前者をより
前者をより人間的
をより人間的な
人間的な愛、後者を
後者を神の愛とする)
とする)解釈を
解釈を加えようとする注釈者
えようとする注釈者も
注釈者もいるが、
いるが、
ヨハネの福音書全
ヨハネの福音書全体
福音書全体においては必
においては必ずしもその区別
ずしもその区別が
区別が明確ではないことから
明確ではないことから、
ではないことから、ここでもそのよ
うな区別
うな区別を
区別を加味した
加味した解釈
した解釈は
解釈は避ける。
ける。
B.このような愛の関係は、まず、イエス様のペテロに対する絶対的な愛から始まった。
1.このとき、既にペテロは、イエス様の十字架の愛を知っていた。少なくとも知
なくとも知り始めていた。
めていた。
(1)イエス
(1)イエス様
イエス様は、弱さのために敗北
さのために敗北して
敗北して十字架
して十字架に
十字架に付けられたのではない。
けられたのではない。必要なら
必要なら「
なら「復活」
復活」の
力をもってローマの
をもってローマの兵隊
ローマの兵隊たちを
兵隊たちを蹴散
たちを蹴散らすこともできたこ
蹴散らすこともできたことをペテロは
らすこともできたことをペテロは既
とをペテロは既に知っていた。
っていた。
(2)にもかかわらず
(2)にもかかわらず、
にもかかわらず、イエス様
イエス様が、十字架にかかられ
十字架にかかられたのは
にかかられたのは、
たのは、ペテロ(
ペテロ(私たち)
たち)の罪を背負うた
背負うた
めであったことが、
であったことが、今、いやというほど、
いやというほど、ペテロの心
ペテロの心には響いていた。
いていた。
(3)そして
(3)そして、
そして、ペテロは、
ペテロは、何よりも、
よりも、自分自身が
自分自身が、いざというときには、
いざというときには、自分を
自分を守るためにイ
エス様
エス様をいとも簡単
をいとも簡単に
簡単に、「私
、「私は彼を知らない」
らない」と否定し
否定し、裏切る
裏切る、実に、卑怯で
卑怯で、臆病で
臆病で、
自己中心な
自己中心な人間である
人間であるか
であるかを、幾たびも思
たびも思い起こしていた
こしていた。
ていた。
(4)ペテロは
(4)ペテロは、
ペテロは、そんな、
そんな、私の罪のために死
のために死んでくださったイエス様
んでくださったイエス様の愛を感じていた。
じていた。
2.その十字架の愛は、どのように始まり、どのように表されたか?
(1)イエス
(1)イエス様
イエス様が、まだペテロが罪人
まだペテロが罪人であった
罪人であった時
であった時に、イエス様
イエス様が十字架に
十字架に付かれた所
かれた所から始
から始ま
った。
った。●ローマ 5 章7-8節●正しい人
しい人、悔い改めた人
めた人、お詫びした人
びした人、情け深い人の
為、良い人を救う為に十字架にかかる
十字架にかかる人
にかかる人はいるかもしれない。
はいるかもしれない。●でも、
でも、まだ今
まだ今も罪を犯
し続け、反逆を続ける人
ける人のために死
のために死んでまで助
んでまで助けようとする人
けようとする人がいるであろ
がいるであろうか?!
うか?!
(2)また
(2)また、
また、その愛
その愛は、イエス様
イエス様がペテロを一言
がペテロを一言も
一言も咎めていないところ
めていないところに表された:
された:ペテロは、
ペテロは、
●3 年間本当にお
本当にお世話
にお世話になった
世話になったイエス
になったイエス様
イエス様を 3 度まで「
まで「そんな人
そんな人は知らない」
らない」と否定した
否定した、
した、
しかも、
しかも、最後は
最後は、「呪
、「呪いをかけて誓
いをかけて誓って」
って」という強
という強い表現をもってまで
表現をもってまで、
をもってまで、断固として
断固として拒絶
として拒絶
した。
した。●イエス様
イエス様は、このペテロの裏切
このペテロの裏切りが
裏切りが実
りが実際に起こる前
こる前からご
からご存知だった。
だった。前の晩
2
に、夕食の
夕食の席の会話で
会話で、イエス様
イエス様はこのことを預
はこのことを預言された。
された。ペテロはイエス様
ペテロはイエス様に断言し
て言った。
った。「たとい他
たとい他の弟子たちがあなたを
弟子たちがあなたを裏切
たちがあなたを裏切っても
裏切っても、
っても、私は命を張って、
って、あなたに従
あなたに従い
ます」
ます」と。すると、
すると、すでにペテロの裏切
すでにペテロの裏切りを
裏切りを知
りを知っておられたイエス様
っておられたイエス様は、「明
、「明日の朝、鶏
が鳴く前に、あなたはその言葉
あなたはその言葉を
言葉を見事に
見事に翻して、
して、私を裏切る
裏切る」と言われた。
われた。●しかし、
しかし、驚
くべきことは、
きことは、こんなにハ
こんなにハッキリした裏切
リした裏切り
裏切りなのに、
なのに、それについて
それについて、
について、イエス様
イエス様は、ここ
で直接的
直接的には一言
には一言も
一言も触れてはおられない
れてはおられないのである
られないのである。
のである。●私たちは皆
たちは皆よく知
よく知っている。
っている。人の
罪を責めない。
めない。それについて
それについて一言
ついて一言も
一言も触れないということほど難
れないということほど難しいことはないことを。
しいことはないことを。
「赦すけど・・・
すけど・・・」
・・・」と言いながら、
いながら、いつまでもグ
いつまでもグチグチ言い続けることが
けることが、
ことが、どんなに相手
どんなに相手
を苦しめることか。
しめることか。●しかし、
しかし、イエス様
イエス様は、ペテロの裏切
ペテロの裏切り
裏切り行為についてここで一言
についてここで一言も
一言も
触れてはおられないのである
れてはおられないのである。
のである。
(3)そして
(3)そして、
そして、何よりも、
よりも、イエス様
イエス様のペテロへ
のペテロへの愛は、そのペテロの
そのペテロの犯
ペテロの犯した罪
した罪を、イエス様
イエス様が
完全に
完全に赦されたこと
されたことに
ことに表された。
された。●イエス様
イエス様は、ペテロ自身
ペテロ自身が
自身が、「イエス
、「イエス様
イエス様、何でそんな
に同じことを何回
じことを何回も
何回も聞くのですか!
くのですか!?」と
?」と聞きたくなり、
きたくなり、くさってしまうほどに、
くさってしまうほどに、同じ質
問を 3 回繰り返された。
された。●それはなぜ
それはなぜか? ペテロにも
ペテロにも、それが、
それが、初めは分
めは分からなかっ
たが、
たが、まもなく分
まもなく分かったのである
かったのである。
のである。3 回に意味があった
意味があった。
があった。ペテロはイエス
ペテロはイエス様
イエス様を 3 回拒ん
だ。そのペテロ
そのペテロにイエス
ペテロにイエス様
にイエス様が 3 回、「あなたは
、「あなたは、
あなたは、私を愛するか?」
するか?」と
?」と聞かれ、
かれ、ペテロがイ
エス様
エス様に 3 回「私があなたを愛
があなたを愛することはあなたがご
することはあなたがご存知ではないですか」
ではないですか」と言うたびに、
うたびに、
3 回の拒絶の
拒絶の罪の一つづつが、
つが、水で洗われるように洗
われるように洗われ、
われ、赦され、
され、拭われ、
われ、その心
その心の
傷が癒されていく効果
されていく効果があったのである
効果があったのである。
があったのである。●それは、「
それは、「一
、「一部」ではない、
ではない、彼の犯した罪
した罪の
「すべて」が完全に
完全に赦されていることをペテロに知
されていることをペテロに知って欲
って欲しい、
しい、確信して欲
して欲しいというイ
エス様
エス様の愛以外の
以外の何ものでもなかった。
ものでもなかった。●あのときから、
あのときから、ペテロは、
ペテロは、イエス様
イエス様の愛の中
に自らの罪
らの罪の完全な
完全な赦しを確
しを確信したのである。
たのである。
3.聖書は
聖書は明確に
明確に言う。「私
。「私たちが神
たちが神を愛したのではなく、
したのではなく、神が私たちを愛
たちを愛し、私たちの罪
たちの罪のた
めに、
めに、宥め(なだめ)
なだめ)のそなえものとしての御
のそなえものとしての御子を遣わされました。
わされました。ここに愛
ここに愛があるのです」
があるのです」
(Ⅰヨハネ4
ヨハネ4章 10 節)と。
4.すなわち、
すなわち、私たちと神様
たちと神様との
神様との個人的
との個人的な
個人的な愛の関係は
関係は、
(1)私
(1)私たちが夢
たちが夢中で、死に物狂いで
物狂いで神様
いで神様を
神様を愛そうとする
そうとする人間的
する人間的な
人間的な努力からは始
からは始まらない。
まらない。そ
れは不毛
れは不毛と
不毛と失敗という惨
という惨めな結果
めな結果しか
結果しか生
しか生み出さない。
さない。
(2)む
(2)むしろ、それは、
それは、神様がまず
神様がまず私
がまず私たちを
たちを、私たちがまだ罪人
たちがまだ罪人であるときに
罪人であるときに、
であるときに、十字架にかか
十字架にかか
ってまで愛
ってまで愛してくださったという事実
してくださったという事実とその
事実とその事実
とその事実を
事実を知り、その愛
その愛を信仰によって
信仰によって体
によって体験す
るところ
るところから始
から始まる。
まる。
(3)また
(3)また、
また、そこにこそ、
そこにこそ、この愛
この愛に私たちが成
たちが成長するための「
するための「基礎」
基礎」と力の「源泉」
源泉」がある。
がある。
★これが、私たちとの個人的な愛の関係を築くためにイエス様がしてくださったことである。
★しかし、真の愛は、一方的なものでは満足しない。愛し愛される「両者」が、Mutualに、相互で、築いていくとき、
その真価が発揮されるのである。
★神様は、私たちの愛の如何にかかわらず、永遠の昔から愛なるお方である。しかし、私たちが神を愛し始めたと
き、初めてその愛が、私たちに分かり始め、その愛を体験することができるのである。そこで、
Ⅱ.最後に、イエス様が、ペテロに、この愛の関係の中に生きるものとして求められたことについて学びたい。
A. 第一に、イエス様がペテロに求められたことは、「あなたはこれらのものにまさって私を愛するか」というイ
エス様のペテロに対する質問の中に見られる「イエス様を一番に愛する」心と姿勢である。
1.この質問
この質問は
質問は、原文の
原文のギリシャ語において、
において、文法的
文法的に3つの意味
つの意味に
意味に取りうる。
りうる。
(1)英
(1)英語で言うと、
うと、この文
この文章は、Do you love me more than the
these?となるが、
となるが、
(2)こ
(2)これをギ
れをギリシャ語文法に
文法に従って訳
って訳すと
●Do you love me more than
(oth
(other
ther disciple
ciples) love me?
these
3
あなたは、
あなたは、これらのほかの弟子
これらのほかの弟子たちが
弟子たちが私
たちが私を愛するに勝
するに勝って私
って私を愛するか?
するか?
●Do you love me more than you love
(oth
(other
ther disciple
ciples)?
あなたは、
あなたは、あなたが、
あなたが、これらの他
これらの他の弟子たちを
弟子たちを愛
たちを愛するに勝
するに勝って私
って私を愛するか?
するか?
●Do you love me more than you love the
these (fish
(fish net, boat, etc.
etc.)
tc.)?
あなたはあなたが
あなたはあなたが漁
あなたが漁師として愛
として愛していたこれらの
していたこれらの舟
これらの舟や網などに
などに勝って私
って私を愛するか?
するか?
(3)文法
(3)文法的
文法的には、この 3 つのいずれも可能性
つのいずれも可能性があ
可能性があり
があり、どれも否定
どれも否定できない
否定できないが
できないが、・・・
(4)意味的
(4)意味的には
意味的には、
には、恐らく、
らく、一番目に
番目に紹介した
紹介した Do you love me more than the
these oth
other
ther
discipleles love me(あなたは、
あなたは、他の弟子たちが
弟子たちが私
たちが私を愛するに勝
するに勝って私
って私を愛するか)
するか)?とい
うような「
うような「イエス様
イエス様への愛を他の弟子たちと
弟子たちと競争
たちと競争さ
競争させる、比較する
比較する」
する」ような質問
ような質問は
質問は、イエ
ス様の質問として
質問として適
として適切には思
には思えない。
えない。
(5)そこで
(5)そこで、
そこで、残りの二
りの二つをまとめると、
つをまとめると、イエス様
イエス様の質問「
質問「あなたはこれらに勝
あなたはこれらに勝って私
って私を愛する
か?」の
?」の意味はおのずと
意味はおのずと次
はおのずと次のようになる。
のようになる。即ち、
(6)それが、たとい他の弟子たちという親友や仲間、また家族等の「人間」であれ、或いは、漁師た
these
ちにとって舟や網という「財産・所有物」であれ、更にはそれらが象徴する漁師としての自分の
「キャリヤ」、「仕事」であれ、それらの如何なるものを愛するに勝って、「私(イエス様)を愛する
か」という意味
という意味である
意味である。
である。
2.即ち、それは、
それは、私たちの至高
たちの至高の
至高の愛をイエス様
をイエス様ご自身に
自身に向けること、
けること、捧げることである
ることである。
である。平た
く言うなら、
うなら、イエス様
イエス様を人生で
人生で一番に愛することである
することである。
である。
(1)しかし
(1)しかし、
しかし、「私を他のどんなものに勝
のどんなものに勝って、
って、一番に愛せよ」とは何
とは何と大胆な
大胆な要求か
要求か?
(2)それは
(2)それは、
それは、もしイエス様
もしイエス様が単なる「
なる「道徳の
道徳の教師」
教師」、「人生
、「人生のカウンセラー
人生のカウンセラー」
のカウンセラー」であったら、
であったら、とて
もあり得
もあり得ない質問
ない質問であ
質問であり
であり、要求であ
要求であった
であった。
った。
(3)日本
(3)日本語
日本語の子供の賛美歌
賛美歌に、「イエス
、「イエス様
イエス様は一番」という歌
という歌がある。
がある。その歌
その歌の最後に
最後に、「イエス
様が一番、イエス様
イエス様が一番。だってイエス
だってイエス様
てイエス様は神様だもの
神様だもの。
だもの。だってイエス様
だってイエス様は神様だも
神様だも
の」という歌詞
という歌詞がある
歌詞がある。
がある。
(4)
(4)即ち、イエス様
イエス様が、そのように何
そのように何ものにも勝
ものにも勝って、
って、人間の
人間の至高の
至高の愛を求めるのは、「
めるのは、「イエ
、「イエ
ス様が神様」
神様」だからである
だからである。
である。
(5)こ
(5)このことは、
のことは、イエス様
イエス様が別の箇所で言われたことにつながる。
われたことにつながる。
●イエス様
イエス様が聖書の
聖書の中で何が一番大切
番大切な戒めかと尋
めかと尋ねられたとき、
られたとき、間髪入れず、
れず、即座に、
「第一の戒めは、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、主なるあなたの神
を愛しなさい。第二の戒めは、あなた自身のようにあなたの隣人を愛しなさい」と答えられ
た。ここにも、
ここにも、私たちが、
たちが、まず第
まず第一に神を愛すること、
すること、それから、
それから、二番目のこととし
二番目のこととし
て人を愛することが強調
することが強調されている
強調されている。
されている。
●もうひとつは、
もうひとつは、マタイ 6 章終わりの言葉
わりの言葉である
言葉である。
である。イエス様
イエス様は、神様が
神様が人間の
人間の日常生活
日常生活
の必要を
必要を十分に
十分に知っておられ、
っておられ、責任をもってそれを
責任をもってそれを満
をもってそれを満たされることを
たされることを強調
ることを強調された
強調された上
された上で、
なお、
なお、それらの必要
それらの必要が
必要が満たされることを優
たされることを優先するのではなく、
するのではなく、「まず、神の国と神の義
を求めなさい」と言われた。
われた。それは、
それは、神様へ
神様への愛を優先し、神様へ
神様へ至高の
至高の愛を捧げる
ことを意味
とを意味していた
意味していた。
していた。
3.このようにイエス様
このようにイエス様が至高の
至高の愛を私たちに求
たちに求められたのは、
められたのは、「イエス様
イエス様が神様」
神様」だからである。
だからである。
(1)繰
(1)繰り返すが、
すが、イエス様
イエス様は、単なる立派
なる立派な
立派な人間、
人間、宗教の
宗教の指導者、
指導者、道徳の
道徳の指導者ではない
指導者ではない。
ではない。
(2)また
(2)また、
また、私たちに幸
たちに幸せ、Luck を届けるエンジェ
けるエンジェルでもないし、
ルでもないし、更には、
には、
(3)「
(3)「アラジンのランプ
ラジンのランプ」
ランプ」の物語に出てくるの「
てくるの「ジーニ
ジーニー」のように、
のように、ランプや手
ランプや手をこすると、
こすると、
「ご主人様、
人様、何をしましょ
をしましょうか?
うか?」と現れる、
れる、何でも願
でも願いをかなえてくれる僕
いをかなえてくれる僕でもない。
でもない。
(4)
(4)イエス様
イエス様は神様である
神様である。
である。即ち、イエス様
イエス様は:
●私たちの造
たちの造り主である(
である(だから、
だから、私たちが今
たちが今存在するのである
存在するのである)
するのである)。
4
●すべての祝福
ての祝福を
祝福を与えて下
えて下さったお方
さったお方である(
である(だから今
だから今の私がある)
がある)。
●更には、
には、十字架で
十字架で命を捨てるほどに
てるほどに私たちを愛
たちを愛して下
して下さったお方
さったお方である。
である。
●そのお方
そのお方に私たちがするべ
たちがするべきことは、
きことは、私のすべ
のすべてを捧
てを捧げることではないか?!
ることではないか?!
4.今イエス様
イエス様は、私たちにもペテロに対
たちにもペテロに対すると同
すると同様に、「あなたはこれらのものに勝
あなたはこれらのものに勝って私
って私を
愛するか」
するか」と問われる。
われる。
(1)D
(1)Do you love me more than the
these ?というイエス様
というイエス様からの求
からの求婚である。
である。
(2)私
(2)私たちにとって「
たちにとって「これら」
これら」とは何
とは何であるか?
であるか?
(3)イエス
(3)イエス様
イエス様は、私たちの単
たちの単なる救世
なる救世主
救世主ではなく、
ではなく、カウンセラーや、
カウンセラーや、教師でもなく
教師でもなく、
でもなく、まして
や、サンタクロースや足長
サンタクロースや足長おじさんでなく
足長おじさんでなく、
おじさんでなく、愛人になりたいのである
愛人になりたいのである。
になりたいのである。愛し愛される関
される関
係に入りたいのである。
りたいのである。
(4)Y
(4)Yes, I do と答えるものでありたい
えるものでありたい。
たい。
B. 最後に、もうひとつ短く、イエス様が、「愛の関係」を求めるお方として、私たちに期待しておられることに
ついて触れたい。
1.
2.
3.
それは「
それは「私があなたを愛
があなたを愛することはあなたがご
することはあなたがご存知です」
です」というペテロの返
というペテロの返事の後に、繰り返
された「
された「私の羊、私の小羊を
小羊を飼いなさい、
いなさい、養いなさい」
いなさい」と言うイエス様
うイエス様の言葉に
言葉に表されている。
されている。
それは、
それは、言い換えるなら、「
えるなら、「イエス
、「イエス様
イエス様の愛するものを愛
するものを愛する」
する」、「イエス様
イエス様が、関心をもって
関心をもって
おられることに同
おられることに同じように関心
じように関心を
関心を表し、それに協
それに協力する」
する」ことである。
ことである。
これが愛
これが愛する者
する者の姿である。
である。若いとき誰
いとき誰かを好
かを好きになり、
きになり、愛し始めたときのことを思
めたときのことを思いだし
て頂きたい。
きたい。
(1) 人は、誰かを愛
かを愛し始めると、
めると、その人
その人のすべ
のすべてを知
てを知りたくなる。
りたくなる。その人
その人のしている仕
のしている仕事、
その人
その人の趣味や関心を
関心を知ろうとする。
うとする。
(2) そして、
そして、その人
その人が好きなことを一
きなことを一緒に自分もしたくなる
自分もしたくなる。
もしたくなる。
(3) そのようにすることによって、
そのようにすることによって、少しでもその
しでもその人
その人と一緒にいたいのである
にいたいのである。
のである。その人
その人をもっ
と知りたいのである。
りたいのである。
(4) そして、
そして、その人
その人のことを手
のことを手伝いのである。
のである。そして、
そして、その人
その人が喜ぶ顔を見たいのである。
たいのである。
4. イエス様
イエス様の最大の
最大の関心は
関心は、ご自分の
自分の「羊」である人
である人々、人間である
人間である。
である。
(1) だからこそ「
だからこそ「迷える羊
える羊」を取り戻すために、
すために、十字架に
十字架に架かられた。
かられた。
(2) そのイエス様
そのイエス様を信じて立
じて立ち戻り、今や囲いの中
いの中にいる羊
にいる羊がいる。
がいる。クリスチャンである。
クリスチャンである。
それが未
それが未だ小羊であっても
小羊であっても、
であっても、成長した羊
した羊であれ、
であれ、イエス様
イエス様は養い、育てたいのである。
てたいのである。
(3) クリスチャンの成
クリスチャンの成長と群れ全体、即ち、教会の
教会の成長である。
である。牧会の仕事とも言
とも言える。
える。
(4) また、
また、まだイエス様
まだイエス様を信じない「
じない「羊の囲い」の外にいる羊
にいる羊もいる。
もいる。彼らに福音
らに福音を
福音を伝えたい。
えたい。
所謂「伝道」である。
である。
5. これらが、
これらが、イエス様
イエス様の関心のす
関心のすべ
のすべてであり
てであり、しておられるすべ
しておられるすべてである
てである。そして、
そして、愛し、愛
される者
される者として、
として、私たちにイエス様
たちにイエス様は、同じ関心を
関心を持ち、一緒に協力して欲
して欲しいのである。
しいのである。
結 論
●今朝(今晩)、主は、あの日
あの日のペテロに対
のペテロに対するように、
するように、私たちにも、
たちにも、「これらのものに勝
これらのものに勝って私
って私を愛する
か?」とラブコールをしておられる
?」とラブコールをしておられる。
とラブコールをしておられる。
●そして、
そして、愛し愛される者
される者として、
として、私たちにも
たちにも、主と一緒になって、
になって、迷える羊
える羊を追い求め、養い、育て
る仕事を手伝って欲
って欲しいと願
しいと願っておられる。
っておられる。ペテロと共
ペテロと共に、その主
その主に”Yes”と答える者
える者でありたい
でありたい。
りたい。
●「私には、
には、とても、
とても、YES とは言
とは言えない。
えない。そんなことはできない」
そんなことはできない」という人
という人がいるだろ
がいるだろう。
●しかし、
しかし、ペテロがどんな人
ペテロがどんな人物であったかを考
であったかを考えたい。
えたい。彼は、かつて「
かつて「他の誰があなたを裏切
があなたを裏切っても
裏切っても私
っても私
は絶対に裏切りま
裏切りませ
りません」といきがってイエス様
いきがってイエス様に啖呵(
啖呵(たんか)
たんか)を切った。
った。しかし、
しかし、見事に
見事に、そして惨
そして惨め
にも裏切
にも裏切った
裏切ったのである
ったのである。
のである。それ故
それ故、この時
この時も恐らくすっかりイエス様
らくすっかりイエス様に従う自信をなくしてショ
をなくしてション
ションボリ
していたであ
していたであろ
であろう。そのペテロにイエス
そのペテロにイエス様
ペテロにイエス様はこの質問
はこの質問をされたのである
質問をされたのである。
をされたのである。主にあって YES と言えな
い人は一人も
一人もいない。
いない。「それは人
それは人にはできないが、
にはできないが、神には何
には何でもできないことはない」
でもできないことはない」(マタイ 19:2
9:26)
5
Fly UP