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フランスの輸送で

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フランスの輸送で
Part Ⅰ
パネルディスカッション話題提供
記 念 シ ン ポジウムと記念音楽祭
『 幕 末 ・ 明 治 初 年 の 日 本 と 欧 米 間 通 信 交通事情 』
日本が開国さ れ た 1 8 6 0 年 代 、日 本 国 内の通信は私営の飛脚に頼っ
ていた。そのよ う な 時 期 に 、 開 国 早 々 の 日本と欧米世界との間の通信
交通は、どのよ う に し て 行 わ れ て い た の であろうか。一般の史書では
あまり触れられ る こ と の な い 、 こ の 疑 問 に答えて行きたい。
日本開国と領事館 郵 便 の 始 ま り
1854 年 3 月 31 日に締結された「日米和親条約」は、1858 年 7 月
29 日に「日米修好通商条約」に格上げされた。そして蘭・露・英・仏
とも同様の条約が締結され、
これらの条約に基づき 1859 年 7 月 1 日に、
神奈川・函館・長崎の三港が開港されて、五か国との通商が始まった。
開国早々の日本に来た欧米人は、①各国の外交代表、②新市場に利を
求める商人たち、③キリスト教各派の宣教師たちに大別できる。1865
年以降には、幕府(後には明治新政府)の「お雇い外国人」も来日した。
開港地には各国の外交公館が開設された。これらの外交公館は、設
立時から当然に、本国との間の公文書を授受していた。そして領事館は
居留民の便宜のために、公文書と併せて民間の信書の発送と受取を行う
ようになった。この業務を「領事館郵便」consular postal agency と呼
ぶ。そして、独立の局舎と専従の職員を配置して郵便局の形を整えた所
と、領事業務のかたわら郵便を取り扱うに留まった所と、程度の差はあ
るが、これらの郵便機能を「在日外国郵便局」と総称している。領事館
郵便は、後の 1868 年に開港された兵庫でも行われた。その概要を下記
表に示す。
局 名
領事館開設
確認し得る郵便業務開始
閉 局
イギリス横浜
1859.7.
1862.8.1 ( 現存郵便物 )
1879.12.31
長崎
1859.7.
?
1879. 9.30
1879.11.30
兵庫
1868.1.
?
フランス横浜
1859.7.
1865.9.7( 切手・郵便印使用開始 ) 1880. 3.31
長崎
1859.7.
?
1879.11.30
兵庫
1868.1.
?
1879.11.30
アメリカ横浜
1859.7.
1867.7.27( 切手使用開始 )
1874.12.31
長崎
1859.7.
?
1874.12.31
函館
1859.7.
?
1874.12.31
兵庫
1868.1.
?
1874.12.31
欧米世界との郵便の や り 取 り は 長 崎 か ら
開国の年、1859 年の欧米と日本の間の郵便物は未確認である。
開国の翌年、1860 年の欧米との郵便物は6点の現存が知られている。
すべて長崎とフランス間の商業書信であって、往復それぞれ3点ずつで
ある。主として英国船により、上海・香港を経由して送られた。
1859 年 9 月 3 日に、英国 P & O 社の第一船アゾフ号が長崎に入港
した。同社の定期航路は、すでに 1850 年に上海まで延びていた。当時
の横浜は居留地の建設中であったが、長崎では鎖国時代から限定的貿易
が行われていて、開港地としての立ち上がりが早かった。横浜差出の現
存郵便物で最古の例は、1862 年 8 月 1 日のクニフラー商会の商報で、
横浜英国局が取り扱った。やがて横浜は居留地の充実とともに、貿易港
としての港勢を増大し、絹輸出を核として、長崎を含む他の開港地を引
き離すに到った。
郵便輸送手段として の 船 舶
日本と欧米世界との間の郵便輸送手段は、郵便船 packet boat(英)、
paquebot(仏)であった。旅客と郵便の迅速な輸送を目的とする、当
時の快速船であった。
1863 年、P & O 社は日本航路を定期航路に昇格させた。定期第一船
グラナダ号は、長崎を経由して同年 8 月 5 日に横浜に入港した。以降、
同年 10 月から上海・横浜間は、ほぼ月2回の配船となった。
一方、フランス郵船も日本への定期航路を開設した。そして定期第一
船デュプレックス号が、1865 年 9 月 7 日に横浜に到着した。同船には
横浜で正式の郵便局を開設するための必要郵便資材(本国の郵便切手、
郵便印類など)が積まれていて、同号の到着によりフランス横浜郵便
局が正式に開局した。以降、フランス郵船(M I 後に M M)は、上海・
横浜間に月1回の配船を開始した。
英国船が月2回、仏国船が月1回と、横浜は月に3回の定期航路の船
松本純一
( 財 ) 日本郵趣協会理事長
舶によって、ヨーロッパと結ばれたことになる。
アメリカは南北戦争という国内事情もあって、極東航路への進出が遅
れていたが、1867 年 1 月 24 日に P M S S の定期第一船コロラド号が
入港した。そして、同年 7 月 27 日からアメリカ横浜局は本国切手の使
用を開始した。
西回りと東回り
すでに見たように、1860 年代前半から日本に定期航路を開いた英国
船と仏国船は、いずれも西回りであった。すなわち、ヨーロッパから地
中海を渡り、スエズ地峡を鉄道で横断して、スエズで別の船に接続し、
セイロン島のガル、シンガポールなどに寄港し、香港・上海を経て日本
に到着するという、小刻みな航海の連続で、給水給炭も問題はなかった。
それに比べると、太平洋を渡る東回りの航海は困難であった。
1867 年 P M S S の太平洋航路が開かれたころには、太平洋を無寄港
で横断できる郵便船が出現していた。
そして 1869 年 5 月 10 日にアメリカ大陸横断鉄道が完成し、太平洋
航路で到着した郵便物を鉄道で東海岸に運び、さらに大西洋航路でヨー
ロッパに送る、日本から東回りでの郵便ルートが開かれ、インド洋回り
の英国船、仏国船よりも、約 10 日間早く欧州へ届くようになった。
西回りルートにも大きな変化があった。そのいずれもが、
郵便のスピー
ドアップに貢献している。そのうちの最大の出来事は、1869 年 11 月
17 日のスエズ運河開通で、翌 70 年初めから、郵便船の通過が始まった。
1865 年、アドリア海沿いにイタリア半島を縦貫する鉄道が開通した。
また 1871 年 9 月 17 日にアルプス山中のモン・スニ鉄道トンネルが開
通した。英国船はイタリア半島の踵にあるブリンディシを母港とし、こ
こで郵便物の積み下ろしを行なうようになった。鉄道は速度において船
に勝る。フランス郵船も同様の発想で、1879 年 5 月からイタリアのナ
ポリに寄港し、ここで郵便物の積み下ろしを行った。
日本の外国郵便創業
1871 年 4 月 20 日 東京と大阪の間に官営の郵便が発足し、急速に
全国に郵便網が広がった。駅逓寮(当初は駅逓司、後に駅逓局)は、外
国郵便の創業を志し、在日外国局を利用しての外国郵便の授受を 1872
年 4 月 8 日から開始した。その翌年にはアメリカ人ブライアンを雇用し、
アメリカとの郵便交換条約の締結と、独自の外国郵便創業の準備に当ら
せた。その結果、条約締結に成功し、1875 年 1 月 1 日にアメリカとの
郵便交換と、アメリカを仲介として他の諸国とも郵便の授受ができるよ
うになった。そして在日アメリカ局は閉局した。
創業期の日本の外国郵便輸送手段は、P M S S 社の郵便船であり、同
社と郵便輸送契約を結んだ。同様に太平洋に定期航路を運営していた英
系の O & O 社とも 1875 年 6 月 19 日に輸送契約を結び、東回りルート
の複線化を図った。1877 年 6 月 20 日に、日本は万国郵便連合への加
盟を果たすことができた。
日本の外国郵便創業後、在日外国局の存在意義は次第に失われて行っ
た。残る英仏両国との外交交渉を重ね、1880 年 3 月 31 日のフランス
横浜局を最後
に日本には外国
郵便局はなくな
り、 日 本 は 郵
便主権を確立し
た。
日本国内がま
だ民間の飛脚の
時代であったこ
ろ、日本と欧米
世界との間のほ
とんど唯一の通
信手段であった
在日外国局(領
事館郵便)の歴
フランス横浜局差立南仏トーリニヤン宛郵便
史的意義は
1865
年 9 月 12 日発の定期第 1 船「デュプレック
大きい。
ス号」の復航で上海へ(松本純一蔵)
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