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知の形成プロセスとしての文法学習は可能か

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知の形成プロセスとしての文法学習は可能か
知の形成プロセスとしての文法学習は可能か
―「メタモルフォーゼ」の観点による一つの試み―
武 田 利 勝
はじめに
高等教育機関における外国語科目は一般的に、そしてかなりの程度において
漠然と、いわゆる〈教養科目〉として理解されているもののようだ 1。近代以
降の日本の教育現場が経験してきたその「教養」がいかなる内実を持つのであ
ろうとも、あるいはその名のもとにいかに多様な教育上の個人的理念が語られ、
黙殺され、場合によっては実現されたのであろうとも、しかし次の事実は変わ
らない。すなわち「教養」はドイツ語では Bildung といい、それは動詞 bilden
由来の名詞であり、この動詞は「形成する」
「養成する」を意味するのであって、
1 周知のように、敗戦後の学制改革によって、新制大学は旧制高等学校の一部を取
り込み、その際にそれをいわゆる教養部とし、「一般教育(高等普通教育)」の機能
を担わせた。絹川正吉によれば、新制大学は「〈一般教育〉という課題を、旧制高校
の教養主義で実体化しようとした。すなわち、
〈一般教育〉を〈一般教養〉と読み替え」
てしまったことにより、アメリカ由来の General Education の理念(それは近年とみ
に叫ばれるいわゆる「学士課程教育」の理念に多くの部分で先行するものだ)を移
植することを結果的に拒んだ、という(同著『大学教育の思想――学士課程教育の
デザイン』
、東信堂、2006 年、57‐81 頁を参照)。外国語学習をなお無反省的に「教
養」と呼称することがあるとすれば――そして現実にそうなのだが――、それはも
ちろん上記の事情に由来するのであろう。さらには大学という制度が緩やかに受け
継いできたこうした伝統ゆえに、とりわけここ十数年の語学教育の現場において、
「教
養外国語」と「実用外国語」という不毛な理念上の対立構図のみが先鋭化してしまっ
たこと、そのため個々の現場において目指されるべきものがしばしば見失われてき
たことは看過すべきではない。この問題は、遠山博雄「座標軸の設定を――外国語
教育のために」
(『駒澤大学外国語部論集』55 号、2001 年、153‐161 頁)において
細やかに提起されている通りである。
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武 田 利 勝
だから本来の「教養」とは静態的な実体ではありえず、まさしく動的な形成の
プロセス である、ということだ 2。「教養」がプロセスである以上、それはた
えず未完にとどまり、そのようなものとして生成しつづける。
したがって
「教養」
とは何か、という本質論的な問いもまた、これ以上は不要である。むしろ問わ
れるべきは教養の〈いかに〉であって、
この問いこそ本稿の大きな外周をなす。
そして本稿の主題は、こうした「教養」=「形成のプロセス」としての外国
語学習の方法論を構築するか、少なくともその見取り図を描くことである。そ
の場合、筆者はドイツ語担当教員であるので、もちろんドイツ語学習が議論の
舞台となる。ここでの「学習」は、狭義に教場での授業を示す。この「授業」
とはとりわけ初年次学習者を対象とした「ドイツ語文法」を想定していること
を附言しておかねばならない。
1.
外国語初習者がまず学習することを義務付けられる「文法 Grammatik」の意
義は、そもそも歴史的に宙吊りである、と言わねばならない。語源的にはギリ
シア語の「文字(gramma)
」に由来する「文法学」は、中世ヨーロッパでは修
辞学や論理学等とともにいわゆる「自由七科」を構成し、文字通り古典文献読
解のための最も重要な予備教育課程の一つであった(近代以降、特に「言語論
的転回」へと至る言語哲学的な文法学について触れることは本稿の課題ではな
い)。
そして近代日本に至るまで、
高等教育における外国語
「文法」
学習の役割は、
当該言語によるテクストの高度な読解能力を支える基礎知識の涵養、と考えら
れたのである。この自明ともいうべき事実ゆえにしかし、先述の「文法学習の
意義の宙吊り」が生じたのではないだろうか。それは具体的に次のようなもの
だ―「文法は重要である。なぜなら読解のために必要であるから。しかし文
2 近代ドイツにおける「教養」概念の系譜およびその現代的意義については、以下
を参照。ヴィルヘルム・フォスカンプ(武田利勝訳)
「教養と知識――今日〈教養〉
をどのように理解するか」(
『モルフォロギア』32 号所収、2010 年、50-59 頁)。
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知の形成プロセスとしての文法学習は可能か
法は無意味である。なぜなら読解のための準備にすぎないから 」。
重視と軽視のあいだのこうした文法の逆説的な宙吊りは、あらゆる局面で生
じている。たとえば、「文法」授業の無用論者と必要論者とのあいだを見れば
明白であろう。だがそれだけではなく、そしてもっと厄介なことに、この宙吊
りはしばしば一人の教授者の内部でもありうることである。そして予備教育と
しての「文法」は、「必要」と「無意味」のあいだを宙吊りしつつ漂ううちに、
多くの場合その帰結として、「つまらないもの」ではあるが「必要なもの」と
いう性質を帯びさせられることになる。
自然、初習者に求められるのはストイッ
クな学習態度であり、教場内には「必要だから覚えておくように」という声が
鳴り響く。
この言葉そのものが、
発話者と学習者たちとのあいだを宙吊りとなっ
て消えていく。
言うまでもなく、いわゆる「教養主義」の時代がとうに終わった現代におい
ては―あるいは不快な表現ではあるが「高等教育の大衆化」がますます進行
する現代においては―、このように宙吊りにされたままの文法学習は必ずし
も通用しない。というのも、上記の意味での文法の「必要性」そのものがもは
や自明ではないからだ。高度なテクストを読解するために「必要」な文法―
しかし「文法」学習が、
いわゆる「高度なテクスト」をいずれ読解する「必要」
があるだろうという前提のうえに初めて成り立つとして、そしてこの前提その
ものがすでに完全ではないとすれば、「文法」は果たして何に立脚することが
できるのだろうか?
もちろん、この問いは今になって始まったわけではない。例えば近年顕著な
ように、専門性の高いドイツ語のテクストを読むための文法学習の必要性、と
いう伝統的な位置づけは、
〈会話能力のための〉へと艤装転換されつつある。
このことは毎年発行される多くの初習者用文法教科書が物語る通りだ。ところ
がこれは単なる宗旨替えにすぎず、残念ながら問題の根幹はまったく変わらな
い。なぜなら、このように前提を挿げ替えたとしても、今度は「ドイツ語会話」
の必然性が保証されない限り、あいかわらず文法の必要性は疑わしいままだか
らである。問題は「コミュニケーションか読解か」ではないのだ。いわゆる教
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武 田 利 勝
養・実用外国語論争が不毛であったのと同様、この二項対立を問うことは単に
趣味や信条の領域に属する。問題はむしろ、「文法学習の宙吊り性をいかに解
決するか」でなくてはなるまい。
2.
「文法」学習は単なる予備知識の集積作業ではなく、それ自体のうちに目的
を有し、そしてそれ自体として完結的な、ということは一つの自律的な知の形
成プロセス (Bildung)である。
もちろんここで述べているのは、専門的な言語学における文法理論でもなけ
れば、言語哲学的なそれでもない。高等教育の現場での初等文法授業のことで
ある。とはいえ、文法の自律性、という表現は誤解を招きやすい。それは決し
て有用性や実践性を排した徹底的にストイックな文法的知識の拡充と深化、と
いったことを意味しない。むしろ重要な点は、
文法学習を「知の形成プロセス」
として理解しなくてはならないということ、そしてそのプロセスは自律的かつ
自己法則的に展開しなければならない、ということだ。前章で批判した「必要
性」は、このような自律的なプロセスの展開にとって障害である。
ではどのような文法学習がこうした自律的な形成プロセスを可能とするのか
―このことを問う前に、翻って、従来の支配的なドイツ語文法の学習形態を
批判的に概観しておくべきであろう。
例えば筆者の手許に十数冊の文法教科書がある。二色刷りから多色刷りまで、
あるいはいくつかの文法事項を割愛しつつドイツ語コミュニケーションに重心
を置いたテクストから、あくまでも伝統的なスタイルを貫いたものまで、一見
するところさまざまではある。しかしいかに体裁を変えようとも、それらに通
底する理念は変わらない。それは前章で指摘したとおり、文法を読解ないし会
話のための単なるツールと見なしていることであり、そのことが多くの教科書
の性格と内実を結局のところは似通ったものにしている。それは各教科書の構
成を見れば明らかだ。以下、多くの教科書に共通すると思われる構成を章立て
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知の形成プロセスとしての文法学習は可能か
にして抽出してみると:
発音 1)動詞の現在人称変化 2)名詞の格変化(定冠詞・不定冠詞)
3)幹
母音変化する動詞 4)冠詞類・定冠詞類 5)人称代名詞の格変化 6)前置詞
7) 話 法 の 助 動 詞 8) 分 離 動 詞 9) 動 詞 の 三 基 本 形 10) 過 去 人 称 変 化
11)現在完了形 12)受動態 13)形容詞の変化 14)関係代名詞 15)接続法
若干の異同はあるとしても、多かれ少なかれこのような構成が一般的と言っ
てよい。そしてこれは教授者にとっても学習者にとっても見慣れた構成である
から―前者にとっては長年の経験が、後者にとっては中高六年間にわたる英
文法学習における習慣が、こうした構成への安心感を与えているのだ―、こ
の順序からの大幅な逸脱は、かえって不信と混乱を招くのみかもしれない。だ
からよく工夫されたように見えるテクストでさえ、この大筋のごく微細な修正
にとどまるのである。しかしあえて、習慣によって曇らされた眼鏡を外すこと
も必要ではないだろうか。まずはこれまで自明とされてきた初習者用文法教科
書の構成それ自体の問題点を指摘する。
先述のように、上記の構成は、学習者にとってドイツ語学習にほとんどの場
合先行する英語学習の過程をほぼ踏襲したものである。それは一方で学習者に
安心感を与えるものであるが、他方、決定的な欠陥をも併せ持っている。すな
わち、ドイツ語学習は一つの独立したプロセスであるべきなのにも拘らず、そ
の独自性が損なわれてしまうということであり、また、その帰結として、ドイ
ツ語固有の文法体系が本来要求する個々の学習事項間の連続性が失われてしま
うということである。上記の構成を見れば、学習の進行が動詞的要素と名詞的
要素とのあいだを行き来しており、各課を結び付ける連続性(あるいは導きの
糸)がほとんど見出せないことがわかる。
こうした欠陥は、これもすべての文法教科書が示している通り、各課かある
いは巻末に掲載された文法事項説明の一覧表によって埋められているかに見え
る。それは「定冠詞の格変化」や「動詞の現在人称変化」等をいわゆる「変化
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武 田 利 勝
表」で示したおなじみの図のことである。ところがここに罠があるのだ。とい
うのも、これらの一覧表もまた、学習者だけでなく教授者にも一種の危険な安
心感を与えてしまうからである。少なからぬ学習者にとって、
この安心感は「今
は理解できなくても表があるから大丈夫」という漠然とした希望を、逆に教授
者側からすれば、同じく漠然とした期待を保証する。多くの文法教科書が掲載
する文法事項の説明図は、ある未知の都市の地図に等しい。しかし言うまでも
なく、それを読み、実際に都市を歩くための感覚は、地図そのものからは得ら
れないのである。前後左右や東西南北の空間感覚を持たないものにとって、果
たして地図が意味を持つのだろうか?
このような欠陥は、多くの教科書で用いられるある種の練習問題の類型に
よって決定的となる。いくつかの例を挙げると:
-Wann du nach Berlin?(下線部に動詞 fahren を現在人称変化させて入れる)
-Er hängt das Bild die Wand.(下線部に適切な前置詞を入れる)
-Ich in die Stadt .(gehen を現在完了形にして用いる)
-Wir morgen früh .(分離動詞 aufstehen を当てはめる)
今日のドイツ語練習問題においてもはや支配的と言うべきこの種の類型もま
た、学習者および教授者にとって、他ならぬ英語のイディオム問題等を通じて
慣れ親しんできたものなのだ。この種の下線部・穴埋め形式の練習問題は、そ
の用途がいわゆる「ドリル方式」に特化されるのである限り、そのようなも
のとしてはたしかに有効であろう。しかしこれが支配的となってしまうことは
却って有害である。なぜならここには本来のドイツ語文法はほとんど関与して
おらず、単なる図表的知識の書き写しが反復されるのみであるからだ。個々の
文法事項は分断され、互いの連続性を欠いたまま、文中に空白の下線部となっ
てそのつど断片的に焦点化される。文章全体のリズム、語順、統一性はたえず
視界の外に置かれる。それが繰り返されるうちに、文法知識の統一性は失われ、
多くの学習者にとっては、ともすれば、いわば忘却された廃墟の集積が残され
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知の形成プロセスとしての文法学習は可能か
るのみとなるだろう。
こうした事態が生じる理由は明白だ。文法教科書が、いずれ来る「原典読
解」のための規程集(ルールブック)にすぎず、それ以上のものではない限り
―先述の表現を用いれば「つまらないが必要なもの」である限り、各文法事
項の連続性は度外視されるからである。慣習的に体系づけられ、カテゴリー
化された巻末の一覧表を、そのつど「必要」に応じて参照しさえすればよいの
だ。このように連続性を欠いた知識の集積としての文法学習のあり方を、本
稿では「カテゴリー的 kategorial」文法学習と呼ぶ。それは文法の図表(タブ
ロー)的知識と実際の文章とのあいだを往復しつつ参照する作業を通じて、あ
る言語の習得をすすめることが要求される、そのような学習ないし教授の態度
(Einstellung)である。カテゴリー的学習において文法授業は予備的知識の蓄
積作業として、いわば競技を始める前のルール説明という機能を担い、再三述
べたように、「つまらないが必要なもの」として教授者と学習者のあいだで暗
黙裡に了解されることとなる。
3.
本稿は、前章で説明した「カテゴリー的」文法学習に対して、自律的な知的
形成のプロセスとしての文法学習のあり方を提起するものである。筆者はそれ
を「メタモルフォーゼ(変態)的 metamorphisch」文法学習と名付けてみたい。
なお誤解をさけるために付言しておくと、
ここでの「メタモルフォーゼ的」は、
文法学における形態論 morphology とは関わりがない。そうではなく、ゲーテ
が彼の自然科学研究において提唱した「形態学 Morphologie」の構想に依拠し
ている。
形態学は、分析的・細分的な科学の対極にある、というかむしろ、かかる知
的アプローチの限界を踏まえ、反省したうえで、直観のまなざしを対象の細部
だけではなく、同時に対象の全体へも向けようとする。形態学においては、あ
らゆる個別的なもの・部分的なものは他との関係や連続性において把握される。
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ゲーテ自身の言葉を引くと:
(…)あらゆる形態、とくに有機体の形態を観察してみると、そこには、固定的な
もの、静止したままのもの、他とのつながりを持たないものはどこにも見出せず、
むしろすべてが一つの絶えざる運動のうちに揺れていることがわかる。それゆえ、
ドイツ語が、生み出されたものや生み出されつつあるものに対して形成(Bildung)
という言葉を用いているのも、十分に妥当なことなのだ 3。
この箇所は本稿にとって二つの点で重要である。第一に、ここでは先述のよ
うにあらゆる個別的部分の有機的な連続性と関係性が重視されている、という
こと。そして第二に、有機体における個別と全体との関連、言い換えれば個別
的なものが全体へと結びつき、あるいは展開していくプロセスがまさしく「形
成」と言われている、ということである。有機体の形成を可能な限り対象に即
して直観する―そしてこのようなプロセスを通じて、観察者もまた自らを形
成していく―「形成 Bildung」の持つ意味は、したがって二重なのである。
「自律的な知的形成のプロセス」としての文法学習は、
こうした「形成」=「教
養」の理念に基づいている。言うまでもなく―もっとも、ソシュールの主張
は度外視するとして―、言語もまた有機体である。ある語句は他の語句と結
びつき、変化・屈折し、例えば文という一つの全体を構成する。ゲーテの形態
学を言語の領野へと反映させることは十分に可能だ。こうした理念を、統語論
や語用論のように専門化された言語学とは別の次元で、つまり初習者の文法学
習という現場へと適用するためには、さらに具体的なモデルが必要であり、そ
れが「メタモルフォーゼ」の概念である。
ゲーテ形態学の根本原理は、周知のとおり、
「メタモルフォーゼ」と「原型
Urtypus」である。この二つは、次の「植物のメタモルフォーゼ」からの引用
にあるように、不可分の一体をなすものだ。
3 Johann Wolfgang Goethe: Die Absicht eingeleitet. Zur Morphologie. In: HA. Bd. 13., S.
55.
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知の形成プロセスとしての文法学習は可能か
(…)われわれは変形の諸法則―自然がそれにしたがってある一つの部分を他の
部分からつくり出し、唯一の器官の変様によってきわめて多種多様な形態を呈示
してみせる、その変形の諸法則を知るようになるのである 4。
「唯一の器官」つまり原型が多様かつ無限にメタモルフォーゼを続けること
によって植物は生長する、という彼の形態学の原理に従えば、メタモルフォー
ゼは「最初の子葉から果実という最終的完成に至るまで、つねに段階的に活動
することが認められ、ある形態から順次他の形態へと変形し、いわば精神的な
階梯を、両性による生殖という自然の頂点を目指して昇っていく」5。
では初級ドイツ語文法の学習において、その「原型」とは何なのだろうか。
すなわち、それが発芽し、生長し、茎・葉・花弁そして果実へとメタモルフォー
「不定詞句」
ゼしていく「唯一の器官」とは何なのだろうか―筆者の考えでは、
がそれである。
4.
まず、先に批判した下線部・穴埋め形式の練習問題やテストがいかに得意で
あっても、それではドイツ語の文法を学習したことにはならないという理由を、
具体例とともに説明する。例えば学習者にいくつかの単語・語句を与えたうえ
で、簡単なドイツ語作文にあたらせる。
例 1) 私は明日映画に行きます。
例 2) 彼はテニスが得意だ。
動詞の現在人称変化をいかに完全にマスターした初習者でも、きっと次のよ
うな文を書くはずである。
Ex.1) Ich gehe ins Kino morgen.
Ex.2) Er spielt Tennis gut.
4 A.a.O.S.64.
5 A.a.O.S.65.
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武 田 利 勝
ここに挙げた解答例は、英語的な発想による言語干渉の代表的なものである
と同時に、すでに語順が用意され―正確には 「 ドイツ語では動詞は 2 句目 」
というルールだけが周知されるにすぎない―、文全体との関連から切り離さ
れた文法学習の弊害を端的に示している。ドイツ語固有の語順感覚(先述の喩
えを使うなら、「地図」に対する「空間感覚」と言ってよいだろう)の獲得は、
「カテゴリー的」文法学習では困難なばかりか、ほとんど不可能なのである。
正しい表現はそれぞれ、„Ich gehe morgen ins Kino
“. „Er spielt gut Tennis
“. でなく
てはならないのだが、学習者がその理由を文字通り感得し、文全体の構成を体
感できるために、
「メタモルフォーゼ的」文法学習は不可欠であり、その「原型」
が他ならぬ「不定詞句」なのだ。
ドイツ語の不定詞句では、英語の不定法と異なり、動詞の不定形が語句の末
尾に置かれる。
「メタモルフォーゼ的」
文法学習においては、
これが学習者にとっ
てまず最初に習得するべき文法事項となる。原型となる不定詞句としては、例
えば次の A・B がある。
A
ins Kino gehen(映画に行く)
B
Tennis spielen(テニスをする)
二つの不定詞句 A・B が主語を持ち、一つの文へと変容することによって、
それぞれ
A : Ich gehe ins Kino.
私は映画に行く
B: Er spielt Tennis.
彼はテニスをする
となる。動詞不定形が人称変化によって定動詞となり、文全体の第 2 句目へ
と移動すること(定動詞第二位の法則)を、学習者は種々の不定詞句の書き換
え作業を通じて体得する。その際に教授者側が留意するべきは、動詞の人称変
化に重点を置きすぎないことだ。それ以上に、不定詞が人称変化しながら然る
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べき位置に移動するというプロセスに、
学習者が親しむことが重要なのである。
さて課の進行に従って、これらの不定詞句は次のようにメタモルフォーゼし
てゆく。その際のルールとして、ins Kino gehen および Tennis spielen というそ
れぞれの原型は、いかに変様しても一つのまとまりを保持しなくてはならない
ということ、そして付加される語句はその前後いずれかに置かれるということ
が徹底して周知されなくてはならない。
1)morgen ins Kino gehen
明日映画に行く
2)morgen ins Kino gehen wollen
明日映画に行くつもりである
3)gestern ins Kino gegangen sein
昨日映画に行った
gut Tennis spielen
上手にテニスをする
gut Tennis spielen können
上手にテニスをすることができる
gestern Tennis gespielt haben
昨日テニスをした
1)では副詞句が不定詞句の前方に置かれ、2)3)ではそれぞれ話法の助動詞
と完了助動詞が後置される。なおドイツ語学習者がしばしば困惑する事項とし
て「否定詞の位置」があるが、これも不定詞句のメタモルフォーゼによって明
瞭になる。否定されるべき語句の前に否定詞が置かれればよいのであって、よ
くあるように「部分否定」や「全否定」というカテゴリーを参照する必要はな
いのである。
4)morgen nicht ins Kino gehen
明日映画には行かない
gestern nicht Tennis gespielt haben
昨日テニスをしなかった
そしてこれら不定詞句は ich および er という主語を与えられることによって、
冒頭の例と同様、最後尾の不定詞が人称変化しつつ移動し、それぞれ
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武 田 利 勝
1)Ich gehe morgen ins Kino.
Er spielt gut Tennis.
2)Ich will morgen ins Kino gehen.
Er kann gut Tennis spielen.
3)Ich bin gestern ins Kino gegangen.
Er hat gestern Tennis gespielt.
4)Ich gehe morgen nicht ins Kino.
Er hat gestern nicht Tennis gespielt.
という文へと変化する。そして学習者はこの作業を繰り返すことによって、下
線部の語句の構成が示しているように、ドイツ語の文構造において最重要とも
言うべき―ということはドイツ語話者の思考的枠組みを根本的に規定すると
も言うべき―「枠構造」を感得することができるのである 6。例としては挙
げなかったが、もちろん「分離動詞」の用法でも同様である。さらに、例えば:
不定詞句 morgen ins Kino gehen(波線部を文頭に)
と指示した練習にあたらせることによって、
Morgen gehe ich ins Kino.
のように、時間を示す副詞句が文頭に置かれるという、いかにもドイツ語らし
い表現に親しませることも可能である。
「メタモルフォーゼ的」文法学習においては、このように、まず文全体の構
造把握が重視される。そして文形成のプロセスのなかで、人称変化・動詞の三
基本形といった個別的な語句に関する事項が扱われる。原型が文へと自己を形
成していくメタモルフォーゼの過程を、その原型に寄り添いつつたどる学習者
にとって、文法の学習はまさに自律的な知的形成のプロセスに他ならない。
6 外国語教育の意義として、近年ではとりわけ「異文化意識 intercultural awareness」
の習得が叫ばれる。これはしばしば誤解されるように単に外国の文化・習慣等のみ
ならず、文法の学習をつうじても実現可能である。ドイツ語学習と当概念の関連に
ついては、吉島茂ほか『ドイツ語教授法――科学的基盤作りと実践に向けての課題』
(三修社、2003 年)の特に第 5 章から重要な示唆を得た。
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不定詞句を原型とした文構造の展開(例えば、通常の動詞⇒分離動詞⇒話法
の助動詞⇒現在完了形、受動態、といったように不定詞句の負荷を上げて行き、
さらに時間・様態・空間等を示す副詞の数を増していく)を一通りたどったと
き、学習者はドイツ語という一つの植物を、上方への生長システム(樹幹)と
いう側面から理解したことになる。文全体の構造の完成につづくのは枝葉をた
どることあり、それが「格変化」の学習ということになるだろう。すなわち定
冠詞・不定冠詞の格変化、形容詞の格変化、人称代名詞の格変化、前置詞の格
支配、指示代名詞、関係代名詞へと連結していくわけだが、いずれも動詞を中
心とした文構造から切り離されてはならない。「メタモルフォーゼ的」文法学
習においてこれら枝葉の部分をどのように扱うべきか、具体的な方策について
は今後の課題としたい。ただ、筆者の念頭にある原型のメタモルフォーゼは、
例えば次のようなものである。
-Ich lese das Buch.
私はその本を読む。
-Ich habe das Buch gelesen.
私はその本を読んだ。
-Ich habe das Buch unter einem Baum gelesen.
私はその本を一本の樹の下で読んだ。
-Mit herzlicher Freude habe ich das Buch unter einem großen Baum gelesen.
心からの喜びをもって私はその本を一本の大きな樹の下で読んだ。
-Ich erinnere mich noch daran, dass ich mit herzlicher Freude das Buch unter einem
großen Baum gelesen habe.
心からの喜びをもってその本を一本の大きな樹の下で読んだことを、私は
今でも覚えている。
-Ich erinnere mich noch daran, dass ich mit herzlicher Freude das Buch unter einem
großen Baum gelesen habe, das mein Leben so schön geändert hat.
私は今でも、心からの喜びをもってその本を一本の大きな樹の下で読んだこ
とを覚えているが、
その本は私の人生をかくもすばらしく変えてくれたのだ。
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武 田 利 勝
以上のような「メタモルフォーゼ的」文法学習の構想は、まだ文字通り「萌
芽」の状態ではあるが、これについて諸賢のご意見やご批判を賜ることができ
れば幸いである。
まとめ
最後に本構想の意義と意図、また問題点を確認しておきたい。本稿冒頭に述
べたように、ここで提起した文法学習の方法論は、これまで漠然と唱えられて
きた「教養」としての外国語学習という理念を一つの実践へともたらす試みで
もある。その場合の「教養」は、繰り返すまでもなく知的な形成のプロセス
(Bildung)として理解されるのであるが、原型のメタモルフォーゼをたどりつ
つドイツ語の文構造を把握する文法学習が最終的に目指しているのは、まさし
くこうした意味での教養の実践なのである。
ただし、そのためのシラバスがまだ完成していないという点以外に、その実
現には多くの困難が伴うはずだ。なぜなら第一に、そのための教科書が、管見
の及ぶ限り皆無である。第二に、いくら本稿がそれを批判したところで「カテ
ゴリー的」文法学習のあり方は依然として支配的であり、そうあり続けるに違
いないからだ。そして第三に、これは本構想にとっては急所でもあるが、文構
造はともかく、語句レベルの変化の体系については、カテゴリー的文法教授法
が構築してきた種々のタブローに依拠しなくてはならないという点は、否定で
きないからである。しかしだからといって、筆者はそれを単なる折衷主義とは
考えない。むしろこれまで示唆してきたように、変化表に向かう学習者と、と
りわけ教授者の態度が問われることになるだろう。個々の変化表をそれ自体と
して扱うのではなく、その意味が文全体の構成といかに有機的に結びつくのか、
教授者にとっては、学習者の意識をつねにこうした連続性・関連性へと向けさ
せることが肝要である。それは学習者の基本姿勢・学習態度に直結する問題で
あろう。
言うまでもなく、学習態度は学習動機と一体である。この点に関しては、本
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知の形成プロセスとしての文法学習は可能か
稿が提起した文法授業の方法には大きな利点があるように思われる。文全体と
の、ないしは言語の継起的展開との関連を見失いがちな学習法とは異なり、メ
タモルフォーゼ的な文法学習のプロセスにおいては、個々の文法事項とそれら
大きな枠組みとの有機的な関連性が一層明確だからである。学習者がそれぞれ
の学習事項の意味や意義を他との連関において把握することなしには、どんな
学習動機も期待できないのだ。観察者の眼前、植物が地上に芽を出して最初の
生長をはじめるように、語学初習者にとっては、あらゆる文法事項がまさしく
〈いま・ここ〉に萌芽し、立ち上がってくる知識なのである。その知識は自ず
と新たな知識へと伸長していく。学習者は、完成体としてのできあがった植物
の構造を「教わる」のではない。その発芽と生長の様子が手際よく、そして興
味深く示されさえすれば、彼はそこから眼を離さない限り、その形成プロセス
を「学ぶ」に違いない。ところで―学ぶことは本来、悦びなのではなかった
ろうか? 7
7 という半ば自問めいた唐突な問いかけに対して、亡き先輩はおそらく、当惑のこ
もった柔かな微笑とともに、
「いやあ…そうだよ」と仰って下さったことであろう。
もはや批判も質問も、(例の優しい人柄ならではの)お誉めの言葉も聞くことはでき
ないけれども、児島弘一郎さんとの懐かしい思い出のために、筆者は拙稿をしたた
めた。児島さん、どうぞ安らかに。
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