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第4回「平成の松下村塾」(三世代交流教育講座)

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第4回「平成の松下村塾」(三世代交流教育講座)
第4回「平成の松下村塾」(三世代交流教育講座)
平成26年1月25日(土)から1月26日(日)にかけ、セミナーパーク及び現地にお
いて、第4回「平成の松下村塾」(三世代交流教育講座)を開催しました。
25日は、現地学習として宇部市を訪れました。また、夜には、交流プログラムを行い、
世代を越え、一緒に活動しました。26日には、セミナーパークにおいて集中講義を行いま
した。
1月25日(土) <第1日>
1
開塾行事
山口県セミナーパークにおいて、「平成の松下村
塾」(三世代交流教育講座)の開塾行事を行いまし
た。藤井哲男山口県総合企画部長から、あいさつが
ありました。
2
現地学習
現地学習として、宇部市にある福原芳山(ふくばら
よしやま)ゆかりの地を訪問しました。
(1)宇部市学びの森くすのき
唐沢陽司(からさわようじ)館長さんから、福原氏
は、代々宇部の発展のために尽くしてきたこと、その
中でも、最後の領主であった芳山は、石炭の発展に大
きく貢献したことなどについてお話をしていだだきま
した。
引き続いて、担当の石川健(いしかわたけし)さん
から、福原芳山は、福原越後(ふくばらえちご)の後
を受けて領主となり、
「四境戦争(しきょうせんそう)」
で戦ったこと、イギリスで法律を勉強した後、帰国し
て、その力を日本の法律のために発揮したことなどに
ついてのお話がありました。
(2)宇部興産専用道路
宇部興産専用道路は、美祢市で採掘された石灰石と伊佐セメント工場でつくられたセ
メントの半製品(クリンカー)を、宇部市の沖の山・西沖石灰石センターや宇部セメン
ト工場へ専用トレーラーで運搬するため建設された宇部興産の専用道路です。全長28.
27kmに及ぶ、日本一長い
私道として も知られ ていま
す。
福原芳山の遺志がその後の
宇部の石炭産業発展の礎とな
ったことから、現在の宇部発
展のシンボルともなっている
宇部興産専用道路の一部を通
行し、専用トレーラーや宇部
興産の工場群などを車内から
見学しました。
-1-
(3)琴崎八幡宮
① 琴崎八幡宮と福原氏の関係
琴崎八幡宮宮司の白石正典(しらいしまさのり)さんに、琴崎八幡宮と福原家の関
係などについてお話していただきました。
宇部領主福原氏は社領の寄附や社殿の修復を行うなど、代々琴崎八幡宮を厚く崇敬
していたそうです。芳山の養父である福原越後も国事の遂行を祈願するなど、常に琴
崎八幡宮を参詣していました。越後は、「禁門の変」の責任を取って自刃した半年後
の慶応元年(1865)5月に、琴崎八幡宮に神様として祀られましたが、その時の祭
主が跡継ぎの芳山であったとのことです。
② 惜別の書
宇部市の白木家に保管されている芳山直筆の書を白木優子(しらきゆうこ)さんに
お持ちいただきました。そして、書の内容についての説明を伺いました。
(4)宇部護国神社
宮司の野村好史(のむらよしふみ)さん
から、宇部護国神社の成り立ちや福原家と
の関係などについて、お話を聞きました。
続いて、現在の社殿の奥にある、創建時
に社殿のあった場所で説明がありました。
(5)宗隣寺
宗隣寺は、宝亀8年(777)に創建されたと伝えられています。その後、長州藩永
代家老で宇部領主であった15代福原広俊(ふくばらひろとし)が菩提所として宗隣寺
を再興しました。
① 福原芳山顕彰碑(「宇部炭田之礎」の碑)
芳山没後130年目の節目である平成22年(2010)に宗
隣寺境内に建立されました。
芳山の遺言である郷土の近代的石炭開発の成就を記念して「宇
部炭田之礎」の碑と名付けられました。
現地学習では、藤田郁子(ふじたいくこ)さんが、芳山のイギ
リス留学時のことについてお話されました。
② 宗隣寺
宗隣寺の由来や宗隣寺が保管する福原家ゆかりの品について、
住職の山中原浩(やまなかげんこう)さんから説明を伺いました。
③
芳山の肖像画
いつのものかははっきりしていませんが、山
中住職によると、イギリス留学前に新しい文化
を吸収するという気持ちで描かれたのではない
かとのお話でした。
肖像画は、等身大の大きさではないかと言わ
れています。
-2-
3
交流プログラム
参加者が、翌日の集中講義に向けて、オリエンテーショ
ンの感想や、現地学習で見聞きしたことを整理するため、
NPO法人市民プロデュース理事長の船﨑美智子(ふなざ
きみちこ)さんのコーディネートによりワークショップを
行いました。
参加家族が4つのグループにわかれ、世代間、家族間で
話し合いながら、みんなで現地学習の体験や感想などをひ
とつの形にまとめていきました。
(1)グループ内での自己紹介
今回は、リピート参加者が多かったことから、アイスブレークは行わずに、お互いに
自己紹介を行うことで、グループ内のコミュニケーションを図りました。
(2)グループ作業
付箋紙や色紙などを使い、1日目の学習に対する感想や翌日の集中講義への思いなど
について模造紙にまとめました。
① 模造紙に手形を書き、その中に「志を立てる」
ということについてそれぞれの思いを記す。
② 思ったこと、楽しかったこと、感じたことを
好きな色・形の付箋紙に書き、メンバー間で意
見交換する。
③ 模造紙に付箋を貼りつけるとともに、1日目
の感想・思いや翌日の集中講義に向けた期待な
どを折り紙や写真で表現するほか、直接文字や
絵を書いていく。その際、メンバー間で話をし
ながら、全体を形作っていく。
(3)まとめ
グループごとに完成した模造紙を参加者全員に示しながら、児童たちが自分の「志」
について発表しました。
-3-
1月26日(日)<第2日>
4
集中講義「宇部の発展の礎を築いた 福原芳山」
三世代交流教育講座のまとめとして、文筆家の堀雅昭(ほりまさあき)さんに「宇部の発
展の礎を築いた 福原芳山」というテーマで講義をしていただき、ゲストスピーカーの脇彌生
(わきやよい)さんから、福原越後を中心とした幕末の宇部の様子について話を伺いました。
(1)幕末の宇部
宇部の歴史は、幕末に福原越後が出て、あとは
渡邊祐策(わたなべすけさく)という流れでした
が、今回の福原芳山でその間を埋めるということ
になります。
長州藩は、
「禁門の変」で敗れ福原越後が責任を
とらなければならなくなり、後継ぎとして娘に婿
を迎えます。この人が福原芳山です。
福原芳山は、幕府との戦争が終わって、慶応3
年(1867)にイギリスに渡ります。
(2)明治維新後
長州藩が持っていた石炭局は、廃藩置県によっ
てなくなり、石炭開発をやっていた役人が、石炭
借区権を買い占め、宇部の石炭は、お金を払わなければ掘れなくなりました。
イギリスに渡った福原芳山は、リンカーンズ・インというイギリスの学校で法律を学
び、日本で最初のバリスター(法廷弁護士)の免許を取ります。それは、日本が幕末に
不平等な条約を結んでいたので、条約改正のためにイギリスで勉強したのです。
明治5年(1872)になって、条約改正をするための下準備として、
「岩倉具視使節
団」が諸外国を回っていきますが、うまくいきません。福原芳山はリンカーンズ・イン
で勉強しているから、交渉がうまくいっていないということがわかっています。
バリスターの免許を取ったという意味は、西洋の法律に対して最も高い知識を得たと
いう意味があります。
(3)帰国後の福原芳山
日本に帰ってきた福原芳山は、宇部の人たちが、石炭を掘れないということに驚きま
した。これからは、日本の法律を整えていかなければいけないということで、司法省に
入ります。そして、
「共存同衆(きょうぞんどうしゅう)」という大きな組織に属します。
イギリスは、資本主義が開花していたけど、格差のある社会にもなっていました。
明治新政府は、イギリス流の政治を導入したのでは条約改正はできない、ドイツのや
り方でないとだめだと考え始めていました。それで、イギリス留学者とだんだん差が開
いてきます。そして、結局は「共存同衆」の連中は失脚します。
ところで、宇部の人たちは、宇部のために石炭を開発していかなければいけないと考
え、明治9年(1876)に石炭の会社をつくるための組織をつくりました。
福原芳山が、大阪に転勤になり、福原の旧家臣たちも大阪に集まりました。
宇部の石炭の開発がうまくいかないので、福原芳山が石炭会社を株式会社にしようと
しましたが、このときもまだうまくいきませんでした。
そして、「明治14年の政変」という事件で自由民権運動に火がつき、宇部にも自由
民権運動の「防長南部懇親会」という民権団体ができました。その中でいろんな議論を
して、中央の政府に頼らないで、自分たちで何かをしようという話がどんどん進んでい
きます。
-4-
(4)福原芳山の遺志を継いだ人々
福原芳山は、わずか35歳で亡くなりました。そのときに、昔の家臣である「防長南
部懇親会」のメンバーが芳山の精神を受け継いで、芳山がやろうとしたことをやってい
ったのです。芳山の遺志というのは、さかのぼれば福原越後の遺志です。
明治19年(1886)に日本で経済がうまく進み始めたときに、自分たちの郷土を
どうやって復興するか、石炭をどうやって活用して郷土を復活させるかということで「宇
部共同義会」を立ち上げます。宇部の人たちは、福原芳山がやろうとしたイギリス流の
郷土復興というものを石炭を通じてやろうと画策したのです。
福原芳山の指導を受け継いできたのが、若き家臣であった渡邊祐策でした。渡邊祐策
が明治30年(1897)に始めた沖ノ山炭鉱から石炭が出始めました。やっと福原芳
山がやろうとしていたことが実現できる機会が来たのです。そして、この石炭の利益を
社会に投じました。
福原芳山の死後、20年かかって、石炭が宇部から掘り出され、それが社会のために
投じられて、石炭がいろんなものに変わっていく時代がやっと来ました。渡邊祐策はそ
れを知っていたから、利益を地元に還元するということでできた会社が宇部興産です。
宇部の人の中には「中央には頼らんぞ、自分らでやるんだ」という遺志が受け継がれて
きたわけです。
(5)おわりに
福原芳山が亡くなって、家臣たちはその遺志
を受け継ぎます。その象徴として、福原芳山が
亡くなって130年のときに「宇部炭田之礎」
の石碑が建てられたのです。
福原芳山のことがあまり表に出なかったのは、
「禁門の変」の後に養子になったことや、すぐ
に幕末の戦争が起きたということ。そして、福
原芳山自身が、7年間もイギリスにいて郷土の
印象が薄かったことなどがあります。しかも、
明治の半ばぐらいまでの郷土関係の資料がなく、
忘れられた最後の領主となっていたのです。
福原芳山は、何かしたというよりも、後に続く人たちに大きなヒントを与え、その宿
題を解決するためにみんなが頑張り、今の宇部に炭鉱の街ができたのだという、そうい
う生き方をした人であったと述べられ、講座を終えられました。
集中講義をとおして、 宇部の発展の礎を築いた福原芳山のことがよくわかりました。
6
まとめ
2日間にわたった「平成の松下村塾」(三世代教育交流講座)の締めくくりとして、児
童と保護者の代表に2日間のまとめを発表してもらいました。
7
閉塾式
(公財)山口県ひとづくり財団松永貞昭(まつながさだあき)理事長のあいさつで、平
成25年度「平成の松下村塾」(三世代交流教育講座)を締めくくりました。
詳細につきましては、第4回講座記録集の PDF を御覧ください。
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