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Page 1 京都大学 京都大学学術情報リポジトリ 紅
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中越ソ「友好」成立の断面 : 1950年のベトナムをめぐっ
て
木之内, 秀彦
東南アジア研究 (1994), 32(3): 306-356
1994-12
http://hdl.handle.net/2433/56522
Right
Type
Textversion
Departmental Bulletin Paper
publisher
Kyoto University
東南 ア ジア研究
3
2
巻 3号 1
9
9
4
年 1
2月
中 越 ソ 「友 好 」成 立 の 断 面
-
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0年 のベ トナムをめ ぐって 木 之 内
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0年 1月 1
8日に中華人民共和国が, 同月 31日に ソ連が相次 いでホ一 ・チ ・ミン率 いる
ベ トナム民主共和国政府 (いわゆるベ トミン政府)を外交的に承認 したことは, フランスとベ
トミンとの間の戦闘 (
第 1次 イ ン ドシナ戦争, 1
9
4
6- 1
9
5
4年) に於 ける重大な転機 となった
5日の朝鮮戦争勃発 と並んで, 東 アジアの冷戦構造を以後長 さにわた っ
ばか りか, 同年 6月 2
て軍事化 し, また硬直 させた契機 として も歴史 に記録 されてきた。 当時の西側主要国 とくにア
メ リカはこれ らの承認行為を, ソ連一 中国一 ベ トナムの共産主義者が基本的には一体であると
捉え る以前か ら有力視 されて きた推定を裏付 けると共 にこれ ら中越 ソ共産勢力が一枚岩的に団
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木之内 :中越 ソ 「
友好」成立の断面
結 して,東南 アジア共産化 の姿勢 をむ き出 しに した現実 的証拠 であ ると して,俄 か に警戒 を強
めた。
ソ連 がベ トミン政府承認 を発表 したその翌 日の 2月 1日, アチ ソン米国務長官 は 「ク レム リ
ンによる, イ ン ドシナにお けるホ一 ・チ ・ミンの共産主義運動 の承認 は驚 きで あ る。 ソ連 が こ
の運動 を認 めた とい うことは, ホ一 ・チ ・ミンの 目的が 『民族主義 的』 であ るとい う幻想 を一
宮
掃 せ しめ, 彼 が イ ン ドシナ住民 の不倶戴天 の敵 で あるとい う本性 を暴露 す るもので あ る」[
里 1981:169] と激 しく反発 す る有名 な声 明を発 した。 フラ ンスがベ トミンに対抗 して民族主
義勢力を糾合 すべ く樹立 させていた 「パ オ ダイ ・ベ トナム国」政府 に対 し, アメ リカはそれ ま
で同政府 を フランスの塊儲政権 に近 い との理 由か ら外交的承認 を送 るべ きか否 か さん ざん悩 み
50年 2月 3 日閣
抜 いて きたが, 中 ソによ るベ トミン承認 を機 にパ オ ダイ政府承認 に踏切 り (
議決定。正式発表 は同月 7日) [
同所], ま もな くイギ リス もこれ に続 いた。 その後 アメ リカが
イ ン ドシナでの フラ ンスの軍事行動 に対 し,援助 をェスカ レー トさせてい った経緯 は良 く知 ら
れてい る。
しか しなが ら, 中越 ソ関係 が こうして一枚岩祝 された一方 で,本論 中で も後述す る通 り, 中
ソ対立 の激化 によ り外部 の 目に も団結 に綻 びが 目立 ち始 め る時点 よ りも以前 か ら,三者 の連合
は見か けはど盤石で はな く, それ どころかせ いぜ い一種 「
政略結婚 」或 いは 「同床異夢」 の関
係 に近 い とさえ言 い得 る可能性 が既 に当時の一部 の観察者 によって薄 々気付かれ, また従来 の
研究 で或 る程度示唆 されて もきた。
しか しいずれ にせ よ 1
950年 の中 ソによるベ トミン承認, それ に対応 した アメ リカの イ ン ド
シナ関与 の増 強 が,現実 には,第 1次 イ ン ドシナ戦争 を東西対決 の一環 へ と決定 的 に変容 さ
せ, ひいて は後 の 「ベ トナム戦争」 の重大 な伏線 を張 った とい うことに恐 らく異論 はないであ
ろ う。 この よ うに単 に第 1次 イ ン ドシナ戦争 その ものの帰趨 に留 ま らぬ イ ンパ ク トを東 ア ジ
950年 の こう した一連 の動 きは, 同戦争 に関
ア ・東南 ア ジアの政治 に及 ぼ した とい う点で, 1
わ る史実 の中で 1
954年 のデ ィエ ンビエ ンフ-攻防 や ジュネー ブ会議 に も匹敵 しうる重要性 を
帯 びて いた と言 って も過言 で はない。 に もかかわ らず 1
950年 のイ ン ドシナを巡 る関係 当事勢
力 の動 向,特 に中越 ソのそれを独立 して詳細 に扱 った例 は管見 の限 り今 なお乏 しい。少 な くと
もジュネーブ会議 当時 を扱 った研究例 の蓄積 と比較す るとまだ手薄 とい う印象 を受 けるので あ
る。1)
1) 1
95
0年のこうした動きを精密に分析 した数少ない例として, [
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]
,[
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9
81
]が
代表的業績に数えられるが,何れも専 らパオ ・ダイ政府承認に至るアメリカの政策形成過程に焦点
を当てている。また 「モスクワー北京--ノイ」の同盟の内実に迫 り,鮮やかに説明 した先駆的研
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67
] は名高いが, どちらかといえば主 として 1
96
0年代に頁
究としてザゴリアのそれ [
95
0年初頭の中越 ソ関係への論及は薄い。
が割かれ,1
307
東南 アジア研究
3
2
巻 3号
ここで は従来 の議論 の成果 も整理 し且つ参考 に しつつ, また最近利用可能 にな った資料,特
9
5
0年 の中国一 ソ連- ベ トミン 「友好」 関係成立 の
に中国側 のそれに も一部依拠 しなが ら, 1
過程 を改 めて問い直す と共 に, この 「
友好」 に託 した中越 ソそれぞれの思惑,或 いは中越 ソに
9
5
0年 の
「
友好」関係樹立へ と至 らせた事情 ・背景 を考えてみたい。 それ はまた自ずか らこの 1
「
友好」 関係の虚実を鑑定す る作業 に も通 じることとなろ う。 但 し, もとよ りこの間題 を過不
足 な く論 じ尽 くす ことは不可能 に近 い。 そ こで本稿 で は,次章以下 に設定す る 3つの側面か ら
論 じることとす る。 まず第 1章で,共産 中国 とベ トミンの関係樹立 を, 中国の国連加盟問題及
び中国 とフランスの関係 と関連づ けなが ら考察す る。 第 2章で は, ソ連 とベ トミンの外交樹立
をめ ぐる当時か ら今 日までの観察 を整理 した上で, ソ連 のベ トミ
・ン承認の背景 に中 ソによるア
ジアの革命指導権争 いが潜んでいた とす る仮説的解釈 を検証す る。最後 の第 3章 では,外交関
9
5
0年か ら本格 的 に開始 された中国共産党 の対 ベ トミン軍事援助 を取 り上
係樹立 と並行 して 1
げ, 開始 当初 の中越軍事協力の断面を洗 い直す。 なお全体 を通 じ時期的 には 1
9
5
0年 に重点 を
置 くが,必要 に応 じてその前後数年 に言及す る場合 もある。
Ⅰ 共産中国のベ トミン承認をめ ぐって
(1) ペ トミンの路線変更 -
中立的姿勢か ら中ソへの傾斜へ
アチ ソンの反発 を裏付 けるかのよ うに 『
人民 日報』 はベ トミン承認 の翌 日,承認 のニュース
を第 1面 に飾 り, ホ一 ・チ ・ミンの写真 も初 めて掲載 した。同 日ベ トミンもラジオで,人民 中
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m) は
国 による承認 を熱烈 に歓迎す ると放送 し,外相 ホア ン ・ミン ・ザム (
「中国 による承認 は,抗仏戦争 が勃発 して以来, ベ トナムに とって最大 の外交 的勝利 であ る」
と絶賛 した [
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2
]。 イ ン ドシナ共産党 2)第 3回全国会議 (
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年 1月2
1日) 後 ま も
ない 2月 1
8日, 党 の代表的イデオローグで もあ ったチュオ ン ・チ ン (
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nh) 総書
記 は機関誌 『
真理』誌上で, ソ連 と中国 によるホ-政権承認 は 「ベ トナム民主共和国及 び抗戦
中のベ トナム人 にとって重要 な政治的勝利であると同時 に, フランス植民地主義者 どもにとっ
ては重大 な敗北 を意味す る」 とした上 で, 「ベ トナム民主共和国 はいまや中欧か ら東南 アジア
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7
9:
2
41-2
4
2
] と述べている。
にまで連 なる民主社会主義陣営 に属 している」[
チ ンの表明 は, 中 ソとの外交樹立 によってベ トミンが 自 らを ソ連 を盟主 とす る社会主義陳営
の一員 と位置づ けてみせ, それを対外政策 の新 たな基本方針 に も据え ることをおそ らく初 めて
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41]。
公式 に認 めた ものである [
従来 ベ トミンは,冷戦状況 が悪化 し国際関係が二極化 の様相 を強め, ソ連共産党 と中国共産
2) ただしこの当時は偽装解散 していた。
308
木之内 :中越 ソ 「
友好」成立の断面
党 (
以下 「中共」 と略す ることがある)が共 に 「
二大陣営論」を採択 して中立主義 を欺職だ と
排 した過程 にあ って も,特定 の陣営 に帰属せず に中立 の姿勢を守 ることを 面上 は-
少 な くとも表
内外 に一貫 して強調 して きた。 ソ連や国際共産主義系の報道機関が, ホ-は共産
主義者であ り, ベ トナム民主共和国 は米帝国主義 に抗 して戦 う 「
世界民主主義戦線」 の一翼を
担 う, と報 じた時 も彼 らはそれに呼応せず沈黙 を貫 いたのである [
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]。
9年 1
2月 に至 って もなお西側 ジャ-ナ リス トに,米 ソ戦争が勃発 して もベ トナムが東
ホ-は 4
西両陣営の間で中立 を保つ ことは可能だ と語 っているはか,厳 しい条件付 きなが らフランスと
の間 で交渉 によ る紛争解決 の可能性 もまだ完全 に排 除 したわ けで はない ともほのめか した
[
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5
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]。
抗仏戦争 の前半, ベ トミンはソ連 を始 めとす る社会主義諸国か ら,時折聞かれ る威勢 はいい
が専 ら口先だけの激励を貰 う程度で,援助 らしい援助 は何一つ受 けることが出来ず, いわば孤
立無援 に近 い闘争を強い られて きた。そ うした苦境 にあ ってベ トミン指導部 は,共産色を敢え
て前面 に掲 げず,中立路線を標梼す ると共 に, 自身の運動 の民族主義的独立闘争の性格を強調
す ることで,国内の非共産勢力 も糾合 し, また対外的にも非共産世界を含 めて道義的な共感 と
支援 を獲得す る活路 を兄 いだそ うと模索 していた。 こうした政策 は じじつ或 る程度の成果を収
めて もいたのである。 もっともそれは,世界の共産主義運動 との リンクを頑 として拒否 してみ
9
4
8年 2月 にカルカ ッタで開かれた東南 アジア
せ るほど徹底 していたのではない。 例 えば, 1
青年会議 (
いわゆ る 「カルカ ッタ会議 」) に, ベ トナム民主共和国 は青年組織代表を派遣 して
いた。会議 の発起人である 「
世界民主青年連合」 と 「
国際学生連合」がモスクワの息のかか っ
7年末頃か ら示 され始
た組織であった ことは当時争 い難 い事実 とされ, またこの会議 自体, 4
めるソ連 の戦闘的 ドク トリンを東南 アジアの共産主義運動 に 「
伝達」す るフォーラムとして機
能 した ことが衆 目一致 して確認 されている日 く付 きの会議で もあ った。 また 4
8年 8月の第五
回中央幹部会議では,東 アジアと東南 アジア諸国の共産党間の連携強化 という課題 の解決策 と
して, アジア版 コ ミンフォルムとで もい うべ き 「
東 アジアの友党間の連絡委員会」の結成が提
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3
3
5
]
。
唱 され もした [
しか しだか らとい って,公 けの姿勢 として内外 に喧伝 した彼 らの中立路線を一概 に孤立を打
破す るためだけのただの苦 しまざれ と片付 けることも戦術的計算か らのみ説明す ることも共 に
正確ではな く, また専 ら西側 プ レス向けに用意 された,共産主義 の正体を偽装 し周囲を欺 く見
え透 いた演技 と決 めっけることも妥 当で はない。共産主義者 に して優れたプラグマテ ィス トで
もあ ったホ-は, その革命運動への国際的認知を得 るべ く,既 に太平洋戦争終結以前か ら中国
駐留 の米軍 や国民党軍閥などと接触 を保 とうと腐心 した。 だが同時 にまた元々大部分 自力で革
命運動, とくに抗仏闘争 を進 めて きたホ一にとって, ソ連陣営 に属す ることは,多かれ少 なか
れ ソ連 の影響下で共産化が進行 した東欧諸国 などとは異 な り,決 して ア ・プ リオ リに自明な
309
東南 アジア研究
3
2
巻 3号
コースではなか ったのである.3
) ヵルカ ッタ会議で, 「
帝国主義陣営」 とくにアメ リカを口汚
くのの しり, 解放闘争 における共産党の指導 の必要性 を強調す ると共 に, (
ベ トミンがその頃
採用 していたよ うな) ブル ジョワ民族主義者 との連合を排除す ることなどを内容 とす る決議が
採択 された時 も, ベ トナムの代表 はそれについて意識的 に言葉を淘 した。 「
東 アジアの友党間
の連絡委員会」結成提唱の背後 に も,従来 イ ン ドシナの抗戦 に積極的支援 の姿勢 を示 していた
「自由 タイ」 政府が 47年 11月のクーデ ターで倒れ, タイ政府の支援を獲得す ることや, タイ
を基盤 と した活動 の展開が しだいに困難 にな って きていたという特殊 な事情が働 いていたこと
99
3:39;古田 1
991:335;Sacks1
959:1
6
3-1
6
4]。
を無視で きない [
白石 1
共産主義 とい う原理への忠誠が, ソ連共産党 という組織-の恭順 と同一で もなければ, それ
を自動的 に保証す るわけで もないことは,今 日か ら振 り返 ると難 な く了解で きるが,現実 には
かつての共産主義者 にとって,何の摩擦 も葛藤 も伴わず にこの二つを弁別 し,調整す ることは
必 ず しも常 にた易 い作業で はなか った ことも想起 しな ければな らない。 ま してや この頃の ス
ター リンの絶大 な権威 を考えれば, モスクワの路線か ら自立 した言動 など, たとえ表面的な方
便 に過 ぎない ものにせよ博か られ る大勢の中で示 されたホ一 ・チ ・ミンの姿勢 は異例 に属 して
いた と評 してよいだろう。
ベ トミンにとって共産陣営-の専一的加入が, それ まで続 けていた中立的路線 の維持 と観念
上 は等価 の選択肢 に過 ぎなか ったか否か は判定 しがたいが, 5
0年 1月中 ソとの外交樹立 を進
める一方で彼 らが, コ ミンフォルムか ら 4
8年 に除名 され ソ連共産党か ら目のかた きにされて
5
0
いたユーゴス ラグィアのチ トー政府 に も承認を要請 して いた点 にここで注 目 してお こう (
年 2月末 ユーゴはべ トミンを承認す る)
。 ベ トミンが こうしたソ連共産党 の不興 を買 って も不
思議 で はない行動 に出た真意 は必ず しも明 らかで はないoしか し彼 らが一方 で ソ連 や コ ミン
3) 1
9
4
5年 9月 ベ トナム民主共和国独立宣言 の直前 にホ一 ・チ ・ミン及 びボー ・グェ ン ・ザ ップは
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」の責任者パ ッテ ィ (
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「アメ リカ戦略事務局 (
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) に次のように告白 した とパ ッテ ィ自身が記録 している。「ホーは, フランスやイギ リス
や中国か ら, 自分が 『ソ連の手先』 だ とか, ベ トミンが 『
東南 アジアにおけるソ連 の機関』 の出先
英明なルーズベル ト大統領の開明的指導 の下 に』
だ と非難 されていることを重 々承知 しているが 『
あ らゆ る政治的党派 に共存 す る権利 を承認 した合衆国 は, 自分 の運動 に貼 られた共産主義 とい う
レッテルに不安を抱 くべ きではない, と語 った。彼 は,今 まさに特別な この時において,ベ トミン
は 「ベ トナムのあ らゆる革命的な政党を包含す る民族主義運動』 なのである, という見解 を示 し
た。 もちろん イ ン ドシナ共産党が この独立運動で指導的勢力を占めている, とホ-自身認 めた。
しか しその党員 は 『まず第- に民族主義者なのであり,次 いで党員 なのだ』 と言 った。何か言 いた
くて うず うず していたザ ップは, さらに一層驚 くべ きことを言明 した。つまり, ベ トミンは確かに
共産主義的な手法 と戦術 を用 いて,共産主義 に近似 した社会秩序 の枠内での独立 を追求 す る闘争 に
諸 々の党派 を糾合 して きた。 しか しそれで も, ベ トミンは 『ベ トナムにフランスに代わ る別 の外国
権力を代置 させ る』意図は毛頭ない, とザ ップは述べたのである。 そ こにはソ連 も含 まれるのか,
と聞 きたい衝動 に駆 られた。 しか しそ こまで聞いて しまうのはさすが に無作法であり, また不適切
で もあ っただろ う。要す るにザ ップは教条的な共産主義者でありなが ら,同時にまた根 っか らの誠
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4
5-2
4
6
]
。
実 なベ トナム人で もあ ったとい うことである」[
,
31
0
木之内 :中越 ソ 「
友好」成立の断面
フォル ムのチ トー非難 を唱和 す る動 きを示す傍 ら, 他方 で は恰 か もそれ に逆行 す るかの よ うに
タイにいた或 るベ トミン幹部 が 『ニ ュー ヨー ク ・タイムズ』紙記者 に,我 々はモスクワと もベ
オ グ ラー ドとも友好関係 を望 んで い る, と告 白 した ことは何 が しかの手掛 か りとはなろ う。 共
産陣営 へ の帰属 を誇示 した後 で さえ, モスクワの路線 へ の帰一 とも埋没 とも捉 え きれぬ一定 の
自立性 をべ トミンが保持 せ ん と した ことを示 す一 つ の例証 と言 え るか も しれ な い。 サ ックス
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)は「ホ一 ・チ ・ミンお よびベ トミン拒導部 の相 当部分 は,いずれの陣営 とも同
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盟 を組 まない ことで可能 とな る高度 の 自主独立性 を望 んで いた」 と述 べて い る [
9
5
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6
4
]
。 換言 すれば, ベ トミンは, 特定 の陣営 に帰属 す ることで 自分 の行動
2
0
5;Sacks1
が制約 され,世界規模 の東西対決 に否応 な く連結 され る可能性 に抵抗 を感 じて いたので あ ろ う。
もっと も中共 との関係 に限 って み ると, ホ一 ・チ ・ミンが 4
9年 1
2月初頭 の時点 で もなお中
立 的 な発言 を した背景 には, よ り切迫 した理 由 もあ った。即 ち中国国共 内戦 を通 じ ベ トナム
と隣接 す る中国南 部 の広 西 省 と雲 南省 は国民党 軍 の支配下 に置 かれ, 中共 が建 国 を宣言 した
4
9年 1
0月 1日以 降 も依然 と して国民党軍 が それ ら 2省 で暫 くの間 は侮 り難 い兵力 を擁 してい
たので あ る。加 えて国民党軍 が勢 いに乗 る中共軍 の追撃 か ら逃 れ るために, 国境 を越 えて トン
9年 11月末 か ら
キ ンの ベ トミン支 配地 区 に殺 到 す る危 険 に も晒 され て いたので あ り, 事実 4
1
2月初 め にか け, 約 3万 の国民党軍 が越境 して敗走 して きた [
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4-2
0
9。4) 従 ってベ トミンに してみれば, 軽 はず み に中共 との連帯 を印象付 ければ, 国民
]
党軍 の逆鱗 に触 れ, フラ ンス軍 ばか りか国民党軍 を も敵 に回す恐 れが あ ったので あ る。
9年 1
2月下旬 頃 まで には中 ソと一線 を画 したそ
しか しなが らホ一 ・チ ・ミンも, おそ ら く 4
れ まで の 自主独立 の中立 的姿勢 を放 棄 し, 中 ソとの連合 の方針 を固 めた よ うであ る。 その背景
は以下 の通 り整理 で きよ う。 第 1に, ベ トミンの反発 と妨害工作 に も関 わ らず, フラ ンスのパ
オ ・ダイ擁立工作 は着 々 と進行 しつつ あ るよ うに映 り, フ ラ ンスか ら中途半端 な内容 とはいえ
独立 を約束 されたパ オ ・ダイ政権 が,民族主義者 を引 き寄 せ る 「
対抗磁場」 に成長 す る可能性
も決 して無視 しえ な くな った。 また仮 りにパ オ ・ダイ政 府 にた とえ西側主要 国 か らだ けで あ
れ,外交 的認知 が集 まれば同政府 が限定 的 にせ よ国際的正 当性 を得 る ことにな るため, ベ トミ
ンも早 め に対 抗 策 を講 じな けれ ば な らなか った。 第 2に, 内外 に共 産主義 色 を薄 め る努 力 を
払 った に も関 わ らず, それが額面通 りには信用 されず, もはや純粋 な民族主義 に基 づ く独立運
動 とい う看板 を掲 げに くくな った。 第 3に,植民 地温存 の 目論見で進 めて きたベ トミンとの闘
争 を,フラ ンスが,米 国 か らの援助 を引 き出す ため に,積極 的 に冷戦 の一環 と位 置づ けた ことも
4) なお中共側資料によれば,49年 1
0月から11
月にかけ,広西省には自崇頑将軍配下の兵力と他の地域
か ら敗走 してきた残余兵力合わせて約 2
0万の国民党軍が残存 していたとされる [
軍事科学院軍事
歴史研究部 1
9
8
7:3
5
5
]
。 もっともベ トナムにおちのびた国民党残余軍はフランスの手で直ちに武
J
oyaux1
9
7
9:
5
7
]
。
装解除されたようである。 これについては [
311
東南 アジア研究
3
2
巻3
号
手伝 って, アメ リカがイ ン ドシナに於 けるフランスの軍事行動 に本格的に肩入れす る公算が高
ま って きた。 この当時ベ トミン軍 は開戦時 に比べれば強化 されていた とはいえ, まだ フランス
軍 を腰着状態 に引 きず り込むだけで精一杯であ り,到底 アメ リカの関与 に独力で対処す る余裕
は無 か った。従 って 自主独立 の対外路線 をかな ぐり捨ててで も,海外か らの何 らかの援助 を早
急 に調達す る必要 に迫 られて きたのであ る。第 4に, そ うした情勢 にあ って中国共産党が全土
を掌握す ることが ほぼ確実視 された ことによ り, もはや国民党 に遠慮す る必要 も失せ,公然 と
9
7
0:2
0
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,2
3
3-2
3
4;Dui
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9
81:1
3
9
]
。 (ち
中共 に援助 を仰 ぐ展望が開 けた [
-マ- 1
なみに中国人民解放軍主力 は, 中共側資料 によれば 1
2月 1
4日に中越国境 の鎮南関 [
広西省,
現友誼関] と東興 [
広西省] に到達 した。雲南省の中越国境 を中共軍が完全 に制圧 し終え るの
1日であるが, 4
9年 1
2月 9日までには昆明 ほか雲南 の主要 な拠点 はほぼ 「解放」
は翌年 1月 1
9
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,
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Fal
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1
6
]。)
されていた [
軍事科学院軍事歴史研究部 1
5
0
年 1月 1
4日ベ トミン外相 ホア ン ・ミン ・ザムは,「主権 と領土 の互恵平等 の原則 に立 って」
ベ トナム民主共和国 と交渉す る用意 のあ る全 ての国 と外交関係 を樹立す ることを希望す る旨の
覚え書 きを発表 した。 これ は内容的には共産圏だけに発せ られた もので はないが, この発表 と
並行 して 1月 1
5日ベ トミンはバ ンコクのベ トミン代表部 を通 じ
とくに ソ連 と共産中国 とに外
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5
3;
交樹立 を個別 に要請 していたのである [
銭江 1
9
9
2:1
3
]
。
(2) ペ トミン承認 -
国連加盟問題 との関連で
ベ トミンの承認要請 に対 し中共政府 は, ラジオを通 じ
6日にベ トナム民
中国政府が 1月 1
主共和国承認 の決定 を下 した ことを 1月 1
8日に発表 した [
De
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7
5:4
5
3
]。 但 し, 「内
部発行」 の 『
毛沢東文稿』 によれば, 当時 ソ連 に滞在 していた中共の最高意志決定者である毛
7日午後 1
0時
沢東が,留守 を預か る劉少奇宛 にベ トミン承認 の最終決断を打電 したのは 1月 1
とされている。 仮 りに これがモスクワ時間であるとす ると,時差 の関係 で実際 に決定が下 され
8日午前 3時 とい うことになる。 事実が この通 りであ るな ら, 承認決定
たの は北京時間 1月 1
に多少手間取 った との印象 を和 らげよ うとす る配慮が中共側 に働 いたのか もしれない [
『
毛沢
3
8
]。
東文稿』:2
ところでベ トミンが中 ソに外交関係樹立 を働 きか けていた 5
0年 1月中旬,国連 が中共加盟
問題 で揺れていた ことにここで注 目 してお きたい。 それ とい うの も海 を隔てた この 2つの動 き
が互 いに決 して無縁 とは言 い切 れない可能性 を秘 めているか らであ る。5)
5) 中共のベ トミン承認と中共の国連加盟問題との間に何 らかの関連性が考えられる可能性を示唆 した
9
7
6
]
。また木村哲三郎もシモ
のは,筆者の知る限りシモンズが最初であると思われる [
シモンズ 1
9
8
7:
2
3-2
4
]
。本章執筆に当たり,両論者の見解を
ンズの解釈に則った議論を述べている [
木村 1
大いに参考としたが,同時に筆者の検討 も加えることとしたい。
312
木之内 :中越 ソ 「
友好」成立の断面
50年 1月 8日中共政 府 は周 恩 来 外 交 部 長 の名 で, 国民 党 反 動 的一 派 が国連 安 保理 事 会 に議
席 を 占めて い るの は不 当で あ り, 中共 政 府 こそ が それ に代 わ るべ きだ, とす る電 報 を トリダ
ブ ・リー
(
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)国連事務 総長 と安 保理 事 会 とに突 きつ けた。6) それを受 けて 2日後 の
1月 1
0日, マ リク (
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k) ソ連代表 は安保理事 会 国府代 表蒋廷献
博士 の追放 を要 求 す る決 議案 を提 出 した。
対応 が注 目 され た ア メ リカ は, グ ロス
(
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)国連代 表 を通 じて,
ソ連 によ る
決議 案 に反対投 票 す る と言 明 したが, 米政府 は問題 を実質事項 とい うよ りは手続 き上 の問題 と
考 えてお り, ソ連動 議 へ の反対 投 票 は米 の拒 否権行使 を意 味 しな い と発表 した。 グロス米代 表
は, 安保理 事 会理事 国 11カ国 中
「7カ国代表 の賛成 に よ って この間題 に決 定 が下 され た時 に
はそれを受 け入 れ る」 と, いわ ば大勢順 応 の姿勢 を表 明 したので あ る。 フラ ンス代表 シ ョーベ
ル
(
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) も同様 の立場 を と って いた ことに留意 して お きた い。
3日, ソ連決 議案 は 6対 3で否決 され た。 この時 イギ リス とノル ウェー は棄梶
しか し 1月 1
して い る。7) ソ連 は 「国民党代 表 の参加 して下 され た安保理事会 の如 何 な る決定 も合 法 と認 め
ない」 と捨 て台詞 を吐 いて理 事 会 か ら退 場 した。 これ は朝 鮮戦争 まで続 くソ連 の長 い ボイ コ ッ
トの始 ま りで あ る [タ ン ・ツ オウ 1
967:41
4]。
この頃安保理 事会理事 国 11カ国 中 5カ国 (ソ連 , イ ン ド, ノル ウ ェー, ユ ー ゴ,英 国) が既
に共産 中国 を承 認 して いた。 エ ジプ トそ して フ ラ ンス も近 々承認 に回 る と予 測 されて いた。 も
し外交 的承認 が その まま安保理 事会 で の票決 に反 映 され るのな ら, 中共加盟 の可能性 は小 さ く
なか った ことが分 か る。 じじつ ソ連議決案否 決後 の 1月 21日, リー事務総 長 とアチ ソ ン米 国
務長官 との会談 に同席 して いた ラス ク
(
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k)米 国務次官補 も, 「数 週 間後 に は安保 理
事会理事 国 中 7カ国 が共産 中国 を承認 す るで あ ろ う。 そ の場 合 に は共産 中国代表 が手 続 き上 の
票決 によ り議席 を 占め る ことにな ろ う」 と した上 で, 「
我 々 は この件 を手続 き上 の問題 と考 え
てお り,拒否権 を行使 す るつ もりもな ければ, 他 の いず れか の国 によ る拒否 権行使 に黙従 す る
意 図 もな い」 と米 の立場 を再度確認 した
[
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y 21,1950.
FRUS,1950,Vol
.I
I:206].8)
6) この電文 についてはさし当たり,[
Ca
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95
3:5
41
]参照。邦訳は [
『
集成』第三巻 :47
]
。
7) ソ連決議案に賛成 したのはソ連のはかユーゴスラヴィアとインドであり,反対票は米,仏,国府,
Un
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s1951:421-423]。
キューバ,エクア ドル,エジプ トである。 これについては [
8) 1月 1
3日か ら始 まるソ連の国連 ボイコットが,朝鮮戦争-の国連軍介入を決定 した 6月 2
5日と
27日の安保理事会の時にも続いたことは有名である。 参考までに, 国連憲章によると安保理事会
当時)理事国の賛成投票によって成立する, と規
の決議 は常任理事国の同意投票を含めて 7つの (
5日と2
7日の安保理事会にソ連 と中
定 されている。 ソ連はこの規定を盾にとって当初か ら, 6月 2
国の正当な代表が出席 してお らず,常任理事国の同意を得ていないそこでの決議は法的に無効だと
主張 してきた。 しか し安保理事会の慣行では,常任理事国が棄権 したときには決議の成立を妨げな
いとされていた。 以上 も含め 1
95
0年のソ連による国連ボイコットを巡 っては, [
響庭 ;NHK取材
班 1
99
0:92-9
4
]に,当時のソ連外交当事者の証言 もまじえて興味深い記述がなされている0
31
3
東南 アジア研究
3
2
巻 3号
しか し数週間後 な らともか く, 1月 1
0日時点 で中共加盟動議採決 を強行す るの は時期尚早
だ ったのであ り,9
) その ことを米国 は正確 に見抜 いていた。 アメ リカ国連代表部 は 1月 1
0日,
「
可決 させ るに十分 な票数 が見込 まれない ことが歴然 と して いる時期 に ソ連が この決議案 を提
出 しよ うと して いる」 と し, 「この決議案 へ の賛成票 は現時点 で多 くてせ いぜ い 5票 どま り,
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おそ らくは 2,3票であろ う」 と的確 な予測を立てていた [
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94]。
こ う した判 断 に立 って いたの は アメ リカだ けで はない。 イギ リス外務省 国連局長 ア レン
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en) も 1月 1
3日, 駐英 アメ リカ大使館員 に 「
安保理事会理事国の大半 が中共政府
を外交承認す るな らば,既 に承認 しているイギ リスと して も論理的必然 として蒋博士追放 に賛
成票 を入れざるを得 な くな るであろう。 しか し安保理事国の大半が中共 を承認 しない限 り, イ
ギ リスは中国 の安保理事会加盟問題 につ いての票決 を棄権 し続 けるであろ う」 と言 明 した上
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mat
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」であろ う,と語 ったのである [
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で,国府除名決議案 はまだ 「
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1
95]。 タ ン ・ツオウ (
TangTs
ou) は 「国民党 の代表 を安全保障理事会か ら追放す るソ連 の
過早, かつ粗野 な試 みは,戦術上 の大 きな手 ぬか りか, さもなければ西欧か ら共産 中国を孤立
967:
させ るとい うマキ アヴェ リ的術策 のいずれかであ った」 と書 いている [タ ン ・ツオウ 1
41
4]
。
いずれ にせ よ 1月 1
3日の票決 で中共 の国連加盟 は否決 され, しか もそれを不服 と して ソ連
が国連 をボイコッ トした ことで中共加盟 のチ ャンスは更 に大 きく遠 のいた。 ソ連不在 によ り中
共加盟への賛成票 は 2票 とな り, これに既 に中共 を承認済 みの英国, ノル ウェー, さ らに近 々
承認 す ると噂 されて いた フラ ンス とェ ジブ トが仮 りに加盟賛成 に転 じた と して も計 6票 であ
り,米国が中共加盟受諾 の条件 とす る 7票 までなお 1票足 りない。反対票 を投 じたエクア ド
ル, キューバが賛成 に回 ることはこの当時当面期待で きないとされ,国府 の態度 に至 っては問
題外であ った。
5日 (
国連本部 のあ る
か くして中共 の国連加盟 が ほぼ絶望的 とな った丁度 その翌 日の 1月 1
4日)
, ホ一 ・チ ・ミンが中国 に外交承認 を要請 したのであ る。 中共 と
アメ リカ東部では 1月 1
して はホーと外交関係 を結べば当然 なが らフランスの対中国感情 を悪化 させ ることになる。 振
り返 って中共 の国連加盟騒動 を考 えた時, 中国 にとってその動 きに特 に気 を使 う必要があ った
票 の一つ はフランスのそれに遵 いなか った。 とい うの もベ トミン-の中共 の対応如何 によって
9) 4
9年末か ら 5
0年初頭 にかけ中国駐在 の米外交官 に中共が迫害を加 えていたため西側 とくに米 の対
中国感情が一時的に硬化 していた。 これについてはさ し当た り [タン ・ツオウ 1
9
67:
4
0
9-41
0
]。
31
4
木之内 :中越ソ 「
友好」成立の断面
最 も敏感 に反応す るのはフラ ンスの票以外 に有 り得 ない。 しか もソ連 が国府除名決議案 を提 出
す る前 日の 1月 9日,一部 の報道機 関が,結果 と して予測 は外 れた ものの,安保理事会理事国
の内 で既 に中共承認済 みの 5カ国 に加 え, フラ ンス とエ ジプ トも近 々承認 に転 ず るだ ろ う,
従 って ソ連動議 が 7票 の確定票 を集 め る可能性 は必ず しも小 さ くない, との観測 を盛ん に流 し
ていた はか [シモ ンズ 1
976:1
00], フランス国連代表 シ 才一ヴェル も, ソ連決議案 に一応反
対票 を投ず るつ もりだが フランスの反対票 は拒否権行使 と取 られ るべ きで はない, と,期待 を
Uni
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ons1951:424]。 従 って中共 と し
繋 がせ る思 わせぶ りな シグナルを送 っていた [
て もフランスを刺激す る頬 の行動 (ホ一 ・チ ・ミン承認 はまさにそれ に当たる) は自制 しなけ
い
。
ればな らな
しか し 1月 1
3日か ら朝鮮戦争勃発後 の 7月 27日まで続 くソ連 のボイコ ッ トによ り, フラ ン
スの票 が賛成 反対 の いずれ に回 ろ うが,共産 中国 の国連加盟 の チ ャ ンスはそ もそ も無 くな っ
た。 とす ると票 の確保 を 目的 とす る限 りで は,一時的 にせ よフラ ンスの感情 に配慮す る必要 も
同時 に失せ ることにな る。 ホ-が中国 に承認 を要請 したの はまさに この時であ った。10)
(3) ベ トミン承認 -
フラ ンスとの関連 で
1
8日の北京政府 によるホ一 ・チ ・ミン承認発表 は,大方 の予想通 りフラ ンスの態度 を俄 か
に硬化 させ,新生 中国 とフランスが接近 す る可能性 は無論 の こと, 中共 の国連加盟 の可能性 も
当面 は絶 たれ た。 中 ソがベ トミンを承認 した直後, 当時 の ビ ド- (
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ul
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) 仏首相
は リー国連事務総長 に, 「フランスは北京政権 を承認 しよ うと していた。 しか し毛沢東 とソ連
が ホ一 ・チ ・ミンを承認 したので, 中共承認 はわれわれ と して は不可能 にな った」[
Li
e1954:
266] と語 ったので あ る。
しか しそれで もフラ ンスが中共 との関係樹立 とい うオプシ ョンを完
6日アチ ソンと会談 した駐米 フランス大使
全 に放棄す るつ もりもなか った ことは, 50年 2月 1
ボネ (
He
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iBo
nne
t
) の発言 か ら窺 うことが出来 る。 彼 は 「北京 とモスクワによるホ一 ・
チ ・ミン承認 は, これ ら両共産主義国が イ ン ドシナでの侵略行動 を構想 してい ることを如実 に
示す もの にはかな らない」 と述べ た ものの, アチ ソンによれば 「
大使 [ボネ] は, フラ ンス政
府 があ る時点 で北京政府承認 に関 して決断を下 さなければな らない ことを極 めて唆昧 なが らは
1
0
) ベ トミンからの承認要請に対 し,中共側の承認発表が 1
8日にずれこんだことに注目してシモンズ
は,中共の他の共産諸国との通常の敏速な対応から考えると遅すぎるとし,それを中共がホ一 ・
チ ・ミン承認によって西側とくにフランスとの関係悪化を懸念 して速巡 したためではないか,と推
測 している [
シモンズ 1
9
7
6:1
0
6-1
0
7
]
。 しかしそれは可能性としては排除できないし,次節で述
べる通 りホ-承認によってフランスとの関係が悪化 したことを後悔する認識が中共指導部内に広
まった可能性 も高いが,承認の遅れ自体は多分ソ連滞在中の毛沢東と連絡を取 り合 うのに時間がか
かったため,と解釈 したほうが良いであろう。丁度この頃毛沢東は一時的にモスクワを離れていた
ようである。
31
5
東南 ア ジア研究
32
巻 3号
のめか した。彼 はこの決断 はまだ下 されてないと言 ったが, いずれ は下 され るだろ うとい うこ
とを私 に知 っておいては しか ったよ うだ。 (
中略) 大使 との会談か ら私 は, フランスが当座 の
ところ北京を承認す ることはなさそ うだが, フランス政府 は北京 によるホ一 ・チ ・ミン承認 に
も拘 らず, そ うした行動 に出 るとい う選択肢 を決 して排除 してはいないとの感触 を得 た」とい
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31
]。
う [
以上 の証言 は, 中仏接近が フランスの政策担 当者の間で, かな りの程度 プライオ リテ ィーの高
い対外政策 と して意識 され, また準備 もされていた ことを示唆 していると言えよ う。11)
で はこうした中仏接近 の可能性,及 びそれ とホ一 ・チ ・ミン承認 との関連 に関す る中共側 の
態度 はどうだ ったのか。 これを窺 う資料 は乏 しく, また殆 どは間接的で且つ断片的な情報 に留
9年 1
2月末 にホ-が, イ
まるが, それを手がか りに検討 を試みよ う。 中共側文献 によれば, 4
ン ドシナ共産党政治局員 チ ャン ・ダン ・ニ ン及 び 6名 の随員 と共 に北部根拠地か ら密かに北京
に向 けて出発 した。 その目的 は,後述す る通 り,北京次 いでモスクワを訪問 し,中 ソ両共産党
か ら特 に軍事面 の援助 を取 り付 けることにあ ったよ うであ る。北京到着後 ホ-は, 中 ソ条約交
渉 のため毛沢東 と周恩来 が モスクワに行 って留守 の間政務 を取 り仕切 っていた党 内 N0.2の
劉 小奇, さ らには朱徳,轟栄環,磨承志 とい った中共中央 の要人 と会見 した。 また この頃中共
中央連絡代表 と して極秘 にベ トナムに赴任す る途上 にあ った羅貴波 (
後 に在越中国政治顧問団
団長,赴任直前 まで中央人民政府人民革命軍事委員会弁公庁主任。羅貴波 につ いて は後述 す
9
9
2:1
0-1
5
]。
る) も急速北京 に呼 び戻 されホ-との会談 に加 わ った [
銭江 1
8日以降 と している [
黄鉾 1
9
8
7:1
2
5
]。銭江 に
会談 の正確 な 日時 は不明だが, 黄鉾 は 1月 1
よると, ホ-を歓待す る宴席で劉小奇が 「中国 は既 にベ トナムを承認 した。 ソ連 とも相談 し
て, ソ連 に もベ トナムを承認す るよう催促す るつ もりだ」 とホ一に語 った とされてお り [
銭江
1
9
9
2:1
6
]
,従 ってホ-と劉小奇 らとの接触が 1月 1
8日か ら, ソ連がベ トミン承認 を発表す る
31日までの間であ ったとの推定が可能である。
ところで ここで少 々注 目すべ きは宴席で劉小奇 がホ一に 「フランスは既 に我 々を承認す る準
備を進 めていた。 中国 によるベ トナム承認 は, フランスに中国承認 を思 い とどま らせ るか も知
れない。 しか し我 々はそれを恐れてなどいない。我 々が強大 になれば フランスもいずれ は我 々
l
l
) もっともフランスは,共産主義を封 じ込めるというアメリカ好みの大義名分を加味 して自分達のベ
トミンとの闘争へのアメリカの援助を無心 している最中に,二股膏薬とも言 うべき中仏接近の可能
2日シューマン仏外相は, 慌て
性をうっかりアメリカ側に漏 らしたのは失策と感 じたのか, 2月 2
て駐仏アメリカ大使に, ボネの発言に関する釈明をした。 彼は, 中共承認についてはまだ何も決
まっていないし,承認によって顕著な利益が挙げられると判断されない限り承認が考慮されること
はない,それに仮 りに近い将来承認が検討されるとしても,事前にアメリカ政府と協議せずに決定
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することは断 じて有 り得ない, と弁明に努めたのである [
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]
.
31
6
木之内 :中越 ソ 「
友好」成立の断面
を承認 せ ざるを得 な くな るだ ろ う。 現在 の主要問題 はベ トナム人民 の抗仏戦争 を支援す ること
で あ り, 一 日 も早 くベ トナ ム人 民 が勝 利 す る ことを望 む もので あ る」 [
黄 文歓 1
9
8
7:2
5
5]1
2) と語 った ことにあ る。
一見超然 と した強気 の発言 で はあ るが,恰 か もホ一 ・チ ・ミン承
2
5
6
認 によ り中仏接近 の望 みが消 えて初 めてや っとベ トミン援助 が主要 関心事 に浮上 した,とで も
解釈 で きそ うな失言 めいた発言 を,よ りによ って フラ ンスと死闘を演 じて いる真 っ最 中の他 な
らぬ ホーの面前 で漏 らした こと自体 に,中共 が フラ ンスとの外交樹立 におそ らく内心寄せてい
た期待 と,それが達成 されなか った ことへの無念 さ,そ して負 け惜 しみが湊 みでているよ うに読
み取 れ る。劉小奇 に してみれば中共 がベ トミンを承認 し援助す ることの意義 を強調 してみせ た
い-心か らの発言 だ ったのか も知 れないが,
「外交樹立寸前 だ った フランスとの関係 を犠牲 に し
てで も」とわざわざ言及 した ことは,む しろそれだ けフランスとの接近 が重要 な外交案件 と して
中共指導部 に意識 されて いた ことを逆説 的 に物語 るもの に他 な らない と言 え よ うし,た とえそ
うでな くともホ一に とって は些 か恩着せが ま しく聞 こえた ことで もあろ う。
劉小奇 の発言 か ら中共指導部 の思惑 を類推 し過 ぎるのは早計 と して も, それを傍証的 に補完
す る手 がか りと して, 5
0年 5月 1
6日に当時 モスクワ訪問中だ った リー国連事務総長 と中共政
府 の初代駐 モ スクワ大使王稼祥 の間で交 わ され た会談 も注 目に値 す る。 リーの回想録 によ る
と, 1月の中共 の国連加盟案否決 に触 れて 「
王大使 は 『北京 の民主人民政府 を承認 して くれて
い るのは,僅 かに ソ連 とその近隣諸国だけだ』 と嘆息 した」 とい う。 リーは, 中共 を国際的 に
孤立化 させ た責 任 の所在 を明 か にす る ことで中国側 を慰 め よ うと して, 「ソ連 の退場 とボイ
コ ッ トは,北京政府 が国連諸機関 に席 を占め ることを微塵 も容易 には しなか った し, それ どこ
ろか ソ連 は実際 の ところ事態 をあなた方 にとって ます ます困難 な ものに しただ けである」 と説
明 したが, これに対 して 「表情 を読 み と られ ることを拒絶 しているかのよ うな彼 [
王稼祥] の
顔 には如何 な る反応 も表れなか った」 [
Li
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9
5
4:2
6
7-2
6
8
]。
リーの解説-の コメ ン トは避 けたが,王稼祥 はここで特 にフランスの態度 につ いて リーに説
明を求 めて きた。 「
彼 [
王稼祥] が フランスにつ いて尋 ねて きたので, 私 は, 個人的見解 だが
と断 った上 で,北京政府 によるホー ・チ ・ミン承認 は取 りも直 さず フランスに北京政府 に対す
る考 えを変更 させ る結果 を もた らして しま った, と話 した。 『
実際の ところ私 は, フランスが
あなた方 の代表 に安保理事会 の議席 を与 え る ことを殆 ど賛成 しかか って いた ことを知 って い
る。 しか し北京政府 によ るイ ン ドシナの反乱分子 の承認 が フ ランスの世論 を沸騰 させ たため
に, フランス政府 と して も新 しい立場 [
中共承認の凍結を指す一木之内] を採用せ ざるを得 な く
1
2
) 黄文歓は,4
9
年末頃までバンコクでベ トミンの対外連絡事務を管掌 し,後に初代駐北京大使となる
HoangVanHoan) の漢字表記名である。ホアンは 1
9
7
9年中国に亡命 し
ホアン・バン・ホアン (
た。
31
7
東南 アジア研究
3
2
巻 3号
な ったのだ』
」。 しか しなが ら 「これ に対 し, 王稼 祥 大 使 は何 も述 べ よ うとは しなか った」
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d.
:269]
.
王稼祥が何を言 ったか とい うよ りは寧 ろ,何 を言 わなか ったか に着 目す る必要があろ う。 中
共 の国連加盟決議案 が否決 された ことに抗議 して ソ連 が長期 のボイ コッ トを決 め込 んだ こと
は, それが中共 と西側 との接触 を遮断 して中共 の ソ連依存 を余儀 な くさせ るソ連 の悪意 に満 ち
た計算か, それ とも議案提 出時の票の行方 を読み切 れなか った過失 を,憤然 と席 を蹴 るとい う
激情的反発 を誇示す ることで補償 しよ うと したはよいがそのまま引 っ込みがつかな くな ったた
めか, はたまた単 にボイコッ トを拒否権行使 と同義 と勝手 に勘違 い したに過 ぎないのか, その
詮索 はここで は措 くと しよ う。 何れにせ よソ連 の退場 が, 中共 の国際社会 デ ビューの足を引 っ
張 る結果 とな った ことは当時 の誰 の 目に も明 らかであ った。 だが王稼祥 は一切 の論評 を拒 ん
だ。 と同時 に, ソ連退場 によ り安保理事会での フランスの票 な どもはや中共 にとって無意味 に
な った と思われた直後 に発表 された中共政府 のベ トミン承認 は, もしそれが無 ければ実現 した
か もしれぬ中仏 の関係樹立 の芽 を摘み取 ったばか りか, 中国の国連加盟 のチ ャンスを も更 に一
層遠 ざけたが, これにつ いて も王稼祥 は口を閉 ざ した。彼 に してみれば,植民地主義 に抗 して
独立闘争 を進 めるベ トナム人民 を支援す るのは中国人民 の義務である し中共 自身 の経験 とも合
致す るとか, そ うしたベ トナム人民か ら承認 を要請 された以上, それに答え るの は当然である
とか,幾 らで も辻榛 の合 う共産主義特有 の建て前 を並べ立てて抗弁す ることは可能だ った筈で
あ る。 そ うしない方 がかえ って不 自然 で もあろ う。 おそ らくフランス との関係悪化 を導 いた
ホ一 ・チ ・ミン承認 の決定 は, ソ連- ベ トミンー フランスの狭間で中共が選んだ苦渋の決断で
あ ったか, さ もなければ リーが推定 したよ うに,承認決定 による重大 な反響 をあま り予想せず
i
bi
d.
:257] のいずれかであろうが, どち らにせ よ王稼祥 の頑
に下 して しまった軽率 な決定 [
なな 「
沈黙」 は, この決定が必 ず しも中共 にとって満足すべ き賢明な選択 とは言 い難 いと認識
されていた ことを暗 に伝 えているよ うに思 われ る。 それだけに, 中共政府 を承認 して くれてい
るの は専 ら社会主義国ばか りだ と彼の口か ら洩れた数少 ない不平 は,実感 の こもった心情吐露
と して真実味を帯 びて響 くのであ り, フランスの態度 を聞 きだそ うとした ことと相 まって, 中
共が密かに寄せていたフランスとの接近-の期待, とい った推定 に信感性 を補強す るもの とも
言え るであろ う。
ともあれ共産中国 はベ トミン承認 に踏切 り,劉小奇 は 「
現在 の主要問題 はベ トナム人民 の抗
仏戦争 を支援す ること」と見えを切 った。 しか しなが ら, ベ トナム民主共和国の初代駐北京大
HoangVanHoan) が北京政府 に実際 に信任状を提出で きたのは,
使 ホア ン ・バ ン ・ホア ン (
9
51年 4月 2
8日にな ってか らであ り, そのニュースは 5
2年 1
0月 によ うや く新華
遅れ ること 1
社 によって発表 されたに過 ぎなか った。 しか もホア ン ・バ ン ・ホア ンが中国側か ら大使 として
9
5
4年 9月, 即 ち第 1次 イ ン ドシナ戦争 の処理 を扱 っ
の資格 を正式 に認証 されたのは, 実 に 1
31
8
木之内 :中越 ソ 「
友好」成立の断面
た ジュネーブ会議が閉幕 してか らの ことであ る [
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9:61
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.
n.9;ZhaiQi
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9
9
2:
1
0
6
]
。
Ⅱ ソ連のペ トミン承認をめ ぐって
(1) ベ トミン承認 -
遅 いか ?
中共 のベ トミン承認で少 々興味を引 くのは, 自 らのベ トミン承認 と同時 に, ソ連及 び東欧諸
7日毛沢東 はモスク
国 に対 して も承認 に加わ るよ う催促す る動 きを見せ た ことであ る。 1月 1
8日に発表 された し」 とし
ワか ら劉小奇 に宛てた電報 の中で, 「ベ トナムとの外交関係樹立を 1
た後で, 「ベ トナム政府 の各国 と外交関係 を結 びたい との声明 は, 外交部 の手で, ソ連 および
『
毛沢東文稿』:
2
3
8
]。 これを受 けて劉
各新民主国家 に転送 してほ しい」 と特 に指示 している [
小奇 は早速,駐北京 ソ連大使館 に, ソ連 もベ トナム民主共和国を承認す ることを望 む とす る中
9
87:2
5
5共 中央 の見解 を本 国政 府 に伝 え るよ う, 働 きか けを した模様 で あ る [
黄 文歓 1
2
5
6
]
。
中国が ソ連及 び ソ連圏諸国 に もホ-承認 に同調す ることを促 そ うと したのは, 当時の 『ロン
ドン ・タイムズ』紙 が論評 したように, ソ連 の承認を取 り付 けておけば, 中国のべ トミンへの
て こ入 れによ って アメ リカを筆頭 とす る西側 の軍事的反発 を誘発 し全面衝突 に発展 しそ うに
な った場合 に, ソ連 の援護が見込 める,少 な くとも リスクを- ッジして西側への牽制効果が期
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待で きる, と中共 が判断 したためか [
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1
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0
37
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2
]
, それ ともフランス及 び西側か らの反発が必至 とな るホー承認 を迫 ること
で, ソ連 に対 し,西側 との関係悪化 とい う犠牲 を払 ってで もベ トミン (
及 びそれ と連帯 した中
共) との関係 の方 を優先 させ る意志 があるのかをテス トしよ うとしたのか,真相 は未だ不明で
どれ も推測の域 を出ない。 しか し中国側 の真意が どうであれ,結果的に ソ連 が特 に対仏関係で
苦 しい立場 に追 い込 まれた ことは間違 いない。丁度 この頃アメ リカを中心 に進 め られていた と
ころの, 西 ドイツを再軍備 LNATOに統合す るとい う構想 の成否の鍵 を握 っていたのは伝統
Gonc
har
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sand Xue 1
9
9
3:1
07
]。
的に対独警戒感 の強 いフランスの動 向であ った [
従 って当然 なが らこの構想 を潰 したい ソ連 と して は, フランス国内で ソ連脅威論が ドイツ脅威
論 を圧倒 し ドイツ再軍備容認へ と世論 を傾斜 させかねない類の行動 (ホ-承認) は出来れば避
けたか ったのではあ るまいか。 いずれにせよ ソ連 は, ベ トミンの外交関係樹立 のア ピールか ら
2週間以上 も経 った 1月 31日に, ベ トナム民主共和国承認を, どち らか と言 えば控 え 目に発
表 した。
ソ連 はホ一 ・チ ・ミンを承認 した理 由 と して, ベ トナム住民約 2千万人中 フランス支配地域
に住 む者 はたかだか 2百万人 ほどに過 ぎない こと,要す るにべ トミンが人 口の圧倒的多数 を支
31
9
東南 アジア研究
3
2
巻 3号
配 して いること, ソ連 は一貫 して植民地支配 に反対 して きた こと, ベ トナム民主共和国 は憲法
を有 し, この国の 「
合法的」政府 と認定す るのに十分であ ること, な どを挙 げ,以上か らソ連
がベ トミン政府 を承認す ることは 「
極 めて 自然 な」行為であると したばか りか, そ もそ もソ連
9
46年 に承認 した こと 13)を承認 したに過 ぎない, と噴 いた。 しか し, 承
は, フランス自身が 1
認 の理 由 とした条件 の多 くがそれ以前か ら或 る程度存在 していたに も拘 らず, なぜ それ まで承
認 しなか ったのか につ いて ソ連 は一切触 れず, また今 日まで一度 と して公式 に説明 された こと
9
5
9:6
8;Mc
Lane1
9
6
6:43
6-437
]。 もっとも中国大陸の大半 を ほぼ完全 に
はない [
ワース 1
制圧す るまで ソ連か ら承認 を受 け られなか った中国共産党 に比べれば,決 してまだ優勢 とは言
い難 い戟閲の渦中 にあ りなが ら承認 を得 たベ トミンはまだま しな方で はあ った。 ちなみに東南
アジアの中で, ソ連 と最初 に外交関係 を樹立 したのはタイである (
1
9
47年 1月 5日) [
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ke
9
8
3:21
0
]
。
1
9
87:32;大野 1
確かに 1
9
5
0年初頭 に限れば上述 の通 り, ドイツ再軍備問題 との関係 でベ トミン承認 を速巡
させ るに足 るこの時点特有の事情 が ソ連側 に働 いていたのか もしれない。 しか しそ うした事情
が まだ浮上 していなか ったそれ以前 において もソ連が ホ-を承認 しよ うとした形跡が窺えない
事実 は依然残 る。 ソ連側 か らの公式 の説 明 はな く, また当時 と して はそれを期待 すべ くもな
か ったが, ソ連 のベ トミン承認 の遅れの理 由について は従来解釈が施 され, それ らは或 る程度
定着 した理解 として今 日に至 っている。 ここでそれ らを一通 り整理 して確認 してお く。
第 2次大戦以前 か らソ連 の対外政策 は圧倒的 に 「ヨーロッパ中心」 のそれであ り, ベ トナム
は もとよ り, そ もそ も東南 アジア一般 に対す る関心 と理解 が極度 に乏 しく, そ こでの共産主義
運動 に も, ソ連 の対欧州政策 と西欧の共産主義運動 の成功 に資す るか否か,帝国主義勢力の力
を携乱 し分散 させて くれ るか どうか, とい う文脈 と基準でのみ判断 され るせいぜ い副次的で補
助的 な機能上 の役割 しか期待 されない傾向が戦後 も根強 く続 いていた。 ソ連が東南 アジアの共
産主義運動 に十分 な理解 を示 して同地域特有 の実情 に即 した指針や支援 を送 った例 は, モスク
9
47年以降で さえ兄 いだすの は難 しく, そ
ワの対外路線 が ア ジア ・シフ トを強 めた とされ る 1
れ以前 に至 って は皆無 に近 い。 それ どころか, ファシズムか らソ連 を防衛す るためには東南 ア
ジアの植民地権力である西欧列強 との連合 も辞 さない とす る大戦当時の ソ連 の露骨 な国益優先
の思考が殆 どそのまま東南 アジアに も投射 され続 け, 同地域 の革命運動 に水 をさ していた こと
9
91:1
91-1
9
2
]。
は,筆者 自身 も以前簡単 に述 べた ことがある [
木之内 1
アジアの共産主義 はソ連が最 も重視す る欧州 の共産主義運動 の利益 に従属すべ きとす るク レ
1
3
) 1
9
4
6年 3月 6日にホ一 ・チ ・ミンとフランスとの問で取 り交わされた予備協定を指す。この協定
は 「フランスは,ベ トナム民主共和国を,みずからの政府,議会,財政権をもち,インドシナ連邦
と,フランス連合の一部を構成する自由な国家として承認する」ことを主な内容としていたが,解
釈を巡 って垂
削1
対立が生 じ,事実上反故にされた。
320
木之内 :中越ソ 「
友好」成立 の断面
ム リンの伝統的教説 の実践上 のコロラ リーとして, また世界の革命運動 の戦闘的 リーダーとい
う戟前 におけるソ連 の こわ もてのイメージを払拭 したいとす るスター リンの意向 も働 いて,戟
後 も暫 くの間, ソ連 は東南 アジア植民地の革命運動 の指導 をそれぞれの宗主国の共産党 の裁量
Zagor
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967:37;Camer
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977:1
72;McLane1
966:
に事実上委ね る方針 を とっていた [
]。 しか しなが らホ一 ・チ ・ミンにとって は兄弟党である筈 の, またク レム リンの思考で は
349
ベ トミンを指導す る責任 を負 っていた当の フランス共産党がベ トナム情勢 に示 した姿勢 は,保
守的な植民地主義 のそれ と実際には何 ら変わ るところが無 く, ベ トミンに深 い幻滅を味あわせ
5年 1
1月か ら 47年 5月 にか け連立政府 に参加
ていた ことは従来周知の事実 とされている。4
していた フランス共産党 は,植民地喪失 に伴 う国家的威信の低下 を恐れ る国民感情 に配慮す る
あま り, ベ トミンに対す る軍事行動 に敢 えて積極的に異議 を唱えよ うとは しなか った。 それ ど
6年 5月 にパ リを訪 れた親仏派 に して保守的な コーチ シナ分離主義派 の代表格で も
ころか, 4
NguyenVanXuan) は帰国後 に, 「トレーズ氏 [
当時フランス
あ った グエ ン ・バ ン ・スア ン (
ur
i
c
eThor
e
zを指す一木之内] の自宅で, 私 は耳 を疑 う
共産党書記長であったモリス・トレーズ Ma
ような意見を聞か された。 内閣の副首相 [トレーズ本人である一木之内] が私 に, フランス共産
党 は, イ ン ドシナにおけるフランスの地位 の清算人 となるので はな い か と見 なされることを何
としてで も避 けたいと思 ってお り,む しろフランス連合の隅々にまで フランス国旗が翻 ること
Devi
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er
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975:269;ワース 1
95
9・
.
を願 ってやまない, と断言 した」 とす ら証言 している [
Dougl
asPi
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) によると,一時 フランス共産党 はまた, もしベ トナムが
32
4-32
8]。 パイク (
独立 し自由になれば, アメ リカの支配下 に収 まるに遵 いないとの理 由をあげてベ トナム独立 に
Pi
ke1
9
87:31
]。 自分達 に統制で きない ものは何であれ, その分だけ
難色 を示 した とされ る [
敵陣営 の利益 に通 じると短絡 させ るゼ ロサ ム ・ゲーム的冷戦思考 リンの思考」 とい うべ きか ?-
と言 うよ りは 「ク レム
の呪縛か らフランス共産党 も逃れ られなか ったまでの こと,
と言 えば済みそ うだが, ともあれ これで はとて もベ トミンを納得 させ るにほど遠か った ことは
間違 いない。
47年 3月 1
2日いわゆ る 「トルーマ ン宣言」 が発表 され, 東西対立が俄然緊迫化 した直後 の
3月 1
9日, フランス国会でイ ン ドシナ戦争向けの事実上最初 の予算 となる 47年度軍事予算案
21票,反
の採決が行 なわれた。 しか しこの時,共産党 は 「
棄権」 し, その結果予算案 は賛成 4
対 ゼ ロ票でいともやすやす と可決 されたのである。 ちなみにこの当時 フランス共産党 は議会 の
PaulRamadi
er
) 首相 は, 共産党の棄権 は 「フラ
第 1覚 を占めていた。 採決後 ラマデ ィエ (
ンスの団結 を保持せん とす る勇気 あふれ る行動」だ とす る,皮肉 と間違えそ うな謝辞を トレー
Fal
l1
960:1
1
7
]
。
ズに捧 げている [
フランス共産党 のかか る姿勢 は 「
政権 にで きる限 り長 くしがみついていたいとす る彼 らの願
望 によるものである」 との観察が既 にその当時か ら下 され, ソ連 もまた フランス共産党を政権
321
東南 アジア研究
3
2
巻 3号
内に温存 させ ることが先決 と して,彼 らの帝国主義者 まがいの態度 を概 ね不問 に付 していた。
1
9
4
6年 9月 2
8日の 『プラウダ』 が, アジアに駐留 している 「
外国軍」と してアメ リカとイギ
リスのそれを名指 しで激 しく非難 した ものの, フラ ンスにつ いて はただの一言 も触 れていな
i
b
i
d.
:11
7-1
1
8
].
か った ことは, そ うした姿勢 を反映 した一例 に挙 げ られよ う [
フラ ンス共産党 の姿勢 を黙認 した ことに象徴的 に示 された ソ連 の, ベ トミン (
のみな らず東
7年 に フランス共産党 を始 め とす る西欧共
南 アジアの共産主義運動一般) に対す る態度 は, 4
産党が合法的手段で政権 を とる展望 が後退 した こと及 びアメ リカが トルーマ ン ・ドク トリン,
マー シャル ・プラ ンな ど欧州での冷戦政策 を本格化 して きた こと等 に も影響 され,同年後半 に
1月 の 「コ ミンフォル ム」 創設 とそ こでの ジダーノフ (
Andr
e
iZhdanov)
変化 を遂 げる. 1
の演説 および同年 1
2月 の ジューコフ (
E.
M.Zhukov) の論文 とを皮切 りに, ソ連共産党 は,
世界情勢 の認識 と して は米 ソ対立 を鮮明 に した 「
二大陣営論」 を表明 し,戟術 と して はよ り戦
闘的なそれを,関心 を注 ぐ地域 と してはアジアも
それぞれ従来 に比べて一段 と重視す る姿勢
を示 し始 めた。 ジダーノフはコ ミンフォルム創設大会で, ソ連率 いる 「
反帝国主義 ・民主主義
陣営」 に連合 している国 と して, イ ン ドネシアと.
並んでベ トナムの名 を特 に挙 げ, ベ トミンの
闘争 を 「
植 民 地 と隷 属 国 に お け る強 力 な民 族 解 放 運 動」 で あ る と盛 ん に褒 め ち ぎ った
[
Mc
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9
6
6:
3
5
2-3
5
6;Pi
ke1
9
8
7:32
]
。
とはいえ,以前 と比べ ると戦闘的で アジア重視 の性格 を強めた ソ連 の ドク トリンが, この時
以降ベ トミンへの具体的 ・実質的援助 に結実 してい ったか といえば,断定的 な結論 を導 きだせ
る証拠 は見 当 らない。 ただ しこの当時 フランス当局 は, タイのバ ンコク経 由で ソ連がベ トミン
9
5
0年 4月 2
6日,
に援助 を提供 しているのではないか, との疑 いを強めていたよ うである。 1
駐英 フランス大使館 は本国外務省か ら送 られて きた一つの調査報告 をイギ リス外務省東南 アジ
ア課 に手交 した。 それ によると,
1
9
47年末 にバ ンコクに設置 されて以来, ソ連領事館 は, 共産主義拡大 を目的 と した東南
アジア諸国 におけるソ連 の活動 を調整す る上で,重要 な役割 を果 た している らしい, と観
察 されている。 同領事館 を仲介 と して, ソ連 とタイのベ トミン組織 の間で以下 のよ うな関
係が保 たれている。即 ち,原資料 を基 に した最新 の情報 によると,バ ンコクのベ トミン代
表部 は, ソ連公使 を介 して, ただ しあ くまで も公使 の個人名 の下で, モスクワか ら資金援
助 を受 けている。 バ ンコクの 『ベ トナム ・ニュース ・サー ビス』 なる機関 の責任者, チ ャ
Tr
amMa
y) は, 本年 1月 2
0日, モスクワの同機関員 チ ュオ ン ・ホ ン ・バ ン
ン ・マイ (
(
Tr
uongHongVan) に手紙 を送 っている。 その中で彼 は, バ ンコクのベ トミン組織 は,
タイの ソ連領事館 と関係 を保 たねばな らない ことを述べた末 に,我 々の 「
抵抗戦争」 の資
金繰 りは友好国の善意 のおかげでその補給 はまず まず良好であるが, 当面 そ うした資金 の
322
木之内 :中越 ソ 「
友好」成立の断面
送 金 は, これ まで と同様 に ソ連 公 使 を経 由 して行 な う ことが 出来 るだ ろ う, と記 して い
る。 [
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/8361
9/1
0338]
この情 報 が どの程度正 確 で あ るか, また仮 りに事実 と して も援助 資金 の額 は どの ぐらいか, 援
助 は単 に金銭面 だ けに留 ま ったか, 等 につ いて は不 明で あ り,残念 なが ら筆者 も確 認 で きて い
な い。 ただ ここで,情 報 内容 の真 否 は別 と して, フ ラ ンスが対 ベ トミン戦 争 - の西側 同盟 国 か
らの関心 と援助 を引 き出す ため に, ソ連 の影 を, 時 には実物 以上 に強調 してみせ た可能 性 も否
定 で きな い。 参考 まで に これ まで の解 釈 で は, 47年 末以 降 に ソ連 のベ トミン関与 が強 ま った
か ど うか に関 し, どち らか と言 え ば懐疑 的 な見方 が今 なお支配 的 の よ うに思 われ る。 マ ク レー
ン (
Char
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esB.McLane) は 「モ ス ク ワは,世 界 問題 につ いて戦 闘 的 ポー ズを と り始 めた に も
かか わ らず, 植民地 の革 命家 に は依然 と して単 に 『共感』 を示 す に とどま って いた」 と記 す と
共 に, 特 にベ トミンとの関係 に限 ってみれ ば, ベ トナ ムで の紛 争 が西側超 大 国 と りわ けア メ リ
カの介 入 を伴 う東 ア ジアの全面戦 争 に発展 す る危 険性 を ソ連 が憂慮 して いた ことが, ベ トミン
- の表 だ った関与 を控 え させ た一 因 で あ ろ うと推 定 す る [
McLane1
966:361
,435-437
]。
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ン ドシナ戦争 の間 ソ連 は, 当時 お よび今 日まで観察 され て きた以上 に実 際 に はベ トナ ムに関与
して いた, との見解 を とるパ イ クです ら, こ う した新路線 以 降 も ソ連 のベ トミンへ の関心 にそ
れ ほ ど目立 って真 剣 味 が増 した とは感 じられ な い, 少 な くと も中国 お よびイ ン ドネ シアに対 し
て払 った ソ連 の関心 と比較 す る と大分 見劣 りがす る, と論 じて い る [
Pi
ke1
9
87:32
] 。1
4)
ホ一 ・チ ・ミン自身, 1
95
3年, 「八 月革命」 記念 日に寄 せ たそれ まで の抗仏 闘争 を総括 す る
声 明 の中で, ソ連 か らあ ま りめぼ しい援助 が到来 しなか った ことを,娩 曲 な表現 なが ら暗 に認
め た と も読 み取 れ る発言 を して い る。
我 々の抗仏戦 争 の初 めの頃, ソ連 お よび東 欧 の新民 主主義 国 は, 第 2次世界大戦 で被 った
深 い傷跡 を癒 さな けれ ば な らな い状 態 だ った。 中国革 命 も幾 多 の困難 に直面 して いた。 世
界 の平和運動 はまだ組織 されて いなか った。 しか し今 で は ソ連 は, 共産主義 に向か って力
強 く前進 して い る--。 [
HoChiMi
nh1
961:39
4]
9年 1
0月中共が政権
1
4
) もっともパイクが, ソ連は少なか らずベ トミンに関与 していたという場合,4
を掌握 して以後に中共を経由 して武器 ・資金を供与 した 「
可能性」があった, と指摘 しているに過
ぎず,それ以前の関与の 「
可能性」については具体的には特に何 も述べていない。 またインドシナ
戦争後半べ トミンがソ連 ・東欧製武器を使用 していたのは事実だが,それはソ連が意図的に中国経
由で送 らせた ものか,或いはもともと中共に供与 したものが単に流用されただけなのか,パイク自
身 も答えていない。
323
東南 アジア研究
パ
3
2
巻 3号
イ ク は ソ連 の ホ 一 ・チ ・ミン承 認 が遅 れ た理 由 と して, 既 に こ こまで に述 べ た解 釈 の他
に, ホ -が 自立 的過 ぎて 「ア ジアの チ トー」 にな るので はな いか, とモ ス ク ワの一部 か ら不安
視 され て いた ことに加 え, ソ連 軍 部 の影 響 も見逃 せ な い とす る。 彼 に よ る と ソ連 軍部 は, 1
945
年 頃 は, ベ トミンに勝 ち 目はな い, 負 け馬 にの るの は得 策 で はな い, と分 析 して いたが, 5
0
年 頃 にな る とベ トミンはひ ょっとす る と勝 て るか も しれ な い, との判 断 に変 わ って きた とい う
[
pi
ke1
987:33] 。15)
以 上 ソ連 に よ るベ トミン承 認 の遅 れ の理 由 と考 え られ る ものを概 括 して み た。 しか し今 こ こ
で少 々問題 と して お きた いの は, ソ連 の ホ一 ・チ ・ミン承 認 は, 対 ベ トナ ム関係 の枠 内 に限 っ
て みれば 「
遅 い」 が, それ を抜 きに して み れ ば む しろ 「早 い」 と捉 え る観 察 が この 当時存在 し
た こ とにあ る。
(2) ベ トミ ン乗 認 -
早 いか ?
ソ連 が ベ ト ミ ン政 府 承 認 を 発 表 した 50年 1月 31日, ア メ リカ 国 務 省 東 欧 局 長 ヨ ス ト
(
Cha
r
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sW.Yo
s
t
) は一 つ の覚 え書 きを したた め た。 彼 はその中で,
ソ連 に よ るホ 一 ・チ ・
ミン承 認 は不 吉 な事 態 だ と しつ つ も, 続 けて こ う記 して い る。
ホ - はつ い最 近 まで, 共 産 主 義 と自分 との結 び付 きを告 白す る こ とを注 意 深 く避 けて き
た。 ソ連 の プ ロパ ガ ンダ も, イ ン ドシナの 「民 族解 放 運 動 」 を賞 賛 しなが ら も, ホーの体
制 を一 つ の政 府 と して扱 うこ とを控 えて きた。 しか し今 や 中共 が ホ -を承 認 す るや, ソ連
もこれ に倣 った。 これ はギ リシア に対 す る ソ連 の態度 と実 に好対 照 で あ る。 ギ リシアで は
1
5
) もっともこの頃のソ連のまだ貧弱な物資補給能力を考えれば, ソ連の中枢か ら遠 く離れたベ トナム
に実際に関与 しようにも, 相当の困難が伴 ったであろう, とパイクは推定 している [
Pi
ke 1
9
8
6:
5
7
,not
e5]。但 しここで, ホ一 ・チ ・ミンはそもそも 1
9
5
0年以前にソ連に個別 に外交承認 も革命
運動への支援 も特 に強 く要請 してはいなか ったのではないか, という疑問が提起 されるか もしれな
9
4
5年 9月のベ トナム民主共和国独立宣言時 に外交関係樹立の希望が表明 されたが,
い。確かに 1
それ も一般的なアピールであって ソ連を特 に対象 としていた訳ではない し,その後 も (
1
9
5
0
年初頭
まで) ソ連 に個別に働 きかけたことを窺わせる決定的証拠 も,筆者の知 る限 り,今 日まで提示 され
ていない。その点 も含めこの頃の ソ越関係にはまだまだ不明の部分が多いが,ベ トミン側には第 1
章第 1節で述べたような,一方 ソ連側にも本節で示 したような,互いに接近を涛曙 させる或いは難
しくさせるそれぞれの事情が存 していたことも考慮すれば,ベ トミンが 1
9
5
0年以前 にソ連 に支援
を,少な くとも外交承認を活発 に働 きかけた可能性 はやはり乏 しいのではないか と考えざるを得な
9
5
0年 1月末までずれ込んだ ソ連
い し, 仮 に何 らかの働 きかけがあったとして も, それはそれで 1
のベ トミン承認の遅れがかえ って一層際立つ ことになる。 また仮 にベ トミン側か ら 1
9
5
0年以前 に
承認要請がなされなか ったとすれば,それは取 りも直さず ソ越関係の疎遠 さを示す もう一つの証 し
ともな りうる訳である。更 に,ベ トミンか ら承認要請の働 きかけがなされなか ったのだか ら承認を
送 る義理 も無いという理屈 は,事前に承認要請が個別に提出されることが承認を送 る前提要件では
ない以上,一般論 として も全 く通用 しない し,仮 りにソ連がそうい う理屈で承認を控えていたのだ
とした ら, ソ連 とベ トミンは所詮その程度の関係で しかなか ったということになる。
324
木之内 :中越ソ 「
友好」成立の断面
ソ連 は長 い間 マル コス [
Mar
kosVaf
i
ade
sかつてのギ リシア共産党の指導者の一人。大戦後間 もな
い時期からギ リシア北部山岳地帯を拠点とする武力闘争路線を主唱 した一木之内] を支持 して いたが,
マル コスの体制 [
1
9
47年 1
2月 2
4日山岳地帯に樹立され,ギ リシアが全面的内戦に突入する引き金と
なった共産党の抵抗政府 「
民主ギ リシア臨時政府」のこと。 マルコスは 49年 1月末まで同政府の首相
だった。一木之内]を政府 と して承認 しよ うとは しなか ったか らであ る。
ギ リシアの共産主義者-の態度 とは対照的 とも言 え るソ連 のホ-承認 の理 由を, ヨス トは次 の
よ うに推定 した。
--イ ン ドシナに関す るこうした ソ連 の行動 は,東南 ア ジアが現在 のよ うな流動 的で比較
的無防備 な状態 に置かれて いる間 に, 同地域 の革命 プロセスを加速 させ よ うとす る予想 さ
れ た ソ連 の意図 を示唆す るだ けでな く,東南 ア ジアの革命運動 の指導 と監督 をめ ぐる二つ
の共産主義大国 [
ソ連と中国をさす一木之内] の間の競合 の存在 を暗示 しているよ うに思 わ
れ る。 ソ連 の承認行為 は,誰 が実際 に この革命運動 を指導す るか に関 して,現在 モスクワ
で進行 中の交渉 [
「
中ソ友好同盟相互援助条約」 の締結交渉をさす一木之内] の過程で生 じた論
争 に起因 して いる可能性が極 めて高 い。 ソ連 は昨秋北京で会議 を開 いた 「
世界労働組合連
盟」 のア ジア支部 を通 じて,革命運動 を監督 したか ったのだが, 中国が この分野 で独 自に
先行す る傾 向をみせてい ると判断す るに及 んで, ソ連 当局 も直接的で公然 た る ソ連 の行動
が必要 であ る, と決定 した と推定 で きる。 [
Memor
andum,Yos
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y31,1950.FRUS,1950,Vol
.
Ⅵ :71
0]16)
ヨス トの見解 が米政府 内で十分 に傾聴 され政策 に反映 した形跡 は確認 で きない。 だが彼 も指
摘 したよ うなギ リシアとイ ン ドシナ とに対す るソ連 の好対照 な対応 はイギ リスで も注 目され る
ところとな って いた。 50年 2月 1日付 けの 『タイムズ』 紙 は次 のよ うな論説 を掲載 してい る。
「イ ン ドシナの共産主義政府 が他 の国 々に外交関係樹立 を呼 びか けた とソ連 の公式 の報道機 関
●●
が既 に発表 した以上, モスクワがそれ に肯定 的回答 を与 えた とい うその後 のニュースは, それ
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
自体 と して は ロ ン ドンにさほど驚 きを生 み は しなか った。 それで もソ連 の行為 は東南 ア ジア情
勢 の展開 にとって計 り知 れないほど重大 な含意 を もち得 ると考 え られてい る。 問題 の核心 は,
フランスと現在交戦 中の政府 を ソ連政府 が承認 した ことにある。 ソ連政府 は, ギ リシアの共産
1
6) マルコスおよびギ リシアの抵抗政府 と内戦については,さしあたり油井大三郎 [
1
9
85
]を参照。特
に同書第 4章と第 7章が参考となる。
325
東南 アジア研究
3
2
巻 3号
主義 叛徒 に対 す る同情 を隠 しは しなか った し,衛星国 を通 じて間接 的支援 を送 って もいたが,
ギ リシアに関 して西側 の如何 な る国 に対 して も (フ ラ ンスを反発 させ るベ トミン承認 に匹敵 す
。[
Ci
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る よ うな) 無 礼 な行 為 に及 ん だ こ と は一 度 も無 か った の だ」
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](
圏点 木之内)
それで はギ リシアの場合 ばか りか, 中共政府承認 の場 合 と比 べて も格段 に早 か った ソ連 のベ
トミン承認 は, ヨス トが推定 した よ うな東南 ア ジアの革 命指導権 をめ ぐる中 ソの角逐 に起因 し
て いたので あ ろ うか.参考 まで に,.
ベ トミンと交戦 中の当事 国であ り, 中 ソによ るホー承認 で
最 も打撃 を受 けた フラ ンスの, この間題 に関す る見解 を知 る手 がか りが,
5
0年 2月末 に フ ラ
ンス外務省 が纏 めた次 の よ うな, ソ連 の対 イ ン ドシナ戦 略 につ いての分析報告 の中 に兄 いだ さ
れ る。
ソ連 は直接 にはベ トミンを ほ とん ど支援 で きない状 態 にあ る。逆 に中国 は武器 や密使,飛
行機, そ して いざ となれば兵力 さえを も送 ることによ り, 直接 にベ トミンを支援 で きる立
場 にあ る。 しか しこう した中国 のベ トミン援助 は果 た して完全 にモスクワの利益 に合致 し
て いるといえ るだ ろ うか。 それ は黄色 い共産主義 が確立 され, ソ連 の後援 か ら徐 々に脱却
してい くことを促進 す る危 険 はないだ ろ うか。 ホ一 ・チ ・ミン自身 ソ連 に全幅 の信頼 を寄
せて い る指導者 といえ るだ ろ うか。彼 は (ソ連 の 目か ら見 て)外部 との接触 が あ ま りに多
す ぎたので はなか ろ うか。 (
中略) ソ連 の ホ-承認決定 には明 らか に別 の考慮 [
純粋に共産
主義的動機か らベ トミンを支援するという考慮 とは別の, という意味一木之内]が働 いてい る。 つ
ま り中国政府 の動 向を看過 で きない とい うことで あ る。 ソ連 と して はホ一 ・チ ・ミンを落
胆 させ る ことは出来 な い。 そん な ことをすれば ホーは必 ずや異端 に誘惑 され るだ ろ うか ら
だ。
[
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3
8
]
要 す るに この文書 も, ソ連 の ホ一 ・チ ・ミン承認 に は, 中国への対抗意識 が動機 の一部 と し
て潜 んで いた と推定 す る点 で ヨス トと共通 して い る。 それで は こ うした観察 は正 しか ったか,
それ ともただの憶 測, 或 い は中 ソ離反 へ の過剰 な期待 か ら来 る 「
誤認
mi
s
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r
c
e
pt
i
on」に過 ぎ
なか ったのか。結論 か ら言 うな らば いずれ とも断定 Lが たい。 しか し,成立 当初 の中 ソとベ ト
ミンの友好 関係 を考 え る上 で, この問題 は少 な くと も一 つ の興味深 い視 角 を構成す るか も しれ
な い。
そ こで先ず,
1
9
4
9年 7月, 劉小奇 が中共代表 と して モス クワを訪 れ, ス ター リンと会談 し
た ことに着 目 してみたい。 この とき劉小奇 に同行 した通訳係 の師哲 は, ス ター リンが次 の よ う
な発言 を した と回想 してい る。
326
木之内 :中越 ソ 「
友好」成立の断面
彼 [スター リン] は,世界革命 の中心 は東 に移 ってお り,将来中国 は世界 において, よ り
多 くの, よ り重要 な義務 を負 わなければな らない, と指摘 した。 [
師哲 1
9
8
8:2
2
4
]
これに続 けて スター リンは特 にベ トナムにつ いて こう言及 した とい う。
このよ うな状況下で, ベ トナムのよ うな国があなた方 に助 けを求 めて くるか もしれない。
その場合 には, あなた方 が援助 した方が良 い。我 々はあま りに遠 い し, またあなた方 はど
現地 の状況 をよ く理解 していないので援助す ることは難 しい。
銭江 によれば, スター リンの この時 の発言 は, 事実上 5
0年代初期か ら中期 にかけての中国一
ソ連- ベ トナムの間の関係 の枠組 みを決定 した とい う [
銭江 1
9
9
2:1
5
]。 スター リンが, ベ ト
ミン援助 は中国 の役 目で あ ると述 べ たの は この時 だ けで はない。5
0年初頭 モスクワでの中 ソ
条約締結交渉 の或 る時点で彼 は毛沢東 に次 のよ うに言明 した と記録 されている。
ベ トナム抗仏戦争-の援助 は中国が行 な っていただ きたい。 とい うの も中国 とベ トナムは
歴史的 に も現実的 に も多方面 にわた る関係 を有 し,互 いに理解 し合 っている上 に,地理的
に も近 いか らであ る。 (
中略) 我 々は第 2次世界大戦 が終結 したので大量 の武器 を必要 と
しな くな った。 その多 くは中国 に運んで使 って もらって よい。 その中でベ トナムに流用で
きるものがあれば, ベ トナムに運 んでいただいて結構 だ。 [
同上書 :1
7-1
8
]1
7)
スター リンの発言 には, かってモスクワが 「コ ミンテル ン」 などを通 じて中国の実情 に も中
国共産党 の実力 に もそ ぐわぬ指令 (
主要都市 の攻囲 な ど) を送 ったばか りか, 中共 の勝利が確
実視 され るよ うにな った 4
9年初頭 にな って もなお国民党政府 との関係 を維持 し続 けていた こ
と 18)への罪滅 ぼ しの意味 も込 めた リップ ・サ ー ビスがおそ らく混 じっていた ことは否 めない
[
石井 1
9
9
0a:2
3
3-2
3
4;ノース 1
9
7
4:第 9および 1
0章 ]
。 しか しそれを差 し引 くと して も,
以上 の証言 や記録 を読 む限 りで は, ベ トミン援助 に関 して ク レム リンが中国 に実質上 はぼ全権
を委任 した と解釈 して も差 し支 えなさそ うであ る。 5
0年 2月 ホ一 ・チ ・ミンはモスクワで直
1
7
) また 1
9
5
0年 5月に訪 ソしたホアン・バ ン・ホアンは,駐モスクワ中国大使の王稼祥がこう語 った
と記 している。「
今年初めホ一 ・チ ・ミン主席がスターリン同志 と会見 したとき自分 もその場に居
合わせた。スターリン同志はベ トナム人民の抗仏闘争に十分な関心を示 したが,ベ トナム援助は主
に中国の責任である,と説いた」 [
黄文歓 1
9
8
7:
2
5
9
]
。
1
8
) 例えば, 周知の通 り, 4
9年 2月初旬, 国民党政府が首都南京の陥落を前にして, その政府所在地
を広東に移転させた際,南京駐在の外国大使館のうち,唯一 ソ連大使館のみが 30数名の館員を
伴って広東に移転 した [
加々美 1
9
9
1:
2
4
]
。
327
東南 アジア研究
3
2
巻 3号
接 スター リンに,顧問団派遣 を含 む ソ連 の軍事援助 を要請 したが スター リンにすげな く断 られ
9
92:5
7
]。 その後 はどな くして中国共産党 はベ トミン-の本格
たとも伝 え られている [
銭江 1
的援助 の検討 を開始す ることとなる。
しか し軍事援助が全面的 に委任 された となれば, その内容 は単 に純粋 な意味での物質面 ・技
術面での側面援助 の範囲 に留 ま らず,戦闘形式 の選択 は勿論 と して, いわゆ る革命実践 の教義
上 ・原則上 の指針 にまで或 る程度及ぶ ことが避 け難 くなるであろう。 とい うよ り,武力闘争 そ
の もの も,単 なる戦術 ・技術 の次元で済 む問題で はな く,共産主義運動 における教義上 の中心
問題 の一つ と してその形態 や内容をめ ぐり絶 えず議論 が繰 り返 されていた ことは改めて多言 を
要 しない。 じじつ また,後述す る通 り, 中共が本格的なベ トミン援助を開始す るに当た り,軍
事顧問団の結成や軍需物資の供与 と並んで,政治顧問団 も編成 し派遣 した事実 は, そ うした推
95
0年末頃 よ りベ トミン支配区内で, 中国の革命
定 に一定 の論拠 を与え るものであろ うし, 1
建設 のスタイルを学習す る一大 キ ャンペー ンが活発 に展開 された ことか らも, 中国のベ トミン
援助が純 「- - ド」面 の軍事援助 だけに解消 しうる性格 の もので は有 り得 なか った と想像がつ
く。
こうしたベ トミンに対す る中共の格別 の影響力 ・指導力 にモスクワが肯定的な評価 を下 した
9
47年 に ソ連 の ア ジア問題 専 門家 マ ス レニ コフ (
Ⅴ.A.
と解釈 で きそ うな論説 が既 に して 1
Mas
l
enni
kov) の手 で著 された。
中国の民主主義 は,植民地 および隷属状態 の国 々における解放闘争 において,進歩的で指
導的な地位を占めている。 中国の民主主義 は闘争 の過程で膨大 な経験 を積 んで きた。解放
闘争を進 めている東 アジアの人民 は, こうした中国の経験 を学習す るために中国 にや って
来ている。 イ ン ドネシア, ベ トナム,朝鮮 の人民 は, ブル ジ ョワ民主主義革命 とい う最 も
重要 な課題 をまだ解決 していないが,新 しい タイプの国家建設 とい う中国 の壮大 な経験 を
Rode
s1
9
6
9:2
02
]
学 び,実践 に応用 している。 [
これ は必ず しも事実 の正確 な描写 とは言 い難 いが,客観的叙述 とい う表現 を借 りて 「当為」 を
指示す る共産主義通有の傾向を考 え るな らば, その メ ッセージに託 された意味 は小 さ くない。
9
4
9年 1
0月 にな って,中共 とベ トミンの関係 に特 に言及 した論説が ソ連 の理論誌 『
歴
さ らに 1
史問題』 に掲載 された。
日本敗北 と共和国 [
「
ベ トナム民主共和国」 のこと一木之内]樹立宣言 に先立っ数 カ月前, ベ
トミンはその綱領を発表 した。 この綱領 の定式化 には,毛沢東が提示 した ところの中国の
民主主義 と新民主主義 を追求す る闘争 とが明瞭 に読み取れ る。 (
中略) 中国人民 の世界規
328
木之 内 :中越 ソ 「友好」成立 の断面
模 の歴史的勝利 は,独立 と民主主義 を求 め闘 うベ トナム人民 の闘争 において格別 に重要 な
意義 を有 している。 中国人民 は,侵略者 に対す る英雄 的闘争 をベ トナム人民 に鼓舞 しただ
けでな く,帝 国主義侵略者への抵抗 の最 も困難 な期間 もいずれ は終 わ りを告 げ,国内の実
力 の成長 ・強化 と並んで,共和国が,敵対的な [
中国]国民党 に代 わ り,友好的 な中華人
民共和国 を背後 に有す ることにな る, とい う確信 を もベ トナム人民 に植 え付 けた。 [
Chen
1
969:22
0]
これ らが, ベ トミン関与 をめ ぐり中 ソ問で相 当程度 の了解 がで きて いた ことの一 つの反映 とす
るな らば, ソ連 によるホー ・チ ・ミン政権承認 の背景 に, 中国の影響力拡大 を牽制す るソ連共
産党 の 目論見 が潜 んで いた とす る, 当時の西側 の一部 がめ ぐらした推測 には無理が あ るとも思
わ れて くる。 イ ン ドシナ戦 争 期 の中越 関係 を克 明 に追 跡 した先駆 的業績 で知 られ るチ ェ ン
(
Ki
ngC.Chen) は, 上 に引いた 49年 の論説 を, ベ トミンに対す る中国 の影響 を ソ連 が 「
熱
烈 に」表明 した例 と して紹介 して もいる [
i
b
i
d.
:2201221
]。
しか しことはそれ ほど単純 で もない。 ベ トミン支援問題 とホー承認 問題 を考え るに当た って
は, アジア或 いは植民地 にお ける革命路線 を巡 る当時の中 ソの議論 の文脈 を一瞥 してお くこと
が有益である と考 え る。
(3) 革命指導権 の所在 とペ トミン関与
9
49年 11月 1
6日, 「
世界労働組合連盟」主催 の 「アジア大洋州労働組
新生中国建国直後 の 1
合会議」 が北京 で開催 され た。 なお 「
世界労働組合連盟」 は ソ連 の圧倒 的な影響下 におかれて
いた組織 であ る。 この会議 の開会 の辞で,劉小奇 は 「中国人民が帝国主義 とその手先 に うちか
ち, 中華人民共和国を樹立 した道 は,多 くの植民地 ・半植民地国家 の人民 が民族独立 と人民民
主主義 をか ち とるために歩 まなければな らない道 であ る」 と断言 し, その 「
道」 を 4つ に定式
化 して説明 した。 いわゆ る 「
劉小奇 テーゼ」 であ る。
1.労働者 階級 は,帝 国主義 とその手先 の圧迫 に反 対 したい と望 む他 のあ らゆ る階級 ・党
派 ・団体 および個人 と団結 し,広範 な全民族 的統一戦線 を組織 して,帝国主義 とその手
先 にたい して断固 た る闘争 を行 なわなければな らない。
2. この全民族 的統一戦線 は,帝国主義 に反対す るもっとも強固 な, もっとも勇敢 な, もっ
とも無私 な労働者階級 とその政党一 共産党 が指導 し, 中心 とな って組織 しなければな ら
ず,動揺 的,妥協的 な民族 ブル ジ ョワジー, お よびその政党 にはけっ して指導 させて は
な らない。
329
東南 アジア研究
3
2
巻3
号
3.労働者階級 とその政党一共産党が,民族 のあ らゆる反帝国主義勢力 を団結 させ る中心 と
な り,かっ民族統一戦線 を指導 して勝利 をおさめる任務 を果 たすためには,長期 の闘争
のなかで, マル クス ・レーニ ン主義 の理論 を身 につ け,戦略 ・戦術 を体得 し, 自己批判
と厳格 な規律 を保 ち,大衆 と緊密 に結 びつ いた共産党 を作 らなければな らない。
4.可能 な場所 と可能 な時 において は,共産党 に指導 されて,敵 とよ く戦 うことので きる,
強固 な民族解放軍 と, この軍隊 が活動 の拠 り所 とす る根拠地 とを建設 しなけれ ばな ら
ず, 同時 に敵 の支配地域 の大衆闘争 を武装闘争 に結 びつ けなければな らない。武装闘争
こそは多 くの植民地 ・半植民地 の民族解放闘争 の主要 な闘争形態である。
要す るに, 1において可能 な限 り広範 な統一戦線 の形成 を呼 びかけ, 2と 3において労働者階
級 の支配 的役割 と共産党 による指導 を確認 し, 4において革命軍 と根拠地 の建設 を中核 とす る
武装闘争 が力説 されている。 劉小奇 は, 「これ こそ, 中国人民 が勝利を獲得す るために国内で
実行 して きた基本的な道である。 この道 は, 毛沢東 の道 である」 と総括 した上 で さ らに, 「こ
の道 は, 同 じよ うな情況 にある他 の植民地 ・半植民地国家 の人民が解放 をかちとるための基本
的な道で もある」 と断定 した [
『
集成』第三巻 :1
2
]。 1
9
)
劉小奇が中国共産党 の事実上 の公式見解 と して, このよ うに自 らの革命闘争路線 の独 自性 を
強調 しなが らそれを 自画 自賛 し,他地域 に も普遍 的に適用 され うる道で もあると提示 したのは
9
4
6年 に彼 は, アメ リカの女性 新 聞記者 ス トロ ング (
Anna
これ が初 めて で はな い。既 に 1
Loui
s
eSt
r
ong) によるイ ンタビューの中で, 「東南 アジア諸国 も [
中国 と] 似 た情況 に置か
れている。 中国が選 んだ路線 は, これ らの地域全てに影響 を与 えるであろ う」 [
Sc
hr
am 1
9
6
7:
2
5
4
] と語 って いるはか, 4
8年 1
1月 7日 『
人民 日報』 に掲載 された 「
国際主義 と民族主義」
と題す る論説 の中で も植民地 の解放闘争 に触 れて中共 の実践 した統一戦線 の方式 を 北京 の会議での発言 はど断定 的で はないが -
4
9年
東南 アジア ・南 アジアで も模倣 され るべ き先
4
4
]。
例 と規定 してみせていた [
『
集成』第二巻 :3
9
年1
1
月の劉小奇 の発言 は,何 よ りもまず, アジア各国の共産党系 の代表 ばか りか,
しか し4
ソ連 の代表 (
但 し肩書 きはオブザーバ ー) も居並ぶ公 けの席で, 劉小奇 とい う中共 N0
.2の
要人が 自 らの路線 の独 自性 を昂然 と称揚 し,恰 か もアジア他地域で も模倣 され るべ き唯一 の路
線であ るかの如 くカテゴ リカルに督促調で豪語 した点 において, それ以前 の彼 の発言 あるいは
中共首脳 の言動 と際だ った違 いを示 していた。
1
9) 劉小奇 の発言 の引用および 4公式 の 「
劉小奇 テーゼ」 はいずれ も [
『
集成』 第三巻] の訳 に した
が った。
330
木之内 :中越 ソ 「
友好」成立の断面
劉小奇 の演説 は, 4
9年 1
2月 3
0日にコ ミンフォルムの機関誌 『恒久平和 と人民民主主義 の
ために』 に, また翌年 1月 4日には 『プラウダ』 に も掲載 され, さ らに同月 2
7日に もコ ミン
フォルムの雑誌 は劉小奇 の演説 を引用 しつつ,彼 の口を通 して語 られた 「中国の道」_
を肯定的
Kaut
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9
5
6:1
0
2-1
0
3;Che
n1
9
6
9:2
21
]。
これ らを もって従来の解釈の
に論説 している [
大半 は, モスクワによって 「
毛沢東路線」が,植民地 ・半植民地 の民族解放闘争 に於 いて も適
用 され るべ き路線 と して承認 された ことを意味す るもの, と簡単 に済 ませ る傾向が強か ったよ
うに思 われ る。
ここで劉小奇が 4項 目にまとめた 「中国の道」 をざっと点検 してみ るな らば, 2と 3で挙 げ
られ た労働者 階級 と共産党 の指導 的役割, マル クス ・レーニ ン主義 の習得 な どは何 も中共 に
限 った ことで はないので特 に目新 しいとす るに足 りない。 もっとも党を偽装解散 し地下 に潜行
していたベ トナムの共産主義者 にとっては無視 で きぬ問題提起であ った ことは確認 してお く必
要がある。 4の武装闘争 の呼号 は,評価が若干分かれ る項 目であろうが, ここで は,表現 の戦
闘性 とは裏腹 に 「
可能 な場所 と可能 な時 においては」 と,劉小奇がその適用範囲 に慎重 な留保
広範 な全民族
を付 していた ことに注意 してお きたい。 とな ると核心 は残 る第 1の項 冒,即 ち 「
Kaut
s
ky1
9
5
6:9
6-9
8;古 田 1
9
91:3
3
6-3
3
7
]。
的統一戦線」 の結成 に絞 られて くる [
周知 の ことであろうが,或 る所与 の時点で誰 を主要 な敵 と認定すべ きか, その結果 として如
何 な る階層が共産主義者 の同盟者 として容認 され るか, その場合 に容認 されたその階層 とどの
よ うな形 の同盟 を組 むべ きか, これ らはいずれ も共産主義運動の根幹 に関わ る中心的な戦略問
題 に位置づ け られていた。 この点 において毛沢東を中心 に中国共産党が編み出 した とされ る方
式 は, あえて単純 にまとめ ると,第- に当面 の主要敵 は資本主義ではな く,何 よ りも先ず外国
の帝 国主義 と定 め られ, もし実践可能 な場所 であれば これに加 え封建制度 も標的 に据 え られ
8年 の論説で劉小
る。 次 に同盟, 換言すれば統一戟線 を組 む相手 と して容認で きる階層 は, 4
奇 が述べた次 の一文 に余す ところな く列挙 されている。 「われわれ中国共産党 は, これまでつ
ねに中国人民 の帝国主義 に反対す る民族統一戦線 の指導者 ・組織者であ り, この民族統一戦線
の規模 は,労働者 ・農民 ・知識分子 ・小 ブル ジ ョワジー ・民族 ブル ジ ョワジーを含 み, しか
も, 開明紳士 まで も含んでいるのである」。 反帝国主義 とい う条件 さえ満 たすな らば如何 なる
階層 で も共産党主導 の統一戦線 に包摂 しうるとの印象す ら与えていた中共 の こうした広範 な同
盟 の対象, とりわけブル ジョワジー,民族資本家階級 に対 し,過去 に西欧で実践 されていたよ
うな ブル ジ ョワ政党 の指導部 との合意 を通 じた 「
上か らの」統一戦線 (カウツキーの表現を借
op a
l
l
i
a
nc
e
」
) を呼びか けるのではな く, これ らの諸勢力 に 「下か ら」
,
りれば 「
頂上連合 t
「直接 に」反帝国主義 の隊列-の参加 をア ピールす るもの としていた [
Kaut
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9
5
6:6,8-
]
。
1
2
,91
総 じて この当時の中共が標梼 した路線 には,反帝国主義 の色調が濃厚であ り,反資本主義 あ
3
31
東南アジア研究 3
2
巻 3号
るいは階級闘争 の側面 はその後 の課題 と して後景 に退 いていた。20) こうした特徴 を備 えた中共
の路線 (それが実際 にどの程度 「オ リジナル」 であ ったか はここで は問わない) に関 し, ソ連
は1
9
4
0年代末 に至 るまで, 決 して無知で もなければ無視 していたわけで もないが, 論評 や報
道 は質量 と もに低 レベルであ った ことが確認 されて いる [
Rode
s1
9
6
9:1
9
7-1
9
8
]。
しか しなが ら,統一戦線 の構成員 と して許容 で きる階層, とりわ けブル ジ ョワジーの評価 を
9
4
7
巡 るモス クワの姿勢 は,従来 に比 べ戦闘的 な路線 に旋 回 しア ジアに も力点 を置 き始 めた 1
年 時点 にお いて, 中共 のそれ に比 す と著 し く狭量 で柔 軟性 を欠 いて いた。 同年 1
2月 『ボル
シェ ビキ』誌上 で, ソ連 の新 しい対外路線 をア ジアに敷街す る論稿 を発表 した ジュー コフは,
その中で, あ くまで も共産主義者 が反帝国主義闘争 の中心勢力 を構成 す る限 りでな らば 「ブル
ジ ョワの一部,主 と して プチ ・ブル ジ ョワと中産階級」 との連合 も認 め られ ると した ちのの,
一方 で は 「ブル ジ ョワジー」, 「
民族 ブル ジ ョワジー」, 「巨大民族 ブル ジ ョワジー」 を互換的 に
用 いて且 つそれ らを一括 して こきおろす とい う,概念規定面 でやや錯乱 していた とはいえ全般
8年 の
に まだ ブル ジ ョワに極 めて手 厳 しい評 価 を下 す議論 を展 開 して いた。 冒頭 で触 れ た 4
「カルカ ッタ会議」 で採択 された決議 で も, (
中共が既 には っきりと容認 していた) 「
民族 ブル
ジ ョワジー」 が十把- か らげに 「
帝国主義 陣営 」の一旦 と決 めつ け られたのであ る。 しか し吃
が らその後,傾 向的 にみ るとブル ジ ョワジーに対す るモスクワの評価 は徐 々に軟化 してゆ き,
その限 りで中共 の考 えに接近 してゆ く。 ク レム リンの アジア問題 スポークスマ ンとで も称すべ
きジュー コフ (
当時 ソ連科学 アカデ ミー太平洋研究所所長) は, 1
9
4
9年 6月, 「巨大 ブル ジ ョ
ワジー」以外 の ブル ジ ョワを植民地 での解放闘争 におけ る統一戦線 に加入で きる階層 と事実上
認定 す る発言 を した。 その意味 で は,劉小奇 の演説 がモスクワや コ ミンフォルムの メデ ィアに
Mc
La
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9
6
6:3
5
5-3
5
8;
掲 載 され る こ と も全 くの予 想 外 で は有 り得 なか った の で あ る [
]。
Ka
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9
5
6:
2
9-3
0
,
8
8
しか し劉小奇演説 の掲載 で一 つの頂点 に達 す るモスクワの中共路線への 「
接近」 は, 中国共
産党 の経験 が他 の ア ジア地域 に とって も真 に望 ま しく, また適用可能で もあ るとソ連 が判断 し
2
0) ちなみに毛沢東は 49年 7月 1日 『
人民民主独裁を論ず』 で 「われわれの現在の方針は資本主義を
制限することであって,資本主義を消滅させることではない」 [
『
集成』 第二巻 :5
3
0
] と述べ,劉
小奇 も 11月の北京の会議の開会演説で 「アジア ・オセアニアの被圧迫諸国の労働者階級の解放
--は, これらの国家の民族解放戦争が勝利をおさめ,帝国主義を駆逐 したのちにはじめて,根本
的に解決されることができる」 [
『
集成』第三巻 :11] と述べている。 こうして実際に公言された彼
らの路線が,毛沢東の唱えたいわゆる 「
新民主主義革命」論,すなわち先ず,複数の革命的諸階級
による連合独裁の下に反帝国主義一反封建主義を目標とするブルジョワ-民主主義革命を達成 し,
その後に資本主義の清算を目指す社会主義革命に移行する,但 し全過程を通 じ共産党が指導権を握
る,とした一種の二段階革命論に腫胎 していたとも言えようが,その検証は控える。新民主主義革
Ro
d
e
s1
9
6
9
]と [
平松 1
9
8
8
]
命論をソ連の ドクトリンとの対比で論 じたものとしてさし当たり [
を参照。
332
木之内 :中越 ソ 「
友好」成立の断面
たか らとい うよ りは寧 ろ, カウツキー もっ とに暴 いたよ うに, 「
主要敵 を外国帝国主義 に絞 り
込 み,反帝国主義 的で あれば階級 を問わず事実上誰 とで も手 を組 もうとす る」 中共 の考 え方
が,米 ソ対立が激化 しつつあ ったその当時 に 「
反米 とい うソ連 の対外政策上 の要請 にまことに
Kaut
s
ky 1
956:87
], いわんや
都合 よ く適合 した戦略であると判定 された」 か らに他 な らず [
9年 9月 ジュー コフの口か ら漏 れた
中共 の実践 に敬意 を表 したか らな どで は毛頭 なか った。4
「
植民地 の ブル ジ ョワが どの段階で反動的役割 を演 じ始 めるか, とい う議論」 は, 所属地域の
解放闘争 に対す る態度ではな く 「ソ連 に対 して彼 らが どうい う態度 を とるか, とい う中心的問
題が解決 された時 には じめて決着 され るだろ う」 との発言 は, 「自 らの戦略を考案す るに際 し
て爪 の先 まで ご都合主義的なモスクワ」 (カウツキー) の, 中共路線 「
承認」 の背後 に忍 ばせ
て いたナ シ ョナル ・イ ンタ レス ト優先 の動機 をはか らず も, しか しあけす けに露呈 していた
l
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bi
d.
:91
,1
9811
99
]
.
ソ連が 「
承認」 を送 った 「中国の道」 は,実際に中国共産党 自身が勝利 の実例 を示 した直後
であ っただけに, アジアの共産主義者 に とっては運動 の指針 として説得力 に富んでいた。 しか
し中国共産党 の 「ドク トリン」 を指導方針 にす ることと, 「中国共産党 その もの」 に直接指導
を仰 ぐこととは必ず しも同一で はない。 けれ ども, えて して混同 されやすか った こともまた事
実であろ う。劉小奇演説が ク レム リン側 メデ ィアに実際 に初 めて掲載 され るまでに要 した約 1
カ月半 の時間差, それに示唆 された ソ連側 のある種のため らいはこうした点 と決 して無縁では
あ るまい。 それ どころか劉小奇演説 はその後 もコ ミンフォルムの雑誌 には数回引用 され ること
0年 1月 4日の 『プ ラウダ』 を最後 として, 以後 ソ連国内のいかな る新聞 ・雑
にはなるが, 5
誌 に も彼 の演説 が,直接的 にせよ間接的 にせよ,掲載 された り引 き合 いに出され ることは二度
とな か っ た [
Gi
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t
i
ngs1
97
4:1
61
]。
のみな らず, 1
9
49年 1
0月か ら 51年 1
2月 の間 に限 って も, ソ連共産党 中央 の機関理論誌
『ボル シェ ビキ』 には, 中国革命 を一 つのモデルであるとか 「
毛沢東 の道」 だ と して讃 え る記
Phi
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pBr
i
dgham) らはつぶ さに考証 している。 そ
述 は一切見当た らないことを ブ リッガム (
れによると,機関誌 の中国 に触れた論調 は,極 めて慎重 な言 い回 しに終始 しなが らも,中国革
命 の勝利 はマル クス ・レーニ ン主義 の普遍的真理 と,民族 ・植民地問題 とくに中国問題 に関す
る レーニ ンおよびスター リンの指針 とを実践的に運用 した ことによる論理的帰結 に過 ぎない,
との見解を一貫 して示 していた。中国共産党がア ジアで最初 にほとん ど自力で革命 を成功裡 に
導 いた功績 は率直 に認 め られなければな らず, その限 りで中国革命 が他 の植民地住民 に 「
刺激
を与えた」 ことは評価 に値す るo Lか しそれ も, マル クス, エ ンゲルス, レーニ ン, そ して ス
ター リンの思想,更 にはロシア十月革命 の先例 とソ連共産党の経験 とが知識 と指針 を与 え続 け
Br
i
dgて きた世界 プロ レタ リア運動 の, あ くまで も一部 を構成す るに留 まるとされて いた [
97
2:677-694]。従 ってそ こには中国革命 の独 自性 と模範性 とがあた
ham,CohenandJ
af
f
e1
333
東南アジア研究 3
2
巻 3号
か もロシア革命のそれ らと同格 に並称 され るものとして許容 され る余地 など全 くなか ったと言
模範」 た り得て も,決 して 「
規範」 とはな り得 ない. 「ドク
えよう. それ はせいぜい一つの 「
指導権行使」 に警戒が芽生えて
トリン」がか くの如 き扱 いを受 けたとあれば,実際の中共 の 「
いた として もさほど怪 しむに足 りない。
1
951年 11月 1
2日, ソ連科学 アカデ ミー東洋研究所で開かれた会議で ジューコフは, 「中国
革命 の経験 は計 り知れないほどの意義を もつ」 としつつ も同時 に, 「中国革命をアジアの他の
諸国 に於 ける人民民主主義革命 にとって一種の 『
定型』 と見なすのは危険であろ う」 と釘を刺
i
b
i
d.
:6
82,687
].
「
模範」 視す ることにさえ, ソ連 はブ レーキをかけて きたのである。
した [
その直前 まで, 「
帝国主義国家の革命。 その典型 は (ロシア) 十月革命である」 が 「
植民地 ・
51年 7月 1日陸定一 中共中央宣伝部
半植民地国家 での革命。 その典型 は中国革命であ る」 (
長) [
『
集成』第三巻 :3
31
] とまで言 い放 っていた中国側 メデ ィアが, 同年 11月以降,毛沢東
Br
i
dgha
m,
Cohe
na
ndJ
a
f
f
e
路線 の他地域への適用可能性 に関 し,突如 として沈黙 し始 めた [
1
97
2:6
82
] のは単 なる偶然 とは考えに くい。
もっともモスクワ側 に中共 に対す るこうしたひそやかな警戒心が働 いていたとして も,それ
とソ連 によるベ トミン承認 との間の連関を想定 させ る決定的証拠 と速断す るのは牽強付会 も甚
だ しいことになろう。当時の西側および一部 の論者 (ドゥピエールなど)が加えたそのような
推測 も, この意味では依然 と して 「
推測」 にとどまることに変わ りはない。 しか し逆 に,中国
共産党 の影響力拡大 にソ連が上述 の通 り一抹 の不安を感 じていたと仮定 して,中越両党関係だ
けはそ うした不安 の圏外 にある特別な関係 としてモスクワか ら例外扱 いされていたと確証す る
強力 な材料 も別段見当た らない。
それではベ トミン支援を実際 には中共 にはぼ全面的に委任 した ソ連の態度を如何なる論理的
連関の下 に理解 した らよいのか。 スター リンが,劉小奇や毛沢東 に,中国 とベ トナムの国同士
の多方面 にわたる類縁性を理由にベ トミン軍事支援の役 目は中共がふ さわ しい, と した発言 そ
の ものにおそ らく偽 りはなか った。 もっとも, ベ トナムに比べ地理的にはソ連 にず っと近 い朝
鮮での戦争の場合 にも,最前線で血 を流す損 な役回 りを実質上 ほとん ど中国に体 よ く演 じさせ
たソ連であるか らには, ソ連か ら遥かに遠隔で はあるが中国 とは隣接 しているベ トナムへの軍
事援助 を中共 にそ っくり肩代わ りさせて しまお う, との発想 -
それが, ソ連が直接関与す
れば米 ソの全面衝突 に発展す る危険が大 きいとモスクワが判断 したためか, それ とも中共 に委
任 しておけばベ トミンが敗北 して も中共 に監督責任を転嫁で きると踏んだためか,或 いは単 に
面倒 くさが っただけかは定かでないにせよ -
が潜んでいたとして も不思議ではないだろう。
ソ連 としては革命指導権の原理原則 という 「
総論」 に関 して首位の座を明け渡すつ もりはない
が,個別 の具体的な援助問題 とい う 「
各論」 については中共 に実権を与えて も構わないと判断
した,多少言 い換 え るな ら,援助 を中共 に下請 けさせ る一種 の垂直的分業関係 を期待 してい
33
4
木之内 :中越 ソ 「
友好」成立の断面
た, と推測す ることも不可能で はないだろ う。
いずれにせ よ ソ連 はベ トミン軍事援助 を中共 に委任 したのであ り, その過程 で政治面 で も中
国共産党 の影響力が或 る程度 ベ トナムに及ぶ ことも止 むな し, と大 目にみ る考 えが少 な くとも
1
950年頃 はあ ったのか も知 れない。 確実 に言 え るの は, 拡大 しつつあ った米 ソ対立 に於て中
国が決定的なキ ャスチ ング ・ボー トを握 る存在 にな るとスター リンの戦略で は位置づ け られて
いた ことであ る。 とすれば, ただで さえ以前 か ら自立心 旺盛で対米接近 のそぶ りさえ窺 わせ た
前科 のあ る中共 を ソ連陣営 につ な ぎ留 めてお くためには,彼 らの多少慢心 した ドク トリンの宣
布 な どに この際 あま り目 くじらを立 て るべ きで はない, との判断 もスター リンにはあ ったので
はなか ろ うか。或 いは,冷戦 が本格化す る中で, アジアで は共産主義拡大 に うってつ けの不穏
な情勢 が現実 と して蔓延 してお り, しか もそれが中共 の勝利で一段 と弾 みがつ こうと して い る
時 に, アジアの革命指導権 を巡 って中共 に説教 を垂 れれば,外部 に共産陣営 内の内輪 もめを晒
すばか りか, せ っか く (
中共 の勝利で)盛 り上 が ったア ジアの革命 の気運 に水 を さす愚行 に も
な りかねない, との 自制が働 いたのか も知 れない。 ゴ ンチ ャロフ らは更 に踏 み こんで, ア ジア
にお ける中共 の優越的地位 を ソ連 が一時容認 してみせた背後 には, 西側か らの反発 をア ジアで
は中共 に集中 させ ることで中共 と西側 の関係遮断 を図 ると共 にそ うした分断工作 によ り中共 の
ソ連依存 を深 めさせ る計算 も込 め られていた疑 いが強 い と推定す る [
Go
nc
ha
r
ov,Le
wi
sa
nd
Xue1993:78,108] 。
ともあれ これ以上 の詮索 は別 の機会 に譲 ると して, ここで は, 51年 11月 ジュー コフが, 中
国革命 をア ジア共産主義運動 の 「
定型」 と見 なす ことにや んわ りと警告 を発 した とき,他 な ら
ぬそ うした 「中国革命 の計 り知 れない意義」 が 「
実 り多 い影響 を及 ぼ した足跡」 を とどめ る具
体例 と して, イ ン ド共産党 と並 び, 「ベ トナム労働党」 [
従来偽装解散 していたインドシナ共産党が
公然 と活動を再開 した 51年 2月以降の党名]の名 を特 に挙 げて いた ことだ けを指摘す るに とどめ
Br
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dgha
m,
Cohe
na
ndJ
a
f
f
e1972:687]
。
る [
Ⅲ
中共 の対 ペ トミン軍事援助 の開始 をめ ぐって
(1) ホ一 ・チ ・ミンによる援助要請 に至 るまで
1
979年 の中越戦争 によ り中国 とベ トナムの関係 が極 度 に悪化 して いた 1
981年 1
0月 よ り中
国 は, 『
北京周報』 誌 に 「中越関係 の真相」 と題 す る論説 を 3回 に分 けて掲載 した。21
)論説 は
前近代以来 の中越関係 を,文化 ・生活 ・習俗 の面 に至 るまで略説 した後で, 中共 とベ トミンの
協力関係 の沿革 を以下 の通 り綴 り始 めて いる。
21
) もともとはこれは季刊 『
国際問題研究』 1
9
81年第 2号 (
1
0月 1日号) に,同誌編集部が 「
中越関
係の真相」と題 して発表 した論文の要旨である。
335
東南 アジア研究
3
2
巻3
号
十月革命以後, 中越両国人民 と両国革命者 の関係 はい っそ う緊密 にな った。 ホ一 ・チ ・ミ
ン同志 の革命活動 の多 く
・
は中国 の領内でお こなわれ, 当時の広西国境地帯 は事実上 ベ トナ
ム革命者 の基地 にな った。一方, 中国人民 の解放戦争期 に,中国共産党 に指導 された卑桂
(
広東 ・広西) 縦隊 と填桂 (
雲南 ・広西) 縦隊 は, 敵 の包囲攻撃 にあ った とき, ベ トナム
の解放 区に移動 し, ベ トナムの党 中央 と国境地帯 のベ トナム各民族人民 か らあたたかな支
1:1
7
]
援を受 けた。 [
『
北京周報』4
この箇所 に限 らず論説全体 にわた って,共産主義文献 の常套句 として, また論説発表時の両国
の険悪 な関係 を過去 に蜜月 だ った時代 との対比 で よ り際立 たせ るために,慈恵 的な誇張 が混
じってはいよ うが, いずれにせ よ この記述 は,共産中国の建国以前か ら中越両共産勢力が軍事
面で部分的 にせ よ既 に協力関係 に入 っていた事実 を教 えて くれ る。軍事面 の こうした交流 の正
9
4
7年春頃 までには, 中越両共産党 は無線 による連絡 を開
確 な開始時期 は特定 Lがたいが, 1
設す ることに成功 した ・
(
但 しその後 また暫 く途絶 したよ うであるが) はか, 中越国境付近 に約
5千人 の兵力で構成 され る 「
南路民主連軍」 な る中共指導 の部隊がベ トミンと連携 して活動す
8年末 までにはさ らに新 たな 3つの中共系地方部隊 [
おそらく
るに至 った と伝え られている。 4
「
中共中央華南分局」 の指揮に服 していた 「
卑桂辺縦隊」
,「
桂演舞辺縦隊」
,「
環崖縦隊」 の 3つ, もしく
はそれらの所属部隊と推定される一木之内] が中越国境 に出没 し始 め, ベ トミン支援 に一役買 って
Che
n1
9
6
9:1
9
5;軍事科学院軍事歴史研究部 1
9
8
7:3
4
4及 び付表 6
4③]。22)
いた といわれ る [
4
7年 6月か ら 7月 にかけ, 中共 の幹部摩承志 (当時中共 中央華南分局書記) と彼 の直属 の部
下であ る方方 (
中共香港事務委員会責任者 の一人で後 に華南分局書記)が, ベ トナム北部 山岳
地帯 のベ トミン支配区を訪れ, 8月 1日には ソク ・ザ ンで開かれたベ トミン幹部会議 に出席 し
た ともされ る。 また 4
6年 ∼4
7年当時 イ ン ドシナ全域 の華人共産主義者 の活動 の統括責任者 を
務 めて いた中共幹部 23)が タイに滞在 して現地 の中国系共産主義者 と共 に, バ ンコクを拠点 に
して進 め られていたベ トミンの武器調達 およびベ トバ ック (ベ トミンが支配 していたベ トナム
Che
n1
9
6
9:1
8
9;
北 部 山岳 地 帯) へ の武 器 搬 送 の便 宜 を図 って い た と伝 え られ て い る [
J
oyaux1
9
7
9:
5
4
]
。
しか しなが ら,こうした協力関係が,チ ェンの指摘 のよ うに 4
7年か ら 4
8年 までのベ トミン軍
2
2
) なおこれら中越国境で活動 していた中共系地方部隊についてはさし当たり [
中国人民解放軍歴史辞
典編写組 1
9
9
0
]を参照。
2
3
) チェンは, その人物は元中共新四軍副司令官の項英だとしているが, 項英は 1
9
4
1年に既に死亡 し
ていることが,中共側文献でも西側の質料でも共通 して確証されている。となるとその責任者は項
英以外の人物ということになるが,残念ながらそれが誰なのか現時点で筆者は特定できていない。
以上については,[
Ch
e
n1
9
6
9:1
8
9;
Bi
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fCh
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eCo
mmun
i
s
m,
γo
l
.1:
]参照。なお本章脚注 2
4
)も参照されたい。
3
2
0-3
2
4
336
木之内 :中越ソ 「
友好」成立の断面
の存続 と成長 に一定 の寄与 を した ことは事実 として も [
Che
n1
9
6
9:1
9
5
], それが前掲 の中国
9年頃ま
側論説が轟 ったほど 「
緊密」 であ ったか どうかは定かでない。 む しろ全体 と して は 4
で 「ベ トナム共産党 と中国共産党 の結 び付 きは非常 に希薄であ った」 と,正反対 に近 い解釈を
述べ る論者 もいる [
Dui
ke
r1
9
81:1
3
9
]
。 いずれにせ よ, 4
6年末か ら 4
9年末 に至 るまで, 中
国共産党中央 はベ トナムのみを特 に対象 とした政策声明 も論評 も全 くといってよいほど行 な っ
て はお らず,一方 ホー ・チ ・ミンも中国情勢 について は注意深 く言葉 を選んで当た り障 りのな
いコメ ン トを繰 り返すのみであ った。何 よりも中共 は国民党軍 との戦闘, と くに揚子江以北 の
それに忙殺 されていてベ トナムどころで はなか った し, ベ トミン側 も既述 の通 り隣接す る中国
l
o
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i
t
.
;Chen 1
9
6
9:1
9
8;
南部諸省 に国民党軍 の脱みが さいていた とい う事情 を抱 えていた [
J
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9
7
9:
6
0
]
。
しか しなが ら 4
9年 1
0月中華人民共和国の成立 と共 に こうした状況 も変化す る。 「中越関係
の真相」 は次 のよ うに続 けている。
中華人民共和国が成立 した 1
9
4
9年か ら, 中越関係 は新 たな段階 に入 り, 両国人民 の友情
はい っそ う深 め られた。解放 された中国人民 は,兄弟のベ トナム人民 の民族解放闘争への
援助 を 自己の果 たすべ き国際主義的責務 とみな している。 旧中国 は極 めて貧 しく立 ち遅れ
た国であ った。新 中国が誕生 したばか りの時,すべての事業を振興 しなければな らず, ま
た抗米援朝 の重大任務 [
言うまでもなく 「
中国人民志願軍」 投入に代表される中国の朝鮮戦争へ
の関与のこと一木之内] も全 うしなければな らなか ったが, 中国政府 はそれで も最大 の努力
を払 って, ベ トナム人民 の抗仏闘争 を支援 した。 のちにな ると中国 は三年 の経済困難期
[
いわゆる 「
大躍進」 政策の挫折及び同時期の自然災害とによる苦境をさす一木之内] を経 て, ま
「
文化大革命」 をさす一木之内] を迎 えたが, それで も中国人民 は衣食 を
た 『
十年 の動乱』 [
切 りつ め,全力をあげてベ トナム人民 の抗米闘争 を支援 した。
1
9
5
0
年 の初 め, ベ トナムが抗仏戦争で苦境 にあ った時, ホ一 ・チ ・ミン同志 は北京 に来
て中国共産党中央 と意見を交換 した。毛沢東同志 は,全面的 にベ トナムを援助 し, フラン
スとの国交樹立 を見送 って もただちにベ トナム民主共和国 と外交関係 を樹立す ると表明 し
『
北京周報』4
1:1
7
]
た。 [
以上 の記述 に言及 された 4
9年末か ら 5
0年 に至 る中越両共産党 の軍事面 の関係 を瞥見 してみ よ
う 。
1
9
4
9年 9月頃 まで ホ一 ・チ ・ミンは, 中共 との間 に軍事援助協定 が結 ばれて いるとの西側
の噂 は, フランスが流 したデマに過 ぎないとして,再三 にわた りそれを否定 していた。 しか し
同年 1
2月中旬 に至 るとホー自身西側報道機関 に, もし中国が援助 の取 り決 めを進 め る意向で
337
東南 ア ジア研究
3
2
巻 3号
あるな らば, その申 し出は検討 され ることになるであろう, と中共か らの援助 の可能性 を暗示
す る発言 を したはか,後述す る通 りベ トミン側機関誌 に も中共 との軍事協力 を明か に予示す る
か,或 いは中共 の支援 に寄せ る期待 を言外 に彦 ませ る記載が徐 々に登場す るよ うに もな ってい
た
[
Che
n1
9
6
9:
2
61;
Loc
kha
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9
8
9■
:
2
1
9a
ndpa
s
s
i
m]
。
中国側記録 によると, 実際 には 4
9年 1
1月末 か ら 1
2月初 めにかけ, イ ン ドシナ共産党中央
LyBa
n) とグェ ン ・ドゥック ・トゥイ (
Nguye
nDucThuy)
か らの特使 として リ ・バ ン (
が密かに北京 を訪れ, 中国共産党中央統戦部責任者 の李維漠,徐水,連貫 らに会見 して, 中共
9
9
2:
5
] 。2
4
)
中央 に援助 を要請 している [
銭江 1
翌5
0年 1月上旬, 中共 中央 はその当時中央人民革命軍事委員会弁公庁主任 を務 めていた荏
貴液 を中共中央連絡代表 としてベ トナムに派遣す ることを決定 した。 これが リ ・バ ンらか らの
0年 8月 に中共が援越政治顧 問
要請 に応 えた措置であ ることはまず間違 いない。 ただ し後 に 5
団の派遣 を正式 に決定 した時,羅貴波 はその団長 に昇任す ることにはなるが, 1月時点での使
命 は, ベ トナムの戦況 とベ トミン軍 の内情, 中越国境一帯 の交通運輸事情, フランス軍 の動
静,等 を詳 しく調べ中央 に報告す る, といった専 ら調査活動 のみ に留 まっていたよ うであ る。
しか しここで看過で きないのは,劉小奇 が 自 らの執務室 に羅貴波 を呼出 し, ベ トナム派遣 を じ
き じきに用命 した際の発言 である。羅貴波 の回想 によると,劉小奇 は 「ベ トナム北部 の抗仏根
拠地 はフランス軍 に毒食 されつつあ り」 ベ トミンは苦境 に立 たされているが, 「
現在世界でベ
●●●●●●●●●●●●●●●●●
トナム民主共和国を承認 している国 は一 つ もな く, またベ トナム共産主義者 に援助 している国
●●●●●●
も一つ もない。 ベ トナム人民 の革命闘争 の形勢 は現在 の ところ敵側が強力であ り, ベ トナム人
圏点
民 は孤立無援 の状況 に置かれている」(
木之 内) と説明 した。 更 に劉小奇 は 「中共中央
は十分 に検討 し,毛主席 に も報告 して同意 を得 た上 で,特殊任務 として君 を我が党 の連絡代表
羅貴 波 1
9
8
8:2
3
3の職 責 で ベ トナ ムに派遣 す る ことを決 定 した」と羅 貴 波 に訓辞 した [
]
。
2
3
4
以上か ら確認 で きるのは, この当時 のベ トナムの戦局 は依然 としてベ トミンに極 めて厳 しい
情勢 にあると中国側 は捉 えていた こと, また中共の認識 によればベ トミンに本格 的な援助 を し
て いる国が (
中共 自身 も含 めて)皆無 に近 い こと,後 の本格的援助 の開始 を予感 させ る中共 中
央か らの連絡代表派遣 とい う措置をホ一 ・チ ・ミン政府承認以前 に決定 して いること, な どで
ある。 なお羅貴液派遣 は, この直後 のベ トミン政府承認 と同様,訪 ソ中の毛沢東 とも連絡 を取
り合 うなど中共中央 の高度 の政治的判断を経 て下 された決定であ って,従来一部 の研究者 や当
2
4
) なお連貫は,中華人民共和国成立以前から,香港で海外華僑工作,各国共産党との連絡工作,統一
戦線工作に従事 していた人物である。 とするとチェンが項英だと推定 した,バンコクでベ トミンの
武器調達 ・搬送に協力 した中共幹部はこの連貫であった可能性 も考えられるが真相は定かではな
い。以上については, [
石井 1
9
9
0b:
1
1
7
,
1
2
1
]
。
338
木之内 :中越ソ 「
友好」成立の断面
時 の西 側 外 交 筋 が推 定 した よ うな毛 不 在 の 間 に劉 小 奇 が はば独 断 で勝 手 に決 め た措 置
[
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0,
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7
4
] ではなか った ことも確認 で きる。 ただ し羅貴液 は, 「当時新
中国 は成立 したばか りで,党中央の工作機関 はまだ整備 されてお らず, 中央連絡部 [
「
中共中央
対外連絡部」 のこと一木之内] も設立 されてなか った こともあ って, ベ トナム援助 に関わ る一切
羅貴波 1
9
8
8:2
3
4-2
35
] と記 している。
の業務 は劉 小奇 同志 みずか ら処理 に当た っていた」 [
それが具体的 にどの程度, またどの様 に及 ぼされたか羅貴波 自身 も伝えて はいないが, いずれ
にせよ外交関係樹立前後の時期, と くに毛不在 の期間,劉小奇 の判断 と采配が中共のべ トミン
援助問題 に少 なか らぬ影響 を及 ぼ していた との想像 は可能であろ う。25)
ところで既述 の通 り, また 「中越関係 の真相」論説 に も若干触 れ られているように, ホ一 ・
0年 1月半 ばイ ン ドシナ共産党政治局員 チ ャン ・ダ ン ・ニ ン他 6名 の随員 と共 に
チ ・ミンは 5
北京 を密かに訪れ中国共産党中央 に援助 の要請 を提 出 した。 これを受 けて劉小奇 は,朱徳,秦
栄環,摩承志,李維漠 な どか ら成 る小委員会を組織 して この援助要請 を検討 した模様であ る。
しか しなが ら, ホ-が到着 した当 日の晩, 中共 中央政治局 が設 けた宴席で ホ一 ・チ ・ミン
は,北京 に留 まって中共中央 とベ トナム援助 の協議 を続 けよ うと持 ちかけた中共側か らの提案
を きっぱ りと断 り, ソ連 に行 く意向を頑 なに言明 した とされ る。 銭江 によれば, 「
彼 [
ホー]
は,今回出国 した主 目的 はソ連 に行 って ソ連共産党 中央 とスター リン本人 に会 うことであ り,
丁度 いま毛沢東 と周恩来 がモスクワにいるのだか ら, ソ連 に行 って向 こうで一緒 に相談 した方
銭江 1
9
9
2:1
6] 。 の どか ら手が出るほど援助を必要 とし
が良 い, と劉小奇 に語 った」 とい う [
ていた筈 のホ-が, 中共 か らの折角 の現実的な申 し出を振 り切 り,援助 を取 り付 け られ るか ど
うか未知数 の ソ連 に, しか も中 ソ条約交渉真 っ最 中に 「
乱入」 同然 の訪問を企 てたのは少 々不
可解で はあ った。或 いは, ソ連 による外交的承認 を含 めたべ トミン支援 を一 日で も早 く取 り付
けることが, いま北京 で軍事援助 の協議 を続 けること以上 に優先すべ き課題 と認識 され, その
よ うに重視 された訪 ソとい う所期の予定を中断 された くない との考えがホーの中にあ ったがた
めに, こうした中共首脳が感情 を害 した として もおか しくはない協議続行 「
辞退」 の発言 に
至 ったのか もしれない。
ともあれ ソ連共産党 中央 とモスクワ滞在中の毛沢東 は, 劉 小奇か ら伝 え られたホ-の訪 ソに
同意 し, ホーは 2月 3日にモスクワに到着す る。彼 はそ こで スター リンに, ソ連がベ トナムに
軍事顧問を派遣す ると共 に武器弾薬 を供与 して くれ ることを要請 したが, スター リンか らにべ
もな く断 られた。 2月 1
7日ホ-は毛沢東 と一緒 に特別列車でモスクワを離 れ中国 に向か った
2
5
) ちなみに羅貴波 は 5
1年 3月以降 は発足 したばか りの対外連絡部が対 ベ トミン援助 の実務 を処理す
9
8
8:
2
41
]
。
るよ うにな る, と記 している [
羅貴 液 1
339
東南 アジア研究
3
2
巻 3号
が, その車中で彼 は改めて毛 に中国か らの軍事顧問の派遣 と武器弾薬 の援助 を求 めたのである
[
同上書 :5
7;中国軍事顧問団歴史編写組 1
9
9
0:1]。 のちに 5
0年 6月 2
7日中共中央指導部が
中南海でベ トナム派遣軍事顧問団を接見 して訓令 した.
際 に,毛沢東 はホ一 ・チ ・ミンの訪 ソに
まつわ る興味深 い秘話 を披露 している。
春節 の時期,私 はモスクワにいたが, そ こにホ一 ・チ ・ミンがや って きた。彼 の訪 ソの目
的 はソ連 の援助 を取 り付 けることにあ った。 しか しスター リンは, ホ-が どのよ うな人物
なのか知 らず,彼 がマルクス主義者 なのか どうか さえ分か っていない, と告 白 した。 そ こ
で私 は, ホーはマルクス主義者 に間違 いあ りません,彼 に会われたほうが良 いで しょうと
スター リンに勧 めた。 こうして スター リンはホーと会 ったのである。 ホ一 ・チ ・ミンはソ
連人顧問の派遣 を含む ソ連 の援助 を要求 したが, スター リンは同意 しなか った。中国 に帰
る途上,私 とホ-は対越援助問題 を話 し合 い, ホ-同志 は我 々に顧問団派遣 を要求 して き
た。私 は 「
物資 の援助 な ら出来 る限 り取 り計 らいま しょう。 しか し顧問団派遣 はち ょっと
困 る。私 どもの幹部 は正規 の訓練 を受 けた こともな く, ろ くに学校 さえ出ていません。 あ
るのは実戦 の経験 だけですか ら」 と答えた。 しか しそれで もホ-は,何度 も繰 り返 し顧問
派遣 を要求 して きた。 そ こで私 は 「
私個人 としては特 に異存 はないのですが,や はり帰 っ
てか ら中央 の同志達 と相談す る必要があ ります。 しか し仮 りに我 々が顧問を派遣す ると し
9
9
2:
5
7
]
て も, みな田舎者 の顧問ばか りです よ」 と彼 に伝 えた。 [
銭江 1
毛 は この訓話 の冒頭で, ベ トナムに軍事顧問を派遣す る理 由 として,共産主義 の国際的連帯 と
中国 にとっての安全保障上 の配慮 とをまず は強調 していたが, こうしたホ-とのや りとりを読
む限 りで は,本格的な軍事支援 にさほど乗 り気で はなか った毛 がホーに しつ こく食 い下が られ
て根負 け した, との印象を禁 じ得 ない。 なお このモスクワか らの車中でホ一 ・チ ・ミンは中国
8
]。
人民解放軍 の直接介入す ら要請 したが,毛沢東か らあ っさ り断 られた とい う [
同上書 :1
(2) 軍事帯開田の結成 まで
毛 の帰国後,中国共産党中央 はベ トミンへの本格的な援助 を始動 させ ることになる。援助内
容の詳細 はいまだに不 明の部分が多 く, また乏 しい資料か ら窺 え る援助内容 に も信潰性 に疑問
9
5
0年 当時の対 ベ トナム軍事援助 の主
が残 る面 もあるが, それ らを或 る程度了解 した上で, 1
な ものを ここで簡単 に整理 してお きたい。
台湾の国民党情報筋 は,北京で 5
0年 1月 1
8日にべ トミン代表団 と中共中央 との間で,軍需
物資供与 に関す る中越通商協定が締結 された と報 じた。 この協定で中国側 は, 旧 日本軍か ら押
収 した銃 1
5万丁,米国製 カー ビン銃 1万丁, お よびそれ らに要す る弾薬 を提供 す る ことに
340
木之内 :中越 ソ 「
友好」成立の断面
な った とい う [
Che
n1
969:2
61;J
oyaux1
97
9:6
4]。 一方中共側記録 によれば, 5
0年 1月上
旬 にイ ン ドシナ共産党 中央 は中国共産党 に戦防砲弾 1
,
200発,米国製 30歩兵銃 および機銃 の
弾丸 42万発, 英式 30機銃 の弾丸 9万 1千発, 車両 20台の供与 を要請 し, 劉小奇 はこれを全
992:26
]。
て承諾 したとされ る [
銭江 1
0年 8月 6日には, 中国か らの軍需物資輸送 を統轄す る解放軍総後勤部弁事処が南寧
また 5
(
広西省) に設立 された [
中国軍事顧問団歴史編写組 1
990:1
4] ほか, 同年 3月以降 には,節
年 8月 2
8日に正式 に誕生 したベ トミン正規軍最初 の師団であ る第 308師団が文山 (
雲南省)
7
4連隊 と 209連隊
で中国人民解放軍第 2野戦軍第 4兵団の手 によ り, またベ トミン正規軍第 1
が龍州 (
広西省)で 「
広西軍区」 によって訓練 を受 けたのをは じめと し,南寧,靖西 (いずれ
も広西省), 硯山 (
雲南省) などで も訓練基地が設 け られて中国側がベ トミン軍 の練成 に協力
4;銭江 1
992:2
8;Che
n1
969:262;Loc
khar
t1
989:21
8]。 更 にベ トミン援
した [
同上書 :1
0年末頃 までには昆 明 に設立 され生産を開始 した とも伝 え られて
助向 けの兵器廠が遅 くとも 5
いる。 こうしてベ トミンは, 従来の試算を総合す ると, 50年 1月か ら 9月頃までに, 中国か
25丁, 迫撃砲 75門, 弾薬 3千箱, その他軍需物資 87
0 トンを実際 に
ら小銃 4万丁, 機関銃 1
Che
n1
969:262-26
3;Loc
khar
t1
989:225
]。
受 け取 ったよ うである [
ベ トナム側 はこうした物資の搬送 は 8月以降の こととしているが,実際 には既 にそれ以前か
Loc
khar
t1
989:225,
f
.
n.
7
]。 もっとも 5
0年初頭,北部中越
ら開始 されていた可能性が強 い [
国境地域 の拠点 ・要衝 は依然 として大部分が フランス軍 の制圧下 に置かれていたので,物資搬
0年 5月以降 は, 4月末 までに 「
解放」 が
送 は決 して当初か ら順調 に捗 ったわけで はない。 5
完了 した海南島の檎林 と海 口を経 由 した中共のベ トミン向け海上輸送が開始 されたと報 じられ
たが, しか しこの当時 ベ トナム北部沿岸 の制海権 を中国が掌握 していた とは到底考 え られな
い 26)以上, フランス軍 の目をかい くぐっての海上輸送 など, 不可能で はないにせよ, 運 べ る
量 はたかが知れていたであろ う。 従 って援助物資の搬送 を軌道 に乗せ るためには, どうして も
北部国境地帯 の陸上 ルー トを重点的 に開拓 しなければな らない。
ごく小規模 なが ら既 に陸路での物資輸送 は早 い段階か ら始 ま って はいた。 また 5
0年 3月中
越国境上空を偵察飛行 した フランス軍が, 中国南東部か ら トンキ ンに至 る主要幹線道路が補修
工事中で,一部 は高速輸送 に も耐え られ るようカーブに傾斜 をつ ける工事 まで施 されている,
Te
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heAmbas
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と報告 して きたよ うに, 陸路強化 の下準備が着工 されて もいた [
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0. FRUS,1
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Loc
kha
r
t1
989:225]。 しか し陸路での大量輸送 を実現す る大前提 として,後 にホア ン ・バ ン ・
2
6
) そもそも中国の人民海軍自体,5
0年 4月 1
4日にようやくごく細々と発足 したばかりであった。 こ
れにつ いて は [
轟栄 穣 1
9
8
4:
7
2
6;
平松 1
9
8
7:
6
3
]
。
341
東南 アジア研究
3
2
巻 3号
ホア ンも回顧 して いる通 り, 「中共中央 は全力を挙 げてベ トナム革命 を支援す ることに同意 し
たが,大量 の援助 を供与す るためには, 国境 の フランス軍 を一掃す ることが絶対 に不可欠 で
黄文歓 1
9
9
0:4]。
あ った」 [
5
0年 3月 9日ベ トナム領 内-の潜入 に成功 した羅貴波 も,援助物資 の安定的供給 を確保 す
るためには, フランス軍 に封鎖 された中越国境 に突破 口を開 くことが急務 の課題であ ることを
直 ちに了解 した。彼 自身 も列席 したイ ン ドシナ共産党中央政治局会議 (
正確 な 日時 は不明だが
おそ らく 3月 9日か ら 1
9日にか けての或 る時点) で は, そのための軍事行動 として, 雲南省
に接 す るベ トナ ム北西 の要衝 ラオカイを 占領 し,雲南- ベ トナム鉄道 で物資 を輸送す る作戦
と,広西省 に接す るベ トナム東北部 のカオバ ン一帯 を奪取 し広西省 と連結 させ る作戦 の 2つ,
つ ま り北西 ルー トの開拓 と東北 ルー トの開拓 とが発案 された. しか し羅貴液 は北京への報告 の
中で, ラオカイ奪取 を中核 とす る北西国境作戦 は次 の理 由か ら好 ま しくないと自説 を伝 えてい
た。 まず仮 りに ラオカイ占領 に成功 し,雲南 と連結で きた として も,雲南 その ものが地理 的に
辺境で地形 も急峻な山岳地帯であるなど,兵端面 の条件 は劣悪である。 また雲南- ベ トナム鉄
5
0n
k の区
道 に して も,抗 日戦争 中に聞達か ら河 口 [
この鉄道の中国側国境地点一木之内]まで約 1
間が破壊 されてお り,短期間での修復 は望 めない。 よって北西 の雲南ルー トか らで は, ベ トミ
ンが緊急 に必要 とす る物資を補給す るのは無理 であろう, と建言 したのである。 中国共産党中
央 も羅貴波 の意見 に同意 し, まず カオバ ン一帯 を攻撃す る東北国境作戦 に重点 を置 くべ きだ と
す る判断 を返電 した。 もっとも中共側 はこうした判断をベ トミンに強要 は しなか ったよ うであ
るが, 中越両共産党 は意見を交換 した末 に,少 な くとも 7月中旬 までにはベ トミンも東北国境
に作戦 の重点 を置 く方針 に傾 いた。 これは中国側 の判断を尊重 したためで もあろうが, 同時 に
またベ トミン側 に も,東北 と西北 を比べた場合,前者 の方が フランス軍 の力 も大 きいかわ りに
9
8
8:
べ トミン軍側 の人力 と物資の動員力 も大 きい との判断が働 いていたよ うである [
羅貴波 1
9
9
0:1
4;銭江 1
9
92:2
6;陳贋 1
9
8
4:7;古 田 1
9
91:3
61
]。
2
3
8;中国軍事顧問団歴史編写組 1
0年間継続 す ることになる共産中国のベ トナム共産主義者 向け援助 は, そ
こうして以後約 2
の発端 において東北国境地帯 か らフランス軍 を駆逐 す る軍事行動へ の支援 とい う性格 を帯 び
た。 しか しそれを遂行す る肝腎のベ トミンの軍事組織 もその戦術方針 ち, 中国側 の目には何か
0年 5月初 めボー ・グェ ン ・ザ ッ
ら何 まで著 しく貧弱 で杜撰 だ と映 ったのである。羅貴波 は 5
プの案内でベ トミン軍 を視察 した時の衝撃 を次 のよ うに回想 している。
ベ トナム軍 の実情 が これ ほどまでに惨憤 た る有 り様 だ とは夢 に も思わなか った。油 どころ
か部隊の全てで食糧 に も事欠 き,兵士 の体力 は衰弱 していた。衣服 はポロポロで ほとん ど
の者 は裸足であ った。装備 となると更 にお粗末 きわま りな く, しか も銃 の規格が まるでバ
ラバ ラだ ったので,弾薬 の補充 にはだいぶ苦労 しそ うだ と予想で きた。何 よりも問題 だ っ
342
木之内 :中越 ソ 「
友好」成立の断面
たのは,彼 らは大規模 な戦争 を した ことがな く,陣地攻撃戦 の経験 に欠 けている ことで
あ った。規律 も弛緩 していた。 このよ うな軍隊では中越国境で大がか りな戦闘 に勝利す る
988:239]
ことなど到底不可能 と思 われた。 [
羅貴液 1
後 に中国軍事顧問団のベ トナムでの活動記録 をま とめた中共側 の準公式資料
(
『中国軍事顧問
団援越抗法闘争史実』) には, 中国側か ら見 た 50年初頭のベ トミン軍 の欠点, とくに組織 の体
質上 の問題点が列挙 されている。
(
1
) 政治工作が重視 されてお らず,政治工作制度 もない。幹部 と兵士 の政治意識が低 く,階
級観念 も希薄である。
(
2
) 統一的編制 も統一的規律 もなければ, 明確 な制度 もない。組織が不適当なほど肥大 し,
しか も複雑 に入 り組んでいる。 非戦闘員 もやた ら多す ぎる。
(
3) 部隊の軍事能力 もそれ ほど優秀 とはいえない。幹部 には正規作戟 を組織 し指揮す る能力
が欠落 している。
(
4) 部隊の戦闘方法 は, あまりに形式 に こだわ ってお り, それでいてゲ リラ戦 の悪習 にひど
く毒 されて いる。 民主的な気風 に乏 しく,管理教育 も不十分で,幹部 と兵卒 の関係 も冷
990:l
l-12]
え冷え としている。 [
中国軍事顧問団歴史編写組 1
これ らはあ くまで も中国側の視点か ら観察 された欠陥であ り, ベ トミン自身が 自覚 した欠陥 と
必ず しも一致せず, 中には的外れな批判や酷 な批評 も混 じってはいた。27) しか し何れ に して も
中国側 は, ベ トミンの武装組織 に もその継戦能力 に も甚 だ問題点が多 いと捉 えていたわけであ
る。
羅貴波か らの視察報告 を検討 し, またイ ン ドシナ共産党 中央か らの度重 なる要請 にも答え る
形で中共中央 は, ベ トミン軍正規部隊の建設強化 と作戦指導を主 たる二大任務 とす る軍事顧問
7日中共中央軍事委員会 は第 2, 第 3, 第 4の各野戦.
軍 に対
団 の結成 を決定 した。 50年 4月 1
し, 顧問 としてベ トナムに派遣す る工作要員 281名 の人選 を指示 した [
同上書 :3]。 さ らに
4月 26日, 中央軍事委員会 は西北, 西南, 華東, 中南 の各軍区および軍事委員会砲兵司令部
3名 をベ トナム派遣要員 と して抜擢す るよ う通達
に対 して も,大隊以上 の幹部 か らそれぞれ 1
した [
銭江 1
992:31
]。 なお これ とはぼ並行 して, ベ トミン支配区の行政 (
財政,税制,銀行
黄文歓 1
987:
制度, 交通運輸, 公安, 情報, 等) を指導す る政治顧問団 も編成 されている [
266-267
]
。
2
7
) 例えば,陣地戦 ・通常戦の意義 と必要性はベ トミンも認識 していたし,或る程度実践されてもい
Loc
khar
t1
9
8
9:21
2-21
7
]
。
た。これについては [
343
東南 アジア研究
3
2
巻 3号
中国軍事顧問団 は 7月上旬か ら 8月 にか けてベ トナムに潜入す ることになる。 この団長 に任
命 されたのは元第 3野戦軍第 1
0兵団政治委員 の葺国清 であ る。 顧問団派遣 の動 きは早 くか ら
西側 も或 る程度掴んでいたが, 中共 は顧問団派遣を極秘扱 いとし,顧問団の名称 も当時 は 「
華
990:4]。
南工作団」 と詐称 していた [
中国軍事顧問団歴史編写組 1
(3) 中越軍事協力の断面
1
950年 9月 1
6日未明, ドン ・ケ [ドン・ケはカオバンとランソンを結ぶ 「
植民地公路 4号線 Rout
e
Col
oni
al4」 上の重要な戦略拠点である一木之内] の フランス軍陣地 に対す る攻撃 と共 に, いわゆ
る 「レ ・ホ ン ・フォン 2号作戦」, 中国で は 「
辺界戦役」 と呼ばれ る中越国境地帯 での一連 の
ベ トミン軍 による軍事行動 の火蓋が切 られた。 ドン ・ケの フランス軍基地 は, ベ トミン軍相弾
8日に陥落, これを皮切 りに第 308師団, 第 1
7
4連隊, 第 2
09
砲 の恰好 の餌食 とな り, 9月 1
連隊を中軸 とす る約 3万のベ トミン軍 は, タ ト・ケ, カオバ ン, ランソンといった主 に植民地
公路 4号線沿線一帯で, フランス軍駐屯地への攻撃 あ るいは撤収途上 の フランス軍への急襲 を
重 ね, 11月初頭 まで には, ラオカイ方面か らの フランス側 の自発的撤退 も手伝 って, 「トンキ
ン湾沿岸 のモ ンカイか らラオス国境 に至 る中越国境一帯 が ほぼ完全 にベ トミンの支配下 に収
まった」 のであ る
[
La
nc
a
s
t
e
r1974:218-219]。28)
これ らの戦闘でベ トミンは, おそ らくは中国が支給 した と推定 され るバ ズーカ砲,迫撃砲,
無反動砲 などを多用 しただ けでな く, 8月 に中共中央代表 の肩書 きで急速派遣 された陳廉 (
当
時西南軍区副司令官,後 に解放軍副参謀長) を筆頭 と して中共 の軍事顧問多数が作戟計画の策
98
4:1
7f
f
]
。 いずれに して も国境作戦が予想
定 と作戦行動 の陣頭指拝 に当た っている [
陳廉 1
外 なはど満足のゆ く戦果を挙 げた ことで, ベ トミンは中国-の事実上無制限のアクセスを手 に
0年 1
0月半 ば柳州か ら南寧を経て中越国境 の鎮南関 に至 る鉄
いれたのであ り,一方中国側 も 5
道 の建設 を開始す るなど軍事援助 に弾みがついた
[
Che
n1969:263]。
しか しなが ら, 中共側 も共産主義 の兄弟党 を助 けるとい う 「国際主義」的使命感 や善意 のみ
か ら援助 を差 し伸 べたので はない。 そ こにはまず, ベ トミンに荷担 して中越国境一帯か らフラ
ンスの影響力を排除すれば, その辺一帯で悪 あが きを続 ける国民党残存勢力 は逃 げ場 を失 って
息 の根が止 め られ るだろ うか ら, 中国南部諸省の安定化 に も好都合である, との思惑 も込 め ら
0年 1月劉小奇 は羅貴液 にベ トナム派遣の理 由 として, 「フランス植民地主義者 は
れていた。 5
国民党残余部隊 および中越国境付近 の土匪 と結託 して,雪南,広西地区の安寧をおびやか して
98
8:2
34] ことを挙 げていた。同年秋 の国境戦役 を指導 した陳廉 も,9月 1
3日
いる」 [
羅貴波 1
2
8
) 「レ・ホン・フォン2号作戦」 の開始をめぐっては以下 も参照。 [
Dui
ker 1
9
81:1
4
4
-1
4
5;Lockha
r
t1
9
8
9:
2
2
5;古田 1
9
91:
3
6
0
3
6
2
]
。
344
木之内 :中越 ソ 「
友好」成立の断面
の彼 の 日記 の中で, 「フラ ンス帝 国主義者 は, 国民党残党 3千余 の人員 をか き集 め, 中越 国境
か らわが国への侵入 を 目論 んでい る。 彼 らの 目的 は広西省十万大 山地区の土匪
[
主に国民党軍
残党がそのままゲ リラと化 したもの一木之内] と呼応 して, わが国の飲, 防, 思楽 な どの地区 を攻
撃 し, ベ トナムと広西 の交通 を切断す ることにあ る」 [
陳慶 1
984:24-25] と記 してい る。 こ
の当時 フランスは中共 と一戦交 え る気 など更 々なければ, ベ トナムに敗走 して きた国民党軍 に
反攻 をそそのかす意図 さえつ ゆほどもなか った し, ま してや 自 ら中国領 内 に侵攻す るな ど全 く
の論外 と していた。29) 他方, 中共中央 もまた,表 向 きは 「国民党反動軍隊 に避難場所 を提供 す
る如何 な る政府 も, そ うした措置 を講 じた ことによる責任 を負 うことになろ う」 (
49年 11月
29日周恩来外交部長) [
Che
n1
969:203] と脅 しをか けていた ものの,実際 にはフラ ンスとの
直接 の交戦 を極力回避 す る方針 で固 ま っていたのである。30) 従 って劉小奇 の訓令や陳虞 の独 白
には誇張 や誤認 はあ るが, 中越国境 か らの フランス軍 の駆逐 に協力す ることが国民党軍討伐 と
い う中共 自身 の直接的利益 に も資す るとの認識 は広 く共有 されていた。
中国がベ トミン援助 に踏 み切 った もう一つの理 由は,朱建栄 も朝鮮戦争 を扱 った著作 の中で
綿密 に考証 した通 り, 西側大国 と くにアメ リカが中国を包囲 し,混乱 やす さに乗 じて,朝鮮,
台湾 そ して イ ン ドシナの三方 向か ら中国 に侵攻 して くる (
中国側 の表現で は 「
三路 向心迂回」
戦略)恐 れがある とす る,一種被害妄想 に近 い警戒感 を建国直後 の中国指導部 が抱 いて いた こ
とに求 め られ るであろ う [
朱建栄 1
991:63-65,1
00] 。 しか も当時のイ ン ドシナは, 中国 に陸
続 きで隣接 す る地域 の中で,近代的で大規模 な 「
帝 国主義」 の軍 隊が現実 に駐留 して共産主義
者 の根絶 に明 け暮れて いた唯一 の地域 であ った ことも見落 と して はな るまい。従 ってその地 で
共産主義勢力が壊滅すれば,南方 で反共 の外敵 の脅威 を和 らげる緩衝材 ・防波堤が失 われ るこ
とを意味 し, 中国の国防上 の危機 に直結 す るとの不安があ ったのである。 こうした対中攻囲綱
への警戒心 は, 50年 6月 25日朝鮮戦争 の勃発で俄 か に高 まった。
朝鮮戦争勃発直後 の 6月 27日, 毛沢東, 劉小奇, 朱徳 ら中共 中央首脳 は中南海でベ トナム
派遣軍事顧 問団および政治顧問団 の主 だ った幹部 を接見 した。 この時の訓辞 で毛沢東 は, ベ ト
ミン援助 の意義 と して,被圧迫民族 の解放闘争 を支援す ることは共産党員 の国際主義的義務 で
あ ると, まず は型通 りの講話 をひ と くさ り述べ た後 で こう説 いた。
2
9
) 例 えば 1
9
4
9年 1
2月 2
9日, 「ラジオ ・-ノイ」 (フランス系) を通 じてフランス当局は, フランス
は中国内戦に対 して中立的立場を維持する, と発表 した [
Che
n1
9
6
9:2
0
8
] はか,5
0年 3月 1
3日
シューマン仏外相は仏外務省でブルース駐仏アメリカ大使 らと会談 したとき,中国による侵攻を挑
Me
mor
andum ofaConve
r
s
a発するような行為は一切慎まなければならない, と語 っていた [
t
i
onatt
heQuaid'
Or
s
ay,Mar
c
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3
,1
9
5
0.FRUS,1
9
5
0
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.
VI:7
5
5
]
.
3
0
) 1
9
4
9年 1
2月 2
9日, 毛沢東はわざわざ滞在先のモスクワから劉′
ト奇に宛てて, 雲南で国民党の追
討を進めていた解放軍第 2野戦軍司令官の劉伯承と同軍政治委員郡小平とに,国民党軍がベ トナム
領内に越境 した場合には追撃をしてはならない, と告げるよう,訓電 した。以上については [
『
毛
沢東文稿』:1
9
8
]
。
345
東南 ア ジア研究
3
2
巻 3号
帝国主義者 どもの朝鮮 とベ トナムにおける行動 は,我が国を包囲す る体制を築 くことを意
図 している。 もし機会があ りさえすれば彼 らは直接我 々に狙 いを定 めて くるであろう。 で
あるか らして, ベ トナム共産主義者 同朋を援助す ることは我 々自身 の安全 につなが ると心
得 なければな らない。唇 を失えば歯が寒 くなるの は必定である。 我 々自身 の安全が図 られ
る上 に,兄弟民族 を助 け ることに もな るので あ るか ら,諸君 の活動 は一挙両得 と言 い得
る。我 々が顧 問 を派遣 しな けれ ばな らな い根 本 的理 由 はま さに この点 にあ る。 [
銭江
1
9
9
2:
5
6
]
「内部発行」 の前掲 『中国軍事顧問団援越抗法闘争史実』 に序文 を寄せた楊尚昆 (
同書発刊 当
時国家主席, 5
0年初頭の頃 は中共中央弁公庁主任) もその中で, 中国がベ トナム援助 に踏 み
切 った主 た る理 由は,帝国主義 による新 中国包囲戦略 を打破す ることにあ った, と明記 してい
9
9
0:1
] ことも併せて指摘 してお こう。
る [
中国軍事顧問団歴史編写組 1
こうしてみ ると,毛 に限 らず中共首脳 がベ トミン援助 の意義 として口を揃えて強調 した 「
国
際主義」的連帯 とい うイデオロギー的配慮 は, やや空 々 しく響 くか もしれない。 中越国境戦役
9日の 日記 に, 専 ら馬 と徒歩で越境す る道中の苦
指導 の切 り札 として派遣 された陳贋 は, 7月1
労 を こぼ しなが ら, 皮 肉混 じりに次 の通 り綴 っている。 「
天気 は暑 く, 山道 は狭 くて滑 りやす
い。馬があ ったが とて も乗れなか った。 山を降 りて清水河 に着 いたときはへ とへ とだ った。国
陳廉 1
9
8
4:9
-1
0
]。 また顧問の一員 に加わ った或 る軍人 は派遣
際主義 とや らも楽で はない」 [
命令を受 けた時の心境 を後 にこう述懐 している。 「
革命 に身 を投 じて以来, 革命 は国際主義 の
義務を果 たすべ きだ と叩 き込 まれて きた。 しか し頑で は分か っているつ もりだ ったが, なにせ
実際 にはや った ことはな い。それにベ トナムの解放戦争 なるものが一体 どうな って るのか私 に
はさっぱ り見 当がっかなか った。 (
中略) それに して もどうして私 には勝利 の喜 びを味わ う暇
もないのか。 ベ トナムに行 けばまた戦場 だ。戟 いはいっにな った ら終わ るのだろ うか」 [
銭江
1
9
9
2:3
8
]。 銭江 は, ベ トナム派遣 を命 じられた軍人が, 共産主義的連帯か らベ トミンを援助
す る意義 に一定 の理解 を示 しつつ も, 抗 日戦争, 国共 内戦 と続 いた戟乱 もよ うや く終息 し,
や っと休息が とれ るとほっとしていた矢先 にまた して も戦場, それ も中共の軍人 にとって は初
めての国外-の出征 を命 じられて動揺 を抑 え きれなか った とす る,多 くの証言例 を紹介 してい
る [
同上書 :3
2-4
0
]
。
しか しこれ らを もって,共産党員 の 「
国際主義」 的連帯 の理念 など個 々の内面 に定着 してい
なか った とか,形骸化 していた と考え る必要 はない。 そ うした国際主義的義務感 も, 自分の国
に迫 った (と捉え られた)脅威 とい う具体的 ・感覚的な実感 に媒介 されて,初 めて意味のあ る
イ ンセ ンテ ィブにな り得 た とい うことであろ う。
ところで朱建栄 は,陳廉派遣や国境戦役指導 に代表 され る中共 のベ トミン支援 は,わけて も
346
木之内 :中越ソ 「
友好」成立の断面
朝鮮 の戦局の推移 に備えた外部環境整備の色彩が濃 いと指摘 している。彼 は, こうした関与 に
込 め られた中共側 の意図を次の 3つ と推定 している。 第 1に,朝鮮戦争への介入を予定 した以
上, まず南部国境 を安定 させねばな らない。南部が不安定 なままだ と,朝鮮 に介入す る場合 に
足手 ま とい とな り背後 を突かれ る恐 れがあ る。第 2に, フランスが米国主導 の国連軍 に参加
し, 朝鮮 に兵力を投入す る意図を牽制 し, 「
帝国主義陣営 の.
協調」 に横 を打つ。 第 3に, 中米
間 に全面的軍事抗争が生 じる事態 に備え,南部国境で有利 な態勢 を整えてお く。 この背後 には
万が一朝鮮で米軍 の進攻 を阻止で きなければ,米軍 は更 にか さにかか ってイ ン ドシナか らも中
国 に脅威を与 え るだろ うとの懸念 があ った, とす る [
朱建栄 1
9
91:1
0
2-1
0
5
]
。筆者 は彼 の推
定 に必ず しも全面的に賛同す るもので はないが,傾聴 に値す る議論ではあろう。
しか しなが ら朝鮮戦争勃発が こうした中国独特 の危機認識 を急上昇 させ, ベ トミン援助の現
実的意義 を再確認 させ た と して も, それが 自動 的 に無制限 な対越援助 を保証 したわ けで はな
か った。 エ レン ・-マー もっ とに指摘 したように, 「中国の援助で最 も注 目すべ きなのは, そ
れが ヴェ トミンをいかに強化 したかで はな く, 何を与 えなか ったか」 [
-マ- 1
9
7
0:2
3
8
]で
ある。 2月のモスクワか らの帰路, ホ一 ・チ ・ミンか らの顧問団派遣要請 に毛沢東が言葉 を尚
し,解放軍投入要請 に至 ってはきっぱ りと断 った ことは既 に触れた。顧問団派遣 ひとつ とって
ち, ホ-の この最初 の要請か ら人選 を経 て 6月末 に正式 に派遣を命 じるまで 4カ月余 りを要 し
てお り, 3月頃か ら 9月頃 まで続 くベ トナムの雨期 によ り本格的な軍事行動が制約 され るとい
う事情 を差 し引いて も,決 して機敏 な対応 とは言 い難 い。
0年当時の中国 は, 長年 の戦乱で疲弊 した国内の経済 ・産業
改めて指摘す るまで もな く, 5
の再建 と党権力の地固めを何 よ りも優先課題 としていたのであ り, もとよ りそれ らを度外視 し
て他国 に気前 よ く援助を与 え る余裕 など無か った。中国 自身,基幹産業分野で ソ連 の技術援助
に圧倒的に依存 していた ことは周知の ところである し,顧問団の出身母体である人民解放軍 そ
の もの も, 当時副参謀長であ った毒栄華 の言葉を借 りれば, 「
全軍 の編制 はまだ統一 されてお
らず,武器装備 も捕獲 した戦利品ばか りで規格 もば らば らである等 々,全体 として非常 に雑然
たる状況 にあ った。 そのため軍 を近代化 し正規化す ることが求 め られていた」 ことか ら,特 に
防空対策 と空軍 の育成 に ソ連か ら軍事顧問を招 いて-か ら手 ほどきして もらうなど, 自身 もソ
連 の援助 に頼 った改革 に追われていた [
轟栄環 1
9
8
4:7
2
2
,7
2
9
]
。 それにまた, そ うした人民
解放軍が全力を注 ぐべ き戦線 は, まず は台湾であ り, そ して鴨緑江であ った。
毛沢東 自身,顧問団に 「
革命 には外部か らの援助が欠かせないが, そればか りに頼 ってはな
らない。 (
中略) 我 々の援助 には限度がある。 従 って自力更生の意義 の重要性, 自分で困難を
克服す る思想 を彼 ら [
ベ トナム共産主義者一木之内] に理解 させねばな らな い」 [
銭江 1
9
9
2:6
0
]
と訓辞 していた。 だが援助 を振 る舞 う余裕 にまだ乏 しか ったとい うだけで はない。 それ と同時
に, ベ トナムの抗仏闘争への派手 な関与 は,米国を始 め とす る西側超大国の反発 と軍事介入を
347
東南 ア ジア研 究
32巻 3早
誘引 しかねない, との不安 にか られていた とみて良 いであろう。 「自力更生」 の意義 をベ トミ
ン側 に周知徹底 させ よ, とい う毛の指示 もこうした不安 とあなが ち無関係で はない。 「自力更
生」 の強調 に続 けて毛 は,顧問団の活動 の機密性厳守を命 じ,次 のように念 を押 した。
この件 は格段 の注意 を要す る。 「
顧問団」 とい う名称を使 って はな らない。 別 の名称 を用
いる必要があ る。 とい うの も, もし帝国主義 の連中に我 々の顧問派遣 の事実 を嘆 ぎつけ ら
れれば,連中はあ りとあ らゆ る策略をめ ぐらして くるに決 まっているか らである。従 って
]
諸君 の行動 は何 と して も秘密 に しておかなければな らない。 [
同上書 :61
顧問達 は家族や友人 にさえ任務 の口外 を封 じられ, ベ トナム潜入後 も正体 を見破 られぬために
華人系住民 と言葉を交 わす ことも固 く厳禁 されていた [
陳慶 1
9
8
4:1
6
]
。
逼迫 した国内事情 をや りくりして まで援助 を差 し伸べた こと自体 は特筆 に値す る。 しか し,
一方で西側 をいたず らに刺激せぬよ う神経 を使 うとなれば,援助 の進 め方 に慎重 な手 さば きが
要求 され ることになろう。 この点 に関 し,第 1次 イ ン ドシナ戦争期の中国 のベ トミン援助 を総
Fr
a
nc
o
i
sJ
oya
ux) は, 「北京政府 は, アメ リカ或 いは西側大国の介入
括 した ジ ョワイ ヨー (
を招 くおそれのある過度 の援助 は避 けつつ, それでいてベ トミンの勝利を楽 にさせ るだ けの援
J
oya
ux 1
9
7
9:8
5
] と, うが った結論 を導 いている。
助 は与 え る, とい う術 に長 けていた」 [
尤 も北京 の指導部が こうした技術 な援助戦略を当初 か ら周到 な計算 に立 って進 めたか否か は,
そ もそ もかか る戦略を意識 していたか否か も含 め,依然仮説 として論ず るよ りはか はない。 し
か し劉小奇 が顧問団接見 の場で, 「ベ トナム革命 に早期 の勝利 は望 めそ うにない。 とい うの も
中
敵 は帝国主義者 だか らである。 少 な くとも準備 に 3年 はかか ると我 々は見積 もっている」 [
9
9
0:7
] と告 白 した ことに注 目 したい。 この発言 は中共首脳が, ベ
国軍事顧問団歴史縮写組 1
トナムの戦闘の或 る程度 の長期化 はやむを得 ない,少 な くとも腰著 した戦局 を一挙 にベ トミン
優勢へ と打開す るよ うな環境 を中国が率先 して短期間で整備す る予定 はない, と捉えていた こ
とを暗 に示唆 しているように も読 み取 れ る。 最終的 にはべ トミンに有利 な解決へ と推移す るこ
とが望 ま しいとして も,西側 の反発 を誘発 しないボーダー ライ ンを常 に晩みなが ら援助 を進 め
るとなれば,一気珂成 の勝利 を呼び込 む大量かつ短期集 中の援助 は始 めか ら期待 で きなか った
とも言 えよ う。
で は援助 の受 け手側 のベ トミンはどうだ ったのか。 これを簡単 に概観 してみ る。既 に早 い段
6年以降 にな ると中共軍
階か らベ トミン側 は中国国共 内戦 の行方 に並 々な らぬ関心 を寄 せ, 4
6年 2月ベ トミン
の進撃 がベ トナムの戦局 の好転 に繋 が る と期待す る議論が噴かれ始 めた。4
機 関誌 『
真 理』 は, 「中 国 情 勢 は イ ン ドシナ に少 な か らぬ 影 響 を及 ぼ す こ とで あ ろ う」
[
Lo
c
kha
r
t1
9
8
9:1
9
8
] と記 している。4
8年初頭 になると, ほぼ確実視 され るよ うにな った中
348
木之内 :中越 ソ 「
友好」成立の断面
国共産党 の勝利 が,世界革命一般 に, とりわけベ トナム革命 に巨大 なイ ンパ ク トを与 え るだろ
i
bi
d.
:21
9]。 チ ュオ ン ・チ ン総書記 は, 49年
う, との言及 が党 内 メデ ィアに次第 に増 えだす [
2月 『内部生活』誌上 に,党 中央第 6回幹部会議 (1月 1
4日∼ 1
8日開催) の結果 を敷宿 しつ
つ, 戦局 の対暗段階が 48年 か ら始 まった ことが会議で認定 された, と報告 した後 で こう述べ
た。 「
会議 は党 中央 に完全 に同意 し, (
中略) 中国革命 の偉大 な成功 と, その成功 の世界民主運
動 にたいす る影響, なかで もとりわ けわが抗戦 にたいす る影響 によって, われわれ は対峠段階
を短縮す ることが可能 にな った ことを,確認 した。 われわれ は積極 的 に総反攻 を準備 し,第三
段階 [
「
総反攻」をさす一木之内]に進 まなければな らない」 [
『
解放史 1』:
490-491
]
。
彼 らのい う 「
総反攻」 とは,毛沢東 を系譜的先縦 と しベ トミンも奉 じていた長期抗戦理論 に
於 いて, 「
撤退」, 「
対峠」 に続 く最終 の戦略段階を さす。 この段階で は, 戦術的 には前 2段 階
で中心的だ ったゲ リラ戦,運動戦 に代 わ って陣地戦 ない し通常型戦闘 の比重が増 し,戦闘 の主
体 はゲ リラ,民兵 か ら正規兵力へ と移 るか,或 いは前者 が後者 に再編成 され ると規定 されてい
た [
同上書 :464]。 じっさい 48年 8月 28日にべ トミン主力軍 の中核であ る第 308師団がベ ト
バ ックで陣容 を整 えたのを始 め, 48年後半か ら 49年 にか けて正規軍部隊の編制 が活発化 した
はか, ほぼ同時期 に フー ・トン ・トア, ソ ン ・キ ・コ ン等 の地点 で正規部隊投入 による通常戦
が約 30回 はど試 み られた とい う [
Loc
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t1989:216-217]。
ここで見過 ごせないのは, チ ュオ ン ・チ ンが上述 の報告で暗示 した通 り,総反攻 の呼 びか け
及 び正規軍編制 の着手 が, 中共勝利 の展望 と関連 づ け られて いることであ り,見方 によれば,
中国 か らの支援 を恰 か も予 め計算 に入 れて い るか の如 き措 置 とす ら思 われ る点 にあ る。 ロ ッ
カー ト (
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) は, これ らの措置 と中国革命礼賛 の党 内 メデ ィアへの登場 とい った
一連 の動 きは, む しろ中国 の援助 を積極的 に引 き出す ことを主 たる狙 い と していた との推定 を
下 してい る。 その論拠 と して彼 は, ベ トナムの戦局 に着 目す るな らばせ いぜ いまだ謬着状態で
あ ること, 48- 49年 の正規兵力参加 の通常型戦闘が敢行 されたの も殆 どはフラ ンスの空軍力
の手 の届かぬ北西 山岳部 に限定 され,依然 フランス軍 が優勢 を誇 って いた トンキ ン平野部での
正規軍創設 ・通常型戦闘 な どは問題外 であ った こと,要す るに総反攻 を云 々で きる客観 的な必
然性 に乏 しか った以上,総反攻準備 の号令 は何 らかの打算 を込 めた 「
作為的」方針 と解 さなけ
れば説明がつか ない こと,以上 を指摘す る。 その打算 とは,彼 によれば, 中国 の援助 を誘 い込
む ことに他 な らない [
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:21
9]。31
)っ ま り,総反攻準備 の論調 や正規軍編制 の動 きには,中国
31
) こうした解釈に傾いているのはロッカー トに限 らない。例えばデューカーも, こう記 している。
「[
1
9
5
0年から] ベ トミンの新聞雑誌に突如として毛沢東路線を礼賛する記事が氾濫 したことには,
何か しら作為的な配慮が潜んでいたと考えられる。--毛沢東モデルに対するこうした調子のいい
礼賛は,主 として中国共産党指導部に追従 してみせ,中国か らの継続的援助を促すために行われ
た, と結論することが可能である」 [
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]
。
349
東南 アジア研究
3
2
巻 3号
の援助の呼 び水,受 け皿 の役割が期待 されていた, と言 い換 えて もよいであろう。
もっともチュオ ン ・チ ンは, ベ トナム革命戦略の公式表明 とも言 うべ き論文 『
抗戦 はかな ら
ず勝利す る』 の中で, 絶反攻段階への移行時期 は, 敵側 (フランス) の戦意喪失,疲労, (
敵
の) 本国の厭戦気分 の蔓延, 等のほか, 「
世界の平和 と民主主義 の運動が新 しい大 きな成功 を
勝 ち取 った場合」 [
中共の勝利は明らかにこれに該当する一木之内]といった様 々な内外の要因の組
み合わせによって相対的に決 まって くるのであ り,物質的に劣勢で も総反攻移行 は可能 と論 じ
ている [
『
解放史 1』:
4
6
4
]
。 従 って腰著 した戦局のみを もって総反攻準備の言動 を 「
作為的」
と片付 ける必要 は特 にない。 ただいずれにせよ総反攻準備の動 きは,中共の援助を促す機会主
義的な目論見であったか どうかは別 として も,確実視 され る中共 の勝利を自 らの総反攻移行を
相対的に準備す る好材料 と認定 してみせ, これを積極的に活用せん とす る姿勢 の反映であ った
ことは否定で きないと思われる。
けれ どもベ トミン側が,中共か らの援助 の到来や中共 との軍事協力 に甘 い幻想 を抱 いていた
0年 2月毛沢東一行 と共 にソ連か ら北京 に戻 った
か といえば, 必ず しもそ うとは言えない。 5
ホ一 ・チ ・ミンは,当時北京 に滞在 していたベ トミン対外連絡部の責任者 ホア ン ・バ ン ・ホア
ンに, 「
現在中国 は多分野で我々に援助を提供す ると決意 して くれたので, 我々の当面の対外
活動 の拠点 は [
今 までの] タイではな く,中国に移転すべ きである」 と指示 した。 中共の援助
が調達で きなければ,対外活動の拠点を北京に移すか どうかなお検討 の余地がある, とで も解
釈で きそ うな発言 に続 けてホーはこう洩 らした. 「中国は解放 されたばか りなので, 彼 ら自身
9
8
7:2
5
4
]
。 この後 に仮 りに 「だか ら中国
も多 くの困難を解決 しなければなるまい」 [
黄文歓 1
が我 々に十分 な援助を与えて くれ ると過大 な期待をか けることはで きそ うにない」 との発言が
続 いたとして も, さほど不 自然ではない。
9年 2月,確実視 された中国共産党の勝利を総反攻準備 に関連 づけてみ
チュオ ン ・チ ンは 4
せ る議論 を著 した時, その傍 らで, 「中国に頼 ろ うとし, 自分 自身の努力に依拠 しない傾向」
が生 じつつあると注意を促 した上で, これを甚だ しい誤 りだ と断定 した [
『
解放史 1』:4
91
]。
これだけであれば, 中共の援助への期待 に耽 るあまり自助努力がおろそか となる傾向を戒める
単 なる綱紀粛正 と見 なす こともで きる。 しか しなが ら新中国 と友好を結 び中国に再三援助を無
0年半ばに至 って もなおチ ンは,「
何 よりも勝利 を欲す るな らば,我々自身 の努力
心 していた 5
を強化 しなければな らない。 それ こそが第 1の条件であ り,外国の援助 は二義的な もので しか
ない」 [
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9:2
31
] と述べていた。 名指 しは避 け一般論の体裁 はとっているが 「外
国の援助」 とはこの当時,中共のそれ以外 にあ り得ない。
このように自助努力を くどいはど力説 してみせたことは,彼 らが実際面で中共の援助 の意義
を過小評価 した ことを何 ら意味 しない。中国か らの援助でベ トミンの戦闘力が向上 したのは紛
れ もない事実であ った。ベ トミン指導部が中国か らの援助を重視す る反面でおそ らく危供 して
3
5
0
木之内 :中越ソ 「
友好」成立の断面
いたのは,外部 の援助 を盲信す る安直な心理的依存傾向が組織全体 に染み付 くことである。 じ
高性
じつ 50年前半 に一部 の中堅幹部が中国および ソ連か らの援助到来 に対す る過大 な期待 (
能 の航空機 の提供 など) に色 めきたっあま り,混乱が生 じた ことを, ベ トミン指導部 自身 も反
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:232-233]。 指導部 には, 援助が中国側 の都合でいっ何 どき縮小 ま
省 を込 めて認 めた [
たは停止 され るかわか らない, との不安 もあ ったので はなか ろうか。
当時のベ トミンにとって,現実 には中国 に援助を仰 ぐ以外 に戦局打開の選択肢 は残 されてい
なか った と言 えよ う。 とはいえ彼 らの中国への対応 は, それか ら想像 され るほど非対称的な関
0年 8月劉小奇 は訪越政治顧問団団長 に昇任
係 で もな ければ卑屈 で もなか ったよ うであ る。5
した羅貴波 に以下 のよ うに訓電 していた。 「いま中越両党 は接触 を開始 したばか りであ り, 両
者 はまだあま り了解 に達 していない。我 々は幾っか意見 を提示 しているが,彼 らはそれを ご く
一部 しか採用 しないか もしれない し,全 く採用 しない ことも有 り得 る。 しか しそれで も貴兄 は
決 して彼 らと論争 などせぬ よう望 む」 [
羅貴波 1
988:2
38]。
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やや時期 は後 にな るが, 1
952年 3月 3日米 国政 府 『
国防情 報分析 報告 Na
』 は, 「
今の ところ, ベ トミンと中国共産党の間に深刻 な乱蝶 s
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onが生 じた形跡 は確認で きていない」 [
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t1:56] と報告 した。 これ は同時 にまたアメ リカ
が, 中越両共産勢力の間 に乱蝶が生 じる可能性 を排除で きない とい う観点か らも中越関係 を観
察 していた ことを物語 っている。
確かに 「
深刻な」乳蝶が生 じていなか った ことは,第 1次 イ ン ドシナ戦争の終結時 まで (
更
にはその後 も)中国がベ トナムに援助 を続 けた事実で或 る程度実証済 み とも言 い得 る。 しか し
1
97
9年 中越紛争後 ベ トナム政府 は 『中国 白書』 に於 いて, 第 1次 イ ン ドシナ戦争 か らベ トナ
ム戦争 に至 るベ トナムの民族解放闘争 を, 中国 は専 ら自らの国益保全のためにのみ利用 した,
『白書』
]。3
2
) その記述内容 の正確性 の判断 はひとまず措 くと して, 当初
と激 しく噛みついた [
か ら中共の対 ベ トナム関与 に対 しベ トナム共産主義者が必ず しも満足 しきって はいなか った こ
0年 8月 の劉小奇 の訓電 は,
とだ けは推定で きそ うであ る。 それだ けで はない。上 に引 いた 5
意見 の強要 を控 えた中共 の鷹揚 な態度 の現れ とみるか, 中共の助言 を採用 しないことによって
如何 なる結果が生 じよ うとも中共 は一切関知 しないとす る責任回避 の現れかは解釈が割れよ う
が, いずれに して も, べ トミンが中国共産党 に対 し, たとえ対等 な関係 は主張 し得 なか ったに
せよ, 中国 に自在 に操 られ指導 され る客体 に甘ん じてはいなか った ことを想像 させ る当時の中
国要人 の数少 ない証言 の一 つに数え られ るのである。
3
2
) なお本文中で示 したような内容の中国非難は [
『白書』
] の随所に見 られる。
351
東南 アジア研究
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2
巻 3号
り に
1
9
5
0年以前 ホ一 ・チ ・ミン体制 に対 す るアメ リカ政府 の評価 は必ず しも一義 的 に定 ま って
はいなか った。 ベ トミンの素性が本質 において共産主義であ ることを疑 う者 はいなか ったが,
同時 に一方 で, ベ トミンは果 た して単 なるソ連 の回 し者 なのか, と疑問視 させ る材料 も揃 って
いたか らである。 即 ち, ホ-が民族主義-の傾倒 を強調 していること,彼が アメ リカを賞賛 し
た ことさえあ り自 らの共産主義的性格 はアメ リカ と友好関係 を結ぶ上で何 ら障害 とはな らない
と米政府関係者 に告 白 した こともあ ること,東西対立が緊迫化す る過程で彼が中立を標摸 して
きた こと, ベ トミン体制内には非共産分子 も混 じっていること, そ してなかんづ くべ トミンと
9
4
7年 7月に- ノイ
モスクワの接触が見当た らない こと, 等であ る。 これ らを基 に, 例えば 1
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n) が本省 に宛てた報告 のよ うに, アメ リカ
駐在 アメ リカ領事 オサ リバ ン (
がベ トミン政府 と理性的な関係 を取 り結べ る可能性 は大 いにある,少 な くともベ トミンが共産
陣営 に完全 に帰属す るのを防止す るだけの影響力 をアメ リカが行使す る余地 は十分 あ る, とす
る見解 も米政府部 内には存在 した。 しか し以後 の歴史が示す通 り, こうした意見 は採択 され る
ところ とはな らず,結局 の ところアメ リカは, ベ トミンの共産主義性か ら可能性 と して導 き出
され る最悪 の事態,即 ちベ トナムに ソ連 と緊密 な同盟 を組んだ共産主義一元支配体制が誕生す
9年 1
0月の共産中国の成立,
ること, これを中心的前提 とした政策形成- と傾斜 して行 く。 4
翌年 1月 の中 ソによるベ トミン承認 は, 同年 2月の中 ソ友好同盟相互援助条約 の締結 と相 まっ
て, ベ トミン評価 を巡 る米政府内のあ らゆる迷 いにとどめを刺 した。 その過程で, ホー とモス
クワの間 の観察 されて きた接触 の欠如 も, 両者 の疎遠 さの証 しとい うよ りも, む しろ逆 に,
ホ∼がモスクワ仕込みの筋金入 りの革命家であ るため, ソ連がいちいち接触 して指導す る必要
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7:
31
5-31
7
]。
などない程 だか らだ, との解釈 に逆転す る [
9
5
0年 当時の中越 ソ関係がその実 いた って冷 めた関係であ った と殊更 に誇張
しか し本稿 は 1
す るつ もりもな く, ま してや三者が対立 していたなどと逆説 を弄す る意図 もない。 む しろ全体
と してみれば友好関係 として機能 した事実 に依然 として変わ りはない。 ベ トナム自身,中国を
こきおろ した 『中国 白書』 に於 いてす ら, 「中国 はベ トナム人民 の抗仏戟争 の末期 に, ベ トナ
『白書』:
31
] と認 めて もいる。
ムに最 も多 くの武器や軍事物資を援助 した国であ った」 [
しか しなが ら朱建栄 は 『
毛沢東 の朝鮮戦争』 の中で,元中国人民解放軍幹部 の親族 に して朝
鮮戦争研究者 (
名前 は伏せ られてい る)か ら,次 のよ うな証言 を直接聞いた と紹介 している。
●●●●●●●●●
「当時 [
朝鮮戦争勃発時, つまり 1
9
5
0年一木之内], 社会主義国間の関係, 特 にソ連 とア ジア社会
主義国家 との関係 は,西側が宣伝 したよ うに, スター リンの命令一下,誰 もが服従す るとい っ
9
91:
3
3
]
。 (圏点
た関係で はなか った」 [
朱建栄 1
352
木之 内)
木之内 :中越 ソ 「
友好」成立 の断面
これ は 50年 2月 1日の アチ ソン声明 な どによ って 「
公言」 された米国 の 「
一枚岩」 的中越
ソ関係像 にはど遠 い。 また本論 において も, 中越 ソ 「友好」関係 が共産主義 とい う共通性 のみ
か ら機械的 に演揮 され る関係で はなか った ことを確認 して きたっ もりであ る。 その意味で は限
定 的な友好関係 であ った。 もっとも今 日の時点か ら遡及 して過去 の中越 ソ団結 の神話 を修正す
るのはた易 い。 しか し当時か ら既 に西側 の一部 に も中越 ソの団結 に疑 問符 を置 く観察がみ られ
たに も関わ らず, それが政策, と くに米国 のそれ に有効 に結実 した様子 もな く,大概 は反共封
じ込 めの大勢 に飲 み込 まれた ところにベ トナム戦争へ と発展す る後 の悲劇 の一因 はあ った と言
え るのか も知 れない。 49- 50年 当時, ア ジアの革命 への影響力を巡 る中 ソ間の乳蝶 の可能性
を読 み とろ うと した一部 の観察で さえ も, そ うした軋蝶 それ 自体 は,西側 に好都合 な 「
敵失」
にな るどころか, 中 ソが勢力拡張 を張 り合 うことで却 って アジア共産化が加速 され ると推測で
き る以 上, 西 側 と して は む しろ尚一 層 の警 戒 を要 す る と論 じて い た [
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8]。 共産主義 の脅威 を ソ連 の脅威 か ら
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区別 した点 で慧 眼 と して も,共産主義 を一様 に危険視 した限 りで中越 ソを一体視 す る立場 と案
外大差 はなか った とも言 えよ う。 対象 を観察す る過程 で は対象内部 の多元性 を一定程度見極 め
なが ら,結局 は単純 で硬直 した一枚岩的共産主義観- と収束 してゆ く,或 いは収束せ ざるを得
なか った政策形成 プロセ スの検討 は本稿 の 目的を越 えているので ここで は触 れない。 ただ し当
時中越 ソ側 自身 も自陣営 のイデオ ロギー的団結 を内外 に印象づ けるべ く意図的 に盛 んなキ ャン
ペー ンを展開 していたのだか ら, アメ リカの過剰反応 やその政策 の硬直性 ばか りをあげっ らう
のは失 当で もある。
最後 と して,残 された課題 と展望 を幾 つか簡単 に確認 してお きたい。本稿 で は,成立 当初 の
中越 ソ関係 の理解 に, 中国側資料 を活用す ることによって新 たな知見を追加 で きる可能性 を堤
示 す ることに も努 めた。 しか し利用で きた資料 はまだ十分 とは言 えない し,利用 した資料 その
ものに も更 に厳密 なテキ ス ト・ク リテ ィークを加 え る必要があろ う。 また中越 ソ関係像 の理解
の精度 を高 め るためには, ベ トナム側 と (旧) ソ連側 の原資料 を積極 的 に発掘す ることも今後
は要求 されて くる
。
それ とい うの も,第 1次 イ ン ドシナ戦争 に関わ る政策形成過程 を記録 した
公文書 の類 は, ベ トナム側 のそれ も (旧) ソ連 のそれ も従来 アクセ スす ることが事実上不可能
であ ったが,最近 にな って依然厳 しい制約付 きなが ら徐 々に閲覧が可能 にな りつつあると聞 く
か らで あ る。 未公開 だ った資料 に こそ真実 が あ る と思 い こむ安易 な 「
一次資料 オ ブセ ッシ ョ
ン」 に陥 る ことは禁物 だが, 資料公開の緩和が進 めば中越 ソ関係史 に も新 たな光 が当て られ る
ことであろ う。
353
東南 アジア研究 3
2
巻 3号
謝
辞
本稿執筆 に当た り,石井修,藤原帰一,五島文雄,松岡完,玉田芳史,朱建栄の諸氏か ら貴重な助言 と
教示を頂 いた。 また資料収集では,松下国際財団研究助成金な らびに文部省科学研究費重点領域研究 「
総
合的地域研究」 に経費 を仰 いだ。 ここに記 して謝意を表 します。
参
考
文
献
刊行物略吉
己称
ベ トナム社会主義共和国外務省 (
梶)
.『中国白書 - 中国を告発す る』
『白書』:
『
解放史 1』:アジア ・アフ リカ研究所 (
編)
.『
資料ベ トナム解放史 1』
『
毛沢東文稿』:中共中央文献研究室.『
建国以来毛沢東文稿 第 1冊 1
9
4
9年 9月-1
95
0年 1
2月』
『
集成』第二巻 :日本国際問題研究所中国部会 (
編)
.『
新中国資料集成』第二巻.
『
集成』第三巻 :
(
編)
.『
新中国資料集成』第三巻.
CUSSDCF:U.
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響庭孝典 ; NHK取材班. 1
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.『
NHK スペシャル 朝鮮戦争 - 分断 3
8度線の真実 を追 う- 』 東
京 :日本放送出版協会.
97
0
.『資料 ベ トナム解放史 1』東京 :労働旬報社. (
論文内引用および脚
アジア ・アフ リカ研究所 (
編)
.1
注では 『
解放史 1』 と略記)
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.『陳廉 日記 (
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』北京 :解放軍出版社内部発行.
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古 田元夫. 1
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.『ベ トナム共産主義者の民族政策史 - 革命の中のエスニシテ ィ』東京 :大月書店.
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45ページ所収 東京 :日本国際問題研究所.
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.「
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』北京 :解放軍 出版社.
東栄環 .1
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編). 1
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.『
新中国資料集成』第二巻.東京 :日本国際問題研究所. (
論文
内引用および脚注で は 『
集成』第二巻 と略記)
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.『
新中国資料集成』 第三巻. 東京 :日本国際問題研究所. (
論文内引用および脚注では
『
集成』第三巻 と略記)
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4
. 『モスクワと中国共産党』現代史研究会 (
釈)
.東京 :恒文社. (
原著 Nor
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編著). 1
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.『東南 アジアと国際関係』東京 :晃洋書房.
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.『
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. 『朝鮮戦争 と中 ソ関係』 林建彦 ;小林敬爾 (
訳)
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. 『ア メ リカ の 失 敗』 太 田一 郎 (
訳)
. 東 京 :毎 日新 聞 社. (
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訳). 東
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論文内引用 および脚注では 『白書』 と略記)
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. 『フランス現代史 Ⅱ』野 口名隆 ;高坂正義 (
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』 東京 :東衷大
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.『
建国以来毛沢東文稿 第 1冊 1
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49年 9月-1
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0年 1
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献 出版社内部発行. (
論文内引用および脚注で は 『
毛沢東文稿』 と略記す る)
9
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0
. 『中国軍事顧問団援越抗法闘争史実』北京 :解放軍出版社内部発行.
中国軍事顧問団歴史編写組. 1
朱建栄. 1
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毛沢東 の朝鮮戦争』東京 :岩波書店.
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北京周報』
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. 『中国人民解放軍歴史辞典』北京 :軍事科学 出版社.
中国人民解放軍歴史辞典編委会 (
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