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第9章 新聞を通したムゼウムプレイン議論 1.

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第9章 新聞を通したムゼウムプレイン議論 1.
第9章
第9章
1.
新聞を通したムゼウムプレイン議論
ムゼウムプレインの新聞議論のはじまり
1980 年代に入るとムゼウム通りを起点にしたハーグへの高速道路開発のこれ以上の推進は断念され
た。1987 年 1 月に市の都市計画の助役が「構想だけれども国立博物館の地下にトラムを通したい。し
かし上物は国で土地は市のものであり、また市民や館長の反対でなかなか難しい」と語った1。この頃
からムゼウムプレイン空間やその歴史に関する新聞報道が各新聞で増えている2。同年 7 月にパロール
紙はムゼウムプレイン空間の 20 世紀について特集を組んだ3。また、NRC 紙の建築や文化面に関する
記者であったファン・ローイは、NRC 紙が連載していた広場に関するコラム「プレイン」にムゼウム
プレインへの関心を国民的議論にすべく記事を書いた。これは紙面の約半分を占める記事で、彼は 1925
年の新オペラ座競技設計や 1983 年が博覧会の為にこの場所に競技設計が初めて開催された 100 年目に
あたることに触れた後、
「私としてはこの場所を文化施設やカフェ等のある文化の中心にしたい。色々
なものが集まったアムステルダムの代表的な文化中心になれば散策も楽しくなると思う。皆さんはど
う思いますか。もう一度競技設計をしましょうか。」という問いかけで締めくくっている(Fig. 8.1.1)4。
Fig. 8.1.1
1987年7月のNRC紙
に掲載されたファン・ローイの
記事
181
第3部
続けて、ファン・ローイは 1988 年 4 月 29 日の NRC 紙の文化面に、ムゼウムプレインへの競技設計
の告知を掲載した。実はファン・ローイがこの競技設計の企画を始めた時には、ムゼウムプレインの
実際の開発計画はまだ何処にも持ち上がってはおらず、競技設計後に計画が本格化する見通しもなか
った。ファン・ローイも、この競技設計は半分遊びで、この議論は面白くなるだろうという気持ちだ
けで始めたと述べている5。ただ彼は、議論が盛り上がることで何か本格的に動き出せばよいと考えて
おり、競技設計を真剣に企画したとも言っている。実は何人かの知り合いの建築家には、もし彼がこ
んな企画をすれば作品を応募してくれるかどうか、と話を持ちかけてみて、そうなれば応募するとい
う答えを確認してから大々的に競技設計の開催を新聞に発表したとういう6。
彼は、同年 8 月の NRC 紙に競技設計の締切りの延長告知を出したが7、そこにはムゼウムプレイン
に求める要件が幾つか挙げられている。まず、ムゼウムプレインが年間通して楽しめる場所になる、
理想的な計画を募集していることを告げている。競技設計の要求項目には、
「最短の高速道路」つまり
ムゼウム通りは無視してよいと書かれており、その他要件としては最低 1500 台分の乗用車と 20 台分
のトロールバスの地下駐車場の設置が求められていた。加えてステイデリック・ムゼウムの入口を広
場側にも設けることや木々をなるべく残すこと、大きな行事の使用に耐えうること等が要求項目とし
て掲載されていた。募集部門は 2 部門設けられ、1 つは建築・都市計画の専門家や学生部門で、もう 1
つがそれ以外の人々に開かれた部門であった。審査員には彼建築家のヨー・クネン(Jo Coenen)、後に
ムゼウムプレイン計画の諮問委員にもなる都市計画家のフールトセン、国の社会文化計画局長のファ
ン・デル・スタイ(A. van der Staay)、建築・都市計画・芸術の月刊誌『アーヒス(Archis)』編集長のフ
ァン・ダイク(H. van Dijk)、そしてファン・ローイといった、その分野での重要人物が名を連ねてい
る。また年末にはステイデリック・ムゼウムでの応募作の展覧会が企画されていることも示されてい
る。そして、この競技設計において重要なのは賞金よりも、作品の出来により本格的な競技設計が行
われる可能性があることだと書かれていた8。
2.真剣な「遊び」としての 1988 年の競技設計:空間の価値の提示と共有
1988 年の NRC 紙で呼びかけられたムゼウムプレインの競技設計は盛況で、200 点以上の応募があっ
た。そのうち 180 点以上の作品がステイデリック・ムゼウムに展示された9。建築家や芸術家に限らず、
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一般市民や音楽家、活動家など実に様々な人がそれぞれの考え方を反映させた提案を送った。競技設
計の展示部門に協力したエベリンクもこの競技設計は一種の祭りだったと述べている。オランダ中か
ら多数の作品が集まり、実際的な計画提案から芸術作品としてこの場所を風刺するものまで様々だっ
たと回想している10。当初はエベリンクが展示計画を練っていた歴史部門の展示、つまりムゼウムプ
レインに対して今までに提案された計画に関する展示も併せて行う予定があったが、競技設計への応
募数の多さに歴史部門の展示は中止となるほどだった11。
ファン・ローイは自らが企画した NRC 紙のムゼウムプレインの競技設計とその後について、ドキュ
メンタリー番組を製作した。このドキュメンタリー番組は 1999 年にテレビ゙局 AVRO で放映されたが、
その番組の VTR からは建築家から芸術家、各種活動家など実に多様な人々からの提案があったことが
わかる。このドキュメンタリーには 1988 年の NRC 紙による競技設計の入賞者、入賞はしなかったが
Fig. 8.2.1
1988年のNRC紙主催のムゼウ
ムプレインの競技設計の結果
を伝える新聞号外形式のカタ
ログより最優秀作の3作
183
第3部
興味深い提案者達(作曲家や森林愛護者、巨大駐車場案など)が出演している。また競技設計後に提
案を発表したハイネケンビールのハイネケン(A.H. Heineken)にかわって、ハイネケンビール専属の建築
家がその案について解説している。さらに、やはり競技設計後にムゼウムプレインの計画をしたヴェ
バー(C. Weeber 1937-)も出演している。その他、建築家のアレツ(W. Arets 1955-)、当時のステイデ
リック・ムゼウム館長フクス等が出演している。水、緑、石など様々な素材で構成される空間や、夜
になると光で広場が浮かび上がる案の他、旧自動車道を強調し現状を批判的に取り扱うものなどがあ
る。また、活動家による鳥のための聖域を作る提案とか、作曲家による 2000 人が鑑賞できる野外オペ
ラハウスの案もあった。ムゼウムプレインの中心にパリのルーブル美術館の前のガラスのピラミッド
を建てるべきだと述べる者もいた。建築家のアレツは、この周りに高層ビルを建てたいと言い、当時
のステイデリック・ムゼウムの館長だったフクス(R. Fuchs)はサンティアゴにあるような広場がいいと
述べる。VTR の中でそれぞれの出演者はそれぞれ確固たる自信を持って自分の提案を意気揚々と解説
している。
この競技設計の結果についての新聞の号外形式のパンフレットには、3 作の優秀作品と 14 作の入選
作が掲載されている(巻末資料)12。入賞作品は基本的にムゼウムプレイン空間を開放的されたオープ
ンスペースとするものが選ばれている。それらの作品は、方法はどうであれムゼウムプレイン空間が
なるべく広い開かれた空間となるものである(Fig. 8.2.1)。ムゼウム通りを大きくデフォルメし「最短の
高速道」の記念碑として残すという批判的な作品も選出された(Fig. 8.2.2)。この作品はユトレヒト中央
市立博物館が購入した。応募作の中にはムゼウムプレイン空間の中に建築を建てて地域を開発する
Fig. 8.2.2
「世界で最も短く、乱暴な自動車道へ
の誉れ高き暗示」
J. Körmeling, J. van IJzen
1988 年
旧ムゼウム通りを批判的に扱った作
品。入選作で、ユトレヒト市立博物館
が買い取った
184
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案もあったというが、そのようなものは選ばれていない。審査員を勤めたファン・ローイとフールト
センによるとこの競技設計で彼を含む審査員達が行ったのは、
「空っぽ」であることがこの空間に必要
な価値であることを示し、象徴的に都市を分断していたムゼウム通りを解消し、アムステルダムとム
ゼウムプレイン空間を再び繋ぐことだったという13。
3.競技設計後の展開:新聞紙上でのムゼウムプレインに対する意見交換
競技設計後、事態は動き始めた。競技設計の翌年の 1989 年 4 月 1 日には、ハイネケンビールの経営
者のハイネケンが「私はアムステルダムに生まれ、この街を愛している」からと、1 案をパロール紙に
発表した14 (Fig. 8.3.1)。これは 1 面を占める特集記事で、これがエイプリルフールだということを考
えても、卓越した経営者として有名で、社会的な尊敬を集めていた彼の提案が新聞に大々的に載るこ
とは、この話題をさらに盛り上げる効果があったのではないだろうか。
Fig. 8.3.1
パロール紙が特集したハイネケ
ンのムゼウムプレインへの提案
185
第3部
また、この年の年始にはコンセルトヘボウ、ステイデリック・ムゼウム、ファン・ゴッホ美術館の館
長らが話し合い、ステイデリック・ムゼウムの拡張とムゼウムプレイン計画をヴェバーに依頼した。
6 月にヴェバー案を提出された市の都市計画の助役は、「まず予算を検討しないと何とも言えない。
夏以降に都市計画部と諮問機関が一緒に検討できるだろう」と答えている15。ヴェバー案では、ステ
イデリック・ムゼウムの拡張部分がコンセルトヘボウ前のファン・バールレ通りに沿っていっぱいに
拡張され、ムゼウムプレインは国立博物館とステイデリック・ムゼウム拡張部分の間に建築に囲まれ
た、閉じた広場として設けられる。広場にはファン・ゴッホ美術館の拡張部である新棟の建設も予定
されており、国立博物館とステイデリック・ムゼウム拡張部の中心軸の交差点には記念碑が設置され
ている16。コンセルトヘボウとムゼウムプレインを繋ぐ若干の緑地はあるが、両者はステイデリック・
ムゼウムの拡張部分によって視覚的に切り離されている(Fig. 8.3.2)。
Fig. 8.3.2
C. Weeberによるムゼウムプレインへ
の提案
1989
(上)配置図
(右)模型写真
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巨大なステイデリック・ムゼウム拡張部分を含むヴェバー案への批判や反対意見もあり、それらも
また新聞に掲載された17。ステイデリック・ムゼウム、ファン・ゴッホ美術館は熱心に拡張を望んで
いたが、同年 10 月の市の美術に関する助役の意見は、美術館の拡張の可能性はあるが、その計画とし
て、ヴェバー案は十分ではないと芳しくないものであった18。このように、この場所を都市の中心と
して形づくろうという提案と意見の発表、行政への働きかけが積極的に行われつつも、現実的な判断
は何も下されることなく状況は一進一退ではあった。再び混迷に向かいそうな気配はあったが、1990
年にアムステルダムの新行政区として南区が発足したことによって、ムゼウムプレインは、ある概念
に基づいた、整えられた空間として形づくられる可能性が現実的になってきた19。また、例えばパロ
ール紙が 1991 年に入っても続けて様々な趣向を持った提案図を掲載した記事を何度か組みつづけたこ
とからも解るように、この場所がどうなるべきかと言う関心は衰えることはなく、この議論に様々な
立場の人々が参加しつづけようとしていたといえる(Fig. 8.3.3, 8,3,4)。
Fig. 8.3.3
1991年にパロール紙で組まれた新しいム
ゼウムプレインへのアイディア特集の記
事の1例(上・左下)。
NRC紙に投稿されたC.Weeberのムゼウムプ
レイン提案に対する意見や批判(右下)。
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第3部
小結
1980 年代にはムゼウムプレインへの高速交通網の拡張計画は断念され、新聞はムゼウムプレインに
おこった出来事や歴史などを特集しはじめた。その中でも、ジャーナリストで建築に関する記事を書
いていたファン・ローイは NRC 紙面を使って、この特別な場所「ムゼウムプレイン」の再考を促し、
魅力的な都市空間とするために世論に訴える記事を書いた。さらにファン・ローイは、ムゼウムプレ
インという都市空間の再構成が本格的に行われることを画策し、NRC 紙を通じて 1988 年のムゼウムプ
レインの提案競技設計を行った。そのため準備段階から建築家達に声を掛け、審査員には影響力のあ
る建築家・都市計画家・国・雑誌方人物を審査員として選び、また参加者にステイデリック・ムゼウ
ムでの展覧会を保証した。この提案競技設計には盛況で、全国から専門・専門外問わず様々な提案が
集まった。
この競技設計を通して審査員達が行ったのは、
「空っぽ」であることがこの空間に必要な価値である
ことを示し、象徴的に都市を分断していたムゼウム通りを解消し、アムステルダムとムゼウムプレイ
ンとなる空間を再び繋がれることにこの空間の持つべき質であることを示し、議論することでその持
つべき空間の価値観を不特定多数からなる大衆と共有することであった。
この競技設計は、かなりの話題性があり、反響を呼んだ。この競技設計以降にもつづけて、この空
Fig. 8.3.4 1991年にパロール紙で組まれた新しい
ムゼウムプレインへのアイディア特集の記事の例
(左)及びNRC紙に投稿されたC.Weeberのムゼウム
プレイン提案に対する意見や批判(右)。
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第9章
間をオランダの首都の、そしてアムステルダムの中心広場として、オランダらしいものにしようとい
う動きが方々で起こりだした。この時点では、この場所の建設が行政側からはっきりと示されること
はなかったが、新聞や雑誌にはムゼウムプレインに起こった出来事に関する特集や、ムゼウムプレイ
ンがどのような場所になるべきかという提案や意見、批判などが掲載され続けた。ステイデリック・
ムゼウム、コンセルトヘボウ、ファン・ゴッホ美術館というムゼウムプレイン上の文化機関は本格的
にムゼウムプレインと各文化施設の改装計画にのりだし、新聞や雑誌ではこの空間で起こった歴史的
出来事に関する特集を組み、また一般からのムゼウムプレインに対する意見を募ったり、様々な提案
を特集として掲載したりしつづけていた。この新聞を発端にした議論の盛り上がりは、ついにムゼウ
ムプレインを大衆の多様な活動力を反映し、
「変化していくこと」を文化的優位性とするオランダの首
都にふさわしい空間づくりを本格的に実行に移すことを前提にした組織を発足させるに十分な力を持
つまでに発展した。1990 年に、ムゼウムプレインを含む新しい行政区として南区が発足した。南区が
新行政区の初期の仕事として、この未完の空間を完成させようと本格的に取り組んだことで現実味を
帯びてきた。
189
第3部
1
Max Pam, Een tram onder het Rijksmuseum door,Vrij Nederland, 24-1-1987.
2
ステイデリック・ムゼウムや ARCAM はムゼウムプレイン改装計画に関する雑誌記事も収集しているが、これ
に関する記事は 1987 年ごろから見られはじめる。新聞ではフォルクスクラント紙、トラウ紙、NRC 紙、パロール
紙の 4 紙(以下 4 紙)に多く見られる。これらの 4 紙はムゼウムプレイン特集を何度も組んでいる。年にもよる
が、前記 4 紙中最も掲載回数が多いのはパロール紙で約 3~4.5 割、ついで NRC 紙が 2~4 割を占め、フォルクスク
ラント紙、トラウ紙はほぼ同程度の頻度で掲載されている。4 紙ともに報道記事の他、場所の歴史、歴代の提案、
新たな提案、批判等の特集記事を幾度も組んでいる。また、文化面における書き方は、読者に疑問を投げかけ、
挑発的な表現をするものもある。その他の新聞で記事が見られるもので、代表的なものは、アルヘネン・ダグブ
ラッド、テレグラフ、アムステルダム・スタッドブラッド゙、エコー等がある。
参考に SM 図書室所蔵の AMP 改装計画に関する 1999 年迄の新聞記事の回数を集計する。[/]内の数字は前が 4 紙、
後ろが他紙の合計。1987 年[4/3]、1988 年 [17/2]、1989 年[45 /5]、1990 年[11/2]、1991 年[25/1]、1992 年[23/3]、1993
年[36/14]、1994 年[36/7]、1995 年[42/8]、1996 年[31/9]、1997 年[33/16]、1998 年[22/10]、1999 年[44/25]
3
De Kortste snelweg van West-Europa Het PAROOL, 4-7-1987.
4
Max van Rooy, Op, ten strijde tegen een onherbergzame vlakte!, NRC-Handelsblad, 29-7-1987.
5
ファン・ローイと筆者の 2006 年9月の面談より。
6
ファン・ローイはムゼウムプレイン空間がオランダにとって大切な場所なのに、計画のないまま放置されてい
たし、彼自身ムゼウム通りはアムステルダムを分断していると感じていたと述べる。また、オランダの新聞は読
者に対して「最も醜い建築を選ぶコンペティション」や建築や都市計画への意見を求めることはあるが、彼の行
ったような真剣な競技設計を新聞が主催することは当時としても珍しかったと述べている。面談 2006 年 9 月。
7
Max van Rooy, Verlenging inzendtermijn Museumplein-prijsvraag, NRC-Handelsblad, 19-8-1988.
8
Max van Rooy, Verlenging inzendtermijn Museumplein-prijsvraag, NRC-Handelsblad, 19-8-1988.
9
Arend Evenhuis, Plein gezocht en niet gevonden, Trouw, 3- 11- 1988.
10
ファン・ローイの製作した番組は 1999 年にテレビ゙局 AVRO で放映された。また、エベリンクの記憶による
と OMA(オランダ語で oma はおばあさん)は自らの事務所名をもじって屋根の上に大きく OMA と書かれた高齢
者用ケアハウスを提案し、他にオベリスクを建てる案もあったと述べている。
11
展示の代わりその内容は冊子にして配布された。Hans Ebberink & Birgitte de Maar, op.cit.,である。
12
Ideeën voor een plein 28 oktober- 27november, Stedelijk Museum, pp. 1-8. 競技設計の展覧会時に配布された新聞紙
形式のパンフレット。選評や入賞作が掲載されている
13
また、フールトセンは、マーストリヒト市の歴史地区の都市計画に関りながら、当時の都心再生という理由の
スクラップ&ビルドの風潮に対して、19 世紀後期に造られた都市空間の豊かさを訴える講演を方々で行っていた。
オランダ゙にとって 19 世紀的近代都市建設は短い期間であったし、その価値の 1 つが皆が集まる為の広いパブリ
ックスペースや都市緑地のネットワークだが 70 年代頃までは重要視されていなかったと述べている。
14
Frans Peeters, A.H. Heinekenplein, Het PAROOL, 1- 4- 1989.
15
Tanja van Bergen, Een echt contragewicht voor het Rijksmuseum, Het PAROOL, 13-6-1989.
16
Gerrit van der Plas, Amsterdam heeft de open ruimte van het Museumplein hard nodig, Het PAROOL, 28-8-1989.
17
Brieven Museumplein, NRC-Handelsblad, 23-6-1988 ではヴェバー案は CG 周辺にあまり配慮が見られず、この部
190
第9章
分が祝福された空間(ヴェバー自身の解説から引用)となっていないと述べ、
「ヴェバーが設計者として選ばれた
ことをどう思うか」という問いを 6 月 14 日にし、6 月 23 日の投稿欄に2名分の批判的な意見を載せている。また、
Gerrit van der plas, Amsterdam heeft de open ruimte van het Museumplein hard nodig, Het Parool, 28-8-1989 は、建物を建
てることでなく空間に配慮すべきだから、SM 拡張部がもう少し小さい方がいいと指摘している。
18
Annemiek Paping, Stedelijk en van Gogh willen uitbreiden- Grooste plannen voor Museumplein. Telegraaf, 5-Okt-1989.
に掲載された市の助役 M. Luimstra の見解。
19
アムステルダム市の行政区は 1981 年に Noord と Osdorp の 2 地区が導入されて以来、何度か分割再編が行われ
ており、南区の発足した 1990 年には 10 以上の分割が行われた。現在は 14 の区とアムステルダム中央区が管轄す
る1地域の計 15 地区に分かれている。各区は以前の市が持っていた多くの権限を受け継いだが、その中には区内
の建築物建設等や都市開発、文化政策等の権限も含まれている。
図版出展
8.1.1 Max van Rooy, Op, ten strijde tegen een onherbergzame vlakte!, NRC-Handelsblad, 29-7-1987.
8.2.1 Ideeën voor een plein 28 oktober- 27november, Stedelijk Museum, pp. 2-3 1988 年の競技設計の展覧会時に配布され
た競技設計の結果や審査員評の掲載された新聞紙形式のカタログより抜粋。
8.2.2 Arend Evenhuis, Plein gezocht en niet gevonden, Trouw, 3-11-1988.
8.3.1 Frans Peeters, A.H. Heinekenplein, Het PAROOL, 1- 4- 1989.
8.3.2 (配置図) Tanja van Bergen, Een echt contragewicht voor het Rijksmuseum, Het PAROOL, 13-6-1989.
(模型写真)
Weeber noemt plan voor Museumplein rommelig, , Het PAROOL, 4-12-1990.
8.3.3 (左)Dirk Sterenberg, Alternatieven voor het Museumplein, Het Parool, 08-4-1991
(右)Arthur Staal, Het Museumplein volgens Staal, Het Parool, 04-5-1991
8.3.4 (左)Fred Bos en Jan Overeem,Een Grootstedelijk Ruimt, Het Parool, 16-06-1991
(右)NRC 紙の BRIEVEN(投稿欄), 23-6-1989
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第3部
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