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バームベルク公爵領の転生令嬢は婚約を破棄したい

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バームベルク公爵領の転生令嬢は婚約を破棄したい
バームベルク公爵領の転生令嬢は婚約を破棄したい
くまだ乙夜
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
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︻小説タイトル︼
バームベルク公爵領の転生令嬢は婚約を破棄したい
︻Nコード︼
N6652DH
︻作者名︼
くまだ乙夜
︻あらすじ︼
ある日、目覚めたら公爵令嬢だった。それはいいけど、私、悪役
令嬢っぽくない? 皇太子もなんだかクセがありそうだし、このま
ま婚約していたらある日突然破棄を言い渡されそう。冗談じゃない、
不幸な脇役になってたまるか! 私は私の力で幸せをつかんでみせ
る! 一億の借金だってまとめて返済してやるわよ!
︱︱ツッコミ属性の公爵令嬢がサクサク領地改革を進めていく無双
1
ものです。
2
公爵令嬢は思い出した
その日、バームベルク公爵令嬢ウィンディーネ・フォン・クラッ
センは思い出した。
前世が日本人だったこと、ここが地球のどこでもない異世界であ
ること、そしてクラッセン嬢が皇太子との婚約を間近に控えた皇妃
候補であることなどが一度に脳裏をよぎり、最後にとんでもない事
実をおののきとともに受け止める。
公爵令嬢ディーネは思い出したのだ。
︱︱婚約者たる皇太子が、前世の彼女からするとありえないキモ
男であることを。
グラガン歴七百二十九年、アディディウス帝朝ワルキューレ帝国、
第四代目皇帝ヨーガフ即位より三十年目の春だった。
帝国ワルキューレは軍事大国であり、様々な形質の国土を広く領
有しているが一貫して特にジャガイモをよく産出し、領土内には戦
争の要となる魔法の鉱石の鉱脈が大量に眠っている。その圧倒的な
国力に周辺諸国は厳戒態勢を取るか属国化するかの二択を迫られ、
屈した国、いくさに負けた国は次々と併呑されているのが現状だっ
た。皇帝ヨーガフはすでに四つの国を有している。王家の紋章はそ
れを誇示するかのように四重冠のエンブレムに改められたばかりだ。
さてその四つの国の支配者を意味する﹃四重冠﹄の紋章を背負い
し大帝国の皇太子︱︱名を、ジークライン・レオンハルト・フォン・
アディディウスと言った。
﹁ジークラインさまとの婚約を破棄したい、ですって⋮⋮!?﹂
3
側仕えの筆頭侍女であるジージョはくらりとよろめいた。ジージ
ョはかくしゃくとした老婦人だ。白髪交じりの髪をきっちりと結い
上げ、服装に乱れのひとつもなく、足元がおぼつかなくなるほども
うろくするにはまだあと二十年早そうだ。おそらくわざとよろめい
てみせたのだろう。
公爵令嬢はそれに対し、ごくあっさりと首肯した。
﹁します。超します﹂
﹁姫! 超などと下品な言葉を使ってはなりません! だいたいに
して姫、昨日までは皇太子さまだいしゅきだったじゃありませんか
!﹂
﹁だだだ、だいしゅきって言うな!﹂
﹁わたくしが何度諌めてもまるで耳を貸さずに周囲がドン引きする
ほどそりゃあもう重いラブポエムを書き送ったりしていらしたでし
ょう!﹂
﹁ラブポエムって言うなー!﹂
ディーネは頭をかきむしった。彼女の指摘はだいたい事実だった
からである。記憶が戻った今ではもはや、虫唾が走るとしか言いよ
うがない。
公爵令嬢ディーネには常に四人の侍女が側に侍っている。それぞ
れがみな高い身分で、申し分のない品格の淑女たちである。侍女た
ちは互いに顔を見合わせているが、そこには突然おかしなことを言
い始めた主人に対する心配と、少しの好奇心が見え隠れしていた。
どうやら誰もディーネが本気で婚約破棄を望んでいるとは思って
いないらしい。
4
ディーネは覚悟のほどを理解してもらうため、ふかぶかと頭をさ
げた。公爵令嬢らしく、作法は完璧だ。
﹁どうかしてました。ごめんなさい。私には無理です。あいつと結
婚するぐらいなら死にます﹂
﹁死ぬとまで﹂
﹁そんな、口調まで変わって﹂
﹁神々しいばかりに理知的なディーネ様が、そんな軽薄な口調で﹂
﹁ディーネ様、何か悪いものでも召し上がったのですか?﹂
侍女たちの総突っ込みに、ディーネはもう泣くしかなかった。
﹁無理です、いやです、あんなキモ男まじで無理です﹂
﹁ジークラインさまの何がお気に召しませんの?﹂
侍女のひとりが不思議そうに言う。眼鏡美人の彼女はナリキ・ミ
ナリール。身分は低いが豪商の父親を持ち、彼女自身も相当なやり
手である。
﹁とても素敵な方ではありませんか﹂
﹁そうですわそうですわ。ジークライン様と結婚できるなんてお幸
せですわっ﹂
﹁あんなに格好よくて優しくて頼りになる方、他にいらっしゃいま
せん﹂
﹁何をなさっても様になるのですわよね! きゃあ!﹂
ディーネはげんなりしながら答える。
﹁⋮⋮そうでもないと思う⋮⋮﹂
﹁なんですって!?﹂
5
筆頭侍女のジージョは眉を逆立てると、こんこんと説教を始めた。
﹁よいですか、ジークライン様は人並み外れて容色優れた方でいら
っしゃいますが、ジークライン様の魅力はそれだけにとどまりませ
んのよ。徳に篤く叡知に溢れ、その武力で国をふたつまでも平らげ
られたのですからね﹂
現在四か国にまたぐ帝国を築いているワルキューレだが、そのう
ちの二か国を攻め滅ぼしたのは皇太子のジークラインである。彼は
ワルキューレの英雄でもあった。
﹁なんといっても有名なのはカナミア国との戦争の﹃重騎兵の奇跡﹄
のエピソードですわっ﹂
ジークラインはその戦いで奇襲を受けた。十倍もの敵兵が一斉に
転移魔法で彼の率いる重騎兵旅団を取り囲んだのである。
転移魔法。読んで字のごとく、対象の事物を地点AからBへ一瞬
で移動させる魔法である。アインシュタインなんていなかったんや。
転移魔法は非常に高度な魔法で、その利用には莫大な魔法エネル
ギーを必要とする。生身の人間の魔力だけでは購えないので、魔力
のこもった鉱石を使って補うことが多い。高価な魔法石を大量に使
って五万からの将兵を転移させたのだから、カナミアはそこで雌雄
を決するつもりだったのだろう。
敵方の、奇襲の方策は完璧だった。絶対に打ち破れないサドンア
タック。
しかしジークラインはそのいくさに、勝ってしまったのである。
6
︱︱敵兵に奇襲・包囲されているという連絡を受けたとき、ジー
クラインは自分の幕舎で酒宴を開いていた。絶望的な状況にも一切
慌てることなく、こう言ったという。
﹁やれやれ、気づいちまったか。転移魔法の重要性に﹂
出来の悪い生徒に及第点を与えると言わんばかりである。
﹁やっと時代が俺に追いついてきたな。いいぜ、その戦法は俺が七
歳の頃に考案済みだ﹂
そして彼は素晴らしく美しい声を響かせて、全軍に号令を下した。
﹁︱︱来な! 敵兵五万の屍、踏ませてやる﹂
そして彼は本当に勝利した。敵兵五万のうち、半数近くが戦死す
るという史上でも類を見ないほどの大勝利だったという。なお、肝
心の戦法についてはかん口令が敷かれているため、知らされていな
い。どうやら転移魔法の抜け穴を利用した大どんでん返しがあった
らしいとだけ伝わっている。
逸話を臨場感たっぷりに語り終えた侍女を取り囲み、四人の侍女
たちは熱いため息をもらした。
﹁かっこいいですわあ⋮⋮﹂
﹁素敵ですわぁ⋮⋮﹂
﹁まさに英雄の中の英雄でいらっしゃいますわぁ⋮⋮﹂
﹁男の中の男とはああいう方のことを指すんですのね⋮⋮﹂
﹁いやいやいや、かっこいいかな? 今の本当にかっこいい? ね
7
えかっこいいの?﹂
前世の記憶が戻ったディーネだから分かる。
︱︱ひと、それを厨二病という。
厨ニ病とは公爵令嬢ウィンディーネ・フォン・クラッセンの前世
である日本の、ある一時代に流行したスラングだ。
中学校二年生ぐらいの少年少女が憧れるような、おしゃれでむず
かしい語彙の言葉を並べ立てたり、万能感に由来する自信過剰な言
動などをしてしまったりする心の病のことを言う。
もっと早く言うと彼女の婚約者、皇太子ジークラインの言動がそ
れに当たる。
﹁だいたいなんなの﹃七歳のときに考案済みだ﹄って! どこに向
かっての自己主張なの!? 何で権利主張してんの!? 特許でも
取りたいの!?﹂
﹁かっこいいです﹂
﹁自信に満ちあふれた殿下らしいお言葉ですわ﹂
だめだー! この世界に厨ニ病の概念がないー!
ディーネは絶望のあまりがっくりと肩を落とした。記憶が戻った
時点でこうなることはうすうす分かっていた。しかしなんというか
あまりにも辛い現実である。
﹁とにかく私は無理! あんなキモ男とは結婚できないから! お
父さんにもそう言ってくる!!﹂
8
﹁あっ、ディーネ様!?﹂
ディーネはドレス姿で駆けだした。鯨骨でできたスカートをふく
らませる補正器具が邪魔だったが、慣れれば意外と走れるものだ。
9
天上天下にふたつと並びなき偉大な指導者だ。比類なき尊き騎士
にして魔術師、支配者になるべくしてお生まれになった王の中の
王
父であるバームベルク公爵エッディウガス・フォン・クラッセン
は、渋みのあるナイスミドルである。若かりし頃はさぞや美男子だ
ったのだろうと思わせる涼やかな目元と薄く入った笑いじわ、年の
割には張りのある肌。そしておしゃれだ。フリルの似合う中年男性
ってなかなかいない。
エッディウガスは娘の訴えを鼻で笑った。
﹁何をばかなことを。悪いものでも食べたのかい﹂
﹁いいえ! わたくしは本気です! あの方とめあわされるぐらい
なら死にます!﹂
父公爵は、一瞬けげんな顔をしたが、ふっと皮肉っぽく笑った。
﹁そうか。では死ぬがよい﹂
﹁おおおおお父様あああ!﹂
﹁なんだ。皇太子との婚約を破棄しようものなら、わが公爵家は無
事で済むまい。わが公爵家に連なる一族郎党と数百万に喃々とする
民草および使用人、下級貴族のために、そなたはおのれの誇りを貫
き、決然と自死するがよい﹂
﹁つめたあああああい! お父様のいけず! いじわる! 素敵ダ
ンディ!﹂
﹁最後なんで褒めたのだ、わが娘よ⋮⋮﹂
﹁とにかくわたくしはあんな方との結婚なんて絶対にいやッ!﹂
10
ディーネがこぶしを振り上げて力説すると、父公爵はやや考えて
から、うなずいた。
﹁⋮⋮結婚前だから気鬱の虫に取りつかれているのであろう。婚約
中の女人にはよくあることだ﹂
﹁ちがいます! わたくしは気持ち悪い男と結婚したくないだけで
す!﹂
父公爵は渋みのある美貌に深く眉間のしわを寄せた。
﹁⋮⋮気持ち悪い? だれが?﹂
﹁ジークラインさまが、です!﹂
﹁何を言う。ジークラインさまほどの粋な﹃漢﹄はおられぬであろ
うに﹂
厨ニ病皇太子まさかの大絶賛。
﹁いいか? 愚かなわが娘よ。ジークライン様こそはわが国の至宝
だ。天上天下にふたつと並びなき偉大な指導者だ。比類なき尊き騎
士にして魔術師、支配者になるべくしてお生まれになった王の中の
王だ﹂
大絶賛どころじゃなかった。何その至高の御方。
ジーク様って何なの。神なの。ジャスティスなの。
﹁ばかなことを言っていないで、早くごあいさつに行きなさい。今
日は午後から皇太子さまに拝謁の機会を設けていただいているから
お菓子を差し入れるのだとうれしそうに話していたではないか﹂
ええ、覚えておりますとも。うきうきルンルンで焼きましたから
11
ね。超きれいなパウンドケーキができました。ラム酒につけこんだ
洋ナシをふんだんに使用したちょっぴりビターなオトナ女子向けの
パウンドケーキです。作るのがむずかしくないからまったりおうち
デートの女子力アピにぴったり。甘すぎないからカレ受けも抜群。
やったねちくしょう。
バームベルク公爵エッディウガスは、パチリと指をならした。側
仕えの騎士がわらわらとディーネに迫る。
﹁連れていきなさい﹂
﹁はっ﹂
﹁いーやー! やーめーてー!﹂
﹁なに、一時の気の迷いだよ。ジークライン様に慰めてもらうとい
い。愚かなわが娘よ﹂
公爵家お抱えの青鷲騎士団の騎士に両脇を固められ、まるで罪人
のように引きずられながら、ディーネはエッディウガスの部屋を退
室した。
12
儚げな美少女はろくな目にあわない
ディーネは侍女たちの手によって着替えさせられることになった。
あっという間に裸にむかれ、すべすべするいい匂いの長いキャミソ
ールみたいなのを着せられた。名前は知らないが、この世界ではこ
れが下着の代わりなのである。ぱんつなどはない。リアル中世仕様
である。
﹁なんて素敵なのかしら﹂
﹁ディーネ様は本当にお美しくておやさしくて﹂
﹁ご覧になって、わたくしのほうが上背がございますのに、ディー
ネ様のほうがお腰の位置が高くていらっしゃいますわ﹂
ディーネは鏡に映った自分をシラッとした顔で眺めた。
ディーネの外見は決して侍女たちの過大評価というわけではない。
淡いレモンイエローのブロンド、揚羽蝶のように鮮やかな黒とブル
ーの瞳。お顔は可憐で清廉で、さながら雪深い山奥でしか生きられ
ない妖精の末裔といった風情だ。スタイルは華奢ですらりとしてい
る。無駄のない芸術的な肢体はフィギュアのトップスケーターのよ
うだ。
確かに美しい。しかし、美しすぎるがゆえにディーネは不安にな
ってくるのである。
すなわち︱︱こういう度を越した美少女は、現代日本の感覚でい
うと、ろくな目にあわないという先入観がディーネにはあった。
女性向けの恋愛小説であれば鬱えろ担当。冒頭で非道な男にレイ
13
プされて、かぼそい声で泣きながらアンアンいうのがお約束。
身分のある男の正妃として嫁いでいったはずなのになぜか男から
忌み嫌われて、使用人の立場に落とされる、なんて展開は見飽きる
くらいに見飽きてきた。
ひどい目にあわされてあわされて、それでもけなげに男が好きだ
と一途に想い続け、最後にようやく少し報われるような役回りが似
合いそうな子なのである。
さもなければ男性向けラノベの無口無表情系美少女担当だろうか。
派手で自己主張の強いメインヒロインの脇に控える地味なサブキャ
ラだが、クールで有能で仕事ができ、ふとしたきっかけで男の主人
公を好きになってしまう。しかし彼の正妻はあくまでメインヒロイ
ン。かなわぬ恋に身を焦がす儚げな美少女。しかし読者人気のゆえ
に他のキャラと結ばれることもまずない。永遠の二番手である。
鑑賞する分にはいい。しかし自分がそういう役回りを、したいか
? といわれたらもちろんノーだった。
﹁脇役になど⋮⋮﹂
ディーネがぼそりとつぶやくと、周囲の侍女はけげんな顔をした。
﹁脇役になど、なってたまるか⋮⋮っ!﹂
それがディーネの出した結論だった。
地味でもいい。しかし不遇な愛人にはなりたくない。レイプもい
やだ。嫁いだ先で使用人のようにこき使われるのもごめんである。
まずは敵を知りおのれを知ることから始めねばなるまい。
そうだ。皇太子ジークラインは間違いなく﹃主役級﹄のキャラづ
14
けである。どれほどのいい男なのかは先ほど力説していただいた。
公爵令嬢としての記憶からいって、それはほぼ間違っていない。
しかし彼は皇太子である。この国の英雄で、大魔法使いで、剣の
腕は神技といわれるほどの男だ。
あらかじめこの世のすべての勝利を神に約束されたかのようなキ
ャラ設定の彼にあてがわれる女が、たったひとりだけということが
あるだろうか?
いいや、ない。
一方ディーネのキャラ設定はどうか。
クラッセン嬢は深窓の令嬢で、生まれついての皇太子の婚約者で、
彼に並び立つ賢妃たるべく厳しい教育を施されてきた。皇太子のこ
とが大好きで、彼に手作りの品を贈るのが趣味。長すぎる手紙を一
方的に送りつけたり、手作りのお菓子をせっせと日参したりしてい
る。異常に嫉妬深くて、ジークラインが他の女と会話をしようもの
なら目を吊り上げて激怒する。
ディーネは頭を抱えざるを得ない。
︱︱悪役令嬢じゃないの、この子。
ある日突然婚約破棄でもされそうな設定だ。いつの間にか皇太子
には庶民の可憐な少女が付き従っていて、嫉妬に狂ったクラッセン
嬢はさまざまな嫌がらせを少女にするが、皇太子はそれが悪役令嬢
の仕業だといちはやく見抜き、あわれ令嬢は断罪されてしまうので
ある。
そんな展開絶対にいやだ。
15
とーにーかーく。
︱︱不幸な脇役にだけは、絶対に、絶対にならない⋮⋮っ!
ディーネが決意を固めているうちに侍女たちによるお召し替えが
終わった。
﹁ご覧くださいまし、よくお似合いですわ!﹂
鏡を差し出される。絶世の美少女はお出かけ用の晴れ着に着替え
させられていた。その美しい布地は隣国にだけ生息する希少な魔法
蜘蛛の糸でできており、抜群の伸縮性を誇る。鋼の剣でもなかなか
断ち切れないほど頑丈なので薄く軽く織ることができ、しかも人の
肌など、生物の体にだけぺたりと粘着するという特性を持っていた。
つまり、どういうことかというと︱︱
﹁いやああああ! なんなのこのぱっつんぱっつんのエロ衣装!!﹂
布地がぺったりと肌に密着するので、ふつうのお姫様ドレスなの
に、もれなく乳袋が搭載される。
といっても華奢なモデル体型なので、ほんのりふくらみが分かる
程度なのだが、その中途半端さがかえって痛々しい。
さらに布地がペラペラの紙並みなので、からだのラインもくっき
り浮き出てしまう。
結果、厳重に着込んでいるはずなのに、胸の形もお尻の形も丸わ
かりの特殊な服ができあがる。
下乳のラインから肩や肘の形、太ももの肉づきまではっきりくっ
きり見えていた。
16
下着としてキャミソールのようなものを一枚着ているので、かろ
うじて見えてはいけない部分だけはガードされている。
﹁お美しいですわ、フロイライン﹂
﹁えっこれで正装なの⋮⋮?﹂
﹁なにをおっしゃいます。魔法蜘蛛の布でできた服こそわが国の皇
族たる証﹂
﹁いやでもこれ、セクハラじゃない⋮⋮? 私もいやだけど、見る
ほうも目のやり場に困らない⋮⋮? 歩く公害とかになっちゃわな
いかな⋮⋮?﹂
﹁せくはら⋮⋮とは、なんですの?﹂
しまった。この国にはセクハラの概念もまだなかった。
下着がないところといい、思ったよりも文化的に野蛮である。
﹁ディーネ様のおからだは女のわたくしから見ても完璧ですわ!﹂
﹁そうですわそうですわ! なんというくびれとほっそりしたおか
らだなのかしら!﹂
スタイルはいい。それは認める。こんなに脚が長い女、漫画でし
か見たことないよ。
﹁それにすらりとしたお美しいおみ足! わたくしのほうが上背が
あるのにディーネ様のほうが腰の位置が高いんですのよ!﹂
﹁そういう問題じゃなくて⋮⋮ほら⋮⋮この衣装を着た私を見るこ
とにより、恥ずかしいって感情を想起させるならそれはもうセクハ
ラ加害者だと思うのだけれど⋮⋮﹂
﹁恥ずかしいと思う輩などおりませんわ!﹂
﹁皆さま椅子の上に立ち上がってでもディーネ様をひと目見ようと
なさいますわよ!﹂
17
そりゃ見るよ! こんな露出狂みたいな女がいたら見ないほうが
むずかしいからね!?
ディーネは脱力した。この世界の常識についていけない。
﹁まあいいや⋮⋮とにかく着替えるから違う服を出して⋮⋮﹂
﹁でも、もうご出発のお時間ですわ﹂
﹁ジークライン様をお待たせしてはいけません﹂
﹁でも、この格好で外に出ろってどういう罰ゲーム⋮⋮﹂
﹁ご心配は無用ですわ。転送ゲートで産地直送ですもの﹂
﹁私は野菜か﹂
﹁ほらほら、いってらっしゃいませ!﹂
なにかゲームのセーブポイントっぽいところに押し込められて、
次に気づいたら違う場所だった。
﹁お、来たか﹂
すばらしくいい声の男がこちらを振り向いた。
18
厨二病はうつるんです
アディディウス帝朝ワルキューレ帝国は四つの国を有している。
その支配者たるを高々と掲げんがためにアディディウス家の家紋は
﹃四重冠﹄をいただいたばかりだ。
数百もの国・民族がひしめきあう大陸の覇者、その帝国の皇太子、
ジークラインは、神がかくあれかしと願ったかのごとき、いくさご
との大天才にして、その肉体は完璧なる芸術品だった。
ジークラインは戦神と呼ばれるにふさわしい筋骨隆々たる上半身
を惜しげもなくさらして素振りの真っ最中であった。得物は軍馬一
馬身分ほどもあろうかという巨大な剣。
空気を切り裂いて、剣が上から下に振り下ろされる。
うずまく魔力の量にあてられ、ジークラインの婚約者、バームベ
ルク公爵令嬢ウィンディーネ・フォン・クラッセンはへたりこんだ。
びりびりと全身に裂帛の気合いを感じる。
鍛えているとはいえやはりイケメン枠をはみ出さないジークライ
ンが不釣り合いな大きさの剣を振り回す光景に、ディーネは嫌な胸
騒ぎを抑えて、そのつつましやかな乳房のあたりをそっと抑えた。
︱︱これは⋮⋮!
鉄製ならばまともに持ちあげることすら叶わぬような、武具とし
ての役割を果たせるとも思えぬ馬鹿馬鹿しい図体の品を実現してい
るのは、﹃ドラゴンの骨﹄と呼ばれる不思議な魔法金属だった。こ
の金属は持ち主の魔力量が大きければ大きいほど質量が軽くなると
19
いう不思議な特性を秘めている。ジークラインほどの遣い手が操れ
ばつるぎは羽根のごとくに軽くなり、乗せられた運動エネルギーは
爆発的に高まって、打ちつけた瞬間に合わせ魔力を放出してゼロに
すれば、ときには城門でさえやすやすと打ち砕くような﹃攻城兵器﹄
に変貌を遂げるのであった。
︱︱これは⋮⋮! 厨二病御用達武器のひとつ⋮⋮!
バスターソードだった。
﹁いやあああああ! ああああああ!﹂
突然金切り声をあげて発狂するディーネに、ジークラインは驚い
て目をみはった。
﹁⋮⋮どうした?﹂
剣を脇に、わざわざへたりこんでいる彼女のすぐそばにしゃがみ
こむジークライン。ちょっとやさしいと思ってしまったディーネは
まだ甘いのだろうか。
﹁いやああああ! 寄らないでええええ! 厨二病がうつるううう
ううう!﹂
﹁チュウ⋮⋮? おい、大丈夫か?﹂
と、ジークラインは心配そうにディーネの前髪をかきあげた。白
皙が間近に迫る。ディーネは目がつぶれそうになった。
﹁いやあああああ! 美しいいいいいいい!﹂
20
それも並大抵の美貌ではなかった。真っ白な美肌と、カラコンで
盛ってるとしか思えない宝石のような色合いの瞳は、フォトショで
念入りに加工したあとのコスプレイヤーそのものだ。
﹁何を言ってる。俺が美しいのはいつものことだろ⋮⋮?﹂
︱︱くっ、細かいところまでいちいち厨二づきおって。
とんだナルシスト発言だが、これもまた厨二病の標準装備みたい
なものなのだ。
ジークラインはどうやらただごとではないと察したらしく、やや
目つきを鋭くした。
﹁しっかりしろ。悪質な精神攻撃でも食らったか?﹂
とくにそういうものは食らっていないが、今のがとどめだった。
ジークラインに真剣な表情で瞳を覗き込まれて、ディーネは死ん
だ。
︱︱もうだめ⋮⋮! かっこよすぎる⋮⋮!
厨二病発言が鳥肌を立てるぐらい気持ち悪いと心底思っているの
に、公爵令嬢として生きてきた記憶と身体がそれを覆すのだ。
クラッセン嬢はジークラインが大好きだったのである。
ディーネの脳裡にその頃の記憶が蘇る。
ジークラインとクラッセン嬢の出会いは赤子の頃。母親同士の仲
がよかったふたりはいつもひとまとめに侍女に預けられていた。
21
しかしジークラインはごく健全な少年。クラッセン嬢は控えめな
少女。ジークラインがワイバーンで遠いところに飛んでいきたいと
思っているとき、クラッセン嬢は怖いことはやめておうちで刺繍で
もしていたいと思っているのが常だった。趣味も価値観も合わない、
合うはずがない。
そんなある日のこと、クラッセン嬢はジークラインに﹃きょうは、
おにわのはなぞのであそびたい﹄と申し出た。そのときのジークラ
インの返しがこうである。
︱︱庭? 花園? ちっちぇえな。そんなものより、もっとすご
い景色を拝ませてやるぜ。
彼はいやがるクラッセン嬢を無理やり飛竜に乗せた。高いところ
が嫌いな彼女はブルブル震えていたが、意外にもジークラインの操
る飛竜の上は怖くなく、むしろ快適といっていいほどだった。ワイ
バーンの操り方もさることながら、追加でジークラインのはる結界
が一定の気温と湿度を保ち、風を防いでくれていたのだ。さらに彼
は特別な才能を持つ魔道士で、空気のさばき方も巧みなのだと知る
のはクラッセン嬢が魔力のあしらいを覚えたずっとあとのことにな
る。
彼が連れてきてくれたのは古の廃墟、空中庭園だった。夜空が滝
のように流れ落ちる地の果ての境界線にそれは存在し、あいまいで
不確かな古城の土台や輪郭は魔力によると星と虹できらきらと輝い
ていた。その前庭は見たこともないほど美しい万緑と花と果実の競
演に埋め尽くされており、さらに怪異なる魔物が犬のような形態を
とって心地良い日なたに寝そべっているのも発見できた。
︱︱すごいすごい! ここはどこ?
22
︱︱さあな。おれが見つけたんだから、おれの庭だろ。この世の
すべてはおれのもので、すべての場所はおれの庭だ。
ジークラインはそのころからすでにジークラインだった。
︱︱じーくのおにわなの?
︱︱ああ、そうだ。
︱︱わたし、あそこに生えてるおはながほしい!
指さした先にあったのは、およそ地上のどんな花とも似ていない、
淡く光る草花だった。
︱︱いいぜ。おれの女にふさわしい贈り物だ。
当時のジークラインは御年六歳。ベッドにはまだ添い寝用のくま
のぬいぐるみが飾ってある。幼児のくせに妙な色気があるので気持
ちが悪いとこぼしたのは彼の母親にあたる皇妃だったか。なぜかジ
ークラインの世話をする乳母が恋愛的な意味で彼を好きになってし
まう事例があとを絶たないため、ジークラインの周囲からはそうそ
うに女性の使用人が排除された。皇妃もなにかと苦労の絶えない女
性である。
それはともかく、厨二病の皇太子は幼き婚約者の淑女に野に咲く
可憐な花をプレゼントするべく、彼女をひとり飛竜の上に残し、勇
敢にも魔物がひそむ前庭に降り立った。
とたんに犬のような魔物が眼光するどく反応した。大地を蹴って
ひと飛びでジークラインにおどりかかる。
︱︱あっ、あぶない、じーく!
23
ディーネは思わず目を手で覆う。じーくがやられてしまったかも
しれない。どうしよう。泣きそうになりながらこわごわ目をあけて
みたときには、魔物は彼に一刀両断されて、塵と消えるところだっ
た。
︱︱ランクD、ただの雑魚か。
ジークラインはただの口だけの尊大なお子様ではなく、そのころ
から一騎当千の剣の使い手だった。
実力がともなったナルシストだったのである。
︱︱わあっ、おはなありがとう、じーく!
にこにこ顔の無邪気な幼女婚約者に、ジークラインはふっときざ
な笑みを贈ると、そのひたいにちゅっとくちづけた。
︱︱最高の釣り銭をもらっちまったな。
おとなびた六歳児のほほえみに、まだまだ頭にお花を咲かせて喜
ぶお年頃の幼女であるクラッセン嬢はときめいた。未知の精神の高
揚に、幼女はわけもなく顔を赤らめ、そっと耳の上に乗せたお花の
具合を手で確かめる⋮⋮
⋮⋮おそらくこれがクラッセン嬢が恋を自覚した瞬間の記憶であ
る。
24
婚約は破棄していただく方向で
走馬灯のようによみがえった幼少期の甘酸っぱい思い出に、現在
時間軸の立派な淑女たる転生公爵令嬢ディーネはもんどり打った。
﹁ちがああううううう! これは恋じゃないいいいいい!!!﹂
この胸のときめきが恋だと認めてしまうと、ディーネはこの厨二
病殿下と生涯夫婦として暮らしていかなければならなくなるのであ
る。
しかも身分が高いがゆえにこの格好も避けられない。
生体にぴったりと張り付く特性を持つ魔法蜘蛛の糸を使ったドレ
ス。
今のディーネは漫画でよく見るあの現象、﹃あの服、あんなに厚
着なのに、すごいエッジの利いた立体裁断だなあ⋮⋮﹄を地で行く
格好をしていた。スカートとボディスとローブデコルテの三点セッ
トをしっかりと着込んだ、いわゆる﹃お姫様ドレス﹄にキャミソー
ル状の下着まで込みなのに、なぜか乳の形は浮き出ているし、スカ
ートは重力に逆らって太ももに執拗にまとわりついているし、おへ
その下から股関節にかけてはなぜか年中水濡れしたようにべったり
張り付いている。なんなんだコレ。どういうデザインだ。こんなの
絶対になんらかの悪意を持った世界の創造者とかがデザインしてい
るに決まっている。そしてそいつは日本のオタクだ。間違いない、
賭けてもいい。
どうせならもっとちゃんとした服が着たい、ふつうの人とふつう
25
の暮らしがしたい。
﹁ディーネ、おい、ディーネ!?﹂
﹁やめて、寄らないで、さわらないで! この際だから申しあげま
すけど、わたくしジーク様とは結婚したくありませんの! ですか
ら婚約はいますぐ破棄なさって!﹂
よーし言ったー!
パパ公爵にはとりあってもらえなかったが、直談判すればいい話
だ。
するとジークラインは眉をひそめて、急に何かを悟った顔になっ
た。
﹁⋮⋮もしかして、本当に何かの精神攻撃を食らってるのか? ま
さか、俺の知らない魔術で⋮⋮?﹂
﹁わたくしは正気ですッ!﹂
﹁なら、理由ぐらい言うんだな。この俺の何が気にいらない?﹂
ジークラインは本気で分からない、という顔をしている。
﹁俺の女になるのは最高の栄誉だろう?﹂
﹁そういうところがいやだって言ってるんです!!﹂
ディーネは頭をかきむしる。だんだん言葉遣いがぞんざいになっ
てきた。しかし気を付けて訂正する心の余裕はない。
﹁わたくし殿方は控えめな方が好き! ジーク様のように自信過剰
な方とはやっていけません!﹂
ジークラインはやはりまだよく分からないという顔をしていた。
26
しかし彼は幼少時から十人に一度に話しかけられてすべての内容
を正確に理解し、返答したという逸話もあるほどの天才。聖徳太子
か。
彼は瞬時にディーネの言わんとすることを汲みとった。
﹁俺の発言が自信過剰だってことはねえだろ⋮⋮? 事実を控えめ
に述べているだけだから、お前の好みからも外れちゃいねえ﹂
﹁いやああああ! 厨二病うううううう!﹂
ディーネは耐えられないぐらいいたたまれないのに、クラッセン
嬢としての身体は勝手にきゅんとときめいていた。彼女、俺様何様
な皇太子殿下に心酔していたので、自由気ままななおっしゃりよう
が本当に萌えツボだったらしい。
ディーネにはまったく理解できない趣味だ。
なのに現世の記憶に引きずられて、ちょっとかっこいいと思わさ
れてしまう。
この矛盾が、もう身悶えするほど気持ち悪かった。
﹁私はふつうの世界に生きたい⋮⋮ッ!﹂
﹁さっきから何を言ってるんだ⋮⋮?﹂
ジークラインは何かを思いついたように真面目な顔になり、ぎゅ
っと彼女を抱き寄せた。
いきなり密着されて、ディーネの心音がはねあがる。
﹁ジ、ジーク様っ!?﹂
﹁やっぱ心配だな⋮⋮一度医者に診てもらおうぜ? なんか変だし。
悪ィけど、ちっと運んでくぜ﹂
27
そう言って、彼がディーネを抱きかかえた瞬間のことだった。
突然、部屋のすみにスウッと黒いしみのようなものが浮いて、な
にかが光った。
﹁はッ︱︱!﹂
気合いとともにジークラインが飛びすさる。たった今までジーク
ラインがいたあたりのすぐ後ろに、太矢がふかぶかとつきささった。
クロスボウ。そして今のは魔法石を使った魔術だ。
高い魔術の教養を持つクラッセン嬢としての記憶を使い、ディー
ネは瞬時に分析していた。
・・・・・
しかしジークラインの分析力はディーネのはるか先をいく。転移
が生じた座標を正確に逆探知、門をこじ開け、魔法石なしで今しが
た放たれた太矢をぶちこんだ。
ジークラインは世界でも有数の魔法使いで、その魔力量は化け物
クラスであるという。普通の人間には絶対にできない魔法石の補助
なしの転移魔法を、彼はやすやすとこなしてみせる。魔法の資質ひ
とつとってみても超一流のジークラインが見せた奇跡のような神業
に、ディーネはまた激しく胸がうずくのを感じた。
太矢をぶちこまれた敵がぺらりとはがれた空間の裏から落ちてく
る。ドサリと転がったその敵は、ジークラインが完全に拘束しきる
よりも早く、なんらかの方法で自決を決行し、すぐに動かなくなっ
た。
ジークラインは瞬時に敵の魔力のスキャンを行った。
28
同時にディーネも試行。身分や所属などを割り出しにかかる。人
間の使う魔力にはそれぞれクセが出るので、その構成を見ればおお
よその国籍や人となりが分かるようになっている。
今回の間者は旧カナミア国、現在は併合されてカナミア諸領のス
パイであるように思われた。かの国は先の大戦でワルキューレ国に
併呑されてからも、残党が活動しており、たびたび内乱が勃発して
いる。
ジークラインほどの男にもなると、あちこちに恨みを買っている
ので、スパイに命を狙われるなどということは日常茶飯事なのであ
る。
﹁⋮⋮おれに空間転移系統の魔術は効かないって何度試せば分かる
んだ? チッ。気分悪ィな﹂
敵とはいえ身近に起こった死に心ならずも後味の悪い思いをして
いるジークラインに、ディーネの胸はまたときめいた。
どうしよう。だんだんかっこよく見えてきたんですけど。
安全を確認したからか、ジークラインは慎重にディーネを床に下
ろしてくれた。
﹁あん? ⋮⋮なんだこりゃ﹂
ジークラインがふいにスパイの死体を横にどける。すると、その
下からつぶれかけの籐のバスケットが出てきた。
﹁ディーネの荷物か。すまねえ。つぶしちまったみたいだ﹂
﹁あっ、そういえば、ケーキ⋮⋮﹂
29
ディーネが慌てて確認すると、バスケットの中身もぐちゃぐちゃ
だった。これではもう食べられない。
﹁せっかくうまくできたのに⋮⋮﹂
落ち込むディーネを見て、ジークラインはすぐに何かを察したよ
うだ。
﹁これ、ディーネが作ってくれたやつか﹂
ガッカリしながらうなずくと、彼は何を思ったのか、つぶれて四
散するケーキをつかみとり、ひと口食べた。
﹁ジーク様!﹂
﹁うめぇ﹂
見た目、およそ美しいとはいえない状態のケーキを、高貴な身分
のジークラインが気にせず手づかみで平らげていく。おそれおおく
て、ディーネは縮みあがった。
﹁あ、あの、そんな、無理して召しあがらなくても⋮⋮﹂
﹁無理なんざしてねぇ。ディーネの料理が好きだから食ってる。悪
いか﹂
ちゅ、厨二びょ⋮⋮いえ、もういいですけど。
ディーネは胸の高鳴りを持て余しながらジークラインが食べ終わ
るのを見守った。
30
﹁⋮⋮うまかった﹂
﹁お⋮⋮お粗末さまでした﹂
どぎまぎしながら空のバスケットを受け取った。しおらしくなっ
たディーネを見て、厨二病の皇太子はニヤリと笑う。
﹁⋮⋮俺に貢ぎものができて光栄だろ?﹂
ディーネはせっかく芽生えかけたときめきが急速にしぼむのを感
じた。
こ、これさえなければ。これさえなければ⋮⋮! ちくしょう! ちょっとかっこいいかなと思ったのに⋮⋮!
﹁婚約破棄したいってさっき騒いでたけど、どうかしてただけだよ
な? ディーネは俺の女だ。そうだろ?﹂
﹁いえ、婚約は本当に、破棄していただく方向で、検討してほしい
です﹂
いきなり冷たく言い放つディーネを、ジークラインは困り顔で見
た。
31
令嬢は 婚約破棄を となえた!
四つの国を支配する大帝国の皇太子ジークラインは、困った顔で
婚約者の公爵令嬢ディーネを見ていた。
生まれついての魔術の素養に策略を巡らす天才的軍師の才能、絶
技ともいうべき剣の腕前をふるう芸術品のようなたくましい肢体。
女ならば誰もが夢中になるであろう美しい容貌。
神の祝福を一身に受けたかのごときこの傑物が、ディーネの婚約
破棄の申し出に、要領の悪いお使い小僧さながらにまごついている
さまは、いっそ愉快でさえあった。
﹁わたくしは、ジーク様とは結婚、いたしません。とくに﹂
きっ、と気丈ににらみつけるディーネ。
﹁俺の女、などと、もののようにわたくしを扱う方とは結婚したく
ありませんし、わたくしが差し上げた好意に、受け取ってもらえて
光栄だろう? とおっしゃる方など、わたくしのほうから願い下げ
です﹂
ディーネの前世は日本人だった。
そのころのことを思い出す前であればジークラインの言動は男気
にあふれる英雄のものとして受け止めることもできただろう。しか
し、今の彼女は知ってしまっている。
彼の言動が、厨二病、と呼ばれるものだということを。
たまにならいいかもしれない。遠くから見ているだけであればそ
れなりに愉快だろう。
32
しかし、こんな発言を四六時中するような男と一緒にいたら絶対
にうんざりするに決まっている。
その上、ディーネはどうも、前世の知識からいうと、不幸な目に
あう役回りのキャラのように思えて仕方ないのだ。バッドエンドを
回避するためにも、とっとと婚約を破棄してしまいたかった。
ジークラインはディーネが本気らしいと悟ると、困ったように切
り出した。
﹁まあ⋮⋮お前がどうしてもいやだってんなら俺も無理強いはしね
えよ。嫌がる女に強要する趣味はねえからな。女にも困ってねえし﹂
だから厨くさい喋り方をするなというのに。
﹁けどよ⋮⋮﹂
ジークラインは首をかしげた。
﹁それじゃオヤジたちは納得しねえんじゃねぇか⋮⋮? お前んと
この家と、おれの家との結婚が政略的に大事だってのは⋮⋮まあ、
ディーネになら解説するまでもねえとは思うけどよ﹂
そのぐらいはもちろんディーネにも分かっていることだった。
ウィンディーネ・フォン・クラッセンはバームベルク公爵家の長
女にして二人の弟たちの姉。
公爵家は三十六の領地と称号を持っているが、そのいくつかの継
承権が長女のディーネに発生しているのである。ディーネが結婚し
てしまったら、公爵家の領地の三分の一が結婚相手に譲り渡されて
33
しまうのだ。
バームベルク公爵はそれをよしとしていなかった。外国人に領土
が渡ってしまうのは論外のこととして、帝国随一の財力と軍事力を
持つ貴族が弱体化すると、属国の反乱を誘発しかねないのである。
とても簡単にいうと、あの巨大な公爵家が抱えている常備兵三万
がおそろしいから、法外な重税でもおとなしく収めておこう、とな
っているものが、二万に減ると、ひょっとしてあのぐらいならうち
でも倒せるんじゃないか? そしたらもう属国でいなくてもいいの
では? と考えるやつらが出てくるというわけだ。
これを防ぐ方策がふたつある。
ひとつ、彼女が結婚を諦め、華やかな俗世を捨てる誓いを立てて
修道院に入ること。
﹁修道院に入る気になったのか?﹂
﹁いいえ! わたくし、そんなところには参りません﹂
修道院。ああ、最悪の施設だ。
︱︱なにが悲しくて黙々とキャベツとローソク作りながら暮らさ
なきゃいけないのだろう。
修道女というとなんとなく清楚できれいな人というイメージがあ
るが、実態は大違いだ。ストイックな修業僧といったほうが正解に
近い。暮らしぶりはみじめなもので、自分の服は二着ぐらいしか持
てないし、暖房もそんなにつけないし、娯楽などもってのほかで読
書もおちおち楽しめない。ひどいと﹃他人と口をきいてはいけませ
んよ﹄という、﹃沈黙の戒律﹄が厳守されているところもある。
34
へたをすると囚人よりつらい生活だ。
ディーネは絶対に耐えられない。
﹁じゃあ、おとなしく俺と結婚しとけよ。この俺が結婚してやると
言っているんだ。この世の女にとって望みうる最上の幸せだろ?﹂
﹁だから! そういうところが! いやなんですってば!!﹂
ディーネが公爵領の相続を放棄して、修道院にも入らずに済むも
うひとつの方策は、より高位の貴族に嫁ぐことだ。
公爵領の相続権をすべて放棄してもいいと寛大に約束してくれる
人を見つければいいのである。
もちろん、公爵家の目もくらむような莫大な財産を思い切りよく
諦めてくれるような相手は非常に限られてくる。
その奇跡的なお人よしこそが、皇太子ジークラインだった。
﹁じゃあ、どうするんだ。なあ、ディーネ⋮⋮俺よりいい男がいる
とでも思ってんのか?﹂
﹁うぐっ⋮⋮さ、探せばどこかに⋮⋮﹂
ディーネは一応考えてみたが、もちろんそんな人物に心当たりは
なかった。
仕方がない。ディーネは発想を切り替えることにした。
﹁わたくしが、稼ぎます﹂
﹁⋮⋮は?﹂
﹁自分の結婚ですから、その持参金ぐらい、自分で稼いでみせます。
すなわち、公爵領の三分の一に相当する金額を耳をそろえて準備し
て、わたくしは自分の結婚を、自分の心に決めた殿方と、自分の意
志で執り行います!﹂
35
ジークラインはその話を聞いて、数秒絶句した。
それからいきなり、弾かれたように笑い出す。
﹁ははははは! そうかそうか! 面白れえ冗談だ!﹂
﹁冗談などではありません! わたくしは本気ですッ!!﹂
36
悪役令嬢の捨て台詞
﹁ははははは、これ以上笑わせんな、腹いてえ!﹂
しばらく抱腹絶倒していたジークラインだったが、やがてつきも
のが落ちたようにさっぱりとした顔で﹁いやー、久しぶりに笑った﹂
と言った。
﹁何があったんだ? 今日のディーネはいつもと全然違うじゃねえ
か﹂
ディーネはぎくりとした。
まさか前世の記憶が戻りましたとは言えない。
﹁はじめは何らかの魔術で精神汚染を食らったのかと思ったけどよ、
どうもそれとは違う感じだな。あれは独特の壊れ方をするから、喋
り方でなんとなく分かるもんだけど、ディーネのは、そうだな、﹃
視野が広くなった﹄って感じか﹂
ジークラインは天才的な魔法使いでもあるので、ひと目で相手の
精神状態なども見抜けてしまうのである。
前世の記憶が戻ったことまでは荒唐無稽すぎて考えが及ばなくて
も、それに近い状態だということは察したようだ。恐ろしい観察眼
だった。
﹁いいぜ、従順な女も嫌いじゃねえよ。けどな、この俺の女として
選ばれるからには、俺を飽きさせない女でいてくれねぇとな。おれ
37
は買うぜ、その心意気﹂
﹁え、あの⋮⋮?﹂
﹁そこまで言うならやってみろ。公爵家の資産三分の一相当の持参
金を本当に準備できたら、婚約は破棄してやってもいい﹂
﹁本当ですか!?﹂
ディーネは思わず彼の顔をまじまじと見てしまい、後悔した。美
形のアップは心臓に悪い。
﹁ただし、いつまでもってわけにはいかねえから、そうだな、一年
間はひとまずがんばってみろよ。それで無理なら俺のものになれ﹂
ジークラインはディーネの長い髪をひと房拾い、指先でもてあそ
びながら、危険な香りのするニヤリ笑いを浮かべた。いわゆるイケ
メンにしか許されない感じのアレだ。同じことをフツメンがやった
ら通報される。
ディーネは一気に体温が上がりそうな錯覚を覚えて、目を逸らす。
か、かっこよくないかっこよくないこんなの全然かっこよくなん
てないんだから!
﹁まあ、一年がんばれなくても構わねえけどな。いやになったらい
つでも言いにこい。俺は寛大だからな。女の失敗は許してやること
にしているんだ。何度でもな﹂
ディーネはぞわりと鳥肌が立った。
なぜこいつは厨発言をかまさないと気が済まないのだ。なぜだ。
﹁分かりました。一年やって成果が出せないときはまた考え直しま
す。⋮⋮でも!﹂
38
公爵令嬢の意地として、せめても怖い顔をとりつくろった。
﹁わたくしは皇太子さまとの政略結婚を考えるだけであって、あな
たの女になるわけではありません! 所有物のように言うのはやめ
てください!﹂
﹁ははははは! いいね、気の強い女は嫌いじゃない。ちょっと見
ねえ間にイイ顔するようになったじゃねえか﹂
ジークラインは上機嫌に言って、上から下までじっくりとディー
ネを眺める。見られているディーネは気が気じゃない。自分がぴた
ぴたのセクハラ衣装だということを今さらながらに思い出し、頬が
熱くなった。
﹁いいぜ、俺の助けが必要ならいつでも言えよ。何度でもすがりに
こい。そのたびに許してやる。気が強くて、いい女の涙はまた格別
だ﹂
﹁まあ⋮⋮﹂
なんたる傲慢。ジークラインはディーネが失敗すると最初から決
めつけているようだ。
﹁覚えてらっしゃい⋮⋮!﹂
わなわなと震えながら、ディーネは気づけばそう口にしていた。
﹁目にもの見せてくれますわ⋮⋮!﹂
︱︱しまった、これ完全に悪役令嬢のセリフじゃないの。
39
後悔したときにはもう遅かった。
ジークラインは非常に上機嫌な様子で使用人を呼びつけ、大規模
なお茶の席を用意するように言った。続けて宮廷づきの文官たちを
次々と呼び寄せる。
﹁おれの愛らしい婚約者どのが領地の経営を本格的に学びたいらし
い。レクチャーしてやってくれ﹂
﹁はっ﹂
﹁かしこまりました﹂
選び抜かれた精鋭の文官たちが手に手に書物や帳簿を持ってディ
ーネに迫る。
﹁ちょっと! わたくし、ジーク様の手助けを求めたおぼえは⋮⋮
!﹂
﹁サービスだよ、ディーネ。喜べ。おれがここまでしてやることは
滅多にない﹂
ジークラインは無駄なカメラ目線でディーネにほほえみかけた。
﹁身に余る光栄だろ?﹂
その瞬間、きゅーん、とディーネの胸が激しくうずいたのは、な
にかの病気だからだろうか。若年性の更年期障害かなにかだろう。
そうだと思いたい。
ドキドキする胸をおさえて、ディーネは一生懸命素数を数える。
一刻も早く落ち着きを取り戻したかった。
40
はじめての領地経営・チュートリアル
公爵令嬢ディーネは宮廷の文官たちと相対していた。
つい先ほど、婚約者の皇太子に向かって婚約を破棄してやると息
巻いたせいで、領地経営について学び、みずから持参金を稼ぐはめ
になってしまったのだ。
もちろんディーネは領地経営のド素人だ。
前世を思い出す以前の生活も、淑女教育がメインで、公爵領の経
営ノウハウなどは学んでこなかった。
皇太子の計らいで優秀な文官たちと話ができることになったのは
いいものの︱︱
ディーネと引き合わされた文官たちはそれぞれ﹃国璽尚書﹄、﹃
帝国徴税官長﹄、﹃財務官長﹄と名乗った。
ディーネは笑顔が引きつりっぱなしだ。
どちらのおじさまも、びっくりするぐらい偉い人たちである。
どう偉いのかを説明するととても長い。
クラッセン嬢の知識には彼らの詳細ももちろんあった。参照した
くなくても、ディーネには見えてしまう。
﹃国璽尚書﹄とは国王の印︱︱国璽を預かり、王に代わって署名
する文官で、宰相とはいかないまでもそれに次ぐ超高官である。宰
相は取りまとめ役なので、法律外交その他あらゆる事柄に精通して
いるが、国璽尚書は法学のエキスパートだ。
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﹃帝国徴税官長﹄とは皇帝に代わって税を徴収するという大きな
特権を与えられた人で、直接税・戦時課税・輸出入の制限課税など
など、さまざまな名目で国民から税を取り立てる役職だ。彼の仕事
ぶりが国庫の収入に直結するため、大変に責任のある職である。
﹃財務官長﹄とはワルキューレの国庫の総責任者で、彼の采配に
よって税金の使い道が変わってくるため、こちらも非常に重要な職
務だ。
国政における要の人物が、ほかにもあと五人ばかり控えている。
︱︱ずらずらと気が重くなるような情報を思い出させられて、デ
ィーネはすでに疲労困憊だった。
いやだなー、このノリ。ずっとこんな調子で行くのかしら。勘弁
してほしいわ。
げんなりしているディーネをよそに、まず口を開いたのは国璽尚
書だった。
国璽尚書の彼が、法学の先生なのだろう。
﹁領地経営について、ということでしたが、なにかお悩みがおあり
ですか。公爵領で起きたトラブルについてご相談がおありでしたら、
なんでもお尋ねください﹂
ディーネは何と答えたものかと思い、隣でお茶を飲んでいる皇太
子をちらりと見やる。するとジークラインは愛想よくほほえんだ。
彼は困っているディーネを観察することも含めて、状況を楽しんで
いる様子だった。鼻歌でも歌い出しそうな雰囲気だ。イラッとする。
42
直球で﹃婚約破棄を前提に持参金を稼ぎたいので大金を楽に稼ぐ
方法を教えてください﹄と切り出すのは簡単だ。しかしその場合、
高官らの心証を悪くしかねない。ディーネの正気が疑われてしまう。
ジークラインのお節介を恨みたいディーネだったが、せっかくの
そうそうたる顔ぶれなので、短気を起こしてチャンスをふいにして
しまうのも惜しまれた。
ジークラインのことはいったん忘れよう。
少し迂遠な嘘も混ぜ、高官たちから首尾よく話を聞き出してしま
えばいい。
﹁もしもの話でございます。もしもですが︱︱わたくしがジーク様
から婚約破棄を申し渡された場合、わたくしはほかの殿方と、泣く
泣く、結婚する心づもりをしなければならないのですが⋮⋮﹂
﹁おれの婚約者どのは少しナーバスになっているようだ。ありもし
ない不安に取りつかれてるらしい﹂
ジークラインのフォローに、どうやらこれは痴話げんかの延長ら
しいとあたりをつけた国璽尚書が、ほほえましげな視線をディーネ
に送ってくる。
︱︱釈然としないけど、まあ、そういうことにしておこうかな。
﹁いざ必要になったときのために、蓄えをしておきたいので、わた
くしに持参金の問題を解消するお知恵を授けてくださいまし﹂
国璽尚書はにこやかにうなずいた。
﹁フロイライン・クラッセンが、修道院行きを免れる方法を考えれ
ばいいのですな。あいわかりました。そうですな⋮⋮﹂
43
国璽尚書は使用人に法典を取ってくるよう申しつけると、ディー
ネに向き直った。
﹁帝国法においては、相続は直系男子のみに限ると規定があります
が、フロイライン・クラッセンが継承権を持っている十個の爵位に
ついてはそれぞれに異なる規定があるようですな。現地の慣習法を
ひとつずつ勘案いたしまして、必要な持参金の額を算定しますので、
しばしお待ちください﹂
慣習法とは現地のローカルルールのことだ。最近まで外国領だっ
た土地もあるので、ディーネ自身にもすべての継承権の規定は把握
できていない。
ディーネがうなずくと、横から﹃帝国徴税官長﹄が身を乗り出し
てきた。
﹁フロイライン、公爵領の経営についてのご助言をさしあげましょ
うか。どういったことからご説明いたしますか?﹂
﹁最初から分かりやすくお願い。領地経営ってひと口に言っても、
具体的に何をするのかは知らないの﹂
﹁かしこまりました。では、バームベルク公爵領の経営の基本は、
﹃住民から地代を集める﹄﹃それを使って福祉を充実させる﹄の二
点で成り立っています﹂
﹁ふんふん﹂
そのぐらい簡単な説明ならディーネにも覚えられそうだ。
﹁フロイラインの持参金を用立てたいということでしたら、臨時課
税をするのがもっとも簡単かと﹂
﹁え⋮⋮領民から搾り取れってこと? それはちょっと⋮⋮﹂
44
あくまでも自分のわがままを通すためだけに領民に負担を強いる
のはよろしくない。
﹁今ある資産を増やす﹃資産運用﹄の方法があれば知りたいのだけ
れど⋮⋮﹂
ディーネの発言に、帝国徴税官長はきょとんとした。
﹁だから、資産運用を⋮⋮﹂
ディーネの心に不安が影をさす。
︱︱え、もしかして、資産運用が何か分かってない?
ディーネが一生懸命つたない言葉で説明をすると、帝国徴税官長
はようやく納得がいった顔をした。
﹁しかし﹃お金がお金を生む﹄というのは、フロイライン、罪悪で
ございます﹂
﹁え⋮⋮?﹂
﹁働かずして、金銭を帳簿の上で右から左に動かすだけでお金を増
やすのは、神への冒涜行為とされています﹂
しまった、そうだった。
この国の国教であるメイシュア教は、財テクでお金を増やすこと
を悪いことだとしているのだった。
この国に限らず、日本の中世期にも財テクへの忌避感というもの
はあって、それが徳政令や、ある程度以上の借金を帳消しにするよ
うな裁きにつながっていたりする。
それだけ財テクの概念は高度だということなのだろう。
セクハラなどと同じで、高度な文化水準を達成してはじめて理解
45
できる概念なのだ。
﹁じゃ、じゃあ、労働にいそしむから、効率的に稼げそうな労働を
⋮⋮﹂
﹁フロイライン、貴族が労働をするなど、もってのほかでございま
す﹂
そういえばそうだったー!
そもそも貴族とは﹃戦う人﹄である。
彼らは戦争をするのが仕事なのであって、庶民のように労働した
りはしない。
貴族が自分で仕事をしているなどと知れたら嘲笑ものだ。
︱︱貴族の子女が自分で商売をするなど言語道断。
それがこの国の社会通念だった。
﹁働くのもだめ、資産運用もだめ︱︱じゃあどうやって持参金を稼
げと⋮⋮﹂
﹁ですから、徴税するのでございます﹂
ディーネは目を細めて相手を見た。
地球の頃の記憶をたどってみても、中世期の貴族は戦争が仕事な
ので、平和なときは何もしないのが当たり前だった。ワルキューレ
の文化水準はさほど高くないが、こと国政に関しては中世レベルに
とどまっている事柄が多く見受けられる。だからこの帝国徴税官長
も、足りなければ民から徴税すればいいと言い放つわけか。
ワルキューレ帝国の貴族とは、﹃搾取﹄以外の発想がない人たち
なのだということがよく分かる問答だった。
46
これは、改革の必要があるかもしれない。
﹁参考にいたします﹂
もう徴税官長からは何も聞くまい。
そう思っていると、最後のひとり、財務長官が口を開いた。
﹁フロイライン・クラッセン、帳簿の読み方などはご存じですか?﹂
﹁いいえ、全然知らないわ﹂
﹁では、基本からお教えいたしましょう﹂
帳簿の読み書きは今後経営をするうえでも大いに必要なスキルだ。
財務長官の講義は多少身になった。
︱︱講義は数時間にも渡り、解放されるころにはへとへとになっ
ていた。
47
一万の持参金と一億の借金
領地経営について、その道のプロからみっちりと叩き込まれるこ
と数時間。
ディーネはへろへろになりながら皇太子の部屋の転送ゲートから
公爵家の屋敷に一瞬にして舞い戻った。
﹁お帰りなさいませ、お嬢様!﹂
﹁うう、ただいま⋮⋮﹂
よろめくディーネを見て、待機していた侍女たちが一斉にかけよ
ってくる。きらきらの魔力の残存粒子を手で追い払い、すかさず室
内用のガウンを着せてくれた。
﹁ご無事ですの?﹂
﹁お水をお持ちしましたわ、ゆっくり飲んでくださいまし﹂
﹁タオルはご入用ですの?﹂
﹁酸素、酸素は足りてらっしゃいます?﹂
何だろうこの待遇。
まるでリングから戻ってきたボクサーである。
しかし今のディーネはパンチドランカー気味なので、当たらずと
も遠からずか。
﹁大丈夫⋮⋮﹂
﹁でも、ひどくおやつれになっておいでですわ⋮⋮﹂
﹁ちょっときつめの個人授業を受けただけだから⋮⋮﹂
﹁まあ、いやらしいですわっ﹂
48
﹁なんでだよ﹂
﹁姫っ! 粗野な言葉遣いをしてはなりません!﹂
筆頭侍女のジージョの叱責が飛ぶ。
彼女はディーネのそばにすり寄ってくると、一転して猫なで声を
出した。
﹁今日はずいぶん長居をしていらっしゃったんですね。お戻りが遅
いからまちくたびれましたわ。さては皇太子さまとなにかひと悶着
あったのではないかとわたくしは気が気でなく⋮⋮﹂
﹁婚約破棄するって言った﹂
﹁なんですって!? この馬鹿娘!!﹂
﹁ら、爆笑された﹂
﹁あ⋮⋮そうですわよね。そのような世迷言、ジークライン様が本
気になさるわけがありませんわ。失礼﹂
﹁一年で自分の持参金を稼げたら、破棄してもいいって﹂
﹁馬鹿娘︱︱︱︱︱︱︱︱!!!﹂
叫ばなくても聞こえてるって。
﹁あ、いけませんわ、叫んだらめまいが⋮⋮﹂
ソファに倒れ込むや気絶してしまったジージョをよそに、比較的
若いほうの侍女三人娘が寄ってきた。商人の娘でかしこくて眼鏡な
ナリキ、修道院のシスターあがりでおとなしくて世間知らずなシス、
古い伯爵家の令嬢で浮ついてるレージョ。
﹁なになに、なんですって?﹂
﹁ディーネさま、本当に婚約破棄をなさりたいんですの?﹂
﹁でも、ディーネさまの持参金って、すっごい金額なんじゃありま
49
せん?﹂
ディーネはため息をついて、うなずいた。さきほど、そのあたり
の金額に関しては宮廷の文官がいやというほどみっちり教えてくれ
た。数字が脳みそからはみ出しそうだ。
﹁ヨーガフ皇帝の金貨でざっと一万枚ぐらいだって﹂
過去の慣習法などから判例をありったけ引っ張ってきた結果、そ
のぐらいあれば結婚相手に領地の相続を完全に放棄するよう強制す
ることができる。欲をかいてそれ以上を望もうとする場合は法で裁
くことも可能、とのことだった。
一流の法学者や文官たちが諸々を勘案した結果そういうのだから
間違いはないのだろう。
ちなみにヨーガフ皇帝の金貨とは、この国で発行されている一番
価値が高い大金貨のことで、一枚で庶民が数か月間暮らせるぐらい
の大金だ。
日本円で言ったら五十万から百万円ぐらいだろうか。
つまりディーネの持参金は日本円で言ったらおよそ一千億。
よく名前を聞く大企業クラスの金額だ。
﹁大金貨一万! それはすごいですわ﹂
﹁わたくしの月々のお給料でいったらどのくらいかしら⋮⋮﹂
﹁一生懸命働けば、四千年くらい?﹂
﹁自分が使う分を数え忘れていてよ﹂
﹁あら、そうね。つまりディーネ様は、四千年ぐらい飲まず食わず
で労働に精を出されるということですの?﹂
侍女たちのお花畑な会話を聞いているうちに頭が痛くなってきた。
50
だいたいディーネの寿命は地球上のヒト科と同じだ。
﹁稼ぐのよ。領地を経営したりしてね﹂
﹁まあ⋮⋮ディーネ様、おたわむれを﹂
﹁いくらなんでも無茶ですわ﹂
﹁領地の経営がそんなに儲かるものだと思ったら痛い目をみますわ
よ﹂
そう言ったのは商人の娘、ナリキだった。
﹁ちなみに去年公爵領全体からあがった地代は約三万ですわ﹂
地代とは要するに領民から払ってもらった土地の使用料のことを
いう。家賃のようなものだ。一帯の土地はすべて公爵さまのものな
ので、住んでいるだけで税金がかかるのである。
﹁なんでナリキがそんなこと知ってるの⋮⋮?﹂
﹁商人の娘としてこのぐらいの知識はタシナミですわ﹂
﹁そ、そう⋮⋮﹂
商人の娘って大変なんだね。
﹁でも、戦時の支払いや復興費用などで、今年の公爵領の決算額は
マイナス一億﹂
ディーネはずっこけた。
﹁お、大赤字じゃないの⋮⋮?﹂
﹁足りない分は借金ですわね﹂
﹁借金漬けじゃないの!﹂
51
なにそのガバガバ経営。貧乏神がついてくる某電鉄だってそこま
で借金がかさんだら徳政令を検討するレベル。
﹁でも、去年は戦勝の褒美に陛下から新たに領地をひとつ賜ってお
りますから、全体の収入はプラスですわ。長期的に考えたらプラス
なんですのよ﹂
﹁一年で一億と、私の持参金の一万が稼げる?﹂
﹁無理ですわね。マイナス一億からマイナス九千九百九十七万に減
る程度ではないかと﹂
﹁あああああ⋮⋮﹂
ディーネは頭痛薬がほしくなってきた。
そもそも自分の持参金を問題にしている場合ではなかった。素敵
ダンディなパパ公爵はちょっぴり経営がヘタなご様子である。
このままではまずい。皇太子との婚約を無事破棄できたとしても、
今度は公爵がつくった借金のかたに売り飛ばされる展開なども考慮
せねばならないではないか。ブロンドの儚げな美少女にうってつけ
の悲劇だ。首輪をつけられた薄布の美少女がオークションにかけら
れた先で愛玩用に落札され︱︱みたいな三文小説もやまほど読んで
きた。絶対にそうはなりたくない。
﹁⋮⋮いいじゃないの﹂
ディーネはやけっぱちでこぶしを握った。
﹁こうなりゃまとめて面倒みてやるわよ。現代人の知識なめないで
よね。私これでもエクセルとワードぐらいはつかえたんだから! 簿記だって二級の資格持ってる!﹂
52
しかしはたして、簿記二級程度でこのゆるふわ大赤字経営がどう
にかなるのかは、さすがのディーネにも計り知れなかった。
53
一万の持参金と一億の借金︵後書き︶
大金貨一枚=小金貨十枚
小金貨一枚=大銀貨二十枚
大銀貨一枚=小銀貨五十枚
小銀貨一枚=銅貨百枚
ヨーガフの金貨=皇帝ヨーガフの肖像が刻印された大金貨。
一枚で庶民が数か月暮らせるほどの価値を持つ。
ディーネの試算によると日本円換算で五十万∼百万円。
54
お嬢様とゆかいな使用人たち・その一 ∼家令のハリム∼
ディーネはまず、パパ公爵に直談判することにした。まずはこの
無駄遣い王から経営に関する一切の権限を取り上げるところから始
めねばなるまい。
いくらなんでも一億の借金を作ってくるやつよりかは、ディーネ
が経営をみたほうが絶対にマシである。
﹁お父様。お話があります﹂
﹁なんだ。どうしたわが娘よ。ジークライン様との婚約を破棄する
などというたわごとはもう撤回したのかい﹂
﹁ジークライン様はわたくしが領地経営に興味があると申し出ると、
とても大喜びしてくださいましたの。一年後にはきっとわたくしと
結婚しようとおっしゃいましたわ﹂
﹁そうかそうか!﹂
間違ってはいないが誤解のある言い回しでバームベルク公爵をけ
むに巻く。するとパパ公爵は簡単に引っかかった。
﹁よきかなよきかな。交際が順調でパパはうれしいぞ﹂
﹁ええ。ジークライン様はどうやら積極的な女性がお好きなご様子。
わたくしが自主的に何かをしようとする姿勢をお気に召してくださ
ったようなんですの。ですからお父様、ぜひともわたくしの恋路を
応援していただきとう存じます。わたくしがいまから申しあげるこ
と、どうぞお笑いにならないで聞いてくださいまし﹂
﹁ああ、いいだろう、かわいいわが娘よ。なんなりと申してみよ﹂
﹁一年間、公爵領の経営をわたくしにお任せいただけませんこと?
わたくし、きっと立派に領地を繁栄させてみせますわ。ジークラ
55
イン様のおめがねにかなうよう粉骨砕身努力いたします﹂
﹁なんだ、そんなことか! あいわかった。︱︱家令を呼べ!﹂
︱︱ちょろい。
そんなことだから一億もの借金がホイホイできあがるのだ、など
と、余計なことを言うのはやめておいた。なんとかとハサミは使い
ようだ。
そして数時間後には、家令を筆頭に、領地のこまごまとした経済
的なことや経営を行う文官が十人ばかりディーネに紹介されること
になったのである。
﹁すでにご存じかとは思いますが、改めまして、ウィンディーネお
嬢様。家令のハリムと申します﹂
やってきたのは浅黒い肌のイケメンだった。彼はもともと外国か
らの解放奴隷で、商才を買われて公爵家の家令に迎え入れられた。
世が世なら石油王とかやってそうな彫りの深い美形だ。上背があっ
て筋肉がすごい。お仕着せの執事服が窮屈そうだ。
しかしジークラインと比べるとやはり一枚落ちる印象はぬぐえな
い。
︱︱なんであいつが出てくるのよ。
ディーネは首を振って、ハリムに声をかける。
﹁さっそくだけど、赤字が一億って本当?﹂
﹁ええ⋮⋮﹂
意外にくろぐろとして長いまつ毛を伏せ、ハリムが恥じ入るよう
56
につぶやく。
﹁どうなってるのか説明してくれる?﹂
するとハリムは衝撃の事実を説明してくれた。
政策は基本を押さえて可もなく不可もなく。領地の繁栄具合もほ
どほどといったところ。
しかし現当主であるバームベルク公爵には困った浪費癖があるの
だという。
﹁公爵さまはちょっと⋮⋮武器に目がないお方で﹂
要するにパパ公爵は戦争が大好きなのだと彼は言った。新武器の
開発に莫大な予算をかけているばかりか、新造の武器を兵士に配属
するのも大好きなのだという。
ワゴンブルク
﹁先日の戦争では、車砦という新兵器を鋳造なさいました。荷車を
大きくしたものに、鉄の装甲をつけて強度を高めたものなのですが﹂
戦車のようなものだろうか、と現代知識のあるディーネは考えた。
﹁なにぶん、鋼鉄をはりめぐらせるため、鋳造にひどく金額がかさ
みました。一台あたり大金貨で千枚以上もする代物でしてな﹂
﹁きんかでせんまい﹂
﹁それをわが公爵さまは、千台新調なさいました﹂
﹁いっせんだい﹂
一千枚のものを千台。
すなわち金貨で百万枚。金額が大きすぎてすぐには理解できない。
まあ、確かに戦車や戦闘機を配備したようなものと考えればそれ
57
だけいくか。
﹁売りなさいよそんなもん⋮⋮今何台保有してるの?﹂
﹁戦争で四分の一は壊れましたから、七百五十台少々ですね﹂
﹁今戦争してて、戦車が必要そうなところはないの? 戦地に持っ
ていけば高く売れるでしょ⋮⋮﹂
﹁しかし、公爵さまがお許しにならないのでは⋮⋮﹂
﹁今の経営者は私よ。つべこべ言わずに売りなさい。なるべく高く
でね﹂
﹁はっ⋮⋮承知しました﹂
﹁中古車だから半額以下の査定だとしても、まとまったお金になる
でしょう⋮⋮﹂
ディーネはため息をついた。
すでにディーネの持参金の目標金額一万を軽く超えているが、こ
れは利益をえた金額ではないのでノーカンだ。
﹁まあいいや⋮⋮他には?﹂
﹁武器、防具、馬、その他⋮⋮﹂
﹁売却。ぜーんぶ売却よ﹂
﹁はっ⋮⋮しかし、あまり武具の類を売ってしまうと、いざいくさ
が起きたときの準備不足で苦労をするかと⋮⋮﹂
﹁うーん⋮⋮それもそうね﹂
戦車を買い取った人間が、そのまんまそれを使って反旗を翻し、
公爵家の敷地に突っ込んできたりしたら笑えないことになる。公爵
家はたかだか数十万の儲けにつられて破滅したということにもなり
かねない。
﹁分かったわ、戦車の売却はいったん中止。代わりに武器庫を縮小
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しましょう。そうね、この半分ぐらいでいいと思うわ。魔法石の備
蓄分も少し減らしましょう﹂
魔法石の保有量はそのまま軍事力に直結するので、バームベルク
公爵領全体にかなりの蓄えがあるのだった。
﹁その代わりに余っている戦車を一台、王都にある公爵家の別邸に
送って﹂
﹁⋮⋮一台だけでよろしいのですか?﹂
﹁そうよ。それからうちの戦争技術を開発している部署の人間をつ
れてきて。戦車の構造に詳しい人間がいいわね。それと、その部署
の人間を明日から順番に私のところによこしてちょうだい﹂
ディーネがサクサクと方針を決めてハリムに命ずると、彼はなぜ
そんなことをするのだろうという顔をした。
﹁いったいなにを始めるおつもりなんですか?﹂
ディーネは、ふふん、と笑った。
﹁まだひみつ。でも、これから忙しくなるかもよ。覚悟しておいて﹂
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チュートリアル・終
つい先日の戦争にわが国ワルキューレが勝利したことで、敵国カ
ナミアは帝国に吸収されて、カナミア諸領と名を変えた。
その立役者となったのが英雄である皇太子ジークラインと、バー
ムベルク公爵領の軍。
正確には、公爵領が出した新武器、世界初の戦車、ワゴンブルク
が勝利の決め手となった。
ワルキューレの国民はこの新しい戦争の道具がどれほどの威力な
のか、カナミア戦争帰りのもと兵士たちからいやというほど聞かさ
れている。そのため、誰もがそれをひと目見てみたいと考えていた。
︱︱王都の中心にある噴水広場。そこには初代国王の銅像がでん
と鎮座ましましている。
買い物客で常にごったがえす、憩いの広場だ。
流しの説法僧が大声で神の教えを説き、大道芸人がボールを使っ
た奇術を披露しているさなかに、その威容を誇る車はいきなり現れ
た。
﹁なんだ、あれは⋮⋮﹂
人々がうろたえ、指をさす先を、戦車はゆっくりと進んでいく。
車体に鋼鉄の装甲を貼りつけた大きな荷車に、魔術師とおぼしき扮
装をした人たちが何人も乗っている。
ワゴンブルク
﹁どけどけーえ、無敵の戦車のお通りだあーっ!﹂
﹁ひき殺されたくなきゃ、道を開けろーっ!﹂
60
楽師が太鼓や笛の音を流すのに合わせ、芝居がかった口調で女優
や男優が口上を述べる。何かの出し物だと察した市民たちは、面白
そうに遠巻きに眺めはじめた。
﹁おい、ワゴンブルクだって?﹂
何人かが反応した。そう、戦争を勝利に導いた新兵器の名前は、
王都にも広く伝わっていたのである。
﹁あれがワゴンブルクなの?﹂
﹁鋼鉄の塊だな﹂
そのとき、魔術師が空に向かって炎を吹きあげた。青空がオレン
ジ色に染まり、悲鳴がわきおこる。焼かれた人たちはびっくりして
全身の炎を消そうとあちこちを叩いたが、じつは幻の炎なので、髪
の毛一本焦げていなかったりする。
サクラの役者たちは何人かばたばたと倒れた。
﹁あのいまいましい魔術師を狙え!﹂
そう叫んだのは新たに出てきた役者だった。旧カナミア国の将軍
の真似をしているのか、それっぽい鎧兜を身に着けている。
将軍のそっくりさんの号令で、矢が放たれた。こちらも幻なので、
実際には当たらない。
その矢が戦車に何本も当たるが、ほとんどの矢は角度をつけた鋼
鉄の装甲に阻まれて、床に落ちるばかりだ。
﹁ワゴンブルクは無敵だ! 火矢も魔法も効かないぞ!﹂
﹁最強の戦闘集団だ!﹂
61
︱︱そんな感じの出し物が終わり、役者たちが一同そろって礼を
すると、あたりは拍手に包まれた。
﹁さあ寄ってらっしゃい見てらっしゃい! このワゴンブルクに使
われた装甲を溶かして作った剣がこっちだよ!﹂
﹁こっちは皇帝さまがお乗りになった車からはがしてきた装甲だ!﹂
﹁ワゴンブルクの百五十分の一スケールのミニチュアだよ!﹂
唐突にはじまった金物商の売り込みに、最初に飛びついたのは小
さな男の子たちだった。
﹁お母さん、これ買って!﹂
﹁だめよ、どうせお高いんでしょう?﹂
﹁今ならなんと小銀貨でたったの十枚だよ! さあ寄ってらっしゃ
い見てらっしゃい!﹂
それを遠くから見ていたディーネは、うーんとうなった。
かたわらに控えている家令のハリムに話しかける。
﹁芝居がちょっと迫力不足ね。もう少し派手な幻影魔術を使ってほ
しいのだけれど﹂
﹁なかなか見つからないんですよ、あの手の魔法使いは⋮⋮﹂
﹁そうなの⋮⋮しょうがないわね﹂
娯楽大国日本で育った記憶のある転生令嬢ディーネにはしょぼい
出し物としか映らないが、テレビもない電話もない国の人たちには
大迫力のアトラクションに見えたようだ。
われ先にミニチュアを買い求める民衆の熱がこちらにまで伝わっ
てくる。
62
この様子だと大道芸とか、ペテンちっくな押し売り口上にも耐性
がないのかもしれない。
﹁しかし、驚きました。飛ぶように売れていますね﹂
﹁でっしょー? 男の子は絶対ああいうの好きだと思ったのよね﹂
とくにあのミニチュア。実際に実物を開発した技術研究者に監修
させたので、本物そっくりにできあがった。ああいう模型に弱い男
の子っていうのはいつの世にもいるものだ。
﹁こっちにも一台ちょうだい!﹂
﹁うちにもよ!﹂
﹁うおおおお! かっけえええ!﹂
まあ、そうだろう。ワルキューレ帝国のおもちゃ事情というのは
本当にひどい。なにしろ動物の骨を使って作った小さな小石とか、
サイコロが珍重されるほどなのだ。
現代日本の小学生にサイコロを渡して、これでしばらく遊んでろ
と言ったら絶対にいやな顔をするだろう。もはや虐待といってもい
いかもしれない。
しかしこの国には本当にサイコロかトランプぐらいしか娯楽がな
いのである。
そんな彼らに精巧な戦車の模型など与えてしまったら︱︱
庭をかけめぐる犬並みに大はしゃぎすることは目に見えていた。
﹁すっげえ、この戦車、ボタンを押すと光る!﹂
男の子は光りモノが好きだからねー。
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あ、物理で輝く方の光りモノね。ぴかぴか光るものを置いとけば
イカと小児男児が釣れるというのはもはやお約束。
あちこちで戦車が光っている。
どの子も夢中になってボタンを押しているようだ。
うむうむ。かわいらしい。
存分に遊んでくれたまえよ。
﹁おおお⋮⋮! 魔法石が少量内蔵されているのですな⋮⋮!﹂
﹁手の込んだギミックですぞ⋮⋮!﹂
﹁なんというアイデア⋮⋮! なんという技術力⋮⋮!﹂
﹁帝国の化学力は世界一ィィィィィ!﹂
⋮⋮なんか男の子以外も釣れてるけど。
大きいお友達にも好評なようでなによりです。
﹁はー、売れた売れた﹂
日が沈んですべての出し物が終わるころには、事前に用意してお
いた剣と盾、鎧三千ずつと、ワゴンブルクのミニチュア模型三万個
がすべて売れていた。
﹁武具の合計額が大金貨で三千枚。模型の売り上げ合計が金貨で十
枚相当。役者の手当てと原材料を差引きで、今回の儲けは金貨で八
枚ってところね﹂
もともとは中古品として安く買いたたかれるはずの武具を相場の
三倍以上の値段で売ったのだから、まずまずの儲けだろう。
64
本来、商売をするにはそれぞれのギルドにみかじめ料を払って、
一定年数の徒弟制度をクリアしないといけない。これは世界共通で
変わらない仕組みなのだが、王都の法律には店舗を持たない流しの
商売を罰したり禁じたりする項目はなかったので、手っ取り早く広
場ジャックを行ったわけである。
これで父親の作った借金は一億から99,997,000枚にな
った。
ディーネのほうの持参金も一万から9,992枚になった。
﹁⋮⋮焼け石に水ね﹂
﹁やけいし⋮⋮?﹂
﹁熱く焼けている石に少し水を垂らしても冷やせないでしょ? ら
ちがあかないってこと﹂
﹁はあ⋮⋮この国の言い回しでしょうか。言い得て妙ですね﹂
︱︱日本のことわざなんだけどね。
声に出さずにディーネは思う。
﹁まあいいわ。この調子で王都の興行を続けて、模型の継続的な販
売を目指しましょう。その他にも地方を巡業する戦車を作って、同
じことをさせる。さすがに王都ほどの飛ぶような売れ行きは見込め
なくても、コツコツ売っていけば、一年後には積もり積もってそれ
なりの金額になるはず⋮⋮﹂
指折り数えてみても、それはささやかな金額にしかならないとい
うことがあらかじめ分かっていたので、ディーネはぐったりと肩を
落とした。
﹁なんかこう、でっかく一発逆転する方法があればいいんだけど﹂
65
それから数時間もしないうちに、ディーネは声をあげることにな
る。
﹁あ⋮⋮あったー!﹂
一発逆転の方策がさっそく見つかった。ディーネは公爵令嬢らし
くもなく椅子から立ち上がってそのブツににじり寄る。
﹁こ、これよ、これー! 一発逆転の秘策! なんだ、意外とすぐ
いけるかも!﹂
ディーネが手にしているのは大小さまざまな鉱物の見本。
彼女の前に立たされているのは科学者の男だ。
毒薬や、毒を使った兵器をおもに研究開発している。
﹁そうと決まれば、さっそく取りかかって!﹂
公爵令嬢の奇妙な命令に、科学者の眼鏡男、ガニメデは首をかし
げつつも了承の旨を伝えた。
66
ハリムの来歴
ハリムは解放奴隷だ。
奴隷として売られたときにこの身に刻まれた奴隷の刻印は今も黒
々と肌に焼け跡を残している。焼き鏝を押しつけられたときの痛み
と苦しみ、屈辱は今でも忘れられない。
奴隷の身分で黙々と働き、それなりの功績を立てて、解放奴隷と
なった。この忌まわしい奴隷の烙印を上書きする怪物の入れ墨は、
自由の証だ。鋭い牙と爪を持つファラクという伝説上の生き物で、
彼の故郷では守護獣だった。
公爵家の家令として取り立てられてからも様々なことがあった。
この国の住民は解放奴隷を決して自分たちの仲間とはみなさない。
彼の故郷では解放奴隷が貴族に昇りつめる例まであるが、この国に
おいては奴隷は一生奴隷、貴族は一生貴族で、生涯まじわることは
ないのだという。
そんな風潮の国の大きな貴族の屋敷だから、当然、使用人の間で
も差別が起きた。言葉が不慣れなハリムをからかう年若い金髪碧眼
の小姓たち。背中の入れ墨を揶揄するジョーク。くだらないやり取
りはすべて右から左に受け流してきた。
だから、ハリムにとってのウィンディーネお嬢様は、別世界の生
き物だった。人見知りのきらいがあるお嬢様は外国人のハリムにけ
っしてなつこうとはしなかったし、ハリムのほうでもいないものと
して扱ってきた。
67
生涯、私的な交流を持つことなど絶対にないと思っていた相手な
のだ。
ところがつい最近、ウィンディーネお嬢様は公爵家の領地経営を
やってみたいと言い出した。
ハリムは当然、疎ましく、面白くなかった。
︱︱お貴族様の気まぐれが始まった。
そんな風に感じたのだ。
﹁さっそくだけど、赤字が一億って本当?﹂
お嬢様は意外にも博識で、こまごまとしたところまでつっこんで
質問してきた。
﹁去年は四回も挙兵して隣国を攻めてるけど、戦果があったのは皇
帝軍と共同戦線を張っていたカナミア陥落の戦争だけなのね。あと
の三回は全部無駄足で、お金を無駄に浪費しただけ。うわあ⋮⋮こ
れだけで百二十万近く費用がかかってるの? バカみたい﹂
ハリムは少し笑ってしまった。それは主君であるバームベルク公
爵に対して言いたくてもいえなかったハリムの本音でもあったのだ。
﹁今年は中止ね。全部中止。やった、これだけで出費が百二十万も
減るじゃない。あとは? ハリム。あなたの目から見て無駄なとこ
ろはある?﹂
ハリムは少し迷った。あまり余計なことを言うと、それがバーム
ベルク公爵の耳に入って、彼の立場を悪くしかねない。
68
﹁この際だから隠し事はなしね。大丈夫よ、ハリムがこんなこと言
ってたなんてパパに告げ口したりしないから。私は本気で領地を経
営する気なの。それにはあなたの協力が必要なのよ﹂
ハリムはこのときはじめて、ウィンディーネお嬢様の表情をまじ
まじと見た。高貴な女性の顔や体をじろじろ眺めるのは失礼にあた
るとして、ハリムはこれまでずっと避けてきた。
ウィンディーネお嬢様は貴族の中でも特にめずらしい淡い白金の
ような金髪の少女だった。それが光に反射して、きらきらとまぶし
く輝いている。彫刻家が真っ白な石から削りだしたかのような麗し
い頬や鼻の稜線、大きく丸い、澄んだ瞳。身じろぎをするたびに甘
い香りのする肌や髪。
見てから後悔した。
すっかり失念していたのだ。この女性が、生涯交流を持つことな
ど許されない高貴な身分であることを。
ハリムがいくつか領地経営に関する提言をして、ウィンディーネ
お嬢様が査定するというやり取りが続いた。
それからウィンディーネお嬢様は奇妙な提案をした。
﹁うちの国は戦勝をたたえるムードでしょう? それを利用して、
ひと儲けできないかと思うのよね﹂
彼女の企画は、要約すれば、いくさで活躍した戦車の模型を作っ
て売る、というものだった。
そのアイデアは、失礼ながら、ハリムにはそううまくいくとは思
えなかった。
69
しかしウィンディーネお嬢様はあっという間に役者を集め、演技
指導をし、模型を作る職人を叱咤したり褒めそやしたりして三万個
もの品を用意させた。
どちらかといえばおとなしい少女だと思っていたハリムは驚かさ
れっぱなしだ。生き生きと動き回るお嬢様から、ハリムは目を離せ
ないでいた。
そして当日。彼の予想に反して、広場のジャックは非常にうまく
いった。こんなガラクタが売れるのかといぶかしんでいたハリムだ
ったが、我先に買い求めていく人だかりを見て、感嘆するとともに、
自分の中でウィンディーネお嬢様の見方が完全に変わったことも感
じていた。
ありていに言えば、まぶしかったのだ。
次はいったい何を言い出すのだろう。型破りなことばかりしでか
すウィンディーネお嬢様に、いつしか胸を躍らせながら接すること
が多くなっていた。退屈な帳簿の管理がメインの業務であるハリム
にとって、それは久しくなかった感覚だった。
明日はお嬢様とどんな話ができるだろう。
ハリムは楽しみでならなかった。
﹁︱︱ねえ、ハリム! 前に相談してた南の淡水湖のことなんだけ
ど!﹂
ウィンディーネお嬢様の呼び声に、ハリムは心からの笑顔で応え
た。
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﹁なんなりと承りましょう。わが君﹂
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お嬢様とゆかいな使用人たち・その二 ∼錬金術師のガニメデ∼
公爵家の屋敷には大小二つのキッチンが付随している。ひとつは
日々の料理をすべてまかなうことのできるメインのキッチン。もう
ひとつは貯蔵庫や氷の貯蔵庫が併設されている小さな加工食品用の
キッチン。お菓子作りや薬草づくりなどはこの小さな加工食品用の
キッチンで行われることが多い。
そのミニキッチンで、公爵令嬢ディーネはいくつものお菓子の試
作品を作っては投げ出していた。汚れたキッチン用品がたまり、空
の牛乳の缶などが散乱している。
やがて焼き上がりの時間を知らせるタイマー音が鳴り、ディーネ
はかわいらしいひよこさんのミトンをはめた手で、おそるおそる焼
けるオーブンから鉄板を引き抜いた。
上に載っているのは︱︱香ばしく焼き上がったきつね色のふんわ
りケーキ。
この世界ではおそらく史上初の、ベーキングパウダーを使用した
ケーキである。
﹁で⋮⋮できたー!!﹂
ついに成功したのだ。試作品を作り、失敗を重ねること九十九回。
百回目の試行にして、ようやく理想のケーキが完成した。
﹁さあ、試食よ!﹂
72
本来ならば三十分かそれ以上は放置して粗熱を取りたいところな
のだが、今は待ちきれない。
ディーネはその場で、できたてアツアツのケーキに氷雪系の魔法
をかけて粗熱を冷まし、小さく切り分けた。
クラッセン嬢は水の精霊っぽい名前の通り、水や冷気に関する魔
法が得意なのだった。
それを、連日の徹夜でよれよれになっている毒薬の研究員・ガニ
メデとふたりで分け合う。
﹁ああ⋮⋮とてもいい香りがしますね﹂
﹁中もきっとうまく焼けてるはずなのよ⋮⋮﹂
ディーネはぱくりと口内に放り込んだ。緻密な気泡をゆたかに含
んだ軽い風合いのパウンドケーキ。今まで作っていた中世風のもっ
ちりどっしりとしたパウンドケーキもそれはそれでよかったが、今
回のは特別においしかった。なぜならそれは、世界を革命する味だ
からである。
﹁お⋮⋮おいしい∼∼∼∼!﹂
﹁これは⋮⋮!﹂
ガニメデは目をみはった。あまり表情が変わらない、ぼそぼそ喋
る男なのだが、今は少し興奮しているようだ。
﹁なんという軽やかな口当たり⋮⋮! まるで雲のかけらを食べて
いるかのよう⋮⋮! しっかりと甘い生地なのに、口解けがよくて
ふわふわと溶けるから食がどんどん進んでしまう⋮⋮! こ、これ
は、うまい⋮⋮!﹂
無我夢中でむさぼっていくガニメデ。無理もない。今までずっと
73
失敗続きで変な小麦粉の塊ばっかり食べさせられてたもんね。ごめ
んよ。
﹁お嬢様⋮⋮! あなたは天才か⋮⋮!﹂
﹁きょ、恐縮です⋮⋮﹂
そんなに褒められるとちょっと照れる。
彼は夢から覚めたみたいな顔で眼鏡をはずした。くもっているレ
ンズを晴れやかな顔で拭きとっていく。
眼鏡をかけなおした彼は、前より心なしか男前度があがっていた。
﹁すばらしい発明に付き合わせていただいて、感謝いたします﹂
﹁いやあ、いいってことよ⋮⋮﹂
﹁この発明は必ずや多くの人を救うでしょう﹂
﹁え、そう?﹂
そんな大げさなものかな、これ、とディーネは首をかしげる。
︱︱ベーキングパウダーって、いってみればケーキがふんわりす
るだけの素材なんだけど。
クラッセン嬢の知識を参照する限り、この世界にはベーキングパ
ウダーというものが存在しなかった。
ではパウンドケーキなどはどうやってふくらませていたのかとい
うと、バターを大量に使って気泡をよく混ぜ込むか、さもなければ
パン種を使っていたのである。なので独特のもっちりと重たい食感
があり、まずいとはいわないながらも、繊細なお菓子の風味には欠
けていた。いってみればもそもそのパンに砂糖入れて甘くしただけ
の、甘い菓子パンのような感じだったのである。
お菓子のふくらし粉の基本は重曹。そこに重曹を反応させて気泡
74
を生じさせる反応剤を適量まぜて作るのがベーキングパウダーだ。
そこで今回、パウンドケーキに適した配合のベーキングパウダー
を作ることにより、史上初のふんわりふわふわなシフォンケーキ風
のパウンドケーキが焼けたというわけだ。
配合をもう少し研究すればスポンジケーキなども焼ける。
ディーネは毒薬の研究をしていたガニメデから重曹やミョウバン
の鉱石の話を聞いてこれを思いついたのだった。
これこそがディーネが思いついた一発逆転の秘策だった。
つまり、とても簡単に言うと、﹃軍事技術の平和利用﹄である。
軍需産業の研究というのは要するにその時代の科学技術の粋であ
るわけなので、それを少し応用すれば日常に便利な品がいくつも発
明できるのである。基礎ができているのならば、あとはそれをディ
ーネが現代日本の知識で転用してやればいいという寸法だ。
研究に惜しみない投資をしてくれていたパパ公爵に、ディーネも
このときばかりは感謝したくなった。
これならばディーネが苦労して現代日本の知識や技術を開発させ
なくても、比較的短期間で領地の改革が可能である。
皇太子が提示した一年という短期間で金貨を一万枚用意すること
だって、決して不可能ではないはず。
﹁お嬢様が想定している使用例以外にも応用が可能です﹂
﹁たとえば?﹂
﹁この重曹をもとに配合を変えたベーキングパウダーを使えば、パ
ン種の発酵を待たずにパンをふっくらと焼き上げることが可能です。
過酷な戦地でもおいしいパンが食べられる⋮⋮これは最前線で戦う
75
兵士たちにとってすばらしい救いになりますよ⋮⋮!﹂
﹁な、なるほどー⋮⋮﹂
戦争に興味がないディーネにはそういう発想はなかった。
戦狂いの男の人って怖い。
そんな感想を思わず持ってしまう。
﹁お嬢様のすばらしい着眼点には敬服いたしました﹂
﹁いやー⋮⋮私は別に、大したことはしてないのよ?﹂
﹁ご謙遜を﹂
﹁謙遜じゃないって。技術力っていうのは、一朝一夕で進歩するも
のじゃないからね。地道な研究を続けてくれる人がいてくれてこそ
の結果なのよ﹂
ざっと見せてもらったところ、公爵領のお抱え研究者が持ってい
る科学技術はかなり高めだった。明らかに中世レベルは超えている。
もしかしたら一部は産業革命期のロンドンに到達しているかもしれ
ない。
これは転送魔法が存在する世界ゆえの発展とディーネは考えてい
る。
技術の発見とその伝播が、地球とは比べ物にならないぐらい早い
のだ。
﹁私は後押しをしただけ。九十九パーセントの技術はあなたが開発
したものよ。だからこれは、あなたの成果だと思うわ。研究員A﹂
﹁ガニメデです﹂
﹁そうそう、そんな名前だったっけ。科学者のメガネくん﹂
﹁錬金術師です﹂
﹁錬金術師!? なにそれかっこいい。錬成陣の研究とかもやって
んの?﹂
76
﹁しません。なんですか錬成陣って﹂
﹁あなた錬金術師のくせに錬成陣も知らないの?﹂
﹁なんだかよく分かりませんが、お嬢様が想像されてる錬金術師は
たぶん俺の仕事とは違いますね﹂
ある程度の文化水準に到達するまでは、薬学と呪術は不可分の関
係にあるのが歴史の発展の常だが、彼らもまだ半分ぐらいは呪術師
の側面を持っていると考えられているのだろうか。
﹁錬金術師のガニメデです。覚えてくださいね。お嬢様﹂
﹁はい。すみませんでした。メガネくん﹂
﹁⋮⋮まあいいですけど⋮⋮今後も何か思いついたことがあったら
遠慮なくお尋ねください。微力ながらお力になりたいと思います﹂
眼鏡の真ん中を押しながら言う研究員Aは、なぜか、ちょっとだ
け格好よく見えた。
77
閑話 ∼領地改革系転生少女ができるまで∼
ディーネの前世は日本人だった。同居している祖母が日本語教室
の教師をしていたため、私的なスペースである自宅のほうにもしょ
っちゅう日本語学習希望者が来ていた。彼ら彼女らは目が青かった
り肌の色が違ったり出自も来歴もさまざまだったが、みんなに共通
して言えるのは、なぜか﹃日本の漫画が大好き﹄だという点だった。
外国にやってきて現地の言葉を習おうという人たちはやっぱりみ
んなどこかアグレッシブでパワフルで、ディーネもわけの分からな
い外国語をわめきちらしながら身振り手振りで猛烈に話しかけてく
る日本語学習者の相手をするうちに、自然と色んな国の言葉を覚え
た。あくまで日常語をぽつぽつ知ってる程度で、きちんと話せるわ
けじゃないので、自慢できるようなことではないが。
ついでに漫画の知識も増えた。
何しろ彼ら彼女らは、本当にそのことばかり聞いてくるのである。
日本人のくせに公安九課の存在も知らないのか? と真剣に言わ
れてよくよく調べてみたら、架空の近未来日本に存在する架空の部
署だったりするのだ。知るわけないわそんなもん。現実と虚構を一
緒にしないでほしい。
︱︱ある日、日本語教室に、金髪碧眼のかわいらしい少女がやっ
てきた。
彼女は自分を、﹃ベルギーの王女です﹄と名乗った。
へーすごい! ベルギーってどこだろ! と思ったディーネが、
78
携帯用ゲーム機を無料開放のLANスポットにつなげ、わくわくし
ながらAボタンBボタンでつたなくインターネット検索を試みると、
そこにはまったく違う女性たちが王女として紹介されていた。
ベルギーの王女だというのは大嘘だったのだ。
冷静に考えたら当たり前なのだが、純粋だった前世の小学生のデ
ィーネはたいそうショックを受けた。
次に会ったとき、なんでそんなうそをつくのかと少し腹を立てて
尋ねると、彼女は泣き真似をしながら流暢な日本語で語ったのであ
る。
自分は王位継承権のない庶子の娘だから公式のホームページには
載せてもらえないのだと。
王位継承権?
庶子?
もちろん小学生にはベルギーの王位継承事情など分かるはずもな
い。そっかあ、かわいそうにねえ、と思いつつ、なんとなく不安に
かられて一生懸命調べてみた。またうそをつかれているかもしれな
い、と警戒するぐらいの脳味噌はあったのである。
おーいけーしょーけん。そしてしょし。
そして調べつくした結果、ひとつの結論に至った。
︱︱やっぱりあの子またウソついてるー!
その後もその偽王女のうそは続いた。
79
偽王女のことは強烈な原体験として記憶に残っている。ディーネ
は日本語教室にやってくる生徒さんたちから故郷のお話を聞いたら、
必ず検索してみるクセがついてしまった。どんな大嘘をつかれてい
るか分かったものではないからである。
そして思ったのは、色んな国があって、色んな人がいるのだとい
うことだった。
ディーネの前世は平凡な日本人の少女だった。
漫画と歴史、そして少しばかりのツッコミをたしなむ日本人だっ
たのである。
80
皇妃さまと公爵夫人
︱︱ディーネはさらに新作のパウンドケーキをもう何本か焼いて
から、ミニキッチンをあとにした。散らかしてしまったので片づけ
をする使用人が大変そうだ。彼女にもお詫びを言ってケーキを一本
置いてきた。おいしく食べてくれるといいんだけど。
﹁ふっふーん。それにしてもおいしくできたわー﹂
会心の出来だわー。
ひとりで食べてしまいたいのはやまやまだが、どうせだからこの
素晴らしさを色んな人に啓蒙したい。
ディーネは余ったケーキをバームベルク公爵夫妻のところにも持
っていってあげることにした。夫人ならば屋敷のどこかでお客様と
紅茶を楽しんでいる頃合いだろう。
﹁ママ! ちょっといい?﹂
﹁あら、どうしたの?﹂
﹁まあ、ディーネちゃん、お久しぶり﹂
ザビーネ公爵夫人と一緒にお茶のテーブルを囲っていたのは皇妃
ベラドナであった。
﹁皇妃さま! ご無沙汰しております﹂
皇妃ベラドナはどことなく毒草っぽい名前に似て、毒花のような
81
美しさの女性だった。強気な美女の表情は、皇太子ジークラインと
もほのかに似ている。
﹁あなた、相変わらずほっそりしているのね。ちゃんと食べてるの
?﹂
﹁もちろんですわ、皇妃さま⋮⋮食は人生の楽しみでございます。
ほら、わたくし本日も、こうして珍しいお菓子などお持ちいたしま
したのよ﹂
ディーネが持参したパウンドケーキをお茶請けのお皿に並べると、
ふたりの美熟女は目を丸くした。
﹁パウンドケーキかしら?﹂
﹁ええ、わたくしがひいきにしている菓子職人が新しく売り出す試
作品ですの﹂
本当は自分で作ったのだが、貴族がケーキを売るなど笑いものの
対象でしかない。
なのでディーネは代理の職人を立てる予定だった。
うーん、いっそ会社を作ってもいいかもしれない。
ワルキューレの人たちに株式会社の概念を理解してもらえるのな
ら、の話だけど。
その問題についてはまた後程考えよう。
﹁よろしければ皇妃さまもお召しになってくださいまし﹂
皇妃はくっきりとした濃い眉を寄せる。
82
﹁⋮⋮なんだか、見た目はボソボソね⋮⋮﹂
﹁お味はわたくしのお墨付きですわ。どうかお試しになって﹂
ベラドナはパウンドケーキを、思い切って口に入れた。
﹁ん⋮⋮これは⋮⋮﹂
テーブルに並べてあったジャムを少しすくい、ケーキに添えて一
緒にほおばる。
﹁お⋮⋮おいしい⋮⋮! なにかしらこれ、すごくふんわりしてい
て、絹綿のようね﹂
﹁あら⋮⋮本当に﹂
ザビーネもひと口ふくんで驚きの声をあげた。
﹁わたくしパウンドケーキってもったりとしていて重たくってあま
り好きではなかったのだけれど、これならいくらでも食べられてし
まうわね﹂
﹁こんなに繊細で口当たりのいいケーキは始めてよ。ディーネさん、
これを作ったのはどなたなの?﹂
ベラドナが食いついたが、ディーネとしてもそれを教えるわけに
はいかない。
﹁これ? ふふ。わたくしの家のお抱え職人が作っておりますの﹂
﹁いやね、はぐらかさないで教えてちょうだいな!﹂
﹁いけませんわ、彼はわたくしの家の秘蔵の菓子職人。皇宮に引き
抜かれてはたまりませんから、皇妃さまといえどお教えいたしかね
ます﹂
83
つんとはねつけると、彼女はがばりと身を乗り出して、ディーネ
の両手をつかんだ。
﹁あん、それじゃ、いつ売り出すのか教えてちょうだい! 売りは
じまったらわたくしの宮に毎日欠かさず一本届けてほしいわ﹂
懇願するベラドナに、ディーネはつい見とれてしまう。もう四十
は超えているはずなのにいいとこ二十代の後半にしか見えない。美
魔女だ。
﹁まあ、皇妃さま、それでは販売を開始いたしましたら必ず⋮⋮﹂
﹁約束よ! わたくしが一番のお客様ですからね!﹂
﹁まあ、ありがとうございます、皇妃さま。美食家であらせられる
皇妃さまにそうおっしゃっていただけると、とっても光栄ですわ﹂
﹁もちろんよ、このケーキはきっと売れるわ! わたくしが保障し
てよ!﹂
どうやら、評判は上々のようだった。
パウンドケーキの残りを手に自室に戻ったディーネは、転送ゲー
トをちらりと見た。これは皇太子の部屋に直通しており、お互いが
時間を決めて開くと行き来ができるようになる。片方が閉じている
と、開けることはできない。
もしも今、ジークラインのところにパウンドケーキを持っていっ
たら、彼は喜んでくれるだろうか。そんな疑問がディーネの頭に浮
かんだ。
84
ジークラインは甘いものが好きなのか、ディーネが作るお菓子を
食べ残したことはない。よく、あれが食べたい、これが食べたいと
リクエストをするうちのひとつにパウンドケーキも入っていた。
この新作を食べたら、きっとジークラインもびっくりするに違い
ない。おいしいと言ってもらえるかもしれないという予感に、ディ
ーネの胸は高鳴った。
︱︱って、なにときめいてんのよ!
相手は厨二病の皇太子。どうせ褒めるときも厨くさいワード満載
で上から目線のお言葉を山ほど下さるのだろう。それ絶対うっとう
しいから。うれしくなんてないんだから!
ディーネはそんなことを思いつつ、なんとなく転送ゲートを開い
てみた。もしかしたらジークラインも開いていて、道が通じるかも
しれないと思ったのだ。
ゲートは何の反応も示さなかった。ジークラインは扉を閉ざして
いるらしい。
ディーネはしょんぼりしながらテーブルに戻った。
︱︱なんでちょっとがっかりしてるんだろ。
自分で自分の感情が理解できない。沈んだ気持ちでパウンドケー
キに手を伸ばす。あれほどおいしく感じた会心の出来のケーキも、
ひとりで食べると味気なかった。
85
ジャガイモとシスターとお嬢
ディーネの私室は三部屋に分かれている。ひとつは来客やひまを
持て余した侍女が行き来する応接間。その奥がベッドルーム。その
さらに奥にあるのがドローイングルームで、衣裳や本などこまごま
とした私物がつめこんであり、バスルームともつながっている。個
室にひとつずつバスルームがついているのは近頃流行の建築スタイ
ルだった。ワルキューレ帝国は古代から今に至るまでずっとお風呂
好きなのだ。
もちろん日中は私室以外でくつろぐことが多い。公爵家の屋敷に
は数えきれないほどの部屋があって、急なお客様が百人泊まりにき
たって対応できるぐらいたくさんのスタッフがいる。だから突然、
﹃今日は天気がいいからお外でお茶しましょう﹄なんて言い出して
も全然問題ない。
︱︱その日のディーネたちは侍女を誘って外庭でピクニックもど
きを興行中だった。
公爵家にはみっつの庭があり、それぞれ正門から玄関までを繋ぐ
前庭、屋敷のところどころに挟まる中庭、そして外の広大な森につ
ながっている外庭のうち、今回はより野外感のある外庭で春の景色
を楽しむことになった。
外はクロッカスやスノードロップなど、春の花が満開のころを迎
えていた。りんごの木やアーモンドの木がつける花はどこか日本の
サクラに似ていて美しい。天気もちょうどいい頃合いだ。行楽シー
ズンになってきたので、これから王都でもたくさんの園遊会やお茶
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会が開かれるだろう。
つまり︱︱珍しいケーキなども売れる時期だということだ。
ディーネが先日開発した新商品・ベーキングパウダー。
現代知識がある転生令嬢ディーネにはこれの使い勝手や風味のよ
さがよく分かっているが、この世界の人たちにも理解してもらうに
は、みんなに食べさせて回るしかない。
その新作のケーキをディーネが侍女たちに披露すると、四人の侍
女たちは四人四様の反応をした。
侍女頭のジージョは眉をひそめた。
もと修道女のシスはお菓子に目を輝かせている。
伯爵令嬢のレージョは﹃またお嬢様の微妙な手作りケーキか⋮⋮﹄
という顔をしていた。
そして今回の主役である豪商の娘のナリキは、難しい顔で真剣に
ケーキを味わっていた。
﹁⋮⋮どう?﹂
ナリキが食べているのはスポンジケーキ。素材の風味のよさを味
わってもらうため、味付けはシンプルに、ジャムだけ挟んだ。
前世ではいわゆるヴィクトリアケーキと呼ばれていた代物だ。
﹁確かに、食べたことのない味がします。おいしいとも思います﹂
ナリキは難しい顔で言う。
87
﹁⋮⋮ですが、商品化は難しいでしょうね﹂
ディーネはショックを受けた。
﹁ど⋮⋮どうしてかな?﹂
﹁単純に言ってコストがかかりすぎます。わが国の主食はなにか、
覚えていらっしゃいますか?﹂
﹁えーと⋮⋮﹂
たしか記憶が戻った直後にふりかえった。
﹃帝国ワルキューレは軍事大国であり、ジャガイモをよく産出﹄
そうそう、ジャガイモだった。
﹁ジャガイモです﹂
﹁ご名答。つまり、わが国の小麦の産出量は主食全体の二割程度な
のです。これがどういう意味かお分かりですか?﹂
横で聞いていたレージョが、﹃はーい!﹄と手をあげた。
﹁みんなパンよりジャガイモのほうがすき!﹂
﹁いえ、そういうわけでは⋮⋮﹂
ナリキはちょっと肩すかしを食らったような間抜けな顔をした。
もちろんレージョの言うことは間違っている。
・・・・
国民は、仕方なくジャガイモを食べているのだ。
﹁小麦よりもジャガイモのほうが育てやすい⋮⋮ってことよね。小
88
麦は手間がかかる割に収穫量があまり多くないの。ぜいたく品なの
よ、小麦のパンって﹂
ディーネが解説すると、シスがすっと手をあげた。
﹁⋮⋮わたくしがいた修道院のシスターは⋮⋮﹂
おっと。なんか切ない話の予感がする。
修道院は人里離れた厳しい山奥に建てられ、修道女たちはそこで
自給自足の生活を送る。
暮らしぶりはかなり厳しい。
﹁シスターはいつもおなかがいっぱいになったからっていって、わ
たくしに食事のジャガイモをわけてくださっていたんですの⋮⋮わ
たくしはそれがとてもうれしくて⋮⋮ご自分をかえりみず人に分け
与えることができるシスターの崇高なお心にいつも感動しておりま
した⋮⋮﹂
わあー、切ないぞう。
犬は三日飼えば三年は恩を忘れないというけれども。
ジャガイモひとつでそこまで。
どこまで厳しいんだ修道院生活。
﹁でもわたくし⋮⋮ある日偶然目撃してしまいましたの⋮⋮﹂
シスのからだがわなわなと震える。
﹁いつもおやさしくて謙虚で素敵な、わたくしの理想のお姉さまが
⋮⋮お姉さまが⋮⋮﹂
89
90
ジャガイモとシスターとお嬢 2
シスがなかなか先を言おうとしないので、ディーネは焦れた。
﹁お姉さまが⋮⋮? 何をしていたの⋮⋮?﹂
﹁⋮⋮みんなに隠れてこっそり裏庭にいたノラ猫に夕飯のジャガイ
モをあげていたんです⋮⋮!!﹂
シスはため息をついた。
﹁お姉さまは単にジャガイモがお嫌いだっただけらしいですわ。わ
たくしはその辺のノラ猫と同じ扱いだったんですのよ。それならそ
うと早く言ってほしかったですわ。わたくしも別にジャガイモはそ
んなに好きじゃないですのに﹂
﹁好きじゃなかったんかい﹂
﹁断ったらお姉さまに悪いかなって﹂
遠慮のしあいが悲しい結果を⋮⋮!
﹁ところで、なんで今その話を? ジャガイモも修道院では貴重な
食糧って教訓話とかじゃなかったの?﹂
﹁いえ、ジャガイモは修道女も食べないということですわ﹂
﹁なるほどありがとう﹂
まあ、やりきれなくなるような話じゃなくてよかった。
﹁あの、話を戻してもいいですか?﹂
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ナリキが若干イラついたように言う。
﹁とにかく、このケーキは砂糖と小麦粉と、繊細な火力調節ができ
るオーブンを使用します。これを量産して利益を取るとなると、庶
民が買えるお値段ではなくなってしまいますね。もっぱら貴族専門
の高級菓子になるかと思います。しかもその上、保存性もよくない。
冷却魔術などの補助が必要となると、ますます値段は高くつきます﹂
﹁量が販売できないなら、単価をあげて、貴族から搾り取る方向で
考えるのは⋮⋮?﹂
﹁マーケットが狭すぎますね⋮⋮この国に貴族が何人いるとお思い
ですか?﹂
もちろんディーネは公爵令嬢なので、この国の貴族の家系図など
も熟知している。
ざっと売り上げが出そうな人数を思い浮かべて、ディーネはがっ
くりと肩を落とした。
﹁もちろん、完全に失敗だなんて言いません。商品自体はいいもの
ですから、おそらくそれなりの成功は見込めるでしょう。しかし、
ディーネ様が求めるほどの利益にはならないかと⋮⋮﹂
﹁だいたいどのぐらいの儲けになると思う?﹂
﹁そうですね⋮⋮﹂
彼女は蝋板にガリガリと数字を書きつけた。
﹁このくらいでしょうか﹂
見せられた数字はひと月あたりの利益が金貨三十枚、それを一年
間休みなく続けて十二か月で金貨三百枚から四百枚だった。
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﹁うーん⋮⋮思ったより少ないわねー⋮⋮﹂
庶民にも大流行して売り上げがどっかんどっかん入ればいいのに
なと思っていたのだが、そう現実は甘くないらしい。
﹁でもまあ、ぜいたくは言っていられないからね⋮⋮ひとまずはそ
れで実用化を目指すよ⋮⋮ねえ、ナリキのところの商会って、王都
にカフェがたくさんあるんじゃなかったっけ?﹂
﹁え? ええ、まあ⋮⋮﹂
﹁じゃあ、うちの商品買わない? すごく便利なんだよ、このベー
キングパウダーってやつ。詳しくは秘密だけど、これを使うとおい
しいお菓子ができるから、これから先は全部のお菓子製造ギルドが
こぞってうちの商品を買うようになると思うんだよね﹂
﹁はあ⋮⋮﹂
ナリキはお金の勘定が上手だし、商売のことには詳しい。しかし、
さすがにベーキングパウダーの商品価値までは即座に見抜けないよ
うだ。
それはそうだろう。これの使い勝手は、実際にお菓子を作ってみ
た人でないと分からない。
ディーネはベーキングパウダーの製造販売ギルドを新しく作るつ
もりだった。
世界初の商品を売るのだから、その元締めギルドを新しく創設す
る権利はディーネにあるのだ。もちろん、公爵令嬢の名前が大々的
に流れてしまっては困るので、実際には新しく人を雇って、誰かを
会長に立てる必要はあるのだが。
﹁ま、ナリキのパパにもよろしく言っといて。友達家格で安くしと
93
くからって﹂
﹁分かりました﹂
難しい話はそれで終わったと判断したのか、侍女のシスがうれし
そうな声をあげた。
﹁それにしてもこのケーキ、本当においしゅうございますわぁ﹂
それを聞いて、レージョもうなずいた。
﹁これは当たりの予感がわたくしもいたしますわ。売り出しがはじ
まったらお母さまたちにもお教えしてさしあげたいくらいですもの﹂
彼女は伯爵家でそれなりの淑女教育を受けてきているフロイライ
ンなので、その彼女がそう言うのならば、味については心配いらな
い出来だということだろう。
﹁そうなんだよねー⋮⋮商品自体はすごくいいんだけど⋮⋮﹂
﹁わたくしもそう思いますが⋮⋮しかし、量産ができるかどうかは
重要でございますからね﹂
ナリキの辛辣なご意見。
どうやら豪商人への道は遠いようだ。
94
豪商ミナリール家
﹁ハリムいるー?﹂
﹁は、ここに﹂
近頃はもっぱらディーネの専属として控えていることが多いハリ
ムは、今日も執務用の離れで何やら書類の整理中だった。
﹁こないだのケーキの小売店を王都に作る話、いまどんな感じ?﹂
﹁順調です。原材料の販路は押さえました﹂
﹁わあ⋮⋮﹂
ハリムは優秀すぎてときどきこちらがびっくりする。ディーネが
思いつきで口走ったようなこともだいたい全部実現してしまうのだ。
﹁お嬢様のほうはいかがですか。豪商ミナリール家の令嬢に試食し
ていただいたとか﹂
﹁うん、それがね﹂
ナリキから今しがた言われた話を披露すると、ハリムはいぶかし
げな顔をした。
﹁なるほど、貴族にしか流行らないだろう、と﹂
﹁そうなのー。だから、出店は高級志向にして、数も絞っていこう
かと思って﹂
﹁しかし、それは間違っていると思いますよ﹂
ハリムもまた行商から成り上がった凄腕の商人。彼の言うことに
95
も耳を傾ける価値がある。
﹁確かにこの商品は貴族向けです。でも、庶民がまったく買わない
かというと、そういうわけではない。貴族専門の高級品というブラ
ンドに憧れる中流階級の庶民は大勢いるでしょう﹂
﹁あー、ブランドね﹂
前世知識をたどってみてもその指摘は正しいと思えた。ディーネ
も東京は青山本店のケーキ屋さんというだけで意味もなくセレブリ
ティを感じたりしたものだ。
﹁ミナリール家の令嬢ともあろうものがそこに気づかないはずはな
いと思うのですが⋮⋮﹂
﹁うーん、言葉のあやってやつかもね。とにかく、私が思ってるほ
ど販路は広くないってことを分かりやすく教えてくれたのかも﹂
﹁しかし、ミナリール嬢がおっしゃるよりははるかに広い販路を期
待できるかと。あとは、そうですね、ブランド力を高める何かがあ
ればいいのですが﹂
﹁ブランド力かぁ⋮⋮﹂
そこは由緒正しい公爵家の令嬢にして皇太子殿下の許嫁であるク
ラッセン嬢のあれやそれが光ってしまうところだろうか。
﹁そうね、考えておきましょう﹂
***
﹁冗談じゃないぞ!﹂
96
ナリキは父親の怒鳴り声にびくりと肩をすくめた。
豪商ミナリール家の当主ゼニーロは怒るとものに当たる悪癖の持
ち主で、先ほど怒りに任せて投げつけた高価なクリスタルガラスの
ゴブレットは壁にぶつかり、跡形もなく砕け散った。
﹁ワゴンブルクのミニチュアの次は、新作のケーキだと⋮⋮?﹂
ゼニーロの前にはナリキが持ち出した試作品のケーキが置いてあ
る。
﹁ふざけるな! おいしいじゃないか!﹂
それを無我夢中で食べながら、ゼニーロはまた怒鳴った。
せっかくのおいしい食べ物なのだから、怒るのか食べるのかどち
らかにしたほうがいいと娘のナリキは思うが、口には出さないでお
く。
﹁こんなものが王都で売り出されてみろ! われらの経営するカフ
ェは大打撃だぞ! おいナリキ!﹂
﹁はい﹂
﹁それでベーキングパウダーとやらの秘密はつかめたんだろうな!﹂
﹁それが⋮⋮﹂
ナリキは口ごもる。ディーネは材料を企業秘密としていて、侍女
でさえも工房やキッチンには近づけさせないのだ。そこから秘密を
探ろうとしてもすぐに感づかれてしまいそうで、ナリキは行動でき
ずにいた。
﹁なぁにをぐずぐずしておるか!﹂
97
ゼニーロはまた食器を割る。高価な陶磁器の皿が見るも無残に砕
け散った。
﹁とっととそのベーキングパウダーの作り方を盗んでこい! さも
なければわが家の収入が激減しかねないぞ! お貴族様のぬるい遊
びでこっちの市場を荒らされてたまるかというのだ!﹂
それからゼニーロは一転してしみじみとした口調になった。
﹁父さんの小さい頃はな、食うものにも困る生活をしていたんだ。
そこからわしは成り上がったんじゃよ!﹂
父の苦労話がまた始まった。耳にたこができるほど聞かされてき
た話だ。
ナリキは適当に聞き流す。
﹁ナリキ、お前を貴族の家に行儀見習いに出してやれているのは誰
のおかげだ?﹂
﹁お父様のおかげです﹂
やっと話が終わりそうな気配を見せたので、ナリキはほっとしな
がらそう答えた。
﹁そうだ。分かっているなら、とっととベーキングパウダーとやら
の製法を探ってこい。なぁに、いい品であるが、商売のことならば
こちらのほうが何枚も上手! 先にわが商会の商品として発表して、
つぶしてくれるわ! わはははは!﹂
ナリキは落ち込みながら転送ゲートで公爵家に戻った。
98
彼女用にあてがわれた私室で、考えるともなしに奉公先の姫君の
ことを思う。
最近のクラッセン嬢は別人のようだ。
昔はもう少し引っ込み思案で、日がな一日中刺繍をして暮らして
いるような大人しい少女だったのに、ある時期を境にして活発に何
かをするようになった。今日はキッチンで何かを作っていたかと思
えば明日は鍛冶屋で鋼鉄の出来具合を見ていたりと、休む間もなく
働いている。
はにかみ屋でおとなしい彼女が好きだったナリキは、置いてきぼ
りにされてしまったような焦りを感じていた。大公爵家の令嬢なの
にいまいち垢ぬけないおどおどとした態度を見ていると、ストレス
も感じる反面、どこかで安心もできたのだ。貴族の娘というのがみ
なクラッセン嬢のようであるのならば、相手にしても怖くはない。
でも、今のクラッセン嬢は違う。あの子は、怖い。
商売のことなど何も知らないはずのぼんやりしたクラッセン嬢が、
何年も商売に携わってきたものと同等か、あるいはそれ以上の鋭い
考察で新商品を開発していくのだ。ナリキもはじめこそ彼女にもの
を教える立場だったが、彼女はあっという間に帳簿の読み方なども
マスターしてしまった。彼女が言うには﹃いちおうボキのシカク持
ちだから﹄だそうだが、どういう意味かは分からない。
ナリキが言ったことも、一を知れば十を知る、といった風にどん
どん吸収していく。
これ以上ものを教えたくない、と思ってしまうこともたくさんあ
った。
知恵をつけてあげればあげるほど、彼女は磨かれていく。そのう
ちにナリキなどよりはるかに輝く宝石になってしまうのではないか
と思うと、もう我慢がならなかった。
99
クラッセン嬢には申し訳ないとは思う。
しかし、これもある意味でひとつの競争なのだ。
商売は、より多くの品を、多くの人に、より高い値段で売ること
ができれば勝ち。
ほんの数週間前に経済という名の戦争に参加しはじめただけのク
ラッセン嬢に、ナリキたち既存の商人組合が後れを取るわけにいか
ないのだ。まさしくこれは命のやりとりを介さない戦争だった。
庶民が貴族に対抗できる、ほとんど唯一の手段はお金を積み上げ
ること。
ならば、貴族にお金をもたせてはならない。商業の世界をコント
ロールさせてはならない。それは商人、ひいては庶民たち全体の敗
北をも意味するのだ。
ナリキはクラッセン嬢からいかにしてベーキングパウダーの製法
を盗み取ろうか考えながら、公爵家に向かった。
100
園遊会
こうぐう
青々とした芝が一面に広がる皇宮の庭で。
春の訪れを祝う祝祭の最終日に合わせて、大きな野外のお茶会が
催されることになった。このお茶会は通常なら皇宮に近しい高位貴
族がひっそりと参加するものだったのだが、今回は皇妃ベラドナや
ジークラインの協力を得て、できるだけ大勢の貴族に参加してもら
えるよう働きかけた。
開始までまだ三十分程度あるが、遠方からの客はすでに庭にぽつ
ぽつと姿を見せ始めていた。
﹁きゃあ、ご覧になって。バームベルク公爵家のフロイライン・ク
ラッセンよ﹂
﹁素敵! わたくし初めて間近で拝見しましたわ。おうわさどおり
の可憐な方ね﹂
小貴族の少女たちがひそひそとうわさをしている。身に着けてい
るものの質などからいっておそらくあまり家格が高い少女たちでは
ないのだろう。
﹁すごくスタイルがよろしいんですのね﹂
﹁均整がとれたおからだでいらっしゃいますわ⋮⋮モデルのよう﹂
﹁むだな贅肉なんて少しもなくていらっしゃるのね⋮⋮なんてすっ
きりしたおなかなのかしら﹂
101
ディーネはそうそうに視線の嵐に耐えられなくなって、席を外す
ことにした。
﹁あん、行ってしまわれますわ﹂
﹁目の保養でしたのに∼⋮⋮﹂
ディーネはこの園遊会でも目立ちまくり、浮きまくりだった。
なにしろ着ているものが違う。
身にまとっているのは例の魔法蜘蛛の糸によるぱっつんぱっつん
のドレスである。
この服、実は皇族の象徴として、それ以外の人間が着ることは禁
止されている超高級素材らしい。
ディーネは公爵家の娘だが、皇太子の婚約者ということで着用を
義務づけられていた。
皇妃ベラドナも同じ素材のものを身に着けている。彼女は不二子
ちゃんのようなワイルド系の美魔女なので、大胆なデザインがやけ
に似合っていた。
他にも皇妃の娘御、つまりディーネにとっては未来の義理の姉だ
ったり妹だったりする女性たちも同素材の服を着させられているが、
彼女たちの服はデザインも考えられていて、ある子はガッチガチの
ワイヤー補正入りの下着やスカートをふくらませるクリノリンなど
の補正器具などで体型を完璧にガード。またある子はぴたぴたのド
レスの上に何重にも絹のドレスを着込んで、体型を見えなくしてい
た。
ありていに言えば、体型がまるわかりのピタピタなデザインにさ
せられているのはベラドナとディーネだけだったのである。
これは恥ずかしい。
102
﹁⋮⋮ねえ、この服⋮⋮どうして私だけ⋮⋮その⋮⋮セクハラなの
?﹂
思わず侍女としてあとをついてきたレージョに問いかけると、彼
女はこくりと首をかしげた。
﹁せくはら⋮⋮とはなんのことでございますの?﹂
﹁だから、なんか、こう、やけにデザインがエロいっていうか⋮⋮﹂
﹁それはもちろん、お似合いになるからかと⋮⋮﹂
﹁で、でも、皇姫たちの服は、同じ素材でもなんかちょっと、デザ
インが違うじゃない? 常識のエッセンスを感じるじゃない? わ
たしもああいう感じのでよくない⋮⋮?﹂
﹁でも、あれは、お似合いにならないからかと⋮⋮本来はディーネ
さまのようにして着るのが格好いいのでございます。あれではせっ
かくの高級素材が台無しですわ﹂
﹁格好いい⋮⋮の⋮⋮?﹂
﹁貴族令嬢はその体型も美しくてこそですわ。自信をお持ちくださ
いませディーネさま。この会場にディーネさまよりもお美しくて格
好いい女性はいらっしゃいません﹂
ディーネは首をかしげつつ、クラッセン嬢としての記憶をたどっ
てみた。
たしかに、この皇宮では自分の美しさを堂々と見せることもたし
なみのひとつであるらしい。
ハリウッドセレブがすごく胸の開いたセクシーなドレスで現れた
りするようなものだろうか。あちらのお国では、強さの証明が女性
の格を高めるという発想なので、変なドレスを着たら女性としての
品格が落ちる、慎みがないのは恥ずかしい、と思ってしまう日本人
とはそもそも発想が真逆なのである。
103
どうやらここワルキューレでも、他人の視線にも引かず媚びず顧
みず、怖気づかずに堂々と対応する、強い女性の矜持が試されてい
るようだ。
その発想でいったらたしかにベラドナはこの帝国の皇妃にもっと
もふさわしい人物といえる。
皇太子妃候補のクラッセン嬢も大きくなったらベラドナ様のよう
に強くて美しい女性になりたいと憧れていたようだ。残念ながら彼
女は引っ込み思案で、全然適性がなかったようだけれども。
﹁まあ、いいけど⋮⋮﹂
ビクビクするほうが余計恥ずかしいというのなら、ディーネはも
う気にしないことに決めた。
たしかに今世のクラッセン嬢の美しさは現代日本人の感覚を持つ
ディーネからいっても群を抜いている。
見たけりゃ見ればいい。ディーネはもう知らない。
﹁さて、ケーキの準備はどうなったかな⋮⋮﹂
この園遊会は、ディーネがこれから売り出すケーキの試食会を兼
ねていた。今日ここに集った貴族令嬢やご婦人方、総勢三百名に一
度に味わっていただくため、十種類のケーキをひと口サイズにきり
わけたものを三百セット用意した。
﹁それにしても大変だったなあ⋮⋮﹂
﹁ディーネさま、ご準備におおわらわでしたものね﹂
﹁ほーんと、謎の事故が多くて大変だった⋮⋮﹂
あらかじめ買い付けておいた小麦がなぜか直前になって入荷しな
くなるというトラブルをはじめとして、いろんな不測事態が起きた。
104
どこかの商会が手を回して公爵家に届かなくしてしまったらしいの
だが、いくつかに絞れたものの、結局どの商会が犯人かまでは特定
できなかったのだ。
﹁でもまあ、その苦労も今日までよね⋮⋮﹂
言いながら皇宮のキッチンのほうに回る。
すると、あたりはハチの巣をつついたような騒ぎになっていた。
﹁ディーネさま! 大変でございます!﹂
駆け寄ってきたのはジージョだった。
﹁ケーキを運んでいた荷馬車が何者かの襲撃に遭い、積み荷が横転
してすべてだめになってしまったと⋮⋮﹂
105
犯人はお前か!
スタッフが騒然としている。
﹁代わりになるお茶菓子が何もない﹂
﹁あり合わせのものでどうにかしてください!﹂
がなり合っている料理長らしき人物と儀典長官らしい人物がいた。
ディーネは思わずへたり込んだ。
︱︱積み荷がだめになった?
それは紛れもなく何者かの妨害工作だ。つまり、誰かが故意に引
き起こした事故である。
この計画はそもそものはじめからトラブル続きだった。ディーネ
も途中でこれはおかしいと思い、用心のために、計画のことはほと
んど誰にも知らせずに、内々で進めていくようにしていたのだ。し
かしそれでもまた事故が起こってしまった。
身内に、誰か、裏切り者がいる。
心底ぞっとしたが、今は犯人を追及している場合ではない。
﹁ねえ、積み荷がダメっていうのは本当なの? どれか一部でも使
えそうなものはない? 一個ずつ取り出して確認してみた?﹂
ディーネが顔なじみの商会のスタッフをつかまえて問うと、彼は
106
力なく首を振った。
﹁竜巻の魔術にやられたらしくて、すべてグッチャグチャになって
いるとのことです⋮⋮﹂
﹁ノ︱︱︱︱!﹂
よりによってその魔法か。これは絶対に狙われている。いくらな
んでもそんなピンポイントに効果的すぎる魔術が偶然使用されるわ
けがない。計画的な犯行だ。
仕方がない。過ぎたことを嘆いてもケーキは戻らないのだから、
次の手を打とう。
暗く落ち込みそうになる自分に喝を入れて、即座に思考を切り替
えた。
﹁今からケーキを三百人分︱︱? 無茶だ! どうしたって準備に
半日はかかる!﹂
ディーネは今度は儀典長官とケンカしている料理長に近寄ってい
った。
﹁材料はどのぐらいありますか!?﹂
割り込みでディーネが質問をぶつけると、料理長はぎらりとにら
みつけてきた。
﹁あん? なんだ、あんた︱︱﹂
﹁わたくしはバームベルク公爵家のウィンディーネ・フォン・クラ
ッセン。今回の責任者です。ここにある小麦粉や砂糖の量を教えて
ください。果物などもありったけ全部よ! はやく!﹂
107
儀典長官はかすかに息をのんだ。
﹁フロイライン・クラッセン、今回のことはお気の毒でしたが、こ
こから先はどうかわたくしどもにお任せを⋮⋮﹂
﹁いいえ、この場を収められるのはわたくしだけです! さあ、三
百人分のケーキの材料はあるの? それともないの? はやく教え
て!﹂
﹁だから、今から準備しても間に合うわけが⋮⋮﹂
﹁あの、ひとつよろしいですか﹂
うしろから声をかけてきたのは、ディーネの侍女であるナリキだ
った。
﹁ケーキの数が、足りないということですよね﹂
﹁ええ⋮⋮そうですが﹂
﹁失礼。わたくし、ナリキ・フォン・ミナリール。ミナリール商会
の会長はわたくしの父でございます﹂
これにおどろいたのは料理長。
﹁あの、ミナリール商会の⋮⋮﹂
ミナリール商会は食品なども広く手掛けているから、料理長が反
応するのも当然のことだった。
﹁それでしたら、わたくしどもがお力になれるかもしれません﹂
ナリキは淡々と後を継ぐ。
108
﹁皇宮のそばに、わたくしどもの経営しておりますカフェが、およ
そ二十店舗ございます。すべての店からありったけの在庫をかき集
めさせれば、三百名の貴族の皆さまが召し上がるケーキがそろいま
すわ﹂
突然の申し出に、ディーネは雷に打たれたような衝撃を味わった。
︱︱犯人はお前かーっ!!
これが計画的な犯行でなくてなんだろう。彼女は最初から自分の
ところのケーキを使わせるつもりでわざとディーネの荷馬車を襲わ
せたに違いない。
よく考えるまでもなく、バームベルク領内の小麦の流通などはミ
ナリール商会が一番シェアを取っているのだから、いきなり取引が
キャンセルされた時点で疑わしいと思うべきだった。
うすうす彼女が犯人ではないかという気もしていたのだが、まさ
か、顔見知りの令嬢がそんな非道をするはずもない、と心のどこか
で甘く見ていたのが敗因か。
状況証拠は揃いまくっていたが、今はそんなことを追及している
場合でもない。
目先にある問題を解決するのが先だ。
﹁おお⋮⋮ありがたい。では、さっそく⋮⋮!﹂
﹁ええ。各店舗と連絡を取りますから、転送魔法を使用させてくだ
さいまし。皇宮なら希少な魔法石の蓄えくらいおありですわね?﹂
﹁では魔法石の準備を⋮⋮﹂
﹁︱︱ちょーっと待ったー!!﹂
109
ディーネの制止の声があたりに響き渡る。その場にいる誰もが凍
りつき、ディーネに注目した。
ディーネは落ち着くために二、三深呼吸をすると、静かに命令を
下す。
﹁この場はわたくしの預かりといたします。何人たりともわたくし
の許可なく行動することのないよう。従わぬ者はバームベルク公爵
家の名において処します。よろしくて?﹂
すごみをきかせたディーネに、反論できるものは誰もいない。
クラッセン嬢は由緒正しい公爵家の令嬢だ。将来は史上最高の為
政者と目される皇太子ジークラインの伴侶となるべく、厳しい賢妃
教育を受けてきた。
この程度のトラブルが収束できずに、皇妃は務まらないのだ。
110
調子に乗った公爵令嬢
園遊会の開始まで、あと三十分を切っている。
﹁そこのあなた! 食糧庫の在庫を確認して報告してちょうだい!
そっちのあなたは調理器具をあるだけ全部出して! あなたはわ
たくしの家に飛んでベーキングパウダーをもってきて! ガニメデ
という研究員にお尋ねなさい! それからあなた! 魔術師長に二
等級魔術の使用許可を! それから︱︱﹂
ディーネは矢継ぎ早に指示を飛ばしていく。
﹁⋮⋮本当に任せておいていいのか⋮⋮?﹂
﹁仕方がない、何が起きても彼女の責任だ﹂
﹁公爵令嬢ならば、園遊会のケーキがすべてキャンセルされても、
そう重い処分は下されますまい⋮⋮﹂
﹁ここはしたがっておいたほうがよさそうですな﹂
はじめは態度を決めかねていた料理長などの各セクションの責任
者たちも、ディーネに泥を被せる方向で意見がまとまったようだ。
もちろん、ディーネには失敗するつもりなどない。
﹁材料がそろいました!﹂
﹁道具もこちらに!﹂
﹁オーブンの予熱も完了しています!﹂
ディーネは広々としたキッチンを見やる。ときには皇宮で開かれ
る数千人からのパーティで出す料理さえも賄えるほどの規模だ。三
111
百人分のケーキも、本来は作ることなど造作もない。
彼らがためらうのは、パン種の発酵に時間がかかるから。園遊会
はすでに開始直前だ。
﹁ではみなさん、今からわたくしが説明するレシピの通りに制作を
開始してください!﹂
﹁しかしフロイライン、今から作っても⋮⋮﹂
疑問視する声をあげたのは料理長だ。
﹁承知しております。間に合わない⋮⋮とお考えなのですわよね?
今から生地をこねて、パン種を発酵させるのに一時間、それから
焼き上げにおおよそ三十∼四十分、粗熱を取るのに三十分、デコレ
ーションに三十分⋮⋮園遊会が終わってしまいます﹂
﹁でしたら、なぜ⋮⋮!﹂
ディーネはくすりと笑ってみせる。
﹁パン種の発酵に時間がかからない、としたらいかが?﹂
﹁なんだと⋮⋮?﹂
﹁そんなことは不可能だ⋮⋮!﹂
ざわざわざわ、とシェフたちが騒ぎ立てる。
﹁それを可能にするのが、パン種の代わりに使うこの新しいふくら
し粉ですわ!﹂
ディーネは今しがた届けられたばかりの白く輝く粉を、高々と掲
げてみせた。
そう、ベーキングパウダーを使えば、待ち時間なしで即座にケー
112
キを焼けるのだ。
﹁それに、わたくしも少しは魔術の心得がございますの。とくに水
系は大の得意ですわ。ケーキを冷却させたいのならば⋮⋮﹂
空間を操作すると、急にあたりの空気が冷えて、近くにあった水
入りのコップがキンと澄んだ音を立てて凍った。
﹁私の魔法で三分ですわ﹂
にっこりと笑うと、シェフたちはどよめいた。
﹁おおおお⋮⋮!﹂
﹁ウィンディーネさま⋮⋮!﹂
﹁格好いい⋮⋮!﹂
﹁やべえ、抱かれてえ⋮⋮﹂
いつの間にかあたりは割れんばかりの拍手と口笛で大盛り上がり
の様相を呈している。ディーネは得意満面でおじぎをし、急に我に
返った。
︱︱はっ。調子にのってつい。
無駄なデモンストレーションに時間を費やしてしまった。
しかも厨二病殿下でさえ苦笑しそうな恥ずかしい決め台詞までつ
けて。
やばいやばい、何考えてんの。
一刻を争う事態だということを思い出し、ディーネはきまじめな
表情を作ってケーキのレシピ指導に入った。
113
はじめはいやいや従っていたシェフたちも、もはやディーネに逆
らう気配はない。それどころかノリノリで彼女の言うことに耳を傾
けている。
材料を混ぜ合わせた端からどんどんケーキを焼かせた。
第一陣が焼き上がり、いよいよディーネの出番となる。
﹁二等級魔術の使用許可が降りました!﹂
二等級魔術とは、主に人に危害を加えない安全な普遍的魔術のこ
とをいう。戦闘を想定した危険な魔術は一等級に分類される。皇宮
にはジャミングがかかっていて、大きな魔法や高度な魔法が使いに
くくなっているのだ。
魔法で一個ずつケーキの熱を奪っていく。無機物の個体に氷や霜
をつけることなく熱だけ奪うのは、かなり高度な魔法に分類される
ため、使いこなせる人間は少ない。実際に魔術の実演を始めると、
周りにいた魔術師たちが感嘆のまなざしをディーネに向けた。
﹁できた順からどんどん持っていって!﹂
盛りつけが済んだものを片端から園遊会に運ばせた。もう開始時
刻は三十分ほど過ぎている。これ以上来客を待たせるわけにはいか
ない。
﹁さあ、はりきって参りますわよ!﹂
ディーネは魔法の慣らし運転が終わったので、対象を一気に広げ
た。まとめて十数個分のケーキに照準を合わせ、超特急で熱を吸い
114
取っていく。
その時だった。
ディーネの至近距離でいきなり大きな魔力の構成が生じた。その
反応が転移魔法に固有のパターンと瞬時に悟って、ひやりとする。
なにかが転移してくる。
それはつい最近目撃した魔法の軌跡に酷似していた。
彼女のいる位置を狙って打ち込まれたクロスボウの太矢が脳裏を
よぎる。石壁を砕いて突き刺さったあの威力。あれが直撃したら無
事ではすまない。
115
ジークライン様万歳
あらゆる行動は間に合わなかった。魔力を知覚した瞬間に矢の投
射は終わっていた。
︱︱死⋮⋮ッ!?
狙いたがわず心臓めがけて飛んできた太矢は、ディーネに突き刺
さる前に、剣によって阻まれて床に落ちた。
振るったのは大剣を手にした大男だ。転移魔法の魔力の残滓が肩
や手に残ってキラキラと輝いている。
ジャミングが施されている皇宮で自由に魔術が扱える人間は限ら
れてくる。転移魔法などの高位魔術になればなおさらだ。
﹁よう。何やってんだ、ディーネ?﹂
﹁ジークライン様っ⋮⋮!﹂
まわりで見ていたシェフたちがにわかに騒ぎ出す。
﹁ジークライン様だぞ!?﹂
﹁ジークライン様、万歳ッ!﹂
大戦の英雄でもあるジークラインは、国民の男性諸氏からの人気
もすこぶる篤かった。
﹁万歳っ⋮⋮! ジークライン様万歳っ⋮⋮!﹂
116
万歳の快哉がいたるところで上がるなか、ジークラインは何ら気
負うところなく、無造作に転移魔法を逆さにかけて、刺客をあっさ
りと始末した。
﹁速い!﹂
﹁何も見えなかったぞ⋮⋮っ!﹂
側に控えていた魔術師たちが騒然となる。本職の魔術師よりもよ
ほど魔術の制御がうまいジークラインは、滅多に自分の魔術の構成
を読ませない。とっとと転移魔法を封鎖するための魔法も仕上げて、
ジークラインは控えている魔術師をねめつけた。
﹁失態だな。お前たち、何をしていた? カナミアの残党が皇宮の
魔術封印のスキマを狙ってきてるから注意しろ、とおれは言ってお
いたはずなんだが⋮⋮﹂
魔術師は直立不動の姿勢になる。
﹁し、しかし、フロイライン・クラッセンが使用許可を求めてきた
のであればこそ⋮⋮﹂
﹁なぜ許可を出した。バームベルク公爵家の娘とはいえこいつはた
だの女だぞ﹂
もっともな正論である。
クラッセン嬢は貴族の娘だが、それだけだ。特別な権限など何も
ない。とっさに宮廷魔術師が従ってしまったのは、公爵家の名前を
使って、言うこと聞かなきゃ処しちゃうぞ、とディーネが脅したか
らだ。公爵令嬢に備わる気迫や品格に呑まれてしまったとしても彼
に罪はない。
クラッセン嬢はそのために在るように義務づけられてきた。
117
生まれつき人を従わせることを期待され、そのように振る舞って
きたのだ。
﹁申し訳ありません、ジークラインさま。責めはわたくしにありま
す﹂
ディーネが思わず声をあげると、彼は不機嫌にこちらを見た。プ
レッシャーが半端ない。それだけで怯みそうになる。
﹁で、ディーネ。お前は何をやってる?﹂
﹁ご覧のとおりでございますわ。これが遊んでいるように見えまし
て?﹂
宮廷料理人たちは忙しくケーキを作っているし、ディーネはお喋
りをしながらもケーキの粗熱を取る作業をずっと続けている。
すました答えに、ジークラインは少し怒気をゆるめた。
﹁おれとて故もなく怒りをまき散らしているわけじゃねえ。この騒
ぎはなんだ? 宮の警備を手薄にし、お前の身を危険にさらすほど
の重大事なのかと聞いている﹂
﹁わたくしにとっては、そうですわ﹂
これがうまくいかなければ、ディーネが自分の持参金を稼ぎ出す
ことなど夢のまた夢だ。
﹁お召し上がりになれば分かること。わたくしはこの事業に、身命
を賭しておりますの﹂
﹁そこまでの自信作か。いいぜ、このおれがじきじきに味見してや
る。光栄に思え﹂
118
︱︱ジークラインの試食!
ディーネはとっさに計算した。これはチャンスだ。皇宮内の男性
たちからも熱く信奉されている﹃戦神﹄皇太子からケーキのお墨付
きをもらえれば、女性人気だけでなく男性人気も狙えるようになる。
ディーネはすばやく辺りを見渡した。
前世でザッハトルテと呼ばれていたケーキを発見し、ほくそえむ。
あった、あれだ。ジークラインにすすめるとしたら、あのケーキ
がいい。
この世界の人にとって、チョコレートは飲み物だ。
ジークラインもまだチョコレートケーキを味わったことはないだ
ろう。
チョコレートコーティングが鏡面のように輝くホールケーキを指
さし、切り分けるよう命じると、そばにいたシェフがさっと八等分
にして、ジークラインに手渡した。
﹁おれを失望させるなよ、ディーネ﹂
いちいち厨二くさい言い回しで釘をさす男だと思いつつ、ディー
ネは挑戦的に見つめ返す。
﹁笑止﹂
ジークラインはしゃくりとケーキにフォークをさした。
119
ジークライン様万歳︵後書き︶
ザッハトルテ
チョコレートケーキ。トルテは丸い型で焼いたケーキの総称。ドイ
ツ語でいわゆるホールケーキを指す。
120
殿下、拗ねる
大きな手のひらには合わないデザートサイズのフォークが、野卑
な美青年の口元に運ばれる。
ひと口でケーキの三分の一近くを食らって、ジークラインはカッ
と目を見開いた。
﹁︱︱なんだ、これは⋮⋮!?﹂
﹁チョコレートの苦味と土台のスポンジケーキの軽さの競演。ジー
クライン様のお口に甘いだけのケーキなどお似合いになりませんわ。
お召しいただくのなら、精緻な絹織物よりもなお作り込んだケーキ
でなければ﹂
ディーネが前世の日本人としての記憶を取り戻す以前から、クラ
ッセン嬢は基本的なスペックがやたらと高かった。料理番組ばりの
解説をつけることも造作もない。
破顔一笑。ジークラインはとろけるような笑みを見せた。
ディーネの視界の隅で誰かが倒れた。失神者が出るなんて、世界
的人気のアーティストのライブでも滅多にないことである。どれほ
ど崇拝されているのだ、この男は。
﹁やるじゃねえか⋮⋮! このおれの賞賛を受け取れ、ディーネ﹂
﹁ありがたき幸せに存じます﹂
やや芝居がかって、舞踏会でのあいさつのように服のすそをつま
みあげると、会場はやんやの喝采につつまれた。
121
﹁よく分からないが、ものすごくウマいらしいぞ﹂
﹁いいなあ、俺も食ってみてえ⋮⋮﹂
﹁自分で作ってるもんの味が分からないって不安だよな﹂
ジークラインはやれやれ、といったように肩をすくめた。
﹁皇宮の警備に穴をあけたところは気に食わねえが、まあいい。お
前と、お前の菓子作りの腕前に免じて許してやんよ﹂
彼が直接﹃許す﹄と口にしたからには、この件でのこれ以上の追
及はない。魔術師や飲食部門の各セクションの上長たちはほっとし
たような顔をした。
﹁ようしお前ら、どんどん作れー!﹂
料理長が号令を下し、シェフたちの士気が向上したところで、ジ
ークラインがのそのそと無防備にディーネのところへ寄ってきた。
﹁なんだ、ディーネ。最近姿を見せねえと思ったら、ケーキ屋に転
職したのか?﹂
﹁ケーキ屋ではございませんわ。これも資金稼ぎの一環ですのよ﹂
﹁ふうん、ケーキ作って資金稼ぎねえ。うまく行ってんのか?﹂
ジークラインの口調は純粋に心配している風だったので、ディー
ネも挑戦的に返すのはやめて、素直に打ち明けることにした。
﹁一年後をお楽しみに⋮⋮と申し上げたいところですけれども、正
直に言って苦しいですわね。まず、バームベルク公爵家の借金がい
ただけませんわ。大金貨で九千九百九十九万枚もあるそうなんです
122
の。そちらを返さないことには、わたくしの持参金などはした金で
ございます﹂
﹁九千九百九十九万枚だぁ? なんでそんなべらぼうな金額になっ
てやがんだ。利子だけで毎年三千万ぐれえ増えるじゃねえか。無理
だな。試合終了だ。お前の負けだろ、ディーネ﹂
そう言うジークラインは、なぜか若干うれしそうだった。
﹁勘違いなさっては困ります。利子が三千万に上るわけがありませ
んわ。来年の期日で二千万ほどの予定ですもの⋮⋮﹂
ジークラインはニヤリと笑う。
﹁二千万も三千万も、変わらねえよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮そう⋮⋮ですわね⋮⋮﹂
絶望にかられて遠い目をしつつ、なにかがディーネの心に引っか
かった。
もちろん、二千万と三千万は全然違う。金利が二割と三割では大
違い、などというのは身近に銀行があって、それを利用したことの
あるディーネの感覚だ。
しかしそれが、この、文化的には発展途上のこの世界にも常識と
して通用するものだろうか?
たしか地球でも、年間の金利が一定倍率を超えてはならないとい
う法律ができたのは現代に入ってからだったような気がする。
よく考えたら、毎年三万の地代収入しかない相手に一億も貸し付
けるなど無茶苦茶だ。現代日本ならば融資に関する法律で、収入が
一定未満の相手に無限に貸し付けてはいけないと決まっているが、
この国ではどうだろう。融資に関する法律は、あいにくとクラッセ
123
ン嬢の知識にはなかった。
これは一刻もはやく確認するべきだ。法律に反しているのなら、
うまくすれば借金をなかったことにできる。
金利が高すぎるのなら、もっと安くで貸してくれる銀行家に一括
で一億を借りて、高い融資はすべて返済してしまえばいいのでは?
前世知識でいうところのおまとめローンというやつだ。
﹁どうだ、ディーネ。そろそろ誰かの手助けがほしくなってきた頃
じゃないか?﹂
ジークラインの嫌みったらしい質問で、ディーネは黙考から引き
戻された。
﹁わたくしを憐れんでくださいますの? お優しいこと﹂
ジークラインはちょっと照れたように目線を外した。
﹁そりゃ、お前は危なっかしくて見てらんねえからな﹂
それからぶっきらぼうに続ける。
﹁⋮⋮皇妃になれば、そのぐらいの金は一瞬で﹂
﹁絶対にお断りいたしますわ﹂
ジークラインはちょっとすねたように目を細めた。そういう顔を
すると年相応でかわいいなと思わないでもない。この完成された筋
肉質な肢体を持つ美貌の男は、こう見えてもまだ十八歳なのである。
124
﹁ふん、まあいいぜ。お前が泣きついてくるのを楽しみにしといて
やるよ。おれは寛大だからな﹂
ジークラインは相変わらず厨くさい決め台詞を残して、さっと出
ていった。廊下ですれ違ったらしき使用人たちから、悲鳴と﹃万歳﹄
のコールが聞こえてくる。
︱︱あれさえなければなぁ⋮⋮
ディーネは残念なイケメンのジークラインを見送りながら、ため
息をついたのだった。
125
お嬢様とゆかいな使用人たち・その三 ∼執事のセバスチャン∼
トラブルはいくつかあったものの順調に収拾がつけられ、ディー
ネが即席で指揮したケーキづくりは成功のうちに終わった。
﹁残りのケーキ、無事会場に行き渡りました!﹂
報告を受けて、ディーネもほっと一息ついた。
侍女から受け取ったタオルで汗をぬぐう。冷却の魔法を使いすぎ
て、全身に汗をかいていた。
﹁会場の様子は? お客様から苦情は出ていない?﹂
﹁心配いりませんわ。ザビーネさまとベラドナさまがうまく取り持
ってくださいました﹂
﹁お母さまと皇妃さまが⋮⋮﹂
社交界の白薔薇と呼ばれる公爵夫人と、諸外国から空飛ぶ孔雀と
たたえられる皇妃がそろって楽しい歓談を仕掛けてくれたのなら、
さぞや楽しい会になったことだろう。
ディーネも髪型を直して園遊会に顔を出すと、わっと歓声に包ま
れた。
﹁ディーネ! ああ、抱擁させてちょうだい! すばらしいデザー
トだったわ!﹂
ベラドナにひしと抱きしめられて、ディーネはちょっとうろたえ
126
る。
﹁あなたがお勧めしてくれた新しいケーキは世界一ね! ぜひとも
皆さんに教えてさしあげたいわ!﹂
﹁あ⋮⋮ありがとうございます、ベラドナさま⋮⋮﹂
﹁今シーズンに行う行事の軽食はすべてあなたのところの菓子職人
にお任せしたいぐらいよ。できないかしら?﹂
ディーネは驚きつつも、即座に脳内でそろばんをはじいた。
﹁なんとかいたしますわ、ベラドナさま﹂
﹁でしたら、わたくしもお願いできないかしら? ちかぢか田舎の
屋敷でお茶会を催そうと思っているのだけれど⋮⋮﹂
横から声をかけてきたのはリーベンシュタイン伯夫人だった。
ディーネは内心小躍りしつつ、快諾する。
︱︱こっ、これは、ぼろもうけの予感⋮⋮っ!
ケーキとしての﹃商品﹄を販売するだけなら、それ単体の値段し
かつかない。しかし、宴会の﹃プロデュース﹄も含めた、総合的な
サービスの提供ということであれば、商品単体の価値にいくらでも
サービス料を上乗せできる。
宴会用のケーキを百個売っても、それは百個分のケーキの料金に
しかならないが、会場の飾りつけや料理を出すタイミングなども含
めて提示するのであれば、百個分のケーキの代金プラスアルファを
ぼったくれるのだ。
うまくすれば、大規模な宴会一回につき大金貨で数枚を要求する
127
ことだってできるだろう。
ディーネはその場で五件の契約を取って、意気揚々と自宅に引き
揚げた。
***
﹁バンケットのサービス、ですか⋮⋮﹂
﹁そうなの!﹂
さっそくそのアイデアを家令のハリムに話すと、彼は要領を得な
い、という顔をした。
﹁要するに執事業の代理ね。私がクライアントの奥様に、こういう
メニューで、室内楽はこれとこれで、出し物として外国の珍しい動
物を連れていきます⋮⋮なんていうプランを提案して、気に入って
もらったら現地で準備をする、という感じよ﹂
﹁なるほど。それでしたら、執事にも話を聞いてみましょう﹂
﹁いーわね!﹂
そういえば、この屋敷にも執事がいた。執事というのはラノベで
よく見かけるような﹃お嬢様の専属使用人﹄ではなく、屋敷の家事
一切を切り盛りするディレクターとしての執事だ。
宴会の手配なども執事の仕事である。
クラッセン嬢としての記憶からいうと、この家の執事はすこぶる
優秀で、さらに、特筆すべき美点があった。
ハリムはかたわらにあった呼び出し用のベルを鳴らした。
128
﹁セバスチャン、参りました。ご用でしょうか、お嬢様﹂
呼び出された執事・セバスチャンは、銀髪にモノクルをつけた美
男子だった。
この家の使用人はなぜか皆美形ぞろいである。公爵夫人であるザ
ビーネの趣味らしい。﹃美しくなければ価値がない﹄とは、その美
しさだけで二十年以上も社交界の三大淑女とたたえられてきた歴戦
のプロフェッショナル・ビューティたるザビーネの談である。
ディーネはぐっと親指を立てた。
﹁ごうか︱︱︱︱︱く!﹂
サムズアップは前世ならば﹁いいね!﹂の意味だが、この国では
何の意味ももたない。
意味不明の言動をするディーネを前にしているにも関わらず、セ
バスチャンはきまじめな無表情を保っている。
真面目で控えめ。寡黙で実直。まさにザ使用人オブ使用人といっ
たこの態度こそがセバスチャンのいいところだった。
129
セバスチャン その2
﹁いいねいいね、執事たるものいついかなるときも感情を表に出し
てはならないみたいなその表情! セバスチャンならどこの家の貴
婦人の前に出しても恥ずかしくない!﹂
セバスチャンは急にはしゃぎだしたディーネにも、真面目くさっ
た対応をする。
﹁⋮⋮? ありがとうございます⋮⋮あの、話が見えませんが﹂
﹁新しくバンケット事業を始めようと思うの。セバスチャンは宴会
部長に任命します!﹂
﹁⋮⋮すみません、私の理解が悪いようなのですが⋮⋮何のお話で
しょうか﹂
彼はやはり、無表情で慇懃な態度を崩さない。
﹁簡単よ。よその家の屋敷に行って、宴会をひとつ指揮してくるお
仕事﹂
彼は困ったように首を傾げた。
﹁⋮⋮私は、今の仕事を気に入っておりますが⋮⋮左遷、というこ
とでしょうか? なにか至らないことでも⋮⋮﹂
﹁違う違う、むしろ栄転よ! お給金はこのぐらいで!﹂
ディーネが豪快にそろばんの珠を動かすと、セバスチャンの目の
輝きが増した。
130
﹁⋮⋮詳しく聞かせていただいてもいいでしょうか﹂
控えめながらも、好奇心を隠せない様子で言うセバスチャン。
︱︱やった、食いついた。
ディーネは内心ほくそ笑む。誰だって自分のもらっている給料が
三倍になると言われたら少しくらいは話を聞いてみようと思うもの
だ。
ディーネが簡単にプランを説明すると、セバスチャンはうなった。
﹁しかし、宴会の準備は、お嬢様が考えていらっしゃるほど簡単で
はありませんよ⋮⋮﹂
﹁そこであなたの能力が問われるというわけなのよ! どう、うち
で平凡な執事業をしていたらこんな金額絶対に稼ぎ出せないでしょ
う?﹂
﹁それは⋮⋮﹂
﹁基本給はこのぐらいで、あとはあなたの仕事ぶりに合わせて算出
していくわ! ひとまず考えてみて? セバスチャンなら絶対成功
させるプランを考えられるはずだから!﹂
セバスチャンは、まだ戸惑っている。
﹁しかし、私などに、そのような大役が務まるでしょうか⋮⋮﹂
控えめな謙遜のしぐさ、憂いを含んだ表情、母性本能をくすぐる
甘くやわらかい語尾の濁し方。
なにもかもが完璧だった。
131
﹁絶対大丈夫よ!!﹂
ディーネが思わず太鼓判を押すと、彼は︱︱照れたようにはにか
んだ。
無表情なセバスチャンにしては珍しい表情だ。これが乙女ゲーだ
ったら今ここがスチルになったね。間違いない。
﹁⋮⋮簡単におっしゃいますね。でも、私の能力を買うとまで言わ
れては、挑戦してみたくなってしまいます。お嬢様もお人が悪い﹂
それからセバスチャンはハリムに向けて苦笑してみせた。
﹁近頃、お嬢様がなにか積極的に行動していらっしゃるのは存じて
おりましたが、あなたもいつもこのような無茶を言われているので
すか?﹂
ハリムは肩をすくめる。
﹁慣れました。それに、案外悪くないものです﹂
﹁なるほど﹂
セバスチャンはなにやら感じ入ったように深くうなずいた。
﹁お嬢様も罪なお方ですね。人をたらしこむのがお上手でいらっし
ゃる﹂
﹁う、そうかな?﹂
︱︱別にたらしこんではいないんじゃないかなぁ。
ハリムがディーネの無茶振りを引き受けているのは、パパ公爵に
命令されたからだ。パパ公爵はディーネとジークラインの仲を取り
132
持つことに命をかけているからハリムもディーネを邪険に扱うわけ
にはいかない。
さらにセバスチャンにいたっては、お金で釣っただけである。誰
だって今の数倍以上の給金を出すと言われたらやる気を出すだろう。
それとも遠回しに﹁面倒くさいことを言うやつだな﹂と嫌味を言
われているのだろうか?
その可能性はありうる。
セバスチャンはなにしろ執事。迂遠な嫌味などもお手の物だろう。
﹁面倒くさいことを頼まれてくれて、ふたりには感謝してる。あり
がとね﹂
ディーネがそういうと、セバスチャンは謎のほほえみを見せた。
︱︱え、あれ? なんで笑うの?
なにかおかしなことを言っただろうか。
ディーネが戸惑っていると、セバスチャンはなにか小動物を愛で
るような目つきでディーネを見た。
﹁な⋮⋮なに?﹂
﹁いえ、まさかお礼を言われてしまうとは思わなくて。なかなかい
らっしゃいませんよ、使用人にそこまでお言葉をかけてくださる方
は﹂
﹁助けてもらったらお礼をいうのは、当然じゃない?﹂
ディーネが言うと、セバスチャンとハリムはふたりで顔を見合わ
せて、やれやれ、というように笑った。
133
﹁ちょっと、もう、なんなの。ふたりして⋮⋮﹂
納得がいかないディーネを置いてきぼりに、使用人のツートップ
はほのぼのとほほえみ合う。ふたりには悪いが、立派な成人の男性
が目と目で通じ合ってるのはけっこう薄気味が悪い。
わけが分からないと思いつつも、時間が惜しかったので、ディー
ネはいったんそのことを忘れて、今後のことを相談しはじめたのだ
った。
134
借金を整理します
バームベルク公爵家には借金がある。
大金貨にして一億枚という大金だ。現在、公爵家の地代の収入が
三万ほどなので、三千年以上かかっても返しきれない計算になる。
﹁こんなアホみたいな借金、普通は無効だよねえ⋮⋮﹂
ディーネは思い立った︱︱債務整理をしよう。
契約の状況を見直せば、もう少し金利が安くあがるかもしれない
のだ。見直さない手はない。
ディーネはさっそく家令のハリムに命じて、現在の経済状況を確
認させた。
﹁お嬢様が領の経営を開始されてからちょうど二週間経ちました。
ディーネさまが今月に行った事業は以下のとおりです﹂
﹃不要な軍事用品の売却﹄
こちらは大金貨で百万枚分の売り上げとなったが、甲冑や魔法石
など、もともとあった設備を売却しただけなので、公爵領の借金減
額に計上して、ディーネの持参金にはノーカウント。
︱︱これで公爵領の借金は9,900万になった。
﹃ワゴンブルクの興行と実況販売﹄
こちらは国内のあちこちでこれまでに計三十回行い、小銀貨十枚
の模型を約六十万個売り上げた。大金貨にして六百枚だ。
︱︱これでディーネの持参金は9,400枚になった。
135
﹁うーん、わが国の人口を考えたら、これ以上の売り上げは厳しい
かもしれない⋮⋮﹂
きちんとした人口調査などをしていないので詳細は不明だが、こ
れだけの数を売り上げたということは、男児の数割がくだんのフィ
ギュアを所持しているぐらいの普及率だろう。
もともと﹃戦争に勝ったうちの国スゴイ!﹄という感情を見越し
ての商売なので、他国に売りつけるわけにもいかない。
﹁次はジークの騎竜の模型でも出してみようかな⋮⋮いや、もうい
っそ本人のフィギュアでもいいかもしれないわね⋮⋮あいつあれで
も﹃戦神﹄って呼ばれて崇拝されてるらしいし⋮⋮目のところにラ
イトを仕込んで光らせたら面白いかも⋮⋮﹂
﹁アイデアだしは結構ですが、今は帳簿の整理を進めてもよろしい
ですか?﹂
﹁あ、ごめん、ハリム。続けて﹂
新しい製法のケーキ屋の出店。
こちらはまだ来月のオープンを目指して準備段階だが、ナリキの
試算よりも少し多めの金額を見越している。
原価や手間賃などもろもろ差引きで、ひと月あたり大金貨で十五
枚の純利益を目標として各店舗に設定してみた。貴族向けの高級な
店構えにしつつ、お値段は少し抑え目で、貴族に憧れる庶民も積極
的に取り込んでいく。それをひとまず三店舗用意した。
これにより、来月末にはディーネの持参金が9,355枚になる
はずだ。
さらに、来月以降にはひと月あたり金貨四十枚から五十枚前後、
収支が増えていく計算である。
136
﹁そういえば、この間の園遊会ではミナリール家から妨害工作を食
らっていたのよね⋮⋮あの子にも話をしなくちゃ﹂
﹁お嬢様、その件についてもまた後日で﹂
﹁ええ、ごめんなさい。今は帳簿ね﹂
他の屋敷に宴会のプランを提案するバンケット事業。
こちらはまだ未知数だが、来月だけですでに五件の契約を取って
いる。どれもかなり規模の大きいお茶会なので、最低でも金貨五十
枚程度の利益になるだろう。
これでディーネの持参金は残り9,305枚。
︱︱以上がディーネの仕事の全容だった。
確認が終わって、ディーネはため息をついた。
﹁ううーん、まだまだ足りないわねえ⋮⋮﹂
﹁お父上の借金が痛手ですね﹂
﹁そう。それでね、借金を減らす方策をいくつか考えたのよ。で、
最初に確認しておきたいんだけど、この国の貸金に関する法律はど
うなっているの?﹂
﹁法律⋮⋮ですか?﹂
ハリムは困り顔だ。
﹁そう。法律。お金を貸すときに、年収の何パーセントまでしか貸
しちゃいけない、とか、そういうのよ。知ってることは全部教えて﹂
﹁ええと⋮⋮そうですね。この国の場合、法律が大きくわけて三種
類あるというのはご存じですか﹂
137
もちろん知っている。クラッセン嬢はハイパーなエリートなのだ。
﹁ひとつは﹃慣習法﹄﹂
その土地に代々伝わる土着的なルールというやつだ。たとえばバ
ームベルク公爵家の屋敷がある公爵領の中心地・バームベルクには、
バームベルク人がおもに住んでいる。バームベルクに住むバームベ
ルク人が守ってきたルールの集大成が﹃バームベルク慣習法﹄だ。
同じ国内であっても、慣習法は地域や民族によって大きく異なる。
バームベルクよりもっと北のほうに行くとバームクーヘン人が住ん
でいて、バームクーヘン慣習法が通用する地帯になっている。
バームベルク領内で起きた小さなもめごとはおおよそこの法律を
目安に解決が図られている。もめごとがこじれにこじれて、現代で
言ったら高等裁判所に相当する﹃領主裁判﹄までもつれ込むか、あ
るいは、領主その人が民から最高裁たる国王に訴えられた場合など
はまた事情が変わってくるが。
﹁バームベルク慣習法によると、﹃借りたものは、借りた人に返さ
ねばならない﹄とありますが、とくにお金の貸し借りを強く制限す
るような項目はなかったはずです﹂
﹁え⋮⋮そうなの? 収入以上に貸し付けちゃダメとか、そういう
のはないの?﹂
﹁ありません﹂
ディーネはちょっとがっかりしたが、次の項目もあげてみること
にした。
﹁もうひとつは﹃ワルキューレ帝国法﹄ね﹂
138
これはこのワルキューレ帝国が千年以上も昔に編纂した法大全で、
抜群に理論的で使い勝手がいいということで、おもに国際的なもめ
ごとの調停などで使われる。
この世界には古くから魔法が存在し、転移魔法を使えばはるか遠
方にある国とも簡単に交流ができたので、古代からすでにグローバ
ル化が始まっていたのだ。
なので言語としてもワルキューレの言葉は世界中で通用するし、
法律もワルキューレがグローバルスタンダードなのである。
﹁ワルキューレ法では、年利が八十パーセントまで認められます﹂
﹁多ッ!!﹂
八十パーセントって。ウシジマくんもびっくりだよ。
﹁いくらなんでも多すぎると思うんだけど⋮⋮﹂
﹁まあ、ワルキューレはそうやって、まだ金融や融資の概念を持た
ない未開の地にも金を貸し付けて繁栄してきましたからね﹂
﹁暴動が起きるんじゃ﹂
﹁そのときは世界最強のワルキューレ帝国軍が大量の魔法石を使っ
て攻めてくるので﹂
﹁勝てるわけない﹂
﹁ワルキューレは全世界のどの地域よりも強大で富んだ帝国なんで
すよ﹂
﹁外国人は語るね﹂
﹁いろいろありましたからね⋮⋮﹂
ハリムはとても静かな声でそうつぶやいた。この賢くて仕事がで
きるハリムにこんな遠い目をさせるとは。ワルキューレはどれほど
139
の辛酸をハリムの国になめさせたのだろう。怖くて聞けない。
﹁まあいいよ。バームベルク慣習法でもワルキューレ帝国法でもこ
の暴利が違法じゃないことは分かった。あとひとつの、﹃教会法﹄
は?﹂
ワルキューレの国教であるメイシュア教が定めた、もめごと調停
のルールの発展版が﹃教会法﹄だ。
教会法はワルキューレ帝国法をお手本に、より弱者にやさしい法
律を目指して発展してきたので、ワルキューレ法が気に入らないの
なら、教会法を引っ張り出してくるという最終手段が取れるのだ。
ただし通用するかどうかはメイシュア教の浸透具合による。
メイシュア教を信じていない人にはもちろん通用しない。
﹁教会法は⋮⋮﹂
︱︱ハリムは、ディーネが想像もしていなかったようなことを言
った。
140
借金を整理します︵後書き︶
玩具販売
未知数
ケーキ屋
+40∼50︵枚︶/月
バンケット事業
+50︵枚︶/初月
来月以降は未知数
141
借金は匠の技で劇的ビフォーアフターです
ディーネが一億という借金をどうにか整理するために各種の法律
を調べ直している最中、家令のハリムはメイシュア教の教会法につ
いて意外なことを言った。
﹁メイシュア教会法では、﹃利息を取る人間は悪である﹄とありま
す。教会法では、貸した金額以上の金額を受け取る行為は禁止です
から、利息はすべて違法です﹂
﹁えっ⋮⋮﹂
﹁教会のトップから利息を取ってもいいと公式認定されている銀行
はひとつだけですね﹂
﹁へえーそうなんだ⋮⋮﹂
おどろいた。弱者にやさしい法律だとは知っていたが、まさか借
金をした人間を全面的に保護するものとは思わなかった。
いくらなんでも甘すぎるのではないだろうか。
その法律をふつうに適用すれば、バームベルク公爵家が抱えてい
る一億の借金もすべて違法ということになる。
﹁そういえば、﹃お金がお金を生む﹄のは罪悪だったっけね⋮⋮﹂
先日、帝国徴税官長に言われた言葉を思い出してつぶやく。
皇太子のはからいで領地経営のチュートリアルを受けたときのこ
とである。
すると、ハリムが同意した。
142
﹁そうですね。教会の教えではそうなっています﹂
︱︱よっしゃ。解決の糸口みっけ。
ディーネはさっそく準備をするべく、席を立った。
金利は黙っていても増えるものなのだから、行動するなら早いほ
うがいい。
﹁⋮⋮っと、そうだ。法律に詳しい人って誰かいない? えーっと
⋮⋮﹂
弁護士⋮⋮はまだこの国にはいない。
弁護士の代わりになる人物といえば⋮⋮
﹁神学者。そうね、弁が立って、金額次第で何でも引き受けてくれ
て、なるべく権威のある神学者の先生がいいわ﹂
﹁それでしたら、バームベルク大学の神学部のベルナール教授が適
任かと﹂
﹁ああ、あのおじいちゃんね﹂
クラッセン嬢も小さい頃彼に教会の典礼言語やありがたい教えを
教わったのだ。
***
ディーネは神学者のベルナールを招いて、食事をふるまった。
モン・メイトル
﹁お久しぶりです、先生﹂
﹁ふん、薄情な弟子じゃのう。用事があるときだけ猫なで声を出し
143
よる﹂
エスカルゴの殻から身をほじくりだしながら、ベルナール。
この老人、博学多識で聖界の名声も非常に高いのだが、少し根性
曲がりなのだ。
﹁あら、いつもお会いしたいと思っておりましたわ。でも、婚約者
のある女が魅力的な紳士をしょっちゅう呼びつけるのは問題でござ
いましょう?﹂
﹁阿呆。ガキになぞ興味を持つか。相変わらずお前は成長しとりゃ
せんな。とくにその胸。まったいらじゃ﹂
︱︱ピシッ。
握りしめたコップの中身が氷雪魔法の暴走で凍るのを感じて、指
をそっと離した。
﹁ちゃんと飯を食っとらんからいつまでもぺたんぺたんなのじゃろ
う﹂
﹁うふふ、お恥ずかしい限りですわ﹂
ディーネは呼びつけたことをさっそく後悔した。だからこの老人
は呼びたくなかったのだ。
︱︱いつか氷漬けにして永久凍土の中にぶっこんでやる。
ベルナールに勉強を教えてもらっている最中、何度そう思ったか
知れない。
﹁それで? 今日は何の用じゃ﹂
そうだ。さっさと用事を片付けて帰ってもらうに限る。
ディーネはあいさつもそこそこに、本題に入った。
144
﹁公爵領の借金を減らしたいんですの。お知恵を借りられないかと
思いまして﹂
﹁どのぐらい﹂
﹁一億﹂
ベルナールは黙ってエスカルゴをつついている。
ディーネはにこやかに見守りながら、気が気じゃない。
﹁わしに言わせればはした金じゃな﹂
ごく気軽にそう言われたときには、ほっとして身体から力が抜け
そうになった。
﹁では、どうにかしていただけそうですの?﹂
﹁わしはジャックのやつとは同じ釜の飯を食った仲での。五十年前
に修道院で一緒に生活したことがあるんじゃ﹂
ジャックとは、現教皇の俗世の名前だ。
よりによって教皇さまを友達呼ばわりとは、いよいよヤキが回っ
たのか、それとも。
ディーネが苦悩する間にも、ベルナールは淡々と言葉を続ける。
﹁献金の用意が必要じゃの。金貨で一万。それだけあれば免状発行
も快く引き受けてくれるじゃろ﹂
﹁免状⋮⋮とは?﹂
﹁あやつに﹃金利の取り立てを無効にする﹄と一筆書かせりゃいい
わけじゃろ。あとはわしが口八丁でなんとかしてやるわい。全額免
除もわしならばたやすいことよ。なんなら払いすぎてる分を取り返
してやってもよいぞ﹂
145
︱︱なんということでしょう。
この借金のヤマが、匠のわざで劇的にリフォームされてしまうの
です。
﹁師匠⋮⋮っ! わたくし師匠に一生ついてゆきますわ⋮⋮っ!﹂
﹁うれしくないわい、このぺったんこが﹂
﹁おたわむれを! わたくし師匠がおっしゃるほどぺったんこじゃ
ございませんのよ!﹂
しかし、あの債務のヤマが片付くのならディーネとて胸部にパッ
ドを仕込むこともやぶさかではない。この世界にはまだ胸部補正の
下着などはないけれど。
教皇さまの口添えがあれば借金全額チャラなどという展開も決し
て夢ではないのだ。
﹁しかし、気を付けるがよいぞ。フロイライン・クラッセン﹂
ベルナールはまじめな声を出した。
﹁金を貸しておるやつらも人間じゃ。それで生活をしておるのじゃ
よ。正義もなしに借金を踏み倒せば、反感は免れまいよ﹂
﹁心得ておりますわ﹂
ディーネにだって考えはある。
﹁もともと、公爵家がしていた借金の元本というのはそう多くあり
ませんのよ。七、八百万といったところかしら。長年にわたる暴利
のせいで一億までふくれあがってしまいましたの。でしたら、その
七、八百万の分に、ある程度までの金利︱︱メイシュア教では﹃損
146
害遅延金﹄というのでしたっけ? それはお支払いすべきだとわた
くしも思います。でも、それ以上はわたくしの見解では違法ですの
よ。裁きがあってしかるべきですわ﹂
ベルナールはエスカルゴをほじくる手をとめた。
ぽかんとしてディーネを見る。
﹁⋮⋮あの⋮⋮なにか?﹂
﹁ふむ。わしの馬鹿弟子も、なかなかどうして捨てたもんじゃない
わい﹂
今度はディーネがびっくりする番だった。
この偏屈爺がこういうときは、ほぼ最高レベルの賛辞と思ってい
い。
﹁教えることがなくなると、それはそれで爺としても寂しいんじゃ
がのう﹂
そうつぶやくベルナールにディーネはうっかり胸を打たれそうに
なる。
﹁せんせい⋮⋮﹂
﹁あ、そうじゃ。晩飯も食ってゆくから心してもてなせよ。今晩は
孔雀を食わせい﹂
︱︱しれっと超高級食材を要求してくるベルナールに、ディーネ
のせっかくの感動は台無しになった。
147
借金は匠の技で劇的ビフォーアフターです︵後書き︶
モン・メイトル
フランス語直訳で﹁わたしの先生﹂。
148
フィギュアを作りたいお嬢様
公爵令嬢ディーネには前世の記憶がある。
現在はその力を使って領地経営の真っ最中だ。
お部屋で侍女たちとぐだぐだ歓談中、ふと次に作るおもちゃの話
になった。
戦車の模型はそろそろ飽和してきたので、別のものを用意したい
とかねてからディーネは考えていた。
﹁限界効用⋮⋮なんとかの法則なのよ﹂
とディーネがご自慢の簿記二級の前世知識を侍女たちに披露する
と、彼女たちは一様に浮かない顔をした。
﹁はぁ⋮⋮﹂
﹁なんとか⋮⋮とは?﹂
﹁ちょっと度忘れしちゃって思い出せないんだけど⋮⋮えーと、同
じものばかりを出しているとそのうち飽きられてしまうって法則よ﹂
﹁まあ、それはそうですね﹂
﹁法則っていうか、普通はそうです﹂
﹁いや、そうなんだけど、違うっていうか⋮⋮ごめん、やっぱいい
や。忘れて﹂
ディーネは説明に詰まって、話を打ち切った。どうにもこの国に
ない概念を理解してもらうのは難しいようだ。
149
﹁おもちゃをお作りになるのなら、次は女の子向けのものになさい
ません?﹂
﹁あらいいですわね! お人形さんですとか﹂
盛り上がる侍女たちのトークで、ふと先日のことを思い出した。
﹁人形といえば、ジークに似せた人形を今度作ろうかなって思って
るんだけど、作ったらあなたたち買う?﹂
侍女たちは、遠くの物音を聞いたうさぎのように、ぴくん! と
した。
﹁お人形を⋮⋮ジークラインさまに似せるんですの?﹂
まるでわけが分からない、という口調だ。
その反応を見て、ディーネは不安になる。
﹁⋮⋮やっぱりだめかな? いらない?﹂
フィギュアだなんだというのは、ちょっとまだこの国の人たちに
は千年ぐらい早かったのかもしれない。
﹁いえ、いらないということはないのですが⋮⋮﹂
﹁ちょっと見てみたい気もいたしますが⋮⋮﹂
﹁ほしいかほしくないかで言ったらほしいのですが⋮⋮﹂
﹁お前たち、ご婚約者さまの御前ではしたないですよ﹂
︱︱あ、やっぱりほしいのね。
ディーネはちょっと安心した。生粋のワルキューレ育ちの侍女た
ちと、前世の知識があるディーネとでは感覚が違いすぎて、たまに
150
常識のラインを確認しておかないと不安になるのだ。
﹁ただ、お人形さんといえば、かわいらしい女の子が定番ではござ
いませんの?﹂
﹁あ、あああ、そう、そうね!?﹂
ディーネはちょっと恥ずかしくなった。言われてみればそうだ。
フランス人形しかり、ミカちゃん人形しかり、女の子の持つ人形と
いえば通常は着せ替え人形を指す。
突然、レージョがぱちんと手を打ち合わせた。
﹁それでしたら、ディーネさまのお人形を作ればよろしいのではな
くて?﹂
﹁あら、それは結構なことですわ! それでしたらわたくしも孫娘
のお土産にほしゅうございますもの!﹂
﹁いいですわね∼!﹂
﹁いいんじゃありません? ディーネさまのお人形ならきっと美人
さんになりますわよ∼﹂
シスがかたわらに置いてあったティーコゼーをとりあげた。
それを人形に見立ててか、テーブルの上をちょこちょこと動かす。
﹁こんにちは、ワタシはディーネ﹂
裏声で台詞の吹き替えまで始めた。
﹁ああ∼、ケーキ、おいしいー。太っちゃうー﹂
﹁ちょっと、もう。声真似やめてよ﹂
﹁カブトムシもおいしい∼﹂
151
﹁カブトムシ!? 私カブトムシは食べないよ!?﹂
﹁将来はセミになりたい∼﹂
﹁セミ!? え!?﹂
︱︱シスの中の私どうなってんの!?
困っていると、今度がナリキが隣から口をはさんだ。
﹁ジークラインさま、だいしゅき∼﹂
﹁やめて﹂
﹁ジークラインさまと結婚しゅる∼﹂
﹁やめてよ! 人の黒歴史えぐるのやめて!! それ本当につらい
から!!﹂
︱︱えっ。なんなの。もしかして私、ものすごくこの子に嫌われ
てる?
ディーネは横目でナリキを観察する。
そういえばこの子には、先日の園遊会で一杯食わされたまま、お
礼をまだしていなかった。
ディーネは冷や汗を感じつつ、思い悩む。
ディーネは今、彼女の商会を詳しく調査させているところだった。
︱︱そろそろこの子とも話をつけなきゃいけないんだよねー⋮⋮
結果が出るのを待って乗り込みにいくつもりだが、友達が相手だ
と思うと、やりづらいのもまた事実だった。
152
フィギュアを作りたいお嬢様︵後書き︶
限界効用逓減の法則
お金をかければかけるほど、一回の投資における満足度は下がると
いう経済用語。
初めて食べるお菓子はおいしいが、二度目、三度目になるにつれて
一度目の感動は薄れていく。
153
ガニメデの履歴書
ガニメデは貴族の三男坊だ。
実家で道楽の研究に明け暮れていたら、見かねた両親に追い出さ
れてしまったのが放浪の始まりだった。
ガニメデの名誉のために自己弁護をしておくと、実家で何も遊ん
で暮らしていたわけではない。錬金術の勉強をしていたのだ。続け
させてもらえていれば数年後には黄金ができる予定だったのに、偉
大な研究への投資を打ち切るなんて、父さんはなにも分かっちゃい
ない。不平をもらしていても腹はふくれないので、仕方なく怪しげ
な薬売りの真似事などをしていたら、本物のほうの薬売りのギルド
に目をつけられた。この世界のあらゆる職業はギルド制になってい
て、乞食でさえもギルドに入ってからでないと開業してはいけない
という決まりになっている。ガニメデは薬売りのギルドにみかじめ
料を払っていなかったのだ。それでアポテケやテリアカ売りなどか
ら教会に訴えられた。﹃こいつは無許可で薬を売っている。きっと
魔女のたぐいに違いない﹄
薬売りのギルドから、こいつは薬売り協定の違反者だといって教
会に突き出されると、どうなるか。
メイシュア教会に異端者︱︱魔女として火刑にされるのだ。
︱︱あれはめちゃくちゃ危なかった。
もう少しでこんがりローストされるところだったガニメデを救っ
てくれたのはバームベルクの公爵さまだった。公爵さまは世界各地
の教会から異端者を探してきては保護をするという奇特なことをな
154
さっている方だった。異端者ばかり集めて大丈夫なのか、公爵さま
は捕まったりしないのかとハラハラしたが、教皇さまに毎年欠かさ
ず心をこめた贈り物をしているから大丈夫なのだという。世の中は
結局金か、などと腐る気持ちは、全然、湧いてこなかった。長い放
浪生活の果てに、もはや養ってもらえるのならなんでもします、と
いうところまでプライドがなくなっていたのだ。ガニメデには冗談
でなく公爵さまが救い主に見えた。
公爵家の暮らしは使用人待遇でも涙が出るほど快適だ。もうここ
に骨をうずめてもいいとさえ思っている。三男とはいえ甘やかされ
て育った貴族の嫡子に自活の生活はハードルが高すぎた。
公爵さまの長女、ウィンディーネお嬢様のことは、実際に会話し
てみるまでほとんど知らなかった。年に一度、冬至の祝祭のときに
モミの木の下で遠巻きに見かける程度の遠い存在︱︱彼女個人には
さほど興味はなかったが、ひとつだけ気になっていることがあった。
彼女はあの戦神、四帝国の後継者たるジークラインの婚約者なの
だ。
ジークライン。誰もが名前を知るあの英雄の奥方としては、ウィ
ンディーネお嬢様はやや頼りないかに見えた。
公爵さまが突如としてお嬢様に領地の経営を任せると宣言してか
らしばらくのち。
彼女はガニメデの研究結果を見せろと言ってきた。
そのときのガニメデは正直、反発心を抱いていた。刺繍とダンス
と外国語のルーチンワークで育った箱入りのお嬢様に、自分の研究
の何が分かるというのか。いかにも儚げな外見に惑わされて、お嬢
様をあなどっていたことは認めなければならない。これでもガニメ
155
デは物心ついたころからずっと錬金術が好きで個人的に研究を重ね
ていたのだ。そう簡単に門外漢にも理解できるようなものではない
と自負していた。しかし。
︱︱彼女の錬金術の知識はガニメデのはるか先を行っていた。
なぜそんなに詳しいのかと、焦って尋ねたガニメデに対するウィ
ンディーネお嬢様の返答は以下のようであった。
﹁えーと、ほら、あれよ。未来の皇妃教育が厳しかったから。ジー
ク様のおかげね﹂
いまどきの大帝国の皇妃は錬金術にも精通していなければならな
いらしい。ガニメデは本当にビビッた。これも戦神・ジークライン
の方針なのだとすると、彼はとんでもない男だということになる。
ガニメデはこのとき、負けたと思ったのだ。ジークラインに、完
敗した、と。
知力体力魔力に財力、あらゆる項目で勝てるだなんて思ったこと
は一度もないけれども、それにしたって錬金術の知識で負けたのが
決定的だった。あるかないかのプライドは完全に粉々にされてしま
ったのだ。
そしてしみじみと思った。
ジークラインのように優れた男には、ウィンディーネお嬢様のよ
うな非の打ちどころのない嫁が来るものなのだ、と。
なんてうらやましいのだろう。
ウィンディーネお嬢様は錬金術の話ができて、かわいくて、しか
も料理だってうまいのだ。
156
︱︱俺にもああいうお嫁さんほしい。
パン種に代わる新しい膨張剤の実験が成功したあの日、感動もし
たが、実は少し寂しくもあった。
ウィンディーネお嬢様が失敗作のパウンドケーキをガニメデに食
べさせるときの、あの申し訳なさそうな顔にはとても悶えさせても
らったのだ。新婚さんごっこのようだなどと思っていたことは生涯
秘密にし、墓場まで持っていかねばならない。
なにしろ彼女は皇太子の婚約者。
使用人風情のことは眼中にもないのだから。
︱︱その証拠に、ウィンディーネお嬢様はいっこうにこちらの名
前を覚えてくれない。
彼女のような大貴族にしてみれば、弱小国のそれなりな貴族のヤ
ンガーサンなど、鼻にも引っかけない存在なのだろう。
分かってはいても、たまにやりきれなくなった。
﹁研究員A! こないだの実験どうなった? 肉片を密閉するやつ
よ﹂
自分の名前は研究員じゃない、とぶつくさ返しつつ、ウィンディ
ーネお嬢様に相手してもらえるとなんだかんだで勝手に顔がニヤけ
てしまうのが、自分でも腹立たしいところだった。
157
ガニメデの履歴書︵後書き︶
アポテケ
ドイツ語。中世の薬草師。
テリアカ
約六十種類の生薬を混ぜ合わせたトローチ。中世ヨーロッパでは万
能解毒薬と信じられて広く販売されていた。
貴族のヤンガーサン
貴族出身といえど爵位や財産の継承権をまったく持たない次男、三
男のこと。
158
借金一億あらため一千万の公爵領
借金が一億から、いきなり残り1024万まで減った。
十六進法っぽい数字だが、別にチートを使ったわけではない。
ディーネの報告が終わり、家令のハリムが感激したように声を弾
ませる。
﹁やりましたね、お嬢様!﹂
いつも鉄壁の無表情を貫いている執事のセバスチャンも、珍しく
喜色を表に出していた。
﹁さすがのひと言でございますね、お嬢様﹂
お嬢様こと公爵令嬢ウィンディーネ・フォン・クラッセンは、照
れてしまって、頭をかいた。
﹁いやーわたしは、大したことしてないんだけどね⋮⋮﹂
﹁何をおっしゃいますか。借金が一億から一千万になったんですよ。
これは大々的にお祝いをするべきです﹂
﹁すばらしい経営手腕でございます。このセバスチャン、感服いた
しました﹂
﹁いやいやいや、ほんと、大したことはしてないのよ?﹂
﹁いいえ、お嬢様は、これまでに誰も思いつかなかったことをいく
つも発案なさって、そのことごとくを成功させていらっしゃいます。
これが神の経営手腕でなくてなんでございましょう?﹂
159
そんな、神扱いだなんて。
ディーネは困ってしまう。
借金を一億から一千万に減らした方策とは、なんのことはない。
暴利を是正しただけである。
現代人の感覚からすれば債務整理などは基本中の基本だが、まだ
まだ発展途上で地球の中世期あたりの文化水準に留まっている事柄
が多く見受けられるワルキューレ国においては、天才の発想とも映
るのだろう。
ともかく、公爵家が抱えている借金は、債務整理により、一千と
二十四万まで減ったのだった。
﹁そうだ、セバスチャン、バンケットの準備は順調?﹂
﹁ええ、お嬢様のおっしゃる通りに、いくつかプランを立てました。
さらに私の独断で、庶民向けの特別プラン、﹃結婚式コース﹄も企
画いたしました﹂
結婚式!
目の付け所がイイ。
日本でも、ホテルの宴会場は葬儀場の帰りや結婚式の二次会など
でよく利用されていた。
﹁すでに園遊会で皇妃さまや皇太子さまのお墨付きをいただいてお
りますから、わたくしどものサービスは﹃皇室御用達の本格的なア
フタヌーンティーサービス﹄と銘打つことができるでしょう。そう
なれば、高級志向の庶民からの需要が見込めるかと思いました。い
ずれは晩餐会のコースなども研究して、本格宮廷料理のコースも創
160
設する予定でございます。うまくいけば、連日予約で埋まるような
状態に持ち込めるかと﹂
﹁いーね! じゃあそれで進めて!﹂
お昼の食事会や結婚式、午後のお茶会、夜の晩餐会。最大で一日
三回の宴会予約が取れれば、ひと月あたりの利益率も跳ねあがる。
一般的に、来客が百人近くにも及ぶようなお茶会にかかる費用が
大金貨一枚程度だ。晩餐会の場合は昼よりもはるかに長時間のサー
ビスの提供に加えて宿泊客の面倒も見ないといけないので費用が跳
ねあがって、大金貨で十枚ほどとなる。提供する料理の食材をリー
ズナブルに抑えつつ、代わりに調理法や提供する楽曲などのエンタ
テイメント面で箔をつければ、割高であっても注文は増えるに違い
ない。
﹁原価率って三割くらいが妥当なのよね⋮⋮そうするとお茶会一件
につき金貨三枚くらいは取ってもいいのかしらね﹂
一度のお茶会で金貨二枚の利益。あるいは舞踏会や晩餐会で金貨
二十枚の利益。それを、昼の食事会、午後のお茶会、夜の晩餐会か
舞踏会、と一日三回回せば、最大でひと月あたり大金貨七百二十枚
の売り上げになる。
セバスチャンのお休みや、予約が取れなかった日なども考えれば、
稼働率は四、五十パーセントほどを達成すれば上々だろうか。
﹁お茶会や舞踏会は毎日どこかしらの貴族の屋敷で開かれているわ
けだし、国内だけじゃなくて帝国の言葉が通じる外国にも手を広げ
れば、かなりの大事業に⋮⋮!﹂
早く軌道にのせて、利益が出るようにしたい。遅くても二、三か
161
月後には本格始動するとして、これだけでディーネの持参金はかな
り稼げる算段だ。
﹁しかし、そうなりますと、お屋敷の執事業は別の人間に任せねば
ならなくなります。どうか後任をお決めください﹂
﹁う⋮⋮そうね。考えておくわ﹂
執事その二かあ。
どんな人がいいだろう。
162
阿片戦争から学ばないお嬢様
ディーネは今日も軍需産業の研究員とともに新商品の開発にいそ
しんでいた。
小粒のネタはいくつもあるが、やはりどれもぱっとしない。
公爵家には現在金貨一千万の借金があるが、この金額に届くだけ
の商売というと、どうしても一発なにかデカいものを当てる必要が
出てくる。
ふと目にした麻布の袋から、あるものを連想した。
﹁やっぱり貿易で一番儲かるものっていったらあれだよねえ⋮⋮﹂
禁断の輸出品の名前。
それは麻薬。
クラッセン嬢の知識を参照すれば、麻薬のような陶酔成分を含ん
でいると思われる植物にも二、三心当たりがないでもない。宗教儀
式で使う植物などを中心に調べていけば、色々見つかることだろう。
この世界には転移魔法があるので、便利なものの伝播などが緯度・
経度の違いを問わず盛んなのである。別の大陸にしか生息していな
い珍しい植物がなぜかこの国に伝わって大流行り、なんてこともよ
くあったらしい。
そう。麻薬の原料やその製法はなんとなく知っているのだ。商品
化すれば最強の効率でお金を稼げることも。ひょっとしたら国内ど
ころか世界も制圧できるかもしれない。麻薬の危険性を知らない、
163
文化的な後進国に狙いを定めて集中的に輸出してやれば、短時間で
荒廃させられるだろうし、属国化も簡単に︱︱
﹁いやいやいや。いやいや。いくらなんでも、ねえ⋮⋮﹂
麻薬の流通と販売はさすがにいただけない。
どれほど儲かるとしても、それをやってしまえば人としておしま
いだ。
﹁タバコはどうかなあ⋮⋮﹂
タバコであれば中毒性はそこまで重くないし、即座に命にかかわ
ったりはしない。
値段を高めに設定して、貴族の嗜好品として出す分には罪もない
のではないだろうか。支払い能力のない庶民にヘビーな中毒性のあ
る商品を売るのは倫理的にもアウトだろうが、この世の贅沢を知り
尽くしてなお退屈で退屈でしょうがないという、金と暇を持て余し
ている高位貴族のたしなみとしては上等かもしれない。
ディーネは公爵領で毒薬の研究をしている錬金術師に尋ねてみる
ことにした。
﹁ねえ、火をつけて煙を吸引するような植物ってないの? そうね、
神さまに捧げる植物とか、神と交信するときに食べる聖なる葉っぱ
とか、そういうので、興奮作用があるやつ﹂
ディーネがアバウトな説明を試みると、研究員のガニメデはうな
った。
﹁それでしたら、ドネル族の戦士が使うコーンが有名ですね。吸引
164
すると恐れを知らぬ勇敢な兵士になるということで、わが軍でも切
り込み隊や決死隊などで試験的に支給しておりました。かなり効果
はあるんですが、際限なくコーンを要求する者があとを絶たないの
で、補給の量とタイミングが問題になっています﹂
おおう。それ、すごく危ないお薬っぽい。
研究員はほかにもいくつか候補を挙げてくれた。
強い鎮痛作用を伴う薬や、素直になってしまう薬などが混じって
いるのを見て、ひやりとする。
︱︱これはよく吟味しないと、気づかないうちにとんでもない麻
薬を流通させてしまうことになりかねない。
﹁劇的に効くやつはだめなのよ。あくまでもふわっといい気分にな
る程度のやつがいいんだけど。貴族のたしなみ程度にほんのちょっ
と売るだけだから。お酒みたいに、中毒性が弱くて、摂取してもあ
とに残らないやつってないかしら?﹂
﹁それでしたら、これですね﹂
研究員が出してくれた品は、見た目だけなら、限りなく葉巻タバ
コに近い感じだった。
﹁タバクという植物を乾燥させたものです﹂
﹁おおーっ⋮⋮﹂
名前もなんとなく似ている。
﹁これは、麻の近縁種だったりしない?﹂
﹁全然違いますね。もっと南で採れる植物です﹂
165
どうやらタバコによく似たマリファナっぽい何かということもな
さそうだ。
しかし、効能などは実際に試してみなければ分からない。
﹁⋮⋮ちょっと試してみようかしら﹂
ディーネは水の魔法が得意なので、毒などの浄化魔法も比較的得
意としている。多少なら大丈夫のはず。
166
阿片戦争から学ばないお嬢様︵後書き︶
死亡フラグ。
作中で彼女が摂取しているのはタバコっぽい何かであり、実在の商
品等とは一切関係ありません。
167
お空を飛ぶ魔法だよ
タバコの味は知らないが、それ﹃っぽい﹄というだけで確かめも
せずに流通させるのはやっぱりよくない。実際はタバコに似た全然
違う何かかもしれないではないか。
解毒が得意なディーネがまずは効果のほどを試してみるべきだろ
う。
﹁これはどうやって吸うの?﹂
というと、研究員は吸い口を切って、火をつけてくれた。
ディーネはそれを口にくわえたまま、煙を吸い込む行為をしばら
く続ける。
すー。はー。すー。はー。
煙の感じはタバコに近い、かもしれない。
そのうちに気分がよくなってきた。
﹁あれ? なんだかふわーっとしてきたかも﹂
たぶんこれがタバコの中毒性ってやつ。
でも、こんなにはっきりと自覚症状が出るものなのだろうか? 試したことがないからよく分からない。
もうこのへんでやめとこう。
そう思ってディーネは灰皿代わりになるものを探して席を立った。
席を立ったつもりで、ガタンと足を踏み外した。
168
床に尻もちをつく。
﹁⋮⋮あれ⋮⋮?﹂
足元がぐらぐらする。
﹁平気ですか、お嬢様﹂
研究員のガニメデが心配そうにかけよってきた。手を貸してもら
って立ち上がったはいいものの、酔いがひどくてそのままガニメデ
にもたれかかった。
﹁あれ、これ、結構やばい?﹂
﹁そこまで強い毒性はないはずなんですが⋮⋮特別に効きやすい体
質なんでしょうか﹂
﹁ふふ⋮⋮ふふふふふ。うふふふ﹂
︱︱やばいぞこれ。なんかすっごく気分がいい。今なら飛べる?
﹁お、お嬢様! ただいま中和剤を!﹂
ガニメデは慌てて、なにかの精製水のようなものを持ってきてく
れた。
コップを傾け、レモンっぽい風味のついた水を強制的に飲ませら
れる。一杯目が終わったかと思ったら、すぐに二杯目もつがれた。
三杯、四杯とどんどんそそがれる。
ちょっと、それ以上飲めないんですけど。
﹁もう、飲めません⋮⋮﹂
﹁いいえ、飲んでください。吐き戻してもいいですよ﹂
169
かいがいしくしてくれているガニメデには悪いが、しかし飲んで
も飲んでも精神に影響はなかった。あいかわらず浮遊感がやばい。
﹁中和剤の成分ってなに?﹂
﹁多孔構造になっていて、物質を吸着します﹂
﹁⋮⋮それ、煙にも効果あるの? 胃の内容物にしか効果がない系
?﹂
﹁お嬢様あいかわらずお詳しいですね⋮⋮しかし頭がはっきりされ
ているようで何よりです﹂
﹁うんまあ、日本人なら常識みたいなもんだからね⋮⋮﹂
﹁すみません、意識がはっきりしていると判断したのも早計でした。
ニホンジンとはなんですか?﹂
﹁日本って国の民族は、まあ、国民全員が貴族みたいな⋮⋮﹂
﹁そんな国があるんですか? 失礼ですが、想像上の産物ではなく
?﹂
﹁あるんだよねー、これが⋮⋮﹂
﹁ああ、ますますお嬢様のご容態が心配になってきました﹂
そう言ってお水を飲ませてくれるガニメデは、性質の悪い酔っ払
いを介抱するお人よしの友達みたいだった。
﹁ごめんねえ、研究員Aよ⋮⋮﹂
﹁お嬢様の下々の名前をほとんど覚えない貴族スタイル俺は好きで
す﹂
﹁おぼえてるって。おぼえてるけどたまたまちょっとド忘れしただ
けだって﹂
そう、心の中では言えてるんだからあとは思い出すだけなんだっ
て。
170
くだらない話をしていると、いきなり空間に転移魔法の構成が浮
かび上がった。
魔術の構成にはその人のクセが出る。
荒い構成、論理的に破綻した構成、単純な構成、ダラダラした構
成。
それはそのままその人の思考の傾向を表す。
鳥肌が出るほどの情報量が圧縮された、正確無比な美しい構成。
最初のひと呼吸から最後の絶唱までただのひとつも破綻がなく、無
駄な要素は一切含まない。
この世にこんな完成された魔法が存在するのかと驚嘆を持って見
つめれば、すぐにそれが誰のものかが知れて、さらなる高揚を味わ
った。
あっと声を上げる間もなく、神出鬼没のジークラインが研究員の
部屋に転移してくる。
ディーネがひそかに心の中で厨二病と呼んでいるジークラインは、
同じ空間にいたら意識が侵食されそうなほどの圧倒的な存在感をま
き散らしながら転移を終えた。
ジークラインは椅子に座ってぐったりしているディーネをひと目
見るなり、ガニメデに詰め寄る。でかい男に至近距離でにらみおろ
され、研究員A、じゃなかったガニメデがすくみあがった。
﹁俺の女に何をしている?﹂
171
呪われた存在︵※﹃もの﹄とルビをふる︶
皇太子ジークラインがディーネの部下であるガニメデにつっかか
っている。
どうやら商品の使用試験でちょっとラリッてしまった婚約者のデ
ィーネを見て、なにかを誤解したらしい。
﹁こっ、こっ、こっ、こ⋮⋮﹂
にわとりか。落ち着くんだ研究員Aよ。
﹁皇太子殿下!!﹂
ガニメデは、ディーネにはついぞ見せたことのないような感激顔
で敬礼をした。
﹁いかにも。おれが皇太子だ﹂
﹁うわあ、本物⋮⋮!!﹂
はしゃいでいるガニメデを見て、ディーネはがぜん面白くなくな
ってきた。
そういえばこの厨二病殿下、なぜか男からもモテるんだった。戦
術の天才らしいので、軍需産業に携わるガニメデならばジークライ
ンが打ち立てた奇跡の逸話のひとつふたつも知っていることだろう。
だから彼が戦神の皇太子に憧れていたとしてもまったくおかしくは
ない。
しかし雇用主としては面白くないなと思ってしまう。
172
﹁てめえはどこの何もんだ。名を名乗りな、三下﹂
ジークラインから因縁をつけられたガニメデは、とたんにオロオ
ロしはじめた。もはや不良からカツアゲされるメガネくんにしか見
えない。
﹁俺は⋮⋮﹂
﹁ちょっと、ジーク様、威嚇しないで! サバンナの野生生物じゃ
あるまいし!﹂
ジークラインはディーネを見て、ますます不機嫌そうな顔をした。
﹁⋮⋮精神が乱れている。高揚させて判断力を狂わせる類の薬物だ
な。意味の分からない妄言も出ている。サバンナとはいったいなん
だ﹂
彼は天才なので、この程度の分析は一瞬で済むのであった。
﹁私が自分でやったの! 研究員Aは介抱してくれてただけだよ﹂
ジークラインはそのたぐいまれなる観察力で、あたりの様子をざ
っと見渡し、それだけでおおよその事柄を把握したようだ。的確に、
ガラスのコップの水面に浮いている葉巻をつまみあげる。それが原
因物質だとなぜ分かったのか、ディーネには不思議でしょうがない
が、彼ほどにもなると見抜けてしまうのである。あふれでるほどの
天才性がそこでも発揮されていた。
﹁これはなんだ?﹂
﹁タバコ⋮⋮のはずなんだけど、ちょっと違ったみたい。麻薬? 173
性質の悪いものかも﹂
﹁なぜそんなものに手を出した﹂
﹁売り物を探してただけだよ。でもなんかこれは危なそうだからや
めね﹂
﹁売り物⋮⋮? 薬物を売るのか?﹂
ジークラインは眉を寄せた。
﹁⋮⋮熱心だな。けどよ、お前が実験台になる必要はねえだろ。お
前はそんなに⋮⋮﹂
決まり悪そうに言いよどむジークライン。
常に自信満々の彼らしからぬ所作である。
﹁⋮⋮そんなにおれとの婚約を破棄したいのか?﹂
心底解せない︱︱という物言いは前と変わらずだったが、今回は
ちょっと傷ついたようなニュアンスが含まれていた。
﹁そのとおりですが﹂
︱︱あれだけいやだって言っておいたのにまーだ分かってなかっ
たのかこの人は。
ジークラインはだいぶむっとしていたが、それでも次に発した言
葉は抑制が利いていた。
﹁⋮⋮だとしても、こういうのは感心しねえな。危険なことをわざ
わざ選んでするってのは。ディーネ、お前の身を、お前自身できち
んと管理できねえで、粗末にするってんなら、商売人ごっこもここ
174
までだ﹂
﹁ぐっ⋮⋮正論⋮⋮!﹂
確かにまあ、危ないことをわざわざやらかすのは愚か者である。
﹁お前はおとなしく俺の言うことに従ってりゃいいんだ。なにしろ
このおれの妃なんだからな。この世の贅沢と快楽のすべてが指先ひ
とつで意のままなんだから、不満なんて感じてる暇もねえよ﹂
﹁ひっ⋮⋮!﹂
ディーネはするどく息をのんだ。
しばらく厨二病っぽい金言を食らっていなかったので、ちょっと
刺激が強かったのである。
この発言さえなければ、事実として彼はこの世界におけるほぼ最
高スペックのいい男なのだった。
ただ、この極度の厨発言だけが受け付けないのだ。
﹁や⋮⋮やめてください⋮⋮﹂
ディーネはジークラインの神々しくもお美しいご尊顔から視線を
逸らす。あまりにもいい男すぎるので、長いこと視界に収めている
とだんだん脳みそがまひしてくるのだ。ジークラインの発言がすご
く格好いいもののように聞こえだしたら要注意。もはや存在そのも
のが精神操作系の呪いといっても過言ではない。
﹁やめてください、じゃねえよ。そこは素直に﹃はい﹄と言え﹂
ジークラインはディーネの側に寄り、指先で彼女のあごを上向か
せた。
175
あごを、くいっと、やったのである。
﹁︱︱このおれの寵愛を与えてやるって言ってるんだ。つべこべ言
わずにこうべを差し出せ。感激に打ち震えろ﹂
ディーネは衝撃のあまり数秒固まった。
結構好みのシチュエーションだっただけに受けたショックは大き
かった。
彼女はときめきと鳥肌の両方を味わうという、非常に珍しい体験
をした。
﹁ひっ、ひいいいいいい! 触らないでええええ!﹂
ディーネが全力で後ずさり、そこらへんにいた研究員Aを盾にす
ると、ジークラインはふたたび研究員Aをにらみつけた。
176
ヤンデレちゃんと俺様野郎
この場合、一番かわいそうなのは婚約者なのにうざがられている
ジークラインでも絡まれているディーネでもなく、勝手に盾にされ
て巻き込まれている研究員Aである。
かわいそうな一般庶民のガニメデは、どうしたらいいか分からず
にオロオロしている。
﹁だだだだいたいね、手に入らないとなると急に惜しくなるって気
持ちは分かるけど、私はそんな大層なもんじゃないですからね!?
ジークライン様ならどんな女性だって選び放題でしょう。わざわ
ざ私に固執することはないんですよ? 私なんて持参金もないし⋮
⋮﹂
﹁人の名前は覚えない上に結構落ち着きがないですしね﹂
﹁ちょっと研究員A!? あなたどっちの味方なの!?﹂
﹁知りませんよ。おれを巻き込まないでください⋮⋮﹂
もっともである。
﹁おれは金に興味などない﹂
ふてくされたように言うジークラインに気圧されて、ガニメデは
沈黙した。ディーネもプレッシャーに負けて軽口をたたく気力が萎
えた。類まれなる美形の激おこ顔には、ふざけた空気を全面的に塗
り替えるほどの圧倒的なオーラがあった。
﹁お前は俺との婚約を破棄して、何がしたいんだ?﹂
177
ジークラインの質問は、威圧感があって怖かった。
﹁えっと⋮⋮好きな相手と結婚する?﹂
若干おびえながらディーネが答えると、彼はますます不機嫌そう
な顔つきになった。
﹁それは、誰なんだ﹂
﹁別に誰ってこともないですが⋮⋮そういう相手がいたら結婚した
いし、したくなかったら独身でいたい﹂
﹁なぜおれと結婚したくない。何が不満だ。古今東西どこを探した
って俺という実存を上回る相手なんざいやしねえよ。探すだけ無駄
だ﹂
﹁それ!! その自信満々な態度かな!?﹂
もう十回ぐらい同じことを言ってる気がする。
︱︱バームベルク公爵クラッセン卿の娘・ディーネには、生まれ
つき婚約者がいた。
四重冠の紋章をその身に帯びた皇太子は、自分に選ばれる女はそ
れにふさわしい器でなければならぬと言う。
彼のために在るようにと周囲から期待をかけられて育った純粋培
養のお嬢様は、ひよこが刷り込まれた親についていくような純真さ
で、ずっと彼のことを慕ってきた。
しかしあるとき、そのひよこは、思い出してしまうのである。
前世であれば、誰かと強制的に結婚させられるなんて考えられな
いことなのだ、と。
178
もしもクラッセン嬢が彼の婚約者でなければ。
あるいは周囲が有形無形の期待で彼女を皇妃候補の鋳型に押し固
め、まだ人格形成もままならぬうちから彼女の価値観をかくあるべ
しと定めて誘導してしまいさえしなければ。
クラッセン嬢は、もしかしたら、皇太子のことを好きだと思い込
んだりしなかったかもしれないのだ。
現に、前世の記憶が戻ったディーネは、皇太子ジークラインのこ
とを完璧な人物だとは感じなくなっている。
クラッセン嬢が周囲の期待に応えようとするあまり、無意識のう
ちに自分に暗示をかけてしまった可能性もあるのだ。
クラッセン嬢はどちらかといえば、控えめで引っこみ思案で、お
となしい少女だった。
晴れがましい言動をするジークラインに憧れつつも、どこかで面
はゆいと感じることは多かったのだ。それが無意識に抑圧された、
﹁この人の言うことはなんだか恥ずかしいな﹂という感情だとは、
クラッセン嬢はついぞ気づかなかった。なぜなら彼女にとって皇太
子は絶対であり、恥ずかしいところなど何一つない、完璧な英雄だ
ったのだから。
もしも彼女が、なんの刷り込みもないまっさらな状態で、自分の
好きなように結婚相手を選んでいたら、ジークラインとは真逆の相
手を選んでいたかもしれない。
クラッセン嬢のようにおとなしい子には、もっと穏やかな人物の
ほうが合うような気がしてならないのだ。
179
︱︱という点を踏まえて、ディーネは皇太子の﹃なぜおれと結婚
したくないのか﹄という問いかけに向き直った。
﹁ジークライン様はすべての女が自分の思い通りになると思ってい
らっしゃるでしょう。私は、あなたの言いなりになって結婚するの
ではなくて、私が好きだと思った人と結婚したい。好きかどうか、
これが大事なんです﹂
ズバーンと意見を叩きつけてやると、ジークラインはふと何かを
思いついたように、指先を動かした。
﹁お前はいつも俺に手紙を書いてよこしてたじゃねえか。俺との結
婚を望みこそすれ、不満なんて一度も書いてきたことがなかった﹂
ジークラインの手の動きに呼応して、転移魔法が発動。
何もない空間から、どさどさどさっ、と、なにかが大量に振って
きた。
絹紐や印璽の装飾から、どうやら丸めた手紙の山らしいと分かる。
ものすごい分量のこの手紙には、もちろん、ばっちり見覚えがあ
った。
﹁これ、全部お前が俺に向かって書いてよこしがった手紙だぞ﹂
﹁⋮⋮そのようですね﹂
﹁何通あると思ってるんだ?﹂
﹁えー⋮⋮常軌を逸した量ではあるかな⋮⋮﹂
﹁全部読んでるんだぞ。忙しいこのおれがわざわざ時間を割いてや
ってるんだ。俺は優しいからな﹂
﹁それに関しては本当に優しいとしか言いようがないですね﹂
﹁最長で二十六巻にびっしり書いてきたこともあった﹂
180
﹁重おおおおおおい! そして怖あああああああい!!﹂
クラッセン嬢の地雷感半端じゃないけど、このジークラインにし
てこの婚約者ありだと思ったらすごいお似合いなような気がするよ
! 不思議だね!!
﹁お前は、ずっと俺に好意を寄せてたじゃねえか。なぜ今になって
⋮⋮﹂
それを言われるとディーネとしても反論できない。
﹁じゃあ、ジーク様はどうなんですか? 私を愛していたから結婚
しようと思った?﹂
﹁はっ⋮⋮?﹂
ジークラインは珍しく、ちょっと戸惑ったような表情を見せた。
﹁⋮⋮俺の愛はすべての臣下に平等に与えるものだ﹂
﹁では、もう、このお話はここまでにしてくださいませ。一年後に
はきっちり約束を守っていただきますから﹂
ディーネがつーんと顔を背けながら言うと、ジークラインは説得
を諦めたのか、返事をしなかった。
﹁ていうか、ジーク様、なんで今ここにこれたんです?﹂
ディーネは素朴な疑問を口にしてみた。
﹁タバコっぽいものの人体実験は、まあ、確かにちょっとやりすぎ
だったかもしれないですけど、なんで私がピンチだと分かったんで
181
すか?﹂
182
誓約の刻印︵※なにかカッコいいルビを振りたい︶
﹁⋮⋮刻印が反応したからに決まってんだろ。忘れたのか?﹂
ジークラインは呆れたようにそう言って、ディーネが羽織ってい
る室内用ガウンの胸元を勝手にかっ開いた。
この世界の正装は胸元が少し涼しいデザインのものが多いため、
ガウンがはだけるとデコルテが丸ごと露出する。パッと見で﹃乱暴
に服を脱がされかかっている﹄と誤解されそうな体勢にされて、デ
ィーネはものすごく焦った。
﹁なっ⋮⋮! ちょっ⋮⋮!﹂
﹁ほら、ちょうどこのあたりにある﹂
ジークラインが操る魔力に呼応して、鎖骨の下らへんが光った。
なにかの入れ墨のようなものが入っている。不思議な文様だ。幾
何学的でありながら、単純な図形ではない。
﹁この刻印は婚約者が互いに刻みあう誓約の刻印だ。これがある限
り、お前は俺に隠しごとができない。男がお前の、﹃身体﹄か、﹃
魔力﹄か、どちらかに触れると俺に伝わるようになっている。逆の
作用もある。俺が女に触れると、お前にも魔術的な感応があって、
分かるようになっている﹂
ジークラインはちらりと研究員Aを見た。
183
﹁そりゃもう不快な感触がするんだ﹂
なるほどとディーネは思う。
それでさっきガニメデにつっかかっていたのか。
﹁まあ、婚約式のとき、お前はまだ三歳だったからな。何も覚えて
なくても仕方ねえ。一応忠告しておいてやるが、婚約を解消するっ
てことは、おれとの縁が切れるだけじゃねえ。この刻印も消えるっ
てことだ﹂
﹁⋮⋮? いいんじゃないの? ジーク様も不快な感触とやらがな
くなって﹂
﹁馬鹿。俺は気を付けたほうがいいかもしんねえって言ってやって
るんだ。今は俺が守ってやれるけどよ、刻印がなくなっちまったら
お前はフリーだからな。公爵家の領土といい女、両方が手に入ると
なればお前を狙う刺客が増えてもおかしくはねえ﹂
ディーネはぽかんとした。
﹁いい⋮⋮女﹂
﹁お前のことだ﹂
﹁私は別に⋮⋮﹂
﹁ああ、過剰な卑下はいらねえぜ。聞くだけ時間の無駄だ。誇り高
くあれよ、お前はこのおれが認めるいい女だ﹂
やたらと厨くさい言い回しの捨て台詞を残して、ジークラインは
消えていった。
﹁⋮⋮うっぷ﹂
ちょっと酔った。タバコっぽいものでハイになっているところに
184
あの厨発言はちょっと効きすぎたのだ。
﹁大丈夫ですか、お嬢様!﹂
ガニメデは駆け寄ろうとして、その場に踏みとどまった。
﹁⋮⋮ここで俺が触ったら、もしかしてまた皇太子殿下が来ますか
ね? じゃあもう、何もしないほうがいいんでしょうか⋮⋮﹂
なるほど、そういうことになるのね。
つまりジークラインは、セコムみたいなものなのだろう。
しかも並大抵のセコムではない。人類最強のセコムだ。
しかしそれはさておき、ディーネにはガニメデの発言が聞き捨て
ならなかった。
﹁えっ、なに、あなた、私の容態心配じゃないの?﹂
﹁どっちかといったらそうですね、殿下に睨まれる俺の立場のほう
が心配です﹂
﹁ひどい! 私たち親友じゃない!﹂
﹁いつからそういうことになったんですか⋮⋮﹂
﹁クラスが変わってもお昼は一緒にお弁当食べようって約束したじ
ゃない! ひどいわ!﹂
﹁よく分かりませんが、そういうことは俺の名前覚えてから言って
くださいね⋮⋮﹂
ガニメデの地味な黒髪や低い鼻、よく見ると整っている顔立ちは
日本人を想起させ、ディーネには親しみやすいのだ。
それゆえの親友認定だったが︱︱
185
﹁お嬢様って友達いなさそうですよね﹂
﹁失礼ね! 四人はいるわよ!﹂
﹁それ侍女でしょう⋮⋮﹂
﹁あとあなたも入れたら五人ね﹂
﹁俺は勘定に入れないでください⋮⋮使用人相手に空しくないんで
すか、あなたは⋮⋮﹂
当のガニメデは心底いやそうにため息をついたのだった。
186
お母さまと貴族と商人
転生令嬢ディーネは母親に執事やナリキの相談をしようと思い立
ち、公園に行った。それというのも公爵家では、母親が屋敷の人事
を管理しているのだ。
彼女は午後に公園で散歩をするのが日課だった。
うららかな四月の陽気のなかでパラソルをさしている、見た目十
代の愛らしいザビーネは、ともするとシュッとしたスタイルのディ
ーネよりも年下に見えるから恐ろしい。
ディーネは自分の事業がうまくいっていることや、セバスチャン
を引き抜きたいこと、新しく屋敷を切り盛りする執事を探さなけれ
ばならないことなどをザビーネに打ち明けた。
﹁あらあら、そうなの。しょうがないわね。分かったわ。新しい子
を探してみる﹂
﹁お母さま。それでしたら、次の執事にはぜひ腹黒ドSをお願いし
ます﹂
ディーネはそう言って頭を下げた。
ザビーネは人を見る目があるらしく、彼女がこれ! と見出した
人間は必ず才能を開花させてスーパー使用人となるのだ。
﹁素直クールなセバスチャンも執事としては最高なのですが、やっ
ぱり執事は敬語でお嬢様をうやうやしく馬鹿にするぐらいのキャラ
立ちが必要だと思うんです﹂
﹁ええと、ディーネちゃん⋮⋮?﹂
187
ザビーネは何を言われているのかよく分からないという顔をした。
しかしディーネも、これを現地の言葉でうまく説明する自信がない
のである。
﹁例のあれを言われてみたいです。お嬢様は能無しでいらっしゃい
ますか? っていうやつです。お願いします﹂
﹁よく分かりませんけれども、がんばって探してみるわね⋮⋮﹂
﹁ありがとうございます。よろしくお願いします﹂
執事の件はこのくらいでいいかな、とディーネは思った。
ディーネはもうひとつの用事を母親に切り出すことにした。
﹁お母さま、ナリキのことなんですけれども。彼女がうちに侍女と
して上がった経緯などを教えていただけませんこと?﹂
ザビーネが屋敷の人事権を持っているので、ナリキについても何
か話が聞けるかもしれないと思ったのだ。
﹁ああ、ミナリール家のお嬢さんね? 簡単よ、公爵さまがミナリ
ール氏と懇意にしてらっしゃるの﹂
﹁ミナリール氏はどんな方でいらっしゃるんですか?﹂
﹁しっかりした方よ。ご商売も堅実で、職人さんからも不満が出な
いの。これってすごいことよ﹂
﹁どういうことでしょうか﹂
﹁職人さんと商人さんでは、商人さんのほうが市議会などでの発言
権が強いのよ。職人さんよりもわたくしたち貴族と距離が近くて、
お金を握っているから。でも、ミナリール氏は職人さんをないがし
ろにはなさらない方よ﹂
188
ディーネは不思議に思った。
では、なぜ彼はあのような妨害工作をしかけてきたのだろう。
﹁そう、ナリキさんのことだったわね。ナリキさんはね、聡明なお
嬢さんよ。あなたも彼女との会話から得るものがあるんじゃなくて
?﹂
﹁そう⋮⋮ですね﹂
ナリキが商人としての才能を持っているのは明らかだ。しかし。
﹁先日の園遊会で、商会の積み荷が襲われましたの。そのときに、
とっさに解決策を提示してくださったのもナリキさんでしたわ。で
も⋮⋮﹂
﹁仕組まれていたような気がしてならなかった?﹂
﹁⋮⋮そうなんですの﹂
ザビーネほどの宮廷生活漬けの人間にもなると、ちょっとした会
話で相手の言いたいことを先読みする能力にも長けてくる。
その判断力で、ナリキのこともジャッジしてくれないだろうかと
ディーネは思い、とつとつと事情を説明した。
すべてを聞き終えてから、ザビーネは静かに言う。
﹁ねえ、ご存じ? 染物商には、赤色の染料でしか染めない職人と、
青色の染料でしか染めない職人がいるのよ﹂
﹁⋮⋮? ええ⋮⋮﹂
中世期のギルドはカルテルがガチガチに決まっているので、職業
が細分化されているのだ。赤色の職人が青色の染料を使うのは協定
違反。逆もまたしかり。
189
﹁だから、紫色の布がほしかったら、二人の職人に賃料を出さない
といけないの。ところが新しい商人が来てあなたに言うとするじゃ
ない? ﹃紫色が出る貝の染料がうちにありますよ! 自宅で簡単
に染められます!﹄⋮⋮あなたならどうする?﹂
﹁⋮⋮紫色の染料を買いますね。使用人にでも染めさせます﹂
﹁では、赤い布や青い布の職人はどうするかしら?﹂
中世期のギルドの基準でいえば、これは、人の仕事を奪い取る行
為である。
﹁紫色の染料を売る職人に文句を言いますね⋮⋮私の仕事を取るな、
と﹂
﹁ナリキさんがなさったのは、つまりそういうことなのではなくて
?﹂
うーむ、難しい問題だ。
﹁わたくしたちは働かずとも十分な地代をいただいている身。その
資本を使って、しもじもの仕事まで取り上げてしまうのは、残酷な
ことなのかもしれないわ﹂
もともと金と暇を持て余している貴族が、採算度外視でダンピン
グに近い商品提供などをはじめたらふつうに商売している人たちが
飢えて死ぬ。
譬えて言うなら、小さな地元の商店街が近所にできた大型ショッ
ピングモールのせいで全滅するようなもの。
あるいは外来種に在来種が駆逐されてしまうようなものと言えば
いいのだろうか。
190
地球でも、古代ローマ帝国は、一部の貴族が商売を独占し、富と
権力が一か所に偏ったがために滅亡した。
権力者に商売をさせる、というのは、それだけで危険なことなの
だ。
なので、税金を取り立てる身分の人間がガツガツと更なる富を求
める行為は浅ましい︱︱という観念が生まれ、倫理的な抑制が働き、
ますます貴族は働かなくなるのである。
ディーネは自室に戻ってからもいろいろと思考を巡らせてみた。
﹁貴族が商売をすることの是非︱︱ねえ﹂
難しい問題だ。
しかしだからといって、国民には労働の義務があると明文化され
ていた日本の生活を知るディーネには、贅沢三昧で働かない貴族と
いうのもにわかには許しがたい存在なのだった。
﹁⋮⋮視察に行こうかな⋮⋮﹂
この問題に答えを出すには、もう少しこの国の政治形態や庶民の
暮らしなどを知る必要がある。
たまには領内を観察することも必要だろう。
191
帝都アディールのカフェ巡り
ワルキューレ帝国・帝都アディール。
アディールは綿密な都市計画のもとに建てられた都で、道路や家
々が碁盤のように並ぶ。
上水道と下水道が配備され、この国の特色であるレジャー施設の
銭湯が、街中に二百か所以上も点在。主要な道路には定期的に掃除
夫がやってきて、街のゴミや塵を横の排水溝に落としてまわる。手
入れのいきとどいた、きれいな街並みだ。
公爵令嬢ディーネは視察をするべく、転移魔法を使ってこの帝都
にやってきた。
偵察先はおもにミナリール商会が経営するカフェやパン屋だ。
これから同様の商品販売業で出店するのならば、下見は何回でも
しておくべきだと考えたのだ。敵情視察がてら、今後の方針につい
ても考えるつもりだった。
﹁カフェねえ⋮⋮普通はカフェといえば﹃民主主義の揺りかご﹄っ
てなもんだけど﹂
﹁なにかおっしゃいましたか、お嬢様﹂
隣を歩いている執事のセバスチャンが不思議そうな顔で話しかけ
てきた。
彼にもバンケット事業のメニューの検討などで視察の結果を役立
ててもらえればと思い、一緒に行かないかと誘ったのである。
192
﹁あ、ううん。なんでもないの。独り言﹂
ディーネは首を振って、挙動不審にならないよう、少し姿勢を正
した。敵情視察なので、今日はお忍びで行動しているのだ。変装も
ちゃんとしている。慌ててあたりを見渡すと、ひとり言などブツブ
ツ言っていたせいか、なんとなく周囲の注目を集めているように見
えた。
﹁私、街並みに溶け込めてないかな?﹂
髪の毛を覆うスカーフをひっぱりつつ、セバスチャンの意見を聞
いてみた。
今のディーネは民族衣装風のエプロンドレスを身に着けている。
喉元まできっちり覆うブラウスに、スカートと共布の胸部が深くく
りぬかれたボディス、くるぶしまであるロングスカート、その上か
ら真っ白なエプロンという構成だ。ボディスでみぞおちのあたりを
締め付けて胸をくびり出すようなデザインになっているため、ディ
ーネが身に着けると大変に胸元がさびしい。スカスカしている。
セバスチャンは生真面目な無表情で言う。
﹁よくお似合いでございますよ﹂
﹁ちゃんと庶民っぽい?﹂
セバスチャンは返答に困った様子で、目線を外した。
彼としては仕えている主人に向かって庶民のようだなどとは口が
裂けても言えないし、かといって今は高貴な姿をたたえるのもまず
い、という板挟みに直面しているようだった。
﹁なんか目立ってる気がするんだよね。変装がうまくないってこと
193
かしら? アドバイスがほしいわ。似合う、似合わないでなく﹂
ディーネがもう一歩踏み込んで要求すると、ようやくセバスチャ
ンは遠慮がちに口を開いた。
﹁そうですね⋮⋮お召しのエプロンが真っ白なので、目立っている
のかと﹂
﹁あああ、そうね、普通はもっと汚れてるものよね!? 盲点だっ
た⋮⋮これを取ったらまだマシかな?﹂
﹁あまり、変わらないかと⋮⋮﹂
セバスチャンは慌てて言葉を継ぐ。
﹁その、けして変な意味ではなく、お嬢様には気品がおありなので。
下々の者とは比較になりません﹂
ディーネはしばらく考えたあと、食料品店の軒先でふとあるもの
に目を留めた。
麻でできた袋だ。
﹁⋮⋮あれを⋮⋮﹂
﹁麻袋がどうかしましたか、お嬢様﹂
﹁目のところにふたつ穴をあけて⋮⋮﹂
セバスチャンはぎこちなく笑った。
﹁御冗談を、お嬢様﹂
﹁ついでにモリとかを持ったら⋮⋮﹂
﹁⋮⋮かえって目立ちます、お嬢様﹂
194
セバスチャンは不器用にそう返す。どうやら、突飛なジョークな
どが苦手であるようだ。予想外の言動には、﹃面白い﹄と思うより
も先に、﹃どうリアクションすれば模範的か﹄のほうに意識がいっ
てしまうタイプらしい。
アホなことを言っているうちにカフェについた。
﹁お、しゃれてるじゃなーい?﹂
外観は古いお屋敷風だった。漆喰の間に木の枠組みが見え隠れす
る木骨造りで、窓にはトレーサリーという飾りの枠組みがついてい
る。きちんとした設計がされているのか、規則的で左右対称、漆喰
も塗りたてのように真っ白でありながら、不揃いな左官模様にどこ
となく手作りの味を残している。︱︱計算されたカントリー風とい
うやつだ。
まず好きな席につく。そのあと店員を呼んでメニューを注文し、
好きなところに陣取ってゆっくりお話をするというよくあるスタイ
ルだ。
ディーネは店員さんを手招きして、なるべく早口で告げる。
まずは、ほんの小手調べに。
﹁キャラメルカプチーノドライライトシナモンパウダー入りグラン
デサイズで﹂
﹁すみません、注文は帝国語でお願いします﹂
店員さんが若干イラッとした顔で注意してくる。
﹁私の完璧なカフェマナーが通用しない⋮⋮だと⋮⋮﹂
195
﹁あの、頼まないんなら俺もう行きますけど﹂
店員さんが忙しそうにチラッと時計を見たそのとき、セバスチャ
ンがそっと身を乗り出して、メニューをディーネに見せた。
﹁お嬢様、こちらのメニューはいかがですか。カフェに焦がした砂
糖のシロップが入っていて、追加でミルクとシナモンをおつけでき
るそうでございます﹂
﹁それもうほとんどキャラメルカプチーノじゃない。すごいわセバ
スチャン。どうして私の飲みたいものが分かったの? 絶対分から
ないと思って言ったのに﹂
﹁お嬢様のお好みはよく存じております﹂
﹁あの、早くしてほしいんですけど⋮⋮﹂
からかわれていると分かった店員さんの血管が切れそうだったの
で、メニューを吟味せずにケーキを二、三注文し、去ってもらった。
﹁接客はいまいちね⋮⋮﹂
セバスチャンは涼しい顔でコメントを控えた。おそらく内心では
﹃それはお嬢様がご無理をおっしゃるからでは﹄などと考えている
のだろう。主人の間違いを面と向かっては否定しない。よくできた
執事ではあるが、ディーネはちょっと寂しかった。
待ち時間を持て余し、店内を見渡してみる。カフェは大盛況だっ
た。なぜかこの世界にはかなり早くから喫茶の習慣が普及している
らしい。
ディーネは不安になった。
帝都の市民はみんな裕福そうで、庶民であっても満ち足りた顔を
196
している。とても革命を企てて日夜プロパガンダに励んでいるよう
には見えない。
西欧史からいうと、カフェといえば革命、そして民主主義なのだ
が、この国は大丈夫なのだろうか。
197
帝都アディールのカフェ巡り︵後書き︶
ドライ
カプチーノなどの牛乳の量が増える。
ライト
生クリームやミルクをローファットタイプに変えてくれる。
198
秘密を持つ執事とお嬢様
公爵令嬢ディーネはライバルの経営するカフェに下見に来ていた。
大盛況のカフェを見渡して、革命の思想家などが潜んでないかど
うかをひそかにチェックする。
地球の西欧史によると、長い間飲料水の主役は﹃アルコール﹄だ
った。真水の確保が難しい土地柄だったので、日常的に保存食とし
てのアルコールに頼って生活していたのだ。大人も子どももみんな、
飲酒していたのである。
お酒とひと口にいっても、現代日本の人たちが考えるようなもの
ではなかったらしい。ワインにしろ、麦酒にしろ、醸造の技術が未
熟だったので、味はひどかった。水代わりに常飲されていたのは、
アルコール分などほとんどなく、お酢に近いような、ギリギリ飲め
るレベルの粗悪なものが多かったようだ。
ワルキューレで喫茶の習慣が流行っているということは、少なく
ともみっつのことが分かる。
ひとつ。この国では飲料水の確保が容易である。
お風呂や上下水道が普及しているのだから、水が豊富な国である
ことは確定だろう。パリにきちんとした下水道がもたらされたのは
十九世紀だか二十世紀だか、とにかくかなり遅かった。
もうひとつ。コーヒー豆や紅茶葉など、特定のアルカロイドを含
199
む植物の発見や伝播がすでに終わっている。
そして最後のひとつが大事なのだが︱︱この国には暇人が多い。
憩いの場所が繁盛しているということは、カフェでのんびりお茶
などしていられる程度には裕福で、日がな一日時間を持て余してい
る市民がこの国にはたーくさんいるということだ。
富のおかげで労働から解放された人間が、貴族ではないゆえに国
政から締め出され、お茶を引いている。一見平和で結構なことだと
思われる光景だが、実はこれはとても危険な状態だったりする。
つまり、自分たちは一般市民よりもお金を持っているし偉い、教
育もある、エリートである! という自覚のある人たちがひまを持
て余したときに何をするのかというと、政治活動なのである。
すぐそばの皇宮で行われているお貴族様のちゃらんぽらんな国政
を肴に、やれああすべきだこうすべきだと話し合うのは、貴族にな
りたいけどなれない庶民の自尊心を満たす大事な儀式であるらしい。
自分が皇帝であったならもっとマシなことをやるのに、といったよ
うな想像が再現なく膨らむと、だんだん過激な思想も生まれてくる。
岡目八目とはよく言ったものである。
それがなにかのきっかけで暴走したりすると、もう危険だ。プロ
パガンダからクーデター一直線である。
それゆえに歴史は言うのだ。
カフェは民主主義の揺りかごである、と。
︱︱なので、帝都にカフェが繁栄している状態というのは、実は
200
たいへんに危険なことなのである。反帝政思想が蔓延する温床にな
きっ
るからだ。ちょっとしたきっかけで抗争やクーデターにもつれこむ
可能性がある。
とう
古代ローマには喫茶の習慣はなかったが、代わりに湯を飲む﹃喫
湯﹄の習慣があったという。
お湯に没薬やサフランなどで香りをつけてたしなむのが流行った
のだそうだ。
このお湯を出すお店はテルモポリーといって、至るところにあっ
たが、庶民の利用は禁じられていたらしい。
それも反乱分子を未然に防ぐ処置だったのかもしれないと思うと、
公爵家の姫君であるディーネとしては、帝都のカフェ文化を捨て置
くわけにはいかなかった。
ディーネは不安になって、からだを真後ろにひねり、死角のほう
も見渡してみた。
とくに思想家らしき人たちが見当たらないのは、まだまだ文化水
準が低いからだろうか。水は豊富にある、食糧事情もいい、ただこ
の国には教育が足りていない︱︱といったところなのかもしれない。
不審な動きをしているお嬢様に、執事のセバスチャンが声をかけ
る。
﹁いかがなさいましたか? お嬢様﹂
﹁あ⋮⋮ううん。ちょっとね。みんな、どんな生活をしてるのかな
って﹂
﹁庶民が珍しいのですか?﹂
201
﹁ほら、ちゃんと暮らせてるのかなとか、やっぱり気になっちゃう
じゃない? そういうのってお屋敷にいたらなかなか見えてこない
ことだから﹂
﹁豊かな国ですよ、ワルキューレは。とくに帝都は世界中でも類を
見ないほどの大都市でございます。私もこの国に来てよかったと思
うことがよくあります﹂
﹁あなたはどこから来たの?﹂
﹁北方から﹂
それからセバスチャンは、なにかのいたずらを思いついたように、
声をひそめた。
﹁これは内緒話なのでございますが、私は元々、一国の王子として
生まれまして﹂
﹁へえ⋮⋮﹂
ディーネはちょっと引いた。こういう冗談を言う知り合いに心当
たりがある。話半分に聞いておいたほうがいいのだろう。
﹁しかし、双子の片方は捨てるべしという掟によって王宮を追放さ
れ、庶民として暮らして参りました﹂
﹁大変だったのね⋮⋮﹂
﹁お嬢様にだけ特別にお教えしました。他言無用でお願いいたしま
す﹂
﹁分かってるよ﹂
嘘だろうけど。そう思いつつ、ディーネは一応それらしくうなず
いておいた。
セバスチャンはおそらく冗談が苦手なタイプだ。先ほどもディー
ネの冗談をどう扱っていいのか分からなくて困っていた。きまじめ
202
な彼が無意味にするとも思えない奇妙な話題だけに、ディーネも﹁
うそでしょ﹂とはツッコミにくかったのだ。
﹁ああ、私の一番の秘密を打ち明けてしまいました。なぜでしょう
か、お嬢様には何でも話したくなってしまいます。罪な方ですね﹂
執事はうれしそうだ。無表情な男だと思っていたが、そうしてい
るとぐっと親しみやすさが湧く。
︱︱変な人。
ディーネは戸惑う一方だった。
203
謎かけをする執事とお嬢様
やがて注文の料理と一緒に、ケーキが届いた。
主食がジャガイモの国らしく、ジャガイモ製のスイートポテトに、
ふわふわのジャム入り揚げドーナツ。
ツヴェッチェンというスモモのような果物が載ったフルーツパイ。
セバスチャンがさっとケーキを取り分けてくれた。目にもとまら
ぬ速さと華麗さだったのでうっかり流しかけたが、今のディーネは
一応、お忍びなので、ごくふつうのカップル設定なのだ。やっても
らって当たり前だと思ってはいけないだろう。
﹁ありがとう﹂
お礼を述べると、セバスチャンは微笑んだ。
﹁いえ﹂
それきり黙ってしまうセバスチャン。
会話が続かないのを気にしてディーネがちらちら窺うと、彼はす
ぐに気がついてふんわり笑ってくれた。しかしディーネは、しぐさ
だけで考えが読めるほどセバスチャンのことを知っているわけでは
ない。無言でただほほえまれても困ってしまう。話のきっかけはな
いかと考えて、観察する意味でじっと見つめ返してみたが、セバス
チャンは天然なのか何なのか、見つめられて照れたようにしつつも、
やっぱり何も話そうとしない。
204
はからずもラブラブのカップルみたいに見つめ合ってしまう結果
となった。
ふわーっとしたセバスチャンの空気にあてられ、しばらく彼のき
れいな銀髪や整ったお顔立ちを眺めてうっとりしていたディーネだ
ったが、さすがにその時間が長すぎるので、途中でわれに返った。
︱︱なんだこれ。
初恋中学生のカップルか。
気まずくて、なんとなくディーネも無言のまま、とりあえず運ば
れてきたものを試食した。
﹁コーヒーはやっぱりおいしいのよねー⋮⋮ああー⋮⋮カフェイン
がしみわたるー⋮⋮﹂
セバスチャンも同様の感想を持ったようだ。
﹁そのほかはさほど⋮⋮お嬢様のお作りになったケーキのほうがず
っとおいしゅうございましたね。お菓子作りも職人顔負けとは、お
嬢様の才能には感じ入るばかりでございます﹂
﹁いやー、あれは添加物の勝利だからねー⋮⋮﹂
﹁添加物⋮⋮?﹂
﹁口当たりがよくなるように、パン種みたいな働きをする特殊な薬
物を使ってるんだよね。あの薬は単体でも売れると思うわ。菓子職
人のギルドと提携できればまとまったお金になるんじゃないかしら﹂
﹁ご商売がお上手でいらっしゃる。見習いたいものです。私もお嬢
様のように才覚があれば、自分で稼ぐのですが。私にできるのはさ
さやかな給仕のみでございますからね﹂
﹁そんなことないと思うよ?﹂
205
ディーネはちょっとおどろいた。この万能執事が自分のことをそ
こまで低く評価していたなんて。
﹁セバスチャンはいい執事だよ。今まではたまたま世の中の仕組み
が悪くて、評価されていなかっただけ。でも、事業がうまくいった
ら何もかも変わるよ﹂
セバスチャンは戸惑ったように目を伏せた。それから遠慮がちに
口を開く。
﹁⋮⋮本当に、そんなにうまくいくものでしょうか﹂
﹁絶対大丈夫!﹂
なにしろディーネは前世でああいうモデルのビジネスが実際に存
在することを知っている。しかし彼にはそれが分からない。ディー
ネがどれほど口先で保証しても、不安になるのも仕方がなかった。
﹁自信を持って。働きに応じた報酬があるのは当然のことだよ﹂
彼は驚いたように目を丸くし、それからくすりと笑った。
﹁⋮⋮お嬢様は不思議な方でいらっしゃいますね﹂
﹁え⋮⋮﹂
ディーネはちょっとドキリとした。前世の記憶が戻ってからとい
うもの、この国の人たちからは不思議がられるような行動ばかりし
ているという自覚はあった。
﹁本来ならば、お嬢様は私にただ命ずればいいのでございます。も
206
ともと執事とは主人の意に沿うように動く者ですから。こうして気
遣ってくださり、しかも働きに応じた報酬を与えようなどと⋮⋮本
当に変わっていらっしゃる﹂
﹁それは別に、おかしくなくない? 大事なことだよ﹂
セバスチャンはちょっと謎めいた笑みを見せた。
﹁お嬢様。商人と王の違いはなにか、お分かりですか﹂
﹁えっと⋮⋮商人は自分で働くけど、王様は人に働かせる?﹂
﹁それもひとつの正解ではございますが、人を使う商人もおります。
人を使う商人と、王との違いは、自分の利益を一番とするか、それ
とも他者に分け与えることを一番とするか、なのでございます。で
すから、お嬢様のご商売のなさりようは、まるで王のようだと。卑
小な私などは感じるのでございます﹂
彼はふわふわと、見ているこちらが幸せになるような笑顔を見せ
る。
﹁あなたという王に仕えられる国民は幸せでございますね﹂
﹁そ⋮⋮そうかしら﹂
﹁ええ。少なくとも、私は幸せです﹂
﹁⋮⋮そう。よかったわね﹂
常に無表情のセバスチャンがさっきからにこにこしているので、
ディーネはとにかく落ち着かない。
︱︱この人、こんな人だったっけ?
どちらかといえば近寄りがたい印象だったセバスチャンのイメー
ジががらりと変わってしまいそうだ。
207
﹁⋮⋮王であっても、商人のように振る舞うものもおります。しか
し、王のように振る舞う商人がいるとしたら、その者は王たる王よ
りももっと人を幸せにできるのではないかと、私は思いました﹂
﹁王であっても、商人のように⋮⋮﹂
﹁今はまだ、お分かりにならなくても結構でございます。でも、き
っといつか私はウィンディーネお嬢様にこのご恩返しをしたいと考
えておりますから、そのことだけは頭の片隅に留め置きくださいね﹂
分かったような分からないようなセバスチャン流の哲学にのまれ
て、頭にぴよぴよとハテナマークを浮かべているディーネを見て、
彼はまた楽しそうに笑ったのだった。
︱︱ミナリール商会の商品の考察と、新規事業の打ち合わせをし
て、お忍びの視察は終わった。
208
謎かけをする執事とお嬢様︵後書き︶
クラップフェン
ドイツの伝統菓子。揚げドーナツ。
地域によってはクルーラー、プファンクーヘン、ベルリーナーとも
いう。
209
制裁するとは決めたけど
ディーネは自室でミナリール家の処遇についてあれこれ考えてい
た。
すでに明日、計画を決行できるように準備を整えてある。
ディーネが気になっているのは豪商ミナリール氏の経歴だった。
どうも当主のミナリール氏は過去の商取引で貴族から不正を食ら
ったことが原因で、貴族に深い恨みを持っているらしい。
貴族を恨んでいながら、公爵家とも懇意にしている。
貴族嫌いの、貴族好き。
商取引そのものは明朗会計であると調査員が言っていた。ただ、
貴族が商売に口を出すことだけがどうしても我慢できないのだ、と。
その点、パパ公爵はミナリール氏のよき君主といっていい。鷹揚
というかどんぶり勘定というか、細かいことを一切気にしない性格
だ。帳簿、会計の類を卑しいものとみなして、王侯貴族が携わるべ
きではないと考えている。これはなにも一個人の偏見や怠慢という
わけではなく、社会的にそういうムードが醸成されているのだ。
︱︱人間は神さまとお金とに仕えることはできない。
︱︱数学は神の真理を知るための崇高な学問だが、それと会計を
一緒にしてはならない。
これが貴族の一般的な価値観なのであり、従ってたいていの貴族
は帳簿になど見向きもしない。金勘定は貴族がすべき仕事ではない
210
と思っているのだ。
以上の理由によって、パパ公爵は領内の商取引についても興味を
持たない。
ミナリール氏の暴走のきっかけを挙げるとするならば、ディーネ
がそこへ割り込んできたことに尽きる。
現代知識を武器として使えるディーネが彼らのテリトリーに入っ
ていって好き勝手に模様替えしてしまうのが反則だと言われたら、
まあ、そうかもしれない、とは思う。
その国にはその国に合ったルールがあり、生態系がある。ディー
ネから見てどんなに理不尽、荒唐無稽なルールであっても、それが
できあがるまでにはさまざまな経緯があるものだ。
少しのつもりで起こした変化が取り返しのつかない環境破壊を招
くこともある。
今のミナリール氏は、子猫を守りたくて過剰に攻撃的になってい
る母猫のようなもの。
﹁制裁はする。ペナルティも与える。で、その後をどうするか、だ
けれども⋮⋮﹂
︱︱出方次第かなぁ。
処分をするのは簡単。
しかし、分かり合えるならそれに越したことはないのだ。
211
制裁するとは決めたけど︵後書き︶
人間は神さまとお金とに仕えることはできない
﹁あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。﹂
マタイによる福音書 6:24
212
落とし前をつける悪役令嬢・前編
公爵令嬢の侍女、ナリキは研究室の倉庫にいた。
主人のディーネが自室に倉庫の鍵をたまたま忘れていったので、
ナリキが盗んだのだ。倉庫の中にはナリキが以前からひそかに狙っ
ていた新開発の商品が眠っているはずだった。
蝋に点灯し、埃っぽい室内をくまなく調べていく。やがて﹃ベー
キングパウダー﹄と大きく張り紙した麻袋が積まれている一角を発
見した。
︱︱見つけた⋮⋮!
ナリキは急いで父に連絡をし、魔術師を連れてきてもらう。倉庫
は荷物を頻繁に出し入れする煩雑さからか、うっかり魔術封印が解
かれっぱなしになっていた。そこで、転移魔法で麻袋を丸ごとぶっ
こ抜く。
誰にもバレていないことを確認し、応接間まで素早く戻ると、鍵
をテーブルの下に放り投げた。
とうとう盗み出せた。
一回に必要な分量はスプーンにほんの少量と聞いている。あの分
量ならば数年は保つだろう。
﹁でかしたぞわが娘よ! さっそくこれを全店舗に配布しろ! 明
日から提供を開始する! 錬金術師にも成分の分析に回せ!﹂
213
父の素早い采配で、さっそく次の日には新作のスポンジケーキが
全店舗に導入されることになった。
ディーネの手配しているケーキ屋のオープンも数日後に迫ってい
るから、これだけでも大打撃だろう。そのたった数週間の差で新商
品はミナリール商会のオリジナルとみなされ、ディーネが開店する
お店の希少性は地に落ちる。どこかで見たことがあるような二番煎
じのケーキ屋として、話題にもならずに消えていくはずだ。
ナリキは肩の荷が下りて、ほっとしながら公爵家に戻った。
密偵の真似事をさせられて、気が気じゃなかったのだ。もうこん
なことは終わりにしたい。
応接間に行くと、ディーネはまだ紛失したことにすら気づいてい
ないのか、ナリキが放り投げた位置に鍵がそのまま放置されていた。
せめて明日まで気づかれませんようにと祈りつつ、ナリキは許可
を得て就寝するために自室に下がった。
次の日︱︱
﹁どういうことだ!!﹂
ナリキの父・ゼニーロががなり散らす。
皇宮に一番近い、王都のカフェ本店のバックヤードは、各店舗か
らの救援を求める手紙が転移魔法で大量に舞い込み、大混乱に陥っ
ていた。
﹁お前が持ち帰った粉を使わせたらケーキが苦くなりよったわ!!
客からの苦情が殺到しておる!!﹂
214
﹁そんなはずは⋮⋮﹂
そのとき、表のカフェのほうから、誰かがさっと入ってきた。
﹁お客様、困ります! お客様!﹂
﹁ちょっと、店長さん!? おたくのケーキどうなってるのかしら
!? 公爵令嬢のわたくしにこんなものを食べさせるなんて!!﹂
苦情を言いに乱入してきたのは︱︱
誰あろう、ナリキが仕える女主人の、ウィンディーネ・フォン・
クラッセンだった。
﹁あら、ミナリールさん。ごきげんよう﹂
ああ。挨拶さえもが白々しい。
﹁フロイライン・クラッセン! やあ、これは、どうも⋮⋮﹂
ゼニーロがひきつった笑みを浮かべるが、ディーネは笑わなかっ
た。
﹁ねえ、昨夜、わたくしの家の倉庫から材料の一部が消えたんだけ
ど、なにかご存じない?﹂
﹁さあ、私にはなんのことか⋮⋮﹂
﹁そう、知らないとおっしゃるの。残念ね﹂
ディーネは大げさにため息をついてみせた。
﹁⋮⋮あれはベーキングパウダーの材料の一部で、ケーキに使うと
よく膨らむけれど、お味の調整剤が入っていないから、単品で使う
215
ととっても苦くなってしまうのよね。だから、もしも盗んだあれで
ケーキを焼いてしまった人がいたら大変だと思って、親切に解決策
を持ってきてあげたのだけれど⋮⋮必要なかったかしら﹂
ナリキは背筋がぞっとした。
﹁まさか⋮⋮わざと鍵を失くしたふりをなさったの⋮⋮? わたく
しをハメようと⋮⋮?﹂
清楚可憐な令嬢が、その美貌にそぐわない、腹黒い笑みを見せる。
ニタリとでも形容すべき笑顔は、完全に悪役令嬢のそれであった。
﹁あらあらたーいへん。このままではカフェの信用はガタ落ち。う
わさがあっという間に広がって、全滅してしまうかもしれないわね
? ああ、わたくしもついうっかりお友達に話してしまうかもしれ
ないわ。お母さまや皇妃さまがお聞きになったらなんておっしゃる
かしら﹂
必殺、親の威光を笠に着た七光りアタック。
ナリキは心の底から震撼した。
﹁なんてゲスさなの⋮⋮!﹂
﹁あっらぁー、それが二度までも悪質な破壊工作をしかけた人たち
の言うことなのかしらぁ?﹂
ディーネは高笑いでもしかねない雰囲気だ。
﹁ねえ、ゼニーロさん? わたくしにはこの窮地を収めるアイデア
があるのだけれど、お聞きになりたい?﹂
216
ゼニーロはこぶしを硬く握った。ものすごく悔しそうだ。
﹁興味深いですな。お聞かせ願えますか﹂
﹁その前に契約交渉と参りません? わたくし、ちょうど自分の手
足として動く商会が欲しかったの﹂
ゼニーロはさすがに耐えかねると思ったのか、彼女をにらみつけ
た。
﹁こちらを傀儡にするつもりか⋮⋮!? ふざけるな! わしにも
一代でこの商会を築き上げたプライドがある! 潰したければ潰せ
! 誰が貴族の犬になど成り下がるか!﹂
217
落とし前をつける悪役令嬢・中編
ゼニーロの怒りは止まらない。
﹁この世でもっとも醜悪な生き物とは、﹃商人気取りの貴族﹄に他
ならぬわ! バームベルク公爵家はわれらから必要十分な富を税と
して吸い上げておきながら、弱き者に再分配するという貴族の義務
も怠って、この上さらに罪もない下々の仕事を奪って自分のものと
し、大いなる富を独占しようというのか!! なんたる、なんたる
!! なんたる悪だ!! 度し難い!!﹂
﹁お父様︱︱﹂
﹁ナリキ、お前は下がってなさい! ええい、たとえこの首跳ねら
れようとも、断じて貴様の犬になどはならないぞ!! 貴族の皮を
かぶった娼婦め!!﹂
ナリキははらはらしながらも、父とディーネのやり取りを見守る
ことしかできない。
ゼニーロは今でこそ名声を博した富裕市民だが、そうなるまでに
はずいぶんと辛酸をなめさせられたのだという。
ゼニーロは若い頃、修道院と街を往復するしがない行商人だった
らしい。自分の足と荷馬車で山道を行き来する過酷な仕事だ。都市
部の商品の半数以上は転移魔法で物流が賄われるから、僻地の行商
人は最下層の仕事といえる。
そうした場所には時おり騎士などが出没し、野盗のように行商人
を襲うのだという。
218
騎士といえばふつうは貴族だが、旅から旅の遍歴の騎士は貴族の
中でもいっとう身分が低く、家督を継げないヤンガーサンが戦地を
行ったりきたりして武功を立てる機会をうかがっているうちに野盗
へと身を持ち崩すケースが多いらしい。
そうした﹃悪い騎士﹄の一団たちは、行商人を見つけると、正義
や貴族の名のもとに戦時の糧食を要求してくるのだそうだ。つまり
カツアゲである。
ゼニーロの貴族嫌いは、ここから始まったのだそうだ。
人が真面目に、コツコツと働いて得た金を当然のようにかっさら
っていき、自らは何もせず、何も生み出さず、他人のたくわえを浪
費することしかしない。
まだ行商人だった時代のゼニーロが苦労して珍しい香辛料を地方
の領主に持ち込み、販売しようとしたときのことはナリキもいく度
となく聞かされた。領主は、その香辛料に通常の三倍近い関税を要
求してきたのだそうだ。それでは儲けが出ない。
屈辱を耐え忍んで高い関税を払い、悪意によって長く設定された
検疫期間を終えてみれば、時すでに遅く、その領主のお抱え商人が
さっさと大量の魔法石を駆使してその珍しい香辛料を発見・搬入し、
手柄を丸ごと持っていったあとだったのだそうだ。
ただ同然で商品を取られてしまったゼニーロは、路頭に迷うとこ
ろだったと語っていた。
領主が商売をするということは、いくらでも自分が有利になるよ
うにルールを作ってしまえるということでもある。
ゼニーロは、公爵領を令嬢の都合でメチャクチャにされることを
嫌い、糾弾しているのである。
219
ディーネはその批判を、傲然と受け流す。
﹁なにか誤解があるようですから申しあげますが、わたくしは何も
私腹を肥やしたくて商売を始めるのではありませんわ。金貨がほん
の一千万枚ばかり必要になったので、それを稼ぎたいまでのこと﹂
﹁ほんの⋮⋮!? ほんの一千万だと⋮⋮!?﹂
ゼニーロの声が高くなる。
﹁一千万もの大金を吸い上げる過程で、どれだけの弱小商会が被害
をこうむると思っているのだ! わしらがいったい何をした? 貴
様にとってはわれら商人とて愛すべき民であろうに、虐げて楽しい
のかと聞いておるのだ!﹂
公爵令嬢は、それを聞いて、目を丸くした。
﹁お上に保護されなければ立ちゆかない商売なんて、ほっといても
そのうちなくなりますわよ⋮⋮でも、そうね。貴族の義務というこ
となら、あなたの言うことにも一理ある﹂
ディーネは深くうなずいた。
﹁ミナリールさんがおっしゃりたいのは、つまり、限られたパイを
独占するなということでしょう? ︱︱しないわよ。再分配しろと
いうのでしょう? ︱︱もちろんよ。雇用の機会を奪うなというの
でしょう? ここはとくに行き違いがあるようね﹂
ディーネはふんぞり返って、腕を組んだ。
220
﹁雇用がないのなら生み出せばいいのよ﹂
﹁なんだと⋮⋮?﹂
﹁ねえ、ベーキングパウダーの話を聞いたとき、おそらくあなたは、
悔しいと思ったのでしょう? 出し抜かれたと思ったのでしょう。
でも、先回りして潰せば済むと思ったのは間違いだったわね。︱︱
そういう便利なものを、わたくしはいくらでも知っているのよ﹂
あれを、いくらでも?
はたで聞いていて、ナリキは震えそうになった。
﹁パイがないのなら作ればいいのよ。便利なものをどんどん増やし
ていけばいいの。ものだけじゃないわ、わたくしは商品の流通の仕
組みや商人同士の在り方をも変えてしまうような効率のいいシステ
ムも知っている。わたくしならば今までに見たこともないような仕
事の機会を作り出してあげられるのよ。一千万など、わたくしに言
わせれば﹃ほんの﹄はした金よ﹂
熱心に訴える彼女。そんなうまい話があるわけない、商人として
の冷静な部分がそうささやいているのに、ナリキは心のもっと奥深
いところで、共鳴してしまっていた。
本当に、そんな世界があるのなら、見てみたい︱︱と。
﹁ミナリール商会のことは少し調べさせてもらったわ。いい商会ね。
わたくしの腕となって働いてくれるところを探すとすれば、あなた
がたのところがいいと思ったの﹂
そこでディーネは、これまでの高飛車な所作をやめて、まっすぐ
に立った。
﹁どうかわたくしに協力していただけませんこと﹂
221
ゼニーロはまだ悔しそうにしていたが、小さくうめくと、やぶれ
かぶれの声を出す。
﹁⋮⋮選択肢はないのでしょう?﹂
﹁ええ、まあ、そうね。公爵家相手に二度も破壊工作をして、無事
に商売が続けられるとは思わないほうがよろしいわ。でもね﹂
ディーネはにこりとほほえんだ。
﹁わたくしについていらっしゃいな。見たこともない景色を見せて
あげるわ﹂
そのひと言が決め手となった。どうやらゼニーロの肚は決まった
らしい。
﹁契約交渉とおっしゃいましたね﹂
﹁ええ﹂
﹁聞かせていただきましょうか。言っておきますが、わしは契約に
はうるさい男ですよ﹂
﹁もちろん。そうでなければ手を結ぶ意味がないもの﹂
ぬけぬけと言うディーネに、ゼニーロは初めて、小さく苦笑をも
らした。
︱︱こうして、ミナリール商会とディーネの間で、交渉の場が設
けられた。
222
落とし前をつける悪役令嬢・中編︵後書き︶
後編は夜です。
223
落とし前をつける悪役令嬢・後編
あらかじめ用意してあったのか、ディーネは何枚にも及ぶ書類を
つきつけてきた。
それをゼニーロがじっくりと確認しつつ、質疑応答が繰り広げら
れる。
やがて、初年度はディーネが新商品の利益を総取りするという方
向で話がまとまった。
﹁妨害工作を何度もなさったのだから、このぐらいの制裁は当然ご
覚悟の上よね?﹂
﹁この、﹃初年度は﹄という注釈ですが、これはどういう⋮⋮?﹂
﹁文字通りよ。今年、契約をしてから一年間はわたくしの総取り。
来年以降は来年の交渉で契約を見直すわ﹂
ゼニーロ氏はぽかんとした。
﹁⋮⋮本当にそれでよろしいのですか? 初年度だけ?﹂
﹁なにかご不満?﹂
﹁いえ、めっそうもありません﹂
また来年、改めて契約を見直すことで、ゼニーロも合意。
﹁新しく開発した商品の権利はすべてわたくしにあるわ。いかなる
理由があっても、わたくしの許可なく類似品を使って勝手に商売を
224
しないこと。今度それを行った場合は、今回の騒動の真相を大々的
に広める。領主裁判権を最大限に使って、必ずあなたがたを追いつ
めるわ。口先だけの脅しではないわよ?﹂
商品の権利の説明についても、ゼニーロは異議を唱えなかった。
ギルドがそれぞれの技術を部外秘にするのは当然のことだ。
﹁あなたがたの従業員が同じあやまちを犯した場合にも、あなたが
たの責任を追及するわ。絶対に、どの従業員にもさせないように。
徹底できなければ、あなたがたの命がないわよ﹂
ゼニーロはそれに同意。ミナリール商会はもともと職人の権利保
護に長けている。とくに苦もなく施行できるだろう。
その他、膨大な事項の確認が済み、大方の契約は済まされた。
﹁⋮⋮さて。皆さまから非難殺到中のケーキですけれども、ミナリ
ールさん。あなた、こちらを試食してみた? 独特の苦味があると
思わなかったかしら?﹂
﹁⋮⋮ええ﹂
ナリキもケーキの試食はした。変な味は少しだけ感じたが、ケー
キ自体が甘いこともあり、ひと口、ふた口では判断がしにくい味わ
いだった。もともとこういう味なのだと思えば、食べられないこと
もない。
﹁食べられないことはないのよね。ただ、続けて食べると耐えられ
ない味になる。そうなるように調整したのよ。魔術も少し使わせて
もらったわ﹂
得意げに言うディーネ。
225
﹁熟練の菓子職人でも初めて使うベーキングパウダーには戸惑った
と思うわ。慣れるまでに何本かケーキを試し焼きする必要があるか
ら、うまく膨らむ分量を直感的に把握できず、外見をそれらしく作
ることに手いっぱいで、味を微調整して提供する時間の余裕がなか
った︱︱といったところなんじゃないかしら﹂
彼女の目論見は当たっていた。ナリキが伝え聞かされた報告も、
だいたいそのような感じだった。
﹁お菓子に罪はないわ。お店にいらしたお客様にもね。だから、こ
の苦いケーキには︱︱﹂
ディーネは試食用に提供されたケーキに、付き人から受け取った
ポットの中身を乗せた。
ぽてり、と黒っぽい塊が盛り付けられ、真っ白な生クリームが添
えられる。
﹁オグラ・アンって言うのよ。ベーキングパウダーの苦味と相性が
いいの﹂
お皿を受け取り、ゼニーロがいやいやながら試食する。
口に含んだとたん、彼の表情が変わった。
﹁⋮⋮どう? あんこと生クリームとケーキ。この割合で組み合わ
せるとおいしいのよね﹂
ゼニーロは、がくりと肩を落とした。
﹁⋮⋮わしの完敗です﹂
226
たった今交わしたばかりの契約書を、そっと撫でる。
﹁よく練られた契約書ですな。これほどまでに見事な公証の証書を、
わしは見たことがありません。会計知識も、商業の法律知識も申し
分ない。とても貴族のご令嬢とは思えない⋮⋮あなたはわしがこれ
までに出会った、もっとも狡猾な商人のうちのひとりです﹂
﹁あら、お褒めにあずかりまして﹂
ナリキは驚くばかりだった。父が誰かを、そんなふうに絶賛する
ところなんて、これまでに一度も見たことがなかったからだ。しか
も相手は蛇蝎のごとくに嫌い抜いている貴族。
ゼニーロは恥じ入るように目を伏せる。
﹁しかもあなたは︱︱貴族の心を忘れていない。あなたのお父上と
同じような、深いご温情までお持ちでいらっしゃる。わしがもっと
も唾棄する商人気取りの貴族とは、発想が違う。この契約も、決し
て﹃取りすぎる﹄ということがない﹂
ゼニーロは悄然と言葉を続けた。
﹁フロイラインがケーキ屋を始めると聞いたとき、わしはてっきり、
うちの商会との全面抗争になるものと覚悟しておりました。事実と
して、わしはそのつもりで、総力をあげてフロイラインのケーキ屋
を潰そうと挑ませていただきました。しかし︱︱フロイラインは、
まったく違うことを考えておられたのですな。フロイラインはわし
らのことなどまったく問題にもしておらず⋮⋮わしは、手のひらの
上で転がされておっただけ⋮⋮フロイラインは見事にわが商会に報
復をした。自らが必要な分の、最小の利益のみを慎ましく取りなが
227
ら、さらにさらに、わしらの心がけ次第ではいつでも加えた報復を
撤回できるような工夫まで⋮⋮﹂
ゼニーロは置かれたケーキに目をやった。
﹁⋮⋮オグラ・アン、といいましたか﹂
﹁ええ﹂
﹁すばらしい商品だと思います﹂
﹁それはそうよ。二ホンの伝統的なお菓子だもの﹂
またわけの分からないことを言っているディーネにゼニーロは首
をかしげたが、そこは聞き流すことにしたようだ。
﹁わしなどはとてもフロイラインのライバルになりえません。手足
として働かせていただけるだけでも、大変にありがたいことだと思
います﹂
そこでディーネは、ちょっとだけ笑顔を引きつらせた。
﹁⋮⋮ミナリールさんがお金にがめつい貴族が嫌いなのは知ってた
けど⋮⋮そこまで言われるとちょっと怖いわね。過去にどんだけい
やなことがあったのよ⋮⋮﹂
﹁憎い、憎くないではありませんぞ、フロイライン。わしらにとっ
ては、生きるか死ぬか、の戦いです﹂
﹁そういうものなの⋮⋮﹂
︱︱こうして、ナリキの父、ゼニーロの改心により、公爵令嬢と
ミナリール商会の業務提携は平和裏に終了した。
228
研究員Aの回想 ∼皇太子殿下の伝説∼
錬金術師のガニメデは、先のカナミアを併合した勝ち戦にも参加
していた。もちろん、それ以外のいくさにもたびたび駆り出されて
いる。
実際の戦闘にはまったく参加していない。帝国軍に次ぐ第二位の
規模を誇るバームベルク公爵軍の後衛として、おもに傷病兵の手当
てを引き受けていたのだ。巨大な軍の中央、最も安全な位置に布陣
し続けていたので、実物のジークラインが戦うところも見たことが
なかった。演説中の彼をはるか後方からちらちらと垣間見た程度だ。
それでも、幕舎が連日ジークラインの話題で持ちきりになっていた
ので、彼がどんな戦いをしているのかはこと細かく知っていた。
兵士は末端の者にいたるまで、みな口々に言うのだ。
あの人こそは本物の英雄。覇道を行くに足ると神より認められし
当代最高の勇将であると。
ガニメデはというと、単純に、ジークラインの演説が格好いいの
で好きだった。何かこう、熱く燃えあがるものがある。華やかな容
姿も憧れのポイントだ。
語られるエピソードもまた派手やかだ。
いわく、敵方にわざと捕まり、捕虜となった先で、手足を縛られ
くつわをされた状態から魔術封印を無理やりぶち破って敵の本陣を
丸裸にした。
いわく、その状態で味方の軍に自分ごと本陣を襲わせ、無事に帰
229
ってきた。
いわく、その途中で敵の騎竜兵に囲まれても、武器なし防具なし
騎竜なしの丸腰状態から敵の武器防具を奪いながら戦い続け、つい
にはたったひとりで敵をせん滅しつくし、生還した。
いわく、三十か所以上手傷を食らってもまだピンピンしていた。
いわく、そのすべてが三十分とたたずに全快した。
︱︱本当に人間かよ。
実際に目の当たりにしたことがないガニメデは、絶対に尾ひれが
ついた根も葉もないうわさ話だろうと思っていたが、日が経つにつ
れて考えを改めた。
どう考えてもホラとしか思えないが、その奇跡の逸話を信じ込ま
せる政治的手腕だけは確からしい、と。
なにしろ彼の名前はすでに英雄の枠を超え、神さまのような扱い
になっていて、助かる見込みの薄い兵も、死の床でひたすらジーク
ライン万歳を唱え続けているといった有様なのだ。まるでそうして
いれば絶対に助かるとでもいうように。
︱︱あれは不気味だったなぁ。
そんな状態だったから、軍の士気は異様に高かった。どんなに絶
望的な状況でも、絶対にジークラインならなんとかしてくれる。誰
もが根拠もなくそう信じていたから、死と隣り合わせの布陣であっ
ても敵兵に怖れることなく立ち向かっていく。
ガニメデはそのときしみじみ思ったのだ。
帝国軍は確かに強い。でも本当に強いのはジークラインで、彼が
いたらどんな軍でも強くなる。
230
むしろもう、彼ひとりでいいんじゃないかな、と。
一万二万という大規模な人数をまとめあげ、指揮系統を綿密にコ
ントロールするには、一定の空気を醸成する能力が必要だ。剣の強
さや騎竜を乗りこなす技術などを越えた先にある、より圧倒的な能
力。言葉でいちいち説明されずとも、ひと目見ただけでこの人に従
ってみたいと思わせる才能。カリスマといえばいいのだろうか。ジ
ークラインにはそれがあったし、それをうまく利用する頭脳もあっ
た。
今でもガニメデは英雄譚の半分以上が作り物だと思っているが、
大事なのは真偽ではなく、それをあれだけの規模の大軍に信じ込ま
せた、彼の軍師としての才能なのだと思っている。
何をどうすればそんなペテンまがいのことができるのだろう。ガ
ニメデにはまったく及びもつかないが、それが彼と自分との決定的
な差だ。彼にはできて、自分にはできない。ただそれだけだ。
***
お嬢様に乞われて、弱毒性の薬物に火をつけ、吸わせている最中
のできごとだった。
タバクという名の草を乾燥させたもので、火をつけて煙を吸引す
ると軽い興奮剤の役割を果たす。しかし毒性はまったく強くなく、
人によっては数度で慣れてしまって効果が薄れる程度のものだった。
純粋培養のお嬢様にはすこしだけ刺激が強かったらしく、ずいぶ
ん過激な効果が現れていたので、ガニメデもちょっとおどろいた。
その騒ぎの最中。
皇太子ジークラインが、突然ガニメデの目の前に現れた。平凡な
研究員にとっては半ば虚構の世界の人間であるあの皇太子が、だ。
231
︱︱転移魔法? どうやって!?
一応、バームベルク公爵のお屋敷にも魔術封印はある。建物でい
えば塀や堀を張り巡らせたようなもので、決められた経路以外から
強引に突入する場合にはそれを乗り越えるのが大変なのだ。堀を泳
いだり、壁をよじ登ったりしている間に人に発見されて御用となる。
それを全部まとめてすっ飛ばしていきなり目的地から目的地に飛
ぶなんて、どう考えても無茶だ。
不可能を可能にする天才。生きながら神話と伝説の境目を行き来
する男。
その彼がすぐそばに立ったとき、思ったのは、とにかくデカい、
ということだった。
︱︱背丈がデカい、手のひら分厚い、首が野太い、胸筋すごい。
なるほどこれが神に愛されるということなのか。もう、見ただけ
で分かる。これにはどんなにあがいても絶対に敵わない。殺される
前にこちらからはいつくばって腹を見せ、犬のようにせいぜい愛想
を振りまいておくのが関の山だ。
その彼に睨まれたときは、もう本当に、﹃詰んだな﹄と思った。
なにしろガニメデは彼の大切な婚約者であるウィンディーネお嬢様
と密室でふたりきり、しかも彼女には薬物の中毒症状が出ていてこ
ちらは無傷だ。言い訳無用、問答無用でぶち殺される未来しか見え
てこない。
232
233
続・研究員Aの回想 ∼家具と皇太子∼
﹁ちょっとジーク様、威嚇しないで!﹂
ところがお嬢様は、あの恐ろしい皇太子に向かって、果敢にキャ
ンキャン吠えていた。その度胸だけはすごい。軍隊であんなことや
ったら確実に三回はぶん殴られている。
﹁⋮⋮こういうのは感心しねえな。危険なことをわざわざ選んです
るってのは﹂
ジークラインは意外に女性には甘いらしく、お嬢様には大変に思
いやりのあるお言葉をかけていらっしゃった。声色も心なしかやさ
しい。これが軍であれば﹃馬鹿野郎二度とすんな!﹄と鉄拳制裁が
飛んでくる場面である。
途中で婚約を破棄するとかしないとかいう単語を耳にしたが、気
のせいだろうか。
ふたりはしばし痴話げんかを繰り広げ、突然ディーネがガニメデ
を盾にして隠れるという暴挙に出た。
殺されそうな目つきで皇太子から睨まれ、ガニメデは直感した。
︱︱終わった。
行く末は大陸統一か世界皇帝かという大物から、しっかりと敵愾
心を抱かれてしまっている。
234
お嬢様はまったく空気を読まずに、婚約を破棄して好きな男と結
婚するのだとなにやら持論をぶちあげている。
︱︱いやいや、無理でしょ。
皇太子殿下はどう見てもお嬢様を気に入っている。だからキャン
キャン無駄吠えされても怒らずに付き合ってあげているのだ。これ
が戦時中の幕舎だったら確実に命はない。皇太子は指揮系統に混乱
をきたすのを嫌う。序列を乱し風紀を乱す人間を絶対に許さない。
処罰をするときの彼は冷酷無慈悲だ。
ウィンディーネお嬢様への応対だけが特別なのだ。
皇太子によると、彼にベタ惚れだったはずのお嬢様が、なぜかこ
の頃急に反抗的になり、婚約破棄を言い出すようになったらしかっ
た。
︱︱ますますマズい。
他に好きな男ができたのかと勘ぐられても仕方のない状況だ。
そして間に挟まれているガニメデの寿命がガリガリ削れていく音
がする。幻聴だろうか。
﹁ジーク様はどうなんですか? 私を愛していたから結婚しようと
思った?﹂
ガニメデは、もうやめてくれ、と思った。
それは、﹃どう考えてもそうだろう﹄としか言えないのである。
しかし、愛しているからどうか結婚してくれとひざを折って懇願
するには、さすがにジークラインの矜持が高すぎる。ガニメデとし
ても、二か国を武力のみで食らいつくした伝説級の男が、この小う
るさいお嬢様の足下にひれ伏す情けない姿はあまり見たくないので
ある。イメージが壊れてしまう。ジークラインにはぜひ半裸の美女
235
を常時五人ばかり侍らせて生活するぐらいの気概を見せてほしい。
ガニメデにとってのジークラインは、そういう﹃規格外﹄の英雄だ
った。
﹁⋮⋮俺の愛は、臣下に平等に与えるものだ﹂
案の定、あいまいな返答をした皇太子。
お嬢様はそれを額面通り受け取って、そっぽを向いた。
︱︱お嬢様はひょっとして鈍いのだろうか。
皇太子が帰ったあと、いろいろな意味で危険を感じたガニメデが
ちょっと突き放した応対をすると、彼女はひどいひどいと喚いた。
﹁私たち親友じゃない!﹂
この残念さと、ガニメデが見てきた中でも五指に入る美少女ぶり
のギャップ。
お嬢様には友達がいなさそうだと思ってそう進言すると、彼女は
心当たりでもあるのか、ガニメデも友達の勘定に入っていると言っ
た。
︱︱鈍いんだろうなあ。
お嬢様には分かるまい。ただの使用人であっても、お嬢様から友
達だと言われて、言外の﹃男としてはまったく魅力を感じない﹄と
いう宣告を感じ取り、わけもなく傷ついたりする心を持っているこ
ともある︱︱などとは。
236
もう少し賢い女性かと思っていた。残念だ。
残念だが、やっぱりお嬢様はかわいらしい。かわいらしいので、
多少残念でもいいかな、という気になってくるのが、ガニメデとし
ても辛いところだった。
その後、ガニメデが実験室でひとり後片付けをしていると、また
皇太子がやってきた。
前回と同じ、人間技とは思えない転移魔法に驚愕していると、彼
はさっと近寄ってきて、不機嫌に言い放った。
﹁⋮⋮次はない﹂
﹁は⋮⋮はい!? と、いいますと?﹂
﹁次、あいつに危険なものを飲ませてみろ。お前の命はない﹂
念のため確認しといてよかった。省略部分が恐ろしすぎる。
恐怖のあまり口がきけなくなり、ぎこちなく敬礼を返すと、彼は
不愉快そうにガニメデを上から睥睨した。
﹁⋮⋮どこにでもいるような有象無象じゃねえか。こいつの何がい
いんだか、まったく﹂
︱︱まずい。
先の大戦でも経験したことがないような、未曽有の危機をびんび
んに感じる。
﹁言っておくが、あれはもともと俺の女だ。今はちょっと冷静さを
欠いているようだが、じきによくなる。お前にくれてやるもんは何
一つねえ。髪の毛一本たりともな﹂
237
﹁は⋮⋮はい!﹂
ガニメデはとにかく必死に身振りで恭順のサインを繰り返し示し
た。軍隊式の、上司の命令を受け入れたときのやつだ。
﹁次、お前の不注意で俺の女の価値を少しでも損なってみろ。俺の
所有物に瑕疵をつける罪は重いぞ﹂
︱︱まずいまずいまずい絶対まずい。
皇太子は絶対になにかを誤解しているし、それを解かないことに
はガニメデの命はない。
﹁あ、あの、殿下、俺は⋮⋮お嬢様にまだ名前を覚えてもらってい
ません﹂
﹁あ?﹂
威嚇されて、ガニメデは死ぬかと思った。この人怖い。
﹁お嬢様は、使用人風情の名前を覚えておかれるほど暇ではないの
ではないでしょうか。つまり、俺は、お嬢様にしてみれば、お気に
入りの家具みたいなものです﹂
﹁家具か﹂
﹁家具です﹂
皇太子はやや毒気を抜かれた顔でため息をついた。こんなことで
いちいち気をもむのも馬鹿馬鹿しいと思ったようだ。
﹁⋮⋮邪魔したな﹂
皇太子はねぎらいの言葉をかけて、消えていった。
238
︱︱怖かった。
怖かったが、しかし、ジークラインの言動は、どう見ても嫉妬に
狂った男のそれだった。
あんな、すべての人間の頂点に立っているかのような英傑でも嫉
妬したりすることがあるのかと思うと、不思議な感じがする。しか
し、そこをいたずらに揺すぶって蜂の巣から蜂を出す気にもなれな
かった。
そしてガニメデは決意したのである。
︱︱もう二度と、お嬢様には物理的に近づくまい、と。
なんともいえない寂しさを覚えたが、それはきっと絶対にあって
はならない感情。
なので、見ないふりをして、自分で強引に蓋をした。
239
化学式がちゃんと言えないお嬢様
カフェの一角で、女の子のグループが騒いでいる。
﹁あっ、それも注文しちゃう?﹂
﹁しよしよー! もうここのケーキ大好きー!﹂
﹁食べ過ぎるよねー! 体重増加ヤバーい!﹂
近くの席で会話を聞いていたディーネは、ほっと安堵の吐息をも
らした。
ここは彼女と業務提携をした商会が運営するカフェ。
一時期は苦いケーキを提供したことで騒ぎになったものの、すぐ
に味が改善され、さらに見たこともない新商品を提供することで有
名なケーキ屋さんの商品も注文できるとあって、ちまたで人気上昇
中なのだった。
新商品の開発をしたのは転生公爵令嬢のディーネだ。今日は庶民
の一般客に混じって好感度の覆面調査をしていたのだが、どうやら
盛況らしい。
偵察についてきてくれた執事のセバスチャンが彼女に向かってほ
ほえみかける。
﹁成功、おめでとうございます﹂
﹁あー、ほっとした⋮⋮﹂
﹁お疲れでしょう。ここのところ、なかなかお休みになれなかった
ようですし﹂
240
﹁ほんと、もう、気が気じゃなくて。今日はもう寝るよ﹂
﹁あとで何かお部屋にお持ちしましょうか?﹂
﹁ほんと? じゃあ、甘いもの以外でお願い。もうしばらくケーキ
は見たくないの﹂
うんざりしたようにため息をつくと、セバスチャンはのんびりと
﹁私もです﹂と言った。
﹁お嬢様は働き者でいらっしゃいますね﹂
言葉少なにディーネをねぎらってくれるセバスチャンにつられて、
ディーネも、軽く﹁うん﹂と答える。
運ばれてきたカフェラテを飲みながらぼーっとしていると、こち
らをにこにこと見つめているセバスチャンと目が合った。つられて
ディーネもにへらと笑う。
︱︱あー、癒されるわー。
セバスチャンはあまり多くを語らず、普段は鉄壁の無表情なのだ
が、ディーネがお茶に誘うとゆるんだ笑顔を見せてくれるので、つ
いこちらも毒気を抜かれてしまう。
執事喫茶ってのもアリだよね、などとくだらないことを考えつつ、
ディーネはカフェの偵察を終えた。
﹁雑貨屋のほうはどうかしら。オープンしてからもうしばらく経つ
けれど﹂
次は商会が運営する雑貨屋に移動する。
241
***
ディーネはミナリール商会と、ベーキングパウダー以外にもいろ
いろと商品の契約を結んでいた。
ケーキ屋の準備をする一方で、お抱えの錬金術師と一緒に化学の
実験をたくさんしていたのである。いろいろなものができた。重曹
を使った各種せっけん。漂白剤。研磨剤。
重曹はアルカリ性なので、どうにかこねくり回せば洗剤として使
える、程度のことはディーネも知っていたのだが、あいにくちゃん
とした化学式などが分からなかったため、結構開発には苦労した。
﹁えーと⋮⋮成分を抽出して、もっと強いアルカリ性にする?﹂
﹁⋮⋮?﹂
﹁あ、重曹にお湯をかけると強アルカリ性になるから、重曹を煮詰
めたらいいんじゃないかな⋮⋮?﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
﹁あれ、アルカリ性とか、酸性の概念は伝わるわよね⋮⋮?﹂
﹁おっしゃりたいことは、分からないでもないです⋮⋮﹂
すごく頭の悪い説明だった。
あれをちゃんと解読した研究員はすごい。
︱︱その研究結果が並んでいるのがこの雑貨屋なのだ。
﹁便利な染み抜き用洗剤⋮⋮? フラー土みたいなものかしら⋮⋮﹂
﹁台所用品がこんなにたくさん置いてあって、すごいわ、見ている
だけでも楽しいのね﹂
242
﹁これこれ、このシャボンほんとによく汚れが落ちるの! 洗い物
の時間が半分になったわ!﹂
日常で便利な品をそろえたおかげか、一般庶民のご家庭の奥様か
ら、本格的な屋敷の管理を担う大貴族の使用人までさまざまな人が
押しかけるという騒ぎになった。
すごい混雑でなかなか中に入っていけない。これは店舗をもっと
増やしたほうがいいかもしれないなと思った。
ようやく隙間に割り込んでみると、まだ午後になったばかりだと
いうのに、棚の陳列はスカスカになっていた。生産が、需要に追い
ついていないのだ。
残り少なくなった洗剤に向かって、黒い執事服の袖が伸びた。
﹁私が下働きをしていた時分にこの洗剤があればどんなによかった
ことでしょう﹂
遠い目でそうもらしたのはセバスチャンだ。
ディーネは不思議に思った。
﹁セバスチャンって生まれつき執事だった人とかじゃないの?﹂
たまにいるのだ。代々執事の家系に生まれて、幼いころから執事
一本槍で教育されるエリート執事が。
セバスチャンもこの若さで執事をやっているのだから、当然のよ
うにエリート執事なのだと思っていた。
﹁いいえ、始めはひたすらご主人様の靴を磨くボーイをやっており
ました﹂
243
﹁わあ⋮⋮﹂
﹁大帝国の公爵さまともなると、革靴の底が私のいただくステーキ
肉よりもはるかに分厚いのだなと思ったのを覚えております﹂
﹁セバスチャン、今日はお肉を食べましょう﹂
﹁いえ、そんな⋮⋮昔の話でございます。今はとても、満ち足りて
おりますから﹂
ふわーんとほほえむセバスチャン。一瞬、背後にお花のエフェク
トが飛んだような気がした。
﹁お嬢様のおかげでございます﹂
のんびりとそう言われてしまい、ディーネもだんだん思考がまひ
してきて、﹁そっかあ﹂とたいへんにゆるんだ返事をした。彼の性
格のせいなのかなんなのか、彼に付き合っていると、マイナスイオ
ンのようなものにあてられて、だんだん言語中枢が破壊されてくる
のである。
最終的にセバスチャンと意味もなく見つめ合うことになった。
﹁あは﹂
﹁うふ﹂
︱︱なんだこれ。付き合いたてのバカップル⋮⋮?
調子が狂う。内心そう思いつつも、セバスチャンといると和んで
しまって、ツッコミもどこかに行ってしまうのだった。
244
245
化学式がちゃんと言えないお嬢様︵後書き︶
重曹を煮詰める
重曹を加熱し、二酸化炭素を飛ばすと炭酸ナトリウムが残留。
強アルカリ性なので取り扱い注意。
フラー土
天然で産出する脱脂用の酸性白土。古代から近代まで羊毛の脱脂や
衣服の染み抜きとして使われていた。
246
腰を痛めた祖父とけなげな幼女
公爵令嬢ディーネは諸事情により、公爵領の改革に励んでいる。
その最中、帳簿を眺めていて、ふと疑問に思うことがあった。
﹁ねえ、ハリム。ここの、この、裁判記録なのだけれど﹂
家令の男を呼び止めて確認させる。記事は﹃とある農夫が畑にま
いておいた種イモを小さな女の子が盗んで食べてしまった﹄という
もので、女の子が小さいこともあり、刑罰なしで無罪放免。裁判に
かかった費用などの請求が領主であるクラッセン家に回ってきてい
たのであった。
﹁ここのね、女の子にお金払わせるのかわいそう、ってのは分かる
し、裁判費用はうち持ちでぜんぜん問題ないけど⋮⋮﹂
﹁ええ﹂
﹁この女の子、このあとどうなったの? 種イモを盗んで食べなき
ゃいけないほど貧しいってことだよね?﹂
﹁そこまではちょっと⋮⋮裁判所の管轄外ですから﹂
﹁孤児院とかに入れてあげたのかな? すごく気になるんだけど﹂
﹁調べてみましょうか﹂
﹁お願い。だって種イモよ? ジャガイモは修道女だって食べない
って言われてるのによ?﹂
どれほどの困窮なのだ。
ハリムはほどなくして女の子の家を突き止めてくれた。彼女は祖
247
父と二人暮らしで、どうもこの頃、祖父が体調を崩して寝込んでい
るらしい。
﹁不幸の予感がすごくするわ⋮⋮このあと悪い越後屋さんが来て女
の子を売り飛ばしそうね⋮⋮﹂
﹁使いの者をやって、様子を見にいかせましょうか?﹂
﹁ううん。私が見にいく。転移魔法の準備をお願い﹂
事情を知ってしまったらもう放っておけなかった。ディーネはさ
っそくの外出に備えて、着替えにいくことにした。
***
そしてやってきた民家は土壁の、こじんまりとした家だった。
麦藁のタペストリで塞がれた戸口のそばに立つ。
すると中の様子がすき間から丸見えになった。
﹁いつもすまないねえ⋮⋮﹂
﹁おじいちゃん、それは言わない約束でしょ﹂
ディーネはちょっとずっこけそうになった。まさか現実でその台
詞を聞くことになるとは思わなかったのである。
﹁あたたたた。たたた⋮⋮﹂
﹁おじいちゃん、大丈夫?﹂
﹁腰が⋮⋮﹂
︱︱腰痛かあ。
ディーネはちょっと悩んだ。ヘルニアは薬でどうにかなるような
ものではない。整骨の医者がいれば少しはマシになるのだろうか。
248
さもなければ温泉?
さらに、家屋の横にある大きな二枚の畑をちらりと見やる。そこ
はしばらく手入れがされていないのか、草が伸び放題で、荒れてい
た。
この規模の畑ならば、作物次第では十分に食べていける。しかし、
祖父が腰を痛めてしまったので、仕事ができなくなり、収入が途絶
えてしまった、といったところだろうか。
﹁ごめんください﹂
ディーネが声をかけると、中から少女がでてきた。格好が薄汚れ
ているのがまた泣ける。
﹁あなたがソルちゃん?﹂
あらかじめ調べてあった名前で本人確認を試みると、彼女は一気
に不安そうな顔になった。
﹁はい⋮⋮でも、あの、あたし、もう盗んでません﹂
少女︱︱ソルは、どうやらディーネたちを警吏かなにかと誤解し
たようだ。
﹁ああ、そうじゃないの。ええっとね⋮⋮私はあなたとお話をしに
きたのよ﹂
﹁お話⋮⋮ですか?﹂
﹁そう。まずソルちゃん。孤児院に入る気はない? 食事もあるし
⋮⋮﹂
﹁︱︱いや! あたし、絶対孤児院になんて入らない!﹂
249
おもいのほか強く拒絶されてしまって、ディーネはたじろいだ。
﹁孤児院はいや?﹂
﹁だって、おじいさんの面倒までは見てくれないって言うんだもの
!﹂
﹁あー⋮⋮じゃあ、おじいさんと一緒だったら、大丈夫そう? そ
うね、どこかの修道院とか⋮⋮﹂
﹁いや! あんなところにいったら、おじいちゃん死んじゃうもの
!﹂
それもそうか、とディーネは思った。修道院と養老院は違う。働
けない者はお荷物になる。であれば、それなりの扱いになるだろう。
女の子は目にいっぱい涙を浮かべて、ディーネを見あげている。
︱︱うっ。その顔反則。
﹁もしかして、畑のお金が支払われていないから、出ていけってこ
とですか? 困ります! あたしたち、行くところなんてないんで
す⋮⋮﹂
﹁それは、しばらくは払わなくてもいいって裁判で決まったんじゃ
ないの?﹂
バームベルクの慣習法は盗人に厳しいことで有名だ。しかし、デ
ィーネのパパにあたる公爵はけっこう親切というか、地代の徴収な
どに頓着しないザル経営の人なので、持たざる者に対してはかなり
の恩赦を与えている。
﹁そうだけど、でも⋮⋮﹂
﹁じゃあ、ソルちゃんはどうするつもりなの? 怒らないから、ど
250
うしたいのかを言ってみて﹂
ディーネが彼女の目線の高さに合わせてしゃがみこむと、ソルは
こわごわといった風にこちらを見た。
﹁あたしが、畑を耕せればいいなって、思うんですけど⋮⋮場所が
広すぎて⋮⋮﹂
確かに。この広さをひとりで耕作するとなると、幼女には辛いだ
ろう。
しかし、人の手で畑を耕せないのであれば、家畜を使役するとい
う手もある。
﹁一応確認するけど、畑さえ耕せれば、なんとか生活はやっていけ
そうなの?﹂
﹁はい﹂
﹁他に困っていることはないの?﹂
﹁ありません。あたし、なんでもひとりでやれます﹂
ちょっと怒ったようにソルが言うので、これがこの子なりの意地
なのだろうな、とディーネは理解した。
﹁分かったわ。じゃあ、私に考えがある﹂
251
腰を痛めた祖父とけなげな幼女 2
︱︱この国における馬の扱いは微妙だ。
荷物を大量に運搬するのならロバのほうが使いやすい。戦闘の騎
獣として使うのなら飛竜という上位互換がいる。素早くものを運び
たいのなら、魔法石を消費して転移魔法を使うのが一番いい。農地
の耕作をするのなら、牛のほうがコスパがいい。
転移魔法を使うほどではないけれども、少し早く移動したい。
そんなときに選ぶのが馬だった。
そんな有様なので、馬を使った農業についても研究が全然進んで
いないのだ。
転生令嬢のディーネは、腰を痛めて畑を耕せなくなったおじいさ
んの代わりに農業にチャレンジする少女へ、研究中の馬を貸し出す
ことにした。
﹁ソルちゃんには、耕作用の馬のモニターテストをしてもらいます﹂
﹁もにたあ⋮⋮?﹂
なんのことか分かっていないソルに向けて、説明をする。
﹁うちではもう少し、馬の研究をしたいと思っているの。農地を大
量に耕すのなら、馬のほうが早いはずなんだけど、うちにいるのは
軍用の騎馬だけでね⋮⋮あまり農地の耕作向きではないのよ﹂
252
ソルちゃんはやっぱりよく分かっていないようだ。
﹁要するにね、うちでは、人間の代わりに、畑を耕してくれる馬を
育てているの。最近外国産のいい農耕馬をわけてもらってね、ハー
ネスとかも工夫して、けっこういい感じに仕上がっているんだけど、
それを実際に試してくれる人が足りないのよ。だから、ソルちゃん
には馬を使って実際に畑を耕してもらって、感想なんかを教えても
らいたいんだけど﹂
ソルちゃんはものすごく警戒した目で、ディーネと、彼女のそば
にいる馬四頭を見比べている。奥のほうではディーネの連れてきた
大工が馬小屋を大急ぎで設置中だ。
﹁感想を言うだけでいいの?﹂
﹁そうそう。使いづらいところとかを言ってくれたら、フィードバ
ックされて、改良案があがってくるから。どんどん文句を言ってく
れたらいいのよ﹂
ソルちゃんはまだ警戒心が解けていないのか、とても怯えている。
﹁ほ⋮⋮本当にそれだけ? あとから馬を貸したお金をいっぱい払
えって言ったりしない?﹂
ディーネはちょっと胸がつまった。この子、なんてしっかりして
るのかしら。
﹁しないしない。契約書も交わす?﹂
﹁あたし、文字なんて読めませんけど⋮⋮﹂
﹁だいじょうぶだいじょうぶ。こーなったら大サービスね。一から
教えてあげるわ﹂
253
︱︱こまごまとした契約書の交わし方なんかを説明して、その日
は終わった。
***
そして一か月後。
ディーネがふたたびソルの家に行くと、あたりの様子は一変して
いた。
荒れ放題だった農地の雑草はすべて抜かれ、美しく畝が整えられ
て、青々とした植物が茂っている。
﹁わーお。がんばったわね﹂
﹁あ! お姉さん!﹂
畑にしゃがみこんで作業をしていたソルが、麦わら帽子をちょい
っと跳ねのけて、こちらのほうを向いた。
﹁お姉さん、この間はありがとうございました。おかげで、夏には
収穫できそうです﹂
﹁いーってことよ﹂
﹁お金も貸してもらえて、助かりました。本当にありがとうござい
ます!﹂
ディーネは感心しっぱなしだった。こんなに小さな年の女の子が
ちゃんとあいさつできるなんて、けっこうすごいことなのではない
だろうか。
﹁ま、元気でやっててくれてよかったわ。この調子でがんばって﹂
254
﹁あの! 私、まだ、お姉さんのお名前教えてもらってません!﹂
﹁私? 私はね︱︱﹂
ディーネは少し考えた。公爵家のものだと名乗るのはちょっと恥
ずかしい。
﹁私はディーネよ。なんか用事があったら、いつも来てる研究員に
言って﹂
考えた末に、愛称だけを教えてにっこりほほえむと、ソルは感激
したように﹁ディーネさん⋮⋮!﹂と名前を繰り返したのだった。
255
いちごとバニラ
五月のとあるうららかな午後。
ディーネの部屋にしつらえてある応接間で、筆頭侍女のジージョ
が努めてさりげなく言った。
﹁姫。そろそろいちごがおいしい季節でございますね﹂
﹁そーねー! いちごフェアとかやりたいわね。ジェラートとかも
いいよね!﹂
﹁いいですわね∼!﹂
まわりで聞いていた三人の侍女たちも騒ぎ出した。
そこに、ジージョが絶妙のタイミングで言う。
﹁ところで、ジークライン様もいちごがお好きだったかと思います
が﹂
ディーネは口をあんぐりと開けた。
﹁あいつそんなカワイイもんが好きなの!?﹂
﹁姫! あいつとはなんですか! あいつとは! 仮にもご婚約者
さまで、長年のお付き合いでございましょう! まさか忘れたとは
言わせませんわよ!﹂
そういえばそうだった。
ただ、ジークラインは戦神と呼ばれるほどの武芸者で、鍛え上げ
られた肉体は鋼のごとき剛健さ。
256
いちごよりも、生卵ジョッキとかりんごを掴んで粉々に粉砕する
芸とかのがよっぽど似合いそうなデカいイケメンなのである。
ディーネはつい最近日本人だった頃の記憶を取り戻した転生者だ
が、そっちの感覚が入ってきて以来、どうも今世のいろんなことを
忘れがちなのだった。
﹁でも、いちごって⋮⋮いちごって⋮⋮あいつ卵とかちゃんと割れ
なさそうなのに⋮⋮いちごなんて掴んだ瞬間に粉々になるんじゃ⋮
⋮﹂
﹁あら、ジークライン様はとても手先が器用な方ですわよ﹂
﹁絵がとてもお上手なのですわよね!﹂
﹁あいつがカンバスに絵筆なんか乗せたらその瞬間に爆発四散する
んじゃないの⋮⋮?﹂
﹁姫!! いい加減に下品な言葉遣いはおやめくださいませ!!﹂
ジージョはとうとう泣き真似を始めた。
﹁わたくしの教育が悪かったのでございますね⋮⋮立派な淑女にな
っていただきたいからと厳しくしすぎたのがいけなかったのですわ
⋮⋮ああ、わたくしはもう公爵さまご夫妻に顔向けができませぬ⋮
⋮﹂
ディーネがめんどくさそうに聞き流していると、ジージョはわざ
とらしい泣き真似をやめた。
目をつり上げてディーネにつめよる。
﹁姫。姫が最後に殿下のもとをご訪問させていただいてからどのく
らいの日数が経ったかお分かりですか﹂
﹁⋮⋮一週間くらい?﹂
257
﹁ひと月! でございますよ! ひと月以上もご無沙汰しているの
でございます!﹂
ジークラインは転移魔法の使い手なので、園遊会の最中にも少し
だけ会ったし、つい先日も公爵領で新商品を開発中のディーネのと
ころに顔を出していた。なのでひと月の間、まったく会っていない
わけではないのだが、事情を知らないジージョには遠ざかってるよ
うに見えてしまうのだろう。
﹁きっとジークライン様も寂しくしていらっしゃることでしょう﹂
﹁ええー⋮⋮あいつそんなけなげなタマかな⋮⋮﹂
﹁婚約者から放っておかれたら寂しくなるものです。でも殿方から
そんなことは申し出ることはできないでしょう? ですからディー
ネさまが気をきかせて、お会いしたいですとこまめに申しあげるこ
とが大事なのでございますよ。お分かりですか?﹂
﹁いやだよ面倒くさい⋮⋮﹂
﹁姫!!﹂
そんなに怒鳴らないでほしい。鼓膜が破れそうだ。
﹁そろそろいちごの季節ということで、厨房にもいちごを各種取り
揃えてございます。新作のすいーつとやらを作ってジーク様にお持
ちしてさしあげてくださいませ﹂
﹁⋮⋮はぁい⋮⋮﹂
忙しくてそんな暇ないのになと思いつつ、ディーネはしぶしぶう
なずいた。
***
258
ディーネはいちごのクヌーデルを作った。クヌーデルとは団子の
ことで、丸めた小麦粉の生地の中に、果物や液状のチーズなどを好
みで入れて茹でるお菓子だ。今回はこの団子の中に、いちごの甘く
煮たのを詰めてある。
さらに、全部同じというのも芸がないと思ったので、プレーンな
いちご味とは別に、いちごバニラアイスといちごチョコレートのガ
ナッシュを半々ぐらいで入れてバリエーションをつけた。
﹁今日のディーネさまからはなんだかすごく甘い香りがしますね﹂
着替えを手伝ってくれているナリキが鼻をすんすんさせながら言
う。
﹁これ? いいでしょ。バニラっていうのを加工した香料なんだけ
ど、なんか時間がかかるらしくてね。最近ようやく実用化できそう
な目途が立ったんだよね。おいしそうでしょ?﹂
バスケットの中身を披露すると、ナリキはうなずいた。
﹁すごくいい香りです﹂
﹁いろんなお店屋さんが立ち並ぶ一角で、ひとつだけこんな甘い香
りをさせるケーキ屋さんがあったら、みんな立ち止まってしまうと
思わない?﹂
ナリキはごくりとつばを呑んだ。
﹁⋮⋮思います﹂
﹁でもバニラビーンズはなかなか数が取れないうえに、オイルを精
製するのに手間がかかるらしいから、そっちのカフェに回せるよう
259
になるまでにはちょっと時間がかかるかも。でも、なるべく早く提
供できるようにするから﹂
﹁ありがとうございます﹂
ナリキはしゃくしゃくとディーネの髪をとかしつけ、ねじりあげ
てアップにまとめながら、ふいに小さな声でささやいた。
﹁⋮⋮ディーネさまと業務提携ができてよかったと、わたくしの父
も申しておりました。くれぐれもお礼を申しあげておいてくれと﹂
﹁そう? まあ、誤解が解けてよかったよ﹂
ナリキの父が悪質な破壊工作まで行ってディーネの商売を邪魔し
ようとしていたのは、ディーネが市場の独占をしようとしていると
誤解したからだ。
その誤解が解けた今は、ゼニーロもあえてディーネと敵対する気
が失せたのだろう。商売人らしく、利益が出るならば利用しようと
考えたに違いない。
﹁それに、わたくしのことも⋮⋮わたくし、もうここの職場は解雇
されるものと思っておりました。社交界にも行けなくなるだろうと
⋮⋮なのに⋮⋮﹂
﹁まあ⋮⋮その⋮⋮なんていうか、人の黒歴史えぐるのはやめてほ
しいけどね?﹂
﹁くろれきし⋮⋮とは?﹂
﹁忘れたい恥ずかしい思い出のことよ﹂
﹁⋮⋮わたくしがいつそんなことを?﹂
﹁だから、ジーク様好き好きうるさかった時期とかがね、私にもあ
りましたけどね⋮⋮﹂
﹁それは別に恥ずかしくないことでは? ジークライン様のことを
好きにならない女性なんているのでしょうか﹂
260
﹁なんでみんなそんなにジークのことが大好きなの⋮⋮﹂
やっぱりこの国には厨二病の概念が共通認識としては広がらない
のだろうか、とディーネはちょっとがっかりした。
261
バニラと宿命
そうこうするうちに正装に着替えさせられ、皇宮から来訪許可の
返事が来た。
転送ゲートも無事にジークラインの部屋とつながる。
︱︱会いにいくのかぁ⋮⋮
ディーネは複雑な気分だった。積極的に会いにいきたい相手では
もちろんない。それに仕事だってたくさん残っている。
それでも、今回持っていく新作のお菓子はひそかに自信作だった。
材料を厳選して、一般向けに提供しているものよりさらにおいしく
作ったつもりなのである。
︱︱褒めてくれるかなぁ?
おいしく作ったといっても、すごくなにかが変わったというわけ
ではないから、気づいてもらえないかもしれない。ふつうに食べて、
おいしかったといってサラッと流されてしまうかも。そうなったら
ちょっとがっかりだけど。
︱︱あんまり期待しないほうがいいよね?
ひとりで悶々と考え込んでから、ハッとした。
いかん。これじゃまるで、髪型変えたのに気づいてほしい女子み
たいじゃないか。
262
︱︱なんでこんなにそわそわしてるんだろ。
理由をつきつめて考えると嫌な現実に直面しそうだったので、そ
こで考えるのをやめた。
ゲームのセーブポイントのような幻想的空間︱︱転送ゲートの中
に向かって一歩踏み出す。
次に気づいたときはもうジークラインの応接間だった。
中世期、カーペットは床に敷くものではなく、壁にかけて鑑賞す
るものだった。それだけ手作業のカーペット織は手間暇がかかって
高価だということだ。現代日本でもきちんとしたシルクの手織りペ
ルシャ絨毯は高級車並みの値段になる。
西欧の唐草模様を思わせる、極彩色の紋様入り絨毯が、部屋の全
面に敷きつめられていた。
隙間もないほどきっちりと織り込まれ、よく目が詰んだシルク地
特有の、緻密でなめらかな感触に、浮き足立ったディーネの靴底が
すべり、つるっといきそうになる。
﹁きゃっ⋮⋮!﹂
それはまるで乙女ゲーのヒロインの宿命のように。
何もないところでいきなり転びそうになったディーネに、さっと
手を貸してくれた人物がいた。
﹁あ⋮⋮﹂
263
空気が動いて、誰かがディーネをしっかりと抱きかかえてくれる。
おそろしく長い腕がディーネの腰元に巻きつき、壊れ物でも扱うか
のようにふわりとやさしく持ち上げた。足を踏みかえてなんとかま
っすぐに立ち位置を直したディーネは、赤面しながらしがみついて
いた広い胸から離れる。
﹁ごっ、ごめんあそばせっ⋮⋮﹂
足元不如意になった恥ずかしさと急に密着された緊張で、心臓が
ドキドキ言い始め、謝罪もうっかり噛んでしまった。
﹁離しても平気か?﹂
ジークラインの低い声がすぐそばで聞こえる。脱がせたらさぞや
いい腹筋をしているのだろうなあと思わせる、のびやかで響きのい
いバリトンボイス。
子宮に響くエエ声に、ディーネは腰がくだけそうになった。
﹁ちょ、ちょ、ちょっと、待ってっ⋮⋮﹂
もう一度しっかり絨毯を踏みしめて、よし、と思ったその矢先、
ジークラインが鼻先をつむじのあたりに寄せてきた。
﹁⋮⋮なぁんか、いい匂いがすんな?﹂
すん、と匂いをかがれて、瞬間的に血が沸騰しそうになる。
﹁はちみつか? ⋮⋮違うな。なんの匂いだ? 甘ったるいな﹂
264
首筋のあたりの匂いをかがれ、吐息をふきかけられて、ディーネ
は悲鳴を堪えきれなかった。
﹁⋮⋮いいいいやあああああああ!!﹂
じたじたじた、と暴れるが、ジークラインにしっかりと抱かれて
いるのでびくともしない。
﹁おい、どうした、おい、ディーネ!?﹂
﹁はなして! はなしてー!﹂
戸惑うジークラインの腕の中からもがきにもがいて抜け出すと、
ディーネは十歩分くらい距離を取った。
﹁ひ、ひ、ひ、ひとの匂いを、かぐなんて、犬みたいな真似なさら
ないでくださいまし! いきなり触るのも失礼ではありませんこと
!?﹂
ジークラインは困ったように頭をかいた。
﹁いや、悪かったけどよ⋮⋮そんなに嫌がるこたねえだろ﹂
﹁だ、だ、だ、だって!﹂
まだ心臓がバクバク言っている。当分収まりそうにもない。
﹁み、未婚の女子にあんなこと、失礼ですわ! ジーク様は私に謝
って! もう二度としないで!!﹂
﹁謝罪はもうしただろ。ちょっと落ち着けよ⋮⋮﹂
ジークラインはテーブルを指すと、ディーネを手招きした。
265
﹁まあ、座れよ﹂
266
バニラと呪文料理
公爵令嬢ウィンディーネ・フォン・クラッセンは婚約者である皇
太子のお部屋を訪問していた。
手作りのお菓子を作って定期的に会いにいくのが、記憶が目覚め
る以前のクラッセン嬢の楽しみだったのだ。
しかし、前世の知識が戻ってからのディーネは少々面倒に感じて
いた。
皇太子ジークラインの居室にはすでに紅茶のセットが準備されて
おり、あとはディーネの持参したお菓子を並べるだけになっていた。
ジークラインはトングを取ると、ディーネのバスケットから、新
作スイーツを取り出して、並べていく。
ディーネははっとして自分の腕をまさぐる。いつの間にかバスケ
ットを取られていた。最初に転びそうになったときだろうか? ﹁まったく、このおれに手ずから給仕をさせるのはお前ぐらいのも
んだぜ、ディーネ﹂
苦笑しながらやけに高い打点からポットを傾け、紅茶を注ぐ。茶
色の液体は長い長い放物線を描いてカップめがけて落ちていく。
﹁ちょ、ちょっと、こんな高い絨毯の上で、ジーク様っ、こぼした
ら大変っ⋮⋮!﹂
はらはらするディーネの予想を華麗に裏切って、紅茶は一滴もこ
267
ぼれることなく白磁のカップに収まった。
﹁お、お、おおおっ⋮⋮!?﹂
ジークラインはさらにディーネのカップも取ると、やっぱりやけ
に高い位置から再び紅茶を注ぎ始めた。紅茶は魔法のように美しく
カップに注ぎ込まれていく。
﹁おおおおおっ⋮⋮!﹂
﹁まあ、とりあえず一杯﹂
流れるような動作でカップを手渡してくれるジークラインにつら
れてディーネがそれを受け取ると、彼はにかりと無邪気に笑って﹁
飲め﹂と言った。
﹁⋮⋮おいしいっ⋮⋮!﹂
いい紅茶は人をハイにする。ようやく頭ぴよぴよの混乱ステータ
スから回復したディーネに、ジークラインはふっと笑った。
﹁括目して飲めよ。この世でもっとも貴重な紅茶だ。なにしろおれ
の手を煩わせたんだからな﹂
﹁ふぐっ⋮⋮!﹂
久しぶりの厨発言がのどにキた。あやうく紅茶が変なところに入
るところだったディーネがむせていると、ジークラインは一層ニヤ
ニヤした。
﹁馬鹿、焦って飲むからそうなるんだ。とにかく、座りな﹂
268
言われた通り座りながら、ディーネはちょっと肩を落とした。さ
っきは動揺のあまりいろいろ口走ってしまったが、今になって言い
過ぎたような気がしてきたのだ。
﹁その⋮⋮先ほどは失礼しましたわ。助けていただいたのに、わた
くしったらお礼もせず⋮⋮﹂
﹁なーに萎れてんだよ。らしくねぇな。このおれが女のやることに
いちいち目くじら立てると思ってんのか﹂
豪快に笑うジークライン。ディーネはなんだかまぶしくて、その
笑顔が直視できなかった。
﹁⋮⋮けどよ、俺を退屈させるのはどうなんだ? 面白そうなこと
やってやがんのに、俺には連絡なしってのはつれねえじゃねえか。
たまには報告書の一枚でも送ってきたらどうなんだ、ディーネ﹂
やたらと上から目線で言われて、ディーネはかちんと来る。
﹁なんで報告書なんか送んなきゃいけないの⋮⋮私の上司でもない
のに⋮⋮﹂
その瞬間、今朝がた筆頭侍女から食らった忠告を思い出した。
﹃婚約者から放っておかれたら寂しくなるものです。でも殿方から
そんなことを申し出ることはできないでしょう? ですからディー
ネさまが気をきかせて、お会いしたいですとこまめに申し上げるこ
とが大事なのでございますよ﹄
﹁⋮⋮要するに、寂しかったってこと?﹂
269
照れ隠しや格好つけを取っ払った容赦のないまとめに、自尊心が
高すぎる男はちょっと気まずそうな顔をした。
︱︱図星か。
ちょっと、かわいいんじゃないの? と思いかけた矢先。
﹁この世の有象無象の言うことなんざどれも雑音に過ぎねえが、お
前は俺を楽しませる希少な存在だ。もう少し俺の側近くに侍る義務
がある。そうだろ?﹂
さらにグレードアップした厨発言を食らって、ディーネは会話を
続ける気力をごっそり殺がれ、沈黙した。
なんでこの男はこうなのだろう。もう少しふつうの語彙で喋るこ
とはできないのだろうか?
﹁⋮⋮こっちもなんかいい匂いがすんな﹂
ジークラインがお皿を引き寄せ、鼻を鳴らす。
﹁これも新商品か? かいだことない香りだ﹂
ディーネはやや機嫌を持ち直した。
それだ。そこに突っ込んでほしかった。
﹁ジークラインさまがおっしゃっているのは、おそらく﹃バニラ﹄
の香料ですわね。この国ではまだ知られていない香料ですけれども、
お菓子ととても相性がいいんですのよ。アイスクリームにもチョコ
レートにも合いますもの﹂
270
ディーネがペラペラと説明を始めると、ジークラインはちょっと
笑った。
﹁⋮⋮なんですの?﹂
﹁いや、楽しそうだなと思ってよ。いいぜ? 聞いてやるから続け
ろよ﹂
﹁まあ⋮⋮﹂
その言い方だとまるでディーネがおしゃべりを聞いてほしい寂し
がり屋のカノジョみたいじゃないか。
なまぬるい笑顔で見守られているのも腹が立つ。
﹁⋮⋮どうした? おしゃべりはもうおしまいか?﹂
﹁もういいです!﹂
ディーネがふてくされて持参したお菓子に手をつけ始めると、ジ
ークラインはますますおかしそうに笑った。
﹁そうかよ。忙しい女だな﹂
そして彼もディーネが持ってきたお菓子、いちごのクヌーデルに
目をやった。
﹁団子に色がついてっけど、どれがどうなってんだ?﹂
﹁ピンクのお団子がプレーンないちごのジャム入り、白いのがいち
ごのバニラアイス入り、褐色のがいちごのチョコレートガナッシュ
入り⋮⋮です﹂
﹁バニラアイス⋮⋮? 呪文みてえだな⋮⋮﹂
271
この国にはまだバニラのアイスもチョコレートのガナッシュも存
在しない。よって彼には外国語の呪文のようにしか聞こえないらし
い。
272
バニラと闘志
公爵令嬢のディーネは婚約者との定期面会の席にいた。
婚約者︱︱ジークラインは彼女が持参したお菓子の物珍しさに少
し躊躇している。
﹁ま、食ってみっか﹂
ジークラインは丸いお団子のようなお菓子、クヌーデルにナイフ
を入れると、きれいに二等分にした。彼はちんまりしたデザートに
向かってナイフやスプーンを構えているのがギャグにしか見えない
ような大男なのだが、大帝国の正統な皇太子なので、見かけに反し
てテーブルマナーなどは地味にきちんとしているのであった。
割り開いたお団子の中にいちごのソースがたっぷりと含まれてい
るのを見て、﹁うまそうだ﹂と目を細める。作った当人であるディ
ーネとしては落ち着かない。いちごのソースなんてそんなに手間の
かかるものではないが、それでも煮詰めるのにかかった時間などは
間違いなく皇太子のために消費したのだ。ねぎらいぐらいはほしい
と思ってしまうのが作り手の心理だが、ジークラインはこれまでに
もそのへんを外したことはなかった。筋トレばかりしていていかに
脳みそがすかすかしてそうに見えても、やはりそこは教育のいきと
どいたお坊ちゃんなのである。女性一般の扱いも心得たものだ。
ジークラインはお団子の片割れをお行儀よくスプーンですくい、
食べた。
﹁⋮⋮﹂
273
ディーネは知らんふりで自分の分のデザートを食べつつ、気が気
じゃない。
作るからには、やっぱりおいしいと言われたい。でもぱぱっと手
早く食べられてしまうのも面白くないのだ。
ジークラインはわざとやっているのかと思うほどディーネを焦ら
してから、ぽつりと言った。
﹁⋮⋮うまい﹂
ディーネはニヤつきそうになるのをこらえる。当たり前じゃない、
とは言わないでおいた。生地の材料からして厳選してある。けれど
もそれをわざわざ自分から申し出て、これは特別製なんですよと教
えてやるのもしゃくだった。まるで彼のためを思って作ったみたい
に聞こえてしまうではないか。
さらに続きを食べてから、ジークラインはふと顔をあげた。
﹁ディーネが作ってくれるやつは、やっぱ違うな。生地の味が違う﹂
ディーネはぴくりとした。そこに気づくとはなかなかの男である。
﹁ケーキ屋、繁盛してるらしいじゃねえか﹂
﹁ええ﹂
﹁食ったぞ﹂
﹁え?﹂
﹁母親に付き合わされてな。まあ悪かねえ。まあまあの食い物だ﹂
274
︱︱お母さんと仲良しだな!
あのハリウッドスターみたいな皇妃さまとジークラインが一緒に
ケーキつついている図を想像すると、なんだかほほえましい。
﹁そうですか。よろしゅうございましたわね﹂
﹁けどよ、お前の作ってくれるもんはあんなもんじゃねえだろ? ディーネ。なんでもっと本気で提供しねえんだ。お前ならまだまだ
いいものを出せるだろ﹂
﹁それは⋮⋮﹂
﹁この団子はいいな。ちゃんとディーネが作ってる。でもあのケー
キ屋はだめだ。味が何レベルも落ちてて同じ食い物とは思えねえ﹂
ケーキ屋のレシピはディーネが考案したものなので、基本的には
彼女がいつも作っているものと同じだが、お菓子づくりには素材や
作り手のちょっとした差が如実に表れる。やはり彼ぐらいの天才に
もなると食べただけで分かるらしい。
﹁お前が命をかけて始めたケーキ屋が、あんなぬるい出来のもんで
いいのかって聞いてんだよ。なぁ、ディーネ﹂
﹁か、簡単に言わないでよ⋮⋮﹂
動揺して、思わず素が出てしまうディーネ。
ケーキ屋を始めるにあたって、一番困ったのが、冷蔵庫がない、
ということだった。お菓子づくりには致命的な問題だ。
﹁わたくし、このクヌーデルは、バターからちゃんと作っておりま
すのよ。生地を滑らかにするには、バターの質がとても大切なので
ございます。本当にいいものを作ろうと思ったら、無塩無発酵で、
気をつけて冷やしておいたバターを使うべきなのですわ。でも⋮⋮﹂
275
ディーネには生まれつき氷雪系統の魔術の才能があり、それを訓
練する環境に恵まれていた。しかしそれはとても珍しいことなので
ある。
﹁お店で出すものは、保存の効く有塩発酵バターでなければ採算が
取れなくなってしまいますもの⋮⋮常温で置いておくものですから、
泡立ちが悪くなるのは避けられませんわ⋮⋮﹂
ジークラインは露骨に侮蔑の表情を浮かべた。
﹁つまんねえな。負け犬の遠吠えにしか聞こえねえ。そこで諦めち
まうのか?﹂
﹁だから、簡単に言わないでってば!﹂
︱︱ムカつく。これでも苦労してるのに、こいつはなんにも知ら
ないで勝手なことを。
﹁こっちのバニラアイスの香料だって、やっと少しだけ使えるもの
ができたから、わざわざあなたに持ってきてあげたのにっ⋮⋮!﹂
売り言葉に買い言葉でしゃべってしまってから、ディーネはしま
ったと思った。
﹁⋮⋮へえ﹂
ジークラインがひとの悪い笑みを浮かべる。
﹁わざわざ、おれのためにか。いい心がけだな、ディーネ﹂
﹁ちっ、ちがうし!﹂
276
﹁おいおい、素直じゃねえな。おれに貢ぎ物ができて光栄ですって
言ってみろよ﹂
﹁はあっ!? なんなの、もう!﹂
ディーネはストレスを目の前のお菓子にぶつけるべく、ぶすりと
フォークを突き立てた。
ムカつくと思っていても、フレーバー違いのお菓子に手をつけた
ジークラインからまた味を褒められてしまっては、怒りが長続きし
なかった。
厨くさいところは本当にいただけないけれども、彼ほどにもなる
とこちらが褒めてほしいと思っているところにちゃんと気づいてく
れるので、やっぱりうれしいと思わされてしまう。
﹁お前がさせてたのは、こっちの白いやつの移り香か﹂
﹁そうですけど。それが何か﹂
﹁じゃあ次も、またこれ作ってこいよ﹂
﹁⋮⋮さっきも申しあげましたでしょ。あまり採れませんの。稀少
なんですのよ﹂
﹁へえ、そうか。じゃあ、俺専用の貢ぎ物にしちまえよ。他の誰に
も作ってやるな﹂
ディーネはちょっとなんて返事したらいいのか分からなかった。
なんたる図々しさ。
﹁⋮⋮わたくしは、あなたにも作る気はないと、申しあげているの
ですわ﹂
ジークラインはどこ吹く風で、にいっと笑った。
﹁作ってくるだろ? ディーネ﹂
277
﹁作らないって! 言ってるじゃん!﹂
﹁それで、他のやつに作ってやるのは禁止だ。あの香りはヤバいか
らな。あんなもんつけてうろうろすんじゃねえぞ﹂
﹁⋮⋮そんなにくさかった?﹂
ディーネは思わず自分の服のすそをたぐり寄せてくんくんしてみ
たが、自分ではよく分からなかった。
﹁うまそうな匂いだった。だから、ヤバいんだろ。取って食われて
も知らねえぞ﹂
﹁⋮⋮!﹂
ジークラインの発言に、ディーネは今度こそ気を悪くした。
からかわれるのは好きじゃない。それが強くて立派な男から、か
弱い女性へという図式であればなおさら。
この男の何がそんなに偉くて、ディーネを格下の従属物のように
扱うのだろう?
許せなかったし、悔しかった。
でも、それ以上にもっと許せないのは、彼が相手なら仕方ないか
と心のどこかで思ってしまう自分だ。いろんなことを諦めてしまっ
ている弱い自分がそこにいた。
︱︱どうしたらこの男に認識を改めさせることができるのだろう?
闘志を燃やしながらディーネがジークラインをじーっと観察して
いると、彼は何を思ったのか、また面白そうにニヤッとした。また
その顔が銀幕の俳優のようにばっちり決まっている。ディーネは悶
絶することになった。悔しい、悔しいけれども格好いい。
278
﹁⋮⋮いつか、倒す﹂
﹁なんか言ったか?﹂
﹁なんでもアリマセーン﹂
︱︱とくに盛り上がりもなく、ジークラインのお部屋訪問は終わ
った。
279
バニラと闘志︵後書き︶
クヌーデルの生地を一から作る
団子にした生地に液状のチーズなどを入れて茹でる料理。
ジャガイモ生地で作るおかずの団子のほかに、小麦粉で作る甘いお
菓子もある。
生地にはバターを混ぜ込む。
280
ナリキの過去 1
ナリキは豪商の娘に生まれた。
毎年の誕生日には司教さまや貴族さまが入れ代わり立ち代わりや
ってきて、ナリキにあいさつをした。彼女が目当てなのではなく、
それを口実に父へ取り入ろうという魂胆だ。立派な前掛けをした職
人の親方たち、お仕着せの黒服をまとった市参事会のお役人たち。
各国の商会の支配人たち。手紙や贈り物も山ほど届いた。お前はう
ちの姫君なんだと誇らしげに繰り返す父の声を覚えている。
誰もが父と、その背後の富と名声をたたえたが、全員が本心から
父を慕っているわけではなかった。
﹁成り上がりのくせに﹂
︱︱そう吐き捨てた女性のことは忘れられない。見るからにやさ
しげな、うら若いその女性は、父に多額の借金があるという男爵家
のご令嬢で、パーティに飽きてしまった幼いナリキの面倒を看ると
みせかけて、にこやかにたくさんの悪口を吹き込んでいった。
﹁現実のお金をたくさん稼いだって、あの世にはもっていけないの
よ? 地獄行きなの。だからあなたも、死んだあともずっと、苦患
の火で焼かれ続けるの。ずっと、ずーっとよ。あなたたちは﹃異端
者﹄よ﹂
︱︱成り上がりのくせに。
281
︱︱お金だけはあっても卑しい身分じゃない。
宮廷すずめたちがささやきかわす陰口は、父の耳に入ることは姑
息に避けていても、子どものナリキ相手には容赦なく、むしろ聞こ
えよがしでさえあった。
︱︱だったら、身分だけあっても、何もできないあなたたちは何?
ナリキはその悪意に対し、相手を見下すことで心を守った。
公爵令嬢のウィンディーネお嬢様と初めて引き合わされたのは、
そろそろ基礎的な読み書き計算の勉強が終わろうかという頃合いだ
った。
父の書いた筋書きによれば、ナリキは公爵令嬢の付き人として行
儀見習いをし、それなりの年齢になるのを待ってから、爵位のある
男性のところへ、多額の持参金つきで嫁がされるのだという。新興
の豪商が目指す典型的な道のりだった。
まずもって素敵な結婚にはならないだろう。相手は金に困って卑
しい身分の女なんかと結婚をしたがるような貴族だ。誰があてがわ
れるにしろ、ろくな人間ではないことは断言できる。
すさんだ気持ちでお嬢様の家に奉公にあがったナリキに、ウィン
ディーネお嬢様はとても親切にしてくれた。
他人の悪意に染まっていない、とでもいうのだろうか。彼女は相
手のやることなすこと善意で解釈する傾向があった。ナリキが嫌味
のつもりで﹁全然公爵家のお嬢様には見えないですね﹂と言っても、
鈍感な彼女はとてもうれしそうにしていた。
282
おどおどしていて格好悪い。
はっきりものを喋らないところが気持ち悪い。
嫌味に気づかないなんて頭が悪い。
︱︱そういった意味合いを込めていたのだが、純粋培養のお嬢様
には通じなかった。
それどころか、逆に﹁親しみやすい﹂と言われたと解釈したよう
だ。
︱︱私と、お友達になってくれる?
なぜそう思うのだろう。これだけの悪意を込めているのに、どう
して気づかないのだろう。
決まっている。彼女は周囲から大切にかしずかれ、悪意から切り
離されて生きてきたのだ。相手が笑顔で近づいてきても、信用でき
るとは限らないなどと、疑ってみたことがないのだろう。
ナリキは苛立ちを募らせながら、お嬢様には容赦なく批判を加え
ていった。
﹁真の貴族の方は銅貨一枚も持たないって本当なんですね﹂
︱︱世間知らず。
﹁真面目なんですね。一生懸命、古いしきたりを守ろうとしてらし
て﹂
︱︱要領が悪い。
﹁お嬢様って、ときどきすごくかわいらしいことで悩んでらっしゃ
283
いますよね﹂
︱︱頭も悪い。
ところがお嬢様は、何を言われても素直に受け止めて、落ち込む
そぶりは見せても、ナリキを嫌ったり憎んだりするようなことはし
なかった。
﹁私、あんまり庶民の皆さんのことはよく知らないの。こういう立
場だから、誰も私には面と向かって言ってくれないでしょう? 教
えてくださってありがとう﹂
呆れたことに、お嬢様は本当に騙されやすいタイプだったのだ。
相手の言葉の裏が見抜けない、相手が何を考えているのかを探って
みようともしない、そうやって駆け引きをすることすら知らない。
彼女の母親、公爵夫人のザビーネがやってきて、ナリキに謝った。
﹁ごめんなさいね、うちの子、少し危なっかしいの。しっかりした
お姉さんについてもらえて、助かるわ﹂
彼女の言葉で、自分がお嬢様にあてがわれた真の意味を知った。
ナリキは、﹁人を疑う﹂ということをようやく学び始めたばかり
の純粋無垢な少女にはうってつけの﹁教材﹂だったのだ。きっと公
爵夫人はナリキがそれほどウィンディーネお嬢様のことをよく思っ
ていないことも、貴族との関わりにはあまりいい思い出がないこと
も、すべて知っている。
公爵夫人の思惑通りに動いてやるのは悔しい。
でも、お嬢様のことも好きになれない。
284
くすぶる毎日が続いた。
﹁ナリキさんの新しいお衣裳、素敵ですわね∼﹂
﹁父が、今度の式典で着るようにと⋮⋮﹂
﹁まあ素敵。このデザインなら、エメラルドなんかが似合いそう﹂
﹁あらいいですわね∼! 首飾りはぜひともエメラルドになさるべ
きだわ!﹂
﹁でも、私、エメラルドは持ってませんね﹂
そこで話を聞いていたお嬢様が、ふと立ち上がって宝石箱を持っ
てきた。
﹁これなんかどうかしら﹂
そういって取り出したのは、小ぶりながらも美しく装飾されたエ
メラルドの首飾りだった。
﹁あらぴったり! 素敵よ!﹂
﹁大人っぽいデザインだから、ナリキさんのほうがお似合いね﹂
﹁ありがとうございます。でも、持っていないものは仕方ありませ
んね﹂
するとお嬢様は、少しだけはにかんで、言った。
﹁⋮⋮よかったら、式典用にお貸しするわ﹂
ナリキは驚いて辞退しようとしたが、彼女は笑って﹁せっかくお
似合いになるのだし、つけてらして﹂と言う。
285
ナリキは困り果てて、筆頭侍女を窺い見た。
彼女も微妙な顔をしているが、とがめる気配はない。
︱︱どういうつもりなの?
ナリキにはお嬢様や筆頭侍女の考えていることが分からなかった。
侍女とはいえ、使用人にこれほど高価なものを貸し与えるなど、ふ
つうであれば考えられないことだ。もしもナリキであれば、絶対に
やらないだろう。使用人はきちんと管理されている状況下でなけれ
ば、平気でうそをつき、盗みを働く。
まだ幼かった頃、ナリキの誕生日プレゼントの荷物の山に、おじ
いさまから贈られた銀の聖具が含まれているのを見つけて、ポケッ
トにしまった使用人がいた。彼女のドレスはその重みに耐えきれず、
途中で無残に破けてしまった。
それを見つけた別のメイドが、﹃あなたでは罪の重さに耐えられ
ないようね﹄と言い、その十字架を自分の懐に入れてしまった。
メイドたちはどちらが十字架を所有するかでもめ、事態が明るみ
に出た。
︱︱商会の荷物も、厳重に帳簿と照らし合わせて管理しなければ、
船の積み荷が出港前と合わないだとか、羊の頭数が申告と違うだと
か、そういう不正はしょっちゅうなのだ。世界中、どこの国の人夫
であってもそれは変わらない。
︱︱人に裏切られたくなければ、初めにしっかりとした契約を。
すきのない管理を。
286
人を使う立場の人間として絶対になくてはならない感覚が、お嬢
様には丸ごと欠落している。
馬鹿だ、と思った。
︱︱この子はホンモノの、バカなんだわ。
エメラルドの首飾りのことは、式典の途中で紛失してしまったと
いって、自分のものにしてしまおう。ナリキはそう思った。なぜな
ら従業員とは、使用人とは、そういうものだからだ。ナリキもそう
やって数えきれないくらい裏切られてきた。
軽蔑とともに笑い飛ばそうとして、失敗した。
疑い、疑われ。だまし、だまされ。おもねる人間の誰が信用でき
るかなんて分からない。長年雇っていた使用人でさえ信用できない。
そんな風にして、冷えた人間関係のただ中に漬けられて生きてき
た。
けれどもお嬢様は、違う。
ナリキのことを友達だと思い、身の回りのものを預けてもいい相
手だと思ってくれている。信用できると思ってくれている。
お嬢様はなんて馬鹿で︱︱
かわいらしい人なんだろうと思った。
親密な関係だと認識してもらえる甘さに触れて、呆れながらも、
ほだされてしまったのだ。
ナリキはお嬢様からエメラルドの首飾りを借りて式典に出て、そ
れをきちんと返した。
287
お嬢様は疑うことを知らなくて、甘いところがあるけれども、そ
んな彼女を支えてあげられる自分の立場を、誇らしく思ったりもし
た。
288
ナリキの過去 1︵後書き︶
かず
かお
なやみ
こう
死んだあともずっと、苦患の火で焼かれ続ける
し
﹁われ目を數ある顏にそゝぎて苦患の火を被むる者をみしも
そのひとりだに識れるはなく 五二︱﹂︵ダンテ﹁神曲﹂地獄編・
第十七歌︶
http://www.aozora.gr.jp/cards/
000961/files/4618︳13199.html
﹁︵第七環の地獄で︶苦痛の炎で焼かれている人を見ても知ってる
者はおらず﹂
↓詩はこの後﹁ただ金貨袋を提げているので強欲な商人と分かる﹂
と続く。
289
ナリキの過去 2
ナリキは女主人である公爵令嬢に仕える侍女だ。
当初は好きになれない相手だと思っていたが、次第に打ち解け、
彼女にも忠誠心を感じていた。
︱︱そんなウィンディーネお嬢様が、ある日、突然、商売を始め
ると言い出した。
あの甘いお嬢様に、商売などできるわけがないとたかをくくって
いたナリキだったが、戦車の模型が完売し、大流行しているのを見
て考えを改めた。
彼女はもう、以前のように甘くない。
お嬢様と商売の話をすればするほど震えがくる。
帝都にケーキ屋を出すと聞いたとき、何の冗談だろうと思った。
そこにナリキの家の経営するカフェがあって、競合することは彼女
も知っているはずなのに。もしも設立されれば、互いに競合しあう。
︱︱乗っ取られる。
わけもなく直感した。まさか、お嬢様に限ってそんなことをする
はずがない。そう信じたかったけれど、現にお嬢様はナリキのとこ
ろの経営をまねて、スキのない計画を立て始めている。あのカフェ
を営業するまでにはそれなりの苦労があったのに、いいところだけ
を要領よく取り入れて。
290
︱︱まずいことになった。
これは怖いことだと、ナリキにもすぐに分かった。彼女が公爵家
の資本を駆使して本格的に商売を始めた場合、まず既存の商会では
太刀打ちができない。帝都の商人頭は、商人頭︱︱つまり庶民出身
の筆頭とうたいながらもその実態は貴族の世襲制で、大なり小なり
皇帝家と連なりのある家が担当している。
つまり、帝都の商人頭は実力で選ばれたわけではない。
だから、実務の能力は決して高くない。
その上彼は権力におもねることを悪いと思っていない。だから、
公爵家が手を伸ばそうとするならば、積極的に支援をするだろう。
いい意味でも、悪い意味でも。
ナリキの父も、ナリキと同じ懸念を抱いた。
﹁帝都から商会が軒並み叩き出されかねない﹂
﹁⋮⋮どうなるんでしょうか﹂
﹁パン、それからジャガイモの値段が上がるじゃろうな。わしらが
死守してきたカルテルなど、たやすく吹き飛ばされよう﹂
ナリキの父はほんの十年前に起きた悲劇の話をした。
今上陛下ヨーガフは、戦費の捻出で続けた無理がたたり、破綻し
かけた帝国財政を立て直すため、小金貨、銀貨の切り下げを行った。
次いで、銅銭を廃止した。
国内での銅銭の使用を禁じたのである。
物の値段は高騰した。
291
犠牲になったのは、銅銭を使い、ささやかな暮らしをしている庶
民たちだ。特注の大金貨以外は見たこともないという貴族にはなん
らの影響も及ぼさなかった。彼らはこの改悪を見越して、先に外国
貨や大金貨などに資産を移していた。
皇帝は庶民に戦費を負担させる目的で一連の政策を打ち出したの
である。
犠牲になった帝都民は当然、議会で貨幣の改悪をやめるよう強く
求めたが、功を成さなかった。なぜなら下院は庶民出身のブルジョ
ワで構成されるという伝統は忘れられ、席の半数近くが貴族出身の
人間で占められていたからだ。商人頭がお飾りのポストになってい
るのと同じく、議会の席も貴族が就く名誉職に成り果てていた。
その下院から貴族たちを追い出し、庶民の手に取り戻す努力を続
けてきたのがミナリール商会をはじめとした商会連合なのである。
﹁このままでは十年前に逆戻りしかねん。また、飢えた人であふれ
かえるぞ⋮⋮﹂
﹁でも、まさか、そんな、ディーネ様に限って⋮⋮﹂
ナリキの女主人は、人を疑うことを知らない。
﹁悪気がないのがもっとも性質が悪い、ということもある。もしも
彼女がこの先、皇帝陛下や皇太子殿下にうまく操られるようなこと
があってみろ。誰にそれが止められる?﹂
ナリキはぞっとした。
確かに彼女には、そういう弱さがあった。
やさしくて素直で、人を疑うことを知らない彼女が、甘言をささ
292
やく佞臣や、恋い慕っている皇太子に指図を受けて、それを拒絶で
きるだろうか。
﹁どうなのだ? わが娘よ。フロイラインは、信用に足る人物なの
か?﹂
ナリキはなんとも答えられない。
個人としての彼女は、もちろん信頼できる。とても心のやさしい
子だとも思う。
でも、それと、政治の世界での信用とは、まったく別のことだ。
﹁⋮⋮分かりませんが、近ごろ、彼女は皇太子との婚約の破棄を希
望しているようです。⋮⋮私がよく知るディーネ様とは、少し様子
が異なるのです﹂
﹁心変わりか。原因はなんなのだ?﹂
﹁それが⋮⋮私にもよく⋮⋮﹂
﹁たわけ!!﹂
父の怒声。こんなに真剣なゼニーロは初めて見る。
﹁お前がついていながら、なんて失態だ! もういい! お前はこ
の父の言うことに従っておれ! 反抗は許さんぞ!!﹂
︱︱事態はすでに、女主人とそれに仕える使用人、という図式で
は計り知れないところまで拡大していた。
数多くの庶民が犠牲になるかもしれない、という状況で、個人の
感傷を差し挟む余地などない。
それからのナリキは、父の言うなりに動いた。
293
鍵を盗み出したとき、どうにかうまくやりおおせたと思ったが、
それは早計だった。
お嬢様はこちらの意図などお見通しだったのだ。悪事がバレて、
ナリキはこれでもう彼女のそばにはいられないと思った。解雇は当
然のこととして、国内にいることも難しいと。
しかし、予想に反して、お嬢様はナリキのやったことを誰にも言
わなかった。
これまでと変わらない待遇で侍女を続けさせてくれるようだ。
彼女の支度を手伝い、髪を梳く。
本当にこの子は変わっている。ふつう、あんなことをされたら、
身の回りの世話など任せておけないと思うものではないのだろうか。
少なくとも、ナリキならばそんな相手に髪を触らせたりしない。
お嬢様が無力で、ただ守られるだけの存在ならば、この決定はた
だの愚行だろう。
でも彼女は、自分の意志で、ナリキを﹃許す﹄選択をしたのだ。
それはとても勇気のいることで︱︱
臆病で、他人を信じられないナリキには、決してできないことだ
った。
︱︱どうすればいいのかな。
ナリキはそれにどう応えればいいのか、決めかねていた。
まだしばらく、思い悩む日々が続きそうだ。
294
ペット用品を作りたいお嬢様
うららかな五月の陽気の中で。
﹁ディーネさまのお人形よく売れているようでございますねえ﹂
テーブルに置いてあった見本品の髪の毛をちょいちょいっと直し
てあげながら、ジージョが言った。
新しいおもちゃを開発する、というお話で、女の子の着せ替え人
形のことが出ていたので、ほかに何も思いつかなかったのもあり、
ひとまずそれを商品化したのだった。
皇太子の人形よりかはまだ民間に受け入れられやすいだろう、と
開発に付き合ってくれた研究員も言っていた。
﹁こうしておとなしくしていらしたら、ディーネさまもおかわいら
しいんですけれどねえ﹂
小言を右から左に聞き流していると、レージョが身を乗り出した。
﹁わたくしも親戚の子にねだられたんですのよ。ディーネさま、あ
と五体ぐらいくださいまし﹂
﹁あ、私もほしいです﹂
﹁私も、修道院の子に持っていってあげたいですわ∼﹂
﹁あぁ、それは必要かもね﹂
シスののんびりした発言に、ディーネはうなずいた。
295
チャリティ事業もまた貴族の義務のひとつ。おもちゃを持って修
道院巡りなどはぜひともするべきだろう。
﹁次は何にしようかしらね⋮⋮﹂
﹁男の子向けと、女の子向けはもう揃ったのですわよね﹂
レージョはぱちんと手を打ち鳴らした。
﹁じゃあ次はうちのジョセフ向けの商品を出してほしいですわ!﹂
﹁誰よ、ジョセフって﹂
﹁犬ですわ!﹂
﹁犬か﹂
うーん。犬、ねえ。
子ども向けのおもちゃもろくにない時代背景で犬のおもちゃを商
品化して売れるのだろうか。いや、無理だろう。
貴族向けとしても無理がある気はするが。
﹁犬が好きなものといったら骨でしょうか﹂
ほのぼのと応じたナリキに、今度はシスが応じた。
﹁あら、うちのイヌはぬいぐるみに目がないですわよ? 首のとこ
ろをカミカミしながら後ろ足で胴体を、てしてし、ってするのがお
気に入りなんですの﹂
﹁ああ。獲物を仕留めてはらわたを引きずり出す動きね﹂
シスはびっくりして固まった。
﹁⋮⋮うちのイヌは⋮⋮温厚な飼い猫ではなかったんですの⋮⋮?﹂
296
﹁いやそんなの知らないわよ⋮⋮なんていう犬種なのよ﹂
﹁ええと⋮⋮真っ黒でお鼻のところが茶色の色違いなのですわ∼﹂
﹁⋮⋮ドーベルマンかな?﹂
﹁わたくしがお気に入りの安楽椅子に座ると、おひざの上にのって
くるんですの﹂
﹁小型犬かな?﹂
﹁毛足がとっても長くて﹂
﹁テリアとかかな⋮⋮﹂
﹁とってもおりこうさんでねずみを取るのが上手なんですのよ!﹂
﹁猫ですがな﹂
﹁? そうですわ。うちにはイヌって名前の飼い猫がおりますのよ﹂
﹁叙述トリックかよ﹂
﹁イヌもおもちゃが大好きなんですのよ∼。とうもろこしの芯で作
ったお人形は食べちゃうぐらいお気に入りなのですわ∼﹂
﹁そう⋮⋮﹂
相手をしていたらキリがないので、ディーネは思考を切り替えた。
﹁そうね、マスコットキャラのぬいぐるみとか作ったらいいかもし
れないわね﹂
﹁ますこっと⋮⋮?﹂
﹁ゆるキャラっていうの? かわいい見た目と設定の、ほのぼのし
たぬいぐるみを作るのよ﹂
シスは、なにかを思いついたように、ぱぁっと表情を明るくした。
﹁ディーネさま、それなら、邪神のアジ・ダハーカくん人形なんて
いかがでしょう?﹂
﹁おいこら元修道女﹂
297
メイシュア教は偶像崇拝禁止である。
さらにメイシュア教に限らずだが、ふつうはどの宗教でも異教の
神さまを崇めたら厳罰どころではすまない。
﹁アジ・ダハーカくんはヘビ神さまで、頭がみっつあって、それぞ
れ苦痛、苦悩、死をあらわしているんですわ!﹂
﹁私いま﹃かわいい﹄って言わなかったっけ? 言ったよね?﹂
﹁終末のときには人類の三分の一を食い殺すと言われているんです
の!﹂
﹁かわいい見た目と設定!! 設定が怖すぎるわ!﹂
﹁落ち着いてくださいましディーネさま。見た目もどうかと思いま
すわ⋮⋮﹂
うしろからナリキがツッコミを入れる。
常識が通じる相手がいるってなんてすばらしいのだろう。
ディーネはナリキの両手をはしっと握った。
﹁やっぱり私にはあなたが必要だわ﹂
﹁⋮⋮突然どうしたんですか?﹂
﹁私にツッコミを入れてくれるのはナリキだけだからね⋮⋮﹂
﹁まあそれは、このメンツで言ったらそうですわね﹂
﹁これからもよろしく頼むわね﹂
ナリキはちょっとびっくりしたような顔をしていたが、やがて照
れ隠しのようにメガネをちょっと持ち直した。
﹁仕方がありませんね﹂
レンズの奥の瞳が少し泣きそうになっていることに、ディーネは
298
気づかないふりをしてあげる。
﹁⋮⋮お嬢様には、わたくしがついていてさしあげませんと﹂
︱︱そんな感じでナリキとの完全な和解が成立した。
299
セバスチャンの回想 セバスチャンはバームベルク公爵クラッセン家の本邸の執事だ。
仕事の立場上、ウィンディーネお嬢様とは頻繁に顔を合わせてい
たが、私的な会話はほとんどしたことがなかった。セバスチャンの
役割は彼らのために万事をつつがなく進行させることなのであって、
雇用主との過剰な慣れ合いは必要ない。感情を殺して、できる限り
道具のように使われることに注力した。
しかしながら、セバスチャンはウィンディーネお嬢様のことをと
てもよく知っていた。皇妃さまのお供としてやってくる侍女や皇室
の各屋敷に詰める執事たちが、セバスチャンの執務室で待機中、じ
つにさまざまなうわさ話をしていくのだ。やれ今日のお嬢様は皇太
子殿下とご一緒にあんなことをしていた、こんなことをしていた、
おふたりとも仲がよくてほほえましい︱︱
お嬢様の皇太子好きはとても有名だった。ふだんはめったに意思
表示をしないおとなしめの少女なのに、皇太子殿下がよその女性と
少しでも会話したりしようものなら大泣きで訴える。
その激しい一面は、使用人たちの関心の的にもなっていた。
﹁フロイライン・クラッセンは、ご自分に自信が持てないのでしょ
うね﹂
皇妃さまの侍女がしたり顔で言う。
﹁若い女性というのは大なり小なり自分が一番かわいいと思ってい
300
るものですが、フロイラインにはご自分のことをかわいいと思うお
心が欠けていらっしゃるのですわ。ご自分のことを肯定的に見る眼
を持っていないから、皇太子殿下のちょっとした仕草やお言葉にも、
冷たくされたのではないか、嫌われたのではないかと疑心暗鬼にな
って、過剰に反応してしまう。殿下も殿下で、フロイラインを不安
にさせないのも自分の務めだとお考えだから、お言葉が過剰に力強
くなってしまう。強い肯定のメッセージをもらえばもらうほど、フ
ロイラインは皇太子殿下に依存する。皇太子殿下は危なっかしい彼
女が見ていられなくて、もっと劇的な言葉を使うようになる﹂
﹁⋮⋮お似合い、ということでしょうか﹂
﹁ある意味ではそうなのでしょうね。でも、少し悪循環であるよう
にも感じられます﹂
セバスチャンは侍女の評価でいろいろと腑に落ちた。それでお嬢
様は、あれほど愛らしいのに、まったくそうでないかのようにおど
おどと自信なさげにふるまうのか。自分に自信が持てないのはセバ
スチャンも同じなので、勝手ながら、親近感がわいたことも付け加
えておく。
そしてあれは、いつのことだったろう。
つい最近のことだ。
お嬢様が、遊びにいらしていた皇太子殿下を部屋に残して、いき
なり屋敷の外に飛び出していってしまうという珍事件が起きた。
逃げるといってもそこはか弱い女性の足、すぐに皇太子殿下に居
場所を割り出されて、お嬢様はお部屋に連れ戻されていった。
301
その日の夜、セバスチャンは執務室で、激しい物音を聞いた。ば
たばたとやかましく駆け足で通りすぎながら、女性が激しくむせび
泣いている。慌てて追いかけてみると、彼女は屋敷を飛び出して、
外の森へとがむしゃらに進んでいくところだった。セバスチャンも、
必死に走ってどうにか捕まえる。
相手はウィンディーネお嬢様だった。
﹁離して、ほっといて!﹂
﹁なりません、お嬢様︱︱﹂
暴れる彼女をなだめていたら、どこからともなく皇太子殿下がや
ってきて、ふたたび彼女を連れ戻す手伝いをしてくれた。錯乱して
いる彼女も、皇太子殿下の顔を見るなり喜びでいっぱいになった。
深夜でひとが出払っているのもあり、自分の手で紅茶を淹れ、二
人が待つお嬢様のお部屋に行ったセバスチャンが見たものは、激し
く泣き喚くお嬢様だった。
﹁わたくしジーク様のことは本当にお慕いしておりますの、絶対に、
他の方のことなんて考えられないくらい! でも︱︱でも、どうし
てもだめなんです!﹂
皇太子殿下はいかにも余裕たっぷりという表情で、お嬢様の泣き
言を一蹴した。
﹁何がだめなんだ。昨日のリハーサルは完璧だったろうに﹂
﹁あ、あれは、まだ、人がいないから⋮⋮でも、たくさんの人がい
るって思うと、わたくしだめなんです、どうしても足がすくんでし
まって⋮⋮こ、声も、出なくなってっ⋮⋮﹂
302
お嬢様はまた泣き出した。
﹁わたくし、演説なんて、とてもできません⋮⋮こんなの、皇太子
妃として、失格ですっ⋮⋮皆さまにご迷惑をおかけして⋮⋮こんな
簡単なこともできなくて⋮⋮わたくし⋮⋮﹂
ジークラインは彼女の悩みを鼻先で笑い飛ばす。
﹁いいんだよ。お前は俺のとなりにただ立ってりゃいいんだ﹂
﹁そんなの、ジーク様がお許しになっても、他の方に申し訳が立ち
ませんわ⋮⋮﹂
﹁他のやつの言うことなんざどれも寝言だ。聞く価値すらねえ。い
つも言ってるだろ? お前は俺の決定に、ただ従ってりゃいい。い
いかディーネ、この俺がいいって言ってるんだぜ? これはもう、
世界が認めたってことと同義なんだよ﹂
﹁でもっ⋮⋮﹂
﹁俺の決定が、世界の決定だ。何にも心配なんかいらねえよ。だか
らお前は、おとなしく俺の腕に抱かれとけ﹂
ジークラインの説得に、お嬢様はおとなしくなった。気まずい沈
黙が続く。
ジークラインはなおもお嬢様を激励して、セバスチャンに破格の
金額のチップを渡し、﹁深夜に悪かったな﹂とねぎらいを述べ、紅
茶もそこそこに帰っていった。
お嬢様は、多少なりと落ち着きを取り戻しているように見えたが、
まだおひとりで残していくには忍びなく、セバスチャンは退室を命
じられるまでそこに立っているつもりで、壁際に控えていた。
303
やがてお嬢様は紅茶を飲み干した。お代わり目的でティーポット
に手をかけようとしたので、セバスチャンはさっと近寄っていって、
給仕をした。
するとお嬢様は、急に火がついたように泣き出したのだ。
304
セバスチャンの回想 2
セバスチャンが意気消沈するお嬢様に紅茶の給仕をしていたとこ
ろ、彼女は急に泣きだしてしまった。
どんな不手際をやらかして泣かせてしまったのだろうと焦りまく
るセバスチャンに、お嬢様が語ったところは以下の通りである。
﹁ジーク様のお嫁さんになりたいの、ずっとそう思っていたの、で
も、皇太子妃や皇妃にはどうしてもなりたいと思えない! わたく
しには、無理なの、できないのよ⋮⋮大勢の人がいる空間がだめな
の、本当に苦痛で、うまく息ができなくなってしまうのよ⋮⋮﹂
嗚咽しながらお嬢様が語る内容について、セバスチャンにはなん
ともコメントしようがない。怯えて、疲弊している彼女の気持ちは
よく分かったし、うっかり手を差し伸べてしまいそうにもなったが、
しかし、寄り添ってあげる役目は皇太子殿下のものだ。一介の執事
に許されたことではない。
﹁誰かが代わってくれたらいいのに⋮⋮﹂
ぽつりと言う彼女があまりにもかわいそうで、見ていられなかっ
た。
使用人としての領分を逸脱している。そうと知りつつも、セバス
チャンは少しだけ彼女と会話をしてみることにした。
305
﹁⋮⋮では、心の中で、交代したことにしてしまうのはいかがです
か?﹂
口を利かない家具のようなものだと認識していた使用人が、いき
なりそう言ったので、お嬢様はおおいに驚かれた。
﹁役割を、演じるのでございます。私もよく、そのように考えて、
辛い場面から逃げることがあります。ここにいるのは本来の自分で
はなく、執事という役を割り振られた役者︱︱その役の通りに仕事
をこなしていれば、たいていのことは受け流せるものです﹂
﹁役を、演じる⋮⋮?﹂
﹁さようでございます、お嬢様。民衆が見ているのはお嬢様ではな
く、未来の皇太子妃の役を演じているお嬢様なのでございます。決
められた役柄ですから、おかしなことを口走っても、失敗しても、
それはお嬢様の責任ではございません。すべて、あらかじめ神がお
書きになった台本なのでございます。お嬢様はそれを再現する役者
にすぎません。たとえどんなしくじりを犯したとしても、民衆が怒
り、熱狂し、失望する対象は、仮面のように着脱ができる、お嬢様
の上辺のみでございます﹂
彼女は不安そうな顔をした。
﹁それでは、本当のわたくしはどこに行ってしまうの⋮⋮?﹂
﹁どこにも。どこにも行きません。お嬢様はすべてを上座でくつろ
ぎながらご覧になって、そうして本当のお顔は、お嬢様がお気に召
・・
した方にだけ見せてさしあげたらよろしいのです。くだらないこと
は、すべて他人に任せてしまえばいいのですよ﹂
306
彼女はしばらく、セバスチャンの発言を反芻するように、深く沈
黙していた。
﹁⋮⋮紅茶、召し上がってはいかがですか。冷めてしまいますよ﹂
﹁あ⋮⋮ええ、そうね⋮⋮﹂
ハッとした彼女が、なおざりにカップを傾ける。
﹁あなたは、執事の自分が嫌になることがあるの?﹂
﹁⋮⋮ええ。子どものような失敗をやらかしてしまったときなどは、
執事になんてならなければよかったと思うこともあります﹂
﹁たとえば?﹂
﹁⋮⋮先日、公爵さまから頼まれていたお酒を、別のものと取り違
えて注文してしまいました。あんなミスをしでかすなんて本当にど
うかしていました⋮⋮消えてなくなりたいくらい恥ずかしい思いを
いたしました﹂
お嬢様はそこでようやく、少しだけ笑ってくれた。
﹁ごめんなさいね、笑ったりなんかして⋮⋮ほほえましいと思った
ものだから⋮⋮﹂
﹁いえ。他人の悩みは、軽く聞こえるものでございます。きっと皇
太子殿下も、お嬢様のお悩みをほほえましいとお感じになっている
のでしょうね﹂
﹁そうね⋮⋮あの方はいつでも強くて正しくて⋮⋮わたくしにはと
てももったいない方なの⋮⋮﹂
のろけのような言葉なのに、なぜかそのときのお嬢様は、少しだ
け苦しんでいるようにも見えた。
307
﹁⋮⋮わたくしも役者になれるかしら﹂
﹁有名な作家の受け売りで恐縮でございますが、人生は劇場、人は
誰もが役者でございます﹂
﹁人は誰もが役者⋮⋮﹂
お嬢様の背中を押すべく、セバスチャンは重ねて言う。
﹁その意気でございます。嫌なことは、別の誰かにすべて任せてし
まえばいいんですよ﹂
柄にもなく口調が強くなったのは、皇太子殿下を意識したからだ
ろうか。
﹁ありがとう。明日の式典も、少しだけがんばってみるわね﹂
お嬢様が笑ってくれたので、セバスチャンはテーブルの片づけを
して、下がった。
なんでもないふりをずっと続けていたが、ほほえむお嬢様は花の
ように愛らしくて、絶対に許されないと分かっていても、抱きしめ
てみたいという思いがずっと頭を離れなかった。
***
お嬢様は無事に式典を終わらせた。
それからの彼女は、まるで別人のようだと、誰もが口をそろえて
言う。
少しは自分のアドバイスが彼女の役に立てたのかもしれない。そ
う思うと、ほのかな満足を覚えた。誰も知らない、お嬢様とふたり
だけの秘密。皇太子殿下に対する後ろめたさが、秘密の甘さに拍車
308
をかけた。お嬢様にとっての自分はただの使用人だけれど、あのと
きの彼女の笑顔は、確かに自分にだけ向けられていたのだ。
そんな彼女が、いきなり、新しい商売を始めたいと言い出したと
き、セバスチャンは驚きもしたが、非常にうれしい気持ちにもなっ
た。
﹁私などに、そのような大役が務まるでしょうか﹂
﹁絶対大丈夫よ!!﹂
かつて、皇太子妃という大役に押しつぶされそうになっていた小
さな少女が、今ではこんなに立派になって、執事の自分に元気と勇
気をわけてくれているのだ。
⋮⋮元気を持て余しすぎて、ときどき妙なことも口走っているよ
うだけれども。
彼女のこと考えると、胸に温かいものが宿る。
巣立っていくひな鳥のように、たどたどしく飛ぶ練習をしている
お嬢様を見ていると、せめて自分のもとにいる間ぐらいは守ってあ
げたいと思ってしまうのだ。
︱︱騎士とは、仕えている城主の奥方に愛と忠誠を誓う者なのだ
という。
騎士が奥方に捧げる愛とはプラトニックなものでなければならず、
精神的なつながりだけを求めるのが真の騎士のあるべき姿、正しい
﹃騎士道﹄なのだそうだ。
ウィンディーネお嬢様には皇太子殿下という立派なご婚約者さま
309
がいらっしゃるが、もしも自分が使用人ではなく、騎士として仕え
ていたら︱︱事実、そういう誘いも公爵さまのほうからいただいて
いたのだ。
もしも騎士になっていたら。
お嬢様に思いを寄せることぐらいは、許してもらえたのだろうか。
争いごとが嫌で騎士を辞退した身なのだから、想像したってしょ
うがないことなのだが。
報いてほしいわけではない。
ただ、ずっとそばで見守っていられたらいい、と思う。
310
プリンと執事
五月の爽やかな日に、皇宮でお茶会が催された。
皇妃のたっての願いにより、公爵家の執事や菓子職人を貸し出し
ての開催となったこのお茶会は、先の園遊会で初めてお目見えした
珍しいケーキに加えてさらに豪華なラインナップで会場を沸かすこ
とに成功。
いくつかのケーキの製法はすでに皇宮のシェフたちにも秘密がば
れてしまっているが、それ以外では見たことも聞いたこともないよ
うなお菓子の数々で話題を総なめにした。
さらにこのお茶会では、ちょっとした出し物も用意した。
巨大なカスタードプリンを作って、カラメルシロップを乗せ、洋
酒をふりかけてから、火をつけたのだ。
見たこともないお菓子から本物の炎が勢いよく立ち上る。
その演出に、貴婦人たちは歓声をあげた。
種を明かせばなんてことのない、フランベというありふれた料理
技法で、こういう演出をやってくれる飲食店など地球には数えきれ
ないほどあるのだが、この国ではなじみの薄いものだったようで、
女性のきゃあきゃあ言う声が皇宮の奥にまで届くほどの騒ぎになっ
た。
それを裏で見守っていたディーネは、ほっと安堵の息をつく。
かたわらできまじめな無表情を保っていた執事のセバスチャンも、
311
安心したのか、表情には出さないながらも、これでもう監視は必要
ないとばかりに会場から目を離した。
﹁完璧なお茶会だったわ﹂
﹁恐れ入ります﹂
完璧な人選、完璧な統率、完璧なタイムテーブル、完璧な料理の
手配と搬入。
そして出し物までが完璧だった。
﹁あのフランベをする給仕の子がいいわね。すごく見栄えがするし、
愛想もいい。どこで捕まえてきたの?﹂
﹁旅芸人だそうで。演奏曲の選抜のときに引き抜きました﹂
﹁そう。楽曲もほんとによかったし、完璧なんだけど、ひとつだけ
不満かな﹂
ディーネが試すようにそう言って反応をうかがうと、彼は戸惑っ
たようにこちらを見た。不安げな表情がまた魅力的だ。控えめな執
事とはどうしてこうもイイのだろう。
﹁フランベはセバスチャンがやるべきだったわ。絶対にあなたのほ
うが盛り上がったわよ﹂
セバスチャンは虚をつかれたように目を丸くし、それからみるみ
るうちに赤くなった。
︱︱おー、照れてる照れてる。かわいいわー。
﹁私は裏方の人間でございますから⋮⋮﹂
﹁裏方? とんでもない。どこの貴族の屋敷でも有能な執事はのど
312
から手が出るほど欲しいものなのよ。あなたが出ていって火をつけ
たら、どんな料理よりも人気になったでしょうね。うちより条件の
いい引き抜きだってたくさん来たかも﹂
﹁そんな⋮⋮﹂
﹁どうする? いっぱいお給料払うからって言われたら。考えちゃ
う?﹂
﹁考えません!﹂
セバスチャンは珍しく慌てている。
﹁私は、お嬢様にお仕えしたくてここにおりますから。お嬢様さえ
よろしければ、ずっとお側に置いていただきとう存じます﹂
お世辞も欠かさない。さすがはわが公爵家の誇る有能執事。
﹁いやー、それにしても成功してよかった。せっかくだからお祝い
しないとね。あなたなにか欲しいものある? あ、まとめて休暇と
か取ってみる? それともお給料のほうがいい?﹂
職場の上司からもらってうれしいもの第一位は休暇に違いない。
次にお給料アップのお知らせ。さらにその次ぐらいにボーナスの増
量だろうか。
﹁いえ、その⋮⋮﹂
﹁あ、ボーナスのほうが受け取りやすい? なんでも言って。今な
らなんでも聞いちゃう﹂
﹁じゃあ⋮⋮﹂
セバスチャンは、なぜかとても緊張したように、おそるおそる口
を開く。
313
﹁⋮⋮また、お嬢様と、カフェに行きたいです﹂
これにはディーネのほうがびっくりした。
﹁そんなのでよければ別にいつでも⋮⋮え、でも、休暇もいるでし
ょ?﹂
﹁はい。でも、休暇は、そのうちに﹂
セバスチャンは恥ずかしそうに頬を染めている。
︱︱⋮⋮あれ?
ディーネは戸惑いを覚えた。
この、甘酸っぱい感じのほんわかしたやり取り。まるで付き合い
たてのバカップルのような⋮⋮
︱︱これは、もしかして、してはいけない約束だったんじゃ⋮⋮?
﹁お嬢様とご一緒させていただくと、仕事に役立つことがたくさん
学べるので、うれしいです﹂
﹁あー⋮⋮ああ、仕事ね⋮⋮﹂
︱︱考えすぎだったかな。
自意識過剰っぽくなってしまった。きっとディーネが勘ぐりすぎ
なのだろう。
﹁あの、それじゃまた、お休みの日をお知らせいたしますね﹂
そしてこの、セバスチャンのうれしそうなほほえみ。ふだんあま
314
り表情の変わらない彼だけにとてもまぶしい。
﹁⋮⋮うん⋮⋮﹂
いまさら﹁やっぱなしで﹂とも言えず、ディーネはあいまいにう
なずいたのだった。
315
カフェで物騒な相談はしないでください
グラガン暦は六月にさしかかった。
六月というのは転生者のディーネが勝手に割り振っている数字だ。
グラガン暦は春の四月スタートなので、現地の言葉を直訳すれば三
月といったところだろうか。日付は一年三百五十五日、一週が八日
周期、ひと月あたりだいたい三十日前後、つまり地球とほとんど変
わらない。わりと不正確らしく、季節と暦が合わなくなったら改暦
が行われる。
公爵家の転生令嬢ディーネは執事のセバスチャンと毎週カフェに
繰り出している。
そう、毎週だ。
﹁お嬢様、今日はお嬢様のお好きなサクランボのお菓子がございま
すよ。こちらにいたしましょう﹂
﹁⋮⋮ありがとう⋮⋮﹂
﹁お嬢様、お茶のお代わりは?﹂
﹁う、ううん⋮⋮もういらないかな⋮⋮﹂
﹁さようでございますか﹂
﹁はい⋮⋮﹂
そしてセバスチャンのこの、裏表のない笑顔である。
にこにこと見つめられているうちに、ディーネもようやく気がつ
いた。
316
︱︱これ、別にデートじゃないわ。
おばあちゃんが孫にいっぱいはりきってお菓子とか食べさせちゃ
う感じのやつだわ、これ。
セバスチャンはディーネのやることなすこと面白いと思っている
らしく、にこにこ見守るのは好きらしいのだが、なぜそれをするの
かについてはよく分かっていないようだ。
︱︱孫がなんか新しいゲームに夢中みたいだけど、よくわかんな
いなあ⋮⋮でも楽しそう。
ディーネの喋る内容については、おおよそどれもこのような感想
を抱くらしい。
﹁お嬢様はがんばり屋さんですね﹂
とりあえずそう言ってはいるが、棒読みである。気持ちはまった
く入っておらず、むしろほのぼのとした色彩が色濃い。
︱︱よくわかんないけど、なんか一生懸命でかわいいから、いい
かな? 和むなぁ。
だいたいそういう感じらしいのだ。
そこでようやくディーネも、セバスチャンといるとだんだん言語
中枢が破壊されてくる理由が分かった。おそらくセバスチャンは、
ディーネが次はあれをしたいとか、これをしたらきっと儲かるとか、
そういう話をするたびに﹃お嬢様のおっしゃることはよく分からな
いなあ﹄と思っているのである。こうなってくるともう、セバスチ
ャンがほのぼのしている天然なのか、それともディーネがほのぼの
317
系の天然なのか、という問題になってくる。
しかしディーネ自身は絶対に癒し系ではない自信があるので、お
そらくセバスチャンが天然なのだろうと結論づけざるを得ない。
お互い悪くは思っていないので、最終的に無言で見つめ合うこと
になる。
セバスチャンは実にきれいな顔立ちをしているので、目の保養だ
った。
ディーネがそのへんの景色と一緒にセバスチャンのことをぼへー
っと眺めていると、彼はにこりとした。つられてディーネもほほえ
む。
﹁あー⋮⋮なんか⋮⋮コーヒーおいしいー⋮⋮﹂
﹁おいしいですねえ﹂
﹁ああーコーヒーおいしいよー⋮⋮わたしはいまコーヒー飲んでる
ー⋮⋮おいしいねえー⋮⋮﹂
﹁そうですねえ﹂
会話を小耳にはさんだらしき中年の男性が気味悪そうにこちらを
見たが、ディーネにはもはや気にならなかった。いいのだ。いまが
たのしければ、それでいい。
ディーネは毎日分刻みで忙しいのである。頭をからっぽにできる
時間は逆にとても貴重だ。一分一秒も無駄にしたくはない。
﹁あぁー⋮⋮コーヒーだよぉー⋮⋮おいしいねぇー⋮⋮﹂
﹁はい、お嬢様﹂
癒される。癒されるが、そろそろ脳みそが溶けてスライムになり
そうだ。
318
︱︱とくに生産性もないまま、その日のカフェ巡りも終了しそう
になった。
しかし。
﹁︱︱カナミアの悲劇を繰り返すつもりか!﹂
不穏な怒鳴り声がカフェの片隅から聞こえてきて、ディーネは飛
び上がりそうになった。
﹁シッ︱︱﹂
﹁声が大きいぞ、誰かに聞かれたら︱︱﹂
たしなめられても、男のがなり声はやまない。
﹁いまに皇太子のやつが一族郎党根絶やしにしようと乗り込んでく
るぞ! それでも男か? 武器を取れ! 神より授かりしカナミア
の宝冠が誰に頭上にあるべきかあの薄汚い簒奪者に思い知らせてや
ろうという気概はないのか!? ︱︱武器を取れ、武器を取れ、武
器を取れ!!﹂
ディーネは凍った笑顔でセバスチャンに目くばせをする。天然の
セバスチャンも、さすがに空気を読んだ。
﹁ディー。そろそろ行こうか﹂
セバスチャンから突然なじみのないあだ名で呼ばれても、顔色に
出さないぐらいの機転はディーネにもきかせられた。皇太子の婚約
者であるディーネがいまこの場にいると知られたら、絶対に大ごと
319
になる。
﹁ええ、お兄さま﹂
ディーネも適当な呼び名で応える。庶民風の服を着ていてよかっ
たと心から思った。
なるべく目立たないよう、そっと席を立ったつもりのディーネだ
ったが︱︱
﹁おい、そこの女!!﹂
怒鳴り声は、まっすぐ彼女に向けられていた。
320
カフェで乱闘するのはおやめください
皇太子の婚約者である公爵令嬢ディーネと執事のセバスチャンが
カフェで一服中、近くの席がにわかに騒がしくなった。
男は皇太子を批判し、武器を取れと叫んでいる。
反乱分子の騒動に巻き込まれないよう、そっと席を立ちかけたデ
ィーネたちだったが、呼び止められてしまった。
﹁そこの女! お前だ、お前! ⋮⋮おい、無視するな! 止まれ
! こっちに来い!﹂
怒鳴り声が真横から浴びせられる。
セバスチャンはそんな彼女にさっと手招きをした。とにかく、早
く外へ、という合図だ。それから彼女をかばうような立ち位置にさ
っと割り込む。
﹁⋮⋮なにかご用でしょうか﹂
﹁貴様に用はない。俺が呼んでいるのはそちらのご令嬢だ。見覚え
があるぞ⋮⋮金髪碧眼で乳くさい小娘の⋮⋮あの頭が悪そうな顔つ
き!﹂
︱︱頭悪そうで悪かったわね。
思わずむっとしてそちらをにらみつけると、いかにも文士風に気
取った黒衣の男が血走った眼でディーネを見返していた。
﹁そうだ、いかにも男のいいなりになりそうな意思の弱いあの目つ
321
き! 式典で皇太子の横にいた女だ! 見ろ、あんなにものほしそ
うに俺を見返しているぞ!﹂
ディーネはぞわりとした。あまり話が通じそうにないタイプの御
仁だ。どうしよう。
﹁公爵令嬢か?﹂
﹁なんでこんなところをうろついてるんだ?﹂
﹁ひとりなのか?﹂
﹁馬車は︱︱ないのか?﹂
男たちがすばやく互いの顔を見合わせる。何を考えたのかは分か
らないが、絶対に﹃あの子を誘ってバドミントンしようぜ﹄などで
はないことは確かだ。
︱︱離脱しなければ。
ディーネが早足に店内を突っ切ろうとすると、入り口に男がふた
り、立ちふさがった。いつの間に増援が来たのかと驚いて見てみれ
ば、彼らはカフェのスタッフだった。
﹁おっと。どこに行くんだい、お嬢さん﹂
﹁俺たちと遊んでいかないかい?﹂
︱︱しまった。
キッチンからもぞろぞろと人が出てくる。
どうやらこのカフェ自体が、武器を取れと騒いでいた不穏分子た
ちの根城らしい。気がつくと、ディーネたちは包囲されていた。
322
﹁お嬢様!﹂
セバスチャンがすぐそばでかばってくれる構えを見せたが、多勢
に無勢、しかも逃げ場のない包囲状態となると、多少腕に覚えがあ
る人間でも無事では済まない。
﹁⋮⋮参ったわね﹂
とりあえずディーネはセバスチャンにべったりと密着してみた。
先日の皇太子の言うことが確かならば、これでセコムが発動する
はずなのだ。なんでも皇太子と公爵令嬢は魔術的な刻印でつながっ
ていて、お互いのからだが異性に触れると分かるようになっている
らしい。
﹁お嬢様っ⋮⋮!?﹂
﹁しっ。静かにして。誓約の刻印があるから、ジーク様がすぐに来
てくれるはずなの﹂
セバスチャンはそれだけでだいたいの事情を察したようだ。しか
しくっついていられるのがよほど恥ずかしいのか、視線が泳いでい
る。ちょっとかわいい。
しかし︱︱ジークラインは来てくれるだろうか?
忙しくて手が離せないとか、たまたま寝てた、なんてことも十分
にありうる。先日も、来るまでにはちょっと時間が空いていた。
来てもらえないことも考えて動かなければならない。
﹁⋮⋮護身用の魔法が使えるわ。手足の一部を凍らせられる。でも、
323
不意打ちでひとりかふたりが関の山ね。あなたは?﹂
ディーネがささやくと、彼はなんとも解釈しづらい微笑みを見せ
た。いや、かわいいけど、でも今は見つめ合ってる場合じゃないで
すから。
﹁︱︱見逃してもらえませんか?﹂
セバスチャンがやや緊張したように言う。
これには会場がどっと湧いた。
﹁おうおう、格好いいじゃねえの、彼氏さんよう﹂
﹁皇太子の女なんだから、彼氏ではないだろうよ﹂
﹁あーん? じゃあ何か、この男が好きそうなエロ顔の女は、皇太
子さまを差し置いて浮気の真っ最中ってことか﹂
﹁だはははは! そりゃいいな! 傑作だ!﹂
﹁べったりくっついてよう、見せつけてんじゃねえぞ!﹂
︱︱じっ、じーくさま、はやくー!
困ったことになった。荒事は皇太子さまの出番ではないのか。彼
なら雑魚の十人や二十人、簡単にのしてしまえるはずなのに。
﹁お嬢様。危険ですから、少し離れていてくださいね﹂
そっと押し返されてしまい、ディーネは焦る。触っていないとジ
ークラインにつながらないかもしれないのに。
短気な敵の男が早々に実力行使に踏み切った。
セバスチャンの胸元を掴みあげようとして失敗し、前につんのめ
324
る。足払いをかけられて立往生したその一瞬のスキに、セバスチャ
ンの真っ黒な革靴のかかとが男の足の甲を踏み抜いた。
﹁ぐおぉぉっ⋮⋮!﹂
苦痛にくずおれる男を目の当たりにして、野次を飛ばしていた周
囲の男たちも沈黙した。
﹁⋮⋮早く医者に診せてあげたほうがいいかもしれませんよ。足の
指の骨は砕けやすいですから﹂
︱︱うわ、痛そう⋮⋮
足払いからの踏みつけまでの一連の動作はどう見ても付け焼刃の
護身術のものではなく、体重の乗った一撃は確かに骨ぐらい簡単に
砕いてしまえそうだと思わせる威力だった。
﹁まだ続けますか? あまり、人に怪我をさせるのは好きではない
のですが⋮⋮﹂
本人は純粋に心配だから口にしているのであろう、聞こえように
よってはとんでもなくなめきった煽り文句。
包囲している男たちの目の色が変わった。
325
ほかのお客様のご迷惑になりますから
﹁⋮⋮同時にいけ﹂
﹁左右から挟み撃ちにするんだ!﹂
簡単な作戦が飛び交い、また別の男が動いた。
セバスチャンはわりと躊躇なく喉やみぞおちなどに破壊的な一撃
をサクサク繰り出し、あっという間にふたりとも沈めてしまった。
すごい。すごいけど、いったい何者なんだセバスチャンよ。
セバスチャンがそれなりの武功持ちなのはディーネも知っていた。
パパ公爵などは戦争でセバスチャンに何度も命を助けられたのだと
いう。それゆえにディーネも供や馬車の随行なしの行動をパパ公爵
に簡単に認めてもらえた。
知ってはいたがしかし︱︱さすがに予想の範囲を超えていた。一
朝一夕であの鋭い突きは身につかない。
破壊力を倍増させているのは、あの人体の急所ばかりを的確に狙
っていく戦法だ。ごく普通の一騎打ちを念頭に置いた騎士用の戦法
とは明らかに一線を画している。間違っても護身術や剣術などとい
うなまぬるいものではない。
四人目の男は、もうすっかり怖じ気づいてしまって、立ち向かう
気力を失くしているようだった。
お互いに膠着した空間に、転移魔法の前触れがようやく訪れる。
︱︱来た来たキターッ!
326
﹁ジーク様っ!﹂
感激したディーネの歓声に、反乱分子一同は浮足立った。いくら
なんでも当人がいきなり現れる展開は予想だにしていなかったらし
い。あほうどもめ。
﹁もう、ジーク様、おっそーい!﹂
ディーネが勝利を確信しきって舐めた野次を飛ばすと、彼は余裕
たっぷりに手をあげて、苦笑した。
﹁悪ィ。待たせちまったな﹂
それからセバスチャンに向かってあごをしゃくる。
﹁前座ご苦労。もう下がっていいぜ﹂
一礼を残してディーネのところまで戻ってくるセバスチャンを尻
目に、皇太子は悪党どもに向き直った。
﹁⋮⋮やられたい奴からかかってきな﹂
﹁おい、敵の大将首だぜ﹂
﹁ここで討ちとれりゃ士気もあがる﹂
勇ましく言う彼らの腰は引けていた。カフェで演説をぶちあげる
ときの雄々しさ猛々しさなどはすっかり鳴りをひそめている。虐げ
られた弱者としてのルサンチマンが今にも爆発しようかという矢先
にディーネを見つけ、鬱屈した感情にベクトルが与えられはしたも
のの、それは本物の獣のごとき魁夷と正面からぶつかり合うだけの
327
ものではなかったのだ。高論ばかり唱えて手近な少女をいたぶる決
心は容易にできても、支配者というものをこの上なく象徴し体現す
るこの男、皇太子殿下に挑まんとする気骨はまったく持てないので
ある。
﹁⋮⋮あっちの女だ﹂
﹁人質に取れ﹂
最低な決議を瞬時に下し、彼らは四人で同時にディーネへと飛び
かかった。
魔法の輝きが彼らの手中に生ずる。この世界の魔法はまったく便
利なものではない。習得までには訓練が必要で、人間が持ちうる魔
力量もたかが知れている。どんなに体力がある人間でも一キロ一分
で走れないのと同様、どれほど一生懸命訓練してもそんなに大した
ことはできない。
しかし、その力で空気を圧縮して人間の骨や肉を断ち切るぐらい
のことは可能だ。習得するのにかかる時間を考えたら、最初から剣
を使ったほうが早いぐらいだけれども。
セバスチャンが迎撃よりも盾になる決心を素早く固めてディーネ
のほうへ距離を詰める。そのうちひとりがセバスチャンに向かい、
残りの男たちがディーネに向かって︱︱ぎゃー。
﹁ひええええええッ⋮⋮!﹂
色気も何もない悲鳴をあげ、なす術もなく硬直していると、男た
ちはディーネのところに到達するよりもはるかに手前でいきなりつ
んのめり、前倒しになった。四人同時にあっけなく倒れて、動かな
328
くなる。
﹁え⋮⋮?﹂
最前列の男の背後にいたのは、皇太子である。
﹁面倒くせえから、全員ぶん殴った﹂
﹁見えなかった!﹂
﹁あん? この俺がお前に見破られるようなレベルの低い攻撃手段
を使うとでも思ってんのか﹂
﹁かっ⋮⋮かっこいいいいいいい!!﹂
思わず赤面しつつはやしたてると、ジークラインはまんざらでも
なさそうな顔をした。
﹁なんだ、今ごろ気づいたのか? 俺が格好いいのは朝日がまぶし
いのと同じぐらい当然のことだろうが﹂
﹁あ、そういうのかっこわるいです﹂
﹁照れるなよ﹂
﹁照れてないっす⋮⋮﹂
雑な敬語になるディーネに取り合わず、ジークラインは部屋を見
渡した。それだけで大方の敵の分析が終わったようだ。魔法の構成
は言語のようにクセが出るので、見れば相手方のことがだいたい分
かるのである。
﹁半数近くがカナミアの残党だな。そっちの野郎は見覚えがある。
カナミアの貴族だ。母親が帝国側の貴族だったつてを頼って、戦争
からこっち、帝国領に逃げ込んでやがった野郎だ。荒事には向かな
い穏健派ってことで見逃してやってたが、王国復興を目指す奴らに
329
錦の御旗として担がれたかなんかしたんだろう﹂
﹁なるほどすごくよく分かりました﹂
この一瞬でそこまで分かるなんて、ジークラインはどういう構造
の脳みそをしているのだろう。もはや人外である。この男がまとも
な人類相応の行動などしたためしはないが。
肌寒いものを覚えつつ、言われてみればディーネにも男の風貌に
は若干見覚えがあった。いつだったかの式典で、夫が敗戦国側とい
うことで冷や飯を食わされていた女性のご子息だ。屈辱と憤激が入
り混じるひねこびた目つきが脳内でオーバーラップした。
﹁家ごと取り潰すか。しゃーねえな﹂
夕飯のメニューでも決めるかのようにあっさり言うジークライン。
﹁しっかし、カナミアの連中も呆れたしつこさだな。叩いても叩い
てもわんさと出てくる﹂
それからジークラインはディーネに視線を戻し、非難するような
声をあげた。
﹁ディーネ、お前、生活のパターンを固定化してたのか? あれほ
ど言っておいたろう、カナミアの件が片付くまでは誘拐や略奪の計
画を立てられないように行動しろって﹂
まるで襲撃が日常茶飯事みたいな言いようだが、公爵令嬢かつ皇
太子の婚約者ともなると、ままあることだから泣けてくる。
﹁そ、それはちゃんとしてたよ⋮⋮同じお店にはいかないようにし
330
て、場所も不規則に決めてたし。変装もしてたんだよ⋮⋮でも、た
またま入ったお店に残党がいたんだったらしょうがなくない?﹂
ジークラインはうんざりしたようにディーネを見た。
﹁はぁ⋮⋮? たまたま? そんなわけはねえだろ。いくらなんで
もそんな偶然はありえねえ﹂
﹁ありえると思うけどなあ⋮⋮だってここ、カフェだし﹂
﹁カフェだったら、なんだってんだ﹂
﹁だから、カフェには反乱分子が集うって相場が決まってるでしょ
?﹂
﹁何を言ってる⋮⋮?﹂
ディーネはしばし考えたあと、自論を皇太子に説明することにし
た。市民の憩いの場には暇人が集まりやすい。暇人とはつまり、労
働から解放されているプチブルジョワや、本物の貴族たちのことで
ある。国の豊かさの目こぼしに預かり、労働するでもなく生産する
でもなく日がな一日うろついている人たちの大好物といえば、政治
活動なのだ︱︱と。
﹁だから、カナミアの残党がカフェに出没するのは必然だと思うの
よ﹂
﹁はぁん⋮⋮斬新な説だな﹂
皇太子は首をひねっているが、ディーネの話はそれなりに気に入
ったのか、﹁カフェ⋮⋮カフェねえ﹂としきりに繰り返していた。
﹁だからね、カフェが悪いんじゃないのよ。暇な人が多いのがよく
ないの。暇な人には、それ相応の暇つぶしをさせてあげなきゃ、余
暇を持て余してああいう行動に⋮⋮﹂
331
ディーネははたと喋り止んだ。思いついたことがあったからだ。
そうだ。平和的に解決する方法があるではないか。
︱︱暇人には、暇つぶしを与えればいい。
332
数学とギャンブルの相関関係
帝都のいたるところに立て札が立っていた。
六月の第二週、十四日、皇宮の側の森にて、競馬を開催。最も数
多く一等賞の馬を当てたる者には皇妃より小金貨一千枚の贈与あり。
立て札を見た人たちがうわさをしている。
﹁競馬?﹂
﹁馬を競わせて、レースさせるってことかい?﹂
﹁で、順位を当てた人には賞金が出るんだってさ﹂
ディーネはうわさの広がり具合を確認して、満足すると、その場
をあとにした。
次いで、ミナリール商会の全面的な協力を得て、街中に今度開催
される競馬のうわさを流す手はずを整える。
︱︱賭け事とワルキューレ帝国の関係は深い。
一応は法律で禁じられているが、闘犬やポーカーなどの催し物は
あちこちでしょっちゅう起きている。
禁止されているものをなぜ躍起になって開催するのか?
︱︱それ以外に娯楽がないのだ。
今回は皇宮が認める公式のギャンブル。摘発されるかもしれない
と怯える必要もなく堂々と参加ができ、しかも馬を走らせて順位を
333
競うだけというシンプルなルール。その上、莫大な賞金がついてく
るとあっては、帝都中がその話題で持ちきりだった。
﹁馬なんて走らせて、何が面白いんだか﹂
﹁でもよ、小金貨一千枚だぜ? 当てれば一生遊んで暮らせるじゃ
あねえか⋮⋮﹂
﹁こんなでっかいチャンス、めったにねえぜ⋮⋮﹂
カフェのいたるところで競馬の話が聞こえてくる。
賞金額の大きさは特に話題を呼んでいるようだ。
反乱を起こすには巨額の資金が必要だ。大きな行動をしたければ、
資金繰りには常に悩まされることになる。反帝政活動をしている連
中にとって、この催し物は絶対に魅力的に映るはず。
仮に活動をしていないものでも、余暇を持て余している人間なら
ば一度は行ってみてもいいと思う興行になるよう設計した。
一度のつもりが深みにはまり、出られない。古来、ギャンブルに
はそういう魔力がある。
たった一度でいい。足を運ばせてしまえば、それで勝ちなのだ。
︱︱競馬の開催にあたっては、皇太子に全面的な協力を依頼した。
﹁帝国らしい競技ということで、奴隷同士の剣闘や、闘竜について
も検討いたしましたの。でも、怪我をするから、あんまりよくない
と思いまして﹂
ディーネは熱心に皇太子をかき口説く。
334
﹁大勢の人間が参加できて、ギャンブルの要素もあって、馬の個体
差の研究も絡めれば議論の余地もある。暇を持て余してカフェに入
り浸っているような方々にはたまらない魅力でございましょう? どの馬が勝ちやすいかの研究が絶対に流行いたしますわ。確率統計
論も発展するでしょうし、統計論が発展すれば数学も伸びるでしょ
う﹂
ジークラインは話半分ぐらいに聞いているのか、めんどくさそう
にしている。
﹁⋮⋮数学が?﹂
﹁さようでございます。昔からギャンブルは数学と関係が深かった
のですわ﹂
ディーネはとにかく一生懸命説明した。
数学の研究が進むかどうかは文化レベルの向上にとって非常に大
切なことだ。建築、治水、会計に欠かせないし、ここがしっかりし
てないと工業化も起こせない。
﹁それと、馬の研究が進みますわね。馬は魅力に乏しい動物だと思
われているようですけれども、ポテンシャルはとっても高いのです
わ。きちんと運用すれば、有益なのでございます。競馬が流行れば、
わたくしの領だけじゃなくて、全世界的に研究が盛んに︱︱﹂
うんざり顔の皇太子を見て、これはいけない、とディーネは思っ
た。
ここはもっと分かりやすく訴えかける必要がある。
﹁お願いジーク様、協力して! 絶対ジーク様にもメリットがある
335
はずだから! 一生のお願い!﹂
土下座せんばかりの勢いでディーネが訴える。
すると、皇太子は連日の説得に嫌気が差していたのか、とうとう
根負けした。
﹁わーったよ⋮⋮お前がそこまで言うんなら、最初の一回くれえは
協力してやってもいい﹂
﹁本当!? やったあ!﹂
﹁けどよ、一回だけだぜ。あとは自前で用意をするんだな﹂
﹁ありがとうございます! さすがジーク様! 広いお心と寛大な
ご処置!﹂
﹁なんだ、やっと分かってきたのか。この俺の偉大さが﹂
ぬけぬけと賛辞を受け止める皇太子に内心ちょっと引きつつ、デ
ィーネはさらに頭を下げた。
﹁ジーク様、あともうひとつだけお願いがあるのですが⋮⋮皇妃さ
まにもご協力をお願いしたいのでございます﹂
﹁んなもん本人に言やいいだろ﹂
﹁でも、場合によっては危険にさらしてしまうことも⋮⋮﹂
﹁⋮⋮どういうことだ?﹂
ディーネが説明をすると、彼はようやく納得して、許可をくれた。
﹁なるほどねえ。まあ、心配すんな。雑魚どもが何人来ようとこの
俺の牙城は崩せねえよ。お前はお前らしく好きにやりゃあいい﹂
ジークラインは気楽に笑う。
こういうときの決断の早さと男らしさはさすがと言いたくなった。
336
︱︱かくして開催の運びとなった。
337
馬とドラマとセレブと厨二
公爵令嬢のディーネは多額の借金返済のために奔走している。
競馬場の設立もその一環だ。
ギャンブルは非常に儲かる。
ただし、胴元に限る、と注釈がつくが。
人を多く集められれば、入場料だけでも相当な金額になる。
今回は他にない興行ということもあり、小銀貨で二十枚ほどと、
かなり高額の入場料を設定した。
場所は皇宮のすぐそば。土地を買い上げ、地面をならし、ロープ
で区切っただけの簡易な客席とレース場を用意する。
そして競馬開催当日。
施設そのものは本当に簡易なものだったが、入場希望者が殺到し、
数万人がつめかける事態となった。すでに大金貨で百枚近い入場料
をせしめている計算になる。
﹁会場、もう満杯です! 人が入りきりません!﹂
﹁外にも場所を用意して! もうロープで区切ればいいわ! 賭け
票だけは切らさないで!﹂
簡易の司令室と化した幕舎の一角で、ディーネはスタッフたちと
やり合いながら、開会式の様子をちらりとうかがい見る。
338
満員御礼の会場に、皇妃のベラドナが姿を現す。出てきた瞬間の
熱狂はちょっと異様なほどだった。ベラドナは悩殺的な肢体の美女
で、ハリウッドセレブも顔負けの色っぽい衣装を着ている。
この国の人たちはド派手な美女を好む傾向にあるようなので、デ
ィーネの人選は大当たりだったようだ。
静粛にするよう衛兵たちが触れて回り、会場がようやく静かにな
る。
そこに、皇妃がおもむろにハスキーボイスをはりあげた。
﹁競馬は、ドラマよ﹂
セクシーすぎるお衣裳の皇妃さまが大げさな身振りを入れると、
会場はまた沸いた。
﹁ごらんなさい、この馬たちを。極彩色の錦で飾り立てたこの雄姿
を。今日、ここにいるのはいずれ劣らぬ選りすぐりの軍馬たちなの。
一見華やかそうなレースだけれども、その裏には馬たちの熱い訓練
と努力、そして夢半ばで挫折した競走馬候補の屍たちがいるのよ。
ここにいる馬たちは、一握りの、トップエリートなの﹂
皇妃が指さす先に、まるで貴族のように着飾った馬たちがいた。
﹁その彼らの熱いがんばりを見てあげてちょうだい。そして応援し
てあげて。栄光をつかんだ馬にはたくさんの褒賞があるでしょうし、
その馬と一緒になって応援してくれた方々にはわたくしから個人的
に熱いご褒美をご用意しているわ﹂
皇妃さまはあえぎ声すれすれの色っぽい声を絞り出した。
339
﹁⋮⋮馬を大切にする殿方ってすてきよ。わたくし好みだわ﹂
会場に集った男性陣はおおいに湧いた。﹃エロ格好いい﹄を地で
いく皇妃さまだけに、カナミア再興を狙う同志たちの主要なけん引
役︱︱つまり三十代からもっと上の年代の紳士の皆様方へのアピー
ル力は絶大だったようだ。
﹁ありがとうございます、皇妃さま﹂
﹁あらそんなの、いいのよ。ディーネちゃんのお願いだもの。でも、
これでよかったのかしら?﹂
﹁はい! ばっちりです!﹂
やはり皇妃を開会式に連れてきて正解だったと、ディーネは自信
を深めた。
ジークラインに出てもらう、というのも考えたのだが、反ワルキ
ューレの人間は戦神の皇太子に反感を持っているだろうし、なによ
り今回のターゲットであるカナミア諸領の人たちにとっては皇太子
こそが憎き怨敵の首魁なので︱︱
﹁三番出口に不審者発見! 確保しました!﹂
︱︱カナミア諸領の人たちがクーデターを起こすのなら、この日
を狙ってくると思ったのだ。
﹁不審な転移魔法の反応を確認!﹂
しかし、考えが甘い。
340
ジークラインが皇宮のすぐそばで起きる騒ぎを、わざわざ見逃す
わけがないのだ。
彼は緊迫したこの状況でも、むしろ退屈そうに、指示を飛ばす。
﹁第三魔術師隊をやれ。封鎖しろ﹂
﹁不審な飛竜が五千リード先の上空に確認されました!﹂
﹁皇宮からオヤジの軍を持ってこい。俺が許可する。撃ち落とせ﹂
指示と報告が慌ただしく飛び交い、ようやくできた空隙に、ジー
クラインはふかぶかとため息をついた。
﹁⋮⋮俺が出ていきゃ、すぐ終わるんだがな。他人を使うってのも
これで面倒が多い﹂
﹁あら、いってきたらよろしいのでは?﹂
﹁馬鹿。お前が俺に協力を仰いできたんじゃねえか。もう忘れたの
か? だから俺はこうして、世界一安全な場所にお前を保護してや
っている。この俺の、隣だ﹂
厨くさい発言を食らい、ディーネはちょっと鳥肌を立てた。
そろそろ慣れたはずだと毎回思うのに、なんでかいつも同じよう
なところでやっぱりゾワッとしてしまう。なんでだろう。
﹁⋮⋮大方は封鎖しきったな。馬鹿なやつらだ﹂
ジークラインがあくびまじりにつぶやく。
﹁退屈だ。カナミアのやつら、暇つぶしにもなりゃしねえ⋮⋮おい、
ディーネ、この俺が手を貸してやってるんだから、感謝の気持ちの
ひとつも表明して、俺を楽しませてみる気はねえのか? お前がし
なをつくってありがとうのひと言も言やぁ、俺ももうちっとやる気
341
を出すかもしんねえぞ﹂
ディーネは絶句した。なんという上から目線。見返りを要求する
にしてももう少し気持ちいい頼み方ってものがあるだろうに。
こんな言い方をされたのでは、お礼も言いたくなくなるというも
のである。
﹁⋮⋮お気に召すかまでは存じませんが、競馬はなかなかエキサイ
ティングな競技らしいですわよ﹂
﹁つまんねえ余興だったらお前にツケを請求してやるからな。その
つもりでいろよ。せいぜい入念に髪でもとかして、愛想笑いの練習
でもしとくんだな﹂
﹁あら⋮⋮﹂
ディーネは鼻白んだ。こういうとき、前世の記憶を取り戻すまで
のディーネならば口ごもってしまうのだろうが、いまは違う。
﹁ジーク様こそ、試合の行方に興奮しすぎて夜眠れなくなってもわ
たくしは関与いたしませんわよ?﹂
その小生意気な発言は、ジークラインをきょとんとさせた。
﹁⋮⋮変わったな﹂
しみじみとつぶやくジークライン。
﹁従順な女もかわいげがあっていいけどよ、気まぐれな女ってのも
それはそれで面白みがあるもんだ。帝国全土の人民が畏敬を以って
仰ぎ見るこの俺に、その反骨心、その矜持、あっぱれとしか言いよ
342
うがねえな﹂
﹁それはどうも⋮⋮﹂
厨ワードの連発を食らい、ディーネはそろそろ限界に達しそうだ
った。
そして数万人の熱狂が渦巻く中、レースは開幕した。
343
有価証券と製紙技術の相関関係
馬が各レーンに並び、レースのスタートを告げる祝砲が撃たれた。
走り始めてからの熱狂もまたすごい。叫び声がうるさくてテント
の中の会話にも苦労する有様だ。
﹁開幕からトップに躍り出たのは、おおっと、三番、シュバルツメ
イデン︱︱! あとから追い上げるのは五番と一番だぁ!﹂
何番の馬がトップに迫ったとか、僅差だからこの後の展開も目が
離せないとかいったような内容のアナウンスが流れている。
パパ公爵が、なぜかマイクや拡声器のような働きをする魔法の研
究にも余念がなかったので、このうるささの中でも問題なく声が届
いているようだ。おそらく軍の統率に必要だからだろうが、ヘンな
ところで地球よりも進んでいるのが面白い。
熱狂の裏側では、反乱を起こしたい人たちとの攻防が続いている
が、それを感じさせないスムーズな運行だ。
裏方の司令室で、転生令嬢のディーネは、賭け票の仕分けと集計
に大わらわのスタッフを見守っていた。
﹁購入された賭け票、十万票を超えています!﹂
﹁無理です、集計しきれません!﹂
︱︱がんばれ⋮⋮!
344
ディーネには見守ることしかできない。
賭け票はシンプルに紙を使った。半券にスタンプを押すやつだ。
製紙の技術はよその国が持っていた。
﹁十万票ってことは、一票あたりの最低購入金額が小銀貨十枚だか
ら⋮⋮﹂
最低でも大金貨百枚分のお金が動いているということになる。
そのうち胴元であるディーネたちの取り分は二十五パーセントほ
どなので、一回の興行で大金貨で二十五枚程度儲かっているという
ことだ。
もちろん、全票が最低金額で買われているということはないから、
おそらく結果はこの数倍∼数十倍近くに跳ね上がる。
さらに、入場料としてひとりあたり小銀貨二十枚、五万人分で大
金貨百枚を徴収済みだが、こちらはもっとも多くのレース順位を当
てた人に特別贈与されるので差し引きゼロ。
たった一回の興業でこれだ。
もしも競馬を毎週三度は欠かさず開催するようになったら︱︱?
来客数はさすがに減るだろうが、収入がたとえこの十分の一、五
千人程度になったとしても、毎週自動で金貨三十七枚と半儲かると
したら、九か月後には大金貨千三百五十枚程度の儲けになる。
世界的にも類を見ない興業であることと、転移魔法の使用込みで
外国客を誘致することも視野に入れれば、来客数にはまだまだ伸び
しろがある。
345
﹁なんかもう、これの興業だけで普通に食べていけるわね⋮⋮﹂
︱︱領内にも競馬場を作ったほうがいいかな?
思案している間に、開幕のレースは終盤にさしかかろうとしてい
た。
実況の人がうなり声をあげている。熱狂も最高潮だ。
会場の盛り上がりぶりときたら、尋常ではない。警備員として本
物の軍隊と、その指揮官としてジークラインを借りてこれたからよ
かったものの、そうでなければ危険だったかもしれない。フーリガ
ンのようなものが発生していた可能性もある。
︱︱やっぱり、皇宮のそば以外には置くべきじゃないかも。
ここならなにか起きても最悪の場合はジークラインがなんとかし
てくれるが、領内ではそうもいかない。
まだ学校の普及もままならないようなところにいきなり娯楽だけ
を作っても、領民に悪影響しか与えないことは目に見えている。
治安の悪化なども懸念される。
まだまだギャンブルはお上から一律で禁止しておいたほうが無難
だろう。
﹁ああっとぉー奇跡の大逆転劇ィィー!! 一位︱︱! 四番ロー
トヒルシュ︱︱ッ!﹂
一回目のレースが終わったようだ。
346
ものすごい人数の絶叫が聞こえる。
楽しんでいただけて何よりです。
***
すべてのレースが終了した。
有り金をはたいてしまったダミアンは、カフェでこの先のことを
ゆっくりと思案していた。
ダミアンはカナミア王国の王家の生き残りだ。国が併合されて以
来、奪還のチャンスを狙って、同志たちと帝都で徒党を組んでいる。
﹁おい、どうするんだダミアン! 資金にも手をつけちまって⋮⋮﹂
﹁だから俺たちは反対したんだ!﹂
﹁競馬なんてくだらないもんに金をつぎ込みやがって⋮⋮!﹂
﹁そうだな⋮⋮﹂
彼らの手にあるのは幾多のブタ札。賭け票で、負けが確定した紙
くずの束だ。
﹁⋮⋮なあ、この賭け票、何の素材でできてるか分かるか?﹂
﹁さあな⋮⋮獣皮じゃねえことは分かるが﹂
﹁これはな、木の繊維から作るんだが⋮⋮﹂
ダミアンは偽物の票を手の中で弄ぶ。透かしが入っているわけで
もなければ、偽造防止の図案が入っているわけでもない。ただの粗
悪な紙に、日付とレース番とシリアルナンバー、それから割り印が
入っているだけ。
347
﹁⋮⋮この賭け票、ずいぶんつくりが雑だと思わねえか?﹂
﹁あ? ああ⋮⋮急ごしらえなんだろうな﹂
﹁このぐらいだったら、よく似た偽物がすぐに作れそうだ﹂
ダミアンの発言に、誰もがハッとした。
﹁⋮⋮ペラ紙一枚偽造して、大金と交換できるんなら、安いもんだ
と思わねえか?﹂
﹁ああ⋮⋮!﹂
﹁くく⋮⋮ワルキューレのやつらは能無しの集まりだぜ。こんな簡
単なことにも気づかねえんだからな﹂
﹁くだらねえもんに夢中になってる連中から、俺たちは賢く金だけ
いただくとするか⋮⋮﹂
︱︱そして、その日から彼らの競馬場通いと、製紙への研究活動
が始まった。
348
有価証券と製紙技術の相関関係︵後書き︶
大金貨一枚=小金貨十枚
小金貨一枚=大銀貨二十枚
大銀貨一枚=小銀貨五十枚
小銀貨一枚=銅貨百枚
大金貨
一枚で庶民が数か月暮らせるほどの価値を持つ。
ディーネの試算によると日本円換算で五十万∼百万円。
349
こうして帝都に平和が訪れた
競馬場の初開催から二週間後、七月のある日。
﹁⋮⋮政治活動なんかするような人たちって、そもそもが﹃ハマり
やすい﹄のよね﹂
ディーネの声が、冷え冷えとした地下牢にこだまする。
中に捕らわれているのは、偽造の馬券を換金しにきて御用となっ
た、カナミアの残党たちだ。
﹁ランダム要素の強いものにも、きっとなにかの法則が隠されてい
る、って思っちゃうのよね。どうにかしてその法則を暴きたててや
ろう、こちらの理論で正しく組み直してやろう、って意気込んで、
システムのバグ︱︱小さな穴なんかを見つけてしまうと、もうだめ
なの。この穴に気づいたのはきっと自分だけ⋮⋮そう思うと、快楽
物質がどばっと出てしまって、その瞬間に見境がなくなるのよ。だ
から絶対に気がつかないの。⋮⋮自分が、その、わざと空けた穴に、
﹃誘導されている﹄⋮⋮だなんて﹂
牢にいる男たちは、牢の鉄棒に取りすがり、ここから出せとしき
りに喚いている。
﹁ねえ、皆さん。楽しかったでしょう? 競馬なんてくだらないっ
て言いながら、誰よりも足しげく競馬場に通って、一生懸命偽造の
馬券づくりに励んで⋮⋮気づけば王国復興の同志たちも散り散り、
最初の熱意もどこへやら⋮⋮もう、大金を稼ぐビッグチャンスに夢
中で、他のことなんて考えられなくなっちゃったんでしょうね﹂
350
ディーネはひらひらと馬券を振ってみせた。
﹁いい夢が見られてよかったわね﹂
︱︱こうしてディーネの目論見通り、﹃暇人には暇つぶしを大作
戦﹄は成功した。
帝都のカフェには、もう帝政を非難する過激な工作員などどこに
もいない。
平和になったカフェには、いつも通り、買い物途中の一般市民が
憩いを求めてやってくる。
少しだけ変わったことといえば︱︱
競馬に熱狂する人たちの姿が、ちょっとだけ増えたことだろうか。
帝都アディールは、今日も平和だった。
***
﹁カナミアのやつらの奇襲がぱったりとやんだ﹂
ジークラインが感心したように言う。
﹁お前が﹃競馬場を作れば反乱がやむ﹄って言いだしたときは、正
直全然信じてなかったが、まさか本当になるとはな﹂
﹁まーそうね⋮⋮風が吹けば桶屋が儲かるみたいな理屈だものね⋮
⋮﹂
ディーネがちょっといじけてみせると、ジークラインは苦笑した。
351
﹁見直したぜ﹂
﹁でも、これで帝都が平和になったんだから、なんかご褒美ぐらい
あってもいいんじゃない?﹂
﹁そうだな⋮⋮﹂
ディーネの図々しい要求にジークラインはまた少し笑ってから、
ふとつぶやいた。
﹁⋮⋮あの競馬場の土地はどうだ?﹂
競馬場の設営には皇宮の側の土地を借りている。
始めは買う予定だったのだが、大金貨で三千枚超すると言われて、
仕方なく一年契約のレンタルに切り替えた。借金を減らすどころか、
大幅に増えてしまうではないか。
﹁土地がどうしたの?﹂
﹁お前にやるよ﹂
これにはさすがのディーネもあごが外れるほど驚いた。
﹁えええええええ!?﹂
﹁よく働く臣下には相応の報いがねえとな。大儀であったぞ、ディ
ーネ﹂
﹁でっでもっ、あんな大きな土地っ⋮⋮!﹂
ディーネの持参金の三分の一にも相当する贈与を、なぜこの男は
あっさりと決められるのか。
﹁今度こそ俺の偉大さに声も出ねえか。なあ、ディーネ﹂
352
いつもなら聞き流せる厨発言も、このときは胸を打った。彼が格
好いいからときめいているのか、それとも大金に目がくらんだから
なのかはこの際詮索しないでおくにしても。
﹁そんな、いくらなんでも⋮⋮﹂
﹁遠慮するこたねえよ。どうせお前が俺の妃になりゃあ戻ってくる
土地だ﹂
﹁わっ、わたくし、あなたの妃になんてっ⋮⋮!﹂
ならないんだから、とは言えなかった。
ジークラインが真正面からディーネに迫る。ディーネは声を出す
ことも忘れて見とれた。男性らしさを強調する顎のラインさえなけ
ればむしろ中性的といってもいいほど端整な目鼻立ち、鋭い視線を
放つ深い眼窩。あらゆる女性がロマンスの相手として思い描くよう
な男の理想像がそこにはあった。
﹁妃になんてっ、絶対ならないっ⋮⋮!﹂
﹁おーおー。言うねえ。ま、そんときゃあれっぽっちの土地ぐれえ
くれてやんよ。手切れ金代わりにな﹂
︱︱あれが手切れ金代わりだと⋮⋮!?
皇太子の財力半端ない。
﹁⋮⋮はん。土地なんて小せえもんでビビってんじゃねえよ。最上
級の褒賞が、目の前にあるじゃねえか。まだ分かんねえのか?﹂
﹁な、なんの話⋮⋮?﹂
完全にビビりが入っているディーネのあごを、ジークラインの指
がとらえた。
353
なすがまま上向かされても、瞳をそらせない。
﹁⋮⋮今日は逃げねえのか?﹂
低い声でささやかれ、指先までジンとしびれた。
アップになった美しい瞳が愉悦に細まる。
笑われて、悔しいと思っても、身体が動けなくなっていた。
﹁や、やめて⋮⋮﹂
弱々しい懇願を、彼は鼻で笑い飛ばす。
﹁褒美は、このおれの寵だよ、ディーネ。お前にとっちゃそれが一
番価値のあるものだろ?﹂
ごく優しくそう嘯かれて、気持ち悪さにゾワリとした。
﹁俺の妃になりゃあ、世界の半分がお前のもんだ。帝王たるこの俺
の器の大きさにむせび泣け。忠義を尽くせる僥倖を噛み締めろ﹂
ディーネはハリネズミのように全身を毛羽立たせた。
金縛りが解け、猛烈な勢いで後ずさりを開始する。
﹁⋮⋮いいいいやああああああああああ!!! 厨二病ううううう
うううううううう!!!﹂
︱︱やっぱりこんな人の嫁とか絶対無理ッ!
そう認識を新たにしたディーネの悲鳴は、いつまでも響き渡った
354
のだそうな。
355
こうして帝都に平和が訪れた︵後書き︶
第一章・完
356
六月までの売り上げをまとめましょう
軍事大国・ワルキューレ帝国は、ひとりの伝説的な男の力によっ
て支えられていた。
天才軍師にして猛き戦神。
輝ける君主にして偉大なる魔術師。
大帝国の繁栄の担い手にして皇太子たる男、ジークライン・フォ
ン・アディディウス。
ウィンディーネ・フォン・クラッセンは、バームベルク公爵の直
系の姫君として、いずれは皇太子と娶せられる運命にあった。
世界に名だたる大帝国でも随一の領土と権勢を誇る大公爵家の姫
君として生を享けたディーネは、あるとき、前世の記憶を取り戻し、
自分の立場に疑問を持つ。
﹁俺の女になるのは最高の栄誉だろう?﹂
そう断言してはばからぬ男は、事実として黄金の美貌と、彫刻が
ごとき雄々しい体躯を持ち、彼の妻として遇されるのならば確かに
女たちの羨望を集めるのだろうと思わせるだけの魅力を備えていた。
が、しかし。
︱︱私、絶対にこんな男と結婚なんかしたくない!
357
前世である現代日本の記憶を取り戻し、ディーネは強くそう感じ
るようになっていた。まず、発言が仰々しいのがいただけない。あ
れではまるで、厨二病のようではないか。パパ公爵をはじめとした
周囲の人々へ、必死にそう訴えたのだが、中世ヨーロッパなみの文
化水準しか持たないワルキューレの人々には通じなかった。厨二病
というものの概念が、浸透していなかったのである。
ディーネがジークラインと結婚したくない理由はまだある。
彼女が前世で得た知識によると、彼のように物語の主役を務める
ような大人物の妻となると、苦労することは確定なのだ。
まず女。英雄は色を好むもの、彼のように立派な人物が妻ひとり
で満足することはきっとないに違いない。
結婚相手は自分の意志で選びたい。生まれたときの婚約者と流さ
れるままに結婚するのではなく︱︱そう願ったディーネは、皇太子
に婚約破棄を要求し、彼は条件付きでそれを承諾。一年ほど領地経
営を行い、彼女の持参金、大金貨一万枚を稼げたならばそれでよし。
できなければおとなしく結婚しろ、と通告を受けた。
大貴族の箱入り娘に商売だ領地経営だと大それたことができるわ
けないと、皇太子はたかをくくっていたのである。皇太子のみなら
ず、誰もがそう思っていた。
︱︱そして、三か月が経過した。
七月になった。春に植えた農作物はあらかた収穫され尽くされ、
また別の畑に新しく作物を植えるため、忙しく働く農夫の姿をあち
らこちらで見かける。
ディーネは屋敷の文官たちをひとつの部屋に集めた。
358
﹁第一四半期が終わりました﹂
﹁あの、お嬢様⋮⋮﹂
手を挙げたのは地方の領地管理を任されている執政官Aだった。
﹁第一四半期とは、なんでしょうか﹂
﹁春の三か月のことです。こちらの言葉で言うなら﹃ウェール﹄か
しらね﹂
﹁ははあ、ウェールですか⋮⋮それなら分かります﹂
ウェールとは、四月、五月、六月のことをいう。この国の暦、グ
ラガン暦は農耕用の暦で、主食がジャガイモであることもあり、植
えてから収穫するまでにかかる日数およそ九十日がひとつのサイク
ルとなっているのだった。
﹁会計学的には一年の四分の一が過ぎた時期です。よって、売り上
げの仕訳をします﹂
ディーネの宣言に、集まっている執政官や代官、それに家令のハ
リムたちはよく分からないながらもうなずいた。
ディーネは前世の記憶を頼りに会計監査の真似事をしているだけ
なのだが、この国の面々にはうまく伝わらないようだ。
︱︱なるべく彼らにも分かるよう表現に気を遣いつつ、ディーネ
は話を進めていった。
ディーネが現在やっている事業はよっつだ。
ひとつ、ケーキ屋さん。
359
こちらは五月に開業し、好調な売れ行きをみせ、目標予算より少
し多めの純利益を達成した。
五月に金貨五十枚、六月に五十五枚を売り上げている。
これによってディーネの持参金は大金貨10,000枚から、9,
895枚までその数を減じた。
次に、おもちゃ事業。
ディーネは四月に戦車の模型を。そして五月、六月に少女向けの
着せ替え人形を作って販売した。
戦車の模型は売れに売れて金貨で六百枚。大ヒットした。
少女向けの人形は金貨で六十枚︱︱販売個数三十万個を達成した
わりに儲けが少ないのは、利益を出そうとするのはやめて、価格を
安くし、庶民でも買いやすくしたからだった。
子どもが喜ぶ事業というのは思いのほかディーネの気分がいいの
で、たとえ赤字になったとしても趣味で続ける予定だ。
これによってディーネの持参金は大金貨9,895枚から、9,
235枚になった。
ふたつ、バンケット事業。
こちらも五月に試運転をして、六月に本格稼働した。
五月に金貨五十枚、六月に昼食で二十枚、お茶会で四十枚、晩餐
会で百枚売り上げ。
まだ執事業の後任が決まっていないため、六月は抑え目の営業と
なっている。
これによって持参金は9,235枚から9,025枚になった。
みっつ、商品の小売業。
360
現在ディーネが扱っている商品は、ベーキングパウダーと各種洗
剤などだ。
石鹸は用意していた分がすべて売れた。従来品よりも使いやすい
と思われたようだ。天然成分のみで混ざりものが多い苛性ソーダ性
石鹸や酸性白土などより、科学的に抽出した炭酸ナトリウムの石鹸
や漂白剤のほうが多少は扱いやすかったのかもしれないが、あいに
くディーネはちゃんとふたつの違いを試していないのでよく分から
ない。しかしフレーバーや色違いで同じ商品でも売り上げに差があ
るなんてことはよく聞く話なので、驚くにはあたらない。
そして、ベーキングパウダーもよく売れた。こちらは世界各国か
ら問い合わせが殺到するほど売れ売れだった。
しかし、石鹸もケーキも、売り出したければ既存のギルドに使用
料を払わなければならない。
そういった諸々のしがらみにより、合わせて大金貨三十枚ほどの
売り上げとなった。
これにより持参金は9,025枚から8,995枚となった。
そして事業のよっつめ。
競馬場。
こちらの土地を皇太子から贈与されたことにより、ディーネの持
参金に資産としてプラス。
金貨三千枚の査定で、老朽化による改修費金貨百五十枚を差し引
いて、残額が6,145枚となった。
さらに六月中旬に開始した計七回のレースで大金貨二百八十枚ほ
どの売り上げを得ている。賞金として用意した大金貨百枚や必要経
361
費を差っ引いて、金貨百五十五枚ほどの利益となった。
﹁︱︱以上、三か月で金貨にして4,010枚の純増。わたくしの
目指す大金貨一万枚の目標まで、残り5,990枚となりました﹂
報告を聞き終えた領地の代官たちがざわざわと騒ぎだす。
﹁⋮⋮たった三か月で、大金貨四千枚の利益を生み出されたのです
か?﹂
﹁ええ⋮⋮でも、そのうち三千枚はジーク様から貰った領地なんだ
けどね﹂
情けない気持ちでディーネがそう返すと、彼らは恐慌をきたした。
﹁まさかまさか、一千枚を稼ぎ出されただけでも天変地異ものです
よ!﹂
﹁ちょっとした小国の王家の資産なみでございますな⋮⋮﹂
﹁何度見ても報告書の数字が信じられません﹂
﹁私も、こうして耳にするまでは、書き間違いと思っておりました
ぞ⋮⋮﹂
ディーネは遠い目をした。
﹁そりゃーまあね⋮⋮公爵家の総資産全部を自由に動かせる立場な
んだから、このくらいの増加は当然というか⋮⋮むしろ少なすぎ?
維持費にもならないじゃない⋮⋮これじゃ全然ダメよ﹂
ディーネの自虐的な酷評に、彼らは青い顔をして押し黙った。
そばで聞いていたハリムが冗談めかして笑う。
362
﹁これは手厳しい。お嬢様が﹃全然ダメ﹄だとすれば、私ども使用
人一同はみな無能者の集まりということになります。解雇を心配し
たほうがいいのかもしれませんね﹂
﹁あ、ううん、そういう意味じゃないんだけど⋮⋮﹂
ディーネはなんと説明したものか思案する。
﹁利益はね、総資産や自己資本が大きければ大きいほど増大するの
よ。だから、本当にちゃんと経営したければ、総資産の十パーセン
トとか十五パーセントは稼ぎだせないとおかしいのよ⋮⋮﹂
会計学でいうところのROAとかROEというやつだ。
現代日本ではごく当たり前の会計知識だが、それを聞いた代官た
ちはまたざわついた。
﹁そ⋮⋮そのような計算式、見たことも聞いたこともありませんが
⋮⋮﹂
﹁ええ、そうよね⋮⋮﹂
なにしろこの世界の会計学はようやく萌芽が出たばかり。
具体的には、複式簿記がようやく発明されたばかりぐらいの頃合
いなのだ。
悲しいことに、商人にさえ、商取引をちゃんと帳簿に書き残す習
慣が根付いていないのである。それでどうやって商売をするのかと
いうと、全部暗記。どんぶり勘定だ。
まだやっと取引を全部書き残して見える化する習慣が根付き始め
たばかりの人たちだから、いろんな計算式を使って財務の状況を検
討するという発想がまだないのだった。
363
﹁やはり貴族の方というのは生まれながらにしてわれらとは出来が
違うのだろうか⋮⋮﹂
﹁いやいや、公姫さまが特別であらせられるのだろう⋮⋮公爵閣下
にもここまでのことがなしうるかどうか⋮⋮﹂
﹁お嬢様のおっしゃることの十分の一も理解できない自分が情けな
い⋮⋮﹂
使用人たちが涙にくれている。
﹁さすがはジークライン様の伴侶となられるべきお方といったとこ
ろですかな﹂
﹁あの方も神に愛されたお方ですが、ウィンディーネお嬢様も多く
のご加護を授かったお方なんでしょうなあ⋮⋮﹂
﹁ああ、あやかりたいものです⋮⋮﹂
﹁ありがたいありがたい⋮⋮﹂
なにやら拝みだした使用人たちを不気味に思いつつ、ディーネは
言う。
﹁⋮⋮ていうかね、みんなにもこれ、覚えてほしいんだけど⋮⋮私
ひとりでは見られる帳簿の量に限界あるし、チーム組んで動けるよ
うになりたいのよね﹂
それに一番よく反応したのはハリムだった。
﹁⋮⋮ということは、お嬢様の、その神のようなお知恵の数々を、
伝授していただけるということでしょうか?﹂
﹁ええ⋮⋮でも、神っていうほど大したものじゃないわよ⋮⋮私も
ひとから教わったものだし、覚えたら全然難しくないしね⋮⋮﹂
364
ディーネが全部喋り終わらないうちに、室内がうるさくなった。
﹁なんてことだ⋮⋮!﹂
﹁たった三か月で一千枚も金貨を稼ぎ出すお方の帳簿術を伝授して
もらえるのか⋮⋮!?﹂
ディーネは面食らう。
﹁⋮⋮そんなにうれしいことなの?﹂
﹁これで興奮しないものがいたら、その者は領地の経営に向いてお
りません﹂
﹁あぁ、そっか⋮⋮みんな、経営力を見込まれてお父様に雇われて
るんだもんね﹂
他人に勉強を教えるのはそんなに楽なことじゃないが、喜んで意
欲的にやってもらえるのなら、ディーネとしても悪い気はしない。
﹁よし。じゃあ、今月は集中講座をしましょうか。書記官も雇って、
講義の内容を書かせて、いずれ本にまとめて出版しましょう。読め
ば分かるように﹂
﹁出版ですと⋮⋮!?﹂
すると彼らの興奮は最高潮に達した。口笛や拍手までちらほらと
あがっている。
﹁ああ、それはすばらしいアイデアです!﹂
﹁お嬢様のお考えが伝わらないのは、世界の損失ですからな﹂
スタンディングオベイション状態の男たちにとりまかれ、口々に
365
褒め称えられるディーネ。照れくさいのと大げさなのとで、彼女は
つい噴き出してしまう。
﹁だからべつに、私の発明ってわけじゃないんだけど⋮⋮まあいい
か﹂
︱︱こうして六月までのまとめはつつがなく終了した。
366
お嬢様とゆかいな使用人たち・その四 ∼数学者のキューブ∼
バームベルク公爵領の転生令嬢ディーネは、諸事情により借金返
済をがんばっている。
現在の彼女は、使用人から詰め寄られている真っ最中だった。
軍需産業の研究員であるその使用人の本業は数学者で、おもに軍
事用の土木工事の研究を行っているとのことだったが︱︱
﹁お嬢様。今日という今日は続きをしてもらいます﹂
﹁⋮⋮なんの?﹂
﹁先日おっしゃっていた公式のことです! あのような数式が成立
するとは思えませんので、反証を三十ばかり作ってきました。ぜひ
ともご覧いただきたい﹂
﹁え、無理﹂
ディーネが逃げようとすると、彼はずいっと一歩近寄ってきた。
婚約者がいる関係上、不用意に異性に触ると面倒くさいことになる
ディーネは壁に向かって大きく後退する。
結果、背中がトンと壁にぶつかることになった。
﹁⋮⋮なぜです?﹂
数学者の男が真剣な顔で問い詰める。線の細い男は、片目を覆う
鬱蒼とした髪型もあいまって神経質そうな雰囲気を醸しだしており、
負のオーラをがんがんに放っていた。今にも病み化しそうだ。
367
﹁なぜって⋮⋮私、数学そんな詳しくないもん⋮⋮﹂
﹁詳しくない方があんな、あんな、悪魔のような方程式を思いつく
のですか?﹂
﹁私の発明じゃないし、それ⋮⋮﹂
彼が怒っているのは、つまりこういうことだ。
話は三か月前までさかのぼる。
ディーネは借金返済をするべく、商売をしようと思い立ち、手近
で使えそうなネタはないものかと探し回っていた。すると、公爵領
ではよそよりも軍需産業の研究と開発が進んでいることが分かり、
それを手っ取り早く商売に流用する線で決めたのである。
インゲニアトール
そのときに出会ったのが、この男だった。
彼は﹃技術者﹄と呼ばれる職の男で、軍事用のメカニックをやっ
ているようだったが、ディーネが機械にうといこともあり、今回は
とくに必要ない研究かな、と判断した。
そこで終わればよかったものを、つい思いつきで、この世界の数
学がどんな内容なのか彼に尋ねてしまったがゆえに悲劇が起きた。
彼は連立方程式などは知っていても、虚数や微分積分の概念はま
だ知らないようだったので、つい軽い気持ちでディーネが覚えてい
る公式をいくつか教えてしまったのだ。
微分積分は部分的に彼の知る知識と合致したようで、ある程度は
納得してもらえたのだが、虚数の概念あたりになると、男は突如と
して猛烈に激怒した。
368
ディーネから与えられた知識が想定外すぎて、数学一筋に生きて
きた男は、自分の存在が全否定されたかのようなショックを受けて
しまったらしい。怒り、否定し、迷いながら公式の証明をディーネ
にしつこく迫り、ついには閉ループに陥ったプログラムのようにぐ
るぐるとそればかり悩み続ける状態になった。
ディーネもできる限り質問には答えていたのだが、学校で覚えた
公式をそのまんま使っていただけの平凡な少女に、本職の数学者が
語る、神学論まじりの小難しい数学の証明問題は手に余った。
︱︱なぜ数学が神学論まじりなのか?
ワルキューレ帝国の国教・メイシュア教によると、数学は神の偉
大さを証明するための崇高な学問なのだそうだ。音楽や絵画などと
同じだ。中世ヨーロッパでも、ある程度科学や哲学が発達するまで
は神学がすべての学問における最高峰とされていた。グレゴリオ聖
歌を唱和することで神の偉大さを讃え、フレスコ画やステンドグラ
スを用いて文字の読めない一般信徒に神のすばらしさを啓蒙しよう
とする試みと同様、数学を学ぶことは、この世界を創りたもうた神
の完全性を讃えることと同義だった。神学論と相反する数学は古代
の魔術と同列にみなされたのである。
ディーネの教えた数式は、魔術的、悪魔的だと思われたらしい。
しつこく数学と神学の問答を迫る数学者の男から、ディーネは逃
げだしたのだった。
︱︱そしてまた、今もディーネは証明問題を迫られている。
﹁難しい話は私には無理だよ⋮⋮﹂
﹁ふざけないでください、こんな大それた数学の発想ができる方が、
369
難しいことは分からないなどと幼稚な嘘をつかないでいただきたい﹂
﹁いやほんとに、私が知ってるのはざっくりした内容と結果だけで
あって、途中式とかはぜんっぜん分からないから⋮⋮私も人から教
えられて初めて知ったんだし﹂
﹁誰から教わったんです?﹂
﹁えーとえーと⋮⋮天の神さまから、かな?﹂
出まかせを言ったディーネに、数学者の男は大いに衝撃を受け、
いきなり床に膝をついた。
﹁なぜだ⋮⋮これほどの神の啓示を、なぜ神は、私ではなく、か弱
く幼い女性にお与えになったのだ⋮⋮! 私は神に見放されたのか
⋮⋮!?﹂
︱︱わあ、やっばい。
このまま放っておいたら変な方向にエスカレートしていきそうだ。
﹁た、たぶん、私からあなたに伝えることで、あなたに完成させて
ほしいから、とかじゃない? いつもがんばってるあなたに、神さ
まからのご褒美? みたいな?﹂
すると男はおでこにしわが寄るぐらい目をむいて、大口を開け、
満面の笑みを形作った。
﹁⋮⋮ではお嬢様は、天使だったのですね⋮⋮! ああ⋮⋮なんと
いうことだ⋮⋮! 私の天使⋮⋮!﹂
︱︱天使って。
ディーネはぼつぼつと鳥肌が浮くのを感じた。もとから厨くさい
のは苦手なのだ。
370
﹁ごめん、もう、持ち場に帰って⋮⋮ええと、名前、なんだっけ?﹂
﹁キューブです、お嬢様、私の福音!﹂
﹁やめて。お嬢様以外の呼び名で呼ぶの禁止﹂
﹁分かりました、このキューブ、命に代えても遂行いたします⋮⋮
!﹂
﹁いや、命には代えなくてもいいけど⋮⋮もう、ほんとかえってほ
しいな⋮⋮﹂
﹁ではお嬢様、また明日も参ります!﹂
﹁こなくていいけど⋮⋮﹂
﹁神の啓示がまたあるかもしれません。それを伝えるのはお嬢様が
神から授かった重要な役割のはずです﹂
﹁あ、あー⋮⋮そういう解釈もできるかな⋮⋮?﹂
﹁ああ、明日が待ち遠しいです、お嬢様⋮⋮!﹂
キューブは大はしゃぎでディーネの手の甲に勝手にくちづけ、去
っていった。
一瞬、ジークラインが来るかと思い、身構えたディーネだったが、
手などが少し触れたぐらいではジークラインもいちいち確認するの
が面倒くさいと思うからなのか、今回もその気配はなかった。
ほっとするディーネが見守る中、キューブは浮かれた足取りでジ
グザグに進んでは、廊下の通行人とぶつかりそうになっている。
危なっかしい彼をハラハラと見守りながら、﹁やっぱり研究者に
は変な人が多いなあ﹂と思ったのだった。
371
お嬢様とゆかいな使用人たち・その四 ∼数学者のキューブ∼︵
後書き︶
インゲニアトール
機械技術者、兼、建築家。投石器の作製から聖堂の建築まで幅広く
携わった。
372
お嬢様と修道院
七月。直射日光が刺さる季節になってきた。
公爵令嬢ディーネと四人の侍女たちは、修道院に来ていた。単純
な積み木を重ねたような、円柱と円錐でできた塔と、それを繋ぐ細
長い廊下、あちこちに流れる小掘。古い石造りの修道院だ。
馬車から降りて、案内の女性に導かれるまま進み、洗水盤で手を
洗って建物に入る。
﹁ふう。あっついですわねぇ∼﹂
古い修道院は分厚い石を積み重ねて作っていることが多いから、
建物の中に入ると、少し暑さも和らぐ。
﹁ディーネ様、もっと冷やしてくださいまし﹂
レージョが言う。
ディーネは氷雪系の魔法が得意なので、夏場はほぼクーラーがわ
りに使われるのだった。
﹁ここだといくら冷やしてもあんま意味ないから、部屋に入ったら
ね﹂
﹁じゃあ早くお部屋に行きましょう!﹂
﹁お前たち、走るんじゃありません!﹂
案内されていったのは、院長室だった。清貧を旨とする修道院ら
373
しく、簡素な内装で、目をひく装飾は聖母のタペストリぐらいだ。
時刻の目安になる長い長いろうそくは午後四時のところまで燃え落
ちている。
﹁ようこそお越しくださいました﹂
出迎えてくれたのは修道院の院長をしている女性だった。足腰は
しゃんとしているが、力のない声色がかなりの高齢であることをう
かがわせる。きっちりと布の奥にしまわれている髪は真っ白になっ
ているに違いない。
﹁お久しゅうございます、院長先生!﹂
﹁シス! これ、お嬢様よりも先に口を開くんじゃありません!﹂
ジージョが咎めるのにも構わず、シスは院長先生に向かって爪先
を地面にトンとつけるあいさつをしたあと、かたわらにいた若い女
性に飛びついた。
﹁お姉さま! お久しぶりでございます!﹂
﹁シス、会いたかったわ!﹂
それからふたりはしゃがみこんで、ひそひそと内緒話を始めた。
﹁⋮⋮たくしが頼んでいた⋮⋮の三巻は⋮⋮﹂
﹁⋮⋮なさらずとも⋮⋮しておりますわ⋮⋮﹂
﹁ああ⋮⋮! ありがとう⋮⋮!﹂
なんの相談をしているのかははっきりしないが、ろくでもないこ
とは断片からでも想像がつく。
ジージョは処置なしと判断したのか、無言でディーネの背中を押
374
した。無視して院長先生と話をつけろ、ということらしい。
﹁ご無沙汰しております、院長先生﹂
﹁よくいらしてくださいました。公爵閣下のご温情に心よりの感謝
を。メイシュアさまの御名において、栄えある姫君に祝福のあらん
ことを﹂
膝を折るディーネに、院長先生は聖具と同じ形の祈りの印を切っ
た。
儀礼的なやり取りが終わり、ディーネはさっそく本題を切り出す。
﹁本日は、新しいおもちゃをお持ちいたしましたの。今度はお人形
さんですから、女の子用にと思って⋮⋮﹂
﹁まあ、素敵ですこと! 以前いただいた戦車の模型も、とても好
評でしたのよ。ディーネ様にはいつも子どもたちを気にかけていた
だいて、本当に、なんて心映えの美しい方なのかしらと皆で話して
いたところなのでございます﹂
﹁そんな⋮⋮お礼ならシスさんに言ってあげてください。今回も、
シュヴェスターン
あの子の提案で参りましたのよ。きっと御恩ある修道院が忘れられ
ないのですわ。それも院長さまや修道女さま方のお志が高くていら
っしゃるからに違いありません﹂
﹁まあ、ほほほ⋮⋮﹂
ディーネは院長とまったく同じタイミングで、ちらりとシスや修
道女のほうを見やった。
もと修道女の少女と、その先輩は、しゃがみこんで、なにかの本
を一緒に覗き込んでいるところだ。
﹁⋮⋮ああっ、そんな、ミサの最中に? 人気のない二階で? ⋮
⋮ひわい! ひわいよ!﹂
375
﹁まだまだですわ、お姉さま。この懺悔室での場面はもっとすごい
のですわ⋮⋮﹂
⋮⋮院長先生はさっと視線をディーネに戻すと、気まずげな笑み
を浮かべた。ディーネもきっと似たような笑顔になっているに違い
ない。
しかしディーネはこれでも転生令嬢。こういう気まずい場面をや
りすごす大人の社交術も多少は知っている。
﹁⋮⋮シスさんはよく大好きな修道女の皆さまのことをお話してく
ださいますのよ。ですから、院長先生のことも、わたくしあまり他
人という気がいたしませんの。素敵な修道院のようで、本当によう
ございますわ﹂
秘儀、﹃見なかったふり﹄を炸裂させると、院長先生は慌ててそ
れに食いついた。
﹁いいえ、そんな⋮⋮シスさんのようにお若くて将来有望な方が修
道院に閉じ込められるのは可哀想だと、わたくしもずっと心配して
おりましたのよ。ディーネ様のところに奉公に行かせてあげられて
ようございました。幸せそうな彼女の顔が見られて、ほんとうに⋮
⋮﹂
院長先生はそう言いつつ、もう決してシスのほうには視線を向け
ない構えを見せている。だいぶお年を召しているであろうお方にそ
んな表情をさせるのはさすがのディーネも心苦しかった。
﹁⋮⋮シスさんのおおらかでおやさしい気質は、この素敵な修道院
で育まれたのでしょうね﹂
﹁なんですって!? 右の男に殴られたら左の男にも⋮⋮!?﹂
376
﹁三人!? 三人なんですの!? 意味深ですわぁ!﹂
﹁⋮⋮わたくしはいつもシスさんの夢いっぱいのお話にとても慰め
られておりますの﹂
﹁なんてひわいなのかしら⋮⋮!﹂
﹁焚書! 焚書ですわ!﹂
﹁わたくしはほら、現実的な性分ですから⋮⋮﹂
﹁ああ、こっちの本も聖女さまが⋮⋮!﹂
﹁こんなに大勢の前で⋮⋮!﹂
︱︱あなたたちなんの本を読んでるのよ⋮⋮
ツッコミたくなったが、ディーネは渾身の力をふりしぼって我慢
した。他人がボケていたら食いつかずにはいられないツッコミ体質
の彼女には精神が摩耗するような忍耐力を強いられるできごとだっ
たが、それでも耐え抜いたのである。
﹁では院長先生、小さな兄弟たちにごあいさつをさせていただいて
もよろしいでしょうか﹂
﹁ええ、ぜひともゆっくりしていらしてね﹂
﹁なんてとんでもないお話なのかしら⋮⋮!﹂
﹁将来の発禁は確実ですわ!﹂
そしてディーネたちは院長を残し、修道院の礼拝堂のほうに移動
する。
︱︱シスと修道女はその途中でたっぷりとジージョのお説教を受
けた。
377
お嬢様と修道院 2
移動した先の広間では、子どもたちが歓迎のお歌を歌ってくれた。
パイプオルガン伴奏による単旋律の聖歌。それが高い石造りの建物
の中で反響すると、得も言われぬ荘厳な響きになる。
子どもたちは歌が終わると突撃してきた。
﹁ディーネさんだ!﹂
﹁ひゃーってするやつやられるぞー!﹂
﹁やだー!﹂
﹃ひゃーってするやつ﹄とは、ディーネの魔法で首筋をちょっとヒ
ヤッとして、ビックリさせる技のことである。なぜかこれが子ども
に馬鹿ウケするのだ。
﹁愚かものたちめ。ひゃーってされたくなければ逃げ惑うがいい!﹂
ディーネが掲げた両手の指をわきわきさせると、子どもたちは歓
声をあげて散り散りになった。
﹁ひゃっはー! 汚物は消毒だぁー!﹂
﹁姫! また下品な言葉遣いをして⋮⋮!﹂
﹁子どもに向かって汚物はちょっと⋮⋮﹂
﹁かわいそうですわぁ⋮⋮﹂
﹁皇太子殿下には絶対にお見せできない姿ですわね⋮⋮﹂
378
ドン引きしている侍女を取り残し、ディーネは隠れている子ども
たちをひとりずつ捕まえていった。
﹁いーたーぞー! こーこーかー!﹂
﹁きゃー! つめたいー!﹂
全員にお礼参りをし、最後のひとりが笑いつかれてぐったりする
までヒヤヒヤさせて満足したディーネが顔をあげると、すでに年齢
が高い少女たちの興味は侍女たちが持参した人形のほうに移ってい
た。
﹁着せ替え人形のディーネちゃんよー﹂
﹁ディーネ様が研究開発したおもちゃ第二弾! なんですの!﹂
﹁名前は各自で好きなように命名すればいいと思いますわぁ! わ
たくしはセミって名前にしましたの!﹂
﹁すごくいやな名前!﹂
﹁あらどうしてですの? ディーネ様にぴったりだと思いますわぁ﹂
﹁短い期間しか生きられなくて儚いところですとか、夏にイキイキ
と輝くところですとか﹂
﹁美人薄命って申しますものね﹂
﹁﹃月下美人﹄ってお名前とどっちにしようか迷ったのですわ∼﹂
﹁それはそれで恥ずかしい!﹂
女の子たちはくすくす笑っている。
中でも一番おとなびた少女がディーネに向かって進み出た。
﹁お人形より、ディーネ様のほうがずっとおきれいです﹂
﹁んまあ﹂
子どもは素直なので、素直な感想がそれなのだと思うとうれしさ
379
もひとしおだ。
でれでれしているディーネに、おとなびた少女はにこにこと人形
の手を振ってみせながら、小声でそばにいる取り巻きの少女たちに
話しかける。
﹁⋮⋮ほら、あんたたちも褒めるのよ。あわよくばお人形用のサマ
ードレスとかも追加で持ってきてもらえるように﹂
﹁お、女の子だなー!﹂
人形の小物がほしい少女たちは小さくガッツポーズを取る。
﹁はい、お姉さま!﹂
﹁やってやります!﹂
打算と物欲が渦巻く乙女の会合の火ぶたは切って落とされたばか
りだ。
***
女の子たちに﹃こういう服を着せたいな﹄という夢いっぱいのフ
ァッションデザイン話をひとしきりしてもらったあと、ディーネた
ちはふたたび院長先生の部屋に戻ってきた。
ディーネは前世の記憶が戻ってからというもの、公爵家が寄付し
ているさまざまな教会・修道院に会計記録簿の提出をお願いしてい
た。四月の時点からあちこちに声かけを開始していたが、商人でさ
え記録簿を適当にしてしまう世界なので、あまりはかばかしい返事
をもらえていなかった。その中でこの修道院は、院長が趣味でこま
ごまとした出費なども書きつけていたため、協力者となってくれた
のだった。
380
﹁ところで、院長さま。先日は日記帳を貸していただいてありがと
うございました﹂
﹁いえ、あれはわたくしの趣味のようなものですから⋮⋮でも、ご
覧になって楽しいものではなかったでしょ?﹂
﹁いえ、とんでもないです。院長さまが収支を細かくおつけになる
方で助かりましたわ。おかげでいろんなことが分かりました。そこ
で少し今後の物資の支援について考えたのですけれども⋮⋮﹂
ディーネが持ってきた書類を手渡すと、院長さまはめがねを取り
出して、しげしげと覗き込み始めた。
書類はディーネが会計記録簿を見て、足りていないと感じた物資
についてまとめたものだ。
食料品がジャガイモばかりに偏っているので、栄養学の観点から
豆や肉類を増やした。甘味料ははちみつが豊富に取れているから現
状維持、などなど、項目は多岐にわたっている。
﹁まあまあ、ディーネ様、こんなにたくさん⋮⋮﹂
ばんじゅう
﹁それと、こちらは身勝手なお願いになってしまうのですけれども、
畑の耕作に、輓獣として馬を新しく飼育していただきたいんですの﹂
﹁馬⋮⋮ですか?﹂
﹁ええ、とっても役に立つ家畜なのでございます。畑の耕作のほか
にも、重い荷物を牽かせるのにも使えますから、ぜひともお役立て
になってくださいまし﹂
院長はくすりと笑った。
﹁今度はお馬さんの飼育もなさっているの?﹂
﹁ええ。大事な研究なんですのよ。うまくいけば飢饉へのそなえも
できて、ジャガイモだけではなく、パンや麺類を食事に選択する自
381
由が出てきますわ﹂
﹁まあ⋮⋮﹂
なまぬるい目で院長がこちらを見る。ディーネはちょっと口をと
がらせた。
﹁みなさん、あまり信じてくださらないのですけれども、わたくし
の申しあげることは本当なんですのよ、院長さま。ジャガイモが凶
作の年は飢えてしまう民が出るのが現状ですけれども、いずれはな
くしてみせますわ﹂
﹁⋮⋮ディーネ様のおっしゃることが本当になれば、どんなにいい
かとわたくしも思いますわ﹂
﹁ええ、そうですのよ。ですから信じていらして。馬の飼育の件、
くれぐれもよろしくお願いいたします﹂
院長との約束を取り付けて、修道院の訪問タイムは終了した。
382
コスプレをするお嬢様
公爵令嬢ディーネには婚約者がいる。皇太子のジークラインだ。
月に一度は訪問しろという侍女の勧告に従い、ディーネは彼女た
ちに身支度を整えてもらっているところだった。
﹁できましたわ、ディーネ様!﹂
レージョがブラシを置いて、満足げに鏡を持ってくる。後頭部が
よく見えるようにとディーネの顔の左右に鏡を掲げてくれた。
正面鏡に映りこんだ反射像を見て、ディーネはちょっと応答に困
る。派手も派手、とんでもない髪型だった。というのも、複雑な編
み込み頭のてっぺんに黒いとんがり帽子を乗せ、花やら金貨やらネ
ットやらでごちゃごちゃと飾り付けてある。
﹁⋮⋮今日はいつにもましてえらく盛ってくれたわね﹂
﹁最新流行ですのよ!﹂
﹁お誕生日会の主役の子みたくなってるんだけど⋮⋮?﹂
﹁とんがったお帽子をかぶせて、まわりにお花や金貨を散らばすの
が今一番チョベリグなのですわ!﹂
﹁死語感ヤバいけど⋮⋮?﹂
﹁皇太子殿下の御前にお出になるのですから、このぐらいは気張り
ませんと!﹂
﹁そうなの⋮⋮?﹂
レージョは帝都の最新流行のファッションなどが好きらしく、斬
新な服や髪型に仕立て上げてくれるのだった。それはいいのだが、
383
本当にこれはイケてるのだろうか。
ディーネは不安になってドレスに合わせる小物をきゃいきゃい言
いながら合わせてるシスとジージョに声をかける。
﹁⋮⋮ねえ、これ、本当にかわいいの?﹂
﹁あらすてき!﹂
﹁レージョさんのセンスは抜群ですわね∼!﹂
﹁⋮⋮そうなの⋮⋮?﹂
﹁ディーネ様はすらっとした端整な美人さんですから、少しくらい
派手がましくても嫌味ではありませんわ!﹂
﹁そ、そういうものなの⋮⋮?﹂
ディーネはよく分からなくなってきた。ファッションは時代の価
値観に左右されやすいので、いろんな時代の価値観が知識としてあ
るディーネにはなんとも判断しづらい。
﹁お洋服はこちらで決まりですわねっ!﹂
シスが見せてくれたのは、例の魔法蜘蛛の繊維による正装。つま
りぱっつんぱっつんのセクハラ衣装だ。
﹁本日は黒いとんがり帽子に合わせてみましたわ!﹂
真っ黒なローブ風の衣装。ディーネにはどうしてもアレにしか見
えない。
﹁ま、魔女っ子⋮⋮﹂
﹁きゃあ! お腰もおみ足も細くていらっしゃるからよくお似合い
ですわぁ∼!﹂
384
﹁ああ⋮⋮うん⋮⋮服がこれなことを考えたら、髪型くらいどうで
もいいかなって思えてきた⋮⋮﹂
︱︱そのうち服の開発にも着手しよう。
ディーネはひそかにそう決心したのだった。
﹁きっとジーク様も惚れ直しますわよ∼!﹂
名前を出されて、ちょっとだけドキリとする。
﹁あいつは子どもっぽいの好きじゃないんじゃないの?﹂
﹁なにをおっしゃいますの! 清楚でおかわいらしいディーネ様の
ちょっと違う一面!﹂
﹁これはジーク様ならずともみなさまドキッとしてしまいますわぁ
!﹂
﹁そ⋮⋮そうかな⋮⋮?﹂
ジークラインに褒められるところを想像すると、なんだかくすぐ
ったいような気がする。
ディーネは照れながら鏡をもう一度確認してみた。
お誕生日会の主役の子がよくかぶってるようなとんがり帽子の、
ゴス風魔女っ子ドレスを着た、結構いい年齢の女の子がそこにいる。
さらに悪いことに、﹃仮装とかはそろそろ恥ずかしいな⋮⋮﹄とい
う心の声が聞こえてきそうな、性格の引っ込み思案さが表情に出て
いた。
﹁⋮⋮ハロウィンかな?﹂
﹁はろ⋮⋮なんですの?﹂
﹁ね? とーっても素敵でございましょう?﹂
385
﹁仮装大会にしか見えない⋮⋮﹂
﹁もう、芸術の分からない方ですわぁ!﹂
︱︱だって爆発しちゃってるんだもの⋮⋮
ディーネは思考を停止することにした。侍女が三人も集まって絶
賛してくれるのだから、ヘンだと思うディーネのほうがおかしいの
だろう。きっとそうに違いない。
そうだといいな、と、ディーネは真夏の青い空を遠くに見ながら
思った。
386
着せ替え人形とジークライン
﹁おもしれえ格好してんな﹂
婚約者ジークラインのお部屋をまったりと訪問中。
紅茶を飲みながら、ひと段落ついたところで。
半笑いのジークラインにマントの裾をくいっと引っ張られて、デ
ィーネはかーっと頭に血がのぼるのを感じた。やっぱりこの格好は
浮かれすぎだったんじゃないのかと今さら不安になったのだ。着替
えてくればよかったと後悔した。
﹁こ、これは! 侍女たちが!﹂
﹁ふうん? ま、いいんじゃねえの。大事なのは中身だ、中身﹂
﹁外側も、だいじだと、思うけどー!﹂
﹁外もまあ、好きなやつは好きなんじゃねえの? 女は好きそうだ
な。俺の好みじゃねえけど﹂
﹁私だって好みじゃないし!﹂
ジークラインからマントの裾を取り返し、半円形のそれで全身を
ぴったり隠してしまうと、ちょっと落ち着いた。
﹁隠すほど嫌なら着なきゃいいじゃねえか﹂
﹁だってこれはっ⋮⋮﹂
ジークラインもきっと気に入ると言われて、そのまま鵜呑みにし
てしまったのだ。あのときの自分はどうかしていたとしか思えない。
387
けれどもそれを正直に白状するのもしゃくだった。別にジークラ
インから気に入られたくて着たとかではなく、これが流行りだと言
われて納得してしまっただけなのに、あらぬ誤解をされそうだ。
ジークラインはひとりで突っ張っているディーネをどう見たもの
か、笑いをこらえきれない様子で言う。
﹁⋮⋮おれを喜ばせたいんなら、もっと布を減らしてこい﹂
﹁だっ、だれが! あんたなんかに!﹂
ディーネが必死で否定しても、ジークラインは揺るがなかった。
﹁いい女に余計な飾りはいらねえ。そうだろ、ディーネ?﹂
﹁うるさいし、知らないしー!﹂
やいやい言いながら、ディーネは紅茶をひと口含む。
ふと、室内のインテリアに目を留めた。いつもと違う気配がした
のだ。ベッドの天板に、人形が置いてあるのがその理由らしい。見
覚えのある髪型、洋服︱︱ディーネの姿に似せた﹃ディーネちゃん
人形﹄が、なぜかちょこんと鎮座している。
ディーネはあやうく紅茶を噴きだすところだった。
改めてジークラインの部屋を見渡す。大小の武器防具が陳列され
たコーナーあり、神話の英雄が獅子を倒す名画ありの、どちらかと
いったら武将の風格ただようお部屋。
そこに、かわいい女の子の着せ替え人形がぽつねんと置いてある。
︱︱しかもベッドサイドて。
388
まさかとは思うが、この格闘ゲームの強キャラみたいな風貌のジ
ークラインは、いまだに夜眠るときのおともぬいぐるみを必要とし
ているのだろうか。
そのぬいぐるみが自分の名前つきとあっては、ディーネも心穏や
かにはいられなかった。
﹁あの⋮⋮ジーク様⋮⋮あれは⋮⋮﹂
ディーネがおそるおそる人形を指し示すと、ジークラインはさも
不思議そうなそぶりで立ち上がり、それを手に取った。
﹁なんだ、こりゃ?﹂
女の子の襟首を猫つかみでつまんで持ち上げるジークライン。か
わいらしい人形が、おそろしいほど似合っていない。
﹁﹃ディーネちゃん人形﹄⋮⋮?﹂
服につけられたタグを引っ張り、読み上げて、ジークラインは人
形とディーネを交互に見比べ、いきなり笑い出した。
﹁ははは。なんだこれ、お前か?﹂
﹁⋮⋮モデルはわたくしなんだそうですわ﹂
﹁使用人が気を利かせて置いてったのかもな。いや、お前だと思っ
て見るとなかなか味がある﹂
ジークラインが人形のほっぺをうりうりと指先でつっつく。
ディーネは直接触られてるわけでもないのにこそばゆくなった。
389
セクハラはやめてほしい。それと大男が人形をつつきまわしてる絵
面も犯罪くさい。
﹁趣味じゃねえけど、まあ、いいか。邪魔なもんでもねえし、置い
といてやってもいい﹂
﹁そっ、それを、どうするおつもりですの!? まさか服を着せた
り脱がせたり⋮⋮!﹂
﹁しねえよ、馬鹿。お前は俺をなんだと思ってやがるんだ。捨てる
のも可哀想だと思っただけだ。嫌ならお前が持って帰れ﹂
ジークラインに人形を手渡されそうになって、ディーネはちょっ
と困った。部屋に自分の人形が増えてもうれしくない。むしろ引き
取り拒否されたという悲しみが募るだけだ。
﹁いるのか、いらねえのか、はっきりしやがれ﹂
﹁だ、だってっ⋮⋮﹂
ジークラインは受け取ろうとしないディーネを見て、あくどく笑
った。
人形をこれみよがしに抱きしめる。
﹁お前がどうしても、ってんなら、抱き枕にしてやってもいいけど
よ﹂
﹁はっ、はあ!? いみわかんない!﹂
なぜディーネがそんなことを頼まなければならないのだ。だいた
い人形を抱えて眠るジークラインなんてどう考えても絵面が犯罪じ
ゃないか。かわいくないしほほえましくもない。寝るときも剣を手
放せない戦闘狂の男︱︱といったような、いかにもハードボイルド
系の風貌しといて人形と添い寝はきつすぎる。
390
そう思いながらも、心のどこかでちょっとときめいてしまってい
る自分を発見し、許容できずにディーネはキレた。
﹁やっぱり返して! 持って帰る!﹂
﹁欲しけりゃ力づくで取り返してみろよ﹂
﹁きいい! かえして! かえしてー!﹂
ジークラインは背が高いので、人形をめいっぱい高いところに持
ち上げられるとディーネには届かない。椅子から立ち上がり、ぴょ
んぴょん飛び跳ねても全然だめだった。
﹁はぁ⋮⋮はぁ⋮⋮もう⋮⋮好きにすればいいじゃない⋮⋮﹂
﹁言われなくても、俺はいつだって俺の思うがままに行動してんだ
よ。誰の指図も受けねえ﹂
ジークラインは卒業できない厨二病発言をまたしてもかまし︱︱
信じられないことに、人形を愛でるような目つきで見て、腕をく
いっとつまみあげた。
﹁こうして見るとなかなかかわいいじゃねえか﹂
﹁い、いやあああああ!﹂
最悪の光景だった。なのに、自分の分身が大切に扱われていると
ころを見ると、むずがゆくなってしまう。気持ちが悪いはずなのに、
それ以外の感情が芽生えかけて、ディーネはもう絶叫するしかなか
った。
︱︱こうして七月の訪問も、生産性のないまま終わった。
391
弟たちの襲来
七月も後半になると、夏の暑さが深刻になってきた。
ディーネも自室で一生懸命冷却用の魔法をかけているが、どうに
も効きが悪い。侍女が四人もつめていると人からの排熱というのも
馬鹿にできないのだ。
﹁とろけそう⋮⋮﹂
﹁ディーネ様! いまこそひと夏の輝きを見せるときですわよ!﹂
﹁そうですわそうですわ! 夏にだけ輝いてぱっと儚く散るのがセ
ミの生きざまでございますのよ!﹂
﹁別にセミに憧れたこととかないけど⋮⋮﹂
︱︱もしかして私のあだ名、陰でセミとかになってるの⋮⋮?
一抹の不安をぬぐえないディーネだった。
﹁私がセミならあんたたちはなんなのよ⋮⋮﹂
なんとなく面白くなかったのでディーネがそうつぶやくと、シス
が真っ先に反応した。
﹁わたくしはキリギリスですわぁ! 毎日楽しく暮らしとう存じま
す!﹂
﹁わあ刹那的⋮⋮﹂
﹁わたくしはテントウムシですわあ! あの真っ赤でお派手な羽が
かわいいと思いますの!﹂
﹁ああうん、それはかわいい﹂
﹁わたくしはせめて獣になりとうございますね⋮⋮﹂
392
﹁すごく同感よ、ナリキ⋮⋮﹂
ジージョは話の内容があまりにもくだらなさすぎると思ったのか、
黙って紅茶を飲んでいる。赴任してしばらくのころは﹃若い娘の会
話とは思えない﹄などと苦言を呈する場面もあったのだが、シスと
レージョがあまりにも自由きままなので、そのうち諦めたらしい。
と、そのとき、玄関先が騒がしくなった。
﹁ディーネ様、そろそろ⋮⋮﹂
ジージョが催促する。ディーネたちはなにも四人でひまを持て余
していたのではなく、ある人を待っていたのだった。
小間使いが屋敷の外にある転送ゲートの稼働を告げにきたので、
ディーネたちもいそいそと屋敷の玄関まで出ていった。
転送ゲートから玄関先までをつなぐためだけに使われている小さ
な馬車が車寄せに停まり、中から男の子がふたり出てきた。
ディーネには弟がふたりいる。
ひとりはディーネによく似た印象の、黒髪黒目の儚げな美少年。
もうひとりはやや釣り目ぎみの金髪碧眼で、こちらもすごい美少年
だった。
ふたりはディーネの弟で、金髪のほうが年かさ、黒髪が末っ子だ。
ふたりとも寄宿制の学校に行っているのでふだんは不在だが、夏
休みとなり、ちょうど今日が帰宅の日になっていたのだ。
393
この世界の学校制度はちょっと変わっていて、貴族の子弟は十八
になると見習い騎士としてどこかの貴族のところへ奉公にあがるか、
幹部候補として帝国軍に召し上げられるかの二択なのだが、その前
に寄宿制の学校で教育を受けなければならないのである。
ふたりともまだ小さいので、初級のグラマーやごく簡単な算術な
どを習っている。
﹁姉さま! 姉さま! 姉さまーっ!﹂
﹁イヌマ! おかえりなさい!﹂
大歓声をあげて飛びかかってきたのは黒髪の末っ子のほう、イヌ
マエルだった。
﹁⋮⋮お久しぶりです、姉上﹂
﹁おかえりなさい、レオ﹂
ちょっとそっけなくあいさつしたのが、金髪の跡継ぎのほう、レ
オだった。レオのほうは構いすぎるとどこかに逃げてしまうので、
ディーネはイヌマエルに向かってほほえみかけた。
﹁また背が伸びたのね、イヌマ﹂
﹁はい! いまに姉さまなんて追い越してやりますからね!﹂
ディーネはちょっと頬がゆるんだ。クラッセン嬢の弟たちはふた
りとも抜群にかわいらしいのだ。ディーネは不用意に異性に触れる
と婚約者のジークラインにもバレてしまってあとで怒られることに
なるのだが、弟たちは異性にカウントされないらしく、これまでに
も咎められたことはなかった。
394
﹁姉さまはひんやりしてて気持ちいいですね! もっとくっついて
もいいですか?﹂
﹁夏場はそればっかりね、あなた⋮⋮冬は見向きもしないくせに﹂
﹁だって冬場の姉さまは冷たいじゃないですか。冬の僕はあたたか
い人が好きです。ねーレオ?﹂
﹁⋮⋮別に﹂
ぐりぐりと頭のてっぺんをこすりつけてくるイヌマを適当にあし
らいつつ、レオにもひやっとする魔法をかけてあげると、彼はとび
あがった。
﹁にゃっ!﹂
びっくりした彼が手近にあったカーテンの陰に隠れる。ははは、
愛い奴め。
﹁姉さま! 今日は一緒に寝ましょうね!﹂
﹁ははは、だめに決まってるじゃないの﹂
ディーネがおでこに軽くチョップを入れると、イヌマエルはショ
ックを受けた。
﹁えー! 去年までは一緒だったのに!﹂
﹁今年からはだめです﹂
﹁じゃあレオも一緒なら⋮⋮?﹂
﹁なにがじゃあなのかが分からない﹂
﹁押しに弱い姉さまなら、夜這いをかければあるいは⋮⋮?﹂
﹁氷漬けにしますよ﹂
イヌマエルはちょっとびっくりした顔でディーネを見た。
395
﹁⋮⋮姉さま、なんだかちょっと見ない間に、ずいぶん雰囲気が変
わりましたね﹂
﹁そ、そうかな⋮⋮?﹂
﹁⋮⋮明るい﹂
﹁レオもそう思う? そうだよね!﹂
ディーネの変化は前世の記憶がよみがえったせいなのだが、さす
がにずっと一緒に育ってきた弟たちの目は誤魔化せないらしい。
﹁なーんか変ですねー⋮⋮?﹂
﹁き、気のせいよ、気のせい!﹂
疑惑の目で見つめてくるイヌマから微妙に顔を背けつつ、ディー
ネはカラ笑いをした。
弟たちの夏休みは八月いっぱい。
どうにか誤魔化し続けられればいいなと思いつつ、ディーネはひ
きつった笑顔を浮かべ続けたのだった。
396
弟たちと授業
公爵令嬢のディーネには前世知識がある。
その中にたまたま簿記の知識があったので、領地の記録を見たと
ころ、どうもこの世界ではそれほど会計学が発達していないようだ
と気づいた。
ひとりで領内の取引記録をすべて見るわけにはいかないので、領
地の執政代官たちに自分の知識を伝えることに。チームを組んで動
けるようになるのがディーネの狙いだった。
今日の分の講義をしようと、ディーネが執務用の離れに向かう途
中で、先日帰ってきたばかりの弟たちがディーネの前に立ちふさが
った。
﹁姉さま、遊んでくださいっ!﹂
﹁あー、今はちょっと⋮⋮﹂
﹁ご用事ですか﹂
﹁これから仕事が⋮⋮﹂
﹁⋮⋮仕事?﹂
上のほうの弟が眉をひそめる。﹁なぜ、姉上が﹂とぼそぼそ聞い
てきた。つまり彼が言いたいのは、公爵家の深窓のご令嬢がかかず
らうような仕事などあるわけがないだろうに、ということだ。姫君
の仕事は優雅にしていることなのであって、忙しく立ち働くなど、
あってはならない恥ずかしいことなのである。
﹁ジーク様との約束でね。しばらく領地の経営を私が見ることにな
っているの﹂
397
﹁殿下と⋮⋮﹂
﹁そうなんですか! なにか、崇高なお考えがおありなんでしょう
ね∼﹂
婚約者である皇太子の名前を出すと、ふたりは簡単に納得してく
れた。相変わらず謎の人気がある男である。
﹁僕らもお手伝いしますよっ!﹂
﹁そんなこと言って、遊ぶ気満々でしょう⋮⋮﹂
﹁あれ、分かっちゃいました?﹂
﹁姉上の仕事、興味があります﹂
言い合う間にもディーネは離れを目指して歩いているが、ふたり
は離れていく気配を見せない。
﹁もー、だめだよ、邪魔されると困るの!﹂
しっしっと追い払おうとしたが、彼らは歓声をあげて逃げ惑った
だけで、しばらくするともとに戻った。
﹁やっぱり姉さま、なんか変ですね?﹂
イヌマがわざとらしくディーネをじろじろ見つめる。弟ふたりと
は、前世の記憶を取り戻してから、昨日はじめて再会した。多少性
格が変わったように見えるのはそのせいだろう。
﹁僕、姉さまの仕事にすっごく興味が出てきました!﹂
﹁見学したい。ご迷惑ですか、姉上﹂
﹁絶対だめ⋮⋮って言っても、ついてきそうよね、あんたたち⋮⋮﹂
﹁もちろんですっ!﹂
398
﹁姉上の仕事は、次期領主の俺の仕事です﹂
﹁仕方ないなあ⋮⋮﹂
ディーネは説得をあきらめた。
﹁すみっこで大人しく見てるだけなら、いいよ﹂
﹁本当ですか、姉さま! やったぁ!﹂
﹁見てるだけだからね? 邪魔しないでね?﹂
はしゃいであたりを駆けまわるふたり。本当に分かっているのだ
ろうか、とディーネは不安になった。
講義用にと、急きょ学校の教室風に作り替えた部屋にたどりつく。
そこにはすでに家令のハリムをはじめとした領地代官たちがずらり
と勢ぞろいしていた。
弟たちも席につかせて、ディーネは教壇に立った。
﹁ええと、昨日の続きから︱︱といきたいんだけど、今日は弟たち
がいるから、もう少し簡単なところから始めるわね﹂
ディーネが話し始めると、イヌマエルがひそひそやりだした。
﹁⋮⋮姉さまがせんせえをするんでしょうか?﹂
﹁何の授業だろう﹂
﹁今やっているのは帳簿の付け方なんだけど⋮⋮複式簿記って言っ
てね⋮⋮ええっと⋮⋮﹂
弟たちはまだグラマーなどの初等教育を受けている。
399
よって、会計のかの字も知らないのだった。
﹁たとえばそうね、私がケーキ屋さんをやっているとします。七月
一日に、ケーキをひとつ、小銀貨五枚で売りました。次の日にもひ
とつ売りました。その次の次の日にも⋮⋮私がこれをメモしていく
と、こうなるわね﹂
ディーネは教壇の上に立てかけた大きめの蝋板に、スタイラスで
こう書いた。
﹃七月一日 ケーキひとつ、小銀貨五枚で売る。材料として小銀貨
一枚と銅貨五十枚を商会に払う。お客さんが払った銀貨は外国のも
のだったから、両替手数料で銅貨五枚を払う。七月二日 この日も
ケーキをひとつ⋮⋮﹄
﹁取引がだらだらと書かれていて分かりにくいでしょう? そこで
複式簿記なの﹂
﹁姉さま、はい!﹂
﹁⋮⋮どうしたの、イヌマ﹂
﹁姉さまの作ってくれたケーキはお金に換えられないと思います!﹂
﹁ありがとう、って、今そういう話してないから﹂
ディーネは投げやりに答えながら、蝋板に今の内容を整理した。
﹃借方 金額 貸方 金額
現金 495 売上 495
仕入 150 現金 150
両替手数料 5 現金 5﹄
﹁と、こう書くと、すっきりするでしょ? 帳簿の内容を視覚的に
400
整理して記帳するのが複式簿記なのよ﹂
﹁姉さま、姉さま﹂
﹁イヌマ、今度はなに?﹂
﹁ケーキが三日で三つしか売れないお店の経営状態が心配です!﹂
﹁そうね、ちょっとお客さん来なさすぎよね⋮⋮﹂
﹁でも大丈夫ですよ! 姉さまのケーキは僕が全部食べてあげます
から!﹂
きらきらした瞳で宣言するイヌマはかわいらしかった。ディーネ
はひとつ満足げにうなずいてから、にこやかに言う。
﹁⋮⋮やっぱり出ていってもらおうかな?﹂
﹁⋮⋮姉上。イヌマは俺が黙らせるから、続きをしてください﹂
﹁お願いね? 結構時間押してるからね、この講座﹂
︱︱こうしてディーネの講義は弟もまじえて進んでいった。
401
弟たちと夜
深夜のことだった。
ディーネは自室で熟睡していたが、扉をうるさく叩く音でうっす
らと覚醒した。
﹁姉さま! 姉さまー!﹂
弟、イヌマエルの声だった。ディーネは驚いて飛び起きた。急い
で扉を開いてみれば、ぬいぐるみ片手にパジャマのすそをひきずっ
ているイヌマと、ナイトキャップをしっかりかぶったレオが立って
いた。
﹁イヌマ!? それにレオも⋮⋮あなたたちどうやってここに⋮⋮﹂
ディーネの部屋と弟たちの部屋は、棟が離れているばかりか、どち
らの入り口も夜間はしっかりと施錠されている。簡単には行き来で
きない。
﹁昼のうちに窓をひとつ開けておいた﹂
﹁侵入したのね⋮⋮だめじゃない、そういうことしちゃ⋮⋮﹂
叱ろうとするディーネをさえぎって、イヌマが飛びついてきた。
﹁姉さま、とっても怖い夢を見ました。僕たちと一緒に眠ってくだ
さい﹂
﹁ふたりで寝たら怖くないでしょ?﹂
﹁レオも怖い夢見たんですよ! ねーレオ?﹂
402
レオが小さくうなずいた。もともとむすっとしている子なのだが、
どことなくしょぼくれている。この子がこんな顔をするなんて、ど
れほど怖い夢を見たのだろうと、ディーネは少しかわいそうになっ
た。
﹁⋮⋮毛がどんどん抜けていく夢を見た﹂
﹁それは怖い﹂
﹁目がさめたらイヌマが⋮⋮俺の髪をぎちぎち引っ張っていた﹂
﹁イヌマ、ちょっと姉さまと話をしましょう﹂
﹁このままイヌマと一緒に眠っていたら丸ハゲにされそうで怖い﹂
﹁イヌマ、あなた兄さんに向かってなんてことするの﹂
﹁僕だって夢を見てたんですよー! 化け猫がおいかけてきて! こう、ひげをえいっと!﹂
﹁イヌマ、レオが怯えてる﹂
頭を押さえながら、真っ青になってしまったレオとにこにこ顔の
イヌマを交互に見やり、ディーネは、まあいいか、と思った。
﹁今日だけだよ﹂
﹁やったあ! ひえひえの冷却魔法つきのベッドわあい!﹂
﹁忘れないで。それ私のベッドだから﹂
﹁ついでに姉さまもわあい﹂
﹁心にもねえな!﹂
ディーネを真ん中に、イヌマとレオが川の字に寝そべった。ディ
ーネが心持ち少し多めにひやっとする魔法をかけてやると、イヌマ
は歓声をあげて喜び、レオはうれしそうに伸びをした。
﹁姉さま、姉さま﹂
403
﹁どうしたの﹂
﹁あのね、僕、一緒に寝るのだめって言われたとき、とっても悲し
かったです﹂
﹁⋮⋮うん﹂
記憶が戻る前のクラッセン嬢は弟たちをとてもかわいがっていた。
現在のディーネもかわいいと思っているが、やっぱり少し遠慮が入
ってしまう。以前のように接しようとしても、難しいものがあった。
﹁姉さまに嫌われてしまったのかと思いました﹂
﹁そんなことないよ。ふたりとも大好きだよ﹂
レオとイヌマの頭を抱き寄せる。
﹁姉上の授業にも驚かされました。変わったことをなさっている﹂
﹁うん⋮⋮そうね﹂
﹁姉さま、姉さまが、遠くに行ってしまうみたいで、僕は寂しくな
りました﹂
﹁うん⋮⋮﹂
ディーネはベッドの天蓋を仰ぎ見た。真っ暗で何も見えない分、
心の内側がのぞけるような気がした。
確かにディーネはクラッセン嬢と比べると少し気が強いかもしれ
ない。でも、それは表面だけのことで、中身はやっぱり変わらない
ような気がするのだ。臆病でくよくよしているのもディーネなら、
おおらかであまり人を恨まないのもまたディーネだと思う。
強気にふるまうのは小心さの裏返しだ。本当はいろんなものが怖
くて仕方がないから、自分を大きく見せようとする。見せかけの部
404
分がどんなに変わっても、根っこのところはそうそう変化しない。
﹁︱︱でも、こうしてまた一緒に寝てくれる姉さまは、前と変わら
ない、やさしい姉さまなんだって分かって、安心しました﹂
﹁イヌマ⋮⋮﹂
﹁僕は明日も明後日も、来年も再来年も、夏はずーっと姉さまと一
緒がいいです﹂
﹁⋮⋮夏だけなのかな⋮⋮?﹂
﹁夏の暑いときは姉さまのやさしさがしみます!﹂
﹁冷房の間違いじゃなくて⋮⋮?﹂
﹁僕も姉さまのようなやさしい人になりたいです! 姉さま、氷の
魔法も教えてください!﹂
﹁氷の魔法はやさしさじゃないよ!﹂
口やかましいイヌマとは対照的に、レオはディーネの肩に頭を置
き、肘から先に移動し、二の腕のところに頭を置いてみてから、満
足したように鼻を鳴らした。たぶん、そこが一番冷えていて気持ち
よかったのだと思う。寝心地のいいところに落ち着いたネコはてこ
でも動かないが、レオの寝場所探しはちょっとそれに似ていた。
︱︱そのうちイヌマが速攻で寝落ちたので、ディーネもつられて
眠ってしまった。
405
公爵領の埋蔵金
バームベルク公爵家の転生令嬢ディーネには、前世日本の知識が
ある。彼女はそのときに簿記の資格も獲得していた。
転生した国の文化水準が中世ヨーロッパ並みということもあり、
知識をフルに生かして改革に励んでいるディーネだったが、この会
計学の知識はことのほか役に立っていた。見たことも聞いたことも
ない洗練された損益計算の計算式に感激したのは、領内の執政を代
わりに請け負っている雇われ代官たちである。彼らに自らの簿記知
識を伝授することでより改革が進みやすくなると目論んだディーネ
は、一か月間の集中講義の開催を決定。
代官たちに会計学を伝授している間に、すぐ八月一日になった。
この世界の暦、グラガン歴を四等分したときに﹃アエスタース﹄と
いう区分に当たり、直訳すれば﹃夏﹄になるだろうか。
﹁これで私の講義はひとまず終わり。基本は全部詰め込んだはずだ
から、各自でちゃんと復習してね﹂
ディーネが教壇からハリムたちを見下ろしながら言うと、彼らは
いっせいに立ちあがった。
﹁ああ、本当にこれでおしまいなんですね⋮⋮﹂
﹁すばらしい授業でした、お嬢様﹂
﹁こんなに密度が濃く、ためになる会計学のエッセンスを惜しげも
なく与えていただき、感謝します﹂
﹁いやまあ、何回も言うけど、別にそれ、私の発明とかじゃないし
ね⋮⋮﹂
406
﹁しかしお嬢様はものを教えるのがお上手でいらっしゃいますね﹂
ハリムが持ち上げてくれるので、ディーネはちょっと相好を崩し
た。会計学の知識は別にディーネの手柄ではないが、そちらは自慢
してもいいことだろう。
それはともかく。
﹁各地の領地代官の帳簿が読みやすくなったのはいいけど、ひと月
も浪費してしまったわ⋮⋮﹂
その間にもオープンしておいたお店などはずっと営業を続けてい
るので、稼ぎがまったくなかったわけではない。ないのだが、焦り
は募る。
公爵領にはいまだ大金貨一千万枚の借金があるのだ。一朝一夕で
はなくならない。
大金貨一枚で庶民が数か月暮らせるぐらいの大金なので、国家予
算規模といっても差し支えない。
﹁一千万はさすがにちょっとねえ⋮⋮﹂
ディーネは頭を抱えるばかりだ。小銭を稼ぐ方法ならばいくつも
思いつくが、これを一気にどーんとやっつけるアイデアなどそうは
出てこない。
﹁そうだわ。お父様にも手伝っていただかなくちゃ⋮⋮﹂
ディーネは責任者に詰め寄ることにした。責任の所在を明確にし
て、しかるべき処置と謝罪等を引き出すべきだと感じたからである。
407
少しは元凶のパパ公爵に借金の返済を手伝ってもらっても罰は当た
らない。
バームベルク公爵は、ディーネが心の中でひそかに素敵ダンディ
と呼んでいる人で、きりりとした表情の中にも優雅さのあるナイス
ミドルだ。
彼の書斎で、ディーネは猛然と抗議の声をあげる。
﹁お父様! 借金が多すぎます!﹂
﹁そうか? しかし我が家は、このやり方で三百年やってきている
からなあ⋮⋮﹂
︱︱なん⋮⋮だと⋮⋮?
ディーネは呆れてものも言えない。
パパの言うことが確かなら、バームベルク公爵領は、年収の千倍
近い借金をほいほいこさえてくるようなザル経営を三百年もやって
いたというのか。いや、その代々のザル経営がたたって一億の借金
になったのか? どちらにしろすごいことである。
﹁それにしたっていい加減すぎますわ! 収入が三万しかないのに、
一億も借金をするなんてあんまりでございます!﹂
﹁地代⋮⋮﹂
パパ公爵は首をひねった。
﹁⋮⋮はて、うちの地代は三万だけだっただろうか﹂
﹁えっ﹂
408
ディーネはぞわっとした。
申告漏れで、税金を取り忘れる︱︱なんていうのは、現代でもよ
くあることである。現代日本には優秀な税務署の方々がたくさんい
らっしゃるので税金のとりっぱぐれも少ないが、クラッセン家はそ
のあたりのことに疎いので、家令のハリムやパパ公爵が気づかなけ
れば一生それっきりだ。
﹁⋮⋮でも、ハリムが管理している帳簿によると、それだけでした
わ﹂
﹁おお⋮⋮そうか。ハリムか⋮⋮﹂
パパ公爵はひとしきり納得したようにつぶやくと、おもむろに襟
元をただした。
﹁しかし、娘よ。そなたもがんばっておるようだな。わが領の借金
は残り一千万ほどというではないか。なかなかの働きぶりを見せて
いるようだな﹂
﹁お父様のせいでね!﹂
﹁かわいいわが娘よ。よくぞ成長したな。とうとうわが娘にも、ア
レを伝授するときがやってきたようだ﹂
﹁⋮⋮アレ⋮⋮とは?﹂
パパ公爵は机の引き出しから古びた鍵を手に取り、立ちあがった。
﹁ついてきなさい。お前をわが公爵家の秘密の地下に案内しよう﹂
︱︱パパ公爵に案内されていったのは、巨大な地下の宝物庫だっ
た。
手にした燭台とは別に、パパ公爵が魔法の明かりをつける。する
と室内の全容が浮かび上がった。
409
美しい金箔の全身鎧や、壮大な宗教絵画、タペストリなどをはじ
めとして、銀細工の塩入れ、枝付き燭台、宝飾の帯、魔法石の結晶
など、歴史に残るような名品がところ狭しと並べてある。
続き部屋の奥に、うずたかく積まれた巻物の山と、戸棚に詰め込
まれた書類の束があった。
﹁すごい⋮⋮﹂
いったいどのぐらいの量があるのだろう。とにかく圧倒される量
の書類だ。
﹁これらはわけあって表には出せない秘密の契約書類たちだ﹂
﹁なんですと!?﹂
ディーネは近寄っていって、ほこりっぽい巻物を慎重に伸ばして
みた。今にも崩れてしまいそうなほど古い紙だ。
中身は私的なお手紙だった。とある伯爵さまに公爵家の別邸を貸
す約束をしている。伯爵さまは不倫場所として利用したくて借りた
らしいが、お金を払う払うといってまだ払っていない、というとこ
ろで手紙のやり取りは終わっている。
﹁ちょっと、これって⋮⋮﹂
日付がなんと百五十年前になっていた。
このあとこの件はどうなったのだろう? と思わずにはいられな
い。
410
﹁これらはすべて、未払いで焦げ付いたまま、適当にうっちゃって
おいた書類だ﹂
﹁適当にうっちゃっておいたのですか!?﹂
﹁言葉を間違った。解決が難しいので凍結しておいた書類たちだ﹂
﹁凍結期間が長すぎませんこと!? この百五十年前の契約書なん
て絶対相手の方もご無事ではありませんわよね!?﹂
﹁難しい書類は目に入ると頭痛がする。ならば見えないようにして
しまえばいい。私のひいひいひいお爺様が考案された健康法だ。な
かなかいいだろう﹂
﹁わたくしの頭痛が止まりませんわ!!﹂
もうひとつ、適当な書類を開いてみる。
中身は神への聖句で始まり、契約内容を神に宣誓する︱︱いわゆ
る公式書類の体裁だった。
要点をかいつまむと、どうやら、とある農村で行われた裁判の記
録集のようだ。
その村の徴兵を免除する代わりに、傭兵を雇った費用、金貨五十
枚を払う、という契約になっているのに、いまだにひとつも払われ
ていない。
今すぐ支払うべし、という代官の再三の命令にも応じないので、
仕方なく徴税請負人が領主に訴えてきた案件だ。
こんな雑でもやっていけるなんて、公爵領とはいったい何なのだ
ろう。
﹁わが娘よ。そなたならきっと解決できるとわしは信じておるぞ﹂
パパ公爵は無責任なことを言い、地下室の鍵をそっとディーネに
手渡した。
411
﹁くっ⋮⋮! 承知⋮⋮しましたわ⋮⋮﹂
ディーネはよっぽど受け取りを拒否してやろうかと思ったが、目
先の利益につられて、つい手を伸ばしたのだった。
﹁こうなったらわたくしがすべてきれいに片付けてさしあげます﹂
やけっぱちである。
412
筆算/複式簿記/算用数字
バームベルク公爵領には一千万の借金がある。
ディーネはその返済をすべく、秘密の地下室から発掘された、未
整理の債権書類の山と格闘していた。
︱︱百年前の家屋の契約書がある。その住所を調べてみると、ま
だそこに人が住んでいた。さっそく人を派遣して、四代前から滞納
している税金を、遡って払えとは言わないまでも、補修費とそこそ
この使用料でいいから払ってほしい、さもなければ出ていってほし
いとお願いすると、住人は買い取ってしまったほうがお得だと思っ
たのか、大金貨で一千枚を支払ってきた。歴史のあるいい屋敷だけ
に、惜しいような気もしたが、出ていけとも言いづらい。
次は、とある借金の証文の片づけに乗り出した。パパ公爵からの
取りたてがないのをいいことに、踏み倒していたのだ。彼は何も言
わずに全額払ってくれた。
︱︱このように、整理整頓されていない焦げ付き案件が山ほどあ
るのだ。
秘密書類の山を家令のハリムと一緒に切り崩しながら、ディーネ
は目録に目を走らせる。
﹁⋮⋮で、ハリム。すでに発見した分で、どれぐらい徴税が漏れて
いるんだっけ?﹂
﹁そうですね⋮⋮ざっと三万ほどかと﹂
413
﹁わあお⋮⋮﹂
現在のパパ公爵の地代が、毎年三万ほどなので、ざっと一年分も
の金額が取り漏れている計算になる。すべての書類をきちんと整理
整頓すれば、すごい金額になるはずだ。
﹁ザル経営だザル経営だと思ってたけど、まさかこれほどまでとは
ねえ⋮⋮﹂
ディーネにはため息しか出ない。
﹁もう、お父様、なんでちゃんとしてくれないのかしら⋮⋮﹂
﹁大貴族の方の家にはよくあることですよ。自分の家の財産がどれ
ほどあるのかきちんと把握できていない、なんてことは﹂
﹁そうだったわね⋮⋮﹂
この世界の会計学は中世レベルだ。
具体的に言えば、複式簿記がようやく認知されはじめたぐらいの
発展具合。
複式簿記とは、左に借方、右に貸方を記入する形式の簿記のこと
である。いわゆるバランスシートというやつだ。
単式簿記は両方ひとまとめにして、同じ行に記入する。
ただ行をふたつに分けただけじゃないか、と思われる向きもある
だろうが、数字の内訳を二列の表で視覚的に表す、という発想自体
が、偉大な発明だったのである。ごく簡単な筆算でさえ、古代には
ついに発明されなかった。
さらに簿記には経営状態を検討するための計算式というのが色々
414
あって、損益計算などもろもろが頭に入っているといろんな角度か
ら分析できて便利なのだが、あいにくこの世界の帳簿はまだまだ、
そこまでの発展を見せていなかった。
現にこの世界では、本職の商人であっても単式の簿記を使ってい
たり、すべて記憶しているから帳簿はつけないという人もいたりす
る。
そう、会計記録を﹃きちんとすべて書き残す﹄という習慣は、中
世も末期になってからようやくできあがるのである。
その点、バームベルク公爵領はまだマシだった。一応、かろうじ
て、ごくごく初歩的な複式簿記が普及している。会計に強いハリム
の指導のおかげで、各地の管理掛けや支配人が、すべての記録を書
き残す契約を交わしていて、きちんと毎年ハリムの監査を受けてい
る。
これを五年以上にわたってハリムが行っていてくれたおかげで、
ディーネも多少は領地のことを知ることができた。
では、五年より以前はどうしていたのか?
﹁あーっ、もーっ、どうしてちゃんと算用数字で書き残さないの?
各地の言語で書かれても読めないし筆算しづらいし!﹂
算用数字とはアラビア数字のようなものだ。世界共通の規格とい
うのが一応定められている。しかし、なぜか各帳簿の数字は教会の
典礼言語で書かれていたり、方言で書かれていたりするのである。
漢数字で一、二、三、と書かれていても日本語が分かる人しか読め
ないのと同様、ディーネにはさっぱり読み取れない数字の書類が山
415
ほど出てきたのであった。
ここでも﹃数字を視覚的に把握する﹄という発想が欠けているこ
とがうかがえる。算用数字で位をそろえて記入すれば検算もしやす
いのに、その単純な発想というのが、なかなかどうしてむずかしい
のだ。
﹁さすがはバームベルク公爵家、といったところでしょうか。三十
六の領地と称号は伊達ではありませんね﹂
﹁うちの領内って、どのぐらいの言語圏にわかれているんだっけ⋮
⋮?﹂
﹁大きくわけて七つですね﹂
﹁あああああ⋮⋮﹂
これからディーネは、七つの言語による契約書類を解読しながら、
それが現在も法的に有効であるかどうかを各地方のローカルルール
である慣習法と照らし合わせながら検討し、現地に徴税人を送って、
お金を払ってくださいね、と説得して回らなければならないのであ
る。
面倒くさい。ひたすら根気のいる作業だった。
﹁考えただけで死にたくなるわ⋮⋮﹂
﹁がんばりましょう、お嬢様。このぐらいの量であれば、三年もあ
れば片がつきますよ﹂
﹁いやああああああ! ああああああ!﹂
***
で、ディーネは速攻で飽きた。
416
飽きたので、ディーネは自前の会計学の知識をハリムに披露する
遊びを始めた。
﹁⋮⋮と、これが安全在庫って概念なのよ﹂
﹁なるほど⋮⋮﹂
ご自慢の知識を開陳すると、ハリムはちゃんと感心してくれた。
ハリムは大人というか懐が広いというか、ディーネが何かを披露し
ても、面倒くさがらずに温かく受け入れてくれる。その優しいとこ
ろがディーネは好きだった。
﹁お嬢様の会計学の知識は見たことも聞いたこともないものばかり
ですが、とても洗練されていて、驚くばかりです﹂
﹁ええ、まあ、そうでしょうとも⋮⋮﹂
なにしろ現代日本仕込み。千年近くも先を行っている。
やっと複式簿記が普及しはじめたばかりのこの世界と比べれば、
洗練されていて当然だろう。
会計学には確率計算が絡むようなものもあるが、そもそもこの世
界では確率計算そのものが知られていなかったりするのである。
簡単な確率計算はさいわいディーネも学校でやったことがあるの
で、知っている限りのことは伝授したのだが、感動するのを通り越
して崇拝されそうになった。褒められるのはうれしいが、天才天才
と絶賛されるのはちょっと怖かった。
﹁先日の講義もたいへん身になりました。いったいどなたから学ば
れたのですか? ここまでの会計学を教えられる教授は、バームベ
ルク広しといえどもそう多くはないと思うのですが⋮⋮﹂
417
ディーネはぎくりとした。いくらなんでも、前世で習い覚えた知
識ですとはさすがに言いにくい。
﹁詳しくはひみつよ、ひみつ﹂
﹁そうですか⋮⋮残念です﹂
︱︱そんな感じで一日を浪費した。
418
お嬢様と産業革命
転生令嬢のディーネはパパ公爵が適当にうっちゃっておいた不良
債権の書類を見ている。
彼女が今見ている書類は、村への領令布告だった。
とある村に、水車を設置した。
小麦を脱穀するための石臼がついた粉ひき小屋だったが、かかっ
た工事費用は、村人が粉ひき小屋を使ったときのレンタル料から少
しずつ徴税・返済するという取り決めになっていた。しかし、ある
ときを境に利用者が激減。これではいつまで経っても水車の費用回
収ができないので、現金としてまとまった金額を徴収する︱︱とい
う布告だった。
﹁⋮⋮で、結局水車の設置費用が回収できてない、ってことらしい
んだけど⋮⋮﹂
パパ公爵はこういう面倒くさい案件をたくさん闇に葬っていたの
だった。それをディーネが一生懸命片付けているのである。
﹁利用者が減った頃に、ちょうどこの村でもジャガイモの栽培を始
めていますね﹂
﹁そっか、主食が大麦・小麦からジャガイモに切り替わっちゃった
から、水車の脱穀がいらなくなっちゃったんだね⋮⋮﹂
﹁そういうことかと。同様のトラブルがあと千件超あります﹂
﹁多すぎる⋮⋮! なんで歴代公爵は後先考えずにどんどん水車を
設置してしまったの⋮⋮?﹂
419
シムシティ下手な人か。ディーネも前世でそこまで上手なほうで
はなかったが、基本的なことくらいはできる。
﹁製鉄所に必要だったからでは? わが帝国の鋼鉄は質がいいこと
で有名ですが、水車をひとつ建てるのもふたつ建てるのも労力はさ
ほど変わりませんからね。ついでで建てた脱穀目的の水車小屋のほ
うが余ってしまったのでしょう。必要とあらば魔法による個人的な
脱穀も可能ですからね﹂
﹁そっか、魔法ね⋮⋮﹂
中世ヨーロッパの領主権というと、普通は水車小屋から徴収する
粉ひき料が重要な税収源になっているものなのだが、ジャガイモが
主食かつ、よく分からない魔法チートもある状態では水車の出番も
ないものらしい。
﹁ねえ、ハリム、領内の水車の利用状況って調べることはできない
のかしら﹂
﹁ご命令いただければ、数日以内には﹂
﹁悪いけど、お願いするわ﹂
︱︱そして数日後、ディーネはあがってきた書類を見て、またう
なっていた。
﹁⋮⋮水車小屋の利用率が低すぎるわね⋮⋮﹂
小麦の生産がさかんな地域と、そうでない地域では差が歴然とし
ている。
︱︱小麦は収穫してもそのままでは食べられない。脱穀し、製粉
420
し、パン種を入れて焼き上げてはじめて食用可能となる。それに比
べてジャガイモはもっとお手軽だ。茹でるだけ、火を通すだけで食
べられてしまう。
この大変な作業を担うのが、本来は水車がついた粉ひき小屋の仕
事であるのだが、必要性が薄いせいか、ほとんどが余っている状態
だった。
﹁うーん、せっかく数万単位の水車小屋が領主の権利下にあるんだ
から、余らせておくのはもったいなさすぎるわね⋮⋮﹂
水力は中世最大の動力源でもある。蒸気機関が発明される以前は
水車小屋がもっともパワーを秘めていた。
﹁⋮⋮あら? この都市の水車の利用料、なんか変ね﹂
﹁書類に不備がありましたか?﹂
﹁ええ、ほら、ここよ。ほとんどの人が利用してないのに﹃部品の
交換希望﹄がしょっちゅう来てるってどういうことかしら? 他の
地域に比べて七倍ぐらいの頻度で修理しているわ﹂
﹁⋮⋮本当ですね﹂
﹁ここ、もう少し詳しく調べてみてくれないかしら﹂
そしてさらに数日後、ディーネは報告を受けて、ハリムと一緒に
問題の水車小屋に飛んだ。
そこでディーネが見たものは︱︱
ずらりと並ぶ糸巻きとボビンと、水車の動力を受けて猛スピード
で巻き取られていく真っ白な糸だった。
421
﹁ふ⋮⋮ふおおおおお!﹂
ディーネは驚きのあまり吠えた。報告には聞いていたが、想像以
上の光景だったのだ。どちらを向いても何十何百という白い糸がく
るくる回っている。歯車がかみ合い車輪が回り、無数の部品がきし
み音を立てながら駆動して、ついにはやがて末端のボビンを高速回
転させるさまは、いっそ美しいといえるほどだった。
﹁こ、こ、これは⋮⋮!﹂
前世の記憶があり、いろんな歴史の知識もあるディーネにとって
は、この世界で起きることのほとんどが既知のできごとだ。したが
ってめったなことで驚かないが、今度ばかりは度肝を抜かれた。
﹁この工場は⋮⋮!﹂
この精妙なからくり仕掛けには、機械という言葉ではまだ足りな
い。敬意を表して﹃工場﹄と呼ぶべきだろう。
︱︱製糸工場、いや、ウールならば紡毛工場というべきか。
本来、粉ひき用の石臼が設置してあったはずの小屋は、すっかり
魔改造されていたのである。
﹁信じられない⋮⋮!﹂
興奮気味にディーネが粉ひき小屋の責任者である﹃粉ひき﹄、﹃
村長﹄のほうを振り返ると、ふたりは縮みあがった。
﹁か、勝手に改造したりして申し訳ありませんでした⋮⋮﹂
422
どうやらこの魔改造の犯人らしき粉ひきがぺこぺことディーネに
謝罪をしている。
﹁つ、つい、ご領主様のご厚意に甘えまして! このようなことを
!﹂
バームベルクの強大な軍事力と鉄血政策を恐れてでもいるのか、
なぜか村長もぺこぺこしていた。
﹁これ、あなたが作ったの?﹂
﹁はっ、はいい!﹂
﹁ああ、いいのよ。怒ってるわけじゃないの。ただ、すごいなと思
って。よくこんな仕組みが作れたわね。すごく便利そうでいいわ﹂
これがどれほど偉大な発明なのかは、もはや地球史の例をひくま
でもなく、見れば分かる。ディーネにはあんなゴチャゴチャした機
械は作れない。概要を知っていても、再現できるものとできないも
のがあるのだ。
﹁本当にすごいわ、これ⋮⋮世が世ならノーベル賞ものよ。あなた、
発明家の才能があるんじゃない?﹂
褒められて気をよくした男が、照れたように頭をかく。
﹁へえ⋮⋮うちの村は、毛織物が有名で⋮⋮少しでも女たちの負担
の軽減になればと⋮⋮﹂
﹁毛織物ねえ⋮⋮﹂
﹃羊の毛﹄が﹃毛織物﹄になるまでに必要な行程は、大きく分け
423
て五つある。
最初に、﹁毛を梳く﹂作業。ここで刈り取った羊毛をきれいにフ
ラー土︱︱つまりは酸性白土で洗い、ゴミをとって、金属製のブラ
シで毛流れを調えて、ブロックにする。
次に、紡毛、と呼ばれる﹁糸を紡ぐ﹂作業。梳毛で整えた毛を引
っ張って、テンションをかけ、細く長い糸を紡ぎ出す。
この、糸を紡ぐ作業は庶民の女性ならば誰もが一日中ひまを見つ
けて行うもので、家の中で片時も糸巻きを手放さない女性も少なく
ないと聞く。
犯人の男性は、この行程を簡略化したくて水力紡毛を発明したの
だろう。
しゅくじゅう
ちなみに布を作るために必要なあと三つの行程は﹁機織り﹂と﹁
染色﹂。薄織物などの一部の特殊衣料をのぞき、繊維を叩く﹁縮絨﹂
という作業も入れて完成となる。
ワルキューレの国内に、足踏み式の大きな糸車はすでに普及して
いた。眠り姫が指をさして眠ってしまう原因になったあの機械、と
いえば分かりやすいだろうか。
さらに、複雑な歯車や棒テンプの機械機構もすでにあった。時計
などがその代表例だ。
さらにそこに、水車動力が余りまくっている︱︱という条件が重
なることにより、偶然、水力紡毛機械が民間で発明されていた、と
いうのがことの真相のようだった。
﹁ねえ、これ、仕組みを詳しく説明してくれる? それと、同じも
のを作ってほしいって言ったらできそうかしら? ああ、もちろん
ただとは言わないわよ。報酬はちゃんと出すわ。あなた、名前は?﹂
424
﹁コーミング、と申します⋮⋮﹂
﹁そう、コーミングさん。あなた、大変なものを発明してくれたわ
ね。これは︱︱﹂
ディーネは大真面目に言う。
﹁︱︱産業革命になるかもしれないわよ﹂
﹁産業⋮⋮はあ?﹂
なんのことやら分からないふたりを置いてけぼりにして、ディー
ネはあれこれと思索を始めたのだった。
425
弟たちとおもちゃ
公爵令嬢ディーネに与えられた自室の、広い応接間に、ふたりの
弟と四人の侍女が集まっていた。主人のディーネが仕事で忙しいの
で、彼らはひまを持て余して、思い思いの作業をしている。
弟たちは侍女に勉強を見てもらったりしていたが、そのうちに飽
きたようだ。
戦車の模型を持ち出して、戦争ごっこをはじめた。
﹁ついに見つけたぞ、悪の大魔王め﹂
戦車を喋らせているのは兄のレオだ。金髪に大きな釣り目の少年
で、顔立ちは年齢相応にあどけない。
﹁こしゃくな人間どもめ!﹂
そして弟のイヌマエルが動かしている﹃悪の大魔王﹄は、ディー
ネに似せた着せ替え人形だった。
﹁おのれ、よくもわたしの手下たちを倒してくれたな!﹂
﹁貴様らは弱い。貴様もここで倒れろ﹂
兄のレオが戦車のボタンを押してぴかぴか光らせると、弟が操る
ディーネの人形もとい悪の大魔王は飛び上がった。
﹁ぎゃあああ! 浄化されるううう!﹂
イヌマエルはしばらくじたばたと人形の手足を動かしていたが、
426
やがて真剣に解せないという顔で、ディーネのところにやってきた。
一点の曇りなきまなこでディーネをじっと見る末弟。
﹁姉さま、どうしてこの人形の首はもげないんですか?﹂
﹁く⋮⋮首はもいじゃいけません!!﹂
﹁手足もバラバラになったほうが面白いと思います!﹂
﹁ひい! 惨殺死体! なんて残酷なことを言う子だろうね!!﹂
着せ替え人形をなんだと思っているのだ。少女のように大きな黒
目をうるうるさせながら言わないでほしかった。
﹁あと、この人形、女の子なのになんで白いズボンをはいているん
ですか? 魔女なんですか?﹂
﹁それはスカートをめくるいたずらっ子があとを絶たないからだよ
!! やめて!! 乱暴しないで!!﹂
ディーネが二の腕をかばってブルブル震えていると、ちくちくと
裁縫に励んでいた侍女のシスが立ち上がった。
﹁あら、それならもっといいぬいぐるみがありますわ﹂
シスが持ってきたのは、ころんとした形状のぬいぐるみだ。まる
みのある形状で、蛇をかたどっている。頭が三つついており、根っ
このところでつながっているが、ボタンでつけ外しができるように
なっている。
ペット用の、いくら乱暴しても大丈夫なぬいぐるみ、ということ
で商品化したが、幼児がふりまわすおもちゃとしても結構人気を集
めているやつだった。
427
﹁ダハーカくんですわぁ。この、にょろにょろっとした尻尾のとこ
ろがうちの子のお気に入りなんですのよ∼﹂
ぬいぐるみ化するにしても、蛇じゃなくてもっとかわいいものが
あるだろうと思ったのだが、なぜかシスのデザインしたやつが修道
院でも一番人気を博したので、採用した。子どもにはやけにウケて
いるが、ディーネにはなにがいいのかさっぱり分からない。
イヌマはダハーカくんの細長い首を引っ張ったり伸ばしたり、自
分の首に巻き付けたりして遊んでいたが、ボタンのギミックに気づ
くと、歓声をあげた。
﹁わあ! これいいですね! バラバラにできるところがいいです
!﹂
﹁どうして惨殺にこだわるの⋮⋮?﹂
﹁やられたときの表現に幅が出るじゃないですか﹂
さも当たり前のように言われて、ディーネは沈黙した。子どもの
思考回路はよく分からない。
﹁わはは! こしゃくな戦車め! 魔女を倒したぐらいでいい気に
なるなよ! やつは魔族の中でも最弱! このダハーカが相手だ!﹂
﹁無駄だ。何人こようが浄化する﹂
イヌマはイキイキと悪役を演じ、首をひとつ落としながらも善戦。
もうひとつを落とされたところで命乞いをはじめた。
﹁まて、勇者よ、わしの負けだ! 降参する! 宝もすべてだす!
だからこの通り! 命だけは勘弁してくれ!﹂
﹁仕方がないな⋮⋮﹂
428
﹁と見せかけて、消えろ︱︱!﹂
﹁なに、卑怯な!﹂
ダハーカはやられて、アジトが爆発炎上したところで、寸劇は終
わった。おしまいに、レオがぽつりと言う。
﹁⋮⋮楽しい﹂
いつもむっつりと不機嫌なレオがほくほく顔でそう言うのだから、
相当なのだろう。バックに点描が飛んでいる。開発者のディーネと
しては楽しんでくれたならそれ以上のことはない。相変わらず喜ん
でいるポイントはよく分からないが。
﹁姉さま、ほかにもっとおもちゃはないんですか?﹂
イヌマがきらきらした目で聞いてくる。少女のようにかわいらし
い外見で乞われると、うっかりなんでも買い与えたくなってしまい
そうだ。
﹁そうねえ⋮⋮おもちゃが三つとか四つだけって、やっぱりつまら
ないわよねえ⋮⋮﹂
ディーネは携帯用ゲーム機全盛の時代を知っているので、この国
の貧弱なおもちゃ事情には切なさを感じるのだ。
﹁とりあえず、思いつく限り、色々作らせてみましょうか⋮⋮﹂
﹁それでしたら、姉さま、僕は兵隊さん人形がほしいです!﹂
︱︱その日は弟たちの夢いっぱいな妄想おもちゃ箱の話を聞いて
過ごした。
429
助っ人を呼びましょう
ディーネは自室で書類とにらめっこをしていた。先日、地下室で
発見された書類の整理が終わっていないのである。
解読してきちんと処理をすれば、現金と引き換えできる債権へと
変わるお宝書類の山を前にしていても、ディーネはまったく喜べな
いでいた。
﹁おわんないよー!﹂
ディーネがあげた絶叫に、お部屋で暇そうにしていた四人の侍女
たちが反応して、わらわらと近づいてきた。
﹁まあ、なんて難しそうな書類の山なのかしら﹂
﹁すごくたくさんあるんですのね⋮⋮﹂
﹁おいたわしいですわ⋮⋮﹂
﹁ディーネ様、すこしはお休みになりませんと﹂
ディーネの気分を明るくすべく、侍女たちがちやほやと慰めてく
れる。しかしそれでも気分は晴れなかった。
﹁書類の整理に三年もかけてらんないのよ﹂
ディーネは諸事情あって大金を稼がなければならないのだが、一
番早い期限が八か月後と、かなり間近に迫っているのである。三年
もかけていたらあっさりとゲームオーバーだ。
430
﹁なんとかさくっと終わらせないと⋮⋮できれば今月中に⋮⋮!﹂
ディーネがぶつぶつとひとり言のようにつぶやいていると、豪商
の娘・ナリキがちらりと気づかわしげにこちらを見た。
﹁しかし、お見受けしたところ、どうも専門的な知識が問われる書
類のようですから、誰にでも任せられる、というわけではありませ
んものね﹂
﹁そうなのよねー⋮⋮﹂
苛立ちまぎれにひたいをぐりぐりとこすり、ふと手をとめるディ
ーネ。
﹁⋮⋮ナリキさん。あなた、契約書の見方はご存じよね﹂
﹁え? ええ⋮⋮まあ⋮⋮人並みには⋮⋮﹂
ディーネはニタリとした。
ここにうってつけの人材がいるじゃないか。ナリキはメガネの出
来る子系女子である。
﹁ナリキさん。私たち、お友達よね﹂
﹁ええ⋮⋮なんだか笑顔が怖いですわ、ディーネ様﹂
﹁すこぉし、お願いがあるのだけれども⋮⋮﹂
ディーネがはりつけた笑顔で迫ると、彼女はのまれてしまったの
か、どれほど大変なことなのかも吟味せずに承諾してくれた。
︱︱そして三人で地下室の片づけをすることになったのである。
地下室の惨状をひと目見るなり、ナリキは露骨に顔をしかめた。
431
冷静沈着な彼女が頬を引きつらせている姿というのは珍しい。
﹁すごい有様ですね⋮⋮﹂
﹁ね? 引くでしょ? うんざりでしょ? お父様ったら先祖代々
数百年も書類を貯めこんでたのよ!? 信じられる!?﹂
﹁⋮⋮バームベルクのいいところは無双の軍事力でございますから
ね⋮⋮﹂
﹁いいのよ? はっきり言ってもいいの。あの戦争バカ公爵信じら
れない! ひどい! ナイスミドル! って思ったでしょ? 思っ
たわよね?﹂
﹁⋮⋮ナイスミドル⋮⋮﹂
﹁そうなの! ナイスミドルよ!﹂
ナリキとひとしきりパパ公爵の悪口を言って盛り上がると、ちょ
っと気持ちも落ち着いた。
家令ハリムが悪口大会が終わったあたりを見計らい、声をかけて
くれる。
﹁フロイライン・ミナリールにもお手伝いいただけるとは、本当に
助かります。猫の手も借りたいところでした﹂
﹁微力ながらお手伝いはいたしますが⋮⋮しかし、この分量ですと、
助っ人がひとり増えたとしても、根本的な解決にはならないかと﹂
ナリキの発言に、ハリムはうなずいた。
﹁そうですね。できれば十人単位で助っ人がほしいところです﹂
﹁ディーネ様、ほかにあてにできそうな方はいらっしゃいませんの
?﹂
ふたりのもの言いたげな視線を受けて、ディーネはうなる。
432
﹁⋮⋮でも、他言語や方言バリバリの契約書が読めて、法律も含め
て検討できて、税金督促の交渉ができて、取り立てた税金を着服す
る心配がない人材、となると、なかなか⋮⋮﹂
﹁先日呼び集めた領地代官たちなどはいかがでしょう﹂
﹁ああ、そうね。彼らであれば適任かも﹂
たっぷりと時間をかけて帳簿の書き方も教えたことだし、さっそ
く役に立ってもらわねばとディーネは思う。
﹁でも、それでも全然足りないわ﹂
ディーネとハリムがフルで働いて三年かかる分量とすると、数十
人単位で人がほしいところだ。
そこでナリキがふと何かを思いついた顔になった。
﹁ディーネ様、皇太子殿下にご助力をお願いするというのはいかが
でしょうか?﹂
﹁ジークに? どうして?﹂
﹁皇太子殿下のお取り計らいで、帝国徴税官長さまや財務長官さま
にご相談を受けていただいたとおっしゃっていましたよね﹂
﹁ああ⋮⋮﹂
そのことならばディーネも覚えている。前世の記憶を取り戻した
直後、領地経営のチュートリアルをしてもらったのだ。ナリキの指
摘通り、帝国の国庫を支える知の巨人たちに手を貸してもらえれば、
かなり早くカタがつきそうだ。
しかし、ディーネには素直にそうできない理由があった。
433
﹁⋮⋮あいつに頭さげて頼むのいやだなあ⋮⋮﹂
ぽつりと本音をもらすと、ナリキは白けたような顔をした。
﹁またそのようなことをおっしゃって⋮⋮ジーク様のいったい何が
ご不満なのですか?﹂
﹁だってあいつ、喋り方がおかしいじゃん⋮⋮あんな上から喋る人
ってほかにいる? いなくない?﹂
﹁心根はとてもおやさしい方かと思いますが⋮⋮﹂
﹁それはそうなんだけど! そうなんだけど全部台無しにするぐら
いあの口調がひどいっていうかね!?﹂
ナリキはメガネの奥から、とても冷たい視線を送ってきた。
﹁おふたりの間のことですから、わたくしの与り知らぬ何かがおあ
りなのかもしれませんが⋮⋮わたくしもいずれは政略結婚をする身
ですから申しあげますと、ジークライン様とのご結婚はかなり恵ま
れていらっしゃる方かと。世の中の男性が、みなあの方のように紳
士的だなんて期待しては痛い目を見ますわよ?﹂
﹁でもほら、結婚って一生のことだから、妥協したくないっていう
か! いやなら結婚しないって選択肢もあるわけだし!﹂
ハリムは驚き顔でナリキとディーネの口論を見守っている。ディ
ーネが持参金を稼いでいる理由や、皇太子との婚約破棄を狙ってい
ることなどは一部の人間しか知らないことなので、ハリムにとって
も晴天の霹靂だったようだ。
﹁男性貴族の義務が戦争だとすれば、女性貴族の仕事は結婚とも考
えられますわね。嫌だからやめる、が通用すると思うのがそもそも
の間違いでございます。男性貴族の方が戦争を放棄するのが許され
434
ないのと同様、女性貴族の方々も、政略結婚が宿命なのでございま
すよ、ディーネ様﹂
ナリキのごもっともな意見に、ディーネはうっとなる。
﹁そうなんだけど、でも、ちゃんと条件を満たしたら円満に婚約解
消してくれるって約束もしてるし! なんだったらずっとお父様の
ところで、弟の手助けをして、ハリムみたいに書類仕事するのもい
いかなーなんて! ねえハリム!﹂
ディーネが苦しまぎれに話題をふると、ハリムは茶化したような
調子で笑った。
﹁なるほど、お嬢様は私の仕事を奪い取るおつもりでいらしたので
すか。恐ろしい方だ﹂
﹁そういう意味でもなくてー!﹂
あわを食っているディーネを見て、ふたりは苦笑した。
﹁ともかく、皇太子殿下に一度お願いをなさるべきでございます。
よろしいですね、ディーネ様﹂
﹁⋮⋮分かりました﹂
嫌で嫌で仕方がないが、こればかりはどうしようもないと、ディ
ーネはしぶしぶナリキの提案を呑むことにした。
435
ジーク様にお願い
ディーネは皇太子に連絡を取ることにした。体裁としては定期的
な訪問なので、ディーネはジークラインへの貢ぎ物として、虎の子
のお菓子を持ちだした。
チョコレート。複雑怪奇な行程を経てようやく完成する、あの魅
惑の黒い宝石を切り札に持ってきたのである。
お店に出す用のケーキに含まれるチョコレートはすでに職人たち
に作ってもらっており、量産体制に入っているので、ディーネはそ
れを少しわけてもらって、溶かし直して固めるだけで作製すること
ができた。
チョコレートはかつての地球でもワインと並んで訪問時の手土産
として珍重された品物だというし、貢ぎ物としてはこの上ない一品
であろう。
ディーネは美しくラッピングした小箱を手に、ジークラインの部
屋へと足を踏み入れた。
﹁ご無沙汰しております、皇太子殿下﹂
ディーネがしゃなりと正式なおじぎ︱︱クニックスと呼ばれる一
連の動作をすると、ジークラインは笑いながら﹁顔をあげろ﹂と言
った。機嫌をよくするには成功したらしい。順調な滑り出しだ。
見上げた先のジークラインはあいかわらず目が眩むほどの男前だ
った。あまり長く見つめているとだんだん正常な判断力が失われて
436
いくので、ディーネは早々に視線を外す。
︱︱本当にこの人なんかの呪いにかかってやしないだろうな。
﹁ずっとお会いしとうございましたわ、殿下﹂
なるべくしおらしく聞こえるようにディーネが猫なで声を出すと、
ジークラインはうれしそうにちょっと口角をあげた。
﹁そうかそうか。俺がいないと退屈だろう? なあ?﹂
﹁⋮⋮ええ⋮⋮﹂
ディーネははやくもジークラインの自信過剰な言動に鳥肌が立っ
てきた。この男、物語の主役級に優れた能力を持ついい男ではある
のだが、発言もそれに見合った不遜なものが多く、ディーネが地球
で暮らしていた頃の厨二病作品に酷似している。
なのでディーネは、彼の話をずっと聞いているとカユくなってく
る。
﹁もっと拝謁の機会を設けてやったことに対して感謝の念を表明し
てもいいんだぜ? 特別に許してやる﹂
﹁くっ⋮⋮ありがとうございます⋮⋮!﹂
ディーネがひそかに悔しさを覚えていると、ジークラインはおか
しそうに笑った。
﹁ははは! いい表情するじゃねえか。なんだ、ディーネ。さては
何かたくらんでやがんな? 今日はなんのつもりでおとなしくして
るんだ?﹂
437
どうやら、これだけのやり取りでディーネの魂胆はすっかり見抜
かれてしまったらしい。恐ろしいほどの勘の良さだった。
﹁小賢しいのは気に食わねえが、おれを楽しませようってぇ心がけ
はよしとしてやんよ。で、今度は何をたくらんでる?﹂
ディーネはテーブルに用意された紅茶セットに近づき、覚悟を決
めた。あまりもったいぶって引き延ばして、機嫌を悪くされたら元
も子もない。とっとと素直に吐いてしまうのが最上だ。
﹁実は、父の秘密の宝物庫から、未整理の契約書類の山が発掘され
まして。ざっと倉庫ひとつ分ほどございますの。大急ぎで整理して
いるのですけれども、なにぶん量が膨大なものですから⋮⋮﹂
﹁誰かの手を借りたくなった、ってわけか﹂
わずかな説明のみですべてを察してくれるところもジークライン
のすごいところだった。ディーネにはありがたくもあり、やりづら
くもある。駆け引きもなにもあったものではない。
﹁先日、殿下のお取り計らいで、財務長官さまと、徴税官長さまに
ごあいさつさせていただきましたわね﹂
﹁ああ。それで?﹂
ジークラインは楽しげだ。ディーネが自分を頼りにしているとい
う状況に愉悦を見出しているらしい。
﹁財務長官も、徴税官長も、おれがひと声かければお前の手足とな
って動く。それで? ディーネ、お前がひと声かければこの俺をも
意のままに動かせる︱︱なんて思い上がりをしちゃいねえだろうな
?﹂
438
回りくどいが、要するに見返りを暗に要求しているのだろう。
ジークラインは厨二病にかかっているのでやたらともったいぶっ
ているのであった。
﹁あら、ジーク様はわたくしに困ったことがあればすがりにこいと
おっしゃいましたわ。お忘れになりましたの?﹂
﹁ああ、言ったとも。おれに二言はない﹂
﹁でしたら⋮⋮﹂
﹁すがれ、と言ったんだよ。おれはな。ディーネ、お前は誠意の見
せ方ってもんを知らねえのか? 困り果ててやむなく帝国皇太子た
るこの俺の手助けを求めてるってんなら、それなりの頼み方をして
みせろ﹂
ジークラインは不遜なしぐさで胸に手を当て、迫力のある美貌で
にやりと笑ってみせた。常人よりも頭ひとつ抜けて大きく立派な体
格の彼にかかると、大仰な動作もばっちりと様になるのだからすご
い。それがどれほど芝居がかったものであろうと、彼ならば恥ずか
しくないと思わせるだけの魅力があった。
﹁お前が泣いて乞うなら、この俺も動かせるかもしれねえぞ。帝国
全土に並ぶものなきこのジークライン・レオンハルトが、だ﹂
﹁え、えらそうに⋮⋮!﹂
めっちゃむかつくが、お願いをする立場なのは彼の言う通りであ
る。
439
ジーク様にお願い 2
皇太子はテーブルに手を付いて立っているディーネに断りもなく
近寄ると、彼女を囲い込むようにして自身もテーブルに手をついた。
︱︱ち、近い近い近い!
突然のことにザワザワと危機感を煽られているディーネに、ジー
クラインは戦神の名に恥じぬ轟くような美声を故意に低めて、耳元
にやさしくささやきかけた。
﹁そろそろ無駄なあがきはやめて、素直に認めたらどうだ? 俺に
従属するのがお前の宿命で、あるべき最上の幸福ってもんだろう?
なあ、ディーネ?﹂
勝手なことを言わないでほしかった。なのに、勝手に体が凍りつ
いて、声が出なくなってしまう。
﹁本当は心待ちにしてたんだろう?﹂
無茶苦茶なことを言われているのに、その無駄ないい声だけに反
応してしまい、ディーネの鼓動は不覚にも跳ねあがった。ドキドキ
と脈打ち始める胸を押さえ、ゆっくりと息を吸って、吐く。目を合
わせてはいけない。きっと石にされてしまう︱︱そう思うのに、瞳
は彼に吸い込まれていた。
﹁さあ、俺が欲しけりゃひざまずいて許しを請え﹂
440
震えるほどの甘い声だった。ディーネは金縛りにあったように動
けない。
目の前には婚約者である皇太子殿下がいて、あらゆる男性が男の
理想像として挙げるようなまぶしい肉体美と野卑な美貌でもってデ
ィーネと対峙している。何かキラキラした粒子をまき散らしている
ように見えるのは、稀有な美青年に対して反射的に起こってしまう
脳の錯覚、幻覚としても、ディーネが彼に対してやけに反発心を抱
いてしまうのは、そもそも彼自身に特別な吸引力があるからなのだ
ろう。掃除機か。
混乱しすぎてとうとう自分にもツッコミはじめた頭を振って、冷
静さを取り戻そうと素数を数える。彼のペースに呑まれてはいけな
い。落ち着いて対処すれば、きっと乗り越えられるはず。
ディーネはもうやけっぱちで、チョコの箱をジークラインの胸に
ゴスッと打ち当てた。そんなことが可能になるぐらい近づかれてい
たのだ。
﹁⋮⋮また、作ってまいりましたわ﹂
白い絹布とリボンできれいにラッピングした小箱を、ジークライ
ンに受け渡す。
前世知識のあるディーネには、気合いの入った手作りのチョコを
手渡す、というシチュエーションがバレンタインを思い出させるの
で、やけに気恥ずかしい。
結果、ひとりでなんかもじもじするというたいへんに痛々しい状
態になった。
441
﹁ジーク様ご所望の、バニラの香料のお菓子でございます。他の誰
にも作ってやるなとジーク様が仰せになったこと、わたくし忘れて
おりませんでしたのよ。あれ以来、どなたにも作ってさしあげては
おりませんわ。⋮⋮それではいけませんの?﹂
ラッピングがしゅるりと解かれる。初めて目の当たりにする黒い
塊に戸惑い、指先でつつくジークライン。見た目はそれほど可愛ら
しいものではないが、製作には苦労した。
チョコレートの甘い香りはバニラで香りづけした。先日の訪問時
に彼がひどく気に入っていたものだ。
﹁⋮⋮ふうん。ま、お前のその悔しそうな顔に免じて許してやらな
いでもねえよ﹂
ジークラインとしてはそっけなく返事をしたつもりだろうが、長
い付き合いのディーネには、彼がめちゃくちゃ喜んでいることが分
かってしまい、ますますどうしたらいいのか分からなくなった。
なぜ恋人でもないのにこんないい感じの雰囲気を醸し出さねばな
らないのだろう。
︱︱あ、婚約者だった。
﹁これは食ったことねえやつだな。こりゃなんなんだ、いったい?﹂
驚き顔のジークラインに、ディーネはちょっと得意になった。こ
れはおそらくこの世界で初めて作られた固形チョコのはずだ。
ディーネは彼がぴったりと側近くに立っていることも忘れて、威
442
勢よく答える。
﹁ショコラを塊にしたものでございます。わたくしを除きましては、
ジーク様が世界で初めてお召し上がりになるんですのよ﹂
﹁ショコラを⋮⋮?﹂
﹁そうなんですの!﹂
ディーネは彼にけげんそうな顔をさせてやったことをひそかにほ
くそえんだ。常に王者風を吹かせている男なので、ディーネにして
みればまさにしてやったりだ。
﹁これはまだジーク様もご存じありませんでしょう? ショコラは
塊にするととってもおいしゅうございますのよ! いずれは商品化
いたしますけれども、試作品第一号はジーク様にさしあげます!﹂
どうだ、光栄だろうと言わんばかりにディーネが胸を張ると、ジ
ークラインは︱︱
なぜか、いきなり笑い出した。
443
ジーク様にお願い 3
﹁ははは、そうか。ショコラは塊にするとうまいって? そうかよ、
しょうがねえな﹂
ジークラインは豪快に笑いながら、いきなり手を伸ばして、ディ
ーネの頭を分厚い手のひらでわしゃわしゃと撫でまわしはじめた。
﹁ちょっ、なっ、なんですの!? おやめくださいまし、髪の毛が
乱れます!﹂
必死に押し返すと、手はすぐに止まったが、しかし彼はまだ笑っ
ている。視線が生温かいような気がするのはディーネの気のせいな
のだろうか。猛禽のように鋭い目つきを甘く笑み崩れさせている彼
を見ていると、なぜだかディーネもドキリとしてしまう。
﹁⋮⋮何がそんなにおかしいんですの?﹂
﹁なんでもねえよ。で、こいつのどこが俺にふさわしい貢ぎ物だっ
て? 言っちゃなんだが、掘り返したてのトリュフにそっくりじゃ
ねえか。どうすごいのか、説明してみせろよ﹂
﹁まあ⋮⋮! 悪いのは見た目だけですわ! 本当においしいんで
すのよ! 文句をおっしゃるのなら召し上がってからになさいませ
!﹂
挑発されて頭に血がのぼったディーネがペラペラとチョコレート
の製法から苦労話までをまくしたてる。
このチョコは溶かし直して固めただけのものだが、そのもととな
444
るチョコの量産化が成功するまでにもいろいろな紆余曲折があった。
もともと飲料のチョコレートを飲む習慣が根付いていたので、チ
ョコレートの原型、カカオマスやココアパウダーはすでにあったの
だが、そのままだとザラザラしておいしくないため、なめらかにな
るまで手を加えるのが大変だった。ディーネが試作品を作製する過
程にて、ローラーですり潰す作業開始から一時間ほどで、これは手
作業では無理だと悟ったほどである。
仕方がないので、風の魔法使いにお願いした。そのため、コスト
が跳ねあがってしまい、まだ固形のチョコレートを製品化できずに
いる。
︱︱苦労はいろいろあったが、会心の出来だ。
ジークラインはそれを適当に聞き流しながらひと口かじって、ま
た驚きの声をあげた。
﹁お。いけるじゃねえか﹂
﹁当然ですわ! これがチョコレートなんですのよ! さあジーク
様、トリュフみたいだなんておっしゃったことは撤回してください
まし!﹂
﹁わかったわかった、悪かったよ。褒めてつかわす﹂
それからまたジークラインはディーネの髪をわしゃわしゃとやっ
た。
﹁なっ⋮⋮ちょっ⋮⋮やめてったら! なにすんのよ! もう!﹂
ディーネがキレ気味に手を振り払うと、ジークラインはけげんな
顔で手を引っこめた。
445
﹁勝手にさわらないでって! 言ってるじゃない!﹂
ただでさえジークラインの言動は心臓に悪いのに、触られると発
作的に頭が真っ白になるのだから、ディーネにはたまらない。
けんつく怒るディーネに、温厚なジークラインも少しむっとした
ような顔をしてみせた。
﹁撤回してほしいっつったのはお前だろうが。よくやった部下に褒
賞を与えて何が悪い? 俺の愛らしい婚約者どのを愛でて何が悪い
んだよ。なあ、ディーネ。言ってみろ﹂
﹁あっ⋮⋮!?﹂
︱︱愛らしいですって⋮⋮!?
﹁それよりもお前の作ったものが俺を興じさせたことを喜べ。誇り
に思えよ、この俺が感心してやってるんだ﹂
﹁そっ、そんなもの、あなたに認めてもらわなくたって、もとから
チョコレートはすごいお菓子なんだからね! 何様なのよ!﹂
﹁ふうん? それほどまでのもんだったのか。悪くはねえけどよ、
おれに敗北を認めさせるほどではなさそうだ﹂
労作を一蹴する姿に、今度こそディーネはかちんときた。
﹁ほんとに何様!? いっ、いいこと、チョコレートはねえ⋮⋮!﹂
それからもディーネはチョコレートのすばらしさを布教しつづけ、
ジークラインにたっぷりとよさを語って、楽しい気分でその日の訪
問を終えた。
446
︱︱なんか、喋りすぎたかも⋮⋮
あとで部屋に帰ってきて後悔もしたが、あとの祭りだ。なぜあの
ときの自分はあんなにもムキになってチョコのおいしさを力説して
しまったのだろう。自分でも自分の行動が解せない。
しかし気持ちよく喋らせてくれるところもジークラインという男
の器の大きなところでもあり、悔しいながらもディーネは結構いい
一日を過ごしたなと思うのだった。
︱︱ともあれ、こうして帝国の財務部の協力を無事に取り付けた。
447
小馬鹿にされるお嬢様
ワルキューレ帝国。
強大な軍事力と、それをバックグラウンドとして得た貨幣への信
用力により、金融業でも名を馳せるかの国の皇宮には、国庫を担う
超一流の財務顧問たちの姿があった。
帝国の一地方、バームベルク公爵領の秘密の地下室で、帝国が誇
る財務長官と徴税官長が忙しく立ち働いている。当世風の雅やかな
胴着は左右の色が違っており、ロイヤルパープル一色に染め抜かれ
た右身頃と、火炎翼竜の紋章で埋め尽くされた左身頃とが表すのは、
どちらも帝国や皇帝家を表すシンボルカラーないし、エンブレムで
あった。
先日、ディーネが書類の山を片付ける助っ人として、ジークライ
ンから借りてきたのである。
﹁書類を言語と地方別に分類いたしました。魔法石を使って巡るに
も、そのほうが効率がようございましょう﹂
﹁金額が大きく、採算の採れやすいものから順にピックアップいた
しました。その他の些末な金額のものは人を雇ってやらせてはいか
がです?﹂
﹁重要度の高いものはわれらにお任せを﹂
﹁あ、ありがとうございます⋮⋮﹂
本職のプロの仕事に、ディーネはただただ圧倒されっぱなしだっ
た。
448
﹁で、でも! ひとつだけお願いがございます。進捗は毎度わたく
しにお知らせくださいますようお願い申しあげます﹂
するとふたりは顔を見合わせて、豪快に笑った。
﹁なんとなんと! 姫君がわれらの仕事を監督してくださると⋮⋮﹂
﹁ああ、姫はそのような俗っぽい仕事とかかわる必要はありません
よ。すべてお任せください﹂
﹁えっ⋮⋮﹂
﹁皇帝陛下も、われらの仕事ぶりに疑問をいだかれたことなど一度
としてありませんよ﹂
﹁そうなんですの⋮⋮? では陛下は、おふたりに絶大な信頼を寄
せていらっしゃるのですわね⋮⋮?﹂
﹁信頼といいますか﹂
﹁貴族の方が金勘定などという卑しい仕事に煩わされる必要はあり
ません﹂
﹁強欲な平民どもと同じ振る舞いをするのは貴族の名折れですから
な﹂
つまりふたりは、暗に﹃余計な口を差し挟むな﹄と言っている。
彼らとしても、何も分からない素人にあれこれ指図されるのは面
白くないし、都合も悪い、ということなのだろう。
﹁で、でも! これはわが公爵領のことでございますから、領主代
行たるわたくしが委細を把握すべきですわ!﹂
ディーネががんばって反論を試みると、ふたりはまたいやらしく
笑った。
﹁そこまでおっしゃるのなら、記録簿をつけて、提出いたしましょ
449
うか﹂
﹁しかし、いささか専門的でございますぞ。姫君にはたしてご理解
いただけるものか⋮⋮﹂
﹁わたくし、帳簿でしたら多少は読めますわ。ですからすべての金
額のやり取りはきちんと記録を取っておいてくださいまし﹂
﹁承知いたしました﹂
﹁未来の皇妃さまのたってのお願いとあれば、気合も入ろうという
ものです﹂
約束はとりつけたが、なんか小馬鹿にされている感はいなめない。
仕事に定時報告、会計に監査があるのはごく当然のことなのだが、
どうも彼らにはそういう習慣がないようだった。
﹁お嬢様⋮⋮﹂
かたわらでそっとハリムが目くばせする。あまり衝突しても益は
ない、抑えてくれ、ということだろう。ディーネもそれは分かって
いたので、追及するのはやめて引き下がった。
﹁では姫、残りの書類を整理する人員もよろしくお願いします﹂
﹁そうですな。二十名ほど呼べば、ひと月で片付くことでしょう﹂
金額が少なく、取れる見込みの薄い書類の束。その分量を勘案し
ながら、ディーネは残りの人材を手配する方法を考えた。ここはや
はり、母親のザビーネにお願いするのがよさそうだ。
***
公爵家の家令、ハリムに割り当てられた執務用の離れに、二十名
ほどの青年が集まっていた。
450
︱︱公爵夫人であるザビーネによってかき集められたのが、彼ら、
帝国の会計学院の卒業生たちだった。裕福な商売人の子息が多いら
しく、みな貴族と見まがうようなこじゃれた服装をしている。
仕事の内容を説明してから、地区ごとに書類を割り振った。
めいめいに解読を始める彼らをそれとなく観察しながら、ディー
ネもハリムの横で書類の続きを読みにかかる。
すると、ひとりの生徒が大げさな声をあげた。
﹁姫、何をなさっておいでなのです?﹂
それに気づいた他の学院生も、いささか侮辱的な節回しでディー
ネに言う。
﹁美しい公姫様に会計学など似合いませんよ。刺繍でもされていて
はいかがですか?﹂
﹁なんで? 私も見る予定だけど﹂
学院生たちは、どっと笑った。見れば、帝国の財務長官や徴税官
長も失笑を禁じ得ないという顔をしている。
﹁貴族の方に会計学など務まるわけが⋮⋮﹂
﹁公姫様、これはあなたには少し難しいと思いますよ﹂
﹁貴族のお嬢さんには分からないでしょう⋮⋮﹂
クスクスと笑う、お上品なお坊ちゃんたちの声が執務室に満ちた。
ディーネは不穏な空気を嗅ぎ取って、顔をしかめそうになる。か
451
ろうじてこらえ、笑顔を保てたのは淑女としての習慣だった。
452
やっておしまいなさいをするお嬢様
ディーネを取り巻き、クスクスと笑う青年たちは、明らかに彼女
を見下して、からかっている。
﹁なんか、いやな感じね⋮⋮﹂
﹁お嬢様。お気持ちはお察ししますが、ここは抑えてください﹂
﹁ハリム⋮⋮﹂
ディーネのすぐそばでささやいてくれたのは家令のハリムだった。
﹁お嬢様の知識が誰よりも優れていることは存じていますが、あま
りそれを彼らに知らしめてしまうと、あとが面倒かもしれません﹂
﹁どういうこと?﹂
﹁お嬢様は、女性で、メイシュア教徒でいらっしゃいますから。教
会の連中が騒ぐかもしれません﹂
﹁ああ⋮⋮そういうこと﹂
メイシュア教の教えによると、利子を取る商売はすべて悪なのだ
という。
そしてメイシュア教の教えに反する人間は、しばしば悪魔契約者
だと疑われて、処罰されるのである。
いわゆる﹃魔女狩り﹄というやつだ。
﹁お嬢様の知識はおそらく彼らにとっても先進的すぎるものでしょ
453
う。その神のような知識を持っているのが女性だと知れたら、ある
いは、悪魔と契約して授けてもらったのだと難癖をつけられる可能
性もあります﹂
﹁あー、すっごくありうるわね、それ⋮⋮﹂
この世界のどこにも知られていない数学や会計学の知識を使って、
一般的には汚らわしいものとされる﹃帳簿の数字を右から左に動か
すだけで金銭を増やす行為﹄、つまり利殖や財テクなどを行う姿を
見たら、神がかりか悪魔憑きか、どちらかだと疑われる可能性は濃
厚だ。
現にディーネが数学を伝授した研究者など、ディーネを見ると神
だ、天使だと大騒ぎする。
彼はディーネを好意的に見てくれるが、万人がディーネを評価す
るとは限らない。
呪文のような帳簿術を駆使して、低く見られている金儲けに固執
する姿などを見た日には、本当に彼女が悪魔に取り憑かれているの
だと思い込んでしまう純真な人たちもいるかもしれない。
﹁悪魔憑き扱いは嫌だなあ⋮⋮﹂
﹁ここは私にお任せを﹂
ハリムはそう言うやいなや、執務用の机から立ち上がった。
﹁私はこの家の家令として会計責任を負っております、ハリムと申
します﹂
青年たち、それから高官たちの注目が、一気に長身で浅黒い肌の
ハリムに集まる。
外国人の彼も帝国の人間にとっては差別対象なので、彼を見る目
454
もディーネを見るものとそう変わらず、ひややかだった。
﹁わが公爵家では、よそとは少し異なる帳簿管理を行っております
から、皆様にご説明を申しあげましょう。今回ご参加の皆さんには、
この管理方法に従って一切の書類を提出していただきますから、よ
く覚えてくださいね﹂
その発言に、誰もが戸惑った。ディーネも例外ではない。彼は一
体何を始める気なのだろう。
﹁あまり原始的な方法には従えないかもしれませんよ﹂
﹁僕らは最新の会計学をやっていますからね⋮⋮﹂
︱︱わあ、やなかんじー。
ディーネと同様の感想を抱いているであろうハリムは、にこりと
笑った。これは絶対に何かをたくらんでいる顔だとディーネにはす
ぐ分かったが、学院の卒業生たちにはまだそこまでの機微を読む能
力はないらしく、ひそひそ、ざわざわ、ニヤニヤしている。
︱︱そしてハリムは大勢を一か所に集めて、巨大な蝋板に向かっ
て、会計学の講義を開始した。
内容はディーネにも見覚えがある。彼女がつい先日領内の執政代
官たちに向けて行った、現代知識による会計学講座と同一のものだ。
説明から十分。
冷やかし半分といった顔で、クスクス笑いながら聞いていた連中
が、完全に沈黙した。
455
二十分。
次々に知らない計算式を持ち出されて焦っているのか、脂汗を浮
かべながら互いの顔を見合わせている。それは財務長官たちも例外
ではなかった。
三十分。
いまさら﹃難しすぎるからもっと詳しく説明してくれ﹄とも言い
出せないのか、死んだ魚のような目になっている。
四十分。
ハリムが﹃質問はあるか﹄と声をかけると、彼らの中のひとりが
挙手した。
﹁あの、こちらの﹃貸倒引当金﹄とはいったい⋮⋮?﹂
︱︱分からないだろうなー。
ディーネは苦笑するしかない。なにしろ複式簿記は、この国では
まだまだ原始的な形式のものしか、普及していないのだ。
知っているのはディーネとハリム、それから公爵家につめている
一部の文官、領地代官のみである。
﹁ご存じありませんか? はて、皆様は最新の会計学を学ばれたと
うかがったのですが⋮⋮﹂
これには誰も応えられない。
使っている用語などは分からなくても、これが彼らの知る会計記
録簿よりもずっと複雑で高度なものだということは理解できたよう
だ。
恥ずかしそうにうつむく面々の姿が見られた。
456
﹁私の生国はワルキューレではありませんが、あちらでなぜ会計の
仕事に奴隷が重用されているかご存じですか?﹂
ハリムがおもむろにお仕着せの袖のボタンを外し、ゆるめた。
﹁間違っていたときに、処分を下しやすいんですよ。一般庶民の命
を奪うよりも、所有の奴隷を拷問するほうがずっとたやすい﹂
浅黒く武骨な手首から服がまくりあげられ、大きく太い腕が露出
する。
﹁皆さんは奴隷でなくて幸運でしたね。奴隷として日々過酷な帳簿
管理を行ってきた私から言わせれば、皆さんの会計学の知識など児
戯でしかありません﹂
ハリムが二の腕までお仕着せの袖をまくってしまうと、そこには
凄惨な拷問のあとと思われる、白い傷跡が現れた。
無数に走るそのひどい傷跡を見て、何人かが震えあがる。
・・
﹁それでは、今説明した中で、分かる範囲で結構ですから、処理を
行ってください。残りは私のほうで、あとで修正をしておきますか
ら﹂
言外に役立たずだと言われて、彼らはますます意気消沈する。
﹁最後にはお嬢様にすべての監査を行っていただきますから、くれ
ぐれも明朗に、単純ミスなどないようにお願いしますね。お嬢様は
卑しい会計学などの知識はお持ちではありませんから、お手を煩わ
せた挙げ句に中身が間違っていた⋮⋮などということがあれば、重
い処罰が下されることでしょう﹂
457
ハリムの言葉に真実味を付加しているのが、腕に残る凄惨な傷跡
だった。もちろんディーネはそんなことしないのだが、学校を出た
ばかりで世間知らずな彼らは簡単に騙され、もはや青い顔をしてう
なずくばかりだった。
﹁⋮⋮ありがとう。すっきりしたわ﹂
戻ってきたハリムにこそっとお礼を言うと、彼は意外にも苦悩す
るような表情を見せた。
﹁本当であれば、もっとお嬢様のすばらしさを啓蒙したいところで
すが。お嬢様の講義を受けられない彼らは不幸ですね﹂
﹁大げさだなあ⋮⋮﹂
﹁本当のことですから﹂
こうして、ハリムがお灸をすえたことにより、なぜか帝国の財務
長官たちも大人しくなった。
ディーネの思惑通りに動く即席の財務顧問団が結成されたのであ
る。
458
やっておしまいなさいをするお嬢様︵後書き︶
かしだおれ
ひきあてきん
貸倒引当金
取り立て不能な債権の額をあらかじめ見積もって計上しておく項目。
459
チョコを巡る攻防
チョコレートが余ってしまった。
ディーネは先日ジークラインにチョコを作って渡したのだが、製
品化のテストも兼ねていたので、結構たくさん作ってしまったので
ある。こんなにたくさんあっても食べきれないし、夏だから氷室で
冷やしておくにも限界がある。
﹁お嬢様、このチョコレートの山、どうするんですか? 冷蔵庫が
圧迫されて邪魔だからどうにかしてくれってこないだメイドさんに
怒られてしまったんですが﹂
質問しているのは錬金術師のガニメデだ。彼はカカオ豆やらバニ
ラビーンズの採取・選定から、実用化まで手伝ってくれた。ディー
ネにとっては過酷な戦場をともに生き抜いた友のような相手なので
ある。
﹁どうしようね⋮⋮売るあてもないし、困ったな﹂
ジークラインは他の誰にも作るなと言っていた。それでなんとな
く、他のひとたちに配って処分する、といういつもの方法が採れな
いでいたのだった。
︱︱だいたい、なんで私があいつの言うことを忠実に守らないと
いけないのよ。
ディーネがお菓子をどう作ろうとも自由。なので、お世話になっ
460
ている侍女たちにわけてあげても別に問題はないだろう。
それでもぱぱっと配ってしまう決断ができないのがディーネの弱
いところだった。
﹁⋮⋮やっぱり、自分で食べようかな⋮⋮﹂
﹁失礼ですけど、お嬢様はお召し上がりにならないほうがいいので
は?﹂
メガネくんがあきれ顔で言う。
﹁なんで?﹂
﹁先日の喫煙もかなり回っていたようですし、チョコレートも効き
すぎる恐れが⋮⋮﹂
﹁⋮⋮もしかして、媚薬効果があるってことを言ってるんなら、ほ
とんど迷信みたいなものよ。チョコにそんなに強い作用ってないも
の﹂
﹁⋮⋮なぜそう言い切れるんです?﹂
﹁だって何回も食べたことがあるもの﹂
ただし、前世で、という部分は伏せておく。
﹁ぜんぜん効いたことなんてなかったわ﹂
ディーネが肩をすくめて言っても、ガニメデは疑わしげな目つき
をやめなかった。
﹁⋮⋮心配ですから、俺の見てないところで食べるのは禁止します
ね﹂
﹁ひどい! チョコぐらいで大げさだよ!﹂
﹁大げさじゃないです。また殿下に怒られるの嫌ですからね、俺⋮
461
⋮﹂
﹁こないだジークとも一緒に食べたけど、なんともなかったし、大
丈夫よ﹂
﹁⋮⋮なんともなかった、って⋮⋮﹂
ガニメデは相当面食らったようだった。
﹁ふたりで召し上がったんですか? これを?﹂
﹁そうだけど⋮⋮それが何?﹂
ガニメデの厳しい視線に焦って、ディーネは慌てて弁明を試みる。
﹁べつに、おかしくないでしょ? 飲み物のショコラは普通に出回
ってるよね? カフェでも見かけるぐらいなんだから、ヘンなメニ
ューじゃないでしょ?﹂
﹁婚約者のお嬢様が、殿下にこれをあげる意味については考えなか
ったんですか?﹂
言われて初めてディーネはとあることを思い出した。
ワルキューレ帝国では、﹃ショコラを一緒に飲もう﹄というのが、
いやらしい意味を含んだ誘い文句だということを。
﹁か、考えすぎじゃないの? 変な意味があったわけじゃないよ?﹂
﹁違いますね。お嬢様が考えなしなんです。びっくりするぐらい無
防備ですね﹂
﹁あ、あいつだって、別に変な意味でとったりしなかったし!﹂
﹁それは殿下がものすごくいい人だからなんだと思いますけど⋮⋮﹂
﹁ち、違うし! 考えすぎだってば!﹂
そう言い張りながらも、ディーネは自信がない。胸のうちで引っ
462
かかっていたジークラインの笑顔の意味について思い当たる節がで
きてしまった。あのとき、彼がペットでも愛でるようにぐりぐりと
ディーネを撫でまわしていたのは、婚約者の少女が無防備にショコ
ラの塊などを持ってきたからなのでは? ︱︱と。
意味深な贈り物を無邪気にしてくる婚約者を、まだまだ子どもで
ほほえましいと思ったからこそのあの笑顔だったのでは︱︱
そこまで考えて、ディーネは急に顔から火が出そうになった。
そうか、そうだったのか。ジークラインにはアホの子かわいいと
でも思われていたに違いない。なんという失態だろうか。チョコレ
ートは子どもに人気のおいしいお菓子という転生前の先入観があだ
になった。
ひとりでうろたえているディーネを、ガニメデは呆れたように見
た。
﹁⋮⋮お嬢様、本当に婚約をやめるおつもりがあるんですか?﹂
﹁はあ? あるに決まってるでしょ! 婚約なんていつでも破棄し
てやるわよ! そんでこのチョコも食べる! 媚薬効果なんて迷信
なんだからね!﹂
﹁いえ、お嬢様がそう思ってらっしゃるのなら、もうそれでいいで
すけど⋮⋮食べるんならここで食べてってくださいね。間違っても
よそで味見して大騒ぎなんてことにならないでくださいよ。ここか
ら持ち出して、他の人に配るのも禁止です﹂
﹁侍女にも持ってっちゃだめなの?﹂
﹁だめです。何があるか分かりませんから﹂
﹁もう、心配症だなあ⋮⋮﹂
とはいえ、ひとりでこれを全部食べるのは不可能だ。結構な分量
463
なのである。
﹁じゃあメガネくんも半分食べてよ﹂
ディーネが無茶振りをすると、ガニメデはちょっと変な顔をした
が、すぐにしかめ面に戻った。
﹁⋮⋮ええ。これを全部お嬢様に食べさせてしまうのはさすがに心
配ですしね。分かりましたよ﹂
現在あるのは、大きめの塊のチョコが七つだ。これを一気に食べ
たら鼻血ぐらいは出るかもしれない。
チョコレートを食べるならストレートの紅茶か何かがほしいと感
じたディーネは、使用人に給仕してもらうことにした。
﹁お嬢様、失礼いたします﹂
紅茶の準備に現れたのはセバスチャンだった。まさか彼が来ると
は思っていなかったディーネはギクリとした。セバスチャンなら絶
対にディーネが食べようとしているお菓子がなんであるかなどと詮
索はしてこないだろうが、給仕してくれる彼の前で見知らぬお菓子
を食べるのもずいぶんひどい気がする。
﹁⋮⋮すみません、他に誰も手が空いていなかったものですから﹂
﹁あ、ううん! イヤとかじゃないのよ! ごめんなさいね、挙動
不審で!﹂
焦っている内心を見透かされて、ディーネはますます取り乱した。
ひとが来るなり嫌そうな顔をするなんて失礼にもほどがある。
464
﹁ちょっとね、みんなに内緒で、新作のお菓子を処分してしまおう
と思っていたんだけど。こうなったらあなたにもグルになってもら
うわ﹂
465
チョコを巡るデスマッチ
やっぱりここはセバスチャンにも事情を話して、ひとつくらい分
けてあげるべきだろう。
﹁しかし、お嬢様、私は、仕事中でございますから⋮⋮﹂
﹁いいからいいから。一緒に食べてって。私の命令だから、これも
仕事のうちね﹂
﹁お嬢様⋮⋮﹂
﹁何よ、メガネくんも食べるんだから、別にいいでしょ? ひとり
よりふたり、二人より三人のほうが量も減るし﹂
研究員は渋い顔をしているが、それ以上は文句をつけてこなかっ
たので、ディーネはセバスチャンにも事情を説明して、チョコの処
分に付き合ってもらうことにした。
無理やり着座させられたセバスチャンが、手持ち無沙汰を嫌って
チョコレートを分けてくれようとするが、内訳を見て彼は顔を曇ら
せた。
﹁七個ありますが、お嬢様が五、私どもが一でよろしいのでしょう
か﹂
﹁なんというジャイアン配分⋮⋮慎ましいにもほどがあるわ。等分
に配ってくれていいよ﹂
六個のチョコレートが三人に分配され、一個が残った。当然のよ
うにディーネのお皿に入れてくれようとするセバスチャンを手で制
466
する。
﹁ああ、私はいいから、あなたたち、どっちかが食べて﹂
ディーネの宣言に、彼らは顔を見合わせた。かたや戸惑い顔のセ
バスチャン、かたや鋭い目つきのガニメデ。彼は重々しく言う。
﹁⋮⋮果たし合いですね﹂
白衣の裾をまくりあげて手首を回し、準備運動などをはじめるメ
ガネくん。しかし悲しいかな見た目が温厚な草食系なのでまったく
怖くはない。同じことをジークラインがやっていたら確実に恐喝罪
で通報ものなのに、と思うとディーネは悲しくなった。もしかした
ら殺人未遂まで行くかもしれない。
﹁ちょっとメガネくん、セバスチャンは真面目なんだから、ヘンな
冗談やめ⋮⋮﹂
慌てて止めに入ったディーネの言うことを聞いているのかいない
のか、セバスチャンは苦悶の表情でうつむいた。
﹁また⋮⋮血を見るしかないのですね⋮⋮﹂
︱︱またってなに!?
前にも見たことがあるかのような言い回しはやめてもらいたい。
虫も殺さぬような美人顔に悲壮感を漂わせないでほしかった。
﹁どちらかが倒れるまでの勝負です﹂
﹁デスマッチか! 半分こしたらいいんじゃないの?﹂
﹁半分こ? ハッ﹂
467
メガネくんはムカつく顔でディーネの提案を笑い飛ばした。
﹁ありえませんね。食うか食われるか。俺たちの掟はそうなってま
す﹂
﹁使用人の世界に譲り合いなど存在しないのですよ、お嬢様﹂
﹁そ、そんな⋮⋮セバスチャンまで⋮⋮﹂
冗談が苦手でディーネのくだらないギャグにも一生懸命ついてい
こうとしてくれていた真面目なあのセバスチャンが。いったいなぜ
そこまで。
﹁ふたりともそんなにお菓子好きだったっけ?﹂
﹁好きですね﹂
﹁お菓子のためなら死んでも構いません﹂
﹁でもね、メガネくん、本当に死ぬかもしれないわよ⋮⋮だってほ
ら、セバスチャンは⋮⋮﹂
すごく強いから、とディーネが言い終わるよりも早く、セバスチ
ャンの関節技がメガネくんのひじに決まった。状況が把握できてい
ないのか、びっくりまなこのメガネくんの口から、だいぶ遅れて情
けない悲鳴があがる。痛い痛いと泣く彼のひじは、あのままもうひ
と押ししたら破壊されそうだ。
﹁⋮⋮じゃあこれはセバスチャンに﹂
セバスチャンのお皿にチョコレートを入れてあげると、無慈悲な
勝利者はとてもうれしそうにほほえんだ。
﹁お嬢様のお菓子は、食べると元気がもらえるので、好きです﹂
468
すごくかわいいことを言っているが、彼はさきほどまでひとりの
男の関節を破壊しかかっていた強者である。ディーネには彼が血ま
みれの腸をくわえるポメラニアンに見えたが、メガネくんも同様の
まぼろしを見たらしく、めちゃくちゃ引いていた。
﹁⋮⋮お嬢様って、結構うかつですよね﹂
放心していたガニメデがわれに返ったかと思うと、いきなり意味
不明のことを言った。
﹁どういうこと?﹂
﹁スキが多いというか、引き寄せるというか⋮⋮﹂
﹁なにそれ。霊媒体質? こわい﹂
﹁分からないならいいですけど⋮⋮俺は皇太子殿下に同情します﹂
どことなく呆れた風のニュアンスを嗅ぎ取り、ディーネはむっと
したが、なぜメガネくんが皇太子殿下に同情的なのかについては、
考えてみてもやっぱりよく分からなかった。
釈然としないものを覚えつつ、チョコレートを食べる。研究員が
無駄に脅すので身構えてしまったが、なんともない。期待通りの甘
味に、われながらお菓子づくりが上手だなあと思うだけだ。
﹁なんなの、何が同情の対象なのよ。あいつはなんでもできてなん
でも持ってるんだから、可哀想な要素なんてひとつもないじゃない
⋮⋮﹂
﹁本当にそう思ってるなら、やっぱり可哀想だなと思いますよ、俺
は⋮⋮﹂
﹁何よもう、みんな揃いも揃ってあいつの味方して⋮⋮私だって自
469
分なりの考えってものがあるんだけど⋮⋮﹂
﹁私は何があってもお嬢様の味方でございます﹂
﹁そう言ってくれるのはセバスチャンだけよ⋮⋮私のチョコもあげ
ちゃう﹂
そう言ってディーネは血まみれのポメラニアンの皿に、チョコを
割ったかけらをひとつ移したのだった。メガネくんが﹁ズルい﹂と
かなんとか騒いでいるが、知ったことではない。
そんなこんなでチョコは秘密裏に処理された。
470
夏祭りと幼女 ︵1/4︶
夏の盛りだった。
ディーネが研究員の要請で知り合いの少女の家を訪ねると、ちょ
うど少女は留守で、その祖父が応対に出てくれた。
こぢんまりとした農家の中に通される。中央に大きなかまどがあ
る土間と、隅のほうに簡素な藁のベッドがふたつ。奥のほう、柵の
向こうには豚が飼われているのも見える。
ひとつ屋根の下に人と家畜が共生。家族とも同じ部屋で起居。
これが貧しい農家の平均的な間取りだった。
﹁わざわざお越しいただきありがとうございます。なにぶん私は腰
が悪いもので、このような格好で失礼いたします﹂
﹁ああいえ、お構いなく。お加減はいかがですか﹂
﹁なんとか、内職仕事ぐらいはできるようになったのですが⋮⋮い
やいや、お恥ずかしい。本日お呼びしたのはほかでもありません﹂
腰を悪くしているというおじいさんは、半分ねそべった格好で、
無理に頭を下げようとした。
﹁わしの孫娘のソルなんですが⋮⋮実はあの子が、今度地元で開催
されるお祭りで主役を演じることになりましてな﹂
おじいさんが簡単に祭りの説明をしてくれる。今度開催されるの
は農耕神コルンコピアを祝うお祭りで、コルンコピアが夏の終わり
頃に村を隅々まで練り歩く、というものらしく、ソルに割り振られ
471
たのは豊穣の女神・アネシドラ役であるという。大地に﹃黄金の矢﹄
を打つ父・コルンコピアの仕事を手伝い、あとを付き従うアネシド
ラが﹃恵みの天水﹄をまきながら畑のそばを通ると、収穫物が重た
く実るという伝承に基づいているらしい。
で、少女はその、アネシドラ役に決まったということだった。
﹁アネシドラは自分で衣装を用意する決まりです。しかし、あの子
ははやくに母親を亡くして、習い手がいなかったせいで裁縫が苦手
でしてな⋮⋮﹂
おじいさんは真っ白な服を取り出した。いや⋮⋮服なのだろうか、
とディーネは目をこらす。テーブルクロスのようなものに、不恰好
な対角線が入っている。縫い目にデジャヴがあると思えば、雑巾だ
った。おしゃれ布をつかったぜいたくな雑巾⋮⋮そんな印象だ。
﹁⋮⋮あの子は服が作れませんのですじゃ﹂
おじいさんが布の、胴体らしき部分を広げてみせたが、雑巾縫い
をされているので、布地が開かなかった。着られないものはさすが
に、どうお世辞に工夫をこらしても、服とは呼べない。
﹁わしも、裁縫はさっぱりでしてなあ。まともな運針などできませ
ん﹂
おじいさんが取り出したのは、二枚目の真っ白な服⋮⋮いや、服
なのだろうか、とディーネはまたしても目をこらす。ぶつぶつと荒
い直線縫いの糸が高級そうな布をふちどっている。なにかに似てい
ると思えば、しつけ糸だった。しつけ中の白い服⋮⋮そんな印象だ。
472
﹁⋮⋮お恥ずかしながら、これ、この通りですじゃ﹂
おじいさんが布の、胴体らしき部分を広げてみせると、しつけ中
の糸たちは儚くプチプチとちぎれ、ただの一枚布に戻った。さなが
ら淡いくちどけのミルキーチョコレートのような儚さだった。
﹁どうかあの子に、晴れ着を作ってやってくれませんか﹂
おじいさんに頭を下げられ、ディーネはひとまず、ソル作の服を
手に取った。なめらかなリネンに、ジャガイモの花の意匠が編み込
まれている。ジャガイモの花はこの国における吉祥模様で、意味す
るところは﹃繁栄﹄だ。豊穣の女神アネシドラのシンボルマークで
もある。
﹁⋮⋮布は結構いいものですよね﹂
﹁ええ、知人が用意をしてくれたのですじゃ。しかし、裁縫師が⋮
⋮﹂
﹁なるほど。話はよく分かりました。でも⋮⋮﹂
ディーネは布を傾けてみる。光の加減で花模様が浮き上がり、と
てもきれいだ。
﹁⋮⋮私、こういう行事にはうとくて⋮⋮豊穣の娘の晴れ着ってい
うのは、どのぐらいデコったほうがいいんですか? 今から二週間
で間に合うかしら⋮⋮﹂
﹁デコる⋮⋮とおっしゃいますと?﹂
﹁いえ、つまり、宝石は何個ぐらい縫いつけたほうがいいのか、と
か⋮⋮﹂
﹁ほ、宝石など! いただけませぬ!﹂
﹁でも、地味すぎてもソルちゃんがかわいそうだし⋮⋮﹂
473
﹁ほ、ほどほどで! 普通の服の体裁でしたらなんの問題もありま
せんのですじゃ!﹂
﹁普通っていうと、真珠母貝のビーズでキラ感を出す、ぐらいがい
いのかしら⋮⋮﹂
﹁ビーズも結構ですじゃ!!﹂
﹁あれ、ビーズもだめなの? 難しいわね⋮⋮じゃあ、刺繍とか⋮
⋮全面に大きなグリフォンの模様を﹂
﹁服に! 服にしていただければ結構なのですぞ!?﹂
﹁でも、それだと面白くないし⋮⋮﹂
﹁面白いかどうかでデザインを考えるのはおやめくだされ!﹂
ディーネはハッとした。長い貴族生活で毒されてしまったのか、
﹃服はなにかしら威嚇的じゃないと﹄と洗脳されてしまっていたこ
とに、いまさら気づいたのだ。
﹁ごめんなさい、私どうかしてたわ⋮⋮そうよね、あんまりド派手
だと浮いて困るのはソルちゃんよね。私も派手な服を着させられて
恥ずかしかった経験がたくさんあるのに、うっかりしてたわ﹂
﹁そうですそうです。服は普通が一番なのですじゃ﹂
問題は、ディーネにはその普通がなんだか分からないというとこ
ろだった。
﹁ソルちゃんと相談しながら作ったほうがいいかもしれないわね。
今日は、ソルちゃんご不在?﹂
﹁いえ、それが、あの子はちょっと強情なところがありまして⋮⋮
ディーネさんに頼んでみたらどうかとわしが再三言っていたのです
が、馬を貸してもらってるだけでもありがたいのに、これ以上借り
を作るのはいやだと申しましてな⋮⋮﹂
﹁そ、ソルちゃん⋮⋮!﹂
474
なんてけなげな子なのだろう。
﹁分かったわ。なにか考えてみる。こちらのおじいさん作の布は私
が預かってもいいかしら?﹂
﹁どうぞどうぞ。なにとぞ、くれぐれもよろしく頼みますぞ⋮⋮!﹂
﹁任せてちょうだい。かならず最高の服を作ってみせるわ﹂
ディーネは布を握りしめて、宣言した。
475
晴れ着と幼女 ︵2/4︶
﹁知人の女の子が、お祭りで着る晴れ着を縫いたいけど、お裁縫が
できなくて困っているみたいなの﹂
ディーネが侍女たちに白い布を見せると、レージョがいち早く反
応した。
どこからともなくぶわりと大量のスケッチを取り出して、ディー
ネに見せてくる。ラフ画には鳥の羽が一本一本丁寧に植毛されたリ
アル羽毛の服やら、双肩に鳩の生首が生えた服やらが書かれていた。
人をぎょっとさせたり、敵を威嚇するのには便利そうだ。
﹁わたくしの出番ですわね!﹂
﹁待って﹂
﹁お任せくださいませディーネ様! わたくしが必ずや見敵必殺の
服を⋮⋮!﹂
﹁倒さないで! これ豊穣の女神だから! 大地に恵みをもたらす
神さまだから!﹂
﹁死をもたらす気満々でございますね⋮⋮﹂
豊穣の女神の祭服と聞いて、シスも本から顔をあげた。
﹁⋮⋮ディーネ様、豊穣の女神アネシドラ様なら、頭にティアラも
ほしいのではございませんこと?﹂
﹁そういうものなの?﹂
﹁麦穂をかたどった細工のものが定番でございますわぁ。わたくし
も修道院で役をしたとき、きれいに飾り付けてもらってとってもう
れしかったのを覚えておりますわ﹂
476
﹁こんなところに経験者が! それどんな感じの衣装だった? 詳
しく教えて!﹂
﹁女神なら、わたくしも経験がございますから、少しは存じており
ますわ﹂
横から口をはさんだのはナリキだった。
﹁なんだ、けっこうみんな知ってるお祭りなのね。私、この日は聖
母の天還祭りをするものだと思っていたわ﹂
聖母の天還祭りとは、メイシュア教の有名な聖母がお亡くなりに
なった日にちなむ祭りで、聖母役に選ばれた女の子が着飾って練り
歩くのがディーネの住む領都バームベルクでの定番だった。
﹁バームベルクは大都会でございますからね。都市部はメイシュア
教が主流ですが、田舎のほうに行くと、古代の神々を祭る行事は珍
しくありません。アネシドラ役は庶民の娘ならば誰もが一度は経験
することなのでございます﹂
ナリキの解説に、シスはしゅばっと手をあげた。
﹁わたくしのときも、アネシドラ様役の子があと六人おりましたの
!﹂
﹁女神多いな!﹂
みんなが主役の学芸会のようだ。
﹁地元のお祭りらしいから、それにふさわしく、ちょうどよいぐら
いに仕上げたいのよ。でも、私は実物を見たことがないからね⋮⋮
とにかく、ふざけないでほしいのよ。真剣に、ちゃんとした服を作
477
ってほしいの。まずはデザインから検討したいんだけど⋮⋮﹂
ディーネのお願いに、彼女たちはそれぞれの想像を形にすべく、
ペンを取った。
そしてできあがった服を手に、ディーネはふたたびソルの家に飛
んだ。
︱︱豊穣のお祭りは三日後に迫っている。
***
ソルの家に着くなり、女の子の泣き声がして、ディーネはおどろ
いた。勝手に押し入るのもどうかと思ったが、どうも泣いているの
はソルのようだ。
﹁ソルちゃん? 入るわよ?﹂
土間へと身を滑らせてみれば、彼女は丸くなって涙を流していた。
ディーネを目視したとたん、がばりと跳ね起きる。
﹁ディーネさあああんっ⋮⋮! う、うええええ!!﹂
飛びかかってくる幼い女の子をどうにか受け止め、ぐじぐじと泣
く彼女が落ち着くまで待ってあげた。
﹁⋮⋮どうしたの? なにかあった?﹂
﹁わ、わた、わたし、おまつりで、着る服が、で、で、できな、う
う、ああああっ!﹂
478
泣きわめく彼女の足下には、真っ白な雑巾︱︱いや、真っ白な服
を作ろうと苦心した残骸があった。相変わらず縫うところを間違え
ているので、服として機能しなさそうだ。
﹁よしよし。誰にだって苦手なことのひとつやふたつあるわよ﹂
﹁で、でも、でもおぉぉぉ。どうしよう、私、わたし、このままだ
とぉぉっ⋮⋮!﹂
ぐずる彼女に、ディーネは持参した包みを渡した。
﹁そんなこともあろうかと、用意してきました﹂
﹁う、嘘おおぉっ!?﹂
﹁着てみて、ソルちゃん﹂
ソルは着ていたワンピースをすばやく脱ぎ捨てると、真っ白な服
に頭を通した。
﹁⋮⋮うん。シンプルな構造だから、サイズはちょっとズレてても
そんなに気にならないわね﹂
頭の上に、真珠と真鍮で作った小さなティアラを固定してあげる
と、お姫様のように仕上がった。そわそわと縁取りのフリルをいじ
くっているソルに、手鏡を渡してあげる。
﹁ほらかわいい。すてきよ、ソルちゃん。お姫様みたいね﹂
ワンピースは神話の女神風だ︱︱胸高に絞ったAラインの、ドレ
ープをたっぷりと取ったエンパイアドレス型。四角く開けた襟元に
小さな真珠をいくつか縫いつけてある。ノースリーブの肩とスカー
トの裾にフリルを足したが、派手すぎず地味すぎず、ちょうどいい
479
塩梅だ。上等な純白の生地が無垢な印象をよりいっそう際立たせる。
小さな女の子にぴったりの、清楚でかわいらしいデザインだった。
﹁ティアラもかわいい。明るい髪の色だから、強めの金色でもしっ
くりなじむわね。いい感じよ﹂
﹁あの、この真珠は⋮⋮?﹂
鏡に映ったピンク色の大粒真珠に、ソルちゃんは戸惑っている。
真鍮製の麦穂が重なり合いながら両端に向かって細くなっていくデ
ザインに、ところどころ真珠があしらってあるのだ。
﹁あ、これ? いいでしょ? 白いドレスに合うと思って﹂
﹁すごく高いんじゃ⋮⋮﹂
﹁大丈夫よ、研究で余った廃材だから。真珠といっても、訳ありな
の。でも、見た目はホンモノと同じだから、心配しないで﹂
﹁廃材⋮⋮なんですか?﹂
﹁そう、もとはただ同然で採れたものだから、気にしないで﹂
ソルちゃんはしばらく戸惑っていたが、やがてディーネの説明に
納得したのか、ぴかぴか光る真鍮のティアラに触れながら、うれし
そうに何度も鏡を確認していた。いくつの女の子でもおしゃれは楽
しいものだ。
﹁すごくかわいいわ。肩のところのフリルがちょっと天使の羽に見
えるわね。こんな子があぜ道に立ってたら、本物の天使と間違えち
ゃうかも?﹂
﹁も、もう、ディーネさん、からかわないでください!﹂
﹁あら、本当よ。ぎゅーって抱きしめたくなるかわいさだわ﹂
恥ずかしがって顔を手であおぐソルちゃん。初々しくてかわいら
480
しい。この年頃の女の子にしかない純真さや恥じらいといったもの
が全身から発散されていた。褒められ慣れすぎてかわいげをどこか
に失くしてしまったディーネとはえらい違いだ。
﹁⋮⋮ありがとうございます、ディーネさん﹂
ソルちゃんはつるつるぷにぷにのほっぺたに両手をあてて、照れ
たように言った。
︱︱守りたい、この笑顔。
こんな笑顔を向けられたら親御さんはみんないちころだろう。舌
たらずの甲高い声が憎たらしい。ディーネも思わず満開の笑顔のほ
っぺたをつっついてみたくなった。淑女の作法としてはかなりの失
礼にあたるので実行はしないが。
これは絶対にソルちゃんの晴れ姿も見学しに来るしかないなとデ
ィーネは思った。きっとものすごくかわいいはずだ。
481
ピンクパールと幼女 ︵3/4︶
︱︱お祭り当日。
ディーネがそっと村の様子を見にいくと、お祭りはもう始まって
いた。
農耕神らしき、羊の角飾りと毛皮を身にまとった男性のあとに、
白い服の女の子の行列が続いているが、あれがアネシドラ役の子ど
もたちだろう。牛の角でできた杯からあたりに水を撒き撒き、ちょ
っとずつ行進していく。
︱︱それにしても女神さまが四人かあ⋮⋮
多すぎやしないだろうか。やはり時代はどの子も主役なのかと、
関係のないことを思うディーネの視界に、キラキラッとしたものが
またたいた。
ティアラをつけたソルが、周りの子たちと小づきあい、ひそひそ
ささやき交わしながら楽しそうに歩いている。
ソルのおじいさんを見つけて近寄っていくと、彼は泣いていた。
孫娘の晴れ姿に、いろいろと思うところがあったのだろう。
﹁ありがとうございました、ディーネさん。本当に⋮⋮ありがとう
ございます。あの子の母親にも、見せてやりたかったですじゃ⋮⋮﹂
﹁失礼かもしれませんが、ソルちゃんのお母さんは⋮⋮?﹂
﹁あの子の母親は⋮⋮﹂
何度もお礼を言うおじいさんと乾杯して、彼の語るソルの身の上
482
話に耳を傾ける。
彼女の母親はソルがよちよち歩きのころに亡くなってしまったの
だという。父親はどこかの貴族に奉公しているらしく、ほとんど家
に寄りつかないのだということだった。
﹁ディーネさんに懐いているのも、母親のように思っているところ
があるからなのでしょう﹂
﹁そうなの⋮⋮﹂
頼りにされるのはやぶさかではないが、まだ少女のディーネとし
てはせめて姉と言ってほしいところだ。
と、そのとき、アネシドラ役の娘たちが騒がしくなった。
﹁ちょっと! なあに、あなたのその衣装! ひとりだけティアラ
なんてつけてはしたないったら!﹂
﹁神聖なお祭りなのに⋮⋮﹂
ソルを取り囲んでいるのは、農婦とおぼしき村の女性たち。
ディーネは焦った。︱︱しまった、ティアラはドレスコード違反
だったか。ソルちゃんに渡す前にちゃんと確認しておけばよかった。
慌てて彼女たちの出で立ちを確認すると、アネシドラ役の子たち
はみんなドライフラワーの麦穂でできたティアラをつけていた。ど
うも、この村ではドライフラワーないし生花の花冠が大正義だった
らしい。そんなところに金属のこじゃれた冠など持ち出せば、遅か
れ早かれ目をつけられていただろう。
大変なことになってしまった。ディーネのせいでソルがピンチだ。
483
﹁ねえ、外しておしまいなさいよ﹂
﹁ちゃんとみんなと同じようにしてあげるわ﹂
﹁⋮⋮分かりました﹂
ソルちゃんはティアラを外されて、ドライフラワーの飾りを髪に
編み込まれることになったようだ。
どうやら、穏便にことを納めてくれるつもりらしい。ほっとした
と同時に、ソルちゃんに申し訳なくなった。
︱︱ここは私が出ていってあいさつすべきなのかしら。
村の風習がよく分からない身としては、どうすればいいのかすぐ
には判断がつかない。幸いソルは聞き分けのいい子だし、黙って見
守っていたほうがいいかもしれない。
ディーネがぐるぐると思考を巡らせている間にも、ソルちゃんの
ティアラを預かった農婦は、細工を血走った目で確認し、悲鳴をあ
げた。
﹁⋮⋮やっぱり! この真珠、本物よ!﹂
﹁大粒のピンクパールなんて、いったいいくらするのかしら⋮⋮!﹂
﹁ねえソルちゃん、こんなもの、どこで手に入れたの? もしかし
て、また盗んだんじゃない?﹂
とんでもない方向に話が転がった。
ソルは春先、腰を痛めたおじいさんとふたりで食い詰めて、種イ
モを盗んで暮らしていたのだ。
﹁ちがいます! これは、大切な人が、くれたんです﹂
484
完全に言いがかりではあるが、前科持ちとしては後ろめたいらし
く、ソルはパニックを起こしそうな顔をしている。
﹁信用できないわ! 誰なの、それは?﹂
﹁ねえ、また盗んだものだったらいけないし、これは私たちが預か
りましょうか?﹂
﹁いいわね、だいたいこんな小さい子にピンクパールなんて、ねえ
⋮⋮﹂
﹁必要ないわよねえ?﹂
悪い顔で互いを見合わせる農婦たち。預けたら最後、永遠に戻っ
てこなさそうだ。
ディーネはおじいさんに杯を返すと、集団の中に突っ込んでいっ
た。
騒がしい農婦たちに、ディーネは立ち方を変えて、ゆっくりと宣
言する。
﹁それをソルちゃんにさしあげたのはわたくしです﹂
485
フォークダンスと幼女 ︵4/4︶
﹁ちょっと、誰? この子︱︱﹂
﹁このあたりの子⋮⋮?﹂
公爵令嬢のディーネといえども、辺境の村にまで顔が売れている
わけではない。となれば名乗っても効果はないだろう。
﹁盗品ではございませんわ。ですからどうか、それはソルちゃんに
お返しくださいませ﹂
﹁ディーネさん!﹂
大人に囲まれ、詰め寄られて怖い思いをしていたソルちゃんが駆
け寄ってきて、ぎゅっと抱きついてきた。頭をなでてやってから、
農婦たちに、﹁さあ、さあ!﹂と手を突き出すと、彼女たちはしぶ
しぶといった風にティアラを手放した。
﹁この真珠は、わたくしが実験的に作製したものですわ。ですから、
天然の品ではありませんの。いくらでも作れるものですもの、ほし
ければあなたがたにもさしあげますけれど︱︱﹂
ディーネはこれみよがしに農婦たちを上から下まで眺めてやった。
﹁⋮⋮まさか、こんな無価値のくず真珠がほしいだなんておっしゃ
いませんわよね? 子どもが身につけるような代物ですのよ。いい
・・・・・
大人の方々が、小さな女の子から奪い取ってでもほしい⋮⋮だなん
てそんな、はしたないこと、おっしゃるわけがありませんものね?﹂
486
先ほどソルを責めていた言葉、﹃はしたない﹄をそのままお見舞
いしてやると、農婦たちは顔色を変えた。
変装をしているとはいえ、ディーネの身に着けているものはそも
そも農民が自ら機を織ってこしらえる日曜手芸品とはものが違う。
きちんと採寸され、専属のお針子によって仕立てられているブラン
ドものだ。レースなどの飾り気は抑えているとはいえ、ぴしっとし
た襟や袖口は、荒っぽい短毛で織られた手作り品では絶対に出せな
い風合い。
﹁くっ⋮⋮﹂
﹁ちょっと美人だからっていい気になって⋮⋮!﹂
﹁シッ、やめておきなさいよ﹂
﹁そうよ。この子、たぶんすごくいいところのお嬢さんよ﹂
﹁目をつけられないようにしたほうがいいわ﹂
相手にしている人間の身分が違いすぎるということをなんとなく
悟ったのか、彼女たちはもうディーネに逆らう気をなくしてしまっ
たようだった。
たっぷり数秒、農婦たちを睨みつけてやってから、ディーネはソ
ルに向き直る。
﹁ソルちゃん、お祭りはもうおしまいなの?﹂
﹁あ、はい⋮⋮水を撒くのは、もう終わったから⋮⋮あとは、ごは
んを食べるだけです﹂
﹁そう。じゃあ、行きましょう? おじいさんも待っているわ﹂
会場からソルを連れ出してやり、おじいさんのところへ向かう最
中、ソルがぽつりと言った。
487
﹁⋮⋮ごめんなさい﹂
﹁どうしてソルちゃんが謝るの?﹂
﹁だって⋮⋮こんなにいろいろしてもらって、今日だってせっかく
来てもらったのに、いやなところをお見せしてしまって⋮⋮﹂
﹁そ、ソルちゃん⋮⋮﹂
ディーネは心配になる。この子は子どもなのに、気を回しすぎじ
ゃないだろうか。それだけ苦労しているのだろうが、子どもが子ど
もらしく振る舞えないのは辛いことだと思った。
﹁私がソルちゃんに会いたかったから来たんだよ。ソルちゃんがひ
どい目にあわされていたら悲しいし、私がなんとかしてあげられる
ことだったらやってあげたいって思うわけ。だからね、ソルちゃん
は謝ることなんて全然ないんだよ?﹂
﹁でも⋮⋮﹂
﹁大丈夫! ソルちゃんが笑ってくれたらそれが一番なんだよ。だ
からもう、悩まなくて大丈夫﹂
空いているほうの手で、ソルちゃんの頭をわしゃわしゃと撫でま
わしてあげた。
﹁よくがんばったわね﹂
ソルちゃんがつないだ手をぎゅっと握り返してくる。爪が食い込
んで痛い位だったけれども、きっとそれはいろんな思いがこもった
動作だろうと分かっていたので、ディーネは我慢した。
﹁私、ディーネさんと会えて、よかったです﹂
﹁私もよ! 私もソルちゃんが大好き﹂
488
﹁えへへ⋮⋮﹂
ソルちゃんの笑顔をゲットした。これがゲームならばここがスチ
ルになったであろう、素敵なはにかみ顔だ。なんてかわいらしいの
だろうとディーネはほっこりした。
ちょっと年は離れているが、友達が増えるのはいくつになっても
うれしいことだ。
領地の経営の一環として、金貨は何枚も稼いできたが、このとき
ほど充実感を覚えたことはなかった。
どこからか、バグパイプの演奏が聞こえてくる。村のあちこちに
かがり火が焚かれ、広場の中央に大きなたき火用の薪が升状に組み
上げられていく。
ひとりの男が麦穂をさしたフェルト帽を取って、バグパイプに合
わせて歌いはじめた。ちまたの流行歌はディーネがふだん絶対に耳
にすることはない下卑た歌詞で、ディーネはぎょっとしてソルちゃ
んの耳をふさいだ。
﹁どうしたの、ディーネさん? わたしもこの歌好きよ。﹃亭主が
かみさん殴りつけ、しくしく泣かせてほくそえむ、こんなに顔が腫
れあがりゃ、留守に浮気もできなかろ﹄﹂
﹁バイオレンス⋮⋮!﹂
なんて子どもの情操教育に悪い歌なのだろうとディーネがおのの
いている間にも歌は続き、ソルちゃんのきよらかな歌声でひどい内
容が淡々と紡がれていく。
︱︱かみさんが一計を案じて、近くを通りがかった貴族に亭主を
医者だと紹介する。ただし亭主は控えめで、殴られなきゃ自分が医
489
者だとは認めないから、二、三発殴ってくれと言う。亭主は貴族の
お供に散々殴られて半泣きで適当な診察をし、大金を褒美にもらっ
て帰る。亭主はもう可哀想なかみさんを殴らなくなってお金も儲か
り、大団円。
﹁あ、最後はちゃんとハッピーエンドなのね⋮⋮それにしてもすご
いわ⋮⋮﹂
﹁面白い歌ですよね!﹂
ソルちゃんはきゃらきゃら笑っている。タフだ。
いつの時代もバイオレンスなものほど子どもにウケるということ
なのだろうか。
ソルと一緒におじいさんと合流し、温かくあわ立つりんご酒を飲
む。農耕神の祭りにはつきものの、サフランで色づけした金色のマ
ッシュポテトを食べて、たき火を囲んだ。
﹁ディーネさん、一緒に踊ってください!﹂
﹁でも私、輪になって踊るやつはやったことが⋮⋮﹂
﹁大丈夫です! 教えてあげますから!﹂
ダンスは得意なつもりだったので、ソルに手を引かれてリードを
取られて、ちょっと悔しかったディーネだった。
こうして豊穣のお祭りは幕を閉じた。
490
弟たちとアイスクリーム
公爵令嬢ディーネは牛乳の貯蔵室で趣味のお菓子づくりを満喫中
だった。
まだまだ暑いさかりなので、冷たいデザートを作ろうと思い立っ
たのだ。シャーベットもいいが、たまにはアイスクリームなども食
べたい︱︱そんな軽い気持ちではじめた作業だった。
卵と砂糖をかき混ぜ、牛乳と生クリームを入れて冷却魔法。
軽く凍らせてからよくかき混ぜる。
もう一度冷却魔法。
よくかき混ぜる。
冷却魔法。
よくかき混ぜる。
運動不足気味の二の腕が疲労で悲鳴をあげていた。ふう、とひと
息ついて何気なく戸口に目をやり︱︱ディーネは悲鳴をあげそうに
なる。おどろおどろしい空気をまとった二対の瞳が、戸口からじー
っとディーネをにらんでいた。
﹁姉さまー⋮⋮﹂
﹁イヌマ⋮⋮! レオ⋮⋮!﹂
弟のイヌマエルとレオがそこに立っていたのである。
﹁何してるの? ふたりとも﹂
﹁姉さまがおいしいお菓子を作っている気配を察知したので来たの
491
ですー⋮⋮﹂
﹁すごい霊感! ⋮⋮だからって何も戸口で見守らなくてもいいじ
ゃない﹂
﹁僕らはキッチンに入れないんですよー⋮⋮あれがあるから⋮⋮﹂
と指さしたのは、入り口に置いてあるペットボトル状の何か。水
が入っているらしく、キラキラしている。猫よけにそっくりだ。
﹁イヌマが冷蔵庫のものを盗み食いするから、魔法で施錠されてし
まったんです﹂
﹁解除すればいいじゃない。すごく簡単な魔術よ、これ。猫よけの
柵を置くぐらいのレベルの⋮⋮﹂
簡単すぎてディーネは魔法の施錠だとは思わなかったぐらいだ。
ディーネが猫よけの魔術を解除してあげると、弟たちは中に入っ
てきて涼しいと歓声をあげた。
﹁俺たちはまだ魔法を習ってないんです﹂
﹁そっか、そうだっけね﹂
貴族の男子は主に攻撃用の魔術を覚える。中でも火炎系のものは
殺傷能力が高いので重要視されているが、やはり攻撃魔法なので、
分別のない子どもには教えられない。魔法の授業は基礎的な学問が
終わったあとだ。
ディーネはというと、婚約者のジークラインが天才魔術師だった
ので、意地で魔術を独習した。
彼に追いつきたい一心で、幼いころから誰に教わるでもなくひと
りきりで学習していたのである。そのため一般的な貴族よりははる
かに魔法が扱える。
492
まだディーネが記憶を取り戻す前の出来事がよみがえる。
クラッセン嬢が血のにじむような努力の果てにコップの水を凍ら
せる魔術が使えるようになったころ。
ジークラインは腕の一振りで湖をアイスリンクに変えてしまえる
ぐらいの魔術師になっていた。
﹃女の子のくせになんてはしたない﹄とさんざん怒られながらも
攻撃魔法の練習を続け、ついに小さな火を飛ばす魔術が使えるよう
になったころ。
ジークラインは猛吹雪の雪山を水蒸気爆発がうずまく灼熱の温泉
地獄に変えてしまえるほどの魔術師になっていた。
いずれも苦い思い出だった。
どんなに努力しても、ジークラインは初めからその数百倍の魔術
を扱えるのである。
達成感も何もあったものではない。
︱︱これではだめ。もっとしっかりしなくちゃ。こんなことでは
ジーク様に顔向けができない。せめてジーク様のお役に立てるぐら
いの魔法が使えるようにならなくちゃ。ジーク様がおっしゃる魔術
理論の概要ぐらいは理解できなきゃ。
こうするべきだ、ああするべきだ、という思考に凝り固まり、息
苦しいほど思いつめて必死に努力を積み重ねても、ジークラインの
足元にも及ばない毎日。
︱︱気にすんな。俺が特別なんだ。お前は笑ってろ。それ以上は
何も望まねえよ。
493
クラッセン嬢はその言葉に感動し、彼を崇拝しながらも︱︱
必死に努力しても釣り合いが取れないという事実にじわじわと自
信を喪失していった。
ジークラインほどにもなると、ディーネがいなくなっても特別に
困ったりはしない。彼はディーネを地位と身分が手ごろだから婚約
者に選んだだけ。それも彼の意志ではなく、周りが勝手に定めたこ
とだ。かりにディーネとの婚約を解消したとしても、また手ごろな
妃を選び直して終わりだろう。そしてジークラインはディーネにし
ていたのと同じような態度で相手に接するに違いない。なにしろ彼
は誰もが羨み憧れるような理想の結婚相手なのだから。
ディーネは彼にとっての換えが効かない特別な存在には決してな
りえないのだ。
﹁姉さまはすごいですね! 姉さまみたいにすごい魔術が使える人、
僕みたことありません!﹂
勢い込んで言うイヌマエルの視線はギラギラしており、まっすぐ
製作途中のアイスクリームに向けられていた。たぶん、彼の言う﹃
すごい﹄はお菓子づくりのほうなのだと思う。分かっていても、イ
ヌマエルのすっとぼけた態度はかわいらしく、暗く物思いに沈んで
いたディーネもつい頬をゆるめてしまった。
レオがディーネをまっすぐに見上げて言う。
﹁⋮⋮姉上は、俺の年にはもう魔術が扱えたと父上がおっしゃって
いた﹂
﹁ジーク様のおかげよ。あの方の教えはすごく分かりやすいの﹂
494
﹁領地の経営もご立派になさっていると父上が﹂
﹁そのうちレオにだってできるようになるわよ﹂
﹁姉上⋮⋮﹂
レオはまだ何か言いたそうにしている。顔を見ていて、なんとな
く察した。レオはまだ幼くて、うまく言えないながらも、将来に漠
然とした不安を抱えているのだろう、と。
ディーネはつまみ食いをしようと狙っているイヌマの手のひらを
はたき落としつつ、レオの目線の高さに合わせてしゃがみこんだ。
﹁大丈夫よ。お父様だってご健在なのだし、レオが困っていたらみ
んなが助けてくれるから。私だってレオの味方だよ。レオが領主に
なるのなんて、まだまだ先のことなんだから、何にも心配なんてす
ることないのよ? レオはね、ただ︱︱﹂
笑っていてくれたらいいと思い、ディーネははっとした。
それはジークラインが繰り返しディーネに語って聞かせてくれた
言葉でもあったからだ。皇太子妃としてふさわしくあらねば、未来
の国母としてしっかりしなくては、と気ばかり張っていた幼いクラ
ッセン嬢とレオの姿はあまりにも重なるところがあって、胸が痛く
なった。
ジークラインはいったいどんな気持ちでディーネに笑っていろと
言ってくれていたのだろう。今の彼女のように、ありのままのこの
子を守ってあげたいと思ってくれていたのだろうか。
考えてみても、分からなかった。だいたいジークラインは生まれ
ながらの覇者で、彼にとっては帝国の民草すべてが等しく守り導か
なければならない対象だ。
495
彼も言っていたではないか。彼の愛は万人に等しく与えるものだ
と。ディーネもその中に含まれているに過ぎない。
﹁⋮⋮姉上?﹂
﹁⋮⋮なんでもない。とにかく、レオが大人になるのは、もう少し
先でいいのよ。お父様だって私だって、まだまだレオを甘やかした
りないんだから、余計な心配はしないでいいの!﹂
﹁姉上⋮⋮﹂
レオは震える声でつぶやいた。どうしちゃったのかしらと思った
直後、ディーネはレオの視線の先を振り返って、ぎょっとなる。
レオが見つめる先で、イヌマエルが作りかけのアイスを半分がた
盗み食いしていた。
﹁ちょ、ちょっと、イヌマ!?﹂
盗み食いが見つかったイヌマはびくりとして︱︱誤魔化すように
笑みを浮かべた。少女とみまがうような愛らしい顔が、恥じらいを
含んでほんのりと赤く染まる。
﹁⋮⋮姉さま、このアイス、すごくおいしいです! 食べたことな
い味がします!﹂
ディーネは大声で叱ってしまいそうになり、ゆっくりと深呼吸し
た。イヌマエルにはたいてい、叱ってもあまり効果はない。
﹁⋮⋮しばらく姉さまのお部屋は出入り禁止にします﹂
﹁そんなあ! 姉さま! 僕寝苦しくて死んじゃいます! 姉さま
496
ー!﹂
やいやい騒ぐイヌマエルを無視して、残り少なくなったアイスク
リームを完成させるべく、ディーネは泣きそうになりながら木べら
を取った。
497
弟たちと商品テスト 前編
公爵令嬢ディーネは訳あって借金を返済すべく、事業などに乗り
出している。中でもおもちゃ部門は子どもに人気なので、やりがい
のある仕事となっていた。
おもちゃといえばサイコロかトランプの二択しかないワルキュー
レ帝国。子どもたちの明るい未来のためにも、おもしろグッズをい
っぱい作って流行らせたいというのが、ディーネや開発に付き合っ
てくれている研究員たちの総意だった。
ディーネの部屋に付随している大きな応接間には、今、次に量産
するおもちゃの試作品がずらりと並んでいる。
それらを厳しい目で審査しているのは初等学校に通っているふた
りの弟たち。
おもむろにレオが水車のおもちゃを手回しした。車輪には卵のぬ
いぐるみがついている。それが下まで回り、地面につぶされて、上
から出てくる。すると、卵はかわいいひよこさんのぬいぐるみに代
わっている︱︱
卵。ひよこ。卵。ひよこ。くるくると入れ替わるおもちゃを弄り
回しながら、レオはなにやら爆笑しはじめた。
﹁ぶっ⋮⋮ふっふっふっふ⋮⋮﹂
レオの爆笑は非常にレアなので、ディーネは目を見張った。
︱︱受けてる⋮⋮!
498
なんだかこちらまでうれしくなってくる。
次、小さなドラムを手にしたイヌマエルが、何かハッとしたよう
な顔をした。必殺技を開眼したときのカットインみたいな鋭い視線
で太鼓にいさましく打ちかかる。熱いビートで繰り出される魂のド
ラミング。
そこにレオが参戦した。ルンメルポットと呼ばれる、棒を皮革に
こすりつけて音を出す奇妙な太鼓でラフな雑音をかき鳴らし、バッ
クミュージックを盛り上げる。
﹁⋮⋮なかなかやりますね⋮⋮!﹂
﹁イヌマこそ﹂
何がどうやるのかは、ディーネには分からない。しかし、子ども
には何か琴線に触れるものがあったのだろう。
﹁ご覧くださいまし皆さま。こちらのおもちゃ、すっごいですわぁ
∼﹂
侍女のひとり、レージョがおもちゃを手に取って眺めている。蝋
燭が一本立てられる燭台で、挿し芯がついた受け皿とその台座に取
っ手がついており、手で吊るして、持ち運びができるようになって
いる。
﹁こちらの燭台、逆さにしても蝋燭が倒れないのですわ﹂
﹁あら本当! さかさまにしても、受け皿がくるんと上を向くよう
にできているのですわね﹂
﹁すごいですわぁ。どういう仕組みになっているのかしら?﹂
﹁これがあれば、うっかり倒して火事になる心配もございませんわ
499
ね﹂
この上を向く蝋燭の仕組みはディーネも少し面白いと思った。
水銀と分銅を使って受け皿の水平方向を保つ仕組みになっている
らしい。
その他、振ると中から何かが飛び出す杖だの、お姫様変身セット
だの、細々とした品物が出揃ったあと。
﹁インパクトに欠けますね﹂
イヌマエルがしれっと言った。
﹁いやあんた、さっきまでノリノリで太鼓叩いてたじゃないの﹂
﹁そうなんですけど! でも僕がほしかったのと違うんです∼!﹂
イーッとしてだだをこねる末っ子。
﹁姉さま、僕、兵隊さん人形がほしかったんです﹂
﹁うっ⋮⋮うん⋮⋮言ってたね﹂
﹁帝国軍第一連隊の雷撃飛竜隊! バームベルクの青鷲騎士団騎士
歩兵! チャリオット搭乗兵!﹂
﹁ええとね、一応用意はしてみたんだけど⋮⋮﹂
軍服を着た陸軍兵風の兵隊さん人形を取り出すと、イヌマエルは
フンと鼻で笑い飛ばした。
﹁これまちがってます! 一見バームベルクの砲兵隊の制服に似て
ますけど、色が違うし、こんな制服の兵隊さん見たことないです!
それに肩の憲章は少将と同じですよ!? 平の歩兵にこんなのつ
500
けるなんてありえません!!﹂
﹁えっそうなの⋮⋮詳しいわね⋮⋮﹂
︱︱マニア怖い。
ディーネがおののいていると、イヌマエルはがっくりと肩を落と
した。
﹁兵隊さん人形を百個くらい並べて薙ぎ払うやつがしたかったのに
⋮⋮﹂
﹁ご、ごめんね、姉さま兵隊さんごっことかよく分からないからご
めんね﹂
しかし、こんなにも不評ということは、もうイヌマエルたちにお
もちゃの概要を考えてもらったほうがいいのではないかという気が
してきた。
﹁わかったわ、兵隊さん人形はもうちょっとコンセプトデザインか
ら考え直す。で、あとひとつ見てほしいのがあるんだけど⋮⋮﹂
この分だとこれも酷評されるかなと思いつつ、ディーネは隠して
おいた人形をオープンした。
ひと目見た瞬間、イヌマエルがぴくりと反応した。
﹁ね、姉さま⋮⋮!?﹂
﹁あの、これなんだけど⋮⋮﹂
﹁そ、そ、それはああああああ!!??﹂
さきほどまでの落胆はどこへやら、イヌマエルが突如として興奮
した様子でディーネの手元に近寄ってきた。
501
502
弟たちと商品テスト 後編
ディーネが握っているのは、精巧な球体関節型の人形。お顔は陶
器で作成したのでつるりとなめらか、瞳も色付きガラスで作らせた
ので本物そっくりにできた。
弟のイヌマエルが興奮した様子でその人形ににじり寄る。
﹁ああああああ、姉さま、これはあああああ!?﹂
﹁これね⋮⋮ジーク様のおにんぎょ﹂
﹁うひゃあああああ!! わあああああああああ!!﹂
イヌマエルが興奮してお人形をひったくったので、ディーネは最
後まできちんと説明できなかった。
﹁ジークラインさまだああああああああ! かっこいい∼∼∼∼∼
∼!!﹂
﹁何⋮⋮? 皇太子殿下だと⋮⋮?﹂
大興奮のイヌマエルがぶんぶん振り回すおもちゃに反応したのは
レオだった。むちゃくちゃ見せてほしそうにぐるぐるとイヌマエル
の周りを回りだす。
﹁ジークラインさま!?﹂
﹁ディーネ様、とうとうあれをお作りになったんですの!?﹂
﹁いやですわ、わたくしにも見せてくださいな!﹂
ついでに侍女たちにも火がついた。
503
﹁まあ、とっても素敵ですわ!﹂
﹁なんという造形美でしょう!﹂
﹁もう、ディーネ様ったら、ジーク様のことをこんなに格好よくお
作りになるなんて、愛ですわね∼!﹂
﹁ち、ちがくて! これは研究員たちが! 勝手に!﹂
ディーネの人形のほうもすでに販売されているが、そちらはやわ
らかい布素材でできているため、どちらかといったらぬいぐるみに
近い形状をしている。
そういうもののほうが売れるだろうという研究員の判断だった。
で、今度はぬいぐるみに近いジークラインができてくるのかと思
ったら、研究員たちは﹃それでは売れない﹄と難色を示した。やっ
ぱり男の子の人形は流行らないのかしらねと思い、ディーネが忘れ
かけたころ、研究員たちがこの陶器製のジークライン人形を持って
きたのである。
構想に四か月かかった大作です! と研究員たちが言う通り、そ
れはすばらしくいい出来をしていた。ディーネの人形よりもよっぽ
ど美人で、精巧に動き、服のディティールなんかも細やかで、オプ
ションパーツなども豊富だった。
この差はいったい。
ディーネもどちらかといったら美少女の部類に入る。その彼女に
は目もくれず、ジークラインの人形の研究開発に全力を注ぐ熱き研
究員たちの戦いの記録は、まあ、ディーネもあまり思い出したくは
ない感じだった。
大戦の英雄とはここまで信奉されるものなのかとディーネも感心
504
するのを通り越して呆れ果ててしまった。
﹁雑魚だな。遊びにもなりゃしねえ﹂
﹁あんまり強がんなよ。弱く見えるぜ﹂
﹁この俺の前で立ち尽くすことを許した覚えはない。まずはひれ伏
せ。生きていたいのならな﹂
﹁薙ぎ払え﹂
﹁よく見とけ。俺が本物の戦闘ってもんを教えてやるよ﹂
﹁今のはほんの手慰みだ。俺に本気を出させたきゃ、この十倍は持
ってこい﹂
﹁お前たちを気の毒に思うぞ。この俺と敵対しなきゃなんねえんだ
からな﹂
﹁きゃあああ∼! ジーク様素敵ぃぃぃ∼!﹂
﹁ジーク様あぁぁ∼!!﹂
弟たちの腹話術でジークラインの有名な決め台詞が次々と飛び交
い、侍女たちも大喜びだ。
﹁このお人形、本当によくできてますわぁ∼!﹂
﹁いってはなんですが、ディーネ様のお人形の百倍ぐらい気合が入
ってますわね⋮⋮﹂
﹁おもちゃの開発部はバームベルクの軍部なのですって!﹂
﹁ああ、それで⋮⋮﹂
﹁皆さまジーク様が大好きでございますからね∼﹂
﹁あぁ∼、それにしてもわたくしもほしゅうございますわぁ∼﹂
﹁ただのお人形さんとしても価値がありますわよね、これは!﹂
置いてけぼりを食らったディーネは、釈然としないものを胸のう
ちに抱えつつ、喜んでもらえたならいいのかな、と思うことにした。
505
***
八月の末日になり、弟たちの夏休みも終わりを告げた。いよいよ
学校に帰還するという日の朝、弟たちを見送りにいくと、すでに出
かける準備が整っていた。制服の上から正装用のマジカルなマント
をはおり、学者帽をかぶっている。マントのすきまからチラチラの
ぞく短パンの膝小僧がほんのりピンクでまぶしい。
﹁姉さま! もう離れ離れなんて寂しすぎます∼!﹂
イヌマエルがぎゅーっとすがりつてくる。
﹁十月ぐらいまでご一緒したかったです!﹂
﹁うん⋮⋮まだまだ暑いもんね⋮⋮﹂
﹁でも姉さま、見ててくださいね! 僕はいつか姉さまより立派な
ひえひえの魔法使いになって、ひとりで快適に寝られるようになっ
てみせます!﹂
﹁いや、そのときはレオとかも一緒に寝かせてあげたらいいんじゃ
ないの⋮⋮?﹂
﹁ハゲるからいらない⋮⋮﹂
青い顔をしてつぶやくレオ。
﹁次は十月の秋休みかしら? そのころにはおもちゃもできている
と思うわ﹂
﹁分かりました! 楽しみにしてますね! それからジーク様のお
人形も!﹂
イヌマエルはディーネからゲットした試作品をかばんにつめてい
た。入りきっておらず、生首が飛び出している。ちょっと怖い。
506
﹁⋮⋮それ、陶器製で割れやすいから、気をつけなさいね⋮⋮﹂
﹁はーい! わかってます! 学校のみんなにたくさん自慢してや
りますよー!﹂
腕とかばんをぶんぶか振って、弟たちは馬車に乗り込み、去って
いった。
⋮⋮あの調子で振り回していたら、そう遠くないうちにパリンと
いきそうだ。
そんなこんなで賑やかな弟たちの夏休みは終了した。
507
殿下のご来訪 ︵1/3︶
侍女たちが慌ただしく行ったり来たりしている。
﹁ディーネ様の身支度は完了いたしました!﹂
レージョの手により、ディーネはシルクのドレスを着せられてい
た。ハーフアップにした髪の毛先は悪役令嬢でおなじみの縦ロール
だ。
正装ほど派手ではないにしろ、よそゆきのシルクの靴や手袋ひと
揃いできっちりドレスアップさせられたディーネは、﹁邪魔だから
そこにいてくださいまし﹂とばかりに隅に追いやられている。
﹁ありがとうレージョさん。ナリキさん、お茶の準備はいかが? ⋮⋮ナリキさん?﹂
侍女頭のジージョにポンと肩を叩かれて、ナリキはゼンマイじか
けのおもちゃのようにぎこちない動きで振り返った。
﹁えっと⋮⋮あ、あの、ティースプーンは右でしたっけ、左でした
っけ?﹂
﹁しっかりしてくださいましナリキさん、帝国式はソーサーの右で
ございます﹂
﹁は、はい⋮⋮﹂
﹁ナリキさん、それ左! 左ですわ!﹂
ナリキは意外と本番に弱いのか、さっきからやたらとオロオロし
ている。
508
︱︱この騒ぎの発端はこうだ。先日、珍しくジークラインのほう
から公爵家に訪問したいと打診があった。浮かれたパパ公爵はふた
つ返事でそれを了承。若いふたりで一緒に庭の散策などをしてから
紅茶、そして晩餐などもご一緒に、ということになったのである。
なぜそうしょっちゅう﹃若いふたり﹄を一緒にしておこうとする
のかがディーネには不思議でならないのだが、禁欲的な淑女教育を
受けているディーネが、ごく当たり障りのない言い方でジージョか
ら受けた説明によると、この世界は誓約の刻印の力によりバースコ
ントロールがそこそこの精度で可能なので、婚約中の女性の行動範
囲が格段に広いのだということであった。
ディーネがジークラインとつながっている刻印のことである。こ
れがあると不義や密通が実質不可能であるので、バースコントロー
ルとなるわけであった。
﹁お越しになりました!﹂
使用人が来るなりそう叫ぶので、室内はパニックに包まれた。
﹁も、もうお越しなのでございますか?﹂
﹁紅茶はお庭のあとですから、焦らなくてもけっこうですよ、ナリ
キさん﹂
﹁わたくしのリボン曲がってないかしら?﹂
﹁あぁ∼ドキドキしますわぁ∼!﹂
﹁なんであんたたちが緊張してんの⋮⋮﹂
大騒ぎの侍女ーズを引き連れて玄関ポーチにまかり越せば、ちょ
うど馬車が正面に向かってやってくるところが見えた。彼の場合は
509
転移すれば一瞬なのだが、それだと使用人たちがびっくりしてしま
うので、正式な訪問のときはわざわざ手順を踏んでくれるのだった。
皇太子殿下を馬車でお運びするという栄誉で、御者も非常に浮き
足立っている。お仕着せもいつになくピカピカだ。
﹁ああぁ∼⋮⋮殿下がいらっしゃると思うともうダメですわぁ∼⋮
⋮﹂
﹁もうこの空間が浄化されている感じがいたしますわね⋮⋮!﹂
﹁空気清浄機か﹂
﹁今日もきっと悩殺的に男前でいらっしゃるのですわ!﹂
﹁で、殿下にごあいさつをするときは、ええと、なんと申しあげれ
ばよいのでしたっけ?﹂
﹁緊張しすぎよ⋮⋮あいつはよっぽどのことがない限りはヘマした
って怒んないわよ﹂
呆れているディーネを、シスたちは尊敬のまなざしで見た。
﹁あの近寄りがたいジーク様のことを仲良しのお友達みたいにお話
しになるなんて、ディーネ様やりますわね∼!﹂
﹁ジーク様とお会いするのに緊張しないなんてさすがですね⋮⋮﹂
﹁いつの間にかそんなに仲良くおなりになって⋮⋮﹂
﹁これがおふたりの絆なんですのね!﹂
そりゃあ婚約者なんだから侍女より仲良しなのは当然だろうと思
いつつ、ディーネはどこからともなく聞こえ始めた万歳の音頭に面
食らった。
︱︱万歳! ジークライン様万歳!
510
﹃ジークライン様万歳﹄。戦争のときに多用された合い言葉らしく、
終戦後の今になっても、彼が庶民の前に顔を出すと、必ずこのコー
ルがどこからともなく始まるのである。ジークラインがちょっと足
を止めて手でも振ってやろうものなら大騒ぎだ。目が合ったとか、
ほほえんでもらったとかが自慢になるらしい。芸能人か。
︱︱万歳! 皇太子殿下万歳!
公爵家の屋敷に詰めている常駐の警備兵、五十名あまりが総出で
出迎え、万歳を唱える中で、ジークラインは停止中の馬車から軽や
かに降り立った。金無垢のボタンがまぶしい夏用の白い簡素な礼服
は鎧用の胴着を模したものであり、ひと言で表現するなら飾りのな
い白い軍服ないし、学ランに似ていた。上背のある美男子の皇太子
殿下にこれを着せようと最初に思いついた衣裳係は讃えられるべき
である。
﹁きゃああああ∼!﹂
﹁か、か、かっこいいですわぁ∼!﹂
﹁ジーク様⋮⋮!﹂
﹁シッ、お前たち、はしたないですよ!﹂
侍女たちが騒ぎ始めた。人の顔を見るなり叫ぶなんて完璧なマナ
ー違反だが、万歳がうるさくてそれどころではない。
︱︱万歳! ジークライン様万歳! 万歳!!
当のご本人がパチリと指を鳴らすと、長槍を構えたフル装備の騎
士たちは穂先をひときわ高く掲げ、のちに柄尻を地面に打ちつけて
静止した。非常に統率が取れている。公爵家擁する精鋭騎士団の、
ジークラインに対する忠誠心の高さのほどが察せられた。
511
あたりが水を打ったように静まり返る。
その空間の中央に立たされ、ディーネは早くも部屋に帰りたくな
ってきた。
異常に統率が取れた騎士たちのパフォーマンスが見ていて気持ち
いいのは確かだが、その針を落とす音さえ聞こえてきそうな静けさ
の渦中にいざ自分が晒されると、とても心中穏やかにはいられない
のである。
彼ら青鷲騎士団も、公爵家の一の姫・ディーネが皇太子殿下の婚
約者だという事実を誇りにしている。本日のお迎えに参加できた栄
誉をしかと心に刻みつけ、後日他の団員にも自慢しまくるのであろ
う。つまりディーネは、彼らの熱い期待を背負って皇太子殿下にご
あいさつを申し上げるのである。
この場にパパ公爵がいてくれればまだディーネの負担も軽くなっ
たのだろうが、あいにく公爵夫妻は国境警備の問題で出張中だった。
﹁わたくしどものお出迎えに何か至らない点はございませんでした
か、殿下﹂
遠慮がちにディーネが聞くと、彼も周囲が聞き耳を立てているこ
とは分かっているのか、肩をすくめてこう言った。
﹁いいや。何もない。ディーネ。バームベルク公爵家は、騎士の質
に関しちゃ、帝国軍を羨む点は何もないな﹂
要するに帝国軍に引けを取らないと言っているのである。
彼の擁する世界最強の軍隊と同列に扱ってもらえるというのは兵
士にとって最高の栄誉であるので、居並ぶ騎士たちの喜びは最高潮
512
に達した。ここらへんのパフォーマンスというか、人心掌握の技術
もさすがに堂にいったものである。つくづく統治者向きの男だとデ
ィーネは感心した。
513
殿下のご来訪 ︵2/3︶
公爵令嬢のディーネは、自宅を訪問してきた婚約者を連れて外の
庭に出た。
侍女たちを残して、ふたりで屋敷の外に繰り出す。季節の花々が
きれいに植わった花壇を抜けて、森へ行き、背の低い植木のあぜ道
をジークラインと進む。
前世の記憶を取り戻して以来、彼の自信過剰で厨二マインドあふ
れる発言に辟易しているディーネとしては、あまり気乗りしないイ
ベントであった。
﹁ところで、本日は何のご用でしたか?﹂
早く帰ってほしいなと思いつつ、用件をズバリと尋ねてみると、
ジークラインは変な顔をした。
﹁何ってこたねえけどよ⋮⋮ディーネ、お前、最近変なもん売り出
さなかったか?﹂
﹁変なもの⋮⋮﹂
ディーネがここ三か月ほどでやった事業は、四月と同じ。現状維
持で変わりはない。
特筆するようなことは何もなかったが、順調に売り上げを伸ばし
ている。
まだきちんと仕訳をしていないが、七月から八月にかけて、大金
貨一千枚超を売り上げているはずだった。
514
ジークラインが歯切れの悪い説明を付け加える。
﹁なんか⋮⋮ほら、俺の人形⋮⋮とかよ﹂
﹁あ⋮⋮﹂
︱︱そういえば作ったなぁ。
ジークラインの兵隊人形は絶賛発売中である。セクハラや厨二病
の概念がない世界なので、肖像権についてもとくに規定はないだろ
うと思って無断で彼のネーム入り商品を作ってしまったが、よくよ
く考えたら勝手にというのはマズい。本人にも相談をして、許可を
取っておくのが人としてあるべき対応だったのではないか。
﹁申し訳ありませんでした、わたくしったら勝手なことを⋮⋮﹂
﹁いや、構わねえけどよ⋮⋮﹂
ジークラインは珍しく、困った様子だった。
どうやら言葉とは裏腹に、結構﹃構う﹄感じのようだ。しかし人
形ごときでぐだぐだ言うのも男らしくないという葛藤もあるのか、
はっきりと言い出せないらしい。
ディーネは意外に思った。どんな恥ずかしいパフォーマンスに参
加させられても眉ひとつ動かさないどころか、とても格好いい決め
台詞まで恥ずかしげもなく繰り出すジークラインが照れているなん
て、かなり珍しいことである。
﹁⋮⋮意外とこの、自分のネーム入りの人形っていうのが、精神に
くるんですわよね⋮⋮﹂
515
ディーネがぼそりと言うと、ジークラインは気まずげに目をそら
した。
﹁⋮⋮おう﹂
小さく同意したところを見ると、やっぱり、相当恥ずかしかった
らしい。
︱︱あれ、結構かわいいかも?
﹁わたくしも、自分のネーム入りの人形はさすがにいかがなものか
と思ったのですわ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮別に、お前んときはなんとも思わなかったけどよ⋮⋮﹂
﹁人のときは気にならないんですのよ。でも、これがあなたですよ
! って言われると、すごく、こう、なんというか、やめてほしい
なって⋮⋮﹂
﹁⋮⋮まあな⋮⋮﹂
ジークラインがへこんでいる。
あのジークラインが。
さまざまな武功を立てたかどで﹃戦神﹄の通り名が定着し、吟遊
詩人たちから舌噛んで死にたくなるような恥ずかしいポエムと尊称
を山ほど贈られても決して動じなかったあのジークラインが。
ディーネでもちょっとないなと思うぐらいの、いつか現代日本で
見た巨大テーマパークを彷彿とさせる、踊り子、儀仗兵、チャリオ
ットからなるピカピカのパレード行進のメインディッシュとして三
日間市中引き回しの刑を受け、軽く戦車数十台分にも及ぶ花束を市
民から投げ込まれても決して疲れや躊躇を見せなかったあのジーク
516
ラインが。
︱︱皇太子の仕事は基本的に恥ずかしいものばかりだ。
なのでディーネはよくやってられるなあといつも感心していたの
だが、そんなジークラインにも一応、羞恥心はあったらしい。口に
は出さないだけで、この男でもそれなりに恥ずかしいと感じること
もあるのだなと思うと、ディーネは急に親しみを覚えた。
﹁でもこれ、すごく人気なんですのよ。うちの弟もたいそう喜んで
おりましたわ﹂
﹁そうかよ⋮⋮﹂
ジークラインの戸惑ったような返事に、ディーネはぼそりと言い
添える。
﹁⋮⋮俺の人形なんか持って何が面白いんだよって、ちょっと思っ
てらっしゃるでしょう?﹂
﹁いや⋮⋮いいんじゃねえか? 帝国貴族の男子として生まれたか
らには、帝国史最高峰に位置するこの俺の偉業を修練の旨とするの
はごく当然のことだ﹂
﹁⋮⋮でも、人形なんですのよ。ジーク様の姿かたちが受けている
のですわ﹂
﹁俺が美しいのは自然の摂理だろう? 俺をひと目見たことがある
人間なら誰もが知るところだ﹂
ジークラインの厨二病発言に若干の無理を感じて、ディーネはち
ょっと楽しくなった。彼がかわいく感じられてならない。
﹁この、髪の毛さらさら、お肌つるつる、おめめぱっちりの、ちょ
517
っと女の子みたいな造形のジーク様人形には熱いファンがついてい
るのですわ﹂
﹁⋮⋮﹂
ジークラインは額を手で押さえて、黙り込んでしまった。
しばらくそのポーズで渋く悩んでからようやく、とても切り出し
にくそうにぼそぼそと言う。
﹁⋮⋮なあ⋮⋮あの人形、どこらへんが俺に似てるんだ? なんか
⋮⋮俺はこうじゃねえだろ⋮⋮? 作るにしてももっと⋮⋮なぁ⋮
⋮?﹂
なるほど、そこが問題だったのかとディーネは思った。
常日頃男らしさの代名詞のように言われているジークラインだか
らこそ、かわいらしく女性味を加えてデフォルメされてしまったこ
とが、ショックだったらしい。
﹁あら、お人形はデフォルメが肝要なのですわ。格好よく作るには、
ときとして本人に似せない努力も大事なのでございます﹂
﹁⋮⋮似てない、よな?﹂
﹁ええ、全然似ておりません﹂
﹁⋮⋮そうか、そうだよな⋮⋮﹂
どうやら﹃似てない﹄と言われたことで自信を取り戻したらしい
ジークラインが、大きなため息をついた。
﹁いやまあ⋮⋮なんだ? お前には俺がああいう風に見えてるのか
と思ってよ⋮⋮﹂
﹁あら、そんなことはありませんわ﹂
518
そんな小さなことを気にしてわざわざディーネのところに押しか
けてくるとは、なかなかかわいいところがあるのではないかとディ
ーネは思った。こらえきれずに小さく笑うと、ジークラインから非
難がましい視線を浴びてしまって、ますますおかしくなった。
﹁本物のジーク様のほうがずっと素敵ですわ⋮⋮﹂
思わず本音が滑り出た。
しまった、と思ったときにはもう遅い。
︱︱ちょっと、何言っちゃってんの!?
まるで告白でもしているかのようだ。
519
殿下のご来訪 ︵3/3︶
﹁お、おう⋮⋮当たり前だろうが﹂
ジークラインにしては歯切れの悪い返事。普段より言葉少なで不
器用な返しに、彼の照れと動揺が生々しく伝わってきて、なぜかデ
ィーネもつられて恥ずかしくなった。
沈黙のはざまに鳥のさえずりとさわやかな葉ずれの音がふたりの
間を埋める。
なにか別の話題でも振ってさっさと流してしまおうと思うのに、
馬鹿みたいに立ち尽くすばかりで、何も思いつかない。照れたよう
に目を伏せているジークラインに目を奪われて、身動きが取れなく
なってしまう。
木立にさあっと風が吹き抜け、むせ返るような夏の緑の香りがし
た。金色の日射が強く照りつけ、ジークラインの男ぶりのよい、彫
りの深い顔立ちにくっきりと濃い陰影を宿す。
﹁ディーネ﹂
低く名前を呼ばれてドキリとした。
背の高い彼をふり仰いだ瞬間、ふと身を低くかがめた彼に軽く唇
を重ねられ、呼吸が止まりそうになる。やわらかい感触が押しつけ
られてすぐに離れた。
520
キスをされても、ディーネは放心するばかりで、何の行動も起こ
せないでいた。思考が麻痺してしまったかのように、何の感慨も湧
いてこない。ただ少しだけ、頭が熱っぽくて、くらくらする。
﹁あー⋮⋮ここだと人目についてなんだ。もう少し奥に行くか。な
?﹂
森を切り拓いて作った並木道の横手、下草が生えそろった暗い木
陰を手で示されて、ディーネはぽかんとした。スカートでそんなと
ころに分け入ったら足がちくちくしそうだし、せっかくの絹の靴が
汚れてしまうから行きたくない。ディーネは小さく首を振って﹁い
や﹂とつぶやく。ふたりでゆっくりするのなら、別の場所がいいと
思う。
ジークラインはしつこく薦めたりはしなかった。すっかりおとな
しくなってしまったディーネを持て余すかのように二、三度咳払い
して、気まずげにつぶやく。
﹁⋮⋮悪かった。そんなに怒んなって﹂
どうやらジークラインには、いつもはうるさく騒ぐディーネが不
自然なほど固く押し黙っている姿が怒っているように見えたらしい。
﹁いえ、その⋮⋮﹂
怒っているわけではない。しかしディーネには、自分でも自分の
精神状態がうまく把握できていなかった。急にどうしてあんなこと
を、という思いももちろんあったが、それほど嫌だと感じなかった
自分自身にも驚いていた。
521
いたたまれない沈黙を破って、ジークラインがぎこちなく話題を
変える。
しかしディーネは彼の、緊張したような声の調子や、こちらの様
子をうかがうような視線や、暑さのせいか赤く染まってしまった頬
のあたりに注意を取られて、話の内容が頭に入ってこない。
ぼんやりしているディーネの頬を、ジークラインがいきなりつね
りあげた。
びっくりして、ようやく頭が覚醒しだす。
﹁ちょっと、なにすんのっ⋮⋮!﹂
﹁さっきから何ぼーっとしてやがんのかと思ってよ。天啓にも等し
いこの俺の貴重な話を聞き流すとはいい度胸じゃねえか﹂
﹁はあっ? つまらない話するのが悪いんでしょ!﹂
ディーネは気を悪くして、ぷいっと横を向いた。さっきまでやた
らとこの男が格好よく見えていたような気がしたが、きっと幻覚だ
ったのだと腹立ちまぎれに結論づける。
︱︱ジークラインのくだらない話に付き合っているうちにあっと
いう間にあたりは暗くなり、ディーネたちは慌てて屋敷に取って返
した。
***
﹁⋮⋮あっれぇー?﹂
本格的に違和感がやってきたのは深夜、もう寝ようかと思って布
団に入った頃合いだった。
522
なんのかの言ってもキスである。そんなに簡単にできることでは
ない。たとえワルキューレではあいさつのようなものだからと言っ
て、そうしょっちゅうすることでもなかった。
︱︱婚約者だから、まあ、そういうこともある、かな⋮⋮?
一番解せないのは、そうやって片付けてしまおうとしている自分
自身だった。
現世の記憶を取り戻した直後にはあんなに嫌だと思っていたし、
今でもたびたび繰り出される彼の厨二病発言には心底うんざりだと
思っているが、あのときはまるで別人に取って変わられたかのよう
に嫌悪感などが鳴りをひそめてしまって、ごく自然な成り行きでキ
スを受け入れていた。
かといって完全に婚約・結婚を受け入れられる気持ちになったか
というとそうでもなく、できるなら皇太子妃の地位は辞退したいと
いう怠惰な心は残っていた。
それに、結婚相手は自分で決めたいという気持ちもまだまだ強く
ある。
︱︱なんだか変だなあ⋮⋮
変といえばジークラインの様子もいつもと違っていた。彼はディ
ーネを未婚の淑女として丁重に扱っていたので、これまでにも軽率
な行動に出ることはあんまりなかった。
︱︱全然なかったわけじゃないんだけど⋮⋮
ジークラインの凶悪そうな、殺して奪う戦争行為がよく似合うあ
523
の外見と、幼少期に何をこじらせたのかと思うほどひどいあの厨二
病発言に反して、実際の彼は非常に常識的で礼儀作法をわきまえた
男なのであった。親御さん受けもばっちり。そりゃあパパ公爵も絶
賛するわけである。
それなのに急にどうしてあんなことをしてきたのだろうか。
﹁わーっからーん⋮⋮﹂
彼は相手の精神状態も魔力の流れでおおよそ読めるらしい。
ということは、つまり。
︱︱今なら押してもよさそうだと思われるような、そんなオーラ
を出していたのでは?
ディーネはだんだん恥ずかしくなってきた。もしそうなのだとし
たら、次からどんな顔をして会えばいいのだろう。
しかし、押してもよさそうだという意味では、記憶が戻る前のほ
うが圧倒的にそのチャンスは多かったはず。クラッセン嬢はもとも
とジークラインが大好きだったので、彼が望むようにしてくれれば
いいと思っている部分はディーネの心にも残っている。
︱︱好かれすぎてて逆に手が出しにくかったとか?
なにしろ彼女は穢れなきお嬢様。純真無垢で可憐な幼馴染が相手
ではそうそう軽率な行動など取りにくかろう。手ひどく扱いなどし
ようものならすぐに壊れてしまいそうな儚さがクラッセン嬢にはあ
った。
524
それに比べてディーネは前世の庶民感覚が混ざってしまっている
ので、前よりも大ざっぱに扱いやすいという部分はあるのかもしれ
ない。
﹁それはマズいよねえ⋮⋮﹂
ディーネの気持ちはどうあれ、節度を持って接してもらえないの
では立場的に困る。
しかし、心情的にはあまり困ったとも思っていない自分がいた。
﹁やめた。考えたって分かんないよね﹂
思考停止してみたものの、やっぱりモヤモヤした気持ちが晴れな
くて、その日はなかなか寝付けなかった。
525
借金一千万改め、二百七十万令嬢
時はあっという間に進み、九月になった。
夏の収穫物を刈り取る人や、冬穀用の畑にライ麦の種を撒こうと、
土を掘り起こしている農民の姿を見かける。
公爵令嬢のディーネは借金の返済を目指して、未整理の不良債権
を整理していたのだが、数十名のチームを作って取り組んだ結果、
なんとひと月足らずでそれがすべて終わったのである。
ハリムがすべての書類をチェックし終わった。
そこには今回の調査結果がすべてまとまっている。
かたずをのんで見守るディーネに向き直って、ハリムは重々しく
告げる。
﹁⋮⋮総額、七百万超の追徴が決定しました。おそらく、遅くとも
年末までにはすべて支払われる見込みです。これにより、公爵領の
借金は残り二百七十三万と七千になりました﹂
﹁きゃああああ!﹂
これが悲鳴をあげずにいられようか。
﹁ちょっとちょっと、すごくない?﹂
﹁さらに、公爵領の毎年の地代収入が、今後は年三万から、年三十
六万にUPする予定です﹂
﹁十倍以上ですがな!﹂
526
一千万の借金が二百七十万まで目減りをするとは大事件である。
それだけでもすごいが、地代収入まで増えてしまうとは。
﹁ということはなに? お父様は、今まで、年三十六万ほどの地代
収入があるべきところを、書類を適当にうっちゃってたせいで、三
万しか取れてなかったってことなの?﹂
︱︱どんだけザルだったんですか。お父様。
よくこれで公爵領が保っていたものである。豊富な魔法石の産出
量ボーナスと、ジャガイモを初期からゲットしているという食料ボ
ーナスのふたつがあって初めて可能になった軍拡主義プレイだろう
が、内政無視の侵略極振りでここまでやれるのも、ある意味ひとつ
の天才の血脈なのかもしれないと思うディーネだった。
﹃領地の経営に正解はない。あなたは次々と国土を拡張していって
もいいし、内政を極めてもいい。﹄
そんな二人称文体のモノローグを思い浮かべつつ、ディーネは気
になっていることをハリムに聞いてみることにした。
﹁でも、いきなり税金が十倍になって、農民たちに問題が出ないか
な? 飢え死にする人たちが出ないといいんだけど⋮⋮﹂
﹁そうですね、一度代官たちを呼んで、影響がないかどうか聞いて
みましょうか﹂
﹁それがいいわね﹂
︱︱即日招集された代官たちは、こう分析した。
﹁おそらく大丈夫でしょう﹂
527
代官が書類をめくりながら言う。
﹁わが領の地代収入の増加分の実に五割は、死亡税によるものです﹂
﹁死亡税⋮⋮?﹂
領地代官が語ったところによると、彼が任じられている土地では
原則、平民は農奴の扱いを受けていて、土地や家畜の所有が禁じら
れているため、死亡したときには全財産が領主のものとして没収さ
れるらしい。これを死亡税というのだそうだ。
ところが長いザル経営によってこの制度はほとんど実行されなく
なり、平民の所有していた土地は妻や子に受け継がれることになっ
た。
それをいいことに、今度は教会がその所有財産の寄進を平民たち
に広く呼びかけ、死亡税を取り始めたからさあ大変。メイシュア教
の教会そのものに、広範な土地が集まりつつあるらしい。
教会が土地を所有するというと奇妙に聞こえるかもしれないが、
教会組織は聖職者個人の財産所有を認めていない。なので聖職者の
財産は教会にあるものを一時的に借用しているだけ︱︱という体裁
を取っているのである。いってみれば法人格のようなものだ。
教会によると﹃過ぎたる富の保有﹄は地獄への片道切符なので、
死後に天国へ行きたければ土地や財産は教会に寄付すべきだ、とい
うことで、もとはバームベルク公爵のものであった土地が、じわじ
わと領主から平民へ、そして平民から教会へと所有権が移っている
とのことだった。
﹁死亡者の土地が教会へと没収されているケースが多々見受けられ
528
るのですが、もとの法的根拠をただせば、これはわれらが公爵さま
の土地でございますからな。土地を返還するか、さもなければ地代
を払うべしと選択を迫ったことにより、大幅な土地の税収アップと
なったのでございます﹂
﹁なるほど⋮⋮じゃあ、税収が増えたのは、おもにメイシュア教か
ら土地が返却されたおかげ、ということなのね?﹂
﹁御明察でございます﹂
﹁わが領も、三割ほどが死亡税からなっております﹂
﹁私どもも同じですな﹂
代官たちの話を総合すると、今回の書類整理で納税の負担が増え
たのは、おもに教会関連の施設だ、ということだった。それも、も
とをただせば公爵領のものだったわけなので、負担が増えたと表現
するのも不適切だ。単に﹃借りを返しただけ﹄というべきだろう。
﹁農奴の納税額が増えて困っていたり、反乱が起きそうだったりす
るところはない?﹂
﹁問題はありません﹂
代官たちに、死亡税以外の税収増要因を細かく説明してもらい、
ディーネはようやく彼らの結論が腑に落ちた。
﹁⋮⋮どうやら大丈夫そうね﹂
﹁そのようですね﹂
ハリムも同意してくれたので、ディーネは問題なさそうだと判断
することにした。
﹁なんにせよ、税収が増えるのは喜ばしいことね﹂
﹁まったくでございます﹂
529
﹁お嬢様の経営手腕には恐れ入るばかりでございますなあ⋮⋮﹂
﹁そうですなあ﹂
﹁まさか、今年から地代収入が十倍になるとは⋮⋮﹂
﹁これで、ずっと保留していた治水工事の資金にめどがつきそうで
す﹂
﹁それもこれもすべてお嬢様のおかげ⋮⋮﹂
ディーネは口々に褒めそやされて、困惑する。今回の税収増にし
ろ、ディーネは大したことをしたつもりがなかった。単にバームベ
ルクの歴代公爵が内政不得手でいろんな案件が焦げ付いてただけで
あって、それを少し片付けたのみのディーネがここまで持ち上げら
れてしまうと、なんと返答したらいいのかも分からなくなってしま
う。
﹁一年といわず、ずっとお嬢様に経営をみていただけたら、バーム
ベルクもあと三百年は安泰でしょうになあ⋮⋮﹂
﹁もう、大げさね⋮⋮﹂
ディーネは笑いながら話を切り替える。
﹁さて、税収の不安も片付いたことだし、次は残り二百七十万ちょ
っとの借金を返済する方針なのだけれど︱︱﹂
︱︱その後の話し合いはあまり実を結ばず、領地代官たちによる
会議は終了となった。
***
会議を終えて、帰路に着く間、ゼフィア地方の領地代官・ギーズ
はうっかり転んでしまい、手のひらと膝小僧に傷を作ってしまった。
530
痛みをこらえつつ情けなさにため息をつく。ずっとあることが気懸
かりで注意力散漫になっていたのだ。
ゼフィアはバームベルク領内でもっとも巨大な大聖堂を擁する、
宗教都市である。そのトップに君臨する大司教主はメイシュア教会
の総本部から送られてくる人材が就くことになっており、今期に赴
任してきた男はまだ若いながらも潔癖かつ高邁な人格で知られてい
た。
ギーズの気懸かりは、この大司教主のことだった。
バームベルク領内の教会は、領主とはまた違う独自の組織力を持
っている。農民の多くは領主に地代を払い、教会に対して十分の一
税を払うのがしきたりだ。つまり農民たちは税を二か所に納めてい
るわけで、教会もほぼ領主と同等の権力を農民たちに対して持って
いると言っていい。
領内最大のゼフィア大聖堂の大司教主ともなると、ときには領地
代官の発する領令をはねのけて、農民たちを保護してしまえるほど
の力を持っているのだ。
そんな大司教主に、﹃死後のミサ代に﹄と寄贈された土地を領主
のところへ返還するよう働きかけるのはなかなか大変だった。最終
的には帝国の徴税官長というその道の大御所がやってきて話をつけ
てくれたので大司教主も一応は納得したが、その顔には強い不満が
現れていたのを、ギーズは見逃さなかった。
﹁大丈夫じゃろう、たぶん⋮⋮﹂
今回の税収取り立ての法的根拠ははっきりしているし、大聖堂が
531
ある関係上、巡礼にやってくる人たちからの観光収入でゼフィア領
内はかなり潤っている。ウィンディーネお嬢様の御厚意により、取
り立てをする相手の選定にはかなり気を遣わせてもらえた。ここか
らなら取っても問題ないだろうというところばかりだ。
それでもギーズの脳内に焼き付いた、生意気そうな大司教主の若
造の姿はなかなか消えてくれなかった。
532
借金一千万改め、二百七十万令嬢︵後書き︶
農奴制
中世期の西南ドイツ・トリーベルク地方などでは、平民はすべて領
主の土地を耕すための道具と見なされ、結婚や移転の自由はなく、
農作業で得た成果物の所有にも制限がかかっていた。この厳しい自
由の制限がドイツ農民戦争の一因となった。
死亡税
農奴の死後の財産は領主の権利に帰する。これを死亡税、死者の手、
マンモルトと言う。
死後のミサ代
中世期の教会において、死後にミサをあげるという約束で得る土地
や財産の寄進は重要な税収源であった。
533
工場を作りましょう
公爵令嬢ディーネは領内の水車小屋に来ていた。
水車は小麦を石臼にかけて粉に挽くためには欠かせない動力資源
なので、たいていは領主が村にひとつは設置するものなのだが、領
内では小麦の生産高があまり多くないこともあり、使われていない
水車がいくつも放置されているのが現状だった。
その放置水車を使って、毛糸を紡ぐ装置を作ってしまった民間人
がいた。その潜在能力に着目したディーネは、開発者であるコーミ
ングと、ある目的のためにいくつも打ち合わせを重ねていたのであ
る。
ディーネは駆動する無数の糸巻き機を見上げた。
車輪が回る光景をバックに、真っ白い糸が木製の棒に巻きついて
いき、あっという間に球にまでふくれあがる。それが何十本も同時
にとなると壮観だった。
﹁これ、生産力はどのくらいなの?﹂
﹁へえ⋮⋮一日で三十着分の毛糸を生産できます﹂
﹁三十着!? すごいわね!﹂
服一着分の毛糸を手で紡ぐとなると、ひと月からひと月半くらい
はかかる。それが一日で三十着分となると、とんでもない生産量だ。
﹁へえ⋮⋮うちでは毎年、百袋分ぐらいの羊毛を処理するんですが
⋮⋮あ、一袋でだいたい服が五着から十着ほどできるんですが⋮⋮
534
毎日三、四袋ぐらい処理できるんで、村ではもう誰も糸巻きをしな
くてよくなったんでさあ。代わりに違う仕事ができるようになって、
大助かりなんですわ﹂
今言われた数字を整理しながら、ディーネはすばやくそろばんを
弾いた。
生産コストとしては、手作業の千分の一で済む計算になる。
︱︱千分の一!
とんでもない利益の源泉だ。
羊毛一袋の処理にかかる手間賃が大金貨で二、三枚ほどだとする
と、原毛を買い付けてこの工場にかければ、その費用がまるまる浮
くことになる。
﹁⋮⋮なんてことなの⋮⋮﹂
手間賃を差し引いたとしても、水車小屋ひとつで年間大金貨二、
三千枚近い利益を生み出す計算になるではないか。
ぼうもう
バームベルク領内に、持て余している水車はまだまだたくさんあ
る。紡毛用の水車小屋を数十個も作れば、世界中の羊の毛を刈り尽
くしても足りないぐらいの糸ができあがる計算だった。
多少割高な原毛をつかまされ、かつ安値で売りさばいたとしても、
莫大な利益が出ることは間違いない。
﹁産業革命⋮⋮!﹂
領地経営における究極の終着点が、すでに見えようとしていた。
535
﹁さんぎょう⋮⋮なんですか?﹂
﹁なんでもないわ。とにかく、これと同じものを領内に作りたいの
よ﹂
ディーネが提示した報酬、すなわち領主じきじきの取引所新設の
許可証や報奨金、原毛を買い付けるための軍資金を貸し出す約束。
それらに納得をしてもらったところで、ディーネは自宅から研究員
を招いて、水車小屋の下見をさせることにした。
軍事用の土木工事を監督している研究員・キューブとコーミング
を引き合わせ、打ち合わせをさせる。
﹁私がほしいのは、この機械の詳細な設計図よ。再現可能なぐらい
ちゃんとしたのを書いてほしいの。で、うちの領内にも同じものを
作りたい。どのぐらいでできそう?﹂
キューブは陰気な目つきでにこりともせず答える。
﹁この程度のものなら、三か月もあれば﹂
﹁はや!﹂
﹁十か所は建設できます﹂
﹁多! え、マジで? ふかしじゃなくいけるの?﹂
キューブは何を言っているんだという顔でディーネを見た。
﹁お嬢様、私はもともと建築家ですよ。軍事要塞の建設が間に合わ
ないから敵に侵略を待ってくれと言えますか? それ用のスタッフ
も大勢控えていますので、問題ありません﹂
﹁おおー⋮⋮!﹂
536
さすがは軍事力極振りプレイのバームベルク公爵領。
生産力が変な方向に偏っている。
しょっき
﹁じゃ、じゃあ、この調子で織機のほうも機械化してほしいって言
ったら、どう⋮⋮?﹂
キューブはちょっとむっとした。
﹁⋮⋮設計図があれば、いかようにもしますが﹂
﹁設計図かぁ⋮⋮﹂
それが入手できたら苦労はしない。ディーネの記憶が間違ってい
なければ、機械式の織機が開発されたのは産業革命前夜であったは
ずだ。中世の技術レベルでは望むべくもない。
今回、たまたま民間で紡毛機械が発見されただけでも相当な幸運
なのだろう。
軍事要塞の設計者であり、熱心な数学者・神学者でもあるキュー
ブは、久しぶりに会うディーネに、恨みがましい視線を向けた。
﹁それよりもお嬢様。近頃まったく時間を取っていただけていませ
んが、新たな神の啓示は﹂
﹁まだありませんごめんなさい﹂
ディーネに言えるのは、神学は難しすぎる、ということだった。
一応、公爵令嬢の教養のひとつとして多少覚えさせられはしたもの
の、聞きかじり程度では彼の疑問にまったく歯が立たなかったので
ある。
537
﹁まだなのですか? あなたがもたらす神の啓示は、戦争の歴史を
も塗り替えてしまうかもしれないのですよ。本来ならあらゆるすべ
てを擲ってでも解明に励むべきです。なのに︱︱﹂
﹁ご、ごめんなさい⋮⋮﹂
﹁では先日の平面でない幾何学のお話は﹂
﹁ごめんなさいごめんなさい。素人が生半可な知識で口出しして本
当にごめんなさい﹂
泣きそうになりながらディーネは両手を掲げ謝罪し続ける。いわ
ゆるホールドアップの仕草だったが、そういったゼスチャーのない
世界に生きるキューブには奇妙な動作と映ったらしく、彼は噴き出
した。
キューブは陰気な印象の男だが、微笑んでいると多少は見栄えが
する。おっと思っていると、キューブは毒気を抜かれたような調子
で言った。
﹁⋮⋮おかしな方ですね、お嬢様は﹂
この男にだけは言われたくないと思いつつ、ディーネは土下座も
辞さない覚悟でもう一度﹁ごめんなさい﹂と詫びた。そのぐらい神
学と数学の禅問答がいやだったのである。
﹁お嬢様のご理解がお悪いことは承知しておりますが、心配はいり
ませんよ。私があきらめずに何度でもご説明いたしますから、ひと
つずつ根気よくやっていきましょう﹂
﹁ひっ、ひいいいい!﹂
しかしディーネの誠意はさっぱり伝わらず、はた迷惑な激励をか
けるキューブに、今度こそディーネは歯の根が合わなくなるほど震
えあがった。
538
お嬢様の手編みの手袋
公爵令嬢のディーネは自室で手袋を編んでいた。編み物や刺繍は
クラッセン嬢の特技で、彼女クラスの名人にもなると複雑な模様の
セーターも編み出せる。あらかじめパターンを決めておいたドット
絵を用意して、その通りに編み目を数えながら編んでいくのだが、
今回は驚くほど早く仕上がった。
﹁そろそろ完成しそうですわね!﹂
侍女のレージョが声をかけてくれる。
﹁ディーネ様はお仕事もお忙しいですのに、片手間でこーんなにき
れいな手袋を編んでしまえるなんてさすがですわ!﹂
すでに出来上がっている片手を拾いあげてみて、レージョは固ま
った。
﹁⋮⋮ディーネ様、なんですの、これ?﹂
﹁あ、これ、かわいいでしょ? リラクゼーションくまくんだよ﹂
ディーネが前世で好きだったゆるキャラのデザインだ。異世界に
は商標権が存在しないので安心して作れる。
まじまじと見てから、レージョはとても深刻な声でつぶやいた。
﹁⋮⋮ディーネ様、野生の熊はこんな形しておりませんわ⋮⋮この
イラスト、お鼻もついていないですし⋮⋮牙もありません﹂
﹁マスコットキャラに牙を求められても﹂
539
その会話を聞いていたシスが、やれやれ、という顔で肩をすくめ
る。
﹁お嬢様育ちのディーネ様はきっと野生の熊をご覧になったことが
ないのですわ﹂
﹁ああ⋮⋮そうなんですのね⋮⋮﹂
﹁ご覧くださいましディーネ様。野生の熊というのはこういうもの
なんですのよ﹂
シスがさらさらと紙に熊のイラストを描いていく。凶悪につりあ
がった目、獰猛な牙をむき出しにしたマズル、山羊の角とおぼしき
ものが生えた頭部、二足歩行の胴体、部族風のアクセサリをつけた
手足はするどいモリを持ち、腰みのを穿いていて、頭が三つついた
犬を足元に飼っている。
ディーネは紙をぺいっと投げ出した。
﹁邪神か!﹂
﹁邪神ではございませんわ! わたくしが修道院の台所番のお姉さ
まから教えていただいた熊とはこのようなものでしたのよ!﹂
﹁それ絶対盗み食いするとこういう恐ろしげな生き物が襲ってくる
からだめとかいうお説教でしょ!?﹂
シスはショックを受けた。
﹁なぜそのことを⋮⋮!?﹂
﹁あなた、うちの弟とそっくり。私、そのお姉さまの気持ち、すご
く分かる﹂
﹁わたくしはお姉さまに騙されていたんですの⋮⋮!?﹂
540
﹁いや、盗み食いするのが悪いんでしょ﹂
﹁熊はおいしいものをおなかいっぱい食べた人間をするどく嗅ぎ分
けて真っ先に狩りにくるのだそうですわ⋮⋮執着心が強いから一度
これと決めた人間は必ず貪り食らい尽くすと⋮⋮これもうそだった
んですのね⋮⋮!?﹂
﹁それは半分くらい本当かな﹂
﹁ひ⋮⋮!﹂
シスが震えあがった。珍しい。
修道院長の前でいかがわしい本を広げてジージョに一週間くらい
きついお説教を食らったときもへこたれなかったあのシスが。小さ
くて可愛らしい外見につられて寄ってきた殿方たちからことごとく
﹁なんか思ってたのと違う﹂と振られてもめげなかったあのシスが。
ナリキに向かってうっかり﹁お母さま﹂と呼びかけてしまって一か
月くらい口を利いてもらえなくてもきょとんとしていたあのシスが
怯えるなんて。
﹁野生の熊とはなんと恐ろしい生き物なんですの⋮⋮!?﹂
﹁私の手袋見ながら言わないで。それは都会化してるから。文明を
知っている熊だから﹂
﹁牙を抜かれたグリズリーということなんですの⋮⋮? 怖いです
わ! このばってんみたいなお口でひとを丸呑みするのですわね!﹂
﹁リラクゼーションくまくんはタコじゃないよ! 丸呑みしないよ
!﹂
レージョはわれ関せずといった顔で手袋を手にはめる。
にぎにぎしながら絵の具合を確かめて、言った。
﹁でも、本当に不思議なフォルムですわぁ⋮⋮線と点で熊を表現し
ているんですのね?﹂
541
﹁かわいいでしょ?﹂
﹁うーん、とっても個性的ですわぁ⋮⋮﹂
もしかすると、この漫画っぽいデフォルメが可愛いと感じるのは
転生者のディーネだけなのだろうか。そうだとするとちょっと寂し
い。
﹁ところでディーネ様、毛糸の具合はいかがですの?﹂
﹁なかなかよ。強度があって、均一なのがいいわね﹂
ディーネは八月に見つけた紡毛工場の製品テストもかねて編み物
をしていたのだった。今は理由を説明して納得してもらっているが、
真夏に編み物などを始めたときは侍女たちにぎょっとされた。
ガンベゾン
﹁そちらの鎧下はジークライン様にさしあげるんですの?﹂
﹁大きいですわぁ∼。気が遠くなるほど刺繍しないとなりませんの
ね∼﹂
﹁大変でございますわね、ディーネ様!﹂
ガンベゾンは全身鎧の下に着るクッション的な服で、綿を仕込ん
で作ることが多い。
しかしジークラインはそもそも﹃俺に鎧は必要ない﹄と豪語して
おり、ガンベゾンなどもいらないらしいのだが、戦勝祈願の下着類
は女性が作ってあげるという慣習にのっとり、ディーネは着られる
ことのない服を毎度作っているのであった。
鎧なしでどうやって戦うのかといえば、すべて結界防御、そして
治癒魔法である。ジークラインほどにもなると死にかけている人間
の蘇生ぐらいはやってのける。治療系の魔法は聖職者が得意とする
ところなのだが、そのレベルの治癒が使える人間はおそらくジーク
542
ラインをおいて他にいないであろう。本当に人外の男だった。
逆に何をすればあいつを殺せるのか⋮⋮? そのテーマについて
は帝国と敵対する各国が日夜研究を重ねているようだが、いまだに
誰も正解に至った者はいない。
現代日本の知識持ちのディーネとしては、密室に閉じ込めて一酸
化炭素でも流し込めばさすがに中毒死するんじゃないかと思ってい
るが、ジークラインほどにもなると酸素ぐらいは余裕で合成してき
そうなので侮れない。ちなみに酸素はまだこの世界で発見されてい
ない。存在しないダークマターをどう認知して合成するのかという
ことだが、あの男ならひょっとしてありえるかもしれないと思わさ
れてしまうのである。科学の限界とかを百回は突破した男、それが
ジークラインだった。
﹁先読みして作っておかないと、いつまた戦争始めるか分かったも
のじゃないからね﹂
﹁愛ですわね∼!﹂
﹁ち、違うし! 暇つぶしだし! ついでだし!﹂
暇つぶしで作った服が手渡される日がいつになるのかは定かでは
ない。
543
小さなトロフィー
﹁⋮⋮機織り機がありさえすれば、ガチで産業革命が起こせるんだ
けどなあ⋮⋮﹂
ディーネが未練がましく機織り職人のところに出入りして、ぱっ
たんぱったんと布が織られていく過程を見学している最中。
記憶の隅に、何かしら引っかかるものがあった。
﹁⋮⋮なーんか、世界史で、こういうの、やったような気がする⋮
⋮﹂
機織り機の仕組みは複雑だが、人が行う作業そのものは単純だ。
たて糸を張り巡らせた二面の機械を作り、足踏みペダルで片方を持
ち上げ、すき間によこ糸を通す。布の幅が広くなるとひとりではよ
こ糸を通しきれないので、子どもを補助に使ったりもする。時には
色糸に変え、何度も何度もよこ糸を通していくと、複雑な模様の織
物ができあがるのである。
機織り機に延々とよこ糸を通している職人や、手伝いの小さな子
どもたちを見ているうちに、ようやく思い出した。
ひ
﹁⋮⋮そうだ、飛び杼だ⋮⋮!﹂
手作業で通すのは大変だから、よこ糸を通すためのシャトルにキ
ャスターをつけて、シャッと走らせてしまうというのを考えた人が
いたはずだ。
544
飛び杼の開発により、機織りの生産効率が数倍にもなったという
のを、どこかでやった気がした。
﹁う、うなれ、私の記憶力⋮⋮!﹂
あれはかなり単純な仕組みだったから、思い出せば再現はできる
はずなのだ。
︱︱こうして工業化の準備は着々と整いつつあった。
それからほどなくして、バームベルク公爵領内の小さな村の中に、
世界初の毛織物工場が完成したのである。
公爵家の全面的なバックアップにより、毛織物で有名な村はまた
たく間に生産力をあげ、織物の産出量が四倍、そして毛糸の産出量
は千倍近くにもなった。
村に新設された毛織物の取引所には驚異的な安値の毛糸や毛織物
を求める外地の商人が殺到。
﹁こんなに細くて頑丈な糸、ちょっとお目にかかったことがありま
せんね﹂
毛糸の品質を品定めしていた商人たちが口々に言う。人間の手の
力では紡ぎだせない、細くて長い丈夫な糸は、工場製品だからこそ
可能になったものだ。
﹁これだけ張力をかけてもまだ切れないなんて⋮⋮﹂
﹁こんなに高品質の糸ならもっと出しますんで、うちに売ってくだ
さい﹂
545
﹁いや、うちにもお願いします﹂
かくして毛糸はまたたく間に売り切れる事態となった。
﹁公姫様、本当にありがとうございます⋮⋮!﹂
大量の金貨や銀貨で埋めつくされた取引所の職人たちが、口々に
ディーネにお礼を言いにやってくる。
﹁公姫様のおかげでございます⋮⋮!﹂
﹁公姫様が取引所を作ってくださったおかげで、例年の二倍以上の
金額で織物をさばくことができました⋮⋮!﹂
﹁公姫様がお金を貸してくださったおかげで、原毛も大量に買い付
けられて、糸もこんなにたくさん⋮⋮!﹂
﹁﹃飛び杼﹄のおかげで、本当に機織りの時間が飛躍的に短くなっ
て⋮⋮!﹂
毛織物の取引価格があがったのは、布の生産効率が高くなったの
もあるが、細くて丈夫な糸が作れるようになったおかげで、より細
かな模様の織りだしができるようになったのが大きいそうだ。
さらに、今までは商品を村に通ってくる毛織物商人に卸していた
ため、販売価格は割安になっていたが、職人が自身の商品を直接売
ることができる﹃取引所﹄を開設したおかげで、高くで買ってもら
えるようになったらしかった。
自由競争のいい部分が理想的な形で発揮されたようである。
転送ゲートを設置しさえすればどこでも国際的な取引ができるの
は、この世界のいいところだった。
546
﹁どうやら工場化は大成功みたいね。まずはおめでとうかしら﹂
ディーネがほっとしながら村人たちに向かってあいさつをしてい
ると、紡毛工場の主、コーミングがやってきた。
﹁あら、今回の立役者さんのご登場よ。コーミングさんがあの仕組
みを開発してくれなかったら絶対に実現できなかったし、お礼を言
うのなら彼に言ってあげて﹂
﹁公姫様⋮⋮! いえ、とんでもない⋮⋮!﹂
コーミングはあわを食った。
そもう
﹁公姫様が援助をしてくださらなければ、こんなに大きな取引所は
作れませんでしたし、織機や梳毛の工夫も、軍部の皆さまのご協力
がなければとても生み出せなかったと思います。本当にありがとう
ございます﹂
他の村人たちも、口をそろえてお礼を言ってくる。
と、そのとき、小さな女の子がディーネに近寄ってきた。
周りで控えていた護衛の騎士たちがにわかに色めき立ち、女の子
の前に立ちふさがろうとすると、彼女はびくっとして何かを取り落
とした。
﹁ああ、いいのよ。きっと敵意はないわ﹂
騎士たちを下がらせて、ディーネは少女の落とし物を拾い上げた。
お花でできた小さな輪飾りだった。ディーネがもっているものを指
して、少女が言う。
547
﹁⋮⋮あげる﹂
﹁これ? 私にくれるの?﹂
﹁お母さんが、もう機織りのお手伝いをしなくてもいいって。お姉
さんのおかげだって言ってる。だから⋮⋮﹂
ぶつぶつとつぶやく少女の姿はほほえましかった。
彼女が言いたいのは、機械化が進んだおかげで、今までは子ども
にも手伝わせていた分の仕事をしなくてもよくなった、ということ
なのだろう。
コスモスとアヤメを編み込んだその花飾りを、ディーネは頭に乗
せてみる。
少女はぽかんとしてディーネを見た。
﹁⋮⋮どうかしら? 似合う?﹂
﹁お姉さん、すっごくきれい!﹂
そう言って、はしゃいだように笑う少女のほうがよほど可愛らし
かった。つられてディーネも笑顔になる。
それからも村人たちが入れ代わり立ち代わりでディーネにお礼を
言ってくれたが、少女からもらった花の輪飾りこそが、ディーネに
はなによりもうれしいトロフィーだった。
548
549
ハリムの休日
バームベルク公爵家の家令ハリムは、領地の執政全般を公爵から
任されている。
激務といえばそうだが、もと解放奴隷であるためか、待遇に不満
を持ったことはない。奴隷時代と違い、物の所有が許され、所持金
もずいぶんと増えた。
現在は本来の主君である公爵に代わり、ウィンディーネお嬢様が
執務の指揮を執っていることもあり、例年よりも仕事量が多くなっ
ていた。
しかし。
そのウィンディーネお嬢様が、なにやら満面の笑みでハリムに近
寄ってきたかと思えば、﹁話がある﹂と言うではないか。
またなにか新しいことを始めたいと言うのだろうと思ったハリム
は、何気なく聞き返して、固まることになった。
﹁今日までよく働いてくれたわね﹂
まるで解雇の前触れのような口調。
ぎょっとするハリムに、お嬢様は気づいていない様子だ。
﹁代官たちの教育も一通り終わったし、私も執務に慣れてきたから、
ハリムにはここらへんで休暇を取ってもらおうと思うの。ずっと忙
しかったでしょ? だから、そうね、一週間くらいの夏休みを⋮⋮﹂
550
﹁一週間⋮⋮だけ、ですか?﹂
思わず尋ね返すと、ウィンディーネお嬢様は面食らった。
﹁⋮⋮足りないかしら? でも、ハリムにそれ以上抜けられると、
ものすごく困るのよね⋮⋮あなたの代わりはそうそう見つからない
し⋮⋮私もひとりで見られる量には限界が⋮⋮﹂
どうやらお嬢様は解雇が目的で話を切り出したわけではないらし
い。ほっとすると同時に、自分がどれだけこの環境を楽しく感じて
いたのかも思い知った。
彼女から与えられる課題は刺激に満ちており、ときには無謀と思
えるようなこともあったが、彼女は巫女のような預言能力を持って
いて、どんなに突拍子もない計画であっても不思議と成功させてし
まう。このごろはハリムも難題をスルスルと解いていく快感に近い
ものを執務に対して感じるようになっていた。
﹁いえ、不満なのではありません。失礼しました。ただ、解雇かと
不安になったものですから﹂
﹁紛らわしかったかしら? 私としてはむしろよくやってくれたご
褒美って感じなんだけど⋮⋮休暇じゃなくてお金にする?﹂
﹁そのお気持ちだけでもありがたいと思います。しかし、まだ片付
けなければならないことも多いので、休んでいる暇がありません﹂
ハリムの座っている机の前には大小さまざまな帳簿が広げられ、
各地から届く書簡で手の置き場もないほど散らかっている。すべて
を整理するころには夜更けになっているだろう。これらの采配がで
きるのは、彼だけだ。他の誰にも任せられないと、ひそかに誇りを
感じていた。
551
﹁大丈夫! ハリムが休んでいる間は私が見るから! それよりハ
リムは少し休んだほうがいいって!﹂
力強く薦められてしまい、ハリムは考え直してしまう。彼女の申
し出は親切心から出たものなのかもしれないが、ハリムには喜べな
い理由があった。
﹁しかし、私は⋮⋮休暇をいただいても、することがありませんか
らね﹂
﹁じゃあ、旅行にでも行ってきたら? 今の時期ならどこも収穫を
しているから、田園風景が見物よ。もうすぐ収穫祭もあるわね﹂
秋に起きる世界各地のイベントを指折り数えあげるお嬢様に、ハ
リムはなんと返事をしたらよいものか考え込んでしまった。ハリム
にとっての収穫祭とは、年に二度の賃金を使用人に対して払う日で
あり、賦役や租税の支払いを受け取る日でもあった。その日に向け
て数限りない準備に追われるのが毎年の恒例だったのだ。
仕事はけして嫌いではない。忙殺されるのも苦痛だと感じたこと
はなかった。むしろ、これらの作業を取り上げられてしまうことに
強い不快感を覚えるほどには愛着を持っていたし、何よりも︱︱
﹁収穫祭の采配など。お嬢様にそのようなことはさせられません。
どうかお気遣いなく。私はこの仕事を楽しくさせていただいている
んですよ。お嬢様がいらしてからは、とくに、創意工夫をこらして
課題に取り組むのがいい刺激になっているんです﹂
﹁でも⋮⋮﹂
﹁旅行よりも、こうしているほうに魅力を感じるくらいですから、
本当にお気になさらず﹂
552
﹁むー⋮⋮﹂
お嬢様は愛らしい口をとがらせて、不満を訴える作戦に出た。い
くぶんか子どもっぽい気もしないでもないが、そういう顔をされて
しまうと、一日くらいは休暇を取ってあげたほうがいいのだろうか
という気がしてくる。
﹁⋮⋮本当に、私にはすることがないんですよ﹂
﹁ゴロゴロするとかは? それで、ゆっくり散歩して、また戻って
一日寝て暮らすの。私はそういうのも好きだけど、ハリムは⋮⋮﹂
﹁性に合いませんね﹂
﹁じゃあじゃあ、セバスチャンはカフェ巡りが好きって言ってたけ
ど、ハリムは⋮⋮?﹂
お嬢様の発言で、若い執事のことを、かすかな苦い気持ちととも
に思い出す。彼はお嬢様にどう取り入ったものか、ときどき休暇の
外出にお嬢様を付き合わせているらしい。最近はミナリール商会の
カフェが気に入っているらしく、ハリムが所用で店舗に出向いたと
きにも、ふたりの姿が見られた。
店員たちは変装中のふたりが店の関係者であるとは知らないらし
く、ひそひそとやくたいもないうわさをしていた。
︱︱あのふたり、また来てる。
︱︱夏ごろからよく来るようになったよね。
︱︱ふたりともかわいい。すごくお似合い。
なるほどお嬢様はこの国の貴族らしく、色素の薄い白い肌と金髪、
透き通った青い瞳をしている。セバスチャンも雪国の人間に特徴的
な銀髪で、背丈も並んで立つとちょうどいいぐらいだ。事情を知ら
553
ない人たちからすれば、つり合いの取れたカップルに見えることだ
ろう。
︱︱男の子のほうがさ、もう、目が言ってるよね。好きだー、か
わいいー、って。
︱︱見つめ合ったりして、すごくラブラブだよね。
害のないうわさに不快感を覚えた理由は、ハリムも知らない。
ただ、雇用主と親しくしすぎるセバスチャンのルール違反が不快
なのだろう、と思う。
﹁⋮⋮カフェも嫌い、かな﹂
いつの間にか眉根を寄せて険悪な表情になっていたハリムをそっ
とうかがい、お嬢様が肩を落とす。
﹁いえ。ただ、ああいったところは、ひとりで行くものでもないか
と﹂
﹁え、そんなことないと思うけどなあ。カフェでずーっと暇をつぶ
してる人、けっこう見かけるけど⋮⋮﹂
ハリムはおのれの浅黒い手に目をやった。お嬢様とは肌の色が違
う、生まれ育った環境が違う、身分が違う。こうして親しく話をし
ていただけるだけでも感謝しなければならないほどの決定的な差が
あった。いくらハリムが変装をしても、お嬢様とふたりで連れ添っ
て、お似合いだとうわさされることは絶対にないだろう。
ウィンディーネお嬢様は、皇太子殿下との婚約解消を狙っている
のだという。春から資金稼ぎに精を出しているのは、婚約解消後、
彼女が自力で好きな男性に嫁ぐための持参金が目的なのだそうだ。
554
今のところは誰が相手というわけでもないとお嬢様は言っていた
が、その相手が自分になる可能性も、おそらくはないのだろう。そ
のこと自体は簡単にあきらめがついても、いざお嬢様がハリムもよ
く知る人物と親しくしているとなると、落ち着いていられなくなっ
てしまう。
﹁あ。分かった。誰かと一緒のほうがいい? それなら⋮⋮﹂
ハリムは信じられない思いだった。まさか、お嬢様が付き合って
くれるとでもいうのだろうか。期待しかけた刹那、
﹁三人で行く?﹂
思いもよらないようなこと言われて、ハリムは今度こそ返答に困
った。
﹁セバスチャンも、人数多いほうがきっと楽しいと思うの﹂
お嬢様は本気でそう思っているらしかった。
﹁⋮⋮お嬢様は、セバスチャンのことを、どのように思われている
のですか?﹂
思わず、失礼なことを尋ねてしまう。
﹁どうって? お茶飲み友達?﹂
それから何か思い出したのか、﹁そうよ。私にだって友達ぐらい
いるわよ。あのメガネめ﹂とブツブツつぶやいた。何のことかはハ
555
リムには分からない。
﹁で、あわよくばあなたもお茶飲み友達にしようかなと思ってると
ころだけど﹂
平然と答えるお嬢様に、なぜかハリムは笑いがこみあげてきた。
どうもお嬢様はセバスチャンに何の感情も抱いていないらしい。
それもそうか、とハリムは考え直した。戦神と呼ばれたかの皇太
子殿下すらも振ってしまおうという方だ。一筋縄でいかないのも当
然のこと。
﹁⋮⋮なんで笑うの? なんかおかしい?﹂
﹁ああ、いえ。では、お言葉に甘えて、ご一緒しましょう﹂
﹁本当? やたっ﹂
思いがけず楽しい休暇の約束を取りつけられて、ハリムは爽快な
気分を味わっていた。
何よりも、セバスチャンとはなんの関係もないと分かったことが
収穫だった。
このいい気分のうちに仕事を片付けてしまおうと、ハリムは頭の
中でスケジュールを組み立てていった。
556
百話突破記念小話 ∼コロッケを作るお嬢様∼︵前書き︶
お陰様でずいぶん続けられました。
作って食べるだけの小話です。
557
百話突破記念小話 ∼コロッケを作るお嬢様∼
﹁やる気が出ないわ⋮⋮﹂
季節は夏。暑い盛りで太陽もギラギラしている。
食欲がわいてこないし、やる気もくじけがちだ。
﹁⋮⋮気晴らしに何か作ろうかしら⋮⋮﹂
キッチンに向かってみる。
昼食とディナーの境目の時間ということもあり、人がほとんどい
なかった。
すみっこのほうで野菜洗いの小僧が延々とジャガイモを洗っては
積み上げ、洗っては積み上げしている。
﹁ねえこれ、いくつかもらってもいいかしら?﹂
泥だらけの野菜を拾う。
その量の多さに、ディーネはちょっと引いた。
野菜の泥を落とす行程も、機械がないと重労働だ。
﹁⋮⋮大変そうね。あとどのくらい洗うの?﹂
小僧は突然調理場に現れたお嬢様に目を丸くしている。
﹁え、あ、はい、あ、あの、あるだけ全部⋮⋮﹂
﹁ふうん⋮⋮ちょっと貸して﹂
558
ディーネが魔法でタライの水流を操作し、ジャガイモを袋ごと一
気に投下。
洗濯機の要領でガラゴロと回す。
水流の魔法が珍しいのか、小僧は目を輝かせた。
﹁す、すごいです、お嬢様⋮⋮!﹂
﹁あなたは覚えないの?﹂
﹁勉強してるんですけど、俺、頭悪いもんで、なかなか⋮⋮﹂
将来的には火と水の魔法を覚えて、料理長のように立派なお職の
人間になりたいというような夢を語る彼の話に付き合っているうち
に、ジャガイモを洗い終えた。
﹁何を作るんですか?﹂
﹁うーん、大したものじゃないんだけど⋮⋮﹂
ディーネはキッチンから適当に材料をピックアップして、並べた。
﹁久しぶりにコロッケでも食べようかなって﹂
﹁コロッケ⋮⋮?﹂
小麦粉をつけて揚げる技法そのものはワルキューレにもある。
川魚なんかがよく﹃から揚げ﹄にされてテーブルにのぼる。
しかし、コロッケが貴族の食卓に供されることはほとんどない。
﹁お嬢様がジャガイモを召しあがるんですか?﹂
﹁けっこう好きよ、ジャガイモ﹂
559
小僧が不思議がるのも無理はない。ジャガイモは貴族の食べ物と
してふさわしくないと思われているのだ。
貴族は空を飛んでいる鳥や川魚を食べるべきだと思われているの
である。
豆や芋など、大地に近い穀物は庶民が食べるものなのだ。
主食としてもパンのほうが格上だと思われているところがあった。
これは宗教的な問題である。
パンはメイシュア教において、神の身体を表現するもの。
神聖な食べ物なのである。
それに比べてジャガイモは新参。
四天王の中でも最弱の食べ物なのだ。
なので、パン種を入れないパンや薄いクレープ、ウーブリなどは
製造する権利を教会が握っている。
﹁ルールルッルッルッルールルー﹂
有名なコロッケの歌などを口ずさみつつ、準備にかかる。
まずジャガイモはゆでる。
ここでのポイントは水からゆでること。
沸騰してからジャガイモを入れると、芯に火が通りきらないこと
がある。
その間にタマネギ、ひき肉をいためておく。
560
スパイスは塩コショウくらいでよいかなと思ったが、せっかくな
ので中世風に。
クローブと黒コショウ、ショウガをよく混ぜ合わせて投入。
ここにヴィネガーやパンを水で溶いたものを入れて煮込むと代表
的な黒コショウソースになる。
この、スパイスをいっぱい使用するところが中世風なのだ。
組み合わせにもいろいろあって、鶏料理には﹃熱くて湿っている﹄
香辛料を使うなど、独自のルールがある。
ゆでたらちゃっちゃとザルあげして皮むき。
熱いうちにやらないとやりにくい。
ジャガイモをつぶす作業は力がいるので面倒だなと思っていたら、
手のあいた小僧が手伝ってくれた。
さすがに慣れていて上手だ。
﹁スパイスはどうしますか﹂
﹁んー⋮⋮塩コショウとナツメグだけ入れといて﹂
ついでに古くなった白パンを砕いてもらってパン粉に。
﹁なんだかもったいないですね﹂
﹁そうねえ⋮⋮﹂
白いふんわりしたパンは基本的に貴族の食べ物だ。
庶民の食べるパンは日持ちするようにと、わざわざ二度三度と焼
くのである。
それを﹃固く焼き締める﹄と言う、らしい。
561
こちらを砕くとおかきのような食感になるので、今回は使わない。
ジャガイモは完全に冷めるまで放っておくのだが、今回は魔法で
粗熱をさっさと取った。
こうすると水分が抜けて、生地がまとまりやすくなるのだ。
﹁便利ですねえ、魔法って﹂
﹁覚えたら簡単よ﹂
﹁なかなかそれが難しいんすよ⋮⋮﹂
この世界では庶民も日常的に魔法を使っている。
貴族との違いは教育の機会がないことと、魔法石が使用できない
ことだ。
小さい頃から練習するのが一番なのだが、子どもの頃の魔力量で
は長い時間の練習はできないので、魔法石を使ったアシストがどう
しても必要になる。
一人前の魔法使いになるには、金貨にして数千枚もの魔法石が必
要だと言われている。
なので一般的な庶民は、仕事に必要な魔法を、大きくなってから
苦労して身に着けるのである。
無駄話をしている間に材料を混ぜ合わせ、タネをまるく成型。
﹁ルールルッルールールールルー﹂
小麦粉、卵、パン粉をまぶす作業が終わった。
あとは揚げればコロッケだよ。
562
きれいに衣をつけられた。
ちゃんとやらないと揚げてる途中で爆発しちゃうからね。
油はラードを選択。
ケチらずにいっぱい使う。
少ない量だと鍋底でつぶれて衣が破れたりするので、大釜いっぱ
いに用意した。
温度をはかって投入。
パン粉が揚がる香ばしい香りが漂ってきて、鼻がひくついた。
ときどきひっくり返して、衣がカラッとしてきたら引き揚げ。
﹁いいにおい﹂
﹁おいしそうですね﹂
揚げたてのコロッケをさっそくつまむ。
お料理の醍醐味はできたてゼロ秒のものをそのまま食べられるこ
とだと思う。
﹁あなたにも、はい﹂
﹁いいんですか?﹂
﹁大したものじゃなくて悪いけど﹂
どうせならもっとちゃんとしたものを作ればよかった。
揚げたてでカリッとしているコロッケ。
衣がしゃくしゃくする。
ポテトのつぶし加減も、ゴロゴロしすぎず、つぶしすぎず、絶妙
のほくほく感。
563
﹁あぁー⋮⋮できたてのポテトコロッケってなんでこんなにおいし
いのかしらね⋮⋮﹂
﹁作り立てはなんでもおいしいですよね﹂
﹁あなたの芋さばきもなかなかね。いい仕事をするわ﹂
﹁まあ、基本ですからね⋮⋮﹂
謙遜しつつ、小僧はまんざらでもなさそうだった。
ふかしたてのお芋のほっこりしたところと、油をほどよく吸った
衣が絡まると舌が気持ちいい。
いくらでも食べられてしまう。
ウスターソースをかけて食べたいなとちらりと思ったが、あいに
くワルキューレにはなかった。
***
揚げたてのコロッケを持って帰ると、一番にシスが反応した。
ディーネの周りをすんすんと嗅ぎまわる。
﹁ディーネ様から香ばしい香りがいたしますわ⋮⋮!﹂
﹁シスさん、おやめなさい、はしたない﹂
﹁この香り⋮⋮! 間違いありませんわ! 揚げ物ですわね⋮⋮?﹂
シスが追及すると、ジージョのお説教も長くは続かなかった。
﹁あら素敵! お茶にいたしますか、ディーネ様﹂
﹁うーん、でもコロッケって、紅茶って感じでもないよねえ⋮⋮﹂
﹁コロッケ! なんですの!?﹂
564
﹁あなた、ジャガイモはそんなに好きじゃない、って言ってたっけ﹂
﹁何をおっしゃいますのディーネ様! ジャガイモは修道女の友で
ございます!﹂
さっそく食べる気でいるシスにひとつお情けで差し出してあげる
と、彼女はためらいなくかぶりついた。
﹁は、はふい!﹂
﹁揚げたてですから﹂
熱い熱いと言いながら彼女は夢中で貪り食べた。
⋮⋮好き嫌いがないのはいいことである。
﹁おっ、おいしいですわぁ∼!﹂
﹁ディーネ様∼、ずるいですわぁ∼。わたくしにも恵んでください
まし﹂
羨ましそうにチラチラしているのはレージョだった。
ナリキもけっこううらやましそうな顔をしている。
﹁あなたもジャガイモなんて食べるのね﹂
ちょっとからかい気味にナリキに絡むと、彼女は恥ずかしそうに
メガネを直した。
﹁いじわるおっしゃらないでくださいまし⋮⋮お芋が嫌いな国民な
どおりませんわ﹂
﹁ね∼、ディーネ様∼、わたくしにも∼﹂
﹁はいはい。皆の分作ってきたから、慌てないで﹂
﹁皆さん、せめて座って召し上がったらいかが?﹂
565
ジージョにもひとつ渡してあげると、お説教も長くは続かなかっ
た。
﹁あら、本当においしそうでございますね! コロッケなんて、何
年ぶりかしら﹂
﹁たまにはいいでしょ﹂
結構な分量を作ったはずなのに、五人で分け合うとすぐになくな
ってしまう。
﹁ディーネ様は領地の経営なんてやめて、シェフを目指すべきです
わ!﹂
﹁そうですわそうですわ! 帳簿の管理なんて面白くないですもの
!﹂
﹁ディーネ様のお料理が毎日食べられたら幸せでしょうね∼!﹂
﹁毎日通ってしまいそうですね﹂
﹁あはは、どうも⋮⋮﹂
そういうのもいいかもしれないなあ、と思うディーネだった。
⋮⋮次はソースなんかも作ってみたい。
﹁しょっぱいものを食べたら、甘いものもほしくなってまいりまし
たわね!﹂
﹁今こそお茶の時間ですわね!﹂
﹁まだ食べるの、あなたたち⋮⋮﹂
﹁あら、ディーネ様は召し上がらないんですの?﹂
ディーネは少し考えてから、ぽつりと答えた。
566
﹁⋮⋮いただきます﹂
しょっぱいものを食べたら甘いものも食べたくなる。
それは避けられない人間の本能なのである。
567
百話突破記念小話 ∼コロッケを作るお嬢様∼︵後書き︶
パン種を入れないパン
ホスチア、聖餅とも。
ワインは神の血、パンは神の身体で、それを食べる宗教儀式を聖体
拝領と呼ぶ。
これを巡って何度か大きな宗教対立が起きている。
568
スコラ的数学論とお嬢様
公爵令嬢のディーネは借金の返済を目指している。たまの休みに
家令と執事を伴いカフェに出かけてみれば、日頃の疲れも癒される
というもので、ディーネは張りつめていたものが切れて、つい弱音
を吐きたくなった。
﹁⋮⋮神の愛って、なんなのかしら⋮⋮﹂
昨日もさんざん数学者の男に神学と数学の関係について叩き込ま
れたのだが、しかしディーネには悲しいかな、十回説明されても十
回ともさっぱり理解できなかったのである。
彼が主張するところによると、虚数や複素数が存在すると仮定し
た場合に成立する空間は、神学において﹃完全なる存在﹄がどこか
にいると仮定した場合に成立する唯一神の⋮⋮ディーネは頭痛に耐
えられなくなり、しおしおとテーブルの上に崩れた。
十回も説明されたので冒頭の部分は暗記してしまったが、内容は
本当に意味不明だった。
その様子を見ていたセバスチャンが、ほのぼのとした口調で言う。
﹁それは難しい問題でございますね﹂
﹁ほんとよね⋮⋮あんな難しいことばっかり四六時中考えてるから
キューブの眉間のしわが取れないんだと思うわ⋮⋮途中で何度指で
伸ばしてやろうかと思ったかしれないわよ⋮⋮﹂
﹁お嬢様も眉間にしわが寄っていますよ﹂
569
ハリムが苦笑するので、ディーネは自分の眉間をそっと人差し指
で伸ばした。
いつもならセバスチャンと言語崩壊したやり取りをしているうち
に時間が過ぎるのだが、この日はハリムがいるので自然と仕事の話
になった。
﹁それにしても、工場の人たちへの出資が成功したのはよかったよ
ね﹂
﹁お嬢様のなさることはどれもすばらしいですが、あれは出色でし
たね﹂
ハリムの同意を得て、ディーネは少しだけ気分がよくなった。
﹁ああいうのをもっとしたいなあ⋮⋮技術とアイデアはあるけど資
金が足りないって人に提供して、その分の売上の何割かをもらうっ
てことなんだけど﹂
資金はすぐに返ってこなくても問題ない。中期的、長期的にペイ
できればそれでいい。
﹁せっかく七百万も追徴で入ってくるめどが立ってて、現金もいく
らかあるのに、それを眠らせておくのはもったいないのよね⋮⋮﹂
寝かせておいても現金は増えないが、投資しておけば少しずつで
も利益が入る。
短期的に一気にどーんと持参金を稼ぎたいディーネにはあまりメ
リットがないが、公爵領の借金を返済していく上では大事な戦略だ
った。
570
﹁⋮⋮しかし、そうなると、教会の思想に反するのでは?﹂
﹁そうなのよねえ⋮⋮﹂
ワルキューレの国教であるメイシュア教。そのメイシュア教が、
利子を取り立てたり、何かに投資をして、帳簿の数字を動かすだけ
で利益を生む行為を禁止しているのである。
多少なら神学的な屁理屈をこねてメイシュア教の目をごまかすこ
ともできるが、世界に名だたる大公爵家が大々的に教義違反のこと
をして、しかもそれで大儲けをしようと企んでいるとなると、ちょ
っと厄介なのは事実だった。
﹁⋮⋮帳簿を動かすだけで﹃お金が子を産む﹄のがだめなのよね?
じゃあ、違う名目でお金をもらうってことにしたらいいんじゃな
いかしら。サービス料とか、リスクに対するペイだとか、そういう
のよ。よく街の高利貸しが契約書に書いてる感じのやつ⋮⋮そうね、
具体的に言うと⋮⋮﹂
ディーネはおぼろげな前世の知識を引っ張り出しながら言う。
﹁コンサルティングってやつ?﹂
会計学の、もうひとつの側面を利用するのだ。
***
ハンスは小間物の行商人だ。
驢馬を二頭飼っていて、小さな村と大きな街を行き来している。
571
大きな街から買いつけてきた釘や鋤といった日用品を村まで運び、
村の農作物を街に持っていって販売している。
︱︱今年は小麦が少し多く売れたかな。
日記帳を読み返しながら、そんなことを思う。ささやかながらに
増えた収入で、街で揚げ菓子を買うのが最近の楽しみだった。近頃
の揚げ菓子には珍しいものが多く、こないだ食べたドーナツはまる
で綿のようにふわふわとしていた。
︱︱あれはおいしかった。ぜひとも村の皆さんにも食べてもらい
たい。
その一心で、揚げドーナツ屋に聞いたところによると、最近でき
た新しいパン種がおいしさの秘密なのだという。
誰にでも買いつけられるという話を聞いて、ハンスがその魔法の
粉を買い取り、村の菓子職人のところに持ってゆくつもりで出発し
たときに悲劇が起きた。
粉が雨にやられてしまったのだ。
水に濡れた粉は使い物にならないらしく、残った粉で、揚げドー
ナツはうまくふくらまなかった。
投資のあてが外れて、ハンスのささやかな黒字収入は飛んでしま
った。生活に必要な資金は取ってあるが、これでは次回の買い食い
はお預けかなと、ごく小さな不幸を嘆いてみたりした。
そんなときに見つけたのが、公爵様からの布告だった。
572
﹁以下の条件に合致する者に、公爵様の恩寵において、報奨金を与
える﹂
ひとつはきちんとした商業組合に加入している人物であること。
ひとつは自分が行った商品の生産活動や売却の記録などを一年に
わたってすべて書き残していること。
ひとつはその記録に嘘がないと確認できること。
要するに、帳簿をつけている人間は、その記録を公爵様に提出す
ると、報奨金をもらえるということらしかった。
ハンスは自分の日記帳を思い返した。記録ならば一年どころか、
商売人を始めてから今までずっとつけている。
これを見せるだけで報奨金がもらえるとは、いったいどういうこ
となのだろう。
﹁⋮⋮罠、でしょうなあ﹂
布告の前に集まっているうちのひとりが、ぼそりと言った。隣に
いた商人らしき風体の男が応じる。
﹁⋮⋮いったいどういうことなんです?﹂
﹁つまり、お上は税金の取り立てがしたいんでしょう。帳簿の記録
を提出しちまったが最後、あれもこれもと詮索されて、税金逃れを
全部暴かれちまうって寸法でさぁ﹂
﹁なるほど⋮⋮﹂
﹁そういや最近も税が上がったばかりでしたね⋮⋮﹂
﹁報奨金で釣るなんて、なかなかどうして、よく考えてますな﹂
573
口々に言い合う商人たちから離れて、ハンスは自分のねぐらで、
日記帳をよくよく読み返してみた。
税を滞納したことはない。ただの一度も。逃れようと思ったこと
もない。そういうことをする商人は天国に行けなくなってしまう。
しかし、ハンスが気づいていないところで、税金の支払いを忘れ
ているとしたら、どうだろう。知らず知らずのうちに、天国への道
を閉ざしていることになる。
何度もよくよく読み返してみたが、ハンスには分からなかった。
自分には分からないというのであれば、公爵様に提出して、きち
んと見てもらうのもひとつの手なのではないか。
ハンスが報奨金の申請を決めた経緯は、ちょうどこんなところだ
った。
574
スコラ的数学論とお嬢様︵後書き︶
虚数
目に見えないが、あると仮定すると便利な数字。
神学において﹃完全なる存在﹄がどこかにいると仮定
神学者のトマス・アクィナスは、著書﹁神学大全﹂の中で、人間の
認知は有限なので完全性を持った神の存在を感じることはできない
が、理性で推測することはできる。﹁五つの道﹂と呼ばれる神の存
在論証から想定される﹁完璧なもの﹂を、﹁われわれが神と呼んで
いる﹂のだとした。
575
ハンスと荷車
ハンスが初めて拝謁の機会を賜った公爵家の姫君は、天使のよう
な人だった。村でも街でも、こんな人は見たことがない。とびきり
の美少女に思わずぼけっと見とれていると、彼女はにこりとほほえ
んだ。
﹁ハンスさん? このたびは報奨金への申請どうもありがとう﹂
﹁へえ⋮⋮﹂
﹁日記も拝見させてもらったわ。すごく丁寧に書かれているのね﹂
﹁それで、あっしは税金を払い忘れたりしませんでしたでしょうか
⋮⋮﹂
﹁⋮⋮税金?﹂
街で聞いた、﹃報奨金は釣りで、帳簿の提出をさせて税金を取る
作戦だ﹄という話を披露すると、公姫さまはおかしそうに笑った。
﹁あはは、そんなうわさになっていたの。道理でなかなか申請者が
来ないと思ったわ。なるほどね﹂
﹁⋮⋮違うんですかい?﹂
﹁ええ、報奨金を出すのは本当よ。税金も、まあ、あんまりひどい
場合は取り立てるけど、それが目的ではないの。というのもね、ハ
ンスさん。あなたの日記を拝見して、気になったことがあるんだけ
ど⋮⋮﹂
公姫さまは日記のとある行を指し示した。
576
﹁いつも村から小麦を十五袋買って、街に売って、また戻ってきて
⋮⋮ってしているわよね。収穫の時期にはこれを、何往復もなさっ
てる。次の収穫物が採れる頃になってもまだ往復が終わっていない
こともあるわね?﹂
﹁へえ⋮⋮﹂
﹁これって、一度の運搬量が少ないからだと思うのだけれど⋮⋮驢
馬二匹で、荷車を引かせているのよね? 馬は使わないの?﹂
﹁へえ⋮⋮しかし、馬に車を引かせても、積載量はそんなに変わり
ませんで⋮⋮でしたら、餌代がかからんほうがいいと⋮⋮﹂
公姫さまはうなずいた。
﹁そう。じゃあ、積載量が、今よりもあがるとしたらどう?﹂
ハンスは言われたことをよく考えてみた。
﹁⋮⋮何往復もしなくて済むんで、助かりますなあ﹂
﹁餌代は今よりかかるかもしれないけど、運べる量が増えるなら、
馬にも転換できそうかしら?﹂
﹁へえ⋮⋮どのぐらい、運べるかにもよりますが﹂
公姫さまは美しいお顔で、にんまりした。
***
ハンスの目の前に連れてこられたのは、驢馬に似た大型の馬だっ
た。
くりんとした瞳が可愛らしい。
﹁この子はね、山地に強くて、粗食でも堪えてくれて、しかもすご
577
く力持ちなのよ﹂
公姫さまがやたらと誇らしげに言った。天使のようなお方なのに、
態度は殿さまのようにとても堂々としている。これが貴族の姫君と
いうものなのだろうか。
﹁見てて? すごいから﹂
そう言って公姫さまは馬を荷車につないだ。一頭仕立ての馬車だ。
その荷車に、研究員らしき人たちがどさどさと小麦の袋を積んで
いく。
﹁十三⋮⋮十四⋮⋮十五袋。いつもハンスさんが運んでいらっしゃ
るのは十五袋だったわよね?﹂
﹁へえ⋮⋮しかし、馬一頭じゃ、とても運べないかと⋮⋮﹂
﹁いいから見てて。ほんとにすごいのよ﹂
研究員たちはさらに袋を積みあげていった。二十袋になり、三十
袋になる。
﹁ひ⋮⋮姫さま。これ以上は⋮⋮﹂
﹁大丈夫大丈夫﹂
四十袋。五十袋。そんなに積みあげたって絶対に、ぴくりとも動
かないに決まっている。なのに研究員たちはさらに袋を積んでいく。
六十袋。七十袋。
七十袋、きっちりと荷馬車に隙間なく詰め込んで、ようやく準備
が整ったかのように、人が下がっていった。
578
﹁さあ、手綱を引いてみて、ハンスさん﹂
動けるわけがない。そう思いながら、ハンスは手渡された綱を、
おそるおそる引いてみた。
温厚そうな馬がゆっくりと動き出す。ぎしり、と車体に負担がか
かる。車輪が回転し︱︱
馬は七十袋の小麦を引きずって、ポクポクと歩き始めた。
ハンスはびっくりしたなどというものではない。
﹁どうどう? すっごいでしょう?﹂
やっぱり、なぜかやたらと誇らしげな公姫さま。
﹁秘密はこの手綱にあるのよ。牛車や驢馬車と同じ手綱を使うと、
馬の首が絞まっちゃってあんまり荷物が運べないんだけど、専用の
ハーネスをつけてあげるとこれだけ重たい荷物も運べるようになる
ってわけ﹂
﹁はあ⋮⋮すごいです﹂
よく分からないながらもハンスが同意すると、公姫さまはまたし
ても誇らしげに言う。
﹁あなたへの報奨金は、これにしようと思うの。どう?﹂
﹁⋮⋮この馬を、くださるのですか?﹂
﹁そうよ! 積み荷を買う資金もつけるから、商売に役立てて?﹂
﹁なんと、まあ⋮⋮﹂
馬は貴族の殿さまが飼うような、高級な生き物だ。手綱が特別製
だというのなら、おそらくは荷馬車のほうも値が張るのだろう。そ
579
んなものをもらってしまっていいのだろうか。
﹁しかもね、この馬車にはまだまだ特典があるのよ!﹂
そう宣言すると、公姫さまは荷馬車の前面にあるでっぱりにひょ
いっと飛び乗った。その位置から手綱を手繰り寄せ、馬にひと鞭く
れる。
すると馬は、公姫さまと荷物を載せた車を引いて、のんびりと歩
き始めた。
﹁荷物と一緒に、人も乗れちゃうのよ! ね、行商にはすっごく便
利でしょう?﹂
なんと力強い馬なのだろう。
これだけの荷物を積んで、なお人間を載せるだけの余力があると
は。
確かにすごいとハンスは思った。しかし、なぜか公姫さまのほう
がうれしそうなので、そちらに目を奪われてしまう。
だんだん、可愛らしく感じてきた。
﹁そういうわけだから、次回の報告も楽しみにしているわ!﹂
﹁次回の⋮⋮ですか?﹂
﹁そうよ! 使ってみてどうだったかを、また日記帳と一緒に提出
してほしいの! それから、売上の一部を払ってもらうわ。小麦を
七十袋売ったとしたら、そのうちの一袋分の売上を払ってほしいの
よ。それが報奨金の条件。私の言っていること、分かるかしら?﹂
ハンスはおずおずとうなずいた。
580
﹁へえ⋮⋮そのくれえでしたら、構いませんが⋮⋮﹂
﹁詳しくはまたあとでうちの商人のほうから説明させるわ。よかっ
たわ、お互いとってもいい取引になったわね?﹂
公姫さまが満足げに言うので、ハンスはやっぱりよく分からない
ながらも、ひとまずうなずいたのだった。
***
実感は、ハンスが実際に行商をしてみてようやくでてきた。
馬車に乗っての移動は本当に楽なのだ。馬の飼料に少しお金と場
所を取られるが、大量の荷物が運べるのであまり気にならない。
秋ごろ収穫された、大量のインゲン豆や葉物野菜を街に持ち込ん
でみると、いつもの五倍近くの収益になった。
手に入れた銀貨を握りしめて、街の揚げドーナツ屋に行く。
いつもは我慢してひとつだけにするところを、その日はみっつも
買って食べてしまった。
そうして贅沢をしても、まだまだたくさんのお金が手元にあった。
︱︱今度こそ、粉を村に持ち帰ろう。
もう、雨に粉がやられる心配もない。
なにせ、荷馬車には幌がついているのだ。
こうして起こったことのすべてを日記に書きとめて、最後にハン
スは書き足した。
581
︱︱天使のような公姫さまに、深い感謝を。
後日、その書き込みを見て、当の本人がにっこりしたのは、また
別のお話。
582
印刷機を作りたいお嬢様
公爵令嬢のディーネは領内の帳簿を見ていた。
﹁⋮⋮報奨金制度もけっこう順調ね﹂
報奨金を餌にして、職人や商人に会計記録簿を提出させ、経営状
態から足りていないものをアドバイス。そこから発生した利益の一
部を還元してもらい、必要とあれば出資もする︱︱
という、投資とコンサルティングの合いの子のような、一風変わ
った商売を始めてからこの方、ディーネのところに出資をしてほし
いと願い出てくる人たちがぽつぽつと出てくるようになった。
﹁すぐに資金化するのは難しいでしょうが、長期的にはプラスです
ね﹂
家令のハリムが言い添える。褐色肌の精悍な面差しからつい、厳
しい人柄を想像して身構えてしまいがちだが、非常に穏やかな物腰
の人物だ。
三月末が締め切りの持参金稼ぎには使えないが、公爵家の借金を
減らす上ではとても大切なことなのだった。
﹁あとは工場が稼働してくれれば一番なんだけどねー⋮⋮﹂
ディーネが計画している事業の中では、それがもっとも高収益を
見込めるため、一刻も早い稼働を目指している。
583
﹁その前に、なんとかして学校制度も整えておかないと⋮⋮﹂
ディーネがつぶやくと、ハリムは不思議そうな顔をした。
﹁どういうことなのですか?﹂
﹁失業者対策よ。工場が稼働すれば、失業者が続出するでしょう?
生産力が余るわけだから﹂
ディーネが新しく建てた工場は、小さな子どもにやらせていた仕
事を機械化したものだった。
梳毛・紡毛やよこ糸通しの補助などである。
これらに従事する作業員は、実に﹃八割以上が二十歳未満の子ど
も﹄という調査結果が出ていた。全世界的に似たような分布のよう
だ。
うまく軌道に乗せられれば、子どもが生産力として数えられなく
ても済むようになる手はずだった。
本当ならば機織り機なども欲しかったのだが、そこまで複雑な機
械はまだ無理だったのである。
﹁で、その子たちを遊ばせておくんじゃなくて、学校に通うように
仕向けたいのよね。バームベルク領内全土で一斉に学校制度開始⋮
⋮とはいかないけど、局所的にならすぐにでも始められるわ。予算
も十分にある﹂
ディーネは毛織物の産業地の地図を見ながら、建設予定の学校予
定地に待ち針を刺していく。地図はすぐに林立する針でいっぱいに
なった。
584
﹁⋮⋮ざっとこのくらいね。初等学校と大人向けの職業訓練校ぐら
いならすぐにでも始められるのだけれど⋮⋮問題がひとつ﹂
ディーネはすぐそばにあった算術盤を弾いた。学校の数と、予想
される生徒の数と、学科の数を掛け算していく。数字はあっという
間に大きくふくれあがった。
﹁こんなにたくさんの本は手に入らない、ってことなのよね⋮⋮﹂
︱︱中世に終止符を打つ技術といえば航海用羅針盤、鉄の活字を
利用した活版印刷、それに火薬だ。
ところがこの世界は最初期から魔法の技術がそれらを代用してし
まっていた。人は羅針盤を用いなくても魔法で長距離を跳べるし、
火薬を使わなくても魔法で爆発を起こせるし、印刷術を開発しなく
ても木版画などである程度本が流通しているのである。
ではなぜ本が手に入らないのか?
活版印刷の開発者が、教会に葬られてしまったからだ。
今から百年ほど前に活版印刷機を発明した人物は、教会に都合の
悪い本を流通させたかどで、異端認定を受けて殺されてしまった。
そのときに活版印刷の技術も失われてしまったのだそうだ。その一
部の残骸は、不吉なものを封印するかのように、ゼフィア大聖堂の
地下に眠っている。
それ以来、触らぬ神にたたりなしということで、誰も活版印刷の
技術を再現しようとはしない。彼と同じように異端認定を受けるの
585
が恐ろしいからだ。
現在も、本はもっぱら写本でひとつずつ生産されている。
﹁⋮⋮とはいっても、もう主流になりつつあるのよね、木版印刷の
本⋮⋮﹂
お上の禁止も、異教徒たちには関係がない。なので外国製の廉価
な木版印刷本はワルキューレの外からよく入ってくる。見つかった
ら異端ということで禁じられてはいるが、流通量が多くなりすぎて、
教会も取り締まれていない。
﹁外国に依頼して大量に刷ってもらうのも手かもしれませんね﹂
その場合、修道院学校なんかでは教科書として使ってもらえない
だろうが、公爵領が設立する学校で使う分には十分だ。
﹁さもなければ、なんとかして教会に活版印刷禁止をやめてもらう
か、よね⋮⋮﹂
正式に公会議などで活版印刷の異端認定を取り消してもらえれば、
本の普及率もあがって、識字率も向上。みんなが幸せになれるはず
だった。
﹁教会のお偉いさんとコネが作れれば一番なのだけれど⋮⋮﹂
しかし、ディーネにはあてにできそうな人物に心当たりがなかっ
た。
﹁木版刷りの本といえば、お嬢様。先日行っていただいた会計学の
586
講座の本が刷りあがりました。ひとまず領地代官たちが使う分とい
うことで、百部用意しております﹂
﹁うそやだ、見たい見たい。どこ?﹂
ディーネは用意された本の美しい体裁を見て、驚いた。立派な仔
牛皮紙に細密画の表紙イラスト、ぴかぴかの金属枠で補強された角。
書斎に飾っておけるような、立派な本だ。
﹁すごいわ。お高い写本みたいね。中身は印刷ものなのに﹂
﹁せっかくなので、装丁にこだわってみました﹂
同人誌みたいだと思ったことは、胸のうちにしまっておいた。
***
ミナリール商会のカフェでは、ちょっとした騒ぎが持ち上がって
いた。
﹁ちょっと! いつもの美人さんカップルが!﹂
﹁なに、どうしたの?﹂
﹁カップルさんがカップルじゃなくなってる!﹂
女給たちが遠巻きに眺めているのは、三人の男女だった。儚げな
ブロンドの美少女と、銀髪の中性的な美青年と、屈強そうな美男子。
いつも来る金髪の少女と銀髪の青年が仲よさげに寄り添っているの
で、スタッフからは名物カップルと目されていた。
﹁あの大きな男の人、誰?﹂
﹁お兄さん⋮⋮って感じでもないよね﹂
587
新しく加わった男は、外国人風の風貌をしている。
女給たちには三人がどういう関係なのか、まるで読めない。
女給たちが見守る中で、紅一点の少女が何やら眉間のしわを伸ば
している。彼女を見つめる浅黒い肌の男の視線は温かい。
﹁でも、たぶん⋮⋮﹂
﹁うん⋮⋮﹂
﹁あの人も、真ん中の子のこと好きだよね⋮⋮﹂
女給たちはうらやましいような、モヤモヤするような、なんとも
いえない気持ちでその光景を見物していた。
やがて少女と青年は、真剣な顔をして何かを話し合い始めた。
銀髪の青年はそれを静かに見守っている。
話についていけない青年を、大きいほうの男がふと見た。どこと
なく優越感のようなものを漂わせている彼に対し、青年はにこりと
邪気のない笑みを返す。
﹁⋮⋮修羅場?﹂
﹁ではなさそうだけど⋮⋮﹂
﹁どういう関係なのかなあ⋮⋮﹂
女給たちの謎は深まるばかりだった。
588
研究員Aの休日
ガニメデは公爵家に間借りしている自室で、休日を寝て過ごして
いた。
錬金術師のように、モテない・儲からない職の男が休日にするこ
となど何もない。せいぜい繁華街にでも行ってあたりをうろつくぐ
らいだが、あいにくとガニメデは酒や賭博にも特に興味がなかった。
唯一の楽しみといえば、経営者としてがんばっている公爵家のご
令嬢が、ときどき恵んでくれるお菓子ぐらいのものだ。
昨日突発的にやってきたウィンディーネお嬢様は、全身からバニ
ラの甘い香りをさせていた。思わず﹃おいしそうですね﹄と言うと、
さっきまでお菓子を作っていたのだと言い、さらに申し訳なさそう
な顔で﹃あれはジーク様のなの﹄と断りを入れてきた。
なるほどジークライン殿下は四帝国の覇者の末裔。彼ほどにもな
るとかわいい婚約者が手作りのお菓子をせっせと作って差し入れて
くれるんだからいいご身分である。ちょっとやさぐれていると、お
嬢様は何を勘違いしたのか、飴のようなヌガーのような、変わった
お菓子を持ってきた。﹃代わりにキャラメル作ったから食べて﹄と
申し訳なさそうに言うその表情がまたかわいかったので、ガニメデ
はますますすさんだ。
お嬢様は根本的に勘違いをしているが、ガニメデは何もお菓子が
ほしかったのではない。
589
︱︱おいしそうなのはあなたですよ。お嬢様。
バニラというのはなんでああもいい香りがするのだろう。目を見
張るような美少女からふわふわと甘ったるいお菓子の香りがするの
だからたまらない。思わず抱きよせたくなったが我慢した。
お嬢様は甘い匂いを振りまいている自分がガニメデにどう見られ
ているのかなどまるで知らない様子であれこれ研究に指示をして帰
っていった。もちろんガニメデのほうでもそんなことはまったく顔
色に出さないように努力した。
実際にお嬢様をどうこうしたいわけではないのである。かわいい
女の子が楽しくお話をしてくれるというだけでももうガニメデには
十分なぐらいの楽しみなのだ。生活に潤いを与えてくれるお嬢様に
感謝しこそすれ、無礼を働くなどとんでもない。
ベッドに寝転がり、もらったキャラメルをひとつ口に放り込んだ。
甘ったるい味に、否応なくお嬢様のことを思い出してしまい、ごろ
りと寝返りを打つ。お嬢様はなんでまたこんなものをくれたのだろ
う。お嬢様のように身分のあるかわいい人ならば、その気もない相
手に安易にプレゼントなどバラまくものじゃないと、周囲から教育
されてきていそうなものなのに。相手の男が勘違いしてつけあがっ
たら怖いとは思わないのだろうか。
︱︱思わないんだろうなあ。
お嬢様は、こちらが淡々と無害な会話をしている水面下で、よこ
しまなことを考えているなどとは夢にも思わないのだろう。口やか
ましくて偉そうな割に、お嬢様はこういうところが結構ヌケている。
できれば永遠に気づかないままでいてもらいたい。
590
なんのかの言ってお恵みをくださるお嬢様は女神である。これか
らも無自覚にバラまきをしていただきたいところだ。あまりものの
おすそ分けで幸せを感じるなど屈辱ではないのかと言われたらもう
はっきり否と言える。皇太子殿下のおこぼれだろうがなんだろうが
うれしいものはうれしい。
皇太子殿下といえば、チョコレートを試作したときのお嬢様もひ
どかった。
ゴロゴロと寝返りを打ちながら、つい先日のことも思い出す。
飲み物のショコラを塊にする、という発想は別にいい。ちょっと
変わったお菓子を発明するお嬢様らしいアイデアだ。自分も面白い
と思ったし、試作品もおいしかった。お店で出すケーキに使用する
という目的も問題ない。
お嬢様は、何を思ったのか、それを皇太子殿下への手土産にして
しまったのである。
繰り返すがショコラの塊だ。カカオ豆はもともと﹃薬﹄だったの
だ。
なんの薬か?
︱︱滋養、強壮、そして﹃媚薬﹄である。
それがいつの間にか生クリームや砂糖、赤ワインなどを混ぜて飲
む﹃ショコラ﹄となり、甘い飲料として貴族の間に流行した。
ワルキューレの帝国貴族はショコラをおもに閨への誘いに使って
いる、というのはガニメデでも知ってる話だ。
可憐な婚約者の少女からそんなもの手渡された日には、絶対に妙
591
な誤解をするではないか。皇太子殿下もよく我慢したと思う。
しかしどうやらお嬢様はそこまで深く考えていなかったらしい。
そのまま放っておいたらチョコレートをあちこちに配って歩いて、
余計なトラブルを招きそうだったので、一応は意見を注進して、釘
をさしておいた。
するとお嬢様がなんと言ったか。
︱︱じゃあメガネくんも半分食べてよ。
こうである。
媚薬効果のあるチョコレートを人にあげたら変な誤解をされるか
らやめるようにとわざわざガニメデが注意した直後にこれだ。それ
はぜひ誤解してほしいということなのか⋮⋮? ﹃私のことも食べ
て﹄というメッセージ⋮⋮? もうわざとやっているのかと思った。
例によって深くは考えていないようなので、ガニメデも深読みはし
ないことにしたが、これはさすがに動揺してしまった。仕方がない
と思う、自分は絶対に悪くない。どう考えてもお嬢様が悪いが、で
もそんな無防備なお嬢様が好きだ。
チョコレート。
お嬢様は食べてもなんともないと言い張っていたが、万が一何か
起きたら今度こそガニメデの命が危なさそうだったので、いざわけ
あってお茶会、となると背徳感が半端なかった。何しろ媚薬である。
婚約者の美しい少女と一緒に媚薬成分入りのお菓子を分け合う間男
︱︱皇太子殿下にしてみれば最低最悪のシチュエーションだ。もし
も立場が逆で、お嬢様がガニメデの婚約者だったら嫌すぎて軽く死
ねる自信がある。人徳に厚いといううわさの皇太子殿下でさえも怒
り狂うレベルだ。想像したらドキドキしてきたガニメデとは対照的
に、お嬢様はけろっとしていた。本当にダメな人だ。でもそこがま
たかわいかったりするのである。
592
しかもお嬢様は給仕にやってきたセバスチャンにも気軽にお菓子
を分け与えたりしていたので、それにも驚いた。お嬢様には無自覚
にバラまきをしてほしいが、いざ他人にも同じような気軽さでお菓
子をあげているのを見ると、やっぱり嫌だなと思ってしまう。
バラまくのは自分だけにしてほしいだなんて、言えた筋ではない
のだが。
自分に文句を言う権利はなくても、皇太子殿下にはある。腹が立
ったついでに皇太子殿下の名前を使ってお嬢様にちくちくと嫌味を
言ってしまったが、あれはちょっと卑怯だった。堂々と自分が嫌だ
からやめてくれと言えばいいものを、婚約者が可哀想だなんて、何
様なのだろう。分かっていても、あのときはどうしても言いたくて
仕方なかった。
お嬢様のことになると調子が狂わされっぱなしだ。
ため息まじりに次のキャラメルに手を伸ばしかけて、やめた。イ
ライラしながらキャラメルの瓶を見る。
そうだ。それもこれも全部こんなものをくれるお嬢様が悪い。も
う少し常識でものを考えてほしい。いや、常識から言えば、使用人
の立場のガニメデがお嬢様に対等な人間扱いを求めるほうがおかし
いのか。それにしたって犬の子に餌をあげるんじゃないんだから、
少しは家具の気持ちを考えてもらわなければ、いつかとんでもない
過ちに発展してしまいそうだ。
捨ててしまおうかとも思ったが、やっぱりそんな勇気はなくて、
瓶をそこらへんに飾った。
593
次は何をくれるのかなあと思うと、結構幸せだったりする。
そんな感じで休日を浪費した。
594
ゼフィア大聖堂の大司教主
ゼフィア地方の領地代官、ギーズは、壮麗な祭服を着た聖職者た
ちにとりまかれながら、冷や汗をかいていた。
教主の座に座っている人物はまだ若いが、ひときわ豪奢な刺繍と
宝飾入りのダルマティカを着ている。その彼が、ギーズに向かって
冷ややかな声を出した。
﹁この本は、あなたの持ち物で相違ありませんね﹂
彼の手には、先ごろ公爵令嬢が発行した会計学の本が握られてい
た。
﹁⋮⋮はい、大司教主さま﹂
大司教主は雪よりも輝かしい銀髪を傾けて、ため息をつく。清廉
な印象の美貌は、きらびやかで厳粛な礼装ともあいまって、近寄り
がたく侵しがたい雰囲気を醸し出している。
﹁では、神の御前で証明を﹂
彼の差し出す右手には、特殊な魔法石由来の指輪が嵌まっていた。
メイシュア教の高位聖職者が身に着けるこの指輪には、うそと本当
を見分ける能力があると言われていて、告白した内容が真実であれ
ば青い光を放ち、虚偽があれば暗緑色に染まるようにできている。
ギーズは震えながらその右手の指輪にくちづけをした。
595
指輪は青く光って、またもとの暗い青色の輝きを宿す鉱物に戻っ
た。
﹁⋮⋮あなたは、この本の内容が教義に抵触すると知っていて、所
持していたのですね?﹂
﹁はい、教主様﹂
今度も指輪は青く光った。
ギーズは﹃死亡税﹄の件で彼に質問攻めを受け、何をどうしたも
のか、この本の所持を見抜かれてしまったのである。
そのときになってようやく彼に関するうわさが本当であると思い
知らされた。
この若き大司教主は、ある能力に秀でているというのだ。
﹁では、神の御前において真実を告白しなさい。この本を発行した
のは誰ですか?﹂
﹁⋮⋮﹂
ギーズには答えられない。教義に反する内容の本を出版する行為
は危険なのだ。
著者が異端者として火あぶりにされかねない。
ましてその著者が女性で、高貴な身分だとするなら、大スキャン
ダルになるだろう。皇太子殿下の権威にも傷がつく。
まさしくギーズは、絶体絶命の状態だった。
﹁⋮⋮私には、すでにあなたの心の内が見えています﹂
596
大司教主が温度を感じさせない冷ややかな声で言葉を続ける。
﹁しかし、告解の内容を打ち明けていいのは、神に対してのみ。で
すから、あなた自身の口から説明してくださることが望ましいので
す﹂
﹁エストーリオ様⋮⋮﹂
ギーズは慈悲にすがるような思いで彼の名前を口にした。しかし
彼の表情は揺らがない。
大司教主︱︱エストーリオは、触れた相手の心を読む能力が誰よ
りも優れているという。
ギーズ以外には公爵家の一部の人間しか知らないはずの本の存在
を見抜き、取り上げてしまえたのも、この能力によるものと思われ
た。思い出しても震えが来るほどの鮮やかな誘導尋問で、あっとい
う間にギーズは追いつめられたのだ。
﹁仕方がありませんね﹂
エストーリオは銀糸が冴え冴えと輝く裳裾をひるがえして、立ち
上がった。
﹁あなたに聞けないのであれば、ご本人に直接お尋ねいたしましょ
うか﹂
***
公爵令嬢のディーネはパパ公爵に呼び出されて書斎に出頭した。
﹁ゼフィアの大司教主さまが領都バームベルクにお見えになるらし
597
い﹂
﹁まあ⋮⋮エストーリオ様が﹂
クラッセン嬢にとっては旧知の間柄だった。エストーリオは現教
皇の甥で、クラッセン嬢と同じくベルナールに師事しており、一緒
に授業を受けたこともある。
何よりも、とてもきれいな人だったことを覚えている。
﹁⋮⋮お父様、エストーリオ様は何をしにいらっしゃるのですか?﹂
﹁表向きは公式の祭事だということだが、非公式にわが公爵家と交
渉がしたいと言っておる。死亡税についてということだが、わが娘
よ、これはどういうことだ?﹂
﹁それは⋮⋮﹂
先ごろ片づけた秘密庫の書類をもとに、教会に徴税したのだと説
明すると、パパ公爵は目を閉じて吟味しはじめた。かなり長く待た
されてから、ディーネは不安になって声をあげる。
﹁⋮⋮お父様? 寝てませんわよね?﹂
﹁はっ。いかん。事態が込み入っていて、意識が落ちかけた﹂
﹁お父様⋮⋮﹂
どれだけ書類仕事が苦手なのだとディーネは落胆した。家令のハ
リムの苦労がしのばれる。
﹁死亡税についてでしたら、すでに帝国の徴税官長さまにとりなし
ていただいて、円満な合意に至りましたのよ。何か言われても徴税
官長さまにお任せをしていると押し通していただければ結構でござ
います﹂
598
﹁そうか。しかしわが娘よ、エストーリオ様はそなたを交渉の席の
相手に指名しておるのだが⋮⋮なぜ、エストーリオ様はそなたが領
地の経営を見ているということをご存じなのだろうな﹂
ディーネは自分が領地経営していることをひた隠しにしている。
外交やもてなしの場面ではこれまで通りパパ公爵に立ってもらい、
貴族間のうわさになるようなことも避けていた。
﹁なにか嫌な胸騒ぎがする﹂
パパ公爵の予感は当たり、しばらく前から連絡が取れなくなって
いたゼフィアの領地代官が、エストーリオに逮捕されていたことが
明らかになった。
罪状は異端。
︱︱暗雲が立ち込めていた。
599
教皇の甥/バームベルクの小宮廷
バームベルク公爵令嬢ウィンディーネ・フォン・クラッセンは、
幼い頃から厳しい教育を受けてきた。
特に語学はみっちりとやらされた。皇太子妃として外交の場に立
つとき、通訳がいないと意思疎通できないようでは困ってしまうか
らだ。
教会の典礼言語を教えてくれたのはバームベルク大学の神学部教
授、ベルナールだ。彼は著名な学者として知られているが、鬼のよ
うなスパルタ名コーチとしても有名だった。
幼いクラッセン嬢の家庭教師として公爵家の小宮廷に食客に招か
れたベルナールは、空き時間に大学の生徒たちも見ていた。人気の
ある先生だから、クラッセン家の屋敷には、大学の生徒がいつも集
まっていたのを覚えている。
生徒のうちのひとりに、未来のゼフィア大司教主となるエストー
リオもいた。
白銀の髪とまったく焼けたところのない透き通った肌を持つエス
トーリオは、よくも悪くも目立つ存在だった。まず、出自が他の者
とは違う。教皇の甥︱︱聖職者は結婚ができないから便宜上甥とさ
れているが、本当は教皇が奥方に産ませた直系の後継者なのだ。彼
は十歳の若さで小さな教区の司教主に叙階されており、体面上もす
でに立派な高位聖職者だった。
600
彼ほどの人物であれば、わざわざベルナールに師事を仰がずとも、
学部を卒業することはできたはずだ。なのになぜか彼はベルナール
とともに公爵家の小宮廷に逗留するほうを選んだ。
クラッセン嬢ははじめ、エストーリオを女性だと思っていた。中
性的な面立ちによく似合う、長く引きずる裳裾の服は女性兼用のロ
ーブで、しかも彼は美しい銀髪を長く伸ばしていたから、判別がつ
かなかったのだ。
初顔合わせのときのエストーリオは絢爛豪華な出で立ちもあいま
って、おとぎ話のお姫様のようにきれいだった。
繻子の上から羽織った、まばゆい銀糸のストールには見事なブロ
ーチがついていて、ひと粒の大きなサファイヤが目にも綾な光をは
じいている。サファイヤは誠実さの象徴で、聖職者が好んで身に着
ける石だ。尊い血筋の彼にふさわしい、国宝級の品だった。
﹁初めまして﹂
目の前の稀なる美人から、やや高めではあるものの、れっきとし
た男性の声がして、クラッセン嬢が戸惑っていると、父が﹁習った
やつをやってごらん﹂とやさしく諭してくれた。それでベルナール
に教わったばかりの典礼言語で挨拶をして、彼が許してくれた右手
の指輪におっかなびっくりくちづけをしてみると、エストーリオは
こちらが幼い子どもだというのにも関わらず、丁寧かつ親切な態度
であいさつを返してくれた。クラッセン嬢はやわらかな物腰の青年
から受ける淑女扱いと甘やかしにすっかり警戒心を解かれてしまい、
つい彼と話しこんでしまった。
エストーリオはベルナール教授の生徒とはほとんど交流がないよ
うで、中庭で静かに本を読んでいる姿がしばしば目撃された。将来
601
は教皇位につくことも確実だと思われている彼に近づきたい生徒は
いくらでもいたが、彼のほうが近寄らせないらしい。
そのうちに、エストーリオが人を避けたがる理由が判明した。
彼はとても強力な神力の使い手で、触れただけで相手の思考が読
み取れるほどだという。彼はその力を厭い、従者でさえも近寄らせ
ないのだということだった。聖職者が操る魔術は魔術と呼ばず、一
般に﹃奇蹟﹄や﹃神力﹄などというのだが、原理は一緒である。
ディーネはいつも寂しそうにしている彼が気になって仕方なかっ
たが、理由が分かったあとはますます彼に同情するようになった。
きっと彼は、人の本音が見えてしまうのが辛いのだろう。そして他
人は彼に本音を看過されることを恐れて遠巻きにする。なんて寂し
い悪循環なのだろうと思った。
そんなエストーリオも、幼い少女相手なら少しは緊張が解けるよ
うで、しょっちゅうクラッセン嬢の遊び相手になってくれた。トラ
ンプの束から選んだカード当てに始まり、数字当て、晩御飯当て、
その他ありとあらゆるものをピタリと当ててみせた。力は本物だっ
たのだ。
彼はその特殊な力で、悩み相談にも乗ってくれた。
︱︱あなたはとても心の美しい方ですね。透き通っていて、やさ
しく温かみのあるあなたの心に触れていると、私まで癒されます。
清廉な印象の美青年が微笑んで言うので、クラッセン嬢は大いに
戸惑った。いつも余裕がなくてくよくよ悩んでばかり、心の中は不
安や劣等感でいっぱいの自分が美しい心の持ち主だとは、どうして
602
も思えなかったのだ。
︱︱ですが、人にたくさんのものを分け与えようとしすぎて、疲
れているのではないでしょうか。
彼の言葉はとても胸に沁みた。
︱︱人よりも繊細で真面目だから、思いつめてしまうんですよ。
彼の言うことが正しいと感じたわけではなかったが、ジークライ
ンのためにもっともっとがんばらなければと焦ってばかりいたクラ
ッセン嬢は、ふいをつかれて泣いてしまった。
温和で礼儀正しい人だったので、クラッセン嬢は彼に多大なる好
意を寄せていた。
しかし。
ディーネがいつも通り話を聞いてもらったある日、ジークライン
がやってきて、どこで何をしていたのかと聞いてきたのが、彼との
関係が終わるきっかけになった。大好きな皇太子殿下がわざわざご
足労くださったことでいとも簡単に舞い上がり、クラッセン嬢は大
喜びでエストーリオのことを報告した。
すると、クラッセン嬢の話をすべて聞き終えた彼が言ったのだ。
︱︱そいつとはもう関わり合いになるな。
クラッセン嬢は一も二もなく、盲目的に従った。妬いてもらえた
のがうれしくてしょうがなかったのである。
603
エストーリオはしばらく寂しそうにクラッセン嬢を目で追いかけ
ていたが、それだけだった。孤独を愛する彼はひとりきりの読書に
戻り、信じられないスピードで卒業試験に受かって、公爵家を去っ
ていった。
すべては懐かしい、遠い日の思い出だった。
604
夜空のお星さまと公爵令嬢
エストーリオの非公式の訪問は、クラッセン家の本邸でしめやか
に行われた。
白ずくめの聖職者らしい装束を着た青年がパパ公爵と公爵夫人の
歓迎を受けている。遠目にきらめくのはダイヤモンドの聖具だろう。
あまたの銀とダイヤで装飾された彼は、陽光の下で見ると、目が痛
くなるほどまぶしい白さだった。柔軟剤でも使っているのかもしれ
ない。
ディーネは仮病で自室待機である。なにしろ彼女は教会徴税の主
犯。
その点パパ公爵は何もしていないのでシロだ。うまく言い逃れを
してくれることを祈るしかない。
︱︱数時間後。
パパ公爵の書斎に呼び出されたディーネは、衝撃の展開に息を詰
めることになる。
ディーネは思わずパパ公爵に向かって声を荒げた。
﹁ハリムをエストーリオ様に引き渡したとは、どういうことなので
ございますか!﹂
パパ公爵は剣幕にひるみ、胸元にあしらったフリルを落ち着きな
く手でいじる。
605
﹁エストーリオ様は、ギーズが隠し持っていた会計学の本にご立腹
でな⋮⋮あれの著者は絶対に生かしてはおけぬとおっしゃったのだ
よ﹂
﹁あれの著者はハリムではありませんわ!﹂
ディーネの講義内容をまとめたものなのだから、著者はディーネ
だ。
﹁そのようだが、ハリムは頑として著者の名を明かさなかったのだ
よ。エストーリオ様への恭順のくちづけにも応じなかった﹂
﹁当然でございましょう、ハリムはそもそもメイシュア教徒ではあ
りませんもの!﹂
非メイシュア教徒のハリムが他宗教の司祭に従ういわれはない。
﹁しかしな、どうにもエストーリオ様は、そなたが著者だと確信し
ておる節があったのだよ⋮⋮事情を知らぬ私もすぐに気づいたぐら
いだ、ハリムも気づいておったに違いない。あやつはそなたをかば
い立てして黙秘を貫き︱︱拘束された﹂
﹁お父様はそれをおめおめとお見過ごしになったというわけでござ
いますか?﹂
﹁⋮⋮仕方がなかろう、わが娘よ。そなたを引き渡すことだけは考
えられぬのだ﹂
パパ公爵の言うことももっともだと感じたので、不承不承ながら
も追及は切り上げる。
﹁⋮⋮ハリムはこれからどうなるんですの?﹂
﹁可哀想だが、そなたの罪状を被ってもらうしかなかろう﹂
606
身代わり。まるで汚職の罪を秘書にかぶせる悪徳政治家のようだ。
﹁いかなる罪でハリムを裁くのでございますか? 異教徒の彼を他
宗教徒の流儀で裁けば、彼のところの神殿も黙ってはいないでしょ
うに⋮⋮﹂
そもそも異端者とは、メイシュア教の間違った教えを信じている
人のことだ。異教徒は関係ない。
﹁それはわが領がどれほどの献金を教会や神殿に積むかにもかかっ
てくるだろう。私もなんとか手を回してみるが、教会にとっては数
百万単位の徴税にかかわることだ。そう簡単に教会がハリムと、そ
の裏のわが公爵家を許すとも思えん﹂
﹁⋮⋮そう。エストーリオ様の目的は、わたくしたちの徴税をやめ
させることだとお父様もお考えなのですわね?﹂
﹁おそらくはな﹂
さて、どうするべきかとディーネが思案する間に、パパ公爵はお
もむろにつぶやいた。
﹁⋮⋮戦争するしかなさそうだ﹂
ディーネはうなじの毛が逆立つのを感じた。
﹁お、お待ちくださいませ! 短絡的すぎます!﹂
﹁しかし、開戦の理由は整っておる。やつらは異教徒を不当に拘束
し、いとしのわが娘に手を出そうとし、あまつさえ帝国とバームベ
ルク双方の徴税命令に逆らおうとしておるのだ。適当な難癖をつけ
て蹂躙するチャンス︱︱﹂
﹁蹂躙はおやめくださいまし!!﹂
607
﹁なに、心配することはないぞわが娘よ。わがバームベルクの軍は
世界一だ﹂
︱︱だめだこの人! 行動コマンドが﹃たたかう﹄しかない!
さすがは軍事力極振りプレイのバームベルク。ごちゃごちゃ言わ
れたら叩きつぶす。恐怖政治もここまでくるとすがすがしい。これ
もまた政治の正道⋮⋮なのだろうか。若輩者のディーネには分から
ない。
﹁エストーリオ様だって、きっと話せば分かってくださいますわ!﹂
﹁しかし、どうするのだ、わが娘よ。ハリムを引き渡したことによ
って、この件はすでに片付いておる。徴税をやめるという手はない
だろう。かわいそうだが、ハリムは犠牲になったのだ︱︱﹂
﹁お父様! おふざけにならないでくださいまし!﹂
夜空の星になったみたいな言い方はやめてほしかった。
﹁ではどうする。やはり難癖をつけて戦争︱︱﹂
﹁ヤクザか! もう少し穏便な方法はありませんの!?﹂
﹁贈り物を惜しまず行って、懐柔を狙うか? しかし、エストーリ
オ様は私腹を肥やして満足する方ではなかろう。それと娘よ、ヤク
ザとはなんのことだ?﹂
﹁忘れてくださいまし。口がすべりましたわ﹂
大司教主エストーリオの政策は高潔のひと言に尽きる。民のため、
迷える子羊のため、手を尽くして炊き出しをし、施療院を増設し、
罪の贖いをする機会を積極的に呼びかけている。彼の生家がある教
会のお膝元でも、みなが口を揃えて彼を敬虔な人物だという。
608
﹁⋮⋮エストーリオ様は、増税が不当なものだとお考えなのですわ
よね? 法的な根拠があって、一度は合意した︱︱せざるを得ない
内容だった、と理解していてもなお、感情的に許せない措置だった
と﹂
﹁うむ。義勇なのであろうが、バームベルクに楯突くとはいささか
軽率ではある﹂
﹁それならば、納得していただけるように誠意をつくして説得する
のが筋なのではございませんか?﹂
話し合って分かり合えるのなら、それに越したことはないとディ
ーネは思う。
﹁やはり、わたくしは一度エストーリオ様にお会いしとう存じます﹂
﹁しかし、あの指輪は厄介だ。万が一かわいいお前が拘束されるよ
うなことになれば、私は動揺のあまり戦争を起こすだろう﹂
﹁おやめくださいまし﹂
真実を見抜く指輪は教会の高位聖職者だけに許されたマジックア
イテムだ。過去、異端者の追及に何度となく利用されてきた。
ただし、万能の品というわけではない。それが人の手で作られた
ものである限り、制限も制約も存在する。
エストーリオの能力も万能ではない。彼にできることは、その場
で考えていることを当てることだけだ。
﹁⋮⋮うまく切り抜けますわ。ですからどうか、一度でいいので機
会をくださいまし﹂
パパ公爵はしばらく渋い顔をしていたが、やがてきっぱりと言っ
た。
609
﹁いいや、ならん。そなたにもしものことがあれば、私はジークラ
イン様に顔向けができぬのだよ、分かっておくれ、私のいとしい娘﹂
ディーネは失望のあまりめまいがした。
アデオス
﹁そんな⋮⋮! あんまりでございます! お父様のいけず! 分
からず屋! 艶男!﹂
﹁今のは少し悪意を感じたぞ、わが娘よ⋮⋮﹂
ディーネは泣き真似をしながら部屋を去り、パパ公爵が追いかけ
てくる気配がないのを確かめてから、次の手を打つために執務用の
離れに向かった。
ハリムのことは彼女が助け出すしかないと強く感じたのである。
610
お嬢様と大司教主
ディーネはゼフィア大聖堂にやってきた。
巨大な石づくりの尖塔に、無数のステンドグラス。巨体を支える
ための、翼のようなバットレス。タンパンにずらりと彫刻された極
彩色の聖人たち。
素敵な眺めではあるが、楽しんでいる心の余裕はなかった。なに
しろ今日の彼女は従者をひとりも連れていないのである。ここに来
ることも誰にも知らせていない。バレたら絶対にパパ公爵に阻止さ
れてしまうからだ。
全身をすっぽりと覆う黒いローブのフードを目深にかぶり、いか
にも巡礼者のふりをして杖をつき、くたびれた荷物を肩にかけ直す。
適度に泥汚れでユーズド感を出してあるので、さほど怪しまれてい
ないようだ。
ゴシック風の大聖堂の側廊で司祭と思しき小僧を捕まえて、金貨
をつかませ、エストーリオにこれを渡してくれるようにとハンカチ
をことづけた。ディーネが刺繍をしたもので、クラッセン家の家紋
が縫いつけてある。これを見れば誰のものかは明白だ。
ほどなくして、大慌ての小僧がディーネのもとへ取って返し、教
主の館のほうに通された。
室内に現れてもいまだにフードを目深にかぶったままのディーネ
を見て、彼の補佐らしき聖職者が厳しい声を出した。
﹁⋮⋮娘。帽子を脱いでひざまずかんか。大司教主猊下の御前であ
611
るぞ﹂
﹁その前に、お人払いを︱︱﹂
ディーネが発した声に、エストーリオがぴくりと反応した。玉座
のように立派な司教の椅子から、わずかな手の動きだけで司祭たち
を締め出すよう合図する。
ふたりだけになった空間に、エストーリオの凛とした静かな声が
響いた。
﹁⋮⋮あなたなのですか? フロイライン﹂
フードを落とし、厳重に頭部を覆っている尼僧風のヴェールを解
くと、下からディーネの金髪が現れた。中途半端に引っかかってい
る髪を頭の振りで払い、エストーリオをしかと見据える。
﹁わたくしを覚えていらっしゃいますでしょうか、エストーリオ様﹂
﹁もちろんですよ⋮⋮ああ、なんて懐かしいのでしょう﹂
思いのほか好意的な歓迎の言葉をもらい、ディーネはほっとする
とともに拍子抜けした。やはりエストーリオは今も変わらず温和で
紳士的な人物であるようだ。
﹁お願いがございます。どうかハリムを解放してくださいませ﹂
﹁それはなりません﹂
顔を背ける彼には固い意志が感じられた。
﹁ですが教主様、彼は裁かれるような罪を犯してはおりませんわ。
異教徒の彼が教義違反の本を出版したとて、何の罪に当たりましょ
612
うか﹂
﹁誤った思想を流布させ︱︱そして無垢な羊を誤った道に牧そうと
している。これが罪の形なのです、フロイライン﹂
﹁わたくしはあれが誤った思想だなどとは思いません。だってあの
本は︱︱﹂
あれは、ハリムの思想を書いたものではない。
ディーネの本だ。
﹁あの本は︱︱なんだというのです。まさか、あれの著者があなた
だということもありませんよね? あれは恐ろしい思想です。間違
った行為です。商人の天秤が富の目方を増やしたとしても、天使と
悪魔の天秤は罪の目方を増やしていくのですよ﹂
ディーネはその説法を聞いていて確信した。やはりこの男は、領
地代官の取り調べを通して、あれがディーネの本だと結論づけてい
る。断定をしないのは、告解の秘密を守らねばならぬという聖職者
の掟に従っているにすぎない。聖職者はみな心を読む能力を神力の
訓練によって得るが、それを使ってひとの秘密を勝手に暴くのは禁
じられているのである。
許されているのは、真実の指輪を使った尋問だけだ。
﹁それは間違いでございます。大司教主様は誤解なさってるのです
わ。ハリムは富の目方を増やすことが目的であの本を流布させよう
と思ったのではありません﹂
むしろ︱︱とディーネが続けようとしたのを、エストーリオは興
奮した様子で遮った。
﹁フロイライン。滅多なことはおっしゃるものではありませんよ﹂
613
彼が慌てるのも無理のないことで、異端だとされているものの弁
護もまた異端として厳しく禁じられているのである。ディーネがし
ようとしていたのは、そういうことだった。
﹁でも、そうですね、これではっきりしました。あなたがあの、麦
穂の群れに毒麦を紛れさす、忌々しい異教徒のせいで異端に染まり
かけている、ということが﹂
﹁違うんですのよ、エストーリオ様⋮⋮ああ、もう、困りましたわ
ね﹂
エストーリオはすっと手を差し出した。
﹁悔い改めなさい、フロイライン。神の御前に誓いを立てるのです。
これまでの行いを悔い、断ち切ると宣言することで、あなたの罪も
許されましょう。心からの悔悛でなければなりませんよ。さあ、こ
の指輪とこの私が神の代理人です︱︱さあ、フロイライン!﹂
ディーネはゆっくりと首を振る。振り乱した髪がさらりと音を立
てて揺れた。
﹁誓いならば、のちほど身の潔白とともに立てましょう。でも︱︱
エストーリオ様。本当に、今回のことはちょっとした誤解なんです
のよ﹂
ディーネはまず、エストーリオの説法を引用することにした。
﹁エストーリオ様は、あの本に書かれている行為はいけないことだ
とお考えなのですわよね? 罪の目方を増やす行為だと。農民から
わずかな蓄えを取り上げ、わたくしたちの天国を遠ざける︱︱﹂
614
﹁その通りです。これ以上罪を重ねてはなりません﹂
﹁行き違いは、そこなんですのよ、エストーリオ様。わたくしたち
のやり方を知らなければ、そう思われてしまうのも仕方ありません
わね﹂
ディーネは神々しい聖堂内部の雰囲気や、エストーリオの厳しい
追及に負けてしまわないよう、胸を張った。
﹁わたくしたちには最後の審判における罪の目方を減じるための用
意がございます﹂
そして旅装にカモフラージュした手荷物から、紙の束を取り出し
た。
﹁今からご説明いたしますわ、大司教主猊下﹂
615
お嬢様と大司教主︵後書き︶
最後の審判
中世の人たちがもっとも恐れていた宗教概念。
人間は最後の審判によって天国行きか地獄行きかを定められる。
商売で儲けを得ることは、すなわち地獄に近づく︵罪の目方が増え
る︶行為だと考えられていた。
616
プレゼンをするお嬢様
エストーリオの主張は聖書の引用や神学論まじりでややこしいが、
意訳するならば、﹃増税してまで贅沢しようなんてお前ら貴族の性
根は腐りきってる。特に今回の増税分はやりすぎだ。だから撤回し
ろ﹄︱︱という意味で合っているはずだ。
﹁わたくしたちはなにも贅沢がしたくて増税するのではありません
わ。あれはもともと公爵家に正しく納められるべき金額だったので
ございます。今までは公爵さまの恩寵によって免除されていただけ
のこと︱︱﹂
ディーネは恩寵と言ったが、現実は違う。パパ公爵が内政をサボ
っていただけだが、ものはいいようだ。
﹁そこまではよろしくて? エストーリオ様﹂
﹁ええ。しかし⋮⋮﹂
﹁しかしも何もありませんわ。ならばこの件についての追及はもう
おやめくださいまし。それより罪深いわたくしたちに道を示してい
ただけませんこと? 迷える子羊の導き手よ﹂
ディーネが持参してきた紙の束を手渡そうとすると、エストーリ
オはすこしためらってから、受け取った。彼がその書類に視線を落
としたのを見計らい、問いかける。
﹁メイシュア様の教義だと、教会に集めた十分の一税は、四割を恵
まれない者たちのために使うとお決めになっているそうですわね﹂
617
紙束の一番上はそのことについてまとめてある。バームベルク領
内の教会や修道院に協力してもらって、十分の一税︱︱教会が民に
対して取り立てる権利を持っている税の使い道をまとめた。
﹁この、丸いイラストはいったい⋮⋮?﹂
﹁円グラフですわ、エストーリオ様﹂
﹁円グラフ⋮⋮?﹂
バランスシートの分析には欠かせない、円グラフや棒グラフとい
った各種の図表。
これが発明されたのは意外にもフランス革命の直前と、かなり後
年になってからである。
会計嫌いのフランス国王ルイ十六世も、初めて出版されたグラフ
入りの本を見て、﹃分かりやすい﹄と絶賛したとか、しないとか。
﹁こちらはわたくしたちが日頃から寄付をしている教会の、税の使
い道をまとめたものでございます。ご覧になっていただければお分
かりかと思いますが、どこも圧倒的に﹃四割には届いていない﹄の
ですわ﹂
教会の典礼言語は数字がとても読みづらい。
しかしグラフにしてしまえばひと目で分かる。
現代日本の知識持ちのディーネにはなんてことのないデータだが、
初めて目にするエストーリオの衝撃はかなりのものだろう。
この世界にはまだ二点透視法などの技術も存在せず、ワルキュー
レ帝国にはものごとを絵で表現する文化がない。数字を視覚で表す
技術を持たない人たちにとっては、﹃たかが円グラフ﹄も驚くべき
発明になってしまうのだ。
618
これを使い、ディーネがやろうとしているのは、いわゆる﹃プレ
ゼン﹄というやつであった。
実はディーネは前世でプレゼンをやったことがないのだが、覚え
ている限りでは、恣意的な統計資料を使ってセールスポイントをキ
ャッチーに披露する感じでだいたい合ってたはずだ。たぶん。
﹁それは資金不足のせいもあるでしょうけれども、多くは聖職を驢
馬か何かのように売り買いしている方たちが禄を食いつぶして、仕
事は司祭たちに任せきりにしているからなのですわ。彼らからは職
を取り上げておしまいになるべきです、エストーリオ様﹂
シモニア
彼に渡した書類には、各種修道院の生々しい困窮や、聖職売買に
明け暮れる人たちの実態などが、これでもかというぐらい分かりや
すく書かれていた。
ディーネは四月からずっと教会に帳簿の提出などを呼びかけてい
たのだが、最終的に、協力してくれた教会はそこそこの数にのぼっ
た。僻地の、荘園を兼ねている修道院たちはその識字率の高さや、
様々な伝来技術を使って開墾をしてきた歴史から、一般の人よりも
帳簿をよく残していたのである。
紙の束に、エストーリオははじめ半信半疑の視線を向けていたが、
やがてハッとした顔で貪るように読みはじめた。
﹁なんですか、これは⋮⋮見たこともない絵図ばかりが⋮⋮﹂
﹁そちらは折れ線グラフでございます。まずは赤い折れ線をご覧に
なって。死亡税の導入により、各教会や修道院の資産が年毎に増加
しているのがひと目でお分かりでございましょう? 反対に、青い
折れ線のわたくしたちの収入は減っていて、橋や堤防の修理にも困
619
っている有様なのでございます﹂
﹁ええ⋮⋮それは、よく分かります﹂
ディーネは手を広げてみせた。
﹁ね? エストーリオ様。あの会計学は、こうして、無駄や不正を
暴くのにも有用なのでございます﹂
﹁これは⋮⋮確かに、分かりやすいですが、しかし⋮⋮﹂
﹁あの本が悪魔の書だなんてとんでもないのですわ﹂
ここが正念場だと、ディーネは声を張り上げる。
﹁あの会計学の本は、暗闇に叡知をもたらす光なのでございます!﹂
感情をこめた訴えを冷たくあしらうほど、エストーリオは非道で
はない。
どうやら本気でそう主張しているらしいディーネの迫力に負けて、
彼は押し黙った。
﹁父なる神に向けてすべてを告白するのと同じように、おのれの持
つ富と負債をあますところなく書きとめることに、いったいなんの
罪がありましょうか﹂
エストーリオは考えをまとめかねているようだった。ディーネの
説得には心情的に納得がいかないが、手にしている紙束の有用性は
痛感しているらしく、何度も行ったり来たりしながらグラフや数字
の中身を検討している。
﹁罪深いのはあの本ではございませんわ。あの本に限らず、すべて
の知識に言えることでもありますけれど︱︱知識は、それを悪用す
620
るものが罪深いのでございます、エストーリオ様﹂
そしてエストーリオの手が、色付きの紙のところまで進んだ。
﹁エストーリオ様。わたくしたちも、あなたがた教会の崇高な理念
にならって、取り立てた金額の四割を民のために用いるとお約束し
たら、お考えも改めていただけるかしら﹂
狙いすまして言い放った言葉は、確かにエストーリオの顔色を一
変させるだけの威力を誇った。
621
プレゼンをするお嬢様 2
﹁学校を新しく建設しようと思いますの。わたくしたちだけでもや
ってやれないことはありませんけれど、教会の皆さまがご協力くだ
さったなら、これほど心強いことはありませんのよ、エストーリオ
様﹂
彼らはもともと教育機関を持っている。神学を教える大学、貴族
の子女向けの修道院学校、はたまた街の庶民に読み書きを教える寺
子屋と形態はさまざまだが、その人員や組織を借りられるのなら、
普及にかかるコストがずっと安く済む。
﹁識字率︱︱領民のうち、文字が読めるものの割合のことを言うの
ですけれど︱︱わが領の識字率は、帝国語、方言、外国語問わず、
すべて合わせて二割以下ですわ。でも、これを数年以内に五割にし
てみせます﹂
﹁それに何の意味が⋮⋮﹂
農民の暮らしに読み書きや計算はさほど必要とされない。彼が言
いたいのはそのことなのだろう。
﹁文字が読めれば、法律が分かります。裏を返せば、わたくしたち
が今回布告した税の督促に対して、正しく理解できた農民がどれほ
どいるのかということなのでございます。おそらく、ほとんどの者
が布告の良しあしなどまったく理解しておりませんわ。でも、それ
は彼らの罪ではありません。知る機会を与えられなかったことが罪
622
なのでございます。うばっているのはわたくしたちなのです﹂
教育は子どもの権利。その意識が浸透するまでには、まだ時間が
かかるだろう。ひょっとしたらこの世界にはまだ必要ないのかもし
れない。それでもディーネは挑戦してみたかった。
過去の日本では身分に限らず誰でも字が読めたというし、やり方
次第なのではないかと思うのだ。
﹁畑に植えればいずれ麦が増えると分かっていても、その種を来年
まで取っておけずに食べてしまうのは愚かですわ﹂
教会が麦穂の例えを多用するのは、パンが神の身体を表現するこ
とにちなむ。
ディーネもそれにならうことにした。
﹁教育とは、いずれ実る穂なのでございます、エストーリオ様。そ
うと分かっていて食いつぶそうとする人たちを黙って見ているのは、
罪深いことなのではございませんか?﹂
ディーネは口を挟ませないよう、とにかく喋りつづけながら、彼
の様子を注意深く観察する。
彼の表情に否定的な色はない。ただ黙って話を吟味しているよう
に見えた。彼はまだディーネの話に興味を持っているようだ。うま
く行かなかったら、そこで切り上げるつもりだったが、これなら大
丈夫かもしれない。
ディーネはもうひと押ししてみることにした。
﹁エストーリオ様、どうかわたくしに協力してくださいまし。ゼフ
623
ィアの大司教主様のお力が借りられるのであれば、わたくしが考え
ているよりもはるかに多くの民を導けますわ﹂
エストーリオは手元の用紙をもう一度眺め、それからディーネに
目線をくれた。
冷たい印象の彼にそうされると心臓を刺されたような緊張に見舞
われる。
﹁⋮⋮真実の指輪にかけて、誓えますか?﹂
指輪を青く光らせることができれば、ディーネにかけられた異端
の疑惑は晴れ、さらにハリムも助け出すことができる。しかし、失
敗すれば今度は彼女が牢の中だ。
覚悟を決めて、ディーネは彼の足下にひざまずいた。
エストーリオに差し出された手の甲に、触れる。彼がかすかに身
を引きつらせた。彼はいまだにひとに触れる行為が恐ろしいのだろ
うかと、疑問が浮かびかけたが、ディーネだって怖いと思っている
のだ。構っている余裕はない。
﹁⋮⋮あなたが今しがた私にした告白は、すべて嘘偽りのない本心
であると誓えますか?﹂
﹁はい﹂
蛇のように温度のない手に唇を寄せ、指輪にくちづける。
︱︱真実であれば青く光るという指輪は、確かに理知と誠実の青
色を宿していた。
624
ほっとしたディーネがエストーリオを窺い見る。エストーリオは
まだ足りないと思ったのか、眉をひそめて再度口を開いた。
﹁あなたは嘘をついている。あなたが金貨に子を産ませようとして
いるのは己が為であり、私欲によって税収を増やそうとしている。
そうですね?﹂
﹁いいえ、教主様。私は︱︱﹂
﹁回答は、はい、と。それだけ答えてください﹂
イエスしか回答しちゃいけないなんて、嘘発見器みたいだと思い
つつ、ディーネは言われた通りにした。
︱︱指輪が裏切りを象徴する暗緑色に染まり、やがてビシリと大
きなヒビが入った。壊したのはディーネだ。彼女固有の魔術紋様が
刻まれている。
エストーリオは再会してから初めて、笑顔を見せた。神聖で侵し
がたい彼の雰囲気が和らぐ。
﹁⋮⋮変わりませんね、あなたは。昔のままです。あの頃と同じ清
廉な魂に触れられて、清涼な風が吹き込んできたかのようでした﹂
﹁教主様⋮⋮﹂
エストーリオは手にしている資料をめくる。
﹁この図には考えさせられました。私はたしかに、あなたがたの不
当な税の取り立てに怒っていたはずなのですが⋮⋮この図と説明を
見たら、とてもそれが不当なものではないと思えてしまって⋮⋮お
のれが恥ずかしくなりました﹂
625
氷のようだった彼の意外なほほえみに、ディーネは心を動かされ
そうになった。
﹁気づかせてくださったのはフロイライン、あなたです﹂
ディーネはコクリとのどを鳴らして、胸の前で手を組んだ。今な
ら、聞き入れてくれるかもしれない。期待に逸る気持ちを抑え、エ
ストーリオに問う。
﹁では、ハリムを解放してくださいますか?﹂
﹁ええ。それと、私にできることがあれば、ぜひ協力させてくださ
い﹂
彼の助力があれば、学校制度の普及はさらに一歩前進する。ディ
ーネは感激のあまり、両手を振りあげて快哉を叫びたい気持ちにな
ったが、どうにかこらえた。代わりに抑えきれなかった感謝が口を
つく。
﹁ああ、ありがとうございます、エストーリオ様! お慈悲に感謝
を、あなたに神の祝福があらんことを⋮⋮!﹂
﹁よしてください。どうか、昔のように、エストと﹂
﹁エスト様⋮⋮﹂
ほほえむ彼がまぶしい。
﹁⋮⋮あなたの家令には、地下牢に入ってもらっています。ご案内
しましょう﹂
﹁はい!﹂
思ったよりもずっとうまく行ったことに安堵しながら、ディーネ
626
は彼のあとについていくことにした。
627
プレゼンをするお嬢様 3
彼の先導で、牢番に鍵を開けてもらい、地下へと降りていった。
手にした燭台の明かりに照らされ、石の階段に影が長く伸びる。
ちょっと不気味だと思っていると、ふいに踊り場に出た。平らな道
が続き、右手に部屋でも作ってあるのか、ぽっかりと暗い入り口が
開いている。
﹁⋮⋮そういえば、ここですよ。魔術師イヴンの魔術工房は﹂
ディーネは驚いて、その奥を覗き見ようとした。
﹁活版印刷機を発明したっていう、あの⋮⋮?﹂
︱︱魔術師イヴン。数々の魔術書を書き記し、捕まった男。
彼はみずから発明した印刷機と著作物に魔法をかけて、自分の部
屋に封じてしまった。そのときにひとつの言葉を残したという。
︱︱私の印刷機はこの手で封印しよう。愚かな諸君らは、数百年
のときを暗闇のうちに過ごすがいい。
イヴンの印刷機はそこに確かに存在するのに、誰も手を触れられ
ない幻として、今もなお存在しているという。
その幻を気味悪がって、封印するような形で建てられたのが、こ
のゼフィア大聖堂なのだ。
628
﹁さきほどの学校建設に関する資料でも、本代について憂慮する項
目がありましたね﹂
﹁そう、そうなんです!﹂
ディーネがパパ公爵の言いつけに逆らい、ひとりで出奔してまで
エストーリオとの協力関係にこだわった理由は、ここにあった。
このゼフィア大聖堂に封印されている印刷機があれば、本代を劇
的に安くあげることができると資料にも赤字強調で書いておいたの
である。
いくら先進的な魔術師だったからといって、百年前の人間だ。時
とともに世界の魔術レベルも進歩している。彼がかけた封印に、そ
ろそろ追いついているかもしれない。たとえ解けなかったとしても、
形状だけでも分かれば大いに参考になることだろう。この世界の機
械技術のレベルは十分といえるものだし、真似することだって不可
能ではないはず。
ただし、それには誰か、高位聖職者の協力が不可欠だった。いっ
たんは異端として葬られたものを、ふたたび使えるようにするには、
誰かの承認がなければいけない。
﹁⋮⋮﹃教育はいずれ実る麦穂﹄ですか。あなたの言葉には感銘を
受けました。私はこれまで、この印刷機についても、信徒たちをい
たずらに惑わせ、悪魔の思想をはびこらせるものだと思っていまし
たが⋮⋮使い方次第、との話には、実にその通りだと、おのれの過
ちを気づかされました。あなたには感謝しなければなりませんね。
気づかせてくださって、本当にありがとうございます﹂
エストーリオにありがたやと言わんばかりの仕草で聖具の形の祈
629
りを切られてしまい、ディーネはちょっと照れくさくなった。
﹁いいえ、そんな⋮⋮エスト様なら、きっと分かってくださると信
じておりましたから﹂
﹁ありがとう。やはりあなたは、あの頃と変わらず、やさしいお嬢
さんなのですね﹂
﹁エスト様こそ⋮⋮あの頃親切にしていただいたことは、わたくし
にとってとても素敵な思い出のひとつなのでございます﹂
エストーリオとほほえみ合いながらも、ディーネの意識は部屋の
入り口のほうにどうしても行ってしまっていた。
印刷機。いったいどんな形をしているのだろう。そわそわしてい
るディーネの心中を読んだかのように、エストーリオがくすりとほ
ほえんだ。
﹁⋮⋮よかったら、一度ご覧になりませんか?﹂
﹁いいんですか!?﹂
﹁ええ。でも、お静かに願います。一応は異端として葬られたもの
ですから、あまり大っぴらに開陳できないのです﹂
それはその通りだ。いくらエストーリオが大司教主だとしても、
否、大司教主だからこそ、異端の技術に対しては慎重にならざるを
得ない。
エストーリオが封印を解除するための魔術の構成を作り上げ、入
り口を開いた。すると、それまで阻まれていた部屋の扉が見えるよ
うになった。
︱︱この世界には他人の技術を盗んで模倣することを禁じる特許
の概念などもまだ存在しない。
630
だからこそ、先進的な研究をする魔術師の多くは、自分の工房や
作った道具にさまざまな封印を施す。
エストーリオが入り口の鍵を、手持ちの鍵束から選び出して開い
た。うながされたディーネが入る。百年前の大魔術師の工房は、奇
妙な小道具だらけだった。ガラス管や天文時計、コンパス、六分儀、
薬草、不思議な魔物の標本、魔法石の結晶⋮⋮真っ黒な天蓋や黒檀
の家具による室内装飾。
エストーリオは奥にある続き部屋の扉の鍵も開けた。
﹁どうぞ。進んでください﹂
奥の部屋がどうやら製本用の場所だったらしい。印刷機がずらり
と六台ほど並んでいた。単語ごとに分類された活字も壁を埋め尽く
すくらいたくさんある。
﹁わあ⋮⋮!﹂
触れてみようと伸ばした手は、空しく素通りした。ホログラムか
何かのように、そこにあるのに﹃触れない﹄。あいにく、魔術に関
してはエリートのクラッセン嬢にもまるで分からない魔術であった。
﹁不思議でしょう? そこにあるのに、触れないんですよ﹂
エストーリオは何気なく同じ部屋に入ってきて、戸口に鍵をして
しまった。重たい魔力のうねりがして、外の気配が完全に遮断され、
入り口が完全に閉ざされる。
ふいに息苦しい感覚を覚えて、ディーネはのど元に手をやった。
631
酸素が薄いのだろうか。そうだとしたら大変だ。密閉された地下空
間で酸欠になったら比較的早くに死に至る。
不安になって魔術の炎を生み出そうとし︱︱何も出ないことに気
づく。
﹁魔術は使えませんよ。ここは完全にシールドされているんです﹂
完全封印。銀や魔銀などの魔術を遮断する素材を使って、功久的
に効果の及ぶ魔法陣を隙間なく張り巡らせた空間のことだ。とんで
もなくお金と手間暇がかかるので、めったに作られることはない。
その一歩手前の疑似封鎖空間や、広範囲にジャミングをかける魔術
封印ぐらいなら、牢やお城の本丸などに使われることもあるが。
そしてエストーリオは、美しい顔に酷薄な笑みを浮かべた。
﹁⋮⋮捕まえた﹂
632
プレゼンをするお嬢様 4
︱︱捕まえた。
確かにエストーリオはそう言った。
ディーネは場違いな冗談に耳を疑ったが、エストーリオの笑顔を
見てただごとではないと感じ取り、尋ね返す。
﹁⋮⋮エスト様?﹂
﹁もう、逃がさない︱︱﹂
︱︱捕まえた。逃がさない。
彼がそう繰り返すのは、つまり︱︱この魔術禁止の空間に閉じ込
められたからなのだとようやくディーネが察した瞬間、彼は氷のよ
うな冷たい目をディーネに向けた。
﹁⋮⋮ここは魔術が禁止なんです。これがどういうことか分かりま
すか? フロイライン﹂
いや、冷たいのは瞳だけで、頬はうっすらと上気しており、興奮
の兆候を見せ始めている。
﹁申し訳ありません、まったく分かりません⋮⋮﹂
思わず弱気になりながら、ディーネは吐き気を抑えきれない。こ
のねっとりと絡みつくような気持ち悪い喋り方が彼女の前世で見聞
きした何かを連想させたが、しかし、それが何なのかがはっきりと
633
思い出せない。
すると彼はなぜか笑い始めた。怒るのでもなく、とがめるのでも
なく、おかしそうに笑う彼に、ディーネは改めて鳥肌が立った。
﹁ふふ、ふふふ。増税︱︱? 異端の本︱︱? そんなもの、どう
だってかまわないんですよ﹂
エストーリオはとろけるような︱︱しかしどこか焦点が合わない
まなざしで、ディーネを見ている。
恍惚とした表情。そこに宿る一片の暗さ。この目つきを、ディー
ネはどこかで見たことがあるような気がしてならなかった。
﹁あなたはあの男と結婚するのが嫌なんだそうですね?﹂
彼が言っているのは、ジークラインのことだろう。
なぜ彼がそのことを知っているのだろうと考え、ハリムから得た
知識だということに思い至る。
﹁それでしたら、私もひとつ協力してさしあげようかと思うのです
が、いかがですか?﹂
﹁どういうこと⋮⋮﹂
﹁ひとつ、いい方法があるんです。お任せいただければ、必ずあの
男との縁を切ってさしあげますよ﹂
エストーリオの美しい微笑みに、一瞬返す言葉を忘れそうになる。
﹁⋮⋮どうしてエスト様がわたくしにそこまでしてくださるのかが
分かりませんわ﹂
634
﹁あなたを愛しています。初めてお会いしたときから、ずっとお慕
いしておりました﹂
ディーネは違和感を覚えて、首をひねった。
﹁⋮⋮初対面のわたくしは⋮⋮たしか十歳くらいだったかと⋮⋮﹂
﹁魂の不滅性を思えば、肉体の枷などさしたる問題ではありません。
ですが、あなたは神がかくあれかしと願ったかのごとき理想の美そ
のものですね、私のかわいい人﹂
︱︱はい?
困惑しているディーネをよそに、エストーリオはやや声を高めた。
﹁あなたがそばにいるだけで、空気さえもが浄化されているように
感じます。ただそこにいてくださるだけで癒しと勇気を与えてくれ
るだなんて、なんて尊いのでしょう⋮⋮あなたは本当に清らかで心
優しくて温かくて⋮⋮初めて会ったときから私はずっとあなたに焦
がれていました⋮⋮あなたのような方が伴侶になってくれたら、こ
れほどの幸福はないのにと⋮⋮﹂
︱︱あっ、これ⋮⋮
ディーネにはそろそろ分かってきた。このダメな感じ。
それからエストーリオはふとうつむいた。
﹁でも、あなたはあの男に心酔しているようでしたから⋮⋮それが
あなたの幸せならばと、いったんはあきらめようとしたのです。で
すが、ゼフィアの地方代官の事情聴取から、あの頃のあなたとは思
えぬような行動の数々を聞かされて、いったいあなたの身に何が起
きたのかと、気になってしまって⋮⋮私が愛したあの優しい少女は
635
もういなくなってしまったのかと思うと、夜も眠れないほど苦しみ
ました。真相を確かめようにも、あなたは会ってもくださらなくて
⋮⋮﹂
そしてこの、一方的な長い台詞である。
﹁ハリムと言いましたか。彼からあなたのことを聞き出したときに、
確信しました。やはりあなたはあの男との結婚に苦しめられていた
のですね。あの頃のあなたもそうでした。皇太子妃に︱︱ゆくゆく
は国母になるようにと義務付けられたおのれの運命を呪っていまし
たね。とても苦しんでいるあなたを見て、助けてあげられないかと
よく思っていたものです﹂
︱︱なんで、そこまで?
思わずそう問いただしたくなるような思い込みの激しさ。ほとん
ど赤の他人であるディーネに抱く関係念慮。
﹁もう大丈夫ですよ。私があなたをお救いしてさしあげます﹂
キラキラした美しい笑顔で言われてしまって、ディーネはゾッと
した。
おののきとともにようやく悟る。
︱︱これはもしかして、伝説の⋮⋮!
ヤンデレだった。
﹁いやあああああああ! あああああ︱︱ッ!﹂
ディーネは錯乱気味に後ずさった。突如あがった悲鳴に、さしも
636
のエストーリオもいぶかしむ。
637
プレゼンをするお嬢様 5
﹁ごめんなさいいいいいい! 悪いところがあったら謝りますから
ーッ!!﹂
ヤンデレは、ディーネが一番苦手とするタイプだった。記憶が戻
る前︱︱クラッセン嬢の時代に彼女自身もジークラインに長い手紙
を送りつけたりした記憶があるからこそ、なんとなく分かってしま
うのだ。彼の一方通行な愛情がどうしようもなく止めようがないこ
とが。
好きなものは好き。もうどうしようもない。自分で分かっていて
も歯止めが効かない。
狙いをつけられたら最後。
この世でもっとも恐ろしいストーカー型の魔物に人の知性を備え
たものが、ヤンデレだった。
﹁出してー!! 今すぐここから出してー!!! お母さまー!!
お父さまー!!!﹂
扉にかけより、ダンダンダン! と必死に叩く。魔術的な封印が
してあるせいか、びくともしなかった。
足音もなく、ひたりと真後ろに立たれた気配がして、ディーネは
凍りついた。
怖くて、とても後ろを振り返る気になれない。
638
﹁⋮⋮可哀想ですが、出してさしあげることはできませんよ。あな
たはこれから、死んだことになるのですから﹂
﹁どうして⋮⋮そんなこと、お父様たちが許すはずが⋮⋮﹂
﹁罪状は異端。証拠はこの指輪です﹂
肩越しにちらりと振り返ると、エストーリオの指に嵌まったまま
の壊れた指輪が目に入った。先ほどの質問は罠だったのかと、ディ
ーネは呆然としてエストーリオの晴れやかな笑顔を見つめた。
﹁それじゃあ、全部、最初から計画通りってこと⋮⋮? 私と会話
をしながら、エスト様は、ずっと私を罠にはめるチャンスを窺って
いたと⋮⋮?﹂
ハリムを捕まえたのも、ギーズを捕まえたのも、すべてはディー
ネが目的だったということなのか。
﹁⋮⋮ハリムは無事なの⋮⋮?﹂
ディーネが婚約破棄を狙っていることは、ハリムをはじめとした
一部の人しか知らないことだ。それをエストーリオが知っていると
いうことは、どこかの段階でエストーリオは、ハリムの記憶を読ん
でいるはず。それも、拒否する彼から無理やりに。
エストーリオははぐらかすように、にこりと微笑んだ。場違いな
笑みだった。なんの回答にもなっていない。
﹁⋮⋮ハリムに何かしたら、わたくしは絶対にあなたを許しません
わ!﹂
639
ディーネの怒りに触れて、エストーリオは少し戸惑った。この頭
のおかしい男にも、彼女の怒りが少しは通用するのだと知って、暗
闇に小さな明かりを見た思いになる。
﹁この期に及んでご自分のことよりも他人の心配をするなんて⋮⋮
やはりあなたはご自分を犠牲にしてでも人に尽くそうとする方なの
ですね﹂
︱︱私の何を知ってるっていうのよ⋮⋮!
ディーネは彼の言うこと全部を否定してやりたくてたまらなかっ
たが、今はそれよりも、考えなければならないことがある。
︱︱どうにかしてここから抜け出さなければ。
﹁エスト様、聞いてくださいまし﹂
時間稼ぎの言葉を継ぎながら、ディーネは頭をフル回転させた。
﹁心配してくださって、ありがとうございます。でも、おあいにく
ですけれど︱︱﹂
完全密閉の部屋といえど、どこかに穴を開けられれば、少しは魔
力が通じるようになるはず。ではどうやって穴を開けるのか、とい
うことになってくる。穴を掘るのか、魔法を使うのか?
﹁たとえジーク様と別れたとて、わたくしがエスト様と添い遂げる
ことも絶対にありませんわ﹂
エストーリオは悲しげにうつむいた。
640
油断なく警戒しながらディーネは脱出の糸口を図る。この空間で
はどうやら魔法が扱えないらしい。となると物理的な手段に頼らざ
るを得なくなる。エストーリオは空間を開閉するための鍵を持って
いるようだし、どうにか奪い取ってしまうことはできないものか。
﹁ええ。今はそうでしょうね﹂
﹁わたくしは誰のものにもなりません。ジーク様とも、エスト様と
も、一緒の未来は考えておりませんわ﹂
﹁いずれ、そうせざるを得なくなりますよ﹂
遠慮がちな微笑みと、奇妙な憐れみを含んだ断定がディーネをイ
ラつかせる。
﹁あなたに服や食べ物や、生活必需品を世話するのは私ですからね。
あなたは心優しい人ですから、いずれ私を受け入れてくださると信
じています﹂
︱︱監禁して判断力を失くすように調教するつもりか。
おとなしそうな顔をしてなかなかえげつないことを考えるなと、
ディーネはヤンデレの底力に感心した。
﹁わたくしはエスト様が思い描いているような女ではございません
わ﹂
時間稼ぎを口にしながら、あたりの空間を探る。知覚できるだけ
の魔法陣の構成を読んでいく。
この部屋にかけられた魔術禁止の封印は、どうやら魔法的な絶縁
体で保護した内側において、魔術師の魔力の生成を阻む術式のよう
だ。先ほど作りかけた火の魔法は今一歩のところで魔力が湧いてこ
ず、構成の途中で失敗したが、魔法石の手助けがあれば、最後まで
641
構成しきって、通電させられそうな手ごたえはあった。
部屋の入口にドアがある。内側から開ける方法はエストーリオが
持っている鍵のみのようだ。両方とも同じ鍵で開くらしい。
﹁わたくしは自分の意志で行動できる自由がほしかったのです。他
人に強いられた人生などもう結構なのでございます。それがたとえ
ジーク様からであれ、エスト様からであれ⋮⋮﹂
魔法石。この部屋のどこかに転がっていないだろうか。
魔術師の工房なのだから、ひとつくらいはありそうなものだが。
魔法石のかけらでもいい、見つけ出すことができれば、ディーネ
にも簡単な攻撃魔法が使える。体格で勝るエストーリオから鍵を無
理やり奪い取ることだって可能なはずだった。
﹁ジーク様は、わたくしが婚約破棄を願い出ても、決して何事も強
いたりなさいませんでしたわ。でも、エスト様のやりようはいかが
ですの? わたくしの意志を無視して、閉じ込めて︱︱これではあ
なたを好きになることなんてできません﹂
たとえここを出してもらえたとしても、今日の一件でディーネの
中に根付いたエストーリオへの不信感は消えないだろう。
不信や憎しみが渦巻くディーネの心中を、彼は避けることができ
ない。生まれ持った読心の神力が強すぎるせいで、嫌でも直面させ
られてしまうのだ。
﹁⋮⋮これは、あなたのためを思ってしたことですよ。フロイライ
ン。あなただってあの男からの解放を望んでいたはずです。私には
642
しかと見えました﹂
﹁勘違いですわ、エスト様﹂
ぴしゃりと言い切ると、エストーリオはなんとも言えない顔をし
た。
﹁もう、慣れました。人に嫌われることも、厭われることも。私は
どう思われても構わないのです︱︱﹂
話しながら、何気なく真実の指輪に触れているエストーリオの指
先を見ていて、ふと気がついた。あの青い宝石は、魔法石でできて
いたはずだ。ひびが入っていても、あの大きさならまだまだ使える
はず⋮⋮
あれを使って、エストーリオに攻撃ができないだろうか? 行動
力をほんの少し封じられればそれでいい。雷撃? 炎? 捕縛? それとも使い慣れた氷?
︱︱氷だ。失敗は許されない。正確に決めなければ。
643
プレゼンをするお嬢様 6
指輪の石に触れて、思考を読み取られるよりも早く構成を完成さ
せる。
ディーネは覚悟を決めて、彼のふところに飛び込んだ。驚く彼の
ス
手首をつかみ、行動不能にしてから、指輪に触れる︱︱触れるつも
りだったのに、あと少しのところで手首を引かれ、失敗した。
﹁それをっ、よこしなさいっ⋮⋮!﹂
トラ
ぞろりと長い彼のローブをダン! と踏みつけ、首に巻かれた襟
巻きを力の限り引っ張り上げる。野蛮な扱いなど生まれてこの方一
度も受けたことがないであろう高貴なエストーリオは怯み、女性相
手に同レベルの暴力を振るう気にもなれないのか、反撃に躊躇して
いる。
指からリングを引っこ抜き、無理やり指輪を奪い取った。何千回
と使い慣れたおなじみの氷の魔法を瞬時に展開しようとしたが、僅
差でエストーリオに意図を読まれてしまい、つかみかかられて押し
倒される。拍子に手から指輪がこぼれ落ちた。
床にはいつくばって転がる指輪を追いかけ、先に手にしたのはエ
ストーリオだった。不意を打たれた戸惑いから回復したのか、ディ
ーネはかなりしっかりと床に押しつけられ、固定されてしまい、完
全に身動きが取れなくなる。
644
﹁⋮⋮いけませんね。いたずらが過ぎますよ﹂
息を荒げて、いささか不機嫌そうに言うエストーリオに、ゾクリ
と身の危険を感じた。しかしマウントを取られてしまってはどうに
もならない。
覆いかぶさる彼の真っ直ぐな銀髪が、さらりと流れて頬に触れた。
かゆいし、他人の頭髪なんて気持ち悪い。
﹁痛い思いをするのがお好きなんですか? お望みなら、そうして
あげてもいいですが。もう少し考えて行動されたほうが賢明ですよ。
私の機嫌を損ねても、あなたが不利になるだけでしょう?﹂
脅しの仕方まで気持ちが悪く感じて、ディーネはそのまま気を失
いそうになった。
﹁⋮⋮人の心は、うつろいゆくものですよ。今あなたが頑なだった
からといって、未来にわたってそうであるとは限らない。ご自分を
大切にされることです、フロイライン﹂
この男は、まだディーネが自分を受け入れるとでも思っているの
だろうかと、底冷えするような胸のうちで思った。ここが魔術禁止
でなければ、﹃勘違いもいい加減にしろ﹄と彼の能力で直接伝えて
やれたのに。
ディーネはふと、手を伸ばした。指輪を取られることを恐れてか、
彼が上体を起こして逃げる。その胸に、ぴたりと手のひらを当てた。
とたん、びくりと彼がすくみあがるのを見て、何かがピンと来る。
﹁⋮⋮? 何を⋮⋮﹂
645
ディーネは遠い昔の記憶を手繰り寄せる。まだ彼がクラッセン家
の屋敷に招かれていた頃、遊び半分に神力の使い方を教えてもらっ
たことがあった。ごく簡単な術式であれば、今だって使える。
それを、逆さに構成するようなイメージを思い描いた。つまり、
ディーネが彼の心を読み取るのではなく、彼女の心をエストーリオ
に読み取らせるような構成で︱︱
魔力の通電は、彼が手にしている指輪からスッと入ってきた。
ディーネはありったけの思念力を使って叫ぶ。簡単な構成なので、
強い思念しか届かないのだ。
︱︱あなたなんて大嫌い!
さきほどからずっとストレスが溜まっていたので、かなり強力な
悪意の塊になった。
いきなり流し込まれたディーネの本音に、彼はショックを受けて
固まった。
そのすきに彼の腰帯から吊るされている鍵の束をむしり取る。
エストーリオはまだ動けない。
﹁いけません、フロイライン︱︱﹂
取り返そうとしてくる彼にもう一度先ほどの構成をかけようとす
ると、彼は怯えて後ずさった。やはり彼は、人に触れることを恐れ
ている。そこから悪意を直接ぶつけられるのが怖いのだ。それが唯
646
一心安らげる相手と勝手に認識していたディーネ相手なら尚更、受
けたショックはどれほどのものか。反射的に身を引いてしまったと
しても、彼を責められない。
扉に取りすがり、古い鍵から開錠を試みる。二本目、三本目で開
いた。
外と隔離され、息苦しいほどだった魔術的な圧が解けて、魔力が
正常に流れ込んできた。ほっとして力が抜けたディーネから、エス
トーリオは慌てて鍵を回収する。手が触れ合い、離れた。
︱︱魔力の流れがあるところで、異性に触れたのだ。
﹁観念してくださいましね、エストーリオ様﹂
からくりが分からない彼は、鍵を回収できたことで安堵している
ところにそう言われ、眉をひそめた。
ディーネは腕を広げて、今度は自分から彼に抱きついた。急にべ
ったりと密着されて、エストーリオは再び身体を硬くした。魔力が
ある場所での接触は、彼にとっては恐怖の対象なのだとよく分かる
反応だった。
ディーネには魔法の刻印があって、婚約者のジークラインとつな
がっている。きっとすぐにでも来てくれるはずだ。ディーネがそう
考えていることも、エストーリオの能力で残らず彼に伝わっている
ことだろう。
ディーネから流れてくる情報にめまいがしたのか、エストーリオ
は急に額を押さえたかと思うと、押し殺した声をあげた。
647
﹁⋮⋮フロイライン⋮⋮あなたは⋮⋮!﹂
ハッとした彼がディーネにつかみかかる。
早く来てくれるようにひたすら念じながらディーネが身体を硬く
していると、遠距離からの来訪を示す、神々しいまでに美しい魔法
の構成が見えた。渦巻く雲が登り龍となったかのような、何層にも
及ぶ立体構成。これほど精密で巨大な構成をたったひとりでミスな
く練り上げられる男はひとりしかいない。
大聖堂がミサの時間に突入したのか、耳をすませば遠くから荘厳
な宗教歌とアンジェラスの鐘が聞こえてくる。地下道の階段を震わ
せるその反響の中で、ジークラインはどこからともなく吹き込んで
きた風に髪をいい感じに乱されながら地下空間に降り立った。本来
なら地下に風が吹き込むはずはないのだが、彼ほどの男の登場とも
なると物理法則のほうが空気を読んでねじ曲がり、風のひとつも吹
かせてしまうのである。
﹁ジーク様っ⋮⋮!﹂
謎の向かい風に吹き晒されたジークラインは、鬱蒼とした髪型の
すき間から鋭い視線をくれた。それだけでディーネの中に眠るクラ
ッセン嬢としての記憶の部分が浮かれて騒ぎ出す。そう、いつだっ
て彼はディーネが困っていれば必ず来てくれるのだと再確認し、喜
びがぶわりと芽吹いた。
648
プレゼンをするお嬢様 終
ジークラインはディーネにではなく、彼女がしがみついていた真
っ白な法衣の男のほうに目線をやった。見ようによってはディーネ
がジークラインに隠れて逢引きしている図にも見えるはずなのだが、
ジークラインはひと目で他人の精神状態も含めて見抜くほどの男な
ので、そういったややこしい誤解はしなかった。瞬時に状況を理解
し、表情を険しくする。
﹁てめえ、見覚えがあんな。教皇んとこのガキじゃねえか﹂
ディーネは空気が読める女なので、ジークラインのほうがはるか
に年下だというツッコミはしないでおいた。
﹁まだ懲りてなかったのか。よっぽど死にたいらしいな、坊ちゃん
よ﹂
長身のジークラインは手狭すぎる地下の入口を苦労してくぐり、
なんなく華奢なエストーリオの腕をひねりあげた。
くぐもったうめき声を発するエストーリオに向けて、宣言する。
﹁指と、爪と、腕の骨と、どれがいい? 好きな部位を選ばせてや
る﹂
﹁ちょっ⋮⋮ジーク様、何をなさるおつもりですのん⋮⋮?﹂
動揺のあまりちょっと変な訛りが出たディーネに、ジークライン
はこともなげに答える。
649
﹁決まってんだろ? ケジメだ﹂
﹁ヤクザか!﹂
ジークラインといいパパ公爵といい、軍人は血の気が多くて困る。
﹁わ⋮⋮わたくし、乱暴なのはよくないと思いますわ!﹂
﹁心配すんな。俺はこいつらが崇めてる神と同じぐらい治療に精通
してるからな。なんの痕跡も残さねえよ﹂
﹁な⋮⋮治してあげるんだ、一応⋮⋮﹂
﹁ただ、なあ? だいたいどいつも五回を超えたあたりで泣きなが
らもう許してくださいっつーんだよなあ。情けねえよなあ、なあ、
坊ちゃん? てめえは特に根性なさそうだしなあ、二回も耐えられ
たら褒めてやる﹂
﹁ごっ⋮⋮拷問⋮⋮! ジーク様、それではどちらが悪者か分かり
ませんわ!﹂
﹁あん?﹂
ジークラインはかなり嫌そうな顔をした。
﹁ディーネ。こいつはな、ガキのお前に妙な探索魔法くっつけて監
視してやがった野郎なんだぞ﹂
﹁ス、ストーカー!!﹂
全然気づかなかった。エストーリオはその頃からもう腐敗してい
たのか。悲しい新事実である。
﹁よう変態、まだ女の趣味は変わってなかったのか? 頭の中身が
成長しねえってのも不幸だなあ、おい?﹂
﹁くっ⋮⋮離せ⋮⋮!﹂
650
﹁ほざくな。この俺の女に手を出したんだ、帝国内の全教会を瓦礫
と消し炭に変える覚悟はできてるよなあ? 言っておくが、楽には
死なさねえよ。聖人としての名をこれ以上ないぐらい辱めてから直
火焼きにしてやる﹂
そんな無茶な、とディーネは思ったが、ジークラインほどにもな
ると物理的に実行可能なのでなんとも言えない。
﹁はらわたを引きずりだして、切り刻んだ自分の肉が詰め込まれて
いくところを見学させてやってもいいぞ。どうする? 坊ちゃん。
・・・
俺の回復魔法は折り紙つきだからな、そこまでやっても餓死するま
では生き続けられるぜ。自分の肉を食って生きながらえるなんて最
高だろう?﹂
クラッセン嬢として生きてきた記憶の部分が悲鳴をあげている。
︱︱こんなに怖いジーク様見たことない。
ディーネもそっくり同意見だった。
﹁あ⋮⋮あの、ジーク様、脅しにしてもちょっとコワすぎ⋮⋮もう
そのくらいで⋮⋮﹂
﹁ディーネ﹂
静かに名前を呼ぶジークライン。
怒鳴られるよりかえって怖いと、ディーネは思った。
﹁これは婚約者に無礼を働かれた帝国皇太子としてのケジメだ。い
くらお前の頼みでも聞いてやれねえな﹂
やさしく絵本でも読み聞かせるように説かれて、ディーネはます
ます鳥肌が立った。
651
﹁だがまあ、俺の婚約者どのを怯えさせるのは忍びない。ここでは
これ以上追及しないでおいてやる。命拾いしたな、坊ちゃん?﹂
エストーリオはまだ闘志を失っていないのか、瞳に殺意を浮かべ
て、ジークラインをにらんでいる。
ディーネは大変な予感に心の底から震えあがった。このままにし
ておいたら、そう遠くないうちに帝国と教会の間で戦争が起こりか
ねない。ぶつかり合う両雄はかたや皇太子、かたや教皇の甥。途方
もない戦争になりそうだ。
なんとかしなくてはと必死に頭をひねり、ディーネはひとつ思い
ついた。
﹁そ⋮⋮それでしたら、わたくし、もっとひどい拷問方法を存じて
おりますわ。ジーク様﹂
﹁お前がか?﹂
苦笑するジークラインに、ディーネはさらに言い募る。
﹁エスト様は、神力が強いお方なんです。人の心を読むのがとても
得意なのですって。そんなエスト様が、ジーク様が実際にご経験な
さった拷問の記憶を覗き見ることになったら⋮⋮﹂
﹁なるほど。直接経験させるより堪えるかもしんねえな。回復魔法
かける手間もかかんねえ﹂
﹁それで⋮⋮﹂
ディーネはエストーリオに聞こえないよう、そっとジークライン
に耳打ちした。ややあって、事態を呑み込んだジークラインが面白
そうににやりと笑う。
652
﹁⋮⋮なるほどな﹂
そしてジークラインは、何をされるのかが分からずいたずらに彼
をにらみつけているエストーリオの頭をがしっとつかんだ。
﹁謹んで受け取れよ、俺の婚約者どのが考えた特別製の拷問だ﹂
そして流し込まれたイメージにエストーリオはびくん! と肩を
震わせ、限界まで目を大きく見開き⋮⋮
瞳から、大きな涙をはらはらと流した。
そのまま、気を失って倒れてしまう。
﹁お。てきめんに効いたな﹂
他人の精神状態も魔力の流れなどから読み取るジークラインがそ
う言ったということは、本当に効果があったのだろう。
ディーネが提案したのは、クラッセン嬢がいかにジークラインを
好いていたかの記憶を流し込んでやったらどうか︱︱というものだ
った。執着対象が自分以外の異性と仲良くしている場面を見せつけ
られて耐えられる恋愛型ストーカーは存在しない。
結果として肉体を傷つけられるよりも激しい苦しみに苛まれて、
エストーリオは気を失ってしまったようだった。
﹁ジーク様、このぐらいにしておいてさしあげるべきですわ。わた
くし、まだこの方には何もされておりませんし﹂
653
結果だけ見れば、ディーネは閉じ込められて、少し脅しをかけら
れただけだ。指一本触れられていない。
﹁それに、今の帝国と教会が対立したら、世界的な戦争に発展しか
ねませんもの﹂
ジークラインはしばらく嫌そうな顔をしていたが、やがて全身を
脱力させた。
﹁⋮⋮だいぶ物足りねえけど、お前のツラ見てたらどうでもよくな
ってきたな﹂
力強い腕に抱きとめられ、ディーネは飛びあがりそうになった。
顎を捕えられ、有無を言わさず上を向かされる。
﹁大事ないか﹂
﹁はっ、はい⋮⋮﹂
﹁あんま心配させんな、馬鹿﹂
ぎゅうぎゅうと抱きつぶされても、ディーネには逃られない。
そのうちに身体から力が抜けた。
エストーリオに閉じ込められてもちっとも怖いと感じなかったの
は、心のどこかで絶対にジークラインが助けてくれると確信してい
たからだ。彼の心配や動揺をじかに感じ取れて、ディーネは大きな
安心感に包まれた。
﹁お前の主張にも一理あるし、今回はこれで勘弁してやってもいい
ぜ。ただし﹂
﹁ただし⋮⋮?﹂
﹁わざわざこの俺を巻きこんだトラブルを起こしたお前の落ち度に
654
ついて、ちっと話をしようじゃねえか﹂
ディーネは激しい説教の嵐を予感して、ビシリと硬直した。
655
ケジメをつけるお嬢様
ディーネはゼフィア大聖堂からハリムとギーズを回収し、ジーク
ラインとともにクラッセン家の屋敷に帰宅した。
突然の事態に、まだディーネが脱出していたことにすら気づいて
いなかったパパ公爵はたいそう仰天していたが、ジークラインがう
まくとりなしてくれたので大した騒ぎにはならずに済んだ。
ハリムとギーズは目立った外傷もなく、無事だった。
﹁ねえ、本当に大丈夫? 何にもされなかった?﹂
教会の、異端者に対する追及は厳しい。審問ともなると、通常は
大変な拷問を伴う。なので彼らもエストーリオから何かされたので
はないかと気が気ではなかったのだが、ふたりは口をそろえて何も
なかったと答えた。
﹁いえ、こんなによくしていただいて、かえって私としては戸惑い
ましたが⋮⋮﹂
そう言ったのはハリムだ。ワルキューレ帝国内ではまだまだ司法
制度が未熟なので、牢での待遇が支払う賄賂⋮⋮でなく、保釈金に
よって変わる。それは教会も例外ではなかった。公爵家が投資を惜
しまなかったので、ハリムもギーズも血色がよく、着ている服も毛
皮でふさふさしているのだった。
656
﹁エストーリオ様にひどいことされなかった?﹂
﹁いえ、とくには⋮⋮﹂
﹁やけに体に触られたりしなかった?﹂
ハリムはしばらく斜め上を向いて考えていたが、やがて深刻な顔
で口を開く。
﹁⋮⋮そういえば⋮⋮やけに手を握ってくるとは思いましたが⋮⋮﹂
﹁やっぱり? でもね、安心して? あの方はそういう趣味ってわ
けじゃないの。人より神力が強いだけなのよ。尋問の一環なの﹂
﹁ああ、それで⋮⋮﹂
﹁それ以外には何もなかった?﹂
﹁大丈夫です。心配してくださりありがとうございます﹂
ディーネは一安心した。ハリムにヘンなトラウマが残ったら大変
だと思っていたが、この様子だと大丈夫そうだ。
︱︱そして人払いが済んだディーネの自室で、彼女は床に正座し
ていた。
えらそうな姿勢でソファにふんぞり返ったジークラインが、けげ
んそうな顔でディーネを見る。
﹁⋮⋮なぜ床に座る?﹂
﹁いえ、その⋮⋮ケジメですわ﹂
ディーネはなるべくしょんぼりと答えた。
しょぼくれている姿を見せつけることによりジークラインの怒り
を早く解こうという作戦である。
ちらりと上目遣いに彼を窺い見る。
657
ジークラインはディーネのお気に入りのソファに、我が物顔で座
っている。身じろぎに合わせて揺れる羽根飾りやラメ入りの緞子は
まことに華やかで、豪華な衣服に飾り立てられた彼の存在そのもの
が、この世のものとも思えないほど美しい。
対するディーネは、まだ巡礼客風の地味な旅装を解いていなかっ
た。そのせいか、余計にみじめったらしく見える。
﹁⋮⋮チッ。んなとこ座ってねえで、こっちに来い﹂
﹁いえ、わたくしはここで結構⋮⋮﹂
﹁いいから来な﹂
ディーネは思い悩む。差し出された手を取ってしまったら、あま
り愉快なことにはならなそうだ。
そんな彼女の顔色を読んだように、ジークラインが呆れた声を出
す。
﹁何も取って食いやしねえよ。そこにいられると気分が悪い。俺の
機嫌を損ねたくないんなら、さっさと来な﹂
仕方なく、ディーネは近づいていって、ふたりがけのソファの隣
に座った。ちょっと警戒した風情のディーネを見て、抱き寄せるつ
もりだったのだろうか、ジークラインは伸ばしかけた手を引っこめ
る。
微妙な顔色の読み合いに、ディーネはだんだん気恥ずかしくなっ
てきた。勢いでキスまでしてしまったのはつい先日だ。隣り合って
いるだけでもピリピリと違和感を覚えてしまう。
658
﹁⋮⋮さて、まずは事情を話してみろ﹂
ディーネはかいつまんで説明した。増税を巡って教会ともめたこ
と。教会の実力者、ゼフィア大聖堂の主・エストーリオの特別な神
力で、本来なら拘束されるはずもない部下がふたりとも捕まってし
まったこと。
エストーリオならば旧知の仲なので、ディーネなら説得して仲間
にできそうだと思ったこと。パパ公爵に反対されて、ひとりで乗り
込んでいったこと。
ひと通り聞き終え、ジークラインは得心がいったようにうなずい
た。
﹁なるほど。お前の独断専行だ。そうだな、ディーネ?﹂
﹁⋮⋮はい⋮⋮﹂
﹁教会内部は、立ち回りを間違うと帝国皇太子のこの俺でさえも手
が出ない。そこにひとりでのこのこと行ったってんなら、間違いな
くそれはお前の落ち度だ﹂
ディーネには答えようもない。
﹁お前が自分で自分の身を守れず、今後も危険なことに首を突っ込
む心配があるってんなら、俺はお前の婚約者としてお前を保護する
義務がある。お前に拒否権はねえ。分かるな、ディーネ?﹂
まったくもって彼の言う通りなので反論の糸口を見つけかねてい
るディーネを、ジークラインは心底楽しそうに見下ろしている。
﹁さあ、お前が言うべき言葉はなんだ? 言ってみろ﹂
﹁申し訳ありませんでした⋮⋮深く反省しております﹂
659
﹁そうじゃねえよ。それも悪くはないが、お前が心の底から反省し
て、きっちりケジメをつけてえってんなら、そろそろ婚約者として
の責務を果たす必要性を感じてくるだろ? 違うか?﹂
660
ケジメをつけるお嬢様︵後書き︶
アジール
聖域
教会をはじめとした宗教施設の内部は治外法権であり、王権・諸侯
の執行力の範囲外とされ、罪人などが逃げ込んだ場合にも引き渡し
を強制できなかった。
661
タンカを切るお嬢様
公爵令嬢のディーネは婚約者の皇太子にひざ詰めで説教をされて
いる。
ディーネは意味が分からなくて、ぽかんと彼を見上げた。
﹁お前が、俺なしでは何にもできないってことはよく分かっただろ
? だが、なに、心配するこたぁねえ。俺は女がどれだけ愚かしか
ろうが、見捨てたりはしねえよ。お前に改心する気があるなら何度
でも許してやる。俺は慈悲深いからな﹂
︱︱この男なしでは何にもできない?
︱︱愚かしくても見捨てない?
ディーネはふつふつとフラストレーションがたまるのを感じた。
﹁お前のしたことは確かに失敗だったが、有益な失敗だった。おの
れの凡俗さはようく思い知ったろう? その嘆きを忘れるな﹂
︱︱凡俗、ですって⋮⋮?
確かに、ディーネはこの男と比べたら、凡俗だった。
しかし、だからといって言っていいことと悪いことがある。
それはディーネが、一番気にしていることなのだ。ジークライン
と自分では釣り合っていないということぐらい、とっくに知ってい
る。
﹁だがなディーネ、お前は誇っていい。神の恩寵賜りしこの俺と愚
662
かしくも肩を並べようとしたんだからな。不可能であっても挑戦せ
んとするお前の気概は、俺を楽しませるに値した。喜べよディーネ、
この俺を愉快がらせたんだからな﹂
上から目線のお言葉を山ほど賜って、ディーネは久しく忘れてい
たあの感覚を思い出した。
すなわち、﹃厨二病キモイ﹄である。
﹁光栄に思うがいい。お前は、俺の愛玩に値する﹂
鳥肌が浮く。愛玩、という聞きなれない言葉に違和感を覚え、全
身がザワザワした。
﹁さあ、謳ってみろ。この俺に愛される幸いを。お前はこの世でも
っとも幸運で、幸福な女だ﹂
ディーネは、なんか色々ともう限界だと思った。
﹁⋮⋮さっきから黙って聞いてれば、勝手なことばかり⋮⋮﹂
殊勝な態度を心がけようと思っていたが、もういいだろう。ディ
ーネは震えながらゆっくり立ち上がった。
﹁ケジメはつけますわ。わたくしが、ジーク様なしでは何もできな
いなどという汚名は必ずや返上いたします﹂
﹁何⋮⋮?﹂
﹁今回のことはわたくしがどうにかいたします。ジーク様にはご足
労いただいて申し訳ありませんでした﹂
ゼフィア大聖堂からハリムたちは回収してきたものの、エストー
663
リオはいまだにそこのトップに君臨している。ディーネを求めて、
さらなる悪巧みをしてこないとも限らない。
﹁それと︱︱今すぐというわけにはまいりませんけれど、期日まで
にはきっちりといただいた分の土地の代金もお支払いいたします。
ええ、ジーク様におんぶにだっこでは、ご納得いただけませんもの
ね?﹂
金貨にして三千枚分の上乗せ。かなり辛いが、見通しが立たない
わけじゃない。
ジークラインは少し苛立ったように、ソファから身を乗り出した。
﹁分かってねえな。もう商売人ごっこはおしまいだ﹂
﹁いま、無理やり結婚させられたら、わたくしは一生ジーク様をお
恨み申しあげます﹂
きっぱりと宣言すると、さすがのジークラインも沈黙した。
﹁わたくしは愚かな女でございます。ですから、せっかくいただい
たチャンスを自分からふいにしたりはいたしませんわ。どんなにみ
っともなくても、期日までは過ちを積み重ねます。慈悲深いジーク
様のことですから、きっとお許しいただけますわよね? それとも
︱︱﹂
ディーネはジークラインに負けないぐらい、ふんぞり返った。
﹁ジーク様は、一度交わした約束を違えるほど落ちぶれたんですの
?﹂
664
ジークラインはあいかわらず絶句したままだ。呆れてものも言え
ないらしい。
彼もまさか、婚約者の少女を助けにいって、お礼を言われるどこ
ろか、冷たくはねつけられるとは思わなかったのだろう。図々しい
と思っているのかもしれない。
それからディーネはあらためて恭順の礼を取った。
﹁⋮⋮こたびはまことに申し訳ございませんでした、ジーク様。で
も、あと半年ほどのことでございます。わたくしが完全に失敗する
まで、どうか見守ってくださいまし﹂
しばしのにらみ合い。
ジークラインはさじを投げたとでもいうように、脱力して背もた
れに身を預けた。
﹁⋮⋮お前の目的が分かんねえんだよな。近頃のお前の考えてるこ
とは俺にも計り知れねえ。いいや⋮⋮分からねえのは、お前自身だ。
なあ⋮⋮ディーネ﹂
不吉な予感に、ドキリと心拍が早まった。
・・・・・
﹁お前は誰だ?﹂
公爵令嬢で、ジークラインの婚約者。
より正確に言うならば、この世界のウィンディーネ・フォン・ク
ラッセンに、前世のアイデンティティが混ざりこんでできあがった、
何か。
では、その彼女は、ジークラインの知る人物と同一人物だろうか?
665
十年前の﹃自分﹄は、今日の﹃自分﹄と確かに同一性を保ってい
るが、それはまったく同じ人物だと言えるのだろうか。では、それ
が二十年前なら? 姿や世界が違う時代の記憶なら?
答えに窮したディーネの口が、ふと、ひとりでに動いた。何者か
の意志に操られるようにして、澄んだか細い声を出す。
﹁ジーク様にもお分かりにならないことがあるんですのね﹂
︱︱今、喋ったのは誰?
666
笑うお嬢様
﹁たまにはな﹂
軽くうそぶくジークラインに、ディーネは思わず笑みを漏らす。
︱︱今、笑っているのは誰?
﹁メイシュア教では、獣に魂はない、と説いています﹂
これは、前世の記憶を取り戻す以前のクラッセン嬢としての知識
だ。
﹁⋮⋮? そうだな。魂を持つのは人間だけだ﹂
﹁では、それが間違いなのだとしたら?﹂
ジークラインはほとんど迷わなかった。
﹁間違っちゃいねえ。魂はある。魔力によって構成されている﹂
﹁それなら、魔力のない世界の人間はどうなります?﹂
﹁そんな世界はない﹂
﹁いいえ、ございます、ジーク様﹂
そしてここから先は、前世の記憶を持つ、ディーネの知識だ。
﹁人間の魂は肉でできた身体の機能の一部なんですの。高度に発達
した前頭葉︱︱脳の認知機能のことを、わたくしたちは魂と呼んで
いるのですわ。いもしない全知全能の存在を、誰かが擬人化して﹃
667
神さま﹄と呼んだように﹂
ジークラインが眉をひそめる。
以前のクラッセン嬢ならば、神の存在を否定するようなことは決
して言わなかっただろう。
︱︱では、今、ものを考えているのは誰?
︱︱前世と今世の知識を使い分けている、主体は誰?
前世の﹃記憶﹄と、個人の肉体︱︱それに伴う認知機能の総体。
どちらが主体かと言われれば、もちろんクラッセン嬢の肉体だ。
記憶が認知機能を左右することはある。
しかし、ただの記憶が、認知機能そのものを制御してしまうこと
があるか?
︱︱否だ。
﹁わたくしの身体はわたくしだけのもの﹂
ジークラインに向かって、ディーネは静かに告げる。
﹁わたくしはわたくしです。別人のように見えるとするなら、それ
は︱︱﹂
口調に、さびしそうな悲しそうな、そんな色合いが混ざった。
﹁ジーク様は、もともとわたくしのことをよくご存じではなかった
のでしょうね⋮⋮﹂
半ばひとり言めいたつぶやきに、ジークラインは不快げな表情を
668
隠そうともしなかった。仕方がないとディーネは考える。今の話が
彼に理解できたとも思えない。この世の理を思い通りに捻じ曲げ、
自身の手足のように使いこなす魔術的な天才の彼であっても、思想
や世界観は現地の宗教の影響を受けている。輪廻転生、はては魔法
のない世界の概念など想像だにできないことだろう。
﹁⋮⋮お前は、俺に何を求めてる?﹂
ディーネの発言を世迷言と片付けることにしたのか、ジークライ
ンはもっと端的な質問に切り替えてきた。
﹁何も﹂
ディーネは、ジークラインに何かしてほしいのではない。しいて
いえば、これは自分自身の問題だった。
しかし、ジークラインには別の意味に聞こえたらしい。
﹁説明しても無駄だと思っているのか? この俺が、女のたわ言も
叶えてやれねえほど狭量だと見くびってんなら、今すぐその勘違い
をただせ。いいか? 間違えんなって言ってるんだ。俺はお前の敵
じゃあない。味方だ﹂
ジークラインは立ち上がったディーネを隣に座らせようと、また
手を伸ばした。
いったんは沸騰した感情が落ち着いてしまったせいか、ディーネ
には逆らう気力が残っていない。
おとなしく隣におさまったディーネを、ジークラインはなおも説
得し続ける。距離が近すぎるからだろうか、顔を覗き込まれながら
だと、なんだかくすぐったいとディーネは感じた。
669
﹁お前がこの世でもっとも頼みとすべき存在はこの俺だろう? お
前がどうしてもってんなら、そのときは婚約の破棄ぐらいどうにで
もしてやんよ。けどな⋮⋮﹂
ジークラインは珍しく、自信なさげに声を落とす。
﹁本当に、それしか方法はないのか? もっと他にあるんだろう?
お前の本当の望みが﹂
どこかすがるような口調は、まるで彼自身が﹃そうであってほし
い﹄と願っているかのようだった。
﹁聞いてやるから、何でも話してみろよ﹂
﹁わたくしは⋮⋮﹂
ディーネの本当の望み。
﹁ジーク様にどうにかしていただこうとは考えておりません﹂
彼にお願いをすれば、どんなことでも実現させてくれるのだろう。
彼が日頃からディーネに対して請け負っているように、神に愛され
た彼にとってはほとんどのことが﹃女のたわ言﹄だ。
﹁エスト様とのことも、きちんと自分でケリをつけますわ。あなた
なしでは何もできないか弱い女を妃にお望みなら、どうぞ別の方を
お探しになって﹂
ディーネがツンと顔を背けると、ジークラインは小声で﹁わけわ
かんねえ﹂とつぶやいた。
670
嫌な沈黙がしばらく続き、少し怒らせすぎてしまっただろうかと
ディーネが不安になるころ。
﹁⋮⋮教皇んとこの坊主の始末はどうするつもりだ﹂
ジークラインはむすっとした顔をしつつも、聞くべきことはちゃ
んと聞いてきた。
﹁なんとかします﹂
﹁あのな⋮⋮なんとかじゃねえよ。いきなり呼び出される俺の身に
もなれ﹂
﹁ですから、ご心配なさらずとも、丸くおさめてご覧に⋮⋮﹂
﹁うるせえな。心配ぐらいさせろ、馬鹿﹂
そろそろジークラインの堪忍袋の緒が切れそうな雰囲気を察知し
て、ディーネは黙り込んだ。
﹁俺が口出ししたって、どうせお前は気に入らなきゃフラフラ単独
行動するんだろ? 止めやしねえから好きにしろよ。けどな、事前
に俺がお前の行動を把握しているのといないのとでは、初動に差が
出る﹂
声の抑揚はごく穏やかで、話す内容も合理的。しかし内心は荒れ
ているらしく、ジークラインは不機嫌そうな顔つきを隠そうともし
なかった。
﹁⋮⋮実際お前は大したやつだよ。力ずくでねじ伏せられぬ者とて
ないこの俺からここまで譲歩を引き出したんだ。誇りに思うがいい
ぞ。お前は自分の信念と意志の強さで、この俺に筋を通そうとして
671
るんだ。俺に媚びへつらう人間は多くても、誇りを貫ける人間はそ
ういない。その点だけでもお前は立派だ。いい女ってのはそうでな
くちゃな﹂
思わぬところで褒められて、ディーネは肩透かしを食らった。
﹁⋮⋮けどな、意固地にはなるな。対策を考えるなら、俺の意見を
聞いておいても損はねえだろう。なあ? どうするのかはお前に任
せるとしてもよ﹂
付き合いの長いディーネには、ジークラインが非常に怒っている
ことは肌身で感じ取れる。
が、それでも彼は最後まで理性的だった。
﹁今回のことは不問にしてやってもいい。だがな、今後は屋敷を離
れるなり、大きな行動をする前には、必ず俺に話を通せ。いいか?
ここが、俺が譲ってやれる最後のラインだ。それすら守れねえっ
てんなら、分かってんだろうな?﹂
﹁⋮⋮おっしゃりようは、ごもっともでございます﹂
彼の言うことはいちいち正しい。それに、最後のほうはディーネ
の気持ちにも配慮しようとしたらしき言い回しもあった。
︱︱確かに、少し意固地にはなっていたのかも。
﹁分かりました。ご説明いたします﹂
ディーネは小さく息をつくと、ぽつりぽつりと話し始めた。
672
673
教会に課す制裁
ディーネがジークラインに相談した、教会への制裁。
それは帝国が誇る天才軍師のジークラインをして呆れさせるに足
るものだったらしい。
しかし彼は事態がどう転ぼうとも収束する自信があるらしく、最
終的には﹃お前に任せる﹄と言ってくれた。
﹁しっかし、変なことばっかりよくもまあ思いつくもんだ﹂
﹁それはジーク様が世界の広さをご存じないからそう感じるだけで
すわ。世の中にはジーク様が想像もつかないようなことがまだまだ
たくさんあるんですのよ﹂
前世知識持ちのディーネがしれっと答えると、そんな事情はまる
で知らないジークラインは苦笑いして肩をすくめた。
﹁そうかよ。そいつは退屈しなくていいな﹂
それから少し寂しそうにつぶやく。
﹁⋮⋮この世界は、俺にはちっとばかり退屈だ﹂
何でもできすぎるから世の中が阿呆ばかりに見えてつまらない。
そういうようなことを言いたいのだろうと察して、ディーネはちょ
っと鳥肌が立った。
本当にいちいち厨くさい男である。
674
﹁ジーク様のその思い上がり、いつかわたくしが正してさしあげた
いですわ﹂
ディーネが絡むと、ジークラインはますますおかしそうに笑った。
﹁ははは、そりゃいい。少しは気がまぎれそうだ﹂
言葉とは裏腹に、ジークラインはさほどディーネの言うことを真
に受けていない様子だった。それがディーネには不満だったが、ま
あいい、と考え直す。いつか本当に目にもの見せてやればいいだけ
だ。
この男をびっくりさせて、心からの気持ちで﹃すごい﹄と言わせ
てやれたら、さぞ楽しいに違いない。そんなことを目論むディーネ
を見て、ジークラインは何を思ったのか、まぶしそうに目を細めた。
***
ゼフィアでの監禁未遂事件から数週間後。
バームベルク公爵領・ゼフィア地方に、伝道師たちが跋扈してい
た。
カフェで。井戸ばたで。安息日の礼拝堂で。宿屋で。
街の広場で。
ありとあらゆる場所で、托鉢の修道士たちが声を張り上げる。
彼らは人々のお布施で街から街へさすらい歩く流しの修道士だ。
街頭でお説教をする代わりにおひねりをもらって生活している伝道
675
師らの口上は見事なもので、通りすがりの人たちもつい聞き惚れ、
次々に足を止めている。
同じ現象が各村落にも見られた。村人たちが広場に殺到し、黒山
の人だかりが築かれる。
農奴や商人たちがささやき交わす世間話は、伝道師のことで持ち
きりだ。
﹁おい、聞いたか、例の説法﹂
﹁おお、あれな﹂
︱︱今から百年ほど前に、教会が活版印刷を禁止した理由。
それは、翻訳聖書の危険性が取りざたされたからだった。
それまでは一部の特権階級でなければ読めなかったはずの聖書。
それが庶民にも読める言葉で広く出回ってしまうと、どうなるか?
﹁なんでも、聖書にはどこにも﹃贖宥状を買えば救われる﹄なんて
書いてないらしいじゃねえか﹂
﹁本当なのかい?﹂
﹁さあな⋮⋮でも、本当だとしたらえらいことだよな﹂
﹁俺たちずっと、意味のないもん買わされてたってことだもんよ﹂
︱︱インチキが平信徒にバレてしまうのである。
地球史においても、活版印刷によるルターのドイツ語訳聖書の普
及が、宗教改革のきっかけを作った。
宗教で使われる言語は、最初こそ現地の話し言葉と同じものであ
っても、長く信奉されているうちに古くさくなって忘れられてしま
676
うことがある。
典礼言語の死語化は日本の神道を含め、おおよそ世界中どの宗教
にも見られる現象なので、ワルキューレのメイシュア教においても
典礼言語聖書の日常語翻訳が禁止とされたのも、歴史の必然であっ
たと言えよう。
また、活版印刷がない中世の時代にも、宗教改革は何度か起きて
いる。
そのときに活躍したのは、各市町村の通りに立って、大声で説教
をして回る托鉢の修道僧の一派だった。ある宗派は公然と教会に批
判を浴びせ︱︱ある宗派は徹底した清貧を掲げ︱︱またある宗派は
羊飼いに偽装して山間を広く移動しながら、独自の教えを布教して
いった。
印刷術が普及する前の世界の情報伝達は、主に﹃演説﹄や﹃説教﹄
、﹃語り聞かせ﹄によって行われていたのである。
だからこそ聖書の預言者も頻繁に言っているのだ。
︱︱聞け、人の子よ、と。
中世期の指導者に必要とされた能力は、外見と、何よりも﹃説法﹄
の能力だった。本や新聞はおろか郵便でさえろくに届かず、識字率
も極めて低い世界では、弁舌さわやかであることが何よりも求めら
れたのである。
エストーリオに加える制裁について熟慮した結果、ディーネは托
鉢修道士たちの巧みな演説の力を借りることにしたのだった。
﹁⋮⋮お疲れさまでした、皆さん﹂
677
一仕事終えた伝道師たちに、ディーネは心づくしのご馳走を用意
して待っていた。
﹁さあ、お好きなだけ食べていってくださいね﹂
ディーネは托鉢修道会の中でも教会に批判的な過激派を選んだ。
彼らは﹁裸の伝道師には裸で従え﹂をモットーにしており、報酬
を受け取りたがらない。なので、衣食住の提供は行っているが、基
本的には無給で働いてもらっている。
伝道師らに領主じきじきの免状を与え、あちこちの街を訪問させ
ること十数日。
︱︱現在、ゼフィア地方では、教会への批判が高まりつつあった。
これがビラを使ったプロパガンダとなると、まず端物を印刷する
ところから始めなければならないが、口頭伝達ならば転移魔法を駆
使して農村をひとつずつ回り、各一時間も説教して回れば、もう完
了する。演説を聞きにこられなかった人も村人から聞かされること
になるからだ。即効性があるのも、辻説法のいいところだった。
︱︱ピリピリしたムードがピークに達したころを見計らい。
モン・メイトル
﹁こんなところでよろしいでしょうか、先生﹂
ディーネが慇懃に頭をさげて尋ねると、彼女の師・ベルナールは
うなずいた。
﹁くるしゅうない。つるぺったんにしてはない胸をしぼってよく考
えたようじゃのう﹂
678
﹁知恵。知恵でございます、先生﹂
︱︱やっぱりいつかアルプス山脈の頂上にぶっこんでやる。
この世界にアルプス山脈はないけれど。そんなことをにこにこ笑
顔の下で考えつつ、ディーネはうやうやしく、ラバに乗る先生の鞍
を支えてさしあげた。
なぜラバなのか? 詳細はディーネも知らない。なぜか聖職者は
ラバに乗るものと決まっているのである。
﹁さて、行くかのう、弟子よ﹂
﹁はい、先生﹂
そうしてディーネが師ベルナールと托鉢修道士三十数名と青鷲騎
士団二十数名を引き連れて、ぞろぞろと向かった先はゼフィアの大
聖堂だった。
ゼフィアの内外で教会批判が高まった影響か、大聖堂は閑古鳥が
鳴いている。
ディーネたちが我が物顔で入っていくと、聖堂は騒然となった。
高みに据えられた教主の座にあるエストーリオは、あいかわらず
の冷たく近寄りがたい雰囲気だったが、少しやつれているようにも
見えた。
﹁そろそろこちらから出向こうかと思っていたところですから、手
間が省けました﹂
男性にしてはやや高めの、凛とした声が響く。
679
﹁やってくれましたね、フロイライン。あなたのしていることは重
罪ですよ。今この場で捕えてさしあげます﹂
﹁まさか。わたくしがみすみす捕まりにきたとでもお思いですか、
エスト様﹂
せせら笑うディーネに、エストーリオは眉ひとつ動かさない。
連れてきた騎士たちは武装の解除を拒んだため、教会の外で待機
しているが、何かあればすぐにでも中になだれ込める手はずになっ
ている。
﹁久しいのう、エスト﹂
小柄なベルナールがディーネを押しのけて前に出ると、エストー
リオはかすかにうめいた。
﹁⋮⋮先生﹂
彼にとってもベルナールは師にあたる。思わぬ再会だったのだろ
う、エストーリオは瞑目して首を振った。
﹁先生の差し金ですか。道理で手際がよすぎると思っていました⋮
⋮﹂
﹁当たり前じゃ、小童め。わしを誰だと思うておる﹂
ベルナールはふんぞり返る。
﹁貴様に異端審問の実務を教えたのが誰か、よもや忘れたとは言わ
さんぞ、小僧﹂
680
ディーネにはベルナールなどヒネくれたじいさまにしか見えない
のだが、この老僧、こう見えても有名な異端審問官だったらしい。
葬り去った人間は千人以上とも言われている。
﹁エスト様。本日はご覧に入れたいものがあって参りましたの﹂
ディーネがビラを何枚か手渡すと、エストーリオは眉をひそめた。
681
醜聞の作法
ディーネがエストーリオに手渡したビラ。
そこに記されているのは、庶民にも理解できる各地方の方言で書
かれたエストーリオの非難、誹謗、中傷だ。
︱︱本来、聖職者は結婚を禁止されている。教皇の実子であるエ
ストーリオは、庶子に当たるのだ。
メイシュア教における庶子の扱いはかなりひどい。正式に結婚を
した一夫一妻制の夫婦の子ではないというだけで、すでに差別の対
象なのだ。貴族であれば継承権は持てないし、庶民であれば人から
後ろ指を指されて生きることになる。
その彼が教皇に便宜を図られて大司教主の座にいるということ自
体が本来は糾弾されるべきことなのであった。ビラはその事実を巧
妙について、エストーリオの職位を聖職の売買行為だと批判してい
る。
また、本来は個人の財産を﹃所有﹄できぬはずの聖職者が、親子
ぐるみで貴族さながらに暮らしていることも非難の対象になった。
その事実が、死亡税を課され、世襲財産を禁じられている農奴た
ちに強い反感を覚えさせるのだ。
神学論を知らない彼らに、誰かが唆してやりさえすればいい。
財産を持てないのは聖職者だって同じことだ、と。
682
﹁ねえ、エスト様。教会に対する批判が強まっている今、このビラ
を配って歩いたら⋮⋮ゼフィアはどうなるかしら?﹂
火だねを火薬庫の中に投げ込むがごとく、大爆発を起こすだろう。
エストーリオは教主の座を追われることになる。
なぜあいつだけがいい目を見ているのか、という、単純で根深い
格差への不満。
それがエストーリオを高位聖職者から引きずり下ろす力となるの
である。
︱︱要するにディーネの仕掛けた工作は、中世期の托鉢修道僧に
よる辻説法と、近世プロテスタントのビラまき合戦とのハイブリッ
ド戦法であった。
ビラが読めない人間には修道僧たちが読み聞かせてやればいい。
知識層が集まる都市部では、ビラそのものが充分な効果をもたらす
だろう。
ここまでやればいずれ必ず結果が出るはずだと踏んで仕掛けた長
期戦だったが、思いのほか早く着火しそうだったのは僥倖だった。
死亡税の騒動時、臨時徴収して対応しようとした教会が多かった
ことも幸いしたようだ。
実際には領主が課した税であるにも関わらず、取り立てを行う教
会が怨恨の矢面に立たされてしまったというわけなのである。
︱︱いささかマッチポンプ気味な工作活動は、こうして結実した。
683
﹁わざわざ犯行予告をしにきてくださるとは、ずいぶん舐められた
ものですね﹂
エストーリオは冷たい瞳でディーネを見た。
﹁あら、なめてなどおりませんわ。わたくし、恐喝にきたんですも
の﹂
﹁脅しには屈しませんよ、フロイライン。農民の反乱がご希望なら、
どうぞご随意に。あなたにそんなことができるとも思えませんが﹂
痛いところをつかれ、ディーネは言葉につまる。ゼフィアの領内
が荒れることはディーネとしても本意ではない。とくに無関係の農
民を傷つけるのは絶対に避けたいことだった。
﹁エスト様には大司教主から降りていただきます﹂
気を取り直してそう告げても、エストーリオはみじんも揺らがな
かった。
﹁エスト様も慈悲深くていらっしゃるからさぞやご心配でしょうが、
ご安心くださいましね、なるべく血が流れないよう迅速に挿げ替え
を行いますから﹂
﹁破門がお望みですか、フロイライン? 教皇の叙任権を侵せば、
父もきっと黙ってはおりませんよ﹂
﹁あら、いくさならわたくしの父もちょっとしたものですのよ、エ
スト様。世界最強と謳われた皇帝との連合軍︱︱とくとご覧に入れ
ましょうか?﹂
ディーネは冷厳な印象のするエストーリオをにらみ合いながら、
684
気合いで負けないように歯を食いしばった。
教会にとっては数百万の徴税にかかわることだから、このままデ
ィーネが譲歩しなければ、戦争になる公算はかなり高い。
かといって簡単にディーネが折れてしまうようでもいけないのだ。
︱︱やっぱりこの方は聡明ね。
エストーリオの受け答えは立派なものだ。先日ちらりと見せた、
ダメな方のヤンデレの気配などみじんも感じさせない。
武力を使っての殴り合いしか知らないこの世界の人たちにとって
は、醜聞だけを駆使した破壊工作など想像の埒外にあったことだろ
う。それでもエストーリオはこのビラの重要性をいち早く見抜き、
ディーネが何を仕掛けようとしているのかもきちんと理解している。
︱︱聖務の能力だけを見るのなら、エスト様はかなり優秀⋮⋮
手綱をつけて制御することができれば、使える味方になってくれ
るはずなのだ。
﹁ねえ、エスト様。そう意固地にならないでくださいな。わたくし
のほしいものはご存じでしょう?﹂
ゼフィア大聖堂の地下に眠る活版印刷機のことだ。
﹁こう考えてはいかが? エスト様は心ない誹謗中傷のビラをまか
れる。慌てて撤回しようにも、ビラは広く出回ってしまっていて、
方法がない。そこで仕方なく禁忌の活版印刷機の封印を解く⋮⋮誰
685
にもバレないようにそっとですわ。中傷を撤回させるためにお使い
になればよろしいのです﹂
魔術師の作った印刷機はもともと、廉価な印刷本を高価な書写本
と偽って発行する目的で作られたので、精巧にできており、素人に
は手書きの書物と見分けがつかないほど印字が美しい。
﹁いろんな用途に使えると思いませんこと? 聖書はもちろん、祈
祷書、カレンダー、贖宥状⋮⋮いろんな紙に使えますわ。手書きの
ものの数百分の一以下のコストと時間で複製が取れるのですから、
得られる金貨はいかほどか⋮⋮ね、これがすべてエスト様のものな
んですのよ。夢のビッグチャンスだとお思いになりません? 技術
的な部分に不安がおありでしたら、公爵家がサポートいたしますわ﹂
﹁興味ありませんね﹂
エストーリオは冷ややかだ。生まれついてのお坊ちゃまにして聖
職者の彼には、卑しい商売の話など一顧だにしないものらしい。
﹁⋮⋮私の欲しかったものは、もう手に入りませんから﹂
︱︱と思いきや、不穏なことをつぶやかれて、ディーネは後ずさ
りそうになった。
686
醜聞の作法︵後書き︶
キリストは何かを所有したか?
中世スコラ神学における重要な争点。代表的なのは聖霊派とトマス・
アクィナス。
フランシスコ会聖霊派
﹁裸のキリストには裸で従え﹂というスローガンを掲げ、聖職者の
財産所有を批判し、教皇と対立した。
トマス・アクィナス
聖職者の財産所有は限定的に認められるとした。
687
あざといお嬢様
︱︱私の欲しかったものはもう手に入らない。
つまり彼は自分をこっぴどく振ったディーネに恨みごとを言って
いるのだ。
ディーネは前世でもあまりヤンデレ関連のものは見聞きしてこな
かった。だから、彼をどう扱えば正解なのか分からない。
ジークラインに相談したところ、﹁やめておけ﹂と言われてしま
った。
︱︱お前の手には負えないだろ。こじれるのがオチだから、妙な
欲は出すな。
ジークラインは一切関わり合いにならない方法をしきりに勧めて
いたが、そういうわけにも行かないとディーネは判断した。
いちかばちかやってみるしかない。
﹁⋮⋮あなたには失望しました、エスト様﹂
ディーネが冷たく言い放つと、彼は目に見えてビクついた。
﹁エスト様の評判はわたくしも聞き及んでおりましたのよ。信徒思
いの良き教主様だと⋮⋮でも、とんだ見込み違いだったようですわ
688
ね﹂
ディーネは出来る限り驕慢に見えるよう、ふんぞり返った。
﹁もしもエスト様がわたくしの思い描いていた通りの、農奴たちの
ために献身する素敵な教主様であったら、ご一緒しているうちに過
去のことを忘れてしまうかもしれないと思っていたけれど⋮⋮﹂
自分で言いながら、あざとすぎるだろうかと心配になったディー
ネがエストーリオをちらりとうかがい見ると、彼は美しい顔を引き
つらせていた。何かの心理的な効果はあったらしいが、どういう影
響を及ぼしたのかまでは分からない。
﹁もう結構でございます。やる気のない方にその椅子は相応しくあ
りませんわ。一日もはやくどいていただけるように尽力いたします
⋮⋮それでは、ごきげんよう﹂
ディーネがきびすを返すと、エストーリオは︱︱
﹁待ってください、フロイライン!﹂
珍しく、大きな声を出した。
﹁今の話は︱︱本当なのですか?﹂
食い気味に問い返されて、ちょっとディーネは引きそうになった
が、我慢した。
﹁え⋮⋮ええ。わたくし、どうも物覚えが悪いみたいで。先日も商
人組合の皆さんにさんざん嫌がらせをされたのですけれど、あまり
689
腹を立てる気にもなれなくて。今ではとても仲良くやっております
の﹂
言外にエストーリオともそうなれるかもしれないと匂わせる。
﹁真面目な方、誠実な方は好きですわ。ともに学んでいたころのエ
スト様はそんな方でしたわね⋮⋮﹂
エストーリオは冷たい印象の瞳を見開いた。キラキラして見える
のは、瞳が輝いているせいか。
︱︱効果はばつぐんだ!
茶化してみたくなるぐらい、エストーリオの感情の変化は分かり
やすかった。
﹁もう一度だけお願いいたします⋮⋮わたくしにはあの印刷機がど
うしても必要なの。力を貸してくださいませ、エスト様﹂
ディーネが手を組んで懇願すると、彼は︱︱
声を出すことも忘れて、子どものようにこくこくと、何度もうな
ずいたのだった。
︱︱すごくあっさり了承してくれたけど⋮⋮
大丈夫なのだろうかと思考が弱気になりかけ、ディーネはいけな
いと思い直した。これから自分ががんばって仲良く﹃していく﹄の
だ。彼はもともと他人に触れることができないほど臆病なひとなの
だから、ディーネが気を強く持てば主導権を握ることもそう難しく
ないはず。
690
︱︱こうして、若干の不安を残しながらも、印刷機における同盟
関係が成立した。
691
歴史の転換点 前編
公爵令嬢のディーネは領地のお抱え研究員を連れて、ゼフィア大
聖堂に来ていた。
地下に封印されている印刷機を解放しようとしているのである。
今から百年ほど前、翻訳聖書を出版した罪で異端者として火刑に
された魔術師がいた。その男は死の直前に自らが開発した活版印刷
機に魔法をかけ、封印したあと、こう言ったという。
︱︱私の印刷機は私がこの手で封じよう。愚かな諸君らは数百年
のときを暗闇のうちに過ごすがいい。
百年前の魔術師が施した術は、公爵家の魔術師長にも理解できな
いものだったらしい。全身黒ずくめですっぽりとフードを被った、
いかにも黒魔導師という風体の男は、見えない顔を力なく振ってみ
せた。
﹁申し訳ありません⋮⋮いかなる魔術か、見当もつきません⋮⋮﹂
﹁そうよねー⋮⋮私にもわけわかんないもの、これ﹂
ディーネも魔術に関してはエリートなので、魔術師の無念は理解
できた。
﹁すみません、私は鍵を預かっているだけで、部屋の詳細は知らな
いのです﹂
692
︱︱とは付き添いのエストーリオの言。
仕方なしに、ディーネは知恵を絞ることになった。
﹁ねえ、あなたたちは? 何か分かったことある?﹂
駄目元で連れてきた軍事技術者や錬金術師を振り返る。
すると錬金術師のガニメデが声をあげた。
﹁お嬢様、ちょっと。この部屋、窓がついてますよ﹂
ガニメデが部屋から明らかに浮いている宗教画のタペストリを指
さした。めくりあげると、本当に窓がついていた。
﹁うわ、ほんとね⋮⋮地下なのに気持ち悪いわ⋮⋮﹂
﹁ええ、不気味なので、私がタペストリをかけておいたんですが⋮
⋮それにしても今日はよく晴れてますね﹂
エストーリオの言う通り、外には青い空が広がっていた。
つまりここは、空間がねじまがっていると解釈したほうがよさそ
うである。
﹁ここはどこなのかしら⋮⋮壁紙みたいな草原だけど⋮⋮﹂
﹁⋮⋮壁紙⋮⋮?﹂
ディーネのつぶやきに反応したのはガニメデである。
﹁パソコンのデスクトップによくあるやつよ﹂
﹁⋮⋮またお嬢様の妄想のお話ですか?﹂
﹁うるさいわね、妄想じゃないわよ。それよりあなた、錬金術師で
しょ。植生から場所を特定できないの?﹂
693
ディーネが無茶振りをすると、ガニメデはなぜか部屋の隅から地
球儀や羅針盤、六分儀を持ってきた。
﹁うーん⋮⋮俺、あんまり、占星術は得意じゃないんですが⋮⋮﹂
﹁貸してください﹂
ガニメデが手に取りかけた六分儀っぽいもの︱︱おそらく天体観
測用の道具だろうと思うが、天文学はディーネもまったく知らない
ので判断できない︱︱を横からぶんどったのは、軍事技術者兼数学
者のキューブだった。
しばらくそれを使って何やらブツブツ言っていたキューブだが、
ほどなくして自信に満ちた様子でディーネを振り返った。
﹁おそらくこの部屋の本当の在り処も、ここから近いところにある
はずです﹂
﹁えっ⋮⋮どういうこと?﹂
キューブの説明によると、太陽の位置は赤道に近ければ高くなり、
離れれば低くなるらしい。天体の位置から言って、緯度的にはほぼ
ゼフィアの近所だというところまで絞れたのだそうだ。
﹁へえー⋮⋮やるじゃない﹂
天文学をよく知らないディーネは素直に感心した。
﹁夜になるまでお待ちいただければ、星座の位置で大まかな地域も
判別できます﹂
﹁すごいじゃない!﹂
694
するとキューブはけげんそうな顔をした。
﹁⋮⋮お嬢様にも当然、このぐらいはお分かりかと思っていました
が⋮⋮﹂
﹁えっ、なんで?﹂
﹁積分⋮⋮でしたか。それに三角関数にも精通していらっしゃるで
はありませんか﹂
﹁精通っていうか⋮⋮公式がちょっと分かるだけだし、なんで積分
が星と関係あるのかとか全然わかんないんだけど⋮⋮?﹂
キューブはあぜんとしていたが、しばらくして笑い出した。
﹁⋮⋮これは傑作。お嬢様は本当におかしな方だ﹂
﹁⋮⋮?﹂
他人から笑われる理由が分からないのは結構気持ちが悪い。なん
だかひとりでご満悦なキューブにムカつきつつ、ディーネは首をか
しげるしかなかった。
﹁お嬢様のような方は初めてですよ。危なっかしくて、少しも目が
離せないですね﹂
この男にだけは危なっかしいとか言われたくない。
そんなディーネの内心をよそに、キューブはおかしそうに笑って
いた。
︱︱その後の調査で大まかな位置までは特定したものの、それ以
上の進展はなく、ディーネたちはいったん屋敷に戻ることになった。
695
日を改めて公爵家に常駐している魔術師たちを集め、議論をさせ
てみたが、封印を解く糸口は見つけられず。
﹁⋮⋮ジークライン様なら、何かお分かりかもしれませんなあ﹂
誰かが冗談のように言った。
ディーネには笑えない。汚名を返上してみせる︱︱と息巻いたの
はつい先日である。
﹁どうすればいいのかしら﹂
研究員や魔術師たちを招集し、うだつのあがらない会議を重ねる
こと十数回。
﹁しかし、仕組みについてはほぼ理解しました﹂
淡々と言ったのはキューブだった。
﹁おそらく木版画印刷のものと工程は同じでしょう。一ページ分の
組版を作り、バレンなどでインクを塗って、紙にプレス︱︱プレス
は上のハンドルを回して、少し強めに圧をかけるようですね。仕組
みはぶどう絞り器などと同じもののようですから、再現可能です﹂
﹁お、お、おおおお⋮⋮!﹂
ディーネはこのとき初めてキューブをかっこいいと思った。
﹁じゃあ、封印解かなくてもいいじゃない!﹂
﹁ええ⋮⋮活字の鋳造技術が百年前とは思えないぐらい高いところ
を除けばですが﹂
696
キューブは活字が大量に保管してある棚を指し示す。
﹁あのレベルの彫金技術というと、わが軍の金細工師でも作製でき
るのはほんの一握りです。おそらく精巧な鋳型を作って複製したの
でしょうが、原型を一から作るとなると少し時間がかかりますね。
あそこにある鋳型を利用できるのなら、鉛を溶かして流し込むだけ
ですから、そう技術はいりません﹂
﹁⋮⋮どっちにしろ、封印は解いたほうがいいってこと?﹂
﹁そうなりますね﹂
︱︱ディーネはふたたび封印の解除に頭を悩ませることになった。
697
歴史の転換点 前編︵後書き︶
微分積分
天体観測に便利な異世界の呪文。
これを使ってニュートンは万有引力の法則を発見したらしい。
文系の作者にもよう分からんという高等魔法。
おしらせ
二章は明日の後編で終了し、いったん休止します。
698
歴史の転換点 後編
﹁やっぱりジークに相談したほうがいいのかなぁ⋮⋮﹂
なかなか寝つけずに悶々としながら、ディーネは思わずひとりご
ちた。頭にあるのは印刷機の封印を解くことばかりだ。
考えごとをしていたせいか、ヘンな夢を見た。
幼い少女のクラッセン嬢が、まだ少年のジークラインに問う。
︱︱ジーク様、転移魔法の極意とは、なんですか?
︱︱イメージだ。
少年は少女のよき師範であり、よき魔術の練習相手でもあった。
︱︱転移先に小さなブロックを構築するイメージが描けたら、半
分ぐらい成功だ。隅から隅まで詳しく⋮⋮精密に⋮⋮完全な姿で。
︱︱では、どうしてわたくしの転移魔法は成功しないのでしょう?
︱︱イメージが足らない。転移先の気候、土壌、雨なのか晴れな
ブロック
のか、森なのか水の中なのか、日照の量、気温、魔力のうねり、で
きる限りくまなく探れ。水中に魔力を構築するのと、大気にブロッ
クを構築するのとでは勝手が違う。大半の魔導師は、転移先の状態
を知ることができないから転送ゲートに頼らざるを得ない。向こう
から情報を送ってもらえなければ、組み立てようがないからな。
︱︱ジーク様が転送ゲートをお使いにならないのは⋮⋮
699
︱︱俺は特別に選ばれた存在だからな。分かるんだよ。世界中、
どんな場所のことも、手に取るようにな。
ハッとして目を覚ますと、もう朝だった。
小さな頃の記憶を垣間見て、ディーネは懐かしくなる。と同時に、
ジークラインの途方もない魔法の才能に恐れを抱いた。
大気の流れをくまなくすべて観測し、予測するのは、転生前のデ
ィーネがいた世界でも不可能だった。よくて高確率で当たる天気予
報がせいぜいだ。超絶演算力のスパコンを稼働させていてもそれが
限界なのである。
ジークラインにはそんな途方もない不可能ごとが可能だとでもい
うのだろうか。
それに﹃ブロックを構築するイメージ﹄というのも怖い。分子や
原子の構造なんてろくに解明されていないはずなのに、彼は直感で
把握しているのかもしれない。
転生後の記憶と照らし合わせてみると改めて恐ろしい示唆に富む
思い出だった。
﹁⋮⋮イメージ⋮⋮﹂
ふたたびやってきた大聖堂の地下で、ディーネは改めてイメージ
を思い描く。
﹁⋮⋮っていうか、もう、イメージはそこにあるのよね⋮⋮﹂
ホログラムのように浮かびあがっているのだから、何も想像力な
どいらない。見えているものを魔法でなぞって記述すればいい。
700
ディーネは気まぐれで魔法の構成を始めた。イヴンの魔術工房を
丸ごと大聖堂の地下に持ってくるようなイメージで。
通常、これだけ大きな物体の転移となると構築途中で集中力がも
たなくなり構成がはかなく壊れてしまうことが多いのだが、見えて
いるものを思い描くだけだから、ディーネの集中力でも完成までな
んとかこぎつけそうだった。
それでも、あとちょっとのところで失敗した。
﹁⋮⋮なんか、空振りを食らったわね⋮⋮﹂
そこにあると思って手を伸ばしたら、あとちょっとのところで物
をつかみそこねて落としたような感触だった。見えているものと、
実際にあるものの距離がわずかにズレているような。
﹁⋮⋮イメージ⋮⋮﹂
強くイメージする。ここにあるのは魔術師の工房。百年間封印さ
れていた場所。
いいや、本当にそうだろうか?
ここが百年も放置されていた場所だとするならば、当然あるべき
ものがないことに、ディーネはようやく気がついた。
部屋には塵ひとつなく、経年劣化した形跡もないのだ。
﹁⋮⋮そうか。時間がズレている⋮⋮?﹂
でも、今、見えているのが、過去の幻影なのだとしたら?
もしもこの部屋に正しく百年が経過していたら、蜘蛛の巣が垂れ
701
さがり、埃が厚く積もっていることだろう。なのにこの部屋が常に
手入れされた状態を保っているのは、﹃過去のある地点﹄の映像を
見せつづけているからでは? それこそ写真や動画のように。
﹁⋮⋮待って。過去にあるものが転移で取り出せないなんて、誰が
決めたの⋮⋮?﹂
転移魔法は空間を移動する魔術。そこに時間軸の移動は介在しな
い。少なくとも、今までのディーネはそう思っていた。
否︱︱そもそも、クラッセン嬢は、時間軸というものの概念を知
らなかった。
新たな座標軸を付け加えて多次元空間を構築するというイメージ
は、数学をやったことがあり、サイエンスフィクションなどに触れ
たことがあるディーネにとってはごくありふれたものだが、記憶を
取り戻す以前のクラッセン嬢にはそれこそ想像もつかない事柄だっ
たろう。キューブならば、﹃悪魔のような発想﹄だと言ったかもし
れない。
︱︱この世界においては、なんでもないような概念が偉大な発明
に当たることがある。ディーネは今までにも何度となくそれを経験
してきた。
複式簿記。飛び杼。チョコレート。新しい馬具。折れ線グラフに
円グラフ。
いずれも、からくりを知っていれば大したことではない。でも、
それを最初に思いつくのが大変なのだ。
この世界には、まだ虚数の概念が存在しなかった。
ということは、三次元の立体をZ軸で表現し、さらには時間をも
702
軸としてとらえる発想が現地の人によって自然発生的に﹃発明﹄さ
れるのは、もっとずっと未来の話なのではないか?
現代日本の知識を持つディーネだけが、先人の知の集積によって
一足飛びでたどり着けたのだとしたら、どうだろう。
そこまで気がついた瞬間︱︱ディーネは、決して届かないと思っ
ていたジークラインの強さの秘密に、触れられた気がした。
ディーネは改めて部屋の中を見渡した。
通常は百年前の詳細な部屋の様子など分かるはずもない。
しかしイメージするための幻影はすべてそろっている。
イメージができるのならば、空間だけでなく、時間だって超えて
しまえる可能性は高い。
ディーネはいったん屋敷に戻り、大量の魔法石を運ばせた。
ひとつひとつが金貨に匹敵するような、稀少な鉱物。それを山ほ
ど積み上げて、ディーネは転移魔法の構成を開始した。
魔術師長にもアシストしてもらい、何度も何度も失敗しながら、
構成を練習していく。
何百度目かの失敗ののちに、ふとうまく行く瞬間があった。
その構成を、ディーネは、﹃百年前の事物を取り寄せる﹄イメー
ジとして修正を加えた。
そうしてできた巨大な魔法の構成に、おびただしい量の魔法石が
反応を開始。
光り輝くその石たちが、魔力を放出し終わって、ただの石ころに
703
姿を変えていく。
︱︱お前が、俺なしでは何にもできないってことはよく分かった
だろ?
注意力を殺がれるようなよそごとを考えるのはよくないと分かっ
ていても、ジークラインの言葉が自然と蘇ってきた。あのときのデ
ィーネは絶対に見返してやると思っていたが、はたしてそれは復讐
心だったのだろうか。
︱︱わたくしが、ジーク様なしでは何もできないなどという汚名
は必ずや返上いたします。
ディーネはそれを示して、ジークラインにどうしてほしかったの
だろう?
本当に婚約を破棄したかったのだろうか?
考えがまとまりそうになった瞬間、ゼフィア大聖堂の地下が震撼
した。
それまで幻でしかなかった部屋のインテリアが︱︱印刷機が、外
の様子を伝えてきた窓が、マテリアルとして確かに存在していると
いう手ごたえ。
﹁成功⋮⋮した⋮⋮!﹂
魔術師長が驚きの声をあげ、興奮のあまりわれを忘れた様子でデ
ィーネの肩を叩いた。
﹁ああ、信じられない⋮⋮! なんてことだ、お嬢様、これはとん
704
でもない偉業ですよ⋮⋮!﹂
魔術の歴史が変わるとしきりに喜ぶ魔術師長の声を心理的に遠く
聞きながら、ディーネは今しがた転移させたばかりの印刷機に近づ
いて、触れた。
真新しいインクのにおいが鼻をつく。指先を汚したしみは、間違
いなくまだ乾いていないインクのものだ。
その汚れを見つめながら、ディーネも、この国の歴史が動くこと
を予感していた。
︱︱グラガン歴、九月の終わりのことだった。
705
歴史の転換点 後編︵後書き︶
第二章はこれにて終了します。
たくさんの方のブックマーク、ご感想、ポイント評価ありがとうご
ざいました。
三章開始までは少しお時間をいただきます。
706
二章完結記念小話 マヨネーズを開発するお嬢様
公爵令嬢のディーネは借金返済のため、また、自身の持参金を稼
ぐため、身を粉にして働いている。
季節は十月。農作業も夏の収穫を終え、冬季の種まきが忙しい時
期だった。
ディーネは次の宴会プランをどうするか考え中だった。
宴会事業を担っている執事や公爵家お抱えの料理長を会議室に一
か所に集めて、パシパシと手に握っているスタイラス兼指示棒をも
てあそぶ。
﹁まもなくイノシシ狩りの季節です﹂
気分的には議長のディーネが口火を切る。
すると集まったキッチンスタッフがにわかに騒ぎだした。
﹁おい、お嬢様だぞ﹂
﹁本物だ﹂
﹁えらいかわいいな﹂
﹁お嬢様こっち向いて∼!﹂
﹁はい、冷やかさないで!﹂
ディーネがスタイラスをパァン! と蝋板にたたきつけると、彼
らはおとなしくなった。公爵家の使用人といえども料理人は庶民階
級で、その地位は決して高くなく、ふだんは仕えている館の主と顔
707
を合わせることなどない。礼儀作法などなんのそので煽られるのも
想定の範囲内だ。
執事のセバスチャンが、彼らをいさめようとしてか、口を開きか
けたが、それはディーネが身振りで押しとどめた。たかが数十人の
使用人程度、軽くあしらえないようでは大公爵家の姫君など務まら
ないのである。
﹁宴会も、捕れたて新鮮なイノシシを鍋にしてくれといったような
注文が増えることでしょう﹂
料理長はいかにも分かっているという風にうなずいた。
﹁血肉がしたたるジビエにふさわしい料理を用意しております。ま
ず⋮⋮﹂
ベテランの料理長によって、伝統的な調理法による献立が候補と
してあげられる。
ディーネは言われた献立内容をスタイラスで蝋板に書きとめてい
った。
新鮮な肉の風味をそのまま味わうための、各種ディップ用ソース。
その一、辛子をベースに粒コショウなどを入れたマスタード。
その二、香草やりん茎をにんにくのすりおろしと混ぜた、シンプ
ルな﹃緑のソース﹄。
その三、シナモンとワインヴィネガーをベースに、クローブやシ
ョウガなどの各種スパイスを足し、火を入れずに作るカムリーヌ・
ソース。
708
その四、酢をベースに、固ゆで卵やピクルスで作るガーニッシュ
ソース。
刺激の強いスパイスやハーブのディップたちがぞくぞくと挙げら
れていく。
ジビエ
これらとともに供されるのは、その場でさばかれ、茹であげられ
る予定の鳥獣肉たちだ。なぜ茹であげるのか? それはディーネも
知らない。おそらく、システムキッチンのようにきちんとした火力
調整ができないがゆえの調理法なのだろう。あらゆるすべての食材
は、肉もなく野菜もなく、一度茹であげられてから改めて調理に回
される。肉汁が落ちる? 野菜のビタミンが壊れる? 知ったこと
ではない。
また、その場でとれた肉はディップで食べるばかりでなく、もっ
ときちんとした料理にも仕上げられる。
﹁⋮⋮イノシシ肉のヴネゾン、ブイイ・ラルデ⋮⋮ひとまずこんな
ところでしょうか﹂
ヴネゾンは肉の煮汁のことで、ブイイ・ラルデは肉の脂身を赤身
で巻いたものだ。
﹁そう、ありがとう﹂
料理長が語ったこの、スパイスたっぷり、ハーブたっぷりで食べ
るシンプルな肉料理こそがこの国のメインディッシュであり、ごち
そうなのであった。
なぜスパイス中心の味付けなのか?
709
冷蔵庫がないからである。保存がきかないので、塩漬け、酢漬け、
スパイス漬けなどの各種加工技術が発達しているのだ。
強いスパイスを混ぜ合わせて酢を加えただけのソース類は、もと
日本人のディーネからすると、やはりまだまだ原始的と言わざるを
得ない。
前世の記憶が戻って以来、ディーネはずっと不思議に思っていた。
肉や野菜をゆでてから調理する文化がどうやら確立されているよ
うなのに、なぜその茹でた汁を捨ててしまうのだろう? と。
西洋料理の真髄はスープストック、そしてソースなのである。
そこでこのディーネは考える。
﹁今回はね、全く新しいソースを作りたいと思うのよ﹂
ディーネはひとまず知っている限りのソースを説明してみること
にした。
まずはホワイトソース。
ベシャメルソースともいう。
クリームシチューのもととなるあの白いソースが食卓にあがるよ
うになったのは、ルイ十四世の絶対王政期のことである。
ホワイトソースの製法は簡単だ。小麦粉をバターでいため、じょ
じょに牛乳か生クリームを投入。香味野菜をお好みで入れて煮込む
と完成。
﹁⋮⋮こういうソースって、どこかで発明されていたりしないもの
710
かしら。誰か、郷土料理で似たものを知っているって人はいない?﹂
ディーネが集めた料理人たちに声をかけると、彼らは一様にぽか
んとした顔をした。
﹁スープに古くなったパンを入れてとろみをつけることはあります
けどね⋮⋮小麦粉っつうのは聞いたことありませんや﹂
パンを入れてとろみをつける調理技法はどの料理にもよく見られ
る。
どんな味がするかって? 知りたければ試しにカサカサに乾いた
食パンやフランスパンをスープに入れて煮込んでみればいい。ドロ
ドロの食感がポイントだ。
けっしておいしいものとはいいがたい調理法だが、なぜこうまで
広まっているのかはディーネも知らない。ただ、一般庶民は一日に
五百グラム近いパンを食べるらしいので、食べ飽きてしまったがゆ
えの苦肉の策である可能性も考えられる。たとえて言うのなら、同
じお米でも気分次第でおじやにしたりおにぎりにしたりするような
ものだろうか。
﹁パンとはまた違うんだよね。バターと小麦粉でルウを作る。ここ
大事﹂
カレールウやシチューのルウも作り方は同じだ。バターと小麦粉
を火にかけて練り合わせる。
理屈はディーネも忘れたが、結びつくとなんか科学的にめちゃめ
ちゃいい感じになったはずである。ディーネがそこを力説すると、
彼らは浮かない顔をした。
711
﹁試してみないと、味の想像がつきませんね﹂
﹁そう⋮⋮﹂
料理人たちからも﹁またお嬢様が何か言い出したぞ﹂みたいな顔
で見られている。ディーネはがっかりしたが、致し方ない。
﹁分かった。じゃああとで実演するとして、残りも説明しておくわ
ね﹂
次にヴルーテ・ソース。
小麦粉をバターでいためるところはホワイトソースと同じだが、
牛乳の代わりに肉のブイヨンを入れて作る。
喋っている途中で、ディーネは大事なことに気がついた。そうい
えばこの世界におけるブイヨンは、ディーネの知っているものと少
し違う。
ここはとくに力を入れて説明しておかねばならないと思い、声を
はりあげる。
﹁あとね、ブイヨン。あれもね、お肉にスパイスを入れるだけじゃ
なくて、もっと野菜とかも入れるべきなのよ。あきらめちゃダメな
の。ブイヨンはもっとおいしくなる、そうやればできる子なのよ!﹂
﹁はあ⋮⋮﹂
一同、まったく解せないという顔つきである。
これはいけないとディーネは思った。
︱︱この世界のブイヨンは、ごく単純に、肉の煮汁のことを言う。
ディーネが知っているブイヨンは野菜や魚などの各種素材を煮込
712
んで濾した、いわゆる﹃スープストック﹄だったので、本当に驚い
た。しかし地球史を思い返してみるとうなずけることだったので、
これも文化的に発展途上であるがゆえの食い違いであると認識する
に至ったのである。
たとえばではあるが、フランス革命期に誕生した﹃レストラン﹄
は料理を出すところではなく、具のないスープやポタージュを提供
する﹃スープバー﹄であったらしい。
スープは食事の献立と思われていなかったのだ。コーヒーや紅茶
などと同様、いい気分になったり、健康を回復したりするためのお
しゃれな嗜好品だったのである。
ルイ十四世も朝食として﹃薬湯またはスープ﹄を採ることが多か
ったが、これも澄ました具のないスープが薬の一種だと考えられて
いたがゆえの措置である。
﹃パンがないならお菓子を食べればいいじゃない﹄でおなじみのマ
リー・アントワネットの母親、ハプスブルク家のマリア・テレジア
も澄んだスープを常食していたが、こちらも料理ではなく、薬のよ
うなものだと考えられていた。
澄んだスープ・ストックが基本の材料として料理に活用されるよ
うになったのは、かなり後年になってからなのだ。
地球史でもその有様なのだから、中世前後の文化水準であるワル
キューレが﹃素材を煮込んで出汁を取る﹄という発想を持っていな
くても驚くにはあたらない。
﹁そういう料理ってどっかにないの? タマネギやお肉を一緒に煮
713
込んで出汁にするようなの﹂
﹁田舎では、よくそんな料理を作っていますがね﹂
野菜は基本的に庶民の食べ物。貴族は野菜を食べない。
なので、宴会料理は肉料理か魚料理ばっかりなのである。宴会の
コースメニューにも野菜だけのメニューや、澄ましたスープが出る
ことはほとんどない。まれにパンをおいしく食べるための付け合わ
せとしてブイヨンが出される程度だ。そのブイヨンだって、肉の煮
汁でしかない。
﹁まあいいわ。次、トマトソースなんだけど⋮⋮﹂
ディーネは四種類目のソースの説明を試みる。
ヴルーテ・ソースと作り方は一緒だが、最後にトマトピューレを
入れて五分煮る。
この説明で、どよめきが起きた。
﹁トマトっていうのは⋮⋮?﹂
﹁ほらあの、赤い野菜よ﹂
ジャガイモが普及しているワルキューレでも、まだトマトの持つ
うまみ成分やその活用方法は知られていないようだ。ここでもやっ
ぱり野菜はハミ子である。
﹁まあ、あとで作りましょう。そして最後はアルマンド・ソース⋮
⋮﹂
これはバターと小麦粉に卵と酢を入れて作る。
714
卵の黄金色がきれいなソースだ。
﹁そしてあとひとつ、個人的に作りたいソースがあるのだけれど⋮
⋮まあ、そうね。実演したほうがいいみたいだし、いったん移動し
ましょう﹂
そしてやってきたのは厨房である。
715
二章完結記念小話 マヨネーズを開発するお嬢様︵後書き︶
刺激の強いスパイスやハーブのディップたち
地域差あり。
カムリーヌソースのレシピ
十四世紀フランス版準拠。イギリスはレーズン、クルミなどを加え、
酸味の強いヴェルジュは使わない。イタリアは砂糖、ブイヨン、ア
ーモンドミルク、肉のパテなどを加え、酸味にザクロやワインを入
れる。
ポレ
初期のレストランはスープバー
鍋料理などの料理を提供する権利は居酒屋や惣菜屋などのギルドが
握っていたので、レストランで出せるのは澄んだ具のないスープや
軽食など、法の網をかいくぐるようなものだった。しかし当時の居
酒屋の料理は上等なものとは言い難かったので、サービスのよいレ
ストランは大繁盛した。
venoison ヴネゾン
野獣肉のこと。中世フランス料理のルセットでは、その肉の茹で汁
larde ブイイ・ラルデ
︵ブイヨン︶のほうを指す。
Bouli
脂肪分の少ないジビエ肉などに、脂身を足して一度ゆがき、串焼き
にする料理。
宴会料理は肉料理か魚料理ばっかり
中世の宴会料理で野菜やポタージュが出されることはなかった。中
716
世フランス料理のルセットでポレ︵ポタージュ︶といえば鍋に入っ
ている煮込み料理全般を指し、ヴネゾン︵ブイヨン︶が出される場
合はパンの添え物だった。
ベシャメルソースは絶対王政期に登場
諸説あり。
■注意
作中のソース四種は近代フランス料理の基本のソース四種をもとに
していますが、レシピは微妙に異なります。
717
二章完結記念小話 マヨネーズを開発するお嬢様 その二
公爵令嬢のディーネは転生人だが、転生先には﹃出汁を取る﹄と
いう調理技法がなかった。
そこで自宅の料理人を集めて、まずはブイヨンの作り方から伝授
することにした。 キッチンに移動する。大小さまざまなかまどすべてに火が入って
おり、なかはうだるような暑さだった。木炭の燃える臭気が鼻をつ
く。
田舎料理のレシピを料理長から聞いて参考にしながら、大量の牛
肉と骨付きのスネ肉を数十リットルの水とともに鍋へ投入。
料理長がすっとんきょうな声をあげる。
﹁しかしこの牛肉は、明日の料理用で⋮⋮使っちまったら明日の食
事が﹂
﹁セバスチャン﹂
﹁かしこまりました﹂
ディーネの言わんとするところを察したセバスチャンの返事。で
きる執事はさすがに違う。
つつがなく作業を続行。
甘みが出るニンジン、タマネギを多めに入れ、風味付けの野菜と
してねぎ、セロリ、パセリ、パースニップなどを選択。
あくをこまめに取るよう厳命して、鍋の準備は終わった。あとは
718
ひたすら煮るだけだ。
﹁とりあえず、半日ぐらい煮てみましょうか﹂
﹁そんなにですか﹂
﹁肉がぐずぐずになって、繊維しか残らなくなるまでやってくださ
い﹂
︱︱そして夜、公爵ファミリーに供されるディナーが終わり、そ
ろそろキッチンの火だねも落とされようかという頃合い。
﹁こちらが半日煮たものになります﹂
料理番組の要領でディーネが言うと、厨房の料理人たちはよく分
からないながらも煮えた鍋を火からおろした。
続けて具を取り除かせる。肉は入れたときの半分ぐらいの大きさ
になっていた。ガラになってしまった肉をつっついて、ディーネは
歓声をあげた。
﹁よく出汁がとれたっぽい﹂
﹁香りはすごくおいしそうですね﹂
料理長が控えめに同意した。しかし野菜を入れたことが解せない
ようだ。
﹁この材料を、ナプキンで濾します﹂
﹁濾す⋮⋮?﹂
﹁濾過します。つまり、具を取り除いて、煮汁だけにします﹂
﹁なぜですか!? もったいない!﹂
﹁いいんです。具はあとでスタッフがおいしくいただきますから﹂
﹁食べていいんですか? それならまあ⋮⋮﹂
719
彼らは仰天していたが、なんとかやってみようという雰囲気にな
った。
残った汁を洗い立てのナプキンで濾過。
すると黄金色のきれいなスープストックになった。
﹁完成した新スープのお味はいかに!? CMのあと、驚きの結果
が!﹂
唐突に挟まれたギャグは、キッチンスタッフの誰にも通じなかっ
た。
﹁⋮⋮しいえむ?﹂
﹁気にしないで。気分だから﹂
﹁はあ⋮⋮﹂
ディーネは適当に味をみつつ、塩とスパイスを放り込んで味を調
えたあと、ブイヨンをお皿に盛って、パンとともに料理長へ出した。
﹁採れたて新鮮な野菜のうまみをぐつぐつ煮込んでぎゅっと濃縮し
た牛肉と香味野菜のブネゾンでございます。お召し上がりください﹂
﹁い、いただきます﹂
料理長は疑わしげな様子でパンをスープにひたし、口元に持って
いった。
ギャラリーの料理人たちがぐっと息を呑む。
料理長はじっくりと味わい、じょじょに戸惑い顔を引き締めて、
真顔になった。
720
﹁⋮⋮おいしいですね、これ﹂
﹁おいしいいただきました∼! みなさん盛大な拍手を!!﹂
ディーネが観客をいじると、本当によく分かっていない料理人た
ちからパラパラと拍手がわきおこる。
ポレ
﹁田舎料理ですね。鍋料理のスープだけを飲んでいるような⋮⋮い
や、懐かしくて、おいしいですが﹂
庶民の料理長にしてみれば、だから何なのだ、といったところな
のだろう。おそらく彼も普段から鍋料理は食べ慣れているに違いな
い。
﹁まあ、そうなんだけど、たまねぎやニンジンの甘みがスープに溶
けだして、お肉のうまみに深みを与えるって言ったらいいのかしら
? ブイヨンを作るときにはお肉以外のものも入れたほうがおいし
くなるのよ。野菜やきのこからもいい味が出るってわけ﹂
それまでふざけ半分だったディーネが口調を変えて冷静に解説す
ると、ぽかんとしていた料理人たちがようやくざわざわしはじめた。
料理長もここに至ってようやく感心したような声を出す。
﹁なるほど⋮⋮いや、参りました。茹で野菜の風味がこれほどまで
にブイヨンに影響を与えるとは知りませんでした。料理人として恥
ずかしく思います﹂
﹁今回はシンプルに牛肉だけでやったけど、鶏肉を使ってもいいし
⋮⋮お魚でもいい出汁は取れるのよ。とりあえず皆さんも召し上が
って。ほら﹂
721
ディーネがおのおのにスープを配ると、彼らはがやがやしながら
それぞれ食した。﹁いける﹂やら﹁うまい﹂といったつぶやきが随
所で聞かれる。
﹁おいしいでしょ?﹂
手近な料理人に話しかけると、彼は面食らった。
﹁お嬢様のお料理はすべておいしいですよ。なあ?﹂
横から料理長が苦笑しながら助け舟を出してくれ、料理人は勢い
よくうなずいた。どうやら彼は照れ屋のようだ。
﹁ほら。どう?﹂
﹁いや、ほんとおいしいっすよ、これ﹂
調子がよさそうな印象の若者に話しかけると、今度はちゃんと返
事が返ってきた。
﹁肉のうまみたっぷりだけど、一味違うつーか﹂
﹁今までのブイヨンより全然味がよくておいしいです﹂
横から別の青年もしゃしゃり出る。自分が仕えているお嬢様と口
を利いても問題がなさそうだと知った彼らは口々に褒めつつ、最終
的に﹁でも﹂と疑問を差し挟んだ。
﹁⋮⋮でも、具を捨てる意味はあるんですか?﹂
﹁確かに。俺たち庶民からすると、そのまま食べてもよかったんじ
ゃないかなとは思いますね﹂
722
隣にいた男も同意。
﹁そうね、ちょっともったいないけど、このブイヨンがとっても大
事なのよ。次に作るソースのベースになるからね﹂
言いながら料理人たちのテーブルを離れ、ディーネは火だねを残
しておいてもらったかまどの前に立った。
﹁昨日説明したやつ、今から作るけど、そんなに何度も説明しない
から、ちゃんと見て覚えてちょうだいね﹂
周りに料理人たちを集めて、ディーネはホワイトソースから作る
ことにした。
バターをフライパンに溶かし入れて同じ分量ぐらいの小麦粉投入。
ちゃっちゃとかき混ぜて一分ほど置く。牛乳を少量入れたところで、
バターとミルクが溶け合う甘い香りがあたりにたちこめた。
﹁牛乳を! 入れたら! ひたすら! かき混ぜ! グルテンとか
? なんかそんなのができて、大きくまとまったらまた牛乳を! 追加で! 練り込む!﹂
﹁お嬢様、グルテンとは?﹂
﹁なんか⋮⋮うまくいえないけどすごくいいものです!﹂
﹁はあ⋮⋮﹂
とてもアホっぽいが仕方がない。分子の構造について理解してい
ない人たちにグルテンの形成がどうたらこうたらと講釈をしても分
かってもらえないのは目に見えている。とにかくいいもの、で押し
切るしかない。
﹁よっ! はっ! 内角低めをえぐるようにして練るべし! 練る
723
べし! 練るべし!﹂
数分ほど根気よく混ぜているうちにダマは取れた。
﹁牛乳を全部入れて、ルウが落ち着いたらあとは二十分ぐらい煮込
んで完成です。この鍋はあなたに任せました﹂
﹁はい﹂
﹁私の形見だと思って大切に育ててください。たまに褒めてあげた
りするとのびのびといいスープに育ちます﹂
﹁スープに⋮⋮話しかけるんすか?﹂
﹁モーツァルトの音楽なども有効です﹂
﹁モーツァルトとは⋮⋮?﹂
﹁気にしないで。気分だから﹂
﹁はあ⋮⋮﹂
煮込むところは手近にいた料理人に任せて、第二のソースも作る。
﹁ふたつ目のソースもルウを作るところは同じですが、牛乳の代わ
りに先ほど作ったブイヨンを入れて⋮⋮どろりとするまで煮詰めた
ら完成です。この鍋はあなたにお願いします﹂
﹁かしこまりました﹂
﹁もともとのブイヨンもそれだけでおいしい味わいになっているけ
れど、小麦粉とバターでとろみをつけて、濃度をあげることによっ
て、ディップ用のおいしいソースになるというわけです。これを絡
めたお肉は本当においしいですから、期待して待っていてください﹂
ディーネが久しぶりにまともなことを口にしたせいか、料理人た
ちの反応は上々だった。疑問を呈するもの、本当においしそうだと
期待するもの、口々に思い思いのことをしゃべっている。
724
﹁マジすか。肉料理に使うんですか、これ﹂
﹁マジです。お嬢様うそつかない﹂
﹁あの、お嬢様、スパイスは?﹂
当然の疑問が彼らの間からあがった。この時代の常識からいえば、
肉料理にスパイスを使用せぬなど、正気の沙汰ではない。
﹁今回はショウガとナツメグだけでいいです。ブイヨンの底力を実
感してもらいますので﹂
第三のソースは第二のソースを少しとりわけてトマトを入れるだ
けなので、先にアルマンドソースを作った。加熱したルウを火から
おろして卵と酢を少しずつ投入。
﹁アルマンドソースもまた違う味わいでおいしいですよ﹂
パンにソースをつけて試食。
こちらもおおむね好評だった。
﹁さらにここからは、完全に私の趣味ですが﹂
と前置きして、ディーネは卵と酢と油を集めて、陶器製のボウル
を引き寄せた。
﹁この卵と酢と油で、もうひとつ珍しいソースが作れちゃいます﹂
725
二章完結記念小話 マヨネーズを開発するお嬢様 その三
ディーネはがっしがっしと卵黄をかき混ぜはじめた。いろんな食
材をかき混ぜすぎてそろそろ疲れてきたが、ここを怠るとおいしい
ものにならないので、握る手に力をこめる。
﹁油を少しずつ入れて、よーくかき混ぜます。いきなりどばっと入
れてもうまくいかないので、ちょっとずつ入れます﹂
だんだんかたくなってきて、かき混ぜにくさマックスに。
﹁ぐうう! 重たい! 酢を先に入れるともっと楽に作れるけど、
油を先に入れた方がおいしくなるので! 重くても耐えてください
!!﹂
ギャラリーがざわざわしている。なんだか笑われているような気
がするが気にしない。
﹁よく混ざったら、塩とコショウで味を調えた酢をちょっとずつ入
れてゆきます。ここでも抜からず! よく! 混ぜる! すると!
!﹂
生地がゆるんで伸び、もったりとしてくる。クリームのような形
状になるのは、油と水が卵によって乳化するからであった。
ほんのり黄色のクリームの表面がつやつやと光っている。木べら
を傾ければたぷんと落ちるこのソース。ディーネにとってはよく見
726
慣れた調味料。
味の調整に塩コショウとレモンなどを加えて、完成。
﹁マヨネーズの! 完成! です!﹂
︱︱腕が疲れた。
運動不足のディーネが若干はぁはぁしながら現物を出すと、会場
は生温い拍手に包まれた。﹁かわいい﹂﹁かわいい﹂﹁圧倒的にか
わいい﹂満場一致の茶化した感想にディーネは落胆する。つっこむ
ところそこなの。もっとほかにないの。おいしそうだとか、こんな
調味料見たことないとか。
労働者階級が貴族の娘に偏見を持ってるのは仕方のないことだが、
そろそろディーネは違うと分かってほしい。でないとこの先もやり
にくくて仕方がない。
﹁マヨネーズはね、野菜と相性がいいのよね。生野菜と一緒にサン
ドイッチにするとおいしい﹂
手近にあった小麦粉オンリーの白いパンにざざっとバターとマヨ
ネーズを塗り込み、ベーコンとトマトとレタスを挟む。
﹁ほら。どうぞ﹂
料理長に手渡すと、試食係を押し付けられた彼は神妙な表情でそ
れを手に取った。
﹁⋮⋮あの、これ、火を通してませんが⋮⋮生で食べるのですか?﹂
﹁生です﹂
727
ちなみにこの国、野菜を生で食べる習慣はない。どんな料理もか
ならず一度茹でてから作られる。
﹁見たところ鮮度もいいようだし、私がちゃんと洗ったので大丈夫
です。つべこべ言わずに食べなさい﹂
これにはギャラリーもざわついた。﹁ひでえ﹂﹁かわいい顔して﹂
﹁悪魔か﹂それだけ野菜の生食は危ない行為だと思われているので
ある。もちろんそれは間違っていない。冷蔵庫のない世界では、加
熱殺菌はなによりも大切だ。
彼は死を覚悟したような形相で、目をつぶり、ひと口かじった。
︱︱カッ!
料理長の目が見開かれる。
﹁なっ、こっ、これは⋮⋮!!﹂
ふた口、三口。だんだんペースがあがっている。すごい勢いでし
ゃっきりしたレタスを噛みちぎり、トマトのあふれる果汁をももの
ともせず、手をベタベタにしながら貪り尽くしていく。
﹁この、ベーコンの塩気とマヨネーズの酸味、トマトの味わい⋮⋮
ううう、うまい!﹂
ディーネはようやく満足してうなずいた。
BLTサンドがまずいわけがないのである。
﹁ねえ、ベーコンとレタスもあるだけ使っちゃっていい? 全員に
728
試食してもらいたいから。あとでセバスチャンがなんとかしてくれ
ると思うし﹂
﹁ああ、ぜひそうしてあげてください、お嬢様! いやーこれは、
本当に、久しぶりのヒットですよ! このメニューは間違いなく流
行しますね!﹂
ざわざわざわ。﹁そんなに?﹂﹁いやーお世辞では?﹂﹁料理長
が言うんだし⋮⋮﹂興味をかきたてられて騒ぐ料理人から適当に何
名か指名し、サンドイッチを量産するように命令してから、ディー
ネはソースを煮込んでいる鍋に戻った。
﹁⋮⋮で、こちらが完成品のヴルーテソースになります﹂
煮詰まってプルプルだ。本来のヴルーテソースはもっと軽やかで
クリーミーなのだが、お肉に絡めることを考えて少し濃度を上げた。
﹁うっふっふ。今までのブイヨンと同じだと思ってはいけません。
この濃厚なソースはたっぷりのスパイスに負けず劣らず肉の風味を
引き立てるのです!﹂
どうだと言わんばかりに胸を張るディーネに、料理人たちが試食
したがって近づいてきた。どこからともなく鶏もも肉のソテーが小
さく切って運ばれてきて、ソースとともに配られる。
﹁なんだこれ⋮⋮!﹂
﹁しょっぱいっつーか⋮⋮いや、しょっぱくはないけど⋮⋮﹂
﹁濃厚⋮⋮?﹂
﹁味わい深い﹂
﹁わかんねーけどなんかうまいよーな気ーする!﹂
729
料理人たちが未知の料理に恐れおののいている。それも仕方がな
い。酸味と塩気、スパイスがおもな風味のこの国では、うまみとか
なんかそんなのを感じ取る機会もそうそうないのである。
﹁うまいっす、お嬢様﹂
すっかり打ち解けた雰囲気の料理人が声をかけてきた。他の者た
ちも次々と口を揃える。
﹁あーこれは、焼きたてのささみとかにつけて食べたい感じの﹂
﹁スパイスなしでも結構いけるもんでしょ?﹂
﹁いいっす!﹂
﹁サンドイッチも最高です﹂
いつの間にかできあがっていたホワイトソースも試食に回した。
﹁これもいいですね。まろやかで﹂
﹁煮込み料理に向いてそう﹂
﹁うむ。くるしゅうないぞ﹂
ディーネは最後のソースを完成させようと、ヴルーテソースをと
りわけ、トマトを放り込んで、軽く煮たてた。
トマトを食べるという習慣がない人たちは出来上がった真っ赤な
ソースにおののいている。
﹁すげえ色﹂
﹁コチニールみたいな﹂
﹁大丈夫です。トマトの赤色はリコピンの赤色。健康にとてもいい
ものです﹂
﹁へぇーそうなんすね﹂
730
﹁お嬢様のおっしゃることは全然分かりませんが﹂
﹁お嬢様が言うならそうなんだなって思います﹂
﹁やっぱ俺たちと違って学がありますもんね﹂
リコピンがどうたらは学があるとかないとかの問題ではなく、た
だの前世知識なのだが、そこはあえて説明しないでおく。意識高い
感じのヴィジョンをコンセンサスとしてメイクシュアすることによ
り、なんかそれっぽいなと思わせる手口だった。
詐欺師と同じである。
始めはディーネも自分の知識を現地の人にも分かるように説明し
ようと苦心したことがあったのだが、そのうちに謎の異世界語交じ
りの説明の方が納得してもらいやすいことに気づいた。要は、理解
と信頼はまったく別の問題なのである。理解できても信じてもらえ
るとは限らず、信じてもらえているからといってその人の理解が追
いつくとは限らない。調理法などは仕組みを説明して理解してもら
うのではなく、こういうものなのだと信じ込ませたほうが話が早い
のだった。
﹁うわ、これもうまいっす﹂
﹁このソースも煮込み料理向きかしらね。ハヤシライスが食べたい
です﹂
﹁ハヤシ⋮⋮?﹂
﹁ハヤシさんが考案したおいしい料理です。そのうちそなたらにも
作ってしんぜよう﹂
﹁マジっすか!﹂
﹁よくわかんないけどうまそうっすね!﹂
いい感じに洗脳されてきた料理人たちに、ディーネはひそかにほ
くそえんだ。
731
あと数度も料理の実演会を繰り返せば厨房のスタッフとも仲良く
なれそうだ。
﹁︱︱さて、料理長。今年の秋はこの新作ソースを使った料理を考
えてほしいのですが。ワインでソースを伸ばして肉を煮込んでもい
いですし、シンプルなソテーに添えてもいいですし﹂
﹁お任せください。これはぜひともお館様にもお召し上がりいただ
かなければ﹂
お館様とは、つまりディーネのパパ公爵のことである。
﹁いいですね! まずはうちのごはんで実験してもらって﹂
これをきっかけに、一気にお屋敷のメニューのレパートリーが広
がる予感がして、ディーネの心も躍った。
﹁ブイヨンもまだまだ改善の余地があります。次はぜひ魚の出汁な
んかも使ってみてね﹂
﹁魚ですか⋮⋮﹂
﹁そう! 魚! 海老や海藻でもいいけど、あさりから取れる出汁
は最高デス! あさりの酒蒸し食べたい!! あさりのパスタ食べ
たい!!﹂
﹁作りましょう﹂
﹁いずれ必ず!﹂
キッチンスタッフとディーネたちの心は食欲によってひとつにな
った。
本当はかつおぶしが作れれば一番なのだが、それはおいおいの課
題としようとディーネは思った。かつお自体は生息していて、海が
732
近い地域などで油漬けの樽が出回っていることは確認済みだ。しか
し、かつおぶしの作り方はさすがに知らなかったのである。
﹁あ⋮⋮ウスターソース作るの忘れてた﹂
コロッケ用のソースがほしくて思いついた企画だったが、それ以
前にブイヨンがまだこの世界に存在していなかったので、まずはそ
こからの作成となった。
当初の目的をすっかり忘れて基本のソースの作成に熱をあげてし
まったが、ウスターソースはまた次回でいいだろう。
***
厨房での騒動がはけたあと。
ディーネはサンドイッチを片手に、執事のお部屋にやってきた。
参加できなかったセバスチャンにも分けてあげようと思ったのであ
る。
ドアを開けかけたセバスチャンは、やってきたのがディーネだと
知るや、いきなり扉を閉めてしまった。完全なる入室拒否である。
﹁お、おーい? ちょっとー?﹂
﹁すみませんお嬢様、私は今あまり人前に出られるような格好では
なく⋮⋮﹂
﹁どんな格好だったの⋮⋮﹂
﹁いえ、決してやましいことはないのですが、先ほどお湯を使わせ
ていただきましたので、髪が、まだ﹂
733
ちらりと姿が見えたセバスチャンはいつもの執事服だったが、確
かに髪は濡れていた。
﹁すみません、このような格好で階段上に出てくるのは執事失格だ
ということは重々承知しているのですが、どうしても片付けたい仕
事が﹂
恐縮しまくっているセバスチャンに、ディーネは逆に申し訳なく
なってきた。彼をこき使っているのは他でもないこの自分である。
そういえば昨日も仕事を押しつけてしまった。夜も更けたこの時間
まで残業させられてしかも謝らないといけないなんて、まるで奴隷
か社畜のようではないか。そもそもこの世界にオーバーワークの概
念はないけれども。いつの世もワリを食うのは自分から文句を言い
出せない子なのだなとしみじみした。
一度セバスチャンの就業規定について考え直す必要がある。この
ままだとかわいそうだ。
﹁そう? 差し入れ持ってきただけだから、手が離せないなら渡し
たらすぐ帰るけど⋮⋮﹂
ちょっとだけ開けてほしいと頼むと、おずおずとドアが開かれた。
湯上がりらしいセバスチャンはほっぺがつやつやのピンク色にな
っていた。恥ずかしそうに髪の毛を気にする仕草がまたかわいらし
い。
﹁ありがとうございます﹂
﹁⋮⋮? なぜお礼をおっしゃるのですか?﹂
﹁尊いものを目にしたら感謝をささげるのがマナーだからです﹂
734
︱︱セバスチャンの湯上がり姿尊い。
ブッディストのように両手を合わせて拝んでいると、セバスチャ
ンが戸惑った顔をしつつ、見よう見まねで手を合わせた。
﹁どちらの風習かは存じませんが⋮⋮それでは私も、ありがとうご
ざいます﹂
︱︱やだかわいい。
外国人にヘンな日本語教えてしまったみたいな感覚だ。たどたど
しくて初々しい感じがたまらない。
﹁お嬢様はいつも私に親切にしてくださるので、とても尊いです﹂
﹁セバスチャン⋮⋮!﹂
ディーネはキュン死にしそうになった。
この世は尊いものでいっぱいである。
思いがけずほっこり癒されて、ディーネのソースづくりは終了し
た。
735
七月・八月・九月の売上をまとめましょう
バームベルク公爵領の長女、ウィンディーネ・フォン・クラッセ
ンは前世の記憶を持っている。
記憶を取り戻す以前の彼女は婚約者の帝国皇太子、ジークライン
を中心に世界が回っていた。
彼に気に入られるようよく学びよく働き、まめに手紙を書いては
手作りのものを差し入れる毎日。せっせと神に祈り、綿入れの刺し
子をし、愛らしくマナーのよい淑女になろうと努めてきた。
生活が一変したのは記憶が戻ってからだ。
︱︱あれ? もしかして私、こいつと結婚しなくてもよくない?
クラッセン嬢は物心ついたころからずっとよき皇妃となるように
特別な教育を受けさせられており、そのプレッシャーも大変に大き
なものだった。何しろ彼女の婚約者は天才と名高い皇太子。﹃数多
の戦場の覇者﹄﹃二人といない帝王の器﹄と賞賛されてきた婚約者
に比べて、彼女はあまりにも気弱すぎた。人の前に出るのが苦手で、
注目を浴びるのはもっと苦手。大きな式典の前には明日雨が降って
中止にならないかなと、運動会を毛嫌いする子どものようなことま
で思う始末だった。
結婚後の生活などにも不安があった彼女は、婚約の破棄を願い出
る。本気にしなかったジークラインから、持参金大金貨一万枚を稼
げたら考えてもいいという言質を取ることに成功。
736
およそ達成不可能かに思えるこの約束を取り付けたのは、勝算が
あったからだった。
そこで彼女はこの半年あまり、せっせと商売にいそしんだ。
***
十月一日。
家令のハリムと執事のセバスチャンを集めての定例会議。
﹁七月、八月、九月は、第一四半期と同じ内容、同じ規模の商業活
動を行ないました﹂
家令のハリムが言ったのを受け、ディーネはまとめられた数字に
目をやった。
﹁三か月で1971枚の純利益を達成。予定よりも金貨で二百枚ぐ
らい多いわね﹂
﹁セバスチャンの功労賞でしょう。屋敷の執事業の後任が見つかっ
ていないながらも、よく働いてくれましたので﹂
﹁はい。楽しく働かせていただきましたので﹂
セバスチャンがにこりとほほえんだ。
︱︱かわいいわぁー⋮⋮
セバスチャンにはどこか人を和ませてしまうような雰囲気がある。
仕事を放棄して休憩モードに入ってしまいそうになり、ディーネは
慌てて表情を引き締め、帳簿に視線を戻した。
737
﹁六月までの純利益が4,010枚だから、合わせて5,981枚
ね﹂
﹁順調ですね。目標は確か、大金貨で一万でしたか﹂
﹁このペースでいけば、三月末までには大金貨で一万を達成する見
込みでございます﹂
ディーネは重々しくうなずいた。
そうなのである。
実は七月の時点で、現在の事業だけで十分達成可能だと分かって
いた。
夏の三か月はその予測通り、おおよそ金貨二千枚を稼ぎ出した。
現状を維持していれば期日には間に合うというのが、セバスチャン
とハリム、ディーネの共通見解だ。
それゆえにディーネは、七月、八月、九月と、三か月かけて領内
の公共事業や帳簿の整理に乗り出していたのだが︱︱
﹁じつは、残念なお知らせがあります﹂
ディーネにはまだ二人に伝えていないことがあった。
﹁こないだ、ジーク様と喧嘩をしました。それでつい、競馬場の土
地なんかいらないわよ、と言ってしまって⋮⋮土地を買い取る金額
も上乗せで稼がなきゃいけなくなってしまったの﹂
ハリムの顔が一気に険しくなった。
﹁しかしあの土地は⋮⋮﹂
﹁分かってる、あれ、大金貨で三千枚査定なのよね?﹂
738
大金貨とは帝国が発行している最高額の貨幣で、わずか一枚で庶
民が数か月暮らしていけるほどの大金だ。それが三千枚ともなれば、
そう簡単に稼ぎ出せる金額ではなくなってしまう。
九か月分のレンタル料についてはとくに何も言及してないので、
この際なかったことにしようとは思っているが。
﹁春の三か月で稼いだ金額にもらった土地の資産価値も含めていた
から⋮⋮あらためて金貨三千枚と少し稼げる商売を見繕わないとい
けないってわけ⋮⋮﹂
けっこうな大金だ。
﹁あてはないこともないのよ? 南の淡水湖のあれとか⋮⋮﹂
﹁ああ、あの⋮⋮﹂
淡水湖で行なっているのは、真珠の養殖実験だ。巨額の投資をし
た事業だから、秘密裏に進めていきたかった。
ハリムにだけ通じる話をしてしまい、セバスチャンには悪いと思
ったが、情報はむやみに回さないほうが事業では成功しやすい。い
つどこで誰に漏れてしまうとも限らないのだ。
﹁そっちはそっちとして、今月からまた新しいビジネスを考えてい
くつもり。最近手に入った設備を流用できたらいいわね﹂
ディーネが夏の公共事業で新たに取得した設備は建設中の紡毛工
場が十か所。
それと、つい数日前に手に入れた印刷機が六台だ。
739
ただし印刷機はゼフィアと共同して慈善事業に使う予定のため、
商売に流用するのはまだまだ先のこととなりそうである。
紡毛工場は週に一基のペースで増やしていけるとのことだったの
で、来週ぐらいから働く人員をそろえて訓練していく。
正式な稼働は様子を見ながら決定する。
﹁この工場はね、ちょっとすごいのよ﹂
設備投資費用もそれなりだが、利益もそれなりである。
﹁ちょっとまだ試算の段階でてこずってるけど⋮⋮とにかくすごい
のよ﹂
機械制の大規模な工業化といえば、地球史では産業革命期まで待
たねばならなかったが、いくつかの条件が重なることにより、奇跡
的に中世の文明水準で早々に実現させることができたのだ。
なので、ディーネがよほどめちゃくちゃな手を打たない限りは絶
対に大成功するはずだった。大英帝国ならぬ大バームベルク帝国が
勃興する日も近いのである。
それだけの可能性を秘めている機械だけに、恐ろしいのが産業ス
パイだった。
水力紡績機の技術は、実はそれほど難しいものではない。バーム
ベルクに存在していた機械類の機構だけで十分に再現が可能であっ
た。
歯車滑車と、複数の糸つむぎを同時に行う足ふみペダル式の糸車、
エスケープメントと呼ばれる反復運動の機構。
このくらいのものであれば地球史でも中世末期にはそろえられる。
740
単純なカラクリ仕掛けに集約される糸紡ぎの作業がずっと古代さ
ながらの手作業に任されてきたのは、糸巻きを担う女性たちの賃料
が安く、いくらでも働き手が見つかったからなのである。
難しい技術ではないだけに、条件がそろえば技術の盗用はありう
る。
逆に言えば再現可能な技術でもあるということなので、こうして
量産化のめども立ったわけだが。
﹁あとね、まだ開発中だけど、食品のほうでも少し面白いものが作
れそうなの﹂
この世界に冷蔵庫は普及していない。そのため、乳製品には主に
有塩の発酵バターを使用せねばならず、お菓子の味が大きく変わっ
てしまうのがネックとなっていた。しょっぱくて、コクが深いとい
えばいいのだろうか。
ケーキの味が塩気で台無しになってしまうのはいただけない。
ちょっと変わったアプローチを取ることにより、この問題も解決
の目途が見えてきた。
﹁まだまだやろうと思えばいくらでも資金稼ぎの算段はつけられる
から、あんまり心配はしてないのよね。問題は⋮⋮﹂
さしあたって一番の心配ごとに、ディーネは視線を向けた。
﹁あなたたちの労働時間が労働基準法を超えているってところなの
よね﹂
﹁それは一体どこの法律ですか?﹂
741
ハリムは不思議そうな顔をした。彼は各地の紛争、裁判も管轄し
ている。なので法律にも詳しい。
﹁気にしないで。まだ私の中にしかない法律だから﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
もともとこの世界に労働基準法の概念などはない。日がのぼった
ら働き、日が沈んだら帰って寝る。
ところがこのふたりは日が沈んだあともずっと働いているのであ
る。
セバスチャンなどは下手をすると終課︵午後九時∼十時前後。デ
ィーネは就寝の時間だ︶の鐘が終わっても晩餐会の後片付けをして
いる。それで翌日、パパ公爵が起きだす三時課の鐘の後︵おおよそ
十時前後。貴族の午前は遅い︶にはすでに就業しているのだから危
険だ。
よくこの労働条件で働く気になれるなとディーネは感心するぐら
いなのだが、彼は条件について文句をつけたことなど一度もない。
素で常人の三倍ぐらい働き、さらに常人の三倍ぐらい仕事の効率も
よいのであった。日本人か。
ハリムもなかなかひどい。彼は公爵領全体を監督する家令で、使
用人の中ではもっとも偉い。すべての実務に口を出す権限を持ち、
それらに対して責任を負っている。
パパ公爵があの新しい武器がほしいとだだをこねれば資金を捻出
し、各地で問題が起きたとなれば飛んでいく。牛の飼い方からワイ
ンの出来高まで、領地経営のすべてはハリムにかかっていると言っ
ても過言ではない。公爵領には貴族や高位の騎士なども多数在籍し
ているが、ささやかな農地を持っているだけ、あるいは領地なしの
弱小貴族である彼らとは比べ物にならないぐらいの職業的特権をハ
742
リムは持っていた。
彼らに代わる人材を見つけるとなると難しいが、補佐役ぐらいは
いてもいいだろう。
﹁さしあたっては人を増やさないとね⋮⋮お母さまにお願いをしな
いと﹂
︱︱おおまかな方針が決まり、売上の報告会は終了した。
743
公爵夫人はかわいい子がお好き 1
昼下がりにディーネが母親のザビーネ公爵夫人を訪ねていくと、
けいかん
彼女は自室で静かに詩の勉強中だった。彼女を取り巻いているのは
侍女や桂冠詩人たちだ。
﹁お母さま、少しお話が﹂
人払いを頼んで奥の間に引きずっていく。話題にはあらかた予想
がついているのか、公爵夫人はディーネが何も言わないうちから困
ったように首をかしげた。
﹁まだね、セバスチャンの代わりは見つかりそうにないのよ﹂
ディーネはまさに執事の後任や家令補佐を探してもらおうと思っ
ていたところだったので、出鼻をくじかれた。
﹁そうなんですか? 屋敷のスタッフにも?﹂
﹁あら、全然だめよ。セバスチャンみたいな子なんてめったにいな
いの。奇跡の逸材だったのよ⋮⋮﹂
ザビーネは悲しげにため息をつく。
﹁わたくしのお気に入りだったのに、ディーネちゃんに取られちゃ
ってお母さまは悲しいわ。どこかに若くて有能な子はいないかしら﹂
﹁⋮⋮執事は別に、若くなくてもいいのでは⋮⋮?﹂
﹁あら、いやよ。わたくしはかわいい子が好きだもの﹂
744
屋敷の使用人は見た目や年齢がかなり重要な査定条件になってい
るらしく、皆なぜか一様に容姿が美しい。それは侍女や雇われの楽
師たちに至るまで例外ではなかった。
﹁とりあえず間に合わせで誰か使えそうな人材を入れてもらうわけ
にはいかないでしょうか。何なら来年の復活祭まででも構わないん
ですが﹂
復活祭とは、春が来たことをお祝いする行事だ。ディーネはこの
時期を期限と決めている。
ザビーネはちょっと頬をふくらませた。
﹁なら、ディーネちゃんが自分で執事さんを探して、ご自分のお仕
事を手伝ってもらえばよろしいわ﹂
﹁そんな、困りますお母さま﹂
﹁わたくしもがんばって探しているから、もう少し待ってちょうだ
いね﹂
﹁はい⋮⋮﹂
どうやらもうしばらくセバスチャンの忙しい日々は続きそうだ。
﹁ああ、そうそう、ディーネちゃんに言わなきゃいけないことがあ
ったんだわ﹂
ザビーネはそそくさとお部屋の書き物机から何かを取り出した。
巻物はお手紙のようだ。するすると広げられた書面で真っ先に目に
入ったのは、ゼフィアの大司教主座のシールと、大司教主エストー
リオの個人印であった。
745
﹁大司教主さまが公爵家にお見えになるそうよ﹂
﹁はあ⋮⋮﹂
ゼフィアの大司教主、エストーリオ。
彼はバームベルクでも有数の高位聖職者だ。現教皇の甥で、将来
は教皇位につくことも確実だと思われている。
ディーネは仕事で近頃よくエストーリオと顔を合わせていたので、
改めて客人として屋敷に来ると言われてもピンと来ない。おそらく
公爵夫妻のほうに用事があってのことなのだろうが、何の用だかは
さっぱり不明だ。
﹁今年の冬はわたくしたちの屋敷で過ごしたいのですって﹂
﹁ははは。冗談きついですね﹂
﹁公爵さまも喜んでいたわ﹂
﹁ははは⋮⋮って、なんですと⋮⋮?﹂
そういえば彼がディーネの誘拐未遂騒ぎを起こしたことは、ディ
ーネと皇太子しか知らない。なのでパパ公爵が教皇の甥とお近づき
になれるチャンスを喜んだとしてもおかしくはないのだが⋮⋮
﹁まさか泊めたりしませんよね⋮⋮?﹂
﹁あら。歓迎するってお手紙、もう出してしまったわ﹂
﹁えええええ、ちょ、お母さま!﹂
ディーネはちょっと悩んだが、言ってしまうことにした。
﹁でもあの人⋮⋮わ、私に、気があるって⋮⋮﹂
こういうことはひとりで悩むよりも経験豊富な公爵夫人に任せて
746
しまったほうがいいに違いない。パパ公爵は何かまた戦争するとか
言い出しそうなのであてにならないが。
﹁ええ、そうでしょうね﹂
ところが公爵夫人はあっさりと流した。
﹁えっ、ご存じでしたの、お母さま﹂
﹁あなたがちっちゃい頃からそんな予感が母はしておりました﹂
﹁分かってたんなら止めてよ!?﹂
どういうことだとディーネは憤慨する。年端もいかない娘とロリ
コンを一緒にしておくなんてどう考えてもおかしいだろう。
﹁あら、エストーリオ様は安全な方よ。自分に気のない女の子を無
理にどうにかする根性なんてあるわけがないわ﹂
﹁お母さま。性犯罪を気合いとか根性で表現しないでくださいまし﹂
﹁あらあら。でも本当のことよ﹂
ザビーネは悪びれた風もない。
﹁ねえ、ディーネちゃん。わたくし先日公爵さまに泣いてお願いさ
れてしまったの。最近のディーネちゃんは皇太子さまに失礼が過ぎ
るって。かわいげのない態度はやめさせてほしい、んですって﹂
ディーネはぎくりとした。
彼女が皇太子のジークラインに婚約を破棄したいだとかあーだこ
ーだとワガママを言っているのは事実だ。公爵令嬢と皇太子の婚約
は、もしも片方の子孫が絶えたら片方がすべてを継承するという暗
黙の取り決めであり、大国を維持するための最重要保護政策であり、
747
さらに公爵家と皇帝家の友好関係の確認儀式でもあるから、ディー
ネ個人の感情的な行動でそれをぶち壊すことは許されない。
これは激しく説教されるかと覚悟して身を固くした直後、ザビー
ネはからころと笑った。
﹁申し訳ないけれど、わたくしおなかを抱えて笑ってしまったわ﹂
﹁お母さま⋮⋮﹂
﹁殿方はいつだって何にもお分かりでないのね。公爵さまも、皇太
子殿下も。滑稽なこと﹂
ザビーネはふたりきりの部屋を見渡して、歩き回って扉や窓の開
き具合を確かめ、誰も聞き耳を立てている様子がないことを確認し
てから、さらにディーネに寄り添った。耳元でひそひそとささやく。
﹁お母さまはあなたを見直したわ﹂
ディーネはまったく意味が分からない。なぜ褒められているのだ
ろう?
748
公爵夫人はかわいい子がお好き 1︵後書き︶
イースター︵復活祭︶
ヨーロッパで一番大きなお祭り。ケルト・ゲルマン等、各地の神話
にキリスト教文化が習合してできたもの。移動祭日なので国や宗派
によって日付や内容が大きく異なる。
749
公爵夫人はかわいい子がお好き 2
母親に見直されるようなことなどあっただろうか?
公爵令嬢のディーネはザビーネの発言を待った。
﹁婚約破棄の通告をつきつけるなんて、ディーネちゃんたらやるじ
ゃない﹂
混乱しているディーネをくすりと笑って見上げ、ザビーネは言葉
を続ける。
﹁だって、ディーネちゃんが毎日一生懸命神さまにささげてきたお
祈りではついに買えなかった大きな関心を、皇太子殿下から引き出
してみせたじゃないの﹂
ディーネは目をぱちくりした。なるほど、押して駄目なら引いて
みろと言うが、デレデレなアプローチ一辺倒だったディーネが、違
う方法で気を引けるようになったことを褒められているらしい。
﹁いえ、お母さま、私は気を引くための演技とかでなく、本当に本
気で婚約破棄をしようとですね⋮⋮﹂
・・・・・
・・・
・・・・・・・
﹁あらあら、とぼけるの? でも、そうね。皇太子殿下を相手に駆
け引きをするのですもの。まずは自分自身を完全にだましてしまう
くらいでないと、なかなか難しいわよね? 確かあの子にほとんど
うそは通用しないってベラドナちゃんから聞いたことがあるわ﹂
ベラドナちゃんとは、ワルキューレ帝国の皇妃であり、要するに
皇太子殿下のお母上である。ハリウッド女優みたいな派手めの美人
750
で、少女のように無垢でかわいらしいザビーネとは対照的だが、ふ
たりはとても仲がいい。たしか出身が同じ地方であったという話を
していたような気がする。ベラドナはその地方の言葉で﹃美人﹄を
表し、ザビーネもそちらの発音だと清音の﹃サ﹄ビーネとなり、﹃
女の子﹄というような意味合いの単語になるようだ。
﹁殿下はね、とっても動揺しているみたいよ。頻繁にディーネちゃ
んの様子を聞きにやってくるそうなの。本人は隠したがってるみた
いだけど、バレバレなんだって言っていたわ。おかしいわね﹂
﹁わあ⋮⋮﹂
確かにそれはかわいらしいことだ。だがしかし、母親におもちゃ
にされるのはあの年頃の子としてはだいぶつらいんじゃないだろう
か、とディーネは気の毒に思った。しかもその様子がまわりまわっ
てディーネのところに届いているなどと、本人は夢にも思わないだ
ろう。女のネットワークというものは概してそういうものなのだ。
﹁あの子は生まれついてからずっと賞賛されるばかりの人生だった
でしょう? プライドが高いから、他人に相談できないみたい。あ
なたがジーク様ジーク様ってあとをついて回っていたこともみんな
知ってるから、振られそうだなんていまさら格好悪くて打ち明けら
れないのでしょう﹂
浮き彫りになる皇太子殿下の寂しい日常。ディーネは後悔した。
そんな事実知りたくなかった。若干かわいそうになってきてしまっ
たではないか。
﹁ほんとにあなたはうまくやったわね。さすがはわたくしの娘だわ。
皇宮の小悪魔の称号を継ぐ日も近いわね?﹂
﹁⋮⋮変なスキルが開眼しそう﹂
751
﹁スキル⋮⋮?﹂
﹁いえ、こちらの話です﹂
称号を獲得すると新しいスキルが手に入ることもある、なんてい
うのはゲーマーだけのお約束だ。
﹁ねえ、ディーネちゃん。今の皇太子殿下が、エストーリオ様のご
逗留について知ったらどう思うかしら?﹂
それはまずいと、ディーネは思ったが、ザビーネの意見は違うら
しい。
﹁きっと面白いものが見られるわよ。せいぜい困らせてさしあげた
らよろしいのではなくて?﹂
うきうきと楽しそうなザビーネを見ているうちに、ディーネは気
が重くなってきた。
試しにジャブを打ってみることにする。
﹁あの⋮⋮お母さま。もしもの話ですけれど⋮⋮もし私が、本当に
婚約解消させてしまった場合は、どうなるとお思いです?﹂
﹁どうかしら⋮⋮公爵さまをカンカンに怒らせて、勘当されてしま
うかもしれないわね﹂
﹁勘当﹂
﹁それで済めばよいほうだけれど、ありもしない不貞をでっちあげ
られて、魔女扱いで責め殺されることもありうるわね。だって皇太
子殿下に示しがつかないですもの。皇帝家と良好な関係を築いてい
たい公爵さまとしては、娘を焼き殺すこともやむなしかもしれない
わ﹂
﹁魔女扱い﹂
752
どれもありうる話だったので、ディーネは肌寒くなってきた。
﹁どうしてもというのなら、エストーリオ様を味方につけるか、そ
れなりにご立派な王国の方に嫁いでいくのが一番ではないかしら?﹂
ディーネは無意識のうちにぶんぶんと首を振りたくっていた。絶
対に嫌だ。
﹁あら、嫌なの? いいじゃない、エストーリオ様。素敵な方よ﹂
ディーネは小刻みな十六ビートで首を振った。
ロリコンのストーカーのどこが素敵なのか。その趣味は解せない。
彼は教皇との強力なコネクションを持っているので、宗教裁判の
もみ消しなどでは非常に頼もしい味方となってくれるだろうが、デ
ィーネはたとえロースト魔女にされるとしても絶対にお断りである。
﹁でもそうね、どんな結末になったとしても、わたくしはあなたを
応援するわ﹂
﹁お母さま⋮⋮﹂
﹁ディーネちゃんはとってもしっかりした子だから、きっとどこで
もうまくやっていけるわよ﹂
﹁お母さま。勘当が前提のようなお話はおやめくださいまし﹂
﹁だってディーネちゃん、お針子仕事は得意でしょう? 典礼言語
もペラペラだし、どこの修道院に行ってもやっていけるわよね﹂
﹁修道院行きが確定かのようなお話もおやめくださいまし﹂
ザビーネはひとしきり話して気が済んだのか、これでおしまいだ
というように、戸口へ向かって歩き始めた。そこでふと歩みを止め、
振り返る。
753
﹁そうそう、来週の収穫感謝祭のミサはエストーリオ様にお願いす
ることにしているわ。大きな宴会を開いていただけることになって
いるの﹂
ザビーネの告知はあんまりにもあんまりだった。
︱︱収穫感謝祭とはその字のごとく秋の豊穣を祝う祭日だ。バー
ムベルクでは地代の支払日になっており、収穫した穀物や鶏、役人
が集めた塩税や通行税などを支払ってもらう時期となっていた。
九月の末日ごろにある聖天使の日に収穫感謝祭が行なわれ、その
後、十月の第一週の日曜日まで、﹃秋の斎日﹄と呼ばれる期間に突
入する。
この﹃秋の斎日﹄は、教会主導のお祝い事だ。メイシュア教にお
ける斎日とは、肉や卵などを食べてはいけない期間のことを言い、
魚と野菜だけでつつましく過ごすのが通例となっていた。もちろん
お菓子なども禁止である。
秋の斎日の最終日となる十月第一週日曜日のミサは、断食から解
放される記念すべき日であり、教会からねぎらいとしてパンやワイ
ンがたくさん振る舞われる。
ザビーネが言っているのは、このミサのことだろう。この司式を
エストーリオが務めることに決まったらしい。
﹁皇太子殿下もご招待したから、もしかしたらいらっしゃるかも﹂
﹁むごい⋮⋮中止にしましょうよそんなの﹂
﹁無駄よ。もう送ってしまったもの﹂
きゃらきゃらと楽しそうに笑うザビーネ。
754
それを恨めしく眺めながら、当日は病欠するか、地方に高跳びし
ようとさっくり決意するディーネであった。
755
公爵夫人はかわいい子がお好き 2︵後書き︶
収穫感謝日
プロテスタント系のお祝い︵=中世にはなかった︶ですが、都合に
より一部脚色して採用しました。
秋の斎日はローマ・カトリック系共通のお祝い事で、どうやら中世
期にも存在していたようです。
756
ご機嫌伺い 1
公爵令嬢のディーネは皇太子ジークラインとの婚約破棄を目指し
て持参金稼ぎに血道を上げている。
ジークラインは戦神の誉れ高きおのが身の上にうぬぼれてか、ど
うしてもというのなら婚約破棄してやってもいいと大変に笠に着た
発言をしていたが、どうも内心ではかなり動揺しているらしいこと
がディーネの母親の話で判明した。
それを知ったディーネの胸中は複雑だ。
﹁⋮⋮とりあえず、エスト様がうちに居候することは伝えないとマ
ズいよねえ⋮⋮﹂
エストーリオとは先日ひと悶着あったばかり。今後は勝手な行動
を慎むようにとジークラインから説教された直後にこれだ。
﹁怒ってるかなぁ⋮⋮嫌だなぁ⋮⋮﹂
母親が勝手にやったんだと言うしかないが、はたして許してくれ
るのかどうか。
ジークラインに面会の申し入れをすると、すぐに返事が来た。早
いほうがいいと思い、さっそく侍女たちに正装を着つけてもらうこ
とにする。
﹁姫、なんですか、はしたない。これから好いた殿方のお部屋に行
757
こうというときに、眉間にしわを寄せていてどうするのです。女の
子はいつもにこにこ愛らしく⋮⋮﹂
ジージョのお説教を聞き流していると、彼女はディーネの髪をク
ラシカルな様式にぎちぎちと編み込みながら、深いため息をついた。
ディーネの服装は担当してくれる侍女によってだいぶ様変わりする。
ジージョの趣味はたいていいつも、クラシカルなスタイルだった。
﹁おおかた、ジークライン様にまた何か怒られることをなさったん
でしょう﹂
﹁へへ⋮⋮正解﹂
﹁正解じゃありません。まったく⋮⋮﹂
﹁なんでわかったの?﹂
﹁姫は昔からジークライン様とケンカをするとそういうお顔をなさ
います﹂
﹁そ⋮⋮そう?﹂
﹁あれはいつのことだったかしら? 姫が大層わがままを言って留
学中のジーク様に連絡を取らせていただいて、毎日のように会いた
い会いたいとおっしゃっていたことがございましたね﹂
﹁やめて。それは私の黒歴史﹂
﹁慣れない異国の宮廷でお疲れになっているジーク様から、いい加
減にしてくれと言われるほどにそれはもううるさく催促をなさって﹂
﹁やーめーてー!﹂
ジークラインは外国でからかわれて大変だったらしい。思春期の
男の子の照れだの葛藤だのが理解できないクラッセン嬢は、この世
の終わりみたいな気持ちで、きっともうすぐ振られてしまうんだと
思い込み、うつうつと過ごしていた。
ちなみにうつはジークラインが帰国したらその日に治った。
758
﹁ジークライン様が大切になさっていた隣国の王女さまの小袖に勝
手に刺繍をお入れになったときも姫は今のように暗いお顔を﹂
﹁許して。もうそのぐらいにして﹂
小袖は女性から意中の男性へ贈られる品としてもっともポピュラ
ーなものである。
騎士の試合などでも定番の贈り物だ。騎士は自分が思いを寄せる
貴婦人の袖を鎧や槍などに結び付けて出場する。
クラッセン嬢は、ジークラインが婚約者である自分の与り知らぬ
ところで女の小袖をもらってくるなんて︱︱しかもそれを隠し持っ
ているなんて、最低だと思っていた。
が、激怒したジークラインが語ったところによると、その王女さ
まは、御年五十九歳であらせられた。王女さま、というとなんとな
く年若い可憐な女性を思い浮かべてしまうが、なるほど国王が健在
であるならば、王女さまはいくつであっても王女さまである。
王女さまはせっかくの晴れ舞台に、クラッセン嬢に遠慮して小袖
のひとつもつけていないジークラインを可哀想に思って渡してくれ
たのだ。こんなおばあちゃんのものでごめんなさいね、と。そして
ジークラインも、彼女を尊敬する気持ちから小袖を大切にしていた
のだと語っていた。
心が洗われるような美談に、クラッセン嬢は怒られながらさめざ
めと泣いた。
﹁姫は昔からジーク様のこととなると見境がなくなっておしまいで
すから﹂
ぐうの音も出ない。
759
﹁姫。女は忍耐ですよ。どんなときもぐっとこらえてにこにこ振る
舞える女が結局のところは長く愛されるのです﹂
ジージョのお説教だけでげっそりやつれる思いだった。
***
ディーネがジークラインの部屋に飛ぶと、彼は不在だった。留守
番らしき小姓が彼女を丁重にもてなして、まもなくいらっしゃるの
でこちらでお待ちくださいと言う。
ディーネはそわそわと落ち着かない。どのツラ下げて会えばいい
のかという思いがある。ついこないだ不用意な行動をあれほど怒ら
れたばかりだ。
﹁ディーネ!﹂
勢いよく部屋に飛び込んできたジークラインの大声に、ディーネ
はビクリとした。心にやましいことがあるので、一瞬怒鳴られたと
脳が錯覚したのだ。
しかし彼は感情を害している風ではなく、むしろ気が緩んだよう
に動作のペースを落とした。そのままゆっくりと近づいてくる。
男らしく鋭い、鷹のような瞳でまっすぐに見つめられ、ディーネ
は早くも緊張してきた。あまり近づかないでくれと懇願してしまい
そうになり、ぎゅっとスカートの端を握る。こまねずみのように早
駆けする心臓は、まだ彼にベタ惚れだった頃のことをいやがおうに
も思い出させた。
目を合わせるともうだめなのだ。好きだったことを思い出すから。
760
﹁早かったな。待たせた。すぐに来るとは思ってなくてよ。何かあ
ったか?﹂
矢継ぎ早の問いかけに、ディーネはしばらく答えられなかった。
ほんの少し声をかけられて、そばに寄られただけなのに、どうして
こんなに取り乱してしまうのだろう。
﹁⋮⋮どうした?﹂
様子がおかしい彼女を案じてか、ジークラインがわざわざ膝をつ
いて、彼女の目線の高さに合わせ、顔をのぞきこんできた。純粋に
心配をしてくれている様子の彼を前にし、ディーネはちくちくと罪
悪感を呼び起こされる。
これから特大の始末書をあげなければならないのだ。この心配が
軽蔑に変わる瞬間を目の当たりにするのは気が重い。
﹁⋮⋮お母さまから、お手紙が届きませんでした?﹂
ひとまず遠いところから探りを入れてみると、ジークラインは苦
虫をかみつぶしたような顔をした。
﹁ああ、来たな。収穫祭だろう?﹂
﹁エスト様がしばらくうちにご滞在になるのだそうですわ﹂
ジークラインはいよいよ渋い顔をしている。しかめっ面をしてい
てもまあなんていい男、などと無邪気に考えている場合ではない。
﹁⋮⋮なぜ?﹂
761
︱︱なぜと来ましたか。
どちらかといえば饒舌で、ひとり芝居がうまい感のあるジークラ
インが単語を発するのは、抑えがたい苛立ちを感じているからなの
だろう。本能的に危険なものを覚えたディーネは、もうなりふり構
わずに喚いてしまうことにした。
﹁わたくしは存じませんでしたのよ! 昨日聞かされて心臓が止ま
る思いだったのでございます!﹂
ここでしくじるとあとがない。ジークラインを本気で怒らせたら
強権を発動されかねないのだ。なのでディーネは一生懸命まくし立
てた。いかにあいつが嫌いか。いかに迷惑に思っているか。
﹁でも、お父さまに先日のことが知れたら戦争になってしまうでし
ょう? わたくしそれだけはどうしても避けたいのでございます!﹂
パパ公爵は年輪を重ねた渋いダンディだが、中身はちょっぴりヤ
クザだった。
ディーネとしてはエストーリオとはビジネス上の関係でいたいと
考えている。なんのかの言っても彼は教皇の血族で高位聖職者。パ
パ公爵やジークラインに匹敵する権力者だ。ことは荒立てたくない。
ジークラインはうんざりしたような顔で立ち上がって、ほら見た
ことかと言わんばかりにディーネを見下ろした。
﹁だから俺は、お前の手には負えないとあれほど⋮⋮﹂
説教を繰り出しかけて、はたと口をつぐむ。
762
﹁⋮⋮いいや。まあ、いい。とにかく、よく来たな。ああ。よく来
たとも。それは褒めてやる﹂
引きつり笑いなどを浮かべてみせるジークライン。
ディーネはわけが分からなくて、ぽかんとした。絶対に説教が来
ると思っていたので、この反応は予想外だった。
763
ご機嫌伺い 2
﹁まあ、なんだ。とりあえず、ゆっくりしてけ。な?﹂
小姓の手によってぞくぞくと運び込まれるお菓子やらお茶やらを、
ジークラインは熱心に勧めた。
﹁なに、心配はいらねえよ。自分でどうにかしようと思いつめるこ
たあねえ。俺に任せておくことだな﹂
﹁⋮⋮ジーク様がどうにかしてくださるんですの?﹂
﹁ああ、そうだ。この俺に任せておけば解決しないことなんざひと
つもねえよ。よく相談しにきたな。お前は最良の選択をしたんだ﹂
ふだんと様子の違うジークラインに、ディーネも警戒心を抑えき
れない。喋り方がやたらとくどいのはいつものことだが、どことな
く本心から出た言葉ではないような、うそくさい感じがする。
﹁心配すんな。不安になったらいつでも俺を呼べ﹂
親切極まりない申し出に胸がときめいたことは、ディーネとして
は認めがたかったので、さっくりと黙殺してお菓子を食べた。この
男が格好いいなどということは絶対にない。ないったらない。
﹁⋮⋮最近どうだ? 困ってることはないか﹂
︱︱はて。この腫れもの扱いはいったい。
﹁とくには⋮⋮﹂
764
﹁資金稼ぎは順調か? 悩みがあるなら言ってみろ﹂
︱︱なにこの人。やさしい。
ディーネがちょっと喜びそうになった直後、
﹁お前にできることはたかが知れてるかもしれねえが、この俺がい
れば不可能なんざないに等しいってことを忘れちゃいねえだろうな
?﹂
いつも通りの上からな発言をいただいてしまい、とたんに白けた。
﹁この俺の顧を受けられて、お前は幸運だな、ディーネ?﹂
これだ。
昔からジークラインはディーネのことを取るに足りない女だと思
っているきらいがある。彼と比べられると確かにディーネは分が悪
く、できることもたかが知れてるのだが、それでもこう面と向かっ
てはっきり言われてしまうと面白くないものがあった。
﹁資金稼ぎは順調ですわ。おそらく早い段階で良いお報せができる
かと﹂
これは真実なので、ディーネは胸を張って回答できた。
﹁金貨一万。いまこうして振り返るならば、はした金でしたわね﹂
ジークラインは言葉もない。
どことなくショックを受けているように見えるのは気のせいだろ
うか。この男に限ってそんなことはないだろうと思い直して、景気
づけにお菓子を食べる。
765
皇宮で出てくるお菓子は、当然ながら帝国では一番贅沢である。
しかしあいにくと今は秋の断食週間であるため、わびしいお菓子
が並べられていた。
断食の解釈は国によってだいぶ様変わりするが、帝国基準の断食
は動物由来の食品を断つ期間なので、牛乳や卵が使用できない。し
たがって出てくるお菓子もそれなりのものになる。
焼きりんご︱︱バターの代わりにオリーブオイルを添えて。
チーズ風味のパイ。あくまで風味づけにチーズが使われた、斎日
用の工夫レシピ。
豆のピュレにハチミツを加えて作るケーキもどきを口にして、デ
ィーネは悲しくなった。こんなに必死になって代用お菓子を作るほ
ど、この国の断食日は多いのであった。
お菓子を食べていたら、忘れていたムカつきがまたよみがえった。
そういえば以前、ジークラインから彼女が展開しているお店の味
について批評を受けたことがある。
何やら難しい顔をしてむっつりと黙ってしまったジークラインに
向かって、ディーネはきっと鋭い視線を送った。
﹁それと、ジーク様が先日おっしゃっていた、帝都で売り出してい
るお菓子の問題にも解決策が見えてまいりましたのよ﹂
きょとんとした顔がたまらない。この自信満々の男が戸惑ってい
るのを見ると、なぜかディーネは胸がスーッとするような気分にな
る。
﹁⋮⋮お前が作ったやつとは味が違うって話か﹂
﹁それ! それなんですのよジーク様。しょっぱいケーキはやっぱ
766
りいただけませんものね。でもわたくしいいものを開発しましたの
! ちかぢかお見せできると思いますわ! 首を洗って待っていら
して!﹂
おほほほ、と高笑いを添えると、ジークラインは何とも言えない、
気が抜けたような顔をした。
﹁⋮⋮見せに来るのか?﹂
﹁そうですわ!﹂
﹁⋮⋮わざわざ? 何のために?﹂
﹁何って、それはもう⋮⋮わたくしの自信作ですもの、あの新作で
必ずやジーク様にとどめをさしてごらんにいれます!﹂
そのときのジークラインの苦笑はなんとも形容しがたい。
あえて言うなら、馬鹿だなあ、といったような、緩んだニュアン
スがあった。
﹁殺されんのか、俺は﹂
﹁お菓子を笑うものはお菓子に泣くのですわ!﹂
﹁いやまあ、何でもいいけどよ⋮⋮お前は俺と縁を切りたいのか切
りたくねえのかどっちなんだ﹂
﹁縁を切るなんていつ申しあげました?﹂
ジークラインは盛大に吹きだした。
さっきまで怒っていたかと思えば笑い転げているのだから、忙し
い男である。
﹁あーそうかよ。あいっかわらず訳がわかんねえな、オイ﹂
笑いすぎじゃないだろうか。ここまで爆笑されるとディーネとし
767
てもちょっと面白くない。
﹁いーじゃねえか、そこまで言うからには中途半端なものは持って
くるんじゃねえぞ。帝国皇太子のこの俺にふさわしいものを供せ。
生半可なもので俺を満足させられると思うなよ﹂
﹁あっ、当たり前でしょう!? あとでぜーったいおいしかったっ
て言わせてやるんだからね!﹂
なんとなく馬鹿にされているようなのが面白くなくてディーネが
ムキになると、ジークラインは今度こそ声を立てて笑った。
﹁ああそうだな、半年もこの俺を待たせたんだから、さぞや立派な
ものが出てくるんだろうな?﹂
﹁なっ⋮⋮﹂
半年もとはいうが、これでも開発には苦労しているのだ。
﹁なんだ、もしかしてまだかかりそうなのか?﹂
﹁いっ、いいわよ、そこまで言うならすぐにでも持ってきてやろう
じゃないの!﹂
売り言葉に買い言葉。
以前にもこのパターンで失敗したことがあるような気がする。
ディーネは心の底からしまったと思った。
ジークラインの目つきがやけにやさしい。これは確実に馬鹿にさ
れている。悔しさで頭にカッと血がのぼった。
﹁やっぱりやめたし! 持ってこないし!﹂
﹁おい、一度口に出したことを違えるほど落ちぶれたのか、お前は﹂
768
しかも以前にディーネが口走ったことをそのまま言い返されてい
る。
﹁いいんですー! 私は許されるんですー!﹂
﹁ほお、そうか。俺と張り合おうってえ気概はなくしたのか。俺は
それでも構わねえけどな?﹂
﹁ぐ、ぐううう! ムカつく!﹂
結局、今週末に開催予定の収穫感謝祭でお披露目することで話が
ついた。
︱︱なぜだ。
769
バターを使わずにケーキを作るには
この世界のお菓子は有塩発酵バターで作られている。
それもそのはずで、中世ヨーロッパと同程度の文化水準であるこ
の国では、冷蔵保存の方法が非常に限られているのである。
そのため、一般庶民が口にするお菓子の風味は現代日本のものと
比べて大きく劣っていた。
そこでディーネは、冷蔵保存抜きでも一定の品質でおいしいお菓
子を提供する方法を模索中だった。
一番手っ取り早いのは、模造品の製作だ。
すなわち︱︱油の真珠。
マーガリンである。
ディーネは作り立てのそれに手を伸ばした。
スコーンに試作品のマーガリンを塗りつけて、口に運ぶ。実験に
付き合ってくれている研究員もディーネに倣った。
味は何とも言えない。油の風味そのままだ。固形のオリーブオイ
ルを食べているような感じである。
﹁⋮⋮どうかな?﹂
研究員・ガニメデは微妙な顔をした。
770
﹁まずくはないですよ。でも、バターの味はしませんね﹂
﹁そうなんだよねえ⋮⋮﹂
マーガリンの作り方はさほど難しくない。日本で流通しているよ
うなものは工業製品なので手づくりでは再現不可能だが、要は油を
乳化させてしまえばいいだけである。
マヨネーズと同じだ。
油脂を乳化剤で泡立てればマーガリンができあがる。
地球史でマーガリンが初めて作られたのもたしかマヨネーズと同
時期ぐらいであったはずだ。
しかし乳化の作用自体は古代ローマあたりから知られていたはず
なので、これも典型的な、﹃技術としては難しくないのに誰も思い
つかなかった﹄発明品である。生クリームの開発も同様に遅く、中
世期には存在しなかった。
作り方は無数に考えられるので、ディーネたちは総当たりでよさ
そうな組み合わせを探している。理想は保存が利くもので構成する
ことだ。
﹁これは少しいいかなと思いましたが﹂
彼が指さしたのは、試作品第十二番の、ココナッツオイルから作
られているマーガリン。
﹁でもこれ、ココナッツの匂いがちょっときつくて⋮⋮﹂
﹁バターの風味をつけたいところではありますね﹂
﹁やっぱり牛脂も入れるべきかしら⋮⋮﹂
使用するものは油であれば何でもよい。牛脂の割合を増やすと風
味が若干マシになるが、それでも本物には及ばない。
771
﹁乳化剤が悪いのかな? うーん⋮⋮私が知っている範囲ではこれ
が一番強力な乳化剤なんだけど﹂
乳化剤とは、水と油を混ぜる基材だ。卵や牛乳も天然の乳化剤の
役割を果たす。
工業的には、牛乳を酸とアルカリで処理するとカゼインナトリウ
ムが精製できる。保水力抜群の優秀な乳化剤だ。
﹁作るときに少し本物の牛乳を混ぜるというのは?﹂
﹁風味はよくなるけど、そうすると各店舗に牛乳を常備しておかな
いとならなくなるわね﹂
ディーネが想定しているのは、各店舗に油と乳化剤を送って、現
地で毎日手作りマーガリンを作ってもらう、という方法だった。
植物性の油は保存が利くものであるから、乳化剤さえ工夫すれば
いつでも好きなときに安価な代用バターが用意できる。
それだけではなく、生クリームやコーヒー用のフレッシュだって
牛乳なしで調達可能だ。
牛乳の常温保存はせいぜい三日が限界なので、これが可能であれ
ばお菓子製作の幅がぐっと広がる。
ホイップクリームはマーガリンよりも油の割合を減らして泡立て
れば同じような手順で取り出せる。
植物性のホイップクリームとバターで作ったケーキの味はという
と︱︱
﹁悪くはないんですけどねえ⋮⋮﹂
﹁なーんかこれじゃないんだよねえ⋮⋮﹂
772
牛やヤギの脂肪や乳酸菌が持つ、あの味わいが足りないのだ。
﹁そういう意味ではココナッツの香りがついているものは食べやす
いですよ。お菓子にもぴったりです﹂
﹁でもこのココナッツの香りは好き嫌いわかれると思うんだよねえ
⋮⋮﹂
﹁バニラエッセンスで香りづけしたものもいいと思いましたが﹂
﹁でもバニラエッセンスは原価がすっごく高くつくのよ⋮⋮﹂
試しにココナッツオイルと牛脂、オリーブオイルの混合に、お菓
子向きの香料を足して、生クリームの作成時には少量の牛乳を混ぜ
てみると、それなりの味になった。
﹁でもこれ、牛脂の保存も難しいですよね﹂
﹁それもそうね⋮⋮﹂
︱︱打開策が見つからない日々が続いたが、ふとあるとき、斎日
用のレシピにヒントを得てチーズを混ぜてみたことにより状況は一
気に変わった。
バターに似た香りがつけられるのである。
チーズは保存が利くので、かなり正解に近い配合といえた。
その後、チーズやヨーグルトなどの各種酪農製品から香り成分を
抽出するべく、煮たり焼いたり薬品で処理したり乾燥させたりとな
んやかんや試行錯誤するうちに、ひとつの正解にたどり着いた。
﹁⋮⋮っていうか、発酵バターをちょっとだけ混ぜればよくない?
普通のバターは保存が利くんだし、香りづけ程度の使用なら塩分
773
も気にならないわよね⋮⋮﹂
﹁名案ですね﹂
﹁今までの実験全部台無しだけどね!﹂
バターを火にかけて上澄みをすくうとバターオイルが取れる。こ
れを有塩発酵バターから毎度少量ずつ作って添加することにより、
驚くほどバター風味のマーガリンが完成したのであった。
さっそく試食してみる。
﹁⋮⋮まあ⋮⋮悪くないんじゃないかしら?﹂
﹁バターっぽいですね﹂
香りがあるとだいぶマシだ。脳がこれをバターと錯覚している。
﹁これならいけるかも? ケーキにしてみましょう﹂
そしていよいよケーキの試作段階に入った。
まず用意したのはごく普通のショートケーキ。今までは塩味が邪
魔をして、かなり濃厚な味がしていた。しかし︱︱
研究員の試食を見守る。彼は八分の一カットを半分ほど味わって
から、間の抜けた声をあげた。
﹁ああー⋮⋮これは。確かにちょっと味が違うかもしれません。全
然しょっぱくないです﹂
﹁おいしい?﹂
﹁俺は好きですね。これはお嬢様がいつも作ってくださる味に近い
と思います﹂
774
ディーネの家は設備が揃っているので、無塩バターを一から手づ
くりするという贅沢をやっている。それに近いというのなら、かな
り出来がいいと言ってもいいのではないだろうか。
ディーネはおそるおそる聞いてみた。
﹁⋮⋮ジークも納得する味だと思う?﹂
研究員はウザそうにしっしっと手を振った。失礼なやつだ。
﹁殿下なら、お嬢様の作ったものはなんでも喜ぶんじゃないですか
?﹂
﹁あいつはうるさいよ? 庶民向けのケーキがマズいってねじ込ん
できたのもあいつだもん﹂
﹁殿下がどうして庶民向けの味をご存じなんです?﹂
﹁皇妃さまと一緒に食べたんだって﹂
﹁へえ⋮⋮﹂
研究員はわざとらしく興味なさそうな声を出した。勝手にやって
ろよと言わんばかりである。
﹁なによ﹂
﹁いえいえ。仲良しでまことに結構ですね﹂
﹁はあ? どこが? 喧嘩売られたからこうなってるんですけど!﹂
﹁ええもう、お嬢様がそう思ってらっしゃるんなら、そうなんじゃ
ないですかね⋮⋮﹂
ぶつくさ文句を言っている研究員に手伝わせてお菓子をいくつか
作り、その日はおしまいにした。
775
あとはこのケーキをジークラインにお見舞いしてやるだけである。
まもなく十月の第一週の日曜日となり、領民を招いての収穫感謝
祭が開催される予定なので、ゲストの彼にも試食してもらう予定だ
った。
776
ちょっとひと休み
セバスチャンが庭でぼーっとしている。
屋敷の外庭、真っ白なリネンが干されている芝生の上で、洗濯も
のの見張り番でもしているのか、シーツの海の中にぽつんとひとり
セバスチャンがいた。今日の彼は非番である。というのも、十月の
第一週は秋の断食を行う時期なので、宴会の依頼が来ないのだ。
どうせなので一週間お休みにしてあげた。
彼はだいぶうろたえており、﹁することがないんです⋮⋮﹂と情
けない声で言っていた。
そこでディーネは彼にお屋敷の施設を好きなように使っていいと
許可しておいた。屋敷には図書室もある、ビリヤード台やチェス盤
を備えた遊戯室もある、日当たりのいいカフェテラスもある、楽師
や宮廷人が常駐しているサロンもある。
ところが彼は屋敷にいると何だかんだで使用人たちから手を貸し
てほしいと頼まれるらしく、今もああして洗濯ものの見張り番など
やっている始末である。身に染みた社畜根性はなかなか抜けないら
しい。
ディーネは執務用の離れの窓からその様子を見下ろしていた。
﹁あの子、あれで楽しいのかしら⋮⋮?﹂
777
ボケーッと座っているセバスチャンを心配して、思わずディーネ
が隣にいたハリムに話しかける。
﹁何をしていいのか分からないという気持ちは、私にも分かります﹂
彼もまた公爵家で二十四時間勤務をする社畜であった。
ディーネは泣いた。
﹁⋮⋮労働基準法を定めないといけないわね⋮⋮﹂
﹁知らない法律ですね﹂
﹁人間は一日に八時間以上働いたらいけないのよ﹂
﹁私どもは人間ではありませんのでご安心を﹂
笑えない冗談だった。奴隷出身の彼には家事労働は奴隷がするも
のという差別意識が染みついているらしい。もしかしたらセバスチ
ャンもそうなのかもしれない。
ハリムとの会話を終えて視線を戻すと、いつの間にか芝生に猫が
出現していた。シャム猫風の黒い足でとてとてと歩いている。その
先に白いリネンの海があった。猫は寒い時期になると洗濯物の下に
もぐり込んでくるらしく、この時期の芝生干しには見張りが不可欠
なのだということだった。ちなみに芝生干しとは、白い衣服を芝生
の上にさらすことにより、オゾンで漂白するという洗濯テクである。
セバスチャンが抱えていた本を放り出した。
シャム猫を捕まえようと、じりじりと距離を詰める。
ぱっと飛びかかったセバスチャンをひらりとよけて、シャム猫は
白いリネンの下にずっぽりともぐった。
778
セバスチャンが白い布を持ち上げると、猫はさらに隣の洗濯物に
移った。今度はシーツごと包み込んで捕獲する作戦に出たのか、セ
バスチャンががばっともちあげると、モゴモゴと白いシーツの内側
がうねり、やがて猫だけぽろりと落ちた。猫は全体が柔らかく、つ
かんだと思ってもウナギのようにヌルリと抜けることがよくあるの
で、油断がならないのだ。
わめき声がする︱︱だめです、やめてください、困るんです!
﹁⋮⋮猫に敬語で話しかける執事っていいなぁ⋮⋮﹂
﹁楽しそうで何よりですね﹂
﹁必死な本人には悪いけどね﹂
︱︱それは遊び道具ではないんです! かまないで! ほら、よ
こしてください⋮⋮ああ!
悲鳴が耳に心地よい。
足跡だらけのシーツと格闘するセバスチャンを横目に、ディーネ
は書類の確認に戻った。
***
終課の鐘が鳴ってだいぶ経ったころ、全部の作業を終えてディー
ネが屋敷に戻ってみると、執事室から明かりが漏れているのに気が
ついた。
せっかく休みをあげたのにまた仕事をしているのかとあきれ半分
にノックをしてみると、セバスチャンが顔を出したが、なぜか後ろ
779
に染み抜き中と思われるシーツが大量に干してある。
思わず吹き出すと、セバスチャンはさっと赤くなって後ろ手にド
アを閉めてしまい、部屋の中を見せないようにした。
﹁あのシーツ、どうしたの?﹂
﹁いえ、その⋮⋮なんでもありません﹂
つぶやいたセバスチャンがものすごく恥ずかしそうだったので、
それ以上の追及はやめてあげた。
自慢ではないが、ディーネは寛大な性格をしているのである。
780
収穫感謝祭 1
ミサは毎週日曜日に行われる宗教行事だ。教会は現代日本で言う
ところの役所のようなものであり、冠婚葬祭などを一手に引き受け
ている。
本日は十月第一週の日曜日。収穫感謝祭のミサである。
︱︱眠たい⋮⋮
自宅の礼拝堂で、ディーネはひたすら我慢して椅子に座っていた。
大きなミサともなると儀式も長時間に亘る。信徒がぎゅうぎゅう
グロリア
につめかける一階をすました顔で見下ろしながら、二階の特別席で
座っているのがお仕事だ。
キリエ
式は型どおりに進んでいる。
入祭の唱歌に始まり、憐れみの賛歌、栄光の歌と続く。きらめか
しい歌に誘われて厳粛な雰囲気ができあがった群衆に向け、収穫の
恵みを寿ぐ典礼文が読み上げられる。聖書は古式ゆかしき典礼言語
で書かれているため本文を知っている人間は少ないが、翻訳すると
ありふれたお説教になる。今回はこうだ︱︱よく働いてよく種を撒
く人間は幸福になる。少ししか撒かない人間はそれだけのものを手
にする。よく働きよく学べ、恵みをもたらしてくれる大いなる方に
深い感謝を⋮⋮
ミサの始まりは原始的な集会だった。祈りをささげてパンを分け
合い、ワインを回し飲みする。ところが教会の勢力が増すにつれ、
781
ュベ
ジ
集会は荘厳な儀式と化していった。教会の内部を二つに分ける間仕
切りが出現し、聖歌の歌唱によるミサ典礼が新たに加わり、司祭に
よる聖書の読誦が行なわれるようになる。そのころにはもう、信徒
は教会の内部で無言のうちに祈りをささげるのが通例となっていた。
かくして聖職者たちは侵しがたい存在となったのである。
要するに退屈な儀式だということだ。
その消化試合に、今日は大勢の人がつめかけていた。礼拝堂に入
りきれないほどの人だかりができていて、あぶれた人たちが屋敷の
広間や中庭にたむろしている。
今回のミサはいつもと一味違う。なにせ、ミサを手掛けているの
がゼフィアの大司教主なのである。
今回のために礼拝堂に持ち込まれた教会の聖具類がすさまじい。
宗教画の入ったタペストリが何枚もつり下げられ、こまごまとし
た細工の聖像や燭台が各地にこれでもかと配置されている。聖像に
入っている服のひだや草木模様の線を数えているだけで日が暮れそ
うだ。
屋敷に備え付けられた小さな礼拝堂とはいえ、腐ってもここは大
公爵家の催事場。内部の装飾もそれなりに凝ったものになっている
が、ゼフィアの大聖堂とはさすがに格式が違いすぎた。
中央には今回のためにゼフィアから持ち込まれた聖遺物の棺や壷
などが特別に展示されているが、数えるのも馬鹿らしいほどの真珠
と宝石で美しく装飾されている。さらに贅沢好みの彼らの趣味で、
特別にたくさんの蝋燭がついていた。蝋燭といっても庶民が普段使
いしている安っぽいものではない、ほのかにはちみつの香りがする
782
ミツロウをベースに魔術的な加工をして作った教会蝋燭だ。それが
うす暗い礼拝堂にびっしりと灯され、あたりにはかぐわしい香気が
漂っている。
司祭たちの服もこれまた金銀宝石で埋め尽くされ、蝋燭の光を反
射して目もくらむようなまぶしさだった。美しい上着には収穫感謝
祭に合わせて﹃豊穣の象徴﹄である﹃葡萄の枝葉﹄がこれでもかと
刺繍され、これまた本物の宝石であるアメジストやサファイアがず
っしりとしたぶどうの房に見立てられて何十と縫いつけられている。
貴族の娘の婚礼衣装だってここまで派手にすることがあるかどうか
という手の込みようだ。
その服を身にまとっているのが美しい顔かたちで知られる若き大
司教主のエストーリオ本人なのだから、おとぎ話の世界に迷い込ん
だかのような幻惑的光景になっていた。
きれい、というため息やささやき声。
無作法だと分かっていても抑えきれなかった庶民たちの本音が聞
こえてくる。
やがて聖体拝領用の薄い煎餅のようなパンが司祭によって高々と
顕示される。
ワインはこのとき用いられない。
司祭が神聖視される過程で、ワインによる聖体拝領は一般信徒に
禁じられてしまったのである。
美しいものは人の思考を麻痺させる。
幻想的な儀式で惑わされた人たちがたっぷり二時間以上にわたる
儀式を終えてフラフラと庭に出てみれば、そこにはすでに宴会の準
備が整っていた。
この後の宴会は、どんな人でも自由に参加して席につくことがで
783
きる。
農民たちも招いて、青空の下でお昼ご飯を食べるのだ。
提供されるのはパンとワイン。
ワインが大きな杯に入れられて人々の間で回される。聖体拝領用
のコップはひとりひとつなどではない。回し飲みが基本である。隣
の人からワインが回ってきたら両手で受け、感謝を込めてひと口含
み、親指を縁にかけないよう気を付けながら片手で隣の人に回す。
毒見とパパ公爵の酌人を兼ねている執事のセバスチャンが最初に
大杯を空けて空のコップを水ですすぎ、もう一度ワインを注いだ。
最上位ゲストの皇太子、大司教主に続き、パパ公爵、公爵夫人、
と順番に杯が回ってくる。
﹁姉さま、はい!﹂
下の弟、イヌマエルから回ってきたコップの中身をちびりとやっ
て驚いた。
﹁⋮⋮またえらく上等のワインをもってきたわね﹂
王侯貴族が飲むような甘い白ワインはそれだけで終わらなかった。
聖体拝領が済んだら普通に食事だ。改めてディーネたちの周りを
順番に使用人が回り、ワインを注いでいく。ディーネのワインはそ
ばに控えていた侍女が注いでくれた。
今回の食事提供は例年通り教会が行なっているが、今年はいつも
と違う趣向のものを、ということでディーネの側からケーキを用意
784
していた。
背景には先日の中傷問題がある。エストーリオへの制裁として中
傷ビラを配って回った結果、農民と教会の関係が一時的に悪化して
いるのである。関係を修繕するための策として、ぜいたく品の無料
配布を行うことにしたのだ。
エストーリオとの打ち合わせ通り、今日に限ってはワインが庭に
集まっている人間全員にふんだんに振る舞われることになっている
が、こんなにいいワインだとは聞いていない。かかる金額にめまい
がするディーネをよそに、U字型のテーブルに向かい合わせに座っ
ているパパ公爵が調子に乗ってどんどん飲んでいるのが見える。早
すぎる消費量にディーネはぞっとした。
そもそもワインは生のまま飲むものではないのだ。理由は簡単、
もったいないからである。ガラス製瓶とコルク栓による保存術がき
ちんと発達するまで、ワインは長期保存するものではなかった。数
か月もすれば酢と化してとても飲めなくなるような代物であり、た
とえ貴族であっても季節外れには酸っぱいワインを我慢して飲む。
それだけいいワインは貴重で値の張るものなのである。
ジークラインもパパ公爵に薦められてガンガン飲んでいる。15
リットルは入ろうかという大きな壷に入った酒がどんどん減ってい
くのを見て、ディーネは冷や汗が出た。あいつに飲ませると際限が
ない。文句を言ってやろうかと思い、席を立ちかけたときにちょう
ど目の前にあったケーキにナイフが入った。
会場のそこかしこにある巨大なオブジェがすべてケーキなのだ。
断食の最終日に出てくるはずもないご馳走を前にして、人々は戸
惑っている。
785
﹁姉さま、今日はケーキを食べてもいい日ですか?﹂
イヌマがきらきらした瞳で見上げてくる。
﹁今日のケーキはね、特別なのよ﹂
﹁トクベツですか?﹂
﹁そうなの。これはね⋮⋮﹂
786
収穫感謝祭 2
そこで特設のステージ上でラッパの音がけたたましく鳴った。楽
師の一団が注目を集めるさなかにエストーリオが登壇してくる。
ありがたいお説教のお言葉をいくつか述べて、彼はケーキの説明
をした。
﹁本日皆さんにご用意したケーキは鶏卵や羊の乳などを使用してい
ませんから、安心して召し上がってください。このケーキをいくら
食べたとしても主はお許しになるでしょう。断食の日にも豊かな食
事に与れる喜びを皆さんと分かち合い⋮⋮﹂
﹁姉さま、お話が長くてよく分からないです﹂
イヌマエルは人の話を聞くのがちょっと苦手だった。
﹁このケーキは断食日でも食べられる材料でできているから、好き
なだけ食べていいのよ﹂
﹁わあ、本当ですか! そんなの初めて見ました! すごいです!﹂
ディーネの侍女に持ってこさせたケーキにかぶりつき、あっとい
う間に食い尽くす。
﹁おいしい! 姉さま、このケーキとっても甘くておいしいです!﹂
﹁たくさんあるから、慌てないで食べるのよ﹂
787
かわいい弟の食事風景をほほえましい気持ちで眺めていたら、後
ろから影がぬっと差した。
﹁姫。そろそろジークライン殿下にご挨拶を申しあげませんと﹂
ディーネの給仕に徹している侍女頭は、たまにこうして社交上の
余計なおせっかいを焼いてくる。
﹁まだ始まったばかりじゃないの⋮⋮﹂
﹁もう始まってしまったのですよ。遅すぎるぐらいでございます﹂
立ち上がりかけたディーネの袖を、隣に座っていたイヌマが思い
っきり引いた。痛い。
﹁ね、姉さま、姉さま、あの、あのっ⋮⋮﹂
﹁ん? イヌマもくる? いいけど、ちゃんとご挨拶できるかな?﹂
﹁はい! ばっちりです!﹂
弟だけというのも不公平だと思ってレオのほうに視線を向けると、
ばっちり目が合った。そそくさとナプキンを折りたたんで立ち上が
り、その場に直立不動の姿勢を取る。
﹁⋮⋮レオもいらっしゃい﹂
弟たちを引き連れてU字型の反対に回ってみれば、イヌマが黙っ
ていなかった。
いきなり腰から下げた儀礼用の短剣を引き抜くと、大上段に構え
る。周囲がざわめいたが、イヌマは一顧だにしなかった。そのまま
ボーリングの球並みの勢いでジークラインに突っ込んでいく。
788
﹁ちょっとっ⋮⋮!﹂
﹁義兄さまあああああああああっ!﹂
図々しくも兄呼ばわりしながら、全力で剣をフルスイングした。
ちょうどお酒を飲んでいたジークラインは顔色一つ変えずに、真
剣を指二本で白刃取り。周囲に控えていたお付きの者たちが遅れて
いきり立ち⋮⋮後ろでジージョがふらりとした。
いくらディーネとジークラインが長い付き合いとはいっても、イ
ヌマたちとは年に一度会うかどうかの仲だ。非常識な挨拶をかます
間柄ではない。
︱︱やっぱり駄目だったー!
イヌマにきちんとした挨拶などを期待したディーネが間違ってい
た。
凍りついた周囲の空気などまったくお構いなしに、イヌマはちゃ
っかりジークラインに抱きつき、﹃義兄さま!﹄とさかんに呼んで
いる。
﹁義兄さまはやっぱりすごいですね! お会いできて僕感激です!﹂
そのうちに、ぬっ、とジークラインの手が伸びた。
イヌマの襟首をつかんで、真正面にぶら下げる。恐ろしい形相で
にらみつけている⋮⋮ようにも見えるが、ジークラインはもとから
真顔で見つめられるとかなり怖いご面相なので、よく分からない。
﹁おー。来たな? 坊主﹂
789
ジークラインは猫つかみのイヌマをひょいっと肩に乗せた。イヌ
マは大はしゃぎである。
︱︱怒ってなかった⋮⋮っ!
騎士たちは寿命が縮んだような顔でやれやれと座り込んだ。ディ
ーネも彼らが剣に手をかけた瞬間、ちょっとだけ死を覚悟したので、
ほっとしすぎてその場に崩れ落ちそうになった。
﹁ジーク様、レオからもご挨拶させてくださいまし。イヌマもいつ
までも乗ってないの!﹂
ディーネはイヌマを引っ張り下ろして、レオをずいっと前面に押
し出した。
レオは緊張のあまりか、直立不動でぴーんと伸びている。
﹁殿下におかれましてはご機嫌うるわしゅう⋮⋮﹂
﹁おーおー、苦しゅうないぞ。ははは、ガチガチだなぁおい﹂
がっしがっしと頭をなでられて、レオは目に見えてうろたえだし
た。頭に獣の耳が生えていたら毛がぶわっとふくらんでいたことだ
ろう。
﹁つつがなくやっているか?﹂
﹁殿下⋮⋮僕は、お言いつけを守って、ちゃんと毎日素振りをして
います﹂
﹁おーそうかよ。いい心がけだ。しっかり鍛えることだな﹂
ジークラインはレオをがしがしなでる手を止めて、一介の騎士に
790
するように、まっすぐに見下ろした。
﹁帝国貴族の男児たるもの、武芸を極め、帝国と俺のために心技を
尽くせ﹂
レオは憧れの殿下から格好いい激励をしてもらって大感激である。
﹁はい﹂と答える声が震えていた。
﹁⋮⋮そんで、強くなって、姉ちゃんを守ってやんな﹂
﹁はい﹂
﹁身体を鍛えときゃたいていのことは何とかなるからな﹂
﹁はい!﹂
﹁そりゃあんただけでしょ⋮⋮﹂
バカなやり取りにうんざりしていると、今度は庶民のほうから悲
鳴があがった。
﹁押さないで、皆で分け合うためのケーキです! お持ち帰りはご
遠慮ください!﹂
ケーキの無料配布所と化した天幕があり、そこは阿鼻叫喚の地獄
絵図だった。
﹁主の御心のままに、皆さんで分け合ってください!﹂
聖職者たちのお説教など誰も聞いちゃいない。みんなケーキの取
り合いで必死である。
﹁すごいご馳走だ﹂
﹁食えるだけ食っておかないと﹂
791
﹁もう一生食べられないかもしれないぞ﹂
﹁うめええええ!﹂
﹁このワイン、﹃甘い﹄ぞ⋮⋮!﹂
わやくちゃの怒号がディーネのところにも届いた。
無理もない。
生クリームと砂糖をふんだんに使用した果物入りのショートケー
キである。
素材が高価である上に、生クリーム入りとあってはさぞ珍しかろ
う。ワインの味も先ほどディーネが試した通りだ。
さらにチョコレート工場の試験運転もかねて子どもを中心に板チ
ョコも少しずつ配っているのだが、そちらも大騒ぎになっていた。
この日に配るのはパンとワインなのだが、今日に限ってはディー
ネが新しく開発したケーキのお披露目もかねて、パンの代わりにケ
ーキを出していた。
メイシュア教における断食は動物性の食品断ちをする期間なので、
本来はケーキに含まれる卵や牛乳も禁止なのだが、まったくダメと
なると民衆の心を掴むのが難しいらしく、たいていは地域によって
少量の牛乳ならいいとか、代用品の豆で作ったケーキなら可といっ
たような抜け道がある。
ディーネが開発した新しいケーキは、植物性油脂の生クリームや
代用ミルクを使用している。
つまり、斎日にも食べられる素材でできているのだ。
ジークラインも狂乱する人々の群れに注目している。
ディーネはドヤ顔が隠しきれず、口に手を添えた。この盛況ぶり
ならば彼も認めざるを得ないだろうと思ったのだ。
792
﹁ジーク様、ご覧になって? あれが先日お約束の新商品ですのよ。
もうケーキがしょっぱいだなんて言わせませんわ!﹂
気を利かせたジージョがジークラインのところに小皿を回す。
︱︱食べてびっくりすればいいのよ。
期待にはやるディーネに見守られる中、ジークラインがケーキに
手をつけようとしたとき︱︱
793
収穫感謝祭 3
﹁あーっ!﹂
群衆の悲鳴が聞こえて、ディーネはそちらに視線を奪われた。
﹁やっぱりそうよ! 公姫さまとご一緒だもの! あの方がジーク
ライン様よ!﹂
ケーキに殺到していた人たちがきれいに反転し、こちらを向く。
﹁殿下がいらっしゃるのか!?﹂
﹁やっぱりあれは殿下だったのか﹂
﹁おい、戦神がケーキ食べてるぞ﹂
﹁かわいいー!﹂
誰かが先駆けてケーキ配布所の輪を抜け、こちらに向かうと、黒
山の人だかりはそれにつられて移動を開始した。
罪のない非武装の群衆といえども人数が集まると凶器と化す。
お付きの騎士たちが手慣れた様子で円陣を組んで行く手を阻むが、
あっという間に取り囲まれてしまった。
ジークラインは騒ぎに目もくれず、生クリームたっぷりのケーキ
を普通に食べている。
﹁お。ディーネ、いけるじゃねえか。この俺の舌を楽しませるとは
なかなかやる﹂
794
のんびりとした感想をもらすジークラインに、観客がまたざわつ
いた。
ぱっと見で誰よりも背が高く、体格がよく、いかにも総大将とい
った風格のジークラインがお菓子を食べて喜んでいる姿はシュール
で、そんな彼を農民たちが取り巻いてありがたがっているのだから、
ちょっと何とも言えない光景だ。
﹁ジークライン様、どうかお慈悲を! この子はほとんど目が見え
ないんです! どうか治してさしあげてください! どうか!﹂
せっぱ詰まった嘆願が聞こえてきて、ようやくジークラインはそ
ちらに身体半分だけ向き直った。
﹁普段の俺はお前らなどいちいち相手にはしないが⋮⋮﹂
むちゃくちゃかっこいい感じの重低音で喋っているが、右手には
まだケーキ用の丸っこくて小さいスプーンがある。のみならず、ジ
ークラインは残りのケーキをさらにひとすくい食べた。どんだけ食
いしん坊なのだ。斜めの座り方の感じもかっこいいだけに残念さが
際立っている。
﹁いいだろう。てめえら全員そこに並びな。この俺が手ずから神の
加護を授けてやる﹂
ジークラインの右手から青い炎がほとばしった。
聖書にいわく、預言者は手で触れただけで病人をいやしたという。
そのときに立ちのぼったのが魔力による青い炎だというのが、弟子
の何某さんによる回想録に記されている。
795
なので、王侯貴族ならびに聖職者が発する青い炎は万病の薬とし
てたいへんにありがたがられているのだった。
群衆は沸いた。
パニックになりかけた人たちが押し合いへし合い、円陣の一部が
崩される。殺到してきた人たちにもみくちゃにされる未来を想像し
てディーネがからだを硬くした直後、ジークラインにトンと押され
て、気づくとはるか遠くに飛ばされていた。
︱︱危ないから飛ばしてくれたんだ⋮⋮
いいところもあるじゃないかと思いかけた瞬間、ジークラインが
いるあたりで大きな快哉が叫ばれて、そんな気分も吹っ飛んだ。漏
れ聞こえてくるうわさによると、本当に男の子の目が見えるように
なったらしい。
ジークラインは世紀の大魔術師なので、このぐらいの治療術は朝
飯前なのだった。
過剰気味の演出に群衆は大興奮だ。
どこからか万歳のコールが開始され、最初はバラバラだったリズ
ムが次第に統一されていき、大地を揺るがすような大音声の叫び声
になる。
︱︱万歳、ジークライン様万歳!
ケーキ人気よりもジークライン人気のほうが上回ったらしく、天
幕のほうはスカスカになっていた。
立ち働いていたエストーリオがにこにこしながらこっちにやって
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くる。おそらく内心ではディーネと同じようなことを考えているだ
ろうと容易に分かる引きつり笑いだった。
﹁⋮⋮なんか釈然としないわね﹂
﹁同感です﹂
﹁あいつはいつもそうなのよ⋮⋮ひとが一生懸命長い時間かけて準
備したことを一瞬でぶっ壊して全部持っていく⋮⋮﹂
﹁お察しいたします﹂
﹁しかもあいつはあれで天然なのよ? 苦労なんてなーんにもした
ことなくて、こっちの努力とか全然分かってくれないの。むしろな
んでそれくらいのことができないんだ? みたいな感じなの。何か
ができてもそれはマイナスがゼロになっただけのことで、あいつに
とってはそれが当たり前のことなのよ⋮⋮﹂
﹁お気を落とさずに。神はあなたの行動もすべて天から見ていてく
ださいます。私も神に仕える身ですからご一緒に泣いてさしあげま
す﹂
やさしすぎる慰めに、ディーネはちょっと泣けた。
ホーバーク
サーコート
やけ食いでもしようかと天幕に目をやると、奥にあるスペースに、
キュイラス ガントレット
見慣れぬ鎧姿の男たちがいた。鎖帷子の上から直接陣羽織を羽織っ
ているのがおそらく従卒の兵で、青黒い鋼鉄の甲冑や手甲でがっち
サーコート
りと重装備をしているのが騎士だろう。
ヴァッサーブルク
陣羽織には紋章が入っていて、所属が分かるようになっている。
砦と川のシンボルは水砦に知行を与えられて住んでいる騎士によく
みられる家紋だ。立派な鎧を着ている騎士とその取り巻きは、ジー
クラインが気になるのか、向こうの方に身を乗り出してひそひそと
何かをささやき交わしている。
﹁⋮⋮彼らは?﹂
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﹁彼はホウエルン卿、アークブルム辺境伯の陪臣ですよ。ソフィア
川沿いにある水砦、通称ホウエルン城砦の騎士です﹂
アークブルムはバームベルクの北東に位置する細長く小さな辺境
伯領で、ソフィア川を挟んで敵国と隣接している土地柄、川沿いに
たくさんの砦を持っている。
陪臣ということは、おそらくそこに住んでいる騎士なのだろう。
家紋もなんかそれっぽい。
﹁どうしてアークブルムの騎士がここに⋮⋮﹂
騎士も一応貴族に数えられるとはいえ、しょせんは末席。ゼフィ
ア大聖堂の大司教主や大公爵のクラッセン家と親しく付き合うには
格が足りなすぎる。
﹁ホウエルン卿は騎士といっても辺境の領地を大きく任されている
ようで、北国との交易や水運の通行料などでかなり儲けているよう
ですよ。水路の下流は海ともつながってますからね。塩の行き来だ
けで相当の儲けらしいです﹂
危険な領地を守護する代わりに大きな富を得ているということら
しい。
言われてみれば携行している剣の鞘は金箔張りで大きなトパーズ
が埋め込まれているなど、見るからに裕福そうだ。
﹁実は彼らと治水工事のことでいくつか取り決めをしていたんです
よ。ソフィア川の上流はゼフィア⋮⋮うちの領地につながってると
いうのはご存じかと思いますが⋮⋮﹂
﹁ええ﹂
﹁アークブルムとの県境に浅瀬の地帯があって、船が通れないでし
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ょう? この浅瀬を共同で掘削して船が通れるようにする事業を計
画してまして⋮⋮﹂
﹁素敵な計画ですわ、エスト様﹂
彼は皮肉げに笑った。
﹁ところが、ほら、先日、どなたかが莫大な土地を取り返していっ
たでしょう? 計画途中でバームベルクにお伺いをたてねばならな
いことがでてきてしまいまして。今日彼を連れてきたのもそのため
の顔合わせです﹂
﹁まあ⋮⋮﹂
﹁要するに、新設の水門の利権を誰が得るのか、ということなんで
すが。あの川が教会の管理下にあったつい先ごろまでは、教会が五、
騎士どのが四、残りが保守管理料ということになっていたのです、
が⋮⋮﹂
﹁しかし、いまやあの川の管理はわがバームベルクの手中にある⋮
⋮?﹂
エストーリオはお美しいお顔でにっこりした。
ディーネもとりあえず微笑んでおく。
顔は笑っているのに、なぜだろう、とてもプレッシャーを感じる。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n6652dh/
バームベルク公爵領の転生令嬢は婚約を破棄したい
2017年3月28日19時15分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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