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2015 年 5 月ミャンマー訪問記

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2015 年 5 月ミャンマー訪問記
2015 年 5 月ミャンマー訪問記
新潟大学大学院医歯学総合研究科
国際保健学分野
准教授
IDRC 研究実施担当
菖蒲川
由郷
今回の訪緬について時系列で報告したい。
5 月 20 日
9 時にホテルを出る。ヤデナ先生迎えに来てくれる。NHL までトラフィックほとんどなく 15
分で到着。NHL では meeting room に会議のセッティングがされており、椅子は全部で 30 程
度。資料を配りプレゼンテーションをセットする。副所長のキン先生が現れ、あいさつす
る。所長のテーテーティンも現れ、名刺を交換する。
会議は 10 時過ぎに開始。所長のあいさつ、そしてプロジェクトと T/C について、詳しく議
論していく必要があるとし、新潟大学側の説明にうつった。
内藤先生がはじめの挨拶とプロジェクトの簡単な説明をし、詳しい説明は渡部先生が担当
した。さらに、3 つのプロジェクトについては、菖蒲川(インフルエンザ)
、立石(結核)、
齋藤昭(小児重症肺炎)がスライドを用いて説明した。ロードマップについて渡部が説明、
再度、3 つのプロジェクトについてはそれぞれ菖蒲川、立石、齋藤昭彦が説明した。
質疑と協議にうつると、すぐに所長がコメントと提案を述べた。小児重症肺炎について、
ヤンゴン小児病院で調査するとしているが、すでにパスツール研が入っており、オーバー
ラップしている。他の病院をフィールドとしてはどうか、という具体的な提案があった。
さらに、T/C について、プロジェクト毎に必要で、バジェットを明確に入れてほしいという
要望もあり。機器についてはローカル(ミャンマー)で購入してほしい、と。海外で購入
したものを送る場合、税関を通過するのに数ヶ月かかってしまうとのこと。
現地のローカルコーディネーターを最低 2 名は雇ってほしいというのは、パスツール研と
の共同研究の経験から言えると。NHL はミャンマー全土からの検体を受けて、病原体を検出
したり、それをレポートしたりしており、非常に幅広い分野をカバーしているため、この
調査に対してそれほど労力をさける人はいない。このため、そのように時間をとられる作
業をする人を最低 2 名はおいてほしいという要望だった。
また、オフィススペースをもらうことができないと、人を雇うこともできないという新潟
側からの要望を伝えたところ、副所長室の奥の応接室をテンポラリーにでもオフィスとし
て構わないということで、写真を撮らせてもらった。急にもかかわらず、準備をしてくれ、
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部屋には LAN ケーブル(インターネット)も来ていると教えてくれた。かなり前向きに新
潟大学からのオファーを受け入れてくれていることが分かった。
(写真)NHL 側がテンポラリーに準備してくれた新潟大学用オフィススペース
議論は細かい部分にいったり、全体の話に戻ったりと紛糾したが、NHL 側は総じて新潟大学
からの申し出をポジティブに受け取ってくれた様子だった。何をおいても、新潟大学との
古くからの信頼関係からきているものと察せられた。
昼食は、NHL 近くのシェダゴンパゴダが見えるレストランで。北京ダックが美味しいお店だ
った。今回のランチ会は新潟大側からの招待ランチとさせてもらった。
ランチの後は、NHL に戻り、施設見学をさせてもらった。
はじめに 2 階の Bacteriology Unit の部屋を案内してもらった。新しそうな安全キャビネ
ットは装備されていたが、その他の機材は古いものが多く、なかに新しいものも少し混ざ
っているという様子だった。スペースには余裕があると感じられた。
(写真)新旧の機器が入り交じっている印象
2
同じ 2 階の少し離れた場所に案内してもらった。入り口には、金色のパネルに「ミャンマ
ーと日本のパートナーシップ」と描かれており、JICA Major Infectious Disease Control
Project Phase 2 の文字があった。JICA の長期専門家として滞在していた野崎先生らのプ
ロジェクト(MIDCP-2:Major Infectious Disease Control Program Phase 2)が残したも
のと分かった。
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ドアを入って靴を履き替えると、左手に冷蔵室があった。この冷蔵室は部屋ごと冷蔵庫に
なっており、パスツール研究所からの寄贈であるという。Bacteriology で管理しているが、
他の部署と共有で使うことは可能であるとのことだった。また、パスツール研との共同調
査専用と言うことでもない、とのこと。
(写真)パスツール研寄贈の冷蔵室
右手にはクリーンベンチが並ぶ部屋があり、JICA が改装した部屋であることが分かった。
奥には新しいフリーザーも並んでいた。
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別の棟に移り、Parasitology Labo をのぞいた。プレートには KOICA の表示があり、韓国か
らの援助が入っていることが分かった。
(写真)KOICA のプレート
ラボは広く、真ん中に大きな机が置かれ、まわりにいくつかの機器が置かれているだけだ
った。
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同じフロアの Sexually Transmitted Infection Section とかかれた部屋に先ほどと似た日
本とミャンマーの国旗の絵が描かれた金のパネルが掲げられていた。Serology Laboratory
とあり、Syphilis の検査ができるラボであるらしい。
このラボはスペースに余裕があるように思えた。JICA のロゴが貼られた機器が数台あった。
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続いて Immunology section を見学した。ここには新しい機器が数台入っているのみで、ス
ペースにも余裕があると感じられた。
引き続き、NHL の本館とは別になっている Virology Section を見学した。
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このウイルスラボは新潟大学の支援により 2008 年に WHO より National Influenza Centre
として認定されたラボである。
奥で靴を履き替え、さらに奥の部屋を見学した。この部屋は新潟大学主催のラボのハンズ
オントレーニングを行ったり、インフルエンザ検体を保存してもらったりと今までも活用
させてもらってきている。DNA、RNA の抽出を専用に行う部屋、PCR 専用の部屋、など、非
常によく区分されている。
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訪問時は、コンベンショナル PCR の電気泳動結果を写真に撮影しているところだった。
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そろそろ夕方に近づきつつある時間帯にさしかかっていたが、NHL を後にした訪問団一行は、
そのまま Yankin Children Hospital(ヤンキン小児病院)に向かった。外見や玄関はとて
も都会的な雰囲気を感じる病院だった。
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到着後、さっそく 3 階のミーティングルームで、病院の小児科部長であり UM2(ヤンゴン第
二医科大学)の教授でもある Khin Nyo Thein 先生との協議が始まった。
Khin 先生は小児病院の現状をありのまま伝えてくれた。齋藤昭彦教授、鈴木宏教授、齋藤
玲子教授より種々の質問があり、Khin 先生は小児病院の年間レポートのようなものを見せ
てくれた。日本ではなかなかないデング熱での入院が多く、その他にも結核、HIV による入
院もあった。レポートは Unit 1 のもので、他に 2 つの Unit と ICU があるとのことであっ
た。
パスツール研との共同調査がちょうど 2016 年 3 月に終了するとのことで、検体を採取する
手技には慣れてきているし、今後もサーベイランスを継続したいという意志もあるようで、
新潟大からの調査協力のオファーはかなり積極的に受け止めてもらえているようだった。
ただし、
パスツール研との共同調査では検体 1 名分につき 30USD の支払いがあったようで、
費用的な部分は議論の余地がありそうだった。
続いて、実際に病棟を見学させてもらった。ICU を見学させていただいた。部屋に入る前に
アルコール消毒をするように消毒剤がおかれていた。
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3 ヶ月の肺炎の子どもが挿管されていた。肺炎の原因病原体は分からないというが、カルバ
ペネム系抗菌薬とバンコマイシン投与の上で反応がないということで、すでに抗結核薬の
治療までなされていた。それほどまでに結核が日常的に遭遇する疾患であるということを
示しており日本との違いを感じた。
続いて、玄関に近い ER(救急室)を見学した。
5 日間便が出ないという赤ん坊が受診していた。機嫌は悪くなさそうで、齋藤昭彦先生は「心
配ありませんよ」と笑いかけていた。
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Yankin Children Hospital を後にした一行は、いったんホテルに戻り、夜は情報交換のた
め、小丸さん(ミャンマー日本人協会会長)の日本料理店「一番館」に向かった。
一番館ではおのおの、懇談した。小丸さんには今回のプロジェクトについて齋藤玲子教授
より簡単に説明し、資料を渡した。小丸さんは、協力できることはさせてもらいます、と
のことだった。今後、機材の購入、輸送となったときに、具体的に相談する必要があると
感じた。会食には大雄会(医療法人、ミャンマーでの医療支援を長年にわたり継続してい
る)より伊藤哲医師(ミャンマー準備室室長・UM1 名誉教授)と柴田敏行さん(海外事業部
ミャンマー準備室課長)が出席しており、ミャンマー事情について種々伺うことができた。
以前の保健大臣はフレンドリーで色々と無理な注文を聞いてくれたり、よいことはよいで、
MOU なども積極的に結んでくれたが、今は大臣が替わって状況が変わり、かなり慎重になっ
ているとのこと。大雄会のお二人からはこの他、ヤンゴン市内のホテル事情などを詳しく
教えていただいた。
夜のパゴダはきれいだった。
(写真)奥に小さく光って見えるのがパゴダ
5 月 21 日
ヤンゴン市内のダウンタウンから少し離れた UM2 を訪問した。はじめから学長との懇談。
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学長はなんと前日に学長になったばかりという新任学長(Prof. Aye Aung)で、専門は産
婦人科とのこと。齋藤玲子教授よりプロジェクトの説明と協力のお願いをした。私たちの
最大のカウンターパートであるヤデナ先生は UM2 の臨床教授でもあり、議論に加わって下
さった。昨日、訪問した Yanking Children Hospital の Khin Nyo Thein 教授も調査につい
て具体的な部分について説明とコメントをくれた。また、一昨年(2013 年)10 月に新潟大
学と UM2 の LOI(Letter of Intent)を結ぶために来日してくれた Tin Latt 教授(外科教
授)も途中から同席した。
協議は終始和やかな雰囲気の中で行われ、UM2 側の新潟大学に対する信頼感を感じた。今回
のプロジェクトでは UM2 の関連病院である Yanking Children Hospital やその他の病院で
臨床検体を採らせてもらうことについて、UM2 と新たな協定を結ぶ必要があるかどうか問い
かけたところ、UM2 側としては新潟大学との大きなプロジェクトであるという認識から協定
が必要かもしれないという返事であったが、実は、この点が認識の食い違いから発してい
たことが分かった。
つまり、本プロジェクトはあくまでも NHL を主のカウンターパートとして進めるプロジェ
クトであり、UM2 の関連病院では検体の採取を行うフィールドとして使わせてもらう、とい
うことをはっきりと認識してもらうことで決着した。この点については、後からわざわざ
学長室を再度訪問し、認識を統一した。
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UM2 での行事を終えて一行は結核の専門病院であるアウンサン病院へ向かった。アウンサン
病院はヤンゴン市の中心部から少し離れたインセイン Township にあった。感覚的には郊外
に向かってかなり走った印象であったが、撮影した写真の緯度経度情報からヤンゴン国際
空港の真裏(北東方向)に位置していたことが分かった。
アウンサン病院このあたり
しかし、詳しく見ても Google map には載っておらず、結核病院という特殊な施設であると
いう性格からと思われた。
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あらゆる病原体をサーベイランスする施設は NHL に集約されているが、TB(結核)につい
てはここアウンサン病院に併設された結核研究施設が Reference Laboratory になっている
ということのようだった。
入り口には大きなラボの見取り図が掲げられていた。
階段を一つ上がると、Biosafety Level-3 Laboratory という看板が目に入った。
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となりのミーティングルームで協議が始まった。
はじめに、齋藤玲子教授よりプロジェクト概要について説明し、続いて立石先生より TB の
プロジェクトについて説明した。
しかし、アウンサン病院は National TB Project(NTP)の一部として機能しているのであ
って、そこから切り離して検体を供与したり別プロジェクトに参加するために検体を渡す
というのはなかなか難しい、という手応えであった。アウンサン病院側から、これまでど
のような検出を行ってきているか、など、詳しくスライドを使った説明があった。
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議論は紛糾したが、アウンサン病院の事情が明らかとなった。NHL との議論では名前は出て
きたものの、どのような施設であるか想像しかできなかったが、実際に話を聞くことがで
き、とても意味のある訪問であったと考える。
協議の後、ラボの施設を見学した。
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基本的な機器を使用して、基本的な診断をしているという印象であった。
続いて、少し離れた場所にある結核病棟を見学した。ここでは N95 マスクが必要であった。
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結核病棟であるからといって、全体が陰圧室になっているわけでもなく、窓を開け放して
開放されている病棟であった。
こちらから向こうは MDR-TB の入院患者が入っている、と説明してくれた。病床は混み合っ
ているでもなく、相応の人数はいたが、スペースには余裕があった。
廊下と部屋の間には窓ガラスもなく開放されていた。
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看護師と思われるスタッフはかなりいて、皆 N95 マスクを着用していた。
アウンサン病院に TB 検体が集まってきていることは分かったが、ここから直接検体を譲っ
てもらうことは難しいということが分かった。TB についてはアウンサン病院ということで
ここまでたどり着いたが、実際には個々の病院に交渉した方がよいのではないかと結論さ
れた。例えばヤデナ先生が勤務している Sanpya 病院などが挙げられる。今後、TB の方針を
実情に合わせて調整していく必要がありそうだ。
大半のミッションを終えて、訪問団はホテルへ向かった。ヤデナ先生もだいぶ疲れていた
ようで、レンタカー費用等の精算を終えると、夕食前に戻られた。夕食はホテルで日本人
のみの会食となった。齋藤昭彦先生はホテルでの夕食を最後に帰路に着いた。
齋藤玲子教授より次回(6 月)の NHL 訪問の目的を明らかにすることと、今回の visit を受
けて、もう一度 NHL を訪問するのがよいのではないかと提案があった。
実際に、翌日、内藤先生以外のメンバーで NHL 所長を再訪することができた。
5 月 22 日(最終日)
所長室で短時間であったが有意義な面談時間を持つことができた。所長の会議が始まる 9
時 30 分までの約 30 分間で、①今回の visit のリポート、②JICA が整備した部屋をプロジ
ェクトで使えないかどうか、③9 月に NHL で培養関連のセミナーを開きたい、④日本の NIID
からも人を送りたいしトレーニングのために人が来てほしいと要望している、という 4 つ
を伝えた。UM2 が検体採取のフィールドとして病院を協力機関として認めてくれ、あくまで
も NHL が主のカウンターパートである旨、率直に伝えたところ、所長は安心していたよう
に見えた。JICA の部屋を打診したところ、FDA が入っているビルが戻ってきたらいくらで
も使っていい、しかし、戻ってくるのは早くても 1~2 年ぐらいか、どうなるかわからない
とのこと。冗談で「日本がもう一つ建物を建ててくれたらいいのに」とまで言っていた。
ラボスペースについては、率直に場所がないというのが本音なのかもしれない。また、バ
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ジェットのスケールを探っていることもあり、ある程度、NHL 側の利益として何があるか、
考えているのかもしれないと思われた。いずれにしても、そこまで本音をさらけ出してく
れ、とても前向きな姿勢を示してくれていることはありがたいと思った。こちらのセミナ
ーについても所長不在かもしれないが、ぜひともやってほしいという反応であった。
短時間であったが、再度、NHL 側の姿勢、あるいは所長の姿勢を知ることができた機会であ
った。
いったんホテルに戻り、仕切り直して日本大使館へ向かった。大使館ではカメラ等は全て
持ち込むことができなかった。自分自身、初めての大使館訪問となった。
出席者は
東秀明書記官
松尾秀明参事官
船井雄一郎書記官
中谷香企画調査員(JICA)
であった(新潟側は齋藤玲子、渡部久実、内藤眞、鈴木宏、立石善隆、菖蒲川由郷)
。
齋藤玲子教授より、プロジェクトの概要と現状の説明をし、NHL 側と交渉の渦中であり、大
使館側にも協力を求める旨伝えた。
松尾参事官からは厳しいコメントもあったが、おしなべて協力的な姿勢を感じた。
まず、ミャンマーという国自体がかなり注目されていると言うこと、だからこそ、お金も
人も入ってくる。首相官邸のプロジェクトチームにおいてはミャンマーといえば、6 大学プ
ロジェクトで入ってきているという認識があるとのこと。今回の J-GRID が新潟大単独で入
ってきていることについて違和感があるという認識であった。厚労省の国際課、外務省の
国際保健室に挨拶に行ったかどうか、という質問があり、味方を増やした方が有利である
というアドバイスをもらった。今後、ミャンマー拠点についてのスタンスは文科省に確認
する必要があるが、いずれにしても、注目の国でのプロジェクトであり、その重要性を再
認識することができた。また、これまでに築いてきた実績や信頼関係あっての現状である
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ことを認識し、今後のプロジェクトの進行も、今まで作りあげてきた新潟大とミャンマー
とのネットワークをさらに強く、個人的なつながりも、さらに強くしていく必要があると
感じた。
JICA の中谷調査員から、JICA の MIDCP は 10 年間続いて一定の成果を収め、次はコンサル
タントを NHL の内部に 1 名おいて執務室をもらい、今までの MIDCP の成果を引き続き維持
し、効果的に活用してもらえるようにというプロジェクトが立ち上がりつつあるというこ
とを聞いた。現在、そのプロポーザルに基づいて TOR を作っているとのこと。NHL としては、
今回の新潟大のミャンマープロジェクトに TB が入っていて、それとの重複をできるだけさ
けたい、という懸念をしていたとのことであった。このコンサルタントに野崎先生が着任
するという推測が立っており、もしも野崎先生が着任すれば、大きな人脈となり得る。
船井書記官からは、プロジェクトの出口、つまり最終的なアウトカムは何か?という根源
的な質問を受けた。公衆衛生の目的とも言える疾病制御が目的ではないのか、という問い
かけがあった。このあたりは、AMED の考え方を認識しておく必要があるが、根本的には今
までの姿勢を貫いていくことが今後の継続の鍵となるのではないかと思った。
実質の訪問の行程は 2 日半という短期の訪緬であったが、こちらのプロジェクト打ち出し
に対して、NHL はじめとしてミャンマー側はとても肯定的に受け止めてくれ、有意義な語ら
いとなった。それを基にした、強いネットワーク、地盤づくりが今後の課題である。今後
も密な連携で一つ一つプロジェクトを進めていきたい。
今回の訪緬に際し、準備等、様々な協力をいただいた皆様に心より御礼申し上げます。
(写真)ヤンゴン国際空港で恒例の記念撮影
以上
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新潟大学大学院医歯学総合研究科
客員研究員
IDRC 研究実施担当者
内藤
2015 年
眞
初夏活動報告 第 25 回ミャンマー訪問記録(2015 年 5 月)
5 月 19 日(火)
今回の訪緬は団長の渡部久実拠点長、国際保健の齋藤玲子教授、鈴木宏名誉教授、菖蒲
川由郷准教授、小児科の齋藤昭彦教授、細菌学の立石善隆准教授と私の7名。新たなミャ
ンマープロジェクトのためパートナーのミャンマー国立衛生研究所および関連協力施設と
協議を行い、合意を得ることが目的である。この機会に支援活動も行う。
図 1. 成田空港タイ航空カンターで荷物を確認する渡部先生。
成田に前泊し、午前 11 時のタイ航空バンコク行に搭乗した。バンコク経由でヤンゴン行
である。搭乗カウンターでチェックインするスーツケースは 11 個(図 1)!
顕微鏡 3 台、
気管支鏡とその光源、変圧器などの機器類と抗体である。
午後7時前にヤンゴン到着。ヤデナ医師とチン医師が出迎えてくれた。連日 40 度を超え
る猛烈な暑さだったが、今日は雨が降ったので涼しくなったと言う。明日からどうなるか。
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2015 年 5 月 20 日(水)
ホテルの私の部屋は僧院の真向かいだった。早朝 4 時に木魚のような太鼓の音と朝を告
げる鶏の声が響いてきた。前々回も僧院側の部屋に宿泊し、太鼓と読経で起こされ、寝付
けなかった。最悪!と思っていたら、2〜3 分で静かになり、安眠妨害にはならなかった。
まずはミャンマー国立衛生研究所(NHL)へ。NHL はシェダゴンパゴダの近くにある。所長
の Dr. Htay Htay Tin はじめ、副所長やウイルス部長が迎えてくれた(図 2)。まず、研究
計画を渡部先生、齋藤昭彦先生、立石先生が説明した(図 3)
。説明が終わり、協議に移っ
た(図 4)
。書類上不十分な点を指摘されたが大筋に問題はなく、協定原稿を改訂して、来
月再度ヤンゴンで詰めることになった。NHL 内に新潟大学事務室を決めて貰い、何とかスタ
ートに漕ぎ着けた。
図 2. 左から Dr. Htay Htay Tin と副所長。図 3. 研究計画を説明する齋藤昭彦先生。
協議終了後所長の部屋で病理診断に必須の免疫染色用抗体を供与した(図 5)。彼女は元
ヤンゴン小児病院の病理医で、私は以前から抗体の供与をしていたが、今回はヤンゴン小
児病院へ行かないので、ここで手渡すことにした。彼女は予想していなかったようで大変
喜んだ。何しろ、こちらでは抗体の入手は極めてむずかしい。
図 4. 協議する鈴木宏先生と齋藤玲子先生。 図 5.
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所長に抗体を供与。
小児重症肺炎の研究パートナーとして第二医科大学系列のヤンキン小児病院を紹介され、
午後協議することになった(図 6)
。小児科部長は資料をもとに病院の状況を説明した。症
例数も多く、臨床研究の経験もあり、絶好の病院。集中治療室(ICU)を見せてもらった。10
名程の子供がいろいろなチューブやケーブルに繋がれて寝ていた。切迫呼吸をしている肺
炎の赤ちゃんがいた。モニターには危険を示す数字が赤く点滅し、母親が心配そうに付き
添っていた。齋藤昭彦先生はレントゲン写真やカルテに目を通し、教授回診。そのうち、
肺炎の赤ちゃんの隣の栄養状態の良い男の子のチューブが外され、ベッドから降ろされた。
デング熱でショックになったが、回復したので ICU から出ることが出来たのである。皆こ
のように助かればよいのだが。
「ICU の多種類のケーブルの配線は実に合理的で感心しました。医師の動線もよく考えて
設計されています。若い医師をここで短期間でも経験させたいものです」と齋藤昭彦先生。
図 6. ヤンキン小児病院玄関。 図 7. 一番館。前列左が小丸さん。後列左が柴田さん
で、後列中央が伊藤先生。
夜は一番館で会食。ヤンゴンの和食レストランは4年前には数軒しかなかったが、今で
は 100 軒を超えている。一番館の小丸さんは医療機器も取り扱っていて、これからのプロ
ジェクトに小丸さんの協力が欠かせない。一番館には名古屋の大雄会病院の柴田さんと伊
藤先生も加わった。大雄会病院は以前からミャンマーの医療支援を行っていて、今年から
ビクトリア病院の中に診察室を開設し、伊藤哲先生が日本人の診察に当たる。私たちが拠
点を作ると聞いて、心強いと喜んでくれた。私たちも頼りになる友を得た(図 7)
。
5 月 21 日(木)
午前中は郊外の第二医科大学へ。民主化後車が増え、町の中はすごい渋滞。行く途中に
以前宿泊したセドナホテルがあった。ミャンマーへの来訪者が増え、宿泊料金が1泊数千
円だったのが4倍に値上がりし、もう宿泊できない。セドナホテル隣には新館が建設中だ
った(図 8)
。向かいには巨大な複合ビルも建設中だった(図 9)
。マンションはすでに売れ
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切れたとのこと。すごい不動産バブルである。
図 8.
セドナホテルと建設中の新館(右)
図 9.
ベトナム資本による複合ビルの建設。
第二医科大学に着いた。応接室では学長がやや硬い表情で出迎えた。就任 2 日目という
新学長だ。齋藤玲子先生から学長にプロジェクト内容を説明した。大いに協力するとのこ
とだった。抗体を供与し、顕微鏡も寄付すると言うと学長の顔がほころんだ(図 10、11)
。
図 10. 抗体の供与。
図 11. 就任 2 日目の新学長と記念写真
中央実験室で培養細胞観察用 1 台と通常の顕微鏡 2 台を組み立てた。チン医師も手伝っ
てくれて 3 台とも問題なく組み上げ、病理医としての面目を保った(図 12)
。個人的な土産
としてチン医師に新潟金巻屋の饅頭「米万代」をあげた。
「先生、今食べても良いですか?」
饅頭はチン医師(おそらくミャンマー人のほとんど)の大好物。スタッフ室を覗くと美味
しそうに皆で食べていた(図 13)
。チン医師は今度新設されたシャン州タウンジーの医科大
学の教授として栄転する予定と聞いたので、お祝いに病理の教科書を持参した。ところが、
この人事は無くなったと言う。教科書にはリボンと教授就任おめでとうと家内のメッセー
ジカードがついていた。チン医師は「この教科書はこちらでは手に入りません。今回は教
授になれませんでしたが、この本で勉強し、教育に生かして教授になります」と決意表明
した。その日はきっと近いだろう。
27
図 12. 顕微鏡の組立。
図 13. ミャンマー人に大人気の米万代
午後はアウンサン結核病院と結核研究所へ(図 14)
。立石先生が研究計画を披露した(図
14)
。しかし、結核対策は国家戦略として進められているので、すぐに研究として入りこめ
るものではないことがわかった。それでも、診断に直結する技術には皆興味を示した。こ
れから時間をかけて基盤を作っていく必要がある。また、他の協力病院と共同研究の道を
探っていくことも大事だ。急がば回れだ。
図 14. アウンサン結核病院の研究所。
図 16. BSL3 の実験室入口。
図 15. 研究所で立石先生が計画を説明。
図 17. BSL3 の実験室内部を視察。
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ここには研究に必須の安全装備(BSL3) を備えた実験室がある(図 15,16)
。入り口に多数
の海外機関のロゴが書いてあった。結核についても先進国の研究機関が注目している。不
十分な治療が生み出す多剤耐性結核菌は世界の関心事である。
ホテルに戻り、ヤデナ医師に気管支鏡と光源装置を渡した。ヤデナ医師も見たことのな
い古い光源装置だが、変圧器をつないで試したら大丈夫だった。この光源は汎用性があり、
ミャンマーでは重宝するとヤデナ医師は喜んでいた。
図 18. 気管支鏡を受け取るヤデナ医師。
5 月 22 日(金)
図 19. ドラム缶に注ぎ込む雨水。貯まった水をすくって屋根のパゴダにかける坊さん。
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昨夜はスコールだった。どうやら本当に雨季に入ったようだ。朝 4 時と 5 時に僧院から
聞こえる太鼓の音で起こされるのも慣れた。明るくなって 6 階の室から見下ろすと、僧院
の屋上で坊さんが雨水をためたドラム缶から水を汲み、僧院の屋根についている小さなパ
ゴダにかけていた(図 19)
。雨水に洗われているのだからわざわざ水をかけなくてもと思っ
たが、そういう訳にはいかないのだろう。水道の水でなく、雨水を使うというのが面白い。
水と言えば、ヤンゴンの水道水は飲めない。濁っているので見ただけで分かる。昔はヤン
ゴンでも雨水を飲料水にしていたそうだ。
図 20. ヤンゴン総合病院にて
午前中齋藤玲子先生たちは NHL 所長と再度協議することになった。それで、私だけがヤ
ンゴン総合病院(ヤンゴン第一医科大学)へ行く事になった。
ヤンゴン総合病院はイギリス風の建築である(図 20)。病理の研究室には新しい顕微鏡が
2 台増え、日本企業から寄付された新しい標本作製機器もあった。しかし、まだまだ古い機
器が使われていた。私が 10 年前に寄付したディスプレイ付き顕微鏡は教授室にあり、教育
研究に大変役立っているとのこと。顕微鏡には私の名前が貼ってあった(図 21)
。久しぶり
に抗体を供与した(図 22)
。ここでは抗体は 1 種類しか使ってないという。ミャンマーでは
免疫染色の技術はあるものの、抗体は高価で、ほとんど入手できない。前に届けた抗体は
すっかり無くなっていたので、大変喜ばれた。
30
図 21.
私の名札のついた顕微鏡。
図 22.
抗体を供与。
NHL で皆と合流した(図 23)
。所長との直接交渉でかなり突っ込んだ意見交換ができたよ
うだ。終わってから所長から干しエビと豆菓子を土産にもらった。所長は昨日渡した抗体
に大変感謝していた。
図 23. NHL 所長室で記念写真。
次に日本大使館へ行った。新プロジェクトについて説明すると、参事官は「協定は保健
省に上がってから法制局のチェックが入るので、
2-3 ヶ月かかる。
11 月には総選挙があり、
保健省もその影響で 9 月ころから事務処理が滞るだろうから、それまでに承認を得る必要
がある」という見解を示した。JICA 企画調査員からは私たちのプロジェクトの概要につい
31
てはすでに保健大臣まで報告が上がっているという情報を得た。重要な情報である。大使
館とは密な情報交換が必要であるが、最近来ていなかった。反省点である。
図 24. 最後のミャンマー料理
図 25. マンゴーが甘い。
すべての予定を終了した。NHL 近くのミャンマー料理店で最後のミャンマー料理を堪能し
た(図 24)
。幸い、今回は体調を崩す人はいなかった。
天気は曇り時々スコール。湿度は高く、気温は最高 30 度。スーパーでは雨具が目立つ所
に出してあった。雨季に入ったのだ。お陰で過ごしやすかった。そして、マンゴーがとて
も甘い季節だった(図 25)
。土産に出来ないのが残念‼
図 26. 雨の路上で花売りから花を買う。 図 27. バックミラーに花を掛ける。
夕方、ホテルから空港へ向かった。雨の中、路上で少年が花を売っていた(図 26)
。この
花をヤデナ医師は買って車のバックミラーに掛けた。荷台に乗客がすし詰めのトラックは
相変わらずの風景(図 27)
。空港では拡張工事が進んでいた。変わらぬ貧しさを引きずりな
がら経済発展へひた走るミャンマーである。
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図 28. ヤンゴン国際空港にて。ヤデナ医師(左)
、チーダ医師(右)と一緒に。
空港ロビーで記念写真(図 28)
。私の 25 回目の訪緬がこのような重要な任務に重なった
のは偶然とは言え、不思議な縁を感じる。ミャンマーは今、経済だけでなく学術・研究面
でも世界の注目の的であり、いろいろな機関が参入してきた。国際的な競争の中で私たち
は新たなプロジェクトを拡げていかなければならない。これまでの絆と人脈を大事にして、
両国の友好に寄与したい。
謝辞
気管支鏡と光源装置を寄付いただいた新潟県厚生連新潟医療センター、免疫染色用抗体
を供与いただいたニチレイバイオサイエンス、顕微鏡を提供いただいた新潟大学医学部第
二病理と国際保健に感謝いたします
(2015.5.26, 文責:内藤 眞)
。
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