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教会連合

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教会連合
第 429 号
20
日 本 基 督 教 団
また心を合わせて福音の信
仰のために共に戦っていると
12
23
章
〜
節
30
東京
♦
聖ヶ丘教会牧師
ちも相手を受け入れる事がで
きないような事柄が起きて
も、その個人を憎んだり拒ん
だりしないように気を付けま
しょう。どんなことにも動揺
させられない歩みが福音にふ
さわしい生活であることを憶
えましょう。
そして神の御心を実現する
ために、次の つの大きな目
標を提示します。
この内容は、
全ての教会が共通して目標に
定 め る 事 が で き る も の で す。
十分に共感し、力を合わせて
全うすべき当面の課題であり
ます。
27
花を咲かせます。
ここで御言葉の信仰化を先
に 強 調 す る 理 由 が あ り ま す。
聖書は「あなたがたはこの世
に倣ってはなりません。むし
ろ、心を新たにして自分を変
えていただき…何が神の御心
であるかわきまえるようにな
りなさい」
(ローマ ・ )
と言っています。
また私たちには、キリスト
を信じる事だけでなく、キリ
ストのために苦しむ事も、恵
み と し て 与 え ら れ て い ま す。
信仰を恵みとして与えられた
事と、キリストの苦難にあず
かる事も恵みとして与えられ
ているという考えであります。
これには、苦難を通してしか
得 ら れ な い も の が あ り ま す。
苦しみも神が許してくださっ
第 三 に、 生 活 の 文 化 化 / ているのです」と言う御言葉
Third, From Life to Cultural を自分に語りかけてくださる
Impact
変化した生活を通し 言葉として受ける事ができる
て理想的なキリスト教文化の のです。
第一に、御言葉の信仰化/ たものであると受け入れる時、
First, From Scripture to Faith その苦難を神の恵みとして捉
聖書に徹底的に根を下ろす え直すことが自分に大きな豊
信 仰 で 霊 的 に 武 装 す る 事 で かさと益をもたらします。
す。
このような立派な戦いをす
「 あ な た が た は、 私 の
第 二 に、 信 仰 の 生 活 化 / る 時、
Second, From Faith to Life
御 戦いをかつて見、今またそれ
言葉に基づいて、信仰と生活 について聞いています。その
が一致するように努力します。 同じ戦いをあなたがたは戦っ
2
フィリピの信徒への手紙 第
6
16
12
1
いうことであります。心が互
いに以心伝心で通じると福音
の信仰のために共に戦うこと
ができます。ここで戦う相手
を見分ける力も必要です。エ
フェソ 章 節には「わたし
たちの戦いは、血肉を相手に
するものではなく、支配と権
威、暗闇の世界の支配者、天
にいる悪の諸霊を相手にする
ものなのです」と言われてい
ます。
またどんなことがあっても、
反対 者に脅されてたじろぐ
ことのない生活を送ることで
す。親しい友人や知人が、自
分の目の前とは違って裏切る
というサタンの働きをするこ
とがあります。私たちは、こ
こで注意すべき事はそのよう
な 人 が サ タ ン な の で は な く、
その人を通して働くサタンを
見抜く力が必要であります。
主イエスも弟子であるペト
ロに「サタンよ、
引き下がれ」
(マタイ ・ )と言われま
した。しかし主イエスはペト
ロ自身に対しては愛を持って
接してくださいました。私た
3
朴 壽吉
3
福音にふさわしい生活
今日の聖書は、教会共同体
の一致を損なう危険に瀕して
いるフィリピの人々に対する
勧告であります。
まず「キリストの福音にふ
さわしい生活」の「福音」と
いう言葉について見ます。原
語のギリシア語エウアンゲリ
オンは「よい」
(エウ)と「知
らせ」
(アンゲリオン)から成
る合成語であります。元来は
「よい知らせ」を意味します。
そして「生活」という言葉
についても考えて見ます。こ
れ は「 ポ リ ス 」
、つまり都市
という言葉から由来する言葉
を使っています。フィリピ
章 節に「私たちの本国は天
にあります」ように、神の国
の市民らしい生活を連想させ
る内容です。
福音にふさわしい生活を送
るなら、
一つの霊によってしっ
かり立つべきです。つまり聖
霊によって堅く立つようにな
ると福音にふさわしい生活を
送ることができるのです。
▼
まことにして
一つなる教会をめざす
教会連合
福音主義
3
2013.
昭 和 52 年 10 月 13 日 第 三 種 郵 便 物 認 可
毎 月 1 回 10 日 発 行 第 429 号 / 2013.3.10
小林貞夫さんを偲んで
は主に、恥辱は我らに」と祈
をこう呼んでいた)が「栄光
ない。当時の教会幹事(役員
る者はいないと私は今も思っ
つける賜物については右に出
的に言い表し、解決の道筋を
混乱した中で、その状況を
的確に判断し、しかも短く端
会の伝統であったのかも知れ
っておられたことを思い起こ
筆がおれるまで全うな さ っ た
も絶えることなく、と う と う
教案を長く書き続け、 病 床 で
でなく、教案誌の中高 科 分 級
き、連合常任委員とし て だ け
し、私は彼の連合にお け る 働
敬愛する小林貞夫さ ん を 偲
ぶようにと依頼された 。 し か
と言って下さる。それに間違
実は、私のよい指導者でいて
小林さんは人に私を紹介さ
れるとき
「私の牧師だからね」 下さった。
あった。
の一つが小林兄との出会いで
いは実に不思議であって、そ
った。この時の、神の御計ら
部教会に遣わされることにな
は、思いがけず山梨県の日下
の神学部で助手をしていた私
小林さんの言葉の中で私の
心に残っている言葉を思い出
ご近所であったわけではない
さ っ て い た。 小 林 さ ん と は、
し、それでもできないことが
うに教える自信はある。しか
伝統である。
ついでに、いつも私を立て
て下さることも日下部教会の
ものといっていい。
日下部教会の中で育てられた
これは2007年9月号か
る。
指し示して下さったからであ
べきもの何であるかを明確に
た。そうしながら、まだ若か
中高生修養会開会礼拝で、 た。何が何だか分からない混
った私を立てつつ、私に相談 「 自 分 は 生 物 の 教 師 で あ る。 乱状況の中で、私たちの見る
のに、よく話をした。二人共
ある。それは、聞こうとしな
す る と い う 形 を と り な が ら、 生物について誰にも分かるよ
よく話すという点では似てい
い生徒に分からせることだ」
らの「実録 教団紛争史」へ
と 受 け 継 が れ る こ と に な る。
ラムをお願いした。
さ せ て い た だ い た 時、
「連合
ているので、機関紙編集人を
我ここに立つ
こと、教団常議員、年 金 局 長
いはない。しかし小林さんは
しつつ記したい。実は、この
す。 さ す れ ば 兄 弟 の 信 仰 も、 ている。そのことをよく知っ
などの大切な部分を書 く 資 格
私にとって「私の信徒」と呼
里 信 生
を有していないことを お 断 り
ぶ わ け に は い か な い。 彼 は、 言葉が今も私に向かって、信
福音主義教会連合常任委員
森
兵庫♦関西学院教会牧師
しなければならない。 推 測 す
ように教えて下さった。
求めることの大切さ、修養
会での生活のあり方を、この
てメタ・ブレーン社から出版
この 回の連載がまとめられ
私たちは、この短いコラム
から多くを学ぶことができ
の窓から見た教団」というコ
るに、小林さんとのつ き あ い
ておられた。毎週、遠くから
祝して下さって献金をお捧げ
礼拝の献金の祈り、
「 私 た ち の 手 の わ ざ、 勤 労 を
れた証がここにある。
体を立てることに命を燃やさ
教会を守ること、キリストの
された。この書物の出版に情
†
することができ有難うござい
呼ばれることがどれほど嬉し
もっと献金ができるようにし
ました。
もっともっと祝して、
改めて、故人を意志を継い
で主と主の教会のためにお仕
る。
する歩みをと願うものであ
いか」
†
コメントは不要である。
えし、何よりも主に栄光を帰
この世の栄誉よりは神の御
名のあがめられることを願
う。これは、或いは日下部教
て下さい」
熱を傾けられた。
紛争期間中、
れるよりも教会学校の校長と
「 自 分 は、 学 校 の 校 長 と 呼 ば
ある。
仰の師である小林さんが語り
方」という点で私の師、社会
かけて下さっている言葉でも
のことを考えることにおいて
私の信仰の師であり、兄貴分
それで、私の実に個人 的 な 思
の長さでいえば、一番 長 い と
いを語ることでお許し を 頂 き
兄貴といっていい。
私と兄弟の出会いは1 9 7 3
通ってきて責任を果たして下
主 の 教 会 に お 捧 げ に な っ た。 会では教会学校の校長を務め
小林さんは、私が赴任した
†
とき富士吉田市に居住し、学
小 林 さ ん は、 そ の 半 生 を 、
いやその生涯のすべてを主と 校の教師をしておられた。教
たい。
「信仰の貫き
い う 理 由 で は な い か と 思 う。 だ か ら で あ る。
−
年4月に遡る。それま で 母 校
17
(第 3 種郵便物認可)第 429 号/ 2013.3.10
2 日本基督教団 福音主義教会連合
日本基督教団 福音主義教会連合
3
(第 3 種郵便物認可)第 429 号/ 2013.3.10
日本基督教団常議員
静岡♦遠州栄光教会員
今の時代、主に生かされる者の一人として
くの課題を抱える教団にあっ
て、長谷川保氏らが受けた痛
みや小林貞夫氏が取り組んだ
教会総会になっている 。 昨 日
私の所属する遠州栄 光 教 会
では毎年2月第4週が 定 例 の
海教区から病気療養中だった
ことになったが、結果的に東
私は、昨年 月の教団総会
で初めて常議員に選出される
たぶん私の方が教会との関係
していた先輩が短く理事長職
俊治氏が急逝した。施設長を
り現役の理事長であった山浦
しているときに、創立者であ
したのち、法人事務局を担当
議な巡り合わせだと感じてい
が理事長になったことは不思
者でもなく、一職員だった私
れ た こ と に な る。 と は 言 え、 を 引 き 継 い で く だ さ っ た が、 もなく、教職者でも学識経験
小林貞夫氏に代わって選出さ
を保ちやすいだろうというこ
うと思った。創立者の家系で
でも山浦氏の姿勢を踏襲しよ
私は、小羊学園の理事長を
受け継ぐにあたって、形だけ
れた。
総会にも努めて出席しておら
こんな私だが、キリスト教
の名によって立てられた社会
いる。
て今を生きることが許されて
はできる。聖霊の導きによっ
ストへ信仰によって歩むこと
ら贖い出してくださったキリ
しかし、同じように十字架
と復活によって私たちを罪か
い。
稲松 義人
苦悩について、歴史として知
ることはできても、今の時代
配布された今年度の教 会 総 会
教団の運営に関してほとんど
とで、翌年から理事長を務め
の私が経験することはできな
資料にある「2012 年 度 の
経験も見識もない私には、長
福祉の実践の場に身を置いて
数年現場の支援員を
総括」の中の「日本基 督 教 団
谷川保氏や小林貞夫氏に代わ
る。
した。
関係について」の項で 私 が 教
ることになった。
してこられた。
団常議員に選出された こ と に
るだけの力などないことだけ
先達たちの祈りを思 い つ つ
言 及 さ れ て お り、「 当 教 会 に
こ れ ま で 経 験 し た こ と、 ま
は確かである。
た、貧しい器であるが主から
は毎週の主日礼拝を大切にす
かったように思うが、ご自身
大 切 だ。 同 じ キ リ ス ト の 教
代の君たちに残さないことが
れ、
「感情的な問題を次の時
であったが、それをよしとさ
は遠州栄光教会に属する青年
浦氏は遠州教会の長老で、私
かつて遠州教会と遠州栄光
教会とが分裂したときに、山
伝える者として全国の兄弟姉
主の恵みに生かされる喜びを
に あ る 人 た ち の た め に 祈 り、
な苦しみ、悲しみ、困難の中
今も、いまだ福音の届かぬ
多くの人たちのために、様々
ある。
えすることができれば幸いで
示された課題に向き合う
リスト教社会事業同盟に連な
会、時が過ぎれば再び協力関
託された賜物をもって、お仕
り、最後は同盟の理事も務め
実 録 教 団 紛 争 史 」 に よ り、 れ る よ う に な っ た と す れ ば、 る方であった。小羊学園が社
教団紛争のはじまりとされる 2005年より日本キリスト 会福祉法人になってからはキ
昨年天に召された小 林 貞 夫
氏が遺された「日本基 督 教 団
教社会事業同盟の理事長を務
ておられた。また、日頃より
主の不思議な導きによって
1969年9月、長谷 川 保 氏
めるようになったことが大き
多くの支援を受けている教会
務められ、教団正常化 に 尽 力
長きにわたって教団常 議 員 を
小林貞夫氏も1988 年 か ら
もつ子どもたちの施設に就職
重度・重複の知的ハンディを
れるからと、毎年の東海教区
の方たちに直接お礼を伝えら
しゃったことを思い出す。多
係を取り戻すだろう」とおっ
と願っている。
妹とともに歩む者でありたい
教団の働きを担っておられ
る 方 々 に、 私 が 名 前 を 知 ら
は常議員であったこと を 知 る
て、たまたま小羊学園という
に勧めることはほとんどな
とっては、故長谷川保 氏 以 来
の常議員の選出であり … 」 と
山浦氏は、小羊学園の中で
職員に対して教会に行くよう
10
ことができる。同書によると、 いだろう。私は大学を卒業し
説明が加えられている 。
10
第 回教団総会の不法性と教団顧問弁護士の問題 《第4回》
東京♦東京神学大学教授
山
福音主義教会連合神学研委員長
ントを排除して開催されたこ
とから見ても「違憲状態」で
あることは明々白々です。
当 時 の 教 区( 東 京 教 区、
大阪教区、兵庫教区)の伝道
所を除く教会総数は、460
教会でした。全教団の教会数
な教会会議を快復すべ き で し
て開催することによっ て 健 全
日本基督教団は第 回 教 団
総会を教憲・教規にし た が っ
た教区総会は正規の教区総会
でない部外者を構成員に加え
たからでした。会議の構成員
法的な総会を開催しようとし
東京教区規則にしたがった合
東京教区議長が教憲・教規と
兵庫教区)選出議員を欠いた
全教団の信徒の ・ パー
教 区( 東 京 教 区、 大 阪 教 区、 は、
繰り返し明らかにしました
ように、第 回教団総会は
いて重ねて指摘します。
選挙法」の解釈の問題点につ
選 挙 が で き な か っ た 理 由 は、 法律顧問中平健吉氏の「公職
京教区選出の教団総会議員の
で し た。
「違憲状態」である
ではないという法的筋道を貫 「 違 憲 状 態 」 で 開 か れ た 総 会
ましたように信徒議員の排除
合計です。すでに明らかにし
議員は教職議員と信徒議員の
た。この120名の教団総会
るべき議員は120名でし
区、兵庫教区)から招集され
態」で開催された総会であっ
て 強 行 開 催 さ れ た、
「違憲状
道 所 の 総 数 は 5 6 5 に な り、
であり、排除された教会・伝
伝 道 所 の 総 数 は、 1,6 4 7
に伝道所を加えますと、
教会・
されたことになります。これ
セントの教会を排除して開催
口隆康
パー
た。なぜなら「流血総 会 」 と
いたことが1973年
教区)
の教会担任正教師数
(教
理由は、教団総会に対する参 ( 東 京 教 区、 大 阪 教 区、 兵 庫
回教団総会は、 ・
は 1,3 4 4 教 会 で し た。 第
呼ばれた第 回教団総 会 が 暴
政 権 を も つ 信 徒 3 5,1 8 2
・ パーセントです。
力的な行動によって粉 砕 さ れ
時点で東京教区で教団総会議
3
教区
18
の教会、教職、信徒を排除し
40
17
34
指して暴力支配に抵抗をつづ
それに比べて第 回教団総
会は、合法的な教区総会を目
とになります。
の信徒の参政権を排除したこ
ですから、
陪 餐 会 員 ) は 9 6,9 4 6 人
教師が排除されたことになり
すから、実に
職選挙法の精神」に照らして
名で、
紛争の解決策は「教 憲 ・ 教
規」にしたがった健全 な 教 会
けている牧師と信徒たちを教
ます。
教区(東京教区、大阪教
パーセントの
任 正 教 師 数 は 1,4 2 9 名 で
570名です。当時の教会担
団総会の実態です。仮に「公
法とは言えないと主張した教
教規第 条②を解釈すれば違
回教団総会を審
18
3
第 回、第
17
ト、全教団の教職の
パーセ
第 回教団総会は、 査 し た と し て も「 違 憲 状 態 」
第 回、
全教団の信徒 ・ パーセン ではないでしょうか。
3
40
3
3
40
36 18
36
兵庫
会議の開催以外に道は あ り ま
団総会の構成員から排除した
それでは次に、第 回教団
総会から排除された「教職の
93
17
17
パーセント
せん。会議制において は 、 も
変則的な教団総会を招集した
回)に引き続き、日本基督教
17
・
し暴力によって正常な 総 会 が
のです。第 回教団総会は不
第 回教団総会が開催 さ れ た
回教団総会の不法性に
団第
3
17
1973年 月の時点 で 、 東
11
しょう。
招集できないのであれ ば 開 催
東京359名、大阪118名、 中 平 健 吉 教 団 法 律 顧 問 が
教区の合計は 「 公 職 選 挙 法 」 に し た が っ て
うか。1973年当時
教職の場合はどうなるでしょ
セ ン ト の 排 除 で あ り ま し た。 要するに第 回、第 回教
団総会は、 ~ パーセント
34
しないことが暴力支配 に た い
1973年当時の信徒(現住
36
3
3
17
数」について分析してみま
11
17
であり、「教憲・教規」でした。 理由です。
16
す る 強 力 な 抵 抗 に な り ま す。 法な総会でした。前回(第8
17
月の
たのですから、暴力に 対 抗 す
2
るもっとも強力な手段は「法」 員選挙が実現していなかった
34
たのです。
ついて論じます。とくに教団
3
名 が 排 除 さ れ た か ら で す。 会担任補教師は含まない)は
17
・・・教会法と世俗法の混濁・・・
17
教団法律顧問弁護士による
第 回教団総会正当化
17
3
17
(第 3 種郵便物認可)第 429 号/ 2013.3.10
4 日本基督教団 福音主義教会連合
(第 3 種郵便物認可)第 429 号/ 2013.3.10
区(東京教区、大阪教 区 、 兵
で、全教団 教区の中 で 教
第 回教団総会が開催さ
れた1973年 月の時点
いと思います。
不法性を明らかにして お き た
す。さらに第 回教団 総 会 の
無理があったことは明白で
ための定足数を定めた条文で
この条文は、教団総会成立の
とができない。ただし、議事
ば、議事を開き議決をするこ
条 教団総会は、議員総数
3分の1以上の出席がなけれ
は 次 の よ う な 条 文 で す。
「第
集すれば合法的総会になると
議員を招くことなく開催され
ていれば、他の
教区の総会
いて教団総会議員が選出され
教団総会議員120名を招集
あったことです。招集すべき
280名を招集した総会で
あたり、招集すべき教団総会
それは教団総会を招集するに
れていません。
長見解を撤回したことは記さ
委員長が前述の信仰職制委員
乱の中でも北森嘉蔵信仰職制
れています。しかし、その混
すと問題は、このような教団
こで指摘しました。そうしま
釈にも問題があったことをこ
中平氏の「公職選挙法」の解
議 員 4 0 0 名 を 招 集 せ ず に、 門家でない中平氏の教規(第
解釈です。
「 違 憲 状 態 」 で 開 催 さ れ た
間違いの理由は、総会成立 第 回教団総会を「教憲・教
の 定 足 数 を 定 め た 第 条 を、 規」に照らして精査すべきポ
た教団総会も合法的総会であ
することなく開催した教団総
と強弁しました。教会法の専
回教団総会は不法ではない
総 会 招 集 議 員 数 に あ て は め、 イ ン ト が 明 確 に な り ま し た。 おける平行関係を提示して第
ることになります。これは明
こ の 解 釈 は「 教 規 第 条 」
を 誤 解 し て い ま す。 第 条 らかに教規第 条の間違った
る。
れた解釈」にあたります。こ
議員総数の
回教団総会の招
の「度外れた解釈」の合法性
合 に つ い て は 別 に 定 め る。
」 いうもので、いわゆる「度外
中に定足数を欠くに至った場
に関して第
会に合法性があるのかという
の法律顧問の教規第
の か 否 か を 判 断 す る 試 金 石、
教会性を保持する教会である
がった「法の支配」によって
教団が「教憲・教規」にした
ことはできません。日本基督
ないという解釈には最 初 か ら
分の
以上を招
ヶ月前の1970年
月に、飯清教団議長は信仰
審査問題」であるからです。
教団の法律顧問である中平
健吉氏は、総会議場で「公職
選挙法」と「教規」の解釈に
条 ② ) の 解 釈 は 別 に し て、
条②の
ば定足数に達しても教団総会
回教団総会は合法性にお
は開くべきでない」
(議事録
を整理し、本稿が「顧問弁護
以上
教区総会にお
庫教区)の開催と教団 総 会 議
す。教団総会議員は400名
集の約
1 2 0 名 の 教 区 選 出 議 員 が、 「 度 外 れ た 解 釈 」 に よ っ て 教
問題です。招集されなかった
団総会を招集した
「招集責任」
区 )。 の 中 の
員の選挙が済んでいま せ ん で
への招集がなされていること
職制委員会に諮問していま
こそが法的問題になります。
以 上、 す な わ ち
した。それにもかかわ ら ず 教
が前提とされています。その
す。それに対し北森嘉蔵信仰
第
分の
団総会を招集できると 判 断 し
上で議員総数の 分の
いても正当性においても教
の
た根拠に次のような考 え 方 が
の出席がない場合には「議事
職 制 委 員 長 は、
「一教区でも
教師の 割、
信徒の 割 分
134名の定足数に達する見
を排除した教団総会の
「招集」
込みがある場合には、議事を
あったことが議事録( 第 頁
を開き、議決をすることがで
開き、議決をすることができ
参照)に記されていま す 。 そ
きない」
と定めているのです。 総会議員の未選出教区があれ
団総会議員の選出が済んでい
士問題」を取り上げる理由を
録を見ますと、第
であるという訴を提起した場
合、日本基督教団は教憲第
上 の 出 席 で あ る( 教 規 第
兵庫教区)にもう1教区、つ
総会準備委員によって紹介さ
りが総会準備委員川端純四郎
たのかと言う問題を放置する
したのか、「違反状態」であっ
教区(現時点では
16
17
の混濁」と言う観点から問題
護士問題を「教会法と世俗法
「招集責任」問題に議論を
憲・ 教 規 に 照 ら し て「 違 憲 」 移す前に、さらに教団顧問弁
う解釈です。
証言)という信仰職制委員長
条(
「第 条 本教団は教憲
および教規の定めるところに
頁、加藤亮一准議員による
ができるという規定ではあり
したがって、会議制によりそ
れば教団総会を招集すること
ここにある論理は次 の よ う
な三段論法です。①教 団 総 会
回教団総
見解を表明しています。議事
釈が成り立つとしますと、
4
(次号につづく)
にしたいと思います。
の政治を行う」
) に「 違 反 」 教会法に照らして更に明らか
4
教
教 区( 東 京 教 区、 大 阪 教 区、 会招集までの手続きの混乱ぶ
17
まり
以
条 )。 ② 教 団 総 会 の 成 立
ません。もし、そのような解
第
議員は400名である ( 教 規
3
1
条 )。 ③ し た が っ て 議 員 総 数
要件は議員総数の 分 の
3
22
以上の教
17
第 回 教 団 総 会 が、「 公 職
選挙法」に照らして不 法 で は
れは「法的には定足数 に 達 す
3
17
17
19
4
19
12
1
すなわち「教憲に関する違憲
る見込みがある場合、 総 会 を
議員総数の 分の
3
17
教憲に関する「違憲審査問題」
開くことは可能である 」 と い
7
19 19
1
3
3
3
3
6
3
16
1
19
3
1
3
11
17
16
19
4
17
17
1
日本基督教団 福音主義教会連合
5
教会と広報
ングと同様に、実社会への適用を経
命じになる。日本の人口の1%にも
しかし、主はそれでよしとされて
いるのではない。外へでていけとお
うな科目体系も作られ、マーケティ
て、その効果の大きさも評価されて
満たないわれわれが、このことを見
つめるとき、それにふさわしい備え
きた。
★
稿として、与えられた テ ー マ に つ い
機関誌への原稿とし て 、 つ ま り 福
音伝道を担う側の立場 を 想 定 し た 原
有し、それに向かっての具体的な取
また、組織・企業に与えられたま
ぼろし(ビジョン)を言葉として共
る。
の多くの人はこの視点をもってい
中で何度も叫ばれた。そして教会外
るいは顧客満足、という言葉がその
を、 訴 え、 指 摘 し て い け ば、( 外 の
に は、 花 園 の 中 で 通 り が よ い こ と
「外の世界」と隔絶してい
ま た、
ることを前提とするなら、外の世界
いにおもんばかることができる。
あって、すべてをあうんの呼吸で互
聖書の教えという共通した土俵が
まな立場があったとしても、互いに
こんなことは不要であろう。さまざ
て進めるのか、そして主の御用を実
ねばならないとき、それをどうやっ
はばの広い課題を切り盛りしていか
人々の訴えからインフラ、
財政など、
されてきたというのだ。いや、それ
ではない。彼らはどんな道具を持た
任して挫折を感じたとしても不思議
ろへ、新任の若い牧師がいきなり着
たとえば、経験豊かなベテランの
牧師が担当しても伝道の困難なとこ
を教会はしてきただろうか。
て2、3思うことをまとめてみる。
り組みの課題(ミッション)をかか
世界が実際にそれに影響を受けるか
現 す べ く、 ビ ジ ョ ン に 沿 っ た ミ ッ
田 昌 之
まず、神学校での講 義 科 目 そ し て
実習科目として、「マーケティング」
げ、そこに向かってのプランを作る
とは無関係に)居心地よく暮らして
ションを共有し、それを具体的なプ
教会が、一種の閉じた花園として
存 在 し つ づ け れ ば よ い の で あ れ ば、
そして「プロジェクトマネジメント」
こと、そして具体的な目標をその中
いける。これをつきつめれば、どう
ロ ジ ェ ク ト と し て 一 つ 一 つ 実 施 し、
福音主義教会連合常任委員 井
東京♦狛江教会員
という つがあったら い い と か ね が
で建て、そこへ向かって一歩一歩歩
やってだれが変革を担うかとは無関
そしてそれを成功させるのか、その
もつべきツールのひと つ に 加 え る べ
日本に居て、伝道を志 す も の と し て
世に生きるキリスト者 と し て 、 特 に
よ、と言っているので は な い 。 こ の
んな運営と推進をしていけばいいの
達成に向かうこと、このためにはど
の難しい人間が複数集まって一つの
た だ で さ え、 つ ま づ き、 あ や ま
り、同じ目標をキープしていくこと
の中に自己満足をすることもできよ
一応確立しているようにも見え、そ
機 能 し て い け ば、 花 園 の 存 在 感 も、
こうして外の世界から見れば、野
党の立場を貫いて、批判勢力として
すべてがたとえで示される」
(マル
ち明けられているが、
外の人々には、
「あなたがたには神の国の秘密が打
伝道推進の掛け声、それは単なる
か け ご え に お わ ら せ て は な ら な い。
だけではない。与党として、個々の
ね思っていることを表 明 し た い 。
んでいくことを体系立てて学べるよ
係に、ただ問題の指摘だけをすれば
ための道具を今、教会はもっている
きだとは思っている。
か、これも、経験的な教訓から、さ
う。
コ4・
)
のだろうか。
商業主義の中で、良 い に つ け 悪 い
に つ け、 顧 客 が 何 を 求 め て い る か 、
まざまな手法、そして基礎的な理論
★
現場の牧師、そして 各 教 会 の 信 徒
がそれらを大事なもの と し て 意 識 せ
うになった。
いいことになる。
何を考えているか、そ れ を 訴 求 す る
がまとめられ、実習を通して学ぶよ
★
能力は磨かれてきた。 顧 客 目 線 、 あ
2
11
(第 3 種郵便物認可)第 429 号/ 2013.3.10
6 日本基督教団 福音主義教会連合
茨 木 東 教 会 献 堂 報 告
大阪♦茨木東教会員 筧
正 彦
ねることができたことは大き
共に祈り、話し合いを積み重
を 励 ま し て く だ さ い ま し た。
によってのみ、力強く私ども
当時主任担任教師であった
下村邦夫牧師は、ただ御言葉
築 委 員 が 共 に 御 言 葉 を 聞 き、
な力となりました。
新会堂建築という嵐の海を漕
それゆえに、
「茨木東丸」は、
計画から完成までの間、本
当に祈りが必要でした。その
とが許されたのです。
月新会堂を主にお献げするこ
た め 毎 月 第 一 主 日 礼 拝 で は、 ぎ進み、遂に、2012年9
「教会」を主題とした説教に
え て、 建 物 の 老 朽 化 が 進 み、 耳を傾け、礼拝後には全体祈
人一組と
修をしなければならない状況
ました。
なって全員で心を込めて祈り
祷会の時を持ち、
まで改革長老教会形成のため
となりました。
雨漏り箇所も増加し、毎年補
教 会 員 名( 家 族 ) で、
2億円以上の建築費をかけた
に、共に研鑽を積み、伝道協
の度の新会堂建築
拝堂を持ちたいとの願いがあ
なる空間としての独立した礼
れでいっぱいでした。天を仰
の中の小舟のように不安と恐
の状況に心を奪われる時、嵐
くださっていたのです。主は
ちが祈るより前に主が祈って
画をよしとされました。私た
教会堂を建てることが出来る
力をしてきました。この四教
の大きな支えとな
りました。
会の交わりが、こ
りました。
と祈ることしか出来ませんで
の御導きの確かさに畏れを覚
年までに新会堂を建築すると
という目標を定め、創立
えます。
席となり、年に数
の決断をいたしました。
い て、
「 新 会 堂 で 伝 道 を!」 した。
ぎ、
「主よ、助けてください」 活きて働いておられます。主
建築計画は 年前から始め
られ、2006年の総会にお
名で満
回行う教会学校の
礼拝堂は
子どもたちと保護
周
者や求道者を加え
直 ち に「 会 堂 建 築 委 員 会 」 ザヤ ・ )との御言葉通り 弟 姉 妹 に 御 礼 申 し 上 げ ま す。
が設けられ、月に一度、牧師 に 私 た ち を 導 い て く だ さ り、 こ れ か ら 借 用 金 7,7 2 0 万
祈り、
ここに至りますまで、
御支援くださいました福音主
た出席者が150
の奨励から始まる建築委員会 「 安 心 し な さ い、 わ た し だ、 円の返済が始まります。なお
)と、主の御臨在を示
恐れることはない」
(マタイ
・
し続けてくださいました。
りお願いする次第です。
一層の御加祷と御協力を心よ
義連合の諸教会と主にある兄
名を超えるように
を行いました。そのような中
し か し、 主 は、「 見 よ、 新
しいことをわたしは行う。今
なって、礼拝堂に
で、良きキリスト者の設計者
やそれはめばえている」
(イ
入りきれなくなり
19
今年創立 周年を迎え ま す 。
1995年には茨木 教 会 と
兄弟教会である茨木春 日 丘 教
55
幾 多 の 困 難 が あ り ま し た。 など、誰が想像出来たでしょ
この 年を顧みますと、周囲 う。しかし、主は私たちの計
75
1967年に建
てられた旧会堂の
10
43
27
50
3
また、礼拝堂を多目的に使
用しているため、何よりも聖
「茨木四
茨木東教会は、茨木教会の 会、 千 里 丘 教 会 と、
「日曜学校分校」から始まり、 教会伝道会」を結成し、これ
(第 3 種郵便物認可)第 429 号/ 2013.3.10
10
と出会いました。設計者と建
80
ました。それに加
14
50
日本基督教団 福音主義教会連合
7
《2012.9.29》
会)が主催者となって毎年開
会、富士見町教会、高井戸教
と言えるでしょう。
総力を挙げて取り組んできた
と東神大が日本伝道のために
主催者を発起人教会、実行
委員会を東神大として、教会
行われます。
になりますが、その時々の仕
して立場は変わっていくこと
実を目の当たりにさせられて
き込まれた者として、その事
だくことになり、主の業に巻
には実行委員を担わせていた
ことで献身、及び東神大への
29
14
られ、東京神学大学に日本全
170名以上の参加者が与え
の証をお聞きしました。その
光教会野村稔牧師による献身
会松本のぞみ牧師と同遠州栄
して日本基督教団上尾使徒教
後、証と賛美と祈りのときと
学校での証、家族への証)の
リ ス ト 教 Q & A、 社 会 で の
マ:神学生の生活と学び、キ
懇 談( 全
礼拝(説教は東神大教授が持
9月第4週の土曜日に、開会
きています。
おり、その意義は拡大されて
ついて語り合う場ともなって
方も含めて伝道や信仰生活に
れましたが、現在は未信者の
こされることを願って始めら
会の青年から伝道献身者が起
の活動、
結婚と家庭について、 道の衰退が叫ばれる中、諸教
証、CS教師として、青年会
ち回りで担当)
、関心のある
藤 勝 彦 学 長 に よ る シ ョ ー ト 一方、日程やプログラム構
レ ク チ ャ ー が 行 わ れ ま し た。 成に大きな変化はなく、毎年
後、希望者を対象として、近
テーマに分かれてのグループ
構成されています。また、伝
教授、職員、神学生によって
ここ数年は内藤先生、東神大
から青年を連れてこの会に参
業後に派遣された教会や学校
こされ、東神大に入学し、卒
出し、ある者は献身の志が起
り、青年を育てこの会に送り
され、教会の役員・長老にな
のうち、ある者は信仰が燃や
す。
「青年の集い」の参加者
後の献身者が起こされていま
また、その中から毎年1割前
加教会数は
役員を除く参加者は
増加傾向にあります。第
回
認知度が高まり、参加者数は
備 時 間 の 調 整 が 困 難 と な り、 もあってか、年を追うごとに
でいる青年の皆さん、是非お
こととなります。これを読ん
ている伝道の業に用いられる
なた」の一声が、主がなさっ
の青年をお誘いください。「あ
の会を祈りに覚え、是非周り
なっている諸教会の方々、こ
送 し ま す。 こ れ を お 読 み に
委員会から各教会に案内を郵
は、170名を超える参加者 次回開催予定日は2013
の内、東神大関係者・牧師・ 年9月 日(土)です。開催
を迎えた2012年において
越しください。主は
「あなた」
す。
与し続けたいと願っていま
がなさっている伝道の業に参
方でこの会に青年を送り、主
います。今後、東神大を卒業
国の青年が集う熱気溢れた一
名、参
日が近づいたら、東神大学報
28
14
を 超 え ま し た。 に案内が掲載されます。実行
90
ト教学校などで仕える伝道者
い」を通して日本に起こされ
私自身、この会に参加した
日本全国からの参加をお待
ちしています!
遣わされましょう。
を待っておられます。日本伝
日となりました。
達の献身の証(男女各
道の主を共に讃え、
語り合い、
発案されたことが始まりとな
1
在は阿佐ヶ谷教会、
国立教会、 東神大レクチャー体験が順に
名)
、 ているのです。
り、首都圏の発起人教会(現
別懇談と昼食
(司会は神学生、 加 す る … そ の よ う な ダ イ ナ
「 青 年 の 集 い 」 は、
、 教 会 や キ リ ス ミックな主の業が「青年の集
1999年に内藤留幸先生が 教 授 も 参 加 )
80
グループ8テー
入学の志が堅くされ、入学後
催され、回を重ねる中で少し
この会に関わった神学生が
続々と全国の教会やキリスト
銀座教会、洗足教会、聖ヶ丘
2 0 1 2 年 9 月 日( 土 )
教会、大宮教会、横浜指路教
東京神学大学を会場に、第
が開催されました。
ずつ変化を遂げてきました。
教学校に遣わされていくこと
17
回日本伝道を担う青年の集い
当日は、開会礼拝において
焼山満里子先生がヨハネ福音
員会が組織されましたが、準
書 章 〜 節 か ら「 信 仰、 まず、当初は発起人教会の
希望、愛」と題して説教され、 青年と神学生によって実行委
15
グループに分かれての昼食と
12
11
三橋 侑子
青年の集い実行委員
東京♦頌栄教会教会員、東京神学大学修士 1 年
東京神学大学
(第 3 種郵便物認可)第 429 号/ 2013.3.10
8 日本基督教団 福音主義教会連合
志願
泉 健
えるっていうのも、このことにかか
いくためだもの。捨てることそのも
けど、それは、イエスさまに従って
ていくことのほうが大事なのではな
のよりも、イエスさまに従って生き
わっているのね。
」
「 そ う そ う。 職 業 も 家 庭 も、 す べ て
が禁欲の場所になる。
」
「でもやっぱり捨てているわけじゃ
いかしら。
」
ど、でも、禁欲とか断念とかって言
ない。それまで積み上げてきたもの
「 う ー ん。 わ か る よ う な 気 も す る け
うと、なんだか悲壮な感じがしちゃ
を放棄して、それまでの生き方を断
念しているわけだろ。たいへんなこ
うな。つらそうと言うか。」
どうしてモトム君は 、 す ぐ に 難 し
い言葉を使いたがるん だ ろ う 。
「 せ ぞ く な い き ん よ く? 知 ら な い
よ、そんなの。何それ ? 」
モトム君がまた難しいことを言い
出しました。
は、聖職者がすることであり、ある
禁 欲 す る こ と、 霊 的 な 訓 練 を し、
信仰に根ざした生き方をすること
て、
「霊的な訓練」の意味にも用い
「いや、モトム君、教会で『献身』っ
そうか! ふつうに「献身」って
言ったら、そういう意味なんだね。
だけど……。
」
尽くすことだぜ。それこそつらそう
やドイツ語の Askese
は「修 「 ホ ン ト? 献 身 っ て っ た ら、 自 分
ascesis
徳、 苦 行 」
、 そ し て さ ら に「 禁 欲 」 のことは犠牲にして、何かのために
め、この言葉を語源とする、英語の
て言ったら、自分の生涯を神さまに
わたしのすべてを献げ尽くしてしま
オリさんを見つけたみたい。
モトム君は目を大きくして、カオ
リさんの顔をまじまじと見つめまし
んじゃない? だって、イエスさま
が呼んでいてくださるんだもん。
」
は、そうしないではいられなかった
とだよ。
」
ます。
いは少なくとも、世俗から離れた教
お献げして、伝道者として生きるこ
いたい。
」
「そうかしら? 献身は、前向きで、
明るい感じがするけどな。」
は思うけど、でも、お弟子さんたち
た。まるで、今まで知らなかったカ
「カオリさんは、イエスさまになら、
全部献げてもいいんだ?」
「うん。イエスさまになら、喜んで、
と思う相手がいるって、ものすごく
の意味をもつようになりました。
「 そ う か な あ。 た い へ ん な こ と だ と
「 い や、 ぼ く も 初 め て 知 っ た 言 葉 な
会の領域ですることと考えられてい
とだから。
」
じゃない。
」
んだけど、世俗的な世 界 の 中 で 禁 欲
ました。それに対して、宗教改革者
「献げるけど、捨てるのではない、っ
『献身』のほうがもっと悲壮な感じ
す る こ と を、『 世 俗 内 禁 欲 』 っ て 言
たちは、世俗のただ中で、信仰のゆ
ら れ る よ う に な り ま し た。 そ の た
うんだってさ。」
えにいろいろなことを断念し、神の
てこと?」
幸 せ こ と だ と 思 う よ。
(カオリさん
「 カ オ リ さ ん、 喜 ん で 全 部 献 げ た い
御心と信じる生き方に集中していく
のにしていただくというか。」
「 捨 て る ん じ ゃ な い ね。 神 さ ま の も
「 神 の も の と し て、 も う 一 度 神 か ら
にとって、献身は喜びなんだ…)
」
世紀初頭に活躍した社会学者
マックス・ウェーバーが「世俗内的
「 そ う そ う。 イ エ ス さ ま の お 弟 子 さ
子です。
最後はつぶやくように言って、モ
トム君はなにやら考え込んでいる様
「 ふ ~~ ん。 前 に 話 し て た、 職 業 を
んたちは、網も舟も何もかも捨てた
受け取り直すみたいな?」
神さまからのコーリングとしてとら
な禁欲」と呼んだのでした。
を、
ことを主張し、実践しました。これ
とでした。
モトム君の話は少し 入 り 組 ん で い
たのですが、おおよそ 次 の よ う な こ
とは少し違う意味なんだって。」
「 そ う 思 う で し ょ? ぼ く も そ う
思った。だけど、禁欲 っ て 、 も と も
(第 3 種郵便物認可)第 429 号/ 2013.3.10
カオリさんがムッと し た 顔 を し て
いるので、モトム君は あ わ て て 続 け
もそういうものじゃな い の ? 」
「 ふ ー ん。 だ っ て、 禁 欲 っ て 、 い つ
と い っ た 意 味 で す が、 こ れ が 転 じ
でも、
そんなことを言ったら、
いう言葉があります。
「訓練、修行」 「うん。
東京神学大学准教授
小
神奈川♦センター北教会牧師
どういうこと?
「献身」って
3
聖書
「『世俗内禁欲』って知ってる?」
カオリさんの 献 身
ギリシア語に「アスケーシス」と
20
日本基督教団 福音主義教会連合
9
10 日本基督教団 福音主義教会連合
▲
敬称略
▼教会献金
小金教会
2,000
銀座教会
5,000
小松川教会
2,000
遠州栄光教会 10,000
遠州栄光教会 10,000
泉ヶ丘教会
7,000
銀座教会
50,000
大阪教会
3,000
大阪教会
3,000
大阪教会
1,000
合 計 93,000
★印はクリスマス献金です。
大阪教会の金 25,770 円はアドヴェント
献金です。
笠原个可兄の献金は妻康子召天記念献金
です。
イースター献金を
北村 知子
横山 良一★
鈴木 優子
津幡 りほ★
津幡佳伸・直美★
松永 政和
笠原 个可
市川 テル
大見川昭子
福永 嘉彦
おささげください
2013 年 1 月 11 日〜 2 月 10 日
▲
▼個人献金
皆様のお祈りとお支えを感謝いた
します。
「 ま こ と に し て 一 つ な る 教 会 を 形
成するため」に一層の努力と、忍耐
強い働きを必 要 と し て い ま す 。
今年も、私たちは教会連合の活動
強化のためにイースター献金をささ
げることとい た し ま し た 。
何かと支出の多いときではありま
すが、何卒ご理解くださり、ご協力
をお願いいた し ま す 。
日本基督教団 福音主義教会連合
献金感謝報告 (第 3 種郵便物認可)第 429 号/ 2013.3.10
筑紫教会
松澤教会★
中村町教会★
西宮一麦教会★
札幌中央教会★
大阪教会
大阪教会
洛北教会★
銀座教会
長崎古町教会★
新松戸幸谷教会★
洛北教会★
美竹教会★
大和キリスト教会★
松戸教会★
日下部教会
相模原教会(有志)
愛宕教会★
熊谷教会★
茨木教会
静岡教会
九段教会★
鎌倉泉水教会★
札幌教会★
2,000
10,000
10,000
20,000
30,000
500,000
25,770
20,000
200,000
19,920
3,000
20,000
100,000
30,000
5,000
70,000
21,000
3,000
5,000
30,000
600,000
10,000
3,000
20,000
合 計 1,757,690
11
(第 3 種郵便物認可)第 429 号/ 2013.3.10
25
日本基督教団 福音主義教会連合
4月
/木
列王記上第 19 章
ルカによる福音書
第 15 章 11 − 24 節
26
/金
列王記上第 20 章
ルカによる福音書
第 15 章 25 − 32 節
しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん
良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をは
めてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥
えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。
22・23 節
すると、父親は言った。
『子よ、お前はいつもわた
しと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。
だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。
いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開い
て楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。
』
」31・32 節
帰って来るのを待ち続けていた父親は、「雇い人の一人
にしてください」と言って戻って来た息子を、雇い人では
なく、子として受け入れました。しかも、兄が経験したこ
とのないような最上の祝いを催して喜んだのです。
悔い改めとは、向きを変えることです。父親のもとに帰
ろうと、身をひるがえすことです。神はあの父親のように
帰りを喜んでくださるのです。
父親がいつも一緒にいるのに、その祝福を受け取り損ね
ているとしたら、兄息子こそ失われているのかも知れませ
ん。兄は弟が帰って来たことによって、父の悲しみと喜び
とから遠く離れている、失われていた自分の姿に気づくこ
とになります。
人間はどれほど愚かであるか、また、人間を憐れもうと
される神の取り計らいがどんなに深いことかを、私たちも
知らされるのでありましょう。
27
/土
列王記上第 21 章
ルカによる福音書
第 16 章 1 − 18 節
主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方を
ほめた。… 8 節
「不正な管理人の譬え」と呼ばれるこの譬えについて考
え始めると、止めどがありません。また、不正な管理人の
振る舞いがほめられていることに戸惑いを感じます。ある
いは躓く人もいるかも知れません。今日は、聖書の中で一
番難解な譬えを読んでいます。
しかし、主イエスはこの最悪の人物を取り上げ、神の国
(ご支配)をお示しになります。この男も神の国のドラマ
の登場人物となっているのです。そして、
「ほめた」と言っ
て、神の国がこの男の振る舞いの中に映し出されもします。
この不可思議な譬えとともに、神の国は私たちのところに
来ます。
29
/月
列王記上第 22 章
マタイによる福音書
第 16 章 19 − 31 節
…『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、
たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言
うことを聞き入れはしないだろう。』 31 節
私たちはしるしが欲しいのです。信じるに足る証拠さえ
あれば「信じよう」と思っています。しかし、それは人の
言い訳にしか過ぎません。すべてのことは「モーセと預言
者(聖書)」に記されています。その言葉に聞いて信じた
いと願うことが大切です。
神の救いの出来事はイエス・キリストにおいて既に成就
しました。しかし、それは私たちの目には隠されています
から、信じて受け入れるよりほかはありません。しかし、
必ず与えられる約束の伴っていることは感謝すべきことで
す。
28
/日
創世記
しかし、ノアは主の好意を得た。
第 6 章 9 − 14 節
8節
ひとりの人とその家族が選ばれます。人類に対する神の
怒りと拒絶は、実は救いと恵の実現に向けられていたので
す。
「神に従う無垢な人」
(9節)とは、完全で欠点のない人
という意味ではなくて、神とともに歩む人、恵のもとにと
どまって、み心に生きる人です。
そのような人こそ人類が造り変えられるために残された
人でした。
30
/火
列王記下第 1 章
ルカによる福音書
第 17 章 1 − 10 節
…自分に命じられたことをみな果たしたら、『わた
しどもは取るに足りない僕です。しなければならな
いことをしただけです』と言いなさい。」
10 節
私たちの救いは自分の力で勝ち取ったものではありませ
ん。ただイエス・キリストによってなし遂げられた罪の赦
しの出来事を、信じて受け入れることです。
ですから、その信仰に大きい小さいはありません。大き
な信仰が大きな赦しをもたらすのではないからです。
また、
私たちの赦しは私たちが赦しに生きるためですし、
私たちの業はただなすべきことをしたに過ぎないのです。
私たちに大きな業がなし遂げられたからです。
日本基督教団 福音主義教会連合
19
/金
列王記上第 14 章
ルカによる福音書
第 14 章 7 − 14 節
「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。
あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなた
やその人を招いた人が来て、『この方に席を譲って
ください』と言うかもしれない。そのとき、あなた
は恥をかいて末席に着くことになる。 8・9 節
「信じる」とは、自分の生活の中に神を迎え入れること
ではなく、あるいは、神のことを考えて生活するというの
でもありません。そのように信仰が表現されることもある
でしょうが、信じるとは「神が入ってきてしまっている」
ということです。
時には、神を迎え入れたくないと思うような私たちの生
活の中に、神が入ってきてしまう、「あなたは恥をかいて
末席に着く」、それが信仰です。
21
/日
創世記
第4章1−9節
20
12 (第 3 種郵便物認可)第 429 号/ 2013.3.10
4月
/土
列王記上第 15 章
ルカによる福音書
第 14 章 15 − 24 節
主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にで
も人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。
23 節
「無理にでも」とは物騒なことを言っているのではあり
ません。神の国の宴会に招き入れようとする神の熱心を伝
えます。恵みによって、その不思議な力によって招き入れ
てくださらなければ、この世のしがらみ(責任)に縛られ
ている私たちは、神の国の宴会にあずかることはないで
しょう。
私たちを解き放ち、招き入れてくださるのは、宴会の席
を満たすために、相応しくない者、招かれていない者を、
なにがなんでも連れて来させる神の恵みの力です。
22
/月
列王記上第 16 章
ルカによる福音書
第 14 章 25 − 35 節
カインとその献げ物には目を留められなかった。カ
インは激しく怒って顔を伏せた。
5節
自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、
だれであれ、わたしの弟子ではありえない。
27 節
カインの憤りは神の自由を承認できなかったことを示し
ます。
神はなぜアベルを受け入れたのか、神の自由を計ること
はできません。飼葉桶のみどり児、十字架の困窮者を通し
て私たちを救い祝福されるのは、神の計り知れない自由に
よることでありました。
神は神です。押し付けがましい私たちの要求に神を従わ
せることはできません。カインは神からその自由を承認す
ることを求められたのです。
「十字架を背負う」とは、
はっきりとしたイメージを持っ
ています。処刑場に向かう者の姿です。刑を受けるために
処刑場に向かう者だけが十字架を負うのです。
主イエスは十字架を負われました。神の裁きをお受けに
なったということです。処刑されたのです。罪のためです。
しかし、ご自分の罪ではありません。私たちの罪のためで
す。私たちに代わって負ってくださったのであります。
その十字架を私の十字架として負うことを知る者が、主
イエスの弟子です。
23
/火
列王記上第 17 章
ルカによる福音書
第 15 章 1 − 7 節
24
/水
列王記上第 18 章
マタイによる福音書
第 15 章 8 − 10 節
「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がい
て、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原
に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回ら
ないだろうか。 4 節
「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がい
て、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、
家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろう
か。 8 節
羊の群には羊飼いがおり、その群を養います。「主はわ
たしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い」と詩
編 23 編はうたいます。
その群を離れては、羊は生きていくことはできません。
しかし、迷い出てしまうのです。羊飼いである主は、迷い
出た一匹を見つけ出すまで捜し歩くお方だというのです。
「魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく わ
たしを正しい道に導かれる」正しい道とは、恵みを見出す
道です。
十枚の銀貨とは、嫁ぐときに母親から渡された銀貨を連
ねたネックレスのことだろうと言われます。何か事があれ
ば、その銀貨が助けとなるでしょう。娘を思う母親の愛情
が銀貨には託されています。その銀貨を一枚であっても失
くしてしまったとしたら、
どんなに悲しいことでしょうか。
神の愛を見失い、その眼差しから隠れてしまったのが人間
なのかも知れません。
神の悲しみは、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるま
で念を入れて捜す愛となります。
13
(第 3 種郵便物認可)第 429 号/ 2013.3.10
13
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4月
/土
列王記上第 9 章
ルカによる福音書
第 13 章 10 − 17 節
14
/日
創世記
第 3 章 1 − 10 節
…その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」
16 節
主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」
9節
安息日は申命記の記述によれば、出エジプトの恵みを覚
える日でありました。エジプトからの解放と自由を神の大
いなる恵みとして、民はいつまでも覚えることが求められ
ました。
18 年も体を伸ばすことの出来なかった女を主はいやさ
れ、18 年の束縛から解放されたのです。彼女はそこで初
めて腰がまっすぐになり、神を賛美することが出来るよう
になりました。そのいやしを見た会堂長は腹を立てました
が、このいやしによる自由と解放こそ、安息日に相応しい
行為であったと言えるのです。
アダムは木の間に隠れて、み顔を避けていました。
「あ
なたはどこにいるのか」という問いは、地理的場所ではな
く、人間がどの方向を向いているのかという問いです。
この神の問いかけは、
人間の究極的な滅びに対する、
切々
たる立ち返りへの呼びかけでもありました。
その神の呼び掛けは、キリストにあってすべての人に届
けられました。
15
/月
列王記上第 10 章
ルカによる福音書
第 13 章 18 − 21 節
…「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。
18 節
主はここで神の国は何に似ているか、と言われます。こ
の 2 つの譬えは、そのいずれも人間の目には結果として
見ることが出来るだけであって、その過程は隠されている
と言えます。どのようにしてそうなるのかは神のことであ
り、誰にも知られていないのです。
つまり、教会の業は徹頭徹尾、神ご自身の業だと言って
いいでしょう。人間の知恵や計画によるものではないとい
うことです。私たちの力は、たとえ小さくても決して失望
することはないことを思わせられるのです。
この福音の力、
福音の恵みを信じて伝道に励みたいものです。
17
/水
列王記上第 12 章
マタイによる福音書
第 13 章 31 − 35 節
16
/火
列王記上第 11 章
ルカによる福音書
第 13 章 22 − 30 節
「狭い戸口から入るように努めなさい。…
24 節
「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と尋ねた者
がいました。この人は、恐らく自分は当然救われる者であ
ると思っていたことでしょう。正統的なユダヤ教徒であっ
たのかも知れません。それに対して、主は「狭い戸口から
入るように努めなさい」と言われました。
22 節に「エルサレムへ向かって進んでおられた」とあ
ります。十字架に向かっての旅です。狭い戸口とは十字架
の主への信仰です。それは多くの人が入りたいと望まず、
歩みたいと願う道でもありません。
しかし、救いに至る戸口は、そこにしかないのです。
18
/木
列王記上第 13 章
ルカによる福音書
第 14 章 1 − 6 節
…わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を
進まねばならない。… 33 節
…「安息日に病気を治すことは律法で許されている
か、いないか。」 3 節
あるファリサイ派の人々が、「ヘロデがあなたを殺そう
としています」と忠告します。善意の忠告であったと思い
ます。しかし、主は「進まねばならない」
と言われます。
〝ね
ばならない〟とは、そのように神によって定められている、
という意味です。エルサレムで十字架に架けられるという
ことは、神の意志であるということです。
それは雌鶏が翼の下にひなを集めるように、神の救いへ
の招きであり、キリストによってご自分の恵みの意志を明
らかにした神は、全ての人が悔い改めをもってそれに応え
ることを待っておられるのです。
〝安息日を覚えて、これを聖とせよ〟という戒めは、ユ
ダヤの社会ではかなり厳格に守られて来ました。それは日
常の仕事を休むことであり、日常生活の中断でした。その
目的は神が創造の業を終え、休まれたことを覚えるととも
に(出エ 20 章)
、
出エジプトの恵みを想起する日(申 5 章)
でもありました。人がその業を中断し、神の創造の祝福の
中へ招かれ、その恵みに与り、それを讃える日でした。
水腫を患っている人をいやし、神の祝福の中に招き入れ
ることは、井戸に落ち込んだ牛を助ける以上に、安息日の
精神に合致することではないでしょうか。
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7
/日
創世記
第 2 章 4b − 9 節
主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形
づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこ
うして生きる者となった。
7節
人は土(アダマ)の塵から造られました。土にすぎない
はかない存在です。
それは、人生が空しいということではありません。神の
前にいと小さき者だということです。
神の息を吹き入れられたとは神のあわれみと恵みによっ
て、人がいと小さき者として神を賛美し、感謝しつつ生き
るものとされたということです。
9
/火
列王記上第 5 章
ルカによる福音書
第 12 章 49 − 53 節
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。
その火が既に燃えていたらと、どんなに願っている
ことか。 49 節
「実に人はただ忘れるばかりでなく、忘れることによっ
て、自分が忘れてしまっていることも忘れる」ある人の言
葉です。人間は罪を忘れるのです。見事に忘れる。そして、
罪は見事に人間を捕らえて離さない。私たちは、罪を忘却
したところで、平和だ平安だと言っているのかも知れませ
ん。正しい裁きと赦しが必要なのです。
主イエスはご自分が審判者であられることを明かしてく
ださり、その裁きこそ、良きことであり、神の栄光となる
ことをお示しくださいます。
11
/木
列王記上第 7 章
ルカによる福音書
第 13 章 1 − 5 節
8
14 (第 3 種郵便物認可)第 429 号/ 2013.3.10
4月
/月
列王記上第 4 章
ルカによる福音書
第 12 章 41 − 48 節
しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、
下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うよ
うなことになるならば、 45 節
「人間という存在はなんと矛盾に満ち、罪にまみれてい
ることか。私は無力だ。何をしても無駄だ」
。
「全てが終わ
る。死は勝利者だ」と考えているなら、それは自分勝手な
考えです。
自分勝手に考え始めると、私たちの視野はたいへん狭い
ものになり、私たちの見通しは、まことに短いものになり
ます。そして、隣人や身の回りのものが、すべて遠い存在
となります。しかし、救い主であられる主イエスは、再び
来られます。
10
/水
列王記上第 6 章
ルカによる福音書
第 12 章 54 − 56 節
…どうして今の時を見分けることを知らないのか。」
56 節
主イエスは「あなたがたは空や地の模様を見分けること
は知っているのに、どうして今の時を見分けることを知ら
ないのか」と言われました。
「今の時」とはキリスト到来
の時のことです。
主イエスの伝道の第一声は「時は満ち、神の国は近づい
た。悔い改めて福音を信じなさい」
(マルコ 1・15)でし
た。
「近づいた」とは「来た」ということで、
「関係が生じた」
という意です。
「悔い改めて」とは「向きを変えて」です。
今こそ、キリストに生きるべき時なのです。
12
/金
列王記上第 8 章
ルカによる福音書
第 13 章 6 − 9 節
…あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅
びる。」 5 節
…『御主人様、今年もこのままにしておいてくださ
い。… 8 節
ピラトによってガリラヤ人が迫害されるという事件が起
こった時、そのような災難に遭うのは、彼らが他のどのガ
リラヤ人よりも罪深い者だったからだ、と思った人々がい
たようです。また、シロアムの塔が倒れて死んだ 18 人は、
エルサレムに住んでいた他のどの人々よりも罪深い者だっ
たのではないかと考えた人がいました。主は「決してそう
ではない」と言われ、因果応報的な考えを否定されます。
そのような考えこそ大きな不幸であるということでしょ
う。
そのような考え方、生き方を 180 度変えなければ、即
ち悔い改めなければ、あなたも滅びると警告されるのです。
この譬えの、実がならないいちじくの木はイスラエルを
象徴しています。主人は大きな期待を持って 3 年間実の
なるのを待ったのです。3 年経っても実のならない木は無
用の長物にすぎませんでした。主人は切り倒すことを命じ
ます。これはイスラエルに対する裁きの宣告です。
しかし、園丁は一年の猶予を申し出ます。この園丁の姿
こそ主イエスの執り成しの姿と重なり合うのではないで
しょうか。主の公生涯の 3 年を思い浮かべます。
「もしそ
れでもだめなら」と言う園丁の必死の思いが伝わって来ま
す。主の十字架の死による執り成しを思うのです。
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1
4月
/月
サムエル記下第 22 章
ルカによる福音書
第 12 章 1 − 3 節
だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明
るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋
根の上で言い広められる。」 3 節
主イエスはご自分が救い主であられること、ご自分がど
のようにして人々に救いをもたらすかを、弟子たちにお語
りになりました。ひそかに、心を込めてお語りになりまし
た。
その真理を世界中に語り伝えることを、ご自分だけでな
さらないで、むしろ、弟子たちにお委ねになりました。し
かも、弟子たちが聞いた主イエスの真理、この世の人々の
救いの言葉は、ご自分を迫害する人に対する救いの言葉で
した。
3
/水
サムエル記下第 24 章
ルカによる福音書
第 12 章 8 − 12 節
「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたし
の仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使た
ちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。
8節
主の慈しみを受け入れて、主イエスを「わたしの仲間で
あると言い表す者」は、主もまた、「神の天使たちの前で
受け入れる(自分の仲間であると言い表す)」と書かれて
います。神の天使たちの前とは、主イエスが御使いたちを
従えて裁きの座につく時です。主イエスが何の相応しさも
持ち合わせていない、この私を友と呼んでくださる、だか
ら「主はわたしの仲間です」と、この地上で言い表し続け
るなら、最後の審判において主イエスは私たちの仲間であ
り救いでいてくださる、というのです。
5
/金
列王記上第 2 章
ルカによる福音書
第 12 章 22 − 34 節
烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れ
もせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養っ
てくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値
があることか。 24 節
空高く空中散歩している烏は優雅に見えます。しかし、
物の本によると、烏はよく食べるそうです。地上に下りて
いる時は食べ物をつつき、空を飛んでいるときには食べ物
を探している。なぜ、よく食べるのかと言うと、空を飛ぶ
のには、たくさんのエネルギーを必要とするからだそうで
す。食べるために飛び、飛ぶために食べている。思い煩っ
ているのは、烏も一緒なのかもしれません。
神は私たちをも顧みていてくださいます。
2
/火
サムエル記下第 23 章
ルカによる福音書
第 12 章 4 − 7 節
「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺して
も、その後、それ以上何もできない者どもを恐れて
はならない。
4節
「友人」と呼ばれて戸惑うのは、私たちが主イエスの友
人として少しもふさわしくないからです。いつ、私たちは
主の友人だったでしょうか。罪人の一人に過ぎませんし、
決してそれ以上のものではありません。
しかし、それにも関わらず、なお、主が私たちを「友」
とお呼びになるとしたら、それは、ひとえに主の思いやり
によることで、相応しくない者を敢えて相応しいと見なし
てくださる主の慈しみに他ありません。
4
/木
列王記上第 1 章
ルカによる福音書
第 12 章 13 − 21 節
金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所
がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こう
しよう。… 17・18 節
この譬えで、金持ちの最も際だった特徴は、彼が終始、
独り言を繰り返している、ということです。対話の相手が
いないのです。自分自身にしか語り得ない男、それがこの
金持ちです。彼には父や母、子どもたち、そして、友人や
雇い人、また隣人はいないのでしょうか。そして、なによ
りも神はおられないのでしょうか。すでに、彼自身が失わ
れています。
神に依り頼むことを知り、神に従い、そして共同体にお
いて交わされる愛によって互いに結び付けられることこ
そ、人間として相応しいことなのです。
6
/土
列王記上第 3 章
ルカによる福音書
第 12 章 35 − 40 節
「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。
35 節
「腰に帯を締め」とは、着物の裾を上げて帯に巻き付け、
身構え、
準備をすることです。
「ともし火をともして」
とは、
夜遅く婚宴から帰って来る主人を待って、
戸をたたくとき、
すぐに戸を開けることができるように、いつでも目覚めて
いることです。
そのように主人の帰りを待っている僕は幸いである、と
主イエスは言われました。主ご自身が、
自ら腰に帯を締め、
食卓の準備をし、このような僕のために給仕をしてくださ
るからだ、というのです。
主は来られます。
教会教育には 教会学校教案 をどうぞ
月号 目次
巻頭言……………………………………… 張田 眞
「学士院院長はCS校長だった」
特集………………………………………… 小友 聡
「教会学校教師のための旧約聖書講座」
月号の教案
テキスト研究…………………………… 大石 健一
説教 例
藤川 義人・大三島義孝・小林 眞
疋野 愛子・藤盛 勇紀・大野 和男
塚本 佳奈・上森 俊明・宮本 義弘
森里 信生・嶋田 恵悟・春原 禎光
聖句カードのお話………… 浅見 覚・内田 知
分級教案…………………………………… 筧 伸子
田中かおる・堀岡満喜子
読者の広場・教会紹介 日下部教会(山梨県)
ラ
共にあずかることができますように。
◇ 主のご受難をしのび、復活の喜びに
ファエル前派と
世紀のイギリスの画
◇ 近 藤 存 志 著「 キ リ ス ト の 肖 像
」
(教文館)が出版されまし
た。著者は本紙に連載「主イエスの肖
家たち
像」をお書き下さり、大変好評であり
ましたが、この度、さらに内容が充実
されて一冊の書物となりました。たい
へん、嬉しいことであります。
◇ 教会連合を献金をもってお支えくだ
る皆さまに感謝いたします。教団改革
は仕上げともいうべき教団の形成・充
実へと向かうべき段階に至っていま
す。教団紛争の悪しき遺産が残ってい
昭和
年
月
日第三種郵便物認可(毎月1回
日発行)
−
円)一年間購読料3000円(送料とも)
−
ますから決して容易なことではありま
−
−
せん。祈りつつ励んでまいりたいと願
部以上200円
−
F
A−
X
15
います。
発行所 日本基督教団 福音主義教会連合
〒
東京都中央区銀座4 2 1 銀座教会堂ビル内
03 3561 0242
電話03 3561 0231 7 33909
−
F
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X
−
編集室 日本基督教団 鳥居坂教会内
〒
東京都港区六本木5 6
03 3401 8289
電話03 3401 8704 発行人 長山信夫
編集人 張田 眞
郵便振替口座 00170
−
−
毎月、献金報告をお載せしています
が、ときどきお名前や所属教会に間違
10
3 月号 contents
定価1部250円(〒
60
−
いがあり、
ご指摘いただいております。
13
室
た い へ ん 申 し わ け あ り ま せ ん。 ま た、
−
−
集
19
4
4
編
−
ご指摘を感謝いたします。
10
説教/「福音にふさわしい生活」
……………………………… 朴 壽吉 1
追悼/「我ここに立つ−小林貞夫さんを偲んで」
…………… 森里信生 2
新常議員になって/「今の時代、主に生かされる者の一人として」
…… 稲松義人 3
解説/教会形成のための
「教憲・教規」
の読み方 第9回
第 17 回教団総会の不法性と教団顧問弁護士の問題《第 4 回》
・・・教会法と世俗法の混濁・・・…………………… 山口隆康 4
「教会と広報」…………………………………………………… 井田昌之 6
報告/「茨木東教会 献堂報告」
… ……………………………… 筧 正彦 7
報告/東京神学大学「第 14 回日本伝道を担う青年の集い」…… 三橋侑子 8
シリーズ カオリさんの献身志願③
「
『献身』ってどういうこと?」
… ………… 小泉 健 9
献金感謝報告(2013 年 1 月分)
………………………………………… 10
聖書日課(2013 年 4 月)
………………………………………………… 15
教案誌案内・編集室……………………………………………………… 16
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−
0061
106
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0032
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(第 3 種郵便物認可)第 429 号/ 2013.3.10
16 日本基督教団 福音主義教会連合
福音主義教会連合の主張(創立感謝宣言より)
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